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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=42.145.121.253&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-20T01:32:29Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 マウリヤ朝 2018-08-06T14:32:57Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = マウリヤ朝<br /> |日本語国名 = マウリヤ朝<br /> |公式国名 = {{lang|sa|&#039;&#039;&#039;मौर्यसाम्राज्यम्&#039;&#039;&#039;}}<br /> |建国時期 = [[紀元前322年]]<br /> |亡国時期 = [[紀元前185年]]<br /> |先代1 = ナンダ朝<br /> |先旗1 = blank.png<br /> |先代2 = 十六大国<br /> |先旗2 = blank.png<br /> |先代3 = セレウコス朝<br /> |先旗3 = blank.png<br /> |次代1 = シュンガ朝<br /> |次旗1 = blank.png<br /> |次代2 = サータヴァーハナ朝<br /> |次旗2 = blank.png<br /> |次代3 = インド・スキタイ王国<br /> |次旗3 = blank.png<br /> |国旗画像 = <br /> |国旗リンク = <br /> |国旗説明 = <br /> |国旗幅 = <br /> |国旗縁 = <br /> |国章画像 = <br /> |国章リンク = <br /> |国章説明 = <br /> |国章幅 = <br /> |標語 = <br /> |国歌名 = <br /> |国歌 = <br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 = Maurya Dynasty in 265 BCE.jpg<br /> |位置画像説明 = [[265年]]、アショーカ王の頃の版図<br /> |公用語 = [[インド語派|古インド語]]&lt;br/&gt;([[サンスクリット]]、[[プラークリット]]<br /> |首都 = [[パータリプトラ]]<br /> |元首等肩書 = [[:en:Samraat|Samraat]](皇帝)<br /> |元首等年代始1 = [[紀元前320年]]代<br /> |元首等年代終1 = [[紀元前298年]]頃<br /> |元首等氏名1 = [[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]<br /> |元首等年代始2 = [[紀元前268年]]<br /> |元首等年代終2 = [[紀元前232年]]<br /> |元首等氏名2 = [[アショーカ王|アショーカ]]<br /> |元首等年代始3 = [[紀元前187年]]<br /> |元首等年代終3 = [[紀元前180年]]<br /> |元首等氏名3= {{仮リンク|ブリハドラタ・マウリヤ|en|Brihadratha Maurya|label=ブリハドラタ}}<br /> |首相等肩書 = <br /> |首相等年代始1 = <br /> |首相等年代終1 = <br /> |首相等氏名1 = <br /> |面積測定時期1 = <br /> |面積値1 = <br /> |人口測定時期1 = <br /> |人口値1 = <br /> |変遷1 = 建国<br /> |変遷年月日1 = [[紀元前322年]]<br /> |変遷2 = <br /> |変遷年月日2 = <br /> |変遷3 = 滅亡<br /> |変遷年月日3 = [[紀元前185年]]<br /> |通貨 = パナ<br /> |時間帯 = <br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |注記 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;マウリヤ朝&#039;&#039;&#039;(マウリヤちょう、{{lang-sa-short|मौर्यसाम्राज्यम् 、Maurya-sāmrājya}}、[[紀元前4世紀|紀元前317年]]頃 - [[紀元前2世紀|紀元前180年]]頃)は、古代[[インド]]で栄えた[[マガダ国]]に興った王朝である。紀元前317年頃、[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]によって建国された。[[アショーカ王]]の時に全盛期を迎え、南端部分を除く[[インド亜大陸]]全域を統一した。しかしアショーカ王の死後国家は分裂し、[[紀元前2世紀]]初頭、[[シュンガ朝]]の勃興により滅亡した。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 成立 ===<br /> いわゆる[[十六大国]]の中でも最も有力であった[[マガダ国]]では[[ナンダ朝]]が支配を確立していた。しかしナンダ朝は[[シュードラ]]([[カースト]]の中で最下位)出身であったことから[[バラモン教]]の知識人たちによって忌避されていた。こうした状況下にあって、マガダ国出身の青年[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]がナンダ朝に反旗を翻して挙兵した。これに対しナンダ朝は将軍[[バドラシャーラ]]({{lang|sa|Bhadraśāla}})を鎮圧に当たらせたが、チャンドラグプタはこれに完勝し、紀元前317年頃に首都[[パータリプトラ]]を占領してナンダ朝の王{{仮リンク|ダナナンダ|en|Dhana Nanda}}を殺し({{仮リンク|ナンダ朝の滅亡|en|Conquest of the Nanda Empire|}})、新王朝を成立させた。これがマウリヤ朝である。<br /> <br /> こうして[[ガンジス川]]流域の支配を確立したチャンドラグプタは[[インダス川]]方面の制圧に乗り出した。インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前に[[マケドニア王国|マケドニア]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によって制圧されていたが、アレクサンドロスが[[紀元前4世紀|紀元前323年]]に死去すると彼の任命した総督([[サトラップ]])達の支配するところとなっていた。<br /> <br /> [[ディアドコイ戦争]]中の[[紀元前4世紀|紀元前305年]]、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指した[[セレウコス1世]]がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し({{仮リンク|セレウコス・マウリヤ戦争|en|Seleucid-Mauryan War|}})、セレウコス朝に4州の支配権を認めさせてインダス川流域から[[バクトリア]]南部にいたる地域に勢力を拡大した。これが直接的な戦闘の結果であるのかセレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり判然としない。<br /> <br /> [[紀元前3世紀|紀元前293年]]頃チャンドラグプタが死ぬと、彼の息子[[ビンドゥサーラ]]が王となり更なる拡大を志向した。ビンドゥサーラの治世は記録が乏しい。彼は[[デカン高原]]方面へ勢力を拡大したとする記録があるが、実際には既に制圧済みだった領内各地で発生した反乱を鎮圧する一環だったとする説もある。ビンドゥサーラの息子に史上名高い[[アショーカ]]がいた。ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、[[タキシラ|タクシラー]]で発生した反乱に際してアショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせたが、アショーカは現地の人心掌握に成功して反乱を収めたという伝説がある。<br /> <br /> === アショーカ王 ===<br /> [[紀元前3世紀|紀元前268年]]頃ビンドゥサーラ王が病死すると、アショーカは急遽派遣先から首都パータリプトラに帰還し、長兄([[スシーマ]]?)を初めとする兄弟を全て(仏典によれば99人)殺害して王となったと伝えられる。しかしこれは王位継承の争いが後世著しく誇張されたものであるらしく、実際にはアショーカ王治世に各地の都市に彼の兄弟が駐留していたことが分かっている。とはいえ、彼の即位が穏便に行かなかった事は、彼が戴冠式を行ったのが即位の4年後であったことや、大臣達の軽蔑を受け忠誠を拒否するものが続出したという伝説などからも窺われる。アショーカ王は国内での反乱の鎮圧や粛清を繰り返しながら統治体制を固め、[[紀元前3世紀|紀元前259年]]頃、南方の[[カリンガ国]]への遠征を行った。カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。<br /> <br /> [[ファイル:Maurya MAP.png|thumb|left|300px|アショーカ王による最大勢力範囲]][[ギリシア人]][[メガステネス]]の記録によればカリンガ国は歩兵6万・騎兵1千・戦象7百を擁する一大勢力であったとあり、マウリヤ朝の中央インド統治にとって最大の障害であった。激戦の末カリンガを征服したが、この時の戦争で多数の人命が失われた(当時の記録によれば多数の徳のある[[バラモン]]が死に、捕虜15万人のうち10万人の人が死に、その数倍もの人々も死んだとある。)。カリンガ国の征服によってマウリヤ朝は南端部を除く全インドと現在の[[アフガニスタン]]を含む巨大帝国となったが、アショーカ王はカリンガ戦争のあまりに凄惨な被害を目にして自らの行いを悔い、それまで信者ではあっても熱心ではなかった[[仏教]]を深く信奉するようになり、[[ダルマ]](法)による統治を目指すようになったという。<br /> <br /> 誇張はあるであろうが、アショーカ王が仏教を深く信仰したことは数多くの証拠から明らかであり、実際カリンガ戦争以後拡張政策は終焉を迎えた。仏教に基づいた政策を実施しようとした彼は[[ブッダガヤ]]の[[菩提樹]]を参拝すると共に、自分の目指したダルマに基づく統治が実際に行われているかどうかを確認するために領内各地を巡幸して回った。アショーカ王の事跡は後世の[[仏教徒]]に重要視され多くの仏典に記録されている。<br /> <br /> === 滅亡 ===<br /> アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があるが記録が乏しくその最後はよくわかっていない。[[チベット]]の伝説によればタクシラで没した。アショーカ王には数多くの王子がいた。彼らは総督や将軍として各地に派遣されていたがその多くは名前もはっきりとしない。そして王位継承の争いがあったことが知られているが、その経緯についても知られていない。いくつかの伝説や仏典などの記録があるが、アショーカ王以後の王名はそれらの諸記録で一致せず、その代数も一致しないことから王朝が分裂していたことが想定されている。<br /> <br /> いくつかの[[プラーナ文献]]によればアショーカ王の次の王は王子[[クナーラ]]であったが、彼はアショーカ王の妃の1人ティシャヤラクシターの計略によって目をえぐられたという伝説がある。クナーラ以後の王統をどのように再構築するかは研究者間でも相違があって容易に結論が出ない問題である。しかし分裂・縮小を続けたマウリヤ朝はやがて北西インドで勢力を拡張する[[ヤヴァナ]]([[インド・グリーク朝|インド・ギリシア人]])の圧力を受けるようになった。『ガールギー・サンヒター』という天文書には、予言の形でギリシア人の脅威を記録している。<br /> {{quotation|<br /> …暴虐かつ勇猛なヤヴァナは[[サーケータ]]を侵略し、[[パンチャーラ]]、[[マトゥラー]]も侵し花の都(パータリプトラ)にも到達するであろう。そして全土は確実に混乱するであろう。…<br /> |『ガールギー・サンヒター』}}<br /> <br /> マウリヤ朝最後の王は仏典によれば沸沙蜜多羅&lt;ref&gt;漢字表記法は一定しない。沸沙蜜多羅という表記は『雑阿含経』による。&lt;/ref&gt;([[プシャミトラ]])、プラーナ聖典によれば{{仮リンク|ブリハドラタ・マウリヤ|en|Brihadratha Maurya|label=ブリハドラタ}}であった。これはブリハドラタとする説が正しいことがわかっている。プシャミトラはブリハドラタに仕えるマウリヤ朝の将軍であり、北西から侵入していたギリシア人との戦いで頭角を現していった。そして遂にはブリハドラタを殺害してパータリプトラに新王朝[[シュンガ朝]]を建て、マウリヤ朝は滅亡した。その時期は[[紀元前2世紀|紀元前180年]]頃であったと考えられている。<br /> <br /> == 王朝名の由来 ==<br /> マウリヤ朝という王朝名の由来は正確には分かっていない。幾つかの伝説やそれに基づく学説が存在するが現在の所結論は出ていない。<br /> *チャンドラグプタが[[パトナ]]地方のモレ({{unicode|More}})又はモル({{unicode|Mor}})の出身であったことから。<br /> *[[クジャク|孔雀]]を意味する語(マユーラ〈{{lang-sa-short|Mayūra}}〉、モーラ〈{{lang-pi-short|Mora}}〉)から。<br /> *チャンドラグプタの母の名、ムラーから。<br /> <br /> この他にも様々な説があるが、いずれも問題が多い。出身地名に基づくという説についてはチャンドラグプタの出身地を証明する証拠が何も存在しない。別の伝説ではチャンドラグプタの出身地は[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]の丘陵地帯であるとするものもある。孔雀を意味するという説は後世様々な仏典で採用され、中国語名の孔雀王朝もこれに由来するがマウリヤ朝が孔雀に何らかの特別な意味を持たせていた証拠はない。単に音声の類似によった俗説である可能性が高い。そして、母名についてもチャンドラグプタの母名が本当にムラーであったかどうか確認する手立てがないのである。<br /> <br /> == 遺構 ==<br /> [[画像:Emblem of India.svg|thumb|left|アショーカ王の獅子の柱頭]]マウリヤ朝の歴代王達は主にパータリプトラに宮殿を構えた。チャンドラグプタ王を始め、彼らが建設した宮殿については記録が乏しく遺構も殆ど残されていない。アショーカ王以前、パータリプトラの建造物は主要な宮殿や城壁も含めてほぼ木造であり、現在その面影を偲ばせるものは無い。その他の主要都市についても大同小異であり、農村部については現在の所まとまった研究成果も少ない。<br /> <br /> チャンドラグプタ王の宮殿についてはギリシア人メガステネスによる記録が残存しているが、実際の姿がよく知られているとは言えない。ただし、アショーカ王の宮殿はマウリヤ朝の宮殿の中では少ないながらも記録が残されており、その遺跡も発見されている。彼の宮殿の遺跡はパータリプトラの南方、現在のクムラーハル村に存在した。宮殿はレンガ作りであり、ペルシア建築の影響を受けたと考えられる石柱が並んでいた。<br /> <br /> 宮殿に限らずマウリヤ朝時代の建造物として残るものはその多くがアショーカ王ゆかりのものである。アショーカ王が各地に建てた仏塔、石柱や、カリンガ国征服の際に法勅を刻んだ摩崖、及びそれと同種の物が[[インド]]・[[パキスタン]]の各地で発見されており、これによってアショーカ王時代のマウリヤ朝の征服範囲が推定されている。アショーカ王が数多くの遺構を残していることは彼の時代のマウリヤ朝の国力を証明するものである。<br /> <br /> こういった事情のため、マウリヤ朝の歴史や国制の研究はアショーカ王時代についての部分が多くを占める。<br /> <br /> == 国制 ==<br /> === 宮廷 ===<br /> 君主制国家の常として宮廷が政治に占める割合は大きかった。内部組織などはなお不明点が多いが、残されたいくつかの記録から当時の宮廷生活の一部を復元することが可能である。<br /> <br /> ==== 王の生活 ====<br /> マウリヤ朝の王は、初代王となったチャンドラグプタの側近であった[[カウティリヤ]]の思想の影響を強く受けたといわれている。彼は『[[実利論]]』として知られる著作を残しており、後世のイタリアの思想家[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェリ]]とよく比較される。<br /> {{quotation|<br /> …王は眠りより覚めた時、弓を持つ女達によって囲まれる。第2室において衣を奉ずる者、冠を奉ずる者、老いた[[宦官]]、下僕によって囲まれる。第3室において背虫、侏儒(小人?)、林に住む人によって囲まれる。第4室において顧問官、親族、槍を持った門兵によって囲まれる…<br /> |『実利論』}}<br /> この実利論の文章はあくまで机上のものであり、また後世変更が加えられている可能性もあるが、当時のあるべき王の姿の一端を見せるものである。<br /> <br /> ギリシア人メガステネスの記録によれば、王は諸々の陰謀に備えるために昼間に眠るような事はなく、暗殺を恐れて寝台を常に移動させていたという。[[裁判]]のために外出した時には一日それを妨げることを許さず、時に按摩をされながら訴訟を聞き続けたという。また、アショーカ王は自身の残した碑文の中で、いつ如何なる時でも上奏と裁可を絶やさない事を宣言している。<br /> <br /> マウリヤ朝の初期の王達は狩猟を頻繁に行った。特に2,3人の女性を伴って狩猟に向かったが、移動の際には王が通る道は縄で区切られ、その中に侵入した者は死刑となった。狩猟の際には王は囲いの中で台座から獲物に矢を放つが、囲いの無い場所で狩猟をする際には象の上から矢を放ったという。チャンドラグプタ時代の宮廷の様子を記したメガステネスの記録は、その物々しさを伝えている。<br /> <br /> 当時、王が狩猟を行うことの是非について論争があり、狩猟をすべきだという主張が採用された。この論争の際、カウティリヤは王の心身の鍛錬に有効であるとして狩猟を大いに奨励し、チャンドラグプタ王からアショーカ王の時代まで王が各地に巡幸して狩猟を行うことが慣習化されていた。狩猟の習慣はアショーカ王の治世10年に廃止され、代わりにダルマに基づいた政治を各地に伝え、それが実際に行われているかどうかを見て回る「法の巡幸」が行われるようになった。<br /> <br /> ==== 後宮 ====<br /> 多くの古代王朝と同じくマウリヤ朝の王達も複数の王妃を迎えるのが一般的であった。アショーカ王の文書の中には「諸々の皇子と他の王妃の諸王子」という文言が登場するものがあるが、これは前者がアショーカ王の息子達、後者がアショーカ王の異母兄弟を指すといわれ、両者の間には地位上の差があったことが推測される。しかし具体的な相違はよく分かっていない。<br /> <br /> 後宮が制度として存在したのは確実であり、メガステネスの記すところによれば女官が王を殺害しその息子と結婚して王妃に収まることがあったと記録されている。ただし彼がインドを訪れたのは初代王チャンドラグプタの治世なので、この説話はナンダ朝等マウリヤ朝以前の王朝、あるいは他国の話を受けたものか、当時王に脅威として恐れられていた事態を書いただけのものであるかもしれない。<br /> <br /> === 統治機構 ===<br /> マウリヤ朝は高度に発達した政府組織を保持していたが、ここもやはり史料的制約によって全貌は今なお知られていない。主にアショーカ王時代の勅令などからは「会議」(パリシャド {{lang|sa|Pariṣad}})などの政府組織や、「大官」(マハーマートラ {{lang|sa|Mahāmātra}})などの官職などが復元されうる。<br /> <br /> ==== 「会議」 ====<br /> 王の意思を実行するために高度な[[官僚]]制が整えられていたが、王の直下にあって最も重要な政府組織は「会議」と呼ばれるものであった。王の命令は先ずこの「会議」に伝えられ、これに参加する責任者によって大官など各官僚に伝達された。<br /> <br /> 王の命令を実行するに際しては先にこの「会議」において検討がなされ、再考を要すると判断された時には上奏官(プラティヴェーダカ {{lang|sa|Prativedaka}})を介して王にそのことが伝えられた。「会議」内で意見の対立があった時にはやはり上奏官によって王に伝えられ決裁がなされた。<br /> <br /> こういった「会議」の役割を推定する根拠の1つとして、[[アショーカ王碑文]]のうちに以下のようにある。<br /> {{quotation|<br /> 余の詔勅について、又は緊急事態について大官の間に委任されたことに関して、会議において論争、又は修正動議のある場合には、余が何処にいたとしても、何時如何なる場合でも、即時これを奏文すべし<br /> }}<br /> <br /> ==== 「大官」 ====<br /> 「会議」によって指揮される「大官」は、役人の中でも最高位に属した人々であった。全貌は不明ながらアショーカ王の詔勅碑文によって少なくても以下に示す4つの役職が大官と呼ばれる地位にあったことが知られている。<br /> *都市執政官 (ナガラ・ヴィヤーヴァハーリカ {{lang|sa|Nagara vyāvahārika}})<br /> *法大官 (ダルマ・マハーマートラ {{lang|sa|Dharma mahāmātra}})<br /> *辺境大官 (アンタ・マハーマートラ {{lang|sa|Anta mahāmātra}})<br /> *婦人管理官 (ストリャディヤクシャ・マハーマートラ {{lang|sa|Stryadhyakṣa mahāmātra}})<br /> <br /> 都市執政官はマウリヤ朝支配下の各大都市に置かれ、一般に都市の行政・司法を司っていた。また1地方の長官としての性格も持ち、各地の総督である王族の管理下に置かれていた。アショーカ王はこれら都市執政官に対し5年毎に管理下の諸地方を視察して回るように指示を出している。<br /> <br /> 法大官はアショーカ王の治世13年目([[紀元前3世紀|紀元前255年]]頃)に新設された役職である。この役職は民衆や地方の領主に対し法(ダルマ)を流布すると共に、仏教教団に対する布施や慈善事業(この2つは不可分の存在であった)を担当した。<br /> <br /> 辺境大官は主に国境地帯に派遣され辺境民を統括する役割を負った。この役職は中央の大官とは区別されていたと考えられる。<br /> <br /> この大官(マハーマートラ)という役職はこの時代のインドに特徴的な役職であり、マウリヤ朝や[[サータヴァーハナ朝]]で用いられたが、その後は全く姿を消した。<br /> <br /> ==== その他の役人 ====<br /> 国家が統制する事業には様々な役人が関与していた。そうした役人の中で重要視されたと考えられている役職として軍用の家畜を司る役人がいた。<br /> <br /> カウティリヤの実利論には馬政長官と象政長官の役割が詳細に述べられている。これらはその名の通り馬や象の飼育を担当していた。馬と象が軍事に直結することから国家の管理下に置かれていたことは確実であり、特に象の飼育はマウリヤ朝時代には王の独占事業であった。当時マウリヤ朝が膨大な数の[[戦象]]を有していたことはギリシア人の記録に詳しい。インド産の象は[[セレウコス朝]]を介して地中海方面でも軍事運用された。<br /> <br /> アショーカ王の詔勅には飼象林(ナーガヴァナ {{lang|sa|nāgavana}})に言及するものがあり、実利論に述べられたものと同種の官職が存在したことが類推される。<br /> <br /> こうした官吏の任用がどのように行われたのか、即ちインドに存在する[[カースト制]]との関係がどのようなものであったのかについては議論がある。カウティリヤの『実利論』では能力主義的とも言える人材任用が説かれてはいるが、これがそのまま実践されたとは考えられていない。メガステネスの記録には「戦士」・「高級役人」・「監督官」などの「カースト」が記録されており、少なくても出自が官吏任用に影響しなかったとは考えられない。最近の学説においてもカーストは人材登用において大きな比重を占めたという説が有力である。<br /> <br /> === 地方統治 ===<br /> マウリヤ朝は一般に[[中央集権]]的な政治体制を希求したといわれており、実際に王の権限が非常に強い王朝であったが、当時一体性を持った国家としての認識はなされていなかったと考えられる。アショーカ王の残した碑文などから、当時の認識が「マウリヤ帝国と言う1つの巨大な国家を支配するアショーカ王」ではなく、「マガダ国の王であるアショーカ王が他国をも支配している」というものであったことが知られる。このことはアショーカ王を初めマウリヤ朝の王達が単に「マガダ王 &#039;&#039;rajan magadha&#039;&#039;」としか称しておらず、全体を総称するような名前が無かったことに現れている。<br /> <br /> アショーカ王の詔勅などからマウリヤ朝の領土はいくつもの属州に分けられていたことが分かり、本国たるマガダ国の他に少なくても4つの属州があったことが知られている。これらの属州には王族の男性が総督として派遣された。当時マウリヤ朝の地方の領主の中にも王(&#039;&#039;rajan&#039;&#039;)を称するものは幾人もいたことが知られているが、彼らはアショーカ王の治世末期よりマウリヤ朝が弱体化するとただちに分離の動きを起こしている。<br /> <br /> アショーカ王の詔勅の中には「これが全ての場所に適合するものではない。なぜならば我が領土は広いからである。」と言う文言があるものがある。これに見られるように場所によって異なる詔勅、法律が発せられ全領土に画一的な統治体制が敷かれるようなことはなかった。道路網の整備など地方支配のためのインフラ整備は熱心に行われていたが中央集権という点においては最盛期の王アショーカの時代にあっても完成には程遠かったと考えられる。<br /> <br /> このため地方統治にあたって重要視されたのがスパイ網であった。ギリシア人達の記録によれば「エピスコポイ、エフィオロイ」と言う監督官が各地で不穏な動きを監視していたという。『実利論』でもスパイは極めて重要視されているが、ギリシア人の記録からスパイ網の整備が実際に高度に発展していたことが理解される。<br /> <br /> == 経済 ==<br /> === 農業 ===<br /> インドの農業生産性の高さは多くの識者によって指摘されるところであり、当時の記録にもその豊かさが随所に著されている。こういった農業生産性を実現したマウリヤ朝時代の農業政策として大規模な[[灌漑]]事業が上げられる。インドにおける大規模灌漑事業の多くはマウリヤ朝時代に端を発する。当時貯水池と[[運河]]の建設が非常に重要視され、専門の官僚が置かれていた。<br /> <br /> これによって農業生産性は向上したと考えられるが、他の点について前の時代の農業と特に変化した点は認められていない。農産物に対しては収穫の数分の1を租税として徴収していたと考えられ、恐らくは最も基本的な税源でもあった。また国家によって整備された灌漑施設によって供給される水には使用料金がかけられていた。<br /> <br /> しかし農業生産性は向上したものの、農民生活はさほど豊かではなかったらしい。当時の浮き彫りなどからは農民のみすぼらしさが読み取れ、恐らくそれまでの時代と比較してその生活が向上するようなことはなかった。<br /> <br /> === 流通 ===<br /> マウリヤ朝は国内のインフラ整備に著しい努力を払った。当時水運はもちろん重要なものであったが、カウティリヤの献策もあって陸上交通網の整備が推し進められた。ギリシア人の記録によれば初代王チャンドラグプタの時代には王の道(ホドス・バシリケ Hodos basilike)が整えられ、駅亭が多数設けられ、一定区間ごとに距離と分岐路の情報を記した柱が立てられたという。王の道という名は[[アケメネス朝]]のそれをギリシア人が連想して付けた名であるかもしれない。アショーカ王時代には道にそって並木を植え、一定区間ごとに給水所と休憩所を設けたことを自身の碑文で謳っている。また彼の記録によって、彼以前の王達も交通網の整備を1つの義務として熱心に推し進めていたことが知られる。<br /> <br /> また、軍事・徴税などの利便を図るために領内各地に「倉庫」が設けられた。このことは倉庫の位置を示す銅版が出土したことによって知られ「緊急のために」造られたという。税として集められた米はまずこの倉庫に納められ、専門の役人がその量を測った。<br /> <br /> こうした交通網の整備は当然商業の隆盛を喚起したと考えられるが、当時商人が特に強い政治的影響力を発揮した痕跡は伺われない。ただし対外貿易を含めた商品のやり取りは確かに活発であり、部分的ながら[[貨幣経済]]も既に定着していたし、遠くオリエントまでインド商人の活動範囲は広がっており、[[仏教]]教団は各地の富豪と深く結びついていた。武器を作る職人や船大工は免税特権を持ち、国家からの俸給を受けていたと記録されている。<br /> <br /> == 軍事 ==<br /> ギリシア人[[プリニウス]]の記録によればパータリプトラの王は歩兵60万・騎兵3万・戦象9千を保有したとされ、別の記録ではチャンドラグプタは40万の兵員を擁したという。同じ時代の記録にカリンガ王の兵員が歩兵6万・騎兵1千・戦象7百、アーンドラ王の兵員が歩兵10万・騎兵2千・象1千とあることを考えればマウリヤ朝の軍事規模が際立って大きかったことは理解できる。<br /> <br /> 仏典などによれば当時インド地方の兵科は象兵・[[チャリオット|戦車]]・歩兵の3軍、そしてナンダ朝時代には騎兵が加わって4軍とするのを基本としたという。マウリヤ朝の軍制もこれに沿ったものであると考えられる。特に象兵は重要視され、『実利論』では戦闘の勝利は主に象によってもたらされるとされた。<br /> <br /> こういった軍の兵員は主に傭兵的な集団によって供給され、その俸給は国庫から支給された。ギリシア人の記録にはこうした「戦士」は1つのカーストを形成したとあるが、実際には軍には様々な出自の兵が参加していた。『実利論』によれば兵士達はカースト毎に編成され、バラモン軍・クシャトリヤ軍・ヴァイシャ軍・シュードラ軍(それぞれ4つのカーストの名)があったとあり、仏典にも類似した記録がある。ギリシア人の記録から、専門的な傭兵集団がいたことが推測されるが、彼らのみによって軍が形成されていたということは無いようである。<br /> <br /> == 宗教 ==<br /> マウリヤ朝は何と言っても仏教との関わりによって重要視される。アショーカ王が熱心に仏教を信奉したのは広く知られる所である。彼の勅令に当時主要な宗教集団として[[仏教]]・[[バラモン教]]・[[アージーヴィカ教]]・[[ジャイナ教]]が上げられている。<br /> <br /> 当時宗教者の中でも最も重要視されたのは[[バラモン]](婆羅門)と[[沙門]](しゃもん、{{lang|sa|Śramaṇa}} シュラマナ)であった。インドにおいてバラモン層の補佐役が常に国王の補佐官となっていたことは『実利論』や仏典の記録にもあり、また国家行事としての祭祀を執り行う立場でもあった。<br /> <br /> バラモンと並び称される沙門とは、一般に[[ヴェーダ]]聖典の権威を認めない宗教者を指した語であり、バラモン教以外の宗教権威者の総称であった。当時仏教やジャイナ教の修行者は沙門とよばれた。両者はギリシア人にはバラモン(ブラクマナス)と沙門(サルマナス)はともに哲人という階級として記録され、最も数は少ないが最も地位が高く、最大の尊敬を得ており、肉体を持って働く必要は無く、他人を支配することなく、他人に支配されることもない、とある。<br /> <br /> しかしマウリヤ朝時代、王による宗教者への統制は非常に強力であったと考えられ、彼らは免税などの特典や布施としての土地を与えられることは確かにあったが、ギリシア人らの記録にあるほど超然とした存在であったとは考えられない。<br /> <br /> マウリヤ朝の王の多くはアショーカ王をはじめとし[[ダシャラタ]]王なども様々な教団に対する寄進を記録させており、教団に対する国家からの物質的・法律的保護が極めて大きかったが、当時「殺してはならない者」とされていたバラモンでさえ頻繁に死刑の対象となっており、教義にも王権による介入がしばしば行われた。<br /> <br /> == 歴代君主 ==<br /> *[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]<br /> *[[ビンドゥサーラ]]<br /> *[[アショーカ王|アショーカ]]<br /> *クナーラ<br /> *バンドゥパーリタ<br /> *ダショーナ<br /> *ダシャラタ<br /> *サムプラティ<br /> *シャーリシューカ<br /> *デーヴァヴァルマン<br /> *シャタダンヴァン<br /> *{{仮リンク|ブリハドラタ・マウリヤ|en|Brihadratha Maurya|label=ブリハドラタ}}<br /> <br /> クナーラ以降の王統の再建には諸説あり、また王朝は分裂して同時期に複数の王がいたと考えられる。従って表の通りに上から下へ順に王位が継承されたわけではない。<br /> <br /> ==脚注==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[バラモン教]]<br /> *[[仏教]]<br /> *[[ジャイナ教]]<br /> *[[アージーヴィカ教]]<br /> *[[ナンダ朝]]<br /> *[[シュンガ朝]]<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{Commons category|Mauryan Empire}}<br /> *[[中村元 (哲学者)|中村元]] 『中村元選集 第5巻 インド古代史 上』 春秋社、1963年。<br /> *中村元 『中村元選集 第6巻 インド古代史 下』 春秋社、1966年。<br /> *中村元 『中村元選集[決定版] 第6巻 インド史Ⅱ』 春秋社、1997年。<br /> *[[山崎元一]] 『世界の歴史3 古代インドの文明と社会』 中央公論社、1997年。<br /> *[[加藤九祚]] 『アイハヌム 2001』 東海大学出版会、2001年。<br /> *初期王権編纂委員会 『古代王権の誕生2 東南アジア・南アジア・アメリカ大陸編』 角川書店、2003年。<br /> <br /> {{インドの王朝}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:まうりやちよう}}<br /> [[Category:マウリヤ朝|*]]<br /> [[Category:古代インド]]</div> 42.145.121.253 西ローマ帝国 2018-08-03T14:01:49Z <p>42.145.121.253: 正式な国名はローマ帝国です。</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2009年9月}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = 西ローマ<br /> |日本語国名 = ローマ帝国<br /> |公式国名 = &#039;&#039;&#039;{{aut|Imperium Romanum}}&#039;&#039;&#039;<br /> |建国時期 = [[395年]]<br /> |亡国時期 = [[476年]]/[[480年]]<br /> |先代1 = ローマ帝国<br /> |先旗1 = Vexilloid of the Roman Empire.svg<br /> |先旗1縁 = no<br /> |次代1 = 東ゴート王国<br /> |次代2 = 西ゴート王国<br /> |次代3 = ヴァンダル王国<br /> |次代4 = ブルグント王国<br /> |次代5 = フランク王国<br /> |国旗画像 = <br /> |国旗リンク = <br /> |国旗幅 = <br /> |国旗縁 = <br /> |国章画像 = Labarum.svg<br /> |国章リンク = [[ラバルム]]<br /> |国章幅 = <br /> |標語 = <br /> |標語追記 = <br /> |国歌 = <br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 = Western Roman Empire.png <br /> |位置画像説明 = [[395年]]頃の領域<br /> |位置画像幅 = <br /> |公用語 = [[ラテン語]]<br /> |首都 = メディオラーヌム&lt;br /&gt;<br /> &lt;small&gt;(現[[ミラノ]]、[[286年]]-[[402年]])&lt;/small&gt;&lt;br /&gt;<br /> ラウェンナ&lt;br /&gt;<br /> &lt;small&gt;(現[[ラヴェンナ]]、[[402年]]-[[476年]])&lt;/small&gt;<br /> |元首等肩書 = [[皇帝]]<br /> |元首等年代始1 = [[395年]]<br /> |元首等年代終1 = [[423年]]<br /> |元首等氏名1 = [[ホノリウス]](西ローマ初代・テオドシウス朝第2代)<br /> |元首等年代始2 = [[423年]]<br /> |元首等年代終2 = [[455年]]<br /> |元首等氏名2 = [[ウァレンティニアヌス3世]](テオドシウス朝最後)<br /> |元首等年代始3 = [[455年]]<br /> |元首等年代終3 = [[455年]]<br /> |元首等氏名3 = [[ペトロニウス・マクシムス]](テオドシウス朝断絶後の初代)<br /> |元首等年代始4 = [[475年]]<br /> |元首等年代終4 = [[476年]]<br /> |元首等氏名4 = [[ロムルス・アウグストゥルス]](最後)<br /> |元首等年代始5 = [[474年]]<br /> |元首等年代終5 = [[480年]]<br /> |元首等氏名5 = [[ユリウス・ネポス]](事実上最後)<br /> |首相等肩書 = <br /> |首相等年代始1 = <br /> |首相等年代終1 = <br /> |首相等氏名1 = <br /> |面積測定時期1 = <br /> |面積値1 = <br /> |人口測定時期1 = <br /> |人口値1 = <br /> |変遷1 = ローマ帝国の東西分裂<br /> |変遷年月日1 = [[395年]]<br /> |変遷2 = テオドシウス朝断絶<br /> |変遷年月日2 = [[455年]]<br /> |変遷3 = ロムルス・アウグストゥス退位<br /> |変遷年月日3 = [[476年]]<br /> |変遷4 = ユリウス・ネポス殺害<br /> |変遷年月日4 = [[480年]]<br /> |通貨 = <br /> |時間帯 = <br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |注記 = <br /> }}<br /> {{ローマの政治体制}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;西ローマ帝国&#039;&#039;&#039;(にしローマていこく)とは[[ローマ帝国]]の西半分の地域を指す呼称である&lt;ref&gt;『ブリタニカ国際大百科事典』&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『世界大百科事典』&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『日本大百科全書』&lt;/ref&gt;。一般に、[[テオドシウス1世]]死後の[[ローマ皇帝一覧|西方正帝]]が支配した領域と時代に限定して用いられるが、[[286年]]の[[ディオクレティアヌス]]帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始([[テトラルキア]]の第一段階)以降のローマ帝国の西半分や、[[3世紀]]の[[ガリア帝国]]時代が含まれることもある。<br /> <br /> なお「西ローマ帝国」と「[[東ローマ帝国]]」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず&lt;ref&gt;『世界大百科事典』&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『日本大百科全書』&lt;/ref&gt;、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家も存在しなかった。複数の皇帝による帝国の分担統治はディオクレティアヌスの[[テトラルキア]]以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜([[複都制]])にすぎなかった。ローマ帝国の東部と西部は現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは、ひとつのローマ帝国の&#039;&#039;&#039;西方領土&#039;&#039;&#039;(西の部分)と&#039;&#039;&#039;東方領土&#039;&#039;&#039;(東の部分)だったのである&lt;ref&gt;例えばローマ市では443年に地震で破損した[[コロッセオ]]の修復が行われているが、その際にコロッセオに設置された碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス([[テオドシウス2世]])とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス([[ウァレンティニアヌス3世]])のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている。[[本村凌二]]編著/池口守・大清水裕・志内一興・高橋亮介・中川亜希著『ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ』(研究社 2011年)P232-233&lt;/ref&gt;。両地域の政府や住民が自らの国を単に&#039;&#039;&#039;ローマ帝国&#039;&#039;&#039;と呼んだのも、こうした認識によるものである。<br /> <br /> [[395年]]にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に[[正帝]]を名乗っていた2人の息子[[アルカディウス]]と[[ホノリウス]]に分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。西ローマ帝国時代の終わりとしては、[[オドアケル]]による[[476年]][[9月4日]]の[[ロムルス・アウグストゥルス]]廃位までとするのが一般的であるが、[[480年]]の[[ユリウス・ネポス]]殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって[[古代]]の終わり・[[中世]]の始まりとする。<br /> <br /> ギリシア化を免れた西ローマ帝国では、中世においても古代ローマ式の文化と伝統とが保存された。西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも、次第に[[カトリック教会]]に感化され、カトリック信仰やローマの文化、[[ローマ法]]を採用し、徐々に自らがローマの遺産の「真の相続者」であるという自意識を持つようになっていった。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> [[共和政ローマ]]が版図を拡大するにつれて、[[ローマ]]に置かれた中央政府は、効果的に遠隔地を統治できないという当然の問題点に突き当たった。これは、効果的な伝達が難しく連絡に時間が掛かったためである。当時、敵の侵攻、反乱、疫病の流行や自然災害といった連絡は、船か公設の郵便制([[クルスス・プブリクス]])で行っており、ローマまでかなりの時間がかかった。返答と対応にもまた同じくらいの時間が掛かった。このため[[属州]]は、共和政ローマの名のもとに、実質的には[[属州総督]]によって統治された。<br /> <br /> 帝政が始まる少し前、[[共和政ローマ]]の領土は、オクタウィアヌス(後の[[アウグストゥス]])、[[マルクス・アントニウス]]、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス|レピドゥス]]による[[三頭政治#第二回三頭政治|第二回三頭政治]]により分割統治されていた。<br /> <br /> [[Image:Roman-Empire-Triumvirat2.png|thumb|300px|none|[[紀元前33年]]の共和政ローマおよび地中海世界{{legend|#33ff99|オクタウィアヌス支配地域}}{{legend|#3366ff|アントニウス支配地域}}{{legend|#9999ff|プトレマイオス朝およびアントニウスの同盟国}}]]<br /> アントニウスは、[[アカエア]]、[[マケドニア属州|マケドニア]] 、[[エピルス]](ほぼ現在の[[ギリシャ]])、[[ビテュニア]]、[[ポントス|ポントゥス]]、 [[アシア属州|アシア]]、[[シリア属州|シュリア]]、[[キプロス]]、[[キュレナイカ]]といった東方地域を手に入れた。こうした地域は、[[紀元前4世紀]]に[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によって征服された地域で、[[コイネー|ギリシャ語]]が多くの都市で公用語として使用されていた。また、マケドニアに起源がある貴族制を取り入れており、王朝の大多数はマケドニア王国の将軍の子孫であった。<br /> これに対しオクタウィアヌスは、ローマの西半分を支配下に収めた。すなわちイタリア(現在の[[イタリア半島]])、[[ガリア]](現在の[[フランス]]、[[ベルギー]]、[[オランダ]]、[[ルクセンブルク]]の一部)、[[ヒスパニア]]([[イベリア半島]])である。こうした地域も、多くのギリシア人が海岸部の旧[[カルタゴ]]の植民地にいたが、ガリアやイベリア半島のケルト人が住む地域[[ケルティベリア人]](ケルト・イベリア人)のように文化的に[[ケルト人]]に支配されている地域もあった。<br /> <br /> レピドゥスは[[アフリカ属州]](現在の[[チュニジア]])を手に入れた。しかし、政治的・軍事的駆け引きの結果、オクタウィアヌスはレピドゥスからアフリカ属州とギリシア人が植民していたシチリア島を獲得した。<br /> <br /> アントニウスを破ったオクタウィアヌスは、ローマから帝国全土を支配した。戦いの最中に、盟友[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ]]は一時的に東方を代理として支配した。同じことは[[ティベリウス]]が東方に行った際に甥に当たる[[ゲルマニクス]]によって行われた。<br /> <br /> &lt;!-- {{要出典範囲|ローマ帝国には異なる多数の文化があったが、それら文化は全て段階的に[[ローマ化]]されていった。ギリシア語は西方でも使われていたし、ラテン語もまた東方でも使われていた。全体としてギリシア文化はラテン文化と競合することはほとんどなく、事実ローマ帝国の文化の融合に役立っていた。2つの文化は、対等の立場で地中海世界で扱われた。それにもかかわらず、後に政治問題が原因となって軍事上の緊張が高まるとローマ帝国は分裂し、さらにはギリシア文化圏が東ローマ帝国として再編されることになった|date=2009年9月}}。--&gt;<br /> <br /> == 反乱と暴動、政治への波及 ==<br /> &lt;!-- 平時には、首都ローマから帝国を統治することは比較的容易であった。ときには反乱の兆しが見られたり、また実際に起こりもしたが、{{要出典範囲|[[軍団長]]や[[属州総督]]は、個人的な[[カリスマ]]や信頼に[[賄賂]]を付加することで[[軍団兵]]の忠誠を得るのが常だった。征服された部族は叛逆するものであり、征服された都市は蜂起するものである。軍団兵は国境を中心に配備されるので、反乱の首謀者は、常態においては1、2個の[[軍団]]を指揮するのが限界であった|date=2009年9月}}。体制派の歩兵隊は、帝国のよその土地から動員され、仕舞いには叛逆者と血で血を洗う結果となった。{{要出典範囲|このような顛末は、反逆者が激しい軍事経験を経ていないような、狭い地域の先住民による暴動の場合に、いっそう起こりやすかった。皇帝が軟弱だったり無能だったり、憎まれたり、各地で蔑まれたりしていない限り、こうした謀叛は、局地的で単発的な出来事でしかなかった|date=2009年9月}}。<br /> <br /> {{要出典範囲|しかしながら、[[ユダヤ戦争|第1次ユダヤ戦争]]のように、反乱や暴動から本当の戦争が起きた時、戦局は完全に、そして恐ろしいほどに様変わりした。本格的な戦役においては、[[ウェスパシアヌス]]のような将軍に統御された[[ローマ軍団|軍団]]が、より多く投入されたのである。したがって、偏執的な皇帝か賢帝ならば、指揮官の忠誠を確かなものとするために、将軍の身内の数人を人質にとるのだった。実際に[[ネロ]]帝は、ウェスパシアヌス将軍から、幼子[[ドミティアヌス]]と、[[オスティア]]総督だった義弟[[クィントゥス・ペティリウス・ケリアリス]]を人質にとっている。ネロの治世は、(後の皇帝)[[ガルバ]]に抱き込まれた[[プラエトリアニ]]の蜂起によって、やっと終わりを告げた。プラエトリアニの存在は「[[ダモクレス|ダモクレスの剣]]」であった。プラエトリアニは、忠誠心を買収することができたので、段々と貪欲になったからである。プラエトリアニの例に続いて、国境警備隊もまた次第に内戦に加わっていった|date=2009年9月}}。--&gt;<br /> <br /> 西方において主な敵は、[[ライン川]]や[[ドナウ川]]の向こうの蛮族だったと言ってよい。[[アウグストゥス]]は彼らを征服しようと試みたが、最終的に失敗しており、これらの蛮族は大きな不安の種となった。<br /> 一方で、東方には[[パルティア]]があった。&lt;!-- {{要出典範囲|パルティアは、遠すぎて征服することはできなかった。パルティアの侵略に立ち向かい、たいていは撃退することができたものの、脅威そのものをなくすことは結局できなかった|date=2009年9月}}。--&gt;[[Image:LocationParthia.PNG|frame|none|300px|ローマ帝国の最大の敵国[[パルティア]]の最大版図 [[紀元前60年]]]]<br /> <br /> ローマで内戦が起きた場合、これら二方面の敵は、ローマの国境を侵犯する機会を捉えて、襲撃と掠奪を行なった。二方面の軍事的境界線は、それぞれ膨大な兵力が配置されていたために、政治的にも重要な要素となった。地方の将軍が蜂起して新たに内戦を始めることもあった。西方の国境をローマから統治することは、比較的ローマに近いために容易だった。しかし、戦時に両方の国境を同時に鎮撫することは難しかった。皇帝は軍隊を統御するために近くにいる必要を迫られたが、どんな皇帝も同時に2つの国境にはいることができなかった。この問題は後の多くの皇帝を悩ますことになった。<br /> &lt;!--The two respective military frontiers became a matter of major political importance because of the high number of legions stationed there. The local generals would rebel and start a new civil war. To control the western border from Rome was reasonably easy since it was relatively close. To control both frontiers at the same time during wartime was difficult. If the emperor was near the border in the east, chances were high that an ambitious general would rebel in the west and [[List of Latin phrases (P–Z)|vice-versa]]. Emperors were increasingly near the troops in order to control them, and no single emperor could be at the two frontiers at the same time. This problem plagued the ruling emperors, and many future emperors followed this path to power.--&gt;<br /> <br /> == 西ローマ帝国における経済の不振 ==<br /> ローマと[[イタリア半島]]では、生産性の高い東方地域が属州へ組み込まれると徐々に交易や高級作物の生産へシフトしたが、経済の重心は次第に東へ移った。<br /> <br /> == 3世紀以降 ==<br /> === ガリア帝国 ===<br /> {{main|ガリア帝国}}<br /> [[235年]][[3月18日]]の皇帝[[アレクサンデル・セウェルス]]暗殺に始まり、その後ローマ帝国は50年ほど内乱に陥った。今日では[[軍人皇帝時代]]として知られている。[[259年]]、[[エデッサの戦い]]で[[サーサーン朝]]との戦いに敗れた皇帝[[ウァレリアヌス]]は捕虜となりペルシアへ連行された。ウァレリアヌスの息子でかつ共同皇帝でもあった[[ガッリエヌス]]が単独皇帝となったが、混乱に乗じて、ローマ帝国の東地区で皇帝僭称者が相次いだ。ガッリエヌスが東方遠征を行う間、息子[[プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス]]に西方地区の統治を委任した。サロニヌスはコローニア・アグリッピナ(現:[[ケルン]])に駐屯していたが、[[ゲルマニア]][[属州総督]][[ポストゥムス|マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムス]]が反逆、コローニア・アグリッピナを攻撃し、サロニヌスを殺害した。ポストゥムスはローマ帝国の西部のガリアを中心とした地域を勢力範囲として自立、ローマ皇帝を[[僭称]]する。このポストゥムの政権が、後に[[ガリア帝国]]と称されている。<br /> <br /> 首都はアウグスタ・トレウェロルム(いまの[[トリーア]])で、この政権はゲルマン人とガリア人への統制をある程度回復した見られ[[ヒスパニア]]や[[ブリタンニア]]の全域に及んだ。この政権は独自の[[元老院 (ローマ)|元老院]]を有し、その[[執政官]]たちのリストは部分的に現在に残っている。この政権はローマの言語、文化を維持したが、より現地人の意向を汲む支配体制に変化したと考えられている。国内では皇帝位を巡る内紛が続いた。<br /> <br /> [[273年]]に[[パルミラ王国]]を征服した皇帝[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス|アウレリアヌス]]は翌[[274年]]、軍を西方に向け、ガリア帝国を征服した。これはアウレリアヌスとガリア帝国皇帝の[[テトリクス1世]]及びその息子の[[テトリクス2世]]との間に取引があって、ガリアの軍隊が簡単に敗走したためである。 アウレリアヌスは彼らの命を助けて、反乱した二人にイタリアでの重要な地位を与えた。<br /> <br /> === テトラルキア(四分割) ===<br /> {{main|テトラルキア}}<br /> 284年に皇帝に即位した[[ディオクレティアヌス]]はローマ帝国を政治的に分割した。彼は自身を帝国東方の[[アウグストゥス (称号)|正帝]]とする一方、[[マクシミアヌス]]を西方の正帝とし、[[ガレリウス]]と[[コンスタンティウス・クロルス]]をそれぞれ東西の[[カエサル (称号)|副帝]]に任じた。この政治体制は「ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治)」と呼ばれ、効果的に帝国を4つに分割し、3世紀に指摘された内乱を防ぎ、ローマから分離した首都を作った。西方では、首都はマクシミアヌスのメディオラヌム(現在の[[ミラノ]])と[[コンスタンティヌス]]のアウグスタ・トレウェロルム(現在の[[トリーア]])であった。[[305年]]5月1日、2人の正帝が退位し、2人の副帝が正帝に昇格した。<br /> <br /> === コンスタンティヌス1世 ===<br /> {{main|コンスタンティヌス1世}}<br /> &lt;!-- The system of the Tetrarchy quickly ran aground when the Western Empire&#039;s Constantius died unexpectedly in 306, and his son Constantine was proclaimed Augustus of the West by the legions in Britain. A crisis followed as several claimants attempted to rule the Western half. In 308, the Augustus of the East, Galerius, arranged a conference at Carnuntum which revived the Tetrarchy by dividing the West between Constantine and a newcomer named Licinius. Constantine was far more interested in reconquering the whole empire. Through a series of battles in the East and the West, Licinius and Constantine stabilized their respective parts of the Roman Empire by 314, and they now competed for sole control of a reunified state. Constantine emerged victorious in 324 after the surrender and the murder of Licinius following the Battle of Chrysopolis. --&gt;<br /> 西帝[[コンスタンティウス・クロルス]]が[[306年]]に急逝し、その息子[[コンスタンティヌス1世]](コンスタンティヌス大帝)がブリタニアの軍団にあって正帝に即位したと告げられると、テトラルキア制度はたちまち頓挫した。その後、数人の帝位請求者が西ローマ帝国の支配権を要求して、危機が訪れた。[[308年]]、東ローマ帝国の正帝[[ガレリウス]]は、[[カルヌントゥム]]で会議を招聘し、テトラルキアを復活させてコンスタンティヌス1世と、[[リキニウス]]という名の新参者とで、権力を分けることにした。だがコンスタンティヌス1世は、帝国全土の再統一にはるかに深い関心を寄せていた。東帝と西帝の一連の戦闘を通じて、リキニウスとコンスタンティヌスは[[314年]]までに、ローマ帝国におけるそれぞれの領土を画定し、天下統一をめぐって争っていた。コンスタンティヌスが[[324年]][[9月18日]]にクリュソポリス([[カルケドン]]の対岸)の会戦でリキニウス軍を撃破し、投降したリキニウスを殺害すると、勝者として浮上した。<br /> <br /> &lt;!-- The Tetrarchy was dead, but the idea of dividing the Roman Empire between two emperors had been proven too good to be simply ignored and forgotten. Very strong emperors would reunite it under their single rule, but with their death the Roman Empire would be divided again and again between the East and the West. --&gt;<br /> テトラルキアは終わったが、ローマ帝国を二人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、無視したり、簡単に忘却するのはできなくなっていた。非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、そのような皇帝が死去すると、帝国はたびたび東西に分割統治されるようになった。<br /> <br /> == 再分割 ==<br /> <br /> === コンスタンティヌス朝 ===<br /> [[コンスタンティヌス1世]]の代にはローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されていたが、同帝が[[337年]]に死去すると、3人の息子たち([[コンスタンティウス2世]]、[[コンスタンティヌス2世]]、[[コンスタンス1世]])が共同皇帝として即位し、帝国には再び分担統治の時代が訪れた。コンスタンティヌス2世はブリタンニア、ガリア、ヒスパニア等、コンスタンティウス2世は東方領土、コンスタンス1世はイタリア、パンノニア、ダキア、北アフリカなどを統治したが、まもなくその三者の間には内乱が勃発した。まずコンスタンス1世がコンスタンティウス2世を[[340年]]に打ち破って西方領土を統一したが、そのコンスタンス1世も350年に配下の将軍であった[[マグネンティウス]](僭称皇帝)に殺害された。[[351年]]、[[コンスタンティウス2世]]が僭称皇帝マグネンティウスを打ち破り、353年にマグネンティウスが自殺することによって、コンスタンティウス2世によるローマ帝国の再統合が果たされた。<br /> <br /> コンスタンティウス2世は自らの権力のほとんどを東ローマ帝国に集中させたので、最初の[[東ローマ帝国の皇帝一覧|東ローマ帝国の皇帝]]と見なされることもある。その支配のもとで、[[コンスタンティヌス1世]]によって拡張されたばかりの[[コンスタンティノポリス]](もとの[[ビザンティウム|ビュザンティオン]])は、東ローマ帝国の首都として完全に整備された。[[361年]]にコンスタンティウス2世が病に倒れて死去すると、コンスタンティウス・クロルスの孫で、コンスタンティウス2世の副帝だった[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]が即位した。ユリアヌスが、先帝の[[サーサーン朝]][[ペルシア]]との対戦を継続中に[[363年]]に戦死すると、[[ヨウィアヌス]]がその後を襲ったが、その治世は[[364年]]までしか続かなかった。<br /> <br /> === ウァレンティニアヌス朝 ===<br /> 皇帝[[ヨウィアヌス]]の死後、帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。[[364年]]に即位した[[ウァレンティニアヌス1世]]は、直ちに帝国を再び分割し、東側の領地を弟[[ウァレンス]]に譲った。東西のどちらの側も[[フン族]]や[[ゴート族]]をはじめとする蛮族との抗争が激化し、安定した時期がなかなか実現しなかった。西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、[[異教徒]]が引き起こす政治的な反撥であった。[[379年]]に、ウァレンティニアヌス1世の息子にして後継皇帝の[[グラティアヌス]]は、[[最高神祇官]] (&#039;&#039;pontifex maximus&#039;&#039;) の衣裳を羽織ることを拒否し、[[382年]]には、異教の神官の権利を剥奪して、異教の祭壇をローマの元老院から撤去した。そして最高神祇官(&#039;&#039;Pontifex Maximus&#039;&#039;)の称号を[[ローマ教皇]]に譲ったのである。<br /> <br /> === テオドシウス朝 ===<br /> [[Image:Theodosius I&#039;s empire.png|right|thumb|250px|テオドシウス1世没後のローマ帝国の分割。両者の国境は黒線にて表示(白線は現代の国境)。<br /> {{legend|#B53637|西ローマ帝国}}<br /> {{legend|#8F36B5|東ローマ帝国}}]]<br /> [[388年]]、実力と人気を兼ね備えた総督[[マグヌス・マクシムス]]が西側で権力を掌握して、皇帝を僭称した。グラティアヌスの異母弟である西帝[[ウァレンティニアヌス2世]]は東側への逃避を余儀なくされたが、東帝[[テオドシウス1世]]に援助を請い、その力を得て間もなく皇帝に復位した。[[391年]]にテオドシウス1世が、異教の禁止を西側に発令し、キリスト教化を施行すると、ウァレンティニアヌス2世は[[392年]]5月に[[フランク族]]で異教徒の指揮官(&#039;&#039;[[:en:magister militum&lt;!-- [[:ja:マギステル・ミリトゥム]] とリンク --&gt;]]&#039;&#039;)[[アルボガステス]]によって暗殺された。西ローマ帝国では元老院議員の[[エウゲニウス]]が同年8月に西帝として擁立されたが、[[394年]]にテオドシウス1世によって倒された。<br /> <br /> 息子[[ホノリウス]]に西帝を名乗らせたテオドシウス1世は、自身もホノリウスの後見として西ローマ帝国に滞在し、[[395年]]に崩御するまでの4ヶ月間、東西の両地域を実質的に支配した。彼以降、ローマ帝国の東西を単独の統治者が支配する機会は、[[ユスティニアヌス1世]]による短期間の復興を除いて、絶えることになる。一般にはテオドシウス1世の死をもって&#039;&#039;&#039;ローマ帝国の東西分裂&#039;&#039;&#039;と呼ばれるが、これは何世紀にもわたって内戦と統合を繰り返してきたローマ帝国の分裂の歴史の一齣にすぎなかったことも見過ごしてはならない。<br /> <br /> == 経済とのかかわり ==<br /> {{出典の明記|section=1|date=2009年9月}}<br /> [[Image:Invasions of the Roman Empire 1.png|thumb|300px|left|ローマ帝国への蛮族の侵入経路]]<br /> 上述の通り、既にイタリア半島では五賢帝時代から産業の空洞化が始まっており、ローマ帝国末期を通じて、西ローマ帝国が経済的な下降線を辿っていった。中央の権力が弱まると、国家として国境や[[属州]]を制しきれなくなり、致命的なことに、[[地中海]]をも掌握できなくなった。歴代の[[ローマ皇帝]]は蛮族を地中海へと立ち入らせなかったのだが、[[ヴァンダル族]]はとうとう[[北アフリカ]]を征服してしまう。<br /> <br /> これは西ローマ帝国の農業において、深刻なダメージとなった。ローマ帝国は帝政期以前より、イタリア半島ではオリーブや葡萄や食肉などの貴族の嗜好品を中心とする農業を営んでおり、主食たる小麦についてはシチリアや北アフリカなどの属州に依存していた。ところが地中海に蛮族の侵入を許した事によって、この農業体制が崩壊してしまうのである。この経済的な衰退が、とどのつまりは西ローマ帝国崩壊の伏線となったのである。古代においては国民総生産と国家の税収のほとんどは農業に由来している。税収が不十分では、高くつく職業的な[[軍団]]を維持することも、雇い入れた[[傭兵]]を当てにすることもままならなかったからである。西ローマ帝国の官庁は、あまりにも広すぎる土地を、あまりにも乏しい財源によって賄わざるを得なかった。西ローマ帝国の諸機関は、不安定な経済力に連動してつぶれて行った。たいていの蛮族の侵入者は、征服した土地の3分の1を制圧されたローマ系住民に要求したが、このような状況は、同じ地方を異なる部族が征服するたび、いよいよ増えていったことであろう。<br /> <br /> イタリア半島の農業は、嗜好品の生産から主食の生産へと転換すべきであったが、それは無理であった。経済力と政治的な安定性が欠けていたために、念入りに開発された何十平方キロメートルもの数々の土地が放棄されていった。耕地の放棄は経済的に手痛い一撃となった。こうなったのも、生産力を維持するためには、単純な保守として、敷地にある程度の時間と資金を投入することが必要だったからである。そもそもイタリア半島の農地の生産性はシチリアや北アフリカよりも劣っていたがために、奢侈品の生産へと転換した歴史がある。<br /> <br /> これはすなわち、不幸にして、東ローマ帝国による西ローマ帝国の建て直しの試みは無理であり、地方経済が大幅に衰退していたために、新たに奪還した土地を保持することは、あまりにも高くつきすぎるということを表していた。<br /> <br /> その一方で、エジプトやシリアなどの穀倉地帯を確保し、オリエントとの交易ルートを押さえていた東ローマ帝国は、とりわけ[[コンスタンティヌス大帝]]や[[コンスタンティウス2世]]のような皇帝が、莫大な金額を注ぎ込んだこともあり、さほどの経済的な衰微は起きなかった。<br /> <br /> == ローマ略奪と西ローマ皇帝の廃止 ==<br /> [[Image:628px-Western-Eastern-Roman-Empires-476AD.PNG|thumb|300px|476年頃の東西ローマ帝国]]<br /> [[Image:Reame di Siagrio (486).png|300px|thumb|シアグリウスの[[ソワソン管区]]]]<br /> 西ローマ帝国は、皇帝[[ホノリウス]](在位:393年 - 423年)の時代以降は特に混乱を極め、蛮族(とりわけ[[ヴァンダル族]]と[[東ゴート族]])の侵入と帝位簒奪者とが相次ぎ、[[紀元前4世紀]]の[[ガリア人]]の侵入以来初めて、[[410年]]にはローマが[[西ゴート人|西ゴート]]に掠奪された([[ローマ略奪 (410年)|ローマ略奪]])。西ローマ帝国において、簒奪者たちによって一貫して引き起こされた不安定状態は、蛮族にとって征服の手助けとなった。<br /> <br /> [[475年]]には、かつて[[アッティラ]]の腹心だった[[フラウィウス・オレステス|オレステス]]が、[[ユリウス・ネポス]]帝を首都[[ラヴェンナ]]から追放し、わが子[[ロムルス・アウグストゥルス]]&lt;ref&gt;正式にはロムルス・アウグストゥス。アウグストゥルスは小アウグストゥスの意。&lt;/ref&gt;が皇帝であると宣言した。いくつかの孤立地帯においてユリウス・ネポスを支持する勢力の支配が続いたものの&lt;ref&gt;例:[[執政官]][[シアグリウス]]支配下の[[ガリア]]北西部、[[アウレリウス・アンブロシウス]]支配下の[[ブリタニア]]&lt;/ref&gt;、ネポスにせよアウグストゥルスにせよ、西ローマ帝国全域における皇帝の支配権はとうに失われていた。[[476年]]にオレステスが、[[オドアケル]]率いる[[ヘルール族|ヘルリ]]連合軍に賠償金を与えることを断ると、オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害、ロムルス・アウグストゥルス帝を退位させ、帝位のしるしを[[東ローマ帝国]]の皇帝[[ゼノン]]のところに送り返した。<br /> <br /> === 最後の皇帝 ===<br /> [[ファイル:Young Folks&#039; History of Rome illus420.png|thumb|300px|right|オドアケルに帝冠を渡すロムルス・アウグストゥルス]]<br /> [[Image:Tremissis Julius Nepos-RIC 3221.jpg|thumb|250px|[[トレミシス]]金貨に描かれた[[ユリウス・ネポス]]]]<br /> [[Image:RomulusAugustus.jpg|thumb|right|250px|[[トレミシス]]金貨に描かれた[[ロムルス・アウグストゥルス]]帝]]<br /> <br /> オレステスによって追放されたユリウス・ネポスは、まだ[[ダルマチア]]の西ローマ帝国の残存領土を支配しており、引き続き西ローマ帝国全体の統治権の保持を宣言していた。ユリウス・ネポスは、東帝[[ゼノン]]や、ガリアにおける[[ソワソン管区]](西ローマ帝国の[[飛び地]])の維持に腐心していた将軍[[シアグリウス]]からも、正当なる西帝として認知されていた。オドアケルは西ローマ帝国の元老院を通じて東帝ゼノンと交渉を行い、ゼノンは結局オドアケルをローマ帝国の[[パトリキ]]として認め、ローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)として受け入れた&lt;ref&gt;このことからオドアケルをローマ帝国の初代[[イタリア王]](rex Italiae)と見なす場合もあるが、オドアケルをイタリア王に含めるかについては議論がある。&lt;/ref&gt;。一方でゼノンは、オドアケルがユリウス・ネポスを西帝として公式に承認すべきだとも主張した。元老院は西方正帝の完全な廃止を強硬に求めたが、オドアケルは譲歩して、ユリウス・ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。オドアケルは[[主権]]を決してユリウス・ネポスに返さなかったからである。ユリウス・ネポスが[[480年]]に暗殺されると、オドアケルはダルマチアに侵入して、あっさりとこの地を征服してしまう。東帝ゼノンが正式に西方正帝の地位を廃止したのは、このユリウス・ネポスの死後のことである。<br /> <br /> シアグリウスも[[486年]]にフランク族に敗れるまで、ガリア北部でネポス帝の名で貨幣を鋳造した。しかしながら、一般の西洋史ではユリウス・ネポスはたいてい忘れられており、普通はロムルス・アウグストゥルスが「最後の皇帝」として言及される。<br /> <br /> === 西ローマ帝国の「滅亡」 ===<br /> [[18世紀]]になると、ロムルス・アウグストゥルス帝またはユリウス・ネポス帝の廃位によって西ローマ帝国が「滅亡」したとする文学的表現が生み出され、この表現は現在でも慣用的に用いられている。しかしながら、西ローマ帝国が「滅亡」したとする表現は「誤解を招く、不正確で不適切な表現」として、学問分野より見直しが求められている&lt;ref name=&quot;JBBury&quot;&gt;J. B. Bury, &#039;&#039;History of the Later Roman Empire: From the Death of Theodosius I to the Death of Justinian&#039;&#039;, ch.12&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 西方正帝の廃止は西ローマ帝国の滅亡ではない&lt;ref name=&quot;JBBury&quot; /&gt;。西方正帝の地位が廃止されたとはいっても正帝以外の西ローマ帝国の各種公職や政府機関はその後も西ローマ帝国に健在であったし、オドアケルやオドアケルの後にイタリアの統治権を認められた東ゴート王らにしても、ローマ帝国にとっては皇帝からローマ帝国領イタリアの統治を委任された西ローマ帝国における臣下の一人に過ぎなかったのである&lt;ref&gt;[[尚樹啓太郎]]『ビザンツ帝国史』[[東海大学出版部|東海大学出版会]] 1999年&lt;/ref&gt;。彼らは西ローマ帝国での地位と利益を確保するために西方正帝を廃して帝国の政治に参加するようになったのであって、彼らに西ローマ帝国を滅ぼした認識などなく、むしろ自らを古代ローマ帝国と一体のものと考え古代ローマの生活様式を保存しようとさえした。これはイタリア本土に限った話ではなく、西欧において読み書きのできる人々は、西方正帝が消滅して以降の何世紀もの間、自らを単に「ローマ人」と呼び続けており、自分たちが単一不可分にして普遍的なるローマ帝国の国民「諸民族に君臨するローマ人」であるとの認識を共有していたのである&lt;ref&gt;ミシェル・ソ、ジャン=パトリス・ブデ、アニータ・ゲロ=ジャラベール『中世フランスの文化』 桐村泰次訳、諭創社、2016年3月&lt;/ref&gt;。20世紀以降の歴史学においては、[[アンリ・ピレンヌ]]、ルシアン・マセット、フランソワ・マサイといった歴史家による「西ローマ帝国は滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」とする見解が支持されるようになっている。また、[[古代ローマ]]における主権者が皇帝ではなく[[SPQR]](元老院とローマ市民)であるとされていたことから、SPQRが存在する限りにおいて古代ローマが健在であったとの説明がされることもある。<br /> <br /> == テオドリック ==<br /> {{main|テオドリック (東ゴート王)|東ゴート王国}}<br /> [[Image:Ostrogothic Kingdom.png|right|thumb|250px|西ローマ帝国の廃墟の中から振興した[[東ゴート王国]]の領地]]<br /> [[493年]]、ローマ皇帝に[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア]]再支配の希望が訪れた。イタリア領主の[[オドアケル]]が、帝国の西側(特にローマ市)を征服すべく皇帝ゼノンに徴募されていた[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]によって掃討されたからである。テオドリックは東ローマ帝国の皇帝に従属し、[[副王]]および[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ|道長官]]に任ぜられた。また、[[497年]]には皇帝[[アナスタシウス1世]]よりイタリア王を称することが許され、ここに東ゴート王国が創設された。ただし、東ゴート王国はローマ帝国から独立した王国というわけではなく、その領土と住民は依然としてローマ帝国のものとされた。王国の政治はオドアケルの時代と同様に西ローマ帝国政府が引き続き運営し、立法権は東ローマ皇帝が保持していた。<br /> <br /> テオドリックが[[526年]]に没したとき、もはや東ローマ帝国は西ローマ帝国とは文化的には別物になっていた。西ローマ帝国では古代ローマ式の文化が維持されていたのに対し、東ローマ帝国では大幅に[[ギリシャ]]化が進んでいた。その後たびたび東ローマ帝国は西ローマ帝国の地を征服し直そうと努めたが、往年の版図を再現するには至らなかった。<br /> <br /> == 東ローマ帝国による征服事業 ==<br /> [[Image:Byzantium550.png|thumb|left|300px|[[550年]]の[[東ローマ帝国]]。緑色の部分が[[ユスティニアヌス1世]]によって奪還された領地。]]<br /> {{See also|ゴート戦争}}<br /> <br /> [[東ローマ帝国]]の皇帝は西方正帝の廃止後も幾度か、蛮族によって占領されていた西ローマ帝国の故地を奪還しようとした。特に「ローマ皇帝」を自称する東ローマ皇帝が、名前に反して帝国の首都ローマを支配していない事実は、容認し難い事であった。最大の成功は、[[ユスティニアヌス1世]]の二人の将軍、[[ベリサリウス]]と[[ナルセス]]が[[535年]]から[[545年]]に行なった一連の遠征である。[[ヴァンダル族]]に占領された、[[カルタゴ]]を中心とする北アフリカの西ローマ帝国領が東ローマ皇帝領として奪回された。遠征は最後に[[イタリア]]に移り、ローマを含むイタリア全土と、[[イベリア半島]]南岸までを征服するに至った。[[ユスティニアヌス1世]]は[[テオドシウス1世]]から約150年ぶりに、西方領土と東方領土の両方を単独で実効統治するローマ皇帝の地位に就いたのである。<br /> <br /> 当時はこれでローマ帝国が救われたかのように思われた。しかしながら、蛮族の影響は、すでに経済的にも文化的にも、ローマのかつての属州に深すぎる損害を与えていた。これらの土地は保持するにはひどく経費がかさんだ上に、ユスティニアヌスによる長年にわたった征服戦争はイタリアを荒廃させてしまったのである。一説には東ローマ帝国が最終的にローマを手に入れた時、人口はわずか500人ほどしか残っていなかったという。6世紀末の[[ローマ教皇]][[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]は「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いている。このため、ユスティニアヌスによる「ローマ皇帝の支配」は、旧西ローマ帝国領でローマという理念を信じていた人々を幻滅させる結果に終わった&lt;ref&gt; [[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]・[[栗生沢猛夫]]『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(1998年 [[中央公論社]])P33およびP39参照&lt;/ref&gt;。 言わばこの時、SPQRの消滅をもって、[[古代ローマ]]は完全に終焉したのである。<br /> <br /> 東ローマ帝国はユスティニアヌス1世の後にも存続したものの、その後はユスティニアヌスの征服活動や建設事業による財政破綻と宗教対立、[[サーサーン朝]]との紛争に苦しめられ、8世紀以降は新興勢力[[イスラム帝国]]や[[スラヴ人]]などによって多くの領土を失い、一時はイスラム軍に首都[[コンスタンティノポリス]]を包囲されるまでになってしまった。このため、歴代皇帝は主にバルカン半島とアナトリアを中心とした地域の防衛に集中せざるを得なくなり、軍事力を東方のイスラムや北方のスラヴ人対策に割かねばならなくなってしまったのである。さらに[[ギリシア語]]圏の東ローマ帝国とラテン語圏の西ローマ帝国の文化的な差異や宗教対立が大きくなると、2つの区域は競争関係に入った。<br /> <br /> [[ユスティニアヌス1世]]によって回復された西方領土は、彼の死後には急激に喪われていった。ただ、東ローマ帝国が西方における覇権を完全に喪失したわけではない。東ローマ帝国は8世紀半ばまで[[ラヴェンナ]]および[[ローマ]]、さらに11世紀まで[[南イタリア]]([[マグナ・グラエキア]])という残存の西方領土を領有し続けた。また、12世紀の[[マヌエル1世コムネノス|マヌエル1世]]のように[[イタリア遠征]]を行って西ローマ帝国領を奪回しようと試みた皇帝もいたが、ユスティニアヌス1世ほどの成功者は出なかった。<br /> <br /> しかしながら、一時でもローマを支配しえた事は、東ローマ帝国が中世を通して国家として生き残る精神的な拠り所のひとつになった&lt;ref&gt; [[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]・[[栗生沢猛夫]]『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(1998年 [[中央公論社]])P43参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 遺産 ==<br /> [[Image:Latin_Europe.svg|250px|thumb|ヨーロッパにおける[[ロマンス諸語]]]]<br /> 西ローマ帝国がばらばらになるにつれて、[[属州]]を支配におさめたゲルマン系の民族はすでにキリスト教化していたが、たいてい[[アリウス派]]の信者だったのである。彼らも早晩カトリックに[[改宗]]し、ローマ化していた地域住民の忠誠と同時に、強力なカトリック教会の認知と支持を得ようとした。<br /> <br /> [[ラテン語]]は死語になってしまったが、言語として消え去ったわけではない。[[俗ラテン語]]が蛮族の言語と混じり合って、[[イタリア語]]、[[フランス語]]、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[ルーマニア語]]、[[ロマンシュ語]]といった現代の[[ロマンス諸語]]の起源となった。また[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[オランダ語]]などの[[ゲルマン語派]]にも、ある程度の影響を及ぼしている。ラテン語の「純粋な」かたちはカトリック教会において余命を保ち([[ミサ]]の挙行では[[1970年]]までラテン語が使われた)、多くの国々で[[リングワ・フランカ]]としての役割を果たした。過去においては論文や理論書の執筆にラテン語が使われており、今でも[[医学]]・[[法律学]]・[[外交]]の専門家や研究者に利用されている。ちなみに[[学名]]のほとんどがラテン語である。<br /> <br /> [[ラテン文字]]は、[[J]]、[[K]]、[[W]]、[[Z]]が付け足され、[[ラテン文字一覧|文字数]]が増えた。[[ローマ数字]]は(たとえば[[時計]]の文字盤や本の章立てにおいて)依然として使われているものの、ほとんどが[[アラビア数字]]に取って代わられた。<br /> <br /> 単独の支配者による強大なキリスト教帝国としてのローマという理念は、多くの権力者を魅了し続けた。[[フランク王国]]と[[ロンバルディア]]の支配者[[カール大帝]]は、[[800年]]に教皇[[レオ3世_(ローマ教皇)|レオ3世]]によってローマ皇帝として戴冠された。これが[[神聖ローマ帝国]]の由来であり、[[フリードリヒ1世_(神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]や[[フリードリヒ2世_(神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]は「ローマ皇帝」の名目から[[イタリア半島]]の支配に固執し、[[カール5世_(神聖ローマ皇帝)|カール5世]]は[[ヨーロッパ]]と[[新大陸]]にまたがる世界帝国の盟主となった。東ローマ帝国が滅びると、[[モスクワ大公国|モスクワ大公]]は全[[ルーシ]](ロシア)の[[ツァーリ]]を称し、「第3のローマ」の皇帝を自任するようになった。これだけでなく、東ローマ帝国を滅亡させた当の(しかもキリスト教国ですらない)[[オスマン帝国]]の[[スルタン]](たとえば[[メフメト2世]]や[[スレイマン大帝]])は、([[コンスタンティノポリス総主教]]を庇護することにより)自分を[[ローマ皇帝]]と主張した。しかし、西ローマ帝国と東ローマ帝国を合わせた完全なローマ帝国の再生の目論見に成功した者は誰一人としていなかった。<br /> <br /> 西ローマ帝国の最も重要な遺産は、カトリック教会である。カトリック教会は、西ローマ帝国におけるローマの諸機関にゆっくりと置き換わっていき、[[5世紀]]後半になると、蛮族の脅威を前にローマ市の安全のために交渉役さえ務めるようになる。蛮族が侵入するにつれて多くの改宗者を生み出すと、中世の中ごろ([[9世紀]]~[[10世紀]])までに[[中央ヨーロッパ|中欧]]・[[西ヨーロッパ|西欧]]・[[北ヨーロッパ|北欧]]のほとんどがカトリックに改宗して、ローマ教皇を「キリストの代理者」と称するようになった。<br /> <br /> 西ローマ帝国が帝国として倒れてからも、教会に援助された[[宣教師]]は北の最果てまで派遣され、ヨーロッパ中に残っていた[[異教]]を駆逐したのである。<br /> <br /> == 西ローマ帝国の皇帝 ==<br /> === 「[[ガリア帝国]]」([[260年]]-[[274年]])の僭称皇帝 ===<br /> * [[ポストゥムス]]: 260年-[[268年]]<br /> ** [[ラエリアヌス]]: 268年(簒奪者)<br /> * [[マルクス・アウレリウス・マリウス]]: 269年<br /> * [[マルクス・ピアウォニウス・ウィクトリヌス]]: 268年-[[270年]]又は[[271年]]<br /> ** [[ドミティアヌス (ガリア帝国)|ドミティアヌス]]: 271年(簒奪者)<br /> * [[テトリクス1世]]: 271年-[[273年]]<br /> ** [[テトリクス2世]]: 271年-273年(テトリクス1世の息子で共同統治者)<br /> <br /> === テトラルキア(四分治制) ([[286年]]-[[313年]]) ===<br /> まず&#039;&#039;&#039;正帝&#039;&#039;&#039;を記し、字下げして&#039;&#039;&#039;副帝&#039;&#039;&#039;および摂政を併記する。<br /> * [[マクシミアヌス]]: 286年-[[305年]]<br /> ** コンスタンティウス・クロルス: 293年-305年<br /> * [[コンスタンティウス・クロルス]]: 305年-[[306年]]<br /> ** フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス: 305年-306年<br /> * [[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス]]: 306年-[[307年]]<br /> ** [[コンスタンティヌス1世]]: 306-313年<br /> * [[マクセンティウス]]: 307年-[[308年]]<br /> * [[リキニウス]]: 308年-313年<br /> * マクセンティウス: 308年-[[312年]] (簒奪者)<br /> * [[ドミティウス・アレクサンデル]]: 308年-[[309年]] (アフリカ人の簒奪者)<br /> <br /> === コンスタンティヌス朝 (313年-[[363年]]) ===<br /> * [[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス1世(大帝)]]: 313年-[[337年]] (ローマ帝国全体の皇帝 [[324年]]-337年)<br /> * [[コンスタンティヌス2世]]: 337年-[[340年]] (ガリア、ブリタニア、ヒスパニアの皇帝)<br /> * [[コンスタンス1世]]: 337年-[[350年]] (337年-340年はイタリア、パンノニア、北アフリカなどの皇帝。340年-350年はローマ帝国西方の皇帝 )<br /> * [[マグネンティウス]]: 350年-[[353年]] (簒奪者)<br /> * [[コンスタンティウス2世]]: 353年-[[361年]] (337年-353年はローマ帝国東方の皇帝。353年-361年はローマ帝国全体の皇帝)<br /> * [[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]: 361年-363年(355年-361年は副帝)<br /> * {{仮リンク|クラウディウス・シルウァヌス|en|Claudius Silvanus|label=クラウディウス・シルウァヌス}}: [[355年]] ([[フランク人]]の簒奪者)<br /> <br /> === 王朝無し (363年-364年) ===<br /> * [[ヨウィアヌス]]: 363年-364年<br /> <br /> === ウァレンティニアヌス朝 ([[364年]]-[[392年]]) ===<br /> * [[ウァレンティニアヌス1世]]: 364年-[[375年]]<br /> ** グラティアヌス: [[367年]]-375年<br /> * [[グラティアヌス]]: 375年-[[383年]]<br /> ** ウァレンティニアヌス2世: 375年-383年<br /> * [[ウァレンティニアヌス2世]]: 383年-392年<br /> * {{仮リンク|マグヌス・マクシムス|en|Magnus Maximus}}: 383年-[[388年]] (383年は簒奪者、384年-388年はテオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世の共同皇帝)<br /> * {{仮リンク|フラウィウス・ウィクトル|en|Victor (emperor)}}: [[384年]]-[[388年]] (テオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世の共同皇帝)<br /> <br /> === 王朝無し (392年-394年) ===<br /> * [[エウゲニウス]]: 392年-394年 (東方帝は承認せず)<br /> <br /> === テオドシウス朝(393年-[[455年]]) ===<br /> * [[ホノリウス]]: 393年-[[423年]](409年-410年は元老院は否定)<br /> ** 実権は父テオドシウス1世と軍の実力者であった[[スティリコ]]に握られていた(393年-[[408年]])<br /> * {{仮リンク|マーカス(西ローマ皇帝)|en|Marcus (usurper)|label=マーカス}}: [[406年]]-407年(簒奪者)<br /> * {{仮リンク|グラティアヌス(西ローマ皇帝)|en|Gratian (usurper)|label=グラティアヌス}}: 407年(簒奪者)<br /> * [[コンスタンティヌス3世]]: [[407年]]-[[411年]] (簒奪者、409年-411年はホノリウスの共同皇帝)<br /> * {{仮リンク|コンスタンス2世 (西ローマ皇帝)|en|Constans II (usurper)|label=コンスタンス2世}}: 407年-411年 (簒奪者、コンスタンティヌス3世の共同皇帝)<br /> * [[プリスクス・アッタルス]]: [[409年]]-[[410年]]/[[414年]]-[[415年]] (409年-410年は元老院の公認、ホノリウスは承認せず)<br /> * {{仮リンク|ヒスパニアのマキシムス|en|Maximus of Hispania|label=マキシムス}}: 409年-[[411年]]/[[419年]]-[[421年]] (簒奪者)<br /> * {{仮リンク|ヨウィヌス|en|Jovinus}}: 411年-[[413年]](簒奪者)<br /> * {{仮リンク|セバスティアヌス(西ローマ皇帝)|en|Sebastianus|label=セバスティアヌス}}: [[412年]]-413年(簒奪者、ヨウィヌスの共同皇帝)<br /> * {{仮リンク|ヘラクリアヌス|en|Heraclianus}}: 412年-[[413年]](簒奪者)<br /> * {{仮リンク|コンスタンティウス3世|en|Constantius III|label=コンスタンティウス3世&lt;small&gt;(共同皇帝)&lt;/small&gt;}}: [[421年]] (ホノリウスの共同皇帝、東方帝は承認せず)<br /> * {{仮リンク|ヨハンネス (西ローマ皇帝)|en|Joannes|label=ヨハンネス}}: 423年-[[425年]] (西ローマ帝国による選出、東方帝は承認せず)<br /> * [[ウァレンティニアヌス3世]]: [[425年]]-455年 (東方帝が擁立)<br /> ** [[ガッラ・プラキディア]]: 423年-[[433年]] (母后、摂政)<br /> ** [[アエティウス|フラウィウス・アエティウス]]: 433年-[[454年]] (軍司令官)<br /> <br /> === テオドシウス朝断絶後 ([[455年]]-[[480年]]) ===<br /> * [[ペトロニウス・マクシムス]]: 455年 (東方帝は承認せず)<br /> * [[アウィトゥス]]: 455年-[[457年]] (東方帝は承認せず)<br /> ** 西方領土の実力者であった[[リキメル]]に擁立される。<br /> * [[マヨリアヌス]]: 457年-[[461年]]<br /> * [[リウィウス・セウェルス]]: 461年-[[465年]] (東方帝は承認せず)<br /> * [[アンティミウス]]: 465年-[[472年]]<br /> * [[オリブリオス]]: 472年 (東方帝は承認せず)<br /> * [[グリケリウス]]: [[473年]]-[[474年]] (東方帝は承認せず)<br /> * [[ユリウス・ネポス]]: 474年-480年 (亡命:475年-480年、制度上の最後の西ローマ帝国の皇帝)<br /> * [[ロムルス・アウグストゥルス]]: [[475年]]-[[476年]](事実上の最後の西ローマ帝国の皇帝、東方帝は承認せず)<br /> ** 西方領土の実力者であった[[フラウィウス・オレステス]]の子で、彼によって擁立される。<br /> ** 476年、オレステスはオドアケル率いる蛮族の傭兵の叛乱軍によって殺害された。オドアケルはローマ西帝位を東帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]に返還、ゼノンの代理人という形式でイタリアの支配権を引き受けた。ただし、東帝ゼノンはあくまで正統な西帝はネポスであるとしていた。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *本村凌二編著/池口守・大清水裕・志内一興・高橋亮介・中川亜希著『ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ』研究社 2011年<br /> * 井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社1998年<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[フランク・ローマ皇帝]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|Category:Romans}}<br /> * [http://www.roman-empire.net www.roman-empire.net]<br /> * [http://www.roman-emperors.org/impindex.htm &#039;&#039;De Imperatoribus Romanis&#039;&#039;]<br /> {{normdaten}}<br /> {{ローマ帝国}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:にしろまていこく}}<br /> [[Category:西ローマ帝国|*]]<br /> [[Category:帝国]]</div> 42.145.121.253 東ローマ帝国 2018-08-03T13:58:04Z <p>42.145.121.253: 正式な国名はローマ帝国です。</p> <hr /> <div>{{脚注の不足|date=2012年2月}}&lt;!--{{参照方法}}--&gt;<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 =東ローマ帝国<br /> |日本語国名 =ローマ帝国<br /> |公式国名 ={{aut|&#039;&#039;&#039;Imperium Romanum&#039;&#039;&#039;}}&lt;br/&gt;{{Lang|el|&#039;&#039;&#039;Βασιλεία Ῥωμαίων&#039;&#039;&#039;}}<br /> |建国時期 =[[395年]]<br /> |亡国時期 =[[1453年]]<br /> |先代1 =ローマ帝国<br /> |先旗1 =Vexilloid of the Roman Empire.svg<br /> |先旗1縁 =no<br /> |先代2 =ヴァンダル王国 (アフリカ)<br /> |先旗2 = Blank.png<br /> |先代3 =東ゴート王国<br /> |先旗3 = Blank.png<br /> |次代1 =オスマン帝国<br /> |次旗1 =Ottoman Flag.svg<br /> |次代2 =モスクワ大公国<br /> |次旗2 =Coat of Arms of Moscow.svg<br /> |次旗2縁 =no<br /> |次代3 =セルビア王国 (中世)<br /> |次旗3 =Flag_of_Serbia_1281.svg<br /> |次代3略 =セルビア王国<br /> |次代4 =第二次ブルガリア帝国<br /> |次旗4 =Flag_of_the_Second_Bulgarian_Empire.svg<br /> |次旗4縁 =<br /> |次代5 =キプロス王国<br /> |次旗5 =Royal_banner_of_Janus_of_Cyprus.svg<br /> |次旗5縁 =<br /> |次代6 =ヴェネツィア共和国<br /> |次旗6 =Flag of Most Serene Republic of Venice.svg<br /> |次代7 =テオドロ公国<br /> |次旗7 =Coat of arms of Gothia.svg<br /> |次旗7縁 = no <br /> |国旗画像 =Byzantine imperial flag, 14th century.svg<br /> |国旗リンク = &lt;!--「&quot;略名&quot;の国旗」以外を指定--&gt;<br /> |国旗幅 = <br /> |国旗縁 = no<br /> |国章画像 =Palaiologos Dynasty emblem.svg<br /> |国章リンク =<br /> |国章幅 =100px<br /> |標語 =<br /> |国歌名 =<br /> |国歌追記 =<br /> |位置画像 =Byzantine Empire animated.gif<br /> |位置画像説明 =東ローマ帝国の版図の変遷<br /> |公用語 =[[ラテン語]]、[[ギリシア語]]&lt;sup&gt;([[620年]]以降&lt;ref name=&quot;Davis p. 260&quot;&gt;[[#refDavis1990|Davis 1990]], p. 260.&lt;/ref&gt;)&lt;/sup&gt;<br /> |首都 =[[コンスタンティノポリス]]<br /> |元首等肩書 =[[東ローマ帝国の皇帝一覧|皇帝]]<br /> |元首等年代始1 =[[395年]]<br /> |元首等年代終1 =[[408年]]<br /> |元首等氏名1 =[[アルカディウス]](初代)<br /> |元首等年代始2 =[[527年]]<br /> |元首等年代終2 =[[565年]]<br /> |元首等氏名2 =[[ユスティニアヌス1世]]<br /> |元首等年代始3 =[[976年]]<br /> |元首等年代終3 =[[1025年]]<br /> |元首等氏名3 =[[バシレイオス2世]]<br /> |元首等年代始4 =[[1448年]]<br /> |元首等年代終4 =[[1453年]]<br /> |元首等氏名4 =[[コンスタンティノス11世|コンスタンティノス11世ドラガセス]](最後)<br /> |面積測定時期1 =<br /> |面積値1 =<br /> |面積測定時期2 =<br /> |面積値2 =<br /> |面積測定時期3 =<br /> |面積値3 =<br /> |面積測定時期4 =<br /> |面積値4 =<br /> |面積測定時期5 =<br /> |面積値5 =<br /> |人口測定時期1 =<br /> |人口値1 =<br /> |人口測定時期2 =<br /> |人口値2 =<br /> |人口測定時期3 =<br /> |人口値3 =<br /> |人口測定時期4 =<br /> |人口値4 =<br /> |人口測定時期5 =<br /> |人口値5 =<br /> |変遷1 = 成立(東西分割)<br /> |変遷年月日1 = [[395年]]<br /> |変遷2 = [[イスラム帝国]]によって領土の大半を失陥<br /> |変遷年月日2 = [[7世紀]]<br /> |変遷3 = [[第4回十字軍]]により一旦滅亡<br /> |変遷年月日3 = [[1204年]]<br /> |変遷4 = 亡命政権[[ニカイア帝国]]によって再興<br /> |変遷年月日4 = [[1261年]]<br /> |変遷5 = [[オスマン帝国]]によって滅亡<br /> |変遷年月日5 = [[1453年]][[5月29日]]<br /> |通貨 = [[ソリドゥス金貨|ノミスマ]]<br /> |注記 =<br /> * 公式な国号は「ローマ帝国」。<br /> * 正式な成立時期はない。<br /> }}<br /> {{ローマの政治体制}}<br /> {{ギリシャの歴史}}<br /> &#039;&#039;&#039;東ローマ帝国&#039;&#039;&#039;(ひがしローマていこく)または&#039;&#039;&#039;ビザンツ帝国&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ビザンティン帝国&#039;&#039;&#039;は、東西に分割統治されて以降の[[ローマ帝国]]の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった[[395年]]以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧[[西ローマ帝国|西ローマ]]領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降は[[バルカン半島]]、[[アナトリア半島]]を中心とした国家となった。首都は[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]](現在の[[トルコ共和国]]の都市である[[イスタンブール]])であった。<br /> <br /> 西暦[[476年]]に[[西ローマ帝国]]が[[ゲルマン人]]の傭兵隊長[[オドアケル]]によって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝[[ロムルス・アウグストゥス]]が[[ゼノン (東ローマ皇帝)|当時の東ローマ皇帝ゼノン]]に帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。<br /> <br /> == 名称 ==<br /> [[ファイル:Follis-Leo VI-sb1729.jpg|thumb|皇帝[[レオーン6世]](在位:886年 - 912年)の[[銅貨]]。裏面には &quot;{{lang|el|+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn}}&quot;(レオーン、神に(忠実なる)[[ローマ人]]の[[バシレウス]])と書かれている。]]<br /> この国家(およびその類似概念)については、いくつかの呼び方が行われている。<br /> <br /> ; ローマ帝国<br /> :[[3世紀]]末から[[4世紀]]前半にかけて帝国の中心は[[オリエント|東方世界]]へと移行したが、「ローマ人の皇帝」が[[イタリア本土 (古代ローマ)|ローマ本土]]にも存在していた時代には、東ローマ帝国が自らをローマと同等のものとして扱うことは許されなかった&lt;ref&gt;[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『世界大百科事典』平凡社、1998年、ローマ理念&lt;/ref&gt;。しかし476年に西方正帝が消滅して「ローマ人の皇帝」が帝国東方にしか存在しないようになると、次第に東ローマ帝国では「ローマに代わる第二のローマ」という自意識が育ち、同地の人々は遅くとも[[6世紀]]中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった&lt;ref&gt;井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年&lt;/ref&gt;。こうしてローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼ぶことはなく&lt;ref&gt;「我々はローマ人、この国はローマ帝国である。これがビザンツ帝国のいわば憲法であった」(井上浩一・[[栗生沢猛夫]]『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』([[中公文庫]]版 P23))&lt;/ref&gt;、この地域の政府や住民は自国を単に「[[ローマ帝国]] (&lt;small&gt;[[ラテン語]]&lt;/small&gt;:{{lang|la|Imperium Romanum}}, &lt;small&gt;[[ギリシア語]]&lt;/small&gt;:{{lang|el|Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων, Basileia tōn Rhōmaiōn/Vasilia ton Romeon}})」と称した。後述するように、中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「[[ローマ人]]の土地 ({{lang|el|Ῥωμανία, Rhōmania/Romania}})」と呼んでおり、また彼ら自身も「[[ギリシア人]] ({{lang|el|Ἕλληνες, Hellēnes/Elines}})」&lt;ref&gt;ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味したとされる。(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、1999年、p.1)&lt;/ref&gt;ではなく「[[ローマ人]] ({{lang|el|Ῥωμαίοι, Rhōmaioi/Romei}})」を称していた。<br /> ; 東ローマ帝国<br /> :古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、3世紀以降にはこれをいくつかの部分に分け、複数の君主が分割統治するという体制がとられることとなった。さらに、4世紀前半のコンスタンティノポリス遷都により、政治的にも「東の部分」が帝国の中心であることが明白となった。395年の[[テオドシウス1世]]の死後、長男アルカディウスは東を、次男ホノリウスは西を分割統治するようになり、帝国の「西の部分」と「東の部分」はそれぞれ別個の途を歩むこととなった&lt;ref&gt;なお、分割統治した当初はあくまでもそれまでの分割統治同様、一つの帝国を二人で分割統治する体制と捉えられていた。例えば、は443年に地震で破損したローマ市の[[コロッセオ]]の修復が行われているが、その際にコロッセオに設置されたラテン語碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス([[テオドシウス2世]])とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス([[ウァレンティニアヌス3世]])のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている。[[本村凌二]]編著/池口守・大清水裕・志内一興・高橋亮介・中川亜希著『ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ』(研究社 2011年)P232-233&lt;/ref&gt;。これ以降の帝国の「東の部分」を指して、「東ローマ帝国」という通称が使われている。<br /> ; ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国<br /> :[[古代ローマ|ローマ国家]]自体は古代から1453年まで連綿と続いたものであり、上述の通り「東ローマ帝国」の住民も自らの国家を「ローマ帝国」と認識していた。ところが、7世紀頃以降のこの国家は「[[ローマ帝国|古代ローマ帝国]]」とは文化や領土等の面で違いがあまりにも顕著であるため、便宜上、別の名称が使用されるようになった&lt;ref&gt;「ビザンツ帝国とは古代のローマ帝国とはまったく異なる国家であり、その文明や社会も[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ|ローマ]]時代とは性格を替えていたとする見解も有力である。そもそも『ビザンツ』という呼び方自体、古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提としていた」[井上浩一『諸文明の起源8 ビザンツ 文明の継承と変容』([[京都大学学術出版会]] P5))&lt;/ref&gt;。「ビザンツ」「ビザンティン」は、すでに帝国が滅びて久しい[[19世紀]]以降に使われるようになった通称である。いずれも首都[[コンスタンティノポリス]]の旧称[[ビュザンティオン]](中世・現代ギリシア語ではビザンティオン)に由来している。「ビザンツ」は[[ドイツ語]]の名詞 {{lang|de|Byzanz}}&lt;ref&gt;ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。また、現代ドイツ語では地名[[ビュザンティオン]]は {{lang|de|Byzantion}},帝国の呼称としては {{lang|de|Byzantinisches Reich}} が用いられるのが一般的である。&lt;/ref&gt;、「ビザンティン」は[[英語]]の形容詞 {{lang|en|Byzantine}} に、「ビザンティオン」は[[ギリシア語]]の名詞に由来している。日本語での呼称は、[[歴史学]]では「ビザンツ」が、[[美術]]・[[建築]]などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い。「ビザンティオン帝国」は、英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている&lt;ref&gt;例えば、清水睦夫『ビザンティオンの光芒―東欧にみるその文化の遺蹤—』(晃洋書房、1992年)。&lt;/ref&gt;。ただし、これらの呼称は7世紀頃以降のこの帝国を指して使われることが多く、その点で、4世紀末~6世紀頃([[古代末期]])の「東ローマ帝国」とはややその概念を異にしている&lt;ref&gt;「誤解を恐れずにいいかえればこうなる。アラブ人の侵入によって、東ローマ帝国は滅び、半独立政権の[[テマ制|テマ]]が各地に成立した。そのテマを地方行政組織に編成しなおすことによって、新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する。」([[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]・[[栗生沢猛夫]]『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』([[中公文庫]]版 P71-72))&lt;/ref&gt;。<br /> ; ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国<br /> :[[カール大帝]]の戴冠による「[[西ローマ帝国]]」復活以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの帝国」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた&lt;ref&gt;カール大帝以前は、西欧諸国の王やローマ教皇は名目上ではコンスタンティノポリスの皇帝の臣下ということになっていた。&lt;/ref&gt;。東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「[[ローマ皇帝]]」だったのである。また、例えば[[桂川甫周]]は、著書『[[北槎聞略]]』において[[蘭学|蘭書]]『魯西亜国誌』({{lang|nl|&#039;&#039;Beschrijving van Russland&#039;&#039;}} ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。ローマ帝国の継承者を自称した[[ロシア帝国]]であるが、ルーシの記録でも東ローマを「グレキ」(ギリシア)と呼んでおり、東ローマ帝国をギリシア人の帝国だと認識していた。<br /> ; 中世ローマ帝国<br /> :この国家を「東ローマ帝国」「ビザンツ帝国」「ギリシア帝国」と呼ぶのは中立的でないとし、少なくとも日本における呼称としては適切でないとする見解が日本の学界の一部では古くから主張されており、そこでは(特に7世紀頃以降のこの国家を指して)「&#039;&#039;&#039;中世ローマ帝国&#039;&#039;&#039;」の呼称が提案されてきた&lt;ref&gt;[[梅田良忠]]編『東欧史(世界各国史13)』(山川出版社、1958年)&lt;/ref&gt;。この呼称はなかなか普及しなかったが、1980年に[[渡辺金一]]が普及力の強い岩波新書における自らの著書の題名に冠した&lt;ref&gt;渡辺金一『中世ローマ帝国―世界史を見直す—』 (岩波書店、1980年)。&lt;/ref&gt;ことにより、一般の読書人にも知られるようになった。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、[[キリスト教]]([[正教会]])を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、[[7世紀]]以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、[[サーサーン朝]][[ペルシア]]や[[イスラム帝国]]により国土を侵食された。[[8世紀]]末には[[ローマ教皇]]との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。<br /> <br /> 領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くが[[ギリシア人|ギリシア系]]となり、[[620年]]には[[公用語]]も[[ラテン語]]から[[ギリシア語]]に変わった&lt;ref name=&quot;Davis p. 260&quot;&gt;[[#refDavis1990|Davis 1990]], p. 260.&lt;/ref&gt;。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「&#039;&#039;&#039;キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国&#039;&#039;&#039;」と評す者もいる&lt;ref&gt;[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]([[大阪市立大学]]教授)など。&lt;/ref&gt;。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。<br /> <br /> [[9世紀]]には徐々に国力を回復させ、[[皇帝]]に権力を集中する政治体制を築いた。[[11世紀]]前半には、東ローマ帝国は[[バルカン半島]]や[[アナトリア半島]]東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。[[11世紀]]後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに[[第4回十字軍]]の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつ[[ニカイア帝国]]によってコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして[[1453年]]、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、[[オスマン帝国]]の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。<br /> <br /> [[古代ギリシア]]文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧の[[ルネサンス]]に多大な影響を与え、「[[ビザンティン文化]]」として高く評価されている。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であった[[トルコ]]でもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。<br /> {{Clearleft}}<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[ファイル:Imperium Romanum.png|thumb|ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分は[[トラヤヌス]]帝時代の[[ローマ帝国]]最大版図。赤線は東西ローマの分割線]]<br /> {{main2|歴代の皇帝|東ローマ帝国の皇帝一覧}}<br /> 東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、[[4世紀]]から[[15世紀]]までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った&lt;ref&gt;[[日本の歴史|日本史]]でいうと[[古墳時代]]から[[室町時代]]に相当する。&lt;/ref&gt;。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかには、[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]断絶([[1057年]])後を後期とする説がある。<br /> <br /> === 前史 ===<br /> {{main|[[ローマ帝国#混乱と分裂|ローマ帝国の混乱と分裂]]|ウァレンティニアヌス朝}}<br /> <br /> [[コンスタンティヌス1世]]が[[ローマ]]から[[コンスタンティノポリス]]へ[[遷都]]した[[330年]]をもってビザンツ(東ローマ)帝国史の始まりとする場合もある。たとえば著名なビザンツ史学者[[ゲオルク・オストロゴルスキー]]の『ビザンツ帝国史』では、遷都直前の[[324年]]([[テトラルキア]]の内戦[[:en:Civil wars of the Tetrarchy|Civil wars of the Tetrarchy]]が終結した年)を始点としている。<br /> <br /> [[378年]]、皇帝[[ウァレンス]]が[[ハドリアノポリスの戦い]]([[ゴート戦争 (376年–382年)|ゴート戦争]])で敗死。<br /> <br /> [[390年]]、[[ゴート族]][[:de:Butherich|Buthericus]]の逮捕のために、[[テオドシウス1世]]が派遣した軍による{{仮リンク|テッサロニカの虐殺|en|Massacre of Thessalonica}}が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺である。[[:en:List of massacres in Greece]]を参照。)<br /> <br /> === 前期(395年 - 610年頃) ===<br /> ==== 再興と挫折 ====<br /> [[ファイル:Meister von San Vitale in Ravenna 004.jpg|thumb|180px|ユスティニアヌス1世]]<br /> {{see_also|ユスティニアヌス王朝|民族移動時代}}<br /> <br /> 本項では、ローマ帝国の[[オリエント|東]][[オクシデント|西]]両地域を実質的に単独支配した最後の皇帝となった[[テオドシウス1世]]が、[[395年]]の死に際し、長男[[アルカディウス]]に帝国の東半分を、次男[[ホノリウス]]に西半分を、継がせた時点をもって「東ローマ帝国」の始まりとしている。<br /> <br /> 皇帝[[テオドシウス2世]]([[401年]] - [[450年]])は、[[パンノニア]]に本拠地を置いた[[フン族]]の王[[アッティラ]]にたびたび侵入されたため、首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁[[テオドシウスの城壁]]を築き、ゲルマン人やゴート人に対する防御力を高める事に専心した。皇帝[[マルキアヌス]]([[450年]] - [[457年]])は、[[451年]]に[[カルケドン公会議]]を開催し、[[エフェソス強盗会議|第2エフェソス公会議]]以来の問題となっていた{{仮リンク|エウテュケス|en|Eutyches}}の唱える{{仮リンク|エウテュケス主義|en|Eutychianism}}や[[単性説]]を改めて異端として避け、[[三位一体]]を支持し、東西教会の分裂を避ける事に尽力した。[[453年]]に[[アッティラ]]が急死するとフン族は急速に弱体化し、フン族への献金を打ち切った。マルキアヌスが急死すると、皇帝には[[トラキア人]]の[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]([[457年]] - [[474年]])が据えられたが、[[アラン人]]の[[パトリキ]]で[[マギステル・ミリトゥム]]だった{{仮リンク|アスパル|en|Aspar}}の傀儡であった。しかし、[[471年]]にアスパル父子を殺害して実権を得ることに成功した。<br /> <br /> [[西ローマ帝国]]での皇帝権は[[ゲルマン人]]の侵入などで急速に弱体化し、[[476年]]に西方正帝の地位が消滅した。{{仮リンク|東ゲルマン族|en|East Germanic tribes}}の{{仮リンク|スキリア族|en|Scirii}}の[[オドアケル]]は西ローマ皇帝を退位させ、自らは帝位を継承せずに東ローマ皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]([[474年]] - [[491年]])に帝位を返上した。東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を退けて古代後期時点でのローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝となった。オドアケルは東ローマ皇帝の[[宗主国|宗主権]]を認めてローマ帝国のイタリア領主として任命され、皇帝の代官としてローマ帝国の本土であるイタリア半島を支配した。<br /> <br /> 西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は<br /> * [[アナトリア]]・[[歴史的シリア|シリア]]・[[エジプト]]のような、ゲルマン人の手の届かない地域に豊かな[[穀倉地帯]]を保持していた<br /> : 対する西ローマ帝国は穀倉地帯である[[シチリア]]を、ゲルマン人に奪われた。<br /> * アナトリアの[[イサウリア]]人のようにゲルマン人に対抗しうる勇猛な民族がいた<br /> * [[西ゴート人]]や[[東ゴート人]]へ貢納金を払って西ローマ帝国へ移住させた<br /> : ただし、これによって西ローマ側の疲弊は進んだ。<br /> * 首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁を築いていた<br /> ことなどが挙げられる。<br /> <br /> [[ファイル:Aya sofya.jpg|thumb|[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]&lt;br/&gt;周囲の[[ミナレット|尖塔]]は[[オスマン帝国]]時代のもの]]<br /> しかし[[488年]]にイタリアの統治方針についてゼノンとイタリア領主オドアケルが対立したことがきっかけとなり、東ローマ皇帝ゼノンがオドアケル追討を命じた。[[489年]]に[[東ゴート族]]の[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]がイタリア侵攻を開始した。[[491年]]、皇帝ゼノンが急死し、皇后アリアドネは[[アナスタシウス1世]]([[491年]] - [[518年]])と結婚して皇帝に据え、混乱を防いだ。[[493年]]にオドアケルは暗殺され、テオドリックがイタリアの[[総督]]および[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ|道長官]]に任命された。テオドリックは[[497年]]にアナスタシウス1世より[[イタリア王]]を名乗ることが許され、ここに[[東ゴート王国]]([[497年]]-[[553年]])が成立した。ただし東ゴート王国の領土と住民は依然としてローマ帝国のものとされ、民政は引き続き西ローマ帝国政府が運営し、立法権は東ローマ皇帝が行使した。<br /> <br /> [[アナスタシウス1世]]の下で東ローマ帝国は力を蓄えたが、その一方で、単性論寄りの宗教政策によってカトリック教会と対立が再び表面化した。[[502年]]の[[:en:Anastasian War]]が長きに渡る[[サーサーン朝]]との{{仮リンク|ビザンチン・サーサーン戦争|en|Byzantine–Sassanid Wars}}の発端となった。アナスタシウス1世が急死すると、次の[[ユスティヌス1世]]([[518年]] - [[527年]])は[[ローマ教皇]]との関係修復に腐心することになった。<br /> <br /> 6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]([[527年]] - [[565年]])の時代には、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊した。一方、名将[[ベリサリウス]]の活躍により旧西ローマ帝国領の[[イタリア半島]]・[[北アフリカ]]・[[イベリア半島]]の一部を征服し、[[533年]]の[[アド・デキムムの戦い]]で[[ヴァンダル族]]を破って[[カルタゴ]]を奪還すると、[[ヴァンダル戦争]]([[533年]] - [[534年]])で[[地中海]]沿岸の大半を再統一することに成功した。特にこの時期、[[442年]]([[455年]])以来[[ヴァンダル族]]に占領されていた旧都・ローマを奪還した事は、東ローマ帝国がいわゆる「ローマ帝国」を自称する根拠となった。[[528年]]にトリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『[[ローマ法大全]]』の編纂や[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]の再建など、後世に残る文化事業も成したが、[[529年]]にはギリシャの多神教を弾圧し、[[プラトン]]以来続いていた[[アテネ]]の[[アカデメイア]]を閉鎖に追い込み、数多くの学者がサーサーン朝に移住していった。<br /> <br /> [[535年]]のインドネシアの[[クラカタウ]]大噴火の影響で{{仮リンク|535年から536年の異常気象現象|en|Extreme weather events of 535–536}}に見舞われた。イタリア半島においては[[ゴート戦争]]([[535年]] – [[554年]])が始まる。[[543年]]、[[黒死病]]({{仮リンク|ユスティニアヌスのペスト|en|Plague of Justinian}})。{{仮リンク|ラジカ王国|en|Lazica}}をめぐる[[サーサーン朝]]ペルシアとの抗争({{仮リンク|ラジカ戦争|en|Lazic War}})で手がまわらなくなると、[[スラヴ人]]([[542年]])・[[アヴァール]]([[557年]])などの侵入に悩まされた。[[546年]]に東ゴート軍は、[[イサウリア]]人の裏切りによってローマを陥落させることに成功し、この時の[[ローマ略奪 (546年)|ローマ略奪]]と重税によって、いわゆる「ローマの元老院と市民」([[SPQR]])が崩壊し、[[古代ローマ]]はこの時滅亡したのだと主張する学者もいる。[[552年]]に[[ナルセス]]将軍が派遣され、{{仮リンク|ブスタ・ガロールムの戦い|el|Μάχη των Βουσταγαλλώρων|it|Battaglia di Tagina|en|Battle of Taginae}}({{lang-el|Μάχη των Βουσταγαλλώρων}} {{lang|en|Battle of Busta Gallorum}}、タギナエの戦い {{lang-it|Battaglia di Tagina}} {{lang-en|Battle of Taginae}})で[[トーティラ]]を敗死させ、東ゴートは滅亡した。翌年、イタリア半島は平定された。<br /> <br /> [[565年]]にユスティニアヌス1世が没すると、[[568年]]には[[アルプス山脈]]を越えて南下したゲルマン系[[ランゴバルド人]]によって[[ランゴバルド王国]]が北イタリアに建国された。[[558年]]、[[突厥]]の西面(現[[イリ]])の[[室点蜜]]は[[サーサーン朝]]の[[ホスロー1世]]との連合軍で[[エフタル]]を攻撃し、[[567年]]頃に室点蜜はエフタルを滅ぼした。その後、室点蜜とホスロー1世の関係が悪化し、[[568年]]に室点蜜からの使者が東ローマ帝国を訪れた。[[572年]]から始まった{{仮リンク|ビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)|en|Byzantine–Sassanid War of 572–591}}で、東ローマ帝国もサーサーン朝に対抗する同盟相手を求めていたため、[[576年]]に[[達頭可汗]]にサーサーン朝を挟撃することを提案した。[[588年]]、{{仮リンク|第一次ペルソ・テュルク戦争|en|First Perso-Turkic War}}でサーサーン朝を挟撃した。[[598年]]、達頭可汗がエフタルと[[アヴァール]]征服を東ローマ帝国の皇帝[[マウリキウス]]に報告した。[[602年]]にユスティニアヌス朝で政変が起こりマウリキウスが殺され、混乱の中で[[フォカス]]が帝位を僭称した。<br /> <br /> 7世紀になると、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った({{仮リンク|サーサーン朝のエジプト征服|en|Sassanid conquest of Egypt}})。フォカスは、逆襲のためにサーサーン朝ペルシアへ侵攻した([[東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)]])。<br /> <br /> === 中期(610年頃 - 1204年) ===<br /> ==== 危機と変質 (7世紀 - 8世紀) ====<br /> {{see_also|ヘラクレイオス王朝|イサウリア朝}}<br /> <br /> [[608年]]に[[カルタゴ]]の{{仮リンク|アフリカ総督|en|Exarchate of Africa}}{{仮リンク|ヘラクレイオス (カルタゴ総督)|en|Heraclius the Elder|label=大ヘラクレイオス}}が反乱を起こし、[[610年]]にカルタゴ総督・大ヘラクレイオスの子の[[ヘラクレイオス]](在位 : [[610年]] - [[641年]])が皇帝に即位した。ヘラクレイオスは、[[西突厥]]の二度にわたる戦争({{仮リンク|第二次ペルソ・テュルク戦争|en|Second Perso-Turkic War}}、{{仮リンク|第三次ペルソ・テュルク戦争|en|Third Perso-Turkic War}})に助けられ、{{仮リンク|サーサーン朝のエジプト征服|en|Sassanid conquest of Egypt|label=シリア・エジプトへ侵攻した}}サーサーン朝ペルシアを[[ニネヴェの戦い (627年)]]で破るなどして[[東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)]]に勝利し、領土を奪回することに成功した。[[627年]]に[[ハザール]]を主力とする「東のテュルク」と同盟を結んだが、[[628年]]に[[統葉護可汗]]が殺され、後継者問題にゆれる西突厥との同盟関係は失われた。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;公用語が[[ラテン語]]から[[ギリシア語]]へと変わった&#039;&#039;&#039;のはこの時代、[[ヘラクレイオス]]治世の[[620年]]である&lt;ref name=&quot;Davis p. 260&quot;&gt;[[#refDavis1990|Davis 1990]], p. 260.&lt;/ref&gt;。また同時代には、「皇帝」の通用的な称号が「[[インペラトル]]」から「&#039;&#039;&#039;[[バシレウス]]&#039;&#039;&#039;(ヴァシレフス)」に変わった。<br /> <br /> ===== アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代) =====<br /> {{main|アラブ・東ローマ戦争}}<br /> [[イスラーム教徒のペルシア征服|サーサーン朝への攻撃]]を開始した[[イスラム帝国]]([[正統カリフ]])は、[[カーディスィーヤの戦い]]でメソポタミアからサーサーン朝を駆逐して間もなく、東ローマ領の[[シリア地方]]へも侵攻した。[[636年]]に[[ヤルムークの戦い]]で東ローマ軍は敗北し、シリア・エジプトなどの[[オリエント]]地域や北アフリカを再び失った。[[641年]]、ヘラクレイオスが死亡すると、[[コンスタンティノス3世]]と[[ヘラクロナス]]との間で後継者問題が起き、[[コンスタンス2世]]が即位して落ち着いた。。東ローマ軍は、[[655年]]にアナトリア南岸の[[リュキア]]沖での海戦({{仮リンク|マストの戦い|en|Battle of the Masts}})でイスラム軍([[正統カリフ]])に敗れた後は東地中海の制海権も失った。<br /> <br /> [[656年]]、イスラム帝国内で第三代カリフの[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]が暗殺され、{{仮リンク|第一次フィトナ|en|First Fitna|label=第一次内乱}}([[656年]] - [[661年]])が始まる。[[661年]]、[[ウマイヤ朝]]が成立。<br /> <br /> [[ファイル:Greekfire-madridskylitzes1.jpg|thumb|240px|[[ギリシア火薬]]を用いてアラブ船を攻撃するローマ軍]]<br /> <br /> [[674年]]から[[678年]]までの{{仮リンク|コンスタンティノポリス包囲戦 (674年–678年)|en|Siege of Constantinople (674–678)|label=コンスタンティノポリス包囲戦}}では、連年イスラム海軍([[ウマイヤ朝]])に包囲され、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされたが、難攻不落の大城壁と秘密兵器「[[ギリシア火薬|ギリシアの火]]」を用いて撃退することに成功した。[[680年]]には[[オングロスの戦い]]で[[テュルク系]][[ブルガール人]]に破れ、[[681年]]の講和で北方に[[第一次ブルガリア帝国]]が建国された([[ブルガリア・東ローマ戦争]]、[[680年]] - [[1355年]])。[[698年]]、{{仮リンク|カルタゴの戦い (698年)|en|Battle of Carthage (698)|label=カルタゴの戦い}}ではイスラム軍([[ウマイヤ朝]])に敗れ、[[カルタゴ]]を占領されて[[カイラワーン]]に拠点を構築された&lt;ref name=sights&gt;{{cite web|title=Tunisia - Carthage|url=http://www.sights-and-culture.com/Tunisia/Carthage.html|publisher=www.sights-and-culture.com|accessdate=20 September 2012}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=brit&gt;{{cite web|title=ʿAbd al-Malik|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/678/Abd-al-Malik|publisher=www.britannica.com|accessdate=20 September 2012}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=myeth&gt;{{cite web|title=Battle of Carthage (698)|url=http://www.myetymology.com/encyclopedia/Battle_of_Carthage_%28698%29.html|publisher=www.myetymology.com|accessdate=20 September 2012}}&lt;/ref&gt;。その後も8世紀を通じてブルガリアから攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島と[[バルカン半島]]の沿岸部、南イタリアの一部([[マグナ・グラエキア]])に縮小した。<br /> <br /> [[717年]]に即位した[[イサウリア王朝]]の皇帝[[レオーン3世]]は、[[718年]]に[[イスラム帝国]]軍([[ウマイヤ朝]])を撃退({{仮リンク|コンスタンティノポリス包囲戦 (717年–718年)|en|Siege of Constantinople (717–718)|label=第二次コンスタンティノポリス包囲戦}})。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避された。しかし、宗教的には[[726年]]にレオーン3世が始めた[[聖像破壊運動]]などで東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、[[カトリック教会]]との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに[[787年]]、[[第2ニカイア公会議]]決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異は後に[[フィリオクェ問題]]をきっかけとして顕在化した。<br /> <br /> 女帝[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]](イリニ)治下の[[800年]]、ローマ教皇が[[フランク王国|フランク王]]カール1世([[カール大帝]])に「ローマ皇帝」の帝冠を授け、[[802年]][[10月31日]]のクーデターで[[ニケフォロス1世]]が即位し、[[803年]]に{{仮リンク|パクス・ニケフォリ|en|Pax Nicephori}}を締結したが、政治的にも東西ヨーロッパは対立。古代ローマ以来の[[地中海世界]]の統一は完全に失われ、地中海はフランク王国・東ローマ・イスラムに三分された。<br /> <br /> [[ファイル:Siege of Amorium.jpg|thumb|left|[[アモリオンの戦い]]([[838年]])]]<br /> <br /> イスラム軍([[アッバース朝]])とは、[[804年]]の[[:en:Battle of Krasos]]、[[806年]]の[[:en:Abbasid invasion of Asia Minor (806)]]で戦火を交えたが敗北し、貢納金を支払う条件で[[平和条約|和約]]を結んだ。[[811年]]には[[第一次ブルガリア帝国]]に侵攻したが、撤退時の[[プリスカの戦い]]({{lang-en-short|Battle of Pliska}}、[[ブルガリア語]]:{{lang|bg|Битка при Върбишкия проход}} - バルビツィア峠の戦い)で皇帝[[ニケフォロス1世]]が殺害され、後継者問題が起こった。[[ミカエル1世ランガベー]]が皇帝に即位し、対立していた[[フランク王国]]と妥協し、カール大帝の皇帝就任を承認。[[813年]]に[[ヴェルシニキアの戦い]]で再び第一次ブルガリア帝国に敗北し、[[レオーン5世]]への譲位を余儀なくされた。[[814年]]に第一次ブルガリア帝国の[[クルム (ブルガリア皇帝)|クルム]]が死去すると、[[オムルタグ]]と[[815年の条約|30年不戦条約]]を結んだ。[[827年]]にアラブ人([[アッバース朝]]支配下の[[アグラブ朝]])が[[シチリア島]]へ侵攻し({{仮リンク|ムスリムのシチリア征服|it|Conquista islamica della Sicilia|en|Muslim conquest of Sicily}}、[[827年]]-[[902年]])、{{仮リンク|シチリア首長国|it|Storia della Sicilia islamica|ar|إمارة صقلية|en|Emirate of Sicily}}([[831年]] - [[1072年]])が成立。902年にイブラーヒーム2世が[[タオルミーナ]]を攻略してシチリア島の征服が完了した&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|last = ヒッティ|first = フィリップ・K |translator = 岩永博|title = アラブの歴史|edition = 初版|year = 1983|publisher = [[講談社]]|series = [[講談社学術文庫]]|isbn = 4-06-158592-4 |volume = 下}}、p.509&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、[[バルカン半島]]沿岸部と[[アナトリア]]を支配し、[[ギリシア人]]・[[正教会]]・[[古代ギリシア|ギリシア文化]]を中心とする国家となった。このことから、これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ぶこともある。<br /> {{Clearleft}}<br /> <br /> ==== 最盛期(9世紀 - 11世紀前半) ====<br /> [[ファイル:Byzantine Empire Themes 1025-en.svg|thumb|240px|1025年の東ローマ帝国]]<br /> [[ファイル:Basilios_II.jpg|thumb|180px|軍装の[[バシレイオス2世]]&lt;br/&gt;東ローマ帝国の全盛期を現出した]]<br /> [[ファイル:Jean_II_Comnene.jpg|right|thumb|180px|ヨハネス2世コムネノス&lt;br/&gt;彼の下で帝国は再び繁栄の時代を迎えた]]<br /> {{see_also|マケドニア王朝 (東ローマ)|ルーシ・ビザンツ戦争}}<br /> <br /> 9世紀になると国力を回復させ、[[バシレイオス1世]]が開いた[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]([[867年]] - [[1057年]])の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。一方、東ローマ皇帝とローマ教皇の対立は[[フィリオクェ問題]]をきっかけとして再び顕在化した。バシレイオス1世はローマ教会との関係改善を図って[[フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|フォティオス]]を罷免した「{{仮リンク|フォティオスの分離|en|Photian schism}}」などによって亀裂を深め、東西両教会は事実上分裂した&lt;ref&gt;これより[[正教会]]が誕生する。なお、最終的に[[東西教会の分裂]]が起きたのは一般に[[1054年]]が目安とされるが、分裂が確定した年代については異説も存在する(詳しくは[[東西教会の分裂]]を参照)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域への[[キリスト教]]の布教も積極的に行った。また文化の面でも、文人皇帝[[コンスタンティノス7世]]の下で古代ギリシア文化の復興が進められた。これを「[[マケドニア朝ルネサンス]]」と呼ぶこともある。<br /> <br /> 10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝[[ニケフォロス2世フォカス]]、[[ヨハネス1世ツィミスケス]]、[[バシレイオス2世]]ブルガロクトノスの下では、[[歴史的シリア|北シリア]]・[[南イタリア]]・[[バルカン半島]]全土を征服して、東ローマ帝国は東[[地中海]]の大帝国として復活。東西交易ルートの要衝にあった[[コンスタンティノープル]]は人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。<br /> <br /> ==== 衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀) ====<br /> {{see_also|コムネノス王朝}}<br /> <br /> [[1011年]]、西から[[ノルマン人]]の攻撃を受けた([[ノルマン・東ローマ戦争]]、[[1011年]] - [[1185年]])。<br /> しかし、[[1025年]]にバシレイオス2世が没すると、その後は老齢・病弱・無能な皇帝が続き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発して国内は混乱した。[[1040年]]には{{仮リンク|ブルガリア (テマ制)|en|Bulgaria (theme)}}で[[:en:Peter Delyan]]の反乱が起こり、[[ピレウス]]も呼応して蜂起した。<br /> <br /> ===== セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年) =====<br /> [[1055年]]、[[セルジューク・東ローマ戦争]]が始まり、[[1071年]]には[[マラズギルトの戦い|マラズギルト(マンジケルト)の戦い]]で[[トルコ人]]の[[セルジューク朝]]に敗れたため、東からトルコ人が侵入して領土は急速に縮小した。[[小アジア]]のほぼ全域をトルコ人に奪われ、[[ノルマン人]]の[[ルッジェーロ2世]]には[[南イタリア]]を奪われた。<br /> <br /> [[1081年]]に即位した、大貴族[[コムネノス王朝|コムネノス家]]出身の皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]](在位:[[1081年]] - [[1118年]])は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、&lt;!--貴族の大土地所有・徴税権を認める代わりに軍役奉仕を義務付ける&#039;&#039;&#039;[[プロノイア]]制度&#039;&#039;&#039;を導入することで--&gt;帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。また、当時地中海貿易に進出してきていた[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]と貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、[[ローマ教皇]]へ援軍を要請し&lt;ref&gt;この要請にこたえて実施された軍事行動が[[第1回十字軍]]である。&lt;/ref&gt;、トルコ人からの領土奪回を図った。<br /> <br /> アレクシオス1世と、その息子で名君とされる[[ヨハネス2世コムネノス]](在位:[[1118年]] - [[1143年]])はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。<br /> <br /> ヨハネス2世の後を継いだ息子[[マヌエル1世コムネノス]](在位:[[1143年]] - [[1180年]])は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して[[神聖ローマ帝国]]との外交駆け引き、[[イタリア遠征]]やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。特に[[イタリア遠征]]、エジプト遠征は完全な失敗に終わり、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。[[1176年]]には、アナトリア中部の[[ミュリオケファロンの戦い]]でトルコ人の[[ルーム・セルジューク朝]]に惨敗した。犠牲者のほとんどは[[アンティオキア公国]]の軍勢であり、実際はそれほど大きな負けではなかったらしいが、この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。<br /> <br /> ==== 分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭) ====<br /> {{see_also|アンゲロス王朝|{{仮リンク|クランコクラティア|en|Frankokratia}}}}<br /> <br /> [[1180年]]にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。[[アンドロニコス1世コムネノス]](在位:[[1183年]] - [[1185年]])は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、アンドロニコス1世に替わって帝位についた[[イサキオス2世アンゲロス]](在位:[[1185年]] - [[1195年]])が無能だったこともあって皇帝権力は弱体化した。また[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]([[1171年]])・[[第二次ブルガリア帝国]]([[1185年]])といったスラヴ諸民族も帝国に反旗を翻して独立し、帝国は急速に衰微していった。<br /> <br /> ===== 第4回十字軍 =====<br /> 十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、[[1204年]]4月13日、[[第4回十字軍]]はヴェネツィアの助言の元に[[コンスタンティノポリス]]を陥落させて[[ラテン帝国]]を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権&lt;ref&gt;小アジア西部の[[ニカイア帝国]]、小アジア北東部の[[トレビゾンド帝国]]、バルカン半島南西部の[[エピロス専制侯国]]など。&lt;/ref&gt;を建てて抵抗することとなった。<br /> <br /> === 後期(1204年 - 1453年) ===<br /> ==== 帝国の再興(1204年 - 1261年) ====<br /> [[ファイル:ShepherdByzempire1265.jpg|thumb|240px|[[1265年]]のバルカン半島及び小アジア]]<br /> <br /> {{see_also|ニカイア帝国|パレオロゴス王朝}}<br /> 第4回十字軍による帝都陥落後に建てられた各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国(ラスカリス朝)だった。ニカイア帝国は初代の[[テオドロス1世ラスカリス]](在位:[[1205年]] - [[1222年]])、2代目の[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス]](在位:[[1222年]] - [[1254年]])の賢明な統治によって国力をつけ、ヨーロッパ側へも領土を拡大した。<br /> <br /> ==== モンゴル襲来(1223年 - 1299年) ====<br /> 周辺国では、[[1223年]]の[[カルカ河畔の戦い]]以来、[[モンゴル帝国]]による東欧侵蝕([[チンギス・カンの西征]]、{{仮リンク|モンゴルのヨーロッパ侵攻|en|Mongol invasion of Europe}})が始まり、[[1242年]]には[[ジョチ・ウルス]]が[[キプチャク草原]]に成立し、[[1243年]]の[[キョセ・ダグの戦い]]で[[ルーム・セルジューク朝]]がモンゴル帝国([[1258年]]に[[イルハン朝]]に分裂)の属国化し、[[1245年]]の{{仮リンク|ヤロスラヴの戦い|uk|Битва під Ярославом|ru|Ярославское сражение|pl|Bitwa pod Jarosławiem (1245)}}では[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]]が[[ジョチ・ウルス]]の属国化した。<br /> <br /> 3代目のニカイア皇帝[[テオドロス2世ラスカリス]](在位:[[1254年]] - [[1258年]])の死後、摂政、ついで共同皇帝として[[ミカエル8世パレオロゴス]](在位:[[1261年]] - [[1282年]])が実権を握った。[[1259年]]9月、{{仮リンク|ペラゴニアの戦い|en|Battle of Pelagonia}}で、[[アカイア公国]]・[[エピロス専制侯国]]・[[シチリア王国]]の連合国軍を[[ニカイア帝国]](東ローマ亡命政権)軍が破り、1261年には[[コンスタンティノポリス]]を奪回。東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、[[パレオロゴス王朝]]([[1261年]] - [[1453年]])を開いた。<br /> <br /> [[フレグの西征]]で[[1258年]]には[[イルハン朝]]が[[イラン高原]]に成立していた。さらに[[1260年]]にモンケが没して[[モンゴル帝国帝位継承戦争|帝位継承戦争]]が勃発し、[[1262年]]11月には{{仮リンク|ベルケ・フレグ戦争|en|Berke–Hulagu war}}でジョチ・ウルスとイルハン朝の争いが始まる中、東ローマ帝国はジョチ・ウルスと直接接触することになった。<br /> <br /> [[1265年]]に、[[ノガイ|ノガイ・ハーン]]率いる[[ジョチ・ウルス]]軍が[[トラキア]]に侵攻し、[[ミカエル8世パレオロゴス]]の軍は敗北し、ジョチ・ウルスと同盟することになった。&lt;ref&gt;ミカエル8世の娘({{lang|en|Euphrosyne}})がノガイ・ハーンの妃になった。&lt;/ref&gt;その後も[[1271年]]、[[1274年]]、[[1282年]]、[[1285年]]にモンゴル軍は[[ヴォルガ・ブルガール]]に侵攻していた。<br /> <br /> [[1277年]]に[[第二次ブルガリア帝国]]で[[イヴァイロ (ブルガリア皇帝)|イヴァイロ]]の蜂起が起こり、ミカエル8世とノガイ・ハーンが介入し、[[1285年]]に[[第二次ブルガリア帝国]]はジョチ・ウルスに従属した。この間の[[1282年]]に、[[テッサリア]]で反乱が起こり、ノガイ・ハーンは[[トラキア]]へミカエル8世への援軍を送ったが、ミカエル8世は病気になり急死した。ミカエル8世の息子・[[アンドロニコス2世パレオロゴス]]は、援軍をブルガリアと同盟する[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]攻撃に用いた。[[1286年]]に、セルビア王国の[[ステファン・ウロシュ2世ミルティン]]が講和を申し入れた。<br /> <br /> [[アンドロニコス2世パレオロゴス]](在位:[[1282年]] - [[1328年]])の時代以降、軍事的な圧力が強まる中で1299年にノガイ・ハーンが死亡して強力な同盟を失うと、かつての大帝国時代のような勢いが甦ることは無く、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済も[[ヴェネツィア]]・[[ジェノヴァ]]といったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなくなった。そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]に攻撃された。<br /> <br /> ===== オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年) =====<br /> {{main|オスマン・東ローマ戦争}}<br /> <br /> [[1352年]]に東から[[オスマン帝国]]の[[オルハン]]に攻撃されて[[ブルサ]]を奪取され({{仮リンク|ビザンチン内戦 (1352年 - 1357年)|en|Byzantine civil war of 1352–57}})、[[1352年]]には領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。14世紀後半の共同皇帝[[ヨハネス5世パレオロゴス]](在位:[[1341年]] - [[1391年]])と[[ヨハネス6世カンタクゼノス]](在位:1347年 - 1354年)は、[[1354年]]の{{仮リンク|ガリポリ陥落|en|Fall of Gallipoli}}でオスマン帝国[[スルタン]]の[[オルハン]]に臣従し、帝国は[[オスマン帝国]]の属国となってしまった。<br /> <br /> [[1380年]]の[[クリコヴォの戦い]]で急速に国力を増大した[[モスクワ大公国]]が[[ジョチ・ウルス]]を破り、周辺国でも激動の時代であった。東ローマ帝国滅亡後に、モスクワ大公国は正教会の擁護者の位置を占めることになる。<br /> <br /> 14世紀末の皇帝[[マヌエル2世パレオロゴス]](在位:[[1391年]] - [[1425年]])は、窮状を打開しようと[[フランス]]や[[イングランド]]まで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子[[ヨハネス8世パレオロゴス]](在位:[[1425年]] - [[1448年]])と[[コンスタンティノス11世ドラガセス]](在位:[[1449年]] - [[1453年]])は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。<br /> <br /> この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「[[パレオロゴス朝ルネサンス]]」と呼ばれた。このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、[[ルネサンス]]に多大な影響を与えた。<br /> <br /> ==== 滅亡(1453年) ====<br /> [[ファイル:Fall-of-constantinople-22.jpg|thumb|[[コンスタンティノープルの陥落]]]]<br /> {{see_also|コンスタンティノープルの陥落|トルコクラティア}}<br /> [[1453年]]4月、[[オスマン帝国]]第7代[[スルタン]]の[[メフメト2世]]率いる10万の大軍勢が[[コンスタンティノポリス]]を包囲した。[[ハンガリー人]]のウルバン{{enlink|Orban}}が開発したオスマン帝国の新兵器「[[ウルバン砲]]」による砲撃に曝され、圧倒的に不利な状況下、東ローマ側は守備兵7千で2か月近くにわたり抵抗を続けた。5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落、皇帝[[コンスタンティノス11世]]は部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡する。これによって、古代以来続いてきた[[ローマ帝国]]の系統は途絶えることになる。通常、この東ローマ帝国の滅亡をもって[[中世#ヨーロッパ|中世]]の終わり・[[近世]]の始まりとする学説が多い。同年には[[百年戦争]]が終結し、この戦いを通じて[[イギリス]]([[イングランド王国]])と[[フランス]]([[フランス王国]])は王権伸長による中央集権化および[[絶対君主制]]への移行が進むなど、西ヨーロッパでも大きな体制の変化があった。<br /> <br /> [[1460年]]には[[ペロポネソス半島]]の自治領土[[モレアス専制公領]]が、[[1461年]]には黒海沿岸の[[トレビゾンド帝国]]がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、地方政権からの再興という道も断たれることとなった。<br /> <br /> なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世や[[スレイマン1世]]などオスマン帝国の一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った。また[[1467年]]に[[イヴァン3世]]がコンスタンティノス11世の姪[[ゾイ・パレオロギナ]]を妻とし、ローマ帝国の継承者(「第3のローマ」)であることを宣言したことから、[[モスクワ大公国]]の[[イヴァン4世]]などや歴代の[[ロシア]]([[ロシア・ツァーリ国]]、[[ロシア帝国]])指導者はローマ帝国の継承性を主張している&lt;ref&gt;もっともロシアでは[[キプチャク・ハン国]]のハンも東ローマ皇帝も君主号としては大雑把に「[[ツァーリ]]」と呼んでおり、古代ローマの後継者およびキリスト教世界全体を支配する普遍的な帝国としての「ローマ帝国」を、どこまで志向していたのかについては諸説あって定かではない。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 政治 ==<br /> [[ファイル:Byzantine_eagle.JPG|thumb|250px|東ローマ帝国末期の国章「[[双頭の鷲]]」&lt;br/&gt;画像は[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教庁]]の正門に今も掲げられているもの]]<br /> <br /> === イデオロギー ===<br /> 東ローマ帝国は自らを単に「ローマ帝国」と称していた。そして、「ローマ帝国」は「文明世界全てを支配する帝国」であり「[[キリスト]]による[[最後の審判]]まで続く、地上最後の帝国」だと考えられていた。(東ローマ国民が本気にしていたかは疑問だが建前で)自らをキリスト教的意味での「世界史」に位置づける強い意識は、[[世界創造紀元]]の使用にも現れる。<br /> <br /> このイデオロギーは一千年にわたって貫かれる一方で、政治体制は周囲や国内の状況に合わせて柔軟に変えられていた。強固なイデオロギーと、変化に対応する柔軟性を併せ持っていたことが、帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと考える研究者もいる。<br /> <br /> === 政治体制 ===<br /> 東ローマ帝国は、古代ローマ時代後期以降の[[皇帝#ローマ帝国|皇帝]](ドミヌス)による専制君主制([[ドミナートゥス]])を受け継いだ。東ローマの皇帝([[バシレウス]]/ヴァシレフス)は「[[元老院 (ローマ)|元老院]]・市民・軍」によって推戴された「地上における神の代理人」「諸王の王」だとされ、政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。課税のための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。<br /> <br /> しかし、皇帝の地位自体は不安定&lt;ref&gt;帝位継承法のようなものはなく、「[[元老院 (ローマ)|元老院]]・市民・軍の推戴」が皇帝即位の条件だったため。&lt;/ref&gt;で、たびたび[[クーデター]]が起きた。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような(6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]や9世紀の[[バシレイオス1世]]など)、活力ある社会を産むことになった。このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、[[アレクシオス1世コムネノス]]以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、皇帝の権限も相対的に低下していった。<br /> <br /> このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、[[宦官]]の役割が非常に大きく、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]]などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられる。また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあった[[フォティオス]]のように高級官僚が直接[[総主教]]へ任命されることがあるなど、知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。<br /> <br /> === 行政制度 ===<br /> ==== 属州制からテマ制へ ====<br /> {{main|テマ制}}<br /> 地方では、初期は古代ローマ後期の[[属州]]制のもと、行政権と軍事権が分けられた体制が取られていたが、中期になるとイスラムやブルガリアの攻撃に対して迅速に防衛体制を整えるために地方軍の長官がその地域の行政権を握る&#039;&#039;&#039;テマ制&#039;&#039;&#039;(軍管区制)と呼ばれる体制になった。<br /> <br /> テマ制は、自弁で武装を用意できる[[ストラディオット|ストラティオティス]]と呼ばれる自由農民を兵士としてテマ単位で管理し、国土防衛の任務に当たらせる兵農一致の体制でもあり、国土防衛に士気の高い兵力をすばやく動員することができた。ストラティオティスはその土地に土着の自由農民だけでなく、定着したスラヴ人なども積極的に編成された。ストラティオティスは屯田兵でもあり、バルカン半島などへの大規模な植民もおこなわれている。彼らの農地は法律で他者への譲渡が禁じられ、テマ単位で辺境地域への大規模な屯田がおこなわれるなど、初期には帝国によって厳格に統制されていたと思われる。<br /> <br /> テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来の[[コローヌス]]に基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。この時代は帝国の混乱期で、[[スラヴ人]]や[[ペルシア人]]の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。<br /> <br /> ==== テマ制の崩壊 ====<br /> しかし安定期となったマケドニア朝の時代に大土地所有の傾向がはっきりと現れだした。10世紀にはケサリアのフォカス家など世襲的な大土地所有者が確認できるが、このような傾向の直接の原因は[[820年]]もしくは[[821年]]に起こったソマスの乱であると考えられている。このソマスの乱によって一時はコンスタンティノープルも占領されたため、高度な官僚制的行政機構が麻痺し、治安が悪化した。このため中小の土地所有者がわずかに残存していた地方の大土地所有者やテマ長官などの庇護を求め、彼らのもとに土地が集中することとなった。<br /> <br /> ストラティオティス層は法律により土地の譲渡が禁じられていたため、まだ影響は少なかったが、[[レオーン6世]]の態度が大土地所有の傾向を確実なものとした。晩年の「新勅法」によって、それまで土地を売った者の近隣者が6ヶ月以内に売った価格の同額を支払えば買い戻せるとした先買権を無効とした。[[ロマノス1世レカペノス]]の時代になるとこのような大土地所有はすでに帝国に弊害をもたらしており、彼は一連の立法でこれを防ごうとした。すなわち近隣者の先買権を復活させ、さらに農村共同体に優先的に土地の譲渡をうける権利を定めた。また不当な価格で取り引きされた土地については無償で返還されるものとされ、正当な取引であっても3年以内に売却価格の同額を支払えば土地を取り戻せるとした。しかしこれらの法律は守られなかった。なぜなら不当な購入をしていたのは地方のテマ長官や有力役人、その親族たちであったからだ。彼らによってロマノス1世の努力は骨抜きにされたのである。<br /> <br /> 同時期に帝国をおそった飢饉もこの傾向を助長した。マケドニア朝末期の[[バシレイオス2世]]は過去の不法な土地譲渡や皇帝の直筆でない有力者への土地贈与文書を無効とし、教会財産の制限をおこなった。これはかなりの効果を上げ、彼の軍事的成功もこの政策に恩恵によるところが大きかった。<br /> <br /> この時代にストラティオティスを基盤とした軍制は崩壊した。帝国は計画的に軍事力を削減し、ストラティオティス層からは軍役を免除する代わりに納税を義務づけた。これにより帝国はノルマン人などの[[傭兵]]に軍事力を大きく依存することになった。以後テマは単なる行政単位となったが帝国滅亡まで存続した。テマ長官としてのドメスティコスは[[文官]]職に変化し急速に地位が低下した。<br /> <br /> ==== プロノイア制 ====<br /> {{main|プロノイア}}<br /> [[コムネノス王朝|コムネノス朝]]の時代には&#039;&#039;&#039;プロノイア制&#039;&#039;&#039;が実施された。かつては貴族に大土地所有や徴税権を認める代わりに軍務を提供させる制度であると考えられ、これが西欧の[[レーエン]]制に擬され、[[ゲオルク・オストロゴルスキー]]などが主張したいわゆる「ビザンツ封建制」の要素と考えられていたが、今日ではこの説は基本的に否定されている。プロノイアは国家に功績のあった臣下に恩賜として基本的に一代限りで授与されるものであり、またプロノイアの設定された地域をその受領者が実際に統治したかどうか明確でない。したがって荘園のように囲い込まれて不輸不入の領主権が設定されたわけではない。<br /> <br /> ニカイア帝国ではプロノイアは限定された地域に限られていて、[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス|ヨハネス3世]]はプロノイアの土地は国家の管理下にあるものとして、売買を固く禁じている。[[ミカエル8世パレオロゴス|ミカエル8世]]はプロノイアの世襲を大規模に認めているが、これは例外措置であり世襲財産と同一視することを厳しく注意している。とはいえ、これらの事実は逆にプロノイアが帝国の意図に反して売買されたり世襲されることがあったという証明であるともいえる。<br /> <br /> 軍制との関連性も明確でない。軍事奉仕を暗示するようなプロノイア贈与もおこなわれなかったわけではないが一般的ではない。プロノイア自体は必ずしも土地と結びつくわけではなく、漁業権であったり貧困農民層であるパリコスの労働使役権だったりするが、パリコスは法的には完全な自由民であった。<br /> <br /> プロノイアは女性や教会や一団の兵士などの団体に贈与されることもあった。そのためプロノイアを税収の一部を賜与したものとする見方もある。またコムネノス朝時代のプロノイアは非常に限定的で従来のテマ制度と代替可能なほど徹底されてはいない。そのためテマ制の崩壊とプロノイア制出現の因果関係は明確ではない。<br /> <br /> 自由農民層による軍隊編成が試みられなかったわけではないが、帝国が末期まで傭兵に軍事力を頼っていることを考慮すると、プロノイア制度が国家の防衛に果たした役割はそれほど大きいものではないと判断できよう。むしろビザンツ封建制があったとしてそれを用意するものがあるとすれば、旧ラテン帝国の封建諸侯である。彼らはビザンツ貴族とは別個に服従契約を結び、それは西欧封建制に影響を受けたものであった。末期に顕著となる皇族への領土分配は[[専制公|デスポテース]]という地位と西欧封建制との関係で論じられるべきであろう。<br /> <br /> == 住民 ==<br /> 東ローマ帝国の住民の中心は[[ギリシア人]]であり、7世紀以降は[[ギリシア語]]が[[公用語]]であったが、12世紀までの東ローマ帝国は[[セルビア人]]・[[ブルガリア人]]といったスラヴ諸民族や[[アルメニア人]]などを内包する多民族国家であった。ギリシア人は国民全体の3割ほどだったとする研究者もいる&lt;ref&gt;逆に近代のギリシアでは、その[[民族主義]]的思想から、「帝国民の大半がギリシア人であり、中世の東ローマ帝国はギリシア人国家だった」という主張がされたこともあった。[[メガリ・イデア]]も参照のこと。&lt;/ref&gt;。帝国内の自由民は、[[カラカラ]]帝の「[[アントニヌス勅令]]」以降[[ローマ市民権]]を持っていたため、言語・血統にかかわらず、自らを「[[ローマ人]] ({{lang|grk|Ῥωμαίοι, Rhōmaioi}})」と称していた。東方正教を信仰し、コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである。とはいえ、ローマ市民権を持っていると言っても、市民集会での投票権を主とする参政権などの諸権利は[[古代末期]]には既に形骸化していた&lt;ref&gt;中期以降の東ローマ帝国の宮廷においては「市民(デーモス)」という役人が雇われていた。彼らの仕事は新皇帝を歓呼で迎えることであり、「ローマ市民の信任を得たローマ皇帝」という体裁を守ることが目的であった。ただし、[[コンスタンティノポリス]]の市民は、7世紀の[[ヘラクレイオス]]帝の後継者争いや11世紀後半の混乱の時代などでは、皇帝の廃立に実際に関与している。これは、建前ながらも皇帝位の正当性が市民にあるという観念が生きていたからである。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 帝国の著名な貴族や官僚にはグルジア人やトルコ人からの出身者もいたが、中でもアルメニア人とのハーフ、もしくはアルメニア人を先祖とするアルメニア系ギリシャ人の間からは[[コンスタンディヌーポリ|コンスタンティノポリス総主教]]や帝国軍総司令官、さらには皇帝になった者までいる&lt;ref&gt;ただし中世の[[バグラトゥニ朝アルメニア王国]]自体は、東ローマと敵対していたことが多かった。また帝国で活躍したアルメニア人も文化的にはギリシャ化していた&lt;/ref&gt;。7世紀の[[ヘラクレイオス王朝]]や、9〜11世紀の黄金時代を現出した[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]はアルメニア系の王朝である&lt;ref&gt;これはかつての[[古代ローマ帝国]]でも同様であった。民族に関係なくローマ市民権を持っていた者がローマ人であり、アラブ人のローマ皇帝やムーア人(黒人)のローマ皇帝候補者も存在した。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 一方、「ローマ人」以外の周囲の民族は「[[蛮族]]」(エトネーあるいは[[バルバロイ]])と見なしており、10世紀の皇帝[[コンスタンティノス7世]]が息子の[[ロマノス2世]]のために書いた『帝国の統治について(帝国統治論)』では、帝国の周囲の「夷狄の民」をどのように扱うべきかについて述べられている。&lt;!--「夷狄の民」は脚注に示された書籍の表記なので、みだりに変えるべきではない--&gt;&lt;ref&gt;渡辺金一『中世ローマ帝国』(岩波新書)第一章&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 文化 ==<br /> {{main|ビザンティン文化}}<br /> {{see_also|ビザンティン美術|ビザンティン建築|ビザンティン聖歌}}<br /> 東ローマ帝国は、[[古代ギリシア]]・[[ヘレニズム]]・[[古代ローマ]]の文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化(&#039;&#039;&#039;ビザンティン文化&#039;&#039;&#039;)を発展させた。<br /> <br /> == 宗教 ==<br /> 国の国教と定められた正教会が広く崇拝され、後世にも影響を与えている。また、11世紀の年代史家{{仮リンク|ヨアニス・ゾナラス|en|Joannes Zonaras}}によると、伝統的な[[ギリシャ神話]]の神々に対する信仰は当時まだ行われており&lt;ref&gt;[http://www.byzantinepagan.org Byzantine Paganism]&lt;/ref&gt;、15世紀には多神教の復活を説いた[[ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン]]が現れた。<br /> === 正教会 ===<br /> {{main|正教会}}<br /> 帝国の国教であった[[正教会]]は[[セルビア]]・[[ブルガリア]]・[[ロシア]]といった東欧の国々に広まり、今でも数億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成している。<br /> <br /> === 「皇帝教皇主義」という誤解 ===<br /> {{main|皇帝教皇主義|ビザンティン・ハーモニー}}<br /> 東ローマ帝国の政教の関係を指して「&#039;&#039;&#039;皇帝教皇主義&#039;&#039;&#039;(チェザロパピズモ)」と呼ぶことがあるが、これには大きな語弊がある。確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、皇帝が「地上における神の代理人」であり、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]]等の任免権を有していた。<br /> <br /> しかし、[[正教会]]において教義の最終決定権はあくまでも[[教会会議]]にある。[[聖像破壊運動]]を終結させた[[第2ニカイア公会議|第七全地公会]]も、主催は[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]]によるものの、決定したのはあくまで[[公会議]]である。[[ローマ教皇]]のような一方的に教義を決定できる唯一の首位を占める存在といったシステムが正教会にそもそも無い以上、皇帝がローマ教皇のように振舞える道理は無かった。<br /> <br /> 実際、9世紀の皇帝[[バシレイオス1世]]が発布した法律書『[[エパナゴゲー]]』では、国家と教会は統一体であるが、皇帝と総主教の権力は並立し、皇帝は臣下の物質的幸福を、総主教は精神の安寧を司り、両者は緊密に連携し合うもの、とされていた。また皇帝の教会に対する命令が、教会側の抵抗によって覆されるということもしばしばあった。<br /> <br /> === 宗教論争 ===<br /> 東ローマ帝国では[[単性論]]・[[聖像破壊運動]]・[[静寂主義]]論争など、たびたび宗教論争が起き、聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込んだ。これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されたが、都市部の市民の識字率は比較的高かったため[[ギリシア人]]の一般民衆でも『[[聖書]]』を読むことができたという証左でもある。『新約聖書』は原典が[[ギリシア語]]([[コイネー]])であり、『旧約聖書』もギリシア語訳のものが流布していた。また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、活発な議論が展開される結果となったのである。この宗教論争に関しては、一般民衆が[[ラテン語]]の聖書を読めず、また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができた[[カトリック教会]]との、文化的な背景の違いを考えなければならないだろう。<br /> <br /> == 法律 ==<br /> [[ユスティニアヌス1世]]によって古代ローマ時代の法律の集大成である『[[ローマ法大全]]』が編纂され、その後もローマ法が幾多の改訂を経ながらも用いられた。特に重要な改訂は、8世紀の皇帝[[レオーン3世]]による『[[エクロゲー法典]]』発布、9世紀後半の[[バシレイオス1世]]による『ローマ法大全』のギリシア語による手引書『[[プロキロン]]』(法律便覧)、『エパナゴゲー』(法学序説)の発布、そしてバシレイオス1世の息子[[レオーン6世]]による『ローマ法大全』のギリシア語改訂版である『[[バシリカ法典]]{{enlink|Basilika}}』(帝国法)編纂である。<br /> <br /> この『ローマ法大全』は西欧諸国の法律、特に[[民法]]にも多大な影響を与え、その影響は遠く日本にまで及んでいる。また、[[ブルガリア]]・[[セルビア]]・[[ロシア]]などの[[正教会]]諸国では帝国からの自立後も『プロキロン』の[[スラヴ語]]訳を用いた。<br /> <br /> == 経済 ==<br /> [[ファイル:Solidus-Leo III and Constantine V-sb1504.jpg|thumb|[[レオーン3世]]と[[コンスタンティノス5世]]を描いたノミスマ]]<br /> 東ローマでは、西欧とは異なり古代以来の[[貨幣経済]]制度が機能し続けた。帝国発行の[[ノミスマ金貨]]は11世紀前半まで高い純度を保ち、後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した(ブルガリアのように、地方によっては税が物納だったこともある)。特に首都[[コンスタンティノポリス]]では、国内の産業は一部を除き、業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、国営工場で独占的に製造された[[絹]]織物や、貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、コンスタンティノポリスは「&#039;&#039;&#039;世界の富の三分の二が集まるところ&#039;&#039;&#039;」と言われるほど繁栄した。<br /> <br /> しかし、12世紀以降は[[北イタリア]]諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、海軍力提供への見返りとして行った北イタリア諸都市への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、衰退の一途をたどった。<br /> <br /> 主要産業の農業は古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、あまり技術の進歩がなかった。それでも、古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった&lt;!--(これが12世紀以降、西欧やイスラム勢力のよる東西からの圧迫に東ローマ帝国が耐え切れずに崩壊してしまった一つの原因ではないか、ともいわれている)--&gt;&lt;ref&gt;井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社〈講談社現代新書〉、1990年、204頁)、ミシェル・カプラン『黄金のビザンティン帝国—文明の十字路の1100年』(井上浩一監修、松田廸子・田辺希久子訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1993年、90頁)&lt;/ref&gt;。しかしながら、ローマ時代に書かれた農業書を伝えることでヨーロッパの農業の発展に影響を与えている。<br /> <br /> == 軍事 ==<br /> [[ファイル:Byzantine fresca from St-Lucas.jpg|thumb|180px|12-13世紀の[[フレスコ]]画に描かれた東ローマ兵士]]<br /> === 初期の軍制 ===<br /> 初期の東ローマ帝国は、2世紀末に[[ディオクレティアヌス]]帝が採用した後期[[ローマ帝国]]の軍事制度を継承した。軍隊は、[[リミタネイ]](辺境部隊)と[[コミタテンセス]](野戦部隊)に大別された。リミタネイは辺境属州を担任する[[ドゥクス]](軍司令官)の指揮下で国境防衛にあたった。コミタテンセスははるかに広い地域を担当する[[マギステル・ミリトゥム]](方面軍司令官)の指揮下で大都市に駐屯し、帝国軍の主力として戦地に出撃した&lt;ref&gt;中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、10頁。&lt;/ref&gt;。野戦部隊は辺境部隊に比べ精鋭であり、給与等は優先されていた。<br /> <br /> 歩兵は依然ローマ軍の主力ではあったものの、騎兵の重要性が拡大していた。例えば478年には、東方野戦軍は8000の騎兵と30000の歩兵から編成され、357年のユリアヌス帝はストラスブルグの会戦に於いて10000の歩兵と3000の騎兵を率いていた。<br /> <br /> 騎兵部隊は細分化され、ローマ軍の4分の1は騎兵部隊で構成されるようになった。騎兵の約半数は鎧・槍・剣を装備する重装騎兵からなる。(&quot;スタブレシアニ&quot;)。弓を装備していた者もいたが、散兵としてではなく突撃の援護の為に用いられた。<br /> <br /> 野戦部隊には&quot;カタフラクタリイ&quot;や&quot;クリバナリイ&quot;等の重装騎兵も編成されていた。弓騎兵 (&quot;エクイテス・サジタリィ&quot;)も含む軽騎兵(&quot;スクタリィ&quot;、&quot;プロモティ&quot;)は有用な斥候・偵察兵としてリミタネイで多く用いられた。&quot;コミタテンセス&quot;の歩兵はレギオン、アウクシリア、ヌメリ等と呼称される500から1200人の部隊に編成されていた。これらの重装歩兵は槍・剣・盾・鎧・兜を装備し、軽歩兵隊の援護を受けていた。<br /> <br /> ユスティニアヌス1世の軍隊はペルシア帝国の脅威を受けた5世紀の危機に応じて再編された。レギオン・コホルス・アラエといった以前の帝国軍の編成は消え、代わりにタグマやヌメルスと呼ばれるより小規模な歩兵部隊や騎兵隊が取って代わった。タグマは300から400人で編成され、2つ以上のタグマでモイラ、2つ以上のモイラでメロスが編成された。<br /> <br /> ユスティニアヌス帝時代には以下の様な軍に分かれていた。<br /> <br /> # 帝都の護衛隊<br /> # コミタテンセス(ユスティニアヌス帝時代にはストラティオタイと呼ばれていた)。ローマ軍の野戦部隊である。ストラティオタイは主にトラキア、イリュリクムとイサウリアから兵は集められた。<br /> # リミタネイ(ユスティニアヌス帝時代にはアクリタイと呼ばれていた)。国境の要塞に駐留し、守備を担っていた。<br /> # フォエデラティ。蛮族の志願兵から構成され、ローマ人士官の元で騎兵として編成された。<br /> # 同盟軍。フン族・ヘルリ族・ゴート族やその他の蛮族から供給され、彼ら自身の族長が指揮していた。土地や報償金を見返りとして戦った。<br /> # ブケラリィ。将軍や貴族など高位の人間の私兵であり、野戦軍の騎兵戦力として重要な地位を占めていた。その規模は雇い主の裕福さに左右されていた。兵士はヒュパスピスタイ(盾持ち)と呼称され、士官はドリュフォロイ(槍持ち)と呼ばれた。ドリュフォロイは雇い主と皇帝に厳粛な忠誠を誓っており、ベリサリウス将軍麾下のドリュフォロイなどは有名である。<br /> <br /> === テマとタグマ ===<br /> 7世紀にアラブ人に敗れて帝国の版図が著しく縮小したとき、帝国の軍制もまた根本的な変化を余儀なくされた。小アジアに退却した野戦部隊は、残存領土に分かれて駐屯し、テマ(軍団)となった。テマは敵と決戦して打ち破ろうとはせず、拠点防衛とゲリラ戦を組み合わせて受け身の抗戦に徹した。かつての辺境部隊の役割を担ったわけだが、この時代のテマには敵を国境線で防ぎ止めることができず、中央から主力軍が来て敵を撃破してくれるという希望もない。敵の侵入を許しながら征服されずに戦いぬく戦略であった&lt;ref&gt;中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、10-12頁。&lt;/ref&gt;。テマの兵士は平時は農民で、諸税を免除される代わりに武器を自弁した&lt;ref&gt;井上浩一「総論:7-12世紀のビザンティオン軍制」、2-3頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 8世紀後半に帝国が存亡の危機を脱すると、テマの細分化とともに、テマに地方行政を担わせる改革が進み、地方制度としての[[テマ制]]が作られた&lt;ref&gt;中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、9頁。&lt;/ref&gt;。テマ制では、テマ(軍団)の長官(ストラテーゴイ)が地方行政の長官を兼ね、軍管区であり行政区でもあるその管轄地をもテマと呼ぶ。<br /> <br /> また8世紀後半には[[コンスタンティノス5世]]がテマから選抜した兵士をもとに首都に常備軍([[タグマ]]と呼ばれる)を整備したことで、地方軍と中央軍の二本立ての体制が復活した。外国人傭兵を部隊に編成したタグマ&lt;ref&gt;小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、43頁。&lt;/ref&gt;、地方国境に駐屯したタグマも作られた&lt;ref&gt;小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、40-41頁。&lt;/ref&gt;も作られた。<br /> <br /> 10世紀にはタグマが増設・強化されて領土拡大戦争の主力となった。&lt;ref&gt;小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、39-40頁。&lt;/ref&gt;。その一方でテマ兵士を含む自由農民が没落し、有力者が土地を広げて農民を隷属させる社会変化が進んでいた&lt;ref&gt;小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、41頁。&lt;/ref&gt;。有力者は帝国の最強兵科である重装騎兵を供給したが、貴族化して帝国の軍隊を私物化し、反乱を頻発させた&lt;ref&gt;小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、44-45頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === プロノイア制の時代 ===<br /> 1081年に有力貴族から出て即位した[[アレクシオス1世コムネノス|アレクシオス1世]]は、有力貴族を軍の主力に据えることで軍事制度を立て直した。貴族の私兵だけでなく、皇帝自らの私兵というべき直属軍の育成に意を用い、外国人傭兵も依然として大きな比重を保った&lt;ref&gt;小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、45-47頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 軍隊の規模 ===<br /> 軍隊の規模は論争となっている。Warren Treadgold&lt;ref&gt;Treadgold(1998),p.67&quot;&lt;/ref&gt;による算定値を参考に以下に示す(300年から1453年の間の軍隊構成員数の変遷は[[東ローマ帝国の軍隊]]([[:en:Byzantine army|英語版]]を参照)。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center; margin: 1em auto 1em auto&quot;<br /> |-<br /> ! 年 !! 773 !! 809 !! 840 !! 899<br /> |-<br /> ! テマ軍合計<br /> | 62,000 || 68,000 || 96,000|| 96,000<br /> |-<br /> ! タグマ合計<br /> | 18,000 || 22,000 || 24,000|| 28,000<br /> |-<br /> ! 合計<br /> | 80,000 || 91,000 || 120,000|| 124,000<br /> |}<br /> <br /> == 用語の表記方法について ==<br /> {{main2|ウィキペディア内での表記|プロジェクト:東ローマ帝国史の用語表記}}<br /> 日本国内で出版されている東ローマ帝国史の専門書では、同じ人名・地名・官職・爵位の表記が本によって異なることがある。主に[[東海大学]]教授の尚樹啓太郎の著作のように、実際の東ローマ帝国時代の発音に近い、中世ギリシア語形を用いている例も見られる。もっとも中世ギリシア語といえども何百年もの帝国史の中で変化しているものであることや、一般人の感覚とかけ離れていることなどから他の研究者から異論も多く、論争中である。<br /> <br /> このため国内で出版されている専門書では同じ人名・地名・官職・爵位などの固有名詞にいくつもの読み方がある(他に英語形やラテン語形を使用している場合もある)。現在、国内のビザンツ研究者において統一された表記法があるわけではなく、個々の思想信条や学派・学閥によるものであるので、注意が必要である。<br /> <br /> == 脚註 ==<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 文献 ==<br /> === 参考文献 ===<br /> &lt;!--最低限特定の見解を述べた箇所には脚注が必要です--&gt;<br /> * [[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]] 『ビザンツ帝国』 [[岩波書店]]〈世界歴史叢書〉、1982年<br /> * 井上浩一「総論:7-12世紀のビザンティオン軍制 比較史研究のために」、『古代文化』、41巻2号、1989年。<br /> * 井上浩一 『生き残った帝国 ビザンティン』 [[講談社現代新書]]、1990年/[[講談社学術文庫]]、2008年。ISBN 978-4-06-159866-9<br /> * 井上浩一 『ビザンツ皇妃列伝 憧れの都に咲いた花』 [[筑摩書房]]、1996年/[[白水社]]〈[[白水Uブックス]]〉、2009年。ISBN 978-4-560-72109-4<br /> * 井上浩一・[[栗生澤猛夫]] 『ビザンツとスラヴ 〈世界の歴史11〉』 中央公論社、1998年/[[中央公論新社]]〈[[中公文庫]]〉、2009年。ISBN 978-4-12-205157-7<br /> * [[大月康弘]] 『帝国と慈善 ビザンツ』 [[創文社]]、2005年。ISBN 978-4-423-46058-0<br /> * 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化 マケドニア朝からコムネノス朝へ」、『古代文化』 41巻2号、1989年。<br /> * [[ゲオルク・オストロゴルスキー]] 『ビザンツ帝国史』 和田廣訳、恒文社、2001年<br /> * ミシェル・カプラン 『黄金のビザンティン帝国 文明の十字路の1100年』 井上浩一監修、松田廸子・田辺希久子訳、[[創元社]]〈[[「知の再発見」双書]]〉、1993年。ISBN 978-4-422-21078-0<br /> * [[エドワード・ギボン]] 『[[ローマ帝国衰亡史]]』、[[中野好夫]]・[[朱牟田夏雄]]・[[中野好之]]訳、筑摩書房(全11巻)、1976〜93年/[[ちくま学芸文庫]](新訂版・全10巻)、1995〜96年。(東ローマ帝国期は中盤以降)<br /> * [[桜井万里子]]編 『ギリシア史』 [[山川出版社]]〈新版世界各国史〉、2005年。ISBN 978-4-634-41470-9。東ローマ期を扱った第4章の執筆者は井上浩一。<br /> * [[鈴木董]] 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社現代新書、1992年、ISBN 978-4-06-149097-0<br /> * [[尚樹啓太郎]] 『コンスタンティノープルを歩く』 [[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、1988年、ISBN 978-4-486-01020-3<br /> * 尚樹啓太郎 『ビザンツ東方の旅』 東海大学出版会、1993年、ISBN 978-4-486-01251-1<br /> * 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会、1999年<br /> * 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国の政治制度』 東海大学出版会〈東海大学文学部叢書〉、2005年、ISBN 978-4-486-01667-0<br /> * 中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、『古代文化』 41巻2号、1989年、2頁。<br /> * [[根津由喜夫]] 『ビザンツ 幻影の世界帝国』 [[講談社]]選書メチエ、1999年<br /> * 根津由喜夫 『ビザンツの国家と社会』 山川出版社〈世界史リブレット〉、2008年、ISBN 978-4-634-34942-1&lt;!--徴税機構の記述はこれを参考にした可能性あり--&gt;<br /> * ジョナサン・ハリス『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』(&#039;&#039;The Lost World of Byzantium&#039;&#039;) 井上浩一訳、白水社、2018年、ISBN 978-4-560-09590-4<br /> * [[益田朋幸]] 『ビザンティン』 山川出版社〈世界歴史の旅〉、2004年、ISBN 978-4-634-63310-0<br /> * ピエール・マラヴァル 『皇帝ユスティニアヌス』 大月康弘訳、[[白水社]]〈文庫クセジュ〉、2005年、ISBN 978-4-560-50883-1<br /> * ポール・ルメルル 『ビザンツ帝国史』 西村六郎訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2003年、ISBN 978-4-560-05870-1<br /> * [[渡辺金一]] 『中世ローマ帝国 世界史を見直す』 岩波書店〈[[岩波新書]]〉、1980年<br /> * &lt;cite id=refDavis1990&gt;{{cite book | last = Davis, Leo Donald | title = The first seven ecumenical councils (325–787): their history and theology|edition= 1990| publisher = Liturgical Press| isbn= 0-8146-5616-1}} &lt;small&gt;- Total pages: 342 &lt;/small&gt;&lt;/cite&gt;<br /> <br /> === 他の関連文献 ===<br /> * 井上浩一 『ビザンツ 文明の継承と変容』 [[京都大学学術出版会]]〈学術選書〉、2009年。ISBN 978-4-87698-843-3<br /> * ベルナール・フリューザン 『ビザンツ文明 キリスト教ローマ帝国の伝統と変容』 大月康弘訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2009年。ISBN 978-4-560-50937-1<br /> * [[ジュディス・ヘリン]] 『ビザンツ 驚くべき中世帝国』 井上浩一監訳/根津由喜夫ほか3名訳、白水社、2010年。ISBN 978-4-12-101684-3<br /> * 井上浩一・根津由喜夫編 『ビザンツ 交流と共生の千年帝国』 昭和堂、2013年。ISBN 978-4-8122-1320-9<br /> * 浅野和生 『イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国』 [[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2003年。ISBN 978-4-486-01431-7<br /> * 根津由喜夫 『図説 ビザンツ帝国 刻印された千年の記憶』 [[河出書房新社]]〈ふくろうの本〉、2011年。ISBN 978-4-309-76159-6 <br /> * 橋口倫介 『中世のコンスタンティノープル』 [[講談社]]〈講談社学術文庫〉、1995年<br /> * エレーヌ=アルヴェレール 『ビザンツ帝国の政治的イデオロギー』 尚樹啓太郎訳、東海大学出版会、1989年<br /> * J・M・ロバーツ 『ビザンツ帝国とイスラーム文明』 後藤明監修/月森左知訳、創元社〈図説世界の歴史〉、2003年<br /> * ハンス・ゲオルク・ベック 『ビザンツ世界の思考構造 文学創造の根底にあるもの』 渡辺金一編訳、岩波書店、1978年<br /> * [[森安達也]] 『ビザンツとロシア・東欧』 講談社〈世界の歴史9 ビジュアル版〉、1985年<br /> * 米田治泰 『ビザンツ帝国』 [[角川書店]]、1977年<br /> * 和田廣 『ビザンツ帝国 東ローマ一千年の歴史』 [[教育社歴史新書]]、1981年<br /> * 和田廣 『史料が語るビザンツ世界』 山川出版社、2006年<br /> * 渡辺金一 『コンスタンティノープル千年 革命劇場』 岩波新書、1985年<br /> * Treadgold, Warren T. (1997). A History of the Byzantine State and Society. Stanford University Press. ISBN 0-8047-2630-2.<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{関連項目過剰|date=2017年10月}}<br /> {{Commons&amp;cat|Byzantine Empire|Byzantine Empire}}<br /> <br /> === 帝国史 ===<br /> &lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[ローマ帝国]]<br /> * [[西ローマ帝国]]<br /> * [[ローマ皇帝一覧]]<br /> * [[東ローマ帝国の皇帝一覧]]<br /> * [[ニカイア帝国]]<br /> * [[トレビゾンド帝国]]<br /> * [[ラテン帝国]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[エピロス専制侯国]]<br /> * [[モレアス専制公領]]<br /> * [[ニカの乱]]<br /> * [[コンスタンティノープルの陥落]]<br /> * [[十字軍]]<br /> * [[第4回十字軍]]<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> <br /> ==== 王朝 ====<br /> &lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[テオドシウス王朝]]<br /> * [[レオ朝|レオ王朝]]<br /> * [[ユスティニアヌス王朝]]<br /> * [[ヘラクレイオス王朝]]<br /> * [[イサウリア王朝]](シリア王朝)<br /> * [[アモリア朝|アモリア王朝]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]<br /> * [[ドゥーカス王朝]]<br /> * [[コムネノス王朝]]<br /> * [[アンゲロス王朝]]<br /> * [[パレオロゴス王朝]]<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> <br /> ==== 戦争 ====<br /> * [[ルーシ・ビザンツ戦争]]<br /> * [[ヴェネツィア・東ローマ戦争]] ([[ヴェネツィア・東ローマ戦争 (1118年)|1118年]]、[[ヴェネツィア・東ローマ戦争 (1172年)|1172年]] - [[:en:Vitale II Michele#Relations with Byzantium deteriorate]])<br /> <br /> ==== 軍事 ====<br /> * [[ギリシア火薬|ギリシャの火]]<br /> * [[デュロモイ]]([[戦艦]])<br /> * [[タグマ]](中央軍)<br /> * [[カタフラクト]]([[重騎兵]])<br /> <br /> ==== 法制度 ====<br /> &lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[ローマ法大全]]<br /> * [[テマ]]<br /> * [[プロノイア]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[元老院 (ローマ)#コンスタンティノポリス元老院|コンスタンティノポリス元老院]]<br /> * [[バシレウス]]<br /> * [[専制公]]<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> <br /> === 地域 ===<br /> &lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[地中海世界]]<br /> * [[南イタリア]]<br /> * [[マグナ・グラエキア]]<br /> * [[シチリア島]]<br /> * [[バルカン半島]]<br /> * [[ギリシャ]]<br /> * [[ペロポネソス半島]]<br /> * [[イピロス|エピロス]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[マケドニア共和国]]<br /> * [[マケドニア]]<br /> * [[セルビア]]<br /> * [[ブルガリア]]<br /> * [[トラキア]]<br /> * [[キプロス]]<br /> * [[キプロス島]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[トルコ]]<br /> * [[アナトリア半島]]<br /> * [[イサウリア]]<br /> * [[ポントス王国]]<br /> * [[クリミア半島]]<br /> * [[ボスポロス王国]]<br /> * [[コーカサス]]<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> <br /> === 都市 ===<br /> &lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[コンスタンティノポリス]]<br /> * [[イスタンブール]]<br /> * [[テッサロニキ]]<br /> * [[エディルネ|アドリアノープル]](ハドリアノポリス)<br /> * [[アンティオキア]]<br /> * [[ニカイア]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[ミストラス]]<br /> * [[ラヴェンナ]]<br /> * [[トラブゾン|トレビゾンド]]<br /> * [[ローマ]]<br /> * [[アレクサンドリア]]<br /> * [[ケルソネソス|ケルソン]]<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> <br /> === 正教会・キリスト教 ===<br /> &lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[正教会]]<br /> * [[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教庁]]<br /> * [[聖像破壊運動]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[公会議]]<br /> * [[教会会議]]<br /> * [[大シスマ]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[初期キリスト教]]<br /> * [[古代末期のキリスト教]]<br /> * [[キリスト教の歴史]]<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> <br /> === 文化 ===<br /> &lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[ビザンティン文化]]<br /> * [[マケドニア朝ルネサンス]]<br /> * [[パレオロゴス朝ルネサンス]]<br /> * [[ビザンティン美術]]<br /> * [[モザイク]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[ビザンティン建築]]<br /> * [[アヤソフィア]](ハギア・ソフィア大聖堂)<br /> * [[ギリシャ語]]<br /> * [[ギリシャ文学]]<br /> * [[ビザンティン小説]]<br /> * [[戦車競走]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[ビザンツの服飾]]<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> <br /> === 民族 ===<br /> &lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[ギリシャ人]]<br /> * [[アルメニア人]]<br /> * [[スラヴ人]]<br /> ** [[ブルガリア人]]<br /> ** [[セルビア人]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[アルーマニア人]](ヴラフ人)<br /> * {{仮リンク|イサウリア人|de|Isaurier|hu|Iszauriaiak|nl|Isauriërs}}<br /> * [[トルコ人]]<br /> * [[クルド人]]<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> <br /> === 周辺諸勢力 ===<br /> &lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[ブルガリア帝国]]<br /> * [[キエフ大公国]]<br /> * [[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]<br /> * [[ハンガリー王国]]<br /> * [[アルメニア王国]]<br /> * [[アンティオキア公国]]<br /> * [[ヴェネツィア共和国]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[ジェノヴァ共和国]]<br /> * [[ヴァンダル王国]]<br /> * [[東ゴート王国]]<br /> * [[西ゴート王国]]<br /> * [[ランゴバルト王国]]<br /> * [[シチリア王国]]<br /> * [[フランク王国]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[神聖ローマ帝国]]<br /> * [[サーサーン朝]]<br /> * [[ハザール]]<br /> * [[イスラム帝国]]<br /> * [[ルーム・セルジューク朝]]<br /> * [[オスマン帝国]]<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://byzantine.world.coocan.jp/ 日本ビザンツ学会]<br /> * [http://www.ritsumei.ac.jp/~ohayashi/ Ohayashi&#039;s Page](小林功・[[立命館大学]]文学部教授のサイト。ビザンツ帝国に関する講義録、[[年代記]]の翻訳など)<br /> *[http://www.aiebnet.gr/ 国際ビザンティン学会]{{fr icon}}{{en icon}}{{el icon}}<br /> * [http://www.fordham.edu/halsall/byzantium/ Byzantine study on the Internet](アメリカ・[[フォーダム大学]]のサイト){{en icon}}<br /> * [https://web.archive.org/web/20080410123427/http://www.doaks.org/Byzantine.html Byzantine Studies] - [[ダンバートン・オークス]]・ビザンティン研究所のサイト){{en icon}}<br /> * [http://www.ocbr.ox.ac.uk/Home.html The Oxford Centre for Byzantine Research] - [[オックスフォード大学]]{{en icon}}<br /> *[http://www.byzneo.univie.ac.at/institut/ Institut für Byzantinistik und Neogräzistik] - [[ウィーン大学]]{{de icon}}<br /> {{ローマ帝国}}<br /> {{Byzantine Empire topics}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ひかしろまていこく}}<br /> [[Category:東ローマ帝国|*]]<br /> [[Category:ローマ帝国]]<br /> [[Category:中世ヨーロッパ]]<br /> [[Category:中欧]]<br /> [[Category:東欧]]<br /> [[Category:西アジア史]]<br /> [[Category:アナトリアの歴史]]<br /> [[Category:ヨーロッパ史]]<br /> [[Category:バルカンの歴史]]<br /> [[Category:ギリシャの歴史]]<br /> [[Category:イタリアの歴史]]<br /> [[Category:イスタンブールの歴史]]<br /> [[Category:5世紀]]<br /> [[Category:6世紀]]<br /> [[Category:7世紀]]<br /> [[Category:8世紀]]<br /> [[Category:9世紀]]<br /> [[Category:10世紀]]<br /> [[Category:11世紀]]<br /> [[Category:12世紀]]<br /> [[Category:13世紀]]<br /> [[Category:14世紀]]<br /> [[Category:15世紀]]<br /> [[Category:帝国]]</div> 42.145.121.253 フランス第一帝政 2018-07-29T04:11:10Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=ふらんす第一帝政__世界史}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = フランス<br /> |日本語国名 = フランス帝国<br /> |公式国名 = {{lang|fr|&#039;&#039;&#039;Empire Français&#039;&#039;&#039;}}<br /> |建国時期 = [[1804年]]<br /> |亡国時期 = [[1814年]]&lt;br&gt;[[1815年]]<br /> |先代1 = フランス第一共和政<br /> |先旗1 = Flag of France.svg<br /> |先代2 = 神聖ローマ帝国<br /> |先旗2 = Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg<br /> |先代3 = ホラント王国<br /> |先旗3 = Flag of the Netherlands.svg<br /> |先代4 = 教皇領<br /> |先旗4 = Flag of the Papal States (pre 1808).svg<br /> |先代5 = リーグレ共和国<br /> |先旗5 = Flag of Genoa.svg<br /> |先代6 = エトルリア王国<br /> |先旗6 = Etrurian Kingdom and War Flag with Great Royal Coat of Arms.svg<br /> |先代7 = ラグーザ共和国<br /> |先旗7 = Republic of Dubrovnik Flag.png<br /> |先代8 = パルマ公国<br /> |先旗8 = Flag of the Duchy of Parma.svg<br /> |先代9 = ヘルヴェティア共和国<br /> |先旗9 =Flag_of_the_Helvetic_Republic_(French).svg<br /> |次代1 = フランス復古王政<br /> |次旗1 =Flag of the Kingdom of France (1814-1830).svg<br /> |次代2 = オーストリア帝国<br /> |次旗2 = Flag of the Habsburg Monarchy.svg<br /> |次代3 = ネーデルラント連合王国<br /> |次旗3 = Flag of the Netherlands.svg<br /> |次代4 = 教皇領<br /> |次旗4 = Flag of the Papal States (1808-1870).svg<br /> |次代5 = サルデーニャ王国<br /> |次旗5 = Flag of Kingdom of Sardinia (1848).svg<br /> |次代6 = ハノーファー王国<br /> |次旗6 = Flag of Hanover 1837-1866.svg<br /> |次代7 = ホルシュタイン公国<br /> |次旗7 = Merchant Ensign of Holstein-Gottorp (Lions sinister).svg<br /> |次旗7縁 = no<br /> |次代8 = バイエルン王国<br /> |次旗8 = Flag of Bavaria (striped).svg<br /> |次代9 = ヘッセン大公国<br /> |次旗9 = Flagge Großherzogtum Hessen ohne Wappen.svg<br /> |次代10 = トスカーナ大公国<br /> |次旗10 = State flag simple of the Grand Duchy of Tuscany.svg<br /> |国旗画像 = Flag of France.svg<br /> |国旗リンク = &lt;!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --&gt;<br /> |国旗幅 = &lt;!-- 初期値125px --&gt;<br /> |国旗縁 = &lt;!-- no と入力すると画像に縁が付かない --&gt;<br /> |国章画像 = Imperial Coat of Arms of France (1804-1815).svg<br /> |国章リンク = &lt;!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --&gt;<br /> |国章幅 = &lt;!-- 初期値85px --&gt;<br /> |標語 = <br /> |標語追記 = <br /> |国歌 = [[門出の歌]]<br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 = First French Empire 1812.svg <br /> |位置画像説明 =1812年のヨーロッパ。濃い青 … フランス帝国の最大領土。薄い青 … フランスの衛星国。 <br /> |位置画像幅 = &lt;!-- 初期値250px --&gt;<br /> |公用語 = [[フランス語]]<br /> |首都 = [[パリ]]<br /> |元首等肩書 = [[フランス皇帝|皇帝]]<br /> |元首等年代始1 = 1804年<br /> |元首等年代終1 = 1814年<br /> |元首等氏名1 = [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]<br /> |元首等年代始2 = <br /> |元首等年代終2 = <br /> |元首等氏名2 = <br /> |首相等肩書 = <br /> |首相等年代始1 = <br /> |首相等年代終1 = <br /> |首相等氏名1 = <br /> |首相等年代始2 = <br /> |首相等年代終2 = <br /> |首相等氏名2 = <br /> |面積測定時期1 = 1812年<br /> |面積値1 = 2,100,000<br /> |面積測定時期2 = <br /> |面積値2 = <br /> |人口測定時期1 = 1812年<br /> |人口値1 = 60,000,000<br /> |人口測定時期2 = <br /> |人口値2 = <br /> |変遷1 = ナポレオン・ボナパルト即位<br /> |変遷年月日1 = 1804年5月18日<br /> |変遷2 = ナポレオン1世戴冠<br /> |変遷年月日2 = 1804年12月2日<br /> |変遷3 = ナポレオン1世退位<br /> |変遷年月日3 = 1814年4月4日<br /> |変遷4 = ブルボン王政復古<br /> |変遷年月日4 = 1814年4月4日<br /> |通貨 = [[フランス・フラン]]<br /> |通貨追記 = <br /> |時間帯 = <br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |注記 = <br /> }}<br /> {{フランスの歴史}}<br /> &#039;&#039;&#039;フランス第一帝政&#039;&#039;&#039;(フランスだいいちていせい)は、1804年から1814年および1815年まで存続した、皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が支配する強力な軍事力を後ろ盾とした軍事独裁政権。[[大陸軍 (フランス)|大陸軍(グランダルメ)]]と命名された巨大な陸軍組織が国家の柱石だった。<br /> <br /> == フランス帝国の成立 ==<br /> 『1804年5月18日元老院決議』によって、軍人ナポレオン・ボナパルト終身第1統領は皇帝に即位し、「フランス共和国第1帝政」が生じていた。国民投票が11月におこなわれ、その国民投票の過半数の賛成の結果、ナポレオン・ボナパルト終身第1統領がフランス共和国の皇帝に即位したことが追認された。12月には皇帝ナポレオン1世の戴冠式がおこなわれた([[フランス皇帝]])。<br /> <br /> ナポレオン政権は統領政府時代から一貫して、ナポレオンの天才的な軍事的才能を後ろ盾とした[[軍事国家]]であり、ナポレオン・ボナパルトの存在と、彼が[[戦争]]に勝ち続ける事が、政権存続の絶対条件であった。[[イギリス]]、[[オーストリア帝国|オーストリア]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]、[[ロシア帝国|ロシア]]等のヨーロッパ列強から見れば[[フランス帝国]]の成立は、ナポレオンの絶対化と権力強化以外の何物でもなく、革命が自国へ及ぶ恐怖に加えて、軍事面での脅威も加わることになった。列強各国は早速[[第三次対仏大同盟|対仏大同盟]]を結成して、帝国への対抗を始めた。一方でフランス国内においては、皇帝の誕生によるフランス帝国の出現は、[[フランス革命]]によって国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]を処刑し[[共和制]]を打ち建てた過程から完全に逆行しており、国内の親[[ジャコバン派]]の反発を招いた。<br /> <br /> == ナポレオンの絶頂 ==<br /> [[1805年]]、ナポレオンは[[ウルム戦役]]にて、イギリスをにらんで[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に集結していたフランス陸軍を対墺露戦に投入すべく[[ライン川]]方面へ進軍させ、ウルムのオーストリア軍を降伏させた。その後フランス軍はすぐさまウィーンを陥落させると、更にアウステルリッツへ進軍し、オーストリア・ロシア連合軍と衝突した。これが[[アウステルリッツの戦い]](三帝会戦)である。結果、神聖ローマ皇帝の[[フランツ2世]]はナポレオンに降伏した。更に翌年、ナポレオンは[[神聖ローマ帝国]]を解体し、西南ドイツ諸邦の連合体で、親仏、親ナポレオンの[[ライン同盟]]を成立させた。「ドイツ皇帝」たる要件を喪失したフランツ2世は、神聖ローマ皇帝の位から退いて「[[オーストリア皇帝]]」フランツ1世となった。<br /> <br /> [[プロイセン王国|プロイセン]]の国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]は、フランスの覇権が中部ドイツへ及ぶに至って、ついにフランスへ宣戦した。ロシア皇帝の[[アレクサンドル1世]]もこれを支持し、[[1806年]]にはフランスはこの局面で第2ラウンドになる対プロイセン・ロシア戦に突入した。[[ベルリン]]を大きく包囲する形でプロイセン軍と対峙したフランス軍は、[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を撃破し、[[ベルリン]]に入城した。更にフランス軍は[[ポーランド]]・[[東プロイセン]]に侵入した。[[ポーランド分割]]により祖国を喪失していた[[ワルシャワ]]に準備政権を建てさせた上で、[[1807年]]、[[アイラウの戦い]]、[[フリートラントの戦い]]で、ロシア軍を撃破し、ついにアレクサンドル1世を屈服させた。ナポレオンはアレクサンドルと[[ティルジット条約]]を調印し、既にフランス軍の勢力下にあったポーランドを[[ワルシャワ公国]]として分立、フランスの[[保護国]]とし、更にプロイセン、オーストリア領を大幅に削って、これらの国の勢力を削ぐことに成功した。<br /> <br /> == ナポレオンへの抵抗と解放戦争 ==<br /> オーストリア、プロイセン、ロシアを屈服させたフランスは絶頂期にあったが、大陸の外ではいまだ[[イギリス]]が反仏反ナポレオンの立場を固持し続けており、これに対抗すべくナポレオンはロシア遠征中にイギリスの経済的孤立を狙って[[大陸封鎖令]]を発動させた。これは当時既に[[産業革命]]が勃興し、[[資本主義]]経済の世界的中心地となりつつあったイギリスを大陸から切り離したことを意味しており、イギリスを経済的に孤立に追い込むどころか、逆にイギリスという交易相手を喪失した大陸各国の方が経済的に疲弊するという結果になった。<br /> <br /> 一方で、東への征服を成功させたナポレオンの目は、続いて西側の[[イベリア半島]]へと向けられた。当時[[スペイン]]王室で起こっていた宮廷内の対立を利用して、[[1808年]]フランス軍はスペイン、そして[[ポルトガル王国|ポルトガル]]へ侵攻。スペイン王、ポルトガル王は国外へ逃亡し、フランスは両王国を支配したかのように見えたが、[[民族主義]]に燃えるスペイン人が反フランスのゲリラ戦を開始した。イギリスもゲリラに加担し、以降フランスはイベリア半島に大軍を常駐しなければならなくなる必要性に迫られた。<br /> <br /> こうしてイベリア半島の情勢が不安定になっていくに従って、一度は完膚なきまでに制圧したはずの東側でも動揺が起き始めた。その最初が[[1809年]]のオーストリアの反攻である。この反抗は、オーストリアの周辺諸国と連絡不足により、オーストリア軍だけが孤立してフランス軍と当たることになったため、[[ヴァグラムの戦い]]でフランス軍はオーストリア軍を撃破し、瞬く間にウィーンを占領した。このオーストリアの態度に対して怒りを覚えた皇帝ナポレオンは、オーストリア皇帝フランツに、フランスに対して二度と背かないことを保障させるために、娘[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー・ルイーズ]]を実質的な人質として、ナポレオンと結婚させることを強引に迫った。<br /> <br /> 当時、フランス帝国の内政における目下の問題点は、ナポレオンと皇后[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョゼフィーヌ]]との間に継嗣が存在しないことであり、世襲という連続性で政権の存続と強化を狙う、帝国とナポレオンにとって最も重要な問題であった。また確固たる継嗣の確保は、反革命の防止(具体的には[[ブルボン朝]]の復活阻止)のためナポレオンの皇帝即位を支持した国民に対する責務でもあった。ナポレオンはオーストリア占領直後にジョゼフィーヌを離縁し、ロシア皇帝アレクサンドル1世、及びオーストリア皇帝フランツ1世に対して、フランス皇帝との縁談を打診していたが、これにいち早く動いたのはフランスに大敗したばかりのオーストリアであった。[[1810年]]ナポレオンとマリー・ルイーズの結婚式が行われ、翌1811年には次期帝位継承者となりフランス帝国の連続を保障する存在と期待された[[ナポレオン2世]]が誕生した。<br /> <br /> しかし、ナポレオン政権のそれ以上の存続を危惧したロシアは早々にフランスに対しての抗戦を再開し、[[1812年]]にはフランス陸軍の元[[元帥]][[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン=バティスト・ベルナドット]]を[[摂政皇太子|摂政王太子]]とする[[スウェーデン]]と連絡して、対フランス戦の準備を進めた。両国は[[1813年]]、ティルジット条約を破棄し、交戦状態となった。この時、ロシア軍は侵攻するフランス軍に対して、防戦の一方であった。[[ボロジノの戦い]]の激戦も虚しく、遂にこの年の初秋には[[モスクワ]]へのフランス軍の入城を許してしまうことになった(ボロジノの戦いの両国における勝敗は実質的にはついていない。[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]そのものが、ロシアの[[焦土作戦]]による撃退戦略であった)。<br /> <br /> == フランス帝国の終焉 ==<br /> 当初ナポレオンは、フランス軍が帝都モスクワを占領することで、皇帝アレクサンドルはすぐさま降伏するだろうと予想していた。しかしこのナポレオンの安易な予想を裏切ったのは、またしても[[フランス革命]]の輸出品であった民族主義の勃興だった。祖国を蹂躙されたことに怒れる[[ロシア人]]は、ロシアはフランスに対しての抵抗を続けるべきであると主張した。また反ナポレオンのシンボルとなっていた皇帝アレクサンドルに対しての支持を強めていた。この支持を背景にロシア軍はフランス軍への対峙を強めていき、またフランス軍周辺の農民は対仏ゲリラ戦を開始していた。一方、思惑が外れたフランス軍は、明確な次の軍事目標が持てないまま、いたずらにモスクワ滞在が伸びてしまい、撤退のタイミングを完全に逸してしまうことになった。遂に10月にフランス軍はモスクワ撤退を開始するが、遅きに失しており、フランス軍兵士の中にはロシア軍や農民ゲリラに襲われる者の他に、飢えと寒さで死亡する者が続出した。12月にナポレオンはパリで起こった[[クーデター]]未遂により、軍を放置したままパリに帰還してしまうが、この時、すでにロシア遠征開始時に70万とも言われたフランス軍は完全に壊滅していた。<br /> <br /> こうして、ナポレオンのロシア侵略はロシア軍の完全な勝利に終わったが、これに勢いを盛り返したアレクサンドルは敗走するフランス軍を追撃するべく西へと軍を進めた。これにはプロイセンが続き、オーストリアは皇后マリー・ルイーズの手前、直接軍を合流させることはなかったが、それでもプロイセンとロシアに対して好意的な中立へと立場を変更させた。<br /> <br /> フランス国内においては、ナポレオン政権は、ナポレオンの天才的軍事能力と、彼が戦争に勝ち続けることを政権存続の保証としていたことから、ロシアでの大敗はナポレオン政権の基盤を揺さぶるには十分であり、12月のクーデター未遂の他、政権内部の造反、徴兵に対しての反発が相次いで起こった。それでもナポレオンは、[[1813年]]夏には軍を再編して、西へと向かうプロイセン・ロシア軍と[[ドレスデン]]周辺で戦い、進撃の阻止に成功した。<br /> <br /> しかしこの戦闘の停戦交渉において、プロイセン・ロシア軍に再編の時間を与え、そこへオーストリア軍を合流させてしまったことは、フランスにとって決定的な失敗だった。加えて、この期間にナポレオンが直接指揮を取っている部隊とは正面から当たらないことが徹底されたため、停戦明けの[[ライプツィヒの戦い]]においては周辺の将軍が指揮する部隊から個別に撃破され、フランス軍はフランス本土に向けての撤退を余儀なくされた。続く[[1814年]]のパリ侵攻戦においても連合軍の巧みな欺瞞工作の前に、ナポレオンが指揮するフランス軍主力が前線におびき寄せられ、その隙に少数の部隊で守備するパリへの入城を許してしまった。帝国議会はナポレオンの退位を求め、ナポレオン周辺の将軍たちも退位を勧めたため、ナポレオンは抵抗をあきらめ、[[4月4日]]退位文書に署名し、[[エルバ島]]へと配流された。<br /> <br /> ナポレオン後のフランスには[[ブルボン朝|ブルボン家]]の[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]がフランス王に即位し、フランスにおける[[フランス復古王政|王政復古]]を成し遂げた。[[レジティミスム|王党派]]にとっては[[1792年]]に[[国民公会]]によって王権が停止されて以来の念願の復権であったが、長年の外国暮らしを送ってきたルイ18世は、革命を進展させたフランスの現状を全く理解できず、[[アンシャン・レジーム]]の復活を企てたため、国民からの評判はまったく得られなかった。一方、ヨーロッパ列強はナポレオン後のヨーロッパの新秩序を決定すべく[[ウィーン会議]]を開いたが、この会議は「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたように、各国の利害が対立したまま一向に進展を見せることはなかった。こうした状況の隙を突いて起こったのが、[[1815年]]のナポレオンのエルバ島脱出である。<br /> <br /> エルバ島を脱して、フランス南海岸に上陸したナポレオンの下には、かつての子飼いの将軍たちの多くが参集した。また、時代遅れのルイ18世に愛想を付かしたパリ市民、兵士もこれを歓迎し、瞬く間にナポレオンはパリへ入城を果たした。ナポレオンの突然の復活に驚愕した列強各国は、ひとまず[[ウィーン議定書|ウィーン会談を纏め上げ]]、再びナポレオンを法の外に置くことを宣言して、彼の押さえ込みにかかった。連合軍は、[[ベルギー]]地方にイギリス軍とプロイセン軍が、ライン方面と北イタリアにオーストリア軍が展開して、広範囲なナポレオン包囲網を形成した。一方、ナポレオン率いるフランス軍主力はベルギー方面へ侵攻し、イギリス軍、プロイセン軍と対峙した。このときイギリス軍を率いていたのは初代[[ウェリントン公爵]][[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]であったが、ワーテルローでフランス軍と[[会戦]]になった際に粘り強く方陣を維持し、プロイセン軍の援軍を待った。一方のフランス軍は離散していた部隊が戦闘に間に合わなかったのに対して、イギリス軍にはプロイセン軍が合流し反撃に転じた。これが[[ワーテルローの戦い]]である。ナポレオンは敗れ、再びパリへ敗走した。そして再度、退位文書に署名させられて、今度は赤道直下の[[大西洋]]の孤島[[セントヘレナ|セントヘレナ島]]へと配流され、このナポレオンの完全な失脚により、フランス第一帝政は崩壊した。<br /> <br /> == 歴代皇帝 ==<br /> # [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]([[1804年]] - [[1814年]]、[[1815年]])<br /> # [[ナポレオン2世]]([[1815年]][[6月22日]] - [[7月7日]])<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[ナポレオン戦争]]<br /> *[[フランスの歴史]]<br /> *[[ボナパルト朝]]<br /> *[[ボナパルティズム]]<br /> *[[百日天下]]<br /> <br /> {{フランス君主}}<br /> {{DEFAULTSORT:ふらんすたいいちていせい}}<br /> [[Category:ナポレオン・ボナパルト|*ふらんすたいいちていせい]]<br /> [[Category:フランスの王朝]]<br /> [[Category:フランス第一帝政|*]]<br /> [[Category:1804年に成立した国家・領域]]<br /> [[Category:1814年に廃止された国家・領域]]<br /> [[Category:1815年に成立した国家・領域]]<br /> [[Category:1815年に廃止された国家・領域]]</div> 42.145.121.253 アレクサンダー・スティーヴンズ 2018-07-22T13:19:48Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{大統領<br /> | 人名=アレクサンダー・スティーヴンズ<br /> | 各国語表記=Alexander Hamilton Stephens<br /> | 画像=Alexander Hamilton Stephens.jpg<br /> | 代数=初<br /> | 職名=[[:en:Vice President of the Confederate States of America|副大統領]]<br /> | 国名={{CSA-3}}<br /> | 副大統領職=なし<br /> | 副大統領=<br /> | 就任日=[[1861年]][[2月18日]]<br /> | 退任日=[[1865年]][[5月10日]]<br /> | 国名2=[[File:Flag_of_the_State_of_Georgia_(1879–1902).svg|border|25px]] [[ジョージア州]]<br /> | 代数2=第50<br /> | 職名2=州知事<br /> | 就任日2=[[1882年]][[11月4日]]<br /> | 退任日2=[[1883年]][[3月4日]]<br /> | 出生日={{生年月日と年齢|1812|2|11|死去}}<br /> | 生地={{USA1795}}&lt;br /&gt;[[ジョージア州]]・[[タリフェア郡 (ジョージア州)|タリフェア郡]]<br /> | 生死=死去<br /> | 死亡日={{死亡年月日と没年齢|1812|2|11|1883|3|4}}<br /> | 没地={{USA1877}}&lt;br /&gt;[[File:Flag_of_the_State_of_Georgia_(1879–1902).svg|border|25px]] ジョージア州・[[アトランタ]]<br /> | 配偶者=<br /> | 政党=[[民主党 (アメリカ)|南部民主党]]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;アレクサンダー・ハミルトン・スティーヴンズ&#039;&#039;&#039;({{lang-en|Alexander Hamilton Stephens}}, [[1812年]][[2月11日]] - [[1883年]][[3月4日]])は、[[アメリカ連合国]]の[[:en:Vice President of the Confederate States of America|副大統領]]。<br /> <br /> ==生い立ち==<br /> [[ジョージア州]][[タリフェア郡 (ジョージア州)|タリフェア郡]]の{{仮リンク|クロウフォードヴィル (ジョージア州)|label=クロウフォードヴィル|en|Crawfordville, Georgia}}の近くで生まれた。貧しさの中で成長し、数人の支援者によって教育を受けることができた。ジョージア州アテネのフランクリン大学(後の[[ジョージア大学]])を[[1832年]]に首席で卒業した。<br /> <br /> ==政治活動==<br /> 数年間恵まれない環境で教師を務めた後、法律を学び法曹界入りし、クロウフォードヴィルで弁護士として成功する。その後財産が増えると、南部社会において必要であった土地と[[奴隷]]を手に入れ始める。[[南北戦争]]までに34名の奴隷と数千[[エーカー]]の土地を所有していた。<br /> <br /> 南北戦争の終結後、[[アメリカ連合国]]の副大統領であったスティーヴンズは[[1865年]]10月まで5か月間、{{仮リンク|ボストン湾|en|Boston Harbor}}の{{仮リンク|フォート・ウォーレン (マサチューセッツ州)|label=フォート・ウォーレン|en|Fort Warren (Massachusetts)}}に投獄された。[[1866年]]に新憲法下で招集された第一立法部によって[[アメリカ合衆国上院|アメリカ上院]]議員に選任されたが、ジョージア州が合衆国に再加入していなかったため、信任状が示されなかった。スティーヴンズは{{仮リンク|アンブロース・R・ライト|en|Ambrose R. Wright}}の死によって生じた空席を満たすために第43議会へ[[民主党 (アメリカ)|民主党]]から選出され、[[1873年]]12月1日から議員職を務め、第44議会および続く3つの議会に再選され、[[1882年]]11月4日に辞職するまで[[アメリカ合衆国下院|下院]]議員職にあった。<br /> <br /> スティーヴンズは1882年に[[ジョージア州知事]]に選出され、死ぬまで知事を務めた。死後、[[アトランタ]]のオークランド墓地に埋葬されたが、後に彼の邸宅があったクロウフォードヴィルの近くのリバティー・ホールに再埋葬された。<br /> <br /> {{仮リンク|アメリカ連合国ドル|en|Confederate States dollar|label=CSAドル}}の20ドル紙幣(第3・第5・第6・第7回発行分)には、スティーヴンズの肖像が使用された。<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> * [http://portagepub.com/products/causouth/index.html The Life and Work of Alexander Stephens]<br /> * [http://teachingamericanhistory.org/library/index.asp?documentprint=76 &quot;Cornerstone&quot; Speech]<br /> * [http://www.adena.com/adena/usa/cw/cw223.htm What I Really Said in the Cornerstone Speech] Alexander Stephens attempts to clarify, and correct, the statements that he made during his Cornerstone Speech.<br /> * [http://www.etymonline.com/cw/cornerstone.htm Another explanation]<br /> <br /> {{start box}}<br /> {{s-off}}<br /> {{Succession box<br /> | title ={{CSA-3}}[[:en:Vice President of the Confederate States of America|副大統領]]<br /> | years = 初代:1861 - 1865<br /> | before = (建国)<br /> | after = (国家消滅)<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[File:Flag_of_the_State_of_Georgia_(1879–1902).svg|border|25px]] [[ジョージア州]]知事<br /> | years = 第50代:1882 - 1883<br /> | before = [[アルフレッド・H・コルクイット]]<br /> | after = [[ジェームズ・S・ボイントン]]<br /> }}<br /> {{end box}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:すていいうんす あれくさんたあ}}<br /> [[Category:1812年生]]<br /> [[Category:1883年没]]<br /> [[Category:アメリカ連合国の政治家]]<br /> [[Category:ジョージア州知事]]<br /> [[Category:南北戦争の人物]]</div> 42.145.121.253 E.T.A.ホフマン 2018-07-17T13:38:19Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Infobox 作家<br /> | name = E・T・A・ホフマン&lt;br /&gt;E.T.A.Hoffmann<br /> | image = ETA Hoffmann 2.jpg<br /> | imagesize = <br /> | caption = E・T・A・ホフマン自画像<br /> | pseudonym = <br /> | birth_name = エルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマン<br /> | birth_date = [[1776年]][[1月24日]] <br /> | birth_place = {{PRU1750}}&lt;br&gt;[[File:Flagge Preußen - Provinz Ostpreußen.svg|border|25px]] [[東プロイセン|東プロイセン県]]、[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]&lt;br /&gt;(現{{RUS}}、[[カリーニングラード]])<br /> | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1776|1|24|1822|6|25}}<br /> | death_place = {{DEU1815}}&lt;br&gt;{{PRU1803}}、[[ベルリン]]<br /> | occupation = [[作家]]、[[音楽家]]、[[画家]]、[[法律家]]<br /> | nationality = <br /> | period = <br /> | genre = [[ファンタジー|幻想小説]]<br /> | subject = <br /> | movement = [[ロマン主義]]<br /> | notable_works = 『[[黄金の壺]]』(1814年)&lt;br /&gt;『[[砂男 (小説)|砂男]]』(1815年)&lt;br /&gt;『[[ブランビラ王女]]』(1820年)&lt;br /&gt;『[[牡猫ムルの人生観]]』(1820年)&lt;br /&gt;『[[蚤の親方]]』(1822年)<br /> | awards = <br /> | debut_works = 「騎士グルック」(1809年)<br /> | spouse = <br /> | partner = <br /> | children = <br /> | relations = <br /> | influences = [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[ジャン・パウル]]、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]、[[ルートヴィヒ・ティーク|ティーク]]、[[アーデルベルト・フォン・シャミッソー|シャミッソー]]、[[アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル|A.W.シュレーゲル]]と[[フリードリヒ・シュレーゲル|F.シュレーゲル]]、[[クレメンス・ブレンターノ|ブレンターノ]]、[[カルデロン・デ・ラ・バルカ|カルデロン]]<br /> | influenced = [[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]、[[アレクサンドル・デュマ・ペール|デュマ]]、[[アルフレッド・ド・ミュッセ|ミュッセ]]、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]、[[ジェラール・ド・ネルヴァル|ネルヴァル]]、[[オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン|ヴィリエ・ド・リラダン]]、[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[エドガー・アラン・ポー|ポー]]、[[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]<br /> | signature = <br /> | website = <br /> &lt;!--| footnotes = --&gt;<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン&#039;&#039;&#039;(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, [[1776年]][[1月24日]] - [[1822年]][[6月25日]])は[[ドイツ]]の[[作家]]、[[作曲家]]、[[音楽評論家]]、[[画家]]、[[法律家]]。文学、音楽、絵画と多彩な分野で才能を発揮したが、現在では主に後期[[ロマン派]]を代表する[[幻想文学]]の奇才として知られている。本名は&#039;&#039;&#039;エルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマン&#039;&#039;&#039;(Ernst Theodor Wilhelm Hoffmann)であったが、敬愛する[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]にあやかってこの筆名を用いた(伯父と同じ名前を嫌ったとも言われる)。<br /> <br /> [[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]の法律家の家系に生まれ、自らも法律を学んで裁判官となるが、その傍らで芸術を愛好し詩作や作曲、絵画制作を行なっていた。[[1806年]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の進軍によって官職を失うと[[バンベルク]]で劇場監督の職に就き、舞台を手がける傍らで音楽雑誌に小説、音楽評論の寄稿を開始。[[1814年]]に判事に復職したのちも裁判官と作家との二重生活を送り、病に倒れるまで旺盛な作家活動を続けた。<br /> <br /> 小説では[[オートマタ|自動人形]]や[[ドッペルゲンガー]]といった不気味なモチーフを用い、現実と幻想とが入り混じる特異な文学世界を作り出した。また当時のロマン派作家の多くが田舎の田園風景を称揚したのに対し、都会生活を好んで描いたことにも特徴がある。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === ケーニヒスベルクでの生い立ち ===<br /> E・T・A・ホフマンは[[1776年]][[1月24日]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]領[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]にエルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマンとして生まれた。父クリストフ・ルートヴィヒ・ホフマン(Christoph Ludwig Hoffmann)はプロイセン宮廷裁判所の法律顧問であり、その家系はポーランド貴族バギエンスキー家に遡る。母ルイーゼ・アルベルティーネ(Luise Albertine、旧姓デルファー Doerffer)とはいとこ同士であり、デルファー家もまた法律家の家系であった。ホフマンは3人兄弟の末っ子だったが、両親が間もなく不仲となり、彼が2歳の時父が家を出て行った。ホフマンは実母のもとに転居した母に引き取られ、叔父オットー・ヴィルヘルム・デルファーが後見人となった。<br /> <br /> [[ファイル:Hoffmann Hippel.png|thumb|190px|ホフマンとヒッペル(ホフマン画、1803年)]]ホフマンは[[1782年]]にプロイセンの改革派が経営するブルク学校に入学するが、その一方で合唱指揮者兼オルガン奏者クリスチャン・ポドビエルスキーの下で音楽理論とピアノ演奏法を習った。1786年ころ、終生の友となるテオドール・ゴットリープ・フォン・ヒッペル([[:de:Theodor Gottlieb von Hippel der Jüngere]])に出会う。[[1792年]]、ヒッペルとともに[[ケーニヒスベルク大学]]の法律科に入学。ホフマンはこの頃から法律の勉強の傍ら絵画、作曲、詩作とさまざまな芸術に手を染めており、また多くの文学作品を読んだ。当時ホフマンが読んでいた作家は[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]、[[ジョナサン・スウィフト|スウィフト]]、[[ローレンス・スターン|スターン]]、[[トバイアス・スモレット|スモレット]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[ジャン・パウル]]などであり、特にシラーの『見霊者』を熟読していた。<br /> <br /> === ディレッタントとしての生活 ===<br /> ==== グローガウ - ベルリン時代 ====<br /> [[1795年]]7月にホフマンは司法候補試験に合格し、ケーニヒスベルクで陪席判事として活動を始めた。しかし間もなく学生時代から交際のあった人妻ドーラ・ハット(コーラという愛称で呼ばれていた)との付き合いが問題化したことなどから、翌年グローガウ(現在[[ポーランド]]の[[グウォグフ]]、当地の[[ユダヤ人]]にドイツ風の[[姓]]を与えるのも仕事であった)へ転任、代父オットー・ヴィルヘルムの伯父ヨハン・ルートヴィヒ・デルファー宅に移り住んだ。コーラとは1798年秋まで手紙のやり取りが続いたが情熱は冷えきっており、代わりにデルファー家の娘ミンナと恋に落ち、この年に婚約を交わした。しかしミンナとは実際に結婚にいたることなく、1802年に婚約を解消することになる。<br /> <br /> [[1798年]]にホフマンはグローガウで次の司法試験に合格する。ちょうどこの頃、伯父ヨハンが法廷上級顧問官として[[ベルリン]]に配属されることになり、ホフマンもこれに合わせて配転希望を提出、8月にベルリンに転居した。ホフマンはこの地で都市生活を堪能し、歌手フリードリヒ・フレックや音楽指揮者アンゼルム・ヴェーバーら芸術家と親交を結び、また[[宮廷楽長]]であるヨハン・フリードリヒ・ライヒアルトから音楽を学んだ。判事としての仕事の傍ら絵画の制作や作曲に従事し、自作のオペラ『仮面』をプロイセン王妃[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|ルイーゼ]]に贈るなどしている。また1798年11月からは友人ヒッペルもベルリンに移っており、ホフマンは親友と二人で次の国家試験に備え1800年に「優秀」の成績で合格した。3月、ホフマンはポーゼン(現[[ポーランド]]領[[ポズナニ]])の上級裁判所判事補に任命され、ヒッペルとともにポーゼンに移った。<br /> <br /> ==== ポーゼン - プローク時代 ====<br /> [[ファイル:Karikatur Hoffmann.gif|thumb|left|190px|戯画的に描かれたホフマンの自画像]]<br /> ポーゼンの住民は大部分がポーランド人であり、ドイツ人の役人はドイツ人だけを招いて集会を開いていた。ホフマンはそうした集会の一つである娯楽集会「社交クラブ」のメンバーとなり、政府顧問官ヨハン・ルートヴィヒ・シュヴァルツと親交を結んだ。ホフマンはこのクラブのためにカンタータを作曲しており、シュヴァルツが脚本を書いている。またホフマンはこの集会で[[ワイン]]の愛好熱に取り付かれ、取り分け[[プンシュ|ポンス酒]]を好むようになった。しかし1802年2月、謝肉祭の仮面舞踏会席上で配布したホフマンによる諷刺画に対し、モデルにされた連隊長ヴィルヘルム・フォン・ツァストフ少将が激怒し、ベルリンにこの件に関する回状を送った。ホフマンは罰としてポーゼン勤務を解かれ、プローク(現ポーランド領プヴォツク)への左遷が決まる。プローク行きに先立つ1802年7月、ホフマンはシュヴァルツを通じて知り合ったポーランド人女性ミヒャエリナ・ローレル・トルツィンスカ(Michalina Rorer-Trzynska、愛称ミーシャ)と結婚、汚職で告訴されたミーシャの兄の娘であるミシャリーナを養女とし、二人を伴って8月にプロークに移った。<br /> <br /> 当時のプロークは人口2500人あまりの寒村であった。ホフマンはこの地の社交界に興味を示さず、余暇には自宅に引きこもって創作活動に専念した。この時期ホフマンは喜劇『賞金』を制作し、当時人気のあった喜劇作家[[フリードリヒ・アウグスト・コッツェブー]]に送った(この原稿は現在残っていない)。またこの頃にヨハン・クリスティアン・ヴィークレプの『自然魔術』(化学を用いた手品を扱ったもの)を読んで自動人形を製作することを思い立ったり、ルソーの『告白』を読むなどしている。1804年3月、1年半の左遷が解かれワルシャワへの勤務命令を受け、4月にミーシャ、ミシャリーナを連れ同地に向かった。<br /> <br /> ==== ワルシャワ - ポーゼン時代 ====<br /> ワルシャワは当時南プロイセン州の首都であり、ホフマンは活気のあるこの都市で再び社交に楽しみを見出した。ホフマンは「音楽クラブ」の共同設立者となり、仕事の余暇に音楽演奏に参加したり、クラブのためにフレスコ画を制作し、詩作や作曲も行い、またイタリア語を習得した。この時期ホフマンが作曲したものには『変ホ長調交響曲』『ニ短調ミサ曲』、[[クレメンス・ブレンターノ|ブレンターノ]]の戯曲をもとにしたオペラ『招かれざる客』の舞台音楽などがある。またホフマンはヒッペルと並んで生涯の友となるユリウス・エドゥアルト・イッチヒ(1809年からは「ヒッチヒ」と名乗っている)と出会い、ロマン主義文学の愛好者であった彼から[[ルートヴィヒ・ティーク|ティーク]]やブレンターノ、[[ノヴァーリス]]、また[[アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル|シュレーゲル]]兄弟がドイツ語に訳した[[ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ|カルデロン]]などの作品を紹介され、これらの文学作品に親しんだ。1805年7月には娘が誕生し、音楽の守護聖人[[聖セシリア|セシリア]]にちなんでツェツィーリアと名づけられた。<br /> <br /> しかし幸福な日々は長く続かず、1806年11月にナポレオン軍がワルシャワに進駐し、プロイセンの政府機関が解体されてしまう。ホフマンは職を失っただけでなく、フランス軍の接収によって住居すら失った。ホフマンは家族を連れムニーツェク宮殿にあった「音楽クラブ」の屋根裏部屋に引っ越したが、やがて現金が底をつき、妻の縁者を頼って1807年1月にポーゼンに移った。しかしフランス軍当局にナポレオンに忠誠を誓うかワルシャワを去るか選択を迫られると、ホフマンは後者を選び、7月に再びベルリンに赴いた。<br /> <br /> === 芸術家への転身 ===<br /> ==== ベルリン - バンベルク時代 ====<br /> ベルリンの宿屋についた途端、ホフマンは盗難に遭い、手持ちの現金をすべて失ってしまう。官庁への就職も、職を失った国家官僚同士の競争が激しくうまくいかず、ホフマンの生活は非常に困窮した。さらに1807年8月、追い討ちをかけるようにポーゼンから娘ツェツェリア死去の報を受ける。<br /> <br /> [[ファイル:Bamberg ETA Hoffmann 13aug2007.jpg|thumb|170px|バンベルク劇場前にあるホフマン像]]<br /> 生活に困ったホフマンは、8月末に広告専門の新聞紙『アルゲマイナー・アンツァイガー』に劇団ないし楽団指揮者として求職広告を出した。この広告がバンベルク劇場の関係者の目に留まり、以前ホフマンがオペラに曲を付けたことのあったバンベルク劇場支配人ゾーデン伯爵の仲介もあり、1808年4月にホフマンはバンベルク劇場の音楽指揮者として採用されることになった。ホフマンはミーシャを連れ出すために6月にポーゼンに向かい、この間に後に作家としての名声をもたらすことになる小説『騎士グルック』を完成させた。『騎士グルック』は1809年2月にライプツィヒの『一般音楽新聞』に掲載され、ホフマンはこれをきっかけに劇場での仕事の傍ら同紙へ音楽評論の定期的な寄稿を始めた。<br /> <br /> バンベルク劇場のホフマンの仕事は当初、ゾーデン伯爵の後継者として支配人となった俳優ハインリヒ・クノーとの衝突から思うようには運ばなかったが、旧弊な演劇に固執したクノーが劇場を破産に追いやると事態が好転した。1810年にバンベルク劇場は株式会社として生まれ変わり、ホフマンとは旧知の間柄であったフランツ・フォン・ホルバインが新たな支配人として迎え入れられた。ホフマンの才能を認めていたホルバインはホフマンを重用し、ホフマンは作曲家、舞台装置家、画家として思う存分に腕を振ることができた。上演目録も改良され、すでに古くなっていたコッツェブーの喜劇を除きカルデロンの『十字架の傍の祈念』や『マンティブレの橋』を上演した。<br /> <br /> ホフマンはまた副業として上流階級の人々への音楽教育に携わった。1811年、ホフマンは歌唱指導を行なっていた20歳年下のユリア・マルクに恋心を抱くようになり、彼女の婚約者であるハンブルクの商人ゲレーペルに酒の席で無礼を働いてしまう。翌日彼女の母親に弁解の手紙を送ったもののこの事件によってホフマンはバンベルクの社交界へ出入りすることができなくなった。<br /> <br /> ==== ドレスデン・ライプツィヒ時代 ====<br /> [[ファイル:Callot Burlesque Violinist.jpg|thumb|ジャック・カロによる戯画の一例]]<br /> 1813年、ホフマンは『一般音楽新聞』編集長フリードリヒ・ロッホリッツの誘いを受け、ドレスデンのヨゼフ・ゼコンダ演劇会社での音楽指揮者の地位に就くことになった。ホフマンは[[自由戦争]]のさなかドレスデンに移住し、ドレスデンとライプツィヒの往復生活を始めた。音楽指揮者の仕事はゼコンダとの性格的な衝突によって1年ほどで解雇されてしまうが、ホフマンは劇団での仕事の傍らで、[[フリードリヒ・フーケ|フケー]]から依頼された『[[ウンディーネ]]』のオペラ作曲を完成し、『磁気催眠術師』『詩人と作曲家』『自動人形』『黄金の壺』などの物語を書き上げてクンツ社と出版契約を結び、さらに長編『悪魔の霊液』の執筆に取り掛かった。<br /> <br /> 1814年から1815年にかけてクンツ社より発行された『カロ風幻想曲集』はホフマンの文名を高めた。この作品集はホフマンの偏愛する戯画作者[[ジャック・カロ]]の名をつけて4巻本で発行され、序文は[[ジャン・パウル]]から寄せられている。<br /> <br /> === ベルリンでの作家生活 ===<br /> [[ファイル:ETA Hoffmann.jpg|thumb|left|ベルリン時代に描かれた自画像(1810年-20年ころ)]]失職したホフマンは、友人ヒッペルの尽力もあり1814年に再びプロイセン国家官僚として採用され、9月にみたびベルリンに移住した。1815年4月からは大審院判事に就任し、ホフマンは裁判官の仕事をしながら売れっ子作家として小説を書き、舞台を手がけ作曲を行ない、また多くの芸術家との社交にいそしむ多忙な生活を送った。当時ホフマンが社交場で交際したのはヒッチヒのほかに[[アーデルベルト・フォン・シャミッソー|シャミッソー]]、ティーク、フケーらであったが、この時期はとりわけ俳優ルートヴィヒ・デブリエント([[:de:Ludwig Devrient]])との親交を深めた。<br /> <br /> ベルリン時代にホフマンは『悪魔の霊液』『くるみ割り人形とねずみの王様』『夜景集』『ゼラピオン同人集』と小説・物語を次々と刊行していった。1818年の夏よりホフマンは「ムル」と名づけた雄猫を飼い始めたが、この猫と自分の生活に着想を得て1819年からは『牡猫ムルの人生観』に取り掛かり、1820年には『ブランビラ王女』を発表している。しかしホフマンは作家業を自身の芸術活動で最も重要なものとは見なしておらず、最も情熱を傾けたのは音楽のほうだった。ホフマンは1814年に完成したオペラ『ウンディーネ』こそ自身の畢生の大作と考えており、ベルリン時代にはこのオペラの上演に最も力を注ぎ、1816年8月にベルリン王立劇場で行なわれた同オペラの初演は大きな成功を収めた。<br /> <br /> [[ファイル:E.T.A Hoffmann Grave.jpg|thumb|ベルリンにあるホフマンの墓]]<br /> 1819年、プロイセン政府はナポレオン戦争の余波から各地で起こっていた自由民主化運動を抑圧するため「大逆的な結社ならびにその他の危険な策動を調査する直属委員会」を設置し、ホフマンもその一員となった。しかし、内面にではなく実際に成された行為のみに基づいて判決を下すべきだという意見を抱いていたホフマンは国王や上司との関係を悪くした。1819年7月に「ドイツの体操の父」[[フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン]]([[:de:Friedrich Ludwig Jahn]])が反逆罪で起訴されたが、ヤーンは警察庁長官カンプツを逆に侮辱罪で訴えた。周囲の官僚はヤーンの訴えを無視するべきと考えていたが、ホフマンはヤーンの訴えを聞きカンプツを召喚し、召喚を中止せよという法相からの命令にも従おうとしなかった。ついに国王自らが介入して召喚は中止となり、ホフマンは国王から大きな不興を被った。<br /> <br /> 1822年2月、出版前のホフマンの小説『蚤の親方』に、ヤーンの審理を揶揄する不敬な表現があるとして出版が差し止められた。国王は直ちにホフマンを尋問するよう要求したが、ホフマンはすでに[[脊椎カリエス]]で病床にあり、医師の判断で尋問は行なわれなかった。4月、ホフマンは病床で最後の小説『隅の窓』の口述筆記を行なっていたが、6月25日に病により死去した。<br /> <br /> == 受容と影響 ==<br /> ホフマンは人気作家であったものの、同時代では[[ハインリヒ・ハイネ]]や[[アーデルベルト・フォン・シャミッソー]]からの高評価を除き、文学的な評価は得ておらず、どちらかといえば通俗作家の位置に留まっていた。ホフマンの評価はむしろドイツ国外で高まり、1828年にフランスに初めて翻訳されて以降[[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]、[[ヴィクトル・ユーゴー|ユゴー]]、[[テオフィル・ゴーティエ|ゴーティエ]]、[[ジョルジュ・サンド]]、[[アルフレッド・ド・ミュッセ|ミュッセ]]、[[オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン|ヴィリエ・ド・リラダン]]、[[アレクサンドル・デュマ・ペール|デュマ]]、[[ジェラール・ド・ネルヴァル|ネルヴァル]]、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]、[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]など、中でも特に小ロマン派と呼ばれる作家達に大きな影響を及ぼし、また[[ウォルター・スコット]]のホフマン紹介文の翻訳中で初めてコント・ファンタスティックという語が用いられた。ロシアでは[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]などがホフマンの物語を愛好し、その影響は[[エドガー・アラン・ポー]]にも及んでいる。ドイツでは[[リヒャルト・ワーグナー|リヒャルト・ヴァーグナー]]がホフマンから霊感を得ており、『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』『[[タンホイザー]]』は『ゼラピオン同人集』のなかのパリを舞台にした小説群に多くを負っているほか、『[[さまよえるオランダ人]]』もホフマン作品の暗鬱で神秘的な人物像から影響を受けている。また[[ジークムント・フロイト]]はホフマンの『砂男』を題材にして「不気味」という感情の源泉を分析した『不気味なもの』という論文を執筆している。<br /> <br /> [[ファイル:Hoffmann sandmann.png|thumb|250px|『砂男』のホフマン自身による挿絵]]<br /> ホフマン作品を基にした楽曲としてはバレエ『[[くるみ割り人形]]』『[[コッペリア]]』やオペラ『[[ホフマン物語]]』、「スキュデリ嬢」をオペラ化した[[パウル・ヒンデミット|ヒンデミット]]の『[[カルディヤック]]』などが知られている。『くるみ割り人形』はホフマンの童話『[[くるみ割り人形とねずみの王様]]』からのデュマの翻案(『はしばみ物語』)を基にしており、『コッペリア』はホフマンの『砂男』が原作、『ホフマン物語』は『大晦日の夜の冒険』『砂男』『クレスペル顧問官』の3作を翻案したものである。ほかにホフマンの同名の作品から霊感を得て作られた[[ロベルト・シューマン]]のピアノ曲集『[[クライスレリアーナ]]』や、同名の小説をオペラ化した[[フェルッチョ・ブゾーニ|ブゾーニ]]の『花嫁選び』などがある。なお『クライスレリアーナ』はホフマンの文学的分身であるヨハンネス・クライスラー楽長が語るという体裁の音楽評論であるが、ホフマンの代表作の一つ『牡猫ムルの人生観』は人語を解する猫ムルの回想録にこのクライスラー楽長の伝記が混じってしまったという形で書かれた長編小説であり、[[夏目漱石]]の『[[吾輩は猫である]]』には主人公の猫がこの作品に触れて、ドイツにも同じ境遇の猫がいると知って感慨にふけるシーンがある。<br /> <br /> 『スキュデリ嬢』は[[推理小説]]風の作品で、[[森鴎外]]は「エドガー・ポーを読む人は更にホフマンに遡らざるべからず」と述べ、『玉を懐いて罪あり』の題で訳出した。<br /> <br /> 音楽家としてのホフマンは七十数曲を残しており、成功した『ウンディーネ』以外の作品も後世に再演、再評価されている。CDに録音されたものに、ハープ五重奏曲ハ短調、グランド・ピアノ三重奏曲ホ長調などがあり、歌曲「ソプラノ、テノールとピアノのための6つのイタリア」は、『牡猫ムルの人生観』の中で言及されている。小説の体裁でモーツァルトの『[[ドン・ジョヴァンニ]]』の評論ともなっている「ドン・ジュアン」は、この作品の解釈として当時画期的であり、その後の作品理解に大きな影響を与えた。<br /> <br /> == 作品一覧 ==<br /> [[ファイル:Gedenktafel Charlottenstr 56 Ernst Theodor Amadeus Hoffmann.JPG|thumb|ベルリン、シャルロッテ通りにあるホフマンの記念碑]]<br /> [[ファイル:Skulptur Hoffmann Berlin2007.jpg|thumb|ベルリン、リープクネヒト橋のたもとにあるホフマンの記念碑]]<br /> [[ファイル:Stamps of Germany (Berlin) 1972, MiNr 426.jpg|thumb|ホフマンの肖像を使用したドイツの切手(1972年)]]<br /> [[ファイル:Bamberg Theater Hoffmann Büste.jpg|thumb|ホフマンの胸像]]<br /> <br /> === 文学 ===<br /> * カロ風幻想曲(&#039;&#039;Fantasiestücke in Callots Manier&#039;&#039;、1814年)<br /> ** 騎士グルック(&#039;&#039;Ritter Gluck&#039;&#039;)<br /> ** クライスレリアーナ(&#039;&#039;Kreisleriana&#039;&#039;)<br /> ** ドン・ジュアン(&#039;&#039;Don Juan&#039;&#039;)<br /> ** 犬のベルガンツァの最近の運命に関する報告(&#039;&#039;Nachricht von den neuesten Schicksalen des Hundes Berganza&#039;&#039;)<br /> ** 磁気催眠術師(&#039;&#039;Der Magnetiseur&#039;&#039;)<br /> ** [[黄金の壺]](&#039;&#039;Der goldne Topf&#039;&#039;) <br /> ** 大晦日の夜の冒険(&#039;&#039;Die Abenteuer der Sylvesternacht&#039;&#039;)<br /> * [[悪魔の霊液]](&#039;&#039;Die Elixiere des Teufels&#039;&#039;、1815年)<br /> * 夜曲集(&#039;&#039;Nachtstücke&#039;&#039;、1817年)<br /> ** [[砂男 (小説)|砂男]](&#039;&#039;Der Sandmann&#039;&#039;)<br /> ** 請願(&#039;&#039;Das Gelübde&#039;&#039;)<br /> ** イグナーツ・デンナー(&#039;&#039;Ignaz Denner&#039;&#039;)<br /> ** G町のジェスイット協会(&#039;&#039;Die Jesuiterkirche in G.&#039;&#039;)<br /> ** 世襲権(&#039;&#039;Das Majorat&#039;&#039;)<br /> ** 荒んだ家(&#039;&#039;Das öde Haus&#039;&#039;)<br /> ** サンクトゥス(&#039;&#039;Das Sanctus&#039;&#039;)<br /> ** 石の心臓(&#039;&#039;Das steinerne Herz&#039;&#039;)<br /> * 劇場監督の奇妙な苦しみ(&#039;&#039;Seltsame Leiden eines Theater-Direktors&#039;&#039; 1819年)<br /> * ちびのツァヒェスまたの俗称をツィノーバー(&#039;&#039;Klein Zaches, genannt Zinnober&#039;&#039; 1819年)<br /> * ゼラピオン同人集(&#039;&#039;Die Serapionsbrüder&#039;&#039;、1819年)<br /> ** 隠者ゼラピオン(&#039;&#039;Der Einsiedler Serapion&#039;&#039;)<br /> ** マルティン親方とその弟子たち(&#039;&#039;Meister Martin der Küfner und seine Gesellen&#039;&#039;)<br /> ** クレスペル顧問官(&#039;&#039;Rat Krespel&#039;&#039;)<br /> ** フェルマータ(&#039;&#039;Die Fermate&#039;&#039;)<br /> ** 詩人と作曲家(&#039;&#039;Der Dichter und der Komponist&#039;&#039;) <br /> ** 3人の友人の生活から一篇の断章(&#039;&#039;Ein Fragment aus dem Leben dreier Freunde&#039;&#039;)<br /> ** アーサー王宮(&#039;&#039;Der Artushof&#039;&#039;) <br /> ** ファールン鉱山(&#039;&#039;Die Bergwerke zu Falun&#039;&#039;)<br /> ** [[くるみ割り人形とねずみの王様]](&#039;&#039;Nußknacker und Mausekönig&#039;&#039;、1816年)<br /> ** 歌合戦(Der Kampf der Sänger&#039;&#039;) <br /> ** 幽霊譚(&#039;&#039;Eine Spukgeschichte&#039;&#039;) <br /> ** 自動人形(&#039;&#039;Die Automate&#039;&#039;)<br /> ** ヴェネツィアの総督と総督夫人(&#039;&#039;Doge und Dogaresse&#039;&#039;)<br /> ** 新旧協会音楽問答(&#039;&#039;Alte und neue Kirchenmusik&#039;&#039;)<br /> ** 樽屋の親方マルティンとその若衆たち(&#039;&#039;Meister Martin der Küfner und seine Gesellen&#039;&#039;)<br /> ** 見知らぬ子供(&#039;&#039;Das fremde Kind&#039;&#039;)<br /> ** さる有名な人物の消息(&#039;&#039;Nachricht aus dem Leben eines bekannten Mannes&#039;&#039;)<br /> ** 花嫁選び(&#039;&#039;Die Brautwahl&#039;&#039;)<br /> ** 不気味な訪問者(&#039;&#039;Der unheimliche Gast&#039;&#039;) <br /> ** スキュデリ嬢(&#039;&#039;Das Fräulein von Scuderi&#039;&#039;)<br /> ** 賭事師の運 (&#039;&#039;Spielerglück&#039;&#039;、1819年)<br /> ** 男爵フォン・B.という人物(&#039;&#039;Der Baron von B.&#039;&#039;) <br /> ** シニョール・フォルミカ&#039;&#039;(Signor Formica&#039;&#039;)<br /> ** ツァハリーアス・ヴェルナー(&#039;&#039;Zacharias Werner&#039;&#039;)<br /> ** 幻のごと現われしもの(&#039;&#039;Erscheinungen&#039;&#039;)<br /> ** 物事の関連性(&#039;&#039;Der Zusammenhang der Dinge&#039;&#039;)<br /> ** ヴァンパイアリズム(&#039;&#039;Vampirismus&#039;&#039;)<br /> ** 美的趣味のティーパーティー (&#039;&#039;Die ästhetische Teegesellschaft&#039;&#039;)<br /> ** 王さまの花嫁 (&#039;&#039;Die Königsbraut&#039;&#039;) <br /> * [[ブランビラ王女]](&#039;&#039;Prinzessin Brambilla&#039;&#039;、1820年)<br /> * [[牡猫ムルの人生観]](&#039;&#039;Lebensansichten des Katers Murr&#039;&#039;、1820年)<br /> * 誤謬(&#039;&#039;Die Irrungen&#039;&#039;、1820年)<br /> * 秘密(&#039;&#039;Die Geheimnisse&#039;&#039;、1821年)<br /> * ドッペルゲンガー(&#039;&#039;Die Doppeltgänger&#039;&#039;、1821年)<br /> * [[蚤の親方]](&#039;&#039;Meister Floh&#039;&#039;、1822年)<br /> * 隅の窓(&#039;&#039;Des Vetters Eckfenster&#039;&#039;、1822年)<br /> <br /> === 音楽 ===<br /> ==== 歌劇 ====<br /> * 『ウンディーネ』(&#039;&#039;Undine&#039;&#039;、Zauberoper、1814年。1816年初演)<br /> <br /> ==== 管弦楽曲 ====<br /> * 交響曲変ホ長調(1806年)<br /> <br /> ==== 室内楽曲 ====<br /> * ハープ五重奏曲ハ短調(1807年)<br /> * ピアノ三重奏曲ホ長調(1809年)<br /> <br /> ==== ピアノ曲 ====<br /> * ロンド(1795年)<br /> * 5つのピアノ・ソナタ(イ長調、ヘ短調、ヘ長調、ヘ短調、嬰ハ短調)(1805-1808年)<br /> <br /> ==== 教会音楽 ====<br /> * ミサ曲ニ短調(&#039;&#039;Messa d-Moll&#039;&#039;、1805年)<br /> * ミゼレーレ変ロ短調(&#039;&#039;Miserere b-Moll&#039;&#039;、1809年)<br /> <br /> ==== 合唱曲 ====<br /> * 「夜の歌 − 静かで崇高な夜」作品77(&#039;&#039;Nachtgesang – Still und hehr die Nacht&#039;&#039;、1819年)<br /> * 「トルコの音楽」作品78(&#039;&#039;Türkische Musik&#039;&#039;、1820年)<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> この版では主にエーバーハルト・ロータース『E.T.A.ホフマンの世界』を参照している。<br /> * E.T.A.ホフマン 『ホフマン全集』 深田甫訳、創土社、1971年-1993年<br /> * ヴェルナー・ベルゲングリューン 『E.T.A.ホフマン ―幻想の芸術』 大森五郎訳、朝日出版社、1971年<br /> * ジャン=リュック・スタインメッツ『幻想文学』中島さおり訳 白水社 1993年<br /> * リュディガー ザフランスキー 『E.T.A.ホフマン―ある懐疑的な夢想家の生涯』 識名章喜訳、1994年<br /> * エーバーハルト・ロータース 『E.T.A.ホフマンの世界』 金森誠也訳、吉夏社、2000年<br /> * 木野光司 『ロマン主義の自我・幻想・都市像 ―E.T.A.ホフマンの文学世界』 関西大学出版会、2002年<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Wikisourcelang|de|E. T. A. Hoffmann|E.T.A.ホフマン}}<br /> {{Wikiquote|de:E. T. A. Hoffmann|E.T.A.ホフマン}}<br /> {{Commonscat|E. T. A. Hoffmann|E.T.A.ホフマン}}<br /> *{{青空文庫著作者|1058|ホフマン エルンスト・テオドーア・アマーデウス}}<br /> *{{DNB-Portal|118552465}}<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ほふまん えるんすと}}<br /> [[Category:E.T.A.ホフマン|*]]<br /> [[Category:ドイツの小説家]]<br /> [[Category:ドイツの詩人]]<br /> [[Category:ドイツの作曲家]]<br /> [[Category:ドイツの画家]]<br /> [[Category:ロマン主義]]<br /> [[Category:ロマン派の作曲家]]<br /> [[Category:オペラ作曲家]]<br /> [[Category:ケーニヒスベルク出身の人物]]<br /> [[Category:結核で死亡した人物]]<br /> [[Category:1776年生]]<br /> [[Category:1822年没]]</div> 42.145.121.253 タークス・カイコス諸島 2018-07-15T00:55:05Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2015年4月28日 (火) 08:15 (UTC)}}<br /> {{ Infobox British territory<br /> | name_japanese = タークス・カイコス諸島<br /> | conventional_long_name = Turks and Caicos Islands<br /> | common_name = タークス・カイコス諸島<br /> | image_flag = Flag of the Turks and Caicos Islands.svg<br /> | flag_size = 125px<br /> | flag_type = svg<br /> | flag_article_page =<br /> | image_symbol = Coat-of-arms-of-the-Turks-and-Caicos-Islands.svg<br /> | symbol_size = 85px<br /> | symbol_type = svg<br /> | symbol_article_page =<br /> | motto =<br /> | motto_japanese =<br /> | anthem_type = 国歌<br /> | anthem = God Save the Queen<br /> | anthem_japanese = [[女王陛下万歳]]<br /> | image_map = Turks and Caicos Islands in its region.svg<br /> | map_size =<br /> | official_languages = [[英語]]<br /> | capital = [[コックバーンタウン]]<br /> | admin_center =<br /> | native_country =<br /> | monarch = [[エリザベス2世]]<br /> | leader_title1 = [[タークス・カイコス諸島の総督|総督]]<br /> | leader_name1 = ピーター・ベッキンガム<br /> | leader_title2 = [[タークス・カイコス諸島の首相|首相]]<br /> | leader_name2 = シャーリン・カートライト=ロビンソン<br /> | leader_title3 =<br /> | leader_name3 =<br /> | area_rank =<br /> | area_km = 417<br /> | area_sq_mi =<br /> | percent_water = 極僅か<br /> | population_estimate = [[1 E4|31,458]]&lt;ref name=&quot;autogenerated1&quot;&gt;&quot;Census Figures from Turks and Caicos Strategic Planning and Policy Department Website&quot; http://www.sppdtci.com/#!population/c1aq3&lt;/ref&gt;<br /> | population_census =<br /> | population_year = [[2012年]]<br /> | population_rank =<br /> | population_density_km = 80<br /> | population_density_sq_mi =<br /> | population_density_rank =<br /> | GDP_PPP = 3億2,000万ドル<br /> | GDP_PPP_year = [[2002年]]<br /> | GDP_PPP_per_capita = 16,000ドル<br /> | currency = [[アメリカ合衆国ドル|USドル]]<br /> | currency_code =USD<br /> | time_zone = [[東部標準時]]<br /> | utc_offset = [[UTC-5]]<br /> | time_zone_DST = [[東部夏時間]]<br /> | utc_offset_DST = [[UTC-4]]<br /> | ISO 3166-1 = TC / TCA<br /> | cctld = [[.tc]]<br /> | official_website =<br /> | calling_code = 1-649<br /> | no_notice =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;タークス・カイコス諸島&#039;&#039;&#039;(タークス・カイコスしょとう、英:Turks and Caicos Islands)は、[[西インド諸島]]に属するタークス諸島とカイコス諸島からなる、[[イギリス]]領の[[イギリスの海外領土|海外領土]]。<br /> 首都はタークス諸島の[[グランドターク島]]にある[[コックバーンタウン]] (Cockburntown)。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> &#039;&#039;詳細は[[タークス・カイコス諸島の歴史]]を参照&#039;&#039;<br /> <br /> 紀元前に先住民の[[アラワク族]]が住んでいたと言われているが、[[スペイン]]人により発見された時は、[[無人島]]だった。諸島の発見は、[[1492年]]に[[クリストファー・コロンブス]]に発見されたという説があるが、[[1512年]]の[[ファン・ポンセ・デ・レオン]]が発見したというのが確実である。後に、スペインはこの島々を[[フランス]]に売り飛ばし、イギリスに渡るなどあったが、スペイン船を襲う[[海賊]]が基地として利用した以外は、依然としてほぼ無人であった。[[1681年]][[バミューダ諸島]]にいたイギリスの[[塩]]の採掘者が採掘の容易なグランドターク島に住み着いた事によって、イギリスの[[植民地化]]が進んだ。1780年代には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人が[[奴隷]]を連れて綿の栽培を始めていたが[[ハリケーン]]の被害により、[[1820年]]に同行していた奴隷を残し去って行った。残された奴隷は漁を採集して暮らし現在の島民はその子孫である。[[1799年]]にイギリス領の[[バハマ]]に属したが、後に[[ジャマイカ]]に属した。[[1962年]]にジャマイカがイギリスから独立すると、単独でのイギリス直轄領となり、[[1965年]]、再びバハマに編入されたが[[1973年]]バハマの独立で、両諸島は切り離され、総督を置いた。[[1982年]]に独立する決定が出されたが、その後取り消され、現在もイギリスの海外領土である。<br /> <br /> {{仮リンク|マイケル・ミシック|en|Michael Misick}}首相の不正蓄財疑惑により[[2009年]][[3月]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]]の[[助言]]に基づいて女王[[エリザベス2世]]が[[枢密院における女王|枢密院令]]を発動し、タークス・カイコス諸島の憲法のうち自治政府に関する条項を暫定的に停止して、イギリス本国から派遣される総督による直接統治を行うことと定めた。ミジクは首相を辞任し後任には野党の{{仮リンク|ガルモ・ウィリアムズ|en|Galmo Williams}}が就くが、8月に枢密院令が発効しウィリアムズも失職、総督の直接統治体制が発足した。2012年11月9日の議会選挙の後、自治制度が回復した。<br /> <br /> == 政治 ==<br /> [[議院内閣制]]による自治。<br /> {{節スタブ}}<br /> <br /> == 地理 ==<br /> [[File:TurksandCaicosOMC.png|350px|right]]<br /> バハマ諸島の南40kmに位置している。タークス諸島とカイコス諸島からなり、40の石灰岩で出来た島々からなる。うち8つの島に人が定住している。多くは[[サンゴ礁]]の平坦な島々で、樹木や表土がほとんどなく、土が少ないせいで、沈泥の量も少ない。<br /> <br /> == 経済 ==<br /> 経済は主に漁業で塩の採掘、[[海綿]]、[[アサ]]の輸出で栄えていたが、現在は観光と[[オフショア金融センター|オフショア金融]]で栄えている。<br /> <br /> == 交通 ==<br /> 諸島には鉄道は無く、延長121kmの[[ハイウェイ]]はあるものの、うち舗装されているのは24kmに過ぎず、97kmは未舗装である。また、主な港湾はグランドターク島と{{仮リンク|プロビデンシアレス島|en|Providenciales}}&lt;!-- 「プロビデンシアレス」は語源だと思われるスペイン語的な表記。または「プロビデンシャレス島」、英語的に表記すれば「プロビデンシャルズ島」「プロヴィデンシャルズ島」「プロビデンシャリズ島」「プロヴィデンシャリズ島」などとなりうるが、「プロビデンシアレス」が一般的。「プロビンデンシャアレス島」は誤記? --&gt;にある。諸島には飛行場が7ヶ所あり、うち4ヶ所は舗装された滑走路を持っている。この4ヶ所のうち、3ヶ所は2,000m、残り1ヶ所は1,000m長の滑走路がある。残り3ヶ所の飛行場は、未舗装の滑走路であり、2ヶ所は1,000m長であるものの、残りの1ヶ所はかなり短い滑走路である。<br /> <br /> == 住民 ==<br /> 住民は主に、白人と黒人の混血[[ムラート]]が63%、黒人が33%である。白人も少数いる。<br /> 特殊技術を持つ島民の多くは、[[バハマ]]で仕事を探す。[[ハイチ]]から来た難民も居るが、社会の貧困層を形成している。<br /> <br /> 言葉は公用語が英語である。<br /> <br /> 宗教は[[プロテスタント]]がほとんどで、うち[[バプテスト]]が41%、[[メソジスト]]が19%、[[イングランド国教会|英国国教会]]が18%である。<br /> <br /> == 文化 ==<br /> プロビデンシアレス島では、自ら群れを離れて人と交流するようになった野生の[[ハンドウイルカ|バンドウイルカ]]のジョジョで有名である。群から離れ一頭で暮らし「はぐれ[[イルカ]]」となったジョジョはナチュラリストの[[ディーン・バーナル]]との交流を15年に渡り、ディーンが「信頼できる友」と呼ぶ関係を築いてきた。<br /> <br /> バハマと文化的に近く、タークス・カイコスの[[リップ・ソー]]と呼ばれる音楽は、[[バハマ]]の[[キャット島]]を中心とした伝統音楽である[[レークン・スクラップ]]と共通性が高い。<br /> <br /> == 自然 ==<br /> 1990年6月、カイコス諸島の北部、中部及び東部が[[ラムサール条約]]登録地となった。<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ISO 3166-2:TC]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|Turks and Caicos Islands}}<br /> * [http://www.turksandcaicostourism.com/ タークス・カイコス諸島の観光局公式ウェブサイト(英語)]<br /> <br /> {{イギリスの海外領土}}<br /> {{アメリカ}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{coor title dms|21|53|00|N|71|47|00|W|}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:たあくすかいこすしよとう}}<br /> [[Category:タークス・カイコス諸島|*]]<br /> [[Category:カリブ海の諸島]]<br /> [[Category:イギリスの海外領土]]<br /> [[Category:イギリスのラムサール条約登録地]]<br /> [[Category:欧州連合加盟国の特別領域]]</div> 42.145.121.253 ミナスジェライス州 2018-07-13T10:05:17Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 行政区画|IB_NameJa = ミナス・ジェライス州|IB_Name={{Pt|Estado de Minas Gerais}}<br /> |IB_Flag =[[File:Bandeira de Minas Gerais.svg|border|120px|州旗]]<br /> |IB_Coa = [[File:Brasão_de_Minas_Gerais.svg|125px|州章]]<br /> |IB_Map1 = [[File:Brazil State MinasGerais.svg|280px|位置]]<br /> |IB_TH01 = 行政府所在地 |IB_TD01 = [[ベロオリゾンテ]]<br /> |IB_TH02 = 最大都市 |IB_TD02 = [[ベロオリゾンテ]]<br /> |IB_TH03 = 面積 |IB_TD03 = 586,528.293km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> |IB_TH04 = 自治体数 |IB_TD04 = 853<br /> |IB_TH05 = 人口 |IB_TD05 = 1959万7330人(2010年)&lt;ref name=&quot;ibge&quot;&gt;[http://www.ibge.gov.br/estadosat/perfil.php?sigla=mg Estados@] ブラジル地理統計院 {{En icon}} 2017年1月19日閲覧。&lt;/ref&gt;<br /> |IB_TH06 = 人口密度 |IB_TD06 = 33.41 人/平方キロメートル(2010年)&lt;ref name=&quot;ibge&quot;/&gt;<br /> |IB_TH07 = [[国内総生産|GDP]]&lt;br /&gt;&amp;nbsp;- 1人当たり |IB_TD07 =5160億83百万[[レアル]](2014年)&lt;br /&gt;1万7931レアル(2014年)<br /> |IB_TH08 = [[ISO 3166-2:BR]] |IB_TD08 = BR-MG<br /> |IB_TH09 = [[ブラジル時間|標準時]] |IB_TD09 = [[UTC-3]]<br /> |IB_TH10 = ウェブサイト |IB_TD10 = [http://www.mg.gov.br/ www.mg.gov.br/]<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ミナスジェライス州&#039;&#039;&#039; (IPA: [&#039;stadu dʒi ˈminɐs ʒeˈɾajs], {{Pt|&#039;&#039;Estado de Minas Gerais&#039;&#039;}}) は[[ブラジル]]の南東部に位置する[[州]]。州庁所在地は[[ベロオリゾンテ]]。略称は「&#039;&#039;&#039;MG&#039;&#039;&#039;」である。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> 北から時計回りに[[バイーア州]]・[[エスピリトサント州]]・[[リオデジャネイロ州]]・[[サンパウロ州]]・[[マットグロッソ・ド・スル州]]・[[ゴイアス州]]そして[[ブラジリア]]と隣接する。<br /> <br /> [[オウロ・プレット]]など、ブラジルの歴史を語るには欠かせない地域でもある。&lt;!--大統領経験者にはミナスジェライス州の出身者が多い。--&gt;&lt;!--歴代何人中何人など「多い」という具体例の提示を御願いします--&gt;<br /> <br /> == 経済 ==<br /> [[1693年]]に[[金]]が発見されたことを機に[[ダイアモンド]]などの[[鉱山]]の開発が進み、「&#039;&#039;&#039;宝石の鉱山&#039;&#039;&#039;」と呼ばれるようになってこれが州名となる。現在も、[[トパーズ|インペリアルトパーズ]]、[[ローズクォーツ|紅水晶]]などの[[宝石]]の産出地として知られている。また、[[鉄鉱石]]の産地[[イタビラ]]や[[サミトリ]]({{lang-pt|Samitri}})があり、世界屈指の資源メーカーである[[ヴァーレ]](旧リオドセ)社の工場があるほか、豊富な森林資源を背景にした世界第3位の[[パルプ]]専業メーカーである[[セニブラ]]社の工場、社有林も存在する。<br /> <br /> == 州内の主な都市 ==<br /> * [[ベロオリゾンテ]]<br /> * [[オウロ・プレット]]<br /> * [[ウベラーバ]]<br /> * [[ウベルランジア]]<br /> * [[ジュイス・デ・フォーラ]]<br /> * [[イパチンガ]]<br /> * [[パラデミナス]]<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> == 教育 ==<br /> * [[ミナス・ジェライス連邦大学]]<br /> * [[ヴィソーザ連邦大学]]<br /> * [[ラヴラス連邦大学]]<br /> * [[ジュイス・デ・フォーラ連邦大学]]<br /> * [[オウロ・プレット連邦大学]]<br /> * [[ミナスジェライス・カトリック大学]]<br /> <br /> == 出身者 ==<br /> * [[ペレ]] - サッカー選手。<br /> * [[ラウル・ネト]] - バスケットボール選手。<br /> * [[アナ・ベアトリス・バロス]] - [[スーパーモデル]]。<br /> * [[RINA]] - [[日系ブラジル人]]の[[ファッションモデル]]。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ウジミナス]](ミナスジェライス製鉄所)<br /> * [[ミナスの陰謀]]<br /> * [[ブラジルの歴史]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commons&amp;cat|Minas Gerais}}<br /> * [http://www.mg.gov.br 公式サイト] (ポルトガル語)<br /> <br /> {{BR-stub}}<br /> {{ブラジルの州}}<br /> {{Authority control}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:みなすしえらいす}}<br /> [[Category:ブラジルの州]]<br /> [[Category:ミナスジェライス州|*]]</div> 42.145.121.253 イギリス領ソマリランド 2018-07-12T12:28:29Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2017年8月}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = ソマリランド<br /> |日本語国名 = イギリス保護領ソマリランド<br /> |公式国名 = British Somaliland Protectorate<br /> |建国時期 = 1884年<br /> |亡国時期 = 1960年<br /> |先代1 = ムハンマド・アリー朝<br /> |先旗1 =Flag_of_Egypt_(1882-1922).svg<br /> |先代2 = <br /> |先旗2 = <br /> |次代1 = :en:State of Somaliland<br /> |次旗1 = Flag of Somalia.svg<br /> |次代2 = <br /> |次旗2 = <br /> |国旗画像 = flag of British Somaliland 1950-1960.svg<br /> |国旗リンク = <br /> |国章画像 = Badge of British Somaliland 1950-1960.svg<br /> |国章リンク = <br /> |標語 = <br /> |標語追記 = <br /> |国歌 = <br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 = LocationBrSomaliland.png<br /> |位置画像説明 = 領域<br /> |位置画像幅 = &lt;!-- 初期値250px --&gt;<br /> |公用語 = [[英語]]<br /> |首都 = [[ハルゲイサ]]<br /> |元首等肩書 = <br /> |元首等年代始1 = <br /> |元首等年代終1 =<br /> |元首等氏名1 = -<br /> |首相等肩書 = <br /> |首相等年代始1 = <br /> |首相等年代終1 = <br /> |首相等氏名1 = <br /> |面積測定時期1 = 1904<br /> |面積値1 = 155,399<br /> |人口測定時期1 = 1904<br /> |人口値1 = 153,018<br /> |変遷1 = <br /> |変遷年月日1 = <br /> |変遷2 = <br /> |変遷年月日2 = <br /> |通貨 = [[スターリング・ポンド]]<br /> |通貨追記 = <br /> |時間帯 = <br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |注記 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;イギリス領ソマリランド&#039;&#039;&#039;(イギリスりょう ソマリランド、{{lang-en|British Somaliland}}、{{lang-so|Dhulka Soomaalida ee Biritishka}})は、[[1884年]]から[[1960年]]まで存在した、[[アフリカの角]]における[[イギリス帝国]]の[[保護領]]のことを指す。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[1870年代]]まで、この地域は[[ムハンマド・アリー朝]]が支配していた。だが1884年、[[アデン]]駐留の[[イギリス軍]]が駐屯するようになり、ソマリランドの各部族と協定を締結、[[1887年]]には同国により[[保護領]]化された。[[1898年]]までは行政上[[イギリス領インド帝国]]の統治下にあったが、いったんイギリス[[外務省]]に所管が移され、[[1905年]]に&#039;&#039;&#039;[[植民地省]]&#039;&#039;&#039;の管轄となった。<br /> <br /> [[1900年]]から、イギリスの内陸進出に反発した[[ソマリ族]]の宗教指導者[[サイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサン|モハメド・ビン・アブドラ]](マッド・ムラーと呼ばれた)による反乱が相次ぎ、内陸からイギリス勢力を駆逐、[[1920年]]に和解した。その間に[[イタリア王国]]が内陸部の支配権を確立、[[イタリア領ソマリランド]]を成立させている。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]中の[[1940年]][[8月3日]]、17万5千人の軍勢を率いたイタリア軍(7割はアフリカ人)が[[イタリア領東アフリカ]]よりイギリス領ソマリランドに侵入、[[8月19日]]には[[ベルベラ]]が占領され、同地域は完全にイタリアの支配下に入った。その後イタリア領ソマリランド、[[エチオピア]]、[[エリトリア]]で構成されるイタリア領東アフリカとは別個の行政体として統治されるが、[[1941年]][[3月16日]]に連合軍の上陸作戦が行われ、その月のうちにイギリスが奪還した。<br /> <br /> 再びイギリスの施政下に戻ったイギリス領ソマリランドは、[[1960年]][[6月26日]]に&#039;&#039;&#039;ソマリランド国&#039;&#039;&#039;(英語:&#039;&#039;State of Somaliland&#039;&#039;)として独立する。ここに、イギリス領ソマリランドの73年間におよぶ統治が終了した。ただしこの独立は、同年[[7月1日]]に予定されていた[[イタリア信託統治領ソマリア]]の独立を見越して同地域との統合を目的としたもので、ソマリランド国の存続期間はわずか5日間だけの限定的なものであった。そして予定通り7月1日に両地域は統合され、&#039;&#039;&#039;ソマリア共和国&#039;&#039;&#039;が発足した。<br /> <br /> 1990年に[[モハメド・シアド・バーレ]]による政権が崩壊。[[1991年]][[5月]]に旧イギリス領ソマリランド地域が&#039;&#039;&#039;[[ソマリランド|ソマリランド共和国]]&#039;&#039;&#039;として再度独立した。現在のところ国際的な承認はないが、すでにソマリアとは全く別の国家として機能している。<br /> <br /> {{normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:いきりすりようそまり}}<br /> [[Category:保護国]]<br /> [[Category:ソマリアの歴史]]<br /> [[Category:エリトリアの歴史]]<br /> [[Category:旧イギリス植民地|そまりらんと]]<br /> [[Category:イギリス・イタリア関係]]<br /> [[Category:1884年に成立した国家・領域]]<br /> [[Category:1960年に廃止された国家・領域]]</div> 42.145.121.253 アイルランド王国 2018-07-12T11:08:12Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2014年8月}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = アイルランド<br /> |日本語国名 =アイルランド王国<br /> |公式国名 =&#039;&#039;&#039;Kingdom of Ireland&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;&lt;b lang=&quot;ga&quot;&gt;Ríocht na hÉireann&lt;/b&gt;<br /> |建国時期 =[[1541年]]<br /> |亡国時期 =[[1800年]]<br /> |先代1 =アイルランド卿<br /> |先旗1 =Banner of the Lordship of Ireland.svg<br /> |先代2 =<br /> |先旗2 =<br /> |先代3 =<br /> |先旗3 =<br /> |先代4 =<br /> |先旗4 =<br /> |先代5 =<br /> |先旗5 =<br /> |次代1 =グレートブリテン及びアイルランド連合王国<br /> |次旗1 =Flag of the United Kingdom.svg<br /> |次代2 =<br /> |次旗2 =<br /> |次代3 =<br /> |次旗3 =<br /> |次代4 =<br /> |次旗4 =<br /> |次代5 =<br /> |次旗5 =<br /> |国旗画像 = Royal_Standard_of_Ireland_(1542%E2%80%931801).svg<br /> |国旗リンク = [[アイルランドの国旗|国旗]]<br /> |国旗説明 = <br /> |国旗幅 = &lt;!--初期値125px--&gt;<br /> |国旗縁 = &lt;!--no と入力すると画像に縁が付かない--&gt;<br /> |国章画像 = Kingdom_Ireland.svg<br /> |国章リンク =[[アイルランドの国章|国章]]<br /> |国章説明 =<br /> |国章幅 = &lt;!--初期値85px--&gt;<br /> |標語 =<br /> |国歌名 =<br /> |国歌追記 =<br /> |位置画像 = Kingdom of Ireland 1789.svg<br /> |位置画像説明 =<br /> |公用語 =[[英語]]、[[アイルランド語]]<br /> |首都 =[[ダブリン]]<br /> |元首等肩書 =[[#歴代君主|国王]]<br /> |元首等年代始1 =[[1542年]]<br /> |元首等年代終1 =[[1547年]]<br /> |元首等氏名1 =[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]<br /> |元首等年代始2 =[[1603年]]<br /> |元首等年代終2 =[[1625年]]<br /> |元首等氏名2 =[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]<br /> |元首等年代始3 =[[1688年]]<br /> |元首等年代終3 =[[1702年]]<br /> |元首等氏名3 =[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]<br /> |元首等年代始4 =[[1760年]]<br /> |元首等年代終4 =[[1800年]]<br /> |元首等氏名4 =[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]<br /> |元首等年代始5 =<br /> |元首等年代終5 =<br /> |元首等氏名5 =<br /> |首相等肩書 =[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|総督]]<br /> |首相等年代始1 =[[1978年]]<br /> |首相等年代終1 =[[1801年]]<br /> |首相等氏名1 = [[チャールズ・コーンウォリス]]<br /> |首相等年代始2 =<br /> |首相等年代終2 =<br /> |首相等氏名2 =<br /> |首相等年代始3 =<br /> |首相等年代終3 =<br /> |首相等氏名3 =<br /> |首相等年代始4 =<br /> |首相等年代終4 =<br /> |首相等氏名4 =<br /> |首相等年代始5 =<br /> |首相等年代終5 =<br /> |首相等氏名5 =<br /> |面積測定時期1 =<br /> |面積値1 =<br /> |面積測定時期2 =<br /> |面積値2 =<br /> |面積測定時期3 =<br /> |面積値3 =<br /> |面積測定時期4 =<br /> |面積値4 =<br /> |面積測定時期5 =<br /> |面積値5 =<br /> |人口測定時期1 =<br /> |人口値1 =<br /> |人口測定時期2 =<br /> |人口値2 =<br /> |人口測定時期3 =<br /> |人口値3 =<br /> |人口測定時期4 =<br /> |人口値4 =<br /> |人口測定時期5 =<br /> |人口値5 =<br /> |変遷1 =[[議員立法]]<br /> |変遷年月日1 =[[1541年]]<br /> |変遷2 =[[イングランド共和国]]<br /> |変遷年月日2 =[[1649年]]<br /> |変遷3 =再建<br /> |変遷年月日3 =[[1660年]]<br /> |変遷4 =[[合同法 (1800年)|合同法]]<br /> |変遷年月日4 =[[1801年]][[1月1日]]<br /> |変遷5 =<br /> |変遷年月日5 =<br /> |通貨 =<br /> |時間帯 =<br /> |夏時間 =<br /> |時間帯追記 =<br /> |ccTLD =<br /> |ccTLD追記 =<br /> |国際電話番号 =<br /> |国際電話番号追記 =<br /> |注記 =<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;アイルランド王国&#039;&#039;&#039;(アイルランドおうこく、{{lang-ga-short|Ríocht na hÉireann}}、{{lang-en-short|Kingdom of Ireland}})は、[[アイルランド島]]にあった[[王国]]([[1541年]] - [[1649年]]・[[1660年]] - [[1800年]])。終始[[イングランド王国]](のち[[グレートブリテン王国]])との[[同君連合]]の下にあったが、事実的にはイングランド王による自称であった。しかし[[1694年]]以降は実効支配下に置かれた[[従属国]]となった。<br /> <br /> [[1541年]]、イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が、形式的には[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]の決議に基づき、それまでの称号であった[[アイルランド卿]](Lord of Ireland)に代えてアイルランド王(King of Ireland)を自称したのが始まりとされている。これは、[[教皇|ローマ教皇]]の宗主権(名目上のものではあったが)の否定と統治権の正当性の新たな根拠の確立、そしてアイルランドの支配体制の抜本的な改革の意思表示といえるものであった。ただし、これはイングランド側からの一方的な宣言で、当時アイルランドを実際に支配していた有力諸侯たちはこれをすぐ認めたわけではない。しかし両国の勢力格差は歴然で、以後イングランドからの入植と支配の強化が進み、アイルランドはイングランドの[[植民地]]化していった。アイルランドがイングランドの勢力下に完全に置かれたのは[[イングランド共和国|護国卿時代]](1649年 - 1660年)、[[1652年]]の[[オリバー・クロムウェル|オリヴァー・クロムウェル]]による[[クロムウェルのアイルランド侵略|遠征]]以後で、さらに[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]の[[1694年]]のアイルランド遠征によって一応の完結となったのである。<br /> <br /> ヘンリー8世以前にも[[エドワード・ブルース]]([[スコットランド]]王[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]の弟)などアイルランド[[上級王|上王]]を称する人物はいたが、ヘンリー8世以後は歴代のイングランド王(のちに[[グレートブリテン王国|グレートブリテン]]王)がアイルランド王の称号を兼ねることとなった。<br /> <br /> [[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の時代、[[1800年]]の[[合同法 (1800年)|合同法]]制定を経て、翌[[1801年]]に[[グレートブリテン王国]]と合同して&#039;&#039;&#039;[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]&#039;&#039;&#039;が成立し、アイルランド王国は消滅した。<br /> <br /> == 歴代君主 ==<br /> *[[テューダー朝]]<br /> **[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]] (兼イングランド王)<br /> **[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]] (兼イングランド王)<br /> **[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]] (兼イングランド女王)<br /> **[[エリザベス1世]] (兼イングランド女王)<br /> *[[ステュアート朝]]<br /> **[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]] (兼イングランド王、スコットランド王)<br /> **[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]] (兼イングランド王、スコットランド王)<br /> *[[護国卿]]<br /> **[[オリヴァー・クロムウェル]] (イングランド、スコットランドおよびアイルランドの護国卿)<br /> **[[リチャード・クロムウェル]] (イングランド、スコットランドおよびアイルランドの護国卿)<br /> *復興ステュアート朝<br /> **[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]] (兼イングランド王、スコットランド王)<br /> **[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]] (兼イングランド王、スコットランド王)<br /> **[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]] (兼イングランド女王、スコットランド女王)<br /> **[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]] (兼イングランド王、スコットランド王、[[オラニエ]]公、[[オランダ総督]])<br /> **[[アン (イギリス女王)|アン]] (兼イングランド女王、スコットランド女王→合同により[[グレートブリテン王国|グレートブリテン女王]])<br /> *[[ハノーヴァー朝]]<br /> **[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]] (兼グレートブリテン王、[[ハノーファー君主一覧|ハノーファー選帝侯]])<br /> **[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]] (兼グレートブリテン王、ハノーファー選帝侯)<br /> **[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]] (兼グレートブリテン王、ハノーファー選帝侯)<br /> **:→グレートブリテン及びアイルランド連合王国国王へ<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[アイルランドの歴史]]<br /> * [[同君連合]]<br /> * [[イギリス君主一覧]]<br /> * [[イギリス王室]]<br /> <br /> {{アイルランド王}}<br /> {{アイルランド関連の項目}}<br /> {{Ireland-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:あいるらんとおうこく}}<br /> [[Category:アイルランド王国|*]]<br /> [[Category:アイルランドの歴史]]<br /> [[Category:イングランドの歴史]]<br /> [[Category:かつてブリテン諸島に存在した国家]]<br /> [[Category:英愛関係]]<br /> [[Category:ヘンリー8世]]<br /> [[Category:1801年に廃止された国家・領域]]</div> 42.145.121.253 ライプツィヒの戦い 2018-07-09T15:07:32Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{複数の問題<br /> |脚注の不足=2012年2月23日 (木) 03:51<br /> |出典の明記=2016年3月10日 (木) 12:42 (UTC)<br /> }}<br /> {{Battlebox|<br /> |battle_name= ライプツィヒの戦い<br /> |campaign=<br /> |image=[[ファイル:Karte_Voelkerschlacht_bei_Leipzig_18_Oktober_1813.png|300px|]]<br /> |caption=1813年10月18日の戦況<br /> |conflict=[[ナポレオン戦争]]<br /> |date=[[1813年]][[10月16日]] - [[10月19日]]<br /> |place=[[ザクセン王国]]、[[ライプツィヒ]]<br /> |result=連合軍の勝利<br /> |combatant1={{FRA1804}}&lt;BR /&gt;{{POL1807}}&lt;BR /&gt; [[ファイル:Flag of the Kingdom of Naples (1811).svg|border|25px]] [[ナポリ王国]]&lt;BR /&gt;[[ライン同盟]]<br /> |combatant2={{PRU1803}}&lt;BR /&gt;{{AUT1804}}&lt;BR /&gt;{{RUS1883}}&lt;BR /&gt;{{SWE}}<br /> |commander1=[[ファイル:Imperial Standard of Napoléon I.svg|20px]] [[ナポレオン・ボナパルト]]&lt;BR /&gt;{{flagicon|FRA}} [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]&lt;BR /&gt;{{flagicon|FRA}} [[ミシェル・ネイ]]&lt;BR /&gt;{{flagicon|FRA}} [[ジャック・マクドナル]]&lt;BR /&gt;{{flagicon|FRA}} [[オーギュスト・マルモン]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of the Kingdom of Naples (1811).svg|border|25px]] [[ジョアシャン・ミュラ]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of the Duchy of Warsaw.svg|border|25px]] [[ユゼフ・ポニャトフスキ]]{{KIA}}<br /> <br /> |commander2={{flagicon|SWE}} [[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|border|25px]] {{仮リンク|シュヴァルツェンベルク大公カール・フィリップ|de|Karl Philipp zu Schwarzenberg|label=シュヴァルツェンベルク}}&lt;BR /&gt;[[File:Flag_of_the_Kingdom_of_Prussia_(1803-1892).svg|border|25px]] [[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]&lt;BR /&gt;<br /> {{flagicon|RUS}} [[ミハイル・バルクライ・ド・トーリ|バルクライ]]&lt;BR /&gt;{{flagicon|RUS}} [[:ru:Беннигсен, Леонтий Леонтьевич|ベニグセン]]<br /> |strength1=195,000&lt;BR /&gt;野砲 700門<br /> |strength2=365,000&lt;BR /&gt;野砲 1,500門<br /> |casualties1=死傷者 38,000&lt;BR /&gt;捕虜 30,000&lt;BR /&gt;ライン同盟諸邦軍の死傷者 5,000<br /> |casualties2=死傷者 54,000<br /> |}}<br /> [[ファイル:Napoleon i Poniatowski Lipsk.jpg|thumb|right|250px|「ライプツィヒでのナポレオンと[[ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ|ポニャトフスキ]]」[[ジャニュアリー・ズコッホドロスキ]]画]]<br /> [[ファイル:Battle Of The Nations-Monument.jpg|thumb|right|250px|ライプツィヒの「諸国民の戦い記念碑」]]<br /> &#039;&#039;&#039;ライプツィヒの戦い&#039;&#039;&#039;(ライプツィヒのたたかい、英:Battle of Leipzig, 仏:Bataille de Leipzig, [[1813年]][[10月16日]] - [[10月19日]])は、[[ナポレオン戦争]]における最大規模の戦闘。&#039;&#039;&#039;諸国民の戦い&#039;&#039;&#039;(しょこくみんのたたかい、独:Völkerschlacht, 英:Battle of the Nations)とも呼ばれる。[[ドイツ]]東部の[[ライプツィヒ]](当時の[[ザクセン王国]]領)で、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]麾下の[[フランス第一帝政|フランス]]軍19万と、[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[ロシア帝国]]・[[オーストリア帝国]]・[[スウェーデン]]の連合軍36万の間で戦いが行われた。<br /> <br /> 3日間の激戦の末、圧倒的な兵力差の前にフランス軍は敗北した。フランス軍では[[ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ|ポニャトフスキ]]が戦死、4万以上の死傷者を出した。一方、連合軍も5万以上の死傷者を出した。戦闘の結果、ナポレオンのドイツ支配が終わった。&lt;!-- なにが皮肉なのか説明がありません。単にフランス繋がりだけで皮肉という表現は避けましょう。皮肉にも--&gt;連合軍の総司令官は、元フランス軍元帥の[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット]](後のスウェーデン王カール14世ヨハン)だった。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> [[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]、[[半島戦争]]でのナポレオンの敗北を受けて、反フランスの[[第六次対仏大同盟]]が結成され、[[イギリス帝国|イギリス]]、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]、[[オーストリア帝国|オーストリア]]、[[スウェーデン]]と[[ドイツ]]のいくつかの領邦が参加した。ライプツィヒの戦いが開始されるまでにライン川以東に配置されていたロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデンその他の連合軍の兵力は100万を超えていたと推測される。それに対して、ナポレオンの兵力は減少し数十万ほどであった。<br /> <br /> ナポレオンはドイツを再び手中におさめようと欲しており、5月2日の{{仮リンク|リュッツェンの戦い (1813年)|en|Battle of Lützen (1813)|label=リュッツェンの戦い}}と5月20日から翌21日のロシア・プロイセン連合と戦った{{仮リンク|バウツェンの戦い|en|Battle of Bautzen}}に勝利していた。その結果、つかの間の休戦が訪れたが、長くは続かなかった。[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]]、[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]そして{{仮リンク|シュヴァルツェンベルク大公カール・フィリップ|de|Karl Philipp zu Schwarzenberg|label=シュヴァルツェンベルク}}指揮下の連合軍は&#039;&#039;&#039;トラーヒェンブルク・プラン&#039;&#039;&#039;を採用し、8月23日の{{仮リンク|グロスベーレンの戦い|en|Battle of Großbeeren}}、8月26日の{{仮リンク|カッツバッハの戦い|en|Battle of Katzbach}}、さらに9月6日の{{仮リンク|デネヴィッツの戦い|en|Battle of Dennewitz}}に相次いで勝利した。これはナポレオン本隊との正面衝突を避け、部下の部隊との会戦を志向するという戦略であった([[分進合撃]])。この作戦を立案したのは、ベルナドットであるとも、オーストリア軍参謀長の[[ヨーゼフ・ラデツキー]]とも、プロイセン軍参謀長の[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ]]とも言われている。なお、8月26 - 27日の[[ドレスデンの戦い]]ではナポレオンの本隊が参加してフランス軍が勝利を収めているが、追撃に失敗、8月30日の{{仮リンク|クルムの戦い|en|Battle of Kulm}}において追撃の一翼を担った[[ドミニク・ジョゼフ・レネ・ヴァンダム|ヴァンダム]]の軍団が包囲され、手ひどい敗北を被ってもいる。<br /> <br /> [[ニコラ・ウディノ|ウディノ]]率いる12万の兵力による[[ベルリン]]攻略作戦がグロスベーレンの戦いで失敗したことを契機とし、ナポレオンは北方からの攻勢に備え西方に撤退せざるをえなくなった。9月下旬に[[エルベ川]]を渡り、約50km離れた[[ライプツィヒ]]周辺において、補給路の確保と連合軍との会戦を期して軍を再編した。ナポレオンはタウヒャからシュテッツリッツ(ナポレオンが陣取った場所である)を通りリンデナウ南西の彎曲した形に兵力を集中させた(地図参照)。プロイセン軍はヴァルテンブルクに進軍し、オーストリア軍とロシア軍は[[ドレスデン]]から、スウェーデン軍は北方からライプツィヒへ進撃した。<br /> <br /> == 経過 ==<br /> 当初ライプツィヒに集結したフランス軍の兵力は17万7000、連合軍は25万7000であった。戦闘は10月16日に始まった。南から[[バルクライ・ド・トーリ|バルクライ]]率いるロシア軍7万8000、北からブリュッヘル率いるプロイセン軍5万4000が攻撃をかけ、ナポレオンの直属部隊も南方で反撃した。連合軍による攻撃の戦果はわずかしかなく、すぐに退却を強いられた。一方でナポレオンの部隊も連合軍の戦列を突破できず行き詰まった。<br /> <br /> 17日は両軍ともに増援が来着し、これを配備していたため、小競り合いが起きただけであった。フランス軍には1万8000しか増援がなく、一方で連合軍には10万以上の増援が来着し、著しく増強された。<br /> <br /> 18日、連合軍は総攻撃を開始した。9時間以上に及ぶ戦いにおいて、両軍とも大量の死傷者を出した。フランス軍は勇敢に抵抗したが、圧倒的な戦力差の前に戦線を支えきれず、ザクセン王国軍の一部も離反した。ナポレオンは退却を決断した。<br /> <br /> 19日、フランス軍は[[白エルスター川]]を渡って退却した。退却は順調に進行したが、途中で橋が破壊されたため、殿軍として残っていた[[ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ]](最後の[[ポーランド王]][[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]の甥)が戦死した。彼は戦死の前日に[[元帥杖]]を受け取ったばかりであった。<br /> <br /> == 影響 ==<br /> フランス軍の死傷者は3万8000に及び、3万が捕虜となった。ライン同盟諸邦軍も死傷者5000を出した。連合軍の死傷者は5万4000に及んだ。戦闘の結果、[[フランス第一帝政|フランス帝国]]のライン川以東での覇権は終焉した。[[ライン同盟]]は崩壊し、多くのドイツ諸邦が連合軍に加入することになる。<br /> <br /> 今日、ライプツィヒ市での戦闘のコースはモニュメントで示されている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist}}<br /> {{節スタブ|1=脚注形式での出典の明記|date=2016年3月10日 (木) 12:42 (UTC)}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> &lt;!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい--&gt;<br /> {{節スタブ|date=2016年3月10日 (木) 12:42 (UTC)}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Battle of Leipzig}}<br /> {{AmCyc Poster|Leipsic}}<br /> * [https://web.archive.org/web/20090810034815/http://web2.airmail.net/napoleon/Leipzig_battle.htm Leipzig 1813 - &quot;The Battle of the Nations&quot; was the biggest battle of Napoleonic Wars]<br /> * [http://web2.airmail.net/napoleon/French_Order_of_Battle_LEIPZIG_1.htm French order of battle at Leipzig:II-XI Army Corps]<br /> * [http://web2.airmail.net/napoleon/French_Order_of_Battle_LEIPZIG_2.htm French order of battle at Leipzig:Cavalry Reserve and Imperial Guard]<br /> * [http://www.hexwar.com Wargame about the battle of nations]<br /> <br /> {{ナポレオン戦争}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:らいふついひのたたかい}}<br /> [[Category:ナポレオン戦争の戦闘]]<br /> [[Category:プロイセンの戦闘]]<br /> [[Category:ロシア帝国の戦闘]]<br /> [[Category:ハプスブルク帝国の戦闘]]<br /> [[Category:スウェーデンの戦闘]]<br /> [[Category:ライプツィヒの歴史]]<br /> [[Category:ザクセン王国]]<br /> [[Category:カール14世ヨハン]]<br /> [[Category:1813年の戦闘]]<br /> [[Category:1813年のフランス]]<br /> [[Category:1813年のドイツ]]<br /> [[Category:1813年のオーストリア]]</div> 42.145.121.253 ウラジーミル・レーニン 2018-07-08T09:11:38Z <p>42.145.121.253: 42.145.121.253 (会話) による ID:69159877 の版を取り消し 私のミスでした。すいません</p> <hr /> <div>{{Redirect|レーニン}}<br /> {{Infobox 革命家<br /> |名前=ウラジーミル・イリイチ・レーニン&lt;br /&gt;&lt;small&gt;{{lang|ru|Владимир Ильич Ленин}}&lt;/small&gt;<br /> |画像=[[File:Lenin 1920.jpg|200px]]<br /> |説明=1920年のレーニン<br /> |通称=レーニン<br /> |生年={{生年月日と年齢|1870|4|22|死去}}<br /> |生地={{RUS1858}}{{仮リンク|シンビルスク県|ru|Симбирская губерния}}シンビルスク郡[[ウリヤノフスク|シンビルスク]]<br /> |没年={{死亡年月日と没年齢|1870|4|22|1924|1|21}}<br /> |没地={{SSR1923}}&lt;br&gt;{{flagicon2|Russian SFSR|1918}} [[ロシアSFSR|ロシア共和国]] [[モスクワ県]]ポドリスク郡[[ゴールキ・レーニンスキエ|ゴールキ]]<br /> |思想=[[共産主義]]<br /> |活動=[[十月革命]]&lt;br /&gt;[[コミンテルン]]創設<br /> |組織=[[ロシア社会民主労働党]]&lt;br /&gt;[[ソビエト連邦共産党|ロシア共産党(ボリシェヴィキ)]])<br /> |影響を受けたもの=[[カール・マルクス]]&lt;br /&gt;[[カール・カウツキー]]&lt;br /&gt;[[ゲオルギー・プレハーノフ]]<br /> |廟=[[レーニン廟]]<br /> }}<br /> {{試聴<br /> |filename =Lenin - What Is Soviet Power.ogg<br /> |title =File:Lenin - What Is Soviet Power.ogg<br /> |description =レーニンの演説<br /> }}<br /> [[File:Lenin head transparent.png|thumb|200px|ソ連のプロパガンダにおけるレーニンの横顔]]<br /> &#039;&#039;&#039;ウラジーミル・イリイチ・レーニン&#039;&#039;&#039;({{lang-ru|Влади́мир Ильи́ч Ле́нин}}&lt;!--Vladimir Ilyich Lenin, Wladimir Iljitsch Lenin(主に独)など--&gt;、[[1870年]][[4月22日]]&lt;!--([[ユリウス暦]]では4月10日)--&gt; – [[1924年]][[1月21日]])は、ロシアの[[革命家]]、[[政治家]]。[[ロシア社会民主労働党]]([[ボリシェヴィキ]]、のちに共産党と改名)の指導者として活動し、[[十月革命]]を成功させ、革命政府において[[人民委員会議]]議長を務めた。また、[[第二インターナショナル]]に代わる共産主義政党の国際組織として[[コミンテルン]]の創設を主導した。政治、経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、その思想は[[レーニン主義]]として継承された。<br /> <br /> 本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ({{lang|ru|Влади́мир Ильи́ч Улья́нов}})であり、レーニンは筆名。多くの著作でエヌ・レーニン({{lang|ru|Н. Ленин}})と署名していた。本人が「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」と名乗った例はない。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 生い立ち ===<br /> [[ファイル:Lenin-circa-1887.jpg|thumb|left|200px|[[1887年]]のレーニン]]<br /> {{USSR}}<br /> 1870年、[[ヴォルガ川|ヴォルガ河]]畔のシンビルスク(現[[ウリヤノフスク]])にて、[[アストラハン]]出身の物理学者[[イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフ]]と{{仮リンク|マリア・アレクサンドロヴナ・ウリヤノヴァ|en|Maria Alexandrovna Ulyanova|ru|Ульянова, Мария Александровна|label=マリア・アレクサンドロヴナ・ブランク}}の間に生まれる。父イリヤはアジア系の血を引いており、母マリアはドイツ人、スウェーデン人、ユダヤ人の血を引いていた。しかし両親は子どもたちをロシア人として育てた&lt;ref&gt;ロバート・サーヴィス『レーニン』上巻、岩波書店、2002年、第1章&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 父イリヤは物理学者としてだけでなく、著名な教育者(ドヴォリャンスキー学院の[[物理]]と[[数学]]の上席教師で、[[非ユークリッド幾何学]]の発見者の一人である[[ニコライ・ロバチェフスキー]]とは大学時代からの親友だった)でもあり、その学者としての活躍を皇帝に評価されて[[1882年]]に貴族に列せられた地元きっての名士だった。当然、息子のレーニンも貴族に属していた訳であるが、父は貴族の地位に甘んじず奴隷や貧困といった[[階級]]問題を息子達に伝える努力を惜しまなかった。父の影響により生じたレーニンら子供達の価値観はより貧しい階級や異民族への同情と、階級制度への嫌悪を育む事になる。事実、1歳で早世した次女オルガ・イリイチナ・ウリヤノヴァ、19歳の若さで早世した三女オルガ・イリイチナ・ウリヤノヴァ(姉と同名)、生まれた年に亡くなった三男ニコライ・イリイチ・ウリヤノフの3人の子供達を除けば、レーニンを含むウリヤノフ兄弟姉妹5人全員が[[革命家]]の道を選んでいる。<br /> <br /> === 青年時代 ===<br /> 高名な学者の子に相応しく兄弟は成績優秀だったが、とりわけレーニンは神童の誉れが高かった。9歳の時にシムビルスク古典中高等学校に進学すると、全学科全学年を通じて首席で通して卒業時に[[金メダル]]を授与されている。その後、レーニンは父の母校である[[カザン大学]]に入学して[[ラテン語]]・[[ギリシャ語]]などの古典言語を専攻したが、同時期にレーニンの身に相次いで親族の不幸が襲った。1886年1月に敬愛する父イリヤ・ウリヤノフが脳出血で倒れて亡くなり、翌年には[[ペテルブルク大学]]理学部に在籍していた兄の[[アレクサンドル・ウリヤノフ]]が、[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル3世]]の暗殺計画に加わった容疑で[[絞首刑]]にされたのである。同じく疑いが掛けられた姉の[[:en:Anna_Ulyanova|アンナ・ウリヤノヴァ]]は追放の処分を受けた。<br /> <br /> レーニンは兄の受難に対する見解をほとんど史料に残していない。しかしカザン大学時代に[[カール・マルクス]]の著作に触れ、彼の唱える理想に傾倒したことは、レーニンの反政府思想の大きな原動力となった。レーニンはカザン大学でも勢いを得ていた[[学生運動]]に参加し、1887年12月に暴動行為により警察に拘束され、大学から退学処分を受けた。<br /> <br /> 1891年、レーニンは学外学生として[[サンクトペテルブルク大学]]の試験を受け、全科目で満点をとった。試験官は彼に修了証明書を与えるよう推薦した。同年11月には弁護士を開業する資格を得た&lt;ref&gt;ロバート・サーヴィス『レーニン』上巻、岩波書店、2002年、114ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 政治家へ ===<br /> [[ファイル:Lenin-1895-mugshot.jpg|thumb|left|150px|[[1895年]]のレーニン]]<br /> [[マルクス主義]]運動家として活動しはじめたレーニンは、[[1895年]]に労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成するが、[[12月7日]]に逮捕・投獄され、[[1897年]]に[[シベリア]]流刑、エニセイ県[[ミヌシンスク]]の近くのシュシェンスコエ村に追放された。 <br /> <br /> [[1898年]]7月、彼は[[社会主義]]活動家[[ナデジダ・クルプスカヤ]]と結婚した。[[1899年]]4月に『ロシアにおける資本主義の発達』を出版。[[1900年]]に刑期が終了し7月にスイスへ亡命した。<br /> <br /> === ロシア社会民主労働党の再建と分裂 ===<br /> レーニンが流刑地にいた頃、ロシアの社会民主主義者の間では経済主義と呼ばれる考え方が影響力を拡大していた。[[ツァーリズム]]を打倒するための政治闘争より労働者の経済的地位の向上を目指す経済闘争を重視するものであった。レーニンはこの経済主義に反対し、広く支持を得た。刑期終了後の[[1900年]]12月、彼は同じく経済主義に反対して政治闘争を重視する活動家とともに政治新聞『[[イスクラ]]』を創刊した。編集局のメンバーは彼のほかに[[ユーリー・マルトフ|マルトフ]]、[[アレクサンドル・ポトレソフ|ポトレソフ]]、[[ゲオルギー・プレハーノフ|プレハーノフ]]、[[パーヴェル・アクセリロード|アクセリロード]]、[[ヴェーラ・ザスーリチ|ザスーリチ]]であった。この新聞を中心とするグループはイスクラ派と呼ばれた。それまでに多数の偽名を用いていたが、[[1901年]]12月に初めて「レーニン」(レナ川の人)という名を使用している。流刑地の近くを流れているレナ川から取ったとされる。<br /> <br /> [[1902年]]、レーニンは経済主義批判を主な目的として『何をなすべきか?』を書いた。労働者の自然成長的な経済闘争はそれ自体としてはブルジョア・イデオロギーを超えない、と指摘し、社会主義を目指す政治闘争を主張したものである。彼はその際に「社会主義意識は、[[プロレタリアート]]の階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」という[[カール・カウツキー|カウツキー]]の言葉を引用した。この考え方は後に外部注入論と呼ばれるようになる。<br /> <br /> イスクラ派のイニシアティブにより、[[1903年]]に[[ロシア社会民主労働党]] (&#039;&#039;{{lang|ru|Российская Социал-Демократическая Рабочая Партия}} = {{lang|ru|РСДРП}}, RSDRP&#039;&#039;) 第2回党大会が開かれた。この大会は[[1898年]][[3月14日]]に結成されたまま弾圧によって機能停止していた同党を再建した。しかしイスクラ派は組織論や指導部の構成をめぐって分裂し、再建されたばかりの党は[[ボリシェヴィキ]](多数派)と[[メンシェヴィキ]](少数派)という二つの分派に分かれた。「イスクラ」編集局の6名のうち、レーニン以外の5名はメンシェヴィキへ移ったため、レーニンはボリシェヴィキの突出した指導者となった。<br /> <br /> === 第一革命と労農民主独裁論 ===<br /> [[1905年]]に[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]が起こり、[[ロシア第一革命]]が始まると、レーニンは革命のスローガンとして「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」を提示した(『[[民主主義革命における社会民主党の二つの戦術]]』)。革命の性格をブルジョア革命としながらも、自由主義ブルジョアジーがその推進力となることは否定し、プロレタリアートと農民(小ブルジョアジー)がブルジョア革命を遂行するものと考えた。<br /> <br /> === 帝国主義戦争と革命的祖国敗北主義 ===<br /> [[1914年]]8月に始まった[[第一次世界大戦]]は[[帝国主義戦争]]と規定。交戦国のいずれも帝国主義国であり、支持すべきでない、という立場を取った。[[第二インターナショナル]]を形成していた各国の社会民主党がそれぞれ自国政府を支持したのとは逆に、革命を容易にするという観点から自国政府の敗北を主張した([[革命的祖国敗北主義]] )。この考え方を表したボリシェヴィキのスローガンが「帝国主義戦争を内乱へ転化せよ」である。<br /> <br /> [[1916年]]には[[チューリヒ]]で帝国主義戦争の経済的基礎を分析し、『[[帝国主義論]]』を出版して、資本主義は自由競争の段階から独占の段階へと転化したこと、列強諸国による植民地の奪い合いが激しくなっていることなどを指摘した。また、帝国主義を資本主義の最高の発展段階、生産が社会化する社会主義革命の準備段階と歴史的に位置づけた。<br /> <br /> === 二月革命から十月革命へ ===<br /> [[1917年]]2月にロシアで[[2月革命_(1917年)|二月革命]]が勃発すると、レーニンはドイツ政府との協定によって{{仮リンク|封印列車|ru|Пломбированный вагон}}で[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]に戻り『[[四月テーゼ]]』を公表した。臨時政府をブルジョアジーの権力、ソヴィエトをプロレタリアートの権力と見なし、前者から後者への全面的な権力の移行を主張するものだった。<br /> <br /> 同年7月にペトログラードで兵士たちの武装デモ ([[七月蜂起]]) が発生したが、その武装デモに関わるボリシェヴィキの求心力低下を狙って、[[ロシア臨時政府]]が「レーニンはドイツのスパイである」との情報をペトログラード駐留部隊の前で公表した為、レーニン及びボリシェヴィキの支持は急落し、武装デモ側の部隊は臨時政府側の部隊に次々と武装解除されて、武装デモは鎮圧された。臨時政府により、多くのボリシェヴィキの幹部たちが逮捕された。レーニンは[[フィンランド]]への逃亡に成功したが、ボリシェヴィキの勢力は一時的に大きく後退することになった。その後8月に右派の[[ラーヴル・コルニーロフ]]将軍の反乱が起こると臨時政府の側に立った。その際、臨時政府がボリシェヴィキ幹部の釈放に応じた為、ボリシェヴィキの党勢を急速に挽回することが出来た。反乱との闘争を通じてボリシェヴィキは支持を拡大し、ペトログラードとモスクワのソビエトで多数派を占めることができた為、レーニンはボリシェヴィキ内で武装蜂起による権力奪取を主張し、反対するジノヴィエフやカーメネフを批判した。また、トロツキーがソビエト大会にあわせた蜂起を主張したことについても、絶好のチャンスを逃してしまうことを恐れ、ボリシェヴィキ単独での即時蜂起を主張した。<br /> <br /> 彼が十月革命の直前に書き、革命直後に出版したのが『[[国家と革命]]』である。国家を階級支配の機関とみる国家観に立ち、既存の国家機構は奪取するだけでなく粉砕して新しい国家機構をつくらねばならない、と主張することにより、臨時政府からソヴィエトへの権力移行を理論的に基礎づけようとするものだった。また、レーニンは本書で「いずれ国家は死滅する」と無国家社会への展望を記している。<br /> <br /> === 権力の獲得 ===<br /> [[1917年]][[11月7日]]、レーニンはペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエト軍事革命委員会の名で声明を発表し、「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエトの機関−ペトログラードのプロレタリアートおよび守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会−の手にうつった」と宣言した。翌日、全ロシア労働者・兵士代表ソヴィエト第二回大会において[[平和に関する布告]]を発表し、第一次世界大戦の全ての交戦国に無併合・無賠償の講和を提議。同時に土地の私有を廃止する[[土地に関する布告]]や世界初の[[八時間労働制]]の法制化を発表した。同大会では臨時政府として[[人民委員会議]]が設立され、レーニンは初代人民委員会議議長に選ばれた。<br /> <br /> 一方、ソヴィエト政府は政権発足と同時にブルジョア新聞を閉鎖し、[[12月20日]]には秘密警察として反革命・投機・サボタージュ取締り非常委員会(全露非常委員会・БЧК [[チェーカー]])を創設して反政府派の弾圧を始めた。翌年[[1月19日]]にはボリシェヴィキ自身が開催を求めていたはずの憲法制定会議を開会直後に解散させた。<br /> <br /> === ブレスト=リトフスク条約 ===<br /> 無併合・無賠償の講和は全ての交戦国に拒否されたが、[[ドイツ帝国]]との講和交渉が1917年12月に始まり、ドイツは広範な領土の併合と多額の賠償金を要求した。帝政時代の債務は帳消しにしていたレーニンだが、この要求を受け入れることを主張した。[[ニコライ・ブハーリン]]のような強硬派のボリシェヴィキ指導者はドイツで革命を誘発する手段として戦争の継続を主張した。講和交渉を担当した[[レフ・トロツキー]]は中間の立場に立った。講和交渉の決裂後ドイツがロシア国内に侵入を始め、ソヴィエト政府は国土の西部地域の多くを失った。その結果レーニンの主張は多くの支持を得、最終的に不利な条件で[[1918年]]3月に[[ブレスト=リトフスク条約]]に署名することとなった。しかしこの結果、当時ボリシェヴィキと連立政権を組んでいた[[社会革命党]]左派(左翼エスエル)は政権から離脱し、同年7月6日、駐露ドイツ大使{{仮リンク|ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ|de|Wilhelm von Mirbach-Harff}}伯爵暗殺を皮切りに反ボリシェヴィキ蜂起を起こす。<br /> <br /> 戦争から手を引いたソヴィエト政権は首都を[[モスクワ]]に遷都、ボリシェヴィキはその名を[[ソビエト連邦共産党|ロシア共産党]]と改め、7月に開催した{{仮リンク|第5回全ロシア・ソヴィエト会議|ru|V Всероссийский съезд Советов|en|All-Russian Congress of Soviets#Fifth Congress}}において{{仮リンク|ソヴィエト憲法 (1918年)|ru|Конституция РСФСР 1918 года|en|Russian Constitution of 1918|label=ソヴィエト憲法}}を制定。左翼エスエル蜂起を受け共産党以外の政党を禁止した。<br /> <br /> === 暗殺未遂事件 ===<br /> {{main|{{仮リンク|レーニン暗殺未遂事件|ru|Покушения на Ленина}}}}<br /> [[1918年]][[8月30日]]、レーニンが会合での演説を終え自動車に乗ろうとしたとき、3発の銃声と共にレーニンは倒れた。そのうちの2発が彼の肩と肺に命中した。レーニンは自分のアパートへ運ばれ、他の暗殺者の存在を恐れ病院への搬送を拒絶した。医者が呼び出されたが銃弾の摘出は危険すぎたので手術は行われなかった。<br /> <br /> なお、この時現場にいた[[社会革命党|エスエル党]]員{{仮リンク|ファーニャ・カプラン|ru|Каплан, Фанни Ефимовна|en|Fanni Kaplan}}が逮捕され、即決裁判の後[[9月4日]]に処刑されたが、彼女は既に失明同然だったことなどから、犯人は別人だった可能性がある。いずれにしても、この事件はミルバッハ暗殺と合わせて右翼エスエルを弾圧するきっかけになった。<br /> <br /> また、「報復」と称して事件とは無関係の512人もの旧貴族や臨時政府の閣僚を含む政治家、軍人が、ただ帝政派であるという理由だけで逮捕、処刑された(→[[赤色テロ]])。<br /> <br /> === コミンテルンの創設 ===<br /> 第二インターナショナルは、加盟する社会民主主義政党が第一次世界大戦においてそれぞれ自国政府を支持したために瓦解した。再建も試みられたが、ボリシェヴィキは独自に[[1919年]]に[[コミンテルン]]を創設した。レーニンは社会民主主義政党とのどんな協力も拒否する共産主義政党を「『左翼』小児病」と呼んで批判するとともに、社会民主主義政党が旧来のイデオロギーを捨てずにコミンテルンに加盟しようとする動きを警戒してコミンテルンの加入条件を厳格化した。また、[[1920年]]のコミンテルン第2回大会に対して「民族・植民地問題に関するテーゼ」を執筆し、従属民族や植民地の解放と共産主義革命の結合を図った。<br /> <br /> === 戦時共産主義からネップへ ===<br /> 革命後の列強による干渉戦争や[[ロシア内戦|内戦]]により、ボリシェヴィキ政権は戦時体制を強いられた([[戦時共産主義]])。企業は国有化され、農民からは余剰穀物が徴発された。内戦終了後、レーニンは新経済政策([[ネップ]])と呼ばれる新しい政策を打ちだした。余剰穀物の徴発に代えて食糧税を導入し、税を納めた後の残りは市場で自由に処分することを認めた。一定の範囲内で私的商業も認めた。レーニンはこれを労農同盟の再建として解説する一方、ロシアの現状では[[国家資本主義]]も一歩前進だと主張した&lt;ref&gt;『レーニン全集』第32巻355頁、大月書店&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 正教会弾圧 ===<br /> レーニンは少年時代には既に、権力と癒着し腐敗していた[[ロシア正教会]]に幻滅していた。マルクス主義的無神論者であり、正教会を反革命の温床とみなしていた。[[1922年]]3月、[[イヴァノヴォ州]][[シューヤ]]で発生した教会財産接収に反対するデモが暴徒化した。死者まで招いたこの事態に憤慨し、[[3月19日]]に[[ロシア正教会]]の弾圧を指示、『これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない』と厳命した&lt;ref name=&quot;iwakami&quot;&gt;[http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm 中沢新一「レーニン礼賛」の驚くべき虚構 ] [[岩上安身]]公式サイト「WEB IWAKAMI」に掲載。「[[諸君!]]」 1997年1月号掲載&lt;/ref&gt;。これにより多くの[[主教]]達を処刑し、教会資産の没収が強行された。同様の弾圧は、[[ウクライナ正教会]]、[[グルジア正教会]]など、ロシア正教会以外の[[正教会]]や[[イスラム教]]のモスクに対しても行われた。[[チェーカー]]を動かし、聖職者の処刑と教会資産の没収が強行されていったのである。以降[[グラスノスチ]]まで、[[イコン]]の所持は禁止された。レーニンは後に、「宗教は毒酒である」と言葉を残している。<br /> <br /> === ソ連邦の形成とグルジア問題 ===<br /> {{main|グルジア問題}}<br /> レーニンは[[1921年]]末から健康状態を悪化させ、[[1922年]]には何度か発作を起こして職務から離れた。その間、各ソヴィエト共和国をどのように構成するかが問題となり、とりわけ[[グルジア]]をめぐって党内に対立が起こっていた。1921年2月に[[グルジア社会主義ソビエト共和国]]が成立して以来、ロシア共産党中央委員会カフカース局がグルジアを[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国|アゼルバイジャン]]・[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国|アルメニア]]とともに[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国|ザカフカース連邦]]として構成しようとする計画を進めたのに対し、グルジア共産党がグルジアの独立性を主張して抵抗していた。<br /> <br /> 1922年8月、[[ヨシフ・スターリン]]は、各ソヴィエト共和国が自治共和国としてロシア連邦共和国に加入する、という「自治化」案を作成した。レーニンはこれを大ロシア排外主義として批判し、ロシア連邦共和国は他の共和国とともにソヴィエト同盟に加入する、という代案を出した。スターリンはレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、修正案を受け入れ、同年10月のロシア共産党中央委員会総会ではレーニンの代案にそった決議を通過させた。<br /> <br /> しかしこの決議ではグルジアはザカフカーズ連邦を通じてソヴィエト同盟に加入することになっていたため、グルジア共産党は拒否し、中央委員会のメンバーが総辞職した。11月にはロシア共産党の[[グリゴリー・オルジョニキーゼ|オルジョニキーゼ]]が独立派のグルジア共産党員を殴るという事件が起こる。病床にあったレーニンはこれを重大なことと受け止め、オルジョニキーゼやその後ろだてとなっていたスターリンを非難した。[[12月31日]]に口述筆記された覚え書きで、彼は「抑圧民族、すなわち、いわゆる『強大』民族にとっての国際主義とは、諸民族の形式的平等をまもるだけでなく、生活のうちに現実に生じている不平等にたいする抑圧民族、大民族のつぐないとなるような、不平等をしのぶことでなければならない」と記した。<br /> [[ファイル:Lenin_and_stalin.jpg|thumb|200px|right|1922年、スターリンと]]<br /> この問題をきっかけにレーニンとスターリンの関係は極度に悪化し、レーニンは翌[[1923年]][[1月4日]]の「大会への手紙」(いわゆる『[[:w:Lenin&#039;s Testament|レーニンの遺書]]』)の覚え書きでスターリンの書記長職からの解任を提案するに至った。[[3月5日]]にはトロツキーにグルジア問題への取り組みを依頼し(トロツキーは病気を理由に拒否)、[[3月6日]]にグルジアの反対派に向けて「あなたがたのために覚え書きと演説を準備中です」という手紙を口述した。しかし[[3月10日]]、彼は発作に襲われて右半身が麻痺し、会話能力と共に筆記能力を永久に失った。<br /> <br /> === 死去 ===<br /> [[ファイル:Lenin-last-photo.jpg|thumb|200px|right|生前最後に撮られた写真(1923年夏)。右手が後遺症のために内側に曲がっている]]<br /> レーニンは暗殺未遂の後遺症、戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、[[1922年]]3月頃から[[一過性脳虚血発作]]とみられる症状が出始める。5月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。8月には一度復帰するものの11月には演説がうまくできなくなって再び休養を命じられる。さらに12月の2度目の発作の後に病状が急速に悪化し、[[ソ連共産党政治局|政治局]]は彼に静養を命じた。スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった。<br /> <br /> モスクワ郊外のゴールキ(現在の[[ゴールキ・レーニンスキエ]])の別荘でレーニンは静養生活に入った。レーニンを診察するために、国外から{{仮リンク|オトフリート・フェルスター|en|Otfrid Foerster}}、{{仮リンク|ゲオルク・クレンペラー|de|Georg Klemperer}}らの著名な脳医学者が高額の報酬で雇われ、鎮静剤として[[臭化カリウム]]などが投与された。レーニンは、症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことはなく、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された。[[ナデジダ・クルプスカヤ|クルプスカヤ]]がスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の[[1923年]][[3月6日]]に3度目の発作が起きるとレーニンは[[失語症]]のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、[[1924年]][[1月20日]]に4度目の発作を起こして翌[[1月21日]]に死去した。<br /> <br /> レーニンの死因は公式には[[大脳]]の[[アテローム]]性[[動脈硬化]]症に伴う[[脳梗塞]]とされている。彼を診察した27人の内科医のうち、検死報告書に署名をしたのは8人だった。このことは[[梅毒]]罹患説の根拠となったが、実際は署名をしなかった医師は単に他の死因を主張しただけであって、結局この種の説を唱えた医師は1人のみだった。フェルスターらが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、[[椎骨動脈]]、[[脳底動脈]]、[[内頸動脈]]、[[前大脳動脈]]、頭蓋内左[[頸動脈]]、左[[中大脳動脈|シルビウス動脈]]の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの[[循環器]]にも強い動脈硬化が確認されている&lt;ref&gt;[[小長谷正明]]『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足―神経内科からみた20世紀』、[[中公新書]]、1999年 P.41-46&lt;/ref&gt;。なお、レーニンの父イリヤ、姉アンナ、弟[[ドミトリー・イリイチ・ウリヤノフ|ドミトリー]]はいずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝的要素が強いと考えられている(革命家としてのストレスもそれに拍車をかけた)。<br /> <br /> == 死後 ==<br /> 葬儀は[[1月27日]]にスターリンが中心となって挙行され、葬儀は26日に行う、というスターリンが送った偽情報によりモスクワを離れていたトロツキーは、参列することができなかった。<br /> <br /> レーニンの遺体は、死後ほどなく[[エンバーミング|保存処理]]され、[[モスクワ]]の[[レーニン廟]]に現在も永久展示されている。その遺体保存手段については長らく不明のままで、「剥製である」という説や「蝋人形ではないか」という説も語られていた。<br /> <br /> [[ソ連崩壊]]後、[[1930年代]]から[[1950年代]]にレーニンの遺体管理に携わった経験のある科学者[[イリヤ・ズバルスキー]]が自身の著作で公表したところによれば、実際には臓器等を摘出の上、[[ホルムアルデヒド]]溶液を主成分とする「バルサム液」なる防腐剤を浸透させたもので、1年半に1回の割合で遺体をバルサム液漬けにするメンテナンスで現在まで遺体を保存しているという&lt;ref&gt;[http://englishrussia.com/?p=659 実際に処理している画像]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> なお、ロシア政府は[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]のころより、遺体を埋葬しようと何度も計画しているが、そのつど国内の猛反対にあい撤回されている。ロシア国民にとっては良くも悪くも近代ロシアの父と見る節があり、また根強い共産党及びソビエト政権への支持層からの反対が大きく、[[クレムリン]]の壁と霊廟に「強いロシア」のイメージを重ねる者も多い。[[2012年]]12月に大統領の[[ウラジミール・プーチン]]はレーニン廟を[[聖遺物]]に準えて保存を主張した&lt;ref&gt;{{citenews|url=http://jp.rbth.com/articles/2012/12/17/40459 |title=レーニンは赤の広場にとどまるべき|publisher=[[ロシア新聞|ロシアNOW]] |date-2012年12月17日 |accessdate-2015年11月20日}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 評価 ==<br /> レーニン死後のボリシェヴィキの党内闘争では、対立する諸派はいずれもレーニンの忠実な後継者としてふるまった。スターリン派は[[マルクス・レーニン主義]]を体系化し、トロツキー派は[[ボリシェヴィキ・レーニン主義]]を標榜した。その過程でレーニンは神格化されていった。[[スターリン批判]]によりスターリンの権威が落ちた後も、レーニンの権威はほとんど揺らがなかった。<br /> <br /> レーニンのロシア革命が植民地解放運動を支援したこともあって、[[第三世界]]ではレーニンを評価する傾向がある。<br /> <br /> 一方、第二インターナショナルの社会民主主義者はレーニンを厳しく批判した。[[カール・カウツキー]]は1918年に出版された『プロレタリアートの独裁』で民主主義論の観点からボリシェヴィキの一党独裁を批判した。レーニンに比較的近い政治的立場をとっていた[[ローザ・ルクセンブルク]]も獄中で書いた草稿「ロシア革命のために」でボリシェヴィキによる憲法制定議会の解散について批判的な視点を示した。レーニンはカウツキーに対して『プロレタリア革命と背教者カウツキー』で反論し、カウツキーを背教者と非難した。<br /> <br /> 保守派は、議会制民主主義や資本主義経済を擁護する観点から社会主義や共産主義を批判し、レーニンについても否定的な評価を下すのが一般的である。[[冷戦]]期には、スターリン時代のソ連を[[ナチス・ドイツ]]と同等の体制と見なし、レーニンをその創始者として否定的に評価する[[全体主義体制|全体主義論]]が大きな影響力を持った。[[ウィンストン・チャーチル]]はレーニンに対して、忌み嫌いつつもある種の畏敬の念を抱き、「ロシア人にとって最大の不幸はレーニンが生まれたことだった。そして二番目の不幸は彼が死んだことだった」「彼の目的は世界を救うことだった。そしてその方法は世界を爆破することだった」と語っている。ソ連末期の[[グラスノスチ]]以後に公開された文書により、内戦の時期にレーニンが政敵に対して行使したテロルの実態が明らかになると、レーニンをスターリンと同等の独裁者として評価する傾向が強まった。ロシアの[[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]やアメリカの[[リチャード・パイプス]]がこの傾向を代表する。ヴォルコゴーノフは、[[一党独裁制]]や[[強制収容所]]などを確立したレーニンを「不寛容という全体主義的イデオロギーの生みの親」と述べ、[[アドルフ・ヒトラー]]らの先駆と評した。<br /> <br /> 一部のマルクス主義者から「レーニンの理論の幾つかはマルクスの理論と食い違っている」という批判もある。<br /> <br /> == 補足 ==<br /> *クレムリンにはレーニンが使用していた執務室と私室が保存されているが、見学は許可されていない。<br /> *出生地のウリヤノフスクではウリヤノフ一家の家宅が公開されている。<br /> *ペトログラードはレーニンにちなみ、レニングラードと改名された。また、生地のシンビルスクも彼の本名にちなんで[[ウリヤノフスク]]と改名された。レニングラードは[[1991年]]の[[ソ連崩壊]]時に元([[第一次世界大戦]]前)の名、[[サンクトペテルブルク]]に戻された。ただし、同市のある州の名前は[[レニングラード州]]のままである。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * モッシェ・レヴィン『レーニンの最後の闘争』、河合秀和訳、岩波書店<br /> * イリヤ・ズバルスキー、サミュエル・ハッチンソン『レーニンをミイラにした男』、赤根洋子訳、文春文庫<br /> * [[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]『レーニンの秘密』上・下、日本放送出版協会、1995年、 ISBN 4-14-080238-3 / ISBN 4-14-080239-1<br /> *[[ニコライ・ヴァレンチノフ|N・ヴァレンチノフ]]『知られざるレーニン』(風媒社、1972年)<br /> * &quot;Was Lenin a Marxist?&quot;, Simon Clarke [http://classagainstclass.com/index.php?option=com_content&amp;view=article&amp;id=120:was-lenin-a-marxist-the-populist-roots-of-marxism-leninism-simon-clarke&amp;catid=21:general-pamphlets-texts-and-articles&amp;Itemid=15]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.marxists.org/archive/lenin/index.htm Marxists.org Lenin Internet Archive] - 著作、伝記および写真<br /> {{wikisourcelang|ru|Владимир Ильич Ленин|ウラジミール・レーニン}}<br /> {{Wikiquote|ウラジミール・レーニン}}<br /> {{commons|Владимир Ильич Ленин}}<br /> <br /> {{共産主義}}<br /> {{レーニンの著作}}<br /> {{ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の首相}}<br /> {{ソビエト連邦の首相}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:れえにん うらしいみる}}<br /> [[Category:ウラジーミル・レーニン|*]]<br /> [[Category:ソビエト連邦共産党中央委員会政治局の人物]]<br /> [[Category:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の首相]]<br /> [[Category:ソビエト連邦の首相]]<br /> [[Category:第二インターナショナルの人物]]<br /> [[Category:コミンテルンの人物]]<br /> [[Category:ロシア社会民主労働党中央委員会の人物]]<br /> [[Category:オールド・ボリシェヴィキ]]<br /> [[Category:ロシア帝国からの亡命者]]<br /> [[Category:イスクラ編集者]]<br /> [[Category:政治犯]]<br /> [[Category:20世紀の哲学者]]<br /> [[Category:ロシアの哲学者]]<br /> [[Category:ロシアの弁護士]]<br /> [[Category:ロシアの経済学者]]<br /> [[Category:沿ドニエストル・ルーブル紙幣の人物]]<br /> [[Category:サンクトペテルブルク大学出身の人物]]<br /> [[Category:シンビルスク県出身の人物]]<br /> [[Category:ウリヤノフスク出身の人物]]<br /> [[Category:1870年生]]<br /> [[Category:1924年没]]</div> 42.145.121.253 ビスケー湾 2018-07-05T06:14:18Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Infobox body of water<br /> |name = ビスケー湾<br /> |image = Bay of Biscay map.svg<br /> |image_map =<br /> |image_bathymetry =<br /> |caption_bathymetry =<br /> |location =<br /> |coords = <br /> |rivers =[[ロワール川]]、[[ジロンド川]]、[[アドゥール川]]、[[ビダソア川]]、[[ネルビオン川]]<br /> |oceans = [[大西洋]] <br /> |countries ={{FRA}}&lt;br&gt;{{ESP}}<br /> |length = 593.7km<br /> |width = 511.1km<br /> |area = 225,000km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> |depth =1,744m<br /> |max-depth = 4,375m<br /> |volume =389,000 km&lt;sup&gt;3&lt;/sup&gt;<br /> |shore =<br /> |frozen =<br /> |islands =<br /> |cities =[[ブレスト_(フランス)|ブレスト]]、[[ラ・ロシェル]]、[[バイヨンヌ]]、[[サン・セバスティアン]]、[[サンタンデール (スペイン)|サンタンデール]]、[[ヒホン]]<br /> |reference =<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ビスケー湾&#039;&#039;&#039;({{lang-en|Bay of Biscay}}, {{IPAc-en|ˈ|b|ɪ|s|k|eɪ|,_|-|k|i}})は、北[[大西洋]]の一部で[[イベリア半島]]の北岸から[[フランス]]西岸に面する[[湾]]である。<br /> <br /> == 名称 ==<br /> 「ビスケー湾」とは[[英語]]表記(Bay of Biscay, {{IPAc-en|ˈ|b|ɪ|s|k|eɪ|,_|-|k|i}})に由来している。[[フランス語]]ではGolfe de Gascogne(ガスコーニュ湾)、[[スペイン語]]ではGolfo de Vizcaya(ビスカヤ湾)と、それぞれこの湾が面する[[ガスコーニュ]]地方、[[ビスカヤ県|ビスカヤ地方]]に因んだ名で呼ばれており、いずれも[[バスク地方]]に関連する地名である。スペインではビスケー湾南部をカンタブリア海と呼び、これは[[カンタブリア州|カンタブリア地方]]に由来している。<br /> <br /> [[ブレトン語]]ではPleg-mor Gwaskogn、[[ガスコーニュ語]]ではGolf de Gasconha。カンタブリクム海(Mare Cantabricum)、アキタニクス湾(Sinus Aquitanicus)という古称がある{{sfn|谷岡武雄|1995|p=817}}。英語ではガスコニー湾(Gulf of Gascony)と呼ぶこともある{{sfn|谷岡武雄|1995|p=817}}。フランスではこの湾と大西洋の海域が区別される{{sfn|谷岡武雄|1995|p=817}}。<br /> <br /> ガリシア州の{{仮リンク|エスタカ・デ・バレス|en|Estaca de Bares}}を西端、[[ピレネー=アトランティック県]]の[[アドゥール川]]河口を東端として、ビスケー湾の南端部はスペインでカンタブリア海(Mar Cantábrico)と呼ばれるが、この用語は英語では一般的に使用されない。紀元前1世紀にローマ人によってシヌス・カンタブロルム(Sinus Cantabrorum、カンタブリア人の海)と名付けられ、マレ・ガリャエクム(Mare Gallaecum、ガリシア人の湾)友呼ばれた。中世におけるいくつかの地図では、ビスケー湾はエル・マール・デル・ロス・バスコス(El Mar del los Vascos、バスク人の海)として記載されている&lt;ref&gt;{{cite web|title=El mar de los vascos, II: del Golfo de Vizcaya al Mediterráneo|url=http://www.euskomedia.org/PDFAnlt/jgl/07001110.pdf|format=PDF|publisher=Euskomedia.org|accessdate=2015-07-17}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> [[File:Celtic Sea and Bay of Biscay bathymetric map-en.svg|thumb|right|ビスケー湾とその周辺の海底地形]]<br /> <br /> === 地勢・範囲 ===<br /> かなり沖合まで[[大陸棚]]が広がっており、湾内は好漁場とされる{{sfn|谷岡武雄|1995|p=817}}。平均水深は1,744メートル、最大水深は4,735メートルである&lt;ref&gt;{{cite web |title=Bay of Biscay |url=http://www.eoearth.org/view/article/150448/ |publisher=Eoearth.org |accessdate=2015-07-17}}&lt;/ref&gt;。大西洋の厳しい天候の影響下にあり、特に冬季にはビスケー湾は大嵐となることがある。潮差が大きいことで知られ、最大12メートルに達する{{sfn|谷岡武雄|1995|p=817}}。フランス沿岸部は[[砂丘]]が発達しており良港に恵まれない{{sfn|谷岡武雄|1995|p=817}}。<br /> <br /> [[国際水路機関]]はビスケー湾の範囲を「([[ガリシア州]]の)[[コマルカ・ド・オルテガル|オルテガル]]岬{{Coord|43|46|N|7|52|W|display=inline}}と([[ブルターニュ半島]]突端部南端の)[[パンマール]]岬{{Coord|47|48|N|4|22|W|display=inline}}を結ぶ線の間」と定義している&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf|title=Limits of Oceans and Seas, 3rd edition + corrections|year=1971|publisher=International Hydrographic Organization|accessdate=6 February 2010|page=42 [corrections to page 13]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111008191433/http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf|archivedate=2011年10月8日|deadurldate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。オルテガル岬とブルターニュ半島沖合の[[ウェサン島]]までとされることもある{{sfn|谷岡武雄|1995|p=817}}。<br /> <br /> === 気候 ===<br /> 海洋性の気候で夏季でもどんよりと曇って涼しいのが一般的である。晩春から初夏にかけて巨大な霧の三角形がビスケー湾の南西半分を覆い、また霧は[[イベリア半島]]の数キロメートル内陸にまで侵入する。<br /> <br /> 冬季に入ると天候が厳しくなる。西から頻繁に低気圧がやってきて、北側の[[イギリス諸島]]に向かうか、イベリア半島の[[エブロ川]]流域に侵入する。最終的にはエブロ川流域を抜けて地中海に達し、低気圧は強力な雷雨に生まれ変わる。この低気圧は海上に悪天候をもたらし、沿岸部には休みなく続く雨をもたらす。この雨はオルバーリョ、シリミリ、モリーナ、オルバージュ、オルピン、カラボボスなどと呼ばれる。気圧が急低下する時にはしばしば強力な暴風が形成される。<br /> <br /> 大陸棚の末端部から反時計回りに[[メキシコ湾流]]が湾内に入り、1年中穏やかな水温を保つ。<br /> <br /> === 主な島 ===<br /> <br /> ; フランス<br /> * [[オレロン島]](175 km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)<br /> * [[レ島]](85 km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)<br /> * [[ベル=イル=アン=メール]](84 km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)<br /> * [[ノワールムティエ島]](49 km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)<br /> * [[ユー島]](23 km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)<br /> * [[ウェサン島]](15 km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)<br /> * [[グロワ島]](14 km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)<br /> <br /> ; スペイン<br /> * [[サンタ・クララ島 (サン・セバスティアン)|サンタ・クララ島]](0.056 km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)<br /> <br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Île d&#039;Oleron.png|オレロン島<br /> File:Ile-de-Re vue du ciel.JPG|レ島<br /> File:Panorama from Monte Igueldo (5106955283).jpg|サンタ・クララ島<br /> Image:Gaztelugatxe_Connected.jpg|[[ガステルガチェ]]<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === 主な河川 ===<br /> [[File:Bordeaux port de la lune 01.jpg|thumb|right|ガロンヌ川とボルドー市街地]]<br /> [[File:Bidasoa ibaiaren ahoa.jpg|thumb|right|ビダソア川河口部のチングディ湾]]<br /> [[File:Ile de Nantes.JPG|thumb|right|ナントを流れるロワール川]]<br /> <br /> フランスには流域面積100,000km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;を超える[[ロワール川]]や流域面積50,000km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;を超える[[ガロンヌ川]]などの大河川があるが、スペインのビスケー湾岸は平野に乏しいことから大きな河川が存在しない。[[ビダソア川]]はフランス=スペイン国境([[チングディ湾]])でビスケー湾に注いでいる。<br /> <br /> ; フランス<br /> * [[ロワール川]](ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏)<br /> * [[シャラント川]](ポワトゥー=シャラント地域圏)<br /> * [[ガロンヌ川]](アキテーヌ地域圏)<br /> * [[ドルドーニュ川]](アキテーヌ地域圏)<br /> * [[アドゥール川]](アキテーヌ地域圏)<br /> * [[ニヴェル川]](アキテーヌ地域圏)<br /> <br /> ; フランス=スペイン国境<br /> * [[ビダソア川]]<br /> <br /> ; スペイン<br /> * [[オイアルツン川]](バスク州)<br /> * [[ウルメア川]](バスク州)<br /> * [[オリア川]](バスク州)<br /> * [[ウロラ川]](バスク州)<br /> * [[デバ川]](バスク州)<br /> * [[アルティバイ川]](バスク州)<br /> * {{仮リンク|オカ川 (スペイン)|en|Oka River (Spain)}}(ウルダイバイ河口、バスク州)<br /> * [[ネルビオン川]](ビルバオ河口、バスク州)<br /> * {{仮リンク|アグエラ川|en|Agüera (river)}}(カンタブリア州)<br /> * {{仮リンク|アソン川|en|Asón}}(カンタブリア州)<br /> * {{仮リンク|ミエラ川|en|Miera (river)}} (カンタブリア州)<br /> * {{仮リンク|パス川|en|Pas River}}(カンタブリア州)<br /> * {{仮リンク|サイア川|en|Saja (river)}} (カンタブリア州)<br /> * {{仮リンク|ナンサ川|en|Nansa}}(カンタブリア州)<br /> * {{仮リンク|デバ川 (小さい方)|label=デバ川|en|Deva (river)}} (カンタブリア州=アストゥリアス州境)<br /> * {{仮リンク|セーリャ川|en|Sella River}}(アストゥリアス州)<br /> * {{仮リンク|ナロン川|en|Nalón River}}(アストゥリアス州)<br /> * {{仮リンク|ナビア川|en|Navia river}}(アストゥリアス州)<br /> * {{仮リンク|エスバ川|en|Esva River}}(アストゥリアス州)<br /> * {{仮リンク|エオ川|en|Eo River}}(アストゥリアス州=ガリシア州境)<br /> * {{仮リンク|ランドロ川|en|Landro (Galicia)}}(ガリシア州)<br /> * {{仮リンク|ソル・マニョン川|en|Sor Mañón}}(ガリシア州)<br /> <br /> === 主な沿岸都市 ===<br /> [[File:Mar Cantabrico.png|thumb|right|沿岸の主要都市]]<br /> [[File:Bilbao satelite.png|thumb|right|ビルバオ都市圏]]<br /> <br /> ; フランス<br /> * [[ブレスト_(フランス)|ブレスト]]<br /> * [[サン=ナゼール (ロワール=アトランティック県)|サン=ナゼール]]<br /> * [[ナント]]([[ロワール川]]を遡った位置)<br /> * [[ラ・ロシェル]]<br /> * [[ロシュフォール (シャラント=マリティーム県)|ロシュフォール]]<br /> * [[ボルドー]]([[ジロンド川]]を遡った位置)<br /> * [[バイヨンヌ]]<br /> * [[ビアリッツ]]<br /> * [[サン=ジャン=ド=リュズ]]<br /> <br /> ; スペイン<br /> * [[イルン]]<br /> * [[サン・セバスティアン]]<br /> * [[ビルバオ]]([[ネルビオン川]]を遡った位置)<br /> * [[ラレド (スペイン)|ラレド]]<br /> * [[サンタンデール (スペイン)|サンタンデール]]<br /> * [[リャネス]]<br /> * [[ヒホン]]<br /> * [[アビレス]]<br /> <br /> &lt;gallery&gt;<br /> Image:Acantilados Vizcaya.JPG|スペインのビスケー湾岸<br /> Image:Bay of Biscay from Terra (2004-05-17).jpg|ビスケー湾に発生した[[水の華]]<br /> Image:Biarritz Phare et Grande Plage.jpg|[[ビアリッツ]]の海岸<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 自然 ==<br /> [[File:Eubalaena glacialis with calf.jpg|thumb|right|かつて多く生息していたタイセイヨウセミクジラ]]<br /> <br /> ビスケー湾は地球上でもっとも多くのイルカ・クジラ類の種が生息する場所であり&lt;ref name=afp20082307&gt;{{cite web |url=http://www.afpbb.com/articles/-/2271027?pid=2038031 |title=地球上で最も多い種のイルカが生息するビスケー湾で、イルカが激減 |publisher=AFP BB |date=2007-08-23 |accessdate=2015-11-22}}&lt;/ref&gt;、[[クジラ]]や[[イルカ]]など多くの海洋哺乳類の種を見ることができる。[[アカボウクジラ]]などの[[アカボウクジラ科]]が比較的頻繁に観察されている数少ない場所のひとつであり、ビスケー湾はアカボウクジラ科にとって世界最高の研究地域である。1995年頃からビスケー湾イルカ調査プログラムの研究者は&lt;ref name=afp20082307/&gt;、ポーツマスとビルバオの間を航行するP&amp;Oフェリーのブリッジから定期的にイルカ・クジラ類の活動を観察・監視しているが、湾内で行われているトロール漁などがイルカ・クジラ類に被害を与えているとされる&lt;ref name=afp20082307/&gt;。<br /> <br /> [[タイセイヨウセミクジラ]]はもっとも絶滅の危機に瀕しているクジラの種である。かつては食事のために、またおそらく分娩のためにもビスケー湾にやってきたが、バスク人や他の民族の捕鯨活動によって1850年代以前にほとんど一掃された。今日、大西洋東部ではこの種はほぼ絶滅したと考えられており、現代ではわずかな目撃例を除いて、ビスケー湾でのこのクジラの記録は存在しない。わずかな事例としては、1977年に{{coord|43|00|N|10|30|W}}で母子と思しきペアが確認され&lt;ref&gt;{{cite journal|author=Reeves, R.R. and Mitchell, E.|year=1986|title=American pelagic whaling for right whales in the North Atlantic|journal=Report of the International Whaling Commission|issue=Special Issue 10|pages=221–254|url=http://iwc.int/cache/downloads/brhgc3aemagcsoos0kocgcggc/RIWC-SI10-pp221-254.pdf|format=PDF|accessdate=2013-10-09}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}&lt;/ref&gt;、1980年6月初頭に商業船から別のペアが確認されている。1977年9月にはガリシア州の{{coord|43|00|N|10|30|W}}で捕鯨会社によって報告された個体がおり、さらにイベリア半島から観察された別の個体も報告されている。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[File:Nmm nmmg bhc0686 large(2).jpg|thumb|right|1943年のビスケー湾の戦い]]<br /> <br /> === 漁業 ===<br /> ビスケー湾は[[バスク人]]の[[捕鯨]]揺籃の地である。9世紀、[[ヴァイキング]]がビスケー湾沿岸地域のボルドーやバイヨンヌといった主要都市を支配した頃から、この地域で小舟と銛による集団捕鯨が始まった。以降、バスク人は主に[[タイセイヨウセミクジラ]]を漁獲、ヨーロッパ各地に鯨油・鯨肉・鯨髭を輸出し、中世において商業捕鯨がこの地域の基幹産業となった。14世紀頃にビスケー湾沿岸での捕獲量が減少したのをうけて、バスク人漁師たちは大西洋北西部の[[ニューファンドランド島]]近海まで進出し、1560年代にバスク人の捕鯨は最盛期を迎えた。17世紀にオランダやイギリスなどが捕鯨を開始すると寡占状態が崩れ、バスク漁業はビスケー湾を基地とする[[タラ]]の漁獲や塩干しの加工へと移行した。タイセイヨウセミクジラは19世紀までに個体数が激減したため、1937年以降には捕鯨が禁止されている。<br /> <br /> === 軍事 ===<br /> 中世から近世には何世紀にも渡って、ビスケー湾は各国海軍の交戦地となった。1592年、スペイン海軍は{{仮リンク|ビスケー湾の戦い (1592年)|label=ビスケー湾の戦い|en|Battle of the Bay of Biscay (1592)}}でイギリス海軍に勝利した。{{仮リンク|1795年6月のビスケー作戦|en|Order of Battle in the Biscay campaign of June 1795}}は[[フランス革命戦争]]2年目にブルターニュ海岸南部でイギリス[[海峡艦隊]]とフランス大西洋艦隊が交えた2度の戦いの総称である。<br /> <br /> 1918年6月22日には、アメリカ海軍装甲巡洋艦の[[カリフォルニア (装甲巡洋艦)|カリフォルニア]]が沈没した&lt;ref&gt;{{cite web|title=USS Californian (1918-1918)|url=http://www.history.navy.mil/photos/sh-usn/usnsh-c/califrnn.htm|publisher=History.navy.mil|accessdate=2015-07-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20041224191412/http://www.history.navy.mil/photos/sh-usn/usnsh-c/califrnn.htm|archivedate=2004年12月24日|deadurldate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。[[機雷]]に接触したとする説もあるが、沈没の理由は定かではない。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]においてフランスがナチス・ドイツに降伏すると、ビスケー湾沿岸は[[ドイツ海軍]]により基地化され、[[Uボート・ブンカー]]などが建設された。イギリスは海上航路を守るため、各軍港への爆撃や[[サン=ナゼール強襲|コマンド攻撃]]、出撃・帰港するUボートへの対潜作戦を実施した。[[サン=ナゼール (ロワール=アトランティック県)|サン=ナゼール]]やロリアン、ラ・ロシェル、ボルドーといった港湾都市のドイツ軍守備隊は、フランスの大半が連合国軍により解放された後も本国の降伏かその直前まで抵抗を続けた。[[ストーンウォール作戦]]さなかの1943年12月28日、イギリス軍とナチス・ドイツ軍の間で{{仮リンク|ビスケー湾の戦い|en|Battle of the Bay of Biscay}}が起こり、イギリス軍の軽巡洋艦の[[グラスゴー (軽巡洋艦・2代)|グラスゴー]]とエンタープライズがナチス・ドイツ軍の駆逐艦隊と戦った。<br /> <br /> == 文化 ==<br /> 今日のビスケー湾は[[クジラ]]や海鳥の生息地として、[[ホエールウォッチング]]や[[バードウォッチング]]がさかんに行なわれている。強い風が吹くことから、ビスケー湾沿岸には[[ムンダカ]]や[[ビアリッツ]]など[[サーフィン]]スポットが多くある。フランスの外洋[[ヨット]]レースの1つ、フィガロ・シングルハンドレース(フィガロソロ)のコースともなっている。スペインではビスケー湾岸の各地で[[トライネラ]]のレースが行われる。クジラを観察するのにもっとも良い海域は大陸棚を超えた水深の深い海域であり、特にビスケー湾南部のサンタンデール海底谷とトレラベーガ海底谷の上方である。<br /> <br /> 1906年からはビスケー湾沿岸で[[カキ (貝)|カキ]]養殖が行われている。深海魚の一種であるヒゲナガホテイはビスケー湾の海域に生息している&lt;ref&gt;[http://www.fishbase.us/summary/Grammatostomias-flagellibarba.html]{{wayback|url=http://www.fishbase.us/summary/Grammatostomias-flagellibarba.html |date=20150825214445 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 交通 ==<br /> {{Location map+|Europe|width=250|float=right|relief=yes|caption=カーフェリーの就航都市|places=<br /> {{Location map~|Europe|lat_deg=43|lat_min=32|lat_sec=32|lat_dir=N|lon_deg=05|lon_min=39|lon_sec=42|lon_dir=W|position=right|background=|mark=Orange_pog.svg|label=}}<br /> {{Location map~|Europe|lat_deg=43|lat_min=15|lat_sec=25|lat_dir=N|lon_deg=02|lon_min=55|lon_sec=25|lon_dir=W|position=right|background=|mark=Orange_pog.svg|label=}}<br /> {{Location map~|Europe|lat_deg=43|lat_min=27|lat_sec=46|lat_dir=N|lon_deg=03|lon_min=48|lon_sec=18|lon_dir=W|position=right|background=|mark=Orange_pog.svg|label=}}<br /> {{Location map~|Europe|lat_deg=47|lat_min=13|lat_sec=05|lat_dir=N|lon_deg=01|lon_min=33|lon_sec=10|lon_dir=W|position=right|background=|mark=Blue_pog.svg|label=}}<br /> {{Location map~|Europe|lat_deg=50|lat_min=47|lat_sec=43|lat_dir=N|lon_deg=01|lon_min=05|lon_sec=20|lon_dir=W|position=right|background=|mark=Red_pog.svg|label=}}<br /> {{Location map~|Europe|lat_deg=50|lat_min=22|lat_sec=17|lat_dir=N|lon_deg=04|lon_min=08|lon_sec=32|lon_dir=W|position=right|background=|mark=Red_pog.svg|label=}}<br /> {{Location map~|Europe|lat_deg=50|lat_min=43|lat_sec=00|lat_dir=N|lon_deg=01|lon_min=59|lon_sec=00|lon_dir=W|position=right|background=|mark=Red_pog.svg|label=}}<br /> {{Location map~|Europe|lat_deg=52|lat_min=15|lat_sec=05|lat_dir=N|lon_deg=06|lon_min=20|lon_sec=29|lon_dir=W|position=right|background=|mark=Green_pog.svg|label=}}<br /> }}<br /> <br /> スペインの[[ヒホン]]や[[ビルバオ]]や[[サンタンデール (スペイン)|サンタンデール]]、フランスの[[ナント]]、イギリスの[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]や[[プリマス]]や[[プール (イングランド)|プール]]などの間の航路でカーフェリーが運航されている。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:left; font-size:smaller&quot;<br /> |-<br /> ! 発着地 !! !! 発着地 !! 出典<br /> |-<br /> | rowspan=2| {{Flagicon|ESP}} [[アストゥリアス州]][[ヒホン]] || rowspan=2| - || {{Flagicon|FRA}} [[ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏]][[ナント]] || &lt;ref name=puertodegijon&gt;[https://www.puertogijon.es/index.asp?MP=3&amp;MS=437&amp;MN=2 Líneas Regulares de Ferry] ヒホン港公式サイト&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{Flagicon|UK}} [[プール (イングランド)|プール]] || &lt;ref name=puertodegijon/&gt;<br /> |-<br /> | {{Flagicon|ESP}} [[バスク州]][[ビルバオ]] || - || {{Flagicon|UK}} [[ハンプシャー|ハンプシャー州]][[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]] || &lt;ref name=brittany&gt;[http://www.brittanyferries.es/la-flota/ferries-desde-espana Ferries desde España] ブルターニュ・フェリーズ&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | rowspan=3| {{Flagicon|ESP}} [[カンタブリア州]][[サンタンデール (スペイン)|サンタンデール]] || rowspan=3| - || {{Flagicon|UK}} [[デヴォン|デヴォン州]][[プリマス]] || &lt;ref name=brittany/&gt;<br /> |-<br /> | {{Flagicon|UK}} [[ハンプシャー|ハンプシャー州]][[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]] || &lt;ref name=brittany/&gt;<br /> |-<br /> | {{Flagicon|UK}} [[プール (イングランド)|プール]] || <br /> |-<br /> | {{Flagicon|FRA}} [[ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏]][[ナント]] || - || {{Flagicon|IRE}} {{仮リンク|ロスレア|en|Rosslare}} || &lt;ref name=puertodegijon/&gt;<br /> |}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> {{海}}<br /> {{DEFAULTSORT:ひすけえわん}}<br /> [[Category:ビスケー湾|*]]<br /> [[Category:大西洋の湾]]<br /> [[Category:スペインの湾]]<br /> [[Category:フランスの湾]]<br /> [[Category:ホエールウォッチング]]</div> 42.145.121.253 プラウダ 2018-07-04T04:55:59Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Otheruses||映画|プラウダ (真実)}}<br /> {{Infobox newspaper<br /> |name = {{lang|ru|Правда}}&lt;br /&gt;プラウダ<br /> |logo = [[File:Газета Правда.svg|200px]]<br /> |image = [[File:Kotlasskiy kraevedcheskiy musey (093).JPG|200px|border]]<br /> |caption = [[1941年]][[7月3日]]のプラウダの一面<br /> |type = [[日刊]][[新聞]]<br /> |format = [[ブランケット判|ブランケット]]<br /> |foundation = [[1912年]][[5月5日]](公式)<br /> |ceased publication =<br /> |price =<br /> |owners = [[File:KPRF Flag.svg|border|25px]] [[ロシア連邦共産党]]<br /> |editor = {{仮リンク|ボリス・コモツキー|ru|Комоцкий, Борис Олегович}}<br /> |chiefeditor =<br /> |assoceditor =<br /> |staff =<br /> |language = [[ロシア語]]<br /> |political = [[共産主義]]<br /> |circulation = 100,300 (2013年)<br /> |headquarters = {{flagicon|RUS}} [[ロシア連邦]]&lt;br&gt;[[File:Flag of Moscow.svg|border|25px]] [[モスクワ]]、プラウダ通り24丁目<br /> |ISSN = 0233-4275<br /> |website = [http://www.gazeta-pravda.ru プラウダの公式サイト]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;プラウダ&#039;&#039;&#039;、または&#039;&#039;&#039;プラヴダ&#039;&#039;&#039;({{lang-ru|&#039;&#039;&#039;Правда&#039;&#039;&#039;}} &lt;small&gt;プラーヴダ&lt;/small&gt;、{{lang-en|Pravda}})は、[[ロシア|ロシア連邦]]の[[新聞]]、またそれを発行する[[出版社]](新聞社)。かつての[[ソビエト連邦共産党]]の[[機関紙]]で、[[1912年]][[4月22日]]([[ユリウス暦]]、[[グレゴリオ暦]]では[[5月5日]])に発刊された。プラウダとはロシア語で「真実・正義」の意である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[File:ПРАВДАобращениесталина.jpg|thumb|left|250px|[[1941年]][[7月3日]]のプラウダ:題「ラジオ演説を行う[[ソ連国家防衛委員会]]議長、同志[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]」]]<br /> [[File:Lev Kamenev reads Pravda.png|thumb|プラウダを読む[[レフ・カーメネフ]]]]<br /> 最盛期の発行部数は1,000万部を超え、世界一の発行部数を誇ったこともあった。[[ソ連崩壊]]後は発行部数を大きく減らし、日によっては4面しかないこともあったが、[[2000年代]]初頭においてロシアで第2位の発行部数があった。<br /> <br /> [[ソビエト連邦|ソ連]]時代は、政府機関紙の[[イズベスチヤ]]と同じく国民に対する[[プロパガンダ]]紙であり、無味乾燥な[[発表報道]]とスローガンばかりで、広告や写真の少ない新聞であった。[[ソビエト連邦共産党]]にとって都合の悪い事は書かれず、時には事実がねじ曲げられて伝えられ、捏造も行われた。多くの国民もそのようなことはわかっていたので行間を読む、裏を読むといったことで真実を探ろうとした。そのような状況から「ソ連の二大新聞、プラウダとイズベスチヤの違いは何か?プラウダにイズベスチヤ(ニュース)はなく、イズベスチヤにプラウダ(真実)はない」というような小咄([[アネクドート]])も生まれた。<br /> <br /> 現在ではロシアにおける[[タブロイド]]型の新聞として人気を集めている。旧プラウダ紙のスタッフによって運営されているニュースサイト[http://www.pravda.ru/ &#039;&#039;&#039;プラウダ・オンライン&#039;&#039;&#039;]も存在するが、これと現在印刷されているプラウダ紙の間に直接の関係はない。なお、「プラウダ」と呼ばれる新聞は他にもいくつかあり、有名なものとして、かつて[[コムソモール]]の機関誌であり、現在ロシアで最も部数の多いタブロイド新聞となっている[[コムソモリスカヤ・プラウダ]]などが挙げられる。<br /> <br /> 2000年代初頭には[[未確認飛行物体|UFO]]や[[超常現象]]、[[陰謀論]]などを扱うようになった。たとえば超常現象研究家の[[コンノケンイチ]]はプラウダのサイトに載った「地球外文明によってつくられた月面都市」の記事を著書『UFOとアポロ疑惑 月面異星人基地の謎』で引用している。<br /> <br /> == 起源 ==<br /> <br /> === ロシア革命以前のプラウダ ===<br /> プラウダが発行されたのは[[カール・マルクス]]の生誕記念日である[[1912年]][[5月5日]]というのが公式の見解である。しかし実際の起源は[[1903年]]にまで遡る。裕福な鉄道技師{{仮リンク|ウラジーミル・コジェフニコフ|ru|Кожевников, Владимир Александрович}}によって[[モスクワ]]で設立され、[[ロシア第一革命|1905年のロシア革命]]の最中に出版を開始した&lt;ref name=James&gt;White, James D. (April, 1974). &quot;[http://www.jstor.org/stable/150476 The first Pravda and the Russian Marxist Tradition]&quot;. &#039;&#039;Soviet Studies&#039;&#039;, Vol. 26, No. 2, pp. 181–204. Accessed 6 October 2012.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> プラウダの黎明期は政治的な方向性を持っておらず、コジェフニコフは芸術、文学、社会生活の雑誌として始めていたが、すぐにプラウダの「社会生活」雑誌への積極的な寄稿者だった[[アレクサンドル・ボグダーノフ]]、N・A・ロジコフ、[[ミハイル・ポクロフスキー]]、{{仮リンク|イヴァン・スクヴォルツォーフ=ステパーノフ|en|Ivan Skvortsov-Stepanov}}、P・P・ルミャーンツェフ、M・G・ルンツ等が含まれる優秀な若手作家たちによるチームが形作られた。その後、彼らは雑誌の編集委員となり、後には[[ロシア社会民主労働党]]の[[ボリシェヴィキ]]の主要なメンバーとなっていた&lt;ref name=James/&gt;。 しかしコジェフニコフと編集委員会との間に一定の争いが生まれ、ついにはコジェフニコフがプラウダから去ること求めて来たのでこれを受託し、社会民主労働党の[[メンシェヴィキ]]が編集委員会を引き継いだ。しかし、彼らとコジェフニコフとの関係は苦々しいものでもあった&lt;ref name=James/&gt;。<br /> <br /> 1912年1月に[[プラハ]]で開催されていた社会民主労働党の第6回党会議で、遂にメンシェヴィキが党から追放された。党の主導権を握った[[ウラジーミル・レーニン]]は明確にプラウダを公式の代弁者とした。書類を[[ウィーン]]から[[サンクトペテルブルク]]に移すと同時に[[1912年]][[5月5日]](ユリウス暦1912年4月22日)にレーニン主導により4ページで5[[ルーブル|コペイカ]]の創刊号が発表された&lt;ref&gt;Bassow, Whitman. (February, 1954) &quot;[http://www.jstor.org/stable/2492164 The Pre Revolutionary Pravda and Tsarist Censorship]&quot;. &#039;&#039;American Slavic and East European Review&#039;&#039;. Vol. 13, No. 1, pp. 47–65. Accessed 6 October 2012.&lt;/ref&gt;。このとき初めてプラウダが法的にも政治新聞として発行された。社会民主労働党の中央委員会、労働者や個人などと共に[[マクシム・ゴーリキー]]は新聞に資金援助をした。これには経済問題、労働運動、[[ストライキ]]に関する記事があり、[[プロレタリアート]]の詩が2作載っていた。サンクトペテルブルク・プラウダの最初の編集者であるマクシム・イェゴーロフと[[ドゥーマ]]の議員である{{仮リンク|ニコライ・ポレターエフ|ru|Полетаев, Николай Гурьевич}}が版元として務めた&lt;ref name=Ralph&gt;Elwood, Carter Ralph. (June 1972) &quot;[http://www.jstor.org/stable/2494339 Lenin and &#039;&#039;Pravda&#039;&#039;, 1912-1914]&quot;. &#039;&#039;Slavic Review&#039;&#039;. Vol. 31, No. 2, pp. 355–380. Accessed 6 October 2012.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 2月革命 ===<br /> [[File:Prawda.16.3.1917.png|thumb|1917年3月16日:ポーランドの独立宣言を報じるプラウダ。]]<br /> [[2月革命 (1917年)|1917年の2月革命]]による[[ニコライ2世]]の退位によって、プラウダは発行を再開した。新しく生まれ変わったプラウダの最初の編集者である[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]と{{仮リンク|アレクサンドル・シュリャープニコフ|en|Alexander Shliapnikov}}は、自由主義的な[[ロシア臨時政府]]に反対した。3月12日に[[シベリア]]への流刑から戻って来た[[レフ・カーメネフ]]と[[ヨシフ・スターリン]]に加え、{{仮リンク|マトヴェイ・ムラノフ|en|Matvei Muranov}}らは3月15日に編集委員会を引き継いだ&lt;ref&gt;Leon Trotsky, &#039;&#039;History of the Russian Revolution&#039;&#039;, translated by Max Eastman, Chicago, Haymarket Books, 2008, p. 209&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1917年]][[3月15日]]、戦争への努力を支持する記事を載せた。<br /> {{quote|軍隊と軍隊とが対峙しているときに、武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。これは平和政策などではなく、自由人民たちを苛立たせ拒絶させる、奴隷政策だ。<br /> <br /> {{en|When army faces army, it would be the most insane policy to suggest to one of those armies to lay down its arms and go home. This would not be a policy of peace, but a policy of slavery, which would be rejected with disgust by a free people.}}&lt;ref&gt;See E. H. Carr, &#039;&#039;The Bolshevik Revolution&#039;&#039;, London, [[Macmillan Publishers]], 1950, vol. 1, p. 75.&lt;/ref&gt;}}<br /> <br /> [[4月3日]]に、[[ロシア帝国]]に帰国したレーニンと[[グリゴリー・ジノヴィエフ]]は[[四月テーゼ|4月テーゼ]]で、臨時政府との統一的な傾向を強く非難した。カーメネフはプラウダの社説でレーニンの立場に反対したが、レーニンは再度プラウダで「反革命」として臨時政府を非難することによって4月党大会では好評を得ることに成功した。それ以降プラウダは基本的にレーニンの編集姿勢を追い、[[十月革命]]後の1917年には毎日ほぼ10万枚を販売していた。<br /> <br /> == ソ連時代 ==<br /> [[File:1939-pravda-molodsov-ilichev-ryklin.jpg|thumb|1939年3月18日: プラウダのオフィス内部、立っているのは{{仮リンク|ヴァシーリー・モロドツォーフ|ru|Молодцов, Василий Сергеевич}}とイリイチョーフ。]]<br /> ソ連が首都をモスクワに変都させた時に事務所も1918年3月3日に[[モスクワ]]に移し、プラウダは[[ソビエト連邦共産党]]の公式出版物、または「党の[[機関紙]]」となった。プラウダは公式の政策や方針の変更を発表するための国民へのパイプとなり、1991年までそれを続けた。1989年までは国営企業、軍隊、その他の組織はプラウダの購読が必須だった&lt;ref&gt;See Mark Hooker. &#039;&#039;The Military Uses of Literature: Fiction and the Armed Forces in the Soviet Union&#039;&#039;, Westport, CT, [[Praeger Publishers]], 1996, ISBN 978-0-275-95563-2 p.34&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 他にも新聞はあったが、すべて他の国家機関の機関紙として存在していた。例えば外交関係を報じていた[[イズベスチヤ]]は[[ソビエト連邦最高会議]]の機関紙であり、また{{仮リンク|トルード|en|Trud (newspaper)}}は労働組合運動の機関紙であり、{{仮リンク|ベドノター|en|Bednota}}は[[赤軍]]と農民に配布されていた。他の様々な派生誌は全国紙として部数を増やすために名前に「プラウダ」を付けたものも発行されていた([[コムソモール]]の機関紙は[[コムソモリスカヤ・プラウダ]]、[[ピオネール]]の機関紙は{{仮リンク|ピオネールスカヤ・プラウダ|en|Pionerskaya Pravda}})、さらにソ連内の幾多の共和国と州では共産党の地域新聞が発行された、例えばカザフスタンでは{{仮リンク|カザフスタンスカヤ・プラウダ|en|Kazakhstanskaya Pravda}}、[[ムルマンスク州]]では{{仮リンク|ポリャルナヤ・プラウダ|ru|Полярная правда}}、[[アルハンゲリスク州]]では{{仮リンク|プラウダ・セヴェラ|en|Pravda Severa}}、そしてモスクワ市では{{仮リンク|モスコフスカヤ・プラウダ|en|Moskovskaya Pravda}}などがあった。<br /> [[File:RIAN archive 669616 Wartime city life - Moscow in October - December 1941.jpg|thumb|left|1941年11月: モスクワでプラウダを読む兵士。写真{{仮リンク|アナトーリー・ガラーニン|ru|Гаранин, Анатолий Сергеевич}}]]<br /> <br /> [[File:Pravda Adolf Hitler.jpg|200px|thumb|ドイツがプロパガンダ用に作った偽プラウダ。ドイツ占領地域では[[コルホーズ]]が廃止されたと伝えている。]]<br /> 10月革命後まもなく、[[ニコライ・ブハーリン]]はプラウダの編集者となった&lt;ref&gt;Stephen F. Cohen, &#039;&#039;Bukharin and the Bolshevik Revolution: A Political Biography, 1888–1938&#039;&#039; (Oxford University Press: London, 1980) p. 43.&lt;/ref&gt;。 この人事は1917年4月にロシアへの帰国が決まったブハーリンに先立ち、移住と亡命が終わる最後の数ヶ月の間に決まっていた&lt;ref&gt;Stephen F. Cohen, &#039;&#039;Bukharin and the Bolshevik Revolution: A Political Biography, 1888–1938&#039;&#039;, p. 44.&lt;/ref&gt;。1916年11月から1917年4月までブハーリンはアメリカのニューヨーク市で暮らし、地元の図書館で勤務しつつロシア語話者用のロシア語新聞である{{仮リンク|ノーヴィ・ミール|en|Novy Mir (1916 magazine}}(新世界の意)を発行していた&lt;ref name=&quot;Stephen F. Cohen p. 43&quot;&gt;Stephen F. Cohen, &#039;&#039;Bukharin and the Bolshevik Revolution: A Political Biography, 1888–1938&#039;&#039;, p. 43.&lt;/ref&gt;。時が経つにつれてブハーリンとノーヴィ・ミールの関係は深くなり、実際にロシアに戻ったときに1917年1月から4月までノーヴィ・ミール.Zの事実上の編集者を務めていた&lt;ref name=&quot;Stephen F. Cohen p. 43&quot; /&gt;。1924年のレーニン死後のプラウダはブハーリンの権力基盤を形成する存在となり、新聞を編集したこともある敵対政党の指導者を助けることにより[[マルクス主義]]理論家としての評判を補強した。ブハーリンはプラウダの編集者として働き続けていたが、[[ヨシフ・スターリン]]との論争により1929年2月に[[ミハイル・トムスキー]]と共にプラウダでの職務から外された、これにより結果として彼らは失脚した&lt;ref&gt;Stephen F. Cohen, &#039;&#039;Bukharin and the Bolshevik Revolution: A Political Biography, 1888–1938&#039;&#039;, p. 311.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ソ連の場所や物事はプラウダにちなんで名付けられたものが多く、その中でも特に[[ニジニ・ノヴゴロド州|ゴーリキー州]](プラウダ含め他の全国紙の[[新聞紙]]を大量に生産する製紙工場の本拠地である)のプラブジンスクの都市には幾つものプラウダの名を冠した通りや[[コルホーズ|集団農場]]があった。<br /> <br /> == ソ連崩壊後 ==<br /> [[ミハイル・ゴルバチョフ]]書記長による[[ペレストロイカ]]、[[グラスノスチ]]政策の時代にはイズベスチヤに比べて保守的な記事が多く、時にはゴルバチョフの政策を批判することさえあった。ソ連崩壊後は古き良きソ連時代を懐かしむといった論調も目立つものの、内容はずっと軟化している。<br /> <br /> [[1991年]]に共産党が解散されその資産が接収された際に、プラウダ紙もその一部として発行が停止されたが、その数週間後には旧スタッフによって同じ名前の新聞が創刊された。数ヶ月後にプラウダ紙の経営権は[[ギリシャ]]の実業家ヤンニコス家に移ったが、これに反発したスタッフたちはプラウダ紙から独立し、独自の新聞創刊(これはのちに政府によって発行禁止となった)を経て[[1999年]]にロシア語による初めてのニュースサイトであったプラウダ・オンラインを開設した。<br /> <br /> == プラウダの発行する主な新聞・雑誌 ==<br /> ;プラウダ<br /> :[[日刊紙]]<br /> ;[[アガニョーク]]({{lang|ru|Огонёк}}、ともしびの意)<br /> :かつてはソビエト共産党の機関誌、週刊。<br /> ;クロコディル({{lang|ru|Крокодил}}、ワニの意)<br /> :ソ連時代は唯一の漫画誌。インテリ層に根強い人気がある。<br /> ;セリスカヤ・ジーズニ({{lang|ru|Сельская жизнь}}、農村生活の意)<br /> <br /> ==歴代編集長==<br /> [[File:Gazeta pravda 10 maya 1945 goda.jpg|thumb|1945年5月10日: I・V・スターリン勝利の日を祝う]]<br /> [[File:RIAN archive 708414 Front pages of Pravda newspaper issues.jpg|thumb|1960年代のプラウダの一面。]]<br /> * 編集委員会(1917年3月-12月)<br /> ** [[レフ・カーメネフ]]<br /> ** [[ミハイル・カリーニン]]<br /> ** [[ヴャチェスラフ・モロトフ]]<br /> ** [[ヨシフ・スターリン]]<br /> ** [[ウラジーミル・レーニン]]<br /> ** [[グリゴリー・ソコリニコフ]]<br /> ** {{仮リンク|マトヴェイ・ムラノフ|en|Matvei Muranov}}<br /> ** {{仮リンク|コンスタンチーン・イェレメーエフ|ru|Еремеев, Константин Степанович}}<br /> ** {{仮リンク|ミハイル・オリミーンスキー|ru|Ольминский, Михаил Степанович}}<br /> ** {{仮リンク|マリーヤ・ウリヤーノヴァ|ru|Ульянова, Мария Ильинична}}<br /> * [[ニコライ・ブハーリン]](1918年12月–1929年)<br /> * 編集委員会事務局(1929-1930年)<br /> ** {{仮リンク|ガラリド・クルミン|ru|Крумин, Гаральд Иванович}}<br /> ** {{仮リンク|ニコライ・ポポフ|ru|Попов, Николай Николаевич (партийный деятель)}}<br /> ** {{仮リンク|イェメリヤーン・ヤロスラーフスキー|en|Yemelyan Yaroslavsky}}<br /> * {{仮リンク|マクシミリアン・サベリェフ|ru|Савельев, Максимилиан Александрович}}(1928–1930年)<br /> * [[レフ・メフリス]](1930–1937年)<br /> * [[イヴァン・ニキーチン]](1937–1938年)<br /> * 不明(1938–1940年)<br /> * [[ピョートル・ポスペーロフ]](1940–1949年)<br /> * [[ミハイル・スースロフ]](1949–1950年)<br /> * {{仮リンク|レオニード・イリイチョーフ|ru|Ильичёв, Леонид Фёдорович}}(1951–1952年)<br /> * [[ドミトリー・シェピーロフ]](1952–1956年)<br /> * {{仮リンク|パーヴェル・サチュコフ|ru|Сатюков, Павел Алексеевич}}(1956–1964年)<br /> * {{仮リンク|アレクセイ・ルミャーンツェフ|ru|Румянцев, Алексей Матвеевич}}(1964–1965年)<br /> * {{仮リンク|ミハイル・ジミャーニン|ru|Зимянин, Михаил Васильевич}}(1965–1976年)<br /> * {{仮リンク|ヴィークトル・アファナーシェフ|ru|Афанасьев, Виктор Григорьевич}}(1976–1989年)<br /> * [[イワン・フロロフ]](1989–1991年)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[サマンサ・スミス]]<br /> * [[プラウダ批判]]<br /> * [[クレムリノロジー]]<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Pravda|プラウダ}}<br /> * [http://www.gazeta-pravda.ru/ Pravda Newspaper]<br /> * [http://www.marxists.org/history/ussr/government/pravda/index.htm Some articles published in &#039;&#039;Pravda&#039;&#039; in the 1920s]<br /> * [http://kprf.tv/video/torzhestvennyy-vecher-posvyashchennyy-100-letiyu-pravdy.html 100 Years of Pravda Video Clip]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふらうた}}<br /> [[Category:ロシアの新聞]]<br /> [[Category:ソビエト連邦の新聞]]<br /> [[Category:ソビエト連邦のプロパガンダ]]<br /> [[Category:機関紙]]<br /> [[Category:新聞 (共産主義)]]<br /> [[Category:新聞社]]<br /> [[Category:ロシア語]]<br /> [[Category:レーニン勲章受章組織]]<br /> [[Category:十月革命勲章受章組織]]</div> 42.145.121.253 ジョホール州 2018-06-26T11:28:45Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 マレーシアの州<br /> |native_name={{lang|ms|جوهر دارالتّعظيم}}<br /> |conventional_long_name=Johor Darul Ta&#039;zim<br /> |image_flag=Flag of Johor.svg<br /> |image_coat=Coat of arms of Johor.svg<br /> |iso_3166-2_code=MY-01<br /> |state_motto=&#039;&#039;Kepada Allah Berserah&#039;&#039;<br /> |state_anthem=&#039;&#039;Lagu Bangsa Johor&#039;&#039;<br /> |image_map=Johor in Malaysia.svg<br /> |common_name=ジョホール州<br /> |capital=[[ジョホール・バル]]<br /> |royal_capital=[[パシールペランギ]]&lt;sup&gt;1&lt;/sup&gt;<br /> |entryFederationdate=[[1957年]]<br /> |ruling_party=[[国民戦線 (マレーシア)|国民戦線]]<br /> |leader_title1={{ill2|ジョホール州のスルターン|en|Sultan of Johor|label=スルターン}}<br /> |leader_name1=[[w:Ibrahim Ismail of Johor|スルターン・イブラヒム]]<br /> |leader_title2={{ill2|ジョホール州首席大臣の一覧|en|List of Menteris Besar of Johor|label=首席大臣}}<br /> |leader_name2=[[w:Osman Sapian|オスマンサピアン]]<br /> |sovereignty_type=歴史<br /> |established_event1=[[ジョホール王国]]<br /> |established_date1=[[14世紀]]<br /> |established_event2=[[イギリス]]の支配<br /> |established_date2=1914年<br /> |established_event3=マラヤ連邦加入<br /> |established_date3=1948年<br /> |established_event4=<br /> |established_date4=<br /> |area=19,984<br /> |population_estimate=3,300,000<br /> |population_estimate_year=2007年<br /> |population_estimate_rank=1 <br /> |population_density=137.6<br /> |population_density_rank=1<br /> |HDI=0.798<br /> |HDI_year=2000年<br /> |HDI_category= {{Color|#fc0|中}}<br /> |national_calling_code=06&lt;br /&gt;07&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> |national_postal_code=80xxx ~ 86xxx<br /> |license_plate=J<br /> |website=http://www.johor.gov.my<br /> |footnotes=&lt;sup&gt;1&lt;/sup&gt; ジョホール・バル内の町&lt;br /&gt;&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt; Muar, Ledang 以外の場所<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ジョホール州&#039;&#039;&#039;(ラテン文字: &#039;&#039;Johor&#039;&#039;, [[ジャウィ文字|ジャウィ]]: &#039;&#039;جوهر&#039;&#039; )は、[[マレーシア]]の半島部最南部に位置する州である。<br /> <br /> ==概要==<br /> 州都は[[ジョホール・バル]]である。州全体の面積は約2万平方キロメートル、人口は約280万人。中国式には「柔佛」と記される。<br /> <br /> [[ジョホール海峡]]を挟んだ隣国[[シンガポール]]とは[[ジョホール・シンガポール・コーズウェイ]](Causeway)で結ばれているが、交通渋滞が激しいため、[[ジョホール・バル|ジョホール・バル郡]]西部の[[タンジュン・クパン]]からも[[シンガポール]]西部と結ぶ橋([[マレーシア・シンガポール・セカンドリンク]])が[[1998年]]に完成。<br /> <br /> マレーシアの州のなかで唯一、独自の軍隊を持つ&lt;ref&gt;{{Cite web|date=|url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170814-00000040-jij_afp-int|title=マレーシアのイスラム王侯の一人娘、オランダ人男性と豪華結婚式|accessdate=2017-08-16}}&lt;/ref&gt;。<br /> == 歴史 ==<br /> [[1528年]]、[[ジョホール王国]]が成立。<br /> <br /> == 州政府の地域行政区分 ==<br /> *[[ジョホール・バル郡]](Daerah Johor Bahru)<br /> *[[クライジャヤ郡]](Daerah Kulai)<br /> *[[ポンティアン郡]](Daerah Pontian)<br /> *[[コタ・ティンギ郡]](Daerah Kota Tinggi)<br /> *[[クルアン郡]](Daerah Kluang)<br /> *[[スガマッ郡]](Daerah Segamat)<br /> *[[ルダン郡]](Daerah Tangkak)<br /> *[[ムアール郡]](Daerah Muar)<br /> *[[バトゥ・パハッ郡]](Daerah Batu Pahat)<br /> *[[メルシン郡]](Daerah Mersing)<br /> <br /> ==地方自治体==<br /> *特別市<br /> **[[ジョホール・バル|ジョホール・バル特別市]](Majlis Bandaraya Johor Bahru)<br /> **[[イスカンダル・プテリ市]](Majlis Bandaraya Iskandar Puteri)<br /> <br /> *市<br /> **[[バトゥ・パハッ|バトゥ・パハッ市]](Majlis Perbandaran Batu Pahat)<br /> **[[クルアン|クルアン市]](Majlis Perbandaran Kluang)<br /> **[[クライ (ジョホール州)|クライ市]](Majlis Perbandaran Kulai)<br /> **[[ムアール|ムアール市]](Majlis Perbandaran Muar)<br /> **[[パシール・グダン|パシール・グダン市]](Majlis Perbandaran Pasir Gudang)<br /> **[[スガマッ|スガマッ市]](Majlis Perbandaran Segamat)<br /> <br /> *町<br /> **[[コタ・ティンギ|コタ・ティンギ町]](Majlis Daerah Kota Tinggi)<br /> **[[ラビス|ラビス町]](Majlis Daerah Labis)<br /> **[[メルシン|メルシン町]](Majlis Daerah Mersing)<br /> **[[ポンティアン|ポンティアン町]](Majlis Daerah Pontian)<br /> **[[シンパン・ルンガム|シンパン・ルンガム町]](Majlis Daerah Simpang Renggam)<br /> **[[タンカッ|タンカッ町]](Majlis Daerah Tangkak)<br /> **[[ヤン・ペン|ヤン・ペン町]](Majlis Daerah Yong Peng)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[マレー作戦]]<br /> * [[ジョホール・サーキット]]<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> {{commons category|Johor}}<br /> * [http://www.johortourism.com.my/ ジョホール州観光局] {{en icon}}<br /> <br /> <br /> {{マレーシアの州}}<br /> {{DEFAULTSORT:しよほおる}}<br /> [[Category:マレーシアの州]]<br /> [[Category:ジョホール州|*]]<br /> {{malaysia-stub}}</div> 42.145.121.253 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国 2018-06-19T13:28:06Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2018年6月|ソートキー=うくらいなそひえとしやかいしゆききようわこく}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = ウクライナ・ソビエト社会主義共和国<br /> |日本語国名 = ウクライナ・ソビエト社会主義共和国<br /> |公式国名 = &#039;&#039;&#039;{{Lang|uk|Українська Радянська Соціалістична Республіка}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;{{Lang|ru|Украинская Советская Социалистическая Республика}}&#039;&#039;&#039;<br /> |建国時期 = [[1919年]]<br /> |亡国時期 = [[1991年]]<br /> |先代1 = ウクライナ・ソビエト共和国<br /> |先旗1 = Flag_of_Ukrainian_People&#039;s_Republic_of_the_Soviets.svg<br /> |先代2 = ウクライナ人民共和国<br /> |先旗2 = Flag of Ukrainian People&#039;s Republic 1917.svg<br /> |先代3 = ホロードヌィイ・ヤール共和国<br /> |先旗3 = Flag of Ukraine.svg<br /> |先代4 = 自由地区<br /> |先旗4 = RPAU flag.svg<br /> |次代1 = ソビエト連邦<br /> |次旗1 =Flag of the Soviet Union (1922–1923).svg<br /> |次代2 = ウクライナ共和国 (1991年-1996年)<br /> |次旗2 = Flag of Ukraine (1991-1992).svg<br /> |国旗画像 = Flag of Ukrainian SSR.svg<br /> |国旗リンク = <br /> |国旗説明 =<br /> |国旗幅 =<br /> |国旗縁 =<br /> |国章画像 =Coat of arms of Ukrainian SSR.svg<br /> |国章リンク = [[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国章|国章]]<br /> |国章説明 =<br /> |国章幅 =<br /> |標語 = {{lang|uk|Пролетарі всіх країн, єднайтеся!}}&lt;br /&gt;([[万国の労働者よ、団結せよ!|万国の労働者よ、団結せよ!]])<br /> |国歌名 = ウクライナ・ソビエト社会主義共和国国歌<br /> |国歌追記 =<br /> |位置画像 = Soviet Union - Ukraine.svg<br /> |位置画像説明 = 1954年以降の領土<br /> |公用語 =[[ウクライナ語]]&lt;br /&gt;[[ロシア語]]<br /> |首都 =[[ハルキウ]]&lt;small&gt;([[1934年]]まで)&lt;/small&gt;&lt;br /&gt;[[キエフ]]&lt;small&gt;(1934年から)&lt;/small&gt;<br /> |元首等肩書 = 指導者&lt;small&gt;([[#指導者|注1参照]])&lt;/small&gt;<br /> |元首等年代始1 = 1919年5月30日<br /> |元首等年代終1 = 1919年11月17日<br /> |元首等氏名1 = [[スタニスラフ・コシオール]]<br /> |元首等年代始2 = 1990年6月22日<br /> |元首等年代終2 = 1991年9月1日<br /> |元首等氏名2 = {{仮リンク|スタニスラフ・グレチコ|ru|Гуренко, Станислав Иванович}}<br /> |首相等肩書 = [[ウクライナの首相|首相]]&lt;small&gt;([[#首相|注2参照]])&lt;/small&gt;<br /> |首相等年代始1 = 1919年1月16日<br /> |首相等年代終1 = [[1923年]]7月15日<br /> |首相等氏名1 = {{仮リンク|フリスチアン・ラコフスキー|en|Christian Rakovsky}}<br /> |首相等年代始2 = 1990年11月14日<br /> |首相等年代終2 = 1991年8月24日<br /> |首相等氏名2 = {{仮リンク|ヴィトリド・フォーキン|ru|Фокин, Витольд Павлович}}<br /> |面積測定時期1 =1989年<br /> |面積値1 =603,700<br /> |人口測定時期1 =1989年<br /> |人口値1 =51,706,746<br /> |変遷1 = 成立<br /> |変遷年月日1 =1919年1月6日<br /> |変遷2 =[[ソビエト連邦]]に加盟<br /> |変遷年月日2 =[[1922年]]12月30日<br /> |変遷3 =[[ソ連崩壊]]により[[ウクライナ共和国 (1991年-1996年)|ウクライナ共和国]]として独立<br /> |変遷年月日3 =1991年8月24日<br /> |通貨 = [[ソビエト連邦ルーブル]]<br /> |時間帯 = +2<br /> |夏時間 =<br /> |時間帯追記 =<br /> |ccTLD =<br /> |ccTLD追記 =<br /> |国際電話番号 =<br /> |国際電話番号追記 =<br /> |現在 = {{UKR}}&lt;br /&gt;{{RUS}}&lt;small&gt;([[2014年クリミア危機|論争あり]])&lt;/small&gt;<br /> |注記 = {{Anchors|指導者}}注1: 国家指導者の肩書は、[[1920年]]までは&#039;&#039;&#039;ウクライナ共産党中央委員会書記&#039;&#039;&#039;、1920年から[[1921年]]までは&#039;&#039;&#039;中央委員会第一書記&#039;&#039;&#039;、1921年は&#039;&#039;&#039;中央委員会執行書記&#039;&#039;&#039;、1921年から[[1925年]]までは&#039;&#039;&#039;第一書記&#039;&#039;&#039;、1925年から1934年までは&#039;&#039;&#039;中央委員会書記長&#039;&#039;&#039;、それ以降は&#039;&#039;&#039;中央委員会第一書記&#039;&#039;&#039;。&lt;br /&gt;{{Anchors|首相}}注2: 首相の肩書は、[[1946年]]までは&#039;&#039;&#039;[[人民委員会議]]議長&#039;&#039;&#039;(1919年から1920年の一時期は&#039;&#039;&#039;全ウクライナ革命委員会委員長&#039;&#039;&#039;)、それ以降は&#039;&#039;&#039;閣僚会議議長&#039;&#039;&#039;。<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ウクライナ・ソビエト社会主義共和国&#039;&#039;&#039;(ウクライナ・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく)は、かつて[[ウクライナ]]に存在した[[社会主義国家]]である。[[1917年]][[12月25日]]に成立した[[ウクライナ人民共和国_(ソビエト派)|ウクライナ人民共和国]]がその祖となっており、その後、いくつかのソビエト共和国を併合し、以後[[1991年]]8月24日まで存続した。<br /> <br /> == 国名 ==<br /> [[ウクライナ語]]で {{Lang|uk|«Українська Радянська Соціалістична Республіка»}}、[[ロシア語]]で{{Lang|ru|«Украинская Советская Социалистическая Республика»}}。<br /> <br /> 名称の {{Lang|uk|«Радянська»}} は「[[ソビエト]]の」と訳されるが、「[[ラーダ]]の」と同義語である。通常、歴史・政治分野などに関する日本語文献では、[[ウクライナ中央ラーダ]]や[[ヴェルホーヴナ・ラーダ]]のようなウクライナ独立派の組織は「ラーダ」、ソビエト側のものは原語は同じでも「ソビエト」と訳し分けることになっている。「ウクライナ・ラーダ社会主義共和国」とは、通常訳さない。<br /> <br /> なお、[[1919年]]から[[1937年]]までの間は&#039;&#039;&#039;ウクライナ社会主義ソビエト共和国&#039;&#039;&#039; {{Lang|uk|«Українська Соціалістична Радянська Республіка»}}, {{Lang|ru|«Украинская Социалистическая Советская Республика»}} と称していた。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 革命 ===<br /> {{main|{{仮リンク|ウクライナ革命|uk|Українська революція}}}}<br /> [[1917年]]3月に[[ロシア]]の[[サンクトペテルブルク|ペトログラート]]で[[2月革命_(1917年)|二月革命]]が起こると、ウクライナでは[[ロシア帝国|帝政時代]]より広範囲の自治と自由を求めて各派が集まり、中央政治機関となる[[ウクライナ中央ラーダ]]が構成された。中央ラーダは新たな「ロシア連邦」のもとでのウクライナとロシアの協力を求め、ペトログラートの[[ロシア臨時政府|臨時政府]]と交渉に当たった。その結果、夏には中央ラーダの要求は臨時政府によって認められ、ウクライナは「ロシア連邦」のもとでの自治権を獲得した。しかし、その後[[ボリシェヴィキ]]が臨時政府を武力で倒してロシアの権力を掌握する[[10月革命_(1917年)|十月革命]]が発生すると、中央ラーダはこれを認めず[[ウクライナ人民共和国]]の成立を宣言した。これ以降、ウクライナの併合を図るソビエト政府と自治を守ろうとする中央ラーダとの間に激しい戦争が開始されることとなった。<br /> <br /> ボリシェヴィキは、中央ラーダを傀儡化するため議会をボリシェヴィキ派で乗っ取ることを企図し党員を送り込んだが、当時ウクライナでは急進的で暴力的な都市政党であるボリシェヴィキは人気がなく、その議席は1割に満たなかった。ボリシェヴィキの支持層は都市の[[労働者]]が中心であり、またボリシェヴィキはロシアからの外来者という形でウクライナに現れたということも、多くが[[農民]]であった[[ウクライナ人]]の支持を失う要因となった。当時、ウクライナの都市と農村の隔たりはほとんど外国であるといってよいほど大きなものであった。また、ボリシェヴィキが農民を「農民問題」として敵視・蔑視していたことや、[[ロシア人]]が伝統的にウクライナ人を軽んじてきたこともウクライナ人をしてロシアからの外来者ボリシェヴィキを嫌わせる原因となった。<br /> <br /> 中央ラーダの乗っ取りに失敗したボリシェヴィキは、これに対抗して新たに[[ウクライナ人民共和国_(ソビエト派)|ウクライナ人民共和国]]を創設した。この国家は、ウクライナにおけるボリシェヴィキ派の受け皿となる組織として建設された。その目的は、[[民族主義]]的・[[民主主義]]的(ボリシェヴィキの指摘によれば「[[ブルジョワ]]的」)な国家であるウクライナ人民共和国を打倒し、ウクライナをボリシェヴィキの勢力下に置くことであった。共和国の首都は[[東ウクライナ]]の都市[[ハルキウ]]に置かれ、国民の多くは同地方都市部に居住するロシア人や[[ユダヤ人]]であった。その後、ボリシェヴィキ勢力は徐々に農村部にも浸透していき、また煽動工作による中央ラーダ派の切り崩しも順調に進んでいった<br /> <br /> 建国当初は、ウクライナ人民共和国は必ずしもロシアの[[傀儡政権|傀儡国家]]というわけではなく独自の行動をとっていたが、徐々にロシアの強い影響下に置かれるようになっていった。<br /> <br /> === 内戦 ===<br /> ウクライナ人民共和国の建国と同時に、ボリシェヴィキ政府は[[ウラジーミル・レーニン]]と[[レフ・トロツキー]]の連名でウクライナ人民共和国政府に対し[[最後通牒]]を突きつけた。中央ラーダは赤軍のウクライナ領内の通行の自由などのボリシェヴィキ側の要求を拒否した。ロシアの赤軍は、[[ウクライナ人民共和国軍|中央ラーダ軍]]との全面的な戦闘に突入した。<br /> <br /> ボリシェヴィキと中央ラーダの決定的な対立により、本来は[[ドン川|ドン]]戦線へ派遣される予定であった[[ヴラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ]]将軍の革命遠征軍が急遽ウクライナ方面へ振り向けられることとなった。1917年12月上旬、革命遠征軍はアントーノフ=オフセーエンコの指揮のもとウクライナへ侵入した。年の明けた[[1918年]]1月初めには、[[ミハイール・ムラヴィヨーフ]]の総指揮のもと赤軍はウクライナ人民共和国の首都[[キエフ]]に向かって進攻を開始した。一方、中央ラーダは[[1月9日]]に「[[第4次ウニヴェルサール]]」を発令し、ウクライナ人民共和国がロシアから分離し、完全な独立国となることを宣言した。<br /> <br /> 開戦したものの、革命で優秀な軍人が四散してしまったため、軍隊は双方とも即席のものであった。そのため、双方ともあまり優秀な[[軍隊]]であるとは言えず戦闘は一進一退であったが、宣伝活動や煽動工作はボリシェヴィキの方が上回っており、中央ラーダ軍は各地で崩壊を来すようになった。その結果、ロシア・ウクライナ赤軍は中央ラーダ軍を各地で破り、[[1月14日]]にキエフ近郊で行われた[[クルーティの戦い]]で赤軍の勝利が決定的となった。これに平行し、キエフ市内でもボリシェヴィキに煽動された勢力が武器庫を根拠地に武装蜂起を敢行した。[[1月23日]]にキエフの[[ドニエプル川|ドニエプル]]左岸(新市街)に到達した赤軍は、よく[[1月24日]]キエフ中心市街に突入し、2日に亙る[[市街戦]]の末中央ラーダ軍を粉砕した。こうして、一時赤軍はキエフを占領するにまで到った。<br /> <br /> 赤軍はロシアからの遠征軍であり、構成員はほとんどがロシア人であった。彼らは横暴な「占領軍」として振る舞い、ウクライナ人の目には帝政時代同様の植民地の領主として映った。ソビエト化が自ら求めたのではなく占領者によって外部から持ち込まれたものであったということは、ウクライナがロシア帝国に組み込まれていった過程を想起させるものであり、ウクライナ人にとっては、ウクライナのソビエト化はウクライナの再植民地化にほかならないというべきものとなった。<br /> <br /> ムラヴィヨーフの率いる赤軍は、キエフ占領の2週間に街頭や住居でウクライナ人を無差別に逮捕、処刑した。少なくとも、2000人のウクライナ人が殺害されたとされる。こうした暴虐の結果、ウクライナ人の間の反ボリシェヴィキ感情は決定的なものとなった。一時はキエフを占領した赤軍であったが、その後すぐに[[ドイツ帝国]]軍と連合した中央ラーダ軍の巻き返しに遭い、キエフの町を破壊しつくしたあと市街から撤退し近隣の森林地帯に身を潜めた。<br /> <br /> 1918年[[2月9日]]には、ウクライナ人民共和国と[[中央同盟国]]との間に[[ブレスト=リトフスク条約]]が結ばれ、[[ドイツ軍|独]]・[[オーストリア=ハンガリー帝国軍|墺軍]]と合同した[[ウクライナ人民共和国軍]]は破竹の勢いでその領土を回復、ボリシェヴィキはウクライナ領内から駆逐されていった。<br /> <br /> 3月にはロシア共和国の首都は[[モスクワ]]へ移転した。[[3月19日]]には、ウクライナ領内にあったすべてのソビエト共和国を[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]下の&#039;&#039;&#039;[[ウクライナ・ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;に結集することが決定された。これに伴い、それまでのウクライナ人民共和国、[[ドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国]]、[[オデッサ・ソビエト共和国]]、[[タヴリダ・ソビエト社会主義共和国]]がウクライナ・ソビエト共和国の下に統合された。しかし、これらの領土は5月までにはすべてウクライナ人民共和国軍によって奪取され、ウクライナ・ソビエト共和国政府はロシア領内へ逃れた。<br /> <br /> 一方、キエフの中央ラーダは[[4月29日]]に[[ヘーチマンの政変]]によって解散させられ、かわって[[君主制]]国家[[ウクライナ国]]が建てられた。しかし、軍事的後ろ盾であったドイツ軍が[[11月11日]]に[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]へ降伏すると、ウクライナ国は風前の灯となった。中央ラーダの残党によって組織された[[ディレクトーリヤ]]軍は、ドイツ軍と協定を結んだ上でキエフを再占領し、ウクライナ国は首班の[[パウロー・スコロパードシクィイ]]が亡命して消滅した。<br /> <br /> === 国家の建設 ===<br /> 復興したウクライナ人民共和国に対抗するため、ボリシェヴィキはそれまでの政策を改め、ウクライナ人懐柔策をアピールするため国家体制を改めることとした。まず、[[1919年]][[1月6日]]には「ウクライナ労農臨時政府」 ({{lang|uk|Тимчасовим робітничо-селянським урядом України}}) を立ち上げ、国号を「&#039;&#039;&#039;ウクライナ社会主義ソビエト共和国&#039;&#039;&#039;」に改めた。[[3月10日]]には、ウクライナ社会主義ソビエト共和国の独立が宣言され、これに伴い同国はロシア共和国との軍事同盟を結んだ。<br /> <br /> 8月には、ボリシェヴィキは[[アントーン・デニーキン]]将軍の[[南ロシア軍]]や[[シモン・ペトリューラ]]のディレクトーリヤ軍に破れ、ウクライナのほとんどを失った。ボリシェヴィキはウクライナ人勢力の取り込みを図るためさまざまな懐柔政策を練った。その結果、ウクライナ社会主義ソビエト共和国ではウクライナ語が公に広く使用されることが求められ、ウクライナ人が国家の高い地位につけられるようになった。また、ウクライナ人農民からの抵抗が強かった土地の[[集団化]]も一時見送られた。<br /> <br /> === ボロチビスト派 ===<br /> 内戦期に積極的にロシア・ソビエトに協力して戦ったウクライナ人勢力に、[[ボロチビスト]]があった。<br /> <br /> ボロチビストは[[ウクライナ社会革命党]](ウクライナ・[[エスエル]])の左派として結成されたもので、[[19世紀]]末以降ウクライナで多数結成されていたウクライナ人諸党派の中ではとりわけロシアのボリシェヴィキに近く、ウクライナにおいてもロシアにおけるのと同様のソビエト革命を遂行しようと考えていた。また、彼らはロシアのボリシェヴィキがウクライナへ進攻することには強く反対しており、ウクライナのソビエト革命はウクライナの共産主義者によってなされなければならないとしていた。ボロチビストはウクライナが独立した社会主義共和国となり、独立したウクライナ赤軍を形成することを目指す[[民族共産主義]]者であった。ボロチビストは、1919年夏に他のウクライナ人左派とともにボロチビスト派のウクライナ共産党を結成した。これはロシアのボリシェヴィキやその流れを汲むボリシェヴィキ派のウクライナ共産党とは異なる、真にウクライナの共産主義勢力を代表するものであるとしていた。ボロチビスト派はウクライナの代表として独自に[[コミンテルン]]に参加することをコミンテルンへ要請したが、[[1920年]]2月に拒否回答が突きつけられた。彼らは他のウクライナ諸派のように反ボリシェヴィキ戦争に加わることを嫌い、コミンテルンの指示に従い党を解散してボリシェヴィキに合流することを決定した。<br /> <br /> なお、のちの[[大粛清]]時代に真っ先にその犠牲となったのは元ボロチビストであった。<br /> <br /> === 赤軍の勝利 ===<br /> [[ファイル: Europe location UkrSSR 1922.png|thumb|1922年におけるウクライナの領土]]<br /> 1919年6月には、[[クリミア・ソビエト社会主義共和国]]が、9月には[[オデッサ]]を首都とする[[ベッサラビア・ソビエト社会主義共和国]]がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に統合された。また、[[1920年]]9月には[[リヴィウ|リヴォフ]]を首都とする[[ガリツィア・ソビエト社会主義共和国]]も統合された。これらの領土は、すぐにウクライナ社会主義ソビエト共和国へ譲渡された。<br /> <br /> 1919年秋には150万であった赤軍勢力は、翌1920年には350万近くに膨れ上がっていた。赤軍は[[ポーランド]]軍には苦杯を舐めたものの、ペトリューラ軍、南ロシア軍を次々と破り、さらには各派の[[パルチザン]]も制圧した。最終的に、赤軍へ協力してきた[[アナキズム|無政府主義者]]の[[ネストル・マフノ]]の支持者も殲滅し、[[1921年]]には赤軍の勝利は確定したものとなった。<br /> <br /> 1920年の[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]でポーランドとの講和が成立した。ポーランドはペトリューラのウクライナ人民共和国と同国政府をウクライナを代表する唯一の政府と認め、単独講和は結ばないという協定を結んでいたが、これを破りロシア・ウクライナ両ソビエト政府と講和条約の締結に到った。[[ポーランド軍]]は[[キエフ攻勢]]ののちキエフを失っていたものの全体的には赤軍に対して優位に立っており、ポーランドはその軍事的優位を利用して東[[ガリツィア|ハルィチナー]]など多くの領土を得た。また、[[西ウクライナ]]を中心に一部のウクライナ領土が[[チェコスロバキア|チェコスロヴァキア]]領や[[ルーマニア]]領となった。残る[[中部ウクライナ]]([[ドニエプル・ウクライナ]])、東ウクライナ(旧[[ヘーチマン国家]]領や[[スロボダ・ウクライナ]])、[[南ウクライナ]](旧[[新ロシア]])などがウクライナ社会主義ソビエト共和国領となった。<br /> <br /> 一方、[[1921年]][[10月18日]]には、[[クリミア自治ソビエト社会主義共和国]]のロシア帰属が決定された。[[1922年]]には、[[ロシア社会主義連邦ソビエト共和国]]や[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシア社会主義ソビエト共和国]]、[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国]]とともに[[ソビエト連邦]]を結成した。<br /> <br /> === ウクライナ化政策 ===<br /> {{main|ウクライナ化}}<br /> [[1920年代]]、ウクライナでは内戦期に生じたウクライナ人のソビエトに対する悪感情を抑えるため、「ウクライナ化」と呼ばれる懐柔政策が採られた。[[1923年]]にはソ連全体で「土着化」政策が採用されたが、その最重要標的のひとつがウクライナであった。ウクライナ化政策は、1923年から[[1933年]]まで党の公式路線とされた。<br /> <br /> これまでのウクライナ共産党はロシア人やユダヤ人が幹部を務めていたが、ウクライナ文化に無関心な彼らに代わり、ウクライナ人が幹部へ登用されるようになった。しかし、これはポーズであり、ウクライナ人は概して低いポストに甘んじていた。一方、帝政時代からたびたび弾圧されてきたウクライナ語の使用も、この時期には奨励されるようになった。政府職員にはウクライナ語が必修となった。また、公刊物はウクライナ語によることとされた。公務も、ウクライナ語で行われるようになった。教育にも力が入れられ、この時代、識字率の上昇は著しかった。また、教育もウクライナ語で行われた。<br /> <br /> ウクライナ文化やウクライナ文学が隆盛を極めたこの時期は、ウクライナの「文化[[ルネサンス]]」と呼ばれている。中央ラーダの[[大統領]]であった[[ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ]]ら多くの亡命ウクライナ人学者や文化人が帰国し、各々の研究に打ち込んだ。<br /> <br /> ウクライナ語の研究では、[[レーシャ・ウクラインカ]]らの主張に基づき、ウクライナ語を豊かにするとしてウクライナ語標準語に[[ガリツィア]]の語彙が取り入れられた。ウクライナ語標準語は、もともと[[ドニプロペトロウシク]]など中部ウクライナの方言をもとに定められていた。ハリチナーの要素をウクライナ語から排除しないとの方針は、ウクライナ語の中に[[西ヨーロッパ|西欧]]的な要素をより多く取り入れることとなった。この時期の研究の結果、初めての公式なウクライナ語正書法となる「1927年正書法」が完成された。<br /> <br /> [[ウクライナ正教]]も奨励された。1920年に設立された[[ウクライナ独立正教会]]では、[[典礼]]に際し[[古代教会スラヴ語|教会スラヴ語]]にかわってウクライナ語が使用された。また、1921年にはキエフおよび全ウクライナ[[府主教]]も任命された。<br /> <br /> === 農業集団化 ===<br /> [[ファイル:GolodomorKharkiv.jpg|thumb|230px|ウクライナ大飢饉([[ホロドモール]])により餓死した市民の遺体]]<br /> しかしながら、[[1927年]]に[[ヨシフ・スターリン]]が実権を握ると、この状況は一転することとなった。スターリンは農民を革命の克服すべき対象として捉えており、農民国家でかつ民族主義の強いウクライナに対して大いなる疑念を抱いていた。加えて、スターリンの採った「[[一国社会主義]]」の立場から、強引な近代化と工業化が進められた。特に「[[五カ年計画]]」で推し進められた農業の集団化は、ウクライナに深刻な事態を齎すこととなった。<br /> <br /> [[1928年]]から[[1932年]]にかけて行われた[[第一次五カ年計画]]では、ウクライナは重点地域となっていた。ウクライナでは急速な工業化が行われ、[[ドンバス]]など東ウクライナから中部ウクライナにかけてその発展は目覚しかった。工業化の結果、それまで主として農村に生活していたウクライナ人の都市部への移住が発生した。都市におけるウクライナ人人口は、[[1926年]]に6パーセントであったものが[[1939年]]には30パーセントとなっていた。<br /> <br /> 計画のもうひとつの軸となったのが、[[農業集団化]]であった。安い食料を労働者の居住する都市へ供給するため、また輸出へ食糧を回すため、国家による統制を行い易い自営農家を国営農場([[ソフホーズ]])や集団農場([[コルホーズ]])に集団化し、農民を土地から切り離すという政策が採られたのである。農民にとって土地から切り離されるということは、自らの[[アイデンティティ]]を喪失することにほかならなかった。ウクライナの農民はこの集団化にできうる限りの手段で対抗したが、その結果多くの者が[[シベリア]]送りになったり高率な税によって苦しめられたり、また土地を所有する自作農である[[クラーク_(農家)|クラーク]]は、農民階級のブルジョワで人民の敵であるとして土地を没収され、収容所送りになったり処刑されたりした。また、この時期に抵抗する農民が所有する家畜を屠殺するなどしたため、その半数が失われた。<br /> <br /> ウクライナでは、こうした急激な集団化のため1932年から1933年にかけて大飢饉([[ホロドモール]])が発生した。耕作態勢の混乱で不作に陥ったところに、モスクワ政府は政府調達[[ノルマ]]として収穫物の大半を収奪していったのである。政府による食糧の収集は強引なもので、ウクライナではこの時期に一説に500万人が餓死し、農村では村が丸ごと全滅したケースもあった。<br /> <br /> 現代では、この飢饉は強引な集団化や穀物調達によって人為的に起こされたものであると評価されており、スターリンによるウクライナ民族主義への弾圧の一環であるとも言われている。<br /> <br /> === 反ウクライナ化政策 ===<br /> スターリンの権力掌握は、1920年代に行われたウクライナ化政策も劇的に変更させることとなった。1933年の大飢饉を受けて、共産党はウクライナ化には「行き過ぎ」があったとして路線の変更を命じ、すなわち「ロシア化」が導入された。こうした中で、1920年代に活躍した[[インテリ]]や文化人はなべて弾圧を受け、多くの者が再び亡命者となった。フルシェフスキイは、カフカースへ流刑され、[[1934年]]に流刑先の[[キスロヴォツク]]でこの世を去った。[[1930年代]]中盤には、ウクライナの[[民族楽器]]を弾く[[コブザール]]([[コブザ]]奏者)や[[バンドゥリースト]]([[バンドゥーラ]]奏者)が大量に殺害された。<br /> <br /> ウクライナをはじめ、ソ連全域で教育・文化は一律化された。それはすなわちロシア化であった。ウクライナでは再びロシア語が必修となり、ウクライナ語出版物も規制されるようになった。また、ウクライナ語の修正も行われ、いくつかの文字が変更・廃止されたり、ロシア語から語彙や文法が取り入れられるなどした。廃止されたのは、[[1927年]][[正字法]]で認められていた「{{lang|uk|[[Ґ]]}}」(ゲー)である。この文字はウクライナ語独自の文字で、ロシア語には存在しないものであったことから廃止となった。その結果、現代に到るまでこの文字はあまり使われることがなく、「ゲー」という発音もウクライナでは「ヘー」と混同されている。語彙の変更は、西欧のように[[ギリシャ語]]発音に近い表記をしていたものがロシア語風に変更されたりしたことであった。文法的には、例えばロシア語で廃止されていた[[呼格]]は冷遇された。全体的に、1930年代以降ウクライナ語はロシア語的な東部方言に近いものとなっていった。ロシア語と異なる正字法(文字)・語彙・文法は、「[[労働争議#サボタージュ|サボタージュ]] 」や「[[分離主義]]的」であるとして排除されていった。<br /> <br /> ウクライナ共産党員への粛清も凄惨を極めた。ソ連での大粛清に先立ち、1932年頃からウクライナでは粛清が始められた。1933年の飢饉の責任がウクライナ共産党員に押し付けられ、彼らに対する批判が公然と行われるようになった。また、1920年代にウクライナ化政策を推進した中心的な党員が皆自殺したり、あるいは逮捕されその後二度と姿を現さなかった。1933年から1934年までの1年間で、ウクライナ共産党は10万の党員を失ったとされる。1930年代後半になると、ウクライナ政府の閣僚17人全員が逮捕され、処刑された。ボロチビスト出身の[[パナース・リューブチェンコ]]首相は自殺した。ウクライナ共産党員の内17万人が粛清された。こうして、ウクライナの自治組織は壊滅した。かわって投入されたのは、スターリンの部下たちであった。<br /> <br /> === 大祖国戦争期 ===<br /> [[1937年]]、[[憲法]]の承諾のもとで国名の単語の順序が入れ替えられ、国号は正式に「&#039;&#039;&#039;ウクライナ・ソビエト社会主義共和国&#039;&#039;&#039;」となった。翌[[1938年]]には、スターリンの側近である[[ニキータ・フルシチョフ]]がウクライナ共産党第一書記として送られてきた。<br /> <br /> 共和国の[[首都]]は、1918年から[[1934年]]まではハルキウに置かれていた。これは、[[キエフ大公国|キエフ・ルーシ]]以来の中心都市キエフが[[ロシア内戦]]期に[[ウクライナ民族主義]]の中心となったため、同地を避けての措置であった。1934年、首都はキエフに移された。[[戦間期]]において、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国では[[東ウクライナ]]、特に[[ドンバス]]を中心に重工業が発展した。また、[[ヨーロッパ]]の中ではもっとも土地の豊かなウクライナはソ連の食糧生産の中心地ともなった。<br /> <br /> [[1939年]]の[[ナチス・ドイツ]]の[[ポーランド侵攻]]によりポーランドへ侵攻した赤軍は、[[リヴィウの戦い_(1939年)|リヴィウの戦い]]に勝利するなどして[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]で失ったウクライナの領土の内ポーランド領となっていた部分をすべて取り返した。これらは、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ組み込まれた。<br /> <br /> [[大祖国戦争]]([[独ソ戦]])の期間には、ウクライナはもっとも激しい戦闘地のひとつとなり、[[第二次世界大戦]]中もっとも多くが死亡した地域となった。一部のウクライナ人は反ソ連組織を作りパルチザン活動を行ったが、それに対しソ連政府はウクライナの南方戦線を「[[ウクライナ戦線]]」と改名しウクライナ人を前線へ投入した。多くの町がソ連軍やドイツ軍によって破壊された。<br /> <br /> === 戦後 ===<br /> 戦後、ウクライナは目覚しい復興を果たし、かつての繁栄を取り戻した。天然資源関係以外のほぼすべての産業がウクライナで発展し、ウクライナは再びロシアの繁栄に欠くべからざるものとなっていった。なおウクライナは[[国際連合]]創設に携わり、ソ連とは別の[[ソビエト連邦構成共和国]]として、国連総会に議席を持っていた。このような措置はソ連構成国では、他に[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシア共和国]]があるのみだった。<br /> <br /> [[1954年]]には、ロシアとウクライナが対ポーランド協力を取り決めた[[ペレヤスラフ協定]]締結の300周年記念として、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から[[クリミア半島]]がウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ譲渡された。しかしこれが後の[[2014年クリミア危機]]の原因となる。<br /> <br /> [[1991年]]にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が主権宣言を行うと、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は[[8月24日]]、国家の独立を宣言した。これに伴い、[[ウクライナ共産党]]は解散し、国号も「[[ウクライナ共和国 (1991年-1996年)|ウクライナ共和国]]」を経て、[[ウクライナ]]に改められた。<br /> <br /> {{ウクライナの歴史}}<br /> {{ロシア革命後の国家}}<br /> {{ソビエト連邦構成共和国|state = open}}<br /> {{ソビエト連邦構成自治共和国}}<br /> {{DEFAULTSORT:うくらいなそひえとしやかいしゆききようわこく}}<br /> [[Category:ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|*]]</div> 42.145.121.253 ディエンビエンフーの戦い 2018-06-17T13:32:40Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Battlebox|<br /> battle_name = ディエンビエンフーの戦い<br /> |campaign = 第一次インドシナ戦争<br /> |image = [[File:Victory in Battle of Dien Bien Phu.jpg|280px]]<br /> |caption = ディエンビエンフーで勝利し旗を振るベトナム兵<br /> |conflict = [[第一次インドシナ戦争]]<br /> |date = [[1954年]][[3月13日]] - [[5月7日]]<br /> |place = [[ベトナム]]北西部のディエンビエンフー前進基地<br /> |result = [[File:Flag of North Vietnam (1945-1955).svg|border|25px]] ベトナム民主共和国の勝利<br /> | combatant1 = [[File:Flag of North Vietnam (1945-1955).svg|border|25px]] [[ベトナム民主共和国]]<br /> | combatant2 = {{flagicon|FRA}} [[フランス連合]]<br /> *{{FRA1946}}<br /> *[[ファイル:Flag of South Vietnam.svg|border|25px]] [[ベトナム国]]<br /> |commander1 = [[File:Flag of North Vietnam (1945-1955).svg|border|25px]] [[ヴォー・グエン・ザップ]]&lt;br&gt;[[File:Flag of North Vietnam (1945-1955).svg|border|25px]] [[ホアン・ヴァン・タイ]]<br /> |commander2 = {{Flagicon|FRA}} [[クリスティアン・ド・ラ・クロワ・ド・カストリ]]&lt;br /&gt;{{Flagicon|FRA}} [[ピエール・ラングレ]]&lt;br /&gt;{{Flagicon|FRA}} [[マルセル・ビジャール]]<br /> |strength1 = 4個師団&lt;br /&gt;90,000<br /> |strength2 = 17個大隊&lt;br /&gt;13,000<br /> |casualties1 = 戦死 8,000&lt;br /&gt;負傷者15,000<br /> |casualties2 = 戦死 2,200&lt;br /&gt;捕虜 10,000以上<br /> |}}<br /> [[ファイル:Dien Bein Phu map.png|thumb|300px|1954年3月開戦時のディエンビエンフー。緑の部分が、フランス軍が盆地の中の丘の上に作った陣地(全て女性名)。うち最南部のイザベル陣地は危険なまでに他陣地から離れている。対するベトミン軍は5個師団を盆地を見下ろす北部及び東部の山頂に配置した。]]<br /> &#039;&#039;&#039;ディエンビエンフーの戦い&#039;&#039;&#039;(ディエンビエンフーのたたかい、{{lang-vi|Chiến dịch Điện Biên Phủ}}, [[チュニョ|漢字]]:戰役奠邊府, {{lang-fr|Bataille de Điện Biên Phủ}})とは、[[1954年]]3月から5月にかけて[[フランス領インドシナ]]北西部の[[ディエンビエンフー]]({{lang-vi|Điện Biên Phủ}}, [[チュニョ|漢字]]:奠邊府)で起こった、[[第一次インドシナ戦争]]中最大の戦闘。[[ベトナム人民軍]]と[[フランス軍]]合わせて約1万人の戦死者を出した。同戦争の大きな転機となり、[[フランス]]は[[ベトナム]]撤退を余儀なくされることになる。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> === 仏軍の作戦計画と空挺降下 ===<br /> [[1953年]][[11月]]において、フランス軍はもはや[[紅河デルタ]]地帯を確保するのみで、劣勢は覆しがたくなっていた。しかし一方で、ベトミン軍も広域に展開することを余儀なくされ、兵站上の負担が大きくなっているものとみられていた。後方支援能力に関してはフランス軍が優位であるとみられていたことから、ベトミン正規軍主力を逐次遠隔地に誘引し撃滅することが計画された。この計画における適地として、北西部山岳地帯とラオス平原地帯が選ばれた。<br /> <br /> この計画立案過程で注目されたのが、北西部に位置する[[ディエンビエンフー]]市であった。同市には、旧日本軍が設営した飛行場跡があり、大規模な空中補給と空挺降下が可能で、また、作戦航空機のハノイへの往復路としては限界点でもあった。このことから、まず同市を確保してこれを補給・航空基地とした上で[[ラオス]]北部の[[ルアンパバーン郡]]に進出してここに防御基地を設営することが計画された。<br /> <br /> しかしこの計画はあまりに冒険的と判断され、またディエンビエンフー市一帯は[[インドシナ半島]]北部有数の[[穀倉地帯]]であり、これを確保することで南部の穀倉地帯である紅河デルタに対するベトミン軍の圧力が分散することが期待されたことから、同市が補給・航空基地と防御基地を兼ねることとされた。当初計画を立案したトンキン軍管区司令官([[:en:René Cogny|ルネ・コニー]]少将)は、この計画変更に反対したが、反対は却下された。<br /> <br /> この構想の成算は、以下のような根拠に基づいていた&lt;ref name=&quot;現代の空挺作戦&quot;&gt;{{Cite book|和書|author=田中賢一|year=1986|title=現代の空挺作戦―世界のエアボーン部隊 (メカニックブックス (11))|publisher=原書房|isbn=978-4562017010}}&lt;/ref&gt;。<br /> # 地形と火力面の優位:&lt;br /&gt;ディエンビエンフー市は[[盆地]]地形であり、稜線内に関しては火制できると期待された。また盆地の大きさを考慮すると、[[迫撃砲]]や[[無反動砲]]程度では稜線外から盆地中央部を攻撃することは困難であった。なお、ベトミン軍は輸送手段が限定されているために、これ以上の重火器を投入することは困難であると判断されていた。<br /> # 兵站面の優位:&lt;br /&gt;ベトミン軍は補給能力が貧弱であり、根拠地から離れた同市周辺に大部隊を展開・維持することは困難が予測された。これに対し、フランス軍は航空輸送により補給路を確保しうると期待できた。<br /> <br /> 上記根拠より、ディエンビエンフーの占領を目的とした[[エアボーン]]作戦として、&#039;&#039;&#039;カストール作戦&#039;&#039;&#039;が立案された。ベトミン軍第316師団が北西部に移動していることが判明したことから、機先を制するため、作戦の発動は繰り上げられ、[[1953年]][[11月20日]]、3個空挺大隊が2回に分けて降下した。<br /> <br /> 21日には更に3個大隊が降下、25日には滑走路の再整備が完了&lt;ref name=&quot;現代の空挺作戦&quot;/&gt;し、要塞の構築も進められ&lt;ref group=&quot;脚注&quot;&gt;ディエンビエンフー要塞の建設は、フランスへの援助を通じてベトナムへの介入を強めていたアメリカ、特に[[リチャード・ニクソン]]副大統領の強力なイニシアチブの下で進められた。要塞が完成する直前にはニクソン副大統領自らが現地を訪問し、ジープで走り回りながら構築状況を確認している姿が記録フィルムに残されている。&lt;/ref&gt;、{{仮リンク|アンリ・ナヴァール|fr|Henri Navarre|en|Henri Navarre}}将軍指揮下の精鋭[[フランス外人部隊|外人部隊]]など、歩兵17個大隊、砲兵3個大隊、1万6千にも及ぶ兵力が投入された。司令官としては、[[クリスティアン・ド・カストリ]]({{Lang|en|Christian de Castries}})大佐が補職された。これらの部隊には、分解・空輸された10両の[[M24軽戦車]]も含まれていた。<br /> <br /> === ベトミン軍の対応と包囲戦 ===<br /> 当時、[[ベトナム民主共和国]]人民軍(ベトミン軍)は、ディエンビエンフーに第148独立歩兵連隊を駐屯させていた。同連隊は精鋭として知られていたものの、カストール作戦当日に4個大隊中3個が同地を離れていたため、積極的な戦闘を行ない得なかった。<br /> <br /> しかし、ベトミン軍を率いる[[ヴォー・グエン・ザップ]](武元甲)はこの攻撃を予期しており、ただちに対応行動を開始した。ザップは状況を検討し、適切な圧力を加えることで、フランス軍は[[ライチャウ省]]を放棄し、ディエンビエンフーにおいて[[会戦]]を試みるであろうとの結論に達した。この観測に基づき、11月24日、第148独立歩兵連隊および第316師団はライチャウを、第308、312、351師団はディエンビエンフーを攻撃するよう命令を受けた。<br /> <br /> ライチャウにおける攻撃は11月末より開始されたが、第316師団の到着は、トンキン軍管区司令官([[:en:René Cogny|ルネ・コニー]]少将)に対し、同地の放棄を決心させる決定的な根拠となった。12月9日、フランス軍守備隊は同地より撤退してディエンビエンフーを目指したが、その途上においてベトミン軍の大規模な攻撃を受けて壊乱し、2,100名中、ディエンビエンフーに到着できたのはわずか185名のみであった。<br /> <br /> 一方、ディエンビエンフーにおいては徐々に包囲網が形成されており、12月末、偵察中の第1外人落下傘大隊(1st BEP)が初めてベトミン軍の待ち伏せ攻撃に遭遇した。以後、交戦の頻度が増加し、12月28日には状況視察中であった参謀長が砲火を集中されて戦死するに至った。ベトミン軍は[[ソ連]]・[[中華人民共和国]]から大量の武器・弾薬の援助を受け、昼夜兼行の[[人海戦術]]を用いて大砲・ロケット砲・対空火器を山頂に引き上げ、要塞を見下ろす位置に設置、密かに要塞を包囲していった。また、各師団は主として夜間の徒歩行軍で集結しつつあり、総攻撃までに、歩兵27個大隊、105mm砲20門、75mm砲18門(攻撃中に増勢し、最終的に80門となる)、12.7mm対空機銃100丁、迫撃砲多数が集結した。攻撃に参加したのは総兵力7万名で5個師団、補給物資も多量に集積され、その備蓄は105mm砲弾だけでも15,000発に達していた。<br /> <br /> 供与された武器の中には、接収した[[大日本帝国陸軍]]の[[山砲]]も含まれており、活用されたと言われる。補給には[[自転車タクシー|シクロ]]が活用され、一台あたり300キログラムに達する貨物を輸送した。また山中機動においては、重火器類も分解され、人力担送された&lt;ref name=&quot;現代の空挺作戦&quot;/&gt;。<br /> <br /> 1954年1月31日より、ベトミン軍による散発的な砲撃が開始された。陣地は巧みに秘匿されており、射撃位置を発見することは極めて困難であった。また、フランス軍の偵察隊はほぼ全周において敵陣地と接触し、今や同市が包囲されていることが明らかとなった。本格的な攻撃は3月13日より開始され、以後、56日間に亘って包囲戦を展開した。<br /> <br /> ディエンビエンフー本体より北東方のベアトリス(Beatrice)陣地、続いて最北方のガブリエラ(Gabrielle)陣地がそれぞれ夜間攻撃を受けて陥落。フランス側は反攻を組織し、戦車小隊を含む部隊をそれぞれ送ったが奪回はならなかった。<br /> <br /> [[ファイル:Dien_bien_phu_castor_or_siege_deinterlaced.png|thumb|right|220px|降下するフランス兵]]<br /> 続いて、ベトナム側は塹壕をフランス側陣地の周囲に巡らし、最南方のイザベル(Isabelle)陣地とディエンビエンフー本体との間の交通を遮断した。この頃には北西方のアンヌ=マリー(Anne-Marie)陣地からはフランス軍のベトナム人兵士の脱走が相次ぎ、フランス側は止むをえず拠点を放棄して後退。その後はディエンビエンフー本体を見下ろす東側丘陵でもベトナム側が優位に戦いを進めた。フランス側では滑走路が破壊されていたため、物資の補給を空路からのパラシュート投下に依存していたが、ベトナム側の対空砲火や天候不順のためなかなか届かない状況&lt;ref group=&quot;脚注&quot;&gt;フランス側の補給機はベトナム側の対空砲火を避けるために高空飛行をおこなわねばならず、補給物資が投下目標を外れてベトナム側の陣地内に落ちることもあった。&lt;/ref&gt;で次第に後退を重ねていった&lt;ref group=&quot;脚注&quot;&gt;ディエンビエンフーの戦いで事実上の当事者であったニクソン副大統領は、ディエンビエンフー要塞が包囲されフランス軍が危機に陥った際に、要塞周囲の山岳地帯に集結したベトミン軍と中華人民共和国とソ連の[[軍事顧問|軍事顧問団]]に対する原爆の投下を[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]大統領に進言するが、冷たく拒絶された事を、自著『ノー・モア・ヴェトナム』(講談社, 1986年, ISBN 4-06-202446-2)に記している。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 過少な投入兵力に悩むフランス軍は低地に小さく全周陣地を作ったため、[[雨季]]に入ると腰まで泥水につかる劣悪な環境を忍びつつ懸命に陣地構築に勤めたが、各陣地は決戦に備えて大量に養成されていた人民軍正規部隊の[[擲弾兵#ベトナムの擲弾兵達|擲弾兵]]による突撃と機関銃掃射に晒され、滑走路の破壊と喪失に伴う物資の途絶に悩まされ、植民地出身兵士の多くが戦意を喪失し、5月7日に要塞は陥落した。<br /> <br /> 2万人強のフランス軍部隊のうち、少なくとも2,200人が戦死し、1万人以上が[[捕虜]]となった。10万人以上とみられる人民軍のうち、8,000人が戦死し、15,000人が負傷した&lt;ref group=&quot;脚注&quot;&gt;ディエンビエンフーの戦いでは、フランス本国出身者、植民地、外人部隊などの兵士が捕虜となったが、ベトミン側は当初これらの捕虜の存在を秘匿し、フランスとの交渉での取引材料とし、[[ジュネーヴ協定]]の交渉過程でフランス政府からの[[身代金]]の支払いと引き換えでの送還が実現した。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 和平会談への影響 ===<br /> この一戦は[[ジュネーヴ]]和平会談の行方に大きく影響を与え、7月21日の[[ジュネーヴ協定]]締結と[[インドシナ半島]]からのフランスの全面撤退へとつながった&lt;ref group=&quot;脚注&quot;&gt;捕虜問題についてのベトミン側の姿勢は、フランス政府に撤退後の南部メコンデルタ地域のフランス人入植者の安全への危惧を呼び起こさせ、かつては反仏的だった[[カオダイ教]]や[[ホアハオ教]]、[[サイゴン]]の[[幇]]である[[ビン・スエン派]]などを援助して[[私兵]]団化させ、フランスの利益代弁者として組織した。<br /> <br /> これら南部土着諸派の武装勢力は、[[ゴ・ディン・ジエム]]を指導者として[[南ベトナム|サイゴン政権]]を構成した北部出身のカトリック教徒難民との間での地域文化・言語差から対立するようになり、[[ゴ・ディン・ジエム]]とその一族による強権的支配への抵抗を続け、その後の南部の不安定化を招いた。<br /> <br /> また、戦争[[捕虜]]に対するベトナム人の考え方(その起源は[[奴隷#アジアの奴隷制|中国古代の捕虜奴隷]]に遡る)に基づく、[[国際法]]を省みない残酷な扱いや身代金の要求といった感覚は、米国が介入した第二次インドシナ戦争において、米国人の家族観に基づく自国兵捕虜に対する強い思いと相乗して[[:en:Vietnam War POW/MIA issue|MIA]]問題としてひとり歩きし、米越関係の正常化が大幅に遅れる結果を招いた。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 戦闘序列 ==<br /> {{See also|en:Dien Bien Phu order of battle}}<br /> === ベトナム人民軍 ===<br /> {| class=&quot;prettytable&quot;<br /> ! 部隊 !! 指揮官 !! 配下部隊 !! 装備 !! 備考<br /> |-<br /> | &#039;&#039;&#039;[[第304機械化歩兵師団 (ベトナム陸軍)|第304歩兵師団]]&#039;&#039;&#039;(欠) &lt;br /&gt; &#039;&#039;名号&#039;&#039;: Vinh Quang &lt;br /&gt; &#039;&#039;密名&#039;&#039;: [[:vi:Nam Định&lt;!-- [[:ja:ナムディン省]] とリンク --&gt;]] || 政治委員 [[:vi:Lê Chưởng]] &lt;br /&gt; 師団参謀 [[:vi:Nam Long]] || 第9歩兵連隊 &lt;br /&gt; 第57歩兵連隊 || ||<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第9歩兵連隊 || [[:vi:Trần Thanh Tú]] || 第353大隊 &lt;br /&gt; 第375大隊 &lt;br /&gt; 第400大隊 || || 第3期から増援<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第57歩兵連隊 || [[:vi:Nguyễn Cận]] || 第265大隊 &lt;br /&gt; 第346大隊 &lt;br /&gt; 第418大隊 || ||<br /> |-<br /> | &#039;&#039;&#039;[[第308機械化歩兵師団 (ベトナム陸軍)|第308歩兵師団]] &#039;&#039;&#039; &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: Quân Tiên Phong &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: [[:vi:Việt Bắc]] || 大佐 [[:vi:Vương Thừa Vũ]] &lt;br /&gt; 政治委員{{仮リンク|ソン・ハオ|vi|Song Hào}} || 第36歩兵連隊 &lt;br /&gt; 第88歩兵連隊 &lt;br /&gt; 第102歩兵連隊 || ||<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第36歩兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;名号&#039;&#039;: Bắc Bắc &lt;br /&gt; &#039;&#039;密名&#039;&#039;: [[:vi:Sa Pa&lt;!-- [[:ja:サパ]] とリンク --&gt;]] || Phạm Hồng Sơn || 第80大隊 &lt;br /&gt; 第84大隊 &lt;br /&gt; 第89大隊 || ||<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第88歩兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;名号&#039;&#039;: [[:vi:Tu Vũ]] &lt;br /&gt; &#039;&#039;密名&#039;&#039;: [[:vi:Tam Đảo]] || [[:vi:Nam Hà]] || 第23大隊 &lt;br /&gt; 第29大隊 &lt;br /&gt; 第322大隊 || ||<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第102歩兵連隊&lt;br /&gt;([[:vi:Trung đoàn Thủ Đô]]) &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: [[:vi:Hà Nội&lt;!-- [[:ja:ハノイ]] とリンク --&gt;|Thủ đô]] &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: [[:vi:Ba Vì]] || [[:vi:Nguyễn Hùng Sinh]] || 第18大隊 &lt;br /&gt; 第54大隊 &lt;br /&gt; 第79大隊 || ||<br /> |-<br /> | &#039;&#039;&#039;[[第312歩兵師団 (ベトナム陸軍)|第312歩兵師団]]&#039;&#039;&#039; &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: Chiến Thắng &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: [[:vi:Bến Tre&lt;!-- [[:ja:ベンチェ省]] とリンク --&gt;]] || 大佐[[レ・チョン・タン]] &lt;br /&gt; 政治委員{{仮リンク|チャン・ドー|vi|Trần Độ}} || 第141歩兵連隊 &lt;br /&gt; 第165歩兵連隊 &lt;br /&gt; 第209歩兵連隊 || ||<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第141歩兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: || [[:vi:Quang Tuyến]] || 第11大隊 &lt;br /&gt; 第16大隊 &lt;br /&gt; 第428大隊 || || <br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第165歩兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: Lao Hà Yên, Thành đồng biên giới &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: [[:vi:Đông Triều]] || [[:vi:Lê Thuỳ&lt;!-- 存在せずリンク元がない --&gt;]] || 第115大隊 &lt;br /&gt; 第542大隊 &lt;br /&gt; 第564大隊 || ||<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第209歩兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: [[:vi:Sông Lô]] &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: || [[:vi:Hoàng Cầm (tướng)|Hoàng Cầm]] || 第130大隊 &lt;br /&gt; 第154大隊 &lt;br /&gt; 第166大隊 || ||<br /> |-<br /> | &#039;&#039;&#039;[[第316歩兵師団 (ベトナム陸軍)|第316歩兵師団]]&#039;&#039;&#039; &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: [[:vi:Biên Hòa&lt;!-- [[:ja:ビエンホア]] とリンク --&gt;]] || 大佐{{仮リンク|レ・クアン・バ|vi|Lê Quảng Ba}} &lt;br /&gt; 政治委員[[チュー・フイ・マン]] || 第98歩兵連隊 &lt;br /&gt; 第174歩兵連隊 &lt;br /&gt; 第176歩兵連隊 || ||<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第98歩兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: || [[:vi:Vũ Lăng]] || 第215大隊 &lt;br /&gt; 第439大隊 &lt;br /&gt; 第938大隊 || ||<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第174歩兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: Cao Bắc Lạng &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: [[:vi:Sóc Trăng&lt;!-- [[:ja:ソクチャン省]] とリンク --&gt;]] || [[:vi:Nguyễn Hữu An]] || 第249大隊 &lt;br /&gt; 第251大隊 &lt;br /&gt; 第255大隊 || ||<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第176歩兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: || || 第888大隊 &lt;br /&gt; 第910大隊 &lt;br /&gt; 第999大隊 || || 第888大隊は第2期から投入 &lt;br /&gt; 残りは第3期から投入<br /> |-<br /> |&#039;&#039;&#039;第351工砲師団&#039;&#039;&#039; &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: [[:vi:Long Châu&lt;!-- [[:ja:竜州]] とリンク --&gt;]] || 兼司令 [[:vi:Đào Văn Trường]] &lt;br /&gt; 政治委員 [[:vi:Phạm Ngọc Mậu]] || 第45砲兵連隊 &lt;br /&gt; 第675砲兵連隊 &lt;br /&gt; 第237砲兵連隊 &lt;br /&gt; 第83迫撃砲大隊 &lt;br /&gt; 第367高射連隊 &lt;br /&gt; 第151工兵連隊 || ||<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第45砲兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: Tất Thắng &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: || [[:vi:Nguyễn Hữu Mỹ]] || 第632大隊 &lt;br /&gt; 第954大隊 || 105mm榴弾砲 x 24 ||<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第675砲兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: Anh Dũng &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: || [[:vi:Doãn Tuế]] || 第175大隊 &lt;br /&gt; 第275大隊 || 75mm山砲 x 20 || <br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第237砲兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: || || 第413迫撃砲大隊 &lt;br /&gt; H6ロケット砲大隊 &lt;br /&gt; DKZ 75mm大隊 || 82mm迫撃砲 x 54 &lt;br /&gt; H6 75mm無反動砲 x 12 &lt;br /&gt; DKZ 75mm x ?|| 第413大隊は第1期から投入 &lt;br /&gt; 残りは第3期から投入<br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第83迫撃砲大隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: || || || 120mm迫撃砲 x 20 || <br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第367高射連隊(欠) &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039;: || [[:vi:Lê Văn Tri]] || 2個37mm高射大隊 &lt;br /&gt; || 37mm高射砲 x 24 || +1個大隊 <br /> |-<br /> |align=&quot;right&quot;| 第151工兵連隊 &lt;br /&gt; &#039;&#039;称号&#039;&#039;: &lt;br /&gt; &#039;&#039;秘匿名&#039;&#039; || [[:vi:Phạm Hoàng]] || 4個工兵大隊 || ||<br /> |}<br /> <br /> 注意:第1期は3月13日 - 4月17日、第2期は3月30日 - 4月26日、第3期は5月1日 - 5月7日の期間。<br /> <br /> === フランス軍 ===<br /> {{節スタブ}}<br /> * {{仮リンク|第1外人落下傘連隊|fr|1er régiment étranger de parachutistes}}<br /> * [[第2外人落下傘連隊]]<br /> * [[第2外人歩兵連隊]]<br /> * [[第3外人歩兵連隊]]<br /> * [[第13外人准旅団]]<br /> <br /> == 映画 ==<br /> *[[愛と戦火の大地]] - 1992年 フランス<br /> *[[インドシナ激戦史1954 〜要塞ディエン・ビエン〜]] - 2004年 ベトナム社会主義共和国<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references group=&quot;脚注&quot;/&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{CommonsCat|Battle of Dien Bien Phu}}<br /> *[[シャルル・ド・ゴール]]<br /> *[[ベトナム戦争]]<br /> *[[アラン・ドロン]]<br /> <br /> {{デフォルトソート:ていえんひえんふのたたかい}}<br /> [[Category:インドシナ戦争]]<br /> [[Category:1954年の戦闘]]<br /> [[Category:フランスの戦闘]]<br /> [[Category:ベトナムの戦闘]]<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:ディエンビエン省]]<br /> [[Category:1954年のフランス領インドシナ]]<br /> [[Category:1954年3月]]<br /> [[Category:1954年4月]]<br /> [[Category:1954年5月]]</div> 42.145.121.253 フランス第四共和政 2018-06-17T13:19:34Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年12月}} <br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = フランス<br /> |日本語国名 = フランス共和国<br /> |公式国名 = {{lang|fr|&#039;&#039;&#039;République française&#039;&#039;&#039;}}<br /> |建国時期 = [[1946年]]<br /> |亡国時期 = [[1958年]]<br /> |先代1 = フランス共和国臨時政府<br /> |先旗1 = Flag of France.svg<br /> |先代2 = <br /> |先旗2 = <br /> |次代1 = フランス第五共和政<br /> |次旗1 = Flag of France.svg<br /> |次代2 = アルジェリア<br /> |次旗2 = Flag of Algeria (1958-1962).svg<br /> |次代3 =モーリタニア<br /> |次旗3 = 1959-2017 Flag of Mauritania.svg<br /> |次代4 =コートジボワール<br /> |次旗4 = Flag of Côte d&#039;Ivoire.svg<br /> |次代5 = セネガル<br /> |次旗5 = Flag-senegal-1958.svg<br /> |次代6 =トーゴ<br /> |次旗6 = Flag of Togo.svg<br /> |次代7 = ニジェール<br /> |次旗7 = Flag of Niger.svg<br /> |次代8 =オートボルタ<br /> |次旗8 = Flag of Upper Volta.svg<br /> |次代9 =ダホメ共和国<br /> |次旗9 =Flag of Benin.svg <br /> |次代10 =チュニジア<br /> |次旗10 =Pre-1999 Flag of Tunisia.svg <br /> |次代11 =中央アフリカ共和国<br /> |次旗11 = Flag of the Central African Republic.svg<br /> |次代12=ガボン<br /> |次旗12 = Flag of Gabon.svg<br /> |次代13 = カメルーン<br /> |次旗13 =Flag of Cameroon (1957).svg <br /> |次代14 =マリ連邦<br /> |次旗14= Flag of Mali 1959-1961.svg<br /> |次代15=リビア<br /> |次旗15=Flag of Libya.svg<br /> |次代16=チャド<br /> |次旗16=Flag of Chad.svg<br /> |次代17=モロッコ<br /> |次旗17=Flag of Morocco.svg<br /> |次代18=マダガスカル<br /> |次旗18=Flag of Madagascar.svg<br /> |次代19=コンゴ共和国<br /> |次旗19=Flag of the Republic of the Congo.svg<br /> |次代20=ジブチ<br /> |次旗20=Flag of Djibouti.svg<br /> |国旗画像 = Flag of France.svg<br /> |国旗リンク = &lt;!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --&gt;<br /> |国旗幅 = &lt;!-- 初期値125px --&gt;<br /> |国旗縁 = &lt;!-- no と入力すると画像に縁が付かない --&gt;<br /> |国章画像 = Armoiries république française.svg<br /> |国章リンク = &lt;!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --&gt;<br /> |国章幅 = &lt;!-- 初期値85px --&gt;<br /> |標語 = [[自由、平等、友愛]]<br /> |標語追記 = <br /> |国歌 = [[ラ・マルセイエーズ]]<br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 =Fourth french republic.png <br /> |位置画像説明 = <br /> |位置画像幅 = &lt;!-- 初期値250px --&gt;<br /> |公用語 = [[フランス語]]<br /> |首都 = [[パリ]]<br /> |元首等肩書 = [[共和国大統領 (フランス)|大統領]]<br /> |元首等年代始1 = 1947年<br /> |元首等年代終1 = 1954年<br /> |元首等氏名1 = [[ヴァンサン・オリオール]]<br /> |元首等年代始2 = 1954年<br /> |元首等年代終2 = 1959年<br /> |元首等氏名2 = [[ルネ・コティ]]<br /> |首相等肩書 = [[フランスの首相|首相]]<br /> |首相等年代始1 = 1947年<br /> |首相等年代終1 = 1947年<br /> |首相等氏名1 = [[ポール・ラマディエ]]<br /> |首相等年代始2 = 1958年<br /> |首相等年代終2 = 1959年<br /> |首相等氏名2 = [[シャルル・ド・ゴール]]<br /> |面積測定時期1 = <br /> |面積値1 = <br /> |面積測定時期2 = <br /> |面積値2 = <br /> |人口測定時期1 = 1946年<br /> |人口値1 = 40,287,000<br /> |人口測定時期2 = 1958年<br /> |人口値2 = 44,563,043<br /> |変遷1 = 設立<br /> |変遷年月日1 = 1946年10月13日<br /> |変遷2 = 廃止<br /> |変遷年月日2 = 1958年10月4日<br /> |通貨 = [[フランス・フラン]]<br /> |通貨追記 = <br /> |時間帯 = <br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |注記 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;フランス第四共和政&#039;&#039;&#039;(フランスだいよんきょうわせい、{{lang-fr|Quatrième République}})は、[[1946年]]10月から[[1958年]]10月まで[[フランス]]を統治した政体である。[[第二次世界大戦後]]の[[復興]]に取り組んだが、[[植民地]]問題のこじれから軍部の圧力によって崩壊した。<br /> {{フランスの歴史}}<br /> <br /> == 背景 ==<br /> [[第二次世界大戦]]中、[[ロンドン]]に亡命して[[レジスタンス運動]]を組織していた[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール]]将軍は[[1944年]][[6月3日]][[フランス共和国臨時政府]]を樹立し、同年8月25日[[パリ解放|パリが解放]]されるとフランスに復帰した。[[ナチス・ドイツ]]降伏後、[[1945年]][[10月25日]]臨時共和国の組織が改編され、ド・ゴールは改めて臨時政府主席に就任したが、[[政党]]から超然姿勢をとる将軍は政党間の対立や派閥政治を嫌気し、[[1946年]][[1月20日]]に臨時政府主席を突如辞任した。<br /> <br /> == 共和国の成立 ==<br /> 1946年5月5日の[[国民投票]]で新憲法草案が否決されたため、[[6月2日]]改めて制憲議会を選出し、[[10月13日]]新憲法草案は国民投票によって承認され、第四共和政が誕生した。第四共和国憲法は[[両院制]]や大統領の議会選出を定め、大統領より議会の大幅な権限を規定しており、第三共和国憲法とほとんど同じだった。このため、新共和国でも短命内閣が続くことになる。[[1947年]][[1月16日]][[フランス社会党 (SFIO)|社会党]]系の[[ヴァンサン・オリオール]]が新大統領に就任した。<br /> <br /> 一方、ド・ゴールは政党から超然とした組織である[[フランス国民連合]](RPF)を結成し、初期の共和国議会は[[フランス共産党|共産党]]、社会党、国民連合が三大政党となった。当初は共産党も閣僚を送り込んでいたが、[[1947年]]ラマディエ首相が共産党系閣僚を解任したため、社会党を中心とする政府は[[左派]]の共産党、[[右派]]の国民連合から攻撃を受け、不安定な政局運営を強いられた。ド・ゴールは国民連合が政党化してしまったことに失望し、[[1953年]]国民連合を突如解散して政治から引退した。<br /> <br /> == 植民地問題 ==<br /> [[インドシナ]]では[[ホー・チ・ミン]]率いる[[ベトミン]]が即時独立を要求して、勢力回復した[[フランス軍]]に対してゲリラ戦([[第一次インドシナ戦争]])を展開していたが、[[1950年]]に[[朝鮮戦争]]が勃発するとアジアで東西両陣営の冷戦が激化し、[[ソビエト連邦|ソ連]]や[[中華人民共和国]]の強力な支援を得るようになった。[[1954年]][[5月7日]]ベトナム北部の要衝をめぐる[[ディエンビエンフーの戦い]]でフランス軍が敗北すると、[[ピエール・マンデス=フランス]]首相は[[7月20日]]、[[ジュネーヴ協定]]を締結してベトナムからの撤退を決めた。<br /> <br /> しかし、同年11月には[[アルジェリア]]でフランス支配に対する独立闘争の蜂起が始まり、フランス政府は[[1955年]]3月[[モロッコ]]と[[チュニジア]]の独立を承認したが、[[アルジェリア]]はフランス系[[住民]]も多く、簡単に独立を認めることはできず[[弾圧]]を強めた。このため[[アルジェリア戦争]]は泥沼の様相を呈し始める。フランスはまた[[1956年]]10月[[イギリス]]と共同で[[スエズ運河]]出兵を行った([[第二次中東戦争|スエズ戦争]])が、[[アメリカ合衆国]]と[[ソビエト連邦]]の介入で無残な失敗に終わった。<br /> <br /> == 共和国の崩壊 ==<br /> &#039;&#039;[[アルジェリア戦争#フランスの政治的混乱]]も参照の事。&#039;&#039;<br /> <br /> [[1954年]][[1月16日]]に就任した[[ルネ・コティ]]大統領の下でフランスは[[1957年]][[5月25日]]、[[欧州経済共同体|EEC]](のちの[[欧州連合|EU]])を結成したが、アルジェリア独立問題はこじれにこじれ、弱腰の政府に業を煮やしたアルジェリア駐留軍は[[1958年]][[3月13日]]ド・ゴール将軍の政界復帰を要求して[[クーデター]]を起こした。政府は決起部隊司令官を懐柔しようとしたが、[[アルジェ]]駐屯落下傘部隊は[[コルシカ島]]をも占拠し、[[首都]][[パリ]]への侵攻も現実の脅威となってきた。<br /> <br /> パリのフランス軍中枢部にも決起部隊に呼応する動きが表面化したため、コティは同年[[6月1日]]隠棲していたド・ゴールを首相に指名した。大統領に強力な権限を付与する新憲法制定を主張するド・ゴールは[[9月28日]]新憲法を国民投票で承認させ、[[10月5日]]に[[フランス第五共和政|第五共和政]]が成立、第四共和政は12年足らずで終焉した。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[フランス大統領の一覧]]<br /> *[[アンリ・ジロー]]<br /> <br /> {{France-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:ふらんすたい4きようわせい}}<br /> [[Category:フランス第四共和政|*]]<br /> [[Category:フランスの歴史|たい4きようわせい]]</div> 42.145.121.253 トスカーナ大公国 2018-06-16T13:58:32Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=とすかなたいこうこく世界史}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 =トスカーナ<br /> |日本語国名 =トスカーナ大公国<br /> |公式国名 ={{lang|it|&#039;&#039;&#039;Granducato di Toscana&#039;&#039;&#039;}}<br /> |建国時期 =[[1569年]]<br /> |亡国時期 =[[1860年]]&lt;ref&gt;サルデーニャ王国へ併合された年。[[1801年]]にトスカーナ大公国は一時廃されたが、[[1815年]]に復活した。&lt;/ref&gt;<br /> |先代1 =フランス第一帝政<br /> |先旗1 =Flag of France.svg<br /> |先代2 =フィレンツェ公国<br /> |先旗2 =Medici Flag of Tuscany.png<br /> |先代3 =ルッカ・エ・ピオンビーノ公国<br /> |先旗3 =Flag of the Principality of Piombino.svg<br /> |先代4 =ルッカ公国<br /> |先旗4 =Flag of the Duchy of Lucca.svg<br /> |次代1 =サルデーニャ王国<br /> |次旗1 =Flag of Kingdom of Sardinia (1848).svg<br /> |次代2 =フランス第一帝政<br /> |次旗2 =Flag of France.svg<br /> |次代3 =エトルリア王国<br /> |次旗3 =Flag of the Kingdom of Etruria.svg<br /> |国旗画像 =Flag of the Grand Duchy of Tuscany (1840).svg<br /> |国旗リンク =<br /> |国旗説明 =<br /> |国旗幅 = &lt;!--初期値125px--&gt;<br /> |国旗縁 = &lt;!--no と入力すると画像に縁が付かない--&gt;<br /> |国章画像 =Great coat of arms of the Grand Duchy of Tuscany.svg<br /> |国章リンク =<br /> |国章説明 =レオポルド2世時代の国章<br /> |国章幅 = &lt;!--初期値85px--&gt;<br /> |標語 =<br /> |国歌名 = La Leopolda <br /> |国歌追記 =<br /> |位置画像 =Grand Duchy of Tuscany 1789.svg<br /> |位置画像説明 =トスカーナ大公国の領域(1789年)<br /> |公用語 =[[イタリア語]]<br /> |首都 =[[フィレンツェ]]<br /> |元首等肩書 =[[大公]]<br /> |元首等年代始1 =[[1569年]]<br /> |元首等年代終1 =[[1574年]]<br /> |元首等氏名1 =[[コジモ1世]](初代)<br /> |元首等年代始2 =[[1723年]]<br /> |元首等年代終2 =[[1737年]]<br /> |元首等氏名2 =[[ジャン・ガストーネ・デ・メディチ|ジャン・ガストーネ]](第7代・メディチ家最後)<br /> |元首等年代始3 =[[1737年]]<br /> |元首等年代終3 =[[1765年]]<br /> |元首等氏名3 =[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランチェスコ2世]](第8代・神聖ローマ皇帝フランツ1世)<br /> |元首等年代始4 =[[1824年]]<br /> |元首等年代終4 =[[1859年]]<br /> |元首等氏名4 =[[レオポルド2世 (トスカーナ大公)|レオポルド2世]](第11代)<br /> |元首等年代始5 =[[1859年]]<br /> |元首等年代終5 =[[1860年]]<br /> |元首等氏名5 =[[フェルディナンド4世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド4世]](最後)<br /> |面積測定時期1 = [[1815年]]<br /> |面積値1 = 21,050<br /> |面積測定時期2 =<br /> |面積値2 =<br /> |面積測定時期3 =<br /> |面積値3 =<br /> |面積測定時期4 =<br /> |面積値4 =<br /> |面積測定時期5 =<br /> |面積値5 =<br /> |人口測定時期1 =[[1801年]]推定<br /> |人口値1 =1,096,641<br /> |人口測定時期2 =<br /> |人口値2 =<br /> |人口測定時期3 =<br /> |人口値3 =<br /> |人口測定時期4 =<br /> |人口値4 =<br /> |人口測定時期5 =<br /> |人口値5 =<br /> |変遷1 =成立<br /> |変遷年月日1 =[[1569年]]<br /> |変遷2 =メディチ家が断絶し、ハプスブルク=ロートリンゲン家に継承される<br /> |変遷年月日2 =[[1737年]]<br /> |変遷3 =トスカーナ大公国が廃止され、エトルリア王国が建国される<br /> |変遷年月日3 =[[1801年]]<br /> |変遷4 =復活<br /> |変遷年月日4 =[[1815年]]<br /> |変遷5 =サルデーニャ王国に併合される。<br /> |変遷年月日5 =[[1860年]]<br /> |通貨 =[[フローリン]]、[[リラ (通貨)|リラ]]<br /> |現在 = {{ITA}}<br /> |注記 =<br /> }}<br /> {{イタリアの歴史}}<br /> &#039;&#039;&#039;トスカーナ大公国&#039;&#039;&#039;(トスカーナたいこうこく、{{lang-it-short|Granducato di Toscana}}、{{lang-de-short|Großherzogtum Toskana}})は、[[16世紀]]から[[19世紀]]にかけて[[北イタリア]]に存在した国家。領域はほぼ現在の[[トスカーナ州]]にあたり、同州の前身となった。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === メディチ家時代 ===<br /> [[File:Bandiera del granducato di Toscana (1562-1737 ).gif|thumb|メディチ家時代の国旗]]<br /> トスカーナが政治的な実体を持って地理的文化的に成り立ったのは、[[15世紀]]から始まった都市国家[[フィレンツェ]]がその拡大政策によって[[1405年]]に[[ピサ]]を、[[1421年]]には[[リヴォルノ]]を取得したことに始まった。トスカーナ大公国の前身&#039;&#039;&#039;[[フィレンツェ共和国]]&#039;&#039;&#039;は、[[メディチ家]]が支配する16世紀に世襲制のトスカーナ公国になり、領土はトスカーナ地方全域に拡大した。<br /> <br /> メディチ家時代の第1期([[1434年]]から[[1494年]])は[[コジモ・デ・メディチ]](治世:1434年 - 1464年)に始まり、メディチ家のフィレンツェ追放により終わる。その後&#039;&#039;&#039;フィオレンティーナ共和国&#039;&#039;&#039;(Repubblica Fiorentina)が建国されたが、[[1512年]]にメディチ家が復帰し、[[1527年]]にフィレンツェ共和国が再興された。[[1530年]]、[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]は[[アレッサンドロ・デ・メディチ]]を[[摂政]]に任命し、[[1532年]]にアレッサンドロはフィレンツェ公となった。その為国名を[[フィレンツェ公国]]に改めた。<br /> <br /> [[コジモ1世]]が[[1537年]]にトスカーナ公となると[[イタリア戦争]]に関わっていき、カール5世の[[スペイン]]軍と共に[[フランス]]と結んだ[[シエーナ共和国]]を攻撃し[[1555年]]に[[シエーナ]]を占領した。そして、[[1559年]]の[[カトー・カンブレジ条約]]によりスペインに貸していた膨大な債権と引き換えにシエーナ共和国とシエーナ公の地位を手に入れ、併合した。<br /> <br /> [[1569年]]には[[ローマ教皇]][[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]により初代トスカーナ大公に叙され、&#039;&#039;&#039;トスカーナ大公国&#039;&#039;&#039;が成立した。コジモ1世から[[フェルディナンド1世・デ・メディチ|フェルディナンド1世]]までがメディチ家の絶頂期であった。その後メディチ家は[[ジャン・ガストーネ・デ・メディチ|ジャン・ガストーネ]](在位:[[1723年]] - [[1737年]])まで続いたが、地中海貿易の衰退などによってイタリア自体国際的地位が低下し、トスカーナ大公国も衰退の一途を辿った。ジャン・ガストーネが没すると、後継者がなくメディチ家は断絶した。ジャン・ガストーネの遺言によってトスカーナ大公国は[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]に継承された。ただし、[[神聖ローマ帝国]]にも[[ハプスブルク帝国|ハプスブルク家の本領]]にも含まれず、大公国とメディチ家の財産は公国政府によって管理されることとなった。<br /> <br /> === ハプスブルク=ロートリンゲン家時代 ===<br /> [[ファイル:State flag simple of the Grand Duchy of Tuscany.svg|150px|right|thumb|ハプスブルク=ロートリンゲン家時代のトスカーナ大公国旗。[[オーストリアの国旗]]をベースにしている。]]<br /> ハプスブルク=ロートリンゲン家の最初の大公は[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランチェスコ2世]](在位:[[1737年]] - [[1765年]])である。ドイツ名をフランツ・シュテファンといい、元は[[ロレーヌ公]]であったが、[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]の女子相続人[[マリア・テレジア]]との婚姻にあたり、ロレーヌの隣国である[[フランス王国|フランス]]が異議を唱えた。外交交渉と[[ポーランド継承戦争]]の結果、フランスが婚姻を承認する代わりにロレーヌの割譲を受け([[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の岳父[[スタニスワフ・レシチニスキ]]がロレーヌ公となり、その死後はフランス王国に併合された)、フランツには代償として後継者のいなかったトスカーナ大公の継承権が与えられたのである。フランツは父方と母方の双方から、メディチ家の大公[[フランチェスコ1世・デ・メディチ|フランチェスコ1世]]の血を引いていた。フランツは[[1747年]]に皇帝に選出されて[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]となる(トスカーナ大公位はそのまま兼ねた)。大公国はフランツの死後に次男のレオポルド1世(在位:[[1765年]] - [[1790年]])が継いだ。レオポルドは皇帝[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]として即位するとすぐに次男[[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド3世]]([[1790年]] - [[1824年]])に大公位を譲るが、フェルディナンド3世は[[フランス革命戦争]]と[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の時代に遭遇することになる。<br /> <br /> [[1801年]][[2月9日]]、[[リュネヴィルの和約|リュネヴィル条約]]が締結されると、トスカーナはハプスブルク家から[[フランス第一帝政|フランス]]に渡った。トスカーナ大公国は廃止され、[[エトルリア王国]]が建国された。[[ブルボン=パルマ家]]の[[ルドヴィーコ1世・ディ・ボルボーネ|ルドヴィーコ1世]]([[1801年]] - [[1803年]])と[[カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ|カルロ・ルドヴィーコ]]([[1803年]] - [[1807年]])が相次いで即位したが、1807年12月にエトルリア王国は廃止され、フランス帝国に併合された。その後ナポレオンが妹[[エリザ・ボナパルト|エリーズ(エリザ)]]を大公に即位させることでトスカーナ大公国は復活した(在位:[[1809年]] - [[1814年]])。<br /> <br /> [[1814年]]にナポレオン1世が失脚すると、フェルディナンド3世がフィレンツェに復帰した。ナポレオンはトスカーナ大公国領である[[エルバ島]]に配流されたが、後に脱出して[[百日天下]]の動乱を起こしている。フェルディナンド3世に次いで[[レオポルド2世 (トスカーナ大公)|レオポルド2世]]([[1824年]] - [[1859年]])が即位する。レオポルド2世は1859年[[4月27日]]、トスカーナ臨時政府の圧力に屈して退位し、[[フェルディナンド4世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド4世]]が登位するものの、トスカーナは国民投票の結果、[[1860年]]3月に[[サルデーニャ王国]]へ併合された。<br /> <br /> == 歴代トスカーナ大公 ==<br /> === メディチ家 ===<br /> * [[コジモ1世]](フィレンツェ公 在位:1537年 - 1569年、トスカーナ大公 在位:1569年 - 1574年) <br /> * [[フランチェスコ1世 (トスカーナ大公)|フランチェスコ1世]](在位:1574年 - 1587年) <br /> * [[フェルディナンド1世・デ・メディチ|フェルディナンド1世]](在位:1588年 - 1609年) <br /> * [[コジモ2世]](在位:1609年 - 1621年) <br /> * [[フェルディナンド2世・デ・メディチ|フェルディナンド2世]](在位:1621年 - 1670年) <br /> * [[コジモ3世]](在位:1670年 - 1723年) <br /> * [[ジャン・ガストーネ・デ・メディチ|ジャン・ガストーネ]](在位:1723年 - 1737年)<br /> メディチ家断絶。1738年に発効した[[ウィーン条約 (1738年)|ウィーン条約]]により公位は[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|ロートリンゲン公フランツ・シュテファン]]に移る。<br /> <br /> === ハプスブルク=ロートリンゲン家 ===<br /> 厳密にはフランチェスコ2世のみは[[ロレーヌ家|ロレーヌ(ロートリンゲン、ロレーナ)家]]である。フェルディナンド3世以降の家系はハプスブルク=トスカーナ家ともいう。<br /> * [[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランチェスコ2世]](在位:1737年 - 1765年) - 神聖ローマ皇帝フランツ1世<br /> * [[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルド1世]](在位:1765年 - 1790年) - 神聖ローマ皇帝レオポルト2世 <br /> * [[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド3世]](在位:1790年 - 1799年) <br /> <br /> 1799年 - 1801年 フランス共和国による統治<br /> <br /> === ブルボン家(エトルリア王国) ===<br /> * [[ルドヴィーコ1世・ディ・ボルボーネ|ルドヴィーコ1世]](在位:1801年 - 1803年) <br /> * [[カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ|カルロ・ルドヴィーコ]](在位:1803年 - 1807年)<br /> <br /> 1807年 - 1809年 [[フランス帝国]]による統治 <br /> <br /> === ボナパルト家 ===<br /> * [[エリザ・ボナパルト|エリザ]](在位:1809年 - 1814年)<br /> <br /> === ハプスブルク=ロートリンゲン家 ===<br /> * [[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド3世]](在位:1814年 - 1824年)(復位) <br /> * [[レオポルド2世 (トスカーナ大公)|レオポルド2世]](在位:1824年 - 1859年)<br /> *: 1849年に革命のため大公位を一時逐われた。<br /> * [[フェルディナンド4世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド4世]](在位:1859年 - 1860年)<br /> *: 大公即位の翌年にトスカーナ大公国がサルデーニャ王国に併合されることが決定したため同年退位。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;&lt;references /&gt;&lt;/div&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[メディチ家]]<br /> * [[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]<br /> * [[エルバ島]]<br /> <br /> {{イタリアに存在した国}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:とすかあなたいこうこく}}<br /> [[Category:トスカーナ大公国|*]]<br /> [[Category:イタリアに存在した国]]<br /> [[Category:神聖ローマ帝国の領邦国家]]<br /> [[Category:トスカーナの歴史]]<br /> [[Category:メディチ家]]<br /> [[Category:イタリア・オーストリア関係]]<br /> [[Category:ハプスブルク帝国の国際関係]]<br /> [[Category:1860年に廃止された国家・領域]]</div> 42.145.121.253 イタリア戦線 (第二次世界大戦) 2018-06-16T08:33:11Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Battlebox<br /> | battle_name = イタリア戦線<br /> | campaign = 第二次大戦イタリア戦線<br /> |colour_scheme = background:#ffccaa<br /> | image = [[ファイル:Luccaitaly1944.png|350px]]<br /> | caption = ドイツの[[機関銃]]陣地に[[バズーカ]]を発射する[[第92歩兵師団]]の米兵<br /> | conflict = [[第二次世界大戦]]<br /> | date = [[1943年]][[7月9日]] - [[1945年]][[5月2日]]<br /> | place = [[イタリア]]<br /> | result = 連合軍の勝利<br /> | combatant1 = {{GBR}}&lt;br /&gt;{{USA1912}}&lt;br /&gt;[[ファイル:Flag of Italian Committee of National Liberation.svg|border|25px|CLNの旗]] [[パルチザン (イタリア)|国民解放委員会]]&lt;br /&gt;{{ITA1861}} &lt;small&gt;(1943年9月8日-)&lt;/small&gt;&lt;br /&gt;{{Flagicon|CAN1921}} [[カナダ]]&lt;br /&gt;{{AUS}}&lt;br /&gt;{{NZL}}&lt;br /&gt;{{RSA1928}}&lt;br /&gt;{{Flagicon|POL1928}} [[ポーランド亡命政府|ポーランド]]&lt;br /&gt;{{BRA}}&lt;br /&gt;[[ファイル:Flag of Free France 1940-1944.svg|border|25px|自由フランスの旗]] [[自由フランス]]&lt;br /&gt;{{Flagicon|GRC1828}} [[ギリシア王国]]<br /> | combatant2 = {{DEU1935}}&lt;br /&gt;{{ITA1861}} &lt;small&gt;(-1943年9月8日)&lt;/small&gt;&lt;br /&gt;[[ファイル:War_flag_of_the_Italian_Social_Republic.svg|border|25px|イタリア社会共和国の旗]] [[イタリア社会共和国]] &lt;small&gt;(1943年9月23日-)&lt;/small&gt;<br /> | commander1 = {{Flagicon|USA1912}} [[ドワイト・D・アイゼンハワー]]&lt;br /&gt;{{Flagicon|GBR}} [[ヘンリー・メイトランド・ウィルソン]]&lt;br /&gt;{{Flagicon|GBR}} [[ハロルド・アレクサンダー]]<br /> | commander2 = {{Flagicon|DEU1935}} [[アルベルト・ケッセルリンク]]&lt;br /&gt;{{Flagicon|DEU1935}} [[ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ]]&lt;br /&gt;[[ファイル:War_flag_of_the_Italian_Social_Republic.svg|border|25px|イタリア社会共和国の旗]] [[ベニート・ムッソリーニ]]&lt;br /&gt;[[ファイル:War_flag_of_the_Italian_Social_Republic.svg|border|25px|イタリア社会共和国の旗]] [[ロドルフォ・グラツィアーニ]]<br /> | strength1 = <br /> | strength2 = <br /> | casualties1 = 313,495&lt;ref&gt;Jackson, General W.G.F. &amp; with Gleave, Group Captain T.P. (2004) [1st. pub. HMSO 1988]. The Mediterranean and Middle East, Volume VI: Part III - November 1944 to May 1945. History of the Second World War United Kingdom Military Series. Uckfield, UK: Naval &amp; Military Press. ISBN 1-845740-72-6.&lt;/ref&gt;&lt;br&gt;航空機 8,011&lt;ref&gt;The Mediterranean and Middle East, Volume VI: Part III p. 335&lt;/ref&gt;<br /> | casualties2 = 336,650&lt;ref&gt;Between 1 September 1943 – 10 May 1944: 87,579 casualties. Between 11 May 1944 – 31 January 1945: 194,330 &lt;/ref&gt;<br /> }}<br /> [[第二次世界大戦]]の&#039;&#039;&#039;イタリア戦線&#039;&#039;&#039;(イタリアせんせん、{{lang-it-short|Campagna d&#039;Italia}}, {{lang-en-short|Italian Campaign}})は、第二次世界大戦において[[1943年]][[7月9日]]の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の[[シチリア島]]上陸から、[[9月8日]]の[[イタリア王国]]降伏を挟み、[[1945年]]5月まで続けられたイタリアにおける戦いである。イタリア降伏前はイタリア・[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の[[枢軸国|枢軸軍]]が連合軍と交戦していたが、イタリア降伏後はイタリア占領を行ったドイツ軍と親ドイツ派の一部イタリア軍が連合軍と交戦した。<br /> <br /> == 戦いの概要 ==<br /> [[ファイル:Invasionofitaly1943.jpg|thumb|none|250px|連合軍のイタリア上陸計画]]<br /> [[イギリス]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]軍の[[シチリア島]]上陸作戦([[ハスキー作戦]])の成功の結果、1943年7月24日、[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]は逮捕・幽閉された。新しく政権を組織したのは[[ピエトロ・バドリオ]]で、対外的には戦いの継続を表明していたが、連合軍の[[イタリア侵攻 (第二次世界大戦)|イタリア半島上陸]]と同時に連合軍との[[停戦|休戦]]を表明。この休戦の結果、ドイツ軍はイタリア半島全土を占領した。<br /> <br /> またドイツ軍は幽閉されていたムッソリーニを救出し[[傀儡政権]]の「[[イタリア社会共和国]]」を作らせ、イタリアに増援部隊を送り連合軍との交戦を続けた。南北に長く東西に短い山がちな[[イタリア半島]]の地形を利用して、何重もの陣地線を敷き、その結果イタリア半島に展開したドイツ軍が降伏するのは終戦間際になってからだった。<br /> <br /> == 戦いの経過 ==<br /> === 南部イタリア防衛戦 ===<br /> {{see also|イタリア侵攻 (第二次世界大戦)}}<br /> [[ファイル:ItalyDefenseLinesSouthofRome1943 4.jpg|thumb|250px|ドイツ・イタリア軍の防御線]]<br /> [[ファイル:M10 tank destroyer italy 1945 sm.jpg|thumb|250px|北部アペニン山脈に展開したアメリカ陸軍の駆逐戦車[[M10 (駆逐戦車)|M10]](1943年9月)。]]<br /> 連合軍は1943年8月17日にシチリア島を解放、続く9月3日にイタリア半島の先端部に上陸([[ベイタウン作戦]])し、[[9月9日]]に[[サレルノ]]([[アヴァランチ作戦]])、[[ターラント]]([[スラップスティック作戦]])へ上陸を行った。水面下で連合軍との降伏交渉を続けていたバドリオ政権は、連合軍の上陸と同時に休戦を表明した。ムッソリーニの逮捕から後、バドリオ政権に不審な動きがあるのを察知していたドイツ軍は、イタリア降伏によっても浮き足立つことなく直ちに部隊を展開させ[[イタリア軍]]を武装解除、主要地点の占領に入った。イタリア北部は[[エルヴィン・ロンメル]][[元帥 (ドイツ)#陸軍元帥|元帥]]が、イタリア南部は[[アルベルト・ケッセルリンク]]元帥が指揮をとり9月下旬にはイタリア半島をほぼ占領した。<br /> <br /> 連合軍はバドリオの提案に乗る形でイタリア半島への上陸と同時にローマへ空挺降下してイタリア軍と共同で[[ローマ]]を制圧(南部に展開するドイツ軍の連絡線を遮断)するジャイアント作戦を計画、米[[第82空挺師団 (アメリカ軍)|82空挺師団]]長の[[マシュー・リッジウェイ]]は[[マクスウェル・D・テイラー|テイラー]]准将をローマに送り込んでイタリア軍を偵察させたが、兵員や武器弾薬の不足、ドイツ軍の展開などを理由に作戦中止を決断、師団の壊滅を免れた&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://www.sankei.com/west/news/170106/wst1701060005-n1.html|title=「狂犬」だけではない、「魔法使い」に「鉄のおっぱい」… 名将にあだ名あり|publisher=産経新聞|date=2017-01-06|accessdate=2017-01-06}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> バドリオの政府は、休戦を表明するやただちにイタリア半島南部のブリンディシに脱出した。この後降伏文書に調印(9月)、連合軍の一員としてドイツに宣戦布告を行う(10月)。一方、9月に逮捕され幽閉されていたムッソリーニは[[オットー・スコルツェニー]]率いるドイツ軍部隊によって救出され、ドイツの後押しでイタリア北部に[[イタリア社会共和国]](サロ共和国、サロ政権)を樹立した。しかしサロ共和国はドイツの[[傀儡政権]]でしかなく、何の権力もない名前だけの存在であった。<br /> <br /> イタリア半島南部から北上してくる連合軍に対し、ケッセルリンク元帥率いるドイツ軍は、「ラインハルト線」「ヒトラー線」「グスタフ線」「カイザー線」という4重もの防衛線を敷き、抵抗を続けた。イタリア半島は山がちであるため防御側に有利で、戦車を効果的に使えない連合軍の進撃は非常にゆっくりとしたものであった。<br /> しかしその背後ではパルチザンが徐々に活動を広げ、補給の妨害などを始めていた。<br /> <br /> === モンテ・カッシーノ、アンツィオの戦い ===<br /> 年が明けて1944年1月上旬、連合軍は[[ラーピド川]]・[[ガリリャーノ川]]沿いのグスタフ線に達し、[[アンツィオ]]での上陸作戦と呼応して、ローマへの北上の障害となる[[カッシーノ]]付近の枢軸軍の制圧を目指した([[モンテ・カッシーノの戦い]])。&lt;br/&gt;<br /> 1月17日連合軍は渡河を開始、22日にアンツィオで上陸作戦([[アンツィオの戦い|シングル作戦]])を開始した。カッシーノでの渡河は撃退されたものの、上陸作戦のほうは枢軸軍に備えが無く成功した。<br /> <br /> ここで上陸部隊の指揮官米第6軍団長ルーカスは、拙速なローマへの進撃を避け、当面は現状の上陸橋頭堡を維持し十分な戦力を集めることに専念するよう主張した。連合軍の動きが止まったのを見たケッセルリンクは、アンツィオに増派し2月中旬反撃を開始、連合軍の[[橋頭堡]]は分断されてしまった。<br /> <br /> この失敗と、すでに[[ノルマンディー上陸作戦]](オーバーロード作戦)・南フランス上陸作戦([[アンヴィル作戦]])の準備に入っていたため、連合軍はこれ以上のイタリアでの上陸作戦を断念、米第5軍がグスタフ線で攻勢をかけることにした。<br /> <br /> この頃、カッシーノの枢軸軍は、川沿いからは後退し、山頂の要塞化された[[モンテ・カッシーノ|ベネディクト会修道院]]とその背後の尾根伝いに陣地を敷いていた。連合軍は2月から3月にかけて、予備の[[自由フランス軍]]・自由ポーランド軍も投入し、川沿いから直に修道院へ攻めあがるルートで、激しい爆撃の中4度攻撃をかけたが、ことごとく失敗。連合軍はさらに戦力を整えるため攻勢を中断、5月まで戦線は膠着した。<br /> <br /> 5月連合軍は数箇所で同時に行動を開始、17日ポーランド軍が東から尾根のドイツ軍陣地に攻撃を開始、その間自由フランス軍が修道院の西から回り込みグスタフ線の裏の小陣地線まで進撃。23日にはアンツィオでも攻撃を開始、枢軸軍の陣地線は完全に崩壊し、カッシーノ=アンツィオ間で包囲される危機的状況であったが、米第5軍が南下せず北のローマを目指したため、枢軸軍は抵抗しつつ中部イタリアの陣地線まで後退した。<br /> <br /> === 中部イタリア防衛戦 ===<br /> [[Image:Nara ww294 w455.jpg|thumb|200px|ゴシック線に向かうアメリカ第370歩兵連隊]]<br /> [[1944年]][[5月]]、カイザー線が突破され、6月4日イタリア首都[[ローマ]]が陥落したが、ドイツ軍はイタリア中部に「ヴィテルボ線」「トラジメーノ線」「アルノ線」「ゴシック線」という4重の防衛線を敷き直し抵抗を続けた。しかし、アルノ線まで連合軍の突破を許し、[[8月11日]][[フィレンツェ]]が陥落した。だが、連合軍は&lt;!--[[ノルマンディー上陸作戦]]--&gt;南フランス上陸作戦(8月15日)のため一時攻撃を中止し、9月以降ゴシック線で両軍のにらみ合いが続いた。<br /> <br /> === 北部イタリア防衛戦 ===<br /> [[1945年]][[1月]]、連合軍は攻撃を再開しゴシック線を突破したが、ドイツ軍はイタリア北部に「ジンギス・カン線」「ポー線」「ヴェネツィア線」「アルビーノ線」という4重の防衛線を敷き直し抵抗を続けた。ただ、既に背後の[[フランス]][[プロヴァンス]]地方は陥落しており、抵抗は限定的なものであった。[[ポー川]]沿いのポー線まで後退すると、連合軍の[[ミラノ]]・[[トリノ]]方面への突破を許し、連合軍はフランス南部へ進撃した。同時に自由フランス軍も[[アルプス山脈]]を超えて[[ヴァッレ・ダオスタ州]]の[[アオスタ]]へと侵攻し、東部国境付近では[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]率いる[[ユーゴスラビア]]のパルチザンがかく乱工作を展開した。<br /> <br /> 連合軍の進撃と、各地における[[パルチザン (イタリア)|パルチザン]]の蜂起によりイタリア社会共和国は事実上瓦解。ムッソリーニはドイツ軍の保護の下でイタリアからの脱出を図ったが、[[4月28日]]に愛人の[[クラーラ・ペタッチ]]と共にパルチザンに捕らえられ、即刻処刑されてその遺体が民衆の前にさらされた。ヒトラー自殺のわずか二日前であった。{{Main|ベニート・ムッソリーニの死}}<br /> <br /> [[アルプス山脈]]まで追い詰められていたドイツ・イタリア方面軍司令官[[ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ|フィーティングホフ]]は[[4月29日]]連合軍に休戦を申し込み、[[5月2日]]に降伏、これでイタリアの戦いが終結した。<br /> <br /> == イタリア戦線を題材にした作品 ==<br /> * イタリア映画 『[[無防備都市]]』(Roma Citta Aperta) 1945年 監督 [[ロベルト・ロッセリーニ]]<br /> * イタリア映画 『[[戦火のかなた]]』(Paisa Paisan) 1946年 監督 ロベルト・ロッセリーニ<br /> * アメリカテレビドラマ『[[ギャラント・メン]]』(The Gallant Men) 1962年<br /> * アメリカ映画 『[[脱走特急]]』(Von Ryan&#039;s express) 1965年 監督 [[マーク・ロブソン]]<br /> * アメリカ映画 『[[アンツィオ大作戦]]』(Lo sbarco di Anzio) 1968年 監督 [[エドワード・ドミトリク]]<br /> * アメリカ映画 『[[パットン大戦車軍団]]』(Patton) 1970年 監督 [[フランクリン・J・シャフナー]] 製作 フランク・マッカーシー<br /> * アメリカ・イタリア合作映画 『[[セントアンナの奇跡]]』(Miracle at St. Anna) 2008年 監督 [[スパイク・リー]]<br /> <br /> ==出典==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.geocities.com/limeydvr/italypage.html The Italian Campaign.]<br /> * [http://www.worldwar2history.info/Europe/ World War II History Info - The European Theater]{{Campaignbox-bottom|第二次大戦ヨーロッパ戦線}}<br /> {{ナチス・ドイツ}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:いたりあせんせん}}<br /> [[Category:イタリア王国|いたりあせんせんたい2しせかいたいせん]]<br /> [[Category:イタリアの戦争]]<br /> [[Category:イタリアの近代史]]<br /> [[Category:第二次世界大戦の作戦と戦い]]<br /> [[Category:ファシスト党]]<br /> {{Italia-storia-stub}}<br /> {{War-stub}}</div> 42.145.121.253 バルト三国 2018-05-27T11:53:32Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2015年3月}}<br /> {{基礎情報 行政区画<br /> |IB_NameJa= バルト三国<br /> |IB_Name= {{lang-et|&#039;&#039;Balti riigid&#039;&#039;}}&lt;br/&gt;{{lang-lv|&#039;&#039;Baltijas valstis&#039;&#039;}}&lt;br/&gt;{{lang-lt|&#039;&#039;Baltijos valstybės&#039;&#039;}}<br /> |IB_Map1= [[File:Baltic states.svg|250px|バルト三国の位置]]<br /> |IB_TH01= 構成国<br /> |IB_TD01= {{EST}}&lt;br&gt;{{LAT}}&lt;br&gt;{{LIT}}<br /> |IB_TH02= [[首都]]<br /> |IB_TD02= [[タリン]]&lt;br&gt;[[リガ]]&lt;br&gt;[[ヴィリニュス]]<br /> |IB_TH03= [[公用語]]<br /> |IB_TD03= [[エストニア語]]&lt;br&gt;[[ラトビア語]]&lt;br&gt;[[リトアニア語]]<br /> |IB_TH04= [[面積]]<br /> |IB_TD04= 175,015 km²<br /> |IB_TH05= [[人口]]([[2010年]])<br /> |IB_TD05= 6,827,351 人<br /> |IB_TH06= [[国内総生産|GDP]] ([[購買力平価説|PPP]])([[2010年]])<br /> |IB_TD06= 1081 億 [[アメリカ合衆国ドル|USドル]]<br /> |IB_TH07= 一人あたりの[[国内総生産|GDP]] ([[購買力平価説|PPP]])([[2010年]])<br /> |IB_TD07= 15,665 USドル<br /> |IB_TH08= 名目[[国内総生産|GDP]]([[2010年]])<br /> |IB_TD08= 745 億 USドル<br /> |IB_TH09= 一人あたりの名目[[国内総生産|GDP]]([[2010年]])<br /> |IB_TD09= 10,792 USドル<br /> }}<br /> [[File:Kaliningrad map.PNG|right|thumb|位置図、バルト海に面して北からエストニア、ラトビア、リトアニア、ロシア飛び地、ポーランド]]<br /> &#039;&#039;&#039;バルト三国&#039;&#039;&#039;(バルトさんごく)は、[[バルト海]]の東岸、[[フィンランド]]の南に南北に並ぶ3つの国を指し、北から順に、&#039;&#039;&#039;[[エストニア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラトビア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リトアニア]]&#039;&#039;&#039;である。3か国ともに、[[北大西洋条約機構]](NATO)および[[欧州連合]](EU)の加盟国、通貨も[[ユーロ]]でシェンゲン協定加盟国である。<br /> <br /> 歴史的に、エストニアやラトビアは北ヨーロッパ諸国やドイツと、リトアニアは[[ポーランド]]とのつながりが深く、また3か国はロシアとも深く関わってきた。<br /> バルト三国はロシアとロシアの飛地に接している。<br /> <br /> == 民族 ==<br /> [[エストニア人]]は、[[フィン人]]と近縁の民族で、エストニア語は[[フィンランド語]]と同じ[[ウラル語族]]である。一方、[[ラトビア人]]と[[リトアニア人]]はバルト系民族([[印欧語族]][[バルト語派]]の話者)である。リトアニアが独自の文化を築いて来たのに比べ、ラトビアは[[リヴォニア]]を基礎としていたため、民族の覚醒は[[19世紀]]に起こる。これら別個の文化を共通化、また自立化させたのは、中世以来政治的支配を行ってきた[[少数民族]]の[[バルト・ドイツ人]]であった。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> バルト三国を構成する国々は一つにくくられて語られがちではあるが、[[近代]]までの三国は別々の歴史を歩んできている。<br /> <br /> === 近代まで ===<br /> ==== エストニア ====<br /> [[ファイル:Flag of Estonia.svg|thumb|right|180px|[[エストニアの国旗|エストニア共和国の国旗]]]]<br /> {{Main|エストニアの歴史}}<br /> [[近代]]までは[[ドイツ語]]の[[エストラント]]という地名が主流であった。フィンランドと同じく[[フィン・ウゴル語派|フィン・ウゴル系民族]]である。[[ヴァイキング]]に侵攻を受けた後は、[[ロシア人]]や[[デーン人]]の侵略を受ける。[[ドイツ騎士団]]に支配された事もあるが、[[13世紀]]に[[デンマーク]]が[[領有]]する。[[16世紀]]に[[リヴォニア戦争]]が起こると、その支配は[[スウェーデン]]に帰する([[エストニア公国]])。この時代は、[[バルト帝国|スウェーデン・バルト帝国]]と呼ばれた。[[18世紀]]に起きた[[大北方戦争]]の結果、[[ロシア帝国]]の支配下に入る。<br /> <br /> ==== ラトビア ====<br /> [[ファイル:Flag of Latvia.svg|thumb|right|180px|[[ラトビアの国旗|ラトビア共和国の国旗]]]]<br /> {{Main|ラトビアの歴史}}<br /> 古くは[[先住民族]]としてフィン・ウゴル系民族の[[リーヴ人]]が居住していたため、[[リヴォニア]]と呼ばれた(ドイツ風にリヴラントとも言われる)。13世紀に[[ドイツ騎士団]]の一組織[[リヴォニア帯剣騎士団]]によって征服される。この[[騎士団]]は、常軌を逸した侵略行為を行ったため、民族はほぼ浄化され、後発の[[バルト人]]に同化された。これ以降、リヴォニアは、ドイツ騎士団、[[リトアニア]]、[[ポーランド王国]]によって支配を受ける。16世紀、[[リヴォニア戦争]]の後にこの地は分断され、南部は[[クールラント公国]]となった。[[17世紀]]に北部リヴォニアは、[[スウェーデン]]領となり、バルト帝国の一州となった。この地も[[大北方戦争]]や[[ポーランド分割]]の後、18世紀に南北ともロシア帝国に帰することとなった。<br /> <br /> ==== リトアニア ====<br /> [[ファイル:Flag of Lithuania.svg|thumb|right|180px|[[リトアニアの国旗|リトアニア共和国の国旗]]]]<br /> {{Main|リトアニアの歴史}}<br /> [[中世]]に[[リトアニア大公国]]として栄える。元々は非[[キリスト教]]国家だったため、[[北方十字軍]]である[[ドイツ騎士団]]との抗争が繰り返された。しかしリトアニアは[[コサック]]の地である[[ウクライナ]]([[ポジーリャ|ポドリア]])の領有に成功する。[[1386年]]、ドイツ騎士団の侵略に耐えかねたリトアニアはキリスト教を受け入れ、[[ポーランド王国]]と同盟を組む。これがいわゆる[[ポーランド・リトアニア連合]]である。[[リトアニア人]]は[[1430年]]まで自立していたが、以降ポーランドとの[[同君連合]]となり、リトアニアのすべての貴族階級はポーランド文化に[[同化]]した。そして[[1569年]]の[[ルブリン合同]]によって、[[ポーランド・リトアニア共和国]]という政治的統一体が誕生すると、リトアニアはその構成国の一つとなった。以降のリトアニアは[[ポーランド]]と運命を共にする。[[1795年]]、第3次[[ポーランド分割]]によってポーランド・リトアニア連合が消滅した際、現在のリトアニアの大半の地域はロシア帝国に編入された。<br /> <br /> === 近代以降 ===<br /> 三国とも[[ロシア帝国]]に支配されていたが、[[ロシア革命]]ののち、[[1918年]]に三国とも独立を達成した。しかし[[第二次世界大戦]]中の[[独ソ不可侵条約]]における[[独ソ不可侵条約#秘密議定書|秘密議定書]]を発端として[[バルト諸国占領|ソ連とドイツによる占領]]が続いた。[[1940年]]に[[ソビエト連邦]]に併合され、[[ソビエト連邦構成共和国]]である[[エストニア・ソビエト社会主義共和国|エストニア]]・[[ラトビア・ソビエト社会主義共和国|ラトビア]]・[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国|リトアニア]]の各「ソビエト社会主義共和国」として連邦政府の強い統制下に置かれた。[[1941年]]に始まった[[独ソ戦]]によりこの地域は[[ナチス・ドイツ]]の支配を受けたが、[[1944年]]から[[1945年]]にかけて再びソ連に占領された。戦後、ソ連は自らが得た戦前の旧ポーランド領の一部をリトアニアに編入し、現在に至るバルト三国の国境線が確定した。<br /> <br /> [[1980年代]]後半、ソ連国内で[[ペレストロイカ]]が進展すると独立回復運動が高まり、[[1990年]][[3月11日]]に独立を宣言したリトアニア共和国では[[1991年]]1月にソ連軍との衝突で死者が発生した([[血の日曜日事件 (リトアニア)|血の日曜日事件]])。その後、[[ソ連8月クーデター]]後の[[8月20日]]にそろって再独立を実現させ、同年12月の[[ソ連崩壊]]へ大きな影響を与えた。<br /> <br /> 1991年には[[北欧理事会]]の情報事務所がバルト三国に開設されたほか、エストニア、リトアニア、ラトビアのバルト三国は北欧理事会への加盟希望を表明している。<br /> <br /> [[1992年]]に[[バルト海諸国理事会]]が設立されると、三国ともに加盟。理事会は[[北ヨーロッパ]]と[[バルト海]]周辺に位置する諸国による国際的な地域組織として設立・運営され、欧州連合も加盟した。<br /> <br /> 独立後は概ね三国が共同歩調を取って親米・親西欧の経済・外交政策を展開し、[[2004年]][[3月29日]]に三国そろって[[北大西洋条約機構]](NATO)へ加盟した。同年[[5月1日]]には、やはり三国そろって[[欧州連合]](EU)へ加盟した。同日に揃って[[シェンゲン協定]]に調印した。<br /> <br /> [[2005年]]に[[ウラジーミル・プーチン]]大統領はバルト三国併合を「悲劇」と認めたものの、新たな謝罪は拒んだ。同年の対独戦争60周年記念式典にはラトビア以外のエストニアのリュイテリ大統領とリトアニアの[[ヴァルダス・アダムクス|アダムクス]][[リトアニアの統治者の一覧|大統領]]は出席を拒否した。<br /> <br /> [[セイマス|リトアニアの国会]]は、[[ナチス・ドイツ]]の[[ハーケンクロイツ|鉤十字]]と同様に、[[ソビエト連邦]]と[[共産主義]]の標章([[ソビエト連邦の国旗]]と[[ソビエト連邦の国章|国章]]である「[[鎌と鎚]]」、[[ソビエト連邦の国歌]])を禁止する法案を可決し、エストニアではソ連軍兵士の銅像を撤去する事でロシア系住民の暴動が起きている。<br /> <br /> [[2007年]][[12月21日]]にシェンゲン協定を揃って施行し、[[シェンゲン圏]]に組み込まれた。<br /> <br /> [[2007年]]以後は[[エストニア]]が、[[2008年]]以後は[[リトアニア]]と[[ラトビア]]がそれぞれ、ナチス・ドイツの「鉤十字」とソビエト連邦の「鎌と鎚」を禁止している。バルト三国はソビエト統治時代を「[[暗黒時代]]」と見なしている。一方、[[ベラルーシ]]や[[ウクライナ]]東部の親ロシア派支配地域はソビエト連邦時代の戦勝記念を祝っている。<br /> <br /> [[2011年]][[1月1日]]にエストニアが[[クローン (通貨)|クローン]]から、[[2014年]][[1月1日]]にラトビアが[[ラッツ]]から、[[2015年]][[1月1日]]にリトアニアが[[リタス]]から通貨を[[ユーロ]]に変更した。なお、三国の通貨が同じになるのは1992年にエストニアが、[[1993年]]にラトビア・リトアニアがそれぞれ国内で[[ソビエト連邦ルーブル|ソビエト・ルーブル]]を使用しなくなって以来である。<br /> <br /> == 統計 ==<br /> 総人口が多い都市<br /> * {{旗アイコン|LAT}} [[リガ]] - 725,578 人<br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[ヴィリニュス]] - 540,318 人<br /> * {{旗アイコン|EST}} [[タリン]] - 396,193 人<br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[カウナス]] - 361,274 人<br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[クライペダ]] - 188,954 人<br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[シャウレイ]] - 125,883 人<br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[パネヴェジース]] - 116,749 人<br /> * {{旗アイコン|LAT}} [[ダウガフピルス]] - 110,265 人<br /> * {{旗アイコン|EST}} [[タルトゥ]] - 101,740 人<br /> * {{旗アイコン|LAT}} [[リエパーヤ]] - 85,448 人<br /> <br /> バルト三国の基幹民族([[エストニア人]]、[[ラトビア人]]、[[リトアニア人]])の人口が多い都市。<br /> <br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[カウナス]] - 335,624 人<br /> * {{旗アイコン|LAT}} [[リガ]] - 312,858 人<br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[ヴィリニュス]] - 312,303 人<br /> * {{旗アイコン|EST}} [[タリン]] - 216,996 人<br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[クライペダ]] - 135,557 人<br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[シャウレイ]] - 120,263 人<br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[パネヴェジース]] - 113,585 人<br /> * {{旗アイコン|EST}} [[タルトゥ]] - 81,550 人<br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[アリートゥス]] - 66,390 人<br /> * {{旗アイコン|LTU}} [[マリヤンポレ]] - 44,555 人<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[エストニアの歴史]]<br /> * [[ラトビアの歴史]]<br /> * [[リトアニアの歴史]]<br /> * [[北方十字軍]]<br /> * [[民族自決]]<br /> * [[バルト諸国占領]]<br /> * [[独ソ不可侵条約]]<br /> * [[バルトの虎]]<br /> * [[北大西洋条約機構によるバルト三国の領空警備]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.balticnet.jp バルト三国情報サイト]<br /> <br /> {{ヨーロッパ}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:はるとさんこく}}<br /> [[Category:バルト地方|*]]<br /> [[Category:北ヨーロッパ]]<br /> [[Category:エストニア]]<br /> [[Category:ラトビア]]<br /> [[Category:リトアニア]]<br /> [[Category:ヨーロッパの地域]]<br /> [[Category:名数3]]</div> 42.145.121.253 オーランド 2018-05-21T08:56:08Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Otheruses|アメリカ合衆国の都市|その他}}<br /> {{世界の市<br /> |正式名称 = オーランド市<br /> |公用語名称 = City of Orlando<br /> |愛称=<br /> |標語=<br /> |画像 = Orlando Montage.png<br /> |画像サイズ指定 =<br /> |画像の見出し =<br /> |市旗 = Flag of Orlando, Florida.svg<br /> |市章 = Seal of Orlando, Florida.svg<br /> |位置図 = Orange County Florida Incorporated and Unincorporated areas Orlando Highlighted.svg<br /> |位置図サイズ指定 =<br /> |位置図の見出し = オレンジ郡とオーランド市の位置(フロリダ州)<br /> |緯度度 = 28|緯度分 = 24|緯度秒 = 57|N(北緯)及びS(南緯) = N<br /> |経度度 = 81|経度分 = 17|経度秒 = 56|E(東経)及びW(西経) = W<br /> |成立区分 = 成立日<br /> |成立日 = 1875年7月31日<br /> |下位区分名 = {{USA}}<br /> |下位区分種類1 = [[アメリカ合衆国の州|州]]<br /> |下位区分名1 = [[File:Flag of Florida.svg|border|25px]] [[フロリダ州]]<br /> |下位区分種類2 = [[フロリダ州の郡一覧|郡]]<br /> |下位区分名2 = [[File:Flag of Orange County, Florida.png|border|25px]] [[オレンジ郡 (フロリダ州)|オレンジ郡]]<br /> |規模 = 市<br /> |最高行政執行者称号 = 市長<br /> |最高行政執行者名 = [[:en:Buddy Dyer|バディ・ダイアー]]<br /> |最高行政執行者所属党派 = [[民主党 (アメリカ)|民主党]]<br /> |総面積(平方キロ) = 286.7<br /> |総面積(平方マイル) = 110.7<br /> |陸上面積(平方キロ) = 265.2<br /> |陸上面積(平方マイル) = 102.4<br /> |水面面積(平方キロ) = 21.5<br /> |水面面積(平方マイル) = 8.3<br /> |水面面積比率 =<br /> |市街地面積(平方キロ) =<br /> |市街地面積(平方マイル) =<br /> |都市圏面積(平方キロ) =<br /> |都市圏面積(平方マイル) =<br /> |標高(メートル) = 25<br /> |標高(フィート) = 82<br /> |人口の時点 = [[2010年]]<br /> |人口に関する備考 =<br /> |総人口 = 238,300<br /> |人口密度(平方キロ当たり) = 898.6<br /> |人口密度(平方マイル当たり) = 2,327.1<br /> |都市圏人口 = 2,134,411<br /> |都市圏人口密度(平方キロ) =<br /> |都市圏人口密度(平方マイル) =<br /> |市街地人口 =<br /> |等時帯 = [[東部標準時]]<br /> |協定世界時との時差 = -5<br /> |夏時間の等時帯 = [[東部夏時間]]<br /> |夏時間の協定世界時との時差 = -4<br /> |公式ウェブサイト = http://www.cityoforlando.net<br /> |備考 =<br /> }}<br /> [[ファイル:The city beautiful.jpg|thumb|right|255px|イオラ湖から望むダウンタウン]]<br /> &#039;&#039;&#039;オーランド&#039;&#039;&#039;(Orlando, {{IPA-en|ɔrˈlændoʊ}} オ&#039;&#039;&#039;ラン&#039;&#039;&#039;ドウ、オァ&#039;&#039;&#039;ラン&#039;&#039;&#039;ドウ)は、[[アメリカ合衆国]][[フロリダ州]]中央部、[[オレンジ郡 (フロリダ州)|オレンジ郡]]の[[郡庁所在地]]であり、全米屈指の観光・保養都市として知られる。<br /> <br /> [[日本語]]では&#039;&#039;&#039;オルランド&#039;&#039;&#039;や&#039;&#039;&#039;オランドー&#039;&#039;&#039;の表記も見られる。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[2009年]]現在の推計人口で、市域人口は235,860人、都市圏 ([[:en:Metropolitan Statistical Areas|MSA]]) の人口は2,082,421人で全米27位、広域都市圏([[:en:Combined Statistical Areas |CSA]])の人口は2,747,614人である。フロリダ州最大の[[内陸都市]]。そして、南東フロリダ大都市圏([[マイアミ]]・[[フォートローダーデール]]・[[ウェストパームビーチ]])、タンパ湾大都市圏([[タンパ]]・[[セントピーターズバーグ (フロリダ州)|セントピーターズバーグ]]・[[クリアウォーター]])に次ぐ、州第3の大都市圏となっており、2000年の国勢調査と比較しても40万人以上の人口増加となっている。<br /> <br /> また、オーランドはアメリカで第2の規模を誇る州立総合大学 [[:en:University of Central Florida|University of Central Florida]] がキャンパスを構える。<br /> <br /> オーランドは全米屈指の観光・保養都市として知られる。市近郊には[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]]、[[ユニバーサル・オーランド・リゾート]]、[[シーワールド]]など幾つもの[[テーマパーク]]・遊園地を有している。また[[ゴルフ場]]も100ヶ所以上を数える。豪華なリゾートホテルが林立し、郊外には幾つものショッピングセンターや[[アウトレットモール]]がある。<br /> <br /> 手つかずの自然も多く残り、自然保護区が多数指定されている。[[デイトナビーチ]]など近郊の海岸にはビーチリゾートが発展しており、世界中から多くの[[観光客]]が訪れる。スーパーボーイズグループ、[[バックストリート・ボーイズ]]のホームタウンでもある。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> オーランドは{{ウィキ座標度分秒|28|32|1|N|81|22|33|W|}} (28.533513, -81.375789){{GR|1}}に位置している。<br /> <br /> [[アメリカ合衆国統計局]]によると、オーランド市は総面積261.5[[平方キロメートル|km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;]](100.9 [[平方マイル|mi&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;]])である。このうち242.2 km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;(93.5 mi&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)が陸地で19.3km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;(7.5 mi&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)が水地域である。総面積の7.39%が水地域となっている。<br /> <br /> === 地域 ===<br /> オーランド市域内には115のコミュニティがある。そのいくつかは:<br /> {|<br /> |<br /> * Airport North<br /> * Azalea Park<br /> * Baldwin Park<br /> * Belle Isle<br /> * Callahan<br /> * Central Business District<br /> * Conway<br /> * Crescent Park<br /> * Delaney Park<br /> |<br /> * Goldenrod<br /> * Metro North<br /> * Millenia<br /> * North Orange<br /> * パークセントラル (Park Central)<br /> * Roosevelt Park<br /> * Thornton Park<br /> * Union Park<br /> * West Colonial<br /> |}<br /> <br /> == 気象 ==<br /> オーランドの気候は1年を通して温暖である。一方で、他のフロリダ半島の都市と同様、年々[[ハリケーン]]の被害が深刻となっており、特に[[2004年]]はチャーリー、フランシスなどの大型ハリケーンに見舞われ、[[洪水]]が相次いだ。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> オーランドは[[1872年]]に周辺の町が合併することで誕生した都市である。当初は[[野菜]]や[[柑橘類]]を都市に運ぶ集散地として発達した。第二次世界大戦中は陸軍の拠点基地として機能していた。[[1956年]]には軍用機製造のマーティン社(のちにロッキードに吸収された)が誕生、空軍の主要基地として、また近郊の[[ケネディ宇宙センター]](KSC)の従業員の住宅地として発展を遂げた。<br /> <br /> しかし、[[1965年]]に[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ウォルト・ディズニー]]がテーマパーク進出を表明し、[[1971年]]に開園するとそれまで軍事都市、航空宇宙産業都市であったオーランドの性格は一変し、[[フロリダ州]]のみならず全米でも有数の[[観光都市]]へと変貌した。<br /> <br /> なお、市名はこの地で死を遂げたといわれる[[セミノール戦争]]の兵士オーランド・リーヴズ(Orlando Reeves)に因むとされる。但し実際にはそういう名前の兵士の公式記録は残っていない。また[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の[[喜劇]]「[[お気に召すまま]]」の主人公オーランドーからとったという説もある。<br /> <br /> == スポーツ ==<br /> オーランドはダウンタウン オーランド内にある[[アムウェイ・センター]]で試合を行っている[[NBA]][[バスケットボール|プロバスケットボール]]・フランチャイズ、[[オーランド・マジック]]の本拠地である。このチームは[[1995年]]と[[2009年]]に[[NBAファイナル]]に進んだ。<br /> <br /> [[アリーナフットボールリーグ]]の[[w:Orlando Predators]]もアムウェイ・アリーナで試合を行っている。[[1991年]]のリーグに参加して以来、ここは2つの[[アリーナボウル]]タイトル(1998年及び2000年) を持つ[[w:Tampa Bay Storm]]と歴史的な競争を行っている、ヤングリーグの伝説的なフランチャイズの1つとなった。<br /> <br /> [[2015年]]から[[メジャーリーグサッカー]]に参加する[[オーランド・シティSC]]は[[シトラス・ボウル]]を本拠地としている。<br /> <br /> 数多くの[[泉]]があり、[[テクニカルダイビング|ケイブダイビング]]が盛んである。また、ゴルフ場やテニスコートが多く、レジャースポーツが盛ん。<br /> <br /> == 経済 ==<br /> [[ファイル:Magic Kingdom castle.jpg|thumb|right|185px|ディズニーリゾートのマジック・キングダム]]<br /> 発着数が多いオーランド国際空港の空の便を活用した半導体、エレクトロニクス産業が盛んで、タンパと共にエレクトロニクスベルトを形成する。その他、近郊の農産品、花卉や野菜、柑橘類の集散地としても機能し、近年{{いつ|date=2013年4月}}&lt;!-- See [[WP:DATED]] --&gt;は観光都市だけにとどまらない商工業都市としての発展も見せている。<br /> <br /> == 交通 ==<br /> === 航空 ===<br /> オーランド市地域は主に[[オーランド国際空港]]を活用している。しかし、近郊のオーランド・サンフォード国際空港も利用されている。また、オーランド・エギゼクティブ空港はチャーター飛行などに使われている。<br /> <br /> === 鉄道(アムトラック) ===<br /> 市内には[[アムトラック]]の[[オーランド駅]]があり、大陸横断鉄道の長距離列車や、[[ワシントンD.C.]]、[[ニューヨーク]]方面への長距離列車などが発着する。<br /> * [[サンセット・リミテッド]] : オーランド-[[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]-[[ニューオーリンズ]]-[[ヒューストン]]-[[サンアントニオ]]-[[エルパソ (テキサス州)|エルパソ]]-[[ツーソン]]-[[ロサンゼルス]]<br /> * シルバースター : [[マイアミ]]-[[タンパ]]-オーランド-[[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]-[[サバンナ (ジョージア州)|サバンナ]]-[[ワシントンD.C.]]-[[ボルチモア]]-[[フィラデルフィア]]-[[ニューヨーク]]<br /> * シルバーメテオ : [[マイアミ]]-オーランド-[[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]-[[サバンナ (ジョージア州)|サバンナ]]-[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]-[[ワシントンD.C.]]-[[ボルチモア]]-[[フィラデルフィア]]-[[ニューヨーク]]<br /> <br /> === 長距離バス(グレイハウンド) ===<br /> [[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド]]のバスターミナルはダウンタウンにある。オーランドは同社の[[交通結節点|ハブ]]となるターミナルの1つで、[[ニューヨーク]]、[[ダラス]]、[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]からの長距離バスや[[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]、[[デイトナビーチ]]、[[マイアミ]]、[[タンパ]]、[[タラハシー (フロリダ州)|タラハシー]]など[[フロリダ州]]各地からの中距離バスが発着し、これら相互の乗り換えの拠点となっている。<br /> <br /> == 人口統計 ==<br /> 以下は[[2000年]]の[[国勢調査]]における人口統計データである。<br /> <br /> ; 基礎データ<br /> * 人口: 185,951人<br /> * 世帯数: 80,883世帯<br /> * 家族数: 42,382家族<br /> * [[人口密度]]: 767.9人/km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;(1,988.9人/mi&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)<br /> * 住居数: 88,486軒<br /> * 住居密度: 365.4軒/km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;(946.4軒/mi&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)<br /> <br /> ; 人種別人口構成<br /> * [[白人]]: 61.10%<br /> * [[アフリカン・アメリカン]]: 26.85%<br /> * [[ネイティブ・アメリカン]]: 0.34%<br /> * [[アジア人]]: 2.68%<br /> * 太平洋諸島系: 0.08%<br /> * その他の人種: 5.41%<br /> * 混血: 3.54%<br /> * [[ヒスパニック]]・[[ラテン系]]: 17.48% - 市内にはプエルトリコ系、ドミニカ系、キューバ系、及びベネズエラ系の各住民がそれぞれ大規模なコミュニティを形成している。<br /> <br /> ; 年齢別人口構成<br /> * 18歳未満: 22.0%<br /> * 18-24歳: 10.7%<br /> * 25-44歳: 37.3%<br /> * 45-64歳: 18.6%<br /> * 65歳以上: 11.3%<br /> * 年齢の中央値: 33歳<br /> <br /> ; 性比(女性100人あたり男性の人口)<br /> * 総人口: 94.0<br /> * 18歳以上: 91.3<br /> <br /> ; 世帯と家族(対世帯数)<br /> * 18歳未満の子供がいる: 24.5%<br /> * 結婚・同居している夫婦: 32.4%<br /> * 未婚・離婚・死別女性が世帯主: 15.4%<br /> * 非家族世帯: 47.6%<br /> * 単身世帯: 35.0%<br /> * 65歳以上の老人1人暮らし: 8.5%<br /> <br /> ; 平均構成人数<br /> * 世帯: 2.25人<br /> * 家族: 2.97人<br /> <br /> ; 収入の中央値<br /> * 世帯: 35,732[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]<br /> * 家族: 40,648米ドル<br /> * 性別<br /> ** 男性: 30,866米ドル<br /> ** 女性: 25,267米ドル<br /> <br /> ; 人口1人あたり収入<br /> : 21,216米ドル<br /> <br /> ; [[貧困線]]以下<br /> * 対人口: 15.9%<br /> * 対家族数: 13.3%<br /> * 18歳未満: 27.0%<br /> * 65歳以上: 12.6%<br /> <br /> == 姉妹都市 ==<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-break}}<br /> * {{flagicon|FRA}} [[セーヌ=エ=マルヌ県]]、[[フランス]]<br /> * {{flagicon|CHN}} [[桂林]]、[[中華人民共和国]]<br /> * {{flagicon|ROC}} [[台南市]]、[[中華民国]]<br /> * {{flagicon|RUS}} [[オレンブルク]]、[[ロシア|ロシア連邦]]<br /> {{Col-break}}<br /> * {{flagicon|BRA}} [[クリチバ]]、[[ブラジル]]<br /> * {{flagicon|JPN}} [[浦安市]]、[[日本]]<br /> * {{flagicon|ISL}} [[レイキャネス]]、[[アイスランド|アイスランド共和国]]<br /> * {{flagicon|MEX}} [[モンテレイ (メキシコ)|モンテレイ]]、[[メキシコ|メキシコ合衆国]]<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commons|Category:Orlando, Florida}}<br /> * [http://www.cityoforlando.net/ City of Orlando(英語版)]<br /> * [http://www.orlandoinfo.com/index.cfm Orlando/Orange County CVB(英語版)]<br /> * [http://maps.google.com/maps?ll=28.533513,-81.375789&amp;spn=0.11,0.18 Google ローカル(日本語版)]<br /> * [http://mywikicity.com/wiki/index.php?title=Orlando Orlando City Information]<br /> <br /> {{フロリダ州}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:おおらんと}}<br /> [[Category:オーランド|*]]<br /> [[Category:フロリダ州の都市]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国のリゾート地]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の避寒地]]<br /> [[Category:オレンジ郡 (フロリダ州)]]<br /> [[Category:グレーター・オーランド]]</div> 42.145.121.253 第二次ブルガリア帝国 2018-05-21T05:28:17Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 過去の国<br /> |略名 =ブルガリア<br /> |日本語国名 =ブルガリア帝国<br /> |公式国名 ={{Lang|bg|&#039;&#039;&#039;ц︢рьство блъгарское&#039;&#039;&#039;}}<br /> |建国時期 =[[1185年]]<br /> |亡国時期 =[[1396年]]<br /> |先代1 =東ローマ帝国<br /> |先旗1 =Byzantine imperial flag, 14th century, square.svg<br /> |次代1 =オスマン帝国<br /> |次旗1 =Ottoman Flag.svg<br /> |国旗画像 = Flag of the Second Bulgarian Empire.svg<br /> |国旗リンク = &lt;!--「&quot;略名&quot;の国旗」以外を指定--&gt;<br /> |国旗説明 = <br /> |国旗幅 = &lt;!--初期値125px--&gt;<br /> |国旗縁 = &lt;!--no と入力すると画像に縁が付かない--&gt;<br /> |国章画像 =Coat of arms of the Second Bulgarian Empire.svg<br /> |国章リンク =<br /> |国章説明 =<br /> |国章幅 = &lt;!--初期値85px--&gt;<br /> |標語 =<br /> |国歌名 =<br /> |国歌追記 =<br /> |位置画像 =BULGARIA under Iwan ASSEN II.jpg<br /> |位置画像説明 =イヴァン・アセン2世時代の版図<br /> |公用語 =<br /> |首都 =[[ヴェリコ・タルノヴォ|タルノヴォ]]<br /> |元首等肩書 =[[皇帝]]([[ツァーリ|ツァール]])<br /> |元首等年代始1 =[[1185年]]<br /> |元首等年代終1 =[[1190年]]<br /> |元首等氏名1 =[[ペタル4世]]<br /> |元首等年代始2 =[[1197年]]<br /> |元首等年代終2 =[[1207年]]<br /> |元首等氏名2 =[[カロヤン・アセン|カロヤン]]<br /> |元首等年代始3 =[[1218年]]<br /> |元首等年代終3 =[[1241年]]<br /> |元首等氏名3 =[[イヴァン・アセン2世]]<br /> |元首等年代始4 =[[1331年]]<br /> |元首等年代終4 =[[1371年]]<br /> |元首等氏名4 =[[イヴァン・アレクサンダル]]<br /> |元首等年代始5 =[[1371年]]<br /> |元首等年代終5 =[[1393年]]<br /> |元首等氏名5 ={{仮リンク|イヴァン・シシュマン|en|Ivan Shishman of Bulgaria}}<br /> |面積測定時期1 =<br /> |面積値1 =<br /> |面積測定時期2 =<br /> |面積値2 =<br /> |面積測定時期3 =<br /> |面積値3 =<br /> |面積測定時期4 =<br /> |面積値4 =<br /> |面積測定時期5 =<br /> |面積値5 =<br /> |人口測定時期1 =<br /> |人口値1 =<br /> |人口測定時期2 =<br /> |人口値2 =<br /> |人口測定時期3 =<br /> |人口値3 =<br /> |人口測定時期4 =<br /> |人口値4 =<br /> |人口測定時期5 =<br /> |人口値5 =<br /> |変遷1 =アセンとペタルの蜂起<br /> |変遷年月日1 =[[1185年]]<br /> |変遷2 =イヴァイロの蜂起<br /> |変遷年月日2 =[[1277年]]<br /> |変遷3 =タルノヴォの陥落<br /> |変遷年月日3 =[[1393年]]<br /> |変遷4 =イヴァン・シシュマンの廃位<br /> |変遷年月日4 =[[1395年]]<br /> |変遷5 =[[オスマン帝国]]のブルガリア併合<br /> |変遷年月日5 =[[1396年]]<br /> |通貨 =<br /> |注記 =<br /> }}<br /> {{ブルガリアの歴史}}<br /> &#039;&#039;&#039;第二次ブルガリア帝国&#039;&#039;&#039;({{lang-bg|Второ българско царство}}, {{lang-en|Second Bulgarian Empire}})は、[[12世紀]]後半から[[14世紀]]末まで[[ブルガリア]]に存在した[[国家]]。14世紀末に[[オスマン帝国]]によって滅ぼされた。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 第一次ブルガリア帝国滅亡後 ===<br /> [[1018年]]の[[第一次ブルガリア帝国]]の滅亡後、ブルガリアはビザンツ帝国([[東ローマ帝国]])領となった。ビザンツの支配下に置かれたブルガリアでは[[テマ制]](軍管区制)が実施され、ビザンツに従属するブルガリアの貴族と高位聖職者は特権を保証された&lt;ref&gt;金原「中世のバルカン」『バルカン史』、83,85頁&lt;/ref&gt;。しかし、第一次ブルガリア帝国を滅ぼしたビザンツ皇帝[[バシレイオス2世]]が没し、彼の後継者たちの時代になるとブルガリアには圧政が敷かれるようになる&lt;ref name=&quot;kin85&quot;&gt;金原「中世のバルカン」『バルカン史』、85頁&lt;/ref&gt;。ブルガリア内の正教徒を管轄する[[オフリド大主教区|オフリド総主教座]]は大主教座に降格されて&lt;ref&gt;井上、栗生沢『ビザンツとスラヴ』、318頁&lt;/ref&gt;その地位にはギリシャ人が就くようになり、ブルガリア人の中から総主教を選ぶことができなくなった([[ブルガリア正教会#オフリド大主教区]]も参照)&lt;ref name=&quot;cra34&quot;&gt;クランプトン『ブルガリアの歴史』、34頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1040年]]に[[ミカエル4世]]の治下で実施された財政改革によってブルガリアの農民に金銭での納税が課され、ブルガリアの農民の生活はより圧迫された&lt;ref name=&quot;kin85&quot;/&gt;。同じ時期にブルガリアではテマ制に代わって疑似封建的な土地制度である[[プロノイア制]]が導入され、農民は領主の搾取にも苦しめられる&lt;ref name=&quot;cra34&quot;/&gt;。1040年に[[マケドニア]]地方でブルガリア皇帝[[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]の孫{{仮リンク|ペタル・デリャン|en|Peter Delyan}}が指導する民衆蜂起が勃発し([[ペタル・デリャンの蜂起]])、指導者のデリャンはブルガリア帝国の再建を掲げた。デリャンの反乱は傭兵の助けを借りたビザンツ軍によって鎮圧されたがその後もブルガリアでは反ビザンツの蜂起が頻発し、その背景には社会不安が存在していた&lt;ref name=&quot;cra35&quot;&gt;クランプトン『ブルガリアの歴史』、35頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === アセンとペタルの蜂起、ブルガリア帝国の再建 ===<br /> [[File:Second Bulgarian Empire (1185-1196).png|thumb|180px|アセンとペタル時代の第二次ブルガリア帝国]]<br /> {{See also|アセンとペタルの蜂起}}<br /> 1180年代に[[シチリア王国]]によるビザンツ領への攻撃が始まるとブルガリアでは増税と徴兵の強化が実施され&lt;ref name=&quot;cra35&quot;/&gt;、さらにビザンツ皇帝[[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]の結婚に際して特別税が課される&lt;ref&gt;寺島「アセン兄弟の蜂起」『東欧を知る事典』、9頁&lt;/ref&gt;。[[1185年]]に[[ヴェリコ・タルノヴォ|タルノヴォ]]近郊の[[ヴラフ人]](あるいは[[クマン人]])&lt;ref&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、612頁&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;chuko319&quot;&gt;井上、栗生沢『ビザンツとスラヴ』、319頁&lt;/ref&gt;地主[[ペタル4世|ペタル]]と{{仮リンク|イヴァン・アセン1世 (ブルガリア)|en|Ivan Asen I of Bulgaria|label=アセン}}の兄弟は新税の軽減とプロノイアの付与をビザンツ皇帝[[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]に願い出るが、2人の要求は拒絶された&lt;ref name=&quot;cra35&quot;/&gt;。帰国したペタルとアセンはタルノヴォの聖ディミタル教会の聖別式でブルガリア国家の再興と挙兵を宣言し、ブルガリア人修道士ヴァシリィは年長のペタルを皇帝([[ツァーリ|ツァール]])に戴冠した&lt;ref name=&quot;horupu84&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、84頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、120頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ビザンツの統治に不満を持っていたブルガリアの人々は蜂起に参加し、ペタルとアセンは国家の継承性を強調するために第一次ブルガリア帝国時代の首都だった{{仮リンク|プレスラフ|en|Preslav}}を制圧した&lt;ref name=&quot;horupu84&quot;/&gt;。[[1187年]]の夏にイサキオス2世が北ブルガリアに親征を行うと、ペタル兄弟は[[ドナウ川]]北方の遊牧民のクマン人の元に逃れた。イサキオス2世の軍はブルガリアを破壊し刈り取った穀物を焼き払った後、解放運動は終息したと判断してコンスタンティノープルに帰還した&lt;ref name=&quot;horupu85&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、85頁&lt;/ref&gt;。同年の秋にクマン人を同盟者としたペタル兄弟はブルガリアに帰国、ドナウ川沿岸部を奪回し、蜂起は[[トラキア]]、[[ロドピ]]、マケドニアにも波及した&lt;ref name=&quot;horupu85&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1188年]]春にブルガリア軍はタルノヴォに進軍するビザンツ軍を[[ロヴェチ]]で食い止め、3か月にわたる包囲を凌いだ。包囲が解除された後にブルガリアとビザンツの間に和平が締結され、この和約でブルガリアの独立が事実上承認された&lt;ref name=&quot;horupu85&quot;/&gt;&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、121頁&lt;/ref&gt;。和平の際、人質としてペタルとアセンの弟[[カロヤン・アセン|カロヤン・ヨアニッツァ]]がコンスタンティノープルに送られた。<br /> <br /> === アセン兄弟の暗殺 ===<br /> <br /> [[1189年]]に[[第3回十字軍]]が行われると、ブルガリアはビザンツと敵対する[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]に同盟の締結を提案した。同盟の条件としてブルガリアが奪回した領土の保持と皇帝の称号の許可と引き換えに、神聖ローマ帝国に40,000人の援軍の提供を申し出るが、フリードリヒ1世からの回答は得られなかった&lt;ref&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、614頁&lt;/ref&gt;。フリードリヒ1世がビザンツ領を通過した後、[[1190年]]の夏にビザンツ軍はブルガリアの首都タルノヴォに遠征を行う。天然の要害に位置する堅牢な城壁を持つタルノヴォはビザンツ軍の包囲に耐え、クマン人がブルガリアの援軍として到着した噂が広まるとビザンツ軍は撤退した。追撃に出たブルガリア軍は[[トリャヴナ]]でイサキオス2世が率いるビザンツ軍に大勝し、ビザンツ皇帝の象徴である帝冠、[[笏]]、衣装を手に入れた([[トリャヴナの戦い]])&lt;ref name=&quot;horupu86&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、86頁&lt;/ref&gt;。同年にペタルは弟のアセンに帝位を譲り、自身はプレスラフを中心とするブルガリア北東部と[[ドブロジャ|ドブルジャ]]地方を統治した&lt;ref name=&quot;horupu86&quot;/&gt;。<br /> <br /> ブルガリアの軍事活動は[[バルカン山脈]]南部のビザンツ領に達し、[[1193年]]にブルガリアは[[スレデツ (ブルガス州)|スレデツ]]を回復した&lt;ref name=&quot;horupu86&quot;/&gt;。また、ブルガリアは北方の[[ハンガリー王国]]との戦いでも勝利を収め、長らくハンガリーの支配下に置かれていた[[ベオグラード]]と[[ブラニチェヴォ郡|ブラニチェヴォ]]を奪還した。<br /> <br /> しかし、中央集権的な政策を採るアセン1世の元で、ビザンツからの独立運動中から見られた貴族の反抗がより顕著になり&lt;ref name=&quot;horupu86&quot;/&gt;、[[1196年]]に宮廷内のクーデターによってアセン1世は暗殺される。陰謀の首謀者であるアセン1世の従兄弟{{仮リンク|イヴァンコ (ブルガリア)|en|Ivanko of Bulgaria|label=イヴァンコ}}はクーデターを教唆したビザンツに援助を求めるが、ビザンツから派遣された軍隊は行軍中に反乱を起こしてブルガリアに入ることを拒んだ&lt;ref name=&quot;horupu86&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;shoju618&quot;&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、618頁&lt;/ref&gt;。プレスラフを統治していたペタルは支持者から軍隊を集めてイヴァンコをビザンツに追放し、皇帝に復位した。だが、ペタルも貴族の反抗を抑えることができず、[[1197年]]に暗殺される&lt;ref name=&quot;horupu86&quot;/&gt;。<br /> <br /> 空位となった皇帝の座には、コンスタンティノープルから逃亡してブルガリアに帰国していたアセン兄弟の末弟[[カロヤン・アセン|カロヤン]]が就いた&lt;ref name=&quot;horupu86&quot;/&gt;。<br /> <br /> === カロヤン・ヨアニッツァの時代 ===<br /> [[File:Kaloyan Varna.jpg|thumb|180px|ヴァルナのカロヤン像]]<br /> 兄たちの跡を継いで皇帝に即位したカロヤンは、かつての[[シメオン1世]]と同様にビザンツ帝国を見本とした国家を作るために積極的な外交政策を推し進める&lt;ref name=&quot;cra36&quot;&gt;クランプトン『ブルガリアの歴史』、36頁&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;kin87&quot;&gt;金原「中世のバルカン」『バルカン史』、87頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> カロヤンは国内の貴族層に厳格な処置を下して政権を固め、独立状態にあったマケドニアとロドピのブルガリア人支配者、亡命先のビザンツで統治官に任命されていたイヴァンコ&lt;ref name=&quot;shoju618&quot;/&gt;と同盟を結ぶことに成功する&lt;ref name=&quot;horupu88&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、88頁&lt;/ref&gt;。[[1201年]]に北ブルガリアに残る最後のビザンツ領である[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]がブルガリアの占領下に入り、翌[[1202年]]にブルガリアとビザンツ帝国の間に和約が締結され、ブルガリアが占領した地域の獲得が正式に承認された&lt;ref name=&quot;horupu88&quot;/&gt;。また、[[1203年]]に一時期ハンガリーに再占領されたベオグラードとブラニチェヴォを奪還し&lt;ref name=&quot;horupu88&quot;/&gt;、帝国の北部から[[ハンガリー人]]を放逐した&lt;ref name=&quot;cra36&quot;/&gt;、<br /> <br /> カロヤンは[[ブルガリア正教会]]の独立を回復するために[[カトリック教会|ローマ教会]]との関係を強化し&lt;ref name=&quot;kin87&quot;/&gt;、[[1199年]]からブルガリアとローマ教会の交渉が開始された&lt;ref name=&quot;horupu89&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、89頁&lt;/ref&gt;。1202年から交渉は活性化し、[[1204年]]秋にローマ教皇からの使節がタルノヴォを訪問した。カロヤンはローマの使節である枢機卿レオからブルガリアの「王」に戴冠されるが、カロヤンは皇帝の称号が授与されたとみなして「ブルガリア人とワラキア人の皇帝」を自称した&lt;ref name=&quot;kin87&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;horupu89&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori122&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、122頁&lt;/ref&gt;。同年にブルガリアがローマ教会の権威を認める協定が結ばれ、建国時から続いていたハンガリーとの戦争が終息する&lt;ref name=&quot;mori122&quot;/&gt;。協定の締結後にブルガリア正教会がローマ教会からの干渉を受けることはほとんどなく&lt;ref&gt;クランプトン『ブルガリアの歴史』、36,38頁&lt;/ref&gt;、ブルガリア正教会は実質的には東方正教会に属していた&lt;ref name=&quot;shoju618&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori122&quot;/&gt;。<br /> <br /> 1204年に西欧から派遣された[[第四回十字軍]]によってコンスタンティノープルが征服され、[[ラテン帝国]]が建国される。ラテン帝国の初代皇帝[[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン1世]]は、ブルガリア人は隷属民であると宣言し&lt;ref name=&quot;cra36&quot;/&gt;、ブルガリア侵略の意思を顕わにした&lt;ref name=&quot;horupu89&quot;/&gt;&lt;ref&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、695頁&lt;/ref&gt;。ローマ教皇[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]はブルガリアとラテン帝国の対立を解消しようとするが、教皇の試みは失敗に終わる&lt;ref name=&quot;horupu90&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、90頁&lt;/ref&gt;。ラテン帝国軍はトラキアの北部、東部に侵入し、トラキアに避難していたビザンチン貴族はビザンツ帝国の帝位を条件にブルガリアに保護を求めた&lt;ref name=&quot;horupu90&quot;/&gt;&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、123頁&lt;/ref&gt;。要請に応えたブルガリアは東トラキアの住民反乱を扇動し、またフィリッポポリス(現在の[[プロヴディフ]])とアドリアノープル(現在の[[エディルネ]])を占領した&lt;ref name=&quot;horupu90&quot;/&gt;。<br /> <br /> 翌[[1205年]]4月14日&lt;ref name=&quot;horupu90&quot;/&gt;にカロヤンはアドリアノープル(現在の[[エディルネ]])付近の戦いでラテン帝国軍に大勝を収め、ラテン帝国皇ボードゥアン1世を捕らえて処刑した&lt;ref&gt;金原「中世のバルカン」『バルカン史』、87,89頁&lt;/ref&gt;。しかし、ブルガリアの軍事的成功はトラキアのビザンチン貴族に不安を与え、彼らはブルガリアとの同盟を解消してラテン帝国の側に付いた&lt;ref name=&quot;horupu90&quot;/&gt;。カロヤンは裏切りの報復として東トラキアを破壊・略奪し、征服地の住民をドナウ川沿岸部に移住させた&lt;ref name=&quot;horupu90&quot;/&gt;。カロヤンはかつて「ブルガリア人殺し」と呼ばれたバシレイオス2世のように「ローマ人殺し」の渾名で呼ばれるようになる&lt;ref name=&quot;horupu90&quot;/&gt;。<br /> <br /> カロヤンは[[1207年]]までに第一次ブルガリア帝国が領有していた[[マケドニア]]地方の大部分を再征服するが、同年の[[テッサロニキ]]包囲中に部下の裏切りによって急死する&lt;ref name=&quot;cra36&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;horupu90&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kin89&quot;&gt;金原「中世のバルカン」『バルカン史』、89頁&lt;/ref&gt;。カロヤンの死後、暗殺の首謀者であるカロヤンの甥[[ボリル]]が帝位を簒奪し、帝位の継承権を有していたアセン1世の子[[イヴァン・アセン2世|イヴァン・アセン]](後のイヴァン・アセン2世)とアレクサンダルの兄弟は[[ルーシ (地名)|ルーシ]]の[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国|ガリツィア公国]]に亡命した&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、90-91頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ボリルの即位後、ブルガリアの封建貴族は再び自立性を強め、ロドピ、中部マケドニアの地方領主は中央から独立した統治を行い独自に外国と同盟した&lt;ref name=&quot;horupu90&quot;/&gt;&lt;ref&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、718-719頁&lt;/ref&gt;。即位当初ボリルはカロヤンと同じく反ラテン帝国路線を取るが、[[1214年]]にブルガリアはローマ教会の介入によってラテン帝国とハンガリー王国の二国と和平を結んだ&lt;ref name=&quot;horupu91&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、91頁&lt;/ref&gt;。一方、ブルガリア国内では貴族層と民衆の両方がボリルの統治に不満を抱くようになり、[[ヴィディン]]ではボリルに対する反乱が発生した。<br /> <br /> [[1217年]]に[[イヴァン・アセン2世]]は傭兵を率いてブルガリアに帰国し、ボリルに戦いを挑んだ。7か月に及ぶ包囲の後に市民が城門を開いてイヴァン・アセン2世を迎え入れ&lt;ref name=&quot;shoju719&quot;&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、719頁&lt;/ref&gt;、[[1218年]]春にイヴァン・アセン2世はボリルを廃位して帝位に就いた。<br /> <br /> === 最盛期 ===<br /> [[File:Campaigns of Ivan Assen II.png|thumb|180px|イヴァン・アセン2世の軍事活動と支配領域]]<br /> イヴァン・アセン2世の治世にブルガリア帝国は最盛期を迎える&lt;ref name=&quot;kin89&quot;/&gt;。アセン2世は国境地帯の防御を固めつつ、ハンガリー王国、[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]、[[ニカイア帝国]]、[[エピロス専制侯国]]といった近隣の国家と婚姻関係を作り、国際社会におけるブルガリアの地位を高めた&lt;ref name=&quot;kin89&quot;/&gt;。この時代にブルガリアは完全に統一され、国土の統一は経済と文化の発展に好影響を及ぼした&lt;ref name=&quot;horupu95&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、95頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1223年にテッサロニキを占領したエピロス専制侯国がバルカン半島情勢の中心に台頭すると、ブルガリアはエピロスの間に協定が結んだ。他方、エピロスと戦うにあたっての協力者を求めるラテン帝国の諸侯は、イヴァン・アセン2世に幼帝[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]の後見を依頼し、ブルガリアとラテン帝国との間にも同盟関係が成立する&lt;ref name=&quot;horupu93&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、93頁&lt;/ref&gt;。エピロス専制侯国の君主[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス|テオドロス1世]]は盟約を破棄してブルガリアに遠征するが&lt;ref name=&quot;shoju753&quot;&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、753頁&lt;/ref&gt;、[[1230年]]3月9日にアセン2世は{{仮リンク|クロコトニッツァ|en|Klokotnitsa}}&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;現在の[[ハスコヴォ]]の北西に位置する。&lt;/ref&gt;でエピロス軍を破ってテオドロス1世と彼の家族を捕虜とした({{仮リンク|クロコトニッツァの戦い|en|Battle of Klokotnitsa}})&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、93-94頁&lt;/ref&gt;。戦後ブルガリアはエピロスをブルガリアの影響下に置き&lt;ref name=&quot;kin89&quot;/&gt;、トラキアの大部分、ロドピ地方、マケドニア全土、アルバニアを制圧した第二次ブルガリア帝国の支配領域は第一次ブルガリア帝国の最大版図に並んだ&lt;ref name=&quot;horupu94&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、94頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> クロコトニッツァの戦いを経たブルガリアはバルカン半島第一の大国となる&lt;ref name=&quot;chuko319&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;horupu94&quot;/&gt;&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、124頁&lt;/ref&gt;。ローマ教会はブルガリアのラテン帝国への攻撃を牽制するため、ハンガリーにブルガリア北西部への攻撃を促した&lt;ref name=&quot;horupu94&quot;/&gt;。ハンガリー軍はベオグラード、ブラニチェヴォ、ヴィディンを一時的に占領するが、アセン2世の兄弟アレクサンダルによってハンガリー軍は撃退される。ブルガリアとラテン帝国、ハンガリーの関係は悪化し、カロヤンの治世に成立したローマ教会との合同も事実上解消された&lt;ref name=&quot;horupu95&quot;/&gt;&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、125頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> カトリック世界との対立が顕著になると、イヴァン・アセン2世はニカイア帝国との同盟とブルガリアの[[東方正教会]]への復帰を試みる。[[1235年]]にブルガリアとニカイアの間に反ラテン帝国の同盟が結ばれ、同時に東方正教会の全[[総主教]]の合意によってブルガリア総主教座が再興され&lt;ref name=&quot;horupu95&quot;/&gt;、第1次ブルガリア帝国の滅亡以来失われていた[[ブルガリア正教会]]の[[独立正教会|自治独立]]が回復された&lt;ref name=&quot;cra38&quot;&gt;クランプトン『ブルガリアの歴史』、38頁&lt;/ref&gt;。しかし、アセン2世はニカイア帝国がブルガリアの脅威になると考え直し、翌[[1236年]]にラテン帝国との関係を回復した&lt;ref name=&quot;shoju753&quot;/&gt;。<br /> <br /> イヴァン・アセン2世はブルガリア帝国の最大版図を実現するが、彼の死後に皇帝の支配権は弱体化し、ブルガリアは周辺の国家からの攻撃に晒される&lt;ref&gt;金原「中世のバルカン」『バルカン史』、90頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === モンゴルの襲来 ===<br /> [[File:Konstantin i Irina.jpg|thumb|180px|コンスタンティン・ティフ]]<br /> <br /> アセン2世の治世末期に東方で拡大する[[モンゴル帝国]]の軍が東ヨーロッパを席巻していた({{仮リンク|モンゴルのヨーロッパ侵攻|en|Mongol invasion of Europe}}、[[モンゴルのポーランド侵攻]])。[[1241年]]のイヴァン・アセン2世の死後、アセン2世とハンガリー出身の妃アンナ・マーリアの子である[[カリマン1世]]が帝位を継いだ。[[1242年]]、[[オゴデイ]]・[[ハーン]]の訃報が届くと東方に退却を開始した。3月にモンゴル軍は帰路でブルガリアとセルビアを通過したが&lt;ref name=&quot;chuko321&quot;&gt;井上、栗生沢『ビザンツとスラヴ』、321頁&lt;/ref&gt;。ブルガリアはモンゴル軍を攻撃した。翌年、モンゴル軍は復讐戦に戻ったが講和を結んで戦闘は行なわれず、ブルガリアにはモンゴルへの貢納が課され、13世紀末にはブルガリアはモンゴル国家のキプチャク・ハン国([[ジョチ・ウルス]])の従属国とされた&lt;ref name=&quot;chuko321&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1246年]]にカリマン1世は義母のイレネ(イリニ)によって毒殺され&lt;ref name=&quot;mori126&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、126頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、758頁&lt;/ref&gt;、イレネの子である[[ミハイル2世・アセン|ミハイル・アセン]]が即位し、ニカイア、セルビアとの戦争が開始された。ブルガリアの勢力下に置かれていた[[セレス (ギリシャ)|セラエ]](現在のセレス)、テッサロニキ、アドリアノープル、ロドピ山脈地方はニカイアによって占領され、[[1247年]]にブルガリアはニカイアと和約を結んだ&lt;ref name=&quot;mori126&quot;/&gt;。[[1256年]]秋にミハイル・アセンが政敵に殺害された後、アセン家の血統に連なる3人の皇族が帝位を争う。最終的には、[[1257年]]に[[ステファン・ウロシュ1世]]の甥にあたる[[スコピエ]]の[[コンスタンティン・ティフ]]がタルノヴォの貴族によって皇帝に選出された。コンスタンティンはハンガリーを攻撃するが敗北し、西北ブルガリアの領土を喪失する&lt;ref&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、764頁&lt;/ref&gt;。コンスタンティンは足を折ってしまったために国政に参加することができなくなり、彼の後妻であるビザンツ皇族出身の皇妃マーリアが実質的な最高権力者として君臨した&lt;ref name=&quot;horupu98&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、98頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 国家の権威の失墜、中央権力の弱体化はブルガリアに無秩序をもたらし、軍費を調達するために民衆に重税が課せられた&lt;ref name=&quot;horupu98&quot;/&gt;。13世紀末からブルガリアではキプチャク・ハン国の侵入が頻繁に起こるようになり&lt;ref name=&quot;horupu97&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、97頁&lt;/ref&gt;、また[[1272年]]にはヴィディンを統治する南ルーシから亡命した領主ヤコブ・スヴェトスラフがブルガリア皇帝を自称して独立した&lt;ref name=&quot;horupu97&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;iva&quot;&gt;寺島「イバイロの蜂起」『東欧を知る事典』、32-33頁&lt;/ref&gt;。民衆は搾取以外にキプチャク・ハン国を初めとする外国からの侵入者の略奪にも苦しめられるが、皇帝と貴族は外敵の侵入を進んで対処しようとしなかった&lt;ref name=&quot;horupu98&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 農民皇帝の即位 ===<br /> 13世紀半ばから続く混乱期には民衆の反乱が頻発するが、[[1277年]]に起きたドブルジャの豚飼い[[イヴァイロ (ブルガリア皇帝)|イヴァイロ]](在位:[[1277年]]–[[1280年]])の蜂起({{仮リンク|イヴァイロの反乱|bg|Въстание на Ивайло|en|Uprising of Ivaylo|label=イヴァイロの蜂起}})は皇帝軍と[[ジョチ・ウルス|キプチャク・ハン国]]の双方に大きな打撃を与えた&lt;ref&gt;金原「中世のバルカン」『バルカン史』、90-91頁&lt;/ref&gt;。イヴァイロの蜂起にはモンゴルの略奪に不満を抱いた農民が多く参加し、蜂起は支配者に対する反封建的な性質と、権威を失った皇帝に対して「正しい皇帝像」の復興を求める性質が併存していた&lt;ref name=&quot;iva&quot;/&gt;。<br /> <br /> 1277年に「神の啓示を受けた」豚飼いイヴァイロは仲間や農民に困窮から脱出する道を説いて回り、イヴァイロの周りに集まった義勇兵はモンゴル軍を破り、彼らを[[ドナウ川]]の北方に後退させた。この戦勝がきっかけとなって、皇帝に失望していた農民たちがよりイヴァイロの元に集まるようになる&lt;ref name=&quot;iva&quot;/&gt;。同年秋にイヴァイロはタルノヴォに向かい、進軍中に民衆から皇帝に推戴された。義勇軍は進軍中の会戦で皇帝コンスタンティン・ティフを敗死させ、[[1278年]]にタルノヴォを包囲する。イヴァイロの蜂起に対してビザンツ皇帝[[ミカエル8世パレオロゴス|ミカエル8世]]は当初イヴァイロへの接近を試みるが蜂起が階級闘争的な性質を持ち合わせていることを知ると翻意し&lt;ref name=&quot;horupu99&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、99頁&lt;/ref&gt;、ギリシャ文化に同化したアセン家の皇族[[イヴァン・アセン3世]](在位:[[1279年]]–[[1280年]])をブルガリア皇帝に擁立する&lt;ref&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、789頁&lt;/ref&gt;。ミカエル8世はイヴァン・アセン3世に軍隊を付けてブルガリアに送り返した。ビザンツ軍の接近を知ったイヴァイロはタルノヴォの政府と講和し&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、127頁&lt;/ref&gt;、未亡人となっていた皇妃マリアと結婚してヨーロッパ初の農民皇帝として帝位に就いた&lt;ref name=&quot;horupu99&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kin91&quot;&gt;金原「中世のバルカン」『バルカン史』、91頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 皇帝に即位したイヴァイロは南から進軍するビザンツ軍と北のモンゴル軍の両方と戦わなければならず、迎撃に出たイヴァイロがタルノヴォを留守にしている間にクマン人の血を引く[[ゲオルギ1世テルテル|ゲオルギ・テルテル]]&lt;ref&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、790頁&lt;/ref&gt;らタルノヴォの貴族がクーデターを起こし、イヴァン・アセン3世をタルノヴォに迎え入れた&lt;ref name=&quot;horupu100&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、100頁&lt;/ref&gt;。ビザンツの包囲を破ったイヴァイロはタルノヴォに戻り、イヴァン・アセン3世はコンスタンティノープルに逃亡した。しかし、イヴァン・アセン3世の失脚後にゲオルギ・テルテルがタルノヴォの貴族によって皇帝に推戴された。イヴァイロとゲオルギ・テルテルの戦いはおよそ1年の間続くが厭戦気分の高まるイヴァイロの軍は次第に劣勢になり、[[1280年]]にイヴァイロは皇帝の地位を失った&lt;ref name=&quot;iva&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;horupu100&quot;/&gt;。失脚したイヴァイロはキプチャク・ハン国に亡命するが、宴席の座でキプチャク・ハン国の有力者[[ノガイ]]によって殺害された&lt;ref name=&quot;horupu100&quot;/&gt;。<br /> <br /> === テルテル家の統治 ===<br /> ゲオルギ1世テルテル即位後のブルガリアには半独立状態の封建領主が乱立していた。<br /> * [[ブラニチェヴォ郡|ブラニチェヴォ]] - ダルマンとクデリンの兄弟<br /> * [[ヴィディン]] - シシュマン<br /> * [[バルカン山脈]]山麓部と[[スレドナ・ゴラ山脈]] - [[スミレツ]]、ラドスラフ、ヴォイシルの3兄弟<br /> * {{仮リンク|クラン (ブルガリア)|en|Kran, Bulgaria&lt;!-- リダイレクト先の「[[:en:Kran]]」は、曖昧さ回避ページ --&gt;|label=クラン|FIXME=1}}(クルン) - エルティミル<br /> <br /> [[1285年]]にキプチャク・ハン国がブルガリアで大規模な破壊を行うとゲオルギ1世はノガイに従属を誓い、息子の{{仮リンク|テオドル・スヴェトスラフ |en|Theodore Svetoslav of Bulgaria}}を人質に差し出し、娘をノガイの子[[チャカ (ブルガリア皇帝)|チャカ]]に嫁がせた&lt;ref name=&quot;horupu102&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、102頁&lt;/ref&gt;。[[1292年]]に政争に敗れたゲオルギ1世はビザンツ帝国に亡命し&lt;ref name=&quot;horupu102&quot;/&gt;&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、129頁&lt;/ref&gt;、ノガイはスレドナ・ゴラのスミレツをブルガリア皇帝に擁立して自分の傀儡とした。スミレツの治世にブルガリアの領土の一部がセルビアに併合されてヴィディンが攻撃を受けるが、積極的な対応は行われなかった&lt;ref name=&quot;horupu102&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1299年]]にキプチャク・ハン国の内戦によってノガイが戦死した後、ノガイの子チャカがテオドル・スヴェトスラフに伴われてブルガリアに亡命する。タルノヴォの貴族たちに賄賂を贈ったチャカはブルガリア皇帝に選出されるが、[[1300年]]にテオドルはチャカを殺害し、彼の首を[[トクタ]]・ハンの元に届けた。その対価として、キプチャク・ハン国からブルガリアに[[ベッサラビア]]地方が返還された&lt;ref name=&quot;mori130&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、130頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> モンゴルの支配から脱した&lt;ref&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、801頁&lt;/ref&gt;テオドル・スヴェトスラフは敵対する貴族と高位聖職者への牽制として、以前から他国に内通している疑いがかけられていたタルノヴォの総主教ヨアキム3世に極刑を下した&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、103頁&lt;/ref&gt;。テオドルは即位から3年の間にビザンツ帝国からの内政干渉を絶ち、また貴族の反抗を抑えて中央集権化に成功する。テオドルは長年ブルガリアに干渉を行ってきたビザンツに対して攻勢に転じ&lt;ref name=&quot;mori130&quot;/&gt;&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、103-104頁&lt;/ref&gt;、ビザンツによって占領された北トラキア、[[スタラ・ザゴラ州|ザゴラ]]、黒海沿岸部の都市がブルガリアの元に戻った。[[1308年]]にビザンツとの間に結ばれた和約で、ブルガリアが奪還した地域の支配が認められる。セルビアとの関係は反ビザンツ政策によって改善され、[[1321年]]にビザンツで帝位を巡る内戦が起きた際には、ブルガリアは内戦の当事者の一方である[[アンドロニコス3世パレオロゴス|アンドロニコス3世]]に加担して領土の拡大を図った&lt;ref name=&quot;horupu104&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、104頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1321年にテオドル・スヴェトスラフが没すると、テオドルの子の[[ゲオルギ2世テルテル]]が帝位を継ぐ。ゲオルギ2世は内戦で分裂したビザンツに進攻し、フィリッポポリスなどの都市を奪回した。ゲオルギ2世の軍はアドリアノープルにまで南下するが、行軍の途上でゲオルギ2世は急死する。フィリッポポリスはビザンツに再占領され、指導者を失ったブルガリアは危機に陥る&lt;ref name=&quot;horupu104&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori131&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、131頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === シシュマン家の皇帝 ===<br /> [[1323年]]にヴィディンのデスポット(封建領主)・[[ミハイル3世シシュマン|ミハイル・シシュマン]]が貴族に推戴されて帝位に就く。新たな皇帝に選出されたミハイル3世は、北トラキア、[[スタラ・ザゴラ州|ザゴラ]]、黒海沿岸部に侵入したビザンツの軍を撃退し&lt;ref name=&quot;horupu104&quot;/&gt;、[[1324年]]にブルガリアとビザンツの間で結ばれた和約でこれらの地域を回復した&lt;ref name=&quot;mori131&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;shoju814&quot;&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、814頁&lt;/ref&gt;&lt;。往時のブルガリアの勢力を回復するため、ミハイル3世はビザンツ帝位を巡って争うアンドロニコス3世とその父の[[アンドロニコス2世パレオロゴス|アンドロニコス2世]]の両方に支援を行い、[[1327年]]にはコンスタンティノープルの占領を企てたが計画は失敗に終わった&lt;ref name=&quot;horupu104&quot;/&gt;。[[1328年]]に内戦を制したアンドロニコス3世が正式に帝位に就くと、ブルガリアの失地回復の可能性は絶たれた&lt;ref name=&quot;horupu104&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori131&quot;/&gt;。<br /> <br /> しばらくの間ブルガリアとビザンツの戦争は続くが、マケドニアで勢力を拡大するセルビアに対抗するため、[[1329年]]に両国の間に同盟が結ばれた&lt;ref name=&quot;horupu104&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori131&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;shoju814&quot;/&gt;。ビザンツと同盟を結んだミハイルはセルビアに進攻するが、[[1330年]]に[[ヴェルブジュドの戦い]]でブルガリア軍は[[ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ]]が率いるセルビア軍に大敗し、ミハイル3世は戦死した&lt;ref name=&quot;kin91&quot;/&gt;。戦後セルビア王家の血を引く皇子[[イヴァン・ステファン]]のブルガリア皇帝即位を条件として、ブルガリアとセルビアの間に和平が結ばれた。一方、ブルガリアの敗北を知ったアンドロニコス3世は同盟を破棄して南ブルガリアに進軍し、ソゾポリス(現在の[[ソゾポル]])、メセンブリア(現在の[[ネセバル]])などの黒海沿岸部の都市を占領下に置いた。<br /> <br /> 新たに即位したイヴァン・ステファンには政務の経験が無く、また多くの貴族はイヴァン・ステファンをセルビア側の人間とみなしていた&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、105頁&lt;/ref&gt;。1331年にタルノヴォの貴族ラクシンとフィリップのクーデターによってイヴァン・ステファンは廃され、ミハイル・シシュマンの甥であるロヴェチのデスポット・[[イヴァン・アレクサンダル]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;イヴァン・アレクサンダルは、ミハイル・シシュマンの姉妹キラツァの子にあたる。&lt;/ref&gt;が皇帝に選出される。<br /> [[File:Bitkakodvelbuzda1330.jpg|thumb|center|550px|ヴェルブジュドの戦い]]<br /> <br /> === 最後の安定期 ===<br /> [[File:Bulgaria Ivan Alexander (1331-1371).svg|thumb|200px|イヴァン・アレクサンダル時代の第二次ブルガリア帝国(タルノヴォ)]]<br /> イヴァン・アレクサンダルは伯父ミハイル・シシュマンが戦死した後の混乱を収め、ブルガリア帝国は最後の安定期を迎える&lt;ref name=&quot;cra41&quot;&gt;クランプトン『ブルガリアの歴史』、41頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 同盟国のキプチャク・ハン国の協力とビザンツに占領された都市のブルガリア人の蜂起によって、イヴァン・アレクサンダルはビザンツに占領された南ブルガリアの都市を短期の間に奪還した&lt;ref name=&quot;horupu106&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、105頁&lt;/ref&gt;。[[1332年]]の{{仮リンク|ルソカストロの戦い|en|Battle of Rusokastro}}でブルガリア軍はアンドロニコス3世の率いるビザンツ軍を破り、戦後ブルガリアに有利な和約が結ばれる。ビザンツを破った後、イヴァン・アレクサンダルは自身の即位に反対したヴィディンのデスポット・ベラウル&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ベラウルは、ミハイル・シシュマンの兄弟であり、イヴァン・アレクサンダルの叔父にあたる。&lt;/ref&gt;を攻撃し、ヴィディンを併合した&lt;ref name=&quot;mori133&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、133頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> イヴァン・アレクサンダル即位の同時期、セルビアではクーデターによってステファン・ウロシュ3世が廃位され、ウロシュ3世の子[[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]が王位に就く。アレクサンダルの姉妹エレナはステファン・ウロシュ4世の元に嫁ぎ、ブルガリアは新王が即位したセルビアとの関係を改善した&lt;ref name=&quot;mori133&quot;/&gt;。[[1339年]]にはアレクサンダルの長子とアンドロニコス3世の娘マーリアとの婚姻が成立し、ビザンツとの関係も改善される&lt;ref name=&quot;mori133&quot;/&gt;。[[1345年]]にアレクサンダルはワラキア人の妃{{仮リンク|テオドラ (ワラキア)|en|Theodora of Wallachia|label=テオドラ}}を離縁し、[[1355年]]から[[1356年]]の間にテオドラとの子である[[イヴァン・スラツィミル]]をヴィディンの統治者に封じた&lt;ref name=&quot;mori134&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、134頁&lt;/ref&gt;。<br /> &lt;!-- 『ブルガリア 風土と歴史』、133頁では、ルソカストロの戦いは1331年7月 --&gt;<br /> <br /> [[14世紀]]のブルガリアは統一を欠いた状態にあり、各地のデスポット(封建領主)の中でもヴィディンとドブルジャはタルノヴォの中欧政府と並ぶ勢力になっていた&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、132-133頁&lt;/ref&gt;。イヴァン・アレクサンダルの在位中もデスポットが独立した状況は続き、ブルガリアの分裂は解消されなかった&lt;ref name=&quot;mori133&quot;/&gt;&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、106-107頁&lt;/ref&gt;。イヴァン・アレクサンダル時代のブルガリアには、以下の封建勢力が割拠していた&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、133-134頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> * ヴィディン - イヴァン・スラツィミル<br /> * ドブルジャ - テルテル家出身&lt;ref name=&quot;mori133&quot;/&gt;のバリク、テオドル、ドブロティツァの3兄弟<br /> * ヴェルブジュド - コンスタンティン・デヤン<br /> * [[ストルミツァ]]、{{仮リンク|スティプ|en|Štip&lt;!-- [[:ja:シュティプ]] とリンク --&gt;|FIXME=1}}、{{仮リンク|ストビ|en|Stobi}} - フレリョ<br /> <br /> 14世紀の半ばに[[アナトリア半島]]の新興国家[[オスマン帝国]]がバルカン半島に進出すると、バルカン半島の情勢は新たな局面を迎える。<br /> <br /> [[1351年]]にビザンツ帝国はブルガリアとセルビアにオスマンに対抗する艦隊建設の協力を呼びかけるが、同盟は実現しなかった&lt;ref name=&quot;mori134&quot;/&gt;。[[1356年]]にブルガリアはビザンツと共同でオスマン軍を攻撃するが失敗する。オスマン帝国の[[スルターン]]・[[ムラト1世]]は南ブルガリアに軍を進め、[[1364年]]にボルイ(現在の[[スタラ・ザゴラ]])とプロヴディフがオスマンの占領下に入り、アレクサンダルはムラト1世に講和を求めなければならなくなった。同1364年にビザンツ軍が黒海沿岸部のブルガリア領に侵入してアンヒアロス(現在の[[ポモリエ]])を奪ったが、これがブルガリアとビザンツの間に起きた最後の戦争となる&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、107頁&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;shoju844&quot;&gt;尚樹『ビザンツ帝国史』、844頁&lt;/ref&gt;。この敗戦は、ブルガリアの軍事力がビザンツよりも衰退したことを示していた&lt;ref name=&quot;shoju844&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1365年]]にイヴァン・スラツィミルが統治するヴィディンがハンガリーの攻撃を受け、[[1369年]]にアレクサンダルが[[ワラキア公国]]とドブルジャの支援を受けて奪回するまで[[ハンガリーによるヴィディン占領|ヴィディンはハンガリーの支配下に置かれた]]&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、134-135頁&lt;/ref&gt;。[[1366年]]から[[1367年]]にかけて黒海沿岸部は[[サヴォイア伯国]]の[[サヴォイア十字軍|攻撃]]を受け、またハンガリーと西欧の攻撃の最中に南ブルガリアの都市のいくつかがビザンツの領土に組み込まれた。<br /> <br /> === タルノヴォの陥落 ===<br /> [[File:BG-1371.jpg|thumb|180px|1371年以降のブルガリアでのオスマン帝国の軍事活動]]<br /> イヴァン・アレクサンダルの没後、ブルガリアの将来はバルカン半島の大国であるオスマン帝国とセルビアの動向に委ねられる&lt;ref name=&quot;cra42&quot;&gt;クランプトン『ブルガリアの歴史』、42頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[プリレプ]]の統治者[[ヴカシン・ムルニャヴチェヴィチ|ヴカシン]](ヴルカシン)とセラエのデスポット・{{仮リンク|ヨヴァン・ウグリェシャ|en|Jovan Uglješa|label=ウグリェシャ}}が連合してオスマン軍を攻撃するが、[[1371年]]の[[マリツァの戦い (1371年)|マリツァの戦い]]で連合軍は壊滅し、両者は戦死した。オスマンは新たにブルガリア皇帝に即位した{{仮リンク|イヴァン・シシュマン|en|Ivan Shishman of Bulgaria}}に対して、講和の条件の不履行を挙げて南ブルガリアへの攻撃を再開した。[[1375年]]にイヴァン・シシュマンはオスマンへの臣従と貢納を条件に条約を更新、イヴァン・シシュマンの妹ケラ・タマラがオスマンに送られてムラト1世の妻とされた&lt;ref name=&quot;horupu111&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、111頁&lt;/ref&gt;。また、ヴィディンのイヴァン・スラツィミル、ドブルジャのドブロティツァ、ヴェルブジュドのコンスタンティン・デヤンら各地の封建勢力も、オスマンに対して臣従を誓った&lt;ref name=&quot;horupu111&quot;/&gt;&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、136頁&lt;/ref&gt;。[[1378年]]にオスマンは和約を破棄してブルガリアに進攻し、[[1382年]]に[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]が陥落する。<br /> <br /> オスマン帝国の拡大に際して、セルビアの公[[ラザル・フレベリャノヴィチ]]はキリスト教徒による同盟の結成を呼びかけ、イヴァン・シシュマンは[[ボスニア王国|ボスニア王]]{{仮リンク|ステファン・トヴルトコ|en|Tvrtko I of Bosnia}}と共に同盟に参加した。しかし、イヴァン・スラツィミル、コンスタンティン・デヤン、ヴカシンの子{{仮リンク|マルコ・クラリエヴィッチ|en|Prince Marko}}らはオスマンに臣従を誓い、オスマンの軍事行動を支援した。[[1387年]]にラザルの連合軍はプロツニク(現在の[[プロクプリェ]])近郊の戦いでオスマン軍に戦勝を収めるが&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、137頁&lt;/ref&gt;、戦後にブルガリア帝国とドブルジャがオスマンの報復の標的にされる&lt;ref name=&quot;horupu112&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、112頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1388年]]春にオスマン帝国の[[大宰相]]{{仮リンク|チャンダルル・アリ・パシャ|en|Çandarlı Ali Pasha}}が30,000の軍隊を率いてブルガリアに侵攻する。ブルガリア各地の要塞がオスマン帝国に占領されるが、ヴァルナと[[ニコポル|ニコポリス]]はオスマンから守り通せた。イヴァン・シシュマンは[[ヤンボル]]近郊に駐屯していたムラト1世のもとを自ら訪れて臣従の誓いを改めて示し、ブルガリアとオスマンの間に講和が成立する。[[1389年]]の[[コソボの戦い]]でラザルがオスマン帝国に敗れると、オスマン帝国はブルガリアの直轄地化を更に進めていく&lt;ref name=&quot;cra42&quot;/&gt;。<br /> <br /> ビザンツ帝国の弱体化、ワラキア公国のブルガリアへの進出といったバルカン半島の情勢を好機と見たオスマン帝国は[[1393年]]にバルカン諸国に攻撃を行い、ブルガリアもオスマン軍の標的とされる&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、138頁&lt;/ref&gt;。3か月に渡るオスマン軍の包囲の末、[[1393年]]7月17日にタルノヴォが陥落する({{仮リンク|タルノヴォの包囲|en|Siege of Tarnovo}})&lt;ref name=&quot;mori138&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、138頁&lt;/ref&gt;。タルノヴォを脱したイヴァン・シシュマンはニコポリスに逃れ、やむなくオスマンと和約を結んで領土の保持を認められる&lt;ref name=&quot;horupu113&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、113頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === オスマン帝国のブルガリア支配へ ===<br /> [[1395年]]の{{仮リンク|ロヴィネの戦い|en|Battle of Rovine}}の後、オスマンは自国への非協力を理由にイヴァン・シシュマンとブルガリア各地のデスポットを攻撃し、彼らの領土を併合した&lt;ref name=&quot;mori138&quot;/&gt;。イヴァン・シシュマンが投獄された後も&lt;ref name=&quot;horupu113&quot;/&gt;イヴァン・スラツィミルが統治するヴィディンはオスマンに忠誠を誓って独立を維持し、ヴィディンはブルガリアの中で唯一独立を保つ勢力となった&lt;ref name=&quot;mori138&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1396年]]にハンガリー王[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]がニコポリス十字軍を提唱すると、イヴァン・スラツィミルはオスマンへの臣従を破棄して十字軍に参加した&lt;ref name=&quot;mori138&quot;/&gt;。1396年9月25日の[[ニコポリスの戦い]]でオスマン軍が勝利した後、ヴィディンはオスマン帝国に併合される。イヴァン・スラツィミルはアナトリアに連れ去られ&lt;ref name=&quot;horupu113&quot;/&gt;、中世ブルガリアの国家はすべて消滅した&lt;ref name=&quot;mori138&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 社会 ==<br /> 第二次ブルガリア帝国は、皇帝を頂点とする封建国家だった。社会的構造、行政組織、経済はビザンツ帝国、封建制度に含まれる要素は同時期の西欧の国家と類似する点が多いことが指摘される&lt;ref name=&quot;horupu118&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、118頁&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 行政 ===<br /> 帝位は長子、兄弟、近親者によって継承され、皇統が断絶したときには大貴族から新皇帝が選出された&lt;ref name=&quot;horupu118&quot;/&gt;。<br /> <br /> 皇帝に次ぐ地位にはデスポット・セヴァストクラトルの称号を持つ大貴族が位置していた&lt;ref name=&quot;mori142&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、142頁&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;[[専制公]]の項目も参照。&lt;/ref&gt;。地方と中央の高官と宮廷の大臣職は、大貴族によって占有されていた&lt;ref name=&quot;mori142&quot;/&gt;。宮廷の官職には皇帝を補佐する大ロゴテット、財務を担当するプロトヴェスティアリイ、宮廷儀礼を司る大プリミキュルなどが存在していた。軍事には皇帝の部隊を直接指揮するプロトストラトル、近衛隊を指揮するプロトケリオトなどの称号を持つ指揮官が携わっていた。<br /> <br /> 国内の軍事と行政はホラという地方単位で区分され、セヴァスト、ドゥカ、ケファリアの称号を持つ総督によって統治され、ドゥカとケファリアは都市を統治した。ブルガリア内に多数存在する農村共同体には多くの人間が属しており&lt;ref name=&quot;horupu116&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、116頁&lt;/ref&gt;、一定の自治を持った共同体は住民が選出した指導者(クニャズ)によってまとめられていた&lt;ref name=&quot;horupu118&quot;/&gt;。イヴァン・アセン2世時代のホラは、以下の12地域に区分されていた&lt;ref name=&quot;mori142&quot;/&gt;。<br /> * [[ベオグラード]]<br /> * [[ブラニチェヴォ郡|ブラニチェヴォ]]<br /> * [[ヴェリコ・タルノヴォ|タルノヴォ]]<br /> * カルボナ<br /> * {{仮リンク|クラン (ブルガリア)|en|Kran, Bulgaria&lt;!-- リダイレクト先の「[[:en:Kran]]」は、曖昧さ回避ページ --&gt;|label=クラン|FIXME=1}}<br /> * ボロウィ<br /> * [[エディルネ|アドリアノープル]]<br /> * [[スコピエ]]<br /> * [[デヴォル県|デヴォル]]<br /> * [[ソフィア (ブルガリア)|セルディカ]]<br /> * [[プリレプ]]<br /> * {{仮リンク|アルバナシ|en|Arbanasi, Bulgaria}}<br /> <br /> === ブルガリアの封建化 ===<br /> 13世紀から14世紀にかけて、ビザンツ支配時代から続くブルガリアの封建化が進行した&lt;ref name=&quot;kin91&quot;/&gt;。中央権力の衰退に伴って、力を付けた地方領主は農民などの従属民からの搾取を行い、また土地や財産の寄進を受けた教会や修道院が大封建勢力へと化していった&lt;ref name=&quot;kin92&quot;&gt;金原「中世のバルカン」『バルカン史』、92頁&lt;/ref&gt;。このため、第二次ブルガリア帝国は多数の村を有する聖俗の封建勢力と農奴とされた農民が併存する状態になっていた&lt;ref name=&quot;kin92&quot;/&gt;。封建領主は都市にも介入し、都市部の商人や職人も封建領主から圧迫を受けた&lt;ref name=&quot;kin92&quot;/&gt;。<br /> <br /> ブルガリア内の土地の所有形態は皇帝領、封建領主領、教会領、修道院領に四分される&lt;ref name=&quot;mori140&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、140頁&lt;/ref&gt;。皇帝領と封建領主領は、一定の範囲内に領地が集まっていた。逆に教会領と修道院領の場合、一つの寺院が所有する土地は国中に分散しており、支配地には住宅、耕作地、水車などの様々な施設が含まれていた&lt;ref name=&quot;mori140&quot;/&gt;。当時広範囲にわたる土地の所有を認められていた修道院には、アトス山の{{仮リンク|ヒランダル修道院|en|Hilandar}}、[[リラ修道院]]、{{仮リンク|バチコヴォ修道院|en|Bachkovo Monastery}}などが挙げられる&lt;ref name=&quot;mori140&quot;/&gt;。<br /> <br /> 封建勢力が従属民に課した税には労働(賦役)と物品の納付のほか、時代が進むにつれて貨幣の納付が加わった&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、117頁&lt;/ref&gt;。牧草地、水車などの農畜・漁業に必要な道具の使用賃として、農民は生産品を領主に納付しなければならなかった&lt;ref name=&quot;mori141&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、141頁&lt;/ref&gt;。また、収穫品の10分の1を徴収するデセトカル、金貨による特別税を徴収するペルピラキなどの、新たな官職が徴税のために設けられた。<br /> <br /> === 社会階級 ===<br /> 当時のブルガリア社会は、封建勢力と農民を初めとする従属民の2つに分化していた&lt;ref name=&quot;mori141&quot;/&gt;。中間層には都市の商人と職人、下位の聖職者と修道士、官吏と兵士が位置しており、少数の奴隷も存在していた&lt;ref name=&quot;horupu116&quot;/&gt;。封建勢力は皇帝と貴族ら世俗の権力者と、上位の聖職者が占める教会貴族に分かれ&lt;ref name=&quot;mori141&quot;/&gt;、下位の階級の中から封建勢力に加わる者もいた&lt;ref name=&quot;horupu116&quot;/&gt;。<br /> <br /> また、第二次ブルガリア帝国期には人口の多数を占める&lt;ref name=&quot;mori139&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、139頁&lt;/ref&gt;農民の農奴化、封建勢力の大土地所有が進行していた&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、140-141頁&lt;/ref&gt;。皇帝、領主の支配下に置かれた農奴は「パリツィ」、教会勢力の支配下に置かれた農奴は「ポポヴャニン」と呼ばれた。彼らは耕作用の土地の所有、封建所領内での土地の相続・売却・贈与は認められていたが、土地を離れて別の場所に移ることは認められていなかった&lt;ref name=&quot;horupu116&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori141&quot;/&gt;。土地を持たず、封建領主から土地を奪われた農奴は「オトロク(オトロツィ)」と呼ばれ、他の農奴よりも厳しい環境に置かれていた&lt;ref name=&quot;horupu116&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori141&quot;/&gt;。さらにオトロクより低い層の農奴として、土地と生産手段を有していない「ラタイ」という小作農がおり、彼らは労働と引き換えに領主から報酬を受け取っていた&lt;ref name=&quot;mori141&quot;/&gt;。<br /> <br /> 14世紀になると封建領主の自立化、貴族間の内訌、他国の侵入によって民衆が置かれた状況はより悪化する&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、108頁&lt;/ref&gt;。オスマン帝国のブルガリアへの侵入に伴って、バルカン山脈以北の土地に移住する者も現れた。社会的不安に対して民衆は異端とされる教義の布教、封建領主からの逃亡といった手段を取り、修道士となる下層階級の人間が増加した&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、108-109頁&lt;/ref&gt;。また、土地や財産を失った民衆にはドゥルジナ([[匪賊]])となる者もおり、彼らは封建勢力の領地を襲撃することもあった&lt;ref name=&quot;kin92&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 経済 ==<br /> [[File:SilverCoinIvanAlexanderBulgaria1331-1371.jpg|thumb|140px|イヴァン・アレクサンダルの治世に鋳造された硬貨]]<br /> === 農業 ===<br /> 前時代と同様に第二次ブルガリア帝国はの産業は農業と畜産が中心であり&lt;ref name=&quot;mori139&quot;/&gt;、依然として[[二圃式農業]]が続けられていた&lt;ref name=&quot;horupu115&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、115頁&lt;/ref&gt;。[[コムギ|小麦]]、[[オオムギ|大麦]]、[[雑穀]]が広い範囲で栽培され、13世紀以降は野菜、果実、ブドウの重要性が増す&lt;ref&gt;Ангелов, Д. По въпроса за стопанския облик на българските земи през XI-XII век ИП, 1950, 429頁&lt;/ref&gt;。家畜としては、主に[[ヒツジ]]、[[ブタ]]、[[ウシ]]が飼われていた&lt;ref&gt;Georgius Acropolita. Historia, 18頁&lt;/ref&gt;。農業技術の発展に伴って、機械仕掛けの水車小屋と風車小屋が広い範囲で導入され&lt;ref name=&quot;horupu115&quot;/&gt;、14世紀には[[養蜂]]と[[養蚕]]の技術に向上が見られた&lt;ref&gt;Сакъзов, Ив. Средновековното манастирско стопанство в България- СБИД, 22, 1923/1924, 221頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 当時のブルガリアの特産品として、穀物、養蜂の産物([[蜂蜜]]、[[蜜蝋]])、[[絹|絹製品]]、[[皮革|革製品]]が挙げられる&lt;ref name=&quot;horupu115&quot;/&gt;。中でもブルガリアからコンスタンティノープル、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどに輸出された小麦の品質は高い評価を受けていた&lt;ref name=&quot;mori139&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 産業 ===<br /> 製造業の分野においても著しい発展が見られた。都市の増加と都市民の需要の拡大、農商業と軍事技術の発達が製造業の発達を促し、[[精錬|精錬業]]と[[鋳造|鋳造業]]の発達は他の分野にも好影響を与えた&lt;ref name=&quot;horupu115&quot;/&gt;。中でも製陶、石材製作、金属加工、[[仕立屋|仕立]]が目覚ましい発達を遂げる&lt;ref name=&quot;horupu115&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori139&quot;/&gt;。<br /> <br /> 都市や大規模な村落に居住する職人は、「テフニタリ」と呼ばれる独自の階層を形成した。また、13世紀から14世紀にかけて北西ブルガリアに移住したドイツ系移民は鉱業において大きな役割を果たし、彼らは「サシ」と呼ばれた&lt;ref name=&quot;horupu115&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 交易 ===<br /> ブルガリアの領土拡大に伴って経済も成長し、皇帝と封建貴族は自らの懐を潤す輸出を奨励した。また、内外の貿易の活発化は貨幣の流通を促進する&lt;ref name=&quot;horupu95&quot;/&gt;。<br /> イヴァン・アセン2世時代のブルガリアは外国との通商関係を強化し、タルノヴォは南東ヨーロッパの経済の中心地に成長した&lt;ref name=&quot;horupu95&quot;/&gt;。交易の活性化に伴い、ブルガリア独自の貨幣以外にビザンツ、セルビア、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]、モンゴルなどの貨幣も国内で流通した&lt;ref name=&quot;horupu115&quot;/&gt;。<br /> <br /> 当時のブルガリアの商取引の中心は、祭に伴って開かれる縁日と定期市だった。また、都市では常設の市場が置かれ、一部の村落や修道院でも週ごとに市が開かれた。皇帝と封建勢力は交易に「クメルク」などの商業税と物品の納入を課していたが、一部の修道院は免税特権を受けていた&lt;ref name=&quot;mori140&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;horupu115&quot;/&gt;。<br /> <br /> 外国との貿易は条約の締結と皇帝の勅書によって統制されていた&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、115-116頁&lt;/ref&gt;。対外貿易におけるビザンツ帝国の地位は第一次ブルガリア帝国時代よりも低下し、[[ジェノヴァ共和国]]、ヴェネツィア共和国、[[ドゥブロヴニク]]が台頭する&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、75-76,116頁&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;mori140&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、140頁&lt;/ref&gt;。テオドル・スヴェトスラフの時代にブルガリアがキプチャク・ハン国の影響下から脱すると、通商関係に変化が起きる&lt;ref name=&quot;mori130&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;horupu104&quot;/&gt;。テオドル治下のブルガリアと関係の悪化したジェノヴァ共和国に代わる相手として、ヴェネツィア共和国との政治、経済両方の結びつきが強化された&lt;ref name=&quot;mori130&quot;/&gt;。<br /> <br /> 13世紀は外国の商人に関税は課されていなかったが、14世紀になると彼らにも規制が課せられる。<br /> <br /> * 輸出品&lt;ref name=&quot;horupu116&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、116頁&lt;/ref&gt; - 小麦、大麦、[[ライムギ|ライ麦]]、金、銀、革製品、蜂蜜、蜜蝋<br /> * 輸入品&lt;ref name=&quot;horupu116&quot;/&gt; - 布、石鹸、香辛料、武器、[[オリーブ・オイル|オリーブ油]]、塩、鉄製品、奢侈品<br /> <br /> == 宗教 ==<br /> === 異端の教義 ===<br /> 第二次ブルガリア帝国内では[[異端#キリスト教における異端|異端]]と見做される教義も信仰されていた。<br /> <br /> 第一次ブルガリア帝国の時代からブルガリア内で活動していた[[ボゴミル派]]は、ブルガリアが内訌によって混乱する[[12世紀]]の末から信者を増加させた&lt;ref name=&quot;cra38&quot;/&gt;。ボリルの統治下では皇帝の治世に不満を持つ民衆の間にボゴミル派が流布したため、[[1211年]]2月にタルノヴォの議会はボゴミル派に異端宣告を行って彼らを迫害した&lt;ref name=&quot;horupu91&quot;/&gt;。しかし、ブルガリア社会に定着したボゴミル派を根絶することは不可能だった&lt;ref name=&quot;shoju719&quot;/&gt;。政情が安定したイヴァン・アセン2世の治世にボゴミル派への迫害は緩和される&lt;ref name=&quot;cra38&quot;/&gt;。14世紀に入るとボゴミル派の信仰者は一部の修道士や都市の下層民に変化し、様々な分派が生まれた&lt;ref name=&quot;mori147&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、147頁&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 民衆に流布する異端に対して、貴族層は14世紀半ばにビザンツで提唱された[[静寂主義]]({{仮リンク|ヘシカスム|en|Hesychasm}})の教えを受け入れた&lt;ref name=&quot;horupu109&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、109頁&lt;/ref&gt;静寂主義は正教会の教えと調和する点もあったために正教の教義に組み入れられ、また支配層と密接な関係を有していた&lt;ref name=&quot;horupu109&quot;/&gt;。静寂主義は異端、腐敗した聖職者、ローマ教会との合同に対する批判手段として機能し&lt;ref name=&quot;mori147&quot;/&gt;、文学と芸術の発展にも貢献した&lt;ref name=&quot;horupu109&quot;/&gt;。<br /> &lt;!-- クランプトン『ブルガリアの歴史』、40頁では、「13世紀末のブルガリアでヘシカスムが活発になる」 --&gt;<br /> <br /> 静寂主義の普及と同じ時期に、コンスタンティノープル出身の修道士・医師のテオドレトスはタルノヴォにバルラーム主義をもたらした。[[カラブリア州|カラブリア]]出身の修道士{{仮リンク|バルラーム|en|Barlaam of Seminara}}が提唱したバルラーム主義は、[[ギリシア哲学]]の流れを汲む合理性を備えていた。バルラーム主義は都市の下層民には受け入れられず、富裕層と一部の貴族に支持者を得る&lt;ref name=&quot;horupu109&quot;/&gt;。都市部のユダヤ系住民の間で信仰されたユダヤ主義は、バルラーム主義と類似した合理主義性を有していた&lt;ref name=&quot;mori147&quot;/&gt;。<br /> <br /> 1355年と1360年にタルノヴォで開かれた宗教会議では、既成の権力と対立する思想に異端の宣告がされた&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、147-148頁&lt;/ref&gt;。14世紀に開かれた2度の宗教会議では、変質したボゴミル派以外にバルラーム主義とユダヤ派に対しても弾圧が加えられた。<br /> <br /> === 教育の場としての教会 ===<br /> 第二次ブルガリア帝国期、教会は教育の場としての役割も有していた。修道院の付属校と大都市に存在する教会付属の学校では、聖職者と書記官の育成を目的として若年者への読み書きの教育が行われていた&lt;ref name=&quot;horupu122&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、122頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、144-145頁&lt;/ref&gt;。学校を卒業した生徒のうち数人は修道院に入って「グラマティク」の称号を得、修道院が所蔵する書物の講読と書写によって学識を深めると共に教師の資格を得た&lt;ref name=&quot;horupu122&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori145&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、145頁&lt;/ref&gt;。さらにタルノヴォ、[[アトス山]]の修道院、コンスタンティノープルで教育を受ける者もおり、当時のブルガリアで実施された教育は高い水準にあった&lt;ref name=&quot;horupu122&quot;/&gt;。現存する第二次ブルガリア帝国の写本に見られる洗練された[[書法]]と[[正書法]]は、当時行われていた教育の賜物だった&lt;ref name=&quot;mori145&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、145頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 文化 ==<br /> === 文学 ===<br /> [[File:Saint-Evtimiy-of-Tarnovo-statue.jpg|thumb|140px|エフティミィの像(ヴェリコ・タルノヴォ)]]<br /> 独立した国家の樹立とブルガリア正教会の独立はブルガリア文学の発展を促し、首都のタルノヴォを中心として文学活動が展開された&lt;ref name=&quot;horupu122&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori145&quot;/&gt;。<br /> <br /> 12世紀末から13世紀初頭にかけて、ブルガリアでは過去に描かれた典礼書・雑録の翻訳と写本の作成が盛んになる&lt;ref name=&quot;horupu122&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori145&quot;/&gt;。14世紀に中世ブルガリアの文学活動は隆盛を迎え、典礼書の増加、伝統文学の発達といった現象が見られる&lt;ref name=&quot;horupu122&quot;/&gt;。聖者伝、聖歌などの新たなジャンルもこの時期に発生した&lt;ref name=&quot;mori145&quot;/&gt;。<br /> <br /> 文芸活動に参加する聖職者の多くがアトス山派とタルノヴォ派のどちらかに属し、この二派がブルガリアの文芸活動の中心となった。タルノヴォ派に属したブルガリア総主教{{仮リンク|エフティミィ|en|Evtimiy of Tarnovo}}は中世ブルガリアを代表する文芸家の代表として挙げられる&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、146頁&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;horupu123&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、123頁&lt;/ref&gt;。エフティミィは伝記、讃辞、書簡、教会の規則書といった広い分野で執筆活動を行い、独自の雄弁的な文体を生み出した&lt;ref name=&quot;horupu123&quot;/&gt;。14世紀から[[15世紀]]にかけて活躍したブルガリアの文芸家にはエフティミィの弟子筋にあたる者が多くおり、彼らはエフティミィの作風をロシア、セルビア、[[ワラキア]]、[[モルダヴィア]]へともたらした&lt;ref name=&quot;horupu123&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 美術 ===<br /> [[File:Boyana Church ship.jpg|thumb|160px|ボヤナ教会のフレスコ画]]<br /> イヴァン・アセン2世の治下で首都タルノヴォは発展し&lt;ref name=&quot;cra40&quot;/&gt;、タルノヴォは絵画の中心地ともなった&lt;ref name=&quot;horupu121&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、121頁&lt;/ref&gt;。第二次ブルガリア帝国期の絵画は中世初期ブルガリア美術以来の伝統を受け継ぎながらも、[[ビザンティン美術]]から強い影響を受け、西欧美術の要素も取り入れられている&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、148頁&lt;/ref&gt;。タルノヴォ、[[リラ修道院]]などのブルガリア各地の教会には第二次ブルガリア帝国時代の絵画が現存し&lt;ref name=&quot;horupu121&quot;/&gt;、その中でも[[1259年]]に作成された[[ボヤナ教会]]の壁面を飾る[[フレスコ画]]はスラヴォニア芸術の完成品の1つとして高く評価されている&lt;ref name=&quot;cra40&quot;&gt;クランプトン『ブルガリアの歴史』、40頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、書物の装丁、挿絵に用いられた[[細密画]]も発達を見せる&lt;ref name=&quot;horupu121&quot;/&gt;。13世紀から14世紀の間に装丁技術が発達し、次いで14世紀に挿絵が発達を遂げる&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、148-149頁&lt;/ref&gt;。1356年にイヴァン・アレクサンダルが制作を依頼した4福音書には366の細密画が含まれ、中世ヨーロッパで制作された写本の中でも特に豪華なものに数えられている&lt;ref&gt;クランプトン『ブルガリアの歴史』、41-42頁&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;horupu121&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 建築 ===<br /> [[File:Medieval Tarnovo.png|thumb|140px|中世のタルノヴォ]]<br /> [[File:Forty Martyrs Church Svik.jpg|thumb|160px|タルノヴォの聖40人殉教者教会]]<br /> 第二次ブルガリア帝国に建設された城塞は、防備に優れた天険の地に建設された&lt;ref name=&quot;horupu120&quot;&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、120頁&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;mori143&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、143頁&lt;/ref&gt;。都市は丘の上に建てられた城砦と麓に広がる居住地区と商店から成り立ち、城砦の中には領主の住居、教会、兵舎が存在していた&lt;ref&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、143-144頁&lt;/ref&gt;。そして、それらの都市に見られる城砦と居住区の構造は首都のタルノヴォを基にしていた&lt;ref name=&quot;horupu120&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori144&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、144頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> タルノヴォの町全体は城壁で囲まれ、高所にはツァレヴェツ、トラペジツァ、モミナ・クレポストなどの要塞と防備を固めた修道院が建ち、その下に都市民の居住区が広がっていた&lt;ref name=&quot;mori144&quot;/&gt;。最も高い位置にはツァレヴェツ要塞が築かれ、内部には宮殿、総主教座教会、貴族と従者の居住区などが建てられていた。<br /> <br /> 教会建築の変化に、13世紀に西欧の建築文化の影響を受けて[[鐘楼]]を導入したことが挙げられる&lt;ref name=&quot;horupu120&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori144&quot;/&gt;。第二次ブルガリア帝国期の代表的な教会建築の1つとして、イヴァン・アセン2世の時代にタルノヴォに建立された聖40人殉教者教会が挙げられる。クロコトニッツァの戦いが起きた3月9日が{{仮リンク|セバステの40人の殉教者|en|Forty Martyrs of Sebaste}}の受難日であることにちなんで建立された教会であり、教会内の大理石中にはクロコトニッツァの戦勝を記念する文言が刻まれた&lt;ref name=&quot;kin89&quot;/&gt;。<br /> <br /> 民衆は[[竪穴式住居|半竪穴式住居]]、石と煉瓦の壁と藁葺き屋根の家、石造りの二階建て家屋、木造家屋などの異なる種類の住居で生活していた&lt;ref name=&quot;horupu120&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori144&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 音楽 ===<br /> この時代のブルガリアでは規範化された東方正教会の聖歌に対して、民俗的な教会旋律であるブルガリア唱法が確立される&lt;ref name=&quot;horupu122&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mori149&quot;&gt;森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、149頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 代表的な作曲家・歌手として、{{仮リンク|ヨアン・ククゼル|en|John Kukuzelis}}(1280年 - 1360年)が挙げられる&lt;ref name=&quot;horupu122&quot;/&gt;。ククゼルは教会音楽に民族音楽の要素を取り入れ、ブルガリアとビザンツの教会音楽に変革をもたらした&lt;ref name=&quot;mori149&quot;/&gt;&lt;ref&gt;ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、127頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 年表 ==<br /> * [[1185年]] - [[アセンとペタルの蜂起]]<br /> * [[1187年]] - [[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]](東ローマ帝国)がブルガリアの独立を承認<br /> * [[1204年]] - [[ブルガリア正教会]]と[[カトリック教会|ローマ教会]]の教会合同<br /> * [[1205年]] - アドリアノープル(現在の[[エディルネ]])近郊の戦いで[[ラテン帝国]]軍に勝利<br /> * [[1207年]] - 皇帝[[カロヤン・アセン|カロヤン]]の暗殺<br /> * [[1218年]] - [[イヴァン・アセン2世]]の即位。第二次ブルガリア帝国の最盛期へ<br /> * [[1230年]] - {{仮リンク|クロコトニッツァの戦い|en|Battle of Klokotnitsa}}で[[エピロス専制侯国]]に勝利<br /> * [[1242年]] - [[モンゴル帝国]]の侵入、ブルガリアの従属国化<br /> * [[1277年]] - [[イヴァイロ (ブルガリア皇帝)|イヴァイロ]]の蜂起<br /> * [[1280年]] - アセン家に代わり、大貴族テルテル家の[[ゲオルギ1世テルテル]]がブルガリア皇帝に即位<br /> * [[1300年]] - [[ジョチ・ウルス|キプチャク・ハン国]]の王族[[チャカ (ブルガリア皇帝)|チャカ]]がブルガリア皇帝から廃され、ゲオルギ1世テルテルの子{{仮リンク|テオドル・スヴェトスラフ (ブルガリア)|en|Theodore Svetoslav of Bulgaria|label=テオドル・スヴェトスラフ}}が即位<br /> * [[1323年]] - テルテル家に代わり、ヴィディンのデスポット(領主)シシュマン家の[[ミハイル3世シシュマン]]がブルガリア皇帝に即位<br /> * [[1330年]] - [[ヴェルブジュドの戦い]]で[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]に敗北<br /> * [[1355年]](もしくは[[1356年]]) - 皇帝[[イヴァン・アレクサンダル]]の皇子[[イヴァン・スラツィミル]]が[[ヴィディン]]の統治者に封じられる<br /> * [[1371年]] - [[マリツァの戦い (1371年)|マリツァの戦い]]でデスポットの連合軍が[[オスマン帝国]]に敗北<br /> * [[1389年]] - [[コソボの戦い]]<br /> * [[1393年]]7月17日 - 首都[[ヴェリコ・タルノヴォ|タルノヴォ]]の陥落<br /> * [[1395年]] - {{仮リンク|イヴァン・シシュマン (ブルガリア)|en|Ivan Shishman of Bulgaria|label=イヴァン・シシュマン}}の廃位<br /> * [[1396年]] - オスマン帝国がヴィディンを併合<br /> <br /> == 歴代君主 ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;width:80%; margin:0 auto&quot;<br /> ! style=&quot;width:12%&quot;|画像!!名前!!ブルガリア語表記!!在位期間<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;4&quot; style=&quot;background-color:#9FF&quot;|アセン家<br /> |-<br /> ||||[[ペタル4世]]||Петър IV- Теодор||[[1185年]] - [[1190年]]<br /> |-<br /> ||||{{仮リンク|イヴァン・アセン1世 (ブルガリア)|en|Ivan Asen I of Bulgaria|label=イヴァン・アセン1世}}||Иван Асен I||1190年 - [[1196年]]<br /> |-<br /> ||||ペタル4世||Петър IV- Теодор||1196年 - [[1197年]](復位)<br /> |-<br /> ||[[File:NHMB-Anthrolopogical-reconstruction-of-the-head-of-Tsar-Kaloyan-by-Prof.Yordan-Yordanov.jpg|center|80px]]||[[カロヤン・アセン|カロヤン]]||Калоян||1197年 - [[1207年]]<br /> |-<br /> ||[[File:Seal of Boril.jpg|center|100px]]||[[ボリル]]||Борил||1207年 - [[1218年]]<br /> |-<br /> ||[[File:Tsar Ivan Asen II cropped.png|center|100px]]||[[イヴァン・アセン2世]]||Иван Асен II||1218年 - [[1241年]]<br /> |-<br /> ||||[[カリマン1世]](コロマン1世)||Калиман Асен I||1241年 - [[1246年]]<br /> |-<br /> ||[[File:Michael-Asen-Kastoria.jpg|center|80px]]||[[ミハイル2世・アセン|ミハイル・アセン]]||Михаил II Асен||1246年 - [[1256年]]<br /> |-<br /> ||||[[カリマン2世]](コロマン2世)||Калиман Асен II||1256年<br /> |-<br /> ||[[File:NHM-BG-photoKonstantinTih1.jpg|center|80px]]||[[コンスタンティン・ティフ]]||Константин I Тих Асен||1257年 - [[1277年]]<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;4&quot; style=&quot;color:#fff; background-color:#633&quot;|反乱者<br /> |-<br /> ||||[[イヴァイロ (ブルガリア皇帝)|イヴァイロ]]||Ивайло||[[1278年]] - [[1279年]]<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;4&quot; style=&quot;background-color:#9FF&quot;|アセン家<br /> |-<br /> ||||[[イヴァン・アセン3世]]||Иван Асен III||1279年 - [[1280年]]<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;4&quot; style=&quot;background-color:#FF9&quot;|テルテル家<br /> |-<br /> ||||[[ゲオルギ1世テルテル]]||Георги I Тертер||1280年 - [[1292年]]<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;4&quot; style=&quot;color:#fff; background-color:#633&quot;|モンゴルの傀儡君主<br /> |-<br /> ||||[[スミレツ]]||Смилец||1292年 - [[1298年]]<br /> |-<br /> ||||[[チャカ (ブルガリア皇帝)|チャカ]]||Чака||1299年 - [[1300年]]<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;4&quot; style=&quot;background-color:#FF9&quot;|テルテル家<br /> |-<br /> ||[[File:Silver coin of Theodore Svetoslav.png|center|90px]]||[[テオドル・スヴェトスラフ]]||Теодор Светослав||1300年 - [[1322年]]<br /> |-<br /> ||||[[ゲオルギ2世テルテル]]||Георги II Тертер||1322年 - [[1323年]]<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;4&quot; style=&quot;background-color:#F63&quot;|シシュマン家<br /> |-<br /> ||||[[ミハイル3世シシュマン]]||Михаил III Шишман Асен||1323年 - [[1330年]]<br /> |-<br /> ||||[[イヴァン・ステファン]]||Иван Стефан||1330年 - [[1331年]]<br /> |-<br /> ||[[File:Ivan Alexander.jpg|center|85px]]||[[イヴァン・アレクサンダル]]||Иван Александър Асен||1331年 - [[1371年]]<br /> |-<br /> ||[[File:53 IoSisiman.JPG|center|80px]]||[[イヴァン・シシュマン]]||Иван Шишман||1371年 - [[1393年]]<br /> |-<br /> <br /> |}<br /> <br /> <br /> {| style=&quot;margin:0 auto&quot;<br /> |[[File:Asen dynasty.png|center|thumb|240px|アセン家の系図(英語)]]<br /> |[[File:Shishman dynasty.png|center|thumb|240px|シシュマン家の系図(英語)]]<br /> |}<br /> <br /> === 各王家の関係図 ===<br /> {{familytree/start|style=font-size:75%;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | |,|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.| | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | |PE4 | | | | | |IA1 | | | | | | | | | | | | | | |KAA |~|~|~|y| ANN |7| NNN | |PE4=[[ペタル4世]]|IA1=[[イヴァン・アセン1世]]|KAA=[[カロヤン・アセン]]|ANN=アンナ|NNN=娘|boxstyle_PE4 =background-color: #fdd;|boxstyle_IA1 =background-color: #fdd;|boxstyle_KAA =background-color: #fdd;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | |,|-|-|-|-|^|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.| | | |!| | | |:| |!| |}}<br /> {{familytree | | | | | | | ANM |y|~|IA2 |~|y| IRE | | | | | | | | | | | | | | | |ALE | | MAR | | |L|BOR | |ANM=アンナ・マリーア&lt;br&gt;(ハンガリー王[[アンドラーシュ2世]]娘)|IA2=[[イヴァン・アセン2世]]|IRE=イレネ&lt;br&gt;(エピロス専制公[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス|テオドロス1世]]娘)|ALE=アレクサンデル|MAR=マーリア&lt;br&gt;=ラテン皇帝アンリ|BOR=[[ボリル]]|boxstyle_IA2 =background-color: #fdd;|boxstyle_BOR =background-color: #fdd;}}<br /> {{familytree | |,|-|-|-|-|-|-|-|(| | | | | |)|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|.| | | |!| | |}}<br /> {{familytree | HEL | | | | | |KA1 | | | | ANT |y| PET | | MAR |y|MIA | |M2A | |KA2 | | |HEL=ヘレナ&lt;br&gt;=ニカイア皇帝[[テオドロス2世ラスカリス]]|KA1=[[カリマン1世]]|ANT=アンナ・テオドラ|PET=ペタル&lt;br&gt;セヴァストクラトル|MAR=マーリア|MIA=ミツォ・アセン|M2A=[[ミハイル2世・アセン]]|KA2=[[カリマン2世]]|boxstyle_KA1 =background-color: #fdd;|boxstyle_M2A =background-color: #fdd;|boxstyle_KA2 =background-color: #fdd;}}<br /> {{familytree | |!| | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | |)|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.| | | |}}<br /> {{familytree | IRE |~|KOT |y| MAR |~|IVA | | DAU |y| SH1 | |IA3 |~| IRP | |GE1 |y| KMA | | | | | | |IRE=イレネ|KOT=[[コンスタンティン・ティフ]]|MAR=マリア&lt;br&gt;(皇帝[[ミカエル8世パレオロゴス|ミカエル8世]]姪)|IVA=[[イヴァイロ (ブルガリア皇帝)|イヴァイロ]]|DAU=娘|SH1=シシュマン&lt;br&gt;[[ヴィディン]]のデスポト|IA3=[[イヴァン・アセン3世]]|IRP=イレネ&lt;br&gt;(皇帝[[ミカエル8世パレオロゴス|ミカエル8世]]娘)|KMA=キラ・マリーア|GE1=[[ゲオルギ1世テルテル]]|boxstyle_KOT =background-color: #fdd;|boxstyle_IVA =background-color: #fdd;|boxstyle_IA3 =background-color: #fdd;|boxstyle_GE1 =background-color: #fdd;}}<br /> {{familytree | | | | | | | |!| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|(| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|v|-|&#039;| |!| | | | | | | | | | |}}<br /> {{familytree | | | | | | |MIK | | |!| | | | | | | |!| | |TES | |CAK |~| ELE | | ANA |y| ST2 | |SMI | |MIK=ミハイル|TES=[[テオドル・スヴェトスラフ]]|ELE=エレナ|CAK=[[チャカ (ブルガリア皇帝)|チャカ]]|ANA=アンナ|ST2=[[ステファン・ウロシュ2世ミルティン|ステファン・ウロシュ2世]]&lt;br&gt;セルビア王|SMI=[[スミレツ]]|boxstyle_TES =background-color: #fdd;|boxstyle_CAK =background-color: #fdd;|boxstyle_SMI =background-color: #fdd;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | |!| | | |,|-|-|-|#|-|-|-|#|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|(| | | |,|-|^|-|.| | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | |MI3 |y| ANN | | PET | |GE2 | | | | | | | | | | | |ST3 |y| THE | |IV2 | |ANN=アンナ・ネダ|MI3=[[ミハイル3世シシュマン]]|PET=キラツァ|GE2=[[ゲオルギ2世テルテル]]|ST3=[[ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ|ステファン・ウロシュ3世]]&lt;br&gt;セルビア王|THE=テオドラ|IV2=[[イヴァン2世 (ブルガリア皇帝)|イヴァン2世]]|boxstyle_MI3 =background-color: #fdd;|boxstyle_GE2 =background-color: #fdd;|boxstyle_IV2 =background-color: #fdd;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | |!| | | |,|-|^|-|.| | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | |IVS | |IVA | | HEL |~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|y|ST4 | |IVS=[[イヴァン・ステファン]]|IVA=[[イヴァン・アレクサンダル]]|HEL=ヘレナ|ST4=[[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン|ステファン・ウロシュ4世]]&lt;br&gt;セルビア王|boxstyle_IVS =background-color: #fdd;|boxstyle_IVA =background-color: #fdd;}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | |,|-|-|-|(| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | |ISR | |IVS | | | | | | | | | | | | | | | | | |ST5 | |ISR=[[イヴァン・スラツィミル]]|IVS=[[イヴァン・シシュマン]]|ST5=[[ステファン・ウロシュ5世]]&lt;br&gt;セルビア王|boxstyle_ISR =background-color: #fdd;|boxstyle_IVS =background-color: #fdd;]}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | |CO2 | | | | | | |CO2=[[コンスタンティン2世 (ブルガリア皇帝)|コンスタンティン2世]]|boxstyle_CO2 =background-color: #fdd;}}<br /> {{familytree/end}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> &lt;references group=&quot;注&quot;/&gt;<br /> === 出典 ===<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 井上浩一、栗生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』(世界の歴史11, [[中央公論新社|中央公論社]], 1998年2月)<br /> * 金原保夫「中世のバルカン」『バルカン史』収録(柴宜弘編, 世界各国史, [[山川出版社]], 1998年10月)<br /> * [[尚樹啓太郎]]『ビザンツ帝国史』([[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]], 1999年2月)<br /> * 寺島憲治「アセン兄弟の蜂起」『東欧を知る事典』収録、9頁([[平凡社]], 2001年3月)<br /> * 寺島憲治「イバイロの蜂起」『東欧を知る事典』収録、32-33頁(平凡社, 2001年3月)<br /> * 森安達也、今井淳子共訳編『ブルガリア 風土と歴史』(恒文社, 1981年)<br /> * R.J.クランプトン『ブルガリアの歴史』(ケンブリッジ版世界各国史, [[創土社]], 2004年2月)<br /> * I.ディミトロフ、M.イスーソフ、I.ショポフ『ブルガリア 1』(寺島憲治訳, 世界の教科書=歴史, [[ほるぷ出版]], 1985年8月)<br /> * 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 (近藤出版社, 1982年)<br /> * Jiří Louda, Michael Maclagan, &#039;&#039;Lines of Succession&#039;&#039;, Little,Brown &amp; Company, 1981.<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Second Bulgarian Empire}}<br /> * [[ブルガリア帝国]]<br /> * [[ブルガリアの歴史]]<br /> * [[ブルガリア君主一覧]]<br /> <br /> {{中世}}<br /> <br /> {{Good article}}<br /> {{デフォルトソート:たいにしふるかりあていこく}}<br /> [[Category:第二次ブルガリア帝国|*]]<br /> [[Category:ブルガリアの歴史]]<br /> [[Category:かつてバルカンに存在した国家|ふるかりあていこく2]]</div> 42.145.121.253 ミハイル・カリーニン 2018-05-16T09:23:04Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |name = ミハイル・カリーニン&lt;br /&gt;{{lang|ru|Михаи́л Кали́нин}}<br /> |image = Калинин М. И. (1920).jpg<br /> |caption =ミハイル・カリーニン(1920年)<br /> |order = {{SSR1923}}[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]<br /> |term_start = [[1938年]][[1月17日]]<br /> |term_end = [[1946年]][[3月17日]]<br /> |predecessor = <br /> |successor = [[ニコライ・シュヴェルニク]]<br /> |order2 = {{SSR1923}}[[ソビエト連邦中央執行委員会|中央執行委員会議長]]<br /> |term_start3 = [[1922年]][[12月30日]]<br /> |term_end3 = [[1938年]][[1月12日]]<br /> |predecessor3 = <br /> |successor3 = 最高会議幹部会に移行<br /> |order4 = {{RUS1917}}&lt;br&gt;{{仮リンク|全ロシア中央執行委員会|ru|Всероссийский центральный исполнительный комитет|label=中央執行委員会議長}}<br /> |term_start4 = [[1919年]][[3月30日]]<br /> |term_end4 = [[1938年]][[7月15日]]<br /> |predecessor4 = [[ヤーコフ・スヴェルドロフ]]&lt;br/ &gt;ミハイル・ウラジーミルスキー(代行)<br /> |successor4 = [[アンドレイ・ジダーノフ]]<br /> |birth_date = {{birth date|1875|11|19|mf=y}}<br /> |birth_place = {{RUS1883}}、[[トヴェリ]][[ヴェルフナヤ・トロイツァ]]村<br /> |death_date = {{death date and age|1946|6|3|1875|11|19|mf=y}}<br /> |restingplace = クレムリン共同墓地([[:en:Kremlin Wall Necropolis]])<br /> |death_place = {{SSR1923}}&lt;br&gt;[[ファイル:Flag of Russian SFSR (1937-1954).svg|border|25x20px]] [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]、[[モスクワ]]<br /> |nationality = {{SSR1923}}<br /> |spouse = {{仮リンク|エカテリーナ・カリーニナ|en|Ekaterina Kalinina}}<br /> |party = [[ロシア社会民主労働党]]&lt;br/ &gt;ロシア共産党([[ボリシェヴィキ]]派)&lt;br /&gt;[[ソビエト連邦共産党]]<br /> |signature = Signature of Mikhail Kalinin.jpg<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ミハイル・イヴァーノヴィチ・カリーニン&#039;&#039;&#039;({{翻字併記|ru|Михаи́л Ив́анович Кали́нин|Mikhail Ivanovich Kalinin}} , [[1875年]][[11月19日]]([[ユリウス暦]][[11月7日]]) - [[1946年]][[6月3日]])は、[[ロシア]]の[[革命家]]。[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]。[[オールド・ボリシェヴィキ]]としてソ連の[[国家元首]]にあたる全露中央執行委員長、[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|ソ連最高会議幹部会議長]]を歴任した。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> 1875年11月19日、[[ロシア帝国]]時代の[[トヴェリ]](Tverskaya [[:en:Gubernia|Gubernia]])[[ヴェルフナヤ・トロイツァ]]村({{lang|ru|Верхняя Троица}})の農民の子として生まれた。少年時代は地主に雇われ、小学校と地主の家の図書室で学ぶことができた。<br /> <br /> [[1889年]]、地主の夫人の計らいで[[サンクトペテルブルク]]に移り、砲兵工廠、プチロフ工場で旋盤工として勤務した。[[1891年]]の16歳の時、プチロフ工場で革命運動に入る。[[1898年]]、[[ロシア社会民主労働党]]に入党する。党分裂後は、[[ウラジーミル・レーニン]]率いる[[ボリシェヴィキ]]に属する。以後、幾度か当局による逮捕、追放と脱走を経験する。<br /> <br /> [[1919年]]、党中央委員に選出。同年3月に全露中央執行委員会議長に就任する。[[1923年]]、[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]が正式に発足すると、[[ソビエト連邦中央執行委員会|ソビエト連邦中央執行委員会議長]]として{{仮リンク|第1回全連邦ソビエト大会|ru|I Всесоюзный съезд Советов|label=第1回}}[[ソビエト連邦ソビエト大会|ソビエト大会]]を取り仕切った。最高会議に改組されると、カリーニンは最高会議幹部会議長に選出され、死去する1946年までその地位を保った。[[1924年]]6月、[[ソ連共産党政治局|党中央委員会政治局員]]候補に、[[1926年]]1月には政治局員に選出された。<br /> <br /> カリーニンは、レーニンによって、労働者、農民の事情に精通した人物と見なされていた。また、国家元首として週に1回限られた人数ではあったが一般市民と接見し、希望を聞くなどしていた。そのためボリシェヴィキの長老として好々爺然とした風貌もあいまって、[[大粛清]]が始まると、カリーニンには、多数の請願が寄せられた。カリーニンは、しばしば裁判に介入し、無辜の人々を救済し「愛しき父親、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]」に対し、「親切な祖父、カリーニン」と親しまれた。一方で、大粛清や[[カティンの森事件]]に公式に署名している。大粛清において、スターリンは当時まで生存していた革命時代の元勲を自身の脅威と見なし、そのほとんどを追放、処刑していた。その中でカリーニンはソ連成立初期から実権の無い国家元首という名誉職にあったことで権力闘争から遠ざかっていたことから自身は粛清対象とはならずに命脈を保ったものの、夫人の{{仮リンク|エカテリーナ・カリーニナ|en|Ekaterina Kalinina}}を[[トロツキスト]]の容疑で強制収容所に送り込まれている。[[第二次世界大戦]]直後にエカテリーナは釈放され、カリーニンも1946年6月3日、[[モスクワ]]で死去しクレムリンの壁に埋葬された。しかしエカテリーナはその後も国内で軟禁状態に置かれ、死後8年経った1954年にようやく名誉回復となった。<br /> <br /> [[ヴォルガ川]]沿いの都市、[[トヴェリ]]は、[[1931年]]から[[1990年]]までは「カリーニン」に改名された。また、[[1945年]]、ソ連に占領・編入された[[東プロイセン]]の[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]は[[カリーニングラード]]と改名され、ソ連・ロシア領となった東プロイセン北部は[[カリーニングラード州]]と命名された。<br /> <br /> {{start box}}<br /> {{s-off}}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{RUS1917}}&lt;br&gt;{{仮リンク|全ロシア中央執行委員会|ru|Всероссийский центральный исполнительный комитет|label=中央執行委員会議長}}<br /> | years = [[1919年]] - [[1938年]]<br /> | before = [[ヤーコフ・スヴェルドロフ]]<br /> | after = [[アンドレイ・ジダーノフ]]<br /> | afternote = ロシア最高会議幹部会議長<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{SSR}}[[ソビエト連邦中央執行委員会|中央執行委員会幹部会議長]]<br /> | years = 初代︰[[1922年]] - [[1938年]]<br /> | before = 連邦の結成<br /> | after = {{仮リンク|ソビエト連邦最高会議幹部会|en|Presidium of the Supreme Soviet|ru|Президиум Верховного Совета СССР|label=最高会議幹部会}}に改組<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{SSR}}[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]<br /> | years = 初代︰[[1938年]] - [[1946年]]<br /> | before = 創設<br /> | after = [[ニコライ・シュヴェルニク]]<br /> }}<br /> {{end box}}<br /> {{DEFAULTSORT:かりいにん みはいる}}<br /> [[Category:ソビエト連邦中央執行委員会議長]]<br /> [[Category:ソビエト連邦共産党中央委員会政治局の人物]]<br /> [[Category:全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会組織局の人物]]<br /> [[Category:第2回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br /> [[Category:全ロシア中央執行委員会議長]]<br /> [[Category:バシキール自治ソビエト社会主義共和国最高会議の代議員]]<br /> [[Category:カレリア自治ソビエト社会主義共和国最高会議の代議員]]<br /> [[Category:第二次世界大戦期の政治家]]<br /> [[Category:社会主義労働英雄]]<br /> [[Category:レーニン勲章受章者]]<br /> [[Category:赤旗勲章受章者]]<br /> [[Category:オールド・ボリシェヴィキ]]<br /> [[Category:トヴェリ県出身の人物]]<br /> [[Category:1875年生]]<br /> [[Category:1946年没]]</div> 42.145.121.253 クラウディオス・プトレマイオス 2018-05-09T13:31:58Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>[[ファイル:PSM V78 D326 Ptolemy.png|thumb|[[1584年]]に[[パリ]]で出版された&#039;&#039;Vrais portraits et vies des hommes illustrés&#039;&#039;に描かれたプトレマイオスの想像画。{{仮リンク|アンドレ・テヴェ|fr|André_Thevet}}作。]]<br /> &#039;&#039;&#039;クラウディオス・プトレマイオス&#039;&#039;&#039;({{lang-grc|Κλαύδιος Πτολεμαῖος}}, {{lang-la|Claudius Ptolemaeus}}, [[83年]]頃 - [[168年]]頃)は、数学、天文学、占星学、音楽学、光学、地理学、地図製作学など幅広い分野にわたる業績を残した[[古代ローマ]]の学者。[[エジプト]]の[[アレクサンドリア]]で活躍した。『[[アルマゲスト]]』、『[[テトラビブロス]]』、『[[ゲオグラフィア]]』など、古代末期から中世を通して、ユーラシア大陸の西半分のいくつかの文明にて権威とみなされ、また、これらの文明の宇宙観や世界観に大きな影響を与えた学術書の著者である。[[英語|英称]]は&#039;&#039;&#039;トレミー&#039;&#039;&#039; (Ptolemy)。<br /> <br /> ==出自==<br /> [[ファイル:Ptolemy urania.jpg|thumb|天文学のミューズに導かれ王冠をかぶった姿で描かれたプトレマイオス。{{仮リンク|グレゴール・ライシュ|de|Gregor Reisch}}による&#039;&#039;Margarita Philosophica&#039;&#039;(1508)の挿画。{{仮リンク|アブー=マアシャル・アル=バルヒー|en|Abu Ma&#039;shar al-Balkhi}}のようにプトレマイオスが[[アレクサンドロス3世|アレクサンダー大王]]の[[ヘタイロイ]]の一人でエジプトの王になった[[プトレマイオス1世|プトレマイオス]]と同族であると考えた例もあるが、本図の「プトレマイオス王」は自然科学の領域でプトレマイオスが上り詰めた地位を称賛しての呼称であると一般的に考えられている。]]<br /> 出自は現在になっても解明されていない。中世のアラビア語の文献では、エジプト南部に出自を持つ&lt;ref name=Bernal&gt;Martin Bernal (1992). &quot;Animadversions on the Origins of Western Science&quot;, &#039;&#039;Isis&#039;&#039; &#039;&#039;&#039;83&#039;&#039;&#039; (4), p. 596–607 [602, 606].&lt;/ref&gt;、[[上エジプト]]の出身者であるとされていた&lt;ref&gt;J. F. Weidler (1741). &#039;&#039;Historia astronomiae&#039;&#039;, p. 177. Wittenberg: Gottlieb. (cf. Martin Bernal (1992). &quot;Animadversions on the Origins of Western Science&quot;, &#039;&#039;Isis&#039;&#039; &#039;&#039;&#039;83&#039;&#039;&#039; (4), p. 596–607 [606].)&lt;/ref&gt;。また、中世イスラーム世界の天文学者、地理学者、物理学者がプトレマイオスに言及するときは「バトライムース({{lang-ar|بطليموس}})の名で呼ぶことが多い&lt;ref&gt;{{Cite book|contribution=The Birth of Scientific Controversies, The Dynamics of the Arabic Tradition and Its Impact on the Development of Science: Ibn al-Haytham’s Challenge of Ptolemy’s Almagest|volume=11|title=The Unity of Science in the Arabic Tradition|publisher=Springer Netherlands|date=2008|isbn=978-1-4020-8404-1|pages=183–225 [183]|doi=10.1007/978-1-4020-8405-8|editor=Shahid Rahman|editor2=Tony Street|editor3=Hassan Tahiri}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかしながら、名前からいくつか類推できることがある。まず、[[プトレマイオス]]({{polytonic|Πτολεμαῖος}})はギリシア神話に由来する[[ギリシャ人]]の名である&lt;ref&gt;[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0073%3Aentry%3D*ptolemai%3Dos {{lang|grc|Πτολεμαῖος}}], Georg Autenrieth, &#039;&#039;A Homeric Dictionary&#039;&#039;, on Perseus&lt;/ref&gt;。この名は、[[古代マケドニア]]の上流階級に一般的な名前で、例えば、[[アレクサンダー大王]]の[[ヘタイロイ]]の一人、エジプトの[[プトレマイオス1世|プトレマイオス王朝の始祖]]の名前がそうである。また、彼を継いだ同王朝の歴代の王が名乗った名でもある。<br /> <br /> [[9世紀]]ペルシア文化圏の天文学者{{仮リンク|アブー=マアシャル・アル=バルヒー|en|Abu Ma&#039;shar al-Balkhi}}が、プトレマイオスがエジプトの王室の血を引いているかもしれないと書いているが、これはおそらく名前の類似以外の根拠はないであろう。アブー・マアシャルが書いたところによると「アレクサンダー大王に率いられた10人のエジプト王たちは賢く、その中の一人に『アルマゲスト』を著した賢王プトレマイオスがいる」とあり、「『占星学の書』を著した別の王室の一人が同書を(賢王プトレマイオスの)作ということにした」とある。しかしながら、この記述に続けて「『占星学の書』を著した学識の高いお方が『アルマゲスト』もお書きになったと言われているが、本当のところはわからない」と注釈を付けており、王家の一族説が混同の結果であることをうかがわせるものである&lt;ref&gt;Abu Ma’shar, &#039;&#039;De magnis coniunctionibus&#039;&#039;, ed.-transl. K. Yamamoto, Ch. Burnett, Leiden, 2000, 2 vols. (Arabic &amp; Latin text); 4.1.4.&lt;/ref&gt;。現代の研究者はアブー・マアシャルの記述が誤りであるとする{{sfn|Jones|2010|p=68|ps=‘Ptolemy’s Doctrine of the Terms and Its Reception’ by Stephan Heilen}}。『アルマゲスト』の著者の天文学者が、天文学の占星術的な片割れとして『テトラビブロス』 を書いたであろうことはもはや疑う余地がない&lt;ref&gt;[[#Robbins_Tet|Robbins, &#039;&#039;Ptolemy Tetrabiblos&#039;&#039;]] ‘Introduction’; p. x.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> クラウディオス([[クラウディウス氏族|クラウディウス]]、Claudius)は[[ローマ人]]の一般的な[[ノーメン]](氏族名)の一つであり、[[プトレマイオス]]({{polytonic|Πτολεμαῖος}})は[[ギリシャ人]]の名である。このため、クラウディオス・プトレマイオスは、[[ローマ市民権]]が与えられたギリシャ人と考えられる。つまり、クラウディオス・プトレマイオスという名は、ギリシャ人としての本来の名であるプトレマイオスを[[コグノーメン]]として、市民権とともにクラウディオスというノーメンを与えられたローマ人としての名である。したがって、ギリシア人としては、&#039;&#039;&#039;アレクサンドリアのプトレマイオス&#039;&#039;&#039;({{polytonic|Πτολεμαῖος ὁ Ἀλεξανδρεύς}})と呼ぶべきであるが、一般的ではない。一方、ローマ人としては、ほかに[[プラエノーメン]]を持っていたはずであるが、これは不明である。ただ、クラウディオスというノーメンはローマ皇帝[[クラウディウス]]によって与えられた可能性が高く、[[ティベリウス (個人名)|ティベリウス]](Tiberius)というプラエノーメンがともに与えられていたと思われる。すなわち、彼のローマ人としての本名は&#039;&#039;&#039;ティベリウス・クラウディウス・プトレマエウス&#039;&#039;&#039;(Tiberius Claudius Ptolemaeus)であった可能性が指摘されている。<br /> <br /> 以上のことから、多くの研究者は、プトレマイオスがヘレニズムの影響を強く受けたエジプト人であるという旧来の説に留意しつつ&lt;ref name=&quot;Katz 184&quot;&gt;Victor J. Katz (1998). &#039;&#039;A History of Mathematics: An Introduction&#039;&#039;, p. 184. Addison Wesley, ISBN 0-321-01618-1.<br /> &lt;/ref&gt;&lt;ref name=Sarton&gt;[[George Sarton]] (1936). &quot;The Unity and Diversity of the Mediterranean World&quot;, &#039;&#039;Osiris&#039;&#039; &#039;&#039;&#039;2&#039;&#039;&#039;, p. 406–463 [429].&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[J.H. Parry|John Horace Parry]] (1981). &#039;&#039;The Age of Reconnaissance&#039;&#039;, p. 10. [[University of California Press]]. ISBN 0-520-04235-2.&lt;/ref&gt;、民族的には、ローマ市民権を有したギリシア人であったと結論付けている&lt;ref&gt;[http://www.britannica.com/ebc/article-9376085 Britannica.com &#039;&#039;Encyclopaedia Britannica&#039;&#039; 2007, &quot;Claudius Ptolemaeus&quot;]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Katz 184&quot;/&gt;&lt;ref&gt;&quot;Ptolemy.&quot; Britannica Concise Encyclopedia. Encyclopædia Britannica, Inc., 2006. Answers.com 20 Jul. 2008.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==主な業績==<br /> [[ファイル:Cellarius ptolemaic system.jpg|280px|left|thumb|天動説にもとづく天球図]]<br /> 主著『[[アルマゲスト]]』で、[[地球]]が[[宇宙]]の中心にあり、[[太陽]]やその他の[[惑星]]が地球の周りを回るという[[天動説]]を唱えた。ただし、天動説などはプトレマイオスが初めて唱えたわけではなく、『[[アルマゲスト]]』の内容は、[[アリストテレス]]や[[ヒッパルコス]]など、それ以前の[[古代ギリシア]]の天文学の集大成である。[[幾何学]]における[[エウクレイデス]]の『[[ユークリッド原論|原論]]』のように、『[[アルマゲスト]]』はそれまでの天文学を数学的に体系付け、実用的な計算法を整理したことで、何世紀もの間天文学の標準的な教科書としての地位を得た。この中で、当時火星などの[[惑星]]で見られた[[順行・逆行|逆行]]を星が「周転円」という小さな円を描きながら地球の周りを回転することによって起こると説明し、これによって天動説の地位を守った。[[天体観測]]の方法や[[天体]]の[[軌道 (力学)|軌道]]計算、太陽までの距離やその大きさといったあらゆる知識をひとつにまとめたことが天文学におけるプトレマイオスの業績である。<br /> <br /> なお、『[[アルマゲスト]]』の本来の書名は[[ギリシャ語]]で『{{polytonic|Μαθηματικὴ Σύνταξις}}』(Mathematike Syntaxis、Mathematical Treatise、数学全書)である。通称として『{{polytonic|Ἡ Μεγάλη Σύνταξις}}』(He Megale Syntaxis、The Great Treatise、大全書)が用いられており、[[アラビア語]]に翻訳された際に付いた[[定冠詞]]Alが、ラテン語に再翻訳されたときにもそのまま残り、Syntaxis(Treatise)が省略されて『Almagest』(The-greatest、最大)になった。このことからもわかるように、『[[アルマゲスト]]』は当時は数学書として扱われており、[[球面幾何学]]など最先端の数学的な内容を含んでいた。<br /> <br /> ほかに、現伝していないが[[平行線公準]]に関する著書もあったと推定されている。[[エウクレイデス]]の『[[ユークリッド原論|原論]]』の第1巻に[[プロクロス]]が付けた注釈の中にプトレマイオスの著書に対する言及があることがその根拠である。{{sfn|『ギリシア数学史』|1998|p=337}}<br /> <br /> なお、プトレマイオスは著作を古代ギリシア語で著しており、{{仮リンク|古代バビロニアの天文現象の記録|en|Babylonian astronomical diaries}}に依拠した可能性がある&lt;ref&gt;Asger Aaboe, &#039;&#039;Episodes from the Early History of Astronomy&#039;&#039;, New York: Springer, 2001, pp. 62–65.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Alexander Jones, &quot;The Adaptation of Babylonian Methods in Greek Numerical Astronomy,&quot; in &#039;&#039;The Scientific Enterprise in Antiquity and the Middle Ages&#039;&#039;, p. 99.&lt;/ref&gt;。19世紀になり、プトレマイオスの観測結果を再調査した天文学者らは、結果の中にある誤差を発見。古代天文学と比べても観測地点や観測時間が間違っているなどミスの多いものだった。カルフォルニア大学サンディエゴ校の天文学者[[デニス・ローリンズ]]([[:en:Dennis Rawlins]])は、プトレマイオスが行ったとされる天体観測は、プトレマイオス観測以前のロードス島、古代ギリシア天文学者[[ヒッパルコス]](BC190年?-BC120年?)の観測を丸ごと盗用したものであると指摘している。<br /> <br /> [[ファイル:PtolemyWorldMap.jpg|250px|right|thumb|プトレマイオスの地図(150年ころ)、15世紀の複製品]]<br /> <br /> 著書『{{仮リンク|地理学 (プトレマイオス)|en|Geography (Ptolemy)|label=ゲオグラフィア}}』(Geographia、地理学)に収められている地図は、世界で初めて[[経線|経]][[緯線]]を用いた物であり、古代の人々の地理に関する知識を集成したものである。しかしながら天文観測等のデータがあまり正確な物ではなく、地球の[[周長]]を実際の7割ほどの大きさと計算している。この地図は、約1,000年後の[[大航海時代]]にも影響を及ぼし、[[クリストファー・コロンブス]]は「東よりも西方に航海したほうがアジアへは近道である」と考えてアメリカ大陸を発見する事になる。<br /> <br /> ===占星術分野===<br /> プトレマイオスの著書『[[テトラビブロス]]』(Tetrabiblos、四つの書)は、西洋[[占星術]]の古典として知られている。本書がもたらした権威故にプトレマイオスはルネサンス期ヨーロッパの占星術師・学者から「最も神聖なるプトレマイオス」と呼ばれることとなった。<br /> <br /> 『テトラビブロス』の原題は「影響」である。プトレマイオスは、本書を通して、常に変化する星々の位置が世界にもたらす「影響」について説明([[ロゴス]])を与えることを意図した{{sfn|テスター|1997|pp=77-78}}。星々の位置は、地球、太陽、月、惑星、星辰の運動により常に変化する。この運動については前著『アルマゲスト』において、数学を道具として用いて論じた。これに対して、星々の位置の影響について論じる『テトラビブロス』においては、哲学を道具として用いて論じた{{sfn|テスター|1997|pp=77-78}}。このように『アルマゲスト』を第一部とした場合、『テトラビブロス』は第二部に相当する{{sfn|テスター|1997|pp=77-78}}。<br /> <br /> ===楽理分野===<br /> 音楽については、[[音程]]を二つの音の数比で表す[[ピタゴラス|ピュタゴラス]]派の方法論を批判的に継承した。定性的な方法を示した古典期のアリストクセノスの『ハルモニア原論』を新ピュタゴラス派(ピュタゴラス派の伝統は紀元前4世紀の末に一度途切れている)の立場から痛烈に批判し、独自の見解を提起したハルモニア論(全三巻)を著した。<br /> <br /> [[ファイル:Sanzio 01 Zoroaster Ptolmey.jpg|thumb|[[ラファエロ]]画「[[アテナイの学堂]]」の一部。[[天球儀]]を手にする[[ヒッパルコス]]と[[西洋の冠|王冠]]をかぶり[[地球儀]]を手にするプトレマイオス。]]<br /> 『ハルモニア論』第1巻冒頭では、ハルモニアの判別者について述べている{{sfn|ハルモニア論|2008|loc=I.I}}。判別者は[[質料]]としての聴覚と[[形相]]としての理性の二者であるとして、聴覚と理性によりハルモニアが調和であることが判別可能となる{{sfn|ハルモニア論|2008|loc=I.I}}。その上で調和音程をどのように定めるかというピュタゴラス以後、古代ギリシア世界で考えられてきた問題を論じる{{sfn|山本|2008|pp=308-326}}。ピュタゴラス及びその教団は、[[万物の根源]]は数であると考え、特に総和が10となる1,2,3,4の4つの数({{仮リンク|テトラクテュス|en|Tetractys}})を神聖視し{{sfn|ファーガソン|2011|p=149}}、[[楽音]]の[[音律]]もこのテトラクテュスに基づく数比により設定した([[ピュタゴラス音律]]){{sfn|山本|2008|pp=300-302}}。これに対し、古代ギリシア思想の古典期に登場した[[アリストクセノス]]は、最初はピュタゴラス派の教説に学んだものの飽き足らず、[[アリストテレス]]の学説を学んだ人物であるが{{sfn|山本|2008|pp=300-302}}、[[完全四度]]の音程の間に設定する2つの楽音を定めるにあたって{{efn|この問題は「[[テトラコルド]]の分割」と呼ばれ、[[キタラー]]という四弦琴の内側の二弦を調律する際に重要な問題であった{{sfn|ファーガソン|2011|p=149}}。}}、[[完全四度]]の音程が[[完全五度]]と[[完全四度]]の音程の差を単位音程(トノス)として、単位音程二個半であるとした{{sfn|山本|2008|pp=302-303}}。つまり数比を徹底的に用いる方法によらず、聴覚に従った定性的な方法を示した。プトレマイオスの時代から見て500年前の説であるが、『ハルモニア論』によると徐々に紀元2世紀頃のアレクサンドリアの若い世代に広まっていたとされる{{sfn|ハルモニア論|2008|loc=I.X}}。これに対してプトレマイオスは、[[アルキュタス]]や{{仮リンク|ディデュモス|en|Didymos}}ら、ピュタゴラス派の先人の説を批判的に継承しつつ数比を用いた音律を示し、これが聴覚にも調和として判別されることを説いてアリストクセノス派に反論した。<br /> <br /> 『ハルモニア論』第2巻では主に第1巻の論証で得られた音律に基づく旋法について述べられている{{sfn|山本|2008|pp=344-345}}。続く第3巻後半で、プトレマイオスは、死すべきものども、その中でもとりわけ人間が判別するハルモニアを論じることから離れて、完全なる調和の世界である天上の世界で奏でられている調和の音楽({{仮リンク|宇宙の諧調|en|Musica universalis}})を解き明かそうとする{{sfn|ハルモニア論|2008|loc=III.XI-XVI}}。しかしながら、現伝する筆写本は中途半端なところで切れており、これについてはテキストが散佚したと見る説と、未完成であると見る説とがある{{sfn|山本|2008|pp=344-345}}。また、そもそも第3巻後半部自体が偽作であるという説もある{{sfn|ファーガソン|2011|pp=262-267}}{{sfn|山本|2008|pp=287-289}}。当該箇所は3、4世紀には早くも一度散佚しており、[[14世紀]]に[[ビザンチン]]の学者{{仮リンク|ニケフォロス・グレゴラス|en|Nicephorus Gregoras}}が再発見して補填したとされる{{sfn|ファーガソン|2011|pp=262-267}}{{sfn|山本|2008|pp=287-289}}。真作説をとる場合、この部分の筆致の確信に満ちた様子から、『ハルモニア論』が『アルマゲスト』や『テトラビブロス』を書き上げた後の最晩年の作であるという見方もある{{sfn|山本|2008|pp=344-345}}。<br /> <br /> 『ハルモニア論』は、執筆後1500年近く経って[[ヨハネス・ケプラー]]が読んだことによって、思いがけなく[[科学史]]に影響を及ぼすこととなった{{sfn|ファーガソン|2011|pp=262-267}}{{sfn|テスター|1997|p=314}}。ケプラーはプトレマイオスが{{仮リンク|宇宙の諧調|en|Musica universalis}}を解き明かしていると考えられる第3巻の散佚した章の復元を試みるうちに、数々の重要な発見へと至る道を見つけた{{sfn|ファーガソン|2011|pp=262-267}}。<br /> <br /> ===光学分野===<br /> [[ファイル:Ptolemy 16century.jpg|thumb|「占星学者、アレクサンドリアのクラウディオス・プトレマイオス」と題された16世紀の想像画]]<br /> プトレマイオスの著書『光学』は、質のよくないアラビア語への翻訳と、そのアラビア語訳版からラテン語へ翻訳した写本、20冊のみが伝わるのみである。アラビア語からラテン語への翻訳は{{仮リンク|パレルモのエウゲニウス|en|Eugene of Palermo}}により1154年頃になされた。『光学』の中でプトレマイオスは、光の性質として、反射・屈折・色彩があると書いている。プトレマイオスの研究は、光について古代になされた研究においては重要で{{sfn|Smith|1996}}、名高い[[イブン・ハイサム]]の光学理論に影響を与えている。『光学』には、空気から水に入射する光の屈折率に関する最古の表が載っている。この表に記載された数値は、かつては実験により得られた数値だとして称揚されてきたものであるが、じっさいには、(入射角60°の場合の数値を除いて)計算方法の進歩によりもたらされたもののようである{{sfn|Boyer|1959}}。<br /> <br /> 『光学』は、知覚(又は認識論)に関する最初期の研究史においても重要である。プトレマイオスは、数学、哲学、物理学において先人が積み上げてきた知見を組み合わせた。プトレマイオスは物の見え方について「出射-入射({{lang-en|extramission-intromission}})」理論をとった。これは眼の内部を頂点として円錐状に広がる光線が眼から出射しており、円錐の底面までが物の見える範囲であるとするものである。光線は感度がよく、対象物との距離及び方向を見ている者の知性に伝える。対象物の大きさと形は、眼において、対象物に対する視角と、伝えられた距離及び方向とが組み合わされることによって、捉えられるようになる。この理論は、対象物との距離の遠近によって物の形は変わらないが知覚される見かけの大きさが変わるという現象を説明する理論であって、対象物の絶対的な大きさが変わってしまうのではないとする主張の一つである。この主張は、[[ストア派]]により支持されていた{{sfn|Ross|Plug|1998}}。<br /> <br /> プトレマイオスは、照度、色彩、大きさ、形、動き、両眼視に関する多くの現象に対して説明を加えている。また、錯視についても物理学的又は光学的な要因によるものと、認識論的な要因によるものとに分けて考えた。太陽や月が地平線近くにあると見かけの大きさが大きく見えるという錯視現象については、空を見上げるのが難しいという原因によるものであるという、よくわからない説明をしている{{sfn|Ross|Ross|1976|pp=377-395}}{{sfn|Sabra|1987|pp=217-247}}。<br /> <br /> ==脚注==<br /> [[File:Ptolemaeus - Quadripartitum, 1622 - 4658973.tif|thumb|&#039;&#039;Quadripartitum&#039;&#039;, 1622]]<br /> ===注釈===<br /> {{notelist}}<br /> ===出典===<br /> {{reflist}}<br /> <br /> ==参考文献==<br /> ===著作の日本語訳===<br /> *アルマゲスト [[藪内清]]訳.恒星社厚生閣,1958 <br /> *プトレマイオス世界図 大航海時代への序章.岩波書店,1978.3.<br /> *宇宙誌 日本語版監修 [[下村寅太郎]]ほか 岩波書店,1984.2.<br /> *プトレマイオス地理学 [[中務哲郎]]訳.東海大学出版会,1986.5. <br /> *ハルモニア論<br /> **{{cite book |和書<br /> |title=古代音楽論集<br /> |translator=[[山本建郎]]<br /> |publisher=[[京都大学学術出版会]]<br /> |date=2008-05-15<br /> |series=[[西洋古典叢書]]<br /> |ISBN=978-4-87698-175-5<br /> |ref=harv<br /> }}<br /> ===二次資料===<br /> *{{cite book<br /> |first=Carl Benjamin<br /> |last=Boyer<br /> |title=The Rainbow: From Myth to Mathematics<br /> |year=1959<br /> |ref=harv<br /> }}<br /> *{{cite book<br /> |editor-last=Jones<br /> |editor-first=Alexander<br /> |year=2010<br /> |title=Ptolemy in Perspective: Use and Criticism of his Work from Antiquity to the Nineteenth Century<br /> |publisher=New York: Series: Archimedes<br /> |volume=23<br /> |ISBN=978-90-481-2787-0<br /> |ref=harv<br /> }}<br /> *{{cite book<br /> |last=Smith<br /> |first=A. Mark<br /> |date=1996<br /> |url=http://books.google.com/?id=mhLVHR5QAQkC&amp;pg=PP1&amp;dq=ptolemy+theory+of+visual+perception<br /> |title=Ptolemy&#039;s Theory of Visual Perception– An English translation of the Optics<br /> |publisher=The American Philosophical Society<br /> |isbn=0-87169-862-5<br /> |accessdate=27 June 2009<br /> |ref=harv<br /> }}<br /> *{{cite journal<br /> |last=Ross<br /> |first=H. W.<br /> |last2=Plug<br /> |first2=C.<br /> |title=The History of Size Constancy and Size Illusions<br /> |editor=V. Walsh<br /> |editor2=J. Kulikowski<br /> |journal=Perceptual Constancy: Why Things Look as They Do<br /> |location=Cambridge<br /> |publisher=Cambridge University Press<br /> |year=1998<br /> |pages=499–528<br /> |ref=harv<br /> }}<br /> *{{cite journal<br /> |first=H. E.<br /> |last=Ross<br /> |first2=G. M.<br /> |last2=Ross<br /> |title=Did Ptolemy Understand the Moon Illusion?<br /> |journal=Perception<br /> |volume=5<br /> |year=1976<br /> |pages=377–395<br /> |ref=harv<br /> }}<br /> *{{cite journal<br /> |first=A. I.<br /> |last=Sabra<br /> |title=Psychology Versus Mathematics: Ptolemy and Alhazen on the Moon Illusion<br /> |editor=E. Grant<br /> |editor2=J. E. Murdoch<br /> |journal=Mathematics and Its Application to Science and Natural Philosophy in the Middle Ages<br /> |location=Cambridge<br /> |publisher=Cambridge University Press<br /> |year=1987<br /> |pages=217–247<br /> |ref=harv<br /> }}<br /> *{{cite book |和書<br /> |title=西洋占星術の歴史<br /> |author=S. J. テスター<br /> |translator=山本啓二<br /> |publisher=[[恒星社厚生閣]]<br /> |date=1997-02-15<br /> |ISBN=4-7699-0836-9<br /> |ref=harv<br /> }}<br /> *{{cite book |和書<br /> |title=ギリシア数学史<br /> |author=T. L. ヒース<br /> |translator=[[平田寛]]他<br /> |publisher=[[共立出版]]<br /> |date=1998-05-12<br /> |origdate-1959-11-01<br /> |isbn=4-320-01588-6<br /> |ref=harv<br /> }}<br /> *{{cite book |和書<br /> |title=ピュタゴラスの音楽<br /> |author=キティ・ファーガソン<br /> |translator=柴田裕之<br /> |publisher=[[白水社]]<br /> |date=2011-09-20<br /> |ISBN=978-4-560-08163-1<br /> |ref=harv<br /> }}<br /> == 関連項目 ==<br /> {{commons|Κλαύδιος Πτολεμαῖος|プトレマイオス}}<br /> *[[地図学]]<br /> *[[地理学の歴史]]<br /> *[[天球儀]]<br /> *[[トレミーの48星座]]<br /> *[[トレミーの定理]](彼の名前にちなんで命名された幾何学の定理)<br /> <br /> {{normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ふとれまいおす くらうていおす}}<br /> [[Category:1世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:2世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:エジプトの天文学者]]<br /> [[Category:古代ギリシアの数学者]]<br /> [[Category:1世紀から10世紀の数学者|0830000]]<br /> [[Category:古代ギリシアの地理学者]]<br /> [[Category:エジプトの占星術師]]<br /> [[Category:エジプト史の人物]]<br /> [[Category:1世紀から5世紀の学者]]<br /> [[Category:音楽の哲学]]<br /> [[Category:数学に関する記事]]<br /> [[Category:天文学に関する記事]]</div> 42.145.121.253 ライプツィヒ 2018-05-08T13:02:33Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{otheruses}}<br /> {{世界の市<br /> |正式名称 = ライプツィヒ<br /> |公用語名称 = {{lang|de|Leipzig}}<br /> |愛称 = <br /> |標語 = <br /> |画像 = Leipzig Fockeberg Zentrum.jpg<br /> |画像サイズ指定 = <br /> |画像の見出し = <br /> |市旗 = Flag of Leipzig.svg<br /> |市章 = Coat of arms of Leipzig.svg<br /> |位置図 = Lage der kreisfreien Stadt Leipzig in Deutschland.png<br /> |位置図サイズ指定 = 170px<br /> |位置図の見出し = <br /> |位置図B = <br /> |位置図2 = <br /> |位置図サイズ指定2 = <br /> |位置図の見出し2 = <br /> |位置図2B = <br /> |緯度度 = 51|緯度分 = 20|緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) = N<br /> |経度度 = 12|経度分 = 23|経度秒 = |E(東経)及びW(西経) = E<br /> |成立区分 = 初めて記録に登場<br /> |成立日 = [[1015年]]<br /> |成立区分1 = <br /> |成立日1 = <br /> |成立区分2 = <br /> |成立日2 = <br /> |旧名 = <br /> |創設者 = <br /> |下位区分名 = {{DEU}}<br /> |下位区分種類1 = [[ドイツの州|州]]<br /> |下位区分名1 = [[File:Flag of Saxony.svg|border|25px]] [[ザクセン州]]<br /> |下位区分種類2 = [[ドイツの地方行政区分|郡]]<br /> |下位区分名2 = [[ドイツの市町村一覧|郡独立市]]<br /> |下位区分種類3 = <br /> |下位区分名3 = <br /> |下位区分種類4 = <br /> |下位区分名4 = <br /> |規模 = &lt;!--必須--&gt;<br /> |最高行政執行者称号 = 上級市長<br /> |最高行政執行者名 = ブルクハルト・ユング<br /> |最高行政執行者所属党派 = [[ドイツ社会民主党|SPD]]<br /> |総面積(平方キロ) = 297.36<br /> |総面積(平方マイル) = <br /> |陸上面積(平方キロ) = <br /> |陸上面積(平方マイル) = <br /> |水面面積(平方キロ) = <br /> |水面面積(平方マイル) = <br /> |水面面積比率 = <br /> |市街地面積(平方キロ) = <br /> |市街地面積(平方マイル) = <br /> |都市圏面積(平方キロ) = <br /> |都市圏面積(平方マイル) = <br /> |標高(メートル) = 113<br /> |標高(フィート) = <br /> |人口の時点 = 2016年12月31日<br /> |人口に関する備考 = <br /> |総人口 = 1,572,308<br /> |人口密度(平方キロ当たり) = <br /> |人口密度(平方マイル当たり) = <br /> |市街地人口 = 571,088<br /> |市街地人口密度(平方キロ) = 1,900<br /> |市街地人口密度(平方マイル) = 5,000<br /> |都市圏人口 = 1,001,220<br /> |都市圏人口密度(平方キロ) = <br /> |都市圏人口密度(平方マイル) = <br /> |等時帯 = <br /> |協定世界時との時差 = <br /> |夏時間の等時帯 = <br /> |夏時間の協定世界時との時差 = <br /> |郵便番号の区分 = <br /> |郵便番号 = 04001-04357<br /> |市外局番 = 0341<br /> |ナンバープレート = L<br /> |ISOコード = <br /> |公式ウェブサイト = [http://www.leipzig.de/ www.leipzig.de]<br /> |備考 = <br /> }}<br /> {{Coord|51|20|25.2|N|12|22|29.1|E|display=title}}<br /> &#039;&#039;&#039;ライプツィヒ&#039;&#039;&#039;([[ドイツ語]]: {{Lang|de|{{Audio|Leipzig.ogg|Leipzig}}}})は、[[ザクセン州]]に属する[[ドイツ]]の都市である。人口は約52万1千人([[2012年]][[12月]]現在)、ザクセン州では州都[[ドレスデン]]をやや上回って最大の都市で、旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]地域では[[ベルリン]]に次いで2番目である。日本語では&#039;&#039;&#039;ライプチヒ&#039;&#039;&#039;とも表記される(&#039;&#039;[[#表記|表記]]参照&#039;&#039;)。[[上部ドイツ語|南部ドイツ語]]では&#039;&#039;&#039;ライプツィク&#039;&#039;&#039;と発音されることもある。<br /> <br /> [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]や[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]そして[[ワグナー|ヴァーグナー]]らゆかりのドイツを代表する音楽の街、また[[ベルリンの壁崩壊]]、ひいては[[ドイツ再統一|東西両ドイツの統一]]の端緒となった住民運動の発祥地として知られる。<br /> <br /> == 表記 ==<br /> 日本語表記においては本項で用いる&#039;&#039;&#039;ライプツィヒ&#039;&#039;&#039;のほか、外来語表記の慣用による&#039;&#039;&#039;ライプチヒ&#039;&#039;&#039;とするものも多い。その他、&#039;&#039;&#039;ライプチッヒ&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ライプツィッヒ&#039;&#039;&#039;とするものも見られる。ライプツィヒは[[ドイツ語]]的な発音の地名に聞こえるが、[[ラテン語]]ではリプシア(Lipsia)と呼ばれ、もともとは[[スラブ語]]の[[セイヨウシナノキ]](ドイツ語で[[リンデンバウム]])を意味する言葉から出ていて、[[ロシア]]の[[リペツク]]、[[ラトヴィア]]の[[リエパーヤ]](Liepāja)と[[語源]]を共有している。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> === 地勢 ===<br /> [[ザクセン州]]北西部のライプツィヒ盆地に位置し、約30km北西に[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]、約100km南東に[[ドレスデン]]、約120km北東に首都[[ベルリン]]がある。[[ドイツ中部圏]](Metropolregion Mitteldeutschland)の中央に位置する同圏の中心都市である。&lt;br /&gt;<br /> 市内中心部にはリング(Ring)と呼ばれる環状大通りが一周しており、これに囲まれた部分は中世以来の都心部として特に中心街(Innenstadt)と呼ばれる。リングはかつての市壁(街自体を囲む城壁)の外周を巡っていた遊歩道跡で、近世以降その外側へと市街地が拡大していった。中心街は直径約1kmの円状をなし、その中央にマルクト広場(Marktplatz)が位置する。<br /> <br /> === 気候 ===<br /> 気候は[[大陸性気候]]に属し、年平均気温は約8℃。夏季でも気温が30℃を超えることはまれであるが、1992年には38℃の過去最高気温を記録している。冬の気温の最低記録は1987年の-24.1℃。&lt;ref name=&quot;Klimastat&quot;&gt;[http://www.uni-leipzig.de/~meteo/de/wetterdaten/abs_extrema.php LIM - Klimastatistik - Extremwerte]&lt;/ref&gt;真冬には多くのドイツの地域と同様降雪が見られ、雪に覆われる。氷点下になることがよくあり、2010年の0℃以下記録日数は62日であった。&lt;ref name=&quot;leipzig.de&quot;&gt;http://www.leipzig.de/imperia/md/content/12_statistik-und-wahlen/lz_jb2011.pdf&lt;/ref&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;<br /> <br /> {{Weather box<br /> |location = ライプツィヒ<br /> |metric first = Y<br /> |single line = Y<br /> |Jan high C = 3.2<br /> |Feb high C = 4.1<br /> |Mar high C = 8.7<br /> |Apr high C = 13.0<br /> |May high C = 18.6<br /> |Jun high C = 21.5<br /> |Jul high C = 23.7<br /> |Aug high C = 23.9<br /> |Sep high C = 19.3<br /> |Oct high C = 13.7<br /> |Nov high C = 7.2<br /> |Dec high C = 4.0<br /> |Jan mean C = 0.7<br /> |Feb mean C = 1.1<br /> |Mar mean C = 5.0<br /> |Apr mean C = 8.4<br /> |May mean C = 13.4<br /> |Jun mean C = 16.5<br /> |Jul mean C = 18.5<br /> |Aug mean C = 18.6<br /> |Sep mean C = 14.8<br /> |Oct mean C = 9.9<br /> |Nov mean C = 4.5<br /> |Dec mean C = 1.7<br /> |Jan low C = -1.9<br /> |Feb low C = -2.0<br /> |Mar low C = 1.2<br /> |Apr low C = 3.7<br /> |May low C = 8.1<br /> |Jun low C = 11.4<br /> |Jul low C = 13.3<br /> |Aug low C = 13.3<br /> |Sep low C = 10.2<br /> |Oct low C = 6.0<br /> |Nov low C = 1.8<br /> |Dec low C = -0.7<br /> |rain colour=green<br /> |Jan rain mm = 30.9<br /> |Feb rain mm = 26.7<br /> |Mar rain mm = 36.5<br /> |Apr rain mm = 42.4<br /> |May rain mm = 42.1<br /> |Jun rain mm = 55.1<br /> |Jul rain mm = 58.2<br /> |Aug rain mm = 58.6<br /> |Sep rain mm = 44.5<br /> |Oct rain mm = 35.8<br /> |Nov rain mm = 37.1<br /> |Dec rain mm = 38.9<br /> |unit rain days= 1.0 mm<br /> |Jan rain days= 8.1<br /> |Feb rain days= 6.6<br /> |Mar rain days= 8.0<br /> |Apr rain days= 7.6<br /> |May rain days= 8.5<br /> |Jun rain days= 9.4<br /> |Jul rain days= 8.8<br /> |Aug rain days= 8.1<br /> |Sep rain days= 7.6<br /> |Oct rain days= 7.3<br /> |Nov rain days= 7.9<br /> |Dec rain days= 8.9<br /> |source 1 = World Meteorological Organization.&lt;ref name=&quot;climate&quot;&gt;[http://worldweather.wmo.int/016/c01350.htm Climatological Information for Leipzig], accessed 6 April 2012.&lt;/ref&gt;<br /> |date=April 2012<br /> }}<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[File:Via Imperii und Via Regia.png|thumb|right|230px|2つの通商街道、Via Regia(国王の道)とVia Imperii(帝国の道)]]<br /> [[中世]]7世紀頃、この地を流れる[[白エルスター川|エルスター川]]とパルテ川の合流地点近く(現在の中心街北西の一角)に、[[スラヴ系]][[ソルブ人]]の城砦集落ができたことが街の始まりとされている。これを表す &quot;urbs Libzi&quot;(ウルプス・リプツィ=リプツィ城)という名称は[[1015年]]に初めて史料に現れる(リプツィは[[スラヴ語派|スラヴ語]]で「[[セイヨウボダイジュ|菩提樹]]の地」の意。このため、日本でも稀に菩提樹市と称される場合がある。ちなみに明治時代に日本で用いられた漢字表記は&#039;&#039;&#039;来責府&#039;&#039;&#039;である)。&lt;br /&gt;<br /> <br /> [[File:Altes Rathaus Leipzig 2013.jpg|thumb|left|230px|旧市庁舎 (1557年完成のドイツを代表する[[ルネッサンス建築]]物の一つ)]]<br /> [[東方植民]]に続いてやがてヨーロッパ大陸を縦横に貫く2つの通商街道が形成され、広範囲の交易が盛んになると、ライプツィヒはちょうどその交差点に位置する町として[[神聖ローマ帝国]]有数の[[商都]]へと発展してゆく。王侯貴族や司教の拠点としてではなく商人の町として[[1165年]]には都市権・市場権を獲得し、商人たちの守護聖人である[[聖ニコラウス]]に捧げられた市内最初の教会・[[ニコライ教会]]が創建された。興隆に伴って入植者が増加してゆき、[[1212年]]には[[聖アウグスチノ修道会|アウグスチノ会]]トーマス修道院(現・[[聖トーマス教会|トーマス教会]])とそれに付属するトーマス学校が創設された。[[1409年]]に同修道院内に開学した[[ライプツィヒ大学]]は、現在のドイツ国内で[[ハイデルベルク大学]]に次いで2番目の歴史を持つ&lt;ref&gt;日本の大手旅行ガイドブックに「ハイデルベルク、ケルンに続いてドイツで3番目に古い大学」と長年誤記され続け、修正がなされていないため、それを基にした記述が他サイトやパンフレットなどに散見されるが、1388年創立のケルン大学はナポレオンのドイツ侵攻時に一旦閉鎖されており、1382年創立のエアフルト大学も19世紀に学生数の減少で閉鎖、ヴュルツブルク大学は1402年創立だが運営に行き詰まって、1582年に再編されている。つまり現在のドイツ連邦共和国内で、創立時から現代まで一貫して残っている大学としては、ライプツィヒ大学が2番目に古く、大学閉鎖や再編を加味しないのであれば5番目ということになる。&lt;/ref&gt;。16世紀には[[マルティン・ルター|ルター]]が当地で信仰をめぐる論争を繰り広げ([[ライプツィヒ討論]])、町は後に彼によって[[プロテスタント]]化された。&lt;br /&gt;<br /> [[File:Völkerschlachtdenkmal 20131030 151606.jpg|thumb|230px|諸国民戦争記念碑 (戦闘から100年となる1913年、古戦場中央に建設されたヨーロッパ最大の記念建造物)]]<br /> [[ザクセン選帝侯領]]の都市となった[[近世]]以降のライプツィヒは、[[三十年戦争]]([[ブライテンフェルトの戦い (1631年)|ブライテンフェルトの戦い]]・[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]])の混乱を挟みつつ[[ライプツィヒ・メッセ|メッセ]](&#039;&#039;後述の「[[#見本市|見本市]]」参照&#039;&#039;)の開催地としてヨーロッパ屈指の商都へと成長してゆく。それと共に市民層による各時代の芸術・文化が花開き、18世紀にはドイツ地方初のコーヒー店が登場し、[[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]や[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]が市民の音楽活動を率い、[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団|ゲヴァントハウス管弦楽団]]が創設された。[[1813年]]には[[ナポレオン戦争]]中最大規模の戦いとなった[[ライプツィヒの戦い|諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)]]が行われ、[[ナポレオン1世]]麾下の[[フランス第一帝政|フランス]]軍19万と、[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[ロシア帝国]]・[[オーストリア帝国]]・[[スウェーデン]]の連合軍36万が激突する舞台となった。&lt;br /&gt;<br /> <br /> 戦乱から復興後のライプツィヒは商業と並んで学芸、とりわけ[[西洋音楽]]における中心地として栄華を極める。19世紀のライプツィヒは[[ウィーン]]、[[パリ]]と共にヨーロッパを代表する音楽の都として名を馳せ、この時代に[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]や[[ロベルト・シューマン|シューマン]]らが活躍した。[[工業化]]時代に入ると、ライプツィヒはその強固な経済基盤の下で工業都市として急速に発展し、それと共にドイツにおける社会民主主義運動や婦人運動の重要な拠点となった。[[ドイツ帝国]]・[[ヴァイマル共和国]]有数の大都市として更なる拡大を見せ、[[1931年]]には人口71万9千人を数えた(現在までの最高記録)。&lt;br /&gt;<br /> <br /> 第二次大戦による惨禍の後、ライプツィヒのある中部ドイツは[[ソ連占領地域|ソ連占領区]]となり、1949年にそれが[[ドイツ民主共和国|ドイツ民主共和国(東ドイツ)]]となった。[[社会主義]]化したこの時代にはドレスデン、カール・マルクス・シュタット(現・[[ケムニッツ]])と共に東ドイツの主要工業地域を形成した。メッセは社会主義政権下でも継続され、西側世界との貴重な窓口となった。東ドイツ時代末期の[[1989年]]にはニコライ教会での集会を発端とする「[[月曜デモ]]」と呼ばれる反体制運動が起き、これが東ドイツにおける民主化運動の出発点となった。当地の市民蜂起に始まり、ベルリンの壁崩壊、そして東西ドイツが犠牲者を出すことなく統一された一連の出来事は、現在[[東欧革命]]の一部として「東ドイツ平和革命(Friedliche Revolution)」と呼ばれる。&lt;br /&gt;<br /> <br /> [[File:Panorama Leipzig Richtung Westen von Tower 2013.jpg|right|thumb|600px|東側から見る中心街]]<br /> ドイツ再統一後には街並みの修復や再開発、芸術・文化面の再興などで再び急速な変遷を遂げ、現在のドイツ中部圏を代表する文化・経済都市となっている。[[ポルシェ]]や[[BMW]]の開発を担う新工場の建設や、[[Amazon.com|アマゾン]]や[[ヤマザキマザック]]による拠点開設、そして[[DHL]]のヨーロッパ・ハブの[[ブリュッセル]]から当地への移転といった企業進出に加え、音楽に代表される文化的環境([[#文化|後述]])を生かした[[文化産業|文化]]・[[創造産業]]も盛んである。&lt;br /&gt;<br /> <br /> [[2015年]]には史料初出から1000年目を迎え、千年史記念祭の開催が予定されている。<br /> <br /> == 交通 ==<br /> === 鉄道 ===<br /> ヨーロッパ最大の頭端式駅である[[ライプツィヒ中央駅]]があり、ドイツ中部圏における鉄道交通の要所である。同駅には一日700以上の列車が発着しており、[[ICE]]・[[レギオナルエクスプレス|RE]]・[[Sバーン]]などが利用できる。[[ベルリン]]、[[フランクフルト]]([[フランクフルト中央駅|中央駅]]および[[フランクフルト空港駅|空港長距離列車駅]])、[[ミュンヘン]]といった国内の各主要都市に乗り換えなしで行くことが可能。特に首都ベルリンとは毎時間運行のICEで約1時間15分で連絡している。中央駅から中心街の地下を通って市街南部へと抜ける「シティー・トンネル(City-Tunnel Leipzig)」が[[2013年]]12月に開通、中心街直下に地下駅が開業。&lt;br /&gt;<br /> <br /> ライプツィヒ交通公団(Leipziger Verkehrsbetriebe GmbH)の運営する都市交通も充実しており、市内を多くの路面電車やバスが走っている。<br /> <br /> === 空路 ===<br /> [[ライプツィヒ・ハレ空港]](Flughafen Leipzig/Halle)が市内中心部より北西約15kmの所にある。空港はハレとライプツィヒの間にあり、貨物ターミナルにはDHLのヨーロッパ・ハブが置かれている。旅客ターミナルは鉄道駅と直結しており、市街とはSバーンや[[インターシティ (ドイツ)|IC]]、バスで結ばれている。上述のシティー・トンネル開通後は空港駅から中央駅・マルクト駅(マルクト広場直下)といった中心街各駅まで乗り換えなしでアクセス可能となった。<br /> <br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Die bahn hauptbahnhof leipzig 001.jpg|ライプツィヒ中央駅<br /> ファイル:Citytunnel lpz.png|シティー・トンネルのルート図<br /> ファイル:City-Tunnel Zugang Grimmaische Straße.jpg|旧市庁舎とマルクト駅南口(1925年完成の地下見本市ホールの入口部分を転用したもの)<br /> ファイル:12-06-30-leipzig-by-ralfr-12.jpg|中央駅前に停車中の路面電車<br /> ファイル:Leipzig-Halle Airport Condor.jpg|ライプツィヒ・ハレ空港(誘導路と[[アウトバーン|高速道路]]が立体交差した珍しい構造)<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 文化 ==<br /> 多彩な文化が栄えてきたライプツィヒは特に音楽の街として知られ、市街各地に音楽ゆかりの場所がある。芸術的環境やドイツで2番目に古い大学を有する都市として歴史上の様々な著名人がこの地へと集まった。また世界で初めて日刊紙発行、見本市開催がなされた都市であるほか、ドイツ有数のスポーツの街としての一面も持つ。<br /> <br /> === 音楽 ===<br /> [[ファイル:聖トーマス教会.JPG|thumb|230px|[[聖トーマス教会|トーマス教会]]]]<br /> <br /> ====トーマス教会少年合唱団====<br /> [[トーマス教会少年合唱団]](Thomanerchor)はトーマス修道院・トーマス学校と共に1212年に創設された市内最古の音楽団体で、その歴史を通しトーマス教会と市の中央教会であるニコライ教会を演奏の場としてきた。その指導者であり、市の音楽活動を統轄する立場にあった[[トーマスカントル|トーマス教会音楽監督(トーマスカントル)]]は近世以来ドレスデンの[[ドレスデン聖十字架合唱団|聖十字架教会]]と並んでドイツ・プロテスタント圏の[[教会音楽]]をリードしてきた。歴代のトーマスカントルの中では[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]](任期:1723~50年)が最も著名で、ここで『[[ヨハネ受難曲]]』『[[マタイ受難曲]]』『[[クリスマス・オラトリオ]]』といった代表的作品が創作・初演された。合唱団は現在でも毎週トーマス教会の礼拝に出演し、800年にわたる合唱の伝統が守られている。<br /> [[ファイル:Leipzig Gewandhaus 20070222.jpg|thumb|230px|[[ゲヴァントハウス|ゲヴァントハウス・コンサートホール]]]]<br /> <br /> ====ゲヴァントハウス管弦楽団====<br /> [[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]は、18世紀に市民の音楽文化が栄えるなか、市民階級による自主経営団体として[[1743年]]に発足した世界初の民間オーケストラである。[[フェリックス・メンデルスゾーン|フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ]]や[[アルトゥル・ニキシュ]]、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]、[[ブルーノ・ワルター]]、[[フランツ・コンヴィチュニー]]といった著名音楽家が[[楽長]](首席指揮者)を務めた。 [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]『[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲《皇帝》]]』、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]『[[交響曲第8番 (シューベルト)|交響曲《ザ・グレート》]]』、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]『[[交響曲第1番 (シューマン)|交響曲《春》]]』、メンデルスゾーン『[[ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン) |ヴァイオリン協奏曲]]』、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]『[[ドイツ・レクイエム]](全曲)』『[[ヴァイオリン協奏曲 (ブラームス)|ヴァイオリン協奏曲]]』などの初演を行なったことでも知られる。同団は通常のオーケストラの倍の人数を持ち、ローテーションで[[ライプツィヒ歌劇場]]のピットにも入るほか、トーマス教会では毎週トーマス教会少年合唱団の[[カンタータ]]を伴奏する。[[1809年]]結成のゲヴァントハウス弦楽四重奏団(世界最古の弦楽四重奏団)も著名。人口10数万の小都市でもカンパニーが完備したオペラハウスを持つことが多いドイツ圏において、50万の人口を擁しながら専属オーケストラを持たない[[ライプツィヒ歌劇場]]は極めて異色の存在であるが、上記のようにゲヴァントハウス管弦楽団の多人数ローテーションで支えられているため、常設歌劇場としての運営に支障がない。<br /> <br /> 他に当地に本拠を置く[[MDR交響楽団|中部ドイツ放送(MDR)交響楽団]]や中部ドイツ放送合唱団(それぞれドイツで最初の[[放送管弦楽団]]・放送合唱団)も知られている。上述の[[ライプツィヒ歌劇場]]は[[1693年]]の開場で、[[ヴェネツィア]]、[[ハンブルク]]に次いでヨーロッパで3番目に古い市民劇場としての歴史を持つ。[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]は[[1813年]]にこの地で生まれた。彼が音楽の授業を受けた旧ニコライ学校校舎(Alte Nikolaischule)が現存する。メンデルスゾーンは[[1843年]]にドイツ初の音楽高等学校であるライプツィヒ音楽院を創設し、同校における日本人留学生第一号は[[瀧廉太郎]]であった。現在は[[メンデルスゾーン音楽演劇大学]]として受け継がれている。ドイツを代表する名門ピアノメーカーの一つである[[ブリュートナー]]もライプツィヒにて創業した。<br /> <br /> その他、バッハがトーマスカントルの契約書に署名した旧市庁舎(Altes Rathaus)や、ドイツ最古のコーヒー店で様々な音楽家が訪れた[[カフェ・バウム]]、メンデルスゾーン旧宅(Mendelssohn-Haus)、シューマン旧宅(Schumann-Haus)、世界屈指のコレクションを有するグラッシィ楽器博物館(Grassimuseum für Musikinstrumente)などが市内に点在し、これらの音楽史跡を繋いだ「ライプツィヒ音楽軌道(Leipziger Notenspur)」という街路を[[世界遺産]]に登録するための整備事業が開始されている。毎年初夏に行われる[[ライプツィヒ・バッハ音楽祭|バッハ音楽祭]]は世界的に重要な音楽行事の一つに数えられる。<br /> <br /> === 見本市 ===<br /> [[ファイル:Leipzig Neue Messe.jpg|thumb|300px|[[ライプツィヒ・メッセ]] (現在の見本市会場)]]<br /> [[ファイル:Maedler Passage Leipzig-2.jpg|thumb|230px|メードラー・パッサージュ街 ([[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア|ミラノのガッレリア]]がモデル)]]<br /> ライプツィヒは世界有数の[[見本市]]の街としても知られる。15世紀以降のドイツや中欧では、商都としての経済的発展のもとで「メッセ(Messe)」と呼ばれる大規模な定期市が開かれた&lt;ref&gt;メッセは日本語では「大市」などの訳語もある&lt;/ref&gt;。[[神聖ローマ皇帝]]の[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]] はメッセを保護し、これによってライプツィヒは神聖ローマ帝国内初の帝国市「[[ライプツィヒ・メッセ]]」の街として経済的優位を確立する。当時のメッセは商品を直接売買する現物市であった。数世紀にわたる交易を通して諸国から最新の知識や技術などがもたらされ、ライプツィヒの国際的な繁栄を支えた。ドイツにおいてライプツィヒとフランクフルトがメッセの2大都市として知られ、16世紀からはライプツィヒのメッセがフランクフルトを上回った。その原因としては、周辺地域での工業の発達、移民の受け入れ、内陸の通商路の重要性の高まり、ザクセンにおける手工業の発展などがあげられる&lt;ref&gt;* [[谷澤毅]]「近世ドイツ・中欧の大市」([[山田雅彦]]編『伝統ヨーロッパとその周辺の市場の歴史 市場と流通の社会史1』所収) 清文堂出版、2010年&lt;/ref&gt;。&lt;br /&gt;<br /> 19世紀には、メッセという語は見本市も指すようになった。近代に入ると、これまでの現物市に代わり商品見本の展示を主とする世界初の「見本市」が[[1895年]]に当地で開催され、これによってライプツィヒは見本市の街として世界的に知られるようになる。「メッセ」という語は以降「見本市」を表すこととなった。[[マイセン (陶磁器)|マイセン磁器]]や[[マルガレーテ・シュタイフ|シュタイフ社]]の[[テディベア]]なども、ライプツィヒ・メッセを通して世界へと紹介された。中心街には世界で初めて建設された見本市開催施設である市立商館(Städtisches Kaufhaus)、メードラー・[[パサージュ|パッサージュ街]](Mädler Passage)に代表される戦前の壮麗な見本市商館が残り、国際見本市都市の栄華を物語る。現在の見本市会場は東西ドイツ統一後に市街北部に新設されたものである。<br /> <br /> === 書籍 ===<br /> ライプツィヒは書籍・印刷の街としても世界有数の歴史を有す。ヨーロッパ屈指の商都として様々な物品が取引されたなか、重要な位置を占めたのが書籍である。15世紀末までは、地域外の印刷業者や書籍商により印刷物が持ち込まれていたが、[[1481年]]、ライプツィヒでも本の印刷が開始される。[[1530年]]までに1300種類もの本が出版された。[[1594年]]からは書籍市のカタログまで出版されるようになり、[[1650年]]には世界初の[[日刊紙]]がライプツィヒに登場する。<br /> <br /> [[ザクセン選帝侯領]]では神聖ローマ帝国の他の地域に比べて検閲や出版統制が緩かったことから、ドイツ各地の出版業者もライプツィヒに集まってきた。特に、[[17世紀]]までの出版の中心地であった[[フランクフルト・アム・マイン]]には、神聖ローマ帝国が反カトリック的書物に対する検閲機関([[:de:Kaiserliche_Bücherkommission|Kaiserliche Bücherkommission]])を置き、出版への統制を強めたため、統制を嫌った出版業者はフランクフルトからライプツィヒへと続々と移転した。[[18世紀]]の[[啓蒙時代]]にはライプツィヒがドイツ語圏の出版の中心地となり、[[ライプツィヒ・ブックフェア|ライプツィヒ書籍市]](Leipziger Buchmesse)が[[フランクフルト・ブックフェア|フランクフルト書籍市]]からヨーロッパの書籍取引の中心の地位を奪った。<br /> <br /> ライプツィヒでは次々と新しい印刷所と出版社が設立され、[[岩波文庫]]を作る際に手本にしたとされる[[レクラム出版社|レクラム文庫]]、当地の音楽文化とも影響し合って世界で最初の音楽出版社[[ブライトコプフ]]、そして[[ペータース (出版社)|ペータース]]などがここで生まれた。[[1834年]]にはシューマンによって『[[新音楽時報|音楽新報]]』が創刊された。[[1912年]]には[[ドイツ帝国]]の中央図書館である[[ドイツ国立図書館]]も設立され、現在もドイツにおける書物研究の中心地となっている。毎年3月開催の書籍見本市もライプツィヒに欠かせない重要な行事である。<br /> <br /> === 美術 ===<br /> 当地における印刷工芸の発達、そして商人たちによる美術品の収集・芸術活動の促進によって、市民による膨大な美術コレクションが形成されていった。これらは現在[[ライプツィヒ造形美術館]]やグラッシィ工芸美術館(Grassimuseum für Angewandte Kunst)に収められている。[[1764年]]には美術院も創設され、若き[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]はライプツィヒ大学に通う傍ら、ここで美術の手ほどきを受けた。美術院の後身である視覚装丁芸術大学(Hochschule für Grafik und Buchkunst)は現在もドイツ有数の美術学校として美術界をリードしている。東ドイツ時代には社会主義政権を暗に批判する絵画の一派「ライプツィヒ派(Leipziger Schule)」が民衆に大きな影響を与え、ライプツィヒから反体制の市民蜂起が起きる一つの遠因となった。現在は画家[[ネオ・ラオホ]](Neo Rauch, 1960~)に代表されるこの伝統を受け継いだ「新ライプツィヒ派(Neue Leipziger Schule)」が隆盛を迎えている。市街西部には多くの現代芸術家たちが居を構える旧紡績工場[[シュピネライ]]がある。書籍印刷の歴史と相まって[[グラフィック・アート]]も盛んである。<br /> <br /> === スポーツ ===<br /> ライプツィヒは近代以降、[[体操]]をはじめとする各種[[スポーツ]]の活動が盛んとなり、[[ドイツサッカー連盟]]も[[1900年]]に当地で設立された。東ドイツ時代には国立のスポーツ選手・指導者養成機関として[[ドイツ身体文化大学]]が創設され、国家の威信を懸けてオリンピック選手たちが育成された。同校は現在ライプツィヒ大学[[体育学部]]となっている。市内を代表する競技場として[[ツェントラール・シュタディオン|レッドブル・アレナ]](ツェントラール・シュタディオン/中央競技場)がある。中央競技場は元々1950年代に「東ドイツ体操スポーツ祭」のために建設された。[[2006_FIFAワールドカップ|2006年サッカーワールドカップ・ドイツ大会]]では組み合わせ抽選会の開催都市となったほか、中央競技場の基壇の上に新たなスタジアムが建設され、旧東ドイツの都市として唯一試合が開催された([[ベルリン・オリンピアシュタディオン]]は旧[[西ベルリン]]側に存在する)。プロサッカークラブである[[FCザクセン・ライプツィヒ]]の本拠地としての使用の後、2011年の同チーム廃部後は、同じく当地のクラブである[[RBライプツィヒ]]が本拠地として使用している。<br /> <br /> == 姉妹都市 ==<br /> [[File:Leipzig johannapark.jpg|thumb|right|230px|ヨハンナ公園 (新市庁舎の塔とシティー・ビルを望む)]]<br /> ライプツィヒは以下の[[姉妹都市]]を有している:<br /> * {{flagicon|UKR}} [[キエフ]]([[ウクライナ]]) 1961年、1992年再提携<br /> * {{flagicon|ITA}} [[ボローニャ]]([[イタリア]]) 1962年、1997年再提携<br /> * {{flagicon|POL}} [[クラクフ]]([[ポーランド]]) 1973年、1995年再提携<br /> * {{flagicon|CZE}} [[ブルノ]]([[チェコ]]) 1973年、1999年再提携<br /> * {{flagicon|FRA}} [[リヨン]]([[フランス]]) 1981年<br /> * {{flagicon|GRE}} [[テッサロニキ]]([[ギリシャ]]) 1984年<br /> * {{flagicon|GER}} [[ハノーファー]](ドイツ) 1987年<br /> * {{flagicon|CHN}} [[南京市|南京]]([[中華人民共和国|中国]]) 1988年<br /> * {{flagicon|GER}} [[フランクフルト・アム・マイン]](ドイツ) 1990年<br /> * {{flagicon|ENG}} [[バーミンガム]]([[イングランド]]) 1992年 [http://www.birmingham.gov.uk/twins バーミンガム姉妹都市説明サイト]<br /> * {{flagicon|USA}} [[ヒューストン]]([[アメリカ合衆国]][[テキサス州]]) 1993年<br /> * {{flagicon|BIH}} [[トラヴニク]]([[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]) 2003年<br /> * {{flagicon|Ethiopia}} [[アディスアベバ]]([[エチオピア]]) 2004年<br /> * {{flagicon|Israel}} [[ヘルツリーヤ]]([[イスラエル]]) 2011年<br /> <br /> == ゆかりの著名人 ==<br /> [[File:Goetheskulptur Nachmarkt Leipzig.jpg|thumb|right|230px|旧交易会館前のゲーテ像]]<br /> [[File:Johann Sebastian Bach.jpg|thumb|right|190px|著名なバッハの肖像画(原物は旧市庁舎に掲げられている)]]<br /> [[File:Mendelssohnhaus Arbeitszimmer.jpg |thumb|230px|メンデルスゾーン旧宅]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;出身者&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;<br /> *[[カスパル・シャムベルゲル]] 外科医(江戸初期の日本に西洋医学を伝えた日独交流最初期の人物)<br /> *[[ゴットフリート・ライプニッツ]] 哲学者・数学者<br /> *[[カール・グスタフ・カルス]] 哲学者・画家<br /> *[[リヒャルト・ワーグナー]] 作曲家<br /> *[[クララ・シューマン]] ピアニスト<br /> *[[マックス・クリンガー]] 画家・版画家・彫刻家<br /> *[[ヴィルヘルム・バックハウス]] ピアニスト<br /> *[[ヴァルター・ウルブリヒト]] 共産主義者・政治家(東ドイツ初代国家元首)<br /> *[[ヤン・チヒョルト]] タイポグラファー・カリグラファー<br /> *[[カトリン・ドーレ]] 陸上競技(マラソン)選手<br /> *ティル・リンデマン [[ラムシュタイン]]の[[ヴォーカリスト]]<br /> *トビアス・キュンツェル、ゼバスティアン・クルムビーゲル [[ディー・プリンツェン]]のメンバー<br /> *[[クリスティン・オットー]] 競泳選手<br /> *[[ウド・クエルマルツ]] 柔道選手<br /> *[[イルケ・ヴィルダ]] 陸上競技(円盤投げ)選手<br /> *[[レネー・アードラー]] サッカー選手<br /> *[[ビル・カウリッツ]]、トム・カウリッツ [[トキオ・ホテル]]のメンバー<br /> *[[木村昴]] 声優・俳優<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ライプツィヒ大学に学んだ人物&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;詳しくは[[ライプツィヒ大学]]参照&#039;&#039;)&lt;br /&gt; <br /> *[[ゲオルク・フィリップ・テレマン]] 作曲家<br /> *[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ]] 作曲家<br /> *[[ゴットホルト・エフライム・レッシング]] 劇作家<br /> *[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]] 作家<br /> *[[ロベルト・シューマン]] 作曲家<br /> *[[フリードリヒ・ニーチェ]] 哲学者<br /> *[[エルヴィン・フォン・ベルツ]] 医学者・『ベルツの日記』で知られる[[お雇い外国人]]<br /> *[[フェルディナン・ド・ソシュール]] 言語学者<br /> *[[蔡元培]] 教育家<br /> *[[エーリヒ・ケストナー]] 作家<br /> *[[朝永振一郎]] ノーベル賞物理学者<br /> *[[アンゲラ・メルケル]] 現・[[ドイツ首相]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ライプツィヒ音楽院(メンデルスゾーン音楽演劇大学)に学んだ人物&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;<br /> *[[アーサー・サリヴァン]] 作曲家<br /> *[[エドヴァルド・グリーグ]] 作曲家<br /> *[[レオシュ・ヤナーチェク]] 作曲家<br /> *[[フレデリック・ディーリアス]] 作曲家<br /> *[[瀧廉太郎]] 作曲家<br /> *[[齋藤秀雄]] チェリスト・指揮者<br /> *[[ロージャ・ミクローシュ]] 作曲家<br /> *[[ゲルハルト・ボッセ]] ヴァイオリニスト・指揮者<br /> *[[カール・リヒター]] 指揮者・オルガニスト・チェンバリスト(音楽院卒業後、トーマス教会オルガニスト)<br /> *[[フランツ・コンヴィチュニー]] 指揮者 ゲヴァントハウス管弦楽団楽長<br /> *[[クルト・マズア]] ゲヴァントハウス管弦楽団楽長<br /> *[[ゲオルク・クリストフ・ビラー]] 現・トーマスカントル<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;その他&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;<br /> *[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]] トーマスカントル(その息子たち、[[ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ|ヨハン・クリストフ・フリードリヒ]]と[[ヨハン・クリスティアン・バッハ|ヨハン・クリスティアン]]はライプツィヒ生まれ)<br /> *[[フリードリヒ・シラー]] 1785年、当地で『[[歓喜の歌|歓喜に寄す]]』を創作。<br /> *[[フェリックス・メンデルスゾーン|フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ]] ゲヴァントハウス管弦楽団楽長・ライプツィヒ音楽院長<br /> *[[ユリウス・ブリュートナー]] ピアノ製造技師([[ブリュートナー]]創業者)<br /> *[[ヴィルヘルム・ヴント]] ライプツィヒ大学に世界初の心理学実験室を開設。<br /> *[[オスカル・ケルネル]] 農芸化学者・「[[ケルネル田圃]]」で知られるお雇い外国人<br /> *[[グスタフ・マーラー]] ライプツィヒ歌劇場音楽監督<br /> *[[マックス・レーガー]] ライプツィヒ音楽院教授・ライプツィヒ大学音楽監督<br /> *[[ヘルベルト・ブロムシュテット]] ゲヴァントハウス管弦楽団楽長<br /> *[[リッカルド・シャイー]] 現・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長<br /> *[[準・メルクル]] 中部ドイツ放送(MDR)交響楽団音楽監督<br /> *[[ウルフ・シルマー]] 現・ライプツィヒ歌劇場音楽監督<br /> *[[クリスチャン・ヤルヴィ]] 現・中部ドイツ放送(MDR)交響楽団音楽監督<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[ライプツィヒの戦い]]<br /> *[[ファウスト]] 現在も営業を続けている市内のレストラン「アウアーバッハス・ケラー(Auerbachs Keller)」が登場する。<br /> *[[飛ぶ教室]] ライプツィヒが舞台。<br /> *[[東欧革命]]<br /> *[[森下純弘]] プロハンドボール選手 <br /> <br /> == 注釈 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|Leipzig}}<br /> * [http://www.leipzig.de ライプツィヒ市公式サイト](ドイツ語・英語・フランス語・スペイン語・ポーランド語)<br /> * [http://www.leipzig.travel/jp/_210.html ライプツィヒ観光局](日本語)<br /> * [http://clara-schumann.net/images/leipzig/index.html A Plaza of Clara Schuman] クララ生誕の地、ライプツィヒ訪問・写真旅行記<br /> * [http://blog.goo.ne.jp/qoo177cm 高田邦夫公式ブログ] ライプツィヒからの最新情報を発信<br /> * [http://djh-leipzig.de/ja/ 「日本の家」- Das Japanische Haus e.V.] 建築家、芸術からによるライプツィヒの多文化交流拠点<br /> <br /> {{ザクセン州の郡独立市}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:らいふついひ}}<br /> [[Category:ライプツィヒ|*]]<br /> [[Category:ドイツの主要都市]]<br /> [[Category:ザクセン州の行政区画]]</div> 42.145.121.253 テンプレート:East-europe-stub 2018-05-05T10:29:07Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Asbox<br /> | name = East-europe-stub<br /> | image = Eastern-Europe-map2.svg<br /> | subject = [[東ヨーロッパ]]<br /> | category = 東ヨーロッパ関連のスタブ項目<br /> | tempsort = *<br /> | related = [[プロジェクト:東ヨーロッパ|ウィキプロジェクト 東ヨーロッパ]] / [[Portal:ヨーロッパ|Portal:ヨーロッパ]]<br /> | note = [[ファイル:Flag of Albania.svg|border|20px|アルバニア]] [[ファイル:Flag of Ukraine.svg|border|20px|ウクライナ]] [[ファイル:Flag of Cyprus.svg|border|20px|キプロス]] [[ファイル:Flag of Greece.svg|border|20px|ギリシャ]] [[ファイル:Flag of Croatia.svg|border|20px|クロアチア]] [[ファイル:Flag of Serbia.svg|border|20px|セルビア]] [[ファイル:Flag of Bulgaria.svg|border|20px|ブルガリア]] [[ファイル:Flag of Belarus.svg|border|20px|ベラルーシ]] [[ファイル:Flag of Bosnia and Herzegovina.svg|border|20px|ボスニア・ヘルツェゴビナ]] [[ファイル:Flag of the Republic of Macedonia.svg|border|20px|マケドニア]] [[ファイル:Flag of Moldova.svg|border|20px|モルドバ]] [[ファイル:Flag of Montenegro.svg|border|20px|モンテネグロ]] [[ファイル:Flag of Romania.svg|border|20px|ルーマニア]] [[ファイル:Flag of Russia.svg|border|20px|ロシア]]<br /> }}&lt;noinclude&gt;<br /> [[Category:東ヨーロッパ関連のテンプレート]]<br /> &lt;/noinclude&gt;</div> 42.145.121.253 海峡植民地 2018-05-01T09:29:09Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 過去の国<br /> |略名 =<br /> |日本語国名 = 海峡植民地<br /> |公式国名 =&lt;b lang=&quot;&quot;&gt;&#039;&#039;Negeri-Negeri Selat&#039;&#039;&lt;br/&gt;Straits Settlements&lt;/b&gt;<br /> |建国時期 = 1826年<br /> |亡国時期 = 1946年<br /> |先代1 = ペナン州<br /> |先旗1 = Flag of Kedah.svg<br /> |先代2 = オランダ領マラッカ<br /> |先旗2 = Flag of the Dutch East India Company.svg<br /> |先代3 = シンガポール<br /> |先旗3 = Flag of Johor.svg<br /> |先代4 = マンジュン<br /> |先旗4 = Flag of Perak.svg<br /> |先代5 = ラブアン<br /> |先旗5 = Old Flag of Brunei.svg<br /> |次代1 = シンガポール<br /> |次旗1 = Flag of Singapore (1946-1959).svg<br /> |次代2 = マラヤ連合<br /> |次旗2 = Flag of the Federated Malay States (1895 - 1946).svg<br /> |次代3 = 北ボルネオ<br /> |次旗3 = Flag of North Borneo.svg<br /> |次代4 = 日本占領時期のシンガポール<br /> |次旗4 = Flag of Japan (1870–1999).svg<br /> |国旗画像 = Flag of the British Straits Settlements (1874-1942).svg<br /> |国旗リンク = <br /> |国旗説明 = <br /> |国章画像 = Coat of arms of the Straits Settlements.svg<br /> |国章リンク =<br /> |国章説明 =<br /> |標語 =<br /> |国歌名 =<br /> |国歌追記 =<br /> |位置画像 = British Malaya circa 1922.PNG<br /> |位置画像説明 = 1922年のマレー半島。赤色が海峡植民地<br /> |公用語 = [[マレー語]]、[[英語]]、[[中国語]]、[[タミル語]]<br /> |首都 = [[シンガポール]]<br /> |元首等肩書 = [[イギリス君主一覧|国王]]<br /> |元首等年代始1 = 1820年<br /> |元首等年代終1 = 1930年<br /> |元首等氏名1 = [[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]<br /> |元首等年代始2 = 1936年<br /> |元首等年代終2 = 1952年<br /> |元首等氏名2 = [[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]<br /> |首相等肩書 = 総督<br /> |首相等年代始1 = 1826年<br /> |首相等年代終1 = 1830年<br /> |首相等氏名1 = Robert Fullerton<br /> |首相等年代始2 = 1934年<br /> |首相等年代終2 = 1946年<br /> |首相等氏名2 = Shenton Thomas<br /> |面積測定時期1 = <br /> |面積値1 = <br /> |人口測定時期1 =<br /> |人口値1 =<br /> |変遷1 = 成立<br /> |変遷年月日1 = [[1826年]]<br /> |変遷2 = 消滅<br /> |変遷年月日2 = [[1946年]]<br /> |通貨 = 海峡ドル ( - 1939), [[リンギット|マレー・ドル]] (1939 - )<br /> |時間帯 =<br /> |夏時間 =<br /> |時間帯追記 =<br /> |注記 =<br /> }}<br /> {{マレーシアの歴史}}<br /> &#039;&#039;&#039;海峡植民地&#039;&#039;&#039;(かいきょうしょくみんち、[[英語]]:Straits Settlements, [[1826年]] - [[1946年]])は、[[19世紀]]から[[20世紀]]前半にかけての[[マレー半島]]における[[イギリス]]植民地の名称。[[1826年]]に、東西交通の要衝[[マラッカ海峡]]に面している[[ペナン]]、[[マラッカ]]、[[シンガポール]]よりなる植民地として形成された。[[1886年]]から[[ココス島 (インド洋)|ココス島]]と[[クリスマス島 (オーストラリア)|クリスマス島]]が、[[1906年]]に[[ラブアン|ラブアン島]]が編入された。<br /> <br /> なお、マレー語に忠実に記すとすれば、「ピナン」「ムラカ」などと地名を表記すべきであろうが、以下はイギリス支配下の行政区としての海峡植民地についての記述であるので、英語の発音に準じて地名を記す。<br /> <br /> == 沿革 ==<br /> === 前史 ===<br /> イギリスは、[[1623年]]に[[モルッカ諸島]]の[[アンボン島]]で起きた[[アンボイナ事件|アンボイナ虐殺事件]]を契機として、東インド諸島から全面的に撤退を余儀なくされ、[[インド]]経営に専念するが、[[18世紀]]後半以降、[[中国]]との[[広東貿易]]が隆盛し、また[[19世紀]]初めの[[ナポレオン戦争]]の結果、東インドを支配していた[[オランダ]]の勢力が後退したので、再び[[東南アジア]]に進出するようになった。その橋頭堡となったのが[[マレー半島]]である。<br /> <br /> === ペナン植民地 ===<br /> [[1786年]][[カントリー・トレーダー]]の{{仮リンク|フランシス・ライト|en|Francis Light}}は、[[マレー半島]]西海岸の{{仮リンク|クダ・スルタン国|en|Kedah Sultanate}}の[[スルタン]]と条約を結び、[[イギリス東インド会社]]領として[[ペナン島]]を獲得した。[[インド亜大陸]]と[[中国]]を結ぶ中継港、マラッカ海峡地域の産品の集積基地、ベンガル湾以東の海域における海軍基地が必要とされたために、[[イギリス東インド会社]]は同島を確保することになった。クダ王国は[[タイ王国|タイ]]の[[アユタヤ王朝]]や[[ブギス族]]などのマレー人勢力から国を守るために、強力な後ろ盾を必要としていた。ペナン島は、プリンス・オブ・ウェールズ島と命名され、[[ジョージタウン (ペナン州)|ジョージタウン]]が建設された。また、[[1800年]]には、クダ王国よりペナン島対岸の土地が獲得され、ウェルズリー州(Province Wellesley)と命名された。<br /> <br /> ただし、[[1799年]]前後までは、[[イギリス東インド会社]]の中継港としては[[アンダマン・ニコバル諸島|アンダマン]]もまた候補にあがっており、ペナン植民地の地位が確固としたものとなったのは、[[1805年]]に英領インドの第4番目の管区(Presidency)とされてからである。以降、ペナン島にはイギリス人の知事が派遣され、[[ベンガル地方|ベンガル]]総督の管轄下に置かれた。管区の地位は、[[1826年]]に成立した海峡植民地に引き継がれることになる。<br /> <br /> ペナンは、フランシス・ライトが自由貿易港と宣言したため、周辺海域より商人を多くあつめ、急速な発展を遂げた。[[1801年]]、自由貿易港の指定を解除したために一時衰退したが、海峡植民地成立によって再び自由貿易港となった。ただその経済的繁栄は次第に[[シンガポール]]に奪われていった(後述)。<br /> <br /> === マラッカ植民地 ===<br /> マラッカ海峡を臨むマラッカの町は、[[1645年]]以来、[[オランダ]]の支配下にあったが、[[フランス革命]]の余波を受けてオランダ本国が[[フランス]]の勢力下に入ると、イギリスは[[1795年]]にマラッカをはじめとする[[オランダ領東インド]]の各地を占領した。<br /> <br /> [[ナポレオン戦争]]終結後の[[1818年]]、イギリスは同地をオランダに返還したが、その後、[[1824年]]の英蘭協約によって、イギリスは[[スマトラ島]]西海岸にあった英領ベンクーレン植民地と引き換えにオランダからマラッカを獲得した。それまでイギリスとオランダの植民地がマレー半島とスマトラの各地に混在していたが、この協定で両国の植民地の境界がおおまかにひかれた(今日の[[マレーシア]]と[[インドネシア]]の国境線はこれに由来する)。<br /> <br /> === シンガポール植民地 ===<br /> [[シンガポール]]は、この島の地政学的重要性に目を付けた東インド会社員[[トーマス・ラッフルズ]]によって、[[1819年]]に[[ジョホール王国]]から割譲された。以後、イギリスはこのシンガポールを自由貿易港に指定して東南アジア貿易の拠点とした。<br /> <br /> シンガポール港は、中国をはじめとする各地との貿易が急増したことで、次第に経済的に台頭した。中国で起きた[[阿片戦争]]後の[[1845年]]、[[香港]]とシンガポールを結ぶ定期航路も開設された。欧州との関係では[[1869年]]に開通した[[スエズ運河]]が遠洋航路の所要時間を短縮した。<br /> <br /> === 海峡植民地の成立 ===<br /> [[1826年]]、[[イギリス東インド会社]]はこれら3植民地を統合して海峡植民地とし、[[インド]]のベンガル総督府の管轄下で[[ペナン島|ペナン]]に海峡植民地知事が駐在した。行政府となったペナンの人口は[[1860年]]には125,000人(ウェルズリーを含む)を数え、海峡植民地中首位であった。ただし、19世紀のシンガポールの経済的成長はめざましく、1832年以降はシンガポールが行政府となる。<br /> <br /> しかし、シンガポールの経済的発展とはうらはらに、東インド会社にとって海峡植民地はあまり利益をあげない「お荷物」であることが明らかになっていった。[[1826年]]の成立以来、海峡植民地は自由港だったために関税収入が見込めなかったうえ、当初期待された香料取引による利益も、香料自体の価格の暴落によって、期待できないものとなったからである。1805年にペナンが英領インドの4番目の管区に指定されて以来、海峡植民地はそれを受け継いでいたが、[[1830年]]にはとうとうその地位が剥奪され、レジデンシーに降格されてしまった。なお、降格後も行政の長の職名は「知事(Governor)」とされる慣行が続いたが、英領インドの行政官の秩序の中では、ほぼ閑職扱いであった。<br /> <br /> 他方で阿片戦争以来、海峡地域には中国からの移民が流入し労働力を提供したが、その[[秘密結社]]が治安上の問題となることもあった。それにもかかわらず、インド政府側は海峡植民地の治安や公共政策への出費に積極的でなかったため、シンガポールを中心に活動していた海峡商人たちの間で不満が高まる要因になった。<br /> <br /> === 英領マラヤの成立 ===<br /> [[シンガポール]]在住イギリス商人たちは海峡植民地の[[インド]]への従属に反対し、インドからの分離と議会の設立を訴えた。その要請に応えるとともに、海峡植民地の財政が[[印紙法]]の成立によってバランスが取れるようになったため、[[1867年]]、海峡植民地はイギリス植民地省の管轄に移された。東インド会社の所管を離れても海峡植民地の名前はそのまま使われ、[[ロンドン]]から直接派遣される新知事はシンガポールに駐在した。<br /> <br /> マレー諸国に対する、インド時代の海峡植民地の基本的姿勢は、「非介入政策」と呼ばれる。財政的に「お荷物」の海峡植民地の重荷をさらに増やさぬよう、なるべく消極的に運営されるべき植民地とみなされたのである。この姿勢に転機が訪れたのは、[[1873年]]の知事アンドルー・クラークの着任によってである。ペラの内紛を調停するという名目のもとに結ばれた[[1874年]]の{{仮リンク|パンコール条約 (1874年)|en|Pangkor Treaty of 1874|label=パンコール条約}}以来、イギリス勢力は積極的にマレー半島に介入していくようになる(「積極介入政策」)。マレー半島西海岸の[[スルタン]]諸国に産出する[[スズ]]の利権を確保するという、実質的な利害関心もこの動きの背後にあったとされる。19世紀末には、ペラ、スランゴール、ヌグリ・スンビラン及び後背地パハンのマレー系スルタン国に次第に介入していった。これらの4ヵ国は、[[1896年]]に{{仮リンク|マレー連合州|en|Federated Malay States}}とされ、統監が[[クアラルンプール]]に置かれた。ここにおいて、イギリスの直轄領域である海峡植民地と、間接統治をうける保護国からなる[[英領マラヤ]]が成立した。また、クランタン、トレンガヌ、ジョホールなどの東海岸のスルタン国は、[[20世紀]]に入ってからイギリスの保護下に置かれることになった。<br /> <br /> === 解体 ===<br /> 海峡植民地は、1870年代より英領マラヤの中核としての役割を果たし続けたが、[[第二次世界大戦]]中に[[日本軍]]による占領をうけた後、戦後の英領マラヤ再編に伴って[[1946年]]に解体した。[[マラヤ連邦]]の成立とともに、ペナンとマラッカは同連邦に吸収され、シンガポールは独立のクラウン・コロニー(英国王直轄地)となった。<br /> <br /> ココス島とクリスマス島は、1946年にシンガポールの管轄下とされたが、それぞれ1955年と1957年にオーストラリアに移された。ラブアン島は、{{仮リンク|イギリス保護国北ボルネオ|en|North Borneo}}([[1882年]] - [[1963年]])の一部となり、後にマレーシアの一部(現[[サバ州]])となった。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[池端雪浦]]編 『東南アジア史Ⅱ 島嶼部』、[[山川出版社]]<新版世界各国史6>、1999年<br /> * [[信夫清三郎]] 『ラッフルズ伝』、[[平凡社]]<東洋文庫>、1968年<br /> * [[鶴見良行]] 『マラッカ物語』、[[時事通信社]]、1981年<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[マレーシアの歴史]]<br /> * [[トーマス・ラッフルズ]]<br /> <br /> {{イギリス植民地帝国}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かいきようしよくみんち}}<br /> [[Category:19世紀のアジア]]<br /> [[Category:20世紀のアジア]]<br /> [[Category:マレーシアの歴史]]<br /> [[Category:シンガポールの歴史]]<br /> [[Category:東南アジア史]]<br /> [[Category:イギリス帝国]]<br /> [[Category:イギリス領マラヤ]]<br /> [[Category:イギリス・マレーシア関係‎]]<br /> [[Category:1826年に成立した国家・領域]]<br /> [[Category:1946年に廃止された国家・領域]]</div> 42.145.121.253 ウクライナ人民共和国 2018-04-25T10:42:17Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年2月}}<br /> {{Otheruses|歴史上の民族社会主義派の国家|現代の独立ウクライナ|ウクライナ|ボリシェヴィキ系の同名の国家|ウクライナ人民共和国 (ソビエト派)}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = ウクライナ<br /> |日本語国名 = ウクライナ人民共和国<br /> |公式国名 = &#039;&#039;&#039;{{Lang|uk|Українська Народна Республіка}}&#039;&#039;&#039;<br /> |建国時期 = 1917年<br /> |亡国時期 = 1920年<br /> |先代1 = ロシア帝国<br /> |先旗1 = Flag of Russia.svg<br /> |先代2 = オーストリア=ハンガリー帝国<br /> |先旗2 = Flag of Austria-Hungary 1869-1918.svg<br /> |先代3 = オデッサ・ソビエト共和国<br /> |先旗3 = Red flag.svg<br /> |先代4 = タヴリダ・ソビエト社会主義共和国<br /> |先旗4 = Red_flag.svg<br /> |次代1 = ウクライナ社会主義ソビエト共和国<br /> |次旗1 = Flag of the Ukrainian SSR (1923-1927).svg<br /> |次代2 = ポーランド第二共和国<br /> |次旗2 = Flag of Poland (1919-1928).svg<br /> |次代3 = ルーマニア王国<br /> |次旗3 = Flag of Romania.svg<br /> |次代4 = オデッサ・ソビエト共和国<br /> |次旗4 = Red flag.svg<br /> |次代5 = 自由地区<br /> |次旗5 = RPAU flag.svg<br /> |国旗画像 = Flag of Ukraine.svg<br /> |国旗リンク = <br /> |国旗説明 = <br /> |国旗幅 = <br /> |国旗縁 = <br /> |国章画像 = Coat of Arms of UNR.svg<br /> |国章リンク = <br /> |国章説明 = <br /> |国章幅 = <br /> |標語 = <br /> |国歌名 = ウクライナは滅びず<br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 = Ukrainian People&#039;s Republic in Europe.svg<br /> |位置画像説明 =ウクライナ人民共和国の領域 <br /> |公用語 = [[ウクライナ語]]<br /> |首都 = [[キエフ]]<br /> |元首等肩書 = [[ウクライナの大統領|大統領]]<br /> |元首等年代始1 = 1917年<br /> |元首等年代終1 = 1918年<br /> |元首等氏名1 = [[ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ]]<br /> |元首等年代始2 = 1918年<br /> |元首等年代終2 = 1919年<br /> |元首等氏名2 = [[:en:Volodymyr Vynnychenko|ヴォロドィームィル・ヴィンヌィチェーンコ]]<br /> |元首等年代始3 = 1919年<br /> |元首等年代終3 = 1920年<br /> |元首等氏名3 = [[シモン・ペトリューラ]]<br /> |首相等肩書 = [[ウクライナの首相|閣僚評議会議長]]<br /> |首相等年代始1 = 1918年<br /> |首相等年代終1 = 1918年<br /> |首相等氏名1 = [[:uk:Голубович Всеволод Олександрович|フセヴォロド・ゴルボヴィチ]]<br /> |首相等年代始2 = 1920年<br /> |首相等年代終2 = 1920年<br /> |首相等氏名2 = [[:en:Andriy Livytskyi|アンドリー・リヴィツキー]]<br /> |面積測定時期1 = <br /> |面積値1 = <br /> |人口測定時期1 = <br /> |人口値1 = <br /> |変遷1 = 成立<br /> |変遷年月日1 = [[1917年]][[11月22日]]<br /> |変遷2 = 独立宣言<br /> |変遷年月日2 = [[1918年]][[1月22日]]<br /> |変遷3 = 滅亡<br /> |変遷年月日3 = [[1920年]][[11月10日]]<br /> |通貨 = [[:en:Ukrainian karbovanets|カルボーヴァネツィ]]&lt;br /&gt;[[フリヴニャ]]<br /> |時間帯 = <br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |注記 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ウクライナ人民共和国&#039;&#039;&#039;(ウクライナじんみんきょうわこく、{{Llang|言語記事名=ウクライナ語|uk|&#039;&#039;&#039;Українська Народна Республіка&#039;&#039;&#039;}})は、[[1917年]][[11月22日]]から[[1920年]][[11月10日]]にかけて[[ウクライナ]]に存在した国家である。独立は[[1918年]][[1月22日]]。なお、1918年[[4月29日]]から[[12月14日]]の間は[[ウクライナ国]]を称した。<br /> <br /> == 国名 ==<br /> 正式名称は、[[ウクライナ語]]で&#039;&#039;&#039;{{Lang|uk|Українська Народна Республіка}}&#039;&#039;&#039;(&lt;small&gt;ウクライィーンスィカ・ナロードナ・レスプーブリカ&lt;/small&gt;)、略称は&#039;&#039;&#039;{{Lang|uk|УНР}}&#039;&#039;&#039;(&lt;small&gt;ウーエーヌエール&lt;/small&gt;;&#039;&#039;UNR&#039;&#039;)である。当時国内でしばしば用いられた[[ロシア語]]では&#039;&#039;&#039;{{Lang|ru|Украинская Народная Республика}}&#039;&#039;&#039;(&lt;small&gt;ウクライーンスカヤ・ナロードナヤ・リスプーブリカ&lt;/small&gt;)となり、略称はウクライナ語名と同じく&#039;&#039;&#039;{{Lang|ru|УНР}}&#039;&#039;&#039;(&lt;small&gt;ウーエーヌエール&lt;/small&gt;;&#039;&#039;UNR&#039;&#039;)となる。<br /> <br /> [[日本語]]への直訳は、「ウクライナの人々の共和国」のようになる。&#039;&#039;&#039;ウクライナ人民共和国&#039;&#039;&#039;のほか、観点の違いや後述の[[ボリシェヴィキ]]政権と区別する意図から、&#039;&#039;&#039;ウクライナ国民共和国&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ウクライナ民族共和国&#039;&#039;&#039;とも訳される。また、&#039;&#039;&#039;[[ウクライナ共和国]]&#039;&#039;&#039;と略称されることもある。<br /> <br /> 敵対する[[ボリシェヴィキ]]勢力も同名の共和国を立てているが、これとはまったくの別国家である。これについては[[ウクライナ人民共和国 (ソビエト派)]]を参照のこと。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> ウクライナ人民共和国は、[[ドニエプル・ウクライナ]]に成立した史上初の近代独立国家であった。首都は[[キエフ]]に置かれたが、[[ジトーミル|ジトームィル]]、[[ヴィーンヌィツャ]]などいくつかの地に臨時首都が置かれたこともあった。<br /> <br /> ウクライナ人民共和国は[[社会主義]]を標榜するウクライナ[[民族主義]]者によって建国された。それまでの封建的な体制を否定し、理想的な[[民主主義]]国家を目指し政策の決定がなされた。すなわち、言論・[[出版]]・信条・集会・[[ストライキ]]の[[自由]]の保障、個人の不可侵、[[死刑存廃問題|死刑の廃止]]、それまで反体制的であるとの理由で投獄されていた[[政治犯]]の[[大赦]]、[[少数民族]]の[[自治]]の権利の保障、8時間労働、[[土地]]の私有の制限(ウクライナでは少数の大[[貴族]]により、大半の土地が占有されていた)、生産手段の規制、[[戦争]]の終結などである。<br /> <br /> しかし、この国家は各国の干渉を受け永らえることはできなかった。だが、ウクライナ史の中でウクライナ人民共和国の時代はウクライナにも確かに独立国家が存在したことがあったという記憶としていき続けた。ウクライナの独立性は、[[ソビエト連邦|ソ連]]時代を経てもなお失われることはなかった。[[1991年]]に独立した現代のウクライナはこの共和国の後継国家であると自らを位置づけており、[[国旗]]や[[国歌]]、[[国章]]を同共和国から受け継いでいる。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[File:Flag_of_Ukraine.svg|thumb|200px|国旗]]<br /> === 中央ラーダ時代 ===<br /> {{main|ウクライナ中央ラーダ}}<br /> [[1917年]]2月に[[ロシア]]で起こった[[2月革命 (1917年)|二月革命]]の影響を受け、ウクライナでも自治組織の結成が行われた。その中心的組織となったのが3月に成立したウクライナ中央ラーダで、ロシアの[[ロシア臨時政府|臨時政府]]に対し代表団を送り、「ロシア連邦」内での自治権の保証を求めるなど交渉を行った。そうして、[[7月16日]]には臨時政府がウクライナの自治を認めたことを受けた「第2次[[ウニヴェルサール]]」(第2次宣言;II {{lang|uk|Універсал}})が発せられた。しかし、11月にボリシェヴィキによる[[10月革命 (1917年)|十月革命]]が勃発すると、中央ラーダはこの暴力による[[革命]]を認めずボリシェヴィキの[[ソビエト|ソヴィエト]]政府と鋭い対立関係に陥った。<br /> <br /> 1917年[[11月20日]]、中央ラーダは「ウクライナはロシア共和国とともにロシア連邦を構成する自治共和国である」という「第3次ウニヴェルサール」」(第3次宣言;III {{lang|uk|Універсал}})を発し、ここにウクライナ人民共和国の成立が宣言された。ロシア側に中央ラーダとの協力交渉に当たる政府が十月革命で存在しなくなっていたため、これは事実上の独立宣言というべきものとなった。また、[[イギリス]]と[[フランス]]は「第3次ウニヴェルサール」を受けてウクライナ人民共和国の独立を承認し、代表団をキエフに送った。この早急なる承認の裏には、ウクライナが単独で独墺と講和条約を結ぶことを危惧したという理由があった。[[大日本帝国|日本]]をはじめ他の諸外国も、相次いでキエフへ代表団を送り込んだ。<br /> <br /> この宣言を受けて、ソヴィエト政府は中央ラーダの乗っ取りを図ったが失敗し、12月にはウクライナ人民共和国に対しウクライナでの[[赤軍]](ソヴィエト軍、ボリシェヴィキ軍)の行動の自由の是認などと引き換えにウクライナ人民共和国を承認するとする「[[最後通牒]]」を突きつけた。外国軍の国内での行動の自由は当然認められるものではなく、中央ラーダはこの要求を撥ねつけた。ボリシェヴィキはウクライナへ軍事侵攻を行うことを決定した。<br /> <br /> 中央ラーダ軍と赤軍の戦いは、ボリシェヴィキの煽動作戦が効をなし、赤軍優位に推移した。[[1918年]][[1月14日]]にキエフ近郊の[[クルーティ]]で衝突した中央ラーダ軍と赤軍は、間に2日間にわたる激戦を行った。[[キエフ大学]]の学生を中心とした中央ラーダ軍は、[[ロシア人]]を中心とした赤軍に対し決定的な敗北を喫した。この戦闘は[[クルーティの戦い]]と呼ばれ、[[ポルタヴァの戦い]]と並んでウクライナの歴史の転機となった出来事として語られる。こののち、キエフ市内でも潜伏していたボリシェヴィキ派による武装蜂起が行われた。<br /> <br /> [[1月22日]]には、ウクライナを完全な独立国であるとする「第4次ウニヴェルサール」(第4次宣言;IV {{lang|uk|Універсал}})が発せられた。しかし、その翌日には赤軍はキエフの[[ドニエプル川|ドニエプル]]左岸に達した。<br /> <br /> [[1月24日]]からの2日間の[[市街戦]]ののち、キエフは赤軍により占領された。ウクライナ人民共和国政府は、[[1月26日]]から[[1月27日|27日]]にかけてジトームィルへ逃れた。[[ミハイール・ムラヴィヨーフ]]に率いられた赤軍は、キエフ市外で[[ウクライナ人]]住民の虐殺を行った。<br /> <br /> 1月27日には、ウクライナ人民共和国と[[ドイツ帝国]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]、[[オスマン帝国]]との間に単独[[講和条約]]となる[[ブレスト=リトフスク条約]]が締結された。なお、この条約により「第4次ウニヴェルサール」で謳われたウクライナ人民共和国の独立が初めて世界に認められたことになった。<br /> <br /> ジトーミルで[[ドイツ軍]]や[[オーストリア軍]]と合同し態勢を整えた中央ラーダ軍は、キエフへ進攻し、[[3月1日]]には早くもキエフを奪還した。だが、その後ドイツ軍との約束であった食糧調達を巡って対立が起こった。ドイツ軍の横暴とウクライナ人への蔑みは目に余るものがあり、ウクライナ人の心はドイツ軍と連合した中央ラーダから離れていった。<br /> <br /> 特に、ドイツ軍の[[ヘルマン・フォン・アイヒホルン|アイヒホルン]]将軍の出した「土地耕作指令」は、中央ラーダにではなく直接ウクライナ[[農民]]に出され、しかも中央ラーダの禁じた大土地所有を擁護した点で深刻な問題を引き起こした。中央ラーダはこれに激しく講義し、ドイツ軍は中央ラーダを放逐することを決定した。<br /> <br /> [[4月23日]]に中央ラーダ政府と経済協力を結んだあと、ドイツ軍は同政府によって追放されていた[[ロシア帝国]]時代の[[地主]]勢力と計らい、新政府を形成することを目論んだ。<br /> <br /> [[4月29日]]、ついに[[ヘーチマンの政変]]によりラーダは解散され、ウクライナ人民共和国は一旦その幕を下ろすこととなった。かわって、キエフには[[ヘーチマン]]・[[パウロー・スコロパードシクィイ]]を首班とする保守政権が誕生した。この政権は国号を[[ウクライナ国]]と改め、地主優遇など反動的な政策を採った。<br /> <br /> === ディレクトーリヤ時代 ===<br /> {{main|ディレクトーリヤ}}<br /> [[File:Map of Ukraine for Paris Peace Conference.jpg |thumb|200px|[[パリ講和会議]]でウクライナ人民共和国の代表が国際公認を求めていたウクライナ人民共和国の国境]]<br /> 1918年[[12月26日]]から[[1920年]][[11月16日]]までの期間、ウクライナ人民共和国はディレクトーリヤ政府によって運営された。ヘーチマン政権を追放し再び政権をとった中央ラーダの中心メンバーであった[[シモン・ペトリューラ]]や[[ヴォロディームィル・ヴィンヌィチェーンコ]]らは、国号をウクライナ人民共和国に戻し、ドイツ軍と協定を結んだ上でキエフを占拠した。ヘーチマン政権に激しく反発し、各地で反乱を起こしていたウクライナ農民はこれを支持した。<br /> <br /> しかし、その後ウクライナはペトリューラ率いる民族主義派、[[アントーン・デニーキン]]や[[ピョートル・ヴラーンゲリ]]率いる「ロシア人民族主義」の[[白軍]]([[白衛軍]])、「[[共産主義]]」であるボリシェヴィキのソヴィエト赤軍、「[[無政府主義]](アナーキスト)」である[[ネストル・マフノ]]の[[ウクライナ革命蜂起軍]]([[黒軍]])など、多くの派が争い互いに潰しあう激しい内戦状態に入った。こうした中で、「ウクライナ人民族主義」のディレクトーリヤ政府はわずか3ヶ月しかキエフを維持できなかった。<br /> <br /> その後、一旦[[ポーランド]]に撤退したディレクトーリヤ政府は、[[ポーランド軍]]と結んでウクライナへ進攻した([[ポーランド・ソビエト戦争]])。だが、これによりそれまで協力を図ってきた[[西ウクライナ]]の[[西ウクライナ人民共和国]]との合同は不可能となった。ウクライナ人が地域全体60%を占めるに過ぎず、かつ彼らは農村部の住民であり、都市部はほとんどが[[ポーランド人]](地域全体では25%)や[[ユダヤ人]](同12%)で占められていたこの地域にウクライナ[[民族主義]]という排他的な民族主義で建てられた同共和国は、ポーランド、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナを合同し(かつて存在した)[[ポーランド・リトアニア共和国]]のような[[多民族国家]]を打ちたてようとする「多民族主義」の指導者[[ユゼフ・ピウスツキ]]によって「[[ミェンズィ・モジェ構想]]([[バルト海]]と[[黒海]]という2つの海の間の多民族国家構想)」を推進するポーランド共和国とは正面から対立、その結果同共和国はポーランドによる軍事侵攻で亡ぼされ、その軍事組織である[[ウクライナ・ハルィチナー軍]]はポーランドを駆逐するためソ連に頼り赤軍へ合流することとなった。こうして、ウクライナの東西で分断が起こった。<br /> <br /> [[1920年]]5月の[[キエフ攻勢]]で、ウクライナ・ポーランド連合軍は一時キエフを奪還した。しかし、連合軍は東ウクライナからは撤退した。[[11月10日]]、ウクライナにおけるウクライナ人民共和国の命運は尽きた。西欧諸国からの外交的圧力を受けたポーランドは、ディレクトーリヤ以外をウクライナの政府としては認めないというウクライナ人民共和国との協定を破ってウクライナ・ソヴィエト政府およびロシア・ソヴィエト政府と[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ講和条約]]を結び、自国の軍事的な勢力圏であった西ウクライナを正式に併合したのである。<br /> <br /> === 亡命政府時代 ===<br /> {{main|ウクライナ人民共和国亡命政府}}<br /> ボリシェヴィキに敗れたウクライナ人民共和国政府は、ポーランドに逃れて亡命ウクライナ人民共和国政府を立てた。その中心人物はペトリューラであった。<br /> <br /> 政府は初め[[タルヌフ]]に置かれ、そののち[[ワルシャワ]]へ移った。しかし、1923年になるとポーランドはソ連からの圧力によりペトリューラを国外へ追い出した。ペトリューラは[[ブダペスト]]、[[ウィーン]]、[[ジェノヴァ]]を転々としたあと、[[1924年]]末から[[パリ]]に居住した。そして、[[1926年]][[3月25日]]、彼はそこでソ連の[[スパイ]]によって暗殺された。<br /> <br /> しかし、亡命政府の活動は終わらなかった。政府はいくつかの政治組織の運営のもと[[1940年代]]後半まで活動を行った。亡命政府は、[[1939年]]から[[1940年]]の間は[[フランス]]の[[パリ]]に拠点を移し、その後はドイツの[[ミュンヘン]]において活動した。戦後の[[1948年]]、亡命政治勢力を結集したウクライナ国民ラーダの結成に参加してウクライナ人民共和国亡命政府は発展的に解消された。ウクライナ国民ラーダはウクライナ人民共和国の伝統を受け継ぐ機関として長らく活動を続け、4人の[[w:President of Ukraine (in exile)|ウクライナ人民共和国臨時大統領]]を選出した。最後の臨時大統領である[[w:Mykola Plaviuk|Mykola Plaviuk]]はウクライナ独立が達成された翌年の1992年8月25日、新生[[ウクライナ共和国]]の初代大統領[[レオニード・クラフチュク]]に大統領権限を正式に譲渡してウクライナ国民ラーダはその役目を終えた。なお現在のウクライナ共和国はウクライナ人民共和国の後継国家として位置づけられている。<br /> <br /> == 教育 ==<br /> ウクライナ人民共和国では、[[民族主義]]政策のもと、それまで軽視されてきたウクライナ文化を尊重する政策が採られた。「ウクライナ化」と呼ばれるこの政策は、共和国成立以前の1917年[[10月15日]]に出された指令に象徴される。教育総書記官であった[[イヴァン・ステシェーンコ]]によって出された[[学校]]のウクライナ化指令では、中等・高等その他すべての教育機関でウクライナ語の使用ならびにウクライナ文化・歴史・地理の教育を行うことが必要とされ、ウクライナ語で授業が行われることが望ましいとされた。<br /> <br /> ウクライナ人民共和国の支持母体となるべきウクライナ人の多くは教育に恵まれる機会の乏しい農村に暮らしており、そのため教育をはじめとする[[啓蒙]]活動を行うことは必須の課題であった。<br /> <br /> しかし、その基本となるべきウクライナ語の整備は帝政時代の弾圧や革命後の混乱とボリシェヴィキとの戦いで遅れていた。結局、ウクライナ語が完成を見るのは[[ウクライナ社会主義ソビエト共和国|ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国]]時代に入った[[1927年]]になってからのことである。<br /> <br /> == 軍事 ==<br /> {{main|ウクライナ人民共和国軍}}<br /> ウクライナ人民共和国の軍隊は通称「中央ラーダ軍」と呼ばれ、司令官の名前から「ペトリューラ軍」とも渾名された。装備はロシア帝国時代のものを受け継いだ他、ドイツ軍との合同後はドイツ製の新型装備も保有した。キエフには[[アーセナル (ウクライナの企業)|アルセナール]]のような兵器工場も存在したが、内戦中は稼動していなかったようである。それどころか、ここを拠点にボリシェヴィキ派の武装蜂起も起きている。都市住民はロシア人や[[ユダヤ人]]、ロシア化したウクライナ人が多く、都市政党であるボリシェヴィキは取り込みが行い易かった。<br /> <br /> ボリシェヴィキとの戦争に敗れた共和国軍は、白軍や黒軍へ合流するなどして霧散したが、一部はポーランドへ渡りソヴィエト勢力やポーランドに対する[[パルチザン]]活動を継続した。中でも、[[ウクライナ蜂起軍]](UPA)は、[[第二次世界大戦]]後に到るまで活発に活動を行っており、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]は[[1950年代]]になっても大規模な掃討作戦を行っていた。<br /> <br /> == 評価 ==<br /> [[File:Marky unr 3.jpg|thumb|ウクライナ人民共和国発行の30[[シャーフ]][[切手]]。伝統的な髪形をした女性はウクライナを表している。レリーフに国章[[三叉の鉾]]が見える。]]<br /> [[File:Marky unr 1.jpg|thumb|ウクライナ人民共和国発行の10シャーフ切手。中央に国章があしらわれている。]]<br /> ウクライナ化政策は、「ウクライナ民族主義」に反対する立場の人々からは厳しく批判された。[[ミハイル・ブルガーコフ]]の[[長編小説]]『[[白衛軍 (ブルガーコフ)|白衛軍]]』でも、昨日までロシア語名で名乗っていたものが今日はウクライナ語名になってしまったというような、そのことが揶揄される場面が登場する。また、一般にウクライナ人は農村で暮らす農民であり、都市で暮らす少数のウクライナ人はロシア化していた。すなわち彼らの大多数の人々の民族的な帰属意識はもともと希薄だったのである。農村と都市の分断は帝政時代から大きなもので、民族による違いよりも都市民であるか農村住民であるかで互いに軽蔑する傾向があった。中央ラーダが教育を重視したのは、[[識字率]]などウクライナ人の教育水準が一般に低かったためでもあるが、ウクライナ民族主義の基盤づくりを目的とする意味が大きかった。反ウクライナ民族主義の人々は、こういった偏狭で排他的な民族主義の勃興を嫌悪し、「ウクライナ人民共和国は田舎者の集団である」と蔑んでいた。<br /> <br /> ウクライナ地方の農民は、[[エカチェリーナ2世]]時代にロシア帝国に完全併合されて以来、つねに辛酸をなめてきた。特に、エカチェリーナ2世の寵臣[[グリゴリー・ポチョムキン|グリゴーリイ・ポチョームキン=タヴリーチェスキイ]]公のような大土地所有貴族による横暴は過酷なものであった。ウクライナ国の[[スコロパードシクィイ家]]も、ポルタヴァの戦い後の[[イヴァン・スコロパードシクィイ]]以来の大地主であった。地主貴族により農奴化された農民が苦しめられたのはウクライナに限らずロシア帝国全土において同様なことであったが、もともと[[ヘーチマン国家]]という自治国家を有していたウクライナでは、かつて小貴族層のようなものであった[[コサック]]などの人々の間で自治を求める傾向がより強かった。また、長らくこの地域を統治していた[[ポーランド・リトアニア共和国]]や[[オーストリア帝国]]、あるいはこの地域で社会的に優位であった[[ポーランド人]]、[[ユダヤ人]]、[[ロシア人]]との闘争を通じて西方から伝来した[[民族主義]]がウクライナ人の地方[[インテリ]]層の間で根付いていたことも、ロシアの他の地方とは異なっていた。<br /> <br /> また、ウクライナではコサックの伝統・記憶が色濃く残っていた。コサックの[[シーチ]]では誰もが自分の責任において自由を得ることができ、平等な権利を有するという伝統的なイメージがあった。コサック集団が逃亡[[農奴]]の受け皿になっていたという歴史もあった。「ウクライナ民族であれば」誰もが平等に参加することのできる「民主的」な国家という共通幻想を持っていた。ウクライナ人民共和国は、短期間ではあるがそれを実現した国家として現在のウクライナで評価される。<br /> <br /> だが、国家運営を行った人材が必ずしも優秀とはいえず、優秀な人材の揃ったポーランドやボリシェヴィキに対抗することができなかった。共和国の閣僚はほとんどがまだ20代、30代の若い活動家で、経験不足が目立つ結果となった。フルシェーウシクィイは優秀な[[学者]]であったが、内戦時に力を発揮することはできなかった。[[作家]]であったヴィンヌィチェーンコも、有効な手段を講ずることはできなかった。ペトリューラは敵から最も恐れられた人物であったが、彼が政権を握った頃にはウクライナ人民共和国の斜陽は決定的になっていた。さらに、1920年秋には[[チフス]]の流行でペトリューラ軍はほぼ全滅してしまった。<br /> <br /> また、支持母体となるはずのウクライナ人は農民として各地に点在して居住しており、組織化が難しかった。教育も急がれたものの内戦の混乱ではかどらず、農民は容易にボリシェヴィキの煽動に乗せられてしまった。実際には、ボリシェヴィキは農民を[[共産主義]]の敵対者と看做しており、克服すべき対象と考えていたのであるが、その意図を見抜くことは高等教育を受けたものにも簡単なことではなかった。<br /> <br /> 独立失敗の最大の原因は、ポーランド共和国、ソ連、[[南ロシア軍]]および英仏などの[[干渉軍]]、独墺軍などの外的要因であったとされるが、ウクライナ民族が60%しかいない地域であったにもかかわらずそれでもウクライナ民族主義による排他的な国家樹立を武力で推し進めようとしたウクライナ人指導者たち自身の過激な民族意識そのものが原因であったとも言える。また、[[無政府主義]]者(アナーキスト)である黒軍もウクライナ人民共和国の支持母体となるはずの農民を吸収してしまい、その上[[共産主義]]者である赤軍に協力した。ウクライナ領内にあった各勢力が互いに潰し合いを行った結果、どの勢力も自滅状態に陥り、最後はロシア赤軍とポーランド軍という二大「非ウクライナ民族」勢力が勝利を二分し、ウクライナを二分した。赤軍に協力的であった黒軍も、結局は赤軍によってその家族も含め殲滅された。<br /> <br /> 当然のことながら、ウクライナ人民共和国の歴史はソ連時代には「[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]民族主義的分裂主義」としてウクライナ国内でも全面的に否定されていた。これにウクライナ国内で公然と疑問が投げかけられるようになったのはソ連末期のことであった。<br /> <br /> 現代の独立ウクライナは、自らをウクライナ人民共和国の思想的後継国家であると位置づけている。すなわち現在のウクライナ共和国はウクライナ民族主義を基本[[理念]]とする国家である。したがって[[フリヴニャ]]紙幣にもフルシェーウシクィイのようにウクライナ人民共和国に貢献した人物の肖像が描かれ、過去のロシア帝国やソ連時代に悪役にされてきたウクライナ民族の歴史上の人物の復権も行われている。<br /> <br /> == 機関 ==<br /> ウクライナ人民共和国は、時期によっていくつかの政治中央機関によって運用されていた。大きく分ければ、ウクライナ国の時期を挟んで中央ラーダ時代とディレクトーリヤ時代とに分けられる。また、ボリシェヴィキとの戦争に敗れたのち、ポーランドで形成した亡命政府も存在した。以下、主要機関に関しての一覧とする。<br /> <br /> 特徴としては、ドイツ軍との連合後はその取り決め上優先すべき事柄であった食糧調達のための[[大臣]]が置かれていること、[[土地解放]]のための大臣が置かれていることなどがあげられる。<br /> <br /> === ウクライナ中央ラーダ(1917年3月17日 - 1918年4月29日) ===<br /> <br /> ==== 大統領 ====<br /> [[ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ]](1917年4月29日)<br /> <br /> ==== ウクライナ中央ラーダ(1917年3月4日 - 1918年4月29日) ====<br /> ウクライナ人民共和国の[[国会]]に相当する機関。<br /> <br /> * 議長:ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ<br /> * 次官<br /> ** [[ヴォロディームィル・ナウメーンコ]](1917年3月4日 - 1917年[[4月8日]])<br /> ** [[セルヒーイ・イェフレーモウ]]<br /> ** [[ヴォロディームィル・ヴィンヌィチェーンコ]](1917年4月8日 - 1917年[[6月15日]])<br /> <br /> ==== 議長団(1917年7月6日 - 1918年4月29日) ====<br /> 中央ラーダの会期中に活動する機関。<br /> <br /> * 議長:ムィハーイロ・セルヒーヨヴィチ・フルシェーウシクィイ<br /> * 次官<br /> ** [[M・シュラーフ]]<br /> ** [[S・ヴェセローウシクィイ]]<br /> ** [[A・ニコウシクィイ]]<br /> ** [[F・クルィジャニウシクィイ]]<br /> * 書記官<br /> ** [[A・ポストロウシクィイ]]<br /> ** [[Ya・レーウチェンコ]]<br /> ** [[L・チカレンコ]]<br /> ** [[ムィコーラ・チェチェリ]]<br /> <br /> ==== 総書記局(1917年6月15日 - 1918年1月22日) ====<br /> 中央ラーダの執行機関。ウクライナ人民共和国の[[政府]]に相当する。<br /> <br /> 第一次内閣<br /> * 総書記長:ヴォロディームィル・ヴィンヌィチェーンコ(1917年6月15日 - 1917年7月16日)<br /> * 総書記次官:セルヒーイ・イェフレーモウ<br /> * 総書記官<br /> ** ヴォロディームィル・ヴィンヌィチェーンコ(内務担当官)<br /> ** セルヒーイ・イェフレーモウ(外務官)<br /> ** [[フルィストフォル・バラノーウシクィイ]](財政担当官)<br /> ** [[ボルィース・マールトス]](土地担当官)<br /> ** [[シモン・ペトリューラ]](軍事担当官)<br /> ** [[ヴァレンティーン・サドーウシクィイ]](司法担当官)<br /> ** [[イヴァン・ステシェーンコ]](教育担当官)<br /> ** [[パウロー・フルィスチューク]](一般書記)<br /> <br /> 第二次内閣<br /> * 総書記長:ヴォロディームィル・ヴィンヌィチェーンコ(1917年7月16日 - 1918年[[1月30日]])<br /> * 総書記官<br /> ** ヴォロディームィル・ヴィンヌィチェーンコ(内務担当官)<br /> ** ボルィース・マールトス(土地担当官)<br /> ** フルィストフォル・バラノーウシクィイ(財政担当官)<br /> ** ヴァレンティーン・サドーウシクィイ(司法担当官)<br /> ** シモン・ペトリューラ(軍事担当官)<br /> ** [[ウセーヴォロド・ホルボーヴィチ]](交通担当官)<br /> ** [[O・ザルビン]](郵政・電信担当官)<br /> ** [[オレクサーンドル・シュリヒーン]](外務担当官)<br /> ** [[M・ズィリベルファルブ]]([[ユダヤ人]]関係担当官)<br /> ** [[V・ミツケーヴィチ]](ポーランド関係担当官)<br /> ** [[P・ステブヌィツィクィイ]]([[サンクトペテルブルク|ペトログラート]]駐在臨時理事担当官)<br /> ** [[モイセイ・ラフェス]](国家管理担当官)<br /> <br /> ==== 国民閣僚ラーダ(1918年1月22日 - 1918年4月29日) ====<br /> 国民閣僚ラーダはウクライナ人民共和国の独立を宣言した「第4次ウニヴェルサール」により設立された執行機関。ウクライナ人民共和国の政府。<br /> <br /> 第一次内閣(1918年1月30日 - 1918年[[3月24日]])<br /> * [[首相]]:ウセーヴォロド・ホルボーヴィチ<br /> * [[外務大臣]]:ウセーヴォロド・ホルボーヴィチ<br /> * [[軍事大臣]]:[[A・ネモロウシクィイ]]<br /> * [[内務大臣]]:パウロー・フルィスチューク<br /> * [[財務大臣]]:[[S・ペレペルィーツャ]]<br /> * [[交通大臣]]:[[Ye・サコヴィチ]]<br /> * [[食糧大臣]]:[[ムィコーラ・コヴァレーウシクィイ]]<br /> * [[教育大臣]]:[[N・フルィホーリイィウ]]<br /> * [[土地大臣]]:[[A・テルヌィチェンコ]]<br /> * [[法務大臣]]:[[ムィハーイロ・トカチェーンコ]]<br /> * [[海事大臣]]:[[ドムィトロー・アントーノヴィチ]]<br /> <br /> 第二次内閣(1918年3月24日 - 1918年4月29日)<br /> * 総理大臣:ウセーヴォロド・ホルボーヴィチ<br /> * 内務大臣:ムィハーイロ・トカチェーンコ<br /> * 法務大臣:セルヒーイ・シェルヒン<br /> * 土地大臣:ムィコーラ・コヴァレーウシクィイ<br /> * 食糧大臣:[[S・コリウフ]]<br /> * [[労働大臣]]:[[L・ムィハーイリウ]]<br /> * 外務大臣:[[ムィコーラ・リュブィーンシクィイ]]<br /> * 交通大臣:Ye・サコヴィチ<br /> * 財務大臣:クルィモヴィチ<br /> * [[逓信大臣]]:[[T・シドレーンコ]]<br /> * [[通商工業大臣]]:[[I・フェシュチェンコ=チョピウシクィイ]]<br /> * 軍事大臣:[[オレクサンドル・ジュコーウシクィイ]]<br /> * [[国家管理大臣]]:[[O・ロトツィクィイ]]、ウリフ・ラツィクィイ<br /> * 国家書記官:パウロー・フルィスチューク<br /> <br /> === ディレクトーリヤ(1918年12月14日 - 1920年11月10日) ===<br /> * 執政官<br /> ** ヴォロディームィル・ヴィンヌィチェーンコ(1918年[[12月14日]] - 1919年[[2月13日]])<br /> ** シモン・ペトリューラ(1919年2月13日 - 1920年11月10日)<br /> * 政府指導者<br /> ** [[ヴォロディームィル・チェヒウシクィイ]](1918年[[12月26日]] – 1919年2月13日)<br /> ** [[セルヒーイ・オスタペーンコ]](1919年2月13日 - 1919年[[4月9日]])<br /> ** ボルィース・マールトス(1919年4月9日 - 1919年8月27日)<br /> ** [[イサアーク・マゼーパ]](1919年[[8月27日]] - 1920年[[5月26日]])<br /> ** [[ウヤチェスラーウ・プロコポーヴィチ]](1920年5月26日 - 1920年11月10日)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Ukrainian People&#039;s Republic}}<br /> * [[ロシア革命]]<br /> * [[ロシア内戦]]<br /> * [[ウクライナ内戦]]<br /> * [[ウクライナ・ソビエト戦争|ウクライナ・ソヴィエト戦争]]<br /> * [[ポーランド・ソビエト戦争|ポーランド・ソヴィエト戦争]]<br /> <br /> {{ウクライナの歴史}}<br /> {{ロシア革命後の国家}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:うくらいなしんみんきようわこく}}<br /> [[Category:ウクライナ人民共和国|*]]</div> 42.145.121.253 フランス共和国臨時政府 2018-04-21T14:32:52Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年12月}} <br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = フランス<br /> |日本語国名 = フランス共和国<br /> |公式国名 = {{lang|fr|&#039;&#039;&#039;République française&#039;&#039;&#039;}}<br /> |建国時期 = 1944年<br /> |亡国時期 = 1946年<br /> |先代1 = ヴィシー・フランス<br /> |先旗1 = Flag of France.svg<br /> |先代2 = 自由フランス<br /> |先旗2 = Flag of Free France (1940-1944).svg<br /> |次代1 = フランス第四共和政<br /> |次旗1 = Flag of France.svg<br /> |次代2 = <br /> |次旗2 = <br /> |国旗画像 = Flag of France.svg<br /> |国旗リンク = &lt;!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --&gt;<br /> |国旗幅 = &lt;!-- 初期値125px --&gt;<br /> |国旗縁 = &lt;!-- no と入力すると画像に縁が付かない --&gt;<br /> |国章画像 = Francecoatofarms1898-2.png<br /> |国章リンク = &lt;!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --&gt;<br /> |国章幅 = &lt;!-- 初期値85px --&gt;<br /> |標語 = <br /> |標語追記 = <br /> |国歌 = <br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 =France (1945-1949).png <br /> |位置画像説明 = <br /> |位置画像幅 = &lt;!-- 初期値250px --&gt;<br /> |公用語 = [[フランス語]]<br /> |首都 = [[パリ]]<br /> |元首等肩書 = <br /> |元首等年代始1 = 1944年<br /> |元首等年代終1 = 1946年<br /> |元首等氏名1 = [[シャルル・ド・ゴール]]<br /> |元首等年代始2 = 1946年<br /> |元首等年代終2 = 1946年<br /> |元首等氏名2 = [[フェリックス・グーアン]]<br /> |元首等年代始3 = 1946年<br /> |元首等年代終3 = 1946年<br /> |元首等氏名3 = [[ジョルジュ・ビドー]]<br /> |元首等年代始4 = 1946年<br /> |元首等年代終4 = 1947年<br /> |元首等氏名4 = [[レオン・ブルム]]<br /> |首相等肩書 = <br /> |首相等年代始1 = <br /> |首相等年代終1 = <br /> |首相等氏名1 = <br /> |首相等年代始2 = <br /> |首相等年代終2 = <br /> |首相等氏名2 = <br /> |面積測定時期1 = <br /> |面積値1 = <br /> |面積測定時期2 = <br /> |面積値2 = <br /> |人口測定時期1 = <br /> |人口値1 = <br /> |人口測定時期2 = <br /> |人口値2 = <br /> |変遷1 = 設立<br /> |変遷年月日1 = 1944年6月3日<br /> |変遷2 = 廃止<br /> |変遷年月日2 = 1946年10月27日<br /> |通貨 = [[フランス・フラン]]<br /> |通貨追記 = <br /> |時間帯 = <br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |注記 = <br /> }}<br /> {{フランスの歴史}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;フランス共和国臨時政府&#039;&#039;&#039;(フランスきょうわこくりんじせいふ、{{lang-fr|Gouvernement provisoire de la République française}}、略記 GPRF)は、[[1944年]]6月3日に北アフリカの[[アルジェ]]で成立した臨時政府。8月の[[パリの解放]]とともにパリに移転し、[[1946年]]10月27日に[[フランス第四共和政]]が成立するまでの期間、憲法制定とフランスの統治に当たった。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> 臨時政府は[[シャルル・ド・ゴール]]が率いた[[自由フランス]]と、北アフリカにいた旧ヴィシー政権軍が合同して成立した[[フランス国民解放委員会]] (CFLN) ([[:fr:Comité français de la Libération nationale|fr]]) を前身としている。1944年5月26日に国民解放委員会は自らをフランス共和国臨時政府に改組する布告を出し、6月3日に正式に発足した。しかし[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の多くはすぐに承認しなかった。<br /> <br /> 8月25日、パリのドイツ軍が降伏した同日にド・ゴールがパリに入り、8月31日には政府も正式に移転した。10月23日に[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス]]・[[ソビエト連邦]]が臨時政府を承認した。ド・ゴールのもと臨時政府はフランス政府として、[[第二次世界大戦]]末期を戦った。しかしフランス国内で行われた各種の選挙でド・ゴール派は奮わず、[[フランス共産党]]、[[フランス社会党 (SFIO)|フランス社会党]]、[[人民共和派]] ([[:fr:Mouvement républicain populaire|fr]]) といった左派が躍進した。<br /> <br /> 1945年10月21日に行われた憲法制定のための制憲議会選挙 ([[:fr:Élections législatives françaises de 1945]]) でも左派三派が躍進し、共産党が第一党となるなど全体の80%を占めた。[[急進党]]や[[民主同盟 (フランス)|民主同盟]] (ARD) ([[:fr:Alliance démocratique (France)|fr]]) といった右派やレジスタンスは奮わなかった。1946年1月20日に突如ド・ゴールは辞任し、 社会党の[[フェリックス・グーアン]] ([[:fr:Félix Gouin|fr]]) が政府主席となった。 1946年5月5日に憲法草案が制定されて国民投票が行われたが否決された。このため6月2日に再度制憲議会選挙 ([[:fr:Élections législatives françaises de juin 1946]]) が行われた。人民共和運動が第一党となったため、6月24日に[[ジョルジュ・ビドー]]が主席となった。憲法草案が再度作成され、10月13日に国民投票を行い決定された。これを受けて10月27日に憲法が施行され、第四共和政がスタートした。<br /> <br /> == 政治 ==<br /> 臨時政府はヴィシー政権は違憲であるとしており、1944年8月9日にヴィシー政権が発した諸法令は無効であるという布告を出した ([[:fr:Ordonnance du 9 août 1944 relative au rétablissement de la légalité républicaine sur le territoire continental|fr]])。反ユダヤ法や、反秘密結社([[フリーメイソン]]など)に関する法律、特別裁判所を設立する法律が無効となったが、有効とされた法律もあった&lt;ref name=&quot;Ord 1944-08-09&quot;&gt;[http://mjp.univ-perp.fr/france/co1944-1.htm Ordonnance du 9 août 1944 relative au rétablissement de la légalité républicaine sur le territoire continental]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また[[民兵団 (フランス)|民兵団]]や[[保安部隊]] ([[:fr:Service d&#039;ordre légionnaire|fr]]) といったヴィシー政権が樹立した[[コラボラシオン]]の民兵組織が解体された&lt;ref name=&quot;Ord 1944-08-09&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 植民地 ==<br /> 自由フランスは戦時中の[[ブラザヴィル会議]] ([[:fr:Conférence de Brazzaville|fr]]) で戦争協力と引き替えに、[[フランス植民地帝国|植民地]]の自治拡大を約束していた。臨時政府は植民地を[[フランス連合]]に改組するという政策を打ち出したが、基本的に以来の植民地保持政策は変わらなかった。[[フランス領インドシナ]]では[[ベトミン]]などの独立運動が高まり、植民地に成立した諸政府と{{仮リンク|フォンテーヌブロー会談|vi|Hội nghị Fontainebleau 1946|fr|Conférence de Fontainebleau|en|Fontainebleau Agreements}}を行ったが決裂し、[[第一次インドシナ戦争]]が勃発した。<br /> <br /> == 主席 ==<br /> Chef du Gouvernement provisoire de la République françaiseと称され、日本語では首相や大統領とも訳される。臨時政府自体は10月27日に解消されたが、主席は[[1947年]]1月16日の[[ヴァンサン・オリオール]]大統領就任までの間、フランスの国家元首を務めた。<br /> <br /> * [[シャルル・ド・ゴール]]:1944年6月2日~1946年1月20日<br /> * [[フェリックス・グーアン]] ([[:fr:Félix Gouin|fr]]) ([[フランス社会党 (SFIO)|労働者インターナショナル<br /> ・フランス支部]]):1946年1月20日~1946年6月24日<br /> * [[ジョルジュ・ビドー]](人民共和派):1946年6月24日~1946年12月16日<br /> * [[レオン・ブルム]]([[フランス社会党 (SFIO)|労働者インターナショナル<br /> ・フランス支部]]):1946年12月16日~1月16日<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *[[藤木登]]<br /> ** {{Cite journal|和書|author=藤木登 |title=第一次インドシナ戦争の起源 : モダス=ヴィヴェンディ |date=1996-03-30 |publisher=大東文化大学 |journal=大東法学 |volume=26 |number=2 |naid=110004723279 |pages=八三-一〇八 |ref=harv}}<br /> ** {{Cite journal|和書|author=藤木登 |title=第一次インドシナ戦争 (上) : フランス政治の中のインドシナ |date=1980-03-30 |publisher=大東文化大学 |journal=大東法学 |volume=7 |naid=110004723134 |pages=九五-一一二 |ref=harv}}<br /> ** {{Cite journal|和書|author=藤木登 |title=第一次インドシナ戦争 (中) : フランス政治の中のインドシナ |date=1981-03-30 |publisher=大東文化大学 |journal=大東法学 |volume=8 |naid=110004723141 |pages=九九-一一七 |ref=harv}}<br /> *[[村田尚紀]]<br /> ** {{Cite journal|和書|author=村田尚紀 |title=戦後フランス憲法前史研究ノート(一) |date=1987-01-31 |publisher=一橋大学 |journal=一橋研究 |volume=11 |number=4 |naid=110007620653 |pages=171-182 |ref=harv}}<br /> ** {{Cite journal|和書|author=村田尚紀 |title=戦後フランス憲法前史研究ノート(二) |date=1987-07-31 |publisher=一橋大学 |journal=一橋研究 |volume=12 |number=2 |naid=110007620631 |pages=129-141 |ref=harv}}<br /> ** {{Cite journal|和書|author=村田尚紀 |title=戦後フランス憲法前史研究ノート(三) |date=1988-01-30 |publisher=一橋大学 |journal=一橋研究 |volume=12 |number=4 |naid=110007620609 |pages=119-130 |ref=harv}}<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> *[https://web.archive.org/web/20090704122524/http://www.ordredelaliberation.fr/fr_doc/1_1_1_1.html Ordre de la Libération] - 解放勲章博物館([[:en:Musée de l&#039;Ordre de la Libération]])<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[ヴィシー政権]]<br /> *[[自由フランス]]<br /> *[[連合軍軍政期 (ドイツ)]]<br /> *[[ザール (フランス保護領)]]<br /> *[[仏ソ同盟条約]] ([[:fr:Traité d&#039;alliance entre la France et l&#039;URSS]])<br /> *[[第一次インドシナ戦争]]<br /> <br /> {{France-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:ふらんすきようわこくりんしせいふ}}<br /> [[Category:第二次世界大戦下のフランス|りんしせいふ]]<br /> [[Category:フランス第四共和政|りんしせいふ]]<br /> [[Category:フランスの政府]]<br /> [[Category:臨時政府]]<br /> [[Category:1944年に成立した国家・領域]]<br /> [[Category:1946年に廃止された国家・領域]]</div> 42.145.121.253 ナーブルス 2018-04-21T14:24:51Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{世界の市<br /> |正式名称 = ナーブルス&lt;!--必須--&gt;<br /> |公用語名称 = {{Lang|ar|نابلس}}&lt;!--必須--&gt;<br /> |愛称 = <br /> |標語 = <br /> |画像 = Nablus panorama-cropped enhanced.jpg<br /> |画像サイズ指定 = <br /> |画像の見出し = <br /> |市旗 = <br /> |市章 =<br /> |位置図 = <br /> |位置図サイズ指定 = <br /> |位置図の見出し = <br /> |位置図2 = <br /> |位置図サイズ指定2 = <br /> |位置図の見出し2 = <br /> |緯度度= 32|緯度分= 13|緯度秒= 13|N(北緯)及びS(南緯)= N<br /> |経度度= 35|経度分= 16|経度秒= 44|E(東経)及びW(西経)= E<br /> |成立区分 = <br /> |成立日 = <br /> |成立区分1 = <br /> |成立日1 = <br /> |成立区分2 = <br /> |成立日2 = <br /> |旧名 = <br /> |創設者 = <br /> |下位区分名 = {{PSE}}&lt;!--必須--&gt;<br /> |下位区分種類1 = 地区<br /> |下位区分名1 = [[ヨルダン川西岸地区]]<br /> |下位区分種類2 = [[パレスチナ自治区の行政区画|県]]<br /> |下位区分名2 = [[ナーブルス県]]<br /> |下位区分種類3 = <br /> |下位区分名3 = <br /> |下位区分種類4 = <br /> |下位区分名4 = <br /> |規模 = 市&lt;!--必須--&gt;<br /> |最高行政執行者称号 = <br /> |最高行政執行者名 = <br /> |最高行政執行者所属党派 = <br /> |総面積(平方キロ) = 28.6<br /> |総面積(平方マイル) = <br /> |陸上面積(平方キロ) = <br /> |陸上面積(平方マイル) = <br /> |水面面積(平方キロ) = <br /> |水面面積(平方マイル) = <br /> |水面面積比率 = <br /> |市街地面積(平方キロ) = <br /> |市街地面積(平方マイル) = <br /> |都市圏面積(平方キロ) = <br /> |都市圏面積(平方マイル) = <br /> |標高(メートル) = <br /> |標高(フィート) = <br /> |人口の時点 =[[2014年]][[7月1日]]<br /> |人口に関する備考 = <br /> |総人口 =146,500<br /> |人口密度(平方キロ当たり) = <br /> |人口密度(平方マイル当たり) = <br /> |市街地人口 = <br /> |市街地人口密度(平方キロ) = <br /> |市街地人口密度(平方マイル) = <br /> |都市圏人口 = <br /> |都市圏人口密度(平方キロ) = <br /> |都市圏人口密度(平方マイル) = <br /> |等時帯 = <br /> |協定世界時との時差 = <br /> |夏時間の等時帯 = <br /> |夏時間の協定世界時との時差 = <br /> |郵便番号の区分 = <br /> |郵便番号 = <br /> |市外局番 = <br /> |ナンバープレート = <br /> |ISOコード = <br /> |公式ウェブサイト =[http://www.nablus.org www.nablus.org]<br /> |備考 = <br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ナーブルス&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Nāblus&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;Nābulus&#039;&#039;&#039;、{{lang-ar|نابلس}} &#039;&#039;{{transl|ar|Nāblus}}&#039;&#039; {{IPA-ar|næːblʊs||ArNablus.ogg}}、{{lang-he-n|שכם}} &#039;&#039;{{transl|he|Šəḵem}}&#039;&#039;)は、[[パレスチナ自治区]]、[[ヨルダン川西岸地区]]([[ユダヤ・サマリア地区]])北部の[[ナーブルス県]]の県都。<br /> [[2014年]]の人口は14万6500人&lt;ref&gt;[https://www.citypopulation.de/Palestine.html|title= City Populatation]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}閲覧日:2017年1月22日&lt;/ref&gt;。<br /> [[ゲリジム山]]と[[エバル山]]の間にある。<br /> 市内とゲリジム山麓の村には[[サマリア人]]社会がある。<br /> [[ユダヤ教]]の隠れた[[聖地]]の一つでもある。<br /> <br /> ==人口==<br /> *[[1997年]][[12月10日]]:10万231人<br /> *[[2007年]][[12月1日]]:12万6132人<br /> *[[2014年]][[7月1日]]:14万6500人<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> ===シェケム===<br /> {{Main|シェケム}}<br /> [[ヘブライ聖書]]には[[シェケム]]([[:en:Shechem]]、シケム、シェヘム)として登場する。また、現代ヘブライ語でも、アラビア語でナーブルスに相当する地名をシェケムという。<br /> <br /> ===ナーブルス===<br /> [[72年]]、[[ティトゥス]]帝によりフラウィア・ネアポリス(Flavia Neapolis)と改称され、これが、ナーブルスという呼称の起源となった。[[ローマ帝国]]がこの地を治めたのち、[[イスラーム]]勢力が支配した。<br /> <br /> [[1099年]]より[[十字軍]]による街の支配が90年近く続き、イスラム教徒、キリスト教徒、[[サマリア人]]などが街に同居した。[[1187年]]、[[アイユーブ朝]]の[[サラディン]]の軍隊がパレスチナ地区を支配すると、イスラムの戒律が再び整備され、後に続く[[マムルーク朝]]、[[オスマン帝国]]へと引き継がれた。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]後は[[ヨルダン]]の統治下にあったが、1967年の[[第三次中東戦争]]より[[イスラエル]]の統治下に移った。1995年のパレスチナ自治拡大協定により[[パレスチナ自治政府]]のもとにおかれた。2003年、ナーブルスで[[ハマス]]幹部がイスラエルに暗殺されたことは、イスラエル政府とパレスチナの対立を激化させた。<br /> <br /> == 建築物 ==<br /> * [[ヤコブの泉|ヤコブの井戸]]<br /> * [[ヨセフ (ヤコブの子)|ヨセフ]]の墓([[:en:Joseph&#039;s Tomb]]) - 1967年以来、ムスリムによる礼拝はイスラエル軍により禁止された。また近年、イスラエル人による強行礼拝が問題となっている。<br /> * [[サマリア人]]コミュニティーと、ゲリジム山の神殿跡<br /> * [[ゲリジム山]]<br /> * [[エバル山]]<br /> <br /> ==姉妹都市==<br /> * {{flagicon|SCO}} [[ダンディー (スコットランド)|ダンディー]]、[[スコットランド]]、[[イギリス]]<br /> * {{flagicon|Italy}} [[ナポリ]]、[[イタリア]]<br /> * {{flagicon|Poland}} [[ポズナン]]、[[ポーランド]]<br /> * {{flagicon|Norway}} [[スタヴァンゲル]]、[[ノルウェー]]<br /> * {{flagicon|France}} [[リール (フランス)|リール]]、[[フランス]]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[:en:Category:Jews and Judaism in the Roman Empire]]<br /> * [[クナーファ]] - [[ナーブルスチーズ]]を使って作る。<br /> * [[ナブルスのオリーブ石鹼]]<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> {{commonscat|Nablus}}<br /> *[http://www.Nablus.org/ Official Nāblus website]<br /> *[http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=573&amp;letter=S JewishEncyclopedia]<br /> *[http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=158&amp;letter=G Gerizim - JewishEncyclopedia]<br /> *[http://www.us-israel.org/jsource/vie/Nablus.html Nāblus article from the &quot;Jewish virtual library&quot;]<br /> *[http://www.zajel.org/article_view.asp?newsID=920&amp;cat=19 Christianity in Nāblus]<br /> *[http://www.p-s-e.com Palestine Securities Exchange]<br /> *[https://web.archive.org/web/20051023194849/http://mepc.org/public_asp/journal_vol7/0010_denoeux.asp A site explaining the reasons for the devastated Palestinian economy]<br /> <br /> [[Image:Nablus panorama.jpg|centre|600px|thumb|ナーブルス]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:なふるす}}<br /> [[Category:パレスチナの都市]]<br /> [[Category:ローマ都市]]<br /> [[Category:聖書に登場する地名]]<br /> [[Category:ヨルダン川西岸地区]]<br /> [[Category:ユダヤ・サマリア地区]]<br /> {{Palestine-stub}}</div> 42.145.121.253 セルビア王国 (中世) 2018-04-15T01:17:15Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Otheruses|中世に存在した国家|近代の同名の国家|セルビア王国 (近代)}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 =セルビア<br /> |日本語国名 =セルビア王国<br /> |公式国名 ={{lang|sr|&#039;&#039;&#039;Краљевина Србија&#039;&#039;&#039;}}<br /> |建国時期 =[[1171年]]<br /> |亡国時期 =[[1346年]]<br /> |先代1 =:sr:Рашка<br /> |先旗1 =Seal of Stefan Nemanja.svg<br /> |先旗1縁 =no<br /> |次代1 =セルビア帝国<br /> |次旗1 =Flag of the Serbian Empire, reconstruction.svg<br /> |国旗画像 =Flag of Serbia 1281.svg<br /> |国旗リンク = &lt;!--「&quot;略名&quot;の国旗」以外を指定--&gt;<br /> |国旗説明 = <br /> |国旗幅 = &lt;!--初期値125px--&gt;<br /> |国旗縁 = &lt;!--no と入力すると画像に縁が付かない--&gt;<br /> |国章画像 = Coat of Arms of NemanjićV2.svg<br /> |国章リンク =<br /> |国章説明 =<br /> |国章幅 = &lt;!--初期値85px--&gt;<br /> |標語 =<br /> |国歌名 =<br /> |国歌追記 =<br /> |位置画像 =Serb_lands_in_the_9th_century_(en).png<br /> |位置画像説明 =セルビア王国<br /> |公用語 =[[セルビア語]]<br /> |首都 =[[スタリ・ラス|ラス]]、[[スコピエ]]<br /> |元首等肩書 =[[国王]]<br /> |元首等年代始1 =[[1171年]]<br /> |元首等年代終1 =[[1196年]]<br /> |元首等氏名1 =[[ステファン・ネマニャ]](初代)<br /> |元首等年代始2 =[[1196年]]<br /> |元首等年代終2 =[[1228年]]<br /> |元首等氏名2 =[[ステファン・ネマニッチ]](第2代)<br /> |元首等年代始3 =<br /> |元首等年代終3 =<br /> |元首等氏名3 =<br /> |元首等年代始4 =<br /> |元首等年代終4 =<br /> |元首等氏名4 =<br /> |元首等年代始5 =[[1331年]]<br /> |元首等年代終5 =[[1346年]]<br /> |元首等氏名5 =[[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]](第9代・初代皇帝)<br /> |面積測定時期1 =<br /> |面積値1 =<br /> |面積測定時期2 =<br /> |面積値2 =<br /> |面積測定時期3 =<br /> |面積値3 =<br /> |面積測定時期4 =<br /> |面積値4 =<br /> |面積測定時期5 =<br /> |面積値5 =<br /> |人口測定時期1 =<br /> |人口値1 =<br /> |人口測定時期2 =<br /> |人口値2 =<br /> |人口測定時期3 =<br /> |人口値3 =<br /> |人口測定時期4 =<br /> |人口値4 =<br /> |人口測定時期5 =<br /> |人口値5 =<br /> |変遷1 =成立<br /> |変遷年月日1 =[[1171年]]<br /> |変遷2 =王国の承認<br /> |変遷年月日2 =[[1217年]]<br /> |変遷3 =<br /> |変遷年月日3 =<br /> |変遷4 =<br /> |変遷年月日4 =<br /> |変遷5 =帝国となる<br /> |変遷年月日5 =[[1346年]]<br /> |通貨 =<br /> |注記 =<br /> }}<br /> [[Image:Serb_lands_in_the_10th_century_(en).png|thumb|300px]]<br /> &#039;&#039;&#039;セルビア王国&#039;&#039;&#039;(セルビアおうこく、{{lang-sr|&#039;&#039;&#039;Краљевина Србија&#039;&#039;&#039;}})は、現在の[[セルビア]]を中心とした[[中世]]の[[王国]]。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === ネマニッチ朝の成立 ===<br /> 南[[スラヴ]](ユーゴスラヴ)の一派であるセルビア人は[[7世紀]]初め頃にバルカン西部に南下し、[[9世紀]]後半には[[東ローマ帝国]]の影響下で[[正教会]]を受入れた。セルビア人は長くジューバと呼ばれる部族共同体に分立していたが、[[12世紀]]後半に[[東ローマ帝国]]の衰退に乗じて[[ステファン・ネマニャ]]が[[1168年]]に諸部族を統一してセルビア侯となる。その後、拡大した勢力を背景として[[1171年]]には[[国王]]として即位し、&#039;&#039;&#039;[[ネマニッチ朝]]&#039;&#039;&#039;を開いた。なお、始祖の名前は「ネマニャ」であるが、第二世代以降は指小語ićを付けて「ネマニッチ」(Nemanjić)とするので王朝の名前も「ネマニッチ朝」となる。第二代の[[ステファン・ネマニッチ]](ステファン初代戴冠王)は[[1217年]]に[[教皇|ローマ教皇]][[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]]から王冠を授与されて「王国」としての地位を国際的に認めさせ、実質的なセルビア王国の建国者となった。<br /> <br /> === 再興 ===<br /> ステファン・ネマニッチの死後、セルビアは内紛が続き発展の機会を逸したが、[[ステファン・ウロシュ2世ミルティン]]の時代([[1282年]]-[[1321年]])には安定を取り戻すと、東ローマ帝国や[[第二次ブルガリア帝国]]と対立、抗争を繰り広げつつ次第に領土を南に拡大していく。[[14世紀]]前半に登場した王[[ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ]]は[[1330年]]、[[ヴェルブジュドの戦い]]に於いてブルガリアの大軍を寡兵で撃破し、ブルガリアに代わって[[バルカン半島]]の盟主の座に就いた。続いて登場した英主[[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]は東ローマ帝国の内乱に乗じて[[マケドニア]]、[[テッサリア]]、[[イピロス]]及び[[アルバニア]]を征服してセルビア王国の最大領土を築き、[[1346年]]にはマケドニアの[[スコピエ]]に於いて「セルビア人とローマ人の[[皇帝]]」と称して東ローマ帝国の征服を企図した。[[1349年]]には[[ドゥシャン法典]]を発布して国家の基本法を完成させ、セルビア帝国の最盛期を築き上げたのである。しかし[[1355年]]、ドゥシャンは東ローマ帝国征服の遠征に乗り出した直後の陣中で、病のために急死してしまった。<br /> <br /> === ネマニッチ朝の断絶 ===<br /> ドゥシャンの死後、セルビア帝国は急速に衰退する。拡大した広大な帝国の各地で諸侯が自立していく中、ドゥシャンの息子[[ステファン・ウロシュ5世]]は単独で皇位を維持しきれず、ムルニャヴチェヴィチ家の[[ヴカシン・ムルニャヴチェヴィチ|ヴカシン]]との共同支配を余儀なくされる。ヴカシンはバルカン半島に上陸してきたオスマン帝国を迎え撃ったが[[1371年]]の[[マリツァの戦い (1371年)|マリツァ河畔の会戦]]で敗死、同じ年にウロシュ5世も死去しネマニッチ朝はここに断絶した。その後、諸侯の群雄割拠の状況の中で[[ラザル・フレベリャノヴィチ]]が最有力の君主として主導的立場を固めていく。<br /> <br /> === コソヴォの戦い ===<br /> {{Main|コソボの戦い}}<br /> この頃、セルビアは[[オスマン帝国]]の[[スルタン]]・[[ムラト1世]]の侵攻に悩まされていた。ラザルはセルビアの独立を守るため、[[1389年]]にムラト1世率いるオスマン軍と[[コソボ|コソヴォ]]で戦ったが大敗して捕虜となってしまう。その直後、ムラト1世がセルビア人貴族{{仮リンク|ミロシュ・オビリチ|en|Miloš Obilić}}によって暗殺されたため、その報復としてラザルも処刑されてしまった。<br /> <br /> === オスマン帝国への臣従 ===<br /> ラザルの死後、その息子ステファン・ラザレヴィチ([[1389年]] - [[1427年]])は父の後を継ぎ、「公」(東ローマの[[専制公]]称号を採用したが独立国家の主としては公となる)としてオスマン帝国に臣従し、実質的にその帝国の属国としての歴史を歩む事になった。ラザレヴィチ及びその甥に当たるジュラジ・ブランコヴィチ(1427年 - [[1456年]])は[[ドナウ川|ドナウ]]河畔のスメデレヴォを拠点とし、南のオスマン帝国、北の[[ハンガリー王国]]との間で巧みな外交政策によって命脈を保った。ジュラジの死後は政変が相次ぎ、オスマン帝国はそれに乗ずる形でセルビアを徐々に併合していった。[[1459年]]6月、スメデレヴォはオスマン軍によって占領され、ここに中世のセルビア国家は滅びたのである。<br /> <br /> == 歴代セルビア君主一覧 ==<br /> ===セルビア王国・ネマニッチ朝({{lang|sr|Немањићи}})(1168年 - 1371年)===<br /> ~君主号・大ジュパン(侯)({{lang|sr|велики жупан}}, [[1168年]]-[[1217年]])-王({{lang|sr|краљ, kralj}}, 1217年-[[1346年]]) - 皇帝({{lang|sr|цар, tsar}}, 1346年-[[1371年]])<br /> ~自称セルビア王([[1171年]]-[[1217年]])<br /> ==一覧==<br /> {| style=&quot;width:100%;&quot; class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! style=&quot;background:#b0dc58; width:8%;&quot;| 代数<br /> ! style=&quot;background:#b0dc58; width:12%;&quot;| 肖像<br /> ! style=&quot;background:#b0dc58; width:20%;&quot;| 名前<br /> ! style=&quot;background:#b0dc88; width:9%;&quot;| 生年<br /> ! style=&quot;background:#b0dc88; width:28%;&quot;| 在位<br /> ! style=&quot;background:#b0dc28; width:9%;&quot;| 没年<br /> ! style=&quot;background:#b0dc28; width:20%;&quot;| 備考<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|初代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Stefan Nemanja.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ネマニャ]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Немања, Stefan Nemanja}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1113年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|(自称セルビア王)[[1171年]]-[[1196年]]&lt;br&gt;[[サンジャク (地名)|ラシュカ]]侯([[1168年]] - [[1196年]])<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1200年]] <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第2代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Stefan the First-Crowned, Ljeviška.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ネマニッチ]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Немањић Првовенчани, Stefan Nemanjić Prvovenčani}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1165年]]頃<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|(ラシュカ侯・自称セルビア王)1196年-[[1217年]]&lt;br&gt;(セルビア王)1217年-[[1228年]] <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|1228年<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ネマニャの第二子<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第3代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Stefanradoslav.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ラドスラヴ]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Радослав Немањић, Stefan Radoslav}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1192年]]以前<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|1228年-[[1233年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1235年]]以後<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ネマニッチの子<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第4代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Fresco of Stefan Vladislav, Mileševa, edited.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ヴラディスラヴ]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Владислав Немањић, Stefan Vladislav}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1198年]]頃<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|1233年-[[1242年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1264年]]以後<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ネマニッチの子、ステファン・ラドスラヴの弟<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第5代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Loza Nemanjica Decani d 6.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ウロシュ1世]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Урош I Немањић, Stefan Uroš I}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1223年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|1242年-[[1276年]] <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1277年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ネマニッチの末子、ステファン・ヴラディスラヴの異母弟<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第6代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:StefanDragutin.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ドラグティン]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Драгутин ,Немањић Stefan Dragutin}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|?<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|1276年-[[1282年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1316年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ウロシュ1世の長子<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第7代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Milutinst.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ウロシュ2世ミルティン]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Урош II Милутин Немањић, Stefan Uroš II Milutin}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1253年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|1282年-[[1321年]] <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1321年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ウロシュ1世の末子、ステファン・ドラグティンの弟<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第8代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Stefan Decanski ktitor.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Урош III Дечански Немањић, Stefan Uroš III Dečanski}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1285年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|1321年-[[1331年]] <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1331年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ウロシュ2世ミルティンとブルガリア王女アンナの子<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|対立王<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Konstantin Gracanica loza lik.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・コンスタンティン]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Константин, Stefan Konstantin}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1282年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|1321年-[[1322年]] <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1322年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ウロシュ2世ミルティンとアンゲロス家の王女の子<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第9代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:CarDusan.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Урош IV Душан Немањић, Stefan Uroš IV Dušan}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1308年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|(王)1331年-[[1346年]]&lt;br&gt;(皇帝)1346年-[[1355年]] <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1355年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ウロシュ3世デチャンスキの子<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第10代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:UrosV.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ウロシュ5世]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Урош V Немањић, Stefan Uroš V}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1336年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|1355年-[[1371年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1371年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの唯一の子<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|共同<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:King Vukašin, Psača.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ヴカシン・ムルニャヴチェヴィチ]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Вукашин Мрњавчевић, Vukašin Mrnjavčević}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1320年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|(王・共同統治)[[1365年]]-[[1371年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1371年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|プリズレン、スコピエ、プリレプを支配<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|共同<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Loza Nemanjica Decani c 5 2.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[シメオン・ウロシュ・パレオロゴス]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Симеон-Синиша Урош Палеолог Немањић, Symeon Uroš Palaiologos}}, {{lang|el|Συμεών Ούρεσις Παλαιολόγος}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|?<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1359年]]-[[1371年]](皇帝/[[ギリシア]]・[[テッサリア]]支配)<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1371年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの異母弟、[[セサリア]]皇帝<br /> |}<br /> ([[1371年]]、ウロシュ5世及びシメオン・ウロシュ・パレオロゴス死去に伴いネマニッチ王家断絶/両者及びヴカシン死去に伴い帝国-王国解体)<br /> <br /> === セルビア公国 ===<br /> {| style=&quot;width:100%;&quot; class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! style=&quot;background:#b0dc58; width:8%;&quot;| 代数<br /> ! style=&quot;background:#b0dc58; width:12%;&quot;| 肖像<br /> ! style=&quot;background:#b0dc58; width:20%;&quot;| 名前<br /> ! style=&quot;background:#b0dc88; width:9%;&quot;| 生年<br /> ! style=&quot;background:#b0dc88; width:28%;&quot;| 在位<br /> ! style=&quot;background:#b0dc28; width:9%;&quot;| 没年<br /> ! style=&quot;background:#b0dc28; width:20%;&quot;| 備考<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|初代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Prince Lazar (Ravanica Monastery).jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ラザル・フレベリャノヴィチ]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Лазар Хребељановић, Lazar Hrebeljanović}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1329年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|(セルビア侯)[[1371年]]-[[1389年]] <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1389年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第2代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Stefan Lazarevic.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ラザレヴィチ]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Стефан Лазаревић, Stefan Lazarević}})<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1377年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|(セルビア公)1389年-[[1427年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1427年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ラザレヴィチの子<br /> |}<br /> ~君主号・侯({{lang|sr|Кнез, knez}}, [[1371年]]-[[1389年]])-公([[専制公]], {{lang|sr|Деспот}}, despot = {{lang|el|δεσπότης}}, 1389年-[[1459年]])<br /> <br /> === ブランコヴィチ家({{lang|sr|Бранковићи}})===<br /> {| style=&quot;width:100%;&quot; class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! style=&quot;background:#b0dc58; width:8%;&quot;| 代数<br /> ! style=&quot;background:#b0dc58; width:12%;&quot;| 肖像<br /> ! style=&quot;background:#b0dc58; width:20%;&quot;| 名前<br /> ! style=&quot;background:#b0dc88; width:9%;&quot;| 生年<br /> ! style=&quot;background:#b0dc88; width:28%;&quot;| 在位<br /> ! style=&quot;background:#b0dc28; width:9%;&quot;| 没年<br /> ! style=&quot;background:#b0dc28; width:20%;&quot;| 備考<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|初代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Djuradj Esfigmen.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ジュラジ・ブランコヴィチ]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Ђурађ Бранковић, Djuradj Branković}}) <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1377年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1427年]]-[[1456年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1456年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ステファン・ラザレヴィチの甥、ラザル・フレベリャノヴィチの外孫<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第2代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Lazar Branković, Esphigmenou charter (1429).jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ラザル・ブランコヴィチ]]&lt;br&gt;({{lang|sr|Лазар Бранковић, Lazar Branković}}) <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1421年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|1456年-[[1458年]] <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1458年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ジュラジ・ブランコヴィチの末子<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第3代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Stefan Branković, Esphigmenou charter (1429).jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・ブランコヴィチ]]({{lang|sr|Стефан Бранковић, Stefan Branković}}) <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1417年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|1458年-[[1459年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1476年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ラザル・ブランコヴィチの兄<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|第4代<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[Image:Stjepan Tomašević cropped.jpg|150px]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[ステファン・トマシェヴィチ]]({{lang|sr|Стефан - Стјепан Томашевић Котроманић, Stefan- Stjepan Tomašević Kotromanić}}) <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1438年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1458年]]/ [[1459年]][[3月21日]]-[[6月30日]](ボスニア王として1461年-1463年) <br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|[[1463年]]<br /> | style=&quot;text-align:center;&quot;|ボスニア王子、ラザル・ブランコヴィチの娘婿<br /> |}<br /> <br /> ([[1459年]][[6月30日]]、セルビア公国滅亡)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[セルビアの歴史]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:せるひあおうこく}}<br /> [[Category:セルビア王国|*]]<br /> [[Category:中世ヨーロッパ]]<br /> [[Category:オスマン帝国の地理]]<br /> [[Category:オスマン帝国の歴史]]<br /> [[Category:かつてバルカンに存在した国家]]</div> 42.145.121.253 トゥーロン 2018-03-31T10:25:25Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2018-01-05}}<br /> {{Communefra<br /> |nomcommune=トゥーロン&lt;br&gt;Toulon<br /> |image=[[File:Flag of Toulon.svg|border|150px]] [[File:Armoiries ville fr Toulon (83).svg|130px]]&lt;br /&gt;[[file:Montage Toulon.JPG|300px]]<br /> |région=[[File:Flag of Provence-Alpes-Cote dAzur.svg|border|25px]] [[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏|プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏]]<br /> |département=[[File:Drapeau fr département Var.svg|border|25px]] [[ヴァール県]]&lt;br /&gt;(県庁所在地)<br /> |arrondissement=[[トゥーロン郡]]&lt;br /&gt;(郡庁所在地)<br /> |canton=9小郡庁所在地<br /> |insee=83137<br /> |cp=83000<br /> |maire=ユベール・ファルコ<br /> |mandat=[[2014年]] - [[2020年]]<br /> |intercomm=[[:fr:Communauté d&#039;agglomération Toulon Provence Méditerranée]]<br /> |longitude=5.933333<br /> |latitude=43.116667<br /> |alt moy=1m<br /> |alt mini=0m<br /> |alt maxi=584m<br /> |hectares=4284<br /> |km2=42,84<br /> |sans=164899<br /> |date-sans=[[2012年]]<br /> |dens=3849<br /> |nomhab=Toulonnais<br /> |siteweb=[http://www.toulon.fr/ toulon.fr]<br /> |}}<br /> &#039;&#039;&#039;トゥーロン&#039;&#039;&#039;({{lang-fr|&#039;&#039;&#039;Toulon&#039;&#039;&#039;}} &lt;small&gt;[http://ja.forvo.com/word/toulon#fr 発音例]&lt;/small&gt;・{{lang-oc|&#039;&#039;&#039;Tolon&#039;&#039;&#039;}})は、[[フランス]]の南東部に位置する、[[地中海]]に面する都市。[[ヴァール県]]の[[県庁所在地]]である。&#039;&#039;&#039;トゥロン&#039;&#039;&#039;や&#039;&#039;&#039;ツーロン&#039;&#039;&#039;と表記されることもある。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[地中海]]の[[トゥーロン湾]]にのぞみ、[[フランス王国|王政]]の時代から現代にいたるまで[[フランス海軍]]の基地がおかれている[[軍港]]であり、現在フランス第一の軍港、および海軍[[工廠]]、[[地中海艦隊 (フランス)|地中海艦隊]]の[[司令部]]がある。工業・商業・漁業の中心地でもあり、造船・化学・繊維・機械・食品加工・兵器などの産業が発達している。港の東の部分は商港と[[ヨットハーバー]]となっており、[[コルシカ島]]や[[サルデーニャ島]]への連絡船が発着している。<br /> <br /> [[ヴィクトル・ユーゴー|ヴィクトル・ユゴー]]作『[[レ・ミゼラブル]]』では、主人公のジャン・ヴァルジャンが{{仮リンク|トゥーロン刑務所|fr|Bagne de Toulon}}に入っていたことになっており、ここを出所することから彼の波瀾に満ちた人生の幕が開ける。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[古代ローマ]]時代にはテロ・マルティウス(Telo Martius)とよばれる小さな集落であった。[[ブルボン朝]]の[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]と[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]によって海軍基地として要塞化され、[[スペイン継承戦争]]中の[[1707年]]には[[イギリス]]と[[オランダ]]の連合艦隊の攻撃をうけたが持ちこたえている([[トゥーロン包囲戦 (1707年)|トゥーロン包囲戦]])。<br /> <br /> [[フランス革命]]中の1793年に、革命に反対する[[王党派]]が町の支配をイギリス・スペイン海軍にゆだねたものの、共和派の軍隊に包囲され、陥落した([[トゥーロン攻囲戦]])。この戦闘で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]は砲兵士官として活躍し、一躍名を知られるようになった。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]中の1942年、[[ドイツ軍]]に奪われるのを阻止するため、[[ヴィシー政権|ヴィシー・フランス]]軍は{{仮リンク|トゥーロンでのフランス艦隊の自沈|label=港に停泊中の多数の軍艦を自沈させた|en|Scuttling of the French fleet in Toulon}}。この戦争で町は徹底的に破壊されたが、1944年に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍によって解放された。<br /> {{Gallery<br /> |width=400<br /> |height=50<br /> |1=ファイル:Panoramique Baie Toulon.jpg|2=トゥーロンのパノラマ<br /> }}<br /> <br /> == 出身人物 ==<br /> * [[ピエール・ミニョニ]] - ラグビー選手<br /> <br /> == 姉妹都市 ==<br /> * {{Flagicon|RUS}} [[クロンシュタット]]、[[ロシア連邦]]<br /> * {{Flagicon|MAR}} [[ケミセット]]、[[モロッコ]]<br /> * {{Flagicon|USA}} [[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]、[[アメリカ合衆国]]<br /> * {{Flagicon|GER}} [[マンハイム]]、[[ドイツ]]<br /> * {{Flagicon|ITA}} [[ラ・スペツィア]]、[[イタリア]]<br /> <br /> == 関連書籍 ==<br /> * Maurice Arreckx, &#039;&#039;Vivre sa ville&#039;&#039;, Paris, La Table ronde, 1982 ; &#039;&#039;Toulon, ma passion&#039;&#039;, 1985<br /> * [[ジャン=ピエール・ティオレ|ジャン=ピエール・ティオレ]] Jean-Pierre Thiollet, &#039;&#039;Le Chevallier à découvert&#039;&#039;, Paris, Laurens, 1998<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[トゥーロン国際大会]] - 同市で開催される、サッカーの23歳以下の選手を対象とした国際大会。<br /> * [[横須賀市]] - 周辺の地形がトゥーロンに似ていたことが、軍港建設のきっかけとなった。<br /> * [[RCトゥーロン]] - トゥーロンに本拠地を置くラグビーユニオンクラブ。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons&amp;cat|Toulon|Toulon}}<br /> * [https://web.archive.org/web/20060614183102/http://www.toulon.com/ トゥーロン市 公式サイト]{{Fr icon}}<br /> * [http://www.vivelaprovence.info/ Vive la Provence ! プロヴァンス万歳!] <br /> <br /> {{France-stub}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:とううろん}}<br /> <br /> [[Category:フランスの都市]]<br /> [[Category:県庁所在地 (フランス)]]<br /> [[Category:ヴァール県のコミューン]]<br /> [[Category:ヨーロッパの港町]]</div> 42.145.121.253 エフゲニー・キーシン 2018-03-11T09:23:25Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Infobox Musician &lt;!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--&gt;<br /> | Name = エフゲニー・イーゴレヴィチ・キーシン&lt;br&gt;{{lang|ru|Евгений Игоревич Кисин}}<br /> | Img = Evgeny Kissin TA 2011.jpg<br /> | Img_capt = 2011年<br /> | Img_size = &lt;!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --&gt;<br /> | Landscape = &lt;!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --&gt;<br /> | Background = classic<br /> | Born = {{生年月日|1971|10|10}} <br /> | Birth_name = &lt;!-- 個人のみ --&gt;&lt;!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --&gt;<br /> | Alias = <br /> | Blood = &lt;!-- 個人のみ --&gt;<br /> | School_background = [[グネーシン音楽学校]]<br /> | Died = <br /> | Origin = {{SSR}}&lt;br&gt;[[File:Flag of the Russian Soviet Federative Socialist Republic.svg|border|25px]] [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア共和国]] [[モスクワ]]<br /> | Instrument = [[ピアノ]]<br /> | Genre = [[クラシック音楽]]<br /> | Occupation = [[ピアニスト]]<br /> | Years_active = <br /> | Label = <br /> | Production = <br /> | Associated_acts = <br /> | Influences = <br /> | URL = [http://www.kissin.dk/ Evgeny Kissin&#039;s Fan Club Homepage]<br /> | Current_members = &lt;!-- グループのみ --&gt;<br /> | Past_members = &lt;!-- グループのみ --&gt;<br /> | Notable_instruments = <br /> }}<br /> {{Portal クラシック音楽}}<br /> &#039;&#039;&#039;エフゲニー・キーシン&#039;&#039;&#039;(Evgeny Kissin, {{lang-ru|Евгений Игоревич Кисин}}, [[1971年]][[10月10日]] - )はロシア、イギリス、[[イスラエル]]の国籍を持つ[[ピアニスト]]。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> [[モスクワ]]でユダヤ系の家系に生まれる。わずか2歳でピアノを学び始める。のち[[グネーシン音楽学校]]に進んで、アンナ・パヴロフナ=カントルに今日まで師事する。10歳で[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[ピアノ協奏曲第20番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第20番]](K.466)を弾いてデビュー、11歳で初リサイタルを開くなど、幼い頃から神童ぶりを発揮する。12歳の時、[[ドミトリー・キタエンコ]]の指揮する[[モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団]]で弾いた[[フレデリック・ショパン|ショパン]]のピアノ協奏曲が発売され、世界中の注目を浴びることとなる。<br /> <br /> 以来、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[ロンドン交響楽団]]、[[クラウディオ・アバド|アバド]]、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]、[[小澤征爾|小澤]]など多くの著名[[オーケストラ]]、[[指揮者]]と共演。<br /> <br /> コンクール入賞歴こそほとんどないが、国際的ピアニストとして世界各地で演奏、さらに録音活動を積極的に続けている。[[1986年]]、初来日し全国ツアーを行う。[[2003年]]再来日。いずれも好評である。[[1990年]][[9月30日]]に[[カーネギー・ホール]]において、アメリカ・デビューを果たす。当日の演奏は絶賛され、CD化されて、世界的名声をいっそう確かなものとした。<br /> <br /> 近年は自作の発表を行っていないようだが、少年時代にはピアノ小品を作曲・演奏・録音していた。ソ連時代には、世界各地の民謡をリサイタル後のアンコール・ピースとして編曲したこともあった。日本の[[文部省唱歌]]を編曲したものは、まとめてアルバムも作ったが現在は入手が困難である。<br /> <br /> 旧ソ連生まれだが、2002年に英国籍、2013年にイスラエル国籍も取得している多重国籍者である。<br /> <br /> == 主なレパートリー ==<br /> [[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[フランツ・リスト|リスト]]、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]、[[アレクサンドル・スクリャービン|スクリャービン]]、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]など多岐に渡るレパートリーを誇っている。かつては[[ロマン派音楽]]と[[ロシア]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]のピアノ音楽を中心に、超絶技巧を聴かせる曲目が多かったが、近年では[[セザール・フランク|フランク]]や[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]、[[ニコライ・メトネル|メトネル]]など、より内面的・瞑想的な性格の作曲家の作品にも意欲的にとりくみ、新境地を開拓している。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Evgeny Kissin}}<br /> * [http://www.kissin.dk/ Evgeny Kissin&#039;s Fan Club Homepage]<br /> *[https://www.facebook.com/EvgenyKissin.fanpage Evgeny Kissin&#039;s fanpage on Facebook]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:きいしん えふけに}}<br /> [[Category:ロシアのクラシック音楽のピアニスト]]<br /> [[Category:ソビエト連邦のピアニスト]]<br /> [[Category:グラミー賞受賞者]]<br /> [[Category:グネーシン音楽大学出身の人物]]<br /> [[Category:モスクワ出身の人物]]<br /> [[Category:1971年生]]<br /> [[Category:存命人物]]</div> 42.145.121.253 フェルナンド7世 (スペイン王) 2018-02-13T11:09:58Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = フェルナンド7世<br /> | 各国語表記 = Fernando VII<br /> | 君主号 = スペイン王<br /> | 画像 = Francisco Goya - Portrait of Ferdinand VII of Spain in his robes of state (1815) - Prado.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[1808年]][[3月19日]] - [[5月6日]]&lt;br&gt;[[1813年]][[12月11日]] - [[1833年]][[9月29日]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 姓名 = <br /> | 出生日 = [[1784年]][[10月14日]]<br /> | 生地 = {{ESP1748}}、[[エル・エスコリアル修道院|エル・エスコリアル]]<br /> | 死亡日 = [[1833年]][[9月29日]]<br /> | 没地 = {{ESP1785}}、[[マドリード]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 配偶者1 = [[マリア・アントニア・デ・ナポレス・イ・シシリア]]<br /> | 配偶者2 = [[マリア・イサベル・デ・ブラガンサ]]<br /> | 配偶者3 = [[マリア・ホセファ・デ・サホニア]]<br /> | 配偶者4 = [[マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン]]<br /> | 子女 = [[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]&lt;br&gt;[[ルイサ・フェルナンダ・デ・ボルボン|ルイサ・フェルナンダ]]<br /> | 王家 = [[ブルボン家|スペイン・ブルボン家]]<br /> | 王朝 = [[スペイン・ブルボン朝]]<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = [[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]<br /> | 母親 = [[マリア・ルイサ・デ・パルマ]]<br /> | サイン =Firma de Fernando VII.png<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;フェルナンド7世&#039;&#039;&#039;({{lang-es|&#039;&#039;&#039;Fernando VII&#039;&#039;&#039;}}, [[1784年]][[10月14日]] - [[1833年]][[9月29日]])は、[[スペイン国王]](在位:[[1808年]]、[[1813年]] - 1833年)である。<br /> <br /> == 前半生 ==<br /> スペイン国王[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]と妃[[マリア・ルイサ・デ・パルマ|マリーア・ルイーサ・デ・パルマ]]の長男として、[[マドリード]]近くの[[エル・エスコリアル修道院|エル・エスコリアル]]の広大な宮殿で生まれた。<br /> <br /> フェルナンドが生きた時代、[[フランス]]では[[フランス革命]]が勃発、それによる[[フランス革命戦争]]、続く[[ナポレオン戦争]]は全ヨーロッパを巨大な動乱へ巻き込むこととなった。戦乱は体制の腐敗と老朽化が進んでいたスペインに大きな悲劇をもたらし、久しく国際舞台から外れていたスペインをヨーロッパで最大の関心事とすることになる。<br /> <br /> 少年から青年時代にかけては、王位継承者とはいえ両親と両親のお気に入り[[マヌエル・デ・ゴドイ]](母の愛人)から除け者にされているという辛い立場に追いやられ、彼らに恨みを抱きつつ、自重していた。この間にも弱体化した政府に対する全国の不満は高まり、[[1805年]]には大規模な暴動が起きている。政情不安が続く[[1807年]][[10月]]、フェルナンドはエスコリアル陰謀事件の共犯として逮捕された。この陰謀は政府内の[[リベラル]]な改革派がフランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の助けを得てカルロス4世らを追放し、フェルナンドを新王に就けようとしたものである。改革派の希望の星という立場であったにもかかわらず、フェルナンドは陰謀が発覚すると彼らをさっさと裏切り、両親の指示に従った。<br /> <br /> 父カルロス4世が[[1808年]]3月に[[アランフエス]]の民衆の暴動で退位を余儀なくされると、フェルナンドがスペイン王フェルナンド7世として即位した。フェルナンドはフランスの自身への助力を期待していたが、ナポレオンの考えは自身によるスペイン支配へと変わっており、結局フェルナンドも退位を強要されることになる。その後スペイン本土はナポレオン支配に反発する民衆の組織した[[ゲリラ]]と、それを支援するイギリス軍と、[[大陸軍 (フランス)|フランス軍]]との間で7年近くもの間[[スペイン独立戦争]]の舞台となるが、フェルナンドは無為無策のままフランスの[[ヴァランセ宮殿]]に囚われていた。<br /> <br /> [[1814年]]3月、ナポレオンの敗北が決定的となり、フェルナンドも解放された。それを知った[[第六次対仏大同盟|連合軍]]はフェルナンドをマドリードに帰還させた。解放を非難するスペイン人は、初めてフェルナンドを歓迎することでナポレオンによる占領と戦争に対してフランスびいき(&#039;&#039;afrancesados&#039;&#039;)であることを明らかにした。フェルナンドはじきにスペイン国民が自分の名において対仏戦争を戦い、自分の名において[[フンタ (半島戦争)|フンタ]]が[[ラテンアメリカ]]を統治してきたとはいえ、スペインが外国の侵略と国内の革命で誕生した新しい国家となっていることを知った。憲法に基づいた開放的な政治が要求され、[[絶対君主制]]は過去のものとなりつつあったのである。だが王に返り咲いたフェルナンドは、当初は[[1812年]]に制定された[[スペイン1812年憲法|憲法]]に基づいて統治を行うとした開放政策を保証したが、教会の後押しを受けた保守派に煽られて、復位数週間後の[[5月4日]]には憲法を拒否し、[[5月10日]]、解放派の指導者を逮捕し、現行の憲法について、自分の不在中に同意なしに[[コルテス (身分制議会)|コルテス]]が制定したものであるとしてこれを無効とした。従って王権は王個人にのみ帰属するとした[[スペイン・ブルボン朝|ボルボン朝]]の政策に回帰したことになる。<br /> <br /> 一方、スペイン本国の弱体化により、南米各地のスペイン植民地では独立戦争が相次いで勃発した。初期には共和派の多くで派閥抗争が絶えず、王党派が多くの地域で優勢であった。しかし[[シモン・ボリバル|シモン・ボリーバル]]ら卓越した指導者に恵まれた共和派が徐々に勢力を盛り返し、[[1817年]]ころにはスペインが植民地の殆どを喪失することは確実になっていた。[[マニラ・ガレオン]]船に代表される植民地間をつなぐ長大な航路網とそれがもたらす膨大な税収は途絶え、国家財政は破綻するしかなかった。<br /> <br /> フェルナンドはスペインを強引に古来よりの君主制に回帰させたが、政治的に無能であった彼は実際の政治をごく少数の取り巻きに任せきりにした。彼らの言うままにフェルナンドは数か月ごとに気紛れに容赦なく次々と閣僚を交代させた。列強はフェルナンドをスペインの正当な統治者として認定していたが、彼の惨憺たる統治にうんざりしながら警戒の目で動きを見守っていた。厳しくなる一方の内外情勢にフェルナンドも混乱し、疲弊していたようで[[1814年]][[12月1日]]にカラデャ卿フリードリッヒ・フォン・ゲンツに「自分が最初の閣僚の一員になり、連中を逮捕し、残虐な敵に引き渡す」と書き送り、再び[[1815年]][[1月14日]]に「国王には国家の警察長官と看守にしかなれない非常に堕落した自分がいる」と書いている。<br /> <br /> スペインの[[金羊毛騎士団]]団長であり、この資格で半島戦争に功のあった初代[[ウェリントン公爵]][[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]を[[プロテスタント]]で最初の団員にした。<br /> <br /> == スペイン立憲革命 ==<br /> {{see also|スペイン立憲革命}}<br /> [[1820年]][[1月1日]]、[[ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌニェス]]大佐が、南米の独立戦争を鎮圧すべく[[セビリア県]]のカベーセス・デ・サン・フアンに集結していた部隊を率いて反乱を起こし、それはやがて1812年憲法復活を要求する巨大な暴動となりフェルナンドはすぐに捕らえられた。彼はひとたまりもなくかつて両親に行ったように反乱軍に跪いてみせた。だがあくまで権力の座にしがみつこうとしたフェルナンドは裏で[[イエズス会]]に協力を要請、[[1822年]]にイエズス会派25人がマドリードで殺害されているように、イエズス会は解放の時代に王党派の抑圧と専制政治を支持し解放派と激しい戦いを演じた。[[19世紀]]のスペインにとってイエズス会の追放と再建は、解放と専制政治のせめぎあいの連続であった。この混乱の際、[[1810年]]以来[[メキシコ独立革命|独立運動]]で揺れていた植民地[[ヌエバ・エスパーニャ]]([[メキシコ]])では、独立に強固に反対していた王党派がフェルナンド7世を支持し、リエゴ大佐ら革命派を攻撃した。これにより地元住民はスペイン本国から心が離れてしまい、メキシコ独立を加速することとなった。<br /> <br /> [[1823年]]初頭に[[ヴェローナ会議]]の結論としてフランスが「[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の家系にスペイン王位を引き継がせ、ヨーロッパとその素晴らしい王国を保護するために聖ルイの神の加護を求めて」スペインに侵攻すると、5月に革命派はフェルナンドを[[カディス]]に連行した。幽閉中のフェルナンドは憲法の復活を約束したがそれも釈放されるまでの話だった。<br /> <br /> 介入のため進攻してきた[[ルイ・アントワーヌ (アングレーム公)|アングレーム公]]率いるフランス軍は[[トロカデロの戦い]]で革命派の軍を破り、次いでカディスを占領してフェルナンドを釈放した。権力の座に戻るやフェルナンドは[[恩赦]]の誓いをいち早く反故にして早速報復に取り掛かった。リエゴ・イ・ヌニェス大佐ら革命派の主だったものは処刑され、[[恐怖政治]]は3年間続いた。その残虐さは王党派すら愛想を尽かすほど凄まじいものだったという。<br /> <br /> 晩年にはフェルナンドの体力は衰えた。もはや気まぐれに閣僚を入れ替えることすらせず、何人かの側近に国政を完全に委ねた。日常の習慣は、自分のことを話すことであった。フェルナンドは怠惰になり、太りすぎて見るも無残な姿になった。[[1829年]]に[[両シチリア王国]]の王女[[マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン|マリア・クリスティーナ]]と4度目の結婚を行ったが、この時点でフェルナンドには子どもがおらず、弟[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|カルロス]]が王位継承者となっていた。当然ながらマリア・クリスティーナは我が子の即位を望んだが、彼女の気がかりはスペイン・ブルボン朝成立以来、王位継承法となっていた[[サリカ法典|サリカ法]]により女性の王位継承は否定されていたことである。自分が娘しか生まなかったときにも王位の保障が得られるよう、彼女はフェルナンドに従来の王位継承法を改変するようそそのかした。結局この結婚では2人の娘しか生まれず、マリア・クリスティーナの配慮が実って長女[[イサベル2世 (スペイン女王)|イザベル]]が王位を継承することになるが、恣意的な継承順序の変更に対して教会や貴族を中心とした保守派がカルロスの即位を主張、やがてこの対立は[[カルリスタ戦争|内戦]]に発展する。<br /> <br /> 衰弱しきっていたフェルナンドは体調が良いときでも妻の支配を受けなければ執務は不可能であった。体調を崩す度に、[[カルリスタ戦争|カルリスタ]]による呪詛ではないかと恐怖したという。人生の最後の時期にあって下した決定が彼の意志によるものなのか、もはやはっきりしない。妻は夫の死の床では実質的な女王であり、自分の言いたいことを死に行く男に言わせ、自分の意志で死に行く男の手を動かすことができた。[[1833年]][[9月29日]]、フェルナンド7世没。48歳であった。<br /> <br /> 「国王は王になり神と繋がるためには閣僚より賢くなければならない」とは、狂信的な王党派が頻繁に口にしたことであった。フェルナンド7世の時代以降、王権神授説を象徴するこの意見を顧みる者はいなくなった。<br /> <br /> フェルナンド7世はこの波乱に満ちた1820年から1823年まで日記をつけることを欠かさなかった。後にカサ・バレンシア伯爵が出版することになる。<br /> <br /> == 結婚と子供 ==<br /> フェルナンド7世は4回結婚した。<br /> <br /> 1802年、[[ナポリ王国|ナポリ]]=[[シチリア王国|シチリア]]王フェルディナンド4世/3世(後の[[両シチリア王国|両シチリア]]王[[フェルディナンド1世 (両シチリア王)|フェルディナンド1世]])の王女で従姉妹に当たる[[マリア・アントニア・デ・ナポレス・イ・シシリア|マリーア・アントニエッタ]]([[1784年]] - [[1806年]])と結婚した。子供は生まれなかった。<br /> <br /> 1816年、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ジョアン6世 (ポルトガル王)|ジョアン6世]]の王女で姪に当たる(フェルナンドの姉[[カルロッタ・ジョアキナ・デ・ボルボン|カルロッタ・ホアキナ]]の娘)[[マリア・イサベル・デ・ブラガンサ|マリア・イサベル]]([[1797年]] - [[1818年]])と結婚した。2人の間に唯一生まれた娘は、4ヶ月で他界した。<br /> <br /> 1819年、ザクセン王子[[マクシミリアン・フォン・ザクセン (1759-1838)|マクシミリアン]]の娘[[マリア・ホセファ・デ・サホニア|マリア・ホセーファ]](1803年 - [[1829年]])と結婚した。子供は生まれなかった。<br /> <br /> 最後に1829年、自身の別の姪で、最初の妃の姪でもある、両シチリア王[[フランチェスコ1世 (両シチリア王)|フランチェスコ1世]]と王妃[[マリーア・イザベッラ・ディ・スパーニャ|マリーア・イザベッラ]]の王女[[マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン|マリア・クリスティーナ]](1806年 - 1878年)と結婚した。マリーアは娘を2人生んだ。<br /> * [[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]](1830年 - 1904年)<br /> * [[ルイサ・フェルナンダ・デ・ボルボン|ルイサ・フェルナンダ]](1832年 - 1897年) [[アントワーヌ・ドルレアン (モンパンシエ公)|アントワーヌ・ドルレアン]](モンパンシエ公爵、フランス王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の末子)と結婚。<br /> <br /> == 『ブリタニカ百科事典』(1911年)の評価 ==<br /> :フェルナンド7世の役割はどのように扱おうと正しく認識しなければならない。フェルナンド7世より優れた王がいると考えられる場合であっても。一様に悪く言われていたことは間違いない。只一人の王位継承者だった時期は、家庭の伝統故に、恐らく政府から除け者にされていることに不満を言うことはできなかったのであろう。しかし王位継承者として自分が受け継ぐことになっている王の権威が低下していることと母の愛人である王のお気に入りの権力に憤慨することは可能であった。民衆蜂起の指導者になったら、支持され、良い言い訳ができたであろう。フェルナンドのやったことは、最初の妻ナポリのマリア・アントニエッタに唆されて意図のはっきりしない陰謀に加わったことである。1806年にマリアが死ぬと、腰巾着が画策する別の陰謀事件に引き込まれた。国事犯として送られたヴァランサイで低俗な生活に現を抜かし、自分の所為で言いようのない苦難を受けている民衆に起きたフランスの勝利を賞賛することに良心の呵責を感じなかった。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{1911|title=FERDINAND VII}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[フェルナンド7世治世下のスペイン]]<br /> <br /> {{先代次代|[[アストゥリアス公]]|1788年 - 1808年|[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]|[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]}}<br /> {{スペイン王||1808年, 1813年 - 1833年}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふえるなんと7}}<br /> [[Category:スペイン国王]]<br /> [[Category:スペイン・ブルボン家]]<br /> [[Category:アストゥリアス公]]<br /> [[Category:金羊毛騎士団員]]<br /> [[Category:1784年生]]<br /> [[Category:1833年没]]</div> 42.145.121.253 ハーグ陸戦条約 2018-02-11T08:45:13Z <p>42.145.121.253: /* 記名調印国一覧 */</p> <hr /> <div>{{条約<br /> |題名 =陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約<br /> |画像 =<br /> |画像キャプション =<br /> |通称 =<br /> |起草 =<br /> |署名 =1899年7月29日([[デン・ハーグ|ハーグ]])<br /> |効力発生 =1900年9月4日<br /> |寄託者 ={{NED}}政府<br /> |番号 =明治33年11月22日[[勅令]](日本について効力発生:1900年10月6日)<br /> |言語 =<br /> |内容 =<br /> |関連 =<br /> |ウィキソース =<br /> |リンク = [http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S38-P2-261_1.pdf 外務省:条約データ]<br /> }}<br /> {{条約<br /> |題名 =陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約<br /> |画像 =<br /> |画像キャプション =<br /> |通称 =ハーグ陸戦条約、ヘーグ陸戦条約<br /> |起草 =<br /> |署名 =1907年10月18日([[デン・ハーグ|ハーグ]])<br /> |効力発生 =1910年1月26日<br /> |寄託者 ={{NED}}政府<br /> |番号 =明治45年条約第4号(日本について効力発生:1912年2月12日)<br /> |言語 =<br /> |内容 =[[交戦者]]の定義や、[[宣戦布告]]、[[戦闘員]]・[[非戦闘員]]の定義、[[捕虜]]・[[傷病]]者の扱い、使用してはならない[[戦術]]、降服・休戦などを規定。同名の明治33年11月22日勅令は、本条約第4条により失効した。<br /> |関連 =<br /> |ウィキソース =<br /> |リンク = [http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S38-P2-295_1.pdf 外務省:条約データ]<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ハーグ陸戦条約&#039;&#039;&#039;(ハーグりくせんじょうやく)は、[[1899年]]に[[オランダ]]・[[デン・ハーグ|ハーグ]]で開かれた第1回[[万国平和会議]]において採択された「[[陸戦]]ノ法規慣例ニ関スル[[条約]](英: Convention respecting the Laws and Customs of War on Land, 仏: Convention concernant les lois et coutumes de la guerre sur terre)」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。[[1907年]]第2回万国平和会議で改定され今日に至る。&#039;&#039;&#039;ハーグ陸戦協定&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ハーグ陸戦法規&#039;&#039;&#039;などとも言われる。<br /> <br /> [[交戦者]]の定義や、[[宣戦布告]]、[[戦闘員]]・[[非戦闘員]]の定義、[[捕虜]]・[[傷病]]者の扱い、使用してはならない[[戦術]]、[[降服]]・[[休戦]]などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。<br /> <br /> [[日本]]においては、[[1911年]]([[明治]]44年)[[11月6日]]批准、[[1912年]](明治45年)[[1月13日]]に&#039;&#039;&#039;陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約&#039;&#039;&#039;として公布された。他の国際条約同様、この条約が直接批准国の[[軍]]の行動を規制するのではなく、条約批准国が制定した[[法律]]に基づいて規制される。<br /> <br /> == ハーグ陸戦条約と使用禁止兵器 ==<br /> 23条1項では「[[毒]]、または毒を施した[[兵器]]の使用」を禁じている。また、同条5項では「不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること」を禁じている。しかし「不必要な苦痛」の明確な定義がないため、曖昧なものとなっている&lt;ref&gt;被弾した者に著しい苦痛を与える[[弾丸|ダムダム弾]](弾丸の一種で、命中すると体内で破裂するもの)の使用禁止を明記した条約は、これとは別の[[ダムダム弾の禁止に関するハーグ宣言]]([[1900年]]発効)であり、[[軍事]]用としての使用禁止のみが明記されている。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;「50口径(12.7 mm)以上の[[対物ライフル]]で人を攻撃するのは国際条約違反」と言われる事がままあるが{{要出典|date=2009年4月}}、厳密には本条約及びその他の条約においても、対人攻撃兵器の[[口径]]の上限を明示した条文は存在しない。50口径での対人[[狙撃]]が「不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること 」に抵触するとする解釈もあり、対人使用をすべきではないとするガイドラインが存在するということである。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 記名調印国一覧 ==<br /> ; [[1899年]]条約<br /> * ([[アメリカ大陸|米州]]) - <br /> **{{USA1896}}<br /> **{{SLV}}&lt;ref name=&quot;1903年加盟&quot;&gt;1903年加盟。&lt;/ref&gt;<br /> **{{PER}}&lt;ref&gt;1904年加盟。&lt;/ref&gt;<br /> **{{URU}}&lt;ref name=&quot;1906年加盟&quot;&gt;1906年加盟。&lt;/ref&gt;<br /> **{{GUA}}&lt;ref name=&quot;1906年加盟&quot;/&gt;<br /> **{{HON}}&lt;ref name=&quot;1906年加盟&quot;/&gt;<br /> **{{COL}}&lt;ref name=&quot;1907年加盟&quot;&gt;1907年加盟。&lt;/ref&gt;<br /> **{{VEN}}&lt;ref name=&quot;1907年加盟&quot;/&gt;<br /> * ([[ヨーロッパ|欧州]]) - <br /> **{{GBR1801}}<br /> **{{ITA1861}}<br /> **{{AUT1867}}<br /> **{{NED}}<br /> **{{GRC1828}}<br /> **[[File:Union Jack of Sweden and Norway (1844-1905).svg|border|25px]] [[スウェーデン=ノルウェー]]<br /> **[[File:Navy and coastal fortifications&#039; flag of Catholic King (1785).svg|border|25px]] [[スペイン王政復古|スペイン]]<br /> **{{SRB1882}}<br /> **{{DEN}}<br /> **{{DEU1871}}<br /> **{{FRA1870}}<br /> **{{BGR1878}}<br /> **{{BEL}}<br /> **{{PRT1830}}<br /> **{{MNE1876}}<br /> **{{ROM1881}}<br /> **{{LUX}}<br /> **{{OTT}}<br /> **{{RUS1883}}<br /> *([[アジア|亜州]]) - <br /> **{{THA1855}}<br /> **{{JPN1889}}<br /> **[[File:Tricolour Flag of Iran (1886).svg|border|25px]] [[ガージャール朝|ペルシア帝国]]<br /> **{{KOR1897}}&lt;ref name=&quot;1903年加盟&quot;/&gt;<br /> (計32カ国=原加盟国24カ国+追加加盟国8カ国)<br /> <br /> ; [[1907年]]条約<br /> * (米州) - <br /> **{{USA1896}}<br /> **{{ARG}}<br /> **{{ECU}}<br /> **{{CUB}}<br /> **{{GTM}}<br /> **{{COL}}<br /> **{{SLV}}<br /> **{{CHI}}<br /> **{{DOM}}<br /> **{{NIC}}<br /> **[[File:Flag of Haiti (1859-1964).svg|border|25px]] [[ハイチ]]<br /> **{{PAN1903}}<br /> **{{PAR}}<br /> **{{URU}}<br /> **{{BRA1889}}<br /> **{{VEN}}<br /> **{{PER}}<br /> **{{BOL}}<br /> **{{MEX1893}}<br /> * (欧州) - <br /> **{{GBR1801}}<br /> **{{ITA1861}}&lt;ref&gt;国内において批准をしていない。&lt;/ref&gt;<br /> **{{AUT1867}}<br /> **{{NED}}<br /> **{{GRC1828}}<br /> **{{SWI}}<br /> **{{SWE}}<br /> **{{ESP1873}}<br /> **{{SRB1882}}<br /> **{{DEN}}<br /> **{{DEU1871}}&lt;ref name=&quot;第44条留保&quot;&gt;同附属書第44条を留保。&lt;/ref&gt;<br /> **{{NOR}}<br /> **{{FRA1870}}<br /> **{{BGR1878}}<br /> **{{BEL}}<br /> **{{PRT1830}}<br /> **{{MNE1876}}<br /> **{{ROM1881}}<br /> **{{LUX}}<br /> **{{OTT}}&lt;ref&gt;同附属書第3条を留保。&lt;/ref&gt;<br /> **{{RUS1883}}&lt;ref&gt;ソ連建国(1922年)以後、ソヴィエト政府は帝政時代に締結された条約をすべて否認した。&lt;/ref&gt;<br /> *(亜州) - <br /> **{{THA1855}}<br /> **{{JPN1889}}&lt;ref name=&quot;第44条留保&quot;/&gt;<br /> **[[File:Tricolour Flag of Iran (1886).svg|border|25px]] [[ガージャール朝|ペルシア帝国]]<br /> **{{flagicon|CHN1912}} [[中華民国の歴史|中華民国]]&lt;ref&gt;1917年加盟。&lt;/ref&gt;<br /> (計44カ国=原加盟国43カ国+追加加盟国1カ国)<br /> <br /> == 条約・附属書 ==<br /> 注:本節は条約及び附属書の条文(参考文献及び外部リンク)をなぞって[[現代文]]に改めたものである。省略したものにはその旨表記した。<br /> <br /> === 陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約 ===<br /> * 第1条:締結国はその[[陸軍]]軍隊に対し、本条約に付属する陸戦の法規慣例に関する規則に適合する訓令を発すること。<br /> * 第2条:第1条に掲げた規則及び本条約の規定は、交戦国が悉く本条約の当事者であるときに限り、締結国間にのみこれを適用する。<br /> * 第3条:前記規則の条項に違反した交戦当事者は、損害ある時は[[賠償]]の責を負うべきものとする。交戦当事者はその軍隊を構成する人員の全ての行為に対して責任を負う。<br /> * 第4条:本条約が正式に批准された際には、1899年の条約に代わるべきものとする。ただし、1899年の条約は本条約に記名しながら批准をしない諸国間の関係においては依然効力を有する。<br /> * 第5条:本条約はなるべく速やかに批准しなければならない。(詳細略)<br /> * 第6条:記名国でない諸国は本条約に加盟できる。(詳細略)<br /> * 第7条:(批准国における効力発生条文につき 略)<br /> * 第8条:締結国が本条約を破棄するときはオランダ政府にその旨書面で通告しなければならない。オランダ政府は、直ちに通告書の認證謄本をそのほかの諸国に送付し、かつその通告書を受理した日を通知すること。<br /> : 破棄はその通告書がオランダ政府に到達した時点から一年後、通告した国に対してのみ効力を生じる。<br /> * 第9条:オランダ外務省が帳簿を管理する。(詳細略)<br /> <br /> === 陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則 ===<br /> ==== 第一款 交戦者 ====<br /> ===== 第一章 交戦者の資格 =====<br /> * 第1条:戦争の法規、権利、義務は[[正規軍]]にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす[[民兵]]、[[義勇兵]]にも適用される。<br /> *# 部下の責任を負う[[指揮官]]が存在すること。<br /> *# 遠方から識別可能な固有の[[徽章]]を着用していること&lt;ref&gt;遠方から識別可能な物を身につけることは[[敵]]に発見されやすくなるため、現在では各国とも低視認性の[[徽章]]が用いられているが「遠方から識別可能」の定義は明確ではなく違法とはされていない。&lt;/ref&gt;。<br /> *# 公然と[[兵器]]を携帯していること。<br /> *# その動作において、戦争法規を遵守していること。<br /> * 第2条:未だ[[占領]]されていない地方の人民でありながら、敵の接近にあたり第1条に従って編成する暇なく、侵入軍隊に抗敵するため自ら兵器を操る者が公然と兵器を携帯し、かつ戦争の法規慣例を遵守する場合はこれを[[交戦者]]と認める。<br /> * 第3条:交戦当事者の兵力は、[[戦闘員]]及び[[非戦闘員]]をもってこれを編成することができ、敵に捕らえられた場合は二者ともに等しく俘虜の扱いを受ける権利を有する。<br /> <br /> ===== 第二章 俘虜 =====<br /> * 第4条:[[俘虜]]は敵の[[政府]]の権内に属し、これを捕らえた[[個人]]、[[部隊]]に属するものではない。<br /> : 俘虜は[[人道]]をもって取り扱うこと。<br /> : 俘虜の身に属すものは兵器、[[ウマ|馬匹]]、軍用[[書類]]を除いて依然その所有であること。<br /> * 第5条:俘虜は、一定の地域外に出られない[[義務]]を負わせて[[都市]]、[[城塞]]、[[陣地|陣営]]その他の場所に[[留置]]できる。但し、やむを得ない[[保安]]手段として、かつ該当手段を必要とする事情の継続中に限って[[幽閉]]できる。<br /> * 第6条:国家は[[将校]]を除く俘虜を[[階級]]、技能に応じ[[労務者]]として使役することができる。その労務は過度でなく、一切の[[作戦]]行動に関係しないものでなければならない。(詳細略)<br /> * 第7条:政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務を有する。<br /> : 交戦者間に特別な協定がない限り、俘虜は[[レーション|糧食]]、[[寝具]]及び[[被服]]に関し、これを捕らえた政府の[[軍隊]]と対等の取り扱いを受けること。<br /> * 第8条:俘虜はそれを捕らえた国の陸軍現行法律、規則、[[命令]]に服従すべきものとする。不服従の場合、必要なる厳重手段を施すことができる。<br /> : 逃走した俘虜がその所属する軍に達する前、またはこれを捕らえた軍の占領地域外に出る前に再度捕らえられた場合は懲罰に付される。<br /> : 逃走完遂後、再度俘虜となった場合、先の逃走に対しては何ら罰を受けることはない。<br /> * 第9条:俘虜はその氏名および階級について訊問を受けたときは、事実をもって答えるべきものとする。もしこの規定に背いたときは、階級に応じた俘虜待遇を減殺されることがある。<br /> * 第10条:俘虜はその本国の法律がこれを許す時は、宣誓の後解放されることがある。この場合においては本国政府および俘虜を捕えた政府に対し、[[名誉]]を賭してその制約を厳密に履行する義務を有する。<br /> : 前項の場合において、俘虜の本国政府はこれに対しその宣誓に違反する勤務を命じ、またはこれに服するとの申し出を受諾できないものとする。<br /> * 第11条:俘虜は宣誓解放の受諾を強制されることなく、また敵の政府は宣誓解放を求める俘虜の請願に応じる義務はない。<br /> * 第12条:宣誓解放を受けた俘虜であって、その名誉を賭して宣誓を行った政府またはその政府の同盟国に対して兵器を操って再び捕えられた者は、俘虜の取扱を受ける権利を失うべく裁判に付されることがある。<br /> * 第13条:新聞の通信員および探訪者並びに酒保用達人等の様な直接に軍の一部ではない[[従軍]]者で、敵の権内に陥り敵においてこれを抑留することが有益であると認められる者は、その所属陸軍官憲の証明書を携帯する場合に限り俘虜の取扱を受ける権利を有する。<br /> * 第14条:各交戦国は戦争開始の時より、また中立国は交戦者をその領土に収容した時より俘虜情報局を設置する。情報局は捕虜に関する一切の問い合わせに答える任務を持ち、俘虜の留置、移動、宣誓、解放、交換、逃走、入院、[[死亡]]に関する事項、その他各俘虜に関して各々票を作成補修する為に必要な通報を各担当の官憲より受けるものとする。(後略)<br /> * 第15条:慈善行為の媒介者たる目的をもって自国の法律に従い、正式に組織された俘虜救恤協会(中略)の代表者は、各自陸軍官憲より免許状の交付を受け、かつ該当官憲の定めた秩序及び風紀に関する一切の規律に服従すべき旨書面をもって約束した上で、俘虜収容所及び送還俘虜の途中休憩所において救恤品を分与することが許される。<br /> * 第16条:情報局は郵便料金の免除を受ける。俘虜宛て、またはその俘虜が発した信書、郵便為替、有価物件及び小包郵便物については差出国、名宛国及び通過国において一切の郵便料金を免除される。(後略)<br /> * 第17条:俘虜将校は、その抑留されている国の同一階級の将校が受ける同額の俸給を受けることができる。俸給はその本国政府より償還されなければならない。<br /> * 第18条:俘虜は陸軍官憲の定めた秩序及び風紀に関する規律に服従すべきことを唯一の条件として、その宗教の遵行に付き一切の自由を与えられ、その宗教上の礼拝式に参列することができる。<br /> * 第19条:俘虜の[[遺言]]は内国陸軍[[軍人]]と同一の条件をもってこれを領置し、または作成する。<br /> : 俘虜の死亡証明に関する書類及び[[埋葬]]に関してもまた同一の規則に遵い、その階級及び身分に相当する取扱いをしなければならない。<br /> * 第20条:[[平和]]克復の後はなるべく速やかに、俘虜をその本国に帰還させなければならない。<br /> <br /> ===== 第三章 傷病者 =====<br /> * 第21条:病者及び傷者の取扱いに関する交戦者の義務は[[ジュネーヴ条約]]による。<br /> <br /> ==== 第二款 戦闘 ====<br /> ===== 第一章 害敵手段、攻囲、砲撃 =====<br /> * 第22条:交戦者は害敵手段の選択につき、無制限の権利を有するものではない。<br /> * 第23条:特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り。<br /> *# 毒、または毒を施した兵器の使用。<br /> *# 敵の[[国民]]、または軍に属する者を裏切って殺傷すること。<br /> *# 兵器を捨て、または[[自衛]]手段が尽きて[[降伏]]を乞う敵兵を殺傷すること。<br /> *# 助命しないことを宣言すること。<br /> *# 不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること。<br /> *# 軍使旗、国旗その他の軍用の標章、敵の制服または[[ジュネーヴ条約]]の特殊徽章を濫りに使用すること。<br /> *# 戦争の必要上、やむを得ない場合を除く敵[[財産]]の破壊または押収。<br /> *# 相手当事国国民の権利及び訴権の消滅、停止または[[裁判]]上不受理を宣言すること。<br /> : 交戦者はまた相手当事国の国民を強制して本国に対する作戦行動に加わらせることができない。戦争開始前その役務に服していた場合といえどもまた同じ。<br /> * 第24条:奇計、敵情報、[[地形]]探査に必要な手段の行使は適法。<br /> * 第25条:防守されていない都市、集落、住宅または建物は、いかなる手段によってもこれを攻撃または砲撃することはできない。<br /> * 第26条:攻撃軍隊の指揮官は、強襲の場合を除いて、[[砲撃]]を始めるに先立ちその旨官憲に通告するため、施せるだけの一切の手段を尽くさなければならないものとする。 <br /> * 第27条:攻囲及び砲撃を行うにあたっては、[[宗教]]、技芸、[[学術]]、[[慈善]]の用途に使用されている[[建物]]、[[歴史]]上の[[モニュメント|記念建造物]]、[[病院]]、傷病者の収容所は、同時に軍事目的に使用されていない限り、これに対しなるべく損害を与えない為の必要な一切の手段を取らなければならないものとする。攻囲された側は識別し易い徽章をもって建物または収容所を表示する義務を負う。前述の徽章は予めこれを攻囲者に通告すること。<br /> * 第28条:都市、その他の地域は[[突撃]]によって奪取された場合といえども、[[略奪]]を禁止する。<br /> <br /> ===== 第二章 間諜 =====<br /> * 第29条:交戦者の作戦地域内において、敵勢力に通諜する意志をもって、隠密に、または虚偽の申告の下に行動して、情報の蒐集をしようとする者を間諜とする。故に、[[変装]]せずに、軍人として情報収集の為、敵軍の作戦地域内に侵入した者は[[スパイ|間諜]]と認めない。軍人であるか否かに係わらず、自軍または敵軍宛の通信を伝達する任務を公然と執行する者も間諜と認めない。<br /> * 第30条:間諜の[[現行犯]]は[[裁判]]を経て罰しなければならない。<br /> * 第31条:所属する軍勢に復帰後に捕らえられた間諜は、俘虜として取り扱い、復帰前の間諜行為を罪に問うことはできない。<br /> <br /> ===== 第三章 軍使 =====<br /> * 第32条:交戦者の一方が他方との交渉を行うため、[[白旗]]を掲げて来た者を[[軍使]]と規定する。軍使、及び、それに随従する[[ビューグル|喇叭]]手、鼓手、旗手、[[通訳]]は不可侵権を有す。<br /> * 第33条:軍使を差し向けられた部隊長は必ずしもこれを受ける義務は無いものとする。<br /> : 部隊長は、軍使が軍情を探知する為にその使命を利用することを防ぐ一切の必要な手段を取ることができる。<br /> : 不可侵権の濫用があった場合、部隊長は軍使を一時抑留できる。<br /> * 第34条:軍使が背信の行為を教唆し、または自らがそれを行うため、その特権ある地位を利用した証跡が明確であるときは、その不可侵権を失う。<br /> <br /> ===== 第四章 降伏規約 =====<br /> * 第35条:当事者間に協定された[[降伏]]規約には軍人の名誉に関する例規を斟酌すべきものとする。規約確定後は当事者双方においてこれを厳密に遵守すべきものとする。<br /> <br /> ===== 第五章 休戦 =====<br /> * 第36条:[[休戦]]は、交戦当事者間の合意をもって作戦行動を停止するものとする。期間の指定なき時は、交戦当事者は、いかなる時点においても再び交戦を開始する事が可能である。ただし、休戦条件に順じ、所定の時期にその旨を通告すべきものとする。<br /> * 第37条:休戦は、全般的、もしくは部分的に行うことを可能とする。前者は、交戦国の作戦動作を停止し、後者は特定地域において交戦軍のある部分間を停止するものとする。<br /> * 第38条:休戦は正式、かつ適当な時期に当該の官憲および軍隊に通告する。通告の直後、または、所定の時期に戦闘行為を停止する。<br /> * 第39条:休戦条項中に、戦地における交戦者と人民、人民相互の関係を盛り込むことは当事者に一任する。<br /> * 第40条:当事者の一方的な休戦規約の重大な違反があった場合、他方は規約廃棄の権利を有するのみならず、緊急の場合においては即時に戦闘を開始することも許される。<br /> * 第41条:個人が自己の意志をもって休戦条約に違反した時は、その違反者の処罰の要求と行為による損害が存在した場合はその賠償の請求する権利のみが生ずる。<br /> <br /> ==== 第三款 敵国の領土における軍の権力 ====<br /> * 第42条:一地方が事実上敵軍の権力内に帰したときは占領されたものとする。<br /> : 占領はその権力を樹立し、かつこれを行使できる地域をもって限度とする。<br /> * 第43条:国の権力が事実上占領者の手に移った上は、占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施せる一切の手段を尽くさなければならない。<br /> * 第44条:交戦者は、占領地の人民を強制して相手の軍またはその防御手段についての情報を供与させることはできない。<br /> * 第45条:占領地の人民は、敵国に強制的に忠誠の誓いを為さしめられることはない。<br /> * 第46条:家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産ならびに宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない。<br /> : 私有財産は没収できない。<br /> * 第47条:略奪はこれを厳禁とする。<br /> * 第48条:占領者が占領地において国の為に定められた租税、賦課金及び通過税を徴収するときは、なるべく現行の賦課規則によって徴収しなければならない。この場合において占領者は国の政府が支弁した程度において、占領地の行政費を支弁する義務があるものとする。<br /> * 第49条:占領者が占領地において前条に掲げた税金以外の取立金を命じることは、軍または占領地行政上の需要に応じる場合に限るものとする。<br /> * 第50条:人民に対しては、連帯の責任があると認めることができない個人の行為のために、金銭上その他の連座罰を科すことはできない。<br /> * 第51条:取立金はすべて総指揮官の命令書により、かつその責任をもっておこなうものでなければこれを徴収することができない。取立金はなるべく現行の租税賦課規則によりこれを徴収しなければならない。<br /> : 一切の取立金に対しては納付者に領収書を交付しなければならない。<br /> * 第52条:現品徴発及び課役は、占領軍の需要の為でなければ市区町村または住民に対してこれを要求できない。徴発及び課役は地方の資力に相応し、かつ人民がその本国に対する作戦行動に加わるような義務を負わない性質のものであること。<br /> : 前掲の徴発及び課役は占領地方に於ける指揮官の許可を得なければこれを要求できない。<br /> : 現品の供給に対してはなるべく即金にて支払い、それができない場合には領収書をもってこれを証明し、かつなるべく速やかにこれに対する支払いを履行しなければならないものとする。<br /> * 第53条:一地方を占領した軍は、国の所有に属する[[現金]]、[[基金]]及び[[有価証券]]、貯蔵兵器、[[輸送]]材料、在庫品及び[[糧秣]]その他すべて作戦行動に役立つ国有[[動産]]のほかは、これを押収することができない。<br /> : 海上法によって支配される場合を除き、[[陸上]]、[[海上]]及び[[空中]]において[[報道]]の伝送または人もしくは物の輸送の用途に提供される一切の機関、貯蔵兵器、その他各種の軍需品は、[[私人]]に属するものといえどもこれを押収することができる。但し平和克復後にこれを還付し、かつこの賠償を決定しなければならないものとする。<br /> * 第54条:占領地と[[中立]]地とを連結する[[海底ケーブル|海底電線]]は、絶対的に必要ある場合でなければこれを押収し、または破壊することはできない。海底電線は平和克復に至ってこれを還付し、かつこの賠償を決定しなければならないものとする。<br /> * 第55条:占領地は敵国に属し、かつ占領地に在る[[公共施設|公共建物]]、[[不動産]]、[[森林]]及び[[農場]]に付いては、その管理者及び用益権者であるに過ぎないものであると考慮し、これら財産の基本を保護し、かつ用益権者の法則によってこれを管理しなければならない。<br /> * 第56条:市区町村の財産ならびに国に属するものといえども宗教、慈善、教育、技芸及び[[学術]]の用途に提供される建設物は私有財産と同様にこれを取扱うこと。<br /> : 前述の様な建設物、歴史上の記念建造物、技芸及び学術上の製作品を故意に押収、破壊または毀損することはすべて禁止され、かつ訴追されるべきものとする。<br /> <br /> == 注記 ==<br /> {{Notice|この節は日本国内で争訟中の裁判資料を1次情報として要約整理しており、学術的背景をそなえていない可能性があります。}}<br /> 陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(1899年条約、1907年条約)第2条は「交戦国が悉く本条約の当事者である」ことを求めており、第二次世界大戦における当条約を解釈するさいについては注意が必要である。2条の総加入条項を有効とした判決として東京高判S47.11.28、地裁判決では「イタリアを初めとする幾つかの交戦国が加入していなかった(・・・略)したがって、総加入条項を満たしていない以上、第二次世界大戦について、ハーグ陸戦条約の適用はないといわざるを得ない」&lt;ref&gt;平成19年(ワ)第5951号損害賠償等請求事件等。原告控訴中であり利用注意。&lt;/ref&gt;との判示がある。<br /> <br /> == 脚注 == <br /> &lt;references/&gt;<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[戦争犯罪]]<br /> * [[条約の一覧]]<br /> * [[俘虜の待遇に関する条約]] - [[ジュネーヴ条約]]<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * アジア歴史資料センター<br /> ** Ref.A03020484400、御署名原本・明治三十三年・条約十一月二十一日・陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(国立公文書館)<br /> ** Ref.A03020942000、御署名原本・明治四十五年・条約第四号・陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(国立公文書館)<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/haug.htm 陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約(ハーグ陸戦条約)]<br /> * [http://avalon.law.yale.edu/20th_century/hague04.asp Laws and Customs of War on Land (Hague IV); October 18, 1907]{{en icon}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:はあくりくせんしようやく}}<br /> [[Category:多国間条約]]<br /> [[Category:戦時国際法]]<br /> [[Category:ハーグの歴史]]<br /> [[Category:1899年の条約]]<br /> [[Category:捕虜]]</div> 42.145.121.253 ギュンター・シャボフスキー 2018-01-27T22:37:00Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |各国語表記 = {{lang|de|Günter Schabowski}}<br /> |画像 = Bundesarchiv Bild 183-1982-0504-421, Günter Schabowski.jpg<br /> |画像説明 = [[ドイツ社会主義統一党]]中央委員時代のギュンター・シャボフスキー(1982年)<br /> |国略称 = {{DDR}}<br /> |生年月日 = [[1929年]][[1月4日]]<br /> |出生地 = {{DEU1919}}&lt;br&gt;{{PRU1918}}&lt;br&gt;[[File:Provinz Pommern flag.svg|border|25px]] {{illm|ポンメルン県|de|Provinz Pommern}} {{illm|アンクラム|de|Anklam}}<br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1929|1|4|2015|11|01}}<br /> |死没地 = {{DEU}} [[ベルリン]]<br /> |出身校 = [[ライプツィヒ大学]]<br /> |所属政党 = [[ファイル:Flagge der SED.svg|border|25px]] [[ドイツ社会主義統一党]]<br /> |称号・勲章 = [[カール・マルクス勲章]]<br /> |配偶者 = イリーナ・シャボフスキー<br /> |サイン = Günter Schabowski sig.svg<br /> |ウェブサイト = <br /> |サイトタイトル = <br /> |国旗 = 東ドイツ<br /> |職名 = [[ドイツ民主共和国]][[人民議会 (東ドイツ)|人民議会]]議員<br /> |内閣 = <br /> |選挙区 = <br /> |当選回数 = <br /> |就任日 = [[1981年]]<br /> |退任日 = [[1990年]][[1月11日]]<br /> |退任理由 = <br /> |元首職 = <br /> |元首 = <br /> |国旗2 = <br /> |職名2 = <br /> |内閣2 = <br /> |選挙区2 = <br /> |当選回数2 = <br /> |就任日2 = <br /> |退任日2 = <br /> |退任理由2 = <br /> |元首職2 = <br /> |元首2 = <br /> &lt;!-- ↓省略可↓ --&gt;<br /> |国旗3 = <br /> |職名3 = <br /> |内閣3 = <br /> |選挙区3 = <br /> |当選回数3 = <br /> |就任日3 = <br /> |退任日3 = <br /> |退任理由3 = <br /> |元首職3 = <br /> |元首3 = <br /> |国旗4 = <br /> |職名4 = <br /> |内閣4 = <br /> |選挙区4 = <br /> |当選回数4 = <br /> |就任日4 = <br /> |退任日4 = <br /> |退任理由4 = <br /> |元首職4 = <br /> |元首4 = <br /> |国旗6 = <br /> |その他職歴1 = [[File:Sozialistische Einheitspartei Deutschlands Logo.svg|20px]] ドイツ社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記<br /> |就任日6 =[[1985年]]<br /> |退任日6 =[[1989年]]<br /> |国旗7 = <br /> |その他職歴2 = [[File:Sozialistische Einheitspartei Deutschlands Logo.svg|20px]] ドイツ社会主義統一党[[中央委員会]][[政治局]]員<br /> |就任日7 = [[1984年]][[5月24日]]<br /> |退任日7 = [[1989年]][[12月3日]]<br /> |国旗8 =<br /> |その他職歴3 = [[ノイエス・ドイチュラント]]編集長<br /> |就任日8 = 1978年<br /> |退任日8 = 1985年<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ギュンター・シャボフスキー&#039;&#039;&#039;({{lang-de|&#039;&#039;&#039;Günter Schabowski&#039;&#039;&#039;}}, [[1929年]][[1月4日]] - [[2015年]][[11月1日]])は元[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[ドイツ社会主義統一党]](SED)の[[政治家]]、[[ジャーナリスト]]。<br /> <br /> [[ベルリンの壁崩壊]]のきっかけを作った人物として知られる。「シャボウスキー」とも表記される。<br /> <br /> == プロフィール ==<br /> [[ヴァイマル共和政]]時代のドイツ、[[ポンメルン]]地方の{{illm|アンクラム|de|Anklam}}(現[[メクレンブルク=フォアポンメルン州]])生まれ。[[ライプツィヒ大学]]でジャーナリズムを専攻した後、労働組合の機関誌の編集の仕事に就いた。1952年に[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[ドイツ社会主義統一党]](SED)の党員となっている。1978年には東ドイツにおいて最も有名な新聞であった社会主義統一党の[[機関紙]][[ノイエス・ドイチュラント]]({{lang|de|Neues Deutschland}},「新しいドイツ」の意味)の編集長の職に就く。1981年に彼はSEDの[[中央委員会]]の委員および[[人民議会 (東ドイツ)|人民議会議員]]となった。続いて1984年5月の中央委員会でSED中央委員会[[政治局]]員に昇格、翌1985年にはSEDベルリン地区委員会第一書記となり、首都[[東ベルリン]]における責任者となる。シャボフスキーは[[エーリッヒ・ホーネッカー]]政権のナンバー2だった[[エゴン・クレンツ]](政治局員、治安・青年問題担当書記、[[国家評議会 (東ドイツ)|国家評議会]]副議長)や[[ハンス・モドロウ]](SED[[ドレスデン県|ドレスデン地区]]委員会第一書記。後の首相)と共に将来の党[[書記長]]候補の一人に挙げられる有力政治家であった&lt;ref&gt;三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P29&lt;/ref&gt;。党の指導者たちに認められていた特権を、この頃の彼およびその家族が乱用したとして非難する向きも存在する。<br /> <br /> 1989年10月のエーリッヒ・ホーネッカー書記長失脚の際には、エゴン・クレンツらと共に、ホーネッカーの失脚工作を行った&lt;ref&gt;三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P10-16&lt;/ref&gt;。また11月4日の東ベルリンでの大規模デモの際には群衆に応対するなど、党の[[スポークスマン]]役としてマスコミや在野勢力との応対にもあたっている&lt;ref&gt;三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P23-24&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == ベルリンの壁崩壊 ==<br /> {{main|ベルリンの壁崩壊}}<br /> [[東欧革命|東欧民主化革命]]の混乱の中、[[1989年]][[11月9日]]、外国への旅行の自由化の政令が決議される。そして夕刻、東ドイツ国内および世界向けに放送された生放送での[[プレスリリース|記者会見]]で、決議されたばかりの外国への旅行の自由化の政令を発表する([https://www.tagesschau.de/inland/schabowski-mauerfall-pk-101.html 記者会見の映像]&lt;ref&gt;&#039;&#039;Schabowskis Mauerfall-Pressekonferenz &quot;Sofort, unverzüglich&quot;&#039;&#039;, tagesschau.de&lt;/ref&gt;)。しかし、混乱の中、[[ドイツ社会主義統一党]][[書記長]](当時)[[エゴン・クレンツ]]から渡された文書の詳細を知らされておらず、また会議の途中に中座して議事の詳細を把握していなかったシャボフスキーは一知半解のまま「[[11月10日]]からの&lt;!--政令には「国外移住に関して、両独国境ないし東西ベルリンのすべての検問所を使用できる」と書かれているのでベルリンの壁は含まれる[[ベルリンの壁]]をのぞく国境通過点から--&gt;旅行許可に関する出国規制緩和」だったのを「&#039;&#039;&#039;ベルリンの壁を含めて&#039;&#039;&#039;、すべての国境通過点から出国が認められる」と誤って発表してしまう。さらに記者から「(この政令は)いつから発効するのか?」との質問に対して、政令の発効期日を伝えられていなかったシャボフスキー&lt;ref&gt;三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P25&lt;/ref&gt;は政令に書かれていた「直ちに発効する」「遅滞なく」という文言に従い「&#039;&#039;&#039;私の認識では『直ちに、遅滞なく』です。&#039;&#039;&#039;」と発言してしまった&lt;ref&gt;三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』(作品社 2010年)P275-277&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;なお、この記者会見の時点では政令案はSEDの党内では承認されていたが、閣僚評議会(内閣)ではまだ承認されておらず、正式な政令にすらなっていなかった。(三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24-P25)&lt;/ref&gt;。これが引き金となり、東ベルリン市民が東西ベルリンの境に設けられた検問所に殺到し、ベルリンの壁崩壊へと至り、[[ドイツ再統一]]に結びついた。<br /> <br /> 結局、クレンツやシャボフスキーらも国民やSED党員の反発を受けて1989年の12月には退陣に追い込まれ、1990年初頭にはシャボフスキーは[[民主社会党 (ドイツ)|民主社会党]](PDS)へと衣替えしたSEDから除名された。<br /> <br /> == ドイツ再統一後 ==<br /> [[ドイツ再統一]]後、シャボフスキーは東ドイツ時代の自身を含めた政治局員の行動に、そして[[マルクス・レーニン主義]]に対して批判的となった。1992年から1999年までは地方の新聞の編集の仕事についていたが、以後は再び[[ジャーナリスト]]の職についていた。彼が[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]]の選挙キャンペーンに参加したことについては、過去の同僚から変節漢として批判を浴びた。<br /> <br /> 1997年8月に亡命者殺害の容疑で有罪となるが、道義的責任を認めたという態度が考慮され、懲役3年の刑が宣告される。1999年12月から2000年12月まで収監されるが、残りの刑期は免除されている。<br /> <br /> 晩年は病気のため公の場には姿を見せなかった。2015年11月1日、ベルリンで死去&lt;ref&gt;[http://www.rbb-online.de/politik/beitrag/2015/10/berlin-frueherer-sed-funktionaer-guenter-schabowski-gestorben.html Günter Schabowski ist tot]([[ベルリン・ブランデンブルク放送協会]] 2015年11月1日、同日閲覧)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.tagesschau.de/multimedia/video/video-128769.html Nachruf Günter Schabowski]([[ドイツ公共放送連盟|ARD]]、[[ターゲスシャウ]]、2015年11月1日)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{gallery<br /> |File:Fotothek df roe-neg 0006033 012 Porträt Politiker, vermutlich Günter Schabowski.jpg|若き日のシャボフスキーと思われる写真(1951年)<br /> |File:Bundesarchiv Bild 183-1989-1104-455, Berlin, Alexanderplatz, Günter Schabowski am Mikrofon.jpg|[[東ベルリン]]、[[アレクサンダー広場]]での{{illm|アレクサンダー広場デモ|de|Alexanderplatz-Demonstration|label=デモ}}に集まった群衆に演説するシャボフスキー(1989年11月4日)<br /> |ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1989-1109-030, Berlin, Schabowski auf Pressekonferenz.jpg|シャボフスキーらが出国の自由化を発表した記者会見の様子(1989年11月9日)<br /> |画像:Schabowski-portrait.jpg|ギュンター・シャボフスキー(2007年)<br /> }}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat}}<br /> * [[エゴン・クレンツ]]<br /> * [[ベルリンの壁崩壊]]<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:しやほふすき きゆんた}}<br /> [[Category:ドイツ民主共和国の政治家]]<br /> [[Category:ドイツのジャーナリスト]]<br /> [[Category:東欧革命]]<br /> [[Category:メクレンブルク=フォアポンメルン州出身の人物]]<br /> [[Category:1929年生]]<br /> [[Category:2015年没]]</div> 42.145.121.253 テンプレート:DEU1815 2018-01-19T23:35:18Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>[[ファイル:Flag of the German Confederation (war).svg|border|25x20px]] [[ドイツ連邦]]&lt;noinclude&gt;<br /> <br /> ==関連テンプレート==<br /> *[[Template:DEU1935]] {{DEU1935}}<br /> *[[Template:FRG]] {{FRG}}<br /> *[[Template:DDR]] {{DDR}}<br /> *[[Template:DEU]] {{DEU}}<br /> <br /> [[Category:各国の国旗と国名テンプレート|DEU1815]]<br /> &lt;/noinclude&gt;</div> 42.145.121.253 ウクライナ国 2018-01-19T11:25:07Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Otheruses|歴史上の国家|現代の独立ウクライナ|ウクライナ}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 =ウクライナ<br /> |日本語国名 =ウクライナ国<br /> |公式国名 =&#039;&#039;&#039;{{lang|uk|Українська Держава}}&#039;&#039;&#039;<br /> |建国時期 =[[1918年]][[4月29日]]<br /> |亡国時期 =[[1918年]][[12月14日]]<br /> |先代1 =ウクライナ人民共和国<br /> |先旗1 =Flag of Ukrainian People&#039;s Republic 1917.svg<br /> |先旗1縁 =<br /> |先代2 =<br /> |先旗2 =<br /> |先代3 =<br /> |先旗3 =<br /> |先代4 =<br /> |先旗4 =<br /> |先代5 =<br /> |先旗5 =<br /> |次代1 =ウクライナ人民共和国<br /> |次旗1 =Flag of Ukrainian People&#039;s Republic 1917.svg<br /> |次代2 =<br /> |次旗2 =<br /> |次代3 =<br /> |次旗3 =<br /> |次代4 =<br /> |次旗4 =<br /> |次代5 =<br /> |次旗5 =<br /> |国旗画像 = Flag of Ukraine.svg<br /> |国旗サイズ =145px<br /> |国旗縁 = <br /> |国章画像 = Alex K Ukrainska Derzhava.svg<br /> |国章リンク =<br /> |標語 =<br /> |国歌名 =<br /> |国歌追記 =<br /> |位置画像 =Ukrainian State 1918. Europe.png<br /> |公用語 =[[ウクライナ語]]<br /> |首都 =[[キエフ]]<br /> |元首等肩書 =[[ヘーチマン]]<br /> |元首等年代始1 =1918年4月29日<br /> |元首等年代終1 =1918年12月14日<br /> |元首等氏名1 =[[パウロー・スコロパードシクィイ]]<br /> |元首等年代始2 =<br /> |元首等年代終2 =<br /> |元首等氏名2 =<br /> |元首等年代始3 =<br /> |元首等年代終3 =<br /> |元首等氏名3 =<br /> |元首等年代始4 =<br /> |元首等年代終4 =<br /> |元首等氏名4 =<br /> |元首等年代始5 =<br /> |元首等年代終5 =<br /> |元首等氏名5 =<br /> |首相等肩書 =首相<br /> |首相等年代始1 =[[フェーディル・ルィゾフーブ|F.ルィゾフーブ]]<br /> |首相等年代終1 =<br /> |首相等氏名1 =<br /> |首相等年代始2 =<br /> |首相等年代終2 =<br /> |首相等氏名2 =<br /> |首相等年代始3 =<br /> |首相等年代終3 =<br /> |首相等氏名3 =<br /> |首相等年代始4 =<br /> |首相等年代終4 =<br /> |首相等氏名4 =<br /> |首相等年代始5 =<br /> |首相等年代終5 =<br /> |首相等氏名5 =<br /> |面積測定時期1 =<br /> |面積値1 =<br /> |面積測定時期2 =<br /> |面積値2 =<br /> |面積測定時期3 =<br /> |面積値3 =<br /> |面積測定時期4 =<br /> |面積値4 =<br /> |面積測定時期5 =<br /> |面積値5 =<br /> |人口測定時期1 =<br /> |人口値1 =<br /> |人口測定時期2 =<br /> |人口値2 =<br /> |人口測定時期3 =<br /> |人口値3 =<br /> |人口測定時期4 =<br /> |人口値4 =<br /> |人口測定時期5 =<br /> |人口値5 =<br /> |変遷1 =建国<br /> |変遷年月日1 =[[1918年]][[4月29日]]<br /> |変遷2 =[[ブレスト=リトフスク条約|ブレスト条約]]承認<br /> |変遷年月日2 =[[1918年]][[7月24日]]<br /> |変遷3 =[[コサック]]復帰令<br /> |変遷年月日3 =[[1918年]][[10月16日]]<br /> |変遷4 =[[ウクライナ国立学士院|ウクライナ学士院]]創立<br /> |変遷年月日4 =[[1918年]][[11月14日]]<br /> |変遷5 =ヘーチマンの退位<br /> |変遷年月日5 =[[1918年]][[12月14日]]<br /> |通貨 =カルボーヴァネツィ<br /> |時間帯 =<br /> |夏時間 =<br /> |時間帯追記 =<br /> |ccTLD =<br /> |ccTLD追記 =<br /> |国際電話番号 =<br /> |国際電話番号追記 =<br /> |注記 =&lt;references/&gt;<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ウクライナ国&#039;&#039;&#039;(ウクライナこく、[[ウクライナ語]]:&#039;&#039;&#039;{{lang|uk|Українська Держава}}&#039;&#039;&#039; &lt;small&gt;ウクライィーンスィカ・デルジャーヴァ&lt;/small&gt;)は、[[1918年]][[4月29日]]から同年[[12月14日]]まで中央[[ウクライナ]]を中心に存在した[[国家]]。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> === 成立 ===<br /> [[2月革命_(1917年)|二月革命]]後、旧[[ロシア帝国]]領内には多くの「独立国家」が成立したが、ウクライナには[[ウクライナ人民共和国]]が成立した。その政府である[[ウクライナ中央ラーダ]]は、[[ドイツ帝国]]及び[[オーストリア・ハンガリー帝国]]と共同で[[ボリシェヴィキ]]との戦闘を遂行した。しかしながら、中央ラーダ政府は経験の浅い若手中心の組織で、[[ドイツ軍]]が最も必要とした食料調達を遂行する能力に欠けていたためドイツ軍の意に沿わず、1918年4月にドイツ軍が議場に乱入することにより解散させられた。<br /> <br /> それに代わってドイツと共闘するウクライナ国家の代表として選出されたのが、旧ロシア帝国の[[軍人]]で[[皇帝]][[ニコライ2世]]の副官であった[[パウロー・スコロパードシクィイ]]将軍であった。[[自由コサック民兵団]]を率いていたスコロパードシクィイは、[[ウクライナ人]]の間での[[コサック]]人気を利用して[[ヘーチマーン]]の称号を用いることとし、彼はかつて実際に[[左岸ウクライナ]]のヘーチマーンであった自分の祖先にあやかって「全ウクライナのヘーチマン」を名乗った。また、スコロパードシクィイは政権の奪取とともに[[国号]]を&#039;&#039;&#039;ウクライナ国&#039;&#039;&#039;と改めた。また、彼の政府は「&#039;&#039;&#039;[[ヘーチマーン政府]]&#039;&#039;&#039;」(ゲトマン政府、ヘトマン政府、ヘーチマーンシュチナとも)と呼ばれた。<br /> <br /> === 性格 ===<br /> これ以前のウクライナ人民共和国では[[社会主義]]の理想に基づいた平等政策が採られていたが、スコロパードシクィイはその支持基盤が[[ロシア人]]や旧帝国の[[貴族]](即ち[[地主]])であったこともあり、極めて反動的な政策を採った。特に、中央ラーダ政府が農民に分配していた農地を地主に返したことは大きな意味を持っていた。<br /> <br /> ウクライナ国ははじめからしてドイツ帝国の戦争遂行のための支援国家として成立されたものであり、その最大の目的はドイツへの食糧供給であった。また、ヘーチマーン政府は全面的にドイツの軍事力を背景に成立したものであったため、実際の主人はドイツ軍、その長たる[[ヘルマン・フォン・アイヒホルン|アイヒホルン]]元帥と[[ヴィルヘルム・グレーナー|グレーナー]]将軍であった。そのため、農村制度も帝国時代に逆戻りした上、農村からは大規模な食料徴発が行われたため、また[[ドイツ人]]のウクライナ人への蔑視が激しく感ぜられたことから、「全ウクライナのヘーチマーン」とドイツ軍への市民や農民からの反発は強く、各地に不服従や反乱が起きた。また、7月には乗車中のアイヒホルン元帥が暗殺されるという事件がおきた。<br /> <br /> === 最期 ===<br /> ドイツ軍の敗戦が濃厚となると、ヘーチマーン政府も政党等の各勢力の支持を取り付けようとしたが成功せず、結局[[11月11日]]にドイツが敗戦しウクライナ駐留軍も撤退すると、その勢力は断末魔に陥った。スコロパードシクィイは自らの軍隊を首都周辺に戦闘配置に付かせたまま鉄道で撤退するドイツ軍とともにドイツへ逃亡し、12月、農村を中心に強力な支持を取り付けていた[[シモン・ペトリューラ]]率いる[[ディレクトーリヤ]]軍との短い戦闘ののち、ヘーチマーン政府軍は総崩れとなり、ディレクトーリヤはドイツ軍と協定を結んだ上で12月14日、キエフを占領した。ペトリューラ軍はヘーチマーン政府軍より遙かに優れた装備を持っており、その実力以上に恐れられていた。権力の掌握後、中央ラーダの流れを汲む勢力であったディレクトーリヤ政府は国号を再びウクライナ人民共和国に戻し、ここにウクライナ国の命運は尽きた。<br /> <br /> === 軍事 ===<br /> &#039;&#039;詳細は[[ウクライナ国軍]]を参照のこと。&#039;&#039;<br /> <br /> ウクライナ国軍は、それ以前のロシア帝国軍やウクライナ人民共和国軍の装備を受け継ぐとともに、ドイツ軍からも装備の給与を受けていた。中には新型の[[ゴータ社]]製中型[[爆撃機]][[GL.VII_(航空機)|GL.VII]]や[[LVG_C.V_(航空機)|LVG C.V]]、ロシア帝国空中艦隊から編入した大型爆撃機の[[イリヤー・ムーロメツ_(航空機)|イッリャー・ムーロメツィ]]のような高度な装備も含まれていたが、肝腎の地上部隊をはじめ全般に装備の多くは旧式で、ペトリューラ軍の武装した農民に勝つことはできなかった。また、部隊編成も[[コサック]]民兵部隊、学生部隊など寄せ集め的なものが主で、旧中央ラーダ軍の強力な[[シーチ銃兵隊]]を中心としたペトリューラ軍の接近を前に、スコロパードシクィイの逃亡を知ったヘーチマン政府軍の指揮官の多くは部隊を解散したため、本格的な戦闘はキエフ近隣の[[スヴャトーシン]]が完全に破壊されたことなど以外は、ほとんど行われなかったに等しかった。海軍組織は[[黒海]]にて[[赤軍]]との戦闘に備えていたが、こちらは海軍の根拠地[[セヴァストーポリ]]を巡る戦闘が幾度か行われた。[[ウクライナ国海軍]]は、[[ドイツ海軍]]の黒海艦隊としての役割を持っていた。これは、ウクライナ国の崩壊後、[[イギリス]]・[[フランス]]連合の[[反革命]]干渉軍によって接収された。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{ja icon}} 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)<br /> <br /> {{ウクライナの歴史}}<br /> {{ロシア革命後の国家}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:うくらいなこく}}<br /> [[Category:ウクライナ国|*]]</div> 42.145.121.253 ヤコブの泉 2018-01-06T14:36:50Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Redirect|ヤコブの井戸}}<br /> {{coord|32|12|43|N|35|16|40|E|type:city|display=title}}<br /> [[ファイル:Jacob&#039;s Well in 2013.jpg|サムネイル|250px|現在の井戸。(2013年・許可を得て撮影)]]<br /> &#039;&#039;&#039;ヤコブの泉&#039;&#039;&#039;(ヤコブのいずみ、Jacob&#039;s fountain)は、[[サマリヤ]]の町[[スカル]]([[シェケム]])にあった井戸のことである。[[新改訳聖書]]では「&#039;&#039;&#039;ヤコブの井戸&#039;&#039;&#039;」(Jacob&#039;s Well )と表記される。現在、[[ナーブルス]]の町はずれある[[ビール・ヤアクーブ]]がヤコブの泉であると考えられる。<br /> <br /> スカルは[[旧約]]時代のシェケムであると言われ、[[ゲリジム山]]の北東に位置している。この井戸は[[サマリヤ人]]の伝承によると、[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]が掘ったとされている。聖書の中にはヤコブが掘ったという記録はないが、パダン・アラムからの帰途にシェケムに滞在して土地を購入しているから、井戸をほった可能性は否定できない。<br /> [[File:Jesus and Samaritan at Jacob&#039;s well.jpg|thumb|イエス・キリストとサマリア人の女]]<br /> [[イエス・キリスト]]はこの井戸の傍らでサマリヤ人の女と永遠のいのちの水について、また真の礼拝者による礼拝について語られた。<br /> <br /> 現在、この井戸は直径2.3メートルあり、下部は[[石灰石]]の岩盤を掘り込み、上部は石組みがなされており、きれいな軟水を汲み取ることができる。<br /> <br /> ==参考文献==<br /> *『[[新聖書辞典]]』[[いのちのことば社]]、1985年<br /> <br /> {{commonscat|Jacob&#039;s Well, Nablus}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:やこふのいすみ}}<br /> [[Category:聖書に登場する地名]]<br /> [[Category:パレスチナ自治区]]</div> 42.145.121.253 アンセルムス 2017-08-18T00:40:37Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{Infobox 聖人<br /> |名前=アンセルムス<br /> |画像=AnselmCanterbury2.jpg<br /> |画像サイズ=220px<br /> |画像コメント=カンタベリーのアンセルムス<br /> |称号=[[教会博士]]<br /> |他言語表記=Anselmus Cantuariensis<br /> |生誕地={{HRR}}&lt;br&gt;[[ブルグント王国]]、[[アオスタ]]<br /> |生誕年(日)=[[1033年]]<br /> |死去地={{Flagicon|ENG}} [[イングランド王国]]、[[カンタベリー]]<br /> |死去年(日)=[[1109年]][[4月21日]]<br /> |崇敬する教派=[[カトリック教会]]&lt;br&gt;[[聖公会]]<br /> |記念日=4月21日<br /> |列福日=<br /> |列福場所=<br /> |列福決定者=<br /> |列聖日=[[1494年]]<br /> |列聖場所=<br /> |列聖決定者=<br /> |主要聖地=<br /> |象徴=<br /> |守護対象=<br /> |論争=<br /> |崇敬対象除外日=<br /> |崇敬対象除外者=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;カンタベリーのアンセルムス&#039;&#039;&#039;({{lang-la-short|&#039;&#039;&#039;Anselmus Cantuariensis}}, &#039;&#039;&#039;[[1033年]] - [[1109年]][[4月21日]])は[[中世|中世ヨーロッパ]]の[[神学]]者、かつ[[哲学]]者であり、1093年から亡くなるまで[[カンタベリー大主教 | カンタベリー大司教]]の座にあった。[[カトリック教会]]で[[聖人]]。[[日本におけるカトリック教会|日本のカトリック教会]]では&#039;&#039;&#039;カンタベリーの聖アンセルモ&#039;&#039;&#039;&lt;ref&gt;『YOUCAT(日本語)――カトリック教会の青年向けカテキズム』日本カトリック司教協議会青少年司牧部門訳、カトリック中央協議会、2013年6月30日、ISBN:978-4-87750-174-7、p178&lt;/ref&gt;、&#039;&#039;&#039;聖アンセルモ司教教会博士&#039;&#039;&#039;&lt;ref&gt;{{cite web|title=Laudate 聖人カレンダー|url=http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=042101|publisher=聖パウロ女子修道会|accessdate=24 April 2014}}&lt;/ref&gt;とも呼ばれる。初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人物であり、それゆえ一般的に、彼を始めとして興隆する中世の学術形態「[[スコラ学]]の父」と呼ばれる。[[神の存在証明|神の本体論的(存在論的)存在証明]]でも有名。<br /> <br /> ==生涯==<br /> ===ル・ベックの修道士===<br /> [[神聖ローマ帝国]]治下の[[ブルゴーニュ地域圏|ブルグンド]]王国の都市[[アオスタ]]で誕生した。アオスタは、今日の[[フランス]]と[[スイス]]両国の国境と接する、[[イタリア]]の[[ヴァッレ・ダオスタ州]]に位置する。父のガンドルフォは[[ランゴバルド人|ランゴバルド]]の貴族であり、また母のエルメンベルガもブルグンドの貴族の出自であり、大地主であった。<br /> <br /> 父は息子に政治家の道を歩ませたかったが、アンセルムスはむしろ思慮深く高潔な母の敬虔な信仰に大いに影響された。15歳の時、[[修道院]]に入ることを希望したが、父の了承を得ることはできなかった。失望したアンセルムスは心因性の病を患い、その病から回復して一時の間、彼は神学の道をあきらめ、放埓な生活を送ったといわれる。この間に彼の真摯な気持ちを理解してくれていた母が亡くなったため、アンセルムスはこれ以上父の激しい性格に我慢ならなくなった。1056年(もしくは1057年)に家を出たアンセルムスはブルグンドとフランスを歩いてまわった。その途中、ブルグンドにある[[ベネディクト会]][[クリュニー修道院]]、その系列の[[ル・ベック修道院]]の副院長を当時務めていた[[カンタベリーのランフランクス|ランフランクス]]の高名を聞きつけ、アンセルムスは同修道院のある[[ノルマンディー]]に向かう。そして滞在していた1年間の内に、同修道院で[[修道士]]として生きることを決意する。アンセルムスが27歳の時のことである。また、幼い頃からすばらしい教育を受けてきたアンセルムスの才能が開花するのはこの時からである。<br /> <br /> 3年後の1063年、ランフランクスが[[カーン]]の修道院長に任命された時、アンセルムスはル・ベック修道院の副院長に選出された。彼はその後15年間にわたってその座にあり、1078年、ル・ベック修道院の創設者であり初代修道院長である[[ヘルルイヌス]]の死によって、アンセルムスは同修道院長に選出された。彼自身は積極的に推し進めたわけではないが、アンセルムスの下で、ベックはヨーロッパ中に知られる神学の場となった。この期間に、アンセルムスの最初の護教論文『モノロギオン』(1076年)と『プロスロギオン』(1077-78年)が書かれた。また、問答作品『真理について』、『選択の自由について』、そして『悪魔の堕落について』が書かれたのもこの時期である。<br /> <br /> ===聖職者叙任権闘争時代のカンタベリー大司教===<br /> その後アンセルムスは、師であったランフランクスを継いでカンタベリー大司教となるが、当時は[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]の「オットーの特権」(963年)、[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]の教会改革運動を巡るいざこざ(1030-40年代)を始まりとし、有名な[[カノッサの屈辱]](1077年)で最盛期を迎える[[叙任権闘争|聖職者叙任権闘争]]の時代であった。イングランドも例外ではなく、イングランド教会の長であるカンタベリー大司教を始めとする聖職者の座を、王室と教皇、どちらの権威を持って叙任するのかという問題へ発展してゆく。これは、ただ単に名誉的な問題ではなく、高位聖職者は司教管区や修道院を元として、封土(不動産とそこに基づく財産の所有)が慣習として認められていたため、政治的、実質的問題となるのであった。このようにして、イングランドにおける教会の代表者アンセルムスはイングランド国王たちと、長きに渡る闘争に巻き込まれてゆくのである。<br /> <br /> [[ノルマンディー公]]であったギヨーム2世は、[[1066年]]に[[イングランド]]国王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]として即位し、[[ノルマン朝]]を興す。ノルマンディー公として、ウィリアム1世はル・ベック修道院の保護者であり、また同修道院がイングランドに広大な地所を所有するにいたり、アンセルムスは時折同地を訪れるようになる。彼の温厚な性格とゆるぎない信仰精神により、アンセルムスは同地の人々に慕われ、尊敬されるにいたって、当時カンタベリー大司教であったランフランクスの後継者だと、当然のように思われていた。<br /> <br /> しかし1089年、その偉大なるランフランクスの死に際して、(教会に対する)王権の拡大を狙っていた当時のイングランド国王[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]は、司教座の土地と財産を押さえ、新たな大司教を指名しなかった。約4年後の1092年に、チェスター卿ヒューの招きによって、アンセルムスはしぶしぶ(というのも、その様な態度を明らか様にしていた同王の下で大司教に任命されるのを恐れたから)イングランドへ渡った。4ヶ月ほど[[チェスター]]における修道院設立などの任務により同地に拘束された後、アンセルムスがノルマンディーへ帰ろうとした時、イングランド王によって引き止められた。翌年、ウィリアム2世は病に倒れ、死が近づいているように思えた。そこで、大司教を任命しなかった罪の許しを欲したウィリアム2世は、アンセルムスをしばらくの間空位となっていたカンタベリー大司教の座に指名した。いざこざがあったものの、アンセルムスは司教座を引き受けることを納得した。<br /> <br /> ノルマンディーでの職務を免ぜられた後、アンセルムスは[[1093年]][[12月4日]]に司教叙階を受けた。彼は大司教座を引き受ける代わりに、イングランド王に次の事項を要求した。すなわち、<br /> #没収した大司教管区の財産を返すこと<br /> #大司教の(宗教的な)勧告を受け入れること<br /> #[[対立教皇]][[クレメンス3世 (対立教皇)|クレメンス3世]]を否認し、[[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]を[[ローマ教皇|教皇]]として認めること<br /> である。自分の死が近いと思っていたウィリアム2世はこれらのことを約束するが、実際には、最初の事項が部分的に認められたのみであり、また、3番目の事項はアンセルムスとイングランド王を険悪な関係に追い込むことになる。<br /> <br /> 幸か不幸かウィリアム2世は病の床から回復して、アンセルムスの大司教座の見返りに多大な財産の贈呈を要求した。これを[[聖職売買]]と見たアンセルムスはきっぱりと断り、これに怒った国王は復讐に出る。教会の決まりとして、カンタベリー大司教などの首都大司教として聖別されるには、[[パリウム]]を直接、教皇の手から授与されなくてはならない。したがって、アンセルムスはパリウムを受け取りに[[ローマ]]へ行くことを主張したが、これは実質的に王室が教皇ウルバヌス2世の権威を認めることとなるため、ウィリアム2世はローマ行きを許さなかった。<br /> <br /> イングランド教会の首都大司教の叙任問題は、その後2年にわたって続いた。1095年、国王はひそかにローマへ使いを出し、教皇ウルバヌス2世を認める旨を伝え、パリウムを持った教皇特使を送ってくれるよう教皇に頼んだ。そして、ウィリアム2世は自らパリウムを授与しようとしたが、聖職者叙任という教会内の事柄に俗界の王権が入り込むことを強硬に拒んだアンセルムスは、国王から受け取ることはなかった。<br /> <br /> 1097年10月、アンセルムスは国王の許可を得ずにローマへ赴いた。怒ったウィリアム2世はアンセルムスの帰還を許さず、直ちに大司教管区の財産を押さえ、以降彼の死まで保ち続けた。ローマでのアンセルムスはウルバヌス2世に名誉をもって迎えられ、翌年の[[バーリ]]における大会議にて、[[正教会]]の代表者らの主張に対抗して、カトリック教会の[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]で確認された[[聖霊]]発出の教義を守る役に指名された([[東西教会の分裂#1054年:教皇と総主教の相互破門|大シスマ]]は1054年の出来事である。また、聖霊問題に関しては[[フィリオクェ問題]]を参照)。また、同会議は教会の聖職者叙任権を再確認したが、ウルバヌス2世はイングランド王室と真っ向から対決することを好まず、イングランドの叙任権闘争は決着を見ずに終わった。ローマを発ち、[[カプア]]近郊の小村で時を過ごしたアンセルムスは、そこで[[受肉]]に関する論文『神はなぜ人間になられたか』を書き上げ、また、翌1099年の[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂|ラテラノ宮殿]]での会議に出席した。<br /> <br /> 1100年、ウィリアム2世は狩猟中に不明の死を遂げた。王位を兄の[[ロベール2世 (ノルマンディー公)|ロバート]]が不在の間に継承した[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]は、教会の承認を得たいがために、ただちにアンセルムスを呼び戻した。しかし、先代王と同じく叙任権を要求したヘンリー1世とアンセルムスは、再び仲たがいをすることとなる。国王は教皇に何度かこれを認めようと仕向けたものの、当時の教皇[[パスカリス2世]]が認めることはなかった。この間、1103年4月から1106年8月まで、アンセルムスは追放の身にあった。そしてついに[[1107年]]、ウェストミンスター教会会議にて、国王が叙任権の放棄を約束し、和解がもたらされた。このウェストミンスター合意は、後の聖職者叙任権闘争に幕を下ろす1122年の[[ヴォルムス協約]]のモデルとなる。こうして、アンセルムスは長きにわたった叙任権闘争から解放されたのである。<br /> <br /> 彼の最後の2年間は大司教の職務に費やされた。カンタベリー大司教アンセルムスは1109年4月21日に死亡した。彼は[[1494年]]に教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]によって[[列聖]]され、また[[1720年]]には学識に優れた聖人に贈られる[[教会博士]]の称号を得た。<br /> <br /> ==思想==<br /> [[ファイル:Anselm-CanterburyVit.jpg|thumb|upright|right|[[カンタベリー大聖堂]]に飾られているステンドグラス]]<br /> アンセルムスがスコラ学の父と呼ばれる所以は、すでに処女作『[[モノロギオン]]』に見て取れる。「独白」を意味するこの論文で、彼は神の存在と特性を理性によって捉えようとした。それは、それまでの迷信にも似た、キリスト教の威光をもって神を論ずるものとは一線を画した。<br /> <br /> もうひとつの主要論文『[[プロスロギオン]]』は、構想当初「理解を求める信仰」と題されていたが、これは彼の神学者、スコラ学者としての姿勢を特徴づけるものとしてしばしば言及される。この立場は通常、理解できることや論証できることのみを信じる立場ではなく、また、信じることのみで足りるとする立場でもなく、信じているが故により深い理解を求める姿勢、あるいはより深く理解するために信じる姿勢であると解される。<br /> <br /> 神の存在証明は、『プロスロギオン』の特に第2章を中心に展開されたもので、おおよそ以下のような形をとる。<br /> <br /> #神はそれ以上大きなものがないような存在である。<br /> #一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、実際に(現実に)存在する方が、より大きいと言える。<br /> #もしもそのような存在が人間の理解の内にあるだけで、実際に存在しないのであれば、それは「それ以上大きなものがない」という定義に反する。<br /> #そこで、神は人間の理解の内にあるだけではなく、実際に存在する。<br /> <br /> この証明は、後に[[イマヌエル・カント]]によって[[存在論]]的な神の存在証明と呼ばれ、[[ルネ・デカルト]]など中世以降の哲学者にも大きな影響を与えたと言われる(歴史上、神学者や哲学者によって、神の存在証明は多くの側面から検討された。)<br /> <br /> ==日本語文献情報==<br /> アンセルムスは「スコラ哲学の父」と哲学入門書などで紹介されることは多いものの、その著書を入手することは非常に困難となっているのが現状である。聖文舎より全1巻の『アンセルムス全集』(1980年:古田暁訳)が出ている。上智大学中世思想研究所(編訳、1996年)『中世思想原典集成7 前期スコラ学』(平凡社)は、『モノロギオン』、『プロスロギオン』を始めとするアンセルムスの主著を納めている。また、主要著作は単書としても存在する。<br /> *聖アンセルムス(1942年)『プロスロギオン』長澤信壽(訳)(岩波文庫)<br /> *--(1946年)『モノロギオン』長澤信壽(訳)(岩波文庫)<br /> *--(1948年)『クール・デウス・ホモ - 神は何故に人間となりたまひしか』長澤信壽(訳)(岩波文庫)<br /> <br /> アンセルムスに関する著作、研究書には、印具徹(1981年)『聖アンセルムスの生涯』(中央出版社)などがあり、また日本でも有名な[[カール・バルト]]による研究書も存在する。<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[神学者の一覧]]<br /> *[[聖者の一覧]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> {{先代次代|[[カンタベリー大主教の一覧|カンタベリー大司教]]|1093年 - 1109年4月21日|[[ランフランクス]]|[[ロドルフス]]}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:あんせるむす}}<br /> [[Category:カンタベリー大司教]]<br /> [[Category:カトリック教会の神学者]]<br /> [[Category:11世紀の哲学者]]<br /> [[Category:12世紀の哲学者]]<br /> [[Category:中世ヨーロッパの哲学者]]<br /> [[Category:カトリックの哲学者]]<br /> [[Category:スコラ学の哲学者]]<br /> [[Category:宗教哲学者]]<br /> [[Category:中世哲学]]<br /> [[Category:存在論の哲学者]]<br /> [[Category:11世紀の学者]]<br /> [[Category:カトリック教会の聖人]]<br /> [[Category:教会博士]]<br /> [[Category:1033年生]]<br /> [[Category:1109年没]]</div> 42.145.121.253 ユリウス2世 (ローマ教皇) 2017-07-31T16:11:40Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{ infobox 教皇<br /> | 敬称1 =<br /> | 日本語名 =ユリウス2世&lt;br&gt;Julius II<br /> | 敬称2 = <br /> | タイトル =第216代ローマ教皇<br /> | 画像 = [[Image:Pope_Julius_II.jpg|200px]]<br /> | 画像説明 = [[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]による肖像画<br /> | 就任 = [[1503年]][[11月1日]]<br /> | 離任 = [[1513年]][[2月21日]]<br /> | 先代 = [[ピウス3世 (ローマ教皇)|ピウス3世]]<br /> | 次代 = [[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]<br /> | 司祭 = <br /> | 司教 = <br /> | その他 =<br /> | 本名 = ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ&lt;br&gt;(Giuliano della Rovere)<br /> | 生年月日 = [[1443年]][[12月5日]]<br /> | 生地 = [[File:Flag of Genoa.svg|border|30px]] [[ジェノヴァ共和国]]、[[アルビソーラ・スペリオーレ]]<br /> | 没年月日 = 1513年2月21日<br /> | 没地 = [[File:CoA Pontifical States 02.svg|20px]][[教皇領]]、[[ローマ]]<br /> | 埋葬地 = <br /> | 原国籍 = <br /> | 宗派 =<br /> | 居住地 = <br /> | 親 = <br /> | 妻 = <br /> | 子 = [[フェリーチェ・デッラ・ローヴェレ]]<br /> | 母校 = <br /> | 署名 = <br /> | 曖昧 = ユリウス<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ユリウス2世&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Julius II&#039;&#039;&#039; [[1443年]][[12月5日]] - [[1513年]][[2月21日]])は、16世紀初めの[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[1503年]] - 1513年)。本名は&#039;&#039;&#039;ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ&#039;&#039;&#039;(Giuliano della Rovere)。芸術を愛好し、多くの芸術家を支援したことで[[ローマ]]に[[ルネサンス]]芸術の[[盛期ルネサンス|最盛期]]をもたらしたが、その治世において[[教皇領]]と[[イタリア]]から外国の影響を排除しようとした奮闘が、戦争好きの政治屋教皇というレッテルを彼にもたらすことになった。<br /> <br /> ==生涯==<br /> === 急速な出世 ===<br /> アルビッソラの貧しい家で育ったローヴェレは教皇[[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]]の甥にあたる。その叔父の意向を受けてローヴェレは[[フランシスコ会]]の修道院に学び、自然科学の勉強のためにラペルーズの修道院に送られることになった。しかし、彼はそれを拒否し、フランシスコ会修道院に入った。しかし、フランシスコ会に籍をおきながら、[[1471年]]に叔父によってフランスの[[カルパントラ]]の[[司教]]にあげられるまで特例として教区にも在籍していた。<br /> <br /> [[1471年]]、28歳にして[[枢機卿]]にあげられ、叔父が教皇になるまで持っていたサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ(聖[[ペトロ]]をつないだ鎖があることで有名な大聖堂)の枢機卿位を引き継いだ。叔父の元で影響力を増していったローヴェレは[[アヴィニョン]]の大司教位など8つもの司教職をかけもちしていた。[[1480年]]には教皇使節として[[フランス王国|フランス]]に派遣され、4年間同地に滞在した。華々しい経歴の中で、教皇が[[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]]に変わっても枢機卿団における彼の影響力の大きさは増していくばかりであった。<br /> <br /> === アレクサンデル6世との対立 ===<br /> 当時の枢機卿団の中で影響力を持っていたもう1人の人物ロドリゴ・ボルジアとは互いをライバル視するようになっていった。しかし[[1492年]]の[[コンクラーヴェ]]では、アスカニオ・スフォルツァの抱きこみに成功し、巨額の賄賂によって枢機卿たちの票を買いまくったボルジアが圧勝し、教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]を名乗ることになった。敗れたローヴェレは身の危険を感じて[[オスティア]]に逃れ、さらに[[パリ]]へと逃れた。パリではフランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]の身辺にあって[[ナポリ王国]]への継承権を主張するようそそのかしていた。<br /> <br /> [[1494年]]、ついにシャルル8世を動かすことに成功したローヴェレはフランス軍と共にイタリアへ侵入、アレクサンデル6世の抵抗を排除しローマ入城に成功した。ここで汚職の噂に事欠かなかったアレクサンデル6世を断罪し、退位させることができると思ったが、そこはアレクサンデル6世のほうが一枚上手であった。アレクサンデル6世はシャルル8世の腹心ブリソネーに枢機卿を与える約束をしてその地位を保障されたのだった。<br /> <br /> その後一旦アレクサンデル6世と和解したが、打倒ボルジアの野望を捨てず[[1503年]]にアレクサンデル6世が没すると、ローヴェレはミラノのピッコロミニ枢機卿を支持して、教皇選出に大きな役割を果たした。これが[[ピウス3世 (ローマ教皇)|ピウス3世]]である。しかし、ピウス3世は病にたおれて急逝。ローヴェレは、かつての仇敵アレクサンデル6世の庶子で教会軍総司令官であった[[チェーザレ・ボルジア]]の支持を取り付けるという政治的な離れ業をおこなって教皇位につき、ユリウス2世を名乗った。用済みとなったチェーザレは捕縛され、[[ナバラ王国]]に脱走したが、[[1507年]]に戦死。<br /> <br /> === イタリア戦争 ===<br /> その在位の初めからユリウス2世は教皇領をめぐる複雑な権力関係や[[大国]]の影響力を一掃したいと考えていた。そのためにまず取り組んだのは教皇領をほぼ我が物としていた[[ボルジア家]]の影響力を拭い去ることであった。複雑な折衝の末にこれに成功すると、ボルジア家のもとで追い込まれていたかつての名族[[オルシーニ家]]と[[コロンナ家]]の関係正常化の仲介をおこない、教皇領とローマの貴族たちとの関係も改善した。<br /> <br /> ローマの安全性を確実なものとするため、ユリウス2世は[[ファエンツァ]]や[[リミニ]]など諸都市からヴェネツィア軍を追い出した。彼らはアレクサンデル6世逝去のどさくさに紛れてそれらの都市を占領していた。[[1504年]]には対立することの多かった[[神聖ローマ帝国]]とフランスの同盟に尽力し、その力を借りることでヴェネツィアの影響力を弱めようとした。これはイタリアの独立性を弱める危険があるが、当面の策としては最上のものであった。しかし、この同盟も結局実際的な影響力はあまりなく、[[ロマーニャ]]のいくつかの街からヴェネツィア軍が撤退したにとどまったが、ついに[[1506年]]に教皇自らが軍隊を率いて出たことで[[ペルージャ]]や[[ボローニャ]]を陥落させ、フランスと神聖ローマ帝国が教皇を無視できなくなるほどの影響力を持つことに成功した。<br /> <br /> [[1508年]]にはフランス王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]および[[アラゴン王国|アラゴン]]の[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]と組んで対[[ヴェネツィア共和国]]同盟を結成。[[1509年]]初頭にはヴェネツィアへの禁輸令などによって締め付けを強化し、アニャデッロの戦いでヴェネツィアを破ったことで共和国の[[イタリア半島]]における影響力を一挙に消滅させることに成功した。しかし、ここにきてユリウス2世はイタリアにおけるフランスの影響力の大きさを危惧するようになった。<br /> <br /> そこでヴェネツィア共和国と同盟し、フランスと敵対した。しかし、フランスとイギリスを離間させようとした教皇の策は失敗し、逆に[[1510年]]にフランスがトゥールで[[教会会議]]を招集するという反撃にうって出た。フランスの司教団は教皇への忠誠を放棄し、ルイ12世は教皇の廃位を企てた。この目的のため[[ピサ教会会議]]が準備され、[[1511年]]に実際に開会した。<br /> <br /> ユリウス2世はヴェネツィア共和国、アラゴンのフェルナンド2世と対フランス同盟である[[神聖同盟 (16世紀)|神聖同盟]]を締結。[[イングランド王国|イングランド]]の[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]と神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]も同盟に加えることに成功した。教皇はピサでの教会会議に対抗して、[[1512年]]に[[ローマ]]に公会議([[第5ラテラン公会議]])を召集した。公会議の召集はユリウス2世が教皇着任にあたって実施を約束したものであったが、なかなか実行されずにいたものであった。こうして足元を固めた教皇はついにフランス軍をアルプス北部へ追いやることに成功した。<br /> <br /> しかし、これもフランス以外の大国がイタリアに影響力を及ぼすという結果につながるものでしかなかった。ローマ周辺の教皇領の政治的安定と独立を獲得した教皇であったがイタリア半島全体の独立の夢はかなわず、[[1513年]]2月に病没した。教皇の遺体は司教座聖堂であったサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリに葬られた(同教会にある有名なミケランジェロの[[モーセ像]]はユリウス2世の墓所のためにつくられたものである)。<br /> <br /> == 評価 ==<br /> ユリウス2世の事績と展望は教会関係者のそれというよりは政治家・軍事的指導者のものであった。これはアレクサンデル6世の方針を基本的に受け継いだもので、異なっているのは自らの栄誉や一族の繁栄よりも教会の権威と影響力を強力にすることに専心したことである。もっとも[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]は「自らの手でするか息子にゆだねるかの違いでしかなかった」と言っている。また前任者の汚職を告発しているが、ユリウス2世もまた自身が関わった少なくとも2度のコンクラーヴェで票の買収工作を行ったり、即位後すぐに3人の甥や従弟を枢機卿に任命するなどしている。ただしこれらの行為は現在では宗教的堕落ではなく、教皇の君主的側面を象徴するものと解釈されている。<br /> <br /> それでもユリウス2世は不屈の精神に優れた政治的手腕、道徳的中立性などによって同時代の政治家と比べても傑出した存在であることは間違いない。同時に戦争好きであるとか政治屋であるという印象を残してはいるが、現代でも人気のある教皇の一人に数えられる。<br /> <br /> ユリウス2世について忘れてはならないのは芸術の愛好者であり、多くの芸術家の援助をしていたということである。[[ドナト・ブラマンテ|ブラマンテ]]や[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]などがユリウス2世の援助を受けて優れた創作活動をおこなった。特にミケランジェロには[[システィーナ礼拝堂]]の天井画の製作を依頼している。また、ローマの補修・美化にもつとめ、[[サン・ピエトロ大聖堂]]の新築を決定し、[[1506年]]に定礎式を執り行ったのもユリウス2世であった。この様にユリウス2世は、ローマをルネサンスの中心地へと変貌させたのである。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[デッラ・ローヴェレ家]]<br /> *[[イタリア戦争]]<br /> *[[バチカンのスイス衛兵]]<br /> <br /> {{ローマ教皇|第216代:1503年 - 1513年}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ゆりうす2}}<br /> [[Category:教皇]]<br /> [[Category:ルネサンス教皇]]<br /> [[Category:デッラ・ローヴェレ家]]<br /> [[Category:イタリア戦争の人物]]<br /> [[Category:1443年生]]<br /> [[Category:1513年没]]</div> 42.145.121.253 シクストゥス4世 (ローマ教皇) 2017-07-31T16:09:21Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{ infobox 教皇<br /> | 敬称1 =<br /> | 日本語名 =シクストゥス4世&lt;br&gt;Sixtus IV<br /> | 敬称2 = <br /> | タイトル =第212代ローマ教皇<br /> | 画像 = [[ファイル:SixtusIV.jpg|250px]]<br /> | 画像説明 = <br /> | 就任 = [[1471年]][[8月9日]]<br /> | 離任 = [[1484年]][[8月12日]]<br /> | 先代 = [[パウルス2世_(ローマ教皇)|パウルス2世]]<br /> | 次代 = [[インノケンティウス8世_(ローマ教皇)|インノケンティウス8世]]<br /> | 司祭 = <br /> | 司教 = <br /> | その他 = <br /> | 本名 = フランチェスコ・デッラ・ローヴェレ&lt;br&gt;(Francesco della Rovere)<br /> | 生年月日 = [[1414年]][[7月21日]]<br /> | 生地 = [[File:Flag of Genoa.svg|30px]][[ジェノヴァ共和国]]、[[チェッレ・リーグレ]]<br /> | 没年月日 = 1484年8月12日<br /> | 没地 = [[File:CoA Pontifical States 02.svg|20px]][[教皇領]]、[[ローマ]]<br /> | 埋葬地 = <br /> | 原国籍 = <br /> | 宗派 =<br /> | 居住地 = <br /> | 親 = <br /> | 妻 = <br /> | 子 = <br /> | 母校 = <br /> | 署名 = <br /> | 曖昧 = シクストゥス<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;シクストゥス4世&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Sixtus IV&#039;&#039;&#039;、[[1414年]][[7月21日]] - [[1484年]][[8月12日]])は[[ルネサンス]]期の[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[1471年]] - 1484年)。本名は&#039;&#039;&#039;フランチェスコ・デッラ・ローヴェレ&#039;&#039;&#039;(Francesco della Rovere)。<br /> <br /> [[ルネサンス教皇]]の典型ともいえる存在で、自らの名前に因んだ[[システィーナ礼拝堂]]を建設し、そこへ幾多の芸術家を招聘して初期ルネサンス芸術の成果を[[ローマ]]に導入した([[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]の有名な天井画は後の時代に付け加えられたものである)。一方で、政治的には失政が多く、[[イタリア]]に無用の戦争と混乱をもたらした。後に甥のジュリアーノも教皇の座につき、[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]を名乗ることになる。<br /> <br /> ==生涯==<br /> ローヴェレは[[サヴォーナ]]に近い[[チェッレ・リーグレ]]に生まれた。彼は自らすすんでという訳ではなかったが[[フランシスコ会]]に入会した。哲学・神学を学ぶうちにその学識を称揚され、イタリア各地の大学で教鞭をとるようになった。[[1464年]]にフランシスコ会総長に選出され、教皇[[パウルス2世 (ローマ教皇)|パウルス2世]]のもと[[1467年]]に[[枢機卿]]にあげられた。<br /> <br /> 1471年にローヴェレが教皇位についてシクストゥス4世を名乗った頃、[[イズミル|スミュルナ]]の[[オスマン帝国]]軍への攻撃がおこなわれていたが、成果を挙げることができなかった。それ以上にオスマン帝国攻撃のための資金集めのほうが熱心におこなわれていた。この頃には[[正教会]]との合同へ向けた動きもあったが、進展しなかった。やがて教皇は当面の外交問題の処理に向かわなければならなかった。まず、[[ブールジュ]]の[[国本勅諚]]([[1439年]])を遵守しつづける[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]との交渉があった。教皇のフランスへの介入を排除しようとしたこの勅令は、後のガリカニスムの源泉とも言えるものであった。またフランス王が[[ナポリ王国]]の継承権に食指を動かしていることも教皇には見過ごせない問題であった。<br /> <br /> 当時の教皇達の例に漏れず、シクストゥス4世も[[縁故主義|ネポティズム]]から逃れることができなかった。シクストゥス2世を描いたメロッツォ・デ・フォルリが[[1477年]]に描いたフレスコ画で教皇の脇に描かれている枢機卿たちは親族のデッラ・ローヴェレ家とリアリオ家の人間たちである。決して全員がシクストゥス4世時代にその任務についたわけではないが、その親族からは教皇庁長官であったラファエロ・リアリオ、後にユリウス2世となるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ、ジロラモ・リアリオ、ジョバンニ・デッラ・ローヴェレなどが教皇の引き立てを受けている。これらの人物に加えて初めて教皇伝『歴代教皇伝』を書いた人文主義者でバチカンの図書館長であったプラティナもフォルリの絵に描かれている。<br /> <br /> 後にラファエロ・リアリオ枢機卿は[[1478年]]の[[パッツィ家の陰謀]]に加担して[[メディチ家]]の打倒をはかったが失敗した。これは[[ロレンツォ・デ・メディチ]]とその兄弟を暗殺して[[フィレンツェ]]の支配者の地位にジロラモ・リアリオをつけようとした企てであった。計画の首謀者とされたピサ大司教は[[シニョリーア宮殿]]の壁に吊るされて殺されたため、教皇庁とフィレンツェは以後2年におよぶ戦争状態に突入する。同時にシクストゥス4世は[[ヴェネツィア共和国]]に対して[[フェラーラ]]を攻撃するようすすめている。これによって別の親族にフェラーラを治めさせる意図があったようだ。しかし、このような教皇の活動はイタリアの都市君主たちを怒らせ、同盟を結ばせることになる。すなわち教皇の示唆によって[[1482年]]におこなわれたヴェネツィア軍のフェラーラ攻撃に対して、[[ミラノ]]の[[スフォルツァ家]]、フィレンツェのメディチ家、ナポリ王国のみならず本来教皇の同盟者であった人々までが同盟を組んでこれを阻止にまわった。これほどの反発を予想していなかった教皇は[[1483年]]に逆にヴェネツィアを禁令下に置くことを宣言した。<br /> <br /> シクストゥス4世はスペインにおいて教皇庁から独立した独自の異端審問([[スペイン異端審問]])を行う許可を与えているが、これは[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フェルナンド2世_(アラゴン王)|フェルナンド2世]]の求めに応じたものであった。同王のおさめる[[シチリア王国]]からの軍事援助がなくなればオスマン帝国の脅威に対してなすすべのない教皇にはこれを拒否することはできなかった。その後、教皇のお墨付きを得たスペイン異端審問所が政治的な理由での告発を繰り返し、必要以上に過激な処罰を行ったことで教皇を悩ませることになる。<br /> <br /> シクストゥス4世が教会の歴史の中で果たした意義としては[[12月8日]]の無原罪の聖母の祝日を制定したことがあげられる。彼は[[1478年]]に[[コンスタンツ公会議]]が採択した改革的教令を公式に取り消している。<br /> <br /> 政治的には失政の多かったシクストゥス4世ではあるが、ローマの発展と美術・学問の振興に果たした業績の大きさは誰もが認めざるを得ない。[[システィーナ礼拝堂]]の建設だけでなく、シスト橋の建築、ローマの街の美化・補修などに大規模な投資をおこなった。さらに[[バチカン図書館]]の拡充もはかっている。また、レギオモンタヌスに[[ユリウス暦]]の不備の検討をおこなわせ、[[ジョスカン・デプレ]]をローマに招いている。教皇はさらに[[サンドロ・ボッティチェッリ]]、[[ピントゥリッキオ]]、[[ドメニコ・ギルランダイオ]]らのパトロンにもなっている。<br /> <br /> シクストゥス4世が没すると、枢機卿団が集まって後継者の選出作業([[コンクラーヴェ]])を開始した。このときの枢機卿団の人数は32人で、当時まででは(教会分裂の混乱した時期を除けば)最多であった。この時、パウルス2世以前の時代からの枢機卿は僅かに3人(ロドリゴ・ボルジア(後の[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]])、ルイス・ボルジア、フランチェスコ・トデスキーニ(後の[[ピウス3世 (ローマ教皇)|ピウス3世]]))、パウルス2世によって枢機卿にされたものは6人(オリヴィエロ・カラファなど)、残りの23人は全てシクストゥス4世の任命によるものであったが、全て当時の名家の出身者ばかりであった。ローヴェレ家のジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(後のユリウス2世)、ナルディーニ家のステファノ・ナルディーニ、チーボ家のジョバンニ・バッティスタ・チーボ(次の[[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]])、他にも[[オルシーニ家]]、[[コロンナ家]]、[[スフォルツァ家]]などさながらルネサンス時代の貴族名鑑のようである。しかし、彼らが選出したのは恩顧あるシクストゥスの甥ローヴェレではなく、政敵のチーボであった。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commonscat|Sixtus IV|シクストゥス4世}}<br /> *[[デッラ・ローヴェレ家]]<br /> *[[フォルリ]]<br /> {{ローマ教皇|第212代: 1471年 - 1484年}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:しくすとうす4}}<br /> [[Category:教皇]]<br /> [[Category:ルネサンス教皇]]<br /> [[Category:デッラ・ローヴェレ家]]<br /> [[Category:1414年生]]<br /> [[Category:1484年没]]</div> 42.145.121.253 コンスタンティノス11世 2017-07-26T16:02:00Z <p>42.145.121.253: 変な人ではない (会話) による ID:64910807 の版を取り消し</p> <hr /> <div>{{脚注の不足|date=2012年2月|ソートキー=人1453年没}}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = コンスタンティノス11世<br /> | 各国語表記 = {{lang|el|Κωνσταντίνος ΙΑ&#039; Παλαιολόγος Δραγάσης&lt;br&gt;Kōnstantinos XI Palaiologos Dragasēs}}<br /> | 君主号 = 東ローマ皇帝<br /> | 画像 = ConstantinoXI.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[1449年]] - [[1453年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = [[1405年]][[2月8日]]<br /> | 生地 = [[File:Palaiologos-Dynasty.svg|20px]][[東ローマ帝国]]、[[コンスタンティノポリス]]<br /> | 死亡日 = [[1453年]][[5月29日]]<br /> | 没地 = [[File:Palaiologos-Dynasty.svg|20px]][[東ローマ帝国]]、[[コンスタンティノポリス]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = マッダレーナ・トッコ(テオドラ)<br /> | 配偶者2 = カテリーナ・ガッティルシオ<br /> | 配偶者3 = <br /> | 配偶者4 = <br /> | 配偶者5 = <br /> | 配偶者6 = <br /> | 配偶者7 = <br /> | 配偶者8 = <br /> | 配偶者9 = <br /> | 配偶者10 = <br /> | 子女 = <br /> | 王家 = [[パレオロゴス王朝|パレオロゴス家]]<br /> | 王朝 = [[パレオロゴス王朝]]<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = [[マヌエル2世パレオロゴス]]<br /> | 母親 = イェレナ・ドラガシュ<br /> | 宗教 =<br /> | サイン =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス&#039;&#039;&#039;(&lt;small&gt;[[ギリシア語]]&lt;/small&gt;:{{Lang|gkm|&#039;&#039;&#039;Κωνσταντίνος ΙΑ&#039; Παλαιολόγος Δραγάσης&#039;&#039;&#039;}}、&lt;small&gt;ラテン文字転写&lt;/small&gt;:Kōnstantinos XI Palaiologos Dragasēs、[[1405年]][[2月8日]] - [[1453年]][[5月29日]])は、[[東ローマ帝国]][[パレオロゴス王朝]]の[[皇帝]](在位:[[1449年]] - [[1453年]])。東ローマ帝国最後、すなわち[[ローマ帝国]]最後の皇帝である。中世ギリシア語読みでは&#039;&#039;&#039;コンスタンディノス11世ドラガシス・パレオロゴス&#039;&#039;&#039;。後述する数え方の違いから「12世」ないし「13世」と呼ぶこともある。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> 皇帝[[マヌエル2世パレオロゴス]]の四男として、首都[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]で生まれた。コンスタンティノスはれっきとした[[パレオロゴス王朝|パレオロゴス王家]]の生まれであったが、彼だけは母イェレナの姓であるドラガシュ([[セルビア]]の地方領主ドラガシュ家)のギリシア語形である「ドラガセス」を姓とした。<br /> <br /> [[1428年]]、兄[[セオドロス2世パレオロゴス|テオドロス2世]]、弟[[ソマス・パレオロゴス|トーマース]]と共に[[ペロポネソス半島]]にある帝国領の[[モレアス専制公領]]の統治者となった。モレアス[[専制公]]時代の[[1429年]]には[[パトラ]]を併合してかつての[[アカイア公国]]勢力を一掃した。更に中央ギリシアへも進出を企てるなど、[[ギリシャ人]]勢力最後の希望の星となったが[[1446年]][[オスマン帝国]]の[[ムラト2世]]に敗れ、ギリシャ人勢力再興の夢は断たれた。<br /> <br /> [[1448年]]に長兄の皇帝[[ヨハネス8世パレオロゴス]]が死去し、コンスタンティノスと彼の弟[[ディミトリオス2世パレオロゴス|デメトリオス]]との間に後継者争いが起きたが、結局コンスタンティノスが[[1449年]]1月6日にモレアス専制公領の首都[[ミストラス]]で帝位に即いた。3月にコンスタンティノスはコンスタンティノポリス入りし、ムラト2世と平和条約を結んだ。<br /> <br /> [[1451年]]2月にムラト2世が没し、後を継いだ[[メフメト2世]]は、当初は友好的な態度を取っていたものの、コンスタンティノスが帝国を維持するためにとったオスマン帝国撹乱作戦(亡命オスマン朝王子オルハンの擁立)に対して怒り、[[1452年]]7月には[[ボスポラス海峡]]のヨーロッパ側沿岸に[[ルメリ・ヒサル|ルメリ・ヒサール]](バルカン城塞)という名の城砦を築き、コンスタンティノポリスの征服を準備しはじめた。<br /> <br /> これを受けたコンスタンティノスは、西欧諸国からの援軍を得るため[[1452年]]の暮れに[[東方正教会]]を[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]に統合させると宣言した。これは兄[[ヨハネス8世パレオロゴス|ヨハネス8世]]が[[フィレンツェ公会議]]([[1439年]] - 1445年に開催)で署名した東西教会の合同決議に従ったものであった。しかしこの宣言は国民から猛反発を受け、大臣兼軍司令官の[[ルカス・ノタラス]]大公に至っては「[[枢機卿]]の四角帽を見るくらいなら、[[スルタン]]の[[ターバン]]を見るほうがましだ」と公言してはばからなかった。メフメト2世の現実主義的な性格から、たとえ征服されても信仰の自由は保障されるとの意見も根強かったとされている。結局西欧からの援軍も得られず、コンスタンティノスの最後の外交的努力も国内に亀裂を生んだだけで終わってしまった。<br /> <br /> [[1453年]]4月、メフメト2世率いる10万のオスマン帝国軍はコンスタンティノポリスを包囲した。メフメトはコンスタンティノポリスを明け渡せば、皇帝の安全な退去、財産の補償、及びモレアスの領有を認めると提案したが、コンスタンティノスは[[ローマ皇帝]]として最後まで戦うことを選択し、スルタンに返答した。<br /> <br /> コンスタンティノス率いる東ローマ軍は2ヶ月にも渡って抵抗を続けたが、[[1453年]][[5月29日]]未明、ついにオスマン軍が城壁を突破し、コンスタンティノスは大剣を抜き払い、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、「&#039;&#039;&#039;神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落とともに、われ死なん。逃れんとするものを助け給え。死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!&#039;&#039;&#039;」との演説の後、親衛隊とともに市中に渦巻くオスマン軍の中に姿を消した。こうして、[[アウグストゥス]]以来のローマ皇帝の継承者は絶え、[[紀元前8世紀|紀元前753年]]に起源を発する[[古代ローマ|ローマ帝国]]は滅亡した(詳細は[[コンスタンティノープルの陥落]]の項を参照)。<br /> <br /> コンスタンティノポリスの陥落後、コンスタンティノスのものとされる遺体が発見された。遺体は数日間晒されたが、そののち最高の栄誉をもって埋葬された。しかしそれが本当にコンスタンティノスの遺体だったがどうかは定かでなく、オスマン帝国支配下のギリシア人の間には「[[大理石]]と化して眠っているコンスタンティノスがいつの日か復活して、東ローマ帝国を再興させる」という伝説が生まれた。また正式には認められていないが、彼を[[聖人]]と考える正教徒もいた。<br /> <br /> == 配偶者 ==<br /> コンスタンティノス11世は2度結婚している。まず最初に[[1428年]]7月1日、[[エピロス専制侯国|エピロス専制公国]]君主カルロ1世トッコの姪、マッダレーナ・トッコ(テオドラと改名)と結婚した。しかし彼女は[[1429年]]11月に亡くなってしまった。2回目は、[[エーゲ海]]の[[レスボス島]]の[[ジェノヴァ]]人君主の娘カテリーナ・ガッティルシオとだったが、彼女もまた結婚後間もなくの[[1442年]]に亡くなった。どちらの結婚でも子供は生まれなかった。皇帝即位後、三度目の結婚が計画され、相手も[[グルジア]]王女に決まったが、花嫁の出発よりもコンスタンティノポリス包囲戦が先に始まってしまったため、この結婚は実現しなかった。<br /> <br /> == もう一人のコンスタンティノス・パレオロゴス ==<br /> 皇帝コンスタンティノス11世は、「コンスタンティノス・パレオロゴス」の名前を持つマヌエル2世の息子としては2人目になる。実はヨハネス8世に続く次子として、もう一人のコンスタンティノスが生まれていた。その生年に関しては[[1393年]]から[[1398年]]の間としか判らない。彼は生まれて間もなく兄と共にモレアス専制公領に避難した。父が西欧から帰国した([[1403年]])後、兄ヨハネス8世、弟テオドロス2世は首都コンスタンティノポリスに戻ったが、コンスタンティノスは一人[[モネンヴァシア]]に残され、その地で死去した(恐らくは[[1405年]]以前)。なお、コンスタンティノス11世と弟デメトリオスの間にももう一人、ミカエル(ミハイル)という名前の息子が生まれた([[1406年]]頃)が、こちらは誕生後間もなく死去した。<br /> <br /> == コンスタンティノス12世、13世説 ==<br /> コンスタンティノス11世を、「12世」あるいは「13世」とする数え方がある。<br /> <br /> まず「コンスタンティノス12世」については、[[1204年]]の第4回[[十字軍]]による[[コンスタンティノポリス]]攻撃の際に皇帝に選出されたものの一晩だけで逃亡した[[コンスタンティノス・ラスカリス]]([[ニカイア帝国]]の初代皇帝[[テオドロス1世ラスカリス]]の兄)をコンスタンティノス11世とし、最後の皇帝を12世とする数え方である。<br /> <br /> また「コンスタンティノス13世」については、7世紀の皇帝[[コンスタンス2世]]の本名が「コンスタンティノス」(「コンスタンス」は「小さなコンスタンティノス」の意。彼が幼少で即位したため)だったことから、コンスタンス2世を「コンスタンティノス4世」とし、以後の皇帝を<br /> *[[コンスタンティノス4世]] → コンスタンティノス5世<br /> *[[コンスタンティノス5世]]“コプロニュモス” → コンスタンティノス6世“コプロニュモス”<br /> といった具合に繰り下げて数え、なおかつ[[コンスタンティノス・ラスカリス]]を「コンスタンティノス12世」としたためではないかと推測される。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]『生き残った帝国ビザンティン』[[講談社]]〈講談社現代新書〉、1990年、254頁。<br /> *井上浩一・粟生沢猛夫『世界の歴史 第11巻 ビザンツとスラヴ』[[中央公論新社]]、1998年、478頁。<br /> *尚樹啓太郎『コンスタンティノープルを歩く』東海大学出版会、1988年、258頁。<br /> *尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年、1227頁。<br /> *益田朋幸『世界歴史の旅 ビザンティン』[[山川出版社]]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[生神女福音大聖堂 (アテネ)]] - 大聖堂前の広場にコンスタンティノス11世の像が立てられている。<br /> *[[吾輩は猫である]] - コンスタンチン・パレオロガスの名前と間抜けを意味する「オタンチン」を合成した「オタンチン・パレオロガス」という罵倒語が記述されている。<br /> <br /> {{先代次代|[[モレアス専制公領|モレアス専制公]]|1443 - 1448|[[テオドロス2世パレオロゴス]]|[[ソマス・パレオロゴス]]&lt;BR&gt;[[ディミトリオス2世パレオロゴス|ディミトリオス・パレオロゴス]]}}<br /> {{東ローマ皇帝}} <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:こんすたんていのす11}}<br /> [[Category:東ローマ皇帝]]<br /> [[Category:モレアス専制公]]<br /> [[Category:パレオロゴス家]]<br /> [[Category:戦死した人物]]<br /> [[Category:1405年生]]<br /> [[Category:1453年没]]</div> 42.145.121.253 フォカス 2017-07-26T16:01:21Z <p>42.145.121.253: 変な人ではない (会話) による ID:64910786 の版を取り消し</p> <hr /> <div>{{複数の問題|独自研究=2015年9月4日 (金) 22:59 (UTC)|出典の明記=2015年9月4日 (金) 22:59 (UTC)|正確性=2015年9月4日 (金) 22:59 (UTC)}}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = フォカス<br /> | 各国語表記 = Phokas<br /> | 君主号 = 東ローマ皇帝<br /> | 画像 = Phocas cons.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = フォカスが印された硬貨<br /> | 在位 = [[602年]][[11月23日]] - [[610年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = [[547年]]?<br /> | 生地 = [[ファイル:Labarum of Constantine the Great.svg|20px]][[東ローマ帝国]]、[[トラキア]]<br /> | 死亡日 = [[610年]][[10月5日]]<br /> | 没地 = [[ファイル:Labarum of Constantine the Great.svg|20px]][[東ローマ帝国]]、[[コンスタンティノポリス]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = レオンティア<br /> | 配偶者2 = <br /> | 子女 = ドメンティア<br /> | 王朝 = [[ユスティニアヌス王朝]]<br /> | 父親 = <br /> | 母親 = ドメンティア<br /> | 宗教 =<br /> | サイン =<br /> }}<br /> [[Image:RomaForoRomanoColonnaFoca2.JPG|thumb|200px|[[フォロ・ロマーノ]]にある[[フォカスの記念柱]]。ローマ市に建てられたローマ帝国による建造物としては最後のものである。(背景に見えるのは、高さ23mの[[セプティミウス・セウェルス]]帝の[[凱旋門]])]]<br /> &#039;&#039;&#039;フォカス&#039;&#039;&#039;(Phokas, [[547年]]? - [[610年]][[10月5日]])は、[[東ローマ帝国]]の[[皇帝]](在位:[[602年]][[11月23日]] - 610年)。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[トラキア]]地方の出身と考えられる。ドナウ川国境に駐屯する軍の下士官([[百人隊]]長)であった。602年にドナウ北岸での越冬命令が出た時、軍はそれに反対して反乱を起こし、[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]に向かって進軍した。時の皇帝[[マウリキウス]]は逃亡しようとしたが捕らえられて処刑された。その後フォカスが兵士たちによって皇帝に推戴され、即位した。<br /> <br /> フォカスは簒奪者である上、次の皇帝の[[ヘラクレイオス]]によって殺されたため、[[暴君]]とされている。このようにフォカスは軍部と一部のみに評価されていた。彼はコンスタンティノポリスの元老院議員の貴族らとは元来関係がなく、政治基盤が不安定であったため、反対派を次々に殺していった。またコンスタンティノポリスや[[アンティオキア]]などの帝国内各地で、フォカスに不満を持っていた市民(サーカス党派)による暴動が発生した。時とともにフォカスを受け入れる人々も現れてきていたようである。<br /> <br /> 一方、かつてマウリキウス帝の援助によって即位した[[サーサーン朝]]ペルシア帝国の[[ホスロー2世]]は、マウリキオスの復讐を目的に対東ローマ遠征軍を起こした([[ビザンチン・サーサーン戦争 (602年-628年)|ビザンチン・サーサーン戦争]]([[:en:Byzantine–Sassanid War of 602–628|en]]))。これに対してフォカスは兄弟のコメンティオロスを軍司令官に任命した。通説とは異なり、ペルシア軍との戦いは[[609年]]までは一進一退の状態にあったことが最近証明されている。ただしドナウ国境線は[[アヴァール]]人によって突破された。<br /> <br /> [[608年]]頃、[[カルタゴ]]総督[[ヘラクレイオス (カルタゴ総督)|ヘラクレイオス]]がフォカスに対して反乱を起こした。そして、ヘラクレイオスの同名の息子が艦隊を率いてコンスタンティノポリスに迫る一方、彼の従兄弟のニケタス率いる別動隊は609年にエジプトに侵攻した。そのためシリアの軍がエジプトに急派され、シリア国境線ががら空きになった。ペルシア軍が帝国領に本格的に侵入を開始するのはこれ以降である。コンスタンティノポリスではサーカス党派や、フォカスの婿のプリスコスなどの元老院議員がヘラクレイオスに内通したため、610年10月に首都は開城した。フォカスは教会へ逃げ込んだものの引きずり出されて処刑されてしまい、ヘラクレイオスが皇帝に即位した。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[ローマ軍団]]<br /> *[[フォカスの記念柱]]<br /> <br /> {{東ローマ皇帝}} <br /> {{DEFAULTSORT:ふおかす}}<br /> [[Category:東ローマ皇帝]]<br /> [[Category:刑死した人物]]<br /> [[Category:540年代生]]<br /> [[Category:610年没]]</div> 42.145.121.253 ウィクトル3世 (ローマ教皇) 2017-07-24T15:09:16Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{ infobox 教皇<br /> | 日本語名 = ウィクトル3世<br /> | タイトル = 第158代 ローマ教皇<br /> | 画像 = [[ファイル:Victor III. - Desiderius of Montecassino.jpg|150px|ウィクトル3世]]<br /> | 画像説明 = <br /> | 就任 = 1086年5月24日<br /> | 離任 = 1087年9月16日<br /> | 先代 = [[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]<br /> | 次代 = [[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]<br /> | 司祭 = <br /> | 司教 = <br /> | その他 = <br /> | 本名 = Desiderius<br /> | 生年月日 = 1026年<br /> | 生地 = ベネヴェント公国、[[ベネヴェント]]<br /> | 没年月日 = 1087年9月16日<br /> | 没地 = [[File:War flag of the Holy Roman Empire (1200-1350).svg|25px]][[神聖ローマ帝国]]、[[File:CoA Pontifical States 02.svg|25px]][[教皇領]]、[[モンテ・カッシーノ]]<br /> | 埋葬地 = <br /> | 原国籍 = <br /> | 宗派 =<br /> | 居住地 = <br /> | 親 = <br /> | 妻 = <br /> | 子 = <br /> | 母校 = <br /> | 署名 = <br /> | 曖昧 = ウィクトル<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ウィクトル3世&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Papa Victor III&#039;&#039;&#039;, [[1026年]] - [[1087年]][[9月16日]])は[[11世紀]]の[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[1086年]] - 1087年)。本名は&#039;&#039;&#039;ダウフェリウス&#039;&#039;&#039;(Dauferius)、あるいは&#039;&#039;&#039;デジデリウス&#039;&#039;&#039;(Desiderius)。[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]の後継者。やがて[[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]が彼の短い治世の後を継ぐことになる。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> ダウフェリウスはベネヴェント公ランドルフォ5世の子として生まれ、13歳で[[モンテ・カッシーノ]][[修道院]]に入った。そこでデジデリウスを名乗り、院長になった。[[1059年]]には[[教皇]][[ニコラウス2世 (ローマ教皇)|ニコラウス2世]]によって[[枢機卿]]にあげられている。[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]の側近として仕え、その後継者の一人と目されていた。<br /> <br /> [[1086年]][[5月24日]]に教皇に選ばれたが、教皇職を引き受ける気がほとんどなかったため、教皇着座式が行われたのは選挙の1年も後になった。彼は当時[[ローマ]]にいた[[対立教皇]][[クレメンス3世 (対立教皇)|クレメンス3世]]の圧迫を嫌ってモンテ・カッシーノにひきこもってしまい、[[トスカーナ州|トスカーナ]]公妃[[マティルデ・ディ・カノッサ|マティルデ]]にローマ帰還を説得されている。1087年8月にベネヴェントで教会会議を開き、対立教皇クレメンス3世の[[破門]]、俗人による叙任の禁止、アフリカでのサラセン人への軍事行動などを決議した。教皇自身は会議中に病にかかり、9月16日に同地で没した。<br /> <br /> {{ローマ教皇|158代:1086年 - 1087年}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ういくとる3}}<br /> <br /> [[Category:教皇]]<br /> [[Category:福者]]<br /> [[Category:1026年生]]<br /> [[Category:1087年没]]</div> 42.145.121.253 エクロン 2017-03-16T09:36:09Z <p>42.145.121.253: </p> <hr /> <div>{{参照方法|date=2017年2月16日 (木) 08:24 (UTC)}}<br /> {{location map|Israel|lat_deg=31|lat_min=46|lat_sec=39|lon_deg=34|lon_min=51|lon_sec=7|caption=エクロンの位置}}<br /> {{coord|31|46|39|N|34|51|7|E|region:IQ_scale:25000|display=title}}<br /> [[ファイル:Anagni ekron.jpg|thumb|left|中世の[[フレスコ画]]に描かれたエクロンの想像図(1255年頃、[[アナーニ]])]]<br /> &#039;&#039;&#039;エクロン&#039;&#039;&#039;([[英語]]:Ekron、[[ヘブライ語]]:עקרון・&#039;&#039;Eqron&#039;&#039;)は[[旧約聖書]]に登場する[[ペリシテ人]]の5つの町の内のひとつである。「深く根ざした」という意味であると言われる。多くの学者はアキロンをエクロンである主張している。<br /> <br /> [[カナン]]入国の際には[[ヨシュア]]によってはまだ征服されていなかったが、最初[[ユダ族]]に割り当てわれた。その後[[ダン族]]に割り当てられ、ユダ族によって征服された。<br /> <br /> エクロンの住民は、祭司[[エリ (祭司)|エリ]]の時代にペリシテ人に奪われた神の箱が災害をもたらしたのを見て、自分の町置くことに反対して、イスラエル人に送り返すように提案した。<br /> <br /> 後に、エクロンの町は[[ガテ]]と共にサムエルによってイスラエルに取り返された。[[ダビデ]]が[[ゴリアテ]]に勝利した時には、ペリシテ軍がエクロンの門にまで退却した。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;!--=== 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注釈&quot;}}--&gt;<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==参考文献==<br /> *『[[新聖書辞典]]』[[いのちのことば社]]、1985年<br /> <br /> {{古代イスラエルの町}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:えくろん}}<br /> [[Category:聖書に登場する地名]]<br /> [[Category:ペリシテ人]]</div> 42.145.121.253
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