田
田(た)は、穀物を栽培するために区画された農地をいう。田圃(たんぼ)、水田(すいでん)ともいう。
歴史
中国では、紀元前4000-3000年[1]新石器時代の馬家浜文化地域で水田跡が発掘されている[2][3][4]。有事のために貯蔵されたり、死者の埋葬時に共に埋められたりした新石器時代から漢王朝時代にかけての皮付きの米が発掘されている[5]。
中国以外における水田での耕作は、日本では弥生時代に[6]、フィリピンでは先史時代に[7]、ベトナムでは新石器時代に[8]、朝鮮半島では無紋土器時代中期[9]に始まったとされている。
定義
説文解字に「穀を樹うるを田という」とあり、漢字圏では田を「穀物を栽培するために区画された農地」の語義で使用することが一般的である。現代中国語においても「田」は区画された農地一般を指し「水田」に限らず、日本語における「畑」も含まれる。「畑」は日本の国字であり、同様の農地を普通話では「田地(tiándì)」と言う。
日本で単に「田」「水田」というと特に湛水しイネを栽培するため水平に整備された稲田(水田)を指すことが多いが、水田形式の圃場で栽培される作物は稲だけではなかった。穀物では稗は畑と並んで水田でも盛んに栽培され、特に稲の栽培に適さない冷水しか供給されない水田では重要な作物であった。また、蓮、慈姑、田芋といった栄養生殖によって増殖される芋類、根菜類も重要な水田作物であり、大陸における稲作の起源をこうした芋栽培の水田から派生したものとみる仮説もある。
また、山間部のワサビ田では、水路や沢の水を利用して水ワサビが栽培される。
稲田は、日本・朝鮮から長江流域・東南アジアを経てガンジス水系に至る、稲作栽培を農耕の中心に据えるモンスーン・アジアを中心に見られる。
日本における田
「田」は日本では特に稲田を指すことが多いが、当初は、他の漢字圏と同様、日本でも田は穀物農地を意味する語だった。それが次第に稲田に限定して使用されるようになり、そのため、穀物などの農地一般を表す「畑」という漢字が作られた。
日本の土質は火山灰の影響や降水量が多いことによって酸性が強いため土壌の鉱物成分から植物にとって細胞毒性のあるアルミニウムイオンが溶出し易く、またさらに、火山灰起原の粘土鉱物アロフェンが土中のリン酸を不可逆的に吸着して不溶化するので、畑作農耕には不向きである面がある。それにひきかえ、山地から流出した栄養塩類や施肥した肥料など水に溶けた養分を蓄える水田という形態は、日本の状況に適合している。また、もろもろの穀物のうち、日本の歴史時代を通じて米は特に宗教的に聖化されて儀礼に用いられ、貢納においても重視されたため、広域流通における通貨的な役割を果たすようになっていった。このため、中国大陸に見られる粟や黍といった雑穀栽培や冬作の麦などの米以外の穀物栽培も食糧生産上は重要であり、実際稲作農業を補完する重要な役割を果たしていたものの、稲作水田は別格で重視されることとなり、それに伴い「田」も稲作水田を意味するようになったと推測されている。
水田の最初の発見例は、1943年(昭和18年)の登呂遺跡の調査で確認された。1977年(昭和52年)の群馬県高崎市の日高遺跡の調査で水路・畦・人間の足跡等が発掘された。
世界的に水田稲作が行われているのはほとんどが熱帯・温帯地域であるが、日本では寒冷地での稲作を可能にするための多くの技術開発が行われ、北海道や本州の高原地帯にも水田が開かれた。北海道では、寒冷地の植物であるシラカバ林の間に水田が広がる風景を見ることができるが、これは世界的には特異な景観であるといえる。
農業形態としての田
水を張っている田を水田という。山地で階段状になっている田を棚田(千枚田)という。また農耕をやめている田を休耕田という。
また特殊な用途のために耕作されている田もあり、例えば、神社の豊穣祭などに供えるための稲を育てている田などもある。神田といい、江戸時代より前は年貢などの諸税が免除されたため、税から逃れる目的で、百姓が神社へ田を寄進し、各地に神田が設定された。東京に古くからある地名の「神田」は、これに由来するとされる。
苗植え前の水を張った田を代田(しろた)、苗植えを終えた田を代満(しろみて)という。
稲以外の穀物を作る畑を水の無い田と言うことで「陸田」と呼ぶこともあるが、基本的には「もとは畑であったが、現在は畦畔をつくり水を湛えるようにしてある土地」(農地基本台帳記入の手引き)を指す。
水田は、畝(うね)で囲まれた面ということになり、境の畝を畦畔(けいはん)と呼び、隣の田との境と、高低差を確保することになる。水の出入りの為、取水口と排水口(水口)があり、それぞれが離れた位置にあるのが普通である。流量を規制するための板なり弁が設けられ、水位を調整することが出来るようになっている。温度管理の為にかけ流しを行ったり、溜めておくなりの用途に用いられる。
農業機械が出入りするための乗り入れ路が付けられている場合もあり、コンバインやトラクターが出入りできるようになっている。重機械が入る場合は、深いところまで耕すと機械が沈むので、一定の深さまでしか耕さないことがある。
平地で大きな面積を確保できる場合も、一定の面積で区切ることが管理上有効であり、面積の単位としての「反(たん)」が田んぼの一枚であることが多い。1反で300坪。
稲を植えることを田植えという。かつては田に長い糸を張り、糸に沿って手で稲の苗を一本ずつ植えていた。非常に重労働であるため、江戸時代には近隣の者を雇って田植えを行うことが盛んだった。戦後は田植え機が普及し、田植え作業はほぼ機械化された。ただし、田の隅部や小さい田などの機械で田植えできない箇所は、いまだに人力で田植えが行われている。
不動産としての土地の地目としては「田」であることが多く、日本では取引に際しては農業委員会の許可が必要な場合があり、買い受けるには一定の資格が必要である。宅地など他用途への転用については農地法での転用の手続きが必要であり、休耕田を勝手に埋め立てて、他用途転用してはならない。
日本では、減反政策や宅地化により、水田の面積は減少傾向にある。
農地に占める水田の割合を水田率といい、日本全体では約54%である。都道府県別では富山県が約96%と最も高い。
文字文化としての田
現存する日本最古の文字は、三重県嬉野町(現在は松阪市)貝蔵遺跡で出土した2世紀末の土器に墨書されていた「田」であるとされている。
日本では、田がある地域、田があった地域には、地名に「田」が付いていることが多く、またその呼び名からはその場所の地形や開墾の歴史などが容易に推察されるものが少なくない。
- 田の場所にちなんだもの - 東田、西田
- 開墾の歴史などから - 新田
- 神社の祭式用などの目的から - 神田、供米田
- その田の収穫実績などの評価から - 千代田、富田
- 実際には、農業用の田ではないものの、池、湖沼をそれにたとえるもの - 八甲田
同様に、日本人の姓に「田」が付いているものが多く、名字に使われる漢字としては最も人口が多い。(田中、吉田、山田、池田、前田、岡田、藤田、福田など)
また、「男」という字は、説文解字によると、田と力から成り立っており、「男は力を田に用いる」からだとされている(ただし、甲骨文の男は、田と耒(すき)から成っており、力は耒が変形したものである。甲骨文の時代、「男」は農地の管理者を意味していた)。
日本においては生産の基盤が水田であったことから、ものを生み出す元を「田」ということがある。代表的なものに票田、油田、塩田等がある。塩田の場合、広く水たまりを作るのが水田に似ている点もある。
田にまつわる信仰
田が発祥した中国では、田の神の祭事が行われていたが、早い時期に失われ、今に伝わっていない。
日本では、弥生時代に農耕が伝わったとき、農耕収穫あるいは田に対する信仰が生まれたとされている。各地の神社で執り行われる秋の例祭(いわゆる秋祭り)は、田からの収穫を祭る名残であろうと考えられる。平安時代中期には、田植えの前に豊作を祈る「田遊び」から田楽という芸能がおこり、その後、猿楽や能楽などの諸芸能へと発展していった。
田からもたらされる豊作を祈願する神社としては、愛知県小牧市の田県神社(たがたじんじゃ)が、その豊年祭という奇祭で知られている。
豊穣豊作を祈願する田の神は、国内では地方ごとにさまざまな呼び名と祭り方がある。農神と呼んだり、山の神、土地の神、あるいは水神様と同一視する場合もある。
農作業を行なうと病気になる、災害が起きるなどの凶事が起きるとされる田を病田(やみだ、やまいだ)と呼び、日本各地にそうした田の伝承がある。病田では災いを鎮めるために石碑を建てたり、寺の住職による読経などで供養が行なわれている[10]。
環境としての田
水田耕作は日本各地の主要な農地の形態であり、多くの地域で大きな面積を占めていた。春から夏にかけての雨の多い時期に、これだけの広さの水溜を持っていたことになる。雨は直接に川に流れ込む前に水田を通過することで大量集中することを免れ、治水効果は大きいものと言われる。
また、水田は多様な生物の生息環境であった。浅くて富栄養な生産力の高い水域が広がっていたことで、カエル、ドジョウ、タニシなどの生息個体数は莫大なものであった。それがコウノトリ、トキ、タンチョウなどの鳥類やタガメのような大型肉食昆虫の生息を維持する基盤となっていた。それ以外にも、水田は小型動物が多数生息し、その中には水田にのみ見られるような種も多かった。たとえば、ホウネンエビやカブトエビがそれで、これらは冬季には水がなくなるという特殊な水域である水田で、その期間を耐久卵で過ごすことでそれに適応したものである。また、同地域の他の水域、たとえば川や湿地や池では見られない水草が水田には多数生息しており、水田雑草と呼ばれる。
水田にはそれらを合わせた独特の生物群集があった。水田土壌中の微生物も、土壌の有機物の流れに深く関わり、これらが水田という生産システムそのものの一側面ですらある。しかし、第二次世界大戦後の様々な変化の中で、水田の環境は劇的に変わった。コウノトリ・トキはほぼ絶滅、タガメ・ゲンゴロウ・ガムシ・タニシは見ることができなくなり、特有の水田雑草の中からも何種もが絶滅危惧種に指定される有様である。
脚注
- ↑ Tsude, Hiroshi. Yayoi Farmers Reconsidered: New Perspectives on Agricultural Development in East Asia. Bulletin of the Indo-Pacific Prehistory Association 21(5):53-59, 2001.
- ↑ Fujiwara, H. (ed.). Search for the Origin of Rice Cultivation: The Ancient Rice Cultivation in Paddy Fields at the Cao Xie Shan Site in China. Miyazaki: Society for Scientific Studies on Cultural Property, 1996. (In Japanese and Chinese)
- ↑ Fujiwara 1996
- ↑ Tsude, Hiroshi. Yayoi Farmers Reconsidered: New Perspectives on Agricultural Development in East Asia. Bulletin of the Indo-Pacific Prehistory Association 21(5):53-59, 2001.
- ↑ “Expansion of Chinese Paddy Rice to the Yunnan-Guizhou Plateau”. . 2007閲覧.
- ↑ Barnes, Gina L. Paddy Soils Now and Then. World Archaeology 22(1):1-17, 1990.
- ↑ Ongpin Valdes, Cynthia, "Pila in Ancient Times", Treasures of Pila, Pila Historical Society Foundation Inc..
- ↑ Vietnam Embassy in USA information page vietnamembassy-usa.org
- ↑ 検丹里遺跡、南山遺跡等
- ↑ “今に伝わる「病田」の怪 甲斐市玉川 田之神”. 株式会社新聞センター. 山日YBSグループ (2006年8月15日). . 2012閲覧.(インターネットアーカイブによる記録)