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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=49.236.225.167&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-02T00:59:14Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 スモールボール 2018-07-11T14:27:24Z <p>49.236.225.167: /* 日本における「スモールボール」 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;スモールボール&#039;&#039;&#039; (small ball) は、[[野球]]における戦略の一つである。機動力や小技([[バント]]など)を特に重視する。&#039;&#039;&#039;スモール・ベースボール&#039;&#039;&#039; (small baseball) とも呼ばれる。対語は、[[ビッグボール]]。[[メジャーリーグベースボール|MLB]]の[[ロサンゼルス・ドジャース]]の名スカウト、[[アル・キャンパニス]]が『[[ドジャースの戦法]]』を著して定型化した。かつてはドジャース戦法と呼ばれ、スモールボールと言われるようになったのはごく最近のことである&lt;ref name=&quot;Slugger 123-1&quot;&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=三尾圭 「エンゼルスが実践するベースボール ソーシア・ボール」<br /> |title=月刊スラッガー No.123 , 2008年7月号<br /> |publisher=日本スポーツ企画出版社<br /> |pages=16 - 19頁<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> {{独自研究|section=1|date=2009年11月}}<br /> 攻撃面においては、長打力([[本塁打]])に依存せず、[[出塁]]した走者を[[犠打]]、[[ヒットエンドラン]]、機動力([[盗塁]])で確実に次の塁へ進め、[[安打]]や[[犠牲フライ]]で本塁へ生還させ、確実に1点を取ることを理想とする。スモールボールの思想の根幹を担うのが“アウトの生産性”という概念である。スモールボールでは、アウトには生産的なものと非生産的なものの2種類があると考える。生産的アウト(Productive Outs)とは、犠打や進塁打、犠牲フライなど走者を次の塁に進めたり得点をしたアウトのことである。スモールボールでは、いかに生産的なアウトを多くするかを重要視する。これは選手の査定にも反映される。{{要出典|date=2012年12月}}<br /> <br /> プロ野球においてスモールボール戦略を採用した場合は、比較的年俸の高騰しやすい長打力の高い打者をたくさん抱え込む必要がないため、予算は抑制できるが、長打力が低いため大量得点は期待できない。[[セイバーメトリクス]]による統計学上の観点から見て、無死一塁から犠打で一死二塁にした場合、1点が入る確率は高まるが、2点以上得点できる確率は下がる&lt;ref name=&quot;Slugger 123-2&quot;&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=出野哲也 「スモール・ボールは最高の&quot;戦略&quot;なのか」<br /> |title=月刊スラッガー No.123 , 2008年7月号<br /> |publisher=日本スポーツ企画出版社<br /> |pages=44 - 46頁<br /> }}&lt;/ref&gt;ため、確実に1点を稼ぐこと(アウトの部分的生産性)に執着して、総獲得点を統計的に下げ、ひいては勝率を下げているとの指摘が存在する。<br /> <br /> よって、打線に乏しい一方で守備面においては少ない得点を守りきる、高い守備力や投手力があるチームに適する戦略であると言える。また反対に、投手力および守備力に難があるチームでは逆効果となる。しかし、試合後半で同点や接戦である場合には、確実に点を取りに行く場合に非常に効果的な戦術である。上記の理由から、予算規模の小さいチームや本塁打の出にくい球場を本拠地とするチームで好んで採用されるだけでなく、試合終盤にはよく採用される戦術である。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> MLBの[[ロサンゼルス・ドジャース]]のように、伝統的にこの戦略をとり続けるチームも存在する。スモールボールの歴史は古く、1890年代の最強チームである[[ボルチモア・オリオールズ (19世紀)|ボルチモア・オリオールズ]](※現存する[[ボルチモア・オリオールズ]]とは全くの別物)がヒットエンドランや[[ボルチモア・チョップ]]など新しいスタイルを完成させ、1910年代まではボール反発力が低く粗悪なものであったため、極めて長打が出にくい状況だったので、全てのチームが基本戦術として採用していた&lt;ref name=&quot;Slugger 123-2&quot; /&gt;。当時の主力選手[[ジョン・マグロー]]は、このようなスタイルをインサイド・ボール(頭脳的野球)と呼んでいた。<br /> <br /> 1920年代に入ると、ボール反発力が上がったことによりホームラン時代が幕開けし、それ以降、{{by|2008年}}現在に至るまで[[ビッグボール]]がMLB全体の主流になったわけであるが、「[[アナボリックステロイド|ステロイド]]時代の終焉」と歩調を合わせるかのように、かつてのドジャース戦法が最近になってスモールボールと名を変えて、一躍脚光を浴びることになった&lt;ref name=&quot;Slugger 123-1&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;Slugger 123-2&quot; /&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=「MLB版 『スモール・ボール』論」<br /> |title=月刊スラッガー No.123 , 2008年7月号<br /> |publisher=日本スポーツ企画出版社<br /> |pages=8 - 9頁<br /> }}&lt;/ref&gt;。[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|ロサンゼルス・エンゼルス]]は{{by|2002年}}に球団史上初の[[ワールド・シリーズ]]を制覇したのみならず、{{by|2004年}}から{{by|2007年}}までの4年間に3度の地区優勝を果たし、今やスモールボールの代名詞的存在となっている。なお、エンゼルスが「現在最もスモールボールを効果的に活用している」と言われるようになった背景には、首脳陣の存在の大きさがある。[[マイク・ソーシア]]監督は現役時代及び指導者として通算22年間をドジャースで過ごし、他に当時のコーチ陣も[[ディノ・イーベル]]三塁コーチが17年、[[ミッキー・ハッチャー]]打撃コーチと[[ロン・レニキー]]ベンチコーチが13年、[[アルフレッド・グリフィン]]一塁コーチが4年、それぞれドジャースの組織内に所属していた経験がある。彼らが選手・指導者として学んで来たスタイルは、ドジャース戦法 = スモールボールである&lt;ref name=&quot;Slugger 123-1&quot; /&gt;。また、[[2005年]]には[[シカゴ・ホワイトソックス]]が本塁打の出やすい本拠地球場ながらこの戦略に方針転換し、ワールドシリーズを制した(ただし、MLB全体で5位となる200発もの本塁打を放ったこの年のホワイトソックスが、純粋な意味でスモールボールの実践例と見られるかは、後述のV9時代の巨人同様賛否両論ある)。<br /> <br /> ただし、以前ほどではないにせよ、打高投低・打撃戦傾向が続いている2008年時点のMLBにあってはビッグボールの有効性が依然として高く、[[打順#六・七・八・九番打者|八・九番打者]]ですらパワー・ヒッターがざらにいる現代のMLBにはスモールボールはフィットしない、とも言われている。実際、2007年度シーズンの統計では、本塁打が出た試合では30チーム中27チームが勝ち越しており、逆に本塁打なしでは全チーム負け越している。その点については、スモールボールの総本山と見なされるエンゼルスで指揮を執るソーシア監督も、「スピードを積極的に駆使して来たのはパワー不足に一つの要因があるからで、スラッガーが揃っているならその必要性は薄まる」とスモールボールの限界を認めている&lt;ref name=&quot;Slugger 123-2&quot; /&gt;。<br /> <br /> == 日本における「スモールボール」 ==<br /> 日本では、[[読売ジャイアンツ]]の[[川上哲治]]監督(1961年 - 1974年)が「本場・アメリカ仕込みの野球」としてドジャースの戦術を導入しようとしたことで知られ&lt;ref name=&quot;G5000&quot;&gt;{{G5000|p.52~}}<br /> 同書では、1974年に[[末次利光]]が年間打率3割を超えたことが「ON以外では58年の[[与那嶺要]]以来…」と評されている(p.57)。&lt;/ref&gt;、また後述するように学生野球にもスモールボールが用いられることは多く、スモールボールは日本人の野球観に多大な影響をもたらしてきた。{{要出典|date=2012年12月}}<br /> <br /> この影響で、“小技(犠打など)、機動力を駆使した野球こそ至上(あるいは美徳)であり、長打力に頼る野球は大味であり邪道である”という「ホームラン性悪説」的な固定観念が形成されており{{要出典|date=2012年12月}}、スモールボールといえばバント(犠打)が必須という考えが一般的である。この観念は、スモールボールを駆使した[[1980年代]]後半から[[1990年代]]前半の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の黄金時代到来によって決定的なものとなった。<br /> <br /> :ただし、[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]時代のジャイアンツは、[[セントラル・リーグ|セリーグ]]の打点王をV9時代を挟む17シーズンにわたって独占したON([[王貞治]]・[[長嶋茂雄]])という稀代の長距離打者が打点を稼いでいたし&lt;ref name=&quot;G5000&quot;&gt;&lt;/ref&gt;[[森祇晶]]監督時代(1986年 - 1994年)の西武は[[秋山幸二|秋山]]、[[清原和博|清原]]+外国人の長距離打者([[ジョージ・ブコビッチ|ブコビッチ]]、[[タイラー・バン・バークレオ|バークレオ]]、[[オレステス・デストラーデ|デストラーデ]])でクリーンアップを固め、多くのシーズンでチーム本塁打数リーグ1位を記録しており(1986年、1987年、1988年、1990年、1992年)、共々厳密な意味ではスモールボールとはいえない、あるいは対照的な野球であるといった意見もある。<br /> <br /> また日本でスモール主義が尊ばれている理由の一つに、アマチュア野球が盛んなことが挙げられる。学生野球など一般に、レベルが低くなるほど[[打線]]には巧打者・強打者が少なくなると言われ、そうなると連打・長打には期待できず、必然的にスピードと小技に頼らざるを得なくなる&lt;ref name=&quot;Slugger 123-2&quot; /&gt;。また、それ以上に日本でスモール主義が普及しているのは、[[高校野球]]においてスモールボール戦略が必須であることがあげられる。{{要出典|date=2012年12月}}これは日本の高校野球は[[リーグ制]]でなく、勝ち抜き制であるからである。リーグ制であれば勝ち越すことが重視されるため、統計的に最も獲得平均点が高い戦略が優先される。これに対して、勝ち抜き戦の場合は一度でも負けることが許されないので、最も安全に(統計的に[[偏差]]が少ないように)点を取りにいき、守備のエラーを最小限に抑える戦略が支配的となる。{{要出典|date=2012年12月}}また、このような環境では多くのチームがスモール主義に近い戦略をとるので、スモール主義の欠点が露呈しにくい。ほとんどのプロ選手が日本の[[日本の高校野球#全国大会|甲子園]](勝抜き戦)を頂点とする高校野球を通過するので、自然にスモール主義が日本の選手に固定観念として染み付く結果となっている。{{要出典|date=2012年12月}}また、前述したアマチュアで支配的なスモール主義の影響から、日本人のファンやスポーツ記者の間では、スモール主義が一戦略に過ぎないということが意識されないほど浸透しており、これに反する采配が失敗すると大いにそれを叩き、逆に過度に安全パイを狙う戦略には寛容であるという土壌も影響している。{{要出典|date=2012年12月}}<br /> <br /> 例えば[[2006年]]の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]][[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]監督である[[王貞治]]は、投手を中心とした守備を重点においた機動力重視のスモールベースボールを標榜した(ただし、WBC開幕直前にスローガンを「ストロング&amp;スピーディー」に変えている)が、実際には[[バント]]の要素ばかりを意識しすぎてしまい、バントの苦手な長距離打者にもバントを指示して自滅するなど、ちぐはぐな采配が目立った。{{要出典|date=2012年12月}}結局、準決勝・韓国戦の決勝点に象徴されるようにバントミスを長打で取り返すという展開となった。{{要出典|date=2012年12月}}しかし、前述の日本人の野球観やホワイトソックス優勝の影響もあってスモールボール至上論が支配的だった日本のマスコミでは、これを批判的に取り上げるメディアはごくわずかで「スモールベースボールの勝利」と伝えるのが大半だった。{{要出典|date=2012年12月}}<br /> <br /> == 参考資料 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ビッグボール]]<br /> * [[マネー・ボール]]<br /> * [[セイバーメトリクス]]<br /> <br /> {{Baseball-stub}}<br /> {{野球}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:すもおるほおる}}<br /> [[Category:野球に関する記事]]<br /> [[Category:野球用語]]</div> 49.236.225.167 セム 2018-07-11T03:41:18Z <p>49.236.225.167: </p> <hr /> <div>{{Infobox person<br /> | name = セム<br /> | alt =<br /> | image = Shem02.jpg<br /> | caption = ノアの息子、セム<br /> | birth_date = <br /> | birth_place =<br /> | death_date =<br /> | death_place =<br /> | nationality =<br /> | other_names =<br /> | known_for =<br /> | occupation =<br /> | parents = [[ノア (聖書)|ノア]]<br /> | children = [[エラム (聖書)|エラム]]&lt;br&gt;[[アッシュール (聖書)|アシュル]]&lt;br&gt;[[アルパクシャド]]&lt;br&gt;[[ルド]]&lt;br&gt;[[アラム (聖書)|アラム]]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;セム&#039;&#039;&#039;は、[[旧約聖書]][[創世記]]の第6章から11章にかけての「[[ノアの方舟]]」のエピソードに出てくる人物で、[[ノア (聖書)|ノア]]の3人の息子のうちの一人。他の2人は[[ハム (聖書)|ハム]]、[[ヤペテ]]。<br /> <br /> (この兄弟の年齢順は諸説あり、一般的にヘブライ語の聖書では「ハムが末子&lt;ref&gt;『創世記』第9章24節&lt;/ref&gt;」「セムがヤペテの兄&lt;ref&gt;『創世記』第10章21節&lt;/ref&gt;」という記述から「セム>ヤペテ>ハム」の年齢順としているが、七十人訳聖書では本文の「セム、ハム、ヤペテ」は下から数えていると判断されているらしく「末子→より若い」「ヤペテの兄→ヤペテの弟」という記述にされている&lt;ref&gt;『七十人訳ギリシア語聖書 モーセ五書』秦剛平訳、講談社、2017年、ISBN 978-4-06-292465-8、P785注30・P789注78。&lt;br&gt;なお、後述のヨセフスもこちらの版を参考文献にしている(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章4節)のでセムを「三番目の息子」としている。&lt;/ref&gt;。)<br /> <br /> 大洪水後、ノアが酔いつぶれて全裸で寝てしまった時にヤペテとともに気遣って上着をかけて隠してやり、これによってノアにヤペテとともに感謝されて祝福を受けたとされる&lt;ref&gt;『創世記』第9章&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、大洪水の後他の兄弟とともに子孫を各地に広げた人物とされており、『創世記』第10章の系譜によると大洪水後にセムにはエラム、アシュル、アルパクシャド、ルド、アラム​という息子が生まれ&lt;ref&gt;七十人訳聖書『創世記』第10章22節と11章12-13節にはセムの息子とアルパクシャドとシェラの間に、それぞれヘブライ語版にはない「カイナン」という人物が登場するが、七十人訳聖書を参考にしているヨセフスも一切彼について触れていないので誤植と判断した。&lt;/ref&gt;、それぞれが以下の民族の始祖とされた。<br /> <br /> (後の地名との対応は『ユダヤ古代誌』第I巻vi章の解説より&lt;ref&gt;フラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌1』株式会社筑摩書房、1999年、ISBN 4-480-08531-9、P65-67。&lt;/ref&gt;)<br /> * エラム→[[エラム]]<br /> * アシュル→アシュル([[アッシリア]])<br /> * アルパクシャド→[[カルデア]]他<br /> * ルド→[[リュディア]]<br /> * アラム​→[[アラム人|アラム]]<br /> <br /> これらのうちアラムとアルパクシャドの息子はさらに植民を広げたとされ、アラムの息子たちはさらに以下の様に分かれた。<br /> * ウツ→トラコニティス([[ガリラヤ湖]]東方)と[[ダマスカス]]<br /> * フル→[[アルメニア]]<br /> * ゲテル→[[バクトリア]]<br /> * マシュ→[[カラケネ王国|スパシヌー・カラックス]](メソポタミアの河口付近の地名)」<br /> <br /> 次にアルパクシャドの息子たちの系譜は長くなるので一部中略(詳しくは「[[アルパクシャド]]」を参照)、アルパクシャドから8代目の子孫が[[アブラハム]]で、彼や甥の[[ロト (聖書)|ロト]]はカルデアで生まれたが、中東に移住して[[イスラエル (民族)|イスラエル]]・[[エドム]]と[[ナバテア]]・[[ミデヤン人|ミデヤン]]などのアラビア半島&lt;ref&gt;アブラハムと後妻ケトラの孫になるエフェルのみ、[[古代リビュア|リビア]]に移住して「アフリカ」の語源になったとヨセフスは記述している。&lt;/ref&gt;の民族(以上アブラハム系)・[[モアブ]]・[[アンモン]](以上ロト系)といった民族の祖先となったとされ、その後『創世記』によればセムは600歳で死んだことになっている&lt;ref&gt;[[s:創世記(口語訳)#11:10|創世記(口語訳)#11:10,11]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 後の研究で[[ヘブライ語]]、[[アラム語]]、[[アラビア語]]や[[エチオピア]]の諸言語は比較言語学的に親縁関係にあることが明らかになり、[[アウグスト・シュレーツァー]]によってこのセムの子孫たちの神話にちなみ[[セム語派|セム語]]と名づけられた&lt;ref&gt;{{Cite journal |author=[[江村裕文]] |url=http://hdl.handle.net/10114/9348 |format=PDF |title=「アフロアジア」について |journal= |volume= |issue= |year=2014 |month= |publisher=[[法政大学]]国際文化学部 |page=35 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[イエメン]]の首都[[サナア]]を建設したと伝えられる&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=[[佐藤寛 (社会学者)|佐藤寛]] |year=1994 |title=イエメン―もうひとつのアラビア |publisher=アジア経済研究所 |isbn=978-4258050895 |page=27}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{Wiktionary|セム}}<br /> *『[[口語訳聖書|聖書 [口語] ]]』[[日本聖書協会]]、1955年<br /> *『[[新共同訳聖書|聖書 [新共同訳] ]]』日本聖書協会、1987年<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[セム族 (民族集団)]]<br /> <br /> {{アダムからダビデ}}<br /> <br /> {{Christ-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:せむ}}<br /> [[Category:創世記]]<br /> [[Category:都市の建設者]]</div> 49.236.225.167 パピルス 2018-07-05T23:45:27Z <p>49.236.225.167: /* 植物のパピルス */</p> <hr /> <div>{{参照方法|date=2012年12月}}<br /> {{otheruses|パピルス}}<br /> [[Image:Plato-Alcibiades.jpg|thumb|280px|[[プラトン]]の著作を記した写本&lt;!--時代不祥。小文字なのでだいぶ後だと思う--&gt;]]<br /> &#039;&#039;&#039;パピルス&#039;&#039;&#039;({{lang-en-short|papyrus}})は、[[カヤツリグサ科]]の植物の1種、またはその植物の地上茎の内部組織(髄)から作られる、[[古代エジプト]]で使用された文字の筆記媒体のこと(区別のためそれぞれ、&#039;&#039;&#039;パピルス草&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;パピルス紙&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる)。「紙」を意味する[[英語]]の「{{lang|en|paper}}」や[[フランス語]]の「{{lang|fr|papier}}」などは、パピルスに由来する。ただし、パピルスは一度分散した繊維を絡み合わせ膠着させて紙状に成形したものではないため、狭義の[[紙]]ではない。<br /> <br /> ==植物のパピルス==<br /> [[ファイル:Cyperus papirus Orto botanico di Palermo 0009.JPG|thumb|150px|カミガヤツリ]]<br /> {{main|カミガヤツリ}}<br /> &#039;&#039;&#039;パピルス&#039;&#039;&#039;({{sname|cyperus papyrus}}、和名:カミガヤツリ)は、[[カヤツリグサ科]]の[[多年生植物]]。パピルス草ともいい、地上茎の繊維を紙状に成形することで、文字などを記すことが出来る筆記媒体となる。<br /> <br /> ==筆記媒体のパピルス==<br /> ===製法===<br /> パピルスは次のような工程によって作られる。この製法は20世紀に入って、復元及び確立された物で、古代エジプト時代においても同様の工程で製造されたとされている。<br /> <br /> #材料として数mの高さがある草の中ほどの部分を切断する。材料を取る場所が茎の中ほどに近づくほど製品の質は高くなる。<br /> #刈り取った茎の皮(表皮・皮層・[[維管束]]の部分)を剥いで長さを揃え、針などを使って縦に薄く削ぎ、長い薄片を作る。茎は断面が三角形をなしていて広い面から薄片を削いでいくため、幅は少しずつ狭くなる。<br /> #薄片を川から汲んだ水に漬け、細菌が繁殖してある程度分解が始まるまで2日ほど放置する。<br /> #フェルトや布を敷いた台の上に少しずつ重ねながら並べ,更にその上に直交方向に同じように並べ、さらに布で覆う。<br /> #配列を崩さないように注意しながら槌などで強く念入りに叩いて組織を潰し、更に圧搾機やローラーなどで圧力を加えて脱水する。2、3日かけて圧搾・脱水させる。<br /> #乾いた布で挟んで乾かし、4日ないし1週間かけて日陰などで乾燥させる。<br /> #表面を滑らかな石や貝殻、また象など動物の牙などでこすって平滑にし、その後、縁を切り揃えて完成となる。<br /> <br /> 製作にはかなりの人手と日数を要した事、1枚1枚手作業によって製作されていたために高価だった。また、エジプト政府が使うためのパピルスを確保するために[[専売制]]も導入されていた。[[プトレマイオス朝]]時代の[[アッタロス朝|ペルガモン王国]]への禁輸も、同国の図書館と蔵書の数を競った為だけでなく、生産が間に合わずに品薄だったともいわれる 。<br /> <br /> それぞれの薄片が接着して一枚のシートとなるしくみは長い間謎となっていたが、今では膨潤して潰された植物組織が細菌の繁殖により粘性の物質に変化し、乾燥と同時に薄片どうしを強く接着するということが明らかになっている。<br /> <br /> パピルスの製法は、生産がエジプトその他で廃れて以来失われていた。[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]はその著書『[[博物誌]]』の中で、自身で実地に調査した製法を記していたが、薄片の接着については記述が曖昧であったので、その部分は後世論議の的になった。幾人かの人々が大プリニウスの記述をたよりに試行錯誤を重ね、20世紀に復元に成功している。パピルスの製造及び栽培は[[シチリア島]]や[[歴史的シリア|シリア]]でもしばらく行われており、現在でもパピルスが見られる。<br /> <br /> ===特性と使用法===<br /> [[Image:Egypt.Papyrus.01.jpg|thumb|280px|パピルスの巻物に書かれたエジプトの[[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]]]<br /> 完成した一枚のサイズ(幅)は最上質のものでは24cmほど、最も大きくて40cm程度、長さは25ないし30cmほどで厚さは0.1ないし0.25mmであった。<br /> <br /> 薄片を二層に接着して作るという構造上、表裏で繊維の向きが異なり、また折り曲げに弱いため冊子状にすることは難しいので,数枚から20枚程度のシートを[[アラビアゴム]]で長く繋ぎ合わせて[[巻物]]として使用された。一枚目をprotokóllonといってローマ人はそこに巻物の産地と日付を記した。この言葉は今でも「[[プロトコル]]」として[[外交]]や[[通信]]の用語として残っている。<br /> <br /> 巻き伸ばしの頻度の高い外側ほど強い良質なシートを使い、一番外側にはしばしば標題を記した[[羊皮紙]]のカバーを付けた。両端に巻物の幅より長い木の心棒を付け、読むときには片手で巻きを戻しつつ、もう一方の手で読み終わった部分を外側の心棒に巻き取りつつ読んだ。多くの巻物から必要な情報を探すには不便であったが、筆記用パピルスの、ギリシャなどへ盛んに輸出される前までの主な用途は副葬品である[[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]が大部分であったので巻物でも不便はなかった。古代ギリシアで作られた巻物は長くても10m内外だが、エジプトでは30mに及ぶものがあった。<br /> <br /> 製品には材料の薄片を取る部位などによって数等の等級があり、『博物誌』にはローマで流通する商品として八種類の名称が挙げられてある。高級品は純白で、罫線つきのものもあった。最低級品は包装用であった。しばしば古いものは表面を削って再利用されたり裏を使ったりされた。エジプトほど気候が乾燥していない地方ではパピルスは注意していないとカビなどに侵されやすかった。またローマでは古いパピルスを元の薄片に分解し、表面を削って文字を消したり傷んだ薄片を除いて新しいものと取り替えるなどして[[膠]]あるいは小麦粉から作った糊で張り合わせた再生品の販売も行われていた。<br /> <br /> 後にキリスト教徒が[[聖書]]を筆写するようになると、幾度も読み返したり検索したりする必要から[[コデックス]](冊子本)も作られるようになったが、強度上の問題があった。<br /> <br /> パピルスに筆記するためにはエジプトでは[[ヨシ|葦]]の[[ペン]]を使い、[[古代ギリシア|ギリシア]]やローマでは葦のほか[[青銅]]製のペンも使った。<br /> <br /> ===普及と衰退===<br /> プトレマイオス朝時代には、エジプトの輸出品として各地に広まった。フェニキア人の都市[[ビブロス]](現在の[[レバノン]]のジュバイル)がその[[ギリシャ]]向けの積み出し港だったのでビブロスの名がパピルスを意味する語に、また本を意味するようにもなり、現在英語で[[聖書]]を意味するBibleという言葉もそこから来ているとされる。<br /> <br /> 後に[[小アジア]]の[[ヘレニズム]]国家、ペルガモン王国に対する禁輸がもとで同国で羊皮紙の生産や文芸書への使用が奨励され、使いやすい羊皮紙が生産されるようになった。羊皮紙を意味するパーチメントはこのペルガモンに由来すると言われている。羊皮紙も高価ではあったが、強度があり両面に書けるなど冊子としての利用に適しており、誤字は削って書きなおし可能という利点があったので、エジプトから遠い地方で普及したが、全ての書き物を羊皮紙で置き換えるのは高くつくため、手紙やノートなどにはパピルスが使われ続けた。<br /> <br /> [[800年]]頃に中国から紙の製法が伝わるとやがてパピルスは生産されなくなった。その後、20世紀後半に入って専ら土産物として生産されるようになり、エジプト土産の一種としての地位を確立している。<br /> <br /> ==脚注==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> ==参考文献==<br /> *『パピルスの秘密 復元の研究』(大沢忍、みすず書房、1978年)<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[紙]]<br /> *[[写本]]<br /> *[[羊皮紙]]<br /> *[[不織布]]<br /> *[[アレクサンドリア図書館]]<br /> *[[デルヴェニ・パピルス]](ヨーロッパ最古の現存するパピルス)<br /> *[[パピルス学]]<br /> *[[トール・ヘイエルダール]](人類学者。パピルスの舟「ラー号」で大西洋を横断した)<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> {{Commons|Papyrus|パピルス紙}}<br /> *[http://www.elbardy.com/site/making/ {{lang|en|Papyrus Paper making}}]<br /> *[https://web.archive.org/web/20061031053423/http://www.papyrusinstitute.com/ パピルス研究所] - パピルスの製法を再発見した一人、エジプトの故ラガーブ博士の研究所の公式サイト。(2006年10月31日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])<br /> *[https://web.archive.org/web/20070819164213/http://www.hieroglyph.info/rest/rest_05.htm 現存するパピルスの文書](2007年8月19日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:はひるす}}<br /> [[Category:パピルス|*]]<br /> [[Category:カヤツリグサ属]]<br /> [[Category:草]]<br /> [[Category:古代エジプト文学]]<br /> [[Category:筆記媒体]]<br /> [[Category:紙の歴史]]<br /> [[Category:ナイル川デルタ]]</div> 49.236.225.167 東京国立近代美術館 2018-06-23T08:03:43Z <p>49.236.225.167: </p> <hr /> <div>{{博物館<br /> |名称 =東京国立近代美術館<br /> |native_name_lang = &lt;!-- en --&gt;<br /> |native_name =The National Museum of Modern Art, Tokyo<br /> |画像 =[[ファイル:National Museum of Modern Art, Tokyo.jpg|300px|center]]<br /> |imagesize = 300<br /> |alt =<br /> |画像説明 =本館外観(2008年10月)<br /> |pushpin_map = Tokyo city<br /> |map_size = 250<br /> |map_caption =<br /> |map dot label =<br /> |正式名称 =<br /> |愛称 =東近美、MoMAT<br /> |前身 =<br /> |専門分野 =<br /> |収蔵作品数 =<br /> |来館者数 =<br /> |館長 =<br /> |学芸員 =<br /> |研究職員 =<br /> |事業主体 =<br /> |管理運営 =<br /> |年運営費 =<br /> |建物設計 =[[谷口吉郎]]<br /> |延床面積 =14,439[[平方メートル|m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;]]<br /> |開館 =<br /> |閉館 =<br /> |所在地郵便番号 = 102-0091<br /> |所在地 = 東京都千代田区北の丸公園3番1号<br /> |位置 ={{coord|35|41|25.83|N|139|45|16.75|E|region:JP-13_type:landmark|display=inline,title}}<br /> |アクセス =<br /> |公式サイト ={{URL|http://www.momat.go.jp/}}<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;東京国立近代美術館&#039;&#039;&#039;(とうきょうこくりつきんだいびじゅつかん、英語:The National Museum of Modern Art, Tokyo、英略称:MoMAT)は、[[東京都]][[千代田区]][[北の丸公園]]内にある、[[独立行政法人]][[国立美術館]]が運営する[[美術館]]である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> &#039;&#039;&#039;本館&#039;&#039;&#039;および、&#039;&#039;&#039;工芸館&#039;&#039;&#039;から構成される。<br /> <br /> [[明治時代]]後半から現代までの近現代美術作品([[絵画]]・[[彫刻]]・[[水彩画]]・[[素描]]・[[版画]]・[[写真]]など)を随時コレクションし、常時展示した初めての美術館であり、それまで企画展等で「借り物」の展示を中心に行われていた日本の美術館運営に初めて「美術館による美術品収集」をもたらした。収蔵品は2016年(平成28年)度時点で、日本画839点、油彩画1,254点、版画3,051点、水彩・素描4089点、彫刻(立体造形)458点、映像56点、書21点、写真2,720点、美術資料666点、合計13,154点におよぶ&lt;ref&gt;『平成28年度 独立行政法人国立美術館 東京国立近代美術館活動報告』 2018年3月30日、p.6。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 開館時間は10:00~17:00(金曜日のみ20:00まで)、休館日は毎週月曜日(祝日の場合は翌日)および年末年始・展示替期間等。<br /> <br /> == 沿革 ==<br /> *[[1952年]]([[昭和]]27年)12月 - 文部省設置法(法律第168号)により、東京都[[中央区 (東京都)|中央区]]京橋の旧[[日活]]本社ビルの土地と建物を購入し、日本初の国立美術館([[文部省]]所轄)として開館。<br /> *[[1963年]](昭和38年)4月 - 京都市に京都分館が開館。<br /> *[[1967年]](昭和42年)6月 - 京都分館が[[京都国立近代美術館]]として独立。<br /> *[[1969年]](昭和44年)6月 - 千代田区北の丸公園の一画に新館を建設し、新たに本館として再開館。<br /> *[[1970年]](昭和45年)5月 - 京橋の旧本館がフィルムセンターとして開館。<br /> *[[1977年]](昭和52年)11月15日 - 工芸館開館。<br /> *[[1984年]](昭和59年)9月 - フィルムセンター収蔵庫にて出火、建物の一部と外国映画フィルムの一部を焼失するという事故([[フィルムセンター火災]])があり、非常に損失しやすい映画フィルムの保存に対して特別施設が必要との声が上がる。<br /> *[[1986年]](昭和61年)1月 - [[1984年]](昭和59年)10月に[[大蔵省]]から米軍[[キャンプ淵野辺]]跡地の土地所管換がなされたのを受けて、神奈川県相模原市にフィルムセンター相模原分館が完成する。<br /> *[[1991年]]([[平成]]3年)1月 - フィルムセンター京橋本館老朽化に伴い建て替え工事開始。<br /> *[[1995年]](平成7年)5月 - フィルムセンター京橋本館再開館(工事は前年に完了)。同時に「写真部門」を設置。<br /> *[[1999年]](平成11年) - 本館を移設してから30周年を迎えるにあたり、増築・改修工事開始。<br /> *[[2002年]](平成14年)1月16日 - 本館再開館(工事は前年8月に完了)。<br /> *[[2018年]](平成30年)4月1日 - フィルムセンターが国立美術館の映画専門機関となる「&#039;&#039;&#039;[[国立映画アーカイブ]]&#039;&#039;&#039;」として分離。<br /> <br /> == 本館 ==<br /> [[1969年]](昭和44年)6月、新館として千代田区北の丸公園の一画に開館する。新規の収集や文化財保護委員会からの美術品の管理換、また作家自身や収蔵家からの寄贈等が多くあり、収蔵規模に限界がきたことに伴う移転だった。近代美術館評議員であった[[ブリヂストン]]創業者の[[石橋正二郎]]個人が、工学博士谷口吉郎の設計による建物を新築し「寄贈」した。<br /> <br /> 企画展の規模拡大、さらにコレクションのさらなる増加、建物の老朽化が危惧され、[[2002年]](平成14年)1月まで約2年半におよぶ大規模な増築・改修工事が行われた。展示室の大幅な拡充、ライブラリ・視聴覚施設の充実(ライブラリの公開)、バリアフリー化、耐震工事のほか、館内に有名レストラン「クイーン・アリス アクア 東京」が併設された。<br /> <br /> 最寄りの[[鉄道駅]]は[[東京メトロ東西線]]「[[竹橋駅]]」。以前は特別展で多数の来客のために[[丸の内シャトル]]の延長運転や[[東京駅]]から無料のシャトルバスを運行していた。ただしシャトルバスは定員の少ない小型車で運行していたため積み残しが発生し乗車するために待たされた。(委託先は[[日立自動車交通]])<br /> <br /> == 工芸館 ==<br /> 1910年([[明治]]43年)に建設された[[大日本帝国陸軍]]の[[近衛師団]][[司令部]]庁舎を改修し、[[1977年]](昭和52年)11月15日に開館。建物は[[1972年]](昭和47年)に[[重要文化財]]に指定されている(玄関広間部分を除く内装は指定対象外)。<br /> <br /> 改修保存工事では、外観は屋根が[[桟瓦]]葺きから[[スレート]]葺きに変更されたのみだが、内部躯体は煉瓦壁の内側をコンクリート補強し、耐震・防音・断熱工事が施されており、中央階段付近以外は原型をとどめていない。<br /> <br /> 明治以降今日までの日本と外国の工芸及びデザイン作品を収集しており、特に多様な展開を見せた戦後の作品に重点がおかれている。なかでも、人間国宝の工芸家の作品については、極めて充実した内容となっており、陶磁器、ガラス、漆工、木工、竹工、染織、人形、金工、工業デザイン、グラフィックデザインなどの各分野にわたって、総数約3,700点(2017年3月現在)を収蔵している。&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.momat.go.jp/ge/wp-content/uploads/sites/2/2017/07/a79101c16402bb466ef442a95935191c.pdf|format=PDF|title=東京国立近代美術館 データ集(平成29年3月末現在)|publisher=東京国立近代美術館|accessdate=2017-10-16}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> なお、2020年を目処に所蔵作品の7割にあたる約1900点を[[金沢市]]の[[本多の森公園]]内に設ける「国立近代美術館工芸館」(仮称)に移転する予定である&lt;ref&gt;[http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/2016083102.html (独)国立美術館の東京国立近代美術館工芸館の石川県への移転に係る検討状況について] - 文化庁(平成28年8月31日)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 文化財 ==<br /> === 本館 ===<br /> 重要文化財<br /> * 絹本著色『賢首菩薩図』 [[菱田春草]]筆 1907年<br /> *『ゆあみ』(石膏原型) [[新海竹太郎]]作 1907<br /> *&#039;&#039;&#039;(2018年度指定見込み)&#039;&#039;&#039;『南風』[[和田三造]]筆 1907年&lt;ref&gt;[http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/1402236.html 「文化審議会答申〜国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について〜」](文化庁サイト、2018年3月9日発表)&lt;/ref&gt;<br /> *『裸体美人』 [[萬鐵五郎]]筆 1912年<br /> *『切通しの写生』 [[岸田劉生]]筆 1915年<br /> * 紙本著色『行く春図』六曲屏風一双 [[川合玉堂]]筆 1916年<br /> * 絹本著色『湯女図』二曲屏風一双 [[土田麦僊]]筆 1918年<br /> * 絹本著色『日高河清姫図』 [[村上華岳]]筆 1919年<br /> *『エロシェンコ像』 [[中村彝]]筆 1920年<br /> * 絹本墨画『生々流転図』1巻 [[横山大観]]筆 1923年<br /> * 絹本著色『三遊亭円朝像』 [[鏑木清方]]筆 1930年<br /> * 絹本著色『母子』 [[上村松園]]筆 1934年<br /> * 紙本著色『黄瀬川陣』六曲屏風一双 [[安田靫彦]]筆 1940・41年<br /> <br /> === 工芸館 ===<br /> 重要文化財<br /> * 旧近衛師団司令部庁舎 - 上記参照<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Nude Beauty by Tetsugoro Yorozu, 1912, oil on canvas - National Museum of Modern Art, Tokyo - DSC06537.JPG|萬鉄五郎『裸体美人』1912年(重要文化財)<br /> File:Three Stars by Shoji Sekine, 1919, oil on canvas - National Museum of Modern Art, Tokyo - DSC06583.JPG|関根正二『三星』1919年<br /> File:Portrait of Vasilii Yaroshenko by Tsune Nakamura, 1920, oil on canvas - National Museum of Modern Art, Tokyo - DSC06549.JPG|中村彜『エロシェンコ像』1920年(重要文化財)<br /> File:Kishida-ryusei000047.jpeg|岸田劉生『切通しの写生』(道路と土手と塀)1915年(重要文化財)<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|National Museum of Modern Art, Tokyo}}<br /> *[http://www.momat.go.jp/ 東京国立近代美術館] - 公式ウェブサイト<br /> * {{Twitter|MOMAT60th|【公式】東京国立近代美術館 広報}}<br /> * {{facebook|momat.pr|東京国立近代美術館 広報}}<br /> *{{Wayback|url=http://www6.ocn.ne.jp/~akarenga/konoesidansireibu.htm|date=20150617064515|title=旧近衛師団司令部(現・工芸館)の紹介}}<br /> <br /> {{日本の美術館 (公立)}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:とうきようこくりつきんたいひしゆつかん}}<br /> [[Category:国立美術館]]<br /> [[Category:東京都の美術館]]<br /> [[Category:日本の国立博物館]]<br /> [[Category:日本の近代美術館とギャラリー]]<br /> [[Category:1910年竣工の建築物]]<br /> [[Category:西洋館]]<br /> [[Category:1969年竣工の建築物]]<br /> [[Category:1994年竣工の建築物]]<br /> [[Category:東京都の重要文化財]]<br /> [[Category:千代田区の建築物]]<br /> [[Category:東京都中央区の建築物]]<br /> [[Category:1952年開業の施設]]<br /> [[Category:北の丸公園]]<br /> [[Category:第12回BCS賞]]<br /> [[Category:第46回BCS賞]]<br /> [[Category:千代田区の教育]]<br /> [[Category:東京都中央区の教育]]<br /> [[Category:東京・ミュージアムぐるっとパス対象施設]]</div> 49.236.225.167
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