突撃隊
突撃隊 Sturmabteilung | |
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ファイル:SA-Logo.svg 突撃隊のシンボル | |
創設 | 1921年9月10日 |
廃止 | 1945年5月8日 |
所属政体 |
ヴァイマル共和政 ナチス・ドイツ |
所属組織 | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
部隊編制単位 | 総軍 |
人員 | 450万(長いナイフの夜時) [1] |
所在地 |
ミュンヘン バラー通り Barerstraße, München |
通称号/略称 | SA |
愛称 | 褐色シャツ隊 |
標語 |
Alles für Deutschland (全てをドイツに) |
上級単位 | 23px 親衛隊(1934年以降) |
最終位置 | ドイツ国 |
主な戦歴 |
コブルク闘争(Deutscher Tag) ルール対仏闘争(Ruhrbesetzung) ミュンヘン一揆 街頭闘争 第二次世界大戦 |
突撃隊(とつげきたい、独: Sturmabteilung, 略号:SA)は、国家社会主義ドイツ労働者党の準軍事組織。制服の色から「褐色シャツ隊(Braunhemden)」とも呼ばれた[2]。
Contents
概要
突撃隊はドイツ労働者党(国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党))の集会の会場警備隊が改組されて創設された。初期の頃はエルンスト・レームの斡旋により義勇軍から流れてきた者を多く受け入れたため、党から半独立的な準軍事組織であった。1923年11月のミュンヘン一揆に参加したが、一揆の失敗で一時期禁止された。1925年にナチ党と共に再建され、党に従属する組織として再出発した。党集会の警備やパレード行進の他、ドイツ社会民主党(SPD)の国旗団やドイツ共産党(KPD)の赤色戦線戦士同盟などとの街頭闘争を行った。はじめフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊最高指導者として指揮したが、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーとの軋轢から1930年に辞職。以降はヒトラー自らが最高指導者に就任するとともに日常的指揮は突撃隊幕僚長に任命されたレームに委ねられた。1933年にナチ党が政権を獲得すると突撃隊は補助警察となり、政敵の弾圧にあたった。しかし突撃隊は失業に喘ぐ下層民が多い大衆組織であったため、社会主義的な思想を持つ隊員が多く、国防軍などの保守勢力との連携を深めるヒトラーにとって厄介な存在となり、1934年6月末から7月初旬にかけてレーム以下突撃隊幹部が親衛隊(SS)によって粛清された(長いナイフの夜)。粛清後は勢力を失い、重要な役割のほとんどが親衛隊に移され、突撃隊は国防軍入隊予定者の訓練を主任務とするようになった。
歴史
前身
ヴァイマル共和政期のドイツでは、政党の集会や演説会に他党の党員・支持者が殴り込みをかけるのが日常化していた。そのため各党は準軍事組織を保有していた。バイエルン州ミュンヘンで活動するドイツ労働者党も例外ではなかった。1919年11月のエーベルブロイケラー(Eberlbräukeller)でのドイツ労働者党集会において初めて会場警備を専門とする部隊が設置された[3]。この会場警備部隊はドイツ労働者党が国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に改組された後の1920年夏に「整理隊」と名付けられ、党集会の防衛や敵対政党への妨害活動に動員された[4]。発足当初の隊員数は25名程度でエミール・モーリスが隊長をしていた[5]。
クリンチュ時代
1921年7月29日、ミュンヘンに駐留する国軍第7軍管区司令部将校エルンスト・レーム大尉(彼は義勇軍と志願制郷土軍の維持強化の任にあたっていた)の支持を取り付けたアドルフ・ヒトラーがナチ党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、代わって党首に就任した[6][7][8]。
党首となったヒトラーは同年8月3日に「整理隊」を「体育およびスポーツ隊(Turn- und Sportabteilung)」と改称のうえ、ハンス・ウルリヒ・クリンチュ元海軍少尉を新しい隊長に任じた[6][9][10][11]。
クリンチュはナチ党員ではなく、旧エアハルト海兵旅団から生まれた右翼テロ組織「コンスル」のメンバーであった。この人選はレーム大尉の要請によるものであった。レームは政府により禁止された義勇軍・郷土軍を「体育およびスポーツ隊」に送り込み、義勇軍の維持を図ろうとしていた[注釈 1]。そのためにクリンチュを新しい隊長に推挙したのだった。一方ヒトラーもコンスルの前身のエアハルト海兵旅団を高く評価していたので、この要請を承諾したという[8]。以降、義勇軍組織(特にエアハルト海兵旅団)とナチ党の連携関係ができあがった[13]。
9月10日にヒトラーは「体育およびスポーツ隊」を改組して突撃隊(Sturmabteilung、略称SA)を創設することを発表した[14]。11月4日にナチ党集会に乱入してきた社民党員800人[注釈 2]を50人足らずの体育およびスポーツ隊が撃退し[16][17][15]、これを機に、突撃隊の名称が正式に与えられた[16]。
突撃隊となった後も隊長は引き続きクリンチュが務めた。初期の突撃隊幹部は、ヒトラーの要請に応じて派遣されたエアハルト海兵旅団の指導者たちが占めていた。クリンチュと、後に突撃隊最高指導者となるフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンはその代表である。クリンチュらの俸給はエアハルト海兵旅団から支払われており、派遣された団員達は引き続きエアハルト海兵旅団の指揮下にあり、半独立的な義勇軍組織としての一面を持っていた[18]。エアハルト海兵旅団はカップ一揆に参加して非合法化されたため、突撃隊への参加は組織を温存するためにも有効であった。またこの時点のナチ党にもエアハルト海兵旅団の高い声望を利用し、オーバーバイエルン全体に勢力を広げることができるというメリットがあった。そして軍の立場からナチ党に関与していたレームにも、連合国によって解散命令の出たドイツ義勇軍隊員の受け皿として、突撃隊拡充は歓迎すべきことであった[19]。やがてエアハルト海兵旅団のみならずベルリンのロスバッハ義勇軍のミュンヘン支部のエドムント・ハイネスらも突撃隊に参加するようになった[20][21]。
ヒトラーは再三にわたって「突撃隊はナチ党の組織であって党中央の決定に従わねばならない」ことを強調したが、こうした他の組織から来ている隊員らはあまりナチ党の規律を気に留めなかったという[20]。1923年3月まで突撃隊への実質的な指示は、ミュンヘンの義勇軍の統括者たるレームが行っており、そのためヒトラーもしばしばレームの元を訪れなければならなかった[22]。とはいえ突撃隊に流れてくる義勇軍兵士は義勇軍の中でも「政治化」した部類の者たちが多かった[20]。ヒトラーと義勇軍の間に政治的意見の相違はほとんどなかったから、ほとんどの場合ヒトラーは突撃隊を自由に政治運動へ参加させることができた[23]。この頃の突撃隊員は、ミュンヘン市内の交通費・飲食費などが自腹であり、このため末端の突撃隊員にとって、頻繁に動員される党活動は重い負担であったが、自己の信念から自発的に参加し続けていた[24]。ミュンヘン一揆前の突撃隊は他の義勇軍とほとんど変わりがなく、軍事・政治知識の授業、隊列を組んでの行進、党および友好団体への参加などを行っていた[25]。
この頃の隊員数は1921年末の時点で100人未満、1922年9月の時点で800人未満であったと推定されている[16][26]。1922年夏に突撃隊は百人隊と呼ばれる単位によって編成されることとなったが、百人隊は必ずしも100人の隊員がそろっていたわけではなかった[16]。
1922年3月18日には年齢的に突撃隊に入隊できない若年層のために青少年部を設置することが発表された。これが後のヒトラーユーゲントとなる組織であるが、当初は突撃隊の下部組織と定められていた[27]。ヒトラーユーゲントが突撃隊から独立するのは1932年5月になってのことである[11]。
1922年10月14日、ヒトラーとナチ党は「ドイツの日 (Deutscher Tag)」という右翼の集会に参加するためにコーブルクを訪れた。そこで集会に反対する共産主義者の反デモ隊と口論になり、初めてナチ党がミュンヘンの外で他勢力と争った。 これらの事件をヒトラーは我が闘争に「コーブルクへの列車」として記し、ナチ党とりわけ突撃隊の重要な闘争史として位置づけた。10年後の1932年、闘争10周年を記念して「コーブルク勲章 (Koburger Ehrenzeichen)」が制定され、闘争参加者に授与された。
ゲーリング時代
1923年1月にフランス軍が「ドイツのヴェルサイユ条約不履行」を理由にルール地方を占領した。ドイツ陸軍総司令官ハンス・フォン・ゼークト将軍は憤慨し、「フランスによる不法占領には再軍備で答える」と宣言した。その影響でナチ党の突撃隊もミュンヘンの国軍第7軍管区司令部から民間防衛組織として軍の指揮下に入る事を求められた。ヒトラーは当初嫌がっていたが、レームの説得でしぶしぶ了承した。こうして3月から突撃隊は軍の訓練を受ける事となった[28]。
しかし突撃隊の実質的な指揮権までをも軍に奪われる事を恐れたヒトラーは、レームの息のかかったクリンチュを解任してヒトラーの熱心な支持者であったヘルマン・ゲーリングを代わりの突撃隊司令官に任じている[28]。ゲーリングはエアハルト旅団から参加した信用のおけない隊員を一掃し、突撃隊をヒトラーに忠誠を誓う組織に改編していった[29]。ゲーリングは突撃隊を3個大隊からなる1個連隊で編成し、13個中隊で1個大隊を構成させた。連隊長にはヴィルヘルム・ブリュックナーが就任した[28]。隊員数も増し、1923年11月のミュンヘン一揆までに3000人ほどになった[16]。
突撃隊の訓練を行ったのは軍の工兵第7連隊と歩兵第19連隊第一大隊で、突撃隊は小銃、機関銃等の扱いを学んだ[22]。また突撃隊に砲兵隊や騎兵隊、自転車中隊や軍楽隊などの組織が作られることになった。軍の影響力はさらに強まり、7月11日には「(突撃隊は)党の地区組織や党指導部から分離された、国民社会主義運動内部における別個の組織である。隊は突撃隊司令部の命令に従う」という命令が出された[30]。
8月13日にグスタフ・シュトレーゼマン内閣が成立し、これまでドイツ政府が取ってきたフランス軍ルール地方占領への「受動的抵抗」路線が放棄され、西欧列強との関係回復を目指すことになった。これに反発した右翼勢力や極左勢力(共産党)によるシュトレーゼマン批判が強まった[31]。
ミュンヘンでも中央政府打倒の機運が高まった。これに乗じてヒトラーは9月2日に突撃隊やオーバーラント団などを結集させて右翼軍事組織連合「ドイツ闘争連盟」を結成させた。実質的指揮権はヒトラーが握りつつ、エーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将に名誉総裁に就任してもらっている[32][33]。中央政府への批判を強め、バイエルン州総督グスタフ・フォン・カールによる「ベルリン進軍」の動きを支持するようになった。しかしやがてカールは中央政府からの圧力でベルリン進軍を日和見するようになり、ベルリン進軍に固執するナチ党を除外した右翼大連合政府を立ち上げようとしたため、ヒトラーは一揆を起こすことを決意した。9月26日にはレームも軍を退役し、ヒトラーの下に参じた[34]。
ミュンヘン一揆
1923年11月8日午後8時30分、ヒトラーは闘争連盟を率いて、カール総督らが演説中のビュルガーブロイケラーを占拠し、ミュンヘン一揆を起こした。ただし連絡が不十分であったため、突撃隊員全員が一揆に参加したわけではなかった。たとえば突撃隊第1大隊(600名)は100名ほどしか参加していない[35]。突撃隊第1大隊はオーバーラント団第3大隊とともに国軍第19連隊第1大隊から武器を確保しようとしたが、交渉に失敗して退却し、その後、ビュルガーブロイケラーへ帰還した。突撃隊第2大隊は郷土軍が解散の際に隠した武器を確保してヴィッテルスバッハ橋で小休止した[36]。突撃隊第3大隊はビュルガーブロイケラーで待機した。一方レームは「帝国軍旗団」(de)や「ミュンヘン闘争団」、突撃隊の一部を率いて軍司令部を占拠した[37]。また突撃隊の学生グループはルドルフ・ヘスの指揮のもとに州政府首相オイゲン・フォン・クニリングらの監禁にあたった[38]。
軍の協力は得られず、逆に鎮圧軍が編成されたのを知ったヒトラーは、11月9日12時30分、ルーデンドルフとともに闘争同盟を率いてミュンヘン中心部オデオン広場へ向かってデモ行進を開始した。アドルフ・ヒトラー衝撃隊が隊列の左側、オーバーラント同盟が隊列の右側、そして突撃隊は隊列の中央に付いて行進した[39]。しかし警官隊から銃撃を受けて失敗した。突撃隊司令官ゲーリングは腰に銃弾を受けて倒れ、突撃隊員に運ばれてその場を逃れ、オーストリアへ国外逃亡した[40]。一方マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターと腕を組んでいたヒトラーはショイブナー=リヒターが撃たれた時に一緒に引きずられて倒れ、肩を脱臼した。突撃隊員に抱えられてその場を離れたが、結局逮捕された[41][42][43][44]。軍司令部を占拠したレームたちも午後2時頃に鎮圧軍に投降した[43]。
禁止時代のフロントバン
ヒトラーやレームら逮捕された一揆指導者は裁判にかけられ、1924年4月1日に判決が下った。ヒトラーは5年の実刑判決(ただし執行6カ月後に保護観察に切り替える事も公約)、レームは1年3カ月の有罪判決を受けたが、彼は判決のその日のうちに仮釈放を受けた。ランツベルク刑務所に収監されることとなったヒトラーは突撃隊や闘争連盟をレームに委任した[45][46]。
レームは5月31日に旧ドイツ闘争連盟の隊員を集めてフロントバンを組織した[47][40]。さらに他の全国準軍事組織との連絡のためにフロントリング(Frontring)を結成した[48]。8月28日にフロントバンの正式な設立大会が行われ、ヒトラー、ルーデンドルフ、アルブレヒト・フォン・グレーフェの三人が政治指導者、レームが軍事指導者と定められた。またルーデンドルフが名誉総裁に就任している。フロントバンの隊員数は3万人にものぼったが、統一性は弱く、小右翼軍事組織の寄せ集めであった[49][50]。またフロントバンには旧突撃隊員が全員参加したというわけではなかった。フロントバンは突撃隊よりも政党から独立した準軍事組織の性格が強く[51][52]、こうした非政治色に反発した突撃隊員は参加を見合わせた[53]。
突撃隊再建
1924年12月20日にヒトラーは仮釈放され、1925年2月27日にビュルガーブロイケラーでナチ党再結党を宣言した。フロントバン・ミュンヘン司令部の隊員達が真っ先にナチ党に復帰して突撃隊の活動を再開した[54][55]。それ以外の隊員達も1925年末までにほとんどが突撃隊へ戻った。フロントバンに残っていた最後の者たちは「人狼団」に吸収されて消滅した[56]。一方でフロントバンの隊員の中にはルーデンドルフがフロントリングを改組した「タンネンベルク同盟」に参加した者もいる[注釈 3]。
3月末から4月にかけてヒトラーとレームは突撃隊の再建にあたって、突撃隊をナチ党から独立した準軍事組織にするか党に従属する党の宣伝・集会防衛組織にするかで激論した。前者の立場がレーム、後者がヒトラーの立場である。結局二人は決裂し、4月30日にレームは突撃隊司令官職とフロントバン司令官職を辞し、政界を去った[58][59]。
ヒトラーは5月24日に突撃隊の再建命令を下したが、どこの党支部も党組織そのものの再建だけで手いっぱいで突撃隊まで手が回らなかった。バイエルンでは比較的早期に突撃隊が再建されたが、それ以外の地区ではだいたい1926年春ごろに再建されている[60]。ベルリンではクルト・ダリューゲ、ルール地方ではヴィクトール・ルッツェが中心となり、突撃隊の建設が行われた[56]。
再建時から突撃隊の制服にはロスバッハ義勇軍指導者ゲアハルト・ロスバッハ中尉が1924年に安価に入手した褐色シャツ制服が使用されるようになった(制服については後述)[61][62][63]。
ザロモン時代
党組織の再建がだいぶ進んでくるとヒトラーは突撃隊を各支部ではなく、中央からコントロールすることを希望するようになった。1926年7月27日にヒトラーは、9月1日より突撃隊最高指導者職(OSAF)を新設し、フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンを11月1日から同職に就任させると発表した[64][65][66]。
ザロモンは直ちに支部集団単位になっていた突撃隊を中央集権型の組織体制へ変更した。旅団(2〜5個連隊で構成)、連隊(2〜5個大隊で構成)、大隊(2〜4個中隊で構成)、中隊(5〜8個団で構成)、団(6〜12人で構成)という指導者原理に基づく垂直組織で構成させた。特に大隊を日常の活動の基本単位とした。1927年初頭には18個大隊が存在した[67]。突撃隊員はザロモンに忠誠を誓い、ザロモンは党中央執行部のメンバーとして議長であるヒトラーに忠誠を誓う形となった[68]。しかしこのために大管区指導者など党の政治組織の指導者からの指示に突撃隊が従う必要がなくなってしまい、後々の対立を招くことになる[68]。
突撃隊員数はザロモンの突撃隊最高指導者職就任時に2万人[69]、1927年8月に3万人[55]、1929年8月には5万人、1930年10月には6万人ほどになった[70]。突撃隊の隊員は大多数が10代か20代の若者たちであり、1929年になると旧帝国軍人や義勇軍兵であった者が突撃隊の中で25%程度にまで減り、隊員の大多数は従軍経験のない世代に変貌した[71]。
1930年1月14日、突撃隊員ホルスト・ヴェッセルが共産党の赤色戦線戦士同盟隊員に銃撃され、瀕死の重傷を負う事件が起き、2月23日にその傷が原因で死去した。ヴェッセルはヨーゼフ・ゲッベルスによって殉教者として宣伝に利用されるとともに、彼が作詞した「旗を高く掲げよ」は党歌となった[72]。
同年3月頃にはナチ党のヤング案反対闘争で突撃隊員の暴力活動が増えた。ヒトラーは突撃隊を禁止される恐れがあることから過剰な暴力活動を嫌がっていたが、禁止しすぎれば突撃隊から離隊者が増える恐れがあったので、なかなか厳しい締め付けを出来なかった。結果、社民党の国旗団や共産党の赤色戦線戦士同盟との路上闘争が激しくなり、死傷者が頻繁に出るようになった[73]。そのため6月5日にバイエルン州でナチスの制服が禁止され、さらに6月11日にはプロイセン州政府、6月13日にはバーデン州でも禁止された[73][74]。このため党は対抗措置として制服を白シャツに代えることで規制を切り抜けた[74]。
ザロモンは突撃隊の福祉制度の充実も図った。負傷保険制度(突撃隊員の給与の一部を保険として積み立て、負傷した際に負傷の程度に応じて保険金を得られるシステム)を導入し、また労働組合の「労働者ハウス」にならって「突撃隊ハウス」を各地に作るようになった。ここは失業者隊員の宿泊施設であり、また隊員のクラブとなった[75]。
ザロモン時代に様々な組織が突撃隊のもとに創設・あるいは傘下に入れられた。1926年にザロモンがSA最高指導者に就任した直後に親衛隊が突撃隊の傘下となっており、1934年までその状態が続いた[76]。また1930年中に航空突撃隊(Flieger-SA)と自動車突撃隊(Motor-SA)、突撃隊海軍(Marine-SA)が創設されている。このうち航空突撃隊は1933年にドイツ空軍の前身ドイツ航空スポーツ協会(DLV)に吸収され、自動車突撃隊は1934年に国家社会主義自動車軍団(NSKK)として突撃隊から独立している[77]。
シュテンネスの反乱
ナチ党が有力政党として活動するようになると、保守勢力と協調する必要が生まれた。このため社会主義的な思想を持つ古参党員や党内左派の不満が増大した。特に突撃隊にはそういう者が多かった。
1930年7月18日に国会が解散された後の8月1日、ザロモンは突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に加えるよう要求したが、ヒトラーは「突撃隊員を国会議員にすれば本来の突撃隊の任務が疎かになる恐れがあるし、また政治組織と突撃隊の区別も曖昧になる」としてこれを拒否した[78]。不服に思ったザロモンは8月12日に突撃隊司令官を辞職したため、9月1日にヒトラーが自ら突撃隊最高指導者に就任することになった[79]。これが直接の引き金となり、各地の突撃隊員が党の政治組織から依頼された宣伝活動をボイコットするようになった。一番過激だったのはベルリンの突撃隊だった。1930年8月28日にベルリン東部SA指導者であったヴァルター・シュテンネスがミュンヘンの党本部に対してベルリン大管区指導者であったゲッベルスの解任を要求した[78][80]。党本部がこれを拒否すると、8月30日にシュテンネス一派はベルリン大管区本部の襲撃を開始した。ゲッベルスはクルト・ダリューゲの親衛隊部隊を投入したが、突撃隊の方が数に勝り、鎮圧に失敗した。結局ゲッベルスは警察に介入してもらって鎮圧した。9月1日にはヒトラー自らがベルリンを訪れてシュテンネスを直接説得してひとまず収めた[80][81]。
ヒトラーは、突撃隊の監視を強化するため、1930年11月7日に親衛隊は突撃隊指揮官の命令に従う必要はないと定めた(ただし形式的には長いナイフの夜事件まで親衛隊は突撃隊の傘下にあった)[82]。
レーム時代
選挙後の1930年11月末にヒトラーは突撃隊暴動再発を阻止すべく突撃隊員の待遇改善を約束し、突撃隊員の人望厚いレームを南米ボリビアから呼び戻して突撃隊幕僚長に据えることを宣言した[82]。1931年1月5日にレームを正式に突撃隊幕僚に任じた[82][83]。
1931年春、レームによって突撃隊を政治組織に従属させるための機構改革が行われた。大管区の突撃隊連隊は大管区指導者の指揮下とした。これによって大管区指導者は政治宣伝やデモに突撃隊員を動員できるようになった[84]。突撃隊の編成も変更した。全国を4つ(後に5つ)の上級集団に分け、その下に総計18の集団を置き、集団は複数の連隊をもって構成させた。4人の上級集団長は、ベルリン上級集団長ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ伯爵、ハノーファー上級集団長ヴィクトール・ルッツェ、コブレンツ上級集団長アウグスト・シュナイトフーバー、インゴルシュタット上級集団長ハンス・ゲオルグ・ホフマン(Hans Georg Hofmann)だった[84]。
1931年4月2日にシュテンネスの再反乱があったが、ゲッベルスが動員したダリューゲの親衛隊部隊が鎮圧に成功した。鎮圧後、ゲッベルスは反乱に参加した突撃隊員を片っ端から除名した。シュテンネス一派1万人が党と突撃隊を去ることとなった[85][86]。
しかしこれによって突撃隊の過激派勢力が弱まったわけではなかった。ヒトラーやレームは党勢拡大のために入隊希望者を無制限に受け入れ、彼らに食事や宿舎の提供を行った為に世界恐慌の影響で巷にあふれかえる失業者がナチスや突撃隊に続々と参加したためである。こうした者は反資本主義的で革命的な政治的急進派が多かった。こうした革命志向の隊員達は、「制服は褐色だが中身は赤い」としてステーキに例えられていた[87][88]。
1930年には7万人だった突撃隊隊員数は1931年末には17万人、ナチ党が政権を獲得する直前の1933年1月には50万人以上に達した[87][89]。結果として隊員の質の低下は避けられず、しばしばゴロツキ同然の振る舞いを行う突撃隊員が増加した。またあまりに増大した突撃隊員に対する待遇は悪化した。突撃隊はますます過激化し、隊員達はヒトラーの「合法路線」にしびれを切らして、武装蜂起を求めるようになった。レームも隊員の不満を抑えるためにこうした声を代弁するようになり、1931年末にはヒトラーに武装蜂起を進言している[90]。
1932年3月、ヒトラーが大統領選挙に出馬し、30パーセントの票を獲得した。4月14日、ナチ党の勢いを恐れたハインリヒ・ブリューニング首相が突撃隊と親衛隊の禁止命令を出し、各地の突撃隊施設が当局に差し押さえられた[91][92]。しかしこの禁止命令に国防次官クルト・フォン・シュライヒャーは反対であり、彼はナチ党と連携して倒閣活動を行った。その結果、ブリューニング内閣は倒れ、6月1日にシュライヒャーを国防相とするフランツ・フォン・パーペン内閣が成立した[93]。パーペン内閣のもとで6月16日に突撃隊・親衛隊禁止命令は解除された[94]。
一方レームが突撃隊幕僚長になってから突撃隊内では同性愛が公然化していた。社民党の機関紙『ミュンヒナー・ポスト』も「ナチスは反同性愛政党でありながら身内の同性愛行為には目をつぶっている」と批判した[95]。当時のドイツでは同性の性交渉は刑法175条によって禁止されていた(この条項は1994年になって廃止された)[96]。レームは「私のところにいる男たちは法律に反した特別な事(=同性愛)に慣れねばならない」と述べており、突撃隊で同性愛が横行したのは彼らの革命的性質とも無関係ではなかったようである[97]。
政権掌握
1933年1月30日夕刻、ヒトラーのドイツ首相就任を知った人々は大統領官邸に押し寄せていた。午後6時頃にヒンデンブルク大統領とヒトラーとパーペン副首相が人々の前に姿を見せた。続いて松明を持った突撃隊がベルリン市内を行進し、その勢いを示した。ベルリンは翌1月31日に入った午前1時ぐらいまでお祭り騒ぎになった[98]。
社会民主党勢力の強いプロイセン州の内務大臣となったゲーリングは、突撃隊と親衛隊の隊員を警察幹部に就任させた。ハノーファー警察長官にヴィクトール・ルッツェ、ドルトムント警察長官にヴィルヘルム・シェップマン、ブレスラウ警察長官にエドムント・ハイネス、ポツダム警察長官にヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフなどが就任している[99]。
ゲーリングは1933年2月20日に突撃隊員と親衛隊員合わせて5万人と鉄兜団1万人をプロイセン州警察の補助警察官として動員する事を決定した[100]。2月24日には突撃隊がドイツ共産党本部カール・リープクネヒト館を襲撃している[100]。2月27日に国会議事堂放火事件が発生すると、ゲーリングは4000人の共産党員の逮捕を命じ、4月末までに2万5000人に及ぶ大量の左翼(共産党に加えて一部社民党員も)が補助警察官によって逮捕された[101][102]。彼らを収容するために突撃隊員はあちこちに私的収容所を創設した。後にゲーリングに承認され、州公認の収容所となったオラニエンブルク強制収容所はそのひとつであった[103]。4月1日にはボイコット委員会委員長ユリウス・シュトライヒャーの指揮の下に突撃隊員がユダヤ人商店のボイコット運動をドイツ全国で行い、ユダヤ人商店を強制的に閉鎖していった[104]。5月2日には左翼系労働組合の事務所を襲い、その財産を奪取した[105]。6月21日には鉄兜団が突撃隊に吸収された[106]。
ハインリヒ・ヘルトのバイエルン州政府が解体された後、レームは同州の州委員に任じられた。1933年3月12日にレームはバイエルンの7つの郡知事庁に治安維持と政敵排除に責任を負う「突撃隊最高指導部特別委員」を設置させ、彼らの指揮下に突撃隊を補助警察官として配置した[107]。レームはこの「突撃隊最高指導部特別委員」制度を他の州にも導入させようと図り、5月にプロイセン州で導入され、その後他の州でも続々と導入された[108]。
しかしヒトラーもドイツ内相ヴィルヘルム・フリックもプロイセン州首相・内相ゲーリングも過激派の多い突撃隊に警察権力を集中させることには反対だった。警戒したゲーリングは1933年8月には補助警官隊に解散を命じ、他の州も続々とゲーリングに倣って補助警官隊を解散させた。ごく一部の突撃隊員が正規の警察官として採用されたが、他の大多数の突撃隊員は補助警察官として支給されていた給料を切られ、失業者に戻された。そのため突撃隊の不満が高まり、彼らは「第二革命」を叫ぶようになり、1933年8月以降ドイツ各地で暴動を起こすようになった[89]。
「第二革命」
野党時代から政権掌握直後のナチスの闘争期において突撃隊が大きな力になったことは間違いないが、ナチ党の独裁体制が安定するにつれて突撃隊は必要とされなくなっていった[109]。保守派との協力を重視するヒトラーは、クルップ・フォン・ボーレン=テュッセン雇用者協会を復活させたり、大百貨店に敵対する小売業闘争同盟を解散させるなど保守政策を次々と打ち出したが、こうした態度は社会主義的な突撃隊員の不満を助長した[110]。資本家や地主との妥協を止め、社会主義的政策を打ち出すことを求める「第二革命」運動が突撃隊内で強まった[111]。突撃隊員の声を代弁するレームも公然と「第二革命」を唱え、ヒトラーの革命終了宣言に抵抗した[112][113]。
レームは9月1日にバイエルンの突撃隊最高指導部特別委員制度を廃止し、かわりにバイエルン州政府に突撃隊特別全権官、郡政府に突撃隊特別委任官を置いた。彼らの任務は「国家社会主義革命による発展が続けられているかを官庁と協力しながら監視する」ことであった。これによって地方行政機関を「第二革命」に動かそうとした[114]。10月にはゲーリングの支配するプロイセン州にも突撃隊特別全権官の設置を認めさせた。ゲーリングは突撃隊政治部長ゲオルク・フォン・デッテンから国会議事堂放火事件の真相を暴露すると強請られて渋々認めたという[115]。各州もプロイセン州に倣って突撃隊特別全権官の設置を認めた。結果、突撃隊特別全権官による行政への横やりや命令無視が横行し、ヒトラー政権は早晩崩壊するだろうという噂がたった[115]。
ヒトラーは突撃隊特別全権官と行政府を少しでも一体化させるため、1933年12月1日に「党と国家の統一のための法律(Gesetz zur Sicherung der Einheit von Partei und Staat)を成立させるとともにレームを無任所相に任じた[115][116][117]。またゲーリングは12月15日に「プロイセン州市町村制度法」を導入して市町村の地方評議会メンバーを25歳以上に限定すると定めることで25歳未満の若者がほとんどを占める突撃隊員をプロイセンの地方行政府から締め出した[118][119]。
国軍との対立
突撃隊は国軍とも対立を深めていた。軍と突撃隊は1933年5月に協定を結び、突撃隊と親衛隊と鉄兜団は国防省の管轄に入ることになっていた。国軍からのスタッフの手も借りてフリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー突撃隊大将の下に突撃隊員の訓練が行われ、国軍に送りだしていた。しかしやがてレームは東部国境守備隊の指揮権を要求し、またその武器庫を管理下に置こうとしたため、国軍と対立を深めた[120]。
もともとレームには貴族階級が中心の国軍にかわって突撃隊を国民軍として正規軍にするという構想があった[121]。突撃隊は1934年春には300万人以上の人員を擁するようになっていた[109]。うち武装兵士が50万人いた[122]。ヴェルサイユ条約で陸軍兵力10万人に限定されていた国軍にとって脅威となる存在であった。一方ヒトラーは政権の維持のためには国軍の支持が不可欠と認識しており、再軍備は国軍を以って行うと決め、レームの国民軍構想を却下していた[123]。
ドイツの国際連盟脱退によってポーランドとフランスがドイツへ侵攻してくるのではないかという危機感がドイツで高まり、再軍備問題が関心を集めるようになると、レームは1934年1月15日に突撃隊特別全権官の任務を「反国家的陰謀との闘争」に限定させるなど「第二革命」問題で一定の譲歩の姿勢を見せるようになったが、代わりに再軍備問題に関連して突撃隊をドイツの正規軍にするという野望を本格的に抱くようになった。突撃隊を正規軍にすることができれば突撃隊員の失業問題は大きく改善し、第二革命など起こす必要はなくなるため、レームは第二革命より突撃隊正規軍化に力を入れるようになった[118]。
ヒトラーは1934年1月2日にレームに対して友情とこれまでの功績への感謝を強調した私信を送った[119]。その中で安全保障は国軍に任せるべきであることを婉曲に指摘した。しかしこの手紙の真意を理解しなかったレームは2月初めにヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相に対して国家安全保障は突撃隊の任務とする書簡を送った[124]。この書簡を見たブロンベルクは「レームは全ての国防組織を突撃隊の傘下にして国軍をただの訓練機関にしようとしている」と結論し、ヒトラーに処置を要求した[125]。2月末にヒトラーの仲介で国防省においてブロンベルクとレームが協定を結んだ。国軍が唯一の武装兵力であり、突撃隊はその補助のため国境地帯の警備や予備訓練を担当することが取りきめられた[124][125][126]。しかしレームの反発は大きかった[125][127]。
1934年4月11日から15日にかけてバルト海のポケット戦艦「ドイッチュラント」上でヒトラーはブロンベルクら国軍幹部と会談し突撃隊を抑える代わりに死期が迫っていたパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領死後に自らに忠誠宣誓を行う事を要請した[128]。
長いナイフの夜
ヒトラーはレーム以下突撃隊幹部粛清に乗り気ではなかったが、レームや突撃隊幹部と対立するところの多いプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング、親衛隊のハインリヒ・ヒムラーやラインハルト・ハイドリヒらによって突撃隊粛清の準備は進められていた[127][129]。国軍軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ少将もこの動きに協力した[130][131]。
突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の収集・偽造を行った[132][133]。そして1934年6月はじめ頃からそれらがばら撒かれて、突撃隊「武装蜂起」の噂が流れた。ヒトラーは6月4日に首相官邸でレームと会談を行った。会談の結果、高まる緊張を少しでも沈静化するため突撃隊の多くの部隊が一カ月の休暇に入り、レームも療養に入ることとなった[134][135]。しかしヒンデンブルク大統領とブロンベルク国防相は、6月21日にノイデックの大統領私邸においてヒトラーに対し、もし事態の鎮静化ができないならヒトラーの権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した[136]。ヒトラーはこの日に突撃隊の粛清を決意したという[137]。6月25日までにはヒトラーはブロンベルクにレーム以下突撃隊幹部を粛清する旨を伝え、国軍もその準備に入った[138]。
6月30日に会議を行うとして突撃隊幹部をバイエルン州バート・ヴィースゼーに召集、同日にヒトラーはバート・ヴィースゼーに赴いて粛清の陣頭指揮を執った。ベルリンでもゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒらの指揮によって粛清が執行された[139]。レーム、ハイネス、シュナイトフーバー、エルンスト、フォン・デッテンなどの突撃隊幹部が粛清された[140]。これは長いナイフの夜と呼ばれる[111]。
事件以降
レームに代わる新突撃隊幕僚長にはヒトラーに信頼されていたヴィクトール・ルッツェが選ばれた。1943年にルッツェが事故死すると後任の幕僚長にヴィルヘルム・シェップマンが任じられ、敗戦までその任にあたった[141]。
長いナイフの夜で粛清を受けたのは上層部が中心だったが、事件は若い下級隊員たちを震え上がらせるのに十分な効果があった[142]。事件後、大きな反発もなく突撃隊の力はそぎ落とされていった。ヒトラーの指示によりルッツェはベルリン親衛隊指導者クルト・ダリューゲ親衛隊中将にドイツ東部の突撃隊の解体と再編を依頼することになった。ダリューゲによって突撃隊最高指導部(OSAF)の主要な政治部門はすべて解体され、またその財産を没収させられた[143]。親衛隊は正式に突撃隊から独立し、オラニエンブルク強制収容所など突撃隊管理の強制収容所は親衛隊の管理下に移された[144]。自動車突撃隊(Motor-SA)も国家社会主義自動車軍団(NSKK)として突撃隊から独立した。16あった突撃隊上級集団(SA-Obergruppen)は解体され、突撃隊の最上級の編成は突撃隊集団(SA-Gruppen)になった[141]。突撃隊員が武器を携帯することも禁止された[1]。隊員数もこの後減少の一途をたどることになり、長いナイフの夜の頃には400万人を超えるといわれた突撃隊の隊員数は1938年に120万人になっていた[1]。
事件後も青年に対する軍事訓練機関としての役割は残され、これが突撃隊の主要任務となった(ただし1939年1月に突撃隊防衛団が組織されるまで武器の使用・所持は認められなかった)[141]。これに次ぐ突撃隊の任務は行政機関や大管区などの布告を配布・宣伝することであった[141][142]。毎年冬に行われるナチ党の慈善事業、冬季貧民救済事業も突撃隊が行っていた[145]。
1938年11月の水晶の夜事件の際、突撃隊幕僚長ルッツェはヨーゼフ・ゲッベルスの指示を無視して突撃隊集団指導者たちに対して反ユダヤ暴動に参加しないよう命じていたが[146]、結局多数の突撃隊員が党政治指導部の命令で反ユダヤ暴動に参加した[147]。
1939年1月には国防軍へ入隊する者の教育機関たることが突撃隊の唯一の役割と定められ[141]、軍事訓練を担当する武装組織として「突撃隊防衛団(SA-Wehrmannschaften)」が創設された[148]。戦争がはじまると突撃隊は国防軍に代わって入隊予定者の訓練に当たったほか、防空任務にも動員された[149][110]。また突撃隊防衛団の一部の部隊は占領地のパルチザン掃討作戦に動員された[150]。また大戦末期には国民突撃隊に編入されている[150]。
事件後、ルッツェはじめ突撃隊幹部は親衛隊への復讐の機会を狙っていた。ブロンベルク罷免事件で親衛隊に嵌められて失脚させられたヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥とヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将、またフリッチュの後任として陸軍総司令官になったヴァルター・フォン・ブラウヒッチュと接触し、彼らを親衛隊攻撃計画に誘ったりしている[151]。ゲッベルスも日記で「ルッツェはブラウヒッチュを先鋭的な反SS運動に巻き込もうとしている。彼はいたるところでSSを非難し、不平不満を漏らし、SAが差別されていると信じている。彼は誤った道に踏み込んだ」とこの事について触れている[152]。戦時中にもポーランド総督ハンス・フランク、東方担当大臣アルフレート・ローゼンベルク、ウクライナ総督エーリヒ・コッホなど親衛隊から警察権力を取り戻したい者は大抵突撃隊を取り込んで彼らを親衛隊にぶつけようとした[153]。
戦後
戦後のニュルンベルク裁判において突撃隊は起訴された6組織の一つとなった(他にヒトラー内閣、ナチ党指導部、参謀本部、親衛隊、ゲシュタポ)[154]。この裁判で親衛隊とゲシュタポとナチ党指導部は「犯罪組織」と判決されたが、一方突撃隊は「特殊な場合に置いて突撃隊の若干部隊は戦争犯罪や人道に対する罪の遂行に使用されたが、その成員が一般に犯罪行為に参加していたとかまたは知っていたということはできない」とされて有罪判決を受けなかった[155]。
突撃隊の組織体制
編成
- 突撃隊最高指導部(Oberste SA-Führung、OSAF)
- 上級集団(Obergruppe)8つの集団で編成、1934年廃止
- 集団(Gruppe)複数の旅団で編成
- 下級集団/旅団(Untergruppe/Brigade)3つから9つの連隊で編成
- 連隊(Standarte)3つから5つの大隊で編成
- 大隊(Sturmbann)3つから5つの中隊で編成
- 中隊(Sturm)3つから4つの小隊で編成
- 小隊(Trupp)3つから4つの分隊で編成
- 分隊(Schar)8人から16人で編成
突撃隊最高指導部(de)は1926年11月に創設された[55]。最高指導部は突撃隊に関する全ての事務を取り扱い、その隷下の集団が最高指導部の指導のもとに各種訓練学校を運営していた[141]。集団の数は1933年時に21個、開戦時に25個、戦時中には29個になった[141]。
階級
(1934年制定版)
階級名 | 訳 | 軍相当階級 |
SA-Stabschef | 突撃隊幕僚長 | 元帥 |
SA将官階級 | 訳 | 軍相当階級 |
Obergruppenführer | 上級集団指導者 | 大将 |
Gruppenführer | 集団指導者 | 中将 |
Brigadeführer | 旅団指導者 | 少将 |
Oberführer | 上級指導者 | 准将 |
SA将校階級 | 訳 | 軍相当階級 |
Standartenführer | 連隊指導者 | 大佐 |
Obersturmbannführer | 上級大隊指導者 | 中佐 |
Sturmbannführer | 大隊指導者 | 少佐 |
Sturmhauptführer | 中隊本部指導者 | 大尉 |
Obersturmführer | 上級中隊指導者 | 中尉 |
Sturmführer | 中隊指導者 | 少尉 |
SA下士官階級 | 訳 | 軍相当階級 |
Obertruppführer | 上級小隊指導者 | 上級曹長 |
Truppführer | 小隊指導者 | 曹長 |
Oberscharführer | 上級分隊指導者 | 軍曹 |
Scharführer | 分隊指導者 | 伍長 |
SA兵卒階級 | 訳 | 軍相当階級 | |
Rottenführer | 班指導者 | 兵長 | |
Sturmmann | 突撃兵 | 上等兵 | |
SA Mann | 兵 | 一等兵 | 二等兵 |
指揮権者
- エミール・モーリス (1920年 - 1921年)※前身部局時
- ハンス・ウルリヒ・クリンチェ(1921年 - 1923年)
- ヘルマン・ゲーリング (1923年)
- エルンスト・レーム(1924年-1925年)※フロントバン司令官
突撃隊最高指導者(Oberste SA-Führer)
- フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン (1926年 - 1930年)
- アドルフ・ヒトラー (1930年 - 1945年)※日常的な指揮は幕僚長が行った
突撃隊幕僚長(SA-Stabschef)
- オットー・ヴァーゲナー(1929年 - 1931年)
- エルンスト・レーム (1931年 - 1934年)
- フィクトール・ルッツェ (1934年 - 1943年)
- ヴィルヘルム・シェップマン (1943年 - 1945年)
集団管区
集団管区名 Gruppen | 略号 [注釈 4] | 本部 | 襟章番号配色 | ボタン配色(中隊指導者以上パイピング配色) | パイピング配色(上級小隊指導者以下) | |
---|---|---|---|---|---|---|
オストラント Ostland
ヴェストファーレン Westfalen |
Ost. Wf. | ケーニヒスベルク Königsberg
ケルン Köln |
白 | 金
銀 |
黒/白
(schwarz/weiß) | |
ニーダーライン Niderrhein | Nrh. B | デュッセルドルフ Düsseldorf
ベルリン Berlin |
白 | 金
銀 |
黒/白
(schwarz/weiß) | |
ポンメルン Pommern
テューリンゲン Thüringen |
P
Th. |
シュテティーン Stettin
ワイマール Weimar |
白 | 金
銀 |
黒/白
(schwarz/weiß)
| |
ヴェストマルク Westmark
ニーダーシュレージェン Niederschlesien |
WM Ns. | ザールブルク Saarburg
ハノーファー Hannover |
白 | 銀
金 |
黒/白
(schwarz/weiß) | |
ザクセン Sachsen
ノルトマルク Nordmark |
Sa. Nm. | ドレスデン Dresden
キール Kiel |
白 | 銀
金 |
白/エメラルドグリーン
(weiß/smaragdgrün)
| |
ミッテ Mitte
ジュードヴェスト Südwest |
Mi. SW | マクデブルク Magdeburg
シュトゥットガルト Stuttgart |
黒 | 金
銀 |
黒/白
(schwarz/weiß)
| |
シュレージェン Schlesien
フランケン Franken |
S
Fr. |
リーグニッツ Liegnitz
ニュルンベルク Nürnberg |
白
黒 |
銀
金 |
黒/白
(schwarz/weiß)
| |
ホッホラント Hochland
バイエリッシェ・オストマルク Bayerische.Ostmark |
Ho. BO | ミュンヘン München
バイロイト Bayreuth |
白 | 銀
金 |
白/ライトブルー
(weiß/hellblau) | |
エスターライヒ Österreich
ノルトゼー Nordsee |
Oe. No. | リンツ Linz
オルデンブルク Oldenburg |
白 | 銀
金 |
白 赤
| |
ハンザ Hansa
ヘッセン Hessen |
Ha. He. | ハンブルク Hamburg
フランクフルト Frankfurt |
白 | 金
銀 |
ライトブルー/レモンイエロー
(hellblau/schwefelgelb)
| |
オストマルク Ostmark
クルプファルツ Kurpfalz |
Om. KP | フランクフルト・アン・デア・オーダー Frankfurt an der Oder
コブレンツ Koblenz |
黒
白 |
金
銀 |
黒/白
(schwarz/weiß) |
上級集団管区
上級集団 | 本部 | 構成集団 | 各上級集団指導者 | |
---|---|---|---|---|
第一SA上級集団
SA-Obergruppe I |
ケーニヒスベルク
Königsberg |
オストラント
SA-Gruppe Ostland |
カール=ジークムント・リッツマン(Karl-Siegmund Litzmann) | |
第二SA上級集団
SA-Obergruppe II |
シュテティーン Stettin | ポンメルン
SA-Gruppe Pommern ハンザ SA-Gruppe Hansa ノルトマルク SA-Gruppe Nordmark |
マックス・ルイケン(Max Luyken) | |
第三SA上級集団
SA-Obergruppe III |
ベルリン
Berlin |
シュレージェン
SA-Gruppen Schlesien ベルリン・ブランデンブルク SA-Gruppe Berlin-Brandenburg オストマルク SA-Gruppe Ostmark |
エドムント・ハイネス | |
第四SA上級集団
SA-Obergruppe IV |
ドレスデン
Dresden |
ザクセン及びミッテ
SA-Gruppe Sachsen und SA-Gruppe Mitte |
マンフレート・フォン・ キリンガー(Manfred von Killinger) | |
第五SA上級集団
SA-Obergruppe V |
フランクフルト=アム・マイン
Frankfurt a.M. |
テューリンゲン
SA-Gruppe Thüringen ヴェストマルク SA-Gruppe Westmark ヘッセン及びジュードヴェスト SA-Gruppe Hessen und SA-Gruppe Südwest |
エミール・シュタインホーフ(Emil Steinhoff) | |
第六SA上級集団
SA-Obergruppe VI |
ハノーファー
Hannover |
ノルトゼー
SA-Gruppe Nordsee ニーダーザクセン SA-Gruppe Niedersachsen ヴェストファーレン及びニーダーライン SA-Gruppe Westfalen und SA-Gruppe Niederrhein |
ヴィクトール・ルッツェ | |
第七SA上級集団
SA-Obergruppe VII |
ミュンヘン
München |
バイエリッシェ・オストマルク
SA-Gruppe Bayerische Ostmark フランケン及びホッホラント SA-Gruppe Franken und SA-Gruppe Hochland |
アウグスト・シュナイトフーバー | |
第八SA上級集団
SA-Obergruppe VIII |
リンツ
Linz |
エスターライヒ
SA-Gruppe Österreich |
ヘルマン・レシュニー(Hermann Reschny) |
最高部門・特集部門
各部 | 識別色 | 襟章番号配色 | 襟章装飾・ボタン配色 | 肩章・襟パイピング配色 | |
---|---|---|---|---|---|
SA幕僚部
SA-Stabschef 参謀部及び本部要員 Hauptamt Stab |
ライトレッド
(hochrot)[注釈 5] |
無し | 金 | 金 | |
SA最高指導部
Oberste SA-Führung |
カーマインレッド
(kamesirot) |
無し | 銀 | 白 カーマインレッド(上級小隊指導者以下)
| |
SA集団指導部
SA-Gruppenstäbe SA指導者学校 SA-Reichsführerschule |
ライトレッド
(hochrot) |
白
無し |
銀
金 銀 |
白 ライトレッド(上級小隊指導者以下)
| |
フェルトヘルンハレ連隊
Standarte Feldherrnhalle 党施設要員 |
コチニールレッド
(karmesin) |
白 | 金 銀 | 金 銀 |
専門部隊
各部門 | 部隊識別色 | |
---|---|---|
SA広報部隊
Nachrichten-SA |
レモンイエロー | |
SA騎乗部隊
Reiter-SA |
オレンジ | |
SA工兵部隊
Pionier-SA |
ブラック | |
SA野戦憲兵隊及び儀仗隊
SA-Jäger/SA-Schützeneinheiten |
グリーン | |
SA衛生部隊
Sanitäts-SA |
ロイヤルブルー | |
SA海上部隊
Marine-SA |
ネイビー | |
SA地上部隊
SA-Fußstandarten |
グレー |
突撃隊の制服
初期の突撃隊は様々な制服が入り乱れて使用されたが、ミュンヘン一揆後に再建された突撃隊では褐色シャツ、ケピ帽、乗馬ズボン、ブーツというスタイルで統一された[62]。
褐色シャツはもともと東アフリカの旧ドイツ植民地駐留軍の制服として作られた物だった。第一次世界大戦後ドイツの植民地はすべて連合国に奪われたためにこの制服の在庫が有り余った。そこでゲルハルト・ロスバッハが1924年にこの制服を安価に大量入手した。これが褐色シャツが制服になったきっかけだった[61][62][63]。ちなみに褐色シャツはシャツ型の上着であり、その下には襟なしの褐色のシャツを着用していた[156]。
突撃隊の制服というとこの褐色シャツ型制服が有名であるが、1932年以降には褐色チュニックが制服として使用されるようになっていった[63]。
突撃隊海軍や突撃隊防衛団などは一般の突撃隊員とかなり異なった独自の制服を着用した[157]。
|
集団管区識別色
(1933年5月制定版)
ダークワインレッド
(dunkelweinrot) : オストラント ヴェストファーレン |
黒
(schwarz) : ニーダー・ライン ベルリン |
アップル・グリーン
(apfelgrün) : ポンメルン テューリンゲン |
ダークブラウン
(dunkelbraun) : ヴェストマルク ニーダーザクセン |
エメラルドグリーン
(smaragdgrün) : ザクセン ノルトマルク |
オレンジイエロー
(orangegelb) : ミッテ ジュードヴェスト |
サルファイエロー
(schwefelgelb) : シュレージェン フランケン |
ライトブルー
(hellblau) : ホッホラント バイエリッシェ・オストマルク |
スチールグリーン
(stahlgrün) : エスターライヒ ノルトゼー |
ネイビーブルー
(marineblau) : ハンザ ヘッセン |
ローズレッド
(rosarot) : オストマルク クルプファルツ |
(1940年制定版)
ダークワインレッド
(dunkelweinrot) : タンネンベルク ヴェストファーレン |
黒
(schwarz) : ニーダー・ライン ベルリン・ブランデンブルク |
ローズレッド
(rosarot) : オーデル ジュードマルク |
アップル・グリーン
(apfelgrün) : ポンメルン テューリンゲン |
ダークブラウン
(dunkelbraun) : ミッテルライン ニーダーザクセン |
エメラルドグリーン
(smaragdgrün) : ザクセン ノルトマルク |
オレンジイエロー
(orangegelb) : エルベ ネッカー |
サルファイエロー
(schwefelgelb) : シュレージェン フランケン |
ライトブルー
(hellblau) : ホッホラント バイエリッシェ・ヴァルト |
スチールグリーン
(stahlgrün) : ノルトゼー クルプファルツ |
ネイビーブルー
(marineblau) : ハンザ ヘッセン |
レッドブラウン
(rotbraun) : ドナウ アルペンラント |
ブルーグレー
(blaugrau) : ズデーテン ヴァイクセル |
コーンフラワーブルー
(kornblumenblau) : ヴァルテ オーバーライン |
突撃隊を描いた作品
- 映画
- 地獄に堕ちた勇者ども(1969年、ルキノ・ヴィスコンティ監督)
- ヒットラー(2004年、クリスチャン・デュゲイ監督、※二部構成(第一部「覚醒」)作品公式サイト(英語)
- 戯曲
脚注
注釈
- ↑ 1920年と1921年にヘルマン・ミュラー内閣やヨーゼフ・ヴィルト内閣はヴェルサイユ条約の遵守のために義勇軍や郷土軍に解散命令を出したが、完全に消失せず、特にはじめバイエルン州が解散命令を無視した。しかし内外の圧力でバイエルン州も1921年6月28日には解散に同意した。レームはなおも義勇軍解散に反対し、なんとか存続させる方法を模索していた。そのために彼はニュルンベルク市に「帝国旗団」(de)、ニーダーバイエルンに「ニーダーバイエルン闘争団」など偽装組織を次々と創設していた。体育およびスポーツ隊(突撃隊)も偽装組織の一つにできると目を付けられた組織であった[12]。
- ↑ 襲撃人数は「我が闘争」の記述。当時のフェルキッシャー・ベオバハターの報道では300人、ヒトラーが当時行った報告では450人となっている。一方、ドイツ社会民主党系日刊紙『ミュンヒナー・ポスト』11月5日号は逆に、集会を「粉砕した」としている[15]。
- ↑ しかしこのタンネンベルク同盟は隊員がどんどんナチ党や突撃隊に流れていき、隊員数は減少しつづけていった。1933年にナチ党が政権を獲得するとともに正式に解散させられた[57]。
- ↑ 略号は隊員用のダガーナイフやスポーツ着のワッペン等に刻印されていた。
- ↑ 識別色規定文にはライトレッド(hochrot)と表記されているが実際の色は朱色(Zinnoberrot)に近い。
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 長谷川(1996)、p.30
- ↑ テーラーとショー(1993)、p.179
- ↑ 桧山(1976)、p.32
- ↑ 村瀬(1968)、p.97
- ↑ 桧山(1976)、p.34
- ↑ 6.0 6.1 阿部(2001)、p.80
- ↑ トーランド(1979)上巻、p.126
- ↑ 8.0 8.1 桧山(1976)、p.46
- ↑ 桧山(1976)、p.45
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- ↑ 11.0 11.1 Littlejohn(1990)、p.3
- ↑ 桧山 1976, pp. 43-46.
- ↑ 村瀬(1968)、p.99-101
- ↑ 阿部(2001)、p.81
- ↑ 15.0 15.1 村瀬(1968)、p.103
- ↑ 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 桧山(1976)、p.47
- ↑ フェスト(1975)上巻、p.188
- ↑ 村瀬(1968)、p.100-101
- ↑ 村瀬(1968)、p.100-102
- ↑ 20.0 20.1 20.2 桧山(1976)、p.48
- ↑ フェスト(1975)上巻、p.190
- ↑ 22.0 22.1 村瀬(1968)、p.118
- ↑ 村瀬(1968)、p.101
- ↑ 村瀬(1968)、p.119
- ↑ 村瀬(1968)、p.105
- ↑ 村瀬(1968)、p.114
- ↑ 平井(2001)、p.7
- ↑ 28.0 28.1 28.2 桧山(1976)、p.59
- ↑ 阿部(2001)、p.89
- ↑ 村瀬(1968)、p.130
- ↑ 阿部(2001)、p.96
- ↑ 阿部(2001)、p.98
- ↑ 桧山(1976)、p.65
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参考文献
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- 星乃治彦 『男たちの帝国 ヴィルヘルム2世からナチスへ』 岩波書店、2006年。ISBN 978-4000223881。
- 村瀬興雄 『ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜』 中公新書、1968年。ISBN 978-4121001542。
- 山下英一郎 『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』 彩流社、2010年。ISBN 978-4779114977。
- ウォルター・ラカー 『ホロコースト大事典』 井上茂子・木畑和子・芝健介・長田浩彰・永岑三千輝・原田一美・望田幸男訳、柏書房、2003年。ISBN 978-4760124138。
- ロビン・ラムスデン(en) 『ナチス親衛隊軍装ハンドブック』 知野龍太訳、原書房、1997年。ISBN 978-4562029297。
- 『ニュルンベルグ裁判記録』 時事通信社、1947年。
- David Littlejohn (1990). The SA 1921-45: Hitler's Stormtroopers, Men-at-Arms (英語). Osprey Publishing. ISBN 978-0850459449.
関連項目
- 保守革命
- 民族ボルシェヴィズム
- ナチス左派
- 旗を高く掲げよ
- 突撃隊は行進する
- 第二革命
- わが友ヒットラー
- 民兵
- 国旗団(ドイツ社会民主党の準軍事組織)
- 赤色戦線戦士同盟(ドイツ共産党の準軍事組織)
- 鉄兜団、前線兵士同盟(ドイツ国家人民党と同盟関係を結ぶ民間の準軍事組織)
- バイエルン護衛団 (バイエルン人民党が保有していた準軍事組織)
- 青年ドイツ騎士団(ドイツ民主党と合併した国民自由主義的な準軍事組織)