「コンスタンティノープルの陥落」の版間の差分

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'''コンスタンティノープルの陥落'''(コンスタンティノープルのかんらく)とは、[[1453年]][[5月29日]]、[[オスマン帝国]]の[[メフメト2世]]によって[[東ローマ帝国]]の首都[[コンスタンティノープル]](現[[イスタンブール]])が陥落した事件である。この事件により東ローマ帝国は滅亡した。また、「ローマ帝国の滅亡」は[[476年]]の[[西ローマ皇帝]]の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。
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'''コンスタンティノープルの陥落'''(コンスタンティノープルのかんらく)
 
 
== メフメト2世の野望 ==
 
[[ファイル:TheodosiusWallsConstantinople.jpg|thumb|280px|left|約1000年にわたって難攻不落を誇った、「テオドシウス([[テオドシウス2世|2世]])の城壁」]]
 
この戦争の以前には、オスマン帝国と[[東ローマ帝国]]は表向きは平和的な関係にあった。この時代になると「帝国」という名前とは裏腹に、東ローマ帝国の領土は首都コンスタンティノープルと、[[ペロポネソス半島]]の一部[[モレアス専制公領]](古代[[スパルタ]]近郊にある[[ミストラ]]の要塞が首府)を残すのみとなっていた。ローマが東西に分裂して以来、コンスタンティノープルは幾度となく攻撃を受けてきたが、占領されたのは[[第4回十字軍]]による一回だけであった。10世紀の[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]君主[[シメオン1世]]や14世紀の[[セルビア王国 (中世)|セルビア王]][[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]のように、東ローマ帝国を完全に征服しようと意図した者はいたが、実際に成功した者はいなかった。しかし、メフメト2世はこれを目指したのである。
 
 
 
== 開戦の経緯 ==
 
開戦の経緯については必ずしも明確であるとは言えない。
 
 
 
* 歴史家{{仮リンク|ドゥカス|en|Doukas (historian)}}の伝えるところでは、東ローマ[[皇帝]][[コンスタンティノス11世ドラガセス]](在位[[1449年]]-[[1453年]])がメフメトを牽制する意図で、コンスタンティノープルに亡命していた[[オスマン家]]の[[オルハン王子]]<ref>Harbour of Eleutheriusに住んでいた、メフメト2世の祖父[[メフメト1世]]の長兄{{仮リンク|スレイマン・チェレビ|en|Süleyman Çelebi}}の孫。</ref>を対立スルタンに擁立すると警告したことに、メフメトが立腹し戦争状態に突入したという。事の次第に驚いたコンスタンティノス11世は和平交渉を試みたが不成功に終わった。
 
* [[1452年]]から[[1453年]]は世界的な異常気象が起こった「[[夏のない年]]」のひとつに当たっている。[[海底火山]][[クワエ]]が複数回爆発したことによる大量の火山灰が巻き散らかされた影響で、数年間冷夏が続いており、そのために[[飢饉|大飢饉]]になったと考えられている。
 
 
 
== 包囲戦の状況 ==
 
[[ファイル:Siege of a city, medieval miniature.jpg|thumb|240px|コンスタンティノープルの包囲戦]]
 
メフメト2世は[[1452年]]に[[ボスポラス海峡]]のヨーロッパ側、つまりコンスタンティノープルの城壁の外側に城を建て、都市を陥落させるための足がかりとした。この城は「ローマの城」という意味の[[ルメリ・ヒサル]]と呼ばれた。コンスタンティノス11世は[[西ヨーロッパ]]諸国に救援を求めたもののその反応は鈍く、[[ローマ教皇]][[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]]はこれに応じる姿勢を見せたが実質的な進展はほとんど見られなかった。コンスタンティノープルを重要な商業拠点とする[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]と[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]は援軍を送り、東ローマ軍は2000人の外国人傭兵を含めて7000人になった。都市を囲む城壁の総延長は約26kmで、おそらく当時最も堅固な城壁であった。
 
 
 
一方、オスマン帝国側は、スルタン直属の最精鋭部隊であった[[イェニチェリ]]軍団2万人を中心とした10万人の大軍勢に加え、海からも包囲するために艦船を建造させた。また[[ハンガリー人]]の技術者ウルバン{{enlink|Orban}}を雇い、当時としては新兵器であった[[大砲]]を作らせた。それは長さ8m以上、直径約75cmという巨大なもので、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができた。東ローマ帝国にも大砲はあったが、より小さいもので、射撃の反動で城壁を傷つけることがあった。ただし、[[ウルバン砲|ウルバンの巨砲]]にも欠点はあった。「コンスタンティノープルのどこか」といったような、かなり大きな標的でさえも外すほど命中精度が低かったのである。さらに1回発射してから次の発射までに3時間かかった。砲弾として使える石が非常に少なく、射撃の反動が元で6週間使うと大砲が壊れるという始末であった。
 
 
 
メフメト2世は、コンスタンティノープルが唯一陸地に面する西側の城壁から攻撃しようとし、[[1453年]]4月2日の[[復活大祭]]の日に、都市郊外に軍隊を野営させた。7週間にわたり大砲により城壁を攻撃したが、十分に崩すことはできなかった。というのは、射撃間隔がとても長かったため、東ローマ帝国側はその損害のほとんどを回復することができたためである。一方、メフメト2世の艦隊は、[[金角湾]]の入り口に東ローマ帝国側が渡した太い鎖によって、その中に入ることができなかった。途中、救援物資を積載したジェノヴァ船3隻と東ローマ船1隻が金角湾に来航し、オスマン艦隊と海戦になったものの、オスマン艦隊は彼らを拿捕することに失敗した。
 
[[File:Askeri Müze 971.jpg|thumb|250px|東ローマ帝国が、オスマン艦隊の侵入を阻止するため金角湾口に張り渡した鎖。{{仮リンク|イスタンブール軍事博物館|en|Istanbul Military Museum}}にて展示。]]
 
オスマン帝国側は膠着状態を打開すべく、金角湾の北側の陸地(ジェノヴァ人居住区があったガラタの外側)に油を塗った木の道を造り、それを使って陸を越え70隻もの船を金角湾に移す作戦に出た。「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれるこの奇策は成功し、これによりジェノヴァ船による援助物資の供給は阻止され、東ローマ帝国軍の士気をくじくことになった。しかし、陸上の城壁を破る助けとはならなかった。
 
 
 
この間に、コンスタンティノープル政府とメフメト2世との間で和平交渉が形式的に行われた。メフメト2世は降伏開城を呼びかけ、安全な退去とモレアス専制公領の支配権を約束した。コンスタンティノス11世はこれを拒絶し、包囲戦は続行された。またオスマン陣営内でも和平派と主戦派が激論を戦わせる場面もあったようであるが、最終的には後者が勝り、メフメト2世は総攻撃を決定した。
 
 
 
西欧からの来援は、結局なかった。最も近い国の一つ[[ハンガリー王国]]は消極的な干渉を試みたようであるが、オスマン側の包囲を解かせるには至らなかった。
 
 
 
防衛側も、最後を察知していた。5月28日の夜、コンスタンティノス11世は宮殿で大臣や将兵を前に最後の演説を行った。将兵たちは涙ながらに「キリストのために死ぬのだ!」と叫び、みなお互いに別れを告げあった。その後[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]で[[聖体礼儀]]が行なわれ、皇帝コンスタンティノス11世以下将官、市民など多くの人々が神に最後の祈りを捧げた。聖体礼儀が終わると、コンスタンティノス11世は臣下の一人一人に自らの不徳を詫び、許しを乞うた。その場にいたもので涙を流さない者はいなかったと、偽スフランゼスの『年代記』は伝えている。
 
  
== 東ローマ帝国の滅亡 ==
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[[1453年]][[5月29日]]、[[オスマン帝国]]の[[メフメト2世]]によって[[東ローマ帝国]]の首都[[コンスタンティノープル]](現[[イスタンブール]])が陥落した事件。
[[ファイル:Tekfursarayi.jpg|240px|thumb|right|[[コンスタンティノス11世]]が最後の演説を行ったとされる、「コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿」]]
 
5月29日未明、ついにオスマン帝国側の総攻撃が開始された。攻撃の第一波は、貧弱な装備と訓練のされていない不正規兵部隊(バシ・バズーク)たちだったため、多くが防衛軍に倒された。第二波は、都市の北西部にあるブラケルナエ城壁に向けられた。ここは大砲によって部分的に破壊されていたため、なんとか侵入できる場所であったが、すぐに防衛軍によって追い払われた。[[イェニチェリ]]軍団の攻撃にもどうにか持ちこたえていたのだが、ジェノヴァ人傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴが負傷したことで、防衛軍は混乱に陥り始めた。
 
  
不幸なことにブラケルナエ地区のケルコポルタ門の通用口は施錠されていなかった。これを発見したオスマン軍は城内に侵入し、防衛軍はたちまち大混乱に陥って敗走した。しかしコンスタンティノス11世は、最後まで前線で指揮を執り続けた。ドゥカスの伝えるところでは、城壁にオスマンの旗が翻ったのをみたコンスタンティノス11世は身につけていた帝国の国章([[双頭の鷲]]の紋章)をちぎり捨て、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、「誰か余の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、親衛軍とともにオスマン軍の渦の中へ斬り込んでいったと言われている<ref>しかし実際に目撃者がいても、この状況下で生きていられたとも思えず、この逸話が事実であるか定かではない。</ref>。
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この事件により東ローマ帝国は滅亡した。また、「ローマ帝国の滅亡」は[[476年]][[西ローマ皇帝]]の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。
こうして、[[西ローマ帝国]]に遅れること1000年あまり、古代から存続してきた東ローマ帝国は完全に滅亡した。
 
 
 
== 陥落後のコンスタンティノープル ==
 
当初、包囲に抵抗した都市に対する伝統的な処罰として、メフメト2世は兵士たちに都市を3日間略奪するように命じたが、古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったため、数時間後に一転して軍の行動を阻止するように命じ、街の状況が落ち着いてからコンスタンティノープルに入った。[[総主教]]座のあったハギア・ソフィア聖堂は[[モスク]]に改修された。
 
 
 
メフメトはこの都市1つの征服によって「征服王」と呼ばれるようになる。コンスタンティノープルは「コスタンティニエ({{lang|ota|قسطنطنية, Kostantiniyye}})」の名で、オスマン帝国の新しい首都となった<ref>「イスタンブール」という呼び名も当時から存在したが、オスマン語による正式名称は「コンスタンティニエ」であった。なお、公式に「イスタンブール」に改称されるのは[[1930年]]である。</ref>。[[正教会]]に対しては多くの[[聖堂]]を[[モスク]]に改造して抑圧策をとる一方で、人望の篤い[[修道士]]であった[[ゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ゲンナディオス・スコラリオス]]を[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノープル総主教]]に任命し、[[正教徒]]の懐柔にあたった。
 
 
 
== 滅亡の影響 ==
 
この影響によりジェノヴァ、ヴェネツィア等の地中海貿易で栄えていた都市国家は、その権益をオスマン帝国に奪われる事になり、イタリアの一地方都市へと転落して行く。彼の国の航海士達の多くは、後にスペインやポルトガル等のイベリアの新興国家に移り、[[大航海時代]]に大活躍をする。また、キリスト教徒にとってコンスタンティノープルは重要な聖地であり、それをイスラム教国家であるオスマン帝国に奪われたという事は、結果として教皇の権威失墜を意味し、後の[[宗教改革]]への胎動のひとつとなる。東ローマ帝国への援軍に消極的だった[[バルカン半島]]諸国は、後にオスマン帝国に滅ぼされるか、[[ハプスブルク家]]の傘下になるかの何れかの道を辿り、本格的な独立を回復するのは20世紀になってからである。
 
 
 
またコンスタンティノープル陥落前後には、多くの[[ギリシャ人]]の学者・知識人が東ローマで保存・研究されてきた[[古代ギリシャ]]・[[古代ローマ|ローマ]]時代の文献を携えて西欧へと亡命し、これが[[ルネサンス|イタリア・ルネサンス]]に多大な影響を与えた。
 
 
 
以上を踏まえ、この事件は単に一帝国の滅亡に留まらず、世界史が中世から近世へと代わった重要な転換点だった事になる。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
{{see_also|東ローマ帝国#参考文献}}
 
* [[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]『生き残った帝国 ビザンティン』 [[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉、2008年(初刊:講談社現代新書、1990年)
 
* [[塩野七生]]『コンスタンティノープルの陥落』 [[新潮文庫]]、2009年(改版、初刊:[[新潮社]]、1983年) - 小説のため脚色がある。
 
* [[鈴木董]]『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社〈[[講談社現代新書]]〉、1992年
 
* 野中恵子『寛容なる都 コンスタンティノープルとイスタンブール』 [[春秋社]]、2008年
 
* [[林佳世子]]『オスマン帝国 500年の平和』 講談社〈興亡の世界史10〉、2008年/講談社学術文庫、2016年
 
* [[スティーヴン・ランシマン]]『コンスタンティノープル陥落す』 [[護雅夫]]訳、[[みすず書房]]、新装版1998年
 
* ジョナサン・ハリス『ビザンツ帝国の最期』 井上浩一訳、白水社、2013年
 
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
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* [[パレオロゴス王朝]]
 
* [[パレオロゴス王朝]]
 
* [[フィレンツェ公会議]]
 
* [[フィレンツェ公会議]]
 
== 外部リンク ==
 
{{commons|Category:Fall of Constantinople}}
 
*[http://www.geocities.jp/whis_shosin/bizan.html コンスタンティノープルの陥落] - flash作品
 
  
 
{{中世}}
 
{{中世}}
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:こんすたんていのおふるのかんらく}}
 
{{デフォルトソート:こんすたんていのおふるのかんらく}}
 
[[Category:1453年の戦闘]]
 
[[Category:1453年の戦闘]]

2018/10/7/ (日) 09:12時点における版


コンスタンティノープルの包囲戦
戦争: コンスタンティノープルの包囲戦
年月日: 1453年4月2日-5月29日
場所: コンスタンティノープル
結果: オスマン帝国の勝利。東ローマ帝国滅亡。
交戦勢力
Flag of the Ottoman Empire.svg オスマン帝国 東ローマ帝国の旗 東ローマ帝国
戦力
80,000-200,000人 7,000人
損害
不明 死者・兵4,000人
市民10,000人

コンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく)

1453年5月29日オスマン帝国メフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)が陥落した事件。

この事件により東ローマ帝国は滅亡した。また、「ローマ帝国の滅亡」は476年西ローマ皇帝の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。

関連項目




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