「ジョン・モルガン」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「 '''ジョン・ピアポント・モルガン'''(John Pierpont Morgan、1837年4月17日 - 1913年3月31日) アメリカ合衆国の大金融資本...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{Infobox 人物
 
| name        =ジョン・ピアポント・モルガン<br />J. P. Morgan
 
| image      =JohnPierpontMorgan.jpg
 
| imagesize  =225px
 
| caption    =ジョン・ピアポント・モルガン
 
| birth_date  =[[1837年]][[4月17日]]
 
| birth_place ={{USA1837}} [[コネチカット州]] [[ハートフォード (コネチカット州)|ハートフォード]]
 
| death_date  =[[1913年]][[3月31日]] (75歳)
 
| death_place ={{ITA1861}} [[ローマ]]
 
| occupation  =[[投資家]] [[銀行家]]
 
| salary      =
 
| networth    =
 
| spouse      =フランシス・ルイーズ・トレイシー
 
| website    =
 
| footnotes  =
 
}}
 
'''ジョン・ピアポント・モルガン'''(John Pierpont Morgan、[[1837年]][[4月17日]] - [[1913年]][[3月31日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の5大[[財閥]]の1つであるモルガン財閥の創始者である。
 
  
== 概要 ==
+
'''ジョン・ピアポント・モルガン'''(John Pierpont Morgan、[[1837年]][[4月17日]] - [[1913年]][[3月31日]]
[[Image:Morgan, Sam.jpg|thumb|240px|モルガンの経済界における役割は、連邦政府より大きいと認識されており、この戯画では小さな[[アンクル・サム]](アメリカを擬人化した人物)と大きなモルガン、即ちアメリカ全体より大きなモルガンとして描かれている。1881年。]]
 
[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]を卒業後、[[ロンドン]]で父が起こした[[#J・P・モルガン・アンド・カンパニー|J・S・モルガン・アンド・カンパニー]]を受け継ぎ、19世紀末には世界最大の[[銀行家]]となった。その豊富な資金力を活かして多くの[[鉄道]]を経営・統合し、[[USスチール]]も設立した。19世紀末にアメリカ最大の[[財閥]]の1つとなった。海運・電力・通信事業にも進出した。
 
  
彼は巨大な芸術品コレクションを[[ニューヨーク]][[メトロポリタン美術館]][[コネチカット州]][[ハートフォード (コネチカット州)|ハートフォード]]の{{仮リンク|ワズワース・エサニアム|en|Wadsworth Atheneum}}に遺贈した。
+
アメリカ合衆国の大金融資本家。ドイツのゲッティンゲン大学で学び,1857年ニューヨークのダンカン・シャーマン商会に入社,1960~64年父 J.S.モルガンがパートナーだったジョージ・ピーボディ商会と,それを引き継いだ J.S.モルガン商会(ロンドン)のニューヨーク代理人として金融界で活躍。1871年ドレクセル・モルガン商会のパートナー,1895年同商会を傘下に収めて J.P.モルガン商会を創設。投資銀行家として合衆国政府債の引受業務,アメリカ鉄道界の再編成と安定化,[[ユナイテッド・ステーツ・スチール]][[ゼネラル・エレクトリック]][[インターナショナル・ハーベスター]]などの巨大会社の実現に成功,アメリカ金融界の中心人物,経済力集中のシンボルとなった。1912年にはアメリカの主要 47会社の 72の重役の椅子をモルガン商会のパートナー 11人が占め,[[モルガン財閥]]を形成した。病院,教会,図書館,美術館にも莫大な金を寄付した。
  
[[1913年]]に[[イタリア]]の[[ローマ]]で死去。75歳であった。モルガンは終生[[米国聖公会]]のメンバーであった。[[1890年]]までは指導的立場でもあった。彼の財産とビジネスは息子の{{仮リンク|ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア|en|J. P. Morgan, Jr.}}、通称ジャックに引き継がれた。ジャックは[[戦間期]]に金融スキャンダルの中心人物であった。ペコラ委員会はジャックの[[インサイダー取引]]を暴き([[アメリカ合衆国の経済史#世界恐慌: 1929年-1941年]])、[[ナイ委員会]](1936年)はジャックらが米国を[[第一次世界大戦]]に参戦させた[[死の商人]]であると糾弾した<ref>''Quarterly Journal of Austrian Economics'', Volume 1, No. 1 (Spring 1998), Alexander Tabarrok, "[https://mises.org/library/separation-commercial-and-investment-banking-morgans-vs-rockefellers Separation of Commercial and Investment Banking]: The Morgans vs. The Rockefellers", p.7.</ref>。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
モルガン家は[[ロスチャイルド]]、[[ロックフェラー]]、[[チャーチル]]、[[アヴェレル・ハリマン]]らと[[閨閥]]をつくっている<ref>[[広瀬隆]] 『地球のゆくえ』 集英社 1994年 系図3
 
:掲載されている人物は著名でなくてもコネクションを形成するに足る社会的地位を持つ。[[ホワイト&ケース]]パリ事務所長の[[:en:White & Case#World War II and postwar growth|Paul Pennoyer]]はその一例。</ref>。彼らとは生前からビジネスで協力する関係にあったとみられる。1913年の[[連邦準備制度]]の設立にも積極的かつ組織的に関与したものと考えられる<ref>状況証拠は編集者が現時点で挙げるもので3点。①秘密会議の行われたジキル島の所有、および系図に登場した[[ジョン・ロックフェラー]]の後押しする[[ウッドロウ・ウィルソン]]が、②オーウェン・グラス法に署名し、③制度設計者の[[ウィリアム・マカドゥー]]に子を嫁がせている事実である。</ref>。外交官の[[ジョセフ・グルー]]も家族関係である。CIA の前身である[[Office of Strategic Services|OSS]] にはモルガン家が在籍した。ジョンの会社[[JPモルガン・チェース#JPモルガン|JPモルガン]]は、ラモントのときに[[関東大震災]]復興資金のシ団を代表した。こうしてモルガンは日本の政治経済に浅からぬ影響を残した。
 
 
 
== 生誕から青年まで ==
 
[[Image:JPMorgan-Young.png|thumb|right|240px|若き日のモルガン.]]
 
ジョン・ピアポント・モルガンはコネチカット州ハートフォードで生まれた。父はマサチューセッツ州ホールヨーク出身の銀行家[[ジューニアス・モルガン|ジューニアス・スペンサー・モルガン]]([[1814年]] - [[1891年]])、母は教会の牧師の娘だったジュリエット・ピアポント([[1816年]] - [[1884年]])。[[:en:Morgan family#Geneaology|父方の系譜]]は源流のウィリアムが名家「[[:en:Tredegar House#The Tredegar Morgans 1402–1951|トレデガー・モーガン]]」と姻戚関係にある。{{要出典|範囲=同家は海賊[[ヘンリー・モーガン]]のいることで知られている|date=2017年3月}}。
 
 
 
ピアポントは、父・ジューニアスにより種々の教育を授けられ、[[1848年]]秋、ハートフォード・パブリック・スクールに転科した後、[[チェシャ (コネチカット州)|チェシャ]]の英国国教会アカデミー([[:en:Episcopal Academy|Episcopal Academy]]、現[[チェシャ・アカデミー]])に首席で進学。[[1851年]]9月には、キャリアとなるために有効な数学に秀でている[[:en:The English High School|イングリッシュ・ハイスクール]]へ入学した。
 
 
 
[[1852年]]9月、[[リウマチ熱]]に罹患し、歩けないほどになった。ジューニアスはすぐに船を手配し、モルガンを[[ポルトガル]]北部の[[アゾレス諸島]]に転移療養させた。約1年後に回復し、[[投資信託]]のメッカである[[ボストン]]に戻って勉学を続けた。
 
 
 
ハイスクール卒業後、ジューニアスにより[[スイス]]の[[ヴェヴェイ]]近くにある学校に進学した。流暢な[[フランス語]]を取得後、今度は[[ドイツ語]]取得のためにゲッティンゲン大学に進学した。6ヶ月である程度のレベルに達し、芸術の歴史もかじったあと[[ヴィースバーデン]]経由でロンドンに戻り、学業を修了した<ref>{{cite web |url=http://www.financial-inspiration.com/JP-Morgan-biography.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2013年4月7日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051016105210/http://www.financial-inspiration.com/JP-Morgan-biography.html |archivedate=2005年10月16日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。こうして欧州金融界と話せるようになった。
 
 
 
[[1857年]]、モルガンは父の経営する銀行のロンドン支店に入社。翌年、ニューヨークに移り、[[ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニー]]のアメリカ代理店であるダンカン・シェアマン・アンド・カンパニーに勤務([[ジョージ・ピーボディ]]を参照)。[[1860年]]、J・P・モルガン・アンド・カンパニーを設立し、父の会社のニューヨーク代理店のエージェントの役割を果たした。
 
[[南北戦争]]時の翌年、モルガンは旧式の[[小銃|ライフル]]を1挺3.50[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]で購入し、改良したのちに22ドルで北軍に売却してスキャンダルになった([[:en:Hall Carbine Affair|ホール・カービン事件]])。ハートフォード・パブリック・スクールの教師を人脈にもっていたモルガンは、教師の親戚サイモン・スチーブンスを代理人に立ててライフル購入資金を貸し付けていた<ref>大場四千男 「モルガン家とアメリカ資本主義の経営史(一)」 北海学園大学学園論集(156), p.244.</ref>。モルガン自身は他の富裕層同様、1000ドルを代理人に支払うことで兵役を免れていた。
 
 
 
[[1864年]]、ダブニー・モルガン・アンド・カンパニーをつくった。[[1871年]]、[[フィラデルフィア]]の銀行家である[[アンソニー・J・ドレクセル]]([[:en:Anthony Joseph Drexel I|Anthony Joseph Drexel I]])と提携し、ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立した。ドレクセルが[[1893年]]に死去した後、[[1895年]]に'''J・P・モルガン・アンド・カンパニー'''(現[[JPモルガン・チェース]])となる。
 
 
 
== 鉄道トラストとモルガニゼーション ==
 
モルガンの権力志向はダイナミックな金融の競争において見られた。[[1869年]]、[[ジェイ・グールド]]と[[ジム・フィスク]]から[[アルバニー・アンド・サスケハナ鉄道]]の経営を奪取。モルガンは株を引き受ける[[シンジケート]]を率いて、[[ジェイ・クック]]が独占していた政府の資金調達の役割を奪取。また、鉄道開発への投資に深く関わるようになる。
 
 
 
[[1885年]]、モルガンは[[ニューヨーク・ウェスト・ショア・アンド・バッファロー鉄道]]を再建し、[[ニューヨーク・セントラル鉄道]](NYC)に貸し付けた。[[1886年]]には[[フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道]]を、[[1888年]]には[[チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道]](C&O)を再建した。そして[[ジェームズ・ジェローム・ヒル]]とともに[[グレート・ノーザン鉄道]](GN)の経営に深く関わっていく。
 
 
 
[[1887年]]に[[州際通商委員会|州際通商法]]が成立した後、モルガンは[[1889年]]と[[1890年]]に鉄道会社の首脳を集めた会議を開き、各鉄道会社が新法に合わせた営業活動を行うことと、「公共的で、安価で、一定で、安定した運賃」を維持するための協定を結んだ。この会議は競合する鉄道会社同士のコミュニティとして機能し、20世紀初頭の鉄道の大再編への道筋となるものであった。
 
 
 
このような、モルガンの行った経営困難に陥っている鉄道を再建させる手法は'''モルガニゼーション'''と呼ばれた<ref>{{cite news |first= Heather |last= Timmons |title=J.P. Morgan: Pierpont would not approve. |url= |work= |publisher=[[BusinessWeek]] |date=November 18, 2002}}</ref>。モルガンは事業の骨格とマネジメントを再編し、利益が出せるようにした。モルガンの銀行家としての名声は投資家たちの興味を誘い、モルガンが手がける事業に目を向けさせた<ref>{{cite web |url=http://voteview.com/rtopic6_ucsd_4.htm |title=Morganization: How Bankrupt Railroads were Reorganized |accessdate=2007-01-05 |format=HTML |work= }}</ref>。
 
 
 
こうしたトラスト形成の過程で、[[1901年]]には[[エドワード・ヘンリー・ハリマン]]との間で[[シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道]](CB&Q)の争奪戦が起こり、'''ノーザン・パシフィック・コーナー'''と呼ばれる株式の異常高騰を誘発した。これは[[1901年恐慌]]へ発展した。
 
{{see also|ノーザン・セキュリティーズ}}
 
 
 
なお、中国では1895年に華美啓興公司''[[:en:American China Development Company|American China Development Company]]'' を[[アンドリュー・カーネギー]]や[[ロックフェラー家|シティバンク]]と共同出資で設立した。1898年4月に広東-漢口間の鉄道敷設を清より免許されたが、1905年8月に取り消され、このとき675万USドルの補償金を得た。1900年末までにACDC 株の2/3が[[ベルギー]]資本に買収されていた。
 
 
 
== 合衆国の「中央銀行」として ==
 
[[1895年]]、[[1893年恐慌]]の影響で[[アメリカ合衆国財務省]]の保有していた[[金]]の海外への流出が続き、底を突きかけた。[[ジョン・シャーマン (政治家)|シャーマン銀購入法]]により、アメリカが事実上の金銀複本位制をとったために、ヨーロッパにおいてアメリカの有価証券に対する信用が落ち、ヨーロッパの資本家が金に換えてしまったのである。
 
 
 
当時の[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[グロバー・クリーブランド]][[アメリカ合衆国大統領]]は、モルガンに[[ウォール街]]のシンジケート(債権を引き受ける銀行団)を組織し、財務省に6,500万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]の金を調達するよう要請<ref>クリーブランドはモルガンの義父の法律事務所で働いたことがあり、モルガンと近い間柄であり、かつ金本位制の推進者であった。
 
</ref>。その半分はヨーロッパから調達し、財務省の1億ドルの債権の信用回復に使用されることとされた。このエピソードが、ヨーロッパ資本の引き上げ傾向に歯止めをかけて財務省を救済したが、クリーブランド<!--the agrarian wing-->にダメージを与え、[[1896年]]の大統領選挙において同じ民主党の[[ウィリアム・ジェニングス・ブライアン]]により激しい非難を浴びた。モルガンとウォール街の銀行家たちは共和党の[[ウィリアム・マッキンリー]]に多額の寄付を行い、マッキンリーは同年と、[[金本位制]]をうたった[[1900年]]の大統領選で勝利した<ref> Chernow (2001) ch 4</ref>。マッキンリーは[[反トラスト法]]を発動させない、経済界にとっては都合のいい大統領であった。
 
 
 
モルガンは次節の鉄鋼トラストを形成してから、[[1907年恐慌]]の処理に主導的役割を演じた。。[[1910年]]11月、モルガンが所有する{{仮リンク|ジキル島クラブ|en|Jekyll Island Club}}で[[連邦準備制度]]の設立に向けた秘密会議を主催した。そこには[[ジョン・ロックフェラー]]、[[ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト]]、そしてバンカーズ・トラスト(現[[ドイツ銀行]])の[[ベンジャミン・ストロング]]などが出席した。
 
 
 
[[1912年]]12月、モルガンは[[1907年恐慌#プジョー委員会|プジョー委員会]]で証言した。委員会は、金融機関の首脳たちが密かに結託し、自らの公的信用を利用して複数の産業を支配下においていると考えていた。[[ファースト・ナショナル銀行]]と[[ロックフェラー家|ナショナル・シティ銀行]]の取締役として、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは222.45億ドルの資金があった。のちに[[合衆国最高裁判所]]の[[裁判官]]となったルイス・ブランダイスはこの資産は[[ミシシッピ川]]以西の22州の規模に匹敵するとした<ref>Brandeis (1995[1914]), ch. 2.</ref>。プジョー委員会は[[インサイダー取引]]や取引所ぐるみの株価操作が日常化している[[ウォール街]]の改革案として、有価証券リテールの連邦政府監視や株式公募の[[インベスター・リレーションズ]]を主張したが、[[第一次世界大戦]]が勃発して改革は立ち消えとなってしまった<ref>Diana B. Henriques, ''Fidelity's World: The Secret Life and Public Power of the Mutual Fund Giant'', Simon & Schuster, 1997, p.61-63.</ref>。
 
 
 
== 鉄鋼トラストの形成 ==
 
モルガンは[[フェデラル・スチール]]の創立に融資したのち、 [[アメリカ合衆国の技術と産業の歴史#製鉄と製鋼|カーネギー・スチール]]([[:en:Carnegie Steel Company|Carnegie Steel Company]])及びその他数社の製鉄企業を合併して [[USスチール]]を設立。カーネギー・スチールの買収額は4億8700万ドルであった<ref name="steel">{{cite news |first=Peter |last= Krass |title=He Did It!(creation of U.S. Steel by J.P. Morgan) |url= |work= |publisher=Across the Board (Professional Collection) |date=May 2001}}</ref><ref>この取引は弁護士や契約書が介在しない取引であった。</ref>。
 
 
 
この買収劇がメディアに届いたのは[[1901年]]1月半ばであった。同年、モルガンはいくつかの鉄鋼会社を統合し[[USスチール]]を設立した。USスチールは世界初の10億ドル企業となり、株式の[[時価総額]]は14億ドルとなった<ref>"[http://encarta.msn.com/encyclopedia_761569415/J_P_Morgan.html J. P. Morgan]," Microsoft Encarta Online Encyclopedia 2006</ref>。
 
 
 
[[USスチール]]は輸送経費・生産経費の削減と[[配当]]の増大とを両立させ、生産性の拡大をめざした<ref name="steel"/>。これはまた、アメリカの製鉄が国際的な市場においてイギリスと[[ドイツ]]を打ち負かすための計画でもあった。USスチールは、初代社長の[[チャールズ・シュワブ]]らにより、[[グローバリゼーション]]のために必要だと主張された <ref name="steel"/>。USスチールは[[アメリカン・ブリッジ]]や[[アメリカン・スチール・アンド・ワイヤー]]などの企業を傘下に納め、鉄鋼生産だけでなく橋梁製作、造船、鉄道車両や[[レール]]の製造、[[ワイヤー]]、[[釘]]その他の生産においても他を圧倒しようとしており、シュワブは、[[1901年]]には鉄鋼生産の3分の2を占めたUSスチールのシェアはすぐに75%にまでなると信じていた<ref name="steel"/>。批評家たちはUSスチールを[[トラスト]]だと考えていた。
 
 
 
しかしながら、[[1901年]]以降、シェアは落ち込んだ。シュワブ自身が、自らの予測を覆す役割を演じたのである。すなわち、USスチールは巨大に過ぎた。シュワブは[[1903年]]にUSスチールを辞し、[[ベスレヘム・スチール]](現[[ミッタル・スチール]])を設立。建設現場で使用される[[形鋼|H形鋼]]を開発するなどしてアメリカ国内のシェアでは第2位となったのである。
 
 
 
==J・P・モルガン・アンド・カンパニー==
 
[[1900年]]までに、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは世界でもっとも力のある金融会社となり、とりわけ再編・再建と統合を手がけることで知られた。そのころ、モルガンは[[:en:George Walbridge Perkins|ジョージ・パーキンス]]をパートナーとした。
 
 
 
J・P・モルガン・アンド・カンパニーは、[[フィラデルフィア]]の[[#電気・無線への投資|ドレクセル・アンド・カンパニー]]をはじめ、[[パリ]]の[[:en:Morgan, Harjes & Co.|モルガン・ハージェス・アンド・カンパニー]]、ロンドンの[[:en:J.S. Morgan & Co.|J・S・モルガン・アンド・カンパニー]]と密接な関係を持ち続けた。
 
 
 
モルガン・ハージェス・アンド・カンパニーは、元々がドレクセルとジョン・ハージェスの事業であった。[[パナマ運河]]をめぐり、合衆国は利権を買うためにフランスへ5000万ドル支払った。この金を二人が工面した。しかしドレクセルが死んで、事業はモルガンの名を冠した。
 
 
 
J・S・モルガン・アンド・カンパニーへは、1904年に[[:en:Edward Grenfell, 1st Baron St Just|エドワード・グレンフェル]]が共同経営者として参加した。5年後、彼の地位を反映させるため[[:en:Morgan, Grenfell & Co.|モルガン・グレンフェル・アンド・カンパニー]]に改名した。このモルガン・グレンフェル銀行は[[ドイツ銀行]]に買収されて、ドイチェ・モルガン・グレンフェル銀行となった<ref>エドワードの父[[:en:Henry Grenfell|ヘンリー・グレンフェル]]は[[イングランド銀行]]総裁であった。エドワード自身もイングランド銀行の理事を務めた。</ref>。
 
 
 
=== 海運トラストの形成 ===
 
{{see also|海運アライアンス}}
 
モルガンは東部・西部ともに鉄道網に深く関わっていたが、その頃、アメリカ西部の貨物は鉄道で東海岸に運ばれ、イギリスの海運会社などによりヨーロッパに運ばれていた。大西洋の航路は、モルガニゼーション以前の鉄道業界と同じく、運賃の値下げ競争が激しく、業界が疲弊していた。陸上輸送(鉄道)を支配していたモルガンは、海上輸送を他人の手に委ねておく手はないとし、海運業界の統合・支配を画策した。これにより、アメリカ西部の貨物をモルガンの息のかかった運送会社のみを経由してヨーロッパに届けることができるようになった。
 
 
 
[[1902年]]、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは大西洋の海運の統合をめざし、モンテズン・ラインやイギリスの海運会社を買収、[[国際海運商事]]([[:en:International Mercantile Marine Co.|International Mercantile Marine Co.]]、IMM)を設立した。IMMは[[ホワイト・スター・ライン]]の親会社であり、[[タイタニック (客船)|タイタニック]]を建造・就航させたことで知られる。[[ハパックロイド]]と協力して[[キュナード・ライン]]と激しい競争を展開した。
 
 
 
=== 電気・無線への投資 ===
 
1878年12月31日、ドレクセル・アンド・カンパニーは[[トーマス・エジソン]]と契約した。モルガン肝いりの[[:it:Egisto Paolo Fabbri|エジスト・ファブリ]]と企業弁護士の[[:en:Grosvenor Lowrey|グローヴナー・ラウリー]]も同日に受託者として署名した。契約によりドレクセル・アンド・カンパニーは5年間エジソンの特許を保護することになり、見返りに特許権のあらゆる処分を受託者へ指示できることになった。<ref>Edison Archives, Edison National Historic Site, West Orange, N.J.</ref>この期間内であった1882年7月、''Campagnie continentale Edison'', ''Société électrique Edison'', ''Société industrielle et commerciale Edison'' フランスのエジソン系列3社から、ほどなく[[AEG]]を設立するラーテナウがエジソンの特許を買った。
 
 
 
一方、ドレクセル・アンド・カンパニーはエジソンの[[:en:Edison Illuminating Company|電気照明会社]]EEIC へ巨額を投じた<ref>C. A. Spofford から Henry Villard への書翰。1886年2月26日付。
 
:Box 124. Villard Papers, [[ハーバード大学]]図書館, Cambridge, Mass.</ref>。EEIC は1882年当初電気料金を徴収せず、翌年の四半期2回続けて12000ドル以上の損失を出して、通年でも赤字を計上した<ref>Edison Electric Light Co. ''Annual Report 1883''; Edison Electric Illuminating Co. ''Annual Report 1885''</ref>。EEIC は資金難に直面、発行株式が投資家に敬遠されたのを受けて、保証シンジケート団をつくった。そして引受参加者にEEIC 株式の相当割合を無償で発行することにした。<ref>1886年1月12日、1月18日、1月25日、2月26日付。Villard Papers.</ref>ドレクセル・アンド・カンパニーはシ団の中心となったのである。
 
 
 
1892年、モルガンはエジソン・ゼネラル・エレクトリックと[[トムソン・ヒューストン・エレクトリック]]を合併、[[ゼネラル・エレクトリック]]を誕生させた。こうしてモルガンの[[#邸宅|自邸]]は個人の家として初めて電灯が灯った。
 
 
 
[[1900年]][[ニコラ・テスラ]]のすすめで、[[グリエルモ・マルコーニ]]の[[無線通信]]実験に[[:en:Wardenclyffe Tower|ウォーデンクリフ・タワー]]の建設費を含めた15万ドルを融資した。条件は特許利益の半分。実験は[[大西洋]]をまたにかけて行われた。マルコーニの無線はやがて世界を席巻する。テスラは契約してすぐに欲を出した。事業を[[無線送電]]に拡大したいというのである。しかしモルガンは契約違反と解釈した。融資が途絶えて1906年にタワー廃業となった。<ref>[http://teslatech.info/ttmagazine/v4n1/seifer.htm Marc J. Seifer, Nikola Tesla: The Lost Wizard, from: ExtraOrdinary Technology (Volume 4, Issue 1; Jan/Feb/Mar 2006)]</ref><ref>Margaret Cheney; ''Tesla: Man Out of Time''; 2011; pp. 203–208</ref>また、この頃にモルガンは[[AT&T]] と人的・資本的関係を深めた。
 
 
 
{{col|
 
=== ロンドン ===
 
{{main|JPモルガン・チェース#JPモルガン}}
 
* [[1838年]] - ピーボディ・アンド・カンパニー
 
* [[1843年]] - ジョージ・ピーボディ
 
* [[1851年]] - [[ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニー]]
 
* [[1864年]] - [[ジュニーアス・モルガン]]がピーボディのパートナーとなる
 
* [[1864年]] - [[J・S・モルガン・アンド・カンパニー]]
 
* [[1910年]] - [[モルガン・グレンフェル・アンド・カンパニー]]
 
* [[1934年]] - [[J・P・モルガン・アンド・カンパニー]]保有の株式が3分の1となる。のち[[1981年]]から翌年にかけてすべて売却
 
* [[1989年]] - [[ドイツ銀行]]がモルガン・グレンフェルを買収
 
|
 
=== ニューヨーク ===
 
* [[1861年]] - [[J・P・モルガン・アンド・カンパニー]]
 
* [[1864年]] - [[ダブニー・モルガン・アンド・カンパニー]]
 
* [[1871年]] - [[ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニー]]
 
* [[1895年]] - J・P・モルガン・アンド・カンパニー
 
* [[1935年]] - [[グラス・スティーガル法]]を受け、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは商業銀行になる。投資信託業務は[[モルガン・スタンレー|モルガン・スタンレー・アンド・カンパニー]]に。([[銀行#銀証分離|銀証分離]])
 
* [[1940年]] - J・P・モルガン・アンド・カンパニーが会社組織となる
 
* [[1959年]] - ギャランティ・トラストと合併、[[モルガン・ギャランティ・トラスト]]となる
 
* [[1969年]] - 持株会社制に移行。グラス・スティーガル法により分離されていた業務に再度進出<ref>[[ユーロクリア]]設立の翌年というのが興味深い。[[グラム・リーチ・ブライリー法]]の成立は大分先のことである。</ref>
 
}}
 
 
 
==モルガンの敗北場面 ==
 
[[Image:J. P. Morgan beating a photographer with his stick.jpg|thumb|200px|right|撮影者に対してステッキを振り回すモルガン。[[酒さ]]特有の鼻により写真に撮られることを極端に嫌がった]]
 
 
 
=== ロンドン地下鉄===
 
[[1902年]]、モルガンにとっては珍しいことであるが、他者の後塵を拝した。当時、ロンドンの地下交通網において、[[ロンドン地下鉄|地下鉄]]を掌握していた[[チャールズ・ヤークス]]([[:en:Charles Yerkes|Charles Yerkes]])とモルガンが勢力を争っており、モルガンは地下鉄と対抗するための地下道路建設に関して議会の賛成を得るための努力を企図していたが、ヤークスが勝利した。モルガンはこの件に関して「知りうる限り史上最悪の卑劣な謀議だ」とコメントしている<ref>Franch, John.  Robber Baron: The Life of Charles Tyson Yerkes.  Urbana: University of Illinois Press, 2006; p. 298</ref>。
 
 
 
=== モルガンを襲った敵 ===
 
モルガンは、二度、「銀行の敵」に襲われた。一度目はモルガンが金の買い付けで連邦財務省を援助している間、二度目は[[ニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道]](NH)の財政悪化時である。
 
 
 
財務省を援助している間というのは、モルガンが金を買い戻し、アメリカの信用を回復したときである。[[1893年恐慌]]が長引く農村地帯では、金銀複本位制を歓迎していた。[[金本位制]]であれば、通貨の供給量には限度があるために不況は長引き、農民は苦しむことになるが、金銀複本位制であれば通貨の供給量を増大させることができ、[[インフレーション]]が起こり、農産物価格も上昇する。ところが、モルガンをはじめとしたシンジケートが金本位制を定着させたとして、モルガンらは憎まれ役となってしまった{{要出典|date=2015年5月}}。
 
 
 
NHの問題というのは、[[ニューイングランド]]南部の交通網に''モルガニゼーション''を実施したために起こった問題である。問題はさらにふたつあり、ひとつはNHがその後、多くの事故を起こしたこと、もうひとつは、トラストを目の敵とする[[ルイス・ブランダイス]]の関心を引き、モルガンの死期を速めたとも言われる[[プジョー委員会]]([[:en:Pujo Committee|Pujo Committee]]、金融・通貨委員会内の小委員会)の介入を招いたことである(後節参照)。
 
 
 
NHは、設立時にモルガンの祖父が出資をしていたという経緯があり、モルガンが経営を握っていた。[[1903年]]には社長に[[チャールズ・サンガー・メレン]]を指名し、ニューイングランド州における''モルガニゼーション''に着手。鉄道、汽船、路面電車などの交通機関に敷衍し、ニューイングランドの交通機関の独占を図った。
 
 
 
その手法は、利益のまったく出ていない競合他社までをも巨額で買収するもので、その費用がかさみ、従業員は必要以上に増加した。さらに一部には近代化を施す費用もかかった。モルガン自身はその費用を調達するための社債等の発行手数料を100万ドルも得ていたほか、株主への配当は高配当であった。モルガンの後ろ盾があるため、超優良株でもあった。
 
 
 
しかし、経営状態は惨憺たる状態であった。前述の費用を賄うために、従業員の解雇や賃下げ、保線の間引きなどが行われた。そのために鉄道事故が立て続けに起こってしまった。メレンが社長を去り、モルガンが逝去した後までも、多数の死亡者が出る事故が続いた。
 
 
 
こうした状況を見たブランダイスは、企業と銀行の関係を公共の利益に反するものとして、目ざとく追求していくこととなった。
 
 
 
== 家族 ==
 
[[1861年]]にアメリア・スタージス(Amelia Sturges。愛称ミミ。[[1835年]] - [[1862年]])と結婚。結婚前から肺病を患っており、結婚の翌年、ミミは逝去。[[1865年]][[5月31日]]、フランセス・ルイーザ・トレーシー(Frances Louisa Tracy、愛称ファニー、[[1842年]] - [[1924年]])と再婚し、4人の子供を儲けた。ファニーとの結婚生活は早くに破綻し、モルガンは老齢となってなお数々の浮き名を流し続けた。
 
 
 
4人の子供は以下の通りである。
 
 
 
* {{仮リンク|ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア|en|J. P. Morgan, Jr.|label=ジャック・モルガン}}([[1867年]] - [[1943年]])
 
* ルイーザ・ピアポント・モルガン([[1866年]] - [[1946年]]) - ハーバート・リビングストン・サタリーと結婚
 
* ジュリエット・モルガン([[1870年]] - [[1952年]])
 
* [[アン・モルガン]]([[1873年]] - [[1952年]])
 
 
 
モルガンの叔父にあたる[[ジェームズ・ピアポント]]([[:en:James Pierpont (musician)|James Pierpont (musician)]])は有名な作曲家で、[[ジングルベル]]の作曲者としても知られる。甥のジョージ・デニソン・モルガンは[[モルガンお雪]]とあだ名される加藤ユキと結婚した。 
 
 
 
<!--=== 容姿 ===
 
モルガンの容姿は人々に強い印象を残している。ある者は「モルガンが訪ねてくると同時に強風が吹いたようだった」と語っている<ref name="bioofamerica">[http://claver.gprep.org/fac/sjochs//jpmorgan-1.htm John Pierpont Morgan and the American Corporation], Biography of America</ref>。モルガンの両肩は量感があり、体は大きく、目は見開かれ、[[酒さ]]によって鼻は紫色であった。この鼻は、モルガンにとって、生涯、非常に気にするところであった<ref>[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=733 findagrave.com]</ref>。場合によってはその鼻を侮蔑されることもあったが、侮辱した人間はモルガンによって報いを受けた。
 
(冗漫なので割愛)
 
His deformed nose was due to a disease called rhinophyma, which can result from rosacea. As the deformity worsens, pits, nodules, fissures, lobulations, and pedunculation contort the nose. This condition inspired the crude taunt "Johnny Morgan's nasal organ has a purple hue." <ref>Kennedy, David M., and Lizabeth Cohen. The American Pageant. Houghton Mifflin Company: Boston, 2006. p541.</ref> Surgeons could have shaved away the rhinophymous growth of sebaceous tissue during Morgan's lifetime, but as a child Morgan suffered from infantile seizures, and it is suspected[by whom?] that he did not seek surgery for his nose because he feared the seizures would return. His social and professional self-confidence were too well established to be undermined by this affliction. It appeared as if he dared people to meet him squarely and not shrink from the sight, asserting the force of his character over the ugliness of his face. ref>Morgan: American Financier;by Jean Strouse;copyright 1999;pages 265-66</ref>
 
そのため、モルガンは写真に撮られることを極度に嫌った。肖像写真では、鼻を修正したものしか使用を認めなかった。--><!--容姿は写真だけで示すべき事実-->
 
 
 
== 私生活 ==
 
モルガンは[[葉巻]]、とりわけ[[ハバナ]]が好きで、日に1ダースほども喫煙した。<!--dubbed Hercules' Clubs by observers <ref> Chernow (2001) </ref>.葉巻の種類? 不明なため訳さず-->
 
 
 
=== 邸宅 ===
 
モルガンの自宅はマディソン通りにあり、ニューヨークで初の電灯を備えた個人住宅であった。彼の新たなテクノロジーへの興味は、[[1878年]]に[[トーマス・エジソン]]の[[エジソン電灯会社]]への融資からも見て取れる<ref> Chernow (2001) Chapter 4 </ref>。また、[[ニューヨーク州]][[グレン・コーブ (ニューヨーク州)|グレン・コーブ]]のイースタン・アイランドを所有し、そこに別荘を持っていた。
 
 
 
=== 船 ===
 
[[Image:Jsj-504a-corsair.jpg|thumb|right| ヨット、コーセア(Corsair、海賊の意)号(2代目)。のちにアメリカ政府が購入し、「USSグロスター」(USS Gloucester、[[:en:USS Gloucester (1891)|USS Gloucester (1891)]])と改名され、[[米西戦争]]に充当された。[[:en:John S. Johnston|J. S. Johnston]]撮影。]]
 
モルガンは熱狂的なヨットファンとして、いろいろなサイズのヨットを所有していた。この場合のヨットは、大型で豪華なレジャーのための船である。「維持費を気にするような人間には、ヨットは買えない」という言はよく知られている。
 
 
 
このヨットは、経済界の機密会議に使われることもあれば、私的な女性関係に使われることもあった。
 
 
 
また、モルガンは[[タイタニック (客船)|タイタニック]]の実質的なオーナーであったため、初航海に乗船する予定であった。しかし、その直前になってキャンセル<ref> Chernow (2001) Chapter 8 </ref>。タイタニックは[[ホワイト・スター・ライン]]が保有し、運航したものであるが、モルガン専用の特別室とプロムナードデッキがあった。
 
 
 
=== 死 ===
 
[[1913年]][[3月31日]]、モルガンは旅行先の[[ローマ]] グランドホテルで就寝中に死去した。76歳の誕生日の直前であった。50歳代から医者に不摂生をたしなめられ、生命保険の加入を求められないほどであったが、晩年でもなお葉巻を吸い、大食漢であった。モルガンに連なる人々は、プジョー委員会からの攻めによる精神的疲労が死因であると主張したが、現実の健康面はそのような状態であった。
 
 
 
モルガンの死にあたり4000を超す弔辞が寄せられ、[[ウォール街]]は[[半旗]]を掲揚した。モルガンの遺体がウォール街を通過する間、株式市場は2時間閉鎖された<ref>[[Modern Marvels]] episode "The Stock Exchange" originally aired on October 12, 1997</ref>。
 
 
 
死去時、モルガンの資産<ref>[[アート・バックウォルド]]『そしてだれも笑わなくなった』([[文藝春秋]])には彼の「財産がいくらあるか質問されて答えられるようなら金持とはいえない」という言葉が紹介してある。</ref>は6830万ドルであった。今日の貨幣価値では13億9000万ドルにあたる金額であった。そのうち3000万ドルは株券としてニューヨーク・アンド・フィラデルフィア銀行にあった。また、芸術品のコレクションの価値は5000万ドルに上った<ref> Chernow (2001) ch 8</ref>。
 
 
 
おおよそ庶民の感覚からかけ離れた金額の遺産ではあるが、カーネギーに言わせると「彼が思ったほど金持ちではなかった」という。カーネギーやハリマンらの足下にも及ばない金額であった<ref>『モルガン家』ロン・チャーナウ著・[[青木栄一 (1930年生の翻訳家)|青木榮一]]訳、1993年、[[日本経済新聞社]]</ref>。
 
 
 
モルガンの遺体は、彼の生誕の地であるコネチカット州ハートフォードの[[セダー・ヒル墓地]]([[:en:Cedar Hill Cemetery (Hartford, Connecticut)|Cedar Hill Cemetery (Hartford, Connecticut)]])に埋葬された<ref>[http://www.cedarhillcemetery.org/Morgan.htm Cedar Hill Cemetery, John Pierpont Morgan] {{webarchive|url=https://archive.is/20060827093959/http://www.cedarhillcemetery.org/Morgan.htm |date=2006年8月27日 }}</ref>。
 
 
 
== モルガンと芸術作品 ==
 
モルガンは書物、絵画、時計などの芸術作品の著名なコレクターであった。その多くは[[ニューヨーク]]の[[メトロポリタン美術館]]に寄託、あるいは贈呈されている。モルガンはそのメトロポリタン美術館の設立に深く関わり、館長を務めた時期もあった。また、彼のロンドンの邸宅や、マディソン大通り36番街にある彼のプライベート文庫に保管されているものもある。
 
 
 
モルガンの息子、ジャックは父を記念して [[1924年]]に[[モルガン・ライブラリー]]を公共化。モルガンの私的な[[司書]]であった[[ベラ・ダ・コスタ・グリーン]]([[:en:Belle da Costa Greene|Belle da Costa Greene]])を初代の館長とした<ref>Auchincloss (1990)</ref>。
 
 
 
モルガンは多くの画家により肖像画を描かれていた。特筆すべきは[[ペルー人]]の[[カルロス・バッカ・フロー]]([[:en:Carlos Baca-Flor|Carlos Baca-Flor]])や[[スイス]]生まれのアメリカ人、[[アドルフォ・ミュラー・ウリ]]([[:en:Adolfo Müller-Ury|Adolfo Müller-Ury]])らも描いていることで、アドルフォはまたモルガンが愛した孫、マーベル・サターリーとの肖像画も描いている。この絵はマーベルの家の前でイーゼルに架けられたまま置いてあったが、あるとき失われてしまった。
 
 
 
=== 宝石コレクション ===
 
[[Image:JPMorganLibrary.jpg|thumb|left|350px|J・P・モルガン・ライブラリー・アンド・アートミュージアム。]]
 
20世紀になるころには、モルガンはアメリカでもっとも重要な[[宝石]]や原石のコレクターとなっていた。その数は1000を超した。初めてのコレクションは[[ティファニー]]のもので、ティファニーのチーフ宝石鑑定家にして[[宝石学]]の大家、[[ジョージ・フレデリック・クンツ]]([[:en:George Frederick Kunz|George Frederick Kunz]])がそれをセットした。
 
 
 
[[Image:Morgan collection US gems.jpg|thumb|150px|right| モルガンのコレクションより。]]
 
このコレクションは[[パリ万国博覧会 (1889年)]]にて公開されたもので2つの金賞を受け、一般見学者だけでなく、学者や宝石関係者からも注目されたものであった<ref>[http://www.farlang.com/gemstones/kunz_gems_and_precious_stones/page_351 Morgan and his gem collection], In George Frederick Kunz: Gems and Precious Stones of North America, New York, 1890, accessed online February 20, 2007</ref>。クンツは続けて第二の、さらに上質のコレクションをつくりあげ、[[パリ万国博覧会 (1900年)]]に出展した。これらは[[ニューヨーク]]の[[アメリカ自然史博物館]]に寄贈され、'''モルガン・ティファニー'''と呼ばれている<ref>[http://www.farlang.com/gemstones/kunz-history-north-carolina-gems/page_012 Morgan and his gem collections, donation to AMNH], In George Frederick Kunz: History of Gems Found in North Carolina, Raleigh, 1907, accessed online February 20, 2007</ref>。他にも'''モルガン・ビーメント・コレクション'''と呼ばれるものも展示されている。
 
 
 
[[1911年]]、クンツは新たに発見された宝石を、モルガンにちなんで[[モルガナイト]]と命名した。
 
 
 
=== 後援者として ===
 
モルガンはアメリカ自然史博物館の後援者でもあるほか、上述のメトロポリタン美術館、[[グロトン・スクール]]([[:en:Groton School|Groton School]])、[[ハーバード大学]](とくに[[ハーバード・メディカルスクール]])、[[トリニティ・カレッジ (コネチカット州)|トリニティ・カレッジ]]、ニューヨークの[[産科学|産科]]医院、ニューヨークの職業訓練学校などの後援者でもあった。
 
 
 
モルガンはまた、写真家の[[エドワード・カーティス]]([[:en:Edward S. Curtis|Edward S. Curtis]])のパトロンでもあった。[[1906年]]には7万5,000ドルで[[ネイティブ・アメリカン]]シリーズを発注している。カーティスは結局20巻におよぶ大作、''北アメリカインディアン''を刊行した<ref>[http://curtis.library.northwestern.edu The North American Indian]</ref>。
 
 
 
カーティスは映画も撮影し、[[1914年]]には[[イン・ザ・ランド・オブ・ザ・ヘッド・ハンターズ]](首狩り族の大地)を完成させた。これは[[1974年]]に修復され、[[イン・ザ・ランド・オブ・ザ・ウォー・カヌー]](戦闘カヌーの大地)として公開された。また、[[1911年]]には自らの写真と[[ヘンリー・F.ギルバート]]の音楽を組み合わせた[[幻灯機]]によるスライドショー、[[インディアン・ピクチャー・オペラ]]([[:en:The Indian Picture Opera|The Indian Picture Opera]])を完成させた<ref>[http://www.customflix.com/Store/ShowEStore.jsp?id=218654 The Indian Picture Opera - A Vanishing Race]</ref>。
 
<!--内容が重複するため割愛
 
==Legacy==
 
His son, [[J. P. Morgan, Jr.]] took over the business at his father's death, yet never sought publicity, but instead helped create and control the Federal Reserve with 11 other banking families{{Fact|date=January 2009}}. As required by the 1933 [[Glass-Steagall Act]], the "House of Morgan" became three entities: [[J.P. Morgan & Co.]], which later became [[J.P. Morgan & Co. #Morgan Guaranty Trust|Morgan Guaranty Trust]]; [[Morgan Stanley]], an investment house; and [[Morgan Grenfell]] in London, an overseas securities house.
 
 
 
The gemstone [[Morganite]] was named in his honor.<ref>[http://www.gemstone.org/gem-by-gem/english/morganite.html Morganite], International Colored Gemstone Association, accessed online January 22, 2007</ref>
 
--><!--
 
雑多な項目のため割愛
 
==Popular culture==
 
*[[Bertolt Brecht]] the German writer based the figure of Pierpont Mauler the beef tycoon in his play ''[[Saint Joan of the Stockyards]]'' on Morgan.
 
* In the musical ''[[How to Succeed in Business Without Really Trying]]'', the character J. Pierrepont Finch is portrayed as a rising, powerful businessman; his character is possibly an allegory of Morgan's. The character Mr. Bratt alludes to the nominal similarity in the beginning of the show: "Pierrepont. Say, maybe that ought to be ''J.'' Pierrepont Finch."
 
* J.P. Morgan appears as a character in Caleb Carr's novel ''[[The Alienist]]''.
 
* J. P. Morgan appears in [[E. L. Doctorow]]'s novel ''[[Ragtime (novel)|Ragtime]]'', and in the [[Ragtime (musical)|broadway musical]] of the same name.
 
* J.P. Morgan is mentioned, by name, by [[Oliver Warbucks]] in the [[broadway musical]], ''[[Annie (musical)|Annie]]''.
 
* J.P. Morgan is mentioned in [[F. Scott Fitzgerald]]'s famous novel, ''[[The Great Gatsby]]''.
 
* J.P. Morgan is also mentioned in [[John Steinbeck]]'s novel, ''[[The Grapes of Wrath]]''.
 
* J.P. Morgan is mentioned in [[Quentin Tarantino]]'s film ''[[Reservoir Dogs]]''.
 
* J.P. Morgan is mentioned in the novel ''[[Against the Day]]'' by [[Thomas Pynchon]].
 
* J.P. Morgan is  mentioned in ''[[O Pioneers!]]'' by [[Willa Cather]].
 
* The name J.P. Morgan is mentioned in the song "We Got Elegance" in the [[Jerry Herman]] musical ''[[Hello, Dolly! (musical)|Hello, Dolly!]]''.
 
* Carlito Brigante is likened to J. P. Morgan in the 1993 film ''[[Carlito's Way]]''.
 
* A satirical version of J. P. Morgan appears in [[Matt Fraction]] and [[Steven Sanders]]' graphic novel ''[[The Five Fists of Science]]'
 
* In ''[[The Wind and the Lion]]'', [[Theodore Roosevelt]] mockingly toasts Morgan and refers to him as (aside from the [[Raisuli]]) "the only real pirate I know".
 
* In [[Arthur Miller]]'s [[play]] ''[[Death of a Salesman]]'', J.P. Morgan is mentioned as an example of how one does not have to be likeable to be successful in business, which runs counter to [[protagonist]] [[Willy Loman]]'s ideas.
 
* Samuel Barber's operetta, ''[[A Hand of Bridge]]'' contains a reference to J.P. Morgan's wealth, when the character, David, sings, "If I were rich as Morgan, I would still play bridge every night with Sally and Bill.' '
 
* J.P. Morgan, the firm, is mentioned in [[Ben Younger]]'s film ''[[Boiler Room]]''.
 
* Morgan is believed to have been the model for Walter Parks Thatcher (played by [[George Coulouris]]), guardian of the young ''[[Citizen Kane]]'' (film directed by [[Orson Welles]]) with whom he has a tense relationship &mdash; Kane blaming Thatcher for destroying his childhood.[http://www.filmsite.org/citi.html][http://history.sandiego.edu/gen/filmnotes/kane1.html][http://course1.winona.edu/pjohnson/h140/kane.htm]
 
* In his satirical history of the [[United States]], ''It All Started with Columbus'', [[Richard Armour (poet)|Richard Armour]] commented that, "Morgan, who was a direct sort of person, made his money in money... He became immensely wealthy because of his financial interests, most of which were around eight or ten percent... This Morgan is usually spoken of as 'J.P.' to distinguish him from [[Henry Morgan]], the pirate."
 
-->
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist|2}}
 
 
 
<!--== 参考文献 ==-->
 
==References==
 
{{refbegin}}
 
* Atwood, Albert W. and Erickson, Erling A. "Morgan, John Pierpont, (Apr. 17, 1837 - Mar. 31, 1913)," in ''Dictionary of American Biography, Volume 7'' (1934)
 
* Auchincloss, Louis. ''J.P. Morgan : The Financier as Collector'' Harry N. Abrams, Inc. (1990) ISBN 0-8109-3610-0
 
* [[ルイス・ブランダイス]] ''Other People's Money and How the Bankers Use It.''  Ed. Melvin I. Urofsky. New York: Bedford Book], 1995. ISBN 0-312-10314-X
 
* Bryman Jeremy, ''J. P. Morgan: Banker to a Growing Nation'' : Morgan Reynolds Publishing (2001) ISBN 1-883846-60-9
 
* Carosso, Vincent P.  ''The Morgans: Private International Bankers, 1854-1913.'' Harvard U. Press, 1987. 888 pp. ISBN 978-0674587298
 
* Carosso, Vincent P.  ''Investment Banking in America: A History'' Harvard University Press (1970)
 
*Chernow, Ron. ''The House of Morgan: An American Banking Dynasty and the Rise of Modern Finance'', (2001) ISBN 0-8021-3829-2(ロン・チャーナウ著、青木榮一訳『モルガン家 金融帝国の盛衰』上・下(1993年)[[日本経済新聞社]]刊、ISBN 978-4532160999 、978-4532161002)
 
* Fraser, Steve. ''Every Man a Speculator: A History of Wall Street in American Life'' HarperCollins (2005)
 
* Garraty, John A. ''Right-Hand Man: The Life of George W. Perkins.'' (1960) ISBN 978-0313201868
 
* Geisst;  Charles R. ''Wall Street: A History from Its Beginnings to the Fall of Enron.'' Oxford University Press. 2004. [http://www.questia.com/PM.qst?a=o&d=104746636 online edition]
 
* John Moody; ''The Masters of Capital: A Chronicle of Wall Street'' Yale University Press, (1921) [http://www.archive.org/details/mastersofcapitaljohn00moodiala online edition]
 
* Morris, Charles R. ''The Tycoons: How Andrew Carnegie, John D. Rockefeller, Jay Gould, and J. P. Morgan Invented the American Supereconomy'' (2005) ISBN 978-0805081343
 
* Strouse, Jean.  ''Morgan: American Financier.'' Random House, 1999. 796 pp. ISBN 978-0679462750
 
{{refend}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[ジェシー・リバモア]]
 
*[[ボリシェビキ]]
 
  
 
{{DEFAULTSORT:もるかん しよん ひあほんと}}
 
{{DEFAULTSORT:もるかん しよん ひあほんと}}

2019/4/26/ (金) 23:17時点における最新版

ジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan、1837年4月17日 - 1913年3月31日

アメリカ合衆国の大金融資本家。ドイツのゲッティンゲン大学で学び,1857年ニューヨークのダンカン・シャーマン商会に入社,1960~64年父 J.S.モルガンがパートナーだったジョージ・ピーボディ商会と,それを引き継いだ J.S.モルガン商会(ロンドン)のニューヨーク代理人として金融界で活躍。1871年ドレクセル・モルガン商会のパートナー,1895年同商会を傘下に収めて J.P.モルガン商会を創設。投資銀行家として合衆国政府債の引受業務,アメリカ鉄道界の再編成と安定化,ユナイテッド・ステーツ・スチールゼネラル・エレクトリックインターナショナル・ハーベスターなどの巨大会社の実現に成功,アメリカ金融界の中心人物,経済力集中のシンボルとなった。1912年にはアメリカの主要 47会社の 72の重役の椅子をモルガン商会のパートナー 11人が占め,モルガン財閥を形成した。病院,教会,図書館,美術館にも莫大な金を寄付した。



楽天市場検索: