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'''ウィリアム・ピット'''('''William Pitt''' (the Younger)、[[1759年]][[5月28日]] - [[1806年]][[1月23日]])は、18世紀末から19世紀はじめにかけての[[グレートブリテン王国|イギリス]]の政治家、[[イギリスの首相|首相]](在任:1783年 - 1801年、1804年 - 1806年)。1760年代に首相を務めた[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|チャタム伯ウィリアム・ピット]](大ピット)とヘスター・グレンヴィルの次男である。[[ジョン・ピット (第2代チャタム伯爵)|チャタム伯ジョン・ピット]]は兄で、大ピットと同じく1760年代に首相を務めた[[ジョージ・グレンヴィル]]は母方の伯父、後任の首相[[ウィリアム・グレンヴィル]]は従兄に当たる。父であるチャタム伯ウィリアム・ピットと区別するために'''小ピット'''と呼ばれる。
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'''ウィリアム・ピット'''('''William Pitt''' (the Younger)、[[1759年]][[5月28日]] - [[1806年]][[1月23日]]
  
1783年、わずか24歳でイギリス最年少の首相となり、[[1801年]]にいったん辞任したが、その後[[1804年]]に返り咲き、[[1806年]]に没するまで首相の職にあり、首相と[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]とを兼任もしていた。ピットの首相としての在職期間中は[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の治世下であり、[[フランス革命]]や[[ナポレオン戦争]]を始め、様々な事件がヨーロッパを支配していた。ピットはしばしば[[トーリー党|トーリー]]、または新トーリーと考えられているが、自分では「独立した[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]」と名乗っており、党派心の強い政治システムの拡大にはおおむね反対していた。
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イギリスの政治家。[[ピット (大) ]]の次男。幼少の頃から神童の聞え高く,14歳でケンブリッジ大学に入学,17歳で文学修士の学位を取得。 1781年 21歳のとき,ある貴族の援助により下院議員となった。 82年シェルバーン内閣の蔵相。 83年フォックス=ノース連立政権の崩壊とともに国王の要請により少数派内閣を組織し
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24歳で首相となり,翌年3月の総選挙で大勝,以後 1801年アディントン内閣の成立まで首相として活躍した。アメリカ独立戦争後の財政を建直し,インド法を成立させ (1784) ,イギリス東インド会社に対する国家の統制権を強化した。 1786年英仏通商条約を締結,フランス革命に対しては内政不干渉の立場を取ったが,93年フランスがイギリスに宣戦布告すると,第1次[[対仏大同盟]] (93) を結成し,これに対抗する一方,国内では革命の波及を恐れて人民保護法を停止 (93,95~1801) 。ナポレオン1世に対しては第2次対仏大同盟 (1798) を結んで抗戦した。また 1800年アイルランドとの合併を定めた「合同法」を成立させた。
  
ピットは、イギリスを[[フランス第一帝政|フランス]]及び[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]との大戦争で導いたことでよく知られている。彼自身は効率と改革のために尽力した、傑出した行政官であり、優れた行政官が政治を行う新しい世代をもたらした。フランスとの大がかりな戦争のために[[税金]]を上げ、急進派を厳しく取り締まった。[[アイルランド王国|アイルランド]]がフランスを支援するのを脅威と感じ、[[連合法 (1800年)|1800年]]の連合法を根回しした。またこの連合法に[[カトリック解放]]を組み込もうとしたが、これは失敗した。ピットはまた、トーリー党を再生させる新トーリー主義を作りだし、1800年から25年間、トーリー党に権力を持たせることを可能にした。歴史家のチャールズ・ペトリーは「もし、ピットが、暴動を起こすこともなしに、イギリスを古い秩序から新しい秩序へ変えたのが正にその理由であれば」偉大な首相の一人であると結論付けており、彼は新しいイギリスがどういうものであるかを理解しているとも述べている<ref>Charles Petrie, "The Bicentenary of the Younger Pitt," ''Quarterly Review,'' 1959, Vol. 297 Issue 621, pp 254–265</ref>。それ以外にも、[[奴隷貿易]]禁止のために尽力した。
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1804年再び首相となり第3次対仏大同盟 (1805) を結んだが,[[ナポレオン戦争]]の終結をみることなく死没。ピット () ,W.チャーチルと並ぶイギリスの三大政治家の一人とされる。
  
[[1789年]]、[[フランス革命]]が勃発し、その流れが過激なものへと変容していくにつれて危機感を増し、[[1793年]]から3回にわたって[[対仏大同盟]]を組織して革命を潰そうとした。そのため、彼はフランスから「人民の敵」と呼ばれることになる。のちに対仏穏健派が支持を失うと、対仏強硬派で主戦派のピットは1804年に再び組閣した{{要出典|date=2013年6月}}。イギリスの保守勢力を糾合し、野党で[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]の指導者[[チャールズ・ジェームズ・フォックス|フォックス]]とともに政党政治の確立に貢献して、イギリスの[[二大政党制|二大政党政治]]の土台を築いた。
 
 
[[1805年]]に[[第三次対仏大同盟]]を組織するも、同年の[[アウステルリッツの戦い]]に敗北し、彼自身も翌年1月に病没した。また父とともに支えた国王であるジョージ3世とは、カトリックの解放をめぐって対立していた。
 
 
==幼少時から政治家になるまで==
 
ウィリアム・ピットは大ピットの次男であり、[[ケント州]]ヘイズのヘイズプレイス(現在の[[ブロムリー・ロンドン特別区]])で生まれた<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.14}}</ref>。両親ともに政治家の家系で、母親のヘスター・グレンヴィルは、やはり首相を務めた[[ジョージ・グレンヴィル]]の姉妹だった<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.19}}</ref>。伝記作家の{{仮リンク|ジョン・エールマン|en|John Ehrman}}によれば、父方から才気と行動力を、母方のグレンヴィル家から断固として、かつ几帳面な天分を受け継いだといわれる<ref>{{Harvnb|Ehrman|1984|loc=p.4}}</ref>。
 
 
子供時代は虚弱で病気にかかりやすく、先天性の[[痛風]]があった。こういった慢性で消耗性の病気を抱えていたため、家庭でエドワード・ウィルソン牧師について学んだ<ref name=victorian>[http://www.victorianweb.org/history/pms/pitt.html William Pitt the Younger (1759-1806)]</ref>。[[ラテン語]]や[[ギリシア語]]に通じるなど才能に恵まれていたため、[[1773年]]、14歳で[[ケンブリッジ大学]][[ペンブルック・カレッジ]]に入学した。それ以後、この最年少入学記録を破った者はいない(2010年に同じ14歳でケンブリッジ大学に入学するものが現れるまでの237年間、ピットの記録に並ぶものすらいなかった<ref>http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0108&f=national_0108_019.shtml</ref>)。大学では政治哲学、[[西洋古典学]]、数学、三角法、化学、そして歴史を学んだ<ref>[http://www.historyhome.co.uk/pms/pitt.htm William Pitt the Younger (1759–1806)] HistoryHome.co.uk</ref>。しかしながら、在学中の成績は特に目立ったものではなかった。
 
 
大学での指導教員は{{仮リンク|ジョージ・プレティマン|en|George Pretyman Tomline}}で、プレティマンとは個人的に親友となった。後にピットは、この人物を[[リンカン (イングランド)|リンカーン]]の[[主教]]、そして[[ウィンチェスター (イングランド)|ウィンチェスター]]の[[主教]]に任命し、政治家としての人生において、彼の忠告を仰いだ<ref>{{cite web|url=http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/PRpitt.htm |title=Spartacus Educational – William Pitt |publisher=Spartacus.schoolnet.co.uk |date= |accessdate=2010-04-23}}</ref> 。ケンブリッジ在学中には若き日の[[ウィリアム・ウィルバーフォース]]とも友人になった。ウィルバーフォースは生涯の友となり、議会では同盟を結んだ<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/wilberforce_william.shtml |title=History – William Wilberforce (1759–1833) |publisher=BBC |date= |accessdate=2010-10-11}}</ref>。ピットは仲間の学生や、それ以外にも、自分をよく知っている人物としか付き合おうとしない傾向があり、大学の外の人間と交際するのはまれだった。しかしピットは、魅力があって友好的であると記されている、ウィルバーフォースによれば、ピットは非凡な才能に加え、人を惹きつける、品のいいユーモアのセンスの持ち主だった。「ここまで自由に、楽しそうに、遊び心のある諧謔心で人を喜ばせ、誰をも傷つけることなしに満足させる人物を見たことがない」<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.30}}</ref>チャタム伯に叙された父大ピットは[[1779年]]に亡くなり、次男であったことから、ピットが相続した遺産はわずかだった。彼はリンカーンの法曹学院で法律を学び、[[1780年]]の夏に法曹界に入った<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.46}}</ref>。父の大ピットが亡くなった時はその場に居合わせており、父を議場から運び出す手伝いをした<ref name=victorian/>。
 
 
[[1776年]]、ピットは虚弱さゆえに病気に倒れ、貴族の子弟のみに許される特権で、試験に合格することなく卒業した<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.46}}</ref>。[[1780年]]、ケンブリッジ大学が保有していた庶民院の議席に出馬するが落選。今度は学閥の力と縁故を活用し[[アップルビー選挙区|アップルビー]]の[[腐敗選挙区]]の補欠選挙で当選、[[1781年]]に下院議員となる(後にケンブリッジ大学に鞍替え){{要出典|date=2013年6月}}。
 
 
==政治家人生のスタート==
 
[[File:Wilberforce john rising.jpg|thumb|180px|right|ウィリアム・ウィルバーフォース]]
 
[[1780年]]9月の[[イギリス総選挙|総選挙]]で、ピットは{{仮リンク|ケンブリッジ大学選挙区|en|Cambridge University (UK Parliament constituency)}}で争ったが落選した<ref>{{cite web|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/462151/William-Pitt-the-Younger/5744/Historical-importance |title=Britannica Online Encyclopedia – William Pitt, the Younger: Historical importance |publisher=Britannica.com |date= |accessdate=2010-04-23}}</ref>。それでもなお国会議員になるという気持ちは変わらず、ピットは、大学時代の仲間である{{仮リンク|4代ラットランド公爵チャールズ・マナーズ|en|Charles Manners, 4th Duke of Rutland}}により、{{仮リンク|初代ロンスデール伯爵ジェームズ・ロウサー|en|James Lowther, 1st Earl of Lonsdale}}をパトロンとして保証してもらった。ロウサーは事実上{{仮リンク|アップルビー選挙区|en|Appleby (UK Parliament constituency)|label=アップルビー}}の[[腐敗選挙区]]を支配しており、この選挙区の補欠選挙で、1781年の1月にピットは庶民院の議員となった<ref name=10downingstreet>{{cite web|url=http://www.number10.gov.uk/output/Page161.asp |title=10 Downing Street – PMs in history – William Pitt 'The Younger' 1783–1801 and 1804-6 |publisher=Number10.gov.uk |date= |accessdate=2010-04-23}}</ref>。ピットのアップルビーでの当選はいささか皮肉なことだった。後に彼は、自分に議席を与えてくれたこの選挙区を攻撃することになったのである<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.89}}</ref>。
 
 
議会では、若さにあふれたピットは公の場で引きこもりがちになる姿勢をかなぐり捨て、自分が正に注目に値する討論者であるということを{{仮リンク|処女演説|en|Maiden speech}}で浮上させた<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.62-65}}</ref>。ピットは元々は、[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]のような著名なホイッグ党員と提携しており、ホイッグ党員と共に、[[アメリカ独立戦争]]の継続を非難した、それはまさに父大ピットが強くやっていたことそのままだった。代わりにピットは、首相のノース卿[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|フレデリック・ノース]]に、独立戦争に参加した植民地と和平を結ぶように提案した。ピットはまた、選挙の堕落阻止の提案を含めた国会の改革法案を支持した。加えて、[[キングストン・アポン・ハル|ハル]]選出の議員となったウィリアム・ウィルバーフォースとの友情を新たにした。ウィルバーフォースとは、国会内の傍聴席でしばしば顔を合わせていた<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.71}}</ref>。
 
 
ノース内閣が[[1782年]]に崩壊し、ホイッグ党の[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウエントワース]]が首相となった。ピットは[[アイルランド王国|アイルランド]]の副出納官という、目立たない役職を勧められたが断った。この職は役職としてはかなり劣ったものだった。ウエントワースは首相の座についてわずか3か月で亡くなり、別のホイッグ党議員である[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|2代シェルボーン伯爵ウィリアム・ペティ]]が後を継いだ。フォックスを始め、ロッキンガム内閣にいた多くのホイッグ党議員が、新首相ペティの内閣で仕事をすることを拒否した。しかしピットはこの首相と相性がよかったため入閣し、[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]となった<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.99}}</ref>。
 
 
ピットの生涯にわたる政治上のライバルとなったフォックスは、ノースと提携した。ノースはフォックスと共同して、シェルボーン(ペティ)を失脚を引き起こした。ペティが辞任した[[1783年]]に、フォックスを嫌っていた国王ジョージ3世は、ピットに首相への就任を勧めた。しかしピットは賢明にも辞退した、自分が[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]の支援を受けられる保証がないことを知っていたからだ。政権の長は名目上は[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]だったが、{{仮リンク|フォックスとノースの連立政権|en|Fox–North Coalition}}が権力を握った<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.124}}</ref>。
 
 
ピットは大蔵大臣の職をはずされ、野党に与して、国会改革問題の法案を提出した。フォックスとノースの不安定な連立に圧力をかけるためであった、フォックスとノースの連立政権にも、改革の支援者と批判者の双方が含まれていた。ピットは、[[選挙権]]の拡大については主張しなかったが、賄賂と腐敗選挙区の改革案は提出していた。彼の提出案は却下されたが、国会の多くの改革支持者たちが、フォックスでなく、ピットを指導者とみなした{{要出典|date=2013年6月}}。
 
 
===アメリカ独立戦争による衝撃===
 
[[File:The Surrender of Lord Cornwallis at Yorktown October 19 1781.jpeg|thumb|180px|right|アメリカ独立戦争([[ヨークタウンの戦い]]における[[チャールズ・コーンウォリス|コーンウォリス卿]]の降伏)]]
 
[[アメリカ独立戦争]]でイギリスが負け、[[13植民地]]が独立したことはイギリスの体制にとって衝撃的だった。当時のイギリスは財政軍事国家であり、力のある複数の敵国がいて、どの国とも同盟がなく、[[大西洋]]をまたぐ大がかりですきだらけの兵站線に依存していることへの限度をあらわにした。これは17世紀の、プロテスタントとカトリック双方から敵意を以て対峙されていたが、以来初めて、その財政軍事国家の限度をあらわにした。独立戦争での敗北は、意見の衝突を高め、大臣たちへの政治的な敵意をあおった。国会内での最大の関心事は、国王が強権をふるうのではないかという恐れから、代議士制度権、国会の改革そして政府の経費削減へと変化した。改革主義者たちは、広範囲にわたる制度上の退廃とみなされるものを破壊しようとしたが、その結果起こったのが[[1776年]]から[[1783年]]の独立戦争だった。[[パリ条約 (1783年)|1783年の和平条約]]により、これに参戦したフランスは財政的に疲弊し、一方でイギリス経済は、アメリカからの収益のおかげでにわか景気にわいた。危機が去ったのは[[1784年]]のことで、これは、国王が抜け目なくフォックスの裏をかき、ピットのリーダーシップにより誕生した体制への信頼という形で幕を閉じた。歴史家は、アメリカ植民地との戦いに負けたことで、イギリスが[[フランス革命]]に対して一丸になり、より組織的に対応できたのだ、さもなくば自分たちにも同じことがおこるところだったと結論付けている<ref>Jeremy Black, ''George III: America’s Last King'' (2006)</ref>。
 
 
==首相就任==
 
[[File:Charles James Fox00.jpg|thumb|180px|right|チャールズ・ジェームズ・フォックス]]
 
1783年の12月、フォックスは、大きく失われたジョージ3世の引き立てを得ようと、[[エドマンド・バーク]]による[[イギリス東インド会社|東インド会社]]改革法案を国会に提出したが、国王の支援は得られず、その後フォックスとノースの連立は崩壊した。フォックスは、この法案は東インド会社の倒産を防ぐために不可欠であると明言していた。ピットはこれに対してこう述べた。「不可欠という言葉は、人間の自由を侵害するものの言い訳でしかなかった。それは暴君の主張であり、奴隷主義であった。」<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.140}}</ref>国王ジョージ3世はこの法案に反対した。庶民院でこれが通った時、国王は貴族院での否決を取り付け、この法案に賛成する者は敵とみなすと脅しをかけた。[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]でこの法案が否決された時、国王は連立政権を解消し、ついにピットに首相の職をゆだねた。それ以前にも、ピットは首相を3度打診されていた<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.146}}</ref>。
 
 
国王がフォックスとノースの連立を解消し、ピットをその代りに首相に指名したことで、憲政を危ぶむ声が出てきた。国会内では多くの政敵と対峙していたが、ピットは数か月で自らの地位を固めた。一部の歴史家は、彼の成功は当然である、君主の力の決定的な重大さを与えられのだからと主張し、また別の歴史家は、ジョージ3世はピットに賭けてみたのであり、一連の幸運がなければ2人とも失敗していたと主張している<ref>Paul Kelly, "British Politics, 1783-4: The Emergence and Triumph of the Younger Pitt's Administration," ''Bulletin of the Institute of Historical Research'' Vol. 54 Issue 129, pp 62–78</ref>。
 
 
ピットは24歳で、イギリス最年少の首相となり、その若さを揶揄された。当時人気のあった歌にこういうのがある。「国中が立ち上がってピットにくぎ付けになっているそのざま、この国は学生の世話になっている」多くの国民がこの政権を、他にもっと年長の政治家が後を継ぐまでの一時しのぎと見ていた。この新しい「[[ミンスパイ]]」政権が[[クリスマス]]までしか続かないと広く予測されていたが{{refnest|group="注釈"|ミンスパイはクリスマス料理であるため、この2つを掛け合わせたものか。}}、しかしこの政権は、それから17年も続くことになった<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.152}}</ref>。
 
 
[[File:Lord North.jpg|thumb|180px|left|フレデリック・ノース]]
 
抵抗勢力をそぐために、ピットはフォックスとその連立相手とに入閣を申請した。しかしノースの入閣を拒否したことで、彼の取り組みに邪魔が入ることになった。新政権は即座に防勢に転じ、[[1784年]]1月には[[内閣不信任決議]]{{enlink|Motion of no confidence}}{{refnest|group="注釈"|[[内閣不信任決議]]の日本語記事は存在するが、イギリスの記載がないため英語版をリンクしている。}}をつきつけられた。しかしピットは、これにもかかわらず、前代未聞のやり方で辞任を拒否した。彼はジョージ3世の支援を受け続けていた。国王は、フォックスとノースの連立による政治支配に懐疑的だった。またピットは、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]の支持も受けており、貴族院は協力的な姿勢を投げかけていた。また国内からの支援の手紙も多く受け取っていた。その手紙は、国会議員の一部に、ピットの就任の承認を嘆願する形を取ったこれらの手紙は、一部の国会議員に影響を与え、彼らはピット支援に回った。同じころ、ピットはロンドンの自由市民権を与えられた。この自由市民権授与の式典から戻った時、[[ロンドン]]の人々は彼の馬車を自分たちで引っ張ってピットの自宅へ戻り、尊敬の念を表した。ホイッグクラブを通過するとき、馬車はピットへの攻撃にさらされた。この知らせが広まると、ロンドン市民は、どんな手段をしてでもピットを引きずり下ろしたいフォックスと仲間のせいだと決めてかかった<ref name=hague166>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.166}}</ref>。ピットは大衆全体からの大きな人気を得て「正直者ビリー」と呼ばれた、フォックスとノースの、不正直で堕落して、信条のない政権から清冽な変化をなしとげる人物とみなされたのである<ref name=hague166/>。
 
 
1784年に国会が解散され、続けて[[イギリス総選挙|総選挙]]が行われた。現政権の選挙での敗北は全く問題にならなかった、ピットが国王ジョージ3世の支持を得ていたからである。国王の庇護と大蔵大臣からの賄賂は、庶民院において当たり前に政権の安定多数を保証するに期待しうるものだったが、ピットの政権は、国民的支持をもまた同様に受けていた<ref name=hague173>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.173}}</ref>。大多数の一般選挙区では、選挙を戦う候補者はピット側かフォックス-ノース側かは明白だった。早々に開票報告が行われ、多くのピット反対派が、ピット派へ大勢鞍替えすることになった。彼ら反対派議員は、離脱したものも、引退したものも、対費用効果の低い敗北を避けて相手と組んだ者も、未だ選挙を直視していなかった<ref name=hague170/>。同じ1784年、ピットは[[イギリス海軍|海軍]]の定員数を引き上げ、総収入2600万ポンドの10パーセントを軍艦の建造費に充てた。これは非難されたものの、ピットは、経済の再生には国家の安全が必要と主張した<ref>小林幸雄著 『図説 イングランド海軍の歴史』原書房、2007年、395頁。</ref>
 
 
フォックス自身の選挙区である{{仮リンク|ウェストミンスター (英国議会選挙区)|en|Westminster (UK Parliament constituency)|label=ウェストミンスター}}は、イギリス国内でも有数の有権者を抱える選挙区の一つだった。この選挙戦では、全国の総有権者のうち4分の1がこの選挙区にいると見積もられており、フォックスは、2議席のうちの1つを争うために、ピット派の2人の候補者と激戦になった。それぞれの投票数の調査を含む、大々的な法的論争が行われ、この論争は1年以上にも及んだ。一方で、フォックスは、{{仮リンク|タインバーグの腐敗選挙区|en|Tain Burghs (UK Parliament constituency)}}の代表でもあった。結果がだらだらと長引くのを、ピットを支持する多くの人々が甚だしく復讐的であると見ており、ついにフォックスの当選声明と共に調査は打ち切られた。かたやピットは、ケンブリッジ大学選挙区で一人勝ちし、その後の人生もこの選挙区での勝利が続くことになった<ref name=hague170>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.170}}</ref>。
 
 
==第一次ピット内閣==
 
[[File:William Pitt the Younger at Westminster.gif|thumb|200px|right|庶民院で処女演説を行うピット(中央、立っている人物)]]
 
首相の座は安泰であったため、ピットは協議事項を法として制定することができた。首相として最初の法律制定は、[[1784年]]の{{仮リンク|インド法|en|Pitt's India Act}}の制定で、イギリスの東インド会社の再編成と、汚職を監視するのが目的だった。インド法により、東インド会社の業務を監督する監視委員会が新たに設けられた。フォックスがやろうとして失敗したインド法案とは異なり、委員会は国王により選任されるものと明記されていた<ref name=hague182/>。{{仮リンク|シドニー卿トマス・タウンシェンド|en|Thomas Townshend, 1st Viscount Sydney}}が委員長に選ばれ、ピットも委員会に名を連ねた<ref name=hague182>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.182}}</ref>。この法は、インドにおけるイギリスの支配を中央集権化し、[[ボンベイ]]や[[マドラス]]の行政官の力をそぐことによって、[[チャールズ・コーンウォリス]][[総督]]の力を強めるものだった。1786年、総督の権限がさらに増し、また明確にされたが、これは恐らくシドニー卿タウンシェンドのなせる業であり、また恐らく、[[ペナン|ペナン州]]に監督(総督)である{{仮リンク|フランシス・ライト|en|Francis Light}}艦長が東インド会社を設立したその成果でもあった。
 
 
内政では、ピットは国会改革の運動にもかかわっていた。[[1785年]]、彼は法案を提出した。それには36の腐敗選挙区の代表を解任し、少しずつ、より多くの国民に選挙権を与えて行く旨が記されていた<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.191}}</ref>。しかしながら、この法案に対するピットへの支持は、庶民院での可決を可能にするほどには強力ではなかった<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.193}}</ref>。1785年提出のこの案は、国会に提出されたピットの法案のうちの、最後の国会改革要求案となった。
 
 
[[File:National-Debt-Gillray.jpeg|thumb|180px|right|『国債の新しい返済の仕方』という見出しのジェームズ・ギルレーの風刺画。ジョージ3世とシャーロット王妃が財政資金を出すことで王室債を埋め合わせ、ピットが新しい現金袋を国王に渡している。]]
 
ピットがかかわったそれ以外の内政問題は[[国債]]に関してのものだった。アメリカ独立戦争により、国債の額は劇的に増大していた<ref>{{Harvnb|Turner|2003|loc=p.94}}</ref>。ピットの就任時、わずか10年間で2倍にもなり、政府の歳入の半分もの金額がその返済に充てられていた。このことの憂慮すべき特徴は、国債が無担保または財源がないため釣り合いが取れないことだった。国債を買ってもらうために、額面から20パーセントも割り引かれた国債が発行された。1784年から85年、ピットはこの割引率を5パーセントにまで減らして、国債購入者が払った総額が、政府の安定と国家の繁栄につながるようにした<ref name=edjakeman>[http://history.edjakeman.com/2010/09/william-pitt-and-national-revival.html history.edjakeman.com: William Pitt and the "national revival"]</ref>。ピットは他に[[密輸]]と不正を減らすやり方も導入し、また[[1786年]]、ピットは国債減額のために{{仮リンク|減債基金(シンキング・ファンド)|en|Sinking fund}}を設立した。新税導入により毎年の歳入が100万ポンドの黒字となり、その額がこの基金に加えられたため利益が蓄積され、この基金に集まった金は最終的に国債の清算に使われた。このシステムは[[1792年]]に拡張されて、政府による新しい公債が計画された<ref>{{Harvnb|Turner|2003|loc=p.94}}</ref>。しかし[[1793年]]に[[フランス革命戦争]]が勃発し、このシステムは無効となった。あまり劇的な経済効果はなかったが、政府の信頼ははるかに高まった。ピットはまた大学時代に[[アダム・スミス]]の『[[国富論]]』を読み、[[自由貿易]]が大きな経済的成功をもたらすことに惹かれていた。1786年に[[イーデン条約]]によりフランスと自由貿易協定を結び、これでイギリスの製品がフランス市場に流れ込むことになった。またこれによりフランスとの関係も改善されることとなった<ref name=edjakeman/>。しかしこれはフランス革命を引き起こした社会的混乱を招く原因になった。
 
 
ピットはフランスの影響を抑えるためにヨーロッパ諸国との同盟を模索し、[[1788年]]に[[プロイセン王国|プロイセン]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]と共に{{仮リンク|三国同盟 (1788年)|label=1788年の三国同盟|en|Triple Alliance (1788)}}を結成した。[[1790年]]の{{仮リンク|ヌートゥカ危機|en|Nootka Crisis}}ではこの同盟により利を得て、[[スペイン帝国|スペイン]]は、[[南北アメリカ]]の西海岸の支配の独占を放棄することを余儀なくされた。しかしこの同盟は、そのほかの部分ではイギリスに大きな利益をもたらさなかった<ref name=edjakeman/>。
 
 
[[1788年]]、ピットは大きな危機に直面した。国王ジョージ3世が奇病にかかったのである。複数の歴史家によるまとまった意見としては、ジョージ3世の病気は血液障害の[[ポルフィリン症]]で、その当時はこの病気については知られていなかった。もし長引いたり治療が行われなかったりした場合は、精神状態がひどく損なわれた。そして、国王の精神的不安定は国政能力を失わせた。国家元首が国政を十分に行えない場合、国会はその代役の[[摂政]]を立てることが必要であり、すべての会派が、これが可能なのは国王の長男のみである[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ王太子]](後のジョージ4世)ということで一致した。しかし王太子は、チャールズ・ジェームズ・フォックスの支持者であり、フォックスが権力を握った場合、ピットを罷免するであろうことはほぼ間違いなかった。とはいえ、フォックスにそういった機会は訪れなかった。国会が、摂政に関して、法に則った専門的な手続きの議論で何か月も費やしたからであった。ピットにとって幸運なことに、[[1789年]]に国王は回復した。摂政法法案が提出されて庶民院で可決された直後のことだった<ref>Bruce E. Gronbeck, "Government's Stance in Crisis: A Case Study of Pitt the Younger," ''Western Speech,'' Fall 1970, Vol. 34 Issue 4, pp 250–261</ref>。
 
 
[[1790年]]の総選挙は与党の勝利となり、ピットは首相の職にとどまった。[[1791年]]、ピットは、進展しつつある大英帝国が抱える問題の一つの処理を続けていた。それは[[カナダ]]の今後だった。1791年の[[カナダ法]]により、カナダ植民地は2つの地域に分かれていた。[[フランス系カナダ人]]が優勢である[[ロウワー・カナダ]]と、イギリス系が優勢である[[アッパー・カナダ]]であった<ref name=hague309>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.309}}</ref>。このカナダ法により、ケベック植民地が分割され、立法府が作られて、イギリス系移民が両カナダに増えた。アッパー・カナダは特にイギリス系が多く、フランス系の多いロウワー・カナダも、結果的にイギリス支配が進んだ<ref>木村和男編 『世界各国史23 カナダ史』山川出版社、1999年、124-127頁。</ref>。[[1792年]]の8月、ジョージ3世はピットを名誉職である{{仮リンク|五港長官|en|Lord Warden of the Cinque Ports}}に任命した。前年の1791年には、国王は彼に[[ガーター勲章]]の授与を提案していたが、ピットは、兄の2代チャタム伯ジョン・ピットへの授与をほのめかしていた<ref name=hague309>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.309}}</ref>。
 
 
==フランス革命==
 
[[File:William Pitt the Younger 2.jpg|thumb|left|ウィリアム・ピット]]
 
{{main|フランス革命}}
 
<!--NEEDS SOURCE [[File:William Pitt the Younger at Westminster.gif|thumb|left|Painting by [[Anton Hickel]] depicting Pitt the Younger addressing the House of Commons on the outbreak of the war with France (1793).]]
 
-->
 
フランス革命の勃発によって、イギリスでは再び国会の改革についての声が高まった、1785年に、ピットの改革案が提出されて以来、この問題が政治の中心になることはなかった。しかし改革論者たちはすぐさま過激派とのレッテルを張られ、フランス革命の同調者であるとされた。その後、[[1794年]]にピット政権は、過激派3人を[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]にしようとしたが失敗した。国会は、改革論者をおとなしくさせるための法律の制定に入った。個人で扇動的な書物を出版した者は罰せられ、1794年には人身保護条例を出す特権が中止された。他に沈静化を目的とした法には、Seditious Meetings ActやCombination Actがある。海軍にも問題が押し寄せ、これでピットは1795年に、現行の[[強制徴募]]に加えて[[クオータ制 (イギリス海軍)|クオータ制]]を導入することになった<ref>{{Harvnb|Ennis|2002|loc=p.34}}</ref>。
 
 
[[画像:Caricature gillray plumpudding.jpg|thumb|180px|right|ギルレーの風刺画、ナポレオンと世界というプディングを分け合うピット]]
 
フランスとの戦争には非常に金がかかった。イギリス政府はこれが負担となった。ナポレオン戦争の後半期とは違って、この時点ではイギリス陸軍の常駐軍は少人数であり、このため戦争での勝利は主に海軍の尽力と、フランスの脅威を感じる諸国への資金の供給によるものだった。[[1797年]]、ピットは、金と[[紙幣]]を交換しようとする個人客から、王室の金の蓄えを守る必要に迫られた。イギリスではすでに紙幣が流通して20年以上経っていた。ピットはまた、イギリス初の[[所得税]]を導入する必要にも迫られた。この新税は[[間接税]]による歳入の損失補てんに役立った。この損失は貿易の下降によって生じたものだった。ピットや連盟国の奮闘にもかかわらず、フランスは次々と、[[第一次対仏大同盟]]の諸国に完勝し、この同盟は[[1798年]]に崩壊した。[[第二次対仏大同盟]]は、イギリス、[[オーストリア帝国|オーストリア]]、[[ロシア帝国|ロシア]]そして[[オスマン帝国]]によるものであったが、フランスに打ち勝つには至らなかった。[[マレンゴの戦い]]でのオーストリアの敗北による第二次同盟の崩壊により、イギリスは一国でフランスに向き合うことになった{{要出典|date=2013年6月}}。この時期は海軍本部の主計局長に[[チャールズ・ミドルトン]]がいて、ピットとミドルトンの両者により海軍増強は達成された。また第一次対仏大同盟を結んだ。しかしピットの読みは甘かった。同盟国の一部は戦意を喪失しており、また必要とされる兵力が足りていないこともあった。イギリス本土も侵攻の危機にさらされ、その後の第二次対仏同盟も破綻した挙句講和の運びとなった<ref>小林幸雄著 『図説 イングランド海軍の歴史』原書房、2007年、395頁-397頁。</ref>。
 
 
戦争の間ピットの周囲は不満のみならず、深刻な危機も起きていた。失望や厭戦気分も広がり、作物の不作、拿捕の危険などから食物の支援が乏しくなり、物価は上がった。資金も不足したため、[[イングランド銀行]]に、硬貨でなく紙幣で国債を払ってもいいという特別法が成立した。税金は高く、政府は戦費に見合うための義勇兵を求めた。イングランドでは暴動が起きた。[[アイルランド王国|アイルランド]]は内乱前夜だった。挙句の果てに、国内が混乱して、海外からの脅威への対抗として頼るべき[[イギリス海軍|海軍]]の大部分で、突如として[[スピットヘッドとノアの反乱|反乱]]が起きたこともあった<ref>[http://www.heritage-history.com/www/heritage-books.php?Dir=books&author=gaskoin&book=hanoverians&story=french History Curriculum Homeschool | History Heritage presents The Hanovarians by C.]</ref>。
 
 
==辞任==
 
[[File:Integrity-retiring-from-Office-Gillray.jpeg|thumb|right|『完全無欠なる退任』と題されたギルレーの風刺画 (1801年)]]
 
フランス革命により、イギリスの支配下にあったアイルランド王国の関連の宗教と政治の問題が再燃した。1798年、アイルランドのナショナリストは1798年に暴動を計画することさえした、フランスが、イギリスの支配をくつがえす手助けになるだろうと信じていたのだ<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/british/empire_seapower/irish_reb_01.shtml |title=British History – The 1798 Irish Rebellion |publisher=BBC |date=2009-11-05 |accessdate=2010-04-23}}</ref>。ピットは、この問題を解決するのは、イギリスとアイルランドの連合しかないと固く信じていた。フランスの支援を受けた暴動が失敗に終わった後、ピットはこれを推し進めた。1800年の連合法により、イギリス、アイルランド両国の連合が成立し、アイルランド議会への補償金と援助が保証された。[[1801年]][[1月1日]]、イギリスとアイルランドは正式に一つの国、[[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国]]となった。
 
 
ピットは、新しい王国の誕生に伴って、アイルランドの多数派を占める[[カトリック教会|カトリック]]への譲歩を認め、彼らが受けていた様々な政治的制約を撤廃することを模索した。しかしジョージ3世は、その点では意見を異にしていた。国王は[[カトリックの解放]]に強く反対しており、彼らにこれ以上の自由を認めることは、自身の戴冠式での、国教である[[聖公会|イングランド国教会]]を守るという誓いを冒涜すると主張した。ピットは、国王の強い主張を変えることができず、1801年の[[2月16日]]に辞任した<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.479}}</ref>。そして、政友である[[ヘンリー・アディントン]]に後を託した。ほぼ同じころ、国王は、再び精神状態がそこなわれる発作に見舞われた。これにより、アディントンは正式に首相としての任命を受けられなかった。辞任したにもかかわらず、ピットが臨時に職務を執行し、1801年[[2月18日]]に、年間予算法案を提出した。[[3月14日]]に国王の病状が回復し、首相の権限がピットからアディントンへ移譲された<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.484}}</ref>。
 
 
[[File:Britannia-between-Death-and-the-Doctors-Gillray.jpeg|thumb|180px|left|1804年のギルレーの風刺画。ブリタニア(イギリスの女性擬人化)を病人に例え、ブリタニアの新しい医者であるピットが、前任のアディントンを追い出しているさま。]]
 
ピットは新政権を支援したが、あまり熱心ではなかった。頻繁に国会を欠席するようになり、{{仮リンク|ウォルマー城|en|Walmer Castle}}内の、五港長官公邸にいる方を好んだ。このウォルマー城では、[[1802年]]までは、夏の終わりの休暇を過ごし、それ以後は春から秋まで滞在していた。この城から、ピットは、フランスの侵攻を見据えた地元の義勇兵隊の編成を手伝い、[[トリニティ・ハウス]]で募集された大隊の大佐として行動し(ピットはトリニティ・ハウスの支配人でもあった)、{{仮リンク|ロムニー・マーシュ|en|Romney Marsh}}に[[マーテロー塔]]と{{仮リンク|ロイヤルミリタリー運河|en|Royal Military Canal}}の建設を奨励した{{要出典|date=2013年6月}}。
 
 
フランスが[[1799年]]に[[ロシア帝国]]に、[[1801年]]に神聖ローマ帝国(オーストリア)に和平と承認を迫った後、[[アミアンの和約]]が英仏間で署名され、フランス革命戦争は終わりを告げた。しかし[[1803年]]には、イギリスと、ナポレオン支配下の新生フランス[[フランス第一帝政|第一帝政]]との間で、再び戦争が勃発した。ピットは、アディントンからその前に入閣を勧められていたにもかかわらず、野党側に着くことを優先し、政府の方針にだんだん批判的になってきた。アディントンは、ピットとフォックスの共同での反対に直面できず、与党が徐々に彼への希望を失っていくのに気が付いた。1804年の4月には、アディントンは、議会での支持を失い、辞任を決意した<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.526}}</ref>。
 
 
==第二次ピット内閣==
 
[[File:Austerlitz-baron-Pascal.jpg|thumb|250px|right|アウステルリッツの戦い]]
 
ピットは1804年5月10日に首相に返り咲いた。もともとは大々的な連立内閣を計画していたが、フォックスの入閣がジョージ3世の反対に遭った。さらに、かつての、アディントンとの同盟を含めたピットの支持者たちが、野党側に回った。このため、第二次内閣は第一次よりも弱体化したものとなった<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.529-33}}</ref>。
 
 
イギリス政府は、フランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]に圧力をかけ始めた。ピットの尽力のおかげで、イギリスはオーストリア、ロシア、スウェーデンと共に[[第三次対仏大同盟]]に加盟した。[[1805年]]10月、イギリス海軍の提督である[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]が、トラファルガーの海戦で圧勝し、参戦国の中でイギリス海軍が傑出した存在であることを確実にした。年に一度のロンドン市長の宴会では、ネルソンを「ヨーロッパの救世主」とたたえて乾杯が行われ、ピットはこれに対して「あなたがしてくださったことに恩義を持って報いたい。しかしヨーロッパはひとりの人物によって救われたのではなく、イギリスが自ら努力して自分を救ったこと、これからも、これを手本にヨーロッパを救うであろうことを私は信じる」<ref>{{Harvnb|Hague|2005|loc=p.565}}</ref>
 
 
それにもかかわらず、第三同盟は崩壊した。1805年10月の[[ウルムの戦い]]でと、12月の1805年の[[アウステルリッツの戦い]]で大敗した。アウステルリッツの知らせを聞いた時、ピットは、ヨーロッパの地図を照合し、こういった。「すべての地図を巻き上げてしまえ、これらはあと10年は必要とされない」<ref>Stanhope's ''Life of the Rt Hon. William Pitt'' (1862), vol. iv, p.369</ref>
 
 
フランス革命と[[ナポレオン戦争]]の混乱に乗じて、イギリスはフランスやフランスの[[従属国]]となったオランダの植民地を攻撃した。[[西インド諸島]]の[[トバゴ島]]やインドの[[ポンディシェリー]]、[[シャンデルナゴール]]、[[コルシカ島]]等。更に[[セイロン島]]や南アフリカの[[ケープタウン]]もイギリスの支配下に入った。このような戦略は父の大ピットから受け継いだ小ピットの植民地を重視した海洋派の主張が大きく反映されたからである。[[ウィーン議定書]]によってセイロン島と[[ケープ植民地]]のイギリス[[領有]]が正式に認められた{{要出典|date=2013年6月}}。
 
 
== 注釈 ==
 
<references group="注釈" />
 
 
==脚注==
 
{{Reflist}}
 
 
==参考文献==
 
*{{cite book|last=Ehrman|first = John|title= The Younger Pitt Vol. one: The Years of Acclaim|year=1984|origyear=1969|isbn=0-09-465990-7|publisher= St Edmundsbury Press|ref=CITEREFEhrman1984}}
 
* {{cite book|last =Ennis|first = Daniel|title= Enter the press-gang: naval impressment in eighteenth-century British literature|year= 2002|isbn= 978-0-87413-755-2|publisher=University of Delaware Press|ref = CITEREFEnnis2002|url=http://books.google.co.uk/books?id=Xr3TGtIeNTQC&source=gbs_navlinks_s}}
 
* {{cite book|last = Hague|first = William|title= William Pitt the Younger|year= 2005|isbn= 978-0-00-714720-5|publisher= HarperPerennial|ref = CITEREFHague2005}}
 
*{{cite book|last=Stanhope|first=Philip Henry Stanhope, 5th Earl|year=1861–62|title=Life of the Right Honourable William Pitt. (4 volumes)|publisher=John Murray}}; includes many extracts from Pitt’s correspondence [http://books.google.com/books?id=HLrAwdlxcmcC vol 1 online]; [http://books.google.com/books?id=1PM9AAAAcAAJ  vol 2 online]
 
* {{cite book|last =Turner|first = Michael|title= Pitt the younger: a life|year= 2003|isbn= 978-1-85285-377-8|publisher= Continuum International Publishing Group|ref = CITEREFTurner2003}}
 
 
==関連図書==
 
* Black, Jeremy. ''British Foreign Policy in an Age of Revolutions, 1783–93'' (1994)
 
* Cooper, William. "William Pitt, Taxation, and the Needs of War," ''Journal of British Studies'' Vol. 22, No. 1 (Autumn, 1982), pp.&nbsp;94–103 [http://www.jstor.org/stable/175658 in JSTOR]
 
* Derry, J. ''Politics in the Age of Fox, Pitt and Liverpool: Continuity and Transformation'' (1990)
 
*{{cite book|authorlink=Michael Duffy (historian)|last=Duffy|first=Michael|year=2000|title=The Younger Pitt (Profiles In Power) |publisher=Longman|isbn=978-0-582-05279-6}}
 
* Ehrman, J. P. W., and  Anthony Smith. "Pitt, William (1759–1806)", ''Oxford Dictionary of National Biography,'' (2004);  [http://www.oxforddnb.com/view/article/22338, online 2009; accessed 12 September 2011]
 
*{{cite book|last=Ehrman|first=John|year=1969–1996|title=The Younger Pitt (3 volumes)|publisher=Constable & Co}}
 
*{{cite book|last=Jarrett|first=Derek|year=1974|title=Pitt the Younger|publisher=Weidenfeld and Nicolson|id={{ASIN|B002AMOXYK|country=uk}}}}
 
* Mori, Jennifer.  "William Pitt the Younger" in R. Eccleshall and G. Walker, eds., ''Biographical Dictionary of British Prime Ministers'' (Routledge, 1998), pp.&nbsp;85–94
 
* Mori, Jennifer. "The political theory of William Pitt the Younger," ''History,'' April 1998, Vol. 83 Issue 270, pp 234–48
 
*{{cite book|last=Reilly|first= Robin|year=1978|title=Pitt the Younger 1759–1806|publisher=Cassell Publishers|id={{ASIN|B001OOYKNE|country=uk}}}}
 
* Richards, Gerda C.  "The Creations of Peers Recommended by the Younger Pitt," ''American Historical Review'' Vol. 34, No. 1 (Oct., 1928), pp.&nbsp;47–54 [http://www.jstor.org/stable/1836479 in JSTOR]
 
* Sack, James J. ''From Jacobite to Conservative: Reaction and Orthodoxy in Britain c.1760–1832'' (Cambridge University Press, 1993), does not see Pitt as a Tory
 
* Sack, James J. ''The Grenvillites, 1801–29: Party Politics and Factionalism in the Age of Pitt and Liverpool'' (U. of Illinois Press, 1979)
 
* Stanhope, Philip Henry (5th Earl) ''Life of the Right Honourable William Pitt'' John Murray (1862) [http://books.google.com/books?id=mz0BAAAAQAAJ& Vol.3 1796-1803]
 
* Wilkinson, D. "The Pitt-Portland Coalition of 1794 and the Origins of the 'Tory' party" ''History'' 83 (1998), pp.&nbsp;249–64
 
 
===一次出典===
 
* Pitt, William. ''The speeches of the Right Honourable William Pitt, in the House of commons'' (1817) [http://books.google.com/books?id=NC0BEvqsUOgC  online edition]
 
 
==外部リンク==
 
*[http://greatcaricatures.com/articles_galleries/gillray/galleries/html/1791_1220_excr_home.html 1791 Caricature of William Pitt] by James Gillray
 
*[http://www.number10.gov.uk/history-and-tour/prime-ministers-in-history/william-pitt William Pitt the Younger] on the 10 Downing Street website
 
* {{Cite EB1911|wstitle=Pitt, William}}
 
 
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{{s-ttl|title=[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]|years=[[1782年]] – [[1783年]]}}
 
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{{s-bef|before={{仮リンク|フィリップ・ホニウッド|en|Philip Honywood (died 1785)}}<br />{{仮リンク|ウィリアム・ロウサー (初代ロンズデール伯)|label=ウィリアム・ロウサー|en|William Lowther, 1st Earl of Lonsdale}}}}
 
{{s-ttl|title={{仮リンク|アップルビー選挙区|label=アップルビー選挙区選出議員|en|Appleby (UK Parliament constituency)}} |with = [[フィリップ・ホニウッド]] |years=[[1781年]] – [[1784年]]}}
 
{{s-aft|after={{仮リンク|ジョン・ルーソン=ゴア (1740-1792)|label=ジョン・ルーソン=ゴア|en|John Leveson-Gower (1740–1792)}}<br />{{仮リンク|リチャード・ペン|en|Richard Penn (governor)}}}}
 
{{s-bef|before={{仮リンク|ジェームズ・マンスフィールド|en|James Mansfield}}<br />{{仮リンク|ジョン・タウンシェンド|label=ジョン・タウンシェンド卿|en|Lord John Townshend}}}}
 
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{{s-non|reason=[[グレートブリテン王国]]議会廃止}}
 
{{s-bef|before=[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|連合王国]]議会創設}}
 
{{s-ttl|title=ケンブリッジ大学議会議員|with = [[ジョージ・フィッツロイ]] |years=[[1801年]] – [[1806年]]}}
 
{{s-aft|after={{仮リンク|ジョージ・フィッツロイ (第4代グラフトン公爵)|label=ユーストン伯|en|George FitzRoy, 4th Duke of Grafton}}<br />[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ヘンリー・ペティ卿]]}}
 
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2018/8/27/ (月) 01:22時点における版

ウィリアム・ピットWilliam Pitt (the Younger)、1759年5月28日 - 1806年1月23日

イギリスの政治家。ピット (大) の次男。幼少の頃から神童の聞え高く,14歳でケンブリッジ大学に入学,17歳で文学修士の学位を取得。 1781年 21歳のとき,ある貴族の援助により下院議員となった。 82年シェルバーン内閣の蔵相。 83年フォックス=ノース連立政権の崩壊とともに国王の要請により少数派内閣を組織し

24歳で首相となり,翌年3月の総選挙で大勝,以後 1801年アディントン内閣の成立まで首相として活躍した。アメリカ独立戦争後の財政を建直し,インド法を成立させ (1784) ,イギリス東インド会社に対する国家の統制権を強化した。 1786年英仏通商条約を締結,フランス革命に対しては内政不干渉の立場を取ったが,93年フランスがイギリスに宣戦布告すると,第1次対仏大同盟 (93) を結成し,これに対抗する一方,国内では革命の波及を恐れて人民保護法を停止 (93,95~1801) 。ナポレオン1世に対しては第2次対仏大同盟 (1798) を結んで抗戦した。また 1800年アイルランドとの合併を定めた「合同法」を成立させた。

1804年再び首相となり第3次対仏大同盟 (1805) を結んだが,ナポレオン戦争の終結をみることなく死没。ピット (大) ,W.チャーチルと並ぶイギリスの三大政治家の一人とされる。




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