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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=60.237.39.32&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-26T22:03:37Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 享年 2018-07-10T07:03:44Z <p>60.237.39.32: /* 用い方 */</p> <hr /> <div>{{字引|date=2011年7月}}<br /> {{複数の問題|雑多な内容の箇条書き=2011-7|未検証=2011-7}}<br /> &#039;&#039;&#039;享年&#039;&#039;&#039;(きょうねん)とは[[人]]が「[[天]]から&#039;&#039;&#039;享&#039;&#039;&#039;&lt;small&gt;(う)&lt;/small&gt;けた&#039;&#039;&#039;年&#039;&#039;&#039;数」という意味であり、この世に存在した年数である。「&#039;&#039;&#039;行年&#039;&#039;&#039;(ぎょうねん)」ともいい「[[娑婆]]で修&#039;&#039;&#039;行&#039;&#039;&#039;した&#039;&#039;&#039;年&#039;&#039;&#039;数」、「&#039;&#039;&#039;行&#039;&#039;&#039;(時が進むの意味)&lt;ref name=&quot;kanjigen&quot;&gt;『漢字源』学研、「行」の項を参照。&lt;/ref&gt;の&#039;&#039;&#039;年&#039;&#039;&#039;数」の意味。「享年70(満68歳)」([[数え年]]の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく[[満年齢]]で表し「享年68(歳)」と表すこともある。<br /> <br /> == 用い方 ==<br /> 元々、日本では満年齢の概念が存在せず数え年のみが使われていたため、享年にも伝統的に[[数え年]]が使用されていた。<br /> <br /> 本来は数え年の年齢で表すものであり満年齢を使用することは厳密には誤り{{要出典|date=2010年2月}}であったが、実生活の中で数え年を使う機会が減少した現代の日本において享年に満年齢を用いることが一般的になりつつある{{要出典|date=2015年1月}}。ただし、[https://web.archive.org/web/20100212053735/http://www6.kokken.go.jp/kotoba_faq/360.html 国立国語研究所のFAQ]では、「享年」は「この世に生をうけた年数」なので、かぞえではなく、満で数えた年齢をいうのが適当としている。数え年は[[元日]]を基準とするので[[新暦]]の導入&lt;ref name=&quot;dounyu&quot;&gt;日本では[[明治]]6年([[1873年]])[[1月1日]]に、新暦(グレゴリオ暦)を導入する。明治5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]&lt;small&gt;(グレゴリオ暦:[[1872年]][[12月31日]])&lt;/small&gt;までは、旧暦([[天保暦]]&lt;small&gt;([[天保]]15年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]](グレゴリオ暦:[[1844年]][[2月18日]])導入)&lt;/small&gt;)を用いていた。&lt;/ref&gt;以前は[[暦法]]により[[元日]]が[[新暦]]とは異なるため、数え年の数え方には注意が必要([[数え年#数え年の換算方法|数え年の換算方法]]を参照)。<br /> <br /> また享年に年齢を数える[[単位]]である「歳」を付けることも本来は誤用であった(同じ意味の漢字である「年」と「歳」が重複になるため)が、満年齢を用いることと同様に享年に「歳」を付ける表記も一般的になりつつあり、『[[広辞苑]]』の凡例にも「-九十歳」と記載されている。「数え年でなければ誤り」「歳を付けるのは誤り」とは、言い切れなくなりつつある。ただし、曲亭馬琴の作品、竹豊故事(1756年刊)などでも、「歳」をつけており、現在の誤用であるとは言えない。[http://web.archive.org/web/20100212053735/http://www6.kokken.go.jp/kotoba_faq/360.html 国立国語研究所のFAQ]では、使ってとがめられるほど大きな間違いとはいえないとしている。<br /> <br /> (仏教の)宗旨によっては、享年の数え方を数え年に限定している場合もある。<br /> <br /> 宗旨によっては、生存した年数の少ない([[夭折]]した)幼少時になくなった者に対しては享年を用いない場合がある。これは夭折した者は天寿(「天から授かった[[寿命]]」の意味)を全うしておらず、「享年(天から享けるべき年数)」とあらわす事を避けるためである。<br /> <br /> 満年齢を用いた享年(行年)では、1歳に満たない場合は「享年(行年)○○か月」とはせずに「享年(行年)当歳」や繰り上げて「享年1歳」と表記することもある。<br /> <br /> 元来仏教用語であるため、仏教徒以外の人物に対して用いるべきではないという意見もある{{要出典|date=2009年1月}}。ただし、中村元ほか編著の岩波仏教辞典には、「享年」の同義語である「行年」について、「特に仏教語というわけではない」とある。<br /> <br /> [[曹洞宗]]の[[僧侶]]に対して使用する場合は、「[[世壽]]」の語を用いる。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Wiktionary}}<br /> * [[寿命]]<br /> * [[馬齢]]<br /> *# 馬の年齢。競馬や馬術競技の世界では、馬の年齢について特殊な数え方をする。<br /> *# 自分の年齢をへりくだって表現することば。「馬齢を重ねました」と言うと「私はむだに歳をとってしまいました」という意味になる。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.posteios.com/PROJ_C056.htm 仏教ちょっと教えて - 歳・満、行年、享年?]<br /> <br /> {{Japan-culture-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:きようねん}}<br /> [[Category:年齢]]<br /> [[Category:死]]</div> 60.237.39.32 法隆寺 2018-07-04T11:30:55Z <p>60.237.39.32: /* 歴史 */</p> <hr /> <div>{{Otheruses||世界遺産|法隆寺地域の仏教建造物|その他の用法}}<br /> {{日本の寺院<br /> |名称 = 法隆寺<br /> |画像 = [[ファイル:Horyu-ji10s3200.jpg|300px]]&lt;br /&gt;西院伽藍遠景<br /> |所在地 = 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1<br /> |位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|34|36|53.06|N|135|44|3.02|E|region:JP-29_scale:20000_type:landmark|display=inline,title}}<br /> |山号 = <br /> |宗派 = 聖徳宗<br /> |寺格 = 総本山<br /> |本尊 = 釈迦如来<br /> |創建年 = (伝)607年<br /> |開基 = 推古天皇・[[聖徳太子]]<br /> |正式名 = <br /> |別称 = 斑鳩寺<br /> |札所等 = [[南都七大寺]]7番&lt;br /&gt;[[聖徳太子霊跡]]14番&lt;br /&gt;[[神仏霊場巡拝の道]]第26番&lt;br /&gt;[[大和北部八十八ヶ所霊場]] 第50~51番<br /> |文化財 = 金堂、五重塔、夢殿他(国宝)&lt;br /&gt; 中門金剛力士像他(重要文化財)&lt;br /&gt;世界遺産<br /> }}<br /> {{mapplot|135.734172|34.614739|法隆寺}}<br /> &#039;&#039;&#039;法隆寺&#039;&#039;&#039;(ほうりゅうじ)は、[[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]]にある[[寺院]]。[[聖徳宗]]の[[総本山]]である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など&lt;ref&gt;『国史大辞典』第12巻、p.662(「法隆寺」の項)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、[[聖徳太子]]ゆかりの寺院である。創建は[[法隆寺金堂薬師如来像光背銘|金堂薬師如来像光背銘]]、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年([[607年]])とされる。[[金堂]]、[[五重塔]]を中心とする西院[[伽藍]]と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は&#039;&#039;&#039;現存する[[世界最古の一覧|世界最古]]の木造建築物群&#039;&#039;&#039;である。<br /> <br /> 法隆寺の建築物群は[[法起寺]]と共に、[[1993年]]に「[[法隆寺地域の仏教建造物]]」として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[ファイル:Horyu-ji08s3200.jpg|thumb|金堂と五重塔]]<br /> [[ファイル:Horyu-ji05s3200.jpg|thumb|西院回廊と大講堂]]<br /> [[File:Yakushi Nyorai Kondo Horyuji.jpg|thumb|銅造薬師如来像(金堂)]]<br /> [[File:Shakyamuni Triad Horyuji2.JPG|thumb|銅造釈迦三尊像(金堂)]]<br /> [[File:ZojoTen viruudhaka Horyuji Kondo.jpg|thumb|160px|木造四天王像のうち増長天(金堂)]]<br /> [[ファイル:Horyu-ji13s3200.jpg|thumb|聖霊院]]<br /> [[ファイル:Horyu-ji36s3200.jpg|thumb|夢殿]]<br /> [[File:Horyuji in Tobu World Square.jpg|thumb|(参考画像)東武ワールドスクウェアにある法隆寺西院伽藍の模型。回廊の南面に中門を配し、回廊内には東に金堂、西に五重塔を配す。これらの背後に見える入母屋屋根・単層の建物は大講堂、その手前左右にある切妻屋根・楼造の小建物は鐘楼(東)と経蔵(西)。&lt;!--Commonsに伽藍の空撮画像がないため、伽藍配置を理解するための資料として本画像を使用。テーマパークにある模型とはいえ、正確に作られているので、資料画像として問題ないと思われる。--&gt;]]<br /> [[ファイル:GUZE Kannon Horyuji.JPG|thumb|160px|木造観音菩薩像(救世観音、夢殿安置)]]<br /> [[File:Horyuji chumon warizuka.jpeg|thumb|160px|卍字崩し高欄と人字形割束(中門)]]<br /> [[File:Kumo-tokyou.jpg|thumb|160px|雲肘木(中門)]]<br /> <br /> === 創建 ===<br /> 法隆寺のある斑鳩の地は、[[生駒山地]]の南端近くに位置し、[[大和川]]を通じて大和と河内とを結ぶ交通の要衝であった。付近には[[藤ノ木古墳]]を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる&lt;ref&gt;(高田、1987)p.4&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 『[[日本書紀]]』によれば、[[聖徳太子]]こと厩戸皇子([[用明天皇]]の皇子)は推古9年([[601年]])、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古13年([[605年]])に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭わず、推古朝に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、『日本書紀』には天智9年([[670年]])に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が明治20年([[1887年]])頃から出されるようになった([[菅政友]]、[[黒川真頼]]、[[小杉榲邨]]ら)。これに対し、『書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり([[平子鐸嶺]]、[[関野貞]]ら)、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続いた(論争の詳細については後述)&lt;ref&gt;(梶谷、2008)p.42&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;(高田、1987)pp.26 - 28&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[石田茂作]]らによる昭和14年([[1939年]])の旧伽藍(いわゆる若草伽藍)の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度焼亡した後に再建されたものであることが決定的となり、再建・非再建論争には終止符が打たれた。現存の西院伽藍については、持統7年([[693年]])に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)ことから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年([[711年]])には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる&lt;ref&gt;(高田、1987)p.28&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;(鈴木、1994)pp.256 - 257&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;(鈴木、2008)pp.37 - 40&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 現・西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡であり、この伽藍が推古朝の建立であったことは、発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説となっている&lt;ref&gt;(高田、1987)p.12&lt;/ref&gt;。また、昭和14年([[1939年]])、東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されている&lt;ref&gt;『国宝法隆寺展』図録、p,228&lt;/ref&gt;。「日本仏教の祖」としての聖徳太子の実像については、20世紀末頃から再検討がなされており、『書紀』などが伝える聖徳太子の事績はことごとく捏造であるとする主張もある。ただし、こうした聖徳太子非実在論に対しては根強い反論もある。また、聖徳太子非実在論説を唱える[[大山誠一]]も、厩戸皇子という皇族の存在と、その人物が斑鳩寺(創建法隆寺)を建立したことまでは否定していない&lt;ref&gt;(曾根、2007)pp.10 - 18&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 金堂の「東の間」に安置される銅造[[薬師如来]]坐像([[国宝]])の光背銘には「[[用明天皇]]が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ[[推古天皇]]と聖徳太子があらためて推古天皇15年([[607年]])、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(後述の[[670年]]の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。&lt;!--[[法隆寺]]縁起によると[[骨奈嶋]]の名が寺領と記されていることから伊豫の国との繫がりがあること。現在の[[温泉郡]][[中島 (愛媛県)|中島町]]。--&gt;&lt;!--左の一文は前後の文章と文脈的につながっていない。--&gt;<br /> <br /> 前述の金堂薬師如来像については、昭和8年([[1933年]])、[[福山敏男]]により、<br /> * 像自体の様式や鋳造技法の面から、実際の製作は7世紀後半に下るとみられる<br /> * 607年当時、日本における薬師如来信仰の存在が疑問視される<br /> * 銘文中の用語に疑問がもたれる<br /> という疑問が提出された。この説はおおむね支持を得ており、薬師像は文字通り[[607年]]まで遡る製作とは見なされていない。また、金堂の中央に安置される本尊は「[[623年]]に聖徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘|光背銘]]をもつ釈迦三尊像であり、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて脇仏のような扱いをされている点も不審である&lt;ref&gt;(高田、1987)pp.26 - 28&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[皇極天皇]]2年([[643年]])、[[蘇我入鹿]]が[[山背大兄王]]を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。<br /> <br /> なお、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平10年([[738年]])ごろ、[[行信]]僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。<br /> <br /> === 中世以後 ===<br /> その後、聖徳太子の弟[[来目皇子]]の子孫と伝えられる登美氏の支配下に置かれていたが、[[平安時代]]初頭には登美氏からの自立への動きが強まった。この過程で法隆寺側と登美氏との間で発生したのが、[[善がい訴訟事件|善愷訴訟事件]]である。<br /> <br /> [[延長 (日本)|延長]]3年([[925年]])には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、大講堂が再建されたのは数十年後の[[正暦]]元年([[990年]])のことであった。以後、[[永享]]7年([[1435年]])に南大門が焼失するなど、何度かの火災に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えている。<br /> <br /> 近世に入って、[[慶長]]年間(17世紀初頭)には[[豊臣秀頼]]によって、[[元禄]] - [[宝永]]年間(17世紀末~18世紀初頭)には江戸幕府5代将軍[[徳川綱吉]]の生母[[桂昌院]]によって伽藍の修造が行われた。<br /> <br /> 近代に入ると、[[廃仏毀釈]]の影響で寺の維持が困難となり、[[1878年]](明治11年)には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像([[唐本御影]])をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これらの宝物は「[[法隆寺献納宝物]]」と呼ばれ、その大部分は[[東京国立博物館]]の法隆寺宝物館に保管されている。<br /> <br /> [[1934年]](昭和9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。「昭和の大修理」は[[第二次世界大戦]]を挿んで半世紀あまり続き、[[1985年]](昭和60年)に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、[[1949年]](昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と[[法隆寺金堂壁画|壁画]]を焼損した。このことがきっかけとなって、[[文化財保護法]]が制定されたことはよく知られる。昭和の大修理の際に裏山に築堤(ちくてい)して貯水池を建設、そこから境内に地下配管して自然水利による消火栓を建設した。[[1949年]](昭和24年)金堂火災の際、初期消火に活用された。[[1950年]](昭和25年)に[[法相宗]]から独立した。<br /> <br /> [[1981年]](昭和56年)からは「昭和資財帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。調査の成果は『法隆寺の至宝-昭和資財帳』として[[小学館]]から刊行されている。<br /> <br /> ===再建・非再建論争===<br /> 明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭っておらず、飛鳥時代に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、歴史学や建築史学の進歩とともに、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が明治20年(1887年)頃から出されるようになった&lt;ref&gt;(石田、1959)、pp.106 - 107&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;非再建論の主張<br /> *(様式論)法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。(関野貞)<br /> *(尺度論)薬師寺などに使われている基準寸法は(645年の大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。(関野貞)<br /> *(干支一運錯簡論)日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、干支が一巡する60年前の火災の記事(『聖徳太子伝補闕記』所収)を誤って伝えたものであろう。(平子鐸嶺)<br /> <br /> ;再建論の主張<br /> *『聖徳太子伝補闕記』には荒唐無稽な記述が多く、これをもって『日本書紀』の記述を否定することはできない。(喜田貞吉)<br /> *再建時に元の礎石を再使用すれば古い尺度が使われることになるので、高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にはならない。(喜田貞吉)<br /> <br /> 『日本書紀』天智9年([[670年]])4月30日条には「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」(夜半之後(あかつき)、法隆寺に災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえ)も余ること無し)との記述があり、これを信じるならば、法隆寺の伽藍は[[670年]]に一度焼失し、現存する西院伽藍はそれ以後の再建ということになる。最初に再建論を唱えたのは旧水戸藩士で歴史家の[[菅政友]]とされ、[[黒川真頼]](国学者)、[[小杉榲邨]](国学者)も明治20年代に再建論を唱えている。一方、『書紀』の当該記述は信用できないとして、現存する西院伽藍は推古朝のもので、焼けてはいないとの主張(非再建論)が[[関野貞]](建築史家)と[[平子鐸嶺]](美術史家)により、明治38年(1905年)に相次いで発表された。建築史の研究者である関野は、建築様式や建築に用いた尺度などの観点から、西院伽藍は推古朝のものであるとした。関野によると、法隆寺西院伽藍の建築には、古い尺度である高麗尺が使用されているが、大化元年([[645年]])を境として以後は唐尺が使用されるようになった。したがって、西院伽藍は大化以前のものでなければならないとする。平子は「干支一運錯簡説」を唱えた。『書紀』は干支による紀年法を採用しているが、干支は60年で一巡するため、『書紀』の法隆寺火災の記事は実年代から60年ずれているとする説である。『聖徳太子伝補闕記』(ふけつき)という書物に「庚午年四月三十日夜半有災斑鳩寺」という記載があるが、平子はこの「庚午」を西暦670年ではなく聖徳太子在世中の[[610年]]のことであるとし、『書紀』の編者は、推古天皇18年([[610年]])の庚午年に起きた火災の話を誤って60年後の天智9年([[670年]])の庚午年の条に入れてしまった。また、610年の火災は小規模なもので、現存する西院伽藍は推古朝から焼けていないと主張した&lt;ref&gt;(石田、1959)、pp.107 - 109&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;(大橋、1998)、pp.16 - 17&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これにただちに反論したのが歴史家の[[喜田貞吉]]である。喜田は、焼失した伽藍がもとの礎石を用いて再建されたのなら、尺度も古い高麗尺が使われているのは当然だとして関野説を批判した。平子説については、『補闕記』には信用できない記述が多く、これをもって『書紀』の670年法隆寺火災の記事を否定することはできないとして、これをもしりぞけた。こうした再建論者・非再建論者の論争(法隆寺再建非再建論争)は昭和期まで続いた&lt;ref&gt;(大橋、1998)、pp.18 - 19&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 昭和期になると、関野貞、[[足立康 (建築史家)|足立康]]らが「二寺説」あるいは「新非再建論」と呼ばれる新説を唱える。関野は従来の自説を改め、「二寺説」を発表した。法隆寺の境内、現・西院伽藍の南東に位置する空地には「若草伽藍跡」あるいは「若草寺跡」と呼ばれる場所があり、塔跡の古い礎石が残されていた。関野は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする伽藍(西院伽藍)と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする伽藍(若草伽藍)とは別の寺であり、[[670年]]に焼けたのは後者であるとした。二寺説は、古くは[[北畠治房]](法隆寺村出身のもと天誅組志士)という人物が唱えていたが、論文として公刊されたものでなかったため、一般には知られていなかった。足立康の「新非再建論」(1939年)は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする仮称「用明寺」と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする釈迦如来を安置する仮称「太子寺」とがあり、670年に焼けたのは前者であるとする。後に足立は、2つの寺院が対立していたのではなく、一つの法隆寺の中に釈迦像を祀る「釈迦堂」があって、その後身が現・西院伽藍であるとした&lt;ref&gt;(石田、1959)、pp.111 - 112&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;(大橋、1998)、pp.23 - 28&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 昭和14年([[1939年]])に、[[石田茂作]]らによって若草伽藍跡の発掘調査が行われた。その結果、この伽藍は現存する西院伽藍(塔と金堂が東西に並ぶ)とは異なり、南に塔、北に金堂が南北方向に配置される「四天王寺式伽藍配置」であること、堂塔が真南に面しておらず、伽藍配置の中心軸が北西方向へ20度ずれていることがわかった。一方、現存する西院伽藍の堂塔は南を正面とし、伽藍の中心軸はほぼ地図上の南北に一致している(正確には北東方向へ3度ずれている)。したがって、仮に「若草寺」と「法隆寺」の2寺が同時に存在していたとすると、中心軸の方角が大きく異なる伽藍が近接して建っていたことになり、不自然である。また、若草伽藍跡から出土した瓦は、単弁蓮華文の軒丸瓦と手彫り忍冬唐草文の軒平瓦を組み合わせた、古い様式のものであった&lt;ref&gt;(鈴木、2008)、p.37&lt;/ref&gt;。こうしたことから、若草伽藍跡こそが創建法隆寺であり、これが一度焼失した後にあらためて建てられたものが現存する法隆寺西院伽藍であるということは定説となっている&lt;ref&gt;(大橋、1998)、pp.28 - 30&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 『資財帳』によれば、持統天皇7年(693年)、法隆寺にて仁王会が行われ、天蓋等が施入されていることから、現・西院伽藍のうち、少なくとも金堂はこの年までには建立されていたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群と、中門安置の金剛力士(仁王)像が完成しているおり、同年頃までには五重塔、中門を含めた西院伽藍が建立されていたとみられる。以上のように、「再建非再建論争」に関しては再建論に軍配が上がった形である。ただし、創建法隆寺の焼失は『書紀』のいう670年であったのか否か、皇極天皇2年([[643年]])の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのか、現存の西院伽藍が創建法隆寺とは別の位置に建てられ、建物の方位も異なっているのはなぜか(旧伽藍(若草伽藍)は、現存の西院伽藍の位置ではなく、かなり南東寄りに位置していた。また、現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜している)、金堂、五重塔などの正確な建立年はいつか、現・西院金堂安置の釈迦三尊像と薬師如来像は本来どこに安置されていたのかなど、未解明の謎はまだ残っている。現・西院伽藍のある土地は、かつて存在した尾根を削り、両側の谷を埋めて整地した後に建てられたことがわかっており、なぜそのような大規模な土木工事をしてまで伽藍の位置を移したのかも謎である&lt;ref&gt;(鈴木、1994)、pp.256 - 257&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;(鈴木、2008)、pp38 - 39&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、[[1939年]](昭和14年)、[[石田茂作]]によって聖徳太子当時のものであると考えられる前身の伽藍、[[四天王寺]]式伽藍配置のいわゆる「[[若草伽藍]]」の遺構が発掘されたことで、再建であることがほぼ確定した&lt;ref&gt;[[高田良信]] 他, 「法隆寺」の項, 『国史大辞典』, 吉川弘文館, 1979-1997.&lt;/ref&gt;。また「昭和の大修理」で明らかになった新事実(現在の法隆寺に礎石が転用されたものであること、金堂天井に残されていた落書きの様式など)もそれを裏付けている。<br /> <br /> 2004年12月、若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭に描かれたと思われる壁画片約60点の出土が発表された&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200412100149.html 奈良の法隆寺から最古の壁画片 高熱で変色、焼失・再建説裏付け]&lt;/ref&gt;。この破片は1000度以上の高温にさらされており、建物の内部にあった壁画さえも焼けた大規模な火事であったと推察される。壁と共に出土した焼けた瓦は7世紀初頭の飛鳥様式であり、壁画の様式も線の描き方が現法隆寺のものより古風であるという。出土した場所は、当時深さ約 3m ほどの谷であったところで、焼け残った瓦礫としてここに捨てられたと見られている。実際に焼失を裏付ける考古遺物が多数発見された。<br /> <br /> ==== 最近の研究 ====<br /> [[2004年]](平成16年)、[[奈良文化財研究所]]は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度[[デジタルカメラ]](千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年の[[年輪年代測定]]を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用された[[ヒノキ]]や[[スギ]]の部材は[[650年]]代末から[[690年]]代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は[[7世紀]]後半の再建であることがあらためて裏付けられた。問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である[[670年]]よりも前の伐採と見られることである&lt;ref&gt;鈴木嘉吉「世界最古の木造建築 法隆寺金堂 最新の研究から」『国宝法隆寺金堂展図録』(2008年)、p.40&lt;/ref&gt;。伐採年が日本書紀における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する&lt;ref&gt;武澤秀一『法隆寺の謎を解く』([[ちくま新書]]、[[2006年]])&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が[[594年]]&lt;!--当初言われていた「591年」から3年増えた--&gt;のものであり、この年が伐採年にきわめて近いと発表されている。他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残った&lt;ref&gt;鈴木嘉吉「世界最古の木造建築 法隆寺金堂 最新の研究から」『国宝法隆寺金堂展図録』(2008年)、p.39&lt;/ref&gt;。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。<br /> <br /> また、[[川端俊一郎]]は法隆寺の物差しは高麗尺ではなく、中国南朝尺の「材」であるとしている&lt;ref&gt;[http://www.hokkai.ac.jp/hinaswiki/pukiwiki/index.php?plugin=attach&amp;refer=HINAS%A5%E9%A5%A4%A5%D6%A5%E9%A5%EA&amp;openfile=%CB%A1%CE%B4%BB%FB%A4%CF%A3%D8%BB%FB%A4%CE%B0%DC%C3%DB%A1%A9%A1%A1%CB%A1%CE%B4%BB%FB%A4%CE%A4%E2%A4%CE%A4%B5%A4%B7%A4%CF%C3%E6%B9%F1%C6%EE%C4%AB%BC%DC%A4%CE%A1%D6%BA%E0%A1%D7.pdf 法隆寺の物差しは中国南朝尺の「材」]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 『隠された十字架』を巡る論争 ===<br /> [[1972年]](昭和47年)に[[梅原猛]]が発表した論考『[[隠された十字架]]』は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、[[出雲大社]]との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるための寺なのではないかとの説を主張したが、歴史学の研究者のあいだでは、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であった。<br /> <br /> 梅原は、夢殿本尊の救世観音には背中がなく、体は空洞であるとした上で、この像は「前面からは人間に見えるが、実は人間ではない」「人間としての太子でなく、怨霊としての太子を表現」したものだとした。しかし、これは事実誤認で、実際には救世観音像は丸彫り像であり、背中の部分も造形されている。これは[[アーネスト・フェノロサ]]の『東亜美術史綱』中の救世観音に係る記述に「背後は中空なり」とあり、フェノロサの誤記をそのまま引き継いだための誤解であろうと指摘されている&lt;ref&gt;(森下、1998)、p.106&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;(町田、1989)、p.309&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;(直木、1994)、pp.256 - 257&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また梅原は救世観音の光背が「直接、太い大きな釘で仏像の頭の真後ろにうちつけられている」としたうえで、「釘をうつのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである」とした。実際は、救世観音の後頭部にあるのは「太い釘」ではなく、単なる光背取り付け用の金具である。このように、仏像の後頭部に設けた金具や枘によって光背を固定している例は、法隆寺金堂四天王像、[[法隆寺献納宝物]]の[[四十八体仏]]([[東京国立博物館]]蔵)などに例がみられ、「呪詛の行為」等の解釈は当たらない&lt;ref&gt;(森下、1998)、p.106&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;(直木、1994)、pp.72 - 79&lt;/ref&gt;。このように、梅原の『隠された十字架』の所説は基本的な事実誤認に基づいて推論を重ねている部分が多いため、美術史家からは厳しい評価を受けており、ほとんどの美術史家はあえて正面から反論しなかった&lt;ref&gt;(森下、1998)、p.106&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;(町田、1989)、pp.309 - 310&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> とはいえ、本書が与えた影響は大きなものがあり、[[山岸涼子]]は本書に直接のインスピレーションを得て『[[日出処の天子]]』を発表したという。また建築家の[[武澤秀一]]は、中門の中心にある柱が怨霊封じのためであるという梅原の説は退けつつも、梅原の問題提起を高く評価し、[[イーフー・トゥアン]]など[[現象学]]的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の[[四天王寺]]様式が持つ圧迫感を和らげるために考案されたものであり、先行する[[百済大寺]](武澤は[[吉備池廃寺]]を百済大寺に比定して論を展開している)や[[川原寺]]で試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じている&lt;ref&gt;武澤、[[2006年]]。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 近代以降 ===<br /> * [[1878年]](明治11年) 300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これがいわゆる「[[法隆寺献納宝物]]」で、第二次大戦後は大部分が[[東京国立博物館]]の所蔵となり、ごく一部が皇室[[御物]]および[[宮内庁]]保管となっている。<br /> * [[1882年]](明治15年) [[法相宗]]に転じる。<br /> * [[1884年]](明治17年) [[アーネスト・フェノロサ|フェノロサ]]、[[岡倉天心|岡倉覚三]](天心)らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の[[救世観音]]像がこの時数百年ぶりに開扉されたという(異説もある)。<br /> * [[1903年]](明治36年) [[佐伯定胤]]が[[管主]]となり、[[廃仏毀釈]]で衰微していた[[唯識]]の教えを復興する。<br /> * [[1934年]](昭和9年) 「昭和の大修理」が開始。<br /> * [[1939年]](昭和14年) 「[[若草伽藍]]」発掘。<br /> * [[1944年]](昭和19年) 爆撃から守るため、解体していた部材を安堵村(現[[安堵町]])などに疎開させる&lt;ref&gt;[http://www.bunkaisan.or.jp/PDF/03.pdf 災害から文化財を守る会PDF]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[1947年]](昭和22年) 復元中に天井板部材に建築当時の落書きがあることを発見&lt;ref&gt;[http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001310073_00000 NHK『戦争証言アーカイブス』日本ニュース戦後編 第73号]1947年(昭和22年)6月3日&lt;/ref&gt;。<br /> * [[1949年]](昭和24年) 金堂壁画を火災で焼損。<br /> * [[1950年]](昭和25年) 法相宗を離脱し、[[聖徳宗]]を開く。<br /> * [[1985年]](昭和60年) 昭和の大修理完成。<br /> * [[1993年]](平成5年)12月9日 [[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録。<br /> *[[2013年]](平成25年)12月9日、大規模自然災害時には寺を緊急避難場所に開放する協定を斑鳩町と締結した&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/region/news/131210/nar13121002120000-n1.htm 斑鳩町が協定 法隆寺を災害時避難所に]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.nara-np.co.jp/20131211101148.html 斑鳩町と災害協定 - 寺内一部を避難所に提供/法隆寺]&lt;/ref&gt;。境内の南大門前広場や聖徳会館を避難場所として提供する。<br /> * [[2015年]](平成27年)11月11日、1949年の火災で焼失した金堂壁画について、[[文化庁]]などと共同で総合的な科学調査を実施すると発表&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/articles/DA3S12062676.html 法隆寺金堂壁画、初の科学調査 66年前に焼損 公開の可能性検討] 読売新聞 2015年11月12日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 伽藍 ==<br /> &#039;&#039;諸堂に安置される仏像についての詳細は「[[法隆寺の仏像]]」を参照。&#039;&#039;<br /> === 西院伽藍 ===<br /> [[ファイル:Horyu-ji03s3200.jpg|thumb|中門]]<br /> [[ファイル:Horyu-ji11s3200.jpg|thumb|金堂]]<br /> [[ファイル:Horyu-ji48n4350.jpg|thumb|160px|五重塔]]<br /> [[File:Horyuji-L0341.jpg|thumb|大講堂]]<br /> [[File:Horyuji Monastery Bishamonten and Kichijoten of Kondo (330).jpg|thumb|160px|木造毘沙門天(右)・吉祥天(左)像(金堂)]]<br /> [[File:Horyuji Monastery Clay Figures of the Pagoda I (223).jpg|thumb|塑造塔本四面具(五重塔安置)のうち東面侍者像(左)、北面菩薩像(右)]]<br /> [[File:Horyuji Monastery Shotoku Taishi of Shoryoin (331).jpg|thumb|160px|木造聖徳太子像(聖徳太子及び侍者像のうち、聖霊院)]]<br /> [[File:Kudara kannon 1.JPG|thumb|169px|木造観音菩薩像(百済観音)]]<br /> <br /> 西院[[伽藍]]は南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に&#039;&#039;&#039;[[法隆寺金堂|金堂]]&#039;&#039;&#039;、左に&#039;&#039;&#039;[[五重塔]]&#039;&#039;&#039;を配し、これらを平面「凸」字形の&#039;&#039;&#039;[[回廊]]&#039;&#039;&#039;が囲む。回廊の南正面に&#039;&#039;&#039;中門&#039;&#039;&#039;(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ&#039;&#039;&#039;大講堂&#039;&#039;&#039;の左右に接して終わっている。回廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に&#039;&#039;&#039;[[鐘楼]]&#039;&#039;&#039;、西に&#039;&#039;&#039;経蔵&#039;&#039;&#039;がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。金堂・五重塔・中門に見られる建築様式は、組物(軒の出を支える建築部材)に雲斗、雲肘木と呼ばれる曲線を多用した部材を用いること、建物四隅の組物が斜め(45度方向)にのみ出ること、卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「人」字形の束(つか)などが特色である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、[[法起寺]]三重塔、[[法輪寺 (斑鳩町)|法輪寺]]三重塔(焼失)のみに見られる様式で飛鳥様式とされる。<br /> ; 中門(国宝)<br /> : 入母屋造の二重門。正面は四間二戸、側面は三間。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。門内の左右に塑造[[金剛力士]]立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため、補修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は回廊の西南隅から入る。なお、門は2018年までの予定で修理中である&lt;ref&gt;[http://www.horyuji.or.jp/keijiban_menu.htm 法隆寺公式サイト]&lt;/ref&gt;。<br /> ; 金堂(国宝)<br /> : 入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。上層には部屋はなく、外観のみである。<br /> : 二重目の軒を支える四方の[[龍]]の彫刻&lt;!---彫刻は江戸時代?--&gt;を刻んだ柱は構造を補強するため修理の際に付加されたものであるが、その年代については諸説ある。&#039;&#039;&#039;[[法隆寺金堂壁画|金堂の壁画]]&#039;&#039;&#039;は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、[[1949年]]、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。黒こげになった旧壁画(重文)と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。なお、解体修理中の火災であったため、初層の裳階(もこし)部分と上層のすべて、それに堂内の諸仏は難をまぬがれた。この火災がきっかけで文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日が[[文化財防火デー]]になっている(金堂壁画については別項「[[法隆寺金堂壁画]]」を参照)。<br /> : 堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ(ただし、これらの間に壁等の仕切りがあるわけではない)、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。<br /> *[[法隆寺金堂釈迦三尊像|釈迦三尊]]像(国宝)<br /> :「歴史」の項で述べた、[[623年]]、止利仏師作の光背銘を有する像で、日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、アルカイックスマイル(古式の微笑)、太い耳朶(耳たぶ)、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。<br /> * 薬師如来坐像(国宝)<br /> : 「歴史」の項で述べた東の間本尊。本像の脇持とされる日光・月光菩薩像は別に保管されるが、作風が異なり、本来一具のものではない。<br /> * [[阿弥陀三尊]]像(重文)<br /> : 鎌倉時代の慶派の仏師・康勝の作。元来の西の間本尊が中世に盗難にあったため、新たに作られたもの。全体の構成、衣文などは鎌倉時代の仏像にしては古風で、東の間の薬師如来像を模したと思われるが、顔の表情などは全く鎌倉時代風になっている。両脇侍のうち勢至菩薩像は幕末から明治初期の時代に行方不明になり&lt;ref&gt;高田良信『法隆寺千四百年』(とんぼの本)、新潮社、1994&lt;/ref&gt;、現在は、フランス・[[ギメ東洋美術館|ギメ美術館]]蔵となっている。現在金堂にある勢至菩薩像はギメ美術館の像を模して1994年に新たに鋳造されたものである&lt;ref&gt;『国宝法隆寺金堂展図録』(2008年)、pp.179 - 180&lt;/ref&gt;。<br /> * [[四天王]]立像(国宝)<br /> : 飛鳥時代。広目天・多聞天像の光背裏刻銘に[[山口大口費]]らの作とある。同じ堂内の釈迦三尊像、薬師如来像が銅造であるのに対し、木造彩色である。後世の四天王像と違って、怒りの表情やポーズを表面にあらわさず、邪鬼の上に直立不動の姿勢で立つ。<br /> * [[毘沙門天]]・[[吉祥天]]立像(国宝)<br /> : 中の間本尊釈迦三尊像の左右に立つ、平安時代の木造彩色像。記録(『金堂日記』)から承暦2年(1078年)の作とされる。<br /> なお、中の間と西の間の本尊の頭上にある天蓋(重文)も飛鳥時代のものである(東の間の天蓋は鎌倉時代)。<br /> ; 五重塔(国宝)<br /> : 木造五重塔として現存世界最古のもの。初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目のみ二間とする。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。この塑像に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。東面は「維摩経」(ゆいまきょう)に登場する、[[文殊菩薩]]と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の[[涅槃]]、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表す。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。五重塔初層内部にも壁画(現在は別途保管、重文)があったが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で剥落してしまっている。心礎(心柱の礎石)は、地下3メートルにあり、心礎内からは1926年にガラス製の舎利壺とこれを納める金製、銀製、響銅製の容器からなる舎利容器が発見された。なお、舎利容器は、調査後、元の場所に納められている。<br /> ; 回廊(国宝)<br /> : 金堂などとほぼ同時期の建立。廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもある。ただし、大講堂寄りの折れ曲がり部分より北は平安時代の建立である。当初の回廊は大講堂前で閉じており、大講堂は回廊外にあった。<br /> ; 経蔵(国宝)<br /> : 奈良時代の楼造(二階建)建築。観勒僧正坐像(重文)を安置するが、内部は非公開。<br /> ; 鐘楼(国宝)<br /> : 経蔵と対称位置に建つが、建立時代は平安期。<br /> ; 大講堂(国宝)<br /> : 桁行九間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺き。平安時代の延長3年(925年)に焼失後の、正暦元年(990年)に再建。薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)を安置する。<br /> <br /> === 東院伽藍 ===<br /> 東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。『法隆寺東院縁起』によると、天平11年(739年)、斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた僧行信の創建である。回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、回廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。<br /> [[ファイル:Horyu-ji55n4500.jpg|thumb|伝法堂]]<br /> [[ファイル:Horyu-ji37s3200.jpg|thumb|東院鐘楼]]<br /> ; 夢殿(国宝)<br /> : 奈良時代の建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる[[救世観音]]像を安置する。夢殿は[[天平]]11年([[739年]])の法隆寺東院創立を記す『法隆寺東院縁起』の記述からその頃の建築と考えられているが、これを遡る天平9年の『東院資財帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性も考えられている。8世紀末頃には「夢殿」と呼称される。<br /> <br /> :奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に軒の出を深くし、屋根勾配を急にするなどの大修理を受けている。昭和の大修理の際にも屋根を奈良時代の形式に戻すことはしなかったため、現状の屋根形状は鎌倉時代のものである。基壇は二重で、最大径が11.3メートル。堂内は石敷。堂内の八角仏壇も二重で、その周囲に8本の入側柱が立ち、入側柱と側柱の間には繋虹梁を渡す。入側柱と側柱は堂の中心に向かってわずかに傾斜して立つが、これは「内転び」と呼ばれる中国渡来の手法である。&lt;ref&gt;『週刊朝日百科 日本の国宝』2号(朝日新聞社、1997); 町田甲一『大和古寺巡歴』(講談社学術文庫、1989)、p.299&lt;/ref&gt;<br /> * [[観音菩薩]]立像(救世観音)(国宝)<br /> : 飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。長年[[秘仏]]であり、白布に包まれていた像で、明治初期に[[岡倉天心|岡倉覚三]](天心)と[[アーネスト・フェノロサ|フェノロサ]]が初めて白布を取り、「発見」した像とされている(岡倉らによる「発見」については伝説化されている部分もあり、それ以前の数百年間、誰も拝んだ者がいなかったのかどうかは明らかでない)。現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。保存状態が良く当初のものと思われる金箔が多く残る。<br /> * [[行信]]僧都坐像(国宝)<br /> : 奈良時代の乾漆像。行信は東院の建立に尽力した人物である。吊り目の怪異な容貌が特色。<br /> * [[道詮]]律師坐像(国宝)<br /> : 平安時代初期の作。この時代の仏像はほとんどが木彫であるが、本像は珍しい塑造である。道詮は、荒廃していた東院の復興に尽力した人物である。<br /> * 聖観音立像(重文)<br /> : 救世観音の背後に立つ。<br /> ; 絵殿及び舎利殿(重文)<br /> : 鎌倉時代の建立。絵殿には、摂津国(現在の大阪府)の絵師である秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだ)が延久元年([[1069年]])に描いた「聖徳太子絵伝」の障子絵(国宝)が飾られていた。太子の生涯を描いた最古の作品であるが、明治11年([[1878年]])、当時の皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっている。絵殿には江戸時代に描かれた「聖徳太子絵伝」が代わりに飾られている。<br /> ; 伝法堂(国宝)<br /> : 切妻造、本瓦葺き、桁行七間、梁間四間。内部は床を張り、天井を張らない化粧屋根裏とする。橘夫人(伝承では[[県犬養三千代|県犬養橘三千代]]([[藤原不比等]]夫人、[[光明皇后]]母)とされるが、現在では[[聖武天皇]]夫人・橘古奈可智とする説が有力)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重である。昭和大修理時の調査の結果、この堂は他所から移築され改造された建物で、前身建築は住居であったとみられる。堂内には多数の仏像を安置するが、通常は公開していない。内陣は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像(奈良時代、重文)が安置される。他に[[梵天]]・[[帝釈天]]立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代、重文)を安置する。<br /> <br /> 東院には他に&#039;&#039;&#039;南門&#039;&#039;&#039;(室町時代の長禄3年(1459年)建立、重文、別名不明門)、&#039;&#039;&#039;四脚門&#039;&#039;&#039;(鎌倉時代、重文)、&#039;&#039;&#039;鐘楼&#039;&#039;&#039;(鎌倉時代、国宝)がある。<br /> <br /> === 大宝蔵院 ===<br /> [[百済観音|百済観音像]]をはじめとする寺宝を公開している。百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で[[1998年]]([[平成]]10年)完成した。<br /> [[ファイル:Yumetagae_Kannon.JPG|thumb|100px|銅造観音菩薩像(夢違観音)]]<br /> [[ファイル:Tamamushi Shrine.JPG|thumb|150px|玉虫厨子]]<br /> ; [[観音菩薩]]立像([[百済観音]])(国宝)<br /> : 飛鳥時代、木造。もとは金堂内陣の裏側に安置されていた。細身で九頭身の特異な像容を示す。[[和辻哲郎]]の『古寺巡礼』をはじめ、多くの文芸作品の中で絶賛されてきた著名な像であるが、その伝来や造像の経緯などはほとんど不明である。「百済観音」の通称は近代になってからのもので、明治初期まで寺内では「虚空蔵菩薩像」と呼ばれていた。詳しい解説は別項「[[百済観音]]」を参照。<br /> ; 観音菩薩立像(九面観音)(国宝)<br /> : 唐から将来の像。香木を用い、彩色を施さず白木で仕上げた、いわゆる檀像と呼ばれる像である。細かい装身具、体部から遊離している耳飾や天衣まで完全に一木で彫り上げた技巧的な像である。<br /> ; 観音菩薩立像(夢違観音)(国宝)<br /> : 飛鳥時代後期(白鳳期)、銅造。もと東院絵殿の本尊。悪夢を良夢に替えてくれるという伝説からこの名がある。<br /> ; [[地蔵菩薩]]立像(国宝)<br /> : 平安時代、木造。桜井市の[[大神神社]](おおみわじんじゃ)の神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)にあったが、明治の神仏分離で法隆寺へ移動した。大宝蔵院ができるまでは金堂内陣の裏側に安置されていた。<br /> ; 六観音像(重文)<br /> : 飛鳥時代後期(白鳳期)、木造。六観音像と通称され、重要文化財の指定名称は「観音・勢至菩薩」、「日光・月光菩薩」、「文殊・普賢菩薩」となっているが、本来の名称は明らかでない。少しずつ様式の異なる3対の像から成る。東京の[[根津美術館]]には、この六観音像と酷似した菩薩像があり、もとは8体あったものとも言われる。<br /> ; 梵天・帝釈天立像、四天王立像(重文)<br /> : いずれも奈良時代の塑像で、もとは食堂(じきどう)本尊の薬師如来像を囲んで安置されていたものである。<br /> ; [[玉虫厨子]](国宝)<br /> : 飛鳥時代。もとは金堂に安置されていた、仏堂形の厨子である。建築様式的には法隆寺の西院伽藍よりやや古い時代を示し、飛鳥時代の建築、工芸の遺品として重要である。透かし彫りの飾金具の下に本物の玉虫の羽を敷き詰めて装飾したことからこの名がある。現在、玉虫の羽は一部に残るのみで、当初の華麗さを想像するのはむずかしい。厨子の扉や壁面の装飾画も著名で、釈迦の前世物語である「捨身飼虎図」(しゃしんしこず)、また「施身聞偈図」(せしんもんげず)は特によく知られる。現在、5年の歳月と1億円以上費用をかけて作成された復刻版が本寺院に寄贈された。<br /> ; [[阿弥陀如来|阿弥陀]]三尊像及び厨子(橘夫人厨子)(国宝)<br /> : 飛鳥時代後期(白鳳期)。やはり金堂に安置されていたもの。厨子内の阿弥陀三尊像は飛鳥時代後期(白鳳期)の金銅仏の代表作で、蓮池から生じた3つの蓮華の上に三尊像が表されている。<br /> ; 金堂小壁画(重文)<br /> : [[1949年]]の金堂の火災の際、取り外されていたため難をまぬがれた、小壁の天人の壁画20面である。20面のうち一部が展示されている。<br /> <br /> また、仏画、仏具、舞楽面、経典なども随時展示替えをしつつ公開されている。保存上の理由から常時公開されていない寺宝として四騎獅子狩文錦(唐時代、国宝)、黒漆螺鈿卓(平安時代、国宝)などがある。<br /> <br /> === 大宝蔵殿 ===<br /> 大宝蔵院とは別個の建物。[[1939年]]の建設で、大宝蔵院が完成するまでは、この大宝蔵殿で多くの寺宝が公開されていた。現在は、春秋の観光シーズンのみ開館し、大宝蔵院に展示しきれないさまざまな寺宝を公開している。&lt;!--重文の仏像としては、もと金堂にあった聖観音立像(2体)、普賢延命菩薩坐像、もと食堂にあった千手観音立像、もと伝法堂にあった薬師如来坐像、釈迦如来、阿弥陀如来、阿?(あしゅく)如来坐像、弥勒菩薩坐像、弥勒菩薩半跏像(以上、平安~鎌倉時代)などがある。--&gt;<br /> <br /> === その他のおもな堂宇 ===<br /> [[ファイル:Horyu-ji02s3200.jpg|thumb|南大門]]<br /> [[ファイル:Horyu-ji52n4440.jpg|thumb|東大門]]<br /> [[ファイル:Horyu-ji22s3200.jpg|thumb|西円堂]]<br /> [[ファイル:Horyu-ji39s3200.jpg|thumb|綱封蔵]]<br /> [[File:Horyuji Temple 06.JPG|thumb|食堂(左)及び細殿(右)]]<br /> 法隆寺境内には、以上に述べた他に多くの堂宇や[[塔頭|子院]]と呼ばれる付属寺院がある。なお、以下の諸堂のうち、西円堂以外の堂内や仏像は原則として非公開である。<br /> ; 南大門(国宝)<br /> : 西院伽藍の南方、境内入口に建つ。入母屋造の一重門。室町時代([[1438年]])に、当時の西大門を移築し建立。建築当初は[[切妻屋根]]であった。<br /> ; 西園院客殿(重文)、西園院上土門(あげつちもん、重文)、西園院唐門(重文)<br /> : 西園院は法隆寺の本坊(住職の居所)であり、南大門を入って左側、築地塀の内側にある。なお、西院・東院の築地塀も重文に指定されている。<br /> ; 大湯屋(重文)、大湯屋表門(重文)<br /> : 西園院の西方、築地塀の内側にある。<br /> ; 新堂(重文)<br /> : 西園院に接して建つ持仏堂。薬師三尊像、四天王像(各重文)を安置。<br /> ; 護摩堂<br /> : 南大門を入って右側の子院・弥勒院に接して建つ。不動明王及び二童子像、弘法大師坐像(各重文)を安置。<br /> ; 聖霊院(しょうりょういん)(国宝)<br /> : 西院伽藍の東側に建つ、聖徳太子を祀る堂。鎌倉時代の建立。この建物は本来は東室の一部であったが、[[1121年]]にこれを再建するときに南半を改造して聖霊院とし、聖徳太子像を祀った。現在の聖霊院は[[1284年]]に改築されたものである。聖徳太子及び眷属像(平安時代、国宝)、如意輪観音半跏像(重文)、地蔵菩薩立像(重文)を安置。太子の命日の旧暦2月22日を中心に(現在は3月22日~24日)、法隆寺最大の行事であるお会式(おえしき)が行われる。<br /> ; 東室(ひがしむろ)(国宝)<br /> : 聖霊院の北に接続して建つ。後世の補修・改造が多いが、基本的には奈良時代の建築で、当時の僧坊建築の遺構として貴重である。<br /> ; 妻室(つまむろ)(平安時代、重文)<br /> : 東室の東に建つ細長い建物。<br /> ; 三経院及び西室(国宝)<br /> : 西院伽藍の西側、聖霊院と対称的な位置に建つ。鎌倉時代の建立。阿弥陀如来坐像持国天・多聞天立像(各重文)を安置。<br /> ; 西円堂(国宝)<br /> : 西院伽藍の西北の丘の上に建つ八角円堂。鎌倉時代の建立。堂内の空間いっぱいに坐す本尊薬師如来坐像(国宝)は、奈良時代の乾漆像。本尊台座周囲には小ぶりな十二神将立像(重文)、千手観音立像(重文)を安置する。&lt;!--が、堂外からの拝観のため、本尊像以外の鑑賞は困難である。--&gt;<br /> ; 薬師坊庫裏(重文)<br /> : 西円堂の背後に建つ。<br /> ; 上御堂(重文)<br /> : 西院伽藍の大講堂の真裏(北)に建つ。鎌倉時代の建立。釈迦三尊像(国宝)、四天王立像(重文)を安置。通常非公開だが、毎年[[11月1日]]~[[11月3日|3日]]に限り堂内を公開。<br /> ; 地蔵堂(重文)<br /> : 西円堂の東側石段下に建つ。地蔵菩薩半跏像(重文)を安置。<br /> ; 食堂(じきどう)(奈良時代、国宝)および細殿(ほそどの)(鎌倉時代、重文)<br /> : 西院伽藍の東方北寄りに建つ。食堂本尊の薬師如来坐像(重文)は奈良時代の塑像だが、補修が多い。本尊以外の仏像は大宝蔵院に移されている。<br /> ; 綱封蔵(こうふうぞう)(国宝)<br /> : 聖霊院の東に建つ、奈良時代~平安初期の倉庫である。<br /> ; 東大門(国宝)<br /> : 西院から東院へ向かう道筋に建つ、奈良時代の八脚門。<br /> ; 旧富貴寺羅漢堂(重文)<br /> : 西院から東院へ向かう道筋の南側、築地塀の内側にひっそりと建つ。もとは奈良県川西町の[[富貴寺 (磯城郡川西町)|富貴寺]]にあり、荒れ果てていたのを、[[細川護立]](侯爵、美術史家)が引き取り保存していたが、後、法隆寺へ寄進。[[平安時代]]の[[三重塔]]の初層のみが残ったものと思われる。<br /> <br /> === 子院 ===<br /> 各子院はいずれも非公開。<br /> ; 中院本堂(重文)<br /> : 境内西端にある。<br /> ; 宝珠院本堂(重文)<br /> : 境内西端にある。堂内に文殊菩薩騎獅像(重文)を安置。<br /> ; 律学院本堂(重文)<br /> : 西院から東院へ向かう道筋の北側にある。<br /> ; 宗源寺四脚門(重文)<br /> : 西院から東院へ向かう道筋の北側にある。<br /> ; 福園院本堂(重文)<br /> : 西院から東院へ向かう道筋の南側にある。<br /> ; 北室院本堂、同・太子殿、同・表門(各重文)<br /> : 東院伽藍の北方にある。本堂には阿弥陀三尊像(重文)を安置する。<br /> <br /> 現存する子院としては他に地蔵院、宝光院、弥勒院、実相院、普門院、観音院(以上、西院伽藍の南側)、福生院(東院伽藍の西側)、円成院(大宝蔵院裏手)がある。<br /> <br /> ==文化財==<br /> === 法隆寺献納宝物 ===<br /> &#039;&#039;詳細は「[[法隆寺献納宝物]]」を参照。&#039;&#039;<br /> <br /> [[明治維新]]以後の[[廃仏毀釈]]により民衆による破壊にさらされ、さらに幕政時代のような政府による庇護がなくなった全国の仏教寺院は、財政面で困窮の淵にあった。また多くの寺院は堂塔が老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。文明開化の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇を棄却するか売却するかの選択を迫られた。<br /> <br /> 法隆寺は、[[1878年]](明治11年)貴重な寺宝300件余を[[皇室]]に献納し、一万円を下賜された。この皇室の援助で[[7世紀]]以来の伽藍や堂宇が維持されることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に[[正倉院]]に移されたのち、[[1882年]](明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納[[御物]]」(皇室所蔵品)として収蔵された。戦後、[[宮内省]]所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は、現在[[東京国立博物館]]法隆寺宝物館に保存されている。(有名な『[[唐本御影|聖徳太子及び二王子像]]』や『[[法華義疏]]』などは現在も皇室が所有する[[御物]]である)<br /> <br /> === 指定文化財 ===<br /> 境内が国の[[史跡]]に指定されている。<br /> <br /> ==== 国宝 ====<br /> &#039;&#039;&#039;建造物&#039;&#039;&#039;<br /> &lt;table width=&quot;90%&quot;&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign=top width=&quot;50%&quot;&gt;<br /> * 南大門<br /> * 金堂<br /> * 五重塔<br /> * 中門<br /> * 回廊 2棟<br /> * 経蔵<br /> * 鐘楼<br /> * 大講堂<br /> * 聖霊院(しょうりょういん)<br /> &lt;/td&gt;&lt;td valign=top&gt;<br /> * 東室(ひがしむろ)<br /> * 三経院及西室<br /> * 西円堂<br /> * 綱封蔵<br /> * 食堂(じきどう)<br /> * 東大門<br /> * 夢殿<br /> * 伝法堂<br /> * 東院鐘楼<br /> &lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;美術工芸品&#039;&#039;&#039;<br /> [[ファイル:HoryujiKakikueba0354.jpg|thumb|&#039;&#039;[[柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺]]&#039;&#039; [[正岡子規]]]]<br /> [[ファイル:Amida Triad LadyTatibana Horyuji.JPG|thumb|銅造阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)]]<br /> * 銅造釈迦如来及両脇侍像 止利作(金堂安置)<br /> * 銅造薬師如来坐像(金堂安置)<br /> * 木造四天王立像(金堂安置)<br /> * 木造毘沙門天・吉祥天立像(金堂安置)<br /> * 塑造塔本四面具 78躯・2基(五重塔安置)<br /> * 木造薬師如来及両脇侍坐像(大講堂安置)<br /> * 乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)<br /> * 木造釈迦如来及両脇侍坐像(上御堂安置)<br /> * 銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)・木造厨子(所在大宝蔵院)<br /> * 銅造観音菩薩立像(夢違観音)(所在大宝蔵院)<br /> * 木造観音菩薩立像(九面観音)(所在大宝蔵院)<br /> * 木造観音菩薩立像(百済観音)(所在大宝蔵院)<br /> * 木造地蔵菩薩立像(所在大宝蔵院)。明治初期まで[[大神神社]]の神宮寺である[[大御輪寺]]に伝来。<br /> * 木造聖徳太子・山背王・殖栗王・卒末呂王・恵慈法師坐像(聖霊院安置)<br /> * 木造観音菩薩立像(救世観音)(夢殿安置)<br /> * 乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)<br /> * 塑造道詮律師坐像(所在夢殿)<br /> * 玉虫厨子<br /> * 黒漆螺鈿卓<br /> * 四騎獅子狩文錦<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Jizo Bosatsu Horyuji.JPG|木造地蔵菩薩像<br /> File:Horyuji Monastery Nine-Headed Kwannon (255).jpg|木造観音菩薩像(九面観音)<br /> File:Shaka Kami no Mido Horyuji.jpg|木造釈迦如来像(釈迦三尊像のうち、上御堂)<br /> File:Yakushi Nyorai Saiendo Horyuji.jpg|乾漆薬師如来坐像(西円堂)<br /> File:Priest Gyoshin Statue.JPG|乾漆行信僧都像(夢殿)<br /> File:Dosen Yumedono Horyuji.jpg|塑造道詮律師像(夢殿)<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> ==== 重要文化財 ====<br /> &#039;&#039;&#039;建造物&#039;&#039;&#039;<br /> &lt;table width=&quot;90%&quot;&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign=top width=&quot;50%&quot;&gt;<br /> * 西院大垣 3棟<br /> * 西院西南隅子院築地 2棟<br /> * 西院東南隅子院築地 2棟<br /> * 西園院唐門<br /> * 西園院上土門(あげつちもん)<br /> * 西園院客殿<br /> * 新堂<br /> * 大湯屋<br /> * 大湯屋表門<br /> * 中院本堂<br /> * 宝珠院本堂<br /> * 薬師坊庫裏<br /> * 地蔵堂<br /> * 上御堂(かみのみどう)<br /> * 細殿<br /> &lt;/td&gt;&lt;td valign=top&gt;<br /> * 妻室(つまむろ)<br /> * 律学院本堂<br /> * 福園院本堂<br /> * 旧富貴寺羅漢堂<br /> * 宗源寺四脚門<br /> * 東院四脚門<br /> * 東院南門<br /> * 東院回廊 2棟<br /> * 東院礼堂(らいどう)<br /> * 東院絵殿及舎利殿<br /> * 東院大垣 3棟<br /> * 北室院本堂<br /> * 北室院太子殿<br /> * 北室院表門<br /> &lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;絵画&#039;&#039;&#039;<br /> * 金堂外陣旧壁画 20面(飛天図)<br /> * 金堂内陣旧壁画 12面<br /> :釈迦浄土図(第1号大壁)、菩薩像(第2号小壁)、観音菩薩像(第3号小壁)、勢至菩薩像(第4号小壁)、菩薩像(第5号小壁)、阿弥陀浄土図(第6号大壁)、観音菩薩像(第7号小壁)、文殊菩薩像(第8号小壁)、弥勒浄土図(第9号大壁)、薬師浄土図(第10号大壁)、普賢菩薩像(第11号小壁)、十一面観音像(第12号小壁)<br /> * 五重塔初層旧壁画 18面(菩薩像6、山水図12)<br /> * 絹本著色五尊像<br /> * 絹本著色孔雀明王像<br /> * 絹本著色十六羅漢像 八曲屏<br /> * 絹本著色星曼荼羅図(1902年重文指定)<br /> * 絹本著色星曼荼羅図(2004年重文指定)<br /> * 絹本著色法華曼荼羅図<br /> * 絹本著色聖皇曼荼羅図 尭尊筆<br /> * 絹本著色聖徳太子像<br /> * 絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図<br /> * 絹本著色毘沙門天像<br /> * 絹本著色蓮池図(旧舎利殿須弥壇後壁貼付) 二曲屏風<br /> * 紙本著色扇面古写経<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;彫刻&#039;&#039;&#039;<br /> :安置場所ごとに区分して示した。同一名称でまぎらわしいものに限り、像高、重文指定年度などを注記した。<br /> &lt;table width=&quot;100%&quot;&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign=top width=&quot;50%&quot;&gt;<br /> * 塑造金剛力士立像 2躯(吽形躰部木造)(中門安置)<br /> * 銅造阿弥陀如来及び脇侍像 2躯([[康勝]]作)(金堂安置)&lt;ref&gt;[[1899年]]に「金銅弥陀三尊像 康勝作 3躯」として旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定された。ただし、これら3躯のうち中尊像と左脇侍像(観音菩薩)のみが鎌倉時代の仏師康勝の作で、右脇侍像は時代も作風も異なる奈良時代作の観音菩薩像であった。[[2009年]]に前述の「金銅弥陀三尊像」は2件の重要文化財に分割され、旧・右脇侍像は「銅造観音菩薩立像」として別個に重要文化財に指定された。本来の右脇侍像(勢至菩薩)は明治時代初期に盗難に遭って日本国外に流出し、パリのギメ美術館の所蔵となっている。なお、現在、金堂にある右脇侍像はギメ美術館像の模造である。&lt;/ref&gt;<br /> **附:像内納入品(万坏供養摺札225枚、阿弥陀如来及両脇侍摺仏101枚)<br /> * 木造伝観勒僧正坐像(経蔵安置)<br /> * 木造四天王立像(大講堂安置)<br /> * 木造地蔵菩薩立像(聖霊院安置)<br /> * 木造如意輪観音坐像(聖霊院安置)<br /> * 木造阿弥陀如来坐像(三経院安置)<br /> * 木造持国天・増長天立像(三経院安置)<br /> * 木造十二神将立像(西円堂安置)&lt;ref&gt;12躯のうち、戌神像、亥神像の2躯は他の10躯とは別個に重要文化財に指定されている。正式の指定名称は次の通り。「木造十二神将立像 十二躯の内亥神戌神ヲ除ク(西円堂安置)十躯」([[1906年]]指定)、「木造十二神将立像 戌神、亥神(西円堂安置)二躯」([[1929年]]指定)。&lt;/ref&gt; 、<br /> * 木造千手観音立像(西円堂安置)<br /> * 木造地蔵菩薩半跏像(地蔵堂安置)<br /> * 木造四天王立像(上御堂安置)<br /> * 塑造薬師如来坐像(食堂安置)<br /> * 木造薬師如来両脇士像(新堂安置)<br /> * 木造四天王立像(新堂安置)<br /> * 木造不動明王及二童子立像(護摩堂安置)<br /> * 木造弘法大師坐像(護摩堂安置)<br /> * 木造文殊菩薩騎獅像(宝珠院本堂安置)(宝珠院所有)<br /> * 木造聖観音立像(夢殿安置)<br /> * 木造聖徳太子立像(夢殿安置)<br /> * 乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1909年重文指定、中の間本尊)<br /> * 乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1902年重文指定、西の間本尊)、<br /> * 乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1902・1909年重文指定、東の間本尊)&lt;ref&gt;中尊像と両脇侍像は別個に重要文化財に指定されている。正式の指定名称は次の通り。「乾漆観音勢至菩薩立像」(1902年指定)、「乾漆阿弥陀如来坐像」(1909年指定)。&lt;/ref&gt; <br /> * 木造梵天・帝釈天立像(伝法堂安置)<br /> * 木造四天王立像(伝法堂安置)<br /> * 木造薬師如来坐像(伝法堂安置)<br /> * 木造釈迦如来坐像(伝法堂安置)<br /> * 木造弥勒仏坐像(伝法堂安置)<br /> * 木造阿弥陀如来坐像(伝法堂安置)<br /> * 木造阿弥陀如来及両脇侍像(北室院本堂安置)(北室院所有)<br /> * 金銅釈迦如来文殊菩薩像一座(戊子年銘)(大宝蔵院所在)<br /> * 塑造吉祥天立像(大宝蔵院所在、旧金堂)<br /> * 金銅薬師如来坐像(伝西円堂薬師如来胎内仏)(大宝蔵院所在)<br /> * 木心乾漆弥勒菩薩坐像(大宝蔵院所在)<br /> * 木造文殊・普賢菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)<br /> * 木造日光・月光菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)<br /> * 木造観音・勢至菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)<br /> &lt;/td&gt;&lt;td valign=top&gt;<br /> * 金銅誕生釈迦仏立像1躯・金銅観音菩薩立像5躯(大宝蔵院所在、他)&lt;ref&gt;1902年に6躯一括で重文(旧国宝)に指定されたものだが、誕生釈迦仏と観音像2躯は1903年盗難に遭い、寺に残るのは観音像3躯のみである。&lt;/ref&gt; <br /> * 塑造梵天・帝釈天立像(大宝蔵院所在、旧食堂)<br /> * 塑造四天王立像(大宝蔵院所在、旧食堂)<br /> * 厨子入木造聖徳太子坐像 円快作(大宝蔵院所在)<br /> * 木造如意輪観音坐像(大宝蔵院所在)<br /> * 厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像・銅板押出如来及両脇侍立像(板扉貼付)・銅板舟形後屏(銅板押出天蓋付)(大宝蔵院・大宝蔵殿所在)<br /> * 銅造観音菩薩立像(伝・金堂薬師如来脇侍)2躯(大宝蔵殿所在)<br /> * 銅造観音菩薩立像(大宝蔵院所在、旧金堂)&lt;ref&gt;旧金堂所在、奈良時代作。1899年に「金銅弥陀三尊像 康勝作 3躯」として重要文化財(旧国宝)に指定されたうちの1躯。この「金銅弥陀三尊像」は[[2009年]]に2件の重要文化財に分割され、旧・右脇侍像は「銅造観音菩薩立像」として別個に重要文化財に指定された(平成21年7月10日文部科学省告示第102号)。&lt;/ref&gt; <br /> * 木造薬師如来坐像(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造釈迦如来坐像(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造阿閦如来坐像(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造阿弥陀如来坐像(大宝蔵殿所在)(像高92cm、1906年重文指定)<br /> * 木造阿弥陀如来坐像(大宝蔵殿所在)(像高34cm、1906年重文指定)<br /> * 木造聖観音立像(大宝蔵殿所在)(像高165cm、1897年重文指定) <br /> * 木造聖観音立像(大宝蔵殿所在)(像高182cm、1909年重文指定) <br /> * 木造普賢延命坐像(大宝蔵殿所在) <br /> * 木造天鼓音如来坐像(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造千手観音立像(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造弥勒菩薩半跏像(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造弥勒菩薩坐像(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造善女竜王立像(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造光背(大宝蔵殿所在)<br /> * 磚製阿弥陀如来及脇侍像(大宝蔵殿所在)<br /> * 金銅僧徳聡等造像記(甲午年銘)(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造伎楽面 1面(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造舞楽面 35面(胡徳楽7、地久7、退宿徳2、石川、抜頭、還城楽、二ノ舞2、新鳥蘇5、皇仁庭2、崑崙八仙4、陵王、納曽利2、附:散手、崑崙八仙)(大宝蔵院・大宝蔵殿所在)<br /> * 木造行道面([[聖霊会]]所用)10面(獅子頭2、綱引、蝿払、八部衆6、附:八部衆残欠1片)(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造菩薩面3面(附:菩薩面5面)(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造追儺面 3面(大宝蔵殿所在)<br /> * 木造阿弥陀如来坐像(東京国立博物館寄託、1909年重文指定)<br /> * 金銅釈迦如来立像(1910年盗難)<br /> &lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;<br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Horyu-ji15s3200.jpg|金剛力士立像・吽形&lt;br /&gt;中門安置<br /> ファイル:Horyu-ji14s3200.jpg|金剛力士立像・阿形&lt;br /&gt;中門安置<br /> File:Lotus Pond Byobu (Horyuji).jpg|蓮池図(旧東院舎利殿仏壇後壁)<br /> File:Lotus pond (Horyuji)2.jpg|(同左)<br /> File:Gosonzo (Horyuji).jpg|五尊像(大日如来、虚空蔵菩薩、如意輪観音、弘法大師、聖徳太子)<br /> File:Kujaku Myoo (Horyuji).jpg|孔雀明王像<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;工芸品&#039;&#039;&#039;<br /> &lt;table width=&quot;100%&quot;&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign=top width=&quot;50%&quot;&gt;<br /> * 銅水瓶<br /> * 銅壺(香水壺)<br /> * 金銅鉢 3口<br /> * 金銅装唐組垂飾残闕<br /> * 無文磬 銘東院<br /> * 金銅雲形磬<br /> * 金銅火舎 貞治五年銘<br /> * 金銅花瓶 乾元元年銘<br /> * 金銅法具類 一具<br /> :火舎(かしゃ)4口、花瓶(けびょう)4口、六器 台皿付24口、飲食器(おんじきき)2口、金剛盤 1面(正安二年銘)、四橛(しけつ) 4本、灑水器(しゃすいき) 1口、塗香器(ずこうき) 1口<br /> * 鋳銅六器 盞一口欠 12口<br /> &lt;/td&gt;&lt;td valign=top&gt;<br /> * 銅錫杖<br /> * 銅錫杖(輪頂五輪塔)<br /> * 銅錫杖(輪頂宝瓶)<br /> * 銅鐘(西院鐘楼)<br /> * 銅鐘(東院鐘楼)<br /> * 木造天蓋(金堂)3箇<br /> * 鼉太鼓(だだいこ)一対&lt;ref&gt;「だ」は「口」を横に2つ並べた下に「田」、その下に「一」、その下に「黽」。&lt;/ref&gt;<br /> * 木造鉦鼓台 3基 附:舞台<br /> * 黒漆華形大壇 正応二年銘(1289年)<br /> * 黒漆布薩手洗2口・黒漆布薩花器1口・銅水瓶3口<br /> * 黒漆六角厨子<br /> * 石燈籠(西院伽藍内所在)<br /> * 蜀江錦 3面<br /> &lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;書跡典籍、古文書、歴史資料&#039;&#039;&#039;<br /> &lt;table width=&quot;90%&quot;&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign=top width=&quot;50%&quot;&gt;<br /> * 大慈恩寺三蔵法師伝 巻第一、第七、第九 3巻&lt;ref&gt;1935年に巻七と巻九が重要文化財(旧国宝)に指定。当時の所有者は内藤湖南(参照:『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、p.212)。巻一は1986年に追加指定(昭和61年6月6日文部省告示第89号)&lt;/ref&gt;。<br /> * 大方広仏華厳経 巻第四十二<br /> * 附法伝 残巻(敦煌出土)<br /> * 弥勒上生経疏 上巻<br /> * 大唐西域記(巻第二、十二欠)10巻<br /> * 大般若経(写経470巻 版経130巻)600巻<br /> * 版本成唯識論述記(巻第十末写本)20冊<br /> * 崇俊塔銘<br /> * 恵沼神塔碑 李邕(りよう)撰(「よう」は「巛」の下に「邑」)<br /> &lt;/td&gt;&lt;td valign=top&gt;<br /> * 七大寺巡礼私記 残巻<br /> * 法隆寺一切経 890巻(附:補写経36巻、保安三年三月廿三日僧林幸勧進状1巻)&lt;ref&gt;1958年に661巻が重要文化財に指定。1986年に昭和資財帳調査で確認された265巻を追加指定(うち36巻は附指定)。附の勧進状は1970年追加指定。(昭和61年6月6日文部省告示第89号、昭和45年5月25日文部省告示第218号)&lt;/ref&gt;<br /> * 法隆寺縁起白拍子 貞治三年重懐書写奥書<br /> * 文書(天平勝宝三年五月廿一日下総国司解以下11通) 1巻<br /> * 法隆寺領播磨国鵤庄絵図 嘉暦四年卯月日(附:同庄絵図案(至徳三年書写裏書))<br /> &lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;考古資料、歴史資料&#039;&#039;&#039;<br /> * [[百万塔]]<br /> ** 木造百万小塔100基、木造十万節塔(残欠蓮座付)1基、木造一万節塔(蓮座付)1基&lt;ref&gt;称徳天皇の発願によって制作された「百万塔」は、昭和資財帳調査の結果、法隆寺内に塔身部4万5千余基、相輪部2万6千余基が存在することが判明した。このうち重文指定を受けているのは[[1908年]]に指定された102基のみである(参照:『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、pp.224, 270)。&lt;/ref&gt;<br /> ** 附:木造組立小塔6基、他に残欠屋蓋3箇、台2箇<br /> ** 附:陀羅尼100巻(自心印陀羅尼39巻、相輪陀羅尼27巻、根本陀羅尼27巻、六度陀羅尼7巻)<br /> * 十七条憲法板木 弘安八年施入<br /> * 調布 2枚 内一枚、天平勝宝四年十月常陸国信太郡貢進墨書<br /> * 法隆寺枡 2口<br /> **一升枡 康正二年銘(1456年)(観音講枡)<br /> **一升枡 天正二年銘(1574年)<br /> * 法隆寺金堂壁画写真ガラス原板 363枚&lt;ref&gt;平成27年9月4日文部科学省告示第142号&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。<br /> <br /> === その他の文化財 ===<br /> * 五重塔舎利容器<br /> :1926年の調査時に心柱下の地中の心礎から発見されたもので、響銅大鋺、響銅宝珠紐合子(銀鎖付)、卵形透彫銀製容器、卵形透彫金製容器、瑠璃製舎利瓶(銀栓付)が順に入れ子になり、大鋺中には海獣葡萄鏡があった。これら遺物は調査後、元のとおりに埋納された&lt;ref&gt;『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、pp.266 - 267)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> * 善光寺如来御書箱<br /> :善光寺如来(長野県・[[善光寺]]の阿弥陀如来)から聖徳太子あての御書(おんしょ、手紙)と称する文書を納めた箱で、古来、開封を禁じているが、明治初期の文化財調査である壬申検査(1872年)の際に開封されたことがあり、その際に取られた文書の写しが東京国立博物館に保管されている。箱の表面には飛鳥時代の蜀江錦が張られ、これを錦袋や綾袋で幾重にも覆っている。蜀江錦張りの箱は1994年に開催(東京国立博物館など5館を巡回)された「国宝法隆寺展」で公開されたことがある&lt;ref&gt;『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、p.160)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==主な行事==<br /> * [[1月1日]] - [[1月3日|3日]] &#039;&#039;&#039;舎利講&#039;&#039;&#039; 聖徳太子二歳のとき、「南無仏」と唱えたところ出現した[[仏舎利]]を本尊として行なわれる法要。<br /> * [[1月5日]] &#039;&#039;&#039;初護摩祈願法要&#039;&#039;&#039;<br /> * [[1月8日]] - [[1月14日|14日]] &#039;&#039;&#039;金堂修正会&#039;&#039;&#039; [[768年]]([[神護景雲]]2年)以来続く伝統行事。国家安隠、万民豊楽等を祈る。<br /> * [[1月16日]] - [[1月18日|18日]] &#039;&#039;&#039;上宮王院修正会&#039;&#039;&#039; 夢殿の十一面観音への悔過法要。国家安泰を祈る。<br /> * [[1月26日]] &#039;&#039;&#039;金堂壁画焼損自粛法要&#039;&#039;&#039;<br /> * [[2月1日]] - [[2月3日|3日]] &#039;&#039;&#039;西円堂修二会&#039;&#039;&#039; [[1261年]]([[弘長]]元年)以来続く伝統行事。薬師如来座像に対し「薬師悔過」を行なう。<br /> * 2月3日 &#039;&#039;&#039;追儺式(鬼追い式)&#039;&#039;&#039; [[節分]]の行事。西円堂に黒鬼、青鬼、赤鬼が現れ、松明を投げ、[[毘沙門天]]が現れて鬼を追う。<br /> * [[2月5日]] &#039;&#039;&#039;三蔵会&#039;&#039;&#039; [[玄奘三蔵]]を讃える法要。古くからあったが明治に中断し、[[1983年]](昭和58年)に復活した。<br /> * [[2月15日]] &#039;&#039;&#039;涅槃会&#039;&#039;&#039; 大[[涅槃]]図を懸け、[[釈迦|釈尊]]の遺徳を讃える。<br /> * [[2月21日]] &#039;&#039;&#039;聖徳太子御忌・慧慈忌&#039;&#039;&#039;<br /> * [[2月22日]] &#039;&#039;&#039;太子道をたずねる集い(磯長ルート)&#039;&#039;&#039;<br /> * [[3月2日]] &#039;&#039;&#039;道詮忌&#039;&#039;&#039;<br /> * [[3月7日]] &#039;&#039;&#039;推古天皇御忌&#039;&#039;&#039;<br /> * [[3月8日]] &#039;&#039;&#039;良謙忌&#039;&#039;&#039;<br /> * [[3月17日]] &#039;&#039;&#039;定朝忌&#039;&#039;&#039;<br /> * [[3月22日]] - [[3月24日|24日]] &#039;&#039;&#039;[[聖徳太子のお会式|お会式]]&#039;&#039;&#039; 聖徳太子の命日にその遺徳をたたえる法要。[[秘仏]]に近い扱いの聖徳太子坐像が[[開帳]]される&lt;ref&gt;『[[日本経済新聞]]』朝刊2016年10月30日【美の美】聖徳太子のまなざし(中)&lt;/ref&gt;。例年は聖霊院で行なわれるが、10年に一度、大講堂で「大会式」が行なわれる。独特の供物が捧げられる。雅楽の流れる中、寺僧たちが訓迦陀(くんかだ)と呼ばれる仏の徳を讃える[[声明]](しょうみょう)を唱え、太子の徳を讃嘆する。<br /> * [[4月4日]] &#039;&#039;&#039;仏生会&#039;&#039;&#039; 釈尊の誕生を祝う。食堂に釈迦誕生仏を安置し、[[甘茶]]をそそぐ。いわゆる「花祭り」([[灌仏会]])。<br /> * [[4月9日]] &#039;&#039;&#039;用明天皇御忌&#039;&#039;&#039;<br /> * [[4月11日]] &#039;&#039;&#039;夢殿本尊開扉法要&#039;&#039;&#039;<br /> * 4月中旬 &#039;&#039;&#039;法隆寺文化講演会&#039;&#039;&#039;<br /> * [[5月16日]] &#039;&#039;&#039;夏安居開白法要&#039;&#039;&#039;<br /> * 5月16日~[[8月15日]] &#039;&#039;&#039;夏安居&#039;&#039;&#039; 西室で90日間、聖徳太子の『[[三経義疏]]』の講義を行う。<br /> * [[7月7日]] &#039;&#039;&#039;弁天会&#039;&#039;&#039;<br /> * [[7月24日]] &#039;&#039;&#039;東院地蔵会&#039;&#039;&#039;<br /> * [[7月26日]] - [[7月29日|29日]] &#039;&#039;&#039;法隆寺夏季大学&#039;&#039;&#039;<br /> * [[8月14日]] - [[8月15日|15日]] &#039;&#039;&#039;孟蘭盆会&#039;&#039;&#039;<br /> * 8月15日 &#039;&#039;&#039;夏安居結願法要&#039;&#039;&#039;<br /> * [[8月24日]] &#039;&#039;&#039;閼伽井坊地蔵会&#039;&#039;&#039;<br /> * [[9月2日]] &#039;&#039;&#039;覚勝忌&#039;&#039;&#039;<br /> * [[9月23日]] &#039;&#039;&#039;彼岸会&#039;&#039;&#039;<br /> * [[10月2日]] &#039;&#039;&#039;行信忌&#039;&#039;&#039;<br /> * [[10月8日]] &#039;&#039;&#039;西円堂奉納鏡奉納大般若経転読法要&#039;&#039;&#039;<br /> * [[10月22日]] - [[11月23日]] &#039;&#039;&#039;夢殿本尊秋季特別開扉&#039;&#039;&#039;<br /> * [[11月3日]] &#039;&#039;&#039;崇峻天皇御忌・山背大兄王御忌、藤ノ木古墳参拝&#039;&#039;&#039;<br /> * 11月3日 &#039;&#039;&#039;秋季 法隆寺文化講演会&#039;&#039;&#039;<br /> * [[11月13日]] &#039;&#039;&#039;慈恩会&#039;&#039;&#039; 法相宗の高祖・[[慈恩大師]]基(窺基)のための法会。一時途絶えていたが、[[1978年]](昭和53年)復興。<br /> * [[11月15日]] &#039;&#039;&#039;勝鬘会&#039;&#039;&#039;<br /> * [[11月22日]] &#039;&#039;&#039;太子道をたずねる集い(小墾田ルート)&#039;&#039;&#039;<br /> * [[12月8日]] &#039;&#039;&#039;お身拭い&#039;&#039;&#039;<br /> * [[12月21日]] &#039;&#039;&#039;間人皇后御忌&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> == ギャラリー ==<br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Horyu-ji04s3200.jpg|西院伽藍廻廊<br /> ファイル:Horyu-ji34s3200.jpg|東院回廊と礼堂<br /> ファイル:Horyu-ji61n4592.jpg|経蔵<br /> ファイル:Horyu-ji44s3200.jpg|西院鐘楼<br /> File:Southern Way of Horyuji Temple.JPG|南大門から西院伽藍を望む(左右の築地塀は重要文化財)<br /> File:Horyu-ji sangyoin01 2000.jpg|三経院及び西室<br /> ファイル:Horyu-ji21s3200.jpg|三経院及び西室<br /> ファイル:Horyu-ji26s3200.jpg|妻室<br /> ファイル:Horyu-ji27s3200.jpg|聖霊院(左手前)、東室(左奥)、妻室(右)<br /> ファイル:Horyu-ji32s3200.jpg|絵殿、舎利殿<br /> File:Hombo of Horyuji Temple.JPG|西園院上土門<br /> File:Horyu-ji24s3200.jpg|大湯屋表門<br /> File:Horyuji-Yotsuashimon.jpg|宗源寺四脚門<br /> File:Horyu-ji30s3200.jpg|東院四脚門<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 交通アクセス ==<br /> * [[西日本旅客鉄道|JR]][[大和路線]][[法隆寺駅]]下車。徒歩で20分。または[[奈良交通]]バス(72系統)で、法隆寺駅バス停→法隆寺門前バス停→徒歩1分で法隆寺南大門<br /> * JR・[[近畿日本鉄道|近鉄]][[王寺駅]]下車。奈良交通バス(62・63・92系統)で王寺駅北口→法隆寺前バス停徒歩3分<br /> * [[近鉄橿原線]][[筒井駅 (奈良県)|筒井駅]]下車。奈良交通バス(63・92系統)で筒井駅バス停→法隆寺前バス停徒歩3分<br /> * 近鉄橿原線[[近鉄郡山駅]]下車。奈良交通バス(50・51・52・97・98系統)で近鉄郡山駅バス停→法隆寺前バス停徒歩3分<br /> * 奈良交通バス奈良・西の京・斑鳩回遊ライン(97系統)春日大社本殿 - 近鉄奈良駅 - JR奈良駅-薬師寺東口 - 近鉄郡山駅 - 法起寺前 → 法隆寺前バス停徒歩3分。春日大社や奈良駅等から(へ)乗り換えずに行くことができる。ただし、本数が少なく、最終バスの時間が早いので注意&lt;ref&gt;[http://www.narakotsu.co.jp/rosen/kaiyu/ 奈良交通サイト]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 拝観 ==<br /> 西院伽藍(金堂、五重塔、大講堂)、大宝蔵院、東院伽藍(夢殿)の3か所は有料で拝観可。<br /> *拝観料は、西院伽藍・大宝蔵院・東院伽藍の共通券が大人1500円。東院伽藍だけで300円。<br /> <br /> 西円堂は無料で拝観可。その他の諸堂および子院は原則として非公開。ただし、下記の諸堂は期日を限って公開。<br /> <br /> *上御堂 11月1 - 3日開扉&lt;ref name=&quot;omoshiro&quot;&gt;[http://www.d4.dion.ne.jp/~s.kage/n-317.html 斑鳩おもしろ帖]&lt;/ref&gt;<br /> *地蔵堂 8月24日昼の地蔵会で開扉&lt;ref name=&quot;omoshiro&quot; /&gt;<br /> *護摩堂 毎月28日の月例護摩で開扉&lt;ref&gt;[http://www.horyuji.or.jp/gomakigan.htm 護摩祈願厳修](法隆寺公式サイト)&lt;/ref&gt;<br /> *聖霊院 本尊聖徳太子像などの諸仏は秘仏で、開扉は3月22 - 24日のお会式と3月21日夕刻の逮夜法要のみ。ただし内陣で本尊を拝観できるのは逮夜法要時のみ。&lt;ref&gt;[http://guide.travel.co.jp/article/9039/ お逮夜秘仏と供物を堪能!聖徳太子のご命日にちなんだ法隆寺お会式](トラベルjp)&lt;/ref&gt;<br /> *舎利殿・絵殿 1月1 - 3日舎利講で開扉&lt;ref&gt;[http://www.horyuji.or.jp/shariko.htm 舎利講](法隆寺公式サイト)&lt;/ref&gt;<br /> *伝法堂 7月24日夕刻の東院地蔵会で開扉&lt;ref name=&quot;omoshiro&quot; /&gt;<br /> *律学院 3月22・23日のお会式と8月14・15日に開扉&lt;ref name=&quot;omoshiro&quot; /&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[井上靖]]、[[塚本善隆]]監修、伊藤桂一、間中定泉著『古寺巡礼奈良1 法隆寺』、淡交社、1979、のち新版<br /> * [[高田良信]]『法隆寺I(歴史と古文献)』(日本の古寺美術1)、保育社、1987<br /> * 藤井恵介『法隆寺II(建築)』(日本の古寺美術2)、保育社、1987<br /> * 大西修也『法隆寺III(美術)』(日本の古寺美術3)、保育社、1987<br /> * 高田良信『法隆寺の謎を解く』、小学館創造選書、1990<br /> * 高田良信ほか『法隆寺千四百年』新潮社(とんぼの本)、1994<br /> * 高田良信 『世界文化遺産法隆寺』歴史文化ライブラリー、吉川弘文館 1996<br /> * 高田良信 『法隆寺辞典 法隆寺年表』柳原出版、 2007<br /> * 曾根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』(歴史文化ライブラリー228)、吉川弘文館、2007<br /> * 東京国立博物館、奈良国立博物館、奈良国立文化財研究所ほか編『国宝法隆寺展』(特別展図録)NHK発行、1994<br /> ** 鈴木嘉吉「法隆寺の歴史」<br /> * 奈良国立博物館『国宝法隆寺金堂展』(展覧会図録)、2008<br /> ** 鈴木嘉吉「世界最古の木造建築 法隆寺金堂 - 最近の研究から - 」<br /> ** 梶谷亮治「法隆寺金堂壁画の時代」<br /> * 『週刊朝日百科 日本の国宝』1, 2, 3号「法隆寺」、朝日新聞社、1997<br /> * [[亀井勝一郎]] 『大和古寺風物誌』 新潮文庫<br /> * [[梅原猛]] 『隠された十字架―法隆寺論』 新潮文庫 <br /> * [[家永三郎]]、[[古田武彦]] 『法隆寺論争』 新泉社 <br /> * [[西岡常一]]・小原二郎 『法隆寺を支えた木』 NHKブックス・日本放送出版協会<br /> * 武沢秀一 『法隆寺の謎を解く』 ちくま新書、2006<br /> * 上原和 『法隆寺を歩く』 岩波新書、2009  <br /> * 倉西裕子『聖徳太子と法隆寺の謎 交差する飛鳥時代と奈良時代』、平凡社、2005<br /> * 倉西裕子『国宝・百済観音は誰なのか? 実在したモデルとその素顔』、小学館、2006<br /> * 倉西裕子『救世観音像 封印の謎』、白水社、2007<br /> * 大橋一章編著『法隆寺美術 論争の視点』、グラフ社、1998<br /> ** 大橋一章「法隆寺美術理解のために」<br /> * 石田茂作『法隆寺雑記帖』、学生社、1959<br /> * 町田甲一『大和古寺巡歴』(講談社学術文庫)、1989<br /> * 直木孝次郎『新編 わたしの法隆寺』、1994、塙書房<br /> * 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社<br /> * 『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店<br /> * 『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』、[[吉川弘文館]]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons&amp;cat|Horyuji|Hōryū-ji}}<br /> {{Osm box|w|43549741}}<br /> {{wikivoyage|Horyuji|法隆寺{{en icon}}}}<br /> *[[法隆寺の仏像]]<br /> * [[法隆寺地域の仏教建造物]]<br /> **[[法起寺]]<br /> * [[日本の世界遺産]]<br /> * [[世界遺産の一覧 (アジア)]]<br /> * [[お会式]]<br /> * [[中宮寺]]<br /> * [[法輪寺 (斑鳩町)]]<br /> * [[斑鳩寺 (兵庫県太子町)]]<br /> * [[佐伯定胤]](第103世住職)<br /> * [[高田良信]](第5代管長)<br /> * [[西岡常一]]([[宮大工]])<br /> * [[落書]](らくしょ)<br /> * [[エンタシス]]<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> * [http://www.horyuji.or.jp/ 法隆寺公式HP]<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{Buddhism2}}<br /> {{唯識}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ほうりゆうし}}<br /> [[Category:法隆寺|*]]<br /> [[Category:聖徳太子]]<br /> [[Category:唯識]]<br /> [[Category:奈良県の寺]]<br /> [[Category:斑鳩町の歴史]]<br /> [[Category:斑鳩町の建築物]]<br /> [[Category:日本の世界遺産]]<br /> [[Category:日本の国宝 (建造物)]]<br /> [[Category:日本の国宝 (彫刻)]]<br /> [[Category:日本の国宝 (工芸品)]]<br /> [[Category:奈良県の重要文化財]]<br /> [[Category:奈良県にある国指定の史跡]]<br /> [[Category:飛鳥時代の文化]]<br /> [[Category:飛鳥時代の仏教]]<br /> [[Category:飛鳥時代の建築]]<br /> [[Category:奈良時代の建築]]<br /> [[Category:平安時代の建築]]<br /> [[Category:日本の仏教遺跡]]<br /> [[Category:日本のギネス世界記録]]<br /> [[Category:平成百景]]<br /> [[Category:最古の木造建築]]</div> 60.237.39.32 阿修羅 2018-07-04T11:23:47Z <p>60.237.39.32: /* 日本 */</p> <hr /> <div>{{Otheruses|仏教の守護神|その他|アシュラ}}<br /> [[ファイル:ASURA_Kohfukuji.jpg|thumb|[[興福寺]]阿修羅像([[奈良時代]])。[[国宝]]]]<br /> &#039;&#039;&#039;阿修羅&#039;&#039;&#039;(あしゅら、あすら、{{翻字併記|sa|असुर|asura|N|区=、}})は、[[八部衆]]または[[二十八部衆]](中国では[[二十八天]])に属する、[[仏教]]の[[守護神]]&lt;ref name=&quot;仏尊の事典&quot;&gt;{{要追加記述範囲|関根俊一 『仏尊の事典』 [[学研ホールディングス|学研]]|date=2017-10-26|title=出版年とページ番号が示されていませんのでご記入ください。}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;総合仏教大辞典1988-13&quot; /&gt;。略して&#039;&#039;&#039;修羅&#039;&#039;&#039;(しゅら)ともいう&lt;ref name=&quot;天部の仏像事典&quot;&gt;{{要追加記述範囲|錦織亮介 『天部の仏像事典』 東京美術|date=2017-10-26|title=出版年とページ番号が示されていませんのでご記入ください。}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;総合仏教大辞典1988-13&quot; /&gt;。[[六道]]の一つであり、[[戦闘]]をこととする鬼類&lt;ref name=&quot;総合仏教大辞典1988-13&quot;&gt;{{Cite book |和書 |author=総合仏教大辞典編集委員会(編) |coauthors= |others= |date=1988-01 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=上巻 |page=13 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[File:Asura in 249th cave of Mogao Caves.jpg|thumb|敦煌莫高窟 第249窟の阿修羅。6世紀。右上に風神、左上に雷神。]]<br /> 「阿修羅」は{{lang-sa-short|asura}}(アスラ)の[[音写]]であり、阿須羅、阿素羅、阿素洛、阿須倫、阿須論&lt;ref name=&quot;総合仏教大辞典1988-13&quot; /&gt;、阿蘇羅&lt;ref name=&quot;天部の仏像事典&quot; /&gt;などとも書く。[[漢訳]]は非天、不端正&lt;ref name=&quot;総合仏教大辞典1988-13&quot; /&gt;。<br /> <br /> 阿修羅は、古代[[インド]]の[[アスラ]]が仏教に取り入れられたものである&lt;ref name=&quot;天部の仏像事典&quot; /&gt;。仏教以前においては位置付けに変遷があり([[#仏教以前の位置付け|後述]])、仏教内でも位置付けに諸説がある([[#仏教における位置付け|後述]])。阿修羅の住む世界を阿修羅道(&#039;&#039;&#039;修羅道&#039;&#039;&#039;)といい、[[衆生]]がその[[業]]の結果として[[輪廻]]転生する6種の世界である[[六道]]のうちの一つである&lt;ref name=&quot;コトバンク六道&quot;&gt;{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E9%81%93-152669|title=六道(ろくどう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-26}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;コトバンク阿修羅道&quot;&gt;{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85%E9%81%93-424714|title=阿修羅道(あしゅらどう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-26}}&lt;/ref&gt;([[#阿修羅道(修羅道)]]を参照)。<br /> <br /> 阿修羅に関する逸話は、仏教の諸[[経]]の中に多くあり、[[帝釈天]]と戦うことがよく記されている&lt;ref name=&quot;総合仏教大辞典1988-13&quot; /&gt;。そこから、修羅場、修羅の巷、修羅の戦などの熟語ができた&lt;ref name=&quot;総合仏教大辞典1988-13&quot; /&gt;。<br /> <br /> == 仏教以前の位置付け ==<br /> {{See also|アスラ}}<br /> 一般的には、[[サンスクリット]]のアスラ(asura)は[[歴史言語学]]的に正確に[[アヴェスター語]]のアフラ(ahura)に対応し、おそらくインド-イラン時代にまでさかのぼる古い[[神格]]であると考えられている&lt;ref name=&quot;世界の神々の事典&quot;&gt;{{要追加記述範囲|松村一男 『世界の神々の事典』学研|date=2017-10-26|title=出版年とページ番号が示されていませんのでご記入ください。}}&lt;/ref&gt;。{{要出典範囲|宗教学的にも、[[ヴェーダ]]文献においてアスラの長であるとされた[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]]と[[ミスラ|ミトラ]]は諸側面において[[ゾロアスター教]]のアフラ・マズダーとミスラに対応し、インド・ヨーロッパ比較神話学的な観点では第一機能(司法的・宗教的主権)に対応すると考えられている。アスラは今でこそ悪魔や魔神であるという位置づけだが、より古いヴェーダ時代においては、インドラらと対立する悪魔であるとされるよりは最高神的な位置づけであることのほうが多かったことに注意する必要がある。|date=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|title=}}<br /> <br /> 古代インドでは生命生気の善神であったが&lt;ref name=&quot;天部の仏像事典&quot; /&gt;、[[帝釈天]]の台頭に伴い[[ヒンドゥー教]]で悪者としてのイメージが定着し、地位を格下げされたと考えられている{{要出典|date=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|title=}}。帝釈天とよく戦闘した神である&lt;ref name=&quot;天部の仏像事典&quot; /&gt;{{efn|興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記している。}}。名称も、本来[[サンスクリット]]の asu(息、命)に由来するが、悪者とみなされるようになってからは、「a」が否定の接頭語と解釈され、非天、非類などと訳された&lt;ref name=&quot;天部の仏像事典&quot; /&gt;。<br /> <br /> == 仏教における位置付け ==<br /> 仏教に取り込まれた際には仏法の守護者として八部衆に入れられた&lt;ref name=&quot;仏尊の事典&quot; /&gt;。仏教に対する護法など様々な[[功徳|利益]]があるという{{要出典|date=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|title=}}。<br /> <br /> 六道のうちの[[天 (仏教)|天]]道、[[人間界|人間]]道、修羅道を三善趣(三善道)といい、[[畜生]]道、[[餓鬼]]道、[[地獄]]道を[[三悪趣]](三悪道)というが、[[三悪趣]]に修羅道を加えて四悪趣(四悪道、四趣)とする場合もある&lt;ref name=&quot;コトバンク六道&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;コトバンク趣&quot;&gt;{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E8%B6%A3-76662|title=趣(しゅ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-13}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;コトバンク四悪趣&quot;&gt;{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%82%AA%E8%B6%A3-515351|title=四悪趣(しあくしゅ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-26}}&lt;/ref&gt;。{{要出典範囲|六道説では阿修羅は、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯とされる。ただし、六道説であっても、法華経では阿修羅(アスラ)の扱いは全く異なる。|date=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|title=}}[[法華経]]では阿修羅は悪として書かれることは圧倒的に少なく基本的には三善道の1つもしくは八部衆の1つとして描かれており善趣の存在である&lt;ref&gt;冨田真浩「『法華経』におけるアスラ」『印度學佛教學研究』 61(1)、2012年、pp.365-362。&lt;/ref&gt;。また、[[五道]]を立てる際には阿修羅は独立させず、他の道に属させる&lt;ref name=&quot;総合仏教大辞典1988-13&quot; /&gt;。<br /> <br /> === 戦闘神になった経緯 ===<br /> {{出典の明記|date=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|title=|section=1}}<br /> {{See also|修羅場}}<br /> 阿修羅は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的に認識されているが、阿修羅はもともと天界の神であった。阿修羅が天界から追われて修羅界を形成したのには次のような逸話がある。<br /> <br /> 阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。<br /> <br /> 阿修羅の一族は、帝釈天が主である[[とう利天|忉利天]](とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。また阿修羅には[[シャチー|舎脂]]という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った([[誘拐]]して[[凌辱]]したともいわれる)。それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった。<br /> <br /> 帝釈天は配下の[[四天王]]などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。戦いは常に帝釈天側が優勢であったが、ある時、阿修羅の軍が優勢となり、帝釈天が後退していたところへ[[蟻]]の行列にさしかかり、蟻を踏み殺してしまわないようにという帝釈天の慈悲心から軍を止めた。それを見た阿修羅は驚いて、帝釈天の計略があるかもしれないという疑念を抱き、撤退したという。<br /> <br /> 一説では、この話が天部で広まって阿修羅が追われることになったといわれる。また一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。このことから仏教では天界を追われ人間界と餓鬼界の間に修羅界が加えられたともいわれる。<br /> <br /> === 阿修羅道(修羅道) ===<br /> {{複数の問題|出典の明記=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|一次資料=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|section=1}}<br /> {{See also|六道}}<br /> 六道のひとつ。妄執によって苦しむ争いの世界。果報が優れていながら悪業も負うものが死後に阿修羅に生る。<br /> <br /> 人間道の下とされ、[[天 (仏教)|天道]]・人間道と合わせて三善趣(三善道)、あるいは[[畜生]]道・[[餓鬼]]道・[[地獄 (仏教)|地獄]]道の[[三悪趣]]と合わせて四悪趣に分類される。五趣に修羅道はなく、天道に含まれていた。また「増一[[阿含経]]」では、神通力を持つ魔羅身餓鬼の阿修羅と、海底地下84000由旬を住処とする畜生道の阿修羅が居るとしている。<br /> <br /> 「起世経」によれば、阿修羅たちは身長や寿命、三十三天の住人と特徴を同じくする。身長は1由旬で、寿命は一昼夜が人間の100年で1000歳。形色、楽、寿命の3点において人間に勝る。「正法念処経」では寿命は5000歳。<br /> <br /> 「正法念処経」によれば、衣食は望むままに現れ、天界と変わらぬ上等なものが得られる。「[[大智度論]]」によれば人間道に勝る食事ではあるが、竜王の食事が最後の一口がカエルに変わるように、修羅の食事も食べ終わるとき口の中に泥が広がるため、人間道に勝るものではない。<br /> <br /> === 阿修羅王 ===<br /> {{複数の問題|出典の明記=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|一次資料=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|section=1}}<br /> 阿修羅王の名前や住処、業因などは経論によって差異がある。パーリ語では、阿修羅王に Rāhu、Vepacitti、Sambara、Pahārāda、Verocana、Bali の5つの名が見られる。ただし大乗仏典では、一般的に阿修羅王は4人の王とされることが多い。<br /> 『法華経』序品には、4人の王の名を挙げ、各百千の眷属を有しているとある。<br /> <br /> また『十地経』や『正法念処経』巻18~21には、これら4人の住処・業因・寿命などを説明しており、其の住処は妙高山(須弥山)の北側の海底地下8万4千[[由旬]]の間に4層地に分けて住していると説く。以下説明は主に正法念処経による。<br /> <br /> *&#039;&#039;&#039;羅睺阿修羅王&#039;&#039;&#039;(らごう)<br /> **Skt及びPl:Rāhu、ラーフ、[[パーリ語]](PI):訳:障月、執月、月食など、 <br /> **その手でよく日月を執て、その光を遮るので、この名がある。<br /> :(住処) - 第1層、海底地下21000由旬を住処とする。身量広大にして須弥山のようで、光明城に住み、縦横8000由旬。<br /> :(業因) - [[前世]]に[[バラモン]]であった時、1つの仏塔が焼き払われるのを防ぎ、その福徳により後身に大身相を願った。不殺生を実践したが、諸善業を行わなかったので、その身が破壊(はえ)し、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。<br /> :(寿命) - 人の500歳を1日1夜として、その寿命は5000歳<br /> *&#039;&#039;&#039;婆稚阿修羅王&#039;&#039;&#039;(ばち、婆雅とも)<br /> **Skt及びPl:Bali、バリ、訳:被縛<br /> **帝釈天と戦って破れ、縛せられたためにこの名がある。正法念処経では勇健(ゆうごん)阿修羅王。ラーフの兄弟で、彼の子らはみなVerocaと名づく。<br /> :(住処) - 第1層の下の第2層、さらに21000由旬の月鬘(げつまん)という地で、双遊城に住み、縦横8000由旬。<br /> :(業因) - 前世に他人の所有物を盗み、不正の思いをなして離欲の[[外道]]に施して、飲食(読み:おんじき)を充足させたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。<br /> :(寿命) - 人の600歳を1日1夜として、その寿命は6000歳<br /> *&#039;&#039;&#039;佉羅騫駄阿修羅王&#039;&#039;&#039;(きゃらけんだ)<br /> **Skt:Śambara、Pl:Sambara、サンバラ、訳:勝楽、詐譌、木綿など<br /> **正法念処経では華鬘(けまん)阿修羅王と訳される。<br /> :(住処) - 第2層の下の第3層、さらに21000由旬の修那婆(しゅなば)という地で、鋡毘羅城(かんびら)に住み、縦横8000由旬。<br /> :(業因) - 前世に食を破戒の病人に施して、余の衆は節会の日により相撲や射的など種々の遊戯をなし、また不浄施を行じたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。<br /> :(寿命) - 人の700歳を1日1夜として、その寿命は7000歳<br /> *&#039;&#039;&#039;毘摩質多羅阿修羅王&#039;&#039;&#039;(びましったら)<br /> **Skt:Vemacitra、Vimalacitra、Pl:Vepacitti、[[ヴェーパチッティ]]、訳:浄心、絲種種、綺書、宝飾、紋身など<br /> ** [[八部衆|乾闥婆]]の娘を娶り、娘の舎脂を産んだ。前出のように舎脂は帝釈天に嫁いだため、帝釈天の舅にあたる。<br /> :(住処) - 第3層の下の第4層、さらに21000由旬の不動という地で、鋡毘羅城(かんびら)に住み、縦横13000由旬。<br /> :(業因) - 前世に邪見の心を以って持戒する者に施して、余の衆は自身のために万樹を護ったので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。<br /> <br /> その他『起世経』では、須弥山の東西の面を去ること1000由旬の外に毘摩質多羅王の宮があり、縦横8万由旬であるといい、また修羅の中に極めて弱き者は人間山地の中に在りて住す、すなわち今、西方の山中に大きくて深い窟があり、多く非天=阿修羅の宮があるという。<br /> <br /> ==== 阿修羅王の帰依 ====<br /> [[法華経]]妙法蓮華経序品第一によると4大阿修羅王は[[霊鷲山]]へ赴き[[釈迦]]の[[説法]]を聞いて[[仏陀|仏]]に帰依したと言われている&lt;ref&gt;坂本幸男訳注・岩本裕訳注「法華経 上」岩波文庫 岩波書店 1978年、p9及びpp.16-17より。(原文はp16記載)&lt;/ref&gt;。[[法隆寺]]の阿修羅像は、仏教へ帰依したのちに釈尊の[[涅槃]]の時に駆け付けたときの姿の像である&lt;ref name=&quot;阿修羅を究める&quot;&gt;興福寺監修 『阿修羅を究める』 小学館、2001年、p.122。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 阿修羅に関する事物 ===<br /> ==== 阿修羅琴 ====<br /> 仏教に帰依した阿修羅は戦闘のみを事にする仏ではない{{要出典|date=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|title=}}。阿修羅の[[琴]]を阿修羅琴(あしゅらきん)という&lt;ref name=&quot;総合仏教大辞典1988-13&quot; /&gt;。阿修羅琴は阿修羅の福徳によって、聴こうと思えば誰も琴を弾かないのに自然に音が出るという&lt;ref name=&quot;総合仏教大辞典1988-13&quot; /&gt;。ただし、阿修羅像はなぜか阿修羅琴を持っていない&lt;ref name=&quot;総合仏教大辞典2005-13&quot;&gt;{{Cite book |和書 |author=総合仏教大辞典編集委員会(編) |coauthors= |others= |date=2005-02 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume= |page=13 }}&lt;/ref&gt;{{efn|龍樹著『大智度論』に登場する。}}。<br /> <br /> ==== 修羅車 ====<br /> {{See also|修羅 (ソリ)}}<br /> 修羅車または道具としての「修羅」とは、大[[石]]を動かすための[[そり|橇]](そり)のことである。「帝釈(大石)を動かせるのは阿修羅だけ」とのことからこの名前が付いたという&lt;ref&gt;[http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/hukugen2.html 宇土市デジタルミュージアム]より。[2016年11月4日参照]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 阿修羅像 ==<br /> 阿修羅の姿は、基本的には三面六臂(三つの顔に六つの腕)で造形または描かれることが多いが&lt;ref name=&quot;天部の仏像事典&quot; /&gt;、三面四臂(三つの顔に四つの腕){{efn|たとえば埼玉県東松山市の世明寿寺の二十八部衆の1人として安置されている阿修羅像は三面四臂像である。なお板金剛も履かず、一切装飾品をつけないという珍しい阿修羅像である&lt;ref&gt;鯨岡真一「埼玉・世明寿寺の阿修羅像に関する考察」『[[稲村坦元|埼玉史談]]』62(3)2016-01、pp.1-6。&lt;/ref&gt;。}}や三面二臂(三つの顔に二つの腕)の阿修羅像も存在する{{efn|[[観龍寺 (千曲市)|観龍寺]]の阿修羅像は三面二臂(三つの顔に二つの腕)像である&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.city.chikuma.lg.jp/docs/2013071800040/files/city1.pdf 木造観音二十八部衆]}} 千曲市、「16 阿修羅王」より。[2016年12月8日閲覧]&lt;/ref&gt;。}}。阿修羅像は[[奈良県]]・[[興福寺]]の八部衆像・阿修羅像([[国宝]])や&lt;ref name=&quot;天部の仏像事典&quot; /&gt;、[[京都府]]・[[三十三間堂]]の二十八部衆像・阿修羅像(国宝)が特に有名である{{要出典|date=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|title=}}。<br /> <br /> {{要出典範囲|基本的に阿修羅は合掌印または蓮華合掌印を結ぶ。合掌印とは仏への感謝を現す。|date=2017年10月26日 (木) 03:01 (UTC)|title=}}<br /> {{See also|仏像|印相}}<br /> <br /> === 主な阿修羅像 ===<br /> ====日本====<br /> *奈良県・[[法隆寺]]阿修羅像(八部衆の一)-我が国で現存する最古の阿修羅像&lt;ref name=&quot;阿修羅を究める&quot; /&gt;。西暦[[711年]]頃。<br /> *奈良県・興福寺阿修羅像(八部衆の一)-わが国の阿修羅像を代表する像の1つ。<br /> *京都府・三十三間堂阿修羅像(二十八部衆の一)-わが国の阿修羅像を代表する像の1つ<br /> *京都府・[[清水寺]]本堂阿修羅像(二十八部衆の一)<br /> *京都府・[[清水寺]]奥院阿修羅像(二十八部衆の一)<br /> *滋賀県・[[常楽寺 (湖南市)|常楽寺]]阿修羅像(二十八部衆の一)<br /> *高知県・[[金剛福寺]]阿修羅像(二十八部衆の一)-怒りを現す少年の阿修羅像<br /> *熊本県・[[康平寺]]阿修羅像(二十八部衆の一)-やや珍しい三面四臂の阿修羅像<br /> *愛知県・[[円福寺 (春日井市)|圓福寺]]阿修羅身像(三十三応現身の一)-阿修羅身像としては代表格の1つ。一面六臂黒身で日月を持つという珍しい造形の阿修羅身像である。<br /> *長野県・[[観龍寺 (千曲市)|観龍寺]]阿修羅像(二十八部衆の一)-かなり珍しい三面二臂の阿修羅像<br /> *神奈川県・[[長谷寺 (鎌倉市)|長谷寺]]阿修羅身像(三十三応現身の一)-阿修羅身像としては代表格の1つである。<br /> *東京都・[[塩船観音寺]]阿修羅像(二十八部衆の一)<br /> *東京都・[[西光寺 (調布市)|西光寺]]阿修羅身像(三十三応現身の一)<br /> *埼玉県・[[慈恩寺 (さいたま市)|慈恩寺]]阿修羅像(二十八部衆の一)-三面六臂青身で右に[[宝塔]]を持ち、左は空を支える。青身の阿修羅像は珍しく、宝塔を持つ阿修羅像は珍しい&lt;ref&gt;内田和浩文、宮地工写真 「坂東三十三カ所めぐり」 JTBパブリッシング、2016年、p.59写真右端より。&lt;/ref&gt;。<br /> *埼玉県・[[世明寿寺]]阿修羅像(二十八部衆の一)-やや珍しい三面四臂の阿修羅像<br /> *福島県・[[恵隆寺]]阿修羅像(二十八部衆の一)<br /> ====中国====<br /> *河南省・[[雲崗石窟]]北洞第10窟-阿修羅像(八部衆の一)-右が月と太陽を持つ優美な姿で左が五面六臂の阿修羅像であり両方とも石仏である&lt;ref&gt;興福寺監修「阿修羅を究める」小学館、2001年、pp.101-102より。p.102の写真も参照の事。同書では共に阿修羅像とする説もあり、またどちらも阿修羅像としないという説もあるとp.102で記述している。&lt;/ref&gt;。<br /> *甘粛省・北石窟寺阿修羅像(独立尊)-右がやや珍しい三面四臂の阿修羅像石仏、左が普賢菩薩の石仏&lt;ref&gt;興福寺監修「阿修羅を究める」小学館、2001年、p.103より&lt;/ref&gt;<br /> *北京市・[[大慧寺]]阿修羅像([[二十八天]]の一)<br /> *四川省・広元千仏崖の釈迦多宝仏窟阿修羅像(八部衆の一)<br /> ====韓国====<br /> * [[慶尚北道]]・慶州昌林寺址三層石塔(八部衆の一)-石塔に石仏の阿修羅像が見られる&lt;ref&gt;[https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-01J01238/ 中国・韓国・日本における八部衆像の研究より][2017年5月29日閲覧]&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{notelist}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[仏の一覧]]<br /> * [[天部]]<br /> * [[三界]]<br /> * [[十界]]<br /> * [[馬頭明王]]<br /> * [[降三世明王]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/508 阿修羅と仏像ブーム(西山厚・奈良国立博物館学芸部長)]<br /> *[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/679 阿修羅ブームはなぜおきた?]<br /> <br /> {{Buddhism2}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:あしゆら}}<br /> [[Category:仏教用語]]<br /> [[Category:天部]]<br /> [[Category:八部衆]]<br /> [[Category:アスラ|*阿]]<br /> <br /> [[da:Asura#I buddhismen]]<br /> [[ru:Асуры#Асуры в буддизме]]<br /> [[simple:Asura#In Buddhism]]</div> 60.237.39.32
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