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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=2402%3A6B00%3A5609%3AEF00%3A5C99%3A58CF%3AE6BC%3A5054&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-17T19:55:59Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 黒船来航 2018-07-20T03:51:47Z <p>2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054: 126.247.75.90 (会話) による ID:69288418 の版を取り消し</p> <hr /> <div>{{参照方法|date=2012年4月21日 (土) 13:08 (UTC)}}<br /> [[ファイル:Визит Перри в 1854 году.jpg|thumb|350px|嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航&lt;br/&gt;&lt;small&gt;ペリーに随行した画家[[ヴィルヘルム・ハイネ]]による[[リトグラフ]]&lt;/small&gt;]]<br /> [[ファイル:UB Maastricht - Heine 1856 - Perry Commissionarissen.jpg|サムネイル|ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子。(場所不明)]]<br /> &#039;&#039;&#039;黒船来航&#039;&#039;&#039;(くろふねらいこう)とは、[[嘉永]]6年([[1853年]])に、[[代将 (アメリカ海軍)|代将]][[マシュー・ペリー]]が率いる[[アメリカ合衆国]][[アメリカ海軍|海軍]][[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、[[日本]]に来航した事件。当初[[久里浜]]に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、[[江戸幕府|幕府]]は[[東京湾|江戸湾]][[浦賀]]([[神奈川県]][[横須賀市]]浦賀)に誘導した。[[アメリカ合衆国大統領]]国書が幕府に渡され、翌年の[[日米和親条約]]締結に至った。日本では主に、この事件から[[明治維新]]までを「[[幕末]]」と呼んでいる。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> [[ファイル:Matthew_Calbraith_Perry.jpg|thumb|250px|マシュー・ペリー]]<br /> <br /> === アメリカのアジア市場への進出 ===<br /> [[産業革命]]を迎えた[[西ヨーロッパ]]各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、[[インド]]を中心に[[東南アジア]]と[[中国大陸]]の[[清]]への市場拡大を急いでいたが、後にそれは熾烈な[[植民地]]獲得競争となる。市場拡大競争には[[イギリス]]優勢のもと[[フランス]]などが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。<br /> <br /> 当時の人口は、アメリカが1833年に約1416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2760万人であった&lt;ref&gt;[http://www.populstat.info/ Population statistics: historical demography] 2017年7月30日閲覧 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> アメリカは[[1833年]]に[[タイ王国|シャム]]と[[マスカット]]との条約を締結することにようやく成功した。[[1835年]]には日本と清との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。この試みは成功しなかったが、[[アヘン戦争]]後の1842年に清との間に[[望厦条約]]を締結し、中国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官[[ジェームズ・ビドル]]が清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務もおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。<br /> <br /> === 捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保 ===<br /> 産業革命によって欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その[[潤滑油]]や[[ランプ (照明器具)|ランプ]]の灯火として、主に[[マッコウクジラ]]の[[鯨油]]が使用されていた。この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で[[捕鯨]]を盛んに行なっていた。日本近海ではジャパン・グラウンドと呼ばれる伊豆諸島・小笠原諸島付近、カムチャツカ・グラウンドと呼ばれるカムチャツカ半島東方が好漁場として知られており、米国東海岸を基地とする[[捕鯨船]]は1年以上の航海を行うのが普通であった&lt;ref&gt;大崎晃 [https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/119/4/119_4_615/_pdf 19世紀後半期アメリカ式捕鯨の衰退と産業革命] 地学雑誌 119(4)615—631 2010&lt;/ref&gt;。当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。<br /> <br /> 加えて難破船の問題もあった。漂流民の保護は当時のアメリカ海軍の任務の一つであり、[[1849年]]には[[ジェームス・グリン]]が難破した米国捕鯨船乗組員を受け取るために長崎に来航している。その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利であった。<br /> <br /> === 米墨戦争の影響 ===<br /> [[File:Gnomonic Projection Japan.jpg|thumb|200px|[[若狭湾]]沖を中心とする[[心射方位図法|大圏図法]]]]<br /> アメリカはすでに1846年にイギリスとの交渉でオレゴンの南半分をその領土としていたが、1846年 - [[1848年]]の[[米墨戦争]]でカリフォルニアを獲得した。これによりアメリカは太平洋国家となり、巨大市場である[[清]]との貿易開拓が国家目標となった。[[アメリカ西海岸]]から[[中国]]に至る最短航路([[大圏コース]])は、西海岸から北上し、[[アリューシャン列島]]・[[千島列島]]沿いに南下、[[津軽海峡]]と[[対馬海峡]]を通過して[[上海市|上海]]付近に至るものである&lt;ref group=&quot;†&quot;&gt;石井、p20-24。1848年5月4日の下院海軍委員キングの報告に、この航路(津軽海峡経由)のことが言及されており、さらに財務長官ウォーカーが同年12月に同様のことを述べている&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;函館日ロ交流歴史研究会「会報」No.9 1998.8.11。1807年にアメリカ商船エクリプス号が、広東・アラスカ交易を試み、広東からの帰りに長崎で水・薪を補給した後に日本海を北上し、津軽海峡を西から東に通過した先例がある&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> このため、津軽海峡に面した[[松前]](実際に開港したのは[[函館市|箱館]])に補給拠点をおくことが望まれた。さらに、米墨戦争での勝利により、それまで主力艦隊とされていたメキシコ湾艦隊の必要性が低下し、海軍は組織規模維持のため東インド艦隊の役割を拡大する必要が生じた&lt;ref&gt;加藤、p56-p58&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ペリー来航以前 ===<br /> * [[1791年]](寛政3年) - 冒険商人[[ジョン・ケンドリック]]が2隻の船とともに[[紀伊大島]]に上陸。日本を訪れた最初のアメリカ人。<br /> * [[1797年]](寛政9年) - [[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]がフランスに占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて[[出島]]での貿易を行う。[[1809年]](文化6年)までに13回の来航が記録されている&lt;ref&gt;Bauer, p. 57&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref group=&quot;†&quot;&gt;江戸東京博物館1999年 によると、日本に向けられたアメリカ傭船は次の通り。<br /> # 1797年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のイライザ号<br /> # 1798年、同上<br /> # 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号<br /> # 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号<br /> # 1800年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のエンペラー・オブ・ジャパン号<br /> # 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号<br /> # 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス号<br /> # 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。<br /> # 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。<br /> # 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号<br /> # 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号<br /> # 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号<br /> # 1809年、ジェームズ・マクニール船長のアメリカレベッカ号&lt;/ref&gt;。<br /> * [[1830年]](天保元年) - [[小笠原諸島]]の[[父島]]に[[ナサニエル・セイヴァリー]]が上陸。<br /> * [[1835年]](天保6年) - 大統領[[アンドリュー・ジャクソン]]は、エドマンド・ロバーツ([[:en:Edmund Roberts (diplomat)|Edmund Roberts]])を特命使節とし、清、日本との交渉のためにアジアに派遣したが、ロバーツは中国で死亡した。ロバーツをアジア送り届けるため、東インド艦隊が編成された&lt;ref&gt;{{Cite web<br /> | url=http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&amp;res=9407E2D6133EE733A25755C0A96E9C946497D6CF<br /> | title = Edmund Roberts, Our First Envoy to Japan<br /> | author = ELLIOT GRIFFIS<br /> | publisher = New York Timex<br /> | date = 1905-08-06<br /> | accessdate = 2010-01-28}}&lt;/ref&gt;。<br /> * [[1837年]](天保8年) - アメリカ商人チャールズ・キングが商船モリソン号で[[音吉]]など漂流民を日本に送り届けるため浦賀に渡航。[[1808年]]の[[長崎]]での[[イギリス]]軍艦の起こした[[フェートン号事件]]以降の[[異国船打払令]]に基づき、日本側砲台がモリソン号を砲撃した([[モリソン号事件]])。<br /> * &lt;span id=&quot;1844&quot;&gt;&lt;/span&gt;1844年(天保15年)、7月29日、オランダ政府はオランダ国王の親書を軍艦で江戸幕府に届ける旨を予め商船船長のヒイトル・アオヘルト・ヒツキから江戸幕府に通知させたうえ、8月15日には軍艦長ハーエス・コープスがこれを届けた。親書は江戸幕府が[[鎖国]]を解くよう、またオランダ船やその船員、日本人に対する待遇を改善するよう求めたもので、美術品や地図、植物図鑑、天文学書などが付されていた&lt;ref&gt;『[{{NDLDC|1081911/53}} 和蘭国使節来朝外交勧告の事]』。[[#岩倉公実記]]。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> * [[1845年]](弘化2年) - 捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、船長[[マーケイター・クーパー]]は[[浦賀]]への入港を許可され[[浦賀奉行]]と対面した。<br /> * [[1846年]](弘化3年)閏5月 - アメリカ[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令官[[ジェームズ・ビドル]]が[[コロンバス (戦列艦)|コロンバス号]]、[[ビンセンス (戦闘スループ)|ビンセンス号]]の2隻の軍艦を率いて浦賀に渡航し通商を求めるも拒否される。米軍艦の初の日本寄港であった。<br /> * [[1846年]](弘化3年) - アメリカ捕鯨船ローレンス号の乗員、[[択捉島]]に漂着。翌年長崎でオランダ船に引き渡される。<br /> * [[1848年]](嘉永元年) - アメリカ捕鯨船ラゴダ号の乗員、西[[蝦夷]]地に漂着。ローレンス号の乗員と同じく長崎に護送されるが、脱走を試みるなどしたため、入牢させられる。これがアメリカには、「アメリカ人が虐待されている」と伝わる。<br /> * [[1848年]](嘉永元年) - [[ラナルド・マクドナルド]]、日本人に英語を教えようと、自らの意志で密入国。<br /> * [[1849年]](嘉永2年) - 東インド艦隊の[[ジェームス・グリン]]を艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に渡航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。この時、グリンの示した「毅然たる態度」が、後のペリーの計画に影響を与える。<br /> &lt;!--<br /> 万次郎の帰国はペリー渡航と直接無関係<br /> === ジョン万次郎の帰国 ===<br /> [[ファイル:NakahamaJohnManjiro.jpg|thumb|150px|中濱万次郎]]<br /> ジョン・マンこと[[中濱万次郎]]は、[[1841年]](天保12年)に高知沖で遭難し、無人島の[[鳥島 (八丈支庁)|鳥島]]に仲間といたところ、アメリカの[[捕鯨船]]に救助された。当時15歳だった万次郎は、捕鯨船の船長の養子同然となり、その後アメリカにて修学し、アメリカで近代捕鯨の捕鯨船の船員となった。しかし、望郷の念は強く、[[カリフォルニア]]の金鉱で働き得た資金により、捕鯨船を確保し、[[ハワイ]]に残された[[土佐国|土佐]]の清水中浜村の漁師仲間とともに、日本に帰るべく出航した。<br /> <br /> [[1851年]](嘉永4年)、当時の[[薩摩藩]][[琉球]]にたどり着いたとき万次郎は25歳であった。その後、紆余曲折はあったが、日米和親条約の平和的締結に向け、[[通訳]]やアメリカの思惑や情勢を詳しく知る者として、時には裏方として尽力した。<br /> --&gt;<br /> <br /> === オーリックに対する日本開国指令と解任 ===<br /> このような状況の中、1851年5月29日(嘉永4年4月30日)[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ミラード・フィルモア|フィルモア]]は、[[日本]]の[[開国]]と通商関係を結ぶことを目指し、東インド艦隊司令官の[[代将 (アメリカ海軍)|代将]][[ジョン・オーリック]]に遣日特使としてその任務&lt;ref&gt;カリフォルニアから中国に至る汽船航路を早急に開設すること([[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版(1972年初版)30ページ)&lt;/ref&gt;を与え、1851年6月8日に[[蒸気船|蒸気]][[フリゲート]]「[[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]」は東インド艦隊の[[旗艦]]となるべく極東に向かって出発した。しかし、オーリックはサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任され、1852年2月、代将[[マシュー・ペリー|マシュー・カルブレース・ペリー]]にその任が与えられた。&lt;ref group=&quot;†&quot;&gt;オーリックを日本に派遣することに際しては、三つの目的があった。一つは、中国との貿易に従事する米国汽船に、日本の石炭購入を許すこと。二つ目は、日本政府は、日本沿岸で難破した米国水兵や財産を保護する義務を負うべきこと。三つ目は、米国船が日本の港で積み荷を販売若しくは交換する権利を獲得すること。さらにオーリックは、日本皇帝(将軍)に当てた大統領の親書を預かっていた。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 30-31ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 嘉永6年の来航 ==<br /> ペリーは、海軍長官ケネディから1852年11月13日(嘉永5年10月3日)付けで訓令を受けている。その主な内容は、対日使命遂行のため広範な自由裁量権の行使、日本沿岸及び隣接大陸や諸島の探検もし、行く先々の諸国や諸地方の社会・政治・商業状況、特に商業の新しい対象について、できうる限りの情報を収集することなどである&lt;ref&gt;[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 31-32ページ&lt;/ref&gt;。<br /> === ペリーの計画 ===<br /> ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を[[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]][[ウィリアム・アレクサンダー・グラハム]]に提出していた&lt;ref&gt;Graham, Volume IV&lt;/ref&gt;。そこで彼は、以下のように述べている。<br /> <br /> * 任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。<br /> * 日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで[[近代国家]]の軍事力を認識できるだろう。<br /> * 中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」<br /> * [[オランダ]]が妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。<br /> <br /> 日本開国任務が与えられると、計画はさらに大掛かりになり、東インド艦隊所属の「サスケハナ」、「[[サラトガ (スループ)|サラトガ]]」(帆走[[スループ]])、「[[プリマス]]」([[:en:USS Plymouth (1844)|USS Plymouth]] 同)に加え、本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走[[戦列艦]]1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求した。しかし、予定した本国艦隊の蒸気軍艦4隻の内、使用できるのは「[[ミシシッピ (蒸気フリゲート)|ミシシッピ]]」のみであった。さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲート「[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポーハタン]]」が加わることとなった&lt;ref&gt;元綱、p38-40&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === オランダによる来航の予告 ===<br /> [[ファイル:Masahiro_Abe.jpg|thumb|200px|[[老中]]首座、[[阿部正弘]]]]<br /> 1852年[[7月21日]]([[嘉永]]5年6月5日)、[[オランダ商館]]長の[[ヤン・ドンケル・クルティウス]]は[[長崎奉行]]に「[[オランダ風説書|別段風説書]]」(幕末出島未公開文書&lt;ref&gt;フォス美弥子&lt;/ref&gt;として保存される&lt;ref&gt;[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00914/contents/0028.htm 日本財団図書館 平成15年度 海事講演会 海・船セミナー2003 ?ペリー来航150周年記念?「黒船来航、その時日本は」]&lt;/ref&gt;)を提出した。そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されており、中国周辺に有るアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったらしいこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載しているとの噂があるとも告げていた。出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。<br /> <br /> 1852年9月11日にはオランダ領[[バタヴィア]](ジャカルタ)の裁判官の[[ヤン・ドンケル・クルティウス|トンクル・キュルシュス]]が長崎に来航し、老中[[阿部正弘]]の許可を得た長崎奉行に、『[[大尊君長崎御奉行へ]]』と題する国王の命による6月25日付けのバタヴィア提督からの親書を届けた。この親書は[[公務員|公用方]]のア・フ・プリンスが命を受けて届けたもので、[[アメリカ合衆国]]が蒸気船軍艦で日本を訪れ通商を求めるらしいという風説と、キュルシュスを[[w:Netherlands_Trading_Society|オランダ貿易協会]]([[オランダ東インド会社]]の後身)の[[オランダ商館]]の長に任じたため応対して欲しいことを伝え、また、[[#1844|1844年の親書]]のあとも開国されなかったため国王は失望しているが、もし戦争になればオランダ人にも影響が及びかねないなどの懸念を表していた&lt;ref&gt;『[{{NDLDC|1081911/65}} 和蘭国所領咬𠺕吧督外交勧告書を幕府に奉呈の事]』。[[#岩倉公実記]]。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{要出典|オランダ領東インド総督はバン・トゥイストで、そこにはアメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案をも示した。|date=2018年6月}}<br /> <br /> [[老中]]首座[[阿部正弘]]は、夏ごろには[[伺候席#溜間|溜間]]詰の譜代大名にこれらを回覧した&lt;ref&gt;加藤、p40&lt;/ref&gt;。[[海岸防禦御用掛]](海防掛)にも意見を聞いたが、通商条約は結ぶべきではないとの回答を得た。また、長崎奉行もオランダ人は信用できないとしたため&lt;ref&gt;岩下&lt;/ref&gt;(以前にオランダ風説書でイギリスの[[香港総督]][[ジョン・バウリング]]の渡航が予告されたがそれはなく、すべての情報が正しいわけではなかった)&lt;ref&gt;福地源一郎、p14-15&lt;/ref&gt;、幕府の対応は[[三浦半島]]の防備を強化するために[[川越藩]]・[[彦根藩]]の兵を増やした程度であった。&lt;!-- アメリカ海軍の東インド艦隊は6年前の[[1846年]]([[弘化]]3年)に来航し、通商を求めてきたことがあったが、そのときは[[イギリス海軍]]や[[ロシア海軍]]艦艇のように帰ったため、今回も同じだろうと考えていた。--&gt;加えて、幕府内でもこの情報は奉行レベルまでの上層部に留めおかれ、来航が予想される浦賀の与力等には伝えられていなかった&lt;ref&gt;加藤、p43。後に現場での対応に当たった[[中島三郎助]]や[[香山栄左衛門]]は、情報伝達がなかったことを浦賀奉行に抗議している。&lt;/ref&gt;。他方、外様の[[島津斉彬]]には年末までに口頭でこの情報が伝えられようであり&lt;ref&gt;加藤、p42&lt;/ref&gt;、斉彬は翌年のアメリカ海軍東インド艦隊の琉球渡航以降の動静を阿部正弘に報告し、両者は危機感を持ったが幕府内では少数派であった。<br /> <br /> なお、アメリカ政府はペリーの日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じ、通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。しかしこの書簡(1852年[[7月2日]]付け)は、クルティウスが日本に向けジャワを出発した後にバン・トゥイストの手元に届いたので、日本には届いていない。ただし翌年、すなわちペリーが来航した[[1853年]]([[嘉永]]6年)提出の別段風説書では、ペリー派遣の目的は通商関係を結ぶことが目的の平和的なものであると述べている。<br /> <br /> === 出航 ===<br /> [[ファイル:黒船ミシシッピ号.jpg|thumb|200px|[[ミシシッピ号]]]]<br /> [[1852年]][[11月24日]]、58歳の[[マシュー・ペリー|マシュー・カルブレース・ペリー]]司令長官兼遣日大使を乗せた[[蒸気船|蒸気]][[フリゲート]]「[[ミシシッピ (蒸気フリゲート)|ミシシッピ号]]」は、単艦で[[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]を出港し、一路アジアへと向かった。ペリーはタカ派の大統領[[ミラード・フィルモア|フィルモア]]([[ホイッグ党 (アメリカ)|ホイッグ党]])から、琉球の占領もやむなしと言われていた。<br /> <br /> ミシシッピは[[大西洋]]を渡って<br /> * [[マデイラ島]]([[12月11日]] - [[12月15日|15日]])<br /> * [[セントヘレナ島]]([[1853年]][[1月10日]]・[[1月11日|11日]])<br /> * [[南アフリカ]]の[[ケープタウン]]([[1月24日]] - [[2月3日]])<br /> * [[インド洋]]の[[モーリシャス]]([[2月18日]] - [[2月28日|28日]])、<br /> * [[スリランカ|セイロン]]([[3月10日]] - [[3月15日|15日]])、<br /> * [[マラッカ海峡]]から[[シンガポール]]([[3月25日]] - [[3月29日|29日]])、<br /> * [[マカオ]]・[[香港]]([[4月7日]] - [[4月28日|28日]])<br /> を経て、[[上海市|上海]]に[[5月4日]]に到着した。この間、各港で石炭補給を行った。香港でプリマス(帆走スループ)およびサプライ(帆走補給艦)と合流、上海で蒸気フリゲート[[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]と合流した。このとき、すでに大統領は[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[フランクリン・ピアース|ピアース]]に代わっていて、彼の下で[[ジェイムズ・コクラン・ドビン (1世)|ドッピン]]海軍長官は侵略目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペリーには届いていなかった。<br /> <br /> なお、途中マカオにて[[サミュエル・ウィリアムズ]]を漢文通訳として、上海で[[アントン・ポートマン]]をオランダ語通訳として雇用し、日本への航海途中にフィルモア大統領親書の漢文版およびオランダ語版を作成している。<br /> <br /> === 琉球来航 ===<br /> [[ファイル:Kurofune.jpg|thumb|200px|サスケハナ号]]<br /> [[上海]]で[[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]に旗艦を移したペリー艦隊は[[5月17日]]に出航し、[[5月26日]]に[[琉球王国]]([[薩摩藩]]影響下にある)の那覇沖に停泊した。ペリーは[[首里城]]への訪問を打診したが、琉球王国側はこれを拒否した。しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。<br /> <br /> 琉球王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名とともに入城した。ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、開国を促す大統領[[親書]]を手渡した。さらに場所を城外の大美御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待し、同行の[[フランス]]人シェフの料理を振舞った。<br /> <br /> しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、[[清]]からの[[冊封]]使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否([[親書]]の返答)を示していた(多くの国が来客に対して使う手法である)。友好的に振舞ったことで武力制圧を免れたものの、琉球王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用された。<br /> <br /> この当時の記録は琉球側がまとめた『琉球王国評定所文書』に詳細に記されている。<br /> <br /> === 小笠原探検 ===<br /> ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは[[6月9日]]に出航、[[6月14日]]から[[6月18日]]にかけて、まだ領有のはっきりしない[[小笠原諸島]]を探検した。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言したが、即座にイギリスから抗議を受け、[[ロシア]]船も抗議のために小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになった。後に日本は[[林子平]]著『[[三国通覧図説]]』の記述を根拠として領有を主張し{{要出典|date=2011年6月}}、[[水野忠徳]]を派遣して[[八丈島]]住民などを積極的に移住させることで、イギリスやロシア、アメリカなどの当時の列強諸国に領有権を認めさせることになる。<br /> <br /> ペリーは[[6月23日]]に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、[[7月2日]]に大統領からの親書を手に3隻を率いて[[日本]]へ出航した。<br /> <br /> === 浦賀来航 ===<br /> [[ファイル:Kurofune_2.jpg|thumb|200px|サラトガ号]]<br /> [[ファイル:Gasshukoku suishi teitoku kōjōgaki (Oral statement by the American Navy admiral).png|thumb|300px|合衆国水師提督口上書(嘉永6年6月8日)&lt;br/&gt;左よりヘンリー・アダムス副使(艦長)、ペリー水師提督、アナン軍使(司令官)]]<br /> 1853年[[7月8日]](嘉永6年6月3日)に[[浦賀]]沖に午後5時に現れ、停泊した。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の[[帆船]]とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と[[蒸気機関]]でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「&#039;&#039;&#039;[[黒船]]&#039;&#039;&#039;」と呼んだ。<br /> <br /> 浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「[[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]」(蒸気外輪[[フリゲート]])、「[[ミシシッピ (蒸気フリゲート)|ミシシッピ]]」(同)、「[[サラトガ (スループ)|サラトガ]]」(帆走スループ)、「[[プリマス]]」([[:en:USS Plymouth (1844)|USS Plymouth]] 同)の4隻からなっていた。大砲は計73門あり、急な日本側からの襲撃を恐れ臨戦態勢をとりながら、上陸に備えて勝手に[[江戸湾]]の測量などを行い始めた。さらに、[[アメリカ独立記念日]]の[[祝砲]]や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。この件は事前に日本側に通告があったため、町民にその旨のお触れも出てはいたのだが&lt;ref&gt;[http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/5198/meibo/index.html 横浜黒船研究会]「神奈川県域のヒストリック・イベント(7)、第二章 横浜村の黒船騒動、一、異国船の接近に驚く住民」 草間俊郎&lt;/ref&gt;、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んだと伝えられる。<br /> <br /> 浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、上船して接触を試みるものもあったが、幕府から武士や町人に対して、「十分に警戒するよう」にとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂とともに、次第に不安が広がるようになった。このときの様子をして「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という[[狂歌]]が詠まれた。[[上喜撰]]とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが([[カフェイン]]の作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している&lt;ref group=&quot;†&quot;&gt;同時代史料においては類似した句が見られるのみで、主に[[明治]]11年([[1878年]])の『[[武江年表]]』や[[大正]]3年([[1914年]])『江戸時代落書類聚』など、明治以降に出典が見られることから、後世に喧伝された歌である可能性が指摘され、近年では教科書から姿を消している。しかし[[平成]]22年([[2010年]])になり、黒船来航直後に詠まれたことを示す書簡(嘉永6年(1853年)6月30日付の山城屋左兵衛から[[色川三中]]への書簡、[[静嘉堂文庫]]所蔵)が見つかっている。上記のとおり、黒船4隻中、蒸気船は2艦のみである。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[7月9日]](嘉永6年6月4日)幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所[[与力]]の[[中島三郎助]]を派遣し、ペリーの渡航が将軍に[[アメリカ合衆国大統領]]親書を渡すことが目的であることを把握したが、ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。続いて[[7月10日]](嘉永6年6月5日)浦賀奉行所[[与力]][[香山栄左衛門]]が浦賀奉行と称して訪ねた。ピュカナン・アダムス両艦長およびコンティーと会見した。が対応は変わらず、親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。香山は上司と相談するために4日の猶予をくれるように頼んだが、ペリーは3日なら待とうと答え、さらに「親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになる」と脅しをかけた。<br /> <br /> ペリーは、香山と会見が行われた日([[7月10日]](嘉永6年6月5日))、艦隊所属の各艦から一隻ずつの武装した短艇を派遣して、浦賀湾内を測量させた。この測量は幕府側に威圧を加えるという効果をもたらした。浦賀奉行は、当然ながら抗議した。その回答は、鎖国体制下の不平等な国際関係を排除するという考えであり、日本に対して不平等な国際関係を強いようとする考えが含まれていた&lt;ref&gt;[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 48ページ&lt;/ref&gt;。翌[[7月11日]](嘉永6年6月6日)早朝から測量艇隊は湾内深くに侵入した。その護衛にミシシッピ号が付いていた。その行動の裏には、ペリーの「強力な軍艦で江戸に接近する態度を示せば、日本政府(幕府)の目を覚まさせ、米国にとってより都合の良い返答を与えるであろう」との期待があった。この行動に幕府は大きな衝撃を受け、[[7月12日]](嘉永6年6月7日)「姑く耐認し枉げて其意に任せ、速やかに退帆せしめ後事をなさん」との見地から国書を受領し、返事は長崎オランダ商館長を通じて伝達するよう、浦賀奉行井戸弘道に訓令し、交渉に当たらせた&lt;ref&gt;[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 49-50ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この時第12代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家慶]]は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態には無かった。老中首座[[阿部正弘]]は、[[7月11日]](嘉永6年6月6日)に「国書を受け取るぐらいは仕方ないだろう」との結論に至り、[[7月14日]](嘉永6年6月9日)にペリー一行の[[久里浜]]上陸を許し、[[下曽根信敦]]率いる部隊の警備の下、浦賀奉行の[[戸田氏栄]]と[[井戸弘道]]がペリーと会見した。<br /> <br /> ペリーは彼等に開国を促す大統領フィルモアの親書&lt;ref group=&quot;†&quot;&gt;大統領フィルモアから「日本皇帝」(将軍)にあてた親書には、ペリーを日本へ派遣した目的として、両国間における自由貿易を許すこと、難破船員を優遇しその財産を保護すること、船舶に石炭・食料及び水を供給する寄港地として、日本南岸における一港を指定すること、を上げている。そして貿易については、5年ないし10年間試験的に実施し、利益がないことが分かれば、旧法に復することもできると述べるなど、慎重な表現が為されていることが注目される&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 52ページ&lt;/ref&gt;、提督の信任状、覚書などを手渡したが、幕府は「将軍が病気であって決定できない」として、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは「返事を聞くために1年後に再来航する」と告げた。ここでは文書の受け渡しのみで何ら外交上の交渉は行われなかった。日本側の全権である浦賀奉行の戸田と井戸の二人は一言も発しなかった。<br /> 日本側は、会見終了して2、3日したら退去するものと考えていたが、ペリーは7月15日(嘉永6年6月10日)ミシシッピー号に移乗し浦賀より20[[マイル]]北上して江戸の港を明瞭に望見できるところまで進み、将軍に充分な威嚇を示してから小柴沖に引き返した。<br /> <br /> 艦隊は[[7月17日]](嘉永6年6月12日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流してイギリスの植民地である[[香港]]へ帰った。<br /> ペリーは本国政府訓令の精神を貫徹することに成功した&lt;ref&gt;[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 58ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 嘉永6年来航の艦艇の概要は以下の通りである。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! 艦名 !! 艦種 !! 建造年 !! トン数 !! 乗組員 !! 機関出力 !! 備砲<br /> |-<br /> | [[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]&lt;br&gt;Susquehanna || 蒸気外輪フリゲート || 1850年 || 積載量2450トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]])&lt;br&gt;排水量3824英トン || 300 || 420NHP&lt;br&gt;795IHP || 150ポンド[[パロット砲]]x2&lt;br&gt;9インチ[[ダルグレン砲]]x12&lt;br&gt;12ポンド砲x1<br /> |-<br /> | [[ミシシッピ (蒸気フリゲート)|ミシシッピ]]&lt;br&gt;Mississippi || 蒸気外輪フリゲート || 1841年 || 積載量1692トン(bmトン)&lt;br&gt;排水量3220英トン || 260 || 434NHP&lt;br&gt;650IHP || 10インチ[[ペクサン砲]]x8&lt;br&gt;8インチペクサン砲x2<br /> |-<br /> | [[サラトガ (スループ)|サラトガ]]&lt;br&gt;Saratoga || 帆走スループ || 1843年 || 積載量882トン(bmトン) || 260 || 無 || 8インチ砲x4&lt;br&gt;32ポンド砲x18<br /> |-<br /> | プリマス&lt;br&gt;[[:en:USS Plymouth (1844)|Plymouth]] || 帆走スループ || 1844年 || 積載量989トン(bmトン) || 260 || 無 || 8インチ砲x8&lt;br&gt;32ポンド砲x18<br /> |}<br /> <br /> === ペリー退去後の幕府の動向 ===<br /> ペリー退去からわずか10日後の[[7月27日]](嘉永6年6月22日)に将軍家慶が死去した。将軍後継者の[[徳川家定|家定]](嘉永6年11月23日に第13代将軍に就任)は病弱で国政を担えるような人物ではなかった。しかし老中等にも名案はなく、国内は異国排斥を唱える[[攘夷]]論が高まっていたこともあって、老中首座の[[阿部正弘|阿部]]は開国要求に頭を悩ませた。<br /> <br /> 7月1日、[[阿部正弘|阿部]]は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を求めたが、これは開幕以来初めてであった。国政に発言権の無かった[[外様大名]]は喜んだが、名案は無かった。これ以降は国政を幕府単独ではなく合議制で決定しようという「[[公議政体論|公議輿論]]」の考えだけが広がり、結果として幕府の権威を下げることとなった。<br /> <br /> === 軍備増強 ===<br /> さらに阿部はアメリカ側と戦闘状態になった時に備えて、江戸湾警備を増強すべく[[8月26日]](嘉永6年7月23日)に[[江川英龍|江川太郎左衛門]]等に砲撃用の[[お台場|台場]]造営を命じた。江川は、[[富津]]-[[観音崎]]、[[本牧]]-[[木更津]]、[[羽田]]沖、品川沖の4線の防御ラインを提案していたが、予算・工期の関係からまず品川沖に11箇所の台場が造営されることとなった&lt;ref&gt;淺川2009、p55-p61。品川沖は遠浅であるため大口径砲を搭載した大型艦は接近できず、小型艦に対抗できれば十分と考えられた。また、正面だけでなく、突破された場合のことも考慮して背面にも砲台が設けられた。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[12月14日]](嘉永6年11月14日)には建造途中の1~3番台場の守備に川越藩、会津藩、忍藩が任ぜられた&lt;ref&gt;淺川2009、p64&lt;/ref&gt;。また、[[大船建造の禁]]も解除され、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「[[鳳凰丸]]」を10月21日(嘉永6年9月19日)に[[浦賀船渠|浦賀造船所]]で起工した。オランダへの艦船発注も、ペリーが去ってからわずか一週間後の[[7月24日]](嘉永6年6月19日)には決まっている&lt;ref&gt;翌嘉永7年9月21日(1854年11月11日)、実際に 蒸気軍艦2隻([[咸臨丸]]及び[[朝陽丸]])が発注されている&lt;/ref&gt;。12月7日(嘉永6年11月7日)には、2年前にアメリカから帰国し[[土佐藩]]の藩校の教授となっていた[[ジョン万次郎]]を旗本格として登用し、アメリカの事情等を述べさせた。<br /> <br /> == 嘉永7年(1854年)の来航 ==<br /> [[ファイル:Kurofune_3.jpg|thumb|200px|[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]]]]<br /> 1854年[[2月13日]](嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここにペリーの外交手腕を見て取ることもできる。<br /> <br /> [[2月11日]](嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、[[2月13日]](嘉永7年1月16日)までに旗艦「[[サスケハナ (巡洋艦)|サスケハナ]]」、「ミシシッピ」、「[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポーハタン]]」(以上、[[蒸気船|蒸気]][[外輪船|外輪]][[フリゲート]])、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」(以上、帆走[[スループ]])、「レキシントン」(帆走補給艦)の6隻が到着した。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移った。[[3月4日]](嘉永7年2月6日)に「サラトガ」(帆走スループ)、[[3月19日]](嘉永7年2月21日)に「サプライ」(帆走補給艦)が到着して計9隻の当時としては大規模な艦隊が江戸湾に集結し、江戸は大きな動揺を受けた。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。<br /> <br /> 突然の大艦隊の来航に幕府は驚いたものの、前回の来航の時同様に日本側もアメリカ側も敵対的な行動を取ることはなく、アメリカ側は船上で日本側の使いに対しフランス料理を振舞って歓迎した。日本人は[[鯛]]を喜ぶ、という情報を仕入れていたアメリカ側は鯛を釣って料理する、などの日本側を意識した部分が料理にあった。一方、日本側の招待された面々は、[[十手]]と[[孫の手]]を[[ナイフ]]と[[フォーク (食器)|フォーク]]に見立てて作法の練習をしたという。アメリカ側の記述によると、最後に本来ならメニューを持ち帰るべきところを料理その物を[[懐紙]]に包んでもって帰り、しかも、様々な料理を一緒くたに包んでいたことに驚いたという。ただしこの振る舞いは[[本膳料理]]には『硯蓋』という揚げ菓子があり、それを持って帰るのが作法であることに由来したものであった。<br /> <br /> その応饗として、横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を出した。料理は江戸浮世小路百川が2000両で請負い、300人分の膳を作った&lt;ref&gt;『[[大日本古文書]]』の幕末関係資料に「右御料理百川に被仰付之」とあり、安政元年頃のかわら版『武州横浜於応接所饗応之図』にも百川とあるが、「大日本古文書」には賀宮ノ下岩井屋富五郎が請け負ったとする資料も含まれている&lt;/ref&gt;。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、一人50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで100を超える料理が出された。しかし、「肉料理が出ないのは未開だから」、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品あたりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、ペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。ただし、「日本は出来る限りのことをやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。<br /> <br /> 約1か月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。[[3月31日]](嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の将官や船員とともに[[武蔵国]][[神奈川宿|神奈川]]近くの横浜村(現[[神奈川県]][[横浜市]])に上陸し日本側から歓待を受け、その後[[林復斎]]を中心に交渉が開始され全12箇条に及ぶ&#039;&#039;&#039;[[日米和親条約]]&#039;&#039;&#039;(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍[[徳川家光]]以来200年以上続いてきた、いわゆる[[鎖国]]が解かれた(直後の[[4月25日]]に[[吉田松陰]]が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触している)。その後、5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のため[[函館港|箱館港]]に入港、[[松前藩]]家老格・[[松前勘解由]]に箱館港に関する取り決めを求めるが、権限がないとして拒絶される&lt;ref&gt;{{Cite web |url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-01-02-01.htm |title=『函館市史』通説編第1巻 |publisher=[[函館市]] |accessdate=2014-08-06 }}&lt;/ref&gt;。箱館から戻った後、[[伊豆国]]下田(現[[静岡県]][[下田市]])の了仙寺へ交渉の場を移し、[[6月17日]](嘉永7年5月22日)に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる&#039;&#039;&#039;下田条約&#039;&#039;&#039;を締結した。<br /> <br /> ペリー艦隊は[[6月25日]](嘉永7年6月1日)に下田を去り、帰路に立ち寄った[[琉球王国]]とも正式に通商条約を締結させた。ペリーはアメリカへ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』(現在でもこの事件の一級資料となっている)をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の[[1858年]]に63歳で死去した。その後、アメリカは熾烈な[[南北戦争]]に突入し、日本や清に対する影響力を失い、結局[[イギリス]]や[[フランス]]、[[ロシア]]が日本と関係を強めた上に、清に対する影響力を拡大してしまった。<br /> <br /> [[昭和]]20年([[1945年]])9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、この時のペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていたアメリカ国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われた。1854年7月に琉球からペリー艦隊に送られた梵鐘は[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アナポリス海軍兵学校]]に飾られ、同学校[[フットボール]]優勝祝賀会で鳴らされていたが、1987年、沖縄に返還されている&lt;ref name=&quot;mlit_a&quot;&gt;{{cite web |url=http://www.mlit.go.jp/common/000146872.pdf |title=沖縄県立博物館・美術館 通訳案内士研修資料 |format=PDF |publisher=[[国土交通省]] |accessdate=2014-06-07 |page=149 |quote=その後、1987年に沖縄へ戻りました}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[#次席将校]]p.66&lt;/ref&gt;。この鐘は正式名称を「旧大安禅寺鐘」、通称「護国寺の鐘」といい、1456年製造という&lt;ref name=&quot;mlit_a&quot; /&gt;。<br /> <br /> 嘉永7年来航の艦艇の概要は以下の通り。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! 艦名 !! 艦種 !! 建造年 !! トン数 !! 乗組員 !! 機関出力 !! 備砲<br /> |-<br /> | [[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポーハタン]]&lt;br&gt;Pawhatan || 蒸気外輪フリゲート || 1852年 || 積載量2415トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]])&lt;br&gt;排水量3765英トン || 289 || 420NHP&lt;br&gt;795IHP || 11インチ[[ダールグレン砲]]x1&lt;br&gt;9インチダールグレン砲x10&lt;br&gt;12ポンド砲x5<br /> |-<br /> | [[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]&lt;br&gt;Susquehanna || 蒸気外輪フリゲート || 1850年 || 積載量2450トン(bmトン)&lt;br&gt;排水量3824英トン || 300 || 420NHP&lt;br&gt;795IHP || 150ポンド[[パロット砲]]x2&lt;br&gt;9インチ[[ダルグレン砲]]x12&lt;br&gt;12ポンド砲x1<br /> |-<br /> | [[ミシシッピ (蒸気フリゲート)|ミシシッピ]]&lt;br&gt;Mississippi || 蒸気外輪フリゲート || 1841年 || 積載量1692トン(bmトン)&lt;br&gt;排水量3220英トン || 260 || 434NHP&lt;br&gt;650IHP || 10インチ[[ペクサン砲]]x8&lt;br&gt;8インチペクサン砲x2<br /> |-<br /> | [[サラトガ (スループ)|サラトガ]]&lt;br&gt;Saratoga || 帆走スループ || 1843年 || 積載量882トン(bmトン) || 260 || 無 || 8インチ砲x4&lt;br&gt;32ポンド砲x18<br /> |-<br /> | マセドニアン&lt;br&gt;[[:en:USS Macedonian (1836)|Macedonian]] || 帆走スループ || 1852年改造 || 積載量1341トン(bmトン) || 489(改造前) || 無 || 8インチ砲x6&lt;br&gt;32ポンド砲x16<br /> |-<br /> | バンダリア&lt;br&gt;[[:en:USS Vandalia (1828)|Vandalia]] || 帆走スループ || 1848年改造 || 積載量770トン(bmトン) || 150 || 無 || 8インチ砲x4&lt;br&gt;32ポンド砲x16<br /> |-<br /> | サウサンプトン&lt;br&gt;[[:en:USS Southampton (1841)|Southampton]] || 帆走補給艦 || 1845年 || 積載量567トン(bmトン) || 不明 || 無 || 42ポンド砲x2<br /> |-<br /> | レキシントン&lt;br&gt;[[:en:USS Lexington (1825)|Lexington]] || 帆走補給艦 || 1843年改造 || 積載量691トン(bmトン) || 190(改造前) || 無 || 32ポンド砲x6<br /> |-<br /> | サプライ&lt;br&gt;[[:en:USS Supply (1846)|Supply]] || 帆走補給艦 || 1846年購入 || 積載量547トン(bmトン) || 60 || 無 || 24ポンド砲x4<br /> |}<br /> <br /> ==事例==<br /> [[File:招魂社岩倉.jpg|thumb|岩倉具視「招魂社を建設する事」&lt;ref&gt;1906年の『岩倉公実記』。国立国会図書館 {{NDLJP|781064/251}}&lt;/ref&gt;。]]<br /> === ミシンの伝来 ===<br /> 1830年代から50年代にかけ、アメリカでは衣服製造用の[[ミシン]]が発達していたが、1854年(嘉永7年)の2度目の来航のときには、ペリーから[[徳川将軍家]]にはミシンが送られたとされている。<br /> <br /> === 招魂社(靖国神社)の設立 ===<br /> [[岩倉具視]]の著述記録のうち「招魂社を建設する事」によれば、1869年に[[招魂社競馬|招魂社]]([[靖国神社]]の前身)が設立されたのは、黒船来航以来の殉国者と[[鳥羽・伏見の戦い|伏見戦争]]([[戊辰戦争]])の殉国者を併せて慰霊するためである。<br /> <br /> 同文書は「五月十日癸丑以来殉国者の 霊魂を慰し [[東山]]に祠宇を建て 之を合祀せしむ」としており、五月十日癸丑は一度目の来航のあった1853年の6月16日に当たる。この慰霊に伴い[[東京府]][[麹町区]][[九段]]には招魂社が設置され、その境内に日本で初めての西洋式の[[競馬場]]が作られた&lt;ref&gt;Nikkei Style『[https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37293640V11C11A2000000/ 靖国神社は昔、競馬場!]』、2011年12月16日。[http://archive.is/nT6Es アーカイブ]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 疑問視される事例 ==<br /> 特定の資料によってのみ伝えられるため、日本史の専門家から疑問視されている。<br /> <br /> === 白旗伝説 ===<br /> ペリーは最初の浦賀来航の際に幕府に旗を2本贈っているが、旗の種類及び贈った目的は不明。この件に関して高麗環文書では、「開国か降伏か」を迫る文書を同時に渡したとされる。「2本の旗のうちひとつは白旗であり、降伏の際に用いる旗である」と説明されていたという。ただし同文書に記載された内容は当時の状況と矛盾する点が多く、日本史の専門家からは一部の人を除き[[偽書]]と判断されている。なお、[[香山栄左衛門]]と応接した際にサスケハナの[[フランクリン・ブキャナン]]艦長は「白旗」について言及しているが、「降伏勧告」については記録にはない。<br /> <br /> === 砲撃戦 ===<br /> ペリーの『日本遠征記』によると、2度の来航で100発以上の空砲を祝砲、礼砲、号砲の名目で撃っており、日本側史料には、事前に日本側にこれらが行われることが伝えられ、さらに市民にもお触れが出ていたにもかかわらず、これが大混乱を巻き起こしたことが記録されているが、いずれも空砲であり被害は無い。ところが、来航した「ポーハタン」以下7隻の内、蒸気船2隻と帆船3隻が[[安房国]]([[千葉県]])洲崎を砲撃した、と{{要出典|日本側の古文書にある|date=2015年4月}}。<br /> <br /> 事件は[[1854年]][[2月20日]](嘉永7年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]])丑の下刻、洲崎を警護する[[備前国|備前]]岡山藩陣地への砲撃であった。艦船の砲弾は陣地の手前10メートルほどの海中に落下した。備前藩は非常召集を行って大砲5門を以って砲撃、蒸気船2隻は逃走したが、帆船3隻に命中した。備前の守備隊は舟艇で帆船への乗船を試み、反撃を受けて300名ほどが死傷したが、3隻を「御取り上げ」(拿捕)した。しかし、この事件は[[2月27日]](旧暦[[2月1日 (旧暦)|2月1日]])の記録を最後に途絶えている。<br /> <br /> この日の事件を受けて[[土佐藩]]では、[[1854年]][[2月21日]](嘉永7年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]])、[[土佐]][[武士|藩士]]の[[明神善秀]]が[[山内容堂]]より、[[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[郡代|奉行]]を仰せ付けられ、[[異国船打払令]]に基づき、&#039;&#039;&#039;異国船打払い御用&#039;&#039;&#039;を仰せ付けられている&lt;ref&gt;『御侍中先祖書系圖牒』「[[明神善秀]]」項による。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> &lt;references group=&quot;†&quot; /&gt;<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *&lt;span id=&quot;岩倉公実記&quot;&gt;多田好問『[[s:岩倉公実記|岩倉公実記]]』、1906年 - ウィキソース&lt;/span&gt;<br /> * William Alexander Graham (Author), &quot;The Papers of William Alexander Graham. Volume IV, 1851-1856.&quot; Raleigh: State Department of Archives and History, 1961. ASIN: B000LLC9GQ<br /> * K. Jack Bauer, &quot;A Maritime History of the United States: The Role of America&#039;s Seas and Waterways&quot;, University of South Carolina Press (July 1, 1989), ISBN 978-0872496712<br /> *松永市郎 『次席将校 『先任将校』アメリカを行く』、光人社、1991年 ISBN 4-7698-0556-X<br /> *元綱数道 『幕末の蒸気船物語』、成山堂書店、2004年 ISBN 978-4425302512 <br /> *フォス美弥子編訳『幕末出島未公開文書 ドンケル・クルチウス覚え書』、新人物往来社、1992年、ISBN 440401905X<br /> *[[松方冬子]]『オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」』、中央公論新社〈中公新書〉、2010年 <br /> * 東京都江戸東京博物館『日米交流のあけぼの‐黒船きたる‐』1999年発行<br /> * 岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』、洋泉社(2006年)。ISBN 978-4862480286<br /> * [[加藤祐三]]『幕末外交と開国』、ちくま新書(2004年)。ISBN 978-4480061539 <br /> * [[石井孝]]『日本開国史』、吉川弘文館(2010年)。ISBN 978-4642063616。初版は1972年<br /> * 淺川道夫『お台場 品川台場の設計・構造・機能』、錦正社(2009年)。ISBN 978-4764603288<br /> * 淺川道夫『江戸湾海防史』、錦正社(2010年)。ISBN 978-4764603325<br /> * [[福地源一郎]]『幕府衰亡論』、平凡社(1967年)。ISBN 978-4582800845<br /> * [http://hakodate-russia.com/ 函館日ロ交流史研究会]『会報 No.9 1998.8.11』[http://hakodate-russia.com/main/letter/09-01.html 津軽海峡を封鎖した異国船]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[黒船]]<br /> * [[日米関係史]]<br /> * [[アヘン戦争]]<br /> * [[アロー戦争]]<br /> * [[グレート・ホワイト・フリート]]<br /> * [[琉米修好条約]]<br /> * [[ペリー上陸記念碑]]<br /> * [[黒船祭]]<br /> * [[林復斎]] 黒船来航時の日本側の交渉責任者<br /> * [[存在の概念がない世界]] 黒船来航時にその姿を認識できなかった事象<br /> *[[幕末の砲艦外交]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Perry Expedition}}<br /> *[https://www.kufs.ac.jp/toshokan/perry/perry_frame1.htm 黒船来航と日本]京都外大付属図書館、2003<br /> * [http://ci.nii.ac.jp/naid/110006474823 松方冬子 アヘン戦争・オランダ・風説書(第二会場(近世),日本史部会,第一〇四回史学会大会報告) 史學雜誌 116(1), 110, 2007-01-20]<br /> * [http://ci.nii.ac.jp/naid/110002366427 松方冬子 オランダ国王ウィレム二世の親書再考 : 一八四四年における「開国勧告」の真意 A Re-Examination of King Willem II&#039;s Letter : The Real Purpose in &quot;Advising Japan to Open Up&quot; in 1844 史學雜誌 114(9), 2005-09-20]<br /> * [http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komonzyotop.html 古文書を楽しむ(別段風説書など)]<br /> * [http://www.japanusencounters.net/ 日米交流史サイト]<br /> * [http://ci.nii.ac.jp/naid/110000468881 幕末開国前後の日米関係 &lt;Articles&gt;Japan Meets the United States : The Opening of Japan and the Final Years of the &quot;Bakufu&quot; 江戸川女子短期大学紀要 14, 129-141, 1999-03-31]<br /> * [http://ci.nii.ac.jp/naid/110007472119 岩井大慧 日本開國史上の一新史料 史学 17(1), 1-48, 1938-08 慶應義塾大学]<br /> * {{PDFlink|[http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/slib/kiyo/Int/it2001/it200109.pdf 瀧澤道夫 黒船は何を目指したか?~太平洋航路の先駆けを考える What was intended by the black ship?~ The pioneer for steamship in the Pacific Ocean 文教大学国際学部紀要 第20巻 1号2009年7月]}}<br /> * [http://ci.nii.ac.jp/naid/110002238451 都築博子 日本開国への「海の道」:米国太平洋捕鯨の視点から Voyages to the Pacific Region : The Opening of Japan by the Expansion of the American Foreign Relations with Whaling 太平洋学会誌 (95), 19-26, 2005]<br /> * [http://hdl.handle.net/10110/1567 神徳昭甫 日本開国-異文化交錯の劇空間 The Opening of Japan to the Western World-A Cross-Cultural Study of the Surprise Visits of Kurofune, an American Squadron 010b40 富山大学人文学部紀要40]<br /> * {{PDFlink|[http://libw01.kokushikan.ac.jp/data/1002025/0000/registfile/1884_6963_001_11.pdf 永橋弘价 開国に至る外交経緯について-阿部正弘の対外姿勢を中心に 政治研究 創刊号 212-231]}}<br /> * [http://hdl.handle.net/2261/32521 富澤達三 黒船かわら版とそれ以前 The Kurofune Kawaraban and Before 東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター アメリカ太平洋研究. 5, 2005.3,pp. 31-40]<br /> * {{PDFlink|[http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/6620/1/10%20143-152coe.pdf 富澤達三 「黒船かわら版」の情報 神奈川大学 ]}}<br /> * [http://kurihama.info/event/perry/ 久里浜ペリー祭(久里浜観光協会)]<br /> <br /> {{デフォルトソート:くろふねらいこう}}<br /> [[Category:幕末の事件]]<br /> [[Category:1853年の日本]]<br /> [[Category:幕末の日米関係]]<br /> [[Category:東京湾の歴史]]<br /> [[Category:訪日外国艦隊]]<br /> [[Category:浦賀]]<br /> [[Category:横須賀市の歴史]]<br /> [[Category:1853年のアメリカ合衆国]]</div> 2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054 ソ・ミンジョン 2018-07-20T03:50:27Z <p>2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054: 39.7.57.180 (会話) による ID:69288352 の版を取り消し。無言除去。</p> <hr /> <div>{{BLP unsourced|date=2013年3月25日 (月) 07:51 (UTC)}}<br /> {{韓国の人物|<br /> |title=ソ・ミンジョン<br /> |hangeul=서민정<br /> |hanja=徐 敏貞<br /> |katakana=ソ・ミンジョン<br /> |latin=Seo Min-Jeong <br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ソ・ミンジョン&#039;&#039;&#039; ([[1979年]][[7月11日]] - ) は、[[大韓民国]]出身の[[俳優|女優]]。2000年ケーブル放送NTV音楽天下VJでデビューした。[[2007年]][[8月25日]]1歳年上の[[在米韓国人]][[歯科医]]と結婚し、[[2007年]][[11月9日]]より演技活動を休止した。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> * 趣味は映画、ミュージックビデオ鑑賞、特技は英語。身長164cm 体重48kg。<br /> * 現在は夫と[[アメリカ]][[ニューヨーク]]で暮らしている。<br /> * [[2008年]][[7月28日]]、第一子となる女児が誕生。<br /> * あだ名は女性殺人微笑、微笑天使、カムチギ(びっくり)、新婦。<br /> <br /> == 演技活動 ==<br /> === テレビドラマ ===<br /> * [[文化放送 (韓国)|MBC]] 《[[思いっきりハイキック!]]》([[2006年]] [[11月6日]] - [[2007年]] [[7月13日]])...ソ・ミンジョン 役<br /> * [[SBS (韓国)|SBS]] 特別企画 《[[愛と野望]]》(2006年 [[2月4日]] - 2006年 [[11月12日]])...チャン・セミ 役<br /> * SBS 週末劇場 《[[その夏の台風]]》([[2005年]] [[5月28日]] - 2005年 [[9月24日]])...ユラン 役<br /> * SBS 日々シチュエーションコメディ 《[[まじめに生きろ]]》([[2002年]] [[11月5日]] - [[2003年]] [[10月31日]])...ノ・ミンジョン 役 <br /> <br /> === 映画 ===<br /> * 《[[アバンチュールはパリで]]》(2007)...ヒョンジュ 役<br /> * 《[[ナヌとシルラの大冒険]]》(2007)...ナヌの 声 役<br /> * 《[[ジェニ、ジュノ]]》(2005)...ジェニの姉 役<br /> <br /> === 芸能 ===<br /> * [[文化放送 (韓国)|MBC]] 《[[ユ・ジェソク、キム・ウォニの遊びにきて]]》(2007)<br /> * MBC 《[[日曜日、日曜日の夜に]]》<br /> * MBC 《[[セクションTV演芸通信]]》リポーター<br /> * MBC 《[[かたつむり! 動物天下]]》<br /> * [[SBS (韓国)|SBS]] 《[[好奇心天国]]》リポーター<br /> * [[韓国放送公社|KBS]] 《[[チュチュクラブ]]》<br /> * SBS 《テーマスタジオ-スターデート》進行者<br /> * [[Mnet]] 《ホットライン スクール》VJ<br /> * Mnet 《Atomic Kittenはスペシャル》進行者<br /> <br /> === 広告 ===<br /> * [[TJメディア]][[チルロネッ]]<br /> * [[LGカード]]<br /> * [[ピングレ]][[バナナ牛乳]]<br /> <br /> == 受賞 ==<br /> * Mnet20&#039;s choice ベストキス賞(2007) <br /> * [[SBS演技大賞]] ラジオMC部門 特別賞(2005)<br /> <br /> == 学歴 ==<br /> *[[ソウル特別市|ソウル]] テヒョン国民学校<br /> *[[英国]][[ロンドン]] holy cross conventcoombe girls&#039;<br /> *[[ソヒョン高等学校]]<br /> *[[梨花女子大学校]] 法学科<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.starparkent.co.kr/Profile/seoMinjung.asp 公式ホームページ]<br /> * [http://minihp.cyworld.com/pims/main/pims_main.asp?tid=51936825 ソ・ミンジョン サイワールド ミニホームページ]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:そ みんしよん}}<br /> [[Category:韓国の俳優]]<br /> [[Category:韓国の女優]]<br /> [[Category:1979年生]]<br /> [[Category:存命人物]]</div> 2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054 観応の擾乱 2018-07-20T03:49:40Z <p>2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054: rvv</p> <hr /> <div>{{脚注の不足|date=2018年4月}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;観応の擾乱&#039;&#039;&#039;(かんのうのじょうらん)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[1349年]]から[[1352年]]にかけて続いた抗争で、[[観応]]年間に頂点に達した足利政権([[室町幕府]])の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する[[南朝 (日本)|南朝]]と[[北朝 (日本)|北朝]]、それを支持する[[武家]]や、[[公家]]と武家どうしの確執なども背景とする。<br /> <br /> この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である&#039;&#039;&#039;正平一統&#039;&#039;&#039;についても併せて解説する。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> === 足利直義派と高師直派の対立 ===<br /> 初期の足利政権においては、足利家の[[家宰]]的役割を担い主従制という私的な支配関係を束ねた[[執事]][[高師直]]が軍事指揮権を持つ[[征夷大将軍|将軍]][[足利尊氏]]を補佐する一方で、尊氏の弟[[足利直義]]が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた&lt;ref&gt;尊氏は主従制の基本([[御恩と奉公]])に関わる恩賞宛行(所領の給与)と所領寄進を、直義は所領安堵と所務相論(所領経営に関する訴訟)を担当しており、師直の職務には前者の補佐も含まれていた。だが、前者と後者は密接に関わっていたことから、自己の職権の行使が結果的に相手の職権に影響する場合もあり、その職権の対立が尊氏の補佐をする師直と直義の対立の遠因となった。&lt;/ref&gt;。なお、尊氏には高師直を筆頭に守護家の庶子や京都周辺の新興御家人が、直義には司法官僚・守護家の嫡子・地方の豪族がついており、概ね前者が革新派、後者が保守派と見られる。<br /> <br /> 訴訟を担う直義は、[[荘園 (日本)|荘園]]や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱うことが多かった。直義は[[鎌倉時代]]の[[執権政治]]を理想とし、[[引付衆]]など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向し、裁定機能の一部を朝廷に残したため、有力御家人とともに公家・寺社の既存の権益を保護する性格を帯びることになった。これに対し、幕府に与した武士の多くは天皇家や公家の権威を軽んじ、自らの武力によって利権を獲ようとする性向があり、師直はこのような武士団を統率して南朝方との戦いを遂行していた。それぞれの立場の違いから、必然的に両者は対立するようになっていく&lt;ref&gt;師直は戦闘の功績として、配下武将に恩賞として土地を暫定的に分け与えていた。一方、その土地が他人の領土だった場合、持ち主は幕府に訴え出るが返却が実現されない場合が多かった。多くの武士を参加させるための土地預け置きと法による公平な統治は矛盾を生み、両者の対立に繋がった。峰岸、P48 - P56&lt;/ref&gt;。また、師直は将軍尊氏の執事として将軍の権威強化に努めたが、それは師直自身の発言力の強化にもつながるものであった&lt;ref&gt;師直は建武政権の際に雑訴決断所にいた経験を踏まえて、将軍の命令とともに執事の施行状などの各種奉書を発給してその実現を図った。亀田俊和は、[[仁政方]]をそのための機関と位置づけるとともに、鎌倉幕府の評定衆・引付衆による訴訟制度の再建・継続を目指す直義と将軍―執事―守護という指揮命令系統を訴訟制度にも導入して迅速かつ実効性のある訴訟制度の確立を目指す師直という路線対立も含んでいたとする。亀田、P120 - P121・P253 - P267&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この対立は師直と直義のような次元では政治思想的な対立という面もあったが、守護以下の諸武士にあっては対立する武士が師直方につけば自分は直義方につくといった具合で、つまるところ戦乱によって発生した領地や権益を巡る争いで師直、直義、尊氏、[[足利直冬|直冬]]、そして南朝といった旗頭になる存在を求めただけという傾向が概して強く、[[今川範国]]や[[細川顕氏]]の例に見られるように、自己の都合でもって短期間の内に所属する党派を転々とすることもしばしばであった。更に両者の対立の背景には足利尊氏の家督継承の経緯と外戚[[上杉氏]]の問題もあったとされる。元々、尊氏の父[[足利貞氏|貞氏]]は、嫡男であった[[足利高義|高義]]に家督を譲って家宰の[[高師重]](師直の父)に補佐させていたが、高義の死によって改めて異母弟の尊氏が後継者になった。ところが、家宰として尊氏を補佐しようとする高氏と長年庶子扱いされてきた尊氏兄弟を支えてきた上杉氏の間で対立が生じ、尊氏が家宰である高氏を政務の中心として置いた一方、直義は脇に追いやられた上杉氏に同情的であった。特に[[延元]]3年/[[暦応]]元年([[1338年]])に明確な理由がないまま[[上杉重能]]が出仕停止の処分を受け、同じく[[上杉憲顕]]が関東執事(後の[[関東管領]])を[[高師冬]](師直の従兄弟)に交替させられ、重能の代わりに上洛を命じられた事が、上杉氏及び直義の高氏への反感を高めたと考えられている&lt;ref&gt;阪田雄一「高氏・上杉氏の確執をめぐって」(初出:『千葉史学』30号(1997年)/所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 南北朝時代の初期に[[楠木正成]]・[[北畠顕家]]・[[新田義貞]]ら南朝方の武将が相次いで敗死し、[[高師直]]・[[高師泰|師泰]]兄弟らの戦功は目覚ましかったが、[[延元]]4年/[[暦応]]2年([[1339年]])に[[後醍醐天皇]]が没して後の[[畿内]]は比較的平穏な状態となったため師直は活躍の場を失い、直義の法・裁判による政道が推進されるようになる&lt;ref&gt;暦応4年10月3日に下文発給に関する訴訟を師直方の機関である仁政方から直義方の機関である引付方に移行する法令(室町幕府追加法第7条)が出され、師直による下文(施行状・奉書を含む)の発給が事実上禁止されたが、合議制の引付方では諸国の武士や寺社が求める下文の迅速な発給が困難であったために師直が引き続き施行状や奉書を発給することとなり却って混乱した。この追加法が出された2年後である(南朝)興国4年7月3日付北畠親房書状(「陸奥相良文書」所収)には直義と師直が事あるごとに対立していたことが記されており、両者の不和は敵である南朝方においても広く知られていた。亀田、P249・P263 - P265&lt;/ref&gt;。しかし、師直が率いていた武士たちが秩序を軽んじて狼藉する事件が多く発生し、[[興国]]2年/暦応4年([[1341年]])に[[塩冶高貞]]が直義派の[[桃井直常]]・[[山名時氏]]らに討たれ、翌興国3年/[[康永]]元年([[1342年]])に[[土岐頼遠]]が北朝[[光厳天皇|光厳上皇]]に狼藉を働いた罪により直義の裁断で斬首されるなどした。こうした裁定に不満をもつ武士たちは師直を立て、直義はなおも権威と制度の安寧にこだわった。両派の間はますます険悪になりつつあった&lt;ref&gt;高貞と頼遠は師直派と見られ、この時点で派閥対立があったと見られている。森、P88 - P89。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 正平2年/[[貞和]]3年([[1347年]])に入ると、南朝の[[楠木正行]]が京都奪還を目指して蜂起して京はにわかに不穏となった。まず9月に直義派の[[細川顕氏]]・[[畠山国清]]が派遣されてこれを討とうとするも敗北を喫し、11月に山名時氏が増援されたが京都に敗走してしまった。代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌正平3年/貞和4年([[1348年]])[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]の[[四條畷の戦い]]で正行を討ち取り南朝軍を撃破、勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、[[後村上天皇]]ら南朝方は吉野の奥の[[賀名生]]([[奈良県]][[五條市]])へ落ち延びた。この結果、政権内で直義の発言力が低下する一方、師直の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車がかかった。<br /> <br /> 政権成立後のこの頃、将軍尊氏は後醍醐天皇に背いたことを悔やんで仏教にはまり込み&lt;ref&gt;出家を宣言したり、合戦で苦戦した際には切腹すると言い出すなどしたという(『[[梅松論]]』など)。また、帰依していた[[臨済宗]]の禅僧[[夢窓疎石]]の勧めにより、後醍醐天皇を弔うため[[東大寺]]・[[延暦寺]]の反対を押し切り[[大覚寺統]]離宮の亀山殿を改修して康永4年(1345年)に[[天龍寺]]を建てたり、直義とともに全国に66箇所もの[[安国寺利生塔]]を創建するなど仏教に基づく活動が多い。&lt;/ref&gt;、ほぼ隠居状態にあった。<br /> <br /> === 直義の排除 ===<br /> そうした中、[[貞和]]5年(南朝正平4年、1349年)閏6月、直義は側近の[[上杉重能]]や[[畠山直宗]]、禅僧[[妙吉]]らの進言を容れて、師直の悪行の数々を挙げてこれを糾弾、その執事職を免じることを尊氏に迫りこれを成し遂げた&lt;ref&gt;後任は甥で師泰の子・[[高師世|師世]]。&lt;/ref&gt;。すると直義はこれを機に師直の徹底的排除に乗り出す。『[[太平記]]』にはこの時、直義方による師直の暗殺未遂騒動まであったことが記されているが、直義はさらに光厳上皇に師直追討の[[院宣]]の渙発を奏請してまで師直を討とうとしている。<br /> <br /> 同年8月12日、師直は[[河内国|河内]]から軍勢を率いて上洛した師泰と合流して、直義を一気に追い落とす逆クーデターを仕掛け成功する。意表を衝かれた直義は翌13日に尊氏の屋敷に逃げ込み、これで危機を脱するかに見えた。しかし師直方の軍勢は、そこが将軍御所であろうとまったく意に介さずこれを包囲した上で、君側の奸臣として上杉重能と畠山直宗の身柄引き渡しを要求した。直義にとってこの両名を失うことは両腕をもがれるようなものなのでこれを許さなかったが、それならばと師直は包囲網を固めて兵糧攻めの構えを見せる。すったもんだの末に禅僧[[夢窓疎石]]が仲介に奔走し、ここに重能・直宗を配流とすること、そして直義は出家して幕政からは退くことの2条件のもとに師直は包囲を解くことに同意、ここに創業間もない足利幕府の屋台骨を揺るがせた政変もひとまず終息に向かった。<br /> <br /> 直義に替わって幕府の政務統括者となったのは、鎌倉を治めていた尊氏の嫡男・[[足利義詮|義詮]]だった。そしてこの義詮の帰洛と入れ替わりに鎌倉に下向したのは、新たに初代[[鎌倉公方]]として関東の統治を任された義詮の弟・[[足利基氏|基氏]]だった。基氏には実務者として上杉憲顕をつけ、これを関東執事に還任してその輔佐にあたらせた。しかし憲顕は他でもない重能の兄である。師直はこれを警戒して、関東執事の定員を2名に増員した上で高師冬をこれに還任して目付にした。<br /> <br /> この一連の政変を通じてその立場が判然としないのが、師直と直義の間にあって終始揺れ動いた尊氏である。その動静をめぐっては、局外中立を貫いていたとする説、優柔不断で日和見をしていたとする説、そもそも尊氏は直義方を排除するために師直と示し合わせていたとする説など、さまざまな解釈がある。&lt;!--またこの頃までに、尊氏の庶子である[[足利直冬|直冬]]が直義の養子となっているが、足利家では庶子の認知を認めておらず(太平記 巻32)、こうした方針に背く直義への批判と、足利嫡男の義詮の存在を脅かす直冬の排斥の必要があった可能性もある。--&gt;&lt;!-- ← ??? 尊氏が庶子の直冬を認知しなかったのと、直義がそれを養子にとったのとは、そもそも次元の異なる問題ではないかと--&gt;いずれにしてもこの一件は、それまでは曲がりなりにも協調路線を取っていた尊氏と直義がついにその袂を分かつ発端となった。<br /> <br /> 同年11月に義詮が入京。12月8日、直義は出家して恵源と号した。ところが早くもその月の内に上杉重能と畠山直宗が配流先で師直配下の者に暗殺されるという事件が出来する。ここに師直と直義の間の緊張は再び高まった&lt;ref&gt;森、P111 - P115&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 擾乱の勃発 ==<br /> === 足利直冬の台頭、直義派の決起 ===<br /> この年の4月に[[長門探題]]に任命されて[[備後国|備後]]に滞在していた直冬は、事件を知って義父の直義に味方するために[[中国地方]]の兵を集めて上洛しようとしたが、尊氏は師直に討伐令を出したため九州に敗走し(9月)、今度は九州で地盤を固め始めた。尊氏方は出家と上洛を命じるが従わなかったため、再度討伐令を出した。直冬は拡大させた勢力を背景に[[大宰府]]の[[少弐頼尚]]と組み、南朝方とも協調路線をとって対抗した。<br /> <br /> 翌正平5年/貞和6年(1350年)、北朝は「貞和」から「観応」に改元。この頃各地で南朝方の武家が直冬を立てて挙兵する。[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]、西で拡大する直冬の勢力が容易ならざるものと見た尊氏は自ら追討のために出陣、備前まで進んだ。しかし、この直前の[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]に直義は京都を出奔していた。直義は[[大和国|大和]]に入り、[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]に畠山国清に迎えられて河内[[石川城]]に入城、師直・師泰兄弟討伐を呼びかけ国清、桃井直常、[[石塔頼房]]、細川顕氏、[[吉良貞氏]]、山名時氏、[[斯波高経]]らを味方に付けて決起した。これが擾乱の始まりである。関東では12月に関東執事を務めていた上杉憲顕と高師冬の2名が争い、憲顕が師冬を駆逐して執事職を独占する。直義方のこうした動きに直冬討伐どころではなくなり、尊氏は同月に備後から軍を返し、高兄弟も加わる。北朝の光厳上皇による直義追討令が出されると、12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、対抗姿勢を見せた。<br /> <br /> === 高一族の滅亡 ===<br /> 正平6年/観応2年([[1351年]])1月、直義軍は京都に進撃。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。2月、尊氏軍は京都を目指すが、[[播磨国|播磨]][[光明寺合戦]]及び[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]の[[摂津国|摂津]][[打出浜の戦い]]で直義軍に相次いで敗北する。南朝方を含む直義の優勢を前に、尊氏は寵童[[饗庭氏直]]を代理人に立てて直義との和議を図った。この交渉において尊氏は表向きは師直の出家(助命)を条件として挙げていた。しかしながら実際には氏直には直義に&quot;師直の殺害を許可する&quot;旨を伝えるようにという密命を伝えていた。[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]、和議は成立するも、果して[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]、高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の[[上杉能憲]](憲顕の息子、師直に殺害された[[上杉重能]]の養子で、仇討ちという形になる)の軍勢により、摂津武庫川([[兵庫県]][[伊丹市]])で一族と共に謀殺される。長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は[[九州探題]]に任じられた。<br /> <br /> === 直義と尊氏の対立 ===<br /> 高兄弟を失っていったんは平穏が戻ったものの、政権内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていった。高一族滅亡から半年も立たないうちに、尊氏は直義派の一掃を図るため、戦果の恩賞や処罰を自派に有利に進め、またの武将の処罰や自派の武将への恩賞を優先した。謁見に訪れた直義派の細川顕氏を太刀で脅して強引に自派へ取り込むなど直義派の懐柔も図った。一方戦役の武功に準じた報酬や裁定を挙げられない直義の政治は武士たちに受け入れられず、これも直義派から武将が離反する原因となるなど、徐々に形勢は尊氏方に移っていった。南朝へ帰順を示した直義は、北朝との和議を交渉したが不調に終わる。調停を担った南朝方の[[楠木正儀]]は、このときの固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走ったとされている。<br /> <br /> [[3月30日 (旧暦)|3月30日]]直義派の事務方の武将である斎藤利泰が何者かに暗殺され、[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]には直義派の最強硬派である[[桃井直常]]が襲撃され辛くも危機を脱するという事件が発生した。尊氏は、[[近江国|近江]]の[[佐々木道誉]]と播磨の[[赤松則祐]]らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]に尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵することで東西から直義を挟撃する体制を整えた。[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]、事態を悟った直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である[[北陸地方|北陸]]・[[信濃国|信濃]]を経て鎌倉へ逃亡した。この陰謀については道誉が首謀者であるとの説がある。このとき直義は光厳上皇には比叡山に逃れるよう勧めているが、受け入れられなかった。<br /> <br /> == 正平一統 ==<br /> === 成立 ===<br /> 京から直義派を排除したものの、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸ばしていた。尊氏は直義と南朝の分断を図るため、佐々木道誉らの進言を受けて今度は南朝からの直義・直冬追討の[[綸旨]]を要請するため、南朝に和議を提案した。南朝は、北朝が保持している[[三種の神器]](南朝の後醍醐は以前に北朝に接収された際にはそれは贋物であると主張していた)を渡し、政権を返上することなどを条件とした。明らかに北朝に不利な条件であったが、[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]尊氏は条件を容れて南朝に降伏して綸旨を得る。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]北朝の[[崇光天皇]]や[[皇太子]][[直仁親王]]は廃され、[[関白]][[二条良基]]らも更迭される。また、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「&#039;&#039;&#039;正平一統&#039;&#039;&#039;」と呼ぶ(後に[[足利義満]]により再度図られた南北朝統一である「[[明徳の和約]]」を、正平一統に合わせて「元中一統」と呼ぶことがある。)。[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]には神器が南朝方に回収された。結局のところ、これは政権の南朝側への無条件返還となった。<br /> <br /> 尊氏は義詮に具体的な交渉を任せたが、南朝側は、北朝の意向により[[天台座主]]や寺社の要職に就いた者などを更迭して南朝方の人物を据えることや、[[建武の新政]]において公家や寺社に与えるため没収された[[地頭]]職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。<br /> <br /> 一方、尊氏は直義追討のために出陣し、12月の[[薩た峠の戦い (南北朝時代)|薩埵峠の戦い]]、[[相模国|相模]]早川尻([[神奈川県]][[小田原市]])などの戦いで破って翌正平7年(観応3年、[[1352年]])1月、鎌倉に追い込み降伏させる。[[浄妙寺 (鎌倉市)]]境内の延福寺に幽閉された直義は、[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]に急死した。病没とのことだが、この日は高師直の1周忌にあたり、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。<br /> <br /> === 破談 ===<br /> 南朝方は和議を受けて増長した。後醍醐天皇の「[[後の三房]]」の一人で関東統治に失敗して吉野に帰っていた[[北畠親房]]を中心に、京都と鎌倉から北朝と足利勢力の一掃を画策する。<br /> <br /> まず、閏[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]、南朝は尊氏の征夷大将軍を解任し、代わって[[宗良親王]]を任じる。これに直義の死去を受けた[[新田義興]]が[[脇屋義治]]、[[北条時行]]らが宗良親王を奉じて挙兵して鎌倉に進軍した。鎌倉の尊氏は一旦武蔵国まで引いたため、18日に南朝軍が一時的に鎌倉を奪回した。しかし尊氏は武蔵国の各地緒戦で勝利し、3月までに[[新田義宗|義宗]]は越後、宗良親王は信濃に落ち延び、再び鎌倉は尊氏が占めた([[武蔵野合戦]])。<br /> <br /> 一方、閏[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]、[[北畠親房]]の指揮の下で楠木正儀・[[千種顕経]]・[[北畠顕能]]・[[山名時氏]]を始めとする南朝は京都に進軍し七条大宮付近で義詮・[[細川顕氏]]らと戦い、翌日の閏[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]義詮を近江に追い払い京都に入った。閏[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]には北畠親房が准后に任じられて17年ぶりに京都に帰還、続いて北朝の光厳・光明・崇光の3人の上皇と皇太子[[直仁親王]]を拉致、本拠の賀名生へ移された。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ移した。近江へ逃れた義詮は、近江の佐々木道誉・四国の細川顕氏・[[美濃国|美濃]]の土岐頼康・播磨の赤松氏らに、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らの協力も得て布陣を整え、[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]京都へ戻って奪還、さらに21日には後村上天皇の仮御所のある男山八幡を包囲し、物流を遮断して兵糧攻めにした。この包囲戦は二か月にもおよぶ長期戦となり、南朝方は飢えに苦しんだ挙句[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]に[[四条隆資]]が死守して戦死するも、後村上天皇が側近を伴い脱出、男山八幡は陥落した([[八幡の戦い]])。<br /> <br /> 事態を受けて尊氏、義詮は相次いで3月までに観応の元号復活を宣言、ここに正平一統はわずか4か月あまりで瓦解した。<br /> <br /> == 北朝の再擁立 ==<br /> 尊氏が南朝に降った時に南朝が要求した条件に、皇位は南朝に任せるという項目があったため、北朝の皇位の正統性は弱められる結果となった。京都は奪回したものの、[[治天の君]]だった光厳上皇、天皇を退位した直後の崇光上皇、皇太子直仁親王は依然と南朝にあり、さらに後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態に陥った。また武家にとっても尊氏が征夷大将軍を解任されたため、政権自体が法的根拠を失ってしまう状況になった。最終的な政治裁可を下しうる治天・天皇の不在がこのまま続けば、京都の諸勢力(公家・武家・守護)らの政治執行がすべて遅滞することになる。幕府と北朝は深刻な政治的危機に直面することになったのである。<br /> <br /> 事態を憂慮した道誉、元関白の二条良基らは[[勧修寺経顕]]や尊氏と相計って、光厳・光明の生母[[西園寺寧子|広義門院]]に治天の君となることを要請し、困難な折衝の上ようやく受諾を取り付けた。広義門院が伝国詔宣を行うこととなり、崇光上皇の弟・弥仁が[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]践祚、[[9月25日 (旧暦)|9月25日]][[後光厳天皇]]として即位した。9月27日、北朝は正平統一はなされなかったとして従来の[[観応]]からの改元を行い、[[文和]]元年とした。<br /> <br /> 良基は神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣([[天叢雲剣|草薙剣]])となり、良基が璽([[八尺瓊勾玉]])となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている(『続本朝通鑑』)が、当時、過去に[[後白河天皇|後白河法皇]]が[[後鳥羽天皇]]を即位させた例にあるように、即位に当たって神器の存在は必ずしも要件とはなっておらず、治天による伝国詔宣により即位が可能であるとする観念が存在していた。南朝方が治天を含む皇族を拉致したのはそのためだが、北朝方はその盲点を衝くかたちで[[女院]]を治天にするという苦肉の策でこの危機を乗り切ったのである。<br /> <br /> だが、この一連の流れは正平一統と相まって、後に北朝でなく南朝に皇統の正統性を認める原因の1つとなり、幕府と北朝の権威は大幅に低下した。<br /> <br /> === 時氏離反と道誉の伸長 ===<br /> 南朝との戦において一時は旧直義派との協力関係を構築できたかに見えた尊氏・義詮派だったが、正平8年/[[文和]]2年([[1353年]])には道誉と山名時氏・[[山名師義|師義]]父子が所領問題で対立し、時氏が再び将軍側から離反するという事態を招く。時氏は[[出雲国|出雲]]に侵攻し道誉の部将[[吉田厳覚]]を打ち破り出雲を制圧、そのまま南朝の楠木正儀と連合し6月、京都に突入する。<br /> <br /> 義詮は正平一統破談の後に天皇を奪われ足利政権崩壊の危機を招いた経験から、まず天皇の避難を最優先に行なった。天皇を山門に避難させると、自らは京都に残り京都の防衛を試みたが結局打ち破られ天皇共々東へ落ち延びることになった。この中で道誉の息子[[佐々木秀綱]]が戦死、義詮は美濃にまで落ち延びる。義詮は独力での京都奪還を諦め尊氏に救援を求める。尊氏が鎌倉から上京すると時氏らは京都を放棄し撤退、足利方は京都を回復した。<br /> <br /> 元来道誉は佐々木家庶流として武家方の事務官僚として恩賞の沙汰などを取り扱っていた。しかしながら天皇不在という緊急事態の解決や、南朝との戦において功績を示した。よってこの頃から義詮第一の側近としてその存在感は著しく大きなものとなった。彼は事実上の武家方の最高権力者となり政権の舵取りをするようになる。しかしながら彼にはトラブルメーカー的な側面も大きかった。これ以後道誉と対立した武将が武家方から離反もしくは放逐され南朝方に帰順するという政変・戦が繰り返されることになる。<br /> <br /> === 直冬蜂起 ===<br /> 近畿、関東において上記のような争いが続く間、九州では直冬が猛勢を誇っていた。もともと九州では尊氏が[[北畠顕家]]に敗れて落ち延び、その後上京した際に[[一色範氏]](道猷)を[[九州探題]]として残していたが、道猷が在地の守護層と厳しく対立していた上、後醍醐天皇が自身の息子[[懐良親王]]を[[征西大将軍]]として派遣し、懐良親王は[[菊池武光]]を指揮下に入れ勢力を伸長させていた。このような複雑な情勢の中で、国人層は恩賞を求め右往左往していた。<br /> <br /> 直冬は九州へ到来するやいなや文章を多数発給し新たな主のもと勢力の伸長を目指す国人層から一定の支持を得た。尊氏は師直らと図り一色派の守護に直冬討伐令を出す。直冬は尊氏と対立する身でありながら、尊氏の実子という自らの立場を利用し勢力を伸ばしていた。一方で尊氏からは直冬討伐の令が発令されるという事態に対して直冬は「これは師直の陰謀である」と宣伝するという対応を取った。直冬は尊氏の本心が奈辺にあるのか一番よく分かっていたであろうが、直冬には尊氏の実子という立場以外この時頼るものはなかった。尊氏の直冬への憎悪自体常軌を逸した一種の[[パラノイア]]のようなものであり、遠く離れた九州の武士達には理解が及ばず、「尊氏の実子直冬が、逆賊師直を討伐すべく九州で兵を集めている」という直冬が提示した分かりやすい大義名分は次第に支持を集めていった。<br /> <br /> 直冬の勢力伸長に対して、在地の守護の筆頭であった[[少弐頼尚]]は道猷を打ち破る為の旗頭として直冬に注目する。こうして正平5年/貞和6年([[1350年]])に直冬と頼尚は連合し、道猷を打ち破り博多を奪う。しかしながら正平7年/観応3年([[1352年]])に直義が死亡すると直冬の勢力は一気に崩壊、諸武士の離反が相次ぐ中で頼尚だけは最後まで直冬を支え続けたが結局直冬は九州から逃亡する。<br /> この際、直冬は九州を統治することではなくあくまで上京し尊氏・義詮を殺害することを目的としていたから、中国地方へ対する政治工作を活発に行なっており、直冬派が九州で崩壊した後も直冬は中国地方、特に[[長門国|長門]]と[[石見国|石見]]では勢力を保っていた。<br /> <br /> 正平9年/文和3年([[1354年]])5月には、桃井直常、山名時氏、[[大内弘世]]ら旧直義派の武将を糾合すると直冬は石見から上京を開始する。正平10年/文和4年([[1355年]])1月には南朝と結んで京都を奪還する。しかし[[神南の戦い]]で主力の一角山名勢が道誉、則祐を指揮下に入れる義詮に徹底的に打ち破られ崩壊する。直冬は東寺に拠って戦闘を継続したが、義詮は奮戦し徐々に追い詰められてゆく。そして最後には尊氏が自ら率いる軍が東寺に突撃し直冬は撃破され敗走した。尊氏は東寺の本陣に突入したあと自ら首実検をして直冬を討ち取れたか確認しており、尊氏の直冬への憎悪の程が推察される。<br /> <br /> 直冬勢は結局このまま完全に崩壊し、直冬は西国で以後20年以上逼塞することになり、消息は明確でない。なお、大内弘世と山名時氏は正平18年/貞治2年([[1363年]])には幕府に帰順している。<br /> <br /> なお尊氏はこの一連の戦闘の間に受けた矢傷が原因となり4年後の正平13年/[[延文]]3年([[1358年]])に戦病死している。<br /> <br /> == 影響 ==<br /> ; 室町将軍の権力確立<br /> : この乱により、師直と直義に分割されていた武家方の権力は、将軍尊氏と嫡子義詮のもとに一本化され、将軍の親裁権は強化された。また、直義の目指した鎌倉幕府の継承路線は形骸化され、師直が推進した将軍の命令とその実施を命じた執事の施行状・奉書の発給によって上意下達が行われていく室町幕府の指揮系統が確立されることになる。その後、将軍を継いだ義詮によって執事の廃止と更なる将軍の親裁権の強化が図られたが、その早世によって挫折する。そして、幼少の3代将軍[[足利義満|義満]]を補佐するために、執事が引付頭人の職権を吸収した新たな役職「[[管領]]」が成立することになる&lt;ref&gt;亀田、P216 - P217・P267 - P269&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ; 南朝の延命<br /> : 室町将軍の権威強化の一方で師直によって吉野を落とされ滅亡寸前にまで追い込まれた南朝は、直義・尊氏が交互に降りたことで息を吹き返し、その結果南北朝の動乱が長引いた。<br /> <br /> ; 北朝内の皇統対立<br /> : 後光厳、[[後円融天皇|後円融]]、[[後小松天皇|後小松]]、[[称光天皇|称光]]と4代にわたって後光厳系が皇位についた一方、兄筋の崇光上皇の子孫は嫡流から排されて[[世襲親王家]]である[[伏見宮]]家として存続し、北朝内部でも[[皇位継承]]をめぐる両系統間の確執があったとされている。結局、後光厳の系統は称光の代で途絶え、後南朝を牽制するために伏見宮家から皇統を迎えて[[後花園天皇]](崇光の曾孫)とし、以降皇位は伏見宮家から擁立することとなった。<br /> <br /> ; 武将間の対立<br /> : 一度直義に与した武将達と、一貫して尊氏に従った武将達との間で派閥が現れ、守護大名を勢力の中心として2つの派閥が拮抗する情勢が生まれた。義詮の晩年の頃には、この対立が顕著になっていた。&lt;ref&gt;佐藤進一「足利義満」(平凡社ライブラリー・2008年)&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *[[森茂暁]]『戦争の日本史8 南北朝の動乱』[[吉川弘文館]]、2007年。<br /> *[[峰岸純夫]]『足利尊氏と直義』吉川弘文館、2009年。<br /> *[[瀬野精一郎]]『足利直冬』吉川弘文館、2005年。<br /> *[[佐藤進一]]『足利義満』平凡社ライブラリー、2008年。<br /> *[[亀田俊和]]『室町幕府管領施行システムの研究』思文閣出版、2013年。<br /> *亀田俊和『観応の擾乱』中公新書、2017年。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[薩タ山体制|薩埵山体制]]<br /> *[[光明寺 (加東市)|光明寺]]<br /> *[[光明寺合戦]]<br /> *[[日本史の出来事一覧]]<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> *[http://www.town.takino.hyogo.jp/town/profile/toukei/syokai/komyoji-gassen.html 光明寺合戦(旧滝野町のサイト)]<br /> {{DEFAULTSORT:かんのうのしようらん}}<br /> [[Category:日本の南北朝時代の事件]]<br /> [[Category:日本の南北朝時代の戦い]]<br /> [[Category:近畿地方の歴史]]<br /> [[Category:関東地方の歴史]]</div> 2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054 チグリス川 2018-07-20T03:46:36Z <p>2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054: </p> <hr /> <div><br /> {{Geobox|川<br /> &lt;!-- *** Image *** --&gt;<br /> | image = Tigris River At Diyarbakir.JPG<br /> | image_caption = 源流から約100キロメートル、チグリス川は[[トルコ]]の[[ディヤルバクル]]市の外側で豊かな農業を可能としている。<br /> &lt;!-- *** Country *** --&gt;<br /> | country = トルコ<br /> | country1 = シリア<br /> | country2 = イラク<br /> &lt;!-- *** Family *** --&gt;<br /> | parent =<br /> | tributary_left = {{仮リンク|バトマン川|en|Batman River}}<br /> | tributary_left1 = {{仮リンク|ガルザン川|en|Garzan River}}<br /> | tributary_left2 = {{仮リンク|ボタン川|en|Botan River}}<br /> | tributary_left3 = {{仮リンク|小ハブール川|en|Khabur (Tigris)}}<br /> | tributary_left4 = {{仮リンク|大ザブ川|en|Great Zab}}<br /> | tributary_left5 = {{仮リンク|小ザブ川|en|Little Zab}}<br /> | tributary_left6 = {{仮リンク|アドハイム川|en|&#039;Adhaim}}<br /> | tributary_left7 = {{仮リンク|ジズレ川|en|Cizre}}<br /> | tributary_left8 = {{仮リンク|ディヤラ川|en|Diyala River}}<br /> | tributary_right = {{仮リンク|サルサール湖|en|Lake Tharthar}}<br /> | city = [[ディヤルバクル]]<br /> | city1 = [[モースル]]<br /> | city2 = [[バグダード]]<br /> | landmark = <br /> &lt;!-- *** River locations *** --&gt;<br /> | source = {{仮リンク|ハザル湖|en|Lake Hazar}}<br /> | source_location =<br /> | source_region =<br /> | source_country =<br /> | source_elevation = 1150<br /> | source_coordinates = {{coord|38|29|0|N|39|25|0|E|display=inline}}<br /> | mouth = [[シャットゥルアラブ川]]<br /> | mouth_location = {{仮リンク|アル・クルナ|en|Al-Qurnah}}<br /> | mouth_region = [[バスラ県]]<br /> | mouth_country = イラク<br /> | mouth_elevation = <br /> | length =1850<br /> | width = <br /> | depth = <br /> | volume =<br /> | watershed = 375000<br /> | discharge = 1014<br /> | discharge_max =2779<br /> | discharge_min =337<br /> | discharge_location = バグダード<br /> &lt;!-- *** Maps *** --&gt;<br /> | map =Tigr-euph.png<br /> | map_size =300<br /> | map_caption = チグリス・ユーフラテス水系の[[流域]]の地図<br /> | map_background = <br /> | map_locator =<br /> | map_locator_x =<br /> | map_locator_y = <br /> &lt;!-- *** Website *** --&gt; <br /> | website =<br /> | commons =<br /> &lt;!-- *** Footnotes *** --&gt;<br /> | footnotes =&lt;ref name=&quot;Isaev&quot;&gt;{{cite journal |last1=Isaev |first1=V.A. |last2=Mikhailova |first2=M.V. |year=2009 |title=The hydrology, evolution, and hydrological regime of the mouth area of the Shatt al-Arab River |journal=Water Resources |volume=36 |issue=4 |pages=380-395 |url= |doi=10.1134/S0097807809040022 }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite book|title=The Euphrates River and the Southeast Anatolia Development Project|last1=Kolars|first1=J.F.|last2=Mitchell|first2=W.A.|year=1991|publisher=Southern Illinois University Press|location=Carbondale|isbn=0-8093-1572-6 |pages=6-8|url= |accessdate= }}&lt;/ref&gt;<br /> }}<br /> [[file:Tigris 2015.jpg|thumb|right|バトマン川]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;チグリス川&#039;&#039;&#039;、または&#039;&#039;&#039;ティグリス川&#039;&#039;&#039;({{IPAc-en|ˈ|t|aɪ|ɡ|r|ɪ|s}})は[[西アジア]]でユーフラテス川とともに[[メソポタミア]]を形作る大河。ユーフラテス川の東側を流れている。この川は南東[[トルコ]]の山岳地帯から南に流れ、[[シリア]]、[[イラク]]を通過して[[ペルシア湾]]に注ぎ込む。<br /> <br /> == 地名 ==<br /> [[File:USSHER(1865) p477 BEDOWEEN CROSSING THE TIGRIS WITH PLUNDER.jpg|thumb|right|略奪品を携えてチグリス川を渡るベドウィン(1860年頃)]]<br /> [[古代ギリシア]]語の&#039;&#039;&#039;ティグリス&#039;&#039;&#039;(ギリシア語として解釈するならば{{lang|grc|Τίγρις}})は[[トラ]](tiger)の意である。)は[[古代ペルシア語]]の&#039;&#039;Tigrā&#039;&#039;から派生した。古代ペルシア語名は[[エラム語]]の&#039;&#039;Tigra&#039;&#039;から来ており、更にエラム語名は[[シュメール語]]の&#039;&#039;&#039;イディグナ&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Idigna&#039;&#039;)から来ている。<br /> <br /> 大元となった[[シュメール語]]の&#039;&#039;Idigna&#039;&#039;または&#039;&#039;Idigina&#039;&#039;は恐らく*&#039;&#039;id(i)gina&#039;&#039;(流水)から来ており&lt;ref&gt;F. Delitzsch, &#039;&#039;Sumerisches Glossar&#039;&#039;, Leipzig (1914), IV, 6, 21.&lt;/ref&gt;、それは隣接するユーフラテス川との対比で「流れの速い川」と解釈することができる。ユーフラテス川のゆっくりとした流れはチグリス川よりも多くの[[シルト]]を堆積させ、より高い河床を作り上げた。このシュメール語形の名前は、[[アッカド語]]ではイディグラト&#039;&#039;Idiqlat&#039;&#039;となり、さらに別の[[セム語|セム系]]言語(例えばヘブライ語:&#039;&#039;Ḥîddeqel&#039;&#039;、シリア語:&#039;&#039;Deqlaṯ&#039;&#039;、アラビア語:&#039;&#039;Dijlah&#039;&#039;)の名前に繋がった。<br /> <br /> チグリス川を指す別の名前として[[中世ペルシア語]]では&#039;&#039;&#039;アルヴァンド・ルード&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Arvand Rud&#039;&#039;、アルヴァンド川)という名前も使用された。これは「流れの速い川」の意味である。現代[[ペルシア語]]ではこの&#039;&#039;Arvand Rud&#039;&#039;({{lang|fa|اروند رود}})はユーフラテス川とチグリス川が合流した川([[アラビア語]]では[[シャットゥルアラブ川]]として知られる)の名前として使用されている。[[クルド語]]では&#039;&#039;Ava Mezin&#039;&#039;という名前でも知られる。これは「偉大な水」という意味である。<br /> <br /> 以下にチグリス川の周辺地域で使用されている、あるいはかつて使用されていた主要な言語での呼称を示す。<br /> [[Image:TigrisRiver.JPG|thumb|right|[[イラク]]、モースル市の外部]]<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! 言語名<br /> ! 原語表記<br /> ! ラテン文字転写<br /> ! カナ転写<br /> |-<br /> |[[アラビア語]]<br /> |دجلة、またはحداقل <br /> |&#039;&#039;Dijlah&#039;&#039;、または&#039;&#039;Ḥudaqil&#039;&#039;<br /> |ディジュラ<br /> |-<br /> |[[トルコ語]]<br /> |Dicle <br /> |&#039;&#039;Dicle&#039;&#039;<br /> |ディジュレ <br /> |-<br /> |[[クルド語]]<br /> |Dîcle、またはDîjla<br /> |&#039;&#039;Dîcle&#039;&#039;/&#039;&#039;Dîjla&#039;&#039;<br /> |<br /> |-<br /> |[[ペルシア語]]<br /> |دجله <br /> |&#039;&#039;Dejle&#039;&#039;<br /> |<br /> |-<br /> |[[アルメニア語]]<br /> |Տիգրիս、またはԴգլաթ<br /> |&#039;&#039;Tigris&#039;&#039;/Dglatʿ<br /> |<br /> |-<br /> |[[ヘブライ語]]<br /> |חידקל <br /> |&#039;&#039;Ḥîddeqel&#039;&#039;、聖書ヘブライ語では&#039;&#039;Hiddekel&#039;&#039;&lt;ref name=&quot;Genesis 2:14&quot;&gt;創世記 2:14&lt;/ref&gt;<br /> |<br /> |-<br /> |[[英語]]<br /> |Tigris <br /> |&#039;&#039;Tigris&#039;&#039;<br /> |チグリス/ティグリス<br /> |-<br /> |[[アラム語]]<br /> |ܕܝܓܠܐܬ <br /> |&#039;&#039;Diglath&#039;&#039;<br /> |<br /> |-<br /> |[[アラム語]]<br /> |ܕܹܩܠܵܬ <br /> |&#039;&#039;Deqlaṯ&#039;&#039;<br /> |<br /> |-<br /> |[[シュメール語]]<br /> |𒁇𒄘𒃼 <br /> |&#039;&#039;Idigna&#039;&#039;/&#039;&#039;Idigina&#039;&#039;<br /> |イディギナ<br /> |-<br /> |[[アッカド語]]<br /> |𒁇𒄘𒃼<br /> |&#039;&#039;Idiqlat&#039;&#039;/&#039;&#039;Idiglat&#039;&#039;<br /> |イディグラト<br /> |-<br /> |[[古代ペルシア語]]<br /> |𐎫𐎡𐎥𐎼𐎠<br /> |&#039;&#039;Tigrā&#039;&#039;<br /> |ティグラ<br /> |-<br /> |[[中世ペルシア語]]<br /> |<br /> |&#039;&#039;Tigr&#039;&#039;<br /> |<br /> |-<br /> |[[フルリ語]]<br /> |<br /> |&#039;&#039;Aranzah&#039;&#039;&lt;ref&gt;E. Laroche, &#039;&#039;Glossaire de la langue Hourrite&#039;&#039;, Paris (1980), p. 55.&lt;/ref&gt;<br /> |<br /> |-<br /> |[[古代ギリシア語]]<br /> |Τίγρις、またはΤίγρης<br /> |&#039;&#039;Tígris&#039;&#039;、または&#039;&#039;Tígrēs&#039;&#039;<br /> |ティグリス/ティグレース<br /> |}<br /> <br /> == 地理 ==<br /> チグリス川は全長1,750キロメートル、東トルコの[[タウルス山脈]]に源流を持つ。源流は[[エラズー]]市の西約25キロメートル、ユーフラテス川の源流の30キロメートルのあたりである。チグリス川はその後、シリアとトルコの国境まで400キロメートルほどトルコ領を流れる。チグリス川はシリア領内を44キロメートルだけ流れている&lt;ref name=&quot;Isaev&quot;/&gt;。<br /> <br /> ユーフラテス川の合流地点のすぐそばで、チグリス川はいくつかの運河で分岐されている。第一に人工の[[:en:Shatt al-Hayy|Shatt al-Hayy]]が分岐し、[[ナーシリーヤ]]近郊でユーフラテス川に合流する。第二に[[:en:Shatt al-Muminah]]と[[:en:Majar al-kabir]]が分岐し、{{仮リンク|中央湿地帯|en|Central Marshes}}を潤す。更に下流では、別の二つの流路が分岐({{仮リンク|アル=ムシャラフ|en|Musharrah}}と{{仮リンク|アル=カーラ|en|Kahla}}し、[[:en:Hawizeh Marshes|Hawizeh Marshes]]を潤す。主水路は南へ向かって続き、[[:en:Al-Kassarah|Al-Kassarah]]と合流する。これらの流れがHawizeh Marshesの水を排水する。最後に、チグリス川はユーフラテス川と{{仮リンク|アル・クルナ|en|Al-Qurnah}}のそばで合流し、[[シャットゥルアラブ川]]を形成する。[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]や他の古代の歴史家たちによれば、ユーフラテス川は元来はチグリス川とは別に海へ注ぐ河口を持っていた&lt;ref&gt;大プリニウス『博物誌』, VI, XXVI, 128-131&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[イラク]]の首都[[バグダード]]はチグリス川の河岸に位置している。港町[[バスラ]]はシャットゥルアラブ川をまたいでいる。古代の間、チグリス川沿いかその近隣に[[メソポタミア]]の偉大な都市の数々が建設され、メソポタミア文明を担った[[シュメール人]]たちは河水を灌漑用水として引いた。チグリス河畔の特筆すべき都市には[[ニネヴェ]]、[[クテシフォン]](テーシフォーン)、[[セレウキア]]などがあり、また[[ラガシュ]]市は前2900年頃に運河を掘削してチグリス川から灌漑用水を得た。<br /> <br /> == 交通 ==<br /> チグリス川は長きにわたり砂漠地帯の大部分の国々にとって重要な交通路であった。浅喫水船(Shallow-draft vessels)がバグダードまで行くことができるが、より上流の[[モースル]]への輸送にはいかだ(rafts)が必要である。<br /> <br /> 1836年に[[フランシス・ロードン・チェスニー]]将軍は2隻の蒸気船を陸路でシリアを経由して運び、インドへ向かう陸路と河川路の可能性を探った。蒸気船の1隻&#039;&#039;&#039;チグリス&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Tigris&#039;&#039;)は嵐にあって破壊された。船は沈み、20人が死亡した。チェスニーはチグリス川で動力付船舶(powered craft)が航行可能であることを証明した。その後、1861年にthe Euphrates and Tigris Steam Navigation Companyがリンチ兄弟(Lynch Brothers)の商社によって設立された。この会社は2隻の蒸気船でサービスを行った。1908年までに10隻の蒸気船がチグリス川にあった。観光客は蒸気船(steam yachts)に乗り込んで内陸に入った。当時は考古学観光の黎明期であったため、[[ウル]]と[[クテシフォン]]の遺跡はヨーロッパ人観光客に人気を博した。<br /> <br /> [[第一次世界大戦]]では、イギリスがオスマン帝国領[[メソポタミア]]の征服時、インド人とテムズ川のパドラーがタウンゼント将軍の軍隊に配属された。詳細は[[クートの戦い|クート包囲]]と{{仮リンク|バグダード陥落 (1917年)|en|Fall of Baghdad (1917)}}を参照のこと&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.naval-history.net/WW1Battle1408Mesopotamia.htm|title=Mesopotamia, Tigris-Euphrates, 1914-1917, despatches, killed and died, medals|work=naval-history.net|accessdate=28 November 2015}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 第一次世界大戦の後、[[バグダード鉄道]]の未完成部分であったバスラ-バグダード-モースル間の[[路線]]が完成し、また道路輸送が貨物輸送の大半を占めるようになったため、20世紀の間に河川輸送は重要性を失った。<br /> <br /> == 管理と水質 ==<br /> [[Image:Tigris river Mosul.jpg|thumb|right|[[イラク]]、[[モースル]]市]]<br /> <br /> チグリス川はイラクとトルコで灌漑用水を河谷に隣接する乾燥地ならびに半砂漠地域に導入するために大規模に堰き止められている。こうした水の堰き止めはまた、イラクで洪水の害を避けるために重要な役割を果たしてきた。歴史的にイラクでのチグリス川の洪水は4月にトルコの山々で雪解け後に発生しやすいことが知られている。<br /> <br /> 最近のトルコでのチグリス川の堰き止めはトルコ国内の環境への影響と、下流域での流量低下に関連した複数の論争の主題となっている。[[モスルダム]]はイラク最大のダムである。<br /> <br /> チグリス・ユーフラテス両河の水は紛争中の圧力の手段として利用される.&lt;ref&gt;Vidal, John. &quot;[https://www.theguardian.com/environment/2014/jul/02/water-key-conflict-iraq-syria-isis Water supply key to outcome of conflicts in Iraq and Syria, experts warn]&quot; &#039;&#039;[[ガーディアン|The Guardian]]&#039;&#039;, 2 July 2014.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2014年にはイラクとトルコの複数のステークホルダーの代表者たちの間で、チグリス川の流量についてのデータの交換、較正、表樹基準の作成のための行動計画についての合意で大きなブレークスルーが達成された。この合意は「チグリス川におけるジュネーヴ合意(Geneva Consensus On Tigris River)」と呼ばれ、シンクタンク{{仮リンク|Strategic Foresight Group|en|Strategic Foresight Group}}によって組織された[[ジュネーヴ]]での会議で合意された&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.orsam.org.tr/en/WaterResources/showAnalysisAgenda.aspx?ID=2735 |title=Analysis &amp; Water Agenda |publisher=ORSAM |date= |accessdate=2015-11-28}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2016年、{{仮リンク|在イラクアメリカ大使館|en|United States Embassy in Iraq}}と[[イラクの大統領|イラク大統領]][[ハイダル・アル=アバーディ]]は[[モスルダム]]が決壊する可能性があるという警告を行った&lt;ref&gt;{{cite news|last1=Borger|first1=Julian|title=Iraqi PM and US issue warnings over threat of Mosul dam collapse|url=https://www.theguardian.com/world/2016/feb/29/iraq-us-issue-warnings-threat-of-mosul-dam-collapse|accessdate=29 February 2016|work=[[The Guardian]]|agency=The Guardian|date=29 February 2016}}&lt;/ref&gt;。アメリカ合衆国はモースル・ダムが決壊すれば500,000人から1,500,000人が[[鉄砲水]]によって水死する恐れがあるとして、人々にチグリス川の氾濫原から非難するように警告した。イラクの主要都市である[[モースル]]、[[ティクリート]]、[[サマッラー]]、そして[[バグダード]]がこの危険に晒されていた&lt;ref&gt;{{cite news|title=US warns of Mosul dam collapse in northern Iraq|url=http://www.bbc.com/news/world-middle-east-35690616|accessdate=29 February 2016|work=[[BBC News]]|agency=[[BBC]]|publisher=[[BBC]]|date=29 February 2016}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 伝説と神話 ==<br /> [[シュメール神話]]では、チグリス川は[[エンキ]]神が川を流水で満たしたことで作られた&lt;ref&gt;Jeremy A. Black, &#039;&#039;The Literature of Ancient Sumer&#039;&#039;, [[Oxford University Press]] 2004, {{ISBN|0-19-926311-6}} p. 220-221&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ヒッタイト]]と[[フルリ人]]の神話では&#039;&#039;Aranzah&#039;&#039;(チグリス川のフルリ語名、[[ヒッタイト語]]単数主格形では&#039;&#039;Aranzahas&#039;&#039;)は神格化されていた。Aranzah(チグリス川)は[[クマルビ]]神の息子であり[[テシュブ]]神と[[:en:Suwaliyat|Suwaliyat]](Tašmišu)神の兄弟であり、Kanzuras山でクマルビ神の口から生まれた3柱の神の一神であった。その後Aranzahはクマルビ神を打ち滅ぼすために[[アヌ]]神およびテシュブ神と共謀した({{仮リンク|クマルビの歌|en|Song of Kumarbi}}<br /> <br /> チグリス川は[[旧約聖書]]に二度搭乗する。最初は[[創世記]]であり、[[エデンの園]]から流れ出る川が分岐した4つの川のうちの3番目である&lt;ref name=&quot;Genesis 2:14&quot;/&gt;。2度目の言及は[[ダニエル記]]にあり、ダニエルは「わたしがチグリスという大川の岸に立っていたとき」啓示(visions)の1つを受けたとしている&lt;ref&gt;ダニエル書 10:4&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> チグリス川はまたイスラームにおいても言及される。イマームの[[イブン・ハンバル|アフマド・ビン・ハンバル]]と{{仮リンク|サイード・アブドゥル・ラザク・ジーラーニー|en|Syed Abdul Razzaq Jilani}}の墓はバグダードにあり、チグリスの流れが参拝者の数を制限している。<br /> {{wide image|Tigris River in Baghdad (2016).jpg|1000px|alt=バグダード市内のチグリス川(2016年)|バグダード市内のチグリス川(2016年)}}<br /> <br /> [[File:Coat of arms of the Kingdom of Iraq.svg|thumb|イラク王国(1932年-1959年)の紋章にはシャットゥルアラブ川に合流するユーフラテス川とティグリス川とナツメヤシの森が描かれている。このナツメヤシの森はかつて世界最大のものであった。]]<br /> チグリス川は1932年から1959年まで[[イラクの国章]]に採用されていた。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[アッシリア]]<br /> * [[世界四大文明]]<br /> * {{仮リンク|イリス・ダム・キャンペーン|en|Ilisu Dam Campaign}}:トルコ領内のチグリス川で計画されているダムに対する反対運動<br /> * {{仮リンク|イラクの地名|en|List of places in Iraq}}<br /> * {{仮リンク|イラクの野生動物|en|Wildlife of Iraq}}<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> &lt;!--{{EB9 Poster}}--&gt;<br /> {{Commons category|Tigris}}<br /> <br /> * [http://www.livius.org/men-mh/mesopotamia/tigris.html Livius.org: Tigris]<br /> * {{cite web |url=http://pleiades.stoa.org/places/912964 |title=Places: 912964 (Tigris/Diglitus fl.) |author=Hausleiter, A., M. Roaf, St J. Simpson, R. Wenke, P. Flensted Jensen, R. Talbert, T. Elliott, S. Gillies |accessdate=March 9, 2012&lt;!-- 8:45 am --&gt;|publisher=Pleiades}}<br /> * [https://web.archive.org/web/20110720184608/http://zunia.org/uploads/media/knowledge/Geopolicity%20-%20Managing%20the%20Tigris%20and%20Euphrates%20Watershed%20-%20The%20Challenge%20Facing%20Iraq1280855782.pdf Managing the Tigris and Euphrates Watershed]<br /> *[http://www.ppl.nl/index.php?option=com_wrapper&amp;view=wrapper&amp;Itemid=82 Bibliography on Water Resources and International Law] Peace Palace Library<br /> * [http://www.naval-history.net/WW1Battle1408Mesopotamia.htm Outline of WWI Battles involving the Tigris River]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ちくりす}}<br /> [[Category:イラクの河川]]<br /> [[Category:トルコの河川]]<br /> [[Category:シリアの河川]]<br /> [[Category:ユーフラテス川水系]]<br /> [[Category:バグダード]]<br /> [[Category:アジアの複数の国を流れる河川]]<br /> [[Category:国境を流れる河川]]<br /> [[Category:トルコの国境]]<br /> [[Category:シリアの国境]]</div> 2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054 林幹雄 2018-07-20T03:43:55Z <p>2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054: </p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |人名 = 林 幹雄<br /> |各国語表記 = はやし もとお<br /> |画像 = Motoo Hayashi.jpg<br /> |画像説明 = <br /> |国略称 = {{JPN}}<br /> |生年月日 = {{生年月日と年齢|1947|1|3}}<br /> |出生地 = {{JPN}} [[千葉県]][[香取郡]][[東庄町]]<br /> |没年月日 = <br /> |死没地 = <br /> |出身校 = [[日本大学]][[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|芸術学部]][[文芸学科]]卒業<br /> |前職 = 小松川鋼機[[社員|従業員]]<br /> |現職 = <br /> |所属政党 = [[自由民主党_(日本)|自由民主党]]([[志帥会|二階派]])<br /> |称号・勲章 = 芸術学士(日本大学・[[1970年]])<br /> |親族(政治家) = 父・[[林大幹]](元[[環境大臣|環境庁長官]])<br /> |配偶者 = <br /> |サイン = <br /> |ウェブサイト = http://park19.wakwak.com/~motoo/<br /> |サイトタイトル = 千葉県第10区選挙区支部 衆議院議員 林もとお<br /> |国旗 = JPN<br /> |職名 = 第21代 [[経済産業大臣]]&lt;br /&gt; [[内閣府特命担当大臣]]&lt;br /&gt;([[内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構担当)|原子力損害賠償・廃炉等支援機構]])<br /> |内閣 = [[第3次安倍内閣_(第1次改造)|第3次安倍第1次改造内閣]]<br /> |選挙区 = <br /> |当選回数 = <br /> |就任日 = [[2015年]][[10月7日]]<br /> |退任日 = [[2016年]][[8月3日]]<br /> |所属委員会 = <br /> |議員会館 = <br /> |元首職 = <br /> |元首 = <br /> &lt;!-- ↓省略可↓ --&gt;<br /> |国旗2 = JPN<br /> |職名2 = 第80代 [[国家公安委員会委員長]]&lt;br /&gt; [[内閣府特命担当大臣]]&lt;br /&gt;([[内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)|沖縄及び北方対策]]、[[内閣府特命担当大臣(防災担当)|防災]])<br /> |内閣2 = [[麻生内閣]]<br /> |選挙区2 = <br /> |当選回数2 = <br /> |就任日2 = [[2009年]][[7月2日]]<br /> |退任日2 = 2009年[[9月16日]]<br /> |元首職2 = <br /> |元首2 = <br /> |国旗3 = JPN<br /> |職名3 = 第78代 [[国家公安委員会委員長]]&lt;br /&gt; [[内閣府特命担当大臣]]&lt;br /&gt;([[内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)|沖縄及び北方対策]]、[[内閣府特命担当大臣(防災担当)|防災]])<br /> |内閣3 = [[福田康夫内閣_(改造)|福田康夫改造内閣]]<br /> |選挙区3 = <br /> |当選回数3 = <br /> |就任日3 = [[2008年]][[8月2日]]<br /> |退任日3 = 2008年[[9月24日]]<br /> |元首職3 = <br /> |元首3 = <br /> |国旗4 = JPN<br /> |職名4 = [[衆議院|衆議院議員]]<br /> |内閣4 = <br /> |選挙区4 = ([[千葉県第2区_(中選挙区)|旧千葉2区]]→)&lt;br /&gt;([[千葉県第10区|千葉10区]]→)&lt;br /&gt;([[比例南関東ブロック]]→)&lt;br /&gt;千葉10区<br /> |当選回数4 = 9回<br /> |就任日4 = [[1993年]][[7月18日]]<br /> |退任日4 = 現職<br /> |元首職4 = <br /> |元首4 = <br /> |国旗5 = 千葉県<br /> |職名5 = [[千葉県議会]]議員<br /> |内閣5 = <br /> |選挙区5 = <br /> |当選回数5 = 3回<br /> |就任日5 = [[1983年]]<br /> |退任日5 = 1993年<br /> |元首職5 = <br /> |元首5 = <br /> &lt;!-- ↑省略可↑ --&gt;<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;林 幹雄&#039;&#039;&#039;(はやし もとお、[[1947年]][[1月3日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]所属の[[衆議院議員]](9期)、[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]代理兼[[自由民主党選挙対策委員長|自民党選対委員長]]代理。父は[[環境大臣|環境庁長官]]や[[衆議院議員]]を務めた[[林大幹]]。<br /> <br /> [[国土交通副大臣]]([[第1次小泉内閣_(第2次改造)|第1次小泉第2次改造内閣]]・[[第2次小泉内閣]])、衆議院[[国土交通委員会|国土交通委員長]]、[[国家公安委員会委員長]](第[[福田康夫内閣_(改造)|78]]・[[麻生内閣|80]]代)兼[[内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)|沖縄及び北方対策担当大臣]]兼[[内閣府特命担当大臣(防災担当)|防災担当大臣]]([[福田康夫内閣_(改造)|福田康夫改造内閣]]・[[麻生内閣]])、衆議院[[議院運営委員会|議院運営委員長]](第77代)、[[自由民主党幹事長|自民党筆頭副幹事長]]、[[経済産業大臣]]([[第3次安倍内閣 (第1次改造)|第21代]])兼[[内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構担当)|原子力損害賠償・廃炉等支援機構担当大臣]]を歴任した。<br /> <br /> == 来歴 ==<br /> [[千葉県]][[香取郡]][[東庄町]]生まれ。[[千葉県立佐原高等学校]]、[[日本大学]][[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|芸術学部]][[文芸学科]]卒業。大学卒業後は小松川鋼機の従業員を経て父・[[林大幹]]の秘書を務める&lt;ref name=&quot;profile&quot;&gt;[http://park19.wakwak.com/~motoo/profile2.html profile - 千葉県第10区選挙区支部 衆議院議員 林もとお]&lt;/ref&gt;。[[1983年]]、[[千葉県議会]]議員選挙に出馬し、初当選した。県議は[[1993年]]まで3期10年務める&lt;ref name=&quot;profile&quot;/&gt;。[[1993年]]、[[第40回衆議院議員総選挙]]に[[千葉県第2区_(中選挙区)|旧千葉2区]](定数4)から[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]公認で出馬し、得票数3位で当選した。以後、8期連続当選。<br /> <br /> [[2003年]]、[[第1次小泉内閣_(第2次改造)|第1次小泉第2次改造内閣]]で[[国土交通副大臣]]に任命され、[[第2次小泉内閣]]まで務める。[[2008年]]、[[福田康夫内閣_(改造)|福田康夫改造内閣]]で[[国家公安委員会委員長]]、[[内閣府特命担当大臣]]([[内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)|沖縄及び北方対策]]、[[内閣府特命担当大臣(防災担当)|防災]])に任命され初入閣したが、[[福田康夫]]首相は内閣改造の約1ヶ月後に退陣を表明したため、わずか54日で閣僚を退任した。[[2009年]]、[[麻生内閣]]で前年同様、[[国家公安委員会委員長]]・[[内閣府特命担当大臣]]([[内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)|沖縄及び北方対策]]、[[内閣府特命担当大臣(防災担当)|防災]])に任命されるが、自民党は同年の[[第45回衆議院議員総選挙]]で大敗し、[[麻生内閣]]は退陣。わずか2ヶ月程度で、再び閣僚を退任した。総選挙では現職の閣僚ながら[[千葉県第10区|千葉10区]]で[[民主党_(日本_1998-2016)|民主党]]新人の[[谷田川元]]に敗れ、[[重複立候補制度|重複立候補]]していた[[比例南関東ブロック]]で復活した。<br /> <br /> [[2011年]]、同じ[[近未来政治研究会]]に所属していた[[甘利明]]が立ち上げた[[さいこう日本]]に参加&lt;ref&gt;{{Cite news<br /> |url = http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/513880/<br /> |title = 甘利氏の「さいこう」発会式 自民党議員19人が参加<br /> |newspaper = [[産経新聞]]<br /> |date = 2011-06-23<br /> |accessdate = 2011-07-31<br /> }}&lt;/ref&gt;。[[2012年]]の[[第46回衆議院議員総選挙]]では千葉10区で民主党の谷田川を破り、7選。選挙後、結成以来所属していた[[近未来政治研究会]]での[[石原伸晃]]の会長就任を受けて退会し、[[志帥会]]へ移籍。[[二階俊博]]会長の下で、志帥会副会長を務める&lt;ref&gt;[http://blog.taiwannews.jp/?p=12489 志帥会主催「国土強靱化」講演&パーティに支持者3000人]&lt;/ref&gt;。[[2013年]]1月、自民党[[治安]]・[[対テロ作戦|テロ対策]]調査会長に就任。<br /> <br /> [[2014年]]の[[第47回衆議院議員総選挙]]では千葉10区で再び民主党の谷田川を破り、8選。[[2015年]][[10月7日]]、[[第3次安倍内閣_(第1次改造)|第3次安倍第1次改造内閣]]で[[経済産業大臣]]、[[産業競争力会議|産業競争力]]担当大臣、[[原子力]]経済被害担当大臣、[[内閣府特命担当大臣]]([[内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構担当)|原子力損害賠償・廃炉等支援機構]])に任命された。2016年8月3日、大臣を退任し、[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]代理に就任&lt;ref&gt;[http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS03H55_T00C16A8PP8000/ 自民、幹事長代行に下村氏] 日本経済新聞 2016年8月3日&lt;/ref&gt;。2017年8月3日、選挙対策委員長代理を兼務する&lt;ref&gt;[https://www.jiji.com/jc/article?k=2017080301096&amp;g=pol 幹事長代理に金田前法相=自民]時事ドットコムニュース&lt;/ref&gt;。同年の[[第48回衆議院議員総選挙]]は谷田川が[[希望の党]]公認となったがそれを退け、9選。<br /> <br /> == 政策・主張 ==<br /> * [[日本国憲法]]の[[憲法改正論議|改正]]に賛成&lt;ref name=&quot;mainichi2012&quot;&gt;{{Cite news|url = http://senkyo.mainichi.jp/46shu/kaihyo_area_meikan.html?mid=A12010001001 |title = 2012衆院選 千葉10区 林 幹雄 |newspaper = [[毎日jp]] |publisher = [[毎日新聞社]] |date = |accessdate = 2014-12-19 }}&lt;/ref&gt;。<br /> * [[集団的自衛権]]の行使を禁じた[[内閣法制局]]の[[法解釈|憲法解釈]]の見直しに賛成&lt;ref name=&quot;mainichi2012&quot;/&gt;。<br /> * [[日本の核武装論|日本の核武装]]について「将来にわたって検討すべきでない」としている&lt;ref name=&quot;mainichi2012&quot;/&gt;。<br /> * [[女性宮家]]の創設に反対&lt;ref name=&quot;mainichi2012&quot;/&gt;。<br /> * 日本の[[環太平洋戦略的経済連携協定|環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)]]参加に反対&lt;ref name=&quot;mainichi2012&quot;/&gt;。<br /> * [[原子力規制委員会_(日本)|原子力規制委員会]]の新基準を満たした[[原子力発電所]]の再稼働に賛成&lt;ref name=&quot;mainichi2012&quot;/&gt;。<br /> * 選択的[[夫婦別姓]]制度の導入に反対&lt;ref&gt;朝日新聞、2014年衆院選、朝日・東大谷口研究室共同調査、2014年。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;第154回国会 請願2128号&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 批判 ==<br /> * 2016年3月15日、[[衆議院]][[予算委員会]]での質疑において、原子力政策に関する[[野党]]議員の質問に明確に答えられず、何度も立ち往生し、批判を受けた。林は「事前通告のない専門的な質問が多かった」のが原因などとしたが、勉強不足であることも認めた&lt;ref&gt;[http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS16H4B_W6A310C1PP8000/ 石破氏、法案説明ミス「深くおわび」] 日本経済新聞 2016年3月16日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 政治資金 ==<br /> * [[道路特定財源]]が資金源であり、道路特定財源の一般財源化に反対している[[道路運送経営研究会]]から献金を受けていた&lt;ref&gt;[http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a169030.htm 社団法人全日本トラック協会への補助金のあり方に関する質問主意書、平成二十年一月二十五日提出、質問第三〇号]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b169030.htm 衆議院議員鈴木宗男君提出社団法人全日本トラック協会への補助金のあり方に関する質問に対する答弁書、平成二十年二月五日受領、答弁第三〇号]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[しんぶん赤旗]]の報道によれば、林が代表を務める「自民党千葉県第10選挙区支部」が[[西松建設]]のダミーの政治団体「新政治問題研究会」「未来産業研究会」から、計100万円の献金を受けていた&lt;ref&gt;{{Cite news<br /> |url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-03-04/2009030401_02_0.html<br /> |title = 「西松の金」小沢氏に突出/資金管理団体などへ3100万<br /> |newspaper = [[しんぶん赤旗]]<br /> |date = 2009-03-04<br /> |accessdate = 2015-10-10<br /> }}&lt;/ref&gt;。林への献金について、[[作家]]の[[宮崎学]]が西松建設元社長の国沢幹雄を[[政治資金規正法]]違反容疑で[[東京地方検察庁|東京地検]]に[[告訴・告発|告発]]した&lt;ref&gt;[http://www.the-journal.jp/contents/miyazaki/2009/07/post_71.html 国家公安委員長に狙いを定めた]&lt;/ref&gt;が、国沢に対しては[[起訴猶予処分]]([[不起訴]])が下った。<br /> * [[1998年]]から[[2000年]]までの3年間、[[鈴木宗男]]が代表を務める自由民主党北海道第13選挙区支部及び鈴木の[[資金管理団体]]である「21世紀政策研究会」から、150万円の献金を受け取っていた。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> * 2014年の第186回国会において、大臣、副大臣、政務官、補佐官、議長、副議長、委員長のいずれの要職にもついていなかったのみならず、質問、議員立法、質問主意書提出のいずれもなかったことが指摘された&lt;ref&gt;「国会議員三ツ星データブック」、186国会版 国会議員三ツ星データブック、特定非営利法人「万年野党」著。ISBN-13: 978-4905239239&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://blogos.com/article/96513/ 国会質問も議員立法も質問主意書もない「オールゼロ議員」、64人全氏名を公開!] BLOGOS 2014年10月15日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 所属団体・議員連盟 ==<br /> * [[自民党たばこ議員連盟]]&lt;ref name=&quot;attendance20170307&quot;&gt;{{Cite web|url=http://notobacco.jp/pslaw/giren170307syusseki.pdf|title=自民党たばこ議員連盟臨時総会(出席者)|accessdate=2018年4月11日}}&lt;/ref&gt;<br /> * [[日本会議国会議員懇談会]]&lt;ref name=&quot;tawara2016&quot;&gt;[[俵義文]] 『日本会議の全貌』 [[花伝社]]、2016年&lt;/ref&gt;<br /> * [[神道政治連盟国会議員懇談会]]&lt;ref name=&quot;tawara2016&quot; /&gt;<br /> * [[みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会]]&lt;ref name=&quot;tawara2016&quot; /&gt;<br /> * [[日韓議員連盟]]<br /> * [[日朝国交正常化推進議員連盟]]<br /> * [[さいこう日本]]<br /> * [[TPP交渉における国益を守り抜く会]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[近未来政治研究会]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://park19.wakwak.com/~motoo/ 千葉県第10区選挙区支部 衆議院議員 林もとお] - 公式サイト<br /> <br /> {{start box}}<br /> {{s-off}}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{Flagicon|JPN}} [[経済産業大臣]]<br /> | before = [[宮澤洋一]]<br /> | years = 第21代:2015年 - 2016年<br /> | after = [[世耕弘成]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> |title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣府特命担当大臣]]&lt;br/&gt;([[内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構担当)|原子力損害賠償・廃炉等支援機構]])<br /> |before = [[宮澤洋一]]<br /> |years = 第5代:2015年 - 2016年<br /> |after = [[世耕弘成]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{Flagicon|JPN}} [[国家公安委員会委員長]]<br /> | before = [[泉信也]]&lt;br /&gt;[[佐藤勉]]<br /> | years = 第78代:2008年&lt;br /&gt;第80代:2009年<br /> | after = [[佐藤勉]]&lt;br /&gt;[[中井洽]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣府特命担当大臣]]([[内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)|沖縄及び北方対策]])<br /> | before = [[岸田文雄]]&lt;br /&gt;[[佐藤勉]]<br /> | years = 第11代:2008年&lt;br /&gt;第13代:2009年<br /> | after = [[佐藤勉]]&lt;br /&gt;[[前原誠司]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣府特命担当大臣]]([[内閣府特命担当大臣(防災担当)|防災]])<br /> | before = [[泉信也]]&lt;br /&gt;[[佐藤勉]]<br /> | years = 第12代:2008年&lt;br /&gt;第14代:2009年<br /> | after = [[佐藤勉]]&lt;br /&gt;[[前原誠司]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{Flagicon|JPN}} [[国土交通副大臣]]<br /> | titlenote = [[佐藤泰三]]と共同<br /> | years = 2003年 - 2004年<br /> | before = [[中馬弘毅]]・[[吉村剛太郎]]<br /> | after = [[蓮実進]]・[[岩井国臣]]<br /> }}<br /> {{s-par}}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{flagicon|JPN}} [[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]]<br /> | years = 第77代:2014年 - 2015年<br /> | before = [[逢沢一郎]]<br /> | after = [[河村建夫]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{flagicon|JPN}} [[国土交通委員会|衆議院国土交通委員長]]<br /> | years = 2005年 - 2006年<br /> | before = [[橘康太郎]]<br /> | after = [[塩谷立]]<br /> }}<br /> {{s-ppo}}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[自由民主党幹事長|自由民主党筆頭副幹事長]]<br /> | titlenote = <br /> | before = [[茂木敏充]]&lt;br /&gt;[[原田義昭]]<br /> | years = 2007年 - 2008年&lt;br /&gt;2009年 - 2010年<br /> | after = [[原田義昭]]&lt;br /&gt;[[遠藤利明]]<br /> }}<br /> {{end box}}<br /> {{経済産業大臣}}<br /> {{国家公安委員会委員長}}<br /> {{防災担当大臣}}<br /> {{沖縄及び北方対策担当大臣}}<br /> {{衆議院議院運営委員長}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{デフォルトソート:はやし もとお}}<br /> [[Category:日本の閣僚経験者]]<br /> [[Category:日本の副大臣経験者]]<br /> [[Category:自由民主党の衆議院議員]]<br /> [[Category:千葉県選出の衆議院議員]]<br /> [[Category:比例南関東ブロック選出の衆議院議員]]<br /> [[Category:千葉県の地方議会議員]]<br /> [[Category:神道政治連盟国会議員懇談会の人物]]<br /> [[Category:日本会議国会議員懇談会の人物]]<br /> [[Category:日本大学出身の人物]]<br /> [[Category:千葉県出身の人物]]<br /> [[Category:1947年生]]<br /> [[Category:存命人物]]</div> 2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054 日産・ガゼール 2018-07-20T03:41:12Z <p>2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054: </p> <hr /> <div>{{redirect|ガゼール|その他の用法|ガゼル (曖昧さ回避)}}<br /> {{出典の明記|date=2018-4}}<br /> &#039;&#039;&#039;日産・ガゼール&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Gazelle&#039;&#039;)は、[[日産自動車]]で生産されていた[[クーペ]]型[[乗用車]]である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 1979年、[[日産・シルビア|シルビア]]が3代目(S110型)に[[モデルチェンジ (自動車)|フルモデルチェンジ]]したのと同時に発売開始されたシルビアの[[姉妹車]]である。シルビアとは販売会社が分けられ、シルビアが[[日産・レッドステージ|日産サニー店]]系列の扱いであったのに対して、ガゼールは[[日産・ブルーステージ|日産モーター店]]系列での扱いとなった。北米、欧州向けなどの輸出名称は200SXだったが、S12型が豪州でのみ、日本国内と同じガゼールの名称で販売された。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 初代 S110型(1979年-1983年) ===<br /> {{Infobox 自動車のスペック表<br /> | 車種=普通自動車<br /> | 車名=日産・ガゼール(初代)<br /> | 車名補=S110型<br /> | 1枚目画像の説明=3ドア 後期型<br /> | 1枚目画像名=Nissan-Gazelle.JPG<br /> | 2枚目画像の説明=[[西部警察]]劇中車(前期型ベース) フロント<br /> | 2枚目画像名=NISSAN GAZELLE SEIBU POLICE 01.JPG<br /> | 3枚目画像の説明=西部警察劇中車 リヤ<br /> | 3枚目画像名=NISSAN GAZELLE SEIBU POLICE 02.JPG<br /> | 販売期間=1979年 - 1983年<br /> | ボディタイプ=2ドア[[ハードトップ]]&lt;br /&gt;3ドアハッチバック<br /> | エンジン=直列4気筒 2.0/1.8L<br /> | トランスミッション=3速AT/5速MT<br /> | サスペンション=前:マクファーソンストラットコイル&lt;br /&gt;後:4リンクリジッドコイル<br /> | 駆動方式=[[後輪駆動|FR]]<br /> | 全長=4,400mm<br /> | 全幅=1,680mm<br /> | 全高=1,310mm<br /> | ホイールベース=2,400mm<br /> | 車両重量=1,105kg<br /> | 乗車定員=5人<br /> | 自由項目1(項目名)=ブレーキ<br /> | 自由項目1(内容)=4輪ディスク<br /> | 自由項目2(項目名)=データモデル<br /> | 自由項目2(内容)=ハードトップ2000XE-II 5MT(前期型) <br /> | 先代=<br /> | 別名=[[日産・シルビア]](3代目)<br /> }}<br /> * [[1979年]]3月、初代ガゼール(S110型)発売開始。<br /> <br /> 構造はシルビアと共通であるが、販売店の顧客層を考慮し、革巻(シルビアはウレタン)の[[パーキングブレーキ]]レバーグリップの採用や、[[自動車ディーラー|ディーラー]][[オプション]]で用意された[[ボンネット (自動車)|エンジンフード]]の[[ガゼル]]の[[グラフィック]]など、高級感を演出した外観や内装を特徴とし、シルビアに比べ、やや上位の位置づけであった。また、価格もガゼールの方がシルビアより5000円高かった&lt;ref&gt;『[[J&#039;s Tipo]]』 [[ネコ・パブリッシング]]、[[2006年]][[9月|9月号]]、25頁、『シルビアを知る。その壱 3代目(S110型)』。&lt;/ref&gt;。シルビアと同様、[[富士グランチャンピオンレース]]・[[シルエットフォーミュラ|スーパーシルエット]]に参戦した。<br /> <br /> 外観上の両車の差異は、[[フロントグリル]]がシルビアはブロックタイプ([[モデルチェンジ (自動車)|マイナーチェンジ]]後は格子)、ガゼールは横[[スリット]]となり、[[尾灯|リアコンビランプ]]もハードトップは見分け難いものの、ハッチバックは、格子と横基調の違いで比較的判り易い。その他後述のフェンダーミラーのほか、Bピラーのデザインも異なる。シルビアが黒を基調とした外観を採用していたのに対し、ガゼールはメッキパーツを多用して個性をアピールしていた&lt;ref&gt;自動車史料保存委員会 編 『日本の自動車アーカイヴス 乗用車 1975-1981』 [[三樹書房]]、[[2010年]][[8月25日]]初版発行、ISBN 978-4-89522-554-0、68頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 搭載エンジンはZ18/Z18E型[[直列4気筒]]・1800ccおよびZ20E型直列4気筒・2000ccが搭載された。グレードは装備と搭載エンジンから、T-I、T-II/TE-I、TE-II/XE-I、XE-IIの6種類。また、日本初のドライブコンピュータなど先進機器を多く搭載した。<br /> <br /> * {{要出典範囲|date=2018-4|1979年8月 ハッチバック追加及び一部改良。ハッチバック車にはオーバーライダー付き大型バンパー、シングルアームのフロントワイパーが装備された}}。<br /> * [[1980年]]6月 一部改良。<br /> * {{要出典範囲|date=2018-4|[[1981年]]5月 マイナーチェンジ}}。{{要出典範囲|date=2018-4|外観では前後ウレタンバンパー、ランプ、グリル、エンジンフード等が変更された}}。{{要出典範囲|date=2018-4|グレードが整理され、TE-Iが廃止、2000ccモデルに当時流行したデジタルメーター装備の最上級グレードXE-II・Gを追加}}。Z18ET型[[ターボチャージャー|ターボ]]付エンジンを搭載する「ターボXE/XE-II」が追加された。{{要出典範囲|date=2018-4|ターボXEは黒一色のビニールレザー内装で装備も簡素化されていた}}。{{要出典範囲|date=2018-4|シルビアとの差別化を図るため、フェンターミラーがメッキ仕上げとなる}}。<br /> * [[1982年]]4月 [[日産・スカイライン|R30型スカイライン]]にも搭載された4バルブ・[[DOHC]]のFJ20E型エンジン搭載する「H/T 2000DOHC RS/RSエクストラ」を追加及び一部改良。シルビア / ガゼールに搭載されたFJ20E型は、吸・排気の取り回しの違いから、スカイラインに搭載されたものとは若干特性が異なる。<br /> * [[1983年]] 生産拠点が[[日産自動車九州工場]]へ移管。<br /> <br /> ==== オープン仕様車 ====<br /> 当時放映されていたテレビドラマ『[[西部警察]]』では、[[石原裕次郎]]演じる木暮課長の専用車として、2000XE-IIの5MTをベースに[[自動車電話]]付のガゼールの[[オープンカー]]が登場した。この[[劇用車]]のボンネット・トランクに描かれたグラフィックは、車名の由来となった[[カモシカ]]の仲間である[[ガゼル]]をイメージしたものである&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;本仕様を手掛けたのは九州のガレージタルガというショップである(現在は閉鎖)。&lt;/ref&gt;。尚、同車は[[北海道]][[小樽市]]の[[石原裕次郎記念館]]に[[2017年]]8月末日の閉館まで展示された。<br /> <br /> この仕様は日本では市販されなかったが、北米では本車と同様にカスタマイズしたものが専門ショップから発売されており、10台ほどが日本にも逆輸入の形で入ってきている。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 2代目 S12型(1983年-1986年) ===<br /> {{Infobox 自動車のスペック表<br /> | 車種=普通自動車<br /> | 車名=日産・ガゼール(2代目)<br /> | 車名補=S12型<br /> | 1枚目画像の説明=200SX 3ドア(北米仕様・後期型)<br /> | 1枚目画像名=Nissan 200sx SE.jpg<br /> | 2枚目画像の説明=<br /> | 2枚目画像名=<br /> | 3枚目画像の説明=<br /> | 3枚目画像名=<br /> | 販売期間=1983年 - 1986年<br /> | ボディタイプ=2ドア[[クーペ]]&lt;br /&gt;3ドアハッチバック<br /> | ハイブリッドシステム=<br /> | エンジン=直列4気筒 2.0/1.8L<br /> | モーター=<br /> | トランスミッション=4速AT/5速MT<br /> | サスペンション=前:マクファーソンストラットコイル&lt;br /&gt;後:セミトレーリングアームコイル<br /> | 駆動方式=[[後輪駆動|FR]]<br /> | 全長=4,430mm<br /> | 全幅=1,660mm<br /> | 全高=1,330mm<br /> | ホイールベース=2,425mm<br /> | 車両重量=1,170kg<br /> | 乗車定員=5人<br /> | 自由項目1(項目名)=ブレーキ<br /> | 自由項目1(内容)=F:ディスク&lt;br /&gt;R:ドラム<br /> | 自由項目2(項目名)=データモデル<br /> | 自由項目2(内容)=クーペ ターボRS-X 5MT <br /> | 後継=[[日産・180SX]]<br /> | 別名=[[日産・シルビア]](4代目)<br /> }}<br /> [[1983年]]8月、シルビアと同時にフルモデルチェンジし、2代目(S12型)が発売開始された。<br /> <br /> 先代と同様、ノッチバックとハッチバックの2本立てで生産。ノッチバックはセンターピラー付きのボディになったのに伴い、日産による公式な呼び名は「ハードトップ」から「クーペ」に変わった。加えて、ワイパー付フル[[リトラクタブル・ヘッドライト]]を採用した。搭載エンジンは先代のZ型に替わり、CA18S型直列4気筒・1800ccキャブレター、CA18E型直列4気筒・1800cc、CA18ET型直列4気筒・1800ccターボ、そして、FJ20ET型直列4気筒・2000ccターボの4機種となった(ガゼールにはFJ20Eは搭載されず)。また、世界初のパワーウーハー、日本初のチルトアップ機構付電動ガラス[[サンルーフ]]および[[キーレスエントリー]]などが採用。FJ20ET搭載車のキャッチコピーは「群れよ、さらば」。<br /> <br /> 外観上のシルビアとの違いは、フロントグリルやテールランプなどで見分けることができる。グリルは、シルビアが横長長方形を組み合わせたものに対し、ガゼールはハニカム状のもの。テールは、クーペ/ハッチバックとも、シルビアが縦型デザインに対し、ガゼールは横型のデザインになっている(S110から継続)。<br /> <br /> ボディーカラーでも、シルビア・ガゼールで各々のツートンカラーがあり、その配色でも見分けることができる。<br /> <br /> [[1986年]]2月、シルビアが[[モデルチェンジ (自動車)|マイナーチェンジ]]されCA18DET型DOHCターボエンジンが搭載されるのと同時に車種を統合され、ガゼールは販売終了。事実上の後継車種は[[日産・180SX|180SX]]&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;但しガゼールがモーター店で販売されたのに対し、180SXはプリンス店とチェリー店で販売された。ガゼール廃止後のモーター店ではそれまでサニー店のみで販売されたシルビアを扱うようになった。&lt;/ref&gt;。<br /> 海外輸出は唯一豪州のみ行われた。<br /> <br /> == 車名の由来 ==<br /> [[アジア]]・[[アフリカ]]に生息する、[[カモシカ]]の仲間である[[ガゼル]]に由来する。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Notelist}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[日産・シルビア]]-姉妹車<br /> * [[日産・180SX]]-後継車<br /> * [[日産・240RS]]<br /> * [[モータースポーツ]]<br /> * [[西部警察]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.nissan.co.jp/MUSEUM/SILVIA/ 日産ミュージアム シルビア] - 日産自動車公式[[ウェブサイト|サイト]]内のページ(ガゼールについての解説もある)<br /> <br /> {{car-stub}}<br /> {{NISSAN Timeline(初期)}}<br /> {{1980-1999 NISSAN Timeline}}<br /> {{自動車}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:につさんかせえる}}<br /> [[Category:日産の車種|かせえる]]<br /> [[Category:クーペ]]<br /> [[Category:スポーツカー]]</div> 2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054 シャカ紀元 2018-07-20T03:39:28Z <p>2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;シャカ紀元&#039;&#039;&#039;(シャカきげん)は、[[インド]]の伝統的な暦である[[ヒンドゥー暦]]の[[暦元]]のひとつで、[[西暦]][[78年]]を起点とする。&#039;&#039;&#039;サカ紀元&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 歴史的にインドではさまざまな[[紀年法]]が用いられたが、そのうちシャカ紀元は[[ヴィクラマ紀元]]とともに現在もっとも広く使われている伝統的な暦元である。一般に、ヴィクラマ紀元が北方(ベンガル地方を除く)で、シャカ紀元が南インド一帯で使われる&lt;ref&gt;Salomon (1998) p.182&lt;/ref&gt;。ヴィクラマ紀元はシャカ紀元より135年前に置かれる。<br /> <br /> シャカ紀元は通常0年からはじまるため、シャカ紀元から西暦を求めるには78または79を足せばよい。たとえばシャカ紀元の1916年は西暦1994年から1995年にあたる&lt;ref&gt;Leow (2001) pp.27-28&lt;/ref&gt;。碑文には「数え」で計算しているものもあり、この場合には77または78を足す&lt;ref&gt;Salomon (1988) p.184&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1957年に制定された[[インド国定暦]]はシャカ紀元を採用している。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> シャカ紀元の由来は議論があるが明らかでない。[[クシャーナ朝]]の[[カニシカ1世]]によって立てられたという説が有力だが、クシャーナ朝の年代そのものに不明な点が多いために、証明に到っていない&lt;ref name=&quot;s&quot;&gt;Salomon (1998) p.183&lt;/ref&gt;。ヴィクラマ紀元と異なってシャカ紀元は最初から「[[サカ|シャカ]]」の名で呼ばれており、1世紀の外来王朝と関係するのは確かである&lt;ref&gt;Salomon (1998) pp.183-184&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Sircar (1969) p.157&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ヴィクラマーディティヤ (ウッジャイン王)|ヴィクラマーディティヤ王]]が2度めにシャカを破った年をシャカ紀元とするという伝説もあるが、明らかに後世の創作である&lt;ref&gt;Salomon (1998) p.184&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 後世には「シャカ」という語は異民族との結びつきが忘れられ、「年・紀元」を意味するようになった。ヴィクラマ紀元がヴィクラマーディティヤ王と結びつけられたのと同様、12世紀以降にはシャカ紀元がやはり伝説的な{{仮リンク|シャーリヴァーハナ|en|Shalivahana}}王と結びつけて「シャーリヴァーハナ・シャカ」と呼ばれるようになった&lt;ref&gt;Salomon (1998) p.183注79&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Sircar (1969) p.161&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> シャカ紀元が使われたことが確実な最古の碑文は400年(シャカ紀元322年)のものである。それ以前の[[西クシャトラパ]]でも使われていた可能性があるが、確実ではない&lt;ref name=&quot;s&quot;/&gt;。<br /> <br /> 南インドでは[[前期チャールキヤ朝]]以来、碑文の紀年法の標準としてシャカ紀元が用いられている&lt;ref&gt;Salomon (1998) pp.182-183&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{citation|url=http://www.math.nus.edu.sg/aslaksen/projects/lcl.pdf|title=Indian Calendars|author=LEOW Choon Lian|year=2001|format=pdf|publisher=Department of Mathematics, [[シンガポール国立大学|National University of Singapore]]}}<br /> * {{cite book|author=Salomon, Richard|title=Indian Epigraphy: A Guide to the Study of Inscriptions in Sanskrit, Prakrit, and Other Indo-Aryan Languages|year=1998|publisher=Oxford University Press|isbn=0195099842}} <br /> * {{cite book|author=Sircar, Dines Chandra|title=Ancient Malwa and the Vikramāditya Tradition|year=1969|location=Delhi|publisher=Munshiram Manoharlal}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.math.nus.edu.sg/aslaksen/calendar/indian_regional.html Regional Varieties of the Indian Calendars] {{en icon}} - Department of Mathematics, [[シンガポール国立大学|National University of Singapore]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:しやかきけん}}<br /> [[Category:紀年法]]<br /> [[Category:インドの暦]]<br /> [[Category:78年]]</div> 2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054 山野車輪 2018-07-20T03:36:47Z <p>2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054: </p> <hr /> <div>{{存命人物の出典明記|date=2015年7月24日 (金) 16:45 (UTC)}}<br /> &#039;&#039;&#039;山野 車輪&#039;&#039;&#039;(やまの しゃりん、[[1971年]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。本名非公開。身長173cm、体重62kg、血液型B型、男性&lt;ref&gt;{{Cite web<br /> |author=山野車輪<br /> |url=http://propellant.fc2web.com/contents/sharin/sharin.html<br /> |title=車輪プロフィール<br /> |accessdate=2009-10-12<br /> }}&lt;/ref&gt;。Web漫画出身。<br /> <br /> 著作に『[[マンガ 嫌韓流]]』、『[[マンガ 嫌中国流]]』(いずれも[[晋遊舎]])など。[[朝鮮半島]]ウォッチャーであり、[[大韓民国]]全土、[[コリア・タウン]]を回り、「韓国のなかの日本」、「在日の地図」を描いている。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2009年10月}}<br /> === 2ちゃんねるでの固定時代 ===<br /> * かつては[[2ちゃんねる]]内の[[ハードロック・ヘヴィメタル板]]で、&lt;!--&#039;&#039;&#039;車輪 ◆taiyaRSvkM&#039;&#039;&#039;という名で--&gt;固定[[ハンドルネーム]]として短い間であるが、[[2ちゃんねらー]]で活動していた時期があった(他の板では「名無し」だった)&lt;ref&gt;「山野車輪ロングインタビュー」({{Cite book|和書<br /> |year=2006<br /> |month=2<br /> |title=マンガ嫌韓流 公式ガイドブック<br /> |publisher=晋遊舎<br /> |isbn=978-4-88380-517-4}})14頁&lt;/ref&gt;。また、固定としての山野のことが『2ちゃんねる公式ガイド2004』のハードロック・ヘヴィメタル板の項目に「良コテ」として&#039;&#039;&#039;車輪 ◆taiyaRSvkM&#039;&#039;&#039;の名前が掲載された&lt;ref&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=2ちゃんねる<br /> |title=2ちゃんねる公式ガイド2004<br /> |origdate=2003-12-24<br /> |publisher=コアマガジン<br /> |isbn=9784877346744<br /> |pages=p. 143<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> * 山野は『マンガ嫌韓流』内に[[テラ・ローザ (バンド)|テラ・ローザ]]や[[X-RAY]]などの日本のマニアックな[[ヘヴィメタル]]バンドの名前を載せるほどのメタルマニアである。<br /> * WOLFという日本の[[ヘヴィメタル]]バンド&lt;ref&gt;ヘヴィメタル雑誌『[[BURRN!]]』2代目編集長の[[広瀬和生]]がビクターに勤務していた時代にプロデュースしていたバンド。1987年にメジャーデビューするも [[1990年代]]前半に解散。後にパチスロライターとして活躍する[[マッド・パチスロ・ブラザーズ|アニマルかつみ]]がベーシストとして在籍していた。&lt;/ref&gt;が大好きで、山野のいたスレ内でこのバンドを批判すると、激怒するケースが多かった&lt;ref&gt;山野の公式サイトのプロフィールにある「好きなシンガー:松本龍似」はWOLFのシンガーとして活躍していた人物。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 漫画家としての活動 ===<br /> * 『マンガ 嫌韓流』執筆以外では、デザインやイラストレーションを中心に活動をしていると『嫌韓流公式ガイドブック』で自ら述べている。他に、『マンガ 嫌韓流』が発売された時の『[[週刊新潮]]』や『[[週刊朝日]]』の記事によれば、少女漫画家としてデビューしていたとされている。これらの雑誌で、山野は「[[冨樫義博]]に画が似ている」、「ここまで絵が下手だとは思わなかった」と関係者から言われたことがあると述べている。<br /> * 当初は[[覆面作家]]として活動していたが、[[2006年]]10月に発売された『在日の地図 大韓棄民国物語』において、生年とソフトフォーカスながら顔写真が初めて公開され、一部プロフィールが公開されている。顔写真は他の著書では非常に長い髪であったり金髪であったりする。[[2007年]]4月に発売された[[西村幸祐]]責任編集『ネットVSマスコミ! 大戦争の真実』([[オークラ出版]])でも顔写真が公開されている。<br /> * 『嫌韓流公式ガイドブック』のインタビューによれば、『嫌韓流』で手に入れた印税は日本のインディーズヘヴィメタルバンドのCDにつぎ込んだと語っていた。<br /> * 『在日の地図 大韓棄民国物語』にて、漫画『[[幽☆遊☆白書]]』のファンであることを述べている。<br /> * [[査証|ビザ]]免除で日本に入国した韓国人は凶悪犯罪者であると主張している。それに対する「一部の人間に過ぎない」との反論に対して、「一部であるから問題ない? 間違いないとでもいうのか?」と再反論している&lt;ref&gt;『別冊BUBKA極東アジアOL二人旅』&lt;/ref&gt;。<br /> * 韓国全土を取材した『韓国のなかの日本』([[辰巳出版]] ISBN 978-4-7778-0380-4)で、自分自身をカレー好きなキャラクターとして登場させている。また『嫌韓流4』では、登場人物の一人である末行都を“自分のアシスタントとなり、プロの漫画家を目指して修行中”ということにしている。<br /> * [[佐藤優 (外交官)|佐藤優]]は、山野は知的水準があまり高くないが、影響力は大きいと語った&lt;ref&gt;{{Cite news<br /> |author = 荒井香織<br /> |url = http://www.cyzo.com/2008/10/post_1094.html<br /> |title = 「よしりんと戦争勃発!」佐藤優ロングインタビュー(後編)<br /> |newspaper = 日刊サイゾー<br /> |publisher = [[サイゾー]]<br /> |date = 2008-09-30<br /> |accessdate = 2009-10-12<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> * [[行動する保守]]の1つ・[[在日特権を許さない市民の会]]のイメージキャラクター「ザイ子ちゃん」を描いている。<br /> * 嫌韓的側面の強い2011年の[[フジテレビ抗議デモ]]に関しては、「韓流ドラマへの対案も韓国のフジテレビ支配の証明もない」と否定的な意見を述べている&lt;ref&gt;{{Cite journal | 和書 | url = http://www.cyzo.com/2011/08/post_8156.html | title = 『マンガ嫌韓流』の作者・山野車輪がお台場の「嫌韓デモ」に首をかしげる理由とは | journal = 日刊サイゾー | issue = | publisher = [[サイゾー]] | date = 2011-08-09 | accessdate = 2013-07-15 }}&lt;/ref&gt;。<br /> * 2013年には「今の嫌韓と’05年頃の嫌韓はまったく層が違う」と発言している。’05年の(嫌韓流発売当時の)嫌韓はタブー破りであったが、現在はタブーがあった事すら忘れ去られたとし、『もはや嫌韓に時代を切り開くようなかつての面白さはない』と断じている&lt;ref&gt;[http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131223-00539572-sspa-soci&amp;pos=2 山野車輪「今の嫌韓は初期の嫌韓と層が違う」] - [[週刊SPA!]] 2013年12月23日(月)9時21分配信&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 作品 ==<br /> === 単行本 ===<br /> *「[[マンガ 嫌韓流]]」シリーズ<br /> **{{Cite book|和書|date=2005-07-26|title=マンガ 嫌韓流|series=晋遊舎ムック|publisher=晋遊舎|isbn=4-88380-478-X|ref={{Harvid|山野|2005}}}}<br /> **{{Cite book|和書|date=2006-02-22|title=マンガ 嫌韓流|volume=2|series=晋遊舎ムック|publisher=晋遊舎|isbn=4-88380-516-6|ref={{Harvid|山野|2006a}}}}<br /> **{{Cite book|和書|date=2007-08-28|title=マンガ 嫌韓流|volume=3|series=晋遊舎ムック|publisher=晋遊舎|isbn=978-4-88380-630-0|ref={{Harvid|山野|2007b}}}}<br /> **{{Cite book|和書|date=2009-04-30|title=マンガ 嫌韓流|volume=4|series=晋遊舎ムック|publisher=晋遊舎|isbn=978-4-88380-944-8|ref={{Harvid|山野|2009a}}}}<br /> **{{Cite book|和書|date=2010-04-23|title=外国人参政権は、要らない|series=晋遊舎ムック マンガ 嫌韓流セレクション 1|publisher=晋遊舎|isbn=978-4-86391-092-8|ref={{Harvid|山野|2010a}}}}<br /> **{{Cite book|和書|date=2011-02-23|title=マンガ 嫌韓流|series=晋遊舎ムック|volume=1|edition=文庫版|publisher=晋遊舎|isbn=978-4-86391-238-0|ref={{Harvid|山野|2011a}}}}<br /> **{{Cite book|和書|date=2011-02-23|title=マンガ 嫌韓流|series=晋遊舎ムック|volume=2|edition=文庫版|publisher=晋遊舎|isbn=978-4-86391-239-7|ref={{Harvid|山野|2011b}}}}<br /> **{{Cite book|和書|date=2011-03-26|title=マンガ 嫌韓流|series=晋遊舎ムック|volume=3|edition=文庫版|publisher=晋遊舎|isbn=978-4-86391-246-5|ref={{Harvid|山野|2011c}}}}<br /> **{{Cite book|和書|date=2011-03-26|title=マンガ 嫌韓流|series=晋遊舎ムック|volume=4|edition=文庫版|publisher=晋遊舎|isbn=978-4-86391-247-2|ref={{Harvid|山野|2011d}}}}<br /> **{{Cite book|和書|date=2015-03-19|title=マンガ大嫌韓流|series=晋遊舎ムック|edition=新版|publisher=晋遊舎|isbn=978-4-8018-0174-5|ref={{Harvid|山野|2015a}}}}<br /> *{{Cite book |和書 |date=2006-11 |title=在日の地図 大韓棄民国物語 コリアタウン探訪 |publisher=[[海王社]] |isbn=978-4-87724-305-0 |ref={{Harvid|山野|2006b}} }}<br /> **{{Cite book |和書 |date=2009-06 |title=在日の地図 マンガで巡るコリアタウン探訪記 |series=ぶんか社文庫 や-6-1 |publisher=[[ぶんか社]] |isbn=978-4-8211-5249-0 |ref={{Harvid|山野|2009b}} }}<br /> **{{Cite book |和書 |date=2015-06 |title=在日の地図 コリアタウン探訪記 |publisher=海王社 |edition=新装改定版 |isbn=978-4-7964-0723-6 |ref={{Harvid|山野|2015b}} }}<br /> *{{Cite book |和書 |date=2007-06 |title=韓国のなかの日本 マンガ韓国新発見ツアー 日韓国境突入編 |publisher=[[辰巳出版]] |series=タツミムック |isbn=978-4-7778-0380-4 |ref={{Harvid|山野|2007a}} }}<br /> *{{Cite book |和書 |date=2008-07 |title=韓国のなかの日本 マンガ韓国新発見ツアー 愛憎哀号ソウル編 |publisher=辰巳出版 |series=タツミムック |isbn=978-4-7778-0537-2 |ref={{Harvid|山野|2008a}} }}<br /> *{{Cite book |和書 |date=2008-08 |title=[[マンガ 嫌中国流]] |publisher=晋遊舎 |series=晋遊舎ムック |isbn=978-4-88380-803-8 |ref={{Harvid|山野|2008b}} }}<br /> *{{Cite book |和書 |date=2010-04 |title=「若者奴隷」時代 若肉老食社会の到来 |publisher=晋遊舎 |series=晋遊舎ムック |isbn=978-4-86391-070-6 |ref={{Harvid|山野|2010b}} }}<br /> *{{Cite book |和書 |date=2011-07 |title=なる☆まん! もし出版不況のなか女子高生がマンガ家をめざしたら |publisher=辰巳出版 |series=タツミムック |isbn=978-4-7778-0893-9 |ref={{Harvid|山野|2011e}} }}<br /> *{{Cite book |和書 |others=[[井上智重]] 原案・山野車輪 著 |date=2013-07-19 |title=終戦の昭和天皇 ボナー・フェラーズが愛した日本 |publisher=[[オークラ出版]] |series= |isbn=978-4-7755-2114-4 |ref={{Harvid|井上|山野|2013}} }}<br /> *{{Cite book |和書 |others=[[惠隆之介]] 原作・山野車輪 漫画 |date=2015-12 |title=マンガ海の武士道 |publisher=[[育鵬社]] |series= |isbn=978-4-594-07396-1 |ref={{Harvid|惠|山野|2015}} }}<br /> *{{Cite book |和書 |date=2015-05 |title=嫌韓道 |publisher=[[ベストセラーズ]] |series=ベスト新書 474 |isbn=978-4-584-12474-1 |ref={{Harvid|山野|2015c}} }}<br /> **{{Cite book |和書 |date=2018-02 |title=嫌韓道 さよなら韓国 |publisher=ベストセラーズ |series=ワニ文庫 P-298 |isbn=978-4-584-39398-7 |ref={{Harvid|山野|2018a}} }} - 注記:{{Harvtxt|山野|2015c}}の加筆修正、再編集版。<br /> *{{Cite book |和書 |author=山野車輪 作・画 |date=2016-08 |title=革命の地図 戦後左翼事件史 テロルの現場検証 |publisher=[[イースト・プレス]] |isbn=978-4-7816-1461-8 |ref={{Harvid|山野|2016}} }}<br /> *{{Cite book |和書 |date=2018-05-02 |title=ジャパメタの逆襲 |publisher=[[扶桑社]] |series=扶桑社新書 268 |isbn=978-4-594-07952-9 |ref={{Harvid|山野|2018b}} }}<br /> <br /> === 雑誌収録 ===<br /> * CHOSEN -朝鮮-(『マンガ嫌韓流 公式ガイドブック』 晋遊舎、2006年 ISBN 978-4-88380-517-4 収録)<br /> * 「反日」の超克([[西村幸祐]]原作、『コミックオピニオン誌 [[撃論]]1』 [[オークラ出版]]、2006年 ISBN 978-4-7755-0850-3 収録)<br /> * 頑張れネット右翼!(『ネット右翼ってどんなヤツ?』[[宝島社]]、2008年 ISBN 978-4-7966-6226-0 収録)<br /> * 極!サブカル塾(『ジャパニズム』[[青林堂]]、2011年 ISBN 978-4-7926-0434-9 収録)<br /> * 平和戦隊ショクザイジャー「尖閣諸島は中国固有の領土ですの巻」原作・[[古谷経衡]](『ジャパニズム』[[青林堂]] 2011年6月、ISBN 978-4-7926-0434-9 収録)<br /> * 平和戦隊ショクザイジャー「職業右翼の巻」(『ジャパニズム』青林堂 2011年8月、ISBN ISBN 978-4-7926-0439-4 収録)<br /> <br /> === インタビュー・対談 ===<br /> * 山野車輪ロングインタビュー(『マンガ嫌韓流 公式ガイドブック』 晋遊舎、2006年 ISBN 978-4-88380-517-4 収録)5-14頁<br /> * 「マンガ嫌韓流」著者が語るネット論(西村幸祐責任編集 『ネットVSマスコミ! 大戦争の真実』 [[オークラ出版]]、2007年 ISBN 978-4-7755-0926-5 収録)167-172頁<br /> * 対談 僕らのオタク十年記 山野車輪+[[古谷経衡]](『ジャパニズム』青林堂、2011年 ISBN 978-4-7926-0434-9 収録)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[嫌韓]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://propellant.fc2web.com/ FAR EAST -極東-](公式サイト 最終更新2010年9月)<br /> * {{Twitter|sharinyamano|山野車輪 (sharinyamano)}}<br /> * [http://d.hatena.ne.jp/otaberi/ UST生放送番組オタべり]<br /> * [http://propellant.easter.ne.jp/ JAPANESE FEMALE VOCALIST COLLECTION](本人運営のジャパメタレヴューサイト)<br /> * 話題沸騰の問題作『「若者奴隷」時代』 の著者、山野車輪氏にインタビュー [http://npn.co.jp/article/detail/13773662/ 前編] [http://npn.co.jp/article/detail/08512545/ 後編]([[リアルライブ]])<br /> * [https://nikkan-spa.jp/spa_series_group_name/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%81%AE%E9%80%86%E8%A5%B2 ジャパメタの逆襲/山野車輪]<br /> <br /> {{Manga-artist-stub}}<br /> {{行動する保守}}<br /> {{レイシズム}}<br /> {{normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:やまの しやりん}}<br /> [[Category:日本の漫画家]]<br /> [[Category:2ちゃんねる関連人物]]<br /> [[Category:1971年生]]<br /> [[Category:存命人物]]<br /> [[Category:行動する保守]]<br /> [[Category:反韓感情]]<br /> [[Category:本名非公開の人物]]<br /> [[Category:学歴非公表の人物]]</div> 2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054 Mozilla Application Suite 2018-07-20T03:04:02Z <p>2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054: </p> <hr /> <div>{{Infobox Software<br /> |名称=Mozilla Application Suite<br /> |ロゴ=<br /> |スクリーンショット=[[ファイル:Mozilla 1.7.8-ja.png|200px|center]]<br /> |説明文= [[GNOME]]上で動作しているMozilla 1.7.8<br /> |開発元=Mozilla Foundation、Mozilla Corporation<br /> |最新版=1.7.13<br /> |最新版発表日=[[2006年]][[4月13日]]<br /> |最新評価版=<br /> |最新評価版発表日=<br /> |対応OS=[[macOS|Mac OS X]]、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[Linux]]、[[OS/2]]、[[Solaris]]、[[JDS (OS)|JDS]]<br /> |対応プラットフォーム=[[クロスプラットフォーム]]<br /> |種別=[[インターネットスイート]]<br /> |サポート状況=サポート終了<br /> |ライセンス=[[Mozilla Public License|MPL]]、[[GNU General Public License|GPL]]、[[LGPL]]<br /> |公式サイト={{lang|en|[http://www.mozilla-japan.org/download.html Mozilla Japan]}}<br /> }}<br /> {{読み仮名|&#039;&#039;&#039;Mozilla Application Suite&#039;&#039;&#039;|モジラ・アプリケーション・スイート}} または {{読み仮名|&#039;&#039;&#039;Mozilla Suite&#039;&#039;&#039;|モジラ・スイート}} は [[Mozilla Foundation]]によりプロジェクトを組んで[[オープンソース]]で開発されていた[[インターネットスイート]]であり、[[ウェブブラウザ]]、[[電子メールクライアント]]、[[ニュースクライアント]]、[[Webオーサリングツール|HTMLエディタ]]および[[IRCクライアント]]の機能が含まれている。ウェブ標準とみなされる [[World Wide Web Consortium|W3C]] などで決められた勧告や規格にできる限り準拠していくという方針で開発されていた。<br /> <br /> [[レンダリングエンジン]]は[[Gecko]]と呼ばれ、Mozilla以外でも利用できるようになっており、[[Mozilla Firefox]]や[[Camino]]、[[Galeon]]など幾つかのGeckoを利用したブラウザが存在する。<br /> <br /> [[2005年]][[3月10日]]にMozillaの開発の終了が宣言され、以後Mozillaはブラウザとメールクライアントを分離したMozilla FirefoxとMozilla Thunderbirdの開発に重点を置いた。Mozilla Application Suiteについては外部団体のThe SeaMonkey Councilが引き継ぎ、ソフト名を[[SeaMonkey]]に変更したうえでインターネットスイートとして開発を継続することとなった。<br /> <br /> ==概要==<br /> [[タブブラウザ]]形式のウェブブラウザの他、[[電子メールクライアント]]、[[ネットニュース|ニュースクライアント]](ニュースリーダー)、[[WYSIWYG]]型[[HTMLエディタ]]、アドレス帳、[[インターネット・リレー・チャット|IRC]]クライアント[[Chatzilla]]]も実装されている。[[XUL]]という[[Extensible Markup Language|XML]]をベースにした言語を使い、機能を拡張することができる。<br /> <br /> また、標準機能としては利用できないが、[[拡張機能 (Mozilla)|拡張機能]]でカレンダー機能&lt;ref&gt;http://www.mozilla.org/projects/calendar/&lt;/ref&gt;なども追加する事ができる。このカレンダーは[[vCal]]形式を採用しており、[[macOS]]の[[カレンダー (アップル)|iCal]]とも互換性がある。このようにプラグインにより、さまざまなアプリケーションを追加可能である。これらはXULによって開発されている。<br /> <br /> 現在のオープンソースとなった {{lang|en|Mozilla}} は、{{lang|en|[[Netscapeシリーズ|Netscape]]}} 5.0としてリリース予定だった開発中のソースコードをベースにして機能改良を施していくという方向性で開発が始まった。しかし、既存のソースコードをそのまま使っていては問題が多かった為にレンダリングエンジンを全面的に書き直す事となった。こうして出来上がった全く新しいレンダリングエンジンが {{lang|en|Gecko}} であり、それを用いて {{lang|en|Netscape}} 6、7 などがリリースされた。<br /> <br /> 以前、{{lang|en|Mozilla}} 自体は完成した製品/ソフトウェアというより、他のプロジェクト(主に {{lang|en|Netscape}})にリリースしてもらうための開発、デバッグのためのブラウザという位置づけであった。そのためサポート体制などは整っているとは言い難かった。<br /> <br /> しかし、2003年5月末に起こったAOLと[[マイクロソフト]]の和解により、AOL傘下であったネットスケープ・コミュニケーションズとマイクロソフトの間で起こっていた反トラスト法訴訟などがすべて取り下げられた。また同時に、マイクロソフトのウェブブラウザである {{lang|en|[[Internet Explorer]]}} を数年に渡りロイヤリティフリーで使うという契約を結んだことにより、ブラウザを提供するネットスケープ・コミュニケーションズの存在価値が危ういものとなった。これは、{{lang|en|Netscape}} のコードベースにもなっている {{lang|en|Mozilla}} の存在価値をも揺るがす問題であった。こうした事態を受けて2003年7月、{{読み仮名|{{lang|en|Mozilla Organization}}|モジラ・オーガニゼーション}}は AOL から資金提供を受け、{{lang|en|Mozilla}} の開発を支援する団体である {{読み仮名|{{lang|en|[[Mozilla Foundation]]}}|モジラ・ファウンデーション}}を設立した。ファウンデーションの設立により、ネットスケープ・コミュニケーションズが担っていた「エンドユーザへのソフトウェア提供及びサポート」という目標がファウンデーションにも覆い被さることとなった。これによりファウンデーションは {{lang|en|Mozilla}} の入ったCDの販売や、電話でのサポート等の業務も行うようになった。<br /> <br /> ==歴史==<br /> *1998年3月31日 - &lt;code&gt;mozilla.org&lt;/code&gt; が {{lang|en|Mozilla}} のソースコードを公開する。<br /> *2000年11月 - 未完成の {{lang|en|Mozilla}} M18 を元にして、{{lang|en|Netscape}} 6.0 がリリースされる。<br /> *2001年10月 - {{lang|en|Mozilla}} 0.9.4を基にして、{{lang|en|Netscape}} 6.2 がリリースされる。<br /> *2002年6月5日 - {{lang|en|Mozilla}} 1.0がリリースされる。<br /> *2002年8月29日 - {{lang|en|Mozilla}} の安定版を元に、{{lang|en|Netscape}} 7.0 がリリースされる。<br /> *2003年4月2日 - ロードマップの大規模な変更があり、今後の安定版に {{読み仮名|{{lang|en|Mozilla Firebird}}|モジラ・ファイヤーバード}}&lt;ref&gt;現 {{lang|en|Mozilla Firefox}}&lt;/ref&gt;と {{lang|en|Mozilla Thunderbird}} の成果が取り込まれる事となった。<br /> *2003年6月30日 - 1.0系に代わる安定版として、1.4がリリースされる。<br /> *2003年7月15日 - {{lang|en|Mozilla}} の開発、配布、導入を推進する財団として{{lang|en|Mozilla}} ファウンデーションが設立される。<br /> *2004年6月17日 - 1.4系に代わる安定版として、1.7がリリースされる。<br /> *2005年3月10日 - {{lang|en|Mozilla Application Suite}} の開発を1.7系列で打ち止めとすることが発表される。<br /> *2005年7月2日 - 開発打ち切りとなっていた {{lang|en|Mozilla Application Suite}} を外部団体の {{読み仮名|{{lang|en|The SeaMonkey Council}}|ジ・シーモンキー・カウンシル}}が引き継ぎ、ソフト名も {{読み仮名|{{lang|en|[[SeaMonkey]]}}|シーモンキー}}に変更<br /> *2006年1月30日 - 開発が引き継がれてから初の正式リリースとなる、{{lang|en|SeaMonkey}} 1.0 がリリースされる。<br /> *2006年4月18日 - Suiteの最終セキュリティアップデートである1.7.13がリリースされる。<br /> <br /> ==ユーザーエージェント==<br /> 「{{lang|en|Mozilla}}」は {{lang|en|Netscape}} や {{lang|en|Internet Explorer}} の「&lt;code&gt;User-Agent:&lt;/code&gt;」フィールドのキーワードにもなっている。ネットスケープ・コミュニケーションズの初期の社名は {{読み仮名|{{lang|en|Mosaic Communications}}|モザイク・コミュニケーションズ}}といい、{{lang|en|Mozilla}} という名称は、同社がブラウザ「{{読み仮名|{{lang|en|Mosaic}}|モザイク}}」({{lang|en|[[NCSA Mosaic]]}} とは異なる)を開発中に、{{lang|en|Mosaic}} と日本の怪獣映画[[ゴジラ]]&lt;ref&gt;{{lang|en|Godzilla}}、アメリカでも上映されていた&lt;/ref&gt;を合成して[[コードネーム]]としてつけられたのが起源である&lt;ref&gt;[http://www.mozilla.gr.jp/docs/words-en.html#Application-Mozilla-Mozilla もじら組 用語集 『{{lang|en|Mozilla}}』]&lt;/ref&gt;。{{lang|en|NCSA Mosaic}} で知られる NCSA の圧力により、社名も製品名も {{lang|en|Mosaic}} から {{lang|en|Netscape}} に改名を迫られた経緯との関係なのか、{{lang|en|Netscape}} の初期のバージョンの[[リードミー|README]]には「{{lang|en|N}}-{{lang|en|e}}-{{lang|en|t}}-{{lang|en|s}}-{{lang|en|c}}-{{lang|en|a}}-{{lang|en|p}}-{{lang|en|e}} と書いて {{lang|en|Mozilla}} と読む」との記述があった。開発者などの間では {{lang|en|Netscape}} を {{lang|en|Mozilla}} と呼ぶ場合もあり、&lt;code&gt;User-Agent:&lt;/code&gt; フィールドやドキュメントの表記はそのまま残されているものもある。<br /> <br /> {{lang|en|Internet Explorer}} が &lt;code&gt;User-Agent:&lt;/code&gt; フィールドで {{lang|en|Mozilla}} を名乗っている事情は、リリース当時 {{lang|en|Netscape}} が普及しており、ウェブサイトもほとんどが {{lang|en|Netscape}} 用につくられていたことによる。後発でリリースされた {{lang|en|Internet Explorer}} は {{lang|en|Netscape}} 用につくられたウェブサイトの {{lang|en|[[JavaScript]]}} や CGI などが動作するよう、類似の &lt;code&gt;User-Agent:&lt;/code&gt; フィールドを名乗るようにした。{{いつ範囲|現在|date=2013年9月}}も {{lang|en|Internet Explorer}} をはじめとする多くのグラフィカルなブラウザは「{{lang|en|Mozilla}}」という名前を含んだ &lt;code&gt;User-Agent:&lt;/code&gt; フィールドを利用したままであり、そのため、ブラウザ判定は別の部分で行わなければならない。<br /> <br /> ==支部==<br /> 担当地域における {{lang|en|Mozilla}} の普及促進をおこなう支部として、2004年2月に {{lang|en|Mozilla Europe}} が設立されて活動を開始し、2番目の支部として日本国内における {{lang|en|Mozilla}} 製品および関連技術の普及促進を目的とする、米国 {{lang|en|Mozilla Foundation}} の公式支部として設立された非営利法人([[有限責任中間法人]])「{{lang|en|[[Mozilla Japan]]}}」が2004年8月19日から活動を開始した。<br /> <br /> ==日本語化に際して==<br /> {{lang|en|Mozilla}} は、国際化されたソフトウェアであり、日本語を含む多くの言語が利用可能である。ただし、&lt;code&gt;mozilla.org&lt;/code&gt; 自体はメニューなどのGUIを各国語に地域化したパッケージは作成しておらず、地域化モジュールおよびパッケージの作成は有志によって行われている。日本語圏では、1999年中盤(M9)頃から谷口悠太氏、2000年(M13)から2002年中盤頃迄「もじら組」にて日本語パック「JLP&lt;ref&gt;{{lang-en-short|Japanese Language Pack}}&lt;/ref&gt;」がリリースされていたが、バージョン1.0.1で終了している。その後、有志による日本語化作業と配布が分散した形で行われたが、正式な日本語版が用意されない場合もあった。現在は {{lang|en|Mozilla Japan}} のローカライズセンターにて有志による作業とその成果物であるリソースの調整が行われ、正式な日本語版がリリースされている。<br /> <br /> ==開発の終焉==<br /> [[2005年]][[3月10日]]、完全版である {{lang|en|Mozilla Application Suite}} の開発は 1.7 系列で打ち切られることが発表された。それに伴い、開発中だったバージョン 1.8 も α6 で開発中止となった。今後は、{{lang|en|Mozilla Application Suite}} に含まれるブラウザ部分の {{lang|en|[[Mozilla Firefox]]}} や電子メールソフト部分の {{lang|en|[[Mozilla Thunderbird]]}} の開発に軸足を据える事となった。その後の[[2006年]]4月リリースのバージョン 1.7.13 をもっての開発・アップデート終了が発表された。[http://developer.mozilla.org/devnews/index.php/2006/04/12/sunset-announcement-for-fxtb-10x-and-mozilla-suite-17x/]<br /> <br /> 2006年6月以降、{{lang|en|Mozilla}} 1.7 系列も対象となる新たな脆弱性が発見されており、{{lang|en|Mozilla}} ファウンデーションでは {{lang|en|Firefox}} または {{lang|en|Thunderbird}} の最新版へ移行するよう推奨している。<br /> <br /> =={{lang|en|SeaMonkey}}へ==<br /> [[2005年]][[7月2日]]、開発中止となっていた {{lang|en|Mozilla Application Suite}} を {{読み仮名|{{lang|en|SeaMonkey}}|シーモンキー}} として {{読み仮名|{{lang|en|SeaMonkey Council}}|シーモンキー・カウンシル}}が引き継ぐ事が決定。{{読み仮名|{{lang|en|SeaMonkey Project}}|シーモンキー・プロジェクト}}で生まれた改良点は {{lang|en|Mozilla Firefox}} や {{lang|en|Mozilla Thunderbird}} にフィードバックされることとなる。また、その後[[2006年]][[1月30日]]には初の正式版となる {{lang|en|SeaMonkey}} 1.0 がリリースされた。<br /> <br /> ==脚注==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> ==関連項目==<br /> {{Portal|FLOSS|}}<br /> {{commons|Mozilla}}<br /> *{{lang|en|[[Mozilla Foundation]]}}<br /> *{{lang|en|[[Mozilla Japan]]}}<br /> *[[もじら組]]<br /> *{{lang|en|[[MozillaZine]]}}<br /> *{{lang|en|[[Mozilla Firefox]]}} - 旧・{{lang|en|Mozilla Firebird}}。{{lang|en|Mozilla}} ウェブブラウザ部分のみの単体ソフト。<br /> *{{lang|en|[[Camino]]}} - 旧 {{lang|en|Chimera}}。{{lang|en|Gecko}} ベース、{{lang|en|macOS}} ネィティブのウェブブラウザ。<br /> *{{lang|en|[[K-Meleon]]}} - {{lang|en|Windows}} ネイティブの {{lang|en|Gecko}} ブラウザ。<br /> *{{lang|en|[[Mozilla Thunderbird]]}} - {{lang|en|Mozilla}} メールソフト(電子メールクライアント)のみの単体ソフト。<br /> *{{lang|en|[[Mozilla Sunbird]]}} - {{lang|en|Mozilla}} のカレンダーのみの単体ソフト。<br /> *{{lang|en|[[Mozilla Composer]]}} - {{lang|en|Mozilla}} 付属のHTML編集ソフト。<br /> *{{lang|en|[[Nvu]]}} - {{lang|en|Mozilla}} のHTML編集単体ソフト。<br /> *{{lang|en|[[SeaMonkey]]}} - {{lang|en|Mozilla Application Suite}} の後継となる統合ソフト。<br /> *{{lang|en|[[Gnuzilla]]}} - フリーソフトウェア版 {{lang|en|Mozilla}}。<br /> *{{lang|en|[[Open Directory Project]]}}<br /> *{{仮リンク|NPRuntime|en|NPRuntime|label={{lang|en|NPRuntime}}}}<br /> *{{lang|en|[[XULRunner]]}}<br /> *{{lang|en|[[Minimo]]}}<br /> *{{lang|en|[[Bugzilla]]}} - [[バグ]]の追跡・管理(トラッキング)ソフト。<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> *[http://www.mozilla-japan.org/products/mozilla1.x/ {{lang|en|Mozilla Japan}} 開発打ち切りのアナウンス]<br /> *[http://www.mozilla.org/ &lt;code&gt;mozilla.org&lt;/code&gt;]<br /> **[http://www.mozilla.org/seamonkey-transition.html 1.7系列での開発打ち切りの発表]{{en icon}}<br /> **[http://developer.mozilla.org/devnews/index.php/2006/04/12/sunset-announcement-for-fxtb-10x-and-mozilla-suite-17x/ Suiteのセキュリティアップデート打ち切りの発表]{{en icon}}<br /> *[http://www.mozilla-japan.org/ {{lang|en|Mozilla Japan}}]<br /> *[http://www.mozilla.gr.jp/ {{lang|en|もじら組}}]<br /> *[http://www.mozilla.org/projects/seamonkey/ {{lang|en|The SeaMonkey Project}}]<br /> *[http://level.s69.xrea.com/mozilla/jp.html えむもじら {{lang|en|Mozilla}} 日本語ローカライズ版リンク集]<br /> <br /> {{Mozilla プロジェクト}}<br /> {{ウェブブラウザ}}<br /> {{電子メールクライアント}}<br /> {{FOSS}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:Mozilla Application Suite}}<br /> <br /> [[Category:インターネットスイート]]<br /> [[Category:Geckoを用いたウェブブラウザ]]<br /> [[Category:オープンソースソフトウェア]]<br /> [[Category:Mozilla|Application Suite]]<br /> [[Category:1998年のソフトウェア]]</div> 2402:6B00:5609:EF00:5C99:58CF:E6BC:5054
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46