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{{基礎情報 国
+
[[ファイル:首都プライアの町並み.カーボベルデ.jpg|サムネイル]]
| 略名 =カーボベルデ
+
'''カーボベルデ共和国'''(カーボベルデきょうわこく)、通称'''カーボベルデ'''
| 日本語国名 =カーボベルデ共和国
 
| 公式国名 ='''{{Lang|pt|República de Cabo Verde}}'''
 
| 国旗画像 =Flag_of_Cape_Verde.svg
 
| 国章画像 =[[ファイル:Coat_of_arms_of_Cape_Verde.svg|100px|カーボベルデの国章]]
 
| 国章リンク =([[カーボベルデの国章|国章]])
 
| 標語 =なし
 
| 位置画像 =Cape Verde (orthographic projection).svg
 
| 公用語 =[[ポルトガル語]]、[[カーボベルデ・クレオール語]]
 
| 首都 =[[プライア]]
 
| 最大都市 =プライア
 
| 元首等肩書 =[[カーボベルデの大統領|大統領]]
 
| 元首等氏名 =[[ジョルジェ・カルロス・フォンセカ]]
 
| 首相等肩書 =[[カーボベルデの首相|首相]]
 
| 首相等氏名 ={{ill2|ユリス・コレイア・エ・シルバ|en|Ulisses Correia e Silva}}
 
| 面積順位 =166
 
| 面積大きさ =1 E9
 
| 面積値 =4,033
 
| 水面積率 =極僅か
 
| 人口統計年 =2016
 
| 人口順位 =168
 
| 人口大きさ =1 E5
 
| 人口値 =531,239
 
| 人口密度値 =103
 
| GDP統計年元 =2008
 
| GDP値元 =1,290億<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2009年7月19日閲覧([http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=88&pr.y=12&sy=2008&ey=2008&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=624&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=])</ref>
 
| GDP統計年MER =2008
 
| GDP順位MER =154
 
| GDP値MER =17億<ref name="economy" />
 
| GDP統計年 =2008
 
| GDP順位 =165
 
| GDP値 =17億<ref name="economy" />
 
| GDP/人 =3,498<ref name="economy" />
 
| 建国形態 =[[独立]]<br />&nbsp;- 日付
 
| 建国年月日 =[[ポルトガル]]より<br />[[1975年]][[7月5日]]
 
| 通貨 =[[カーボベルデ・エスクード]]
 
| 通貨コード =CVE
 
| 時間帯 =-1
 
| 夏時間 =なし
 
| 国歌 =[[自由の歌]](Cântico da Liberdade)
 
| ISO 3166-1 = CV / CPV
 
| ccTLD =[[.cv]]
 
| 国際電話番号 =238
 
| 注記 =
 
}}
 
  
'''カーボベルデ共和国'''(カーボベルデきょうわこく)、通称'''カーボベルデ'''は、[[大西洋]]の中央、北[[アフリカ]]の西沖合いの[[マカロネシア]]に位置する[[バルラヴェント諸島]]と[[ソタヴェント諸島]]からなる[[共和制]]の[[国家]]。首都の[[プライア]]は[[サンティアゴ島]]に位置している。
+
面積 4033km<sup>2</sup>。<br>
 +
人口 51万9000(2014推計)。<br>
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首都 [[サンチアゴ島]]の[[プライア]]
  
カーボベルデは[[島国]]であり、[[15世紀]]から[[1975年]]まで[[ポルトガル領]]であった。独立に際してアフリカ大陸部の[[ギニアビサウ]]と[[連邦]]を形成する計画があったが、1980年の同国で発生した[[クーデター]]によって頓挫し、現在に至っている。かつては[[ポルトガル]]の重要な植民地であったが、[[史跡]]としては[[フランシス・ドレーク]]によって破壊された町[[シダーデ・ヴェーリャ]]が残っている。[[ポルトガル語諸国共同体]]、[[ポルトガル語公用語アフリカ諸国]]の加盟国。
+
アフリカ大陸北西岸沖にある島国。セネガル西部のベール岬沖合い 600~900kmの大西洋上に散在する 10の島(うち 1島は無人島)といくつかの小島からなる。二つの島群に分けられ,北部のバルラベント諸島(風上諸島)にはサントアンタン島,サンビセンテ島,サンタルジア島(無人島),サンニコラウ島,サル島,ボアビスタ島が,南部のソタベント諸島(風下諸島)には,ブラバ島,フォゴ島,サンチアゴ島,マイオ島が含まれる。各島とも火山起源で山がち。最高点はフォゴ島のピコ活火山(2829m)で,1951年にも噴火した。月平均気温は最高の 9月で 26℃。年較差は少ない。植生は湿気の多い北東貿易風や海からの風に面するところに豊かで,海岸低地は乾燥が著しく,砂漠状のところが多い。住民の約 70%がヨーロッパ人とアフリカ人の混血で,カトリック教徒が多い。公用語はポルトガル語,クレオル語は国語。かつてはすべて無人島であったが 15世紀半ばにポルトガル人が来航,カーボベルデ(緑の岬)と命名して植民地とし,1462年サンチアゴ島にヨーロッパ人都市リベイラグランデを建設。その後ヨーロッパ,アフリカ,アメリカ各大陸間の航海の中継補給地,奴隷貿易の基地として繁栄したが,1541年海賊の,1585年と 1592年にイギリスのフランシス・ドレークの襲撃を受け,さらに 1712年のフランス人の攻撃によって都市は壊滅。奴隷貿易の衰退とともに各島も衰退した。1974年のギニアビサオ独立をかちとった指導者の多くの出身地で,解放組織であったギニア・カーボベルデ独立アフリカ党はギニアビサオとの同時独立をポルトガルに要求したが,かなわなかった。しかし独立戦争には発展せず,1975年独立。1990年カーボベルデ独立アフリカ党はマルクス主義を放棄,複数政党制に移行した。経済は農業,漁業と大陸間航路の中継補給地としての港湾サービスを柱とし,コーヒー,バナナ,トウゴマの実,魚,畜産加工品,塩,ポゾラン(セメントの原料の火山岩)などを輸出。ほかに自給用としてトウモロコシ,ジャガイモなどを産する。
 
 
== 国名 ==
 
正式名称は、''República de Cabo Verde''。通称、''Cabo Verde''({{IPA-pt|ˈkabu ˈveɾdɨ}} カーボ・ヴェルデ)。
 
 
 
[[日本語]]の表記は、'''カーボベルデ共和国'''。通称、'''カーボベルデ'''。'''カーボヴェルデ'''、'''カボベルデ'''とも表記する。[[国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''辺瑠出角'''。
 
 
 
国名は、カーボベルデ共和国の対岸にあたる[[アフリカ大陸]]西端の岬、カーボ・ベルデ([[ヴェルデ岬]]、[[ポルトガル語]]で「緑の岬」の意)に由来する(ただし、ヴェルデ岬自体は[[セネガル]]領)。
 
 
 
== 歴史 ==
 
{{main|カーボベルデの歴史}}
 
 
 
=== 初期 ===
 
[[ポルトガル]]の[[冒険家]]が[[1456年]]と[[1460年]]に、最初にこの諸島に着いた時は[[無人島|無人]]だったが、[[卓越風]]、[[海流]]などにより、[[ギニア]]海岸地方より[[セレール人]]、[[ウォロフ人]]、[[レブ人]]、[[ムーア人]]の[[漁師]]などが訪れていたと思われる。
 
 
 
[[アラブ人]]、[[フェニキア人]]が昔から訪れていたという[[民話]]伝承がある。ポルトガルの[[冒険家|冒険者]][[ジャイメ・コルテサン]]はアラブ人は[[塩田]]に[[塩]]を取りに来ていた事を記録しており、Sal Island (Salt Island, [[サル島]]、塩の島)を指していると思われる。
 
 
 
[[現代]]の[[作家]][[ギャヴィン・メンジーズ]]は『1421 中国が新大陸を発見した年』([[2002年]])の中で[[15世紀]]の中国、[[明]]時代の冒険家 [[鄭和]]が[[1420年]]にこの島に到達していると論じている(この本で著者は[[クリストファー・コロンブス]]の前に鄭和一行が[[アメリカ大陸]]を発見していたとする議論を展開している)。
 
 
 
=== 記録が残っている「発見」 ===
 
[[ファイル:Heinrich der Seefahrer.jpg|thumb|180px|left|[[エンリケ航海王子]]]]
 
[[ファイル:Sir Francis Drake (post 1580).png|thumb|160px|[[海賊]]で[[奴隷商人]]の[[フランシス・ドレーク]]。]]
 
 
 
分かっているカーボベルデ史の日付は、[[15世紀]]に到達した最初のポルトガル[[冒険者]]による。[[1444年]]、[[ディアゴ・ディアス]]はいくつかの島を発見した。1455年には[[ジェノヴァ]]商人のアントニオ・ノリと、ポルトガル人のディオゴ・アフォンソが訪れた。その後数十年に、[[エンリケ航海王子]]の仕事に就いていた、[[カダモスト]]と[[アントニオ・ノリ]]が残りの島々を発見した。[[1462年]]にポルトガル居住者は初めて[[サンティアゴ島]]に到達し、[[熱帯]]最初のヨーロッパ人の居住地となるリベイラ・グランデ(今のシダーデ・ヴェーリャ)を創設した。植民地化が始まった当初は、[[マデイラ諸島]]や[[アソーレス諸島]]のようなポルトガル人の大規模移住は行われなかったが、[[16世紀]]には、アフリカから南北[[アメリカ大陸]]へ向かう[[奴隷船]]の中継拠点となり、[[奴隷貿易]]で栄えた<ref name="ronbun1">市之瀬敦「クレオルの島カボ・ベルデ その形成とディアスポラ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社 1997/05</ref>。カーボベルデには入植したポルトガル人と連行されたアフリカ人によって[[クレオール]]文化が築かれ、両者の[[混血]]も進んだ<ref name="ronbun1" />。[[海賊]]がしばしばポルトガル人居住地を攻撃した。[[1585年]]、イギリスの[[海賊]][[フランシス・ドレーク|サー・フランシス・ドレイク]]はリベイラ・グランデを略奪した。リベイラ・グランデは[[1712年]]の[[フランス]]の攻撃の後、[[1770年]]に[[首都]]となる[[プライア]]に比べてその重要性を失った。
 
 
 
[[1912年]]の「[[カトリック百科事典]]」によると、カーボベルデ諸島は[[1460年]]に、[[ギニア]]は[[1445年]]にポルトガル人によって「発見」された。これらの領土は[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]により、[[1553年]]の[[1月31日]]に司教管区に選ばれた。
 
 
 
=== 奴隷貿易港から商業港へ ===
 
カーボベルデ諸島は[[18世紀]]終盤以降経験する頻発する[[旱魃]]・[[飢餓]]と、[[奴隷貿易]]の衰退によりその繁栄は緩やかに失われた。しかし{{仮リンク|大西洋奴隷貿易 (奴隷貿易)|en|Atlantic slave trade|label=大西洋奴隷貿易}}における[[中央航路]]の位置は、カーボベルデを理想的な補給港たらしめていたことから、[[19世紀]]には、[[サン・ヴィセンテ島]]にある[[ミンデロ]]はその素晴らしい港により、重要な商業港となっていった。その一方で同じく19世紀には断続的な旱魃や、ポルトガルからもたらされた大土地所有制度の弊害などもあって、農業で暮らして行けなくなったカーボベルデ人の外国移住が始まり、特に多くが[[アメリカ合衆国]]へ向かった<ref name="ronbun1" />。
 
 
 
=== 政党「PAIGC」 ===
 
[[ファイル:Stamps of Germany (DDR) 1978, MiNr 2293.jpg|thumb|left|220px|カーボ・ヴェルデと[[ギニアビサウ]]の独立指導者[[アミルカル・カブラル]]。<br />([[1978年]]、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]発行の切手)]]
 
 
 
1951年にポルトガルの[[アントニオ・サラザール]]政権は、カーボベルデを含む各植民地の[[ナショナリズム]]を緩和させるために、その法的地位を植民地から海外行政地域に変更した。しかし[[1956年]]、カーボベルデ人の[[アミルカル・カブラル]]と[[ラファエル・バルボーザ]]は、ひそかに[[ポルトガル領ギニア]](現[[ギニアビサウ]])で、ポルトガル領ギニアとカーボベルデの独立のための'''[[ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党]]''' (PAIGC)を結成した。PAIGCはカーボベルデとポルトガル領ギニアの経済、社会、政治状態の向上を求め、2両国の独立運動の基礎を成した。PAIGCは[[1960年]]にその本部を[[ギニア|ギニア共和国]]の首都[[コナクリ]]に移し、1963年からポルトガルに対する武装抵抗を開始した([[ギニアビサウ独立戦争]])。武装闘争は結果的に10,000人の[[ソビエト連邦]]や[[キューバ]]のサポートを受けたPAIGCの兵士と、35,000人のポルトガル人及びアフリカ人の軍隊による戦争になった。
 
 
 
[[1972年]]までには、ポルトガル軍が駐留していたにもかかわらず、PAIGCはポルトガル領ギニアの3/4を制圧していたが、カーボベルデは地理的に隔絶しており物流がさほど無いことから、PAIGCはカーボベルデのポルトガル支配を破壊しようとはしなかった。しかし、[[1974年]][[4月25日]]にポルトガルで起きた[[カーネーション革命]]を受け、PAIGCはカーボベルデでも活発な政治運動となった。
 
 
 
=== カーボベルデの国会成立と独立 ===
 
[[1974年]][[12月]]にPAIGCとポルトガルは、ポルトガル人とカーボベルデ人による[[暫定政府]]の同意書にサインした。[[1975年]][[1月30日]]にカーボベルデ人は国会を選出し、[[1975年]][[7月5日]]にポルトガルからの独立の法的承認を受けた。
 
 
 
=== PAICV ===
 
独立当初、ギニアビサウとカーボベルデは統一国家建設を目指していたが、1980年のギニアビサウでの[[ジョアン・ヴィエイラ]]首相によるクーデターにより、カーボベルデ系の初代大統領[[ルイス・カブラル]]([[アミルカル・カブラル]]の弟)が失脚すると(ポルトガル領ギニアは[[1973年]]に独立を宣言、[[1974年]]法律上の独立を認められる)、両国間の関係は緊張した。カーボベルデはギニアビサウとの統一の望みを捨て、PAIGCカーボベルデ支部は1981年に[[カーボベルデ独立アフリカ党]] (PAICV) に改組した。PAIGC/PAICVは[[一党制]]を樹立し、独立から[[1990年]]までカーボベルデを統治した。後に諸問題は解決され、現在両国間の関係は良好である。
 
 
 
=== 複数政党体制へ ===
 
[[ファイル:CaboVerde128463.jpeg|thumb|220px|カーボベルデの[[ペドロ・ピレス|ピレス]]大統領(左)と[[ブラジル]]の[[ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ|ルーラ]]元大統領。共に[[ポルトガル語諸国共同体|ポルトガル語圏]]の国家である。]]
 
 
 
政権運営後、増大する批判を受けて、PAICVは一党制を終わらせる憲法改正案を議論するための緊急議会を[[1990年]]2月招集した。反対グループは集まって、1990年4月にプライアで[[民主運動 (カーボベルデ)|民主運動]] (MpD) を形成した。PAICVとMpDなどの政党は共に、[[1990年]]12月の大統領選挙への異議を唱える権利を主張した。一党制は[[1990年]][[9月28日]]に廃止され、初の多数政党の選挙は[[1991年]]1月に行われた。MpDは国会での多数派を勝ち取り、MpDの大統領候補[[アントニオ・マスカレニャス・モンテイロ]]はPAICVの候補者を破り、1975年から大統領職にあった[[アリスティデス・ペレイラ]]からその座を継いだ。[[1992年]]には、憲法が制定され、議会制度が定められた。
 
 
 
[[1995年]]12月の議会選挙は国会でのMpDの勢力を増大させ、全72議席のうちの50議席を占めた。[[1996年]]2月の大統領選挙では、PAICVをはじめとする野党は候補者を擁立せず、モンテイロ大統領が再選を決めた。[[1995年]]12月と[[1996年]]2月の選挙は自由かつ公正であると内外の監視団によって評価された。
 
 
 
[[2000年]]と[[2001年]]の大統領選挙では、2人の元首相、PAICVの[[ペドロ・ピレス]]とMpDの[[カルロス・ヴェイガ]]が主な候補者だった。ピレスはPAICV統治時代に、ヴェイガはモンテイロの大統領時代に首相だった。両者とも半数近くの得票数の歴史的接戦だったが、ピレスが12票差で激戦を制した。[[2011年]]の大統領選挙ではMpDが政権を奪回し、[[ジョルジェ・カルロス・フォンセカ]]が大統領に就任した。
 
 
 
== 政治 ==
 
{{main|カーボベルデの政治}}
 
 
 
カーボベルデは[[国家体制]]として[[共和制]]、[[半大統領制]]を採る立憲国家である。現行[[憲法]]は、[[1992年]][[9月25日]]に採択されたもの。[[1995年]]と[[1999年]]の2回、大幅な改正が行われている。
 
 
 
[[元首|国家元首]]である[[大統領]]は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年で、3選は禁止されている。[[首相]]は国民議会により選出され、大統領が任命する。[[内閣]]に相当する'''閣僚評議会'''のメンバーは、首相の推薦に基づき大統領が任命する。
 
{{See also|カーボベルデの大統領|カーボベルデの首相}}
 
 
 
[[立法府]]は[[一院制]]の[[国民議会_(カーボベルデ)|国民議会]]である。定数は72議席。議員は[[比例代表制]]に基づき、国民の直接選挙で選出される。任期は5年。
 
 
 
カーボベルデは憲法で[[複数政党制]]を認めているが、実質的には[[二大政党制]]が機能している。一方は、[[1975年]]の独立から[[1991年]]まで一貫して[[一党独裁]]政権を担い続けた[[中道左派]]の[[カーボベルデ独立アフリカ党]](PAICV)である。もう一方は、PAICVの一党支配に反発して結成され、同国史上初の政権交代を実現させた[[リベラル]]政党の[[民主運動 (カーボベルデ)|民主運動]](MpD)である。PAICVは[[1991年]]に1度、大統領職と行政府をMpDに明け渡したが、[[2001年]]より再び選挙によって再び双方を掌握している。PAICVとMpD以外の政党の勢力は限定的だが、比較的有力なものに[[中道右派]]の[[民主独立カーボベルデ連合]](UCID)がある。
 
{{See also|カーボベルデの政党}}
 
 
 
[[司法府]]の最高機関は、'''最高司法裁判所'''である。法体系は、旧[[宗主国]]であるポルトガルの法体系が基幹となっている。
 
 
 
== 軍事 ==
 
{{Main|カーボベルデ軍}}
 
 
 
== 地方行政区分 ==
 
{{Main|カーボベルデの行政区画}}
 
[[ファイル:Cabo_Verde.png|thumb|260px|カーボベルデの地図。]]
 
 
 
=== 主要都市 ===
 
{{Main|カーボベルデの都市の一覧}}
 
主要な都市は[[プライア]](首都)や[[ミンデロ]]がある。
 
 
 
== 地理 ==
 
[[ファイル:Satellite image of Cape Verde in December 2002.jpg|thumb|220px|カーボ・ヴェルデの衛星写真(2002年)]]
 
[[ファイル:Calhau.jpg|thumb|220px|[[サン・ヴィセンテ島]]の砂浜]]
 
[[ファイル:Deserto Viana, Boa Vista.jpg|thumb|220px|[[ボア・ヴィスタ島]]のヴィアナ砂漠]]
 
[[ファイル:Santo Antao 01.jpg|thumb|220px|[[サント・アンタン島]]の西部の高原の様子]]
 
 
 
カーボベルデ諸島([[ヴェルデ岬]]諸島)は[[西アフリカ]]大陸部から約375km離れた場所に位置している。10の島(内9島が有人)と8の小島から構成されている<ref name="pc">[http://www.peacecorps.gov/welcomebooks/cvwb655.pdf ''The Peace Corps Welcomes You to Cape Verde'']. [[Peace Corps]] (April 2006). ''This article incorporates text from this source, which is in the [[public domain]]</ref>。大小15の[[火山]]群島からなり、最高峰は[[フォゴ島]]の[[フォゴ山]](2829m)。熱く乾燥した気候で、[[旱魃]]が何年も続く事があり、農作物などが被害を受けやすい。
 
地質学的には[[プレート]]の運動により大西洋が拡大中に、[[ホットスポット]]で[[マントル]]の部分融解融で発生したマグマが噴出した玄武岩類が諸島を形成した。現在の島を構成するのは2千万年前から8百万年前の火山岩である。
 
カーボベルデは[[バルラヴェント諸島]]と[[ソタヴェント諸島]]に分かれている。[[サル島]]、[[マイオ島]]、[[ボア・ヴィスタ島]]は比較的起伏が少なく、砂丘等が見られるが、その他の島々は山岳的な様相を呈し、荒涼とした絶壁や荒地が広がり、国全体が深刻な水不足に悩まされている。
 
 
 
=== バルラヴェント諸島 ===
 
* [[サント・アンタン島]]
 
* [[サン・ヴィセンテ島]]
 
* [[サンタ・ルシア島]]
 
* [[ブランコ島]]
 
* [[ラソ島]]
 
* [[サン・ニコラウ島]]
 
* [[サル島]]
 
* [[ボア・ヴィスタ島]]
 
 
 
=== ソタヴェント諸島 ===
 
* [[サンティアゴ島]]
 
* [[マイオ島]]
 
* [[フォゴ島]]
 
* [[ブラヴァ島]]
 
* [[ロンボ島]]
 
 
 
=== 気候 ===
 
{|class="wikitable"
 
|+Cape Verde Weather Chart - Annual Weather Conditions<ref>http://www.capeverdebreaks.com/weather.html Weather ,
 
http://www.capeverdebreaks.com Cape Verde Overview</ref>
 
! 月 !! 平均気温(摂氏) !! 平均気温(華氏) !! 降水量 mm
 
|-
 
|1月 || 24°C || 75°F || 5.3mm
 
|-
 
|2月 || 24°C || 75°F || 3.8mm
 
|-
 
|3月 || 25°C || 77°F || 1.3mm
 
|-
 
|4月 || 25°C || 77°F || 0.0mm
 
|-
 
|5月 || 25°C || 78°F || 0.0mm
 
|-
 
|6月 || 26°C || 79°F || 0.0mm
 
|-
 
|7月 || 27°C || 81°F || 0.8mm
 
|-
 
|8月 || 29°C || 84°F || 14.1mm
 
|-
 
|9月 || 29°C || 85°F || 33.6mm
 
|-
 
|10月 || 29°C || 83°F || 6.5mm
 
|-
 
|11月 || 27°C || 81°F || 2.5mm
 
|-
 
|12月 || 25°C || 77°F || 1.6mm
 
|}
 
 
 
== 経済 ==
 
{{Main|カーボベルデの経済}}
 
[[農業]]、[[漁業]]が主産業。[[資源]]が少ない為、経済建設を進めており、アフリカ内では比較的安定した政治と[[自由経済]]とが相まって、順調な経済成長が進んでいる。政府は、債務削減、成長産業への優遇税制導入、[[マクロ経済]]の安定、海外直接投資の呼び込み、社会サービスの向上などを主要の政策としている。かつては[[後発開発途上国]]に含まれていたが、経済成長によって[[2007年]]に指定を解除された。
 
 
 
== 国民 ==
 
[[ファイル:Igreja Nossa Senhora do Rosário.jpg|thumb|220px|[[ノッサ・セニョーラ・ド・ロザリオ教会]]。]]
 
 
 
=== 民族 ===
 
[[クレオール]]([[ムラート]])が71%、アフリカ系が28%、ヨーロッパ系が1%である<ref name="2009cia" />。
 
 
 
=== 言語 ===
 
[[公用語]]は[[ポルトガル語]]だが、最も広く使われているのはその[[クレオール言語|クレオール]]である[[カーボベルデ・クレオール語]]である。
 
 
 
=== 宗教 ===
 
{{main|カーボベルデの宗教}}
 
国民の85%が通常の[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]であり<ref name="rf">http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2007/90087.htm</ref>、その他のカトリック教徒はアフリカの宗教の影響を受け、習合している<ref name="factbook">https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cv.html</ref>。他に[[プロテスタント]]諸宗派が存在し、プロテスタントの宗派で最大のものは[[ナザレン教会]]であり、その他に[[セブンスデー・アドベンチスト教会]]、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]、[[アッセンブリーズ・オブ・ゴッド]]、[[:en:Universal Church of the Kingdom of God|Universal Church of the Kingdom of God]]、そして[[ペンテコステ派]]と[[福音派]]の教会が少数存在する<ref name="rf" />。小規模な[[バハーイー教]]のコミュニティと、小規模だが成長中の[[ムスリム]]のコミュニティが存在する<ref name="rf" />。[[無神論]]者は人口の1%以下だと見積もられている<ref name="rf" />。
 
 
 
=== 教育 ===
 
{{main|カーボベルデの教育}}
 
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は76.6%(男性:85.8% 女性:69.2%)である<ref name="2009cia">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cv.html CIA World Factbook]2009年11月29日閲覧。</ref>。2006年にはGDPの6.3%が教育費に支出された<ref name="2009cia" />。
 
 
 
=== カーボベルデ人離散 ===
 
{{main|カーボベルデ人のディアスポラ}}
 
現在、本国の人口を上回る数のカーボベルデ人が外国で生活しており、重要なカーボベルデ人移民のコミュニティである[[アメリカ合衆国|アメリカ]](500,000人の[[カーボベルデ系アメリカ人]]が生活し、多くは[[ロードアイランド州]]から[[ニューベッドフォード (マサチューセッツ州)|ニューベッドフォード]]までの[[ニューイングランド]]沿岸に集中している)の[[ブロックトン (マサチューセッツ州)|ブロックトン]]に最も集中している。相当数のカーボベルデ系人人口がまた[[サン=トメ・プリンシペ]]、[[ポルトガル]]([[カーボベルデ系ポルトガル人]]、80,000人)、[[アンゴラ]]([[カーボベルデ系アンゴラ人]]、45,000人)、[[セネガル]](25,000人)、そして[[イタリア]](10,000人)や[[フランス]]、[[オランダ]]に存在する。
 
 
 
アメリカでは移民第1波は当国での[[人種主義]]政策からアフリカ系と見なされることを拒み、「ポルトガル人」であると称したため「黒いポルトガル人」と呼ばれた<ref name="ronbun1" />。しかし、このような姿勢からカーボベルデ人と同様に扱われることを拒んだ[[ポルトガル系アメリカ人]]や、カーボベルデ人が交流を拒否した[[アフリカ系アメリカ人]]との対立が進んだ<ref name="ronbun1" />。第一世代の子供と孫は1960年代の[[公民権運動]]に参加した。これは彼等と他の黒人グループとの関係構築を成した。カーボベルデ人は[[マカオ]]から[[ハイチ]]、[[アルゼンチン]]、[[北ヨーロッパ]]にまで世界各地に移動している <ref>http://www.everyculture.com/multi/Bu-Dr/Cape-Verdean-Americans.html</ref>。
 
 
 
== 文化 ==
 
{{main|カーボベルデの文化}}
 
[[ファイル:Morna group.jpg|thumb|220px|[[モルナ (音楽)|モルナ]]を演奏しているグループ]]
 
[[ファイル:Colá, Música de Cabo Verde (0095).jpg|thumb|220px|[[:pt:Colá|コラー]]を演奏する人々]]
 
[[ファイル:2006.03.19.us.ca.SanDiego.cesariaevora01.1.jpg|thumb|220px|カーボベルデを代表する歌手[[セザリア・エヴォラ]]。エヴォラは欧米で人気を博している]]
 
カーボベルデの社会的、文化的パターンはポルトガルとアフリカの地方部のそれと似通っている<ref name="pc" />。サッカーの試合と教会の活動は典型的な社会的交流と娯楽の源泉である<ref name="pc" />。伝統的に友人と会うために広場を歩くことは、カーボベルデでの町では日常的に行われる<ref name="pc" />。電気が普及した街では、2つのチャンネルが利用できる(カーボベルデのものとポルトガルのものである)<ref name="pc" />。
 
 
 
=== 食文化 ===
 
カーボベルデの料理は大概[[魚]]と[[トウモロコシ]]と[[コメ|米]]のような主食を基礎としている。野菜は1年の大半を通して[[ジャガイモ]]、[[タマネギ]]、[[トマト]]、[[マニオク]]、[[キャベツ]]、[[ケール]]、乾燥豆が利用される。[[バナナ]]や[[パパイヤ]]のような熱帯性の果物は1年中入手でき、[[マンゴー]]や[[アボカド]]といったものは季節が限定される<ref name="pc" />。カーボベルデで人気のある料理は[[カシューパ]]である。
 
 
 
=== 文学 ===
 
カーボベルデの文学はポルトガル語圏アフリカで非常に豊かだとされるものの1つである。著名な詩人として[[セルジオ・フルゾーニ]]、[[エウジェニオ・タヴァレス]]、[[B・レザ]]、[[ペドロ・カルドーゾ]]が挙げられ、[[マヌエル・ロペス]]、[[エンリケ・テシェイラ・デ・ソウザ]]、[[アルメイダ・ジェルマーノ]]、2009年に[[カモンイス賞]]を受賞した[[アルメニオ・ヴィエイラ]]のような作家も挙げられる。
 
 
 
=== 音楽 ===
 
{{main|カーボベルデの音楽}}
 
[[カーボベルデの音楽]]は[[ポルトガル]]、[[西インド諸島]]、[[アフリカ]]、[[ブラジル]]の音楽から影響を受け、混合している<ref name="manuel">Manuel, [http://books.google.com/books?id=Ou7UQpV1KtwC&pg=PA95&sig=ACfU3U2uqqgsQptuj2MkXqURiv2C2vuZdQ#PPA95,M1 p. 95-97].</ref>。アフリカ系の住民の多いソタヴェント諸島ではアフリカ系の音楽の影響が強く、ポルトガル系の多かったバルラヴェント諸島ではポルトガルの音楽の影響が強く、[[ヴァイオリン]]、[[カヴァキーニョ]]、[[ポルトガル・ギター]]が用いられる<ref name="ronbun1" />。カーボベルデの真髄たる国民音楽は''[[モルナ (音楽)|モルナ]]''(バルラヴェント系)であり、概して[[カーボベルデ・クレオール語]]で歌われる、哀愁あり、かつ熱情的な歌の様式である。その他のポピュラー音楽のジャンルとしては[[フナナー]](ソタヴェント系)や[[バトゥーケ (音楽)|バトゥーケ]]、[[コラー]]などが挙げられる。カーボベルデ出身の歌手の中でも最もよく知られた存在とは[[セザリア・エヴォラ]]であり、2003年に米国グラミー賞も獲得した彼女の歌は国家とその文化の特質となった。
 
 
 
=== 舞踊 ===
 
ダンスの様式としては、ソフトダンスの[[モルナ]]と、モルナの近代化した[[パッサーダ]]([[ズーク]])、ポルトガルとアフリカのダンスが混合した官能的な[[フナナー]]、最高度に官能的な[[コラデイラ]]、そして[[バトゥーケ (音楽)|バトゥーケ]]のダンスが挙げられる。
 
 
 
=== 世界遺産 ===
 
カーボベルデでは、[[シダーデ・ヴェーリャ]]の建造物群が2009年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された。第33回[[世界遺産委員会]]終了時点では、カーボベルデで唯一の世界遺産である。詳細は、[[カーボベルデの世界遺産]]を参照。
 
 
 
=== 祝祭日 ===
 
{| class="wikitable"
 
|+'''祝祭日'''
 
!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考
 
|-
 
|[[1月1日]] ||[[元日]] || Ano Novo || &nbsp;
 
|-
 
|[[1月13日]] || 民主主義の日 || Dia da Democracia || &nbsp;
 
|-
 
|[[1月20日]] || 英雄の日 || Dia dos Heróis Nacionais || [[アミルカル・カブラル]]の命日
 
|-
 
|[[2月]]か[[3月]] || [[謝肉祭]] || Carnaval || [[復活祭]]の46日前、移動祝日
 
|-
 
|3月か[[4月]] || [[復活祭]] || Páscoa || [[春分]]の日の後の最初の[[満月]]の次の日曜日、移動祝日
 
|-
 
|[[7月5日]] || [[独立記念日]] || Dia da Independência || &nbsp;
 
|-
 
|[[11月1日]] || [[万聖節]] || Dia de Todos os Santos || &nbsp;
 
|-
 
|[[12月25日]] || [[クリスマス]] || Natal || &nbsp;
 
|}
 
 
 
== 著名な出身者 ==
 
{{Main|カーボベルデ人の一覧}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[市之瀬敦]]「クレオルの島カボ・ベルデ──その形成とディアスポラ」『社会思想史の窓第118号──クレオル文化』[[石塚正英]]編、[[社会評論社]]、[[東京]]、1997年5月。
 
* {{Cite book|和書|author=[[小川了]]編著|date=2010年3月|title=セネガルとカーボベルデを知るための60章|series=エリア・スタディーズ78|publisher=[[明石書店]]|location=[[東京]]|isbn=4-7503-1638-5|ref=小川編著(2010)}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[カーボベルデ時間]]
 
<!--
 
* [[カーボベルデの通信]]
 
* [[カーボベルデの交通]]
 
* [[カーボベルデの軍事]]
 
* [[カーボベルデの国際関係]]
 
-->
 
* [[カーボベルデ・クレオール語]]
 
* [[クレオール]]
 
* [[ポルトガル語諸国共同体]]
 
* [[ギニアビサウ]]
 
*[[トルデシリャス条約]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
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+
* [http://www.governo.cv/ カーボベルデ共和国政府] {{pt icon}}
* 政府
 
** [http://www.governo.cv/ カーボベルデ共和国政府] {{pt icon}}
 
* 日本政府
 
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/capeverde/ 日本外務省 - カーボベルデ] {{ja icon}}
 
  
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2019/7/3/ (水) 09:20時点における最新版

首都プライアの町並み.カーボベルデ.jpg

カーボベルデ共和国(カーボベルデきょうわこく)、通称カーボベルデ

面積 4033km2
人口 51万9000(2014推計)。
首都 サンチアゴ島プライア

アフリカ大陸北西岸沖にある島国。セネガル西部のベール岬沖合い 600~900kmの大西洋上に散在する 10の島(うち 1島は無人島)といくつかの小島からなる。二つの島群に分けられ,北部のバルラベント諸島(風上諸島)にはサントアンタン島,サンビセンテ島,サンタルジア島(無人島),サンニコラウ島,サル島,ボアビスタ島が,南部のソタベント諸島(風下諸島)には,ブラバ島,フォゴ島,サンチアゴ島,マイオ島が含まれる。各島とも火山起源で山がち。最高点はフォゴ島のピコ活火山(2829m)で,1951年にも噴火した。月平均気温は最高の 9月で 26℃。年較差は少ない。植生は湿気の多い北東貿易風や海からの風に面するところに豊かで,海岸低地は乾燥が著しく,砂漠状のところが多い。住民の約 70%がヨーロッパ人とアフリカ人の混血で,カトリック教徒が多い。公用語はポルトガル語,クレオル語は国語。かつてはすべて無人島であったが 15世紀半ばにポルトガル人が来航,カーボベルデ(緑の岬)と命名して植民地とし,1462年サンチアゴ島にヨーロッパ人都市リベイラグランデを建設。その後ヨーロッパ,アフリカ,アメリカ各大陸間の航海の中継補給地,奴隷貿易の基地として繁栄したが,1541年海賊の,1585年と 1592年にイギリスのフランシス・ドレークの襲撃を受け,さらに 1712年のフランス人の攻撃によって都市は壊滅。奴隷貿易の衰退とともに各島も衰退した。1974年のギニアビサオ独立をかちとった指導者の多くの出身地で,解放組織であったギニア・カーボベルデ独立アフリカ党はギニアビサオとの同時独立をポルトガルに要求したが,かなわなかった。しかし独立戦争には発展せず,1975年独立。1990年カーボベルデ独立アフリカ党はマルクス主義を放棄,複数政党制に移行した。経済は農業,漁業と大陸間航路の中継補給地としての港湾サービスを柱とし,コーヒー,バナナ,トウゴマの実,魚,畜産加工品,塩,ポゾラン(セメントの原料の火山岩)などを輸出。ほかに自給用としてトウモロコシ,ジャガイモなどを産する。

外部リンク