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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=240B%3A11%3A4A00%3A400%3A45FB%3A487B%3A65F2%3A5209&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-21T03:23:21Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 神皇正統記 2018-04-02T14:36:20Z <p>240B:11:4A00:400:45FB:487B:65F2:5209: /* 参考文献 */</p> <hr /> <div>{{参照方法|date=2013年10月}}<br /> 『&#039;&#039;&#039;神皇正統記&#039;&#039;&#039;』(じんのうしょうとうき)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[公卿]]の[[北畠親房]]が、幼帝[[後村上天皇]]のために、吉野朝廷(いわゆる[[南朝 (日本)|南朝]])の正統性を述べた[[歴史書]]である。<br /> <br /> == 構成 ==<br /> はじめに序論を置き、神代・地神について記している。つづいて歴代天皇の事績を後村上天皇の代までのべている。伝本によりこれを上中下または天地人の3巻にわけている。その場合、序論~宣化天皇・欽明天皇~堀川院・鳥羽院~後村上天皇と区分している。<br /> <br /> [[日本神話|神代]]から[[後村上天皇]]の即位([[後醍醐天皇]]の崩御を「[[獲麟]]」に擬したという)までが、[[天皇]]の代毎に記される。<br /> <br /> つまり皇位継承を中心とした歴史である。そして、その史的著述の間に、哲学・倫理・宗教思想と並んで著者の政治観が織り込まれている&lt;ref&gt;丸山真男「神皇正統記に現れたる政治観」([[丸山真男]]著『戦中と戦後の間 1936-1957』みすず書房 1976年 78-79ページ)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 内容 ==<br /> 君主の条件としてまず[[三種の神器]]の保有を皇位の必要不可欠の条件とする&lt;ref&gt;鏡は一物を蓄えず、私の心無くして、万象を照らすに是非善悪の姿現れずということなし。その姿に従いて感応するを徳とす、これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす、慈悲の本源なり。剣は剛利決断を徳とす、知恵の本源なり。(この『神皇正統記』の部分は、丸山真男「神皇正統記に現れたる政治観」/丸山真男著『戦中と戦後の間 1936-1957』みすず書房 1976年 80ページ)から引用した。)&lt;/ref&gt;。だがその一方で、『[[仏祖統紀]]』や宋学(特に「[[春秋]]」・「[[孟子]]」・「[[易経|周易]]」)の影響を受け、血統の他に有徳を強調している。従って、[[承久の乱]]を引き起こした[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]は非難され、逆に官軍を討伐した[[北条義時]]とその子[[北条泰時]]のその後の善政による社会の安定を評価して、「[[天照大神]]の意思に忠実だったのは泰時である」という一見矛盾した論理展開も見られるが、これも徳治を重視する親房から見れば、「&#039;&#039;&#039;正理&#039;&#039;&#039;」なのである。[[大町桂月]]は、これを「この一節、仁政を力説す。頼朝・泰時は虚にして、仁政は実なり。親房の頼朝・泰時を襃むるは、即ち仁政を襃むる也。千古の公論なり」と云っている。また[[治承・寿永の乱]]の混乱期に神器を欠いた状態で[[後白河天皇|後白河法皇]]の[[院宣]]により行われた後鳥羽天皇の即位自体を否定していないという矛盾も指摘されている。<br /> <br /> 全体として、保守的な公家の立場を主張し、天皇と[[公家]](=[[摂関家]]と[[村上源氏]])が日本国を統治して武士を統率するのが理想の国家像であるとし、特に公家や僧侶を「人(ひと)」、[[武士]]を「者(もの)」と明確に区別しているところに彼の身分観の反映がなされていると言われる。その一方で、君臣が徳のある政治を守ってゆく事で、「正理」の元に歴史は誤った方向から正しい方向へと修正されるという能動的な発想を兼ね備えていた。<br /> <br /> [[北畠親房]]が[[常陸国]]で籠城戦を繰り広げていた時期に執筆がなされており、手元にある僅かな資料だけを参照に書いているため、(当時知られていた)歴史的事実に関しての間違いも散見される&lt;ref&gt;ひとつの例として[[神功皇后]]の項において「『[[後漢書]]』に倭国の女王の使者が来朝したと記載されている。」と書かれているが、実際に[[邪馬台国]]の女王[[卑弥呼]]について記載があるのは『[[魏志倭人伝]]』である。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 沿革 ==<br /> 執筆時期については、後醍醐天皇が崩御して、新帝・後村上天皇が即位した[[延元]]4年/[[暦応]]2年([[1339年]])の秋ごろであると言われている。後村上天皇に献上された書ではあるが、奥書には「ある童蒙」に宛てるとされており、天皇を童蒙扱いするのは有り得ないという指摘がなされている。これについては、本来は[[結城親朝]]に宛てたものであるが、後に改稿した上で後村上天皇に献上したものと言われている。<br /> <br /> 南北朝統一後、[[北朝 (日本)|北朝]]正統論を唱える[[室町幕府]]の影響下に改竄や、続編と称しながら親房の論を否定する『[[続神皇正統記]]』([[壬生晴富|小槻晴富]])が書かれた事もあった。だが、[[徳川光圀]]が「[[大日本史]]」で親房の主張を高く評価し、また親房からすれば、本来否定されるべき存在である筈の[[江戸幕府]]の中にも泰時の例などを引用して「武家による徳治政治」の正当性を導く意見が現れるようになった。<br /> <br /> [[水戸学]]と結びついた「神皇正統記」は、後の[[皇国史観]]にも影響を与えた。だが、明治になってから逆に[[国粋主義]]の立場から儒教や仏教、異端視された[[伊勢神道]]の影響を受けすぎているという理由で、重訂という名の改竄(親房思想の否定)を行う動きも起こったが、これは定着には至らなかった。『神皇正統記』研究が再び興隆するのは、現実政治から切り離された、戦後暫くたってからのことである。&lt;ref&gt;『日本思想全史』清水正之132頁&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 承久の乱 ==<br /> 承久の乱について、神皇正統記には次のように記されている。<br /> {{quotation|[[源頼朝]]は勲功抜群だが、天下を握ったのは朝廷から見れば面白くないことであろう。ましてや、頼朝の妻[[北条政子]]や陪臣の[[北条義時]]がその後を受けたので、これらを排除しようというのは理由のないことではない。しかし、天下の乱れを平らげ、皇室の憂いをなくし、万民を安んじたのは頼朝であり、[[源実朝|実朝]]が死んだからといって[[鎌倉幕府]]を倒そうとするならば、彼らにまさる善政がなければならない。また、王者(覇者でない)の戦いは、罪ある者を討ち罪なき者は滅ぼさないものである。頼朝が高い[[官位]]に昇り、[[守護]]の設置を認められたのは、[[後白河天皇|後白河法皇]]の意思であり、頼朝が勝手に盗んだものではない。義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽に落ち度がある。謀反を起こした[[朝敵]]が利を得たのとは比べられない。従って、幕府を倒すには機が熟しておらず、天が許さなかったことは疑いない。しかし、臣下が上を討つのは最大の非道である。最終的には皇威に服するべきである。まず真の徳政を行い、朝威を立て、義時に勝つだけの道があって、その上で義時を討つべきであった。もしくは、天下の情勢をよく見て、戦いを起こすかどうかを天命に任せ、人望に従うべきであった。結局、皇位は後鳥羽の子孫([[後嵯峨天皇]])に伝えられ、後鳥羽の本意は達成されなかったわけではないが、朝廷が一旦没落したのは口惜しい。|「廃帝」より&lt;ref&gt;廃帝とは[[仲恭天皇]]のこと&lt;/ref&gt;|&lt;!--出典?--&gt;}}<br /> <br /> また、後醍醐天皇の政策にも「正理」にそぐわないところがあると批判的な記事も載せている。<br /> <br /> == 北畠親房の「万世一系」論 ==<br /> &lt;ref&gt;この章は、ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、24-26頁。 (第8章1『日本王朝の太古的古さ』)を参照。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 王朝が非常に古いという「[[万世一系]]」の主張は、日本の自国民を感心させるためだけではなかった。国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた[[中国]]に感銘を与えるためでもあった。中国人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良い。{{要出典|date=2018年3月}}<br /> <br /> 日本人も、王朝の寿命の長短に関する中国との比較論に熱中した。『神皇正統記』では以下のように論じている&lt;ref&gt;Ryusaku Tsunoda, Wm. Theodore de Bary, Donald Keene, eds., &#039;&#039;Sources of Japanese Tradition.&#039;&#039; New York: Columbia University Press, 1958, p.279.『神皇正統記』現代思潮社、1983年、27~29頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{Quotation|モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…[[伏羲]](前三三〇八年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。|『神皇正統記』}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[大町桂月]] 『神皇正統記評釈』明治書院 大正14年2月<br /> * [[山田孝雄]] 『神皇正統記述義』民友社 昭和7年10月<br /> * [[平泉澄]]編 『国宝白山本・神皇正統記』[[国幣中社]][[白山比め神社|白山比咩(比め)神社]] 昭和9年11月<br /> * [[平田俊春]] 『神皇正統記の基礎的研究』雄山閣出版 昭和54年2月<br /> * 我妻建治 『神皇正統記論考』吉川弘文館 昭和56年10月<br /> * 岩佐正校注 『神皇正統記』[[岩波文庫]] 昭和50年。度々復刊<br /> * 松村武夫訳 『神皇正統記』[[教育社歴史新書]] 昭和55年(1980年)。シリーズ原本現代訳<br /> * [[今谷明]]『現代語訳 神皇正統記』新人物文庫 平成27年(2015年)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[太平記]]<br /> * [[梅松論]]<br /> * [[新葉和歌集]]<br /> * [[愚管抄]]<br /> * [[日本の中世文学史]]<br /> * [[小田氏]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:しんのうしようとうき}}<br /> [[Category:室町時代の歴史書]]<br /> [[Category:南北朝時代 (日本)]]<br /> [[Category:神道の文献]]<br /> [[Category:14世紀の書籍]]</div> 240B:11:4A00:400:45FB:487B:65F2:5209 蓮田善明 2018-04-02T14:18:38Z <p>240B:11:4A00:400:45FB:487B:65F2:5209: /* 参考文献 */</p> <hr /> <div>{{Infobox 作家<br /> | name = 蓮田 善明&lt;br /&gt;(はすだ ぜんめい)<br /> | image = <br /> | imagesize = 110px<br /> | caption = <br /> | pseudonym = <br /> | birth_name =蓮田 善明(はすだ ぜんめい)<br /> | birth_date = [[1904年]] [[7月28日]]<br /> | birth_place = {{JPN}}・[[熊本県]][[鹿本郡]][[植木町]]14(現・[[熊本市]][[北区 (熊本市)|北区]])<br /> | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1904|7|28|1945|8|19}}<br /> | death_place = [[イギリス領マラヤ]]・[[ジョホール州]][[ジョホールバル]]<br /> | resting_place = {{SGP}}・[[ゴム]]林に埋葬<br /> | occupation = [[国文学者]]・[[国学者]]&lt;br /&gt;[[文芸評論家]]・[[教員]]・[[詩人]]<br /> | language = [[日本語]]<br /> | nationality = {{JPN}}<br /> | education = [[学士]]([[国文学]])<br /> | alma_mater = [[広島文理科大学 (旧制)|広島文理科大学]](現・[[広島大学]])国語[[国文学]]科<br /> | period = [[1931年]] - [[1945年]]<br /> | genre = 国文学[[評論]]、[[随筆]]、[[詩]]、[[短歌]]<br /> | subject = [[大和魂|まことごころ]]、[[みやび]]、[[荒魂・和魂]]&lt;br /&gt;[[皇国]]、[[尊王攘夷]]<br /> | movement = [[日本浪曼派]]<br /> | notable_works = 『鴎外の方法』(1939年)&lt;br /&gt;『預言と回想』(1941年)&lt;br /&gt;『[[本居宣長]]』(1943年)&lt;br /&gt;『[[鴨長明]]』(1943年)&lt;br /&gt;『神韻の文学』(1943年)&lt;br /&gt;『[[古事記]]学抄』(1943年)<br /> | awards = <br /> | debut_works = 国語教育に於ける多読主義(1931年)<br /> | spouse = 蓮田敏子<br /> | partner = <br /> | children = 晶一、太二、新夫<br /> | relations = 蓮田慈善(父)、フジ(母)&lt;br /&gt;為明、道明(兄)&lt;br /&gt;キク、文子(姉)<br /> | influences = [[神風連の乱|神風連]]、[[西郷隆盛]]、[[古事記]]&lt;br /&gt;[[万葉集]]、[[古今集]]、[[伊勢物語]]&lt;br /&gt;[[大津皇子]]、[[大伴家持]]&lt;br /&gt;[[本居宣長]]、[[鴨長明]]&lt;br /&gt;[[斎藤清衛]]、[[垣内松三]]、[[森鴎外]]&lt;br /&gt;[[永井荷風]]、[[太宰治]]、[[佐藤春夫]]&lt;br /&gt;[[ライナー・マリア・リルケ|リルケ]]、[[ノヴァーリス]]<br /> | influenced = [[清水文雄]]、[[栗山理一]]、[[池田勉]]&lt;br /&gt;[[三島由紀夫]]、[[小高根二郎]]<br /> | signature = <br /> | website = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;蓮田 善明&#039;&#039;&#039;(はすだ ぜんめい、[[1904年]]([[明治]]37年)[[7月28日]] - [[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月19日]])は、日本の[[国文学者]]、[[国学]]研究者、[[文芸評論家]]、[[国語]][[教員]]、[[詩人]]。出身は[[熊本県]]。[[広島文理科大学 (旧制)|広島文理科大学]]国語[[国文学]]科卒業。[[文武両道]]の人として知られる&lt;ref name=&quot;yama&quot;&gt;[[山内由紀人]]「三島由紀夫に帰郷――蓮田善明と[[林房雄]]をめぐって――」({{Harvnb|論集I|2001|pp=135-147}})&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[広島高等師範学校]]時代、[[斎藤清衛]]の門下となり、同校出身の[[清水文雄]]、[[栗山理一]]、[[池田勉]]と共に[[同人]][[月刊誌]]『[[文藝文化]]』を創刊。[[日本浪曼派]]として活躍した。のちに同人に加わった青年期の[[三島由紀夫]]に期待をかけ[[思想]]形成に多大の影響を与えたことでも知られる&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;&gt;「第一章 [[三島由紀夫]]と[[日本浪曼派]]」({{Harvnb|北影|2006|pp=22-92}})&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;chigiri&quot;&gt;[[小高根二郎]]「善明と由紀夫の黙契」([[新潮]] 1971年2月号)。{{Harvnb|追悼文|1999}}に所収。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;shimauchi&quot;&gt;「序章 三島由紀夫の人生は『[[和歌]]』だった」({{Harvnb|島内|2010|pp=1-17}})。「第二章 [[学習院]]という湖――傑作の種の数々は学習院で芽生えた―3 作家へのスプリングボードとしての高等科時代」({{Harvnb|島内|2010|pp=71-92}})。「第六章 命を賭けたライフワーク――『[[源氏物語]]』を超えて―2 源郷に帰る旅人」({{Harvnb|島内|2010|pp=270-297}})&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;&gt;「第三章 三島由紀夫の青春」({{Harvnb|再訂|2005|pp=99-156}})&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;saiho&quot;&gt;{{Harvnb|西法|2010}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;shimizu&quot;&gt;[[清水文雄]]「三島由紀夫のこと」([[文學界]] 1971年2月号)。{{Harvnb|群像18|1990|pp=75-77}}に所収。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[大日本帝国陸軍|陸軍]][[中尉]]でもあった蓮田は、[[太平洋戦争]]時の[[出征]]地・[[イギリス領マラヤ]]の[[ジョホールバル]]において、[[日本の降伏|敗戦]]直後の[[連隊]]長の[[変節]]ぶりに憤り、隊長を[[射殺]]。その直後自身も同じ[[拳銃]]で[[自決]]した&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;chigiri&quot;/&gt;。<br /> <br /> 著書に『[[森鴎外|鴎外]]の方法』『預言と回想』『[[古事記]]学抄』『[[本居宣長]]』『花のひもとき』『[[鴨長明]]』『神韻の文学』、他に小説的作品『有心』などがある。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 出生の地 ===<br /> [[1904年]](明治37年)7月28日、[[熊本県]][[鹿本郡]][[植木町]]14(現・[[熊本市]][[北区 (熊本市)|北区]])の[[浄土真宗]][[大谷派]]本願寺末寺の金蓮寺[[住職]]の父・蓮田慈善と、母・フジの三男として誕生&lt;ref name=&quot;odakane&quot;&gt;小高根二郎「蓮田善明とその死」(果樹園 1959年8月号-1960年9月号、1965年5月号-1968年11月号に55回連載)。『蓮田善明とその死』([[筑摩書房]]、1970年3月。島津書房、1979年8月)。{{Harvnb|文學大系|1970|pp=461-471}}に一部掲載(1968年9月号-11月号)。{{Harvnb|再訂|2005|pp=99-156}}、{{Harvnb|北影|2006|pp=22-92}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;&gt;清水文雄「蓮田善明年譜」({{Harvnb|文學大系|1970|pp=480-481}})&lt;/ref&gt;。兄2人(為明、道明)、姉2人(キク、文子)がいた&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。<br /> <br /> 植木町には、[[西南戦争]]最大の激戦地・[[田原坂]]があり、町のはずれにある[[千本桜]]付近は、[[少佐]]・[[乃木希典]]が[[西郷隆盛|西郷]]軍に[[軍旗]]を奪われた場所である&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。植木町鐙田には[[鐙田杵築神社]]もあるが、この鐙田杵築神社と[[新開大神宮]]を尊崇していた[[林桜園]]は、熊本[[神風連]]の師であった&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。善明は杵築神社の宮司の息子と親友同士だった&lt;ref name=&quot;yama&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 国文学への目覚め ===<br /> [[1917年]](大正6年)3月、植木[[尋常小学校]]を卒業し、4月に熊本県立中学[[済々黌]](現・[[熊本県立済々黌高等学校]])に入学&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。1年生の時に級友の丸山學(のち[[熊本商科大学]]学長)、中川軍太郎らと回覧雑誌『護謨樹(ゴムノキ)』を作り、[[短歌]]・[[俳句]]・[[詩]]を発表して[[文芸]]に親しむようになった&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1918年]](大正7年)の9月から[[肋膜炎]]に罹り、翌[[1919年]](大正8年)3月まで[[休学]]した&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。詩「人は死ぬものである」の内容から、独特の[[死生観]]を思索し、少年期から徹底した[[悟り|悟達]]ぶりが見て取れる&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。その後『護謨樹』に板井一明が参加し、新たに『耕土』を発行して卒業後も続けた&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1923年]](大正12年)3月、中学済々黌を卒業し、4月に[[広島高等師範学校]](現・[[広島大学]][[教育学部]]の母体)[[文科]]第一部([[国語]][[漢文]]専攻)に入学。[[国文学]]の教授・[[斎藤清衛]]博士から強い影響を受け、[[古典]][[精神]]へ傾倒していった&lt;ref name=&quot;roman&quot;&gt;[[栗山理一]]・[[池田勉]]・[[塚本康彦]]の鼎談「雅を希求した壮烈な詩精神――蓮田善明 その生涯の熱情」({{Harvnb|浪曼|1975|pp=106-124}})&lt;/ref&gt;。蓮田は同校の[[学芸]]部の[[校友会]]誌『曠野』の[[編集委員]]となり、詩や[[小説]]、[[評論]]などを発表。その文名を謳われた&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。学芸部の代表委員をしていた4年の時の[[後輩]]に2年の[[清水文雄]](年齢は清水が最年長)、1年の[[栗山理一]]、[[池田勉]]がいた&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 教員と執筆活動 ===<br /> [[1927年]](昭和2年)3月、広島高等師範学校を卒業すると、そのまま[[鹿児島]][[歩兵第45連隊]]に[[幹部候補生 (日本軍)#幹部候補生制度(旧制)|幹部候補生]]として10か月間入隊した&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。[[1928年]](昭和3年)1月31日に除隊した後、4月に[[岐阜県]]立第二中学校(現・[[岐阜県立加納高等学校]])に教員として赴任&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。同年6月に郷里・[[植木町]]の[[医師]]・師井淳吾の娘・敏子と結婚した&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;&gt;「第三章 戦後神話のなかで」({{Harvnb|松本健一|1990|pp=117-175}})&lt;/ref&gt;。4歳年下の敏子とは小学生の時から顔見知りで、敏子の父親が開業する医院に、[[熊蜂]]に刺された小学校5年生の蓮田少年が来院したこともあった&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1929年]](昭和4年)4月、[[長野県]]立諏訪中学校(現・[[長野県諏訪清陵高等学校]])に転任するが、[[1931年]](昭和6年)2月から雑誌『国語と国文学』に評論を発表し初めていた蓮田は向学心に燃え、[[1932年]](昭和7年)3月に同校を退職し、4月に、27歳で[[広島文理科大学 (旧制)|広島文理科大学]](現・[[広島大学]]の[[文学部]]、[[教育学部]]、[[理学部]]の構成母体)[[国語]][[国文学]]科に入学した&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。この年に[[第一次上海事変|上海事変]]が始まり、[[五・一五事件]]が起こった&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。<br /> <br /> 翌[[1933年]](昭和8年)9月、蓮田は同人研究[[紀要]]『国文学試論』を[[春陽堂書店|春陽堂]]から発行した&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;。この『国文学試論』の同人は、[[清水文雄]]、[[栗山理一]]、[[池田勉]]を加えた4人で、のちの『[[文藝文化]]』の母胎となる&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。この時、清水は[[成城高等学校 (旧制)|成城高等学校]](現・[[成城大学]])に赴任して2年目で、栗山は[[大阪府]]立中学校の教師になったばかりであった&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1935年]](昭和10年)3月に広島文理科大学を卒業し、4月に[[日本統治時代の台湾の高等教育機関|台中商業学校]]に赴任し、妻子と共に[[日本統治時代の台湾|台湾]]に渡った&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;。翌[[1936年]](昭和11年)8月に[[大阪府|大阪]][[堺市]]の栗山理一宅で、[[伊東静雄]]と初めて逢った。この年の2月に[[二・二六事件]]が起こり、翌[[1937年]](昭和12年)には[[支那事変]]が勃発して[[日中戦争]]となった。執筆活動は『国文学試論』の他、『国語と国文学』などで続けられた&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 『文藝文化』創刊 ===<br /> [[1938年]](昭和13年)4月、[[成城高等学校 (旧制)|成城高等学校]](現・[[成城大学]])の教授に転任。住居を[[東京市]][[世田谷区]][[祖師谷]]2丁目に移した&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。成城高等学校は[[清水文雄]]が勤務していたが、清水の[[学習院中等科]]転任により、蓮田が後任となった形であった&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。<br /> <br /> 転任早々、清水文雄、[[栗山理一]]、[[池田勉]]と共に、「自ら[[神]]となって[[文学]]を新しくする[[日本]]に」という日本学の樹立のために「日本文学の会」を結成{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|以後の同人[[紀要]]・[[雑誌]]・[[叢書]]の発行などは全て「日本文学の会」を本拠とした&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。}}。同年7月に、蓮田を編集兼名義人として同会の国文学月刊誌『[[文藝文化]]』を創刊し、7月28日から4日間、[[高野山]]において「日本文学講筵」を開催した&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。<br /> <br /> 誌名の由来は、[[斎藤清衛]]から『文學道』はどうだと提案されたことと、蓮田ら同人が尊敬していた垣内松三の『国語文化』という雑誌があったことから、それらをヒントにして名付けた&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|創刊の資金は、で、蓮田が編集に携わり、[[斎藤清衛]]名義の『作文』という中学校向けの副読本の収入からであった&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;。}}。この年には、同じく[[日本浪曼派]]の[[保田與重郎]]が、[[林房雄]]、[[萩原朔太郎]]、[[浅野晃]]、[[佐藤春夫]]らと共に、『新日本』を創刊している&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。『文藝文化』は、『日本浪曼派』(1935年3月創刊)、『コギト』(1932年3月創刊)と並列して位置づけられる雑誌となり&lt;ref name=&quot;hashikawa22&quot;&gt;「三島由紀夫」([[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]編『現代日本文学館42』[[文藝春秋]]、1966年8月)。「II 三島由紀夫論――三島由紀夫伝」として{{Harvnb|橋川|1998|pp=36-73}}に所収。&lt;/ref&gt;、日本浪曼派の一翼を担った&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|『コギト』は1932年(昭和7年)3月に、[[保田與重郎]]が[[大阪高等学校 (旧制)|大阪高等学校]]の卒業生たちと創刊した雑誌。『日本浪曼派』は1935年(昭和10年)3月に保田が、[[亀井勝一郎]]、[[伊東静雄]]、[[神保光太郎]]、[[中谷孝雄]]らと創刊した雑誌である&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。}}。<br /> <br /> 同年10月17日、蓮田は[[召集]]を受けて、20日に[[熊本]][[歩兵第13連隊]]に入隊。初めて戦場に赴く前に蓮田は[[池田勉]]に向かって、「日本人はまだ戦ひに行くことの美しさを知らない」と言って微笑んだという。18日、[[伊東静雄]]は熊本へ向かう蓮田を[[大阪駅]]頭に迎えて、「[[天皇|おほきみ]]にささげしいのち」と、壮行の辞を[[鉛筆]]で蓮田の日記帳に記した&lt;ref&gt;蓮田善明「応召日記」(昭和13年10月18日付)。{{Harvnb|松本健一|1990|p=77}}に掲載。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;shijinito10&quot;&gt;「十 戦場に寄せるシンパシー」({{Harvnb|詩人伊東|1971|pp=245-263}})&lt;/ref&gt;。蓮田は応召のかたわら、「青春の詩宗――[[大津皇子]]論」を11月、翌[[1939年]](昭和14年)2月に「新風の位置――[[志貴皇子]]に捧ぐ」を『文藝文化』に発表した&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。<br /> <br /> 1939年(昭和14年)3月、植木町に帰郷。4月5日、[[門司港 (地区名)|門司港]]より[[華中|中支]]戦線に出征し、[[湖南省]][[洞庭湖]]東部の晏家大山、大橋峯などの山地に従軍した。[[歩兵少尉]]軍務の余暇に各論考、日記を書き綴り、11月に『[[森鴎外|鴎外]]の方法』を出版。「詩と批評――[[古今和歌集]]について」を『文藝文化』に連載発表した(翌年1月まで)。翌[[1940年]](昭和15年)9月28日、戦線の渡河作戦中に右腕前膊貫通銃創を負い、同年12月25日に郷里・植木町に帰還した&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 三島由紀夫との出逢い ===<br /> [[1941年]](昭和16年)1月、[[阿蘇郡|阿蘇]][[垂玉温泉]]の山口旅館に滞在し、小説「有心(今ものがたり)」を執筆した&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。同月に『預言と回想』を刊行。2月に成城高等学校で再び教鞭をとることになった蓮田は単身で上京し、4月に「[[鴨長明]]」1回目を『文藝文化』に発表した&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;nakagawa&quot;&gt;[[中河与一]]「魂の高まり」({{Harvnb|浪曼|1975|pp=126-128}})&lt;/ref&gt;。6月、創作活動の利便を図るため、家族を連れて東京市世田谷区[[宇奈根]]824に居を定め、9月に「森鴎外」を『文藝世紀』に発表した&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。蓮田は、「狭い借屋住いの中で子供はうるさいから早く寝せろ」(夫人の談話)と、叱りながらも勉学に励んでいた。長男の晶一が[[風邪]]で夜中に熱を出し、妻が医者を呼んで来てほしいと頼んでも、それほどの病気でないと判断すると、夜道は物騒だからと、そのまま寸暇を惜しむように原稿書きを続けた&lt;ref name=&quot;roman2&quot;&gt;蓮田晶一「父・蓮田善明」({{Harvnb|浪曼|1975|pp=128-130}})&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 同年夏、『文藝文化』同人の[[伊豆|伊豆市]][[修善寺温泉]]での編集会議で、[[清水文雄]]から[[学習院中等科]]の生徒・[[三島由紀夫|平岡公威]]の作品「[[花ざかりの森]]」を見せられ、同人らと「[[天才]]」の出現を祝った。「三島由紀夫」という筆名を付けられた当時16歳の少年の「花ざかりの森」第1回を掲載した『文藝文化』9月号の編集後記の中で蓮田は、〈この年少の作者は、併し[[悠久]]な日本の[[歴史]]の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、[[成熟]]したものの[[誕生]]である〉と紹介して激賞した&lt;ref name=&quot;zenmei&quot;&gt;蓮田善明「編集後記」([[文藝文化]] 1941年9月号)。{{Harvnb|再訂|2005|p=116}}、{{Harvnb|群像18|1990|p=76}}に掲載。&lt;/ref&gt;。蓮田はその後、この作品の出版の手筈にも尽力した&lt;ref&gt;[[富士正晴]]「蓮田善明宛ての書簡」(昭和18年5月3日付)。{{Harvnb|安藤|1996|pp=56-57}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;蓮田善明「平岡公威宛ての葉書」(昭和18年8月16日付)。{{Harvnb|安藤|1996|p=58}}、{{Harvnb|アルバム|1983|p=16}}(現物写真)に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|蓮田善明が激賞した文章は、生涯にわたって[[三島由紀夫]]に影響を与えたものとして、よく取り上げられる&lt;ref name=&quot;radio&quot;&gt;「第一回 三島由紀夫の誕生」({{Harvnb|徹|2010|pp=8-20}})&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。<br /> {{Quotation|「[[花ざかりの森]]」の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の文学に自信のない人たちには、この[[事実]]は信じられない位の驚きともなるであらう。&lt;br /&gt;<br /> この年少の作者は、併し[[悠久]]な日本の[[歴史]]の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、[[成熟]]したものの[[誕生]]である。此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの[[偶然]]であつた。併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ[[縁]]はあつたのである。|蓮田善明「編集後記」([[文藝文化]] 昭和16年9月号)&lt;ref name=&quot;zenmei&quot;/&gt;}}}}。<br /> <br /> 同年12月8日に、[[日本軍]]は[[アメリカ]][[列強]]との全面戦争に突入し、[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])が始まった。蓮田は『文藝文化』や『文藝世紀』以外の雑誌『[[新潮]]』『文學』『現代』『公論』『国文解釈と鑑賞』などにも執筆活動を広げていた&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。[[1942年]](昭和17年)6月18日、蓮田は[[日比谷公会堂]]で開かれた[[日本文学報国会]]の発会式で、「[[古典]]の[[精神]]による[[皇国]]文学[[理念]]の確立」という記念講演を行なった&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。蓮田は精力的な執筆活動を見せ、その後『[[本居宣長]]』『[[鴨長明]]』『神韻の文学』『[[古事記]]学抄』『忠誠心とみやび』『花のひもとき』などを刊行していく&lt;ref name=&quot;sugimoku&quot;&gt;{{Harvnb|杉本・目録|1985}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;清水文雄「著作目録――蓮田善明」({{Harvnb|文學大系|1970|p=484}})&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1943年(昭和18年)4月、[[山本五十六]]が[[戦死]]し、[[成城高等学校 (旧制)|成城高等学校]]の朝の集会で校長が哀悼の挨拶を述べ[[黙祷]]をしている最中、遅れて来た何人かの生徒がゾロゾロと入ってきて、静粛な雰囲気を乱した時には、他の教員や学生部長の誰も叱らないのを見かねた蓮田が、「今日は何だと思っているか」と彼らの頬をピシャっと叩いた&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;shoichi&quot;&gt;蓮田晶一「父・蓮田善明」(バルカノン〈特集・文藝文化〉 1972年2月号)。{{Harvnb|松本健一|1990|pp=120-122}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;。それを見ていた[[池田勉]]は、非常に爽やかな対処の仕方だったと回想している&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 南方戦線に出征 ===<br /> [[1943年]](昭和18年)10月25日、第二次召集が決まり、[[熊本]][[歩兵第13連隊]]の小隊長として11月に南方戦線へ出征することになった。蓮田は10月26日、[[陸軍中尉]]の[[軍装]]と好きな白[[手袋]]をし、妻子を連れて宮城前の広場に赴いて[[皇居]]を参拝&lt;ref name=&quot;shoichi&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。「皇居を拝してかへるさ」という詩を綴った&lt;ref name=&quot;sazare&quot;&gt;蓮田善明「皇居を拝してかへるさ」(文藝文化 1943年12月号)。{{Harvnb|北影|2006|p=80}}に掲載。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 蓮田は妻に玉[[砂利]]を拾わせ、3人の子供(晶一13歳、太二7歳、新夫4歳)に形見分けをし、自身も、〈三粒四粒〉の玉砂利を戦地への携帯にした&lt;ref name=&quot;sazare&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> {{Quotation|妻よ この大前に敷かれたる [[さざれ石|さゞれ石]]のうるはしからずや 汝が手に一にぎり 拾ひて われと汝と分たん 汝が手なるは稚子らに分てよ さゞれ石 ああ 大前のさゞれ石 円らかに 静かに ありがたきかな わがいだきもちて 行く 三粒四粒|蓮田善明「皇居を拝してかへるさ」&lt;ref name=&quot;sazare&quot;/&gt;}}<br /> <br /> その夜、熊本へ向かう[[大阪駅]]の車窓で、[[伊東静雄]]が出迎え、黄[[キク|菊]]を一枝と詩集『春のいそぎ』を献呈し、[[万歳]]二唱し深く[[敬礼]]して別れた&lt;ref name=&quot;shijinito12&quot;&gt;「十二 カタストロフィー・罹災と敗戦」({{Harvnb|詩人伊東|1971|pp=293-312}})&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;。その前夜10月25日には、『文藝文化』同人らにより送別会が開かれた&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。蓮田は[[三島由紀夫]]に、「日本のあとのことをおまえに託した」と言い遺した&lt;ref name=&quot;nichiroku&quot;&gt;「昭和18年10月25日」({{Harvnb|安藤|1996|p=59}})&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;muramatsu43&quot;&gt;「IV 行動者――『[[豊饒の海]]』の完結 訣別」({{Harvnb|村松|1990|pp=469-503}})&lt;/ref&gt;。[[栗山理一]]は、蓮田が、「あの[[アメリカ]]の奴め等が…」と何度も激昂を繰り返し、[[神風連]]の歌を吟じては憤り、熱涙を流していたと回想している&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;。<br /> <br /> 同年12月29日、蓮田は[[インドネシア]]の[[ジャワ島]]の[[スラバヤ]]にて、[[佐藤春夫]]と邂逅し、1冊の歌帖(「をらびうた」)を託した&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。[[1944年]](昭和19年)1月からは、[[小スンダ列島]]の[[スンバ島]]へ転進し、約1年3か月駐屯した&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。その間日本では、3月に蓮田の家族が植木町に帰住&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。『文藝文化』は、雑誌統合要請のため8月をもって通巻70号で終刊となった&lt;ref&gt;「年譜」(昭和19年8月)({{Harvnb|三島42巻|2005|p=94}})&lt;/ref&gt;。最終号に「をらびうた」が発表された&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。<br /> <br /> 蓮田はこの頃スンバ島から、小学校2年の二男・太二と、3歳下の三男・新夫宛てに[[遺書]]のような便りを送っている&lt;ref name=&quot;hasuda190826&quot;&gt;蓮田善明「太二・新夫宛ての葉書」(昭和19年8月26日付)。{{Harvnb|松本健一|1990|p=169}}に掲載。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;。<br /> {{Quotation|新夫君はあひかはらずわるん坊でせうね。兄さんと三人で心をあはせてお母さんを守つて、お父さんがゐなくてもりつぱな人になりなさい。兄弟三人で心と力を合せたらほんとうに強くなれます。[[赤穂事件の人物一覧|四十七士]]も[[赤穂事件|うち入り]]の時は三人ぐみになつてたゝかつたさうですよ。お父さんは元気です。家のまはりの[[林]]にはお[[猿]]さんが一杯ゐます。[[豚]]さんも時々歩いてゐます。一メートルばかりの大[[とかげ]]も。太二君の好きな[[河馬]]さんはゐません。さやうなら。|蓮田善明「太二・新夫宛ての葉書」(昭和19年8月26日付)&lt;ref name=&quot;hasuda190826&quot;/&gt;}}<br /> <br /> [[1945年]](昭和20年)3月に[[シンガポール]]に進出し、蓮田は、新たに編成された迫撃砲兵一個大隊の中隊長に任命された&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。熊本[[歩兵第13連隊]]隊長は、[[上海]]から転属した中条豊馬[[大佐]]で、蓮田の上司は連隊副官・鳥越春時[[大尉]]であった。連隊本部は[[マレー半島]]の[[ジョホールバル]]の王宮に置かれていた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。<br /> <br /> 蓮田らがシンガポールに入港した直後、蓮田の部下が[[憲兵]]と大喧嘩をし、[[怪我]]を負わせた事件があった。[[公務執行妨害]]として、その部下が軍と[[師団]]から処罰されようとした時、部下思いの蓮田は、部下の過失は小隊長の自分に責任があると申し出て、鳥越大尉と一緒に連隊長や師団長、憲兵隊長に詫びに行くことで、その部下の処分が取り下げられたこともあった&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 敗戦――上官の豹変 ===<br /> 1945年(昭和20年)8月15日、[[日本軍]]の[[降伏]]により終戦の詔書([[玉音放送]])が[[昭和天皇]]よりなされた。しかし不敗を誇る士気旺盛な熊本歩兵部隊は、もしも[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]により天皇に[[戦争責任]]が負わされる場合を危惧し、軍独自の行動として[[板垣征四郎]][[大将]]をいただき最後の一兵まで抗戦すべしと意気に燃えていた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;odakane2&quot;&gt;小高根二郎「解説」(『蓮田善明全集』島津書房、1989年4月)。{{Harvnb|松本健一|1990|pp=17-18}}に掲載。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 青年[[将校]]らの計画は極秘に鳥越大尉により抵抗部隊が編成されつつあった&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;odakane2&quot;/&gt;。善明はその抵抗部隊の大隊長に擬せられていた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。この不穏な動きを察知した中条豊馬大佐は、抵抗部隊編成を制するため、下士官以上を本部の奥にある山上の新王宮に集め、8月18日に[[軍旗]]告別式を決行し、訓示をした&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。鳥越春時大尉の記憶によると、「敗戦の責任を[[天皇]]に帰し、[[皇軍]]の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」という&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;odakane2&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。<br /> <br /> 中条豊馬大佐の軍人らしからぬ、あまりの豹変と[[変節]]ぶりに多くの青年将校らは憤ったが、中でも蓮田の激昂は凄まじく、その集会の直後にくずれて膝を床につき、両腕で大隊長・秋岡隆穂大尉の足を抱いて、「大尉長殿! 無念であります」と哭泣した&lt;ref name=&quot;odakane2&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。その上、中条大佐の日頃の言動には不審な所が多かったため、蓮田は中条大佐を国賊と判断した&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> 蓮田の上官の鳥越大尉は前から、中条大佐へ来る郵便物が「[[金 (姓)|金]]」某という宛名で来ることを不審に思っていた。しかも中条大佐の出身地が[[対馬]]であったことから、[[朝鮮]]から渡って来て中条家の[[養子]]になった人物ではないかと推理していた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;maruyama&quot;&gt;[[丸山学]]「蓮田善明の死」([[日本談義]] 1958年8月号)。{{Harvnb|松本健一|1990|pp=18-19}}、{{Harvnb|文學大系|1970|p=468}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。また、中条には日頃から[[スパイ]]容疑を受ける言動もあり、側近の者ほど遠ざけ、前線の視察も日本軍隊は相手にせず、もっぱら現地人出迎者の応対に慇懃であったという&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;maruyama&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。<br /> <br /> なお、この中条[[朝鮮人]]説に関しては、[[松本健一]]による[[遺族]]への直接取材によれば、中条豊馬は中条家の養子だったのは事実であるが、元の姓は「金」ではなく、「[[陳 (姓)|陳]]」であるという&lt;ref name=&quot;kennichi1&quot;&gt;「第一章 その死をめぐって」({{Harvnb|松本健一|1990|pp=7-58}})&lt;/ref&gt;。養子になる以前の名は「陳豊馬」で、[[大分県]][[宇佐郡]](現・[[宇佐市]])高家村の出身であり、朝鮮の出身ではない&lt;ref name=&quot;kennichi1&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|中条(陳豊馬)は、父・陳峯吉と母・ヨシの三男として[[1895年]](明治28年)2月12日に誕生。実父・峯吉は[[文久]]2年([[1862年]])生れで、16歳の時に同じ村の岡田家から、陳勇平の養子になった人物で、母・ヨシも高家村出身者である&lt;ref name=&quot;kennichi1&quot;/&gt;。豊馬は実父母の死後、[[菓子]]職人の中条助一の養子となった。中条助一も大分県宇佐郡出身で、[[対馬]]で菓子や大[[炭]]を売る店を営んでいた&lt;ref name=&quot;kennichi1&quot;/&gt;。}}。<br /> <br /> === 善明の決意 ===<br /> 中条豊馬隊長の訓示を聞いた8月18日、蓮田は中条を斃して自らも「[[護国]]の[[鬼]]」となって死ぬことを決意した&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。蓮田は中学2年の時に[[肋膜炎]]を患い、昔から早死にすると人に[[予言]]されていた。[[広島文理科大学 (旧制)|広島文理]]時代の友人も蓮田の[[手相]]を見て、45、6歳か50歳に健康に注意しろと言った&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。ちょうどその頃、蓮田自身もそう予感していた。微熱があり病院で[[レントゲン]]を撮った蓮田は、肺門[[リンパ腺]]に病変があることを知り、その帰り道に歩きながら〈暗涙〉を飲んだこともあった&lt;ref&gt;蓮田善明「日記」(昭和10年1月28日付)。{{Harvnb|文學大系|1970|p=463}}に掲載。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> 蓮田は、[[家伝]]の名刀を所持していた。その[[日本刀]]は「[[加藤清正]]陣中ニ於テ働キノ太刀」という由緒あるものであった&lt;ref&gt;蓮田慈善「蓮田善明宛ての書簡」(昭和12年)。{{Harvnb|文學大系|1970|p=463}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。10年前に[[広島県]]の[[福山市|福山]][[歩兵第41連隊]]付だった[[相沢三郎]]中佐が白昼堂々と軍務局長・[[永田鉄山]]を[[日本刀]]で斬殺したように([[相沢事件]])、自身も日本刀を使いたいと蓮田は考えたが、自分には[[剣道]]の腕前がないことを考え、確実な手段の[[拳銃]]を使うことにした&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。蓮田は、[[皇居|宮城]]前広場から携えて来た〈[[さざれ石|さゞれ石]]〉のような小[[球体]]の[[弾丸]]を数弾込めた(出典では実際に〈さゞれ石〉が弾丸として使用されたとされる記載もあり)&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|蓮田の詩や日記などには、小球体([[茶]]の実、[[蜜柑]]、[[柿]]、小[[石]])に寄せる思い出、小球体の動態への嗜好と偏執が見られるという。小高根二郎は蓮田が、「(〈大前のさゞれ石〉に連なる)小球体の執心の思い出を一つ一つ蔵いなおすように、一弾……一弾……を留め金に挿入した」と文学的修辞を使っているようであるが、後段では、蓮田が実際に〈さゞれ石〉を実弾として使用したと見られる以下のような記載もしている&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> {{Quotation|(蓮田は宮前広場の玉砂利を)自分では〈いただきもちて 行く 三粒四粒〉と戦地に携行したのだった。そのうち二粒は中条大佐の射殺に費消し、一粒は自決に用いた。三粒であったら丁度だったし、四粒だったら一粒余った勘定になる。それも二重装填による一粒の捨て弾を計算に入れると、ちょっきりになる。まさに運命の数と言わなくてはなるまい。|小高根二郎「蓮田善明とその死」&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。}}}}。<br /> <br /> 8月19日の早朝7時半頃、蓮田は胸に[[略綬]]を付け、拳銃と[[双眼鏡]]のベルトを交叉させて[[背嚢]]を負った完全軍装に[[純白]]の[[手袋]]をして、鳥越大尉の副官室を訪れた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。「話がある」と蓮田は副官に言ったが、[[手榴弾]]の[[自決]]者が2名出たため、鳥越副官は急いで[[オートバイ]]でその後始末に向い、部屋に戻ったのは11時半すぎであった。その時、蓮田はまだ副官室にいた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。目撃者によると、蓮田は、鳥越副官が外出している間、連隊長室に行っていたらしく、長時間に亘り中条連隊長を強く諌めていたのだろうと功績係の後藤包軍曹は推測していた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。<br /> <br /> その後、鳥越の副官室で4名の幹部士官(河村大尉、田中大尉、高木大尉、塚本少尉)も加わり、計6名で昼食会となったが、蓮田はそこでも、高木大尉と日本の将来について議論となった&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。高木大尉は中条連隊長の肩を持ち、これからの日本で誰が一番偉いか子供に聞けば、[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]や[[蒋介石]]の名を出ると言い、[[天皇]]と答える者はいなくなると投げやりな態度をとった&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> 蓮田は、「そんな莫迦なことは断じてない。日本が続くかぎり、[[日本民族]]が存続するかぎり、天皇が最高であり、誰が教えなくとも、日本の子供であるかぎり、天皇を至尊と讃える」と激しく反論するが、高木大尉は、敗けてそんなことを言っても無駄だとし、「あんたの単なる[[理想]]」だと軽くうけ流した&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。蓮田は高木大尉に食い下がり、「敗けたからこそ、なお必要ではないか!」と叫び、2人の議論は噛み合わなかった&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。<br /> {{Quotation|「冗談じゃねえ。はたして生きて帰れるか、どうか、わからん我々なんだぜ。連隊長殿(中条豊馬)の話のとおり、くだらん理屈をこいて暇をつぶすより、どうしたら生きて帰れるかちゅう手段を、真剣に考える[[秋]]じゃあるまいか?」と、高木大尉はたたみかけた。&lt;br /&gt;<br /> 「生きて帰ろうと、死んで帰ろうと、我々は日本[[精神]]だけは断じて忘れてはならん!」と善明は声を荒らげた。|小高根二郎「蓮田善明とその死」&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;}}<br /> その後、田中大尉が「飯がまずくなる」と論争を止めて、会食は終った&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 上官を射殺――自決 ===<br /> 前線に飛行機を飛ばして来た[[閑院宮春仁王]][[殿下]]から終戦の正式な聖旨の伝達があり、午後からは、熊本連隊も所属する[[第19軍 (日本軍)|第19軍]]の[[軍旗]]を一括して[[昭南神社]]で奉焼する予定となっていた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。鳥越副官は、「あんたは今すこし私の部屋で遊んでいて下さい。例のこと(抵抗部隊の話)で相談がある」と蓮田に言い残して、軍旗室へ行った&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> 中条豊馬大佐は、軍旗を納めた箱を持った塚本少尉を従えながら、連隊本部の玄関を出た。中条豊馬大佐が、待機していた車に乗り込もうとすると、副官室の窓外の死角で待ち伏せていた蓮田が、黒田[[軍曹]]の背後から踊り出てきた。蓮田は「[[国賊]]!」と叫び、拳銃を2弾連発し、中条豊馬大佐を[[射殺]]した&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|ちなみに、死亡した中条豊馬大佐は、英軍が必死に探索していた人物であったことが後日判明した&lt;ref name=&quot;maruyama&quot;/&gt;。[[上海]]に不時着した[[ドーリットル空襲|トゥリットル]]東京空襲部隊の飛行士に、[[死刑]]を宣告した判司長が中条豊馬大佐だったからである&lt;ref name=&quot;maruyama&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。}}。<br /> <br /> 「つかまえろッ!」という河村大尉の怒号の中、蓮田は[[築山]]を目指して走り、自らの右[[こめかみ]]に銃口を当て引き金を引くが不発となった。黒田軍曹がすっ飛んで行って制止すれば[[自殺]]を防げそうだったが、黒田軍曹はあえてそれをしなかった&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。[[知性]]の高い蓮田が上下関係の箇条を犯してまで敢行した所業には、それ相当の覚悟と理由があったに違いないと黒田軍曹は咄嗟に判断し、もしも築山で文書焼却作業をしている兵士たちが蓮田の[[自決]]を止めようとしたら、逆にそれを抑えようと考えた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> 蓮田は、追手を制止するか二重装填を解くかの動作の如く、右手を[[水車]]のようにグルグル回しながら再び走り、もう一度こめかみに拳銃を当て引き金を引いた。蓮田の身体は一旋回すると、一[[尺]]ほど[[血]]潮を吹き上げながらねじれて大地に倒れ絶命した(享年41)&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> その時、左手に固く握りしめていたものは、〈日本のため、やむにやまれず、奸賊を斬り皇国日本の捨石となる〉という文意の[[辞世|遺歌]]を書いた1枚の[[葉書]]だったと内野中尉は証言している&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。国に遺した妻子のことを思わぬでもないが、これが自分の行く道だから、という意味のことも書いてあったという&lt;ref name=&quot;roman2&quot;/&gt;。<br /> <br /> 蓮田の遺体は原隊の梶原隊に移され、戦友たちにより、現地[[ジョホールバル]]で[[荼毘]]にふされた。同郷の島村肇伍長が蓮田の遺骨や原稿を持って帰国する手筈になっていたが、[[英国軍]]が遺骨の持ち帰りを禁止したため、やむなく遺骨は[[シンガポール]]のゴム林の中に葬られた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。左手に握りしめられていた葉書や、書きためてあった行李いっぱいの原稿類も[[憲兵隊]]に持ち去られた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;roman2&quot;/&gt;。<br /> <br /> 蓮田が死んだ日は朝から曇りで、夕方から雨が降り出した。本部付の下士官が就寝前に外庭に出ると、玄関前から飛び立つ[[火の玉]]があったという&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。後藤軍曹は、「蓮田中隊長の[[魂]]が祖国日本に向かって[[昇天]]した」と綴っている&lt;ref&gt;後藤包「故蓮田善明中隊長を偲ぶ」(日本談義 1966年8月号)。{{Harvnb|文學大系|1970|p=468}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。ちょうどその日あたり、植木町にいる敏子夫人が夜、庭の方を眺めていると、[[阿蘇山|阿蘇]]の方角から両手に抱えるほどの大きさの火の玉が飛んで来た&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。また、ある日夫人は不思議な[[夢]]を見た。それは明け方、ふと気づくと枕元に軍装の夫が佇んでいたので「お帰りなさい」と挨拶すると、蓮田の姿は崩折れるようにその身を沈めて消え、その瞬間に夢から覚めたというものだった&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 死後――友人らの哀悼 ===<br /> 蓮田の死が故郷の家族に報告されたのは翌[[1946年]](昭和21年)6月で、友人らの間に伝わったのは夏だった&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;shijinito13&quot;&gt;「十三 戦後から死まで」({{Harvnb|詩人伊東|1971|pp=313-356}})&lt;/ref&gt;。蓮田の行動に衝撃を受けた[[伊東静雄]]は、飛び去る白いはぐれ[[雲]]が「さよなら……さやうなら」と[[会釈]]を続けながら「やがて優しくわが[[視野]]から遠ざかる」と詠じた詩『夏の終り』を綴った&lt;ref name=&quot;shijinito13&quot;/&gt;。<br /> <br /> しかし[[富士正晴]]が[[復員]]し戦闘帽と[[軍服]]のままで伊東のいる[[大阪市立住吉中学校|住吉中学校]]に行くと、伊東は不愉快そうにし、蓮田のことが話に出ると、「ひとりで死にゃいいのに」と言ったとされる&lt;ref&gt;[[富士正晴]]「伊東静雄のこと」(祖国 1953年7月・伊東静雄追悼号)。{{Harvnb|松本健一|1990|pp=153-154}}、{{Harvnb|文學大系|1970|p=469}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;。[[林富士馬]]も、蓮田の行動に「腹立たしい」ものを感じ、それを[[佐藤春夫]]に伝えていた&lt;ref name=&quot;satoharu&quot;&gt;[[佐藤春夫]]「林富士馬宛ての書簡」。(光耀 1946年10月・第2輯)。{{Harvnb|文學大系|1970|p=463}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> 佐藤春夫はそれに対して、「腹立たしいといふ気持も表現も了解されないではありませんが、蓮田君としてはそれより外に方法はなかつた[[必然]]の行き方と小生は深い哀悼の感を持ちます。(中略)蓮田君も[[内地]]にゐて、もう四五日も生きてゐたらまた何とか考へ方もあつたのではないかとも思ひますが、十五日から二十日までの彼の心事を思ふと悲痛に堪へぬものを感じます」として&lt;ref name=&quot;satoharu&quot;/&gt;、雑誌『[[人間 (雑誌)|人間]]』8月号に哀悼の詩「哭蓮田善明」を寄せた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> この詩は、編集部から[[印刷所]]に回され[[校正]]刷りまでしたが、[[GHQ]]の[[検閲]]を恐れて上梓されなかった&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。しかし、佐藤の詩の未発表を惜しんだ編集員の1人が校正刷りを[[三島由紀夫]]に送り、三島がこれを[[清水文雄]]に送って預けていたので、廃棄されずに今日無事に残ることができた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> {{Quotation|[[皇国|すめぐに]]の [[文学|ふみ]]のはやしに わけいりて おくがをきはめ かぐはしき [[心]]の[[花]]も ひらきしを [[おおきみ|おほきみ]]の まけのまにまに [[剣|つるぎ]]はき [[天皇|すめろぎ]]の とほの[[みかど]]に [[侍|さむらひ]]て たたかひの かたぬうらみに 八月二十日 [[ジョホールバル|じよほうる]]に 己が[[こめかみ]] [[ピストル|ぴすとる]]の たまにつらぬき たまきはる [[命|いのち]]すぎぬる [[霊魂|みたま]]いま きみがつかへし すめぐにの いづくにかます&lt;br /&gt;<br />    反歌&lt;br /&gt;<br /> まさきくもあれ といのりし [[ますらお|ますらを]]の友は あらずも なりにけるかな|[[佐藤春夫]]「哭蓮田善明」&lt;ref name=&quot;satoharu&quot;/&gt;}}<br /> <br /> 1946年(昭和21年)11月17日、午後2時から[[成城学園]]の素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」が行なわれた&lt;ref name=&quot;shimizu&quot;/&gt;。出席者は、[[桜井忠温]]、[[中河与一|中河與一]]、[[清水文雄]]、[[阿部六郎(東京芸術大学教授)|阿部六郎]]、[[今田哲夫]]、[[栗山理一]]、[[池田勉]]、[[三島由紀夫]] &lt;ref&gt;[[平岡公威]]「会計日記」(昭和21年11月17日付)。{{Harvnb|補巻補遺・索引|2005-12|p=531}}に所収。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;shimizu&quot;/&gt;。伊東静雄は誘いを受けていたが、「ひとりの友を失つて、他の多くの友をも遠ざかつてゐたい気持」だとし、戦後は「余生」と考え、「観る」生活を続けることを清水文雄に伝え、偲ぶ会を欠席した&lt;ref&gt;伊東静雄「清水文雄宛ての書簡」(昭和21年11月14日付)。{{Harvnb|松本健一|1990|pp=156-157}}に掲載。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;shijinito13&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|この約6年数か月後の1953年(昭和28年)3月に伊東静雄は亡くなるが、死の床で伊東は、「蓮田善明が死んでしもうて……あの蓮田も死んでしもうて…」と涙を流していたという&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。}}。<br /> <br /> 出席者だけで蓮田の思い出を小冊子にまとめ、蓮田を深く知る[[版画家]]・[[棟方志功]]の「悲しき飛天」[[装幀]]で『おもかげ』という小冊子を発刊した&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。三島由紀夫は[[毛筆]]でしたためた以下の詩を亡き蓮田に献じた{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|三島が蓮田を「[[古代]]の[[雪]]を愛でし君」と呼びかけたのは、蓮田の『神韻の文学』の最期の収められた評論「雲の意匠」を想起してのことである&lt;ref name=&quot;shimizu&quot;/&gt;。}}。<br /> {{Quotation|[[古代]]の[[雪]]を愛でし君は その身に古代を現じて 雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる [[塵]]土に埋れんとす|三島由紀夫「故蓮田善明への献詩」&lt;ref&gt;三島由紀夫「故蓮田善明への献詩」(おもかげ 1946年11月17日)。{{Harvnb|群像18|1990|p=76}}、{{Harvnb|再訂|2005|p=152}}、{{Harvnb|北影|2006|pp=87}}、{{Harvnb|松本健一|1990|p=159}}、{{Harvnb|橋川|1998|pp=46}}、{{Harvnb|浪曼|1975}}(現物写真)に掲載。{{Harvnb|三島37巻|2004|p=762}}に所収。&lt;/ref&gt;}}<br /> <br /> 偲ぶ会の翌日、[[清水文雄]]に宛てた[[絵葉書]]に三島は、「黄[[キク|菊]]のかをる集りで、蓮田さんの[[霊]]も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを[[神]]集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?」と書き送っている&lt;ref&gt;三島由紀夫「清水文雄宛ての葉書」(昭和21年11月18日付)。『師・清水文雄への手紙』(新潮社、2003年8月)、{{Harvnb|三島38巻|2004|pp=607-608}}に所収。&lt;/ref&gt;。同年11月20日には、郷里・[[植木町]]で[[葬儀]]が行われた&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1960年]](昭和35年)10月19日、蓮田の故郷・植木町にある[[田原坂]]公園に[[歌碑]]が建立され、除幕式が行われた&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;。歌碑には、〈&#039;&#039;&#039;ふるさとの 驛におりたち 眺めたる かの薄紅葉 忘らえなくに&#039;&#039;&#039;〉という蓮田の「をらびうた」の一首が刻まれている&lt;ref name=&quot;etojun&quot;&gt;[[江藤淳]]『南州残影』([[文藝春秋]]、1998年3月。[[文春文庫]]、2001年3月)&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。碑には、恩師・[[斎藤清衛]]による蓮田の略歴も彫られ、書の最期は以下のように締めくくられている。<br /> {{Quotation|君は性来篤実にして真摯特に近親知友に対する[[愛情]]濃まやかで寸刻を惜しんで学究に精励した。その性の清潔と学風の高邁さはまさに秀達の一語に尽きよう 今はその短命を惜しむと共に永く[[祖国]]の上に君の冥護あらんことを祈り旧友相はかってこの碑を建てる |[[斎藤清衛]] 昭和三十五年八月}}<br /> <br /> 1969年(昭和44年)10月25日、[[中央本線]]沿線・[[荻窪]]の[[料亭]]・桃山で25回忌が行われて、[[普茶料理]]が出された&lt;ref name=&quot;nakagawa&quot;/&gt;&lt;ref&gt;「年譜」(昭和44年10月25日)({{Harvnb|三島42巻|2005|p=313}})&lt;/ref&gt;。その席上、44歳の三島は、「私の唯一の心のよりどころは蓮田さんであって、いまは何ら迷うところもためらうこともない」、「私も蓮田さんのあのころの年齢に達した」と挨拶の辞を述べていたという&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;。またその時、三島により「伊東静雄全集と同じような一巻全集の蓮田善明全集を作ろう」という発案がなされた&lt;ref name=&quot;kennichi1&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 人と文学 ==<br /> === 歴史的な土地柄 ===<br /> [[江藤淳]]は、晩年の著書『南州残影』の取材で、蓮田の故郷の地・[[熊本県]][[鹿本郡]][[植木町]](現・[[熊本市]][[北区 (熊本市)|北区]])の[[歴史]]の地・[[田原坂]]を訪れ、蓮田が[[三島由紀夫]]の才を評価していたことに触れ、2人を[[西郷隆盛]]に発する自裁と[[国士]]の系譜にあると試論している&lt;ref name=&quot;etojun&quot;/&gt;。<br /> <br /> また、植木町の西南には[[鐙田杵築神社]]があり、この[[神社]]を尊崇していた[[林桜園]]は、熊本[[神風連]]の師であった。「[[敬神党|敬神]]、[[尊皇]]、[[攘夷]]」、「[[神事]]が本、現事([[政治]])は末」という林桜園の思想を実践した神風連に関心を持った蓮田が、神風連参謀の一員・[[石原運四郎]]の息子で『神風連血涙史』の著者・[[石原醜男]]から教えを受け、感銘を記していたことを[[北影雄幸]]は紹介している&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。<br /> {{Quotation|かういふ清純な“攘夷”とは、日本の無比の歴史を受け、守り、伝へる心なのだが、今日もこの思想は理解されること少なく、遠巻きにして、ただ頑迷固陋偏狭、といふ罵言のみを投げつける者がもつぱらである。これは、[[国学者]]たちが次々と伝承してきた根本思想で、その上、最も忠実に信じて、最後まで[[世間]]の目には狂態めくまで守り通したのである。|蓮田善明「神風連のこころ」&lt;ref&gt;蓮田善明「[[神風連の乱|神風連]]のこころ」(1942年11月号)。{{Harvnb|北影|2006|p=55}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;}}<br /> <br /> 妥協を許さなかった性格の蓮田は、「[[興国]]百首」を連載中の雑誌編集においても、[[天狗党の乱|水戸天狗党]]の盟主・[[武田耕雲斎]]の[[和歌]]「かなしきて寝ぬる[[鎧]]の[[袖]]の上におもひぞつもる越のしら[[雪]]」を載せることに反対した&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。武田耕雲斎は[[尊王攘夷]]の[[志士]]であるため、掲載を拒む大きな理由はないと思われたが、蓮田によれば、耕雲斎は千余りの兵を率いて[[行軍]]を続けながら「最後の一戦を避けた」として、いかに寒さと飢えに苦難させられようが、戦いを避け[[敵]]に[[降伏]]するなど、[[武士]]の為すべきことではないと断じ、耕雲斎の歌の掲載を断乎として拒否した&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 日本の雅情と浪曼主義 ===<br /> 蓮田は先鋭な古今主義者で、今日に生きる自分の切実な問題意識に応えるものとして、〈[[自然]]に[[芸術]]的[[秩序]]を命課する絶対世界〉である[[古今和歌集]]を強く押し出した&lt;ref name=&quot;shitohihyo&quot;&gt;蓮田善明「詩と批評――古今和歌集について」(文藝文化 1939年11月 - 1940年1月号)。{{Harvnb|文學大系|1970|pp=296-317}}に所収。&lt;/ref&gt;。<br /> {{Quotation|文学の噴出点は、凡ゆる意味の現実自然の素材天質から[[抽象]]された文学的世界である。抽象といつても、正しく言へば、自然から抽象されたやうに見えるが、実は自然に芸術的秩序を命課する絶対世界の開眼である。これに触れることによつてのみ自然も文学の素材となり、素質も文学的元質を発輝する。(中略)彼らのうちたてた風雅の秩序は遂に此の現身の世界を蔽つて、文化世界へ[[変革]]をなしとげた。|蓮田善明「詩と批評――古今和歌集について」&lt;ref name=&quot;shitohihyo&quot;/&gt;}}<br /> <br /> 死後に刊行された蓮田の小説『有心(今ものがたり)』、または日記『陣中日記』では戦場の体験が描かれている。その内容から戦場は蓮田にとって、死を直視した「末期の眼」を持って[[生]]と芸術(文学)の充実を確認させ、昇華させる貴重な舞台であることが見て取れる&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;。蓮田は軍務のあいまを縫って、時間を惜しむようにいつも机に向かい執筆をしていたという&lt;ref name=&quot;roman2&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[千坂恭二]]は、蓮田の[[自決]]は突発的な[[偶然]]事であり、むしろ第一次応召と第二次応召の間に著された『[[鴨長明]]論』の[[隠遁]]の思想に、蓮田のありえたかもしれない「戦後」を先行的に見ることが出来ると解釈している&lt;ref&gt;[[千坂恭二]]「蓮田善明・三島由紀夫と現在の系譜」(東大陸 1993年・第3号)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 文学の純粋性への希求 ===<br /> 1943年(昭和18年)4月8日の[[日本文学報国会]]において、[[石川達三]]が、[[国策]]協力の線に沿って作品活動しなければならないと発言したこと対し、蓮田は、「自分は賛成できない」と石川を一喝し、『[[古事記]]』にある[[須佐之男命]]のように「青山は枯山と哭き枯らす」ほど壮大な文学、喚び泣きの文学、慟哭の文学を我々は創造しなければならないと力説したと[[伊藤佐喜雄]]は回想している&lt;ref name=&quot;sakio&quot;&gt;[[伊藤佐喜雄]]『日本浪曼派』(潮新書、1971年)。{{Harvnb|松本健一|1990|pp=91-92}}、{{Harvnb|西法|2010}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;。この石川批判の発言により、蓮田は「[[神]]がかり」の冠称を付けて呼ばれるようになった&lt;ref name=&quot;sakio&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kennichi2&quot;&gt;「第二章 『死の文化』」({{Harvnb|松本健一|1990|pp=59-116}})&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[松本健一]]は、蓮田が『青春の詩宗――[[大津皇子]]論』で、〈今日死ぬことが自分の[[文化]]であると知つてゐるかの如くである〉、〈死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる〉と、自分の[[運命]]を感受した大津皇子の精神を説いていることに触れ、それは同じく蓮田が説いた『[[大伴家持]]論』で説く〈精神的個我〉の精神と相通じるものであるとし&lt;ref name=&quot;kennichi2&quot;/&gt;、大勢に同調するような「便乗文学」や「便乗思想」に対して蓮田は批判的であったと解説している&lt;ref name=&quot;kennichi2&quot;/&gt;。<br /> <br /> また松本健一は、蓮田が[[射殺]]の標的にしたのは、中条豊馬隊長という人間個人ではなく、中条隊長に象徴される効率的な判断、[[日本の降伏|敗戦]]後の変わり身の早い変節、寝返りに対する[[アンチテーゼ]]的な意味合いであるとし&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;、どちらが[[善]]でどちらが[[悪]]かといった見方は無意味であり、そこに「[[美]]」と「[[政治]]」の二者の「根源的対立」の意味を見るべきだと考察している&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;。<br /> <br /> さらに、蓮田が絶対純粋性を求めていたことを物語るエピソードがあり、戦争で[[報道]]班員として[[重巡洋艦]]「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」に [[派遣]]されていた[[丹羽文雄]]が[[第一次ソロモン海戦|海戦]]の最中、弾が飛んでくる最中でも懸命に[[メモ]]を取り、戦闘の様子を描いた『海戦』を発表した時、蓮田は、〈本当の戦争〉を見ろと丹羽を非難し、以下にような問題を提起した&lt;ref name=&quot;bungakukoi&quot;&gt;蓮田善明「文学古意」(新潮 1943年5月号)&lt;/ref&gt;。<br /> {{Quotation|丹羽は戦ふべきだつた。[[弾丸]]運びをすればよかつたのである。弾丸運びをしたために戦闘の[[観察]]や[[文学]]が中絶してしまふと考えることも誤りである。弾丸運びをしたために或る場面を見失ふだらう、しかしもし弾丸運びをしたとしたら、そこに見たものこそ、本当の戦争だつたのである。|蓮田善明「文学古意」&lt;ref name=&quot;bungakukoi&quot;/&gt;}}<br /> <br /> これは、丹羽文雄が忠実に任務を遂行し記録係をしていたわけで、そのために丹羽は[[名誉]]の負傷までしていた。しかし蓮田はその丹羽に対し、何故その時おまえは弾運びを手伝わないのかと問いかけた&lt;ref name=&quot;bungakukoi&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;ningen&quot;&gt;三島由紀夫([[中村光夫]]との対談)「IV 極限状況と文学者、文学と行動の問題、文学の技術について」({{Harvnb|中村・対談|2003|pp=201-209}})。{{Harvnb|三島40巻|2004|pp=151-157}}に所収。{{Harvnb|西法|2010}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この蓮田の丹羽批判について[[三島由紀夫]]は、「本当に文学というものは[[客観主義]]に徹することができるだろうか、[[文学者]]はそういうときに[[カメラ|キャメラ]]であるのか、単なる〈もの〉を記録する[[技術者]]であるのか、あるいは文学とはそういうときにメモをとることをやめて弾を運ぶことであるか」という「極限状況」における「[[比喩]]」として「文学の問題」を蓮田が質問しているのだとし&lt;ref name=&quot;ningen&quot;/&gt;、[[中村光夫]]も、蓮田の丹羽批判には全面賛成していないが、蓮田の提起を、非常に大事な「文学の[[本質]]論」だと捉えている&lt;ref name=&quot;ningen&quot;/&gt;。<br /> <br /> 三島は、自身の文学[[観念]]に忠実だった丹羽の「[[誠|シンセリティー]]を微塵も疑わない」としつつも、[[総力戦]]というものは「[[人間]]をあらゆる[[フィールド]]において[[機能]]化してゆくもの」であり、「[[大砲]]を撃つ人は大砲、報道班員は[[文章]]によって記録あるいは報道し、あるいは軍[[宣伝]]のために利用され」、丹羽は近代的総力戦においての任務を果たしているが、「文学というものは絶対そういう機能になりえないもの」だということを信じたいとし&lt;ref name=&quot;ningen&quot;/&gt;、それを[[証明]]するためには、蓮田の言うように、その時にメモを取ることを止め、いかに[[軍人]]の邪魔になろうとも弾運びをしろ、という結論になると、蓮田の含意を解説している&lt;ref name=&quot;ningen&quot;/&gt;。<br /> <br /> そして、蓮田の丹羽批判は、現代の[[技術]]社会における文学の立ち位置にも関係する問題であり、文学が、[[テレビ]]と同じように[[大衆]]の求める[[娯楽]]の機能になること、「技術的によくできたおもしろい小説」や「[[中間小説]]化」し、文学が「しらずしらず」に社会の要求する一つの機能となる「文学の機能化」、「[[芸術至上主義]]が機能化する惨状」が起こり、この[[危険]]を回避するためには、「あるとき自分の機能から絶対に離れたところ」で[[行動]]してみる必要性があると三島は説明し&lt;ref name=&quot;ningen&quot;/&gt;、蓮田が比喩した〈弾丸運び〉だけが、「文学」だという状況が来るかもしれないと、真の純粋な「文学」がなすべきことについて考察している&lt;ref name=&quot;ningen&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 教育者としての蓮田 ==<br /> 蓮田善明は[[教育者]]としても峻烈で独特の厳しい面を持ち、[[山本五十六]]が[[戦死]]した際、朝の集会で皆が[[黙祷]]をしている最中に、何人かの生徒がゾロゾロと平気で遅れて入って来た時に、彼らの頬を次々と叩いたという[[エピソード]]はよく知られているが&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;shoichi&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;、蓮田は他にも多くの逸話があり、生徒が[[教科書]]に[[カバー]]を付けることを禁じていた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。<br /> <br /> 当時は教科書を大事にし、汚すまいという心掛けから表紙にカバーを付けるのは普通のことであったが、蓮田は、それを「[[敬虔]]なようで実はけちくさい[[心理]]である」と見抜き、カバーを付ける行為は一見、教科書をきれいに丁寧に扱うようではあるが、実は「教科書の[[本質]]を[[否定]]するもの」と蓮田は断じた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;。<br /> <br /> 教科書の本質とは、「その[[内容]]をいかに[[理解]]するか」であるゆえに、蓮田は生徒らに、〈すべからく教科書は汚すべし。書きこみで一杯にして汚すべし。年度末にはズタズタになるほど汚して、その内容をわが物にせよ〉と訓示をした&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 蓮田善明と三島由紀夫 ==<br /> === 三島の蓮田観 ===<br /> 蓮田善明は16歳の[[三島由紀夫]]の出現を〈[[悠久]]な日本の[[歴史]]の請し子〉、〈われわれ自身の年少者〉と祝福し&lt;ref name=&quot;zenmei&quot;/&gt;、〈悉皆[[国文学]]の中から語りいでられた[[霊]]のやうなひと〉と紹介するなど&lt;ref&gt;蓮田善明(文學 1943年8月号)。{{Harvnb|安藤|1996|pp=57-58}}、{{Harvnb|北影|2006|pp=49}}、{{Harvnb|橋川|1998|pp=45}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;、三島は「親炙」した蓮田から、「やさしさのみを享け」、その印象は「[[熊本弁|薩摩訛り]]の、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家」であった&lt;ref name=&quot;jobun&quot;&gt;三島由紀夫「序」(小高根二郎著『蓮田善明とその死』筑摩書房、1970年3月)。のち「『蓮田善明とその死』序文」として『[[蘭陵王 (小説) |蘭陵王]]』(新潮社、1971年5月)、『三島由紀夫評論全集 第1巻』(新潮社、1989年7月)pp.567-569、{{Harvnb|三島36巻|2003|pp=60-63}}に所収。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> そして蓮田の説く鋭く犀利な〈[[皇国]]思想〉〈[[大和魂|やまとごころ]]〉〈[[みやび]]〉に三島は強い共感を持ち&lt;ref&gt;「『文芸文化』のころ」(『昭和批評大系2 昭和10年代』月報 番町書房、1968年1月)。『蘭陵王』(新潮社、1971年5月)、{{Harvnb|三島34巻|2003|pp=644-646}}に所収。&lt;/ref&gt;、「敗戦と共に[[自決]]によつてその思想を貫き通した」人物として三島の中に刻まれ&lt;ref name=&quot;henreki&quot;&gt;「[[私の遍歴時代]]」([[東京新聞]]夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号)。『私の遍歴時代』([[講談社]]、1964年4月)で刊行。{{Harvnb|三島32巻|2003|pp=271-323}}、{{Harvnb|文学論集II|2006|pp=267-328}}に所収。&lt;/ref&gt;、蓮田の実践的[[死生観]]は三島の生涯に強い影響を与えた&lt;ref name=&quot;kitakage&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;shimauchi&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;saiho&quot;/&gt;。蓮田が2度目の召集の際、まだ若かった三島に「日本のあとのこと」を託したとされ&lt;ref name=&quot;nichiroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;muramatsu43&quot;/&gt;、蓮田から託された「大事なもの」は、歳を重ねるごとに三島の中により強く復活してくることになった&lt;ref name=&quot;jobun&quot;/&gt;&lt;ref&gt;三島由紀夫「小高根二郎宛ての書簡」(昭和34年8月7日付から昭和43年11月8日付)。{{Harvnb|三島38巻|2004|pp=220-222}}に所収。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[小高根二郎]]の雑誌『果樹園』に1959年(昭和34年)8月から1968年(昭和43年)11月まで断続連載されていた「蓮田善明とその死」を毎号進呈されていた三島は、その感想を小高根に送っていたが、最終回を読んだ後に、蓮田の「立派な最期」を羨ましいと述べている&lt;ref name=&quot;mishimaoda431108&quot;&gt;三島由紀夫「小高根二郎宛ての書簡」(昭和43年11月8日付)。『三島由紀夫評論全集 第2巻』(新潮社、1989年7月)pp.507-508、{{Harvnb|三島38巻|2004|pp=221-222}}に所収。&lt;/ref&gt;。<br /> {{Quotation|毎月、これを拝読するたびに[[魂]]を振起されるやうな気がいたしました。この御作品のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と[[小生]]との結[[縁]]が確められ固められた気がいたしました。御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました。&lt;br /&gt;<br /> 一体、小生の忘恩は、数十年後に我身に[[罪]]を報いて来るやうであります。今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません。しかし蓮田氏も現在の小生と同じ、苦いものを胸中に蓄へて生きてゐたとは思ひたくありません。[[時代]]に憤つてゐても氏にはもう一つ、信ずべき時代の[[イメージ|像]]があつたのでした。そしてその信ずべき像のはうへのめり込んで行けたのでした。|三島由紀夫「小高根二郎宛ての書簡」(昭和43年11月8日付)&lt;ref name=&quot;mishimaoda431108&quot;/&gt;}}<br /> <br /> そして小高根の『蓮田善明とその死』が刊行される際には序文として、蓮田の『青春の詩宗――[[大津皇子]]論』の一節、〈予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の自分の[[文化]]だと知つてゐる〉を引きながら、「この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の青年の[[心]]を襲つた[[稲妻]]のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分がそのやうにして〈文化〉を創る人間になり得なかつたといふ千年の憾(うら)みに拠る」として、蓮田の「怒り」の本質について以下のように考察している&lt;ref name=&quot;jobun&quot;/&gt;。<br /> {{Quotation|私はまづ氏が何に対してあんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の[[知識人]]に対する怒りだつた。最大の「内部の[[敵]]」に対する怒りだつた。戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その[[キュニコス派|冷笑]]、その[[客観主義]]、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その[[事大主義]]、その抵抗の身ぶり、その[[独善]]、その非行動性、その多弁、その食言、……それらが戦時における[[偽善]]に修飾されたとき、どのような[[腐敗]]を放ち、どのように文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の[[少年]]のやうな非妥協のやさしさがとらへた文化のために、憤りにかられてゐたのである。|三島由紀夫「序」(小高根二郎著『蓮田善明とその死』)&lt;ref name=&quot;jobun&quot;/&gt;}}<br /> <br /> === 蓮田から三島へ連なる美学 ===<br /> 三島が17歳の時に「[[伊勢物語]]のこと」を掲載していた『[[文藝文化]]』[[1942年|昭和17年]]11月号に、蓮田は、「[[神風連の乱|神風連]]のこころ」と題した一文を掲載していたが、これは、[[熊本県立済々黌高等学校|熊本済々黌]]の数年先輩にあたる[[森本忠]]著の『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)の書評であった&lt;ref name=&quot;saiho&quot;/&gt;。三島は後年1966年(昭和41年)8月に神風連の地・[[熊本市|熊本]]を訪れた際、森本忠([[熊本商科大学]]教授)や[[未亡人]]の蓮田敏子夫人と[[料亭]]「おく村」で面会している&lt;ref&gt;「年譜 昭和41年8月28日」({{Harvnb|三島42巻|2005|p=283}})&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;saiho&quot;/&gt;&lt;ref&gt;{{Harvnb|西法・神風|2007}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 三島没後に行なわれた[[池田勉]]・[[栗山理一]]・[[塚本康彦]]の鼎談の中で、栗山理一は、蓮田の「雅び」([[天皇]]観)について以下のように語っている。<br /> {{Quotation|同じ雅びを論じても、僕なんかの考え方と蓮田の考え方とは、その淵源が違うわけです。(中略)僕が雅びということを考えたときには、日本の古典、文化というものを対象としたのですが、雅びはみやこびですから、それは都雅であり、その都の中心は天皇ですから、天皇が文化の淵源であられるという[[認識]]で雅びを考えたわけですが、蓮田はもう一つそこを乗り越えて、[[信念]]として絶対視するというところがあったのです。|[[栗山理一]]「雅を希求した壮烈な詩精神――蓮田善明 その生涯の熱情」&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;}}<br /> <br /> そして塚本康彦が、三島や[[保田與重郎]]の天皇観と、蓮田の天皇観とは違うのではないかと話をふると、栗山理一は、自身も三島と保田に近い立場だとし&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;、池田勉は、「(保田や三島の天皇観は)[[観念]]的であり、傍観者の立場」で、蓮田については、「天皇の宮居の花守になるとか、御垣を守るとかいうふうな、ああいう[[国学者]]の[[純粋]]さを蓮田ははっきり持っておったと思うんですがね。これがやっぱり彼の生まれた[[熊本県|火の国]]の激情というものだし、[[詩人]]の純粋さじゃないかと思うんです」と述べている&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;。さらに塚本が、「三島は、蓮田さんの死をダシにして己れの想念を述べていたようなふしがある」とふると、栗山理一は、「(三島には)勝義の自己劇化があると思うんです。三島らしい非常に計算された生き方であって、それはそれなりに評価しなきゃならない」としている&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;。<br /> <br /> なお、池田勉は別の評論文の中で、蓮田の『神韻の文学』から「[[雲]]の意匠」のところを引用し、「〈雲――この形定まらず、あくまで定型や定律を否定しつづける雲も、ただ形式以前のつかみどころのない茫漠でなく、[[生命]]の根元の非常に美しいものをあらわしていると私には信じられてならなかった。……〉 蓮田の魂が想い描き、やがて昇り還っていった、雲の[[意匠]]による[[神話]]的世界を、三島もはやくから悲願として、心通わせるところのあったことが明らかであろう」と述べている&lt;ref&gt;[[池田勉]]「蓮田善明〈現代作家における神話的世界〉」(国文学 解釈と鑑賞 1972年1月号)。{{Harvnb|西法|2010}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 栗山理一も、他の一文の中で、[[古今集]]をよしとする三島が、[[林富士馬]]と1944年(昭和19年)に激しく論争したことを回想し、以下のように語っている&lt;ref name=&quot;kurimaya&quot;&gt;[[栗山理一]]「蓮田のこと 三島のこと」(復刻版『[[文藝文化]] 全7巻』別冊付録 [[雄松堂出版]]、1971年6月。[[オンデマンド]]版、2007年5月)&lt;/ref&gt;。<br /> {{Quotation|そのころ三島は林富士馬君らを誘って私の家に遊びにくるようになった。あるとき、三島は林君とはげしく論争したことがある。林君は『[[万葉集]]』を推賞し、三島は『[[古今集]]』をよしとした。(中略)後年になって[[清水文雄|清水]]が[[広島大学]]を停年で退官した折り、大学の機関誌『国文学攷』が記念特集号を編み、三島が「古今集と[[新古今集]]」と題する一文を寄稿している。四十二年一月一日執筆と付記されており、論旨は『古今集』の特質を闡明した卓説である。作家としての出発の頃から一貫して変わらぬ三島[[美学]]の条理を改めて再認識したことであった。|栗山理一「蓮田のこと 三島のこと」&lt;ref name=&quot;kurimaya&quot;/&gt;}}<br /> <br /> [[松本徹 (学者)|松本徹]]は、三島をめぐる保田與重郎と蓮田善明について、明確に異なる立場に立っているとし、三島が、保田ではなく蓮田の方に「結縁」したという見解を持っている&lt;ref name=&quot;touru&quot;&gt;[[松本徹 (学者)|松本徹]]「[[古今和歌集]]の絆 蓮田善明と三島由紀夫」。佐藤秀明編集『三島由紀夫――美とエロスの論理(日本文学研究資料新集)』(有精堂出版、1991年4月)に所収。{{Harvnb|西法|2010}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;。<br /> {{Quotation|蓮田は徹底した[[古典主義]]者であり、普遍的で公の、正統的秩序を第一とかかげていたのである。頽廃を口にしたが、それとても“みやび”“風雅”といった正統に繋るものであった。それに対して保田は[[浪漫主義|浪曼主義]]者であり、独創を尊び、敗北と[[デカダンス]]、そして[[イロニー]]を熱心に語った。すなわち、「あめつちをうごかす」ことを夢想しながらも、早々に断念したところに、立っていたのである。(中略)&lt;br /&gt;<br /> 保田が[[日本の降伏|敗戦]]という事態に耐え、やりすごすことができたのに対して、蓮田にはできなかったのも、このところと無縁ではなかろう。自らが“信従”したところのものに殉ずるよりほか、蓮田には、道がなかったのである。三島が、保田ではなく、蓮田に“結縁”したのも、まさしくこのゆえであろう。|[[松本徹 (学者)|松本徹]]「古今和歌集の絆 蓮田善明と三島由紀夫」&lt;ref name=&quot;touru&quot;/&gt;}}<br /> <br /> また松本徹は、三島と蓮田の主張の間には、ほとんど「径庭」(隔たり)がないとし、2人とも、「文学は、[[自然]]そのもの、また作者自身の自然的感情なり[[体験]]を語るものでなく、[[世界]]をおおっている文化秩序にあずかるところに、成立するものだ、という基本的態度を、わが国の[[王朝]]文化を踏まえて、徹底的に貫いている」と論じている&lt;ref name=&quot;touru2&quot;&gt;松本徹「日本浪曼派と戦後」(国文学 解釈と鑑賞 1979年1月号)。{{Harvnb|西法|2010}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;。そして、三島に強い影響を与えた文学者として3人挙げ、「第一に指を屈すべきは蓮田善明である。ついで[[伊東静雄]]であり、もう一人は、焼跡で出合った[[林房雄]]であろうか」とし、「蓮田は少年期と晩年の三島にとって、優しい[[父親]]の役割を果たした」と考察している&lt;ref name=&quot;touru2&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[大久保典夫]]は、蓮田の文学を、「戦争による日本の国土と人心の荒廃におよそ蚕食されることを知らぬ超現実の絶対[[理念]]を志向した文学」だとし、蓮田の内部には「他者」はなく、その点において、自己の内部に「“明察”者という他者」が潜んでいた三島との決定的な違いがあり、三島は自身の中の「他者」を知悉すると同時に「純日本製の“[[絹]]”」、「純粋の武人」であった蓮田に憧れていたと考察し&lt;ref name=&quot;okubo1&quot;&gt;[[大久保典夫]]「日本浪曼派における古典――保田與重郎と蓮田善明」。{{Harvnb|西法|2010}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;、大久保自身が雑誌『批評』同人として三島と接した経験から、三島が蓮田の全集を出したがっていた「切実な気持ち」が推察できたという&lt;ref name=&quot;okubo1&quot;/&gt;。<br /> <br /> また大久保は、小高根の著書の中で考察されている蓮田と三島の少年時代に共通する「“如何に死すべきか”で想定した結論から、逆にこれから生きてゆく軌跡を帰納しようという徹底した悟達ぶり」に触れ、2人の「早熟な[[天才]]」の間に感応があり、「三十八歳の蓮田が十七歳の三島氏におのれの十七歳を回想したように晩年の三島由紀夫も蓮田の享年に近づいてはじめて蓮田の憂国の至情を共有した」とし&lt;ref name=&quot;okubo2&quot;&gt;大久保典夫「日本浪曼派と狂気」(伝統と現代 1971年4月号)。{{Harvnb|西法|2010}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;、三島の『[[檄 (三島由紀夫)|檄]]』の中の「共に起って[[義]]のために共に死」のうという呼びかけには、蓮田の説く「死は文化である」という思想があり、それはそのまま2人の「天皇観」に繋がると述べている&lt;ref name=&quot;okubo2&quot;/&gt;。<br /> <br /> そして、三島が「はげしい[[右翼]]イデオローグの[[汚名]]を着た」と形容した蓮田文学と、保田與重郎との違いは「[[古典]]観」で、三島は保田ではなく蓮田の「直系」だと考察しながら、以下のように解説している&lt;ref name=&quot;okubo3&quot;&gt;大久保典夫『昭和文学史の構想と分析』([[至文堂]]、1971年11月)。{{Harvnb|西法|2010}}に抜粋掲載。&lt;/ref&gt;。<br /> {{Quotation|わたしは、保田與重郎と蓮田善明の究極の違いを、ふたりの古典観に帰着するものと考えている。保田にとって、古典とは、彼の故郷の[[奈良県|大和]][[桜井市|桜井]]にまつわる“[[風景]]と[[歴史]]”であったが、蓮田においては、超現実の絶対理念なので、その点、[[フィクション]]を信じられた(というより、信じようとした)三島由紀夫と非常によく似ている。|大久保典夫「昭和文学史の構想と分析」&lt;ref name=&quot;okubo3&quot;/&gt;}}<br /> <br /> 日本浪曼派の作家だった[[伊藤佐喜雄]]は、「三島由紀夫は蓮田善明に倣いたいと希った」とし、「南方[[ジョホールバル]]での蓮田さんのはげしい行動と死――その事実の闡明が『コギト』の小高根二郎によってなされたとき、三島君は自分自身の行動と死を決定したにちがいない」と語っている&lt;ref name=&quot;sakio&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;。[[福島鋳郎|福島鑄郎]]は、蓮田と三島の繋がりの意味について以下のように考察している。<br /> {{Quotation|[[神風連の乱|神風連]]事件の思想の延長線上にあった蓮田善明の「[[死]]」こそが、三島由紀夫に寄りそいながら、すでに過去の[[遺物]]として[[吐瀉]]されてしまった日本の[[伝統]]をかたくなに見守ってきたのであった。それが現実と融合する時こそ三島由紀夫の生命は白炎と化し燃焼せざるを得なかった。|[[福島鋳郎|福島鑄郎]]「三島由紀夫の青春」&lt;ref name=&quot;jyuurou3&quot;/&gt;}}<br /> <br /> [[松本健一]]は、21歳の三島が亡き蓮田に献げた詩の中で、蓮田が隠れた(死んだ)「靉靆の[[雪]]を慕ひ」、戦後の時代を「[[塵]]土」に喩え、自分はその「塵土に埋れんとす」と詠んだことに着目しながら、戦後に三島が日本浪曼派を客観視する姿勢を見せながら、「[[仮面]]」の[[生]]として戦後の時代を生きていたが、その間にも、「三島の心の奥底に蓮田善明は悉く生きていた」とし&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;、1959年(昭和34年)から連載開始された小高根の蓮田伝を読むにつれ、三島の中でその想いが蘇り、「みずからの精神の内部における蓮田善明のもつ意味について問い詰めざるをえなかった」と解説している&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[新潮社]]の編集担当者だった[[小島千加子]]は、三島から直接『[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]』の原稿を手渡された「最後の日となった10月の締切日」における、蓮田にまつわる三島とのエピソードを綴っている&lt;ref name=&quot;kojima&quot;&gt;「日々の分れ――死への一里塚」(ポリタイア 1973年7月号)。{{Harvnb|小島|1996|pp=25-40}}に所収。&lt;/ref&gt;。小島が昼食を三島邸で一緒に摂ってから帰る時、出掛ける用事のある三島と他社(教文社)の編集者と共に玄関から門の[[ハイヤー]]までの道すがら、三島と2人だけで佇んだしばらくの間、「このごろになって、ようやく蓮田善明の気持ちが分かってきたよ。善明が何を言わんとしていたのかって。善明は、当時の[[インテリ]]、知識人に、本当に[[絶望]]していたんだ」と話す三島の様子に一瞬、[[軍装]]姿のような幻影が見えたと語っている&lt;ref name=&quot;kojima&quot;/&gt;。<br /> {{Quotation|黒と白にはっきり分かたれた大きな強い目が、まともに私の方に向けられているかに見え、だが、私を通り越して[[天]]に注がれている。天にある善明の[[霊]]に訴えんとしているようでもある。おかしなことに、というより[[光線]]の具合であろうが、その眼差しをさえぎって[[額]]のところに、[[帽子]]のひさしがあるように錯覚した。(中略)&lt;br /&gt;<br /> 事件を知り、[[走馬燈]]のように廻り出した私の[[記憶]]の中の一齣としてこの風景が蘇ったとき、三島さんの姿はただの[[背広]]ではない。[[制服]][[制帽]]で口をきいているのだ。[[楯の会]]の制服姿なのか、あるいは蓮田善明の軍服姿と重なっているのか。後日、小高根氏の書をあらためて読み、時代を超えて善明の[[魂]]が三島さんにより添い、白昼の[[稲妻]]として共鳴音を立てたとしても、不思議ではない気がしている。|[[小島千加子]]「日々の分れ――死への一里塚」&lt;ref name=&quot;kojima&quot;/&gt;}}<br /> <br /> == 家族・親族 ==<br /> ;父・蓮田慈善(住職)<br /> :1851年頃生 - 1938年(昭和13年)2月1日没<br /> : [[熊本県]][[鹿本郡]][[植木町]]14(現・[[熊本市]][[北区 (熊本市)|北区]])の[[浄土真宗]][[大谷派]]本願寺末寺の金蓮寺[[住職]]。没年齢87歳。[[加藤清正]]が陣中で使用した[[日本刀]]を[[家宝]]としていた&lt;ref name=&quot;odakane&quot;/&gt;。<br /> <br /> ;母・フジ<br /> :1870年頃生 - 1938年(昭和13年)11月12日没<br /> :善明が第一次召集で1938年(昭和13年)10月20日に[[熊本]][[歩兵第13連隊]]に入隊するに先立って挨拶すると、病床に伏せっていたフジは娘(蓮田の姉)に起こしてもらい、気丈にも、「お前の召集はうれしい。誰か出てくれなければならないと思つたのでうれしい。[[涙]]をみせまいと思つてゐたがこれはうれし涙バイ。もし生きて帰れたら又会ひたいが、それもどうなるか分らぬが、覚悟してゐる、国のために身体を惜しまずはたらいてくれ、これがわたしの願ひ、しつかり働いてくんなはり」と明るく静かに言い、その約1か月後に68歳で死去した&lt;ref&gt;蓮田善明「応召日記」(昭和13年10月20日、11月12日付)。{{Harvnb|松本健一|1990|pp=79-82}}に掲載。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;kennichi2&quot;/&gt;。<br /> <br /> ;兄・為明<br /> :生年月日没年不詳<br /> <br /> ;兄・道明<br /> :生年月日没年不詳<br /> <br /> ;姉・キク<br /> :生年月日没年不詳<br /> <br /> ;姉・文子<br /> :生年月日没年不詳<br /> <br /> ;妻・敏子<br /> :1908年(明治41年)頃生 - 没年不詳<br /> :旧姓は師井。蓮田善明と同郷で、4歳年下。父親の師井淳吾は[[医師]]で、蓮田の家・金蓮寺から3軒目くらいのところに開業していた。師井淳吾は早くに両親を亡くし、数え年18歳で医師免許[[国家試験]]を受け合格。熊本で開業し、敏子が4歳の時に植木町に赴任した&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;。<br /> :小学校1年生の時、5年生だった善明が[[遠足]]で[[熊蜂]]に刺されて、師井医師から針を取ってもらっていたのを敏子は記憶している&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;。<br /> :1928年(昭和3年)6月に蓮田と結婚。三男(晶一、太二、新夫)を儲ける。蓮田の死後は軍人[[恩給]]や一時賜金も出なかったため、苦しい生活だった&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kennichi3&quot;/&gt;。それを見かねた[[桜井忠温]]が直接、[[市ヶ谷]]の[[援護局]]に2度出向いて交渉したが、全く聞き入れられなかったという&lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;。<br /> :三島由紀夫の死後に、同郷の知人が三島宅を訪問したところ、[[平岡瑤子|瑤子]][[未亡人]]から「熊本の人は嫌いです」と言われてしまったという&lt;ref name=&quot;kennichi1&quot;/&gt;。<br /> <br /> ;長男・晶一(医師)<br /> :1930年(昭和5年)2月20日生 - &lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt; - 2016年(平成28年)8月没&lt;ref name=&quot;asahi&quot;&gt;「ペンネーム『三島』生まれた臨場感」([[朝日新聞]] 2016年11月12日号・34面)&lt;/ref&gt;<br /> :[[長野県]][[諏訪市]]湖柳町で誕生&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。<br /> :燈火管制が厳しくなった戦時中の小学生の時に、肺門[[リンパ腺]][[結核]]で3か月ほど学校を休んでいたが、ある日微熱しかなかったため、[[防空壕]]作りに励んだら、帰宅した蓮田からひどく叱られたという&lt;ref name=&quot;roman2&quot;/&gt;。<br /> :1956年(昭和31年)に[[九州大学]][[医学部]]卒業。[[医学博士]]となる&lt;ref name=&quot;houjin&quot;&gt;{{Harvnb|聖粒会}}&lt;/ref&gt;。<br /> :1979年(昭和54年)6月、[[九州中央病院]][[外科]]部長から熊本市の[[医療法人]]聖粒会[[慈恵病院]]に着任し、病院長に就任。その後、名誉院長&lt;ref name=&quot;houjin&quot;/&gt;&lt;ref name=blogos201401202/&gt;。<br /> <br /> ;次男・太二(医師) <br /> :1936年(昭和11年)1月23日生&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt; –<br /> :[[日本統治時代の台湾|台湾]][[台中市]]村上町で誕生&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。<br /> :1962年(昭和37年)に[[熊本大学]]医学部卒業。医学博士となる。熊本大学[[産婦人科]]教室の研究員を経て、1969年(昭和44年)2月から[[社会福祉法人]][[聖母会]]・[[慈恵病院|琵琶崎聖母慈恵病院]]に勤務。1971年(昭和46年)4月に病院長に就任&lt;ref name=&quot;houjin&quot;/&gt;&lt;ref name=blogos201401202/&gt;。<br /> :1978年(昭和53年)4月に医療法人聖粒会慈恵病院を設立し、[[理事長]]に就任&lt;ref name=&quot;houjin&quot;/&gt;。<br /> :2006年(平成18年)12月に、[[赤ちゃんポスト]]「こうのとりのゆりかご」の設置を熊本市に申請。翌2007年(平成19年)4月に許可を取得し、5月より実践開始&lt;ref&gt;{{Cite web |url= http://www.kyoto-seika.ac.jp/assembly/2007/1025.html|title=蓮田太二「いのちへのおもい」|publisher=[[京都精華大学]]|accessdate=2015-07-14}}&lt;/ref&gt;。現在は院長も兼任&lt;ref name=blogos201401202&gt;{{Cite news|url=http://blogos.com/article/78275/?p=2|title=「赤ちゃんポスト」ができるまで〜慈恵病院・蓮田院長が語る 2/2|author= BLOGOS編集部|publisher=LINE Corporation|date=2014-01-20|accessdate=2016-10-28}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;三男・新夫([[エンジニア]] &lt;ref name=&quot;roman&quot;/&gt;)<br /> :1939年(昭和14年)10月13日生&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt; –<br /> :熊本県鹿本郡植木町で誕生&lt;ref name=&quot;hasunenpu&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 略年譜 ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |[[1904年]](明治37年)&lt;br /&gt;{{0|0000000000000000}}||7月28日に[[熊本県]][[鹿本郡]][[植木町]]14(現・[[熊本市]][[北区 (熊本市)|北区]])の[[浄土真宗]][[大谷派]]本願寺末寺の金蓮寺[[住職]]の父・蓮田慈善と、母・フジの三男として誕生。為明、道明、キク、文子の二兄・二姉がいた。<br /> |-<br /> |[[1917年]](大正6年)||12 - 13歳。3月に植木[[尋常小学校]]を卒業。4月に熊本県立中学[[済々黌]](現・[[熊本県立済々黌高等学校]])に入学。級友・丸山學らと回覧雑誌『護謨樹(ゴムノキ)』を作り、[[短歌]]・[[俳句]]・[[詩]]を発表。<br /> |-<br /> |[[1918年]](大正7年)||13 - 14歳。9月から翌年3月まで[[肋膜炎]]のため[[休学]]。<br /> |-<br /> |[[1923年]](大正12年)||18 - 19歳。3月に熊本県立中学済々黌を卒業。4月に[[広島高等師範学校]](現・[[広島大学]][[教育学部]])[[文科]]第一部([[国語]][[漢文]]専攻)に入学。[[斎藤清衛]]教授から強い影響を受ける。[[校友会]]誌『曠野』の[[編集]]に携わり、詩や[[小説]]、[[評論]]などを発表し、文名を謳われる。後輩の[[清水文雄]]、[[栗山理一]]、[[池田勉]]と知り合う。<br /> |-<br /> |[[1927年]](昭和2年)||22 - 23歳。3月に広島高等師範学校を卒業。4月に[[鹿児島]][[歩兵第45連隊]]に[[幹部候補生 (日本軍)#幹部候補生制度(旧制)|幹部候補生]]として入隊。<br /> |-<br /> |[[1928年]](昭和3年)||23 - 24歳。1月31日に歩兵第45連隊を除隊。4月に[[岐阜県]]立第二中学校(現・[[岐阜県立加納高等学校]])の国語[[教員]]として赴任。6月に郷里・植木町の[[医師]]・師井淳吾の娘・敏子と[[結婚]]。<br /> |-<br /> |[[1929年]](昭和4年)||24 - 25歳。4月に[[長野県]]立諏訪中学校(現・[[長野県諏訪清陵高等学校]])に転任。妻と共に[[諏訪市]]湖柳町に居住。<br /> |-<br /> |[[1930年]](昭和5年)||25 - 26歳。2月20日に長男・晶一が誕生。<br /> |-<br /> |[[1931年]](昭和6年)||26 - 27歳。2月と3月に「国語教育に於ける多読主義」(上・下)を『国語と国文学』に発表。<br /> |-<br /> |[[1932年]](昭和7年)||27 - 28歳。3月に長野県立諏訪中学校を退職。4月に[[広島文理科大学 (旧制)|広島文理科大学]](現・[[広島大学]]の[[文学部]]、[[教育学部]]、[[理学部]]の構成母体)[[国語]][[国文学]]科に入学。<br /> |-<br /> |[[1933年]](昭和8年)||28 - 29歳。9月に清水文雄、栗山理一、池田勉と共に同人研究[[紀要]]『国文学試論』を[[春陽堂書店|春陽堂]]から発行。評論活動に勤しむ。<br /> |-<br /> |[[1935年]](昭和10年)||30 - 31歳。3月に広島文理科大学を卒業。4月に[[日本統治時代の台湾の高等教育機関|台中商業学校]]に赴任。妻子と共に[[日本統治時代の台湾|台湾]][[台中市]]村上町に居住。<br /> |-<br /> |[[1936年]](昭和11年)||31 - 32歳。1月23日に二男・太二が誕生。8月2日に[[大阪府]][[堺市]]の栗山理一宅にて初めて[[伊東静雄]]と逢う。<br /> |-<br /> |[[1938年]](昭和13年)||33 - 34歳。2月1日に父・慈善が死去(没年齢87歳)。4月に[[成城高等学校 (旧制)|成城高等学校]](現・[[成城大学]])に転任。妻子と共に[[東京市]][[世田谷区]][[祖師谷]]2丁目に居住。清水文雄、[[栗山理一]]、[[池田勉]]と共に「日本文学の会」を結成。7月に同人月刊誌『[[文藝文化]]』を創刊。「[[伊勢物語]]の『まどひ』」を創刊号に発表。28日から4日間、[[高野山]]で「日本文学講筵」を開催。10月20日に[[熊本]][[歩兵第13連隊]]に入隊。11月に「青春の詩宗――[[大津皇子]]論」を発表。11月12日に母・フジ死去(没年齢68歳)。<br /> |-<br /> |[[1939年]](昭和14年)||34 - 35歳。2月に「新風の位置――[[志貴皇子]]に捧ぐ」を発表。3月に妻子が植木町に帰住。4月5日に[[門司港 (地区名)|門司港]]から[[華中|中支]]戦線に出征。[[湖南省]][[洞庭湖]]東部の晏家大山、大橋峯などの山地に従軍。10月13日に三男・新夫が誕生。11月に『[[森鴎外|鴎外]]の方法』を刊行。同月から「詩と批評――[[古今和歌集]]について」を『文藝文化』に連載(翌年1月まで)。<br /> |-<br /> |[[1940年]](昭和15年)||35 - 36歳。5月に「預言と回想」を発表。9月28日に渡河作戦で右腕前膊貫通銃創を負う。12月25日に熊本に帰還。<br /> |-<br /> |[[1941年]](昭和16年)||36 - 37歳。1月に[[阿蘇郡|阿蘇]][[垂玉温泉]]の山口旅館に滞在、小説「有心(今ものがたり)」の筆を執る。同月に『預言と回想』を刊行。2月に単身上京。4月から「鴨長明」を連載(12月まで)。6月に家族を迎え、東京市世田谷区[[宇奈根]]824に居住。8月初旬に[[伊豆|伊豆市]][[修善寺温泉]]での『文藝文化』同人編集会議で、[[学習院中等科]]の生徒・[[三島由紀夫|平岡公威]]の小説「[[花ざかりの森]]」の同誌連載を決定。9月に「森鴎外」を『文藝世紀』に発表。<br /> |-<br /> |[[1942年]](昭和17年)||37 - 38歳。6月18日に[[日比谷公会堂]]での[[日本文学報国会]]の発会式で記念講演を行なう。各誌で旺盛な執筆活動を見せる。<br /> |-<br /> |[[1943年]](昭和18年)||38 - 39歳。4月に『[[本居宣長]]』、9月に『[[鴨長明]]』、10月に『神韻の文学』を刊行。10月25日に第二次召集が決定、翌26日に妻子と共に宮城前広場で[[皇居]]を拝礼。29日に熊本歩兵第13連隊に入隊。11月1日に門司港から南方戦線に出征。[[インドネシア]]の[[ジャワ島]]の[[スラバヤ]]に従軍。12月に『[[古事記]]学抄』を刊行。<br /> |-<br /> |[[1944年]](昭和19年)||39 - 40歳。1月2日に[[小スンダ列島]]の[[スンバ島]]に上陸し、約1年3か月駐屯。日本にいる妻子は3月に植木町に帰住。6月に『忠誠心とみやび』を刊行。8月に『文藝文化』が雑誌統合要請のため通巻70号で終刊。最終号に「をらびうた」を発表。10月に『花のひもとき』を刊行。<br /> |-<br /> |[[1945年]](昭和20年)||40 - 41歳。3月に[[シンガポール]]に転進。[[マレー半島]]に移り、新たに編成された迫撃砲兵一個大隊の中隊長に就任。8月15日に[[日本の降伏|敗戦]]の[[玉音放送]]を聞く。8月18日に[[ジョホールバル]]の連隊本部奥の新王宮で行われた終戦詔書の奉読式・[[軍旗]]告別式に参列。「日本精神の壊滅」を説いた隊長の訓示に憤る。8月19日に本部玄関前において、連隊長・中条豊馬大佐を[[射殺]]し[[自決]](享年41)。<br /> |}<br /> <br /> == 作品 ==<br /> {{Columns-start|num=2}}<br /> *国語教育に於ける多読主義(国語と国文学 1931年2月号-3月号)<br /> *「品詞」の概念――付「単語」の概念(国語と国文学 1932年9月号)<br /> *真福寺本古事記書写の研究(国文学試論 第1輯 1933年9月)<br /> *[[岡崎義恵]]氏の歩みについて(国文学試論批評篇 第1輯 1933年12月) - 共同執筆<br /> *[[古事記]]の文学史学的考察序説(国文学試論 第2輯 1934年6月)<br /> *日本文芸史理論(国文学試論 第3輯 1935年12月)<br /> *古事記の立場――フルコトから[[日本書紀]]への過渡(国語と国文学 1936年2月号)<br /> *[[斎藤清衛]]先生に捧ぐ(国文学試論批評篇 第2輯 1936年8月) - 共同執筆<br /> *[[宇津保物語]]特有の「しむ」に就いて(国文学攷 第2巻第2輯 1936年9月)<br /> *ふるさと(伝統1936年10月) - 詩<br /> *釈日本紀撰述年代新考(国語と国文学 1937年6月) <br /> *大鏡(国文学試論第四輯 1937年7月)<br /> *[[本居宣長]]に於ける「おほやけ」の精神(国文学試論 第5輯 1938年6月号)<br /> *[[伊勢物語]]の「まどひ」([[文藝文化]] 1938年7月創刊号)<br /> *[[藤田徳太郎]]氏「国学の理想」(文藝文化 1938年7月創刊号)<br /> *モールス先生「その日その日」(文藝文化 1938年8月号)<br /> *[[日本神話]]の構想に関する二三の準備的考察(国文学攷 第4巻第1輯1938年9月)<br /> *万葉末季の人(文藝文化 1938年9月号)<br /> *学のために(文藝文化 1938年10月号)<br /> *青春の詩宗――[[大津皇子]]論(文藝文化 1938年11月号)<br /> *菊など(文藝文化 1939年1月号) - 随筆<br /> *新風の位置――[[志貴皇子]]に捧ぐ(文藝文化 1939年2月号)<br /> *託摩野雑信(文藝文化 1939年3月号) - 随筆<br /> *小さい歌帖(文藝文化 1939年5月号) - 随筆<br /> *詩のための雑感(文藝文化 1939年6月号)<br /> *通信紙随筆(文藝文化 1939年7月号)<br /> *恋のらくがき(文藝文化 1939年8月号) - 戦地随筆<br /> *日本知性の構想(文藝世紀 1939年10月号-12月号)<br /> *詩と批評――[[古今和歌集]]について(文藝文化 1939年11月号-1940年1月号)<br /> *馬――戦地随想(国文学解釈と鑑賞 1940年1月号)<br /> *文章(文藝世紀 1940年2月号)<br /> *山にて(文藝文化 1940年5月号-6月号) - 随筆<br /> *預言と回想(文藝文化 1940年5月号)<br /> *「女流日記」に関聯する一問題(文藝文化 1940年10月号)<br /> {{Column}}<br /> *[[鴨長明]](文藝文化 1941年4月号-12月号。7月号は除く)<br /> *[[森鴎外]](文藝文化 1941年9月号)<br /> *雲のたたづまひ(文藝世紀 1942年1月号)<br /> *国学入門(文藝文化 1942年1月号)<br /> *伝へ――鈴の屋の翁のまなびごと(一)(文藝文化 1942年2月号)<br /> *回天のいきどほり――鈴の屋の翁のまなびごと(二)(文藝文化 1942年3月号)<br /> *夢野の鹿(文藝文化 1942年3月号)<br /> *からごころ――鈴の屋の翁のまなびごと(三)(文藝文化 1942年4月号)<br /> *神男女狂鬼神(文藝世紀 1942年5月号)<br /> *文学古意(文藝文化 1942年5月号)<br /> *やまとだましひ――鈴の屋の翁のまなびごと(四)(文藝文化 1942年5月号)<br /> *言向(文藝文化 1942年6月号)<br /> *羽衣を見る(文藝文化 1942年7月号) - 随想<br /> *古事記を誦む事(文藝文化 1942年8月号)<br /> *長唄に関聯して(文藝文化 1942年9月号)<br /> *国文学史――国文学者のつとめとして(国語と国文学 1942年10月号)<br /> *宣長自伝に関する一つの質疑(文藝文化 1942年10月号)<br /> *俊成九十賀(文藝文化 1942年11月号)<br /> *笈の小文(文藝文化 1942年12月号)<br /> *天地のはじめの時(文藝世紀 1943年1月号)<br /> *松坂の一夜の事についての異見(文藝文化 1943年2月号)<br /> *古事記展――真福寺本古事記書写について(文藝文化 1943年3月号)<br /> *古言古意(文藝文化 1943年4月号)<br /> *文学(文藝文化 1943年6月号)<br /> *忠霊にたてまつる(文藝文化 1943年7月号)<br /> *[[樋口一葉]](文藝世紀 1943年9月号)<br /> *うた(文藝文化 1943年9月号) - 短歌<br /> *国学と国文学(国語と国文学 1943年10月号)<br /> *草の花(文藝文化 1943年10月号)<br /> *みやび(文學 1943年11月号)<br /> *かたくなにみやびたるひと(文藝文化 1943年11月号)<br /> *皇居を拝してのかへるさ(文藝文化 1943年12月号) - 詩<br /> *門出に(文藝文化 1944年1月号) - 短歌<br /> *をらびうた(文藝文化 1944年8月号) - 長・短歌<br /> *有心(今ものがたり)(祖国 1945年6月号) - 小説。執筆は1941年1月。<br /> {{Columns-end}}<br /> <br /> == 刊行本 ==<br /> *『現代語訳 古事記』(机上社、1934年11月)<br /> *『鴎外の方法』〈文藝文化叢書2〉(子文書房、1939年11月)<br /> *『預言と回想』〈文藝文化叢書10〉(子文書房、1941年1月)<br /> *『日本臣民の覚悟』([[春陽堂書店]]、1942年1月)<br /> *『夢かぞへ』(春陽堂書店、1942年7月)<br /> *『[[本居宣長]]』〈日本思想家選集〉([[新潮社]]、1943年4月)<br /> *『[[鴨長明]]』〈八雲書林選書〉(八雲書林、1943年9月)<br /> *『神韻の文学』(一條書房、1943年10月)<br /> *『古事記学抄』(子文書房、1943年12月)<br /> *『忠誠心とみやび』〈ラジオ新書107〉([[日本放送出版協会]]、1944年6月)<br /> *『花のひもとき 古文學の栞』([[河出書房]]、1944年10月)<br /> *『陣中日記・をらびうた』〈古川叢書〉([[古川書房]]、1976年7月) - 日記・遺稿集<br /> <br /> == 選集・全集・復刻 ==<br /> *復刻版 『[[文藝文化]] 全7巻』([[雄松堂出版]]、1971年6月。[[オンデマンド]]版、2007年5月)<br /> *『蓮田善明全集』(全1巻、島津書房、1989年4月) - [[小高根二郎]]編<br /> *『現代日本文學大系61 [[林房雄]]・[[保田與重郎]]・[[亀井勝一郎]]・蓮田善明集』([[筑摩書房]]、1970年12月) <br /> **詩と批評、[[鴨長明]](抄)、神韻の文学(抄)、有心、を収録。付録:小高根二郎「蓮田善明とその死」(1968年9月号-11月号分)、[[清水文雄]]「蓮田善明年譜」。<br /> *『現代語訳 古事記』〈古川叢書〉([[古川書房]]、1979年9月)<br /> *『有心-今ものがたり』(島津書房、1985年8月) - 解説小高根二郎<br /> *『忠誠心とみやび』〈叢書日本人論 39〉(大空社、1997年6月)<br /> *『蓮田善明/[[伊東静雄]]』〈近代浪漫派文庫35〉〈([[新学社]]、2005年3月) - 有心(今ものがたり)、森鴎外、養生の文学、雲の意匠 を収録。<br /> *『現代語訳 古事記』([[岩波現代文庫]]、2013年9月) - 解説:[[坂本勝 (文学者)|坂本勝]]<br /> <br /> == 伝記・研究 ==<br /> *丸山学「蓮田善明の最期」([[日本談義]] 1958年8月号) - 丸山は、熊本県立中学[[済々黌]]時代からの友人。<br /> *後藤包「故蓮田善明中隊長を偲ぶ」(日本談義 1966年8月号) - 後藤は元連隊付[[軍曹]]。<br /> * [[小高根二郎]]『蓮田善明とその死』([[筑摩書房]]、1970年3月。島津書房(改訂版)、1979年)。※ 序文:[[三島由紀夫]]<br /> * [[松本健一]]『蓮田善明 日本伝説』([[河出書房新社]]、1990年11月)<br /> * [[千坂恭二]]『思想としてのファシズム──「大東亜戦争」と1968』([[彩流社]]、2015年7月)ISBN 978-4-7791-2143-2<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *西法太郎「三島由紀夫の処女作「花ざかりの森」肉筆原稿」『表現者』平成29年1月(MXエンターテインメント)<br /> *西法太郎「〈歴史発掘スクープ〉三島由紀夫「処女作」幻の生原稿独占入手」『週刊ポスト』平成28年11月25日号<br /> *{{Citation|和書|author1=[[秋山駿]]|author2=[[江藤淳]]ほか|date=1990-09|title=三島由紀夫――群像日本の作家18|publisher=[[小学館]]|isbn= 978-4095670188|ref={{Harvid|群像18|1990}}}}<br /> *{{Citation|和書|editor=[[安藤武]]|date=1996-04|title=三島由紀夫「日録」|publisher=未知谷|id={{NCID|BN14429897}}|ref={{Harvid|安藤|1996}}}}<br /> *{{Citation|和書|editor=[[磯田光一]]|date=1983-12|title=新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫|publisher=新潮社|isbn=978-4106206207|ref={{Harvid|アルバム|1983}}}}<br /> *{{Citation|和書|editor1=[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]|editor2=[[佐藤秀明 (学者)|佐藤秀明]]|editor3=[[松本徹 (学者)|松本徹]]|date=2000-11|title=三島由紀夫事典|publisher=[[勉誠出版]]|isbn=978-4585060185|ref={{Harvid|事典|2000}}}}<br /> *{{Citation|和書|editor1=井上隆史|editor2=佐藤秀明|editor3=松本徹|date=2001-05|title=三島由紀夫の時代|series=三島由紀夫論集I|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585040415|ref={{Harvid|論集I|2001}}}}<br /> *{{Citation|和書|author=[[小高根二郎]]|date=1971-05|title=詩人 伊東静雄|series=新潮選書|publisher=新潮社|id={{NCID|BN05040030}}|ref={{Harvid|詩人伊東|1971}}}}<br /> *{{Citation|和書|author=[[北影雄幸]]|date=2006-11|title=三島由紀夫と葉隠武士道|publisher=白亜書房|isbn=4891726830|ref={{Harvid|北影|2006}}}}<br /> *{{Citation|和書|author=[[小島千加子]]|date=1996-04|title=三島由紀夫と[[檀一雄]]|publisher=[[ちくま文庫]](筑摩書房)|isbn=978-4480031822|ref={{Harvid|小島|1996}}}} - ハードカバーの原版は1980年5月(構想社)。<br /> *{{Citation|和書|author=[[西法太郎]]|date=2010-03-09,10|title=蓮田善明と三島由紀夫|journal=三島由紀夫の総合研究・メルマガ会報|issue=383-385|volume=|pages=|publisher=三島由紀夫研究会|url=http://melma.com/backnumber_149567_4786965/|ref={{Harvid|西法|2010}}}}<br /> *{{Citation|和書|author=西法太郎|date=2007-05-07,08|title=三島由紀夫と神風連|journal=三島由紀夫の総合研究・メルマガ会報|issue=143-144|volume=|pages=|publisher=三島由紀夫研究会|url=http://melma.com/backnumber_149567_3656468/|ref={{Harvid|西法・神風|2007}}}}<br /> *{{Citation|和書|author=[[島内景二]]|date=2010-12|title=三島由紀夫――豊饒の海へ注ぐ|series=ミネルヴァ日本評伝選|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623059126|ref={{Harvid|島内|2010}}}}<br /> *{{Citation|和書|author=[[杉本和弘]]|date=1985-03-20|title=蓮田善明著作目録稿(著書)|journal=[[岐阜工業高等専門学校]]紀要|issue=20|volume=|pages=121-126|publisher=岐阜工業高等専門学校|naid=110004649284|ref={{Harvid|杉本・目録|1985}}}}<br /> *{{Citation|和書|author=杉本和弘|date=1983-02-28|title=蓮田善明覚書(二) : 国文学者としての善明|journal=岐阜工業高等専門学校紀要|issue=18|volume=|pages=107-118|publisher=岐阜工業高等専門学校|naid=110004649252|ref={{Harvid|杉本|1983}}}}<br /> *{{Citation|和書| author=[[中村光夫]]・三島由紀夫|date=2003-07|title=対談・人間と文学|publisher=[[講談社文芸文庫]]|isbn=978-4061983403|ref={{Harvid|中村・対談|2003}}}} - ハードカバーの原版は1968年4月(講談社)。<br /> *{{Citation|和書|author=[[橋川文三]]|date=1998-12|title=三島由紀夫論集成|publisher=深夜叢書社|isbn=978-4880322261|ref={{Harvid|橋川|1998}}}}<br /> *{{Citation|和書|author=[[福島鋳郎|福島鑄郎]]|date=2005-09|title=再訂資料・三島由紀夫|edition=増補再訂|publisher=朝文社|isbn=978-4886951809|ref={{Harvid|再訂|2005}}}} - 再訂の初版は1989年6月 ISBN 978-4886950130。原本の初刊は『資料総集・三島由紀夫』([[新人物往来社]]、1975年6月){{NCID|BN06124544}}<br /> *{{Citation|和書|editor=[[藤島泰輔]]|date=1975-01|title=特集・三島由紀夫の不在|journal=浪曼|issue=新年(12・1月合併)|volume=|pages=|publisher=株式会社浪曼|isbn=|ref={{Harvid|浪曼|1975}}}} – [[宮崎正弘]]などを編集人として1970年代に刊行された雑誌。<br /> *{{Citation|和書|author=[[松本健一]]|date=1990-11|title=蓮田善明 日本伝説 |publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309006574|ref={{Harvid|松本健一|1990}}}}<br /> *{{Citation|和書|author=松本徹|date=2010-07|title=三島由紀夫を読み解く|series=NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界|publisher=[[NHK出版]]|isbn=978-4149107462|ref={{Harvid|徹|2010}}}}<br /> *{{Citation|和書|author=[[村松剛]]|date=1990-09|title=三島由紀夫の世界|publisher=新潮社|isbn=978-4103214021|ref={{Harvid|村松|1990}}}} - 新潮文庫、1996年10月。<br /> *{{Citation|和書|editor=[[虫明亜呂無]]|date=2006-05|title=三島由紀夫文学論集II |publisher=講談社文芸文庫|isbn=978-4061984424|ref={{Harvid|文学論集II|2006}}}}<br /> *{{Citation|和書|date=1999-04|title=近代作家追悼文集成〈42〉三島由紀夫|publisher=[[ゆまに書房]]|isbn=978-4897146454|ref={{Harvid|追悼文|1999}}}}<br /> *{{Citation|和書|editor=|date=1970-12|title=現代日本文學大系61 [[林房雄]]・[[保田與重郎]]・[[亀井勝一郎]]・蓮田善明集|publisher=[[筑摩書房]]|id={{NCID|000023838}}|ref={{Harvid|文學大系|1970}}}}<br /> *{{Citation|和書|date=2003-01|title=決定版 三島由紀夫全集第26巻 評論1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642566-0|ref={{Harvid|三島26巻|2003}}}}<br /> *{{Citation|和書|date=2003-07|title=決定版 三島由紀夫全集32巻 評論7|publisher=新潮社|isbn=978-410642572-1|ref={{Harvid|三島32巻|2003}}}}<br /> *{{Citation|和書|date=2003-09|title=決定版 三島由紀夫全集第34巻 評論9|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642574-5|ref={{Harvid|三島34巻|2003}}}}<br /> *{{Citation|和書|date=2003-11|title=決定版 三島由紀夫全集第36巻 評論11|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642576-9|ref={{Harvid|三島36巻|2003}}}}<br /> *{{Citation|和書|date=2004-01|title=決定版 三島由紀夫全集第37巻 詩歌|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642577-6|ref={{Harvid|三島37巻|2004}}}}<br /> *{{Citation|和書|date=2004-03|title=決定版 三島由紀夫全集第38巻 書簡|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642578-3|ref={{Harvid|三島38巻|2004}}}}<br /> *{{Citation|和書|date=2004-05|title=決定版 三島由紀夫全集第39巻 対談1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642579-0|ref={{Harvid|三島39巻|2004}}}}<br /> *{{Citation|和書|date=2004-07|title=決定版 三島由紀夫全集第40巻 対談2|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642580-6|ref={{Harvid|三島40巻|2004}}}}<br /> *{{Citation|和書|date=2005-08|title=決定版 三島由紀夫全集第42巻 年譜・書誌|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642582-0|ref={{Harvid|三島42巻|2005}}}}<br /> *{{Cite web |url= http://jikei-hp.or.jp/greeting/|title=医療法人聖粒会[[慈恵病院]]|accessdate=2015-07-14|ref={{Harvid|聖粒会}}}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[太田黒伴雄]]<br /> *[[英霊の聲]]<br /> *[[神道]]<br /> *[[第7方面軍 (日本軍)]]<br /> *[[第46師団 (日本軍)]]<br /> *[[奔馬 (小説)|奔馬]]<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{Good article}}<br /> {{DEFAULTSORT:はすた せんめい}}<br /> [[Category:日本文学研究者]]<br /> [[Category:日本の文学研究者]]<br /> [[Category:戦前日本の学者]]<br /> [[Category:日本の文芸評論家]]<br /> [[Category:成城大学の教員]]<br /> [[Category:日本統治時代の台湾の人物]]<br /> [[Category:三島由紀夫]]<br /> [[Category:広島大学出身の人物]]<br /> [[Category:熊本市出身の人物]]<br /> [[Category:自殺した人物]]<br /> [[Category:1904年生]]<br /> [[Category:1945年没]]</div> 240B:11:4A00:400:45FB:487B:65F2:5209 信長公記 2018-04-02T13:03:31Z <p>240B:11:4A00:400:45FB:487B:65F2:5209: /* 書籍情報 */</p> <hr /> <div>[[ファイル:Nobonagakouki.jpg|thumb|270px|信長公記/陽明文庫所蔵]]<br /> 『&#039;&#039;&#039;信長公記&#039;&#039;&#039;』(しんちょうこうき / のぶながこうき)は、[[戦国大名]]である[[織田信長]]の一代記で、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[史料]]。著者は信長旧臣の[[太田牛一]]。原本は[[江戸時代]]初期に成立した&lt;ref&gt;池田家文庫本に慶長15年(1610年)の牛一自身による[[奥書]]がある。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 信長の幼少時代から信長が[[足利義昭]]を奉じて[[上洛]]する前までを首巻とし、上洛([[永禄]]11年([[1568年]]))から[[本能寺の変]]([[天正]]10年([[1582年]]))まで15年の記録を1年1巻とし、全16巻(16冊)にまとめている。<br /> <br /> 読みに関しては[[米沢藩]][[上杉氏]]旧蔵本である個人蔵十冊本の内題に「しんちやうき」とあることから、[[音読み]]で「しんちょうき」と読まれていたと考えられている&lt;ref&gt;金子(2009)、pp.394 - 395&lt;/ref&gt;。また、[[森銑三]]は江戸時代にはその人に敬意を表する意味で人名を音読みする習慣があったことを指摘し([[有職読み]])、同様の事例に『[[義経記]](ぎけいき)』を挙げている。<br /> <br /> == 概要==<br /> 歴史上初めての織田信長の一代記。著述姿勢は真摯であり、年月日を記して編年的にまとめられ、一部錯綜が認められる箇所もみられるが、文書上から確認される事跡を正確に記しているため、史料としての信頼が高く&lt;ref&gt;&lt;!---東京大学資料編纂所教授---&gt;[[染谷光広]]「古典の辞典」(1987年、河出書房新社)&lt;/ref&gt;、信長期の事情を知るには無くてはならない史料とされている。信長自身については、果断にして正義を重んじる性格であり、精力的で多忙、情誼が厚く道理を重んじる古今無双の英雄として描かれている。<br /> <br /> また[[東大寺大仏殿]]を焼いた[[松永久秀]]が、焼いたのと同じ[[10月10日]]に鹿角兜(鹿は[[奈良]]にて神鹿として敬われる)を付けた[[織田信忠]]によって奈良・[[信貴山]]で自刃に追い込まれたことに触れるなど、[[神道]]・[[仏教]]・[[儒教]]が融合した中世的道徳がうかがえたり、信長に離反した[[荒木村重]]の妻子の最期を憐れんで村重と妻との短歌のやり取りを詳細に記すなど、客観的ながらも牛一の価値観や人物観を現す内容となっている。<br /> <br /> == 成立 ==<br /> 太田牛一は[[尾張国|尾張]]春日郡の出自で、信長の死後には織田家臣の[[丹羽長秀]]に[[右筆]]として仕え、長秀の没後には[[豊臣秀吉]]に仕えている。『信長公記』は長秀・秀吉家臣時代の記録をもとに編纂されたと考えられている。<br /> <br /> [[藤本正行]]は著書『信長の戦争』の中で、同じ本の中でありながら、信長に対して「上様」「信長公」「信長」と表現が変わっている部分や、[[徳川家康]]を「家康」と呼び捨てにしていたり「家康公」「家康卿」「家康殿」と敬称をつけている箇所などがある点に言及し、さまざまな時期に書いたメモのようなものを切り貼りして一冊の本として作り上げたものであるとみている。<br /> <br /> === 諸本と刊本 ===<br /> 写本を含めると20種類以上が残されており、表題も&lt;!---『永禄十一年記』、---&gt;『安土日記』、『安土記』、『信長記』、『信長公記』など様々である。[[大名]]や[[公家]]などに写本で伝わり、[[明治]]時代になって初めて刊行された。<br /> <br /> うち、太田自筆のものは次の3つ。自筆本にはいずれも首巻がなく、首巻は巻一〜巻十五より後に書かれたと見られている。<br /> <br /> *『永禄十一年記』(1巻):永禄11年(1568年)の部分のみ。尊経閣文庫所蔵。(尊経閣文庫は他にも『信長記』15巻などを所蔵する)。<br /> *池田本『信長記』(15巻):岡山大学付属図書館池田家文庫所蔵。姫路城主・[[池田輝政]]に献上されたもの。&lt;!--通称「池田本」。---&gt;首巻なし。[[重要文化財]]。第12巻のみ古写本。<br /> *建勲神社本『信長公記』(15巻):京都・[[建勲神社]]所蔵。首巻なし。重要文化財。<br /> <br /> その他、著名な写本。<br /> * 町田本:[[町田久成]]旧蔵本(所在不明)。『我自刊我書』(明治13年([[1880年]]) - 17年([[1884年]])にかけて甫喜山景雄が刊行)、後に『史籍集覧』に収められた。[[近代デジタルライブラリー]]で閲覧可能。<br /> * 陽明本:近衛家所蔵本。角川文庫版の底本として有名。<br /> * 天理本:[[天理大学附属天理図書館]]所蔵の写本。<br /> <br /> == 書籍情報 ==<br /> * 太田牛一; [[桑田忠親]]校注 『信長公記』 新人物往来社 新訂版1997年、ISBN 4404024932<br /> * {{Citation|和書|last1=太田|first1=牛一|author1-link=太田牛一|author2=中川太古 訳|title=現代語訳 信長公記|year=2006 |publisher=新人物往来社|pages= |isbn= }} 上巻 ISBN 4404032994、下巻 ISBN 4404033001<br /> ** {{Citation |和書|author1=太田牛一|author2=中川太古 訳|year=2013|series=新人物文庫|publisher=[[中経出版]]|edition=[[Amazon Kindle|Kindle]]|title =現代語訳 信長公記}}{{ASIN|B00G6E8E7A}}<br /> ** {{Citation |和書|author1=太田牛一|author2=中川太古 訳|year=2013|series=新人物文庫|publisher=KADOKAWA|title =現代語訳 信長公記|isbn=9784046000019}}<br /> * 太田牛一; [[奥野高廣]]・岩沢愿彦校注 『信長公記』 [[角川文庫]]、1984年、のち[[角川文庫ソフィア]]<br /> * 太田牛一; [[榊山潤]] 訳 『信長公記 原本現代訳』 [[教育社歴史新書]](上下)、1991年/[[ちくま学芸文庫]]、2017年<br /> * {{Citation |和書|author=太田牛一|editor=[[近藤瓶城]]|year=1926|series=史籍集覧| volume=第19|title =信長公記|publisher=近藤出版部|url={{NDLDC|1920322/60}} 国立国会図書館デジタルコレクション}}<br /> <br /> == 甫庵信長記との関連 ==<br /> 牛一の晩年期である慶長16年([[1611年]])頃、牛一の『信長(公)記』を元にその他の逸話を加えて、[[小瀬甫庵]]が『信長記』を著述した。甫庵の『信長記』は元和8年([[1622年]])に刊行され、以後も版を重ねて一般に広まった。どちらも『信長記』と呼ばれるが、現在は混同を防ぐため、牛一のものを『信長公記』と呼ぶのが一般的である。対して甫庵の方を『甫庵信長記』と呼ぶこともある。<br /> <br /> 『甫庵信長記』は、基本的な内容を『信長公記』に依拠してはいるが、所々内容が異なり、甫庵自身の再仕官の意図や、儒教的価値観などの諸事情により、甫庵自身の歴史観に基づいて歴史を解釈した[[軍記物]]に近い書籍である。同時代の史書で(同様に創作が多いと指摘される)『[[三河物語]]』からすらも「イツハリ多シ」と指摘されている。一方で甫庵は、牛一を「愚にして直」と評し、その創作性の無さ、事実をなぞっているだけの簡素な内容を批判しており、記録というよりも、読み物として読み手を意識して書いたことがうかがえる。それゆえに、『甫庵信長記』は同じ甫庵の『[[太閤記]]』に類似し、近世社会において刊本として広く流布して親しまれ、今日に至るまで[[桶狭間の戦い]]や[[長篠の戦い]]など信長・秀吉期の合戦史に関する基本的イメージを構築する読本となった。<br /> <br /> 信長の一代記として、その後も『織田真記』([[織田長清]])、『総見記』(遠山信春)などの諸作が作られた。&lt;!--{{main|信長記}}--&gt;<br /> <br /> === 古活字版 ===<br /> * {{Citation |和書|last=小瀬|first=甫庵|author-link=小瀬甫庵|year=1622|volume=全15|title =信長記|publisher=|url={{NDLDC|2544599/3}} 国立国会図書館デジタルコレクション|language=漢文}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}} <br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[藤本正行]] 『信長の戦争 「信長公記」に見る戦国軍事学』 [[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉、2003年<br /> * [[堀新 (歴史学者)|堀新]]編 『信長公記を読む 歴史と古典』 [[吉川弘文館]]、2009年<br /> * [[金子拓]] 『織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』 [[勉誠出版]]、2009年<br /> <br /> == 関連作品 ==<br /> *マンガ日本の古典22『信長公記』[[小島剛夕]]著([[中央公論新社]])<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{PDFlink|[http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html 太田牛一著「信長公記」町田本]}}, [http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/ 歴史データ館]サイト内<br /> <br /> {{デフォルトソート:しんちようこうき}}<br /> [[Category:16世紀の書籍]]<br /> [[Category:江戸時代の歴史書]]<br /> [[Category:日本の伝記]]<br /> [[Category:織田信長]]<br /> [[Category:織田信長を題材とした作品]]<br /> [[Category:桶狭間の戦い]]</div> 240B:11:4A00:400:45FB:487B:65F2:5209 三河物語 2018-04-02T12:26:59Z <p>240B:11:4A00:400:45FB:487B:65F2:5209: /* 関連作品 */</p> <hr /> <div>『&#039;&#039;&#039;三河物語&#039;&#039;&#039;』(みかわものがたり)は、[[大久保忠教]](彦左衛門)によって書かれた、[[徳川氏]]と[[大久保氏]]の歴史と功績を交えて武士の生き方を子孫に残した家訓書である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[寛永]]3年([[1626年]])から同9年([[1632年]])頃に成立した三河物語諸本のうち、[[奥書]]の年次が最も古いものは上中下巻すべて[[元和 (日本)|元和]]8年(1622年)である。しかしその内容は、元和9年に将軍となった[[徳川家光]]を「当将軍」扱いしていたり、[[本多正純]]が[[佐竹氏]]に預けられた件(寛永元年=1624年の出来事)が記されていたりと、明らかにそれ以降の内容が含まれているため、このように推測されている&lt;ref&gt;[[高木昭作]]「三河物語の成立年について」(『東京大学史料編纂所報』5号、1970年)&lt;/ref&gt;。上・中・下の3巻からなり、忠教の実証可能な見聞や自身の事蹟にかかわるのは下巻だけで、上・中巻は諸記録や伝聞をもとにしての編述であり、その出典は挙げられていないため信憑性は定かではないとされる&lt;ref&gt;[[宮本義己]]「松平家の「記録」を読む」(『歴史読本』51巻1号、2006年)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 忠教は「門外不出であり、公開するつもりもないため他家のことはあまり書かず、子孫だけに向けて記した」「この本を皆が読まれた時、(私が)我が家のことのみを考えて、依怙贔屓&lt;small&gt;(えこひいき)&lt;/small&gt;を目的として書いたものだとは思わないで欲しい&lt;ref&gt;下巻の巻末より。同様の文章は同じく三河出身の[[室町時代]]の武将[[今川貞世|今川了俊]]の著書『[[難太平記]]』にも記されている。&lt;/ref&gt;」と記しているが、書かれてすぐに写本が作られた形跡があることが指摘される&lt;ref&gt;[[平山優 (歴史学者)|平山優]]『検証 長篠合戦』(吉川弘文館、2014年)p.21&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 江戸時代には[[写本]]が一般に出回り、人気になったと伝えられている。ただし一般に流布したものは下巻の後ろ1/3ほどが欠けている&lt;ref&gt;[[高木昭作]]「三河物語の成立年について」(『東京大学史料編纂所報』5号、1970年)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期を知るための一次史料であるが、徳川びいきの記述が目立ち、創作もある。一例として、[[松平信康]]の切腹事件についての記述は、『家忠日記』や「安土日記」(『[[信長公記]]』の一部)、『当代記』などの記録と食い違っていることから、事実ではないと見られている&lt;ref&gt;[[谷口克広]]『信長と家康―清須同盟の実体―』(学研パブリッシング、2012年)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[桐野作人]]『織田信長― 戦国最強の軍事カリスマ―』(新人物往来社、2011年)&lt;/ref&gt;。さらに踏み込んで、政治性を強く帯びた「譜代プロパガンダの書」だという指摘もある&lt;ref&gt;[[山室恭子]]『群雄創世紀―信玄・氏綱・元就・家康-』(朝日新聞社、1995年)&lt;/ref&gt;。また、内容には歴史著述だけでなく、忠教の不満や意見などがそのまま現れている。[[宮本義己]]は主筋の家康についても敬称を用いないことから、偽りを記さないという高言も、事実関係の是非を論じたものではなく、嘘を書かないという理解において首肯できるとしたうえで、誤字や当て字、一方的見方や邪推の類もあるが、徳川将軍家草創時期の初期資料としての価値は高いとしている&lt;ref&gt;宮本義己「松平家の「記録」を読む」(『歴史読本』51巻1号、2006年)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 珍しい特徴として、[[仮名混じり]]の独特の表記・文体で記されており、この時代の[[口語体]]を現代に伝える貴重な資料としての側面もある。<br /> <br /> == 現代語訳 ==<br /> *小林賢章訳『現代語訳 三河物語』[[ちくま学芸文庫]], 2018年<br /> **元版:教育社新書(上下), 1980年。シリーズ原本現代訳<br /> *[[百瀬明治]]編訳『三河物語』[[徳間書店]], 1992年<br /> <br /> == 関連作品 ==<br /> * [[安彦良和]]『三河物語』(マンガ日本の古典23)、[[中公文庫]]で再刊(2001年)<br /> *:『三河物語』そのものをモチーフとした作品ではなく、[[関ヶ原の戦い]]直後から晩年の忠教の姿を、彼に仕えた[[一心太助]]の視点から語るという体裁になっている。『三河物語』の内容そのものは、彦左衛門が語る軍談として断片的に引用されている。<br /> * [[宮城谷昌光]]『新三河物語』[[新潮文庫]](全3巻)で再刊(2011年)<br /> *:彦左衛門(作中では幼名の平助で呼ばれる)を主人公として、大久保一族の活躍と挫折を書く。『三河物語』を著した後の姿も書かれている。<br /> * [[童門冬二]]『老虫は消えず 小説大久保彦左衛門』[[集英社文庫]]で再刊(1997年)<br /> *:『三河物語』が江戸城の武士らに熟読される理由「付箋」が語られている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *[[高木昭作]]「三河物語の成立年について」(『東京大学史料編纂所報』5号、1970年)<br /> *[http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/handle/10424/2432 宇都宮睦男『三河物語』の文体 ―文語体と口語体](愛知教育大学研究報告 人文科学43、 1994年) p.234-220<br /> *[[山室恭子]]『群雄創世紀―信玄・氏綱・元就・家康-』(朝日新聞社、1995年)<br /> *[[宮本義己]]「松平家の「記録」を読む」(『歴史読本』51巻1号、2006年)<br /> *[[桐野作人]]『織田信長 ―戦国最強の軍事カリスマ―』(新人物往来社、2011年)<br /> *[[谷口克広]]『信長と家康―清須同盟の実体―』(学研パブリッシング、2012年)<br /> *[[平山優 (歴史学者)|平山優]]『検証 長篠合戦』(吉川弘文館、2014年) <br /> *中田祝夫編『原本三河物語』(勉誠社)<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:みかわものかたり}}<br /> [[Category:江戸時代の歴史書]]<br /> [[Category:17世紀の書籍]]<br /> [[Category:桶狭間の戦い]]<br /> [[Category:徳川家康]]<br /> [[Category:徳川氏]]<br /> [[Category:大久保氏]]</div> 240B:11:4A00:400:45FB:487B:65F2:5209
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