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(ページの作成:「ぎにん<br> justificatio キリスト教神学で,人間を罪の状態からの状態へ移行させる神の行為をいう。元来ギリシア語の dikai…」)
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'''義認'''(ぎにん、{{lang-la|Justificatio}}, {{lang-en|Justification}})とは、[[キリスト教]]で、神によって人が義と認められることである。ただし、[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]によって相違がある。[[カトリック教会]]の伝統では'''義化'''(ぎか)と表現されるが、義認とも読み替えられる<ref>日本カトリック司教協議会認可、日本カトリック司教協議会教理委員会訳・監修『カトリック教会のカテキズム』p.587、[[カトリック中央協議会]]、2002年</ref>。
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ぎにん<br>
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justificatio
  
[[ビザンティン]]神学([[正教会]])は、[[ローマの信徒への手紙]]と[[ガラテヤの信徒への手紙]]において表明された[[パウロ]]の義認論に対し、意義をもつ洗練化をしていない<ref>[[ジョン・メイエンドルフ]]著『ビザンティン神学』251頁(3行 - 4行)、[[新教出版社]] ISBN 9784400321224</ref>。
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キリスト教神学で,人間を罪の状態から[[]]の状態へ移行させる神の行為をいう。元来ギリシア語の dikaioō (義たることを宣告する) という法廷用語から転用されたが,これがラテン語では justificare (義とする) と訳された。パウロによれば,人が神の前で義となるのはわざによるのでも,律法への従順によるのでもない。人間は神の前に義人として立つのではなく,神の恩恵に全面的に依存する罪人として立つ。神こそ罪ある人間を義なるものと呼ぶのである。人間の法廷では無罪のものだけが正しいとされるが,あらゆる人間が罪人であることを免れない神の審判の場では,義ならざる者が神の慈悲によって義者と宣告される。この宣告は恣意的なものではなく,「私たちの罪のために死に渡され,私たちが義と認められるために,よみがえられた」(ローマ書4・25) イエス・キリストによるのである。こうして罪ある人間は,律法,罪,死から解放され,神と和解し,聖霊を通してキリストのうちに平安と生命をもつにいたる。罪ある人間は,こうして単に義と宣告されるだけでなく,真に義なる者となる。これにこたえて人間の側からは,神の慈悲の判決を受諾し,主なる神に全幅の信頼を寄せねばならない。すなわち,「愛によって働く信仰」 (ガラテア書5・6) をもたねばならない。以上の教説は,初期教会ではほとんど問題とならなかったが,わざによる自己聖化を唱えた[[ペラギウス]]派との論争で,アウグスチヌスによって恩恵による義認が強調され,さらに中世後期のわざによる義認という表面的な考え方に戦いを挑んだ M.ルターによって一層徹底された。義認における神の行為の側面に重点をおいたルターは,その前提としての人間のわざを排し,「信仰のみ」 Sola fideの立場を取ったのに対して,義認の「結果」の側面に重点をおいたカトリック側は,トリエント公会議で,よきわざの必要をも強調してルター説を断罪した。しかし 20世紀の両陣営の多くの神学者は,両者の相違は概念理解の面だけで,信仰の本質においては根本的断絶はないとしている。以上の歴史的背景から,日本においては,プロテスタントが義認,宣義という訳語を好むのに対して,カトリックは成義,義化の訳語を採用し,罪の許しを意味する消極的成義と内的革新を意味する積極的成義を区別する。
 
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{{See also|神成 (正教会)}}
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*[[パウロ]]
 
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*[[ルター]]
==歴史==
 
[[宗教改革]]の[[プロテスタント]]三大原理は[[聖書のみ]]、[[信仰義認]]、[[万人祭司]]である<ref>[[宇田進]]『福音主義キリスト教と福音派』[[いのちのことば社]]</ref>。
 
 
 
プロテスタントが信仰義認を[[神の恵み]]と信仰のみにより、神が人を義と宣言される一度の出来事ととらえるのに対し、義認を過程と考えた[[カトリック教会]]は、[[トリエント公会議]]でプロテスタントの信仰義認の教理を断罪した。またプロテスタントは[[全的堕落]]後の人間が善を行う力を持つことを否定したが、カトリック教会は[[神人協力説]]を唱えた。<ref>[[アリスター・マクグラス]]『宗教改革の思想』[[教文館]]</ref>
 
 
 
現代の[[エキュメニズム|エキュメニカル運動]]において、ローマ教皇を中心とするカトリック教会とエキュメニカルな一部のプロテスタントは[[義認の教理についての共同宣言]]を出したが、義認の教理については歴史的な相違があり、この共同宣言の受け入れを表明したプロテスタントの存在が、多く知られているわけではない。
 
 
 
==教派による相違==
 
{| align=center width=75% style="border: 1px solid #333333;"
 
<!--
 
{| border="2" cellpadding="5" cellspacing="1" style="width: 220px; margin-bottom: 1em; text-align: center; border: 1px solid #333333; font-family: Arial; margin: 0 10px 0 10px; float: right"-->
 
|-style="background-color: #99FF99"
 
|'''教派'''
 
|'''過程 あるいは 出来事'''
 
|'''神、人'''
 
|'''救い'''
 
|'''義認 と 聖化'''
 
|-style="background-color: #EDEDED"
 
|'''ローマ・カトリック'''
 
|過程
 
|単働説<ref>[[岩下壮一]]『カトリックの信仰』第十四章「聖霊」「救いの実現は神人の協力による」=神人協力説はメランヒトンの思想。カトリックでは半ペラギウス主義として否定されている。</ref>
 
|[[大罪]]によって失われる
 
|過程
 
|-
 
|'''ルター派'''
 
|出来事
 
|聖霊の働き
 
|信仰を失う
 
|義認と[[聖化]]を分ける。
 
|-
 
|-style="background-color: #EDEDED"
 
|'''メソジスト'''
 
|出来事
 
|神人協力説
 
|失う
 
|聖化の強調
 
|-
 
|-
 
|'''改革派'''
 
|一度限り
 
|聖霊の働き
 
|失われない([[聖徒の永遠堅持]])
 
|義認と聖化は別。キリストとの結合
 
|}
 
<!--|}-->
 
 
 
==脚注==
 
<references />
 
==関連項目==
 
* [[信仰義認]]
 
* [[奴隷意志論]]
 
* [[行為義認]]
 
==参考文献==
 
*『宗教改革の思想』[[アリスター・マクグラス]] [[教文館]]
 
 
 
{{DEFAULTSORT:きにん}}
 
[[Category:キリスト教神学]]
 

2018/7/31/ (火) 21:36時点における版

ぎにん
justificatio

キリスト教神学で,人間を罪の状態からの状態へ移行させる神の行為をいう。元来ギリシア語の dikaioō (義たることを宣告する) という法廷用語から転用されたが,これがラテン語では justificare (義とする) と訳された。パウロによれば,人が神の前で義となるのはわざによるのでも,律法への従順によるのでもない。人間は神の前に義人として立つのではなく,神の恩恵に全面的に依存する罪人として立つ。神こそ罪ある人間を義なるものと呼ぶのである。人間の法廷では無罪のものだけが正しいとされるが,あらゆる人間が罪人であることを免れない神の審判の場では,義ならざる者が神の慈悲によって義者と宣告される。この宣告は恣意的なものではなく,「私たちの罪のために死に渡され,私たちが義と認められるために,よみがえられた」(ローマ書4・25) イエス・キリストによるのである。こうして罪ある人間は,律法,罪,死から解放され,神と和解し,聖霊を通してキリストのうちに平安と生命をもつにいたる。罪ある人間は,こうして単に義と宣告されるだけでなく,真に義なる者となる。これにこたえて人間の側からは,神の慈悲の判決を受諾し,主なる神に全幅の信頼を寄せねばならない。すなわち,「愛によって働く信仰」 (ガラテア書5・6) をもたねばならない。以上の教説は,初期教会ではほとんど問題とならなかったが,わざによる自己聖化を唱えたペラギウス派との論争で,アウグスチヌスによって恩恵による義認が強調され,さらに中世後期のわざによる義認という表面的な考え方に戦いを挑んだ M.ルターによって一層徹底された。義認における神の行為の側面に重点をおいたルターは,その前提としての人間のわざを排し,「信仰のみ」 Sola fideの立場を取ったのに対して,義認の「結果」の側面に重点をおいたカトリック側は,トリエント公会議で,よきわざの必要をも強調してルター説を断罪した。しかし 20世紀の両陣営の多くの神学者は,両者の相違は概念理解の面だけで,信仰の本質においては根本的断絶はないとしている。以上の歴史的背景から,日本においては,プロテスタントが義認,宣義という訳語を好むのに対して,カトリックは成義,義化の訳語を採用し,罪の許しを意味する消極的成義と内的革新を意味する積極的成義を区別する。