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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=61.7.3.99&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-25T21:35:43Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 西ゴート王国 2018-08-02T12:13:19Z <p>61.7.3.99: /* 政治・文化 */</p> <hr /> <div>{{基礎情報 過去の国<br /> |略名 =西ゴート<br /> |日本語国名 =西ゴート王国<br /> |公式国名 =&#039;&#039;&#039;{{Lang|la|Regnum Visigothorum}}&#039;&#039;&#039;<br /> |建国時期 =[[415年]]<br /> |亡国時期 =[[711年]]&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;正確には[[アギラ2世]](711年 - [[714年]])及び[[アルド (西ゴート王)|アルド]](714年 - [[718年]])を含める[[718年]]を滅亡年とする。&lt;/ref&gt;<br /> |先代1 =西ローマ帝国<br /> |先旗1 =Labarum.svg<br /> |先旗1縁 =no<br /> |次代1 =ウマイヤ朝<br /> |次旗1 =Umayyad_Flag.png<br /> |次代2 =アストゥリアス王国<br /> |次旗2 =<br /> |国旗画像 =<br /> |国旗リンク = &lt;!--「&quot;略名&quot;の国旗」以外を指定--&gt;<br /> |国旗説明 = <br /> |国旗幅 = &lt;!--初期値125px--&gt;<br /> |国旗縁 = &lt;!--no と入力すると画像に縁が付かない--&gt;<br /> |国章画像 = &lt;!--画像ファイル名を入力--&gt;<br /> |国章リンク =<br /> |国章説明 =<br /> |国章幅 = &lt;!--初期値85px--&gt;<br /> |標語 =<br /> |国歌名 =<br /> |国歌追記 =<br /> |位置画像 =Visigoth Kingdom.jpg<br /> |位置画像説明 =500年頃の西ゴート王国の領域<br /> |公用語 =[[ゴート語]]、[[ラテン語]]<br /> |首都 =[[トゥールーズ|トロサ]]、[[メリダ (スペイン)|メリダ]]、[[トレド]]<br /> |元首等肩書 =君主<br /> |元首等年代始1 =[[395年]]<br /> |元首等年代終1 =[[410年]]<br /> |元首等氏名1 =[[アラリック1世]](西ゴート族の王)<br /> |元首等年代始2 =[[415年]]<br /> |元首等年代終2 =[[419年]]<br /> |元首等氏名2 =[[ワリア]](西ゴート王国初代)<br /> |元首等年代始3 =[[466年]]<br /> |元首等年代終3 =[[484年]]<br /> |元首等氏名3 =[[エウリック]] (西ローマ帝国滅亡時)<br /> |元首等年代始4 =[[710年]]<br /> |元首等年代終4 =[[711年]]<br /> |元首等氏名4 =[[ロデリック (西ゴート王)|ロデリック]](事実上最後)<br /> |元首等年代始5 =[[714年]]<br /> |元首等年代終5 =[[718年]]<br /> |元首等氏名5 =[[アルド (西ゴート王)|アルド]](最後)<br /> |面積測定時期1 =<br /> |面積値1 =<br /> |面積測定時期2 =<br /> |面積値2 =<br /> |面積測定時期3 =<br /> |面積値3 =<br /> |面積測定時期4 =<br /> |面積値4 =<br /> |面積測定時期5 =<br /> |面積値5 =<br /> |人口測定時期1 =<br /> |人口値1 =<br /> |人口測定時期2 =<br /> |人口値2 =<br /> |人口測定時期3 =<br /> |人口値3 =<br /> |人口測定時期4 =<br /> |人口値4 =<br /> |人口測定時期5 =<br /> |人口値5 =<br /> |変遷1 =アラリック1世を西ゴート族の王とし西へ略奪に向かう<br /> |変遷年月日1 =[[395年]]<br /> |変遷2 =西ゴート王国成立<br /> |変遷年月日2 =[[415年]]<br /> |変遷3 =西ローマ帝国滅亡<br /> |変遷年月日3 =[[476年]]<br /> |変遷4 =事実上滅亡<br /> |変遷年月日4 =[[711年]]<br /> |変遷5 =完全滅亡<br /> |変遷年月日5 =[[718年]]<br /> |通貨 =<br /> |注記 =<br /> }}<br /> {{スペインの歴史}}<br /> &#039;&#039;&#039;西ゴート王国&#039;&#039;&#039;(にしゴートおうこく、{{Lang-la|&#039;&#039;&#039;Regnum Visigothorum&#039;&#039;&#039;}}、[[415年]] - [[711年]])は、現在の[[フランス]]南部から[[イベリア半島]]にあたる地域を支配した[[ゲルマン]]系王国。はじめはキリスト教[[アリウス派]]、のちに[[カトリック教会|カトリック]]を国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。&#039;&#039;&#039;ビシゴート王国&#039;&#039;&#039;とも{{Sfn|五十嵐ミドリ|1992|pp=245-247}}。<br /> <br /> == ガリア統治時代 ==<br /> [[ダキア]]を経てローマ領内に移動した[[西ゴート族]]は、5世紀初頭の指導者[[アラリック1世]]のもと[[イタリア半島]]に侵入した。ローマ帝国の首都ローマを寇略しローマ人に衝撃を与えた。しかし皇帝の在所であった[[ラヴェンナ]]には手が出せず、西ゴート族は食料を求め[[シチリア]]を経由して[[アフリカ]]渡航を企図したが失敗に終わった{{Sfn|足立広明|1999|p=214}}。イタリアでの将来の見通しが立たなくなると、アラリック1世の死後、後継者となった[[アタウルフ]]幕下で西ゴート族は[[ガリア]]へと移動した。西ローマ帝国は海上封鎖によって西ゴート族を飢えさせる作戦を取り、食料に困窮した西ゴート族はヒスパニアへと追われた{{Sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1995|p=124}}{{Sfn|足立広明|1999|p=214}}。<br /> <br /> === 建国 ===<br /> {{出典の明記|section=1|date=2016年5月14日 (土) 11:50 (UTC)}}<br /> [[415年]]に[[ワリア|ワリア王]]は西ローマ帝国と手を結び、イベリア半島を征服していた[[ヴァンダル族]]、[[スエビ族]]らを討ち、418年に[[ホノリウス]]帝から正式に[[ガリア・アクィターニア|属州アクイタニア]]([[アキテーヌ]])の一部([[ガロンヌ川]]沿いの土地)を与えられた{{Sfn|ブライアン・ウォード=パーキンズ|2014|p=36}}{{Sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|pp=37-38}}。彼は南ガリアで勢力を拡張し、トロサ([[トゥールーズ]])を首都と定め西ゴート王国が建国された。<br /> <br /> [[西ローマ帝国]]とは基本的に友好な姿勢を保っていたが、敵対した時期もある。西ローマ帝国滅亡後にイタリア半島を占領し[[東ゴート王国]]を建国する[[東ゴート族]]とは連絡を保っていたが共同して行動することはなかった。451年にはパリ西方のカタラウヌムで[[フン族]]を撃退した([[カタラウヌムの戦い]])。[[456年]]には西ローマ帝国の実権を掌握し、西ローマ帝国の名で[[ヒスパニア]]での勢力を拡大した。<br /> <br /> [[476年]]に西ローマ帝国で西方正帝が廃止されると、エウリック王は混乱に乗じてフランスの中部からイベリア半島の南部まで勢力圏を広げた。このころからヴァンダル族は西ゴート王国に朝貢し、アフリカに退去したためイベリア半島への入植が進んだ。フランス北部では興ったばかりの[[フランク王国]]と争った。<br /> <br /> === 宮廷官職 ===<br /> 西ゴート族の間では、[[5世紀]]までは制度的な宮廷会議が開かれることはなく、事実上数人の重臣 ({{Lang|la|princeps}}) が王の決定に助言を与える会合に参加していた。その後、国の統治に関する王の意志決定に参与する宮廷官職が形成され、有力貴族をもって充てられた。代表的な官職としては、王室及び国の財政を担当する{{Lang|la|comes patrimonii}}や王の警護を担当する{{Lang|la|comes spatariorum}}、王の書記職である{{Lang|la|comes notariorum}}などがある。このような官職に就く貴族は宮中伯 ({{Lang|la|comes, conde}}) という称号を帯びていた。やがて王の側近だけでなくカトリック教会の司教や、宮廷会議参加資格を有さない貴族や地方官をも含めた大規模な合議体である王会 ({{Lang|la|Aula regia}}) が形成され、中心的な国王の顧問会議となった。これはトレド教会会議が国政に関与するようになるまでは大きな影響力を持っていたが、会議の主導権はあくまで国王の側にあり、王が召集し、その議決は王を拘束するものではなかった。{{Sfn|山田信彦|1992|pp=34-35}}。<br /> <br /> == イベリア半島時代 ==<br /> {{出典の明記|section=1|date=2016年5月14日 (土) 11:50 (UTC)}}<br /> [[ファイル:Hispania 700 AD.PNG|thumb|220px|700年頃の西ゴート王国の領域]]<br /> [[507年]]に[[クロヴィス1世|クローヴィス]]率いる[[フランク族]]に敗れ、西ゴート王国は宮廷を南フランスから[[イベリア半島]]に移した。西ゴート王国は、531年にも再び敗れガリアの領地のほとんどを失った。[[560年]]に首都をピレネー山脈の北のトロサから[[トレド]]へと移した。<br /> <br /> === アリウス派からカトリックへの改宗 ===<br /> 西ゴート族は[[アリウス派]]を信仰していた。[[イシドールス]]によれば、西ゴート族がローマ帝国内に侵入した際のローマ皇帝[[ウァレンス]]がアリウス派だったためである{{Sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=40}}{{Sfn|玉置さよ子|1996|p=56}}。ウァレンス帝は[[ニカイア信条|ニケーア信条]]を奉じる[[アタナシウス派]]を弾圧し、アリウス派信仰を正統としていた{{Sfn|尚樹啓太郎|1999|p=66}}。西ゴート王国ではゲルマン人とローマ人の通婚は禁止され、背景には信仰の相違があったと考えられている。レオヴィギルド王の時代にゴート人とローマ人の通婚は許可された{{Sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=46}}。<br /> <br /> ローマ帝国領内侵入からイスパニア定住に至る西ゴート族の移動期には、カトリック勢力との軋轢は目立たない。イスパニア定住後に軋轢が増加するがその原因はカトリック聖職者の側にあったとされる{{Sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=40}}。イシドールス『ゴート人の歴史』には西ゴート王の異端の過去には配慮が見られ、彼らがカトリックに寛容であったことが強調されている。そのためエウリック王のカトリック迫害にも沈黙している{{Sfn|玉置さよ子|1996|pp=56-57}}。<br /> <br /> 西ゴート中興の英主[[レオヴィギルド]]王はガリアを喪失して以降分裂傾向にあった国内を再統一した。宗教政策上もカトリックには弾圧を加える一方、アリウス派の教義をカトリックが入信しやすいよう一部改変し、統一をはかった。カトリックに改宗した[[ヘルメネギルド|ヘルメネギルド王子の反乱]]があったが{{Sfn|玉置さよ子|1996|pp=30-38}}、反乱の翌[[580年]]に王はアリウス派の教会会議を開き、従来「父」より下位に置かれていた「子」を、「父」と同格とした。これによりカトリック側からの改宗者が増えたが、カトリック教会側は勢力切り崩しと捉え、反発した{{Sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|pp=48-49}}。<br /> <br /> つづく[[レカレド1世|レカレド]]王は[[587年]]に、メロヴィング朝と同じくカトリックに集団改宗した{{Sfn|阪西紀子|2004}}。[[レカレド1世|レカレド]]王の改宗は個人的なものとも集団的ともとれるが{{Sfn|橋本龍幸|1988}}、[[589年]]の第三回[[トレド教会会議]]にて西ゴート王国は公式に[[アリウス派]]からカトリックへ改宗した{{Sfn|Roger Collins|2004|p=67}}{{Sfn|橋本龍幸|1988}}。これによりアリウス派の反乱を鎮圧、王権と教会の提携を強め、西ゴート王国はカトリック国家となった。会議では、教義だけでなく世俗的な問題も議題とされ、世俗の高官も臨席した。首都トレドはキリスト教西ヨーロッパ世界の宗教的政治的首都と見なされるようになった。レカレド王以降の王は[[589年]]から[[701年]]の約110年の間に18回の宗教会議を召集し、6世紀中頃からは[[神権政治]]の色彩を帯びるようになる。<br /> <br /> === イベリア半島制圧 ===<br /> {{出典の明記|section=1|date=2016年5月14日 (土) 11:50 (UTC)}}<br /> フランク王国、イベリア半島の先の征服王朝である[[スエビ族|スエボス王国]]、東ローマ帝国としばしば争った。[[620年代]]にはスウィンティラ王のもとイベリア半島のほぼ全土を支配するに至った。<br /> <br /> == 滅亡 ==<br /> {{出典の明記|section=1|date=2016年5月14日 (土) 11:50 (UTC)}}<br /> [[711年]]にイスラーム勢力の[[ウマイヤ朝]]がイベリア半島に上陸、最後の王である[[ロデリック (西ゴート王)|ロデリック]]が[[グアダレーテ河畔の戦い]]で戦死して滅亡した&lt;ref&gt;西川、p. 22&lt;/ref&gt;。一部の残党は[[718年]]まで抵抗を続けたが、一般的にはこの年を滅亡年とする。<br /> <br /> 滅亡したあと、西ゴート王国の王族とキリスト教徒の一部はイベリア半島北部の山岳地帯に逃げ込み[[アストゥリアス王国]]を建国&lt;ref&gt;西川、p. 24&lt;/ref&gt;、後の[[カスティーリャ王国]]、[[レオン王国]]のもととなった。西ゴート王国時代の建造物などはほとんど残されていないが、多くの国民は宗教的に寛容なイスラム支配を受け入れ、後のスペイン文化の基礎を作っていった。<br /> <br /> == 法制 ==<br /> 西ゴート族はローマとの交流を早くに持ったため、ローマ化するのも早かった。イベリア半島に定住してからはゲルマン慣習法と[[ローマ法]](のちにはキリスト教の要素も加味された)に基づく法令がたびたび発され、征服地であるイベリア半島の住民とゴート族の融合がはかられた。これはゴート族が学問を重んじ、ギリシャ・ローマ文化の維持に努めたためだと考えられる。<br /> <br /> [[618年]]ないし[[619年]]の[[第2回セビリャ教会会議]]および[[633年]]の[[第4回トレド公会議]]では[[イシドールス]]の活躍により、西ゴート王国の教会は独立と自由を維持しながらも国王に忠誠を誓うという形で、ローマ教皇の管轄権を排除した。<br /> <br /> 630年代におこなわれた3回の公会議は世俗の問題についての議決を多く含むが、『西ゴート統一法典』にはこの時期の王の名を冠する法は採録されていない。公会議が王国会議と見なされ、議決が王国法として機能したためとされる{{Sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=56}}。玉置さよ子は、この時期の王、シセナンドとキンティラの名を冠した法が『西ゴート統一法典』に採録されていないのは[[キンダスイント]]王以降西ゴート王の王権強化の意図が見えるとする。たとえば反ユダヤ人立法では、シセナンド・キンティラ両王の時代に王の名による世俗法の立法が見られず、カノンの決定に反ユダヤ規定があることに鑑みると、世俗的なシセナンド・キンティラ期のカノンは世俗法の代わりを果たしていたと思われる。キンダスイント王以降、西ゴート王は世俗法制定を通じて王権強化を図ろうとしたが、シセナンド王とキンティラ王の時期に公会議によって世俗法が決定された前例はこれと対立する事実である。したがって、キンダスイント王の子であるレケスイントは、『西ゴート統一法典』において意図的にこの2王の名を冠した章を設けなかった。『西ゴート統一法典』により立法に対する西ゴート王の絶対的権限が確立された。{{Sfn|玉置さよ子|1996|pp=90-98}}。<br /> <br /> 654年にリベル法典が発布され、同時に属人法の廃止、すなわち人種によって法令の使い分けがなされなくなった。つまりこの時期の頃にはすでにゴート人と先住人の文化的な差異はなくなっていたと見られる。このとき異人種間の結婚が公に認められ、人種的にも同化が進んでいったと考えられている。<br /> <br /> == 政治・文化 ==<br /> {{出典の明記|section=1|date=2016年5月14日 (土) 11:50 (UTC)}}<br /> 指導者は世襲と合議・選挙による選出という古ゲルマンの慣習に従ったもので有力者や合議・選挙に参加する貴族の利害が絡んだため、王の暗殺、廃位や内戦がたびたび起こった&lt;ref&gt;[[ヘルメネギルド]]の乱など。&lt;/ref&gt;。イベリア半島へ移り住んでから滅亡までの200年間に26人の王が立ち、平均在位は8年足らずであったことからも王権の弱さがわかる。[[アギラ1世]]に対する[[アタナギルド]]の反乱も、「血筋」に「実力」を優先する伝統的概念によって正当化されるものであり、[[カトリック]]改宗後のウィテリックによるリウヴァ2世殺しもそれに含まれる。更に、時の王が息子を共同王に指名したことによって次王即位の望みを失った有力者が、父王の生前に陰謀を企てる場合も考えられる。シセブト王の治世の奇妙な終わり方&lt;ref&gt;『ゴート人の歴史』によればシセブト王は、「自然死とも、薬の飲み過ぎとも、ある人は毒殺ともいう」と記され、「父王(シセブト)の死後、息子レカレド(2世)が数日間統治して死んだ」と続いている。&lt;/ref&gt;は著明な例と考えられる(『ゴート人の歴史』は、そのようにして即位したスウィンティラへの遠慮から表現を抑えたと思われる)。王座にある者は常に息子に位を継がせようとしそれに反発した有力者が剣を取る。D.クラウデが分析したこの力学によって、王権は王国滅亡の直前まで不安定な側面を持ち続けた&lt;ref&gt;実際、レカレド2世から王位を奪ったと考えられているスウィンティラも[[631年]]に有力者シセナンド(一説に息子)がフランク王ダゴベルト1世の支援を受けて蜂起し、王座を追われ、修道院で死去した。他にも[[642年]]のトゥルガ王に対するキンダスウィントの蜂起=成功、[[653年]]のキンダスウィントの死の前後、既に共同王となっていた[[レケスウィント]]に対する[[サラゴサ]]を中心としたフロイアの乱=失敗、ワムバ王は共同王からの即位ではなかったが、即位直後([[672年]])にバスコ地方のイルデリコの反乱(=失敗)とパウルスの反乱(=元々パウルスはワムバ配下の将軍で反乱鎮圧の為に[[ナルボンヌ]]に派遣されたが、到着するや自ら反乱の中心に立ち、王位を要求したが失敗、捕らえられたが、エルウィグの時代に恩赦)に見舞われ、[[680年]]にエルウィグの陰謀によって毒薬を飲まされ、瀕死の状態でいる時に髪を剃り落とされ、気がついた時には既に修道服を纏わされていた。第4回トレド宗教会議で「王は髪を長くすること及び僧職の衣服を纏ってはならない」と定められていた。ワムバは一度は復位を要求したが却下されて、エルウィグが王位を簒奪した。ワムバは[[ブルゴス]]の修道院で余生を送り、[[688年]]に没した。エルウィグからエギカ(娘婿)、エギカからウィティザ(息子=共同王)はスムーズに王位継承が成ったが、王国滅亡直前には[[アギラ2世]](ウィティザの息子)に対して[[ロデリック]](キンダスウィント・レケスウィント父子の親類)が蜂起して王座を得、王国が二分されている。両者の対立に乗じて[[イスラム]]勢力が[[イベリア半島]]に進出し、[[711年]]のロデリックの戦死で事実上、西ゴート王国は滅亡した(アギラ2世は[[714年]]頃まで王を名乗って抵抗を続け、アギラ2世の死後はアルドが王位を引き継いだとみられるが、[[721年]]頃にイスラムの侵略の最中に死去したと考えられる)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == レカレド王の改宗 ==<br /> 当時のゲルマン人の集団改宗は近代的な個人の信仰心のあり方と同列に論じることはできない{{Sfn|阪西紀子|2004}}。[[3世紀]]までのキリスト教への改宗は、使徒や宣教者の超自然的能力に対する驚きや感嘆、あるいは殉教の目撃という個人的体験に基づいて行われていたのに対し[[4世紀]]以降の改宗は崇敬感情よりも政治的熟慮のほうが勝っており、宣教活動は支配者を対象として行われた{{Sfn|保坂高殿|2008|pp=339-340}}。また西ゴート王国は改宗以前に、被支配民であるローマ系住民はカトリック、支配者であるゴート族は[[アリウス派]]からカトリックへの改宗が進んでおり、両者のアイデンティティーの統合は進みつつあった{{Sfn|Roger Collins|2004|pp=64-65}}。レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶に努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方もある{{Sfn|橋本龍幸|1988}}。<br /> <br /> == 宗教政策 ==<br /> 589年の[[レカレド1世]]によるカトリック改宗も先住ラテン人たちとの対立解消に役立ったが、同時にアリウス派を信じる人々との溝が深まり内戦の原因となった。レカレド1世は同時にローマ貴族である[[フラウィウス氏]]を名乗るが、これも民族融和策の一つと考えられている。王国の初期にはユダヤ人に対しても寛容であったが、宗教の政治への介入が強まるにつれて非寛容へと転じていった。<br /> <br /> 第4回トレド公会議で定められた75のカノンの最後のカノンにおいて、イスパニアの君主と教会の関係に言及している。このカノンはのちの公会議で繰り返し言及され、西ゴート王国における聖俗の権力関係を規定していくことになった。カノンは西ゴート古来の選挙王制に言及し、ゴート人の代表と聖職者によって王が選ばれるべきと述べる。さらに王に正義と敬虔を要求し、法による支配を求め、法に反した支配をおこなった王は破門されると記す。このような規定により、イスパニアの教会はここにおいて西ゴート王国の現実政治に直接的な責任を負う存在と自らを位置づけたのである。{{Sfn|玉置さよ子|1996|pp=70-77}}。<br /> <br /> トレド大司教を頂点とする自律的な教会組織が整えられ、国王は「王にして祭司」として君臨し、西ゴート教会はローマ教皇からの自立性を高めた。のちには国王の即位に塗油の儀式も付け加えられるようになった。確実に知られるのは[[672年]]のワムバ王の即位時であるが、おそらくレカレド王時代からおこなわれていたと考えられている。西ゴート王国では、国王は宗教上の問題に関しても法令を出した。<br /> <br /> == 王権と教会の関係 ==<br /> 西ゴート王国の王権と教会の関係については、特に王のカトリック改宗後の両者の関係を「神権政治」ないし「神政政治」と見る見方が[[18世紀]]以来支配的であったが[[1930年代]]に国王の側に主導権を認め、君主専制国家として教会を従属させていたと見る見方が提起された。{{Sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|pp=51-52}}{{Sfn|玉置さよ子|1996|pp=8-9}}<br /> <br /> また改宗前の西ゴート王国については、フランク王国を除く他のゲルマン民族国家と同様、支配者と被支配民の間で信仰が異なる「二重国家」の典型として見られてきたが、そのことが過去の日本において、カトリック改宗後の西ゴート王国について研究を滞らせてきた{{Sfn|玉置さよ子|1996|pp=7-8}}。<br /> <br /> == 年表 ==<br /> *[[375年]] - [[ゲルマン民族の大移動]]。[[西ゴート族]]、[[ローマ帝国]]内へ侵入<br /> *[[408年]] - [[アラリック1世]]がローマ包囲<br /> *[[410年]] - ローマ占領<br /> *[[415年]] - 都を[[トゥールーズ|トロサ]]に定め建国<br /> *[[418年]] - [[テオドリック1世]]即位<br /> *[[451年]] - [[ローマ帝国]]と連合を組み[[アッティラ]]と[[カタラウヌムの戦い]]。勝利を得るもテオドリック1世は戦死。<br /> *[[456年]] - 一時的に[[西ローマ帝国]]の実権を掌握。<br /> *[[475年]] - エウリック王法典編纂(対象は[[ゴート族]])<br /> *[[476年]] - 西ローマ帝国で[[西ローマ皇帝]]が消滅<br /> *[[506年]] - アラリック抄典編纂([[東ローマ帝国]]のテオドシウス法典の焼き直し。対象は、ゴート人とイベロ=[[ローマ人]])<br /> *[[507年]] - [[フランク王国]]と{{仮リンク|ブイエの戦い|en|Battle of Vouillé}}に敗北、[[アラリック2世]]が戦死。[[スペイン]]のみの統治に<br /> *[[549年]] - [[メリダ (スペイン)|メリダ]]に遷都<br /> *[[554年]] - [[東ローマ帝国]]の攻撃に遭いスペイン南部を喪失<br /> *[[560年]] - [[トレド]]に遷都<br /> *[[579年]] - [[ヘルメネギルド]]が父王レオヴィギルドに対して反乱を起こす(ヘルメネギルドの乱)。<br /> *[[584年]] - ヘルメネギルドの乱終結。<br /> *[[585年]] - [[スエビ族|スエボス(スエビ)王国]]を併合。ヘルメネギルドが処刑される。<br /> *[[589年]] - [[カトリック教会|カトリック]]を公認。[[レカレド1世]]も改宗<br /> *[[621年]] - [[イベリア半島]]統一&lt;ref&gt;[[東ローマ帝国]]領であるスパニア属州を征服し統一が完了。統一年に関しては史料が少なく、研究者の間で[[621年]]、[[624年]]、[[628年]]、[[629年]]など複数の説が唱えられており確定することができていない。但し、シセブト王の時代([[612年]] - [[621年]])に完全に優勢となって、ほぼ征服事業が終わりに近づきその子レカレド2世([[621年]])の短期間の統治の後、スウィンティラ王の時代([[621年]] - [[631年]])に統一が果たされたという見解が主流である。&lt;/ref&gt;<br /> *[[654年]] - 属人法を廃止<br /> *[[694年]] - [[ユダヤ人]]を迫害<br /> *[[711年]] - [[ウマイヤ朝]]の攻撃にあい滅亡([[グアダレーテ河畔の戦い]])<br /> *[[718年]] - 完全に滅亡<br /> <br /> ==歴代君主==<br /> #[[アラリック1世]]([[395年]] - [[410年]])<br /> #[[アタウルフ]](410年 - [[415年]])<br /> #[[シゲリック]](415年)<br /> #[[ワリア]](415年 - [[418年]])<br /> #[[テオドリック1世]](418年 - [[451年]])<br /> #[[トリスムンド]](451年 - [[453年]])<br /> #[[テオドリック2世]](453年 - [[466年]])<br /> #[[エウリック]](466年 - [[484年]])<br /> #[[アラリック2世]](484年 - [[507年]])<br /> #[[ゲサリック]](507年 - [[511年]])<br /> #[[アマラリック]](511年 - [[531年]])<br /> #[[テウディス]](531年 - [[548年]])<br /> #[[テウディギセル]](548年 - [[549年]])<br /> #[[アギラ1世]](549年 - [[554年]])<br /> #[[アタナギルド]](551年 - [[567年]])&lt;ref&gt;551年から554年まではアギラ1世の対立王。それ以後は単独王。&lt;/ref&gt;<br /> #[[リウヴァ1世]]([[568年]] - [[572年]])<br /> #[[レオヴィギルド]](568年 - [[586年]])<br /> #[[レカレド1世]](586年 - [[601年]])<br /> #[[リウヴァ2世]](601年 - [[603年]])<br /> #[[ウィテリック]](603年 - [[610年]])<br /> #[[グンデマル]](610年 - [[612年]])<br /> #[[シセブト]](612年 - [[621年]])<br /> #[[レカレド2世]](621年)<br /> #[[スウィンティラ]](621年 - [[631年]])<br /> #[[シセナンド]](631年 - [[636年]])<br /> #[[キンティラ]](636年 - [[640年]])<br /> #[[トゥルガ]](640年 - [[642年]])<br /> #[[キンダスウィント]](642年 - [[653年]])<br /> #[[レケスウィント]](649年 - [[672年]])&lt;ref&gt;649年から653年までは父キンダスウィントとの共同統治。&lt;/ref&gt;<br /> #[[ワムバ]](672年 - [[680年]])<br /> #[[エルウィグ]](680年 - [[687年]])<br /> #[[エギカ]](687年 - [[702年]])<br /> #[[ウィティザ]]([[694年]] - [[710年]])&lt;ref&gt;694年から702年までは父エギカとの共同統治。&lt;/ref&gt;<br /> #[[ロデリック (西ゴート王)|ロデリック]](710年 - [[711年]])<br /> #[[アギラ2世]](711年 - [[714年]])<br /> #[[アルド (西ゴート王)|アルド]](714年 - [[718年]])<br /> <br /> == 系図 ==<br /> 文献&lt;ref&gt;下津、p. 209&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;ミュソ=グラール、p. 102&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;関 他、p. 37-64&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;鈴木、43-84&lt;/ref&gt;<br /> {{familytree/start|style=font-size:80%;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | |,|-|-|-|.| | | |}}<br /> {{familytree | | | | | |AL1 |~| NNN | |ATA |y|GAL | |AL1=[[アラリック1世]]&lt;sup&gt;1&lt;/sup&gt;|NNN=娘|ATA=[[アタウルフ]]&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;|GAL=[[ガッラ・プラキディア]]&lt;br /&gt;(ローマ皇女)|boxstyle_AL1=background-color: #ff9;|boxstyle_ATA=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | | | | | |:| | | | | | | | | |!| | | | |}}<br /> {{familytree | | | | | |TH1 | | | | | | | |THE | |TH1=&lt;small&gt;(子または婿)&lt;/small&gt;&lt;br /&gt;[[テオドリック1世]]&lt;sup&gt;5&lt;/sup&gt;|THE=テオドシウス|boxstyle_TH1=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | | | | | |)|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| | | |}}<br /> {{familytree | | | | | |THO | |TH2 | |FRI | |EUR | |THO=[[トリスムンド]]&lt;sup&gt;6&lt;/sup&gt;|TH2=[[テオドリック2世]]&lt;sup&gt;7&lt;/sup&gt;|FRI=フレデリック|EUR=[[エウリック]]&lt;sup&gt;8&lt;/sup&gt;|boxstyle_THO=background-color: #ff9;|boxstyle_TH2=background-color: #ff9;|boxstyle_EUR=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |AL2 |y|THU | | | |CLO | |AL2=[[アラリック2世]]&lt;sup&gt;9&lt;/sup&gt;|THU=テオデゴンダ&lt;br /&gt;(東ゴート王[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]娘)|CLO=[[クロヴィス1世]]&lt;br /&gt;フランク王|boxstyle_AL2=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | |,|-|&#039;| |!| | | |,|-|-|-|(| | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | |GES | |AMA |~|CLO | |CL1 | |GES=&lt;small&gt;(庶子)&lt;/small&gt;&lt;br /&gt;[[ゲサリック]]&lt;sup&gt;10&lt;/sup&gt;|AMA=[[アマラリック]]&lt;sup&gt;11&lt;/sup&gt;|CLO=[[クロティルダ (西ゴート王妃)|クロティルダ]]|CL1=[[クロタール1世]]&lt;br /&gt;フランク王|boxstyle_GES=background-color: #ff9;|boxstyle_AMA=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | |,|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | |}}<br /> {{familytree | |LI1 | |TEU |y|LEO |~|GOI |y|ATH |,|-|-|-|-|-|-|-|(| |LI1=[[リウヴァ1世]]&lt;sup&gt;16&lt;/sup&gt;|TEU=テウドシア|LEO=[[レオヴィギルド]]&lt;sup&gt;17&lt;/sup&gt;|GOI=ゴイスウィンタ|ATH=[[アタナギルド]]&lt;sup&gt;15&lt;/sup&gt;|boxstyle_LI1=background-color: #ff9;|boxstyle_LEO=background-color: #ff9;|boxstyle_ATH=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | |,|-|-|-|-|-|(| | | | | | | |)|-|-|-|#|-|-|-|.| | | |!| | |}}<br /> {{familytree | | |!| | | | |RE1 | | | | | |BRU |y|SI1 | |GAL |~|CH1 | |RE1=[[レカレド1世]]&lt;sup&gt;18&lt;/sup&gt;|BRU=[[ブルンヒルド]]|SI1=[[シギベルト1世]]&lt;br /&gt;アウストラシア王|GAL=ガルスウィント|CH1=[[キルペリク1世]]&lt;br /&gt;ネウストリア王|boxstyle_RE1=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | |!| | | | | |!| | | | | | | | | |!| | | | |}}<br /> {{familytree | |HER |y|~|~|~|#|~|~|~|~|~|~|~|~|ING | |HER=[[ヘルメネギルド]]|ING=イングンド}}<br /> {{familytree | | | | |!| | | |!| | | | | | | | |}}<br /> {{familytree | | | |ATH | |LI2 | | | | | | | | | |SIS | | | | | |CHI | |ATH=[[アタナギルド (ヘルメネギルドの子)|アタナギルド]]|LI2=[[リウヴァ2世]]&lt;sup&gt;19&lt;/sup&gt;|SIS=[[シセブト]]&lt;sup&gt;22&lt;/sup&gt;|CHI=[[キンティラ]]&lt;sup&gt;26&lt;/sup&gt;|boxstyle_SIS=background-color: #ff9;|boxstyle_LI2=background-color: #ff9;|boxstyle_CHI=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | |!| | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |RE2 | | | | | |TUL | |RE2=[[レカレド2世]]&lt;sup&gt;23&lt;/sup&gt;|TUL=[[トゥルガ]]&lt;sup&gt;27&lt;/sup&gt;|boxstyle_RE2=background-color: #ff9;|boxstyle_TUL=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | |,|-|-|-|-|-|-|-|.| | |}}<br /> {{familytree | |CHI | | | | | | NNN | | | | | | | | | | |CHI=[[キンダスウィント]]&lt;sup&gt;28&lt;/sup&gt;|NNN=?|boxstyle_CHI=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | |)|-|-|-|.| | | |!| | | | | | | | | | | | | |}}<br /> {{familytree | |REC | |THE | | DAU |y|ARD | | | | | | |REC=[[レケスウィント]]&lt;sup&gt;29&lt;/sup&gt;|THE=テオデフレード|DAU=娘(ゴダorゴド)|ARD=[[アルデバルト]]|boxstyle_REC=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | | | | | |!| | | | | |!| | | | | |F|~|~|~|7| | |}}<br /> {{familytree | | | | | |ROD | | | |ERW |y| LIU |:| | |WAM | |ROD=[[ロデリック (西ゴート王)|ロデリック]]&lt;sup&gt;34&lt;/sup&gt;|ERW=[[エルウィグ]]&lt;sup&gt;31&lt;/sup&gt;|LIU=リウヴィゴート|WAM=[[ワムバ]]&lt;sup&gt;30&lt;/sup&gt;|boxstyle_ROD=background-color: #ff9;|boxstyle_ERW=background-color: #ff9;|boxstyle_WAM=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |:| | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | DAU |y|EGI | || |DAU=キクシロ|EGI=[[エギカ]]&lt;sup&gt;32&lt;/sup&gt;|boxstyle_EGI=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | |WIT | |WIT=[[ウィティザ]]&lt;sup&gt;33&lt;/sup&gt;|boxstyle_WIT=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | |AG2 | |AG2=[[アギラ2世]]&lt;sup&gt;35&lt;/sup&gt;|boxstyle_AG2=background-color: #ff9;}}<br /> {{familytree/end}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> === 日本語文献 ===<br /> * {{Cite book |和書 |author=五十嵐ミドリ |chapter=西ゴート王国 |title=スペイン・ポルトガルを知る事典 |others=[[牛島信明]]他監修 |publisher=[[平凡社]] |date=1992-05 |isbn=978-4-582-12618-1 |pages=245-247 |ref=harv }}<br /> * {{Cite book |和書 |author=尚樹啓太郎 |authorlink=尚樹啓太郎 |title=ビザンツ帝国史 |publisher=[[東海大学出版部|東海大学出版会]] |year=1999 |date=1999-02 |isbn=978-4-486-01431-7 |ref=harv }}<br /> * {{Cite book |和書 |author=鈴木康久 |title=西ゴート王国の遺産 - 近代スペイン成立への歴史 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |series=[[中公新書]] 1283 |year=1996 |date=1996-01 |isbn=978-4-12-101283-8 |ref=harv }}<br /> * {{Cite book |和書 |author=関哲行 |authorlink=関哲行 |author2=立石博高 |author3=中塚次郎 |title=スペイン史 1 古代-近世 |publisher=[[山川出版社]] |series=世界歴史大系 |year=2008 |date=2008-07 |isbn=978-4-634-46204-5 |ref=harv }}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[柴田三千雄]]|author2=[[樺山紘一]] |author3=[[福井憲彦]] |title=フランス史 |date=1995-9 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-46090-4 |series=世界歴史大系 |volume=1 |ref=harv }}<br /> * {{Cite book|和書|author=|title=岩波講座世界歴史19 移動と移民|date=1999-8 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4-00-010839-3 |ref=}}<br /> ** {{Cite book|和書|author=[[足立広明]]|title=岩波講座世界歴史19 移動と移民| chapter=古代末期地中海世界における人の移動と社会変容|date=1999-8 |publisher= |isbn= |ref=harv}}<br /> * {{Cite book |和書 |author=ブライアン・ウォード=パーキンズ|title=ローマ帝国の崩壊 文明が終わるという事 |translator=[[南雲泰輔]] |publisher=[[白水社]] |date=2014-6 |isbn=978-4-560-08354 |ref=harv }}<br /> * {{Cite book |和書 |author=玉置さよ子 |title=西ゴート王国の君主と法 |publisher=創研出版 |year=1996 |isbn=978-4915810084 |ref=harv }}<br /> * {{Cite journal |和書 |author=橋本龍幸 |title=西ゴートの改宗とビザンツ |year=1988 |date=1988-09-20 |publisher=愛知学院大学 |journal=人間文化 - 愛知学院大学人間文化研究所紀要 |volume=3 |naid=110001056119 |pages=11-35 |ref=harv}}<br /> * {{Cite journal |和書 |author=[[阪西紀子]] |title=異教からキリスト教へ - 北欧人の改宗を考える |year=2004 |date=2004-04-01 |publisher=一橋大学 |journal=一橋論叢 |volume=131 |number=4 |naid=110007642792 |pages=304-315 |url=http://hdl.handle.net/10086/15228 |ref=harv}}<br /> * {{Cite book |和書 |author=保坂高殿 |title=ローマ帝政中期の国家と教会 |year=2008 |publisher=[[教文館]] |isbn=978-4-7642-7272-9 |ref=harv}}<br /> * {{Cite book |和書 |author=山田信彦 |title=スペイン法の歴史 |publisher=[[彩流社]] |year=1992 |date=1992-01 |isbn=978-4-88202-215-2 |ref=harv }}<br /> * ルネ・ミュソ=グラール 『クローヴィス』 白水社、2000年<br /> * 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年<br /> * 西川和子 『スペイン レコンキスタ時代の王たち』 彩流社、2016年<br /> <br /> === 非日本語文献 ===<br /> * {{Cite book |author=Roger Collins |authorlink=:en:Roger Collins |year=2004 |title=Visigothic Spain 409-711 |publisher=[[:en:Wiley-Blackwell|Blackwell Publishing]] |isbn=0-631-18185-7 |ref=harv}}<br /> <br /> {{Commonscat|Visigoths}}<br /> {{中世前期ゲルマン諸国家}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:にしこおとおうこく}}<br /> [[Category:西ゴート王|*]]<br /> [[Category:ガリア]]<br /> [[Category:ゲルマン文化]]<br /> [[Category:中世前期ゲルマン諸国家]]<br /> [[Category:かつて存在したヨーロッパの国家]]<br /> [[Category:かつてイベリア半島に存在した国家]]<br /> [[Category:トレド]]<br /> [[Category:中世のイベリア半島]]<br /> [[Category:中世のスペイン]]<br /> [[Category:中世のポルトガル]]<br /> [[Category:中世のフランス]]</div> 61.7.3.99 ウァレンティニアヌス1世 2018-07-28T23:08:13Z <p>61.7.3.99: /* 家族・子孫 */</p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ウァレンティニアヌス1世<br /> | 各国語表記 = Valentinianus Ⅰ<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 = ValentinianI.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 =<br /> | 在位 = [[364年]][[2月26日]] - [[375年]][[11月17日]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = フラウィウス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス&lt;br&gt;Flavius Valentinianus Augustus<br /> | 出生日 = [[321年]]<br /> | 生地 = [[パンノニア|パンノニア・セグンダ属州]]キバラエ<br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|321|0|0|375|11|17}}<br /> | 没地 = [[パンノニア|パンノニア・ウァレリア属州]]ブリゲティオ<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 配偶者1 = マリナ・セウェラ<br /> | 配偶者2 = ユスティナ<br /> | 子女 = [[グラティアヌス]]&lt;br /&gt;[[ウァレンティニアヌス2世]]&lt;br /&gt;ガッラ([[テオドシウス1世]]妃)&lt;br /&gt;グラタ&lt;br /&gt;ユスタ<br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = [[ウァレンティニアヌス朝]]<br /> | 父親 = {{仮リンク|大グラティアヌス|en|Gratian the Elder}}<br /> | 母親 = ファウスタ?([[コンスタンティウス1世]]の孫娘)<br /> }}<br /> [[File:Solidus de Valentinien MAN.jpg|thumb|289px|ウァレンティニアヌス1世が刻まれた金貨]]<br /> &#039;&#039;&#039;ウァレンティニアヌス1世&#039;&#039;&#039;({{lang|la|&#039;&#039;&#039;Valentinianus I&#039;&#039;&#039;}}, [[321年]] - [[375年]][[11月17日]])は、[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]](在位:[[364年]] - 375年)で[[ウァレンティニアヌス朝]]の創始者。また&#039;&#039;&#039;ウァレンティニアヌス大帝&#039;&#039;&#039;とも。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> ウァレンティニアヌス1世は[[321年]]に[[パンノニア|第二パンノニア属州]]のキバラエで生まれた。父は将軍の{{仮リンク|大グラティアヌス|en|Gratian the Elder}}で7つ年下の実弟に後の共同皇帝[[ウァレンス]]がいる。<br /> <br /> 皇帝[[コンスタンティウス2世]]の時代に軍へ入隊し、続けて[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]、[[ヨウィアヌス]]に仕えた。ヨウィアヌスが[[コンスタンティノープル]]への帰還途中にガス中毒(暗殺説もあるが)で事故死したため、軍は[[ニカイア]]で後継の皇帝を選ぶことになった。ヨウィアヌスには息子のウァロニアヌスがいて[[364年]]は同僚の[[コンスル]]にしていたが、北方の蛮族及び講和条約を結んだものの情勢の不安な[[サーサーン朝]][[ペルシア帝国]]などの東方の不安も抱えていたため、軍は実務経験のある優秀な軍人を後継者にすることを望んだ。こうして白羽の矢が立ったのが当時43歳の将軍ウァレンティニアヌスであった。<br /> <br /> ウァレンティニアヌスはヨウィアヌスの死から約10日後の[[2月26日]]に皇帝に即位した。また、[[3月28日]]に弟ウァレンスを共同皇帝に据えた。兄弟は[[ニシュ|ナイスス]]で配分を話し合い兄ウァレンティニアヌスは西方帝として帝国西部([[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア]]、[[イリュリクム]]、[[ヒスパニア]]、[[ガリア]]、[[ブリタンニア]]、[[アフリカ属州|アフリカ]])を取り、弟ウァレンスには東方帝として帝国東部([[バルカン半島]]の東半分、ギリシア、[[アエギュプトゥス]]、[[シリア属州|シリア]]、[[アシア属州|小アジア]]、ペルシア)を与えた。<br /> <br /> その短い治世の間に、ローマはアフリカ、ゲルマニア、ブリタンニアでそれまで遭遇したことのない蛮族との紛争に追われることとなった。その中でも特に脅威だったのが[[ブルグント族]]や[[サクソン人]]である。<br /> <br /> [[ミラノ|メディオラヌム]]に最初の司令部を置き、[[パリ]]、[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で[[アレマン人]]と戦うために指揮を執った。同時に東方では[[コンスタンティヌス朝]]の親類の[[プロコピウス]]が反乱を起こしていたので、鎮圧のためウァレンスを支援した。[[366年]]にウァレンスは[[リディア]]でその軍勢を倒し、プロコピウスを処刑した。<br /> <br /> 北方のアレマン人と戦うため将軍セウェリアヌスとカリエットの二人を送った。しかし二将はアラマンニ族に敗れ戦死してしまった。続いてマギステル・エクィトゥム(騎兵長官)のダガライフスを送ったものの戦線は膠着し、ウァレンティニアヌスはダガライフスを罷免し後任の騎兵長官にはヨウィヌスを据えた。ヨウィヌスはアラマンニ族を押し返し、この功績で[[367年]]の[[コンスル]]となった。<br /> <br /> 一方、ブリタンニアでは反乱が起きていた。[[367年]]に[[ピクト人]]、[[スコット人]]及びアッタコッティ人が共謀してブリタンニアのローマ官僚を殺害したことをきっかけに大規模な反乱に発展していった。それと同時にガリア北部ではサクソン人と[[フランク人]]が海岸沿いの都市を襲撃していた。後世に&#039;&#039;[[w:the Great Conspiracy]]&#039;&#039;(偉大なる共謀)と呼ばれるこの出来事でブリタンニアはローマの支配が大変危ういものとなった。<br /> <br /> ブリタンニアの反乱軍は[[アントニヌスの長城]]から[[ケント (イングランド)|ケント]]までを荒らし回り街々を略奪していった。ブリタンニアへは騎兵長官ヨウィヌスとマギステル・ペディトゥム(歩兵長官)のセウェルスが送られた。しかし、戦況は思わしくなく[[368年]]の初めに両名はアラマンニ族との戦いに備えるという名目でに呼び戻された。後任には新しいブリタンニア管区長官として{{仮リンク|大テオドシウス|en|Count Theodosius}}([[テオドシウス1世]]の父)が送られた。<br /> <br /> ウァレンティニアヌスは軍備を増強すべく、イタリア管区の長官セバスティアヌスをイタリアとイリュリア駐屯軍団とともに呼び寄せ、さらにブリタンニアから召還されたセウェルスとヨウィヌスを加え、翌[[368年]]の春に大軍をもってアラマンニ族と戦い、ソリキニウムの戦いで勝利した。損害は大きかったもののアラマンニ族の勢力は大きく削られた。<br /> <br /> その後、ウァレンティニアヌスは病に臥せ、自身の後継者のことを考えた。結果まだ8歳だった長男の[[グラティアヌス]]を西部の共同皇帝に据えることにした。ウァレンティニアヌスはすぐに回復したがグラティアヌスは共同皇帝に据えたままにした。<br /> <br /> ガリア北部の海岸沿いに来襲していたサクソン人に対して、同地の総督ナンニエヌスは歩兵長官セウェルスを救援に寄越すよう要望した。サクソン人に何度か勝利したローマ軍は彼らと講和を結んだ。条件としてサクソン人の若者たちをローマ軍に提供させることを呑ませたがローマ軍は裏切り、サクソン人の若者たちを待ち伏せして皆殺しにした。<br /> <br /> ブリタンニアの反乱は[[369年]]に大テオドシウスが鎮圧し、更にブリタンニアの北方に皇帝ウァレンティニアヌスに因んでウァレンティアという属州を設置した。皇帝の許へ帰還した大テオドシウスはヨウィヌスの後任の騎兵長官に任じられた。<br /> <br /> サクソン人との戦いの間、ウァレンティニアヌスはブルグンド族と同盟を結ぶ努力をしていたが、その交渉は失敗に終わった。しかし、ブルグンド族とローマが同盟を結ぶという噂はアラマンニ族を浮き足立たせ統率を乱し、大テオドシウスがアラマンニ族を各個撃破することに役立った。捕らえられたアラマンニ族はポー川流域に置かれそこから移動することを禁じられた。しかし、アラマンニ族の族長マルキアヌスは辛うじて捕縛されず逃走していた。<br /> <br /> [[372年]]にアフリカ属州ではフィルムスという人物がローマの支配下で虐げられていた原住民などと共に反乱を起こしていた。この反乱に対してまたも大テオドシウスが送られた。大テオドシウスは反乱を鎮圧し、フィルムスは収監を恐れて自殺した。<br /> <br /> ウァレンティニアヌスは逃走していたアラマンニ族の族長マルキアヌスを討伐すべく戦ったが[[クァディ族]]や[[サルマティア人]]が[[イリュリア]]へ侵入してきたため、[[374年]]彼はマルキアヌスと渋々講和を結んだ。その後[[トリーア]]に司令部を置いてライン川の防御を固め、いくつもの砦の建設を監督した。<br /> <br /> [[374年]]、ゲルマン人の[[クァディ族]](現在の[[モラヴィア]]や[[スロバキア]]にいた)は、[[ドナウ川]]北にローマの砦が築かれたことや、自分たちの王が殺されたことに憤激し、川を渡って侵攻してきた。また、サルマティア人もイリュリアに侵入していた。クァディ族とサルマティア人は[[パンノニア|パンノニア・ウァレリア属州]]や[[モエシア]]付近まで達していた。クァディ族に対してはウァレンティニアヌス自らがセバスティアヌスと歩兵長官メロバウデスを率いて対応し、サルマティア人へは大テオドシウスの息子[[テオドシウス1世|小テオドシウス]]が対応することにした。<br /> <br /> パンノニア・ウァレリアの要塞化されていた都市は略奪を受けなかったが、要塞化されていない都市や町は略奪に晒された。モエシアに侵入していた別のサルマティア人の集団は小テオドシウスが撃退した。この功績で小テオドシウスはモエシアの[[ドゥクス]]に任じられた(しかし、その後の敗北で2個軍団を失い解任された)。<br /> <br /> 一方ウァレンティニアヌスは翌[[375年]]の春にパンノニア・ウァレリアのブリゲティオに司令部を移した。そして、現在の[[コマーロム]]の辺りでクァディ族と会見を持ったが怒りのあまり叫んだときに脳卒中を起こした。これが原因となって同年11月17日に死去した。<br /> <br /> == 評価 ==<br /> ウァレンティニアヌスは[[キリスト教徒]]だったが、国民すべてに信仰の自由を与え、生贄や魔術などを禁止しただけであった。市民・聖職者両方の奢侈に断固反対し、教会の蓄財や世俗化にも反対した。癇癪持ちなのが欠点で、魔術の罪(ときには占いや手品でも)で訴えられた者を罰するときに見せる怒りはすさまじいものであった。その他自身は無学であったが学校を作り、医療を充実させるなどの政策もとった。彼の死後帝国の衰退が顕著に表れ始めたため最後の偉大な西ローマ皇帝と称せられる。<br /> <br /> == 家族・子孫 ==<br /> 前妻マリア・セウェラとの間に[[グラティアヌス]]の1男、後妻ユスティナとの間に[[ウァレンティニアヌス2世]]、ガッラ、グラタ、ユスタの1男3女を儲け、2男3女の父となった。このうち、グラタとユスタは早世し、グラティアヌス、ウァレンティニアヌス2世、ガッラの2男1女が生き残った。グラティアヌスはコンスタンティウス2世の一人娘フラビア・マキシア・コンスタンティアとの間に男子を儲けたが、その系統は途絶え、ウァレンティニアヌス2世は未婚で死去したため、ガッラ(ガラ)の子孫が後世(少なくとも6世紀の終わりまで)にウァレンティニアヌス1世の血筋を伝えた。<br /> <br /> *前妻:マリア・セウェラ(375年以前に死去)<br /> **グラティアヌス(359年 - 383年)- 長男。[[ローマ皇帝]]。配偶者にフラウィア・マキシマ・コンスタンティア(361年/362年 - 383年、[[コンスタンティウス2世]]の一人娘)とラエタがいる。<br /> <br /> *後妻:ユスティナ(ユストゥスという男性とフラウィウス・ユリウス・コンスタンティウスとその最初の妻ガッラ(ガラ)の娘の一人との間に生まれる。コンスタンティウスの父は[[コンスタンティウス・クロルス]]でコンスタンティウスは[[コンスタンティヌス1世]]の異母弟の一人である。つまり、ユスティナの母は[[コンスタンティウス・ガッルス]]の同母姉妹、「背教者」として知られる皇帝[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス]]の異母姉であった。元は僭称皇帝[[マグネンティウス]]の妻で、371年以前から375年以前にウァレンティニアヌス1世と再婚した。340年頃 - 388年頃)<br /> **ウァレンティニアヌス2世(371年- 392年)- 次男。[[ローマ皇帝]]。<br /> **ガッラ(ガラ)(370年~375年/372年 - 394年)- [[テオドシウス1世]]の後妻。子女のうち彼女の血筋のみが後世(少なくとも6世紀の終わりまで)に残った。<br /> **グラタ(375年 - ?、早世)<br /> **ウァレリア・ユスタ(ユスティナとも。374年 - ?、早世)<br /> <br /> *孫<br /> **男子 - グラティアヌスとコンスタンティアとの間に生まれた息子。<br /> **グラティアヌス(388年 - 394年) - テオドシウス1世とガッラとの間の息子。<br /> **[[ガッラ・プラキディア]](390年頃 - 450年)- テオドシウス1世とガッラとの間の娘。<br /> **ヨハンネス(394年 - 394年) - テオドシウス1世とガッラとの間の息子。<br /> <br /> *曾孫<br /> **テオドシウス(414年 - 414年/415年)- 西ゴート王[[アタウルフ]]とガッラ・プラキディアとの間の息子。<br /> **[[ユスタ・グラタ・ホノリア]](417年/418年 - 452年?、455年?)- ガッラ・プラキディアの娘。父はコンスタンティウス3世。<br /> **[[ウァレンティニアヌス3世]] - ガッラ・プラキディアの息子。父はコンスタンティウス3世。<br /> <br /> *玄孫<br /> **エウドキア(439年 - 466年/474年?)- ウァレンティニアヌス3世の長女。第2代ヴァンダル王フネリックの妻で第5代国王ヒルデリックの母。<br /> **プラキディア(439年~443年 - 472年以降) - ウァレンティニアヌス3世の次女。[[西ローマ帝国]][[皇帝]][[オリブリオス]]の妻。<br /> <br /> *来孫<br /> **ヒルデリック(460年 - 533年)- 第2代ヴァンダル王フネリックと玄孫エウドキアとの間の息子。同じヴァンダル王族である[[ゲリメル]]に幽閉・土牢で虐待され、王位を奪われた。更に東ローマ帝国の圧力が強まると、[[テオドシウス朝]]に連なる血縁を東ローマ帝国に利用されると危険視され、甥2人(ホアメル、エウアゲース)と共に暗殺された。なお、ホアメルは対ムーア戦争の敗北責任者であり、ゲリメルに両目を刳り抜かれている。<br /> **アニキア・ユリアナ(462年 - 527年/528年)- オリブリオスと玄孫プラキディアとの間の娘。アレオビンドス(アレオンビンドスとも。将軍アスパルの曾孫)と結婚。<br /> <br /> *昆孫<br /> **アニキウス・オリブリオス・ミノール(小オリブリオス)- アレオビンドスと来孫アニキア・ユリアナとの間の息子。[[東ローマ帝国]][[皇帝]][[アナスタシウス1世]]の姪エイレーネーと結婚。<br /> **ヒルデリックの娘たちは、父の死と[[ヴァンダル王国]]滅亡後、東ローマ皇帝[[ユスティニアヌス1世]]と皇后[[テオドラ]]の養育を受けることが出来たようである。<br /> **19世紀の歴史家[[テオドール・モムゼン]]は東ローマ帝国皇帝[[ユスティニアヌス1世]]の従兄弟ゲルマヌス・ユスティヌスの母がアニキア・ユリアナの娘という仮説を唱えた。ゲルマヌス・ユスティヌスは[[東ゴート王国]]初代[[テオドリック]]の孫娘で2代[[アタラリック]]の妹、3代[[アマラスンタ]]の娘、4代[[テオダハド]]の従姪、5代[[ウィティギス]]の王妃であったマタスンタの再婚相手で、息子ゲルマヌス(550年 - 605年)を儲けている。息子ゲルマヌスは東ローマ帝国皇帝[[ティベリウス2世]]の娘チャリートと結婚。ゲルマヌスとチャリートの娘はティベリウス2世の娘婿[[マウリキウス]]の長男テオドシウス(583/585年 -602年)と結婚した。<br /> <br /> *仍孫<br /> **プロヴァ - アニキウス・オリブリオス・ミノールとエイレーネーとの間の娘。アニキウス・プロブス・ミノールと結婚。<br /> <br /> *雲孫<br /> **ユリアナ - プロヴァとアニキウス・プロブス・ミノールとの間の娘。アナスタシウスと結婚。<br /> <br /> *雲孫の子(ユリアナとアナスタシウスとの間には1男2女がいる。彼らの代までウァレンティニアヌス1世の子孫はコンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた)<br /> **アレオビンドゥス<br /> **プラキディア(プラチディア)<br /> **プロヴァ(母方の祖母と同名)<br /> {{Commonscat|Valentinianus I}}<br /> <br /> <br /> {{ローマ皇帝}} <br /> {{DEFAULTSORT:うあれんていにあぬす1}}<br /> <br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:321年生]]<br /> [[Category:375年没]]</div> 61.7.3.99 テオドシウス1世 2018-07-28T23:07:39Z <p>61.7.3.99: /* 家族・子孫 */</p> <hr /> <div>{{複数の問題<br /> | 出典の明記 = 2016年10月<br /> | 脚注の不足 = 2016年10月<br /> }}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = テオドシウス1世<br /> | 各国語表記 = Theodosius I<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 = Theodosius I. Roman Coin.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = テオドシウス1世が刻まれた硬貨<br /> | 在位 = [[379年]] - [[395年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 姓名 = <br /> | 出生日 = [[347年]][[1月11日]]<br /> | 生地 = カウカ(現:コカ)<br /> | 死亡日 = [[395年]][[1月17日]]<br /> | 没地 = [[ミラノ]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 配偶者1 = アエリア・フラキア<br /> | 配偶者2 = ガラ([[ウァレンティニアヌス1世]]の娘)<br /> | 子女 = [[#家族・子孫|一覧参照]]<br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = [[テオドシウス朝]]<br /> | 賛歌 = <br /> | 父親 = {{仮リンク|大テオドシウス|en|Count Theodosius}}<br /> | 母親 = 大テルマンティア<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;テオドシウス1世&#039;&#039;&#039;(フラウィウス・テオドシウス、&#039;&#039;&#039;Flavius Theodosius&#039;&#039;&#039;, [[347年]][[1月11日]] - [[395年]][[1月17日]])は、古代[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]](在位:[[379年]] - [[395年]])。&#039;&#039;&#039;テオドシウス大帝&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。わずか4か月ではあったが、東西に分裂していたローマ帝国を 実質的に1人で支配した最後の皇帝となった。<br /> <br /> [[392年]]に[[キリスト教]]を[[東ローマ帝国]]の[[国教]]に定め&lt;ref&gt;{{Cite book|和書 |author = 明石和康 |year = 2013 |title = ヨーロッパがわかる 起源から統合への道のり |publisher = [[岩波書店]] |page = 14 |isbn = 978-4-00-500761-5}}&lt;/ref&gt;、のちに[[西ローマ帝国]]においても同じくした。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> テオドシウスは347年、ローマ帝国の上級将校だった{{仮リンク|大テオドシウス|en|Count Theodosius}}の息子としてカウカ(現在の[[スペイン]]のコカ)に生まれた。<br /> <br /> [[368年]]に[[ブリタンニア]]で発生した軍の反乱の鎮圧のために現地に赴いた父に同行し、[[374年]]には、[[モエシア]]([[ドナウ川]]下流のローマ[[属州]])の軍司令官になった。<br /> <br /> しかし、[[375年]]に反乱の疑いをかけられ父が処刑されると、テオドシウスは軍を退役し、生まれ故郷のカウカに退いた。彼の引退と父の死の因果関係は不明だが、374年後半にサルマティア族との戦闘中に、自身の率いていた軍団のうちの2個軍団を失ったことが原因で、皇帝[[ウァレンティニアヌス1世]]から解任された、というのが真相であろう。<br /> <br /> 364年から375年にかけてローマ帝国は、西帝ウァレンティニアヌス1世と東帝[[ウァレンス]]という兄弟2人の共同皇帝によって統治されていた。その後、375年にウァレンティアヌス1世が死去すると、息子たち([[ウァレンティニアヌス2世]]と[[グラティアヌス]])が西ローマ帝国の統治者として跡を継いだ。[[378年]]、ウァレンスが[[ハドリアノポリスの戦い]]で死んだあと、グラティアヌスはテオドシウスを東ローマ帝国の共同皇帝に任命した。グラティアヌスが、[[383年]]反乱で死亡、さらにウァレンティアヌス2世が[[392年]]に死亡すると、西ローマ帝国では元老院議員の[[エウゲニウス]]が西の皇帝に擁立された。これに対してテオドシウスは息子[[ホノリウス]]に西の皇帝を名乗らせると394年に西ローマ帝国に軍を進め、[[フリギドゥスの戦い]]でエウゲニウスらを破って西ローマ帝国の首都[[ミラノ|メディオラーヌム]]を占領した。まだ[[ローマ]]では[[元老院 (ローマ)|元老院]]が抵抗を続けていたが、テオドシウスはメディオラーヌムに滞在して元老院に圧力を加え、西帝ホノリウスの後見人としてローマ帝国の東西を実質的に単独支配した。<br /> <br /> 395年1月、冬営中のミラノで死去した。48歳。<br /> <br /> テオドシウスは[[コンスタンティヌス1世]]以来、はじめて[[コンスタンティノポリス]]に常住した皇帝である。死に際してテオドシウスは、テオドシウスの下で既に[[アウグストゥス (称号)|正帝]]を名乗らせていた2人の息子に、それぞれコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国とメディオラーヌムを首都とする西ローマ帝国とを分担統治させた。<br /> <br /> == ゴート族への外交方針 ==<br /> 東ローマ帝国はテオドシウスの統治下、比較的安定していた。しかし、 [[ハドリアノポリスの戦い]]の後、バルカン地域に定住した[[ゴート族]]とその他の北方[[蛮族]]の対策に終始彼は忙殺されていた。ハドリアノポリスの戦いとその後のゴート族の侵入の影響は甚大で、当時テオドシウスと共同皇帝であったグラティアヌスが自身の属州であった[[イリリア]]の統治を放棄し、[[ガリア]]の[[トリアー]]に退いてしまうほどであった。ハドリアノポリスの戦いの後のローマ軍の最大の弱点は、主に、蛮族と戦うための傭兵として蛮族を雇っていたことであった。テオドシウスは、東ローマ帝国全土に布告を出して退役兵などを強制召集し、事態を打開しようとした。さらにドナウ南岸に暮らす人々を徴兵してゴート族掃討にあて、目覚しい戦果を挙げた。<br /> <br /> だが、[[379年]][[サーサーン朝]]ペルシャの王[[シャープール2世]]が死去すると、後継者争いの影響で帝国東方に不穏な雲が立ち込めた。そのため、これ以上のゴート族との戦闘は不可能とテオドシウスは考え、同年ゴート族に[[トラキア]]北部への移住を認めた。ただし、それまでの移住と異なり、ゴート族は同盟者 (fodus) として移住したため、帝国への納税義務はなかった。<br /> <br /> これにより、ドナウ川河畔は一時的に安定したが、ローマ帝国の蛮族化が急速に進んだ。また、一時は成功したかのように思われた蛮族移住政策も、テオドシウスの死後、[[395年]]に[[西ゴート族]]の族長[[アラリック1世]]の反乱によって破綻した。<br /> <br /> == 帝国内戦 ==<br /> [[Image:Roman empire 395.jpg|thumb|right|300px|テオドシウス帝の死直後(395年)のローマ帝国行政区画.]]<br /> 383年、西の正帝の一人[[グラティアヌス]]が[[ブリタンニア]]軍司令官{{仮リンク|マグヌス・マクシムス|en|Magnus Maximus|label=マクシムス}}によって殺され、マクシムスがブリタンニアの[[ローマ軍団]]によって皇帝に推戴された。マクシムスは翌384年には東の正帝テオドシウスからも共同皇帝として承認され、もう一人の西の正帝[[ウァレンティニアヌス2世]]が統治していたイタリア半島を除いた[[西ローマ帝国]]の支配者となった。しかしまもなくマクシムスとウァレンティニアヌス2世は対立し、[[387年]]にマクシムスはイタリアに軍を進め、ウァレンティニアヌス2世は[[テッサロニキ]]へ逃亡した。テオドシウスはウァレンティニアヌス2世を支持してマクシムスを攻撃し、翌388年8月28日にマクシムスと彼の息子で彼の共同皇帝でもあった{{仮リンク|フラウィウス・ウィクトル|en|Victor (emperor)|label=ウィクトル}}を処刑して、ウァレンティニアヌス2世を西の宮廷に復帰させた。テオドシウスはウァレンティニアヌス2世の[[後見人]]として391年まで[[ミラノ]]に留まり、西ローマ帝国の主要な行政官をテオドシウスの息のかかった人物へと次々に入れ替えていった。テオドシウスは西の宮廷が彼の支持者で満たされたのを確認した後、391年に東の宮廷へと帰還した。<br /> <br /> ウァレンティニアヌス2世が死去した後、[[フランク族]]出身の[[マギステル・ミリトゥム|軍司令官]]{{仮リンク|アルボガスト|en|Arbogast (general)}}によって[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員[[エウゲニウス]]が西の皇帝に推戴された。エウゲニウスはテオドシウスによって弾圧されつつあった古代ローマの伝統宗教を擁護する政策を採り、[[オリエント]]化が進む[[東ローマ帝国]]を嫌悪していた[[ローマ人]]から支持を集めた。エウゲニウスが西ローマ帝国で支持を集めるにつれ、テオドシウスの西ローマ帝国に対する影響力は弱まっていった。そこでテオドシウスは息子[[ホノリウス]]に西の皇帝を名乗らせると394年にイタリアに軍を進め、[[フリギドゥスの戦い]]でエウゲニウスらを破って西ローマ帝国の首都[[ミラノ]]を占領し、ホノリウスを西の宮廷へ住まわせた。テオドシウスは没するまでの4カ月間をホノリウスの後見人としてミラノで過ごし、ローマ帝国の東西を実質的に単独支配した。<br /> <br /> {{仮リンク|アラン・キャメロン(古典学者)|en|Alan Cameron (classical scholar)|label=アラン・キャメロン}}は、エウゲニウスらテオドシウスの敵対者に与えられた罪状はテオドシウスを正当化するために作られたものであったろうとしている。[[ユニバーシティ・カレッジ・コーク]]のデイビッド・ウッズは、テオドシウスが彼自身の野心と利益のために引き起こした不要な内戦が帝国の防御能力を著しく弱めたと分析している。特にフリギドゥスの戦いは西ローマ帝国の軍団を崩壊させ、軍団は短期間での大規模な再編成による質の低下を余儀なくされた。次第に西ローマ帝国の人々は、[[オリエント|東方世界]]から来て西の宮廷に住み着いた西ローマ皇帝よりも、共に西ローマ帝国のために戦う[[フォエデラティ]]に依存するようになっていき、最終的には西ローマ帝国の地に皇帝は不要であるとの判断を下した。<br /> <br /> == キリスト教の保護者 ==<br /> [[ファイル:Theodosius_colum,_Istanbul.jpg|left|thumb|勝利の月桂冠を勝者に与えるテオドシウスを描いたコンスタンティノープル競馬場のオベリスクの台座に刻まれたレリーフ([[イスタンブール]])]]<br /> <br /> テオドシウスは[[390年]]、[[アエギュプトゥス|エジプト]]の[[カルナック神殿]]から[[コンスタンティノープル]]の[[コンスタンティノープル競馬場]](大戦車場)に、戦勝祈念として[[ヘーリオス]]の[[オベリスク]]を運んだ。このオベリスクの台座の白い大理石面に刻まれた皇帝一家の浅彫りは、旧来のローマ・ギリシア的自然主義美術ではなく、キリスト教的抽象的美術に基づいて刻まれている。テオドシウス一家と貴族や民衆の間に歴然とした壁が存在していたことを、この彫刻からは読み取ることができる。彼らの顔は順序や秩序で構成されている。これは、芸術の分野でもキリスト教の侵出が目立ち始めていたことを如実に物語っている。<br /> <br /> == キリスト教の国教化 ==<br /> 4世紀、ローマ帝国の[[使徒教会]]は[[イエス・キリスト]]の[[三位一体]]性をめぐって分裂していた。[[325年]]に開かれた[[ニケーア公会議]]では、三位一体性を認める[[アタナシウス派]]が正統と認められ、三位一体性を認めない[[アリウス派]]を異端とした、[[ニカイア信条]]が採択された。<br /> <br /> だが、異端とされてもアリウス派の布教の勢いは収まらず、東ローマ帝国域で三位一体派よりもアリウス派のほうが普及していた。また、帝国各地には三位一体派と一線を画す様々なキリスト教の宗派が生まれていた。また、皇帝側の動きも定まったものではなく、アリウス派の影響力が強かった主因として挙げられるのが、当地を統治した皇帝にアリウス派の信徒がいたからである。[[コンスタンティヌス大帝]]の息子である[[コンスタンティウス2世]]や、テオドシウスの前の東ローマ皇帝[[ウァレンス]]はアリウス派の信者であった。熱狂的なアリウス派の信徒であるヴァレンスがハドリアノポリスの戦いで不名誉な死を遂げたとき、三位一体派は歓喜でこれを迎えたほどであった。<br /> <br /> テオドシウスは379年の冬に大病を患っていたときに三位一体派の[[テサロニケ]]主教(司教)アコリウスから洗礼を受けたため、ニカイア信条に忠実であった。[[380年]]11月24日、テオドシウスは三位一体派ではなかったコンスタンティノポリス大主教デモフィリスを追放し、後任に三位一体派の[[ナジアンゾスのグレゴリオス]]をつけた。<br /> <br /> これに先立つ380年2月には、テオドシウスとグラティアヌス、ウァレンティアヌスの3人の東西[[ローマ皇帝]]は、「[[ペトロ|使徒ペトロ]]がローマ人にもたらし、[[ローマ教皇]][[ダマスス1世 (ローマ教皇)|ダマスス1世]]と[[アレクサンドリア総主教庁|アレクサンドリア総主教]][[ペトロス2世]]が支持する三位一体性を信仰すべきであり、三位一体性を信仰しない者は、異端と認定し罰する。」という「[[テッサロニキ勅令]]」を発した。当時のローマ教皇とアレクサンドリア総主教は三位一体派であったため、この勅令が三位一体派の保護と[[非三位一体]]派の排斥が目的であることがよくわかる。事実、アリウス派だけではなく、[[マケドニア]]人の小さな教派も弾圧されていた。<br /> <br /> [[Image:Solidus Valentinian II trier RIC 090a.jpg|right|thumb|300px|ウァレンティニアヌス2世の下で鋳造された硬貨の裏に刻印されたウァレンティニアヌス2世とテオドシウスの後ろに、キリスト教の聖人を表す光輪がある]]<br /> <br /> この「テッサロニキ勅令」は「[[ミラノ勅令]]」以下コンスタンティヌス大帝の下に定められたキリスト教会の準公的な位置づけを無視する部分もあった。その最たるものは、異教の寺院であっても、公共建築として活用できるのであるならば、保護する事を命じた部分であった。だが、のちに「テオドシウス勅令」と呼ばれることになる一連の勅令では、次第に異教に対する風当たりを強くする内容が多々あった。<br /> <br /> [[379年]]テオドシウスは、キリスト教以外の宗教の祭日がキリスト教における平日に行なわれていると罵倒し始めた。[[381年]]になると、テオドシウスは非キリスト教の神に捧げる犠牲を禁じ、「誰も、聖域に行くことはなく、寺院を歩いて通り抜け、人の労働で作成された像を見てはならない」と定めた。<br /> <br /> 当時流行していた[[ミトラ教]]の集会場として使用されていた[[カタコンベ]]を破壊、その上に教会を建てようとしていたアレクサンドリア司教テオフィロスの要求に応じたように、テオドシウスは三位一体派の異教や異端に対する攻撃を支持した。これと同様な運命をたどったカタコンベの中には、現在では5世紀のキリスト教[[カトリック教会|カトリック]]の基礎を形作ったものも多数ある。<br /> <br /> このような出来事は、三位一体派の司教とその信者の行為に多大な影響を与えた。<br /> <br /> また、381年に出された勅令の最も重要なものに、[[ウェスタの処女|女祭司]]制度の廃止がある。公式に廃止を命じたわけではないが、これ以降今まで国庫から賄ってきた女祭司の費用を賄わないというものであった。これとともに、ローマ建国以来[[フォロ・ロマーノ]]にあり、女祭司が常に絶やさないできた「聖なる火」も消えてしまうことになった。<br /> <br /> 384年、ローマ[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員[[シンシマクス]]は、グラティアヌスの統治下で撤去された元老院議事堂前にあった勝利の女神像を戻すように訴えたが、テオドシウスはこれを拒否。逆にテオドシウスは388年には元老院議員に対し古代ローマ宗教の廃絶を求める決議を提起。元老院側はほぼ全会一致で賛成した。これにより、キリスト教(三位一体派)は事実上、ローマ帝国の国教となった。<br /> <br /> [[393年]]、すでに衰退しつつあった[[古代オリンピック]]をテオドシウスは廃止。同時に、オリンピックの開催年を1周期にした[[オリンピアード]]も廃止した。<br /> <br /> これらのテオドシウス勅令は、テオドシウス本人が考えたものではなく、ミラノ主教(司教)で三位一体派であった[[アンブロジウス]]の影響が強く現れていた。テオドシウス自身敬虔なキリスト教徒であったかどうかは非常に疑わしく、彼が洗礼した理由も、今まで病気知らずであったのに大病を患ったために気弱になっていた彼が、藁にもすがる気持ちで助けを求めたのではないだろうか。しかし、キリスト教の下では相手がたとえ皇帝であろうとも、主教(司教)の命令には信者は従わなくてはならないという規則がある。アンブロジウスはこれをテオドシウスを御するための手段とする。<br /> <br /> [[390年]]テサロニケのキリスト教徒が暴徒化し、行政長官らを多数殺害する事件が発生した。テオドシウスはこれに対し軍を派遣。住民を多数殺害し、暴徒を鎮圧した({{仮リンク|テッサロニカの虐殺|en|Massacre of Thessalonica}})。アンブロジウスはこれに激怒。報復が過剰であったと抗議し、さらにテオドシウスを公式な謝罪があるまで[[破門]]に処すと訴えた。テオドシウスは破門の処分を受けても約8ヶ月間は抵抗したが、ついに屈し、司教の足元に許しを請うた。<br /> <br /> 395年、テオドシウスがミラノで亡くなったとき、アンブロジウスは弔辞で賛辞を述べた。<br /> <br /> == 家族・子孫 ==<br /> 最初の妻アエリア・フラキアとの間には後の東ローマ帝国の皇帝となる[[アルカディウス]]、西ローマ帝国皇帝となる[[ホノリウス]]の2人の息子と、娘のプルケリアをもうけた。プルケリアとアエリア・フラキアが[[386年]]に死去した後、ウァレンティアヌス1世の娘であるガラを後妻に迎えた。彼女との間には、[[ウァレンティニアヌス3世]]の母になる[[ガッラ・プラキディア]]をもうけた。<br /> <br /> *前妻:アエリア・フラキア(356年 - 386年)<br /> **[[アルカディウス]](377年 - 408年) - 長男<br /> **[[ホノリウス]](384年 - 423年)- 次男<br /> **プルケリア(385年 - 386年) - 長女<br /> <br /> *後妻:ガラ(370年から375年 - 394年)<br /> **グラティアヌス(388年 - 394年) - 三男<br /> **[[ガッラ・プラキディア]](390年頃 - 450年) - テオドシウスの娘で次女。[[ウァレンティニアヌス3世]]の母。<br /> **ヨハンネス(394年 - 394年) - 四男<br /> <br /> *孫<br /> **フラキリア - アルカディウスの娘の一人。<br /> **プルケリア(399年 - 453年) - アルカディウスの娘の一人。[[マルキアヌス]]の後妻。<br /> **アルカディア(400年 - 444年)- アルカディウスの娘の一人。<br /> **[[テオドシウス2世]](401年 - 450年) - アルカディウスの長男。<br /> **マリナ(403年 - 449年) - アルカディウスの娘の一人。<br /> **テオドシウス(414年 - 414年)- ガッラ・プラキディアの息子。父は西ゴート王[[アタウルフ]]。<br /> **[[ユスタ・グラタ・ホノリア]](417年/418年 - 452年?、455年?)- ガッラ・プラキディアの娘。父はコンスタンティウス3世。<br /> **[[ウァレンティニアヌス3世]](419年 - 455年) - ガッラ・プラキディアの息子。父はコンスタンティウス3世。<br /> <br /> *曾孫<br /> **[[リキニア・エウドクシア]](422年 - 462年)- テオドシウス2世の長女でウァレンティニアヌス3世の妻。<br /> **フラキア(? - 431年) - テオドシウス2世の次女。<br /> **アルカディウス - テオドシウス2世の長男。乳児期に死亡。<br /> <br /> *玄孫(※テオドシウス2世の系統から見れば玄孫だが、ガッラ・プラキディアの系統から見れば曾孫となる)<br /> **エウドキア(439年 - 466年/474年?)- ウァレンティニアヌス3世とリキニア・エウドクシアの長女。ヴァンダル王フネリック(在位:477年 - 484年)の妻でヒルデリックの母。<br /> **プラキディア(439年から443年 - 472年以降) - ウァレンティニアヌス3世とリキニア・エウドクシアの次女。[[西ローマ帝国]]皇帝[[オリブリオス]]の妻。<br /> <br /> *来孫(※テオドシウス2世の系統から見れば来孫だが、ガッラ・プラキディアの系統から見れば玄孫となる)<br /> **ヒルデリック(460年 - 533年) - ヴァンダル王国第5代国王(在位:523年 - 530年)。第2代国王フネリックと玄孫エウドキアとの間の息子。同じヴァンダル王族である[[ゲリメル]]に幽閉・土牢で虐待され、王位を奪われた。さらに東ローマ帝国の圧力が強まると、[[テオドシウス朝]]に連なる血縁を東ローマ帝国に利用されると危険視され、甥2人(ホアメル、エウアゲース)と共に暗殺された。なお、ホアメルは対ムーア戦争の敗北責任者であり、ゲリメルに両目を刳り抜かれている。<br /> **アニキア・ユリアナ(462年- 527年/528年) - オリブリオスと玄孫プラキディアとの間の娘。アレオビンドス(将軍アスパルの曾孫)と結婚。<br /> <br /> *昆孫(※テオドシウス2世の系統から見れば昆孫だが、ガッラ・プラキディアの系統から見れば来孫となる)<br /> **アニキウス・オリブリオス・ミノール(小オリブリオス) - アレオビンドスと来孫アニキア・ユリアナとの間の息子。[[東ローマ帝国]]皇帝[[アナスタシウス1世]]の姪エイレーネーと結婚。<br /> **ヒルデリックの娘たちは、[[ヴァンダル王国]]滅亡後、東ローマ皇帝[[ユスティニアヌス1世]]と皇后[[テオドラ (ユスティニアヌスの皇后)|テオドラ]]の養育を受けることが出来たようである。<br /> **19世紀の歴史家[[テオドール・モムゼン]]は東ローマ帝国皇帝[[ユスティニアヌス1世]]の従兄弟ゲルマヌス・ユスティヌスの母がアニキア・ユリアナの娘という仮説を唱えた。ゲルマヌス・ユスティヌスは[[東ゴート王国]]初代[[テオドリック]]の孫娘で2代[[アタラリック]]の妹、3代[[アマラスンタ]]の娘、4代[[テオダハド]]の従姪、5代[[ウィティギス]]の王妃であったマタスンタの再婚相手で、息子ゲルマヌス(550年 - 605年)を儲けている。息子ゲルマヌスは東ローマ帝国皇帝[[ティベリウス2世]]の娘チャリートと結婚。ゲルマヌスとチャリートの娘はティベリウス2世の娘婿[[マウリキウス]]の長男テオドシウス(583/585年 -602年)と結婚した。<br /> <br /> *仍孫(※テオドシウス2世の系統から見れば仍孫だが、ガッラ・プラキディアの系統から見れば昆孫となる)<br /> **プロヴァ - アニキウス・オリブリオス・ミノールとエイレーネーとの間の娘。アニキウス・プロブス・ミノールと結婚。<br /> <br /> *雲孫(テオドシウス2世の系統から見れば雲孫だが、ガッラ・プラチディアの系統から見れば仍孫となる)<br /> **ユリアナ - プロヴァとアニキウス・プロブス・ミノールとの間の娘。アナスタシウスと結婚。<br /> <br /> *雲孫の子(テオドシウス2世の系統から見れば雲孫の子だが、ガッラ・プラキディアの系統から見れば雲孫となる)、ユリアナとアナスタシウスの間には1男2女がいる。<br /> **アレオビンドゥス<br /> **プラキディア(プラチディア)<br /> **プロヴァ(母方の祖母と同名)<br /> 彼らの代までテオドシウス1世の子孫はコンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた。<br /> <br /> *兄弟:ホノリウス - 妻の名はマリアとされる。テオドシウスより先に早世(少なくとも385年以前)。直系の家族として、以下の4男2女と3人の孫がいた。<br /> **Didymus<br /> **Lagodius<br /> **Theodiosolus<br /> **Verenarius<br /> **テルマンティア - 姪(兄弟ホノリウスの娘)。<br /> **セレーナ(? - 408年) - 姪(兄弟ホノリウスの娘)とともに養女。[[スティリコ]]の妻。<br /> ***エウケリウス(オイヒェリウス)(384年頃? - 408年)- 大甥(スティリコとセレーナの長男)<br /> ***マリア(385年頃 - 408年)- 大姪(スティリコとセレーナの長女で[[ホノリウス]]の最初の妻)<br /> ***テルマンティア(385年以降? - 415年) - 大姪(スティリコとセレーナの次女で[[ホノリウス]]の二番目の妻)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{脚注の不足|date=2016年10月|section=1}}<br /> *{{cite book|last1=Carr|first1=John|title=Fighting Emperors of Byzantium|date=2015|publisher=Pen &amp; Sword|isbn=1783831162}}<br /> *{{cite book|last1=Williams|first1= Stephen|first2= Gerard |last2=Friell|title=Theodosius: The Empire at Bay|publisher=Yale University Press|date= 1995|isbn=0300061730}}<br /> * Brown, Peter, &#039;&#039;The Rise of Western Christendom&#039;&#039;, 2003, p. 73-74<br /> * King, N.Q. &#039;&#039;The Emperor Theodosius and the Establishment of Christianity.&#039;&#039; London, 1961.<br /> * Lenski, Noel, &#039;&#039;Failure of Empire&#039;&#039;, U. of California Press, 2002, ISBN 0-520-23332-8, pp. 235-237.<br /> &lt;!--- 歴史小説は出典にならないのでコメントアウト<br /> * [[塩野七生]] 『ローマ人の物語XIV キリストの勝利』 2005年<br /> ---&gt;<br /> *{{cite EB1911|wstitle=Theodosius (emperors)|volume=26|first=Maximilian Otto Bismarck|last=Caspari}}<br /> *{{cite DCBL|wstitle=Theodosius I., the Great|first=George Thomas|last= Stokes}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[テオドシウス朝]]<br /> *[[東ローマ帝国]]<br /> *[[西ローマ帝国]]<br /> <br /> {{ローマ皇帝||379年 - 395年}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ておとしうす1}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:ドミナートゥス制]]<br /> [[Category:テオドシウス家]]<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:347年生]]<br /> [[Category:395年没]]</div> 61.7.3.99 コンスタンティヌス朝 2018-06-28T22:37:46Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2016年10月}}<br /> &#039;&#039;&#039;コンスタンティヌス朝&#039;&#039;&#039;(コンスタンティヌスちょう、[[307年]] - [[363年]])は、[[ローマ帝国]]の[[王朝]]。最初に単独皇帝となった[[コンスタンティヌス1世]]の名を採って呼ばれる。なお、『[[ローマ皇帝群像]]』によると、王朝の祖[[コンスタンティウス・クロルス]]はダルダニアからきた貴族エウトロピウスと、皇帝[[クラウディウス2世]]や皇帝[[クインティルス]]の姪クラウディアとの間に生まれた息子とされているが、歴史家の多くは、コンスタンティヌス家による[[プロパガンダ]]の結果としてこの系譜は粉飾された可能性が高く、地位が高い二人の末裔に見せかけたかったのだろうという結論を下し、実際の出自は不明としている。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> コンスタンティヌス1世から[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]まで、共同統治による同時即位を含めて3代5人(コンスタンティヌス1世の父[[コンスタンティウス・クロルス]]を含めると4代6人)の皇帝を出した。ユリアヌスが[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]への遠征の陣中で没すると、後継者が定まっていなかったため、兵士たちはユリアヌス配下の将軍[[ヨウィアヌス|フラウィウス・ヨウィアヌス]]を皇帝として擁立し、コンスタンティヌス朝によるローマ帝国支配は終焉を迎えた。ただし、コンスタンティウス1世とコンスタンティヌス1世の血筋自体は後世に存続しており、[[東ローマ帝国]]の[[アナスタシウス1世]]も子孫の一人である。アナスタシウス1世の姪エイレーネーはコンスタンティヌス朝の後継王朝である[[ウァレンティニアヌス朝]]と[[テオドシウス朝]]、ローマ帝国末期の有力貴族アニキア家の血を引くアニキウス・オリブリオス・ミノール([[西ローマ帝国]]の[[ウァレンティニアヌス3世]]の曽孫でもある)と結婚。なお、下記系図にもあるが、[[ウァレンティニアヌス朝]]の創始者[[ウァレンティニアヌス1世]]はコンスタンティヌス1世の異母弟ユリウス・コンスタンティウスの孫娘ユスティナを後妻としており、夫妻の間に生まれた娘ガッラが[[テオドシウス朝]]の創始者[[テオドシウス1世]]の後妻となり、[[ガッラ・プラキディア]]が生まれており、ガッラ・プラキディアはウァレンティニアヌス3世の母である。<br /> <br /> 以上の様に、コンスタンティヌス朝、ウァレンティニアヌス朝、テオドシウス朝の3王朝は縁戚関係や婚姻関係を結び、その血筋は少なくとも[[6世紀]]の終わりから[[7世紀]]の始めまで[[コンスタンティノープル]]のローマ貴族であり続けた。<br /> <br /> == コンスタンティヌス朝皇帝一覧 ==<br /> *[[コンスタンティウス・クロルス]](305年 - 306年) 西方正帝:東方正帝[[ガレリウス]]の共同皇帝<br /> *[[コンスタンティヌス1世]]([[307年]] - [[337年]])<br /> **共同皇帝[[クリスプス]](? - [[326年]])<br /> **共同皇帝[[ダルマティウス (副帝)|ダルマティウス]]([[335年]] - 337年)<br /> **共同皇帝[[ハンニバリアヌス]](335年 - 337年)<br /> *[[コンスタンティウス2世]]([[337年]] - [[361年]])<br /> **共同皇帝[[コンスタンティヌス2世]]([[337年]] - [[340年]])<br /> **共同皇帝[[コンスタンス1世]]([[337年]] - [[350年]])<br /> **共同皇帝[[コンスタンティウス・ガッルス]]([[352年]] - [[354年]])<br /> *[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス]]([[361年]] - [[363年]]) 「背教者」<br /> <br /> == 系図 ==<br /> {{familytree/start|style=font-size:80%;}}<br /> {{familytree | | | | | |HEL |y|~|~|~|~|COC |~|~|~|y|FLA | |HEL=[[聖ヘレナ|ヘレナ]]|COC=&#039;&#039;&#039;[[コンスタンティウス・クロルス]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;西方正帝|FLA=[[フラウィア・マクシミアナ・テオドラ|テオドラ]]&lt;br&gt;([[マクシミアヌス]]の義理の娘)}}<br /> {{familytree | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | |)|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | | | | |}}<br /> {{familytree | MIN |y|~|~|~|CO1 |~|~|~|y| FAU | |FLA | | | | | |JUC | | | | | | | |COA |y|LIC | |MIN=ミネルウィナ|CO1=&#039;&#039;&#039;[[コンスタンティヌス1世]]&#039;&#039;&#039;|FAU=ファウスタ&lt;br&gt;([[マクシミアヌス]]娘)|FLA=フラウィウス・ダルマティウス|JUC=ユリウス・コンスタンティウス|COA=コンスタンティア|LIC=&#039;&#039;&#039;[[リキニウス]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> {{familytree | | | |!| | | |,|-|-|-|v|-|^|-|.| | | |)|-|-|-|.| | | |)|-|-|-|v|-|-|-|.| | | |!| | |}}<br /> {{familytree | | |CRI | |CO2 | |CT2 | |COS | |DAL | |HAN | |COG | | DAU | |JUL | |LI2 | | |CRI=&#039;&#039;&#039;[[クリスプス]]&#039;&#039;&#039;|CO2=&#039;&#039;&#039;[[コンスタンティヌス2世]]&#039;&#039;&#039;|CT2=&#039;&#039;&#039;[[コンスタンティウス2世]]&#039;&#039;&#039;|COS=&#039;&#039;&#039;[[コンスタンス1世]]&#039;&#039;&#039;|DAL=&#039;&#039;&#039;[[ダルマティウス (副帝)|ダルマティウス]]&#039;&#039;&#039;|HAN=&#039;&#039;&#039;[[ハンニバリアヌス]]&#039;&#039;&#039;|COG=&#039;&#039;&#039;[[コンスタンティウス・ガッルス]]&#039;&#039;&#039;|DAU=娘|JUL=&#039;&#039;&#039;[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]&#039;&#039;&#039;|LI2=リキニウス2世}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | |}}<br /> {{familytree | | | | | | |GRA |~| CON | | | | | | | | | | | | | |MAG |~|JUS |V|VA1 | |GRA=[[グラティアヌス]]|CON=コンスタンティア|MAG=&#039;&#039;&#039;[[マグネンティウス]]&#039;&#039;&#039;|JUS=ユスティナ|VA1=[[ウァレンティニアヌス1世]]}}<br /> {{familytree/end}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[アウグストゥス (称号)]]<br /> * [[カエサル (称号)]]<br /> <br /> {{ローマ帝国}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:こんすたんていぬすちよう}}<br /> [[Category:コンスタンティヌス家|*]]<br /> [[Category:ローマ帝国の王朝]]<br /> {{history-stub}}</div> 61.7.3.99 ティベリウス 2018-06-17T01:38:28Z <p>61.7.3.99: /* 子孫 */</p> <hr /> <div>{{otheruseslist|ローマ帝国の第2代皇帝|東ローマ帝国の皇帝|ティベリウス2世|個人名としてのティベリウスおよびその名の人物|ティベリウス (個人名)}}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ティベリウス<br /> | 各国語表記 = Tiberius<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 = Tiberius NyCarlsberg01.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = 紀元14年[[9月18日]] - 紀元[[37年]][[3月16日]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = ティベリウス・ユリウス・カエサル<br /> | 出生日 = [[紀元前42年]][[11月16日]]<br /> | 生地 = <br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|-42|11|16|37|3|16}}<br /> | 没地 = <br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 継承者 = [[カリグラ]]<br /> | 継承形式 = 継承者<br /> | 配偶者1 = [[ウィプサニア]]<br /> | 配偶者2 = [[ユリア (アウグストゥスの娘)|ユリア]]<br /> | 子女 = [[小ドルスス]]&lt;br /&gt;[[ゲルマニクス]](養子)<br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = [[ユリウス・クラウディウス朝]]<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = [[ティベリウス・クラウディウス・ネロ]]<br /> | 母親 = [[リウィア]]<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ティベリウス・ユリウス・カエサル&#039;&#039;&#039;([[古典ラテン語]]:{{lang|la|&#039;&#039;&#039;Tiberius Julius Caesar&#039;&#039;&#039;}}、[[紀元前42年]][[11月16日]] - 紀元後[[37年]][[3月16日]])は、[[ローマ帝国]]の第2代[[プリンケプス|皇帝]](在位:紀元14年 - 37年)。初代皇帝[[アウグストゥス]]の養子。養子となる以前の名前は実父と同じ&#039;&#039;&#039;ティベリウス・クラウディウス・ネロ&#039;&#039;&#039;。<br /> <br /> なお、イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝である。イエスの言葉である「[[カエサルのものはカエサルに]]、神のものは神に」(新約マタ 22:17-21、マコ12:14-17、ルカ 20:22-25)の「カエサル」とは、ティベリウスないし彼を含めた[[カエサル (称号)|(皇帝の称号としての) カエサル]](=[[ローマ皇帝]])一般のことである。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === アウグストゥスの継子時代 ===<br /> ティベリウスは父[[ティベリウス・クラウディウス・ネロ]]と[[リウィア|リウィア・ドルシッラ]]との長男として紀元前42年に誕生した。父ティベリウスは[[共和政ローマ|共和政]]末期の内乱においてオクタウィアヌスに敵対し、ブルートゥス派、ついでアントニウス派に属した。このため、まだ乳飲み子であったティベリウスは両親と共に各地を逃げ回らなければならなかった。<br /> <br /> [[マルクス・アントニウス]]とオクタウィアヌスの間で協定が成立するとティベリウス一家はローマに帰還した。しかし、ローマではオクタウィアヌスが母リウィアとの結婚を望んだため両親は離婚し、リウィアはティベリウス・ネロとの子供を妊娠中であったにもかかわらずオクタウィアヌスと結婚した。ティベリウスは、母が結婚直後に出産した弟[[大ドルスス]]と共に父のもとに引き取られ養育された。<br /> <br /> 青年に成長したティベリウスはすでにローマの第一人者の地位を固めていたオクタウィアヌスのもとで政務や軍務に服すことになった。[[紀元前29年]]8月に行なわれた[[アクティウムの海戦]]の勝利を記念した[[凱旋式]]では、オクタウィアヌスの甥[[マルクス・クラウディウス・マルケッルス (アウグストゥスの甥)|マルケッルス]]とともに凱旋車の牽き馬に騎乗し参加した。また[[パルティア]]と和平を結んだ際には、その代表として調印式に臨む。その後弟のドルススと共に軍団の司令官として各地に派遣され、自身が有能な将軍であることを証明し続けた。軍才のないアウグストゥスを補った盟友[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ]]の下で軍歴を重ね、その死後はティベリウス兄弟がローマの軍事を支えていく。しかし仲の良かったドルススはゲルマニア戦役中、落馬事故が元で若くして没する。<br /> <br /> [[紀元前27年]]に元老院からアウグストゥスの称号を贈られたオクタウィアヌスは、自身の人格に依存している元首の地位を世襲させることによってローマの安定を保とうと後継者を探し始めた。当初は甥マルケッルスと古くからの盟友アグリッパが候補とされ、娘[[ユリア (アウグストゥスの娘)|ユリア]]を最初マルケッルスに、マルケッルス夭折後はアグリッパに嫁がせた。アグリッパとユリアの間に[[ガイウス・カエサル]]、[[ルキウス・カエサル]]の男子が誕生するとこの二人の孫を有力な後継者候補と見るようになっていった。二人の孫の後見人としてアグリッパを考えていたアウグストゥスだがアグリッパが[[紀元前12年]]に死ぬと当時アウグストゥスの親類の中で最年長男子のティベリウスを後見人にと考えるようになった。当時ティベリウスはアグリッパと最初の妻ポンポニアの娘[[ウィプサニア]]と結婚しており、息子[[小ドルスス]]をもうけるなど幸福な生活を送っていたが、アウグストゥスは二人を別れさせ寡婦となっていた娘のユリアとティベリウスを結婚させた。<br /> <br /> ==== ロドス島隠遁 ====<br /> ティベリウスはウィプサニアとの離別を深く悲しんだがユリアとの結婚を当初は受け入れた。しかしやがて夫婦仲は悪化し、その他様々な理由から[[紀元前6年]]、ティベリウスは[[ロドス島]]に隠棲する。詳細な動機は不明だが、以下が可能性として挙げられている。<br /> <br /> * アウグストゥスとの政治的な戦略の相違。ゲルマニアに進軍するアウグストゥスの戦略をティベリウスは疑問視していた。アウグストゥス自身が軍事に明るくはなかったのに対し、ゲルマニア遠征の総司令官も務めていたティベリウスは軍事に精通し、ゲルマニア制圧の困難さを身をもって実感していた。しかしながら継子の立場からアウグストゥスの方針に異論は唱えづらく、軍事部門で唯一アウグストゥスに対等に意見を述べる事ができた側近の[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ|アグリッパ]]は既に他界していた。またアグリッパと並ぶ側近であった[[ガイウス・マエケナス|マエケナス]]も他界して、クッションとなる第三者がいなくなってしまっていた。<br /> * 妻ユリアとの不仲。これは分かりやすく、一般のローマ市民からもそのような印象があったものと思われる。<br /> * アウグストゥスがティベリウスを通り越してガイウス、ルキウスの2人を後継者に定めた事。すなわち彼の権力がこの2人が成人するまでとなる。<br /> <br /> ティベリウスは前妻ウィプサニアに未練があり、またユリアとは努力では埋まらない溝があった。後継者にしたガイウスとルキウスはこの時点ではまだ10代、いずれにせよ、ティベリウスがロドス島に隠遁してしまったために老年のアウグストゥスの継承問題は一挙に噴出することになる。このロドス島の隠棲の間にユリアは姦通罪に問われてティベリウスと離婚させられローマから追放された。<br /> <br /> ==== 後継者へ ====<br /> ティベリウスは紀元[[2年]]にローマに帰還するが、この前後に後継者候補であったガイウスとルキウスは夭折し消去法的にティベリウスは元首の後継者候補となった。[[4年]]、ティベリウスはアウグストゥスの養子となり、これ以降ティベリウス・ユリウス・カエサルを名乗る。その際、ティベリウスには実子小ドルススがあったにもかかわらず、弟大ドルススの息子で甥にあたる[[ゲルマニクス]]を養子とさせられ、その中継ぎとして次の後継者と定められた。ゲルマニクスは、アウグストゥスの姉[[小オクタウィア]]の娘[[小アントニア]]と大ドルススのあいだに生まれた子であり、[[ユリウス氏族]]の血筋をひく人物でもあったからである。そして同年、ティベリウスに2度目の[[護民官職権]]が与えられた。<br /> <br /> ティベリウスと同時にアウグストゥスの養子となったアグリッパの最後の男子[[アグリッパ・ポストゥムス]]が粗野を理由に養子縁組を破棄され追放されると、ティベリウスは事実上アウグストゥス唯一の後継者となった。その後、[[14年]]8月にアウグストゥスが[[ノーラ (ナポリ県)|ノラ]]の[[別荘]]で死去すると、遺言状により遺産の相続者として指名された。<br /> <br /> === 元首時代 ===<br /> [[アウグストゥス]]の後継者として、金融危機対策、辺境防衛網の確立など優れた行政手腕を発揮した。「アウグストゥスの政治は、自分にとっての法である」とまで述べて、その継承と確立に努めた。彼は[[共和政ローマ]]以来の名門[[クラウディウス氏族]]の嫡流という出自であり、ユリウス家の養子となったが、出生は[[エクィテス|騎士階級]]出身であったアウグストゥスよりも貴族的な出自であった。にもかかわらず上記の事を述べたという事は帝政こそが未来のローマに最適な政体であることを見極めていた事がうかがえる。<br /> <br /> [[ユリウス・カエサル]]、アウグストゥスは数多くの権力闘争を通じて元老院との闘争に勝ち抜いて共和政を装った帝政を構築したが、ティベリウスの役目はそれを定着させる事であった。帝位を通じて彼は自らの業績を飾る事は極力避け、また過剰なローマへの公共投資も控えた。しかしこれは「煉瓦のローマを受け取り、大理石のローマを残した」アウグストゥスのような輝かしい(分かりやすい)ものとは対極な、よく言えば質実剛健、悪く言えば苦労の割には地味で評価されにくいものであった。事実、彼の業績は同時代人および古代ローマ時代を通じて当事者たる皇帝たちの内心以外は評価される事はなく、業績が再評価されるのは彼の死後1700年以上も経ち、古代ローマ帝国が既に滅んで久しい[[啓蒙主義]]の時代からである&lt;ref&gt;古代ローマ帝国の後継国家を自認する[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国。[[ギリシャ]]系の住民が中心であったが、正式国名は「ローマ帝国」。「東ローマ帝国」も「ビザンツ帝国」も後世の呼称)も[[1453年]]に滅亡、東ローマ系国家である[[トレビゾンド帝国]]と[[エピロス専制侯国]]もそれぞれ[[1461年]]と[[1449年]]に[[オスマン帝国]]によって滅ぼされている。故に啓蒙主義の時代、「ローマ」の名の付く国家として辛うじて生き残っていたのは「[[神聖ローマ帝国]]」のみだった。ローマ帝国の中心都市[[ローマ]]も積極的な役割は果たしていない。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 統治初期 ====<br /> 帝位継承の際に[[元老院 (ローマ)|元老院]]に対し深く協力を求め、官職選挙の場を市民集会から元老院に移す(選挙の費用や手間が大きく軽減する)等の施策を取った。しかし元老院主導体制打倒を目指したカエサル、元老院の顔を立てつつも権力の要所を目立たないように掌握していったアウグストゥスとは違い、真実元老院が統治の一翼を担うことに期待を寄せていただけに目の前の元老院議員たちの体たらくに失望し、後年[[カプリ島]]に引き籠ることになる。<br /> <br /> 継承早々に[[ドナウ川]]、[[ライン川]]防衛線で待遇改善を求めてのストライキが起きる。当時退役金の不足から兵役満期となっても除隊出来ない事態もあったからだ。この対処にドナウには実子[[小ドルスス]]、ラインには養子[[ゲルマニクス]]を任じ、同士討ちの惨事も起こったものの鎮静に成功する。そして要求のうち兵役期間短縮と給金値上げは拒否しつつも、満期除隊は厳守に努め実行させた。ティベリウスは、法の公正な施行こそ統治の信頼を生むとして、その実行に努めた。殊に属州総督の不正に関する裁判への臨席は非常に熱心だった。<br /> <br /> 放って置けば際限なく拡大する国家財政を、増税することなく健全に保とうとしたために、皇帝主催の戦車競技会を中止する等の財政引き締め政策を断行した。そのため[[ローマ市民]]、元老院の人気は低かった。登極当初より、人気取り政策には見向きもしなかった。何よりも帝国全体のための施政を心掛けたために、お膝元での不人気を甘受していたのであろう。公共事業は、首都では既にアウグストゥスが非常に多く興したこともあり、メンテナンス以外は最低限に抑えたのに対し属州、特にドナウ防衛線を控える[[パンノニア]]では多くのインフラ整備を行っている。緊縮財政とはいっても、必要と判断した出費はきっちりと出していたのである。<br /> <br /> アウグストゥスの時代から28年にわたり戦役を続行していた[[ゲルマニア]]に対しては、[[エルベ川]]進出に見切りを付けて[[ライン川]]および[[ドナウ川]]において防衛線を確立した。また、同時期に東方で不穏な動きを見せていた[[パルティア]]に対しては、ゲルマニア戦線の総司令官だった[[ゲルマニクス]]を派遣して、東方問題の原因となっていた[[アルメニア]]の王位継承問題を解決し、東方の安全保障を確立した。更に盗賊の取締りなど国内治安にも力を注いだ。これらの施策により、帝国の防衛と治安は確固たるものとなり、それによってローマ帝国という広域経済圏は更なる発展を遂げる。<br /> <br /> このゲルマニクスの東方派遣の間、ゲルマニクスと[[シリア属州]]総督[[グナエウス・カルプルニウス・ピソ]]との仲が険悪化する。そしてゲルマニクスは東方で(おそらく[[マラリア]]によって)急死し、彼自身も含めピソの毒殺説が広く信じられた。ティベリウスは厳正な裁判を実施させピソは有罪必至とみて自殺、死後の処分も穏健に済ませた。ゲルマニクスの妻[[大アグリッピナ]]はティベリウスを殺害の黒幕と信じて憎悪し、後年流罪とされる。<br /> <br /> ==== セイヤヌス派の権勢と粛清 ====<br /> ゲルマニクス亡き後も、[[23年]]の時点でティベリウスの後継者候補として元首一家には実子小ドルスス、ゲルマニクスの長男[[ネロ・カエサル]]、次男[[ドルスス・カエサル]]、まだ幼いゲルマニクスの息子ガイウス・カエサル([[カリグラ]])がいた。男子としてはこの他にもゲルマニクスの弟にあたる[[クラウディウス]]もいたが長い間政治からは離れていた。<br /> <br /> 政治の実権を握ろうとしていた[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ|親衛隊長官]][[ルキウス・アエリウス・セイヤヌス]]にとって、これら元首の後継者候補の存在は歓迎すべきものではなかった。特に年齢、経験、元首との関係などから実質上唯一の後継者となっていた小ドルススはセイヤヌスに対し明白に敵意を向けており、セイヤヌスの野心にとっては最大の障害となっていた。<br /> <br /> そのためセイヤヌスは小ドルススの排除を計画する。まずは小ドルススの妻の[[リウィッラ]]に近づき、その侍医エウデムスを計画に引き込み、さらに小ドルススの[[宦官]]リュグドゥスも共謀者に加えた。準備ののち少量ずつ毒を盛り、病死に見せて[[23年]]に小ドルススを殺害した。この暗殺は非常に巧妙に行なわれたため8年後セイヤヌス一派が粛清されるまで一般に知られることはなかった。<br /> <br /> [[26年]]にティベリウスは[[カンパニア]]へと出発する。名目としては[[カプア]]で[[ユピテル]]の、[[ノラ (ナポリ県)|ノラ]]でアウグストゥスの神殿を奉献するためであったが、実際には都の喧騒から離れたいというティベリウスの長年の願望の実現のためであった。同行したのはセイヤヌスのほか、元老院議員コッケイウス・ネルウァ、上級ローマ騎士クルティウス・アッティクスなどに限られ、それ以外はほとんどがギリシア人などの文人であった。カンパニアに滞在中、ティベリウスがタラキナに近い「スペルンカ(洞窟の館)」と呼ばれる別荘で食事をとっていたところ[[落盤]]が起こり数人が犠牲となった。このときセイヤヌスは身を挺(てい)してティベリウスを守り、以後その信頼は絶対的なものとなった。<br /> <br /> [[29年]]、ティベリウスに匹敵する権威であったリウィアが死ぬと、ティベリウスは公の場でネロと[[大アグリッピナ]]を攻撃した。結果ネロは[[ポンティア島]]に、アグリッピナは[[パンダテリア島]]に流された。残ったドルススはアエミリア・レピダと結婚するが、セイヤヌスが罠にかける。[[30年]]にドルススはカプリ島からローマへ送られ、[[パラティヌス]]の宮殿に幽閉され兵の監視下に置かれた。さらにセイヤヌスは有力元老院議員であった[[ガイウス・アシニウス・ガッルス]]も投獄した。<br /> <br /> こうして対立者を排除していったセイヤヌスに、ティベリウスはこの頃から疑念を抱き始めた。しかしそうした考えを表には出さず、逆にティベリウスは自らの同僚として[[31年]]の予定[[執政官]](コンスル)にセイヤヌスを指名した。同年にティベリウスとセイヤヌスは執政官に就任する。慣習からコンスルの一方はローマに居らねばならず、カプリ島から動かないティベリウスのためセイヤヌスはローマに釘付けにされた。ローマから動けないセイヤヌスはそれまで掌握していた元首への面会、書簡のコントロールを失い、新たに届くようになった情報でティベリウスはセイヤヌスへの疑念をますます強くした。それでも依然としてティベリウスは表向きはセイヤヌスへの信頼を見せ、全属州を統治するプロコンスル命令権の共有者、さらに向こう5年間の自身と同僚のコンスルとした。<br /> <br /> [[5月]]始めにティベリウスがコンスルを辞任したため慣例によりセイヤヌスも辞任を強いられる。[[5月9日]]に二人の後任となる補欠コンスルが就任した。一般的にはこのころセイヤヌスはティベリウスへの陰謀を企てたとされる。しかしこの陰謀はサトリウス・セクンドゥスからティベリウスの弟大ドルススの寡婦でカリグラら残ったアグリッピナの遺児たちを養育していた[[小アントニア]]に漏れる。この情報がティベリウスに知らされるとついにセイヤヌスの断罪の日が訪れた。<br /> <br /> [[10月17日]]にカプリ島で[[ナエウィウス・ストリウス・マクロ]]がセイヤヌスに代わって親衛隊長官に任命され、書簡を携えローマに送られた。翌[[10月18日]]にパラティヌスのアポロ神殿で元老院が開催される。レグルスはティベリウスの書簡の朗読を始め、その最後で決定的にセイヤヌスを弾劾していた。朗読の直後元老院議場は喝采に満ち、セイヤヌスは拘束され即日処刑された。<br /> <br /> セイヤヌスの処刑後その一派の粛清が始まった。セイヤヌスの権勢は非常に強かったのでその友誼を求めた者も多く、粛清は他の元老院議員にまで及んだ。更にこれで恐慌状態に陥った議員達は告発合戦での同士討ちにまでなるが、それらは救済すべき人材でもないと見てティベリウスは概ね静観する。そしてこの時期に小ドルススの暗殺が判明した。またこれ以後ティベリウスは嫁や側近に裏切られたこともあり疑心暗鬼を強め、治世終盤の恐怖政治に繋がっていく。セイヤヌスの断罪は大きな障害なく行われ、結果としては実際に軍事力を握っていた有力者をカプリ島から出ずに滅ぼしたことで、元首の権威は圧倒的になり以後[[元首政]]は確立した。<br /> <br /> [[37年]]、カリグラを後継者に選んだあと77歳にて病没するが、上記のような経緯もあり人々は吉報と思いながらも真実かどうか気がかりである(もし誤報でティベリウスが生きていれば、彼は確実に喜んだ人間を許さないため)ため、確認がされるまで心底からは喜ばれなかった&lt;ref&gt;フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』第18巻225-227節。 なお、同書230-232節では、以前ティベリウスの悪口を言って捕まっていたユダヤの王族の[[アグリッパ1世|アグリッパス]]が独自ルートでこれを知り、やはりティベリウスをよく思っていなかった看守にこの事を知らせ一緒に喜んでいた所「実は生きていた」という誤情報が流れ、仰天した看守はアグリッパスにつらく当たるようになったという逸話がある。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 家族 ==<br /> ティベリウスは二度と結婚している。最初の妻はウィプサニア、二度目の妻は大ユリアである。ウィプサニアとは離婚を強制され、大ユリアと強引に再婚させられた。大ユリアとの離婚後は誰とも再々婚していない。<br /> <br /> ウィプサニアとの間に1男がいる。<br /> *小ドルスス(前14年? - 後23年) - 妻に[[リウィッラ]]がいたが、彼女は[[セイヤヌス]]と不倫関係を結ぶ。後に共謀した二人によって毒殺された。<br /> <br /> 大ユリアとの間にも1男がいる。<br /> *ティベリウス・ユリウス・カエサル(前10年 - 前10年) - 夭折。この男子の死後、ティベリウスと大ユリアの関係は冷却化し、最終的に離婚に至る。<br /> <br /> == 子孫 ==<br /> ティベリウスの子孫として、小ドルススの娘リウィア・ユリアの系統が少なくとも[[2世紀]]前半まで存続したとされる。<br /> <br /> *孫<br /> **リウィア・ユリア(5年 - 43年)- 最初に[[ネロ・カエサル]]と結婚した。子供はいない。後に[[ガイウス・ルベッリウス・ブランドゥス]]と再婚。<br /> **[[ティベリウス・ゲメッルス]](ティベリウス・ユリウス・カエサル・ネロ・ゲメッルス、19年 - 37/38年) - 双子の兄弟。後に[[カリグラ]]の養子となり後継者に指名されたが、暗殺された。<br /> **[[ティベリウス・クラウディウス・カエサル・ゲルマニクス・ゲメッルス]](19年 - 23年) - 双子の兄弟。夭折。<br /> <br /> *曾孫<br /> **[[ガイウス・ルベッリウス・プラウトゥス]](33年 - 62年) - リウィアとブランドゥスの長男。[[ルキウス・アンティスティウス・ウェトゥス]]の娘アンティスティアと結婚。皇帝[[ネロ]]にライバルとして危険視され、殺害された。<br /> **[[ルベッリア・バッサ]](33年〜38年 - ?) - リウィアとブランドゥスの長女。プラウトゥスの姉妹。[[ガイウス・オクタウィウス・ラエナス]]と結婚。ラエナスの姉セルギア・プラウティッラはマルクス・コッケイウス・ネルウァの妻で五賢帝の一人[[ネルウァ]]の母である。つまり、ルベッリアはネルウァの義理の叔母であり、ネルウァはユリウス・クラウディウス朝と縁戚関係にある。<br /> **他にリウィアとブランドゥスの子として、碑文から[[ルベッリウス・ドルスス]]&lt;ref&gt;三度目の誕生日の前に死亡したとされる。&lt;/ref&gt;、[[1世紀]]の[[風刺詩人]]、[[弁護士]]である[[デキムス・ユニウス・ユウェナリス]]によるとブランドゥスと同名の息子ガイウス・ルベッリウス・ブランドゥスがいたとされる。<br /> <br /> *玄孫<br /> **曾孫プラウトゥスとその妻アンティスティアの間には少なくとも1人ないし2人の子がいたと考えられるが、名前はわかっておらず、66年にネロによって殺されている。<br /> **曾孫ルベッリアとその夫ラエナスの間にも少なくとも子1人がいたと推測されるが、詳細は不明である。<br /> <br /> *来孫以下の世代<br /> **[[131年]]に[[コンスル]]に就任した[[セルギウス・オクタウィウス・ラエナス・ポンティアヌス]]はオクタウィウス・ラエナスという人物(ルベッリアとラエナスの子と推測)とその妻ポンティアとの息子で、ラエナスとルベッリアの子孫(孫)とされる。また、[[セルギウス・ルベッリウス・プラウトゥス]]という人物はポンティアヌスの親族といわれているが、具体的な系譜関係は不明である。<br /> <br /> == 年表 ==<br /> * [[紀元前42年]] - ティベリウス・クラウディウス・ネロと[[リウィア]]との間に誕生<br /> * [[1年]] - [[古代オリンピック|オリンピック大会]]で優勝<br /> * [[14年]] - 第2代皇帝に就任<br /> * [[23年]] - 息子の[[小ドルスス]]が急死する([[セイヤヌス]]破滅後、小ドルススの妻[[リウィッラ]]とセイヤヌスによる暗殺と判明)<br /> * [[27年]] - [[カプリ島]]に居を移す<br /> * [[31年]] - セイヤヌス処刑<br /> * [[33年]] - ローマでの金融危機に国家資金を投入<br /> * [[33年]] - イエス・キリストの処刑<br /> * [[34年]] - [[アルメニア]]の統治問題にウィテリウスを派遣<br /> * [[37年]] - [[ミセヌム]]の岬に立つ別荘地にて病没(77歳)<br /> <br /> == 業績 ==<br /> * ローマ市東北部に[[プラエトリアニ|親衛隊]]の兵舎を新設し、それまで大隊単位で分散して配置していた親衛隊を一箇所に駐留させた。この措置はイタリア本国の治安の安定に貢献したが、代わりに親衛隊の力を増大させ、のちに皇帝位を親衛隊が左右する事態が頻発する原因の一つとなった。<br /> * 人材登用に卓越した手腕を発揮し、身分出身地の分け隔てなく能力に応じて適材適所で登用した。そして能力さえあれば栄達の道が開かれるという空気は人的資源に大きな活力を生んだ。各自の責任分担の徹底によってのみ広大な帝国の運営が可能となるとの考えから、情報伝達網を整備して注視はしつつもよほどの大事でなければ口出しせず、現場に一任した。歴史家[[テオドール・モムゼン|モムゼン]]が「ティベリウス・スクール」と命名した彼らはその後[[ネロ]]の時代までローマ帝国を支えていくことになる。<br /> * 紀元27年、68歳のときにカプリ島に居を移し、渡航による連絡が困難になる時期には対岸で過ごすも、死ぬまでその周辺を離れることはなかった。皇帝が首都を離れたため政治は親衛隊長官セイヤヌスを経由することとなり、皇帝の書簡を承認するだけとなった元老院は完全に権威を失った。このことは元老院議員たちにティベリウスへの敵意をいだかせた。なお、ティベリウスはアウグストゥスと戦略上の意見の相違から36歳の時にも[[ロドス島]]に7年間隠遁していたことがある。<br /> * 紀元31年、帝位の簒奪を企てた親衛隊長官セイヤヌスの[[粛清]]に伴い、セイヤヌス派と目される63人に及ぶ元老院議員とその一派を「尊厳毀損法(レクス・マイエスタティス)」により断罪した。ただし、この63人という数字は、ティベリウスが直接断罪したものに加えて、元老院議員同士の告発合戦、病などにより自死を選択した人の数も含めた数字である。<br /> <br /> == 後世の評価 ==<br /> * カプリ島に隠遁しての政治は元老院、市民を軽視したものとして非難の対象となった。<br /> * セイヤヌス派の粛清などは「[[恐怖政治]]」を行なったとして[[タキトゥス]]の批判を受けた。タキトゥスはティベリウスに対し徹底して批判的であり、この件以外でも自分の著作の中で酷評している。共和制最高の名門たるクラウディウス家に生まれながら逆に帝政を鉄壁にしたことで、[[共和主義者]]タキトゥスは「裏切り者」と思ったのかもしれない(もっともティベリウス本人は当初帝位継承を固辞していた)。<br /> * タキトゥス以前にも[[フラウィウス・ヨセフス]]も、ティベリウスを「全く急がない人」であったが「何事にも怒りやすく、例え人を憎む根拠が道理にかなっていても容赦しない。」と評価している&lt;ref&gt;フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』第18巻、170・226節&lt;/ref&gt;、ただし彼はカリグラやネロを「狂気」だったと評価しているのに対し、ティベリウスに対してはそこまでは書いていない。<br /> * タキトゥスに酷評されたことで長く悪帝と思われていたが、[[ヴォルテール]]がティベリウス再評価の先鞭をつけた。さらに[[テオドール・モムゼン|モムゼン]]は、帝国全土から新たに発見された碑文などの新資料を徹底して解読した結果、批判すべき所は批判しつつも、「ローマがもった最良の皇帝の一人」と賞賛している。<br /> * 養父のアウグストゥスが死後に神格化されたのに対し、ティベリウスは死後もまったく尊ばれず軽んじられていた。本人が遺書の中で自分の死後の神格化を固辞していたため、と言われている。<br /> <br /> == 逸話 ==<br /> * [[ワイン]]を水割りで飲むのが普通だったローマ人としては珍しく、ストレートで大量に飲んでいた([[トラヤヌス]]もまたストレートで飲むことを好んだ)。ただしこれには、当時のワインがブドウ果汁が濃縮され、かつ糖分の多くがアルコールに転化されておらず、大変甘い飲み物であった事を考慮する必要がある。つまり過剰な甘さを抑えるための水割りであった。現代のワインの製法が確立するのはローマ時代であり、つまり甘い飲み物からアルコール度数が高い飲み物へと変化する過渡期だったのである。<br /> <br /> * [[キュウリ属|瓜]](ラテン語のククミス(Cucumis)はキュウリ属全般を指すので、どの種類かは不明)が大好物で、毎日の食卓に瓜を欠かさなかったと伝えられている。<br /> * 馬車の御者としては達人クラスだったらしく、ロドス在住時代に参加した古代オリンピックでは戦車競技で優勝した。<br /> <br /> == 新約聖書 ==<br /> [[新約聖書]]の[[ルカの福音書]]の記述によるとテベリオ(ティベリウス)の治世15年に、[[バプテスマのヨハネ]]が現われ、ついで[[イエス・キリスト]]の[[公生涯]]が始まったとされる。<br /> <br /> 聖書に登場する[[ガリラヤ湖]]畔の町[[ティベリア|テベリヤ]]は皇帝ティベリウスに因んでいる。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[スエトニウス]] 『[[ローマ皇帝伝]]』 國原吉之助訳、岩波書店〈岩波文庫〉、上巻:1986年、下巻:1986年。<br /> * [[タキトゥス]] 『{{仮リンク|年代記 (タキトゥス)|en|Annals (Tacitus)|label=年代記}}』 国原吉之助訳、岩波書店〈岩波文庫〉、上巻:1981年、下巻:1981年。<br /> <br /> {{Commons|Tiberius}}<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> {{新約聖書の人物}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ていへりうす}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:ユリウス・クラウディウス家]]<br /> [[Category:ユリウス氏族]]<br /> [[Category:クラウディウス氏族]]<br /> [[Category:紀元前1世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:1世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:紀元前42年生]]<br /> [[Category:37年没]]</div> 61.7.3.99 フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス 2018-06-08T01:30:56Z <p>61.7.3.99: /* 生涯 */</p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス<br /> | 各国語表記 = Flavius Valerius Severus<br /> | 君主号 = ローマ皇帝(西方正帝)<br /> | 画像 = Follis-Flavius Valerius Severus-trier RIC 650a.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = 副帝セウェルスの硬貨<br /> | 在位 = [[306年]] - [[307年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = 不明<br /> | 生地 = [[イリュリクム]]<br /> | 死亡日 = [[307年]][[9月16日]]<br /> | 没地 = トレス・タベルナエ<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 配偶者1 = <br /> | 配偶者2 = <br /> | 子女 = セウェリアヌス<br /> | 王朝 = <br /> | 父親 = <br /> | 母親 = <br /> | 宗教 =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス&#039;&#039;&#039;({{lang-la|Flavius Valerius Severus}}、? - [[307年]][[9月16日]])は、[[ローマ帝国]]の西の[[ローマ皇帝|皇帝]](在位:[[306年]] - [[307年]])。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[イリュリクム]]出身の軍人だったが、彼に近い[[ガレリウス]]帝が[[マクシミアヌス]]帝に推挙したことにより、[[305年]]にローマ帝国の西の[[副帝]]となった。セウェルスは属州出身ながら、ノーメン(氏族名)から分かるように、古代ローマの有力氏族の1つ[[ウァレリウス氏族]]の血を引いていた。[[西ローマ帝国|ローマ帝国の西方領土]]を共同統治する西の[[アウグストゥス (称号)|正帝]]は[[コンスタンティウス・クロルス]]であった。<br /> <br /> [[306年]]にコンスタンティウス・クロルスが死去すると、その息子[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]が自身の軍団に推されて正帝となると宣言したが、ガレリウス帝の推挙によりセウェルスが正帝となった。<br /> <br /> 続いて、引退したマクシミアヌスの息子[[マクセンティウス]]が[[ローマ]]で反乱を起こし、ガレリウス帝はその鎮圧にセウェルス帝を向かわせた。セウェルスは、以前はマクシミアヌス帝に仕えていた軍団を引き連れて、首都メディオラヌム(現[[ミラノ]])からローマに向かった。マクセンティウスはセウェルスが来るのに脅えて、父の助けを借りることにし、マクシミアヌスを共同皇帝として正帝に復帰させた。このため、セウェルスの軍団がローマに到着して城壁を取り囲んだときに、軍団はセウェルスの元を離れて再びマクシミアヌス配下に加わった。セウェルス帝は難攻不落の[[ラヴェンナ]]に逃走したが、マクシミアヌスが身体の安全を保障したことを受けて降伏し、ローマ近くのトレス・タベルナエ([[:en: Tres Tabernae]])に幽閉されることになった。<br /> <br /> ガレリウス帝はマクセンティウスとその父を鎮圧するため、[[307年]]に自身で兵を引き連れてイタリアに侵攻した。このときに、セウェルスはマクセンティウスに殺害された。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Flavius Valerius Severus}}<br /> * [http://www.roman-emperors.org/severus.htm DiMaio, Michael, &quot;Severus II (306-307 A.D.)&quot;, &#039;&#039;De Imperatoribus Romanis&#039;&#039;]<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:せうえるす ふらういうす うあれりうす}}<br /> <br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:307年没]]</div> 61.7.3.99 リキニウス 2018-05-25T22:14:59Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = リキニウス<br /> | 各国語表記 = Licinius<br /> | 君主号 = ローマ皇帝(東方正帝)<br /> | 画像 = Aureus of Licinius.png<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[308年]] - [[324年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = フラウィウス・ガレリウス・ウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス&lt;br&gt;(Flavius Galerius Valerius Licinianus Licinius)<br /> | 出生日 = [[263年]]頃<br /> | 生地 = 上[[モエシア]]州<br /> | 死亡日 = [[325年]]<br /> | 没地 = [[テッサロニキ]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 配偶者1 = フラウィア・ユリア・コンスタンティア([[コンスタンティウス・クロルス|コンスタンティウス1世]]の娘)<br /> | 配偶者2 = <br /> | 子女 = リキニウス2世(リキニアヌス、315年-326年)<br /> | 王朝 = <br /> | 父親 = <br /> | 母親 = <br /> | 宗教 =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;フラウィウス・ガレリウス・ウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス&#039;&#039;&#039; (&#039;&#039;&#039;{{lang|la|Flavius Galerius Valerius Licinianus Licinius}}&#039;&#039;&#039;, [[263年]]頃 – [[325年]])は、[[ローマ皇帝]](在位:[[308年]] - [[324年]])。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> リキニウスは上[[モエシア]]州で[[ダキア]]人の農家に生まれた。[[297年]]には、親友であった[[ガレリウス]]帝のペルシア遠征に付き従っている。[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス]]帝の死後、[[308年]][[11月11日]]、ガレリウス帝はリキニウスを[[アウグストゥス (称号)|正帝]]の座につけた。これによってリキニウスは、[[イリュリクム]]、[[トラキア]]、[[パンノニア]]の属州を支配することになった。<br /> <br /> [[311年]]5月にガレリウス帝が亡くなると、リキニウスは東側の帝国を[[マクシミヌス・ダイア]]と分割することになり、その境界を[[ヘレスポントス海峡]]および[[ボスポラス海峡]]とした。<br /> <br /> [[313年]]3月、リキニウスはメディオラヌム(現在の[[ミラノ]])において[[コンスタンティヌス1世]]の異母妹フラウィア・ユリア・コンスタンティアと結婚し、コンスタンティヌス帝と連名で[[ミラノ勅令]]を発して、ローマ帝国内でキリスト教を公認し没収していたキリスト教会の財産を還付した。<br /> <br /> その翌月の[[4月30日]]、マクシミヌス・ダイアの攻撃を受けたリキニウスは{{仮リンク|ツィラッルムの戦い|en|Battle of Tzirallum}}にてマクシミヌスに決定的な打撃を与えた。そして、リキニウスは東側の支配者としての地位を確立し、義兄弟にあたるコンスタンティヌス帝は西の支配者となった。<br /> <br /> [[314年]]、リキニウスとコンスタンティヌス帝とが衝突し、コンスタンティヌス帝がパンノニア属州の{{仮リンク|キバラエの戦い|en|Battle of Cibalae}}を制した(314年[[10月8日]])。その2年後、リキニウスが[[アウレリウス・ウァレリウス・ウァレンス]]を共同皇帝に指名した後、[[トラキア属州]]のマルディアの戦いにおいてリキニウスとコンスタンティウスは再び戦ったが、この戦いの後に両者は和解した。 <br /> <br /> しかし、[[324年]]、リキニウスとコンスタンティヌスは再び戦いを再開し、リキニウス軍はコンスタンティヌス軍に[[ハドリアノポリスの戦い (324年)|ハドリアノポリスの戦い]]に敗れ、[[ビュザンティオン]]の城壁の内に封じ込められた。リキニウスは[[ヘレスポントスの海戦]]において[[クリスプス]](コンスタンティヌス帝の長男で副帝)に敗れて艦隊を失い、[[ビテュニア]]属州に逃れるしかなく、その後の[[カルケドン]]近郊における[[クリュソポリスの戦い]]([[9月18日]])が最後の戦いとなった。彼は捕らえられて[[テッサロニキ]]に幽閉されたが、そこで蛮族に対して軍を起こそうとした際に、以前の共同皇帝[[セクストゥス・マルティニアヌス]]と共にコンスタンティヌス帝によって処刑された。<br /> <br /> 息子リキニアヌスも翌326年に殺害され、リキニウスの血筋は断絶した。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.roman-emperors.org/licinius.htm De Imperatoribus Romanis website:] Licinius(英語)<br /> * [http://www.ccel.org/ccel/schaff/npnf202.ii.iv.iv.html Socrates Scholasticus account of Licinius&#039; end] (英語)<br /> <br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:りきにうす}}<br /> <br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:リキニウス氏族]]<br /> [[Category:刑死した人物]]<br /> [[Category:260年代生]]<br /> [[Category:325年没]]</div> 61.7.3.99 藤原清衡 2018-04-14T13:35:54Z <p>61.7.3.99: /* 系譜 */</p> <hr /> <div>{{基礎情報 武士<br /> | 氏名 = 藤原清衡<br /> | 画像 = Fujiwara no Kiyohira.jpg<br /> | 画像サイズ = 300px<br /> | 画像説明 = [[毛越寺]]所蔵/藤原清衡像([[江戸時代]])<br /> | 時代 = [[平安時代]]後期<br /> | 生誕 = [[天喜]]4年([[1056年]])<br /> | 死没 = [[大治 (日本)|大治]]3年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]([[1128年]][[8月10日]])&lt;ref&gt;死没日には[[大治 (日本)|大治]]3年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]([[1128年]][[8月13日]])という説もある。&lt;/ref&gt;<br /> | 改名 = 藤原清衡→清原清衡→藤原清衡<br /> | 別名 = 権太郎、清平、奥御館、兵衛尉清衡、平清衡、陸奥押領使<br /> | 戒名 =<br /> | 墓所 = [[中尊寺金色堂]]<br /> | 官位 = [[陸奥国|陸奥]][[押領使]]、[[正六位上]]<br /> | 氏族 = [[奥州藤原氏]]→[[出羽清原氏]]→奥州藤原氏<br /> | 父母 = 父:[[藤原経清]]&lt;br /&gt;母:[[有加一乃末陪]]([[安倍頼時]]の娘)&lt;ref&gt;[[有加一乃末陪]]というのが通説だが、頼時の娘には有加一乃末陪の他に、[[中加乃末陪]]と[[一加一乃末倍]]が記録されており、経清との結婚時期や前九年の役終了時には若かった年齢を考えれば、末娘と考えられている一加一乃末倍の可能性も否定できない。&lt;/ref&gt;&lt;br /&gt;養父:&#039;&#039;[[清原武貞]]&#039;&#039;<br /> | 兄弟 = &#039;&#039;&#039;清衡&#039;&#039;&#039;、[[刈田経元]]&lt;ref&gt;官職は[[左衛門尉]]。[[白石氏]]の祖と伝わる(『白石氏系図』)。&lt;/ref&gt;、経光&lt;ref&gt;『[[陸奥話記]]』&lt;/ref&gt;&lt;br /&gt;義兄:&#039;&#039;[[清原真衡]]&#039;&#039;、異父弟:[[清原家衡]]<br /> | 妻 = 正室:清原氏の娘&lt;ref&gt;後三年合戦の際、[[応徳]]3年([[1086年]])に[[清原家衡]]によって殺害された女性で男女別・人数は不明であるが、清衡との間に子をもうけていた清原一族の人ではないかと推測されており、[[清原武貞]]の娘の可能性もある。武貞の娘の場合、清衡の義理の姉妹で義兄弟結婚をしたことになる。&lt;/ref&gt;&lt;br /&gt;継室:清原氏の娘&lt;ref&gt;[[藤原惟常]](小館惟常、家清)の母と推測されている。&lt;/ref&gt;&lt;br /&gt;継々室:[[佐藤氏|信夫佐藤氏]]の娘&lt;br /&gt;継々々室:&#039;&#039;&#039;[[平氏|北方平氏]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;側室?:安倍氏の娘<br /> | 子 = [[藤原惟常|惟常]](家清)、&#039;&#039;&#039;[[藤原基衡|基衡]]&#039;&#039;&#039;、[[藤原正衡|正衡]]、[[藤原清綱|清綱]]、男子、男子&lt;br /&gt;娘([[佐竹昌義]]室)、娘、娘&lt;ref&gt;「紺紙金銀字交書一切経 大品経 巻二十二」の奥書から、元永2年(1119年)当時清衡には6男3女の子供がいたと見られる。応徳3年(1086年)に父清衡は異父弟家衡に屋敷を襲撃され、当時の妻子眷族を皆殺しにされている。&lt;/ref&gt;、養女:&#039;&#039;徳姫&#039;&#039;([[岩城則道]]室)&lt;ref&gt;清衡の実の娘(基衡の姉妹、秀衡のおば)か基衡の実の娘(秀衡の姉妹)で清衡の孫娘ともいわれている。また、実際には[[清原真衡]]の娘で清衡の義理の姪にあたり、清衡の養女になったとも、基衡の養女との説があり、確定していない。&lt;/ref&gt;<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;藤原 清衡&#039;&#039;&#039;(ふじわら の きよひら)は、[[平安時代]]後期の武将で[[奥州藤原氏]]初代当主。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 出自 ===<br /> [[陸奥国]](後の[[磐城国]])[[亘理郡]]の豪族・[[藤原経清]]と陸奥国奥六郡を治めた[[俘囚]]長・[[安倍頼時]]の娘の[[有加一乃末陪]]の間の子として生まれる&lt;ref&gt;母は有加一乃末陪というのが通説だが、頼時の娘には[[有加一乃末陪]]の他に、[[中加乃末陪]]と[[一加一乃末倍]]が記録されており、経清との結婚時期や前九年の役終了時には若かった年齢を考えれば、末娘と考えられている一加一乃末倍の可能性も否定できない。&lt;/ref&gt;。幼名不詳&lt;ref&gt;東北大教授佐佐久監修『亘理郷土史』によると権太郎。また、研究者の間では、清衡の曾孫の[[藤原国衡|国衡]]の幼名が信寿丸、同じく曾孫である[[藤原泰衡|泰衡]]の子(清衡の玄孫)の幼名が万寿丸であることから、清衡の幼名も「○寿丸」ではないかという推測もある。&lt;/ref&gt;。なお、藤原経清は、[[藤原北家]]の[[藤原秀郷]](俵藤太)の子孫とされており、1047年([[永承]]2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造[[興福寺]]記』に、「経清六奥」(六奥は陸奥の意)と名前が見えていることから、当時[[藤原氏]]の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められていたようである。<br /> <br /> 父・経清は[[前九年の役]]で[[源頼義]]に反旗を翻し[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]に味方したが厨川の戦いで敗れた安倍氏と最後をともにした。この時清衡は七歳であった。敵将の嫡男であったので本来は処刑される運命にあったが、母が安倍氏を滅ぼした敵将である[[清原武則]]の長男[[清原武貞]]に再嫁することになって危うく難をのがれ、連れ子の清衡も清原武貞の養子となった。<br /> <br /> === 後三年の役 ===<br /> {{Main|後三年の役}}<br /> 清原家には、清衡の他に、武貞の嫡子で清衡とは血のつながらない&lt;ref&gt;[[高橋克彦]]氏によれば、安倍氏と清原氏との間には長年にわたる複雑な血縁関係(姻戚関係)があり(一例として、武貞の弟[[清原武衡]]の母は安倍頼清の娘)、外祖父安倍頼時の嫡妻が清原氏の娘で清衡のおじである[[安倍宗任]]の母であることや宗任と清衡の母が同母兄妹(または同母姉弟)である可能性も否定できない。その為、清衡も清原氏の血を引いているという推測もある。但し、頼時の妻の一人に[[物部氏]]の娘がおり、清衡の伯父[[安倍貞任]]の母で貞任と清衡の母が同母兄妹との説もある。&lt;/ref&gt;義兄の[[清原真衡|真衡]]、武貞と清衡の母の間に生まれた異父弟の[[清原家衡|家衡]]がいたうえに、[[吉彦秀武]]が[[清原武則]]の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。<br /> <br /> [[永保]]3年([[1083年]])に秀武が真衡に背くと、清衡・家衡は秀武に同調して、真衡が秀武討伐に出羽に向かった隙に真衡の本拠を攻撃した。だが、[[陸奥守]]であった[[源義家]]が真衡を支援して清衡・家衡を攻めたため、清衡・家衡は大敗して逃走し義家に降伏した。ところが、出羽に向かった真衡が直後に急死したため、清衡・家衡は義家の裁定で清原氏の所領を分割相続することになる&lt;ref&gt;義家の裁定は清衡に有利なものであったとの推測もあり、義家が清原氏弱体化を意図し対立を煽ったとする見解も存在している。&lt;/ref&gt;。家衡はこの裁定に不満を持ち、[[応徳]]3年([[1086年]])に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷族を皆殺しにした。難を逃れた清衡は義家に助力を求め、清衡は義家や難を逃れた同母弟の[[刈田経元]]&lt;ref&gt;『白石氏系図』より。&lt;/ref&gt; とともに家衡を討ち取った。<br /> <br /> [[後三年の役]]は清原氏の私闘とされ、何の恩賞もなく清衡にも官位の賞与も無かったが、一族最後の残存者として[[奥六郡]]を領する勢力者となった。時に[[寛治]]元年([[1087年]])清衡32歳の事である。その後実父の姓である藤原に復し、奥州藤原氏の祖となった。<br /> <br /> === 押領使任官 ===<br /> 清衡は本拠地を[[江刺郡]][[豊田館]]に構え勢力の拡大を図る一方、寛治5年(1091年)に[[関白]][[藤原師実]]に貢馬&lt;ref&gt;日記『後二条師通記』に記述。同年11月15日の項に「亥の刻関白殿(師実)の使者来たり曰く、清衡(陸奥の住人なり)、馬二疋進上の由、仰する所也。承りおわんぬ、、云々」とある。&lt;/ref&gt; するなど京都の藤原氏と交誼を深め、また柴田郡の大高山神社・刈田郡刈田嶺神社の年貢金を代納するなど、奥羽の統治者としての地位を築いた。<br /> <br /> 一方で寛治6年(1092年)6月の陸奥守・[[藤原基家 (陸奥守)|藤原基家]]の解文では、清衡に合戦の企ての嫌疑がかけられた。また、翌寛治7年(1093年)には清衡の勢力圏である[[出羽国]]において[[平師妙]]および[[平師季]]父子らが出羽国府の[[秋田城]]を襲撃する反乱が発生した。反乱自体は寛治8年(1094年)に[[陸奥国司|陸奥守]]・[[源義綱]]によって鎮圧されたが、清衡の関わりについては明らかではない。なお、清衡はこの前後に陸奥の[[押領使]]となったと推定されている(任押領使を寛治3年(1089年)とする見解もある)。<br /> <br /> === 平泉造営 ===<br /> 嘉保年中(1094年 - 1095年)頃には、[[磐井郡]][[平泉]]に居を移し、政治文化の中心都市の建設に着手。1108年には[[中尊寺]]造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏4代100年の栄華の基礎を築いた。また[[宋 (王朝)]]からは一切経の輸入も行うなど、[[北方貿易]]にも着手した。<br /> <br /> 金銀[[螺鈿]]をちりばめた[[中尊寺金色堂|金色堂]]の落慶の翌年(大治3年)、当時としては長命の73歳で没した。ちなみに[[中尊寺供養願文]]として知られる文書では、自らを「[[東夷]]の遠酋」「[[俘囚]]の上頭」と表現している。<br /> <br /> == 金色堂に眠る藤原四代 ==<br /> 金色堂に納められた清衡の遺骸を調査した結果、血液型はAB型であり、曾孫の[[藤原泰衡|泰衡]]まで四代直系で矛盾はないとされる。清衡の顔は頬骨の秀でた比較的短い顔で、鼻筋が通っている。身長は159cm、手の形は小さく華奢。四肢の筋はよく発達している。体形は痩せ形。レントゲン検査によると、左半身に顕著な骨萎縮が見られ、[[脳溢血]]、[[脳栓塞]]、[[脳腫瘍]]などによる半身不随であったと見られる。発症時期は快方が見込めなくなった頃に妻が筆写納経を行った1117年 - 1119年頃ではないかと推測されている。没年齢は歯の状態から70歳以上と見られ、史料の没年齢と矛盾はないとされる。<br /> <br /> == 系譜 ==<br /> 清衡の妻として「北方平氏」が史料によく現れる。「北方平氏」は正妻であるとされている。しかし出自に関しては明らかではなく、父経清の母方である[[平国妙]]の縁者、[[越後国|越後]][[城氏 (平氏)|城氏]]、海道平氏[[岩城氏]]、[[常陸国|常陸]][[大掾氏]]、都の[[平氏]]の誰かなど諸説があるがどれも決め手には欠ける。<br /> <br /> 「紺紙金銀字交書一切経 大品経 巻二十二」の奥書から、[[元永]]2年(1119年)当時清衡には6男3女の子供がいたと見られる&lt;ref&gt;執筆修行僧堯/大檀主藤原清衡 北方平氏 六男三女 所生&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> なお、『[[中右記]]』に見える「兵衛尉清衡」、「平清衡」を清衡のこととし、寛治 - [[康和]]年間に、妻の姓である「平」を名乗り在京し任官していたとする説がある。<br /> <br /> * 父:[[藤原経清]]<br /> * 養父:[[清原武貞]]<br /> * 母:[[有加一乃末陪]] - [[安倍頼時]]の娘<br /> * 義兄:[[清原真衡]] - 後三年の役で清衡と争う。<br /> * 異父弟:[[清原家衡]] - 後三年の役の当初は清衡と共闘し真衡と争うが、のちに清衡と争い滅んだ。<br /> * 正室:清原氏の娘 - 清原武貞の娘?。後三年の役で家衡によって子とともに殺された。<br /> * 継室:清原氏の娘<br /> ** [[藤原惟常]] - 藤原基衡の異母兄。別名小館惟常。<br /> * 継々室:信夫佐藤氏の娘<br /> * 継々々室:[[北方平氏]]<br /> ** [[藤原基衡]] - 二男。異母兄惟常との後継争いを制し、藤原氏を継承した。<br /> * 生母不詳<br /> ** [[藤原正衡]] - 三男。別名小館三郎正衡。<br /> ** [[藤原清綱]] - 四男。別名亘理権十郎、あるいは樋爪俊衡。<br /> ** 娘 - [[佐竹昌義]]室<br /> ** その他姓名不詳の男子2名と女子2名<br /> <br /> == 逸話 ==<br /> * 天仁元年(1108年)、[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]の勅宣により藤原基衡が[[出羽国]][[最上郡]](現・[[山形県]][[寒河江市]])の[[慈恩寺 (寒河江市)|慈恩寺]]を再興したという(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置した。ただし、基衡は[[1100年]]前後の生まれと目されるため実際には清衡が再興したか、再興年に誤りがあるとみられる&lt;ref&gt;『寒河江市史 上巻』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commonscat}}<br /> * [[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]<br /> * [[出羽清原氏]]<br /> * [[奥州藤原氏]]<br /> <br /> ;小説<br /> * [[今東光]]『蒼き蝦夷の血』(新人物往来社/徳間文庫)<br /> * [[高橋克彦]]『[[炎立つ (小説)|炎立つ]]』(日本放送出版協会/講談社文庫)<br /> <br /> ;TVドラマ<br /> *『[[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]]』([[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、1993年 - 1994年、演:[[村上弘明]])<br /> <br /> {{奥州藤原氏当主}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ふしわら の きよひら}}<br /> [[Category:奥州藤原氏|きよひら]]<br /> [[Category:出羽清原氏]]<br /> [[Category:平安時代の武士]]<br /> [[Category:陸奥国の人物]]<br /> [[Category:都市の建設者]]<br /> [[Category:後三年の役]]<br /> [[Category:1056年生]]<br /> [[Category:1128年没]]</div> 61.7.3.99 大河兼任 2018-03-21T11:01:43Z <p>61.7.3.99: /* 経歴 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;大河 兼任&#039;&#039;&#039;(おおかわ かねとう、生年不詳 - [[1190年]]&lt;ref name=akita&gt;辰守弘「大河兼任」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年、ISBN 4870200074&lt;/ref&gt;[[4月16日]]&lt;ref name=asahi&gt;{{cite web|url=http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%85%BC%E4%BB%BB |title=【大河兼任(おおかわ・かねとう)】|publisher=朝日日本歴史人物事典(遠藤巖)|language=日本語|accessdate=2014-01-10}}&lt;/ref&gt;([[文治]]6年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]&lt;ref name=kodansha&gt;{{cite web|url=http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%85%BC%E4%BB%BB |title=【大河兼任(おおかわ-かねとう)】|publisher=デジタル版 日本人名大辞典+Plus|language=日本語|date=2009-01-20|accessdate=2014-01-10}}&lt;/ref&gt;))は、[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]前期の[[武将]]&lt;ref name=kodansha/&gt;。[[奥州藤原氏]]の[[藤原泰衡]]の[[郎党]]&lt;ref name=asahi/&gt;。[[大河兼任の乱]]を引き起こした。<br /> <br /> == 経歴 ==<br /> 家系、父母ともに不明。藤原泰衡の郎党であったとされているが、弟の[[新田三郎]]、[[二藤次忠季]]が[[御家人]]と記録されていることから、奥州藤原氏滅亡後一旦御家人となったとも推察されている。子に鶴太郎、於幾内次郎。<br /> <br /> 通説では[[出羽国]]北部[[八郎潟]]沿岸の&#039;&#039;&#039;大河&#039;&#039;&#039;(現[[秋田県]][[五城目町]]大川)の豪族だとされる&lt;ref name=akita/&gt;が、[[陸奥国]][[津軽地方]]の豪族だったのではないかとする説&lt;ref name=asahi/&gt;&lt;ref&gt;高橋富雄 『平泉の世紀―古代と中世の間』 講談社、2012年、ISBN 4062920948&lt;/ref&gt;もある。奥州藤原氏が滅亡した[[奥州合戦]]の直後より[[鎌倉幕府|鎌倉政権]]への叛逆を企て、[[1189年]]([[文治]]5年)[[12月]]、出羽国に挙兵。『[[吾妻鏡]]』によると総勢7000騎から最大で10000騎に及んだという。一説に[[安倍頼時]]の子の1人で[[安倍貞任]]、[[安倍宗任]]の弟、[[安倍行任]]、[[安倍家任]]の兄弟・[[安倍正任]]が兼任の高祖父にあたるという(正任の4代孫)。この説が事実ならば、兼任は正任の玄孫、頼時の来孫ということになる。<br /> <br /> 男鹿地方の地頭橘公業の拠点を襲撃し、一時は[[由利維平]]、津軽の[[宇佐美実政]]らを討ち取るなど戦闘を優勢に進め[[平泉町|平泉]]を占拠したが、[[足利義兼]]を追討使とした追討軍に栗原郡一迫(現[[栗原市]])で敗れ敗走。3月10日に栗原寺で地元の[[樵]]に立派な具足を怪しまれ、斧で斬殺された&lt;ref name=asahi/&gt;&lt;ref name=kodansha/&gt;。<br /> <br /> == 主君の敵討ちの元祖 ==<br /> 『吾妻鏡』に、兼任の言葉として「古今の間、六親もしくは夫婦の怨敵に報ずるは、尋常のことなり。いまだ主人の敵を討つの例あらず。兼任独りその例を始めんがために鎌倉に赴くところなり」との記事があることから、主君の敵討ちの元祖と言われている。<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{脚注ヘルプ}} <br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[大河兼任の乱]]<br /> * [[奥州藤原氏]]<br /> * [[奥州合戦]]<br /> {{DEFAULTSORT:おおかわ かねとう}}<br /> {{Japanese-history-stub}}<br /> [[Category:平安時代の武士]]<br /> [[Category:鎌倉時代の武士]]<br /> [[Category:秋田県の歴史]]<br /> [[Category:1190年没]]</div> 61.7.3.99 藤原基衡 2018-03-03T11:37:49Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2017年10月}}<br /> {{基礎情報 武士<br /> | 氏名 = 藤原基衡<br /> | 画像 = Fujiwara no motohira.jpg<br /> | 画像サイズ = 250px<br /> | 画像説明 = [[毛越寺]]所蔵/藤原基衡像([[江戸時代]])<br /> | 時代 = [[平安時代]]後期<br /> | 生誕 = [[長治]]2年([[1105年]])?&lt;ref&gt;生年については諸説あり、[[大治 (日本)|大治]]3年([[1128年]])時点で26歳から27歳との推測もある。この場合、[[康和]]4年([[1102年]])から翌[[康和]]5年([[1103年]])に生まれたとされる。他に[[康和]]6年、[[長治]]元年([[1104年]])から[[長治]]2年([[1105年]])生まれとも推測されている。&lt;/ref&gt;<br /> | 死没 = [[保元]]2年[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]([[1157年]][[4月29日]])&lt;ref&gt;『史料総覧』3編903冊362頁。「藤原清衡系図」(続平泉雑記所載)。なお、翌3年([[1158年]])に没したという説もある。&lt;/ref&gt;<br /> | 別名 = 基平、中御館平泉、出羽押領使<br /> | 墓所 = [[中尊寺金色堂]]<br /> | 官位 = [[出羽国|出羽]][[陸奥国|陸奥]][[押領使]]<br /> | 氏族 = [[奥州藤原氏]]<br /> | 父母 = 父:[[藤原清衡]]&lt;br /&gt;母:[[平氏|北方平氏]]?(諸説あり。後述)<br /> | 兄弟 = [[藤原惟常|惟常]](家清)、&#039;&#039;&#039;基衡&#039;&#039;&#039;、[[藤原正衡|正衡]]、[[藤原清綱|清綱]]、男子、男子、娘([[佐竹昌義]]室)、娘、娘&lt;ref&gt;「紺紙金銀字交書一切経 大品経 巻二十二」の奥書から、元永2年(1119年)当時清衡には6男3女の子供がいたと見られる。応徳3年(1086年)に父清衡は異父弟家衡に屋敷を襲撃され、当時の妻子眷族を皆殺しにされている。&lt;/ref&gt;<br /> | 妻 = 継室?:[[安倍宗任]]の娘&lt;ref&gt;『史料総覧』3編903冊362頁。「平泉志」「続平泉雑記」。しかし、安倍宗任は1062年に[[前九年の役]]により京都・伊予・筑前と配流されており雑記の筆者も疑問を呈している。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;秀衡の生母については安倍宗任の娘とされているが、一説に基衡が安倍宗任の娘を正室に迎えたのは家督継承後で、それ以前に秀衡は生まれていたとされる。このことから、秀衡の生母は基衡が家督継承以前に迎えていた妻ではないかという推測もある。&lt;/ref&gt;<br /> | 子 = 男子?&lt;ref&gt;秀衡の通称が次郎で秀衡の次男泰衡の通称が次郎の次男という意味合いがある小次郎であることから、秀衡には兄がいたとの推測がある。&lt;/ref&gt;、&#039;&#039;&#039;[[藤原秀衡|秀衡]]&#039;&#039;&#039;、[[十三秀栄]]&lt;ref&gt;[[津軽氏]]の祖という。名は「ひでひさ」、もしくは「ひではる」。&lt;/ref&gt;、[[樋爪俊衡]]&lt;ref&gt;一説に子、または甥。&lt;/ref&gt;、徳姫([[岩城則道]]室)&lt;ref&gt;清衡の娘(つまり、基衡の姉妹)か基衡の娘といわれている。また、実際には[[清原真衡]]の娘で清衡の養女とも、基衡の養女ともされる。&lt;/ref&gt;<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;藤原 基衡&#039;&#039;&#039;(ふじわら の もとひら)は、[[平安時代]]後期の[[豪族]]。[[奥州藤原氏]]第2代当主。[[藤原清衡]]の次男に当たる。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[天仁]]元年([[1108年]])、[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]の勅宣により、[[出羽国]][[寒河江荘]][[慈恩寺 (寒河江市)|慈恩寺]]に阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置したという&lt;ref&gt;『寒河江市史 上巻』『寒河江市史 慈恩寺中世資料(解読版)』、「瑞宝山慈恩寺伽藍記」&lt;/ref&gt;。だが、この逸話では基衡の年齢が幼すぎ、父・清衡が慈恩寺を再興したか、もしくは再興年に誤りがあるとみられる。<br /> <br /> === 異母兄・惟常らとの争い ===<br /> [[大治 (日本)|大治]]3年([[1128年]])に父清衡が死去。翌[[大治 (日本)|大治]]4年([[1129年]])、異母兄である[[藤原惟常|惟常]]ら兄弟との争乱が記録されている。基衡は惟常の「国館」([[国衙]]の事と思われる)を攻め、異母弟の圧迫に耐えかねた惟常は小舟に乗って子供を含め二十余人を引き連れて脱出し、[[越後国]]に落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃に出ようとするが、基衡は陸路軍兵を差し向け、逆風を受けて小舟が出発地に押し戻された所を惟常父子らを斬首したという&lt;ref&gt;[[源師時]]の日記『[[長秋記]]』大治5年([[1130年]])6月8日条&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この当時、惟常は跡継ぎを意味する「小館」と称されて独自の屋敷を構えており、対して基衡は「[[御曹司]]」と称されて清衡と同じ屋敷に住んでいたといわれている。今でこそ、「御曹司」という言葉は跡取りの意味合いが強いが、当時は「そこに住まう人」や「居候」という意味だった。後に[[源義経]]も「そこに住まう人」や「居候」という意味で「御曹司」と称されている。この観点から言えば、正当な家督相続者は惟常で基衡は簒奪者だった。また、長子相続が絶対の時代ではなかったため、このような事態は平然と起こり得た。<br /> <br /> この内乱の背景について第一に考えられていることは、清原氏の娘を母に持つ惟常を担ぐ家臣団と、安部氏の娘を母に持つ基衡を担ぐ家臣団との小競り合いがあったということである。またそれぞれの家臣団は独立性が非常に強かったことから、奥州藤原氏の当主となった基衡は当主の権力強化と確立、そしてそれによる家臣団の統制に乗り出すことになる。その過程で基衡を支えたのが、佐藤基治やその息子達の継信・忠信兄弟を輩出した信夫佐藤氏であった。<br /> <br /> === 藤原師綱との諍い ===<br /> [[康治]]元年([[1142年]])、[[藤原師綱]]が[[陸奥国司|陸奥守]]として赴任すると、[[陸奥国]]は「基衡、一国を押領し国司の威無きがごとし」(『[[古事談]]』)という状態であったので、事の子細を奏上し[[宣旨]]を得て[[信夫郡]]の[[公田]][[検注]]を実施しようとしたところ、基衡は信夫佐藤氏の一族であり、[[家人]]でもある[[地頭]]大庄司・季治([[佐藤季治]]、または季春)に命じてこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生する。激怒した師綱は陣容を立て直して再度戦う姿勢をしめし、宣旨に背く者として基衡を糾弾する。季治は師綱の元に出頭し、審議の結果処刑された。基衡は師綱に砂金一万両献上し、季治の助命を誓願するが、師綱はこれを拒否したという。<br /> <br /> === 基衡自身の国府への影響力(藤原頼長に対する勝利) ===<br /> 基衡はこれに懲り、翌康治2年([[1143年]])に師綱の後任の陸奥守として下向した[[院近臣]]・[[藤原基成]]と結び、その娘を嫡子・[[藤原秀衡|秀衡]]に嫁がせた。基成と結ぶことで基衡は[[国府]]にも影響を及ぼし、院へもつながりを持った。<br /> <br /> また、[[左大臣]]・[[藤原頼長]]が摂関家荘園12荘のうち、自分が相続した[[出羽国|出羽]]遊佐荘、屋代荘、大曾根荘、[[陸奥国|陸奥]]本吉荘、高鞍荘の年貢増額を要求してきた。この年貢増微問題は5年以上揉める事になるが、基衡はこれと粘り強く交渉し、[[仁平]]3年([[1153年]])に要求量を大幅に下回る年貢増徴で妥結させ、頼長を悔しがらせている&lt;ref&gt;[[天仁]]元年([[1108年]])、[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]の勅宣により[[藤原氏]]が奉行となり[[出羽国]](現・[[山形県]][[寒河江市]])の[[慈恩寺 (寒河江市)|慈恩寺]]再建を行っているが、仁平年間([[1151年]]~1153年)の再興にあたっては[[平忠盛]]への奉行の転換が行われる。これについては[[奥州藤原氏]]と藤原摂関家が年貢増徴をめぐって争ったことが遠因ではないかとの指摘もある。(『寒河江市史 上巻』 p.256) &lt;/ref&gt;。これにより、奥羽にあった[[摂家|摂関家]]荘園は奥州藤原氏が[[荘官]]として管理していたことがわかる。<br /> <br /> === 毛越寺と観自在王院 ===<br /> [[久安]]6年([[1150年]])から[[久寿]]3年([[1156年]])にかけて、[[毛越寺]]に大規模な[[伽藍]]を建立した。金堂円隆寺と広大な浄土庭園を中心に伽藍が次々に建立されていった。&lt;!-- 運慶に関する記述を削除しました。詳細はノートで --&gt;また、基衡の妻は[[観自在王院跡|観自在王院]]を建立している&lt;ref&gt;[[高橋富雄]]は観自在王院を建立したとされる女性を「基衡妻」とするのは誤記で、基衡の父・清衡の妻の一人であった(=「基衡母」)という独自の見解を示している。&lt;/ref&gt;毛越寺を建立するときの豪奢な贈物は都人の耳目を聳動させ、その様子は『[[吾妻鏡]]』で「&#039;&#039;&#039;霊場の荘厳はわが朝無双&#039;&#039;&#039;」と称された。<br /> <br /> 毛越寺本尊造立に絡んで、当時の奥州藤原氏の財力が窺い知れる次のような逸話が残されている。当時の毛越寺の本尊は、基衡の依頼により都の仏師雲慶により作られたが、その謝礼として百両もの金をはじめとした絹や奥州産の馬、蝦夷ヶ島(北海道)産のアザラシの毛皮など大量の品物を基衡は送った。ある時、別禄として生美絹(すずしのきぬ)を船三隻に積んで送ったところ、雲慶は大変喜び「練絹なら尚よかった」と冗談まじりに言ったところ、その話を聞いた基衡は大変後悔し、&#039;&#039;&#039;新たに練絹を船三隻に積んで送った&#039;&#039;&#039;という。 <br /> <br /> === 死去 ===<br /> [[保元]]2年([[1157年]])[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]頃に死去、『吾妻鏡』ではその死について「夭亡&lt;ref&gt;若くして亡くなるの意味。&lt;/ref&gt;」と記している。家督は嫡男である[[藤原秀衡|秀衡]]が継承しているが、その際には基衡が家督を継いだ際の様な内乱は記録されていない。<br /> <br /> == 生母について ==<br /> 父清衡の正室に北方平氏の名がよく見える。しかし、この女性が清衡の正室に迎えられた時、20歳代だったと思われるため、基衡の生母は安倍氏の娘、もしくは[[佐藤氏|信夫佐藤氏]]の娘ではないかとも考えられている。なお、清衡の元妻が清衡の死後に上洛して都の[[検非違使]]・[[源義成]]と再婚し、所々へ追従し、珍宝を捧げて清衡の二子合戦を上奏して都人の不興を買っている。この女性が当時30歳代の北方平氏とされ、基衡と反目し、後継者争いに関わって[[平泉]]を追われたのではないかと推測されている。<br /> <br /> == 金色堂に眠る基衡 ==<br /> 基衡の遺骸は[[ミイラ]]となって父清衡、子秀衡と共に現在も[[中尊寺金色堂]]内に納められている。新たに仏壇を増築して納められたと考えられている。[[1950年]](昭和25年)の遺体学術調査について[[1994年]]7月に中尊寺により上梓された『中尊寺御遺体学術調査 最終報告』によると、基衡は血液型A型、身長は三代中もっとも高く167cm。太く短い首、福々しい顔。よく発達した胴、胸幅は厚く広い、いかり肩で腰から下は比較的小さい。肥満体質で歯に[[カリエス]]、[[歯槽膿漏]]。右側上下肢に軽度の[[骨萎縮]]が見られ、右半身不随あり、脳圧の上昇が確認され、「憶測が許されるならば」との添え書きの上で、[[脳溢血]]、[[脳栓塞]]、[[脳腫瘍]]などで急死したとみられると報告されている。三代中もっとも恵まれた体躯(たいく)の持ち主だった。遺体は金箔が施され、錦で内貼りされた木棺の中に念珠や刀などの副葬品と共に納められ、両足の先以外はほぼ完全にミイラ化していた。 死亡年齢は50歳代、50歳代 - 60歳代、あるいは54歳 - 55歳、55歳 - 60歳、60歳前後と見られている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994<br /> * 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 慈恩寺中世資料(解読版)』、1997<br /> * [http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html 東京大学史料編纂所]『史料総覧』データベース<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[奥州藤原氏]]<br /> * [[中尊寺]]<br /> <br /> ; 小説<br /> * [[今東光]]『蒼き蝦夷の血』(新人物往来社/徳間文庫)<br /> <br /> {{奥州藤原氏当主}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふしわら の もとひら}}<br /> [[category:奥州藤原氏|もとひら]]<br /> [[category:平安時代の武士]]<br /> [[Category:生年不明]]<br /> [[Category:1157年没]]</div> 61.7.3.99 徳川家宣 2018-03-03T11:12:00Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 武士<br /> | 氏名 = 徳川家宣<br /> | 画像 = Tokugawa Ienobu.jpg<br /> | 画像サイズ = 260px<br /> | 画像説明 = 徳川家宣像([[徳川記念財団]]蔵)<br /> | 時代 = [[江戸時代]]前期 - 中期<br /> | 生誕 = [[寛文]]2年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[1662年]][[6月11日]])<br /> | 死没 = [[正徳 (日本)|正徳]]2年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[1712年]][[11月12日]])<br /> | 改名 = 新見左近、松平虎松(幼名)、徳川綱豊、家宣<br /> | 別名 = 甲府宰相<br /> | 諡号 = 文昭院<br /> | 戒名 = 文昭院殿贈正一位大相国公&lt;br /&gt;文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士<br /> | 墓所 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の三縁山広度院[[増上寺]]<br /> | 官位 = [[従三位]]・[[近衛府|左近衛権中将]]兼左近衛将監、[[参議]]、[[正三位]]、[[中納言|権中納言]]、[[従二位]]・[[大納言|権大納言]]、[[正二位]]・[[内大臣]]、[[近衛大将|右近衛大将]]、[[征夷大将軍]]、贈[[正一位]]・[[太政大臣]]<br /> | 幕府 = [[江戸幕府]] 6代[[征夷大将軍]](在任:1709年 - 1712年)<br /> | 藩 =[[甲斐国|甲斐]][[甲府藩]]主(在任:[[延宝]]6年([[1678年]])- [[宝永]]元年([[1704年]])<br /> | 氏族 = [[徳川氏]]([[甲府徳川家]]、[[徳川将軍家]])&lt;br /&gt;[[新見氏]]<br /> | 父母 = 父:[[徳川綱重]]、母:[[長昌院]](お保良)&lt;br /&gt;養父:&#039;&#039;[[新見正信]]&#039;&#039;、&#039;&#039;[[徳川綱吉]]&#039;&#039;<br /> | 兄弟 = &#039;&#039;&#039;家宣&#039;&#039;&#039;、[[松平清武]]、牛丸?&lt;ref&gt;母は父綱重の継室・[[紅玉院]]とされる。[[1673年]] - 1673年。実在すれば家宣の異母弟となる。&lt;/ref&gt;<br /> | 妻 = 正室:&#039;&#039;&#039;[[近衛熙子]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;側室:[[月光院|お喜世の方]]、[[法心院|お古牟の方]]、[[蓮浄院|お須免の方]]、[[本光院 (徳川家宣側室)|斎宮]]<br /> | 子 = [[豊姫 (徳川家宣長女)|豊姫]]、[[夢月院]]、[[徳川家千代|家千代]]、[[徳川大五郎|大五郎]]、&#039;&#039;&#039;[[徳川家継|家継]]&#039;&#039;&#039;、[[徳川虎吉|虎吉]]&lt;br /&gt;養女:&#039;&#039;政姫&#039;&#039;([[近衛家熙]]の娘)<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;徳川 家宣&#039;&#039;&#039;(とくがわ いえのぶ)は、[[江戸幕府]]第6代[[征夷大将軍|将軍]](在職:[[1709年]] - [[1712年]])である。<br /> <br /> [[甲府藩]]主・[[徳川綱重]](甲府宰相)の長男で、母はお保良の方([[長昌院]])。正室は[[近衛基熙]]の娘・[[近衛熙子|熙子(天英院)]]。子に[[徳川家継]]ほか。第3代将軍・[[徳川家光]]の孫に当たる。同母弟に[[松平清武]]、その子で甥に[[松平清方]]がいる。幼名は虎松。初名は&#039;&#039;&#039;綱豊&#039;&#039;&#039;(つなとよ)。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[寛文]]2年4月25日(1662年6月11日)、[[徳川綱重]]の[[長男]]として、[[江戸]]根津邸にて生まれる。父が[[正室]]を娶る直前の19歳の時に、身分の低い26歳の女中・[[長昌院|お保良(長昌院)]]に生ませた子であったため、世間を憚って家臣の[[新見正信]]に預けられ、養子として&#039;&#039;&#039;新見左近&#039;&#039;&#039;を名乗った。生母は寛文4年([[1664年]])に死去している。<br /> <br /> 9歳のとき、他の男子に恵まれなかった綱重の世嗣として呼び戻され、[[元服]]して伯父である4代将軍・[[徳川家綱]]の[[偏諱]]を受けて&#039;&#039;&#039;綱豊&#039;&#039;&#039;と名乗った。[[延宝]]6年([[1678年]])10月25日に父・綱重が死去し、17歳で家督を継承し、祖母・[[順性院]]に育てられた。<br /> <br /> 延宝8年([[1680年]])、家綱が重態となった際には、家綱に男子がなかったことから綱重の弟である[[上野国|上野]][[館林藩]]主・[[徳川綱吉]]とともに第5代将軍の有力候補であったが、[[堀田正俊]]が家光に血が近い綱吉を強力に推したため、綱豊の将軍就任はならなかった。<br /> <br /> 綱吉にも男子がおらず、綱吉の娘婿の[[紀州藩]]主[[徳川綱教]]という後継候補も存在したが、3代将軍[[徳川家光]]の孫であることもあって将軍世嗣に正式に定まり、「家宣」と改名して綱吉の養子となり[[江戸城]]西の丸に入ったのは[[宝永]]元年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]([[1704年]][[12月31日]])、家宣が43歳の時だった。なお、綱豊の将軍後継に伴い甲府徳川家は絶家となり、家臣団も幕臣として編制されている。<br /> <br /> 宝永6年([[1709年]])、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると、[[宝永通宝]]の流通と[[酒税]]&lt;ref&gt;元禄10年(1697年)、幕府が造り酒屋に対して課した[[運上金]]「&#039;&#039;&#039;酒運上&#039;&#039;&#039;」。酒価格の五割。&lt;/ref&gt; とを廃止。[[生類憐れみの令]]も一部を残し順次廃止させた。ほか、[[柳沢吉保]]の辞職により[[側用人]]に[[間部詮房]]、学者として[[新井白石]]らを登用して、綱吉時代から始まった[[文治政治]]を推進し、[[琉球]]や[[李氏朝鮮]]との外交や[[武家諸法度|宝永令]]の発布、[[新井白石]]による正徳金銀の発行などの財政改革を試みた。しかし在職3年後の[[正徳 (日本)|正徳]]2年10月14日(1712年11月12日)に死去。[[享年]]51(満50歳没)。家綱・綱吉と同様に家宣も後継者に恵まれず将軍職を継いだのは3歳の[[徳川家継]]で、政治は引き続き新井白石らに依存した。<br /> <br /> [[戒名|法名]]は文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の三縁山広度院[[増上寺]]。<br /> <br /> 6代将軍・徳川家宣と7代将軍・徳川家継の治世を併せて[[正徳の治]](正徳の政治)という。<br /> <br /> == 人物・逸話 ==<br /> * [[荻原重秀]]を憎む新井白石に対し「才あるものは徳あらず。徳あるものは才あらず。真材誠に得がたし」と宥め、重秀を病没寸前まで重用し続けていた。<br /> * 慈悲深いことで知られた。『[[徳川実紀]]』は「仁慈の心あり」と評している。父・綱重から世子として呼び戻された際、綱豊付の家臣として[[新見正信]]、[[太田正成]]、[[島田時之]]らを付された。新見は家宣の育ての父であり、さらに養父であったことから家宣の信任が厚く、それを嫉妬した太田・島田らが幕府に対して「左近は早世しており、新見が自らの子を左近として擁立した」と偽って[[讒訴]]した。これが事実無根と知れると、両名は幕府から切腹を命じられたが、家宣は「一時とはいえ、自分のために仕えてくれた家臣を助けてほしい」と助命を嘆願し、流罪に減刑された。<br /> * 綱吉の実子・[[徳川徳松|徳松]]が早世すると、[[水戸藩]]主・[[徳川光圀]]から強く次期将軍に推挙されたといわれる。<br /> * 綱吉との関係は良好なものではなかったという。<br /> * [[新井白石]]から初代将軍・[[徳川家康|家康]]、曽祖父の2代将軍・[[徳川秀忠|秀忠]]、祖父の3代将軍・[[徳川家光|家光]]の事跡などを熱心に学んだといわれる。また[[慶長]]5年(1600年)から延宝8年(1680年)に至る80年間の諸大名家の家系図と略伝を10か月でまとめさせ、『[[藩翰譜]]』と題して常に手元に置いたという。<br /> * 綱吉から養子として迎えられて[[江戸城]]西の丸に入ったとき、また下心を持つ諸大名や[[旗本]]が賄賂に近い祝い品を持ってきたとき、家宣はこれらを全く受け取らなかったという。後に将軍になると人事を一新し、不正を厳しく取り締まった([[加藤明英]]の項目など参照)。<br /> * 将軍になると、新井のほかに[[室鳩巣]]ら多くの学者を招聘し、人材の登用に尽力した。<br /> * 綱吉は「生類憐れみの令」を厳守することを遺言して世を去ったが、家宣は葬儀の2日前に綱吉の柩の前で、側用人の柳沢吉保に対して「生類憐れみの禁令に触れ罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のためにあえて遺命に背くこととする」と言ったという([[徳川実紀]])。ただしこれは、新井白石の『[[折たく柴の記]]』に書かれている同じエピソードと日時が食い違う上、柳沢吉保の日記『楽只堂年録』には「(生類憐れみの令は)いずれも遵守して断絶なきようにせよ」と言ったとあり、事実かどうかは不明である。<br /> * 家宣は死の床についたとき、側用人の間部詮房を通じて新井白石に将軍継嗣について相談した。「鍋松(家継)は幼く、古来幼主の時に世が平穏であったためしが少ない。また天下の事は私すべきものではない。東照宮(家康)が御三家を立てられたのはこのような時のためであるから、自分の後は尾張殿([[徳川吉通]])に将軍職を譲って鍋松が成人した折には尾張殿の心に任せた方が良いか、あるいは鍋松が成人するまで尾張殿には西之丸で政治を執ってもらい不幸にして鍋松が死んだ場合には尾張殿に将軍家を継いでもらった方が良いか、どちらが良いだろうか」との家宣の下問に対し、白石は両案ともに反対、鍋松を継嗣として譜代の者がこれを補佐することを進言した。家宣もその案を受け入れ、間もなく息を引き取った。<br /> * 死因は、当時流行した[[感冒]]([[インフルエンザ]])とみられている&lt;ref&gt;[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』([[新潮新書]]、[[2005年]][[5月]]、ISBN 978-4106101199)より。また、[[謎解き!江戸のススメ]]([[BS-TBS]]、[[2015年]][[3月2日]]放送)でも紹介された。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 官歴 ==<br /> * [[寛文]]10年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]([[1670年]][[8月24日]])、松平虎松を称する。それ以前は新見左近と称する。<br /> * [[延宝]]4年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]([[1677年]][[1月15日]])、従三位に叙し、左近衛権中将に任官。左近衛将監を兼任。同日元服。伯父である将軍・家綱の1字を賜り、綱豊と名乗る。<br /> * 延宝6年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]([[1678年]][[12月8日]])、甲斐国府中城主襲封<br /> * 延宝8年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]([[1680年]][[9月10日]])、参議に補任。[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]([[10月28日]])、正三位に昇叙。参議如元。<br /> * [[元禄]]3年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]([[1691年]][[1月13日]])、権中納言に転任。<br /> * [[宝永]]元年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]([[1704年]][[12月31日]])、将軍後継者となる。<br /> * 宝永2年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]([[1705年]][[3月29日]])、従二位に昇叙し、権大納言に転任。家宣と名を改める。<br /> * 宝永6年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]([[1709年]][[6月8日]])、正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。<br /> * [[正徳 (日本)|正徳]]2年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[1712年]][[1月15日]])、薨去。[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]([[12月1日]])、贈正一位太政大臣。<br /> ※近衛府の次官たる中将と同府の判官たる将監を兼任するのは珍しい様相である。<br /> <br /> == 系譜 ==<br /> * [[近衛熙子]](天英院)([[寛文]]6年 - [[寛保]]元年([[1666年]] - [[1741年]])):正室<br /> ** 長女・[[豊姫 (徳川家宣長女)|豊姫]]([[延宝]]9年 - [[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]]))<br /> ** 長男・男([[夢月院]])(元禄12年([[1699年]]))<br /> ** 養女:政姫(元禄12年 - 宝永元年(1699年 - 1704年)):[[近衛家熙]]の娘<br /> * お古牟の方([[法心院]])(天和2年 - [[明和]]3年(1682年 - [[1766年]])):側室<br /> ** 二男・[[徳川家千代|家千代]](宝永4年([[1707年]]))<br /> * お喜世の方([[月光院]])([[貞享]]2年 - [[宝暦]]2年([[1685年]] - [[1752年]])):側室<br /> ** 四男・[[徳川家継]](宝永6年 - 正徳6年(1709年 - [[1716年]])):7代将軍<br /> * お須免の方([[蓮浄院]])(? - [[安永 (元号)|安永]]元年([[1772年]])):側室<br /> ** 三男・[[徳川大五郎|大五郎]](宝永5年 - 7年([[1708年]] - [[1710年]]))<br /> ** 五男・[[徳川虎吉|虎吉]](正徳元年([[1711年]]))<br /> * 斎宮([[本光院 (徳川家宣側室)|本光院]])(? - 宝永7年(1710年)):側室<br /> ** 子(流産)<br /> <br /> == 家宣の容姿 ==<br /> 家宣の埋葬された[[増上寺]]で徳川将軍家の墓地が改葬された際に、これに立ち会い被葬者の遺骨の調査を担当した[[鈴木尚]]の著書『[[骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと]]』によると、家宣は細面で鼻筋が通っていて穏やかな顔立ちをした美男であったといい、父・綱重とは猫背であったこと以外に似ている部分は非常に少なかったという。また、鈴木が中心となって編纂した『[[増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体]]』によれば、家宣の[[ABO式血液型|血液型]]は曽祖父の第2代将軍・秀忠、及び父・綱重と同じくO型であった。遺骨によると、家宣の身長は当時の日本人としては平均よりやや高い160.0センチメートルである。現在までに判明しているところでは、歴代将軍の中で最も高い。<br /> <br /> == 偏諱を受けた人物 ==<br /> * [[松平清武|越智清&#039;&#039;&#039;宣&#039;&#039;&#039;]](実弟、のちの松平清武)<br /> * [[細川宣紀|細川&#039;&#039;&#039;宣&#039;&#039;&#039;紀]]<br /> * [[黒田宣政|黒田&#039;&#039;&#039;宣&#039;&#039;&#039;政]]<br /> * [[松平宣富|松平&#039;&#039;&#039;宣&#039;&#039;&#039;富]]<br /> * [[松平宣維|松平&#039;&#039;&#039;宣&#039;&#039;&#039;維]]<br /> <br /> == 徳川家宣が登場する作品 ==<br /> ; 歌舞伎<br /> *[[元禄忠臣蔵]] 第5編『御浜御殿綱豊卿』 ([[真山青果]]作、1940年1月初演、甲府宰相綱豊として登場)<br /> <br /> ;テレビドラマ<br /> * [[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥]](関西テレビ、1968年、演:[[大村文武]])<br /> * [[江島生島]]([[テレビ東京|東京12チャンネル]]、1971年、演:[[北上弥太郎]])<br /> * [[元禄太平記]]([[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、1975年、演:[[木村功]])<br /> * [[水戸黄門]]第12部(TBS、1981年、演:[[坂口祐三郎|坂口徹郎]]、次期将軍・甲府宰相綱豊)<br /> * [[峠の群像]](NHK大河ドラマ、1982年、演:[[堀内正美]])<br /> * [[大奥 (1983年のテレビドラマ)|大奥]](関西テレビ、1983年、演:[[露口茂]])<br /> * [[大忠臣蔵 (1989年のテレビドラマ)|大忠臣蔵]]([[テレビ東京]]、1989年、演:[[中村吉右衛門 (2代目)|中村吉右衛門]]、甲府宰相綱豊として登場)<br /> * [[ご存知!旗本退屈男|ご存知!旗本退屈男III]]([[テレビ朝日]]、1989年、演:[[夏夕介]]、甲府宰相綱豊として登場)<br /> * [[ご存知!旗本退屈男|ご存知!旗本退屈男V]](テレビ朝日、1990年、演:[[西村和彦]]、同上)<br /> * [[八代将軍吉宗]](NHK大河ドラマ、1995年、演:[[細川俊之]])<br /> * 水戸黄門第29部(TBS、2001年、演:[[花柳寿楽 (3代目)|花柳錦之輔]]、次期将軍・甲府宰相綱豊として登場)<br /> * [[大奥 (フジテレビの時代劇)#2005年版『大奥〜華の乱〜』|大奥〜華の乱〜]](フジテレビ、2005年、演:[[柴田善行]])<br /> * 水戸黄門第35部2時間スペシャル(TBS、2006年、演:岡本竜汰、次期将軍・甲府宰相綱豊)<br /> * [[忠臣蔵 瑤泉院の陰謀]](テレビ東京、2007年、演:[[磯部勉]])<br /> * [[徳川風雲録 八代将軍吉宗]](テレビ東京、2008年、演:[[橋爪淳]])<br /> * [[水戸黄門 (第39-43部)#水戸黄門 スペシャル(2015年)|水戸黄門 スペシャル]](TBS、2015年6月29日、[[永井大]]、次期将軍・甲府宰相綱豊)<br /> * [[忠臣蔵の恋#テレビドラマ|忠臣蔵の恋]](NHK、2017年、演 : [[平山浩行]])<br /> <br /> ; 映画<br /> *[[元禄忠臣蔵#映画版|元禄忠臣蔵]]([[1941年]]・[[1942年]]、演:[[市川右太衛門]]、甲府宰相綱豊として登場)<br /> <br /> ;漫画<br /> * [[よしながふみ]]『[[大奥 (漫画)|大奥]]』([[白泉社]])<br /> <br /> ;小説<br /> * [[浪人若さま新見左近]]( [[佐々木裕一]]・著 [[コスミック出版]])新見左近を名乗り江戸にはびこる悪党を将軍家秘剣・葵一刀流で成敗する家宣の若き日を描く痛快活劇<br /> <br /> == 脚注 == <br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> {{征夷大将軍|1709年 - 1712年}}<br /> {{江戸幕府将軍}}<br /> {{徳川氏歴代当主||第6代}}<br /> {{甲府藩主|[[ファイル:Mon-Tokugawa.png|20px|丸に三つ葉葵]]甲府徳川氏|第2代|1678年 - 1704年}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:とくかわ いえのふ}}<br /> [[Category:江戸幕府の征夷大将軍|いえのふ]]<br /> [[Category:甲府藩主]]<br /> [[Category:親藩]]<br /> [[Category:徳川氏|いえのふ]]<br /> [[Category:甲府徳川氏|いえのふ]]<br /> [[Category:1662年生]]<br /> [[Category:1712年没]]</div> 61.7.3.99 ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス 2018-02-15T09:18:25Z <p>61.7.3.99: /* 生涯 */</p> <hr /> <div>{{redirect|アウレリアヌス}}<br /> {{複数の問題<br /> | 出典の明記 = 2016年10月<br /> | 脚注の不足 = 2016年10月<br /> }}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス<br /> | 各国語表記 = {{lang|la|&#039;&#039;&#039;Lucius Domitius Aurelianus&#039;&#039;&#039;}}<br /> | 君主号 = [[ローマ皇帝]]<br /> | 画像 =Aurelian.jpg<br /> | 画像サイズ = 230px<br /> | 画像説明 = ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスを印した硬貨<br /> | 在位 = [[270年]] - [[275年]]<br /> | 戴冠日 = [[270年]]<br /> | 別号 = <br /> | 全名 = ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス&lt;br&gt;&#039;&#039;Lucius Domitius Aurelianus Augustus&#039;&#039;<br /> | 継承者 = [[マルクス・クラウディウス・タキトゥス]]<br /> | 継承形式 = 継承<br /> | 配偶者1 = ウルピア・セウェリナ<br /> | 子女 = 娘1人<br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = <br /> | 賛歌 = <br /> | 父親 = <br /> | 母親 = <br /> | 出生日 = [[214年]][[9月9日]]<br /> | 生地 = [[シルミウム]]<br /> | 死亡日 = [[275年]]9月or10月(満61歳没)<br /> | 没地 = [[トラキア]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス&#039;&#039;&#039;({{lang-la|Lucius Domitius Aurelianus}}, [[214年]][[9月9日]] - [[275年]]9月または10月)は、[[軍人皇帝時代]]の[[ローマ皇帝]](在位[[270年]] - [[275年]])である。当時3つに分裂していたローマ帝国を統一した。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 皇帝即位まで ===<br /> ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスはローマ属州[[パンノニア]]の州都[[シルミウム]]の出身とされ、その出自には諸説があり、父もシルミウム出身で富裕な元老院議員で農場主であったと伝えられる。いずれにしても低い身分の出であった。<br /> <br /> 一介の軍団兵から軍キャリアを起した後、[[ケントゥリオ]]、[[トリブヌス]]などへ昇進を重ねた。皇帝[[ウァレリアヌス]]によって抜擢されたことがアウレリアヌスの名を広めた契機となり、[[ガッリエヌス]]帝統治下の[[268年]]に起こった[[ナイススの戦い]]に於いて[[ゴート族]]の騎馬隊を撃退する活躍を見せた。皇帝[[クラウディウス・ゴティクス]]の下では騎兵の総司令官を務めた(クラウディウス・ゴティクスと共に[[ガッリエヌス]]の暗殺に関わったという説もある)。[[270年]]1月にクラウディウス・ゴティクスが病死した後、[[クィンティッルス]]が即位したが、蛮族の侵入、ローマ帝国の分裂という危機的な状況の下、危機に強い優秀な軍人という理由で軍によって皇帝に推挙され、クィンティッルスを破って、名実共にローマ皇帝となった。<br /> <br /> === ゲルマン人との戦い ===<br /> [[デキウス]]帝が戦死([[アブリットゥスの戦い]])したようにローマにとって北方異民族の侵入は難問であり、アウレリアヌスの代でも激化の一方であった。クラウディウス・ゴティクスの時期にゴート族を撃破したことで小康状態にあったものの、クラウディウス・ゴティクスの死とその後の混乱で、再び北方異民族の動きが活発化しつつあった。<br /> <br /> 271年、[[アラマンニ人|アラマンニ族]]がポー平野に入り町を略奪しながら、イタリアに向かって侵入した。アラマンニ族は40,000の騎兵および80,000の歩兵を以て[[ドナウ川]]及びポー川を渡り、プラセンティア(現:[[ピアチェンツァ]])を占領して、[[ファーノ]]に向かって進んだ。[[ヴァンダル族]]に備えるべくパンノニアにいたアウレリアヌスはイタリアに入ったものの、ローマ軍はアラマンニ族にプラセンティア近郊で待ち伏せに遭って一旦は敗北したものの、アウレリアヌスは[[ポー川]]と再交差する[[パヴィア]]まで行軍し[[メタウロ川]](Metaurus)の近くで宿営していたアラマンニと交戦({{仮リンク|ファーノの戦い|en|Battle of Fano}})してこれを撃破した。さらにパウィア近郊での3度目の決戦でアレマンニ族の軍を壊滅させ、アレマンニ族を北方へ退けた(これにより &quot;Germanicus Maximus&quot; の称号を受けた)。<br /> <br /> また、アウレリアヌスはバルカン半島へ侵入した[[ゴート族]]と戦い、ゴート族の族長 Cannabaudes を討ち取り、ゴート族も[[ドナウ川]]以北へと退けた(これにより &quot;Gothicus Maximus&quot; の称号も得た)。北方蛮族の侵入をひとまずは食い止めたものの、ドナウ川の北側に位置し防衛が極めて困難であった[[ダキア属州]]をゴート族へ譲渡すると共にドナウ川の南にセルディカ(Serdica、現:[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]])を州都として新ダキア属州を新設し、ドナウ川南岸を防衛線とする体制を構築した。<br /> <br /> 再三にわたってイタリア本土へ侵攻する北方異民族に対して、ローマを守る必要に迫られたアウレリアヌスは、[[王政ローマ]]期以来となるローマを囲む城壁(「[[アウレリアヌス城壁]]」)を構築し始めた(完成は[[プロブス]]帝の時期)。<br /> <br /> === 「世界の修復者」 ===<br /> [[Image:Giovanni Battista Tiepolo - Il trionfo di Aureliano.jpg|thumb|right|350px|『アウレリアヌスの前に連行されたゼノビア』(&#039;&#039;&quot;Il trionfo di Aureliano o La regina Zenobia davanti ad Aureliano&quot;&#039;&#039;) イタリア人画家[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]による[[1717年]]の作]]<br /> [[シリア属州|シュリア]]や[[ユダヤ属州|パレスチナ]]などのローマの東方属州を支配する[[パルミラ王国]]は、アウレリアヌスをローマ帝国全体の皇帝として認めていたものの、国王である[[ウァバッラトゥス]]([[ゼノビア]]の息子)もまた「皇帝(アウグストゥス)」を自称していた。アウレリアヌスはパルミラへ降伏を呼びかけたものの、抗戦の姿勢を示したことから、272年にアウレリアヌスは軍を率いてパルミラ領へ入った。<br /> <br /> [[ビザンティウム]]とティアラで抵抗があったものの、これを下し降伏後に寛大な処置を取ったことから、多くの都市が無血で開城した。パルミラ軍とは[[アンティオキア]]および[[エメサ]]近郊での2度の戦闘にいずれも勝利を収めた(ウァバッラトゥスはこの際に戦死したともされる)。ゼノビアはパルミラ市へ籠城して、ローマ軍の兵站切れを狙ったものの、エジプトを制圧した[[プロブス]]軍がパルミラへ来援して補給路を確立させたことから、不利を察したゼノビアはペルシア([[サーサーン朝]])への逃亡を図ったが、[[ユーフラテス川|ユーフラテス河畔]]でゼノビアを捕虜とした。こうしてパルミラ王国を崩壊に追い込み、東方属州の回復に成功した。また、パルミラ王国の崩壊後にエジプトで皇帝を僭称し、ゼノビアの盟友を自称したフィルムスを破った。<br /> <br /> パルミラで勝利を収めたアウレリアヌスは東方をプロブスに委ね、西方属州に割拠していた[[ガリア帝国]]に目を向けた。[[274年]]、ガリア皇帝[[テトリクス1世]]は帝位を返上してガリア帝国をローマへ復帰させることを望んでいたため、アウレリアヌスと示し合わせた上で、[[シャロン=アン=シャンパーニュ]]で対陣した後にローマへ降伏した。こうして西方属州もローマ帝国へ復帰することとなった。<br /> <br /> アウレリアヌスは三分されていた帝国を再統一することに成功、[[274年]]ローマに於いて[[凱旋式]]を挙行、この際に征服した各民族と共に[[ゼノビア]]を連行したことで話題を集めた。また、これら一連の功績により[[元老院 (ローマ)|元老院]]から「&quot;Restitutor Orbis&quot; (&#039;&#039;&#039;世界の修復者&#039;&#039;&#039;)」の称号を得た。<br /> <br /> === 最期 ===<br /> 国内政策では、粗製濫造されていた金貨・銀貨・銅貨の発行体制の再構築に乗り出し、これに絡んで不正を働いて利益を得ていた(とされる)通貨鋳造所職員がストライキを実施するもの、アウレリアヌスはこれを武力でもって鎮圧。一説には反乱に加わった職員や元老院議員ら約7,000名が死亡したとされる。<br /> <br /> [[275年]]、[[シャープール1世]]が没した直後の[[サーサーン朝]]へ遠征に向かう途中、アウレリアヌスは秘書官の一人(ゾシムスによると&#039;&#039;&#039;エロス&#039;&#039;&#039;(Eros)なる人物)を叱責した。これに身の危険を感じた秘書官は謀略を仕組み、アウレリアヌスは自軍の将軍([[エドワード・ギボン]]によると&#039;&#039;&#039;ムカポル&#039;&#039;&#039;(Mucapor)なる人物)に暗殺された(なお、後になって秘書官の謀略が露見し、秘書官は処刑された)。アウレリアヌスの突然の死は帝国に大きな衝撃を与え、[[マルクス・クラウディウス・タキトゥス]]が即位するまで数ヶ月にわたって皇帝不在の時期が生じたとされる。しかし近年の史料分析により、皇帝不在の空白期は長く見積もっても2か月に満たないことがわかっている。<br /> <br /> == 家族 ==<br /> 妻ウルピア・セウェリナと結婚。少なくとも名前不詳の1女を儲けている。ウルピアの出自については、[[244年]]から[[249年]]までローマ皇帝の地位にあった[[ピリップス・アラブス]]帝の長女ユリア・セウェナ(セウェリナ)ではないかとの説がある。この説が正しければ、アウレリアヌスはピリップスの義理の息子(娘婿)でピリップスの二人の息子(長男マルクス、次男クィントゥス)とは義兄弟、アウレリアヌスの娘はピリップスの孫娘でマルクスとクィントゥスの姪にあたる。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{脚注の不足|date=2016年10月|section=1}}<br /> *[[エドワード・ギボン]]『[[ローマ帝国衰亡史]]』[[中野好夫]]訳、[[ちくま学芸文庫]]。<br /> *クリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』[[青柳正規]]監修、月村澄枝訳、[[創元社]]、1998年、300頁。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[軍人皇帝時代]]<br /> <br /> {{commonscat|Aurelianus}}<br /> {{ローマ皇帝}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:あうれりあぬす るきうす とみていうす}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:3世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:暗殺された人物]]<br /> [[Category:214年生]]<br /> [[Category:275年没]]</div> 61.7.3.99 ピリップス・アラブス 2018-02-15T02:44:57Z <p>61.7.3.99: /* 生涯 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2017年10月14日 (土) 23:38 (UTC)}}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ピリップス・アラブス<br /> | 各国語表記 = Philippus Arabs<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 = Bust_of_emperor_Philippus_Arabus_-_Hermitage_Museum.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = ピリップス・アラブスの胸像<br /> | 在位 = [[244年]] - [[249年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = [[204年]]頃<br /> | 生地 = <br /> | 死亡日 = [[249年]]<br /> | 没地 = <br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = {{仮リンク|マルキア・オタキリア・セウェラ|en|Marcia Otacilia Severa}}<br /> | 子女 = [[マルクス・ユリウス・セウェルス・ピリップス]]<br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = <br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = {{仮リンク|ユリウス・マリヌス|en|Julius Marinus}}<br /> | 母親 = <br /> | 宗教 =<br /> | サイン =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;マルクス・ユリウス・ピリップス&#039;&#039;&#039;({{lang-la|Marcus Julius Phillippus}}, [[204年]]頃 - [[249年]])は、[[軍人皇帝時代]]の[[ローマ皇帝]](在位:[[244年]] - 249年)。&#039;&#039;&#039;ピリップス・アラブス&#039;&#039;&#039;({{lang|la|Philippus Arabs}})とも呼ばれる。<br /> <br /> [[シリア]]で流通している100[[シリア・ポンド]]紙幣に肖像が描かれている。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> <br /> ピリップスの若い頃の生活と政治的経歴はあまり知られていないが、[[シリア属州]]の[[ダマスカス|ダマスクス]]から南東約55マイルに位置する{{仮リンク|シャハバ|en|Shahba}}で生まれたと伝えられている。ピリップスの家系が[[アラビア半島]]出身だったことからピリップスは「アラブス」と呼ばれるようになった。なお、父{{仮リンク|ユリウス・マリヌス|en|Julius Marinus}}は、ダマスクスの地元のローマ市民で、おそらくはそれなりに有力な市民であったと考えられる。母の名は不明である。史料によれば、兄弟の{{仮リンク|ガイウス・ユリウス・プリスクス|en|Gaius Julius Priscus}}は[[ゴルディアス3世]]の[[プラエトリアニ]]に所属していた。ピリップスは{{仮リンク|マルキア・オタキリア・セウェラ|en|Marcia Otacilia Severa}}と結婚し、[[238年]]に息子[[マルクス・ユリウス・セウェルス・ピリップス]]が生まれた。<br /> <br /> [[ゴルディアヌス3世]]による[[サーサーン朝]]への侵攻にも同行し、戦争中に病没した[[ガイウス・フリウス・サビニウス・アクイラ・ティメシテウス]]に代わって[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ]]に就任した。[[244年]]の{{仮リンク|ミシケの戦い|en|Battle of Misiche}}でゴルディアヌス3世が死去すると、軍中で皇帝宣言を行った。軍隊を率いてローマへ帰り、[[元老院 (ローマ)|元老院]]に皇帝として認められた。おそらくゴルディアヌス3世の死に関与していたと思われる(ピリップスのクーデターともいわれる)。また息子・マルクスも[[カエサル (称号)|カエサル]](副帝)の称号を得て、共同皇帝となった。<br /> <br /> 皇帝になってからは、[[パンノニア]]と[[モエシア]]での[[ゴート族]]の侵入に対し、戦争を行った。[[248年]]にゴート族を退けたものの、軍隊はこの結果に満足しなかった。反乱が起こり、それを鎮圧した後、ピリップスはこの地方の総督に[[デキウス|ガイウス・メッシウス・クィントゥス・デキウス]]を指名した。<br /> <br /> 248年4月、ピリップスはローマ建国([[紀元前753年]])1000年祭をローマ市内で開催した。1000人以上の[[剣闘士]]が参加した剣闘試合や、[[カバ]]や[[ライオン]]、[[キリン]]といった珍しい動物が提供されるなど、壮麗なイベントであったと伝えられている。一方で{{仮リンク|label=ティベリウス・クラウディウス・マリヌス・パカティアヌス|パカティアヌス|en|Pacatianus}}ら、ピリップスに対する軍内からの反乱者が相次いだ。<br /> <br /> 249年春、パンノニア総督デキウスは[[ドナウ川]]の軍隊によって皇帝と宣言され、ただちにローマへ進軍を始めた。ピリップスの軍はデキウスの軍と現在の[[ヴェローナ]]近辺で夏に衝突した。この戦闘でデキウスが勝利し、ピリップスは殺された。敵軍との戦闘の最中のことか、新しい支配者の歓心を買おうとした自軍の兵士によるものかは不明である。デキウスの勝利がローマに伝えられると、当時11歳で共同皇帝であった息子マルクスも殺害された。<br /> <br /> 後世の伝承は、教会史家[[エウセビオス]]の『教会史』などは、ピリップスを「最初の[[キリスト教徒]]ローマ皇帝」としているが、非キリスト教徒の著作にこの言及はなく、疑わしい。またピリップスが治世を通じてローマの国家宗教を続けたこととも矛盾する。エウセビオスによる主張は、ピリップスがキリスト教徒に対し比較的寛容な政策を取ったことに由来すると考えられている。&lt;ref&gt;豊田浩志『キリスト教の興隆とローマ帝国』1994年、南窓社&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 家族 ==<br /> 妻マルキアとの間には長男マルクス以外に、以下の1男1女を儲けている。<br /> *ユリア・セウェラ(セウェリナ)<br /> *クィントゥス・ピリップス・セウェルス([[247年]] - ?)<br /> <br /> なお、ピリップスの死から21年後にローマ皇帝に即位した[[アウレリアヌス]]の妻はウルピア・セウェリナといい、娘を一人もうけているが、このウルピアはピリップスの長女ユリアと同一人物ではないかといわれている。この説が正しければ、アウレリアヌスはピリップスの娘婿、アウレリアヌスの娘はピリップスの孫娘になる。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==関連項目==<br /> {{Commons&amp;cat|Philip the Arab|Philippus Arabus}}<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ひりつふす まるくす ゆりうす}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:3世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:シリアの紙幣の人物]]<br /> [[Category:204年生]]<br /> [[Category:249年没]]</div> 61.7.3.99 マクセンティウス 2017-12-19T05:29:36Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = マクセンティウス<br /> | 各国語表記 = Maxentius<br /> | 君主号 = ローマ皇帝(西方正帝)<br /> | 画像 = Emperor Maxentius Louvre Ma3522bis.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = 皇帝マクセンティウスの胸像([[ルーヴル美術館]]収蔵)<br /> | 在位 = [[306年]] - [[312年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = マルクス・アウレリウス・ウァレリウス・マクセンティウス(Marcus Aurelius Valerius Maxentius)<br /> | 出生日 = [[278年]]頃<br /> | 生地 = <br /> | 死亡日 = [[312年]][[10月28日]]<br /> | 没地 = [[ローマ]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 配偶者1 = ウァレリア・マクシミラ([[ガレリウス]]の娘)<br /> | 配偶者2 = <br /> | 子女 = [[ウァレリウス・ロムルス]]&lt;br /&gt;アウレリウス・ウァレリウス?&lt;br /&gt;アントニウス・ドナトゥス?<br /> | 王朝 = <br /> | 父親 = [[マクシミアヌス]]<br /> | 母親 = エウトロピア<br /> | 宗教 =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;マルクス・アウレリウス・ウァレリウス・マクセンティウス&#039;&#039;&#039;({{lang-la|Marcus Aurelius Valerius Maxentius}}、[[278年]]頃 - [[312年]][[10月28日]])は、[[ローマ帝国]]の[[テトラルキア]]時代の皇帝の一人(在位:[[306年]] - [[312年]])。皇帝[[マクシミアヌス]]の息子で、[[ガレリウス]]帝の義理の息子であった。<br /> <br /> ==生涯==<br /> ===前半生===<br /> マクセンティウスの生年月日は正確には不明であるが、[[278年]]頃だと思われる。後の皇帝[[マクシミアヌス]]とその妻エウトロピアとの間に生まれた。<br /> <br /> 父マクシミアヌスは[[285年]]に皇帝となり、マクセンティウスはいずれ皇帝の座を継ぐものと見なされて育った。しかし、父と[[ディオクレティアヌス]]帝とが共同統治している期間には、マクセンティウスに特別な戦歴や政治的な経歴は見当たらない。詳しくは不明だが早い時期に、副帝[[ガレリウス]]の娘ウァレリア・マクシミラと結婚し、後に長男[[ウァレリウス・ロムルス]](295年頃 - 309年)と次男(名前は不明)の2人の息子を持つ。<br /> <br /> 父マクシミアヌス帝とディオクレティアヌス帝は[[305年]]に揃って退位し、それまで[[テトラルキア]](四分統治)の[[副帝]]だった[[コンスタンティウス・クロルス]]と[[ガレリウス]]とが[[アウグストゥス (称号)|正帝]]になった。後継者候補には前皇帝の息子マクセンティウスとコンスタンティウス帝の息子[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]とがいるにもかかわらず、新しい副帝に[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス]]と[[マクシミヌス・ダイア]]とが就任した。[[ラクタンティウス]]の「Epitome」によると、ガレリウス帝はマクセンティウスを嫌っており、彼を後継者から外すようディオクレティアヌス帝に働きかけたという。また、ディオクレティアヌス帝自身もマクセンティウスは皇帝として軍を率いるには能力不足と考えていたのだろう。結局、マクセンティウスは[[ローマ]]から数[[マイル]]離れた地所に隠居することになった。<br /> <br /> 翌[[306年]]にコンスタンティウス・クロルスが死去した。彼の息子コンスタンティヌスは皇帝に名乗りを上げ、結果的に副帝となることをガレリウス帝に認めさせた。コンスタンティヌスの成功が先例となり、同じ年の後半にマクセンティウスも継承問題を起こすこととなる。<br /> <br /> ===帝位獲得まで===<br /> [[ファイル:RomaBasilicaMassenzioDaPalatino.JPG|thumb|300px| [[フォルム・ロマヌム]]にあるマクセンティウスの[[バシリカ]]。ライバルであったコンスタンティヌス1世が完成させた。代表的な古代建築の一つ。]]<br /> 首都ローマでは新しい皇帝についての噂が広まった。その内容は、今までローマ市民だけは免除されていた人頭税が課税されるという話と、ローマに駐在する[[プラエトリアニ]]を解散するという話であった。この噂に反発して首都ローマで駐屯隊が暴動を起こし、その将校たちがマクセンティウスに皇帝の座に就くよう依頼した。将校たちは、コンスタンティヌス帝も、自分と同じように皇帝の息子という立場にあるマクセンティウスには文句を付けまいと考えたのである。マクセンティウスはその依頼を受け、首都の駐屯隊への寄付も約束した上で、[[306年]][[10月28日]]、公に皇帝就任を宣言した。この皇位簒奪はほとんど無血(ゾシムスによると犠牲者は1人だけ)で、ローマ長官も地位を保ったままマクセンティウスの配下になった。<br /> <br /> [[ルカニア]]の宮殿で引退生活を送る元皇帝マクシミアヌスにも共謀の依頼が向かっていたが、このときには、彼は復権を断っている。<br /> <br /> マクセンティウスは、イタリアの中央部以南、[[コルシカ島]]、[[サルデーニャ|サルデーニャ島]]、[[シチリア|シチリア島]]、[[アフリカ属州]]で皇帝と認められる立場を勝ち得た。イタリア北部は依然として[[ミラノ]]にいる西方正帝[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス|セウェルス]]の統制下にあった。<br /> <br /> 当初マクセンティウスは、正帝ガレリウスから正式に地位を承認されることを期待して、自らは正帝や副帝などは称さず「[[プリンケプス]]・インウィクトゥス」(無敗の第一人者)の称号を名乗った。しかし、ガレリウス帝が公認することはなかった。ガレリウス帝はマクセンティウスに同情していたと言われるが、コンスタンティヌスやマクセンティウスを真似て勝手に皇帝を名乗りだす者が現れることを防ぐ必要があった。コンスタンティヌスによる皇位僭称に対しては、ガレリウス帝は、それが[[テトラルキア]]制度として正統的に皇位継承されたかのように体裁を整えた。このような対応を採った一因は、コンスタンティヌスの場合は父の軍団と領土をしっかり支配していたことだったが、マクセンティウスは事情が違った。マクセンティウスはテトラルキアでは認められない5番目の皇帝になってしまう上、彼の命令に従う軍団はわずかしかいなかった。ガレリウス帝はマクセンティウスの反乱は簡単に鎮圧できると考え、[[307年]]初頭に正帝セウェルスを大軍とともにローマに向かわせた。<br /> <br /> セウェルス帝が率いる軍隊は、その大半がマクセンティウスの父[[マクシミアヌス]]帝の下で何年も戦役を経験した兵士であり、しかもマクシミアヌス帝は過去に大金を兵に配っていた。その結果、セウェルス軍がローマに到着すると、軍の大半がマクセンティウスの方に寝返った。やがてマクシミアヌス自身が隠遁地を離れてローマに戻り、息子を援護して再び帝位に就くと宣言すると、セウェルス帝は残った軍を連れて[[ラヴェンナ]]に撤退した。生命の安全を約束されたため、その後間もなくセウェルス帝はマクシミアヌスに降伏した。<br /> <br /> セウェルス帝を破った後、マクセンティウスは[[アルプス山脈]]に至るまでの北イタリアと[[イストリア半島]]を支配下に置き、セウェルス帝の後に空位となった(とマクセンティウスが考える)正帝の位を名乗るようになった。<br /> <br /> ===皇帝在位中===<br /> [[ファイル:Follis-Maxentius-s3776.jpg|thumb|300px|正帝となったマクセンティウスの硬貨]]<br /> [[307年]]の夏、マクセンティウスと父マクシミアヌスとの共同統治はさらに大きな試練を迎えた。ガレリウス帝がより大きな軍団を連れてローマに進軍したのである。マクセンティウスは、ガレリウス帝と交渉を重ねながらも、一方ではセウェルス帝にしたのと同様に大金の約束とマクシミアヌス帝の威光によって敵兵の寝返りを謀った。そして実際に多くの兵が寝返ったために、ガレリウス帝は退却を余儀なくされ、マクセンティウスのイタリア・アフリカ支配が確立した。この戦いの途中でセウェルス帝はマクセンティウスに殺害された(おそらくローマ近郊のトレス・タベルネと思われるが、正確な状況は分かっていない)。<br /> <br /> マクセンティウスはコンスタンティヌス帝と連携したいと狙っており、307年の初頭から接触を打診していたが、この年の夏になってマクシミアヌスが[[ガリア]]まで赴いた。以前この地で、コンスタンティヌスはマクシミアヌス帝の娘{{仮リンク|ファウスタ・フラウィア・マクシマ|en|Fausta|label=ファウスタ}}と結婚し、先輩皇帝マクシミアヌスから正帝に任命されたのである。しかし、コンスタンティヌス帝はガレリウス帝とは衝突したくないと考えており、ガレリウス帝と戦うマクセンティウスには目に見える支援はしなかった。<br /> <br /> [[308年]]のおそらく4月頃、マクシミアヌスはローマで軍隊と共にいる息子マクセンティウスを退位させようとした。ところが、そのときに軍隊は息子を支持したので、父は驚いてコンスタンティヌス帝の元に逃避しなければならなくなった。<br /> <br /> [[308年]]の秋に[[カルヌントム]]で開かれた会合によってマクセンティウスの皇位はまたしても非合法だと否定された。そして、[[リキニウス]]帝が正統な皇帝として、マクセンティウスから領土を取り戻す役割を与えられた。リキニウス帝は[[310年]]にマクセンティウスからイストリアを取り戻したが、翌年にガレリウス帝が病死したため、この戦役は続けられなかった。<br /> <br /> [[308年]]の終わり頃、アフリカ属州の[[ドミティウス・アレクサンデル]]が[[カルタゴ]]で皇帝を名乗り、マクセンティウスの支配から離れた。アフリカはローマの食料供給を担っていたのでマクセンティウスは危機的な状況となったが、[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ]]のルフィウス・ウォルシアヌス(Rufius Volusianus)の活躍により、少数の軍団でアレクサンデルを破って処刑することに成功した([[310年]]か[[311年]])。マクセンティウスはこの機会を逃さずにアレクサンデル一党の富を奪い、ローマに大量の穀物を持ち帰った。<br /> <br /> マクセンティウスの長男[[ウァレリウス・ロムルス]]は[[309年]]に14歳ほどで早世し、[[アッピア街道]]のマクセンティウスの名を付けた村の大霊廟に埋葬された。[[309年]]か[[310年]]に父マクシミアヌスも死去し、その後はコンスタンティヌス帝との関係が急速に悪化した。コンスタンティヌス帝とリキニウス帝との連合に対抗するため、マクセンティウスは[[マクシミヌス・ダイア]]と同盟を組んだ。彼は、アルプス山脈の北にある[[ラエティア]]属州を確保することでコンスタンティヌス帝とリキニウス帝とを分断しようとしたが、コンスタンティヌス帝の行動が早かったので策略は失敗したと伝えられている(ゾシムスによる記述)。<br /> <br /> ===最期===<br /> [[312年]]の初め頃、コンスタンティヌス帝はアルプス山脈を越えてイタリアに侵攻した。そして[[トリノ]]や[[ミラノ]]の戦闘で勝利し、[[ヴェローナ]]ではマクセンティウス派の重臣で[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ]](近衛隊長官)の[[ルリキウス・ポンペイアヌス]]を討ち取って、10月の終わりにはローマに到達した。セウェルス帝やガレリウス帝と戦ったときのような籠城戦が予想され、マクセンティウスが守りの堅いローマに立て籠って敵の消耗を待つと思われていたが、何らかの理由によってマクセンティウスは戦法を変え、[[312年]][[10月28日]]に決戦となる[[ミルウィウス橋の戦い]]が行われた。昔の資料にはコンスタンティヌス帝が神の啓示を受けたことがこの戦いの契機となったという伝説を記載するものが多いが、マクセンティウスにどのような契機があったのかは憶測の域を出ない。両軍は、都市の北側、城壁の少し外の[[テヴェレ川]]と[[フラミニア街道]]とが交わる地点で衝突した。キリスト教の伝説(特に[[ラクタンティウス]]や[[エウセビオス]]の資料)では、コンスタンティウスは夢に現れた[[ラバルム]]の旗印を掲げて戦ったという。戦いそのものについてはあまり伝わっていないが、マクセンティウス軍はコンスタンティヌス軍に敗れ、マクセンティウスは混乱の中でテヴェレ川を渡って敗走中に川に落ちて溺れ死んだ。マクセンティウスの遺体は翌日発見され、市中を引き回された後、彼の死をはっきり誇示するためアフリカに送られた。<br /> <br /> ==領内の統治==<br /> マクセンティウスがどのように統治したのかについては資料が少なく、後のコンスタンティヌス帝によるプロパガンダの影響も大きいために、不明確な部分が多い。ここでは、軍事力や市政などについて記載する。<br /> <br /> ;軍事力<br /> マクセンティウスの軍事力は初めはわずかな兵力で、[[プラエトリアニ]]の残りと皇帝の騎兵守備隊、およびローマの都兵に過ぎなかった。その後、セウェルス帝およびガレリウス帝との戦いにおいて離反兵を吸収することで増大し、さらに、アフリカ再征服の際に国境の駐屯兵の一部をイタリアに引き上げて戦力を増した。とはいえ、その兵力は決して大きいとはいえず、アルプス山脈の陰という地の利とローマの要塞としての守備力に頼らざるを得なかった。<br /> <br /> [[ファイル:Rome-CircusofMaxentius.JPG|thumb|right|250px|[[マクセンティウスの競技場]]の遺跡]]<br /> ;ローマ市政<br /> マクセンティウスのローマにおける立場は一言では語れない。彼は、ローマに大規模な建築群([[マクセンティウスの競技場]]など)を企画することで、改めてローマに首都としての特権を与えてそれを誇示しようとした。一方ではローマ市民の持つ富に頼らざるを得ない一面もあり、おそらくはローマにも税を課した。アフリカの反乱によってローマへの穀物供給が止まったときには、首都は食料不足となり、暴動によって約6,000人の命が失われた。<br /> <br /> ;[[元老院 (ローマ)|元老院]]<br /> 元老院との関係は当初は良好だったが、マクセンティウスが議員に寄付を強要する法律を定めたために、険悪な関係になったと考えられる。マクセンティウスの死後、高位の議員達はコンスタンティヌス帝に代わってもそのまま出世している。<br /> <br /> ;宗教<br /> マクセンティウス自身は古代ローマの伝統的な[[ペイガニズム|多神教]]を信仰しており、父マクシミアヌス帝と関連付けられる[[マールス|マルス]]神を特に崇拝していた。一方で、領土内でのキリスト教信仰は容認していた。この頃は[[ディオクレティアヌス]]帝によるキリスト教迫害の余波が残っており、教会内で[[教皇]][[マルケルス1世 (ローマ教皇)|マルケルス1世]]と教皇[[エウセビウス (ローマ教皇)|エウセビウス]]とが対立していた。<br /> <br /> ==歴史資料について==<br /> コンスタンティヌス帝はマクセンティウスに勝利した後、マクセンティウスは残酷で無能な暴君だったという中傷を計画的に広めた。[[ラクタンティウス]]の資料のような早い時期の歴史資料では、キリスト教を迫害した皇帝にマクセンティウスは含まれていないが、コンスタンティヌス帝のプロパガンダの影響で、後の時代にはマクセンティウスをキリスト教の敵と見なす伝統が生まれた。このイメージが、歴史資料のほとんどに影響して今日まで残っている。ただし20世紀になってからは、硬貨や碑文など文学資料以外の資料の調査による中立的な研究も行われている。<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> {{Commonscat|Maxentius}}<br /> *[http://www.roman-emperors.org/maxentiu.htm De imperatoribus Romanis] on Maxentius (英語)<br /> *[http://www.newadvent.org/cathen/10073b.htm Catholic Encyclopedia article]  (英語)<br /> {{History-stub}}<br /> {{ローマ皇帝||306年 - 312年}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:まくせんていうす}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:270年代生]]<br /> [[Category:312年没]]</div> 61.7.3.99 ガレリウス 2017-12-19T04:37:20Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ガレリウス<br /> | 各国語表記 = Galerius<br /> | 君主号 = ローマ皇帝(東方正帝)<br /> | 画像 = Romuliana Galerius head.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = ガレリウスの頭像<br /> | 在位 = [[293年]] - [[311年]][[5月5日]]&lt;br/&gt;ただし[[293年]] - [[305年]][[5月1日]]まで東方副帝<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = ガイウス・ウァレリウス・マクシミアヌス・ガレリウス&#039;&#039;&lt;BR&gt;&#039;&#039; Gaius Valerius Maximianus Garelius&#039;&#039; &#039;&#039;&lt;BR&gt;または&#039;&#039; Gaius Garelius Valerius Maximianus&#039;&#039;<br /> | 出生日 = [[260年]]<br /> | 生地 = ダキア属州セルディカ<br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|260|0|0|311|5|5}}<br /> | 没地 = <br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 継承者 = [[リキニウス]]&lt;BR&gt;[[コンスタンティヌス1世]]<br /> | 継承形式 = 継承者<br /> | 配偶者1 = アノン&lt;br /&gt;ガレリア・ウァレリア&lt;br /&gt;名前不詳の女性(カンディディアヌス生母)<br /> | 子女 = ガイウス・ウァレリウス・カンディディアヌス&lt;br&gt;ウァレリア・マクシミラ(母はアノン。[[マクセンティウス]]妃)<br /> | 王家 = <br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = <br /> | 母親 = ロムラ<br /> }}<br /> [[ファイル:Galerius.jpg|300px|thumb|ガレリウスの硬貨]]<br /> &#039;&#039;&#039;ガイウス・ウァレリウス・マクシミアヌス・ガレリウス&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;{{lang-la|Gaius Valerius Maximianus Galerius}}&#039;&#039;&#039;、[[260年]] - [[311年]][[5月5日]])は、[[305年]]から[[311年]]まで在位した[[ローマ皇帝]]である。<br /> <br /> == 権力の獲得 ==<br /> ガレリウスは、[[ダキア]]の首都セルディカ(現[[ブルガリア]]の首都[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]])の近くに生まれた。父と同じく牧夫となり、アルメンタリウス([[ラテン語]]で家畜の群れ &#039;&#039;armentum&#039;&#039;)という名字を名乗っていた。やがて軍人となり、[[アウレリアヌス]]帝や[[プロブス]]帝といった皇帝の下で名を上げている。そして、[[293年]]に[[テトラルキア]](四分統治)が開始されるとき、[[コンスタンティウス・クロルス]]と共に[[副帝]]に任命された。このとき、[[ディオクレティアヌス]]帝の娘ウァレリア(後に{{仮リンク|ガレリア・ウァレリア|en|Galeria Valeria}}として知られる)を妻に迎え、同時に[[イリュリア]]属州を任された。<br /> &lt;!-- Galerius was born near [[Sofia|Serdica]] (modern [[Sofia]], [[Bulgaria]]), the capital of [[Dacia Aureliana]]. He originally followed his father&#039;s occupation, that of a herdsman, where he got his surname of Armentarius ([[Latin]]: &#039;&#039;armentum&#039;&#039;, herd). He served with distinction as a soldier under Emperors [[Aurelian]] and [[Probus]], and in [[293]] at the establishment of the [[Tetrarchy]], was designated &#039;&#039;[[Caesar (title)|Caesar]]&#039; along with [[Constantius Chlorus]], receiving in marriage [[Diocletian]]&#039;s daughter Valeria (later known as Galeria Valeria), and at the same time being entrusted with the care of the [[Illyria]]n provinces. --&gt;<br /> <br /> == 治世 ==<br /> [[296年]]、[[サーサーン朝]]との開戦にあたり、ガレリウスは[[ドナウ川]]領域から[[ユーフラテス川]]領域へ持ち場を変えた。彼の最初の戦役は壊滅的な敗北に終わり、[[メソポタミア]]地方を失うことになった。しかし、[[297年]]には[[アルメニア]]の山中を通して軍を進め、[[ナルセ1世]]に対して決定的な勝利を収め、ナルセの[[後宮]]を含む膨大な戦利品を手に入れた。ガレリウスは有利な戦況を推し進めて首都[[クテシフォン]]も占領した。[[298年]]にナルセは降伏したため、メソポタミアはローマの支配下に戻り、さらに[[チグリス川]]の東の一部地域までもローマの支配下に置かれた。ローマ帝国が東に版図を最も広げたのはこのときである。<br /> &lt;!--In [[296]], at the beginning of the [[Persian War]], he was removed from the [[Danube]] to the [[Euphrates]]; his first campaign ended in a crushing defeat, near Callinicum, which caused the loss of Mesopotamia. However, in [[297]], advancing through the mountains of [[Armenia]], he gained a decisive victory over [[Narseh of Persia|Narses]], with an enormous amount of booty that included Narses&#039; harem. Following up his advantage, he took the city of [[Ctesiphon]] and in [[298]] Narses sued for peace. Mesopotamia was returned to Roman rule and even some territory east of the [[Tigris]], which marks the greatest extension of the Roman Empire in the east. --&gt;<br /> <br /> [[305年]]、ディオクレティアヌス帝と[[マクシミアヌス]]帝の退位に伴い、ガレリウスは同じ副帝だった[[コンスタンティウス・クロルス]]と共にすぐさま[[アウグストゥス (称号)|正帝]]の座に着き、忠実な召使だった[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス]]と、甥の[[マクシミヌス・ダイア]]を副帝の位に就けた。これによってガレリウスは、いずれコンスタンティウスが亡くなるときに、全ローマ帝国のただ一人の支配者となろうと狙っていた。彼は、コンスタンティウスの息子[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]を東のガレリウス宮廷に客として招き、さらに自らの地位を固めた。<br /> &lt;!--In [[305]], on the abdication of [[Diocletian]] and [[Maximian]], he at once assumed the title of [[Augustus]], with Constantius his former colleague, and having procured the promotion to the rank of Caesar of [[Flavius Valerius Severus]], a faithful servant, and ([[Maximinus]] II Daia), his nephew, he hoped on the death of Constantius to become sole master of the Roman world. Having Constantius&#039; son Constantine as guest at Galerius&#039; court in the east helped to secure his position.--&gt;<br /> <br /> == 野望の崩壊と引退 ==<br /> [[ファイル:Thessaloniki-Arch of Galerius (eastern face).jpg |thumb|right|250px|[[テッサロニキ]]の[[ガレリウスの凱旋門|ガレリウス凱旋門]](東面)]]<br /> しかし、コンスタンティウスが[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]で亡くなると、コンスタンティヌス1世はすぐに皇帝の座を継ぐと宣言し、またマクシミアヌスとその息子[[マクセンティウス]]はイタリアで共同皇帝になると宣言したので、ガレリウスの目論見は崩れた。<br /> &lt;!--His schemes, however, were defeated by the sudden elevation of [[Constantine I|Constantine]] at Eboracum ([[York]]) upon the death of his father, and by the action of Maximian and his son [[Maxentius]], who were declared co-Augusti in Italy.--&gt;<br /> <br /> [[307年]]にイタリア侵入に失敗した後、ガレリウスは友人の[[リキニウス]]を正帝の位に昇格させた。自身の野心も薄れたので、母ロムラを称えて建設した都市フェリックス・ロムリアナ(現在の[[セルビア]]の[[ガムジグラード]]の近く)に引退し、その後の数年の余命を「喜びを味わい、いくらか公益のある仕事を行う」ことに奉げた。<br /> &lt;!-- After an unsuccessful invasion of Italy in [[307]], he elevated his friend [[Licinius]] to the rank of Augustus, and moderating his ambition, he retired to the city Felix Romuliana (near present day Gamzigrada, Serbia-Montenegro) built by him to honor his mother Romula, and devoted the few remaining years of his life &quot;to the enjoyment of pleasure and to the execution of some works of public utility.&quot;--&gt;<br /> <br /> [[311年]][[5月5日]]に死去した。エウセビウス著書『教会史』の記載によると死因はぞっとするような病気で、おそらく[[大腸癌]]のようなものと思われる。『教会史』には以下の様に記されている。<br /> <br /> &quot;何の前触れもなく、彼の性器の真ん中あたりが腫れて膿みくずれ、ぽっかり深い穴が空いた。それは体の奥の奥まで達しており、手の施しようがなかった。やがてその穴から言語を絶するほどの大量のウジ(蛆)がわき、吐き気を催すような匂いが漏れてきた。過食のせいで肥満していた彼の体は、病気になってから、一層締まりのない巨大な脂肪のかたまりと化していたので、まもなく肉が腐り出すと、近侍する者が嘔吐したくなるほどのおぞましい姿となった。実際、医者の何人かはすさまじい悪臭に耐えられなかったため、その場で処刑された。今や彼の全身はふくれあがり、到底回復するとは思えない状態だった。その他の看護人も、もはや看護することができず、容赦なく死刑にされた&quot;<br /> &lt;!-- Galerius died on [[5 May]], [[311]] from a horribly gruesome disease described by Eusebius, possibly some form of [[Colorectal cancer|bowel cancer]].--&gt;<br /> <br /> <br /> <br /> ガレリウスは[[ルーマニア]]の宗教的な民謡(『皇帝』など)に歌い継がれている。<br /> &lt;!--Galerius is remembered in [[Romania|Romanian]] religious-folk songs as &#039;&#039;Ler Imparat&#039;&#039; (Emperor Ler).--&gt;<br /> <br /> == キリスト教徒の迫害 ==<br /> ディオクレティアヌス帝が統治した期間、キリスト教徒はおおむね平穏に生活できた。[[303年]][[2月24日]]の布告によってキリスト教徒の迫害が始まったが、キリスト教徒の伝えるところでは、これはガレリウスの政策という。この迫害では、反政府的な秘密集会の恐れがあるとして、キリスト教の集会所が破壊された。<br /> [[ファイル:Thessaloniki-Arch of Galerius (detail).jpg|thumb|250px|right|[[テッサロニキ]]のガレリウス凱旋門の拡大]]<br /> &lt;!--Christians had lived in peace during most of the rule of Diocletian. The persecutions that began with an edict of February 24, 303, were credited by Christians to the influence of Galerius. Christian houses of assembly were destroyed, for fear of sedition in secret gatherings. --&gt;<br /> <br /> 303年の布告以来、ガレリウスはキリスト教徒の迫害に固執した。しかし、[[311年]]4月、[[ニコメディア]]にて最後の病気が発しているときに、彼は自分とリキニウスとコンスタンティヌスの名の下に迫害を解除する布告を発した。キリスト教の教父[[ラクタンティウス]]は、迫害者の悪い末路を著した教化年代記『迫害者たちの死』(&#039;&#039;De Mortibus Persecutorum&#039;&#039; 34-35章)に、この布告の文言を記している。この布告によって、公式なキリスト教徒迫害は終わった。<br /> &lt;!-- It was at the insistence of Galerius that the last edicts of persecution against the [[Christian]]s were published, beginning on [[February 24]], [[303]], and this policy of repression was maintained by him until the appearance of the general edict of toleration, issued from [[Nicomedia]] in April [[311]], apparently during his last bout of illness, in his own name and in those of Licinius and Constantine. [[Lactantius]] gives the text of the edict in his moralized chronicle of the bad ends to which all the persecutors came, &#039;&#039;De Mortibus Persecutorum&#039;&#039; (&quot;On the Deaths of the Persecutors&quot;, chapters 34, 35). This marked the end of official persecution of Christians.--&gt;<br /> <br /> ラクタンティウスによると、ガレリウスは自らのダキア人としての自覚を肯定し、また「彼はローマという名前を敵視すると公言した。彼は、帝国の名はローマではなくダキア帝国と呼ばれるべきだ、と述べた」。また、ガレリウスは最高位に昇るやいなや反ローマの態度をさらけ出し、2世紀前に[[トラヤヌス]]帝がダキアを征服してダキア人を冷遇したように、ガレリウスも征服者が被征服者を扱うかのようにローマ市民を手荒く冷酷に扱った、という。<br /> &lt;!-- According to Lactantius, Galerius had affirmed his Dacian identity, and &#039;&#039;he had avowed himself the enemy of the Roman name; and he proposed that the empire should be called, not the Roman, but the Dacian empire&#039;&#039; — exhibiting an anti-Roman attitude as soon as he had attained the highest power, treating the Roman citizens with ruthless cruelty, like the conquerors treated the conquered, all in the name of the same treatment that the victorious [[Trajan]] had applied to the conquered [[Dacia]]ns (forefathers of Galerius), two centuries before. --&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Galerius}}<br /> * [http://www.fordham.edu/halsall/source/edict-milan.html Medieval Sourcebook]{{en icon}} - Edict of Toleration by Galerius, 311.<br /> * [http://www.roman-empire.net/decline/galerius.html Gaius Galerius Valerius Maximianus]{{en icon}}<br /> * [http://www.ucalgary.ca/~vandersp/Courses/texts/lactant/lactpers.html Lactantius about Galerius in his &quot;&#039;&#039;De Mortibus Persecutorum&#039;&#039;&quot; chapter XXIII &amp; XXVII]{{en icon}}<br /> * [http://www.newadvent.org/cathen/06341a.htm Catholic Encyclopedia]{{en icon}}<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かれりうす}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:3世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:260年生]]<br /> [[Category:311年没]]</div> 61.7.3.99 マクシミヌス・ダイア 2017-12-19T03:11:38Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = マクシミヌス・ダイア<br /> | 各国語表記 = Maximinus Daia<br /> | 君主号 = ローマ皇帝(東方正帝)<br /> | 画像 = Daza01 pushkin.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[308年]] - [[313年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = ガイウス・ウァレリウス・ガレリウス・マクシミヌス&lt;br&gt;(Gaius Valerius Galerius Maximinus)<br /> | 出生日 = [[270年]][[11月20日]]<br /> | 生地 = [[ガムジグラード|ロムリアーナ]]<br /> | 死亡日 = [[313年]]7月または8月<br /> | 没地 = <br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = あり(名前不詳)<br /> | 子女 = 男子(305年 - 313年)&lt;br /&gt;女子(306年 - 313年)<br /> | 王家 = <br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = <br /> | 母親 = [[ガレリウス]]帝の姉妹<br /> }}<br /> [[file:Maximinus2.jpg|thumb|right|240px|マクシミヌス・ダイアの発行したフォリス銅貨]]<br /> &#039;&#039;&#039;ガイウス・ウァレリウス・ガレリウス・マクシミヌス&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;{{lang|la|Gaius Valerius Galerius Maximinus}}&#039;&#039;&#039;, [[270年]][[11月20日]] - [[313年]]7月または8月)は、[[ローマ皇帝]](在位:[[308年]] - [[313年]])。元は&#039;&#039;&#039;ダイア&#039;&#039;&#039;(Daia)という名前であった。[[ガレリウス]]帝の甥(同帝の姉妹の息子)である。<br /> <br /> == 略歴 ==<br /> 出自は[[ダキア属州]]([[マケドニア属州]]と共に[[イリュリクム]]に属した)の[[ドナウ川]]周辺に生まれた農民であった。軍に入隊して優れた殊勲を上げ、[[305年]]には母方の伯父[[ガレリウス]]帝に引き立てられて[[副帝]]の地位を授けられ、[[シリア属州]]と[[アエギュプトゥス]]を支配するようになった。<br /> <br /> [[308年]]、[[リキニウス]]帝が[[アウグストゥス (称号)|正帝]]となった後、マクシミヌス・ダイアと[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]はどちらも &quot;filii Augustorum&quot;(正帝の息子)を名乗った。そしてマクシミヌスは、[[310年]]の[[サーサーン朝]]との戦役から後は、はっきり正帝として振舞ったと思われる。<br /> <br /> [[311年]]にガレリウス帝が死去し、マクシミヌス・ダイアはローマ帝国の東側をリキニウス帝と分割することになった。リキニウス帝はコンスタンティヌス帝と連携を始めたので、マクシミヌス・ダイアは副帝を僭称してイタリアを支配する[[マクセンティウス]]と陰で連携した。[[313年]]にリキニウス帝とはっきり決裂したが、[[小アジア]]のヘラクレア・ポンティカ (Heraclea Pontica) 近郊にて[[ツィラッルムの戦い]] ([[:en:Battle of Tzirallum|en]]) に大敗した([[4月30日]])結果、[[ニコメディア]]を経由して[[タルスス]]に逃亡し、8月に死亡した。<br /> <br /> キリスト教の史料においてマクシミヌス・ダイアは、ガレリウス帝が解除したキリスト教徒の迫害令を再び執行したとのことで悪く記述されているが、客観的な記載ではない可能性がある。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.roman-emperors.org/daia.htm DiMaio, Michael, &quot;Maximinus Daia (305-313 A.D.)&quot;, &#039;&#039;De Imperatoribus Romanis&#039;&#039;] (英語)<br /> * [http://www.newadvent.org/cathen/10077b.htm Catholic Encyclopedia article] (英語)<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:まくしみぬす たいあ}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:270年生]]<br /> [[Category:313年没]]</div> 61.7.3.99 ルキウス・ウェルス 2017-12-01T12:44:44Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ルキウス・ウェルス<br /> | 各国語表記 = Lucius Verus<br /> | 君主号 = ローマ皇帝(共同皇帝)<br /> | 画像 = Lucius Verus - MET - L.2007.26.jpg<br /> | 画像サイズ =<br /> | 画像説明 = 胸像([[ロンドン]]、[[大英博物館]]所蔵)<br /> | 在位 = 共同皇帝:[[161年]] - [[169年]]<br /> | 戴冠日 =<br /> | 別号 =<br /> | 全名 =<br /> | 出生日 = [[130年]][[12月15日]]<br /> | 生地 =<br /> | 死亡日 = [[169年]]<br /> | 没地 =<br /> | 埋葬日 =<br /> | 埋葬地 =<br /> | 継承者 =<br /> | 継承形式 =<br /> | 配偶者1 = {{仮リンク|アンニア・アウレリア・ガレリア・ルキッラ|en|Lucilla|label=ルキッラ}}<br /> | 子女 = アウレリア・ルキッラ&lt;br&gt;ルキウス・ウェルス&lt;br&gt;ルキッラ・プラウディア<br /> | 王家 =<br /> | 王朝 =<br /> | 王室歌 =<br /> | 父親 = [[ルキウス・アエリウス・カエサル]]<br /> | 母親 = アウィディア・プラウティア<br /> | 宗教 =<br /> | サイン =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス・ウェルス&#039;&#039;&#039;(ラテン語:&#039;&#039;&#039;Lucius Ceionius Commodus Verus&#039;&#039;&#039;, [[130年]][[12月15日]] - [[169年]])は、[[ローマ帝国]]の[[ネルウァ=アントニヌス朝]]の[[ローマ皇帝一覧|皇帝]]の一人で、[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]と共に統治した共同皇帝である(在位:[[161年]] - 169年)。2人はともに[[アントニヌス・ピウス]]の養子となり、養父の死後に皇帝位を継承した。一般には&#039;&#039;&#039;ルキウス・ウェルス&#039;&#039;&#039;と呼ばれる。<br /> <br /> ==経歴==<br /> ウェルスの父[[ルキウス・アエリウス・カエサル]]は[[ハドリアヌス]]の親戚であり、ハドリアヌスが最初に後継者として考えた人物であった。母の名はアウィディア・プラウティアである。アエリウス・カエサルが138年に死亡すると、ハドリアヌスは[[アントニヌス・ピウス]]を条件つきで新しい後継者に指名した。条件とは、アエリウス・カエサルの遺児である7歳のルキウス・ウェルスと、ハドリアヌスの妻の縁戚である[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス|マルクス・アウレリウス]]をアントニヌスが養子とすることであった。皇帝の養子として、ルキウスは配慮の行き届いた教育を受けた。ルキウスは優秀な学生であったと伝えられ、詩作と弁論を好んだ。<br /> <br /> ルキウス・ウェルスは[[153年]]、政界に初めて登場した。[[154年]]には[[執政官]]を務めたが、これは執政官の最低年齢とされる32歳を大幅に下回っていた。161年には年長のマルクス・アウレリウスとともに再び執政官を務めた。この年にピウスが死去、マルクス・アウレリウスが皇帝の座を継ぎ、ウェルスは共同皇帝となった。2人の皇帝は同等な権利を持っていたが、実際の政務においてはマルクス・アウレリウスが指導的な立場を握っていた。<br /> <br /> 161年から166年にかけて、ウェルスは[[パルティア]]との{{仮リンク|第六次パルティア戦争|en|Roman–Parthian War of 161–166}}に従事した。遠征は一定の戦果をあげ、[[アルメニア王国]]を奪還し、さらにパルティアの大都市[[クテシフォン]]と[[セレウキア]]を一時占領し、略奪した。ウェルスは恐れを知らぬ指揮官として、優れた将軍たちを配下に指導者として高い能力を発揮したと伝えられる。同時代の証言は、陣中でのウェルスの生活はつらいものではなかったことを伝えている。ウェルスは俳優や音楽家たちに囲まれ、絶えず競演やその他の娯楽に興じていた。しかしこれは指揮官としてのウェルスの行動に影響せず、また陽気な雰囲気を陣中に作ることでかえって士気を鼓舞したと伝えられる。遠征を終えたウェルスがローマに帰還すると、ローマは凱旋門を作ってウェルスを顕彰した。また、164年にはマルクス・アウレリウスの娘{{仮リンク|アンニア・アウレリア・ガレリア・ルキッラ|en|Lucilla|label=ルキッラ}}と結婚した。<br /> <br /> 遠征の後、ウェルスは2年間をローマで過ごした。ウェルスはローマでも享楽的な生活を続け、友人を集めた夜通しの宴会や[[戦車競走]]に熱中した。マルクス・アウレリウスはこれに苦言したが、政務においてはウェルスが出来ることはほとんどなく、ウェルスの享楽的な生活はその公務には影響しなかった。<br /> <br /> 168年春、[[ドナウ川]]に[[ゲルマン人|ゲルマン]]系の[[アラマンニ人|アラマンニ族]]と[[マルコマンニ族]]が来襲した([[マルコマンニ戦争#パンノニア遠征(168年-169年)|パンノニア遠征]])。ウェルスはこれを迎え撃つために出陣した。[[マルコマンニ戦争]]は180年まで続いたが、ウェルスはその終末を知ることはなかった。169年1月、ウェルスとマルクス・アウレリウスが冬を避けて戦場からローマに帰還する道中、ウェルスは[[食中毒]]の症状を呈して床に就き、数日後に死亡した。<br /> <br /> なお、ウェルスの死についてはいくつかの説がある。『[[ヒストリア・アウグスタ]]』は、マルクス・アウレリウスが毒のついた豚の子宮をウェルスに食させて毒殺したとし&lt;ref&gt;『ヒストリア・アウグスタ』マルクス・アウレリウス15&lt;/ref&gt;、[[カッシウス・ディオ]]は、ウェルスが謀反を企んでいると考えたマルクス・アウレリウスによって毒殺されたと記している&lt;ref&gt;ディオ『ローマ史』71.3.1&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ウェルスの遺体はローマに運ばれ、追悼のための競技会が行われた。葬儀の後、元老院はウェルスを神として祀ることを決議し、Divus Verus(the Divine Verus)ディウス・ウェルス(神君ウェルス)の称号を与えた。一方、マルクス・アウレリウスはウェルスへの追悼コメントで「大変に怠慢であったウェルスが死去したことで、自らが一から国家作りを始めることが出来る」「従来はウェルスの功績と考えられてきたパルティアでの戦いは自らが指示したものである」と語ったため、マルクス・アウレリウスによるウェルスへの毒殺説が強まる格好となり、この風評が広まるのを恐れたマルクス・アウレリアウスがウェルスの親族や関係者に多くの特権や褒賞を与えたと伝わっている&lt;ref&gt;『ヒストリア・アウグスタ』マルクス・アウレリウス21&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ウェルスは妻ルキッラとの間に1男2女を儲けたが、いずれも若死しており、ウェルスの直系子孫は後世に伝わらなかった。<br /> <br /> *アウレリア・ルキッラ(165年生誕。夭折)<br /> *ルキウス・ウェルス(父と同名、168年/169年没)<br /> *ルキッラ・プラウディア - 後にカプリに追放。182年没?。<br /> <br /> なお、ルキッラはウェルスの死後、ティベリウス・クラウディウス・ポンペイアヌス(125年 - 193年、68歳没)と再婚し、ティベリウス・クラウディウス・ポンペイアヌス・クィンティアヌス(170年 - 212年から217年の間)とルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・ポンペイアヌス(アウレリアヌス・ポンペイアヌス、176年/177年 - 211年/212年)という2人の息子(ウェルスの子供達の異父弟)がいる。更にルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・ポンペイアヌスには、息子としてルキウス・ティベリウス・クラウディウス・ポンペイアヌス(231年、[[コンスル]]就任)とクロディウス・ポンペイアヌス(241年、コンスル就任)がいる。この2人はルキッラの孫(ウェルスの子供達の甥)にあたる。このようにルキッラの直系子孫は少なくとも3世紀まで存続した。<br /> <br /> ウェルスの傍系子孫(ウェルスの姉の子孫)も少なくとも3世紀まで存続している。<br /> ウェルスには1人の兄弟と2人の姉妹がいた。<br /> <br /> *兄弟:ガイウス・アビディウス(アウィディウス)・ケイオニウス・コンモドゥス - 子女なし<br /> <br /> *姉:ケイオニア・ファビア - ハドリアヌスの遺言のより、マルクス・アウレリウス・アントニヌスと婚約していたが、アントニヌス・ピウスの意向により破棄された。後にプラウティウス・クィンティルス(? - 175年没)と結婚。マルクス・プラウティウス・クィンティルス(ウェルスから見て甥。? - 205年没)という一人息子を儲けた。マルクスはファディラ(マルクス・アウレリウス・アントニヌスの娘の一人)と結婚し、プラウティア・セルウィリア(セルヴィリア)とプラウティウス・クィンティルスの1男1女が誕生(ウェルスから見て大姪と大甥)したが、この代でファビアの系統は途絶えている。<br /> <br /> *姉:ケイオニア・プラウティア(122年頃 - ?)- クィントゥス・セルウィリウス・プデンス(120年頃 -166年以降。166年に[[コンスル]])と結婚。セルウィリア・ケイオニア(ウェルスから見て姪。145年頃生誕)が生まれている。セルウィリアはユニウス・リキニウス・バルブス(140年頃生誕)と結婚。ユニウス・リキニウス・バルブス(父と同名。ウェルスから見て大甥。180年頃- 238年以降)を儲けた。このユニウスは後の軍人皇帝の一人[[ゴルディアヌス1世]]の娘で、同じく軍人皇帝の一人である[[ゴルディアヌス2世]]の姉妹アントニア・ゴルディアナ(201年 - ?)との間に軍人皇帝の一人に数えられている息子を儲けた。後の[[ゴルディアヌス3世]]である。<br /> ゴルディアヌス3世は[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ]]である[[ガイウス・フリウス・サビニウス・アクイラ・ティメシテウス]]の娘フリア・サビナ・トランクィリナ(225年頃- 244年以後)と241年に結婚。一人娘フリア(241年から父ゴルディアヌス3世が死去する244年の間に誕生。没年不詳)を儲けている。<br /> この結果、ゴルディアヌス一族は[[ネルウァ=アントニヌス朝]]と縁戚、血縁両方で結びついており、ゴルディアヌス3世はプラウティアの曽孫にあたり、ウェルスの大甥の子(曽姪孫)。ゴルディアヌス3世の娘フリアはウェルスの大甥の孫(玄姪孫)である。<br /> <br /> == 家系図 ==<br /> {{ネルウァ・アントニヌス朝系図}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> {{Commons|Lucius Verus}}<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:るきうす うえるす}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:ネルウァ・アントニヌス家]]<br /> [[Category:2世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:130年生]]<br /> [[Category:169年没]]</div> 61.7.3.99 ペルティナクス 2017-12-01T12:24:02Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ペルティナクス<br /> | 各国語表記 = Pertinax<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 = Alba Iulia National Museum of the Union 2011 - Possible Statue of Roman Emperor Pertinax Close Up, Apulum.JPG<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = [[バチカン美術館]]所蔵「ペルティナクス」([[ローマ]])<br /> | 在位 = 193年1月1日 - 193年3月28日<br /> | 戴冠日 = <br /> | 全名 = プブリウス・ヘルウィウス・ペルティナクス(将軍時代)&lt;BR&gt;カエサル・プブリウス・ヘルウィウス・ペルティナクス・アウグストゥス(戴冠後)&lt;br&gt;&#039;&#039;Caesar Publius Helvius Pertinax Augustus&#039;&#039;<br /> | 出生日 = {{birth date|126|8|1|df=y}}<br /> | 生地 = [[アルバ (曖昧さ回避)|アルバ・ポンペイア]]<br /> | 死亡日 = {{death date and age|193|3|28|126|8|1|df=y}}<br /> | 没地 = [[ローマ]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = ローマ<br /> | 継承者 = [[ディディウス・ユリアヌス]]<br /> | 継承形式 = 簒奪<br /> | 配偶者1 = [[:en:Flavia Titiana|フラヴィア・ティティアナ]]<br /> | 配偶者2 = <br /> | 子女 = プブリウス・ヘルウィウス・ペルティナクス&lt;br&gt;娘1人<br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = なし([[五皇帝の年]])<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = <br /> | 母親 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;プブリウス・ヘルヴィウス・ペルティナクス&#039;&#039;&#039;(Publius Helvius Pertinax, [[126年]][[8月1日]] - [[193年]][[3月28日]])は第18代[[ローマ帝国]]皇帝(在位[[193年]][[1月1日]] - [[193年]][[3月28日]])で、[[五皇帝の年]]における最初の帝位請求者。一般にペルティナクス(Pertinax)と略称される場合が多い。<br /> <br /> 皇帝即位前は将軍や属州総督を勤め&lt;ref&gt;Bowman, pg. 1&lt;/ref&gt;、コンモドゥス帝暗殺による[[ネルウァ=アントニヌス朝]]断絶後に[[元老院 (ローマ)|元老院]]と近衛隊の推挙を受けて皇帝となったが、同年の内に暗殺された&lt;ref&gt;Thomas, &#039;&#039;History of the Roman Empire from the time of Vespasian to the Extinction of the Western Empire&#039;&#039; (1853), pg. 158. Although Commodus was killed on 31 December 192, Pertinax was not acclaimed emperor until 1 January 193.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> ===アウレリウス帝時代===<br /> 現在の[[ピエモンテ州]]付近にあった[[アルバ (クーネオ県)|アルバ・ポンペイア]]([[アルバ・ロンガ]]とは異なる)で([[解放奴隷]]である)[[解放奴隷|自由民]]階層の家庭に生まれた&lt;ref&gt;Dio, 74:3&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 1:1&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 成人すると[[修辞法]]の教師として職を得るが&lt;ref&gt;Canduci, pg. 50&lt;/ref&gt;、途中でより待遇の良い帝国軍の兵士に転じた&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 1:6&lt;/ref&gt;。軍人としての才能を発揮したペルティナクスは[[百人隊長]]となり、更に[[パルティア戦争]]で優れた働きを見せて軍団司令官にまで立身した&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 2:1&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Birley, pg. 173&lt;/ref&gt;。幾つかの軍団の指揮官を歴任した後、[[ダキア]]総督として政界に進出した&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 2:4&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 忠誠を疑った時の皇帝[[マルクス・アウレリウス]]に疎まれて左遷されていた時期もあったが、[[マルコマンニ戦争]]で総司令官[[クラウディウス・ポンペイウス]](皇女ルキアの夫であった)の[[副将]]として復帰を許された&lt;ref&gt;Dio, 74:3&lt;/ref&gt;。175年にはアウレリウス帝からこれまでの功績を評価されて[[執政官]]に指名され&lt;ref&gt;Meckler, www.roman-emperors.org/pertinax.htm&lt;/ref&gt;、[[シリア属州|シリア]]、上下[[モエシア]]の総督を歴任している&lt;ref&gt;Birley, pg. 173&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===コンモドゥス帝時代===<br /> アウレリウス帝の長男[[コンモドゥス]]が皇帝に戴冠した後も属州の要職を任されていた&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 3:3&lt;/ref&gt;。しかしコンモドゥス帝の右腕であった近衛隊長[[セクストゥス・ペレンニス]]と対立し、両者の諍いに皇帝はペルティナクスを公職から遠ざける決定を下した&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 3:3&lt;/ref&gt;。二度目の失脚に追い込まれたペルティナクスだったが、ペレンニスがコンモドゥス帝に粛清されると[[ブリタニア]]総督として皇帝の側近に復帰した&lt;ref&gt;Dio, 74:4&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 前総督[[ウルピウス・マルケルス]]に対する大規模な兵士の反乱が起きていた[[ブリタニア]]で、ペルティナクスは反乱兵の待遇改善の要求を拒絶して容赦の無い鎮圧を行った。その為に何度も反乱兵から命を狙われたが&lt;ref&gt;Birley, pg. 174&lt;/ref&gt;、むしろペルティナクスは更に反乱兵を処罰して無慈悲な人物という評価を得る事となった&lt;ref&gt;Canduci, pg. 50&lt;/ref&gt;。187年には反乱の激化を恐れたコンモドゥス帝によって、ブリタニア総督からアフリカ総督に転任を命じられた&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 3:10&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 4:1&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> とはいえ皇帝に重用されている事に代わりは無く、[[192年]]には二度目の執政官叙任を受けた上で&lt;ref&gt;Birley, pg. 174&lt;/ref&gt;[[首都長官]]に栄転している&lt;ref&gt;Victor, 18:2&lt;/ref&gt;。新たな近衛隊長クレアンデルの専横と穀物危機がローマでの暴動に繋がると、近衛隊を恣意的に動員して暴動を封殺しようとしたクレアンデルを首都防衛隊によって阻止した。立場を失ったクレアンデルはコンモドゥス帝に処刑され、ローマの暴動は収まった。<br /> <br /> ローマ暴動後、元より不安定な部分があったコンモドゥス帝が明確に正気を失って暴政を繰り広げるようになると、宮廷内でコンモドゥス暗殺の謀議が巡らされた。ペルティナクスはこの暗殺計画に関与していた人物の一人であった&lt;ref&gt;Canduci, pg. 50&lt;/ref&gt;。192年、皇帝の妾マルキアと近衛隊長[[クィントゥス・アエリウス・ラエトゥス]]によってコンモドゥス帝は暗殺された。暗殺の翌日に首都長官としてローマに滞在していたペルティナクスはラエトゥスとの密約に従って、新たな皇帝への即位を民衆に宣言した&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 4:5&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===皇帝即位後===<br /> ペルティナクス帝の僅かな統治間(86日間)は常に政治的な問題に直面し続けた。ペルティナクスの統治について、[[エドワード・ギボン|ギボン]]はアウレリウス帝時代の禁欲的な文化政策と緊縮財政を目標としていたようだと考察している&lt;ref&gt;Gibbon, Ch. 4&lt;/ref&gt;。だが急激な改革は議会から多大な反発を受ける事に繋がった&lt;ref&gt;Gibbon, Ch. 4&lt;/ref&gt;。また皇帝即位時の慣例であった[[ドナティブム]](近衛隊に対する特別給金)を行わないなど支持基盤である近衛兵隊を冷遇し&lt;ref&gt;Dio, 74:8&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Zosimus, 1:8&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Bowman, pg. 2&lt;/ref&gt;、ラエトゥスとの関係までも冷却化させてしまった。<br /> <br /> 焦ったペルティナクス帝は先帝であるコンモドゥス帝の遺産の一部(妾マルキアの邸宅を含む&lt;ref&gt;Dio, 74:5&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 7:8&lt;/ref&gt;)を没収して、ドナティブム用の資金作りに奔走している&lt;ref&gt;Bowman, pg. 2&lt;/ref&gt;。しかし反ペルティナクス派は帝国の支配者層で確固たる勢力となっており、早くも3月にはオスティア港訪問中に暗殺未遂事件が発生している&lt;ref&gt;Dio, 74:8&lt;/ref&gt;。首謀者は執政官クィントゥス・ソシウス・ファルコを即位させようとする反ペルティナクス派の元老院議員達で、ペルティナクスはソシウスは恩赦しつつも反ペルティナクス派議員の処刑を行った&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 10:4&lt;/ref&gt;。この一件で元老院とペルティナクス帝の不和も決定的となった。<br /> <br /> ===暗殺===<br /> 元老院による暗殺未遂から数週間後の193年3月28日、今度は近衛隊がペルティナクスを殺害するべく宮廷の城門に集結した&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 11:1&lt;/ref&gt;。ペルティナクスを嫌っていた宮殿の衛兵や役人達はあっさり反乱兵を宮殿に迎え入れ、窮地に陥ったペルティナクスは近衛隊長ラエトゥスを反乱軍へ送ったが、ラエトゥスも皇帝を見限って反ペルティナクス派に転じてしまった&lt;ref&gt;Historia Augusta, Pertinax, 11:7&lt;/ref&gt;。側近達はペルティナクスに脱出を促したが彼はこれを拒み、兵士達に説得の演説を行った。ペルティナクスの演説は巧みなものだったが、演説の最中に兵士の一人に剣を突き刺され死亡した&lt;ref&gt;Dio, 74:10&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ペルティナクスは皇帝即位のリスクを理解していたとされ、妻フラヴィア・ティティアナに皇妃の称号を与えなかった&lt;ref&gt; Bowman, pg. 1&lt;/ref&gt;。このお陰でフラヴィアは次の皇帝ディディウス・ユリアヌスによる粛清を免れる事が出来た。<br /> <br /> 近世イタリアの歴史家ニコロ・マキャヴェリはペルティナクスの治世について、「兵士から憎み嫌われ、軍を支配できなかった」と否定的に評価している&lt;ref&gt;[[君主論]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==引用==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[ローマ内戦 (192年-197年)]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|Pertinax}}<br /> *[http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Pertinax*.html Historia Augusta: Life of Pertinax]<br /> * [http://www.livius.org/he-hg/helvius/pertinax1.html Pertinax at Livius.Org]<br /> * [http://www.roman-emperors.org/pertinax.htm Pertinax at De Imperatoribus Romanis]<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:へるていなくす}}<br /> <br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:2世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:暗殺された人物]]<br /> [[Category:126年生]]<br /> [[Category:193年没]]</div> 61.7.3.99 グラティアヌス 2017-12-01T11:32:37Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2017年9月3日 (日) 03:30 (UTC)}}<br /> {{Otheruses|古代ローマ皇帝|西欧中世の法学者・修道士|ヨハンネス・グラティアヌス}}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = グラティアヌス<br /> | 各国語表記 = Flavius Gratianus<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 = Gratian Solidus.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = グラティアヌスが印された硬貨<br /> | 在位 = [[375年]] - [[383年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = [[359年]][[4月18日]]/[[5月23日]]<br /> | 生地 = [[ローマ帝国]]、[[パンノニア|下パンノニア属州]]、[[シルミウム]]<br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|359|4|18|383|8|25}}<br /> | 没地 = [[ローマ帝国]]、[[ガリア・ルグドゥネンシス|ガリア・ルグドゥネンシス属州]]、[[リヨン|ルグドゥヌム]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 配偶者1 = フラウィア・マキシマ・コンスタンティア([[コンスタンティウス2世]]の娘)<br /> | 配偶者2 = ラエタ<br /> | 子女 = 男子(母はコンスタンティア)<br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = [[ウァレンティニアヌス朝]]<br /> | 父親 = [[ウァレンティニアヌス1世]]<br /> | 母親 = マリア・セウェラ<br /> }}<br /> [[File:Solidus of Gratian (YORYM 2001 12462) obverse.jpg|thumb|right|グラティアヌスが印された硬貨]]<br /> &#039;&#039;&#039;フラウィウス・グラティアヌス&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;{{lang-la|Flavius Gratianus}}&#039;&#039;&#039;, [[359年]][[4月18日]]か[[5月23日]] - [[383年]][[8月25日]])は、[[ローマ帝国]]の[[皇帝]](在位:[[375年]] - 383年)。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[ウァレンティニアヌス1世]]の長男として生まれ、7歳で西方正帝の称号を受ける。父帝死亡時はまだ16歳にすぎなかったが、弟の[[ウァレンティニアヌス2世]]とローマ帝国西方の統治者として跡を継いだ。378年、東帝[[ウァレンス]]が[[ハドリアノポリスの戦い]]で戦死した後、グラティアヌスは隠遁生活を送っていた小テオドシウス(後の[[テオドシウス1世]])をローマ帝国東方の共同皇帝に任命した。小テオドシウスの隠遁のきっかけとなった大テオドシウス(小テオドシウスの父)の処刑を指示したのはグラティアヌスであったが、大テオドシウスの名誉回復を約束することで協力させた。<br /> <br /> 政治では、[[ミラノ]]の司教[[アンブロジウス]]の影響で、父帝の穏健な宗教政策から離れ、[[最高神祇官]]の称号を拒否したり、女神[[ニケ|ウィクトリア]]の祭壇を[[元老院 (ローマ)|元老院]]から撤去させたりした。 383年、マクシムスが[[ブリタンニア]]で挙兵して[[ガリア]]に進軍を開始すると、それを迎え撃ったが、歩兵長官メロバウデスの裏切りで敗走し、ルグドゥヌム(現[[リヨン]])で殺害された。 <br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Gratianus}}<br /> *[[アンブロジウス]]<br /> *[[ウァレンティニアヌス朝]]<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> {{DEFAULTSORT:くらていあぬす}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:イタリアの幼君]]<br /> [[Category:359年生]]<br /> [[Category:383年没]]<br /> [[Category:戦死した人物]]</div> 61.7.3.99 ウァレンティニアヌス朝 2017-12-01T11:30:57Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2016年10月}}<br /> &#039;&#039;&#039;ウァレンティニアヌス朝&#039;&#039;&#039;は、[[ウァレンティニアヌス1世]]、[[ウァレンス]]、[[グラティアヌス]]、[[ウァレンティニアヌス2世]]の4人、もしくはこれに[[379年]]から東方正帝となった[[テオドシウス1世]]を含め5人の[[ローマ皇帝]]から成る[[364年]]から[[392年]]の[[ローマ帝国]]の[[王朝]]である。王朝の創始者であるウァレンティニアヌス1世・ウァレンス兄弟の母(名はファウスタとされる)は[[コンスタンティヌス朝]]に属する[[コンスタンティウス1世]]とその後妻テオドラの孫娘(2人の娘の1人アナスタシアの子)である為、コンスタンティヌス朝とは女系という形で血縁関係がある。故に兄弟はコンスタンティウス1世・テオドラ夫妻の曾孫で、[[コンスタンティヌス1世]]の大甥、[[クリスプス]]や[[コンスタンティヌス2世]]、[[コンスタンティウス2世]]、[[コンスタンス1世]]、[[コンスタンティウス・ガッルス]]、[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス]]の従兄弟甥にあたる。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> {{節スタブ}}<br /> <br /> ===王朝断絶後===<br /> 王朝の断絶(ウァレンティニアヌス2世の死去で男系が断絶)後も、ウァレンティニアヌス1世の娘ガッラがテオドシウス1世に嫁いでいたので女系を通じて血統は存続した。そしてガッラとテオドシウスとの間に生まれた娘、[[ガッラ・プラキディア]]は後のローマ皇帝[[ホノリウス]]配下の部将で後に正帝となる[[コンスタンティウス3世]]に嫁ぎ[[ウァレンティニアヌス3世]]が生まれた。ウァレンティニアヌス3世は後に皇帝となった(在位425年〜455年、ただしウァレンティニアヌス3世はテオドシウス朝に含む)。<br /> ウァレンティニアヌス1世の子孫は、6世紀の終わりまで、[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]のローマ貴族であり続けた。<br /> <br /> == 歴代君主 ==<br /> === 西方帝 ===<br /> *[[ウァレンティニアヌス1世]](在位[[364年]] - [[375年]])<br /> *[[グラティアヌス]](在位[[375年]] - [[383年]])<br /> *[[ウァレンティニアヌス2世]](在位[[375年]] - [[392年]])<br /> === 東方帝 ===<br /> *[[ウァレンス]](在位[[364年]] - [[378年]])<br /> *[[テオドシウス1世]](在位[[379年]] - [[395年]])<br /> <br /> == 系図 ==<br /> {{familytree/start|style=font-size:80%;}}<br /> {{familytree | | | | | |,|-|-|-|.| |}}<br /> {{familytree | | | | |VA1 | |VAL |VA1=&#039;&#039;&#039;[[ウァレンティニアヌス1世]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;西方帝|VAL=&#039;&#039;&#039;[[ウァレンス]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;東方帝}}<br /> {{familytree | |,|-|-|-|+|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | |}}<br /> {{familytree |GRA | |GAL |V|TH1 | |VA2 | |GRA=&#039;&#039;&#039;[[グラティアヌス]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;西方帝|GAL=ガッラ|TH1=&#039;&#039;&#039;[[テオドシウス1世]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;東方帝&lt;br&gt;全ローマ帝|VA2=&#039;&#039;&#039;[[ウァレンティニアヌス2世]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;西方帝}}<br /> {{familytree | | | | | | | |:| | | | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | THE | |THE=[[テオドシウス朝]]}}<br /> {{familytree/end}}<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> <br /> ==参照==<br /> *Wikipedia英語版[[:en:Valentinian_dynasty|Valentinian dynasty]]より<br /> <br /> ==関連項目==<br /> * [[ローマ帝国]]<br /> * [[ローマ皇帝]]<br /> * [[ローマ皇帝一覧]]<br /> * [[アウグストゥス (称号)]]<br /> * [[カエサル (称号)]]<br /> <br /> {{ローマ帝国}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:うあれんていにあぬすちよう}}<br /> [[Category:ローマ帝国の王朝]]<br /> [[Category:4世紀]]</div> 61.7.3.99 ゴルディアヌス3世 2017-12-01T09:07:45Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ゴルディアヌス3世<br /> | 各国語表記 = Gordianus III<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 = Bust Gordianus III Louvre Ma1063.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = ゴルディアヌス3世の胸像<br /> | 在位 = [[238年]] - [[244年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = [[225年]][[1月20日]]<br /> | 生地 = <br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|225|1|20|244|2|11}}<br /> | 没地 = <br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = フリア・サビナ・トランクィリナ<br /> | 子女 = フリア<br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = <br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = ユニウス・リキニウス・バルブス<br /> | 母親 = [[アントニア・ゴルディアナ]]<br /> | 宗教 =<br /> | サイン =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・ピウス&#039;&#039;&#039;(Marcus Antonius Gordianus Pius)、または&#039;&#039;&#039;ゴルディアヌス3世&#039;&#039;&#039;(Gordianus III、[[225年]][[1月20日]] - [[244年]][[2月11日]])は、[[ローマ皇帝]](在位:[[238年]] - 244年)。[[ゴルディアヌス1世]]の娘で[[ゴルディアヌス2世]]の姉妹である、アントニア・ゴルディアナの息子である。父の名はユニウス・リキニウス・バルブスであり、おそらくは238年に祖父の名を名乗る以前には父と同じこの名を名乗っていたと思われる。父の父母の名はユニウス・リキニウス・バルブス(140年頃 - ?)とセルウィリア・ケイオニア(145年頃- ?)であり、セルウィリアの父母はクィントゥス・セルウィリウス・プデンス(120年頃 - 166年以降)とケイオニア・プラウティア(122年頃 - ?)。ケイオニア・プラウティアの弟は[[ネルウァ=アントニヌス朝]]の皇帝の一人で[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]の共同皇帝だった[[ルキウス・ウェルス]]である。つまり、ゴルディアヌス3世はプラウティアの曾孫で、ウェルスから見て曾姪孫(大甥の子、姪の孫)という遠縁にあたる。また、プラウティアとウェルスの姉弟の父で皇帝[[ハドリアヌス]]の養子の一人であった[[ルキウス・アエリウス・カエサル]]の玄孫にあたる。このようにゴルディアヌス3世の一族は、ネルウァ=アントニヌス朝と縁戚、血縁両方で結びついていた。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> 皇帝[[アレクサンデル・セウェルス]]が[[高地ゲルマニア]]属州の首都モゴンティアークム(現代の[[マインツ]])で暗殺された後、[[マクシミヌス・トラクス]]は[[元老院 (ローマ)|元老院]]の承認を得て、皇帝に即位した。しかし、元老院はマクシミヌスの政策に対する不満から対立するようになる。238年3月、ゴルディアヌス1世が[[カルタゴ]]で叛旗を翻すと、ローマはマクシミヌスの行動を反逆とみなし、[[アフリカ属州]]にいたゴルディアス1世と2世を共同皇帝と宣言した。しかしゴルディアヌス父子は4月にマクシミヌスの支持者であった[[ヌミディア]]総督カペリアヌスに鎮圧された。2人は死んだものの、ローマの公衆はゴルディアヌス父子を、平和を好み文芸に秀でながらマクシミヌスの暴政の犠牲となったものとして悼み、記憶に留めた。<br /> <br /> マクシミヌスはローマに進軍しつつあったが、元老院はなおもこれを認めず、元老院議員[[デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス]]と[[マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス]]を共同皇帝とし、ゴルディアヌス1世の孫でまだ13歳であったゴルディアヌス3世に「カエサル」の称号を与えて2人の副帝とした。マクシミヌス配下の軍団の離間、とりわけ第二軍団パルティカ{{enlink|Legio II Parthica}}による暗殺のおかげで、2人はマクシミヌスを破ったが、2人の治世は初めから危殆に瀕していた。民衆の暴動、軍団の不満、238年6月のローマの大火などが相次ぎ、ついに[[7月29日]]、2人は親衛隊により暗殺され、ゴルディアヌス3世がローマ皇帝と宣言された。<br /> <br /> ゴルディアヌス3世は若年だったため、実際の政治はその周囲の貴族たちが行い、元老院を通じてローマの国事を支配していた。[[241年]]にゴルディアヌス3世は、新任の[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ|親衛隊長官]][[ガイウス・フリウス・サビニウス・アクイラ・ティメシテウス]]の娘フリア・サビナ・トランクィリナと結婚した。親衛隊の勢力と皇帝の舅という立場を背景にして、ティメシテウスはすぐにローマ帝国の事実上の支配者となった。<br /> <br /> [[3世紀]]、ローマ帝国の国境は[[ライン川]]と[[ドナウ川]]をはさんで対峙する[[ゲルマン人]]の部族によって弱体化していた。また[[ユーフラテス川]]の向こうでは[[サーサーン朝]](ペルシア)の攻撃が増していた。ペルシアが[[シャープール1世]]のもと[[メソポタミア]]に侵攻すると、若い皇帝ゴルディアヌス3世は[[ヤヌス神殿]]の扉を開け、東方へ向かった。ヤヌス神殿の扉を開けることは古代ローマにおいては戦時を意味したが、この時扉を開けたのが歴史に記録される最後の事例となっている。ペルシア軍は[[ユーフラテス川]]の対岸へと押しやられ{{仮リンク|レサエナの戦い|en|Battle of Resaena}}([[243年]])で敗北した。戦役は成功に終わり、ゴルディアヌスは敵地への侵攻を計画したが、このとき義父ティメシテウスが定かでない状況のもと死を遂げた。ティメシテウスを失い、戦役とゴルディアヌスの安全は危険にさらされることになった。<br /> <br /> [[ピリップス・アラブス]]が後任の親衛隊長官となり、戦役は続けられた。[[244年]]のはじめ、ペルシア軍は逆襲をしてきた({{仮リンク|ミシケの戦い|en|Battle of Misiche}})。ペルシア側史料([[ナクシェ・ロスタム]]のレリーフ)によれば、現在の[[ファルージャ]]の近くでペルシアとローマの戦闘があり、ローマはこれに大敗し、ゴルディアヌス3世はこの戦いで死んだ。ローマ側史料はこの戦いには触れず、ゴルディアヌスはこれより遠く、ユーフラテス川上流で死んだとする。ゴルディアヌス3世の死因は不明であるが、親衛隊長官ピリップスがしばしば殺人者として言及される。ピリップスはゴルディアス3世の後を継いで、皇帝となった。19歳没。<br /> <br /> 若く性格のよいゴルディアヌス3世は、祖父や伯父、さらには自身の悲劇的な運命もあって、長くローマ人より敬愛された。新皇帝ピリップスの反対にもかかわらず、ゴルディアヌス3世は死後に神格化された。これは民衆の歓心を買い、暴動を避けるためであった。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Gordian III}}<br /> *[[3世紀の危機]]<br /> {{-}}<br /> {{1911|title=GORDIAN, or GORDIANUS}}<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> {{Year of Six Emperors}}<br /> &lt;/center&gt;<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:こるていあぬす3}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:3世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:イタリアの幼君]]<br /> [[Category:戦死した人物]]<br /> [[Category:225年生]]<br /> [[Category:244年没]]</div> 61.7.3.99 ウァレンス 2017-09-27T05:07:27Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ウァレンス<br /> | 各国語表記 = Valens<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 = Valens Honorius Musei Capitolini MC494.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = ウァレンスの胸像(5世紀)<br /> | 在位 = [[364年]][[3月28日]] - [[378年]][[8月9日]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = フラウィウス・ユリウス・ウァレンス・アウグストゥス&lt;br&gt;Flavius Julius Valens Augustus<br /> | 出生日 = [[328年]]<br /> | 生地 = <br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|328|0|0|378|8|9}}<br /> | 没地 = <br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 配偶者1 = [[アルビア・ドミニカ]]<br /> | 子女 = ウァレンティニアヌス・ガラテス(366年 - 370年)&lt;br&gt;カロサ&lt;br&gt;アナスタシア<br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = [[ウァレンティニアヌス朝]]<br /> | 父親 = {{仮リンク|大グラティアヌス|en|Gratian the Elder}}<br /> | 母親 = ファウスタ?([[コンスタンティウス1世]]の孫娘)<br /> }}<br /> [[Image:Solidus Valens - transparent background.png|thumb|300px|[[376年]]にウァレンスによって鋳造された金貨。裏面にはウァレンスと兄のウァレンティニアヌス1世が、権力の象徴である[[宝珠]]を持つ姿が描かれている]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;フラウィウス・ユリウス・ウァレンス&#039;&#039;&#039;({{lang-la|Flavius Iulius Valens}}, [[328年]] - [[378年]][[8月9日]])は、[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]](在位[[364年]] - [[378年]])。兄[[ウァレンティニアヌス1世]]より帝国東部を任されて、共同統治した。[[ハドリアノポリスの戦い]]([[ゴート戦争 (376年–382年)|ゴート戦争]])で敗死した。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[365年]]、ユリアヌスの母方の親類である[[プロコピウス]]が自分の方が皇位継承者に相応しいと主張し、反乱を起こして皇帝を僭称した。[[トラキア]]や[[小アジア]]の都市や軍隊が帰属先を頻繁に変える中、[[366年]]、[[リディア]]のティアトリアで辛くも戦いに勝利することができ、同年5月27日プロコピウスは処刑された。<br /> <br /> [[376年]]頃、[[フン族]]の侵入にさらされた[[ゴート族]]が避難場所を求めて帝国領内に移動してきた。ウァレンスはトラキア移住の許可を出したが、その後、[[ゴート族]]が暴動略奪を起こしたため、ウァレンスは[[ゴート族]]を鎮圧しようとした。[[378年]]、[[ハドリアノポリスの戦い]]で両者は会戦したが、ローマ軍は完全に打ち破られてしまい、ウァレンスも負傷した。その撤退途中に避難した小屋が敵軍に包囲・放火され、焼き殺されるという最期を遂げた。<br /> <br /> 熱狂的な[[アリウス派]]の信徒であるウァレンスがこのような不名誉な死を遂げたことが伝わると、弾圧されていた[[アタナシウス派]](三位一体派)は歓喜したといわれる。<br /> <br /> {{Commonscat|Valens}}<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> {{DEFAULTSORT:うあれんす}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:328年生]]<br /> [[Category:378年没]]</div> 61.7.3.99 コンスタンティヌス2世 2017-09-27T04:47:08Z <p>61.7.3.99: /* 略歴 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2017年9月3日 (日) 03:29 (UTC)}}<br /> [[ファイル:Constantius II.jpg|thumb|コンスタンティヌス2世]]<br /> &#039;&#039;&#039;コンスタンティヌス2世&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;{{lang|la|Constantin II}}&#039;&#039;&#039;, [[316年]] - [[340年]])は、[[ローマ帝国]]の共同皇帝(在位:[[337年]] - [[340年]])。全名は&#039;&#039;&#039;カエサル・フラウィウス・クラウディウス・コンスタンティヌス・アウグストゥス&#039;&#039;&#039;。<br /> <br /> == 略歴 ==<br /> 皇帝[[コンスタンティヌス1世]]とファウスタ([[マクシミアヌス]]帝の娘)の間に長男として生まれるが、母親は不義密通の罪で処刑された。[[宦官]]が取り仕切る宮廷内で他の2人の兄弟とともに育てられる。<br /> <br /> 337年、21歳の時、父コンスタンティヌス1世が死去しその葬儀が[[コンスタンティノープル]]で行われたが、滞在地の距離から参加しなかった。葬儀のしばらく後で、コンスタンティノープルにいる親族は[[粛清]]された(首謀者はおそらく次男[[コンスタンティウス2世]])。その後、3人の兄弟は会談を行い、揃って即位した。コンスタンティヌス2世は帝国全土に及ぶ権威を有していたが、実際には3人が独立君主として政治を行った。コンスタンティヌス2世は[[ブリタンニア]]、[[ガリア]]、[[ヒスパニア]]を統治していたが、三弟[[コンスタンス1世]]に北アフリカの領土の分割を要求した。拒否されたためアルプスを越えて、弟の領土へ攻め込んだ。340年春、北イタリアへ侵攻するが、事前の準備が不十分だったことから[[アクィレイア]]近くで行われた戦闘で捕らえられ、殺害された。治世は僅か3年で23歳だった。<br /> <br /> == 捏造疑惑 ==<br /> 『[[ローマ皇帝群像]]』によると、コンスタンティヌス2世の祖父[[コンスタンティウス1世]]は、ダルダニアから来た貴族エウトロピウスと、皇帝[[クラウディウス2世|クラウディウス・ゴティクス]]や皇帝[[クインティルス]]の姪にあたるクラウディアとの間に生まれた息子である。しかし歴史家の多くは、この系譜はコンスタンティヌス2世が捏造したもので、地位が高い2人の末裔に見せかけたかったのだろうと考えている。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.roman-emperors.org/conii.htm DiMaio, Michael, and Robert Frakes, &quot;Constantine II (337-340 A.D.)&quot;, &#039;&#039;D.I.R.&#039;&#039;]<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:こんすたんていぬす2}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:コンスタンティヌス家]]<br /> [[Category:316年生]]<br /> [[Category:340年没]]</div> 61.7.3.99 コンスタンティウス2世 2017-09-25T11:25:29Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=ロ人0361年没__世界史}}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = コンスタンティウス2世<br /> | 各国語表記 = Constantius II<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 = Bust of Constantius II (Mary Harrsch).jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[337年]] - [[361年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = カエサル・フラウィウス・ユリウス・コンスタンティウス・アウグストゥス<br /> | 出生日 = [[317年]][[8月7日]]<br /> | 生地 = <br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|317|8|7|361|11|3}}<br /> | 没地 = 小アジア<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 配偶者1 = [[コンスタンティウス・ガッルス]]の姉妹<br /> | 配偶者2 = エウセビア<br /> | 配偶者3 = ファウスティナ<br /> | 子女 = フラウィア・マキシマ・コンスタンティア([[グラティアヌス]]妃)<br /> | 王朝 = [[コンスタンティヌス朝]]<br /> | 父親 = [[コンスタンティヌス1世]]<br /> | 母親 = ファウスタ<br /> | 宗教 =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;コンスタンティウス2世&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Constantius II&#039;&#039;&#039;, [[317年]][[8月7日]] - [[361年]][[11月3日]])は、[[ローマ帝国]]の皇帝(在位:[[337年]] - [[361年]])。当初は帝国を3分割して東方を担当したが、353年に単独の統治者になった。[[キリスト教]]を優遇し、猜疑心の強さから粛清をたびたび行なった。父帝[[コンスタンティヌス1世]]と同様、熱心なキリスト教徒であったが、父帝とは反対に[[アリウス派]]を支持し、司教[[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス]]を迫害した。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[イリュリクム]]において[[コンスタンティヌス1世]]と2度目の妻{{仮リンク|ファウスタ・フラウィア・マクシマ|en|Fausta|label=ファウスタ}}([[マクシミアヌス]]帝の娘)の間に3兄弟の次男として生まれる。[[326年]]に異母兄[[クリスプス]]がファウスタと密通したとの告発があり、コンスタンティヌスはクリスプスを裁判にかけて処刑した。数ヶ月後、この告発は虚偽で、その出所が明らかにファウスタであるとして、ファウスタも処刑された。<br /> <br /> [[宦官]]が取り仕切る宮廷内で他の兄弟とともに育てられ、324年に[[副帝]]の称号を与えられた。337年に死去した父親の葬儀は[[コンスタンティノープル]]で行われたが、滞在地の距離から彼一人が参加した。葬儀のしばらく後で、コンスタンティノープルにいる親族は従兄弟にあたる[[コンスタンティウス・ガッルス|ガッルス]]、[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]だけを残して粛清された。首謀者はコンスタンティウス2世であったと考えられている。その後、3人の兄弟は会談を行い、揃って帝位に就いて帝国を3分割して統治することとなった。コンスタンティウス2世は東方を担当して[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]の攻撃に対処した。<br /> <br /> その後、兄[[コンスタンティヌス2世]]は[[340年]]に弟[[コンスタンス1世]]との戦いに敗れて殺害され、西方領全体を支配下に置いたコンスタンス1世も、それから10年後、ゲルマン族出身の将軍[[マグネンティウス]]の反乱で殺された。コンスタンティウス2世はガッルスを軟禁状態から解放して副帝に指名し、自らは僭帝マグネンティウス討伐に向かう。[[ドナウ川|ドナウ]]河畔の[[ムルサの戦い]]でマグネンティウスは敗走し、イタリアへ逃げ帰る。コンスタンティウス2世は、マグネンティウスがイタリアに閉じこもっているうちに、[[ヒスパニア]]と北アフリカを占領し、追いつめられたマグネンティウスは自殺したため、コンスタンティウス2世は帝国を再統一した。 <br /> <br /> しかし、猜疑心の強さから354年にガッルスに謀反の嫌疑をかけて処刑し、翌355年にユリアヌスを副帝に任命して[[ガリア]]へ派遣した。帝国東方でペルシア軍が進攻してくると、コンスタンティウスはユリアヌスに兵の供出を要求した。これに対してユリアヌス配下の兵が反対し、ユリアヌスを正帝に推戴した。板ばさみとなったユリアヌスはこれを承諾する。<br /> <br /> それに対してコンスタンティウス2世は、ペルシアと和睦して[[アンティオキア]]を発ち、ユリアヌス討伐に向かうが、その道中の小アジアで361年に44歳で病死した。臨終の際、後継者としてユリアヌスを指名したといわれる。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ポワティエのヒラリウス]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Constantius II}}<br /> * DiMaio, Michael, and Robert Frakes, [http://www.roman-emperors.org/constaii.htm &quot;Constantius II,&quot;] &#039;&#039;De Imperatoribus Romanis&#039;&#039; site.<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:こんすたんていうす2}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:コンスタンティヌス家]]<br /> [[Category:317年生]]<br /> [[Category:361年没]]</div> 61.7.3.99 マグネンティウス 2017-04-23T12:41:02Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=ロ人0353年没__世界史}}<br /> [[ファイル:Double Centenionalis Magnentius-XR-s4017.jpg|300px|right|thumb|マグネンティウス]]<br /> &#039;&#039;&#039;フラウィウス・マグヌス・マグネンティウス&#039;&#039;&#039;({{lang-la|Flavius Magnus Magnentius}}, [[303年]] - [[353年]][[8月11日]])は、[[ローマ帝国]]の帝位簒奪者([[350年]] - 353年)である。弟にデケンティウスがいる。<br /> <br /> [[コンスタンス1世]]を殺害し帝位に就く。弟デケンティウスを副帝(カエサル)に任命し、自らは正帝を名乗った。しかしコンスタンス1世の共同皇帝[[コンスタンティウス2世]]と対立し、[[351年]]にコンスタンティウス軍とムルサの戦いで敗れ、イタリアへ敗走し、353年8月11日[[リヨン]]で自殺した。そしてそれを告げられたデケンティウスも翌朝8月12日、首を吊った姿で発見された。<br /> <br /> コンスタンティウス2世・コンスタンス1世兄弟の父[[コンスタンティヌス1世]]の異母弟フラウィウス・ユリウス・コンスタンティウスと最初の妻ガッラ(ガラ)の娘の一人とユストゥスという男性との間に生まれたユスティナを妻としていた。マグネンティウスとユスティナの間には子供は無く、ユスティナはマグネンティウスの死後、ウァレンティニアヌス1世と再婚。[[ウァレンティニアヌス2世]]、グラタ、ユスタ、ガッラ(ガラ)の1男3女を儲け、[[ウァレンティニアヌス朝]]の一員となる。子女のうち、ガッラは[[テオドシウス1世]]の後妻となり、グラティアヌス、[[ガッラ・プラキディア]]、ヨハネスの2男1女の母となる。ガッラ・プラチディアの子に[[ウァレンティニアヌス3世]]がおり、[[テオドシウス朝]]の一部を形成した。この血筋は少なくとも6世紀の終わりまで存続している。<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:まくねんていうす}}<br /> [[Category:4世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:自殺した人物]]<br /> [[Category:303年生]]<br /> [[Category:353年没]]<br /> {{History-stub}}</div> 61.7.3.99 ゴルディアヌス1世 2017-03-31T00:06:32Z <p>61.7.3.99: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ゴルディアヌス1世<br /> | 各国語表記 = Gordianus Ⅰ<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 = [[ファイル:Gordian I Musei Capitolini MC475.jpg|250px]]<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = ゴルディアヌス1世の胸像<br /> | 在位 = [[238年]][[3月22日]]-[[238年]][[4月12日]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌス&lt;br&gt;&#039;&#039;Marcus Antonius Gordianus Sempronianus Romanus Africanus&#039;&#039;<br /> | 出生日 = [[159年]]頃<br /> | 生地 = [[フリュギア]]属州<br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|159|0|0|238|4|12}}<br /> | 没地 = [[アフリカ属州]][[カルタゴ]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 継承者 = [[プピエヌス・マクシムス]]と[[バルビヌス]]<br /> | 継承形式 = 継承<br /> | 配偶者1 =<br /> | 配偶者2 =<br /> | 子女 = [[ゴルディアヌス2世]]&lt;br&gt;アントニア・ゴルディアナ<br /> | 王家 = <br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = <br /> | 母親 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ゴルディアヌス1世&#039;&#039;&#039;({{lang-la|&#039;&#039;Gordianus I&#039;&#039;}})または、&#039;&#039;&#039;マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌス・アウグストゥス&#039;&#039;&#039;({{lang-la|&#039;&#039;Marcus Antonius Gordianus Sempronianus Romanus Africanus Augustus&#039;&#039;}}, [[159年]]頃 - [[238年]][[4月12日]])は、[[ローマ帝国]]の[[軍人皇帝]]である。<br /> <br /> == 略歴 ==<br /> ゴルディアヌスの若い頃や出自はあまり知られていない。その名ゴルディアヌスからは家系は[[アナトリア半島|アナトリア]]の[[フリュギア]]属州の出身だと推測される。ゴルディアヌスは、目立たないしかし非常に富裕な[[エクィテス|騎士階級]]の家庭の出身であったが、[[元老院 (ローマ)|ローマ元老院]]議員となるまでに出世した。一説に父方は共和制時代からの資産家の名門貴族で[[グラックス兄弟]]と血縁があり、母方は[[トラヤヌス]]帝の血縁とされている。ゴルディアヌスには妻ファビナ・オレスティラという妻がいたとされ、その間に3人の子があった。[[ゴルディアヌス2世]]として知られる息子マルクス・アントニウス・ゴルディアヌスと名前不詳の男子、娘アントニア・ゴルディアナの2男1女である。ゴルディアナは[[ゴルディアヌス3世]]の母となった。信憑性が大いに疑わしい『[[ローマ皇帝群像]]』では妻ファビア・オレスティラは五賢帝の一人[[アントニウス・ピウス]]帝の曽孫とされ、ファビナの母シルウァナはルキウス・ラミア・シルウァヌス([[ドミティアヌス]]帝の皇妃[[ドミティア・ロンギナ]]と前夫ラミアの娘プラウティアの息子)とアウレリア・ファディラ(アントニウス・ピウス帝の長女)の娘とされている。ドミティア・ロンギナは初代ローマ皇帝[[アウグストゥス]]帝の昆孫(曽孫の曽孫)であり、プラウティアは仍孫(曽孫の玄孫)、シルウァヌスは雲孫(曽孫の来孫)、シルウァナは雲孫の子、ファビナ・オレスティラは雲孫の孫となる。故にゴルディアヌス1世とファビナ・オレスティラの2男1女はアウグストゥスの雲孫の曽孫、ゴルディアヌス3世は雲孫の玄孫、ゴルディアヌス3世の娘フリアは雲孫の来孫となる。このように『ローマ皇帝群像』の記述は、ゴルディアヌス1世とその家族を[[ユリウス・クラウディウス朝]]とネルウァ・アントニヌス朝に結び付けている。<br /> &lt;!--<br /> Little is known about Gordian&#039;s early life or familiar background, though from this name Gordianus it has been surmised that the family&#039;s origins were in [[Phrygia]] in Anatolia. He was from a modest, although extremely rich, equestrian family but climbed the hierarchy until he entered the [[Roman senate]]. Gordian had at least two children: Marcus Antonius Gordianus (Gordian II) and Antonia Gordiana, the mother of [[Gordian III]].<br /> --&gt;<br /> <br /> ゴルディアヌスの政治的キャリアは比較的年齢が高くなってから始まった。おそらく彼は若い頃は修辞学と文学の研究に携わったと推測される。ゴルディアヌスは軍人として、スキュティア第4軍団を、シリアに駐屯していたときに率いた。[[216年]]ゴルディアヌスはローマ属領[[ブリタンニア]]の総督となり、[[ヘリオガバルス]]が皇帝のとき[[執政官|補充執政官]]となった。ゴルディアヌスは軍人として名声を得ていたが、賢明で野心から離れた生活ぶりは[[カラカラ]]帝の疑いを受けることもなかった。ゴルディアヌスはカラカラを褒める[[叙事詩]]『アントニアス』を著した。ゴルディアヌスは混乱した[[セウェルス朝]]の中にあって、富と政治的影響を保ち続けた。これはゴルディアヌスが個人的に陰謀を嫌ったことを暗示している。<br /> &lt;!--<br /> Gordian&#039;s political career started relatively late in his life and probably his early years were spent in rhetoric and literary studies. As a military man, Gordian commanded the [[Legio IV Scythica]] when the [[Roman legion|legion]] was stationed in the Syria province. He served as governor of [[Roman Britain]] in [[216]] and was a [[consul|suffect consul]] in the reign of [[Heliogabalus]]. While he gained unbounded popularity by the magnificent games and shows he produced as [[aedile]], his prudent and retired life did not excite the suspicion of [[Caracalla]], in whose honour he wrote a long [[epic poem]] called &#039;&#039;Antoninias&#039;&#039;. Gordian certainly retained his wealth and political clout during the chaotic times of the Severan dynasty, which suggest his personal dislike for intrigue. --&gt;<br /> <br /> 皇帝[[アレクサンデル・セウェルス]]の治下、すでに80歳近かったゴルディアヌス1世は、栄誉あるとはいえ危険に満ちた[[アフリカ属州|アフリカ]]総督の座を引き受けることになった。その任期の中途、[[マクシミヌス・トラクス]]が皇帝アレクサンデル・セウェルスを[[低地ゲルマニア|下ゲルマニア]]属州で殺害し、皇帝として即位した。しかし、マクシミヌスの強権的な統治は[[元老院 (ローマ)|元老院]]との対立や民衆の離反をひきおこし、広範に広がった不満は[[238年]]アフリカ属州での叛乱にまで高まった。<br /> <br /> ゴルディアヌスは民衆の不満と要求に折れ、[[3月22日]]皇帝宣言を行い、添え名&#039;&#039;&#039;アフリカヌス&#039;&#039;&#039;を名乗った。しかし自身の高齢をかんがみ、息子マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス([[ゴルディアヌス2世]])を共同皇帝とすることを主張した。数日後、ゴルディアヌスは[[カルタゴ]]に入場し、民衆と指導層に歓呼を持って迎えられた。一方ローマでは、マクシミヌスの親衛隊長が暗殺され、叛乱は成功するかと思われた。元老院はゴルディアヌスを新しい皇帝と認め、ほとんどの属州は喜んでゴルディアヌスの側についた。<br /> &lt;!--<br /> During the reign of [[Alexander Severus]], Gordian (who was already about 80 years old) threw the lots to the dangerous honours of government in Africa. In the middle of his [[promagistracy|proconsulship]], [[Maximinus Thrax]] killed emperor Alexander Severus in [[Germania Inferior]] and assumed the throne. Maximinus was not a popular emperor and universal discontent roused by his oppressive rule culminated in a revolt in Africa in [[238]]. Gordian yielded to the popular clamour and assumed both the purple and the &#039;&#039;[[Roman naming convention|cognomen]]&#039;&#039; &#039;&#039;&#039;Africanus&#039;&#039;&#039; on [[March 22]]. In respect to his advanced age, he insisted that his son, Marcus Antonius Gordianus ([[Gordian II]]), be associated with him. A few days later, Gordian entered the city of [[Carthage]] with the overwhelming support of the population and local political leaders. Meanwhile in Rome, Maximinus&#039; [[Praetorian guard|praetorian prefect]] was assassinated and the rebellion seemed to be successful. The senate confirmed the new emperor and most of the provinces gladly sided with Gordian.<br /> --&gt;<br /> <br /> しかしヌミディアの総督カペリアヌスはマクシミヌス・トラクスの忠実な支持者であり、マクシミヌスとの同盟を再び新たにし、数軍団を率いてアフリカ属州に侵攻した。ゴルディアヌス父子は戦闘に敗れ、息子ゴルディアヌス2世は戦場で殺された。息子の死を聞いたゴルディアヌス1世は自殺した。2人の治世は36日で終わった。<br /> &lt;!--<br /> Opposition would come from the neighbouring province of [[Numidia]]. Cappellianus, governor of Numidia and a loyal supporter of Maximinus Thrax, renewed his alliance to the former emperor and invaded the Africa province with several veteran legions. Gordian lost the battle and his son, Gordian II was killed in the confrontation. In response to the death of his son, Gordian took his own life. They had reigned only thirty-six days.<br /> --&gt;<br /> <br /> ゴルディアヌス1世は愛される性格の持ち主として高い評価を受けていた。伝えられるところによれば、父子ともに文学を愛し、よい作品を書き、数多い著述をなした。しかし2人は有能な政治家や勢力のある支配者であるというよりは、知的な快楽にふける趣味人であった。ゴルディアヌス父子の死後にも、元老院は[[マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス|プピエヌス]]と[[デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス|バルビヌス]]の2人を共同皇帝、ゴルディアヌス1世の孫である[[ゴルディアヌス3世]]を[[副帝]]に任命してマクシミヌスへの抵抗を継続した。マクシミヌスは内戦の中で配下の部隊の反乱によって殺害され、さらにプピエヌス帝とバルビヌス帝も内紛のあげくに殺害され、[[ゴルディアヌス3世]]が唯一のローマ皇帝となった。<br /> &lt;!--<br /> Gordian had deserved his high reputation by his amiable character. Both himself and his son are men reported to be fond of literature and achieved great accomplishments, publishing voluminous works. But they were rather intellectual voluptuaries than able statesmen or powerful rulers. Having embraced the cause of Gordian, the senate was obliged to continue the revolt against Maximinus, and appointed [[Pupienus and Balbinus]], as joint emperors. Nevertheless, by the end of 238, the recognised emperor would be [[Gordian III]], his grandson.<br /> --&gt;<br /> <br /> {{1911}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[3世紀の危機]]<br /> * [[軍人皇帝時代]]<br /> <br /> {{ローマ皇帝|ローマ皇帝(26代:238年)}}<br /> {{Year of Six Emperors}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:こるていあぬす1}}<br /> <br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:3世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:159年生]]<br /> [[Category:238年没]]</div> 61.7.3.99 マルクス・オペッリウス・アントニヌス・ディアドゥメニアヌス 2017-02-08T08:12:05Z <p>61.7.3.99: /* 概略 */内容追加</p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ディアドゥメニアヌス<br /> | 各国語表記 = Diadumenianus<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 =<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = ディアドゥメニアヌスの硬貨<br /> | 在位 = [[217年]][[5月]] - [[218年]][[6月]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = マルクス・オペッリウス・アントニヌス・ディアドゥメニアヌス&lt;br&gt;&#039;&#039;Marcus Opellius Antoninus Diadumenianus&#039;&#039;<br /> | 出生日 = [[208年]][[9月14日]]<br /> | 生地 = <br /> | 死亡日 = [[218年]][[6月]](満9歳没)<br /> | 没地 = [[アンティオキア]]近郊<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 継承者 = [[ヘリオガバルス]]<br /> | 継承形式 = 簒奪<br /> | 配偶者1 =<br /> | 配偶者2 =<br /> | 子女 = <br /> | 王家 = <br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = [[マクリヌス]]<br /> | 母親 = ノニア・ケルサ<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;マルクス・オペッリウス・アントニヌス・ディアドゥメニアヌス&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;{{lang-la|Marcus Opellius Antoninus Diadumenianus}}&#039;&#039;&#039;、[[208年]][[9月14日]] - [[218年]])とは、[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]]([[217年]] - [[218年]])であり、父[[マクリヌス|マルクス・オペッリウス・マクリヌス]]の共同皇帝の地位にあった人物である。<br /> <br /> == 概略 ==<br /> ディアドゥメニアヌスの出生地は文献にも記載は無い。ディアドゥメニアヌスの名は、[[ヒストリア・アウグスタ]]によると、彼が赤子の時に[[羊膜]]ではなく細い額冠(ディアデマ)に覆われており、それに因んだ「ディアデマを有する者」(=ディアデマトゥス)との言葉に由来すると伝えている。なお、母の名は「ノニア・ケルサ」[[:en:Nonia Celsa|(Nonia Celsa)]]と[[ヒストリア・アウグスタ]]に記載されている。<br /> <br /> 217年、当時[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ]]であった父マクリヌスが皇帝[[カラカラ]]を殺害した。直ちにマクリヌスは軍隊の支持によってローマ皇帝に即位して、息子ディアドゥメニアヌスを副帝(後に共同皇帝)に指名した。また、マクリヌスは[[ローマ市民]]に人気の高かった[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]帝に由来する「アントニヌス」の名をディアドゥメニアヌスに名乗らせた。<br /> <br /> [[218年]]、セウェルス家の生き残りでカラカラの従姉の息子であったウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス(後の皇帝[[ヘリオガバルス]])を擁し、セウェルス朝支持勢力が蜂起した。マクリヌス軍はセウェルス朝勢力と戦ったが完敗を喫し、ディアドゥメニアヌスは父と共に逃亡したが、[[アンティオキア]]近郊で捕らえられて、殺害された。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{commonscat|Diadumenianus}}<br /> *アエリウス・ランプリディウス 『[[ローマ皇帝群像]]2』 桑山由文他訳、京都大学学術出版会<br /> <br /> {{ローマ皇帝}}<br /> {{history-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:ていあとめにあぬ}}<br /> [[Category:ローマ皇帝]]<br /> [[Category:3世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:208年生]]<br /> [[Category:218年没]]</div> 61.7.3.99
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