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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=240F%3A94%3AD1F5%3A1%3A3DAC%3AA54E%3AEDE8%3A1F86&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-21T11:43:54Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 三木武吉 2018-03-27T16:52:13Z <p>240F:94:D1F5:1:3DAC:A54E:EDE8:1F86: 出生地は当時香川県ではなく愛媛県だったので修正</p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |人名 = 三木 武吉<br /> |各国語表記 = みき ぶきち<br /> |画像 = Bukichi miki.jpg<br /> |画像サイズ = 200px<br /> |画像説明 = 三木武吉の肖像写真(1924年撮影)<br /> |国略称 = {{JPN}}<br /> |生年月日 = [[1884年]][[8月15日]]<br /> |出生地 = {{JPN}} [[愛媛県]][[高松市]]<br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1884|8|15|1956|7|4}}<br /> |死没地 = {{JPN}} [[東京都]][[目黒区]]<br /> |出身校 = [[東京専門学校]] 卒業<br /> |前職 = [[弁護士]]<br /> |現職 = <br /> |所属政党 = ([[憲政会]]→)&lt;br /&gt;([[立憲民政党]]→)&lt;br /&gt;([[無所属]]→)&lt;br /&gt;([[翼賛政治会]]→)&lt;br /&gt;(無所属→)&lt;br /&gt;([[大日本政治会]]→)&lt;br /&gt;([[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]→)&lt;br /&gt;([[民主自由党_(日本)|民主自由党]]→)&lt;br /&gt;([[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]→)&lt;br /&gt;([[日本自由党 (1953-1954)#分党派自由党|分党派自由党]]→)&lt;br /&gt;([[日本自由党 (1953-1954)#日本自由党 (1953-1954)|日本自由党]]→)&lt;br /&gt;([[日本民主党]]→)&lt;br /&gt;[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]<br /> |称号・勲章 = [[勲一等旭日大綬章]]<br /> |親族(政治家) = <br /> |配偶者 = 三木かね子<br /> |サイン = <br /> |ウェブサイト = <br /> |サイトタイトル = <br /> |国旗 = 日本<br /> |職名 = [[衆議院議員]](9-11期)<br /> |内閣 = <br /> |選挙区 = [[香川県第1区_(中選挙区)|旧香川1区]]<br /> |当選回数 = 3回<br /> |就任日 = [[1952年]][[10月2日]]<br /> |退任日 = [[1956年]][[7月4日]]<br /> |所属委員会 = <br /> |議員会館 = <br /> |元首職 = <br /> |元首 = <br /> &lt;!-- ↓省略可↓ --&gt;<br /> |国旗2 = 日本<br /> |職名2 = 衆議院議員(8期)<br /> |内閣2 = <br /> |選挙区2 = [[第22回衆議院議員総選挙#選挙制度|香川全県区]]<br /> |当選回数2 = 1回<br /> |就任日2 = [[1946年]][[4月11日]]<br /> |退任日2 = [[1946年]][[6月22日]]&lt;ref&gt;『官報』第5837号、昭和21年7月1日。&lt;/ref&gt;<br /> |元首職2 = <br /> |元首2 = <br /> |国旗3 = 日本<br /> |職名3 = 衆議院議員(7期)<br /> |内閣3 = <br /> |選挙区3 = 旧香川1区<br /> |当選回数3 = 1回<br /> |就任日3 = [[1942年]][[5月1日]]<br /> |退任日3 = [[1945年]][[12月18日]]<br /> |元首職3 = <br /> |元首3 = <br /> |国旗4 = 日本<br /> |職名4 = 衆議院議員(1-6期)<br /> |内閣4 = <br /> |選挙区4 = (東京府東京市区→)&lt;br /&gt;(東京府第11区→)&lt;br /&gt;東京府第1区<br /> |当選回数4 = 6回<br /> |就任日4 = [[1917年]][[4月22日]]<br /> |退任日4 = [[1934年]][[3月26日]]<br /> |元首職4 = <br /> |元首4 = <br /> &lt;!-- ↑省略可↑ --&gt;<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;三木 武吉&#039;&#039;&#039;(みき ぶきち、[[1884年]](明治17年)[[8月15日]] - [[1956年]](昭和31年)[[7月4日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[鳩山一郎]]の盟友で、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]結党による[[保守合同]]を成し遂げた最大の功労者。「ヤジ将軍」「策士」「政界の大狸」などの異名を取った。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 政治家になるまで ===<br /> [[愛媛県]][[高松市]]磨屋町(現[[香川県]])に、[[骨董]]商・三木古門の長男として生まれる。名前が似ている[[三木武夫]]とは縁戚関係にはない。<br /> <br /> 高松中学(現、[[香川県立高松高等学校]])2年の時、[[うどん]]食い逃げ事件の首謀者として退校処分となり、[[京都]]の[[同志社]]中学(現、[[同志社高等学校]])に転じたが、乱闘事件を起こし放校される。[[星亨]]を頼り上京、星の法律事務所に書生として住み込むという日、[[1901年]](明治34年)[[6月21日]]に星が[[暗殺]]されてしまう。<br /> <br /> 東京専門学校(現[[早稲田大学]])に入学。学友には[[大山郁夫]]、[[永井柳太郎]]、[[橋戸頑鉄]](信)らがいる。[[新宿]]で女遊びに明け暮れる一方、[[野球]]や[[法律]]の勉強に懸命に取り組んだ。創部当初の[[早稲田大学野球部]]にも入部してはいたものの、その腕前は非常に拙いものであったという&lt;ref&gt;[[弓館小鰐]]『スポーツ人国記』ポプラ書房、1934年、117-118頁&lt;/ref&gt;。ただ早大野球部の公式文書である部史に名前はなく、また稲門倶楽部員でもない。後に三木夫人となり、早稲田小町と呼ばれて学生から人気だった天野かね子とのなれそめもこの頃である。[[1904年]](明治37年)、東京専門学校を卒業。早稲田大学図書館に短期採用され、写字生として働いた&lt;ref&gt;{{Cite journal | 和書 | author =藤原秀之 | authorlink = | date = 2010-03-15 | year = 2010 | title = 知られざる図書館員 三木武吉 | url = http://www.wul.waseda.ac.jp/Libraries/fumi/78/fumi78.pdf | journal = 早稲田大学図書館報 ふみくら | volume = 78 | issue = | pages = 30-31 | publisher = 早稲田大学図書館 | naid = | ncid = | issn = 0289-8926 | doi = }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 翌年の[[1905年]](明治38年)に[[日本銀行]]に入行、[[門司市|門司]]支店に配属となるが、[[ポーツマス条約]]に反対する政府弾劾演説会に飛び入り参加し、[[桂太郎]][[内閣]]退陣を要求する演説をして服務規定違反を問われ免職となる。[[1907年]](明治40年)、[[高等文官試験]](司法科)に合格、[[東京地方裁判所]]司法官補に任じられるが、宮仕えは性格にあわず、7ヵ月後、[[弁護士]]となる。同年、天野かね子と[[結婚]]。<br /> <br /> === 憲政会所属の政党政治家として ===<br /> [[1913年]](大正2年)、[[牛込]]区議会議員に当選。次いで[[衆議院議員総選挙]]に立候補するが、落選。[[1916年]](大正5年)、[[憲政会]]に入党し、翌年の[[第13回衆議院議員総選挙|1917年の衆議院議員総選挙]]で衆議院議員に当選する。<br /> <br /> 衆議院議員に当選した三木は頭角をあらわし、特に舌鋒鋭く政府を批判し、「ヤジ将軍」の名をほしいままにした。[[1920年]](大正9年)[[6月29日]]から開会された第43議会では、[[原敬]]内閣の[[高橋是清]][[大蔵大臣]]が[[海軍]][[予算]]を説明中、「陸海軍共に難きを忍んで長期の計画と致し、陸軍は十年、海軍は八年の…」と言いかけるや「[[だるま|ダルマ]]は九年!」と飛ばしたヤジは余りにも有名である(詳しくは[[#やじ|エピソード]]参照)。また、[[普通選挙]]をめぐり[[床次竹二郎]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]と論戦を展開し、[[濱口雄幸]]の目にとまる。以後、三木は濱口に親炙することとなる。<br /> <br /> [[1920年]](大正9年)、[[帝国議会]]の[[シベリア出兵]]に関する調査団の一員として、1ヶ月間[[シベリア]]を視察した。この視察後、三木は、[[加藤高明]][[憲政会#歴代総裁|憲政会総裁]]や濱口から高い評価を得ることとなる。詳しくは[[#政策|エピソード]]を参照。<br /> <br /> [[1922年]](大正11年)6月には、[[東京市会]]議員にも立候補し当選。東京市政浄化を主張して市政革新同盟を結成し、[[立憲政友会]]系の新交会と対決する。後に同志となる[[鳩山一郎]]は、新交会でこの時点では東京市政をめぐり政敵であった。[[1923年]]1月、当選2回、39歳の若さで憲政会幹事長に抜擢され、同年5月の総選挙で憲政会を指揮、憲政会は第一党となり、6月護憲三派(憲政会、政友会、[[革新倶楽部]])による第一次[[加藤高明]]内閣が成立した。<br /> <br /> 三木は、かねてから親炙していた濱口が[[大蔵大臣]]に就任したことにより、濱口蔵相のもと[[大蔵省|大蔵]][[参与官]]に任命される。[[1927年]](昭和2年)には濱口を代表とする[[立憲民政党]]に参加する一方で、欧州視察に出発。こうして三木の戦前における政治生活は絶頂を迎えるが、好事魔多しの喩え通り、[[1928年]](昭和3年)の[[京成電車疑獄事件]]に連座し、有罪判決を受け一時政界を去ることになった。<br /> <br /> === 政界復帰、公職追放 ===<br /> [[1939年]](昭和14年)、[[報知新聞社]]社長に就任。[[1942年]](昭和17年)、衆議院議員総選挙(いわゆる「[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]」)に非推薦で出馬し当選、政界に復帰。この選挙では鳩山一郎も非推薦で当選している。戦前、鳩山は政友会、三木は民政党の幹部であり、お互いに敵同士であったが、戦時中はともに軍部に抵抗する[[自由主義]]政党人として、鳩山と三木は将来の「鳩山[[内閣総理大臣|首相]]、三木[[衆議院議長|衆院議長]]」を誓い合う。同年8月には買収合併の形で報知新聞社を[[読売新聞]]に譲渡した。<br /> <br /> 終戦後、三木は[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]の創立に参画。[[1946年]](昭和21年)4月、衆議院議員総選挙で自由党は第一党となり、鳩山内閣成立が現実味を帯びたものとなるが、鳩山は組閣直前に[[公職追放]]となり、内閣成立は一歩手前で頓挫。鳩山に代わって[[吉田茂]]が自由党総裁となり、吉田内閣を組閣した。<br /> <br /> 吉田は戦前、政党が軍部に恭順したことに嫌悪感を持っていたため、[[河野一郎]]幹事長や総務会長の三木ら自由党幹部に相談せず人事を決める。自由党執行部は激昂し、吉田総裁を除名すべしとの極論も出るが、三木は吉田首班を認めない場合、[[日本社会党|社会党]]に政権が行く可能性ありとして党内世論の沈静化に努めた。<br /> <br /> [[第1次吉田内閣]]成立の2日後、[[1946年]](昭和21年)[[5月24日]]に三木も公職追放を受ける。<br /> <br /> === 吉田内閣打倒、鳩山内閣誕生へ ===<br /> [[File:Bukichi Miki 01.jpg|thumb|right|200px|戦後の三木(1953年)]]<br /> [[1951年]](昭和26年)[[6月24日]]に[[公職追放令]]が解除されると、三木は鳩山、河野らと共に吉田打倒に動き出した。自由党に復帰するが、すでに自由党は吉田直系の「[[吉田学校]]」で固まっており、「鳩山復帰後は総裁を譲るという約束」は事実上反故にされ、鳩山、三木、河野らは新党結成を目指した。<br /> <br /> しかし、鳩山が[[脳溢血]]で倒れ、新党結成は頓挫、三木は自由党内での反吉田闘争に路線を変更する。三木は「寝業師」としてあらん限りの智謀を傾け反吉田闘争の先頭に立つ。これに対して吉田は政治顧問、[[松野鶴平]]の助言で[[1952年]](昭和27年)8月、[[抜き打ち解散]]を実施し、鳩山派を揺さぶった。また、[[広川弘禅]]の入れ知恵で吉田は反党的言動を理由に[[石橋湛山]]、河野一郎の両名を自由党から除名した。肝心の三木が除名されなかったのは、第1次吉田内閣成立時の三木の働きに吉田が恩義を感じており、三木の除名をしりぞけたためという。<br /> <br /> 総選挙の結果、自由党は第一党となり、[[第4次吉田内閣]]が成立する。鳩山派は党内野党ともいうべき「民主化同盟」(民同)を結成。[[池田勇人]][[通商産業大臣]]の「[[中小企業]]の一つや二つ倒産し、自殺してもやむを得ぬ」との失言に対し野党から池田通産相[[不信任決議]]案が提出されると、鳩山民同は本会議を欠席し、不信任案を可決させ、池田は通産相を辞任した。<br /> <br /> 12月、鳩山民同は補正予算案通過を背景に吉田執行部に圧力をかける。[[1953年]](昭和28年)、石橋、河野の自由党除名を取り消させると同時に、吉田側近の[[林譲治 (政治家)|林譲治]]幹事長、[[益谷秀次]]総務会長を辞任させ、三木は益谷の後任の総務会長に就任する。三木は吉田体制の攪乱を謀り、吉田が後継者として[[緒方竹虎]]を念頭に置いていると吹き込み、広川を吉田側から離反させることに成功した。さらに、ことさら「広川幹事長・三木総務会長」との人事案を吉田陣営に提示し、「吉田が飲めば広川幹事長を通じて党を動かせる」「吉田が飲まなければ広川は吉田を恨み鳩山陣営に近づく」という[[王手飛車取り]]の策をみせた。結局広川幹事長は実現せず、水面下での広川の吉田からの離反は決定的となった。<br /> <br /> [[2月28日]]、吉田首相は、[[西村栄一]]の質問に対してバカヤローと発言。三木は、[[右派社会党]]の[[浅沼稲次郎]]と秘密裏に会談し、[[内閣不信任決議]]案提出を考えていた浅沼を翻意させ[[内閣総理大臣]]の懲罰動機を提出させる。また戦前派代議士である[[大麻唯男]]、[[松村謙三]]らに[[三木武夫]]を加えこれらに根回しをして、さらに広川派30数名に本会議に欠席させ、懲罰動議を通過させた。<br /> <br /> さらに、渋る[[野党]]を説得して[[内閣不信任決議]]案を提出させ、三木は内閣不信任決議案を取引材料に吉田と会談し、辞職を迫った。しかし吉田は会談を拒否し、鳩山民同22名は自由党を脱党。内閣不信任決議案に賛成投票する。[[3月14日]]、[[衆議院]]は賛成229票、反対218票で吉田内閣不信任決議案を可決した。さらに広川ら16名も脱党し、[[日本自由党 (1953-1954)|分派自由党]]を結成。<br /> <br /> 吉田は直ちに衆議院を解散した([[バカヤロー解散]])。選挙の結果は、自由党が23名減の199議席だが、依然第一党の地位を確保し、分派自由党は35議席にとどまった。選挙から半年後の11月に吉田・鳩山会談がもたれ、鳩山派の多くは自由党に復党。三木、河野、[[松田竹千代]]、[[松永東]]、[[中村梅吉]]、[[山村新治郎 (10代目)|山村新治郎]]、[[池田正之輔]]、[[安藤覚]]の8人だけは復党を拒絶し、日本自由党を結成した。このメンバーのことを「[[七人の侍]]」をもじって[[8人の侍]]という。<br /> <br /> [[1954年]](昭和29年)1月、[[保全経済会事件]]が発覚。この事件はさらに[[造船疑獄]]へと発展し、自由党の[[佐藤栄作]]幹事長、池田勇人政務調査会長に疑惑が持たれる。この間、自由党、[[改進党]]、分派自由党が集まり、統一保守党結成に向け、各党代表者間で話し合いが持たれたが、決裂。三木はこの機を逃さず、改進党の[[大麻唯男]]、三木武夫、自由党の鳩山一郎、[[岸信介]]と結んで、反吉田の新党結成に乗り出す。11月に[[日本民主党]]が結成、鳩山一郎・総裁、岸信介・幹事長、三木は総務会長に就任した。<br /> <br /> 12月、吉田内閣はついに総辞職し、[[第1次鳩山一郎内閣]]が成立した。「鳩山首相、三木衆院議長」という三木の宿願の半分は達成された。だが、その後の総選挙の直後に行われた衆議院議長選挙では、日本民主党以外の党が一致して自由党の[[益谷秀次]]を統一候補として出したために、慣例では議長に就く筈の与党候補の三木は落選してしまい、宿願のもう半分は幻と消えた。<br /> <br /> === 保守合同、人生の終焉 ===<br /> [[File:Japan Democratic Party 1955.JPG|thumb|left|250px|[[保守合同]]に向けて会合を開く[[日本民主党]]と[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]の指導部(1955年夏)]]<br /> [[1955年]](昭和30年)[[4月13日]]、三木は保守政党の結集を呼びかけ、そのために鳩山内閣が障害となるなら鳩山内閣総辞職も辞さないと発表する。三木は、[[社会党再統一]]に危機を抱いていた。また、この時期、医者から癌のため余命もって3年を宣告されていた。三木は党内合意を取り付けに動くと同時に、自由党に工作を開始する。<br /> <br /> [[5月15日]]、三木は自由党総務会長の[[大野伴睦]]と会談を持つ。大野は戦前以来の鳩山側近であったが、嘗ては鳩山とは敵対関係であった三木が鳩山の一番の側近に納まったことで、居場所を失い、鳩山の許を去ったと言う事情があり、三木が最も恨まれていた相手の一人であった。だが、三木は[[浪花節]]と愛国の情をもって、巧みに大野をかき口説き、大野の賛成を得る。<br /> <br /> 岸・三木・石井・大野四者会談が持たれ公式に自由・民主両党間で保守合同に向けて動き出す。これに対して民主党内では三木武夫、松村謙三らが保守二党論をもって反撃する。議論がまとまらない中、鳩山首相は涙ながらに内閣総辞職を口走り、これに慌てた一同は保守合同に賛成することになる。<br /> <br /> しかし、最後に総裁に誰がつくかをめぐり自由・民主両党は議論が平行線をたどった。結果、総裁を棚上げし、総裁代行委員を設置、結党後、公選により総裁を選出することが決定された。こうして、困難と思われた保守合同が成し遂げられ、日本初の統一保守党・自由民主党が結成された。三木は、鳩山、緒方、大野とともに総裁代行委員に就任した(5ヵ月後、鳩山が自民党総裁に就任)。この際、三木は「(総理は)鳩山の後は緒方、岸、池田とここまでは予想できる」と論評した。もっとも複雑な対立関係を孕んだままスタートした自民党の将来には「10年持てば」と評したことがよく知られている。<br /> <br /> [[File:Funeral of Bukichi Miki.jpg|thumb|200px|right|三木の葬儀(1956年7月)]]<br /> [[1956年]](昭和31年)4月から病床に臥すようになり、容態は次第に悪化していった。7月4日に東京・目黒の自邸で死去。死因は胃癌だったといわれる。享年71。<br /> <br /> == エピソード ==<br /> === 発言 ===<br /> 初当選した[[1917年]](大正6年)の[[第13回衆議院議員総選挙]]の[[演説会]]において、[[立憲政友会]]の候補、[[坪谷善四郎]]が「名前は言わないが、某候補は家賃を2年分も払っていない。米屋にも、1年以上ためている。このような男が、国家の選良として、議政壇上で、国政を議することができるでありましょうか。この一事をもってしても某候補のごときは、いさぎよく立候補を辞退すべきものと、私は信ずるのであります」と三木を批判した。すると三木は次の[[演説]]会場で、「某候補がしきりと、借金のあるものが立候補しているのはけしからんと、攻撃しているそうだが、その借金がある某候補とは、かく言う不肖この三木武吉であります。三木は貧乏ですから、借金があります。米屋といわれたが、それは山吹町の山下米屋であります。1年以上借金をためているといわれたがそれは間違いで、じつは2年以上もたまっております。家賃もためているのは2年以上ではない。正確にいいますれば、3年以上も支払いを待ってもらっておるわけです。間違いはここに正しておきます」と反論し、会場は拍手と爆笑に包まれ、「えらいぞ、借金王」と野次が飛んだ。その会場には、三木の大家や借金先の山下米店の主人山下辰次郎も来ており、その後、三木に促されて両者とも立ち上がった。その時山下が「私は米屋の山下です。どうか皆さん、三木先生をご支援願います」と述べ、すっかり参った坪谷はそれ以来三木の借金の話をしなくなった。<br /> <br /> 戦後、公職追放解除後の[[第25回衆議院議員総選挙]]では、選挙中の[[立会演説会]]で対立候補の[[福家俊一]]から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。<br /> <br /> 「およそ大政治家たらんものはだ、いっぺんに数人の女をだ、喧嘩もさせず嫉妬もさせずにだ、操っていくぐらい腕がなくてはならん」と、男っぷり溢れる発言をしたり、松竹梅といわれた3人の妾 (ちなみにこれは、愛人のランクではなく、実際に名前が松子、竹子、梅子だった) を囲ったりした。松子には[[神楽坂]]で[[待合茶屋]]を持たせた。晩年も精力に衰えはなく、72歳で亡くなるときも愛人が5人いたという。しかしその一方で愛妻家でもあり「本当に愛情を持ち続けているのは、やはり女房のかね子だ。ほかの女は好きになった…というだけだ」と述べている。妾たちもかね子を別扱いにして、世話をしていた。<br /> <br /> [[東條英機]]内閣が提出した企業整備法案について党議決定する[[翼賛政治会]]代議士会で、[[中野正剛]]が翼政会の幹部を指差して「おおよその権力の周囲には、阿諛迎合のお[[茶坊主]]ばかりが集まる。これがついには国を亡ぼすにいたる。日本を誤るものは、翼政会の茶坊主どもだ」と発言し、主流派議員が中野を野次った時、にわかに立ち上がり「茶坊主ども、黙れ!」と、野次る議員を黙らせた。<br /> <br /> 死期が迫った1956年、枕元に呼んだ[[馬場元治]]に「こどもをよろしく」と消え入るような声で伝えたが、馬場は「妾もたくさん、子もたくさん。さてはて、どの子どものことか」と思ったが、三木が亡くなってからはたと気がついた。「こども」は「子ども」ではなくて「こだま=[[児玉誉士夫]]」のことだったのだ。<br /> <br /> === やじ ===<br /> 前述のとおり、原敬内閣の[[高橋是清]][[大蔵大臣]]が[[海軍]][[予算]]を説明中、「陸海軍共に難きを忍んで長期の計画と致し、陸軍は十年、海軍は八年の…」と言いかけたときに「[[だるま|ダルマ]]は九年!」とヤジった。これは、高橋のあだ名の「ダルマ」に、「[[達磨|達磨大師]](だるまたいし)が、中国の少林寺で壁に向かって九年間座禅し、悟りを開いた」という面壁九年の故事をかけた、機知に富んだものだった。議場は爆笑に包まれ、高橋も演説を中断して、ひな壇にいた原を振り返り、苦笑いした。普段から謹厳なことで知られる[[加藤高明]]や[[濱口雄幸]]までが議席で笑い声をあげたという。<br /> <br /> 原内閣のある閣僚が、何の抑揚もないお経のような調子で、提出法案の趣旨説明をすると、一区切りついたところで「次のお焼香の方、どうぞ」とやじり、議場は爆笑に包まれた。<br /> <br /> [[赤線]]関係の[[ボス]]である大阪選出の立憲政友会[[議員]]が、その議席からまったく議場に通らないような声で、「一身上の都合で弁明したい」と発言しくどくど弁明を始めると、三木は、「どうぞご登壇ください、ご登壇を」とやわらかくヤジった。その代議士が壇上に上がり一礼すると、「お名前は?」とヤジり、その代議士が「○○だんね。覚えときなはれ」と大阪弁で名乗った。するとすかさず「ご商売は?」とヤジり、その代議士は何もいえなくなってしまい、その人物の職業は誰もが知っているため、議場がわいた。<br /> <br /> === 政策 ===<br /> 三木はシベリア出兵の視察で、「シベリア出兵は[[内政干渉]]であり、その背後には、明治以来の[[藩閥]]の流れを引く[[陸軍]]の武力的野心がある」との感想を持った。そこで、三木はこの責任を追及し、藩閥、[[官僚]]、[[軍部]]の息の根を止め、[[政党]]・[[議会政治]]の確立につなげようと考え、[[質問]][[演説]]、公開文書を作成した。三木は、当時の[[原内閣]][[弾劾]][[決議|決議案]]も視野に出来上がった原稿を、[[濱口雄幸]]を通して、[[加藤高明]][[憲政会#歴代憲政会総裁一覧|憲政会総裁]]に提出した。1日置いて、加藤と濱口は、三木を呼び出した。加藤は、三木の調査資料やそれに基づいた意見を「逐一感心した」と褒めた上で、これに基づいての質問や弾劾をやめるように求めた。濱口は、「三木の調査内容は正しいが、これに基づいて、質問や弾劾をすれば、諸外国の日本に対する疑念を認めることになり、日本は国際的信用を失う」との趣旨の説明をし、「倒閣の決め手は、内政の問題であるべきだ」とした。加藤はそれに自らの[[外交官]]だった経験を踏まえて「外国の政治家でも、一流といわれた人々は、国家的問題については党派を超えていくものだ」と付け加えた。これによって三木は、「たとえ相手を倒すべき絶好の材料を持っていようとも、それが国家の尊厳を害し、対外的に重大な影響を与える場合、これを軽々に取り上げて批判、論難を加えてはならない」との考えを持つに至った。また、この件で加藤や浜口は、「三木という人間はなかなかのものだ」と評価した。<br /> <br /> [[売薬法]]改正問題で揺れていた当時、改正派の一人である[[大正製薬]]創業者の[[石井絹治郎]]に説得され、改正を後押しする。同県のよしみから、改正後も[[石井絹治郎]]とは交友を深める。<br /> <br /> === 術数 ===<br /> ある[[本会議]]で、[[憲政会]]提出の[[普通選挙]][[法案]]が上程されたとき、立憲政友会は、[[一事不再議]]の原則から、憲政会が再提出できないように、一挙に否決してしまおうと考えた。ところが、採決をしようというときに、三木が分厚い書類を抱え遅れて出席し、「緊急動議を提出します」と叫んだ。[[衆議院議長|議長]]の[[大岡育造]]が三木を指名すると、「この神聖であるべき議場の、しかも議長席に、あたかも議長であるがごとき態度で、傲然と着席しているのは何者か。そのような者が着席している間は、審議を進めるわけにはまいらない。ただちに散会すべきである。しこうして、まず、その議席におる、何物かわからないものより去れ」と言った。大岡が「三木君には、この大岡が何に見えるのか!我輩が、大岡に見えない…というのは、三木君一人だ。気が狂ったのではないか!」と反論したが、三木は「気が狂ったとは、なにごとか!議長であるというならば、当然、議員である。しかるに君は、議員徽章を佩用していない。それなくして、議場では議員と認めがたい。議員にあらざる議長など、認めることはできない」と応酬、大岡は「徽章の有無にかかわらず、この大岡を議長と認めないものはいない。徽章は議員であるというしるしで、別に佩用せんともよい」とせせら笑ったが、「君は、自分が大岡であると、知らぬものはいないから徽章はいらぬという考えらしいが…議場入場のさいは、徽章を佩用すべしと議員規則にある。したがって佩用せざるものは、議場においては議員にあらずだ。いわんや、議長ではありえないのだ」と述べ、さらに、抱えたいた分厚い書類を開いて高く差し上げ、「これは先例集だ。本会議場において、徽章を佩用せざるものは、議員と認めずという[[先例]]がある」と詰め寄った。大岡は顔面蒼白になり、「先例があるなら、やむをえん…」と本会議を流会にした。なお、実際にはそのような先例はなく、これは三木のハッタリである。<br /> <br /> [[東條内閣]]が提出した戦時刑事特別法改正案の党議を決める[[翼賛政治会]]代議士会が、法案審議をしていた特別委員会で反対論が強かったため荒れたのを利用し、当時の呆然とする[[小泉又次郎]]代議士会長から議長席を譲り受け、有志代議士会に切り替えて、政府原案反対の決議を取った。しかし、後に切り崩しに会い、ほぼ異論なしで政府原案が党議決定した。<br /> <br /> [[第1次吉田内閣]]が成立する時に与党内の反吉田空気を収拾した名人芸は次のようなものであったという。収拾策を相談しに来た吉田の側近[[林譲治 (政治家)|林讓治]](第1次吉田内閣[[内閣書記官長]])に「かまわんから参内してしまえ」と見切り発車をけしかけ、知らぬ顔で[[総務会]]に出席。そして席上、時間を見計らって「うん、この時間だと吉田はもう参内してしまったかもしれんぞ」と今気づいたように言い出す。確認したところ当然吉田はすでに参内していて「なんというやつ」「許せない」「除名だ」と強硬論が渦巻く。そこで三木がやおら立ち上がって「諸君の怒りはもっともだ、吉田の行動は許せない、断乎抗議する」と言った後に、「しかし考えてもらいたい、総選挙以降の政治空白を考えればここで吉田内閣を潰すようなことになったらGHQはどう見るか、あるいは社会党に政権が行くかもしれん……」という具合に事態を収拾して吉田内閣発足に至らしめたという。<br /> <br /> 日本民主党総務会長在職中に[[日本国有鉄道]][[宇高連絡船]][[紫雲丸事故]]が発生し、[[長崎惣之助]]国鉄総裁が辞任した後の後任に[[十河信二]]を候補に挙げ、三木武吉自ら十河に国鉄総裁就任を説得した。会談の席で総裁就任を渋る十河に対し、三木は「君(十河)の祖国たる国鉄&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;十河は戦前の[[鉄道院]]⇒[[鉄道省]]の官僚だった。&lt;/ref&gt;は不祥事続きで危機に瀕しておるだろう。君は赤紙が出ても祖国の危難に立ち向かおうとしない不忠者なのか!」と激しく詰め寄り、十河に「私は不忠者にはならん!」と応えさせ国鉄総裁就任を決意させたことでも知られる&lt;ref&gt;[http://www.ifsa.jp/index.php?Gsogoshinji 現代日本の源流 十河信二] 向学新聞 国際留学生協会&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === その他 ===<br /> 大正・昭和以降の保守系の大物政治家でありながら非常に珍しいことに、閣僚を経験したことが全くなかった。<br /> <br /> 「&#039;&#039;[[猿]]は木から落ちても猿だが、政治家が選挙に落ちたらただの人&#039;&#039;」という名言は誤って三木の発言として語られることがあるが、正しくは[[大野伴睦]]の台詞である。<br /> <br /> 寝業師型・調整型政治家の代表例としていまだに名声が高く、[[中曽根康弘]]は[[金丸信]]・[[野中広務]]のそれぞれの全盛時に「三木武吉を越えた」とおだててみせたことがある。<br /> <br /> 香川県高松市内[[栗林公園]]近くに[[銅像]]が建っている。<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 注釈 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references group=&quot;注釈&quot; /&gt;<br /> <br /> == 関連書籍・参考文献 ==<br /> * 「誠心誠意、嘘をつく 自民党を生んだ男・三木武吉の生涯」([[水木楊]] 著)<br /> * 「小説三木武吉」([[戸川猪佐武]] 著)<br /> * 「[[小説吉田学校]]」(戸川猪佐武 著)<br /> * 「劇画 小説吉田学校」([[さいとうたかを]] 著)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Bukichi Miki}}<br /> * [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]<br /> * [[保守合同]]<br /> * [[石井絹治郎]]([[大正製薬]]創業者・初代社長)<br /> *[[柴真揚流|柴真揚流柔術]]<br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/kaku1-9.HTML 三木 武吉]<br /> <br /> {{start box}}<br /> {{s-ppo}}<br /> {{succession box <br /> | title = [[自由民主党総裁|自由民主党総裁代行委員]]<br /> | before = 結成<br /> | years = 1955年 - 1956年<br /> | after = [[鳩山一郎]](総裁)<br /> }}<br /> {{succession box <br /> | title = [[日本民主党|日本民主党総務会長]]<br /> | before = 結成<br /> | years = 初代:1954年 - 1955年<br /> | after = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]へ<br /> }}<br /> {{succession box <br /> | title = [[自由党 (日本 1950-1955)|自由党総務会長]]<br /> | before = [[益谷秀次]]<br /> | years = 第5代:1953年<br /> | after = [[益谷秀次]]<br /> }}<br /> {{succession box <br /> | title = [[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党総務会長]]<br /> | before = 結成<br /> | years = 初代:1945年 - 1946年<br /> | after = [[吉田茂]]<br /> }}<br /> {{succession box <br /> | title = [[憲政会|憲政会幹事長]]<br /> | before = [[小山松寿]]<br /> | years = 第6代:1924年 - 1925年<br /> | after = [[八並武治]]<br /> }}<br /> {{end box}}<br /> {{日本自由党 (1945-1948)}} <br /> {{Normdaten}}<br /> {{デフォルトソート:みき ふきち}}<br /> [[Category:衆議院議員 (帝国議会)]]<br /> [[Category:自由民主党の衆議院議員]]<br /> [[Category:香川県選出の衆議院議員]]<br /> [[Category:香川県選出の帝国議会議員]]<br /> [[Category:東京府選出の帝国議会議員]]<br /> [[Category:東京都の地方議会議員]]<br /> [[Category:日本の弁護士]]<br /> [[Category:日本銀行の人物]]<br /> [[Category:日本の実業家]]<br /> [[Category:戦前の報知新聞社の人物]]<br /> [[Category:読売新聞グループの人物]]<br /> [[Category:早稲田大学野球部の選手]]<br /> [[Category:早稲田大学出身の人物]]<br /> [[Category:香川県出身の人物]]<br /> [[Category:1884年生]]<br /> [[Category:1956年没]]<br /> [[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]<br /> [[Category:公職追放者]]<br /> [[Category:柔術家]]</div> 240F:94:D1F5:1:3DAC:A54E:EDE8:1F86 三土忠造 2018-03-27T16:46:24Z <p>240F:94:D1F5:1:3DAC:A54E:EDE8:1F86: 出生時は廃藩置県以前のため香川県を讃岐国に改める</p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |人名 = 三土 忠造<br /> |各国語表記 = みつち ちゅうぞう<br /> |画像 = Chuzo mituchi.jpg<br /> |画像サイズ = 200px<br /> |画像説明 = 三土忠造<br /> |国略称 = {{JPN}}<br /> |生年月日 = [[1871年]][[8月11日]]<br /> |出生地 = {{JPN}} [[讃岐国]][[大内郡]]水主村<br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1871|8|11|1948|4|1}}<br /> |死没地 = {{JPN}} [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]<br /> |出身校 = [[東京高等師範学校]] 卒業<br /> |前職 = [[教員]]<br /> |現職 = <br /> |所属政党 = ([[立憲政友会]]→)&lt;br/&gt;([[立憲政友会|政友会正統派]]→)&lt;br/&gt;無所属<br /> |称号・勲章 = [[従三位]]&lt;br&gt;[[勲一等]]<br /> |親族(政治家) = 弟:[[宮脇長吉]]([[衆議院議員]])、[[宮脇梅吉]](各[[県知事]])<br /> |配偶者 = 三土 ナツ<br /> |サイン = <br /> |ウェブサイト = <br /> |サイトタイトル = <br /> |国旗 = 日本<br /> |職名 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]<br /> |内閣 = <br /> |選挙区 = [[貴族院 (日本)#勅選議員|勅選議員]]<br /> |当選回数 = <br /> |就任日 = [[1946年]][[2月5日]]<br /> |退任日 = [[1947年]][[5月3日]]<br /> |所属委員会 = <br /> |議員会館 = <br /> |元首職 = <br /> |元首 = <br /> &lt;!-- ↓省略可↓ --&gt;<br /> |国旗2 = 日本<br /> |職名2 = 第71代 [[内務大臣 (日本)|内務大臣]]<br /> |内閣2 = [[幣原内閣]]<br /> |選挙区2 = <br /> |当選回数2 = <br /> |就任日2 = [[1946年]][[1月13日]]<br /> |退任日2 = [[1946年]][[5月22日]]<br /> |元首職2 = <br /> |元首2 = <br /> |国旗3 = 日本<br /> |職名3 = 第4代 [[運輸大臣]](内務大臣兼任)<br /> |内閣3 = [[幣原内閣]]<br /> |選挙区3 = <br /> |当選回数3 = <br /> |就任日3 = [[1946年]][[1月13日]]<br /> |退任日3 = [[1946年]][[1月26日]]<br /> |元首職3 = <br /> |元首3 = <br /> |国旗4 = 日本<br /> |職名4 = [[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]<br /> |内閣4 = <br /> |選挙区4 = <br /> |当選回数4 = <br /> |就任日4 = [[1940年]][[7月24日]]<br /> |退任日4 = [[1946年]][[1月13日]]<br /> |元首職4 = <br /> |元首4 = <br /> |国旗5 = 日本<br /> |職名5 = 第11代 [[鉄道省|鉄道大臣]]<br /> |内閣5 = [[齋藤内閣]]<br /> |選挙区5 = <br /> |当選回数5 = <br /> |就任日5 = [[1932年]][[5月26日]]<br /> |退任日5 = [[1934年]][[7月8日]]<br /> |元首職5 = <br /> |元首5 = <br /> |国旗6 = 日本<br /> |その他職歴1 = 第34代 [[逓信省|逓信大臣]]<br /> |就任日6 = [[1931年]][[12月13日]]<br /> |退任日6 = [[1932年]][[5月26日]]<br /> |国旗7 = 日本<br /> |その他職歴2 = 第29代 [[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]<br /> |就任日7 = [[1927年]][[6月2日]]<br /> |退任日7 = [[1929年]][[7月2日]]<br /> |国旗8 = 日本<br /> |その他職歴3 = 第36代 [[文部大臣 (日本)|文部大臣]]<br /> |就任日8 = [[1927年]][[4月20日]]<br /> |退任日8 = [[1927年]][[6月2日]]<br /> |国旗9 = 日本<br /> |その他職歴4 = 第22代 [[歴代の内閣官房長官|内閣書記官長]]<br /> |就任日9 = [[1921年]][[11月24日]]<br /> |退任日9 = [[1922年]][[6月21日]]<br /> |国旗10 = 日本<br /> |その他職歴5 = [[衆議院議員]]<br /> |就任日10 = [[1908年]][[5月16日]]<br /> |退任日10 = [[1940年]][[7月23日]]<br /> |国旗11 = <br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;三土 忠造&#039;&#039;&#039;(みつち ちゅうぞう、[[1871年]][[8月11日]]([[明治]]4年[[6月25日_(旧暦)|6月25日]]) - [[1948年]]([[昭和]]23年)[[4月1日]])は、明治から昭和にかけての[[日本]]の[[政治家]]。<br /> <br /> [[讃岐国]][[大内郡]]水主村(現在の[[東かがわ市]])出身。<br /> <br /> 長年[[立憲政友会]]の[[衆議院議員]]として党内にて重きをなし、[[内閣書記官長]]を振り出しに[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]・[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]・[[逓信省|逓信大臣]]・[[鉄道省|鉄道大臣]]・[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]・[[内務大臣 (日本)|内務大臣]](一時[[運輸大臣]]も兼務)を歴任した[[戦前]]政界の重鎮である。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 生い立ち ===<br /> [[讃岐国]]に中農階層の[[宮脇清吉]]の二男として生まれ、三土幸太郎(雅号は梅堂)の婿養子となる。三土家は地主階層に属し、経済的に余裕があったため、代々学問に励み、在郷の漢学者として知られる家柄であった。[[香川県尋常師範学校]]卒業後、一旦は[[小学校]][[教員]]となるが、上京して[[東京高等師範学校]]に入り[[1897年]](明治30年)に首席卒業を果たす。<br /> その後、[[1902年]](明治35年)から4年間イギリス・ドイツに留学して教育学・歴史学を学んだ{{sfn|伊藤|1984|pp=27-31}}。帰国後、[[韓国統監府|統監府]]の[[伊藤博文]]に招かれ、[[大韓帝国]]の教育制度調査に参加したことを機に[[政治]]への関心を抱く。<br /> <br /> === 政治家へ ===<br /> [[1908年]](明治41年)の[[第10回衆議院議員総選挙]]に政友会から立候補して初当選(以後11期連続当選)を果たす。<br /> <br /> その後、[[東京日日新聞]][[編集長]]を経て、農村子弟の教育を通じて地方の殖産を目的とする教育制度改革を主張した。[[1917年]](大正六年)に[[岡田良平|岡田文相]]が設立した内閣直属の諮問機関である臨時教育会議に参加し&lt;ref&gt;「[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317651.htm 臨時教育会議と教育改善策]」 [[文部科学省]] 2017年8月24日閲覧。&lt;/ref&gt;、大正期の学制改革において重要な役割を果たした{{sfn|伊藤|1984|pp=27-31}}。<br /> [[1920年]]([[大正]]9年)[[原内閣]]の元で新設された[[大蔵省]][[参事官]]に任じられ、[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]][[高橋是清]]の薫陶を受ける。以後、三土は高橋の側近として又は党内きっての[[財政]]通として活躍する事になる。<br /> <br /> [[1921年]](大正10年)原敬首相の[[暗殺]]によって[[高橋内閣]]が成立すると内閣書記官長に抜擢される。その後、[[護憲三派]]による[[加藤高明内閣]]にて高橋が[[農商務省 (日本)|農商務大臣]]となると[[次官]](1924年(大正13年)6月11日 - 1924年(大正13年)8月12日。後の組織改革によって初代[[農林省]][[政務次官]](1924年(大正13年)8月12日 - 1925年(大正14年)3月31日)に就任)となる。[[1927年]](昭和2年)[[昭和金融恐慌]]の際に成立した[[田中義一内閣]]では初め文部大臣となるが、大蔵大臣であった高橋が恐慌への対応を終えたとして大臣を辞する時に三土を後任に推薦したため、そのまま大蔵大臣に横滑りする。政友会が下野して[[立憲民政党]]に政権が移ると、[[浜口内閣]]・[[第2次若槻内閣]]で緊縮財政や金解禁政策を主導した大蔵大臣の[[井上準之助]]に対し、財政論争を行った。その後、政友会が政権復帰した[[犬養内閣]]では逓信大臣、挙国一致の[[斎藤内閣]]では鉄道大臣として入閣した。<br /> <br /> ところが、[[1934年]](昭和9年)の[[帝人事件]]で斎藤内閣は崩壊し、三土自身も[[偽証罪]]容疑で[[逮捕]][[収監]]されてしまう。だが、帝人事件自体が[[検事総長]]・[[大審院院長]]を務め日本の[[司法]]を左右できるだけの実力を持った枢密院副議長[[平沼騏一郎]]の政友会に対する個人的怨恨から来たと言われており、後に「[[検察]][[ファッショ]]」と糾弾される事件(実際に公判中に行われた[[第19回衆議院議員総選挙]]では三土は同情票によって全国最高の得票を得て再選されている)であり、いざ[[公判]]が始まるとたちまち検察側の主張は崩されて[[1937年]](昭和12年)には「[[起訴]]そのものが不当」として三土らに[[無罪]][[判決]]が下された。<br /> <br /> だが、その公判中に三土の最大の後見人であった高橋是清が[[二・二六事件]]で[[暗殺]]されてしまい、その政治力は急速に失われていく。[[1939年]](昭和14年)4月に政友会が分裂すると「正統派」と称されていた[[鳩山一郎]]に推されて[[久原房之助]]・[[芳澤謙吉]]とともに正統派の総裁代行委員に就任し、1か月後に正統派は久原を新総裁に擁立した。[[1940年]](昭和15年)、[[大政翼賛会]]が成立して政友会が解党した直後に[[枢密院 (日本)|枢密院]]に入り、[[太平洋戦争]]終結後までその任にあった。<br /> <br /> === 戦後 ===<br /> ところが[[戦後]]に一度だけ三土が政権獲得の野望を見せたことがあった。終戦直後、旧政友会正統派の翼賛政治に批判的だった人々は鳩山一郎を総裁とする[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]を結成するが三土はこれに協力せずに首相となった[[幣原喜重郎]]に接近する。そして、[[1946年]](昭和21年)[[幣原内閣]]の閣僚が[[公職追放]]によって大量辞任すると、内務大臣(運輸大臣も後任決定まで兼務)に就任し、翌月には[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員に勅選された。内務大臣に就任した三土は幣原に対して自由党のライバルである[[日本進歩党]](旧[[大日本政治会]]系&lt;ref&gt;『占領と民主主義』、99頁。&lt;/ref&gt;、進歩党所属議員は戦前民政党&lt;ref&gt;幣原の義兄・[[加藤高明]]は民政党の前身の[[憲政会]]総裁であった。&lt;/ref&gt;・政友会革新派・政友会統一派に所属していた議員が大半で、1939年(昭和14年)に政友会が分裂した時点で三土とともに政友会正統派に与した議員で進歩党の結成に参加したのは[[猪野毛利栄]]・[[中井一夫]]・[[西川貞一]]・[[依光好秋]]・[[高畠亀太郎]]・[[三善信房]]・[[綾部健太郎]]のわずか7名である&lt;ref&gt;『戦時議会史』、536頁 - 537頁。&lt;/ref&gt;)との連携を進言したのである。<br /> <br /> 幣原は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍による日本占領という非常事態に際して政治基盤を持たずに就任した首相であり短命内閣と見られており、一方進歩党は議席こそ第一党であるものの総裁の[[町田忠治]]は高齢でとても次の首相は務まらないものと考えられていた。そこで幣原内閣が倒れたら進歩党の支援を受けて鳩山の自由党を抑えれば、自らが内閣総理大臣に就任して「&#039;&#039;&#039;三土内閣&#039;&#039;&#039;」を成立させる事が出来ると踏んだのである(幣原も三土を内務大臣に任じたのは後継として考えていたからだと言う説がある)。だが、[[第22回衆議院議員総選挙]]では進歩党に代わって自由党が第一党になった上に直後に町田ら進歩党所属議員の殆どが公職追放の対象になって議席を失ってしまったために三土の計画は水泡に帰してしまう事になった。<br /> <br /> 皮肉にも、その後自由党の鳩山一郎もまた追放されてしまい、後継首相には全く政党色がなかった[[吉田茂]]が就任する事になった。<br /> <br /> === 死去 ===<br /> 1948年(昭和23年)4月1日死亡。[[享年]](数え年)78。(満76歳7か月)<br /> <br /> 墓所は[[青山霊園]]内の[[牧野伸顕]]、[[犬養毅]]、[[山口多聞]]などの墓の並びにある。墓碑銘は[[幣原喜重郎]]の揮毫になるものである。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> * 出生時以来の姓は宮脇であったが、[[1895年]](明治28年)に三土(「みつち」、みと・みど等は誤り)家に[[婿養子]]として入ったために三土姓を名乗った。この婿入りにともない本籍地が香川県[[阿野郡]][[西庄村 (香川県)|西庄村]](現在の[[坂出市]]内)に移ったため、衆議院議員選挙では故郷を含む香川一区ではなく、香川二区から立候補していた&lt;ref&gt;一区からは実弟の[[宮脇長吉]]が立候補した。長吉の息子[[宮脇俊三]]の『私の途中下車人生』によれば、忠造は長吉に「じゃあ、お前は第一区から出ろ」と言ったという。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> * 香川県[[観音寺市]]の、日本で唯一の石積みアーチ式ダム[[豊稔池]]の名付け親である。また、1912年に制定された「高松市歌(その一)」の作詞者でもある&lt;ref&gt;[https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/file/12156_L39_2009_12_15top.pdf 広報たかまつ2009年12月号]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> * [[大原社会問題研究所]]のホームページから「大原デジタルミュージアム」→「戦前ポスターデータベース」のページを出して、「地主の三土」のキーワードを入力すると、1928年(昭和3年)の第1回普通選挙に際して三土と同じ香川二区から立候補した[[労働農民党]]委員長[[大山郁夫]]の[[選挙ポスター]]「地主の三土か農民の味方大山か」を閲覧することができる。ただし、三土家は幸太郎の代に経済的に失敗して土地を手放していたので、三土自身は寄生地主として暮らしていたわけではない。ポスターにある「地主の三土」は「地主の利益代表の三土」の意味に解するべきである。<br /> <br /> === 家族・親族 ===<br /> [[File:Chuzo Mitsuchi.jpg|thumb|三土忠造]]<br /> * 妻 ナツ - 初婚の妻は幸太郎の一人娘セツであったが、セツが1910年(明治43年)に早世したため、後妻として三土家に入った。愛媛県[[士族]]加藤伸市の姉。三男統介だけがナツの実子であり、他の子はセツとのあいだの子であった。ナツの姉の子に俳人[[中村草田男]]がいる。<br /> * 嗣子 知芳(ともふさ) - [[東京大学|東京帝国大学]]で[[地質学]]を学び、石油資源探査などに携わった後、戦後[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|東京大学工学部]]教授となった。妻幾代は鳥取県人の[[法学博士]][[桑田熊蔵]]の娘&lt;ref&gt;『豪閥』、14頁 - 15頁。&lt;/ref&gt;。知芳の嗣子・裕久(ひろひさ)は、会社勤務の後、[[東洋学園大学]]教授。[[衆議院議長]]を務めた[[福永健司]]の息女と結婚している。<br /> * 長男 [[三土興三|興三]](こうぞう) - [[第一高等学校_(旧制)|旧制第一高等学校]]理科から[[京都大学|京都帝国大学]][[文学部]]に進学するという異色の経歴をもち、[[西田幾多郎]]に学んだ哲学者。卒業後まもなく[[大谷大学]]教授となり、将来を嘱望されていた。わが国における[[キルケゴール]]研究の先駆者の一人として知られる。知芳の兄で、長男であったが、1924年(大正13年)4月5日、満25歳で夭折([[米原駅]]構内で鉄道自殺)したため、家督を継がなかった。[[三木清]]の回想の中に彼の夭折を惜しむ言葉がある。<br /> * 三男 三土統介<br /> ** 孫 [[三土修平]] - [[経済学者]]、[[東京理科大学]][[理学部]]教授。三男・三土統介の息子。<br /> * 弟 [[宮脇長吉]] - [[大日本帝国陸軍|陸軍]]大佐から衆議院議員となり、[[軍部]]の台頭に抵抗した同じ政友会代議士。<br /> ** 甥 [[宮脇俊三]] - 紀行作家。長吉の三男。<br /> * 弟 [[宮脇梅吉]] - [[内務省 (日本)|内務]][[官僚]]で後に[[千葉県知事]]などを歴任した。<br /> <br /> == 栄典 ==<br /> * [[1927年]](昭和2年)[[12月15日]] - [[従三位]]&lt;ref&gt;『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[中谷武世]] 著 『戦時議会史』 民族と政治社、[[1974年]](昭和49年)<br /> * [[神田文人]] 著 『占領と民主主義』(文庫版 昭和の歴史 第8巻)[[小学館]]、[[1989年]](昭和64年)[[1月1日]]、ISBN 4-09-401108-0<br /> * [[佐藤朝泰]] 著 『豪閥 &lt;small&gt;地方豪族のネットワーク&lt;/small&gt;』 [[立風書房]]、[[2001年]]([[平成]]13年)[[7月5日]]第1刷発行、ISBN 4-651-70079-9<br /> * {{Cite journal|和書 |author = 伊藤和男 |year = 1984-03 |title = 学制改革問題と立憲政友会 |journal = 天理大学学報 |volume = 35 |issue = 2 |pages = 17-40 |publisher = 天理大学学術研究会 |naid= 120006214636 |ref = harv }}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Chūzō Mitsuchi}}<br /> * [http://www.c20.jp/p/mcyuzo.html 三土 忠造 / クリック 20世紀]<br /> * [http://www.lingua.tsukuba.ac.jp/~myazawa/data/bunten/mituti0.html 三土忠造『訂正 中等国文典』]<br /> {{-}}<br /> {{start box}}<br /> {{s-ppo}}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[立憲政友会|立憲政友会(正統派)]]&lt;br /&gt;総裁代行委員<br /> | titlenote = [[久原房之助]]、[[芳澤謙吉]]と共同<br /> | years = 1939<br /> | before = [[鳩山一郎]]&lt;br /&gt;[[前田米蔵]]&lt;br /&gt;[[島田俊雄]]&lt;br /&gt;[[中島知久平]]<br /> | beforenote = (総裁代行委員)<br /> | after = [[久原房之助]]<br /> | afternote = (正統派総裁)<br /> }}<br /> {{end box}}<br /> {{内閣官房長官|1921年-1922年|[[内閣書記官長]]}}<br /> {{文部科学大臣|1927年|[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]}}<br /> {{財務大臣|1927年-1929年|大蔵大臣}}<br /> {{内務大臣|1946年}}<br /> {{国土交通大臣|1946年|[[運輸大臣]]}}<br /> {{逓信大臣|1931年-1932年}}<br /> {{鉄道大臣|1932年-1934年}}<br /> {{衆議院予算委員長}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:みつち ちゆうそう}}<br /> [[Category:貴族院勅選議員]]<br /> [[Category:衆議院議員 (帝国議会)]]<br /> [[Category:香川県選出の帝国議会議員]]<br /> [[Category:日本の文部大臣]]<br /> [[Category:日本の大蔵大臣]]<br /> [[Category:日本の内務大臣]]<br /> [[Category:日本の運輸大臣]]<br /> [[Category:逓信大臣]]<br /> [[Category:日本の鉄道大臣]]<br /> [[Category:内閣書記官長]]<br /> [[Category:日本の枢密顧問官]]<br /> [[Category:日本の財政家]]<br /> [[Category:東邦協会の人物]]<br /> [[Category:日本の初等教育の教員]]<br /> [[Category:日本の新聞編集者]]<br /> [[Category:東京日日新聞社の人物]]<br /> [[Category:東京教育大学出身の人物]]<br /> [[Category:香川県出身の人物]]<br /> [[Category:1871年生]]<br /> [[Category:1948年没]]<br /> [[Category:宮脇俊三|*]]</div> 240F:94:D1F5:1:3DAC:A54E:EDE8:1F86
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