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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=240F%3A80%3ABFA7%3A1%3A51FD%3AC5B1%3A11ED%3A3332&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-25T10:44:56Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 名護屋城 2018-05-17T07:09:11Z <p>240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{混同|名古屋城|x1=愛知県名古屋市にあった城}}<br /> {{日本の城郭概要表<br /> |name = 名護屋城<br /> |pref = 佐賀県<br /> |img = ファイル:NagoyaC_hommaru.jpg<br /> |img_capt = 名護屋城天守跡<br /> |img_width = 260px<br /> |ar_called = 名護屋御旅館<br /> |struct = 梯郭式平山城<br /> |tower_struct = 望楼型5重7階(非現存)<br /> |builders = [[豊臣秀吉]]<br /> |build_y = [[天正]]19年([[1591年]])<br /> |revamp = &#039;&#039;なし&#039;&#039;<br /> |rulers = [[豊臣秀吉]]<br /> |reject_y = 慶長3年([[1598年]])<br /> |remains = 石垣、空堀、井戸<br /> |cultural asset = 国特別史跡<br /> |location = {{ウィキ座標2段度分秒|33|31|48.12|N|129|52|9.75|E|region:JP-41_scale:60000_type:landmark|display=inline,title}}<br /> |map = Japan Saga#Japan<br /> |アイコン=日本の城跡<br /> |ラベル位置=bottom<br /> }}<br /> [[画像:hizen-nagoyajo_stereo.jpg|thumb|350px|名護屋城の[[ステレオグラム|ステレオ]]空中写真([[1977年]]){{国土航空写真}}]]<br /> [[画像:Hizen Nagoya Castle byobu by Kano Mitsunobu.jpg|thumb|350px|肥前名護屋城図屏風]]<br /> &#039;&#039;&#039;名護屋城&#039;&#039;&#039;(なごやじょう)は、[[肥前国]][[松浦郡]]名護屋(現在の[[佐賀県]][[唐津市]](旧東松浦郡[[鎮西町]]・[[呼子町]])、[[東松浦郡]][[玄海町]])にあった[[日本の城一覧|日本の城]]。[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役]]に際し築かれた。国の[[特別史跡]]に指定されている。[[平成]]18年([[2006年]])には[[日本100名城]](87番)に選定された。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には[[松浦党]]の交易拠点の一つであった。ここにはもともと[[松浦党]]の旗頭・[[波多氏]]の一族である名護屋氏の居城、[[垣添城]]があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。<br /> <br /> 名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた[[平山城]]の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた&lt;ref&gt;学習研究社編『【決定版】図説 よみがえる名城 漆黒の要塞 豊臣の城』 [[学習研究社]] [[平成]]20年([[2008年]])&lt;/ref&gt;。<br /> 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。<br /> <br /> 秀吉の死後、大陸進攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は[[寺沢広高]]によって[[唐津城]]に移築されたと伝わる&lt;ref&gt;平井聖監修『城』(九州沖縄 8) 毎日新聞社 平成8年([[1996年]])&lt;/ref&gt;。石垣も江戸時代の[[島原の乱]]の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている&lt;ref&gt;中井均・三浦正幸監修「城を復元する」学習研究社編『よみがえる日本の城30』 学習研究社 平成18年([[2006年]])&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> * [[大正]]15年([[1926年]])[[11月4日]]、「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の[[史跡]]に指定される。<br /> * [[昭和]]30年([[1955年]])[[8月22日]][[特別史跡]]に指定された。<br /> * [[平成]]18年([[2006年]])[[4月6日]]、[[日本100名城]](87番)に選定され、平成19年([[2007年]])6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。<br /> <br /> [[黒澤明]]監督による『[[乱 (映画)|乱]]』(昭和60年([[1985年]])公開)のロケ地の一つに、名護屋城が選ばれ撮影が行われた。<br /> <br /> == 名称 ==<br /> [[ファイル:NagoyaC Otemon.jpg|thumb|right|200px|名護屋城大手門跡]]<br /> 史跡名称は、「名護屋城跡並陣跡」であるが、鎮西町教育委員会の堀苑孝志は、陣跡以外の遺物や遺跡の様子から、より包括的な名称として「&#039;&#039;&#039;肥前名護屋軍事都市遺跡&#039;&#039;&#039;」という名称を提唱している&lt;ref&gt;笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』 文英堂 平成12年([[2000年]]) 37頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史・沿革 ==<br /> === 背景 ===<br /> 天正15年([[1587年]])、[[豊臣秀吉]]は[[九州平定]]をすると、天正18年([[1590年]])、[[陸奥国|奥州]][[伊達政宗]]を服属させ、[[北条氏直]]を降し([[小田原征伐]])、[[徳川家康]]を[[関東]]に移封し、[[天下統一]]を成し遂げた。国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。「[[高麗]]」つまり[[李氏朝鮮]]に、服属と[[明]]征伐への協力を要請したが、朝鮮は拒絶した。その後も[[対馬国|対馬]]の[[宗義調]]らが複数の交渉を重ねるが、朝鮮側は拒絶の意志を変えなかった。なお秀吉は同様に[[琉球]]や[[フィリピン|呂宋]]や[[高山国]]([[台湾]])にも使者を出した。<br /> {{Main|文禄・慶長の役}}<br /> <br /> == 築城 ==<br /> [[ファイル:Sagoyajo01.jpg|thumb|left|180px|浅野文庫所蔵 諸国古城之図&lt;ref&gt;『浅野文庫所蔵 諸国古城之図』(矢守一彦編 新人物往来社 1981年)[http://www.library.city.hiroshima.jp/special/gallery/asano/index.html 広島市立図書館特別集書]&lt;/ref&gt;]]<br /> 宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、天正19年([[1591年]])8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、[[肥前国|肥前]]の[[名護屋]]に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元[[那古野]]と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも気を良くしこの地への築城を決めたのだが、この地の領主であった[[波多親]]はこれに反対したため不興をかった。また甥の[[内大臣]][[豊臣秀次]]に[[関白]]を譲って自らは[[太閤]]となった。9月、[[平戸城]]主[[松浦鎮信]]に命じて[[壱岐国|壱岐]]の風本に城を築かせた。その築城の担当は、松浦鎮信、[[日野江城]]主[[有馬晴信]]、[[玖島城|大村城]]主[[大村喜前]]、五島城主[[五島純玄]]であった([[宇久純玄]]はこの年、姓を五島に改める)。なお、城跡から出土した瓦に「天正十八年」の銘があるものが発見されたことから、築城開始時期が通説の天正19年より早かった可能性も考えられている。<br /> <br /> 10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取りかかった&lt;ref name=&quot;matsuurako&quot;&gt;『松浦古事記』巻之下([[小瀬甫菴]]道喜撰)・六 名護屋御陣所の事[http://tamatorijisi.web.fc2.com/matuurakojiki3.html]&lt;/ref&gt;。『[[松浦古事記]]』によれば、20万5570あまりの兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7985兵で陣立てされた&lt;ref name=&quot;matsuurako&quot;/&gt;。<br /> <br /> 築城に際し、縄張りを[[黒田孝高]]、そして[[黒田長政]]、[[加藤清正]]、[[小西行長]]、[[寺沢広高]]らが[[普請奉行]]となり、[[九州地方|九州]]の諸[[大名]]を中心に動員し、突貫工事で8か月後の[[文禄]]元年([[1592年]])3月に完成した。規模は当時の城郭では[[大坂城]]に次ぐ広壮なものであった。<br /> <br /> [[ルイス・フロイス]]が「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には、全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の[[平塚滝俊]]が書状に記している&lt;ref&gt; 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂,2000年&lt;/ref&gt;。唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった&lt;ref&gt; 笠谷和比古・黒田慶一同書36頁&lt;/ref&gt;。{{-}}<br /> <br /> == 作事衆 ==<br /> 築城にあたっては本丸[[数寄屋造り|数寄屋]]や旅館などの[[作事奉行]]を[[長谷川宗仁]]が担当した&lt;ref&gt;『萩藩閥閲録』・『太閤記』&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;matsuurako&quot;/&gt;。大手門は御牧勘兵衛尉が担当し、各所の建築が分担された&lt;ref name=&quot;matsuurako&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 構造 ==<br /> 本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に望楼型5重7階の[[天守]]が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、天守に葺かれていたものと考えられている。城郭の周辺には各大名の[[陣屋]]が配置された。<br /> *本丸は東西五十六間、南北六十一間、総高さ三十二間一尺五寸であった。<br /> *乾の角に天守台があり、高さ十五間。海より池まで十二間一尺、池より三の丸まで十四間三尺五寸。三の丸より本丸まで五間三尺五寸、以上右高さ也。池の長さ百六十三間也、巾十一間より三十一間まであった&lt;ref name=&quot;matsuurako&quot;/&gt;。<br /> *二ノ丸は、東西四十五間、南北五十九間。掘立柱の長屋跡が発掘されたが、これは築城時の小屋であったと推定されている。<br /> *遊撃曲輪は、東西廿六間、南北二十四間。門の礎石が発見されている。<br /> *弾正曲輪は長さ九十五間、横四十五間又三十間。<br /> *水ノ手曲輪は十五間四方。本丸等から流れ出る水をこの曲輪に集めたと伝わり、水関連の施設があったとされる。<br /> *山里曲輪は東西百八十間、南北五十間横ニ廿間四方。茶室等があったとされる。<br /> *城の廻りは十五町、城への入口は五ヶ所あり、大手門、西ノ門、北ノ門、舟手門、山里通用門だった&lt;ref name=&quot;matsuurako&quot;/&gt;。<br /> *三ノ丸は、東西三十四間、南北六十二間。<br /> *このほか、腰曲輪・小曲輪・合而十一曲輪であった &lt;ref name=&quot;matsuurako&quot;/&gt;。<br /> 完成後も度々改築を繰り返したとされ、本丸西側は築城後に石垣部分を壊すことなくそのまま埋め立てて増築された事が判明し、旧石垣も発掘展示されている。三の丸櫓台北側では築城後に改造を受けて門が設置され、その後また撤去された事が発掘調査で判明している。<br /> 本丸大手、大手口、東出丸周辺も構造や櫓、城門に大きな相違が見られ、残された「肥前名護屋城図屏風」の二枚とも、現状と異なる部分が確認されている。<br /> == 出兵後 ==<br /> 西国衆を中心に総勢15万8000の兵が9軍に編成され、[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]([[5月12日]])に[[小西行長]]・[[宗義智]]率いる第一陣が[[朝鮮半島]]へ出兵したのを皮切りに、名護屋を出発した諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡っていった。秀吉は[[京都]][[聚楽第]]を[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]([[5月7日]])に出発し[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[6月5日]])に当地に到着している。以後[[大政所]]の危篤時を除いてこの地が本営となる。在城中、秀吉は渡海した諸将に指示を出す一方で、山里曲輪に築いた茶室で茶会を楽しんだり、瓜畑で仮装大会を催したりした。文禄の役では最終的に、20万以上の兵が名護屋から朝鮮に渡った。当地には西国衆の渡海後も、東国衆と秀吉旗本衆の約10万の兵が駐屯している。多くの人員を養うには水源が足りなかったようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったという。<br /> <br /> 朝鮮半島で戦線が膠着すると、翌文禄2年([[1593年]])4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び[[慶長]]2年([[1597年]])2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させた。<br /> <br /> この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。慶長3年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]([[1598年]][[9月18日]])、秀吉が没したために全軍撤収し、名護屋城もその役割を終えた。出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2か月であった。<br /> <br /> === 文禄・慶長の役以後 ===<br /> 朝鮮撤退後、この地は寺沢広高の治めるところとなった。[[関ヶ原の戦い]]の後、慶長7年([[1602年]])、広高は[[唐津城]]の築城を開始した。この際に名護屋城を解体し、その遺材を使用した。これ以降に、二度と城が利用できないように、要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業が行われたが、その理由と時期については明確でない。<br /> <br /> 岸田家文書によると、[[島原の乱]]直後に巡検した[[江戸幕府]][[老中]]の指示で、一揆が起こった際に名護屋城が利用されないように破却したと記録されている。また、それ以前の[[一国一城令]]を受けての破却とも、名護屋城を破壊することで幕府が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたとの見方もある。また、大手門は[[伊達政宗]]に与えられ、[[仙台城]]に移築されたと伝わっている。<br /> <br /> == 陣屋跡 ==<br /> 名護屋城周辺には118ヵ所の陣跡が確認されており、うち65ヵ所に遺構が残っているが特別史跡に指定された陣跡は以下の23箇所。<br /> &lt;div style=&quot;float:left; vertical-align:top; white-space:nowrap; margin-right:1em&quot;&gt;<br /> * [[生駒親正]]陣跡<br /> * [[上杉景勝]]陣跡<br /> * [[片桐且元]]陣跡<br /> * [[加藤清正]]陣跡<br /> * [[加藤嘉明]]陣跡<br /> * [[木下利房]]陣跡<br /> * [[木下延俊]]陣跡<br /> * [[木村重茲|木村重隆]]陣跡<br /> * [[九鬼嘉隆]]陣跡<br /> * [[黒田長政]]陣跡<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float:left; vertical-align:top; white-space:nowrap; margin-right:1em&quot;&gt;<br /> * [[小西行長]]陣跡<br /> * [[島津義弘]]陣跡<br /> * [[伊達政宗]]陣跡<br /> * [[徳川家康]]陣跡<br /> * 徳川家康別陣<br /> * [[豊臣秀保]]陣跡<br /> * [[鍋島直茂]]陣跡<br /> * [[長谷川秀一]]陣跡<br /> * [[福島正則]]陣跡<br /> * [[古田重然|古田織部]]陣跡<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float:left; vertical-align:top; white-space:nowrap; margin-right:1em&quot;&gt;<br /> * [[堀秀治]]陣跡<br /> * [[前田利家]]陣跡<br /> * [[毛利秀頼]]陣跡<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> <br /> == 関連施設 ==<br /> *[[佐賀県立名護屋城博物館]]が隣接している。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|3}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book|和書|editor=西ヶ谷恭弘|title=定本 日本城郭事典|publisher=[[秋田書店]]|year=2000|page=420|isbn=4-253-00375-3}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[佐賀県立名護屋城博物館]]<br /> * [[勝本城]]<br /> * [[清水山城 (対馬国)]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://saga-museum.jp/nagoya/ 佐賀県立名護屋城博物館]<br /> {{Commonscat|Nagoya Castle (Hizen)}}<br /> * [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]<br /> * [https://web.archive.org/web/20140125091536/http://bunka.nii.ac.jp/Index.do 文化遺産オンライン]肥前名護屋城図屏風あり<br /> <br /> {{日本100名城}}<br /> {{豊臣政権}}<br /> {{DEFAULTSORT:なこやしよう}}<br /> [[category:佐賀県の城]]<br /> [[Category:佐賀県にある国指定の史跡]]<br /> [[Category:特別史跡]]<br /> [[Category:文禄・慶長の役]]<br /> [[Category:唐津市の歴史]]<br /> [[Category:日本100名城]]<br /> [[Category:豊臣秀吉|城なこや]]<br /> [[Category:豊臣氏|城なこや]]<br /> [[Category:寺沢氏|城なこや]]<br /> [[Category:唐津市の建築物]]</div> 240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332 天正通宝 2018-05-17T07:06:57Z <p>240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;天正通宝&#039;&#039;&#039;(てんしょうつうほう)は、[[日本]]の[[安土桃山時代]]に発行された貨幣。[[皇朝十二銭]]以来の日本で鋳造された銭貨である。創鋳は[[1587年]]([[天正]]15年)。<br /> <br /> ==概要==<br /> [[豊臣秀吉]]によって発行された。主として有功の将士に対する褒章用の貨幣であり、[[金銭]]と[[銀銭]]がある。『[[三貨図彙]]』によると流通用の銅銭も鋳造されたと言われるが、詳細は不明である。[[豊臣氏|豊臣家]]が[[大坂の陣]]で滅亡しているため、流通した期間は短い。秀吉の発行した貨幣には他に[[天正大判]](([[1588年]](天正16年))、[[文禄通宝]]([[1592年]]([[文禄]]元年))などがある。<br /> <br /> 秀吉によって鋳造されたこれらの貨幣はいずれも褒章用、軍事費用の範囲に留まっており、流通を目的とした貨幣の鋳造が国内で再開されるのは江戸期の[[寛永通宝]]まで待たれる([[1606年]]([[慶長]]11年)に[[徳川氏]]によって[[慶長通宝]]が鋳造されているが、本格的に流通することはなかった)。<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[文禄通宝]]<br /> *[[慶長通宝]]<br /> *[[寛永通宝]]<br /> <br /> {{豊臣政権}}<br /> {{DEFAULTSORT:てんしようつうほう}}<br /> [[Category:日本の金貨]]<br /> [[Category:織豊政権の政策制度]]<br /> [[Category:日本の銀貨]]</div> 240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332 天正大判 2018-05-17T07:06:35Z <p>240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332: /* 参考文献 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;天正大判&#039;&#039;&#039;(てんしょうおおばん)とは[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]の初期に掛けて、主に[[豊臣家]]が[[金細工師]]の[[後藤四郎兵衛|後藤四郎兵衛家]]に鋳造を命じた[[大判]]であり、[[天正]]16年([[1588年]])が初鋳とされ、&#039;&#039;&#039;天正菱大判&#039;&#039;&#039;(てんしょうひしおおばん)、&#039;&#039;&#039;天正長大判&#039;&#039;&#039;(てんしょうながおおばん)および&#039;&#039;&#039;大仏大判&#039;&#039;&#039;(だいぶつおおばん)が知られる。<br /> <br /> [[File:Tensho-hishi-obankin.jpg|thumb|right|300px|天正菱大判 造幣博物館蔵]]<br /> == 概要 ==<br /> [[質量|量目]]は金一枚すなわち京目拾[[両]](四十四[[匁]])を基準としているが、実際には色揚げによる減量および磨耗などを考慮し慣例により二分の入り目が加えられ、四十四匁二分が規定量目である。表面は槌目(つちめ)であることが天正大判の特徴である。<br /> <br /> 通用は江戸時代に入っても[[慶長大判]]と並行していたと見られ、[[元禄]]8年([[1695年]])に停止となった。<br /> <br /> == 天正菱大判 ==<br /> 表面中央に「拾両後藤([[花押]])」、右上に「天正十六」などと年号が墨書され、[[菱形|菱]]枠の[[桐]]極印が上部に一箇所、下部に二箇所に打たれていることから&#039;&#039;&#039;菱大判&#039;&#039;&#039;と呼ばれるが、同形式で丸枠桐極印が上下にそれぞれ一箇所のものの存在する。裏面には極印はない。中央下部に埋め金があり、[[譲葉金]]などの判金に足し金して量目を調整したものと考えられる。量目は後の長大判と同じであるがサイズは一回り小さい[[楕円]]形である。<br /> <br /> 墨書は四代後藤光乗の弟である菱後藤家の後藤祐徳によるものとされる。年号には他に「天正十七」、「天正十九」と書かれたものが存在するが&lt;ref name=&quot;nishiwaki&quot;&gt;瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 東京堂出版、1999年&lt;/ref&gt;、全体の現存数は数品と見られ、[[貨幣博物館]]および[[造幣博物館]]などに展示されている。<br /> <br /> * [http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/history_07sub.htm わが国の貨幣史 天正菱大判]<br /> <br /> == 天正長大判 ==<br /> 墨書きは「拾両後藤(花押)」で年号表示は無く五代後藤徳乗のものであり、上下左右に丸枠桐極印がそれぞれ一箇所、計四箇所打たれている。裏面中央には丸枠桐紋、亀甲桐紋、花押の極印があり、亀甲枠については有る無し、双方が存在する。大判の中でもサイズが特に大きく縦17[[センチメートル]]以上のものとされ&#039;&#039;&#039;長大判&#039;&#039;&#039;と呼ばれる。<br /> <br /> サイズが大きく見栄えのするものであることから、[[豊臣秀吉]]が天正17年5月([[1589年]])に[[太閤]]の金賦りで与えたものは長大判であるとする説もあるが&lt;ref name=&quot;bonanza&quot;&gt;『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』 ボナンザ、1982年&lt;/ref&gt;、これは菱大判の鋳造時期であり長大判の初鋳が[[文禄]]4年([[1595年]])であるならば矛盾し疑問である。<br /> <br /> 裏面中央に[[家紋の一覧#沢瀉(おもだか)|澤瀉紋]]、亀甲桐紋、花押の極印が打たれた&#039;&#039;&#039;澤瀉大判&#039;&#039;&#039;(おもだかおおばん)は秀吉が[[毛利輝元]]に後藤家で大判を作製することを許したと推定する説もあるが定かでない&lt;ref name=&quot;bonanza&quot; /&gt;。<br /> <br /> 鋳造高は文禄4年5月から[[慶長]]2年2月([[1597年]])までは、約3万枚と推定され、慶長3年3月([[1598年]])から5年2月([[1600年]])までは23,963枚である&lt;ref name=&quot;nishiwaki&quot; /&gt;。<br /> <br /> * [http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_gra1-5.htm 『金融研究』巻頭エッセイ 第1シリーズ 「貨幣の歴史」 天正大判-豊臣秀吉の金銀貨-]<br /> * [http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/history_07.htm わが国の貨幣史 豊臣秀吉の金銀貨]<br /> <br /> == 大仏大判 ==<br /> [[File:Tensho oban.jpg|thumb|right|400px|大仏大判]]<br /> 形式は長大判と同じく「拾両後藤(花押)」と墨書され五代後藤徳乗の書であり、右上に「大」と墨書されたものもあり、上下左右にやや大きめの丸枠桐極印がそれぞれ一箇所、計四箇所打たれている。裏面中央には丸枠桐紋、亀甲桐紋、花押の極印がある。形状はやや角ばった楕円形となり長大判より縦のサイズが短い。現存数は天正大判の中で最も多い。<br /> <br /> [[豊臣秀頼]]が[[京都]]の[[方広寺]][[京の大仏|大仏殿]]再建の費用に当てるために慶長13年10月([[1608年]])から17年1月([[1612年]])に掛けて鋳造されたものとされ&#039;&#039;&#039;大仏大判&#039;&#039;&#039;と呼ばれ、これは[[徳川家康]]が秀頼の蓄財を消費させる目的で方広寺の再建を指示したとされる&lt;ref name=&quot;nishiwaki&quot; /&gt;。鋳造時期は慶長大判と重なるが、豊臣家によるものであることから天正大判の範疇に入れられる。<br /> <br /> これにより[[大坂城]]に蓄えられていた[[分銅|分銅金]]の内、二千枚(約330キログラム)分銅17個、千枚(約165キログラム)分銅11個が消費された&lt;ref name=&quot;nishiwaki&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;kobata&quot;&gt;[[小葉田淳]] 『日本の貨幣』 至文堂、1958年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 種類 ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#ffffff&quot;<br /> |+<br /> ! style=&quot;text-align:center; background-color:#f9f9f9&quot; |名称<br /> !! style=&quot;text-align:center; background-color:#f9f9f9&quot; |鋳造開始<br /> !! style=&quot;text-align:center; background-color:#f9f9f9&quot; |規定品位&lt;br&gt;分析品位([[造幣局 (日本)|造幣局]])&lt;ref&gt;甲賀宜政 『古金銀調査明細録』 1930年&lt;/ref&gt;<br /> !! style=&quot;text-align:center; background-color:#f9f9f9&quot; |規定量目<br /> !! style=&quot;text-align:center; background-color:#f9f9f9&quot; |鋳造量&lt;ref name=&quot;nishiwaki&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;kobata&quot; /&gt;<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9&quot; |天正菱大判<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |[[天正]]16年&lt;br&gt;([[1588年]])<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |六十一匁位(72.1%)&lt;br&gt;-<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |44.2[[匁]]&lt;br&gt;(164.9[[グラム]])<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |約40,000枚<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9&quot; |天正長大判<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |[[文禄]]4年5月&lt;br&gt;([[1595年]])<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |五十八匁一分位(75.7%)&lt;br&gt;-<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |44.2匁&lt;br&gt;(164.9グラム)<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |約55,000枚<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9&quot; |大仏大判<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |[[慶長]]13年10月&lt;br&gt;([[1608年]])<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |六十匁位三分一厘位(73.0%)&lt;br&gt;金73.84%/銀24.10%/雑2.06%<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |44.2匁&lt;br&gt;(164.9グラム)<br /> | style=&quot;text-align:center; white-space:nowrap;&quot; |39,763枚<br /> |}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> {{大判}}<br /> {{豊臣政権}}<br /> {{DEFAULTSORT:てんしようおおはん}}<br /> [[Category:日本の金貨]]<br /> [[Category:織豊政権の政策制度]]<br /> [[Category:流通していない通貨]]</div> 240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332 山崎の戦い 2018-05-17T07:04:59Z <p>240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{脚注の不足|date=2018年3月}}<br /> <br /> {{Battlebox<br /> |battle_name=山崎の戦い<br /> |campaign= 豊臣秀吉の戦闘<br /> |image= [[ファイル:Yamazaki04.jpg|300px|山崎合戦の地 石碑]]<br /> |caption= 山崎合戦の地 石碑(京都府大山崎町)<br /> |conflict=[[会戦]]<br /> |date=[[天正]]10年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[1582年]][[7月2日]])<br /> |place=山崎([[摂津国]]と[[山城国]]の境)<br /> |result=羽柴軍の勝利<br /> |combatant1=[[ファイル:Goshichi no kiri inverted.svg|20px]]羽柴軍<br /> |combatant2=[[ファイル:Tokikikyo.svg|25x20px]] 明智軍<br /> |commander1=[[ファイル:Goshichi no kiri inverted.svg|20px]][[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]&lt;br /&gt;[[ファイル:Oda emblem.svg|25x20px]] [[織田信孝]]&lt;br/&gt;[[池田恒興]]<br /> |commander2=[[ファイル:Tokikikyo.svg|25x20px]] [[明智光秀]]<br /> |strength1=20,000 - 40,000<br /> |strength2=10,000 - 16,000<br /> |casualties1=3,300<br /> |casualties2=3,000<br /> |}}<br /> &#039;&#039;&#039;山崎の戦い&#039;&#039;&#039;(やまざきのたたかい)は、[[天正]]10年([[1582年]])[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]の[[本能寺の変]]を受け、[[備中国|備中]][[高松城 (備中国)|高松城]]の攻城戦から引き返してきた[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]軍が、6月13日(西暦[[7月2日]])に[[摂津国]]と[[山城国]]の境に位置する山崎([[大阪府]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]]山崎、[[京都府]][[乙訓郡]][[大山崎町]])において、[[織田信長]]を討った[[明智光秀]]の軍勢と激突した戦い。<br /> <br /> 古来&#039;&#039;&#039;天王山の戦い&#039;&#039;&#039;と呼ばれてきた合戦の現代的表現で、&#039;&#039;&#039;山崎合戦&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。<br /> <br /> == 経緯 ==<br /> === 背景・合戦まで ===<br /> [[天正]]10年6月2日の[[本能寺の変]]勃発時、織田家中の主要な武将ならびに同盟者・[[徳川家康]]の動静は次の通りであった。<br /> <br /> * [[柴田勝家]] - [[越中国|越中]][[魚津城]]で[[上杉氏|上杉]]勢と交戦中([[魚津城の戦い]])<br /> * [[滝川一益]] - [[上野国|上野]][[前橋城|厩橋城]]で[[後北条氏|北条]]勢を牽制<br /> * [[丹羽長秀]] - 大坂・[[堺市|堺]]で[[四国征伐]]待機中<br /> * 羽柴秀吉 - 備中高松城近辺で[[毛利氏|毛利]]勢と交戦中([[中国攻め]]、[[備中高松城の戦い]])<br /> * 徳川家康 - 堺で近習数名と見物中(帰国途路の[[飯盛山 (生駒山地)|飯盛山]]([[四條畷市]])付近で凶報に接する)<br /> <br /> 羽柴秀吉は[[高松城 (備中国)|高松城]]に篭る毛利軍を包囲していたが、守将・[[清水宗治]]の申し出を受諾し、近日中に高松城は宗治の自刃によって開城されるはずであった。しかし秀吉は[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]に本能寺の変の報を入手し&lt;ref&gt;[[原平内]]なる者が秀吉の軍の中に毛利軍と間違え飛び込んできた際、彼が体に隠していた手紙から信長の死の情報を入手した。 歴史群像シリーズ① 織田信長【天下一統】の謎 P 134より&lt;/ref&gt;、ただちに毛利軍との和議を結ぶ。秀吉は[[6月4日 (旧暦)|4日]]に[[堀尾吉晴]]・[[蜂須賀正勝]]を立会人にして宗治の自刃の検分を行い、翌[[6月5日 (旧暦)|5日]]から[[6月6日 (旧暦)|6日]]にかけて撤兵すると、6日に沼([[岡山城]]東方)、[[6月7日 (旧暦)|7日]]に[[姫路城]]、[[6月11日 (旧暦)|11日]]には尼崎([[尼崎市]])に達し、いわゆる「[[中国大返し]]」と言われる機敏さで[[畿内]]へ急行した。<br /> <br /> 秀吉の懸念材料は、京都への進路上に勢力を張る摂津衆の動向であった。もし彼らが光秀方に与し足止めを受ければ、短期決戦に持ち込みたい羽柴軍の思惑に狂いが生じる。折しも、本能寺の変を嗅ぎつけた摂津衆の一人・[[中川清秀]]から書状が舞い込み、秀吉は「上様(信長)・殿様([[織田信忠|信忠]])は危難を切り抜けられ[[大津市|膳所]]に下がっておられる。これに従う[[福富秀勝]]は比類なき功績を打ち立てた」という旨の返書を清秀に出した(6月5日付)。もちろん虚報であったが、光秀が大坂方面を重要視しなかったことも手伝って清秀・[[高山右近]]を始めとする摂津衆の多くが秀吉軍に味方する。四国の[[長宗我部氏|長宗我部]]征伐のために大坂に集結していた[[織田信孝|神戸信孝]](織田信孝)・丹羽長秀は徳川家康の接待のために軍を離れており、本能寺の変の噂を伝え聞いた雑兵の多くは逃亡してしまったが、何とか数千の兵をまとめて合流し、最終的に秀吉軍は2万を超えた。<br /> <br /> 羽柴軍は[[6月12日 (旧暦)|12日]]に[[高槻市|富田]]で軍議を開き、秀吉は総大将に長秀、次いで信孝を推したが、逆に両者から望まれて自身が事実上の盟主となり(名目上の総大将は信孝)、山崎を主戦場と想定した作戦部署を決定した。なお、長秀と信孝は軍議に先立ち、光秀に内通の疑いがあった光秀の女婿・[[津田信澄]]を自刃に追い込んでいる。<br /> <br /> 一方、光秀は変後の京の治安維持に当たった後、[[武田元明]]・[[京極高次]]らの軍を[[近江国|近江]]に派遣し、京以東の地盤固めを急いだ。これは光秀の居城である[[坂本城]]や織田家の本拠地であった[[安土城]]の周辺を押さえると共に、当時の織田家中で最大の力を持っていた柴田勝家への備えを最優先したためと考えられる。数日内に近江は[[瀬田城]]([[山岡景隆]]・[[山岡景佐|景佐]]兄弟居城。山岡兄弟は光秀の誘いを拒絶し、[[瀬田橋]]を焼き落として抵抗の構えを見せた後、一時[[甲賀市|甲賀]]方面に退避)、[[日野城]]([[蒲生賢秀]]・[[蒲生氏郷|賦秀]]父子居城)などを残し平定された。その傍ら、有力組下大名に加勢を呼びかけたが、縁戚であった[[細川幽斎|細川藤孝]]・[[細川忠興|忠興]]父子は3日に「喪に服す」として剃髪、中立の構えを見せることで婉曲的にこれを拒んだ。奥丹後の領主・一色氏は、明智光秀に味方したので、南丹後の細川氏は軍勢を動かせない状態だった。また、[[筒井順慶]]はこれに応じ配下を山城に派遣していたが、秘密裏に秀吉側に寝返り、9日までに居城の[[郡山城 (大和国)|大和郡山城]]で籠城の支度を開始した( →「[[#成句|成句「洞ヶ峠」]]」)。<br /> <br /> こうした状況下で光秀は[[6月10日 (旧暦)|10日]]に秀吉接近の報を受け、急いで[[淀古城|淀城]]・[[勝竜寺城]]の修築に取り掛かり、[[男山]]に布陣していた兵を撤収させた。しかし、光秀は予想を越える秀吉軍の進軍に態勢を十分に整えられず、2倍から3倍とされる兵力差のまま決戦に臨むこととなる。<br /> <br /> === 合戦経過 ===<br /> 両軍は12日頃から円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣する。羽柴軍は前夜に中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、[[池田恒興]]らが右翼に、[[黒田孝高]]、[[豊臣秀長|羽柴秀長]]、[[神子田正治]]らが[[天王山]](標高270m)山裾の[[西国街道|旧西国街道]]に沿って布陣し、秀吉の本陣はさらに後方の[[宝積寺]]に置かれた。これに対して明智軍は御坊塚の光秀の本陣&lt;ref&gt;光秀の本陣は従来大山崎町下植野の境野古墳群にあったと考えられており、現地には大山崎町の設置した「光秀本陣跡」の説明板もある。しかし、2011年に大山崎町に隣接する長岡京市の大阪成蹊大学構内の発掘で大規模な堀跡が見つかり、同市埋蔵文化財センターは、光秀の本陣跡であることがほぼ確実になったとしている({{cite news |title= 「光秀本陣跡」決定的に 秀吉軍防御?の堀跡発見<br /> |author= |newspaper= [[朝日新聞]]|date= 2011-8-4|url= http://www.asahi.com/culture/update/0804/OSK201108040109.html|accessdate=2011-9-16}})。&lt;/ref&gt;の前面に[[斎藤利三]]、[[阿閉貞征]](貞秀)、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った。当時の山崎には沼地が広がっていたため大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、明智軍がその出口に蓋をした形となっている。<br /> <br /> 局地的な小競り合いはあったものの、翌13日(雨天だったと言われる)も対峙は続く。同日午後4時頃、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動していた中川隊に斎藤隊の右側に布陣していた[[伊勢貞興]]隊が襲い掛かり( →「[[#成句|成句「天王山」]]」)、それに呼応して斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し戦端が開かれた。斎藤・伊勢隊の猛攻を受けた中川・高山両隊は窮地に陥るが、秀吉本隊から[[堀秀政]]の手勢が後詰に到着したことで持ちこたえる。天王山麓に布陣していた黒田・秀長・神子田らの部隊は前方に展開し、中川・高山両隊の側面を突くべく天王山中腹を進撃してきた[[松田政近]]・[[並河易家]]両隊と交戦、一進一退の攻防が続いた。<br /> <br /> 戦局が大きく動いたのは一刻後、[[淀川]](旧流域)沿いを北上した池田恒興・[[池田元助|元助]]父子と[[加藤光泰]]率いる手勢が、密かに円明寺川を渡河して[[津田信春]]を奇襲。津田隊は三方から攻め立てられ、雑兵が逃げ出したこともあり混乱をきたす。また、池田隊に続くように丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突くような形となった。これを受けて苦戦していた中川・高山両隊も斎藤・伊勢両隊を押し返し、動揺が全軍に広がった明智軍はやがて総崩れとなった。[[御牧兼顕]]隊は「我討死の間に引き給え」と光秀に使者を送った後、勢いづく羽柴軍を前に壊滅。光秀は戦線後方の勝竜寺城に退却を余儀なくされるが、主力の斎藤隊が壊走し戦線離脱、黒田孝高らの隊と交戦していた松田政近、殿を引き受けた伊勢貞興らが乱戦の中で討死するなど甚大な打撃を受けた。<br /> <br /> 一方の羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、日没が迫ったこともあり追撃は散発的なものに留まったが、それ以上に明智軍では士気の低下が著しく、勝竜寺城が大軍を収容できない平城だったこともあって兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減衰した。光秀は勝竜寺城を密かに脱出して居城[[坂本城]]&lt;!--([[大津市]])--&gt;を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪([[京都市]][[伏見区]]、現在は「明智藪」と呼ばれる)で土民の[[落ち武者狩り]]に遭い、そこで竹槍に刺されて絶命したとも、何とか逃れたものの力尽きて家臣の介錯により自刃したとも伝えられる( →「[[#成句|成句「三日天下」]])&lt;!--(実際には11日ないし12日間)--&gt;。<br /> [[ファイル:Yamazaki03.jpg|thumb|旗立松(6代目)]]<br /> <br /> === 戦後の経過 ===<br /> 翌日に勝竜寺城に入り体勢を整えた秀吉は堀秀政を近江への交通路遮断と光秀捜索に派遣し、堀隊は[[6月14日 (旧暦)|14日]]に光秀の後詰のために急遽出兵した[[明智秀満]]の軍を[[大津市|打出の浜]]で迎え撃ち撃破した。300余の兵を討ち取られ敗走した秀満は坂本城で相手方に家宝を贈呈した後、光秀の妻子を殺害し、[[溝尾茂朝]]、[[明智光忠]]と共に自刃した。中川・高山両隊は[[丹波国|丹波]][[亀山城 (丹波国)|亀山城]]に向かい、光秀の息子[[明智光慶]]を自刃させ城を占拠。ここに[[明智氏]]は僧籍にいた者などを除いて滅んだ。京に入った羽柴軍はさらに[[6月16日 (旧暦)|16日]]に[[長浜城 (近江国)|長浜城]]の[[妻木範賢]]、[[佐和山城]]の[[荒木行重]]、山本山城の阿閉貞征・[[阿閉貞大|貞大]]父子、[[山崎片家]]らの逃亡または降伏によって近江を平定。[[6月17日 (旧暦)|17日]]には斎藤利三が潜伏先の[[堅田]]&lt;!--(大津市堅田)--&gt;で生け捕りにされ、[[六条河原]]で[[斬首]]あるいは[[磔刑]]に処された。<br /> <br /> 秀吉は、この信長の弔い合戦に勝利した結果、[[清洲会議]]を経て信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始める。清洲会議後の7月19日には、最後に残った光秀方の将である武田元明が丹羽長秀に攻められ自刃、京極高次は妹または姉の[[京極竜子|竜子]](松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏した。<br /> <br /> 光秀の敗因はまず兵力差が挙げられる。これには秀吉の動きが予想を遥かに上回る迅速さだったこと、中国平定のために秀吉が信長軍の主力を任されていたこと、周辺勢力の助力を得られなかったこと(特に畿内の有力大名であった細川・筒井両氏)、兵を近江方面に割いていたことなど様々な要因が絡んでおり、結果的に光秀は十分な兵力を揃えられないまま京と西国を結ぶ最後の要所である山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされた。羽柴方にも強行軍による将兵の疲弊という不安要素はあったが、総じて戦略段階で既に大勢は決していたと言える。<br /> <br /> 現在の天王山山中には「秀吉旗立ての松」が残っている他、合戦の経過を解説する石板などが設置されている。<br /> <br /> == 両軍の参戦武将 ==<br /> * 羽柴軍(約4万0000)<br /> ** 高山右近・[[木村重茲]]:2000<br /> ** 中川清秀:2500<br /> ** 池田恒興・池田元助・加藤光泰:5000<br /> ** 丹羽長秀:3000(秀吉本隊の中に入れる資料もある)<br /> ** 織田信孝:4000(秀吉本隊の中に入れる資料もある)<br /> ** 秀吉本隊(羽柴秀長・黒田孝高・蜂須賀正勝・堀秀政・[[中村一氏]]・堀尾吉晴・・神子田正治・[[蜂屋頼隆]]など):20000<br /> 秀吉本隊中には他に直番衆として[[加藤清正]]、[[福島正則]]、[[大谷吉継]]、[[山内一豊]]、[[増田長盛]]、[[仙石秀久]]、[[田中吉政]]といった顔ぶれもいた。<br /> <br /> 『太閤記』による光秀軍の構成は、以下の通りである。<br /> <br /> * 明智軍(約1万6000)<br /> ** 美濃衆 斎藤利三・[[柴田勝定]]&lt;ref&gt;柴田勝定は柴田勝家の重臣。藤田(2003)p.170&lt;/ref&gt;:2000<br /> ** 近江衆 阿閉貞征・溝尾茂朝(明智茂朝):3000<br /> ** 山城・丹波衆 松田政近・並河易家:2000<br /> ** 旧足利幕臣 伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕:2000<br /> ** 河内衆 津田正時:2000<br /> ** 光秀本隊([[藤田行政]]など):5000<br /> その他、[[小川祐忠]]、進士貞連、[[可児吉長]]、津田信春(=津田平蔵とする説あり)などが参加していた。なお、明智五宿老のうち、光秀の従兄弟の[[明智光忠]]のみが、二条城攻撃時の負傷のため合戦に参加できなかった。<br /> [[ファイル:Yamazaki02.jpg|thumb|center|700px|天王山から見下ろす山崎合戦之地。現在の[[大山崎ジャンクション|大山崎JCT]](写真中央左)あたりを挟んで両軍が対陣したと言われている。]]<br /> <br /> == 他の諸将の動き ==<br /> ;柴田勝家<br /> :上杉対策を[[前田利家]]、[[佐々成政]]らに託し京に向かったが、越前・近江国境の[[北陸道|柳ヶ瀬峠]]に到達したところで合戦の報が入り、そのまま[[清洲城]]に向かった。<br /> ;滝川一益<br /> :織田信長・信忠の死に乗じて北条軍が上野に侵攻(一説には[[北条氏政]]から変についての情報がもたらされ、「北条は手出ししない」という声明もあったが一益はこれを偽計と判断)し、[[神流川の戦い]]に至る。第一次合戦で北条勢を退けるものの第二次合戦で大敗し、[[碓氷峠]]から本拠地・伊勢に7月に帰還。清洲会議にも参加できず、以後零落の一途をたどる。<br /> ;徳川家康<br /> :いわゆる[[伊賀越え|神君伊賀越え]]を経て[[岡崎城]]から光秀討伐に向かったが、[[緑区 (名古屋市)|鳴海]](一説に[[熱田区|熱田]]。[[酒井忠次]]は北伊勢まで進出していた)に到達したところで合戦の情報が入り反転。以後、空白地帯となった甲斐・信濃の領土化を目指し、同じく甲斐・信濃の領土化を目指した北条氏と[[天正壬午の乱]]で戦う。<br /> <br /> == 成句 ==<br /> 二大勢力が争っているときに、有利な方へ味方しようと日和見することを「&#039;&#039;&#039;洞ヶ峠&#039;&#039;&#039;(ほらがとうげ)」という。ものごとの勝敗を決める正念場や運命の分かれ目のことを「&#039;&#039;&#039;天王山&#039;&#039;&#039;(てんのうざん)」という(「天下分け目の天王山」と呼ばれる場合も多いが、正しい使い方でない)。権力を極めて短い期間のみ握ることを「&#039;&#039;&#039;三日天下&#039;&#039;&#039;(みっかてんが/みっかでんか)」という。これらはいずれもこの山崎の戦いに由来する[[:Category:日本語の成句|成句]]である。ただし必ずしも史実に即したものではなく、むしろその伝説に由来している。<br /> <br /> ;「洞ヶ峠」<br /> :信長から大和一国に封じられていた筒井順慶は、光秀が率いる畿内方面軍の中では光秀に次ぐ勢力があり、また単に光秀の与力大名としてではなく、光秀とは個人的にも極めて親しい間柄にあった。本能寺の変後、光秀から味方につくように誘われると、順慶は去就に迷う。伝承では、順慶は光秀に乞われて[[洞ヶ峠]]まで出陣しながら、光秀方に加勢することを逡巡、合戦が始まっても形勢を窺うばかりで兵を動かさなかったということになっている。確かに順慶は光秀の求めに応じて少人数の配下を山城国に派遣していたが、実際には密かに秀吉方に寝返ることを決めており、居城で籠城の準備に取り掛かっていた。そうとは知らない光秀は、煮え切らない順慶に加勢の催促をしようと会談を申し入れ、次男を連れて洞ヶ峠まで赴いたが、約束の日時になっても順慶は現れなかった。光秀はすっぽかされたのである。<br /> <br /> ;「天王山」<br /> :山崎の戦いは、秀吉方の中川清秀の隊が高山右近の隊の横に陣取ろうと、天王山の山裾に移動してきたことが合戦の緒端となった。この両隊に光秀方の軍勢が襲いかかり、一時は崩壊寸前まで追いつめられたが、秀吉方の援軍の到着で辛くも窮地を脱し、それでも一進一退の後に、最終的には光秀方を押し返すことに成功した。これがいつしか「秀吉方が天王山を占拠して光秀方を牽制したことが戦いの帰趨を決めた」と言われるようになり、そこからこの合戦は「天王山の戦い」と呼ばれるまでになった。しかし実際には、天王山の争奪は戦局に大きな影響を与えておらず、そもそも天王山の争奪戦そのものがあったかどうかも定かでない。『中川家記』や『太閤記』などがこの逸話を創作した、あるいは風聞を写し書きしたとする史家も多く、そのため今日ではこの合戦を「山崎の戦い」と呼ぶことが大勢となっている。<br /> <br /> ;「三日天下」<br /> :肥後細川家に伝わる『明智光秀公家譜覚書』には、本能寺の変後光秀が細川藤孝・忠興父子に味方になることを説得した書状が所収されており、その中で光秀は変の後参内し、[[従三位]]・[[中将]]に叙任された上で征夷大将軍の宣下を受けたと書かれている。この史料の信憑性には疑問の余地があるものの、変後の政局が光秀を中心として展開したことは間違いない。では光秀の「天下」が実際にはどのくらいだったのかというと、本能寺の変が天正10年6月2日、山崎の戦いが同月13日、差し引き11日ないし12日間の「天下」だった。<br /> <br /> == 補注 ==<br /> &lt;div class = &quot;references-small&quot;&gt; &lt;references /&gt; &lt;/div&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 帝国陸軍参謀本部編『日本戦史 山崎役』村田書店、1920年/1979年<br /> * [[河野豊]]「疾風怒濤の大返し―山崎の合戦」『[[歴史群像]]シリーズ③羽柴秀吉【怒濤の天下取り】』[[学研ホールディングス|学習研究社]]、1987年。<br /> * [[桐野作人]]「大軍で制した天下取りの起点―山崎の戦い」『歴史群像シリーズ30豪壮秀吉軍団』学習研究社、1992年。<br /> * [[谷口克広]]「中川清秀 野心家、最後に秀吉の囮とさる」『歴史群像シリーズ30豪壮秀吉軍団』学習研究社、1992年。<br /> * [[藤田達生]]『謎とき 本能寺の変』講談社&amp;lt;講談社現代新書&amp;gt;、2003年10月。ISBN 4-06-149685-9<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Category:Battle of Yamazaki}}<br /> *[[山崎城 (山城国)]]<br /> *[[勝竜寺城]]<br /> *[[中国大返し]]<br /> <br /> {{豊臣政権}}<br /> {{デフォルトソート:やまさきのたたかい}}<br /> [[Category:安土桃山時代の戦い]]<br /> [[Category:日本の戦国時代の戦い]]<br /> [[Category:豊臣秀吉|戦やまさき]]<br /> [[Category:明智氏|戦やまさき]]<br /> [[Category:山城国|戦やまさき]]<br /> [[Category:摂津国|戦やまさき]]<br /> [[Category:島本町の歴史]]<br /> [[Category:大山崎町の歴史]]<br /> [[Category:1582年の日本]]<br /> [[Category:1582年の戦闘]]</div> 240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332 三方ヶ原の戦い 2018-05-17T06:57:23Z <p>240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{Battlebox<br /> |battle_name=三方ヶ原の戦い<br /> |image=[[File:Battle of Mikatagahara.jpg|300px|]]<br /> |caption=「元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖」&lt;br /&gt;[[歌川芳虎]]画 明治7年([[1874年]])<br /> |conflict=[[西上作戦]]<br /> |date=[[1573年]][[1月25日]]<br /> |place=[[三方原|三方ヶ原]]周辺<br /> |result=武田軍の圧勝<br /> |combatant1=[[武田氏|武田]]軍[[File:Japanese Crest Takedabishi.svg|15px]]<br /> |combatant2=[[徳川氏|徳川]]軍[[File:Mitsubaaoi.svg|15px]]&lt;br/&gt;[[織田氏|織田]]軍[[ファイル:Oda emblem.svg|15px]]<br /> |commander1=[[武田信玄]]<br /> |commander2=[[徳川家康]]<br /> |strength1=27,000&amp;thinsp;~&amp;thinsp;43,000<br /> |strength2=11,000&amp;thinsp;~&amp;thinsp;28,000<br /> |casualties1=100&amp;thinsp;(松平記)&lt;br/&gt;500&amp;thinsp;(上杉家文書)<br /> |casualties2=500&amp;thinsp;(松平記)&lt;br/&gt;1,000&amp;thinsp;([[伊能文書]])&lt;br/&gt;数千&amp;thinsp;(甲斐国志)<br /> |campaign= 徳川家康の戦闘<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;三方ヶ原の戦い&#039;&#039;&#039;(みかたがはらのたたかい)は、[[元亀]]3年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]([[西暦]][[1573年]][[1月25日]])に、[[遠江国]][[敷知郡]]の[[三方原|三方ヶ原]](現在の[[静岡県]][[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]][[三方原|三方原町]]近辺)で起こった[[武田信玄]]と[[徳川家康]]・[[織田信長]]の間で行われた戦い。[[信長包囲網#第二次包囲網|信長包囲網]]に参加すべく[[西上作戦|上洛]]の途上にあった信玄率いる武田軍を、徳川&amp;thinsp;・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。<br /> <br /> == 合戦前夜 ==<br /> === 背景 ===<br /> 戦国期に[[甲斐国]]は[[信濃侵攻]]を行い領国を拡大し越後の上杉氏と対決していたが、永禄4年の[[川中島の戦い]]を契機に方針を転換し、それまで同盟国であった駿河国の今川領国への侵攻を開始する([[駿河侵攻]])。また、[[桶狭間の戦い]]において今川氏当主の[[今川義元|義元]]が尾張国の[[織田信長]]に討ち取られると、今川氏に臣従していた三河国の松平元康([[徳川家康]])は三河において織田氏と同盟関係を結び独立した。<br /> <br /> 駿河侵攻により[[武田氏]]は駿河において三河の[[徳川氏]]や今川氏の同盟国であった相模国の[[後北条氏|北条氏]]に挟撃される形となる。やがて武田氏は北条氏を退けて今川領国を確保し、徳川領国である三河・遠江方面への侵攻を開始する。武田氏の侵攻に対して徳川氏は同盟関係にある[[織田氏]]の後援を受け、東海地域においては武田氏と織田・徳川勢の対決が推移する。<br /> <br /> 元亀2年([[1571年]])、[[室町幕府]]15代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義昭]]は織田信長討伐令を出し([[信長包囲網#第二次包囲網|第二次信長包囲網]])、それに応える形で信玄は翌元亀3年に徳川領国である[[遠江国]]・[[三河国]]に大規模な侵攻を行う(ただし、武田氏と織田氏は同盟関係は維持していたため、当初織田氏は徳川氏に援軍を送らなかった)。同年末には[[北条氏康]]の死をきっかけに北条氏は武田氏と和睦して[[甲相同盟]]が復活し、後顧の憂いを絶った信玄は、翌元亀3年に[[西上作戦]]を開始する。<br /> <br /> === 西上作戦 ===<br /> [[元亀]]3年([[1572年]])、武田軍は兵を3つの隊に分けて、[[遠江国]]・[[三河国]]・[[美濃国]]への同時侵攻を開始した。<br /> * [[山県昌景]]は、『当代記』によれば秋山虎繁とともに別働隊を率いて信濃から三河へ侵攻したという&lt;ref&gt;丸島(2015)、p.684&lt;/ref&gt;。軍勢は5,000人とされる。9月29日、信濃国・[[諏訪地域|諏訪]]より東三河に侵攻、[[徳川氏]]の支城・[[武節城]]の攻略を初めとして南進。東三河の重要な支城である[[長篠城]]を攻略した後、遠江国に侵攻。<br /> * [[秋山虎繁]](信友)は、信濃国[[大島城]]([[長野県]][[下伊那郡]][[松川町]])の[[城代]]で、「下伊那郡司」として信濃下伊那郡から美濃・三河・遠江方面の軍事・外交を担っていた&lt;ref&gt;丸島(2015)、p.22&lt;/ref&gt;。『[[当代記]]』によれば、秋山は山県隊とともにほぼ同時に居城・[[高遠城]]より[[岩村遠山氏]]の領地を通って、徳川氏の本拠地の三河へ攻め込もうとしたため[[岩村遠山氏]]と徳川氏との連合軍との間で[[上村合戦]]が勃発した&lt;ref&gt;丸島(2015)、p.22&lt;/ref&gt;。秋山隊の軍勢は2,500人とされる。秋山隊の勢いに押された徳川方は殆んど戦わずして退却した。秋山隊は、織田方の岩村遠山氏の主要拠点・[[岩村城]]を包囲(事実上の織田氏との同盟破棄)山県隊と。11月初旬に攻略。<br /> * [[武田信玄]]率いる2万2,000人の本隊(うち[[後北条氏|北条氏]]の援軍2,000人)は10月3日、[[甲府市|甲府]]より出陣し、山県隊と同じく諏訪へ迂回した後、[[青崩峠]]から遠江国に侵攻。途中、[[犬居城]]で[[馬場信春]]隊5,000人を別働隊として西の[[只来城]]に向かわせて別れ、南進して要所・[[二俣城]]へ向かう。<br /> <br /> 総計3万人の軍勢は、当時の武田氏の最大動員兵力であった。本来小さな支城1つ落とすのにも1ヶ月近くかかるところを、平均3日で陥落させていった。一方の徳川氏の動員兵力は最大でも1万5,000人ほどに過ぎず、しかも三河国に山県隊が侵攻していたため、遠江国防衛のためには実際には8,000人余しか動員できなかった。さらに盟友の織田氏は、いわゆる[[信長包囲網]]に参加した[[近畿]]の各勢力との戦いの最中であった。<br /> <br /> === 一言坂・二俣城の戦い ===<br /> {{main|一言坂の戦い|二俣城の戦い}}<br /> 10月13日に[[只来城]]を落とした[[馬場信春]]隊はその後、[[徳川氏]]の本城・[[浜松城]]と支城・[[掛川城]]・[[高天神城]]を結ぶ要所・[[二俣城]]を包囲し、[[武田信玄|信玄]]率いる武田軍本隊も二俣城に向かっていた。10月14日、二俣城を取られることを避けたい[[徳川家康|家康]]がひとまず武田軍の動向を探るために威力偵察に出たが、一言坂で武田軍本隊と遭遇し敗走する(&#039;&#039;&#039;[[一言坂の戦い]]&#039;&#039;&#039;)。<br /> <br /> 10月16日には武田軍本隊も包囲に加わり、降伏勧告を行う。二俣城は1,200人の兵力しか無かったがこれを拒否したため、10月18日から武田軍の攻撃が開始される。11月初旬に[[山県昌景]]隊も包囲に加わり、そして城の水の手を絶たれたことが致命的となって、12月19日、助命を条件に開城・降伏した(&#039;&#039;&#039;[[二俣城の戦い]]&#039;&#039;&#039;)。これにより、[[遠江国]]の北部が武田領となっていた。<br /> <br /> == 三方ヶ原の戦い ==<br /> === 織田家の武将 ===<br /> 織田信長による援軍は、[[二俣城]]落城の少し前に派遣された。この織田家から派遣された武将には諸説が有り、<br /> * [[信長公記]] - [[佐久間信盛|佐久間右衛門]]・[[平手汎秀|平手甚左衛門]]・[[水野信元|水野下野守]]大将トシテ、<br /> * [[松平記]] - 平手(汎秀)・水野(信元)・[[林秀貞|林(秀貞)]]・佐久間(信盛)、<br /> * [[佐久間軍記]] - 佐久間右衛門尉ヲ為大将、七頭ヲサシコサル <br /> * [[明智軍記]] - 佐久間右衛門尉・林佐渡守・[[滝川一益|滝川左近将監]]、五千余騎ヲ卒シ、<br /> * [[総見記]] - 佐久間右衛門尉・平手甚左衛門ヲ両将トシ、林佐渡守・水野下野守・[[毛利秀頼|毛利河内守]]・[[西美濃三人衆|美濃三人衆]]([[稲葉良通]]、[[安藤守就]]、[[氏家直元]])、都合三千ノ人数ヲ遣ハサレ、<br /> <br /> となっている。[[谷口克広]]は「佐久間は織田軍の最有力武将、平手は織田家代々の家老の家柄、水野は尾張から三河にかけて大きな勢力を持つ水野一族の惣領である。それを合計してわずか3千の兵というのは信じがたい。おそらく信長は、彼らの兵をほとんど尾張・美濃方面に残しておいたのだろう。」と援軍の武将と兵数を評している&lt;ref&gt;『織田信長合戦全録』P.112&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 織田家の援軍数 ===<br /> 織田家の援軍の数も諸説が有り、<br /> * 佐久間軍記 - 七頭(約1.5万人:1頭は2,100人とされる)<br /> * 明智軍記 - 5,000人<br /> * 総見記(織田軍記) - 3,000人<br /> * [[甲陽軍鑑]] - 「信長加勢を九頭まで仕る」(約1.9万人)<br /> * 前橋酒井家旧蔵聞書 - 信玄軍2.8万、徳川6千、織田の援軍2万。([[国立公文書館]]蔵 [[紅葉山文庫]])<br /> <br /> となっている。[[磯田道史]]は、文献調査&lt;ref&gt;『朝野旧聞裒藁』を含む。&lt;/ref&gt;の結果として織田の援軍を2万とし、織田の援軍は[[岡崎城]]([[岡崎市]])から[[吉田城 (三河国)|吉田城]]([[豊橋市]])を経て[[白須賀]]([[湖西市]])へ分散配置されていたとする説を述べている&lt;ref&gt;『「家康大敗」の真相は』「古今をちこち」磯田道史。読売新聞2013年11月27日29面&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 三方ヶ原における合戦の経緯 ===<br /> [[ファイル:Mikatahara Battlefield.jpg|thumb|三方原古戦場(静岡県浜松市北区根洗町)]]<br /> 当初、徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いは本城・[[浜松城]]であると考え、[[籠城|籠城戦]]に備えていた。一方の武田軍は、二俣城攻略から3日後の[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]に二俣城を発すると、遠州平野内を西進する。これは[[浜名湖]]に突き出た[[庄内半島]]の先端に位置する[[堀江城]](現在の[[浜松市]][[西区 (浜松市)|西区]][[舘山寺]]町)を標的とするような進軍であり、武田軍は浜松城を素通りしてその先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた。<br /> <br /> これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出た。そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は[[陣形#日本の代表的陣形|魚鱗の陣]]を敷き万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は[[陣形#日本の代表的陣形|鶴翼の陣]]をとり両軍の戦闘が開始された。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して壊走する。<br /> <br /> 武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2,000人のほか、[[鳥居忠広|鳥居四郎左衛門]]、[[成瀬正義|成瀬藤蔵]]、[[本多忠真]]、[[田中義綱]]といった有力な家臣をはじめ、先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした[[中根正照]]、[[青木貞治]]や、家康の身代わりとなった[[夏目吉信]]、[[鈴木久三郎]]といった家臣、また織田軍の[[平手汎秀]]といった武将を失った。このように[[戦闘#陸戦|野戦]]に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや本多忠勝などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできなかった。<br /> <br /> === 家康の敗走と犀ヶ崖の戦い ===<br /> [[ファイル:Saigagake Monument.jpg|thumb|三方原古戦場犀ヶ崖碑(静岡県浜松市中区鹿谷町)]]<br /> 武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、[[成瀬正一 (戦国武将)|成瀬吉右衛門]]、[[日下部定好|日下部兵右衛門]]、[[小栗久政|小栗忠蔵]]、[[島田重次|島田治兵衛]]といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この敗走は後の[[伊賀越え#神君伊賀越え|伊賀越え]]と並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる[[空城計]]を行う。そして湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。この心の余裕を取り戻した家康の姿を見て将兵は皆安堵したとされる。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、[[空城計|空城の計]]によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げる。<br /> <br /> 同夜、一矢報いようと考えた家康は[[大久保忠世]]、[[天野康景]]らに命令し、浜松城の北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を[[夜戦|夜襲]]させる([[犀ヶ崖の戦い]])。この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、崖に誘き寄せるために徳川軍が崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなどの策を講じ、その結果、多数の死傷者を出したという。<br /> <br /> ただし、「犀ヶ崖の戦い」は徳川幕府によって編纂された史料が初出である。「幅100mの崖に短時間で布を渡した」、「十数丁の鉄砲と100人の兵で歴戦の武田勢3万を狼狽させた」、「武田勢は谷風になびく布を橋と誤認した」という、荒唐無稽な逸話である。また、戦死者数も書籍がどちらの側に立っているかによって差があり、『織田軍記』では徳川勢535人、甲州勢409人と互角に近い数字になっている。<br /> <br /> == 合戦後 ==<br /> 『甲陽軍鑑』によれば、三方原合戦後に武田氏は正式に信長と断交したという。ほぼ兵力を温存した状態の武田軍は[[遠江国]]で越年した後、元亀4年([[1573年]])正月に東[[三河国|三河]]へ侵攻する。2月16日には徳川軍にとって東三河防衛の要所である[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略する(&#039;&#039;&#039;[[野田城の戦い]]&#039;&#039;&#039;)。<br /> <br /> 間もなく[[武田信玄|信玄]]の病状悪化に伴い、武田軍は[[西上作戦]]を切り上げて[[甲斐国]]への撤退を決断し、帰路の元亀4年/天正元年4月12日に信玄は信濃伊那郡駒場において病死する。また、『松平記』にて、この野田城の戦いで武田信玄が、討ち死にしたとの異説が記述されている。<br /> <br /> [[武田氏]]では信玄の死を秘匿し、四男の[[武田勝頼]]が[[家督]]を継ぐ。その際の間隙を突いて武田軍の撤退から半年も経たない8月には家康は[[長篠城]]を取り戻すことに成功した上に、[[奥平貞能]]・[[奥平信昌|貞昌]]親子の調略も成功させている。これらは後の&#039;&#039;&#039;[[長篠の戦い]]&#039;&#039;&#039;で大きな意味を持つことになる。勝頼は翌天正2年([[1574年]])には三河・美濃岩村田へ侵攻し、2月7日には[[明智城]]を攻略している。<br /> <br /> 信長は反信長勢力を打破し、三河・遠江では家康が反攻を強めた。一方で天正年間に勝頼は[[小笠原信興|小笠原長忠]]が篭る[[高天神城]]を落とすなど遠江の再掌握を開始することに成功する。しかし天正3年(1575年)5月21日に三河における長篠の戦いでは武田方は織田・徳川連合軍に敗れる。<br /> <br /> 勝頼は信長との和睦を試みるが([[甲江和与]])、天正9年([[1581年]])には徳川家康の遠江国[[高天神城]]の包囲に対して勝頼は救援を出せないまま高天神城は落城し、翌年天正10年([[1582年]])3月には織田・徳川連合軍の武田領侵攻([[甲州征伐]])により、武田家は滅亡した。<br /> <br /> == 三方ヶ原の戦いをめぐる論点 ==<br /> === 家康が出陣した理由 ===<br /> 通説では、[[武田信玄|信玄]]の挑発(相手にされず素通りされたこと)に乗ったとされているが、様々な説がある。<br /> <br /> あえてここで出撃することによって家臣や[[国人]]衆たちの信頼を得る(ここで武田軍が去るのをただ待つだけでは調略に乗る者や離反者が出る可能性があった)、[[織田氏]]・[[武田氏]]のどちらが勝つにせよ戦役終了後に[[徳川氏]]に有利になるよう戦略的アピールを狙ったなどがあるが、祝田の坂を利用し一撃離脱を図っていたという説や、挑発に乗った振りをして[[浜松城]]近辺に武田軍を足止めするための時間稼ぎを狙っていた&lt;ref&gt;[[染谷光広]]「武田信玄の西上作戦小考―新史料の信長と信玄の文書―」(『日本歴史』360号、1978年)&lt;/ref&gt;と言った戦術的面から見た説もある。<br /> <br /> また、『[[当代記]]』『[[四戦紀聞]]』などの史料によれば、家康は戦うつもりが無かったが、物見に出ていた部下が小競り合いを始めてしまい、彼らを城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込まれてしまった、という旨の記述がある。<br /> <br /> === 両軍の布陣 ===<br /> この戦において徳川軍は[[陣形#日本の代表的陣形|鶴翼の陣]]を取り、武田方は[[陣形#日本の代表的陣形|魚鱗の陣]]で待ち構えていたとされる。鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形であり、数に劣る徳川軍、数に勝る武田軍であったとすると、どちらも定石と異なる布陣を敷いていたことがわかる。<br /> ; 徳川方が鶴翼の陣を取った理由の説<br /> # そもそも武田軍本隊は去っており、待ち構えているのは少数であると予想していたため。<br /> # 最初から勝ち目が無いことはわかっていたため、兵力を大きく見せることで相手の動揺を誘おうとした。<br /> ; 武田軍が魚鱗の陣を取った理由の説<br /> # 鶴翼の陣を見て大将首(家康)を討ち取ることに狙いを絞った(鶴翼は両翼に比重を置くため中央は必然的に薄くなる)。<br /> # 織田軍の中でも特に増員兵力の多い[[佐久間信盛]]が援軍にいる情報を得ていたことなどから、織田軍の支援を考慮して相手方を多く見積もっていた。<br /> <br /> 他にも説はあるが、何れにしてもはっきりしたことはわかっていない。<br /> <br /> === 合戦跡 ===<br /> 実は三方ヶ原の戦いにおける主戦場はわかっていない。現在の三方原墓園([[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]]根洗町)に古戦場の碑こそあるが、特定されているわけではない。<br /> <br /> 一方で犀ヶ崖の戦いにおける古戦場としては、犀ヶ崖資料館(浜松市[[中区 (浜松市)|中区]]鹿谷町)があり、また戦の故事から浜松市に[[布橋]]という地名がある。<br /> <br /> === 小山田信茂の投石隊 ===<br /> 三方ヶ原の戦いでは武田家臣の[[小山田信茂]]が[[投石|投石隊]]を率いたとする逸話が知られる。三方原における投石隊に関して、『信長公記』諸本では武田氏では「水役之者」と呼ばれた200 - 300人の投石部隊が礫(つぶて)を打ったと記している&lt;ref name=&quot;maru210&quot;&gt;丸島(2013)、p.210&lt;/ref&gt;。一方、『三河物語』でも武田氏では「郷人原(ごうにんばら)」と呼ばれた投石隊が率いられていたとしている&lt;ref name=&quot;maru210&quot;/&gt;。<br /> <br /> これらの史料では投石隊を率いたのが小山田信茂であるとは記述されていないが、江戸時代には[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])の遠山信春『總見記(そうけんき)』においては信玄は信茂に先陣を命じ、それとは別に「水役之者」を先頭に立たせ礫を投げさせたと記し、これは「水役之者」を率いたのが小山田信茂であると誤読される可能性が指摘されている&lt;ref name=&quot;maru210&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1910年]]([[明治]]43年)には陸軍参謀本部編『日本戦史 三方原役』においては信茂が投石隊を率いたと記され、[[1938年]]([[昭和]]13年)の『大日本戦史』では陸軍中将・井上一次が同様に投石隊を率いたのが小山田信茂であると記している&lt;ref name=&quot;maru210-211&quot;&gt;丸島(2013)、pp.210 - 211&lt;/ref&gt;。その後、信茂が投石隊を率いた点が明確に否定されることがなかったため、俗説が成立したと考えられている&lt;ref name=&quot;maru210-211&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 逸話 ==<br /> [[ファイル:Mikatagaharasenekizou.jpg|thumb|right|200px|『[[徳川家康三方ヶ原戦役画像]]』(徳川美術館所蔵)。]]<br /> * 現在の温暖な浜松周辺では考えられないが、合戦当時雪が降っていた。<br /> * 浜松市内の地名の「小豆餅」(中区の町名)および「銭取」(同区和合町の地名)は、敗走中の家康が途中で立ち寄った[[茶屋]]の老婆より[[小豆餅]]を買い求めて食べていたが、そのとき武田軍が迫ってきたので代金を払わず逃げ、後から老婆が追いかけて家康から餅代を徴収したという話がその由来として知られているが出典は明確でなく、それほど古くない時代に筋立てが成立した伝承であると考えられる{{Sfn|原|2016|p=7}}。<br /> * 敗走中の家康は途中で腹が減り、付近の農家に食べ物を求めた。家の者は粥を提供したため、後に家康はこの農民に「小粥(おがい)」という名字を授けて庄屋にした。また、家康が武田軍の追跡を逃れるため[[八幡宮#中部地方|浜松八幡宮]]の洞窟に一時身を隠したが、家康の乗馬の白い尾が洞窟の外に出ていた。それに気づいた付近の農民が家康に教えたため、家康は尾を隠して上手く逃げおおせた。後に家康はこの農民に「白尾(しらお)」という名字を授けた。<br /> * 犀ヶ崖の戦いの後、犀ヶ崖の底から転落死した武田兵の霊のうめき声が聞こえて来るようになり人々が恐ろしがった。そこで家康は僧侶の宗円を招き武田兵の霊を弔うための供養を行い、それ以後うめき声は聞こえなくなった。この供養が[[遠州大念仏]]の起源であるという&lt;ref&gt;{{Cite book ja-jp|和書 |author = [[堤邦彦 (国文学者)|堤邦彦]] |title = 寺社縁起の文化学 |edition = 初版第2刷 |year = 2006 |chapter = いくさ語りから怪談へ |publisher = 森話社 |editor = [[徳田和夫]]、[[堤邦彦 (国文学者)|堤邦彦]] |isbn = 4916087593 |ref = harv }} pp.179-181.&lt;/ref&gt;。また、犀ヶ崖の戦いがあったとされる場所は、その伝承によって「布橋」と言う地名になった。浜松には「布橋の雪」という銘菓がある。<br /> * 敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞し、浜松城に入城した後に家臣から脱糞した旨を咎められて「これは味噌だ」と家臣に言い放ったという逸話がよく知られているが、この話は出典となる史料が判明していない。類似した話が記述されている『[[三河後風土記]]』では[[一言坂の戦い]]後の話とされている&lt;ref&gt;[[小楠和正]]『検証・三方ヶ原合戦』(静岡新聞社、2000年) &lt;/ref&gt;。<br /> * [[門松]]の習慣は[[平安時代]]からあったが、現在一般的となっている竹をななめに切って並べる「そぎ」にしたのは家康で、竹を武田家になぞらえて「(三方ヶ原では大敗したが)次は斬る」との意味合いを込めたとされる。<br /> * 撤退戦に際して、家康は騎射で武田勢数名を撃ち倒したと『[[信長公記]]』にある。<br /> * 敗北した家康が浜松城に帰還した際、夜陰に乗じての帰還で供回りも少なかったことから殿の帰城とは信じて貰えず、しばらく自城に入れなかった。<br /> [[ファイル:Sakai Tadatsugu&#039;s drum.jpg|thumb|right|250px|[[月岡芳年]]『酒井忠次時鼓打之図』]]<br /> * 家康が浜松城に逃げ帰った後、[[酒井忠次]]が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞し、武田方には伏兵のあることを疑わせて引き返させたとする「酒井の太鼓」の話は、[[河竹黙阿弥]]の『太鼓音知勇三略』(後に[[新歌舞伎十八番]]の一編となる)が[[1873年]](明治6年)3月に[[市村座|村山座]]で初演されたのが人気を博したことで知られるようになったもので、『三河後風土記』が典拠とされることがあるが同書にそのような記述はなく、城門を開け放しにした話を脚色したと考えられる{{Sfn|原|2016|p=7&amp;ndash;8}}。<br /> * 前哨戦では磐田・[[見附宿|見付町]]の町衆が徳川軍に味方して武田軍に対抗し、そのおかげで家康からいくつかの特権を与えられたという(小和田哲男「戦国の群像」)。史料によると内容は3つである。<br /> **「町衆が狼煙をあげ、武田軍の動きを浜松城の家康に知らせた」<br /> **「夜討ちをかけた武田勢が引き上げるところを、省光寺の裏山にひそんでいた町衆が待ち伏せして襲い、何人かを討ち取った」<br /> **「浅羽の内芝原に信玄が陣取った際、本多忠勝と内藤昌成が見付東坂の上まで物見に出たのだが、信玄隊が急に襲いかかってきたので、町衆は自ら町に火を掛け、本多隊の撤退を助けた」<br /> * 敗戦後、家康はしばらく夢でうなされた。しばしばこの戦で死ぬ夢を見たという。<br /> * 天正8年([[1580年]])に佐久間信盛が織田家から追放された際、信長は信盛が三方ヶ原においてほとんど戦わず、平手汎秀を見殺しにして退却した事を追放の理由の一つとして挙げている。<br /> * 家康はこの戦で人生初の恐怖と大きなトラウマをもらったのは有名だが、同時に武田信玄及び武田軍の武将達に尊敬の念を抱くようになったという説もある。武田氏滅亡後、家康が武田の残党を抱えたのも、山県昌景や小幡信貞の[[赤備え]]を[[井伊直政]]に継がせた(井伊の赤備え)のも敬意の表れだという。<br /> * このほかにも様々な俗説があり、家康が敗走中に部下のとった坊主首を信玄を討ち取ったと言いふらさせた、徳川勢の戦死者が一人も背中を見せて死んでいなかった、信玄が米倉丹後守に火牛の計を授けた、などがある。小説家の[[佐藤春夫]]は、『三河後風土記』などの内容のほか、講釈師が張扇でたたき出した創作などもあるだろうと述べている。&lt;!--『古戦場』佐藤春夫 株式会社人物往来者(昭和37年初版) 随筆なので史料とは言い難く、逸話欄にまとめ--&gt;<br /> <br /> == 三方ヶ原の戦いをテーマにした作品 ==<br /> *ボードゲーム<br /> ** 武田盛衰記([[ツクダホビー]])<br /> ** SAMURAI([[GMT Games]],1996,[[Richard H. Berg]])<br /> ** 信玄上洛([[ゲームジャーナル]]版のミニシナリオ)<br /> ** 三方原合戦([[ウォーゲーム日本史]])<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 『大日本史料』元亀3年12月22日条<br /> * [[小和田哲男]]『三方ヶ原の戦い』<br /> * [[高柳光寿]]『戦国戦記1 三方原の戦』(春秋社、1958年)<br /> * [[染谷光広]]「武田信玄の西上作戦小考―新史料の信長と信玄の文書―」(『日本歴史』360号、1978年)<br /> * [[小楠和正]]『検証・三方ヶ原合戦』(静岡新聞社、2000年) <br /> * [[丸島和洋]]『[[中世武士選書]]19 郡内小山田氏 武田二十四将の系譜』([[戎光祥出版]]、2013年)<br /> * 丸島和洋「秋山虎繁」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』(東京堂出版、2015年)<br /> * 丸島和洋「山県昌景」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』(東京堂出版、2015年)<br /> * {{Cite journal|和書|last=原|first=史彦|title=徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎|date=2016-03-30|publisher=公益財団法人徳川黎明会|journal=金鯱叢書|volume=第43輯|issn=2188-7594|url=http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/bcd297314498ffc33ee5c1ce05ca0657a85cb7b9.pdf|format=pdf|pages=1-21|accessdate=2016-08-17|ref=harv}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[日本史の出来事一覧]]<br /> * [[日本の合戦一覧]]<br /> * [[遠州大念仏]]<br /> * [[一言坂の戦い]]<br /> * [[二俣城の戦い]]<br /> * [[三方原パーキングエリア]]<br /> * [[徳川家康三方ヶ原戦役画像]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/lifeindex/enjoy/culture_art/saigagake/saigagake.html 犀ヶ崖資料館]<br /> * [http://www.sengoku-shizuoka.com/stage/history/03/mikatagahara.html 三方ヶ原の戦い・静岡戦国浪漫] Shizuoka城と戦国浪漫<br /> * [http://www.asahi.com/travel/kosenjo/TKY200906290188.html 三方ケ原 家康、最大の敗戦を教訓に 朝日新聞]<br /> * [http://hamamatsu-daisuki.net/search/area/are-north/st096.html 三方原古戦場 はままつ旅百花]<br /> <br /> {{Campaignbox-bottom|徳川家康の戦闘}}<br /> {{デフォルトソート:みかたかはらのたたかい}}<br /> [[Category:日本の戦国時代の戦い]]<br /> [[Category:安土桃山時代の戦い]]<br /> [[category:遠江国|戦みかたかはら]]<br /> [[Category:武田信玄|戦みかたかはら]]<br /> [[Category:徳川家康|戦みかたかはら]]<br /> [[Category:浜松市北区の歴史]]<br /> [[Category:1573年の日本]]<br /> [[Category:1573年の戦闘]]</div> 240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332 天正壬午の乱 2018-05-17T06:56:25Z <p>240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332: /* 参考文献 */</p> <hr /> <div>{{Battlebox<br /> |battle_name=天正壬午の乱<br /> |image=<br /> |caption=<br /> |conflict=[[戦国時代 (日本)]]<br /> |date=[[天正]]10年([[1582年]])[[6月 (旧暦)|6月]] - [[10月29日 (旧暦)|10月29日]]<br /> |place=[[甲斐国|甲斐]]・[[信濃国|信濃]]・[[上野国|上野]]<br /> |result=北条・徳川両軍の間で講和<br /> |combatant1=[[北条氏|北条]]軍 [[ファイル:Mitsuuroko.svg|15px]]<br /> |combatant2=[[徳川氏|徳川]]軍 [[ファイル:Tokugawa_family_crest.svg|15px]]<br /> |commander1=[[北条氏直]]&lt;br /&gt;[[北条氏忠]]&lt;br /&gt;[[北条氏勝]]&lt;br /&gt;[[北条氏邦]]など<br /> |commander2=[[徳川家康]]&lt;br /&gt;[[依田信蕃]]&lt;br /&gt;[[酒井忠次]]&lt;br /&gt;[[鳥居元忠]]など<br /> |strength1=53,000以上&lt;br /&gt;10,000(黒駒合戦)<br /> |strength2=10,000以上&lt;br /&gt;2,000(黒駒合戦)<br /> |casualties1=300(黒駒合戦)<br /> |casualties2=不明<br /> |campaign= 徳川家康の戦闘<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;天正壬午の乱&#039;&#039;&#039;(てんしょうじんごのらん)は、[[天正]]10年([[1582年]])に[[甲斐国|甲斐]]・[[信濃国|信濃]]・[[上野国|上野]]で繰り広げられた戦いである。大まかには[[徳川家康]]と[[北条氏直]]の戦いとして説明されるが、[[上杉景勝]]の他、在郷の諸勢力(特に[[木曾義昌]]や[[真田昌幸]])も加わっている広い範囲の戦役であった。「[[壬午]]」は天正10年の[[干支]]で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 天正10年6月の[[本能寺の変]]後、[[織田政権]]を離反した北条氏は織田氏による仕置が行われたばかりの旧武田領に侵攻した。これに対し、織田体制下の一大名である徳川氏が織田体制の承認のもと、討伐に当たったことによって引き起こされた紛争である&lt;ref&gt;谷口央、「小牧長久手の戦い前の徳川・羽柴氏の関係」、人文学報. 歴史学編 39、東京都立大学人文学部 首都大学東京都市教養学部人文・社会系、2011年、p.4。[https://tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1148&amp;item_no=1&amp;page_id=30&amp;block_id=155]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;丸島和洋、「戦国大名の「外交」」、講談社、2013年、p.244。&lt;/ref&gt;。さらに上杉景勝や真田昌幸を始めとする武田の遺臣や、地元の国人衆が復帰や勢力拡大を画策したため、情勢がより複雑化した。<br /> <br /> 大大名同士による争いは、上杉と北条の講和、及び徳川と北条の講和によって終結を迎え、景勝が信濃北部4郡を支配、甲斐と信濃は家康の切り取り次第、上野は氏直の切り取り次第という形で決着する。家康は信濃、氏直は上野の平定を進めたが、最終的には沼田領帰属問題に端を発する真田の徳川から上杉への寝返りが発生し、真田が独立勢力として信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配した。結果として、上杉は北部4郡の支配を維持、徳川は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域、北条は上野南部を獲得した。真田領の問題は後の[[上田合戦]]に発展していく。<br /> <br /> この戦によって家康は(先の駿河を含め)数ヶ月で5国を領有する大大名となり、[[織田氏]]の勢力を継承し[[天下人]]になりつつある[[豊臣秀吉]]と対峙していくこととなる。また、東国を差配する3氏の関係(徳川と北条の同盟、徳川と上杉の敵対関係)も、[[豊臣政権]]に対する東国情勢に影響を与えていくこととなる。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> === 北条氏の織田氏への従属 ===<br /> 戦国時代後期、関東では北条氏が北関東への侵攻を画策し、北関東の領主たちがそれに対抗する状況が続いていた&lt;ref&gt;粟野俊之、「天徳寺宝衍考 」、駒沢史学39・40 、駒沢史学会、1988年、p.102 [http://ci.nii.ac.jp/els/contents110007002937.pdf?id=ART0008917913]&lt;/ref&gt;。天正7年、武田氏と上杉氏の間で[[甲越同盟]]が締結された。武田氏との[[甲相同盟]]を破棄した北条氏は9月11日、氏政の弟氏照が信長に鷹3羽を献上し、10月25日氏政は信長に味方し6万の軍勢で甲斐に出兵した&lt;ref&gt;太田牛一、「信長公記」、巻12。&lt;/ref&gt;。さらに翌天正8年3月、縁組を条件に織田氏に領国を進上し織田政権の支配下に入った&lt;ref&gt;原田正記、「織田権力の到達 : 天正十年「上様御礼之儀」をめぐって」、史苑 51(1)、立教大学、1991年、p.47 [https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1287&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=49]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 織田氏による甲州征伐と北陸侵攻 ===<br /> {{main|甲州征伐}}<br /> <br /> 天正10年3月に[[甲州征伐]]を開始した[[織田信長]]は甲斐の[[武田氏]]を滅亡させ、甲斐から信濃、駿河、上野に及んだその領地は[[織田政権]]下に組み込まれた。信長は国掟を定め、武田遺領を以下のように家臣に分与する。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ 「天正壬午の乱」直前の所領<br /> ! 国名 !! 郡(領地) !! 受領者 !! 備考<br /> |- <br /> | [[上野国]] || 上野一国 ||rowspan=&quot;3&quot;| [[滝川一益]] || rowspan=&quot;3&quot;| 一説に[[関東管領]]にも任ぜられたとも<br /> |- <br /> | rowspan=&quot;8&quot; |[[信濃国]] || [[小県郡]]<br /> |-<br /> | [[佐久郡]]<br /> |-<br /> | [[北信地方|川中島四郡]]{{Efn|[[高井郡]]・[[水内郡]]・[[更級郡]]・[[埴科郡]]}} || [[森長可]] || <br /> |-<br /> | [[筑摩郡]]&lt;br /&gt;([[木曽谷]]) || rowspan=&quot;3&quot;| [[木曾義昌]] || rowspan=&quot;3&quot;| 本領安堵(木曽谷)&lt;br /&gt;筑摩・安曇は加増<br /> |-<br /> | 筑摩郡<br /> |-<br /> | [[安曇郡]]<br /> |-<br /> | [[伊那郡]] || [[毛利秀頼|毛利長秀]] ||<br /> |-<br /> | [[諏訪郡]] || rowspan=&quot;5&quot;| [[河尻秀隆]] || rowspan=&quot;5&quot;|名目は甲斐一国&lt;br /&gt;穴山替地として諏訪郡<br /> |-<br /> | rowspan=&quot;5&quot; | [[甲斐国]] || [[山梨郡]]<br /> |-<br /> | [[都留郡]]<br /> |-<br /> | [[八代郡]]<br /> |-<br /> | [[巨摩郡]]<br /> |-<br /> | 巨摩郡&lt;br /&gt;(河内領{{Efn|駿河江尻領を含む。}}) || [[穴山信君]] || 本領安堵<br /> |- <br /> | [[駿河国]] || 駿河一国 || [[徳川家康]] ||うち[[江尻城]]領は穴山信君、&lt;br /&gt;[[興国寺城]]領は[[曽根昌世]]に安堵。<br /> |}<br /> 関東の[[後北条氏|北条氏]]は甲州征伐に協調したものの、遺領を得ることは一切できず、後述する歴史経緯からみるとむしろ上野を追い出される形となった。<br /> <br /> 甲州征伐と前後して、織田氏は[[御館の乱]]の混乱が続く[[上杉氏]]の攻略も進めていた。[[新発田重家]]が織田と通じて造反し、[[柴田勝家]]が越中まで侵攻。3月11日からは[[魚津城]]の攻囲も始まり([[魚津城の戦い]])、信濃が織田領になった後は南から森長可の侵攻も計画されていた。5月末には、本拠・[[春日山城]]に森の軍勢が迫りつつあって上杉景勝は魚津城に後詰することも適わなくなる。そして6月3日、魚津城が陥落した。<br /> <br /> === 上野・信濃の前史 ===<br /> [[上野国]]と[[信濃国]]は、歴史的に越後の上杉氏、関東の後北条氏、甲斐の武田氏がその所領を巡って争ってきた。これら上野・信濃は、[[#織田氏による甲州征伐と北陸侵攻|先述のように甲州征伐によって]]そのほぼ全域が織田氏の物となった。しかし、3ヶ月後の[[本能寺の変]]によって空白化する。織田氏による統治期間が極めて短く、地元の有力者を掌握しきれていなかったことが、天正壬午の乱及び以後の出来事に大きな影響を与えていくことになる。<br /> <br /> ; 上野<br /> 上野は、元は[[関東管領]][[山内上杉家]]の所領であったが、[[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]])の[[河越夜戦]]を経て天文21年([[1552年]])に[[上杉憲政]]が上野を脱出、[[北条氏康]]の領地となる。その後、憲政は越後の長尾景虎(後の[[上杉謙信]])に関東管領を譲り、謙信は関東管領としてたびたび関東方面へ侵攻するようになる。<br /> <br /> 上野は越後と関東を結ぶ重要地であり、上野(特に交通路であった沼田)を巡って謙信と氏康・[[北条氏政|氏政]]父子は激しく争った。[[越相同盟]]によって一時氏政が謙信の上野領有を承認したこともあったが、基本的に謙信の死まで上野を巡る両者の争いは続いた。[[武田信玄]]もまた上野西部にたびたび侵攻しており、[[永禄]]6年([[1563年]])頃に[[岩櫃城]]を攻略して吾妻郡を治め、永禄9年([[1566年]])には[[箕輪城]]を攻略して箕輪城以西を領国化した。<br /> <br /> 謙信の死後に上杉家で[[御館の乱]]が起きると、天正7年([[1579年]])に謙信の甥・[[上杉景勝|景勝]]は信玄の子・[[武田勝頼]]と同盟を結び([[甲越同盟]])、同時に[[甲相同盟]]が破棄され、上野は武田と北条による争いの場として移り変わる。また、景勝に上野侵攻を承認された勝頼は、家臣の[[真田昌幸]]に命令して沼田攻略を開始し、北条方であった[[沼田城]]を攻略させ、上野北部2郡(吾妻郡・利根郡)の運営を昌幸に任せた。甲州征伐後、上野全域は滝川一益の所領となるも、昌幸は滝川の下につくことでその勢力範囲を維持した。<br /> <br /> ; 信濃<br /> 信濃も関東管領である山内上杉家の力が弱まると、武田氏が手を伸ばし始める。信玄は家督相続後積極的に信濃に侵攻するようになり、甲斐の北にあたる佐久郡・小県郡の他、同盟関係にあった諏訪郡にも侵攻し、北部を除いて信濃を平定する。信濃を追いだされた[[村上義清]]や北部の豪族など信濃の大名は、上野と同様に謙信を頼り、謙信はこれを大義名分として信濃へ南下する。両者は北部4郡の入り口にあたり、4郡を支配するために重要な川中島や[[海津城]]で何度も対峙した。このような経緯によって国人衆や土豪への影響力など、信濃北部に関しては上杉氏、北部を除く信濃全域は武田氏が強く持っていた。<br /> <br /> == 経過 ==<br /> === 序盤 ===<br /> {{main|本能寺の変}}<br /> 天正10年(1582年)6月2日、信長は京都の本能寺で家臣の[[明智光秀]]によって討たれた([[本能寺の変]])。<br /> <br /> ==== 家康の転進 ====<br /> 本能寺の変の発生した6月2日、[[徳川家康]]と[[穴山信君]](梅雪)は[[堺]]([[大阪府]][[堺市]])に滞在し信長と合流するためともに[[京都]]へ向かっていたが、途中で徳川家臣の[[本多忠勝]]は京都商人・[[茶屋四郎次郎]]から本能寺の変の発生を知る{{Sfn|平山|2015|p=82}}。家康は[[飯盛山]]下において事態を知ると、本拠の三河国へ戻るべく[[伊賀越え]]を敢行し、無事に[[畿内]]を脱出する{{Sfn|平山|2015|p=82}}。一方、途中で家康と別れた穴山は、宇治田原(京都府[[宇治田原町]])で土民に殺害された。<br /> <br /> 家康は6月4日に三河[[岡崎城]]([[愛知県]][[岡崎市]])に帰還すると、明智討伐の軍を起こすと同時に、無主状態となった甲斐・信濃の計略を開始する{{Sfn|平山|2015|p=124}}。<br /> <br /> 『[[当代記]]』によれば、家康は6月10頃に甲斐の[[河尻秀隆]]に使者として家臣の[[本多信俊]](百助)を派遣し、河尻に協力の要請を行った。また、家康は6日には徳川家臣となっていた武田遺臣の駿河衆・[[岡部正綱]]に書状を送り、穴山の本拠である甲斐河内領の[[下山館]]([[身延町]]下山)における城普請を命じ、[[富士川]]・[[駿州往還]](河内路)沿いに[[菅沼城]](身延町寺沢)が築城される{{Sfn|平山|2015|p=127}}。また、家康は同じく武田遺臣で信濃[[佐久郡]]の国衆・[[依田信蕃]](よだのぶしげ)を佐久郡へ向かわせる。依田は武田滅亡時に駿河[[田中城]]([[静岡県]][[藤枝市]])において徳川氏に抗戦しており、武田滅亡後に信濃佐久郡[[春日城 (信濃国佐久郡)|春日城]]([[長野県]][[佐久市]])へ帰還していたが、織田氏による処刑を恐れて家康に庇護され、遠江に潜伏していたという{{Sfn|平山|2015|p=127}}。<br /> <br /> 『甲斐国志』『[[武徳編年集成]]』によれば、甲斐国一国と信濃諏訪郡を統治した[[河尻秀隆]]は武田時代の[[躑躅ヶ崎館]](甲府市古府中町)ではなく、岩窪館([[甲府市]][[岩窪町]])を本拠としたという{{Sfn|平山|2015|p=63}}。『[[三河物語]]』によれば、河尻は6月14日に岩窪館において[[本多信俊]]を殺害している。信俊は河尻と知縁があったが、『武徳編年集成』によれば河尻は信俊に不審感を抱き、家康が一揆を扇動し甲斐を簒奪する意図があったと疑い信俊を殺害したという。翌15日に甲斐国人衆が一揆を起こすと河尻は脱出を図るが、18日に一揆勢に殺害された。<br /> [[ファイル:Kawajiri Hidetaka&#039;s tomb.JPG|thumb|250px|甲府市岩窪町の河尻塚]]<br /> <br /> 一方、家康から甲斐へ派遣された岡部正綱は穴山氏の[[居館]]のある[[下山館]](身延町下山)に入った。また、依田信蕃は武田遺臣900人弱を集めて20日には再び[[小諸城]]へと入った。家康は西へ進軍していたが、6月14日に[[山崎の戦い]]で明智光秀が[[羽柴秀吉]](豊臣秀吉)に討たれると、家康は6月15日に鳴海([[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]])において報告を受ける。家康は[[酒井忠次]]を津島に前進させ情報を確認し、21日に軍を返して浜松へと戻った。<br /> <br /> さらに岡部は6月12日から6月23日にかけて、[[曽根昌世]]と連署で甲斐衆に知行安堵状を発給している{{Sfn|平山|2015|p=129}}。<br /> <br /> 浜松へ戻った家康は信濃・甲斐の国人衆の掌握を進める一方で、酒井忠次・奥平信昌に信州路を進ませて南信濃を確保させる。また、自身も本栖([[富士河口湖]]町本栖)の[[土豪]]・[[渡辺因獄佑]]に案内され[[中道往還]]を通過して甲斐へと進軍し、7月9日に甲府入りする。この時点で家康は、信濃南部と八代・巨摩・山梨の甲斐3郡を掌握する。他方で、佐久郡は碓氷峠を越えてきた北条に取られてしまう。<br /> <br /> 河尻秀隆の殺害に続いて滝川一益・森長可の敗走を確認した家康は、明智を討ったことで織田体制(←織田政権)内の有力武将となった羽柴秀吉とも交渉し、秀吉は7月7日になって織田氏家臣がいなくなった信濃・甲斐・上野の3か国へ家康が軍勢を派遣して確保することを認める書状を送った&lt;ref&gt;柴裕之「織田勢力の関東仕置と徳川家康」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年&lt;/ref&gt;。ここでの家康の立場、行動は独立した大名としてではなく、織田体制下の一大名として北条氏の討伐を目的にしたものとされている&lt;ref&gt;宮川展夫、「天正期北関東政治史の一齣 : 徳川・羽柴両氏との関係を中心に」、駒沢史学 78、駒沢史学会、2012年、p.23[http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/32738/rsg078-02-miyagawanobuo.pdf]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;谷口、2011、p.4&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 北条の進軍 ====<br /> [[ファイル:甲斐奈神社 (笛吹市一宮町橋立) 拝殿斜め.JPG|thumb|right|250px|甲斐奈神社(橋立明神)・拝殿]]<br /> [[File:Distant view of the Koyama Castle Kai Province.JPG|right|260px|thumb|小山城遠景]]<br /> 本能寺の変の報が入ると北条氏は織田政権から離反し織田領国へ侵攻した。北条はまず上野へ進軍し、[[神流川の戦い]]で[[滝川一益]]を撃破すると上野の掌握に努める。また、6月26日には信濃佐久郡の豪族を臣従させ、28日に先方軍を送り込む。7月に入って[[真田昌幸]]が臣従の意を示すと、昌幸を先方として北条主力軍4万3000を上野より[[碓氷峠]]を越えて進軍させる。徳川方の[[依田信蕃]]は小諸城を捨てて後退し、北条は[[大道寺政繁]]を小諸城に配して佐久郡を掌握する。<br /> <br /> 甲斐方面についても、[[河尻秀隆]]の死によって混乱した隙をついて[[郡内地方]]を掌握する。甲斐衆の多くが家康に臣従するなか北条氏に味方する勢力も現れ、『[[甲斐国志]]』によれば、6月中旬には[[秩父往還]](雁坂口)を守備していた[[浄居寺城]](中牧城、[[山梨市]]牧丘町浄居寺)の大村忠堯(三右衛門尉)・忠友(伊賀守)に率いられた山梨郡倉科(山梨市牧丘町倉科)の土豪・大村党が[[大野砦]](山梨市大野)に籠城して北条方に帰属した{{Sfn|平山|2015|p=132}}。また、甲斐国総社の[[甲斐奈神社]](橋立明神、笛吹市一宮町橋立)の社家衆・大井摂元も北条方に属した{{Sfn|平山|2015|p=132}}。橋立明神は[[筑前原塁]]を有し城砦としての性格を持ち、甲斐・相模間の[[甲斐路|鎌倉街道]]にも近い{{Sfn|平山|2015|p=132}}。北条氏は[[御坂峠]]の所在する笛吹市御坂町藤野木・南都留郡富士河口湖町河口に[[御坂城]]を築いている{{Sfn|平山|2015|p=132}}&lt;ref&gt;『山梨県の地名』、p.464&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 家康はこうした甲斐の北条方に対し穴山衆を派遣し、大村党や橋立明神の社家衆を滅ぼしている{{Sfn|平山|2015|p=133}}。この時の大村党と穴山衆の合戦は後に『中牧合戦録』としてまとめられる。さらに家康は家臣の鳥居元忠に命じて鎌倉街道沿いの笛吹市八代町高家に所在する[[小山城 (甲斐国)|小山城]]を改修させた。<br /> <br /> 結果、北条の甲斐進軍は徳川に出遅れることとなり、甲斐は東部の郡内掌握に留まる。<br /> <br /> ==== 織田勢の撤退・上杉の追撃・在郷勢力の動き ====<br /> [[柴田勝家]]は落としたばかりの魚津城からの撤退を決め、[[森長可]]も上杉の本拠である越後・[[春日山城]]近辺まで侵攻していたが撤退する。上杉景勝は、ただちに森を追撃して信濃に攻め入るが、森に逃げられてしまう。景勝はそのまま北信濃の要所である[[飯山城]]と[[海津城]]を奪取し、同地を掌握すると並行して、前信濃守護[[小笠原長時]]の実子である[[小笠原貞慶]]や[[山浦景国]](村上氏)に所領安堵状を出し川中島以南の領有化も画策する。特に6月には長時の弟である[[小笠原洞雪斎]]を後援して[[木曾義昌]]の[[深志城]](松本城)を攻め落とさせている。<br /> <br /> [[木曾義昌]]は領地拡大を目指し、美濃国へ撤退する森を討とうと試みる。しかし、森は[[木曽福島城]]に押し入ると木曾の嫡男・岩松丸([[木曾義利]])を人質にし、従わざるを得なくなった木曾は地元の豪族を抑えこんで森の撤退を手助けせざるを得なくなった。また、神流川の戦いで敗北し、同じく撤退してきた[[滝川一益]]にも妨害を試みるが、滝川は自身が連れていた信濃衆の人質を明け渡すことを提案し、木曾はこれを受けて見逃している。結果として木曾は序盤に動きを制限されることとなり、先のように深志城を上杉方に奪取されている。<br /> <br /> 滝川の配下にいた[[真田昌幸]]は、神流川の戦い後の[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]には北条への帰属を決める。上野の有力者であった昌幸がついたことにより、後顧の憂いを絶った北条は先述のように上野にいた主力を碓氷峠から信濃国佐久郡へと進軍させる。<br /> <br /> その他にも[[諏訪頼忠]]が諏訪[[高島城]]に入場して再起を図るなど、信濃の在地勢力や旧武田家臣が周辺の大大名の思惑とは別に動き始めていた。<br /> <br /> === 北条の信濃侵攻と上杉との講和 ===<br /> 佐久を押さえた北条は、中信の有力者である木曾義昌や諏訪頼忠に所領安堵状を与え、主力は北進させることで信濃掌握を図る。北条は[[真田昌幸]]ら信濃の諸将の手助けもあって難なく川中島まで攻め入り、既に北信を掌握済みの上杉軍と対峙する。<br /> <br /> 佐久を奪取された徳川であったが、小諸城を追われた信蕃は武田旧臣の調略とゲリラ戦を展開し、北条の兵站をたたき始める。加えて既に掌握済みの南信及び甲斐から北進の動きを強め、[[酒井忠次]]らによる頼忠が守る諏訪[[高島城]]への攻城が開始される。<br /> <br /> 7月末、上杉と徳川の挟み撃ちは避けたい北条と、[[新発田重家]]への憂いがある上杉双方の思惑が合致し、講和が結ばれる。北条は上杉の北部4郡の所領化を認め、上杉は川中島以南へ出兵しないとし、北部を除く信濃は北条の切り取り次第とした。<br /> <br /> === 黒駒合戦 ===<br /> 景勝との講和がなったことで、北条は徳川に戦力を向けることができるようになり、約4万の主力軍は南へ転進をはかる。さらに、[[北条氏忠]]・[[北条氏勝]]ら1万を甲斐・[[御坂峠]]に張り付かせ、また[[北条氏邦]]にも[[秩父市|秩父]]から甲斐を窺う体勢をとらせ、徳川1万を三方向から半包囲する形で信濃・甲斐への侵攻を始める。なお、御坂峠の北条1万には未だ[[房相一和]]が完全には破綻していなかった[[安房国|安房]]の[[里見義頼]]も援軍を出している&lt;ref&gt;竹井英文「“房相一和”と戦国期東国社会」(佐藤博信 編『中世東国の政治構造 中世東国論:上』(岩田書店、2007年) ISBN 978-4-87294-472-3)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 8月1日、諏訪・高島城を攻城していた酒井忠次ら3,000は北条の大軍が来るとの報に甲斐に向けて後退する。北条主力軍43,000は、佐久経由で酒井軍を追撃するが、徳川勢は甲斐・新府城への撤退に成功する。<br /> <br /> これを追う北条勢も甲斐に入り[[若神子城]]([[北杜市]]須玉町若神子)に着陣し、8月6日には徳川勢と対峙した。家康は本陣を甲府城下の[[尊躰寺]]([[甲府市]]城東一丁目)においたが甲府市北新一丁目の旧[[一条信龍]]屋敷に移転し、さらに8月8日には[[新府城]](韮崎市中田町中條)へ移転した。10日に家康は南の府中の留守を鳥居元忠ら2,000に任せ新府城に陣を移し、徳川方は8,000となる。<br /> <br /> 8月12日、氏忠・氏勝勢10,000が家康の背後を襲うべく甲斐東部の郡内地方へ進撃した。これに対し、鳥居元忠、[[三宅康貞]]、[[水野勝成]]ら2,000が黒駒付近(笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒)で果敢に応戦し、北条勢約300を討ち取って撃退した(黒駒合戦)。<br /> <br /> 依然、北条と徳川の兵力差は圧倒的なものであったが、この戦で北条方が敗北したことにより信濃諸将の北条離れが進んでいく。[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]に木曾が家康側に寝返り、さらに9月に入ると真田が[[依田信蕃]]に加勢した。家康は依田と真田に[[曽根昌世]]らをつけて戦力を強化し、ゲリラ戦によって信濃・上野間の兵站を乱すようになる。<br /> <br /> === 上野を巡る戦い ===<br /> 黒駒合戦の敗北によって、信濃への影響力が低下した北条は上野の戦力を信濃に割くが、先述のようにそこで真田が徳川に付き、真田は北条方が入っていた自城・[[沼田城]]を急襲して再奪取する。<br /> <br /> 上野北部を喪失したことにより、信濃への兵站が事実上途絶えた北条は、真田方の沼田城や[[岩櫃城]]を攻略目標として大軍を持って攻め入り、真田方の諸砦を落としていく。一方で、沼田城代・[[矢沢頼綱]]の活躍や、昌幸の嫡男・[[真田信之|信幸]]が手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5,000が防衛する吾妻郡[[手子丸城]]を僅か一日で奪還するなど(加沢記)、激しく抵抗し、上野の要所を落とすには至らなかった。<br /> <br /> === 乱の終結 ===<br /> 10月に入ると昌幸が禰津某を討ち取り、信蕃は小諸城を襲って大道寺政繁を駆逐した。また、中信では[[木曾義昌]]に続いて家康の支援を受けた小笠原貞慶が洞雪斎を排して旧領である深志(現在の[[松本市]])に入り他の領主らも徳川氏についた。<br /> <br /> 北条勢は上野や佐久郡にわずかばかりの軍勢を差し向けるも、戦局は好転しなかった。さらに、これらに呼応して関東平野では[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]が活動を活発化させていた。10月になって織田体制の[[織田信雄]]、[[織田信孝]]双方から和睦の勧告があり&lt;ref&gt;丸島 和洋、『北条・徳川間外交の意思伝達構造』、「国文学研究資料館紀要 11」、p.46、国文学研究資料館 、2015年。[https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1474&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=21]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;谷口 2011 p.9&lt;/ref&gt;、[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]、織田信雄を仲介役として北条と家康の間で講和が結ばれた。講和の条件は以下のとおりであった。<br /> <br /> * 氏直に家康の娘[[督姫]]を娶らせる<br /> * 甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ切り取り次第とし、相互に干渉しない<br /> <br /> こうして本能寺の変から約5ヶ月続いた乱はいったん終息する。<br /> <br /> == 天正壬午の乱の影響と沼田領問題 ==<br /> 徳川・北条同盟の成立により徳川・上杉・北条三者による合戦は終わったものの、特に信濃では依然として家康に服従を認めない国衆が跋扈し、家康は手を焼いた。有力国衆である諏訪頼忠は12月に和睦して家康に下ったものの、武田旧臣として天正壬午の乱で多大な戦功を挙げた[[依田信蕃]]は[[岩尾城 (信濃国)|岩尾城]]攻めで落命している。<br /> <br /> 甲斐では河内領は[[穴山勝千代]]に安堵され&lt;ref&gt;柴裕之「徳川領国下の穴山武田氏」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年&lt;/ref&gt;、かつての[[小山田氏]]の支配地域であった郡内領に[[鳥居元忠]]&lt;ref&gt;柴裕之「徳川氏の甲斐郡内領支配と鳥居元忠」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年&lt;/ref&gt;を配置する。甲斐中央部の国中領は[[躑躅ヶ崎館]]を本拠とし、[[平岩親吉]]と[[岡部正綱]](天正11年の岡部没後は平岩単独)&lt;ref&gt;柴裕之「徳川氏の甲斐国中領支配とその特質」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年&lt;/ref&gt;が派遣されて支配を行っている。なお、近世甲斐における政治的中心地となった[[甲府城]]は天正壬午の乱後の天正11年に家康により築城されたとする説があるが、[[小田原征伐]]後に豊臣政権が関東移封された家康に対する備えとして築城したとする説がある&lt;ref&gt;平山優「甲府城の史的位置-甲斐国織豊期研究序説-」『山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センター 研究紀要9 10周年記念論文集』(山梨県埋蔵文化財センター、1993年)&lt;/ref&gt;一方、天正17年には豊臣政権と北条氏の関係が緊迫化し、家康は天正壬午の乱において徳川・北条間で合戦が行われた浄居寺城の大修築を実施している&lt;ref&gt;平山優「甲府城の史的位置-甲斐国織豊期研究序説-」『山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センター 研究紀要9 10周年記念論文集』(山梨県埋蔵文化財センター、1993年)、p.17&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 一方、徳川と北条の講和によって信濃は徳川、上野は北条の切り取り次第となったが、真田領である上野・沼田の領有・帰属について問題を残した。徳川は、形式上従属した真田に対して沼田を北条へ明け渡すことを求めたが、真田は代替地を要求し、両者の関係は悪化した。両者に縁のある[[依田信蕃]]が仲介役となって奔走したが、信蕃が戦死すると両者の溝は決定的なものとなる。しばらくは対上杉への抑えとして真田の重要性が増し、徳川としても強権的な対応を取れないでいたが、やがて真田は対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉に寝返り、徳川と敵対することとなった。<br /> <br /> その後、天正13年([[1585年]])に徳川は上田に攻め入り、また並行して北条が沼田に攻め入ったが真田は守り通した([[上田合戦|第一次上田合戦]])。その後も小競り合いが続いたがいずれも真田は撃退した。<br /> <br /> 一方、上方では羽柴秀吉が清洲会議を経て織田家の事実上の後継者となっていたが、[[柴田勝家]]との対立が日増しに強くなるなど不安定な状況にあった。対柴田のために秀吉と景勝が誼を通じ、他方で家康は北条との和睦を仲介した縁や領地が接することなどから織田信雄と友好関係を築き、後の[[小牧・長久手の戦い]]へと発展した。その後、天下人となった秀吉は北条と真田との間で紛争と化していた沼田領を天正17年([[1589年]])よる裁定によって落着させた。しかし、この裁定は翌天正18年(1590年)の[[小田原征伐]]の遠因となった。<br /> <br /> == 研究史 ==<br /> 天正壬午の乱に関する実証的研究は少なく、山梨県をはじめとする[[自治体史]]において概説的に触れられる程度であった。江戸時代には[[文化 (元号)|文化]]11年([[1814年]])に完成した甲斐国の[[地誌]]『[[甲斐国志]]』において、記述の方式や人物部の時代区分において、天正10年(壬午)が大きな区切りになっていることが指摘される{{Sfn|石川|2014|p=8}}。『[[甲斐国志]]』の執筆姿勢は武田氏や[[柳沢氏]]など甲斐国主に対しては敬称を用いていない客観的なスタンスであるが、徳川家に対しては家康を「神祖」と称し敬意を示しており、[[天正壬午起請文]]が提出された天正10年を重視した時代区分になっていると考えられている{{Sfn|石川|2014|p=8}}。<br /> <br /> [[平成]]8年([[1998年]])、[[山梨県]][[韮崎市]]穴山町の[[能見城]]跡の[[発掘調査]]が実施された。この調査を通じて天正壬午の乱における築城の歴史的背景が考察され、発掘調査報告書において[[平山優 (歴史学者)|平山優]]によるはじめての総説が発表された。<br /> <br /> その後、『山梨県史』編纂事業において関係史料が集成されたほか、平成23年([[2011年]])には平山が旧稿を全面改稿して単著として発表し、武田氏滅亡後の甲斐や家康の動向のみならず、上杉氏や後北条氏、さらに豊臣政権や信濃国衆らの動向を総合的に検討し、東国情勢における意義や戦国時代の終期に関する問題、さらに豊臣政権の[[天下統一]]に関わる意義についても論及している。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> ; 注釈<br /> {{notelist}}<br /> ; 出典<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 == <br /> * [[市川武治]]「依田信蕃 甲信侵攻の立役者」『歴史群像シリーズ 徳川家康』[[学研ホールディングス|学習研究社]]、1989年。<br /> * [[斎藤慎一]]『戦国時代の終焉』[[中央公論新社]]([[中公新書]]1809)、2005年。ISBN 4-12-101809-5 <br /> * [[平山優 (歴史学者)|平山優]]『天正壬午の乱』学習研究社、2011年<br /> * {{Cite book|和書|author=平山優 |year=2015 |title=増補改訂版 天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史 |publisher=戎光祥出版 |ref={{Harvid|平山|2015}}}} <br /> * {{Cite book|和書|author=石川博 |year=2014 |title=甲斐 第134号 |chapter=『甲斐国志』の編纂、執筆について |publisher=山梨郷土研究会 |ref={{Harvid|石川|2014}}}} <br /> <br /> {{Campaignbox-bottom|徳川家康の戦闘}}<br /> {{デフォルトソート:てんしようしんこのらん}}<br /> [[Category:安土桃山時代の戦い]]<br /> [[Category:山梨県の歴史]]<br /> [[Category:長野県の歴史]]<br /> [[Category:群馬県の歴史]]<br /> [[Category:甲斐国|戦てんしようしんこ]]<br /> [[Category:信濃国|戦てんしようしんこ]]<br /> [[Category:上野国|戦てんしようしんこ]]<br /> [[Category:徳川家康|戦てんしようしんこ]]<br /> [[Category:後北条氏|戦てんしようしんこ]]<br /> [[Category:1582年の日本]]<br /> [[Category:1582年の戦闘]]</div> 240F:80:BFA7:1:51FD:C5B1:11ED:3332
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