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{{観点|date=2015年5月}}
 
{{Battlebox
 
|battle_name = 文禄の役
 
|campaign = 文禄の役
 
|image = [[画像:WakouLandingColor.jpg|280px]]
 
|caption = 文禄の役『釜山鎮殉節図』<ref group="注">1709年の初筆を1760年に模写したもの。</ref>。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。
 
|conflict = 文禄の役
 
|date = 文禄元年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]([[1592年]][[5月24日]]) - [[1593年]]7月
 
|place = [[朝鮮半島]]全域、[[満州]]・[[豆満江]]一帯
 
|result = [[小西行長]]と[[沈惟敬]]らの協議によって日本と明の間では'''休戦成立'''<ref group="注">ただし晋州城攻略は実施した。</ref><ref name="hayashiya">{{Citation|和書
 
|last = 林屋
 
|first = 辰三郎
 
|author-link = 林屋辰三郎
 
|year = 2005
 
|title = 天下一統
 
|series = 日本の歴史12
 
|publisher = 中央公論新社
 
|isbn = 4122045223
 
}}</ref>。日本軍は南に後退したものの、朝鮮半島に築いた[[倭城|城塞]]に駐留した。
 
|combatant1 = {{JPN1590}}
 
|combatant2 = [[明]]<br>[[image:Flag of the king of Joseon.svg|22px]] [[李氏朝鮮]]
 
|commander1 = '''総大将''' [[宇喜多秀家]]
 
<!--さらに詳しい情報は陣立てに書いてあるので省略-->
 
;一番隊
 
[[宗義智]]、小西行長、[[松浦鎮信]]、[[有馬晴信]]、[[大村喜前]]、[[五島純玄]]
 
;二番隊
 
[[加藤清正]]、[[鍋島直茂]]、[[相良頼房|相良長毎]]
 
;三番隊
 
[[黒田長政]]、[[大友義統|大友吉統]]
 
;四番隊
 
[[毛利勝信|毛利勝信(森吉成)]]、[[島津義弘]]、[[高橋元種]]、[[秋月種長]]、[[伊東祐兵]]、[[島津豊久|島津忠豊]]
 
;五番隊
 
[[福島正則]]、[[戸田勝隆]]、[[長宗我部元親]]、[[蜂須賀家政]]、[[生駒親正]]、[[得居通幸|来島通之(得居通幸)]]、[[来島通総]]
 
;六番隊
 
[[小早川隆景]]、[[毛利秀包]]、[[立花宗茂|立花鎮虎(宗茂)]]、[[立花直次|高橋統増]]、[[筑紫広門]]、[[毛利輝元]]<ref name="teru" group="注" />
 
;七番隊<ref name="uki" group="注" />
 
宇喜多秀家ほか
 
;八番隊<ref name="matutai" group="注" />
 
[[浅野幸長]]、[[中川秀政]]、[[宮部長煕]]ほか
 
;九番隊
 
[[豊臣秀勝]]、[[細川忠興]]、[[長谷川秀一]]、[[木村重茲]]ほか
 
;水軍
 
[[九鬼嘉隆]]、[[藤堂高虎]]、[[脇坂安治]]、[[加藤嘉明]]、[[亀井茲矩]]、[[菅達長]]、[[桑山一晴]]、[[桑山貞晴 (小傳次)|桑山貞晴]]、[[堀内氏善]]、[[杉若氏宗]]
 
|commander2 = '''明軍'''
 
兵部尚書[[石星]]<br>兵部左侍郎[[邢玠]]<br>兵部右侍郎[[宋応昌]]→[[顧養謙]]<br>防海禦倭総兵官('''提督''')[[李如松]]<br>副総兵(遼東軍)[[祖承訓]]
 
参将[[劉テイ (明)|劉綎]]
 
;朝鮮軍([[#朝鮮の軍組織|組織]])
 
<small>都体察使</small><br>[[柳成龍]]、[[李元翼]]<br><small>都元帥</small><br>[[金命元]]<br><small>都巡察使</small><br>[[申リツ|申砬]]、[[韓応寅]]<br><small>巡察使</small><br>[[李鎰]]、[[金睟]]、[[権慄]]<br><small>防禦使</small><br>[[成応吉]]、[[趙儆]]<br><small>助防将</small><br>[[洪允寛]]、[[劉克良]]、[[邊璣]]、[[朴宗男]]<br><small>兵馬節度使</small><br>[[李カク (朝鮮)|李珏]]、[[高彦伯]]、[[金誠一]]、[[曹大坤]]<br><small>水軍節度使</small><br>[[朴泓]]、[[元均]]、[[李舜臣]]、[[李億祺]]<br><small>僉節制使</small><br>[[鄭撥]]、[[尹興信]]<br><small>府尹</small><br>[[尹仁涵]]、[[邊応星]]<br><small>大都護府使</small><br>[[鄭煕績]]<br><small>牧使</small><br>[[金時敏]]、[[金汝岉]]<br><small>都護府使</small><br>[[徐礼元]]、[[宋象賢]]、[[朴晋]]<br><small>郡守</small><br>[[趙英珏]]、[[李彦誠]]<br><small>義兵</small><br>[[郭再祐]]、[[高敬命]]、[[趙憲]]
 
|strength1 ='''日本軍'''<br>158,700人<ref name="hayashiya"/><small>(毛利家文書による通説。総勢は[[#日本軍陣立|日本軍陣立]]を参照)</small>
 
|strength2 = '''明軍''' 53,000人<br>'''朝鮮軍''' 172,000人<br>義兵軍 22,400人<br>計247,400人<small>(「[[#軍事力と軍事情勢|軍事力と軍事情勢]]」を参照。)</small>
 
|casualties1 = 少なくとも約21,900人以上<ref>{{Harvnb|参謀本部|ref=staff1|loc=pp.251-252}}</ref><small>(病死、落伍、負傷帰国、休戦時に病傷者で後に回復する者を含む)</small>
 
一説に約50000人<ref group="注">「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II」より、[[ルイス・フロイス]]らが「百方手を尽くして」情報収集した結果、「もっとも信頼でき、かつ正確」だと判断した数字。死因については「敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである」と記している。</ref>(大半が病死・餓死。)
 
*中川秀政が戦闘中以外で討死
 
|casualties2 = 不明
 
*鄭撥(朝鮮)、尹興信(朝鮮)、宋象賢(朝鮮)などが戦死
 
|}}
 
{{Battlebox
 
|battle_name = 慶長の役
 
|campaign = 慶長の役
 
|image = [[画像:Ulsan waesung attack.jpg|280px]]
 
|caption =蔚山籠城図屏風([[福岡市博物館]]所蔵)
 
|conflict = 慶長の役
 
|date = [[1597年]]1月 - [[1598年]]12月
 
|place = 朝鮮半島[[三南地方]]
 
|result = 豊臣'''秀吉死去'''で日本軍が帰国して終結{{Sfn|菊池正憲|2012|p=234}}。[[講和]]せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張した。<small>(「[[柳川一件]]」も参照)</small>
 
|combatant1 = {{JPN1590}}
 
|combatant2 = [[明]]<br>[[image:Flag of the king of Joseon.svg|22px]] [[李氏朝鮮]]
 
|commander1 = 総大将[[小早川秀秋]]
 
|commander2 = '''明軍'''
 
兵部尚書[[邢玠]]('''総督''')<br>[[都察院]]右僉都御史[[楊鎬]]→[[万世徳]]<br>'''提督'''[[麻貴]]<br>禦倭総兵官[[劉テイ (明)|劉綎]]<br>禦倭総兵官[[董一元]]<br>水帥[[陳リン|陳璘]]<br>副総兵[[陳サン|陳蠶]]<br>副総兵[[トウ子龍|鄧子龍]]<br>左協軍大将[[李如梅]]<br>'''朝鮮軍'''<br>都元帥[[権慄]]<br>三道水軍統制使[[李舜臣]]→[[元均]]→[[李舜臣]]<br>全羅右水使[[李億祺]]<br>義兵大将[[郭再祐]]
 
|strength1 = 141500人<ref>非戦闘員含む。{{Harvnb|中野|2008|loc=p.192}}</ref>
 
|strength2 = (諸説あり)
 
明軍92100<ref>明史・朝鮮列伝 http://sillok.history.go.kr/id/kna_13110012_007</ref>
 
|casualties1 = 不明
 
諸説あり
 
|casualties2 = 不明 
 
諸説あり<ref group="注" name="mss" /><ref group="注">ルイス・フロイスは朝鮮人の被害について、日本のものと比べ次のように記している。『朝鮮人の死者については知り得なかったが、死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大であった。なぜならば、都その他の地方に連れて行かれた者を除き、この下(しも)にいる捕虜の数は、数えきれぬほど多いからである。』完訳フロイス日本史5 第44章より。</ref>(文禄・慶長両役の総計)
 
|}}
 
 
'''文禄・慶長の役'''(ぶんろく・けいちょうのえき)
 
'''文禄・慶長の役'''(ぶんろく・けいちょうのえき)
  
文禄1 (1592) 年と慶長2 (1597) 年の2度にわたる[[豊臣秀吉]]の朝鮮,明の連合軍との戦い。高麗の陣ともいう。朝鮮では干支により壬辰倭乱・丁酉再乱,明では万暦朝鮮役と呼んだ。出兵の準備は天正 14 (1586) 年九州征伐の頃からすでにでき,文禄1年3月肥前名護屋に本営をおいた。総勢 15万 8000の兵を9軍に編成し,同年4月第1陣が釜山に達し戦端を開いた。朝鮮,明の両軍と対戦し,平壌の戦い,[[碧蹄館の戦い]],晋州城攻めなどを経て広範な地域を占拠し,さらに明への侵入を企図したが,同2年4月竜山停戦協定の成立に伴い撤退。秀吉は同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること,勘合船を復活すること,朝鮮を割譲することなどの7ヵ条を講和条件として決定させたが遵守されなかった。秀吉は,協定の不履行,条件の不備,さらに交渉の内情を不満として,慶長2年 14万の軍兵をもって再征したが,[[蔚山の戦い]],[[泗川の戦い]]では明軍に包囲され,戦局は必ずしも好転しなかった。同3年8月秀吉の死によって停戦協定が結ばれ,戦いは終結した。
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文禄1 (1592) 年と慶長2 (1597) 年の2度にわたる[[豊臣秀吉]]の朝鮮,明の連合軍との戦い。高麗の陣ともいう。朝鮮では干支により壬辰倭乱・丁酉再乱,明では万暦朝鮮役と呼んだ。出兵の準備は天正 14 (1586) 年九州征伐の頃からすでにでき,文禄1年3月肥前名護屋に本営をおいた。総勢 15万 8000の兵を9軍に編成し,同年4月第1陣が釜山に達し戦端を開いた。朝鮮,明の両軍と対戦し,平壌の戦い,[[碧蹄館の戦い]],晋州城攻めなどを経て広範な地域を占拠し,さらに明への侵入を企図したが,同2年4月竜山停戦協定の成立に伴い撤退。
  
== 脚注 ==
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秀吉は同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること,勘合船を復活すること,朝鮮を割譲することなどの7ヵ条を講和条件として決定させたが遵守されなかった。秀吉は,協定の不履行,条件の不備,さらに交渉の内情を不満として,慶長2年 14万の軍兵をもって再征したが,[[蔚山の戦い]],[[泗川の戦い]]では明軍に包囲され,戦局は必ずしも好転しなかった。同3年8月秀吉の死によって停戦協定が結ばれ,戦いは終結した。
=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
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文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)

文禄1 (1592) 年と慶長2 (1597) 年の2度にわたる豊臣秀吉の朝鮮,明の連合軍との戦い。高麗の陣ともいう。朝鮮では干支により壬辰倭乱・丁酉再乱,明では万暦朝鮮役と呼んだ。出兵の準備は天正 14 (1586) 年九州征伐の頃からすでにでき,文禄1年3月肥前名護屋に本営をおいた。総勢 15万 8000の兵を9軍に編成し,同年4月第1陣が釜山に達し戦端を開いた。朝鮮,明の両軍と対戦し,平壌の戦い,碧蹄館の戦い,晋州城攻めなどを経て広範な地域を占拠し,さらに明への侵入を企図したが,同2年4月竜山停戦協定の成立に伴い撤退。

秀吉は同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること,勘合船を復活すること,朝鮮を割譲することなどの7ヵ条を講和条件として決定させたが遵守されなかった。秀吉は,協定の不履行,条件の不備,さらに交渉の内情を不満として,慶長2年 14万の軍兵をもって再征したが,蔚山の戦い泗川の戦いでは明軍に包囲され,戦局は必ずしも好転しなかった。同3年8月秀吉の死によって停戦協定が結ばれ,戦いは終結した。




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