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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=49.251.95.210&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-16T09:47:40Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 東西教会の分裂 2018-08-04T19:05:27Z <p>49.251.95.210: 本文自体が「分裂が突如現れたのではない」と主張しているのに、一部だけ要出典とするのは意味が分からない。</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;東西教会の分裂&#039;&#039;&#039;(とうざいきょうかいのぶんれつ)は、[[キリスト教]][[教会]]が、[[ローマ教皇]]を首長とする[[カトリック教会]]([[西方教会]])と、東方の[[正教会]]とに二分されたことをいう。多くの[[シスマ]](分裂)の中でも史上最大規模だったことから&#039;&#039;&#039;[[大シスマ]]&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる&lt;ref&gt;[[14世紀]]から[[15世紀]]の[[西方教会]]において[[対立教皇]]が乱立した[[教会大分裂]]を指して使われることも多い&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 分裂の年は、日本においては、[[ローマ教皇]]と[[コンスタンディヌーポリ総主教]]が相互に破門した[[1054年]]とされることが多い。<br /> <br /> しかし[[395年]]に[[ローマ帝国]]が東西に分割された後、[[476年]]の[[西ローマ帝国]]滅亡を経て、東西両教会の交流が薄くなり、数百年の間に教義の解釈の違い([[フィリオクェ問題]]等)、礼拝方式の違い、教会組織のあり方の違い([[教皇]]権に対する考え方の違い、[[司祭]]の妻帯可否等)などが増大した&lt;ref name=&quot;WJ8&quot;&gt;[http://www.orthodox-jp.com/westjapan/hist8.htm ◆第8世紀◆] - [http://www.orthodox-jp.com/westjapan/historyindex.htm トマス・ホプコ神父著“TheOrthodox Faith vol.3 Bible and Church History”](日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;WJ9&quot;&gt;[http://www.orthodox-jp.com/westjapan/hist9.htm ◆第9世紀◆] - [http://www.orthodox-jp.com/westjapan/historyindex.htm トマス・ホプコ神父著“TheOrthodox Faith vol.3 Bible and Church History”](日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)&lt;/ref&gt;。そうした流れの中に1054年の事件があるのであり、一応、1054年の「相互破門」が日本の世界史教科書等で一般的な目安ではあるが、異論も少なくない。1054年の相互破門自体は東西双方から解消されているが、いまだに東西両教会の「合同」は成立していない&lt;ref name=&quot;WJ11&quot;&gt;[http://www.orthodox-jp.com/westjapan/hist11.htm ◆第11世紀◆] - [http://www.orthodox-jp.com/westjapan/historyindex.htm トマス・ホプコ神父著“TheOrthodox Faith vol.3 Bible and Church History”](日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ファイル:ChristianityBranches-2JP.png|thumb|500px|right|[[キリスト教諸教派の一覧|キリスト教諸教派]]の成立の概略を表す樹形図。更に細かい分類方法と経緯があり、この図はあくまで概略である。]]<br /> <br /> == 分裂の経緯 ==<br /> === 11世紀まで:東西教会の差異拡大 ===<br /> {{出典の明記|date=2015年10月26日 (月) 13:43 (UTC)|section=1}} <br /> 一般に東西両教会が分裂したとされるのは「[[1054年]]の[[ローマ教皇]]と[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンディヌーポリ総主教(コンスタンティノープル総主教)]]の相互破門」と言われる事件であるが、これ以前にも、<br /> <br /> *ローマ教皇(ローマ司教)の地位([[教皇首位説|教皇首位権問題]])<br /> *[[典礼]]([[奉神礼]])の形式の差異の広がり<br /> *[[フィリオクェ問題]]<br /> *[[助祭]]・[[司祭]]も妻帯が認められなかった西方に対し、[[輔祭]]・[[司祭]]には妻帯が認められていた東方という、聖職者の妻帯についての考え方の差異<br /> *[[聖像破壊運動|聖像破壊論争]]<br /> *[[東ローマ帝国]]の事前承認を経ない[[ローマ教皇]]による[[カール大帝]]の戴冠(偽書『[[コンスタンティヌスの寄進状]]』も参照)<br /> *[[フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|フォティオス]]の分離<br /> *[[スラヴ語]][[奉神礼]](典礼)の是非<br /> *[[モラヴィア]]および[[ルーシ]]を、[[ローマ]]と[[コンスタンティノポリス|コンスタンディヌーポリ]]のいずれが管轄するか(&#039;&#039;[[モラヴィア王国]]、[[オフリドのクリメント]]も参照&#039;&#039;)<br /> <br /> 等のさまざま問題をめぐり、両教会の間には数百年間にわたる論争と差異が既に顕在化していた。従って、東西教会の分裂は[[11世紀]]になって両教会の両指導者の思惑によって突如発生させられたのではない。<br /> <br /> === 1054年:教皇と総主教の相互破門 ===<br /> [[Image:Haga Sofia RB1.jpg|thumb|230px|現在の[[アヤソフィア|アギア・ソフィア大聖堂]]の夜景。周囲の4本の[[ミナレット]]は[[オスマン帝国]]時代に[[モスク]]に転用された際に付け加えられたもの。]]<br /> {{Main2|[[1054年]]の東西両教会の相互破門の詳細については[[ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)]]内の該当項目([[ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)#「東西教会の相互破門」に至る経緯|「東西教会の相互破門」に至る経緯]])を}}<br /> 1054年、ローマ教会とコンスタンディヌーポリ教会は主にローマ教皇の教皇首位権を巡って対立が深まっていたが、使節としてコンスタンディヌーポリを訪れていた[[枢機卿]]フンベルトは[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンディヌーポリ総主教]][[ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ミハイル1世キルラリオス]]の非礼に怒り、ミハイル1世キルラリオスとその同調者に対する破門状を[[アヤソフィア|アギア・ソフィア大聖堂]]の[[宝座 (正教会)|宝座]]に叩き付けた。これに対し、ミハイル1世キルラリオスは枢機卿フンベルトとその一行を破門した&lt;ref name=&quot;takahashi79&quot;&gt;[[高橋保行]]『東方の光と影』79頁 - 81頁、春秋社 (1991-05-30出版)ISBN 9784393261033 (4393261038)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 上に述べたように11世紀前半までの東西教会の差異は既に広がっていたのであり、[[1054年]]に起きたローマ教皇[[レオ9世_(ローマ教皇)|レオ9世]]と[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンディヌーポリ総主教]][[ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ミハイル1世キルラリオス]](ミカエル・ケルラリオス)との相互[[破門]]というこの事件が東西教会分裂の始まりと捉えるのは誤りである。あくまで東西教会の相違を象徴する、分かりやすい事件の一つという程度の位置づけが妥当である。<br /> <br /> しかもこの「相互[[破門]]」は、<br /> <br /> * 西方教会側では事件の前にローマ教皇[[レオ9世_(ローマ教皇)|レオ9世]]が永眠しており、破門の主体がローマ教皇ではなく、使節フンベルトの独断だった面が極めて強いこと。&lt;ref name=&quot;takahashi81&quot;&gt;[[高橋保行]]『東方の光と影』81頁 - 82頁、春秋社 (1991-05-30出版)ISBN 9784393261033 (4393261038)&lt;/ref&gt;。<br /> * 東方教会側では使節団であるフンベルト一行のみを破門したと認識していた事&lt;ref name=&quot;takahashi81&quot; /&gt;。<br /> * あくまで本事件はローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教との相互破門であり、同じく正教会に属する[[アレクサンドリア総主教]]、[[アンティオキア総主教]]、[[エルサレム総主教]]はこの事件には関わっておらず、「東西両教会の分裂」と言うのは飛躍し過ぎである&lt;ref name=&quot;hisa8384&quot;&gt;久松英二 『ギリシア正教 東方の智』83頁 - 84頁、講談社選書メチエ (2012/2/10) ISBN 9784062585255&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 以上の事情により、「決定的な教会分裂」と言える事件であるかどうか疑問であるだけでなく、相互破門自体が両教会全体に対して有効だったのかすらも怪しいものである&lt;ref name=&quot;hisa8384&quot; /&gt;。事実、この事件後も、ローマ教皇に新教皇が就任した後も、ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教の交流は続いていた&lt;ref name=&quot;takahashi81&quot; /&gt;。<br /> <br /> 実際、この「相互破門」は1960年代に入って[[正教会]]と[[カトリック教会]]の双方から解消されたが、東西教会の合同、[[フル・コミュニオン]]ないし[[相互領聖]]([[相互陪餐]])は現在に至るまで未だに実現していないことも、[[1054年]]の「相互破門」についての事件性に対する過大評価に疑問符をつける根拠となる。後述するように、東西教会の分裂は[[1204年]]まで確定していなかったと正教会では捉えられている。<br /> <br /> ===1054年から15世紀まで・十字軍===<br /> [[Image:Eugène Ferdinand Victor Delacroix 012.jpg|thumb|260px|「十字軍のコンスタンティノープルへの入城」 ([[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、[[1840年]]作)&lt;br&gt;[[第四回十字軍]]の[[コンスタンティノポリス|コンスタンティヌーポリ]](コンスタンティノープル)における蛮行が描かれている。]]<br /> 「相互破門」以降も、両教会にとり分裂の解消は大きな課題のひとつでありつづけた。特にイスラーム勢力によるシリア、アナトリアへの侵攻に悩まされていた歴代の[[東ローマ帝国]]皇帝は、ローマ教皇の教会における首位権を認める代償として西欧諸国からの援軍を期待する傾向が強かった。<br /> <br /> しかし、相互の教義の違いのみならず、文化・組織・政治的状況の差異は拡大しつづけた。<br /> <br /> 特に[[第4回十字軍]]による[[コンスタンティノポリス|コンスタンディヌーポリ]]([[1204年]])の陥落と、それに伴う[[東ローマ帝国]]市民への虐殺・略奪・婦女暴行や、新たなコンスタンティノポリス[[総大司教]]座の設置を伴った教区制度の破壊と簒奪、および正教会への迫害行為は、正教会側の対カトリック感情を決定的に悪化させてしまった&lt;ref name=&quot;WJ13&quot;&gt;[http://www.orthodox-jp.com/westjapan/hist13.htm ◆第13世紀◆] - [http://www.orthodox-jp.com/westjapan/historyindex.htm トマス・ホプコ神父著“TheOrthodox Faith vol.3 Bible and Church History”](日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)&lt;/ref&gt;。ローマ・カトリック教会におけるコンスタンティノポリス総大司教座は近代に至るまで名目上は存続し続けた。<br /> <br /> 第4回十字軍の際のみならず、十字軍の各回において、既存の[[エルサレム総主教]]庁を無視したエルサレム[[総大司教]]座など、東地中海地域には[[東方典礼カトリック教会]]の教区が既存の正教会の教区を無視する形で設立されていた。<br /> <br /> 13世紀後半から15世紀前半の[[パレオロゴス朝]]東ローマ[[皇帝]]もそれまでの皇帝と同様、基本的に西欧からの援軍を期待してローマとの和解を模索するが、民衆・貴族・[[修道士]]・教会のいずれからも猛反対が起こり、皇帝の意図は達成されることは無かった。<br /> <br /> === フィレンツェ公会議での東西教会合同不成立 ===<br /> [[ファイル:Tiara 2 (PSF).png|thumb|150px|ローマ教皇の三重冠]]<br /> 15世紀の[[フィレンツェ公会議]]は、[[オスマン帝国]]の領土拡大に圧迫された[[東ローマ帝国]]の政治的危機を背景に、東ローマ皇帝の意を受けた正教会の妥協によるフィリオクェの容認にほぼ落ち着くかにみえたが、正教会側の出席者1名がこの決定に異論を唱え合意文書への署名を拒否したことにより、最終的な合意にいたらなかった。<br /> <br /> この時の正教会側の出席者達は東ローマ皇帝の東西教会統合への意向を受けた人選だったが、にもかかわらず合意がなされなかった事は、この時点で東西教会の差異がいかに開いていたかを示すものである。まして[[第四回十字軍]]の記憶冷めやらぬコンスタンチノープル市民や、正教会の正統性についての意識をコンスタンチノープルから継承した[[ルーシ]]の諸教会において、東西教会再統合への反発が広範囲に起こっていたことは極めて自然だった。東ローマ帝国の大臣兼軍司令官のルカス・ノタラス大公に至っては「[[ローマ教皇]]の[[三重冠]]を見るくらいなら、[[スルタン]]の[[ターバン]]を見るほうがましだ」と公言していたほどだった。<br /> <br /> === 16世紀以降 ===<br /> [[16世紀]]には、[[イエズス会]]が精力的に東方伝道を行い、[[正教徒]]のカトリック教会への改宗を進めた。<br /> <br /> ウクライナ・ロシア西部ではカトリック教会を奉じるポーランド王[[ジグムント3世]]の支配下に置かれた正教会が、聖俗両面から圧迫・弾圧を受けた。その結果の一つがウクライナ・ロシア西部の多くの教会をローマ教皇の管轄の下に置く事となった[[1596年]]の[[ブレスト合同]]であったが、ブレスト合同は反対派を議場から締め出し、ポーランド王の権力の下で強引な経緯を経て成立したものであった。これにより[[ウクライナ東方カトリック教会]]が成立。こんにちに至るまでの東西教会の主要な対立原因の一つとなっている。<br /> <br /> {{Main|ブレスト合同}}<br /> <br /> [[十字軍]]の時代に、東地中海地域に[[東方典礼カトリック教会]]の教区が既存の正教会の教区を無視する形で設立されたことと合わせ、東方正教会側にはローマカトリックが議論によってではなく、力でローマ教皇の権威の下に他者を併呑しようとしているとの危惧と不信感が醸成されていった。このことは、カトリックとの対話に懐疑的な勢力を正教会内部に育て、その影響は現在もなお広い範囲に根強く残っている。<br /> <br /> この直後、東ローマ帝国が西方からの大規模な増援なく滅亡したことも、東方教会側の一致への動機を減じたことは否定できない(奮戦した傭兵部隊も存在し、一定の美談も生んだが)。<br /> <br /> ===近現代における差異の拡大と対立===<br /> [[1870年]]の[[第1バチカン公会議]]において、[[教皇不可謬説]]が正式な[[カトリック教会]]の教義として採択された。[[ローマ教皇]]が信仰および道徳に関する事柄について教皇座([[エクス・カテドラ]])から厳かに宣言する場合、その決定は[[聖霊]]の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえないとするものだった。<br /> <br /> この採択内容は、高位聖職者たる[[総主教]]といえども誤りを犯す事は人間として当然に有り得るのであり、公会議の決定に総主教も従わなければならないとする[[正教会]]の伝統的な考え方とは全く相容れないものであり、これによってカトリック教会と正教会の差異はより広がった。なお教皇不可謬説はカトリック教会内部からも異論の出るものであり、[[復古カトリック教会]]が成立する結果を招来してもいる。<br /> <br /> [[ポーランド正教会|ポーランドの正教会]]では150箇所の正教会の聖堂がカトリック教会の聖堂として強制的に転用されるという事件が[[1920年]]代に起こり、ウクライナとポーランドにおける東西両教会の関係に近現代においても尚しこりを残すこととなった。<br /> <br /> ==近代以降:和解への道のり==<br /> === 「相互破門」の解消===<br /> 正教会と[[聖公会]]は[[ロシア革命]]が起こるまで、「[[教皇首位説|教皇首位権]]に否定的かつ伝統的な教会である」「[[ロマノフ朝]]と[[ハノーヴァー朝]]の姻戚関係」等の要因によって、特に英国国教会とロシア正教会の主導の下で関係深化が進められていた。しかしソ連邦成立以降はこの試みは頓挫し、現在、正教会と聖公会の関係は特に深いものではなくなっている。<br /> <br /> [[1964年]]、東方正教会とローマ・カトリック教会の間で和解に向けた一歩として、[[ローマ教皇]][[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]と[[コンスタンディヌーポリ全地総主教]][[アシナゴラス (コンスタンディヌーポリ総主教)|アシナゴラス1世]]が[[エルサレム]]で会談した。[[1965年]]、[[エキュメニズム]]が大きなテーマとなった[[第2バチカン公会議]]においてローマカトリック教会の中で東方正教会との和解への道が再び模索され、正教会への働きかけが行われた。その結果を受けて1965年[[12月7日]]、公会議の席上まずローマ教皇[[パウロ6世_(ローマ教皇)|パウロ6世]]によって「カトリック教会と正教会による共同宣言」が発表され、続いて正教会側も[[イスタンブール]](コンスタンディヌーポリ)でこれを発表した。これによって1054年以降続いていた相互破門状態はようやく解消され、東西教会の対話がはじめられることになった。<br /> <br /> 但し先述の通り、この相互破門は破門として有効だったのか疑わしい程度のものであった&lt;ref name=&quot;hisa8384&quot; /&gt;。また、両教会のトップによる「和解」の後も、全体的な関係改善に結び付いているとは言えない状況である&lt;ref name=&quot;hisa8384&quot; /&gt;。<br /> <br /> === 東西教会両首脳が同席した聖体礼儀 ===<br /> {{精度|date=2016年9月|section=1}}<br /> [[画像:Patriarchate Constantinopolis.jpg|thumb|right|270px|現在の[[コンスタンディヌーポリ総主教]]座聖堂である[[聖ゲオルギオス大聖堂]]の内観。[[奉神礼]]時の光景。[[詠隊|右詠隊]]([[正教会]]の詠隊が左右に分かれる場合の、右側の詠隊を指す語)が歌っている。左側に[[至聖所]]の[[イコノスタシス]]が写っている。]] <br /> [[2006年]]11月29日、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンディヌーポリ総主教]]の座所である[[聖ゲオルギオス大聖堂]]で、コンスタンディヌーポリ全地総主教[[ヴァルソロメオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ヴァルソロメオス1世]]が司祷する[[聖体礼儀]]に、ローマ教皇[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]が陪席した。この聖体礼儀については以下が指摘される&lt;ref name=&quot;goho&quot;&gt;[http://togetter.com/li/755331 誤報:「東西教会合同の聖体礼儀」「合同のミサ」? - Togetterまとめ]{{出典無効|date=2016年9月}}&lt;!--日本ハリストス正教会司祭の個人的なTwitterをまとめたもの [[WP:TWITTER]] --&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> * この時の聖体礼儀の司祷はコンスタンディヌーポリ総主教であり、至聖所で陪祷したのも正教会関係者のみであり、形式はビザンチン式の[[奉神礼]]であり、言語も殆どギリシャ語が使われた&lt;ref name=&quot;goho&quot; /&gt;。<br /> * 聖変化([[エピクレーシス]])前の和解の接吻に際してもベネディクト16世は至聖所に入らず(この接吻は本来は至聖所内で行われるものである)、ヴァルソロメオス1世とベネディクト16世は王門の前で和解の抱擁を行った。カトリック教会関係者は至聖所には入らなかった&lt;ref name=&quot;goho&quot; /&gt;。<br /> * ローマ教皇は聖所(聖堂内に於いて信徒会衆の立つ場所)に数段高く設けられた貴賓席にカトリック教会関係者とともに座り、天主経(主の祈り)をギリシャ語([[古典ギリシャ語]][[再建]]ではなく[[現代ギリシャ語]]での読み)で唱えるにとどまった&lt;ref name=&quot;goho&quot; /&gt;。<br /> * ベネディクト16世をはじめとしてカトリック教会の関係者は[[聖体|尊体尊血]]の[[領聖]]には参加していない&lt;ref name=&quot;goho&quot; /&gt;。<br /> <br /> 以上の理由から、「合同で聖体礼儀が行われた」「合同でミサが行われた」「合同礼拝」というより、「正教会の聖体礼儀に教皇ベネディクト16世が陪席した」などと表現するのが妥当とされる&lt;ref name=&quot;goho&quot; /&gt;。<br /> <br /> == 東西教会分裂の現状 ==<br /> === 「分裂とは何か」「和解とは何か」の問題 ===<br /> 冒頭に述べた通り、東西教会の分裂には「何を以て分裂と看做すのか」「何を以て和解成立と看做すのか」のレベルで見解の差が発生する。<br /> <br /> 仮に[[1054年]]の「相互破門」が分裂の主要な事件であり、これを解く事が和解と看做されるのであれば、「相互破門」が解消された現状では既に[[正教会]]と[[カトリック教会]]は和解していると言い得る。先述の通り、[[ローマ教皇]]も[[コンスタンディヌーポリ全地総主教]]も、互いに破門を解いており、会談も20世紀以降数回にわたって行われている。[[秘蹟]](正教会では[[機密 (キリスト教)|機密]]と訳される)の有効性についても、[[洗礼]]は両教派において互いの秘蹟・機密を有効とみなしてきた。秘蹟・機密の有効性の承認が教会和解の要件であるとすれば、これも和解実現と看做されうる。<br /> <br /> しかしやはり東西教会は分裂状態にあると言われるのは、[[相互陪餐]]・[[相互領聖]]が行われていない事に象徴されている。相互領聖とは互いの教会で聖体を受ける事が出来る状態を指すが、カトリック教会では正教徒は[[領聖]]が可能である一方で、正教会ではカトリック信徒は聖体拝領が出来ない。また、教会の要件としてローマ教皇の首位性の承認を挙げるカトリック教会側の見解は正教会には受け入れられないものであり、教会概念についての見解の差もまた分裂の事象の一つである。[[フィリオクェ問題]]、礼拝形式の差、神学上の見解の差も埋められてはいない。<br /> <br /> 従って、「ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教の会談」は、「和解への前進」では間違いなくあるものの、「完全な和解」そのものを意味するものではない。<br /> <br /> 2016年2月12日、ローマ教皇と[[モスクワ総主教]]の歴史上初めての直接会談が実現した&lt;ref&gt;出典:[http://www.asahi.com/sp/articles/ASJ2F238ZJ2FUHBI006.html ローマ法王、ロシア正教総主教とハグ 分裂以来の初会談]&lt;/ref&gt;。確かに東西教会の和解に向けた大きな一歩である事は疑いない。しかしローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教の会談についてと同様の理由に加え、世界最大の[[独立正教会]]であるロシア正教会の[[首座主教]]であるとはいえモスクワ総主教は一[[独立正教会|独立教会]]の首座主教以上でも以下でも無いのであり、これも「完全な和解」を意味するものではない。<br /> <br /> === 現況:緊張持続と緊張緩和 ===<br /> [[File:Kirill I Józef Michalik Royal Castle in Warsaw 2012.jpg|thumb|right|280px|[[モスクワ総主教]][[キリル1世]](中央左)と、[[プシェムィシル]][[大司教]]{{仮リンク|ユゼフ・ミハリク|pl|Józef Michalik}}(中央右)(2012年)。[[ワルシャワ]]にて。]]<br /> [[File:Pope Franciscus &amp; Patriarch Bartholomew I in the Church of the Holy Sepulchre in Jerusalem (1).JPG|thumb|right|280px|[[教皇]][[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]](左)と[[全地総主教]][[ヴァルソロメオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ヴァルソロメオス1世]](右)([[2014年]])。[[エルサレム]]にて。]]<br /> 「合同での[[聖体礼儀]]」が行われ東西和解がアピールされている事にみられるように、[[正教会]]側では現在、[[コンスタンディヌーポリ全地総主教]]が東西教会の対話に熱心である。また[[ルーマニア正教会]]のダニイル総主教も同様の傾向を示している。しかし他の正教会と[[カトリック教会]]の間の対話はあまり進んでいない。コンスタンディヌーポリ総主教庁下の教会・修道院、およびルーマニア正教会管轄下の教会・修道院も、東西教会和解に向けて一枚岩となっている訳ではない。<br /> <br /> [[ウクライナ]]や中東における[[東方典礼カトリック教会]]問題など、東西教会再統合への障壁は、依然として高い。表向き和解を喧伝しながら正教会信徒の西方教会への改宗を促進する[[西方教会]]の姿勢に対する懐疑も同地域で根強い。しかも[[正教会]]には、ローマ教皇のように全教会を束ねる権限を持つ[[総主教]]はコンスタンディヌーポリ全地総主教を含めて存在しない(全地総主教の「首位」は、殆ど儀礼・名誉上の範囲にとどまり、権限は極めて限定的である)。したがって正教会側のコンスタンディヌーポリ総主教と、カトリック教会側のローマ教皇が会談をすることは、東西教会の関係改善に役立つことは間違いないにしても、それだけで全ての[[正教会]]と、[[カトリック教会]]との和解が飛躍的に進展したことを必ずしも意味する訳ではない。<br /> <br /> また、2007年7月10日、ローマ教皇庁は「ローマ・カトリック教会は唯一の正統な教会である」との記述内容を含む文書を公表した。これには教皇[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]が承認を与えている。同文書は[[プロテスタント]]教会についても言及し、「使徒ペテロに始まる使徒的伝承をプロテスタント教会が壊し、叙階の秘跡を損なったために、『教会』と呼ぶことはできない。」とした。[[正教会]]については、使徒的伝承を守っていると評価する一方、教皇に対する認識の面で「まったき教会としては欠点がある」とした&lt;ref&gt;出典:[http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2007071219808 ローマ法王、「カトリック教会だけが唯一の教会」](東亜日報)、[http://www.christiantoday.co.jp/international-news-1045.html バチカン「カトリック教会は唯一真の教会」](クリスチャントゥデイ)&lt;/ref&gt;。この文書の内容に対しては正教会のみならず、[[プロテスタント]]からも広く反発が起こっている。<br /> <br /> しかし一方で、比較的緊張した関係にあるとされる[[ロシア正教会]]とカトリック教会の間にも、一定の交流は存在する。<br /> <br /> 教皇[[ヨハネ・パウロ2世]]の永眠の際には、ロシア正教会渉外局長でありロシア正教会のナンバー2と目されるスモレンスク[[府主教]][[キリル1世 (モスクワ総主教)|キリル]](肩書当時、のち[[総主教]])が弔問に訪れている。[[十字軍]]によって西方に持ち去られた[[不朽体]]などの返還も進められている。また現代の社会問題を巡り、[[モスクワ総主教]][[キリル1世 (モスクワ総主教)|キリル]]は近年の社会問題(世俗化、グローバリゼーション、伝統的道徳原理の衰退など)につき、[[教皇|ローマ教皇]][[ベネディクト16世]]と正教会の主張が近い事を指摘([[救世主ハリストス大聖堂]]での[[主教会議]]にて)、一定程度のカトリックへの親近感を表明した&lt;ref&gt;[http://www.christiantoday.co.jp/international-news-2763.html ロシア正教キリル総主教、カトリックへの親近感示す] 2010年02月16日 Christian Today&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、様々な面で保守的と目され、上述のように他[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]から反発を受けることもあるベネディクト16世ではあったが、2007年10月22日には[[イタリア]]の[[ナポリ]]で開催された異宗教間サミットに出席し、世界平和と人類の和解のために尽力することを呼びかけるなど、各宗教および東方教会を含む他教派との対話を拒絶していたわけでは無い&lt;ref&gt;出典:[http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2301288/2270037 ローマ法王、異宗教間サミットで「人類の和解」呼びかけ](AFPBB News)…記事中の集合写真では、中央にコンスタンディヌーポリ全地総主教ヴァルソロメオス1世とともにローマ教皇ベネディクト16世が並んでいる。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 駐伊ロシア大使館の敷地内に新しく建てられた[[ロシア正教会]]の[[聖堂]]である、アレクサンドリアの聖エカテリナ教会を2006年5月19日に[[成聖]]するために、渉外局長でありロシア正教会のナンバー2と目される[[キリル1世 (モスクワ総主教)|キリル]][[府主教]](肩書当時)が[[イタリア]]を訪れた際には、[[教皇|ローマ教皇]][[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]とキリル府主教が会見を行った。また前日の18日の記念演奏会で、教皇庁正義と平和評議会元議長ロジェ・エチガライ枢機卿が教皇の名において祝辞を述べ、キリル府主教はこれに対し共に祈ることと対話・協力の大切さを強調する言葉で応じた&lt;ref&gt;バチカン放送局:[http://www.radiovaticana.org/japanese/japnotizie0605b/japcronaca060519.htm 教皇、ロシア正教会のキリル府主教と会見]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、[[マンハッタン宣言]]において、[[正教会]]、[[カトリック教会]]、さらには[[北米聖公会]]、[[福音派]]が協調している。<br /> <br /> そして2016年2月12日には、前述のとおり、キューバの首都ハバナにおいて、[[ローマ教皇]][[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]とロシア正教会の最高位に就いた[[キリル1世 (モスクワ総主教)|キリル総主教]]の直接会談が行われた。ただしこの会談については、日本のカトリック教会の司祭は「たいへん歴史的な会談ではあるが、彼らが私達との交わりに入る事は無いであろう。だがこれまでこのような会談は無かったので、大きな進歩でもある。」と述べている。[[日本正教会]]の司祭からは「キリスト教徒は協力し合うべき」として「歓迎」の評価が出されたものの、既にこれまでも両教会間での対話は続いて来た事を指摘(前述の通り、および右上画像のように、モスクワ総主教キリル1世とカトリック教会の[[大司教]]が共同声明にサインするなど、「トップ同士以外の交流」は既に頻繁に行われていた)し、「画期的というよりは象徴的なもの」と述べている。以上両教会の司祭のコメントから、[[ジャパン・タイムズ]]は「教皇が正教の総主教に会うも、両教会の再合同はありそうもない、と東京の司祭達が述べる」との見出しをまとめている&lt;ref&gt;[http://www.japantimes.co.jp/news/2016/02/13/national/social-issues/pope-meets-orthodox-patriarch-reunion-churches-unlikely-tokyo-priests-say/#.V2SdfKI2V2B Pope meets Orthodox patriarch but reunion of churches unlikely, Tokyo priests say | The Japan Times](2016年6月18日閲覧)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> このように、東西両教会の間には、深刻な分裂が続いている反面、交流が維持されている面も存在している。<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==参考文献==<br /> *[[高橋保行]]『東方の光と影』春秋社 (1991-05-30出版)ISBN 9784393261033 (4393261038)<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[正教会]]<br /> *[[カトリック教会]]<br /> *[[コンスタンティノス9世モノマコス]] - 大シスマ当時の東ローマ皇帝<br /> *[[シスマ]]<br /> *[[ブレスト合同]] - [[ウクライナ東方カトリック教会]]の成立<br /> *[[ビザンティン・ハーモニー]]<br /> <br /> {{中世}}<br /> {{キリスト教 横}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:とうさいきようかいのふんれつ}}<br /> [[Category:東西教会の分裂|*]]<br /> [[Category:東方正教会]]<br /> [[Category:カトリック]]<br /> [[Category:教皇権の歴史]]<br /> [[Category:中世ヨーロッパのキリスト教]]<br /> [[Category:シスマ]]</div> 49.251.95.210
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