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'''出羽国'''(でわのくに)は、かつて存在した[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に属する。
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'''出羽国'''(でわのくに)
 
 
== 沿革 ==
 
=== 成立まで ===
 
大和朝廷は、[[7世紀]]半ばから[[9世紀]]初めにかけて、蝦夷の住む土地に[[郡]]を設置して支配版図を拡大する政策をとった。そのために蝦夷の地に[[城柵]]を設けた。まずは[[越国]]に柵を建てる。[[大化]]3年([[647年]])に[[渟足柵]](ぬたりのき:新潟市)<ref>造渟足柵置柵戸老人等相謂之曰數年鼠向東行此造柵之兆乎『日本書紀』</ref>、大化4年([[648年]])に[[磐舟柵]]<ref>治磐舟柵以備蝦夷遂選越與信濃之民始置柵戸『日本書紀』</ref>、[[皇極天皇|斉明天皇]]4年([[658年]])に[[都岐沙羅柵]](アイヌ語地名の別称か、所在不明)である。7世紀後半に越国から磐船・渟足の2郡の分割により[[越後国]]が成立した。その後北方に勢力を拡大し[[和銅]]元年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]<ref>「続日本記」『角川日本地名大辞典(旧地名編)』出羽郡(古代~中世)</ref>([[708年]]11月14日)に[[出羽郡]]を設置し、前後して[[出羽柵]](山形県[[庄内地方]])を築造した。
 
 
 
=== 出羽国の成立 ===
 
和銅5年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]<ref>『角川日本地名大辞典(旧地名編)』出羽国府(古代)</ref>([[712年]]10月27日)に出羽国に昇格し、翌10月1日に[[陸奥国]]から[[置賜郡]]と[[最上郡]]を譲られて国としての体制が整った<ref>『[[続日本紀]]』当該年月条。しかし同書の[[霊亀]]2年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]([[716年]]10月12日)条にも陸奥国[[置賜郡|置賜]][[最上郡|最上]]二郡を出羽国に隷せしむとある。霊亀2年を誤りとするか、決定時と実施時に分ける説(新野直吉『古代東北の開拓』87-88頁、91-92頁。林陸朗『完訳注釈続日本紀』第一分冊注釈40頁)が有力だが、和銅5年のほうを誤りとする説もある(高橋崇『律令国家東北史の研究』18-19頁)。</ref>。その後、[[東国]]・[[北陸]]などの諸国から800戸以上の[[柵戸]]を移住させた。さらにその後も柵戸や公民<ref>[[租]][[庸]][[調]]・兵役・[[雑徭]]などを負担する人々のこと</ref>を中心とした郡制施行地を拡大していった。
 
 
 
出羽国成立当初のランクは不明であるが、[[律令制]]の下で上国<ref>『[[延喜式]]』。上国は、国司の定員は守・介・掾(じょう)・目(さかん)の四等官が各1人、史生(ししょう)3人の計7人である。いずれも中央から派遣された。任務としては、国内の行・財政、司法・検察・軍事・宗教などで、特別な任務としては、蝦夷をもてなし懐柔し、蝦夷集団の支配・服属関係を維持し拡大する饗給、蝦夷集団の動静を常に探る斥候、時に応じて軍事力で蝦夷集団を制圧する征討が付け加わった。</ref>とされ、蝦夷と接する重要な位置にあった。隣の[[陸奥国]]もまた蝦夷に接していたが、両国を統括する政治的・軍事的中心は主に陸奥側に置かれた。例として両国を統括する[[按察使]]は陸奥国守が兼任する慣行であった。陸奥国と並び黄金を産した。
 
 
 
=== 北方への拡大と俘囚の反乱 ===
 
以後陸奥国と並ぶ辺境の国となり、[[天平]]5年([[733年]])頃には[[雄勝郡]]を設置し、また出羽柵は12月26日秋田村高清水岡([[秋田市]])に移された。その後雄勝郡は一旦放棄されたと見られているが、[[天平宝字]]3年([[759年]])には[[雄勝城]]の設置に合わせ改めて、雄勝郡、[[平鹿郡]]が置かれた。[[天平宝字]]4年([[760年]])頃出羽柵は[[秋田城]]へと改変され、俘囚の反乱が相次いだため[[宝亀]]11年([[780年]])に放棄が検討されたが、次官国司である出羽介が[[秋田城介]]として常置されることとなった。この頃、国府機能が[[城輪柵]](きのわき:山形県[[酒田市]])に移された([[#国府]])。陸奥国府には[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]が置かれ、平安時代後期以降、[[秋田城介]]が空位になると鎮守将軍(後に[[鎮守府将軍]])が両国を軍事的に統括した。
 
 
 
=== 平安時代前期 ===
 
[[延暦]]23年([[804年]])[[蝦夷]]の反乱が激しくなり、秋田城は停廃されて[[秋田郡]]となった。ただし、機能が完全に停止されることはなく、陸奥側の北部4郡が放棄されたのと異なり、[[俘囚]]の主とされる[[出羽清原氏|清原氏]]は、[[在庁官人]]として力を蓄えたと見られている。[[8世紀]][[河辺郡]]が置かれ、[[山本郡 (出羽国)|山本郡]](後の[[仙北郡]])が平鹿郡から分離するなど徐々に領域を北に伸ばした。[[仁和]]2年([[886年]])には最上郡から[[村山郡]]が分離し、その後[[延喜]]年間までに出羽郡から[[飽海郡]]、[[田川郡 (羽前国)|田川郡]]が分離したと見られている。最終的に出羽国の管理する郡・郷は、11郡58郷であった<ref>高山寺本『[[倭名類聚抄]]』</ref>。なお、[[平安時代]]まで、出羽は「'''いでは'''」と読んでいた。
 
 
 
=== 陸奥国と出羽国の境界 ===
 
秋田郡以北の建郡の状況はよく分かっていない。平安時代初期までは、[[蝦夷]]を出羽側の「蝦狄」と陸奥側の「蝦夷」に分けて記録されており、後に陸奥国となる[[紫波郡]]が出羽国管轄の「志波村」とされているなど陸奥との境界は不分明であったが、平安時代末期には[[奥州藤原氏]]の支配を通じて出羽国府の直接管轄地以北が陸奥国として整理されたと見られている。この時期に陸奥国[[比内郡]](後に秋田郡北部)、[[鎌倉時代]]初期には[[河北郡 (出羽国)|河北郡]](当初は陸奥国か出羽国か不明、後に出羽国[[檜山郡 (出羽国)|檜山郡]]を経て山本郡)が置かれ、これらは中世末期までに出羽国の領域に入ったとする見解がある。
 
 
 
=== 奥州藤原氏 ===
 
清原氏が[[後三年の役]]で滅亡した後、これに代わって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になったと一般的には言われているが、近年の研究では、この支配は陸奥北半分では一円的な領主的立場であるが、陸奥南部と出羽においては[[押領使]]や[[鎮守府将軍]]としての軍事指揮権に伴う在地領主の系列化と、荘園の管理権<ref>[[久安]]5年([[1149年]])から[[仁平]]3年([[1153年]])にかけて[[奥州藤原氏]]と[[摂家|藤原摂関家]]は年貢増徴をめぐって争っている</ref>及び[[鳥羽天皇]]御願所としての[[中尊寺]]を介しての寺領支配<ref>藤原摂関家との年貢増徴をめぐる争いの後、摂関家[[荘園]]([[寒河江荘]])寺としての性格をもつ[[慈恩寺 (寒河江市)|慈恩寺]]の再建の奉行職を[[平忠盛]]が務めていることから寺領支配には疑問が残る。</ref>の複合的かつ間接的支配に止まったのではないかと指摘されている。
 
 
 
=== 鎌倉時代 ===
 
奥州藤原氏が、[[奥州合戦]]で滅亡し、残党が出羽で起こした[[大河兼任の乱]]も鎮圧されると、頼朝は、出羽国に[[橘氏]]([[小鹿島氏]]:秋田県男鹿市)、[[平賀氏]]([[平鹿郡]])、[[小野寺氏]]([[雄勝郡]])、[[武藤氏]]([[大宝寺氏]]:[[庄内地方]])、[[大江氏]]([[長井氏]]:[[置賜郡]]、[[寒河江氏]]:村山郡[[寒河江荘]])、[[中条氏]](村山郡[[小田島荘]])、[[二階堂氏]](最上郡[[成生荘]])、[[安達氏]](最上郡[[大曾根荘]])等の[[御家人]]を地頭として配置した。しかし、由利地方以南はなおしばらく在地領主層([[由利氏]]等)が在庁官人としての権益を保っていることが『[[吾妻鏡]]』に見える。[[葛西清重]]ら[[葛西氏]]が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、[[奥州惣奉行]]職に就任して以後は、[[米代川]]流域も葛西氏の勢力範囲となった。
 
 
 
=== 南北朝時代・室町時代 ===
 
中世前半を通じて北部では公領制、南部では[[荘園公領制]]が貫徹され、基本的には[[鎌倉幕府]]の統制の元、国府留守所は維持されていたが、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]を境に領主間の争いが活発化し、津軽地方から蝦夷地を経て葛西氏に取って代わった檜山[[安東氏]]、橘氏に代わり湊安東氏、陸奥から移住した[[戸沢氏]](仙北郡)、小野寺氏(雄勝郡)、大宝寺氏(庄内)、寒河江大江氏(寒河江荘)、陸奥[[大崎氏]]の庶流である[[最上氏]](最上郡)、そして最上氏の庶流[[天童氏]](最上郡・村山郡)、陸奥から進出した[[伊達氏]](置賜郡)などが支配した。
 
 
 
=== 戦国時代 ===
 
出羽国南部では、[[伊達稙宗]]が[[最上義定]]との戦いに勝利すると妹を嫁がせ優位に和議を結び、義定が継嗣を残さず死去すると妹を介して影響力を強めた。最上の諸将が反発すると最上領に侵攻し、最上氏の傀儡化に成功するなど村山地方全域にまで影響力を広げた。大宝寺氏は庄内地方で勢力を広げ全盛期を築き、[[安東氏]]は秋田県北部、小野寺氏は仙北から最上地方への進出を果たした。しかし、伊達氏において[[天文の乱]]が発生すると最上氏が介入して独立を果たし、最上氏で[[天正最上の乱]]が起こると逆に伊達氏が介入し激しく争った。両氏の間で和議が成立すると最上氏は村山地方・最上地方・庄内地方に順次勢力を拡大し在地勢力を駆逐・懐柔していった。最上氏と大宝寺氏が争うと大宝寺は越後の[[上杉氏]]を頼ったが、家臣の謀反により庄内地方は最上氏の支配下に入る。その後[[大宝寺義勝]]を奉じた本庄繁長により奪取されることになる([[十五里ヶ原の戦い]])。この戦いは、惣無事令違反であったが、上杉氏が豊臣政権内で有力な立場であったことから[[奥州仕置]]の結果上杉氏の領地となった。また、この奥州仕置によって伊達氏は置賜地方を失い、代わりに[[蒲生氏]]が入った。[[蒲生氏郷]]が早世した後、上杉氏家臣[[直江兼続]]が置賜地方を有し[[関ヶ原の戦い]]を迎えた。
 
 
 
一方、出羽北部では[[秋田氏]]が下国家と湊家を統合して勢力を強めたが[[安東愛季]]が死去すると後継者争いが発生し、これが[[惣無事令]]違反と見做され大幅に領地を減らされた。小野寺氏、戸沢氏も所領を安堵されたが、仙北・由利地方で[[仙北一揆]]が発生し小野寺氏は減封された。
 
 
 
=== [[慶長出羽合戦]] ===
 
[[会津征伐]]のため北上した[[徳川家康]]は下野小山で[[石田三成]]挙兵の報に接し、反転西上を開始する。また、[[山形城|山形]]に集結していた東軍に属する東北地方の領主らも、自領へ引き上げてしまう。孤立を恐れた最上氏は上杉氏との和議を模索するが、上杉氏庄内領への侵攻計画が露呈し上杉氏は最上氏領への侵攻を開始する。直江兼続率いる上杉軍は最上氏の拠点を多数落とすが[[長谷堂城]]攻略中に西軍敗北の報に接し退却を開始、[[最上義光]]自らによる追撃戦が展開される。上杉氏を置賜地方へ駆逐した最上氏は、村山地方、最上地方の拠点を取戻し、翌年3月までに奥州仕置以降上杉領となっていた庄内地方の奪還にも成功する。この結果、最上氏は出羽国に57万石ともされる領地を得る一方、最上氏の讒訴を受けた秋田氏は転封、西軍に付いた小野寺氏は改易となった。
 
 
 
なお、陸奥国の大名伊達氏が関ヶ原の戦いに際し、徳川家康と「百万石のお墨付き」とされる約定を交わし、旧領である長井(置賜地方)他7郡の回復を望んだが、南部領内での扇動([[和賀合戦]])と合戦の直前に伊達氏と上杉氏が和議を結んだことが家康の疑念を生み、約定は果たされなかった。
 
 
 
=== 江戸時代 ===
 
秋田県北部では鎌倉時代以降土着した小領主を常陸に転封し、代わりに[[佐竹氏]]([[久保田藩]])が入った。最上氏改易([[1622年]])後には[[酒井氏]]([[庄内藩]])・[[鳥居氏]]([[山形藩]])・[[戸沢氏]]([[新庄藩]])・[[能見松平家]]([[上山藩]])が入ったが、山形藩の入れ替わりは激しかった。山形藩の領地は天領に組み込まれ、尾花沢・長瀞・寒河江、柴橋などの代官[[陣屋]]が置かれた。[[戊辰戦争]]時には[[奥羽越列藩同盟]]に加わり旧幕府方についたが、佐竹氏が直後に離反すると庄内藩・南部藩が攻め込み[[秋田戦争]]を引き起こした。[[久保田城]]付近まで攻め込むが、会津藩・米沢藩・仙台藩が降伏する中撤退を決断し降伏した。
 
 
 
=== 明治 ===
 
[[明治]]元年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]([[1869年]][[1月19日]])、[[戊辰戦争]]に敗けた[[奥羽越列藩同盟]]諸[[藩]]に対する処分が行われた。同日、出羽国は、現在の山形県にほぼ相当(庄内地方最上川以北は含まれない)する[[羽前国]]と、秋田県にほぼ相当する[[羽後国]]に2分割された。このとき、[[陸奥国]]も5分割された。
 
 
 
== 国内の施設 ==
 
=== 国府 ===
 
国府は、『[[和名抄]]』([[承平 (日本)|承平]]年間([[931年]] - [[938年]])編纂)では平鹿郡、『[[拾芥抄]]』([[鎌倉時代]]から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]])では「平鹿郡、出羽郡、両方に府」と記載がある。
 
 
 
出羽国が成立当初の国府は[[出羽柵]]([[庄内地方]]にあったとされる)に置かれたと考えられているが、所在は不明である。 出羽柵は、天平5年([[733年]])に秋田高清水岡(現在の[[秋田城]]跡)に移った。その際に国府機能も秋田に移転したかどうかについては諸説あるが、発掘調査によれば8世紀後半に秋田へ国府が移されていたと推測される。その後秋田城周辺の蝦夷の反乱等により国府は再移転を余儀なくされ、その移転先についても河辺郡説(『[[日本後紀]]』の[[河辺府]]を国府と見る説)、平鹿郡説(『和名抄』に「出羽国、国府在平鹿郡」とある等による説)、出羽郡(後に飽海郡)説(考古発掘の結果等による説)等の争いがあるが、最終的に庄内平野の[[城輪柵]]跡に移ったことにはほぼ異論はない。さらに『日本三代実録』[[仁和]]3年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]<ref>『角川日本地名大辞典(旧地名編)』井出郷(古代)</ref>([[887年]]6月15日)の条にも、国府は「出羽郡井口地」と表記されており、この井口国府とは酒田市東北部にある国の史跡城輪柵である、とする見解が有力である<ref>誉田 2003、 p.40</ref>。
 
 
 
蝦夷との境界付近には天平宝字3年([[759年]])に[[雄勝城]]も設置され、以後庄内平野の国府、秋田平野の秋田城、仙北平鹿平野の雄勝城の一府二城体制が続いた。
 
 
 
雄勝城の所在地は諸説ある。秋田城については発掘調査によると[[10世紀]]中頃までの遺跡しか確認されていないが、文献上からは秋田城は[[12世紀]]頃まで留守所があったことが分かっている。また、国府留守所も[[14世紀]]頃までは存在しているようであるが、雄勝城はいつの頃からか停廃したとみられる。
 
 
 
=== 寺院 ===
 
==== 国分寺・国分尼寺 ====
 
* 護国山柏山寺 - 山形市薬師町。天台宗で本尊は薬師如来。
 
国分尼寺は現存しない。[[平安時代]]の[[国分寺]]は[[城輪柵]]の外郭東辺から1.2キロ真東にある堂の前遺跡を、[[国分尼寺]]は堂の前遺跡よりも4キロ南にある[[高阿弥陀遺跡]]を比定する説が有力である<ref>誉田 2003、p.42</ref>。
 
 
 
==== 定額寺 ====
 
{{See also|定額寺}}
 
* 法隆寺:[[斉衡]]3年3月9日壬子([[856年]]4月9日)。
 
* 観音寺:[[貞観 (日本)|貞観]]7年5月8日戊子([[865年]]6月5日)。
 
* 瑜伽寺:貞観8年9月8日庚戌([[866年]]6月23日)。
 
* 長安寺:貞観9年10月13日戊寅([[867年]]11月12日)。
 
* 霊山寺:指定年不詳12月29日甲午。出羽国最上郡。
 
* 安隆寺:貞観12年12月8日乙酉([[870年]]1月13日)。出羽国山本郡。
 
 
 
=== 神社 ===
 
; [[延喜式内社]]
 
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す大社2座2社・小社7座7社の計9座9社が記載されている。大社2社は、いずれも[[名神大社]]である。
 
<!--;後の羽後国1-->
 
* [[飽海郡]] 大物忌神社 (現 [[鳥海山大物忌神社]]、山形県[[飽海郡]][[遊佐町]]) - '''[[名神大社]]'''。
 
*飽海郡 [[小物忌神社]] (山形県酒田市山楯)
 
*飽海郡 [[月山神社]] (山形県[[東田川郡]][[庄内町]]立谷沢) - '''名神大社'''。[[出羽三山]]の一。
 
<!--;後の羽前国-->
 
*[[田川郡 (羽前国)|田川郡]] [[遠賀神社]] - 山形県[[鶴岡市]]井岡、同市遠賀原、同市外内島に論社3社。
 
*田川郡 [[由豆佐売神社]] (山形県鶴岡市湯田川)
 
*田川郡 伊弖波神社 (現 [[出羽神社]]、山形県鶴岡市羽黒町手向) - [[出羽三山]]の一。
 
<!--;後の羽後国2-->
 
*[[平鹿郡]] [[塩湯彦神社]] (秋田県[[横手市]]山内大満川)
 
*平鹿郡 波宇志別神社 (現 [[保呂羽山波宇志別神社]]、秋田県横手市大森町八沢木)
 
*[[山本郡 (出羽国)|山本郡]] [[副川神社]] - [[副川神社]](秋田県[[南秋田郡]]八郎潟町浦大町)または[[嶽六所神社]](秋田県[[大仙市]][[神宮寺 (大仙市)|神宮寺]])、八幡神社(秋田県大仙市神宮寺。嶽六所神社境外社)、[[添川神明社]](秋田県秋田市添川)に比定。
 
 
 
; [[総社]]・[[一宮]]以下
 
* 総社
 
** 総社神社 (秋田市川尻総社町)
 
** [[古四王神社]] (秋田市寺内児桜)
 
** 六所神社 (山形県[[鶴岡市]]藤島<ref name="住所">上藤島の誤りか。</ref>六所畑(旧[[東田川郡]][[藤島町]]藤島<ref name="住所"/>六所畑))
 
* 一宮 '''[[鳥海山大物忌神社]]''' - [[鳥海山]]山頂に本殿が、山麓の吹浦と蕨岡の2か所に口宮(里宮)がある。長年2つの口宮が一宮の称を争っていたため、[[江戸時代]]、幕府の裁定により山頂の祠が一宮と定められた。
 
* 二宮 [[城輪神社]] - [[国史見在社]]。大物忌神社の摂社。
 
* 三宮 [[小物忌神社]]
 
 
 
=== 安国寺利生塔 ===
 
{{See also|安国寺利生塔}}
 
* 太平山安国寺 - 山形県[[東村山郡]][[山辺町]]大寺。曹洞宗で、本尊は釈迦如来。
 
安国寺は[[足利尊氏]]が全国に建立した寺院である。利生塔は現存しない。
 
 
 
=== 街道 ===
 
* [[羽州街道]]-[[奥州街道]]から桑折宿(福島県桑折町)で分岐し出羽国を縦断し油川宿(青森県青森市)で奥州街道に合流する。
 
* [[米沢街道]]-会津若松(福島県)から米沢(山形県)へ至る街道。
 
* [[出羽仙台街道]]-吉岡宿(宮城県大和町)と舟形宿(山形県舟形町)を結ぶ街道。
 
* [[羽州浜街道]]-鼠ヶ関から久保田宿まで。
 
 
 
== 地域 ==
 
=== 郡 ===
 
<!--;後の羽前国-->
 
*[[田川郡 (羽前国)|田川郡]]
 
*[[村山郡]]
 
*[[最上郡]]
 
*[[置賜郡]]
 
*[[櫛引郡]]
 
<!--;後の羽後国-->
 
*[[山本郡]]
 
*[[秋田郡]]
 
*[[河辺郡]]
 
*[[由利郡]]
 
*[[仙北郡]]
 
*[[平鹿郡]]
 
*[[雄勝郡]]
 
*[[飽海郡]]
 
*[[出羽郡]]
 
 
 
=== 江戸時代の藩 ===
 
●は分国前に廃止。
 
; 後の羽後国
 
* [[久保田藩]](秋田藩)
 
* [[久保田藩#岩崎藩|岩崎藩]](久保田藩支藩)
 
* [[亀田藩]]
 
* [[本荘藩]]
 
* [[庄内藩#出羽松山藩|出羽松山藩]](庄内藩支藩、松嶺藩)
 
* [[矢島藩]]
 
* [[久保田藩#久保田新田藩|久保田新田藩]](久保田藩支藩)●
 
* [[仁賀保藩]]●
 
 
 
; 後の羽前国
 
* [[庄内藩]](鶴岡藩、大泉藩)
 
* [[山形藩]]
 
* [[上山藩]]
 
* [[天童藩]]
 
* [[新庄藩]]
 
* [[長瀞藩]]
 
* [[米沢藩]]
 
* [[米沢藩#支藩|米沢新田藩]](米沢藩支藩)
 
* [[庄内藩#大山藩|大山藩]](庄内藩支藩)●
 
* [[庄内藩#左沢藩|左沢藩]]●
 
* [[出羽丸岡藩]]●
 
* [[村山藩]]●
 
* [[高畠藩]]●
 
 
 
=== 人口 ===
 
* 享保6年([[1721年]]) - 87万7650人
 
* 寛延3年([[1750年]]) - 84万6255人
 
* 宝暦6年([[1756年]]) - 83万8446人
 
* 天明6年([[1786年]]) - 80万4922人
 
* 寛政4年([[1792年]]) - 81万6770人
 
* 寛政10年([[1798年]]) - 85万2959人
 
* 文化元年([[1804年]]) - 87万0149人
 
* 文政5年([[1822年]]) - 90万9212人
 
* 文政11年([[1828年]]) - 94万5919人
 
* 天保5年([[1834年]]) - 94万0929人
 
* 天保11年([[1840年]]) - 83万2649人
 
* 弘化3年([[1846年]]) - 91万2452人
 
* 明治5年([[1872年]]) - 119万1020人(羽前国と羽後国の合計)
 
 
 
内閣統計局・編、[[速水融]]・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、[[東洋書林]]。
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 国司 ===
 
==== 出羽守 ====
 
{{節スタブ}}
 
* [[多治比家主]] - [[養老]]7年([[723年]])多治比池守の子。
 
* [[田辺史難破]] - [[天平]]9年([[737年]])
 
* [[藤原田麻呂]] - [[天平宝字]]7年([[763年]])陸奥出羽按察使。
 
* [[文室綿麻呂]] - [[延暦]]20年([[801年]])正月(出羽権守)
 
* [[大伴今人]] - [[弘仁]]2年([[811年]])3月に出羽守として武功。
 
* [[藤原興世]] - [[元慶]]2年([[878年]])[[元慶の乱]]で逃亡。
 
* [[藤原保則]] - 元慶2年([[878年]]出羽権守。
 
* [[藤原義理]] - [[長保]]2年([[1000年]])出羽守として馬を献上
 
* [[平季信]] - 長保3年([[1001年]])任官。[[出羽弁]]の父。
 
* [[藤原済家]] [[寛弘]]6年([[1009年]])任官。
 
* [[源親平]] - 寛弘9年([[1012年]])任官。
 
* [[大中臣宣茂]] - [[長和]]6年[[1017年]]任官
 
* [[大江時棟]] - [[寛仁]]4年([[1020年]])任官。
 
* [[多米国隆]] - [[万寿]]4年([[1027年]])任官
 
* [[藤原為通]] - [[長元]]5年([[1032年]])任官。
 
* [[源兼長]] - [[永承]]5年([[1050年]])任官。
 
* [[源忠国]]
 
* [[源斉頼]] - [[天喜]]5年([[1057年]])任官。
 
* [[源義家]] - [[康平]]6年([[1063年]])任官。
 
* [[中原師元]] - 大外記兼[[明経博士]]。
 
* [[平正衡]] - [[承徳]]3年([[1099年]])任官。[[平清盛]]曾祖父。
 
* [[源光国]] - [[天仁]]2年([[1109年]])任官?。[[天永]]元年([[1110年]])出羽国[[寒河江荘]]に濫入した(『殿暦』)。
 
* [[平信兼]] - [[久寿]]3年([[1156年]])任官。
 
* [[高階泰経]] - [[保元]]3年([[1158年]])任官。[[後白河天皇|後白河院]]側近。
 
* [[秩父重綱]] - 久安4年(1184年)出羽権守を務めていた。
 
* [[藤原秀能]] - [[建保]]4年([[1216年]])任官。
 
* [[中条家長]] - [[貞応]]2年([[1223年]])任官。[[評定衆]]。
 
* [[二階堂行義]] - [[嘉禎]]3年([[1237年]])任官。評定衆。
 
* [[二階堂貞藤]] - 政所執事。法名道蘊(どううん)。
 
* [[寒河江元時]]
 
* [[大宝寺淳氏]] - [[寛正]]3年([[1462年]])任官。
 
 
 
==== 出羽介 ====
 
{{節スタブ}}
 
{{Main2|[[秋田城]]を専管した出羽介については[[秋田城介]]を}}
 
* [[藤原元頼]]
 
 
 
==== 出羽掾 ====
 
* [[清原令望]](権掾) - [[元慶]]2年([[878年]])任官。
 
* [[鈴木重実 (庄司)|鈴木重実]](大掾) - [[長徳]]2年([[996年]])任官<ref>宝賀寿男『古代氏族系譜集成/中巻』穂積氏系図</ref>。
 
 
 
==== 武家官位としての出羽守 ====
 
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* [[谷衛友]]
 
* [[最上義光]]
 
* [[簗田政綱]]
 
* [[植村家政]]
 
* [[坂崎直盛]]
 
* [[松平直政]]
 
* [[加藤泰興]]
 
* [[堀田正盛]]
 
* [[水野忠職]]
 
* [[大久保忠朝]]
 
* [[米津田盛]]
 
* [[内田正衆]]
 
* [[土岐頼雄]]
 
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* [[森川重信]]
 
* [[松平綱隆]]
 
* [[荒川定昭]]
 
* [[相馬貞胤]]
 
* [[三宅康雄]]
 
* [[松平綱近]]
 
* [[水谷勝美]]
 
* [[柳沢吉保]]
 
* [[水野忠周]]
 
* [[松平吉透]]
 
* [[真田信弘]]
 
* [[大須賀忠政]]
 
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* [[松平宣維]]
 
* [[松平清武]]
 
* [[森川俊胤]]
 
* [[石河正章]]
 
* [[水野忠穀]]
 
* [[松平宗衍]]
 
* [[前田房長]]
 
* [[三宅康之]]
 
* [[米津通政]]
 
* [[松平治郷]]
 
* [[水野忠友]]
 
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* [[谷衛量]]
 
* [[林忠英]]
 
* [[大久保忠真]]
 
* [[青木一貞]]
 
* [[水野忠成]]
 
* [[松平斉恒]]
 
* [[津軽信順]]
 
* [[松平斉斎]]
 
* [[植村家教]]
 
* [[水野忠義]]
 
* [[水野忠武]]
 
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* [[水野忠良]]
 
* [[森川俊民]]
 
* [[松平定安]]
 
* [[石河光美]]
 
* [[森川俊位]]
 
* [[水野忠寛]]
 
* [[森川俊徳]]
 
* [[水野忠誠]]
 
* [[堀田正養]]
 
* [[最上義連]]
 
* [[水野忠敬]]
 
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=== 守護 ===
 
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出羽は[[守護]]不設置の国だったため、南北朝時代以降[[鎮守府将軍]](南朝)・[[奥州総大将]](北朝)・奥州羽州[[管領]]・[[鎌倉公方]]([[篠川御所]]、[[稲村御所]])などが軍事権を行使した。南北朝時代初期に南朝側が在地領主に多くの権限を与えたため、[[京都扶持衆]]などを生む原因となった。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 参考文献 ==
 
<!-- 実際に参考にした文献一覧 -->
 
* [[高橋崇]]『律令国家東北史の研究』、吉川弘文館、1991年、ISBN 4-642-02245-7。
 
* [[新野直吉]]『古代東北の開拓』、塙書房、1969年。
 
* [[林陸朗]]・校注訓訳『完訳注釈続日本紀』第1分冊(巻第一 - 巻第八)、現代思潮社(古典文庫)、1989年。
 
* [[誉田慶信]]「出羽国のはじまり」(横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信『山形県の歴史』山川出版社、2003年2月)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
<!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク -->
 
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* [[出羽郡]]
 
* [[令制国一覧]]
 
* [[僧妙達蘇生注記]]
 
  
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現在の山形県と秋田県。[[東山道]]の一国。上国。東北地方は[[大和朝廷]]の支配が最も遅く及んだ地方で,[[蝦夷地]]とされた。斉明4 (658) 年には[[阿倍比羅夫]]が征討の軍を進め,しだいに開拓が進められた。[[律令制]]の国郡制度では和銅1 (708) 年9月[[越後国]]に新たに出羽郡が設置され,さらに同2年7月[[夷狄]]を制するため[[出羽柵]]に武器を送るように諸国に命じている。同5年9月出羽郡が独立して一国となり,10月には[[陸奥国]]の最上郡,置賜郡の2郡が出羽国に加えられた。天平5 (733) 年 12月には出羽柵を北に進めて[[秋田城]]を設置し,新たに雄勝郡が置かれた。国府も国分寺も初め山形県鶴岡市にあったが,のち国府は酒田市吉田に,次いで国府,国分寺とも酒田市本楯に移ったといわれる。『延喜式』には最上郡,村山郡,置賜郡,雄勝郡,平鹿郡,山本郡,飽海郡,河辺郡,田川郡,出羽郡,秋田郡の 11郡が,『和名抄』には 65郷 (高山寺本) ,田2万 6109町が記されている。[[前九年の役]] (1056~64) では[[源頼義]],[[源義家]]父子が[[安倍氏]]征討に苦しんだが,出羽国の[[俘囚]]の長[[清原武則]]の援助で,[[安倍貞任]],[[安倍宗任]]の兄弟を滅ぼし,武則はその功により鎮守府将軍に任じられた。清原氏が[[後三年の役]] (1086~87) で滅んでからは,平泉の藤原氏が陸奥出羽[[押領使]]として支配するようになった。文治5 (1189) 年[[藤原泰衡]]が[[源頼朝]]に滅ぼされて藤原氏の支配は終わった。鎌倉時代から室町時代までは守護は置かれなかった。戦国時代には檜山に[[秋田氏]],横手に小野寺氏,山北に戸沢氏,庄内に武藤氏,山形に斯波最上氏 ([[最上氏]] ) ,寒河江に大江氏,長井荘に[[伊達氏]]が出て互いに覇を競った。江戸時代には米沢に[[上杉氏]],秋田に[[佐竹氏]],亀田に岩城氏,庄内に[[酒井氏]],上ノ山に[[松平氏]],新庄に戸沢氏,本庄に六郷氏が封じられ幕末にいたった。明治1 (1868) 年に[[羽前国]]と[[羽後国]]に分かれ,[[明治維新]]を経て同4年7月各藩はそれぞれ県となったが,同 11月秋田県,置賜県,山形県,酒田県となり,1876年秋田県,山形県の2県となった。
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2018/10/18/ (木) 12:45時点における最新版

出羽国(でわのくに)

現在の山形県と秋田県。東山道の一国。上国。東北地方は大和朝廷の支配が最も遅く及んだ地方で,蝦夷地とされた。斉明4 (658) 年には阿倍比羅夫が征討の軍を進め,しだいに開拓が進められた。律令制の国郡制度では和銅1 (708) 年9月越後国に新たに出羽郡が設置され,さらに同2年7月夷狄を制するため出羽柵に武器を送るように諸国に命じている。同5年9月出羽郡が独立して一国となり,10月には陸奥国の最上郡,置賜郡の2郡が出羽国に加えられた。天平5 (733) 年 12月には出羽柵を北に進めて秋田城を設置し,新たに雄勝郡が置かれた。国府も国分寺も初め山形県鶴岡市にあったが,のち国府は酒田市吉田に,次いで国府,国分寺とも酒田市本楯に移ったといわれる。『延喜式』には最上郡,村山郡,置賜郡,雄勝郡,平鹿郡,山本郡,飽海郡,河辺郡,田川郡,出羽郡,秋田郡の 11郡が,『和名抄』には 65郷 (高山寺本) ,田2万 6109町が記されている。前九年の役 (1056~64) では源頼義源義家父子が安倍氏征討に苦しんだが,出羽国の俘囚の長清原武則の援助で,安倍貞任安倍宗任の兄弟を滅ぼし,武則はその功により鎮守府将軍に任じられた。清原氏が後三年の役 (1086~87) で滅んでからは,平泉の藤原氏が陸奥出羽押領使として支配するようになった。文治5 (1189) 年藤原泰衡源頼朝に滅ぼされて藤原氏の支配は終わった。鎌倉時代から室町時代までは守護は置かれなかった。戦国時代には檜山に秋田氏,横手に小野寺氏,山北に戸沢氏,庄内に武藤氏,山形に斯波最上氏 (最上氏 ) ,寒河江に大江氏,長井荘に伊達氏が出て互いに覇を競った。江戸時代には米沢に上杉氏,秋田に佐竹氏,亀田に岩城氏,庄内に酒井氏,上ノ山に松平氏,新庄に戸沢氏,本庄に六郷氏が封じられ幕末にいたった。明治1 (1868) 年に羽前国羽後国に分かれ,明治維新を経て同4年7月各藩はそれぞれ県となったが,同 11月秋田県,置賜県,山形県,酒田県となり,1876年秋田県,山形県の2県となった。





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