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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=2402%3ABC00%3A1326%3AB800%3AC5A2%3AF346%3A7734%3A5EC3&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-13T08:26:37Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ヤン3世 (ポーランド王) 2018-05-20T00:16:05Z <p>2402:BC00:1326:B800:C5A2:F346:7734:5EC3: </p> <hr /> <div>{{脚注の不足|date=2016年9月}}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ヤン3世ソビェスキ<br /> | 各国語表記 = {{lang|po|Jan III Sobieski}}<br /> | 君主号 = ポーランド王&lt;br/&gt;リトアニア大公<br /> | 画像 = Jan III Sobieski 2.PNG<br /> | 画像サイズ = 230px<br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[1674年]][[5月21日]] - [[1696年]][[6月17日]]<br /> | 戴冠日 = [[1676年]][[2月2日]]<br /> | 別号 = <br /> | 全名 = ヤン・ソビェスキ<br /> | 出生日 = [[1629年]][[8月17日]]<br /> | 生地 = [[オレスィコ|オレスコ]]、現在の[[ウクライナ]]<br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1629|8|17|1696|6|17}}<br /> | 没地 = [[ヴィラヌフ]]、[[ワルシャワ]]近郊<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = [[ヴァヴェル大聖堂]]、[[クラクフ]]<br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = [[マリー・カジミール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン]]<br /> | 配偶者2 = <br /> | 配偶者3 = <br /> | 子女 = [[ヤクプ・ルドヴィク・ソビェスキ|ヤクプ・ルドヴィク]]&lt;br/&gt;[[テレサ・クネグンダ・ソビエスカ|テレサ・クネグンダ]]&lt;br/&gt;[[アレクサンデル・ベネディクト・ソビェスキ|アレクサンデル・ベネディクト]]&lt;br/&gt;[[コンスタンティ・ヴワディスワフ・ソビェスキ|コンスタンティ・ヴワディスワフ]]<br /> | 王家 = [[ソビエスキ家]]<br /> | 王朝 = <br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = [[ヤクプ・ソビェスキ]]<br /> | 母親 = ゾフィア・テオフィリア・ダニウォヴィチ<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ヤン3世ソビェスキ&#039;&#039;&#039;([[ポーランド語]]:Jan III Sobieski, [[1629年]][[8月17日]] - [[1696年]][[6月17日]])は、[[ポーランド国王|ポーランド王]](在位:[[1674年]] - 1696年)。オスマン帝国との戦いで活躍し、[[1683年]]の[[第二次ウィーン包囲]]で勝利して英雄として名を馳せた。「ソビェスキ」は「ソビエスキ」とも表記する。女優の[[リーリー・ソビエスキー]]は彼の子孫に当たる。&lt;ref&gt;{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/ヤン・ソビエスキ-1430578 |title = 世界大百科事典内のヤン・ソビエスキの言及 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-10 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 国王称号 ==<br /> * ラテン語:&#039;&#039;Joannes III, Dei Gratia rex Poloniae, magnus dux Lithuaniae, Russiae, Prussiae, Masoviae, Samogitiae, Livoniae, Smolenscie, Kijoviae, Volhyniae, Podlachiae, Severiae, Czernichoviaeque, etc.&#039;&#039;<br /> <br /> * 「イオアンネス3世、神の恩寵による[[ポーランド国王|ポーランド王]]、[[リトアニア]]、[[ルテニア]]、[[ポーランド王領プロシア|プロイセン]]、[[マゾフシェ]]、[[ジェマイティア]]、[[スモレンスク]]、[[キエフ]]、[[ヴォルィーニ]]、[[ポドラシェ]]、[[セヴェリア]]、[[チェルニーヒウ]]その他の大公」<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === ヨーロッパ旅行 ===<br /> 1629年、ソビェスキは[[リヴィウ|ルブフ]]郊外の[[オレスィコ|オレスコ]]で、この地方の名門の家に生まれた。父はルーシ県知事、[[クラクフ]][[城代]]を務めた[[ヤクプ・ソビェスキ]]で、母ゾフィアはポーランド大[[ヘトマン]]、[[スタニスワフ・ジュウキェフスキ]]の孫娘だった。<br /> <br /> クラクフの[[バルトウォミェイ・ノヴォドヴォルスキ高校|バルトウォミェイ・ノヴォドヴォルスキ校]]を卒業し、[[ヤギェウォ大学|クラクフ大学]]で哲学を学び、同大学を修了後は、見聞を広めるため兄[[マレク・ソビェスキ (1628–1652)|マレク]]と一緒に2年以上にわたる[[西ヨーロッパ]]旅行に赴いた。この旅で、彼は[[コンデ公]][[ルイ2世 (コンデ公)|ルイ2世]]、後の[[イングランド王国|イングランド]]王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]、[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]][[ウィレム2世 (オラニエ公)|ウィレム2世]]らの王侯と知り合いになり、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[イタリア語]]、[[ラテン語]]を習得した。こうした経験が後年の軍事的活躍に影響している。<br /> <br /> 兄弟は[[1648年]]にポーランドに帰国し、[[ウクライナ・コサック]]の[[ヘーチマン|棟梁]][[ボフダン・フメリニツキー]]らが起こした[[フメリニツキーの乱]]と戦う共和国軍に参加した。彼は騎兵の[[ホロンギェフ|小連隊]]を組織し、[[ロトミストシュ|騎馬小連隊長]]としてこれを率いた。しかし[[ズボリフの戦い (1649年)|ズボリフの戦い]]の後、兄弟は離ればなれになり、兄のマレクは[[クリミア・ハン国|クリミア・タタール]]の捕虜となって[[1652年]]に死んだ。一方のソビェスキは[[プウコフニク|大連隊長]]に昇進、[[ベレステーチュコの戦い]]で名声を得た。将来有望な青年将校として、国王[[ヤン2世 (ポーランド王)|ヤン2世カジミェシュ]]に見出されたソビエスキは、[[オスマン帝国]]の首都[[イスタンブール]]に公使として送り込まれた。ここでトルコ人の軍事的習慣と戦術を学んでいる。<br /> <br /> [[1655年]]、[[スウェーデン]]によるポーランド侵攻([[大洪水時代|大洪水]])が始まると、ソビエスキはポズナン県知事[[クシシュトフ・オパリンスキ]]麾下の[[ヴィエルコポルスカ]]の防衛軍に加わったが、オパリンスキとその軍隊は[[ウィシツェ]]で降伏してスウェーデン王[[カール10世 (スウェーデン王)|カール10世]]に忠誠を誓った。しかしソビェスキは[[1656年]]4月からポーランド国王軍に加わった。<br /> <br /> === ポーランド軍司令官 ===<br /> [[ファイル:Jan Sobieski.jpg|thumb|200px|right|[[ヤン・マテイコ]]による肖像画]]<br /> [[1656年]]7月の[[ワルシャワの戦い (1656年)|ワルシャワの戦い]]で、ソビェスキは2000人の[[クリミア・タタール人]]騎兵の精鋭を率いて目覚ましい戦功をあげ、これを認められて[[ホロンズィ|王冠領大旗手]]に昇進した。親フランス派の一員として、ソビェスキは[[ルボミルスキの反乱]]が起きた後も国王ヤン2世を支持し続け、このことが彼にさらなる昇進の道を開いた。<br /> <br /> [[1665年]]、ソビェスキは王妃[[ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガ|ルドヴィーカ・マリア]]の女官で、[[ヤン・ソビエパン・ザモイスキ]]の未亡人だった[[マリー・カジミール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン]](マリア・カジミェラ、マリシェンカ)と結婚した。同年、彼は王冠領[[マルシャウェク|宮内長官]]となり、翌[[1666年]]にはポーランド軍のナンバー2、王冠領野戦ヘトマンの地位を得た。[[1667年]]、[[ポーランド・コサック・タタール戦争]]の最中に、ソビェスキはピドハイツェの戦いで[[ウクライナ・コサック|コサック]]とクリミア・タタールの同盟軍に対して目覚ましい勝利を収めた。そして翌[[1668年]][[2月5日]]、ポーランド・リトアニア共和国最高位の軍官職で、事実上の共和国最高司令官である王冠領大ヘトマンに就任した。<br /> <br /> [[1672年]]、[[ポーランド・オスマン戦争 (1672–1676)|ポーランド・オスマン戦争]]が起き、ヤン2世の後を継いだ国王[[ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ]]は[[ウクライナ]]地方の[[ポジーリャ|ポドレ]](ポジーリャ)の敵側への帰属を認めて講和を結ぼうとした。しかし[[セイム]](共和国議会[[下院]])はこれを承認せず、大ヘトマンのソビェスキに戦争を継続させた。<br /> <br /> [[1673年]]11月、ソビェスキは[[ホティンの戦い (1673年)|ホティンの戦い]]に勝利し、要塞都市[[ホティン]]を占領した。この勝利の知らせはホティンの戦いの前日に死んだ国王ミハウの死の報と同時に、瞬く間に共和国中に広まった。この戦勝はソビェスキの国民的人気を一気に高め、翌1674年5月19日の[[国王自由選挙|自由選挙]]で、ソビエスキは国王に選出された。票のほとんどが彼に入り、[[セイム]]代議員の反対者も十数人程度だった。最も熱心な支援者は妻のマリシェンカだったという。[[1676年]][[2月2日]]、ソビェスキは正式に戴冠した&lt;ref&gt;伊東、P150、河野、P122 - P123。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 国王 ===<br /> [[ファイル:Siemiginowski_Sobieski_at_the_Battle_of_Vienna.jpg|thumb|200px|left|キリスト教世界の擁護者としてのソビェスキ、[[イェジー・シェミギノフスキ=エレウテル]]画]]<br /> ポーランド・リトアニア共和国は当時のヨーロッパで最も大きく人口の多い国の一つだったが、ヤン3世が王位についた時には半世紀近くにわたる恒常的な戦争のせいで疲弊し切っており、経済的繁栄も終わっていた。国庫はほぼ空だったが、財力を持つ[[マグナート]]達の多くは共和国内に影響力を築くため外国宮廷と同盟しており、ポーランド宮廷(=中央政府)に財政援助を行うことなどまず無かった。ヤン3世は南部国境で常に続いているオスマン帝国との戦争を講和に持ち込み、経済的負担の主要因である戦争の連鎖を断ち切ることで、国庫を建てなおそうと考えるようになった。しかし1674年の秋にオスマン帝国との戦争を再開して[[カミェニェツ=ポドルスキ]]、[[バール (ウクライナ)|バール]]、レシュクフの奪回に成功、ウクライナにおける南部国境の強固な防衛線を再構築した。<br /> <br /> ヤン3世はスウェーデン軍の攻撃にさらされていた[[プロシア公領|プロイセン公国]]を、[[フランス王国|フランス]]の財政援助を受けて征服する計画を立てた。プロイセンはかつて共和国の[[レーエン|封土]]だったが、大洪水時代に乗じて抜け目なく独立していた。ところがフランスとの密約が明るみに出てしまい、ヤン3世がオスマン帝国との戦争に忙殺されている間に、プロイセンの君主である[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]は、フランスと和平を結びスウェーデン軍を追い払った。共和国のマグナート達の多くも征服計画に反対し、大選帝侯の支持に回った。結局、リトアニア軍の最高司令官(大ヘトマン)で大選帝侯の同盟者である[[ミハウ・カジミェシュ・パツ]]が麾下の軍隊を連れて戦線離脱し、軍隊を解散させたため、プロイセン征服は計画倒れに終わった&lt;ref&gt;河野、P124。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1676年、クリミア・タタールが[[ドニエプル川]]を渡って反撃を開始したが、戦略上の拠点ジュラフノを奪えなかったため、すぐにポーランドとの講和に応じることになった。重要拠点カミェニェツ=ポドルスキはオスマン帝国側に渡ることになったが、ポーランド側は新たな要塞都市[[オコピィ]]を建設することでこの脅威に対抗し、[[ビーラ・ツェールクヴァ|ビャワ・ツェルキェフ]]を回復した。<br /> <br /> 講和条約の締結によりようやく平和な時代が訪れ、共和国の再建が急がれるようになり、国王の権威も高まった。マグナート、ブランデンブルク=プロイセンや[[ハプスブルク君主国|オーストリア]](後者などはヤン3世を廃して[[ロレーヌ公]][[シャルル5世 (ロレーヌ公)|シャルル5世]]にポーランド王位を与えようとしていた)の執拗な嫌がらせにも負けず、ヤン3世は共和国軍の改革に成功した。軍隊は連隊単位に再編成され、歩兵隊は[[パイク]](長槍)に代えて[[戦斧]]を基本装備武器とし、騎兵隊は[[ユサール#ポーランド騎兵|フサリア]](有翼重装騎兵)とドラグーン([[竜騎兵]])の形態を採用した。また銃の在庫数を増やし、砲術を発達させた。<br /> <br /> [[ファイル:Wyjazd z Wilanowa Jana III Sobieskiego.jpg|thumb|300px|right|[[ヴィラヌフ宮殿]]を出るソビェスキ、[[ユゼフ・ブラント]]画]]<br /> 外交面では、ヤン3世はポーランド、フランス、オスマン帝国の3者の同盟を構想し、オーストリアとブランデンブルク=プロイセンに対抗しようと考えた。しかしこの構想は実現することなく[[1683年]]には廃棄された。近隣諸国との敵対関係と同盟関係の不足は、共和国に再び大洪水時代のような悲劇の二の舞を演じさせかねないと考えたヤン3世は、この年、当初は仮想敵国だったオーストリアの[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]と同盟を結んだ。この同盟は直接的にはオスマン帝国を共通の敵としたが、間接的にはフランスをも仮想敵国としていた。この同盟はポーランドの南部国境を守る上で強い支えとなった。<br /> <br /> この時期、オーストリア領の[[ハンガリー王国|ハンガリー]]北西部で、皇帝に対する[[プロテスタント]]の反乱が発生しており、反乱者はオスマン帝国に支援を要請した。オスマン帝国はこれに応じて、[[大宰相]][[カラ・ムスタファ・パシャ]]率いる15万の大軍を派遣した。レオポルト1世はポーランドに支援を要請、ヤン3世はこれに応えてオーストリアやドイツの諸侯と[[同盟]]を結び、自ら連合軍を率いてオーストリアに向かった。<br /> <br /> 9月12日、オーストリアの首都[[ウィーン]]の[[郊外]]に達したヤン3世とポーランド軍は、オスマン帝国軍がカラ・ムスタファ自らが率いる大軍であっても、全軍の指揮が不統一で士気も弛緩し、防備が弱体であることを見抜き、その日の夕方に連合軍に総攻撃を命じた。ポーランドの有翼重装騎兵[[ユサール#ポーランド騎兵(フサリア)|フサリア]]のうち尖峰隊はたった3000騎で敵陣の中央突破を敢行、一気に敵陣最深部に到達し暴れまわった。この猛烈な中央突撃の成功によりオスマン軍の陣地は大混乱に陥った。フサリアの残りを含む連合軍の全ての部隊も敵陣に到達し、わずか1時間ほどの間に包囲網を寸断されて散り散りになり潰走した。この勝利により、ヤン3世は[[イスラム国家]]オスマン帝国の侵略に晒される[[ヨーロッパ]]の[[キリスト教]]世界を守った英雄として、大きな名声を勝ち得た&lt;ref&gt;伊東、P150 - P151、パーマー、P21 - P29。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ファイル:Juliusz Kossak Sobieski pod Wiedniem.jpeg|thumb|300px|left|[[ウィーン]]の戦場に立つソビェスキ]]<br /> 翌1684年、ウィーンでのキリスト教国側の勝利に触発された[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス11世 (ローマ教皇)|インノケンティウス11世]]の呼びかけにより、オーストリア、ポーランドの同盟に[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]などが加わった反トルコ[[神聖同盟 (1684年)|神聖同盟]]が結成された。しかしこの同盟は、オスマン帝国から勝ち得ていた共和国の優位な立場を、ライバル関係にある近隣諸国と分有したことになり、共和国にとっては不利なものだった。共和国は同盟の展開した[[大トルコ戦争]]で引き続いてオスマン帝国との戦いを続けたが、既にこの時点で17年ものあいだトルコ人と戦ってきた共和国は物質的にも疲弊し、戦争に忙しいあまり内政改革にも手が回らない状況だった。この間、プロイセンを含む[[バルト海]]海域での共和国の地位を改善する努力は完全に忘れられた。<br /> <br /> しかしヤン3世が犯したより深刻な失策は、東隣の[[ロシア・ツァーリ国]]との「同盟」だった。[[1686年]]、ロシアは[[アンドルソヴォの和約]]での取り決めに従って、先の[[ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)|ロシア・ポーランド戦争]]で占領中の[[キエフ]]及び[[左岸ウクライナ]]の主権を共和国に返還することになっていた。しかしロシアはこの約束を履行するつもりがない旨を通告し、トルコ人と同盟してポーランド・リトアニアに敵対しようとした。この脅迫に屈したヤン3世は1686年5月6日、ロシアとの間に[[永遠平和条約|恒久平和条約]]を結び、ロシアが占領中の地域全てをロシア領と認めることになり、ポーランド国内における[[正教徒]]の信教の自由とロシアの正教徒保護も承認、ロシアは[[東ヨーロッパ]]の覇権国としての地位を不動のものとした。共和国がロシアから見返りに得たのは、神聖同盟への参加だけだった&lt;ref&gt;河野、P124 - P125。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 大トルコ戦争の終結をみた[[1699年]]の[[カルロヴィッツ条約]]では、共和国は失っていたポドレを回復しただけだった一方、オーストリアが広大な領域を獲得して覇権国の一つと呼べるだけの勢力圏を築いた。プロイセン公国は直後に[[プロイセン王国]]に昇格し、バルト海南岸の支配者として振る舞い出した。こうして、ロシア、オーストリア、プロイセンという18世紀の[[中東欧]]における3列強国のパワー・バランスが成立し、17世紀の覇権国だった共和国とオスマン帝国は共倒れした。<br /> <br /> [[ファイル:Wojciech Gerson-Pozegnanie Jana III.jpg|thumb|270px|国王とその家族]]<br /> 国内問題に関しても、ヤン3世は何ら有効な政策を打ち出すことは出来なかった。ヤン3世の選挙王としての権力の脆弱さは特に[[リトアニア大公国]]において顕著だった。1670年代には[[ハプスブルク家]]と結託した[[パツ家]]などの大貴族がリトアニアを支配し、1680年代から17世紀末までは[[サピェハ家]]が大公国を思いのままに動かした。リトアニアにおける大貴族家門の争いは共和国全体を混乱に陥れた。[[セイム]]では[[自由拒否権]]の行使が繰り返されて何度も途中で閉会し、地元のマグナート達に牛耳られた[[セイミク]](地方議会)は中央政府が担うはずの税金と官職任命権を各々の裁量で濫用し、ヘトマン達は私益のために共和国軍を動員していた。共和国の無政府状態はもはや疑いの余地がなかった。<br /> <br /> 国内外で身動きが出来ないヤン3世は、息子に王位を継がせるという私的な野心を満たすことに集中するようになった。そもそも、ヤン3世が治世初期にプロイセン征服を狙ったのもソビェスキ家の世襲領にしたいという考えがあった。しかし、宮廷内の守旧派は共和国の「[[黄金の自由]]」に反する王位世襲に猛反対し、他ならぬ王妃マリシェンカがこの反対派閥の中心になり、マリシェンカは長男[[ヤクプ・ルドヴィク・ソビェスキ|ヤクプ]]に王位を継がせようとする夫の計画にことごとく反対した。<br /> <br /> また、ヤン3世はヤクプを富裕な女子相続人[[ルドヴィカ・カロリナ・ラジヴィウ]]と婚約させたが、ルドヴィカは1681年、勝手にヤクプを裏切ってブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子と結婚した。ブランデンブルク=プロイセンは旧宗主国ポーランドの王家の威信を平然と踏みにじったのであり、この事件で両国の権力関係の変化を見せつけると同時に、ヤン3世父子に大きな屈辱を味わわせた。<br /> <br /> ヤン3世は[[1691年]]に最初の心臓発作を起こして以後、繰り返す発作に苦しみながら[[ヴィラヌフ宮殿]]で半隠棲状態の生活を送るようになった。同宮殿は1681年から1686年にかけて[[ワルシャワ]]南端に建築されたもので、彼はこのお気に入りの宮殿で一介のマグナート同然の晩年を送った。1696年4月17日に何度目かの発作のために66歳で亡くなり、ヴァヴェル大聖堂に埋葬された。ヤクプは父の死後開かれた[[国王自由選挙]]に敗れ、精力的な[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[アウグスト2世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]が新国王に選ばれた。<br /> <br /> == 子女 ==<br /> 妻マリア・カジミェラとの間に8人の子供をもうけたが、うち4人は夭折した。<br /> *[[ヤクプ・ルドヴィク・ソビェスキ|ヤクプ・ルドヴィク]](1667年 - 1737年) - 1691年、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|フィリップ・ヴィルヘルム]]の娘[[ヘートヴィヒ・エリーザベト・フォン・デア・プファルツ|ヘートヴィヒ]]と結婚<br /> *テレサ・テオフィラ(1670年)<br /> *アデライダ・ルドヴィカ(1672年 - 1677年)<br /> *マリア・テレサ(1673年 - 1675年)<br /> *[[テレサ・クネグンダ・ソビエスカ|テレサ・クネグンダ]](1676年 - 1730年) - 1695年、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマヌエル]]と結婚<br /> *[[アレクサンデル・ベネディクト・ソビェスキ|アレクサンデル・ベネディクト]](1677年 - 1714年)<br /> *[[コンスタンティ・ヴワディスワフ・ソビェスキ|コンスタンティ・ヴワディスワフ]](1680年 - 1726年)<br /> *ヤン(1683年 - 1685年)<br /> <br /> == パトロネジ ==<br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Siemiginowski_John_III_Sobieski_with_his_son.jpg|「ヤン3世ソビエスキと長男[[ヤクプ・ルドヴィク・ソビエスキ]]」[[イェジー・シェミギノフスキ=エレウテル]]画<br /> ファイル:Magi-rembrandt.jpg|「東方三博士の礼拝」[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]画(1632年)、国王の所蔵品<br /> ファイル:Żółkiew - Kolegiata pw. św. Wawrzyńca 01.JPG|ソビエスキの先祖が埋葬されている[[ゾフクヴァ|ジュウキェフ]]の[[聖ヴァフジニェツ教会]]<br /> ファイル:Warsaw Wilanow Palace sundial.jpg|[[ヨハネス・ヘヴェリウス]]が国王のために製作した[[ヴィラヌフ宮殿]]の[[日時計]](1684年頃)<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{脚注の不足|date=2016年9月|section=1}}<br /> * [[ノーマン・デイヴィス|Norman Davis]],&#039;&#039;God&#039;s Playground A History of Poland: Volume 1: The Origins to 1795&#039;&#039;,Oxford University Press,2005.<br /> * [[伊東孝之]]・[[井内敏夫]]・[[中井和夫]]編『新版 世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』[[山川出版社]]、1998年。<br /> * [[アラン・パーマー]]著、[[白須英子]]訳『オスマン帝国衰亡史』[[中央公論新社]]、1998年。<br /> * [[河野肇]]訳『ポーランドの歴史』[[創土社]]、2007年。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|John III of Poland}}<br /> *[[ヴィラヌフ宮殿]]<br /> *[[第二次ウィーン包囲]]<br /> *[[ポーランドの歴史]]<br /> *[[たて座]]<br /> <br /> {{先代次代|[[ポーランド国王|ポーランド王]]&lt;br /&gt;[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]]|1674年 - 1696年|[[ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ|ミハウ・ヴィシニョヴィエツキ]]|[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]}}<br /> {{ポーランド君主一覧}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:やん3}}<br /> [[Category:ポーランド・リトアニア共和国の君主]]<br /> [[Category:ヘトマン]]<br /> [[Category:ソビエスキ家]]<br /> [[Category:大洪水時代の人物]]<br /> [[Category:大トルコ戦争の人物]]<br /> [[Category:1629年生]]<br /> [[Category:1696年没]]</div> 2402:BC00:1326:B800:C5A2:F346:7734:5EC3
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