「北の富士勝昭」の版間の差分

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'''北の富士 勝昭'''(きたのふじ かつあき、[[1942年]][[3月28日]] - )は、[[北海道]][[旭川市]](出生は[[網走郡]][[美幌町]])出身の元[[大相撲力士]]。第52代[[横綱]]。本名は'''竹澤 勝昭'''(たけざわ かつあき)得意技は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛け。
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'''北の富士 勝昭'''(きたのふじ かつあき、[[1942年]][[3月28日]] -
  
== 来歴 ==
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[[北海道]][[旭川市]](出生は[[網走郡]][[美幌町]])出身の元[[大相撲力士]]。第52代[[横綱]]。本名は'''竹澤 勝昭'''(たけざわ かつあき)得意技は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛け。
=== 誕生~入門 ===
 
{{要出典範囲|date=2014年9月|[[1942年]][[3月28日]]に北海道網走郡美幌町で生まれる。6歳の時に[[留萌市]]へ転居して留萌市立留萌小学校へ入学すると、当時北海道で最強であった軟式野球チーム「萌友会」に入団し、主力投手として活躍する。留萌市立港南中学校に進学後も軟式野球の投手で4番を務めるなど、チームの最主力選手として活躍するが、旭川市立光陽中学校に転校した。}}少年期に父が事業に失敗し、3回に渡って夜逃げを経験した。<ref name="sankei1">[http://www.sankei.com/sports/news/151218/spo1512180010-n1.html 【舞の海の相撲俵論】もののあはれにふれて(1/3ページ)] 産経ニュース 2015.12.18 08:39</ref>
 
  
[[1954年]]のある日、故郷・留萌で大相撲の北海道巡業が行われていたので家族で見に行ったところ、恵まれた体格をした少年を見つけた横綱・[[千代の山雅信|千代の山]]から直々に「どうだ、相撲をやって、東京見物をしてみないか」声をかけられ、これがきっかけで相撲に興味を持つようになった。その後も軟式野球を続けていたが、現役横綱から直接声をかけられたことが忘れられず、[[北海高等学校]]・[[北海道旭川南高等学校]]・[[北海道留萌高等学校]]の各野球部と、[[北海道増毛高等学校]](当時の全国優勝校)・[[北海道天塩高等学校]]の各レスリング部(当時の全道準優勝校)から熱心に勧誘されていたが、全てを断って中学校卒業と同時に[[出羽海部屋]]へ入門した。<ref>数々の勧誘を全て断り大相撲に進んだ背景には他に、中学の野球部の活動で右肘を故障してしまい高校入学までに治る見込みがなかったという事情があった。</ref> 靴を買う金すらなく、学生服に下駄履きという姿で上野駅に降りた竹澤は母からいざという時のため換金用に渡されたアズキ三袋を手にしていたが、すぐに転んで道に撒いてしまったという。<ref>現代に『アズキ相場』という言葉が伝わるように、当時はアズキは先物取引に利用されるなど有価証券さながらの扱いを受けていた。</ref><ref name="ref555">『天下盗り狼~千代の富士 貢 ─ 九重三代風雲録~』(徳間書店)</ref>
+
昭和45年(1970)玉の海とともに横綱に昇進。優勝10回。引退後、年寄九重(ここのえ)を襲名し、千代の富士、北勝海(ほくとうみ)の二横綱を育てた。
  
=== 初土俵~十両で全勝 ===
 
[[1957年]]1月場所、'''竹沢'''という[[四股名]]で出羽海部屋から[[初土俵]]を踏む。入門のために上京した際に船酔いしてしまい、これが原因で体重が激減してしまった<ref>[新弟子検査では体重不足として不合格だったが、前場所から施行された「自費養成力士制度」によって[[前相撲]]に進むことができた(この制度は1年で廃止)</ref><ref>『近世日本相撲史』第4巻</ref>。3月場所は計量直前に大量の水を飮んで体重基準を通過した。
 
 
あまりにも痩せていたことから期待に反して出世は遅れ、当時制定されていた「30場所で幕下へ昇進できなければ廃業」<ref>いわゆる「定年制度」。厳密には対象力士への養成費支給を停止するものであった。
 
:[http://mainichi.jp/articles/20160514/dde/035/050/044000c レジェンドインタビュー 大相撲元横綱 北の富士勝昭さん] 毎日新聞2016年5月14日 東京夕刊</ref>の規約をもう少しで適用され、廃業を余儀なくされるところだったが、当人もそれを知って奮起したという。入門当初は先輩力士や親方ではなく、部屋付きの[[木村庄之助 (24代)|式守鬼一郎]]の付き人も務めていた。
 
 
[[1960年]]には[[三段目]]まで昇進していたが、同年の夏巡業で北海道に滞在中、先輩力士から[[リンチ]]に近い猛稽古の制裁を受け<ref>北の富士は入門してから3年ほど、1日に20~30発は兄弟子に意味もなく殴られるなど、もとより理不尽な目に遭っていた。
 
:北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P116</ref>、急性虫垂炎と腹膜炎を併発した。それでも巡業に同行したものの、実家のある旭川市に到着したところで体調が限界に達したため入院、50日間に及ぶ入院生活を送った<ref>[[東京中日スポーツ]]・2010年6月24日付 「はやわざ御免 - わが相撲人生」</ref>。このため、後援者から「験直しのために四股名を変えたらどうか」との勧めを受け、同年9月場所から'''「北の冨士」'''と改名している<ref>ただし9月場所はまだ入院中で全休しており、実際には次の11月場所からこの四股名で土俵に上がった</ref>。
 
 
[[1963年]]3月場所で、ようやく十両に昇進した。そして、1963年11月場所では十両で史上3人目の'''15戦全勝優勝'''を達成した<ref name="Kitanofuji1">1場所15日制が定着した1949年5月場所以降、十両での15戦全勝は北の冨士以降も[[栃光正之]]・[[豊山勝男]]・[[把瑠都凱斗]]・[[栃ノ心剛]]が達成している。北の冨士以外の4人も、その後大関に昇進している。</ref>。
 
 
=== 入幕~大関昇進 ===
 
[[1964年]]1月場所で新入幕を果たすと、この場所では13勝2敗という'''新入幕力士最多勝'''の新記録<ref>北の冨士が初優勝した1967年3月場所で[[陸奥嵐幸雄|陸奥嵐]]、北の冨士が千秋楽解説を務めた2014年9月場所で[[逸ノ城駿|逸ノ城]]がタイ記録を樹立した(2014年9月28日放送『NHK大相撲』秋場所より)。</ref>樹立という好成績で敢闘賞を受賞した。この場所、北の冨士と同じように好成績を挙げた[[清國勝雄]]・[[若見山幸平]]とともに「若手三羽烏」と呼ばれた。だが本人が後に語ったところによると、この場所で清國14勝1敗の好成績を残したため全く注目されなかったという<ref>北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P186</ref>。同年3月場所に[[小結]]へ昇進すると同年7月場所には[[関脇]]に昇進、その取り口は「スピード相撲」と称された。
 
 
[[1965年]]5月、[[柏戸剛]]・[[大鵬幸喜]]と共に拳銃を[[ハワイ州|ハワイ]]から密輸入し、その証拠隠滅を図ろうと廃棄していたことが発覚して[[書類送検]]されたが、[[日本相撲協会]]からの処分はなかった。
 
 
[[1966年]]7月場所後に[[大関]]に昇進するが、昇進直前3場所の成績は8勝7敗・10勝5敗・10勝5敗の合計28勝17敗で、15日制が定着した[[1949年]]5月場所以後では[[北葉山英俊|北葉山]]と並ぶ最低の数字である。北の冨士の大関昇進場所当時、[[豊山勝男|豊山]](初代)の一人大関という番付の事情があったとはいえ、昇進基準が現在より甘かった<ref>『相撲』2012年1月号によると、この時期の一応の昇進基準の目安として「直前3場所合計30勝前後」が存在していた。</ref>当時でも意外と言われた大関昇進だった<ref>近年の報道によれば'''「三役地位に3場所連続で在位し、かつその合計の勝ち星が33勝以上」'''が大関昇進の目安と言われているが、協会はその目安を否定している。平成以降では[[千代大海龍二|千代大海]]・[[稀勢の里寛|稀勢の里]]・[[豪栄道豪太郎|豪栄道]]が合計32勝で新大関となった例外もある</ref>。
 
 
それ故か北の冨士自身、新大関が決まった時も、まさか自分が大関に昇進するとは思っていなかったため何も用意しておらず、大関昇進の決定伝達を行う日本相撲協会からの使者を迎える際に必要な紋付や足袋も全く持っていなかった。そのため、紋付は当時兄弟子であった[[佐田の山晋松|佐田の山]]から、足袋は足の大きさが同じだった柏戸から借りて、出羽海部屋での[[昇進伝達式]]に間に合わせたという。<!--これは淡々と事実を書いたところでしょう。なぜ要出典なのかわかりません-->
 
 
=== 幕内初優勝・横綱昇進へ ===
 
大関時代に[[千代の山雅信|九重]]が出羽海部屋からの分家独立を申し出て破門された際には、九重に付いていくか出羽海に留まるか大いに悩んだという。そして出した決断は、九重に付いて行き、所属も九重部屋に変えることだった。それまでは佐田の山がいたために2番目の気楽な立場に甘んじていたが、独立後は部屋頭となった。独立した当初の九重部屋は経営が決して楽ではなく、既に大関に昇進していた北の富士が巡業で九重と布団を譲り合う時期もあったという。<ref name="ref555"></ref>一方で、出羽錦や佐田の山などの怖い兄弟子がいなくなったことから遊び放題になり、後述の初優勝を決めてからはさらに遊びが激しくなったと、2016年の自著で語っている<ref name="katuakicahn">北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P53</ref>。その独立後最初の場所となる1967年3月場所では、佐田の山を倒して14勝1敗で悲願の幕内初優勝を決め、一緒に移籍した[[松前山武士]]も十両優勝を達成した。
 
 
だが初の綱獲りが期待された1967年5月場所は、過度の緊張と稽古不足から5勝10敗、次の1967年7月場所も7勝8敗と、大関の地位で2場所連続で負け越しを喫してしまう<ref>当時は、「大関の地位で3場所連続負け越した場合は、関脇へ陥落」となっていた。1969年7月場所以降に現在の規定(大関で2場所連続負け越した場合は関脇へ陥落)に変更。</ref>。初の大関[[角番]]となった1967年9月場所は、四股名の「冨」に点を付けて「'''富'''」と改めて臨み、10勝5敗で角番を脱した。しかし、その後もしばらくは10勝前後の成績に留まり、その間に清國・[[玉の海正洋|玉乃島]]らの綱獲り挑戦(失敗)も発生した。
 
 
[[1969年]]夏巡業の頃から、大の稽古嫌いで知られていた北の富士は人が変わったように稽古に打ち込んだ。その背景には、入門するまで1ヶ月間自宅に引き取って面倒を見てくれた人物である村上精一郎が脳軟化症で余命幾許もない(同年12月14日に死去)という状況があり、村上からは「オマエが綱を張ることを信じている」と激励された<ref name="yokosho">雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p92-97</ref>。同年9月場所は大関・玉乃島と最後まで優勝を争い12勝3敗の好成績を挙げ、11月場所は13勝2敗で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。場所後に協会は、北の富士の横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、全委員の反対によって却下された<ref>その後、横綱審議委員会で横綱昇進を見送られた力士は、25年経った1994年9月場所後の[[貴乃花光司]]がいるが、貴乃花も同年11月場所後に横綱昇進を決めている。</ref>。それでも11月場所後の九州地方巡業で、ほとんどの力士が悪天候と寒波に見舞われて稽古ができなかった中、北の富士はただ一人稽古を皆勤した。その巡業に帯同した大鵬が「あれが本当に北の富士だろうかと目をうたがうようなときがあった。ワシも大関から横綱のころにかけては人後に落ちない稽古をした自負はあるが、いまの北の富士も稽古にはすごく熱が入っていた。今度の巡業で北の富士の稽古は本物だと感じさせられる場面はかなりあった」と評するほどの熱心さであった<ref name="yokosho"/>。その甲斐あってか、[[1970年]]1月場所を再び13勝2敗で連覇を達成し、場所後に行われた横綱審議委員会でも文句無しの評価を受け、同場所の優勝決定戦で北の富士に敗れ優勝同点だった玉乃島と共に、ようやく念願の横綱へ昇進した。大関21場所での横綱昇進は、当時の最長記録だった。<ref>現在は[[琴櫻傑將]](1967年11月場所 - 1973年1月場所)・[[武蔵丸光洋]]([[1994年]]3月場所 - [[1999年]]5月場所)の32場所。</ref>
 
 
=== 横綱昇進・玉の海との対戦 ===
 
同時昇進した玉の海(玉乃島が横綱昇進と同時に改名)とは最大のライバルだったが、「島ちゃん」「北さん」と呼びあう親友でもあった。歴代横綱の親睦会である「横綱会」に玉の海と並んで初出席した際、新横綱のしきたりとして一芸を披露することになり、玉の海の[[ギター]]に合わせて北の富士が歌を歌い、[[栃錦清隆]]に「びっくりした。時代が変わったものだねぇ」と言われた。
 
 
土俵入りの稽古の際に、九重からは「せり上がりのときは、地球を持ち上げるような気持ちでな」と指導されていた<ref name="shiranai"/>。北の富士の[[横綱土俵入り]]は雲龍型で行っていたが、[[1971年]]8月の巡業で例外がある。この時の巡業は北海道を中心に巡回したA班(北の富士が参加)と、東北地方から信越へ向かったB班(玉の海が参加)に別れて行われていたが、B班が[[秋田県]][[南秋田郡]][[八郎潟町]]での巡業中、玉の海が急性[[虫垂炎]]を起こして入院した。この一報を聞いたA班は[[北海道]][[岩見沢市]]での巡業を終えて帰京しようとした矢先だったため、北の富士がB班に加入して土俵入りを行うこととなった。しかし、現地にある玉の海用の綱は北の富士と異なる不知火型だったうえ、玉の海の付き人の力士が雲龍型の綱締めを知らなかったため、北の富士は玉の海の土俵入り用具一式を借りて不知火型の土俵入りを行った。巡業とはいえ、横綱として雲龍型・不知火型両方の土俵入りを行ったことは史上初だった<ref>この後、不知火型の土俵入りをしている[[白鵬翔|白鵬]]が、[[宇佐神宮]]の奉納土俵入りで雲龍型の土俵入りを行ったことがある。これは、[[大分県]][[宇佐市]]は白鵬が崇拝する[[双葉山定次|双葉山]]の故郷であり、双葉山の土俵入りが雲龍型であった為、これに敬意を表する形で行ったことによるものである。</ref>。
 
 
両者の対戦は、1964年5月場所 - 1971年9月場所の45場所間に43回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は8回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が2回あった。'''千秋楽'''(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
!場所!!対戦日!!北の富士勝敗<br/>(通算成績)!!玉の海勝敗<br/>(通算成績)!!優勝力士!!備考
 
|-
 
|1964年5月場所||千秋楽||●(0)||○(1)||栃ノ海||'''初対戦'''
 
|-
 
|1964年7月場所||-||-||-||富士錦||対戦なし。
 
|-
 
|1964年9月場所||7日目||●(0)||○(2)||大鵬||
 
|-
 
|1964年11月場所||4日目||○(1)||●(2)||大鵬||
 
|-
 
|1965年1月場所||14日目||○(2)||●(2)||佐田の山||
 
|-
 
|1965年3月場所||13日目||●(2)||○(3)||大鵬||
 
|-
 
|1965年5月場所||8日目||○(3)||●(3)||佐田の山||
 
|-
 
|1965年7月場所||11日目||○(4)||●(3)||大鵬||
 
|-
 
|1965年9月場所||3日目||●(4)||○(4)||柏戸||
 
|-
 
|1965年11月場所||9日目||●(4)||○(5)||大鵬||
 
|-
 
|1966年1月場所||-||-||-||柏戸||対戦なし。
 
|-
 
|1966年3月場所||2日目||●(4)||○(6)||大鵬||
 
|-
 
|1966年5月場所||14日目||●(4)||○(7)||大鵬||
 
|-
 
|1966年7月場所||千秋楽||○(5)||●(7)||大鵬||
 
|-
 
|1966年9月場所||千秋楽||●(5)||○(8)||大鵬||北の富士、大関昇進
 
|-
 
|1966年11月場所||11日目||●(5)||○(9)||大鵬||玉乃島、大関昇進
 
|-
 
|1967年1月場所||11日目||○(6)||●(9)||大鵬||
 
|-
 
|1967年3月場所||10日目||○(7)||●(9)||'''北の富士(1)'''||
 
|-
 
|1967年5月場所||12日目||○(8)||●(9)||大鵬||
 
|-
 
|1967年7月場所||千秋楽||○(9)||●(9)||柏戸||
 
|-
 
|1967年9月場所||千秋楽||○(10)||●(9)||大鵬||
 
|-
 
|1967年11月場所||11日目||●(10)||○(10)||佐田の山||
 
|-
 
|1968年1月場所||11日目||●(10)||○(11)||佐田の山||
 
|-
 
|1968年3月場所||13日目||●(10)||○(12)||若浪||
 
|-
 
|1968年5月場所||13日目||●(10)||○(13)||'''玉乃島(1)'''||
 
|-
 
|1968年7月場所||12日目||○(11)||●(13)||琴桜||
 
|-
 
|1968年9月場所||10日目||●(11)||○(14)||大鵬||
 
|-
 
|1968年11月場所||千秋楽||○(12)||●(14)||大鵬||
 
|-
 
|1969年1月場所||千秋楽||○(13)||●(14)||大鵬||
 
|-
 
|1969年3月場所||12日目||●(13)||○(15)||琴桜||
 
|-
 
|1969年5月場所||10日目||○(14)||●(15)||大鵬||
 
|-
 
|1969年7月場所||10日目||○(15)||●(15)||清国||
 
|-
 
|1969年9月場所||11日目||●(15)||○(16)||'''玉乃島(2)'''||
 
|-
 
|1969年11月場所||'''千秋楽'''||○(16)||●(16)||'''北の富士(2)'''||
 
|-
 
|1970年1月場所||'''千秋楽'''||●(16)||○(17)||'''北の富士(3)'''||'''千秋楽北の富士1敗、玉乃島2敗で対戦''' 優勝決定戦は北の富士勝利。
 
|-
 
|1970年3月場所||'''千秋楽'''||○(17)||●(17)||大鵬||北の富士、玉乃島とも横綱に昇進
 
|-
 
|1970年5月場所||13日目||○(18)||●(17)||'''北の富士(4)'''||
 
|-
 
|1970年7月場所||'''千秋楽'''||○(19)||●(17)||'''北の富士(5)'''||
 
|-
 
|1970年9月場所||'''千秋楽'''||○(20)||●(17)||'''玉の海(3)'''||
 
|-
 
|1970年11月場所||13日目||●(20)||○(18)||'''玉の海(4)'''||
 
|-
 
|1971年1月場所||13日目||●(20)||○(19)||大鵬||
 
|-
 
|1971年3月場所||13日目||●(20)||○(20)||'''玉の海(5)'''||
 
|-
 
|1971年5月場所||'''千秋楽'''||○(21)||●(20)||'''北の富士(6)'''||'''千秋楽北の富士全勝、玉の海1敗で対戦'''
 
|-
 
|1971年7月場所||'''千秋楽'''||●(21)||○(21)||'''玉の海(6)'''||
 
|-
 
|1971年9月場所||'''千秋楽'''||○(22)||●(21)||'''北の富士(7)'''||最後の対戦
 
|-
 
|}
 
* 両者横綱昇進以前の対戦成績(1970年1月場所まで)は、'''玉の海の17勝16敗'''。
 
* 両者横綱同士の対戦成績(1970年3月場所以降)は、'''北の富士の6勝4敗'''。
 
 
北の富士と玉の海の対戦は、両者が交互に優勝を重ねて'''「北玉時代」'''とも言われたが、長くは続かなかった。巡業中に入院した玉の海が、1971年9月場所後に虫垂炎が悪化したために緊急入院する。早急に手術して経過は順調だったが、退院前日だった同年[[10月11日]]、併発した右肺動脈幹[[血栓症]]による[[急性冠症候群]]で急逝した。玉の海の早過ぎる死に、巡業先の[[滋賀県]][[坂田郡]][[米原町]](現:[[米原市]])で訃報を聞いた北の富士は、人目をはばからず号泣した。同年11月場所に13勝2敗で8回目の優勝を連覇で遂げた千秋楽の[[11月28日]]は、玉の海の[[四十九日]]の法要が行われたため、北の富士は優勝パレードを後回しにして法要の席に駆け付けた。
 
 
=== 不振・物言いが付く貴ノ花戦 ===
 
玉の海との突然の別れから間もない1971年11月場所中、銃刀法違反で逮捕され保釈中であった男のいる西福岡署へあいさつに行ったことが報じられる<ref>大相撲ジャーナル』2017年12月号p41</ref>。これをきっかけとして[[暴力団]]関係者からの祝儀を受けたことが発覚したため、協会から戒告処分を受ける。事件そのものについても[[文部科学省|文部省]](当時)が警告文書を出すなど、土俵外のトラブルが発生した。土俵でも一人横綱の最初の場所こそ優勝を果たしたが、その後は不振が続いてしまう。
 
 
3連覇の期待がかかり、優勝争いの本命とみられていた[[1972年]]1月場所では、初日にいきなり大関・琴櫻との取組が組まれて敗れると、8日目の関脇・[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]戦では、北の富士の[[つき手]]・[[かばい手]]か、貴ノ花が生き体か[[死に体]]なのかで大きな話題となった。[[木村庄之助 (25代)|25代木村庄之助]]は北の富士の付いた手が「つき手」と見て貴ノ花に軍配を上げたが、[[物言い]]によって北の富士の勝ちとなった(決まり手は[[浴びせ倒し]])。しかし、2005年に貴ノ花が亡くなった際、この取組が思い出として多く取り上げられるようになると、北の富士は「あの大相撲は、本当は俺の負け。俺の手は『かばい手』では無く『つき手』で、しかも貴ノ花は完全な『生き体』だった。当時は認めたくなかったが今は認める。生涯に残る相撲」と涙ながらに振り返っている。<ref>その後、[[日本相撲協会]]には「貴ノ花が勝っていたのではないか?」という抗議が殺到した。この一番を裁いた木村庄之助は進退伺いを協会に提出して出場停止処分を受けたが、3月場所前に廃業した。</ref>
 
 
その後、10日目まで6勝4敗、さらに12・13日目と連敗する乱調ぶりで、14日目より胃炎・高血圧などの体調不良で途中休場となった(7勝7敗1休)。これにより、1967年9月場所 - 1971年11月場所まで続いた通算(幕内)連続勝ち越しは26場所で止まった<ref>1972年1月場所であと1勝して勝ち越せば、当時の連続勝ち越し記録の第1位だった玉の海の27場所と並んでいた。</ref>。北の富士の不振によって、この場所は千秋楽まで4敗が3人、それを5敗の力士5人が追う大混戦となった。<ref>加えて、[[大麒麟將能]]・[[前の山太郎]]の二大関が全休または途中休場、琴櫻・清國の大関同士の取組が14日目にあったため、千秋楽結びの一番に清國と前頭5枚目・[[栃東知頼]]が相撲を取る事態となった(千秋楽では琴櫻と関脇・[[三重ノ海剛司]]の対戦も組まれたが、番付上は清國が大関上位だったため、琴櫻 - 三重ノ海戦は結び前となった)。栃東が敗れれば10勝5敗の力士8人による[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]となるところで栃東が勝利・初優勝を果たしたが、11勝4敗の成績は15日制となった1939年5月場所以来で最低だった(1944年5月場所 - 1949年1月場所は15日制ではなかった。15日制に戻って定着した時期は1949年5月場所からで、[[1996年]]11月場所に武蔵丸が5人での優勝決定戦の末、11勝4敗で優勝している)。</ref>
 
 
3月場所も序盤から取り零しが続いて早々に優勝争いから脱落し、勝ち越したものの9勝6敗に終わる。その同年3月場所7日目、貴ノ花との結びの一番では、北の富士が左足で[[外掛け]]をかけながら貴ノ花を土俵外へ追い詰めたが、土俵際で両者がほぼ同時に倒れ込み、またも物言いが付く大相撲となった。[[木村庄之助 (26代)|式守伊之助]]の軍配は北の富士に挙がったが、協議によって北の富士の左足が僅かに先に出ていたと判定され、北の富士の[[勇み足]]・行司差し違えで貴ノ花の勝利となる。この一番は先場所も北の富士のつき手・かばい手を巡って揉めており、二場所連続同じ顔合わせで立行司が軍配を差し違えてしまう珍事となった。
 
 
=== 加速する不振~現役引退 ===
 
次の5月場所、北の富士は8日目まで3勝5敗の絶不調、9日目には横綱として前代未聞の「[[不眠症]]」で途中休場した。休場するには医師の診断書が必要であるが、極度の不振とはいえ、身体に悪いところはどこにも見当たらない。困った医師はそこで「夜は眠れるか?」と問い、北の富士は調子が上がらない悩みから「最近寝付きが悪い」と否定したので、'''「ならば不眠症だな」'''と医師がようやく診断書を書いた、というエピソードが本人の口から語られている。続く7月場所を右手中指の脱臼で全休したが、休場中に[[ハワイ]]へ旅行をしていたことが明るみに出て協会から厳重注意を受けた<ref>日刊スポーツ 2017年11月22日</ref>。北の富士は直ちに帰国して詫び、場所後の夏巡業に参加した。
 
 
同年9月場所は3回目の全勝優勝を果たして完全復活をアピールするが、一人横綱の8場所中で[[輪島大士]](同5月場所)と[[高見山大五郎]](同7月場所)が初優勝を果たし、貴ノ花と輪島が同時に大関昇進(同9月場所後)するなど、角界の世代交代が進む結果となった。1973年1月場所後に琴櫻が横綱へ昇進して2人横綱となると、3月場所には14勝1敗で10回目の優勝を果たし、7月場所にも14勝1敗で琴櫻と決定戦を行うなど、健在ぶりを印象づけた。だが、それ以後の1年間は皆勤が1場所だけと急速に衰えていき、3場所連続休場後に迎えた1974年7月場所で初日に[[旭國斗雄]]、2日目に[[大受久晃]]と連敗して体力の限界を感じ、現役を引退した。
 
 
=== 引退後 ===
 
元々は協会に残るつもりはなく、北海道に帰郷してちゃんこ店を開こうとしていた<ref name="shiranai"/>が、年寄・井筒(12代)を襲名。引退相撲は翌1975年2月2日に行われ、太刀持ち・[[北の湖敏満|北の湖]]、露払い・輪島を従えて[[横綱土俵入り#引退相撲における横綱土俵入り|横綱土俵入り]]を執り行っている。断髪式の後に白の[[タキシード]]姿で登場し、自らの持ち歌を披露して会場・関係者を驚かせた。だがこの催しは春日野の顰蹙を買い、ひいては力士の副業・テレビ出演禁止化につながった<ref>北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p47-48</ref>。また、短期間に40kg近い[[ダイエット]]を敢行し、ダイエット後のスリムな容姿で周囲を驚かせた。現在でも元力士とは思えぬ体型を維持している。
 
 
[[井筒部屋]](現在の部屋と別系統)を興したが、[[1977年]]に千代の山が没すると、12代九重を襲名し自らの井筒部屋と合同させる形で九重部屋を継承した。その後、先代から引き継いだ[[千代の富士貢|千代の富士]]を第58代横綱に育て上げ、昭和の大横綱として大成させた。千代の富士は北の富士の指導について自著『負けてたまるか』の中で「親方はあまりガミガミ言わないが、ここぞというとこにチクッと何か言って、こっちの気持ちをくすぐったり、反発心を起こさせる。やる気を起こさせるコツをよく知っているのだ。後は見て見ないふりをする」と振り返っている<ref name="sugi7072">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p70-72より、陣幕貢『負けてたまるか』を孫引き</ref>。1987年には[[北勝海信芳|北勝海]]を第61代横綱に育成、さらに[[安田忠夫|孝乃富士]]・[[巴富士俊英|巴富士]]を小結まで昇進させた<ref name="takasagoo39">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p39</ref>。{{要出典範囲|date=2014年9月|特に千代の富士とのやりとりは漫才の掛け合いのように軽妙で、しきたりの多い角界には珍しく映ったこともあり、千代の富士が一気に横綱まで駆け上がった際には記事の題材によく取り上げられていた}}。一方で、前妻と離婚して不惑を超えてから元[[ホステス]]と再婚したり、交友関係や部屋の力士養成員([[北天佑勝彦]]の弟だった)の素行不良に対する制裁を指揮していた疑惑をかけられるなど、スキャンダルで紙面を賑わすことも多かった。なお、千代の富士の大関昇進時の伝達式では独身だったため、亡き千代の山の夫人に同席をお願いしている。
 
 
1981年7月場所後、千代の富士が横綱に昇進した時には、「ウルフ(千代の富士のあだ名)、辞める時はスパッと潔く・綺麗に辞めような。チンタラチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と、千代の富士に引き際の美学を説いた<ref>[[栃木山守也|春日野]]が[[栃錦清隆]]の横綱昇進時にこれと同様の言葉を語っている。北の富士は、栃錦と親しかった師匠の千代の山を通じてこの話を聞かされていたという。</ref><ref>自著でも部屋の力士たちの士気に与える影響を考えて心が折れたものは早々と次の人生を歩ませる方針を主張している。</ref>。{{要出典範囲|date=2014年9月|当時の千代の富士は面食らいながらも、1991年5月場所限りで引退した時は正にこの言葉通り、潔いものだった}}。[[1992年]]には引退したばかりの千代の富士に九重部屋を譲って、18代陣幕に名跡交換<ref>あまりに早い名跡交換だったためか、新・九重の千代の富士がその事実を失念してしまい、色紙にサインする際に「陣幕」とサインしそうになったというエピソードが大相撲放送の解説中で語られている。</ref> し、自身は九重部屋の部屋付きの親方となった。ところが、直後に千代の富士の13代九重と金銭問題で仲違いし、1993年10月に北勝海の8代八角が興した[[八角部屋]]に移籍した。{{要出典範囲|date=2014年9月|1992年5月場所直前には、まともに相撲が取れる状態ではないにもかかわらず出場した北勝海に対して、既に部屋を千代の富士に譲っていたにも関わらず、北の富士は北勝海を諭し、北勝海に引退を決意させたといわれている。}}後年、千代の富士との関係は改善された模様であり、後述の還暦土俵入りの際にも千代の富士が率先して随行するなど退職後も交流が続いていた。また、北の富士自身は千代の富士との不仲を一切否定している<ref name="takasagoo">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p39</ref><ref name="sugi7072"/>。
 
 
審判部副部長(役員待遇)時代に不祥事(知人の暴力団員を横綱千代の富士の結婚式に出席させていた)を起こし、一度委員(無任所)に降格されながらも審判部副部長に返り咲き、理事昇格後は長らく審判部長を務めた。その後は新設された広報部長を務めた。しかし北の富士は2016年のインタビューで「広報らしいことは何もやってなかった。フィルムを提供するなどして、儲けることばかり。当時の協会はそういう考えだった。インターネットを扱える人間も全くいなかったしね」と当時を振り返っていた<ref>大空出版『相撲ファン』vol.4 13頁から14頁</ref>。
 
 
かつて九重部屋の弟子だった千代の富士(のち九重親方)が2016年7月31日、61歳で[[膵臓癌]]により死去。2013年1月に大鵬、2015年11月は北の湖前理事長と、昭和の大横綱の相次ぐ訃報に、北の富士は「何でだろうねえ、強い順番で逝っちゃうんだ…」とショックを隠せず、「これは、もう若いも何も…千代の富士本人が一番悔しいでしょう」と追悼のコメントを述べていた<ref>[http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1687836.html 北の富士さん、九重親方弔問「強い順番で…」] 日刊スポーツ 2016年8月1日記事</ref>。
 
 
=== 相撲協会を退職・ホテルで還暦土俵入り ===
 
[[1998年]]に相撲協会理事選の候補から外されたことで日本相撲協会を退職<ref>一門内で行われた予備選挙で千代の富士が自身を支持しなかったことが原因となって候補から外された。</ref>。将来は理事長に就くことを期待されていたが本人は「もともといつまでもやる気はないよ。地位にすがるのはみっともないだろ」と後年話している。<ref>[http://www.sankei.com/sports/news/151218/spo1512180010-n3.html 【舞の海の相撲俵論】もののあはれにふれて(3/3ページ)] 産経ニュース 2015.12.18 08:39</ref>一方で2016年には「それにしても内の部屋は高砂一門内ではもとは"外様"で弱小部屋だったんだ。それで私も相撲協会を離れることとなった。遠い因縁を探すとね」と派閥争いに敗れたことを認めるかのような発言を残している<ref name="fankitahu1">大空出版『相撲ファン』vol.4 14頁</ref>。その後はNHK専属で相撲解説を務めている。大関以上の経験者がNHK専属相撲解説者になるケースは、テレビ放送開始以来初めてである。解説者としては歯に衣着せぬ切れ味鋭く、かつわかりやすい解説が好評を博しており、同相撲解説者の[[舞の海秀平]]らと共に、現在大相撲中継の名物ともなっている。
 
 
[[2002年]]2月には[[還暦|満60歳]]を祝い太刀持ち・千代の富士(九重親方)、露払い・北勝海(八角親方)と共に、横綱昇進を果たしたかつての弟子二人を従えての[[還暦土俵入り]]が行われたが、相撲協会から退職していたために[[両国国技館]]が使えず、都内のホテルを借りての還暦土俵入りとなった。
 
 
=== 解説者として ===
 
取り組み前後にNHKアナウンサーと北の富士の会話において、様々な語録が披露されている。
 
 
自身が'''「黄金の引き足」'''と言われたほど、引き技の切れが鋭かったことから、[[千代大海龍二]]・[[千代天山大八郎]]・[[北勝力英樹]]の引き技による自滅など、ふがいない相撲に対しては容赦ない叱責が飛ぶこともあった。千代天山が引き技で敗北した際、'''「げんこつをあげたくなるくらい悪い相撲」'''と酷評した。この時は、取組前まで千代天山の素質などを大いに褒めていたが、[[九重部屋]]及び[[八角部屋]]の(自身の孫弟子となる)力士に対するコメントは引き技に関するもの以外でも辛いことが多い。その一方で、解説者(それも優勝10回を誇る横綱経験者)であるにも関わらず、特定の力士(松鳳山、舛ノ山等)についてファンだと発言するなど、一方的な解説者目線に限定されない角度からの相撲の見方も好評を得ている。[[2010年]]より[[東京中日スポーツ]]にて自伝「はやわざ御免」を連載している。
 
 
; 2004年
 
* 9月場所千秋楽で、北勝力が[[土佐ノ海敏生]]に四つ相撲で敗れた。この場所、北勝力は終盤の5連敗で5勝10敗。'''「土佐ノ海は四つ相撲でもそれなりに取れるけど、北勝力は四つに組んだら何にもならない。自分から四つに組んでいるようにも見える。どうしようもないねぇ、こんなんじゃあ」'''と酷評。この日実況担当の[[刈屋富士雄]]も「そうですか」としか言えなかった。北勝力が勝っても「まあ、今日は良かったんじゃないですか」程度で、負ければ北勝力の相撲を切り捨てている。2010年初場所で北勝力が大関・[[琴光喜啓司]]を倒した時には絶賛していた。
 
 
; 2006年
 
* 大関・[[魁皇博之]]には何度も横綱昇進の期待を裏切られたためか、7月場所では好調にも関わらず「期待してませんから」と酷評していた。その予感通り、魁皇は終盤に失速し9勝6敗に終わった。ところがその後北の富士は、長期間大関の地位を務め続けていることに敬意を評しており、他大関陣が優勝争いに絡まないことに関しても魁皇に限っては非難しなくなった。ある日北の富士は魁皇に対して'''「一代年寄をあげてもいい」'''とも発言したが、後日その話題を振られると'''「そんなこと言いましたっけ?」'''と発言した。
 
 
; 2007年
 
* 9月場所千秋楽では横綱・[[白鵬翔]] - 大関・千代大海龍二の結びの一番で、'''「まぁ、白鵬が負けるとは思えないですけどねぇ。何ならあれですか、坊主にでもしましょうか?」'''といった発言をしたことがある。<ref>1994年の役員改選で新設の広報部長に就任したが、頭部に動脈瘤が発見されて手術を受けている。審判部を離れたことで解説者としてテレビに出ることとなったが、手術の際に剃髪したため、角刈りに近い短髪姿で登場したことがある。</ref>
 
 
; 2008年
 
* 7月場所のある取組で、舞の海秀平が真面目に解説していると、北の富士は自分の出番では無いからと大欠伸をこれ見よがしにする。それを向正面から見た舞の海は「北の富士さんに聞いたほうが良いんじゃないですか?」と突然話を振って慌てさせたが、中継終了後に「急に話しかけるんじゃないよ!」と叱られたという。しかし、数日後の中継では突然'''「それは僕(北の富士)よりも舞の海さんの方が知ってるでしょ」'''と同じ手口の仕返しをして喜んでいた。
 
* 9月場所のある取組の終了後、その相撲についてアナウンサーから質問されたが、'''「ご、ごめん。ちょっ、ちょっとよく見てなかった」'''と、解説者としてあるまじき発言。それを聞いたアナウンサーは'''「([[大相撲力士大麻問題]]が大きく世間を騒がしていたのを利用して)角界の将来のことを考えていたのでしょうか…」'''と上手にフォローしていた。
 
* 11月場所、角番ではなかった大関・千代大海に対して取組直前に'''「(千代大海は)どうせ今場所(も)角番でしょ?」'''と言い放つ。その大きな勘違いにアナウンサーは絶句し、「さすがにそれは(千代大海に)失礼だと思いますが…」と言われていた。
 
 
; 2009年
 
* 1月場所8日目、正面ゲストにかつて土俵上で激しくしのぎを削った輪島大士が登場した際に、ラジオ中継の解説をしている姿が映されたが、帽子にジャンパーという極めてラフな格好だった。輪島に関しては「岩みたいだった」という表現で当時の強さを語った。
 
* 3月場所12日目、[[把瑠都凱斗]]が[[栃煌山雄一郎]]を[[吊り出し]]で破った相撲の後に、'''「栃煌山は吊られっ放しじゃなくてもっと抵抗しないと!『[[サケ|シャケ]]』じゃないんだから…」「お歳暮の鮭でも、もうちょっと恰好よく釣られてるよ」'''と発言した。さらに同日、[[高見盛精彦]]が[[安美錦竜児]]に勝利した際に安美錦が膝を痛めたことに、高見盛がいつも通りに意気揚々と引き上げず、安美錦を心配そうにしながら引き上げたことに「相手に気遣うこともできて、見ていて清清しいね」と絶賛した。毒舌だけではなく、素直に褒めることもあるところが解説者として人気の要因として考えられる。
 
* 3月場所千秋楽、248kgの[[山本山龍太]]が登場した際、13日目の[[豊ノ島大樹]]戦で機敏な動きに付いて行って勝利したことに対して'''「あれはただのデブじゃないと思いましたね」'''と発言した。
 
* 9月場所初日、大関(当時)・[[日馬富士公平]]の取り組みの際、体重についてもう少し増えれば強くなるだろうという話になった直後、'''「日馬富士はいま25歳? この間会った時、『27・8歳になったらもう少し体重が増えてくるよ』と言っておきましたよ。まぁ、何の根拠もないんですけどね。」'''と言っていた。ところが日馬富士は28歳の年齢で、第70代横綱へ昇進を果たしている。
 
* 9月場所千秋楽、把瑠都が5大関全員から白星を挙げる快挙を成し遂げたにもかかわらず殊勲賞の該当者がいなかったことに対し、'''「まぁ、いまの大関達にはそれだけの価値がないってことですよね、弱いから」'''と言い放った。それに対しアナウンサーは「確かに元気のない大関もいましたが、元気のある大関もいましたので…」とフォローしていた。さらに、この場所で横綱・[[朝青龍明徳]]が優勝することが奇跡だと予想していたことから朝青龍が優勝したことで、向正面解説の舞の海へ'''「まんまとして、またやられたな、舞の海さん。明日は二人で床屋行くか?」'''と発言した。
 
* 11月場所10日目、横綱・朝青龍との取組が組まれた大関・千代大海に対して、この時点で千代大海は大関角番で2勝7敗だったが、まだ取組前にも関わらず'''「まぁ、こうして引導渡してくれるのが横綱でよかったんじゃないですか?」'''と言い放った。これは潔さを美学とする北の富士ならではの発言。結果は北の富士の予想通りに、千代大海は朝青龍に吊り出しで敗れ2場所連続負け越し、65場所の間連続維持した大関からの陥落が決定した。その後千代大海は、関脇に陥落した翌場所で初日から3連敗を喫し、大関復帰は難しいと判断し、現役を引退した。
 
 
; 2010年
 
* 7月場所前に発覚した[[大相撲野球賭博問題]]により、史上初の大相撲生中継の中止が決まった。その余波を受け、北の富士は名古屋へ一度も足を運ぶことなく、ずっと東京に滞在していたという(同じく舞の海も解説せず)。9月場所は中継を再開することが決まったが、その件について「職を失わないでよかったよ」「(名古屋場所中は)中継がないから、夕方4時頃から酒を飲んで酔っぱらってたよ」と苦笑いしながらコメントしていた。<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2010/09/04/12.html NHK中継再開 白鵬「世界中のファンが喜ぶ」][[スポニチ]]</ref>
 
 
; 2012年
 
* 5月場所千秋楽に大関・[[琴欧洲勝紀]]が休場して[[栃煌山雄一郎]]に不戦勝を与えたことについて、八角(北勝海)が「優勝に関わる相撲で大関が休場してこんな形になっては観客に申し訳ない。昨晩のうちに(休場が)判っていれば[[割 (相撲)|割り返し]]で対応出来たのに、今日になってからでは遅過ぎる。こんなことでは本人も師匠も『自覚が足りない』と言われても仕方が無い。協会の危機管理能力も問われかねない事態」と苦言を呈した。これを聞いた北の富士は琴欧洲の休場について'''「あってはいけないこと。這ってでも出て欲しい。勝ち名乗りの前なら間に合うから休場届を取り消して土俵に来てくれないか。」'''と言っていた。この日、向正面で解説していた[[舞の海秀平]]も「逆の立場で琴欧洲が優勝争いの先頭だったら土俵に上がっていたと思う」と全く同じ意見で、最後に2人は口を揃えて「『不戦勝での優勝決定』という最悪の事態にならないためにも、(琴欧洲は)休むべきではない」と発言していた。
 
* この場所は[[旭天鵬勝]]と栃煌山雄一郎の'''史上初となる平幕力士同士の優勝決定戦'''となり、旭天鵬が制して初の幕内優勝を達成。優勝パレードではアナウンサーから「横綱の白鵬が『(優勝)旗を持ちたい』と言っているそうです」と聞き、'''「オープンカーにもう1人乗れるでしょ? 先代[[大島 (相撲)|大島]]親方(元大関・[[旭國斗雄]])で決まりだよ。」'''と発言<ref>旭國は同年4月に停年(定年)退職するまで、師匠として旭天鵬の面倒を見ていた。</ref>。実際パレードカーの助手席には、先代大島親方が同乗していた。
 
 
; 2013年
 
* 3月場所5日目、同場所2日目に3大関、3日目に3大関と日馬富士、4日目に2大関と日馬富士が黒星を喫しており上位陣が不調な様子に対して「'''何ていうんだろうねこれ、盛り上がる理由がもうないもんね、これじゃね'''」とこぼした。「'''あの丁髷も大銀杏も結えない奴にねぇ、嫌な顔の力士にねぇ、バーンと叩かれてそのまま手ぇ付くっちゅうのはねぇ'''」と4日目までに2大関1横綱を破った千代大龍を評価するのではなく、千代大龍に叩かれる方が悪いと横綱・大関陣を批判した。
 
 
; 2014年
 
* 3月場所千秋楽、[[大坂敏久]]アナウンサーから話を振られたがそれに気付かなかった。「あさっての方向を向いていた北の富士さんですが」と中継中によそ見をしていたことを指摘された際「いや、知り合いがいたもんだからね」と弁解。北の富士の奔放な性格を物語る発言である。
 
 
; 2015年
 
* 1月場所初日、外国人勢の幕内優勝が続く状況の中で日本人の優勝額が国技館内に掲載されていないことに対して「もう笑うしかないよね」とコメント。白鵬の優勝額<ref>この場所の時点で32枚中22枚が白鵬のものであった。</ref>が沢山並ぶことについて[[三瓶宏志]]アナウンサーに「似たようなポーズにならないように苦労してるね」と表現している。同日の遠藤対逸ノ城戦では、北の富士は喧嘩四つの両者の対戦を、遠藤が差し勝ってそのまま逸ノ城に廻しを与えずに勝利すると予想。予想どおりの取り口で遠藤が勝利したことに対して「解説者冥利に尽きるね」と喜び、舞の海に対して「恐れ入ったか!」と自画自賛の様子を見せていた。三瓶アナはこの様子を「北の富士さん、新年よりご機嫌の様子です」と評していた。
 
 
* 5月場所12日目、優勝争いの単独トップの1敗だった横綱・白鵬翔は、大関・[[豪栄道豪太郎]]の捨て身の首投げに横転し2敗に後退。勝負は土俵際でもつれ豪栄道の体も飛んだが、白鵬の右肘が先に土俵外につくという際どい一番だった。白鵬は取組後に礼をせず、その後も土俵下でぼうぜんと立ち尽くし、VTRでスロー映像が流れている時、NHKアナが「これは、でもどうですか?物言いぐらいは…」とコメントするも、北の富士は'''「イヤイヤイヤイヤ、物言いは…ま付いても、確認程度でしょう。これはもう…いやぁこれは子供でも分かるんじゃないですか」'''と、1月場所後に白鵬が勝負審判を批判をした際に使用した「子どもでも分かる」を引用してバッサリ切り捨てた<ref>[http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1480112.html 白鵬判定にぼう然も「子供でも分かる」と北の富士氏]日刊スポーツ2015年5月21日</ref>。
 
 
; 2016年
 
* 1月場所12日目、妙義龍対千代鳳で千代鳳が勝ったことについて「'''腹を利用してガブっている、妙義龍が腹の上に乗ってしまった。腹っていうのは無駄にあるんじゃないんだね~'''」。千代鳳に関しては普段「太りすぎ」と指摘している北の富士からの褒め言葉である。
 
 
; 2017年
 
* 前年末に不整脈に伴う心臓手術を受け、自宅療養のため、1月場所の解説出演を見送ることになった<ref>[http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1762798.html 北の富士さんNHK解説見送り 昨年末に心臓手術],日刊スポーツ,2017年1月9日</ref>。ただし、1月場所千秋楽の放送中、電話出演している。
 
* 3月場所中、新入幕の宇良を贔屓するコメントが目立った。千秋楽でも宇良と逸ノ城の取組が土俵際でもつれて物言いがつく一番になり、VTRが流れると北の富士氏は「あ、(逸ノ城が)早い、手をついているよ」と全力でフォロー。行司差し違えで宇良の勝ちになると「アッハハハ」と上機嫌に笑った。アナウンサーから宇良について聞かれると、「売店に宇良のTシャツが売っているから、買いたいぐらい」と終始ノリノリだった。その後、勝ち越しを決めた宇良のインタビュー映像が流れてくると「かわいいね」と一言。角界でいうところの「かわいがり」ではなく、本来の意味での「かわいい」である。北の富士は基本的に小兵力士が好きである<ref>週刊ポスト2017年4月14日号</ref>。
 
* 9月場所初日、3横綱休場と、宇良の右膝の状態に絡め、実況の三瓶宏志が「宇良が出るか出ないかではまったく盛り上がりが違うでしょう」と話しを振ると、北の富士は'''「そうですよ。これで宇良が休んだら俺も休もうと思ってた」'''と即答。三瓶は苦笑いしながら「いやいやいやいや、それはダメです。それはダメですよ。それは困ります」と返すのみだった<ref>[https://www.j-cast.com/2017/09/11308183.html?p=all 宇良、高安‥ケガ人続出で 「俺も休む」宣言の北の富士「休場待ったなしか」] J CASTニュース 2017/9/11 20:36(2017年9月24日閲覧)</ref>。
 
*11月場所は孫弟子の北勝富士と隠岐の海が共に11勝を挙げ、前者は技能賞を、後者は敢闘賞を獲得。しかしそれぞれ14日目と千秋楽を連敗しており、孫弟子が連敗したことに千秋楽のNHK中継で'''「今日も続けてやられたかという感じ、全然相撲にならなかった」'''と苦言を呈し「こんな負け方をすると、本人もおそらく(三賞にも)うれしくないですよ。今日は完全に当たり負け。立ち合いもずれています」と嘆いた。北の富士氏は'''「今日の相撲は2人ともがっかりしている。今日は私としては不満足」'''と最後まで厳しかった<ref>[http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20171126-OHT1T50138.html 北の富士氏、“孫弟子”北勝富士、隠岐の海の連敗に苦言「がっかりしている」] 2017年11月26日18時8分  スポーツ報知(報知新聞社、2017年11月26日閲覧)</ref>。
 
 
:2018年
 
* 1月場所5日目、NHK大相撲中継で[[天空海翔馬|天空海]]の新十両インタビューが行われたが、後から出た話によると天空海は「大洗のトド」と呼ばれていたことが明らかになった。北の富士は「トドか。トド食べたけど、おいしくなかったな」とあらぬ方向に話しを展開<ref name="zasshisumo2018034647">『相撲』2018年3月号 p.46-47</ref>。
 
 
=== 「北の富士賞」 ===
 
北の富士自身が1963年11月場所で達成して以来、十両の地位での15戦全勝優勝は長らく出てなかった<ref>十両の好成績力士は幕内と対戦させられるため、優勝は11勝4敗ないし10勝5敗といった水準に留まることが多い。平成期には十両陣が総崩れで、9勝6敗の力士8人によるトーナメントでの十両優勝決定戦が行われたこともある(2001年7月場所。優勝者は[[武雄山喬義]])。この時は優勝者なしにすべきだなどの意見も出たほどであった。好成績の十両優勝をした[[大善尊太]]・[[湊富士孝行]]でも12・13番に留まり、14勝・全勝は極めて珍しいことである。十両で12勝以上勝つということはそれだけで傑出した実力の証といえる。</ref><ref name="Kitanofuji1"/>。このため、十両で終盤まで全勝の力士がいると「もし全勝優勝したら僕からも何かやりたいね」と言っていた。
 
 
2006年3月場所、[[把瑠都凱斗]]が十両で北の富士以来43年ぶりに15戦全勝を達成すると、実況のアナウンサーによって全勝を祝い「[[北の富士賞]]」として紹介された。把瑠都の十両優勝インタビューの際に、アナウンサーが「北の富士関は横綱まで行きましたが、把瑠都関はどこまで行きたいですか?」と言った時、北の富士は「横綱、横綱」と発言するなど横綱昇進を期待していた。その後の把瑠都は2010年5月場所で大関昇進を果たし、2012年1月場所には14勝1敗で幕内初優勝。しかし翌3月場所に綱獲りに挑んだが失敗、さらに度重なるケガに泣き2013年1月場所で関脇陥落、それから十両まで陥落し2013年9月場所前に現役引退となった。
 
 
== 人物 ==
 
[[立合い]]の搗ち上げから左四つ右上手を引いての速攻、前へ出ながらの投げあり[[外掛け]]ありと躍動感ある取り口だった<ref name="meimonretsuden">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p23</ref>。引き技も早かった。また左脇が固く、右四つの型をもつ玉の海に右差しを許すことがほとんどなく、これは千代の山譲りといわれる。外掛けも自信があり「俺の外掛けを[[内掛け]]に返したのは玉の海くらいだ」と言っていた。勢いに乗ると手がつけられないが、反面守勢にまわると脆く、無謀な[[首投げ]]や[[二丁投げ]]をみせてかえって体勢が悪くなることもあった。四つ相撲の取り手であったが「ゆるいと気持ち悪い」という理由でカタフンにしていた<ref>北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p32-33</ref>。
 
 
現役時代は稽古嫌いで知られており、2016年になっても自身が乗ったタクシーの運転手から「親方、稽古しなかったでしょう」と言われたが、本人は後年自著で稽古しなくなったのは現役終盤期のことであって若い頃はきちんとやっていたと主張していた。特に出羽海部屋時代は[[佐田の山晋松|佐田の山]]、[[栃光正之|栃光]]、[[栃ノ海晃嘉|栃ノ海]]などの面々が揃う中で稽古をやらされたという<ref name="katuakicahn2">北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P52 </ref>。
 
 
現役当時から[[栃王山裕規|栃王山]]とキャバレー「月世界」を共同経営し、[[札幌市]]や[[名古屋市]]で相撲料理店「ちゃんこ 北の富士」を経営するなど、熱心に副業を手がけていた。さらに、低音を生かした歌声が評価されてレコード吹き込みを勧められ、1967年に発売した「ネオン無情/チャンコ花唄」は50万枚を売り上げた<ref>[http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19640101.htm 相撲人名鑑(北の富士 勝昭)](2008年9月19日閲覧)</ref><ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20070812-OHT1T00077.htm 北の富士さん一喝!「高砂が悪い」…朝青龍問題]、[[スポーツ報知]]、2007年8月12日。</ref><ref>後年自著で売上の実数としては20万枚だったと語っており、収益は九重(元横綱・千代の山)に先取りされることはなかったという(北の富士によると九重はそういうことをする親方ではなかったとのこと)。
 
: 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p49</ref>。その後も何枚かレコードを出して、1969年には当時の人気歌番組「[[夜のヒットスタジオ]]」にも「歌手」として出演している(曲は「君を慕いて」)。しかし、大関で成績が停滞していた時期と重なったために、相撲解説者の[[天竜三郎]]から「本職は歌手で相撲は内職だろう」と批判されたこともあり、横綱昇進後は歌手との兼業を控えるようになった(2007年に[[増位山太志郎|三保ヶ関]]が28年振りにリリースした新曲「水玉のスカーフ」のカップリング曲、「女房に捧ぐ」では三保ヶ関とのデュオで久々に歌声を披露している<ref>どちらも作詞・[[内館牧子]]、作曲・[[船村徹]]で、二人とも[[横綱審議委員会]]メンバーである。</ref>)。
 
 
== エピソード ==
 
* サインを求められる際に「何か言葉を入れてください」と頼まれても、「忍耐」「努力」とは書かなかったという。本人曰く「『努力』と書いて努力しなかったらみっともない」「[[琴櫻傑將|琴櫻関]]ならピッタリくるけどワシが書いても似合わない」。
 
* 元大関・清國とは幕内の取組で52回も対戦したが、これは当時で大相撲の歴代最多記録だった<ref>その後、2001年に武蔵丸-[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]]戦に更新され(58回対戦)、[[2016年]]現在の史上最多幕内取組は[[琴奨菊和弘|琴奨菊]] - 稀勢の里戦の60回</ref>。
 
* 2017年7月場所終了時点で、十両と幕内の双方で15戦全勝優勝を達成した唯一の力士である。
 
* 2013年9月場所7日目中入の時間にNHK中継で[[力道山]]が生前撮影したカラーのフィルム映像が紹介された際に「僕は力道山さんに憧れていた。若い頃は力士よりプロレスラーになりたいと思っていた」と当時の夢を述懐していた。
 
* 2015年11月場所4日目で白鵬 - [[嘉風雅継|嘉風]]との対戦で白鵬が立合い変化気味に見えたため場内は騒然。[[NHKラジオ第1放送|ラジオ第1]]に解説として出演していた北の富士はその様子から「今日は街に出ない方がいい」と発言。その理由として1989年11月場所5日目で千代の富士が[[寺尾常史|寺尾]]を土俵に叩きつけるような吊り落としをした際、夜に街に出るといろいろな人たちから「あれはないだろう」と千代の富士の親方として文句を言われたことを明かした(寺尾は鹿児島県出身、嘉風も大分県出身であり、どちらも九州場所での出来事でもあったため)。その経験もあり白鵬には「今日は部屋でおとなしくしてること」をラジオ上でアドバイスした。
 
* 隠岐の海に対しても辛辣なコメントが多く、あまりに辛辣なコメントが多かったため、彼の両親に口を聞いてもらえなくなった。父親の方とはその後和解したが、母親の方とは今でも口を聞いていない。2014年か2015年に隠岐の島に行ったときは、隠岐の海に対する物言いの厳しさから、現地で酔っ払い数人に絡まれた<ref name="houdan1">北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P16-17</ref>。
 
* 現役時代、玉ノ海梅吉からは「底の浅い現代相撲」とその取り口を評され、本格的な右四つの相撲であったライバルの玉の海が好まれたのとは好対照をなした。北の富士は後年「稽古を見ていない割には『稽古が足りない』とか言うんだよ」と当時の批判に対して反論した。出羽の海部屋から破門された形で独立した九重部屋に移籍したことからか、天竜はさらに甚だしく、放送で「あいつは生意気ですよ」と言ったことがある<ref name="fankitahu1"/>。
 
* 解説者になってからはファンから着物姿を楽しみにされることがあり、本人も「飲みに行っても『今日は着物じゃないんですか』と言われる。勘弁してほしいよ。そのうち、ゴルフも着物でやらなくちゃいけなくなるよ(笑)」と苦笑している<ref name="fankitahu2">大空出版『相撲ファン』vol.4 15頁</ref>。
 
* 親方時代に大相撲会場にオーロラビジョンを設置してはどうかという意見があったが「土俵を見なくなる」という理由で却下されたことなどを自著で明かしている<ref name="anaun"/>。
 
* 北の富士は様々なあだ名を受けたが、それについて「四十五年秋場所から次の年の大阪場所まで四場所続けて十一勝四敗。「イレブン横綱」なんていうありがたくないニックネームをちょうだいした。まあ、おれほどいろんな呼ばれ方をされた横綱はいなかったんじゃないかな。『現代っ子横綱』はまだしも、『夜の帝王』と呼ばれては、飲まないわけにはいかない。現役を引退してから新聞記者と付き合うようになって『おれは銀座で三、四億円は使った』なんて話を冗談でしたら、ぱっと広まってね。そこまでいかなくても、飲んだのは事実だけど」と新聞社のインタビューで答えている<ref name="shiranai">『いま語る 私の歩んだ道〈2〉』 (北海道新聞社、2006/02) ISBN 4894533561</ref>。
 
=== 評論家として ===
 
*『大相撲ジャーナル』2013年10月号のコラムでは同年3月場所の優勝インタビューで観客に対して[[大鵬幸喜|大鵬]]に対する黙祷を求める、7月場所の優勝インタビューでこの場所を最後に引退する[[龍皇昇|龍皇]]について話す、雑誌『相撲』の表紙写真として部屋の序ノ口・(当時)[[石浦将勝|石浦]]と2人で映るなどの白鵬の行為を「どれも私事じゃないかな」と指摘し、公私混同であるとして批判した。
 
* 若貴ブームをきっかけとして協会が興行の努力を怠るようになったと指摘しており「たとえば巡業。力士がホテルの個室に泊まり、ガードマンが花道で警備する。お相撲さんに触ってはいけません、とね」とファンと力士の身近な触れ合いが無くなった点を言及していた。<ref>北海道新聞夕刊 「私の中の歴史-力のサムライ伝」 2005/08/01</ref>
 
* 力士達が内容を顧みずテレビ番組に出演することに対しては批判的であり、2014年1月場所直前に幕内力士達が出演する腕相撲対決のテレビ収録が行われた事実に対して「専門に鍛えている人間にかなうはずがない。怪我をした力士もいた。協会広報部もなぜ番付発表後の時期に許可したのか」と厳しく詰めていた。また、力士の大食いを見世物にすることも快く思っていない<ref>『大相撲ジャーナル』2014年4月号13頁</ref>。
 
* 2016年に出版された自著では「いま、テレビのほうも、ちょっと長くなると、気がはやって、自分がしゃべろうとする。そういうのが多い感じですね」とNHK大相撲中継のアナウンサーの傾向について話している<ref name="anaun">北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P170</ref>。
 
* ある雑誌の写真を見て、ある横綱が着ている着物の襟にしわが寄っていることに気付いた際「昔は、こんなことありえないですよ。横綱の着物にシワなんて。弟子がきちんと着物をたためなくなってるんですね。昔は、頭をコヅかれながら覚えさせられましたよ。これは、ちょっとみっともないですね。外国から来た横綱本人が気がつかないのは仕方ないにしても」と批判している<ref name="shiwa">北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P156-157</ref>。
 
 
== 改名歴 ==
 
=== 四股名 ===
 
* 竹沢 勝昭(たけざわ かつあき):1957年1月場所 - 1959年3月場所
 
* 竹美山 勝明(たけみやま かつあき):1959年5月場所 - 1960年7月場所
 
* 北の冨士 勝明(きたのふじ かつあき):1960年9月場所 - 1967年7月場所
 
* 北の富士 勝明(きたのふじ - ):1967年9月場所 - 1968年1月場所
 
* 北の富士 洋行( - ひろゆき):1968年3月場所<ref>[[姓名判断]]で勝明の名では交通事故に遭うと言われた際、「ならせめて海外旅行に行きたいなあ」と思って「洋行」に改名したといわれる。</ref>
 
* 北の富士 勝昭( - かつあき):1968年5月場所 - 1971年1月場所
 
* 北の富士 勝晃( - かつあき):1971年3月場所 - 1972年5月場所
 
* 北の富士 勝昭( - かつあき):1972年7月場所 - 1974年7月場所(現役引退)
 
 
=== 年寄名===
 
* 井筒 勝昭(いづつ かつあき):1974年7月9日 - 1977年11月4日
 
* 九重 勝昭(ここのえ - ):1977年11月4日 - 1992年4月1日
 
* 陣幕 純樹(じんまく じゅんき):1992年4月1日 - 1994年11月6日
 
* 陣幕 克昭( - かつあき):1994年11月6日 - 1998年1月31日(退職)
 
 
== 主な成績 ==
 
* 通算成績:786勝427敗69休 勝率.648
 
* 幕内成績:592勝294敗62休 勝率.668
 
* 大関成績:208勝107敗 勝率.660
 
* 横綱成績:247勝84敗62休 勝率.746
 
* 現役在位:105場所
 
* 幕内在位:64場所
 
* 横綱在位:27場所
 
* 大関在位:21場所
 
* 三役在位:11場所(関脇9場所、小結2場所)
 
* [[連勝記録 (大相撲)|連勝記録]](幕内):21(1971年9月場所初日 - 1971年11月場所6日目)
 
* [[年間最多勝]]:3回(1969年:63勝27敗、1970年:75勝15敗(玉の海と同数)、1971年:73勝17敗)
 
* 連続6場所勝利:78勝(1969年9月場所 - 1970年7月場所)
 
* 通算(幕内)連続[[勝ち越し]]記録:26場所(現在歴代7位タイ、当時玉の海の27場所に次ぎ[[玉錦三右エ門|玉錦]]と並んで歴代2位タイ・1967年9月場所 - 1971年11月場所)
 
* 幕内連続2桁勝利記録:11場所(1969年9月場所 - 1971年5月場所)
 
* 幕内連続12勝以上勝利:6場所(1969年9月場所 - 1970年7月場所)
 
 
=== 各段優勝 ===
 
* 幕内最高優勝:10回(全勝3回)(1967年3月場所、1969年11月場所、1970年1月場所、1970年5月場所、1970年7月場所、1971年5月場所、1971年9月場所、1971年11月場所、1972年9月場所、1973年3月場所)
 
: 同点:1回
 
: 次点:3回
 
* 十両優勝:1回(1963年11月場所)
 
 
=== 三賞・金星 ===
 
* [[三賞]]:6回
 
** 殊勲賞:2回 (1966年1月場所、1966年3月場所)
 
** 敢闘賞:1回 (1964年1月場所)
 
** 技能賞:3回 (1964年5月場所、1964年11月場所、1966年5月場所)
 
* [[金星 (相撲) |金星]]:1個([[大鵬幸喜|大鵬]]1個)
 
 
=== 場所別成績 ===
 
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== 関連項目 ==
 
=== 大相撲 ===
 
* [[横綱一覧]]
 
* [[大相撲優勝力士一覧]]
 
* [[北海道出身の横綱一覧]]
 
* [[千代の山雅信]]
 
* [[千代の富士貢]]
 
* [[佐田の山晋松]]
 
* [[玉の海正洋]]
 
* [[龍虎勢朋]]
 
* [[栃王山裕規]]
 
* [[北勝海信芳]]
 
* [[井筒部屋]]
 
* [[九重部屋]]
 
* [[高鐵山孝之進]]
 
 
=== 出身地 ===
 
* [[美幌町]]
 
* [[留萌市]]
 
* [[旭川市]]
 
 
=== 人物 ===
 
* [[高鐵山孝之進]]
 
* [[橋本成一郎]]
 
* [[桂本和夫]]
 
* [[池田三男]]
 
* [[浅井正]]
 
* [[和島香太郎]]
 
 
== 作品 ==
 
=== 著書 ===
 
*九重勝昭『爆笑大相撲 角界ウラばなし』日之出出版  1983
 
*九重勝昭『速攻管理学 "勝ち"をつかむ人材は、こうして育てろ!』([[日之出出版]]、1988年)
 
*九重勝昭『土俵で燃えろ 北の富士一代』([[東京新聞]]出版局、1991年)
 
*北の富士勝昭『土俵愛 国技・大相撲復興のための四十八手 緊褌一番』(日之出出版、2009年)ISBN 978-4-89198-131-0 C0075
 
 
=== レコード ===
 
* 『ネオン無情』([[1967年]]、[[テイチクエンタテインメント|テイチクレコード]]、SN-586) - シングル盤
 
* 『北の富士“艶歌”をうたう』(1967年、テイチクレコード) - LPレコード盤
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
+
{{Reflist}}
 
+
{{テンプレート:20180815sk}}
== 外部リンク ==
 
* [http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19640101.htm 関取名鑑 北の富士勝昭](大相撲 記録の玉手箱より)
 
{{大相撲幕内優勝力士}}
 
{{年間最優秀力士賞}}
 
{{年間最多勝}}
 
{{歴代横綱|第52代|1970年3月-1974年7月}}
 
{{歴代大関||1966年9月-1970年1月}}
 
{{DEFAULTSORT:きたのふし かつあき}}
 
  
 
[[Category:北海道出身の大相撲力士]]
 
[[Category:北海道出身の大相撲力士]]

2018/9/26/ (水) 22:58時点における版

北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき、1942年3月28日 - )

北海道旭川市(出生は網走郡美幌町)出身の元大相撲力士。第52代横綱。本名は竹澤 勝昭(たけざわ かつあき)得意技は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛け。

昭和45年(1970)玉の海とともに横綱に昇進。優勝10回。引退後、年寄九重(ここのえ)を襲名し、千代の富士、北勝海(ほくとうみ)の二横綱を育てた。


脚注



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