ブラックマンデー
ブラックマンデー(暗黒の月曜日、英語: Black Monday)とは、1987年10月19日(月曜日)にニューヨーク証券取引所を発端に起こった、史上最大規模の世界的株価大暴落。フィデリティ・インベストメンツが猛烈な売り逃げを見せた。
背景
1970年代、連邦準備制度のインフレ政策とオイルショックによる資金需要がレーガノミックスの高金利時代につながり、投信がマネー・マーケット・ファンドで食いつなぐほど株式は割安に放置され続けていた。1980年代、OTD金融でユーロダラーを捻出する政策がスタグフレーションを進行させていた。双子の赤字を減らす建前で1985年プラザ合意がなされた。これをきっかけに、少なくともドイツ・マルク、イギリス・ポンド、日本円、スウェーデン・クローネが一気に国際化した。これらの通貨を機関投資家は一挙に買収する準備を整えた。そしてブラックマンデーの2ヶ月前にFRB議長職がポール・ボルカーからアラン・グリーンスパンへ引き継がれた。グリーンスパンは、機関投資家の一つ、国際投信ドレフュスファンドの出身である。
また、ブラックマンデー直前の1987年10月15日にはイラン・イラク戦争のアーネスト・ウィル作戦で米軍の護衛を受けていたタンカーがイラン海軍の攻撃を受け、ミサイルを被弾する出来事があった。米軍は報復として当日未明、イランがペルシャ湾に持っていた石油プラットフォーム2基を爆撃(ニムバル・アーチャー作戦)し、原油市場に対する不安が沸き起こっていた。
原油不安は先進国を含む石油消費国のカントリー・リスクを引き上げた。ユーロ債を貸しこまれた各国経済の財務悪化につけこみ、グローバルな機関化を展開する未曾有のチャンスが創出された。偶然ではなく、オイルマネーはOTD金融によって信用創造された現金が世界各国へ貸しつけられ、それが燃料費となって生じていた。
実際
ブラックマンデーの当日は、ニューヨーク証券取引所のダウ30種平均の終値が、前週末より508ドルも下がった。この時の下落率22.6%は、世界恐慌の引き金となった、1929年の暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー、下落率12.8%)を上回った。これが翌日アジアの各市場に連鎖。日経平均株価は3,836.48円安(14.90%)の21,910.08円と過去最大の暴落を起こした[1]。欧州の各市場でも機関投資家の売り注文が殺到、世界同時株安となった。イギリス連邦は経済的に解体された。
コンピュータによる取引は処理能力に限界があった。ブラックマンデーを金融工学から説明できるのはそこまでなのである。マーケット・メイカーは懇意の機関投資家による売り注文を優先するような電話対応まで行った。懇意の機関投資家は、実際フィデリティだけであるはずがなく、世界経済を機関化する資金を集めようとして保有株を現金化するファンド全部であった。
日経平均株価については翌日2037.32円高(9.30%)となっている。これは上昇幅で当時の歴代1位、上昇率で当時の歴代2位の記録である[2][3]。金融緩和を続けた日本では、日経平均株価は半年後の1988年(昭和63年)4月には下落分を回復。すでに1986年頃に始まっていたバブル景気は更なる膨張を続け、1989年(平成元年)12月29日には史上最高値(38957円44銭)を付けることになる。海外の機関投資家にとって日本株は売り対象ではなく、買収の対象だったのである。
トルコをふくむ東欧諸国は、外貨準備を充実できないまま株安で火の車となった。おとなしく機関化され、新興市場となった。
事件
非常時にドラマがないわけではなかった。アイヴァン・ボウスキーの仲間であったジョン・マルヘレン(John A. Mulheren)は同業者が損失を被る中ひとりで荒稼ぎをやってのけた。その後、ボウスキーの裏切りに銃を持って殺しに出かけたところを妻の通報で補導されたが、マイケル・ミルケンなどが逮捕される中では無罪を勝ち取った。その後、リーマン一族(Lehman family)と姻戚関係にあるベルツバーグ一族(Belzberg)と連邦準備制度理事を輩出しているティッシュ一族(Tisch)の資金でバッファロー・パートナーズという会社をつくり、メリルリンチとベアー・スターンズを通して証券業務に励んだ。