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'''オットー・エドゥアルト・レオポルト・[[フュルスト]]'''([[侯爵]])'''・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン'''({{lang-de-short|Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen}}, [[1815年]][[4月1日]] - [[1898年]][[7月30日]])は、[[プロイセン王国|プロイセン]]及び[[ドイツ]]の[[政治家]]、[[貴族]]。[[プロイセン王国]]首相(在職[[1862年]]-[[1890年]])、[[北ドイツ連邦]]首相(在職[[1867年]]-[[1871年]])、[[ドイツ帝国]][[ドイツ国首相|首相]](在職[[1871年]]-[[1890年]])を歴任した。[[ドイツ統一]]の中心人物であり、「'''鉄血宰相'''({{lang-de-short|Eiserne Kanzler}})」の異名を取る。
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'''オットー・エドゥアルト・レオポルト・[[フュルスト]]'''([[侯爵]])'''・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン'''({{lang-de-short|Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen}}, [[1815年]][[4月1日]] - [[1898年]][[7月30日]]
  
プロイセン東部の地主貴族[[ユンカー]]の出身。代議士・外交官を経て、[[1862年]]に[[プロイセン国王]][[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]から{{仮リンク|プロイセン首相|de|Liste der preußischen Ministerpräsidenten}}に任命され、{{仮リンク|プロイセン軍制改革 (1859–1866)|de|label=軍制改革|Preußischer Verfassungskonflikt#Heeresreform}}を断行してドイツ統一戦争に乗り出した。[[1867年]]の[[普墺戦争]]の勝利で[[北ドイツ連邦]]を樹立し、ついで[[1871年]]の[[普仏戦争]]の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国を樹立した。プロイセン首相に加えて[[ドイツ国首相|ドイツ帝国首相]]も兼務し、[[1890年]]に失脚するまで強力にドイツを指導した。[[文化闘争]]や[[社会主義者鎮圧法]]などで反体制分子を厳しく取り締まる一方、諸制度の近代化改革を行い、また世界に先駆けて全国民強制加入の[[社会保険]]制度を創出する[[社会政策]]を行った。卓越した外交力で国際政治においても主導的人物となり、[[19世紀]]後半の[[ヨーロッパ]]に「[[ビスマルク体制]]」と呼ばれる国際関係を構築した。
 
  
== 概要 ==
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ドイツの政治家。ドイツ第二帝国の建設者。[[ユンカー]]の出身。[[ゲッティンゲン大学]][[ベルリン大学]]で法律を学んだのち,1836年プロシアの官僚となり,47年プロシア連合州議会の議員となり,絶対主義と反動の扇動的代弁者として活躍。
[[1815年]]に[[プロイセン王国]]東部の{{仮リンク|シェーンハウゼン|de|Schönhausen (Elbe)}}に[[ユンカー]]の息子として生まれる。文官を目指し、[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]][[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]で法学を学ぶ。[[1835年]]に大学を卒業し、官吏試補となるも職務になじめず、[[1839年]]からユンカーとして地主の仕事をする(''→[[#政界入りまで|政界入りまで]]'')。
 
  
[[1847年]]に[[身分制議会]]の{{仮リンク|プロイセン連合州議会|de|Vereinigter Landtag}}の代議士となり、政界入り。[[1849年]]に新設された{{仮リンク|プロイセン衆議院|de|Preußisches Abgeordnetenhaus}}の代議士にも当選する。代議士時代には強硬保守派として行動した。[[ウィーン体制|正統主義]]に固執し、[[1848年革命]]で高まりを見せていた[[自由主義]]や[[ナショナリズム]]運動、[[国民主権]]の憲法によるドイツ統一の動きを批判した。裁判官[[アーンスト・ルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハ|ルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハ]]とその兄で国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]の寵臣である侍従武官長[[ルートヴィヒ・フリードリヒ・レオポルト・フォン・ゲルラッハ|レオポルト・フォン・ゲルラッハ]]将軍に近い立場をとり、革命で誕生した自由主義政府を牽制するためにゲルラッハ兄弟が宮廷内に組織した「影の政府」の「{{仮リンク|カマリラ|de|Kamarilla}}」に参加した(''→[[#代議士|代議士]]'')。
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1848年の[[三月革命]]に対抗。その後フランクフルト連邦議会のプロシア代表,ロシア大使,フランス大使を歴任後,1862年9月プロシア首相となった。軍拡問題で議会と衝突したが,「ドイツ問題は鉄と血によって解決される」という有名な鉄血演説を行なって議会を押えた。
  
[[1851年]]に{{仮リンク|連邦議会 (ドイツ連邦)|label=ドイツ連邦議会|de|Bundestag (Deutscher Bund)}}プロイセン全権公使となり外交官に転身。[[ドイツ連邦]]議長国[[オーストリア帝国]]との利害対立の最前線に立つ中でオーストリアを排除した[[小ドイツ主義]]統一の必要性を痛感するようになり、オーストリアとの連携を重視する[[神聖同盟]]などの正統主義の立場から離れるようになる。保守主義者・君主主義者の矜持は保ちつつ、正統性がないとされていた[[ナポレオン3世]]の[[フランス第二帝政|フランス帝国]]や小ドイツ主義統一を目指す自由主義ナショナリズム勢力との連携を模索するようになった(''→[[#連邦議会プロイセン公使|連邦議会プロイセン公使]]、→[[#反墺親仏派に|反墺親仏派に]]'')。
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1866年[[プロシア=オーストリア戦争]]に勝ってオーストリアの勢力をドイツから排除,70~71年の[[普仏戦争]]の勝利によってドイツの統一を完成し,71年3月ドイツ帝国初代宰相となり,侯爵となった。その後,特に外交に手腕を発揮して 19世紀末のヨーロッパ外交をあやつった。内政においては通貨の統一,中央銀行の創立,統一民・商法典の制定,高等裁判所の設立など抜本的改革を行なって,中世的遺制を一掃。
  
[[1858年]]に皇太弟[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム王子(ヴィルヘルム1世)]][[摂政]]となり、自由主義的保守派貴族による「{{仮リンク|新時代|de|Neue Ära}}」内閣が発足すると強硬保守派と看做されていたビスマルクは駐ロシア大使に左遷されたが、[[クリミア戦争]]以来オーストリアを恨んでいたロシアの宮廷・政治家から反墺的態度を歓迎された。[[イタリア統一戦争]]の際にもプロイセンが反墺的中立をとるよう尽力した(''→[[#駐ロシア大使に左遷|駐ロシア大使に左遷]]、→[[#イタリア統一戦争をめぐって|イタリア統一戦争をめぐって]]'')。
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1872年末政敵カトリック教徒の[[中央党]]を押えるため,教育の国家管理をめぐって[[文化闘争]]を引起したが,社会主義勢力の台頭をみていわゆる「飴と鞭」政策をとり,[[社会主義者鎮圧法]]を制定する一方,社会保障制度などの社会政策を推進した。
  
[[1861年]]に国王に即位したヴィルヘルム1世と陸軍大臣[[アルブレヒト・フォン・ローン]]中将は軍制改革をめぐり、その予算を「軍隊に対する王権強化」と看做して通そうとしない衆議院の自由主義派議員と対立を深めていった。国王側近たちが衆議院に対するクーデタ論に傾く中、ローンはクーデタによらず解決を図りたいと考え、同様の考えのビスマルクの首相就任を希望するようになった。[[1862年]]、無予算統治を決意したヴィルヘルム1世は、その覚悟がある者としてローンが推薦するビスマルクを{{仮リンク|プロイセン首相|de|Liste der preußischen Ministerpräsidenten}}に任命した(''→[[#自由主義勢力の台頭|自由主義勢力の台頭]]、→[[#首相任命|首相任命]]'')。
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経済面では保護関税政策をとってドイツ工業の育成に努めた。自己の権力を保持し,政策を推進するためには内政,外交において危機感をあおる策略をしばしば用い,巧みに政治的危機を乗越えたが,新たに帝位についた[[ウィルヘルム2世]]とは社会主義者鎮圧法の更新をめぐって衝突,1890年3月宰相を辞任した。
  
首相に就任するや衆議院予算委員会で[[鉄血演説]]を行い、ドイツ問題でプロイセンが優位に立つためには軍拡が必要である旨を訴え、自由主義者に軍制改革を支持させようとしたが、逆に批判を受ける。この演説で「鉄血宰相」の異名を取るようになった(''→[[#鉄血演説|鉄血演説]]'')。自由主義派の支持が得られそうにないと見るや無予算統治で軍制改革を断行した。これによって無予算統治を違憲とする自由主義派との間に{{仮リンク|プロイセン憲法闘争|label=憲法闘争|de|Preußischer Verfassungskonflikt}}が巻き起こった(''→[[#自由主義者との対立|自由主義者との対立]]'')。
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その後は皇帝の批判と主著『回想録』 Gedanken und Erinnerungen (3巻,1898~1919) の執筆に専念したが,この著は,歴史的には疑わしい記述を含んでいるものの,文学的にはすぐれ,ビスマルクをドイツ一流の著述家の列に加えている。
 
 
この国内的亀裂は、三度の小ドイツ主義統一に関する戦争に勝利して自由主義派の支持を獲得することで解決に向かう。その最初の戦争は[[1864年]]、[[デンマーク]]に併合されそうになった[[シュレースヴィヒ公国]]と[[ホルシュタイン公国]]をめぐって、オーストリアとともに起こした[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争#第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|対デンマーク戦争]]だった。[[イギリス]]の干渉を抑えてこの戦争に勝利したことで両公国からデンマークの支配権を排除することに成功し、ドイツ・ナショナリズムからのプロイセンの評価を高めた(''→[[#対デンマーク戦争|対デンマーク戦争]]'')。
 
 
 
ついで両公国の帰属をめぐってオーストリアと対立を深めた。同時期オーストリアに保守政権が樹立されるとこれを利用して{{仮リンク|ガスタイン協定|de|Gasteiner Konvention}}を締結し、ドイツ・ナショナリズムにおけるオーストリアの威信を低下させた。また[[ビアリッツ]]でナポレオン3世と[[ビアリッツの密約|密約]]を結び、フランスの中立の確信を得たといわれる(''→[[#深まるオーストリアとの対立|深まるオーストリアとの対立]]、→[[#ガスタイン協定とビアリッツの密約|ガスタイン協定とビアリッツの密約]]'')。
 
 
 
[[1867年]]に[[普墺戦争]]を開始し、短期間で勝利を収めた。フランスの領土欲を抑えながら、オーストリアに寛大な講和条件を提示して戦争を早期終結させた。これによりオーストリアをドイツ問題から排除し、プロイセン一国覇権の[[北ドイツ連邦]]を樹立することに成功した。ただしこの時点ではフランスの圧力もあり反プロイセン的な南ドイツ諸国は参加しなかった(''→[[#普墺戦争|普墺戦争]]'')。
 
 
 
つづいて、北ドイツ連邦と南ドイツ諸国の統一を目指して、南ドイツ諸国のプロイセン型軍制改革を支援したり、[[ドイツ関税同盟|関税同盟]]に議会を設置するなどしてドイツ統一機運を盛り上げようとしたが、南ドイツ諸国の反普感情を変えることはできなかった(''→[[#南ドイツとの統一を目指して|南ドイツとの統一を目指して]]'')。
 
 
 
そのためフランスとの開戦によって南ドイツ諸国のドイツ・ナショナリズムを高めることを目指すようになった。[[1870年]]、スペイン王位継承問題を巧みに利用し、フランスが理不尽な要求を突き付けて一方的にプロイセンに宣戦布告してきたという状況を作り上げることで、全ドイツ諸国の反仏感情を爆発させ、プロイセン軍のもとに一致団結させ、また他国の中立も確保して[[普仏戦争]]に持ち込んだ(''→[[#スペイン王位継承問題|スペイン王位継承問題]]'')。[[セダンの戦い]]ではナポレオン3世を捕虜にした。これによって第二帝政から[[フランス第三共和政|第三共和政]]に移行したフランスだったが、ビスマルクが要求した[[アルザス=ロレーヌ]]地方割譲を拒否したため、戦争は続行された。[[パリ]]包囲戦中の[[1871年]]1月にドイツ軍の大本営がおかれていた[[ヴェルサイユ宮殿]]で南ドイツ諸国と交渉にあたり、ドイツ統一国家[[ドイツ帝国]]を樹立する合意を取り付け、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に即位させた。戦争の方も2月にはパリの困窮に耐えきれなくなったフランス政府がビスマルクの要求に応じたことで終結した(''→[[#普仏戦争|普仏戦争]]、→[[#ドイツ統一|ドイツ統一]]'')。
 
 
 
プロイセン首相に加えてドイツ帝国首相となったビスマルクは、[[国民自由党 (ドイツ)|国民自由党]]など自由主義勢力と協力して様々なドイツ近代化改革を行った(''→[[#自由主義・近代化改革|自由主義・近代化改革]]'')。その一環で[[カトリック教会|カトリック]]を弾圧する[[文化闘争]]を行い、[[ローマ教皇]][[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]や[[中央党 (ドイツ)|中央党]]と対立を深めた。しかし[[社会主義]]勢力の台頭や国民自由党内で{{仮リンク|エドゥアルト・ラスカー|de|Eduard Lasker}}ら自由主義左派が反ビスマルク的姿勢をとるようになったことで中央党との関係改善を志向するようになり、文化闘争を終了させた(''→[[#文化闘争|文化闘争]]'')。
 
 
 
ついで[[社会主義者鎮圧法]]制定や[[保護貿易]]への転換などで国民自由党に揺さぶりをかけ、国民自由党内の自由主義左派が分党するよう追い込み、[[ドイツ保守党|保守党]]、[[自由保守党|帝国党]]、国民自由党の三党に「カルテル」と呼ばれる選挙操作協定を結ばせ、これを自らの与党勢力とした。さらに[[ドイツ社会主義労働者党]]や自由主義左派勢力に「帝国の敵」というレッテルを貼って攻撃した。とりわけ社会主義労働者党には社会主義者鎮圧法によって厳しい弾圧を加えた(''→[[#保守主義へ転換|保守主義へ転換]]、→[[#社会主義者鎮圧法|社会主義者鎮圧法]]'')。労働者が社会主義労働者党に流れるのを防止すべく、1883年には疾病保険法、1884年には労災保険法、1888年に障害・老齢保険法を成立させ、世界初の全国民強制加入の[[社会保険]]制度を創出した(''→[[#社会政策|社会政策]]'')。
 
 
 
ドイツ統一後の外交は、対独復讐に燃えるフランスを孤立させることに腐心した。はじめ君主国の連帯で露墺とともに[[三帝同盟]]を結んでいたが、[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]に勝利したロシアが[[バルカン半島]]に支配権を確立すると英墺が強く反発し、列強間の大戦の気配が漂った。三帝同盟崩壊を恐れるビスマルクは「公正な仲介人」として[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]を主催してロシアを妥協させて戦争を回避したが、今度はロシアの不満が高まり、三帝同盟は事実上崩壊した(''→[[#三帝協定|三帝協定]]、→[[#露土戦争をめぐって|露土戦争をめぐって]]'')。
 
 
 
ビスマルクは新たなフランス封じ込め体制の構築を狙い、[[1882年]]にはオーストリアやイタリアと[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]を結び、[[1887年]]にはイギリスとイタリアの間に地中海協定を締結させ、ついでオーストリアもこれに参加させた。他方ロシアとの関係もできる限り維持すべく、1887年に[[独露再保障条約]]を締結した(''→[[#ビスマルク体制|ビスマルク体制]]'')。
 
 
 
一方[[アフリカ]]や[[アジア]]で過熱するヨーロッパ諸国の植民地獲得競争では、英仏の植民地獲得を支援し、両国が植民地の利権をめぐって対立するよう離間を策動し続けた。[[1884年]]に[[コンゴ]]の領有権をめぐってヨーロッパ諸国の対立が深まると[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン・コンゴ会議]]を主催し、植民地獲得の原則を定めた。ドイツ自身の植民地獲得には慎重だったが、1884年から1885年にかけてはアフリカや太平洋上のドイツ人入植地をドイツ領に組み込んでいる(''→[[#植民地政策|植民地政策]]'')。
 
 
 
こうしたビスマルクの一連の巧みな外交のおかげで普仏戦争後の19世紀後半のヨーロッパではヨーロッパ諸国間の戦争は発生しなかった。この[[第一次世界大戦]]までの小康状態は「[[ビスマルク体制]]」と呼ばれる。
 
 
 
しかし[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]がドイツ皇帝・プロイセン王に即位すると社会主義者鎮圧法や労働者保護立法をめぐって新皇帝と意見がかみ合わず、1890年3月に首相を辞することとなった(''→[[#失脚|失脚]]'')。退任後、ヴィルヘルム2世と対立を深めていたが、最終的には屈服した(''→[[#首相退任後|首相退任後]]'')。[[1898年]][[7月30日]]に死去した(''→[[#死去|死去]]'')。
 
 
 
[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]、[[レオポルト・フォン・ランケ|ランケ]]、[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャベリ]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]などから影響を受け、ドイツ統一の精神や統一後の自制の外交などの精神を培ったという(''→[[#影響を受けた人物|影響を受けた人物]]'')。反ユダヤ主義政治家に肩入れすることもあったが、基本的には反ユダヤ主義者ではなく、私的人事にはユダヤ人学識者を重用していた(''→[[#ユダヤ人について|ユダヤ人について]]'')。
 
 
 
保守派や伝統的史観からの評価は高いが、彼と敵対した思想である社会主義や自由主義の立場からは強権的で排他的な政権運営が批判され、[[アドルフ・ヒトラー]]の萌芽に位置づけられることも多い。しかしこれに対しては外交のやり方、反ユダヤ主義政策の有無などビスマルクとヒトラーでは正反対だという反論も多い。『{{仮リンク|ドイツの特殊な道|de|Deutscher Sonderweg}}』論に立つとヒトラーに結び付けられやすかったが、現在のドイツの歴史学界は「ドイツの特殊な道」論に否定的であるためヒトラーと直接に結び付けられることは減った。政治手腕への評価としては「現実主義者」「[[ボナパルティスト]]」などとする物が多い(''→[[#評価|評価]]'')。
 
 
 
妻はユンカーの娘{{仮リンク|ヨハンナ・フォン・プットカマー|de|Johanna von Puttkamer}}。彼女との間に長男[[ヘルベルト・フォン・ビスマルク|ヘルベルト]]以下2男1女を儲けている。長男ヘルベルトは父のもとで帝国外務長官(外相)を務めた(''→[[#家族|家族]]'')。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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{{Reflist|23em}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|エーリッヒ・アイク|de|Erich Eyck}}|translator=[[救仁郷繁]]|date=1993年(平成5年)|title=ビスマルク伝 1|publisher=[[ぺりかん社]]|isbn=978-4831506023|ref=アイ1}}
 
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=救仁郷繁|date=1994年(平成6年)|title=ビスマルク伝 2|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831506559|ref=アイ2}}
 
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=[[新妻篤]]|date=1995年(平成7年)|title=ビスマルク伝 3|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831506832|ref=アイ3}}
 
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=[[渋谷寿一]]|date=1996年(平成8年)|title=ビスマルク伝 4|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831507235|ref=アイ4}}
 
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=[[吉田徹也]]|date=1997年(平成9年)|title=ビスマルク伝 5|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831507440|ref=アイ5}}
 
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=[[加納邦光]]|date=1998年(平成10年)|title=ビスマルク伝 6|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831508317|ref=アIイ6)}}
 
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=新妻篤|date=1999年(平成11年)|title=ビスマルク伝 7|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831508430|ref=アイ7}}
 
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=[[小崎順]]|date=1999年(平成11年)|title=ビスマルク伝 8|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831508867|ref=アイ8}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[飯田洋介]]|date=2010年(平成22年)|title=ビスマルクと大英帝国―伝統的外交手法の可能性と限界|publisher=[[勁草書房]]|isbn=978-4326200504|ref=harv}}
 
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*{{Cite book|和書|last=ヴェーラー|first=ハンス=ウルリヒ|translator=[[大野英二]]、[[肥前栄一]]|date=1983年([[昭和]]58年)|title=ドイツ帝国1871‐1918年|publisher=[[未来社]]|isbn=978-4624110666|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|last=エンゲルベルク|first=エルンスト|translator=[[野村美紀子]]|date=1996年(平成8年)|title=ビスマルク <small>生粋のプロイセン人・帝国創建の父</small>|publisher=[[海鳴社]]|isbn=978-4875251705|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[尾鍋輝彦]]|date=1968年(昭和43年)|title=大世界史〈第19〉カイゼルの髭|publisher=[[文藝春秋]]|asin=B000JBHT5O|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|last=カー|first=E・H・|translator=[[石上良平]]|date=1956年(昭和31年)|title=カール・マルクス その生涯と思想の形成|publisher=[[未来社]]|asin=B000JB1AHC|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[鹿島守之助]]|date=1958年(昭和33年)|title=ビスマルクの外交政策|publisher=[[鹿島研究所]]|isbn=978-4062582735|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[勝田政治]]|date=2003年(平成15年)|title=“政事家”大久保利通―近代日本の設計者|series=講談社選書メチエ273|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062582735|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=加納邦光|date=2001年(平成13年)|title=ビスマルク|series=Century Books―人と思想 182|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389411824|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|last=ガル|first=ロタール|translator=[[大内宏一]]|date=1988年(昭和63年)|title=ビスマルク <small>白色革命家</small>|publisher=[[創文社]]|isbn=978-4423460375|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[木下秀雄]]|date=1997年(平成9年)|title=ビスマルク労働者保険法成立史|series=[[大阪市立大学]]叢書47|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641038714|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=2006年(平成18年)|title=パクス・ブリタニカのイギリス外交 パーマストンと会議外交の時代|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641173224|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[久保天随]]|date =1914年(大正3年)|title=鉄血宰相ビスマルク|series=偉人叢書|url={{NDLDC|933614}}|publisher=[[鍾美堂]]|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|last=ケネディ|first=ルードヴィック|translator=[[内藤一郎]]|date=1975年(昭和50年)|title=追跡 <small>戦艦ビスマルクの撃沈</small>|publisher=[[早川書房]]|asin=B000J9EXQY|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[信夫淳平]]|date=1932年(昭和7年)|title=ビスマルク傳|series=偉人傳全集第5巻|publisher=[[改造社]]|ASIN=B000JB9QTQ|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|year=2010|title=ピッツァ プロが教えるテクニック|editor=[[柴田書店]]編|publisher=柴田書店|isbn=978-4388060795|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ジョナサン・スタインバーグ]]|translator=[[小原淳]]|date=2013年(平成25年)|title=ビスマルク(上)|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560083130|ref=スタ上}}
 
*{{Cite book|和書|author=ジョナサン・スタインバーグ|translator=小原淳|date=2013年(平成25年)|title=ビスマルク(下)|publisher=白水社|isbn=978-4560083147|ref=スタ下}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[瀧井一博]]|date=2010年(平成22年)|title=伊藤博文―知の政治家|series=[[中公新書]]2051|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4121020512|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[竹下登]]|date=1995年(平成7年)|title=竹下登 平成経済ゼミナール―数字で見る戦後の日本|publisher=[[日経BP出版センター]]|isbn=978-4822740399|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[田中彰 (歴史学者)|田中彰]]|date=1994年(平成6年)|title=岩倉使節団『米欧回覧実記』|series=同時代ライブラリー174|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4002601748|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|editor=[[田中陽児]]、[[倉持俊一]]、[[和田春樹]]編|date=1994年(平成6年)|title=ロシア史〈2〉18〜19世紀|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634460706|ref=ロシ}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[鶴見祐輔]]|date=1935年(昭和10年)|title=英雄天才史伝 ビスマーク|publisher=[[講談社]]|asin=B000J9DLT4|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|date=2004年(平成16年)|title=オットー・フォン・ビスマルク-鉄と血が決定する-|series=週刊100人-歴史は彼らによってつくられた-No.070|editor=[[デアゴスティーニ・ジャパン]]編|publisher=デアゴスティーニ・ジャパン|ref=デア}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[時野谷常三郎]]|date=1945年(昭和20年)|title=ビスマルクの外交|publisher=[[大八洲出版]]|asin=B000JBPJ3S|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[成瀬治]]、[[山田欣吾]]、[[木村靖二]]|date=1996年(平成8年)|title=ドイツ史2 1648年-1890年|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634461307|ref=成瀬2}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[蜷川新]]|date =1917年(大正6年)|title=オット・フオン・ビスマルク|series=英傑伝叢書|url={{NDLDC|951601}}|publisher=[[実業之日本社]]|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦}}
 
*{{Cite book|和書|last=ハフナー|first=セバスチャン|translator=[[山田義顕]]|date=1989年(平成元年)|title=ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582447026|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|last=ハフナー|first=セバスチャン|translator=[[魚住昌良]]、[[川口由紀子]]|date=2000年(平成12年)|title=図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放|publisher=[[登東洋書林]]|isbn=978-4887214279|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]|date=1993年(平成5年)|title=ドイツ史論文集 (林健太郎著作集)|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634670303|ref=林}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[藤村道生]]|date=1986年(昭和61年)|title=人物叢書 新装版 山県有朋|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642050593|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|last=ブレイク|first=ロバート|translator=[[谷福丸]]|editor=[[瀬尾弘吉]]監修|date=1993年(平成5年)|title=ディズレイリ|publisher=[[大蔵省印刷局]]|isbn=978-4172820000|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[前田光夫]]|date=1980年(昭和55年)|title=プロイセン憲法争議研究|publisher=[[風間書房]]|isbn=978-4759905243|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[前田靖一]]|date=2009年(平成21年)|title=鮮烈・ビスマルク革命―構造改革の先駆者/外交の魔術師|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4779114199|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|date=1992年(平成4年)|title=イタリア料理用語辞典|editor=[[町田亘]]、[[吉田政国]]編|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560000892|ref=町田}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[三好徹]]|date=1995年(平成7年)|title=史伝 伊藤博文 上|publisher=[[徳間書店]]|isbn=978-4198602901|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[望田幸男]]|date=1972年(昭和47年)|title=近代ドイツの政治構造―プロイセン憲法紛争史研究|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|asin=B000J9HK4G|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=望田幸男|date=1979年(昭和54年)|title=ドイツ統一戦争―ビスマルクとモルトケ|publisher=[[教育社]]|asin=B000J8DUZ0|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[吉川潤二郎]]|date=1908年(明治41年)|title=ビスマルク言行録|series=偉人研究|url={{NDLDC|782412}}|publisher=[[内外出版協会]]|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|last=リヒター|first=アドルフ|translator=[[後藤清]]|date=1990年(平成2年)|title=ビスマルクと労働者問題―憲法紛争時代においての|publisher=[[総合法令]]|isbn=978-4893461193|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[渡部昇一]]、[[岡崎久彦]]|date=1997年(平成9年)|title=賢者は歴史に学ぶ―日本が「尊敬される国」となるために|publisher=[[クレスト社]]|isbn=978-4877120528|ref=渡部}}
 
*{{Cite book|和書|date=1988年(昭和63年)|title=[[世界大百科事典]]|editor=[[平凡社]]編|publisher=平凡社|isbn=978-4582027006|ref=世界大百科事典}}
 
*{{Cite book|last= Hamilton|first=Charles|year=1996|title=LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1|publisher=R James Bender Publishing|language=[[英語]]|isbn=978-0912138275|ref=Hamilton}}
 
  
  
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2018/8/14/ (火) 10:25時点における版


オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト侯爵・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン: Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen, 1815年4月1日 - 1898年7月30日


ドイツの政治家。ドイツ第二帝国の建設者。ユンカーの出身。ゲッティンゲン大学ベルリン大学で法律を学んだのち,1836年プロシアの官僚となり,47年プロシア連合州議会の議員となり,絶対主義と反動の扇動的代弁者として活躍。

1848年の三月革命に対抗。その後フランクフルト連邦議会のプロシア代表,ロシア大使,フランス大使を歴任後,1862年9月プロシア首相となった。軍拡問題で議会と衝突したが,「ドイツ問題は鉄と血によって解決される」という有名な鉄血演説を行なって議会を押えた。

1866年プロシア=オーストリア戦争に勝ってオーストリアの勢力をドイツから排除,70~71年の普仏戦争の勝利によってドイツの統一を完成し,71年3月ドイツ帝国初代宰相となり,侯爵となった。その後,特に外交に手腕を発揮して 19世紀末のヨーロッパ外交をあやつった。内政においては通貨の統一,中央銀行の創立,統一民・商法典の制定,高等裁判所の設立など抜本的改革を行なって,中世的遺制を一掃。

1872年末政敵カトリック教徒の中央党を押えるため,教育の国家管理をめぐって文化闘争を引起したが,社会主義勢力の台頭をみていわゆる「飴と鞭」政策をとり,社会主義者鎮圧法を制定する一方,社会保障制度などの社会政策を推進した。

経済面では保護関税政策をとってドイツ工業の育成に努めた。自己の権力を保持し,政策を推進するためには内政,外交において危機感をあおる策略をしばしば用い,巧みに政治的危機を乗越えたが,新たに帝位についたウィルヘルム2世とは社会主義者鎮圧法の更新をめぐって衝突,1890年3月宰相を辞任した。

その後は皇帝の批判と主著『回想録』 Gedanken und Erinnerungen (3巻,1898~1919) の執筆に専念したが,この著は,歴史的には疑わしい記述を含んでいるものの,文学的にはすぐれ,ビスマルクをドイツ一流の著述家の列に加えている。