ニールス・ボーア
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ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア(デンマーク語: Niels Henrik David Bohr[1]、1885年10月7日 - 1962年11月18日)
デンマークの理論物理学者。父はコペンハーゲン大学の生理学教授。 1911年コペンハーゲン大学から学位を取得後,イギリスへ留学。 J. J.トムソン,E.ラザフォードらのもとで研究。 16年コペンハーゲン大学の教授に任命されるまで,イギリスとデンマークの間を往復。 21年にコペンハーゲン理論物理学研究所を創設し,みずから所長となり,世界でも有数の研究所に育て上げた。 1913年ラザフォードの原子模型とプランクの量子仮説とを組合せ,水素原子のスペクトルの説明に成功 (ボーアの原子理論 ) 。これ以後量子論建設に中心的な役割を果した。 18年古典論と量子論を関係づける対応原理を発表,27年量子論の提起した認識論的問題に対して相補性の概念を展開。 1930年代原子核が研究対象になるに及び,核の液滴模型を提出し,原子核理論に大きな影響を与えた。 40年母国がドイツ軍に占領され,43年身の危険を感じ一家でスウェーデンに逃れた。その後息子の A.N.ボーアとともにイギリス,アメリカで原子爆弾開発に協力したが,第2次世界大戦後は原子力の平和利用運動に尽力した。 1922年ノーベル物理学賞受賞。
- ↑ デンマーク語ではネルス・ボア/nels ˈb̥oɐ̯ˀ/と発音