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{{記事名の制約|title=近衞前久}}
+
'''近衞 前久'''(このえ さきひさ)
{{基礎情報 公家
 
|氏名 = 近衞前久
 
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]初期
 
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])
 
| 死没 = [[慶長]]17年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]([[1612年]][[6月7日]])
 
| 改名 = 晴嗣、前嗣、前久
 
| 別名 = 一字名:竜・山・杉・春<br />道号:竜山
 
| 戒名 = 東求院龍山空誉
 
| 墓所 = [[山城国]][[東福寺]]
 
| 官位 = [[従一位]]、[[太政大臣]]・[[准后|准三宮]]
 
| 主君 = [[後奈良天皇]]→[[正親町天皇]]→[[後陽成天皇]]
 
| 氏族 = [[藤原北家]][[嫡流]]、[[近衛家]]
 
| 父母 = 父:[[近衛稙家|近衞稙家]]<br />母:[[久我通言]]の養女[[久我慶子|慶子]](実は[[細川高基]]の娘)
 
| 兄弟 = '''前久'''、[[道澄]]、[[尊信]]、[[足利義輝]]室<br />[[朝倉義景]]室
 
| 妻 = '''[[久我晴通]]の娘'''
 
| 子 = '''[[近衛信尹|近衞信尹]]'''、[[尊勢]]、[[慈運]]、[[近衞前子|中和門院]]、渓江院([[赤井直正]]室)<br />養子:''[[近衛堯真|近衞堯真]]''<br />猶子:''[[豊臣秀吉]]''、''[[教如]]''、''[[津軽為信]]''
 
}}
 
'''近衞 前久'''(このえ さきひさ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[公家]]。[[近衛家|近衞家]]当主であり、動乱期に[[関白]][[左大臣]]・[[太政大臣]]を務めた。初名は晴嗣。
 
  
== 生涯 ==
+
安土桃山時代の公卿。出家して龍山,東求院と号した。父は稙家,子は三藐院信尹 ([[近衛信尹]] ) 。越後の長尾景虎 (上杉謙信) をたずね,京都に帰って足利義昭と不和になると織田信長に頼った。天正 10 (1582) 年関白,太政大臣となったがまもなく辞し,豊臣秀吉に頼ったが,本能寺の変後不和になり,浜松に徳川家康をたずね,また晩年には子の信尹と不和になるなど不安の一生をおくった。有職故実,暦学,歌道,書道にすぐれていた。
=== 前歴 ===
 
[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])、[[近衛稙家|近衞稙家]]の長男として京都に生まれる。母は[[久我通言]]の養女・[[久我慶子|慶子]]([[細川高基]]の娘)。
 
  
天文9年([[1540年]])に[[元服]]し、叔母・[[慶寿院]]の夫でもある[[室町幕府]]第12代将軍・[[足利義晴]]から一字を賜り'''晴嗣'''(はるつぐ)を名乗る。天文10年([[1541年]])には[[従三位]]に叙せられ[[公卿]]に列する。天文16年([[1547年]])に[[内大臣]]、天文22年([[1553年]])に[[右大臣]]、天文23年([[1554年]])に関白左大臣となる。また、[[藤氏長者]]に就任した。
 
  
天文24年([[1555年]])1月13日、[[従一位]]に昇叙し、足利家からの[[偏諱]](「晴」の字)を捨てて名を'''前嗣'''(さきつぐ)と改める。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
=== 上杉謙信との盟約 ===
 
[[永禄]]2年([[1559年]])、[[越後国]]の長尾景虎(後の[[上杉謙信]])が[[上洛]]した際、前嗣と景虎は互いに肝胆照らし合い、血書の起請文を交わして盟約を結んだ<!-- この際、謙信との間に、[[男色]]の契りを結んだとする説があるが、これを証明する資料は乏しい。-->。
 
前嗣は関白の職にありながら、永禄3年([[1560年]])に越後に下向、更に永禄4年([[1561年]])の初夏には越山し、景虎の関東平定を助けるために[[上野国|上野]]・[[下総国|下総]]に赴くなど、[[公家]]らしからぬ行動力をみせた。景虎が越後に帰国した際も危険を覚悟の上で[[古河城]]に残り情勢を逐一越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物でもあった。
 
 
 
この後、謙信は信濃へ出兵し、[[武田信玄]]といわゆる第四次[[川中島の戦い]]を演じることになる。謙信の活躍はただちに古河城の前久にも伝えられ、前嗣は謙信に宛てて戦勝を賀す書状を送っている(『[[歴代古案]]』)。この頃、名を'''前嗣'''から'''前久'''(さきひさ)に改め、花押を公家様式から武家様式のものに変えた。古河入城にあたった前久の決意めいた気概が窺える。しかし、武田・[[後北条氏|北条]]の二面作戦から謙信の関東平定が立ち行かなくなると、次第に前久は不毛感を覚え、永禄5年([[1562年]])8月、失意のうちに帰洛する。この帰洛は謙信の説得を振り切ってのことで、謙信はかなり立腹したとされる(「尊経閣文庫所蔵文書」『上越史』337)。しかし、一説には謙信の関東平定後に上洛を促す計画であったともされている<ref>[[湯川敏治]]は近衛尚通の妹[[慶寿院]]が将軍足利義晴に嫁いで所生の義輝が将軍になったことで、近衛家を介して朝廷と室町幕府の関係が強化されたことを指摘し、前久の下向の背景には近衛家先代稙家・[[正親町天皇]]・将軍義輝・慶寿院らによって進められていた朝廷(室町幕府)再興計画の一環として謙信の上洛を促すために派遣されたとする説を採る。(湯川敏治『戦国期公家社会と荘園経済』(続群書類従完成会、[[2005年]]) ISBN 978-4-7971-0744-9) P100-103</ref>。
 
 
 
=== 二条晴良・足利義昭との対立 ===
 
永禄8年([[1565年]])の[[永禄の変]]で将軍・[[足利義輝]]を殺害した[[三好三人衆]]は将軍殺害の罪に問われる事を危惧して揃って前久を頼った。前久は義輝の従兄弟であったがその[[正室]]である自分の姉を保護した事を評価してこれを認め、彼らが推す[[足利義栄]]の将軍就任を決定した。
 
 
 
だが永禄11年([[1568年]])、[[織田信長]]が[[足利義昭]]を奉じ上洛を果たした。義昭は永禄の変後の前久の行動から兄の死には前久が関与しているのではと疑い、更に先関白の[[二条晴良]]も前久の罪を追及した。吟味の結果、義昭はついに前久を朝廷から追放した。
 
 
 
=== 関白の解任 ===
 
前久は、都から[[丹波国]]の[[赤井直正]]を頼って[[黒井城]]の[[黒井城#下館と出砦|下館]]に流寓。その後、[[本願寺]]11世・[[顕如]]を頼って[[摂津国]]の[[石山本願寺]]に移り関白を解任された。この時、顕如の長男・[[教如]]を自分の[[猶子]]としている。後に「[[信長包囲網]]」の動きが出てくると、前久も三好三人衆の依頼を受けてこれに参加して顕如に決起を促したと言われている。だが、前久自身は信長に敵意は無く、将軍・足利義昭と関白・二条晴良の排除が目的であった。そのため、[[天正]]元年([[1573年]])に義昭が信長によって京都を追放され、一方の晴良も信長から疎んじられるようになると、前久は再び赤井直正のもとに移って「信長包囲網」から離脱した。天正3年([[1575年]])、信長の奏上により、帰洛を許された。
 
 
 
=== 織田信長との親交 ===
 
以後は信長との親交を深め、特に[[鷹狩り]]という共通の趣味を有していた事から、前久と信長はしばしば互いの成果を自慢しあったと言われている<ref>天正6年([[1578年]])6月には2人で少数の供だけを連れて鷹狩りに出て満喫した信長がその場で当時の[[公家領]]としては破格の1,500石の加増の命令書を書いて前久に渡したという。</ref>。
 
9月には、信長に要請される形で、[[九州]]に下向し、[[大友氏]]・[[伊東氏]]・[[相良氏]]・[[島津氏]]の和議を図った。天正5年([[1577年]])に京都に戻り、翌天正6年(1578年)には[[准后|准三宮]]の待遇を受ける。次いで信長と本願寺の調停に乗り出し、天正8年([[1580年]])に顕如は石山本願寺を退去した。特に10年近くかかっても攻め落とせなかった石山本願寺を開城させた事に対する信長の評価は高く、前久が息子・[[近衛信尹|信基]]にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衞家に[[令制国|一国]]を献上する」約束を得たという。天正10年([[1582年]])2月に[[太政大臣]]となるが、5月には辞任している。これは信長の[[三職推任問題]]に関連して前久が信長に同職を譲る意向であったからだとも言われている。3月の[[甲州征伐]]には信長と同行する。
 
 
 
=== 本能寺の変 ===
 
だが、6月2日の[[本能寺の変]]によって、信長が横死したため、前久の運命も変転を余儀なくされる。失意の前久は落飾し'''龍山'''と号する。しかし、「[[本能寺]]を攻撃した[[明智光秀]]軍が前久邸<ref>この前久邸は元は天正7年([[1579年]])に[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が自邸として建設したものの、信長に没収されて代わりに前久に贈られた物であり、二条御所周辺で唯一の武家造の建物であったという。</ref>から本能寺を銃撃した<ref>この事から本能寺の変の黒幕を前久だとする説があるが、本能寺の変直前には信長を後任に推挙して太政大臣を辞任し、かつ変前日にも信長と歓談していた程の親密な関係であった前久にとって、信長の死は痛恨の窮み以外の何物でもなかった。これは、本能寺の変直後に出家している事や、既に[[徳川氏]]の天下になっていた[[慶長]]13年([[1608年]])の信長の命日に追悼句会を開いている事からも明白である。</ref>」と讒言に遭い、[[織田信孝]]や後に猶子となる[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]からも詰問される。そのため、以後は[[徳川家康]]を頼り([[徳川氏]]の創姓は前久と[[吉田兼右]]が関わっていた)、[[遠江国]][[浜松]]に下向した。
 
 
 
一年後、家康の斡旋により秀吉の誤解は解け京都に戻るが、天正12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]で両者が激突したため、またもや立場が危うくなった前久は奈良に身を寄せ、両者の間に和議が成立したことを見届けてから帰洛した。
 
 
 
=== 隠棲後 ===
 
天正15年([[1587年]])より[[慈照寺]]東求堂を別荘として隠棲した。[[貞享]]3年([[1686年]])刊行の雍州府志によると、前久が隠棲していた時代の慈照寺は「時に此の寺、住職無し」の状態だったという。慶長5年([[1600年]])の関ヶ原合戦時には、東軍に与した水谷勝俊の嫡男[[水谷勝隆|勝隆]]を匿う一方で、西軍の島津氏と音信する等中立を保ちつつ、関ヶ原合戦の詳細な情報を信尹に伝える等、かつての活躍を伺わせる行動をしている。
 
 
 
[[慶長]]17年([[1612年]])5月8日、薨去。享年77。京都[[東福寺]]に葬られた。法名は'''東求院龍山空誉'''。
 
 
 
== 人物・評価 ==
 
前久は[[藤原氏]][[嫡流]]の[[摂家|五摂家]]らしく、[[和歌]]・[[連歌]]に優れた才能を発揮した。[[書道]]は、[[青蓮院流]]を学び、[[有職故実]]にも詳しかった。更に[[馬術]]や鷹狩りなどにも抜群の力量を示して「龍山公鷹百首」という鷹狩りの専門的な解説書を兼ねた歌集も執筆し、秀吉と家康に写本を与えている。京都を離れ、地方を流浪遍歴することを余儀なくされたが、前久にとっては、単に経済的困窮や戦乱を逃れるためのものではなく、むしろ政治への積極参加のための手段の一つであった。同時に地方に中央の文化を伝播する上で重要な役割を果たしたと評価されている。
 
 
 
歌道については信長の七回忌(天正十六年六月二日)に詠んだ追悼歌の六首が残っている。六首全てで五七五七七の書き出しの一字がそれぞれ「なむあみだぶ」で揃えられている<ref>{{Cite book|和書|author=藤本正行|authorlink=藤本正行|title=本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意|date=2010|publisher=洋泉社|page=236}}</ref>。
 
:なけきても 名残つきせぬ なみた哉 猶したはるゝ なきかおもかけ
 
:むつましき むかしの人や むかふらむ むなしき空の むらさきの雲
 
:あたし世の あはれおもへは 明くれに あめかなみたか あまるころもて
 
:みても猶 みまくほしきは みのこして みねにかくるゝ みしかよの月
 
:たつねても たまのありかは 玉ゆらも たもとの露に たれかやとさむ
 
:ふくるよの ふしとあれつゝ ふく風に ふたゝひみえぬ ふるあとの夢
 
 
 
== 年譜 ==
 
以下表中、日付は[[旧暦]]、西暦年は和暦年を日付にかかわらず単純に[[ユリウス暦]]に置換したものである。
 
{| class=wikitable
 
|-
 
!和暦年
 
!日付
 
!西暦年
 
!出来事<!--内容は簡潔に記してください-->
 
!出典
 
|-
 
|[[天文 (元号)|天文]]9年
 
|12月30日
 
|{{smaller|1541年}}
 
|元服、将軍[[足利義晴]]の偏諱を受け近衛晴嗣と名乗り、[[正五位下]]に叙して禁色を聴される
 
|
 
|-
 
|rowspan=5|天文10年
 
|1月3日
 
|rowspan=5|{{smaller|1541年}}
 
|[[近衛府|左近衛権少将]]に任官
 
|
 
|-
 
|1月5日
 
|[[従四位上]]に昇叙
 
|
 
|-
 
|2月24日
 
|[[近衛府|左近衛権中将]]に転任
 
|
 
|-
 
|2月27日
 
|[[従三位]]に昇叙、左近衛権中将は元の如し
 
|
 
|-
 
|3月27日
 
|[[伊予国|伊予権守]]を兼任
 
|
 
|-
 
|rowspan=2|天文11年
 
|1月5日
 
|rowspan=2|{{smaller|1542年}}
 
|[[正三位]]に昇叙、左近衛権中将兼伊予権守は元の如し
 
|
 
|-
 
|2月2日
 
|[[中納言|権中納言]]に転任、左近衛権中将は元の如し
 
|
 
|-
 
|nowrap|天文13年
 
|1月6日
 
|nowrap|{{smaller|1544年}}
 
|[[従二位]]に昇叙、権中納言兼左近衛権中将は元の如し
 
|
 
|-
 
|天文14年
 
|12月23日
 
|{{smaller|1545年}}
 
|[[大納言|権大納言]]に転任
 
|
 
|-
 
|rowspan=2|天文15年
 
|3月13日
 
|rowspan=2|{{smaller|1546年}}
 
|[[近衛大将|右近衛大将]]を兼任
 
|
 
|-
 
|12月23日
 
|[[近衛大将|左近衛大将]]を兼任、右近衛大将は辞す
 
|
 
|-
 
|rowspan=2|天文16年
 
|1月5日
 
|rowspan=2|{{smaller|1547年}}
 
|[[正二位]]に昇叙、権大納言兼左近衛大将は元の如し
 
|
 
|-
 
|2月17日
 
|[[内大臣]]に転任、左近衛大将は元の如し
 
|
 
|-
 
|rowspan=2|天文22年
 
|1月26日
 
|rowspan=2|{{smaller|1553年}}
 
|[[右大臣]]に転任、左近衛大将は元の如し
 
|
 
|-
 
|1月30日
 
|左近衛大将を辞す
 
|
 
|-
 
|rowspan=2|天文23年
 
|3月2日
 
|rowspan=2|{{smaller|1554年}}
 
|[[関白]]宣下、右大臣は元の如し
 
|
 
|-
 
|4月11日
 
|[[左大臣]]に転任、関白は元の如し
 
|
 
|-
 
|天文24年
 
|1月13日
 
|{{smaller|1555年}}
 
|[[従一位]]に昇叙、関白左大臣は元の如し、[[足利義晴]]の偏諱を捨て名を前嗣と改める
 
|
 
|-
 
|[[弘治 (日本)|弘治]]3年
 
|9月2日
 
|{{smaller|1557年}}
 
|左大臣を辞す
 
|
 
|-
 
|[[永禄]]3年
 
|9月19日
 
|{{smaller|1560年}}
 
|[[越後国]][[上越市|府中]]の[[上杉謙信|長尾景虎]]のもとへ下向
 
|
 
|-
 
|rowspan=3|永禄4年
 
|5月
 
|rowspan=3|{{smaller|1561年}}
 
|越後府中から[[上野国]][[厩橋]]に転居
 
|
 
|-
 
|不詳
 
|上野国厩橋から[[下総国]][[古河]]に転居
 
|
 
|-
 
|不詳
 
|名を前久と改める
 
|
 
|-
 
|rowspan=3|永禄5年
 
|2月
 
|rowspan=3|{{smaller|1562年}}
 
|下総国古河から上野国厩橋に転居
 
|
 
|-
 
|不詳
 
|上野国厩橋から越後国府中に転居
 
|
 
|-
 
|8月
 
|帰洛
 
|
 
|-
 
|永禄9年
 
|12月
 
|{{smaller|1566年}}
 
|[[徳川家康|松平家康]]の苗字を徳川に改め、[[従五位下]][[三河守]]に叙任することを朝廷に斡旋
 
|
 
|-
 
|rowspan=2|永禄11年
 
|10月
 
|rowspan=2|{{smaller|1568年}}
 
|[[黒井城]]の[[黒井城#下館と出砦|下館]]に流寓
 
|[[興禅寺 (丹波市)|大梅山興禅寺]]
 
|-
 
|12月16日
 
|関白を止め、[[摂津国]][[大坂]]の[[石山本願寺]]に寄寓
 
|
 
|-
 
|[[元亀]]3年
 
|不詳
 
|{{smaller|1572年}}
 
|石山本願寺から[[河内国]][[若江]]の[[三好義継]]のもとに移る
 
|
 
|-
 
|元亀4年
 
|不詳
 
|{{smaller|1573年}}
 
|三好義継のもとから[[丹波国]]黒井城の[[赤井直正]]のもとに移る
 
|
 
|-
 
|rowspan=2|[[天正]]3年
 
|6月28日
 
|rowspan=2|{{smaller|1575年}}
 
|帰洛
 
|
 
|-
 
|9月
 
|[[薩摩国]][[鹿児島]]の[[島津義久]]のもとへ下向
 
|
 
|-
 
|天正4年
 
|不詳
 
|{{smaller|1576年}}
 
|島津義久のもとと[[肥後国]]八代の[[相良義陽]]のもととを往復する
 
|
 
|-
 
|rowspan=2|天正5年
 
|2月26日
 
|rowspan=2|{{smaller|1577年}}
 
|帰洛
 
|
 
|-
 
|nowrap|閏7月20日
 
|朝廷に再出仕
 
|
 
|-
 
|天正6年
 
|1月20日
 
|{{smaller|1578年}}
 
|[[准后|准三宮]]宣下
 
|
 
|-
 
|rowspan=5|天正10年
 
|2月2日
 
|rowspan=5|{{smaller|1582年}}
 
|[[太政大臣]]宣下
 
|
 
|-
 
|3月
 
|[[甲斐国]][[甲府市|府中]]に[[織田信長]]と同道
 
|
 
|-
 
|5月
 
|太政大臣を辞す
 
|
 
|-
 
|6月2日
 
|出家、[[山城国]][[嵯峨]]に逼塞
 
|
 
|-
 
|11月
 
|[[遠江国]][[浜松]]の徳川家康のもとに寄寓
 
|
 
|-
 
|天正11年
 
|9月
 
|{{smaller|1583年}}
 
|帰洛
 
|
 
|-
 
|rowspan=2|天正12年
 
|3月
 
|rowspan=2|{{smaller|1584年}}
 
|[[大和国]][[奈良]]に奔る
 
|
 
|-
 
|7月
 
|[[美濃国]]へ移る
 
|
 
|-
 
|rowspan=3|天正13年
 
|7月
 
|rowspan=3|{{smaller|1585年}}
 
|[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]を猶子とする
 
|
 
|-
 
|8月
 
|[[越前国]]に下向
 
|
 
|-
 
|閏8月
 
|帰洛
 
|
 
|-
 
|rowspan=2|天正15年
 
|3月
 
|rowspan=2|{{smaller|1587年}}
 
|上野国[[草津温泉|草津]]に湯治下向
 
|
 
|-
 
|8月
 
|帰洛
 
|
 
|-
 
|[[慶長]]17年
 
|5月8日
 
|{{smaller|1612年}}
 
|[[薨去]]
 
|
 
|}
 
 
 
== 系譜 ==
 
* 父:[[近衛稙家|近衞稙家]]
 
* 母:久我慶子 - [[久我通言]]養女([[細川高基]]の娘)
 
* 兄弟姉妹
 
** 陽山
 
** 道澄 - [[大僧正]]法務[[准后|准三后]]
 
** 尊信 - 大僧正准三后
 
** [[足利義輝]]室
 
** [[朝倉義景]]室
 
 
 
* 正室:[[北政所]] - [[久我晴通]]の娘
 
* [[妾]]:家女房 - [[波多野惣七]]の娘
 
** 男子:[[近衛信尹|近衞信尹]](1565-1614)
 
* 妾:[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]の娘
 
** 女子:近衞前子([[近衞前子|中和門院]])(1575-1630) - [[後陽成天皇]][[女御]]、[[後水尾天皇]]母
 
* 生母不明
 
** 男子:[[尊勢]](?-1616) - 大僧正法務[[興福寺]][[別当]]准三后
 
** 女子:宝光院[[久山昌隆尼]](信尹の妹、中和門院の姉)
 
** 女子:光照院
 
** 女子:渓江院(桂光院)- [[赤井直正]]室
 
 
 
*猶子
 
**[[堯真]](1549-1619) - 実は専修寺堯慧の子
 
**[[慈運]](?-1614) - [[大炊御門経頼]]の子、[[大僧正|権大僧正]]
 
**豊臣秀吉(1537-1598) - 関白に就任するため、近衞家の猶子となる([[関白相論]]参照)。
 
**[[津軽為信]](1550-1608) - 津軽地方支配の正当性を確立するため。[[大浦政信]]が[[近衛尚通]]の[[落胤]]だという伝承を利用した。
 
 
 
===略系図===
 
'''凡例''' - 実線は実子、縦点線は養子、横点線は婚姻。
 
 
 
{| style="font-size:smaller"
 
| style="background-color: #aaf; border: 1px solid gray;" | [[近衞家]]
 
| style="background-color: #afa; border: 1px solid gray;" | [[足利将軍家]]
 
| style="background-color: #faa; border: 1px solid gray;" | [[皇室|天皇家]]
 
|}
 
{{familytree/start}}
 
{{familytree | | | MTN | | | | | |HSA  | | | | |MTN=[[久我通言]]|HSA=[[近衛尚通|近衞尚通]]
 
|boxstyle_HSA  =background-color: #aaf;}}
 
{{familytree | | | |:|,|-|-|-|-|-|-|+|-|-|-|.| |}}
 
{{familytree | | | |D|#|~|~|7| | | |!| | | |!| |}}
 
{{familytree | | | HRM | | KEI |y|TNE  | | KJI |y|YSH  | | |HRM=[[久我晴通]]|KEI=慶子|TNE=[[近衛稙家|近衞稙家]]|KJI=[[慶寿院]]|YSH=[[足利義晴]]
 
|boxstyle_TNE  =background-color: #aaf;
 
|boxstyle_YSH  =background-color: #afa;}}
 
{{familytree | |,|-|^|-|.| | | |)|-|-|-|.| | | |)|-|-|-|.|}}
 
{{familytree | MTI | | KTA |~|SKI  | | YME |~|YST  | |YSA  | |MTI=[[久我通堅]]|KTA=北政所|SKI=[[近衞前久]]|YME=女|YST=[[足利義輝]]|YSA=[[足利義昭]]
 
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{{familytree | ATM | | HDY | |NOB  | | SKI |y|GYZ | | |ATM=[[久我敦通]]|HDY=[[豊臣秀吉]]<br />(猶子)|NOB=[[近衛信尹|近衞信尹]]|SKI=[[近衞前子]]<br />(中和門院)|GYZ=[[後陽成天皇]]
 
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{{familytree | | | | | | | | |NOB  | | | |GMZ  |NOB=[[近衛信尋|近衞信尋]]|GMZ=[[後水尾天皇]]
 
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{{familytree/end}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=谷口研語|title=流浪の戦国貴族 近衞前久 <small>天下一統に翻弄された生涯</small>|date=1994|series=[[中公新書]]|isbn=4-12-101213-5}}
 
* {{Cite book|和書|author=橋本政宣|title=近世公家社会の研究|date=2002|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4-642-03378-5}}
 
* {{Cite book|和書|author=西坊義信|title=西坊家口伝集|volume=続々|date=2015}}
 
 
 
== 前久を題材とする作品 ==
 
* [[安部龍太郎]]『<small>戦国秘譚</small> 神々に告ぐ』上、下([[角川文庫]]、[[2002年]])
 
** 上 ISBN 4-04-365901-6、下 ISBN 4-04-365902-4
 
* 宮城賢秀『近衛前久隠密帳』([[角川春樹事務所]]ハルキ文庫、[[2003年]]) ISBN 4-7584-3053-5
 
* [[山田風太郎]]『忍法流水抄』収録の短編小説「近衛忍法暦」
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[畿内・近国の戦国時代]]
 
 
 
----
 
{{start box}}
 
{{s-off}}
 
{{Succession box
 
| title  = [[左大臣]]
 
| years  = 1554 - 1557
 
| before = [[一条兼冬]]
 
| after  = [[西園寺公朝]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = [[右大臣]]
 
| years  = 1553 - 1554
 
| before = 一条兼冬
 
| after  = 西園寺公朝
 
}} 
 
{{Succession box
 
| title  = [[左近衛大将]]
 
| years  = 1546 - 1553
 
| before = 一条兼冬
 
| after  = 西園寺公朝
 
}} 
 
{{Succession box
 
| title  = [[内大臣]]
 
| years  = 1547 - 1553
 
| before = 一条兼冬
 
| after  = 西園寺公朝
 
}} 
 
{{Succession box
 
| title  = [[近衛大将|右近衛大将]]
 
| years  = 1546
 
| before = 一条兼冬
 
| after  = [[足利義晴]]
 
}} 
 
{{end box}}
 
{{藤原氏長者}}
 
{{近衛家|第16代}}
 
{{歴代関白}}
 
{{歴代太政大臣}}
 
{{Normdaten}}
 
 
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[[Category:摂関]]
 
[[Category:摂関]]

2019/6/11/ (火) 09:29時点における最新版

近衞 前久(このえ さきひさ)

安土桃山時代の公卿。出家して龍山,東求院と号した。父は稙家,子は三藐院信尹 (近衛信尹 ) 。越後の長尾景虎 (上杉謙信) をたずね,京都に帰って足利義昭と不和になると織田信長に頼った。天正 10 (1582) 年関白,太政大臣となったがまもなく辞し,豊臣秀吉に頼ったが,本能寺の変後不和になり,浜松に徳川家康をたずね,また晩年には子の信尹と不和になるなど不安の一生をおくった。有職故実,暦学,歌道,書道にすぐれていた。




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