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天正壬午の乱 | |
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戦争: 戦国時代 (日本) | |
年月日: 天正10年(1582年)6月 - 10月29日 | |
場所: 甲斐・信濃・上野 | |
結果: 北条・徳川両軍の間で講和 | |
交戦勢力 | |
北条軍 15px | 徳川軍 15px |
戦力 | |
53,000以上 10,000(黒駒合戦) |
10,000以上 2,000(黒駒合戦) |
損害 | |
300(黒駒合戦) | 不明 |
天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、天正10年(1582年)に甲斐・信濃・上野で繰り広げられた戦いである。大まかには徳川家康と北条氏直の戦いとして説明されるが、上杉景勝の他、在郷の諸勢力(特に木曾義昌や真田昌幸)も加わっている広い範囲の戦役であった。「壬午」は天正10年の干支で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。
Contents
概要
天正10年6月の本能寺の変後、織田政権を離反した北条氏は織田氏による仕置が行われたばかりの旧武田領に侵攻した。これに対し、織田体制下の一大名である徳川氏が織田体制の承認のもと、討伐に当たったことによって引き起こされた紛争である[1][2]。さらに上杉景勝や真田昌幸を始めとする武田の遺臣や、地元の国人衆が復帰や勢力拡大を画策したため、情勢がより複雑化した。
大大名同士による争いは、上杉と北条の講和、及び徳川と北条の講和によって終結を迎え、景勝が信濃北部4郡を支配、甲斐と信濃は家康の切り取り次第、上野は氏直の切り取り次第という形で決着する。家康は信濃、氏直は上野の平定を進めたが、最終的には沼田領帰属問題に端を発する真田の徳川から上杉への寝返りが発生し、真田が独立勢力として信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配した。結果として、上杉は北部4郡の支配を維持、徳川は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域、北条は上野南部を獲得した。真田領の問題は後の上田合戦に発展していく。
この戦によって家康は(先の駿河を含め)数ヶ月で5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承し天下人になりつつある豊臣秀吉と対峙していくこととなる。また、東国を差配する3氏の関係(徳川と北条の同盟、徳川と上杉の敵対関係)も、豊臣政権に対する東国情勢に影響を与えていくこととなる。
背景
北条氏の織田氏への従属
戦国時代後期、関東では北条氏が北関東への侵攻を画策し、北関東の領主たちがそれに対抗する状況が続いていた[3]。天正7年、武田氏と上杉氏の間で甲越同盟が締結された。武田氏との甲相同盟を破棄した北条氏は9月11日、氏政の弟氏照が信長に鷹3羽を献上し、10月25日氏政は信長に味方し6万の軍勢で甲斐に出兵した[4]。さらに翌天正8年3月、縁組を条件に織田氏に領国を進上し織田政権の支配下に入った[5]。
織田氏による甲州征伐と北陸侵攻
天正10年3月に甲州征伐を開始した織田信長は甲斐の武田氏を滅亡させ、甲斐から信濃、駿河、上野に及んだその領地は織田政権下に組み込まれた。信長は国掟を定め、武田遺領を以下のように家臣に分与する。
国名 | 郡(領地) | 受領者 | 備考 |
---|---|---|---|
上野国 | 上野一国 | 滝川一益 | 一説に関東管領にも任ぜられたとも |
信濃国 | 小県郡 | ||
佐久郡 | |||
川中島四郡[注釈 1] | 森長可 | ||
筑摩郡 (木曽谷) |
木曾義昌 | 本領安堵(木曽谷) 筑摩・安曇は加増 | |
筑摩郡 | |||
安曇郡 | |||
伊那郡 | 毛利長秀 | ||
諏訪郡 | 河尻秀隆 | 名目は甲斐一国 穴山替地として諏訪郡 | |
甲斐国 | 山梨郡 | ||
都留郡 | |||
八代郡 | |||
巨摩郡 | |||
巨摩郡 (河内領[注釈 2]) |
穴山信君 | 本領安堵 | |
駿河国 | 駿河一国 | 徳川家康 | うち江尻城領は穴山信君、 興国寺城領は曽根昌世に安堵。 |
関東の北条氏は甲州征伐に協調したものの、遺領を得ることは一切できず、後述する歴史経緯からみるとむしろ上野を追い出される形となった。
甲州征伐と前後して、織田氏は御館の乱の混乱が続く上杉氏の攻略も進めていた。新発田重家が織田と通じて造反し、柴田勝家が越中まで侵攻。3月11日からは魚津城の攻囲も始まり(魚津城の戦い)、信濃が織田領になった後は南から森長可の侵攻も計画されていた。5月末には、本拠・春日山城に森の軍勢が迫りつつあって上杉景勝は魚津城に後詰することも適わなくなる。そして6月3日、魚津城が陥落した。
上野・信濃の前史
上野国と信濃国は、歴史的に越後の上杉氏、関東の後北条氏、甲斐の武田氏がその所領を巡って争ってきた。これら上野・信濃は、先述のように甲州征伐によってそのほぼ全域が織田氏の物となった。しかし、3ヶ月後の本能寺の変によって空白化する。織田氏による統治期間が極めて短く、地元の有力者を掌握しきれていなかったことが、天正壬午の乱及び以後の出来事に大きな影響を与えていくことになる。
- 上野
上野は、元は関東管領山内上杉家の所領であったが、天文15年(1546年)の河越夜戦を経て天文21年(1552年)に上杉憲政が上野を脱出、北条氏康の領地となる。その後、憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に関東管領を譲り、謙信は関東管領としてたびたび関東方面へ侵攻するようになる。
上野は越後と関東を結ぶ重要地であり、上野(特に交通路であった沼田)を巡って謙信と氏康・氏政父子は激しく争った。越相同盟によって一時氏政が謙信の上野領有を承認したこともあったが、基本的に謙信の死まで上野を巡る両者の争いは続いた。武田信玄もまた上野西部にたびたび侵攻しており、永禄6年(1563年)頃に岩櫃城を攻略して吾妻郡を治め、永禄9年(1566年)には箕輪城を攻略して箕輪城以西を領国化した。
謙信の死後に上杉家で御館の乱が起きると、天正7年(1579年)に謙信の甥・景勝は信玄の子・武田勝頼と同盟を結び(甲越同盟)、同時に甲相同盟が破棄され、上野は武田と北条による争いの場として移り変わる。また、景勝に上野侵攻を承認された勝頼は、家臣の真田昌幸に命令して沼田攻略を開始し、北条方であった沼田城を攻略させ、上野北部2郡(吾妻郡・利根郡)の運営を昌幸に任せた。甲州征伐後、上野全域は滝川一益の所領となるも、昌幸は滝川の下につくことでその勢力範囲を維持した。
- 信濃
信濃も関東管領である山内上杉家の力が弱まると、武田氏が手を伸ばし始める。信玄は家督相続後積極的に信濃に侵攻するようになり、甲斐の北にあたる佐久郡・小県郡の他、同盟関係にあった諏訪郡にも侵攻し、北部を除いて信濃を平定する。信濃を追いだされた村上義清や北部の豪族など信濃の大名は、上野と同様に謙信を頼り、謙信はこれを大義名分として信濃へ南下する。両者は北部4郡の入り口にあたり、4郡を支配するために重要な川中島や海津城で何度も対峙した。このような経緯によって国人衆や土豪への影響力など、信濃北部に関しては上杉氏、北部を除く信濃全域は武田氏が強く持っていた。
経過
序盤
天正10年(1582年)6月2日、信長は京都の本能寺で家臣の明智光秀によって討たれた(本能寺の変)。
家康の転進
本能寺の変の発生した6月2日、徳川家康と穴山信君(梅雪)は堺(大阪府堺市)に滞在し信長と合流するためともに京都へ向かっていたが、途中で徳川家臣の本多忠勝は京都商人・茶屋四郎次郎から本能寺の変の発生を知る[6]。家康は飯盛山下において事態を知ると、本拠の三河国へ戻るべく伊賀越えを敢行し、無事に畿内を脱出する[6]。一方、途中で家康と別れた穴山は、宇治田原(京都府宇治田原町)で土民に殺害された。
家康は6月4日に三河岡崎城(愛知県岡崎市)に帰還すると、明智討伐の軍を起こすと同時に、無主状態となった甲斐・信濃の計略を開始する[7]。
『当代記』によれば、家康は6月10頃に甲斐の河尻秀隆に使者として家臣の本多信俊(百助)を派遣し、河尻に協力の要請を行った。また、家康は6日には徳川家臣となっていた武田遺臣の駿河衆・岡部正綱に書状を送り、穴山の本拠である甲斐河内領の下山館(身延町下山)における城普請を命じ、富士川・駿州往還(河内路)沿いに菅沼城(身延町寺沢)が築城される[8]。また、家康は同じく武田遺臣で信濃佐久郡の国衆・依田信蕃(よだのぶしげ)を佐久郡へ向かわせる。依田は武田滅亡時に駿河田中城(静岡県藤枝市)において徳川氏に抗戦しており、武田滅亡後に信濃佐久郡春日城(長野県佐久市)へ帰還していたが、織田氏による処刑を恐れて家康に庇護され、遠江に潜伏していたという[8]。
『甲斐国志』『武徳編年集成』によれば、甲斐国一国と信濃諏訪郡を統治した河尻秀隆は武田時代の躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)ではなく、岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としたという[9]。『三河物語』によれば、河尻は6月14日に岩窪館において本多信俊を殺害している。信俊は河尻と知縁があったが、『武徳編年集成』によれば河尻は信俊に不審感を抱き、家康が一揆を扇動し甲斐を簒奪する意図があったと疑い信俊を殺害したという。翌15日に甲斐国人衆が一揆を起こすと河尻は脱出を図るが、18日に一揆勢に殺害された。
一方、家康から甲斐へ派遣された岡部正綱は穴山氏の居館のある下山館(身延町下山)に入った。また、依田信蕃は武田遺臣900人弱を集めて20日には再び小諸城へと入った。家康は西へ進軍していたが、6月14日に山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に討たれると、家康は6月15日に鳴海(名古屋市緑区)において報告を受ける。家康は酒井忠次を津島に前進させ情報を確認し、21日に軍を返して浜松へと戻った。
さらに岡部は6月12日から6月23日にかけて、曽根昌世と連署で甲斐衆に知行安堵状を発給している[10]。
浜松へ戻った家康は信濃・甲斐の国人衆の掌握を進める一方で、酒井忠次・奥平信昌に信州路を進ませて南信濃を確保させる。また、自身も本栖(富士河口湖町本栖)の土豪・渡辺因獄佑に案内され中道往還を通過して甲斐へと進軍し、7月9日に甲府入りする。この時点で家康は、信濃南部と八代・巨摩・山梨の甲斐3郡を掌握する。他方で、佐久郡は碓氷峠を越えてきた北条に取られてしまう。
河尻秀隆の殺害に続いて滝川一益・森長可の敗走を確認した家康は、明智を討ったことで織田体制(←織田政権)内の有力武将となった羽柴秀吉とも交渉し、秀吉は7月7日になって織田氏家臣がいなくなった信濃・甲斐・上野の3か国へ家康が軍勢を派遣して確保することを認める書状を送った[11]。ここでの家康の立場、行動は独立した大名としてではなく、織田体制下の一大名として北条氏の討伐を目的にしたものとされている[12][13]。
北条の進軍
本能寺の変の報が入ると北条氏は織田政権から離反し織田領国へ侵攻した。北条はまず上野へ進軍し、神流川の戦いで滝川一益を撃破すると上野の掌握に努める。また、6月26日には信濃佐久郡の豪族を臣従させ、28日に先方軍を送り込む。7月に入って真田昌幸が臣従の意を示すと、昌幸を先方として北条主力軍4万3000を上野より碓氷峠を越えて進軍させる。徳川方の依田信蕃は小諸城を捨てて後退し、北条は大道寺政繁を小諸城に配して佐久郡を掌握する。
甲斐方面についても、河尻秀隆の死によって混乱した隙をついて郡内地方を掌握する。甲斐衆の多くが家康に臣従するなか北条氏に味方する勢力も現れ、『甲斐国志』によれば、6月中旬には秩父往還(雁坂口)を守備していた浄居寺城(中牧城、山梨市牧丘町浄居寺)の大村忠堯(三右衛門尉)・忠友(伊賀守)に率いられた山梨郡倉科(山梨市牧丘町倉科)の土豪・大村党が大野砦(山梨市大野)に籠城して北条方に帰属した[14]。また、甲斐国総社の甲斐奈神社(橋立明神、笛吹市一宮町橋立)の社家衆・大井摂元も北条方に属した[14]。橋立明神は筑前原塁を有し城砦としての性格を持ち、甲斐・相模間の鎌倉街道にも近い[14]。北条氏は御坂峠の所在する笛吹市御坂町藤野木・南都留郡富士河口湖町河口に御坂城を築いている[14][15]。
家康はこうした甲斐の北条方に対し穴山衆を派遣し、大村党や橋立明神の社家衆を滅ぼしている[16]。この時の大村党と穴山衆の合戦は後に『中牧合戦録』としてまとめられる。さらに家康は家臣の鳥居元忠に命じて鎌倉街道沿いの笛吹市八代町高家に所在する小山城を改修させた。
結果、北条の甲斐進軍は徳川に出遅れることとなり、甲斐は東部の郡内掌握に留まる。
織田勢の撤退・上杉の追撃・在郷勢力の動き
柴田勝家は落としたばかりの魚津城からの撤退を決め、森長可も上杉の本拠である越後・春日山城近辺まで侵攻していたが撤退する。上杉景勝は、ただちに森を追撃して信濃に攻め入るが、森に逃げられてしまう。景勝はそのまま北信濃の要所である飯山城と海津城を奪取し、同地を掌握すると並行して、前信濃守護小笠原長時の実子である小笠原貞慶や山浦景国(村上氏)に所領安堵状を出し川中島以南の領有化も画策する。特に6月には長時の弟である小笠原洞雪斎を後援して木曾義昌の深志城(松本城)を攻め落とさせている。
木曾義昌は領地拡大を目指し、美濃国へ撤退する森を討とうと試みる。しかし、森は木曽福島城に押し入ると木曾の嫡男・岩松丸(木曾義利)を人質にし、従わざるを得なくなった木曾は地元の豪族を抑えこんで森の撤退を手助けせざるを得なくなった。また、神流川の戦いで敗北し、同じく撤退してきた滝川一益にも妨害を試みるが、滝川は自身が連れていた信濃衆の人質を明け渡すことを提案し、木曾はこれを受けて見逃している。結果として木曾は序盤に動きを制限されることとなり、先のように深志城を上杉方に奪取されている。
滝川の配下にいた真田昌幸は、神流川の戦い後の7月9日には北条への帰属を決める。上野の有力者であった昌幸がついたことにより、後顧の憂いを絶った北条は先述のように上野にいた主力を碓氷峠から信濃国佐久郡へと進軍させる。
その他にも諏訪頼忠が諏訪高島城に入場して再起を図るなど、信濃の在地勢力や旧武田家臣が周辺の大大名の思惑とは別に動き始めていた。
北条の信濃侵攻と上杉との講和
佐久を押さえた北条は、中信の有力者である木曾義昌や諏訪頼忠に所領安堵状を与え、主力は北進させることで信濃掌握を図る。北条は真田昌幸ら信濃の諸将の手助けもあって難なく川中島まで攻め入り、既に北信を掌握済みの上杉軍と対峙する。
佐久を奪取された徳川であったが、小諸城を追われた信蕃は武田旧臣の調略とゲリラ戦を展開し、北条の兵站をたたき始める。加えて既に掌握済みの南信及び甲斐から北進の動きを強め、酒井忠次らによる頼忠が守る諏訪高島城への攻城が開始される。
7月末、上杉と徳川の挟み撃ちは避けたい北条と、新発田重家への憂いがある上杉双方の思惑が合致し、講和が結ばれる。北条は上杉の北部4郡の所領化を認め、上杉は川中島以南へ出兵しないとし、北部を除く信濃は北条の切り取り次第とした。
黒駒合戦
景勝との講和がなったことで、北条は徳川に戦力を向けることができるようになり、約4万の主力軍は南へ転進をはかる。さらに、北条氏忠・北条氏勝ら1万を甲斐・御坂峠に張り付かせ、また北条氏邦にも秩父から甲斐を窺う体勢をとらせ、徳川1万を三方向から半包囲する形で信濃・甲斐への侵攻を始める。なお、御坂峠の北条1万には未だ房相一和が完全には破綻していなかった安房の里見義頼も援軍を出している[17]。
8月1日、諏訪・高島城を攻城していた酒井忠次ら3,000は北条の大軍が来るとの報に甲斐に向けて後退する。北条主力軍43,000は、佐久経由で酒井軍を追撃するが、徳川勢は甲斐・新府城への撤退に成功する。
これを追う北条勢も甲斐に入り若神子城(北杜市須玉町若神子)に着陣し、8月6日には徳川勢と対峙した。家康は本陣を甲府城下の尊躰寺(甲府市城東一丁目)においたが甲府市北新一丁目の旧一条信龍屋敷に移転し、さらに8月8日には新府城(韮崎市中田町中條)へ移転した。10日に家康は南の府中の留守を鳥居元忠ら2,000に任せ新府城に陣を移し、徳川方は8,000となる。
8月12日、氏忠・氏勝勢10,000が家康の背後を襲うべく甲斐東部の郡内地方へ進撃した。これに対し、鳥居元忠、三宅康貞、水野勝成ら2,000が黒駒付近(笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒)で果敢に応戦し、北条勢約300を討ち取って撃退した(黒駒合戦)。
依然、北条と徳川の兵力差は圧倒的なものであったが、この戦で北条方が敗北したことにより信濃諸将の北条離れが進んでいく。8月22日に木曾が家康側に寝返り、さらに9月に入ると真田が依田信蕃に加勢した。家康は依田と真田に曽根昌世らをつけて戦力を強化し、ゲリラ戦によって信濃・上野間の兵站を乱すようになる。
上野を巡る戦い
黒駒合戦の敗北によって、信濃への影響力が低下した北条は上野の戦力を信濃に割くが、先述のようにそこで真田が徳川に付き、真田は北条方が入っていた自城・沼田城を急襲して再奪取する。
上野北部を喪失したことにより、信濃への兵站が事実上途絶えた北条は、真田方の沼田城や岩櫃城を攻略目標として大軍を持って攻め入り、真田方の諸砦を落としていく。一方で、沼田城代・矢沢頼綱の活躍や、昌幸の嫡男・信幸が手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5,000が防衛する吾妻郡手子丸城を僅か一日で奪還するなど(加沢記)、激しく抵抗し、上野の要所を落とすには至らなかった。
乱の終結
10月に入ると昌幸が禰津某を討ち取り、信蕃は小諸城を襲って大道寺政繁を駆逐した。また、中信では木曾義昌に続いて家康の支援を受けた小笠原貞慶が洞雪斎を排して旧領である深志(現在の松本市)に入り他の領主らも徳川氏についた。
北条勢は上野や佐久郡にわずかばかりの軍勢を差し向けるも、戦局は好転しなかった。さらに、これらに呼応して関東平野では佐竹義重が活動を活発化させていた。10月になって織田体制の織田信雄、織田信孝双方から和睦の勧告があり[18][19]、10月29日、織田信雄を仲介役として北条と家康の間で講和が結ばれた。講和の条件は以下のとおりであった。
- 氏直に家康の娘督姫を娶らせる
- 甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ切り取り次第とし、相互に干渉しない
こうして本能寺の変から約5ヶ月続いた乱はいったん終息する。
天正壬午の乱の影響と沼田領問題
徳川・北条同盟の成立により徳川・上杉・北条三者による合戦は終わったものの、特に信濃では依然として家康に服従を認めない国衆が跋扈し、家康は手を焼いた。有力国衆である諏訪頼忠は12月に和睦して家康に下ったものの、武田旧臣として天正壬午の乱で多大な戦功を挙げた依田信蕃は岩尾城攻めで落命している。
甲斐では河内領は穴山勝千代に安堵され[20]、かつての小山田氏の支配地域であった郡内領に鳥居元忠[21]を配置する。甲斐中央部の国中領は躑躅ヶ崎館を本拠とし、平岩親吉と岡部正綱(天正11年の岡部没後は平岩単独)[22]が派遣されて支配を行っている。なお、近世甲斐における政治的中心地となった甲府城は天正壬午の乱後の天正11年に家康により築城されたとする説があるが、小田原征伐後に豊臣政権が関東移封された家康に対する備えとして築城したとする説がある[23]一方、天正17年には豊臣政権と北条氏の関係が緊迫化し、家康は天正壬午の乱において徳川・北条間で合戦が行われた浄居寺城の大修築を実施している[24]。
一方、徳川と北条の講和によって信濃は徳川、上野は北条の切り取り次第となったが、真田領である上野・沼田の領有・帰属について問題を残した。徳川は、形式上従属した真田に対して沼田を北条へ明け渡すことを求めたが、真田は代替地を要求し、両者の関係は悪化した。両者に縁のある依田信蕃が仲介役となって奔走したが、信蕃が戦死すると両者の溝は決定的なものとなる。しばらくは対上杉への抑えとして真田の重要性が増し、徳川としても強権的な対応を取れないでいたが、やがて真田は対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉に寝返り、徳川と敵対することとなった。
その後、天正13年(1585年)に徳川は上田に攻め入り、また並行して北条が沼田に攻め入ったが真田は守り通した(第一次上田合戦)。その後も小競り合いが続いたがいずれも真田は撃退した。
一方、上方では羽柴秀吉が清洲会議を経て織田家の事実上の後継者となっていたが、柴田勝家との対立が日増しに強くなるなど不安定な状況にあった。対柴田のために秀吉と景勝が誼を通じ、他方で家康は北条との和睦を仲介した縁や領地が接することなどから織田信雄と友好関係を築き、後の小牧・長久手の戦いへと発展した。その後、天下人となった秀吉は北条と真田との間で紛争と化していた沼田領を天正17年(1589年)よる裁定によって落着させた。しかし、この裁定は翌天正18年(1590年)の小田原征伐の遠因となった。
研究史
天正壬午の乱に関する実証的研究は少なく、山梨県をはじめとする自治体史において概説的に触れられる程度であった。江戸時代には文化11年(1814年)に完成した甲斐国の地誌『甲斐国志』において、記述の方式や人物部の時代区分において、天正10年(壬午)が大きな区切りになっていることが指摘される[25]。『甲斐国志』の執筆姿勢は武田氏や柳沢氏など甲斐国主に対しては敬称を用いていない客観的なスタンスであるが、徳川家に対しては家康を「神祖」と称し敬意を示しており、天正壬午起請文が提出された天正10年を重視した時代区分になっていると考えられている[25]。
平成8年(1998年)、山梨県韮崎市穴山町の能見城跡の発掘調査が実施された。この調査を通じて天正壬午の乱における築城の歴史的背景が考察され、発掘調査報告書において平山優によるはじめての総説が発表された。
その後、『山梨県史』編纂事業において関係史料が集成されたほか、平成23年(2011年)には平山が旧稿を全面改稿して単著として発表し、武田氏滅亡後の甲斐や家康の動向のみならず、上杉氏や後北条氏、さらに豊臣政権や信濃国衆らの動向を総合的に検討し、東国情勢における意義や戦国時代の終期に関する問題、さらに豊臣政権の天下統一に関わる意義についても論及している。
脚注
- 注釈
- 出典
- ↑ 谷口央、「小牧長久手の戦い前の徳川・羽柴氏の関係」、人文学報. 歴史学編 39、東京都立大学人文学部 首都大学東京都市教養学部人文・社会系、2011年、p.4。[1]
- ↑ 丸島和洋、「戦国大名の「外交」」、講談社、2013年、p.244。
- ↑ 粟野俊之、「天徳寺宝衍考 」、駒沢史学39・40 、駒沢史学会、1988年、p.102 [2]
- ↑ 太田牛一、「信長公記」、巻12。
- ↑ 原田正記、「織田権力の到達 : 天正十年「上様御礼之儀」をめぐって」、史苑 51(1)、立教大学、1991年、p.47 [3]
- ↑ 6.0 6.1 平山 2015, p. 82.
- ↑ 平山 2015, p. 124.
- ↑ 8.0 8.1 平山 2015, p. 127.
- ↑ 平山 2015, p. 63.
- ↑ 平山 2015, p. 129.
- ↑ 柴裕之「織田勢力の関東仕置と徳川家康」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年
- ↑ 宮川展夫、「天正期北関東政治史の一齣 : 徳川・羽柴両氏との関係を中心に」、駒沢史学 78、駒沢史学会、2012年、p.23[4]
- ↑ 谷口、2011、p.4
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- ↑ 丸島 和洋、『北条・徳川間外交の意思伝達構造』、「国文学研究資料館紀要 11」、p.46、国文学研究資料館 、2015年。[5]
- ↑ 谷口 2011 p.9
- ↑ 柴裕之「徳川領国下の穴山武田氏」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年
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- ↑ 柴裕之「徳川氏の甲斐国中領支配とその特質」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年
- ↑ 平山優「甲府城の史的位置-甲斐国織豊期研究序説-」『山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センター 研究紀要9 10周年記念論文集』(山梨県埋蔵文化財センター、1993年)
- ↑ 平山優「甲府城の史的位置-甲斐国織豊期研究序説-」『山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センター 研究紀要9 10周年記念論文集』(山梨県埋蔵文化財センター、1993年)、p.17
- ↑ 25.0 25.1 石川 2014, p. 8.
参考文献
- 市川武治「依田信蕃 甲信侵攻の立役者」『歴史群像シリーズ 徳川家康』学習研究社、1989年。
- 斎藤慎一『戦国時代の終焉』中央公論新社(中公新書1809)、2005年。ISBN 4-12-101809-5
- 平山優『天正壬午の乱』学習研究社、2011年
- 平山優 『増補改訂版 天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』 戎光祥出版、2015年。
- 石川博 「『甲斐国志』の編纂、執筆について」『甲斐 第134号』 山梨郷土研究会、2014年。