倉科遼

提供: miniwiki
2018/8/9/ (木) 00:14時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索
倉科遼
本名 大場敬司
生誕 (1950-06-23) 1950年6月23日(74歳)
栃木県那須郡黒磯町(現那須塩原市
国籍 日本の旗 日本
職業漫画家漫画原作者
活動期間 1971年 - 現在
ジャンル 青年漫画
テンプレートを表示

倉科 遼(くらしな りょう、1950年6月23日[1] - )は、日本の元漫画家漫画原作者栃木県那須郡黒磯町(現那須塩原市)出身。水商売モノ(本人いわく「ネオン街モノ」)を得意としてネオン劇画の開祖とも言われる、この分野でのビッグネームである。以前は、司敬(つかさ けい)名義で劇画を執筆していた(「司敬」名義での漫画原作も存在する)。

漫画原作のほかに、本名の大場 敬司(おおば けいじ)名義で編集プロダクション「フリーハンド」及び「オフィスケイ」も経営しており、雑誌まるごと、もしくは一部を出版社から請け負っている。

概要・経歴

1971年、「司敬」名義で漫画家としてデビューする。青年誌を中心に活動し、幾多のヒット作を手がける(代表作として『野望の群れ』『会津おとこ賦』『武田みけん星』『昭和バンカラ派』などがある)。しかし、次第に漫画家として行き詰まりを感じるようになり断筆、「倉科遼」と改名し、心機一転、漫画原作者を専業として再起する。その始めの原作として和気一作と組んだ『悪女の鑑』シリーズが当たり、原作の道に入る[2]

原作作品の多くは女主人公のネオン劇画もので、代表作は『女帝シリーズ』、『嬢王』、『夜王』など。

漫画家時代の真偽不明の噂の一つに、青年雑誌で作品を発表していた司敬を某大手出版社が「ウチの少年誌で連載させてあげるから、今の仕事をストップして欲しい」と誘いをかけられた際に「これまで世話になった義理がありますので」と、収入に格段の違いがあるにも拘わらず連載を続けた、とされるものがある。

作品

倉科遼名義

(五十音順)

司敬名義

(五十音順)

アシスタント

脚注

外部リンク