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鳥井 信治郎(とりい しんじろう、1879年1月30日 - 1962年2月20日)は、日本の実業家、サントリー(現サントリーホールディングス株式会社)の創業者である。
Contents
経歴
- 1879年(明治12年) 大阪市北区堂島の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。
- 1887年(明治20年) 大阪市東区鳥町の北大江小学校尋常科入学。
- 1888年(明治21年) 同小学校で4年飛び越えて高等科に編入。
- 1890年(明治23年) 西区江戸堀南通の市立大阪商業学校の付属科(後の大阪市立天王寺商業高等学校、現在は大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校)入学。
- 1892年(明治25年) 13歳で大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店(現在の接着剤製造のコニシ)へ丁稚奉公に出た。
- この時に小西儀助商店で扱っていた洋酒についての知識を得たという。
- 1895年(明治28年) 博労町の絵具・染料を扱う小西勘之助商店へ移る。
- 1899年(明治32年) 20歳で大阪市西区で鳥井商店を起こした。
- 1906年(明治39年) 「寿屋洋酒店」に改名。スペイン人兄弟が大阪で経営していたセレース商会を買収し、スペイン産の葡萄酒を販売するが売れなかったため、日本人の口にあう「赤玉ポートワイン」を製造し販売した。
- 1921年(大正10年) 株式会社寿屋を設立。大正後期には「赤玉ポートワイン」が国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長した。
- 1923年(大正12年) 本格的なウイスキー生産を志し、ウイスキーの本場スコットランドキャンベルタウンでウイスキー留学の経験のある竹鶴政孝を招き大阪府島本村山崎にウイスキー蒸留所(山崎蒸溜所)を建設。国産ウイスキーの製造を開始。
- 1929年(昭和4年) 初の国産ウイスキーの「サントリーウイスキー白札」(現在の「サントリーホワイト」)と「サントリーウイスキー赤札」(現在のサントリーレッド)を発売。売れ行きは芳しくなく、経営不振の為にスモカ歯磨の製造販売権や買収したビール事業を手放すこととなった。
- 1937年(昭和12年) 「サントリーウイスキー12年」(現在の「サントリー角瓶」)を発売。この製品の成功により、サントリーのウイスキー事業が軌道に乗ることになる。
- 1940年(昭和15年)サントリーオールド誕生。戦時下により発売ならず、10年後に世に出る。
- 1940年(昭和15年)9月 長男の鳥井吉太郎が死去。
- 1960年(昭和35年)サントリーローヤル発売。
- 1961年(昭和36年) 寿屋の会長に就任。経営の第一線から退く。
- 1962年(昭和37年)2月20日 急性肺炎で死去。享年83。
「やってみなはれ」
失敗を恐れず挑戦することを重んじる信治郎の「やってみなはれ」を、サントリーは21世紀においても創業精神として掲げている[1]。新浪剛史サントリーホールディングス社長によると、社内の研修組織「サントリー大学」において、買収した米ビーム社員らを含めて「Yatte Minahare」とそのまま教えているという[2]。
系譜
- 長男の鳥井吉太郎は31歳で死去[3]。妻は阪急阪神東宝グループ創始者の小林一三の娘、春子。
- 吉太郎の子が3代目サントリー社長の鳥井信一郎。
- 次男は2代目サントリー社長の佐治敬三。
- 敬三の子が4代目サントリー社長の佐治信忠。
- 三男はサントリー名誉会長の鳥井道夫。
- 道夫の子がサントリーホールディングス副会長、3代目マスターブレンダーの鳥井信吾
鳥井信治郎が登場する作品
- 『マッサン』 - 2014年度NHK連続テレビ小説で、竹鶴政孝夫妻をモデルとしたフィクション。主人公である亀山夫妻に大きな影響を与える「鴨居欣次郎(演:堤真一)」として登場する。[4]
- 山口瞳・開高健『やってみなはれみとくんなはれ』2003年
- 伊集院静『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』日本経済新聞朝刊連載小説、2017年
脚注
- ↑ やってみはなれ精神とは?サントリーの研究開発(2018年4月1日閲覧)
- ↑ 【聞きたい】サントリーホールディングス社長・新浪剛史氏「海外企業買収 成功のカギは/世界の全従業員 理念を共有」『朝日新聞』朝刊2018年1月10日(金融・経済面)
- ↑ ジャパニーズウイスキー物語 水薫る
- ↑ “NHK連続テレビ小説:外国人ヒロイン、視聴者の反応は 「マッサン」29日から”. 毎日新聞. . 2014閲覧.
参考文献
- 武田経済研究所編、国立国会図書館デジタルコレクション 「洋界の異彩・鳥井信治郎」 『非常時財界の首脳』 武田経済研究所、1938年 。
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