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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=222.10.11.169&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-17T15:40:30Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 上海クーデター 2017-10-26T07:53:07Z <p>222.10.11.169: /* 脚注 */</p> <hr /> <div>[[File:Communist purge.jpg|thumb|280px|上海クーデター時の共産党員たち]]<br /> &#039;&#039;&#039;上海クーデター&#039;&#039;&#039;(シャンハイクーデター)は、[[1927年]][[4月12日]]に[[中華民国]]において、[[北伐]]に呼応し第三次上海暴動を引き起こした武装労働者糾察隊が、右派国民革命軍による武装解除の命に応じず抵抗を試みたため、革命軍から武力行使を受けた事件およびその武力行使に対して抗議のためのデモを行った労働者・市民に対し革命軍が発砲・虐殺し、国民党左派・共産党系労働組合の解散を命じ総工会の建物を占拠した事件。&#039;&#039;&#039;四・一二事件&#039;&#039;&#039;とも言う。中国国民党は「清党」と称する一方、中国共産党は「四・一二反革命政変」、「四・一二惨案」と称す。検挙の過程で暴動を引き起こした多くの共産党党員と工場労働者が死傷した。<br /> <br /> 日本語版では国民党、共産党のどちらの立場にも立たず、日本でよく使われる用語として&#039;&#039;&#039;上海クーデター&#039;&#039;&#039;を用いる。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> {{Main|国共合作}}<br /> [[Image:Shanghai1920s.jpg|thumb|200px|1920年代の上海(九江路)]]<br /> [[Image:Chiang Kai-shek 1926.jpg|thumb|200px|1926年頃の蒋介石]]<br /> 1926年7月、[[国民革命軍]]は[[北伐]]を開始し、[[蒋介石]]を総司令に任命した。破竹の勢いの北伐軍は11月になると[[長江]]流域に達し、蒋介石の権威は強まった。国民党左派とソ連から派遣された政治顧問[[ミハイル・ボロディン|ボロディン]]は蒋介石の権威を弱めようと画策する。北伐軍の武漢の占領を受け、11月に広州の国民政府と国民党中央を武漢に移転することを決定する。党内左派重鎮とボロディンは12月に武漢に入り、党中央全体会議ではなく今後は党中央と政府の臨時連席会議を組織し、これが最高職権を行使すると宣言した。翌1927年1月1日、武漢国民政府が正式に開始された。左派とボロディンは右派抜きで3月に武漢で中央全体会議を開催し、左派に都合の良いように規約を改正して、蒋介石の権威を削ごうとした。この結果、政府・党の要職は左派で占められ、共産党員が初めて閣僚クラスのポストに就くなど、武漢国民政府内の共産党勢力の発言力が増した。<br /> <br /> 北伐に呼応して中国共産党は上海で3回にわたる武装暴動を計画した。1926年10月、1927年2月に主導した武装暴動は失敗に帰したが、3回目の武装暴動はそれに先立ち引き起こされたゼネストと連動し成功を収めた。共産党の周恩来などの指導の下、上海の労働者は2700人からなる武装工人糾察隊を組織した。東路軍を率いる[[白崇禧]]の上海入城直前の[[3月22日]]には、工人糾察隊は警察や守備隊に対して武装攻撃を行い、上海に自治政府を成立させたのであった。<br /> <br /> 二日後の3月24日に国民革命軍第二軍と第六軍は南京を占領した。この際、国民革命軍の兵士と暴徒が領事館や教会を襲撃し、外国人数人を殺傷した。[[南京事件 (1927年)|南京事件]]である。事件の一報を受けた蒋介石は、事件の真相の徹底調査を行い、自軍に襲撃事件の責任があるときは全責任を負い解決するとの声明を発した。蒋介石の認識では南京事件を引き起こしたのは第六軍の共産党員の兵士であった。また第二軍、第六軍の党代表は共産党員であった。中国共産党の台頭に不安を抱く欧米や資本家の団体である上海総商会は、[[3月26日]]に上海に入った蒋介石に対し、中国共産党を排除して早期の治安回復を要求した。蒋介石は「清党」を発動する為、租界における外国の支配は現状のままである事を保証しその見返りに、諸外国の援助を受けたのであった。<br /> <br /> == 事件の経過 ==<br /> [[Image:Lizhongren.jpg|right|150px|thumb|李宗仁]]<br /> 1927年[[4月2日]]、蒋介石は[[李宗仁]]、白崇禧、[[黄紹竑]]、[[李済深]]、[[張静江]]、[[呉稚暉]]、[[李石曾]]等を招き、上海で中国国民党中央監察委員会会議を招集した。会議の中で「共産党が国民党内部で共産党員と連結して、謀反する証拠がある」との発言があり、これを理由として検挙する案を提出し、広州政治分会主席の李済深はその意見に賛同した。そして会議で「清党原則」及び「清党委員会」を定め、反共清党準備工作が進行した。<br /> <br /> [[4月6日]]、蒋介石は軍楽隊を派遣し、「共同で戦闘に備えよう(共同備闘)」という錦の旗を掲げ、上海総工会工人糾察隊に送り、油断させる一方、同時に蒋介石は[[青幇]]、[[洪門]]の頭目である[[黄金栄]]、[[張嘯林]]、[[杜月笙]]等のところに顔を出し、右派団体「中華共進会」と「上海工界連合会」を組織し、上海総工会に対抗した。<br /> <br /> [[4月9日]]、蒋介石は淞滬戒厳司令部の成立を命令し、白崇禧に、[[周鳳岐]]を副司令にするよう任命させ、合わせて戦時戒厳条例12条を頒布した。同日、中央監察委員の[[鄧沢如]]、[[呉稚輝]]、黄紹竑、張静江、[[陳果夫]]等と連名で『護党救国通電』を発表し、武漢国民政府の容共政策を非難した。[[4月11日]]、蒋介石は各省に「一致して清党を実行せよ」と密令を出した。同日夜[[杜月笙]]は上海総工会会長[[汪寿華]]を誘い出して生き埋めにした。<br /> <br /> [[4月12日]]早朝、蒋介石の命を受けた[[国民革命軍]]第26軍は、武装工人糾察隊に対して武装解除を呼び掛けたが、これに応じなかったため強行突入し300人余が死傷した。<br /> <br /> 翌[[4月13日]]、上海総工会は労働者大会を開催し、蒋介石討伐を扇動した。大会の後に10万人余の労働者や学生が宝山路に行き道路を占拠した。国民党第26軍第二師団の周鳳岐は群衆に対し解散を命じたが、これに応じず抵抗を試みたため銃を発砲した。これにより100人余りが死亡し、負傷者はそれ以上の数であった。そして、蒋介石は上海特別市臨時政府、上海総工会及び共産党の組織一切全ての解散を命令し、共産党員及びその支持者を捜索し、1000人余を逮捕し、主要なメンバーは処刑された&lt;!--槍決--&gt;。[[4月15日|15日]]には、300人余が死亡し、500人余が逮捕され、5000人余が失踪した。共産党員の[[汪寿華]]、[[陳延年]]、[[趙世炎]]らが被害にあった。<br /> <br /> [[Image:Mao1927.jpg|thumb|left|150px|1927年頃の毛沢東]]<br /> これより後に、地方で清党が開始された。[[4月14日]]、李済深は[[広州市|広州]]の陸海軍の将校を主宰しており、会議を開き共産党員の粛清(「清共」)を決め、二日目には、広州全域に大捜索を行った。[[廈門市|廈門]]、[[福州市|福州]]、[[寧波市|寧波]]、[[南京市|南京]]、[[杭州市|杭州]]、[[長沙]]等でも、謀反の罪で共産党員が処刑された。共産党員は「[[白色テロ]]」と称した。<br /> <br /> この事件の後、武漢にて中国共産党と中国国民党左派は蒋介石討伐運動を発動した。[[4月20日]]、中共中央は「蒋介石は既に国民革命の敵へと変化した」と発表し、群衆に、「新しい軍閥から寝返り、軍事専制を打倒する」号令をかけ、戦闘準備に入った。[[4月22日]]、[[宋慶齢]]、[[鄧演達]]、[[何香凝]]、譚平山、[[呉玉章]]、[[林祖涵]]、[[毛沢東]]ら39人は国民党中央執監委員、候補執監委名義で連名で蒋介石打倒を通電し、全国の民衆及び革命同志に、「(孫文)総理の叛徒、国民党の腐敗分子(敗類)、民衆に対し有害な人物(蟊賊)である蒋介石の打倒」を呼びかけた。<br /> <br /> == 結果 ==<br /> [[画像:Chen.jpg|thumb|150px|right|陳独秀]]<br /> [[4月18日]]、蒋介石は南京にて国民政府を樹立し(南京国民政府)、共産党を受け入れている汪精衛(武漢国民政府)と対立した([[寧漢分裂]])。<br /> <br /> だが、1927年7月、汪精衛率いる武漢国民政府は、ソ連から派遣されたミハイル・ボロディンが国民政府を分裂させて中国共産党に政権を奪取させることを企図していることを知った。このため武漢国民政府は共産党の言論取り締まりを決定し、「共産取締議案」を通過させ、ミハイル・ボロディン等ソ連から来た顧問を罷免した。その後、武漢では[[7月15日]]に清党が開始され、[[第一次国共合作]]は7月中旬に完全に崩壊した。<br /> <br /> また、上海クーデターは中国共産党に大きなダメージを与えた。そして、中国共産党は蒋介石の武力による清党に対して全くの準備がないということを認識させられた。上海クーデターの後、[[8月7日]]、漢口で会議が開催され、共産党内部から[[陳独秀]]らが排斥され、新たに[[瞿秋白]]らが指導者となり、中国国民党への武力闘争が決議された([[八七会議]])。会議に前後して、[[8月1日]]、[[朱徳]]が率いる中国共産党と中国国民党左派は南昌で暴動を起こした([[南昌蜂起]])が失敗に終わった。また、毛沢東は1927年9月、[[湖南省]]と[[江西省]]の境界で少数の農民を率いて蜂起した([[秋収蜂起]])が失敗に終わり、その後[[井岡山]]を拠点に抵抗する端緒となった。<br /> <br /> 一方、蒋介石の軍功が武漢・南京の両政府の合流への障壁となり、また北伐軍が[[徐州市|徐州]]で敗戦したことも相俟って、1927年8月蒋介石は一旦権力の座から退き、翌9月、武漢国民政府は南京国民政府に合流した。<br /> <br /> その後、同年[[11月17日]]国民党内部の政変である[[広州張黄事変]]([[:zh:广州张黄事变|zh]])が勃発した。これにより蒋介石は政権に復帰し大権を掌握、そして、翌[[1928年]]には[[北伐]]を完成させ数十年に渡る中国の統治を開始したのであったが、この過程で李宗仁、白崇禧率いる[[新広西派]]の勢力が国民党内で拡大した為、蒋介石はかつての味方と政治闘争を繰り広げることになった。<br /> <br /> 尚、上海クーデターで蒋介石を助けた杜月笙の事業は順調に発展し、日中戦争収束後には上海市長になる直前にまでになったが、[[1949年]][[国共内戦]]で中国国民党が敗北し[[台湾]]に逃亡すると、上海クーデターにおいて中国共産党を迫害したことによる訴追を避ける為、杜月笙は香港に逃亡し、[[1951年]]に香港で死去した。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 菊池秀明(2005)『中国の歴史 10 ラストエンペラーと近代中国』講談社 ISBN 4-06-274060-5<br /> *サンケイ新聞社『[[蒋介石秘録]](上):改訂特装版』(サンケイ出版、1985年)<br /> <br /> == 関連作品 ==<br /> *[[ソ連]]の映画『[[上海ドキュメント]]』(Шанхайский документ,Shangkhaiskii Dokument,[http://www.youtube.com/watch?v=2mOeJjON_iI Shanghai Document],[[ヤコフ・ブリオフ]]監督 1928年)ソ連側の立場から蒋介石を糾弾するプロパガンダ映画。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> {{中華民国の軍閥}}<br /> {{DEFAULTSORT:しやんはいくうてたあ}}<br /> [[Category:中華民国の政治]]<br /> [[Category:中国社会主義]]<br /> [[Category:反共主義]]<br /> [[Category:中国による大量虐殺]]<br /> [[Category:中国における大量虐殺]]<br /> [[Category:上海の歴史|くうてたあ]]<br /> [[Category:国共内戦]]<br /> [[Category:中国におけるクーデター]]<br /> [[Category:1927年の中国]]<br /> [[Category:1927年の戦闘]]<br /> [[Category:蒋介石]]<br /> [[Category:1927年4月]]</div> 222.10.11.169 四・一六事件 2017-10-11T09:24:13Z <p>222.10.11.169: /* 概要 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2014年9月19日 (金) 07:46 (UTC)}}<br /> &#039;&#039;&#039;四・一六事件&#039;&#039;&#039;(よんいちろくじけん)は[[1929年]][[4月16日]]に行われた[[日本共産党]]([[第二次共産党 (日本)|第二次共産党]])に対する検挙事件のことを指すが、1929年(昭和4年)に行われた一連の検挙事件を総合して言うこともある。<br /> <br /> ==概要==<br /> 1928年に起きた[[三・一五事件]]以後、日本共産党は検挙を逃れた[[渡辺政之輔]]、[[鍋山貞親]]、[[佐野学]]、[[市川正一 (社会運動家)|市川正一]]ら4人の中央常任委員を中心として党の再建を図った。上海やモスクワに中央委員を派遣し、国内でも早々と活動を再開した。しかし、1929年3月18日に東京地方オルガナイザー菊池克己(戦後間もなく変死)が逮捕されて猛烈な拷問によって白状させられ、居宅の家宅捜索により党の組織文書が押収された。そこから党中央直属のオルガナイザー杉本文雄の逮捕に及び、党中央への波及を余儀なくされ、3月21日には中央事務局メンバー[[砂間一良]]が、[[3月28日]]には中央事務局長格の間庭末吉(のちに除名されスパイの嫌疑をかけられたまま獄中で変死)が検挙された。間庭が党員名簿を持っていたことから、4月16日に共産党員の全国1道3府24県にわたる一斉検挙が行われた。その後も検挙は続けられ、1929年で4942人が[[治安維持法]]違反で[[逮捕]]された。<br /> <br /> この検挙により共産党は壊滅的な打撃を受けたが、[[1930年代]]([[昭和]]初期)のいわゆる「[[非常時共産党]]」時代([[モスクワ]]帰りの若手活動家が主導した)に大衆組織が拡大し、党勢を一時回復することができた。しかし党指導部に潜入した[[スパイM]]の挑発的方針により[[1932年]](昭和7年)11月の[[熱海事件]]で党幹部が一網打尽にされ、また獄中指導部の[[佐野学]]・[[鍋山貞親]]の[[共同被告同志に告ぐる書|共同声明]]に始まる組織的[[転向]]を通じ多くの党員が組織から離脱、党としては壊滅状態になった。<br /> <br /> {{戦前の日本共産党}}<br /> {{Japanese-history-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:よんいちろくしけん}}<br /> [[Category:戦前の日本共産党]]<br /> [[Category:戦前・戦中の言論弾圧]]<br /> [[Category:日本共産党の事件]]<br /> [[Category:昭和時代戦前の事件]]<br /> [[Category:1929年の日本]]<br /> [[Category:1929年4月]]</div> 222.10.11.169 ウォール街大暴落 (1929年) 2017-10-11T09:06:52Z <p>222.10.11.169: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>[[File:Crowd outside nyse.jpg|thumb|1929年の大暴落の後で[[ウォール街]]に集まる群衆]]<br /> &#039;&#039;&#039;ウォール街大暴落&#039;&#039;&#039;(ウォールがいだいぼうらく、Wall Street Crash&lt;ref name=&quot;timesonline1&quot;&gt;[http://business.timesonline.co.uk/tol/business/industry_sectors/utilities/article553657.ece Pyramid structures brought down by Wall Street Crash] &#039;&#039;The Times&#039;&#039;&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.timesonline.co.uk/tol/sport/football/premier_league/liverpool/article584120.ece Role of &#039;new Tinkerman&#039; tailor-made for Benitez] &#039;&#039;The Times&#039;&#039;&lt;/ref&gt;)は、[[1929年]]に発生した[[株価大暴落]]である。単に&#039;&#039;&#039;株価大暴落&#039;&#039;&#039; (Stock Market Crash)、&#039;&#039;&#039;大暴落&#039;&#039;&#039; (Great Crash) ともいう。[[アメリカ合衆国の経済史#世界恐慌: 1929年-1941年|ペコラ委員会]]によって原因が調査された。一般には[[世界恐慌]]のきっかけとされている&lt;ref&gt;有斐閣『経済辞典』p.414&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 概説 ==<br /> この株式の崩壊を表すために、「ブラックサーズデー」、続いて「ブラックフライデー」、「ブラックマンデー」および「ブラックチューズデー」の4つの段階が通常使われている。大暴落は1日の出来事ではなかったので、この4つの段階はすべて適切である。最初の暴落は[[1929年]][[10月24日]]([[木曜日]])に起こったが、壊滅的な下落は[[10月28日|28日]]([[月曜日]])と同[[10月29日|29日]]([[火曜日]])に起こり、[[アメリカ合衆国]]と世界に広がる前例の無い、また長期にわたる経済不況の警鐘と始まりに急展開した。株価大暴落は1か月間続いた。<br /> <br /> 経済学者や歴史家達は、この株価大暴落が、その後の経済、社会および政治の出来事にどのような役割を演じたかについて意見の一致をみていない。「[[エコノミスト]]」誌は[[1998年]]の記事で、「手短に言えば、世界恐慌は株価大暴落と共に始まったのではない」と主張した&lt;ref&gt;[http://www.economist.com/finance/displaystory.cfm?story_id=E1_TGVSDT Economics focus: The Great Depression] &#039;&#039;The Economist&#039;&#039;&lt;/ref&gt;。さらに大暴落の当時に、世界恐慌が始まったのかどうかは明らかではない。1929年[[11月23日]]、「エコノミスト」誌は、「大変深刻な株価大暴落が工業生産の大半が健全でありバランスが取れていたときに工業に深刻な後退を生むだろうか?……専門家は、幾らかの後退はあったに違いないが、それが長引くものか、全体的産業不況を生み出す期間まで続く必要があったかを証明する十分な証拠が無いことに同意している。」と問いかけた。しかし、「エコノミスト」誌は、「幾つかの銀行は疑いも無く破綻し、また今後も予測されている。このような状況下で、銀行は商業と産業の資金を繋ぐ余力があるだろうか?ないだろうか?銀行の位置付けは疑いも無くこの状況下のキーであり、何が起ころうとしているかは霧が晴れるまで適切に評価できるはずがない」とも警告した&lt;ref&gt;[http://www.economist.com/finance/displaystory.cfm?story_id=12327393 Reactions of the Wall Street slump] &#039;&#039;The Economist&#039;&#039;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1929年10月の大暴落は、アメリカ合衆国における不動産価格の低落時期(ピークは[[1925年]]だった)に来ており、[[先進国|工業化諸国]]における[[景気後退|経済後退]]時期である世界恐慌に導く一連の出来事の始まりに近い時であった。<br /> <br /> == 大暴落以前 ==<br /> 大崩壊の当時、[[ニューヨーク]]市は世界有数の大都市となり、その[[ウォール街]]は世界をリードする[[金融センター]]の一つになった。[[ニューヨーク証券取引所]]は世界でも最大級の株式取引所だった。<br /> <br /> 大暴落に先立つ10年間、すなわち[[狂騒の20年代]]&lt;ref&gt;[http://business.timesonline.co.uk/tol/business/economics/article3602690.ece America gets depressed by thoughts of 1929 revisited] &#039;&#039;The Sunday Times&#039;&#039;&lt;/ref&gt;は、都市における富と過剰の時代であり、投機の危険性について警告があったが、多くの者は市場が高い価格水準を維持できるものと信じた。1920年代半ばから上昇を続けたダウ工業株平均は、[[1928年]]から1929年にかけて急速に上昇し、アメリカの一部に株投資ブームを起こしていた。1929年の夏以降には工業指標は下向きはじめ、株高を危ぶむ声もあったものの、ウォール街や経済学者の中にはこれを一蹴する意見もあった。大暴落の直前、経済学者[[アーヴィング・フィッシャー]]は、「株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した」という有名な予言を行っていた&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.cfo.com/article.cfm/9059304/c_9064230 |title=The Bright Side of Bubbles - CFO.com |publisher=Cfo.com |author=Edward Teach - CFO Magazine |date=May 1, 2007 |accessdate=2008-10-01}}&lt;/ref&gt;。しかし、大きな強気相場の中での楽観論と金融上の利益は、ニューヨーク証券取引所の株価が崩落したブラックサーズデーに雲散霧消した。この日に落ちた[[株価]]はさらにまるまる1か月間前例のない率で落ち続けた&lt;ref&gt;{{Cite book<br /> | last = Hakim<br /> | first = Joy<br /> | authorlink = <br /> | coauthors = <br /> | title = A History of Us: War, Peace and all that Jazz<br /> | publisher = Oxford University Press<br /> | date = 1995<br /> | location = New York<br /> | pages = <br /> | url = <br /> | doi = <br /> | id = <br /> | isbn = 0-19-509514-6 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ブラックチューズデーまでの数日間、市場は非常に不安定だった。売り先行と大量取引の間に短時間価格上昇と快復の期間がちりばめられた。経済学者で著作家のジュード・ワニスキーは後に、当時[[アメリカ合衆国議会]]で論じられていた[[スムート・ホーリー法]]の成立見込みとこれらの変動を関連付けた&lt;ref name=&quot;wanniski&quot;&gt;Jude Wanniski &#039;&#039;The Way the World Works&#039;&#039; ISBN 0895263440, 1978 Gateway Editions&lt;/ref&gt;。大暴落後、[[ダウ平均株価|ダウ工業株平均]]は[[1930年]]初期に回復したが、反転して再度暴落し、[[1932年]]の大きな下げ相場の中で最安値に達した。1932年[[7月8日]]、ダウ工業株平均は20世紀始まって以来の最安値となり、[[1954年]][[11月23日]]まで1929年に達した水準まで戻ることはなかった&lt;ref name=&quot;yahoo&quot;&gt;[http://finance.yahoo.com/q/ta?s=%5EDJI&amp;t=my&amp;l=on&amp;z=l&amp;q=l&amp;p=&amp;a=&amp;c= DJIA 1929 to Present] &#039;&#039;Yahoo! Finance&#039;&#039;&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Pass 1929 peak&quot;&gt;&quot;U.S. Industrial Stocks Pass 1929 Peak&quot; &#039;&#039;The Times&#039;&#039; 24 November 1954, p. 12.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{Quotation|1929年央に株を購入し持ち続けていた者は誰でも、株価が回復するまでにその成人してからの人生の大半を費やすことになった。|リチャード・M・サルスマン&lt;ref name=&quot;salsman&quot; /&gt;}}<br /> <br /> == 経過 ==<br /> [[File:1930-67B.png|right|thumb|300px|大暴落直後の[[ニューヨーク証券取引所]]の[[立ち会い取引]]]]<br /> ダウ工業株平均が6年間上がり続けて当初の5倍になり、1929年[[9月3日]]に最高値381.17を付けた後で&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.pbs.org/wgbh/amex/crash/timeline/timeline2.html|title=Timeline: A selected Wall Street chronology|publisher=[[PBS]]|accessdate=2008-09-30}}&lt;/ref&gt;、市場は1か月間急降下し、下げ初めから見れば17%下落した。<br /> <br /> 株価はその後の1週間以上にわたって下げ幅の半分を回復したが、その直後にまた下落するだけだった。下げ基調は加速し、大暴落初日となった1929年10月24日の、いわゆるブラックサーズデーを迎えた。その日は当時の記録破りとなる1,290万株が取引された。<br /> <br /> 同日(24日)13時、ウォール街の幾人かの指導的銀行家が取引所での恐慌と混乱に対する解決策を見つけるために落ち合った&lt;ref&gt;&#039;&#039;The Great Depression&#039;&#039;, by Robert Goldston, pages 39-40&lt;/ref&gt;。この会合には[[JPモルガン・チェース|モルガン銀行]]の頭取代行トマス・W・ラモン、チェイス国定銀行頭取のアルバート・ウィギン、および[[シティバンク、エヌ・エイ|国定ニューヨーク・シティバンク]]社長のチャールズ・E・ミッチェルが出ていた。彼らは取引所の副会頭リチャード・ホイットニーを彼らのために働く者として選出した。ホイットニーはその背後に控えた銀行家達の財務力をもとに、市場価格よりもかなり高い価格で[[USスチール]]株を大量に購入する注文を出した。トレーダー達が見守る中で、ホイットニーは続いて他の[[ブルーチップ]](優良株)銘柄に同じような買い注文を出した。この操作は[[1907年恐慌|1907年の恐慌]]を終わらせた戦術に類似しており、その日の崩落を止めることに成功した。しかし、この時に一息ついたものの一時的なものに過ぎなかった。<br /> <br /> 市場が休みの週末、ウォール街のパニックがアメリカ合衆国中の新聞で報道された。週明けの28日(月曜日)、最初の「ブラックマンデー」&lt;ref name=&quot;blogs1&quot;&gt;[http://blogs.wsj.com/deals/2008/09/16/the-panic-of-2008-what-do-we-name-the-crisis/?mod=relevancy The Panic of 2008? What Do We Name the Crisis?] &#039;&#039;The Wall Street Journal&#039;&#039;&lt;/ref&gt;にはより多くの投資家が市場から引き上げ、その日のダウ工業株平均は13%下落するという記録的なものになり、再び大規模な株価崩壊が起こった。翌29日(火曜日)、壊滅的な株価崩壊が起こった「ブラックチューズデー」には約1,600万株が取引された&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.nyse.com/about/history/timeline_trading.html |title=NYSE, New York Stock Exchange &gt; About Us &gt; History &gt; Timeline &gt; Timeline |publisher=Nyse.com |date= |accessdate=2008-10-01}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ref1&quot;&gt;{{Cite web|url=http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=94721470 |title=History&#039;s Advice During A Panic? Don&#039;t Panic : NPR |publisher=Npr.org |author=Linton Weeks |date= |accessdate=2008-10-01}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.pbs.org/wgbh/amex/crash/timeline/timeline2.html |title=American Experience &amp;#124; The Crash of 1929 &amp;#124; Timeline &amp;#124; PBS |publisher=Pbs.org |date= |accessdate=2008-10-01}}&lt;/ref&gt;。この日の取引高は[[1968年]]に破られるまで40年間近くも最高記録となっていた&lt;ref name=&quot;ref1&quot;/&gt;。著作家のリチャード・M・サルスマンは、[[ハーバート・フーヴァー]]大統領が懸案のスムート・ホーリー法案に拒否権を発動しないという噂が飛び交っており29日に株価は更に暴落したと記した&lt;ref name=&quot;salsman&quot;&gt;Richard Salesman, Richard M. &quot;The Cause and Consequences of the Great Depression, Part 1: What Made the Roaring &#039;20s Roar&quot; in &#039;&#039;The Intellectual Activist, &#039;&#039;ISSN 0730-2355, June, 2004, p. 16. Emphasis original.&lt;/ref&gt;。[[ゼネラルモーターズ]]の創業者[[ウィリアム・C・デュラント]]はロックフェラー家の家族や他の金融界の巨人達と一緒になって、大衆に市場における彼らの自信を示すために大量の株式を買い支えたが、その努力も崩壊を止めることはできなかった。その日にダウ工業株平均はさらに12%下落した。ティッカーテープ機(証券市場の情報を電信網によって遠隔地に伝える機械)はその日の19時45分ころまで止まらなかった。市場はその日だけで140億ドルを失い、1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、[[第一次世界大戦]]でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多いものだった&lt;ref name=&quot;pbs&quot;&gt;[http://www.pbs.org/wnet/newyork/ pbs.org] &#039;&#039;New York: A Documentary Film&#039;&#039;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ダウ・ジョーンズ工業株平均&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://online.wsj.com/mdc/public/page/2_3047-djia_alltime.html|accessdate=2008-10-14|title=Historical Index Data &amp;ndash; Market Data Center|publisher=&#039;&#039;[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]&#039;&#039;}}&lt;/ref&gt;<br /> !日付!!下げ幅!!下落率!!終値<br /> |-<br /> |[[1929年]][[10月28日]]||-38.33||-12.82||260.64<br /> |-<br /> |1929年[[10月29日]]||-30.57||-11.73||230.07<br /> |}<br /> <br /> 一時的な底値は[[11月13日]]のことであり、ダウ工業株平均は198.60で終わった。市場はこの時点から数か月間回復し、[[1930年]][[4月17日]]には294.07という2番目の高値を付けた(いわゆる[[デッド・キャット・バウンス]])。市場は[[1931年]]4月に着実に下げ始め、1932年[[7月8日]]にダウ工業株平均が41.22を付けるまで止まらず、最高値と比べると89%の下落という衝撃的なものになった。これは[[19世紀]]に市場が始まって以来の最安値だった&lt;ref name=&quot;Liquid Markets&quot;&gt;[http://www.liquidmarkets.com/?name=djia Liquid Markets]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 経済指標 ==<br /> [[File:1929 wall street crash graph.svg|lang=ja|right|thumb|350px|[[ダウ平均株価|ダウ工業株平均]]の推移、1928年-1930年]]<br /> [[1920年代]]後半に続いた[[投機]]ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金までするという状況下で市場崩壊が起こった。1929年8月までに株式仲介人達は小資本投資家達が買おうとしている株の額面価格の3分の2以上を日常的に貸していた。85億ドル以上が貸し出しとなり&lt;ref&gt;{{Cite web |url=http://www.ft.com/cms/s/0/7173bb6a-552a-11dd-ae9c-000077b07658.html |title=Crashes, Bangs &amp; Wallops |publisher=[[フィナンシャル・タイムズ]] |accessdate=2008-09-30 |quote=20世紀への変わり目では、株式市場への投機は専門家に限られたものだったが、1920年代では何百万人もの「普通のアメリカ人」がニューヨーク証券取引所で投資していた。1929年8月までに株式仲介人達は小資本投資家達が買おうとしている株の額面価格の3分の2以上を信用取引で貸していた。85億ドル以上が貸し出された。}}&lt;/ref&gt;、この総額はアメリカ合衆国で流通している貨幣総額を上回っていた&lt;ref name=&quot;pbs&quot;/&gt;。上がり続ける株価がより多くの人々に投資を促すことになり、人々は株価がさらに上がることを期待した。投機によってさらに株価上昇を加速させ、[[バブル経済]]を作り出した。[[スタンダード&amp;プアーズ|スタンダード・アンド・プアーズ]]評価株の平均[[株価収益率]]は1929年9月で32.6であり&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://press.princeton.edu/chapters/s7922.html |title=Irrational Exuberance, Second Edition |accessdate=2007-02-03 |last=Shiller |first=Robert |date=2005-03-17 |publisher=Princeton University Press }}&lt;/ref&gt;、明らかに歴史的な標準より高かった。経済専門家の大半はこのできごとを近代経済史の中で最も劇的なことと見ていた。<br /> <br /> 1929年10月24日(ダウ工業株平均は9月3日に最高値381.17を付けたばかりだった)、市場は遂に崩壊し、恐慌的な売りが始まった。1931年、[[アメリカ合衆国上院]]にペコラ委員会が創設され、崩壊の原因を調査することになった。アメリカ合衆国議会は[[1933年]]に[[グラス・スティーガル法]]を成立させ、預金と[[融資|貸付]]を取り扱う[[市中銀行|商業銀行]]と、[[株式]]、[[債券]]など[[有価証券]]の引受、発行および配布を行う[[投資銀行]]との分離を決めた。<br /> <br /> 1929年の大暴落を教訓として、世界中の株式市場は急速な下落の際には一時的に取引を停止する手段を決め、1929年の時のような恐慌的売却を防止すると主張した。しかし、半世紀後の[[1987年]][[10月19日]]の[[ブラックマンデー]]では、1日だけの暴落ではあったが1929年の大暴落よりはるかに大きな株価暴落となり、ダウ工業株平均は22.6%下落した&lt;ref name=&quot;blogs1&quot;/&gt;(市場はこのあと急速に回復し、わずか2日後には1933年以来となる1日での上昇幅を記録している)。<br /> <br /> == 大暴落は大恐慌に影響したか ==<br /> 1929年の大暴落と世界恐慌は、20世紀の「最大の財政危機」だったといえる&lt;ref&gt;[http://www.washingtontimes.com/news/2008/aug/11/paulson-affirms-bush-assessment/ Paulson affirms Bush assessment] &#039;&#039;The Washington Times&#039;&#039;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1929年10月の恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴として機能した&lt;ref name=&quot;nytimes1&quot;&gt;{{Cite news |first=Albert |last=Scardino |authorlink= |coauthors= |title=The Market Turmoil: Past lessons, present advice; Did &#039;29 Crash Spark The Depression? |url=http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B0DE4DC1F3BF932A15753C1A961948260 |work=New York Times |publisher= |date=1987-10-21 |accessdate= }}&lt;/ref&gt;。{{要出典|範囲=1929年の株価大暴落は不安定な方向感覚の喪失とない合わさった恐怖を起こしたが、その衝撃は否定する心とともに急速に麻痺し、役人も大衆も妄想を抱いた|date=2017年5月}}」{{要出典|範囲=1929年10月24日と29日の株価暴落は、...[[日本]]を除き全ての金融市場で事実上瞬間的なものだった|date=2017年5月}}。ウォール街の大暴落はアメリカ合衆国と世界の経済に大きな衝撃を与え、その直後から現在まで歴史学、経済学および政治学の分野で激しい論争の種となってきた。持ち株会社による悪用が1929年のウォール街の大暴落とそれに続く世界恐慌に繋がったと考える人々がいる&lt;ref name=&quot;timesonline1&quot;/&gt;。多くの人々は株式市場というリスクあるものに投資することにあまりに熱心だった商業銀行の崩壊を非難してきた&lt;ref&gt;[http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=94894707 Death of the Brokerage: The Future of Wall Street] National Public Radio&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1929年の暴落は狂騒の20年代を震撼させ終わらせた&lt;ref&gt;[http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article4795052.ece Kaboom!...and bust. The crash of 2008] &#039;&#039;The Times&#039;&#039;&lt;/ref&gt;。経済史家チャールズ・キンドルバーガーによって暫定的に表現されたように、1929年には効果的に存在する最後の頼みの綱となる貸し手が居らず、もしそれが存在して適切に行動しておれば、金融危機の後に付いてくる景気後退の期間を短縮するキーになったであろう&lt;ref name=&quot;ref2&quot;&gt;[http://www.ft.com/cms/s/0/7173bb6a-552a-11dd-ae9c-000077b07658.html Crashes, Bangs &amp; Wallops] &#039;&#039;Financial Times&#039;&#039;&lt;/ref&gt;。この大暴落はアメリカ合衆国にとって広範に拡大し長期間続くことになる一連の経過の始まりを記した。<br /> <br /> 大きな問題は1929年の大暴落が世界恐慌を引き起こしたのか&lt;ref name=&quot;nytimes2&quot;&gt;[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B0DE4DC1F3BF932A15753C1A961948260&amp;sec=&amp;spon=&amp;pagewanted=2 The Market Turmoil: Past lessons, present advice; Did &#039;29 Crash Spark The Depression?] &#039;&#039;The New York Times&#039;&#039;&lt;/ref&gt;、あるいは信用取引が加速したバブル経済の破綻と単に時期が一致しただけか、ということである。株価の下落は[[倒産]]や、事業閉鎖、労働者の首切りなど経済不況となることを含み、厳しい[[マクロ経済学|マクロ経済]]的困難さを引き起こした。その結果として起こった失業率の上昇や不況は大暴落の直接の結果であると見られているが、不況に繋がった単一の出来事では決してない。その後に起きた出来事に最大級の影響を与えたと見られるのが通常である。それ故に、ウォール街の大暴落は世界恐慌を始めさせた経済の下降線を報せるものとして広く認められている。<br /> <br /> 本当かどうかは別として、その後の経過はほとんどあらゆる人々にとって深刻なものだった。学会の専門家の大半は大暴落のある1面には同意している。すなわち、それは1日で巨万の富を消失させ、即座に消費者の購買意欲を削いだことである&lt;ref name=&quot;nytimes2&quot;/&gt;。このことで世界中で合衆国正貨(すなわちドル)の取り付けを起こし、[[連邦準備制度]]は利率を上げて最悪の事態にせざるを得なかった。4,000ほどの貸し手が最終的に追い詰められた。また、直近の約定価格を上回る水準でなければ空売りできないこととするアップティックルール&lt;ref&gt;[http://www.ft.com/cms/s/0/0e317d72-86ac-11dd-959e-0000779fd18c.html Practice has plenty of historical precedents - Financial Times]&lt;/ref&gt;が、1929年の大暴落後に執行され、売り手相場では空売りして株価を下げることを防止するようになった&lt;ref&gt;[http://www.ft.com/cms/s/0/0362e760-8b24-11dd-b634-0000779fd18c,s01=1.html Funds want ‘uptick’ rule back] &#039;&#039;Financial Times&#039;&#039;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 多くの学会人は1929年の大暴落を一時的活況の新しい理論の一部である歴史プロセスの部分として見ている。[[ヨーゼフ・シュンペーター]]や[[ニコライ・コンドラチエフ]]のような経済学者に拠れば、この大暴落は単に[[景気循環]]と呼ばれる継続するプロセスで起こったひとつの歴史的事件に過ぎないとしている。大暴落の影響は単に景気循環が次のレベルに進行する速度を速めたのだと言っている。<br /> <br /> 一方、[[ミルトン・フリードマン]]はアンナ・シュワルツとの共著、『アメリカ合衆国の金融史』で、「大不況」を深刻にしたのは景気循環の下降線、保護貿易主義あるいは1929年の株価大暴落ではなかったという主張を行っている。その代わりに国を深刻な不況に陥れたのは、1930年から1933年に続いた3波の恐慌の間に起きた金融システムの崩壊だった、と主張している&lt;ref&gt;[http://www.washingtontimes.com/news/2008/may/12/panic-control/ Panic control] &#039;&#039;The Washington Times&#039;&#039;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * Bierman, Harold. &quot;The 1929 Stock Market Crash&quot;. EH.Net Encyclopedia, edited by Robert Whaples. August 11, 2004. URL http://eh.net/encyclopedia/article/Bierman.Crash<br /> * Brooks, John.(1969). &#039;&#039;Once in Golconda: A True Drama of Wall Street 1920-1938&#039;&#039;. New York: Harper &amp; Row. ISBN 0-393-01375-8.<br /> * Galbraith, John Kenneth.(1954). &#039;&#039;The Great Crash: 1929&#039;&#039;. Boston: Houghton Mifflin. ISBN 0-395-85999-9.<br /> ** [[ジョン・ケネス・ガルブレイス]](著)、村井章子(翻訳) 『大暴落1929』 日経BPクラシックス ISBN 978-4822247010<br /> * Klein, Maury.(2001). &#039;&#039;Rainbow&#039;s End: The Crash of 1929&#039;&#039;. New York: Oxford University Press. ISBN 0-195-13516-4.<br /> * Klingaman, William K.(1989). &#039;&#039;1929: The Year of the Great Crash&#039;&#039;. New York: Harper &amp; Row. ISBN 0-060-16081-0.<br /> * Rothbard, Murray N. [http://mises.org/rothbard/agd.pdf &quot;America&#039;s Great Depression&quot;] <br /> * Salsman, Richard M. “The Cause and Consequences of the Great Depression” in &#039;&#039;The Intellectual Activist&#039;&#039;, {{ISSN|0730-2355}}.<br /> ** “Part 1: What Made the Roaring ’20s Roar”, June, 2004, pp. 16?24.<br /> ** “Part 2: Hoover’s Progressive Assault on Business”, July, 2004, pp. 10?20.<br /> ** “Part 3: Roosevelt&#039;s Raw Deal”, August, 2004, pp. 9?20.<br /> ** “Part 4: Freedom and Prosperity”, January, 2005, pp. 14?23.<br /> * Shachtman, Tom.(1979). &#039;&#039;The Day America Crashed&#039;&#039;. New York: G.P. Putnam. ISBN 0-399-11613-3.<br /> * Thomas, Gordon, and Max Morgan-Witts.(1979). &#039;&#039;The Day the Bubble Burst: A Social History of the Wall Street Crash of 1929&#039;&#039;. Garden City, NY: Doubleday. ISBN 0-385-14370-2.<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ホンジュラスの経済]]<br /> * [[昭和恐慌]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:うおおるかいたいほうらく1929}}<br /> [[Category:株式市場]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の経済 (1918年-1945年)]]<br /> [[Category:20世紀の経済史]]<br /> [[Category:ニューヨーク市の歴史]]<br /> [[Category:ウォール街|たいほうらく1929]]<br /> [[Category:1929年のアメリカ合衆国]]<br /> [[Category:1929年10月]]</div> 222.10.11.169 嘆きの壁事件 2017-10-11T07:16:59Z <p>222.10.11.169: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>[[File:Jewish house destroyed in riots, Motza 1929.jpg|250px|thumb|暴動に因る焼打ちに遭ったユダヤ人の家]]<br /> [[Image:BritishMandatePalestine1920.png|thumb|right|事件当時のパレスチナ領土]]<br /> &#039;&#039;&#039;嘆きの壁事件&#039;&#039;&#039;(なげきのかべじけん)は、[[1929年]]8月に[[イギリス委任統治領パレスチナ]]の[[エルサレム]]にある[[嘆きの壁]]で発生した[[アラブ人]]と[[ユダヤ人]]の武力衝突。この事件がきっかけとなって約1週間の間に[[ヘブロン]]({{仮リンク|ヘブロン虐殺 (1929年)|en|1929 Hebron massacre|label=ヘブロン虐殺}})や[[ツファット]]({{仮リンク|ツファット・ポグロム (1929年)|en|1929 Safed pogrom|label=ツファット・ポグロム}})などパレスチナ各地でアラブ人による一連のユダヤ人襲撃が起こった。<br /> <br /> ==事件の背景==<br /> === 移民の流入 ===<br /> 19世紀中頃から興隆した[[シオニズム|シオニズム運動]]により差別に苦しむ[[ディアスポラ|離散ユダヤ人]]の間ではパレスチナへの移民が増えていた。[[ドレフュス事件]]などがきっかけとなり、パレスチナにユダヤ人の国を作ろうという動きは強まっていた。[[1917年]]の[[バルフォア宣言]]で[[イギリス]]の後押しを受け、ユダヤ人の国家建設は一段と現実味を増した。バルフォア宣言後、9年間で10万人のユダヤ人がパレスチナへ入植している。パレスチナの土地を所有するユダヤ人も増え、[[ヘブライ大学]]が建設された&lt;ref&gt;[http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161533993/content.html エンカルタ百科辞典ダイジェスト:シオニズム]&lt;/ref&gt;。世界各国の同胞から支援を受け、政治や経済に多大な影響力を持つ[[ロスチャイルド家]]など強力な後ろ盾を持つユダヤ人入植者の急増に、アラブ人は危機感を募らせていた。<br /> <br /> === 嘆きの壁 ===<br /> [[File:Al-Husayni1929head.jpg|thumb|220px|アミーン・フサイニー ([[1895年]]-[[1974年]])]]<br /> [[70年|西暦70年]]に[[ローマ帝国]]によってユダヤ教の礼拝地である[[エルサレム神殿]]は破壊された。破壊を嘆くという意味で名づけられた[[嘆きの壁]]は、現在も残る神殿の残骸である。西側の外壁であるため&#039;&#039;&#039;西壁&#039;&#039;&#039; (Western Wall)とも呼ばれ、祈りの場所となっている。エルサレム神殿は[[神殿の丘]](ハラム・アッシャリーフ)と呼ばれ、ユダヤ教における聖地である。[[1967年]]の[[第三次中東戦争]]で、神殿の立つ[[エルサレム]]の旧市街地を占拠するまでの約1900年間、ユダヤ教徒は自由に嘆きの壁に来て祈りを捧げることはできなかった。<br /> <br /> 一方、イスラム教徒は[[672年]]に[[アル=アクサー・モスク]]を、[[692年]]には[[岩のドーム]]を神殿跡に建て、同地を[[マッカ]]、[[マディーナ]]に次ぐイスラーム教の3番目の聖地とし、ここに現在まで続く嘆きの壁をめぐるユダヤ教徒とイスラム教徒との紛争のタネが出来た。<br /> <br /> [[1928年]]9月、男性と女性の祈祷者を分ける習慣のあるユダヤ教徒達は、嘆きの壁で行う[[ヨム・キプル]]の祈りで男女の境についたて([[メヒッツァー]])を置いた。これをイスラム教徒は[[オスマン帝国]]時代に定められた嘆きの壁区域における「建設」禁止の項に反すると抗議した。抗議を受けイギリス当局はこれを撤去するよう命じたが、ユダヤ人側もまた聖なる日を汚されたと憤慨した&lt;ref&gt;{{cite book|和書|title=双方の視点から描くパレスチナ/イスラエル紛争史|author=ダン・コンシャーボク, ダウド・アラミー|editor=[[臼杵陽]]監訳|year=2011|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4-00-024464-0|page=33}}&lt;/ref&gt;。また、エルサレムの[[大ムフティー]](イスラム法権威者)である[[アミーン・フサイニー]]は[[パレスチナ]]に住む[[アラブ人]]、世界のアラブ諸国中に「ユダヤ人達がアル=アクサー・モスクを占拠しようとしている」というビラを配布し扇動活動を行った。<br /> <br /> === ベタル ===<br /> [[Image:Zeev Jabotinsky uniform.jpg|thumb|220px|ゼエブ・ジャボチンスキー ([[1880年]]-[[1940年]])]]<br /> [[1925年]]、ロシア系ユダヤ人の[[ゼエヴ・ジャボチンスキー|ゼエブ・ウラジミール・ジャボチンスキー]]は、修正主義シオニズム連合(Union of Revisionist Zionists、[[:en:Hatzohar|Hatzohar]])を設立した&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/biography/jabotinsky.html|accessdate=2014-04-01|title=Ze&#039;ev (Vladimir) Jabotinsky (1880 - 1940)|date=2014-04-01|publisher=Jewish Virtual Library}}&lt;/ref&gt;。修正主義シオニズムは[[ヨルダン川]]両岸をユダヤ国家とする大イスラエル主義を掲げ、ヨーロッパから大量のユダヤ人移民を受け入れ、結果、必要となってくる防衛のためにユダヤ人軍事組織の結成を目標としていた。<br /> <br /> ジャボチンスキーは修正主義シオニズム連合設立の2年前、[[1923年]]に[[ラトビア]]の[[リーガ]]で&#039;&#039;&#039;ベタル&#039;&#039;&#039; ([[w:en:Betar|Betar]]またはBeitar)という青年運動組織を作っていた。ベタルは、[[1920年]]のテルハイにおけるアラブ人からの攻撃で命を失ったユダヤ人自衛のシンボルである[[ヨセフ・トルンペルドール]]の軍団という意味で、その[[ヘブライ語]]頭文字である。また[[2世紀]]の[[バル・コクバの乱]]で最後まで立っていた砦の名前でもある。名前の由来からもわかるようにベタルは戦闘活動を行っていた。彼らの多くはジャボチンスキーが後に結成した地下戦闘組織[[イルグン]]のメンバーとなった。<br /> <br /> ==事件のあらまし==<br /> [[1929年]][[8月15日]]、ユダヤ教の[[断食]]の儀式、[[ティシュアー・ベ=アーブ]]の最中に、ベタルに所属する青年数百名が嘆きの壁に集まった。エレミア・ハルパーン (Jeremiah Halpern)の指揮のもと、彼らは「壁は我々のものだ!」と叫び、現在[[イスラエルの国旗]]となっている[[シオニズム|シオニスト運動]]の旗を掲げ、後に[[イスラエルの国歌]]となるシオニズムの賛美歌を歌った。[[イギリス]]植民地統治政府は、行進について事前に報告を受け、紛争が起きないよう警察に厳重な護衛をさせた。ベタルの青年達が地元のアラブ住民を攻撃したり[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|預言者ムハンマド]]の名前を汚したという噂が広がった。<br /> <br /> 翌日[[8月16日]]の[[金曜日]]([[ムスリム]]の集団礼拝日)、扇動的な説教を聞いた後、当時のイギリス統治下においてイスラム社会の最高監督機関であったイスラム最高評議会によってデモ隊が結成された。デモは嘆きの壁まで行進し、ユダヤ教の祈りの書や、壁の隙間にはさまれていた願いごとの紙を燃やした。<br /> <br /> ユダヤ人の抗議に対して、総督代理であったイギリス人のハリー・ルーク (Harry Luke)は「ページが燃やされただけで祈りの書全部が燃やされたわけではない。」と答えるのみであった。暴動は続き、次の日には[[ブハラ・ユダヤ人]]の住む地域でユダヤ人のエイブラハム・ムズハリが殺され、その葬儀は政治的なデモにまでなった。<br /> <br /> [[8月20日]]に[[ハガナー]]のリーダー達が[[ヘブロン]]に住む600人の古い[[イッシューブ]]達(シオニズム運動が始まる[[1882年]]以前から住んでいる者)に護衛やヘブロンからの退去支援を申し出た。しかし、ヘブロン・コミュニティーのリーダー達は、アラブの名士(A’yan)たちが保護してくれると信じているとして、ハガナの申し出を断った。次の金曜日の[[8月23日]]、2人のアラブ人が殺されたという噂に煽られたアラブ人達は、[[エルサレム#東エルサレム|エルサレムの旧市街]]を攻撃し始めた。暴力はすぐにパレスチナの他地域にも広がっていった。{{仮リンク|ヘブロン虐殺 (1929年)|en|1929 Hebron massacre|label=ヘブロン虐殺}}は最も被害が大きく、ユダヤ人約65人が殺害され、58人が怪我を負い、女性は強姦された。<br /> [[File:PikiWiki_Israel_4883_Geography_of_Israel.jpg|250px|サムネイル|暴動で殺されたユダヤ人の葬列(テルアビブ)]]<br /> パレスチナ全体で、イギリス植民地政府には、たった292人の警察官、100人に満たない兵士、6台の戦車と5機ないしは6機の飛行機しかなかった。[[8月24日]]までに[[エルサレム]]では17人のユダヤ人が殺された。そのほかに[[ツファット]]、モサ (Moza)、クファル・ウリア (Kfar Uriya)、[[テルアビブ]]でも殺害された。暴動のあった一週間で、ユダヤ人は合計133人が殺害され339人が負傷した(大部分がアラブ人による殺傷)。アラブ人は合計116人が殺害され232人が負傷した(大部分はイギリス植民地警察・植民地兵による殺傷)。<br /> <br /> ==脚注==<br /> &lt;References /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[エルサレム神殿]]、[[アエリア・カピトリナ]]、[[嘆きの壁]]、[[アル=アクサー・モスク]]<br /> * [[アミーン・フサイニー]]<br /> * [[シオニズム]]、[[バルフォア宣言]]<br /> <br /> {{history-stub}}<br /> {{IL-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:なけきのかへしけん}}<br /> [[Category:1929年のイギリス委任統治領パレスチナ]]<br /> [[Category:エルサレムの歴史]]<br /> [[Category:イスラエルの事件]]<br /> [[Category:1929年の戦闘]]<br /> [[Category:民族紛争]]<br /> [[Category:民族暴動]]<br /> [[Category:1929年8月]]</div> 222.10.11.169 煙突男 2017-10-05T09:53:46Z <p>222.10.11.169: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>[[File:Kiyoshi Tanabe (01) Scan10042.JPG|thumb|right|250px|富士瓦斯紡績川崎工場の煙突から降りたあと、医師の診察を受ける「煙突男」田辺潔]]<br /> &#039;&#039;&#039;煙突男&#039;&#039;&#039;(えんとつおとこ)は、[[1930年]](昭和5年)に[[神奈川県]][[川崎市]](現:[[川崎区]]域)の紡績工場の[[労働争議]]の際に、争議の支援活動として工場の[[煙突]]に登り、そのまま6日間にわたって居座る事件を起こした人物(&#039;&#039;&#039;田辺潔&#039;&#039;&#039;、1903 - 1933)につけられた[[あだ名]]。<br /> <br /> 1930年の事件以降も同様の事件が複数発生しており、それらの当事者についても煙突男と呼ばれる場合がある&lt;ref&gt;Web版尼崎地域史事典「apedia」の「煙突男」の項目に、尼崎市内で発生した模倣事件が紹介されている[http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E7%85%99%E7%AA%81%E7%94%B7]。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 以下、川崎の事件の経過と、田辺の経歴について説明する。<br /> <br /> == 発端 ==<br /> 1930年当時の日本は[[世界恐慌]]の渦中にあり、多くの労働者が[[解雇]]され、それに反対する労働争議も多発していた。[[富士紡ホールディングス|富士瓦斯紡績]]川崎工場でも6月に最初の解雇通告がなされ、これに対して労働組合&lt;ref&gt;当時工場には[[日本労働総同盟|総同盟]]系と[[労農党 (1929-1931)|労農党]]系の2つの組合があった。このとき争議を行ったのは総同盟系の組合である(橋本、1997)。&lt;/ref&gt;が争議団を結成して会社と交渉に当たり、調停を得て一度は妥結する。しかし、9月になって会社側は減俸や手当の減額を通告した。再び争議が起きるが、[[労農党 (1929-1931)|労農党]]系の組合が途中から単独の[[サボタージュ]]闘争に転じた。これに対して会社側はサボタージュした従業員の除名を通知するなど強硬な姿勢を取り、争議団は資金難に陥って闘争は難航していた。<br /> <br /> その最中の1930年[[11月16日]]の午前5時頃、川崎工場の煙突に一人の若い男性が登った。この煙突は排出口付近の周囲に足場があり、ここに彼は陣取って頂上の[[避雷針]]に[[赤旗]]を結びつけ、小旗を振りながら争議を扇動する演説をおこなった。男性は5日分の食料を持ち、長期滞在を見込んでいた。<br /> <br /> == 経過 ==<br /> この日は日曜日ながら工場は仕業日で、この人物の出現に一時騒然となったが、警官が警戒する中で平常通り操業はおこなわれた。しかし、居合わせた争議団員は警察に検束された。<br /> <br /> 男性は睡眠時は油紙と外套をかぶり、起きているときは折を見て演説や軽口を繰り返した。1日半が経過した11月17日の夜には警察が見守る中で、争議団と男性が会話を交わす。煙突からの煙で男性の顔や旗は真っ黒になった。彼の出現は17日の各新聞で報じられた&lt;ref&gt;11月17日付の[[東京朝日新聞]]は「大煙突の頂辺から応援」「警官を手古ずらせる若者」という見出しであった。&lt;/ref&gt;ことから、野次馬も集まり始め、会社側は周囲に電灯を急遽増設した。<br /> <br /> 争議団と警察が協議し、18日の朝に争議団代表が水や食糧を持って煙突に上り、男性に下りるよう説得したが、不調に終わる。このとき、争議団からの説得により食料を受け取るのと引き替えに、男性は避雷針にくくりつけていた赤旗をはずしている。警察は18日夕方に争議団が申し出た再度の食料補給を拒否。会社側は男性の説得に成功した者に報奨金を出すと表明したため、19日には失業者数名が煙突に上ることを申し出たりした。この間、警察と会社側は彼を実力で地上に下ろす方法を検討したりしたが妙案は出なかった。一方、11月21日午後には中国地方でおこなわれた陸軍特別大演習の視察から東京に戻る[[昭和天皇]]の乗った[[お召し列車]]が近くの[[東海道本線]]を通過する予定となっていた&lt;ref&gt;天皇は11月20日に[[岡山県]]の[[宇野港]]から[[霧島 (戦艦)|戦艦霧島]]で[[横須賀港]]に向かい、11月21日午後2時30分[[横須賀駅]]発午後3時45分[[東京駅]]着のお召し列車に乗るスケジュールであった。煙突男が出現する2日前の[[11月14日]]には、この行幸に随伴する予定だった[[濱口雄幸]]首相が[[東京駅]]で狙撃される事件が起きている。なお、参考文献(橋本、1997)には「神戸の観艦式からの帰途」とあるが、この年の観艦式は10月26日に実施されており、誤りである。&lt;/ref&gt;。男性は取りはずしたとはいえまだ赤旗を持っており、警察は通過時にそれが掲げられて列車に乗る天皇から見えることを恐れていた。<br /> <br /> 19日の夜7時頃、[[時事新報]]の加藤重六という新聞記者が煙突にある梯子を上り、25分にわたって男性と会見した。男性は[[鎌倉市|鎌倉町]][[鵠沼]]に住む田辺潔(たなべきよし)と名乗り、防寒用に記者からチョッキを借り受けた。このとき男性は「解決するまで決して下りない」と答えている。この会見内容は翌日の時事新報に掲載され、男性の名前が明らかにされた。<br /> <br /> 20日に再度争議団関係者が煙突に上るが、男性は改めて争議の完全解決を要求してなお滞在を続けた。その日の午後、男性の実兄である社会学者の[[田辺寿利]](当時[[日本大学]]講師)がもう一人の兄とともに現場に赴いた。寿利が事件解決後に雑誌『[[中央公論]]』に寄稿した文章&lt;ref&gt;「兄より見たる「煙突男」」、『中央公論』1931年新年号。内容は参考文献(橋本、1998)による。&lt;/ref&gt;によると、声で男性が弟であると確認した寿利は[[川崎警察署]]長と面談し、今回の行為が(お召し列車が通過しても)[[不敬罪|不敬]]行為に当たらないことを確認したのち、弟の生命の保障を署長に依頼した。そのうえで争議の解決と、弟の生命の問題を切り離して、後者について署長・工場長・争議団責任者での会談を開くことを提案する。この提案は署長の同意を得、寿利は工場長と争議団を説得してそれぞれ同意を取り付けた上で夜11時に署長に開催を求めたが「必要を認めない」と拒絶されてしまったという。警察は会社側に争議解決を働きかける方針に転じた。21日の未明に東京から労農党本部の関係者が争議の支援に訪れ、警察側は彼らを検束せずに会社側との交渉に当たらせた。<br /> <br /> 滞在は5日を超え、6日目となる21日には近隣の[[平間寺|川崎大師]]の縁日と重なり、群衆は1万人近くに上った。この日、正午から川崎警察署長が会社と争議団の調停に入った。争議者への一時金(解雇者への解雇手当・予告手当を含む)の支給、除名者の復職と給与の支給、社宅や寮に居住していた解雇者への移転料の支給を内容とする覚書が取り交わされて午後1時半頃に争議は妥結した。妥結が伝えられると男性は午後3時22分&lt;ref&gt;東京朝日新聞の記述。読売新聞は「午後3時20分30秒」としている。&lt;/ref&gt;に地上に下り立ち、ただちに工場付属の病院に入院した。滞在時間は130時間22分であった。下りた直後に男性は「今日まで寒さと風のため苦しめられたが,目的が貫徹すればいいとそればかり考えていた。大便はまだ一度もしない。争議が長引けば1か月位はかかるものと覚悟していた。昨夜の風雨はからだのしんまでしみたような気がして苦しかった。然しあれだけの群衆が我々の闘争を応援して呉れたことを思うと誠に感謝に堪えない」と述べている&lt;ref&gt;東京朝日新聞1930年11月23日&lt;/ref&gt;。お召し列車は予定通りに通過した&lt;ref&gt;読売新聞の記事によると、男が地上に下りてから「6分半後」に工場の近くを通過。読売新聞の時刻に従えば、午後3時27分頃になる。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 男性の素性とその後 ==<br /> {{Infobox 人物<br /> |氏名 = 田辺 潔<br /> |ふりがな = たなべ きよし<br /> |画像 = Kiyoshi Tanabe (02) Scan10042-1.JPG<br /> |画像サイズ = 250px<br /> |画像説明 = 田辺と[[大山郁夫]](右)<br /> |出生名 = <br /> |生年月日 = [[1903年]][[1月2日]]<br /> |生誕地 = [[北海道]][[釧路市]]<br /> |失踪年月日 = <br /> |失踪地 = <br /> |現況 = <br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1903|1|2|1933|2|14}}<br /> |死没地 = [[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]<br /> |死因 = [[事故死]]<br /> |遺体発見 = [[山下公園]]<br /> |墓地 = <br /> |記念碑 = <br /> |住居 = <br /> |国籍 = {{JPN}}<br /> |別名 = <br /> |民族 = [[日本人]]<br /> |市民権 = <br /> |教育 = <br /> |出身校 = [[神奈川県立希望ヶ丘高等学校|旧制第一横浜中学校]]中退<br /> |職業 = 活動家<br /> |活動期間 = [[1928年]] - [[1933年]]<br /> |雇用者 = <br /> |団体 = <br /> |代理人 = <br /> |著名な実績 = <br /> |業績 = <br /> |流派 = <br /> |配偶者 = なし<br /> }}<br /> 田辺潔は1903年1月2日、[[北海道]][[釧路市]]に生まれた。旧制第一横浜中学校(現・[[神奈川県立希望ヶ丘高等学校]])在学中に[[結核]]に罹患して中退。その後結核は治癒したが、以後は進学せずに鵠沼の寿利の家で独学ののち、さまざまな職業を転々とする。寿利の文章によると、ある日潔は労働運動に身を投じることを寿利に告げたが、寿利が「おまえはインテリだからその資格がない」と諭すと、「まず労働者になる」と返答して出奔したという&lt;ref&gt;「煙突男とは?」(『[[改造 (雑誌)|改造]]』、1931年新年号)。内容は参考文献(橋本、1998)による。&lt;/ref&gt;。[[1927年]]には横浜市電気局([[横浜市電]])の信号手となったが、翌年に争議に参加して解雇され、それ以降は活動家となり、事件当時は労農党中央執行委員で川崎市会議員の糸川二一郎に寄食しながら労働運動に携わっていた。したがって、富士瓦斯紡績の従業員ではなかった。<br /> <br /> 潔が煙突に上るに至った経緯については、争議解決のために借財までして奔走する糸川の姿を見た潔が自ら発案したとする説と、別の労農党中央執行委員が争議の応援演説で「高いあの煙突の上にあがって”下りろ”というまで下りないでおったら,必ずこの争議は勝てる。そんな勇気のあるやつはいるか」という言葉に応えたという2つの説が伝えられている&lt;ref&gt;潔が発案したとする説は糸川の伝記(『京浜の夜明け 糸川二一郎』神奈川旧友の会、1963年)、演説に応じたとする説は石原美行「史上初の&quot;煙突男”で富士紡争議を勝利に」(「月刊総評」1977年4・5月合併号、40頁)による(橋本、1997)。&lt;/ref&gt;。いずれにせよ、潔は労農党の争議支援活動の一環として煙突に上ったことには違いがない。<br /> <br /> 潔は退院後の11月28日に住居侵入罪で検束された。釈放後は労農党の演説会で弁士として活動したりしたが、やがて労農党から離れて[[第二次共産党 (日本)|日本共産党]]系の日本労働組合全国協議会(全協)にかかわって活動をしていたという。<br /> <br /> 富士瓦斯紡績争議から約2年後の[[1933年]]2月14日朝、潔は[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]の[[山下公園]]の堀から遺体となって発見された。事故死として報じられたが、当時の共産党機関紙「[[しんぶん赤旗|赤旗]]」第122号(1933年2月28日)は、潔が1月に[[伊勢佐木警察署]]に逮捕された後、拷問を受けて「虐殺された」と伝えている&lt;ref&gt;「赤旗」の同じ号では[[小林多喜二]]の死亡も報じられていた(橋本、1997)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 争議の舞台となった富士瓦斯紡績川崎工場は、[[1939年]]に東京電気(現・[[東芝]])に売却ののち、[[太平洋戦争]]中の[[川崎大空襲]]で焼失し、跡地は[[川崎競馬場]]になっている。<br /> <br /> {{clear}}<br /> <br /> == 煙突男を取り上げた作品 ==<br /> *[[歴史への招待]]「おれは天下の煙突男」(1981年放送、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]])<br /> *[[下村湖人]]「百足虫の悲哀」『青年の思索のために』[[新潮文庫]]、1955年に収録 <br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;&lt;references /&gt;&lt;/div&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *橋本哲哉<br /> **「煙突男 田辺潔小論」(金沢大学経済学部論集第17巻2号、1997年)[http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/18303/1/AN00044251-17-2-129.pdf]<br /> **「昭和煙突男と兄田辺寿利」(金沢大学経済学部論集第18巻2号、1998年)[http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/18298/1/AN00044251-18-2-101.pdf]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[お召し列車]]<br /> * [[昭和恐慌]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:えんとつおとこ}}<br /> [[Category:労働争議]]<br /> [[Category:日本の労働運動]]<br /> [[Category:昭和時代戦前の事件]]<br /> [[Category:1930年の日本]]<br /> [[Category:川崎区の歴史]]<br /> [[Category:1930年11月]]</div> 222.10.11.169 十月事件 2017-09-29T04:51:25Z <p>222.10.11.169: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{Otheruses|[[秘密結社]]「[[桜会]]」による[[クーデター]]未遂事件である十月事件|[[1789年]]に発生した[[ヴェルサイユ行進]]の別名である十月事件|ヴェルサイユ行進}}<br /> &#039;&#039;&#039;十月事件&#039;&#039;&#039;(じゅうがつじけん)とは、[[1931年]](昭和6年)10月の決行を目標として[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の中堅幹部によって計画された、[[クーデター]]未遂事件である。別名&#039;&#039;&#039;錦旗革命事件&#039;&#039;&#039;(きんきかくめいじけん)。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> 1931年9月18日深夜、[[柳条湖事件]]が発生、これを端緒として[[満州事変]]が勃発した。当時[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]であった[[幣原喜重郎]]を中心とした政府の働きにより、不拡大・局地解決の方針が[[9月24日]]の閣議にて決定された。しかし、陸軍急進派はこの決定を不服とし、[[三月事件]]にも関わった[[桜会]]が中心となり、[[大川周明]]・[[北一輝]]らの一派と共にこの動きに呼応するクーデターを計画した。<br /> <br /> == 計画の概要 ==<br /> [[画像:Hashimoto Kingoro.jpg|150px|thumb|[[橋本欣五郎]](1931年)]]<br /> 十月事件の計画概要は、軍隊を直接動かし、要所を襲撃し、首相以下を暗殺するというもので、決行の日を10月24日早暁&lt;ref name=&quot;oouchi1967&quot;&gt;大内力『日本の歴史 -ファシズムへの道-』。&lt;/ref&gt;と定め、[[関東軍]]が日本から分離独立する旨の電報を政府に打ち、それをきっかけにクーデターに突入するというものであった。<br /> <br /> 具体的には桜会の構成員など将校120名、[[近衛師団]]の歩兵10個中隊、機関銃1個中隊、[[第1師団 (日本軍)|第1師団]][[歩兵第3連隊]]、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機、抜刀隊10名を出動させ、[[総理大臣官邸|首相官邸]]・[[警視庁 (内務省)|警視庁]]・[[陸軍省]]・[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]を襲撃、[[若槻禮次郎]]首相以下閣僚を斬殺および捕縛。その後[[閑院宮載仁親王]]や[[東郷平八郎]]・[[西園寺公望]]らに急使を派遣し、組閣の[[大命降下]]を上奏させ、[[荒木貞夫]]陸軍中将を首相に、さらに[[大川周明]]を蔵相に、[[橋本欣五郎]]中佐を内相に、[[建川美次]]少将を外相に、[[北一輝]]を法相に、[[長勇]]少佐を警視総監に、[[小林省三郎]]少将を海相にそれぞれ就任させ、[[軍事政権]]を樹立する、という流れが計画の骨子となる。<br /> <br /> 計画は先の三月事件の失敗から陸軍の中枢部には秘匿されたまま橋本ら佐官級を中心に進められた。当初、外部の民間右翼からは[[大川周明]]、[[岩田愛之助]]が加わっていたが、その後[[北一輝]]・[[西田税]]が参加した&lt;ref&gt;しかし橋本は西田を嫌い、細かい計画は打ち明けていなかった。&lt;/ref&gt;。その他在郷軍人への働きかけも行われ、鎌倉の[[牧野伸顕]]内大臣の襲撃は海軍が引き受けていた。また、[[大本教]]の[[出口王仁三郎]]とも渡りをつけており、信徒40万人を動員した支援の約束も取り付けていたし、[[赤松克麿]]・[[亀井貫一郎]]らの労働組合も動く手筈となっていた。<br /> <br /> 『橋本大佐の手記』によれば、東郷平八郎自身もこの計画を知っており、参内・奏上に同意していたとあるが、荒木貞夫の談話では東郷は知らなかったとされ、荒木自身も計画には加わっていなかった&lt;ref name=&quot;andou1965&quot;&gt;『昭和経済史への証言』。&lt;/ref&gt;ことから、計画に挙がっていた新内閣の構想は単なる目標に過ぎず、その先の日本の政治や経済についてどのようにするかについては無計画であった。<br /> <br /> == 発覚 ==<br /> この計画は10月16日には陸軍省や参謀本部の中枢部へ漏れ、翌17日早朝に橋本欣五郎・長勇・[[田中弥]]・[[小原重孝]]・[[和知鷹二]]・[[根本博]]・[[天野辰夫]]といった中心人物が[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]により一斉に検挙される。計画がどこから漏れたのかについては諸説あるが、根本が参謀本部の[[今村均]]に漏らしたとする説、西田が宮中に情報を売ったとする説など様々であるが、先の荒木の談話に寄れば西田が東郷へ出馬を促しに行き、その連絡を荒木にしたことから発覚したとされている。[[大内力]]は、この計画ははじめから実行に移す予定はなく、それをネタに政界や陸軍の中央部を脅迫することで政局の転換を図ることが目的であったと推測しており&lt;ref name=&quot;oouchi1967&quot; /&gt;、事実、荒木を含めこの計画を知った軍の首脳部は事態の収拾に率先して動き、次第に政権の主導権を獲得していくこととなった。<br /> <br /> == 処分 ==<br /> 十月事件首謀者に対する責任の追及は、[[永田鉄山]]らによる極刑論も一部あったものの、同志の助命を橋本に嘆願された[[杉山茂丸]]が、西園寺公望に口添えを行ったり、橋本の盟友である[[石原莞爾]]が陸軍首脳部に圧力をかけたりすることで、結果的には曖昧なままにされることとなった。橋本は重謹慎20日、長・田中は同10日といった処分の後、地方や満州に転勤という軽いもので、これは軍部において桜会の勢力が依然強大であったことを示している。しかし、この事件をきっかけとして桜会は事実上の解体を余儀なくされ、佐官級の動きも次第に鎮静化へと向かっていった。<br /> <br /> == 影響 ==<br /> 十月事件が齎した影響としては大きく3つが挙げられる。一つは若槻内閣の倒閣、二つ目に陸軍内部の勢力変化、そして三つ目に民間右翼の活動に刺激を与えたことである。<br /> <br /> [[安達謙蔵]]・[[中野正剛]]は政友会の[[久原房之助]]・[[床次竹次郎]]らと連携し「非常時強力内閣」の構想を展開した。これをきっかけとして若槻内閣は閣内不統一に陥り、[[1931年]][[12月11日]]に総辞職、犬養内閣へと変わった。しかし、安達の思惑であった連立内閣は実現せず、安達・中野は民政党を離れ、[[国民同盟 (日本)|国民同盟]]を結成した。<br /> <br /> 一方、陸軍の首脳部では[[宇垣一成]]に変わり荒木が勢力を伸ばし始め、同時に桜会が勢力をなくしていったため、幕僚中心の勢力配置ができ上がった。そして、北・西田の一派はこの図式に失望の念を抱いた青年将校を取り込み、のちの[[栗原安秀]]による[[救国埼玉青年挺身隊事件]]や[[村中孝次]]・[[磯部浅一]]らによる[[陸軍士官学校事件]]へと繋がっていった。また、民間右翼の間にも軍部に頼らず、自分達の力で何とかしなければ、という想いが強くなり、この思想は後の[[血盟団事件]]へと発展していくこととなった。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> ==参考文献==<br /> *『昭和経済史への証言』。<br /> *[[大内力]] 『日本の歴史 -ファシズムへの道-』 中央公論社、1967年。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[桜会]]<br /> * [[錦旗]]<br /> * [[三月事件]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:しゆうかつしけん}}<br /> [[Category:日本におけるクーデター]]<br /> [[Category:昭和時代戦前の事件]]<br /> [[Category:昭和維新]]<br /> [[Category:暗殺未遂]]<br /> [[Category:1931年の日本]]<br /> [[Category:1931年10月|しけん]]</div> 222.10.11.169 立憲革命 (タイ) 2017-09-28T06:59:13Z <p>222.10.11.169: /* 注脚 */</p> <hr /> <div>[[Image:Bangkok old parliament.jpg|300px|right|thumb|アナンタサマーコム宮殿(この宮殿の前のラーマ5世騎馬像の隣で『人民党宣言』が読み上げられた。)]][[1932年]][[6月24日]]に[[タイ王国]](シャム王国)で勃発した&#039;&#039;&#039;立憲革命&#039;&#039;&#039;(りっけんかくめい)は、タイを[[絶対君主制]]から[[立憲君主制]]へと移行させた[[クーデター]]あるいは[[革命]]である。クーデターは、主に平民出身で構成された文民、軍人の官僚により組織された[[人民党 (タイ)|人民党]]によって行われた。<br /> <br /> 無血革命と説明されることが多いが、ただ一人、陸軍第一師団長の[[プラヤー・セーナーソンクラーム]]少将が取り押さえられる際、発砲を受け流血しているため、厳密には無血革命とは言えない。<br /> <br /> なお、この政変を&#039;&#039;&#039;革命&#039;&#039;&#039;と表現するか&#039;&#039;&#039;クーデター&#039;&#039;&#039;と表現するかは定まっていない。日本語においては「立憲革命」と革命扱いされているが、英語においては &quot;coup d&#039;état of 1932&quot; あるいは &quot;coup&quot; が用いられる表現がなされる事が多い。タイ語においては「仏歴2475年のシャム革命 ({{lang|th|การปฏิวัติสยาม พ.ศ. 2475}})」という表現がなされるが、そもそもタイ語における「革命 ({{lang|th|ปฏิวัติ}}) 」と言う言葉自体、1971年に[[タノーム・キッティカチョーン|タノーム]]がクーデターを起こした際に「革命団」と名乗るなどただ単に「変革」、「クーデター」と言う意味で使われる事がある&lt;ref&gt;冨田竹二郎 『タイ日大辞典』 めこん出版 1997年&lt;/ref&gt;。なおタイ語においては、この立憲革命を含め、成功したクーデターを一括して、やんわりと「政変 ({{lang|th|การเปลี่ยนแปลงการปกครอง}}) 」と表現する事も多い。この項目においては、特に両者を区別せずにクーデターという表現で統一する。<br /> <br /> ==背景==<br /> [[チャクリー改革]]以降、[[ブンナーク家]]の支配を脱し、[[ラーマ5世]](チュラーロンコーン)、[[ラーマ6世]](ワチラーウット)は政治的に重要なポストに西洋教育を受けた王族を優先的に配置し、その実権を握っていた。一方で、[[ドゥシット宮殿]]([[ウィマーンメーク宮殿]]、[[アナンタサマーコム宮殿]])や、[[バーンパイン宮殿]]、[[サナームチャン宮殿]]など、数々の宮殿を建造するなどの贅を尽くした生活様式や、特に[[ラーマ6世]]に顕著に見られるが、文芸の保護に力を入れ、[[スアパー]](ボーイスカウトの大人版)などの私的クラブなどの活動を行うことで、その国費を大いに消費した。<br /> <br /> 一方で[[1926年]]から当時の国王であった[[ラーマ7世]](プラチャーティポック)は大規模な官僚らのリストラを行い、国費の消費傾向に拍車をかけたが、[[1929年]]に始まった[[世界恐慌]]はタイ最大の輸出品であった米の輸出量を大きく下げ、これに伴い政府の収入も下降した。[[1931年]]のタイの予算は歳入が7894万バーツで、約853万バーツの赤字が出るほどのものとなった。<br /> <br /> このような中、国王は財政再建のため官僚らの給料の据え置きを画策。ラーマ4世の孫である陸軍元帥[[ボーウォーラデート]]親王がこの政策に反対し、摂政の[[ナコーンサワンウォーラピニット]]親王(ボーリパットスクムパン親王とも、以下「ナコーンサワン親王」)や運輸省の[[カムペーンペットアッカラヨーティン]]親王(ブラチャットチャイヤコーン親王とも以下「カムペーンペット親王」)と口論を交わし、最終的に辞任した。この事件は、そのころ普及し始めた新聞が連日報じ巷を騒がせた。<br /> <br /> 一方政府の見込みでは、1932年の予算ではさらなる赤字が見込まれることから、国王は各新聞社に謝罪とともに、官僚らの大規模なリストラを再び行うことを発表した。このことは新たなメディアであった新聞の読者であった官僚らを怒らせ、新聞社は王族ら上流階級に対するネガティブ・キャンペーンを洋々な形で展開し、政府が発禁に処すこともあった。<br /> <br /> その一方でラーマ7世は同時期にチャクリー王朝150周年記念日に向けて、欽定憲法を制定しようと考えていたがナコーンサワン親王、憲法草案に携わった[[プラヤー・シーウィサーンワーチャー|プラヤー・シーウィサーン]]などの反対より断念した。このような中、立憲革命は勃発した。<br /> <br /> ==立憲革命==<br /> &lt;gallery&gt;<br /> Image:Pridi Panomyong (Scholar).jpg|プリーディー・パノムヨン<br /> File:Pibun.jpg|ピブーン<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> このクーデターの指導者の一人である[[プリーディー・パノムヨン]]によれば[[1927年]]に人民党が結成された。最初はプリーディー、[[プラユーン・パモーンモントリー|プラユーン]]、[[クワン・アパイウォン|クワン]]、[[タナサイ・ミットパックディー|タナサイ]]、[[プレーク・ピブーンソンクラーム|ピブーン]]、[[ルワン・シリラートマイトリー]]、[[トゥワ・ラパーヌクロム|トゥワ]]、[[ネープ・パホンヨーティン|ネープ]]7人による小さな派閥であったが、フランス留学時代のつてを頼って、あるいは社会不安に乗じてどんどん勢力を拡大した。<br /> <br /> [[1932年]][[6月12日]]四回にわたって行われた会議の末、[[プラヤー・ソンスラデート]]の家でクーデターの実行が決定した。その内容は[[6月19日]]に国王が[[フワヒン]]に滞在している間に、主要な王族や政府高官を拘束しラーマ5世騎馬像前で独立を宣言するという内容だった。しかし、政府に事前に察知されたり、メンバーの都合合わせなどで再三延期され、結局決行されたのは6月24日であった。<br /> <br /> [[File:4 Musketeers.jpg|thumb|center|750px|実際に軍事作戦を実行した「四頭の虎」&lt;BR /&gt;&lt;SUB&gt;左からソンスラデート卿、[[プラヤー・パホンポンパユハセーナー|パホンポンパユハセーナー]]卿、リットアッカネー卿、プラサートピッタヤーユット卿&lt;/SUB&gt;]]<br /> 陸軍軍人の人民党メンバー[[プラヤー・リットアッカネー]]は午前5時に[[タイ王国陸軍|陸軍]]は第一砲兵隊のトラックを奪い、同じ陸軍の[[プラ・プラサートピッタヤーユット]]は騎兵連隊に忍び込み首都で争乱が起きたと偽り、兵士と武器を奪いプラヤー・リットアッカネーの用意したトラック載せて、ラーマ5世騎馬像前に運んだ。この間ピブーンは[[パーヌパンユコン]]親王を監視した。<br /> <br /> 一方で[[タイ王国海軍|海軍]]の人民党メンバーである[[シン・カモンナーウィン]]を中心とするグループは、陸戦隊400人全員を連れだし、多量の武器と一緒にラーマ5世騎馬像前に運んだ。<br /> <br /> 集合時間の6時をすぎた後、国王なき首都で一番の権力をもつ、摂政のナコーンサワン親王の拘束するようプラヤー・ソンスラデートはプラ・プラサートピッタヤーユットに命じた。ナコーンサワンはパジャマ姿のまま[[バーンクンプロム宮殿]](現タイ国立銀行博物館)のチャオプラヤーに架かる桟橋から船で逃げようとしていたが、人民党員の乗った軍艦が見張っていて身動きがとれないところを、一悶着の末、着替えも許されず連行された。同様に軍隊や警察などのおもな機関の高官が捕らえられ、ラーマ5世騎馬像の北に建つアナンタサマーコム宮殿に拘束された。<br /> <br /> これらが一段落すると、プラヤー・パホンは兵士の前に出ていわゆる『人民党宣言』を発表した。このとき歓声が起こったとされるが、ほとんどの兵士は何が起きているのか分かりかねていたという回想もある。[[タノーム・キッティカチョーン|タノーム]]政権時代に内相を務めた、このクーデターに兵士として参加していた[[プラパート・チャールサティエン|プラパート]]大将によれば、仮定の上での予行演習か何かだと感じたそうである。<br /> <br /> その後、人民党は4時から王族を集めて王族との会議を行い、これからのことを相談した、プリーディーはクーデターが王族らに「新憲法の制定」のための正当なものであることを説明した。また、タイがイギリスとフランスに挟まれたいわゆる緩衝地帯であったため外交面では列強との連絡を取り、人民党の意図を説明することが不可欠であった。ラーマ4世の孫であった外相の[[テーワウォンワロータイ]]親王は国王の反応を知りたがったが、諸外国との連絡役をすることを約束した。<br /> <br /> 一方国王には翌日25日に、プラヤー・パホン、プラヤー・ソンスラデート、プラヤー・リットアッカネーが署名した「国王が首都に戻り、立憲君主とならねば、新たに国王を立てる」という旨の最終通告を受け取り、26日にバンコクに戻った。<br /> <br /> その日の11時人民党やクーデターに参加したメンツに対する恩赦が下り、国王は憲法草案を手渡され、翌日に臨時憲法として承認した。<br /> <br /> 28日には人民代表委員が開催され[[プラヤー・マノーパコーンニティターダー]]がタイ初の総理大臣として任命された。<br /> <br /> ==結果==<br /> このクーデターにおいては外相が早々と新政権に協力し、国王も以前のままであった事などから、外交関係に良くも悪くも変化が生じなかった。<br /> <br /> 一方、暫定憲法を承認したラーマ7世は『人民党宣言』に王族批判があることに不満を述べ、マノーパコーン政権を圧迫、後宮に憲法に歴代王を賞賛する文章を書かせたり、「神聖にして、犯すべからず。」の文を入れさせたりした。この後もラーマ7世は自分の意に従わない事があるとすぐに退位をほのめかし干渉した。<br /> <br /> 翌年の33年には人民党の文民派の頭目であったプリーディーが『経済計画大綱』を発表。「社会主義の方法を自由主義に組み込んだ」ものであるとしてプリーディーは国民全員を国家公務員にするとした計画を発表、これに対してラーマ7世は「スターリンがまねたのか、プリーディーがまねたのか知らないが」と述べ、プリーディーに対するネガティブ・キャンペーンをプラヤー・マノーパコーンと展開、国会は混乱状態に陥りプラヤー・マノーパコーンは超法的な処置として、国会を閉会した。直後に共産主義思想を非合法化する。<br /> <br /> 文民派の力は弱くなり急激に軍部がのし上がっていき1933年6月20日、プラヤー・パホン、ピブーンらが、超法的な処置を展開するマノーパコーン政権の無能さを理由にクーデターを起こし、立憲以降初の軍事政権を迎えることとなる。<br /> <br /> 同年の[[10月11日]]には[[ボーウォーラデート]]親王が民主的な政治を求めて、クーデターを画策し失敗するなど、タイの政治は立憲から2年経たないうちから混乱を極めた。<br /> <br /> [[1934年]]にはラーマ7世が[[白内障]]を理由に外遊を開始し、翌年の[[3月2日]]いつまで経っても民主政治に移行しないパホン政権に向けて「私は人民のために、元々私に有ったところの権力を放棄する心の準備は出来ている。」との名言を残し退位した。<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[タイの歴史]]<br /> *[[タイにおける政変一覧]]<br /> <br /> ==参考文献==<br /> *[[村嶋英治]] 『200頁現代アジアの肖像 9 ピブーン』 岩波書店、1996年10月17日発行<br /> *Thailand&#039;s Political History - B.J. Terwiel - River Books 2005<br /> <br /> ==注脚==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:りつけんかくめいたい}}<br /> [[Category:バンコクの歴史]]<br /> [[Category:各国の革命]]<br /> [[Category:タイにおけるクーデター]]<br /> [[Category:1932年のタイ王国]]<br /> [[Category:1932年の戦闘]]<br /> [[Category:1932年6月]]</div> 222.10.11.169 1944年のワールドシリーズ 2017-09-26T03:08:21Z <p>222.10.11.169: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{Infobox World Series Expanded<br /> |year = 1944<br /> |champion = [[セントルイス・カージナルス]]<br /> |champion_lg = [[ナショナルリーグ|NL]]<br /> |champion_win = 4<br /> |champion_abr = STL<br /> |champion_mgr = [[ビリー・サウスワース]]<br /> |champion_game= 105勝49敗<br /> |runnerup = [[ボルチモア・オリオールズ|セントルイス・ブラウンズ]]<br /> |runnerup_lg = [[アメリカンリーグ|AL]]<br /> |runnerup_win = 2<br /> |runnerup_abr = SLA<br /> |runnerup_mgr = [[ルーク・シーウェル]]<br /> |runnerup_game= 89勝65敗<br /> |date = [[10月4日]] - [[10月9日]]<br /> |HOFers = [[ビリー・サウスワース]](STL/監督)&lt;br /&gt;[[イーノス・スローター]](STL)&lt;br /&gt;[[スタン・ミュージアル]](STL)<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;1944年のワールドシリーズ&#039;&#039;&#039;は、[[1944年]][[10月4日]]から[[10月9日]]まで行われた[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の[[ワールドシリーズ]]である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 第41回のワールドシリーズ。[[アメリカンリーグ]]はチーム創設44年目にして初出場を果たした[[ボルチモア・オリオールズ|セントルイス・ブラウンズ]]と[[ナショナルリーグ]]は前年2連覇を逃した[[セントルイス・カージナルス]]の対戦となった。結果は4勝2敗でセントルイス・カージナルスが2年ぶり5回目の優勝。<br /> <br /> 両球団とも同じ[[スポーツマンズ・パーク]]を本拠地としており、すべての試合が1つの球場で行われたワールドシリーズとしては[[ポロ・グラウンズ]]で行われた[[1921年のワールドシリーズ|1921年]]と[[1922年のワールドシリーズ|1922年]]以来3度目である。<br /> <br /> == 試合結果 ==<br /> 表中の&#039;&#039;&#039;R&#039;&#039;&#039;は[[得点]]、&#039;&#039;&#039;H&#039;&#039;&#039;は[[安打]]、&#039;&#039;&#039;E&#039;&#039;&#039;は[[失策]]を示す。日付は現地時間。<br /> === 第1戦 10月4日 ===<br /> *[[ミズーリ州]][[セントルイス]] - [[スポーツマンズ・パーク]] <br /> {{Linescore<br /> |Road=&#039;&#039;&#039;ブラウンズ&#039;&#039;&#039;|RoadAbr=SLA<br /> |R1=0|R2=0|R3=0|R4=2|R5=0|R6=0|R7=0|R8=0|R9=0|RR=2|RH=2|RE=0<br /> |Home=カージナルス|HomeAbr=STL<br /> |H1=0|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|H6=0|H7=0|H8=0|H9=1|HR=1|HH=7|HE=0<br /> |WP=[[デニー・ゲイルハウス]](1-0)<br /> |LP=[[モート・クーパー]](0-1)<br /> |SV=<br /> |RoadHR=[[ジョージ・マックイン]](1)<br /> |HomeHR=なし<br /> |Note2=観客動員数 33,242人<br /> }}<br /> <br /> === 第2戦 10月5日 ===<br /> *[[ミズーリ州]][[セントルイス]] - [[スポーツマンズ・パーク]] <br /> {{Linescore<br /> |Road=ブラウンズ|RoadAbr=SLA<br /> |R1=0|R2=0|R3=0|R4=0|R5=0|R6=0|R7=2|R8=0|R9=0|R10=0|R11=0|RR=2|RH=7|RE=4<br /> |Home=&#039;&#039;&#039;カージナルス&#039;&#039;&#039;|HomeAbr=STL<br /> |H1=0|H2=0|H3=1|H4=1|H5=0|H6=0|H7=0|H8=0|H9=0|H10=0|H11=1|HR=3|HH=7|HE=0<br /> |WP=[[ブリックス・ドネリー]](1-0)<br /> |LP=[[ボブ・モンクリフ]](0-1)<br /> |SV=<br /> |RoadHR=なし<br /> |HomeHR=なし<br /> |Note2=観客動員数 35,076人<br /> }}<br /> <br /> === 第3戦 10月6日 ===<br /> *[[ミズーリ州]][[セントルイス]] - [[スポーツマンズ・パーク]] <br /> {{Linescore<br /> |Road=カージナルス|RoadAbr=STL<br /> |R1=1|R2=0|R3=0|R4=0|R5=0|R6=0|R7=1|R8=0|R9=0|RR=2|RH=7|RE=0<br /> |Home=&#039;&#039;&#039;ブラウンズ&#039;&#039;&#039;|HomeAbr=SLA<br /> |H1=0|H2=0|H3=4|H4=0|H5=0|H6=0|H7=2|H8=0|H9=X|HR=6|HH=8|HE=2<br /> |WP=[[ジャック・クレイマー]](1-0)<br /> |LP=[[テッド・ウィルクス]](0-1)<br /> |SV=<br /> |RoadHR=なし<br /> |HomeHR=なし<br /> |Note2=観客動員数 34,737人<br /> }}<br /> <br /> === 第4戦 10月7日 ===<br /> *[[ミズーリ州]][[セントルイス]] - [[スポーツマンズ・パーク]] <br /> {{Linescore<br /> |Road=&#039;&#039;&#039;カージナルス&#039;&#039;&#039;|RoadAbr=STL<br /> |R1=2|R2=0|R3=2|R4=0|R5=0|R6=1|R7=0|R8=0|R9=0|RR=5|RH=12|RE=0<br /> |Home=ブラウンズ|HomeAbr=SLA<br /> |H1=0|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|H6=0|H7=0|H8=1|H9=0|HR=1|HH=9|HE=0<br /> |WP=[[ハリー・ブレッチェーン]](1-0)<br /> |LP=[[シグ・ジャッキ]](0-1)<br /> |SV=<br /> |RoadHR=[[スタン・ミュージアル]](1)<br /> |HomeHR=なし<br /> |Note2=観客動員数 35,455人<br /> }}<br /> <br /> === 第5戦 10月8日 ===<br /> *[[ミズーリ州]][[セントルイス]] - [[スポーツマンズ・パーク]] <br /> {{Linescore<br /> |Road=&#039;&#039;&#039;カージナルス&#039;&#039;&#039;|RoadAbr=STL<br /> |R1=0|R2=0|R3=0|R4=0|R5=0|R6=1|R7=0|R8=1|R9=0|RR=2|RH=6|RE=1<br /> |Home=ブラウンズ|HomeAbr=SLA<br /> |H1=0|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|H6=0|H7=0|H8=0|H9=0|HR=0|HH=7|HE=1<br /> |WP=[[モート・クーパー]](1-1)<br /> |LP=[[デニー・ゲイルハウス]](1-1)<br /> |SV=<br /> |RoadHR=[[ダニー・リトウィラー]](1) [[レイ・サンダース]](1)<br /> |HomeHR=なし<br /> |Note2=観客動員数 36,568人<br /> }}<br /> <br /> === 第6戦 10月9日 ===<br /> *[[ミズーリ州]][[セントルイス]] - [[スポーツマンズ・パーク]] <br /> {{Linescore<br /> |Road=ブラウンズ|RoadAbr=SLA<br /> |R1=0|R2=1|R3=0|R4=0|R5=0|R6=0|R7=0|R8=0|R9=0|RR=1|RH=3|RE=2<br /> |Home=&#039;&#039;&#039;カージナルス&#039;&#039;&#039;|HomeAbr=STL<br /> |H1=0|H2=0|H3=0|H4=3|H5=0|H6=0|H7=0|H8=0|H9=0|HR=3|HH=10|HE=0<br /> |WP=[[マックス・ラニアー]](1-0)<br /> |LP=[[ネルズ・ポッター]](0-1)<br /> |SV=[[テッド・ウィルクス]](1)<br /> |RoadHR=なし<br /> |HomeHR=なし<br /> |Note2=観客動員数 31,630人<br /> }}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.baseball-reference.com/postseason/1944_WS.shtml baseball-reference.com]1944 World Series<br /> <br /> {{ワールドシリーズ}}<br /> {{1944 セントルイス・カージナルス}}<br /> {{St. Louis Cardinals}}<br /> {{Baltimore Orioles}}<br /> {{MLB-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:わあるとしりいす1944}}<br /> [[Category:ワールドシリーズ|1944]]<br /> [[Category:1944年の野球]]<br /> [[Category:1944年のアメリカ合衆国]]<br /> [[Category:セントルイス・カージナルス]]<br /> [[Category:ボルチモア・オリオールズ]]<br /> [[Category:セントルイスのスポーツ競技大会]]<br /> [[Category:1944年10月]]</div> 222.10.11.169 1942年のワールドシリーズ 2017-09-26T03:02:47Z <p>222.10.11.169: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{Infobox World Series Expanded<br /> |year = 1942<br /> |champion = [[セントルイス・カージナルス]]<br /> |champion_lg = [[ナショナルリーグ|NL]]<br /> |champion_win = 4<br /> |champion_abr = STL<br /> |champion_mgr = [[ビリー・サウスワース]]<br /> |champion_game= 106勝48敗<br /> |runnerup = [[ニューヨーク・ヤンキース]]<br /> |runnerup_lg = [[アメリカンリーグ|AL]]<br /> |runnerup_win = 1<br /> |runnerup_abr = NYY<br /> |runnerup_mgr = [[ジョー・マッカーシー]]<br /> |runnerup_game= 103勝51敗<br /> |date = [[9月30日]] - [[10月5日]]<br /> |HOFers = [[ビリー・サウスワース]](STL/監督)&lt;br /&gt;[[イーノス・スローター]](STL)&lt;br /&gt;[[スタン・ミュージアル]](STL)&lt;br /&gt;[[ジョー・マッカーシー]](NYY/監督)&lt;br /&gt;[[ビル・ディッキー]](NYY)&lt;br /&gt;[[ジョー・ディマジオ]](NYY)&lt;br /&gt;[[ジョー・ゴードン]](NYY)&lt;br /&gt;[[フィル・リズート]](NYY)&lt;br /&gt;[[レッド・ラフィング]](NYY)<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;1942年のワールドシリーズ&#039;&#039;&#039;は、[[1942年]][[9月30日]]から[[10月5日]]まで行われた[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の[[ワールドシリーズ]]である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 第39回ワールドシリーズ。アメリカンリーグは[[1941年のワールドシリーズ|前年]]の覇者[[ニューヨーク・ヤンキース]]と、ナショナルリーグは8年ぶり出場の[[セントルイス・カージナルス]]との対戦となった。結果は4勝1敗でセントルイス・カージナルスが8年ぶり4回目の優勝。<br /> <br /> == 試合結果 ==<br /> 表中の&#039;&#039;&#039;R&#039;&#039;&#039;は[[得点]]、&#039;&#039;&#039;H&#039;&#039;&#039;は[[安打]]、&#039;&#039;&#039;E&#039;&#039;&#039;は[[失策]]を示す。日付は現地時間。<br /> === 第1戦 9月30日 ===<br /> *[[ミズーリ州]][[セントルイス]] - [[スポーツマンズ・パーク]] <br /> {{Linescore<br /> |Road=&#039;&#039;&#039;ヤンキース&#039;&#039;&#039;|RoadAbr=NYY<br /> |R1=0|R2=0|R3=0|R4=1|R5=1|R6=0|R7=0|R8=3|R9=2|RR=7|RH=11|RE=0<br /> |Home=カージナルス|HomeAbr=STL<br /> |H1=0|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|H6=0|H7=0|H8=0|H9=4|HR=4|HH=7|HE=4<br /> |WP=[[レッド・ラフィング]](1-0)<br /> |LP=[[モート・クーパー]](0-1)<br /> |SV=[[スパッド・チャンドラー]](1)<br /> |RoadHR=なし<br /> |HomeHR=なし<br /> |Note2=観客動員数: 34,769人<br /> }}<br /> <br /> === 第2戦 10月1日 ===<br /> *[[ミズーリ州]][[セントルイス]] - [[スポーツマンズ・パーク]] <br /> {{Linescore<br /> |Road=ヤンキース|RoadAbr=NYY<br /> |R1=0|R2=0|R3=0|R4=0|R5=0|R6=0|R7=0|R8=3|R9=0|RR=3|RH=10|RE=2<br /> |Home=&#039;&#039;&#039;カージナルス&#039;&#039;&#039;|HomeAbr=STL<br /> |H1=2|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|H6=0|H7=1|H8=1|H9=X|HR=4|HH=6|HE=0<br /> |WP=[[ジョニー・ビーズリー]](1-0)<br /> |LP=[[タイニー・ボンハム]](0-1)<br /> |SV=<br /> |RoadHR=[[チャーリー・ケラー]](1)<br /> |HomeHR=なし<br /> |Note2=観客動員数: 34,255人<br /> }}<br /> <br /> === 第3戦 10月3日 ===<br /> *[[ニューヨーク州]][[ブロンクス区|ニューヨーク/ブロンクス]] - [[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキースタジアム]] <br /> {{Linescore<br /> |Road=&#039;&#039;&#039;カージナルス&#039;&#039;&#039;|RoadAbr=STL<br /> |R1=0|R2=0|R3=1|R4=0|R5=0|R6=0|R7=0|R8=0|R9=1|RR=2|RH=5|RE=1<br /> |Home=ヤンキース|HomeAbr=NYY<br /> |H1=0|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|H6=0|H7=0|H8=0|H9=0|HR=0|HH=6|HE=1<br /> |WP=[[エリン・ホワイト]](1-0)<br /> |LP=[[スパッド・チャンドラー]](0-1)<br /> |SV=<br /> |RoadHR=なし<br /> |HomeHR=なし<br /> |Note2=観客動員数: 69,123人<br /> }}<br /> <br /> === 第4戦 10月4日 ===<br /> *[[ニューヨーク州]][[ブロンクス区|ニューヨーク/ブロンクス]] - [[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキースタジアム]] <br /> {{Linescore<br /> |Road=&#039;&#039;&#039;カージナルス&#039;&#039;&#039;|RoadAbr=STL<br /> |R1=0|R2=0|R3=0|R4=6|R5=0|R6=0|R7=2|R8=0|R9=1|RR=9|RH=12|RE=1<br /> |Home=ヤンキース|HomeAbr=NYY<br /> |H1=1|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|H6=5|H7=0|H8=0|H9=0|HR=6|HH=10|HE=1<br /> |WP=[[マックス・ラニアー]](1-0)<br /> |LP=[[アトリー・ドナルド]](0-1)<br /> |SV=<br /> |RoadHR=なし<br /> |HomeHR=[[チャーリー・ケラー]](2)<br /> |Note2=観客動員数: 69,902人<br /> }}<br /> <br /> === 第5戦 10月5日 ===<br /> *[[ニューヨーク州]][[ブロンクス区|ニューヨーク/ブロンクス]] - [[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキースタジアム]] <br /> {{Linescore<br /> |Road=&#039;&#039;&#039;カージナルス&#039;&#039;&#039;|RoadAbr=STL<br /> |R1=0|R2=0|R3=0|R4=1|R5=0|R6=1|R7=0|R8=0|R9=2|RR=4|RH=9|RE=4<br /> |Home=ヤンキース|HomeAbr=NYY<br /> |H1=1|H2=0|H3=0|H4=1|H5=0|H6=0|H7=0|H8=0|H9=0|HR=2|HH=7|HE=1<br /> |WP=[[ジョニー・ビーズリー]](2-0)<br /> |LP=[[レッド・ラフィング]](1-1)<br /> |SV=<br /> |RoadHR=[[ホワイティ・クロースキー]](1) [[イーノス・スローター]](1)<br /> |HomeHR=[[フィル・リズート]](1)<br /> |Note2=観客動員数: 69,052人<br /> }}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.baseball-reference.com/postseason/1942_WS.shtml baseball-reference.com]1942 World Series<br /> <br /> {{ワールドシリーズ}}<br /> {{1942 セントルイス・カージナルス}}<br /> {{St. Louis Cardinals}}<br /> {{New York Yankees}}<br /> {{MLB-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:わあるとしりいす1942}}<br /> [[Category:ワールドシリーズ|1942]]<br /> [[Category:1942年のアメリカ合衆国]]<br /> [[Category:1942年の野球]]<br /> [[Category:セントルイス・カージナルス]]<br /> [[Category:ニューヨーク・ヤンキース]]<br /> [[Category:セントルイスのスポーツ競技大会]]<br /> [[Category:ニューヨーク市のスポーツ競技大会]]<br /> [[Category:1942年9月]]<br /> [[Category:1942年10月]]</div> 222.10.11.169 昭和天皇誤導事件 2017-09-21T08:15:22Z <p>222.10.11.169: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{coord|36|24|40.7|N|139|20|9.7|E|region:JP_type:event|display=title}}<br /> &#039;&#039;&#039;昭和天皇誤導事件&#039;&#039;&#039;(しょうわてんのうごどうじけん)は、[[1934年]]([[昭和]]9年)に[[群馬県]]で行われた[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍事演習|大演習]]において、視察に訪れた[[昭和天皇]]一行の先導をしていた[[警部]]が[[緊張]]のあまり道を誤ってしまい、一時天皇一行が[[行方不明]]になったと大騒ぎになった[[警察]]の失態事件。前代未聞の事態であったため関係者が[[懲戒処分|処分]]されたが、先導していた警部の1人が[[責任]]を取って[[自殺|自決]]を図った。&#039;&#039;&#039;昭和天皇一行行方不明事件&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;桐生鹵簿誤導事件&#039;&#039;&#039;とも呼ぶ(「鹵簿(ろぼ)」は行幸の行列のこと)。<br /> <br /> == 経緯 ==<br /> [[1934年]]([[昭和]]9年)[[11月16日]]、昭和天皇臨席のもと陸軍大演習が[[群馬県]]の高崎練兵場で行われた。[[観兵式]]に出席した後、昭和天皇一行が群馬県[[桐生市]]を視察することになっていた。予定された視察順序は「[[桐生駅]] - [[桐生市立西小学校|桐生西小]] - [[桐生高等工業学校|桐生高工]]」となっていた。地元住民は「[[現人神]]」である天皇を迎えるために1年前から予行演習を重ねており、出迎える際はひざまづくようにと指示されていた。こうした非[[日常生活|日常]]の光景の中、先導役の本多重平警部(当時42歳)は、左折すべき[[末広町 (桐生市)|末広町]][[交差点]]を直進する[[過失]]を犯してしまった。そのため、視察の順序は桐生高工 - 桐生西小と全く逆になり、先に昭和天皇が訪問するはずだった桐生西小では、天皇御一行が行方不明になったと大騒ぎになった。<br /> <br /> 順序を間違った原因であるが、前日緊張の中、昭和天皇一行を本多警部は[[前橋市]]で先導していたところ、桐生市においての先導役の予定であった者が体調不良で辞退したため、代役で行ったものであった。そのため本多警部は、事前の下見を行っていなかった桐生市内でも先導することになった。しかし、昭和天皇を歓迎するための群衆で賑わう沿道の光景から、非日常の世界が広がっていたため幻惑され、予定で曲がるはずだった交差点では、先導者の[[運転手]]をはじめ、本多警部ももう1人の警部も、直進して当然だと思ったという。そのため、先導車の運転手が間違いに気付いたのはかなり後になってからであり、天皇一行の車も近づいており引き返せないため、本多警部は直進を命令したという。<br /> <br /> == 本多警部のその後 ==<br /> この前代未聞の過失に対して関係者が処分されることになった。事件後、当事者の1人である本多警部は自宅[[謹慎]]していたが、県当局は自決を心配し部下2人を[[監視]]に付かせていた。しかし2日後、昭和天皇一行を乗せた[[お召し列車]]が[[前橋駅]]を出発する時刻が迫った時、本多警部は部下や家人に見送りに行けと命じ、その間に、列車が駅を出発した[[汽笛]]と共に[[日本刀]]で[[喉]]を突いて自決を図った。しかし、日本刀を素手で持っていたため、指が切れて突く力が弱くなり、一命を取り止めた(一部の資料では死亡したとされるが誤伝である)。このことは天皇一行にも「警部が責任を取り、自決した」と報告されたという。自決を図ったことについては、当時は「よくぞ責任を取ってくれた」と賞賛する声が挙がったという。<br /> <br /> 本多警部は一命を取り止めたものの後遺症は重大で、[[舌]]の[[筋肉]]が切断されたため、[[会話]]に支障が出る状態になった上に、[[食道]]と[[呼吸器|気道]]が[[癒着]]してしまい、[[食事]]をするのも難しい状態になった。彼は全国からの賞賛の声に励まされ、「もう1度天皇陛下のために生きる」決心をしたという。警察の出世コースからは外れたが、[[国立療養所]]事務長などを歴任し、[[1946年]](昭和21年)まで公職を務めたという。<br /> <br /> [[1945年]](昭和20年)、[[日本]]の[[降伏]]により、[[太平洋戦争]]は[[終戦|終結]]した。昭和天皇が[[人間宣言]]を発し、[[戦前]]のような[[軍服]]姿ではなく[[背広]]姿で日本各地を視察する姿を見て、本多元警部は「[[武士道]]は必要なくなった」「もう世を捨てた」と漏らしたという。晩年は郷里で[[農業]]に従事し、[[1960年]](昭和35年)[[5月22日]]に68歳で死去したという。<br /> <br /> == 議会の動き ==<br /> 事件後、[[岡田啓介]][[首相]]と[[後藤文夫]][[内務大臣 (日本)|内相]]が天皇にお詫びしたところ、天皇は別段の咎めもなく許したが、当時[[野党]]の立場にあった[[政友会]]は、議会でこれを取り上げて後藤内相を攻撃した。これについて岡田首相は、翌年の議会で取り上げられた[[国体明徴声明|国体明徴論]]と合わせて、政党人の自己否定につながる行為であったと批判している&lt;ref&gt;岡田啓介 『岡田啓介回顧録』 中公文庫、2001年。ISBN 4122038995。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[朝日新聞]] 昭和60年(1985年)1月4日「それぞれの昭和」より<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[末広町通り (桐生市)]]<br /> * [http://www011.upp.so-net.ne.jp/konita/seiganoaki.pdf 聖駕の秋]誤導事件のノンフィクション小説<br /> * [[お召し列車#戦前|お召し列車]] - [[曾野綾子]]『お召列車、後退せず』の元ネタ<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:しようわてんのうことうしけん}}<br /> [[Category:昭和時代戦前の事件]]<br /> [[Category:1934年の日本]]<br /> [[Category:桐生市の歴史]]<br /> [[Category:昭和天皇|ことうしけん]]<br /> [[Category:1934年11月]]</div> 222.10.11.169 京都駅跨線橋転倒事故 2017-09-21T05:26:02Z <p>222.10.11.169: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{Infobox 事件・事故<br /> | 名称 = 京都駅跨線橋転倒事故<br /> | 画像 = Kyoto Station overbridge crowd accident.jpg<br /> | 脚注 = 事故を報じる[[大阪毎日新聞]]号外<br /> | 場所 = [[京都府]][[京都市]][[下京区]]<br /> | 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = <br /> | 経度度 = |経度分 = |経度秒 = <br /> | 日付 = [[1934年]]([[昭和]]9年)[[1月8日]]<br /> | 時間 = <br /> | 開始時刻 = <br /> | 終了時刻 = <br /> | 時間帯 = 22時<br /> | 概要 = [[群集事故]]<br /> | 原因 = 列車見送り客殺到による混雑<br /> | 手段 = <br /> | 武器 = <br /> | 攻撃人数 = <br /> | 標的 = <br /> | 死亡 = 77名<br /> | 負傷 = 74名<br /> | 行方不明 = <br /> | 被害者 = <br /> | 損害 = <br /> | 犯人 = <br /> | 容疑 = <br /> | 動機 = <br /> | 関与 = <br /> | 防御 = <br /> | 対処 = <br /> | 謝罪 = <br /> | 賠償 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;京都駅跨線橋転倒事故&#039;&#039;&#039;(きょうとえきこせんきょうてんとうじこ)は、[[1934年]](昭和9年)[[1月8日]]に、[[京都市]][[下京区]]の[[京都駅]]構内で起きた[[群集事故]]である。77人の死者を出す惨事となった。<br /> <br /> == 事故の概要 ==<br /> 1934年1月8日、[[広島県]][[呉市]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[海兵団]]に入団する[[兵 (日本軍)|新兵]]715人&lt;ref&gt;京都・[[金沢市|金沢]]・[[富山市|富山]]・[[敦賀市|敦賀]]・[[福井市|福井]]・[[津市|津]]の各陸軍連隊管内からの入団予定者であった。&lt;/ref&gt;(ほかに付添人約300人)を輸送する[[臨時列車]]が京都駅から運行されることになっていた。<br /> <br /> 臨時列車は当日午後10時22分に京都を発車する[[ダイヤグラム|ダイヤ]]であったが、早い時間から見送りの関係者(新兵の家族のほか[[在郷軍人会]]や[[青年団]]など、数千人とみられている)が駅構内に詰めかけていた。しかし、おびただしい人数のため、[[改札口]](中央口)に面した1番[[プラットホーム|ホーム]]は立錐の余地もない状態になっていた。<br /> <br /> 危険を感じた[[駅員]]は、群衆を第3ホーム(現在の4・5番線)に誘導することとした。既に多くの人がいた西[[跨線橋]]&lt;ref&gt;現在の南北自由通路の箇所にあり、1928年の[[昭和天皇]]即位大典の際に建設された幅の広い通路が特徴であった。&lt;/ref&gt;を避け、東跨線橋&lt;ref&gt;1981年の地下通路の完成により取り壊され、現存しない。&lt;/ref&gt;から第3ホームに群衆を下ろそうとしたが、ホームに通じる階段も既に人で溢れており、全く身動きが取れない状態になった。午後10時頃、[[階段]]の半ばで押し合いが起き、その中で転倒者が発生、その上に群衆が折り重なるように倒れかかった。結果として100人以上が下敷きとなり、77人が死亡、74人が負傷する惨事となった。犠牲者には海兵団の入団予定者2名のほか、[[新興キネマ]]の女優・[[原静枝]]も含まれていた。<br /> <br /> 事故翌日の[[東京朝日新聞]]には、現場近くに居合わせた[[記者]]による記事が掲載されており、それによると事故発生後、[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]や[[日本の警察官|警察官]]が群衆を下がらせたあと[[救助活動]]が実施され、死傷者はホームや駅員の休憩所に並べられた。在郷軍人が被害者に水を掛けたり[[人工呼吸]]を行うなど協力したという。東京朝日新聞には、事故を目撃した入団者から臨時列車の[[大阪駅]]停車中に取材した証言もあり、「ブリッジ(跨線橋)付近のホーム上は大根を押し重ねたように人が積みあがった地獄絵そのもの。物凄い叫びは、まだ耳に残っています」と記している。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[二重橋事件]]<br /> * [[彌彦神社事件]]<br /> * [[明石花火大会歩道橋事故]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.city.akashi.lg.jp/soumu/bousai_ka/h_safety/pdf/honpen3.pdf 明石花火大会歩道橋事故調査報告書(3)]59ページに当事故の概要についての説明がある。<br /> <br /> {{デフォルトソート:きようとえきこせんきようてんとうしこ}}<br /> [[Category:群集事故]]<br /> [[Category:戦前の京都]]<br /> [[Category:京都府の交通史]]<br /> [[Category:下京区の歴史]]<br /> [[Category:日本の鉄道史]]<br /> [[Category:昭和時代戦前の事件]]<br /> [[Category:1934年の日本における災害]]<br /> [[Category:1934年1月]]</div> 222.10.11.169 マイナウ宣言 2017-09-18T02:26:57Z <p>222.10.11.169: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2013年7月}}<br /> &#039;&#039;&#039;マイナウ宣言&#039;&#039;&#039;(Mainau Declaration)は、[[核兵器]]の使用に反対するアピールである。ドイツの核科学者である[[オットー・ハーン]]と[[マックス・ボルン]]が起草し、当時の[[西ドイツ]]の[[マイナウ]]([[:en:Mainau|en]])で提言された後に、1955年7月15日に当時西ドイツの[[リンダウ]]で行われた[[ノーベル賞]]受賞者の会議([[:en:Lindau Nobel Laureate Meetings|en]])で配布された。会議の参加者である18人のノーベル賞受賞者に署名され、さらに年内に52人のノーベル賞受賞者(ほとんどは化学者と物理学者)の署名を集めた。<br /> <br /> {{quotation|署名者の我々は、異なる国家、異なる教義、異なる政治的信念を持つ科学者である。外見上、我々は、かつてノーベル賞を受賞したということだけで結びつけられている。我々は喜んで人生を科学のために捧げてきた。我々は、それが人々の幸せな生活につながる道であると信ずる。我々は、この科学が人類に自身を破滅させる手段を与えてしまったことに慄然としている。今日、軍事利用することのできる全ての兵器によって、全ての人類を滅ぼすほどに地球を放射能で汚染することができる。中立国も交戦国と同じように滅びてしまうだろう。<br /> <br /> もし大国の間で戦争が勃発すれば、双方命懸けの衝突に発展しないと誰が保証できるだろうか?戦争に参加する国は、自身の破滅のきっかけとなり、さらに全世界を危険にさらす。<br /> <br /> :我々は、これらの兵器への恐怖感によって平和が正しく保持されるかもしれないということは否定しない。しかし、我々は、政府がそれらの兵器への恐怖によって長い間戦争を避けることができると信じているとすれば、それは妄想であると考える。恐怖と緊張は、しばしば戦争を引き起こしてきた。同様に、将来起こる小さな紛争が常に伝統的な兵器によって決着がつくと信じることは妄想であると思われる。非常に危険な時には、科学技術が生み出したあらゆる兵器の使用を否定する国はない。<br /> <br /> :全ての国が、政治の最後の手段として暴力に訴えることをやめることを自主的に決意しなければならない。もしそうしなければ、その国は消滅することになる。}}<br /> <br /> ==署名者==<br /> *[[オットー・ハーン]]<br /> *[[マックス・ボルン]]<br /> *[[湯川秀樹]]<br /> *[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]<br /> *[[アドルフ・ブーテナント]]<br /> *[[クルト・アルダー]]<br /> *[[アーサー・コンプトン]]<br /> *[[ゲルハルト・ドーマク]]<br /> *[[ハンス・フォン・オイラー=ケルピン]]<br /> *[[ゲオルク・ド・ヘヴェシー]]<br /> *[[リヒャルト・クーン]]<br /> *[[ライナス・ポーリング]]<br /> *[[フリッツ・アルベルト・リップマン]]<br /> *[[ハーマン・J・マラー]]<br /> *[[パウル・ヘルマン・ミュラー]]<br /> *[[レオポルト・ルジチカ]]<br /> *[[フレデリック・ソディ]]<br /> *[[ウェンデル・スタンリー]]<br /> *[[ヘルマン・シュタウディンガー]]<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[ラッセル=アインシュタイン宣言]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:まいなうせんけん}}<br /> [[Category:反核兵器運動]]<br /> [[Category:科学史]]<br /> [[Category:1955年の西ドイツ]]<br /> [[Category:バーデン=ヴュルテンベルクの歴史]]<br /> [[Category:バイエルンの歴史]]<br /> [[Category:1955年7月]]</div> 222.10.11.169 国体明徴声明 2017-09-15T11:03:20Z <p>222.10.11.169: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;国体明徴声明&#039;&#039;&#039;(こくたいめいちょうせいめい)とは、[[1935年]](昭和10年)の[[天皇機関説事件]]の中で、[[美濃部達吉]]の[[天皇機関説]]を排撃することで政治的主導権を握ろうとした[[立憲政友会]]・[[軍部#日本における軍部|軍部]]・[[右翼]]諸団体が時の[[岡田啓介内閣|岡田内閣]]に迫って出させた政府声明 。<br /> <br /> 天皇機関説が[[天皇]]を[[統治機構]]の一機関としているのに対し、国体明徴声明では天皇が統治権の主体であることを明示し、[[大日本帝国|日本]]が天皇の統治する[[国家]]であるとした宣言。<br /> <br /> == 国体明徴運動の経緯 ==<br /> === 国体明徴運動 ===<br /> そもそも[[大正]]期半ばから[[昭和]]初期にかけて、天皇機関説は国家公認の憲法学説であり、[[昭和天皇]]が天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことはよく知られている。<br /> <br /> しかし、軍部の台頭と共に起こった&#039;&#039;&#039;国体明徴運動&#039;&#039;&#039;の中で、天皇機関説は[[国体]]に反する学説として排撃を受け始めた。<br /> <br /> === 第1次国体明徴声明 ===<br /> [[1935年]](昭和10年)[[2月19日]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]本会議の演説において[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難した。<br /> <br /> この演説を引き金に軍部・右翼による機関説排撃が始まり、美濃部が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易に解説する釈明演説(2月25日貴族院本会議)を行うも、美濃部の著書は[[発禁]]となった(『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』)。<br /> <br /> さらに政友会・軍部・右翼は国体明徴運動を政治利用、各地の[[在郷軍人会]]を中心とする機関説排撃運動が全国的に展開されたため、岡田内閣はその対応策として1935年(昭和10年)[[8月3日]]「国体明徴に関する政府声明」を発し、天皇機関説は国体の本義に反するとした(&#039;&#039;&#039;第1次国体明徴声明&#039;&#039;&#039;)。<br /> <br /> === 第2次国体明徴声明 ===<br /> これを受けて軍部・右翼は運動の中止を指示、猛威を振るった運動は終息するかに見えた。<br /> <br /> 美濃部も1935年(昭和10年)[[9月18日]]、貴族院議員を辞するに至るが、辞職に際して出された美濃部の声明が軍部・右翼の猛反発を招き、紛議が再燃。軍部・右翼は国体明徴の徹底を[[岡田啓介|岡田首相]]に迫り、1935年(昭和10年)[[10月15日]]、政府は再び「国体明徴に関する政府声明」を発した(&#039;&#039;&#039;第2次国体明徴声明&#039;&#039;&#039;)。<br /> <br /> 第2次声明では、「機関説は国体の本義に反する」とするに留まっていた第1次声明よりさらに進んで、「機関説は芟除(さんじょ)されるべし」とされた。芟除とは「取り除く、摘み取る」という意味である。<br /> <br /> 以上のような一連の天皇機関説排斥運動に関して注意すべき点は、これが[[学術論争]]といった類のものではなく、[[政争]]の道具にされた点である。<br /> <br /> つまり[[立憲政友会]]による岡田内閣倒閣運動に使われたばかりか、軍部による政治的主導権奪取の手段として利用されたのである。2度にわたる政府声明を以って事態は一応の沈静化を見たが、これにより帝國憲法下における立憲主義の統治理念は公然と否定されることとなった。<br /> <br /> == 国体明徴声明全文 ==<br /> {{quotation|<br /> 恭しく惟みるに、我が國體は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるる所にして、萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚の隆は天地と倶に窮なし。されば憲法發布の御上諭に『國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ』と宣ひ、憲法第一條には『大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス』と明示し給ふ。即ち大日本帝國統治の大權は儼として天皇に存すること明かなり。若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關なりと爲すが如きは、是れ全く萬邦無比なる我が國體の本義を愆るものなり。近時憲法學説を繞り國體の本義に關聯して兎角の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。政府は愈々國體の明徴に力を效し、其の精華を發揚せんことを期す。乃ち茲に意の在る所を述べて廣く各方面の協力を希望す。<br /> |「国体明徴に関する政府声明」1935年8月3日 (第1次国体明徴声明)}}<br /> <br /> {{quotation|<br /> 曩に政府は國體の本義に關し所信を披瀝し、以て國民の嚮ふ所を明にし、愈々その精華を發揚せんことを期したり。抑々我國に於ける統治權の主體が天皇にましますことは我國體の本義にして、帝國臣民の絶對不動の信念なり。帝國憲法の上諭竝條章の精神、亦此處に存するものと拝察す。然るに漫りに外國の事例・學説を援いて我國體に擬し、統治權の主體は天皇にましまさずして國家なりとし、天皇は國家の機關なりとなすが如き、所謂天皇機關説は、神聖なる我が國體に悖り、其の本義を愆るの甚しきものにして嚴に之を芟除せざるべからず。政教其他百般の事項總て萬邦無比なる我國體の本義を基とし、其眞髄を顯揚するを要す。政府は右の信念に基き、此處に重ねて意のあるところを闡明し、以て國體觀念を愈々明徴ならしめ、其實績を收むる爲全幅の力を效さんことを期す。<br /> |「国体明徴に関する政府声明」1935年10月15日 (第2次国体明徴声明)}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 国体明徴ニ関スル再声明ヲ通牒ス(国立公文書館 公文類聚・第五十九編・昭和十年・第二巻・政綱二・地方自治二(台湾・統計調査)・雑載) [[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:A01200686500<br /> * 国体明徴問題に関する件 (陸軍省昭和11年密大日記第2冊) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C01004163700<br /> * 第3185号 10・7・25 国体明徴問題に関する件(海軍省公文備考 昭和10年 P 会議 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034588200 p1~p10<br /> <br /> == 関連項目 ==&lt;!--項目の50音順--&gt;<br /> *[[国体の本義]]<br /> *[[国体論争]]<br /> *[[天皇機関説]] - [[天皇機関説事件]]<br /> *[[美濃部達吉]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *{{Kotobank|国体明徴問題|2=世界大百科事典 第2版}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:こくたいめいちようせいめい}}<br /> [[Category:昭和時代戦前の政治]]<br /> [[Category:原理日本社]]<br /> [[Category:1935年の政治]]<br /> [[Category:1935年の日本]]<br /> [[Category:1935年8月]]<br /> [[Category:1935年10月]]</div> 222.10.11.169 静岡地震 (1935年) 2017-09-14T07:14:14Z <p>222.10.11.169: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{地震<br /> | name = 静岡地震<br /> | image = &lt;!--震源の位置以外の画像--&gt;<br /> | image name = &lt;!--震源の位置以外の画像の説明--&gt;<br /> | map = &lt;!--震源の位置画像--&gt;<br /> | imageby = &lt;!--震源の位置画像の出典--&gt;<br /> | map2 ={{Location map |Japan<br /> |label= <br /> |lat_deg=35<br /> |lat_min=1.4<br /> |lon_deg=138<br /> |lon_min=23.6<br /> |position=right<br /> |width=250<br /> |float=center<br /> |mark=Bullseye1.svg<br /> |marksize=25<br /> |caption=}}<br /> | caption = 地震の震央の位置を示した地図<br /> | date = [[1935年]]([[昭和]]10年)[[7月11日]]<br /> | time = 17時24分48.3秒([[日本標準時|JST]])<br /> | duration = &lt;!--持続時間--&gt;<br /> | center = {{JPN}} [[静岡県]][[静岡市]]付近&lt;br /&gt;北緯35度1.4分&lt;br /&gt;東経138度23.6分({{ウィキ座標|35|1.4||N|138|23.6||E||地図}})<br /> | depth = 10<br /> | scaletype = マグニチュード(M)<br /> | scale = 6.4<br /> | shindo = 6<br /> | shindoarea = [[静岡県]][[静岡市]]<br /> | tsunami = &lt;!--津波--&gt;<br /> | type = &lt;!--地震の種類--&gt;<br /> | after = &lt;!--余震の回数--&gt;<br /> | mostafter = &lt;!--最大余震--&gt;<br /> | deaths = &lt;!--死傷者数--&gt;<br /> | money = &lt;!--被害総額--&gt;<br /> | area = 主に静岡市・清水市<br /> | data = 気象庁<br /> | plus = &lt;!--注記--&gt;<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;静岡地震&#039;&#039;&#039;(しずおかじしん)とは、[[1935年]]([[昭和]]10年)[[7月11日]]に[[静岡県]][[静岡市]]付近を[[震源]]として発生した[[地震]]。同名の地震に1965年4月2日のものがあるが&lt;ref name=&quot;kenshin&quot;&gt;[http://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/kenshin/vol73p165.pdf 1935年および1965年の静岡地震による東海地震の発生時期への影響] 木村一洋・前田憲二・弘瀬冬樹 験震時報73巻 pp.165-168&lt;/ref&gt;、単に静岡地震といった場合は1935年のものを指すことが多い&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/gaikyo/monthly/201312/monthly201312.pdf 平成25年12月地震・火山月報(防災編)]}} 気象庁&lt;/ref&gt;。また「大谷地震」の別名がある。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 震源位置、静岡県静岡市の北緯35度1.4分、東経138度23.6分、地震の規模は[[マグニチュード|M]]6.4で、想定[[東海地震]]の震源域内で発生した地震である。震源の深さやメカニズムは諸説あり、気象庁では深さを10kmとし、甲斐・他(2008)は地殻内で発生した地震だとした。余震はほとんど観測されず、地震断層が生じたとの報告はない&lt;ref name=&quot;zisin1948.32&quot;/&gt;。武尾・他(1979)では震源の深さを27kmとし&lt;ref name=&quot;zisin1948.32&quot;&gt;[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/32/4/32_4_423/_article/-char/ja/ 武尾実、阿部勝征、辻秀昭:1935年7月11日静岡地震の発生機構] 地震 第2輯 Vol.32 (1979) No.4 P423-434&lt;/ref&gt;、これによれば沈み込んだ[[フィリピン海プレート]]で発生した地震(スラブ内地震)と考えられる&lt;ref name=&quot;kenshin&quot; /&gt;&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/shuto/materials/21-1-12.pdf 歴史地震等の記録の収集、整理及び再評価]}} 名古屋大学大学院環境学研究科&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;地殻内で発生した場合は東海地震の発生が遅れ、スラブ内地震の場合は東海地震の発生が早まるとされる。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 震度 ===<br /> 震度3以上を観測した地点は次の通り&lt;ref&gt;{{Cite web |url=http://www.data.jma.go.jp/svd/eqdb/data/shindo/index.php|title=震度データベース検索|publisher=[[気象庁]]|accessdate=2014-03-22}}&lt;/ref&gt;:<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! style=&quot;width:2em&quot; | 震度<br /> ! style=&quot;width:7em&quot; | 都道府県<br /> ! 市区町村<br /> |-<br /> ! style=&quot;background-color:#e60000&quot; | 6<br /> | [[静岡県]]<br /> | [[静岡市]][[駿河区]]<br /> |-<br /> ! style=&quot;background-color:#ffff00&quot; rowspan=&quot;3&quot; | 4<br /> | 静岡県<br /> | [[沼津市|沼津]]測候所 [[三島市]] [[富士宮市|大宮]]測候所<br /> |-<br /> | [[神奈川県]]<br /> | [[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]<br /> |-<br /> | [[山梨県]]<br /> | [[甲府市]] [[富士河口湖町]]<br /> |-<br /> ! style=&quot;background-color:#b9ff49&quot; rowspan=&quot;6&quot; | 3<br /> | 静岡県<br /> | [[伊東市|伊東]]測候所 [[御前崎市]]<br /> |-<br /> | 神奈川県<br /> | [[横須賀市|横須賀]]観測所<br /> |-<br /> | [[福井県]]<br /> | [[福井市]] <br /> |-<br /> | [[長野県]]<br /> | [[軽井沢町]] [[飯田市]]<br /> |-<br /> | [[愛知県]]<br /> | [[名古屋市]][[千種区]]<br /> |-<br /> | [[三重県]]<br /> | [[津市]] [[尾鷲市]]<br /> |}<br /> <br /> == 被害 ==<br /> 被害は有度山の北側と西側の地域に集中し、静岡市と[[清水市]]を中心に死者9名、全壊家屋360戸余りの被害を出した。震央よりもやや離れた場所で被害が大きくなる傾向にあり、[[日本平]]の南西側の高松地区、大谷地区と北西側の国吉田地区や栗原地区などで家屋倒壊率10%程度以上の多くの被害を出し、その中間の堀ノ内地区などではあまり被害は出なかった。また、日本平の北東側の有東坂地区や渋川地区でも被害があり、その更に東の[[清水港]]でも岩壁の大破があった&lt;ref name=&quot;rj&quot;&gt;{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_25/HE25_119_Hayashi.pdf 1935年静岡地震の断層モデルの再検討]}} 林能成、小澤邦雄 歴史地震第25号&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 金原・竹村(1935)による現地調査の結果、家屋の被害は大谷川やその西を流れる川の周辺で多く、大谷地区の東側に入ると急激に震害が減っていた。この違いは地盤の違いによるものとされる。また、東海道沿いでは[[谷津山]]よりも長沼の[[国道1号|静清国道]]沿いや古庄の方が被害が大きく、古庄から栗原にかけての東海道沿いはほとんど全壊に近い状態だった。川の存在により被害が増加することはよくあるが、長沼・古庄では道路の存在により被害が増加したように見えたとされる。[[清水市]]内では[[巴川 (静岡県)|巴川]]以東や志茂町、伝馬町、島崎、入船町付近の被害が大きかった&lt;ref name=&quot;kanemura&quot;&gt;[http://hdl.handle.net/2261/10237 金原壽郎、竹村千幹:昭和10年7月11日静岡地震震害調査報告] 東京帝国大学地震研究所彙報. 第13冊第4号, 1935.12.20, pp.966-984&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 道路の被害は小鹿大谷間道路の大谷寄りや[[静岡県道384号高松日出線|八幡高松間道路]]の有東高松間など、家屋被害の少ないところでも両側に田園のある地帯ではがけ崩れのように亀裂が生じた。道路の亀裂は南北方向に生じ、道路を横切るようなものはなかった。また、[[有度山]]の駿河湾に面した崖では大規模ながけ崩れが発生し、八幡山でも小規模ながらがけ崩れが発生した&lt;ref name=&quot;kanemura&quot; /&gt;。<br /> <br /> なお、この地震の発生に先立って南伊豆[[蓮台寺温泉]]では水位の異状が観測されている&lt;ref&gt;[http://doi.org/10.14834/zisin1929.7.608 福富孝治:昭和10年7月11日靜岡地震に伴つた南伊豆蓮臺寺温泉水位の異状] 地震 第1輯 Vol.7 (1935) No.12 P608-612&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://doi.org/10.14834/zisin1929.12.195 福富孝治:昭和10年7月11日静岡地震前後に起つた南伊豆蓮臺寺温泉水位の異状 (第2報)] 地震 第1輯 Vol.12 (1940) No.5 P195-207&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 出典 ==<br /> * [http://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/kenshin/vol9p065.pdf 昭和10年7月11日靜岡强震驗測槪要] 気象庁 驗震時報第9巻 pp.65-85<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> <br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[東海地震]]<br /> *[[静岡県東部地震]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://hdl.handle.net/2261/10240 福富孝治:昭和10年7月11日靜岡地震後に於ける水準測量結果報告] 東京帝国大学地震研究所彙報. 第13冊第4号, 1935.12.20, pp.1010-1018<br /> * [http://hdl.handle.net/10297/335 新妻信明:本州中部のテクトニクスと1993年の静岡の地震] 静岡大学地球科学研究報告 1995-07,22巻,p.11-22<br /> <br /> {{日本近代地震}}<br /> {{DEFAULTSORT:しすおかししん1935}}<br /> [[Category:昭和時代の地震]]<br /> [[Category:1935年の地震]]<br /> [[Category:1935年の日本]]<br /> [[Category:静岡県の歴史|ししん1935]]<br /> [[Category:1935年7月]]</div> 222.10.11.169 2006年3月29日の日食 2017-08-14T22:48:29Z <p>222.10.11.169: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>[[ファイル:Solar_eclipse_animate_(2006-Mar-29).gif|right|250px|thumbnail|2006年3月29日の日食]]<br /> &#039;&#039;&#039;2006年3月29日の日食&#039;&#039;&#039; (Solar eclipse of March 29, 2006) は、[[2006年]][[3月29日]]に[[南アメリカ]]、[[北アフリカ]]、[[ヨーロッパ]]、[[西アジア|西]]・[[中央アジア]]で観測された[[日食]]である。北アフリカ、西アジア、中央アジアで&#039;&#039;&#039;皆既日食&#039;&#039;&#039;が観測され、その他の地域でも部分日食が観測された。<br /> <br /> {| border=&quot;0&quot; style=&quot;border: 1px solid #999; background-color:#FFFFFF&quot;<br /> |- align=&quot;center&quot; bgcolor=&quot;#cccccc&quot;<br /> ! 現象 || 時間 (UTC) || 場所<br /> |-<br /> | 日食の始まり || 07:36:50 || {{coor dms|14|27|42|S|22|6|24|W}}<br /> |- <br /> | 皆既日食の始まり || 08:34:20 || {{coor dms|06|31|42|S|36|59|06|W}}<br /> |-<br /> | 最大の日食 || 10:11:20 || {{coor dms|23|08|54|N|16|45|36|E}}<br /> |-<br /> | 皆既日食の終わり || 11:47:55 || {{coor dms|51|20|36|N|98|30|30|E}}<br /> |-<br /> | 日食の終わり || 12:45:35 || {{coor dms|43|26|18|N|83|03|00|E}}<br /> |}<br /> [[ファイル:Total Solar Eclipse 2006 March 29 from ISS.jpg|thumb|right|250px|[[国際宇宙ステーション]]からみた[[トルコ]]周辺の地上の様子。上部中央の島は[[キプロス]]]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Wikinews|ブラジルからモンゴルで皆既日食}} <br /> {{commonscat|Solar eclipse of 2006 March 29}}<br /> * [http://sunearth.gsfc.nasa.gov/eclipse/solar.html NASA - Solar Eclipse Page]<br /> * [http://solar-eclipse-2006.info/ Solar Eclipse March 29 2006: All you need to know !]<br /> <br /> {{astro-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:につしよく20060329}}<br /> [[Category:2006年の科学]]<br /> [[Category:2006年3月]]<br /> [[Category:日食|20060329]]<br /> [[Category:天文学に関する記事]]</div> 222.10.11.169 2012年5月20日の日食 2017-08-14T22:45:28Z <p>222.10.11.169: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{Infobox 日食<br /> |date = 2012年5月20日・21日<br /> |English = Solar eclipse of May 20 or 21, 2012<br /> |image =<br /> |caption =<br /> |map = [[ファイル:SE2012May20A.gif]]<br /> |map_caption = 2012年5月20日・21日の日食<br /> |type_ref =<br /> |nature = [[金環日食]]<br /> |gamma = 0.4828<br /> |magnitude = 0.9439<br /> |saros = 128<br /> |saros_sequence = 58<br /> |saros_total = 73<br /> |max_eclipse_ref = <br /> |duration = <br /> |location = <br /> |coords = <br /> |max_width = <br /> |times_ref = <br /> |start_partial = <br /> |start_total = <br /> |start_central = <br /> |greatest_eclipse = <br /> |end_central = <br /> |end_total = <br /> |end_partial = <br /> }}<br /> [[File:Eclipse2012animation.gif|thumb|200px|ニューメキシコ州アルバカーキにおける観測をgifアニメにしたもの]]<br /> [[ファイル:Solar eclipse at kashima Japan May 21 2012.jpg|thumb|200px|茨城県鹿嶋市における観測 &lt;br /&gt;2012年5月21日7時35分頃]]<br /> [[ファイル:Solar Eclipse May 20,2012.jpg|thumb|200px|時系列画像]]<br /> [[ファイル:Annular solar eclipse 2012 May 21, Japan.jpg|thumb|200px|愛知県における時系列画像]]<br /> [[ファイル:May 20, 2012 Eclipse, seen from Wolfforth, Texas, USA.JPG|thumb|200px|アメリカのテキサス州における観測]]<br /> [[ファイル:Solar eclipse 2012 May 21, Taiwan.jpg|thumb|200px|[[台湾]]の[[基隆市]]における時系列画像]]<br /> 本項では、&#039;&#039;&#039;2012年5月20日の日食&#039;&#039;&#039;([[協定世界時|UTC]]、[[日本標準時]]など[[東アジア]]地域の時間では&#039;&#039;&#039;21日&#039;&#039;&#039;)について述べる。<br /> <br /> この&#039;&#039;&#039;[[日食]]&#039;&#039;&#039;(観測地域により&#039;&#039;&#039;金環日食&#039;&#039;&#039;あるいは部分日食)は、[[中国]]南部、[[日本列島]]、[[太平洋]]、[[アメリカ合衆国]]西部などで、現地時間の[[2012年]][[5月20日]]あるいは[[5月21日|21日]]に観測された。20日・21日と2日間にわたっているのは食の経路が[[日付変更線]]をまたいだためで、先に[[アジア]]地域で21日の[[朝]](現地時間)に見られた後、[[北アメリカ|北米]]地域では20日の[[夕方]](現地時間)に見られた事による。<br /> <br /> == 食の周期と状況 ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ 食の状況<br /> !項目!!内容<br /> |-<br /> |部分食の始まり(世界時)||5月20日20時56分07秒<br /> |-<br /> |金環食の始まり(世界時)||5月20日22時06分17秒<br /> |-<br /> |金環食の開始時の金環食帯の幅||324km<br /> |-<br /> |子午線中心食(世界時)||5月20日23時53分54秒<br /> |-<br /> |子午線中心食の場所||アリューシャン列島中央の南方海域<br /> |-<br /> |子午線中心食の座標||北緯49度06分、東経176度18分<br /> |-<br /> |金環食最大継続時間||05分46秒<br /> |-<br /> |金環食最大継続時の金環食帯の幅||237km<br /> |-<br /> |金環食の終わり(世界時)||5月21日01時39分11秒<br /> |-<br /> |金環食の終了時の金環食帯の幅||323km<br /> |-<br /> |部分食の終わり(世界時)||5月21日02時49分21秒<br /> |}<br /> :※表での時間表示は協定世界時を用いているので、日本時間に換算する場合は9時間を加えればよい。<br /> :※数値については、資料により多少異なるものもある。<br /> <br /> この金環日食は[[サロス周期|サロス]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ある日食が起きると、その18年と10日(その間に含まれる閏年の数によっては11日)と8時間後にまた太陽・月・地球がほとんど同じ位置に来るため、また日食が起こる。この周期をサロスと呼ぶ。&lt;/ref&gt;番号128番で、[[984年]]に[[南極]]で部分日食として始まり、徐々に北上して行ったものである。今回のサロスの3周期前に当たる[[1958年]][[4月19日]](日本時間)には2012年の場合より若干南を食の北限界線が通過したため、日本本土で金環日食を見る事はできなかったが、[[南西諸島]]北部から[[伊豆諸島]]北部では、好天に恵まれて金環日食が観測できた他、日本本土でも深い部分日食が見られた。その後、サロス番号第128の金環日食は、[[1976年]]には中心食帯が[[大西洋]]から[[アフリカ]]北西部を経て[[地中海]]から[[南アジア]]に達し、[[1994年]]には北太平洋東部から北アメリカを通過して大西洋を横断、[[北アフリカ]]西端に中心食帯が達した。2012年の次の周期に当たる[[2030年]][[6月1日]]には食の経路は更に北上し、[[北海道]]を夕方近くに中心食が通る。<br /> <br /> 2012年5月の金環日食では、21日の[[夜明け]](現地時間)と共に半影&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;皆既日食又は金環日食(以上を中心食と呼ぶ)が見られる周囲に広がり、太陽が完全に月に重ならず、部分的に欠ける部分日食が見える。&lt;/ref&gt;が、[[スカンディナヴィア]]北部から[[ユーラシア]]中部を通って[[インドネシア]]付近にいたる広い範囲で地球に接し、擬本影(ぎほんえい)&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;皆既日食の場合は、月が太陽が完全に隠してその影(本影)が地球上に落ちるが、月の視直径が太陽より小さい場合には、本影は地球表面に達する前にいったん収束して、月の周囲から太陽が細いリング状に見える擬本影が伸び、地球上に落ちる。&lt;/ref&gt;の中心線は中国と[[ベトナム]]の国境からやや東に行った[[南シナ海]]沿岸沖で地球に届いた。その後擬本影は中国の南シナ海沿岸に沿うように東進し、[[台湾]]北部をかすめて日本列島南部を通過、北太平洋を北上して[[アリューシャン列島]]中央部付近のすぐ南で子午線中心食となり、日付変更線を通過、5月20日に戻り、その後南寄りに進路を転じて&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;むろん、中心食帯はほぼまっすぐ進んでいるが、地球の地軸が傾斜した状態で自転しているなどの影響で、食の経路は曲線を描く。&lt;/ref&gt;北アメリカに達し、[[カリフォルニア州]]と[[オレゴン州]]の境界付近に上陸、[[ニューメキシコ州]]南西部で[[日没]]と共に終わった。半影の前半は中心食に先行して北アメリカ大陸を東進したが、[[アメリカ合衆国東海岸|東海岸]]に達する前に日没となって地球を離れた。<br /> : &lt;small&gt;&#039;&#039;&#039;参考文献&#039;&#039;&#039;:以上の内容は『[[理科年表]] 平成24年』(丸善出版株式会社・2011年)、『金環日食2012』(株式会社アストロアーツ・2012年)、[[ニュートン (雑誌)|Newton]] 臨時増刊『金環日食2012』(株式会社ニュートンプレス・2012年)等を参考とした。<br /> &lt;/small&gt;<br /> <br /> == 日本での見え方 ==<br /> 金環日食の中心食帯が日本列島の南側を通過し、[[九州地方]]南部、[[四国地方]]南部、[[近畿地方]]南部、[[中部地方]]南部、[[関東地方]]では&#039;&#039;&#039;金環日食&#039;&#039;&#039;の、また中心食帯の外側の日本列島の全域では部分日食の観測可能域となった。<br /> <br /> [[日本気象協会]]ではJWA10日間予報を用いて作成した日食当日の朝における日本各地の[[天気予報]]が分かる予想天気マップを[[5月11日]]より[[5月20日|20日]]まで毎日公開した&lt;ref&gt;[http://www.jwa.or.jp/content/view/full/4402/index.html トピックス:金環日食(5月21日)の天気予報を毎日発表]([[日本気象協会]] 2012年[[5月11日]])&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://tenki.jp/forecaster/diary/ 日直予報士(金環日食の天気マップを毎日発表)](日本気象協会 tenki.jp)&lt;/ref&gt;。多数の自治体・報道機関がよそ見などで事故を起こしたり目を痛めることのないよう注意を呼びかけた&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/special/2012annulareclipse/TKY201205190420.html 金環日食、安全な観察方法は 交通事故にも注意][[朝日新聞デジタル]]2012年5月21日5時6分配信(2015年12月17日閲覧)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.pref.tokushima.jp/docs/2012051600908/ 金環日食を安全に楽しむために][[徳島県]]2012年5月17日配信(2015年12月17日閲覧)&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;hatano2012&quot;&gt;[https://www.city.hadano.kanagawa.jp/anzen/anzen-anshin/kotsu/kinkannissyoku.html 金環日食に関する安全の確保について][[秦野市]]2012年5月14日配信(2015年12月17日閲覧)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.town.takaharu.lg.jp/modules/contents02/index.php?content_id=61 環日食現象に関する安全確保について][[高原町]](2015年12月17日閲覧)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.city.yokohama.lg.jp/bunka/kancon/kanko/kinkan.html 173年ぶりの「金環日食」を横浜で見よう!][[横浜市]]文化観光局(2015年12月17日閲覧)&lt;/ref&gt;ほか、登校時間をずらす小学校もあった&lt;ref&gt;[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2503D_V20C12A4000000/ 金環日食、登校時間ずらす 相模原市が事故防止で][[日本経済新聞]]2012年4月25日20時0分配信(2015年12月17日閲覧)&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;hatano2012&quot; /&gt;。<br /> <br /> 当日は日本の広い範囲で[[曇り]]となるとの天気予報が出ていたが&lt;ref&gt;[http://tenki.jp/forecaster/diary/detail-4678.html 金環日食の天気マップ]([[2012年]][[5月20日]]付予報、tenki.jp)&lt;/ref&gt;、東京では雲の合間から金環日食が観測されるなど、多くの地点で金環日食や部分日食が観測された&lt;ref name=&quot;mainichi&quot;&gt;{{Cite news|url=http://mainichi.jp/select/news/20120521k0000e040162000c.html|title=金環日食:見えた天空の輪 九州から東北で観測|date=2012-05-21|accessdate=2012-05-21|newspaper=毎日新聞}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この金環日食に伴い、日本では太陽観測用グラス(日食グラス)が爆発的に売れ、[[ビクセン (企業)|ビクセン]]製品は200万個を出荷&lt;ref&gt;[http://www.news-postseven.com/archives/20120518_108781.html 失明の恐れある金環日食 インドでは外出禁止令が出たことも]、[[NEWSポストセブン]]、2012年5月18日16:00。(『[[女性セブン]]』2012年5月31日号)&lt;/ref&gt;、[[ケンコー・トキナー]]製品のキャラクター付きグラスは100万個を販売した&lt;ref&gt;[http://archive.is/20130425014743/www.asahi.com/business/update/0507/TKY201205070351.html 金環日食はプロポーズの好機? 指輪・器具…商戦花盛り]、[[朝日新聞]]デジタル、2012年5月7日20:39。&lt;/ref&gt;。皆既日食と違い、金環日食では強い光を放つ太陽の光球がじかに見えるため裸眼での観測はもちろん、煤でいぶしたガラスやサングラス等でも目に危険で、この金環日食を観察した人の中には目に異常を訴えるものも現われ、1000人ほどが眼科を受診し、その内の一部で目に異常が継続している。日食網膜症に罹患した可能性も指摘されている&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/science/news/120825/scn12082517080002-n1.htm 金環日食で1000人が眼科を受診 80人は目に異常]、MSN産経ニュース、2012年8月25日17:05。&lt;/ref&gt;。また、金環日食の最中に男児が3階の窓から転落する事故が発生しており、この男児は金環日食を見ていて誤って転落した可能性がある&lt;ref&gt;[https://archive.is/Y7N2R 観察中に2歳男児転落? マンション前に倒れ重体 東京・大田][[産経新聞|産経ニュース]]2012年5月21日12時31分配信(2015年12月17日時点のアーカイブ)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 金環日食が見られた主な地点(都道府県庁所在地)は下記のとおり(いずれも時刻は[[日本標準時|JST]])&lt;ref&gt;[http://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/eclipsex_s.cgi 国立天文台暦計算室 日食各地予報] [[国立天文台]] [[2011年]][[12月12日]]閲覧)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ 日本で金環日食の見られた主な地点<br /> !地名!!食のはじめ!!金環日食のはじめ!!食の最大時刻!!最大食分!!金環日食の終わり!!中心食継続時間!!食の終わり<br /> |-<br /> |[[東京都|東京]]||6時19分05秒||7時32分02秒||7時34分32秒||0.968||7時37分02秒||5分00秒||9時02分37秒<br /> |-<br /> |[[静岡市|静岡]]||6時17分43秒||7時29分44秒||7時32分13秒||0.969||7時34分42秒||4分58秒||8時59分10秒<br /> |-<br /> |[[京都市|京都]]||6時17分41秒||7時30分00秒||7時30分35秒||0.940||7時31分09秒||1分09秒||8時55分17秒<br /> |-<br /> |[[高知市|高知]]||6時15分24秒||7時25分11秒||7時26分46秒||0.946||7時28分21秒||3分10秒||8時49分35秒<br /> |-<br /> |[[鹿児島市|鹿児島]]||6時12分49秒||7時20分05秒||7時22分11秒||0.954||7時24分17秒||4分12秒||8時42分26秒<br /> |}<br /> :※時間・食分については、資料により多少異なるものもある。<br /> <br /> 金環日食が観測されたのは、東京(島嶼部を除く)では173年ぶり&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;1839年早朝に江戸を金環食帯が通過(渡邊敏夫 『日本・朝鮮・中国‐日食月食宝典』 雄山閣 1979年)。&lt;/ref&gt;、大阪では282年ぶり&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;1730年、朝鮮半島北部から近畿地方を通る金環日食があった(渡邊敏夫 『日本・朝鮮・中国‐日食月食宝典』 雄山閣 1979年)。&lt;/ref&gt;、名古屋では932年ぶり&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;1080年、九州から関東地方まで広範囲を覆う金環食帯が通過した(渡邊敏夫 『日本・朝鮮・中国‐日食月食宝典』 雄山閣 1979年)。&lt;/ref&gt;となった&lt;!--&lt;ref name=&quot;mainichi&quot; /&gt;--&gt;。なお、日本国内において見られる次回の金環日食は[[北海道]]で[[2030年]][[6月1日]](土曜日)の夕方となる。<br /> <br /> == 世界各地での見え方 ==<br /> 日本を含む世界各国での観測予測時刻などが[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の「Eclipses」サイトにある「JavaScript Solar Eclipse Explorer」&lt;ref&gt;[http://eclipse.gsfc.nasa.gov/JSEX/JSEX-index.html JavaScript Solar Eclipse Explorer] [http://eclipse.gsfc.nasa.gov/eclipse.html NASA Eclipse Web Site] 2012年[[5月10日]]閲覧 - 地域(geographic area)→都市(city)→世紀(century)の順に指定する。&lt;/ref&gt;で算出可能。<br /> <br /> 例えば、今回の日食の場合、[[カナダ]]の[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]市(部分日食)では[[太平洋夏時間]]の2012年5月20日の16時58分41秒に始まり18時14分53秒に最大、アメリカ合衆国の[[ロサンゼルス]]市(部分日食)では同17時24分59秒に始まり18時38分15秒に最大という予測がされていた。&lt;!--例を増やしたい場合は表(wikitable)にして下さい。--&gt;<br /> <br /> === アジア ===<br /> 中国西部・東南アジアの大部分で日出帯食となり、中心食帯はマカオ・香港・アモイ・台北を通過して金環日食が見られた。また、中国東部やシベリアなどでは日の出後に部分日食となった&lt;ref&gt;『理科年表 平成24年』(丸善出版株式会社・2011年)、『金環日食2012』(株式会社アストロアーツ・2012年)、Newton 臨時増刊『金環日食2012』(株式会社ニュートンプレス・2012年)等による。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === アメリカ合衆国 ===<br /> [[アメリカ合衆国本土]]では、[[1994年]][[5月10日]]以来となる金環日食であり&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;今回の食であるサロス番号128番に属するもので、1サロス前の金環日食である。&lt;/ref&gt;、かつ[[21世紀]]で最初の中心食であった&lt;ref name=&quot;earthsky&quot;&gt;[http://earthsky.org/tonight/annular-eclipse-of-the-sun-china-to-texas-on-may-20-or-may-21 Annular eclipse of the sun – China to Texas – on May 20 or May 21] &#039;&#039;EarthSky&#039;&#039; 2012年5月20日付&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;1995年の金環日食、1997年の皆既日食など、中心食がアメリカ国内を通らないため部分日食しか見えなかった場合が何回かある。&lt;/ref&gt;。アメリカ合衆国本土における次の金環日食は、2023年10月14日になる&lt;ref name=&quot;earthsky&quot;/&gt;。<br /> * [[オレゴン州]]南部と[[カリフォルニア州]]北部から[[テキサス州]]東部にかけての地域では、夕刻に金環日食が観測可能であった&lt;ref&gt;[http://www.cnn.co.jp/fringe/30006659.html アジア太平洋各地で金環日食、光の輪くっきり] &#039;&#039;CNN.co.jp&#039;&#039; 2012年5月21日付&lt;/ref&gt;。<br /> ** [[ユタ州]]では夕空の中で金環日食となり、食のまま太陽が沈んだ&lt;ref&gt;[http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/220521021.html 【金環日食】海外では“世紀の夕焼け”も…](ANNニュース 2012年5月21日)&lt;/ref&gt;。<br /> ** [[ニューメキシコ州]]の[[アルバカーキ]]市や[[ロズウェル (ニューメキシコ州)|ロズウェル]]市などでも金環日食が観測された&lt;ref name=&quot;karapaia&quot;&gt;[http://karapaia.livedoor.biz/archives/52084942.html 世界各国のお空に輝く 金環日食・ダイアモンドリング] &#039;&#039;カラパイア&#039;&#039; 2012年5月21日付&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;maash&quot;&gt;[http://maash.jp/archives/13944 CNN写真特集 世界中の日食] &#039;&#039;MAASH&#039;&#039; 2012年5月22日付&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;alaskadispatch&quot;&gt;[http://www.alaskadispatch.com/slideshow/photos-alaskas-view-solar-eclipse-may-20-2012 Photos: The 2012 Annular Solar Eclipse] &#039;&#039;Alaska Dispatch&#039;&#039; 2012年5月20日付&lt;/ref&gt;。<br /> * カリフォルニア州南部のロサンゼルス市&lt;ref name=&quot;karapaia&quot;&gt;[http://karapaia.livedoor.biz/archives/52084942.html 世界各国のお空に輝く 金環日食・ダイアモンドリング] &#039;&#039;カラパイア&#039;&#039; 2012年5月21日付&lt;/ref&gt;、[[アリゾナ州]][[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]]市&lt;ref name=&quot;karapaia&quot;/&gt;、[[コロラド州]][[デンバー]]市&lt;ref name=&quot;atlantic&quot;&gt;[http://www.theatlantic.com/infocus/2012/05/a-ring-of-fire-the-2012-annular-eclipse/100301/ In Focus - A Ring of Fire: The 2012 Annular Eclipse] &#039;&#039;The Atlantic&#039;&#039; 2012年5月21日付&lt;/ref&gt;、[[アラスカ州]]&lt;ref name=&quot;alaskadispatch&quot;/&gt;などでは部分日食が観測された。<br /> * [[アメリカ合衆国東海岸|東海岸地域]]では、日食前に日没を迎えたため見られなかった。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> &lt;references group=&quot;注&quot;/&gt;<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 『[[理科年表]] 平成24年』 丸善出版株式会社 2011年<br /> * 『金環日食2012』 株式会社アストロアーツ 2012年<br /> * [[ニュートン (雑誌)|Newton]] 臨時増刊『金環日食2012』 株式会社ニュートンプレス 2012年<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[1997年3月9日の日食]]<br /> * [[2009年7月22日の日食]]<br /> * [[2010年1月15日の日食]]<br /> * [[WONDER 3]] - [[1990年]][[11月1日]]に発売された[[DREAMS COME TRUE]]の3枚目のアルバム。収録曲「時間旅行」の歌詞で今回の金環日食に言及している。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Solar eclipse of 2012 May 21 in Japan|日本での2012年5月21日の日食}}<br /> * [http://naojcamp.mtk.nao.ac.jp/phenomena/20120521/index.html 2012年5月21日(月)朝 金環日食] - 国立天文台<br /> * [http://www.annulareclipse2012.com/index.html 2012年5月21日は金環食をみよう! 全国市区町村別 金環食・部分日食観測ガイド]<br /> * [http://homepage2.nifty.com/turupura/nissyoku/2012kinkan/menu.html 金環日食の解説 2012年5月21日] - つるちゃんのプラネタリウム<br /> * [http://eclipse.gsfc.nasa.gov/OH/OH2012.html Eclipses During 2012] - [[NASA]](英語)<br /> <br /> {{Astro-stub}}<br /> {{デフォルトソート:につしよく20120520}}<br /> [[Category:2012年の科学]]<br /> [[Category:2012年5月]]<br /> [[Category:日食|20120520]]<br /> [[Category:天文学に関する記事]]</div> 222.10.11.169 テンプレート:IT-VEN 2017-07-17T07:56:46Z <p>222.10.11.169: </p> <hr /> <div>{{Flagicon|Veneto}} [[ヴェネト州|ヴェネト]]&lt;noinclude&gt;<br /> [[Category:イタリアの州旗テンプレート]]<br /> &lt;/noinclude&gt;</div> 222.10.11.169 テンプレート:IT-LIG 2017-07-17T07:49:27Z <p>222.10.11.169: </p> <hr /> <div>{{Flagicon|Liguria}} [[リグーリア州|リグーリア]]&lt;noinclude&gt;[[Category:イタリアの州旗テンプレート]]&lt;/noinclude&gt;</div> 222.10.11.169 1942年11月15日国鉄ダイヤ改正 2017-06-26T00:16:53Z <p>222.10.11.169: /* 注釈 */</p> <hr /> <div>{{Pathnav|国鉄ダイヤ改正|1908年-1945年の国鉄ダイヤ改正|frame=1}}<br /> {{出典の明記|date=2016年7月}}<br /> &#039;&#039;&#039;1942年11月15日国鉄ダイヤ改正&#039;&#039;&#039;(1942ねん11がつ15にち こくてつダイヤかいせい)では、[[1942年]]([[昭和]]17年)[[11月15日]]に[[鉄道省]]線([[日本国有鉄道|国鉄]]・省線)にて実施された[[ダイヤ改正]]について著述する。<br /> <br /> == ダイヤ改正の背景 ==<br /> 前年[[12月8日]]に[[日本軍]]が[[真珠湾攻撃]]を行ったことで&#039;&#039;&#039;[[太平洋戦争]]&#039;&#039;&#039;が勃発したため、[[1937年]](昭和12年)の[[日中戦争]]勃発以来すでに戦時輸送体制へ移行しつつあった日本の鉄道にも、一層の&#039;&#039;&#039;軍事輸送強化&#039;&#039;&#039;が望まれるようになった。<br /> <br /> このような情勢下、[[1936年]](昭和11年)[[9月19日]]に起工式が行われて工事が実施されていた&#039;&#039;&#039;[[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]]&#039;&#039;&#039;のうち下り本線が[[1941年]](昭和16年)に貫通し、1942年(昭和17年)中には列車運行が行えることになった。<br /> <br /> 同トンネルは、元々[[関門連絡船]]によって連絡していた[[本州]]と[[九州]]間の鉄道輸送力を、[[トンネル]]を掘る事によって強化しようとして着工されたものである。しかし日中戦争が勃発して以来、[[筑豊]]からの[[石炭]]輸送を従来は船舶によって行っていたものを鉄道輸送に転移させ、捻出した船舶を他に活用しようという着想が浮上し、トンネル工事は困難を押して急ピッチで進められ、貫通に至った。<br /> <br /> 関門間輸送の改善は急務であったため、上り用のトンネルが完成するまで、当座は下り用トンネルで上下線列車を走らせる単線運行を行うこととした&lt;ref group=&quot;†&quot;&gt;このため現在においても下関 - 門司駅間は単線並列方式となっており、緊急時は上下線いずれかを封鎖し単線運転を行うことがある{{要出典|date=2016年7月}}。&lt;/ref&gt;。まず1942年(昭和17年)[[6月11日]]から試運転列車が運転され、[[6月13日]]には暫定的に貨物列車の運行を行うようになった。<br /> <br /> [[7月1日]]には正式開業となって[[山陽本線]]に同トンネルが組み込まれ、この11月15日改正からは旅客列車の運行も行う事になった。当時このトンネルは、画期的な海底トンネルということからマスコミによって「&#039;&#039;&#039;[[龍宮]]の回廊&#039;&#039;&#039;」とも呼ばれた。なお、上り本線が開通したのは[[1944年]](昭和19年)[[9月9日]]である。<br /> <br /> 関門トンネル開通は九州連絡ルートの著しい改善になったことから、東京以西各線では大規模なダイヤ改正が実施されることになった。基本的には同トンネルを最大限に有効活用できるような列車設定になったが、軍事輸送の関係で一部優等列車の見直しも図られている。<br /> <br /> またこれに先立つ[[9月26日]]には、既に[[南満州鉄道]]で取り入れられていた「[[24時制]]」を、日本でもそれまでの「12時制」([[正午|午前・午後]]により識別)に代わって取り入れている。東亜旅行社(現・[[ジェイティービー]])が発行していた「時間表」も、この時から現在の名前である「&#039;&#039;&#039;[[時刻表]]&#039;&#039;&#039;」に改められた。従前の時間表では、午前・午後の表記を字体の細字・太字で区別していたが、これは時刻表にも24時間制が採用されたことで解消された。<br /> <br /> == 改正の内容 ==<br /> === 本州-九州直通列車 ===<br /> 関門鉄道トンネルは本州と九州を鉄路で直結したことから、当然ながらこのダイヤ改正では直通列車が多数設定された。<br /> <br /> まず、当時の国鉄を代表する優等列車であった[[特別急行列車]]「&#039;&#039;&#039;[[富士 (列車)|富士]]&#039;&#039;&#039;」は、それまでの[[下関駅]]発着から[[長崎駅]]発着に延長され、さらに[[上海市|上海]]からの航路が長崎に入港する日には、港付近に設けられた[[長崎港駅]]まで上り列車に限り乗り入れる事になった。そして東京と下関を結んでいたもう一本の特急列車である「&#039;&#039;&#039;[[さくら (列車)|櫻]]&#039;&#039;&#039;」は、それまでの下関駅発着から[[鹿児島駅]]発着へ延長されたが、&#039;&#039;&#039;急行7・8列車&#039;&#039;&#039;と急行列車に格下げされる事になった。なお、「富士」同様に[[連絡運輸#国際連絡運輸|国際連絡運輸]]の一環をなしていた東京駅 - 下関駅([[呉線]]経由)間の&#039;&#039;&#039;急行7・8列車&#039;&#039;&#039;は、&#039;&#039;&#039;急行3・4列車&#039;&#039;&#039;に改められてこれまた鹿児島駅まで足を伸ばした。この列車は、全区間走破に2泊3日を要することになった。<br /> <br /> 他にも、所要時間41時間25分という鹿児島駅発東京駅行きの上り&#039;&#039;&#039;[[ムーンライトながら#東海道本線夜行普通列車沿革|普通34列車]]&#039;&#039;&#039;など、下り19本・上り18本の列車(内特急が1往復、急行が4往復)が同トンネルを越えることになった。<br /> <br /> その一方で長距離移動客や観光客を抑制しようとの考えから、[[東京駅]] - [[大阪駅]]間で運行されていた特急「&#039;&#039;&#039;[[つばめ (列車)|燕]]&#039;&#039;&#039;」の[[臨時列車|不定期増発列車]]や、東京駅 - [[沼津駅]]間運行の温泉[[準急列車]](現在の[[快速列車]]に近い。「[[踊り子 (列車)]]」も参照)などが廃止されている。<br /> <br /> === 北海道各線 ===<br /> この時のダイヤ改正では、東京以北など、関門トンネル開通と無関係な路線では殆ど時刻が変わらなかったが、唯一[[北海道]]では若干の改正が行われた。<br /> <br /> [[函館本線]]・[[宗谷本線]]経由で[[函館駅]] - 稚内桟橋駅([[稚内駅]]の構内扱いで桟橋側に延長して設けられた仮駅)間を結んだ&#039;&#039;&#039;急行1・2列車&#039;&#039;&#039;の所要時間が下りで31分・上りで46分短縮され、函館駅 - [[網走駅]]間を運行していた&#039;&#039;&#039;急行3・4列車&#039;&#039;&#039;が廃止された。いわゆる「稚内急行」のスピードアップの背景には、[[稚内市|稚内]]から[[樺太]](現在[[ロシア|ロシア連邦]]占領下)の[[大泊町|大泊]](現・[[コルサコフ (サハリン州)|コルサコフ]])へ向かう[[稚泊連絡船|航路(稚泊連絡船など)]]が当時存在し、同地へ渡る人が[[ソビエト連邦|ソ連]]に備える為などから増加した事情が挙げられる。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|group=&quot;†&quot;}}<br /> &lt;!--<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> --&gt;<br /> <br /> {{国鉄・JRダイヤ改正}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:こくてつたいやかいせい19421115}}<br /> [[Category:日本国有鉄道のダイヤ改正|1942]]<br /> [[Category:1942年の日本]]<br /> [[Category:1942年の鉄道]]<br /> [[Category:1942年11月]]</div> 222.10.11.169 テンプレート:IND1885 2017-05-04T03:59:28Z <p>222.10.11.169: </p> <hr /> <div>{{Flagicon|IND1858}} [[イギリス領インド帝国]]&lt;noinclude&gt;<br /> [[Category:各国の国旗と国名テンプレート|IND1885]]<br /> &lt;/noinclude&gt;</div> 222.10.11.169 竹槍事件 2017-04-26T22:40:08Z <p>222.10.11.169: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;竹槍事件&#039;&#039;&#039;(たけやりじけん)とは、[[第二次世界大戦]]中の[[1944年]](昭和19年)2月23日付け『[[毎日新聞]]』第一面に掲載された戦局解説記事が原因でおきた言論弾圧事件&lt;ref&gt;[[小野秀雄]]『増補 新聞の歴史』128頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;春原昭彦『三訂 日本新聞通史』「第7章 新聞統制時代」223-225頁 新泉社 1987年&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;東京12チャンネル報道部『証言4私の昭和史』「竹槍事件ー懲罰召集された新聞記者ー」162-173頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;茶本繁正『戦争とジャーナリズム』「竹ヤリ事件」344-347頁 三一書房 1984年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 問題となった戦局解説記事は、[[毎日新聞社]]政経部および[[黒潮会]]([[海軍省]][[記者クラブ]])主任記者である[[大日本帝国海軍|海軍]]御用記者の[[新名丈夫]]記者が執筆した記事(見出し作成は[[山本光春]])で、「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た」という大見出しの下でまず「眦決して見よ 敵の鋏状侵寇」として南方における防衛線の窮状を解説し続いて「[[竹槍]]では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」として海軍航空力を増強すべきだと説いている([[#『毎日新聞』(1944年2月23日付)の記事]]参照)。これは海軍航空力増強を渇望する海軍当局からは大いに歓迎されたが、時の[[東條英機]][[陸軍大臣|陸相]]兼[[内閣総理大臣|首相]]は怒り、毎日新聞は[[松村秀逸]]大本営報道部長から掲載紙の発禁&lt;ref&gt;発禁といってもこの日の朝刊はすでに配達済みで実効性はなかった。&lt;/ref&gt;および編集責任者と筆者の処分を命じられた。毎日新聞社は編集責任者は処分したものの、筆者である新名記者の処分は行わなかったところ、その後ほどなく新名記者が37歳にして召集された&lt;ref&gt;東京12チャンネル報道部『証言4私の昭和史』「竹槍事件ー懲罰召集された新聞記者ー」162-173頁&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;mainichi100&quot;&gt;『毎日新聞百年史』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> この事件の背景には、海軍が海洋航空力を増強するため陸軍より多くの航空機用資材(ジェラルミンなど)を求めても、陸軍はこれに応じようとはしないで、半々にせよとして譲らない、海軍の飛行機工場の技師を召集してしまうなど、航空機や軍需物資の調達配分をめぐる陸軍と海軍の間の深刻な対立があった&lt;ref&gt;今西光男『新聞 資本と経営の昭和史ー朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩(朝日選書824)』「竹槍では間に合わぬ」269-271頁 朝日新聞社 2007年&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『証言4私の昭和史』&lt;/ref&gt;。しかし陸軍は[[1942年]]末の時点で(海軍航空の大消耗に驚嘆した)海軍の要求に答えるかたちで本来は海軍航空担当地域である筈の[[ソロモン諸島]]、[[ニューギニア]]方面に陸軍航空を大規模派兵しており、特に長期にわたる[[ニューギニアの戦い]](本来の海軍航空は戦力再編ため撤退し陸軍航空のみが同方面を担当)にて&lt;ref&gt;[http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/201203/08.pdf 防衛省防衛研究所 太平洋戦争における航空運用の実相―運用理論と実際の運用との差異について― 由良富士雄] 7項&lt;/ref&gt;、戦線非拡大派であった陸軍・陸軍航空は不本意な大消耗を強いられ陸軍航空は大きな損害を被っていることに留意する必要がある(1944年4月の[[ホーランジアの戦い|ホーランジア陥落]]をもって[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]各部隊は事実上壊滅)。<br /> <br /> 1943年末には海軍の[[源田実]]と陸軍の[[瀬島龍三]]は共同研究による大本営陸海軍部の合一に関する研究案を提出し、陸海の統帥部一体化、航空兵力統合などを提案したが、1944年2月21日に軍令部総長を兼任した海軍大臣[[嶋田繁太郎]]により即刻研究中止となった&lt;ref&gt; 戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期298頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2014/02.pdf#search=&#039;%E9%99%B8%E6%B5%B7%E3%81%AE%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E9%83%A8%E4%B8%80%E4%BD%93%E5%8C%96&#039;]2016年8月17日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 東條はこのころ、戦争遂行のためには国務と統帥の一致が必要と考え、[[トラック島空襲]]をきっかけにして首相・陸相と参謀総長の兼務に踏み切ったところであった。これは統帥権に抵触するおそれがあるとして「東條幕府」と揶揄され様々な問題や軋轢を生んでいた。[[秦郁彦]]は、東條は政府批判や和平運動は「国賊的行動」とみなし、また東條批判は「陛下のご信任によって首相の任にある者に対する批判や中傷はすなわち陛下に対する中傷」として許さず、憲兵を使って言論を取り締まり、批判者を懲罰召集して激戦地に送る仕打ちをしたと見ている&lt;ref name=&quot;hata&quot;&gt;([[秦郁彦]]『現代史の争点』 文春文庫 )ただし、これは東條自身の真意か、それとも側近や憲兵の迎合か、はっきりしないことは秦自身も認めている。&lt;/ref&gt;。1942年9月12日から1944年1月29日にかけては戦時中最大の言論弾圧事件である[[横浜事件]]が発生した。<br /> <br /> 東條が出した『非常時宣言』の中の「本土決戦」によると、「[[玉砕|一億玉砕]]」の覚悟を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で[[竹槍]]訓練を実施した。<br /> <br /> そのような状況下で、深刻な航空機不足に直面していた海軍では、航空機用資材の供給についての要求が通らなかったことで陸軍および東條内閣への不満が強まっていた。そこで毎日新聞の黒潮会(海軍省記者クラブ)担当キャップだった新名は海軍に同調し、海軍省との[[紳士協定]](「海軍省担当キャップが執筆した記事については事前検閲は不要」)を利用してキャンペーン記事を書くことを進言した&lt;ref name=&quot;yondebikkuri252&quot;&gt;{{Cite book<br /> | 和書<br /> | author = 安田将三、石橋孝太郎<br /> | year = 1994<br /> | title = 読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事<br /> | pages = pp.252-253<br /> | publisher = リヨン社<br /> | isbn = 4576941119<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 新名は「日本の破局が目前に迫っているのに、国民は陸海軍の酷い相克を知りません。今こそ言論機関が立ち上がるほかありません」と上司の吉岡文六編集局長に上告書を出した&lt;ref&gt;前坂俊之『太平洋戦争と新聞』(406頁)。講談社 2007年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 『毎日新聞』(1944年2月23日付)の記事 ==<br /> 新名の執筆記事は「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と題して、[[1944年]](昭和19年)2月23日付の『[[毎日新聞]]』朝刊に掲載された&lt;ref name=&quot;yondebikkuri252&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;日本労働年鑑&quot;&gt;「[http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-190.html 第三節 新聞・放送・映画・芸能統制(つづき)]」『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動』190, [[法政大学大原社会問題研究所]]&lt;/ref&gt;。<br /> : 「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」<br /> : 「戦争は果たして勝っているのか」<br /> : 「ガダルカナル以来過去一年半余、我が陸海将兵の血戦死闘にもかかわらず、太平洋の戦線は次第に後退の一途を辿っている事実をわれわれは深省しなければならない」<br /> : 「日本は建国以来最大の難局を迎えており、大和民族は存亡の危機に立たされている。大東亜戦争の勝敗は太平洋上で決せられるものであり、敵が日本本土沿岸に侵攻して来てからでは万事休すである」<br /> : 「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」<br /> : 「大東亜戦争の勝敗は海洋航空兵力の増強にかかっており、敵の航空兵力に対して竹槍で対抗することはできない」<br /> : 「ガダルカナル以来の我が戦線が次第に後退のやむなきに至ったのも、アッツの玉砕も、ギルバートの玉砕も、一にわが海洋航空戦力が量において敵に劣勢であったためではなかろうか」<br /> 同じ一面にあった社説の「今ぞ深思の時である」でも精神主義についての批判が行われた。<br /> : 「我らは敵の侵攻を食い止められるのはただ飛行機と鉄量とを敵の保有する何分の一かを送ることにあると幾度となく知らされた。然るにこの戦局は右の要求が一向に満たされないことを示す」<br /> : 「勝利の条件にまず信念があることに相違はないが、それは他の条件も整った上でのことであって、必勝の信念だけでは戦争に勝たれない」<br /> 記事には陥落したばかりのマーシャル・ギルバート諸島から日本本土や台湾・フィリピンへ至る米軍の予想侵攻路が添えられていた。<br /> <br /> この日の一面のトップ記事は東条首相が閣議で上記の「非常時宣言」を発表した記事が載っており、その下に置かれた「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」の見出しはこれに対し真っ向から挑戦する見出しであった&lt;ref&gt;前坂俊之『太平洋戦争と新聞』(404頁)。講談社 2007年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 新名は開戦時から海軍を担当、18年1月から約半年間はガダルカナルで従軍して前線の惨状をつぶさに見聞きし、またマーシャル・ギルバート陥落では大本営が20日間も報道発表をためらって大騒動を演じている様子を見ており、日本の窮状と大本営作戦の内容を把握していた&lt;ref&gt;前坂俊之『太平洋戦争と新聞』(406頁)。講談社 2007年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 陸軍報道部は、毎日新聞に処分を要求。更に内務省は掲載新聞朝刊の発売・頒布禁止と差し押さえ処分を通達した&lt;ref&gt;[[前坂俊之]]『太平洋戦争と新聞』 講談社学術文庫&lt;/ref&gt;(ただし、この時点で問題の朝刊は配達を終えていた&lt;ref name=&quot;yondebikkuri252&quot;/&gt;)。<br /> <br /> そこへ火に油を注ぐように、同日夕刊トップでは「いまや一歩も後退許されず、即時敵前行動へ」と題する記事が掲載された。記事中で<br /> &lt;blockquote&gt;日本の抹殺、世界制圧を企てた敵アングロサクソンの野望に対しわれわれは日本の存亡を賭して決起したのである。敵が万が一にもわが神州の地に来襲し来らんにはわれらは囚虜の辱めを受けんよりは肉親相刺して互に祖先の血を守つて皇土に殉ぜんのみである。しかも敵はいまわが本土防衛の重大陣地に侵攻し来つてその暴威を揮ひつつある。われらの骨、われらの血を以てわが光輝ある歴史と伝統のある皇土を守るべき秋は来たのだ。&lt;/blockquote&gt;<br /> と述べており、記事の趣旨は戦争自体を肯定した上で戦況が悪化している現状を伝え、その打開策を提言したものである&lt;ref name=&quot;yondebikkuri252&quot;/&gt;が、東條は「統帥権干犯だ」として怒った。夕刊記事の執筆は新名ではなく清水武雄記者によるものだったが、この責も新名が引き受けた&lt;ref&gt;『毎日新聞百年史』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 新名は責任を感じ、吉岡文六編集局長に進退伺いを提出したが、吉岡はこれを受理せず、3月1日、自身が加茂勝雄編集局次長兼整理部長とともに引責辞任した&lt;ref name=&quot;yondebikkuri252&quot;/&gt;&lt;ref&gt;二人は東條内閣瓦解後に復職している(『決定版 昭和史11 破局への道』224-225頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この記事は読者から大きな反響を呼び、毎日新聞では全国の販売店や支局から好評との報告が入った。海軍省報道部の田中少佐は「黒潮会」で「この記事は全海軍の言わんとするところを述べており、部内の絶賛を博しております」と述べた&lt;ref&gt;前坂俊之『太平洋戦争と新聞』(405頁)。講談社 2007年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 東條は[[内閣情報局]]次長[[村田五郎]]に対して「竹槍作戦は陸軍の根本作戦ではないか。毎日を廃刊にしろ」と命令した。村田は「紙の配給を停止すれば廃刊は容易」とした上で「日本の世論を代表している新聞のひとつが“あのくらいの記事”を書いたことで廃刊になれば、世論の物議を醸し、外国からも笑われます」と述べ、東條を諫めた&lt;ref&gt;村田五郎氏談話速記録 第3回 内政史研究資料&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;yondebikkuri248&quot;&gt;{{Cite book<br /> | 和書<br /> | author = 安田将三、石橋孝太郎<br /> | year = 1994<br /> | title = 読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事<br /> | pages = p.248<br /> | publisher = リヨン社<br /> | isbn = 4576941119<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 24日には陸軍報道部が朝日新聞に「陸軍の大陸での作戦は海軍の太平洋での作戦と同じくらい重要」という内容の指導記事(政府・軍部が予め内容を指示した記事)を掲載させた&lt;ref&gt;前坂俊之『太平洋戦争と新聞』(408頁)。講談社 2007年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 本事件の本質は単なる言論弾圧ではなく、軍需物資の海軍配当割増を要求する海軍の思惑に、海軍御用記者である新名が同調した結果の陸海軍対立事件であった。そのため、東條批判を日記に綴ることが多かった[[細川護貞]]([[高松宮宣仁親王]]御用掛)をして、本件に関しては東條の怒りに理解を示し「是は記者の非常識にして、東条の激怒も亦宜なり」としている&lt;ref&gt;細川護貞『細川日記』昭和19年2月26日の記述(138頁)。中央公論社 1978年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 戦時中の言論弾圧事件としてはこの他に[[横浜事件]]や[[大阪商大事件]]、[[尾崎不敬事件]]や[[新興俳句弾圧事件]]があったが本事件は陸海軍の対立が大きな背景となった点で他のケースとは趣を異にしている。<br /> == 新名の「懲罰召集」 ==<br /> 毎日新聞は責任者を処分したが、新名は退社させず、逆に編集局長が賞を与えるなどした。記事執筆から8日後、新名に召集令状が届く。新名本人も周囲も、この「指名召集」を東條首相による「懲罰召集」だと受け止めた&lt;ref&gt;秦郁彦は、どこまで東條の真意か側近らの迎合や追い打ちだったかはっきりしないが、東條の性格が反映した事件だと断じている。(『現代史の争点』210-212頁)&lt;/ref&gt;。新名は郷里、高松に行き、二等兵として丸亀の重機関銃中隊([[第11師団 (日本軍)|第11師団]][[歩兵第12連隊]])に1人で入営した。中央からは、激戦地となることが予想される[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]の「球」部隊へ転属させるよう指令が届いていた&lt;ref&gt;『証言4私の昭和史』170頁&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;日本労働年鑑&quot;/&gt;。これに対し、新名が黒潮会主任記者という御用記者であり、軍需物資の海軍配当割増という海軍の要求を代弁させた結果の事件であったことから海軍が召集に抗議した。新名は、海軍の庇護に加え、[[日中戦争]]当時に善通寺師団の従軍記者をしていたこともあって、[[中隊]]内で特別待遇を受けつつ3か月で召集解除となった。その際、中隊の陸軍[[将校]]から「近いうちに再召集の命が下るだろうから、内地にいないほうがよい」と忠告されている。<br /> <br /> その後、陸軍が再召集しようとしたが、その前に海軍が新名を海軍報道班員として外地、フィリピンに送っていたため、再召集を逃れている&lt;ref&gt;『証言4私の昭和史』170頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 新名が徴兵検査を受けたのは大正時代のことで、それまでその世代は1人も召集されていなかった。そのため、海軍は「大正の兵隊をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍を批判した。それに対し陸軍は、新名と同世代で大正時代に徴兵検査を受けた人間を250人召集し、歩兵第12連隊に入営させて辻褄を合わせた。その30代後半の老兵達は、全員が[[硫黄島の戦い]]で玉砕・戦死した&lt;ref&gt;[[青山憲三 (雑誌編集者)|青山憲三]]「[http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/aoyamakenzo.html 横浜事件(抄) 元『改造』編集者の手記]」[http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/ 日本ペンクラブ 電子文藝館]編輯室、Mar 16, 2007.&lt;/ref&gt;&lt;!--(『毎日新聞社史』) --&gt;。<br /> <br /> == 海軍側の反応 ==<br /> 当時の海軍報道部長であった[[栗原悦蔵]]少将は、「もう太平洋の東の制空権はほとんど失ってしまったと」「海軍としては国民全体に知らせたいと思って、私もずいぶんその黒潮会にもお願いいたしましたけれども、なかなかそれを書く人がない、そこを大胆に新名さんが書いてくださいましたので、われわれとしては、たいへん喜んで絶賛したわけですね」&lt;ref&gt;[[テレビ東京|東京12チャンネル]]『証言4私の昭和史』学芸書林&lt;/ref&gt;と証言している。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[毎日新聞社]]<br /> * [[ゴーストップ事件]]…軍部と警察・内務省の対立がマスメディアを巻き込んだ泥仕合になった。<br /> * 『[[激動の昭和史 軍閥]]』…竹槍事件を描いた映画<br /> * 『[[蒲生邸事件]]』…宮部みゆきによる日本の小説。登場人物の一人が本記事中にある「250人の老兵」の一人として召集を受けたことが後日談として語られる。<br /> <br /> {{毎日新聞社}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:たけやりしけん}}<br /> [[Category:昭和時代戦前の事件]]<br /> [[Category:戦前・戦中の言論弾圧]]<br /> [[Category:戦時下の日本]]<br /> [[Category:毎日新聞社の歴史]]<br /> [[Category:1944年の日本]]<br /> [[Category:1944年2月]]</div> 222.10.11.169 ポツダム会談 2017-03-10T04:27:49Z <p>222.10.11.169: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R67561, Potsdamer Konferenz, Konferenztisch.jpg|350px|right|thumb|ポツダム会談の様子。1945年7月]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ポツダム会談&#039;&#039;&#039;(ポツダムかいだん)は、[[ナチス・ドイツ]]降伏後の[[1945年]][[7月17日]]から[[8月2日]]、[[ソ連占領地域]]&lt;ref&gt;Müller, Heike; Berndt, Harald (2006). Schloss Cecilienhof und die Konferenz von Potsdam 1945 (German). Stiftung Preussische Schlösser und Gärten. ISBN 3-910068-16-2.&lt;/ref&gt;となった[[ポツダム]]に、[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[ソビエト連邦]]の3カ国の首脳が集まって行われた、[[第二次世界大戦]]の戦後処理を決定するための会談。第二次世界大戦の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]三大国の首脳会談が行われたのはこれで3度目であり、最後となった。会議の最後には[[ポツダム協定]]が策定された。また7月26日には日本政府に対して[[日本軍]]の[[無条件降伏]]などを求める[[ポツダム宣言]]が表明されたことで知られているが、会議の公式日程において対日問題は協議されなかった。<br /> <br /> == 前史 ==<br /> 第二次世界大戦の連合国は戦争中からたびたび戦争方針や戦後構想を話し合う会議を持っていた。1943年の[[テヘラン会談]]は三大国の首脳が一堂に会する最初の会議となり、[[1945年]]の[[ヤルタ会談]]ではヨーロッパ戦後構想の大枠が決定された。ところがソ連が[[ヤルタ協定]]に反して[[ルーマニア]]や[[ポーランド]]において共産主義政権を樹立したことや、北イタリアにおけるドイツ軍の降伏問題にソ連が反発したことなど、三大国の間には懸案事項が重なっていた{{sfn|田中荊三|1962|pp=30}}。このためドイツ降伏の直前には、イギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]が「事態はこれ以上、通信によってほとんど事を運び得ず、できるだけ早く3人の政府の首脳の会合があるべきである」と発表する事態となり、アメリカ大統領[[ハリー・S・トルーマン]]もこれに同意した{{sfn|田中荊三|1962|pp=30}}。トルーマンは[[ハリー・ホプキンス]]をモスクワに派遣し、[[ヨシフ・スターリン]]の同意を得て7月半ばに会議が開催されることとなった{{sfn|田中荊三|1962|pp=30}}。<br /> <br /> イギリスは国内経済が破綻しつつあったことと、アメリカ軍がヨーロッパから早くも撤退を始めていたこと、さらにソビエト軍のヨーロッパにおける勢力拡大が主たる関心事項であった{{sfn|田中荊三|1962|pp=30}}。このためイギリスはアメリカからの武器貸与・占領軍援助、さらにソ連占領地域からの食糧供給を要求していた。しかしチャーチルをはじめとする[[反共]]思想を持つ関係者は、ソ連との協定が無意味であるとも考えていた{{sfn|田中荊三|1962|pp=30-31}}。ソ連の主たる関心は自国の安全保障であり、傀儡となる共産主義政権を東欧に設置することで自国を守ろうとしていた([[衛星国]])。さらにドイツからの賠償獲得と、[[中東]]から[[アフリカ]]への進出も要求していた{{sfn|田中荊三|1962|pp=31}}。アメリカが望んでいたのは対日戦([[太平洋戦争]])へのソ連参戦であり、早い段階のヨーロッパ駐屯アメリカ軍の本国帰還であった{{sfn|田中荊三|1962|pp=31}}。トルーマンはこの会議が難航することを予想しており、会議には気乗りしていなかった{{sfn|田中荊三|1962|pp=35}}。<br /> <br /> == 会議 ==<br /> [[ファイル:L to R, British Prime Minister Winston Churchill, President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin in the... - NARA - 198958.jpg|300px|right|thumb|ポツダムに集まった3ヶ国首脳。左からチャーチル英首相、トルーマン米大統領、スターリンソ連首相。(1945年7月25日)]]<br /> [[ファイル:Potsdam conference 1945-8.jpg|300px|right|thumb|ポツダムに集まった3ヶ国首脳。前列左からアトリー、トルーマン、スターリン。後列左からリーヒ参謀長、ベヴィン英外相、バーンズ米国務長官、モロトフソ連外務人民委員]]<br /> === 主要な出席者 ===<br /> {{USA}}<br /> *[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]:[[ハリー・S・トルーマン]]<br /> *[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]:[[ジェームズ・F・バーンズ]]<br /> *最高司令官付参謀長:[[ウィリアム・リーヒ]]<br /> *[[合衆国艦隊]]司令長官:[[アーネスト・キング]]<br /> *陸軍参謀総長:[[ジョージ・マーシャル]]<br /> *陸軍航空隊司令官:[[ヘンリー・アーノルド]]<br /> *経済担当国務次官:[[ウィリアム・ロックハート・クレイトン]]<br /> *駐ソ連大使:[[W・アヴェレル・ハリマン]]<br /> {{UK}}<br /> * [[イギリスの首相|首相]]:[[ウィンストン・チャーチル]](7月26日まで)<br /> *前副首相、首相(7月27日以降):[[クレメント・アトリー]]<br /> *[[外務・英連邦大臣|外相]]:[[アンソニー・イーデン]](7月26日まで)<br /> *前雇用担当相、外相(7月27日以降):[[アーネスト・ベヴィン]]<br /> {{SSR1923}}<br /> * [[ソビエト連邦人民委員会議議長|人民委員会議議長(首相)]]・[[ソビエト連邦共産党]][[書記長]]:[[ヨシフ・スターリン]]<br /> * {{仮リンク|外務省 (ソビエト連邦)|en|Ministry of Foreign Affairs (Soviet Union)|label=外務人民委員(外相)}}:[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]<br /> *外務人民委員代理(次官):[[アンドレイ・ヴィシンスキー]]<br /> *駐米大使:[[アンドレイ・グロムイコ]]<br /> {{POL}}({{仮リンク|ポーランド共和国臨時政府|en|Provisional Government of the Republic of Poland}})<br /> *国防相:[[ミハウ・ロラ=ジミェルスキ]]<br /> *[[スタニスワフ・ミコワイチク]](元[[ポーランド亡命政府]]首相)<br /> <br /> === 会議の流れ ===<br /> [[7月17日]]、[[ベルリン]]郊外[[ポツダム]]にある[[ツェツィーリエンホーフ宮殿]]に三大国の首脳、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長が集まった。会議が始まったのは午後5時だった{{sfn|山下祐志|1995|pp=15}}。トルーマンは会議の冒頭でアメリカ側提案として「平和条約を締結するための外相会議の設立」、「ドイツ占領統治政策の決定」、「イタリア・ギリシャ・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアの選挙を監督する共同行動」、「[[イタリア王国]]の休戦条約緩和と[[国際連合]]への加入」を挙げた。チャーチルはアメリカ提案を検討する前に研究が必要であると述べたが、イギリスとしては提案は特に存在しないとした{{sfn|田中荊三|1962|pp=31}}。スターリンは会議で取り上げるべき議題として「ドイツ船舶の処分」、「賠償」、「イタリア植民地のソ連による[[信託統治]]」、「ルーマニア、ポーランド([[ポーランド国民解放委員会]]、ルブリン政権)、ハンガリー({{仮リンク|ハンガリー臨時国民政府|hu|Ideiglenes Nemzeti Kormány}})の親ソ連政権の米英による承認」、「[[フランコ体制下のスペイン|スペイン]]の[[フランシスコ・フランコ]]政権問題と、[[タンジェ]]問題」、「[[シリア]]・[[レバノン]]問題」、「ロンドンにある[[ポーランド亡命政府]]の消滅」をあげた{{sfn|田中荊三|1962|pp=31-32}}。<br /> <br /> 特に紛糾した三つの問題、[[ポーランド]]問題、賠償問題、旧枢軸国に成立した各政府の扱いをめぐってイギリスとソ連は強く対立した。またチャーチルは[[ブルガリア]]による[[ギリシャ]]攻撃計画をあげ、ソ連を批判した。スターリンはその議題は会議の予定に無く、非公式に討議するべきだと回答した{{sfn|田中荊三|1962|pp=39}}。さらにチャーチルは[[ユーゴスラビア]]の[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]が民主主義者と協力しない姿勢を明確にしていることも批判したが、スターリンはユーゴスラビア代表が参加していないとして討議を拒否した。さらにルーマニアにある英米資本の石油施設をソ連が接収したこと、ソ連が占領する[[ウィーン]]に英米の士官が入れないことなど次々に批判した{{sfn|田中荊三|1962|pp=40}}。会議の最中、イギリスの総選挙では[[保守党 (イギリス)|保守党]]が大敗し、チャーチルにかわって[[労働党 (イギリス)|労働党]]の[[クレメント・アトリー]]が首相となった。チャーチルは7月26日に帰国し、アトリーが首相として残りの会議に参加したが、イギリスの主張は変わらず、英ソの対立は頂点に達した。決裂を予期したトルーマンは協定が成立しなくても帰国しようとすら考えていた{{sfn|田中荊三|1962|pp=35}}。7月30日、[[ジェームズ・F・バーンズ]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]は協定を成立させるため、英ソの外相に働きかけてアメリカ側の三条件を策定し、これに合意が見られない場合にはアメリカが8月1日に会議を離脱すると通告した{{sfn|田中荊三|1962|pp=35}}。この文書では「ポーランド国境」「ドイツの賠償」「イタリア・ブルガリア・フィンランド・ルーマニア・ハンガリー各政府の状態」について触れられている。この「バーンズ提案」を三国が受け入れたことにより会議は決裂を免れ、占領下ドイツの経済問題に討議の主題は移った{{sfn|田中荊三|1962|pp=42}}。<br /> <br /> ==== 外相理事会 ====<br /> 対枢軸国への平和条約策定のための外相会議案は前もってアメリカから英ソに通告されており、「米・英・ソ・[[フランス]]・[[中華民国]]」の五大国の外相による小会議が行われることが前もって合意されていた。ポツダムの会議においてはこの[[外相理事会]]が9月1日から平和条約の策定にあたることが早々と合意された{{sfn|田中荊三|1962|pp=32}}。<br /> <br /> ==== ドイツ占領統治問題 ====<br /> 続いて討議されたのはドイツの占領政策であった。すでにヤルタ会談で米・英・ソ・仏による分割占領と、[[非ナチ化]]、武装解除、戦犯処罰、現物による賠償が合意されていたが、占領にあたって統一的な命令は策定されず、それぞれの占領地域でばらばらの政策が実行されていた{{sfn|田中荊三|1962|pp=32-33}}。占領政策についてもすでに{{仮リンク|欧州諮問委員会|en|European Advisory Commission}}において討議が行われていたこともあり、各占領地域に統一的な行政制度を敷くことで合意された{{sfn|田中荊三|1962|pp=32-33}}。その後政治的・経済的な政策の原則が合意され、8月2日に「[[ポツダム協定]]」として明文化された。<br /> <br /> ==== ポーランド問題 ====<br /> [[File:Oder-neisse.gif|thumb|right|300px|喪失した[[旧ドイツ東部領土|ドイツ東部領土]]。黄色がポーランドへ、オレンジがソ連([[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]])への割譲地域]]<br /> しかしポーランド問題についてはチャーチルとスターリンが激しく衝突することになった。ヤルタ会談ではおおむね[[カーゾン線]]にそった線をポーランド東部国境とし、{{仮リンク|西ウクライナ|uk|Західна_Україна}}喪失の代償として広範なドイツ領をポーランドに与えるという合意がなされていた。ところがソ連は米英との協議なしに、[[オーデル川]]・[[ナイセ川]]の西の支流地域までをポーランド政府に与え、これを既成事実として認めるよう主張した。チャーチルはナイセ川の西までポーランド国境を広げることに反対したが、これは大規模なポーランド領拡大で数百万に及ぶ[[ドイツ人追放]]が起き、さらにイギリス占領地域に避難民が押し寄せることでその給養の負担が生まれること、さらにドイツ人の復仇心が造成されるとした。ポーランド代表団の一人で、戦争中にはイギリスと協力関係を持っていた[[スタニスワフ・ミコワイチク]]元亡命政府首相はソ連の国境提案に賛成し、スターリンに感謝の意を述べた{{sfn|伊東孝之|1973|pp=154}}。<br /> <br /> スターリンはさらにポーランド亡命政府の解散とその支配下にあるポーランド軍の帰国を求めた。元来ポーランド亡命政府とソ連の関係は[[カティンの森事件]]の発覚以降極度に悪化しており、1944年1月、ソ連は亡命政府がポーランドを代表していないという姿勢を明確化した{{sfn|伊東孝之|1973|pp=135}}。1944年11月24日のミコワイチク首相辞任以降、亡命政府は西側諸国の積極的な支持も失い、これを見たソ連とルブリン政府も亡命政府支持者への弾圧を強めていた{{sfn|伊東孝之|1973|pp=149}}。チャーチルは亡命政府の解散にも強く反対し、ポーランドにおける公正な自由選挙開始の言質を求めた。国境の大幅な移動と親ソ連政権の確立はポーランドのソ連への依存を生み出し、ソ連の東欧における覇権が拡大されることは明らかであった{{sfn|田中荊三|1962|pp=34}}。<br /> <br /> 7月21日には西側諸国が亡命政府と関係を絶ち、その財産がポーランド政府に引き渡されることで合意されたが、その他の事項では合意に達しなかった {{sfn|伊東孝之|1973|pp=154}}{{sfn|田中荊三|1962|pp=34}}。米英が要求した無干渉な自由選挙開催の言質も、結局得られないままであった。バーンズ提案によりポーランド国境に関しては最終決定は講和条約締結後に行うとしながらも、事実上ソ連側の主張を認めた形となり、多くの批判を受けることとなった{{sfn|田中荊三|1962|pp=35-36}}。<br /> <br /> ==== 賠償 ====<br /> {{see also|第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償}}<br /> ドイツの賠償問題においてはヤルタ会談において「200億ドル」相当の現物による賠償が合意され、ソ連はそのうち半分を受領することが合意されていた{{sfn|田中荊三|1962|pp=37<br /> }}。しかし戦争によって荒廃したドイツにその支払能力はないと考えられており、英米は戦後復興のためドイツに支援する事態を望んではいなかった。ヤルタでの合意に基づいてモスクワに設置された賠償委員会は賠償総額や支払方法について討議したが、結論は出なかった。ポツダムではアメリカが軍需工場設備からの現物賠償を提案し、一般市民の生活に影響を与えるべきではないと主張し、イギリスもこれに同意した。しかしソ連側はヤルタでの合意どおりの賠償を要求し、減額する場合でも賠償総額の決定を求めた。7月30日、バーンズの提案により、ソ連は自らの占領地域からの徴収のほか、西側占領地域から平時に必要の無い工業設備の25%が引き渡され、ソ連からは西側から引き渡された25%の半分の額に相当する食糧や資材が西側に渡され、またポーランドに対する賠償はソ連が徴収したものから支払われることとなった{{sfn|田中荊三|1962|pp=39}}。しかしスターリンは賠償総額決定を放棄する代償として無償引渡し額増加を要求し、結局ソ連は引き渡し額の6割を無償で引き受けることとなった{{sfn|田中荊三|1962|pp=39}}。<br /> <br /> ==== 旧枢軸国政府問題 ====<br /> ヤルタ会談において枢軸国やその占領地域に対しては、自由な選挙を通じた政府を設置することが合意されていた。しかしソ連はその占領地域に影響下の政府を樹立し、影響力を拡大していた。7月21日、トルーマンは三国から共同派遣する使節がイタリア・ギリシャ・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアの選挙を監視するという提案を行ったが、スターリンは話題をそらした。トルーマンは自由選挙が行われるまでソ連占領地域の各政府を承認できないとし、チャーチルも同調した。スターリンはソ連がイタリア王国政府や[[フランス共和国臨時政府]]に承認を与えているとし、英米も東側の各政府を承認するべきと主張した。この議題は一旦外相たちによって討議されることになったが決着は見られず、7月24日から再び首脳たちによって討議された。<br /> <br /> スターリンは英米の委員を東側政府に招くとした上で、英米主導の占領政策がイタリアにおいて行われていると英米を批判した。チャーチルは激昂し、イタリアにおいては自由が実現しているが、ソ連占領地域ではイギリス代表が「鉄の垣」の中に監禁されているとした。スターリンは「すべておとぎ話だ」と反論した{{sfn|田中荊三|1962|pp=41}}。バーンズの提案ではまず対イタリアの講和条約を策定し、ブルガリア・ハンガリー・ルーマニアについては民主的政府が成立するまで講和条約を締結しないというあいまいな決定が行われ、事実上ソ連占領地域の政府承認問題は先送りされた{{sfn|田中荊三|1962|pp=42}}。<br /> <br /> ==== 対日降伏勧告 ====<br /> {{see also|ポツダム宣言}}<br /> ソ連の対日戦への勧誘は、[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領時代から何度も行われており、ソ連側も対独戦終了後に態度を明確にすると回答していた。またアメリカは日本本土上陸作戦を検討していたものの、予想される損害があまりにも大きかったため、日本に対して明確な降伏勧告を行うことが必要であると考えられていた。日本への降伏勧告案は、事前に[[アメリカ陸軍長官]]の[[ヘンリー・スチムソン]]、[[アメリカ海軍長官]][[ジェームズ・フォレスタル]]、元駐日大使[[ジョセフ・グルー]]らの三人委員会で策定されていた。<br /> <br /> 7月15日、会議の始まる前の正午ごろ、トルーマンはスターリンから対日戦参加の確約を得た{{sfn|山下祐志|1995|pp=15}}。しかし翌日には[[トリニティ実験|原子爆弾実験]]の成功が伝えられ、トルーマンはソ連の参戦がかならずしも必要ではないと考えるようになった。また、日本のソ連を仲介とした和平工作が進展中であるという情報を得たスチムソンは、対日降伏勧告をこの会議で行い、ソ連の懐に日本が飛び込むことを防ごうとした{{sfn|山下祐志|1995|pp=16}}。バーンズはこの段階での声明は時期尚早であると反対したものの、[[ウィリアム・リーヒ]]最高司令官付参謀長が支持し、トルーマンのこの意見に同意した。<br /> <br /> 三人委員会の案をベースとしてポツダムにおいても修正作業が行われ、[[天皇制]]維持条項が削除されている{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=332}}。24日にはイギリスに声明案が渡され、25日、チャーチルは声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に変えるなどの修正を加えて回答した。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。7月26日、「[[ポツダム宣言]]」が発表された{{sfn|山下祐志|1995|pp=16}}。当時日本と交戦していなかったソ連側の介入はほとんど無かった。宣言文に署名した[[蒋介石]]など[[中華民国]]関係者は宣言文策定や発表の場に参加しておらず、チャーチルも一時帰国していたため、宣言発表時にポツダムにいた署名者はトルーマンのみであった。<br /> <br /> ==== その他の議題 ====<br /> * ドイツ降伏時にドイツ国籍船舶の大半は英米に引き渡されているが、ソ連はその3分の1の引き渡しを要求した。会議では結論が出ず、対日戦の終了後に外相間で討議されることとなった{{sfn|田中荊三|1962|pp=42-43}}。<br /> * ソ連はイタリア領であった{{仮リンク|イタリア領リビア|en|Italian Libya}}の信託統治への参加を要求していた。ソ連は[[ダーダネルス海峡]]付近でソ連軍艦が損傷した時のため、アフリカ北海岸に寄港地が必要であると主張したが、この要求はほぼ独力でアフリカのイタリア軍を駆逐したイギリスを驚かせた。トルーマンの調停により、この議論は9月の外相理事会で討議されることとなった{{sfn|田中荊三|1962|pp=43}}。<br /> * スターリンはスペインのフランコ政権がドイツ・イタリアによって強制されたものであると主張し、英米による政府承認を取り消すよう主張した。チャーチルは現在フランコは支持を失いつつあり、英米の非承認がかえって国民をフランコ支持に傾かせかねないとしてこの提案に否定的であった。またアメリカは再び内戦状態に陥ることを懸念していた。会議の議定書では「スペインが現政府である限り、国際連合への参加を支持しない」と明記された{{sfn|田中荊三|1962|pp=44}}。<br /> * アフリカの国際管理都市[[タンジェ]]は、戦時中スペインによって占拠されていた。戦争終結後にスペインはタンジェから撤退することを表明し、アメリカ・イギリス・フランス・スペインでタンジェの管理問題について討議することになっていた。ソ連はこの会議への参加を主張したが、スペインはソ連の参加を拒否していた。会議の議定書ではソ連の会議参加権についてはフランスの参加しないこの会議では協議しないとされたが、同時に英米ソの三国はタンジェを国際管理都市のままにすることを同意し、近い将来に英米仏ソの4カ国がパリで討議するという合意が行われた{{sfn|田中荊三|1962|pp=44}}。<br /> *[[シリア]]と[[レバノン]]はフランスの植民地であったが、[[シリア・レバノン作戦]]において連合国が奪回して以降、1943年に選挙を行って独立を宣言した。しかしフランス臨時政府はこれを認めず、両国が暴動状態となって英米が介入する事態となった。以降両国には英仏軍が駐屯し、現地政府との合意後に撤退することとなっていたが、交渉は進展していなかった。スターリンはこの事態を解決するためにフランス政府と討議することを提案したが、チャーチルはすぐに会議を開いて撤兵することは危険であると主張したため、スターリンはこの提案を撤回した{{sfn|田中荊三|1962|pp=45}}。<br /> *[[イラン]]には1941年の[[イラン進駐 (1941年)|英ソ両軍による占領]]以来、米英ソの兵士が駐屯していた。イギリスはソ連軍兵士が長く駐屯すればイランが共産化するおそれがあると見、即時撤退を主張した。ソ連は対日戦終了の6ヵ月後に撤兵することを提案し、合意された{{sfn|田中荊三|1962|pp=45-46}}。<br /> *ソ連は[[バルト海]]における[[不凍港]]を求めており、[[東プロイセン]]のケーニヒスベルクとその隣接地域の領有を要求した。米英は特に強く反対せず、ケーニヒスベルクは[[カリーニングラード]]としてソ連領となった{{sfn|田中荊三|1962|pp=46}}。<br /> *ソ連は[[ダーダネルス海峡]]・[[ボスポラス海峡]]の通行権を定めた[[モントルー条約]]が時代遅れになったとし、新たな協定の締結を求めた。この中でソ連は[[黒海]]をかかえるため、特に優越した地位が与えられるよう主張した。議定書ではモントルー条約が時代遅れであるということは明記されたものの、通行権についてはトルコ政府と三国がおのおの協議を行うということになった{{sfn|田中荊三|1962|pp=47}}。<br /> *旧[[ナチス・ドイツ]]戦犯訴追についてはすでに合意され、ロンドンに置いてその訴追手続きの作成が行われていた。スターリンはこの会議において首謀者の名前を挙げることを提案したが、取り上げられなかった。議定書では戦犯訴追の方針が再確認され、早い段階でのロンドンにおける合意を希望することが表明された{{sfn|田中荊三|1962|pp=47}}。<br /> *すでに[[チェコスロバキア]]・[[ポーランド]]などで大規模な[[ドイツ人追放]]が行われていたが、議定書においてこの措置は承認された。ただしその措置は人道的な方法に限るとした上で、ドイツ占領当局の受け入れ態勢が整うまでその措置を中断することを希望すると表明された{{sfn|田中荊三|1962|pp=47}}。<br /> *当時ユーゴスラビアのメディアは、ギリシャの[[マケドニア]]において、スラブ人の迫害が進展していると報道し、ギリシャ政府側はユーゴスラビア側が反乱の動きを支援していると非難していた。ソ連はギリシャを、イギリスはユーゴスラビア側を批判する声明を用意していたが、トルーマンの調停によってこれらの提案は両方とも撤回された{{sfn|田中荊三|1962|pp=48}}。<br /> <br /> ==会議の評価==<br /> [[File:Cecilienhof red star.jpg|thumb|right|宮殿を含む敷地にある{{仮リンク|新庭園|de|Neuer Garten Potsdam|label=庭園}}に残された、会談を記念した花壇。中央の赤い花でできた星はソ連を現している。]]<br /> J.W.プラットは「空気は友好的であり、議論は一般的によい性質であり、しかも多くの論争的な議論は協定に達しなかった」と評している{{sfn|田中荊三|1962|pp=48}}。すなわち「ポツダムで盛な友好的な空気にもかかわらず、三巨頭会議はその後10年間再び開かれなかった」ことが示すように、その成果は乏しいものであり{{sfn|田中荊三|1962|pp=48}}、合意を見たのは外相理事会の設立、ドイツ占領に対する原則の合意、ソ連のケーニヒスベルク領有、ポーランド亡命政府の解消のみであった{{sfn|田中荊三|1962|pp=52}}。ソ連のメディアは会談が大成功であったと報じたものの、アメリカとイギリスの首脳や両国のメディアはこの会談を評価しなかった{{sfn|田中荊三|1962|pp=49}}。<br /> <br /> トルーマンはソ連が平和について熱心でなく、西側との対決姿勢を強化していると感じており、日本の占領管理についてはソ連に一歩も譲らないと決意したと回想している{{sfn|田中荊三|1962|pp=50}}。チャーチルはソ連に対する不満を最初から隠そうともせず、その後もソ連とその占領地域における政策の批判を続けた{{sfn|田中荊三|1962|pp=51}}。一方でソ連側は米英のドイツに対する態度が寛大すぎると考えており、ソ連が勝利の結果として受け取るべき報酬を奪おうとしているのではないかという疑念を強めた{{sfn|田中荊三|1962|pp=52}}。またフランスの[[シャルル・ド・ゴール]]は会議への参加を要求していたが、スターリンの拒否によって参加できなかった。このためフランスはポツダム協定に拘束されず、ドイツの占領政策において他の連合国に対する反対を続けた。これは後にソ連側の協定無視を呼び込むこととなり、会議の成果はますます減少していった{{sfn|田中荊三|1962|pp=54}}。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist|3}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{Cite journal |和書|author = 田中荊三 |title =ポツダム会議の意義(間崎万里先生頌寿記念)|date =1962|publisher =慶應義塾大学|journal = 史学|volume = 35(2/3)|naid = 110007409902|pages =185-210|ref = harv}}<br /> *{{Cite journal |和書|author = 藤田宏郎 |title = ヘンリー・L・スチムソンとポツダム宣言 (甲南大学法学部開設50周年記念号上巻)|date = 2011|publisher =甲南大学|journal = 甲南法学 |volume = 51(3)|naid = 110008436640|pages = 1-37 |ref = harv}}<br /> *{{Cite journal |和書|author = 山下祐志 |title = アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(11) : ポツダム宣言の発出|date = 1995|publisher =宇部工業高等専門学校|journal = 宇部工業高等専門学校研究報告 |volume =41|naid = 110000980158|pages =A9-A18 |ref = harv}}<br /> *{{Cite journal |和書|author = 伊東孝之|title =戦後ポーランドの成立 : ソ連外交とポーランド労働者党の戦術 (1943-1945年)|date =1973|publisher =北海道大学|journal = スラヴ研究 |volume =18|naid = 110000189225|pages =117-166|ref = harv}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Potsdam Conference}}<br /> * [[カサブランカ会談]]<br /> * [[ヤルタ会談]]<br /> * [[テヘラン会談]]<br /> * [[カイロ会談]]<br /> * [[第二次世界大戦の会談・会議]]<br /> * [[ポツダム宣言]]<br /> * [[ポツダム協定]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ほつたむかいたん}}<br /> [[Category:太平洋戦争]]<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:第二次世界大戦の国際会議]]<br /> [[Category:ポツダムの歴史|かいたん]]<br /> [[Category:1945年のドイツ]]<br /> [[Category:ハリー・S・トルーマン]]<br /> [[Category:ウィンストン・チャーチル]]<br /> [[Category:ヨシフ・スターリン]]<br /> [[Category:1945年の国際関係]]<br /> [[Category:1945年7月]]<br /> [[Category:1945年8月]]</div> 222.10.11.169 キューバ計画 2017-03-09T09:26:49Z <p>222.10.11.169: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>[[ファイル:Fidel Castro - MATS Terminal Washington 1959.jpg|thumb|フィデル・カストロ(1959年)]]<br /> &#039;&#039;&#039;キューバ計画&#039;&#039;&#039;(キューバけいかく、The Cuban Project)とは、[[ジョン・F・ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[政権]]初期に[[中央情報局]](CIA)が展開した、キューバの[[フィデル・カストロ]]政権に対する[[秘密作戦]]、[[テロリズム]]である。&#039;&#039;&#039;マングース計画&#039;&#039;&#039;(Operation Mongoose)とも。[[ピッグス湾事件]]失敗後の[[1961年]][[11月30日]]、ケネディ政権より権限を与えられ、[[アメリカ空軍]]の[[エドワード・ランスデール|エドワード・ランズデール]][[准将]]が実行した。<br /> <br /> キューバの共産政権打倒を目的としたもので、[[歴史学者]]の{{仮リンク|ホルヘ・ドミンゲス|en|Jorge_I._Dominguez}}[[ハーバード大学]][[教授]]によると、ケネディ政権はこれを最重要課題としていたという&lt;ref name=&quot;Jorge&quot;&gt;Domínguez, Jorge I. &quot;[http://www.wcfia.harvard.edu/sites/default/files/jd_missile_crisis.pdf The @#$%&amp; Missile Crisis (Or, What was &#039;Cuban&#039; about US Decisions during the Cuban Missile Crisis?)].Diplomatic History: The Journal of the Society for Historians of Foreign Relations, Vol. 24, No. 2, (Spring 2000): 305–15.)&lt;/ref&gt;。「キューバの共産政権転覆を支援」し、「[[1962年]][[10月]]にキューバにおける[[暴動]]の発生」を企図している事が[[アメリカ合衆国国務省]]の文書で確証されており、同国の政策立案者も「アメリカが平和裏に共存し得る新政権の樹立」を求めていた事が明らかとなっている&lt;ref&gt;US Department of State, Foreign Relations of the United States 1961–1963, Volume X Cuba, 1961–1962 Washington, DC [http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/cuba/mongoose.htm])&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 起源 ==<br /> [[キューバ革命]]及びフィデル・カストロ政権誕生以後、合衆国政府は[[社会主義]][[革命]]の妨害と、同地における[[親米]]政権の樹立を決定。[[ピッグス湾事件]]失敗を受け、カストロ失脚の方途を探る特別委員会も立ち上げられる事となる。委員会設立に至ったのも、キューバが[[アメリカ大陸]]における共産主義運動の旗手になりつつあるとの憶測に基づくものであった&lt;ref&gt;Michael Grow. &quot;Cuba, 1961&quot;. U.S. Presidents and Latin American Interventions: Pursuing Regime Change in the Cold War. Lawrence: University of Kansas Press, 2008. 42.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 計画 ==<br /> [[アメリカ国防総省]]傘下にある[[アメリカ統合参謀本部|統合参謀本部]]は、合衆国によるキューバへの軍事侵攻に係る任務を[[国防長官]]に要求したものの、実質的権限は[[ロバート・ケネディ]][[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]が掌握。<br /> <br /> ロバートは当時、キューバに対する強硬策を志向していなかったため、国防総省からエドワード・ランズデール、CIAからは[[ウィリアム・キング・ハーヴェイ]]が計画を先導。ランズデールの起用は[[フクバラハップ反乱]]期の[[フィリピン]]における[[対反乱作戦]]や、[[ベトナム]]の[[ゴ・ディン・ジエム]]政権支援における手腕を買われたためとされている。<br /> <br /> CIAの共同設立者であるサミュエル・ハルパームは、「CIAや米軍、[[アメリカ合衆国商務省|商務省]]をはじめ、神は計画にあらゆる人間が存在した事を知っている。ランズデールを首謀者に、ロバート・ケネディの失脚を狙った政府レベルの作戦でもあった」として、関与の幅の広さを回顧している&lt;ref name=&quot;Blight&quot;&gt;James G. Blight, and Peter Kornbluh, eds., Politics of Illusion: The Bay of Pigs Invasion Reexamined. Boulder, CO: Lynne Rienner, 1999, 125)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 33種の[[マングース]]が現存する&lt;ref&gt;Vaughan, Terry A.; James M. Ryan; Nicholas J. Czaplewski (2010). &#039;&#039;Mammalogy&#039;&#039;. Jones &amp; Bartlett Learning. p. 300. ISBN 0-7637-6299-7&lt;/ref&gt;事に因み、キューバ計画では33もの案が練られており、実行に移されたものも複数ある。[[プロパガンダ]]からキューバ政府並びに[[経済]]への打撃に至るまで、まさに多種多様であったのは言うまでもない。中には[[アメリカ陸軍特殊部隊群]]を利用して、キューバにおける[[砂糖]]の生産を壊滅に追い込み、[[港]]に[[機雷]]を敷設する計画まであったという。<br /> <br /> その他、キューバへの侵略を正当化する[[偽旗作戦]]として、[[アメリカ統合参謀本部議長|統合参謀本部議長]]が署名、[[ロバート・マクナマラ]]国防長官に上程された[[1962年]]の[[ノースウッズ作戦]]が挙げられる。キューバ人[[亡命]]者や合衆国内の軍事的目標、キューバの民間[[航空機]]に対して攻撃を仕掛けたり、攻撃に関する虚報を垂れ流した上で、キューバ政府にその責任を擦り付けようとしていた&lt;ref&gt;[http://www.gwu.edu/~nsarchiv/news/20010430/doc1.pdf]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1962年の[[キューバ危機]]に至る過程で、キューバ計画が重要な役割を果たす事となる。6段階に及ぶ行程表が同年[[2月20日]]、ランズデールにより提示されるが、ロバート・ケネディ司法長官による調査を経て、[[3月16日]]には、ケネディ大統領が作戦の概要を知る所となった。<br /> <br /> ランズデールは政府関係者の[[暗殺]]のみならず、[[サボタージュ]]や[[諜報活動]]といった[[政治]]的、心理的、軍事的計画のあらましを開示。反カストロプロパガンダや反政府勢力への[[武器]]援助、国中に[[ゲリラ]]基地を建設したり、10月のキューバへの軍事侵攻に備えたりするなど、共産政権打倒に向けた様々な方法が、提案以後毎月練られてゆく。<br /> <br /> CIAが立案した個々の案件としては、カストロ暗殺を目的とするものが多く存在。[[タバコ]]の[[箱]]に[[ボツリヌス菌]]を盛る、[[ダイビング]]スポットに[[爆弾]]を仕掛けた[[貝殻]]を置くなどであった&lt;ref&gt;{{cite news| url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/244974.stm | work=BBC News | title=Castro: Profile of the great survivor | date=2008-02-19 | accessdate=2010-04-30}}&lt;/ref&gt;。一方、キューバ国民の視点から、カストロの信用を失わせる計画も、少なからず練られている。中には[[硫酸塩]]を[[服]]に掛け、トレードマークである[[顎髭]]を抜け落とさせたり、[[テレビ]][[演説]]に先立ち[[幻覚剤]]を[[スタジオ]]に噴射したりする案もあったという。<br /> <br /> CIAの作戦は[[マイアミ]]に本部を置いて行われ、カストロの暗殺を計画する上で[[マフィア]](キューバ国内における[[カジノ]]事業の復権を熱望していた)の支援を仰ぐ事となる。就中ウィリアム・ハーヴェイは、[[シカゴ・アウトフィット]]の首領である[[ジョン・ロッセーリ]]と直にやり取りを行う、CIA工作員の1人であった&lt;ref name=&quot;Anderson&quot;&gt;{{cite news | author = Jack Anderson | title = 6 Attempts to Kill Castro Laid to CIA | publisher = The Washington Post | date = 1971-01-18}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 歴史学者の[[スティーブン・レイブ]]は、「学者達は当然の事ながら、ピッグス湾事件やマングース作戦として知られる、合衆国によるテロ並びにサボタージュ、フィデル・カストロ暗殺計画や勿論キューバ危機に焦点を当ててきた。しかし、キューバ危機以後における米玖関係にはあまり注意を払ってこなかった。」としている。またレイブは[[チャーチ委員会]]の報告書から、ケネディ政権が[[1963年]][[6月]]以降、キューバ国内の要人はもとより、CIAが無差別なプロパガンダや「[[経済制裁]]」、サボタージュを打つ一方で、同国との戦争に向け着々と足元を固めた事が明らかになったという&lt;ref name=&quot;Rabe&quot;&gt;Stephen G. Rabe -Presidential Studies Quarterly. Volume: 30. Issue: 4. 2000,714&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その1例として、カストロ暗殺を模索していたCIA工作員が、キューバの要人であるロランド・クベーラ・セカデスに、有毒な[[皮下注射]][[針]]を取り付けた[[ボールペン]]を提供した出来事が挙げられる&lt;ref name=&quot;Rabe&quot; /&gt;。なおCIAは当時、[[発電所]]や[[石油精製]]施設、製糖[[工場]]への攻撃を含め、キューバ国内で13もの作戦を請け負っていた&lt;ref name=&quot;Rabe&quot; /&gt;。<br /> <br /> 歴史学者のホルヘ・ドミンゲスハーバード大学教授も、計画が[[鉄道]][[橋]]や[[石油]]貯蔵施設、[[糖蜜]]貯蔵施設の他[[製材所]]に対するサボタージュにまで及んでいたと主張。また、「1000ページもの文書中に一度のみ、合衆国の高官が同国のテロ支援に抵抗感らしきものを示した形跡がある」と論じた&lt;ref name=&quot;Jorge&quot; /&gt;。その後、上記の行動が実行に移される事となる。<br /> <br /> == 実行 ==<br /> 「大規模な暴動と共産政権打倒」を目指すキューバ計画は、本来1962年[[10月]]に行う予定であった。しかし、キューバ危機勃発のため同月30日に中止を決定。ドミンゲスは、ケネディがキューバ危機を理由に計画の実行を一旦は留保したものの、「[[ソ連]]との対立が和らいだため、キューバに対するテロ支援政策に回帰した」という&lt;ref name=&quot;Jorge&quot; /&gt;。<br /> <br /> 一方、[[ノーム・チョムスキー]]は「キューバ危機が最高潮に達した最中にあっても、テロ作戦は続行していた。公式には、ケネディと[[ニキータ・フルシチョフ]]が会談を行った数日後の10月30日に中止されたとしているが、それにも関わらず続いていた」としている。その結果、「[[アメリカ国家安全保障会議]]の上級委員会が、キューバ人亡命者にキューバと東側諸国との貨物輸送を断ち切らせるのみならず、国内の施設でサボタージュを行わせ、これを現地人のせいにするなど、様々な策を推奨した」という&lt;ref&gt;Chomsky, Noam. Hegemony or Survival: America&#039;s Quest for Global Dominance, Henry Holt and Company, 80.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 暗殺計画 ==<br /> 暗殺計画の多くはCIAが提案&lt;ref name=&quot;Borders&quot;&gt;{{cite book | author= Stewart Brewer and Michael LaRosa | title = Borders and Bridges: A History of US-Latin American Relations | publisher = Greenwood Publishing Group | location = Westport, Ct. | date = 2006 | isbn = 0-275-98204-1 | page = 123}}&lt;/ref&gt;。最も悪名高きものは、カストロが[[愛煙家]]である事を利用した、[[タバコ爆弾]]であった&lt;ref&gt;{{cite book | author= Malcolm Chandler and John Wright | title = Modern World History | publisher = Heinemann Education Publishers | location = Oxford | date = 2001 | isbn = 0-435-31141-7 | page = 282}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite book | author= Joseph J. Hobbs, Christopher L. Salter | title =Essentials Of World Regional Geography | publisher = Thomson Brooks/Cole | location = Toronto | edition=5th Ed. | date = 2006 | isbn = 0-534-46600-1 | page = 543}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite book | author= Derek Leebaert | title =The Fifty-year Wound: How America&#039;s Cold War Victory Shapes Our World | publisher = Little, Brown and Company| location = Boston | date = 2006 | isbn = 0-316-51847-6 | page = 302}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite book | author= Fred Inglis | title =The People&#039;s Witness: The Journalist in Modern Politics | publisher = Yale University Press | location = New Haven and London | date = 2002 | isbn = 0-300-09327-6 | page = 223}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite news | authorlink= BBC News | author= BBC News | title= Castro: Profile of the great survivor |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/americas/244974.stm | date= 2008-02-19 |accessdate=2008-06-03}}&lt;/ref&gt;。ただし、これを事実とする文献は無数に存在するものの、少なくとも1件はこれを虚偽としており&lt;ref&gt;{{cite book | author= David Hambling | title =Weapons Grade: How Modern Warfare Gave Birth to Our High-Tech World | publisher = Carroll &amp; Graf Publishers | location = New York | date = 2005 | isbn = 0-7867-1769-6 | page = 391}}&lt;/ref&gt;、残りは[[タブロイド]]紙の[[ネタ]]に過ぎない模様&lt;ref&gt;{{cite book | author= Charles R. Morris | title = A Time of Passion: America, 1960–1980 | publisher = Harper &amp; Row | location = New York | date = 1984 | isbn = 0-06-039023-9 | page = 210}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、タバコ爆弾の話に関してはCIAに起源を持つものの、ジョークで提案したとする説もある。本来の計画に注目が集まるのを避けるため、寧ろ故意に「馬鹿げた」考えをCIAが捏造した、というものであった&lt;ref&gt;{{cite book | author= Lamar Waldron and Thom Hartmann | title = Ultimate Sacrifice: John and Robert Kennedy, the Plan for a Coup in Cuba, and the Murder of JFK | publisher = Carroll &amp; Graf Publishers | location = New York | date = 2005 | isbn = 0-7867-1832-3 | page = 409}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> カストロ暗殺計画としては、この他にタバコに毒薬を盛る&lt;ref name=&quot;Perilous&quot;&gt;{{cite book | author= Lucien S. Vandenbroucke | title = Perilous Options: Special Operations as an Instrument of US Foreign Policy | publisher = Oxford University Press | location = New York | date = 1993 | isbn = 0-19-504591-2 | page = 30}}&lt;/ref&gt;(実際、有毒なタバコの入った[[箱]]が[[ハバナ]]市内にばら撒かれている&lt;ref&gt;{{cite book | author= Charles Schudson | title = Watergate in American Memory: How We Remember, Forget, and Reconstruct the Past | publisher = Basic Books | location = New York | date = 1992 | isbn = 0-465-09084-2 | page = 45}}&lt;/ref&gt;)、[[スキューバダイビング]]場に爆弾を忍ばせた貝殻を置く&lt;ref name=&quot;Spymaster&quot;&gt;{{cite book | author= Ted Shackley and Richard A. Finney | title = Spymaster: my life in the CIA | publisher = Potomac Books, Inc. | location = Dulles, Virginia | date = 1992 | isbn = 1-57488-915-X | page = 57}}&lt;/ref&gt;、[[ウェットスーツ]]に有害な[[バクテリア]]&lt;ref name=&quot;Spymaster&quot; /&gt;や[[胞子]]&lt;ref&gt;{{cite book | author= Fidel Castro and Ignacio Ramonet | title = Fidel Castro: My Life: a Spoken Autobiography | publisher = Simon and Schuster | location = Washington D.C. | date = 2008 | isbn = 1-4165-5328-2 | page = 262}}&lt;/ref&gt;を染み込ませる、潜水用具に結核菌を注入する、ハンカチや紅茶、コーヒーに死を齎すバクテリアを入れる&lt;ref name=&quot;Guardian&quot;&gt;{{cite news | year= 2006 | month= April 3 | url =http://www.guardian.co.uk/cuba/story/0,,1835930,00.html | title= 638 ways to kill Castro | publisher= The Guardian Unlimited | accessdate= 2006-05-28 | location=London | first=Duncan | last=Campbell}}&lt;/ref&gt;、などがある。また、CIAはカストロの[[靴]]に硫酸塩や強力な[[脱毛|脱毛剤]]を忍び込ませ、「顎髭や[[眉毛]]、[[陰毛]]に至るまで抜け落とさせ」ようとさえしていたという&lt;ref name = &quot;historyhouse&quot;&gt;{{cite web|url=http://www.historyhouse.com/in_history/castro/|title=If at First You Don&#039;t Succeed: Killing Castro|accessdate=2011-04-09|publisher=historyhouse.com}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1975年]]に開かれた[[アメリカ合衆国上院|合衆国上院]]のチャーチ委員会は、カストロ暗殺計画を少なくとも8案練っていた事が確認されている&lt;ref&gt;{{cite book | author= [[Gus Russo]] | title = Live by the Sword: The Secret War Against Castro and the Death of JFK | publisher = Bancroft Press | location = Baltimore | date = 1998 | isbn = 1-890862-01-0 | page = 83}}&lt;/ref&gt;。この他、長らくカストロの身辺保護に当たっていたファビアン・エスカランテは、CIAが638案に及ぶ暗殺計画を立てていたと主張&lt;ref name=&quot;Guardian&quot; /&gt;。<br /> <br /> [[作家]]の[[イアン・フレミング]]は[[1960年]][[3月]]、カストロの評判を落とす計画を提案した友人を通じて、ケネディ大統領に謁見する&lt;ref&gt;p.323 Pearson, John &#039;&#039;The Life of Ian Fleming Cape, 1966&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;p.178 Comentale, Edward P.; Watt, Stephen &amp; Willman, Skip &#039;&#039;Ian Fleming &amp; James Bond: The Cultural Politics of 007 Indiana University Press, 2005 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == その後 ==<br /> キューバ計画は先行するピッグス湾事件と同様、合衆国の対キューバ政策の失敗例として広く認識されている。ノーム・チョムスキーは[[1989年]]、「&#039;&#039;&#039;世界最大の国際テロ作戦&#039;&#039;&#039;」とまで表現。またチョムスキーによると、年間5000万[[ドル]]の[[予算]]規模に上り、500名の[[アメリカ人]]を含む2500名を雇い、1961年から[[1975年]]までの14年間が未だ謎に包まれているという。<br /> <br /> しかし、合衆国上院のチャーチ委員会や「良質な[[調査報道]]」により、ある程度は明らかになっている。何れにせよ、チョムスキーは「(1962年のキューバ危機の最中の作戦であるため)核戦争の切っ掛けになり得るテロ作戦」と述べており、「(1989年)現在も未だ進行中の可能性があるものの、[[1970年代]]全般を通じて続いたのは間違い無い」と発言&lt;ref&gt;Noam Chomsky, Peter Mitchell, Understanding Power, 2002, The New Press&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[JFK (映画)|JFK]]<br /> *[[スンスネオ]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.marxists.org/history/cuba/subject/cia/mongoose/c-project.htm マングース作戦:キューバ計画]キューバ史アーカイブ<br /> *[http://www.gwu.edu/~nsarchiv/nsa/cuba_mis_cri/chron.htm 1962年キューバ危機]アメリカ国家安全保障アーカイブ<br /> *[http://www.maryferrell.org/mffweb/archive/viewer/showDoc.do?docId=9983 フィデル・カストロ暗殺計画に関する報告]CIA歴史評価計画([http://www.parascope.com/mx/articles/castroreport.htm HTML版])<br /> <br /> {{デフォルトソート:きゆうはけいかく}}<br /> [[Category:諜報工作]]<br /> [[Category:アメリカ中央情報局の作戦行動]]<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国・キューバ関係]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の政治史 (1945年-1989年)]]<br /> [[Category:キューバの歴史|けいかく]]<br /> [[Category:テロリズム]]<br /> [[Category:中止になった作戦]]</div> 222.10.11.169 沼津大空襲 2017-03-08T03:17:11Z <p>222.10.11.169: </p> <hr /> <div>[[ファイル:Numazu after July 17 bombing (Oct).jpg|thumb|250px|空襲で破壊された沼津市内。]]<br /> &#039;&#039;&#039;沼津大空襲&#039;&#039;&#039;(ぬまづだいくうしゅう)は[[第二次世界大戦]]末期、[[アメリカ軍]]により[[静岡県]][[沼津市]]に対して行われた[[空襲]]である。<br /> <br /> [[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月17日]][[午前]]1時頃、アメリカ軍第20航空軍第58航空団の[[B-29_(航空機)|B-29]]130機の編隊が、[[沼津海軍工廠|海軍工廠]]や多くの中小軍事工場のある沼津市街上空3200mに侵入した。[[愛鷹山]]と[[香貫山]]の[[高射砲]]が迎撃するも3時頃までに9077発、1039トンの[[焼夷弾]]を投下し9523戸が焼失、274人が死亡した。アメリカ軍の記録によるとこの空襲により市の89.5%が破壊されたという。沼津市は[[サイパン島]]から[[富士山]]へ続くB29の本土空襲コースの真下にあたり、同年[[1月]]ごろから延べ8回の小規模な空襲や[[機銃掃射]]を受けており、それらを合計すると死者322人、重軽傷者634人、全半焼11756戸、全半壊127戸という被害だった。<br /> <br /> {{Japanese-history-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:ぬまつたいくうしゆう}}<br /> [[Category:日本本土空襲]]<br /> [[Category:沼津市の歴史|たいくうしゆう]]<br /> [[Category:1945年7月]]</div> 222.10.11.169 新潟日報社襲撃事件 2017-02-09T03:33:52Z <p>222.10.11.169: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>[[File:Niigata Nippo attack.JPG|thumb|250px|新潟日報社襲撃事件]]<br /> &#039;&#039;&#039;新潟日報社襲撃事件&#039;&#039;&#039;(にいがたにっぽうしゃしゅうげきじけん)とは、[[1946年]]([[昭和]]21年)[[9月29日]]に[[新潟県]][[新潟市]]で発生した[[朝鮮民族|朝鮮人]]16名による暴力事件。<br /> <br /> == 事件の発端 ==<br /> 1946年9月23日付の[[新潟日報]][[夕刊]]は、「&#039;&#039;&#039;MPも出動、坂町で深夜の乱闘&#039;&#039;&#039;」と題して、朝鮮人や[[在日中国人]]が新潟県[[岩船郡]][[保内村 (新潟県岩船郡)|保内村]](現・[[村上市]])内で起こした[[坂町事件]]の記事を掲載した。[[読売新聞]]も事件を報じた。<br /> <br /> == 事件の概要 ==<br /> 1946年9月26日、[[在日本朝鮮人連盟]]などの朝鮮人16人が[[新潟日報社]]を訪れ、新潟日報社と[[読売新聞社]]の両社に対して、「坂町事件の[[報道]]に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。<br /> <br /> その後読売新聞社は、[[9月28日]]になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。<br /> <br /> [[9月29日]]、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「[[日本の警察|警察]]の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。<br /> <br /> 新潟警察署は、朝鮮人らを[[暴力行為等処罰ニ関スル法律]]違反で[[逮捕]]した。<br /> <br /> == その後の顛末 ==<br /> 最終的に9人が[[起訴]]され、[[裁判]]の結果、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反と[[信用毀損罪・業務妨害罪|業務妨害罪]]で有罪の[[判決 (日本法)|判決]]が下った。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 『&#039;&#039;&#039;在日朝鮮人運動&lt;small&gt;(実務教養選書)&lt;/small&gt;&#039;&#039;&#039;』(篠崎平治 1955年)<br /> * 『&#039;&#039;&#039;新潟県警察史&#039;&#039;&#039;』(新潟県警察史編さん委員会 1959年)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[新潟日報]]<br /> * [[読売新聞]]<br /> * [[在日本朝鮮人連盟]]<br /> * [[坂町事件]]<br /> * [[直江津駅リンチ殺人事件]]<br /> * [[浜松事件]]<br /> * [[別府市警察署事件]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:にいかたにつほうしやしゆうけきしけん}}<br /> [[Category:日本の暴動事件]]<br /> [[Category:在日韓国・朝鮮人の運動]]<br /> [[Category:在日韓国・朝鮮人の事件]]<br /> [[Category:1946年の日本の事件]]<br /> [[Category:新潟市中央区の歴史]]<br /> [[Category:新潟日報社|しゆうけきしけん]]<br /> [[Category:言論・表現の自由]]<br /> [[Category:1946年9月]]</div> 222.10.11.169 生田警察署襲撃事件 2017-02-09T03:20:44Z <p>222.10.11.169: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;生田警察署襲撃事件&#039;&#039;&#039;(いくたけいさつしょしゅうげきじけん)とは、現在の[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]にある[[生田警察署]]が襲撃された事件である。在日[[朝鮮人]](当時は法的には[[朝鮮半島]]は日本の領土)からなる暴徒によって[[1945年]]([[昭和]]20年)12月24日、および翌[[1946年]](昭和21年)1月9日の2回続けて発生した。<br /> <br /> == 事件の概要 ==<br /> === 第1回目の襲撃事件===<br /> [[1945年]][[12月24日]]午後9時頃、50名を超える[[朝鮮民族|朝鮮人]]の暴徒が「岡山の[[刑事]]を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・[[日本刀]]・[[匕首]]を突きつけて軟禁した上で、[[岡山県警察部]]の捜査員を探し始めた(理由は後述)。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の[[警察電話|警察電話線]]が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍]]部隊(当時日本は連合国軍の占領下)によって暴動が鎮圧された。<br /> <br /> 襲撃以前、[[岡山市]]内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料&lt;ref&gt;『&#039;&#039;&#039;兵庫県警察史 昭和編&#039;&#039;&#039;』447頁&lt;/ref&gt;には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない。<br /> <br /> === 第2回目の襲撃事件 ===<br /> 翌年[[1946年]][[1月9日]]、三宮ガード下で賭博団(国籍未詳)が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した。<br /> <br /> == 注釈 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *兵庫県警察史編さん委員会編『&#039;&#039;&#039;兵庫県警察史 昭和編&#039;&#039;&#039;』兵庫県警察本部、1975年<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[生田警察署]]<br /> * [[阪神教育事件]]<br /> * [[長田区役所襲撃事件]]<br /> * [[暴力団]]<br /> * [[東成警察署襲撃事件]]<br /> {{Crime-stub}}<br /> {{Japanese-history-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:いくたけいさつしよしゆうけきしけん}}<br /> [[Category:日本の暴動事件]]<br /> [[Category:在日韓国・朝鮮人の事件]]<br /> [[Category:神戸市中央区の歴史]]<br /> [[Category:1945年の日本の事件]]<br /> [[Category:1945年12月]]<br /> [[Category:1946年の日本の事件]]<br /> [[Category:1946年1月]]</div> 222.10.11.169
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