北条氏
ほうじょううじ
(1) 桓武平氏の一支族
鎌倉幕府御家人中で最大の勢力を有した。平貞盛の子維将の子孫と伝えられる。伊豆国田方郡北条を本領とした。 11世紀末に時政が娘政子の夫源頼朝に従って鎌倉幕府創設に助力し,頼朝の重臣の一人となった。
頼朝の死後は,2代頼家,3代実朝の両将軍が政子の所生であった関係から,幕府内部で北条氏の権勢が高まった。時政は対抗勢力の比企氏 (頼家夫人の生家) を倒し,政所別当となり,執権と称した。
その子義時は侍所別当和田義盛を倒して政所,侍所両別当職を兼務し,以後,両職は北条氏が独占した。実朝横死ののち義時は京都から摂関家の幼児を幕府の首長に迎えて,みずから実質的に幕府政治の第一人者となった。
承久3 (1221) 年に後鳥羽上皇が義時追討の命令を発したとき (承久の乱 ) ,義時は多数の御家人の協力を得て自身と幕府の危機を乗越え,かえって幕府が朝廷を圧倒する機縁とした。
義時の子泰時は貞永1 (32) 年に法令集『御成敗式目』を制定し,幕政の整備を進めた。泰時の孫時頼は三浦氏を倒した。時頼の子時宗のとき2度にわたり蒙古軍が九州に来襲したが (元寇 ) 御家人の奮闘によりこれを退却させた。しかし時宗の孫高時のとき,後醍醐天皇の幕府打倒計画に多数の御家人が応じたため,元弘3 (1333) 年各地で攻撃を受け,北条氏は滅亡した (元弘の乱) 。
(2) 戦国時代末期に相模国の小田原城を本拠に伊豆,関東諸国に勢威をふるった一族
伊勢新九郎長氏 (北条早雲 ) を祖とする。鎌倉幕府執権の北条氏と区別して後北条 (ごほうじょう) 氏という。長氏が堀越御所を滅ぼして伊豆韮山に拠って北条氏と称し,次いで小田原城を攻め落し,そこを本拠とした。さらに三浦氏を滅ぼして関東に威をふるったが,天正 18 (1590) 年氏政,氏直父子が豊臣秀吉に降伏した。
翌年氏直は秀吉に許され1万石を与えられた。また氏政の弟氏規の子孫は河内狭山に1万石で封じられ,明治になって子爵。 (狭山藩 )