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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=42.144.44.76&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-08T09:03:47Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 天神信仰 2018-10-13T14:30:47Z <p>42.144.44.76: /* 歴史 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;天神信仰&#039;&#039;&#039;(てんじんしんこう)は、天神([[雷神]])に対する[[信仰]]のことである。特に[[菅原道真]]を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする[[神道]]の信仰のことをいう。<br /> <br /> 本来、天神とは[[天津神・国津神|国津神]]に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、&#039;&#039;&#039;[[天満大自在天神]]&#039;&#039;&#039;(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られ、つづいて、[[清涼殿落雷事件]]を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた[[火雷大神|火雷神]]と結び付けて考えられ&#039;&#039;&#039;火雷天神&#039;&#039;&#039;(からいてんじん)と呼ばるようになり、後に火雷神は[[眷属]]として取り込まれ新たに&#039;&#039;&#039;日本太政威徳天&#039;&#039;&#039;(にほんだいじょういとくてん / にほんだじょういとくてん)などの神号が確立することにより、さらには、&#039;&#039;&#039;実道権現&#039;&#039;&#039;(じつどうごんげん)&lt;ref&gt;寺子屋に伝わったとされる『天神経』より。&lt;/ref&gt;などとも呼ばれ、『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など[[仏教]]でもあつい崇敬をうけ&lt;ref&gt;天神信仰の発足に天台宗・真言宗それぞれの僧侶が関わっていたこともあり、当初から仏教との関わりは強く、境内に寺や仏塔を建てるなどしていた。明治期の[[廃仏毀釈]]までその流れは続いた。&lt;/ref&gt;、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。<br /> <br /> [[Image:Gagyu(sumatsunasiki tenmangu).JPG|thumb|right|270px|天満宮の臥牛(須磨綱敷天満宮・神戸市)]]<br /> <br /> ==歴史==<br /> [[藤原時平]]の陰謀によって大臣の地位を追われ、[[大宰府]]へ左遷された道真は失意のうちに没した。<br /> <br /> 彼の死後、すぐに、臣下の[[味酒安行]]が道真を&#039;&#039;&#039;[[天満大自在天神]]&#039;&#039;&#039;(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀った。<br /> <br /> その後、疫病がはやり、日照りが続き、また[[醍醐天皇]]の皇子が相次いで病死した。さらには[[清涼殿]]が落雷を受け多くの死傷者が出た([[清涼殿落雷事件]])。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。<br /> <br /> 清涼殿落雷の事件から道真の[[怨霊]]は雷神と結びつけられた。元々京都の[[北野 (京都市)|北野]]の地には平安京の西北・[[天門 (方位)|天門]]の鎮めとして火雷神という[[地主神]]&lt;ref&gt;現在は北野天満宮内にある火之御子社に祀られている。&lt;/ref&gt;が祀られており、朝廷はここに[[北野天満宮]]を建立して道真の祟りを鎮めようとした([[御霊信仰]]も参照のこと)。道真が亡くなった太宰府には先に[[醍醐天皇]]の勅命により[[藤原仲平]]によって建立された安楽寺[[廟]]、のちの[[太宰府天満宮]]で崇奉された。また、[[949年]]には[[難波京]]の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話により、勅命により[[大阪天満宮]](天満天神)が建立された。[[987年]]には「北野天満宮天神」の勅号が下された。また、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。<br /> <br /> 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、怨霊として恐れられることは少くなった。この頃に描かれた『天神縁起』によれば、この時代では慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神&lt;ref&gt;本地を十一面観音菩薩としたため。&lt;/ref&gt;として信仰されるようになっていた。また、貿易商から海難除けの神&lt;ref&gt;渡唐天神像をお守りとして使用した。&lt;/ref&gt;、[[皇族]]ほか歴代[[幕府]]・[[戦国大名]]などの[[武将]]達には、怨敵調伏・戦勝祈願・王城鎮護の神として信仰された。江戸時代以降は、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として[[寺子屋]]などで盛んに信仰されるようになった。近代に入ると、天皇への忠誠心を説く為に、忠臣として教科書などでとりあげられた。<br /> <br /> 元々の火雷神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから農耕の神でもある。各地に火雷神と同様の伝承で天神が祀られていたが、道真が天神さま、天神さんなどとよばれるようになり、各地で祀られていた天神もまた道真であるとされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われた。天神(道真)を祀る[[神社]]は[[天満宮]]、[[天満神社]]、[[天神社]]、[[菅原神社]]、[[北野天神社]]、[[北野神社 (曖昧さ回避)|北野神社]]などという名称で、[[九州]]や[[西日本]]を中心に約一万社(岡田荘司らによれば3953社)あって分社の数は第3位である。<br /> <br /> ==発祥の地==<br /> 北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではない。そのため、北野天満宮と太宰府天満宮では「総本社」「総本宮」という呼称は用いず、「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。また、防府天満宮や與喜天満神社など最古の信仰発祥の地を称するところも複数ある。<br /> <br /> ただし「[[日本三大天神]]」などと称する場合には、太宰府天満宮を外して北野天満宮を残す例がある{{Sfn|とっさの日本語便利帳|2003|p=259}}&lt;ref name=&quot;コトバンク_三天神&quot;&gt;{{Kotobank|三天神|2=(株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;曽根田天満宮&quot;&gt;曽根田天満宮境内説明板。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 各地の天神信仰 ==<br /> [[画像:MATSUYAMA_CASTLE(IYO),TENJIN_YAGURA.JPG|thumb|right|250px|城の守護神として本壇に天神さまを祀っている[[松山城 (伊予国)|松山城]]天神櫓(愛媛県)]]<br /> [[画像:Japanese crest Kaga Umebachi.svg|thumb|right|150px|大名前田氏の家紋・加賀梅鉢]]<br /> ;北陸<br /> :[[福井県]]や[[富山県]]では、長男が誕生するとそれ以後の正月、[[床の間]]に天神像(木彫や[[掛軸]])を飾る。福井の一部地域では[[1月25日]]に[[カレイ]]を供える[[風習]]がある。この掛軸などは、母方の実家から送られる。これは[[幕末]]の頃に教育に熱心であった[[福井藩]][[藩主]][[松平春嶽]]が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の[[薬売り]]が広めたという説がある。また、[[富山藩]]や[[加賀藩]]([[石川県]])など[[前田氏]]の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があった。[[金沢市]]には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られた。[[前田家]]は[[菅原氏]]の出を称しており、その領内には天神社・天満宮が他地域に比べて大変多い。前田家の[[家紋]]が天神の[[神紋]]と同じ梅鉢紋であるのも、先祖が菅原氏であるためとされる。ちなみに前田家の家紋は「剣梅鉢」(加賀梅鉢)と呼ばれている。<br /> <br /> ;その他の地域の例<br /> *広島県北部<br /> :子供の[[初節句]]に、天神像等の人形を贈る。[[三次人形]]を参照。<br /> *東京板橋区<br /> :関東最古の天神信仰である。梅木の霊力で疫病が退散し梅木を祭祀し天神信仰が始まった。(外部リンクを参照) <br /> <br /> == 天神信仰と数字 ==<br /> 菅原道真を主祭神としている神社では、道真の誕生日が6月25日、命日が2月25日で、ともに25日であったことから、毎月25日を例祭としていることが多い。[[江戸時代]]でも毎月25日は天神様の[[縁日]]であり、とくに[[旧暦]]1月25日を「&#039;&#039;&#039;始め天神&#039;&#039;&#039;」、12月25日を「&#039;&#039;&#039;終い天神&#039;&#039;&#039;」とよんで参詣したが、これは[[新暦]]に移行した現在でもそう呼ばれている。また[[菅公聖蹟二十五拝]]・[[洛陽天満宮二十五社順拝]]・[[江戸二十五天神]]のように特定の25社を巡礼する風習も存在する。<br /> <br /> ==天神信仰と牛==<br /> 菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において[[神使]](祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。<br /> <br /> == 注・出典 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==参考文献==<br /> * {{Cite book|和書|author=伊藤聡 |title=神道とは何か |year=2012 |series=[[中公新書]] |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4-12-102158-8}}<br /> * {{Cite book|和書|author=柴田實ほか |title=御霊信仰 |year=2007 |origyear=1986 |edition=オンデマンド版 |publisher=[[雄山閣出版]] |isbn=978-4-639-10054-6}}<br /> * {{Cite book|和書|author=岡田荘司 |title=日本神道史 |year=2010 |publisher=[[吉川弘文館]] |isbn=978-4-642-08038-5}}<br /> <br /> ==関連項目==<br /> * [[天満大自在天神]]<br /> * [[天満宮]]<br /> * [[天神祭]]<br /> * [[飛梅]]<br /> * [[梅ヶ枝餅]]<br /> * [[鷽替え]]<br /> * [[北野大茶会]]<br /> * [[和魂漢才]]<br /> * [[梅鉢]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{ウィキポータルリンク|神道|[[画像:Shinto torii icon vermillion.svg|40px|Portal:神道]]}}<br /> * [http://www.jinjahoncho.or.jp/2007/02/01%E3%80%80%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E3%81%95%E3%81%BE/ 天神さま - 神社本庁]<br /> *[http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/21_itabashi/21021.html 板橋区 徳丸 北野神社]<br /> {{神道 横}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:てんしんしんこう}}<br /> [[Category:神道]]<br /> [[Category:菅原道真]]<br /> [[Category:天満宮]]<br /> [[Category:日本の民間信仰]]<br /> [[Category:御霊信仰]]</div> 42.144.44.76 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 2018-08-18T11:46:52Z <p>42.144.44.76: /* 宗像市 */</p> <hr /> <div>{{世界遺産概要表<br /> |site_img = ファイル:Okinoshima_aerial01.jpg<br /> |site_img_capt = 沖ノ島<br /> |site_img_width = 275px<br /> |ja_name = 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群<br /> |en_name = Sacred Island of Okinoshima and Associated Sites in the Munakata Region<br /> |fr_name = Île sacrée d’Okinoshima et sites associés de la région de Munakata<br /> |country = 日本<br /> |area = 98.93 [[ヘクタール|ha]] (緩衝地域 79,363.48 ha)<br /> |criterion_c = (2), (3)<br /> |criterion_n = <br /> |category = 遺跡群<br /> |iucn = <br /> |rg_year = 2017年([[第41回世界遺産委員会]])<br /> |ex_rg_year = <br /> |Danger = <br /> |remarks = <br /> |url_no = 1535<br /> |locmapin = <br /> |relief = <br /> |lat_degrees = <br /> |lat_minutes = <br /> |lat_seconds = <br /> |lat_direction = <br /> |long_degrees = <br /> |long_minutes = <br /> |long_seconds = <br /> |long_direction = <br /> }}<br /> [[File:Okinoshima Munakata location.svg|thumb|250px|地図]]<br /> &#039;&#039;&#039;「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群&#039;&#039;&#039;(「かみやどるしま」むなかた・おきのしまとかんれんいさんぐん)は、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リスト登録物件で、[[日本の世界遺産]]の中では21番目に登録された。[[福岡県]]の[[宗像市]]及び[[福津市]]内にある[[宗像三女神]]を祀る[[宗像大社]]信仰や、大宮司家[[宗像氏]]にまつわる[[史跡]]・[[文化財]]を対象とするものであり、自然崇拝を元とする固有の信仰・[[祭祀]]が4世紀以来現代まで継承されている点などが評価されている。[[世界遺産委員会]]では、航海と結びつく世界遺産の少なさを補完する物件という観点からも評価された&lt;ref&gt;[http://www.city.munakata.lg.jp/w010/030/010/dainihou.pdf 「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の世界遺産一覧表への記載決定について(第二報)](文化庁報道発表、2017年7月9日)(2017年7月10日閲覧)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[世界遺産#暫定リスト|世界遺産暫定リスト]]記載時点では&#039;&#039;&#039;宗像・沖ノ島と関連遺産群&#039;&#039;&#039;だったが、正式推薦とともに改称され、その名称で正式登録された。<br /> <br /> == 構成資産 ==<br /> {{座標一覧}}<br /> === 宗像市 ===<br /> ; [[沖ノ島]]([[宗像大社]]沖津宮)<br /> : 「宗像神社[[境内]]」として島全体が[[御神体]]で国の[[史跡]]に指定、「沖ノ島[[原始林]]」が国の[[天然記念物]]に指定。また、「福岡県宗像大社沖津宮祭祀[[遺跡]][[遺物|出土品]]・伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品」として約8万点の出土品が[[国宝]]に指定されており、「海の[[正倉院]]」とも呼ばれる由縁となっている。正式版の推薦書では、島の手前にある小屋島・御門柱・天狗岩の三つの[[岩礁]]が[[鳥居]]の役割を果たしているとし、付帯施設として記載された。&lt;ref name=&quot;conint&quot;&gt;「[http://www.okinoshima-heritage.jp/ja/introductions/ 資産の紹介]」、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議、2015年7月30日閲覧&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;conpam1&quot;&gt;「[http://www.okinoshima-heritage.jp/pamphlets/ パンフレット] {{PDFLink|[http://www.okinoshima-heritage.jp/files/Pamphlet_1_file.pdf 宗像・沖ノ島と関連遺産群 世界文化遺産国内暫定一覧表への追加提案書]}}」、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議、2015年7月30日閲覧&lt;/ref&gt;。{{ウィキ座標|34.2419|||N|130.1040|||E|type:adm1st_region:JP|地図|name=沖ノ島(宗像大社沖津宮)(印は本殿・拝殿)}}<br /> ; 宗像大社中津宮(御嶽山祭祀遺跡を含む)<br /> : 宗像市[[大島 (福岡県)|大島]]。「宗像神社境内」として国の史跡に指定、本殿は福岡県の有形文化財に指定&lt;ref name=&quot;conint&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;conpam1&quot;/&gt;。中津宮背後に聳える御嶽山山頂に鎮座する御嶽神社の裏で確認された御嶽山祭祀遺跡は沖ノ島と同時期の露天祭祀[[遺構]]である&lt;ref&gt;遺跡は発掘調査後に埋め戻され、現在では下草や木々に覆われている。今後は保護のため柵で囲う予定もある&lt;/ref&gt;。御嶽神社に至る登山道は[[九州オルレ]]にも指定。{{ウィキ座標|33.8973|||N|130.4319|||E|type:landmark_region:JP|地図|name=宗像大社中津宮(印は本殿・拝殿)}}<br /> ; 沖津宮遥拝所<br /> : 宗像市大島。「宗像神社境内」として国の史跡に指定&lt;ref name=&quot;conint&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;conpam1&quot;/&gt;。{{ウィキ座標|33.9091|||N|130.4280|||E|type:landmark_region:JP|地図|name=沖津宮遥拝所}}<br /> ; 宗像大社辺津宮<br /> : 宗像市田島。「宗像神社境内」として国の史跡に指定、本殿及び拝殿は国の[[重要文化財]]に指定。境内背後にある高宮祭場の地中にある下高宮祭祀遺跡は沖ノ島および御嶽山祭祀遺跡同様の露天祭祀遺構である。&lt;ref name=&quot;conint&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;conpam1&quot;/&gt;。{{ウィキ座標|33.8311|||N|130.5143|||E|type:landmark_region:JP|地図|name=宗像大社辺津宮(印は本殿・拝殿)}}<br /> &lt;gallery widths=&quot;175px&quot; heights=&quot;175px&quot;&gt;<br /> File:World Heritage Okitsumiya, Okinoshima.jpg|沖津宮の拝殿<br /> File:Okinoshima rocks ritual services remains.jpg|沖ノ島の祭祀遺跡がある磐座<br /> File:Haiden of Munakata Grand Shrine (Nakatsu Shrine).JPG|中津宮の拝殿<br /> File:Mitake-san ritual services remains.jpg|御嶽山祭祀遺跡<br /> File:Okutsu Shrine.JPG|沖津宮遥拝所<br /> File:Haiden of Munakata Grand Shrine (Hetsu Shrine).JPG|辺津宮の拝殿(*現在、拝殿は正面から見えない。握舎建立以前の画像。)<br /> File:Takamiya-Saijo in Munakata Grand Shrine (Hetsu Shrine).JPG|高宮祭場<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === 福津市 ===<br /> ; [[新原・奴山古墳群]]<br /> : 宗像大宮司を務めた宗像氏に関わる古墳とされ「[[津屋崎古墳群]]」の一部。国の史跡に指定されている。&lt;ref name=&quot;conint&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;conpam1&quot;/&gt;。{{ウィキ座標|33.8175|||N|130.4861|||E|type:landmark_region:JP|地図|name=新原・奴山古墳群 (印は22号墳)}}<br /> &lt;gallery widths=&quot;175px&quot; heights=&quot;175px&quot;&gt;<br /> File:新原・奴山古墳群34~36号墳.JPG|新原・奴山古墳群<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === 日本から推薦時に候補から外れたもの ===<br /> * 新原・奴山古墳群を除く津屋崎古墳群 - 国の史跡に指定&lt;ref name=&quot;conint&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;conpam1&quot;/&gt;。<br /> * [[桜京古墳]] - 国の史跡に指定&lt;ref name=&quot;conint&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;conpam1&quot;/&gt;。<br /> * [[東郷高塚古墳]]&lt;ref name=&quot;conint&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;conpam1&quot;/&gt;<br /> <br /> === 推薦範囲の法的保護根拠 ===<br /> 世界遺産の推薦にあたっては[[世界遺産#完全性と真正性|完全性]](インテグリティ)として法的保護根拠が求められる。[[文化財保護法]]に基づく構成資産の指定は上記のとおりだが、この他に宗像大社辺津宮から神湊にかけて[[景観法]]の景観重点区域、中津宮を含む大島は準景観地区、新原・奴山古墳群周辺は眺望景観重点区域を適用する&lt;ref&gt;[http://www.city.fukutsu.lg.jp/pdf/kenkou/toshi/keikankeikaku01.pdf 福津市景観計画]&lt;/ref&gt;。加えて宗像市は[[都市計画法]]の[[都市計画区域]]であり、[[建築行為]]の[[規制]]が行える。<br /> <br /> こうしたことから、以前福津市に持ち上がった[[海上空港]](新福岡空港)計画や洋上[[石油備蓄]]計画などの[[開発]]を免れることができる反面、今後[[風力発電]]や[[潮力発電]]の設置は困難になる。<br /> <br /> 一方、緩衝地帯(バッファーゾーン)は[[海洋]]([[海神]])信仰の場として神湊-大島-沖ノ島を結ぶ[[玄界灘]]も設定している。特に沖ノ島周辺海域は[[番外地|地先]]公有水面となる(沖ノ島の地先権は大島にある)&lt;ref&gt;[http://www.city.munakata.lg.jp/gappei/ooshima/pdf/kyougi/kekka05.pdf 第5回宗像市・大島村合併協議会概要]&lt;/ref&gt;。また、辺津宮と神湊の中間に位置する[[玄海町 (福岡県)|玄海地区]]の[[農村]][[田園]][[風景]]が古来からの[[稲作]][[文化]]を伝承し、大島の[[漁村]]風景も海洋信仰を継承してきた[[海人]]の文化を残すとして、[[文化的景観#日本|文化的景観]]も視野に入れる。<br /> <br /> この他に宗像大社の[[鎮守の森]]や新原・奴山古墳群から玄界灘・大島を望む[[海浜]]部は[[玄海国定公園]]の指定地域となっている&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/146350_50681166_misc.pdf 玄海国定公園区域図]}}福岡県&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 登録への経緯 ==<br /> 2000年代初頭、宗像大社の氏子を中心とする地域住民が世界遺産を目指す市民運動を起こした。この時点では沖ノ島のみを対象とし、仮称として「&#039;&#039;&#039;沖ノ島祭祀遺跡&#039;&#039;&#039;」を用いていた&lt;ref&gt;『日本の世界遺産歩ける地図帳』(『別冊山と渓谷』507号)[[山と渓谷社]]、2007年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2006年度と2007年度に、[[文化庁]]は各[[地方自治体]]から世界遺産暫定リストに加える候補の提案を受け付けた。この物件は、2006年度に寄せられた24件の提案の一つであり、「&#039;&#039;&#039;沖ノ島と関連遺産群&#039;&#039;&#039;」という名称だった&lt;ref&gt;日本ユネスコ協会連盟『世界遺産年報2008』日経ナショナルジオグラフィック社、p.36&lt;/ref&gt;。この24件からはまず4件が2007年1月に暫定リスト入りし、残る候補と2007年度の候補の計32件のうち、[[2008年]][[12月15日]]、[[文化庁]]が[[北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群]]([[北海道]]など)、[[明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業|九州・山口の近代化産業遺産群]]([[福岡県]]など九州6県)とともに追加申請を決めた。そして、この物件を含む5件が2009年に暫定リストに加えられた&lt;ref&gt;日本ユネスコ協会連盟『世界遺産年報2009』日経ナショナルジオグラフィック社、p.37&lt;/ref&gt;。当初の記載名称は「&#039;&#039;&#039;宗像・沖ノ島と関連遺産群&#039;&#039;&#039;」であった&lt;ref&gt;日本ユネスコ協会連盟『世界遺産年報2010』東京書籍、p.32&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2016年1月に「&#039;&#039;&#039;『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群&#039;&#039;&#039;」(Sacred Island of Okinoshima and Associated Sites in the Munakata Region) の名称で文化庁から正式推薦された&lt;ref&gt;[http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/2016011501.html 「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の世界文化遺産推薦に係る推薦書(正式版)のユネスコへの提出について](文化庁、2016年1月)(2017年5月7日閲覧)&lt;/ref&gt;。その後2017年5月に[[世界遺産委員会]]の諮問機関である[[国際記念物遺跡会議]] (ICOMOS) は、沖ノ島および周辺の3岩礁のみに、古代祭祀に関する考古学的観点からの顕著な普遍的価値を認める一方、宗像大社の信仰上の価値などは日本国内レベルでの価値にとどまるとして、沖ノ島と3岩礁以外の構成資産の除外を条件に「登録」を勧告し、あわせて名称を「&#039;&#039;&#039;『神宿る島』沖ノ島&#039;&#039;&#039;」(Sacred Island of Okinoshima)とすることなども勧告した&lt;ref&gt;[http://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/264655_52605533_misc.pdf 我が国の推薦資産に係る世界遺産委員会諮問機関による評価結果及び勧告について](文化庁、2017年5月6日)(同日閲覧)&lt;/ref&gt;&lt;ref name = nishinippon170506&gt;[https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/326403 「沖ノ島」信仰の価値、認められず 世界遺産勧告で除外4資産](西日本新聞、2017年5月6日)(同日閲覧)&lt;/ref&gt;。<br /> {{Quotation|ICOMOSの勧告&lt;ref&gt;[http://www.sankei.com/region/news/170525/rgn1705250065-n1.html ユネスコ諮問機関 信仰の継続性に疑義 世界遺産へ大きな壁 半数除外の理由](産経新聞、2017年5月25日)&lt;/ref&gt;&lt;br /&gt;・自然崇拝に基づく古代の沖ノ島信仰と現在の宗像大社信仰に、継続性は確認できない。&lt;br /&gt;・なぜ、どう信仰が変容したのか、説明が不十分。&lt;br /&gt;・女人禁制など沖ノ島の禁忌の由来は、17世紀までしか記録をさかのぼれない。<br /> }}<br /> ICOMOSの勧告に対しては、福岡県知事[[小川洋]]が8件全てでの登録を目指して努力する旨を表明し&lt;ref&gt;[http://www.pref.fukuoka.lg.jp/contents/okinoshima-icomos-comment.html 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群に係るイコモス勧告に対する知事コメント](福岡県庁、2016年5月6日)&lt;/ref&gt;、宗像市長[[谷井博美]]も同様のコメントを発表した&lt;ref&gt;[http://www.jiji.com/jc/article?k=2017050600294&amp;g=soc 「8資産で一つ」訴え=一部除外勧告で宗像市長]([[時事通信社|時事ドットコム]]、2017年5月6日)(同日閲覧)&lt;/ref&gt;。他方で、8資産を結びつける「信仰」の価値が認められなかったため、文化庁からは逆転登録に向けた前途の厳しさを指摘する意見も出ていたが&lt;ref name = nishinippon170506 /&gt;、地元の意向にも配慮し、政府は8件全てでの逆転登録を目指すことになった&lt;ref&gt;[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170525-00000008-mai-soci &lt;nowiki&gt;&lt;世界遺産&gt;&lt;/nowiki&gt;宗像・沖ノ島一括で 政府、4資産登録目指す](毎日新聞、2017年5月25日)(2017年5月28日閲覧){{リンク切れ|date=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。<br /> ===世界遺産委員会での状況===<br /> [[世界遺産委員会]]の審議では、[[韓国]]の発言によって始まり「ICOMOSの勧告通り沖ノ島と三つの周辺岩礁のみの登録にすべき」と主張したが&lt;ref&gt;韓国委員は冒頭に[[平成29年7月九州北部豪雨]]への見舞いを表明&lt;/ref&gt;、続く[[インドネシア]]が「沖ノ島(沖津宮)と中津宮および本土の辺津宮(宗像本社)は全体的に融合しており不可欠だ」、[[ベトナム]]が「資産一つひとつが価値を高める」など委員国から8件全ての価値について好意的な意見が示され、日本の発言も認められ[[佐藤地]][[政府代表部#国際連合教育科学文化機関日本政府代表部|ユネスコ大使]]が「沖ノ島の祭祀遺跡が守られてきたのは宗像信仰という神道形態に発展し神域になったからこそで、その信仰は自然崇拝の時代から連綿と続いており、神道としても海神・海洋信仰が継承されており切り離すことはできない(意訳)」という見解(文化庁による)を表明。これをうけ韓国は「沖ノ島の考古遺物の多くが古代の[[中国]]や[[朝鮮半島]]で作られたものであり、その分析を進めなければ価値は完全には証明できない」と共同研究の条件を付けて了承&lt;ref&gt;祭りに繰り出す漁船の[[大漁旗]]が[[旭日旗]]と誤解されないようにすべきとの意見を申し添えた&lt;/ref&gt;&lt;ref name=live&gt;[https://www.youtube.com/watch?v=-qz3hmdMiMg 41st World Heritage Committee 9 July 2017 AM PM] 2017年7月9日 UNESCO[[ライブ配信]][[録画]]([[Youtube]])&lt;/ref&gt;。その結果、逆転で8件全ての登録が認められた&lt;ref&gt;[http://www.jiji.com/jc/article?k=2017070900350&amp;g=soc 「沖ノ島」世界遺産に=除外勧告資産も逆転登録-国内21件目・ユネスコ]([[時事通信社|時事ドットコム]]、2017年7月6日)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.city.munakata.lg.jp/w010/030/010/sokuhou.pdf 「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の世界遺産一覧表への記載決定について(速報)]([[文化庁]]報道発表、2017年7月9日)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 「神宿る」を[[キリスト教]]的な「God dwell」ではなく「Sacred」としたのは民俗学的な慣用句であり、現地視察したイコモス調査員も用いていたことに配慮したもので、推薦書や委員会での発言では単に「[[:en:Shinto|Shintorism]]([[神道]])」や「[[:en:Shinto shrine|Shinto shrine]]([[神社]])」といった単純な言葉ではなく、「find their origins in ancient nature worship faith(古来の自然崇拝に由来する信仰)」のように丁寧な解釈に努めユネスコが重視する「[[自然の聖地]]」であることを強調、その上で「[[アニミズム]]」や「[[スピリチュアル]]」などの身近で馴染みのある単語を織り交ぜて説明した&lt;ref name=live /&gt;。<br /> <br /> 一方、[[宮田亮平]]文化庁長官は、沖ノ島と各資産を一枚にまとめた[[水墨画]]風の絵図を自身で描き、その一体性を解説する[[ロビー活動]]を展開した。なお、これとは別に、日本は委員会開催前の6月に委員国の内11ヶ国のユネスコ大使を招聘し、宗像大社や同神宝館蔵の沖ノ島出土遺物([[国宝]])を案内したり、葦津敬之[[宮司]]の「神道は自然を神様とする[[エコロジー|エコロジカル]]な宗教で[[環境破壊]]は神殺しとなるため、現代社会に求められる[[自然保護]]を必然としてきた。[[一神教]]は対立軸による軋轢をもたらしているが、[[多神教]]やアニミズムに基づく民族信仰はその地域の外へ出ること([[布教]])を想定しておらず、[[性善説]]に基づき安寧([[平和]])を祈願している」という主張などを紹介した&lt;ref&gt;読売新聞 2017年7月19日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 登録基準 ==<br /> {{世界遺産基準|2|3}}<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.okinoshima-heritage.jp/ 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群を世界遺産に - 「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議]<br /> * [http://www.city.munakata.lg.jp/shinai/keyword/keyword_index.php?div_id=77 宗像市公式ホームページ -教育・文化・スポーツ-世界遺産登録活動-]<br /> * [http://www.city.fukutsu.lg.jp/kankou/shizen/sekaiisan.php 世界遺産-自然と歴史-観光・ブランド-福津市公式ホームページ]<br /> * [http://www.nhk.or.jp/fukuoka/sekaiisan/ 世界遺産への道]「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」シリーズ NHK福岡制作ミニ番組 4分×4本公開中<br /> {{日本の世界遺産}}<br /> {{DEFAULTSORT:かみやとるしま むなかたおきのしまとかんれんいさんくん}}<br /> [[Category:福岡県の歴史]]<br /> [[Category:宗像地方]]<br /> {{Japanese-history-stub}}<br /> {{shinto-stub}}<br /> [[Category:日本の世界遺産]]<br /> [[Category:2017年登録の世界遺産]]<br /> [[Category:宗教建築物の世界遺産]]<br /> [[Category:墓の世界遺産]]<br /> [[Category:世界遺産 か行]]</div> 42.144.44.76 福津市 2018-08-13T09:28:53Z <p>42.144.44.76: /* 観光名所 */</p> <hr /> <div>{{日本の市<br /> |画像=Haiden of Miyajidake Shrine.JPG<br /> |画像の説明=[[宮地嶽神社]]<br /> |自治体名=福津市<br /> |地方=[[九州|九州地方]]<br /> |支庁=<br /> |都道府県=福岡県<br /> |コード=40224-9<br /> |隣接自治体=[[宗像市]]、[[古賀市]]、[[宮若市]]<br /> |木=[[マツ|松]]&lt;ref name=&quot;mainichi-np-2015-1-25&quot;&gt;柴田種明(2015年1月25日). “福津市:市制10周年 市民、節目祝う 市の木と花を発表”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)&lt;/ref&gt;・[[アンズ|杏]]&lt;ref name=&quot;mainichi-np-2015-1-25&quot; /&gt;<br /> |花=[[菜の花]]&lt;ref name=&quot;mainichi-np-2015-1-25&quot; /&gt;<br /> |シンボル名=他のシンボル<br /> |鳥など=<br /> |郵便番号=811-3293<br /> |所在地=福津市中央一丁目1番1号&lt;br /&gt;&lt;small&gt;{{ウィキ座標度分秒|33|46|0.5|N|130|29|27.9|E|region:JP-40|display=inline,title}}&lt;/small&gt;&lt;br/&gt;[[ファイル:Fukutsu City Hall.jpg|250px]]<br /> |外部リンク=[http://www.city.fukutsu.lg.jp/ 福津市の公式ページ]<br /> |位置画像={{基礎自治体位置図|40|224}}<br /> |特記事項=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;福津市&#039;&#039;&#039;(ふくつし)は、[[福岡県]]の北部の[[宗像地方]]に位置し、[[福岡市]]と[[北九州市]]の中間に位置する[[市]]。福岡県を4つの地域に分けた際は[[福岡地方]]に属する。<br /> <br /> [[国民健康保険]]制度の参考にされた[[定札]]制度が、かつておこなわれていた地域である。<br /> <br /> == 位置・情勢 ==<br /> <br /> === 位置・地理 ===<br /> 福津市は、[[福岡県]]の北西部に位置し[[福岡市]]と[[北九州市]]という2つの[[政令指定都市]]のほぼ中間に位置する。[[福岡都市圏]]の北西部・[[北九州都市圏]]([[関門都市圏]])の最西端に位置する。<br /> <br /> 経済・文化的に[[福岡市]]、[[北九州市]]や隣接する[[宗像市]]・[[古賀市]]との繋がりが強い。<br /> <br /> 東部から南部にかけては許斐山・本木山・飯盛山などに、北西部は[[玄界灘]]([[日本海]])に囲まれている。海岸は[[玄海国定公園]]にも指定されており、風光明媚な土地である。<br /> <br /> 福間海岸は県内でも有数のマリンレジャー地区となっており、海岸沿いに飲食店などが立ち並ぶ人気スポットとなっている。<br /> <br /> 江戸時代に大規模な塩田として埋め立てられるまでは、津屋崎から勝浦にかけて深い入り江があり、現在の勝浦から白石浜を経て渡半島へとつながる海岸線は幅の狭い[[陸繋島|陸繋砂州]]となっていた。現在、[[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]]奈多から[[志賀島]]までの砂州を指して用いられる&#039;&#039;&#039;[[海の中道]]&#039;&#039;&#039;という名前は、本来この砂州を指すものであったと考えられている&lt;ref&gt;{{Cite web | url=http://www.nakamura-u.ac.jp/~library/lib_data/pdf/d17.pdf | format=PDF | title=筑前國續風土記 巻之十七 宗像郡 下 海中道 | year=1709 | work=電子図書館 貝原益軒データ | publisher=中村学園 図書館 | accessdate=2011-02-13 }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web | url=http://www.city.fukutsu.lg.jp/kankou/saihakken/saihakken_10.php | title=ふくつ再発見 船つなぎ石 | work=福津市 | accessdate=2011-02-13 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 旧福間町域の中心部(旧旧福間町域)は全国でも珍しい、大字が無い住所がある。この場合の住所は「福津市****番地」である。しかし、平成期に入り住居表示の実施が順次実施されてきた。<br /> <br /> === 情勢 ===<br /> 福津市は[[福岡市]]・[[北九州市]]という2つの[[政令指定都市]]の中間にあるという立地の良さと、[[鹿児島本線]]、[[国道3号]]が市内を通るという交通の便の良さにより、[[ベッドタウン]]として発展してきた。当初は[[北九州都市圏]]のベッドタウンとして発展してきたが、近年では[[福岡都市圏]]への流れの方が優勢となっている。そのため、相対都市圏では北九州都市圏には含まれず、より流れの優勢な福岡都市圏に含まれる。<br /> <br /> [[1961年]]には[[北九州市]](当時は[[八幡市 (福岡県)|八幡市]])の[[八幡製鐵]](現: [[新日鐵住金]])の社員住宅として原町団地が造成された。それ以後、大規模な宅地開発が次々に行なわれ、東福間団地、若木台団地、光陽台団地ができ、人口が大幅に増加した。また、東福間団地、若木台団地の完成に伴い[[東福間駅]]が造られた。[[高度経済成長|高度成長期]]以降、ベッドタウンとして人口を伸ばし続け、合併後は一時的に人口は減少に転ずるも、福間駅周辺の区画整理事業、[[国道3号]]沿線への大型商業施設の開業などがあり、旧福間町域の人口は増加している&lt;ref name=&quot;mainichi-np-2015-1-25&quot; /&gt;。<br /> <br /> 旧津屋崎町域を含めると[[1995年]]から[[2010年]]の間、人口はほぼ横ばいであったが、2010年の[[福間駅]]の駅舎移転により、駅周辺を[[都市再生機構]]などによる宅地開発が行われ&lt;ref&gt;事業計画では2004年([[2004年|平成16年]])度から2017年([[2017年|平成29年]])度にかけて、[[福間駅]]の東部地区107.5haを住宅地として開発する。&lt;/ref&gt;、2010年以降は再び人口が増加した。[[東福間駅]]周辺においても、津丸地区において宅地造成が行なわれている([http://www.f-tochikukaku.com/fukuma/ 福間町津丸土地区画整理組合]参照)。<br /> <br /> [[方言]]として[[宗像弁]]が使用される。<br /> <br /> 2017年、[[新原・奴山古墳群]]が[[世界遺産]]に登録された。<br /> <br /> === 隣接する自治体 ===<br /> * [[宗像市]]<br /> * [[古賀市]]<br /> * [[宮若市]]<br /> <br /> === 地名 ===<br /> ;旧福間町<br /> *(旧下西郷村から町制以来の地区で、福間町時代から現在まで大字未設置。合併前は福間町、現在は福津市の次に番地が続く)<br /> *津丸(旧神興村)<br /> *手光(旧神興村)<br /> *久末(旧神興村)<br /> *村山田(旧神興村)<br /> *八並(旧神興村)<br /> *畦町(旧上西郷村)<br /> *内殿(旧上西郷村)<br /> *上西郷(旧上西郷村)<br /> *舎利蔵(旧上西郷村)<br /> *本木(旧上西郷村)<br /> *小竹([[1959年]]、村山田より分立)<br /> *光陽台1丁目~6丁目([[1980年]]、手光より発足)<br /> *若木台1丁目~6丁目([[1983年]]、村山田・津丸・小竹・久末・畦町・八並より発足)<br /> *東福間1丁目~8丁目([[1985年]]、津丸・小竹・手光より発足)<br /> *小竹1丁目~2丁目(小竹より発足。年不詳)<br /> *高平(津丸より発足。年不詳)<br /> *[[花見 (福岡県)|花見が丘1丁目~3丁目]](旧下西郷村より発足。年不詳)<br /> *[[花見 (福岡県)|花見が浜1丁目~3丁目]](旧下西郷村より発足。年不詳)<br /> *[[花見 (福岡県)|花見の里1丁目~3丁目]](旧下西郷村より発足。年不詳)<br /> *有弥の里1丁目~2丁目(旧下西郷村より発足。年不詳)<br /> *光陽台南([[1998年]]、手光より発足)<br /> *中央1丁目~6丁目(1998年、旧下西郷村・手光より発足)<br /> *手光(てびか)南1丁目~2丁目(1998年、手光より発足)<br /> *桜川([[2001年]]、津丸より発足)<br /> *西福間1丁目~4丁目(2001年、旧下西郷村より発足)<br /> *福間南1丁目~5丁目([[2004年]]、旧下西郷村より発足)<br /> *福間駅東1丁目~3丁目([[2006年]]、旧下西郷村・上西郷・手光より発足)<br /> *あけぼの([[2007年]]、津丸より発足)<br /> *日蒔野(ひまきの)1丁目~6丁目([[2014年]]、旧下西郷村・上西郷より発足)<br /> ;旧津屋崎町<br /> *在自(あらじ)<br /> *大石<br /> *須多田<br /> *津屋崎<br /> *奴山(ぬやま)<br /> *宮司<br /> *渡<br /> *生家([[1918年]]、奴山より分立)<br /> *勝浦(旧勝浦村)<br /> *星ヶ丘([[2006年]]、津屋崎・在自より発足)<br /> *宮司1丁目~6丁目(2007年、宮司・津屋崎より発足)<br /> *宮司ヶ丘(2007年、宮司・津屋崎より発足)<br /> *宮司浜1丁目~4丁目(2007年、宮司より発足)<br /> *宮司元町(2007年、宮司より発足)<br /> *津屋崎1丁目~8丁目([[2008年]]、津屋崎より発足)<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> 合併前の各町については[[福間町]]および[[津屋崎町]]を参照のこと。<br /> <br /> * [[2005年]](平成17年)[[1月24日]] - [[宗像郡]][[福間町]]と同郡[[津屋崎町]]が合併し発足&lt;ref name=&quot;mainichi-np-2015-1-25&quot; /&gt;。<br /> * [[2016年]](平成28年)[[6月]] - 合併以来の分庁舎制度を廃止。津屋崎庁舎の業務を終了し、福間庁舎の増築棟へ移転。 <br /> <br /> === 合併問題論争 ===<br /> 福津市では、更なる合併に対する議論も既にある。<br /> ; [[宗像市]]論<br /> : 歴史的つながり、交流の緊密化、経済圏・文化の共有、[[勝浦]]と[[玄海町 (福岡県)|玄海]]の経済圏一体化から主要な意見の1つである。<br /> ; [[古賀市]]論<br /> : 福津市の福岡志向、地名の共有(「[[花見 (福岡県)|花見]]」など)千鳥地区と[[福間]]地区経済圏の一体化から提唱される意見である。<br /> ; 合併不必要論<br /> : 合併早々に次の合併を考える前に福津市の自立化や発展を優先すべきとすることから提唱される主要な意見の1つである。<br /> <br /> === 歴代市長 ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> !代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align:right;&quot;|1||rowspan=1|池浦順文||2005年3月6日||2009年3月5日<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align:right;&quot;|2||rowspan=2|[[小山達生]]||2009年3月6日||<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align:right;&quot;|3||||2017年3月5日<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align:right;&quot;|4||rowspan=1|[[原崎智仁]]||2017年3月6日||<br /> |-<br /> |}<br /> <br /> == 行政 ==<br /> === 市長 ===<br /> * [[原崎智仁]](1期目)<br /> * 任期:2021年3月5日<br /> <br /> === 市議会 ===<br /> * 定数: 18人<br /> * 任期: 2019年1月23日<br /> <br /> === 消防 ===<br /> * 宗像地区消防本部(宗像市)<br /> ** 宗像消防署福間分署<br /> <br /> === 警察 ===<br /> * [[宗像警察署|福岡県宗像警察署]](宗像市)<br /> ** 福間交番<br /> ** 津屋崎交番<br /> ** 東福間駅前交番(旧津丸交番)<br /> <br /> == 地域 ==<br /> === 人口 ===<br /> {{人口統計|code=40224|name=福津市}}<br /> <br /> == 教育 ==<br /> === 高等学校 ===<br /> * [[福岡県立光陵高等学校]]<br /> * [[福岡県立水産高等学校]]<br /> <br /> === 中学校 ===<br /> * [[福津市立福間中学校]]<br /> * [[福津市立福間東中学校]]<br /> * [[福津市立津屋崎中学校]]<br /> <br /> === 小学校 ===<br /> * 福津市立福間小学校<br /> * 福津市立福間南小学校<br /> * 福津市立神興小学校<br /> * 福津市立神興東小学校<br /> * 福津市立上西郷小学校<br /> * 福津市立津屋崎小学校<br /> * 福津市立勝浦小学校<br /> <br /> == 産業 ==<br /> ; 漁業<br /> *[[福間漁港]]<br /> *[[津屋崎漁港]]<br /> *[[勝浦漁港]]<br /> <br /> == 交通 ==<br /> [[File:Fukuma Station 20150426.JPG|thumb|280px|福間駅]]<br /> *最寄り空港は[[福岡空港]]<br /> <br /> === 鉄道 ===<br /> * [[九州旅客鉄道]](JR九州)<br /> ** [[鹿児島本線]]<br /> *** [[福間駅]] - [[東福間駅]]<br /> * 中心となる駅 : 福間駅<br /> <br /> ==== すでに廃止された路線 ====<br /> * [[西日本鉄道]](西鉄)<br /> ** [[西鉄貝塚線|宮地岳線]]<br /> *** [[西鉄福間駅]] - [[宮地岳駅]] - [[津屋崎駅]](市内全区間2007年4月1日廃止)<br /> <br /> === バス ===<br /> ; [[JR九州バス]]<br /> : [[福間駅]]からは[[宮若市]][[福丸]]へ向かう&#039;&#039;&#039;福丸線&#039;&#039;&#039;と[[イオンモール福津]]及びその近くを循環する&#039;&#039;&#039;イオンモール福津循環線&#039;&#039;&#039;がある。<br /> :* [[福間駅]] - [[福丸]]([[宮若市]]) - [[直方駅]](一部の便は福丸止まり)<br /> :* 福間駅(さいごう口) - イオンモール福津 - 福間駅(運賃160円)<br /> : ※上記以外にも、かつては福間駅を起点とした一定のエリアを100円均一で循環する路線&#039;&#039;&#039;駅バスふくま~る&#039;&#039;&#039;(福間駅 - 手光・光陽台循環(駅バスふくま~る: グリーンルート、ブルールート))が運行されていたが、2015年3月31日を以って廃止された。「駅バスふくま~る」とは一種の[[コミュニティバス]]で、駅を基点として半径2km程度のエリアを一周するバスであり、料金は100円均一となっていた。他にも[[新飯塚駅]]行の路線も存在していたが、こちらも既に廃止されている。<br /> ; [[西鉄バス宗像]]・[[西日本鉄道]]<br /> : 福津市内からは、[[福岡市]][[天神 (福岡市)|天神]]へ向かう路線(26A、赤間急行)と光陽台六丁目から福間駅を経由し津屋崎・神湊方面へ向かう路線(1-1、1-2)、旧宮地岳線代替で[[西鉄新宮駅]]への路線(5)がある。<br /> :* 1-1 津屋崎橋 - 光陽台六丁目: 宮司団地(普通)<br /> :* 1-2 津屋崎橋 - 光陽台六丁目: 東町(普通)<br /> :* 1-2 神湊波止場 - 光陽台六丁目: 東町、塩浜(普通)<br /> :* 5 津屋崎 - 西鉄新宮駅: 宮司団地(普通)<br /> :* 26 天神 昭和通 → 赤間営業所: 東郷橋(普通)、東郷(深夜)<br /> :* 26A 天神 昭和通 - 旧国道3号 - 赤間営業所: 東郷橋(都高)<br /> :* 赤間急行 天神 - 国道3号バイパス - 赤間営業所<br /> : ※上記の路線とは別に正月期間中には福間駅より[[宮地嶽神社]]に向かう臨時バスがある。<br /> ; [[ふくつミニバス]]<br /> : 廃止されたJR九州バスの粟島神社系統・八並系統・駅バスふくま~る(東福間系統)および西鉄バス宗像委託のコミュニティバスの代替として2008年4月1日に運行を開始した。<br /> <br /> === 道路 ===<br /> ==== 高速道路 ====<br /> 市の南東部を[[九州自動車道]]が通るがインターチェンジはない。高速道路を利用する際は隣の[[古賀市]]にある[[古賀インターチェンジ]]か[[宮若市]]の[[若宮インターチェンジ]]を使う。古賀ICにはサブとして「福津(福間)」の名前が使われている。<br /> <br /> ==== 一般国道 ====<br /> *[[国道3号]]<br /> *[[国道495号]]<br /> <br /> ==== 県道 ====<br /> ; 主要地方道<br /> * [[福岡県道30号飯塚福間線]]<br /> * [[福岡県道97号福間宗像玄海線]]<br /> ; 一般県道<br /> * 福岡県道502号玄海田島福間線<br /> * 福岡県道528号勝浦宗像線<br /> * 福岡県道529号田島田熊線<br /> * 福岡県道530号畦町村山田線<br /> * 福岡県道531号内殿手光線<br /> * 福岡県道532号宮司手光線<br /> * 福岡県道535号薦野福間線<br /> <br /> == 名所旧跡 ==<br /> [[File:Tsuyazaki-sengen Ai-no-ie.jpg|thumb|280px|藍の家]]<br /> [[File:Anzu-no-sato.jpg|thumb|280px|あんずの里]]<br /> [[File:Katsuurahama Beach 05.jpg|thumb|280px|アカウメガメが生息している勝浦浜海岸]]<br /> [[File:Shinbaru-Nuyama_Necropolis_20161014.jpg|thumb|200px|新原・奴山古墳群]]<br /> * [[宮地嶽神社]]<br /> * [[東郷神社 (福津市)|東郷神社]]<br /> * [[藍の家]](津屋崎千軒民俗館)<br /> * あんずの里<br /> *: 町で取れる農産物を直接販売している施設。[[国道495号|国道495号線]]沿いにある。<br /> * [[福間海岸]]<br /> * [[津屋崎海岸]]<br /> *: [[ウミガメ|アカウメガメ]]が生息しており、旧津屋崎町時代より&#039;&#039;&#039;うみがめ課&#039;&#039;&#039;を設置して環境保全に尽力し、公共広告機構(現: [[ACジャパン]])のCMに使われた。また、[[漫画家]]の[[うえやまとち]]が近くに住んでおり、地名こそ出ないものの『[[クッキングパパ]]』に登場することもある。<br /> * [[玄海彫刻の岬・恋の浦|恋の浦]]<br /> * [[サンピア福岡]]<br /> *: 野球場、テニスコート、プール等を備えた総合スポーツ施設。宿泊施設や会議施設も備えている([[福間駅]]より車約10分。当所には以前[[福間競馬場]]があった)。<br /> * [[なまずの郷]]<br /> *: 142,000[[平方メートル|m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;]]の広大な敷地をもつ公園である。園内には庭園や芝生広場のほか、様々な運動施設(ゲートボール場、テニスコート、野球場など)も備えている。近くに「大森宮」という、ナマズを祭った神社があることから名付けられた。<br /> * ほたるの里<br /> * みずがめの郷(久末総合運動公園)<br /> * [[津屋崎古墳群]]<br /> *: [[勝浦高原古墳群]]、[[勝浦古墳群]]、[[生家古墳群]]、[[大石岡ノ谷古墳群]]、[[須多田古墳群]]、[[宮司古墳群]]、[[新原・奴山古墳群]]、[[手光湯ノ浦古墳群]]、[[手光波切不動古墳]]の総称。<br /> うち新原・奴山古墳群のみ、[[「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群]]として[[世界文化遺産]]に登録されている。<br /> <br /> == 出身・ゆかりのある有名人 ==<br /> * [[うえやまとち]](漫画家)<br /> * [[春日光広]](漫画家)<br /> * [[林葉直子]](女流棋士)<br /> * [[高山喜六]](杖術家)<br /> * [[東信 (フラワーアーティスト)]]<br /> * [[山本眸古]]<br /> * [[倉田主税]]([[実業家]]・[[日立製作所]]第二代社長)<br /> * [[八波則吉]]([[国文学者]])<br /> * [[大家志津香]]([[アイドル]]・[[AKB48]]チームB)<br /> * [[新木さくら]]([[タレント]]、アイドル・[[LinQ]])<br /> <br /> ==福津市を舞台とする作品==<br /> *「[[巫女っちゃけん。]]」 - 2017年の[[日本映画]]。宮地嶽神社をはじめとする当市内を舞台としている。主演は[[広瀬アリス]]。<br /> <br /> ==出典・注釈==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Fukutsu, Fukuoka}}<br /> * [http://www.city.fukutsu.lg.jp/ 福津市]<br /> <br /> {{福岡県の自治体}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふくつし}}<br /> [[Category:福岡県の市町村]]<br /> [[Category:宗像地方]]<br /> [[Category:福津市|*]]<br /> [[Category:合成地名]]</div> 42.144.44.76 黒田氏 2018-08-12T17:28:23Z <p>42.144.44.76: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2017年5月}}<br /> &#039;&#039;&#039;黒田氏&#039;&#039;&#039;(くろだし)は、日本の[[氏族]]のひとつ。<br /> <br /> [[江戸時代]]の[[大名]]家となった黒田氏には次の2氏がある。<br /> <br /> == 福岡藩主・黒田氏 ==<br /> {{日本の氏族<br /> |家名=黒田氏&lt;br/&gt;(称・宇多源氏佐々木氏流)<br /> |家紋= Kuroda-kanbee-kamon2.gif|thumb|<br /> |家紋名称= 黒田藤<br /> |本姓=&#039;&#039;&#039;称&#039;&#039;&#039;・[[源氏#宇多源氏|宇多源氏]][[佐々木氏|佐々木氏流]]{{Sfn|太田|1934|p=2224}}&lt;br /&gt;[[藤原氏]]?/[[赤松氏]]?<br /> |家祖=<br /> |種別=[[武家]]&lt;br/&gt;[[華族]]([[侯爵]])<br /> |出身地=&#039;&#039;&#039;称&#039;&#039;&#039;・[[近江国]][[伊香郡]]黒田村<br /> |根拠地=&#039;&#039;&#039;称&#039;&#039;&#039;・近江国伊香郡黒田村&lt;br/&gt;[[筑前国]]<br /> |人物=[[黒田孝高]]&lt;br/&gt;[[黒田長政]]&lt;br/&gt;[[黒田継高]]&lt;br/&gt;[[黒田長溥]]<br /> |支流=[[福岡藩#秋月藩|秋月藩主家]]([[武家]])&lt;br/&gt;[[福岡藩#東蓮寺藩|東蓮寺藩主家]]([[武家]])<br /> }}<br /> === 黒田氏の起源 ===<br /> [[近世]]、[[黒田孝高]](官兵衛・如水)・[[黒田長政|長政]]父子が[[筑前国]]に[[福岡藩]]を立藩した黒田氏は、その40年ほど後に作成された『[[寛永諸家系図伝]]』によると、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期に活動した[[播磨国]]の[[国人]]領主・[[黒田重隆]]まで遡ることができる。重隆は播磨の有力豪族・[[小寺氏]]に重臣として仕えた武将であり、孝高の祖父にあたる{{Sfn|太田|1934|p=2225}}。『[[寛永系図]]』によると重隆以前は「此間中絶」となっており伝承されていなかったようであるが、それ以前の系譜として中世の間、[[近江国]]に勢力を持った[[佐々木氏]]([[京極氏]])の分家筋である黒田氏の流れであると紹介している。<br /> <br /> 『寛永系図』のさらに60年ほど後、福岡藩士・[[貝原益軒]]によって編纂された『黒田家譜』によると、黒田重隆の父として近江黒田氏出身者の[[黒田高政 (戦国時代)|高政]](黒田重隆の父とされている)が新たに登場し、高政の代に近江を離れたとして近江黒田氏が福岡藩主黒田氏と同族であることの補説としている{{Sfn|太田|1934|p=2224}}。<br /> <br /> ただし、これらの近江黒田氏を福岡藩主黒田氏に結びつけるこの説は近世から疑問視する向きもあり{{Efn|『黒田家譜』のさらに後に作成された『[[寛政重修諸家譜]]』では、{{要出典範囲|date=2017年5月|黒田高政の存在を信憑性の薄いものとして}}、敢えて系図を『寛永諸家系図伝』のまま掲載している。}}、{{要出典範囲|date=2017年5月|また初出史料が一般的に偽書とされる『[[江源武鑑]]』にあるものという指摘もあり}}{{Efn|『江源武鑑』はその名の通り近江源氏についての俗説を多く収録しており、黒田高政もこの史料が初見であるという。}}、歴史学者の諏訪勝則によると、{{要出典範囲|date=2017年5月|現在では福岡黒田氏の起源を近江源氏に求める従来の説は慎重にならざるを得ないとしている}}。また黒田長政が[[日光東照宮]]に寄進した石の鳥居には、「黒田筑前守藤原長政」と名前が掘り込まれていることから、長政が[[本姓]]を[[藤原氏]]としていたことが分かり、家紋が藤原氏の使用する藤の紋を取り入れた黒田[[藤巴]]紋であることも整合性がとれる。この藤巴の紋は黒田家が播磨時代に仕えた主家、小寺家が用いた藤橘巴紋を継承しているともされる。江戸時代、近世大名となった黒田家は主に[[石餅]](白餅、黒餅)紋を表紋としている。<br /> <br /> === 黒田氏の来歴 ===<br /> 黒田家の正史、『黒田家譜』によると、[[16世紀]]初め、[[近江源氏]]の分流佐々木氏流である黒田高政は近江を出奔して、同じ近江源氏の流れである[[加地氏]]などを頼って[[備前国]][[邑久郡]][[長船町福岡|福岡]]に移った。そして高政の子・重隆の時に[[播磨国]]に移り、同国の有力豪族である[[小寺氏]]に仕えた。近世になって成立した『夢幻物語』によると、重隆は家伝の目薬を製造・販売し、やがて土豪として成長したとされる。元から播磨地域の出身であり[[赤松氏]]一族に仕えた説等、数多くの説が近年の研究から唱えられている。<br /> <br /> 黒田重隆の子[[黒田職隆|職隆]]が[[赤松氏]]の一族である播磨の有力豪族・小寺氏に仕え、その養女を迎えて自らも小寺氏を称した。職隆の子・孝高は[[織田信長]]に従い、その重臣である[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の麾下に入った。その際、小寺氏が織田氏に敵対して衰退すると孝高は氏を黒田に復している。[[1587年]]([[天正]]15年)[[豊前国]][[中津城]]主12万石となる。[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]で孝高・[[黒田長政|長政]]父子は徳川方につき、軍功により[[筑前国]]52万3千余石を与えられ、[[福岡藩]]を立藩。長政が初代藩主になった。以後黒田氏は代々福岡藩主となり国替もなく幕末に至る。二代忠之以降は代々松平筑前守の名を与えられた。黒田家宗家は第6代目藩主[[黒田継高|継高]]の時、息子二人が相次いで早世し後継問題に見舞われた。当初は継高の長女、藤子が嫁いだ[[岡山藩]][[池田氏]]から外孫を養子に迎える予定だったが、幕府の要請により[[黒田治之|治之]]が[[一橋徳川家]]から養子に入った。その後も養子が続き、[[多度津藩]][[京極氏]]・[[薩摩藩]][[島津氏]]・[[伊勢国|伊勢]][[津藩]][[藤堂氏]]から迎えている。養子とする際は、正室を先代藩主の息女や縁類の娘とし、入婿とした{{Sfn|村川|2000|p=206}}。[[明治維新]]後は[[侯爵]]に列せられ大名[[華族]]となった。<br /> <br /> なお、黒田孝高は[[有岡城の戦い]]から救出された後に[[有岡城]]の土牢で世話を受けた、[[藤原利仁|利仁流]][[加藤氏]]の[[支流]]・[[伊丹氏]]の[[一族]]とされる[[加藤重徳]]の次男を[[養子]]に迎え、黒田姓を与えて[[黒田一成]]と名乗らせている。一成は関ヶ原の戦いで功績を残し、福岡藩立藩後には藩[[大老]]となり[[三奈木黒田家]]を起こし、[[明治]]まで代々、藩主に仕えた。このほか黒田姓を与えられた家には立花黒田家(初代は[[薦野増時]])などがある。黒田家家臣団は俗に[[黒田二十四騎]]、[[黒田八虎]]として知られる。<br /> <br /> なお、[[1623年]]([[元和 (日本)|元和]]9年)、長政の三男[[黒田長興|長興]]は筑前国[[福岡藩#秋月藩|秋月藩]]5万石、四男[[黒田高政 (東蓮寺藩主)|高政]]は筑前国[[福岡藩#東蓮寺藩|東蓮寺藩]]4万石が分与され、明治維新後は元秋月藩主は[[子爵]]、元東蓮寺藩主は[[男爵]]、藩大老三奈木黒田家当主は[[男爵]]に列せられた。<br /> {{clear}}<br /> <br /> === 近江黒田氏 ===<br /> [[鎌倉時代]]末期、[[佐々木宗氏|京極宗氏]]の弟とされる[[黒田宗満|宗満]]が[[近江国]][[伊香郡]]黒田村に住み、黒田氏を称したのが始まりといわれる。この黒田氏は主に[[室町幕府]]将軍の[[奉公衆]]としての活動の記録が残っており、黒田高政が近江を離れたとされるよりも後の時代である[[天文 (元号)|天文]]年間まで存在が確認されるという。『黒田家譜』『寛永諸家系図伝』などによると、福岡藩主黒田家はこの末裔とされるが、先述の通り疑問視する向きも強い。<br /> <br /> === 明石黒田氏 ===<br /> 近年、[[明石藩]]士黒田家文書、『[[播磨鑑]]』には、黒田官兵衛孝高は[[押部庄]]黒田村 (現[[神戸市]][[西区 (神戸市)|西区]]平野町黒田) の出身とする『[[本朝通紀]]』[[長井定宗]]説が出てきた。これは播磨国[[明石藩]][[松平家]]の家老職は代々黒田家であり、同姓である。がゆえに、古文書等の由緒書に、黒田氏の先祖は、播磨国[[明石郡]]黒田村の記述があるという。東播磨の一大土豪であった[[明石氏]]と黒田氏は、お互いの家に嫡子が絶えると養子を譲りあいながら家系を継いできたという。<br /> <br /> === 西脇黒田庄説 ===<br /> 江戸時代末期に[[兵庫県]][[西脇市]]にある[[荘厳寺 (西脇市)|荘厳寺]]に奉納されたという伝承の『荘厳寺本黒田家略系図』によると、黒田氏は播磨の守護大名・[[赤松氏]]の分流であり、[[赤松則村]]の弟の[[赤松円光|円光]]の子である黒田重光という人物を祖とする。重光は室町時代初期にこの地を治めたとされ、以後代々播磨国[[多可郡]]黒田城(西脇市[[黒田庄町]]とされる)の城主として黒田氏は存続し、8代目黒田城主が[[黒田重隆]]になるとしている。9代目に黒田治隆が存在し、孝高(同系図によると孝隆)は治隆の弟となっている。なお、この黒田氏は治隆の代に合戦に敗れ滅亡したとされている。<br /> <br /> 従来説と大きく違うこの系図は、黒田孝高の祖父とされている黒田重隆が、祖父ではなく実父であるとしている。また、孝高の父とされている[[黒田職隆]]は孝高の養父となっており、黒田氏ではなく小寺氏の人物であるように記されている{{Efn|なお、職隆が黒田氏と署名している史料は存在し、「『兵庫県史』資料編 中世 二」に掲載されている。}}。播磨国に近江源氏流とは違う黒田氏が当初より存在していたという説の論拠ともなりうる系図だが、江戸時代末期に作成されており歴史的史実と乖離する記述も多く散見されるため参考資料とする程度である。<br /> <br /> === 系譜 ===<br /> &#039;&#039;&#039;凡例&#039;&#039;&#039; 太線は実子、細線は養子、当主は太字。<br /> <br /> ([[黒田高政 (戦国時代)|高政]])<br /> ┃<br /> &#039;&#039;&#039;[[黒田重隆|重隆]]&#039;&#039;&#039;<br /> ┣━━━┓<br /> &#039;&#039;&#039;[[黒田職隆|職隆]]&#039;&#039;&#039; [[小寺休夢|高友]]<br /> ┣━━━┳━━━┳━━━┓<br /> &#039;&#039;&#039;[[黒田孝高|孝高]]&#039;&#039;&#039; [[黒田利高|利高]] [[黒田利則|利則]] [[黒田直之|直之]]<br /> ┠─────┐<br /> &#039;&#039;&#039;[[黒田長政|長政]]&#039;&#039;&#039;  [[黒田一成|一成]]([[加藤重徳]]の子、[[三奈木黒田家]]初代)<br /> ┣━━━━━━━━━━━┳━━━┓<br /> &#039;&#039;&#039;[[黒田忠之|忠之]]&#039;&#039;&#039; [[黒田長興|長興]] [[黒田高政 (東蓮寺藩主)|高政]]<br /> ┣━━━━━━━┓   ┣━━━┓<br /> &#039;&#039;&#039;[[黒田光之|光之]]&#039;&#039;&#039;   [[黒田之勝|之勝]]  [[黒田長重|長重]]   勝子━┳━[[黒田一貫]](三奈木黒田家3代、一成の曾孫)<br /> ┣━━━┓   ┃         ┃<br /> &#039;&#039;&#039;[[黒田綱政|綱政]]&#039;&#039;&#039;  [[黒田長清|長清]]  [[黒田長軌|長軌]]        鶴子━┳━[[野村祐春]]([[福岡藩#中老|野村氏]])<br /> ┃   ┃    |            ┃<br /> &#039;&#039;&#039;[[黒田宣政|宣政]]&#039;&#039;&#039;  &#039;&#039;&#039;[[黒田継高|継高]]&#039;&#039;&#039;  [[黒田長貞|長貞]]          [[黒田長貞|長貞]] <br />      |    ┣━━━┓<br />     &#039;&#039;&#039;[[黒田治之|治之]]&#039;&#039;&#039;  [[黒田長邦|長邦]]   春姫━━━━━━━━━┳━━[[秋月種美]]<br />      |    ┣━━━┓         ┃<br />     &#039;&#039;&#039;[[黒田治高|治高]]&#039;&#039;&#039;  [[黒田長恵|長恵]]   此子━┳━[[山崎義俊]]  [[秋月種茂]]<br />      |    |    ┃         ┃<br />     &#039;&#039;&#039;[[黒田斉隆|斉隆]]&#039;&#039;&#039;  [[黒田長堅|長堅]]     [[黒田長堅|長堅]]       [[黒田長舒|長舒]]<br />      ┃   |<br />     &#039;&#039;&#039;[[黒田斉清|斉清]]&#039;&#039;&#039;  [[黒田長舒|長舒]]<br />      |    ┃<br />     &#039;&#039;&#039;[[黒田長溥|長溥]]&#039;&#039;&#039;  [[黒田長韶|長韶]]  <br />      |    |<br />     &#039;&#039;&#039;[[黒田長知|長知]]&#039;&#039;&#039;  [[黒田長元|長元]]<br />      ┃    ┣━━━┓<br />     &#039;&#039;&#039;[[黒田長成|長成]]&#039;&#039;&#039;  [[黒田長義|長義]]  [[黒田長徳|長徳]]<br />      ┃<br />     &#039;&#039;&#039;[[黒田長礼|長礼]]&#039;&#039;&#039;<br />      ┃<br />     &#039;&#039;&#039;[[黒田長久|長久]]&#039;&#039;&#039;<br />      ┃<br />     &#039;&#039;&#039;[[黒田長高|長高]]&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> == 播磨多可郡の黒田氏 ==<br /> [[赤松則村]]の家臣[[黒田宗信]]が、知行地の[[播磨国]][[多可郡]]黒田庄([[兵庫県]][[西脇市]]黒田庄町黒田)に[[黒田城 (播磨国)|黒田城]]を築き、黒田氏を称した。黒田宗政が討ち死にして断絶したが、子の[[黒田治宗]]が播州の山中村に隠れ住み、後に[[別所則治]]に従って家を再興した。その三男の[[山中貞幸]]は[[出雲国|出雲]][[尼子氏]]に仕え、貞幸の孫が[[山中幸盛]]である。山中幸盛の子で[[鴻池財閥]]の祖となる[[鴻池直文]]は、当初播州の黒田氏本家の養子となっていたという。この黒田氏は[[天正]]6年([[1578年]])に[[羽柴秀吉]]によって滅ぼされたとされる。鴻池直文の子の一人は、黒田氏を名乗っている。<br /> <br /> なお、前述の福岡藩主・黒田氏の西脇黒田庄説の通り、黒田官兵衛とその子孫があまりにも有名なため、当の西脇市でもこの黒田氏は官兵衛の黒田氏であるとの伝承が地元でも古くからなされている&lt;ref&gt;[[#黒田官兵衛ゆかりの里・西脇|黒田官兵衛ゆかりの里・西脇/西脇市ホームページ]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 下野黒田氏 ==<br /> 佐々木氏流を称する黒田氏と同じく、[[佐々木宗氏|京極宗氏]]の弟とされる[[黒田宗満|宗満]]を祖とする。[[永禄]]3年([[1560年]])、[[近江国]]の戦国大名[[六角義治]]の推挙によって、[[黒田邦勝]]が[[宇都宮広綱]]の家臣となっている。<br /> <br /> === 系譜 ===<br /> &#039;&#039;&#039;凡例&#039;&#039;&#039; 太線は実子、細線は養子。<br /> [[黒田宗満|宗満]]<br /> ┃<br /> [[黒田定宗|定宗]]<br /> |<br /> [[黒田宗信|宗信]]<br /> ┃<br /> [[黒田高教|高教]] <br /> ┃<br /> [[黒田高宗|高宗]]    <br /> |<br /> [[黒田高信|高信]]          <br /> ┃<br /> [[黒田清高|清高]]<br /> |<br /> [[黒田政光|政光]]<br /> ┃<br /> [[黒田光勝|光勝]] <br /> ┃<br /> [[黒田信勝|信勝]]    <br /> ┃<br /> [[黒田勝秀|勝秀]]          <br /> ┃<br /> [[黒田勝好|勝好]] <br /> ┃<br /> [[黒田勝幸|勝幸]]    <br /> ┃<br /> [[黒田邦勝|邦勝]]          <br /> ┃<br /> [[黒田信勝 (戦国時代) |信勝]] <br /> ┃<br /> [[黒田定勝|定勝]]    <br /> ┃<br /> <br /> == 武蔵七党の一つ丹党の流れをくむ中山氏流が養子入りした黒田氏 ==<br /> {{日本の氏族<br /> |家名=黒田氏&lt;br/&gt;(養子入りにより武蔵七党丹党中山氏流)<br /> |家紋=Unknown.jpg<br /> |家紋名称= <br /> |本姓=不明(中山氏は[[武蔵七党]][[丹党]][[中山氏|中山氏流]])<br /> |家祖=<br /> |種別=[[武家]]&lt;br/&gt;[[華族]]([[子爵]])<br /> |出身地=<br /> |根拠地=[[上総国]]<br /> |人物=<br /> |支流=<br /> }}<br /> この黒田氏は、元々は[[武蔵七党]]の一つ[[丹党]]の末裔である[[中山氏]]の出身である。中山氏は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]][[後北条氏]]に仕え、後北条氏が滅亡した後には、[[中山照守]]らが[[徳川氏]]に属し、ある一族は[[旗本]]となり、また別の一族は[[水戸藩]]の[[附家老]]となった。<br /> <br /> 近江国出身で[[徳川家康]]に仕えた[[黒田直綱]]は勲功を挙げたが二十代半ばで若くして没し、これに[[近藤用勝]]の六男[[黒田用綱]]を養子として家名を存続させた。[[上野国|上野]][[館林藩]]主[[徳川綱吉]](のち5代将軍となる)の[[付家老]]として配属され3,000石を領した用綱には実子がいたが{{Efn|黒田用綱の実子の一人が[[牧野成貞]]の養子に入り[[牧野成時 (関宿藩嫡子)|牧野成時]]となっているが、若くして死去している。}}、養子として外孫に当たる[[黒田直邦|直邦]]([[中山照守]]の曾孫)を迎えた。直邦は[[儒学者]]の[[荻生徂徠]]の弟子でもあり、のちには名君と呼ばれ、その人格も高く評価された。時の将軍綱吉にも気に入られ、舘林藩が幕府に再吸収された際幕府直臣となり、[[小納戸役]]や[[小姓]]を務め、[[1700年]]([[元禄]]13年)1万石を領して黒田家は大名に列した。その後も[[奏者番]]と[[寺社奉行]]を兼任するなどし、[[1703年]](元禄16年)[[常陸国|常陸]][[下館藩]]主1万5,000石となり、次いで上野[[沼田藩]]主2万5,000石、さらに加増を受けて3万石の領主となる。[[1742年]]([[寛保]]2年)、直邦の養子の[[黒田直純|直純]]のとき[[上総国|上総]][[久留里藩]]3万石に転封となった。藩財政には苦しみながらも、以降久留里藩主として明治まで存続する。なお上述の福岡藩主黒田氏とは酒井家を通じ血脈を受け継いでいる。<br /> <br /> [[明治維新]]後、黒田家は[[子爵]]に列せられた。<br /> [[菩提寺]]は中山氏と同じ、[[埼玉県]][[飯能市]]飯能の[[能仁寺 (飯能市)|能仁寺]]。<br /> <br /> {{clear}}<br /> <br /> === 系譜 ===<br /> 太線は実子、細線は養子。<br /> <br /> [[中山直張]]<br />   ┃<br />  [[黒田直邦|直邦]]<br />   ┝━━━┓<br />  [[黒田直純|直純]]  [[黒田直亨|直亨]]<br />       ┣━━━┓<br />      [[黒田直英|直英]]  [[黒田直方|直方]]<br />       ┃   ┝━━━┳━━━┓<br />      [[黒田直温|直温]]  [[黒田直侯|直侯]]  [[黒田直静|直静]]  [[黒田直古|直古]]<br />           ┃       ┃<br />          [[黒田直和|直和]]      [[黒田直養|直養]]<br /> <br /> == 常陸国の黒田氏 ==<br /> [[常陸国]]にも黒田氏がある。[[多賀郡]]黒田邑より起こっている。『梶原冬庵伝』に[[黒田八太夫]]、同[[黒田八兵衛|八兵衛]]、[[黒田八之丞|八之丞]]がいる{{Sfn|太田|1934|p=2228}}。<br /> <br /> == その他 ==<br /> *[[丸亀藩]]京極家[[家老]]に黒田氏([[京極氏#高次流 (若狭京極家)|京極家]]分家)がある。<br /> *[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[越後国|越後]][[上杉氏]]の家臣の黒田氏がいる。[[黒田秀忠]]の代に主・[[長尾晴景]]に対して謀反を起こしたために越後守護・[[上杉定実]]の命を受けた晴景の弟の長尾景虎(のちの[[上杉謙信]])によって滅ぼされた。<br /> *[[薩摩藩]][[島津氏]]家臣の家系。首相を務めた[[黒田清隆]]、ほかに[[黒田清綱]]や画家の[[黒田清輝]]がいる。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> ===注釈===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Notelist}}<br /> ===出典===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参照文献 ==<br /> {{脚注の不足|date=2017年5月|section=1}}<br /> * {{オープンアクセス}}{{Citation|和書|last=太田|first=亮|author-link=太田亮|others=[[上田萬年]]、[[三上参次]]監修|chapter=黒田 クロタ クルタ|pages=2223-2229|volume=第2|date=1934|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|url={{NDLDC|1130938/205}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ncid=BN05000207|oclc=673726070|ref=harv}}<br /> * 諏訪勝則 著『黒田官兵衛』(中公新書、2013年)<br /> * {{Cite web|title=黒田官兵衛ゆかりの里・西脇/西脇市ホームページ|work=西脇市ホームページ|publisher=[[西脇市]]|url=http://www.city.nishiwaki.lg.jp/kakukanogoannai/soumubu/hisyokouhouka/kanbee/index.html|accessdate =2017-5-25|ref=黒田官兵衛ゆかりの里・西脇}}<br /> * {{Citation|和書|last=村川|first=浩平|author-link=村川浩平|title=日本近世武家政権論|date=2000-6|publisher=日本図書刊行会、近代文芸社|isbn=4823105281|ncid=BA48075498|ref=harv}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[黒田節]]<br /> <br /> {{japanese-history-stub}}<br /> {{デフォルトソート:くろたし}}<br /> [[Category:黒田氏|*]]<br /> [[Category:譜代黒田氏|*くろたし]]<br /> [[Category:日本の氏族]]<br /> [[Category:近畿地方の氏族]]<br /> [[Category:九州地方の氏族]]<br /> [[Category:関東地方の氏族]]</div> 42.144.44.76 鉄剣・鉄刀銘文 2018-08-11T01:52:05Z <p>42.144.44.76: /* 庚寅銘大刀 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;鉄剣・鉄刀銘文&#039;&#039;&#039;(てっけん・てっとうめいぶん)は、鉄製の剣または刀に記された文字資料のこと。本項では日本の[[古墳]]からの出土品と[[石上神宮]]伝世の[[七支刀]]について述べる。なお、ここでいう[[剣]]は両刃、[[刀]]は片刃の武器を指す。これらは[[5世紀]]前後の[[古墳時代]]の情報を知るための貴重な史料である。特に[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]出土の鉄剣銘文は文字数が多い。<br /> <br /> == 稲荷台1号墳出土の王賜銘鉄剣 ==<br /> [[稲荷台1号古墳|稲荷台1号墳]]は[[千葉県]][[市原市]]の[[養老川]]下流域の北岸台地上に営まれた12基からなる[[稲荷台古墳群]]中の1基であり、径約28メートルの[[円墳]]である。同古墳には2基の木棺が納置され(中央木棺と北木棺)、鉄剣は中央木棺から検出された&lt;ref&gt;なお、中央木棺からは他に鉄剣3口、鋲留短甲(びょうどめたんこう)1、[[鉄鏃]]3、刀子1が検出され、北木棺からは大刀1口、鉄鏃一種、胡&amp;#x7C36;(ころく)金具1組が検出されている&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 鉄剣には、銀[[象嵌]]で、表面に「&#039;&#039;&#039;王賜□□敬□(安)&#039;&#039;&#039;」、裏面に「&#039;&#039;&#039;此廷□□□□&#039;&#039;&#039;」と記されている&lt;ref name=&quot;touno12&quot;&gt;[[東野治之]]『書の古代史』([[岩波書店]]、2010年)pp..12-13&lt;/ref&gt;。鉄剣に紀年が記されていないが、木棺に収められていた鋲留短甲と鉄鏃の形式から5世紀中葉と見られている。<br /> <br /> 銘文を読み下すと、「王、□□を賜う。敬(つつし)んで安ぜよ。此の廷(刀)は、□□□」となる。内容は、王への奉仕に対して下賜するという類型的な文章で、「王から賜った剣をつつしんで取るように」ということである&lt;ref name=&quot;touno12&quot;/&gt;。被葬者は2人の武人であり、房総半島の一角に本拠をもつ武人が畿内の「王」のもとに出仕して奉仕し、その功績によって銀象嵌の銘文を持つ鉄剣を下賜されたものと考え、銘文中の「王」を[[倭の五王]]のうちの「済」([[允恭天皇]])とする説が有力である。しかし[[和歌山県]]の[[隅田八幡神社]]所蔵の[[隅田八幡神社人物画像鏡|人物画像鏡]]の銘に「[[治天下大王|大王]]」の記述が見られ、この鏡の銘の[[癸未]]年を[[443年]]とすると允恭天皇は「大王」を名乗っていたと推測されることから、「王」を[[上海上国造|上海上]]の首長である対岸の[[姉崎二子塚古墳]]の被葬者とみる説もある&lt;ref&gt;原島礼二『古代東国の風景』([[吉川弘文館]]、1993年)pp..11-14&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ほか、銘文の特徴としては、「王賜」の画線が他の文字よりも太く、文字間隔が大きい。また「王賜」の二字が裏面の文字より上位に配置されている。こうした書き方は、貴人に敬意を表す時に用いる[[擡頭法]](たいとうほう)という書法である。<br /> <br /> == 稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣 ==<br /> {{Main|稲荷山古墳出土鉄剣}}<br /> {{Double image aside|right|稲荷山古墳出土鉄剣 (表面).JPG|90|稲荷山古墳出土鉄剣 (裏面).JPG|90|{{Center|[[稲荷山古墳出土鉄剣]](国宝)}}{{small|[[埼玉県立さきたま史跡の博物館]]展示。左は表面、右は裏面。}}}}<br /> [[1968年]](昭和43年)、[[埼玉県]][[行田市]][[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]から出土した[[稲荷山古墳出土鉄剣|鉄剣]]である。全文115字からなる金象嵌の銘文が記されている&lt;ref&gt;[[1978年]]9月の保存修理の結果&lt;/ref&gt;。全長73.5センチメートル、中央の身幅3.15センチメートル、鉄剣の表裏に金象嵌の115字の銘文、表に57字、裏に58字が記されている。タガネで鉄剣の表裏に文字を刻み、そこに金線を埋め込んでいる。優れた技術者がいたと推測される&lt;ref&gt;推定銘文及び訓読は埼玉県教育委員会『稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報』 1979年による。&lt;/ref&gt;。{{-}}<br /> <br /> * 表の銘文<br /> {{Squote|&#039;&#039;&#039;辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比&amp;#x579D;其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;<br /> <訓読><br /> 辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。}}<br /> * 裏の銘文<br /> {{Squote|&#039;&#039;&#039;其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;<br /> <訓読><br /> 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。}}<br /> <br /> === 解釈 ===<br /> {{独自研究|date=2012年1月|section=1}}<br /> &lt;!--[[辛亥]]の年7月に記す。祖先オホヒコからこの銘文の主人公であるヲワケに至る八代の系譜を記す。その祖先から代々杖刀人(じょうとうじん)の首(かしら)として朝廷に仕えてきた伝統に従って、今日に至っている。ヲワケが獲加多支鹵[[大王 (ヤマト王権)|大王]]のシキの宮において、その統治を助けた記念としてこの刀を造り、銘文を刻んだ。--&gt;<br /> <br /> 115文字という字数は日本のみならず朝鮮・中国の例と比較しても多い。日本で作られたと考えられる古墳時代の他の銘文について字数が多い例は、[[熊本県]][[江田船山古墳]]出土の大刀銘75字、[[和歌山県]][[橋本市]][[隅田八幡神社]]所蔵の鏡銘48字などがある。<br /> <br /> 辛亥年は[[471年]]が定説であるが一部に[[531年]]説もある。通説通り辛亥年が471年とするとヲワケが仕えた獲加多支鹵大王とは、大長谷若建(おおはつせわかたける)命・大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)・[[雄略天皇]]であり、あるいは『[[宋書]]』倭国伝にみえる倭王[[武]]であると比定される。大王という称号が5世紀から使われたことの確実な証拠となる。ヲワケが地方豪族であるか中央豪族であるかの判断など研究者で意見が分かれる。加多支鹵大王とはヤマトと異なる関東の大王だとの説も有り、それによるとヤマトの支配権は関東に及んでいなかったことになる([[古田武彦]]説)。<br /> <br /> 銘文「意冨比&amp;#x579D;」の「意」・「比&amp;#x579D;」は[[百済]]の用字法にもある&lt;ref name=&quot;murayamakokubu&quot;/&gt;。<br /> 『[[三国史記]]』百済本紀 513 年の条に、日本人 穂積臣&lt;ruby&gt;押山&lt;rt&gt;おしやま&lt;/rt&gt;&lt;/ruby&gt;([[穂積押山]])の名が「&lt;ruby&gt;&#039;&#039;&#039;意&#039;&#039;&#039;斯移麻岐彌&lt;rt&gt;(おしやまきみ)&lt;/rt&gt;&lt;/ruby&gt;」と記されている。また、『日本書紀』神功皇后 47 年 4 月の条に「百濟記に&lt;ruby&gt;職麻那那加&#039;&#039;&#039;比跪&#039;&#039;&#039;&lt;rt&gt;(ちくまなながひこ)&lt;/rt&gt;&lt;/ruby&gt;と云へるは、蓋し是か」、同 62 年の条に「百濟記に云はく……貴國&lt;ruby&gt;沙至&#039;&#039;&#039;比跪&#039;&#039;&#039;&lt;rt&gt;(さちひこ)&lt;/rt&gt;&lt;/ruby&gt;を遣はして之を討たしむ」とある。「&amp;#x579D;」と「跪」とは同音である。<br /> <br /> また「辛亥年七月中記」の「中」は、朝鮮古漢文でも758年頃に用法としてある&lt;ref&gt;例:「二塔天寳十七年戊戌&#039;&#039;&#039;中&#039;&#039;&#039;立在之」(『葛項寺造塔記』758 年)&lt;/ref&gt; &lt;ref name=&quot;murayamakokubu&quot;&gt;村山七郎,国分直一 (1979) 『原始日本語と民族文化』三一書房.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 「多沙鬼獲居」の「多沙鬼」は、『日本書紀』神功皇后 50 年 5 月の条に見える「多沙城」に由来する名と推定される。「多沙」は[[任那]]の地名である。&lt;ref name=&quot;murayamakokubu&quot;/&gt; →[[城 (き)]]<br /> <br /> ほか、「百練」以外の常套句・吉祥句がない。「辛亥年七月中記」中国的要素が強い。ヲワケの祖先八代の系譜を記している。ヲワケ一族の伝統とこの鉄剣を作った理由を記している。ヲワケの臣の父(カサハヨ)と祖父(ハテヒ)には、ヒコ・スクネ・ワケなどのカバネ的尊称がつかない。[[部民制]]の用例がみられない。ヲワケの臣。すでにウジ(氏)とトモ(伴・部)の成立がみられる。当時の倭国の人名・地名を漢字音で表記している。獲加多支鹵大王のもとに中国語に精通した記録者の存在を示している。<br /> <br /> [[宮崎市定]]は「記す」の繰り返しは漢文として稚拙であるから最初の「記」は氏族名であり「記のヲワケ臣」が人名であるとした。また[[古事記]]中巻・[[崇神天皇]]のオホタタネコの系譜の最後に一人称「僕」が現れる例を挙げ、ヲワケの父の名はカサヒヨでなくカサヒであり、「余」は「われ」の意味だとして「余は其の児にして名はヲワケ臣」と読んだ。また「寺」(政庁)と「宮」の重複も不自然で、「寺」は「侍」(サムライ、貴人に仕えること)の略であるとして「奉事し来たりて今のワカタケル大王に至る。(私ヲワケ臣が)侍してシキの宮に在りし時」と読んだ。さらに「吾」の繰り返しも稚拙であり、「吾左治天下」の「吾」は本来は「為」の字で「天下を治むるを佐けんが為に」と読むべきとした。宮崎は著書の中で、最初に発表されたレントゲン写真では「為」に近い形であった文字に補修者が手を加え、「吾」という文字を創作したと述べ、写真を載せて非難した&lt;ref&gt;宮崎市定『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』145頁 ISBN 9784121007032 中公新書 1983年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 江田船山古墳出土の銀錯銘大刀 ==<br /> [[ファイル:江田船山古墳出土 銀象嵌銘大刀.JPG|thumb|180px|right|[[江田船山古墳]]出土鉄刀(国宝)&lt;br /&gt;[[東京国立博物館]]展示。]]<br /> [[1873年]]([[明治]]6年)、[[熊本県]][[玉名郡]][[和水町]](たまなぐんなごみまち)にある[[江田船山古墳]]から、全長61メートルの前方後円墳で、横口式家型[[石棺]]が検出され、内部から多数の豪華な副葬品が検出された&lt;!--出土品には残欠品等もあり「92点」と特定はできない。--&gt;。この中に全長90.6センチメートルで、茎(なかご)の部分が欠けて短くなっているが、刃渡り85.3センチメートルの大刀(直刀)があり、その峰に銀象嵌の銘文があった。字数は約75字で、剥落した部分が相当ある。{{-}}<br /> <br /> * 銘文&lt;ref&gt;江田船山国宝展実行委員会「江田船山国宝展」 2001年&lt;/ref&gt;<br /> {{Squote|&#039;&#039;&#039;治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;<br /> <br /> <訓読><br /> 天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。&lt;ref&gt;江田船山国宝展実行委員会「江田船山国宝展」 2001年&lt;/ref&gt;}}<br /> <br /> === 解釈 ===<br /> ワカタケル大王(雄略天皇)の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕えていた。八月に大鉄釜で丹念に作られためでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿であって、子孫まで栄えて治めることがうまくいく。 大刀を作ったのは伊太□(ワ)で、銘文を書いたのが張安である。&lt;ref&gt;国宝がやってきた「江田船山国宝展」~熊本の技と美の1500年~ 熊本県教育委員会文化課&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.higo.ed.jp/bedu/funayama/funayama.htm]&lt;/ref&gt;<br /> <br /> かつては「治天下&amp;#x72AD;&amp;#x590D;□□□歯大王」と読み、多遅比弥都歯大王(反正天皇)にあてる説が有力であったが、1978年に埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣に金象嵌の銘文が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、[[雄略天皇]]か)とする説が有力となった。<br /> <br /> この説によれば、金象嵌の鉄剣と銀象嵌の鉄刀が製作され、それらを下賜された人物が、北武蔵野稲荷山古墳と肥後の江田船山古墳に埋葬されたことになる。&lt;ref&gt;一方、この「大王」を、ヤマトとは別の九州の大王と見る説も有る(古田武彦説)。それによると、この頃ヤマトの勢力は九州に及んでいなかったことに成る。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> この銘文には、治天下、八十たび、十握などの強い日本調が混じっている。大王と王恩、四尺と一釜、十握と三寸などの前後を対応照応させて、漢文の本来の手法を巧みに利用している。年号はない。『[[宋書]]』倭国伝に引く倭王武の[[上表文]]にみえる「{{lang|zh|自昔祖禰 躬&amp;#x64D0;甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國}}」(東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国)の表現に対応するかのごとくである。<br /> <br /> == 岡田山1号墳出土の大刀 == <br /> [[1984年]]([[昭和]]59年)、保存修理中だった[[島根県]][[松江市]]大草町[[岡田山古墳|岡田山1号墳]]出土の鉄刀に銀象嵌の銘文が見出された。[[大正]]年間に出土した時はには完全であったが、その後刀身の半分が失われたために銘文もわずか末尾の12文字しか残っているに過ぎず、しかもさびが進んでいて解読できる文字が少ない。確実なのは、その中の「&#039;&#039;&#039;各田阝臣&#039;&#039;&#039;」の四字だけであった。「各田阝臣」は「額田部臣(ぬかたべのおみ)と読む。<br /> <br /> この[[大刀]]の出土した場所などから、額田部臣は出雲臣と同族であり、その地域の部民の管理者であったと考えられている。(→[[部民制]])<br /> <br /> == 箕谷2号墳出土の鉄刀 ==<br /> 1984年(昭和59年)[[兵庫県]][[養父市]]八鹿町(ようかちょう)小山の[[箕谷2号墳]]から鉄刀が出土した。<br /> <br /> 現存長68センチメートルほどの鉄刀の佩裏(はきうら)に「&#039;&#039;&#039;戊辰年五月□&#039;&#039;&#039;」の銅象嵌で記されている文字が見つかった。おそらくこの刀が造られた年紀と考えられる。この「戊辰(ぼしん)年」は、西暦608年と推定されている。<br /> <br /> ==東大寺山古墳出土の中平銘大刀==<br /> [[ファイル:東大寺山古墳出土 金錯銘花形飾環頭大刀.JPG|thumb|200px|right|{{center|金錯銘花形飾環頭大刀}}{{small|先端部(画像下側)に「中平」銘(逆向き)。東京国立博物館展示。}}]]<br /> [[1962年]]([[昭和]]37年)[[奈良県]][[天理市]]の東大寺山(とうだいじやま)古墳から金象嵌の長さ110センチメートルの鉄刀が検出された。推定銘文は、次の通りである。<br /> <br /> 「&#039;&#039;&#039;中平□□ 五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿 □□□□&#039;&#039;&#039;」<br /> <br /> === 解釈 ===<br /> 文の内容は、「中平□年五月丙午の日に、この銘文を入れた刀を造った。よく鍛えた鋼の刀であるから、天上では神の御意にかない、下界では災いを避けることができる。」という意味である。<br /> <br /> 中平とは、[[霊帝 (漢)|霊帝]]の治世の[[184年]] - [[189年]]の期間の年号である。この頃は、『[[魏志]]』倭人伝には、倭国乱れ互いに攻伐し合い、長い間盟主なく、のち[[卑弥呼]]が王となる、とある。<br /> 「五月丙午(へいご、ひのえうま)」とは、盛夏を意味し、刀剣や鏡などの金属器を造る時、太陽から火を採る最適の日と考えられている。実際の日の干支とは関係なく刻まれる吉祥句(常套句)である。日本の箕谷の鉄刀にも五月と刻まれている。<br /> <br /> [[東大寺山古墳]]は全長140メートルの[[前方後円墳]]で、[[4世紀]]後半頃に築造された。刀には環状の柄頭(つかがしら)が新しくつけられていた。この柄頭は、[[三葉環頭]]と称されるもので、埋葬の直前に付け替えられたと考えられる。約200年も経て埋葬された。下賜された人物とその子孫が権威の象徴として「伝世」したともみられる。<br /> <br /> == 石上神宮伝世の七支刀 ==<br /> {{Main|七支刀}}<br /> [[七支刀]]は、[[神功皇后]]の時代に[[百済]]の国から奉られたと伝えられ、[[奈良県]][[天理市]][[石上神宮]]に保存されていた&lt;ref&gt;千年以上もその存在が忘れられていたが、菅政友[http://www.city.fujiidera.lg.jp/9,5272,98,220.html かんまさすけ](1824年 - 1897年)によって見出され、金象嵌の文字が研ぎ出された。&lt;/ref&gt;。[[七支刀]]の名は、鉾に似た主身の左右から三本ずつの枝刃を出して計て七本の刃を持つ形に由来すると考えられる。主身に金象嵌の文字が表裏計61字記されている&lt;ref&gt;表に34字、裏に27字、表裏併せて61字あり、読めるもの49字、全く読めないもの4字、後の8字はわずかに残る線画によって推測。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 銘文 ===<br /> * 表<br /> {{Squote|泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作}}また<br /> {{Squote|泰■四年&#039;&#039;&#039;十&#039;&#039;&#039;■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供&#039;&#039;&#039;侯&#039;&#039;&#039;王■■■■作}}<br /> <br /> * 裏<br /> {{Squote|先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世}}<br /> また{{Squote|先世&#039;&#039;&#039;以&#039;&#039;&#039;来未有此刀百濟■世■奇生聖&#039;&#039;&#039;音&#039;&#039;&#039;故為&#039;&#039;&#039;倭&#039;&#039;&#039;王旨造■■■世}}<br /> <br /> === 解釈 ===<br /> 表面にある年紀の解釈に関しては未だ定説はないが、「泰和四年」として369年とする説、泰■四年を「泰始四年」として[[468年]]を当てる説がある。<br /> <br /> [[宮崎市定]]は「泰■四年■月」を「泰始四年五月」として解釈し、次のように読解した&lt;ref&gt;[[宮崎市定]]『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』 中公文庫 1992年1月。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> * 〔表面〕<br /> {{Squote|泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥&lt;br&gt;<br /> &lt;解読&gt;<br /> 泰始四年([[468年]])夏の中月なる5月、夏のうち最も夏なる日の16目、火徳の旺んなる丙午の日の正牛の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以てあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。}}<br /> * 〔裏面〕<br /> {{Squote|先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世&lt;br&gt;<br /> &lt;解読&gt;<br /> 先代以来未だ此(かく、七支刀)のごとき刀はなかった。百済王世子は奇しくも生れながらにして聖徳があった。そこで倭王の為に嘗(はじ)めて造った。後世に伝示せんかな。}}<br /> <br /> <br /> 表面は、製作の年月、鋳造に関する決まり文句(慣用的な吉祥句)。裏面は、倭王&lt;ref&gt;倭王とは九州の倭国の王で、後に倭国からヤマトに七支刀が奪われたとの説も有る(古田武彦説)。&lt;/ref&gt;に贈るために百済において製作したと書いている。百済王の近肖王(太子の[[近仇首王]]=貴須王)から倭王の「旨」のために造った、との解釈もある。<br /> <br /> また、『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年?)九月丙子の条に、百済の[[肖古王]]が日本の使者、[[千熊長彦]]に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。<br /> <br /> {{Quote|{{JIS2004フォント|五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口、七子鏡一面及種種重寶、仍啓曰:「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及。當飲是水、便取是山鐵以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰:「今我所通東海貴國、是天所啓、是以垂天恩、割海西而賜我、由是國基永固。汝當善脩和好、聚斂土物、奉貢不絕、雖死何恨!」自是後、每年相續朝貢焉。}}&lt;ref&gt;『日本書紀』神功皇后摂政五十二年九月の条&lt;/ref&gt;}}<br /> <br /> この頃の書紀の記述は丁度[[干支]]二巡分(120年)年代が繰り上げられているとされており、訂正すると372年となって制作年の太和(泰和)四年(369年)と符合する。<br /> <br /> 千熊長彦は『[[百済記]]』によれば、「職麻那那加比跪」と表記され&lt;ref name=&quot;nenpyou&quot;&gt;『日本史総合年表』第二版、吉川弘文館、2005年&lt;/ref&gt;、367年に新羅が百済の貢ぎ物を奪ったため、[[千熊長彦]]が新羅を責めたとあり、またその二年後の369年に千熊長彦が新羅を伐ち、比自火本、南加羅、[[安羅]]、[[多羅]]、[[卓淳]]、[[加羅]]などの七カ国を平定し、また[[比利]]、布弥支、半古などの四つの村を平定したとある&lt;ref name=&quot;nenpyou&quot;/&gt;。倭国によるこれらの事蹟に対して百済肖古王が、[[久&amp;#x6C10;]]らを派遣した。<br /> <br /> なお、[[石上神宮]]は、朝廷の武器庫であり、多くの武器を宝蔵したともされる。七支刀もその一つ。<br /> <br /> == 庚寅銘大刀 ==<br /> [[福岡市]][[西区]]の[[元岡古墳群]]から出土した金象嵌銘のある大刀。古墳から出土した金象嵌銘の大刀としては国内3例目という。長さは74センチ、刀身背面には古墳時代の[[570年]]に作られたとする19文字の銘文が刻まれている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist|23em}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:てつけんてつとうめいふん}}<br /> [[Category:古墳時代]]<br /> [[Category:刀剣]]<br /> [[Category:金石文]]<br /> [[Category:鉄器]]</div> 42.144.44.76 六本松駅 2018-08-09T05:29:32Z <p>42.144.44.76: /* 駅周辺 */</p> <hr /> <div>{{駅情報<br /> |社色 = #0a4<br /> |文字色 = #fff<br /> |駅名 = 六本松駅<br /> |画像 = Entrance No.3 of Roppommatsu Station.jpg<br /> |pxl = <br /> |画像説明 = 3番出入口(2017年11月)<br /> |よみがな = ろっぽんまつ<br /> |ローマ字 = Ropponmatsu<br /> |前の駅 = N10 [[別府駅 (福岡県)|別府]]<br /> |駅間A = 0.8<br /> |駅間B = 0.9<br /> |次の駅 = [[桜坂駅|桜坂]] N12<br /> |電報略号 = <br /> |駅番号 = {{駅番号c|#0a4|N11}}<br /> |所属事業者 = [[福岡市交通局]]<br /> |所属路線 =[[福岡市地下鉄七隈線|地下鉄七隈線]]<br /> |キロ程 = 8.3<br /> |起点駅 = [[橋本駅 (福岡県)|橋本]]<br /> |所在地 = [[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]]六本松四丁目<br /> |緯度度=33|緯度分=34|緯度秒=39.64<br /> |経度度=130|経度分=22|経度秒=38.23<br /> |駅構造 = [[地下駅]]<br /> |ホーム = 1面2線<br /> |開業年月日 = [[2005年]]([[平成]]17年)[[2月3日]]<br /> |廃止年月日 = <br /> |乗車人員 = 4,396<br /> |乗降人員 = <br /> |統計年度 = 2016年<br /> |乗換 = <br /> |備考 = <br /> |}}<br /> [[ファイル:Kyushu University 01.jpg|thumb|250px|開業間もない頃の1番出入口(左側)。右側の建物は[[九州大学六本松地区|九州大学六本松キャンパス]]で2009年に伊都キャンパスへ移転し解体され現存しない。]]<br /> [[ファイル:Roppommatsu Station Sign.jpg|thumb|250px|駅名標(2015年6月13日)]]<br /> [[File:Platform of Roppommatsu Station 4.jpg|thumb|250px|駅ホームとエレベーター]]<br /> &#039;&#039;&#039;六本松駅&#039;&#039;&#039;(ろっぽんまつえき)は、[[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]][[六本松]]四丁目&lt;ref name=&quot;ud137&quot;&gt;『公共交通機関のユニバーサルデザイン』、137頁。&lt;/ref&gt;にある[[福岡市地下鉄七隈線]]の[[鉄道駅|駅]]。[[1975年]]までは地上に[[路面電車]]である[[西鉄福岡市内線]]の六本松電停があった。なお、七隈線のうち[[天神南駅]]から六本松駅まではかつての福岡市内線の路線をトレースする形で建設されている。また、橋本方面側に待避線がある。[[駅番号]]はN11。<br /> <br /> 駅の[[シンボルマーク]]は空港線・箱崎線のシンボルマークをデザインした[[西島伊三雄]]が2001年に死去したため、それ以前に描かれていた原案を元に、息子で同じくグラフィックデザイナーの西島雅幸が完成させた。モチーフは地名に因んだ松の木&lt;ref&gt;『公共交通機関のユニバーサルデザイン』、72頁。&lt;/ref&gt;。駅識別カラーは{{Colorbox|#1D8E3E}}[[DICカラーガイド|DIC]]-2554([[色名#系統色名|系統色名]]:青みの緑)で、[[薬院駅]]・[[茶山駅 (福岡県)|茶山駅]]と共通&lt;ref&gt;『公共交通機関のユニバーサルデザイン』、81頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> * [[1999年]](平成11年)[[6月9日]]~[[2000年]](平成12年)[[2月3日]] - 設計期間(実施設計者:舛本建築設計事務所)&lt;ref name=&quot;ud137&quot; /&gt;<br /> * [[2003年]](平成15年)[[3月8日]]~[[2004年]](平成16年)[[7月31日]] - 施工期間(施工者:鹿島・三井住友・松尾 建設工事共同企業体)&lt;ref name=&quot;ud137&quot; /&gt;<br /> * [[2005年]](平成17年)[[2月3日]] - 開業<br /> * [[2017年]](平成29年)[[9月26日]] - 駅南側の再開発事業により大型複合施設・[[六本松421]]の商業エリアが開業したため3番出入口とエレベーターを新設し供用を開始した&lt;ref&gt;[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/topics/detail.php?id=472 地下鉄七隈線 六本松駅の新出入口と新エレベーターの供用を開始します!] - 福岡市交通局&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 駅構造 ==<br /> [[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]。出入口は[[国道202号]]を挟んで3ヶ所に設けられており、南側(旧・[[九州大学六本松地区|九州大学六本松キャンパス]]側)が1番と3番出口、北側が2番出口である。1番出口と3番出口には[[エレベーター]]、2番出口には[[エスカレーター]]が設けられている。<br /> <br /> 両出口近くに有料駐輪場がある。2番出口側の駐輪場のみ屋根が設けられている。<br /> <br /> {| border=&quot;1&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;3&quot; frame=&quot;hsides&quot; rules=&quot;rows&quot;<br /> |+&#039;&#039;&#039;のりば&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |&#039;&#039;&#039;1&#039;&#039;&#039;<br /> |rowspan=2|[[File:Subway FukuokaNanakuma.svg|18px]] 七隈線<br /> |[[薬院駅|薬院]]・[[天神南駅|天神南]]&lt;small&gt;方面&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> |&#039;&#039;&#039;2&#039;&#039;&#039;<br /> |[[福大前駅|福大前]]・[[橋本駅 (福岡県)|橋本]]&lt;small&gt;方面&lt;/small&gt;<br /> |}<br /> 各階の面積は、地上384平方メートル、地下1階3,303平方メートル、地下2階3,235平方メートル&lt;ref name=&quot;ud137&quot; /&gt;。利用者の目に留まる箇所に用いられる「個性化壁」には、ベージュの[[大理石]](トラベルチーノロマーノ、300mm×300mm×厚さ10mm)を使用している&lt;ref&gt;『公共交通機関のユニバーサルデザイン』、68頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 利用状況 ==<br /> [[2016年]](平成28年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|&#039;&#039;&#039;乗車&#039;&#039;&#039;人員]]は&#039;&#039;&#039;4,396人&#039;&#039;&#039;であり&lt;ref&gt;{{PDFlink|[https://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/about/pdf/subway_05.pdf 駅別乗車人員の推移(年度別1日平均)]}} - 福岡市交通局&lt;/ref&gt;、七隈線開業から10年目にして初めて4000人を超えた&lt;ref&gt;[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/management/transport.php 経営状況 運輸実績 1日平均駅別乗車人員] - 福岡市交通局&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 開業以降の1日平均&#039;&#039;&#039;乗車&#039;&#039;&#039;人員の推移は下表のとおりである。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:right;&quot;<br /> |-<br /> !年度<br /> !1日平均&lt;br&gt;乗車人員<br /> |-<br /> |2004年(平成16年)&lt;ref&gt;2005年2月3日開業。開業日から同年3月31日までの計57日間を集計したデータ。&lt;/ref&gt; <br /> |3,149<br /> |-<br /> |2005年(平成17年)<br /> |2,717<br /> |-<br /> |2006年(平成18年)<br /> |3,323<br /> |-<br /> |2007年(平成19年)<br /> |3,578<br /> |-<br /> |2008年(平成20年)<br /> |3,742<br /> |-<br /> |2009年(平成21年)<br /> |3,070<br /> |-<br /> |2010年(平成22年)<br /> |3,158<br /> |-<br /> |2011年(平成23年)<br /> |3,348<br /> |-<br /> |2012年(平成24年)<br /> |3,453<br /> |-<br /> |2013年(平成25年)<br /> |3,669<br /> |-<br /> |2014年(平成26年)<br /> |4,136<br /> |-<br /> |2015年(平成27年)<br /> |4,006<br /> |-<br /> |2016年(平成28年)<br /> |4,396<br /> |}<br /> <br /> == 駅周辺 ==<br /> {{see also|六本松}}<br /> 駅の北側には[[福岡大学附属大濠中学校・高等学校]]もあり、通学利用者が多い。駅は[[国道202号]]の六本松駅前交差点(旧称:六本松九大前交差点)直下に建設されている。南側には[[九州大学]][[九州大学六本松地区|六本松キャンパス]]があったが、伊都地区への移転により[[2009年]](平成21年)9月に閉校となった。跡地では大規模な再開発事業が進行中で、分譲マンションや老人ホーム、大型複合施設の[[六本松421]]などが完成したため、[[2017年]](平成29年)9月に3番出口が新設された。[[福岡高等裁判所]]、新庁舎の最寄り駅である。<br /> <br /> 1,2番出口共通<br /> *別府橋([[樋井川]]) - 西に約300m<br /> <br /> 1番出口<br /> *[[西鉄バス]]六本松バス停(国道202号西方面行き、油山観光道路方面行き各路線)<br /> *油山観光道路 - 国道202号を西へ約100m進んだ場所にある六本松西交差点を左折<br /> *六本松[[郵便局]] - 国道202号を西へ約150m直進<br /> <br /> 2番出口<br /> *[[城南線]] - 北約30mの場所にある大通り<br /> *[[福岡銀行]]六本松支店 - 西に約30m<br /> *[[福岡県警察|福岡県警]]中央警察署六本松[[交番]] - 北西に約50m。城南線沿い<br /> *西鉄バス 六本松バス停<br /> **国道202号沿い、国体道路方面行き各路線(福岡銀行正面)<br /> **城南線沿い両方向(西方向-北東へ約60m、東方向-北東へ約80m)<br /> *エルショップ([[スーパーマーケット]]) - 北西へ約100m<br /> *[[西日本シティ銀行]]六本松支店(旧[[福岡シティ銀行]]六本松支店→西日本シティ銀行草香江支店。[[2006年]][[10月20日]]に旧草香江支店が六本松支店に統廃合) - 西へ約100m、六本松西交差点北西角<br /> &lt;!--[[西日本シティ銀行]]六本松支店(旧[[西日本銀行]])跡地には14階建てツインタワー建設予定--&gt;<br /> *[[親和銀行]]別府橋支店 - 西へ約300m、別府橋交差点を右折、北へ約30m<br /> *[[福岡大学附属大濠中学校・高等学校|福岡大学附属大濠中・高等学校]] - 北へ約400m<br /> *[[福岡市立草ヶ江小学校]] - 北西へ約500m<br /> *[[福岡縣護國神社]] - 北東へ約550m<br /> *[[国体道路]] - 北へ約600m<br /> *福岡武道館 - 北東へ約600m<br /> *[[福岡管区気象台]] - 北へ約600m<br /> *[[NHK福岡放送局]] - 北東へ約700m<br /> *[[大濠公園]] - 北へ約700m<br /> *[[大濠公園]]日本庭園 - 北東へ約600m<br /> *[[福岡市美術館]] - 北東へ約900m<br /> *[[福岡城]]址・[[舞鶴公園]] - 北東へ約1km<br /> *鴻臚館跡展示館 - 北東へ約1.2km<br /> <br /> 3番出口<br /> *[[六本松421]] - 商業施設、[[福岡市科学館]]、九州大学法科大学院が一体化した大型複合施設。<br /> *[[福岡高地家簡裁庁舎]] - 福岡高裁、地裁など総合司法庁舎。<br /> <br /> == 隣の駅 ==<br /> ;[[File:Fukuoka City Subway Logo.svg|21px]] 福岡市交通局<br /> :[[File:Subway FukuokaNanakuma.svg|18px]] 七隈線<br /> ::[[別府駅 (福岡県)|別府駅]] (N10) - &#039;&#039;&#039;六本松駅 (N11)&#039;&#039;&#039; - [[桜坂駅]] (N12)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;<br /> * 福岡市交通局監修、地下鉄3号線JVグループ編著『公共交通機関のユニバーサルデザイン 福岡市営地下鉄七隈線トータルデザイン10年の記録』日本デザイン協会(発行)・セプト(発売)、2005年。<br /> &lt;/div&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/eki/stations/roppon.php 福岡市地下鉄 六本松駅]<br /> <br /> {{福岡市地下鉄七隈線}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ろつほんまつ}}<br /> [[Category:福岡市中央区の鉄道駅]]<br /> [[Category:日本の鉄道駅 ろ|つほんまつ]]<br /> [[Category:福岡市交通局の鉄道駅]]<br /> [[Category:2005年開業の鉄道駅]]</div> 42.144.44.76 多々良浜の戦い 2018-07-30T08:45:06Z <p>42.144.44.76: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2017年9月}}<br /> <br /> {{otheruses|日本の南北朝時代に起きた戦い|日本の戦国時代に起きた戦い|多々良浜の戦い (戦国時代)}}<br /> <br /> {{Battlebox|<br /> |battle_name=多々良浜の戦い<br /> |campaign=鎌倉末期・南北朝時代<br /> | image = [[File:Tatarahama Battlefield.JPG|280px]]<br /> |caption=流通センターの一角に建つ多々良浜古戦場の碑<br /> |conflict= 南朝と北朝の戦い<br /> |date=[[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]([[1336年]][[4月13日]])<br /> |place=[[筑前国]]多々良浜(現:福岡市東区)<br /> |result=足利軍の勝利<br /> |combatant1=菊池軍(南朝)<br /> |combatant2=足利軍(北朝)<br /> |commander1=[[菊池武敏]]&lt;br /&gt;[[阿蘇惟直]]<br /> |commander2=[[画像:Kamon ashikagafutatuhiki.png|15px]] [[足利尊氏]]&lt;br /&gt;[[少弐頼尚]] <br /> |strength1=20,000(諸説あり)<br /> |strength2= 2,000(諸説あり)<br /> |casualties1=不明<br /> |casualties2=不明<br /> |}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;多々良浜の戦い&#039;&#039;&#039;(たたらはまのたたかい)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[1336年]]([[建武 (日本)|建武]]3年)に行われた合戦である。<br /> <br /> == 経緯 ==<br /> [[後醍醐天皇]]の[[建武の新政]]から離反した[[足利尊氏]]は、建武政権から尊氏追討を命じられた[[新田義貞]]を[[箱根・竹ノ下の戦い]]で破り、さらに新田軍を追撃して[[京都]]の確保を図るが、1336年、[[楠木正成]]や[[北畠顕家]]らと連絡した宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し、途中[[播磨国]]の[[赤松則村]](円心)らに助けられ、再興を賭けて[[九州]]に下った。<br /> <br /> 尊氏は、足利方に味方した[[肥前国]][[守護]]の[[少弐頼尚]]らに迎えられる。一方、宮方に味方した[[肥後国]]の[[菊池武敏]]をはじめ、[[筑前国]]の[[秋月種道]]、肥後国の[[阿蘇惟直]]、[[筑後国]]の[[蒲池武久]]、[[星野家能]]など、九州の諸豪族の大半は宮方に味方し、その軍勢は2万騎以上まで膨れ上がる。勢いを増した宮方の軍勢は[[博多]]を攻め、[[少弐氏]]の本拠[[大宰府]]を襲撃して陥落させ、[[少弐貞経]]を自害させた。<br /> <br /> 足利勢は、筑前国[[宗像]](現在の[[福岡県]][[宗像市]]周辺)を本拠とする[[宗像氏範]]らの支援を受けて[[宗像大社]]に戦勝を祈願し、筑前国の多々良浜([[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]][[多々良川]]付近)に布陣した菊池氏率いる宮方と戦うが、足利軍は約2千騎に過ぎなかった。兵力の差は歴然で、少弐貞経が足利軍のために調達した装備は菊池軍の大宰府攻撃の際に焼失していたため、当初は宮方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に大量の裏切りが出たため戦況は逆転し、菊池軍は総崩れで敗走し、阿蘇惟直は戦死した。<br /> <br /> 多数の裏切りを出した背景には、九州の諸豪族を軒並み味方につけて大軍を組織してはいても、その大半は宮方有利の情勢を見て是非なく菊池武敏に味方した者であったという事実が存在する。確かな宮方と呼べるのは阿蘇惟直ぐらいで、その他のほとんどはもともと日和見、もしくはむしろ尊氏よりの武将達であった。また、圧倒的に不利な状況であっても終始積極的な戦法を取り、一度宮方に付いた者の寝返りを誘った尊氏の戦略も見逃せない。<br /> <br /> この戦いの結果により九州のほぼ全域が足利方につくこととなり、尊氏は体勢を整え直した。尊氏は[[一色範氏]]や[[仁木義長]]などを九州の抑えとして残して再び上洛し、摂津国[[湊川の戦い]]で楠木正成を破る。<br /> しかし、この戦いの後も菊池氏は頑強に抵抗を続けた。<br /> <br /> == 古戦場 ==<br /> 当時の戦場の多くが福岡流通センターの敷地となっており、その一角の[[福岡県道21号福岡直方線|県道福岡直方線]]流通センター西口交差点([[西鉄バス]]浜田バス停・[[JR九州バス]][[直方線]]筑前浜田バス停付近)に記念碑が建てられている。そこから南東に進むと戦死者を祀った兜塚の跡があり「兜塚由来記」の碑が建てられている。<br /> <br /> {{デフォルトソート:たたらはまのたたかい}}<br /> [[Category:日本の南北朝時代の戦い]]<br /> [[Category:筑前国|戦たたらはま]]<br /> [[Category:福岡市東区の歴史]]<br /> [[Category:足利氏|戦たたらはま]]<br /> [[Category:少弐氏|戦たたらはま]]<br /> [[Category:菊池氏|戦たたらはま]]<br /> [[Category:1336年の日本]]<br /> [[Category:1336年の戦闘]]<br /> [[Category:足利尊氏]]</div> 42.144.44.76 野見宿禰 2018-07-27T02:09:06Z <p>42.144.44.76: </p> <hr /> <div>{{統合文字|禰}}<br /> [[Image:野見宿禰.jpg|thumb|240px|野見宿禰&lt;br&gt;([[菊池容斎]]『[[前賢故実]]』より)]]<br /> [[Image:Nomi no Sukune Wrestling with Taima no Kehaya LACMA M.84.31.87.jpg|thumb|240px|[[当麻蹴速]]と角力を取る野見宿禰&lt;br&gt;([[月岡芳年]]『芳年武者无類』より)]]<br /> [[画像:Nomisukune14.JPG|right|120px|thumb|野見宿禰像&lt;br&gt;([[荒川亀斎]]作)]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;野見宿禰&#039;&#039;&#039;(のみのすくね)は、[[土師氏]]の祖として『[[日本書紀]]』などに登場する人物である。[[阿陀勝]]、[[来日田維穂命]]の父。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> [[アメノホヒ|天穂日命]]の14世の子孫であると伝えられる。第12代の[[出雲国造]]である[[氏祖命|鵜濡渟]](宇迦都久怒)の子。またの名を襲髄命という&lt;ref&gt;『出雲国造伝統略』&lt;/ref&gt;。[[垂仁天皇]]の命により[[当麻蹴速]]と[[相撲|角力(相撲)]](『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた[[大和国]]当麻の地(現[[奈良県]][[葛城市]][[當麻]])を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた&lt;ref&gt;『日本紀』垂仁天皇7年条&lt;/ref&gt;。また、垂仁天皇の[[皇后]]、[[日葉酢媛命]]の葬儀の時、それまで行われていた[[殉死]]の風習に代わる[[埴輪]]の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の[[カバネ|姓]]を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々[[天皇]]の葬儀を司ることとなった&lt;ref&gt;『日本紀』垂仁天皇32年条。なお、垂仁天皇の[[漢風諡号]]である「垂仁([[仁]]を垂れる)」は、この殉死を廃止したとの説話に因むものである。&lt;/ref&gt;。第13代の出雲国造、襲髄命はこの野見宿禰のことであるとされる&lt;ref&gt;『出雲国造伝統略』。この説によれば、土師氏のみならず出雲氏(出雲国造)の祖先でもあることになる。&lt;/ref&gt;。[[播磨国]]の立野(たつの・現在の[[兵庫県]][[たつの市]])で病により死亡し、その地で埋葬された&lt;ref&gt;『[[播磨国風土記]]』[[揖保郡]]立野条。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ところで、埴輪創出についての[[考古学]]的な知見からは、記紀が語る上述のような伝説は史実ではないとされているが&lt;ref&gt;詳しくは[[埴輪]]の項目を参照。&lt;/ref&gt;、こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとの説がある&lt;ref&gt;西郷「ノミノスクネ考」。&lt;/ref&gt;。それによると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての[[古墳]]の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないかとし、次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないかと見る。そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないかと見、最後に[[火葬]]の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る[[神話]]として大事に伝承したものであろうと説く。もっとも以上の説の当否はともかくとして、少なくとも野見宿禰が祖先として土師氏に崇められたことは確かである。<br /> <br /> == 後裔 ==<br /> 土師氏の中には、姓を[[菅原氏|菅原]]に改めた氏があり、その菅原氏から[[公家]]の[[五条家]]が出たが、五条家は野見宿禰の子孫であることから[[相撲司]]家となった。<br /> <br /> == 野見宿禰に関係する主な神社 ==<br /> ; 野見神社([[愛知県]][[豊田市]][[野見山町]])<br /> : 土師の氏族の先祖である野見宿禰を祀っている。<br /> ; [[片埜神社]]([[大阪府]][[枚方市]])<br /> : 社伝によれば、当麻蹴速に勝った野見宿禰が垂仁天皇から[[河内国]]を賜り、この神社を創祀したという。<br /> ; [[石津神社]](大阪府[[堺市]][[堺区]])<br /> : 神社創建時の初代の[[神主]]。<br /> ; [[神魂神社]]([[島根県]][[松江市]])<br /> : 伝承では、この神社の裏山にある岩を用いて修行したともいわれている。<br /> ; [[菅原天満宮]](島根県松江市)<br /> : この神社の近くに野見宿禰の墳墓がある。<br /> ; 大野見宿禰命神社([[鳥取県]][[鳥取市]])<br /> ; 十二柱神社(奈良県桜井市出雲)<br /> <br />   かつて近隣にあった野見宿禰塚の五輪塔がここに移設されている。相撲発祥の地として狛犬の台座には相撲取りの人形があしらわれている。野見宿禰はこの出雲村の出身とする説がある。<br /> <br /> その他、[[野見宿禰神社]](兵庫県たつの市、[[東京都]][[墨田区]])や各地の[[野見神社]]で祀られ、当麻蹴速との相撲に因み、相撲の[[神]]として[[穴師坐兵主神社]]([[奈良県]][[桜井市]])の[[摂社]]相撲神社や、[[菅原道真]]公を祀る天満宮でも[[道明寺天満宮]]([[大阪府]][[藤井寺市]])などでも祀られている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[西郷信綱]]「ノミノスクネ考」(『古代人と死』、[[平凡社ライブラリー]]、平成20年 ISBN 978-4-582-76640-0 所収)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commonscat|Nomi no Sukune}}<br /> * [[日本の神の一覧]]<br /> * [[相撲]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.telop.jp/nomi/nomiyama-top.htm &#039;&#039;古来信仰と相撲の祖神を祭る野見山&#039;&#039;]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT: のみのすくね}}<br /> [[Category:日本神話の人物]]<br /> [[Category:日本の神 (人物神 記紀)]]<br /> [[Category:土師氏|*]]<br /> [[Category:出雲国の人物]]<br /> [[Category:大和国の人物]]<br /> [[Category:播磨国の人物]]<br /> [[Category:相撲に関する人物]]<br /> {{相撲}}</div> 42.144.44.76
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