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<hr />
<div>{{Otheruses}}<br />
[[File:H-IIA F16 launching IGS-O3.jpg|thumb|200px|[[H-IIAロケット]]ロケット16号機の打ち上げ]]<br />
[[File:H-IIB F2 launching HTV2.jpg|thumb|200px|[[H-IIBロケット]]2号機の打ち上げ]]<br />
[[File:Lambda Rocket Launcher.jpg|thumb|200px|[[L-4Sロケット|ラムダ4Sロケット]]]]<br />
'''ロケット'''({{lang-en-short|rocket}})は、自らの[[質量]]の一部を後方に射出し、その[[反作用]]で進む力([[推力]])を得る装置([[ロケットエンジン]])、もしくはその推力を利用して移動する装置である。外気から酸化剤を取り込む物([[ジェットエンジン]])は除く。<br />
<br />
狭義にはロケットエンジン自体をいうが、先端部に[[人工衛星]]や[[宇宙探査機]]などの[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]を搭載して[[宇宙空間]]の特定の[[人工衛星の軌道|軌道]]に投入させる手段として使われる、ロケットエンジンを推進力とする[[ローンチ・ヴィークル]](打ち上げ機)全体をロケットということも多い。<br />
<br />
また、ロケットの先端部に[[核弾頭]]や爆発物などの軍事用のペイロードを搭載して標的や目的地に着弾させる場合には[[ミサイル]]として区別され、[[弾道飛行]]をして目的地に着弾させるものを特に[[弾道ミサイル]]として区別している。なお、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]による人工衛星の打ち上げは国際社会から事実上の[[北朝鮮によるミサイル発射実験|弾道ミサイル発射実験]]と見なされており[[国際連合安全保障理事会決議]][[国際連合安全保障理事会決議1718|1718]]と[[国際連合安全保障理事会決議1874|1874]]と2087でも禁止されているため、特に日本国内においては人工衛星打ち上げであってもロケットではなくミサイルと報道されている。<br />
<br />
なお、推力を得るために射出される質量([[ロケットエンジンの推進剤|推進剤]]、[[プロペラント]])が何か、それらを動かすエネルギーは何から得るかにより、ロケットは様々な方式に分類されるが、ここでは最も一般的に使われている'''化学ロケット'''('''化学燃料ロケット''')を中心に述べる。<br />
<br />
ロケットの語源は、1379年にイタリアの芸術家兼技術者であるムラトーリ<ref>{{lang-it-short|Muratori}}</ref>が西欧で初めて火薬推進式のロケットを作り、それを形状にちなんで『ロッケッタ<ref>{{lang-it-short|Rocchetta}}、小さな糸巻棒</ref>』と名づけたことによる。<br />
<br />
== 概論 ==<br />
ロケットの方式で良く知られているものとしては、その使用する[[エネルギー]]源から分類して、化学ロケット、[[電気推進|電気ロケット]]、[[原子力推進|原子力ロケット]]がある。<br />
<br />
化学ロケットは、燃料の[[燃焼]]([[化学反応]])によって生じる[[熱エネルギー]]を利用し、燃料自体を推進剤として噴射するもので、効率は最も悪いが利用しやすい。また、短時間に大きな[[推力]]を発生させることができる。実用化されたロケットのほとんどは化学ロケットである。<br />
<br />
電気ロケットは、[[イオンエンジン|イオン推進]]など、推進剤を電気的に加速して噴射するものである。[[人工衛星]]や[[宇宙探査機]]などの[[スラスター]]として実用化されている。大きい推力を得ることは難しいが、長期間の使用に向く。<br />
<br />
原子力ロケットは、推進剤を[[原子炉]]で加熱して噴射するもの、ロケットの後方で[[核爆弾]]を爆発させて推進力を得るもの(パルス推進)など複数の種類があるが、安全性の問題はもちろん、[[核兵器]]の宇宙空間への持ちこみを禁じた[[宇宙条約]]や宇宙空間での核爆発を禁止する[[部分的核実験禁止条約]]の制限により実用化されていない。[[オリオン計画]]や[[ダイダロス計画]]といった構想が知られる。<br />
<br />
なお、ロケットが推進する原理を「''噴射したガスがロケットの後方の空気を押すから''」と誤って考える人もいる。かつて[[ニューヨーク・タイムズ]]が、この誤解に基づき真空中でロケットは飛べないと主張して、ロケット工学開拓者の一人である[[ロバート・ゴダード]]を批判する記事を掲載したという逸話がある。実際にはロケットは真空中でも推進可能であり、明らかな誤解である。これは[[運動の第3法則|作用・反作用の法則]]において、ロケットを質点A、空気を質点Bとみなした事による。こういう解釈だと、ロケット推進の作用を空気が受け止め、その反作用で推進力が生まれるので、真空ではロケットは推進不可能という結論になる。実際にはロケットの推進を作用・反作用の法則で説明する場合は、ロケットを質点A、ロケットの噴射するガスを質点Bとみなすべきなのである。つまりロケットとロケットの噴射ガスを同一の質点Aだとみなした事による誤解である。あるいはロケット自体とロケットの噴射ガスに[[運動量保存の法則]]をあてはめれば、真空中でもロケットが推進できる事は容易に納得できるはずである。こうしたロケットの原理を示す式が、[[ツィオルコフスキーの公式]]である。<br />
<br />
化学ロケットでは、その最大の[[貨物]]は自らを宇宙空間まで運ぶ推進剤である。これは地球から長距離を航行しようとする際に大変な非効率をもたらすが、宇宙空間に中継地点を設けることである程度緩和されるのではないかと考えられている。[[アポロ計画]]の月着陸船が月から帰還するときに必要としたロケットが、地球から打ち上げられた際の[[サターンロケット]]に比べて驚くほど小さかったことからわかるように、重力が小さい場所から発進すればそれほど多くのエネルギーは必要としないのである。[[人工衛星の軌道|衛星軌道]]上に基地([[宇宙ステーション]])を設け、そこまで分割運搬した部品を組み立てて大きなロケットを建造し、そこから出発させるという方法などが考案されている。<br />
<br />
また、ロケットを使わない[[静止軌道]]までの運搬方法として[[軌道エレベータ]]などが実際に検討されている。<br />
<br />
新型のロケットを開発する場合、成否は[[ロケットエンジン]]の開発にかかっていると言っても過言ではなく、計画遅延の原因はエンジン開発の難航が占める割合が大きい。<br />
<br />
1960年代 - 80年代にかけて、米国は[[スペースシャトル]]のエンジン以外、新型の液体燃料ロケットエンジンの開発には消極的であり、欧州等に比べて出遅れた。その結果、1990年代からロシアが開発した液体燃料ロケットエンジンを導入して[[ライセンス生産]]している。<br />
<br />
== 推進剤による化学ロケットの分類 ==<br />
{{Main|ロケットエンジンの推進剤}}<br />
化学ロケットは[[燃料]]と[[酸化剤]]を搭載しており、これらを燃焼させて高温・高圧のガスにして噴射する。燃料と酸化剤をあわせて[[ロケットエンジンの推進剤|推進剤]]という。この推進剤の形態から、ロケットは固体燃料ロケット、液体燃料ロケット、ハイブリッドロケットに大きく分類される。<br />
<br />
=== 固体燃料ロケット ===<br />
{{main|固体燃料ロケット}}<br />
<br />
[[File:Solid_fuel_rocket_ja.png|thumb|230px|固体燃料ロケットの模式図]]<br />
<br />
[[固体燃料ロケット]]とは、常温で[[固体]]の[[燃料]]と[[酸化剤]](の混合物)を用いるロケットで、古くは[[火薬]]、最近の例では[[合成ゴム]]と酸化剤を混合成型したものなどが使われている。<br />
<br />
固体燃料は常温では飛散しないため管理(保管)が楽、構造が簡単な割に安価で大推力が得られる、体積が(液体燃料に比べ)小さいなどの利点を持つ。<br />
反面、単位重量の推進剤で単位推力を発生させ続けられる秒数を示す[[比推力]]が悪いため効率が悪く、推力の制御が難しいこと、またいったん点火したら、燃料をすべて消費するまで燃焼を停止させるのはほとんど不可能であることなどの欠点を持つ。<br />
<br />
こうした特性から、常に発射可能な状態で保管しておかなければならない軍事用途、大推力を求められる宇宙ロケットの一段目や補助[[ブースター]]に広く使用されている。<br />
<br />
=== 液体燃料ロケット ===<br />
{{main|液体燃料ロケット}}<br />
<br />
[[File:Liquid_fuel_rocket_ja.png|thumb|230px|液体燃料ロケットの模式図]]<br />
<br />
[[液体燃料ロケット]]は、[[液体]]の燃料と酸化剤を用いるロケットである。固体燃料ロケットとは違い、推力の制御が容易であること、いったん燃焼を停止させたものを再度点火するのが可能であることなどの長所を持つが、その反面、燃料を送り出すための高圧[[ポンプ]]や複雑な配管システムが必要とされるなど、構造が複雑になり、その分高価になるという欠点も持つ。<br />
<br />
初期には常温保存が可能な[[ヒドラジン]](燃料)と[[四酸化二窒素]](酸化剤)、[[ケロシン]](燃料)と[[液体酸素]](酸化剤・極低温)、などが用いられたが、最近はより高い比推力が得られる[[液体水素]](燃料)と[[液体酸素]](酸化剤)の組み合わせが、各国の基幹ロケットの主流となっている(アメリカの[[スペースシャトル]]、ヨーロッパの[[アリアン5]]、日本の[[H-IIA]]など)。<br />
<br />
このロケットの場合、酸素と水素を化合させるだけなので、排気ガスは有毒物質を一切含まない[[水蒸気]]だが、実際には、液体水素・液体酸素エンジンだけでは離床時の推力が不十分なので、固体燃料の補助ロケットを使用する。この固体燃料補助ロケットの排気にはオゾン層や環境に悪影響を及ぼすハロゲン化合物が含まれる。ロケット自体の開発も困難を極める。<br />
<br />
また、人工衛星の軌道制御や[[姿勢制御]]のための小型ロケットには、[[過酸化水素]]や[[ヒドラジン]]を触媒で分解させて噴射する、構造が簡単な[[一液式ロケット]]も用いられる。<br />
<br />
なお、一般に燃焼室の冷却には燃料自体が使用される。上記の液体酸素・液体水素の[[エンジン]]では、燃焼室の温度は三千度にも達するが、これだけの高温に耐えられる[[素材]]は現在のところない。その対策として、燃焼室の壁やノズルの中部には細いパイプや溝が何百本も張りめぐらされており、推進剤をその中を循環させることにより蒸発[[潜熱]]により熱を奪うというシステム([[再生冷却]])や推進剤の一部を燃焼室の内壁に沿って流す[[フィルム冷却]]や[[アブレーション]]冷却、[[ニオブ]]製の[[ノズルスカート]]による放射冷却が採用される。<br />
<br />
=== ハイブリッドロケット ===<br />
{{main|ハイブリッドロケット}}<br />
[[Image:Hybrids big.png|thumb|ハイブリッド推進システムの模式図]]<br />
[[ハイブリッドロケット]]は、化学ロケットの一種で、燃料と酸化剤がそれぞれ異なる相をもったロケットである。一般的には、固体の燃料と液体の酸化剤が用いられる。固体燃料ロケットの特徴である構造の簡易性と液体燃料ロケットの特徴である推力調整を可能とするが、同時に固体燃料ロケットと液体燃料ロケットの両方の欠点も併せ持つ。このため長らく実用化を見なかったが、[[スペースシップワン]]ではハイブリッド・ロケットエンジンが採用された。<br />
<br />
このため現在宇宙ロケットの分野では、効率が良い液体燃料ロケットが主流であり、固体燃料ロケットは[[ブースター]]などの補助推力として用いられる。一方、定期的に打ち上げる高高度気象観測ロケットや、発射準備時間が短い[[ミサイル]]等では固体燃料ロケットが主流である。<br />
<br />
== 原子力ロケット ==<br />
{{main|原子力ロケット}}<br />
原子力ロケットは[[原子炉]]で推進剤を加熱して噴射したり、[[核爆発]]による反動を利用して推進するロケットである。<br />
かつてアメリカ合衆国で[[NERVA]]やソビエトで[[RD-0410]]が実験された例はあるが、実際に運用された例は無い。<br />
原子力ロケットには{{仮リンク|核熱ロケット|en|Nuclear thermal rocket}}、{{仮リンク|核パルス推進|en|Nuclear pulse propulsion}}、{{仮リンク|核融合ロケット|en|Fusion rocket}}、{{仮リンク|量子真空プラズマ推進器|en|Quantum vacuum plasma thruster}}、{{仮リンク|核塩水ロケット|en|Nuclear salt-water rocket}}、{{仮リンク|核光子ロケット|en|Nuclear photonic rocket}}等がある。<br />
[[推力重量比]]は化学ロケットよりも低いので宇宙空間に化学ロケットで打ち上げられてから上段として作動する。<br />
<br />
== 形態によるロケットの分類 ==<br />
以下に、燃料ではなく形態によるロケットの分類を示す。これらの方式の効率を計算するときは全て[[ツィオルコフスキーの公式]]に基づく。<br />
<br />
=== 単段式ロケット ===<br />
最初期のロケットの姿であり、ペイロードを必要な速度・高度まで1基の打ち上げロケット(段)で運んでしまうロケットのこと。下記の多段式ロケットの対になる方式である。<br />
<br />
単段式ロケットは、多段式ロケットに必要な切り離し装置などがないため構造が簡単で、製作技術や制御技術があまり高くなくても作れる。またロケットが小型であれば多段式にするより単段式ロケットの方が効率も良い。しかし大型ロケットの場合、時間が経って不必要になった空の燃料タンクやエンジンもずっと輸送することになり、効率が劣る。<br />
<br />
[[V2ロケット]]などの[[短距離弾道ミサイル]]や気象観測用ロケット、模型ロケットなど小型のロケットであれば、多段式にすると機構の複雑さから重量が増えてかえって非効率的になってしまうため、単段式ロケットが使われることも多い。<br />
<br />
単段式ロケットの将来像として、[[単段式宇宙往還機]]も研究されている。<br />
<br />
=== 多段式ロケット ===<br />
[[Image:Delta IV Heavy rocket on launch pad.jpg|150px|thumb|[[デルタ IV]] ヘビーは、1段、2段を使用する多段式ロケットであり、1段に[[コモン・ブースター・コア]]3基を使用するモジュラーロケットでもある。中央の1本は1段目として使用され、両側の2本は補助ロケットとして使用される。]]<br />
ロケットが十分な速度を得るためには、移動体本体の質量は全体に比してできるだけ小さいことが望ましい。このため、空になった推進剤タンクやそれを燃焼させるエンジンを収容する部分は必要ない質量として切り離すという仕組みが[[コンスタンチン・ツィオルコフスキー]]により考案され、現在も使われている。これを多段式ロケットという。<br />
<br />
例えば人工衛星打ち上げ用の3段式ロケットの場合、最下部の1段目のエンジンを噴射させて1段目自身と2段目と3段目とそれに乗った衛星を上昇させ燃料を使い切ったら1段目を切り離す。その後2段目のエンジンを噴射して2段目自身と3段目と衛星をさらに上昇させて燃料を使い切ったら切り離す。その後3段目のエンジンを噴射して任意の地点で衛星を切り離して目的の軌道に投入することになる。人工衛星を軌道上で周回させ続けるには[[第一宇宙速度]]まで加速させる必要があるが、化学ロケットは技術的な制約により多段式でなければ第一宇宙速度を得ることは困難であり、現在の衛星打ち上げロケットはすべて多段式である。<br />
<br />
この理屈で言うと、理論上は、非常に小さく区切られた燃料タンクと小型のロケットエンジンを、使い終わったら片っ端から切り離していくのが一番効率的になるのだが、実際には小型化にも限度があるし、あまり段数が多いと制御が難しくなり、切り離し装置の重量や容量も増えるため、構造効率が低くなり総重量全体に占める推進剤の割合が下がり、技術面で現実的ではない<ref>一時期[[OTRAG]]というこの種の概念のロケットが試みられたが資金調達、政治的理由等により頓挫した。</ref>。加えてロケットエンジンの数も段数に応じて増えるため、コストも上昇する。このため現在主流の人工衛星打ち上げ用ロケットは殆どが2 - 3段式の構成である。<br />
<br />
無重力空間のみで動くロケットの場合、各々の段の比推力は目的に応じて推進剤を選択することにより自由に決められるために1段目や2段目が非力で3段目のみ強力なエンジンを積むといったことも問題なくできるが、地球など天体の引力圏内にあるロケットの場合は、下のロケットが非力(具体的に言うと、上に載っているペイロードおよび全てのロケットの重量と自分自身の重量の和未満)だと飛び上がることができない。<br />
そのために、後述するクラスター方式などと併せ、下の段ほど強力にして、上の段に行くに従い出力も小さくなっていく。<br />
<br />
また、離床時に大きな推力が必要なので、下段には推力が高いが[[比推力]]の低い推進剤を、上段には推力は低いが比推力の高い推進剤を用いる。<br />
<br />
==== モジュラーロケット ====<br />
{{main|モジュラーロケット}}<br />
[[モジュラーロケット]]とは、打ち上げ用途に応じて構成する部材を交換できる多段式ロケットの形式である。規格化された[[モジュール]]を様々な打ち上げ需要に応じて組み合わせる事により、[[規模の経済]]により、量産効果による生産性の向上、価格低減が期待できるため製造費用、輸送費用、打ち上げ準備の支援費用、準備期間を最小に抑えることができる。代表的なモジュラーロケットには[[ユニバーサル・ロケット]]、[[アトラス V]]、[[デルタ IV]]、[[ファルコン9]]、[[アンガラ・ロケット]]がある。アトラス Vの第1段モジュールは[[コモン・コア・ブースター]]、デルタ IVの第1段モジュールは[[コモン・ブースター・コア]]と呼ばれている。<br />
また、共通の仕様の小規模のロケットを大量生産して束ねる事により価格低減を意図した例としてCommon Rocket Propulsion Units (CRPU) と呼ばれる同一の規格化された小型ロケットを束ねた[[OTRAG]]や[[:en:Interorbital Systems|Interorbital Systems]]の"common propulsion modules"(CPM)を束ねた[[:en:Interorbital Systems#Orbital spaceflight program|Neptune]]の例がある。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== クラスターロケット ===<br />
[[ファイル:Soyuz tma-3 transported to launch pad.jpg|thumb|right|230px|[[レール]]上を発射台に向かう[[ソユーズTMA-3]]打ち上げ用の[[ソユーズFG]]。クラスター化された5基のエンジンの計20個の[[ノズル]]が見える。1段と2段を使用する多段式ロケットでもある。]]<br />
{{main|クラスターロケット}}<br />
[[クラスターロケット]]とは、多数の[[ロケットエンジン]]を束ねて構成されるロケットのこと。多段式ロケットと共に[[コンスタンチン・ツィオルコフスキー|ツィオルコフスキー]]により考え出された方式。<br />
<br />
エンジン1基あたりの出力は高いほど望ましいのだが、新しい大型のエンジンを開発するには燃焼室の振動、耐久性、エンジン自体の質量増加、エンジンを作るのに必要なコストなどの問題を解決するため、莫大な時間と費用がかかる。<br />
クラスター方式は手持ちの信頼性の高いエンジンを流用して推力を増やせる堅実な方法であり、ソ連がアメリカに先んじて[[スプートニク計画|スプートニク]]や[[ボストーク]]を打ち上げるのを可能とした。<br />
しかしエンジンの数が増えると制御が困難になり、[[N-1|N1ロケット]](一段目は30基のエンジン)の失敗は、[[ソ連の有人月旅行計画]]の失敗へとつながった。<br />
<br />
旧ソ連の[[R-7 (ロケット)|R-7]](現在も直系の子孫である[[ソユーズ]]ロケットが使われている)が代表的なもので、一段目は5基のエンジン(ノズルは20個)を持つ。他のクラスターロケットには同じく旧ソ連製の[[プロトン (ロケット)|プロトン]](一段目に6基)や[[エネルギア]]、アメリカの[[サターンロケット|サターンIおよびIB]](1段目に8基)、[[ファルコン9]](1段目に9基)日本の[[H-IIBロケット]](1段目に2基)などがある。<br />
<br />
また、この方法を発展したロケットとして1970年代にドイツで[[民間宇宙飛行#OTRAG|OTRAG]]が検討されたが技術的、射場の選定に関する政治的理由により中止された。<br />
<br />
== 使い方によるロケットの分類 ==<br />
=== ローンチ・ヴィークル ===<br />
日本語では[[ローンチ・ヴィークル|打ち上げロケット]]と呼ばれ、地球から宇宙空間に人工衛星や宇宙探査機などのペイロードを輸送するのに使用されるロケット。打上げ機と呼ばれることもある。ペイロードが[[第一宇宙速度]]や[[第二宇宙速度]]を超え[[地球周回軌道]]や[[太陽周回軌道]]に投入される。打ち上げ能力が低軌道へ100kg未満の人工衛星を打ち上げる能力を有する概ね10トン未満の人工衛星打上げ機は[[超小型衛星打上げ機]]に分けられる。<br />
<br />
=== 観測ロケット ===<br />
[[観測ロケット]]は科学観測・実験のために[[弾道飛行]]を行うロケット。研究ロケットやサウンディングロケットとも呼ばれる。通常は高度50kmから1500kmへ打ち上げられる。<br />
<br />
=== 使い捨て型ロケット ===<br />
[[使い捨て型ロケット]]は一度のみしか実使用できない打ち上げロケット・システムのこと。<br />
<br />
=== 再使用型打ち上げシステム ===<br />
[[再使用型宇宙往還機]]、[[単段式宇宙輸送機]]、[[スペースプレーン]]の開発が各国で進行中である。[[スペースシャトル]]や[[ブラン (オービタ)|ブラン]]等一部が成功した。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
=== 前近代 ===<br />
[[File:Tipu Sultan, Fath Ali Khan.jpg|thumb|right|[[ティプー・スルターン]]]]<br />
[[File:Rocket_warfare.jpg|thumb|right|[[:en:Mysorean rockets |マイソール・ロケット]]]]<br />
ロケットの歴史は古く、西暦[[1000年]]頃には[[中国]]で、今の[[ロケット花火]]の形態が発明され武器として利用されていた。[[1232年]]、[[モンゴル]]との戦いで使用されたという記録がある。その後、モンゴル人の手に渡り各地で実戦に投入された。[[14世紀]]半ばには中国の焦玉により多段式ロケットが作られた。<br />
<br />
[[1792年]]には[[インド]]の[[マイソール王国]]の支配者[[ティプー・スルターン]]によって対英国、[[イギリス東インド会社|東インド会社]]との[[マイソール戦争]]で鉄製のロケットが効果的に使用された(→{{仮リンク|マイソール・ロケット|en|Mysorean rockets}})。マイソール戦争終結後、このロケットに興味を持った英国は改良を加え、[[19世紀]]初頭までに[[コングリーヴ・ロケット]]を開発した。開発の中心人物は{{仮リンク|ウィリアム・コングリーヴ|en|Sir William Congreve, 2nd Baronet}}であった。<br />
<br />
[[1814年]]の米国における[[ボルティモアの戦い]]では英国艦エレバス([[:en:HMS Erebus|HMS Erebus]])から[[フォートマクヘンリー]]にむけてロケットが発射され、観戦していた弁護士[[フランシス・スコット・キー]]によってアメリカの国歌[[星条旗 (国歌)|星条旗]]に歌われるに至った。同様に[[1815年]]の[[ワーテルローの戦い]]でも使用された。<br />
<br />
初期のロケットは回転せず、[[誘導装置]]や[[推力偏向]]を備えていなかったので、命中精度が低かった。初期の[[コングリーヴ・ロケット|コングリーヴのロケット]]では長い棒をつけた。(現代の[[ロケット花火]]に似ている)大型のコングリーヴのロケットは重量14.5kg、棒の長さは4.5mだった。1844年に{{仮リンク|ウィリアム・ヘール|en|William Hale (British inventor)}}(William Hale)によって改良されたロケットでは噴射孔に弾体を回転するための偏流翼が備えられ、回転するようになり安定棒が無くても命中精度は向上したものの、改良された大砲に射程距離、命中精度が劣ったので下火になった。<br />
<br />
徐々に改良が加えられたが、ライフリングや鋼鉄製砲身等の[[大砲]]の改良により射程距離、精度が高まってくると、誘導装置のないロケットの使用は[[信号弾]]等、限定的なものになっていった。後年、[[カチューシャ (兵器)|カチューシャ]]、[[バズーカ]]、[[MLRS]]などの形で復活する。<br />
<br />
日本でも、[[鎌倉時代]]に元が攻めて来た([[元寇]])時に元軍により使用されたという。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[狼煙]]として使われ、[[江戸時代]]に入ると各地で伝承されてきた。[[埼玉県]][[秩父市]]の[[椋神社]]で毎年10月に行われる[[ロケット祭り]]([[龍勢祭り]])や[[静岡県]][[藤枝市]][[岡部町 (静岡県)|岡部町]][[朝比奈村 (静岡県志太郡)|朝比奈]]、同[[静岡市]][[清水区]][[草薙 (静岡市)|草薙]]、[[滋賀県]][[米原市]]等、各地で古くから[[龍勢]](流星)の打ち上げが行われてきた。現在でも打ち上げられる龍勢は木材を竹タガで締め、内部に[[黒色火薬]]をつき固めた端面燃焼ロケットである。この龍勢祭りの起源は明確な記録がなく明かではないが、鉄砲伝来後の戦国時代以降の狼煙が、その後の平和な時代になって龍勢(流星)となって農村の神事・娯楽に転化したという説が有力である。<br />
<br />
=== ツィオルコフスキー以後 ===<br />
[[File:Tsiolkovsky.jpg|thumb|150px|right|[[コンスタンチン・ツィオルコフスキー]]]]<br />
近代のロケット、すなわち宇宙に行けるロケットが研究・開発されたのは、[[19世紀]]後半から[[20世紀]]である。<br />
<br />
[[コンスタンチン・ツィオルコフスキー]]({{年|1857}}–{{年|1935}})はロケットで宇宙に行けることを計算で確認し、液体ロケットを考案した。このため彼は「'''宇宙旅行の父'''」と呼ばれている。[[ロバート・ゴダード|ロバート・ハッチンス・ゴダード]]({{年|1882}}–{{年|1945}})は、[[1926年]]に世界初の液体ロケットを打ち上げた。このため「''近代ロケットの父''」と呼ばれている。世界初の液体ロケットエンジンはツィオルコフスキーの[[OR-2]]から[[セルゲイ・コロリョフ]]([[1907年]]-[[1966年]])が中心となったソ連の[[GIRD-09]]の開発とされている。実用的な液体ロケットは、[[ヴェルナー・フォン・ブラウン|ウェルナー・フォン・ブラウン]]([[1912年]]-[[1977年]])が中心となって[[ナチス・ドイツ]]で開発した、[[V2ロケット]]がはじめとされている。<br />
1920年代から1930年代にかけて各国で民間の宇宙開発グループが形成された。それらのグループには後に宇宙開発で著名な功績を残す者も多く含まれた。ドイツでは[[宇宙旅行協会]]に所属した[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]達やソビエトでは[[反動推進研究グループ]]に所属した[[セルゲイ・コロリョフ]]達がいた。やがて第二次世界大戦の勃発と共に彼らは否応なく歴史の荒波に巻き込まれていく事になる。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== 第二次世界大戦後 ===<br />
[[File:Sputnik 1.jpg|thumb|right|150px|[[スプートニク (ロケット)|スプートニクロケット]]により打ち上げられた[[スプートニク1号]]]]<br />
[[ファイル:Apollo 11 Saturn V lifting off on July 16, 1969.jpg|thumb|right|150px|発射台から離れる[[アポロ11号]]を乗せた[[サターンV 型ロケット]]。[[1969年]][[7月16日]]]]<br />
[[ファイル:Shuttle_delivers_ISS_P1_truss.jpg|thumb|right|210px|[[国際宇宙ステーション]]の構造物を運ぶ[[スペースシャトル]]]]<br />
ナチス・ドイツの崩壊前後、V2の開発に関わった人材の多くが[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に亡命した([[ペーパークリップ作戦]])。またこの混乱期にソ連もV2の技術を接収していた。また、アメリカ初の弾道ミサイルである[[MGM-5 (ミサイル)|コーポラル]]の基盤をつくった[[銭学森]]は[[中華人民共和国]]の宇宙開発とロケット開発を担うことになる。[[冷戦]]に入り、[[1958年]]にソ連が[[スプートニク (ロケット)|スプートニクロケット]]によって世界初の[[人工衛星]]を打ち上げたことで[[スプートニク・ショック]]が起き、[[宇宙開発競争]]が始まる。[[1961年]]にはソ連が[[ボストーク (ロケット)|ボストークロケット]]により[[ユーリイ・ガガーリン]]が搭乗した[[ボストーク]]の打ち上げを成功させ、世界初の[[有人宇宙飛行]]を成し遂げた。一方、[[1969年]]にはアメリカが[[サターンV 型ロケット]]により[[アポロ11号]]を打ち上げて世界で初めて人類を[[月]]に到達させた。<br />
<br />
宇宙開発競争初期のロケットは、アメリカの[[PGM-11 (ミサイル)|レッドストーン]]やソビエトの[[R-7 (ロケット)|R-7]]のように弾道ミサイルから弾頭を外し、代わりに人工衛星や宇宙船を取り付けたものであり、ロケットの打ち上げ技術はミサイル技術と等価であり、[[威嚇]]も含めた軍事的価値も高いために、抜きつ抜かれつの開発競争であった。<br />
<br />
1960年代から1970年代までに[[日本]]、[[欧州]]、中国も人工衛星の打ち上げに成功し、世界の宇宙開発のプレイヤーはソ連(後のロシア)とアメリカと合わせて5極体制となった。日欧が先進的な[[宇宙探査機]]や人工衛星を打ち上げて[[宇宙科学]]分野で実績を積み上げていった一方、中国は1990年代以降に有人宇宙開発と宇宙の軍事利用に邁進し、[[2003年]]に[[長征2号F]]により[[神舟5号]]の打ち上げに成功し、ソ連とアメリカに次いで世界で3番目となる有人宇宙飛行に成功した。<br />
<br />
[[冷戦]]以後はアメリカとロシアの[[宇宙船]]は宇宙空間でドッキングを行ったり、協力して[[国際宇宙ステーション]]の建設にあたるなど[[宇宙開発]]や[[惑星]]・[[衛星]]探索への利用が進んだ。また、[[軍事]]や[[情報]]における利用価値が認知され、現在に至るまで[[国家機密]]に属する非常に重要な技術として取り扱われている。特に[[偵察衛星]]の打ち上げは[[諜報活動]]において革新的な出来事であり、これまで[[スパイ|諜報員]]や[[偵察機]]を送り込んで危険を覚悟で行ってきた諜報活動のリスクを大幅に削減する成果をあげた。<br />
<br />
1990年以降、打ち上げ能力は質、量共に向上している背景には[[ソ連崩壊|ソビエト連邦の崩壊]]後、冷戦期の宇宙開発競争を支えた経験豊富な旧ソビエトの技術者達が世界各地での宇宙開発に携わり、各国のロケットの開発、改良を支えている事が挙げられる。これに対して[[大量破壊兵器の運搬手段であるミサイル及び関連汎用品・技術の輸出管理体制|ミサイル技術管理レジーム]]があるものの、一部において形骸化している。<br />
<br />
また、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]衛星の打ち上げ後は比較的正確な位置測定の手段として[[カーナビゲーションシステム]]などに応用され、宇宙ロケット関連技術は現代人の生活を支えるために欠かせない。<br />
<br />
国家ないし国家連合による政策としての宇宙開発が財政面で苦しい局面に立たされている反面、民間によるロケット開発も盛んである。例えば[[スペースX]]と[[オービタル・サイエンシズ]]は[[商業軌道輸送サービス]]の一環としてそれぞれ、[[ファルコン9]]で[[ドラゴン (宇宙船)|ドラゴン宇宙船]]を打ち上げて[[2012年]]から、同様に[[アンタレス (ロケット)|アンタレス]]で打ち上げて[[シグナス (宇宙船)|シグナス]]で[[2013年]]から国際宇宙ステーションへの商業補給サービスを開始しており、[[ヴァージン・ギャラクティック]]は[[スペースシップツー]]の弾道飛行による民間宇宙旅行を計画している。今後は宇宙飛行士の輸送も含めて徐々に民間企業の自主開発したロケットによる輸送が主流になりつつある。<br />
<br />
さらに規模は小さくなるが、アマチュアによるロケット打ち上げの試みもある。[[2004年]][[5月17日]]には20人ほどのアメリカ人による組織「Civilian Space eXploration Team」(CSXT)によって打ち上げられた<ref>[[:en:Amateur_rocketryl|アマチュアロケット]]</ref>「GoFast」が、高度115 kmに到達しアマチュアロケット史上最高高度を記録した。一般人によるロケットとして歴史に名を残した。また、同様にアマチュアの開発によるロケットでの[[人工衛星]]の打ち上げ計画もあるが、資金、技術の両面において苦戦している。<ref>そもそも、第二次世界大戦前の各国のロケット開発の多くは[[宇宙旅行協会]]に所属した[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]や[[反動推進研究グループ]]に所属した[[セルゲイ・コロリョフ]]を含む民間の[[好事家]]達による開発によるものだった。</ref><br />
<br />
現在、各国で次世代の打ち上げの主力となるロケットの開発が進行中である。それらは既存のエンジン等の部材を活用しつつこれまでの技術革新の成果を取り入れつつある。<br />
{{-}}<br />
<br />
== ローンチ・ヴィークル ==<br />
{{See|ローンチ・ヴィークル|ローンチ・ヴィークルの一覧}}<br />
これまで、各国が独自で開発したロケットによって衛星を軌道投入した例は10カ国であり、ソ連(ロシア)、アメリカ、フランス、日本、中国、イギリス、インド、イスラエル、イラン、北朝鮮となっている。<br />
<br />
現在、軌道投入能力を保有するのはロシア、アメリカ、欧州、日本、中国、ウクライナ、インド、イスラエル、イラン、北朝鮮の9カ国と1機関である。<br />
<br />
{{Main|各国初の軌道投入の年表}}<br />
<br />
<!--=== 自国が開発したローンチ・ヴィークルによる初の人工衛星の打ち上げ ===<br />
このリストは、自国が開発した[[ローンチ・ヴィークル]](打ち上げ機)で人工衛星を軌道上に到達させる能力を有したことがある国のリストである。多くの国は人工衛星を設計・製造する能力を有するが、自国が開発した打ち上げ機で人工衛星を打ち上げることができる国は、2012年12月時点で'''太字'''で示した9カ国(ロシア、ウクライナ、アメリカ、日本、中国、インド、イスラエル、イラン、北朝鮮)と1機関([[欧州宇宙機関]](ESA))のみであり、大多数の国々はこれら少数の国と機関に打ち上げ業務を依存することになる。<br />
<br />
{| class="sortable wikitable"<br />
|+ '''自国が開発したローンチ・ヴィークルによる初の人工衛星の打ち上げ'''<br />
|- bgcolor=#efefef<br />
! 順位<br />
! 国 || 年 || ロケット || 人工衛星 || 重量 (kg) ||特記事項<br />
|-<br />
| scope="row" | 1<br />
|align="left"| {{flag|Soviet Union}} || 1957 || [[スプートニク (ロケット)|スプートニク-PS]] || ''[[スプートニク1号]]'' || 83.6 ||[[ソ連崩壊]]により打ち上げシステムはロシアとウクライナに継承。<br />
|-<br />
| scope="row" | 2<br />
|align="left"| '''{{flag|United States}}''' || 1958 || [[PGM-11 (ミサイル)#派生|ジュノーI]] || ''[[エクスプローラー1号]]'' || 13.7 ||<br />
|-<br />
| scope="row" | 3<br />
|align="left"| {{flag|France}} || 1965 || [[ディアマンロケット|ディアマン]] || ''[[アステリックス (人工衛星)|アステリックス]]'' || 42 ||外国([[アルジェリア]]の[[アマギール|アマギール射場]])から初打ち上げ。<br />打ち上げ時のアンテナ破損により衛星との交信は確立出来なかった。<br />打ち上げシステムは[[欧州宇宙機関|ESA]]に継承。<br />
|-<br />
| scope="row" | 4<br />
|align="left"| '''{{flag|Japan}}''' || 1970 || [[L-4Sロケット|L-4S]] || ''[[おおすみ]]'' || 23. 8 ||<br />
|-<br />
| scope="row" | 5<br />
|align="left"| '''{{flag|China}}''' || 1970 || [[長征1号]] || ''[[東方紅1号]]'' || 173 ||<br />
|-<br />
| scope="row" | 6<br />
|align="left"| {{flag|United Kingdom}} || 1971 || [[ブラック・アロー]] || ''[[プロスペロ (人工衛星)|プロスペロ]]'' || 65.8 ||外国([[オーストラリア]]の[[ウーメラ試験場]])から初打ち上げ。<br>後に[[欧州ロケット開発機構|ELDO]]を経て[[欧州宇宙機関|ESA]]に参加したが、打ち上げシステムの提供はELDO時代のみ。<br>独自の打ち上げシステムを構築しながら、それを放棄した<ref>[http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/uksa.html JAXA宇宙情報センター イギリス宇宙庁]</ref>唯一の国である。<br />
|-<br />
| scope="row" | -<br />
|align="left"|[[ファイル:ESA logo.svg|30px]] '''[[欧州宇宙機関|ESA]]''' || 1979 || [[アリアン1]] || ''CAT-1'' || 1,602 ||[[欧州ロケット開発機構|ELDO]]を発展的解消、仏・独・伊が中心となり10カ国により設立。<br>打ち上げシステムは主にフランスから継承。<br>海外領土([[フランス領ギアナ]]の[[ギアナ宇宙センター]])から打ち上げ。<br />
|-<br />
| scope="row" | 7<br />
|align="left"| '''{{flag|India}}''' || 1980 || [[SLV]] || ''[[ロヒニ (人工衛星)|ロヒニ]]'' || 35 ||<br />
|-<br />
| scope="row" | 8<br />
|align="left"| '''{{flag|Israel}}'''|| 1988 || [[シャヴィト]] || ''[[オフェク|オフェク1号]]'' || 155 ||<br />
|-<br />
| scope="row" | -<br />
|align="left"| '''{{flag|Ukraine}}''' || 1991 || [[ツィクロン|ツィクロン3]] || ''[[ストレラ (人工衛星)|ストレラ3]](6機, ソ連製)'' || 1,350 ||ソ連から打ち上げシステムを継承。<br>独立後の初打ち上げを記載しているが、ソ連時代のロケットを継続使用しているため順位には含めていない。<br>外国(ロシアの[[プレセツク宇宙基地]])から初打ち上げ。<br />
|-<br />
| scope="row" | -<br />
|align="left"| '''{{flag|Russia}}''' || 1992 || [[ソユーズ-U]] || ''[[コスモス2175号]]'' || 6,600 ||ソ連から打ち上げシステムを継承。<br>ソ連の直接的な継承国家扱いとして順位には含めていない。<br />
|-<br />
| scope="row" | 9<br />
|align="left"| '''{{flag|Iran}}'''|| 2009 || [[サフィール (イランのロケット)|サフィール-2]] || ''[[オミード]] || 27 ||北朝鮮から技術提供を受けた可能性が指摘されている。<br />
|-<br />
| scope="row" | 10<br />
|align="left"| '''{{flag|North Korea}}'''|| 2012 || [[銀河3号 (ロケット)|銀河3号]] || ''[[光明星3号2号機]] || 100 ||北朝鮮の主張によれば、初めての軌道投入成功は1998年の[[テポドン1号|白頭山1号]]による[[光明星1号]]の打上げであるが、この時は他国機関は軌道上の衛星を確認していない。<br>フランスのアステリックスと同様、軌道到達後の運用には失敗<ref>ワシントン時事「北朝鮮『衛星』機能せず=落下まで数年―米専門家」(2012年12月18日)</ref>。<br />
|-<br />
| scope="row" | -<br />
|align="left"| {{flag|South Korea}}|| 2013 || [[羅老 (ロケット)|羅老]] || ''[[STSAT-2C]]'' || 100 || ロシアの全面的な技術支援の下で開発・製造されたロケットを使用。第1段は[[アンガラ・ロケット]]の第1段を輸出用に仕様変更した純ロシア製の機体で、技術移転を一切伴わない[[ブラックボックス]]での提供・運用である。<br>第2段などは韓国が開発しているが、輸入品と同等能力の国産第1段を保有しておらず自国単独では打ち上げができないため、自国開発の順位には通常含まない。<br>[[羅老 (ロケット)|羅老]] はロシアから購入した第1段3機を全て使用したため既に退役しており、自国開発での打ち上げ能力の獲得は2021年に初打ち上げ予定の後継機[[KSLV-2]]が成功するまで持ち越しとなる予定。<br />
|}<br />
イタリア、カザフスタンを追加せず、フランス、イギリス、ウクライナを削除しないでください。また、並びを変えたり、ウクライナやロシアに番号を振り当てないでください。詳細は[[:en:Talk:Satellite]]と[[:en:Timeline of first orbital launches by nationality]]を見てください。<br />
<br />
; 注釈<br />
# [[欧州ロケット開発機構]](ELDO)はイギリス・フランスなどの打ち上げシステムを継承して、1968年から人工衛星を搭載した[[ヨーロッパ (ロケット)|ヨーロッパ1]]を、1971年に[[ヨーロッパ (ロケット)|ヨーロッパ2]]を打ち上げたが全て失敗している。<br>この時の教訓は[[欧州宇宙機関|ESA]]の[[アリアン]]ロケットに活かされている。<br>なお、イギリス由来の主要技術は[[欧州宇宙機関|ESA]]には継承されずに断絶した。<br />
# [[イラク]]は1989年に最初の人工衛星の打ち上げに成功したと主張したが、軌道上に衛星は確認されていない。<br />
# [[ブラジル]]は1997年と1999年、2003年に[[VLS-1]]で人工衛星の打ち上げを試みたが失敗した。<br>[[ブラジルロケット爆発事故|2003年の失敗]]が死傷者を出す事故となったため計画が大幅に遅延したが、現在ではウクライナの協力で2016年に[[ツィクロン (ロケット)|ツィクロン4]]ロケットによって最初の衛星の打ち上げを目指していたが中止され、未定。<br />
# [[イタリア]]が開発を主導した[[ヴェガロケット]]が2012年に人工衛星の軌道投入に成功したが、欧州宇宙機関の中で開発・運用されているためリストに含めていない。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== 2011年までの人工衛星打ち上げ実績 ===<br />
{| class="wikitable sortable" style="text-align:center"<br />
|-<br />
! 打ち上げ国 !! 打ち上げ回数 !! 成功数 !! 成功率<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | {{RUS}}<br/>{{UKR}}<br/>({{SSR}}) || 2,962 || 2,762 || 93.2%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | {{USA}} || 1,482 || 1,313 || 88.6%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[ファイル:ESA logo.svg|27px]] [[欧州宇宙機関]] (ESA) || {{0}}210 || {{0}}195 || 92.9%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[多国籍企業]] || {{0}}202 || {{0}}193 || 95.5%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | {{CHN}} || {{0}}164 || {{0}}149 || 90.9%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | {{JPN}} || {{0|00}}88 || {{0|00}}76 || 86.4%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | {{IND}} || {{0|00}}35 || {{0|00}}25 || 71.4%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | {{FRA}} || {{0|00}}12 || {{0|000}}9 || 75.0%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | {{ISR}} || {{0|000}}8 || {{0|000}}6 || 66.7%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | {{IRN}} || {{0|000}}3 || {{0|000}}2 || 66.7%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | {{GBR}} || {{0|000}}2 || {{0|000}}1 || 50.0%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | {{BRA}} || {{0|000}}2 || {{0|000}}0 || 0.0%<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | {{KOR}} || {{0|000}}2 || {{0|000}}0 || 0.0%<br />
|-<br />
|}<br />
* [[1957年]]から[[2011年]]までの人工衛星打ち上げ実績による。<br />
* 多国籍企業は[[インターナショナル・ローンチ・サービス]]、[[ISCコスモトラス]]、[[シーロンチ]]、[[スターセム]]、[[ユーロコット]]の5社。<br />
* 打ち上げられた人工衛星の状態は問わない。<br />
出典<ref>{{Cite book|和書|author=[[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)有人宇宙ミッション検討のミエル化チーム|date=2012-03-08|title=日本の宇宙探検|publisher=JAXA|page=14-15|isbn=978-4-905427-06-3}}</ref><br />
<br />
=== 主なローンチ・ヴィークル ===<br />
{{see|ロケット一覧}}<br />
{{see|ローンチ・ヴィークルの一覧}}<br />
<br />
==== 歴史的なローンチ・ヴィークル ====<br />
* [[V2ロケット]]<br />
* [[PGM-11 (ミサイル)|レッドストーン]]<br />
* [[サターンロケット|サターンV]]<br />
* [[エネルギア]]<br />
* [[N-1]]<br />
* [[タイタン (ロケット)|タイタン]]<br />
* [[スペースシャトル]]<br />
<br />
==== 現代のローンチ・ヴィークル ====<br />
* [[アメリカ合衆国]]<br />
** [[デルタ II]]<br />
** [[デルタIV]]<br />
** [[アトラスV]]<br />
** [[ペガサス_(ロケット)|ペガサス]]<br />
** [[ファルコン9]]<br />
** [[ミノタウロス (ロケット)|ミノタウロス]]<br />
** [[アンタレス (ロケット)|アンタレス]]<br />
* [[ロシア]]・[[ソビエト連邦|ソ連]]<br />
** [[ソユーズ]]<br />
** [[プロトン_(ロケット)|プロトン]]<br />
** [[モルニヤ_(ロケット)|モルニヤ]]<br />
** [[アンガラ・ロケット|アンガラ]]<br />
** [[ロコット]]<br />
** [[シュチーリ]]<br />
** [[スタールト1]]<br />
** [[ストレラ]]<br />
** [[ヴォルナ (ロケット)|ヴォルナ]]<br />
* [[ウクライナ]]<br />
** [[ドニエプル_(ロケット)|ドニエプル]]([[R-36_(ミサイル)|R-36Mミサイル]])<br />
** [[ゼニット_(ロケット)|ゼニット]]<br />
* [[日本]]<br />
** [[H-IIAロケット]]<br />
** [[H-IIBロケット]]<br />
** [[イプシロンロケット|イプシロン]]<br />
* [[欧州連合|欧州]]<br />
** [[アリアン]]<br />
** [[ヴェガロケット|ヴェガ]]<br />
* [[中華人民共和国|中国]]<br />
** [[長征_(ロケット)|長征]]<br />
** [[快舟]]<br />
** [[開拓者1号]]<br />
* [[インド]]<br />
** [[PSLV]]<br />
** [[GSLV]]<br />
* [[イスラエル]]<br />
** [[シャヴィト]]<br />
* [[イラン]]<br />
** [[サフィール (イランのロケット)|サフィール]]<br />
* [[シムルグ (ロケット)|シルムグ]]<br />
* [[朝鮮民主主義人民共和国]]<br />
** [[銀河3号 (ロケット)|銀河]]<br />
* [[大韓民国]]<br />
** [[羅老 (ロケット)|羅老]]--><br />
<br />
== 大気圏内でのロケット ==<br />
[[File:Bundesarchiv Bild 102-06122, Burgwedel, Raketenwagen auf Eisenbahnschienen.jpg|thumb|250px|ロケット推進の鉄道車両であるOpel-Sander Rak.3]][[File:Goodwood2007-121 The Blue Flame.jpg|thumb|250px|right|1970年10月23日に1014.513 km/hの世界記録を樹立した'''[[:en:Blue Flame (car)|ブルー・フレーム]]''']]<br />
ロケットは推進力が強力であり、[[大気圏]]内において物体を飛行させるための推進力としても利用される。その最も一般的な適用例は気象[[観測ロケット]]で、高層大気の状態を観測するためにしばしば打ち上げられる。[[気象庁]]でも定期的に気象観測ロケット ([[MT-135ロケット|MT-135]]) を打ち上げていたが、[[2001年]] に運用を終了させた。<br />
<br />
他に無重力実験や各種実験、[[天体観測]]用の試験装置を搭載したロケットが打ち上げられる場合もある。<br />
<br />
=== ロケット飛行機 ===<br />
{{main|ロケット飛行機}}<br />
[[飛行機]]への適用としては、1928年6月11日に[[:de:Fritz Stamer|Fritz Stamer]]の操縦により[[:en:Lippisch Ente|Lippisch Ente]]が飛行し、1929年9月30日に"ロケットフリッツ"("Rocket Fritz")の異名を持つ[[フリッツ・フォン・オペル]]の操縦により[[:en:Opel RAK.1|Opel RAK.1]]が飛行に成功、その後、第二次大戦前夜の1939年6月20日にErich Warsitzの操縦により[[ヴァルター機関|液体燃料ロケットエンジン]]を搭載した[[He 176 (航空機)|He 176]]が飛行に成功して、[[第二次世界大戦]]末期に盛んな研究・開発がなされたが、その典型例がナチスドイツの[[要撃機|迎撃戦闘機]][[Me163]]といえる。Me163 は推力1,700kgの[[ヴァルター機関|ヴァルターロケット]]1基により亜音速飛行を実現した。この戦闘機を参考に日本でも類似した局地戦闘機「[[秋水]]」が試作されたが、試験飛行中に墜落して終わった。ソビエトでは1942年に[[:en:Bereznyak-Isayev BI-1|BI-1]]が飛行した。他にも[[:en:Mikoyan-Gurevich I-270|ミグI-270]]、[[:en:DFS 40|DFS 40]]、[[:en:DFS 194|DFS 194]]、[[Ba 349 (航空機)|Ba 349]]、[[Go 242 (航空機)|Go 242]]、[[DFS 228 (航空機)|DFS 228]]、[[DFS 346]]等があった。<br />
<br />
また、固体燃料式のロケットも[[プロペラ機]]の離陸促進用補助ロケットとして各国で多数利用されたが、純然たる推進力として採用した[[航空機]]として有名なのが第二次世界大戦において使用された日本海軍の人間爆弾([[特攻兵器]])「[[桜花 (航空機)|桜花]]」である。本機はまずグライダーとして母機から切り離された後、攻撃を回避しながら敵艦へ体当たりするため推力800kgの火薬式ロケット3本を順次燃焼させながら最終的に時速800km程度で突入するというものであった。他にロケット推進グライダーの[[K1号 (航空機)|K1号]]や[[神龍 (航空機)|神龍]]が試作された。<br />
<br />
ドイツでは無線誘導ロケット爆弾[[Hs 293 (ミサイル)|Hs 293]]などが開発され、実戦投入された。<br />
<br />
その後、米軍の[[超音速]]実験機[[X-1 (航空機)|X-1]]においてロケットが推進力として使用されて飛行速度1.06マッハを実現した。「[[桜花 (航空機)|桜花]]」と同じく、航空機から小型航空機を発射するという方法がとられているが、これはロケットエンジンの燃料消費量があまりにも大きく、戦闘機サイズの燃料搭載量では自力で飛行目標を達成できないからであった。燃費が悪いロケットは大気圏内の航空機用推進力としてはあまり用いられなくなり、航空機の推進力は次第に[[ジェットエンジン]]へと遷移していった。その後、一部の愛好家によって、実用機ではないが[[:en:XCOR Aerospace|XCOR Aerospace]]社の[[:en:XCOR EZ-Rocket|XCOR EZ-Rocket]]のようなロケット飛行機が開発、飛行されている。他に地球以外の惑星でも類似の動力による飛行が検討されている。<ref>[http://www.mech.tohoku.ac.jp/sena/series20/vol2/vol2-2.html 火星飛行機を実現する!]</ref><ref>[http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/.../1/10134-001.pdf 火星探査航空機翼型の設計探査]</ref><br />
<br />
しかし、その後も宇宙ロケットと構造が類似している[[弾道ミサイル]]には液体燃料ロケットが採用され、瞬発力と大推力を有する固体燃料ロケットは弾道ミサイルのほか、前述の通り短射程のミサイルや[[気象観測]]、[[無重力実験]]、[[射出座席]]や[[ゼロ距離発進]]、[[MLRS]]、[[無反動砲]]等にも多用されている。<br />
<br />
=== ロケット自動車 ===<br />
{{main|ロケット自動車}}<br />
比較的簡易な構造で急加速、高速が出せるので、[[1928年]][[5月23日]]にベルリン郊外の[[アヴス]]サーキットで[[フリッツ・フォン・オペル]]の運転により[[:de:Opel RAK2|Opel RAK2]]が時速238kmの世界記録を樹立したり、その後も[[:en:Blue Flame (car)|ブルー・フレーム]]、[[:en:Budweiser Rocket|Budweiser Rocket]]等、[[ロケット自動車|ロケットエンジンを動力とする自動車]]が速度記録に挑んでいる。但し、[[ロケットエンジン]]の作動時間は限られているので近年の[[自動車の速度記録]]では推力の持続する[[ジェットエンジン]]を動力とする車両が記録を樹立している。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
また[[ロケットスレッド]]や1975年に[[ヴァルター機関|水蒸気ロケット]]を用いたドイツの[[磁気浮上式鉄道]]KOMET(Komponentenmeßtrager)による401.3km/hの記録の樹立や1978年には固体燃料ロケットを搭載した[[HSST#HSST-01|HSST-01]]による307.8km/hの達成等で使用された。<br />
<br />
== 趣味・教材用のロケット ==<br />
=== モデルロケット ===<br />
[[File:Kluft-photo-dual-hpr-launch-Sep-2004-Img 2757c.jpg|thumb|モデルロケット発射の様子]]<br />
{{main|モデルロケット}}<br />
一般人が趣味として気軽に打ち上げられる本格的なロケットとして[[モデルロケット]]がある。これは燃料に小型のものは[[黒色火薬]]、中・大型のものは[[コンポジット推進薬]]を使用したもので、コンポジット推進薬はスペースシャトルやH2-Aロケットのブースターに使用される燃料と同じ燃料である。高度は百メートルから数十キロに達するものもある。<br />
<br />
=== 教材用ロケット ===<br />
また、最近(1990年代ごろから?)では、[[ペットボトル]]に水と圧縮空気を充填し、水を圧縮空気の圧力で噴射する事によって推力を得る[[ペットボトルロケット]]が、[[科学教材]]として広く利用されている。また、[[火薬]]を使って飛ばす[[モデルロケット]]も普及し始め、各地の中学校で「総合教育」として取り入れられている。また、[[JETEX]]や[[タイガーロケッティ]]のような模型飛行機向けのロケットエンジンもあった(JETEXは現在も継続中)。また、国内外の一部の愛好家の間では[[ハイブリッドロケット]]や[[液体燃料ロケット]]も打ち上げられる。<br />
<br />
=== 航空法の適用 ===<br />
日本国内では[[航空法]]に基づき、ロケットを打ち上げる空域によっては、打ち上げる事が禁止される場合、または打ち上げる場合に事前に国土交通大臣への届出が必要な場合がある。<br />
{{see also|制限表面}}<br />
<br />
== 出典 ==<br />
{{Refbegin|2}}<br />
* {{Citation |last1=Allen |first1= H. Julian |last2=Eggers |first2=A. J. |url=http://naca.central.cranfield.ac.uk/reports/1958/naca-report-1381.pdf |title=A Study of the Motion and Aerodynamic Heating of Ballistic Missiles Entering the Earth's Atmosphere at High Supersonic Speeds |publisher= NACA |year=1958 |oclc=86134556}}<br />
* {{Citation | last = Baker | first = A. D. | title = Combat Fleets of the World 2000-2001 | publisher = US Naval Institute Press | location = Annapolis | year = 2000 | isbn = 978-1-55750-197-4 }}<br />
* {{Citation |last=Béon|first=Yves |others=translated from the French '''La planète Dora''' by Béon & Richard L. Fague |title=Planet Dora: A Memoir of the Holocaust and the Birth of the Space Age|year=1997 |publisher=Westview Press, Div. of Harper Collins|isbn=0-8133-3272-9 }}<br />
* {{Citation | last = Buchanan | first = Brenda | title = Gunpowder, Explosives and the State |url= http://books.google.com/?id=7n6Cg9znFrUC&printsec=frontcover | publisher = Ashgate | location = Aldershot | year = 2006 | isbn = 978-0-7546-5259-5 }}<br />
* {{Citation | first = David W. | last = Callaway | title = Coplanar Air Launch with Gravity-Turn Launch Trajectories | journal = Masters Thesis | date = March 2004 | url = https://research.maxwell.af.mil/papers/ay2004/afit/AFIT-GAE-ENY-04-M04.pdf | format = PDF | archiveurl = https://web.archive.org/web/20071128105951/https://research.maxwell.af.mil/papers/ay2004/afit/AFIT-GAE-ENY-04-M04.pdf | archivedate = 2007年11月28日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}<br />
* {{Citation | last = Chase | first = Kenneth | title = Firearms : A global history to 1700 | url=http://books.google.com/?id=esnWJkYRCJ4C&printsec=frontcover |publisher = Cambridge University Press | location = Cambridge | year = 2003 | isbn = 978-0-521-82274-9 }}<br />
* {{Citation | last = Clary | first = David | title = Rocket Man | publisher = Theia | location = New York | year = 2003 | isbn = 978-0-7868-6817-9 }}<br />
* {{Citation | last = Crosby | first = Alfred W. | title = Throwing Fire: Projectile Technology Through History | year = 2002 | publisher = Cambridge University Press | location = Cambridge | isbn = 0-521-79158-8}}<br />
* {{Citation |last=Esnault-Pelterie |first=Robert |title=Considerations sur les resultats d'un allegement indefini des moteurs |journal=Journal de physique theorique et appliquee |location=Paris |year=1913 |oclc=43942743 |language=French }}<br />
* {{Citation |author=GAO |title= Cost Benefit Analysis Used in Support of the Space Shuttle Program |url=http://archive.gao.gov/f0302/096542.pdf |location= Washington, DC |publisher= General Accounting Office, US Government |year= 1972 }}<br />
* {{Citation | last = Glasstone | first = Samuel | title = Sourcebook on the Space Sciences | publisher = D. Van Nostrand Company | year = 1965 |oclc=232378}}<br />
* {{Citation | last = Goddard | first = Robert |title = A Method of Reaching Extreme Altitudes |url= http://www.clarku.edu/research/archives/pdf/ext_altitudes.pdf |year=1919 |oclc=3430998 |authorlink=Robert Goddard}}<br />
* {{Citation | last = Goddard | first = Robert | title = Rockets | publisher = Dover Publications | location = New York | year = 2002 | isbn = 978-0-486-42537-5 }}<br />
* {{Citation |last=Hansen |first=James R. |year=1987 |url=http://history.nasa.gov/SP-4305/sp4305.htm |title=Engineer in Charge: A History of the Langley Aeronautical Laboratory, 1917-1958. |work=The NASA History Series, sp-4305 |publisher=NASA |oclc=246830126}}<br />
* {{Citation |last=Harford |first=James |authorlink= |others= |title=Korolev: How One Man Masterminded the Soviet Drive to Beat America to the Moon |year=1997 |publisher=John Wiley & Sons |location= |isbn=0-471-14853-9 }}<br />
* {{Citation |last=Hassan |first=Ahmad Y |url= http://www.history-science-technology.com/Articles/articles%202.htm |title=Gunpowder Composition for Rockets and Cannon in Arabic Military Treatises In Thirteenth and Fourteenth Centuries |accessdate=2008-03-29 |authorlink=Ahmad Y Hassan |work=History of Science and Technology in Islam |year=a}}<br />
* {{Citation |last=Hassan |first=Ahmad Y |url=http://www.history-science-technology.com/Articles/articles%2072.htm |title=Transfer Of Islamic Technology To The West, Part III: Technology Transfer in the Chemical Industries |accessdate=2008-03-29 |authorlink=Ahmad Y Hassan |work=History of Science and Technology in Islam |year=b |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080309003120/http://www.history-science-technology.com/Articles/articles%2072.htm |archivedate=2008年3月9日 |deadlinkdate=2017年9月 }}<br />
* {{Citation |last=Houchin |first=Roy |title=U.S. Hypersonic Research and Development: The Rise and Fall of Dyna-Soar, 1944–1963 |year=2006 |publisher=Routledge |location=New York |isbn=0-415-36281-4}}<br />
* {{Citation |last=Hunt |first=Linda |title=Secret Agenda: The United States Government, Nazi Scientists, and Project Paperclip, 1945 to 1990 |year=1991 |publisher=St.Martin's Press |location=New York |isbn=0-312-05510-2}}<br />
* {{Citation|last1=Huzel |first1=D. K. |last2=Huang |first2=D. H. |title=NASA SP-125, Design of Liquid Propellant Rocket Engines |edition=2nd |publisher=NASA |year=1971 |url=http://ntrs.nasa.gov/search.jsp?Ntt=sp-125&Ntk=all&Ntx=mode}}<br />
* {{Citation |last=Johnson |first= |title=Contents and commentary on William Moore's a treatise on the motion of rockets and an essay on naval gunnery |journal=International Journal of Impact Engineering |volume=16 |issue=3 |date = June 1995|oclc=105570427}}<br />
* {{Citation | last = Marconi | first = Elaine M. | date = April 12, 2004 | url = http://www.nasa.gov/missions/research/f_sounding.html | title = What is a Sounding Rocket? | work = Research Aircraft | publisher = NASA | accessdate = October 10, 2006}}<br />
* {{Citation |author=NASA |url=http://exploration.grc.nasa.gov/education/rocket/rktstage.html |title=Rocket staging |accessdate=2009-06-28 |publisher=NASA |work=Beginner's Guide to Rockets |year=2006}}<br />
* {{Citation | last = Needham | first = Joseph | title = Science and Civilisation in China |url=http://books.google.com/?id=BZxSnd2Xyb0C&printsec=frontcover | publisher = Cambridge University Press | location = Cambridge | year = 1986 | isbn = 978-0-521-30358-3 }}<br />
* {{Citation |last=Nowak |first=Tadeusz |title=Kazimierz Siemienowicz ok.1600-ok.1951 |year=1969 |publisher=MON Press |location=Warsaw |oclc=254130686 |language=Polish}}<br />
* {{Citation | last = Polmar | first = Norman | title = Cold War Submarines | publisher = Brassey's | location = Washington | year = 2004 | isbn = 978-1-57488-594-1 }}<br />
* {{Citation |last1=Potter |first1=R.C |last2=Crocker |title=Acoustic Prediction Methods for Rocket Engines, Including the Effects of Clustered Engines and Deflected Exhaust Flow, CR-566 |url=http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19660030602_1966030602.pdf |location=Washington, D.C. |publisher=NASA |year=1966 |oclc=37049198|first2=M.J }}<br />
* {{Citation |author=Space History Division |url=http://www.nasm.si.edu/research/dsh/artifacts/RM-Hale24pdr.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070818125248/http://www.nasm.si.edu/research/dsh/artifacts/RM-Hale24pdr.htm |archivedate=2007-08-18 |title=Hale 24-Pounder Rocket |publisher=Smithsonian National Air and Space Museum |year=1999}}<br />
* {{Cite DNB|authorlink=Henry Morse Stephens|first=Henry Morse|last=Stephens|wstitle=Congreve, William (1772-1828)|volume=12|page=9|ref=harv}}<br />
* {{Citation | last = Sutton | first = George | title = Rocket Propulsion Elements |edition=7th |url=http://books.google.com/?id=LQbDOxg3XZcC&printsec=frontcover | publisher = John Wiley & Sons | location = Chichester | year = 2001 | isbn = 978-0-471-32642-7 }}<br />
* {{Citation | last = Van Riper | first = A Bowdoin | title = Rockets and Missiles | publisher = Greenwood Press | location = Westport | year = 2004 | isbn = 978-0-313-32795-7 }}<br />
* {{Citation |last1=von Braun |first1=Wernher |last2=Ordway |first2=Frederick Ira |title=History of rocketry & space travel |authorlink=Wernher Von Braun |year=1966 |publisher=Crowell |location=New York |oclc=566653}}<br />
* {{Citation |last1=von Braun |first1=Wernher |editor= Emme, Eugene Morlock |title=The History of Rocket Technology: The Redstone, Jupiter and Juno |journal=Technology and Culture |volume=IV |issue=4 |date=Autumn 1963 |oclc=39186548 |pages=452–465 |doi=10.2307/3101379}}<br />
* {{Citation | last = Zaloga | first = Steven | title = V-2 ballistic missile 1942-52 |series=New Vanguard |volume=82 | publisher = Oxford University Press | location = Oxford Oxfordshire | year = 2003 | isbn = 978-1-84176-541-9 }}<br />
* {{Citation |url=http://history.msfc.nasa.gov/rocketry/tl1.html |title=Rockets in Ancient Times (100 B.C. to 17th Century) |accessdate=2009-06-28 |publisher=NASA |work=A Timeline of Rocket History |author=MSFC History Office}}<br />
{{Refend}}<br />
<br />
'''脚注'''<br />
{{Reflist|2|group=nb}}<br />
<br />
'''引用'''<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commonscat|Rockets|ロケット}}<br />
* [[宇宙開発]]<br />
* [[宇宙旅行]]<br />
* [[射場]]<br />
* [[ツィオルコフスキーの公式]]<br />
* [[モデルロケット]]<br />
* [[スペースプレーン]]<br />
* [[ロケット・ミサイル技術の年表]]<br />
* [[ロケット一覧]]<br />
* [[ミサイル一覧]]<br />
* [[ローンチ・ヴィークルの比較]]<br />
* [[ローンチ・ヴィークルの一覧]]<br />
* [[固体燃料式軌道投入用打ち上げシステムの比較]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://skyrocket.de/space/space.html Gunter's Space Page]<br />
* [http://www.russianspaceweb.com/index.html Russian Space Web]<br />
* {{PDFlink|[http://www.jaxa.jp/missions/projects/rockets/h2a/img/roc_guide-book.pdf ロケットガイド]}}<br />
* [http://www.jaxa.jp/about/centers/tnsc/ JAXA 種子島宇宙センター]<br />
<br />
'''政府機関'''<br />
* [http://www.sderotmedia.com/ about the rocket in israel]<br />
* [http://ast.faa.gov/ FAA Office of Commercial Space Transportation]<br />
* [http://www.nasa.gov/ National Aeronautics and Space Administration (NASA)]<br />
* [http://www.nar.org/ National Association of Rocketry (USA)]<br />
* [http://www.tripoli.org/ Tripoli Rocketry Association]<br />
* [http://www.acema.com.ar/ Asoc. Coheteria Experimental y Modelista de Argentina]<br />
* [http://www.ukra.org.uk/ United Kingdom Rocketry Association]<br />
* [http://www.modellraketen.org/ IMR - German/Austrian/Swiss Rocketry Association]<br />
* [http://www.canadianrocketry.org/ Canadian Association of Rocketry]<br />
* [http://www.isro.org/ Indian Space Research Organisation]<br />
<br />
'''情報サイト'''<br />
* [[Encyclopedia Astronautica]] - [https://web.archive.org/web/20040514103554/http://www.astronautix.com/lvs/ Rocket and Missile Alphabetical Index]<br />
* [http://www.braeunig.us/space/index.htm Rocket and Space Technology]<br />
* Gunter's Space Page - [http://space.skyrocket.de/ Complete Rocket and Missile Lists]<br />
* [https://web.archive.org/web/20070521025308/http://www.pwrengineering.com/data.htm Rocketdyne Technical Articles]<br />
* [http://www.relativitycalculator.com/rocket_equations.shtml Relativity Calculator - Learn Tsiolkovsky's rocket equations]<br />
* [http://sites.google.com/site/rgoddardsite Robert Goddard--America's Space Pioneer]<br />
<br />
{{宇宙飛行}}<br />
{{Expendable launch systems}}<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ろけつと}}<br />
[[Category:ロケット|*]]<br />
[[Category:エンジン]]</div>2400:4174:23E4:1200:D07D:BEC4:4A50:5882周恩来2018-07-05T05:44:54Z<p>2400:4174:23E4:1200:D07D:BEC4:4A50:5882: </p>
<hr />
<div>{{政治家<br />
|人名 = 周恩来<br />
|各国語表記 = 周恩來<br>Zhou Enlai<br />
|画像 = Zhou_Enlai.jpg<br />
|画像説明 = 公式の肖像写真、追悼記念切手にも用いられた<br />
|国略称 = {{PRC}}<br />
|生年月日 = [[1898年]][[3月5日]]<br />
|出生地 = {{QIN1890}}[[江蘇省]][[淮安市]]<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1898|3|5|1976|1|8}}<br />
|死没地 = {{CHN}}[[北京市]][[中国人民解放軍第三〇五医院]]<br />
|出身校 = [[明治大学]]、[[南開大学]]<br />
|前職 = <br />
|現職 = <br />
|所属政党 = [[File:Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg|25px|border]] [[中国共産党]]<br />
|称号・勲章 = <br />
|親族(政治家) = [[李鵬]](養子)<br />
|配偶者 = [[トウ穎超|鄧穎超]]<br />
|サイン = <br />
|ウェブサイト = <br />
|サイトタイトル = <br />
|国旗 = 中華人民共和国<br />
|職名 = 初代[[国務院総理]]<br />
|内閣 = 周恩来内閣<br />
|就任日 = [[1954年]][[9月27日]]<br />
|退任日 = [[1976年]][[1月8日]]<br />
|元首職 = [[中華人民共和国主席|国家主席]]<br />
|元首 = [[毛沢東]]<br>[[劉少奇]]<br>[[董必武]](代理)<br>[[国家主席の廃止|廃止]]<br />
|国旗2 = 中華人民共和国<br />
|職名2 = [[政務院総理]]<br />
|内閣2 = 周恩来内閣<br />
|就任日2 = [[1949年]][[10月1日]]<br />
|退任日2 = 1954年9月27日<br />
|元首職2 = [[中華人民共和国主席|政府主席]]<br />
|元首2 = 毛沢東<br />
|国旗3 = 中華人民共和国<br />
|職名3 = 第2代[[中国人民政治協商会議]]主席<br />
|内閣3 = <br />
|就任日3 = 1954年[[12月25日]]<br />
|退任日3 = 1976年1月8日<br />
|元首職3 = [[中国共産党中央委員会主席|共産党主席]]<br />
|元首3 = [[毛沢東]]<br />
|国旗4 = 中華人民共和国<br />
|職名4 = 初代[[中華人民共和国外交部|外交部長]]<br />
|内閣4 = 周恩来内閣<br />
|就任日4 = 1949年10月1日<br />
|退任日4 = [[1958年]][[2月11日]]<br />
|元首職4 = <br />
|元首4 = <br />
}}<br />
{{中華圏の人物<br />
|名前=周恩来<br />
| 画像=<br />
| 画像の説明=<br />
|繁体字=周恩來<br />
|簡体字=周恩来<br />
|ピン音=Zhōu Ēnlái<br />
|和名=しゅう おんらい<br />
|発音=チョウ・エンライ<br />
|ラテン字=Chou En-lai<br />
}}<br />
{{中華人民共和国}}<br />
'''周 恩来'''(しゅう おんらい、[[1898年]][[3月5日]] - [[1976年]][[1月8日]])は[[中華人民共和国|中国]]の[[政治家]]。[[字]]は翔宇。[[中華人民共和国]]が建国された[[1949年]][[10月1日]]以来、死去するまで一貫して[[政務院総理]]・[[国務院総理]]([[首相]])を務めた。[[毛沢東]][[中国共産党中央委員会主席|共産党主席]]の信任を繋ぎとめ、[[文化大革命]]中も[[失脚]]しなかったことなどから「不倒翁」([[起き上がり小法師]])の異名がある。[[1972年]]に、日本国首相の[[田中角栄]](当時)と[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]に調印したことでも知られている。<br />
<br />
妻は[[鄧穎超]]、子女は[[孫維世]](養女・文化大革命で迫害死)、[[李鵬]](養子・のちに国務院総理)。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
周恩来は[[江蘇省]][[淮安]]の[[官僚]][[地主]]の家に生まれた。周恩来が13歳となった[[1911年]]、[[辛亥革命]]が起きる。翌[[1912年]]、[[清朝]]が崩壊し、[[中華民国]]が建国された。[[1913年]]、周恩来は[[天津市|天津]]の南開中学校に入学し、革命の息吹に触れる。<br />
<br />
=== 日本留学 ===<br />
南開中学卒業後の[[1917年]]に、[[大日本帝国|日本]]に[[留学]]。日本語の習得不足により[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]と[[東京高等師範学校]]の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校([[法政大学]]付属学校)、[[明治大学]]政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。<br />
<br />
日本では勉学に励む他、友人と活発に交流して祖国の将来について語り合っている。また[[日比谷公園]]や[[靖国神社]]、[[三越呉服店]]や[[浅草]]など、各所を積極的に見てまわっている。[[1918年]][[5月1日]]には[[靖国神社]]の大祭を見物し、「それを見てはなはだ大きな感慨を催す」。また[[6月2日]]にも游就館を訪れたことも日記に記している。日本社会や日本人についてもよく観察しており、これが知日派としてのベースをつくった。同年、留学生の一斉帰国運動も起きるが、周恩来は冷静な対応をしている。一旦中国に帰るが、再来日。帰国前の数ヶ月については記録もなく、よくわかっていない。苦渋の中で、酒に溺れがちだったという説もある。やがて、母校の南開学校が大学部を創設するということを知って、帰国を決意した。<br />
<br />
船に乗るために神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩「雨中嵐山」は、嵐山の周恩来記念碑に刻まれている。[[河上肇]]の著書で初めて[[マルクス主義]]に触れ、[[京都大学]]でその講義を聴講もしている。[[1919年]]4月に帰国し、[[南開大学]]文学部に入学。その直後に中国近代史の起点となる[[五・四運動]]が起きる。周恩来は学生運動のリーダーとなって頭角を現していく。なお日本滞在中の様子については、『周恩来 十九歳の東京日記』が最も正確で詳細な記録である。[[東京日日新聞]]の[[神近市子]]記者のインタビューを受けたという、従来の伝聞や伝記にあった誤りも指摘されている。<br />
<br />
<gallery><br />
ZhouEnlai.jpg|thumb|180px|1917年の周恩来<br />
A stone monument Zhou Enlai once learned here the site of East Asian Higher Preparatory School Jimbocho Aizen Park Chiyoda-ku Tokyo Japan.jpg|石碑「周恩来ここに学ぶ」東京都・神保町<br />
Premier Zhou 1919.jpg|1919年の周恩来<br />
南开大学开学纪念照.jpg|1919年9月25日、南開大学開校記念写真。最後列の左端が周恩来<br />
Premier_Zhou_1924.jpg|黄埔軍事学校での周恩来<br />
</gallery><br />
<br />
=== 共産主義者として ===<br />
[[1920年]][[フランス]]の[[パリ]]に留学する。[[労働党 (イギリス)|労働党]]の研究のために[[イギリス]]に渡り<ref>このことはこの当時まだ周恩来が共産主義者ではなかったことを示している。[[小倉和夫]]『パリの周恩来 中国革命家の西欧体験』([[中央公論社]]〈中公叢書〉、[[1992年]])に詳しい。</ref>、[[エディンバラ大学]]に入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りずに断念し<ref>勤工倹学で留学した学生には中国政府から奨学金が下りる約束であったが、実際はほぼ全てを役人に横領されている。</ref>フランスに戻る。その後[[中国共産党]][[フランス]]支部を組織し、[[ヨーロッパ]]総支部が作られるとその書記となった。この留学時代の仲間には、[[李立三]]や[[鄧小平]]、[[陳毅]]、[[朱徳]]など後の中国共産党の幹部となった者が多数いた。[[第一次国共合作]]が成立した[[1924年]]、周恩来は帰国し、孫文が創立した[[黄埔軍官学校]]の政治部副主任となった。ちなみに校長は[[蒋介石]]であった。翌[[1925年]]、五・四学生運動時代の恋人[[トウ穎超|鄧穎超]]と結婚した。<br />
<br />
[[1926年]]、周恩来は[[上海市|上海]]に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立したが、入城した蒋介石の[[北伐]]軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出した。その後、[[国民革命軍]]の[[南昌起義|南昌蜂起]]を朱徳と共に指導した。[[1931年]]、[[江西省]]の[[瑞金]]に[[中華ソビエト共和国|中華ソビエト共和国臨時中央政府]]が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、[[長征]]に妻と共に参加した。[[遵義会議]]では自ら[[自己批判]]をし、[[毛沢東]]が主導権を掌握するのを助けた。以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。<br />
<br />
=== 西安事件 ===<br />
周恩来の名が世界に知られるようになったのは、[[1936年]]の[[西安事件]]での活躍であった。これは当時「'''安内攘外'''」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石を、東北軍の[[張学良]]と西北軍の[[楊虎城]]が[[西安]]で拘束、一致抗日を要求した事件である。蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、共産党に周恩来の派遣を求め、蒋が国内平和を実現し、日本に対して強硬姿勢をとることに同意することを条件に蒋の釈放を提案した。周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。妥協しない決意を固めていた蒋介石に開口一番「お久しぶりです。校長」と呼び掛けた周恩来の物腰と、その熱意の前に暗黙の了解をしたと言われる。<br />
<br />
=== 日中戦争・国共内戦 ===<br />
[[日中戦争]](支那事変)が始まると、周恩来は共産党の代表として[[重慶市|重慶]]に駐在し、蒋介石との統一戦線の維持に努めた。日本が中華民国を含む連合国に対して降伏した後はそのまま重慶に止まり、毛沢東と共に戦後の連合政府の樹立に向けた国共会談を続け、[[双十協定]]を結び、国民党の[[張群]]や米国の[[ジョージ・マーシャル]]とともに{{仮リンク|軍事調処執行部|zh|军事调处执行部}}(三人委員会)も設立した。しかし、これは物別れに終わり、[[国共内戦]]が始まった。<br />
[[File:Zhang,_Marshall_and_Zhou.jpg|left|thumb|250px|[[張治中]]、[[ジョージ・マーシャル]]、周恩来]]<br />
<br />
内戦に勝利した共産党は、[[1949年]][[10月1日]]、[[中華人民共和国]]を建国した。<!-->その際に「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」と発言している。<--><!-->この発言は本当に周恩来のものなのですか?<-->なお、中国共産党政府は日本人戦犯(捕虜)の思想改造を行った上で、戦争犯罪について判決を出したいと考えていたが、それをいかにして行うか、計画があったわけではないようだ。ただし、日本人戦犯の処遇に直接あたった周恩来の理想主義が色濃く出ている。撫順管理所の孫明斎所長、金源副所長、曲初副所長らが『覚醒』のなかの論文で述べており、また部下によれば、周恩来は東北人民政府の公安部に対し、「外部に対して厳重に警護し、戦犯たちの安全を確保する。一人の逃走者も、一人の死亡者も出さず、内部は緩やかにし、殴ったり、人格を侮辱したりしない。彼らの民族的な風俗、習慣を尊重し、思想面から彼らの教育と改造を行う」とまず指示したという<ref>【『戦争と罪責』野田正彰(岩波書店、1998年)】</ref>。<br />
<br />
その後日本軍の捕虜に対して、「服役期間中に態度が良好だった戦犯に関しては、早期釈放をしても良い。年配者や体が弱い者或いは病人も釈放を考慮し、家族の訪中や見舞いなどを許可する」「民族間の恨み、階級間の憎しみ、それを忘れてはいけない。しかし、それでも私たちは彼らを「改造」し良くしなくてはいけない。彼らを生まれ変わらせ、我々の友にしよう。日本戦犯を『鬼』から『人』に変えられるかどうか、これこそ中国文化の知恵と力量に対する試練なのである」と述べている<ref>中国網日本語版2010-11-18 </ref>。管理所職員やその家族などの多くが日本軍の被害を受けていたため戦犯を厚遇する事に反発がでたが周恩来は『復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後に解る」と諭した。「最初の日本人戦犯裁判で起訴155人死刑7人執行猶予付き死刑3人が確定したが'''周恩来'''の指示で最終的に起訴51人死刑なし無期懲役なし懲役20年4人に減刑された。あまりの寛大な処置に収容所スタッフから不満が出たが「今は分からないかも知れないが20年後、30年後に分かる。」周恩来は言ったという(ちなみに連合軍側が裁いたBC級戦犯の裁判では死刑判決が920人、終身刑判決が383人だった)。<br />
<br />
元戦犯たちが日本に帰国し[[中国帰還者連絡会]]を結成した。そして、その代表団が[[日中国交正常化]]後に再び訪中した際面会した周恩来はこう言ったという。「今度、日中両国の間に国交が回復(実際は国交正常化)したことはまことに喜ばしいことです。これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものであります。しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」。<br />
<br />
また、日本人戦犯だけでなく、対日協力者だった戦犯にも寛容であり、[[満州国]]皇帝の[[愛新覚羅溥儀]]や[[蒙古聯合自治政府]]主席の[[デムチュクドンロブ]]などが周恩来から特赦と役職を与えられている。<br />
<br />
=== 総理就任と外交政策 ===<br />
中華人民共和国の建国後、周恩来は[[国務院総理]]([[首相]]に相当。建国当初は[[政務院総理]]と称していた)に就任し、[[1976年]]に死去するまで27年間この地位にあった。また、[[1958年]]まで[[中華人民共和国外交部|外交部長]]([[外務大臣]])を兼任し、外交政策を主管した。<br />
<br />
[[File:Nasser and Chou-En-Lai n Egypt.jpg|thumb|left|300px|周恩来とエジプトのナセル大統領]]<br />
周恩来は[[1954年]]の[[ジュネーヴ協定|ジュネーヴ会議]]に中華人民共和国代表として出席し、[[第一次インドシナ戦争]]休戦の実現に尽力し、その間に[[インド]]の[[ジャワハルラール・ネルー]]首相と会談して[[平和共存]]・[[内政不干渉]]などの[[平和五原則]]を発表し、周恩来によるネルーへの提案で中印友好の証として[[ナーランダ大学]]に[[玄奘三蔵]]の舎利が分骨されることとなった<ref>{{cite web|url=http://www.tjwh.gov.cn/shwh/lywh/tjly/lssj/xzlg.htm|title=玄奘灵骨移供印度那烂陀寺|publisher=天津市文化メディア局|accessdate=2018-03-13}}</ref>。翌[[1955年]]には[[インドネシア]]の[[バンドン]]で開かれた[[アジア・アフリカ会議]](バンドン会議)に出席して中印の平和五原則は[[平和十原則]]として[[アジア]]・[[アフリカ]]諸国共通の理念となり、[[新中国]]が反[[植民地主義]]の立場にある[[第三世界]]であることを世界にアピールした。同会議の出席者だった[[アラブ諸国]]の団結を掲げる[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]大統領と親交を結んで[[エジプト]]はアフリカで初めて中国を国家承認する国となってアフリカ諸国歴訪でも真っ先に訪れた<ref name=people18629>{{cite web|url= http://cpc.people.com.cn/GB/85037/8516212.html |format=|title= 周恩来总理与非洲国家领导人的深厚感情|publisher=[[人民網]]|accessdate=2018-06-29}}</ref>。また、アフリカ独立運動の父とされる[[ガーナ]]の[[クワメ・エンクルマ]]大統領は周恩来に特注<ref>{{cite web|url= http://history.mofcom.gov.cn/?experience=lwxzdzelzl |format=|title= “老外经”心中的周恩来总理|publisher=[[中華人民共和国商務部]]|date=2014-05-12|accessdate=2018-06-28}}</ref><ref>杨明伟; 陈扬勇. 周恩来外交风云. 解放军文艺出版社. 1995. ISBN 9787503306907. p.357</ref>して贈られた[[人民服]]を愛用<ref>{{cite web|url= https://rastafari.tv/dr-kwame-nkrumah-visits-emperor-haile-selassie/ |format=|title= Dr. Kwame Nkrumah Visits Emperor Haile Selassie I|publisher=RasTafari TV|date=2016-02-12|accessdate=2018-06-29}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.globalresearch.ca/african-union-in-the-21st-century-55-years-on-the-challenges-ahead/5641943 |format=|title= Africa Liberation Day and the Struggle against Imperialism. The African Union in the 21st Century|publisher=Global Research|date=2018-05-26|accessdate=2018-06-29}}</ref>してエンクルマは訪中と同時にガーナで[[クーデター]]が起きた際も周恩来から国賓待遇された<ref name=people18629/>。同会議直前には会議に招待されなかった中華民国([[台湾]])による周恩来暗殺作戦とされる[[カシミールプリンセス号爆破事件]]が起きている。インドネシアの[[スカルノ]]大統領とは「北京=ジャカルタ枢軸」と呼ばれる関係を築き、スカルノは[[国際連合]]の非加盟国でつくる「第二国連」を構想して[[:en:CONEFO|新興勢力会議]](CONEFO)を結成した際に中国は[[アラブ連合共和国]]とともにCONEFO本部建設の最大支援国となっており<ref>{{cite web|url=http://jakartagreater.com/ganefo-conefo-lembaran-sejarah-yang-terlupakan/|title=GANEFO & CONEFO Lembaran Sejarah yang Terlupakan|publisher=JakartaGreater|date=2015-10-25|accessdate=2017-04-15}}</ref>、インドネシアも中華民国と[[イスラエル]]を[[1962年アジア競技大会]]で参加拒否して[[新興国競技大会]]を開催するなどアラブ諸国や中華人民共和国と連携し、スカルノ失脚直前には中華人民共和国はインドネシアに[[核開発]]協力を持ちかける<ref>{{cite web|url=http://www.sankei.com/world/news/160602/wor1606020032-n1.html|title=毛沢東がスカルノ政権に核技術供与の意向? 研究者の論文が脚光|publisher=[[産経新聞]]|date=2016-06-02|accessdate=2017-05-24}}</ref>までの蜜月ぶりだった。<br />
<br />
中華人民共和国と[[ソビエト連邦]]との対立([[中ソ対立]])が激しさを増すと、中華人民共和国は[[アメリカ合衆国]]や日本との国交正常化を求めるようになった。周恩来は総理として両国との交渉を管掌した。日本とは[[高碕達之助]]との合意で[[LT貿易]]を行い、[[日本社会党]]と[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の元[[内閣総理大臣]]である[[片山哲]]<ref>{{Cite web<br />
|url=http://www.pekinshuho.com/ztjl/txt/2008-08/05/content_138428.htm<br />
|title=中日両国の50年間のスポーツ交流史を振り返って<br />
|publisher=[[北京週報]]<br />
|date=2008-08-05<br />
|accessdate=2016-11-05<br />
}}</ref>や[[石橋湛山]]と緊密な関係を築き<ref>{{Cite web<br />
|url=http://j.people.com.cn/n/2015/0317/c94473-8864267.html<br />
|title=周斌さんの回想録「私は中国の指導者の通訳だった」日本で出版<br />
|publisher=[[人民網]]<br />
|accessdate=2015-03-17<br />
}}</ref><ref>{{Cite web<br />
|url=http://www.peoplechina.com.cn/zhongrijiaoliu/2008-02/15/content_99498_5.htm<br />
|title=周恩来総理と中日関係(中)生誕110周年にあたって<br />
|publisher=[[人民中国]]<br />
|accessdate=2016-11-05<br />
}}</ref>、[[1959年]]には中国建国10周年慶祝訪中団団長の片山と会見して石橋と日中国交樹立を呼びかける共同声明を発表している。<br />
<br />
[[1971年]]にはかねてから中国共産党の[[一つの中国]]政策を支持しきたインドやエジプトなどアジア・アフリカの[[非同盟]]諸国、ソ連と[[東ヨーロッパ]]などの[[東側諸国]]、米ソと並ぶ[[国連安保理常任理事国]]でもある[[イギリス]]や[[フランス]]などの一部の[[西側諸国]]や当時の[[ウ・タント]][[国連事務総長]]<ref>[http://walterdorn.net/163-u-thant-buddhism-in-action U THANT: BUDDHISM IN ACTION]</ref>からの賛成も得て[[アルバニア決議]]が[[国連総会]]で可決され、中華人民共和国は国連に加盟して中華民国を国連と関連の国際機関から追放させることに成功し、アルバニア決議に反対していた日米も中華人民共和国との国交樹立に動くことになる。<br />
<br />
[[File:ZhouNixonBanquet.gif|320px|thumb|left|[[ニクソン大統領の中国訪問]]を歓待する周恩来]]<br />
[[1972年]]2月、[[アメリカ合衆国大統領]][[リチャード・ニクソン]]の[[ニクソン大統領の中国訪問|訪中を実現]]させ、アメリカとの国交正常化交渉を前進させた(アメリカ合衆国と中華人民共和国との[[米中国交正常化]]が実現したのはニクソンの[[共和党 (アメリカ)|共和党]]政権と交代した[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジミー・カーター]]大統領と[[鄧小平]]の間の[[1979年]]のことである)。<br />
<br />
同年1月に日本も当時の[[佐藤栄作]]総理が中華人民共和国との国交正常化を目指すことを演説で述べ<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-shiryou-1-4.htm (4)第68回国会における佐藤内閣総理大臣施政方針演説]</ref>、周恩来への親書を託した密使を[[香港]]に派遣して北京訪問の希望も伝えてきた<ref>{{cite web|url=http://www.people.com.cn/BIG5/guoji/14549/2620729.html|title=日本前首相披露中日交往過程中的另一面|publisher=[[人民網]]|date=2004-07-06|accessdate=2017-10-10}}</ref><ref>[[NHK BS1]]スペシャル「日中“密使外交”の全貌~佐藤栄作の極秘交渉~」2017年9月24日</ref>。なお、アルバニア決議が採択された際に[[自由民主党幹事長]]の[[保利茂]]は訪中する[[美濃部亮吉]][[東京都知事]]に書簡を託すも周恩来は佐藤政権への不信感から斥けていた<ref>{{cite news |title= 日中関係打開めざした「保利書簡」 「いぶし銀の調整役」保利茂(7) |publisher=日本経済新聞 |date=2011-10-30 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2401G_V21C11A0000000/|accessdate=2017-04-15}}</ref>。同年9月、現職総理では初めて訪中した[[田中角栄]]と数度にわたる交渉に臨み、[[日中共同声明]]に調印して日本との国交正常化を実現した。調印式で交わした田中総理との固い握手とその写真は時代の象徴として語り草になった。[[日中国交正常化]]には当時の[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]政権だけでなく、国交正常化前に派遣されていた[[日本社会党|社会党]]、[[公明党]]、[[民社党]]<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110002800226 日本民社党訪中団中国中日友好協会代表団共同声明]</ref>といった野党と[[永野重雄]]ら経済界の訪中団なども貢献した<ref>武田晴人 『高度成長 シリーズ日本近代史(8)』 岩波書店〈岩波新書(新赤版)1049〉、2008年、196–199。ISBN 9784004310495</ref>。「日本人民は軍国主義者の犠牲になった被害者だ」、「日中両国には、様々な違いはあるが、小異を残して大同につき、合意に達することは可能である」「わが国は賠償を求めない。日本の人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民に払わせることになる」と公言したことで日本のマスコミから賞賛されたが、近年明らかにされた外交文書では[[アメリカ合衆国国務長官]][[ヘンリー・キッシンジャー]]に対し「日本の台頭は米中両国の脅威である」などと話していたことが明らかになっている。<br />
<br />
周の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国の民衆から深い敬愛を集めていた。また、その人柄からニクソンやキッシンジャー、田中角栄など、諸外国の指導者層からも信頼が厚かった。<br />
<br />
=== 文化大革命 ===<br />
[[文化大革命]](プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、[[走資派]]([[実権派]])のレッテルを張られた[[劉少奇]]らの[[粛清]]に協力した。文革勃発時に有力幹部の殆どが失脚、または死亡する者さえいた中、周恩来は最後まで地位を保った。周恩来は毛沢東の路線に従い、毎日[[紅衛兵]]を接見して指示を与えた。劉少奇を「敵の[[スパイ]]」と決め付ける党の決定を読み上げたのも周恩来だった。<br />
<br />
その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が[[北京市|北京]]の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また[[紫禁城|故宮]]を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣して阻止した。[[興教寺 (西安市)|興教寺]]など数々の[[文化遺産]]を紅衛兵から保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。例えば[[1968年]][[8月26日]]、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」と叫び、身を挺して守った。<br />
<br />
しかし、周恩来のこれらの行動には限界があり、全体として文革の嵐を止めることは出来なかった。ここに、最後まで毛沢東に忠実だった宰相・周恩来の限界があった。その象徴的事例として、彼の[[養子縁組|養女]]であり[[俳優|女優]]であった[[孫維世]]の悲劇がある。孫維世は毛沢東の妻である[[江青]]の激しい憎悪の対象であった。江青のこの感情は、江青が上海で女優をしていた時、不遇だった自分に比べ脚光を浴びていたからとも、「延安四大美女」のひとり、或いは「紅色公主」(赤いプリンセス)と呼ばれていた彼女に毛沢東が関係を迫った事を知っての嫉妬だったとも言われる。江青の差し金によって逮捕された孫維世は北京獄中で拷問を受けて死亡した。遺体の頭頂部には大型の釘が打ち込まれているなど拷問の痕跡が発見され、これを見た周恩来は検視を要求したが、「遺体はすぐに火葬する」と告げられたという<ref>「傳聞[[江青]]曾讓刑事犯在強光下剝光孫維世的衣服、進行輪姦、犯人強姦得逞可以減刑」(楊中美『紅朝艷史─毛澤東的女人』、214頁)とも伝えられている。</ref>。しかし、周恩来は養女である彼女のために何もしなかった。それどころか、孫維世へ対する「ソ連修正主義者のスパイ」という逮捕状にサインしていたのは周恩来本人だったとの証言<ref>中国共産党中央党校理論研究室副主任であった[[:zh:阮銘|阮銘]]が[[1994年]]に著した『旋轉舞台上的周恩來』に「在查證『四人幫』的罪行中、發現那些文革中慘遭迫害的冤案、在逮捕令上幾乎都是周恩來的簽名、包括逮捕他自己的乾女兒孫維世」とある。</ref>も残されている。<br />
<br />
転機となったのが[[1971年]]の[[林彪]]失脚([[林彪事件]])であった。林彪は毛沢東の後継者とされ、ナンバー2であったが、じきに毛沢東の信頼を失い、毛の[[暗殺]]を計画したが失敗(林彪は毛沢東が文革で中国を破壊する事に批判を強めていたとも言われる)。[[ソビエト連邦|ソ連]]に逃亡する途中に搭乗機が[[モンゴル人民共和国|モンゴル]]で墜落し死亡した。これが契機となって[[鄧小平]]が復権、一部幹部の名誉が回復された。周恩来は鄧小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。<br />
<br />
更にその後、周恩来は江青ら[[四人組 (中国史)|四人組]]との激しい権力闘争を強いられたが、最後まで毛沢東に信任され、実権を握り続けた。[[1975年]]には[[国防]]・[[農業]]・[[工業]]・[[テクノロジー|科学技術]]の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱し、後の鄧小平による「改革・開放」の基盤を築いた。<br />
<br />
周恩来は文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走した。十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。これに前述の孫維世の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれていった。<br />
<br />
=== 死去 ===<br />
[[1972年]]に[[膀胱癌]]が発見される。その後も休むことなく職務を続けたが、病状は悪化の一途をたどった。[[1974年]][[6月1日]]、北京の解放軍第305病院に入院。だが、病室でなおも執務を続けた。1975年1月の第4期全国人民代表大会第1回会議では、病身を押して、国務院総理として政治活動報告を行う。同会議において総理に再選。しかし、同年秋から病床を離れられなくなり、ついに[[1976年]][[1月8日]]、周恩来は死去した<ref>周恩来の治療について何らかの圧力によって最善が尽くされなかったことは周恩来の主治医張佐良が、自著『周恩来・最後の十年』で記している。たとえば周恩来の癌の手術は完全には行われなかったし、抗癌剤治療も行うことが出来なかった。主治医はその原因については、明確な記述を行っていない。また作家[[ユン・チアン]]が執筆した『[[マオ 誰も知らなかった毛沢東|マオ]]』では、「毛沢東が治療の妨害を行った」と記述されている。ユン・チアンがインタビュー・リストにこの主治医を載せていることは注目に値する。かつて中国共産党中央文献研究室で周恩来の伝記の編纂作業に携わり、[[1989年]]の[[六四天安門事件]]を受けてアメリカ合衆国へ渡った[[高文謙]]が、渡米後に著した『周恩来秘録』でも同じ結論が出されている。</ref>。彼の死後、文革によって苦しめられていた民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを当局が鎮圧するという[[四五天安門事件|第一次天安門事件]]が起こった。また、その遺骸は本人の希望により[[火葬]]され、遺骨は[[飛行機]]で中国の大地に散布された。これらは生前に妻の[[トウ穎超|鄧穎超]]と互いに約束していたことであった。四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。周の葬儀には[[宋慶齢]]も参列した。<br />
<br />
== 評価 ==<br />
=== 外国人による評価 ===<br />
[[ファイル:Kissinger Mao.jpg|thumb|300px|left|写真中央が周恩来、右は毛沢東、左は当時[[国家安全保障問題担当大統領補佐官|アメリカ大統領補佐官]]だった[[ヘンリー・キッシンジャー]]]]<br />
1972年のニクソン大統領訪中のお膳立てをしたキッシンジャーは、周恩来を「今までに会った中で最も深い感銘を受けた人物」の一人に数え、「上品で、とてつもなく忍耐強く、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。<br />
<br />
国連事務総長だった[[ダグ・ハマーショルド]]は「外交畑で今まで私が出会った人物の中で、最も優れた頭脳の持ち主」と証言している。<br />
<br />
[[カンボジア]]国王[[ノロドム・シハヌーク]]は[[カンプチア王国民族連合政府]]として北京に亡命していた時期に[[ポル・ポト]]をカンボジアの指導者に推す[[康生]]と対立もしていた周恩来と親しくし、シハヌークは周恩来を「私よりよっぽど王族らしい」と評している。<br />
<br />
『周恩来伝』を書いた[[ジャーナリスト]]のディック・ウィルソンは、周恩来を[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]や[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]と比較し、「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最大級の賞賛をしている。<br />
<br />
また、[[1954年]]以来[[チャーリー・チャップリン]]とも親交を持ち(ジュネーヴ会議出席の際、[[1952年]]から[[スイス]]在住であったチャップリンを訪ねている)、彼の作品の一つ「[[黄金狂時代]]」の名シーンであるチャーリーが靴を食べる場面を見て、長征の際の苦難を思い出し、懐かしがったと言う。<br />
<br />
[[日本]]でも周恩来に傾倒した著名人は多く、日本人70名が寄稿した文集『日本人の中の周恩来』がある。<br />
<br />
しかし、周恩来とインド訪問など<ref>[http://dalailama.com/gallery/album/0/33 Photo Gallery | The Office of His Holiness The Dalai Lama]</ref>で活動をともにした[[ダライ・ラマ14世]]は毛沢東をその振る舞いから「革命の真の偉大な指導者」と評した一方で、周恩来は「大変ずる賢いと思った」<ref>{{Cite web|publisher=[[日本記者クラブ]] |title=ダライ・ラマ14世会見記 |accessdate=2016-06-14|url=http://www.jnpc.or.jp/communication/essay/e00022415/ }}</ref>とその強かさを評している。<br />
<br />
=== 中国人による評価 ===<br />
[[鄧小平]]は周恩来が文革期に毛沢東に妥協して走資派(実権派)粛清に協力したことに複雑な胸中だったと言われるが、周の没後ジャーナリストに対しては以下のように語っている<ref>矢吹晋『毛沢東と周恩来』。 </ref>。<br />
<br />
「彼(周恩来)は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、我々は[[徴農制度|下放]](地方、農村での思想矯正)したが、幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、心に違うことをいくつも語り、心に違うことをいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」<br />
<br />
== 逸話 ==<br />
* [[清国]]最後の皇帝であり、その後[[満州国]]の皇帝となったため、中華人民共和国の建国後には一時戦犯となった[[愛新覚羅溥儀]]を、[[満州民族|満州族]]の代表として[[中国人民政治協商会議]]全国委員に推薦した。下層階級の出身者が多く、教育、教養程度が低く、伝統、古典文化に拙い者が多い当時の共産党幹部の中では、珍しく日本やフランス留学の経験もあり、[[士大夫]]の名家の出であった周恩来は廃位後の溥儀の不遇を哀れんでいたとも言われている。<br />
* 溥儀の弟の[[愛新覚羅溥傑]]に対しても親切であった。[[1954年]]に日本にいる溥傑の長女の[[愛新覚羅慧生|慧生]]からの手紙を読んで感動し、獄中の溥傑と日本にいる妻子([[嵯峨浩|浩]]と2人の娘)との文通を認めた。また、[[1960年]]に溥傑が釈放された際も、当時まだ日本と中華人民共和国の国交がなかったにもかかわらず、浩の訪中を歓迎した<ref>王效賢「[http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200510/tebie62.htm 溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮]」『人民中国』。</ref>。<br />
* 中華人民共和国建国以来、毛沢東との人間関係においては、軍政両面で実権を手に入れて[[軍師]]のような立場になろうとした野心家の[[林彪]]に対して、周は[[丞相]]のような古来の中華帝国の形式に則る「皇帝に従属する[[中国の宰相]]」という実直なスタンスを生涯貫き通した。1950年代からの第三世界との連携、1970年代に実現した国連加盟や日米との国交正常化の最大の功績者は周であるが、これらの首脳対話の場面においても周はあくまで毛沢東を中国サイドの主役として立て続けた。だが、毛は周を最後まで信用せず、林彪事件後は[[謀反]]を企んでいると思い込んでいた。周死去の報を聞いた毛沢東は、祝いの花火を打ち上げ上機嫌であった。<br />
* [[1939年]]に[[落馬]]事故に遭って以来、右腕が不自由になり、以後物を書くときは不自然な体勢になった。<br />
* 建国後北京の有名な料理店で店員間で起こった揉め事の仲介人をかって出ている。双方の言い分を聞いてから「どっちも悪いことがわかった」と言った。なぜかと尋ねる店員たちに対して「お前さんたち、お客さんに料理を出してあげていないじゃないか」と答えたという。<br />
*[[1964年]][[2月27日]]、[[セイロン]]訪問時に、周恩来を乗せた車が踏切を渡ろうとした時に停止信号を無視して突っ込んできた急行列車とあわや衝突しそうになった事がある。この時に周恩来の乗った車の一台前の車は列車と接触事故をおこした。そして周恩来を乗せた車は急ブレーキをかけて踏み切りの数メートル手前で停止し、その目の前を猛スピードで急行列車が通過して事なきを得た。セイロンはすぐに周恩来へ深く謝罪すると共に鉄道省の責任者を更迭した。<br />
*:<br />
*中国東北地区方正(ほうまさ)地区には、ソ連軍の満州進駐、日本の敗戦によって、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきて、ここで数千人もの人が虐殺された。当時総理だった総理周恩来の指示によって、これらの犠牲者を弔うために中国方正県政府に指示し「[[ファイル:方正地区日本人公墓A096229.jpg|サムネイル|右|方正地区日本人公墓]]方正地区日本人公墓」を作らせた。そして、あの文化大革命の時にこの「日本人公墓」も破壊されそうになったが、周恩来の「彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはならぬ」との指示と、地元住民の努力で破壊されずに済んだ。<br />
*1972年の国交正常化で田中使節団を迎える時、周恩来は新潟出身の田中首相、香川出身の大平外相、鹿児島出身の二階堂官房長官のために、軍楽隊に新潟の佐渡おけさ、香川の金比羅船々、鹿児島のおはら節を演奏させた。<br />
*田中角栄総理が北京を訪問する前、周恩来総理が田中総理についていろいろと調べるように部下に指示した時「田中角栄首相にはいろいろ女性問題がある」と週刊誌を集めて報告した部下がいた。周は「中国と日本が歴史的な和解をしようとしているんだ。そういう話は何の関係もない」と叱りつけたという。<br />
*日中国交正常化のため尽力していた日中覚書貿易事務所代表で当時日中唯一の窓口となっていた[[岡崎嘉平太]]と初めて会った時に周はこう言ったという。「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し、人民を傷つけ苦しめてきました。我々にはその深い恨みがあるのです、恨みがあるといえども、中国と日本には2000年にわたる『友好の歴史』があります。戦争による不幸な歴史は、わずか数十年に過ぎないのです。我々は恨みを忘れようと努力しています。これからは中日が力を合わせて、アジアを良くしていこうではありませんか」岡崎は周恩来の印象をこう語っている。「周総理と会っていると、偉い人と会って話しているような感じがしないんです。まったく、何十年来の友人と話しているような、そんな感じを醸す人でしたね」ある時、周恩来は岡崎に「歳」を尋ねた。すると、岡崎は自分よりも一つ年上だった。周「じゃあ、あなたが兄だ」。二人は兄、弟と呼び合うほどに、信頼し合うようになっていったという。<br />
*民間レベルでの日中貿易協定を結ばせた[[岡崎嘉平太]]の行動は日本国民や右翼団体の反発を招いた。息子の彬は父親について中国へ行き初めて周恩来と会った。その時、周恩来は静かに話しかけてきたという。「君のお父さんはね、たぶん自分のことを言わない。でも、私たち中国人は友のために生死をかけるような人を、本当に信頼するんだよ」「中国にいる私は、すごく安全だ。誰も私を殺そうとなどしない。でも、君のお父さんが日本に帰ると、ちょっと危ないんじゃないかな。それでも君のお父さんは、中日のために命を賭けてきたんだ。だから、私たちは信用しているんだよ」<br />
*日中国交正常化の際には田中角栄総理が北京を訪問する2日前、周恩来は[[岡崎嘉平太]]をもてなすために、食事会を開いた。「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。しかしその井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです」と言ったという。<br />
*[[犬食|犬肉料理]]をこよなく愛したとされる。一方で、周はもともと犬食を嫌っており(「戦争中、犬食好きな仲間によって周辺から集められた仔犬を使って出された犬肉料理に、周は怒って手を付けなかった」)、のちに[[金日成]]や[[ホー・チ・ミン]]を[[人民大会堂]]へ招き宴会を行った際、給仕された料理に犬肉が使われていると知らず「大変良い味(''很好,很好,味道不错呀!'')」と答えたことの言質をとられてこの逸話が広まったとの意見<ref>[http://www.chinanews.com/cul/2010/12-13/2716933.shtml 中国新聞社(チャイナニュース) 2010年12月13日記事]</ref>がある。<br />
<br />
== 雨中嵐山 ==<br />
[[ファイル:周恩来雨中嵐山碑.JPG|thumb|240px|嵐山公園にある雨中嵐山の詩碑]]<br />
周恩来が、日本留学時に[[京都]]の[[嵐山]]で失意のうちに作った「'''雨中嵐山'''」の[[詩]]を刻んだ[[石碑]]が、[[嵐山公園 (京都府)|嵐山公園]]([[亀山公園 (京都市)|亀山公園]])内にあり、現在では日中友好の[[シンボル]]、[[中国人]][[観光|観光客]]の観光スポットとなっており、中国[[要人]]が[[関西]]を訪問した際も大抵ここを訪問する。碑文は[[廖承志]]中日友好協会会長が、[[日中友好条約]]締結時の[[1978年]]に[[揮毫]]したものによる。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
==著書邦訳==<br />
*周恩来語録 秋元書房, 1972.<br />
*周恩来日本を語る [[米谷健一郎]]編. 実業之日本社, 1972.<br />
*周恩来・中国の内外政策 [[森下修一]]編訳. 中国経済新聞社, 1973.<br />
*周恩来選集 森下修一編訳. 中国経済新聞社, 1978.9.<br />
*[[矢吹晋]]編、鈴木博訳『周恩来「十九歳の東京日記」―1918.1.1~12.23』[[小学館文庫]],1999<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*金鐘編、松田州二訳『人間・周恩来 紅朝宰相の真実』([[原書房]]、2007) 33篇の評論集、香港で出版。<br />
*[[高文謙]]、[[上村幸治]]訳『周恩来秘録 党機密文書は語る (上下)』([[文藝春秋]]、2007/[[文春文庫]]、2010)<br />
*張佐良、早坂義征訳『周恩来・最後の十年 ある主治医の回想録』([[日本経済新聞出版社]] 1999)<br />
*ディック・ウィルソン、田中恭子・立花丈平訳『周恩来 不倒翁波瀾の生涯』([[時事通信社]] 1987)<br />
*金冲及主編、劉俊南・譚佐強訳『周恩来伝 1949-1976』(上下、[[岩波書店]]、2000)、オンデマンド版2013<br />
*金冲及主編、[[狭間直樹]]監訳『周恩来伝 1898-1949』(上中下、京都阿吽社、1992-93)<br />
*[[ハン・スーイン]]、川口洋・川口美樹子訳『長兄 周恩来の生涯』([[新潮社]]、1996)<br />
*[[矢吹晋]]『毛沢東と周恩来』([[講談社現代新書]]、1991)<br />
*[[鳥居民]]『周恩来と毛沢東 周恩来試論』([[草思社]] 1975)、オンデマンド版1999<br />
*[[毛里和子]]・[[増田弘]]監訳『周恩来 [[キッシンジャー]] 機密会談録』(岩波書店 2004)<br />
*[[日本放送協会|NHK]]取材班『周恩来の決断 日中国交正常化はこうして実現した』([[日本放送出版協会]] 1993)<br />
*[[ユン・チアン]]/[[ジョン・ハリディ|ジョン・ハリデイ]]、[[土屋京子]]訳『[[マオ 誰も知らなかった毛沢東]] (上下)』([[講談社]] 2005/講談社+α文庫 2016)<br />
*[[小倉和夫]]『パリの周恩来 中国革命家の西欧体験』([[中央公論新社|中央公論社]]〈中公叢書〉 1992)<br />
*周恩来記念出版刊行委員会編『日本人の中の周恩来』(里文出版、1991) 70名の文集。<br />
<br />
==関連文献==<br />
*周恩来と日本 苦悩から飛翔への青春 王永祥,高橋強編著 周恩来鄧穎超研究会訳. 白帝社, 2002.11.<br />
*毛沢東と周恩来 中国共産党をめぐる権力闘争「1930年~1945年」 トーマス・キャンペン [[杉田米行]]訳 三和書籍 2004.2.<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Wikiquote|:zh:周恩来|周恩来{{zh icon}}}}<br />
{{Commons&cat|Zhou_Enlai|Zhou_Enlai}}<br />
* [[愛新覚羅溥儀]]<br />
* [[愛新覚羅溥傑]]<br />
* [[エドガー・スノー]]<br />
* [[池田大作]]<br />
* [[LT貿易]]<br />
* [[カシミールプリンセス号爆破事件]]<br />
* [[吉野作造]] - 周恩来は吉野の「[[民本主義]]」に感動し、彼の家まで押し掛け面会を求めた。<br />
* [[松本亀次郎]] - 留学時、周恩来は松本の下で[[日本語]]を学んだ。<br />
* [[第一天安門事件]]<br />
* [[毛沢東の私生活]] - 周恩来も多く触れられている。<br />
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{| class="wikitable" style="margin:0 auto"<br />
|-<br />
! {{Flagicon|CHN}}[[中華人民共和国]]<br />
{{先代次代|[[国務院総理]]|[[1954年]] - [[1976年]]|政務院総理から移行|[[華国鋒]]}}<br />
{{先代次代|[[政務院総理]]|[[1949年]] - [[1954年]]|設置|国務院総理へ移行}}<br />
{{先代次代|[[中国人民政治協商会議|全国政治協商会議]]主席|[[1954年]] - [[1976年]]|[[毛沢東]]|[[トウ小平|鄧小平]]}}<br />
{{先代次代|[[中華人民共和国外交部|外交部長]]|[[1949年]] - [[1958年]]|設置|[[陳毅]]}}<br />
|-<br />
! [[File:Flag of the Chinese Communist Party.svg|25px]][[中国共産党]]<br />
{{先代次代|[[中国共産党中央委員会副主席|中央委員会副主席]]<br /><small>(党内序列2位、副主席筆頭)</small>|[[1973年]] - [[1976年]]|[[林彪]]<br/><small>(単独の副主席)</small>|[[華国鋒]]<br /><small>(第一副主席)</small>}}<br />
{{先代次代|[[中国共産党中央委員会副主席|中央委員会副主席]]|[[1956年]] - [[1966年]]<br/><small>[[劉少奇]]、周恩来、[[朱徳]]、<br/>[[陳雲]]、[[林彪]](1958年 - )</small>|設置|[[林彪]]<br/><small>(単独の副主席)</small>}}<br />
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{{中華人民共和国国務院総理}}<br />
{{Normdaten}}<br />
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{{デフォルトソート:しゆう おんらい}}<br />
[[Category:周恩来|*]]<br />
[[Category:中華民国の人物 し|ゆう おんらい]]<br />
[[Category:中華人民共和国の政治家]]<br />
[[Category:国務院総理]]<br />
[[Category:中華人民共和国の外交部長]]<br />
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[[Category:中国社会主義の人物]]<br />
[[Category:フリーメイソン]]<br />
[[Category:第二次世界大戦期の政治家]]<br />
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[[Category:文化大革命の人物]]<br />
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[[Category:黄埔軍官学校卒業生]]<br />
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