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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=2400%3A7800%3A4975%3A9200%3A5C6B%3AEDA0%3AAEA5%3AEA02&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-16T09:14:34Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 38度線 2018-06-08T12:35:40Z <p>2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02: /* 38度線の成立と朝鮮半島分断 */</p> <hr /> <div>{{Otheruseslist|朝鮮半島の分割占領ラインとしての北緯38度線|基準となった緯線|北緯38度線|国連が設定した現在の南北朝鮮の境界線|軍事境界線 (朝鮮半島)}}<br /> {{Otheruses2||他の38度線|南緯38度線|東経38度線|西経38度線}}<br /> {{朝鮮の事物|<br /> | title=38度線<br /> | picture=[[ファイル:Korean war 1950-1953.gif|center|150px]]<br /> | caption=<br /> | hangeul=38도선 / 38선(삼팔선)<br /> | hanja=三十八度線 / 三八線<br /> | hiragana=さんじゅうはちどせん / さんはちせん<br /> | katakana=サンパルソン<br /> | alphabet-type=[[英語]]表記<br /> | alphabet=38th parallel north<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;38度線&#039;&#039;&#039;(38どせん、{{lang-en-short|&#039;&#039;38th parallel north&#039;&#039;}})は、本来は、[[第二次世界大戦]]末期に[[朝鮮半島]]を横切る[[北緯38度線]]に引かれた[[アメリカ軍]]と[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の分割占領ラインである。北緯38度線上に定められたことから、こう呼ばれる。[[大韓民国]](韓国)では&#039;&#039;&#039;38線&#039;&#039;&#039;({{lang-ko|38선}}、三八線)と呼んでいる。<br /> <br /> 韓国と[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の[[独立]]から[[朝鮮戦争]]勃発までは、それらの国の境界線([[国境]])となっていた。朝鮮戦争後の[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]もやはり38度線と呼ばれることがあるが、正確には一致しない。北緯38度線と軍事境界線は、{{coord|38|0|0|N|126|47|13.20|E}}の地点([[朝鮮民主主義人民共和国]][[黄海北道]][[長豊郡]]沙是里/[[大韓民国]][[京畿道]][[漣川郡]]百鶴面梅峴里)で交差する。<br /> <br /> == 38度線の成立と朝鮮半島分断 ==<br /> 1945年[[8月9日]]、[[ヤルタ会談]]の取り決めに基づき、[[大日本帝国]]に[[宣戦布告]]した[[ソビエト連邦|ソ連]]は、[[ソ連対日参戦]]により[[満州国]]と朝鮮半島北部に侵攻を開始した。この状況を受けて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は対応を検討し、ソ連軍が単独で朝鮮半島を[[占領]]する事態を防ぐため、ソ連に対し半島の分割占領案を提示する事が決まった。<br /> <br /> 8月10日から11日にかけて[[国務・陸軍・海軍調整委員会]]において「北緯38度線で暫定分割する」という案が画定され、[[ハリー・S・トルーマン]]大統領の承認を受けた{{sfn|李圭泰|1992|pp=405}}。この案はソ連側に提示され、8月16日にソ連はこれに同意する{{sfn|李圭泰|1992|pp=405}}。8月17日には[[一般命令第一号]]によって38度線以北の日本軍はソ連軍(赤軍)に、以南はアメリカ軍に降伏することが決定された。この命令は[[ポツダム宣言]]を受諾した大日本帝国に伝達され、9月2日の[[日本の降伏文書|降伏文書]]調印後に[[大本営]]によってこの方針が指令された。<br /> <br /> 38度線が境界となった理由には諸説がある。一つはアメリカ軍が軍事的な便宜の面から、暫定的な境界線として提示したというものである{{sfn|李圭泰|1992|pp=393}}。8月10日から11日の会議の最中、[[ペンタゴン]]において陸軍次官補{{仮リンク|ジョン・マクロイ|en|John J. McCloy}}は、アメリカ軍の明白な進駐限界線の画定を[[ディーン・ラスク]]と[[チャールズ・H・ボーンスティール3世]]大佐に命じた{{sfn|李圭泰|1992|pp=405}}。二人は手元にあった小さな壁掛けの地図を参考にして限界線を北緯38度と決めた{{sfn|李圭泰|1992|pp=405-406}}。二人は朝鮮半島の首都をアメリカ軍の占領区域に設定することが望ましいと考えており、38度線は朝鮮半島をちょうど二分する上に、[[ソウル特別市|ソウル]]が南半分に含まれるという理想的なものであった{{sfn|李圭泰|1992|pp=406}}。二人がこの作業にかけたのは、わずか30分であった{{sfn|李圭泰|1992|pp=406}}。<br /> <br /> ほかには日本軍が[[関東軍]]と[[大本営]]の管轄を38度線付近で分けており、管轄毎にソ連とアメリカに降伏したため、両国の占領区域が38度線となったという説もある&lt;ref&gt;[[関寛治]]「分断の責任-米ソ冷戦は何をもたらしたのかー」、『世界』一九八四年八月号、四九頁&lt;/ref&gt;{{sfn|李圭泰|1992|pp=393}}。ただし、8月9日の大陸命1389号で[[済州島]]をふくむ南朝鮮駐屯の[[第17方面軍 (日本軍)|第17方面軍]]の指揮権は8月10日午前6時より関東軍に移管されており&lt;ref&gt;{{アジア歴史資料センター|C13070054900|「ソ」連は対日宣戦を布告し9日零時以降日「ソ」及満「ソ」国境方面諸所に於て戦闘行動を開始せるも未だ其規模大ならずの件 大陸命第1374号 昭和20年8月9日}}&lt;/ref&gt;、事実ではないと見られている{{sfn|李圭泰|1992|pp=393}}。<br /> <br /> また古い研究では38度線は米ソが事前に合意していた線であるという主張もあるが、[[ポツダム会談]]などの連合国会談でそのような合意が成された事はない。また朝鮮軍として最後まで日本軍部隊として抵抗した朝鮮民族出身日本陸軍軍人らは当初から[[韓国軍]](南朝鮮軍)設立に参加しており、戦後の自由主義政権での建国で一致していたとされ、その後の[[日韓]]交渉において朝鮮戦争の英雄であり、陸軍士官学校で専門教育を受けた日本軍高級将校だった[[朴正煕]](パクチョンヒ・日本名高木正雄日本軍[[満州国]]駐屯軍出身)大統領が、自身の軍事独裁政権時代に戦前の反共主義教育の影響を語り、第二次大戦中は国際法に違反する非正規軍出身で、ソ連軍の傀儡である事はソウル市民から見ても明らかであった共産ゲリラ首領の[[金日成]](ソ連からきた事以外は戦前誰も知らぬ存在であり、さらに「キム・イルソン」という名は伝説上の古代朝鮮史に登場する人名であり、本名であるかすら不明であった)ら[[共産主義者]]及び独裁を是とする共産主義政党への嫌悪感や、法治国家として教育を受けた日本軍[[将校]]出身者が多い韓国軍創始者内での強い敵意が、1945年のポツダム宣言受諾直後から朝鮮半島全域に渡って存在していた事を証言している。そして南北統一での体制選択選挙を一方的に拒否したのはソ連軍の権威によって[[平壌]]の一部を占領しつつあった[[朝鮮労働党]]関係者のみであったという。満州国と朝鮮半島南部を往復する業務に就いていた[[朴正煕]]は、戦前戦中の平壌市でも、京城(現ソウル)に代表される南部と同様に国民学校での公教育と共に、英米と同様の[[反共意識]]や日本内地同様に北部朝鮮においても法治国家としての意識が既に存在し、戦中は特に[[非合法]]かつ極左[[テロリスト]]扱いであった共産党への忌避感が朝鮮半島全域の社会全体の常識であった事も、併せて言及している。{{sfn|李圭泰|1992|pp=393-294}}。<br /> <br /> 1945年8月15日、朝鮮半島と台湾島などを含む多民族国家であった[[大日本帝国政府]]は連合国軍による[[ポツダム宣言]](米ソ両軍による日本領朝鮮半島の北緯38度線を境にした分割占領及び軍政化後の選挙実施を強制する条項を含む)を受諾した。それまで朝鮮民族は、[[1910年]]の[[日韓併合]]以来、約30年以上に渡たって毎年数十倍を誇る志願率で朝鮮人枠を設けていた日本軍将校に志願し、南方への日本軍進軍と共に、朝鮮系日本国籍者として第二次大戦を戦い続けてきていた([[朝鮮民族]]による東南アジアでの日本軍人としての活動は1980年代の大ヒット映画[[戦場のメリークリスマス]]に詳細な描写有り)。そしてフィリピン軍政下の連合国軍捕虜収容所における総責任者であった[[洪思翊]]中将のように、戦後連合国軍によって日本軍人扱いの[[B級戦犯]]として処刑された者も多い程であった。そのため{{要出典|範囲=終戦当時の、ごく限られた極左活動家以外は組織的な独立運動すら発生していなかった朝鮮半島の、一般住民の感覚としては、敵軍であった連合国軍の元で独立する事が強制される事態に陥り、戸惑いと驚きが交叉していたとされる|date=2017年9月}}。しかし[[呂運亨]]を代表とした「[[朝鮮建国準備委員会]]」(建準)、[[チョ晩植|曺晩植]]を代表とした「五道中央行政委員会」が発足するなど、[[朝鮮民族|朝鮮人]]による建国の動きが高まっていったが、それらの組織にはアメリカ軍到着に際して半強制的に組織されたものが多く、混乱を来たしていた。ポツダム宣言では南北を軍政化に置き、時期を指定せずに統一朝鮮政府を選ぶ自由選挙が規定されていたが、しかし統一政府の代表選挙の立候補資格を巡って、両組織の後ろ盾であるアメリカやソ連の利害対立が激化した。特に戦前[[反共]]国家大日本帝国の一部であった事から、統一選挙が実施された場合に不利を承知の[[ソ連軍]]によって設立された[[朝鮮労働党]]を中心とした北部朝鮮は、徹底的に[[ボイコット]]を行い、南北が別々に統一選挙を行う異常事態となった。その結果として[[1948年]]、[[金日成]]を首班とする朝鮮民主主義人民共和国と、[[李承晩]]を[[大統領 (大韓民国)|大統領]]とする大韓民国という2つの国家が、北緯38度線を境にして朝鮮半島に建国された。また、その後も選挙をボイコットし続けた北部ソ連軍政地域では、次第に鉄道などのインフラもソ連軍・北朝鮮軍により封鎖され、[[日本統治時代]]には[[日満]]国境となっていた[[新義州市]]まで直通運転していた[[京義線]]などの南北を繋ぐ大動脈も、人為的に不通となった。しかし1950年の北朝鮮による奇襲攻撃により[[朝鮮戦争]]が勃発し、この体制は崩れ去り、南北統一選挙も北朝鮮による一方的な拒否により実施されないまま全面戦争に至った。<br /> [[ファイル:Map korea without labels.png|thumb|朝鮮戦争後の境界線。陸上部分が軍事境界線。]]<br /> <br /> == 朝鮮戦争と停戦ライン ==<br /> {{Main|軍事境界線 (朝鮮半島)|北方限界線}}<br /> [[1950年]][[6月25日]]に[[朝鮮戦争]]が勃発し、[[1953年]]に[[国連軍]]と[[朝鮮人民軍]]及び[[中国人民志願軍]]の間で[[朝鮮戦争休戦協定|休戦協定]]が結ばれた。この際、休戦協定直前の最前線が停戦ラインとされ、停戦ラインから南北2キロメートルずつを&#039;&#039;&#039;非武装地帯&#039;&#039;&#039;(DMZ, Demilitarized zone)と呼ばれる緩衝地帯として設置し、朝鮮半島を横切る無人の地域となっている。また南北双方は侵入を防ぐ目的で、非武装地帯を何重にも[[鉄条網]]や高圧[[電線]]で囲い、幅4キロメートルの帯状のこの地域に多くの[[地雷]]を敷設している。以後アメリカ軍とソ連軍が引いた境界線に代わり、この停戦ラインが軍事境界線として、2017年現在も南北の事実上の境界線(国境)となっている。<br /> <br /> [[占領行政|占領政策]]の過程で北緯38度線上に1本の境界線が引かれたこと、そして、その後に南北に異なる[[イデオロギー]][[政権]]が生まれたことが3年間の朝鮮戦争の原因となり、各方面へ多くの犠牲をもたらした。しかし、南北の境界線は、戦争中に南へ北へと移動しても消えることはなく、結局、戦争をもたらした北緯38度線の付近に、停戦ラインを引く結果となってしまったため、朝鮮戦争は「意義のない戦争」であると言われることがあるが、実際には[[北朝鮮]]側が1950年に[[ポツダム宣言]]で定められた米ソ分割占領ラインを一方的に破棄し、南部朝鮮地方へ奇襲をかけて各地で国際法違反の虐殺行為を繰り返したのみならず、武力統一を試みたことにより、国際社会の結集を招き、初めて結成された国連軍により開戦前の国境線よりも後退し、前線を押し戻されたという事実のみが残る。朝鮮戦争勃発直前に中国大陸では[[国共内戦]]を経て、[[中国人民解放軍]]が[[海南島]]を完全占領して[[台湾]]を除いた中国大陸全土の支配権をポツダム宣言時の「中国軍」である[[中華民国軍]]から奪っており、ソ連から陸上部隊の派出を断られた北朝鮮軍にとって、鴨緑江付近に追い詰められた段階で、本格介入した[[中国人民解放軍]]による「[[抗美援朝義勇軍]]」(中国領土への戦線拡大を避けて反アメリカ反韓国を標榜した自然発生的義勇軍とされているが、事実上は北朝鮮側に就いた[[中華人民共和国]]の全面的参戦)と呼ばれる、陸海空で数十万人ともいわれる中国人民解放軍の猛反撃が無ければ、[[ダグラス・マッカーサー]]の発案による[[ソウル特別市|ソウル市]]近郊[[インチョン]]逆上陸作戦([[スレッジハンマー]]作戦)の成功により、逆襲に成功した国連軍により、朝鮮半島の韓国主導での武力統一は間違いなかったとされる。逆に1950年代初頭の[[北朝鮮]]がこの時点で攻め滅ぼされていれば、1949年に国共内戦により中華民国の首都[[南京]]を再陥落させ、北京市で成立したばかりであった[[中華人民共和国]]の領土は国連軍の駐屯地と隣接することになり、直前に[[台湾]][[台北市]]に遷都した[[蒋介石]]率いる中華民国軍(台湾亡命後も[[1970年代]]まで[[常任理事国]]の[[中国]]代表権を維持していた)を取り逃がして焦る[[毛沢東]]は、中華人民共和国とアメリカ軍駐屯地域との間に緩衝地帯となっていた北朝鮮が滅亡する事が国連での[[中国]]代表権を持たない中華人民共和国の東西冷戦構造における[[死活問題]]となると判断し、派兵すれば中国人民解放軍に犠牲を出す事が確実であるにも関わらず[[朝鮮戦争]]への全面介入を決断したともされる。このことを踏まえ、米国は中華人民共和国と朝鮮半島有事で米軍が境界線を越えた際の38度線までの米軍撤退などの具体的対応を協議していることを2017年12月に[[アメリカ合衆国国務長官]]の[[レックス・ティラーソン]]は公表している&lt;ref&gt;{{cite web|url= http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/12/14/2017121400919.html|title=米、中国に約束「有事で休戦ライン越えても必ず韓国に戻る」|work = [[朝鮮日報]]|date=2017-12-14|accessdate=2018-02-14}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite web|url= https://mainichi.jp/articles/20171214/k00/00m/030/127000c|title=朝鮮半島有事で協議 核確保手段など詳細に|work = [[毎日新聞]]|date=2017-12-13|accessdate=2018-02-14}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 現在、&#039;&#039;&#039;38度線&#039;&#039;&#039;と言えば、この停戦ラインを指すことが多い。ただし、停戦ラインの38度線はあくまでも「付近」であり、実際には西南西から東北東へと向かう歪な線となった。そのため、第二次世界大戦後から朝鮮戦争勃発までは南側であった[[黄海道]]の海岸部や[[京畿道]]の[[開城市|開城]]は朝鮮戦争停戦後には北側となり(ただし、北側になってからの開城は京畿道ではなく、直轄市あるいは特別工業地区などとして統治された)、逆に[[江原道 (南)|江原道]]の一部([[束草市]]など)は北側から南側となった。<br /> <br /> [[韓国鉄道公社]](KORAIL)の路線では、[[京元線]]が北緯38度線を跨いで運行されている。同線が北緯38度線を越す位置([[哨城里駅|哨城里]] - [[漢灘江駅|漢灘江]]間)には、それを示す標柱なども建てられている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist}}<br /> <br /> ==参考文献 ==<br /> * 李圭泰「[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000315675 連合国の朝鮮戦後構想と三八度線]」(1992年)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[板門店]]<br /> * [[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]<br /> * [[分断国家]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.korea-dmz.com/jp/ Korea-DMZ] {{ja icon}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:さんしゆうはちとせん}}<br /> [[Category:朝鮮半島の南北関係]]<br /> [[Category:朝鮮の歴史]]<br /> [[Category:朝鮮戦争]]<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:緯線]]<br /> [[Category:政治地理学]]<br /> [[Category:朝鮮民主主義人民共和国の国境]]<br /> [[Category:大韓民国の国境]]</div> 2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02 神戸港 2018-06-08T09:46:26Z <p>2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02: /* 現在 */</p> <hr /> <div>{{Infobox 港<br /> | 港名 = 神戸港<br /> | 画像 = [[ファイル:151229 Kobe Port Japan01bs.jpg |300px|空から見る神戸港中枢部]]<br /> | 画像説明 = 左端の[[神戸空港]]も神戸港の泊地内にある<br /> &lt;center&gt;{{Location map|Japan|width=240|float=center<br /> |caption=|mark=Legenda port.svg|marksize=10<br /> |label=神戸港|position=right<br /> |lat_deg=34|lat_min=40|lat_sec=39.17|lat_dir=N<br /> |lon_deg=135|lon_min=13|lon_sec=36.97|lon_dir=E<br /> }}&lt;small&gt;神戸港の位置&lt;/small&gt;&lt;/center&gt;<br /> | 国 = {{JPN}}<br /> | 所在地 = [[兵庫県]][[神戸市]]<br /> | 座標 = {{Coord|34|40|39.17|N|135|13|36.97|E|region:JP-28_type:waterbody|display=inline,title}}<br /> | 開港 = [[1868年]]([[慶応]]3年)<br /> | 管理者 = [[神戸市]]<br /> | 種類 = [[国際戦略港湾]]([[港湾法]])&lt;br/&gt;旧[[スーパー中枢港湾]]([[政令]]指定)<br /> | 泊地面積 = 9,171[[ヘクタール|ha]]&lt;!-- 神戸港水面--&gt;<br /> | 陸地面積 = 2,109ha<br /> | 面積 = <br /> | 係留施設数 = 233<br /> | 埠頭数 = <br /> | 桟橋数 = <br /> | 従業員数 = <br /> | ラベル1 = 出典<br /> | データ1 = [[2016年]]&lt;ref&gt;{{cite web<br /> |title=神戸市:神戸港の概要<br /> |url=http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/harbor/gaiyou.html<br /> |date=2017-01-04<br /> |publisher=神戸市 みなと総局 みなと振興部 振興課<br /> |accessdate=2018-04-22<br /> }}&lt;/ref&gt;<br /> | ラベル2 = <br /> | データ2 = <br /> | ラベル3 = <br /> | データ3 = <br /> | 年度 = [[2017年]]&lt;ref&gt;<br /> {{cite web<br /> |title=神戸港の統計<br /> |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/data/statistics/port/img/No81201712.pdf<br /> |year=2017<br /> |publisher=神戸市<br /> |accessdate=2018-04-17}}<br /> &lt;/ref&gt;<br /> | 発着数 = {{decrease}}6,733隻(外航)&lt;br/&gt;{{decrease}}28,201隻(内航)<br /> | 貨物取扱量 = {{increase}}5,272万[[トン]](外貿)&lt;br/&gt;{{increase}}4,714万トン(内貿)<br /> | コンテナ数 = {{increase}}2,218,861(外貿)&lt;br/&gt;{{increase}}705,318(内貿)<br /> | 貨物総額 = <br /> | 旅客数 = {{increase}}10万8千人(外国)&lt;br/&gt;{{decrease}}182万1千人(内国)<br /> | 売上高 = <br /> | 利益 = <br /> | ラベル4 = 主要輸出品<br /> | データ4 = 産業機械、化学工業品、自動車<br /> | ラベル5 = 主要輸入品<br /> | データ5 = 石炭、衣服・身廻品・履物、化学薬品<br /> | ラベル6 = <br /> | データ6 = <br /> | 公式サイト = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;神戸港&#039;&#039;&#039;(こうべこう)は、[[兵庫県]][[神戸市]]にある[[港湾]]。[[港湾法]]上の[[国際戦略港湾]]に指定されている。 日本の主要な国際貿易港(五大港)の一つで、[[スーパー中枢港湾]]の指定を[[大阪港]]と共に受けている。[[1868年]][[1月1日]]([[慶応]]3年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]])に開港。現在の[[日本三大一覧#港湾|日本三大旅客港]]の一つ。<br /> [[ファイル:Port of Kobe01s3780.jpg|thumb|500px|神戸港夕景([[新港第一突堤]]から西を望む)]]<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[六甲山]](六甲山系)の連なる山々から[[大阪湾]]に至る急峻な地形によって、水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」として知られる日本を代表する国際貿易港である。[[港則法]]・[[関税法]]上は、[[尼崎西宮芦屋港]]・大阪港・[[堺泉北港]]とあわせて&#039;&#039;&#039;阪神港&#039;&#039;&#039;と称される(港則法上は[[特定港]]に指定されている)。<br /> <br /> その歴史は、&#039;&#039;&#039;[[大輪田泊]]&#039;&#039;&#039;(おおわだのとまり)や&lt;strong&gt;兵庫津&lt;/strong&gt;(ひょうごのつ)と呼ばれた兵庫港に始まり、かつての都であった[[奈良]]や[[京都]]と、日本国内の東西航路や大陸との交易の拠点として古くから栄えてきた。また、商業や工業が集積する[[大阪]]に近いこともあり、近代以降も国際貿易の拠点として規模を拡充した結果、1970年代には[[阪神工業地帯]]の輸出港として[[コンテナ]]の取扱個数が世界一になるなど世界有数の港として知られていた。<br /> <br /> 日本の物流機能に対する役割を担うために、オーバー[[パナマックス]]船への対応をした国内初の大水深高規格コンテナバースの供用の開始や、1960年代から行われた[[ポートアイランド]](当時、世界最大の人工島)、[[六甲アイランド]]の建設や[[メリケンパーク]]、[[神戸ハーバーランド]]といった観光や商業施設の開発、沖合いに[[神戸空港]]を開港するなど、日本の[[ウォーターフロント]]開発の先駆けとなるものも多く、各地に与えた影響は小さくない。<br /> <br /> また、後背地たる神戸市街地は、明治時代に[[神戸外国人居留地]]として整備された建造物が数多く残っているほか、エキゾチックな市街地の雰囲気や、神戸の[[夜景]]スポットとして非常に有名なハーバーランドやメリケンパーク周辺は、観光地としても人気が高い地域となっている。<br /> <br /> == 施設状況 ==<br /> ===面積===<br /> *港湾区域 9,171ha<br /> *臨港地区 2,109ha<br /> <br /> ===埠頭・岸壁===<br /> [[ファイル:Rokuicontainer.JPG|thumb|200px|六甲アイランドコンテナバーズ]]<br /> *兵庫突堤(兵庫埠頭)&lt;!--埠頭のなかに突堤部分があり、そこを兵庫突堤という。--&gt;<br /> *高浜岸壁<br /> *[[中突堤]]<br /> *[[新港 (神戸市)|新港]]&lt;!--新港東埠頭も新港地区に含まれる。--&gt;<br /> **新港第一・第二・第三・第四突堤<br /> **新港東埠頭<br /> *[[摩耶埠頭]]<br /> *ポートアイランド<br /> **ポートアイランド西岸壁(PI-U・PI-V)<br /> **ポートアイランド北埠頭(PL1~PL3)<br /> **ポートアイランド中埠頭(PL4~PL15)<br /> **ポートアイランド南埠頭<br /> **特定国際コンテナ埠頭(PC13~PC18)<br /> *[[六甲アイランド]](RF1~RF3、RC1~RC7)<br /> *神戸空港島<br /> **[[神戸空港海上アクセスターミナル]]<br /> &lt;!--旅客船ターミナルは埠頭の定義をなしており、「外航・内航定期客船航路と施設」の項目にまとめてある。--&gt;<br /> <br /> == 港勢 ==<br /> [[2017年]]([[平成]]29年)の神戸港における港勢は次の通りである。<br /> === 入港隻数 === <br /> * 総入港隻数 34,934([[総トン数]]185,771)<br /> ** 外航船入港隻数 6,733(総トン数139,398)<br /> *** フルコンテナ船 3,899隻、貨物船 1,099隻、液体タンカー 563隻、自動車専用船 400隻、客船 53隻ほか<br /> ** 内航船入港隻数 28,201(総トン数46,373)<br /> *** [[貨物船]] 10,746隻、客船 8,155隻、[[フェリー]] 2,669隻ほか<br /> <br /> === 取扱貨物量 ===<br /> ; 外貨<br /> :[[輸出]] 2,407万トン(うち[[コンテナ]]個数 1,185,071 [[TEU]])<br /> :*主要輸出品:産業機械16%、染料・塗料・合成樹脂・その他化学工業品13%、完成自動車12%<br /> :*主要輸出相手国:中国28%、アメリカ11%、シンガポール10%、台湾9%<br /> :[[輸入]] 2,865万トン(うちコンテナ個数 1,033,790 TEU)<br /> :*主要輸入品:石炭12%、衣服・身廻品・履物6%、化学薬品6%<br /> :*主要輸入相手国:中国30%、アメリカ19%、オーストラリア8%、インドネシア7%<br /> ;内貨<br /> :移出:1,962万トン(うちコンテナ個数 309,497 TEU)<br /> :移入:2,752万トン(うちコンテナ個数 395,821 TEU)<br /> <br /> コンテナ取扱量は2000年の時点で世界23位であるが、北米航路、欧州・地中海航路の寄港数は多く[[中枢国際港湾]]として機能している&lt;ref&gt;<br /> {{cite web<br /> |title= 大阪湾域における港湾機能効率化に関する提言 (PDF)<br /> |url=http://www.osaka.cci.or.jp/Chousa_Kenkyuu_Iken/Iken_Youbou/k1410.pdf<br /> |date=2002-10<br /> |publisher=大阪商工会議所<br /> |accessdate=2010-11-30}}<br /> &lt;/ref&gt;。なお、2015年の時点では、東京30位、横浜52位、名古屋56位、神戸59位、大阪60位、と日本の各港は軒並み順位を落としている&lt;ref&gt;<br /> {{cite web<br /> |title= 世界の港湾別コンテナ取扱個数ランキング(1980年,2016年(速報値))<br /> |url=http://www.mlit.go.jp/common/000228237.pdf<br /> |date=2017<br /> |publisher=国土交通省<br /> |accessdate=2018-04-22}}<br /> &lt;/ref&gt;。<br /> ;利用客数(乗降人員)<br /> :外航船:客船及びフェリー 10万8千人<br /> :内航船:客船 95万3千人、フェリー 86万8千人<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> <br /> === 古代 ===<br /> <br /> &lt;!-- 西宮の務古水門は現在の神戸港の区域ではない。<br /> 「[[難波津]]」([[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]周辺)、「[[住吉津]]」(同[[住吉区]]周辺)と並んだ日本を代表していた港「務古水門」(「水門」とは港の意。[[西宮市]]付近といわれている「務古」とは、阪神地域の古地名で、[[六甲山]]を昔は「むこさん」と読み[[武庫川]]はこれに由来する。)がその起源ともいわれている。&lt;br&gt;現在でも、[[西日本旅客鉄道|西日本旅客鉄道(JR西日本)]][[西ノ宮駅]]の南には古代に大規模な港だったことを表す「津門(つど)」という地名が残っており、西宮市津門稲荷町の鎮守・津門[[神社]]には、「務古水門故地」の伝承が残っている。<br /> --&gt;<br /> 奈良時代に五泊の一つとして大輪田泊が整備される。これが記録に残っている上での神戸港の始まりである。<br /> === 中世 ===<br /> [[ファイル:Owadanotomari-iwakura.jpg|thumb|right|170px|大輪田泊の石椋]]<br /> [[遣隋使]]・[[遣唐使]]の時代を経て[[平安時代]]末(12世紀)、[[平清盛]]によって「大輪田泊(おおわだのとまり)」(神戸市[[兵庫区]])の修築が行われて人工島「[[経が島]]」が建設されて[[日宋貿易]]の拠点となる。その後、[[僧]]・[[重源]]による改修を経て[[鎌倉時代]]に国内で第一の港として「兵庫津(ひょうごのつ)」と呼ばれた。[[室町時代]]に、兵庫津は[[日明貿易]]の拠点として再び国際貿易港としての地位を得る。<br /> <br /> === 近世 ===<br /> [[江戸時代]]には、[[鎖国]]政策のもとで兵庫津は西廻り航路の[[北前船]]や[[内海船]]の要港、[[朝鮮通信使]]の寄港地として栄えて1万人前後の人口を誇る。また、[[灘五郷]]として酒造りが活発になった所でもある。<br /> <br /> [[1863年]]([[文久]]3年)、江戸幕府の[[軍艦奉行]]であった[[勝海舟]]は海防のための[[幕臣]]の教育施設として「海軍操練所」の設立を、呉服商[[網屋吉兵衛]]が私財を投じて竣工させた「船たで場(ふなたでば)」を利用することを考え当時の[[征夷大将軍|将軍]]であった[[徳川家茂]]に建白した。翌[[1864年]]([[元治]]元年)、[[明治維新]]に多大な功績を残した[[坂本龍馬]]が塾長を勤めた諸藩の[[志士]]のための「海軍塾」と共に開設されたが勝の更迭と同時に「[[神戸海軍操練所]]」と「[[神戸海軍塾]]」は閉鎖になった。同じ年に建てられた海防の要・[[和田岬砲台]]が、今も神戸市兵庫区に現存している。開港100周年の[[1968年]]([[昭和]]43年)には「海軍操練所」があった場所に「史蹟 旧海軍操練所跡」碑が建立された。<br /> <br /> [[1858年]]([[安政]]5年)、[[日米修好通商条約]](および日米修好通商条約を含む[[安政五カ国条約]])により1863年1月1日(文久2年12月7日)に開港が定められたが[[朝廷]]の反対により[[ロンドン覚書]]によって5年後の1868年1月1日(慶応3年12月7日)、「兵庫津」より東にある「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」&lt;ref&gt;『新修 神戸市史 歴史編II 近世』(神戸市、1992年(平成4年)) 910~917頁「兵庫(神戸)開港の準備」はつぎのように述べる。「ところで、兵庫開港について、条約にその地名ははっきり「兵庫」と記され、また政治の場でもつねに「兵庫開港」と呼ばれていた。しかし、のちに実際の貿易港となったのは厳密な意味での兵庫港(和田岬と湊川先の間)ではなく、その東側の神戸村の海岸であった。この違いはどのようにして生じたのであろうか。〔中略〕。〔慶応3年〕十二月七日付けで定められた開港関係規則によると、大坂で貿易取引を行う場合でも、大坂港への外国船の入港は禁止され、輸出入品はすべて「兵庫運上所」で改めを受け、関税を納めることとされている。この兵庫運上所(後の神戸税関)は、居留地前の海岸の一角に設けられたものであるから、明らかにその海岸を&#039;&#039;&#039;事実上の「兵庫港」&#039;&#039;&#039;として、そこで輸出入品を積み降ろすことが定めされているのである。このように「兵庫開港」は、旧来の兵庫港そのものを開くのではなく、その東側の海岸に新たに海外貿易港を開設するという結果を見たのであり、その区域が神戸港と呼ばれることになるのである。なお、その後明治二十五年(一八九二)に至り、貿易量の増大に伴って神戸港の港域が拡大され、兵庫港もその内に含まれるようになった」(ゴシックによる強調は引用者による)。&lt;/ref&gt;として開港が実現した。兵庫(神戸)開港にいたる経緯については、[[両都両港開市開港延期問題]]、[[文久遣欧使節]]、[[兵庫開港要求事件]]、[[神戸外国人居留地#兵庫開港]]も参照。<br /> <br /> === 近代 ===<br /> [[ファイル:Sesshu Kobe coast prosperity view.jpg|thumb|right|300px|摂州神戸海岸繁栄図]]<br /> 「神戸」は当時、開港場一帯の村の名前でしかなかったが、公文書には、開港直後の1868年(慶応4年、[[明治]]元年)には「神戸港」の名称がすでに現れている&lt;ref&gt;例えば、[[国立公文書館]]所蔵の以下の文書。<br /> *「東久世通禧各国公使ヲ神戸港ニ会シ太政復古ヲ報ス」([[2月8日]]([[1月15日 (旧暦)|1月15日]])、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五十四巻・外国交際・外国贈答、【請求番号】本館-2A-009-00・太00054100)<br /> *「津山藩ノ大坂警衛ヲ罷メ神戸港ヲ守ラシム」([[5月29日]]([[4月8日 (旧暦)|閏4月8日]])、太政類典草稿・第一編・慶応三年~明治四年・第九十七巻・保民・警察四、【請求番号】本館-2A-024-08・太草00098100)<br /> *「川蒸気船神戸港於テ製造届」(1月、公文録・明治元年・第十二巻・戊辰一月~己巳六月・諸侯伺(蜂須賀阿波守茂韶)、【請求番号】本館-2A -009-00・公00012100)<br /> *「神戸港於テ外国人ヘ兵刃ヲ加ヘ発砲ニ及候家来ノ者処分御達」(1月、公文録・明治元年・第二十三巻・戊辰一月~八月・諸侯伺(池田備前守茂政)、【請求番号】本館-2A -009-00・公00023100)<br /> *「神戸港ニテ備前少将家臣日置帯刀従卒外国人ヘ発砲一件」(外務省記・写本、【請求番号】165-0117)<br /> なお、『神戸開港三十年史』(村田誠治編、神戸市開港三十年記念会、[[1898年]](明治31年))は「凡例」で書名の由来をつぎのように説明する。「慶応三年十二月七日兵庫開港の式は行はれたれども、未だ曾て神戸開港の事なし。今本書に神戸開港三十年史を以て題するは稍々命名の当を失ふが如しと雖も、而かも名に拠らずして実に従ふ時は自から然らざるを得ざるものあるなり。抑も安政条約は独立国対等の条約にあらずして、彼は治外法権を有し、我は内地雑居を許さず。此に於て外人居留地の神戸村地内に設定さるゝや、神戸、二ツ茶屋、走水の三村を以て、互市場と為せり。而して此時未だ神戸港なる名称は生ぜざるなり。明治元年更始の新政を施行さるゝに及び、神戸、二ツ茶屋、走水の三村を合して神戸町と命名し、其際創めて公文上に神戸港なる文字を見るに至る故に、兵庫開港と云へるは単に其名のみにして兵庫津は最初より内外互市に関係する所なし。是を以て本書は乃ち名を棄て実に拠り、神戸開港三十年史とは名づけたり」。&lt;/ref&gt;。やがて[[外国人]]の手によって居留地ができ始め、[[西洋文化]]の入り口として発展して「神戸」の名が著名になっていった&lt;ref&gt;[[1875年]](明治8年)頃まで、湊川・旧生田川河口間の開港場を「兵庫港」と呼ぶ公文書も散見される。&lt;/ref&gt;。[[1872年]](明治5年)、[[和田岬]]に[[和田岬灯台]]が設置されて[[1892年]](明治25年)に勅令&lt;ref&gt;明治25年勅令第77号・神戸港船舶碇繋所区域拡張。[[アジア歴史資料センター]]で閲覧可能。JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03020128700&lt;/ref&gt;により、旧生田川(現[[フラワーロード]])河口から和田岬までの全体が「神戸港」となる。<br /> <br /> 政府の[[富国強兵]]策による近代化で[[工業]]が[[貿易]]と共に興り、しだいに大阪と共に[[阪神工業地帯]]を形成していく。[[日清戦争]](明治27-28年)後には[[香港]]・[[上海市|上海]]を凌ぐ[[東洋]]最大の港となって商社「[[鈴木商店]]」などに代表される海運業が隆盛、[[ロンドン]]・[[ニューヨーク]]・[[ハンブルク]]と並ぶ世界四大海運市場として世界に名を知られるようになっていった。<br /> <br /> === 戦後 ===<br /> [[第二次世界大戦]]での敗戦により、神戸港は[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)]]に接収される。[[1951年]]([[昭和]]26年)、占領は解除となるが[[朝鮮戦争]]や[[ベトナム戦争]]の影響から撤収は段階的なものとなり、最後までGHQに接収されていた新港第6突堤が返還されたのは[[1974年]](昭和49年)のことである。返還の翌年、神戸市議会の全会一致により「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を採択、寄港する外国軍の艦船に[[非核三原則]]に基づく「非核証明書」の提出を義務づけた。<br /> <br /> アジア最大のマザーポート([[ハブ港]])としての地位は戦後も揺るがず、日本の[[高度成長期]]の発展を支えた。[[1967年]](昭和42年)に日本初の[[コンテナターミナル]]を備えた[[摩耶埠頭]]が竣工。[[1973年]](昭和48年)から[[1978年]](昭和53年)までコンテナ取扱個数は世界一を誇り、常に最先端の港湾設備を持つ世界有数の国際貿易港として栄えた。<br /> <br /> === 阪神淡路大震災 ===<br /> [[1995年]](平成7年)[[1月17日]]には、[[阪神・淡路大震災]]([[兵庫県南部地震]])によって甚大な被害を受けるが、約2か月後の[[3月20日]]には、摩耶埠頭でコンテナの積み下ろしが再開される。2年後の[[1997年]](平成9年)[[3月31日]]には全面復旧し、[[5月19日]]に神戸港復興宣言が出される。<br /> <br /> しかし、[[東アジア]]諸港から集荷していたトランシップ貨物は、[[アジア]]諸港のコンテナターミナルが急速に拡充され始めたことで、既に[[1990年代]]初めから減少傾向に転じていて、これが震災によって[[大韓民国]]の[[釜山港]]へのシフトが加速した。震災前まではコンテナ取扱量で世界第3位の地位を得ていた国際[[ハブ港]]であったが、釜山港にハブ機能を譲り渡した格好となった。<br /> <br /> 大型化する船舶のための十分な水深を、神戸港が実現できなかったことが直接的な最大の原因であるが、その本質は復興予算が不十分であり、震災後傷ついた港を国際ハブ港の条件を満たすように、ドラスティックに復興させる工事を実現できなかったことが原因だと言われている&lt;ref&gt;[http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20110315/263826/?P=2 緊急寄稿、東日本大震災の復興に何が必要か] 森永卓郎 厳しい時代に生き残るには Safety Japan &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 神戸港の全コンテナ取扱個数に占めるトランシップ貨物の比率は、震災直前の[[1994年]] (平成6年)で31.6%あったが、[[2007年]] (平成19年)の時点では、震災前の4%にまで落ち込んでいる&lt;ref&gt;[http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/_info/port_data.html]国交省神戸港事務所&lt;/ref&gt;。<br /> 内航フィーダー貨物及びローカル貨物は震災前の貨物量もしくはそれ以上の貨物量に復活しているが、前述のトランシップ貨物量の減少により、平成19年の総貨物量は震災前の1994年(平成6年)実績の75%である。<br /> <br /> 港湾施設面では、順調に復興を遂げた神戸港ではあるが、震災の経験を記憶するために、港の一角には震災当時の状態を保存した[[神戸港震災メモリアルパーク]]が設置されている。<br /> <br /> なお、[[1907年]](明治40年) - [[2003年]](平成15年)には、船舶との貨物提携輸送を行うために、[[鉄道駅#貨物駅|貨物駅]]の&#039;&#039;&#039;小野浜荷扱所 - [[神戸港駅]]&#039;&#039;&#039;が港に設けられて運行されていた。<br /> <br /> === 現在 ===<br /> [[ファイル:Concerto kobe07s3200.jpg|thumb|250px|&lt;small&gt;[[高浜岸壁]]から中突堤を望む(手前から[[神戸コンチェルト|コンチェルト]]、[[ロイヤルプリンセス (遊覧船)|ロイヤルプリンセス]]、[[飛鳥II]])&lt;/small&gt;]]<br /> 神戸港は大阪港と連携しながら、コンテナ物流面での国際競争力強化を図る[[スーパー中枢港湾]]の指定を受け、ポートアイランド2期コンテナターミナルの一部(PC14-18バース)を対象に、行政支援策が注入されている。<br /> <br /> 外航客船には、もっぱら[[神戸ポートターミナル]]に着岸させていた。2006年(平成18年)[[1月11日]]から[[中突堤旅客ターミナル]]に[[税関]]・[[入管]]・[[検疫]]の出入国機能を設けて、着岸できるようにしている。<br /> <br /> [[2007年]]と[[2009年]]には、[[神戸ビエンナーレ]]という[[現代美術]]を軸にする芸術文化の国際的な展覧会が、神戸港を含む神戸の中心地などで開催された。震災からおよそ10年を経て、見事に復興を遂げた神戸が、被災地というイメージを取り払い、さらなる飛躍をはかるとともに、芸術文化の街として活性化することを目的としている。<br /> <br /> [[2009年]]より新たな試みとして「神戸スウィング・オブ・ライツ」が8月3日から23日まで神戸市中央区、ハーバーランド・モザイク周辺で開催された。これはジャズのリズムに合わせ、色とりどりのサーチライトやレーザーが神戸港を照らす音と光のイベントで、[[香港]]で行われている光と音楽の祭典「[[シンフォニー・オブ・ライツ]]」を参考にしたもので、主として[[新型インフルエンザ]]から立ち直った神戸の姿を全国にアピールし、風評被害により減少した観光客数の回復の実現のためである。<br /> <br /> === 年表 ===<br /> * [[812年]]([[弘仁]]3年) 大輪田泊修築<br /> * [[1174年]]([[承安 (日本)|承安]]4年) [[平清盛]]により、大輪田泊に経が島が竣工。[[日宋貿易]]の拠点となる<br /> * [[1196年]]([[建久]]7年)[[重源]]の奏上による大輪田泊修築<br /> * [[1397年]]([[応永]]4年) [[足利義満]]により兵庫が[[日明貿易]]の拠点となる<br /> * [[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年) [[菱垣廻船]]の大坂・兵庫・江戸の航路開設<br /> * [[1799年]]([[寛政]]11年) [[高田屋嘉兵衛]]により択捉航路が開設され北海道物産の交易基地となる<br /> * 1864年(元治1年) [[勝海舟]]により、[[坂本龍馬]]を塾頭とする[[神戸海軍操練所]]開設<br /> * 1867年(慶応3年) &#039;&#039;&#039;兵庫開港&#039;&#039;&#039;<br /> * 1868年(慶応4年) 兵庫運上所(現[[神戸税関]])業務開始。開港場が神戸港と呼ばれ始める<br /> * 1871年(明治4年) [[イギリス人]][[ジョン・マルシャル]]が初代神戸港長に任命される<br /> * 1892年(明治25年) 明治25年勅令第77号神戸港船舶碇繋所区域拡張により、旧生田川河口から和田岬までに神戸港の範囲を拡張<br /> * [[1899年]](明治32年) [[兵庫運河]]竣工。[[神戸外国人居留地|外国人居留地]]が神戸市に返還<br /> * 1907年(明治40年) 第一期修築工事着工<br /> * [[1908年]](明治41年) ブラジル移民第一次船「[[笠戸丸]]」が出航<br /> * [[1917年]]([[大正]]6年) 川崎商船学校開校(後の[[神戸商船大学]]・現[[神戸大学]]海事科学部)<br /> * [[1919年]](大正8年) 第二期修築工事着工<br /> * [[1920年]](大正9年) [[神戸海洋気象台]]開設<br /> * [[1922年]](大正11年) 第一期修築工事完了(新港第1~第4突堤竣工)<br /> * [[1923年]](大正12年) [[重要港湾]]として認定<br /> * [[1930年]](昭和5年) 兵庫第2突堤竣工。[[観艦式]]記念「海港博覧会」開催<br /> * [[1932年]](昭和7年) 兵庫第1突堤竣工<br /> * [[1933年]](昭和8年) 第1回「みなとの祭」開催<br /> * [[1938年]](昭和13年) 中突堤竣工<br /> * [[1939年]](昭和14年) 第二期修築工事完了(新港第5~第6突堤竣工)<br /> * [[1945年]](昭和20年) 太平洋戦争終戦。神戸港全域がGHQに接収される<br /> * [[1948年]](昭和23年) 神戸海上保安本部(現[[第五管区海上保安本部]])設置<br /> * 1951年(昭和28年) 特定重要港湾に指定されて神戸市が港湾管理者となる<br /> * [[1952年]](昭和27年) 灘埠頭竣工。第1回国際港湾会議開催<br /> * [[1953年]](昭和28年) 新港第7突堤(西)竣工<br /> * [[1956年]](昭和31年) 新港第7突堤(東)竣工<br /> * [[1963年]](昭和38年) [[神戸ポートタワー]]竣工<br /> * [[1965年]](昭和40年) 兵庫第3突堤竣工<br /> * [[1966年]](昭和41年) ポートアイランド1期着工<br /> * 1967年(昭和42年) 神戸開港100年祭記念式典。摩耶埠頭、新港第8突堤(東)竣工。[[シアトル]]、[[ロッテルダム]]との姉妹港提携<br /> * [[1970年]](昭和45年) 神戸ポートターミナル、[[神戸大橋]]完成<br /> * [[1971年]](昭和46年) 第1回[[みなとこうべ海上花火大会]]開催<br /> * [[1972年]](昭和47年) 六甲アイランド着工<br /> * 1974年(昭和49年) GHQからの新港第6突堤返還。GHQの完全撤収。<br /> * [[1975年]](昭和50年) 神戸市議会で[[非核神戸方式]]を採択。<br /> * [[1977年]](昭和52年) 神戸開港110年記念式典<br /> * 1978年(昭和53年) 須磨ヨットハーバー竣工<br /> * 1980年(昭和55年) [[天津市|天津]]との友好港提携<br /> * [[1981年]](昭和56年) ポートアイランド1期竣工。「[[神戸ポートアイランド博覧会|ポートピア&#039;81]]」開催。[[ポートライナー]]開通 <br /> * [[1987年]](昭和62年) [[メリケンパーク]]竣工。[[神戸海洋博物館]]完成。神戸開港120年記念式典。ポートアイランド2期着工<br /> * [[1989年]](平成元年) 兵庫突堤再開発着工<br /> * [[1990年]](平成2年) 神戸・天津友好港提携10周年記念式典<br /> * [[1992年]](平成4年) 神戸ハーバーランド竣工。六甲アイランド竣工。[[六甲ライナー]]開通 <br /> * [[1993年]](平成5年) 兵庫第2・3突堤間埋立完了。[[ハーバーハイウェイ]]全線開通(ポートアイランド~六甲アイランド)<br /> * 1995年(平成7年) 阪神・淡路大震災発生、港湾に甚大な被害。兵庫第1・2突堤間、新港第5~第8突堤間、摩耶埠頭第1・2突堤間の埋立着工<br /> * [[1996年]](平成8年) 大水深高規格コンテナバース(PC-14、15)供用開始<br /> * 1997年(平成9年) 阪神・淡路震災の復旧完了。神戸港震災メモリアルパーク完成。神戸開港130年記念式典<br /> * [[1998年]](平成10年) 中突堤中央ターミナル(かもめりあ)供用開始。新港東埠頭竣工(新港第5~第8突堤間埋立)<br /> * [[1999年]](平成11年) 港島トンネル開通(新港東埠頭~ポートアイランド)。神戸空港着工<br /> * [[2000年]](平成12年) [[東神戸フェリーセンター]]跡地に「サンシャインワーフ神戸」開店<br /> * [[2002年]](平成14年) [[静脈物流|総合静脈物流拠点]](リサイクルポート)の第一次指定取得。「第1回[[Kobe Love Port・みなとまつり]]」開催<br /> * 2003年(平成15年) 神戸港一帯が[[構造改革特別区域]]の「[[国際みなと経済特区]]」として認定<br /> * 2004年(平成16年) スーパー中枢港湾・「阪神港」として指定<br /> * 2005年(平成17年) ポートアイランド2期竣工。指定特定重要港湾になる<br /> * 2006年(平成18年) 神戸空港開港<br /> * [[2007年]](平成19年) ポートアイランドコンテナバース西地区跡地に私立大学が開校<br /> * [[2009年]](平成21年)「神戸スウィング・オブ・ライツ」開催。<br /> <br /> == 姉妹港・友好港 ==<br /> ;姉妹港<br /> :{{Flagicon|NED}} [[ロッテルダム港]]([[オランダ王国]]) - 1967年(昭和42年)姉妹港提携<br /> :{{Flagicon|USA}} シアトル港([[アメリカ合衆国]]) - 1967年(昭和42年)姉妹港提携<br /> ;友好港<br /> :{{Flagicon|CHN}} 天津港([[中華人民共和国]]) - 1980年(昭和55年)友好港提携<br /> <br /> ==外航・内航定期客船航路と施設==<br /> {{右|<br /> [[ファイル:Kobe takahama01s3200.jpg|thumbnail|none|[[高浜旅客ターミナル]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;(接岸するコンチェルト)&lt;/small&gt;]]<br /> [[ファイル:Aska2 Kobe06s3200.jpg|thumbnail|none|[[中突堤旅客ターミナル]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;(接岸する飛鳥II)&lt;/small&gt;]]<br /> [[ファイル:151003 Port of Kobe Japan06s3.jpg|thumb|none|[[新港 (神戸市)|神戸三宮フェリーターミナル]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;(接岸する「こうべエキスプレス」)&lt;/small&gt;]]<br /> [[ファイル:Kobe port terminal11s3200.jpg|thumb|none|[[神戸ポートターミナル]]Q2・Q1&lt;br /&gt;&lt;small&gt;(接岸する[[ふじ丸]]と[[エキスプローラー (旅客船)|エキスプローラー]])&lt;/small&gt;]]<br /> [[ファイル:Kobe Rokko Island Ferry Terminal12s3872.jpg|thumb|none|[[六甲アイランドフェリーターミナル]]&lt;small&gt;(RF1のフェリーダイヤモンドとRF2のフェリーせっつ)&lt;/small&gt;]]<br /> [[ファイル:Rokko Passenger Ship Terminal09s3200.jpg|thumb|none|[[六甲船客ターミナル]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;(接岸する琉球エクスプレス)&lt;/small&gt;]]<br /> }}<br /> ===高浜岸壁===<br /> ;[[高浜旅客ターミナル]]<br /> *神戸クルーザー - [[神戸コンチェルト|コンチェルト]](2,138トン、神戸港~明石海峡周遊)<br /> *神戸ベイクルーズ - [[ロイヤルプリンス]](170トン、神戸港周遊)<br /> <br /> ===中突堤===<br /> ;中突堤旅客ターミナル<br /> *ルミナス観光 - [[ルミナス神戸2]](4,778トン、神戸港~[[明石海峡]]周遊)<br /> ;[[中突堤中央ターミナル]](かもめりあ)<br /> *神戸リゾートライン - [[海賊船ヴィラジオイタリア]]<br /> **神戸中突堤 - ポートアイランド - 神戸空港<br /> *[[神戸ベイクルーズ]] - [[ロイヤルプリンセス (遊覧船)|ロイヤルプリンセス]](414トン、神戸港周遊)、[[ロイヤルプリンス]](170トン、神戸港周遊)<br /> *[[早駒運輸]] - シーグレース(190トン、神戸港~明石海峡周遊)、ロマン3(60トン、神戸港周遊)、ファンタジー(神戸空港島周遊・ポートアイランド)<br /> <br /> ===新港===<br /> ;[[新港 (神戸市)|神戸三宮フェリーターミナル]](新港第三突堤)<br /> *[[ジャンボフェリー]] - [[りつりん2]](3,664トン)、[[こんぴら2]](3,639トン)<br /> **&#039;&#039;&#039;神戸港&#039;&#039;&#039; - [[高松港#高松東港|高松東港]]<br /> *[[宮崎カーフェリー]] - [[こうべエキスプレス]](11,933トン)、[[みやざきエキスプレス]](11,931トン)<br /> **&#039;&#039;&#039;神戸港&#039;&#039;&#039; - [[宮崎港|宮崎港フェリーターミナル]]<br /> ;[[神戸ポートターミナル]](新港第四突堤)<br /> *日中国際フェリー - [[新鑑真]](14,543トン)<br /> **&#039;&#039;&#039;神戸港&#039;&#039;&#039; - [[上海市|上海港]]<br /> *パンスターライン - パンスターフェリードリーム号、パンスターフェリーサニー号<br /> **&#039;&#039;&#039;神戸港&#039;&#039;&#039; - [[釜山港]]<br /> <br /> ===ポートアイランド===<br /> ;ポートアイランド西岸壁<br /> *セラヴィ観光汽船 - ヴィラジオイタリア<br /> **神戸空港 - ポートアイランド - 神戸中突堤<br /> ;ポートアイランド ライナーバース<br /> *PL2 [[日本通運]]、日東物流(川崎汽船系)<br /> *PL3 [[澁澤倉庫]]<br /> *PL4 [[三井倉庫]]<br /> *PL5 辰巳商會<br /> *PL6 [[住友倉庫]]<br /> *PL7 大森廻漕店<br /> *PL8 辰巳商會<br /> *PL9 大洋運輸<br /> *PL10 神和<br /> *PL11 ニッケル・エンド・ライオンス<br /> *PL12 ニッケル・エンド・ライオンス<br /> *PL13 [[日新]]<br /> *PL14 [[山九]]<br /> *PL15 山九<br /> ;ポートアイランド コンテナバース<br /> *PC13 [[アメリカンプレジデントラインズリミテッド]]、上組、住友倉庫<br /> *PC14 [[商船三井]]<br /> *PC15 商船三井、住友倉庫、山九、ニッケル・エンド・ライオンス<br /> *PC16 商船港運、山九<br /> *PC17 商船港運、山九<br /> *PC18 [[上組]](上組神戸コンテナターミナル)<br /> **業界初の港運業者単独運営のコンテナターミナルとして2003年に開設。<br /> <br /> ===神戸空港===<br /> ;[[神戸空港海上アクセスターミナル]]<br /> *[[神戸-関空ベイ・シャトル]](84トン、[[高速船]])<br /> **神戸空港海上アクセスターミナル - 関西空港ポートターミナル([[関西国際空港]]島)<br /> *セラヴィ観光汽船 - ラ・ベルメール(193トン) <br /> **神戸中突堤 - 神戸空港海上アクセスターミナル - 小豆島・坂手港 <br /> *セラヴィ観光汽船 - ヴィラジオイタリア <br /> **神戸空港海上アクセスターミナル - [[ポーアイしおさい公園]](ポートアイランド) - 神戸中突堤<br /> <br /> ===六甲アイランド===<br /> ;[[六甲アイランドフェリーターミナル]](バース)<br /> *RF1 [[フェリーさんふらわあ]] - さんふらわあ ごーるど、さんふらわあ ぱーる<br /> **&#039;&#039;&#039;神戸港&#039;&#039;&#039; - [[大分港]]<br /> *RF2 [[阪九フェリー]] - やまと(13,353トン)、 つくし(13,353トン)<br /> **&#039;&#039;&#039;神戸港&#039;&#039;&#039; - [[新門司港]]<br /> *RF3 [[四国開発フェリー]](オレンジフェリー) - おれんじホープ(15,732トン)<br /> **&#039;&#039;&#039;神戸港&#039;&#039;&#039; - [[新居浜港]]<br /> ;[[六甲船客ターミナル]]<br /> *[[マルエーフェリー]](RO-RO船 週1~2便・寄港地は便により異なる) - 琉球エキスプレス2(10,758トン) <br /> **&#039;&#039;&#039;神戸港&#039;&#039;&#039; - 大阪港 - [[志布志港]] - [[名瀬港]] - [[那覇港]] - (本部港)<br /> ;六甲アイランド コンテナバース<br /> *RC3 [[川崎汽船]]、[[A.P. モラー・マースク|マースク・シーランド]]<br /> *RC4 川崎汽船、マースク・シーランド<br /> *RC5 川崎汽船、マースク・シーランド<br /> *RC6 [[日本郵船]]<br /> *RC7 日本郵船<br /> &lt;!--==観光・関連施設== まず、項目の羅列が縦に長くなってスクーロールなくてはいけない。横にした方が見やすい。すべて年表・関連項目などによって内部リンクされている。読むべし。一部の階層の細かい項目も、項目先において、それに関する内部リンクとしてすべてそろっている。順番に読んでいけばいいだけの事。--&gt;<br /> <br /> ==関連画像==<br /> &lt;Gallery&gt;<br /> ファイル:Concerto.jpg|[[神戸コンチェルト|コンチェルト]]<br /> ファイル:Kobe-merikenpark-oriental-hotel.JPG|[[ルミナス神戸2]]<br /> ファイル:Xinjianzhen01s2800.jpg|[[新鑑真]]<br /> ファイル:Yanjing Kobe01s3200.jpg|[[燕京 (フェリー)|燕京]]<br /> ファイル:Kss PICT0010.JPG|&lt;small&gt;ポートターミナルO1に接岸中の[[さんふらわあ|さんふらわあこばると]]。現在は寄港していない&lt;/small&gt;<br /> ファイル:Kobe port island02s3200.jpg|新港第四突堤に架かる[[神戸大橋]]<br /> ファイル:Kobe-nisikanmon3462.JPG|居留地西関門跡<br /> &lt;/Gallery&gt;<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *新港地区 - 神戸税関、[[旧国立生糸検査所]]、[[旧神戸市立生糸検査所]]、[[新港貿易会館]]<br /> *[[旅客船]] - 高速船、フェリー、[[クルーズ客船]]、[[レストラン船]]、[[遊覧船]]<br /> *交通 - [[神戸フェリーバス]]、[[神戸新交通]] 、[[神戸空港]]<br /> *歴史 - [[日宋貿易]]、[[大輪田泊]]、[[条約港]]、[[ボート・トレイン]]、[[兵庫関]]、[[兵庫城]]<br /> *地理 - [[和田岬]]、[[瀬戸内海]]、明石海峡、大阪湾<br /> *人物 - [[尾崎睦 (実業家)|尾崎睦]]、[[宮崎毅]]<br /> *[[港湾職業能力開発短期大学校神戸校]]<br /> *[[メガターミナルオペレーター]]<br /> *[[ラ・ベルメール]] - 2007年11月まで神戸中突堤と[[小豆島]]・[[坂手港]]を結んでいた高速船<br /> *[[ヤマト1]]<br /> *[[神戸市立博物館]]([http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/joten/j5.html 旧居留地の復元模型])<br /> *[[兵庫県立歴史博物館]]([http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/023/023.html 兵庫津の絵図])<br /> *[[兵庫県の観光地]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons&amp;cat|Port of Kobe|Port of Kobe}}<br /> *[http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/index.html 国土交通省近畿地方整備局神戸港湾事務所]<br /> *[http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/_know/p6/html/p-1-4.html 年表 ~神戸港・築港のあゆみ~ 国土交通省近畿地方整備局神戸港湾事務所]<br /> *[http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/harbor/index.html 神戸市みなと総局]<br /> **[http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/harbor/shinsai.html 神戸市みなと総局 震災からの復旧]<br /> *[http://www.kptc.co.jp/ 神戸港埠頭株式会社]<br /> *[http://www.kobe-ferry.com/index.html 神戸港フェリーターミナル]<br /> *[http://www.nitto-ntl.co.jp/index.html 日東物流]<br /> *[http://www.shinozaki-soko.co.jp/index.html 篠崎倉庫]<br /> *[http://www.port-kobe.jp/index.html みなと神戸ポータルサイト]<br /> <br /> {{開港五港}}<br /> {{指定特定重要港湾}}<br /> {{特定港}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:こうへこう}}<br /> [[Category:大阪湾の港湾]]<br /> [[Category:国際戦略港湾]]<br /> [[Category:神戸市の交通|*こうへこう]]<br /> [[Category:摂津国|津ひようこのつ]]<br /> [[Category:神戸港|*]]<br /> [[Category:阪神港|こうへく]]<br /> [[Category:占領軍が接収した日本の施設]]</div> 2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02 幕張メッセ 2018-06-08T08:20:56Z <p>2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02: /* 概要 */</p> <hr /> <div>{{建築物<br /> |名称 = 千葉県日本コンベンションセンター国際展示場&lt;ref group=&quot;条例&quot; name=&quot;m-messe-jorei-2015-6-21&quot;&gt;{{Cite web|url=http://www3.e-reikinet.jp/cgi-bin/chiba-ken/D1W_resdata.exe?PROCID=1188828109&amp;CALLTYPE=1&amp;RESNO=1&amp;UKEY=1434893785122|title=千葉県日本コンベンションセンター国際展示場設置管理条例|publisher=千葉県|accessdate=2015-6-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150621211307/http://www3.e-reikinet.jp/cgi-bin/chiba-ken/D1W_resdata.exe?PROCID=1188828109&amp;CALLTYPE=1&amp;RESNO=1&amp;UKEY=1434893785122|archivedate=2015年6月21日|deadlinkdate=2017年10月}}&lt;/ref&gt;<br /> |旧名称 = <br /> |画像 = Makuhari Messe, North hall 2.jpg<br /> |画像説明 = 幕張メッセ国際展示場棟9~11ホール<br /> |用途 = [[コンベンションセンター]]<br /> |旧用途 = <br /> |設計者 = <br /> |構造設計者 = <br /> |施工 = <br /> |建築主 = <br /> |事業主体 = 千葉県&lt;ref group=&quot;条例&quot; name=&quot;m-messe-jorei-2015-6-21&quot; /&gt;<br /> |管理運営 = 指定管理者:株式会社幕張メッセ&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;[http://www.pref.chiba.lg.jp/keisei/shiteikanri/messe-senteikekka.html 日本コンベンションセンター国際展示場指定管理者(候補者)の選定結果について(平成28年度~32年度)]&lt;/ref&gt;<br /> |構造形式 = S造、SRC造、RC造<br /> |敷地面積 = 217,151<br /> |建築面積 = 75,098<br /> |延床面積 = 164,919<br /> |階数 = <br /> |高さ = <br /> |エレベーター数 = <br /> |戸数= <br /> |駐車台数= 普通車5,500台&lt;br/&gt;大型車120台&lt;br/&gt;自動二輪車50台<br /> |着工 = <br /> |竣工 = <br /> |開館開所 = [[1989年]](平成元年)[[10月9日]]&lt;ref name=&quot;chibanippo19891010&quot;&gt;{{Cite news |title=「幕張メッセ」オープン 盛大に落成式典 門出祝う県民ら約7万人 |newspaper=千葉日報 |pages=1,12,16-17 |publisher=千葉日報社 |date=1989-10-10}}&lt;/ref&gt;<br /> |改築 = <br /> |解体 = <br /> |所在地郵便番号 = <br /> |所在地 = 千葉県千葉市美浜区中瀬二丁目1&lt;ref group=&quot;条例&quot; name=&quot;m-messe-jorei-2015-6-21&quot; /&gt;<br /> | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 38 | 緯度秒 = 54 | N(北緯)及びS(南緯) = N<br /> | 経度度 = 140 |経度分 = 2 | 経度秒 = 5 | E(東経)及びW(西経) = E<br /> |地図国コード = JP<br /> |位置図種類 = Japan Chiba<br /> |文化財指定 = <br /> |指定日 = <br /> |備考 = <br /> }}<br /> {{基礎情報 会社<br /> |社名= 株式会社幕張メッセ&lt;ref group=&quot;広報&quot; name=&quot;m-messe-company-2015-6-21&quot;&gt;{{Cite web | url= https://www.m-messe.co.jp/organizers/company/profile.html |title= 会社概要 |publisher= 幕張メッセ |accessdate= 2015-6-21 }}&lt;/ref&gt;<br /> |英文社名= Makuhari Messe,Inc.&lt;ref group=&quot;広報&quot; name=&quot;m-messe-company-2015-6-21&quot; /&gt;<br /> |ロゴ= <br /> |画像= <br /> |画像説明= <br /> |種類= 株式会社<br /> |市場情報= <br /> |略称= <br /> |国籍= {{JPN}}<br /> |本社郵便番号= 261-0023&lt;ref group=&quot;広報&quot; name=&quot;m-messe-company-2015-6-21&quot; /&gt;<br /> |本社所在地= [[千葉市]][[美浜区]]中瀬2-1&lt;ref group=&quot;広報&quot; name=&quot;m-messe-company-2015-6-21&quot; /&gt;<br /> |設立= [[1986年]](昭和61年)[[4月30日]]&lt;ref group=&quot;広報&quot; name=&quot;m-messe-company-2015-6-21&quot; /&gt;<br /> |業種= サービス業<br /> |統一金融機関コード= <br /> |SWIFTコード= <br /> |事業内容= 展示場・国際会議場等の運営、および、その付帯事業<br /> |代表者= 代表取締役社長 藤野達夫 <br /> |資本金= 40億円&lt;ref group=&quot;広報&quot; name=&quot;m-messe-company-2015-6-21&quot; /&gt;<br /> |売上高= 3,939,000,000円<br /> |総資産= <br /> |従業員数= <br /> |決算期= <br /> |主要株主= [[千葉県]](持ち株比率25.0%)&lt;br /&gt;[[日本政策投資銀行]](同20.0%)&lt;br /&gt;[[千葉市]](同12.5%) <br /> |主要子会社= <br /> |関係する人物= <br /> |外部リンク= <br /> |特記事項= <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;幕張メッセ&#039;&#039;&#039;(まくはりメッセ、{{lang|en|Makuhari Messe}})は、[[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]]にある大型の会議・[[コンベンションセンター|展示施設]]。また、&#039;&#039;&#039;株式会社幕張メッセ&#039;&#039;&#039;はこれを運営する企業である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 老朽化および交通の便の悪い[[東京国際見本市会場]]の代替ならびに[[幕張新都心]]開発の一環として、[[1989年]](平成元年)[[10月9日]]に開業した&lt;ref name=&quot;chibanippo19891010&quot;/&gt;&lt;ref group=&quot;広報&quot; name=&quot;m-messe-company-2015-6-21&quot; /&gt;。<br /> <br /> 現在は、[[東京国際展示場]](東京ビッグサイト、東西合計)に次ぐ国内2番目の規模となっている。<br /> <br /> 運営会社は[[1986年]](昭和61年)[[4月30日]]に設立され、[[2005年]](平成17年)[[7月1日]]に社名を&#039;&#039;&#039;株式会社日本コンベンションセンター&#039;&#039;&#039;(Nippon Convention Center)から&#039;&#039;&#039;株式会社幕張メッセ&#039;&#039;&#039;に変更した&lt;ref group=&quot;広報&quot; name=&quot;m-messe-company-2015-6-21&quot; /&gt;。<br /> <br /> 当館の整備費は増設分を合わせると約558億円を投じており、年間の維持管理費が約20億円掛かるとされており、千葉県と千葉市の公費による一部負担が続いている&lt;ref name=&quot;tokyo-np-2015-6-10&quot;&gt;{{Cite news |author=菅原洋 |date=2015-06-10 |title=県政を問う(上)集客施設計画 「東京から30分」でも苦戦 |newspaper=東京新聞 |publisher=中日新聞社 |page={{要ページ番号|date=2016年9月}} }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、[[東京都区部]]から近い東京国際展示場開業の影響を受け、[[2011年]](平成23年)に[[東京モーターショー]]が東京ビッグサイトへ移るなど利用は伸び悩み、[[2013年]](平成23年)度の稼働率は約40%となり[[横浜市]]の[[パシフィコ横浜]]の稼働率の約70%を大きく下回っていたが&lt;ref name=&quot;tokyo-np-2015-6-10&quot; /&gt;、これ以降は音楽やアニメ等のイベント利用が増加し、2016年には年間2100ホールという過去最高記録を達成した&lt;ref&gt;[http://ev-news.jp/?p=765 幕張メッセ 稼働率過去最高に]国際イベントニュース 2016年11月30日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 幕張メッセのメッセとは、[[ドイツ語]]の&quot;[[見本市]]&quot;の意味を指す {{de|Messe}} に由来する。<br /> <br /> == 施設 ==<br /> [[ファイル:Makuhari Messe20080903.JPG|thumb|250px|手前は、幕張メッセ国際展示場棟1~8ホール入口。右の奥は、幕張イベントホール。]]<br /> [[ファイル:Jrb 20081129 Makuhari Messe chiba japan 003.jpg|thumb|250px|幕張イベントホール。]]<br /> [[ファイル:Makuharimesse Facility-Conference.jpg|thumb|250px|幕張メッセ国際会議場。]]<br /> [[ファイル:Jrb 20081129 Makuhari Messe chiba japan 002.jpg|thumb|250px|幕張メッセ国際展示場棟9~11ホール(幕張イベントホール側から)。]]<br /> [[ファイル:Jrb 20081129 Makuhari Messe chiba japan 001.jpg|thumb|250px|幕張メッセ国際展示場棟1~8ホール([[千葉マリンスタジアム]]側から)。]]<br /> 敷地面積のべ217,151.47[[平方メートル|m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;]]、全館冷暖房、空調設備を完備する全天候一体型の建築物である。国際展示場1ホールから8ホール、イベントホール、国際会議場、国際展示場9ホールから11ホール(北ホール)の4つの建物からなる。<br /> <br /> 国際展示場1ホールから8ホール、イベントホール、国際会議場は、第32回BCS賞(建築業協会賞)、IAITAクォーターナリオ賞受賞。北ホールは、第40回BCS賞、第5回千葉県建築文化賞「景観に配慮した建築物」部門を受賞している。<br /> <br /> * 面積<br /> ** 敷地面積[[1 E5 m²|21万7,151m²]](国際会議場含む)<br /> ** 延床面積[[1 E5 m²|16万4,919m²]](国際会議場含む)<br /> ** 総展示面積[[1 E5 m²|7万5,098m²]](国際会議場含む)<br /> * 国際展示場1ホールから8ホールおよび9ホールから11ホールの総面積は以下の通り。<br /> ** 延床面積[[1 E5 m²|13万2,697m²]]<br /> ** 総展示面積[[1 E5 m²|7万2,000m²]](国際会議場除く)<br /> <br /> ; 国際展示場1ホールから8ホール<br /> : 設計:[[槇文彦|槇総合計画事務所]]、木村俊彦構造設計事務所+構造設計集団(S.D.G)<br /> : 構造:地上4階、地下1階(RC造、S造)<br /> : 建築面積:88,940m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> : 展示面積:54,000m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> :* 1ホールから8ホール:6,750m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;×8<br /> : 天井高:最高28m/最低12m<br /> : 可動間仕切りで、8室の無柱空間に分割できる。各展示ホールごとに南北それぞれ幅12mの出入り口が設けられている。<br /> ; 国際展示場9ホールから11ホール(北ホール)<br /> : 設計:槇総合計画事務所、構造設計集団(S.D.G)<br /> : 構造:地上2階(S造、SRC造、RC造)<br /> : 建築面積:30,572m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> : 展示面積:18,000m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> :* 9ホール:9,000m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> :* 10ホール・11ホール:各4,500m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> : 天井高:最高35m/最低15m<br /> : 第2期工事で建設された。[[1997年]][[10月1日]]オープン。<br /> : 可動間仕切りにより重量物展示に対応した9,000m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;の展示ホールと4,500m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;の2つの展示ホールに分割可能。<br /> ; 国際会議場<br /> : 構造:地上4階、地下1階(RC造、S造)<br /> : 建築面積:6,846m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> : 延床面積:16,700m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> : コンベンションホール:1,390m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;(可動式壁面にて2分割利用可)<br /> : 国際会議室:635m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> : 中会議室:6室<br /> : 小会議室:8室<br /> : 応接室:2室<br /> ; 幕張イベントホール<br /> : 構造:地上3階、地下1階(RC造、S造)<br /> : 建築面積:9,357m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> : 延床面積15,522m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> : アリーナ面積:3,098m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;(5t/m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;)<br /> : 固定客席:3,948席(ボックス席を含む)<br /> : 可動客席:912席<br /> : 仮設席:約3000席(集会タイプ)<br /> : ※ 室内スポーツ利用の場合<br /> :* 室内陸上競技:160mトラック、60m直線走路<br /> :* バスケットボールコート:3面<br /> :* テニスコート:3面<br /> :* バレーボールコート:3面<br /> :* ハンドボールコート:1面<br /> : など。<br /> ; 幕張メッセ駐車場<br /> : 出口の先の交差点は方向別に車線が分かれているが通行区分違反車が多い{{Refnest|group=&quot;注釈&quot;|{{要出典範囲|date=2016年8月|イオンモール幕張新都心が開店するまでは直進車線を閉鎖していたが直進禁止違反が、交差点と周辺の道路の形状が現在の形になるまでは信号無視して左折する車が多かった}}。}}。<br /> <br /> == 催し物 ==<br /> {{一次資料|date=2016年8月}}<br /> {{Vertical_images_list<br /> | 幅= 250px<br /> | 枠幅= <br /> | 画像1= Tms2007 01.jpg<br /> | 説明1= [[東京モーターショー]](2007年)<br /> | 画像2= Sega booth, Tokyo Game Show 20040926b.jpg<br /> | 説明2= [[東京ゲームショウ]](2004年)<br /> | 画像3= Handshake event of AKB48 in Chiba 2011-10-30.jpg<br /> | 説明3= [[AKB48]] 劇場盤発売記念大握手会(2011年)<br /> }}<br /> 歴史のある大型[[イベント]]では、「[[CEATEC JAPAN]](旧:エレクトロニクスショー)」&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;[http://www.ceatec.com/ja/outline/ CEATEC JAPAN2016 開催概要]&lt;/ref&gt;、「[[東京オートサロン]]」&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;[http://www.tokyoautosalon.jp/2016/ 東京オートサロン公式サイト(2017)]&lt;/ref&gt;、「[[東京ゲームショウ]]」&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;[http://expo.nikkeibp.co.jp/tgs/2015/index.html 東京ゲームショウ2015公式サイト]&lt;/ref&gt;、「[[サマーソニック|SUMMER SONIC]]」がある。他にも、地元千葉関連の企業や団体が主催するイベントが多い。<br /> <br /> [[ゴールデンウィーク]]には「[[ニコニコ超会議]]」&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;[http://www.chokaigi.jp/2015/guide/access.html アクセス] ニコニコ超会議2015公式サイト&lt;/ref&gt;、「[[ピーアークホールディングス|ピーアーク]] presents 幕張メッセ&quot;どきどき&quot;フリーマーケット」&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;[http://www.makuhari-dokidoki.com/pc/information.html 開催概要] 幕張メッセ&quot;どきどき&quot;フリーマーケット公式サイト&lt;/ref&gt;、「[[プラレール博]] in TOKYO」&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;[http://www.takaratomy.co.jp/event/eventlist2/pla2016-tokyo.html プラレール博 in TOKYO 〜ひろがる!新幹線×プラレールワールド!!〜] タカラトミー&lt;/ref&gt;、「Pet博 in 幕張」&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;[http://www.pethaku.com/makuhari/ Pet博幕張公式サイト]&lt;/ref&gt;が開催される。<br /> <br /> [[ワンダーフェスティバル]]は当初[[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]で行われていたが、2008年夏に起きたエスカレーター事故の影響により、2009年夏開催分から幕張に移っている&lt;ref&gt;[http://gigazine.net/news/20090726_wf2009_s_matome/ ワンダーフェスティバル 2009[夏]開幕、全記事一覧まとめ] Gigazine 2009年7月26日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[AKB48]]およびAKB48グループの劇場盤発売記念大握手会の会場としても知られる&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;開催概要の例。[http://48g.jp/news_handshake/5358 【大握手会・大サイン_詳細】 AKB48「ハロウィン・ナイト」大握手会&大サイン会開催詳細決定!] - 握手会まとめ(仮)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[2011年]]には、[[麒麟麦酒|キリンビール]]が[[第三のビール]]([[麒麟麦酒#新ジャンル(第3/第4のビール)|のどごし生]])の企画で幕張メッセにて[[タコ焼き]]を作成する[[ギネス世界記録]]イベントを5月中旬に開催を予定&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;[http://www.kirin.co.jp/company/news/2011/0201_01.html ニュースリリース 2月1日](キリンビール &gt; ニュースリリース &gt; 2011年(平成23年))&lt;/ref&gt;していたが[[東日本大震災]]の影響により延期&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;[http://www.kirin.co.jp/company/news/2011/0401_01.html ニュースリリース 5月1日](同上)&lt;/ref&gt;され、9月に実施&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;[http://www.kirin.co.jp/company/news/2011/0926b_01.html ニュースリリース 9月26日](同上)&lt;/ref&gt;された。<br /> <br /> 2013年から[[SCRAP]]主催の体感型謎解きイベント『&#039;&#039;&#039;[[リアル脱出ゲーム]]&#039;&#039;&#039;』が催されている。<br /> * 2013年、オリジナル作である『&#039;&#039;&#039;巨大神殿からの脱出〜クラタスサーガ第1章〜&#039;&#039;&#039;』&lt;ref&gt;[https://www.enjoytokyo.jp/events/event/904854/ 幕張メッセ×リアル脱出ゲーム「巨大神殿からの脱出」] - レッツエンジョイ東京&lt;/ref&gt;<br /> * 2016年、[[ドラゴンクエストシリーズ]]とのコラボレーション『&#039;&#039;&#039;竜王迷宮からの脱出&#039;&#039;&#039;』&lt;ref&gt;[https://www.m-messe.co.jp/sp/event/detail/3912 リアル脱出ゲーム×ドラゴンクエスト 竜王迷宮からの脱出] - 幕張メッセ&lt;/ref&gt;<br /> * 2017年、[[キングダム (漫画)|キングダム]]とのコラボレーション『&#039;&#039;&#039;ある大戦場からの脱出&#039;&#039;&#039;』千葉公演 &lt;ref&gt;[https://www.inside-games.jp/article/2017/04/18/106614.html ニコニコ超会議2017にリアル脱出ゲームの“問題作”が登場─脱出する舞台はまさかの「洋式便所」!?]PR TIMES&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[https://www.enjoytokyo.jp/events/event/1363261/ リアル脱出ゲーム キングダム「ある大戦場からの脱出」[千葉公演]] - レッツエンジョイ東京&lt;/ref&gt;<br /> * 2018年、ドラゴンクエストシリーズとのコラボレーション『&#039;&#039;&#039;大魔王ゾーマからの脱出&#039;&#039;&#039;』&lt;ref&gt;[https://www.moshimoshi-nippon.jp/ja/91026 幕張メッセで「リアル脱出ゲーム×ドラゴンクエスト」今年も開催] - MOSHI MOSHI NIPPON(2018年2月12日)&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 2018年1月21日には、[[ももいろクローバーZ]]が[[有安杏果]]の卒業ライブを開催した&lt;ref&gt;{{Cite news|title=ももクロ 有安卒業、最後は笑顔でバイバイ…4人で5・23初東京D(スポニチ)|url=https://mainichi.jp/articles/20180122/spn/00m/200/002000c|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=2018-01-22|accessdate=2018-02-10}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2020年開催予定の[[2020年夏季オリンピック|東京オリンピック]]では[[オリンピックフェンシング競技|フェンシング]]、[[オリンピックテコンドー競技|テコンドー]]、[[オリンピックレスリング競技|レスリング]]の試合会場として決定された&lt;ref group=&quot;広報&quot;&gt;{{Cite web |url=http://www.olympic.org/news/ioc-executive-board-confirms-tokyo-2020-venue-locations-for-eight-more-sports/246260 |title=IOC Executive Board confirms Tokyo 2020 venue locations for eight more sports |language=英語 |work=Olympic News |publisher=olympic.org |accessdate=2016-09-19}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |url=http://www.japantimes.co.jp/news/2015/06/09/national/ioc-approves-new-events-2020-tokyo-games-stadium-delays-worry-bach-baseball-may-make-comeback/ |title=IOC approves new events for 2020 Tokyo Games; stadium delays worry Bach; baseball may make comeback |language=英語 |publisher=The Japan Times |date=2015-06-09 |accessdate=2016-09-19}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 幕張メッセ共用部には商業用撮影可能な場所があり&lt;ref&gt;[https://www.m-messe.co.jp/organizers/press/press 商業用撮影のご案内] 幕張メッセ&lt;/ref&gt;、<br /> {{要出典範囲|date=2016年8月|9~11ホールの2階エントランスはドラマのロケで駅や空港として利用されている}}。<br /> <br /> ==交通アクセス==<br /> *[https://www.m-messe.co.jp/access/ アクセス]を参照。<br /> <br /> == 近隣施設 ==<br /> * [[千葉マリンスタジアム]]<br /> * [[アパホテル&amp;リゾート東京ベイ幕張]]<br /> * [[ホテルニューオータニ幕張]]<br /> * [[イオンモール幕張新都心]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> <br /> ;注釈<br /> {{Reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> <br /> ;出典<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ;条例 <br /> {{Reflist|group=&quot;条例&quot;}}<br /> <br /> ;広報資料・プレスリリースなど一次資料<br /> {{Reflist|group=&quot;広報&quot;}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Makuhari Messe}}<br /> * [[日本の見本市会場一覧]]<br /> * [[幕張新都心]]<br /> * [[ゴジラvsメカゴジラ]]<br /> * [[ミュージックステーションスーパーライブ|ミュージックステーション スーパーライブ]]([[テレビ朝日]])<br /> * [[日テレ系音楽の祭典 ベストアーティスト]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<br /> * [[THE MUSIC DAY]](日本テレビ)<br /> * [[東京ゲームショウ]]<br /> * [[ニコニコ超会議]]<br /> * [[コミケ幕張メッセ追放事件]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [https://www.m-messe.co.jp/ 幕張メッセ]<br /> <br /> {{幕張新都心}}<br /> {{2020年夏季オリンピック競技会場}}<br /> {{デフォルトソート:まくはりめつせ}}<br /> [[Category:美浜区の建築物]]<br /> [[Category:幕張新都心|めつせ]]<br /> [[Category:日本のコンベンションセンター]]<br /> [[Category:日本の屋内競技施設]]<br /> [[Category:千葉県のコンサート会場]]<br /> [[Category:日本のバスケットボール競技施設]]<br /> [[Category:日本のバレーボール競技施設]]<br /> [[Category:日本のボクシング会場]]<br /> [[Category:千葉市のスポーツ施設]]<br /> [[Category:美浜区の企業]]<br /> [[Category:1986年設立の企業]]<br /> [[Category:槇文彦]]<br /> [[Category:第32回BCS賞]]<br /> [[Category:公共建築賞]]<br /> [[Category:1989年竣工の建築物]]<br /> [[Category:1997年竣工の建築物]]<br /> [[Category:1989年開業の施設]]<br /> [[Category:2020年東京オリンピックの競技会場]]</div> 2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02 田中眞紀子 2018-06-08T05:45:14Z <p>2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02: /* 更迭と外相辞任 */</p> <hr /> <div>{{存命人物の出典明記|date=2012年12月}}<br /> {{政治家<br /> |人名 = 田中 眞紀子<br /> |各国語表記 = たなか まきこ<br /> |画像 = Makiko Tanaka in Hawaii cropped.jpg<br /> |画像サイズ = 200px<br /> |画像説明 = 2001年9月9日({{年数|1944|1|14|2001|9|9}}歳)<br /> |国略称 = {{JPN}}<br /> |生年月日 = {{生年月日と年齢|1944|1|14}}<br /> |出生地 = [[東京都]][[文京区]]<br /> |没年月日 =<br /> |死没地 =<br /> |出身校 = [[早稲田大学商学部]]卒業<br /> |前職 =<br /> |現職 = [[越後交通]]取締役会長<br /> |所属政党 = ([[無所属]]→)&lt;br /&gt;([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]→)&lt;br /&gt;(無所属→)&lt;br /&gt;([[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]→)&lt;br /&gt;[[民進党]]<br /> |称号・勲章 = 商学士<br /> |世襲の有無 = 2世<br /> |親族(政治家) = 父・[[田中角栄|田中角榮]]<br /> |配偶者 = 夫・[[田中直紀]]<br /> |サイン =<br /> |ウェブサイト =<br /> |サイトタイトル =<br /> |国旗 = JPN<br /> |職名 = 第17代 [[文部科学大臣]]<br /> |内閣 = [[野田内閣 (第3次改造)|野田第3次改造内閣]]<br /> |就任日 = [[2012年]][[10月1日]]<br /> |退任日 = [[2012年]][[12月26日]]<br /> |元首職 =<br /> |元首 =<br /> &lt;!-- ↓省略可↓ --&gt;<br /> |国旗2 = JPN<br /> |職名2 = 第132代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]<br /> |内閣2 = [[第1次小泉内閣]]<br /> |就任日2 = [[2001年]][[4月26日]]<br /> |退任日2 = [[2002年]][[1月30日]]<br /> |元首職2 =<br /> |元首2 =<br /> |国旗3 = JPN<br /> |職名3 = 第52代 [[科学技術庁長官]]<br /> |内閣3 = [[村山内閣]]<br /> |就任日3 = [[1994年]][[6月30日]]<br /> |退任日3 = [[1995年]][[8月8日]]<br /> |元首職3 =<br /> |元首3 =<br /> |国旗4 = JPN<br /> |職名4 = [[衆議院]][[議員]]<br /> |内閣4 =<br /> |選挙区4 = ([[新潟県第3区 (中選挙区)|旧新潟3区]]→)&lt;br /&gt;[[新潟県第5区|新潟5区]]<br /> |当選回数4 = 6回<br /> |就任日4 = [[1993年]][[7月18日]] - 2002年[[8月9日]]&lt;br /&gt;[[2003年]][[11月10日]]<br /> |退任日4 = [[2012年]][[11月16日]]<br /> |元首職4 =<br /> |元首4 =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;田中 眞紀子&#039;&#039;&#039;(たなか まきこ、[[1944年]]([[昭和]]19年)[[1月14日]]&lt;ref name=prof&gt;[http://www.kantei.go.jp/jp/koizumidaijin/010426/04tanaka.html 外務大臣 田中 眞紀子]&lt;/ref&gt; - )は、[[日本]]の元[[政治家]]。通常は田中真紀子と表記される場合が多い。<br /> <br /> 父は第[[第1次田中角榮内閣|64]]・[[第2次田中角榮内閣|65]]代[[内閣総理大臣]]の[[田中角栄]]。1969年に[[田中直紀]](後に自由民主党衆議院議員、民主党[[参議院議員]])と結婚した&lt;ref name=prof/&gt;。<br /> <br /> [[衆議院議員]](6期)、[[科学技術庁長官]]([[村山内閣|第52代]])、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]([[第1次小泉内閣|第132代]])、衆議院[[文部科学委員会|文部科学委員長]]、[[衆議院]][[外務委員会|外務委員長]]、[[文部科学大臣]]([[野田内閣 (第3次改造)|第17代]])等を歴任した。<br /> <br /> == 来歴・人物 ==<br /> === 議員となる前 ===<br /> [[東京都]][[文京区]]に父・田中角栄、母・はなの長女として生まれる。[[本籍地]]は[[新潟県]][[柏崎市]]。千代田区立富士見小学校、[[日本女子大学附属中学校・高等学校]]を卒業し、[[早稲田大学商学部]]へ進学。早大在学中は演劇サークル[[劇団木霊]]に所属し、同期には[[久米宏]]や[[長塚京三]]がいた。大学卒業後は[[劇団雲]]に所属し、[[俳優|女優]]として舞台に出演するが、結婚を機に引退。母が病弱であったことや、高校時代のアメリカ[[留学]]経験もあり、父・角栄が首相在任中は事実上の[[内閣総理大臣夫人|ファーストレディ]]の役目を担った。ただし子供の頃や政界入りする前は角栄と対立する事も多く、進学先や[[田中直紀]](旧姓:鈴木)との結婚などは角栄の反対を押し切り決めたという。<br /> === 自民党時代 ===<br /> [[1993年]]の衆院選で初当選、翌[[1994年]]に1年生議員ながら[[村山内閣]]の[[科学技術庁長官]]として初入閣して話題を呼んだ&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;1年生議員の入閣は[[1957年]]発足の[[第1次岸内閣改造内閣]]で[[法務大臣]]となった[[唐沢俊樹]]以来、37年ぶりだった&lt;/ref&gt;。その後も国民的な人気を保ったが、与党内野党的な自由な立場からの奔放な発言が人気の源泉であり、政治家として目立った実績を残したわけではなかった。[[教育実習]]に[[ボランティア]]活動を義務化させる提案をし実現させ物議を醸した事もある。しかし[[2001年]]の小泉内閣誕生に際しては総裁選での応援を買って出るなど大きく寄与、自ら外相に就任して異例の高支持率を獲得。実務においては様々なトラブルを引き起こし外交が機能不全に陥るほどだったが、人気は衰えなかった。<br /> === 外相更迭と議員辞職 ===<br /> ターニングポイントとなったのが[[2002年]]の事務方との対立に起因する外相更迭であり、当時は世論の圧倒的多数が更迭に反対して田中を支持、小泉内閣の支持率が一時的に急落するほどであった(読売新聞では下げ幅が30.7%に及んだ)。しかし直後に自らの秘書給与問題が浮上し、議員辞職に追い込まれる&lt;ref&gt;{{Cite web|author=[[菅直人]]|date=2002-08-09|url=http://archive.dpj.or.jp/news/?num=11309|title=田中真紀子氏の議員辞職について(談話)|publisher=[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]|accessdate=2009-03-08}}&lt;/ref&gt;。[[2003年]]衆院選で復帰し、[[院内会派]]「&#039;&#039;&#039;民主党・無所属クラブ&#039;&#039;&#039;」に加入。今度は以前に所属していた自民党に対して厳しい批判を繰り返すようになった。<br /> <br /> === 民主党入り ===<br /> [[第45回衆議院議員総選挙|衆院選]]を目前に控えた[[2009年]][[8月15日]]、新潟県長岡市内で記者会見し、夫の[[田中直紀]]参議院議員とともに[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]入りを表明。民主党入りの理由について「確実に二大政党(の時代)になる。有権者に約束してきたことを実現するためには、組織に所属しなければならない」と述べ、選挙後の入党という選択肢については「それでは有権者に対して失礼」と否定した。[[鳩山由紀夫]]民主党代表は「夫婦そろっての民主党入党を心から歓迎する」と述べた&lt;ref&gt;{{Cite web<br /> |date=2009-8-15<br /> |url=http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090815AT3S1500K15082009.html<br /> |title=田中真紀子氏の民主党入り発表 鳩山代表「夫婦の入党歓迎」<br /> |accessdate=2009年8月15日 <br /> }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web<br /> |date=2009-8-15<br /> |url=http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20090815-531240.html<br /> |title=真紀子氏民主入りへ15日鳩山代表と会談<br /> |accessdate=2009年8月15日 <br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 同年9月の[[鳩山由紀夫内閣]]の成立に伴い、衆議院[[文部科学委員会|文部科学委員長]]に就任。[[2011年]]6月の菅[[内閣不信任決議]]案([[菅おろし]])で党議拘束に違反して棄権したため、民主党執行部から3ヶ月の党員資格停止処分が下された。なお、国会の役職については解任しない旨が民主党執行部から通達されたため、衆院文部科学委員長の職には留まった。党員資格が停止されたため、[[2011年民主党代表選挙]]では投票権が与えられなかった([[野田佳彦]][[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|財務大臣]]が当選)。同年9月の[[野田内閣]]の成立に伴い、衆議院[[外務委員会|外務委員長]]に就任。<br /> <br /> [[2012年]][[6月26日]]の[[消費税]]増税法案には、[[小沢一郎]]や[[鳩山由紀夫]]らが反対票を投じ、小沢は自身のグループに所属する議員の大半を率いて離党、[[国民の生活が第一]]を結党したのに対し、田中は賛成票を投じ、造反の動きに同調しなかった。以前から田中は「反・野田」のスタンスに軸足を置いていたが、[[2012年9月民主党代表選挙]]では一転して野田首相の再選を支持し、野田陣営に参加している。同年10月、[[野田内閣_(第3次改造)|野田第3次改造内閣]]で[[文部科学大臣]]に任命され、[[2001年]]に発足した[[第1次小泉内閣]]以来、約11年ぶりに3度目の入閣を果たした。<br /> <br /> 同年11月、2013年春に新規開校を予定していた大学3校の不認可を示唆。3大学は、[[文部科学省]]の諮問機関である大学設置・学校法人審議会の認可を受けており、文部科学大臣が審議会の判断を覆すのは極めて異例で、田中は不認可の理由について「大学が多すぎ、質が低下している」と説明したことから&lt;ref&gt;[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121103-OYT1T00216.htm?from=ylist 田中文科相考え直して…編入希望絶たれた短大生] YOMIURI ONLINE(2012年11月3日14時38分 読売新聞)&lt;/ref&gt;、関係各所を巻き込んだ騒動に発展。この3校以外に同時期に認可の申請が出された既設大学の16学部、13の大学院を認可したことに続き、結局、[[文部科学省]]は11月8日、新規3校についても正式に認可した&lt;ref&gt;[http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1327739.htm][[笠浩史]][[文部科学副大臣]]記者会見録(2012年11月8日)/2017年12月26日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 落選 ===<br /> 2012年[[12月16日]]の[[第46回衆議院議員総選挙]]で、父の時代からの強固な地盤だった[[新潟県第5区|新潟5区]]では自民候補の[[長島忠美]]に3万票近い差をつけられ次点で落選し、比例復活もならず議席を失った。父・角栄の死去から丁度19年になる命日での出来事であった&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121217/elc12121701120023-n1.htm 落選の田中真紀子氏「私の努力不足」 対立陣営「時代の終わり」] MSN産経ニュース 2012年12月17日&lt;/ref&gt;。「この地域に責任がある」と発言し政界引退は否定したが、その後の[[衆議院議員総選挙]]は出馬を見送っている&lt;ref&gt;[http://www.sankei.com/smp/politics/news/141120/plt1411200014-s.html]産経ニュース(2014年11月20日)/2017年12月26日閲覧。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://sp.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2014/news1/20141120-OYT1T50078.html]読売オンライン(2014年11月20日)/2017年12月26日閲覧。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[https://search.yahoo.co.jp/amp/s/withnews.jp/amp/article/f0141120004qq000000000000000G0010101qq000011171A%3Fusqp%3Dmq331AQECAEYAQ%253D%253D]withnews(2014年11月20日)/2017年12月26日閲覧。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[https://search.yahoo.co.jp/amp/www.asahi.com/amp/articles/ASK8Q5JR2K8QUTFK00R.html%3Fusqp%3Dmq331AQECAEYAQ%253D%253D]朝日新聞デジタル(2017年8月22日)/2017年12月26日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 評価 ==<br /> 田中の発言は他の政治家に比べて単なる「悪口」や人格への「中傷」が際立って多く、批判が多い&lt;ref name=&quot;goroku&quot;&gt;田中真紀子さんファンブック(田中真紀子ファンクラブ 著、データハウス 2001年)- 「真紀子さんを語る」の章&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 新潟県中越地方の企業[[越後交通]]グループのオーナーでもある。眞紀子の選挙においては、バス会社である越後交通の各営業所は、選挙の情報収集や票固めと言った役割を果たすことになる。これらは父の角栄が築いたものであり眞紀子はそれを継承した。なお、同社では角栄を「大先生」と呼んでおり&lt;ref&gt;[http://www.echigo-kotsu.co.jp/contents/business/history/22.html 越後交通株式会社 田中角栄 大先生の功績]&lt;/ref&gt;、営業所に写真も掲げられているという&lt;ref&gt;田中真紀子さんファンブック - 「角栄さんの引退と越山会の最後」「初出馬から外務大臣へ」各章&lt;/ref&gt;。{{main|越山会#概要}}<br /> <br /> 眞紀子の人の好き嫌いは、父の角栄の存在の影響が非常に大きく、父を裏切った[[竹下登]]の旧経世会に連なる人間を憎んでいるとされる&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;竹下の側近だった[[野中広務]]は著書「老兵は死なず 野中広務全回顧録(文藝春秋、「金融危機と自自公連立」の章)の中で「父(角栄)を裏切った竹下さんと経世会は許せない」という思いがあったのではないかと書いている&lt;/ref&gt;。無所属時代に統一会派を組み、現在は在籍している[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の議員に対してすら、攻撃することがある&lt;ref&gt;「田中真紀子」研究(立花隆 著 文藝春秋 2002年)- 「真紀子の何が問題なのか?」の章&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 父との関係が比較的悪くなかった[[小沢一郎]]には好意的で、小沢が[[民主党代表]]だった時は「小沢氏を首相にする」と支援姿勢を鮮明にしていた&lt;ref&gt;[[週刊新潮]] 2006年5月17日号 p.63~64&lt;/ref&gt;。[[2010年]]9月の[[2010年9月民主党代表選挙|民主党代表選挙]]でも小沢への支持を公言し、積極的に支援している&lt;ref&gt;[http://japanese.joins.com/article/799/132799.html 「キングメーカー」田中真紀子氏が小沢氏の遊説に(2010年9月6日 中央日報)]&lt;/ref&gt;。しかし[[2012年]]7月、小沢が民主党を離党して新党「[[国民の生活が第一]]」を結成した際には、党首への就任含みで参加するよう誘われたものの、眞紀子は民主党にとどまった&lt;ref&gt;[[週刊朝日]] 2012年9月28日号 23-24ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、父・角栄が大蔵大臣時代からの秘書だった[[早坂茂三]]や「田中角栄の金庫番」と言われた[[佐藤昭子]]とも折り合いが悪く、角栄が[[脳梗塞]]で入院した際「(縁のある)[[東京逓信病院]]に入院させましょう」と発言した早坂に対して、眞紀子は「病院の看護婦や医師は[[創価学会]]員や[[日本共産党|共産党]]員が多いから、病状が[[公明党]]や日本共産党へ(父の病状が)漏れる可能性もある」と違う病院へ入院させるよう要請し、受け入れられず東京逓信病院への入院を許した眞紀子は、数日後早坂と佐藤を田中事務所から解雇した&lt;ref&gt;大下英治著「闘争!角栄学校」下巻「鉄の田中軍団・宿命の「暗闘と掟」」の章より&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 自民党時代に外務大臣在任中、小泉内閣及び田中外相の方針に抵抗する外務省の[[官僚]]を更迭するため省内の人事異動に介入しようとしたものの、大臣には人事権がなく、省内の反発を受け頓挫した&lt;ref&gt;田中眞紀子はなぜ闘うのか : 田中バッシングの恐るべき真相を暴く(渡辺正次郎 著 日本文芸社 2001年)- 「第5章 田中真紀子は国家なき外務官僚を斬る!―真の独立国家「日本」誕生の日は近し」より&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 作家の[[曽野綾子]]は、田中を「マスコミにもてはやされる才能を持ち、夫に対しても献身的なようだが、政治家には向いていない」と評した&lt;ref&gt;『人間にとって成熟とは何か』 (2013) p152-p153&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 政治家としてのエピソード==<br /> [[画像:Makiko Tanaka Ehime Maru.jpg|thumb|300px|[[えひめ丸]]曳航作業を視察する[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]田中眞紀子]]<br /> <br /> === 「凡人」「軍人」「変人」 ===<br /> 1998年7月の[[自由民主党総裁選挙]]に立候補した[[小渕恵三]]を「凡人」、[[梶山静六]]を「軍人」、[[小泉純一郎]]を「変人」と彼女が評した。梶山は旧[[陸軍航空士官学校]]出身。小泉は自民党の支持基盤の1つを解体すると目されていた「[[郵政民営化]]」を自身の政策の根幹に据えていたため、「[[自由民主党 (日本)|自民党]]の異端児」と評されていた。そして小渕は[[内閣官房長官|官房長官]]当時に「[[平成]]」の改元を発表した「平成おじさん」の印象程度しかなく、国民からの認知度が低かったため。これは同年の[[流行語]]ともなった。{{see also|小渕恵三#小渕内閣の実績|梶山静六#エピソード|小泉純一郎#総裁選への挑戦}}<br /> <br /> === 「パックン首相」 ===<br /> これまで処理できなかった法案(ガイドライン法案、[[国旗国歌法]]案、改正[[住民基本台帳]]法案、年金制度改正法案など)を、[[内閣総理大臣]][[小渕恵三]]([[小渕内閣]])が、次々呑み込んで法案成立させてしまった様子を指して「パックン首相」と呼んだ。また、金融再生関連法案の立法過程に関して、野党・民主党の案をほぼ丸呑みしたこと、公明党の主張した[[地域振興券]]法案の実施なども含まれている。<br /> <br /> === お陀仏発言 ===<br /> {{see also|小渕恵三#突然の発病と死}}<br /> 2000年[[5月14日]]に死去した[[小渕恵三]]について、2001年4月14日、自民党総裁選に立候補した小泉純一郎の応援演説の際に「小渕の恵ちゃんなんか、『僕は一年間で借金百兆円作った、ガハハ』なんて[[カブ]]上げて喜んで頭がパチッと切れて、オブチさんがオダブツさんになっちゃったんですからね。これも自業自得なんですよ」と発言した。この発言は後にマスコミや世間から「お陀仏発言」と呼ばれた。<br /> <br /> 翌日の4月15日、[[渋谷駅]]で[[街頭演説]]をしたときも、「小渕の恵三さんという人は、『私は一年間で百兆円の借金を作った、日本一の借金王だ』とカブを持ち上げたら、コロッと死んだじゃないですか。あれをお陀仏さんと言うんですよ、オダブツさん」と発言した。<br /> <br /> 2001年4月17日付の[[古賀誠]]自民党幹事長に送った手紙の中で「14日以降は一度もその発言はしておりません」と書いたが、事実とは異なっていた。4月18日、再び手紙を送り[[謹慎]]に入ることを宣言した。しかし、翌19日の[[記者会見]]で「謹慎してもダメなものはダメと判決が下っている。だから活動を再開します」と言って、活動を再開した。<br /> <br /> 小泉内閣の外務大臣就任後、2001年5月14日に開かれた衆議院[[予算委員会]]において、この「お陀仏発言」について質問され、眞紀子は「結果として言葉が走りましたことは認めます。そして、今日は小渕元総理の御命日であるということも承知いたしておりますので、御温容をしのびながら、以後、反省をいたします」と答弁した。<br /> <br /> === 外務大臣として ===<br /> ==== 日本の内閣の方針と合わない言葉を公言 ====<br /> [[2001年]]4月26日に外相に就任。[[日本の政治|日本政府]]の閣議でミサイル防衛構想について反対の立場を決めたことはないのにも関わらず、眞紀子は[[アメリカ合衆国]]の[[リチャード・アーミテージ|アーミテージ]]副長官との会談で[[ミサイル防衛|ミサイル防衛構想]]への批判を公言した。<br /> <br /> ==== 外国要人との会談を直前に中止 ====<br /> 外相在任中、アメリカの[[コリン・パウエル|パウエル]]長官との電話で、アーミテージ副長官が来られることは楽しみにしていると語った。しかし、2001年4月に、アーミテージ副長官が日本に来て小泉首相に会うための日程を決めようとした時、彼女は直前にこれをキャンセルした{{Sfn|飯島勲|2006|p=109}}。<br /> <br /> ==== 金正男の身柄拘束後の対応 ====<br /> [[2001年]][[5月1日]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[金正日]]の長男、[[金正男]]が[[出入国管理法]]違反により[[成田国際空港|新東京国際空港]]内で[[東京入国管理局]]に身柄拘束されたことについて、田中が「そんな人間を日本に置いておいて、北朝鮮から[[弾道ミサイル|ミサイル]]が飛んで来たら大変なことになる。すぐ帰さないとだめだ。すぐに追い出すように」という趣旨の発言をしたとされたことについて、[[鈴木宗男]]が衆議院で質問したが、そのような発言の記録は見当たらないと[[町村信孝]]が答弁した&lt;ref&gt;[http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b168199.htm 衆議院議員鈴木宗男君提出金正男氏と思われる者に対する政府の認識及び対応に関する質問に対する答弁書] 内閣衆質一六八第一九九号 平成十九年十一月十六日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== アメリカ合衆国の機密情報を漏洩 ====<br /> [[アメリカ同時多発テロ事件]]の直後、眞紀子は機密情報である[[アメリカ大統領]]の避難先を記者会見でしゃべってしまった&lt;ref&gt;高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』&lt;/ref&gt;。当時国民の間で圧倒的な人気を誇る眞紀子の外相罷免を避けた小泉首相は、とりわけ対米外交において外相の頭越しに外交を行わせるようになる。<br /> <br /> ==== 指輪騒動 ====<br /> [[2001年]][[11月1日]]、田中眞紀子は[[指輪]]を紛失したことを[[上月豊久]]秘書官の責任にして、指輪を買いに行かせ、その結果[[イラン]]の[[:en:Kamal Kharazi|ハラジ]]外相との会談に遅刻した。<br /> <br /> ==== 小泉首相の靖国神社参拝を批判 ====<br /> 2001年5月に[[唐家セン|唐家璇]](中国外相)と会談したとき、唐に「小泉首相に靖国神社参拝をやめなさいとゲンメイ(言明または厳命)しました」と言われた。眞紀子は、小泉首相の[[靖国神社]]参拝に強く反対した。小泉首相の靖国神社参拝に関して、「今の中国を見てください。株やって儲けて、[[ロールス・ロイス]]や[[メルセデス・ベンツ|ベンツ]]に乗っている若い人がいる一方で、年収数千円という貧しい人がいる。そうやって国内の不満が爆発しそうなところに、小泉さんが靖国神社へ参拝するから[[デモ行進|デモ]]が起こるんです。あの人は、日本の国益とか世界平和なんて考えていないのです」と批判した。また、「小泉さんが、[[煮干し]]の出がらしみたいな顔して『俺は靖国行く』っていうからおかしくなった。あの人はホントにタチが悪い」と批判した。<br /> <br /> ==== 「触らないで下さいよ!」 ====<br /> 2001年7月に、群馬県で[[第19回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]に立候補した[[吉川真由美]]を応援するための演説をするはずであったが、田中が応援演説の予定の午後4時よりも1時間以上前に[[群馬県庁]]前に到着し、応援すべき候補者が来るのを待たずに勝手に演説を始めた。このため吉川は別の場所で演説していたが、これを中断して群馬県庁前へ急行、田中と一緒に演説を始めた。田中は「これから新潟に行って外務省の用事があるもんですから、あと4分だけで終わりにしますが、候補者、どの人か知りません。駅についてチラシをもらうまで男か女かも知りませんでした。名誉のため、市議や県議をやったから国会に行ってみようとか、政治家の娘だから国会に行ってみようというのは税金の無駄遣いなんです。」と駅前で演説した(吉川は元群馬県議会議員であり、元[[衆議院議員]][[熊川次男]]の娘。「政治家の娘」云々は群馬県を選挙区とする[[小渕優子]]のことかと思われるが、もちろん田中自身も政治家の娘である)。吉川が田中の批判的な発言をなだめるために、にこやかに「そんなぁ」と言いながら、田中の肩へ手を回したが、田中は「この候補者、なんておっしゃるんですか。知らないから触らないでください。知らない人に触られたくありません。では地元に用事がありますし、外務省に用事がありますのでこの辺で失礼します」と駅前の大衆に向かって演説した後、すぐに帰った。報道によれば外務省での公用などなく、地元の用事とは、新潟でのクラシックコンサートを見ることだったとされている。田中眞紀子の事務所には、事前に吉川についての資料が送られていた。結局吉川は落選した。田中は党紀委員会にかけられたが、小泉首相側はこれを擁護した。<br /> <br /> ==== 「外務省は伏魔殿」 ====<br /> [[外務省]]を「[[伏魔殿]]」と呼んで、外務省・外務官僚の閉鎖的な様子を鋭く表現し、[[外務省機密費流用事件]]や自身の進めようとした外務省改革・人事で外務省と対立した&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;[[花岡信昭]]の著書によると、外務官僚に「誰が外務大臣になってほしいか」というアンケートで[[河野洋平]]の前任者だった[[高村正彦]]の再復帰を望む声が多かった。そのため、外務官僚は花岡に「あの人(眞紀子)がくれば外交がめちゃめちゃになる」と言ったされる&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 更迭と外相辞任 ====<br /> {{see also|鈴木宗男事件#概要|鈴木宗男#疑惑・逮捕・落選}}<br /> [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]在任中、[[北方地域|北方領土]]返還をめぐる方針や[[外務省]]改革などを巡り、当時の衆議院議院運営委員長で、外務省に強い影響力を持っていた[[鈴木宗男]]との抗争や官僚との軋轢が報じられていた。ごく短期間に事務方の秘書が4人交代し、中には体調を崩して病院に入院する者も出ていた{{Sfn|飯島勲|2006|p=109}}。<br /> <br /> 決定となったのは[[2002年]]1月、[[アフガニスタン]]復興会議への[[非政府組織|NGO]][[ピースウィンズ・ジャパン]]出席取り消し事件について、田中は「事務方は『鈴木議員からの圧力があった』と自分にいった」と発言したことである{{Sfn|飯島勲|2006|p=114}}。この点は28日の予算委員会で追及され、田中は具体的な幹部職員名を上げ「言った、間違いない」、事務方は「そのようなことは言っていない」と答弁し、答弁の食い違いに委員会は大紛糾した。その日の夕方に[[野上義二]]外務[[事務次官]]の[[参考人]]招致が実施され(事務次官の参考人招致は前代未聞)、次官は「私の口からは鈴木議員云々とは一切言っていない」と証言し{{Sfn|飯島勲|2006|p=114}}、対立は一層深刻化した。<br /> <br /> 29日、[[小泉純一郎]]は田中大臣と野上次官を[[総理大臣官邸]]に呼び、[[喧嘩両成敗]]として2人を更迭、鈴木宗男に衆議院[[議院運営委員会|議院運営委員長]]の辞任を求めて辞任した{{Sfn|飯島勲|2006|p=117}}。田中は「一生懸命やってきたつもりだったんですけどね」とカメラの前で[[涙]]を流した。圧倒的な人気を誇る彼女を更迭したことで、小泉内閣の支持率は30%程度急落した{{Sfn|飯島勲|2006|p=118}}。<br /> <br /> ==== 秘書給与流用疑惑と議員辞職 ====<br /> 秘書給与横領で元秘書より詐欺罪で告発され、自民党の党員資格を停止され、議員辞職となる。東京地検特捜部の捜査の結果、告発対象の秘書については「バス会社越後交通からの出向であるが、秘書としての勤務実態はあった」「秘書給与は同社に入れる一方、会社給与等の形で秘書給与額をやや上回る額が秘書に給与され、流用が確認できない」「出向扱いにしていたのは、社員としての身分保障の継続を求めた秘書側の希望」などが判明し、詐欺罪の公訴時効にかからない1996年以降の公設秘書10人も捜査された結果、犯罪性はないとされて2003年9月30日に嫌疑なしの不起訴処分となった&lt;ref&gt;秘書給与流用疑惑 田中真紀子元外相、不起訴/東京地検 読売新聞2003年10月1日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その後、第43回衆議院議員総選挙で当選し、民主党会派(民主党・無所属クラブ)に入会した。以降、選挙の際に民主党公認の立候補者の選挙支援に重用される。ただし、当時は民主党員ではなく、あくまで無所属であった。従来どおり自由民主党公認候補である夫の支援も行っていたが、その後、夫を離党させた。<br /> <br /> 父角栄からの[[相続税]]の脱税が指摘され、目白邸の一部を分納したことがある。角栄の死去に伴い眞紀子は角栄遺産について1994年7月、[[小石川税務署]]に相続税の申告を行なった。その際に申告した遺産総額(課税対象額)は約120億円。しかし、1995年12月、その申告には78億円以上の申告漏れがあると[[東京国税局]]に指摘された。非上場の同族企業つまり[[ペーパーカンパニー]]に持たせていた資産にメスが入れられたのである。申告すべき実際の遺産額は約200億円だった。この結果、納税すべき相続税額も約55億円増えた。このため、眞紀子や夫の直紀が相続した[[目白御殿]]と呼ばれていた角栄自宅の一部や軽井沢別荘の一部が、納税に充てるために物納された。<br /> <br /> ===民主党への入党===<br /> ==== 角友会の解散 ====<br /> 父の古くからの支持者との軋轢の一つに、2004年から2005年にかけて起こった[[東日本旅客鉄道|JR]][[浦佐駅]]前に立つ銅像を巡って発生した管理団体との対立が挙げられる。この銅像に屋根をつけるべき(地元は豪雪地帯のため、「雪が積もってお父ちゃんが可哀想」と発言したとも)と2004年11月に管理団体「角友会」(会長・須佐昭三、越山会元幹事長)に申し入れるも難色を示されたため、2005年2月に「田中角栄記念館」を通じて六日町[[簡易裁判所]]に調停を申し立てた。話し合いの末、像の管理は田中家がすることとなり「角友会」は解散。銅像そのものは、支持者が角栄の地元発展への尽力に感謝し、約2億円をかけて1985年に建立したもの。また、2005年には銅像に屋根が掛けられた。<br /> <br /> [[第45回衆議院議員総選挙|第45回総選挙]]では、民主党候補の支援の他、選挙区によっては[[国益と国民の生活を守る会|平沼グループ]]の支援も行っている。<br /> <br /> ==== 北朝鮮による拉致被害者 ====<br /> 2003年10月31日、佐渡において行った[[藤島正之]]候補の応援演説で、「拉致家族の子供は北朝鮮で生まれたから本来なら北朝鮮に返すべきじゃないですか? その辺のところを蓮池何とか(=[[蓮池透|透]]、被害者の[[蓮池薫|薫]]さんの兄)さんはよく考えてください」と発言し、 [[北朝鮮による拉致被害者家族連絡会]]・[[北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会]]を批判した。また、「(被害者に)耳触りのいいことを言うべきではない」、「(帰国した5人の拉致被害者の)家族の国籍は[[国際法]]上は北朝鮮籍。外務省も知っているはず。(日本帰国は)難しいとはっきり言うべき」と発言した。[[北朝鮮による拉致被害者家族連絡会]]と[[北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会]]は田中真紀子事務所に抗議したが、一切回答していない。<br /> <br /> ==== 記事出版差し止め ====<br /> {{Main|田中真紀子長女記事出版差し止め事件}}<br /> 2004年3月、長女の記事に関し、長女がプライバシー侵害を理由に記事の差し止めの仮処分を申請し認められた。仮処分は後に東京高裁で取り消された。<br /> <br /> === 文部科学大臣として===<br /> 2012年(平成24年)[[11月1日]]に、[[大学設置・学校法人審議会]]が新設大学の認可を[[文部科学省]]に答申したが、翌2日に田中眞紀子[[文部科学大臣]]が3つの大学を不認可とすることを公表した&lt;ref&gt;[http://web.archive.org/web/20121103075208/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121103-OYT1T00216.htm 田中文科相考え直して…編入希望絶たれた短大生] - 2012年11月3日14時38分 讀賣新聞(YOMIURI ONLINE)&lt;/ref&gt;。これに対する[[世論]]・[[マスコミ]]の反発は大きく&lt;ref&gt;[[日本放送協会|NHK]]は不認可が撤回された8日の[[時論公論]]でも、なお田中を批判するほどだった。[https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/137470.html 「&quot;大学設置不認可&quot;は何だったのか?」] - NHKオンライン&lt;/ref&gt;、6日後の同月8日に撤回した。田中自身は、就任間もない大臣(前月10月1日就任)が大学の認可・不認可という重要事項を自分の一存で決められるものではなく、事務方の意向に沿っただけのものであるとした&lt;ref&gt;参考資料; [http://www.mext.go.jp/b_menu/soshiki/rekidai/jimujikan.htm 歴代文部科学事務次官]、[[文部科学審議官|歴代文部科学審議官]]。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[新国立競技場]]の建設について田中は[[毎日新聞]]に意見を読者投稿し、2015年8月22日付の「みんなの広場」(11面)に掲載された(「新国立」政治家は責任取れ)。既に支出された約62億円について「[[東日本大震災]]の被災者の方々のために役立てられたらと思うと、心から残念だ」などという内容。7月に白紙となった[[ザハ・ハディッド|ザハ]]案は、2012年11月、田中が文科相を務めていた時期([[近いうち解散|衆院解散]]の前日)に決まったものだった&lt;ref&gt;[http://www.nikkansports.com/general/news/1527044.html 田中真紀子氏「政治家責任を取るべき」新国立白紙で] 日刊スポーツ、2015年8月22日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == エピソード==<br /> * [[久米宏]]とは早稲田大学の同級生であったことから仲が良く、久米が司会をしていた『[[選挙ステーション]]』等の番組にたびたび出演、持論を展開した。<br /> <br /> == テレビ・ラジオ出演 ==<br /> * [[みのもんたの“さしのみ”]]の初回ゲストであった。<br /> * [[2005年]][[4月]]より、[[文化放送]]の昼のワイド番組「[[寺島尚正 ラジオパンチ!|寺島尚正のラジオパンチ!]]」で水曜日のコメンテーターとして[[ラジオパーソナリティ]]として出演し話題になった。公務との関係で一時番組のコメンテーターを降板したが、翌年、再び、文化放送の清水克彦プロデューサーや寺島アナウンサーに要請されたのを受けて復帰した。<br /> * [[2007年]][[1月6日]]16時より、[[新潟県民エフエム放送|FMPORT]]「[[げんこつRADIO SHOW!]]」にて、出演。その数週間前から、眞紀子の肉声で「は〜い」が何度か放送される。<br /> <br /> == 発言 ==<br /> * 「([[村山富市]])総理は私たち閣僚にとってかけがえのない人。私たちの首([[国務大臣]])を切ればいくらでも切れる。できれば、官僚にこき使われてヘトヘトにならないようにしてほしい。[[総理大臣公邸|総理公邸]]が合わなければ[[議員宿舎]]の中で[[パンツ]]1つで過ごしたほうがいいですよ」:科学技術庁長官時代に閣僚懇談会で発言。男性閣僚はギクッとなったが、村山首相は苦笑いしただけだった&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;[[岩見隆夫]]の著書より一部改編・抜粋&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;&gt;田中眞紀子猛語録:スーパーレディが日本列島を震撼させる(緒方邦彦 著 イースト・プレス 2001年)- 「第1章 炸裂する「真紀子節」」の章&lt;/ref&gt;。<br /> * 「愛人は誰にだっているんじゃないんですか」:田中が名付けた「軍人、変人、凡人」の直後菅直人(当時民主党代表)の愛人問題が取りだされ、マスコミから愛人について尋ねられた時の発言&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「人間には、敵か、家族か、使用人の3種類しかいない」&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;:このような[[人生観]]は、田中眞紀子に限った話ではなく、思想家の[[吉本隆明]]は著書の中で「その通りだ」と書いている。<br /> * 「何も知らないお姫様が[[神輿]]に担がれて選挙している」:急逝した小渕恵三首相の後を継ぎ立候補した[[小渕優子]]衆議院議員に対して。当時はマスコミも、小渕優子の立候補を「お姫様選挙」と揶揄した&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku2&quot;&gt;田中眞紀子猛語録:スーパーレディが日本列島を震撼させる - 「第2章 自民党の鬼っ子代議士」の章&lt;/ref&gt;。<br /> * 「[[スカート]]を踏んづけられていたので、後ろを振り返ってみると、言っている本人(小泉)だった」:外務省改革を妨害したと言って小泉首相を批判&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku2&quot;/&gt;。<br /> * 「([[非政府組織|NGO]]団体の案内状は届いたというのは)[[内閣官房長官|官房長官]]([[福田康夫]])のお得意の、勘違いをなさっておられるのではないでしょうか」&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku2&quot;/&gt;。<br /> * 「私が当時外相を務めていたら、他の国に行ってもらう手段を考えただろう」:外相就任前、[[李登輝]]の[[査証]]発給問題について&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku3&quot;&gt;田中眞紀子猛語録:スーパーレディが日本列島を震撼させる - 「第3章 女性宰相への茨の道」の章&lt;/ref&gt;。<br /> * 「私は変人の生みの親でございますから、生むだけじゃなくて育てていかないと。」と外相就任に関して記者に話した。小泉首相と共に、改革への決意を語っていた&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku3&quot;/&gt;。<br /> * 「小泉首相はいつまでも[[リチャード・ギア]]とダンスでも踊ってりゃいいのよ。」&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;<br /> * 「本当にあの人(小泉首相)はアメリカ大好き」&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;<br /> * 「小泉さんも自民党をぶっ潰すとか何とかおっしゃってましたけど、この小沢先生は本当にぶっ壊してきた実績がおありの方ですから」:[[小沢一郎]]を指して&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「『もなか』だか『おなか』だか」:[[野中広務]]を指して&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「静かじゃない人」:[[亀井静香]]を指して&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「うらなりの[[サクランボ|さくらんぼ]]」:[[加藤紘一]]を指して&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;なお、加藤はさくらんぼで有名な[[山形県]]の出身である&lt;/ref&gt;。<br /> * 「ジジ公(&#039;&#039;&#039;自自公&#039;&#039;&#039;)だかババ公だか」:小渕首相時代の自民・[[自由党 (日本 1998-2003)|自由]]・[[公明党|公明]]の連立内閣を指して&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「蜃気楼」:[[森喜朗]]元首相(当時・自民党幹事長)のどこか茫洋としていて、切れ味が鈍く乏しいさまを、彼の名前を音読みして、「[[蜃気楼]]」と発言した。ただしこれは眞紀子のオリジナルというわけでもなく、[[浜田幸一]]も著書で同様の批判を行っていた&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「[[カレー]]食って下痢して顔が細くなったような人」:[[細田博之]]を指して&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;細田の父・[[細田吉蔵]]は父・角栄と同じ[[佐藤栄作|佐藤]]派に属しており、かつては同じ派閥だった&lt;/ref&gt;。<br /> * 「全財産を身につけて歩いているような人」:[[扇千景]]元[[保守新党|保守党]]党首に対して&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「小泉さん(純一郎元首相)がはいと言えば『はい』と言う人間たち」:[[83会|小泉チルドレン]]を批判した発言&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「[[かつら (装身具)|ヅラ]]被ったおっさん」:[[与謝野馨]]を指して&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「大風呂敷おばさん」:[[風呂敷]]の有効利用を促した[[環境大臣]][[小池百合子]]を指して&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「[[ポマード]]を(べったり)頭につけたおっちゃん」:首相辞任後の[[橋本龍太郎]]を指して&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「最初はおいしかったが、だんだんしゃっこく(冷たく)なって、肉は[[ミートホープ]]の肉か知らないけど、見るだけでもいやになった。そういう時に新しく[[天丼]]が出てきたら、食べてみることだ」:自民党をカレーライスに例えて。天丼は民主党&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「69歳のコピー人間」「もうじき70、[[老人ホーム]]行きになる人間」:[[福田康夫]]を指している&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 小泉政権を「大きな花火が上がって家が振動するくらいだったけど、外に出たら消えている」とし、次期首相となった安倍晋三官房長官(当時)についても「(安倍の総理総裁就任は)[[課長]]がいきなり[[代表取締役]][[社長]]になるようなもの」「ぱちぱちとちっちゃな[[線香花火]]をもって『これも花火には違いない』みたいに言っているなあと。すぐに落ちてしまう」と徹底的に批判を加えている&lt;ref name=&quot;goroku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;mougoroku1&quot;/&gt;。<br /> * 「50万トンじゃダメなのよ。100万トンでもあげればいい。外交にはタイミングが大事」:2000年10月に[[北朝鮮による拉致被害者家族連絡会|家族会]]が[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]へのコメ支援に反対して自民党本部前に座り込んだ際の発言&lt;ref&gt;蓮池透「奪還」「人質――日本に引き留めようとする家族とも「戦わ」なければならなかった」の章&lt;/ref&gt;。<br /> * 2006年10月6日の衆院予算委員会代表質問で安倍首相の政治姿勢を厳しい言葉で非難した。「お父さんの靴を履いて飛び出していったら右に右に歩いていった(=安倍が政治家一家の出であることを揶揄。また、政治スタンスが「極右」であると批判)。」「聞いたところによると[[中西輝政]]先生におもねっているのではないでしょうか?(=[[ブレーン]]・アドバイザーすべてが保守論客である事を肴に歴史認識が欠如しているのではないか、と質した。)」「[[2002年]]に(内閣官房副長官として)訪朝したのですから拉致問題に関して連帯責任を負うべきですよ。」「どうも貧相な朝食を食べているそうですから安倍さんの政治は筋肉質とはいえません。」「反対に我が家にはしっかりとした朝食がありますからどうか食べにこられたら如何でしょうか?(=前者の発言を受けた皮肉)」&lt;ref&gt;[[日刊スポーツ]] 2006年10月7日 社会面&lt;/ref&gt;<br /> * 「(父の)田中角栄さんまでの自民党は良かった。その時の幻影をまだ見るのか。まだ(選挙で)自民党と書くのか」&lt;ref name=&quot;nikkan070617&quot;&gt;[[日刊スポーツ]] 2007年6月17日 社会面&lt;/ref&gt;<br /> * 「([[年金記録問題|年金問題]]について)[[グレーゾーン]]は支払うべき。これは国家が国民を信用し愛せるかの問題。小泉さん、安倍さんには愛がない。だから大臣([[松岡利勝]]前農水相)が首をつったんじゃないですか。内閣の[[防波堤]]にされたんじゃないですか」(2007年6月16日の応援演説)&lt;ref name=&quot;nikkan070617&quot;/&gt;<br /> * 安倍晋三首相の学歴を引き合いに出して低学歴と揶揄する発言(2007年7月19日の新潟県での講演会)。ただし田中も学位は安倍と同じ「学士」である&lt;ref&gt;[[夕刊フジ]] 2007年7月20日 3面&lt;/ref&gt;。<br /> * [[麻生太郎]]外相の2007年7月19日の講演でのいわゆる「[[アルツハイマー]]発言」に対して「口の曲がったわけのわからないおっちょこちょいの外相が『中国のお米と日本のお米の(価格の)計算が分からない人なんてアルツハイマーだ』だって、自分がアルツハイマーだからそんなこと言っているんでしょう」と発言(7月28日の米子市での演説会)&lt;ref&gt;2007年7月30日 [[読売新聞]] 政治面&lt;/ref&gt;。<br /> * 「今の瞬間が福田さんにとってはピーク。あとは転げ落ちていく」:2007年9月26日に組閣した[[福田康夫内閣]]を指して&lt;ref&gt;2007年9月27日 [[産経新聞]] 社会面&lt;/ref&gt;。<br /> * 「年取った安倍晋三(前首相)が演説しているようなもの。税金の無駄、首相を辞めて解散だ」:[[2007年]][[10月1日]]の福田康夫[[首相]]の所信表明演説を酷評&lt;ref&gt;2007年10月2日 [[日刊スポーツ]]他 社会面&lt;/ref&gt;。<br /> * [[麻生太郎]]を「&#039;&#039;&#039;ひょっとこ総理&#039;&#039;&#039;」と命名した&lt;ref&gt;[[週刊ポスト]] 2009年7月24日号 30-32ページ&lt;/ref&gt;。<br /> * 「[[予算委員会]]の答弁を聞いていても何を言っているのか分からない。[[菅直人]]首相もあまり力量のない方だということが証明された」「[[中国]]に毅然と物が言えないようでは困る。何も遠慮することはない」:[[尖閣諸島]]沖での漁船衝突事件への対応について菅直人首相らを酷評&lt;ref&gt;[[夕刊フジ]] 2010年11月9日 2面 など。&lt;/ref&gt;。<br /> * 「やはり[[暴走老人]]で大変だなと。大変だろうなとみております」:2012年10月、[[東京都知事]]を辞任して、国政への復帰と[[たちあがれ日本|新党結成]]を表明した[[石原慎太郎]]に対して&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121026/plc12102611560008-n1.htm 「石原氏は暴走老人」 “真紀子節”が炸裂「ご子息方がお気の毒」(産経ニュース 2012年10月26日)]&lt;/ref&gt;。<br /> * 「自爆テロ解散」:[[2012年]][[12月16日]]に行われた[[第46回衆議院議員総選挙]]で、小選挙区の[[新潟県第5区|新潟5区]]で[[長島忠美]]に敗れ比例復活もできず連続当選が6回で止まり落選。落選翌日、記者会見で[[野田佳彦]]首相を痛烈に批判した時に対しての発言&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121218/plc12121811480007-n1.htm 「総理は独りよがり」「自爆テロ解散」 田中文科相が痛烈批判(産経ニュース 2012年12月18日]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 一族 ==<br /> === 家庭・親族 ===<br /> * 父 - [[田中角栄|田中{{lang|zh|角}}榮]](第64・65代[[内閣総理大臣]])<br /> * 母 - 田中はな - 旧姓・坂本<br /> * 夫 - [[田中直紀]](第10代[[防衛大臣]])<br /> * 子 - 男子1人・女子2人&lt;ref name=prof/&gt;<br /> * 兄 - 正法 - 4歳で死亡<br /> * 異母弟 - [[田中京 (音楽評論家)|田中京]]と田中祐は、父の妾・辻和子との子。<br /> * 異母妹 - 佐藤敦子は父と[[佐藤昭子]]との子。(認知はされていない)<br /> <br /> === 系譜 ===<br /> ; &#039;&#039;田中家&#039;&#039;<br /> {{familytree/start}}<br /> {{familytree |TKu|-|TS|-|TKj|-|TKe|v|TM|TKu=角右衛門|TS=捨吉|TKj=角次|TKe=[[田中角栄|角榮]]|TM=正法}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | |!| |}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | |`|TM|TM=&#039;&#039;&#039;眞紀子&#039;&#039;&#039;<br /> |boxstyle_TM=background-color: #afa;<br /> }}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | |!|}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | |TN|TN=[[田中直紀|直紀]]}}<br /> {{familytree/end}}<br /> <br /> == 出典・注釈==<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> === 注釈 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references group=&quot;注釈&quot; /&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite |和書|author=飯島勲 |title=小泉官邸秘録 |date=2006 |publisher=日本経済新聞社 |isbn=4532352444 |ref=harv}}<br /> <br /> == 関連文献 ==<br /> * 『田中真紀子の恩讐』[[上杉隆]]著、[[小学館]]<br /> * 『田中真紀子の正体』上杉隆著、[[草思社]]<br /> * 『田中真紀子研究』[[立花隆]]著、[[文藝春秋]]<br /> * 『裸の女王様―田中真紀子秘書日記 』[[穂苅英嗣]]著、文藝春秋<br /> * 『わたしは特別なのよ!―田中真紀子の実像』[[須藤義雄]]著、[[STUDIO CELLO]]<br /> * 『田中真紀子は復讐する』[[佐野眞一]]著、[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]2003年12月号、2003年<br /> * 『週刊文春「検閲」事件 「角栄・真紀子」の血と判事の暴走』[[桜井よしこ]]・[[小林節]]著、文藝春秋2004年5月号、2004年<br /> * 『疑惑の相続人 田中真紀子』[[野田峯雄]]・[[小山唯史]]著、[[光文社]]<br /> * &quot;[http://www.kandagaigo.ac.jp/kuis/about/bulletin/jp/021/pdf/001.pdf カリフォルニア州ロサンゼルス統一学区における英語教育の試みと日本における小学校英語教育への示唆].&quot; ([http://www.webcitation.org/6JOgboVcU Archive]) 『[[神田外語大学紀要]]』. [[神田外語大学]]. 2009年. 第21号. -- 前と同じもの 英文 田中 真紀子<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Makiko Tanaka}}<br /> * [[越山会]]<br /> * [[新潟放送]]<br /> * [[介護等の体験]]、[[小学校及び中学校の教諭の普通免許状授与に係る教育職員免許法の特例等に関する法律]]<br /> * [[皇民党事件]]<br /> {{-}}<br /> {{start box}}<br /> {{s-par}}<br /> {{succession box<br /> | title = {{Flagicon|日本}} [[外務委員会|衆議院外務委員長]]<br /> | before = [[小平忠正]]<br /> | years = 2011年 - 2012年<br /> | after = [[中山義活]]<br /> }}<br /> {{succession box <br /> | title = {{Flagicon|日本}} [[文部科学委員会|衆議院文部科学委員長]]<br /> | before = [[岩屋毅]]<br /> | years = 2009年 - 2011年<br /> | after = [[石毛えい子|石毛鍈子]]<br /> }}<br /> {{s-off}}<br /> {{succession box<br /> | title = {{Flagicon|日本}} [[文部科学大臣]]<br /> | before = [[平野博文]]<br /> | years = 第17代:2012年<br /> | after = [[下村博文]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = {{Flagicon|日本}} [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]<br /> | before = [[河野洋平]]<br /> | years = 第132代:2001年 - 2002年<br /> | after = [[小泉純一郎]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = {{Flagicon|日本}} [[科学技術庁長官]]<br /> | before = [[近江巳記夫]]<br /> | years = 第52代:1994年 - 1995年<br /> | after = [[浦野烋興]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = {{Flagicon|日本}} [[原子力委員会|総理府原子力委員会委員長]]<br /> | before = 近江巳記夫<br /> | years = 第52代:1994年 - 1995年<br /> | after = 浦野烋興<br /> }}<br /> {{end box}}<br /> {{衆議院文部科学委員長}}<br /> {{衆議院外務委員長}}<br /> {{外務大臣}}<br /> {{文部科学大臣||[[科学技術庁長官]],[[文部科学大臣]]}}<br /> {{総理府原子力委員会委員長}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{デフォルトソート:たなか まきこ}}<br /> [[Category:日本の閣僚経験者]]<br /> [[Category:日本の外務大臣]]<br /> [[Category:科学技術庁長官]]<br /> [[Category:政権閣僚の配偶者]]<br /> [[Category:女性衆議院議員]]<br /> [[Category:新潟県選出の衆議院議員]]<br /> [[Category:民主党の衆議院議員]]<br /> [[Category:自由民主党の衆議院議員]]<br /> [[Category:越後交通|人たなか まきこ]]<br /> [[Category:日本の実業家]]<br /> [[Category:政府首脳の社会的パートナー]]<br /> [[Category:田中角栄]]<br /> [[Category:早稲田大学出身の人物]]<br /> [[Category:東京都区部出身の人物]]<br /> [[Category:1944年生]]<br /> [[Category:存命人物]]</div> 2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02 西岡武夫 2018-06-07T17:12:06Z <p>2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02: /* 参議院議長 */</p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |人名 = 西岡 武夫<br /> |各国語表記 = にしおか たけお<br /> |画像 = <br /> |画像サイズ = <br /> |画像説明 = <br /> |国略称 = {{JPN}}<br /> |生年月日 = {{生年月日と年齢|1936|2|12|no}}<br /> |出生地 = {{JPN1889}} [[長崎県]][[長崎市]]<br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1936|2|12|2011|11|5}}<br /> |死没地 = {{JPN}} [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[虎の門病院]]<br /> |出身校 = [[早稲田大学教育学部]]<br /> |前職 = [[長崎新聞社]]論説委員<br /> |現職 = <br /> |所属政党 = ([[無所属]]→)&lt;br /&gt;([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]→)&lt;br /&gt;([[新自由クラブ]]→)&lt;br /&gt;(無所属→)&lt;br /&gt;(自由民主党→)&lt;br /&gt;([[改革の会]]→)&lt;br /&gt;([[自由改革連合]]→)&lt;br /&gt;([[新進党]]→)&lt;br /&gt;([[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]→)&lt;br /&gt;([[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]→)&lt;br /&gt;無所属(参院議長就任により会派離脱)<br /> |称号・勲章 = [[文学士]](早稲田大学・[[1958年]])&lt;br /&gt;[[従二位]]&lt;br /&gt;[[桐花大綬章]](2011年)<br /> |親族(政治家) = [[西岡竹次郎]]([[父]])&lt;br /&gt;西岡ハル([[母]])&lt;br /&gt;[[西岡秀子]](長女)&lt;br /&gt;[[倉成正]]([[従兄]])&lt;br /&gt;倉成正和([[従甥]])<br /> |配偶者 = <br /> |サイン = <br /> |ウェブサイト = <br /> |サイトタイトル = <br /> |国旗 = JPN<br /> |職名 = 第28代 [[参議院議長]]<br /> |内閣 = <br /> |選挙区 = <br /> |当選回数 = <br /> |就任日 = [[2010年]][[7月30日]]<br /> |退任日 = [[2011年]][[11月5日]]<br /> |所属委員会 = <br /> |議員会館 = <br /> |元首職 = 天皇<br /> |元首 = [[明仁]]<br /> |国旗2 = JPN<br /> |職名2 = 第112代 [[文部大臣 (日本)|文部大臣]]<br /> |内閣2 = [[宇野内閣]]<br /> |選挙区2 = <br /> |当選回数2 = <br /> |就任日2 = [[1989年]][[6月3日]]<br /> |退任日2 = 1989年[[8月10日]]<br /> |元首職2 = <br /> |元首2 = <br /> |国旗3 = JPN<br /> |職名3 = 第111代 文部大臣<br /> |内閣3 = [[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]]<br /> |選挙区3 = <br /> |当選回数3 = <br /> |就任日3 = [[1988年]][[12月27日]]<br /> |退任日3 = 1989年6月3日<br /> |元首職3 = <br /> |元首3 = <br /> |国旗4 = JPN<br /> |職名4 = [[参議院議員]]<br /> |内閣4 = <br /> |選挙区4 = [[参議院比例区|比例区]]<br /> |当選回数4 = 2回<br /> |就任日4 = [[2001年]][[7月29日]]<br /> |退任日4 = 2011年11月5日<br /> |元首職4 = <br /> |元首4 = <br /> |国旗5 = JPN<br /> |職名5 = [[衆議院議員]]<br /> |内閣5 = <br /> |選挙区5 = (旧[[長崎県第1区 (中選挙区)|長崎1区]]→)&lt;br /&gt;[[長崎県第1区|長崎1区]]<br /> |当選回数5 = 11回<br /> |就任日5 = [[1963年]][[11月22日]]<br /> |退任日5 = [[1998年]][[2月3日]]<br /> |元首職5 = <br /> |元首5 = <br /> }}<br /> [[File:Tomb of Nishioka.jpg|thumb|西岡家の墓]]<br /> &#039;&#039;&#039;西岡 武夫&#039;&#039;&#039;(にしおか たけお、[[1936年]]([[昭和]]11年)[[2月12日]] - [[2011年]]([[平成]]23年)[[11月5日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[従二位]][[桐花大綬章]]。<br /> <br /> [[衆議院議員]](11期)、[[参議院議員]](2期)、[[文部省|文部]][[政務次官]]([[第3次佐藤内閣]])、[[新自由クラブ]][[幹事長]]、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]](第[[竹下内閣 (改造)|111]]・[[宇野内閣|112]]代)、[[自由民主党総務会|自由民主党総務会長]]、[[新進党]]幹事長、[[参議院議長]](第28代)などを歴任。<br /> <br /> == 来歴・人物 ==<br /> ===自民党から新自由クラブへ===<br /> [[1963年]](昭和38年)11月、衆議院議員を5期務めた父・竹次郎と、[[吉田茂]]が率いる[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]初の女性参議院議員として婦人参政権運動に尽力した母・ハルの地盤を引継いだ世襲候補として[[第30回衆議院議員総選挙]]に無所属で立候補。4位当選を果たし、自民党の追加公認を受ける。なお、前職の国会議員である母とともに初登院した。当初は[[三木派]]に所属し、[[自民党青年局長]]、文教部会長をつとめていた。<br /> <br /> [[ロッキード事件]]を期に、衆議院議員の[[河野洋平]]、[[田川誠一]]、[[山口敏夫]]、[[小林正巳]]、参議院議員の[[有田一寿]]と共に、6人で自民党を離党。[[1976年]](昭和51年)[[6月25日]]に「保守政治の刷新」を掲げて[[新自由クラブ]]を結党し、西岡は幹事長に就任した。新自由クラブは、結成直後の[[第34回衆議院議員総選挙]]で、自民党に不満を持っていた[[保守]]層の受け皿になる形で、一挙に17人を当選させた(さらに追加公認1人)。しかし、政策、党の路線をめぐり、[[野党]]として[[革新]]にも配慮を示す河野や田川と、あくまで保守主義を念頭に置く西岡、山口らとの間に亀裂が生じ、[[1979年]](昭和54年)7月に西岡は単独で新自由クラブを離党した。翌[[1980年]](昭和55年)12月に自民党に復党したが、[[1983年]](昭和58年)12月の総選挙では落選。<br /> <br /> ===自民党復党から新進党へ===<br /> [[1986年]](昭和61年)の総選挙で当選した後は[[宏池会|宮澤派]]に所属。文教族としてキャリアを積み、[[1988年]](昭和63年)に発足した[[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]]で[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]として初入閣。続く[[宇野内閣]]でも文相に留任した。[[1989年]](平成元年)、[[海部内閣]]で[[消費税]]の見直しが持ち上がった際、辞任した自民党税制調査会長の[[山中貞則]]に代わり、後任の税制調査会長に就任。<br /> <br /> [[1990年]](平成2年)2月には早稲田大学雄弁会及び三木派の先輩で、同じ文教族である[[海部俊樹]]首相の強い意向で[[自由民主党総務会|自民党総務会長]]に就任し、党三役入り。幹事長は[[平成研究会|竹下派]]の[[小沢一郎]]、政務調査会長は[[清和政策研究会|安倍派]]の[[加藤六月]]であった。のちに総裁の海部を含めた四人は自民党を離党し、新進党結党に至るが、この時期にその強い関係ができたと思われる。同年12月、党三役に[[リクルート事件]]からの謹慎明けの[[加藤紘一]]を送り込みたい宮澤派は西岡に総務会長職の交代を求めるが、これを拒否したため、派閥から除名。<br /> <br /> [[政治改革]]が頓挫したのを契機に海部内閣が[[内閣総辞職|総辞職]]した後、海部を会長とする政治改革推進協議会を自民党に結成。[[1993年]](平成5年)の[[第40回衆議院議員総選挙]]では、自民党から立候補し当選するが、政治改革推進派として執行部批判を強め、[[梶山静六]]幹事長が党内の混乱を収拾するために「結束前進の会」を作ろうとしたときはこれを「屋上屋を架すもの」と批判した。結局、西岡は同年12月に自民党を再び離党。[[改革の会]]代表、[[自由改革連合]]事務局長を経て、翌[[1994年]](平成6年)に[[新進党]]結党に参画し、海部党首実現に動く。国会対策委員長、幹事長を歴任。小沢一郎を補佐するが、[[1997年]](平成9年)に新進党は解党した。<br /> <br /> ===自由党から民主党へ===<br /> [[1998年]](平成10年)1月、小沢、加藤六月、[[野田毅]]らと共に自由党を結成し、副党首に就任。同年2月、[[高田勇]]知事が引退を表明した長崎県知事選挙に党内の慎重意見を抑えて出馬するも、同じく新人の[[金子原二郎]]に敗れ落選し[[補選]]出馬による国政復帰に意欲的だったが野田幹事長の反対で断念。[[2000年]](平成12年)の[[第42回衆議院議員総選挙]]に自由党公認で出馬するが、落選。<br /> <br /> [[2001年]](平成13年)7月、[[第19回参議院議員通常選挙]]に自由党公認で比例区から出馬し、当選。国政復帰を果たした。党[[参議院議員団|参議院議員会長]]、参院会派「国会改革連絡会(自由党・[[無所属の会]])」代表をつとめる。[[2003年]](平成15年)、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]との合流([[民由合併]])が決定すると、当初不参加の姿勢を示した。しかし最終的には参加を決断し、[[院内会派#参議院|参院会派]]「民主党・[[新緑風会]]」常任役員・顧問に就任した。[[2006年]](平成18年)、[[皇位継承問題]]で、[[皇室典範]]改正に慎重な立場を明らかにし、党内の保守系議員を中心に「皇室典範改正を慎重に考える会」を結成し会長に就任した。党内では[[渡部恒三]]と共に保守派の重鎮となり、党内の保守系議員で構成される[[永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会]]にも参加し、[[外国人参政権]]反対を表明した。<br /> <br /> [[2007年]](平成19年)[[8月]]、議員歴が長く、国会対策に精通している点が評価され、参議院[[議院運営委員会|議院運営委員長]]に就任した。<br /> <br /> 同月9日、西岡は「次の[[国会 (日本)|国会]]から[[クールビズ]]の申し合わせを廃棄し、本会議場、委員会室での議案審議に際しては[[ネクタイ]]着用を義務化したい」と提案した。「制服を着用して国会見学する子どもがいるのに、議員がリラックスした格好をしているのはいかがなものか」と説明した([[8月10日]]付の各[[全国紙]])。これに対して、すでにクールビズが3年目になり広く浸透しているし、参議院先例集にクールビズ以前の[[1951年]](昭和26年)8月から半世紀以上にわたり「ネクタイは外してよい」という申し合わせがあるので、与党のみならず、他野党や身内の民主党内からも批判が出て、この提案を撤回することとなった。<br /> <br /> この突然の提案については、[[環境大臣]]としてクールビズの旗振り役を務めたのが[[小池百合子]]であったので、民主党参院国対幹部の見方として「新進党、自由党と行動を共にしながら、自民党に移った小池に対する意趣返しではないか」といった見解も報道された。<br /> <br /> [[2009年]](平成21年)[[10月23日]]、[[岡田克也]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]が閣議の席で、国会開会式での[[天皇]]の「[[おことば]]」について「陛下の思いが少しは入った言葉がいただけるような工夫を考えて欲しい」と宮内庁に求めたのに対し、「天皇陛下の政治的中立を考えれば、お言葉のスタイルについて軽々に言うべきではない。極めて不適切だ」と批判した。なお、天皇の「おことば」の文面の検討は[[宮内庁]]の業務ではない。<br /> <br /> 2009年(平成21年)[[11月17日]]の記者会見で、[[2008年]]([[平成]]20年)[[3月]]に[[武藤敏郎]]元財務次官を[[日銀総裁]]に起用する[[国会同意人事]]案に反対したことについて「当時の[[自公連立政権|自公政権]]と対決するのが主眼であった」と説明し、「財金分離を理由に不同意としたのは、今でもおかしいと思っている」と語った&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091117/stt0911172334019-n1.htm 産経新聞、[[2009年]][[11月17日]]、配信記事。]{{リンク切れ|date=2017年10月}}&lt;/ref&gt;。翌18日に[[江利川毅]]前厚生労働次官を[[人事院]][[人事官]]に起用する政権の方針が「脱官僚に矛盾する」と批判を浴びているため、過去の過ちを率直に認めることで、江利川人事案に理解を求める狙いがあったと言われる。<br /> <br /> [[2010年]](平成22年)[[6月16日]]、国会最終日で野党が提出していた[[江田五月]]議長不信任案、菅直人内閣総理大臣[[問責決議案]]、荒井国務大臣問責決議案について、[[与党]]民主党の意向を受けて委員長職権で本会議を流会とし、国会最終日に参議院本会議が開かれない異例の事態となった。<br /> <br /> ===参議院議長===<br /> 2010年(平成22年)7月の[[第22回参議院議員通常選挙]]で民主党が大敗し、民主党は参議院で過半数を割り込んだ。しかしなお参議院第一党であり、[[参議院議長]]は第一党から出すことになっている慣例を楯に民主党は西岡を議長に推すものの、前国会での江田参院議長、西岡参院議院運営委員長らの国会運営に反発する自民党執行部とみんなの党は自民党からの議長選出を主張した。しかし野党共闘は不調に終わり、自民・みんなの2党は議長選挙への野党統一候補の擁立を断念。西岡を江田の後任の議長とする流れが固まり、自民党は副議長候補を擁立することになった。西岡は同年7月21日、議院運営委員長として理事会で国会運営について野党に謝罪した。<br /> <br /> しかし、議長選挙では全会一致で議長が決まるのが通例であるのに、西岡は過半数の139票を獲得したものの、白票88票、[[江口克彦]](みんなの党)が11票、[[尾辻秀久]](自由民主党、副議長に就任)が1票と異例の投票結果となった。なお、参議院議長就任に伴い離任した参議院議院運営委員長の後任には、自民党の[[鈴木政二]]参院国会対策委員長が就任し、議院運営委員長のポストは野党に明け渡すことになった。<br /> <br /> [[参議院議長]]就任以降、民主党出身ながら民主政権の[[菅内閣]]に批判的な立場を取る等、[[中立]]が求められる参議院議長としては過去になかった異例の行動が多かった。議長としての異例な行動の理由に「&#039;&#039;&#039;日本の政治には、もう&#039;&#039;&#039;『&#039;&#039;&#039;余白&#039;&#039;&#039;』&#039;&#039;&#039;や&#039;&#039;&#039;『&#039;&#039;&#039;悠長な時間&#039;&#039;&#039;』&#039;&#039;&#039;が無い&#039;&#039;&#039;」と述べ、また「私へのチェック機能は議長不信任決議案(提出の可能性)などで担保されている」と説明した。<br /> * 参議院史上初めて議長の[[記者会見]]の定例化に踏み切った&lt;ref name=&quot;sekine20101117&quot;&gt;関根慎一「野党たてて政権批判展開」『[[朝日新聞]]』44741号、14版、[[朝日新聞東京本社]]、2010年11月17日、4面。&lt;/ref&gt;。<br /> * 参院選における[[一票の格差]]の是正等を目指し全党派の代表が参加する会議を新設&lt;ref&gt;「選挙制度見直しの会議を9月に設置――西岡議長、抜本改革も視野」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100824/plc1008242106018-n1.htm 選挙制度見直しの会議を9月に設置 西岡議長、抜本改革も視野 - MSN産経ニュース]』[[産経デジタル]]、2010年8月24日。&lt;/ref&gt;。全国を9ブロックに分けた比例区による新選挙制度とする私案を提案。<br /> {{main|衆議院・参議院の選挙制度改革案一覧}}<br /> * [[2010年9月民主党代表選挙|2010年9月の民主党代表選挙]]に関し、候補者の出馬表明前の同年8月23日に「菅直人首相が続投を表明すれば、対抗する候補者は相当の覚悟が必要だ。党を去ることも選択肢に入る」と発言し[[小沢一郎]]の立候補を牽制した。民主党籍&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;会派を離脱したが、党籍を維持しているため投票権は有していた。なお[[衆議院議長]]の[[横路孝弘]]は海外出張中で、投票の行われた臨時党大会に出席していない。&lt;/ref&gt;は持っているものの自らの投票権は棄権することもあわせて表明した&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100823/stt1008231949005-n1.htm &quot;西岡議長「代表選候補者は離党も覚悟」&quot;] MSN産経ニュース、2010年8月23日付、2010年9月18日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> * [[内閣総理大臣]][[菅直人]]の[[外交]][[政策]]について「作戦、展望を持っていない」&lt;ref name=&quot;sekine20101117&quot;/&gt;と痛烈に批判するなど、閣僚らに対し苦言を呈することも多かった。衆議院側で[[国土交通大臣]][[馬淵澄夫]]や[[内閣官房長官]][[仙谷由人]]らに対する[[不信任決議案]]が否決された際には、「責任は官房長官のほうが重い」&lt;ref name=&quot;sekine20101117&quot;/&gt;と指摘した。さらに、[[尖閣諸島中国漁船衝突事件]]をめぐる仙谷の答弁について「法廷闘争的な答弁はしているが、政治的には通らない」&lt;ref&gt;「西岡参院議長、『馬淵氏より仙谷氏の責任が重い』」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/101116/stt1011161818007-n1.htm 西岡参院議長、「馬淵氏より仙谷氏の責任が重い」 - MSN産経ニュース]』[[産経デジタル]]、2010年11月16日。&lt;/ref&gt;と批判した。これを受け、仙谷は「参議院の議長が言っているのだから、重く受け止めたい。別に反論はない」と述べた&lt;ref&gt;「仙谷氏、尖閣事件めぐる西岡議長の批判に『重く受け止めたい。反論はない』」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101117/plc1011171314015-n1.htm 仙谷氏、尖閣事件めぐる西岡議長の批判に「重く受け止めたい。反論はない」 - MSN産経ニュース]』[[産経デジタル]]、2010年11月17日。&lt;/ref&gt;。<br /> * 2011年(平成23年)[[3月1日]]に衆議院から送付された2011年度当初予算案について、自民党などは予算案と共に歳入関連法案が参議院に送付されていないことを問題視した。[[日本国憲法第60条|憲法第60条]]2項の「衆議院の議決が優先されるのは、参議院が衆議院の可決した予算を受け取った後に議決しないとき」という内容の条文を根拠に、「予算を受領したか否かは参議院側において主体的に判断できる」などと主張した。西岡は議長としてこれに同調し、予算案の受け取りを留保し、衆議院が予算案を可決した同年3月1日と異なる同年[[3月2日]]付で予算案を受領した扱いにした。<br /> * [[2011年]]([[平成]]23年)[[3月31日]]には、[[子ども手当]]を半年延長する「[[平成二十二年度等における子ども手当の支給に関する法律]]案」の[[採決]]で、[[参議院]][[本会議]]が可否同数となった際には、[[議長決裁]]で可決とした。このことについて後に「元を糺せば、こういう[[政策]]を恒久的な財源がなく、一年間の[[時限立法]]でやるのがおかしかったが、実際問題として仮に[[法律]]が通らないと、かなり現場も混乱する」として、やむを得ない対応であったことを語った。<br /> * [[2011年]](平成23年)[[5月11日]]に西岡の主導で[[東日本大震災]]の復興財源に充てる増税に反対する超党派の議員連盟が発足し、声明を発表した&lt;ref&gt;『[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110512/plc11051209280004-n1.htm 西岡議長、異例の反増税議連発足へ]産経新聞』 2011年5月12日&lt;/ref&gt;。<br /> * 2011年(平成23年)[[5月19日]]の[[読売新聞]]に、東日本大震災の[[菅直人]][[内閣総理大臣]]の対応を批判し、一刻も早く[[菅内閣]]が退陣するよう求める論文を寄稿した。<br /> * 2011年(平成23年)6月、[[国家公務員]]の給与を削減する法案が衆議院に提出された際に、国家財政の悪化について理解を示しつつも、公務員[[労働三権]]や人事院制度等の公務員制度について、抜本的改革をせずに人事院との協議が不十分なまま給与削減をする趣旨に反発し、衆議院から送付された場合は参議院議院運営委員長との協議の上、[[人事院]]との協議が尽くされない限り、参議院としては法案を委員会に付託しない考えを示した。<br /> * 2011年(平成23年)[[7月7日]]、[[第177回国会]]に6月2日に否決された[[内閣不信任決議]]は、同会期中に2回目の採決ができないとする[[一事不再議]]について、西岡は「提案者と不信任理由が異なれば2回目の採決は可能であり、(2回目の内閣不信任を)議院運営委員会で[[玄関]]払いしたり、[[衆議院議長]]が議題にしないということは不可能」と発言した。<br /> * 2011年(平成23年)[[7月14日]]、民主党国会議員に対して菅首相を退陣させるために、民主党両院議員総会で代表の解任手続きと、衆議院での[[内閣不信任決議]]案と参議院での首相[[問責決議]]案を提出すべきだとする論文を発表した。<br /> * 2011年(平成23年)[[8月31日]]、参議院本会議で閉会の挨拶の内容に、[[ねじれ国会]]であることを理由に、参議院へ法案を送らず、審議の時間を短縮して決断を迫り、政策推進の遅れを参議院に責任転嫁する姿勢に出たことは遺憾だと発言。野党議員から拍手が起こり、自民党の[[山本一太]]参院政審会長は「参議院の代表として[[正論]]を述べられた」と評価した&lt;ref&gt;{{cite news<br /> |url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110901k0000m010047000c.html<br /> |title=西岡参院議長:最後まで菅批判…政権運営「極めて遺憾」<br /> |newspaper=[[毎日新聞]]<br /> |date=2011年8月31日<br /> |accessdate=2011-08-31}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===死去===<br /> {{Wikisource|議長西岡武夫君逝去につき哀悼の件}}<br /> 2011年(平成23年)9月30日、[[第178回国会|第178回臨時国会]]最終日の[[参議院]][[本会議]]開会の際、本会議場でよろけながらも職員に支えられてようやく議長席に着いた&lt;ref&gt;{{cite news<br /> | url = http://www.asahi.com/politics/update/0930/TKY201109300646.html<br /> | title = 西岡参院議長、議場でよろり 「口中の病気で眠れず」<br /> | newspaper = [[asahi.com]]<br /> | publisher = [[朝日新聞社]]<br /> | date = 2011-09-30<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また同年[[10月20日]]に召集された[[第179回国会|第179回臨時国会]]に於いては、口内[[帯状疱疹]]で発声に支障があるため当面[[欠席]]の意向を示した(議事進行は[[参議院副議長]]の[[尾辻秀久]]が代行)&lt;ref name=&quot;juunini&quot;&gt;{{cite news<br /> | url = http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2011102000386<br /> | title = 西岡参院議長が病欠<br /> | newspaper = 時事ドットコム<br /> | publisher = [[時事通信]]<br /> | date = 2011-10-20<br /> | accessdate = 2011-11-05<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[第179回国会]]召集前日の2011年(平成23年)[[10月19日]]に[[参議院議長公邸]]で西岡と会った民主党幹事長(兼民主党参議院議員会長)の[[輿石東]]は「[[議長]]は[[元気]]な様子」とコメントし&lt;ref name=&quot;juunini&quot;/&gt;、同年10月27日付の[[産経新聞]]に「今こそ必要な[[内閣総理大臣|首相]]の覚悟」と題した[[論文]]を寄稿する&lt;ref&gt;{{cite news<br /> |author=西岡武夫<br /> |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111027/plc11102702530003-n1.htm<br /> |title=参院議長・西岡武夫 今こそ必要な首相の覚悟<br /> |newspaper=産経新聞<br /> |date=2011-10-27<br /> |accessdate=2011-11-06<br /> }}&lt;/ref&gt;などしていたが、同年11月5日[[午前]]2時24分、[[肺炎]]のため[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[虎の門病院]]で[[死去]]した&lt;ref&gt;{{cite news<br /> |url=http://www.47news.jp/CN/201111/CN2011110501000095.html<br /> |title=西岡参院議長が死去 菅政権の震災対応批判<br /> |newspaper=[[共同通信]]<br /> |date=2011-11-05<br /> |accessdate=2011-11-06<br /> }}&lt;/ref&gt;。{{没年齢|1936|2|12|2011|11|5}}。現職[[参議院議長]]の死去は初代議長の[[松平恒雄]]([[1949年]][[11月14日]]死去)以来2人目であった&lt;ref&gt;{{cite news<br /> | url = http://jp.wsj.com/Japan/Politics/node_337373<br /> | title = 西岡参院議長が死去、75歳=文相、自民総務会長を歴任<br /> | newspaper = [[ウォール・ストリート・ジャーナル]]日本語版<br /> | date = 2011-11-05<br /> | accessdate = 2011-11-05<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2011年(平成23年)[[11月11日]][[午前]]の[[閣議]]において、[[日本国政府|政府]]は西岡を[[従二位]]に叙し、[[桐花大綬章]]を贈ることを決めた&lt;ref&gt;{{cite news<br /> | url = http://www.jiji.com/jc/zc?k=201111/2011111100397<br /> | title = 故西岡参院議長に従二位<br /> | newspaper = 時事ドットコム<br /> | date = 2011-11-11<br /> | accessdate = 2011-11-20<br /> }}&lt;/ref&gt;。[[11月25日]]、午前の参議院本会議において副議長の[[尾辻秀久]]が[[追悼演説|哀悼演説]]を行い&lt;ref&gt;{{Cite news|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&amp;k=2011112500343|title=「最期まで熱く燃えていた」=尾辻副議長が西岡氏哀悼|date=2011-11-25|accessdate=2011-11-25|newspaper=時事通信}}&lt;/ref&gt;、午後には史上3人目の参議院葬儀が[[青山葬儀所]]で執り行われた&lt;ref&gt;{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111125/plc11112518050017-n1.htm|title=西岡前議長の参院葬 900人がお別れ|date=2011-11-25|accessdate=2011-11-25|newspaper=産経新聞}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == エピソード ==<br /> * [[小学生]]の頃から[[父]]に憧れて[[政治家]]志望だったので、小学校5年生から政治家になるまで&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;現在では政治家は答礼のための自筆によるものを除き、年賀状等を送ることは[[公職選挙法]]で禁止されているが、当時はそのような規定はなかった。&lt;/ref&gt;、同級生全員(約300名)に毎年[[年賀状]]・[[暑中見舞い]]を送っていた。<br /> * [[中学校]]は[[中高一貫校]]の私立[[海星中学校・高等学校 (長崎県)|長崎海星中学校]]に入学したが、[[選挙]]の際に役立つよう知り合いを増やしたいと言う理由で、わざわざ[[高校受験]]をして、[[長崎県立長崎東高等学校]]に進学している。高校進学の際には、父の母校である[[早稲田大学]]志望と言うことで、東京の高校受験も考えたが、父の「政治家になるなら、今のうちに、地元に沢山の[[友達]]を作っておけ」との[[言葉]]に従い、地元の長崎東高等学校に進学した。<br /> * 長崎海星中学校時代の同級生には、歌手・俳優の[[美輪明宏]]が居り、西岡と美輪は晩年まで親交が深かった。美輪自身は西岡の荒々しい性格と行動力及び、その[[純粋]]さを好んでいたことを語っている&lt;ref&gt;『西岡議長死去:評伝 「ミスター一徹」を悼む=岩見隆夫』 毎日新聞 2011年11月6日参照&lt;/ref&gt;。<br /> * 身だしなみや[[礼儀]]に厳格で、[[国会議事堂]]の[[本会議]]場は大変神聖な場所だと言う考えに徹しており、ある若い議員が紺の[[ブレザー]]と[[灰色|グレイ]]の[[ズボン]]で議場に入るのを見て、「あれは許せない。神聖な議場には揃いの[[背広|スーツ]]で入るべきだ」と苦言を呈したこともある。<br /> ** 前述のように、[[国会 (日本)|国会]]内での[[クールビズ]]にも全く賛成していなかったこともあって、[[夏|真夏]]でもスーツと[[ネクタイ]]を最期まで着用していた。<br /> * 人前で[[食事]]をする姿を晒すのは恥ずかしいと言う考えを持っており(もちろん、他人にそれを求めることはしない)、自民党総務会長在職中、[[選挙]]の応援や講演等で[[地方]]に[[出張]]した際、[[時間]]がない時は移動の[[乗り物]]の中で[[弁当]]などを食べなければならないが、決まって「僕はいいよ」となるので、同行した党職員も総務会長を差し置いて弁当を食べるわけにもいかずに、困ったことがあったと言う。しかし、[[2011年]](平成23年)6月14日の[[ニコニコ生放送]]で[[山本一太]]に真偽を問われた際に「それは[[デマ]]です」と否定していた。<br /> <br /> == 年譜 ==<br /> * [[1963年]](昭和38年)[[11月21日]]、[[第30回衆議院議員総選挙]](旧・長崎1区)に無所属で出馬し、4位(最下位)で初当選。当選後に自民党の[[池田勇人]]総裁から追加公認を受け、三木派に入会。<br /> * [[1970年]](昭和45年)[[1月14日]]、[[第3次佐藤内閣]]で文部政務次官に就任。<br /> * [[1976年]](昭和51年)[[6月22日]]、自民党離党。[[新自由クラブ]]結党に参加し、幹事長に就任。<br /> * [[1979年]](昭和54年)[[7月16日]]、[[河野洋平]]代表らとの意見の相違から新自由クラブを離党。同年の[[第35回衆議院議員総選挙]]には保守系無所属で出馬し、当選。<br /> * [[1980年]](昭和55年)12月、自民党復党。政調副会長に就任。<br /> * [[1983年]](昭和58年)[[12月18日]]、[[第37回衆議院議員総選挙]]に落選。<br /> * [[1986年]](昭和61年)[[7月6日]]、[[第38回衆議院議員総選挙]]で返り咲き。宮澤派入り。<br /> * [[1988年]](昭和63年)[[12月27日]]、[[竹下改造内閣]]で[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]として初入閣([[1989年]]8月まで)。<br /> * [[1990年]](平成2年)[[2月18日]]、自民党[[総務会長]]に就任。宮澤派退会。無派閥になる。<br /> * [[1993年]](平成5年)[[12月17日]]、自民党離党。無所属になる。<br /> * [[1994年]](平成6年)12月、新進党に参画。<br /> * [[1996年]](平成8年)[[10月20日]]、[[第41回衆議院議員総選挙]]([[長崎県第1区|長崎1区]])には新進党から出馬し、当選。<br /> * [[1997年]](平成9年)[[12月27日]]、新進党解党。<br /> * [[1998年]](平成10年)1月、[[小沢一郎]]に従い自由党の結党に参加し、小沢党首の下で副党首に就任。同年、衆議院議員を辞職し長崎県知事選挙に出馬するが、[[金子原二郎]]に敗れ落選。<br /> * [[2000年]](平成12年)[[6月25日]]、国政復帰のため[[第42回衆議院議員総選挙]]に自由党から出馬するが、落選。<br /> * [[2001年]](平成13年)[[7月29日]]、[[第19回参議院議員通常選挙]]に自由党公認で比例区から出馬し、参議院で初当選。<br /> * [[2003年]](平成15年)[[9月27日]]、自由党の解党に伴い、民主党に合流する。<br /> * [[2007年]](平成19年)[[8月7日]]、[[市川一朗]]に代わり参議院議院運営委員長に就任。<br /> * [[2010年]](平成22年)[[7月30日]]、[[江田五月]]に代わり参議院議長に就任。<br /> * [[2011年]](平成23年)[[11月5日]]、[[肺炎]]のため死去。[[11月25日]]、[[青山葬儀所]]にて史上3人目の参議院葬儀。<br /> <br /> == 主な参加議員連盟 ==<br /> * [[ラグビーワールドカップ2019日本大会成功議員連盟]](会長)<br /> <br /> == 親族 ==<br /> * 父:[[西岡竹次郎]](元衆議院議員・長崎県知事)<br /> * 母:[[西岡ハル]](元参議院議員)<br /> * 弟:[[西岡公夫]](元長崎県議員)<br /> * 娘:[[西岡秀子]](衆議院議員)<br /> * 従兄:[[倉成正]](元衆議院議員・外務大臣)同じ選挙区で骨肉の争いを演じた。<br /> * 従甥:[[倉成正和]](元衆議院議員)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[民主党の閣僚経験者一覧]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> <br /> {{start box}}<br /> {{s-par}}<br /> {{succession box<br /> | title = {{Flagicon|JPN}} [[参議院議長]]<br /> | before = [[江田五月]]<br /> | years = 第28代:2010年 - 2011年<br /> | after = [[平田健二]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = {{Flagicon|日本}} [[議院運営委員会|参議院議院運営委員長]]<br /> | before = [[市川一朗]]<br /> | years = 第58代:2007年 - 2010年<br /> | after = [[鈴木政二]]<br /> }}<br /> {{s-off}}<br /> {{succession box<br /> | title = {{Flagicon|日本}} [[文部大臣 (日本)|文部大臣]]<br /> | before = [[中島源太郎]]<br /> | years = 第111・112代:1988年 - 1989年<br /> | after = [[石橋一弥]]<br /> }}<br /> {{s-ppo}}<br /> {{succession box<br /> | title = [[新進党|新進党幹事長]]<br /> | before = [[米沢隆]]<br /> | years = 第3代:1996年 - 1997年<br /> | after = 解散<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = [[新進党|新進党国会対策委員長]]<br /> | before = 新設<br /> | years = 初代:1996年<br /> | after = [[中野寛成]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = [[自由民主党総務会長]]<br /> | before = [[唐沢俊二郎]]<br /> | years = 第33代:1990年 - 1991年<br /> | after = [[佐藤孝行]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = [[税制調査会|自由民主党税制調査会長]]<br /> | before = [[三塚博]]<br /> | years = 第23代 : 1989年 - 1990年<br /> | after = [[塩川正十郎]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = [[新自由クラブ|新自由クラブ幹事長]]<br /> | before = 結成<br /> | years = 初代 : 1976年 - 1979年<br /> | after = [[田川誠一]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = [[自由民主党青年局|自由民主党青年局長]]<br /> | before = [[海部俊樹]]<br /> | years = 第9代:1972年<br /> | after = [[浜田幸一]]<br /> }}<br /> {{end box}}<br /> {{文部科学大臣||[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]}}<br /> {{自由民主党総務会長}}<br /> {{自由民主党税制調査会長}}<br /> {{参議院議長}}<br /> {{参議院議院運営委員長}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:にしおか たけお}}<br /> [[Category:日本の文部大臣]]<br /> [[Category:参議院議長]]<br /> [[Category:比例区選出の参議院議員]]<br /> [[Category:民主党の参議院議員]]<br /> [[Category:自由党 (日本 1998-2003)の国会議員]]<br /> [[Category:新進党の衆議院議員]]<br /> [[Category:自由民主党の衆議院議員]]<br /> [[Category:新自由クラブの国会議員]]<br /> [[Category:長崎県選出の衆議院議員]]<br /> [[Category:日本の都道府県知事選挙の立候補経験者]]<br /> [[Category:桐花大綬章受章者]]<br /> [[Category:早稲田大学出身の人物]]<br /> [[Category:長崎県出身の人物]]<br /> [[Category:1936年生]]<br /> [[Category:2011年没]]</div> 2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02 フジオフードシステム 2018-06-07T15:27:53Z <p>2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02: /* 概要 */</p> <hr /> <div>{{基礎情報 会社<br /> |社名 = 株式会社フジオフードシステム<br /> |英文社名 = Fujio Food System Co., Ltd.<br /> |ロゴ = <br /> |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]<br /> |市場情報 = {{上場情報 | JASDAQ | 2752 | 2002年12月17日}}<br /> |略称 = フジオフード<br /> |本社所在地 = <br /> |国籍 = {{JPN}}<br /> |本社郵便番号 = <br /> |本店郵便番号 = 530-0046<br /> |本店所在地 = [[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]菅原町2-16&lt;br /&gt;FUJIO BLDG.<br /> |創業 = [[1979年]]([[昭和]]54年)[[12月6日]]<br /> |設立 = [[1999年]]([[平成]]11年)[[11月11日]]<br /> |業種 = 6100<br /> |統一金融機関コード = <br /> |SWIFTコード = <br /> |事業内容 = 外食産業<br /> |代表者 = [[代表取締役]][[社長]] 藤尾政弘<br /> |資本金 = 151,000千円<br /> |発行済株式総数 = 9,827,400株<br /> |売上高 = 連結:333億24百万円<br /> |営業利益 =連結:23億63百万円<br /> |純利益 = 連結:10億79百万円<br /> |純資産 =連結:68億90百万円<br /> |総資産 = 連結:200億54百万円<br /> |従業員数 = 523人(パート・アルバイト含まず)<br /> |決算期 = [[12月31日]]<br /> |主要株主 = 有限会社エフエム商業計画(15.54%)&lt;br /&gt;[[サッポロビール]]株式会社(13.62%)<br /> |主要子会社 = 上海藤尾餐飲管理有限公司 86.9%&lt;br /&gt;有限会社エフエム商業計画 15.5%<br /> |関係する人物 = <br /> |外部リンク = [http://www.fujio-food.com// フジオフードシステム 公式サイト]<br /> |特記事項 = 財務データは2015年12月期現在<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;株式会社フジオフードシステム&#039;&#039;&#039;(Fujio Food System Co., Ltd.)は、大衆外食チェーンの「&#039;&#039;&#039;まいどおおきに食堂&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;串家物語&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;つるまる&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;手作り居酒屋かっぽうぎ&#039;&#039;&#039;」というブランドを中心に、37業態の直営・FC事業の経営を行う企業である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 社長である[[藤尾政弘]]は、[[1979年]]12月に[[個人事業主]]として藤尾実業を創業。その後、生まれ育った実家の食堂を思い、メインブランドである「まいどおおきに食堂」1号店を[[1988年]]7月にオープン。[[2006年]]6月には[[中華人民共和国]][[上海市]]にて出店。同年12月には47全都道府県に出店している。<br /> <br /> 高齢者採用を積極的に行っており、50-60歳代の女性を中心にキャスティングする&lt;ref&gt;[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/397 社長の風景 おばちゃんのように立場の弱い人が 働ける場所を作ろう。フジオフードシステム藤尾政弘]&lt;/ref&gt;。そのため、40代以上の雇用占有率は4割を超えている。<br /> <br /> == 沿革 ==<br /> * [[1979年]]12月 - 藤尾政弘が藤尾実業を創業<br /> * [[1986年]]6月20日 - 株式会社フジセイ・コーポレーションを設立<br /> * [[1999年]]11月11日 - 株式会社フジオフードシステム設立<br /> * [[2001年]]12月28日 - 株式会社フジセイ・コーポレーションが株式会社フジオフードシステムを連結子会社化<br /> * [[2002年]]12月17日 - 大阪証券取引所「ヘラクレス」に上場<br /> * [[2005年]]1月1日 - 株式会社フジオフードシステムが株式会社フジセイ・コーポレーションを吸収合併<br /> * [[2006年]]6月 - 海外1号店を中国・上海に出店<br /> * 2006年12月 - 全国47都道府県に出店達成<br /> * [[2007年]]4月 - グループ総店舗数が700店舗達成<br /> * [[2008年]]4月 - ハワイ1号店を出店<br /> * [[2010年]]9月 - 香港に子会社香港藤尾餐飲管理有限公司を設立<br /> * [[2011年]]10月 - シンガポールに子会社を設立<br /> * [[2012年]]2月 - 株式会社ホノルルコーヒージャパンを設立<br /> * [[2013年]]11月 - 台湾に合弁会社「美樂食餐飲管理有限公司」を設立<br /> * 2013年12月 - タイに合弁会社「MBK Food system CO.,LTD」を設立<br /> * 2016年2月 - シンガポールのサラダ専門店「SaladStop!」とマスターフランチャイズ契約を締結<br /> * [[2016年]]5月 - [[はらドーナッツ]]を買収 &lt;ref&gt;[http://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201603/0008928129.shtml 外食産業のフジオフード はらドーナッツを買収]&lt;/ref&gt;<br /> * 2016年11月 - 株式会社[[梅の花]]との資本業務提携<br /> * 2016年12月 - 株式会社[[ザ・どん]]を子会社化<br /> * 2017年3月 - アメリカのベーグルカフェ「Ahabi LLC」とのマスターライセンス契約 締結<br /> <br /> == 経営店舗 ==<br /> === メインブランド ===<br /> * まいどおおきに食堂<br /> * 串家物語<br /> * つるまる(つるまる饂飩・鶴丸饂飩本舗)<br /> * 手作り居酒屋かっぽうぎ<br /> <br /> === サブブランド ===<br /> * さち福や<br /> * タルト&amp;カフェ デリス<br /> * フジオ軒<br /> * ハニーミツバチ珈琲<br /> * じゅうじゅう屋<br /> * すみび家 米牛<br /> * 火の音水の音<br /> * デリス・デュ・パレ<br /> * 晴バレ米牛<br /> * 印度のルー<br /> * 天麩羅えびのや<br /> * ホノルルコーヒー<br /> * [[はらドーナッツ]]<br /> * ザ・どん<br /> * SALADSTOP!<br /> * かつ満<br /> * 博多ふくいち<br /> * うちの食堂<br /> * 駅前パーラー<br /> <br /> == まいどおおきに食堂 ==<br /> [[Image:Ibaraki Ai Shokudo.JPG|thumb|250px|茨木安威食堂([[大阪府]][[茨木市]])]]<br /> {{Double image aside|right|THSR Taichung Shokudo, Maido Ookini Shokudo 20151030.jpg|171|THSR Taichung Shokudo Bento, Maido Ookini Shokudo 20151030.jpg|75|台中高鉄食堂&lt;br&gt;&lt;small&gt;(台湾・[[台中駅 (台湾高速鉄道)|高鉄台中駅]])&lt;/small&gt;|駅弁店&lt;br&gt;&lt;small&gt;(同)&lt;/small&gt;}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;まいどおおきに食堂&#039;&#039;&#039;(まいどおおきにしょくどう)は、株式会社&#039;&#039;&#039;フジオフードシステム&#039;&#039;&#039;が展開する[[カフェテリア]]形式の一膳飯屋。<br /> <br /> 地名+食堂、いわゆる「○○食堂」という命名方式で、全国に展開している(店舗名の具体例は[http://www.fujiofood.com/shop_search/shokudo/ 公式サイトの店舗検索ページ]を参照)。レシートでは、「日本一の食堂」の呼称も使用している。フジオフードの本社がある関西地区には直営店が多いが、それ以外の地区では主に[[フランチャイズ]]方式により店舗展開している&lt;ref&gt;[http://www.fujiofood.com/fc/brand/shokudo.html まいどおおきに食堂|フランチャイズ加盟店募集]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[2006年]]に全国47都道府県に出店を達成し(但し、2015年現在では青森県と秋田県に店舗がない。沖縄県の店舗は一旦全て閉店したが、後に沖縄料理中心の定食屋として再開店している)、現地法人との[[合弁事業]]により[[中華人民共和国|中国]]の[[上海市|上海]]や[[中華民国]]([[台湾]])にも進出している。台湾では[[台湾高速鉄道|高速鉄道]]の改札内に[[駅弁]]店も出店した。[[郊外]]の[[ロードサイド]]型店舗が中心だが、大阪市内を中心に[[都心]]の[[オフィス街]]にも店舗を有する。2014年にはコンビニエンスストア大手の[[ファミリーマート]]との共同店舗『ファミリーマート まいどおおきに東池袋食堂』を東京都[[豊島区]]にオープンしたが、2017年12月で閉店している。<br /> <br /> お米と[[卵焼き]]にこだわっており、お米は毎日その日の分だけ精米している。また、カフェテリア形式(但し一部店舗は除く)であるが、卵焼きだけは必ず注文を受けてから調理する。おかず類は、2010年9月現在、安い物だと一品50円程度、高い物でも400円程度と、リーズナブルな価格の商品を揃える。<br /> <br /> 基本は作り置きであるが、一部店舗では出来たて商品の提供も行っており、焼き魚や揚げ物類は注文後に調理されたものを受け取ることが可能である。また、単品のおかず類の他に、カレー、ラーメン、うどん、焼きそば、オムライスなどの一品料理も置かれている。メニューは、全て合わせると、常時60種類前後は用意されている。これらのメニューは、店舗ごとに異なり、また季節ごとにも異なる(価格も統一されていない)。そのため、公式サイトのメニュー紹介でも、代表的なメニューの一部が価格表示無しで掲載されているだけである。全国で展開しているので、季節によっては、「北陸・新潟の味」など、地域ごとの日常メニューも取り入れている。<br /> <br /> [[テイクアウト]]用容器の備え付けがあり、持ち帰りは自由。また、事前に電話で注文すれば、予算と好みに合わせて、弁当を作って貰うことも出来る。自店での精米により発生する[[糠|米ぬか]]を無料配布している店舗もある。<br /> <br /> == 串家物語 ==<br /> &#039;&#039;&#039;串家物語&#039;&#039;&#039;(くしやものがたり)は、株式会社&#039;&#039;&#039;フジオフードシステム&#039;&#039;&#039;が展開する[[串揚げ]]をビュッフェスタイルで食することができる業態。約30種類の串ネタを選び、テーブル備え付けのフライヤーで客自身が自由に揚げて食べることができる。複数のソースがあるほか、サラダ、パスタ、惣菜、フルーツ、スイーツ、ヨーグルトも用意されている&lt;ref&gt;[https://akiba-souken.com/article/24553/ 「串家物語 ヨドバシAkiba店」、10月上旬オープン! セルフ式の串揚げ食べ放題チェーンが秋葉原に進出]&lt;/ref&gt;。9月4日は、「串家物語の日」と制定されている。<br /> <br /> == つるまる ==<br /> &#039;&#039;&#039;つるまる&#039;&#039;&#039;は、株式会社&#039;&#039;&#039;フジオフードシステム&#039;&#039;&#039;が展開するセルフ式[[うどん]]店のブランドである。「麺乃庄つるまる饂飩」または「鶴丸饂飩本舗」の店舗がある。日本国内に展開するほか、台湾や中国にも進出している。タイでも合弁会社を設立し、フランチャイズチェーン(FC)方式で展開を進めている&lt;ref&gt;[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD130RO_T10C13A9TJ2000/ フジオフード、タイで合弁 うどん店FC30店めざす (2013/09/13)]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 不祥事 ==<br /> <br /> === 違法残業 ===<br /> <br /> * 2014年(平成26年)1月から3月にかけて、フジオフードシステムが大阪・京都両府内の17店舗の従業員19人に、労使協定で定めた限度時間を超える月54-133時間の残業をさせ、うち社員2名については、労働時間の記録を改竄し割増賃金を払わなかったとして、[[大阪労働局]]過重労働撲滅特別対策班は、[[2015年]](平成27年)[[8月27日]]に、同社と店長ら16人を[[労働基準法]]違反の疑いで書類送検した&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20160304092433/http://www.sankei.com/west/news/150828/wst1508280015-n1.html 「まいどおおきに食堂」のフジオフードシステムと店長ら書類送検 長時間労働と賃金未払い容疑] - 産経WEST、2015年8月28日(インターネットアーカイブ2016年3月4日分キャッシュ)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ヨコヤマコーポレーション]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Fujio Food System}}<br /> * [http://www.fujio-food.com/ 株式会社フジオフードシステム]<br /> {{Commonscat|Maido Ookini Syokudo|まいどおおきに食堂}}<br /> * [http://www.shokudo.jp/index.html まいどおおきに食堂]<br /> * [http://www.kushi-ya.com/ 串家物語]<br /> <br /> {{Company-stub}}<br /> <br /> {{リダイレクトの所属カテゴリ<br /> | redirect1 = つるまる<br /> | 1-1 = 日本のレストラン<br /> | 1-2 = うどん・蕎麦屋<br /> | redirect2 = まいどおおきに食堂<br /> | 2-1 = 日本のレストラン<br /> | redirect3 = 串家物語<br /> | 3-1 = 日本のレストラン<br /> }}<br /> {{DEFAULTSORT:ふしおふうとしすてむ}}<br /> [[Category:日本の外食事業者]]<br /> [[Category:大阪市北区の企業]]<br /> [[Category:ジャスダック上場企業]]<br /> [[Category:2002年上場の企業]]<br /> [[Category:1999年設立の企業]]</div> 2400:7800:4975:9200:5C6B:EDA0:AEA5:EA02
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