森有礼
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森 有礼(もり ありのり、正字体:森有禮、弘化4年7月13日(1847年8月23日) - 明治22年(1889年)2月12日)
明治初期の外交官,教育家。子爵。幼名助五郎,金之丞。有礼は号。林子平の『海国兵談』を読んで,海外事情を知る必要を悟り,洋学,漢学を学び武術を修めた。薩摩の藩校に学び,慶応1 (1865) 年沢井鉄馬と変名してイギリスに留学,ロンドン大学に学んだ。ロシアで海軍技術を見学し,アメリカを経て帰朝し,明治1 (68) 年外国官権判事。議事体裁取調御用,公議所議長心得を経たが,官吏,軍人のほかは廃刀すべしと唱えて,武人の反感を買い免官となった。のち,小弁務使に任じられアメリカに駐在。『日本に於ての宗教の自由』 Religious Freedom in Japan (72) ,『日本の教育』 Education in Japan (73) などを著わした。外務大丞,同少輔,清国公使などを経て,イギリス公使となり,外交官として活躍。 1873年明六社の創設を発起し,『明六雑誌』を発刊。開化論,泰西思想の普及に努めた。 85年伊藤博文内閣で,初代文相となり,学制改革に貢献した。日本の戦前期の教育制度の骨格は彼のもとで公布された小学校令,中学校令,師範学校令,帝国大学令の4つの法律によりつくりあげられたとされている。性剛直であったため,宗教上の誤解を招き,大日本帝国憲法公布の日,壮士西野文太郎に暗殺された。著書に『妻妾論』,1972年には『森有礼全集』 (3巻) が刊行された。