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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=61.25.129.9&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-22T07:02:22Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 エリーザベト (オーストリア皇后) 2018-05-21T05:57:38Z <p>61.25.129.9: </p> <hr /> <div>{{複数の問題|出典の明記=2009年10月|参照方法=2009年10月}}<br /> {{基礎情報 皇族・貴族<br /> |人名=エリーザベト<br /> |各国語表記={{lang|de|Elisabeth}}<br /> |家名・爵位=[[バイエルン公 (Herzog in Bayern)|バイエルン女公爵({{lang|de|Herzogin in Bayern}})]]<br /> |画像=Erzsebet kiralyne photo 1867.jpg<br /> |画像サイズ=<br /> |画像説明=ハンガリー王妃戴冠時のエリーザベト(1867年)<br /> |続柄=<br /> |称号=[[オーストリア帝国|オーストリア]]皇后&lt;br /&gt;[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王妃<br /> |全名={{lang|de|Elisabeth Amalie Eugenie}}&lt;br /&gt;エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ&lt;br /&gt;{{lang|hu|Erzsébet Amália Eugénia}}&lt;br /&gt;エルジェーベト・アマーリア・エウゲニア<br /> |身位=<br /> |敬称=<br /> |出生日={{生年月日と年齢|1837|12|24|no}}<br /> |生地={{BAY}}、[[ミュンヘン]]<br /> |死亡日={{死亡年月日と没年齢|1837|12|24|1898|9|10}}<br /> |没地={{CHE}}、[[ジュネーヴ]]<br /> |埋葬日={{AUT1867}}、[[ウィーン]]、[[カプツィーナー納骨堂]]<br /> |埋葬地=<br /> |配偶者1=[[フランツ・ヨーゼフ1世]]<br /> |子女={{Collapsible list|title=一覧参照|[[ゾフィー・フォン・エスターライヒ|ゾフィー]]&lt;br /&gt;[[ギーゼラ・フォン・エスターライヒ|ギーゼラ]]&lt;br /&gt;[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]&lt;br /&gt;[[マリー・ヴァレリー・フォン・エスターライヒ|マリー・ヴァレリー]]}}<br /> |父親=[[マクシミリアン・ヨーゼフ・イン・バイエルン]]<br /> |母親=[[ルドヴィカ・フォン・バイエルン]]<br /> |役職=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ&#039;&#039;&#039;({{lang-de|Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach}}、[[1837年]][[12月24日]] - [[1898年]][[9月10日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[オーストリア皇帝|皇帝]](兼[[ハンガリー国王一覧|国王]])[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の皇后。「&#039;&#039;&#039;シシィ&#039;&#039;&#039;」({{lang|de|Sissi}}, {{lang|de|Sissy}}, {{lang|de|Sisi}})の愛称で知られる。[[エリザベト|Elisabeth]] はドイツ語の読みを片仮名音写すると「エリーザベト」が最も近いが、この名は本記事の人物に限らず、慣例で「エリザベート」と表記されることも多い。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[バイエルン王国|バイエルン]]王家である[[プファルツ=ビルケンフェルト家|ヴィッテルスバッハ家]]傍系の[[バイエルン公 (Herzog in Bayern)|バイエルン公]][[マクシミリアン・ヨーゼフ・イン・バイエルン|マクシミリアン]]とバイエルン王女[[ルドヴィカ・フォン・バイエルン|ルドヴィカ]]の次女として生まれた。幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、[[チター]]奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり(もちろん住民は、王家に連なる極めて身分の高い公爵と公女であると知りつつも知らぬそぶりで歓迎し、エリーザベトは後年、「私が唯一自ら稼いだお金」と言ってそのチップを大切に保管していた)、また狩りに行くなどしていた。王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため自由を満喫していた。<br /> <br /> そんな生活は1853年8月、姉[[ヘレーネ・イン・バイエルン|ヘレーネ]]の見合い相手だった、母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて求婚されたことによって終わりを告げた。シシィは婚約が決まった翌日からお妃教育を受けさせられたが、不真面目で勉強嫌いの彼女は何度もヒステリーを起こしていたという。しかし、彼女にとって生涯忘れられない出会いもあった。お妃教育の一環として彼女に広大なオーストリア帝国の歴史を教えたマイラット[[伯爵]]は、彼女が最初に出会った[[マジャル人]]だった。伯爵は[[共和制]]の素晴らしさを彼女に密かに吹き込むなど、彼女に多大な影響を与えた。1854年4月、シシィは16歳で結婚、オーストリア皇后となった。<br /> <br /> しかし、自由人だった父の気質を多く受け継いだ彼女は、母方の伯母で姑である[[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー大公妃]]がとりしきる宮廷の厳格さに耐えられず、また、マイラット伯爵の教育を受けたエリーザベトが[[ハンガリー王国|ハンガリー]]や当時独立を求めていた[[北イタリア]]に同情的であることを察したゾフィーは、エリーザベトの影響でフランツ・ヨーゼフ1世がハンガリーやイタリアに寛容になることを嫌い、中傷ビラを撒く、エリーザベトが宮殿の外に出た際には暴徒に囲ませる、といった嫌がらせをした&lt;ref&gt;Sisa, Stephan, The Spirit of Hungary: A Panorama of Hungarian History and Culture, Vista Court Books, 1995, p. 171&lt;/ref&gt;。徐々にエリーザベトは人前に出ることを極度に嫌がり宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い、[[大西洋]]に浮かぶ[[マデイラ諸島]]などに療養に行く、夫に同行してイタリアを訪問する、あるいは個人的に旅行に出かけたり病院を慰問したりと、生涯に渡りさまざまな口実を見つけては[[ウィーン]]から逃避し続けた。<br /> <br /> [[File:Andrássy Gyula 1871.jpg|150px|thumb|ジュラ・アンドラーシ伯爵]]<br /> 特にエリーザベトが心安らぐ最高の場所としたのは、当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーであった。ゾフィー大公妃がマジャル人嫌いだったこともあり、エリーザベトは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けた。その熱意は勉強嫌いの彼女が、短期間でハンガリー語を身につけ、皇帝とハンガリー貴族の通訳を出来るほどであった。穏健独立派のハンガリー貴族[[アンドラーシ・ジュラ|ジュラ・アンドラーシ]]伯爵と知り合い、[[1866年]]の[[普墺戦争]]敗北を受けて、翌[[1867年]]にハンガリーの自治権を認めた[[アウスグライヒ]](妥協)を締結するにあたっては陰の推進者の役割を果たした。アンドラーシはアウスグライヒ後の[[ハンガリー王国]]の初代首相、帝国外相となる。<br /> <br /> エリーザベトの晩年最大の悲劇は、息子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ皇太子]]の自殺であった(1889年、暗殺説もある)。夫[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の死後喪服を着続けた[[マリア・テレジア]]に倣い、その後彼女は死ぬまで[[喪服]]を脱ぐことはなかった。<br /> <br /> 1898年9月、旅行中の[[ジュネーヴ]]・[[レマン湖]]のほとりで、イタリア人の[[無政府主義者]][[ルイジ・ルケーニ]]に鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害され、その生涯を閉じた。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> [[File:Elisabeth, Königin von Rumänien.jpg|100px|thumb|ルーマニア王妃エリサベタ]]<br /> [[File:Ludwig II of Bavaria.jpg|100px|thumb|ルートヴィヒ2世]]<br /> *当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌に加え、身長172cmと背が高く、[[ウエスト]]51センチで体重は生涯43〜47キロという驚異の体形の持ち主だった。美貌と痩身であることに執念を燃やし過酷な[[ダイエット]]や美容方法でそれを維持していたが、年を取るにつれて皺とシミだらけになった顔を分厚い黒の[[ベール]]と革製の高価な扇や日傘で隠すようになり、それが彼女の晩年の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。<br /> *交友関係では、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]とは親しくなかったが、その息子の[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]とは、ルドルフ皇太子と共に親しかったという。他には、フランツ・ヨーゼフ1世の弟[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン大公]]の妃で義妹の[[ベルギー]]王女[[シャルロッテ・フォン・ベルギエン|シャルロッテ]]との仲は険悪だったが、同名の[[ルーマニア国王|ルーマニア王]][[カロル1世 (ルーマニア王)|カロル1世]]妃[[エリサベタ (ルーマニア王妃)|エリーザベト]](カルメン・シルヴァの筆名で知られる)とは、ドイツの王家出身、皇后・王妃でありながら[[君主制]]・[[貴族制]]の否定、王侯貴族に対する激しい憎悪、王侯貴族などの気に入らない人物に対する辛辣な批判、浪費癖、現実離れした夢想家、破綻した結婚への嫌悪感、宮廷での孤立、死への異常なまでの関心、詩作、古代ギリシア文化への傾倒など、数え切れない程多くの共通点があり親交があった。彼女は詩人の中では、「革命詩人」と呼ばれる[[ハインリヒ・ハイネ]]を好み、彼のことを深く尊敬し、「師」と呼んでいた。また、エリーザベトはハイネの作品を知り尽くしており、専門家として彼女に教えを乞いに来る人もいた程だった。<br /> *従甥で「狂王」と呼ばれる[[バイエルン国王|バイエルン王]][[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]とも一時期親しかったという。彼らは世間や堅苦しい宮廷を嫌って逃避行を繰り返し義務を放棄して快楽に耽り、精神を病んで奇行を連発する桁外れの浪費家同士で意気投合したとされるが、ルートヴィヒ2世は彼女に片思いをしていたため(ルートヴィヒ2世は同性愛者だったため、あくまでも純粋な友情に過ぎないとする説もある)、王の前途を心配したエリーザベトは娘の[[ゾフィー・イン・バイエルン|ゾフィー]]と婚約させようと計画した。しかし、ルートヴィヒ2世は全く関心を示さず、婚約は破棄された。エリーザベトはこれに激怒し、二人の仲は険悪になり、それが後にルートヴィヒ2世を現実逃避させて精神状態を急速に悪化させ、国費を浪費する遠因になったとも考えられる。しかしエリーザベトは、ルートヴィヒ2世が逝去した際にはたいへんなショックを受け、家族の皆が深刻に心配する程精神状態が悪化した。<br /> {| border=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;1&quot; cellspacing=&quot;2&quot; style=&quot;margin:3px; border:solid 1px #bbb; float:right;&quot;<br /> |-<br /> | [[ファイル:Winterhalter Elisabeth 2.jpg|x270px]]|| [[ファイル:Eugénie; keizerin der Fransen (2).jpg|x270px]]<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot; style=&quot;width:350px; font-size:90%;&quot; |[[フランツ・ヴィンターハルター|ヴィンターハルター]]によるエリーザベト皇后(左)とウジェニー皇后(右)の肖像。エリーザベト皇后のドレスは[[チャールズ・フレデリック・ワース]]によるデザイン<br /> |}<br /> *1865年には、前年にエリーザベトの肖像画も描いた[[宮廷画家]][[フランツ・ヴィンターハルター|ヴィンターハルター]]から彼女の話を聞いた[[フランス第二帝政|フランス]]皇后[[ウジェニー・ド・モンティジョ|ウジェニー]]がエリーザベトに興味を持ち、翌年オーストリアのバート・キッシンゲンで保養に行く際に私的に表敬訪問したいと申し出たが、彼女は気乗りがしなかったらしくこの申し出を断っている。しかし[[1867年]]6月19日、[[ナポレオン3世]]が[[メキシコ第二帝政|メキシコ]]皇帝の座に就けたマクシミリアンがケレタロで銃殺刑に処されたため、この年の8月にナポレオン3世と[[ウジェニー・ド・モンティジョ|ウジェニー]]が、オーストリアとの一種の調停訪問を目論み、[[ザルツブルク]]での2人の美貌の皇后の対面が実現した。マクシミリアンの事があったため、ザルツブルク市民はフランス皇帝夫妻を冷ややかに迎えたが、2人の美しい皇后が見られるということには大変関心を寄せた。そしていざ実物を見てみると、王族の出ではないウジェニーではあったが、エリーザベトの生まれつき兼ね備えた威厳や美しさと比べてもなんら遜色ないと市民たちの目には映った。ただし保守的なザルツブルク市民たちは、ウジェニーの服装が最新のパリ・モードにそってスカートの裾があだっぽく絡げてあるため、足がのぞいて見えるのをはしたないことと見なした。2人の皇后が並んで立つと、長身のエリーザベトに比べ、ウジェニーのほうがだいぶ小柄だったという。&lt;br /&gt;またエリーザベトはイギリスの[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]妃の美貌と自身の美貌とどちらが優れているかを気にしていたが、実際はアレクサンドラは非常に背が低く胴長短足であるうえ、首に醜い手術痕があり、頭には奇妙なへこみがあるなど、容姿はエリーザベトより劣っていた。しかしエリーザベトにも、面長で顎がしゃくれている点や、極端な撫で肩、鼻の穴が大きい(ヴィクトリア女王も「鼻の形は美しくない」と漏らしていた)、手足が丸太のように太いという欠点があった。特に本人が最も気にしていたのは、歯並びが悪く黄ばんでいることだった。見合いの席でゾフィー大公妃はそれを指摘し、彼女に「歯を磨くように」と言いつけている。エリーザベトはそれを気にするあまり、毎日懸命に歯を磨き、人前では常に口をきつく結んでほとんど話さず、話す時には扇子で口を隠していた。しかし、肖像画ではこれらの欠点は見事に隠され、美化されている。<br /> *夫のフランツ・ヨーゼフ1世に宛てて書いた手紙の「確かにヴィクトリア女王はとても親切な方でした。でも、私にとっては得体が知れないのです……」という言葉からわかるとおり、エリーザベトは人の好き嫌いが激しく気難しい性質だったため、ゾフィー大公妃の選んだ気に入らない女官を全員解雇して周囲をお気に入りのマジャル人侍女のみで固め、女官には徹底的に控えめに振舞うこと、ウィーンから離れた生活に耐え自分の旅行にずっとついて来ること、数時間ぶっ続けの激しい早歩きにずっとついて来ること、生涯独身を貫くことなどを要求した。また自分とは正反対の、良妻賢母として知られるマリア・テレジアを敬愛し、病人や障害者、貧しい民衆に同情するなどの一面もあったが、最後まで皇后・妻・母としての役目を果たすことを一切放棄かつ拒否し続け、欲望のままに放縦な生活を送り続けた。<br /> *エリーザベトの贅沢ぶりは凄まじく、宝石・ドレス・名馬の購入、若さと美しさを保つための桁外れの美容への出費、ギリシアの[[コルフ島]]に絢爛豪華な城「アキレイオン」の建設、彼女個人あるいは皇室の所有するあらゆる宮殿・城・別荘の増改築、彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行などを税金で行っていた。だが、生来の気まぐれな性質から一箇所にとどまることができず、乗馬や巨費を投じて建てたアキレイオンなどにもすぐに飽きてしまった。<br /> *皇后でありながら君主制を否定した「進歩的な女性」と評されることもあるエリーザベトだが、一方で尊大、傲慢、狭量かつ権威主義的であるのみならず、皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によってヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりするなど、自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かったとされる。当時のベルギー大使夫人は、「この女性は本当に狂っています。こんな皇后がいるのにオーストリアが共和国にならないのは、この国の国民がまだ寛大だからです」と書いている。ただしハンガリー統治に関しては非常な関心と情熱を傾けたため、過去に近隣の大国に翻弄され、分割・被支配とさまざまな苦難の歴史をたどったハンガリーが現在平和な独立国家となった礎を築いた人物として、今もハンガリーの人々には慕われている。そして彼女が嫌ったウィーンにおいても観光のシンボルとして肖像画を見ることができる。<br /> <br /> == 子女 ==<br /> *[[ゾフィー・フォン・エスターライヒ|ゾフィー]](1855年 - 1857年)<br /> *[[ギーゼラ・フォン・エスターライヒ|ギーゼラ]](1856年 - 1932年)<br /> *[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]](1858年 - 1889年) オーストリア皇太子<br /> *[[マリー・ヴァレリー・フォン・エスターライヒ|マリー・ヴァレリー]](1868年 - 1924年)<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *カトリーヌ・クレマン『皇妃エリザベート』[[塚本哲也]]監修、田辺希久子訳、[[創元社]]、1997年、190頁。<br /> *ブリギッテ・ハーマン『エリーザベト - 美しき皇妃の伝説』上巻、中村康之訳、[[朝日新聞社]]、2001年、339頁、下巻、中村康之訳、朝日新聞社、2001年、329頁。<br /> *マリー・ルイーゼ・フォン・インゲンハイム『皇妃エリザベート』『皇妃エリザベート ハプスブルクの涙』[[西川賢一]]訳、[[集英社文庫]]、1996年、332頁・297頁。<br /> *ビッヒラー『エリザベートの真実』[[西川賢一]]訳、集英社文庫、1998年、278頁。<br /> *マルタ・シャート『皇妃エリザベートの生涯』[[西川賢一]]訳、集英社文庫、2000年、245頁。<br /> *M.シェーファー『エリザベート』大津留 厚監訳・永島とも子訳、[http://www.tousuishobou.com 刀水書房]2000年<br /> *[[名香智子]]『マンガ 皇妃エリザベート』ジャン・デ・カール原作、[[講談社]]、2001年、435頁。<br /> *[[南川三治郎]]『 皇妃エリザベート永遠の美』[[世界文化社]]、2006年、144頁。<br /> <br /> == 関連作品 ==<br /> *『双頭の鷲』:[[ジャン・コクトー]]の[[戯曲]]。映画では[[エドヴィージュ・フィエール]]が、舞台では[[美輪明宏]]がエリーザベトを演じた。<br /> *『[[エリザベート (ミュージカル)|エリザベート]]』:ウィーン発のミュージカル。日本でも[[宝塚歌劇団]](『[[エリザベート -愛と死の輪舞-]]』)などが上演しヒットした。<br /> *『[[プリンセス・シシー]]』『[[若き皇后シシー]]』『[[ある皇后の運命の歳月]]』(3部作):エリーザベトの若き日(公女時代)を描いたオーストリア映画。<br /> *『エリザベート〜愛と哀しみの皇妃』([[イタリア]]・[[ドイツ]]・[[オーストリア]]合作のテレビ映画)<br /> *『エルジェーベト』:[[Cuvie]]の漫画。<br /> <br /> == 演じた俳優 ==<br /> === 映画 ===<br /> *[[リル・ダゴファー]]([[:de:Lil Dagover|Lil Dagover]])<br /> *[[ルート・ロイヴェリク]]<br /> *[[エドヴィージュ・フィエール]]([[:fr:Edwige Feuillère|Edwige Feuillère]])<br /> *[[エヴァ・ガードナー]]<br /> *[[ロミー・シュナイダー]]<br /> *[[クリスティーナ・カポトンディ]](エリザベート~愛と哀しみの皇妃)<br /> *[[ハンナー・ヘルツシュプルング]]<br /> <br /> === ミュージカル「[[エリザベート (ミュージカル)|エリザベート]]」日本版 ===<br /> ==== 宝塚歌劇団版(本公演) ====<br /> *[[花總まり]](1996年[[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]・1998年[[宙組 (宝塚歌劇)|宙組]]) <br /> *[[白城あやか]](1996年[[星組 (宝塚歌劇)|星組]])<br /> *[[大鳥れい]](2002年[[花組 (宝塚歌劇)|花組]])<br /> *[[遠野あすか]](2002年花組・大鳥れいの代役)<br /> *[[瀬奈じゅん]](2005年[[月組 (宝塚歌劇)|月組]])<br /> *[[白羽ゆり]](2007年雪組)<br /> *[[凪七瑠海]](2009年月組)<br /> *[[蘭乃はな]](2014年花組)<br /> *[[実咲凜音]] (2016年宙組)<br /> *[[愛希れいか]](2018年月組)既に発表済み<br /> <br /> ==== 東宝版 ====<br /> *[[一路真輝]](2000年・2001年・2004年・2005年・2006年)<br /> *[[涼風真世]](2008 - 2009年)<br /> *[[朝海ひかる]](2008 - 2009年・2010年)<br /> *[[瀬奈じゅん]](2010年・2012年)<br /> *[[春野寿美礼]](2012年)<br /> *[[花總まり]](2015年・2016年)<br /> *[[蘭乃はな]](2015年・2016年)<br /> <br /> === その他の舞台 ===<br /> *[[美輪明宏]]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons&amp;cat|Empress Elisabeth of Austria|Empress Elisabeth of Austria}}<br /> *[[エリーザベト・マリー・ペツネック]] - 孫娘(長男ルドルフの娘)。<br /> *[[神経性無食欲症]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:えりいさへと}}<br /> [[Category:オーストリア皇后]]<br /> [[Category:バイエルン公 (Herzog in Bayern)]]<br /> [[Category:オーストリア=ハンガリー帝国の人物]]<br /> [[Category:暗殺された人物]]<br /> [[Category:ミュンヘン出身の人物]]<br /> [[Category:1837年生]]<br /> [[Category:1898年没]]</div> 61.25.129.9 切腹 2018-05-21T02:26:48Z <p>61.25.129.9: </p> <hr /> <div>{{Otheruses||映画|切腹 (映画)}}<br /> &#039;&#039;&#039;切腹&#039;&#039;&#039;(せっぷく)は、自分の腹部を[[小刀|短刀]]で切り裂いて死ぬ[[自殺]]の一方法。&#039;&#039;&#039;腹切り&#039;&#039;&#039;(はらきり)・&#039;&#039;&#039;割腹&#039;&#039;&#039;(かっぷく)・&#039;&#039;&#039;屠腹&#039;&#039;&#039;(とふく)ともいう。主に[[武士]]などが行った[[日本]]独特の習俗。<br /> <br /> 外国でも日本の風習としてよく知られ、hara-kiriやseppukuとして辞書に載っている。&lt;ref&gt;[[小林正樹]]監督映画『[[切腹 (映画)|切腹]]』も国外では[[:en:Harakiri (1962 film)|&#039;&#039;Harakiri&#039;&#039;]]([[1962年]])と改題された。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> [[Image:Seppuku-J. M. W. Silver.jpg|right|thumb|300px|[[江戸時代]]末期の切腹の様子。中央の[[裃]](かみしも)を着用した人が切腹人&lt;ref&gt;[http://www.gutenberg.org/files/13051/13051-h/13051-h.htm#page24 CHAPTER VI.The &#039;HARA KIRU.&#039;]J. M. W. Silver著『日本の礼儀と習慣のスケッチ』、1867年出版&lt;/ref&gt;。]]<br /> <br /> == 概念 ==<br /> 日本の[[封建時代]]の道徳観念のもとでは、不始末が生じた場合にその責任をみずから判断し、自分自身で処置する覚悟を示すことで名誉を保つ社会的意味があり、「自決」また「自裁」とも称された。近世以降は、[[自死]]のみならず[[死刑|処刑]]方法としても採用されたが、切腹させることは「切腹を許す」と表現され、切腹の場所には新しい[[畳]]を重ねて敷き、幔幕をめぐらすなど念入りに整えられ、対象者を[[武士]]待遇に扱い、名誉を保証する処刑方法であった。より罪の重い者には、百姓町人身分に対する[[斬首]]や[[磔]]、[[絞首刑]]などが科せられた。<br /> <br /> 切腹が習俗として定着した理由には、[[新渡戸稲造]]が『[[武士道 (新渡戸稲造)|武士道]]』(&#039;&#039;Bushido: The Soul of Japan&#039;&#039;、[[1900年]]刊)の中で指摘した、「腹部には、人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰」から、勇壮に腹を切ることが武士道を貫く自死方法として適切とされたとの説が唱えられているとされる。<br /> <br /> 切腹の動機としては、[[主君]]に[[殉死|殉ずる]]「追腹」(おいばら)、職務上の責任や義理を通すための「詰腹」(つめばら)、無念のあまり行う「無念腹」、士道では[[喧嘩両成敗]]が重んじられることから、復讐の手段として遺恨のある相手を名指しして先に腹を切ることで相手にも腹を切らせる「指腹」(さしばら)が行われた&lt;ref&gt;[[氏家幹人]]『かたき討ち』 中央公論新社 &lt;中公新書&gt; 2007年 ISBN 9784121018830 pp.33-50.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、敗軍の将が敵方の捕虜となる恥辱を避けるためや、籠城軍の将が城兵や家族の助命と引き換えに行うことがある。また、戦場における命令違反を行った者に対し、刑罰的な意味で切腹を命じる場合もあった。&lt;ref&gt;[[徳川家康]]は下知なき行動(抜駆け)に対し、一族郎党全員の切腹という厳しい軍律を設けていた。[[ノモンハン事件]]では、優勢なソ連軍の猛攻を受けた指揮下の部隊を許可なく撤退させ、全滅から救った指揮官に自決が強要されている。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 日本における歴史 ==<br /> === 平安時代 ===<br /> 古くは[[988年]]([[永延]]2年)に[[藤原保輔]](ふじわらのやすすけ)が事件を起こして逮捕された時に、自分の腹を切り裂き自殺をはかり翌日になって獄中で死亡したという記録が残る。[[平家物語]]、[[太平記]]などの文献では、切腹自体は例が多いものの&lt;ref&gt;「或は痛手追ふて腹掻き切り川へ飛入る者もあり」平家物語巻四 橋合戦&lt;/ref&gt;、自決の方法は刀を口にくわえて馬から飛び降りる、鎧を重ねて着、海に飛び込むなど一定しておらず、切腹が特に名誉な自殺方法と見られることもなかった。武士への死刑執行も全て[[斬首刑]]で、身分ある武士といえども敵に捕縛されれば斬首刑か、監禁後に[[謀殺]]であった。<br /> <br /> === 室町・戦国時代 ===<br /> {{出典の明記|date=2016年8月|section=1}}<br /> [[室町時代]]の[[明徳]]3年([[1392年]])に[[管領]][[細川頼之]]に殉死した三島外記入道(『[[明徳記]]』)以来、平時に病死した主君に対して殉死を行う風習が始まった。<br /> <br /> {{要出典範囲|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期から徐々に切腹の概念が変わってきた。[[豊臣秀吉]]が[[高松城_(備中国)|備中高松城]]を攻め、講和条件として城主・[[清水宗治]]の命を要求した際に、宗治は潔く切腹して果てた。その時の宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったため、秀吉も感服し、それ以降、切腹が名誉ある行為という認識が広まった。|date=2014年5月}}その秀吉は、[[豊臣秀次]]&lt;ref&gt;形としては切腹だが、晒し首にされている&lt;/ref&gt;、[[千利休]]らに対し、刑罰として切腹を命じている。また、[[関ヶ原の戦い]]、[[大坂の役]]での敗軍武将への死刑執行は全て[[斬首刑]]であるが、[[古田重然|古田織部]]・[[細川興秋]]など豊臣方与力と見なされた者は切腹させられている。<br /> <br /> === 江戸時代 ===<br /> 江戸時代初期には[[松平忠吉]]や[[結城秀康]]に殉死した家臣の評判が高まり、殉死が流行した。この流行は[[1663年]]([[寛文]]3年)5月に「天下殉死御禁断の旨」&lt;ref&gt;江戸城大広間で[[林鵞峯]]が「[[武家諸法度]]」を読み上げたのち老中[[酒井雅樂頭忠清]]によって宣言された。&lt;/ref&gt;により殉死が厳禁されるまで続いた。当初は同法は有名無実化されたが、寛文8年、[[奥平昌能]]が先代逝去時に家中での殉死があったという理由で2万石を削られる処断を受け実効を持つことになった。[[1684年]]([[貞享]]元年)に成立したとされる明良洪範では殉死を真に主君への忠義から出た「義腹」、殉死する同輩と並ぶために行う「論腹」、子孫の加増や栄達を求めて行う「商腹」(あきないばら)の三つに分類している。しかし、殉死者の家族が栄達したり加増を受けたケースは皆無であり、商腹は歴史的事実ではないとされる&lt;ref&gt;山本博文 『殉死の構造』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[天保]]11年([[1840年]])に[[上州沼田藩]]士の工藤行広が『自刃録』を著す。徳川瓦解の30年前で、武士道が地に落ちていたことを嘆いて書いた切腹マニュアルであった。[[1943年]]に[[森銑三]]が「切腹の書自刃録」&lt;ref&gt;『森銑三著作集』第11巻([[中央公論社]] [[1971年]]所収)。&lt;/ref&gt;というエッセイでこれを紹介している。<br /> <br /> === 近現代 ===<br /> [[1870年]](明治3年)、[[庚午事変]]の首謀者数名が[[徳島県]][[徳島市]][[住吉 (徳島市)|住吉]]の[[蓮花寺 (徳島市)|蓮花寺]](1丁目)にて切腹したのが、日本の法制史上最後の切腹の事例となっている。<br /> <br /> 死刑執行方法としての切腹は[[1873年]]([[明治]]6年)に廃止され、以後、[[日本における死刑]]では[[絞首刑]]が用いられているが、切腹を自殺の方法として用いる例は、明治時代以降も軍人等の間に見られ、切腹を名誉ある自決とする思想は残った。&lt;!--[[明治維新]]によって武士がいなくなっても、[[戦陣訓]]の本訓其ノ二 第八「名ヲ惜シム」にある「恥ヲ知ル者ハ強シ。常ニ郷党家門ノ面目ヲ思ヒ、愈々奮励シテ其ノ期待ニ答フベシ。生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ、死シテ罪禍ノ汚名ヲ残スコト勿レ」などの思想が、捕虜よりも切腹など自害を選ぶように決められた。--&gt;<br /> <br /> 旧[[日本軍]]においては一部の将校の自決に行われ、[[明治天皇]]に殉じた[[乃木希典]]陸軍大将、[[大西瀧治郎]]海軍中将、[[鈴木貫太郎]]内閣の陸軍大臣であった[[阿南惟幾]]陸軍大将などがある。現代の事象としては、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月25日]]に、東京都内の[[代々木公園|旧・代々木練兵場(現・代々木公園)]]で、「[[大東塾]]十四士」が古式に則り集団割腹自殺をした事件や、[[1970年]](昭和45年)[[11月25日]]に作家・[[三島由紀夫]]が[[陸上自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]]内で演説を行ったのち割腹自殺した事件([[三島事件]])などがある。<br /> &lt;!--[[File:Masahiko Kimura (1917-1993).jpg|thumb|200px|right|木村政彦は常に切腹の練習をして試合に臨んだ]]<br /> ノンフィクション作品『[[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]』では、柔道家[[木村政彦]]が武道家として戦前は負ければ切腹するつもりでいたが、戦後、[[力道山]]の裏切りで恥をかかされ、しかし切腹をしなかったことを通して、切腹の意味を武道・武士道という概念から切り取り、問いかけている。(この項目に関しては、『切腹』の項目に記述する必要性を感じません。--&gt;<br /> <br /> == 作法 ==<br /> [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]や江戸時代初期においては介錯人がつかず、腹を十文字に割いたり&lt;ref&gt;軍記物の記述として、『[[北条五代記]]』(『北条盛衰記』本巻二)の[[三浦義同]]があり、『[[土佐物語]]』巻三にも、「腹十文字にかき切りければ」と記述がある。&lt;/ref&gt;、内臓を引きずり出したりといった過激な方法も用いられていたと言われ、軍記物にもそのような描写が散見される(状況によっては、ただちに失血性ショックや[[腹膜刺激症状]]を起こし、失神ないし運動失調を来すため、実行は困難を極めるが、成功した例も報告されている&lt;ref&gt;A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』長岡祥三訳、講談社&lt;講談社学術文庫1349&gt;、1998年、153-154頁。原書は1915年刊。&lt;/ref&gt;)。<br /> <br /> 近世に入り、武士身分の処刑として切腹が確立すると、切腹にも作法が登場する。切腹する人を切腹人(せっぷくにん)という。切腹人に付き添い切腹人の首を切り落としたり、検視役に首を見せるなど、切腹の補助を行う者を介錯人(かいしゃくにん)という。腹部を切り裂いただけでは死亡までに時間がかかり、死ぬ者に非常な苦痛を強いるため、通常は介錯人が切腹直後に[[介錯]]を実行する。&lt;!-- よって、名誉ある死に臨むに際し、--&gt;江戸時代には、切腹は複雑で洗練された儀式となり介錯がつく切腹の作法が確立した。切腹の作法が制定された時期については諸説あるも、18世紀の初め([[享保]]年間の前後)という説が有力である。<br /> <br /> 切腹の際の腹の切り方は、腹を一文字に切る「一文字腹」、一文字に切ったあとさらに縦にみぞおちからへその下まで切り下げる「十文字腹」がよいとされた。もっとも、体力的にそこまでは無理なことが多く、喉を突いて絶命することが多かったとされる。後には、切腹に付き添って首を斬り落とす[[介錯]](かいしゃく)の作法が確立した。介錯は通常、正副の2人、あるいは3人で務めた。それぞれ、3人の場合、首を打つ「介錯」(大介錯ともいう)、短刀をのせた四方(4つ穴のある[[三方 (神道)|三方]])を持ち出す「添介錯」(助介錯ともいう)、首を実検に入れる「小介錯」の三役である。介錯人については、首を一刀で切り落とすのは剣術に長けた者でないと勤まらず、下手な者の介錯ではしくじっては何度も切腹人を斬りつける事態になりかねない。介錯人は預かり人の家中の者が務める建前になっていたため、介錯の失敗は武術不心得として預かり人の家の恥とされた。そこで、家中に腕の立つ者がいない場合、他家に依頼して人を借りてくることもあった。<br /> <br /> 江戸時代中期には、切腹自体も形式的なものとなり、四方に短刀でなく扇子を置き、その扇子に手をかけようとした瞬間に介錯人が首を落とすという方法が一般的になる(扇腹、扇子腹)。[[赤穂浪士]]も、比較的身分が高かった[[大石良雄]]ら数人以外は、扇子や木刀を使用した。中には「自分は切腹の作法を知らない。どうすればいいのか」と聞いた、という逸話も残っている。ただし幕末になると、全面的にではないが、本来の切腹が復活したことも記録されている。<br /> <br /> 切腹の場所は、大名クラスの身分をはじめとする上級武士の場合は預かり人(切腹人の身柄を預かる人)の邸内、やや身分が劣る場合は預かり人の邸宅の庭先、さらに身分が劣る場合は牢屋の中とされた。なお、[[足軽]]以下の身分(足軽は「士」では無いとされた)は切腹を許されなかったとされる。(なお、儀礼化されているわけではないため、介錯は任意である)。&lt;br /&gt;[[赤穂事件]]は、大名である浅野長矩が「庭先にて切腹」という、格下の者の扱いで切腹を強いられたという事実が要因とも言われる。<br /> <br /> なお、比較的平穏だった江戸時代においては、どうしても腹を切れない武士も少なからずおり、そのため切腹の代わりに「一服」という服毒自殺の方法も用意されていた&lt;ref&gt;山本博文 『武士と世間』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 古式では寺院で、のちに預人の座敷または庭上で、行なわれた。<br /> <br /> == 手順 ==<br /> [[Image:Seppuku.jpg|right|thumb|200px|切腹の様子([[明治時代]]の芝居より)]]<br /> [[Image:Wakisashi-sepukku-p1000699.jpg|right|thumb|200px|切腹用に用意された短刀(イメージ)。[[三方 (神道)|三方]]にのせられ、奉書紙が巻かれた白鞘の短刀。]]<br /> <br /> ここでは、作法が確立した江戸時代の非自発的切腹(多くは刑罰としての切腹)の手順を説明する。<br /> <br /> #切腹の沙汰が下されると、罪人にその旨が伝えられる。<br /> #切腹前に、切腹する者は[[沐浴]]を行い身を清める。この時に使う水はたらいの中にまず水を入れ、そこへ湯を足して温度を調整したものを使用する。当時は生きた人間が身体を洗う際は湯を水でうすめぬるくするのが普通であったが、これはその逆であり、遺体の[[湯灌]]につかう水と同じ方法である。<br /> #次いで髪を結い、普段より高く結い普段と逆に曲げる。つまり元結左巻に四巻、髷を逆さに下に折り曲げる。切腹の際の装束は、着衣は白無地の小袖と、[[浅葱色]]の無紋麻布製の裃で襞は外襞、小袖は首を打ち落としやすいように後襟を縫い込んでいるものと決まっていた。遺体に着せるのと同じように左前(着用する人の左の襟を手前)に合わせる。<br /> #切腹の場所は上輩であれば6間四方、中輩であれば2間四方にもがりを結い、南北に口を開いておく。南は「修行門」、北は「涅槃門」と呼ばれている。そこには逆さに返した畳二畳(土色の畳白縁の物)を撞木に敷き、縦の畳に浅黄色ないしは青色の布か布団尺4幅を敷き(場合によってはその上に白砂をまく場合もある)、その四隅に四天を付け、畳の前に白絹を巻いた女竹を高さ8尺、横6尺の鳥居形に立て、四方に4幅の布を張る。後方には逆さに返した(あるいは引き方を逆にした)屏風を立てる。<br /> #検視役の座が切腹する者の座の対面に設けられ、切腹人は涅槃門から入り、畳の白絹の上、北に向かって座する。介錯人は修行門から入った。<br /> #切腹する者の前には盃二組(上がかわらけ、下は塗り物)と湯漬け(白飯に白湯をかけた物)に香の物三切れ(身切れの意であるという)、塩、味噌の肴、逆さ箸が添えられる(切腹人にとってこの世で最後の食事となる)。<br /> #切腹人は、銚子で、酒を左酌にて二度注がれ、二杯で四度で飲む。この時、切腹人がさらに盃をねだっても、酩酊すると不都合なので与えない。<br /> #その後、配膳係は膳を下げ、切腹に用いる短刀を三方にのせて差し出す。切腹刀は、拵え付きの刀(白木の鞘ではなく、組糸を用いた物を用いる。ただし、先述の通り時代が下ると木刀や扇子で刀に見立てるようになった)を用いる。短刀は9寸5分、柄を外し、布か紙で28回逆に巻いて紙縒で結び、刃先が5〜6分出るようにする。柄をつけたまま行う場合も目釘を抜く。<br /> #正介錯人は、切腹人に対して名を名乗り一礼する。そして、正介錯人は後ろに回り、介錯刀に水柄杓で水を掛けて清め、八双に構える(剣先を天に向けた構え。構え方には諸説ある)。<br /> #切腹人は、検視役に黙礼し、右から肌脱ぎする。左で刀を取り、右手を添えて押し頂き、峰を左に向け直し、右手に持ち替え、左手で三度腹を押し撫で、へその上一寸ほどへ左から右へ刀で突き立て(へそ下深さ三分ないし五分とも)、切腹人が刀を引き回す所で、介錯人は首を皮一枚残して斬る。皮一枚残して斬ることを「抱き首」といい、この形に斬るのが介錯人の礼儀とされた。抱き首の形にするのは、首が飛んで落ち、土砂に汚れるのを防ぐための配慮や、「身体を分割するのは親不孝」との儒教思想の影響があるため、また胸にぶら下がる首の重みで体を前に倒すためともいう(討ち死には敵に頭を向ける前のめりの形が美しいとされた)。ただし、例えば[[土佐国|土佐]]では皮を残さず切り落とすなど、地方によって異なり、切腹人があえて首を切断することを希望する場合もあり、必ずしも抱き首にしなければならないということはなかった。<br /> #介錯が済むと、表裏白張り白縁の屏風をめぐらせ、死骸を人に見せぬようにする。副介錯人が首を検視役に見せて切腹人の絶命を確認し、切腹の儀式は終了する。柄杓の柄を胴に差し首を継ぎ、敷絹で死骸を包み、棺に納める。<br /> <br /> のちに簡略化され、切腹人が裃を着ると湯漬け飯を出し、旗幕を省き、畳2帖白絹敷物白屏風のみとして、肴は昆布1切を角折敷にのせて出されるのを介錯人に会釈して一献受け、介錯人にさし、検視は3間ほど離れて筋違いに座する。介錯人が首を打つと検視は刀を取って左足を踏み出し、左回りに立つ。<br /> <br /> テレビや映画の[[時代劇]]などでは、白布を敷いた畳の上に白装束、奉書紙に巻いた拵え無しの刀を用いての切腹シーンが登場するが、史実ではこのような作法はいかなる時代・地方においても存在しない。切腹の場所を白で統一すると血の色が目立ち過ぎ、見た目がむごたらしくなるからである。また白の裃は他人の葬儀に出席する際に着用するいわゆる喪服であり、切腹の際に着用されることは無かった。現実には碧血の故事([[碧血碑]]を参照のこと)にちなみ、着る物や敷く物は浅葱色に整えられた(浅葱色+赤=碧色)。切腹用の短刀も、奉書紙を巻いただけでは滑って差し支えるため、紙縒りで固く留めるか拵えを付けたままにしておくのが常であった。また、白鞘は本来刀身保管用のための物であり、武士が実用に供することはない。一般に流布している切腹のイメージは、映像作品においての見栄えを考えたものであり、実際とは異なる。&lt;ref&gt;名和弓雄著『間違いだらけの時代劇』河出書房新社刊 1989年 P34〜36記述より&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 切腹に関する研究 ==<br /> 切腹は、日本独自の習俗であることから、研究対象として、あるいは興味関心の対象として、注目された。[[英語圏]]においては、「腹切り」 (harakiri) としてそのまま英語の単語になり、[[オックスフォード英語辞典]] (&#039;&#039;OED&#039;&#039;) の項目に採用されている。<br /> <br /> 前述した通りではあるが、新渡戸稲造は、1900年に刊行した著書&#039;&#039;Bushido: The Soul of Japan&#039;&#039;(『[[武士道 (新渡戸稲造)|武士道]]』)のなかで、切腹について、腹部を切ることは、そこに霊魂と愛情が宿っているという古代の[[解剖学]]的信仰に由来する、と考察している。<br /> <br /> 戦での首切りの習慣や周辺諸民族の風習と併せて考えると、切腹は台湾以南の南方諸民族(マレーシア、インドネシア周辺の民族)の共有していた生命観に行き着くとされる。すなわち、命は腹や頭に宿っており、勇敢な戦士の魂を自分のものとするために斬頭したり、自己の魂を見せつけるために切腹したりするのだと考えられるのである。<br /> <br /> == 影響 ==<br /> [[生命科学]]の分野では、[[アポトーシス]]を誘導する遺伝子のひとつに、「Harakiri」の名前が採用されている。Harakiri遺伝子は、脳虚血時や、[[アルツハイマー型認知症]]による神経変性時に、神経細胞の死をつかさどる。これは、「アポトーシス=細胞の自殺=腹切り」という連想から名付けられた。<br /> <br /> 切腹の文化的、国民性への影響は、明治以降の国民教育で武士道が国民道徳化して以降、大きな影響を与えたといわれる。現在日本国民の大多数が死刑を肯定する立場にあり、廃止を訴える国民は依然少数である。これは「己の名誉と贖罪のため、死をもって償う」という自己犠牲の理念が「日本人の伝統」として固定化されたためであるという意見もある。<br /> <br /> == 中国の「切腹」 ==<br /> 切腹は日本独特の習俗と言われるが、これに近い割腹自殺は中国にも存在する(中国語では「剖腹」と言う)。例えば『[[呂氏春秋]]』仲冬紀に載せる「弘演納肝」の故事では、忠臣であった弘演は、自分の腹を切って内臓を出し、自分の体内に惨殺された自分の主君の肝臓を入れて絶命し、人々からその忠勇をたたえられた。『[[史記]]』[[刺客列伝]]の[[聶政]]は、男らしい自決として、敵の面前で致命的な自傷に及び、腹を切った。『謝承[[後漢書]]』の戎良や、『[[旧唐書]]』列伝第137の安金蔵は、自分の誠意を証明するため自分の腹や胸を刀で引き裂き、内臓を取り出して見せた(安金蔵は外科手術によって命を取り留め、[[武則天]]からその忠勇を激賞された)。<br /> <br /> 近現代でも、[[文化大革命]]のとき、無実の罪で糾弾された共産党員が、公衆の面前で割腹自殺した例がある。中国の割腹自殺と、日本の切腹の起源の関連については不明である。ちなみに中国では、割腹自殺は、日本と違い、むしろ武人でない者が自分の誠意を披瀝するための自決法であった。中国の武人の自決法は、腹ではなく自分の首を刀で切る「自刎」のほうが主であった&lt;ref&gt;加藤徹『怪力乱神』p66-p72&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 韓国 ==<br /> [[朝鮮戦争]]中に[[安秉範]]韓国陸軍准将が切腹自決している&lt;ref name=&quot;onekorea20090606&quot;&gt;{{cite news<br /> | url = http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=48841&amp;thread=15<br /> | title = 朴正煕 逝去30周年記念連載⑫ ― 企てられたクーデター<br /> | newspaper = [[統一日報]]<br /> | date = 2009-06-06<br /> | accessdate = 2010-04-25<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == ヨーロッパ ==<br /> [[ヨーロッパ]]ではドイツの地政学者で軍人でもある[[カール・ハウスホーファー]]が、切腹自殺を遂げている。また[[モーリス・パンゲ]]は[[古代ローマ]]の[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス]]の自害に名誉のために殉ずる切腹の精神の起源を見ている&lt;ref&gt;『自死の日本史』モーリス・パンゲ著、[[竹内信夫]]訳、第1章『カトーのハラキリ』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[伊丹十三]]「これだけは知っておこう」『[[ヨーロッパ退屈日記]]』([[文藝春秋]] [[1965年]]、後に文庫化)<br /> * [[千葉徳爾]]『切腹の話-日本人はなぜハラを切るか』(講談社現代新書)講談社 1972年<br /> * 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』 東京堂出版、1994年9月 ISBN 4490202482<br /> * [[山本博文]]『切腹―日本人の責任の取り方』 光文社新書 2003年 ISBN 4334031994 <br /> * 山本博文『武士と世間』 中央公論新社 2007年8月 ISBN 978-4121017031<br /> * [[福田陸太郎]]監修 / 東京成徳英語研究会編著『OEDの日本語378』 論創社 2004年2月 ISBN 4846005003<br /> * [[加藤徹]]『怪力乱神』 中央公論新社 2007年8月 ISBN 978-4-12-003857-0 C0095<br /> * モーリス・パンゲ、[[竹内信夫]]訳『自死の日本史』(講談社学術文庫)2011年6月 ISBN 4062920549<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commonscat|Seppuku|切腹}}<br /> * [[侍政]]<br /> * [[自殺]]<br /> * [[日本における死刑]]<br /> * [[刑罰]]<br /> ** [[刑罰の一覧]] <br /> * [[賜死]]<br /> * [[腹裂きの刑]]<br /> *[[腹切り問答]]<br /> * [[シャルリー・エブド]] - 切腹にちなんだ「アラキリ &#039;&#039;Hara-Kiri&#039;&#039; 」が前身。<br /> *[[HARAKIRI]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://homepage1.nifty.com/SEISYO/sepuku.htm 『切腹の話』]<br /> * [http://turandot.ish-lyon.cnrs.fr/Artworks.php?ID=168 『幕末の切腹と酷刑』]<br /> * [http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007295437-00?ar=4e1f『自刃録(写本)』]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:せつふく}}<br /> [[Category:切腹|*]]<br /> [[Category:自殺]]<br /> [[Category:日本における死]]</div> 61.25.129.9
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