ルネ・マグリット
ルネ・マグリット René Magritte | |
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生誕 |
René François Ghislain Magritte 1898年11月21日 ベルギー レシーヌ |
死没 |
1967年8月15日 (68歳) ベルギー ブリュッセル |
国籍 | ベルギー |
著名な実績 | 絵画 |
ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット (René François Ghislain Magritte, 1898年11月21日 -1967年8月15日[1]) は、ベルギー・レシーヌ出身のシュルレアリスムの画家。
概論
マグリットの作品においては事物の形象はきわめて明確に表現され、筆触をほとんど残さない古典的ともいえる描法で丁寧な仕上げがほどこされている。しかし、その画面に表現されているのは、空中に浮かぶ岩、鳥の形に切り抜かれた空、指の生えた靴といった不可思議なイメージであり、それらの絵に付けられた不可思議な題名ともども、絵の前に立つ者を戸惑わせ、考え込ませずにはいられない。
マグリットの絵画は、画家自身の言葉によれば「目に見える思考」であり、世界が本来持っている神秘(不思議)を描かれたイメージとして提示したものである(デペイズマン)。
「言葉とイメージ」の問題を追求したマグリットの作品は、ミシェル・フーコーのような思想家にも発想源を与え、広告やグラフィックアートの分野にもその影響が見られるなど、20世紀の文化に与えた影響は大きい。日本においても1971年の回顧展をはじめとして作品展がこれまでに5回開催され、また、宇都宮美術館、横浜美術館、豊田市美術館、富山県美術館などに作品が収蔵されている。
ザ・ビートルズが、自ら1968年に立ち上げたレコードレーベルのApple Records のデザインは、メンバーのポールマッカートニーが、所有するマグリットの絵が使用された。
生涯
マグリットは1898年、ベルギーの西部、レシーヌで生まれた。一家はマグリットの生まれた翌年にはジリという町に移り、1904年シャルルロワ近郊のシャトレに移る。マグリットは1913年の一時期シャルルロワに住んだこともあるが、1904年から1916年まで、少年時代の大部分をシャトレで過ごした。1912年に母が原因不明の入水自殺をとげるという事件があり、これは少年マグリットにとっては当然のことながら大きな衝撃を与えた。
1916年ブリュッセルの美術学校に入学。1910年代後半から1920年代前半はマグリットが画家として自分の様式を模索していた時期である。この時期にキュビスム、未来派、ダダ、デ・ステイルなどの運動を知り、また、ピエール・ブルジョワ(詩人)、E.L.T.メセンス(詩人、画家、音楽家)ら前衛的な芸術家と交際するようになった。マグリットは生活費を得るためにグラフィックデザインや広告ポスターなどの仕事をしつつ、抽象画や、キュビスムの影響を感じさせる作品を描いていた。1922年には幼なじみのジョルジェット・ベルジェと結婚。ベルジェは多くのマグリット作品に登場する女性像のモデルとなる。1923年(1925年とする説もある)ジョルジョ・デ・キリコの作品『愛の歌』の複製を見たマグリットは「涙を抑えることができない」ほどの感銘を受け、これがきっかけでシュルレアリスムの方向へ進んでいく。
1926年の『迷える騎手』が最初のシュルレアリスム的作品とされている。1927年、ブリュッセルのル・サントール画廊で初個展を行う。以後3年間パリに滞在し、フランスのシュルレアリストたちと交流する。しかし、マグリットはシュルレアリスム運動の理論的指導者であったアンドレ・ブルトンとはうまが合わなかったらしく、1930年ブリュッセルへ戻り、以降ベルギーを離れることはほとんどなかった。
銀行員としての職を得た[2]。
マグリットの生涯は波乱や奇行とは無縁の平凡なものであった。ブリュッセルでは客間、寝室、食堂、台所からなる、日本式に言えば3LDKのつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い[3]、ポメラニアン犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝するという、どこまでも典型的な小市民であった。残されているマグリットの写真は常にスーツにネクタイ姿で実際にこの服装で絵を描いていたといい、「平凡な小市民」を意識して演じていたふしもある。マグリットは専用のアトリエは持たず台所の片隅にイーゼルを立てて制作していたが、制作は手際がよく服を汚したり床に絵具をこぼしたりすることは決してなかったという。
脚注
- ↑ “Magritte museum: Biography”. Magritte museum. . 2016閲覧.
- ↑ “11月21日はルネ・マグリットの誕生日です” (2014年11月21日). . 2017閲覧.
- ↑ ただし、2人は一度離婚の危機を迎えている
外部リンク