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反体制派 (シリア 2011-)では、2011年からシリアで生じているシリア騒乱において、バッシャール・アル=アサド政権の打倒を掲げる諸勢力について記述する。
Contents
概要
チュニジアで発生したアラブの春は、2011年になるとシリアにも波及する。同年3月、ダルアーで政府に批判的なスローガンを壁に描いた少年が、警察によって拷問で殺されたとする報道がシリア国内外のメディアによって広く伝えられた。これをきっかけに、シリアの地方都市を中心に反体制派が抗議活動を行うようになる。同年10月には政府軍から離反した軍人たちが「自由シリア軍」なる反体制組織を各地で結成し、政権軍と実戦を行うようになった。暴力の応酬によって双方の死傷者は増え、それによって復讐心と憎悪が増幅され、それがさらなる暴力の応酬を生むという悪循環に陥った[1]。
シリアの反体制派には、当初から体系化された指揮系統は存在せず、雑多な組織群がそれぞれ合従連衡しながら活動している。自由シリア軍もいくつかの武装勢力が個別に自称しているに過ぎない。これらの組織は2013年以降、「穏健な反体制派(moderate opposition)」 と呼称されるようになった。「穏健」でない反体制派には、テロ組織に認定されたレバント征服戦線(旧アル=ヌスラ戦線)をはじめ、イスラム過激派・ジハード主義者とされる多くの組織が存在している。ISILは政治的な理由で、反体制派とは区別されている(後述)。それらとは別に、クルド人が主体となったロジャヴァを反体制派に含むこともある[2]。
反体制派組織は峻別されたものではなく、構成員の組織間移籍や組織間の合従連衡が繰り返されてきた。そのため、過激派組織と穏健派組織を厳密に区別することはできないとされる。ヌスラ戦線などいくつかのイスラム過激派組織は共通の起源をもち、外国人(非シリア人)が主導権を握っている[2]。
中東・イスラム圏の政情に詳しい山内昌之・明治大学特任教授によると、自由シリア軍やシリア民主軍、イスラム国など主要な反政府グループは5つある。更に自由シリア軍は約100組織、シリア民主軍は約40組織で構成される[3]。
「穏健な反体制派」
「穏健な反体制派」は、イスラム過激派でないシリアの反体制派を指す。「自由」や「民主主義」をスローガンに掲げているが、シリアにおいては宗教的マイノリティのアラウィー派に属するアサドを倒し、多数派であるスンニ派の政権を作るというニュアンスが込められている[4][5]。アメリカをはじめとする諸外国(シリアの友人たち)に支援されているが[4]、動員力が弱く、エジプト(2011年革命)やチュニジア(ジャスミン革命)で見られたような政府軍からの寝返りもほとんど起きていない。そのため政府軍の残虐さを国際社会に訴え、支援各国に軍事介入を呼び掛ける戦術をとっている[6]。
当初はデモ活動を中心に行っていたが、2011年10月に政府軍から離脱した兵士が自由シリア軍と称する組織を結成すると、各地で暴力の応酬が本格化した[1]。しかし自由シリア軍は当初から司令部が乱立して統制を失い、2012年夏過ぎには士気・規律の低下により人心の離反を招いた。大同団結のために、2011年9月にはシリア国民評議会、2012年末にはシリア国民連合が結成されたが、いずれも失敗に終わっている。そのため比較的士気が高いイスラム過激派に反体制派の主導権を奪われており、自由シリア軍にアサド政権を倒せる見込みはないと見られている[4]。反体制派の中でイスラム過激派が台頭していることが広く知られるようになると、支援の在り方を問われた欧米諸国は、2013年3月ごろから「穏健な反体制派」という言葉を使い始めた。当初はシリア国民連合など非武装組織を指していたが、徐々に非イスラム過激派武装勢力を指す言葉に変化した。自由シリア軍は2013年末に最高意思決定機関とみられていた「最高軍事評議会」がシリア国内に拠点を失い、2014年9月には国民連合から解散を命じられた[7]。2016年現在、自由シリア軍はヌールッディーン・ザンキー運動、スルターン・ムラード師団、第13師団、ムジャーヒディーン軍など、複数の組織が個別に自称しているに過ぎないとされる[2]。また欧米諸国は2014年9月以降、「穏健な反体制派」にアサド政権打倒ではなくISIL打倒を求めるようになり、支援の在り方も変化している[7]。
2014年から2015年にかけて、首都ダマスカス近郊やシリア北部のアレッポ県・イドリブ県では、自由シリア軍などの「穏健な反体制派」武装勢力がイスラム過激派に駆逐されていった。特に、アメリカに支援されていた「ハズム運動」が、ヌスラ戦線に敗退したことで崩壊したことは、アメリカの「穏健な反体制派」支援政策に打撃を与えた[2][7][8]。
存亡の危機に立たされた「穏健な反体制派」は、イスラム過激派組織やクルド人民防衛軍と連携することで生き残りを図った。その結果、「穏健な反体制派」は周辺化し、独立した主体としては事実上存在しなくなったとされる[7]。2015年9月以降は、穏健な反体制派もロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆によって爆撃されている[9]。
イスラム過激派
シリアの反体制派におけるイスラム過激派は、シリアで多数派を占めるスンニ派である。シリアの宗教的少数派を排撃しており、「キリスト教徒はベイルートへ行け」「アラウィー派は墓へ」などのスローガンを掲げた。ホムスでは、内戦から1年のうちにキリスト教市民の90%が追放され、200人余りが人質(人間の盾)として捕らえたとされている[10]。イスラム過激派は反体制派の主導権を握ったものの、その残虐さからシリア人民や他の武装勢力、反体制派の支援国から不興を買っている[4]。
ヌスラ戦線など、イスラム過激派は反体制派にとってアサド政権に対抗する上で貴重な戦力であった。そのため、自由シリア軍とイスラム過激派の共同作戦が行われたこともある。ただし、欧米諸国はイスラム過激派の存在を理由に、反体制派へ支援する武器を殺傷力の低いものに抑えてきた[11]。また、イスラム過激派には、反体制派の一部を「堕落した者」、「西洋諸国、アメリカ政府、シリア政府の手先」とみなす者もいた[8]。
アルカイダのシリア支部であるヌスラ戦線は、2014年以降シリア北部において「穏健な反体制派」を駆逐していった。それは、ISIL(「イスラム国」)に対抗して独自に首長国を建国するためでもあった。その結果、シリア革命家戦線やハズム運動は壊滅させられた。2015年ごろから連合軍や政府軍の空爆によりヌスラ戦線の幹部が相次いで戦死したとされる。そのためヌスラ戦線は穏健な反体制派の元支配地域や住宅街に拠点を作ることで、空爆を避けようとしている[8]。
ロジャヴァ
ロジャヴァはクルド民主統一党(PYD)が主導する反体制派勢力。シリア北部のクルド人居住区などを実効支配する一大勢力。クルド人民防衛隊(YPG)を中心としたシリア民主軍(SDF)と深い関係にある。「穏健な反体制派」と異なり、政治プロセスによるアサドの退陣を目指しているともされるが、主目的は自治の獲得或いは独立であると思われ、地域や状況によってはアサド政権との協調も見られ、「反体制派」と言うよりは「第三勢力」或いは「独立派」と呼んだ方が正確である。なお、イスラム過激派とは明確な敵対関係にある。日本や欧米諸国の政府・メディアは、しばしばロジャヴァを「クルド勢力」と呼び、他の反体制派組織と区別している[2]。
トルコ政府は、YPGをトルコ・クルド人の非合法組織クルディスタン労働者党の一派とみなし、警戒している。ロジャヴァは政府軍を積極的に攻撃することがなかった上に、アメリカから優先的に空爆による支援と武器の供給を受けているため、他の反体制派から反感を持たれている[12]。
前述の様に、状況や地域によって「アサド政権」「反体制派」双方と協調や対立をしてきたが、2018年1月のトルコ軍によるアフリーン郡侵攻以降は、反体制派の各勢力がトルコ軍と協調するか、アサド政権との戦闘を優先する中で、YPGはアサド政権に軍事支援を要請。交渉の末、アサド政権側も支援要請に応じ部隊派遣を決定した為、一部占領地域をアサド政権に移譲するなど両者が急速に接近し、その立場は「反体制派」からアサド政権の「同盟者」に変質しつつある。
合従連衡
反体制派の構成員は日和見的に有力な集団へと所属変更を繰り返してきた者が少なくない。反体制派組織同士も相互に連携することで政府軍に対抗しようとしてきた。結果的に、「穏健な反体制派」とイスラム過激派は合従連衡を繰り返しており、両者を厳密に区別することはできないとされている[2]。
一覧
反体制派がこれまで設置してきた主な連合組織・合同作戦司令室の一覧。太字は、連合組織・合同作戦司令室を指す。末尾の*はアルカイダ系、**はISIL系であることを表す。それ以外の組織は基本的に「穏健な反体制派」かその他の過激派[2]。外部リンクは日本の公安調査庁ホームページにおける解説記事。
連合組織・ 合同作戦指令室 |
結成時期 | 参加組織 | 備考 |
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シリア・イスラム解放戦線 | 2012年 9月 |
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イスラム戦線の前身[7] |
イスラム戦線 | 2013年 12月 |
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スンニ派イスラム主義武装組織の連合体 「2013年11月に結成」という資料もある 最高指導者はアフメド・イサ・シェイク 結成当初、反体制派組織では最強とされていた 2014年1月以降ISILとの衝突が本格化し、弱体化[13] |
ハズム運動 | 2014年 1月 |
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「穏健な反体制派」[7] シリア北部で展開し、アメリカの支援を受けていた[8] 2015年3月、ヌスラ戦線に敗れ崩壊[14] |
シャームの民の合同作戦司令室 | 2014年 2月 |
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南部戦線 (自由シリア軍) |
2014年 2月 |
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「穏健な反体制派」[7] |
ウンマ軍[15] | 2014年 9月 |
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「穏健な反体制派」[7] ダマスカス郊外県東グータ地方で活動 |
バドル軍団[15] | 2014年 9月 |
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ダマスカス郊外県東グータ地方で活動 |
シャーム戦線 | 2015年 2月 |
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ファトフ軍[1] | 2015年 3月 |
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ヌスラ戦線、シャーム自由人イスラム運動が主導[17] 高度に組織化され、重武装している[18] イドリブ県の大半を支配下に置いた[16] 兵力は数千人[18]とも1.2万[19]とも言われる |
闘いの勝利連合 | 2015年 4月頃 |
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スンニ派イスラム主義組織の連合体 ファトフ軍をモデルに結成 アブドッラー・ムハイシニーが関与した |
アレッポ・ファトフ軍 | 2015年 5月 |
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シリア民主軍[12] | 2015年 10月 |
クルド人・アラブ人・キリスト教徒の連合組織 ロジャヴァの関連組織 中核はYPGで、兵力は約5万人[20]。 | |
マルジュ・スルターン作戦司令室 | 2015年 12月 |
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マルジュ・スルターン一帯の奪還を目指して結成 司令官はアブー・バッシャーム・バッラー[21] |
解放軍 | 2015年末 |
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「穏健な反体制派」 かつてヌスラ戦線に粛清された武装勢力の再編 アメリカなど各国情報機関が監督 トルコ・アンタキヤにある作戦司令室の参加団体 2016年7月、ヌスラ戦線に屈服し、服従を誓った[22] |
ハリード・ブン・ワリード軍** | 2016年 5月 |
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ISILの傘下 |
ファトフ軍 (新生) |
2016年 5月 |
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ユーフラテスの盾作戦司令室 | 2016年 8月 |
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反体制派支配地域の状況
反体制派のファトフ軍がイドリブを占領してから、同市で最も強い発言力を持ったのはサウジアラビア出身のアルカイダ活動家、アブドッラー・ムハイシニーであった。ムハイシニーは市内に「シャリーア学院」、「教宣センター」、「訓練基地」などを開設し、、女性や子供を対象に宣伝・教育活動を行っている。この手法はISILと類似していると指摘されている。「シリア国民同盟」などの諸派もイドリブ市に拠点を置こうとしたが、ムハイシニーが「イドリブ首長国」を宣言し、彼らを排除した[23]。
イスラム過激派のヌスラ戦線とその同盟者は、支配下にあるイドリブ県においてISILのような「イスラム統治」を行った。まず政府支持者、次にキリスト教徒を公開処刑した。公開処刑はイスラム統治を受け入れさせるために、社会的に影響力が強い者や著名人を組織的に処刑したとされる。これにより、60万人いたイドリブ市民の4分の3は町を離れ、特にキリスト教徒は「一人もいなくなった」。彼らはイドリブ県地方部・ハマー県・ホムス県・沿岸地方などへ避難した。ファトフ軍がイドリブを占拠して2カ月以内に、住民に対してISIL占領地で見られるような「シャリーア的服装」を義務付けた。また、姦通罪に対する刑罰として女性を石打ちで処刑した。礼拝をしない者に対しては鞭打ち刑が執行されている[23]
ヌスラ戦線は、イドリブ市やその周辺の住民から税金を取り、衛生・電気・水道・行政機能も管轄するようになった。背景には独自の統治機構を構築しているISILへの対抗心もあると指摘されている。しかし、税金に似合った行政サービスを提供する能力がないため、ISILやアサド政権のような求心力は持っておらず、市民のデモに対して屈したこともある[24]。
政府支配地域に包囲された反体制派支配地域では、兵糧攻めによって食料・衣料品などが不足していた。そのため、土があれば狭いスペースでも小麦やホウレンソウが栽培されていた。また、プラスチックのゴミを溶かして油(通称「ミクスチャー」)を抽出し、機械・電化製品の燃料として使用された。技術的にはディーゼル・石油・潤滑油などを精製できるが、爆発する危険性がある。包囲下にあった反体制派支配地域のホムス北部では、「地元のパン」プロジェクト(2014年〜)がおこなわれた。これは、「自治体」が小麦栽培の必要物資を農家に供給し、農家は収穫した小麦を「地元政府」に優先的に売り、便乗値上げをしないと成約すれば、農家は人道支援団体や亡命した家族を保証人にして生産拡大のローンを組めるというもの。これによりこの反体制派支配地域のパン価格は下落した[25]。
反体制派支配地域では物価が高騰しており、高給をもらう武装勢力の戦闘員を除いて生活は困窮している者が多い。ダルアー県では、反体制派支配地域からバスで物価の低い政府支配地域に長距離移動し、わざわざそこで買い物をする者も少なくない。そのため、高給な武装勢力の戦闘員になる若者が続出しているとされ[26]。
刑務所
反体制派には、有名なものだけで4つの刑務所がある。そのうちダマスカス郊外のタウバ(「悔悟」の意)を除いて、イドリブ県に3つの刑務所(ハーリム、ザンバキー、「中央」)がある。これらは、住民を追い出した村落を刑務所にしたものである。ヌスラ戦線などは、捕虜をハーリム、ザンバキー、「中央」各刑務所に収監している[27]。
刑務所には政府軍兵士・政府関係者・敵対勢力構成員ら数千人が収監されている。中には、政府支持者やハズム運動支持者などに仕立て上げられ、身に覚えのない容疑で突如拘束された者もいる。囚人の多くは、反体制派勢力間の対立が原因で恣意的に収監され、復讐目的で「不信仰」、「政府支持」などの罪状が与えられる。裁判はイスラーム法に則ることになっているが、その判定基準についてはよく分かっていない。シャイフは独断で囚人を釈放できる。また、イドリブ県の刑務所ではヌスラ戦線、シャーム自由人イスラム運動の戦闘員を仲介者にすれば、釈放されることが多い。その他に、「革命への寄付」を行えば釈放してもらうこともできる[27]。
ザンバキー刑務所では、約1700人(2016年11月頃)が収監されている。性別や、宗教・宗派によって収監される房は異なる。医務室・シャワー室はなく、食事は1日2度、生存に最低限の量が与えられる。そのほかにも刑務所は多数あるが、それらは人道の面で監視も受けていない。このような刑務所の惨状は「アサド政権に比べて改善していないどころか悪化している」と評される[27]。
反体制派が支配した都市
「穏健な反体制派」、イスラム過激派、ロジャヴァなどが支配した主な都市。
- アレッポ
- シリア最大の都市。アレッポ県の県庁所在地。2012年から2016年まで反政府勢力が東部を支配した(アレッポの戦い)。
- アフリーン
- 2012年7月に政府軍がアフリーンから撤退し、YPGが占領した[28][29]。2018年にトルコ軍とシリア反体制派がアフリンを攻撃し、支配権は非クルド系の反体制派に移った(オリーブの枝作戦)[30]。
- アル=バーブ
- ISISに支配されていたが、2017年2月にトルコ軍とシリア反体制派が占領した(ユーフラテスの盾作戦)[31]。
- ダービク
- イスラム終末論でキリスト教徒との最終戦争があるとされる町。ISILにとって思想的に重要な町だったが、2016年10月にトルコ軍とシリア反体制派が占領した(ユーフラテスの盾作戦)[32]。
- アイン・アル=アラブ(コバニ)
- 2012年、撤退した政府軍に変わりYPGが支配した。2014年から2015年にかけてISILとの戦闘が行われる(コバニ包囲戦)
- マンビジ
- ISILに支配されていたが、2016年8月にロジャヴァがマンビジ一帯を占領した[33]。
- ラッカ
- ラッカ県の県庁所在地。政府軍が最初に喪失(放棄)した県庁所在地。自由シリア軍・ヌスラ戦線・イスラム戦線などが支配した後、ISILに占領され、「首都」となる。その後、ロジャヴァに占領される(ラッカの戦い参照)
- ハサカ
- ハサカ県の県庁所在地。内戦当初からYPGが一部を支配していた。2016年8月より政府軍が撤退し、大部分をロジャヴァが支配している[34]。
- ラース・アル=アイン
- 2012年11月に自由シリア軍が占領する。その後、YPGに占領される[35]。
- カミシュリー
- 街の4割を政府軍が、6割をYPGが支配下においていた[36]。
- ホムス
- ホムス県の県庁所在地。「革命の首都」と呼ばれた。2011年から2017年まで政府軍と反体制派の間で戦闘が行われた(ホムス包囲戦)
- イドリブ
- 自由シリア軍の拠点のひとつだったが、2012年3月に政府軍が駆逐した。2015年3月にファトフ軍が占領した(イドリブの戦い (シリア騒乱)参照)。
- ダルアー
- ダルアー県の県庁所在地。最初に反政府デモが発生した都市[37]。
- タル・アブヤド
- ISILが支配していたが、2015年6月にYPGが占領した[38]。
- マアッラト・アン=ヌウマーン
- マアルーラ
- 反体制派に支配されていたが、2014年4月に政府軍が奪還した[39]。
構成員の素性
シリア騒乱における反体制派は、当初既存の政党・政治勢力にも所属していない人々に広がっていった。彼らは治安部隊の暴虐に怒りを覚えた普通の人々であったとされ、デモを組織しデモに参加していた。特にインターネットや携帯電話を使いこなす若年層が多かった。彼らの抗議活動とそれを弾圧する政権の姿がインターネットや国際メディアを通じで世界に配信されると、民衆や国際世論においてアサド政権への批判が高まった。それに19世紀以降欧米で暮らしていたシリア系移民の末裔も反体制派の支援に乗り出し、自らが居住する国を中心に反アサドの機運を盛り上げていった。しかし、彼らは、アラブの春までシリアに対する意識が薄かったため、シリア国内に人脈が乏しく、シリア本国の活動家と連携が取れなかった。国内の活動家とシリア系移民の末裔をまとめ上げるために立ち上がったのが、1980年以降シリアから亡命し手活動を続けた「筋金入り」の反体制派である。彼らはシリア国民評議会を作り、反体制派の連携を図ったが、多様な主義主張を持つ多数の集団を取り込んでしまったため、意見集約ができずに失敗した[1]。
地理的には、北東部・内陸部・農村・乾燥地帯の住民が反体制派に積極的に加わった。騒乱前のシリアでは、気候変動や都市重視の政策によって都市と農村の格差がかつてないほど広まっており、周縁化され経済発展が遅れたこれらの地域では、かつて支持していた政権に対する反発が高まっていた。一方でダマスカス・アレッポおよび沿岸部の住民は比較的豊かで安定した生活を送っており、反体制派に脅威を覚える人々が多かった[40]。
騒乱下の反体制派支配地域では、経済情勢が悪化しているにも関わらず、反体制派戦闘員は高い給料を受け取っている。そのため、経済的に困窮した若者が反体制派に入ることがある[26]。
各国からの支援
シリアでは、先代大統領ハーフィズ・アル=アサドの30年に渡る長期支配で、軍事力と秘密警察を背景に、アラブ世界最強の独裁体制と国民統合体制が構築され、それはバッシャール・アル=アサド政権に移行後は徐々に改善されてはいたものの、依然としてバース党主導の強権体制が続いており、その強権・残虐さは欧米の民主主義国から嫌悪されてきた事に加え、シーア派系のアラウィー派が力を持ち、アラブ社会主義に則った世俗主義を掲げている事が中東のスンニ派諸国との対立に繋がってきた。そのため騒乱が起きると欧米・サウジアラビア・カタール・アラブ首長国連邦・トルコなどがシリアの反体制派を支援した。特に国境を接するトルコは反体制派に資金・兵員を供給する経由地となった。しかし、反体制派は国外のスポンサーごとに分裂し、アサド政権との戦闘以外にも反体制派同士の内紛を起こしたことに加え、アサド政権が想像以上に強固だった事と、アサド政権崩壊を恐れたキリスト教徒や少数派イスラム教徒のシリア国民の間でアサド政権への支持が根強かったことから、「穏健で民主的な反体制派が短期間にアサド政権を倒す」という当初の見込みは外れた。2013年4月頃、アサド政権が反体制派に化学兵器を使用していたという疑惑が浮上し、アメリカやフランスがアサド政権への攻撃を試みた。しかしロシアの反対によりこの計画は潰され、アサド政権が倒される見込みはなくなった[41]。ヌスラ戦線がアルカイダの一派であることが公然と知られるようになると、欧米・湾岸諸国は武器や資金がイスラム過激派に渡ることを恐れ、反体制派への支援を減少させた。このことは、2013年夏以降の政府軍の攻勢につながる[5]。
2015年、アメリカはシリア国外で反体制派を訓練し、シリアに送り込んだ。しかし構成員の大半は持ち場を離れ、部隊は戦闘不能となってしまった[42]。
アメリカとロシアはそれぞれロジャヴァを支援しているとされる。これに対してロジャヴァを警戒するトルコの首相アフメト・ダウトオールは「トルコが戦っているテロ組織とのいかなる協力も認めることはできない」として、米ロに抗議した[43]。
反体制派とISIL
ISIL(「イスラム国」)はその前身となる団体が2004年には既にイラクで活動していたが、2011年時点では勢力が衰退していた。そのころシリア騒乱では、反体制武装勢力が思想・素性を詮索されることなく国外から資源を調達することができた。シリアの友人たち参加国のうち、サウジアラビア・トルコ・カタールはアサド政権の破壊のためにあえてイスラム過激派を支援していた。欧米諸国は、イスラム過激派を主力とする反体制派が「民主化」を志向しているとみなして黙認した。そのため、ISILは反体制派の中に紛れ込み、欧米諸国や一部アラブ諸国、トルコなど外部から寄せられる資源の受け取り手となることができた。革命後のチュニジア・リビアなどは、政情不安を避けるために過激派をシリアに送り出し、サウジアラビア・クウェートなどでは過激派に資金を提供していた。これらの行動は意図せざる結果としてISILの勢力を拡大した[44]。一方、ロシア・イランなどは、ISILなどのイスラム過激派台頭がアサド政権の弱体化をもたらすとして、早い段階から警戒していた[2]。
ISILがイラクへと勢力を伸張し、その悪影響を無視できなくなったシリアの友人たち参加諸国は、ISILをシリアにおける他の反体制派と峻別し、ロシア・イランと並行してISILに攻撃を加えるようになる。2015年12月の国連安保理決議2254号では、シリア内戦解決に向けたプロセスの開始と、プロセスからのテロ組織の排除、そしてテロとの戦いを掲げた。ここでいうテロ組織とは、ISILやヌスラ戦線に加え、「ISSG(国際シリア支援グループ International Syria Support Group)の合意と安保理の決議で定められた両組織とつながりのあるその他すべての個人・組織」を指すとされた。ロシア・イラン・アサド政権は、停戦に応じないすべての武装勢力を「テロ組織」と解釈して、それらの組織に「テロとの戦い」を仕掛けた。しかしISSGは、テロ組織に「穏健な反体制派」は含まれないとしてロシアなどと対立する。また、トルコは国内のクルド人勢力クルディスタン労働者党とつながりの深いロジャヴァをテロリストとみなし、勢力を拡大するロジャヴァに対抗してシリアに軍事介入を行った。このような諸外国の対立はISILが生き残るのに有利に働いている[2]。
関連項目
出典
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- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 青山弘之 (2016-11). “「シリア内戦」におけるイスラーム国の「存在意義」” (PDF). 国際問題 656 .
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- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 髙岡豊 (2013年7月2日). “なぜアサド政権は倒れないのか? ―― シリア情勢の現状と課題”. SYNODOS. . 2016閲覧.
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