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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=221.26.162.233&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-15T18:33:38Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 徳川家重 2018-10-01T03:39:35Z <p>221.26.162.233: /* 徳川家重が登場する作品 */誤字修正</p> <hr /> <div>{{基礎情報 武士<br /> | 氏名 = 徳川家重 <br /> | 画像 = Tokugawa Ieshige.jpg<br /> | 画像サイズ = 250px<br /> | 画像説明 = 徳川家重像(伝[[狩野英信]]画、[[徳川記念財団]]蔵)<br /> | 時代 = [[江戸時代]]中期<br /> | 生誕 = [[正徳 (日本)|正徳]]元年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]([[1712年]][[1月28日]])<br /> | 死没 = [[宝暦]]11年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]([[1761年]][[7月13日]])<br /> | 改名 = 長福丸([[幼名]])→ 家重<br /> | 別名 = 小便公方(渾名)<br /> | 諡号 = 惇信院<br /> | 戒名 = 惇信院殿仙蓮社高譽泰雲大居士<br /> | 墓所 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の三縁山広度院[[増上寺]]<br /> | 官位 = [[従二位]]、権[[大納言]]、右[[近衛大将]]、[[正二位]]、&lt;br /&gt;[[内大臣]]、征夷大将軍、[[右大臣]]、&lt;br /&gt;贈[[正一位]]、[[太政大臣]]<br /> | 幕府 = [[江戸幕府]] [[征夷大将軍]]<br /> | 氏族 = [[紀州徳川家]] → [[徳川将軍家]]<br /> | 父母 = 父:[[徳川吉宗]]、母:[[深徳院]]<br /> | 兄弟 = &#039;&#039;&#039;家重&#039;&#039;&#039;、[[徳川宗武|宗武]]、[[徳川源三|源三]]、[[徳川宗尹|宗尹]]、[[正雲院|芳姫]]<br /> | 妻 = [[正室]]:&#039;&#039;&#039;[[増子女王]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;[[側室]]:[[梅渓通条]]の娘・[[至心院]]&lt;br /&gt;[[三浦義周]]の娘・[[安祥院 (徳川家重側室)|安祥院]]<br /> | 子 = &#039;&#039;&#039;[[徳川家治|家治]]&#039;&#039;&#039;、[[徳川重好|重好]](清水重好)<br /> }}<br /> [[画像:TokugawaIeshige_grave.JPG|thumb|200px|[[増上寺]]の墓所にある家重の石塔]]<br /> &#039;&#039;&#039;徳川 家重&#039;&#039;&#039;(とくがわ いえしげ)は、[[江戸時代]]の[[江戸幕府]]第9代[[征夷大将軍|将軍]](在任:[[延享]]2年([[1745年]])- [[宝暦]]10年([[1760年]]))である。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 将軍になるまで ===<br /> [[正徳 (日本)|正徳]]元年12月21日(1712年1月28日)、[[徳川御三家|御三家]][[紀州藩]]の第5代藩主(後に第8代将軍)・徳川吉宗の長男として[[江戸]]赤坂の紀州藩邸で生まれる。母は[[側室]]・大久保氏(お須磨の方・[[深徳院]])。[[幼名]]は[[徳川長福丸|長福丸]]。<br /> <br /> 父・吉宗が将軍に就任することになると、同時に[[江戸城]]に入り、[[享保]]10年([[1725年]])に[[元服]]、それまでの[[徳川将軍家]]の慣例に倣い、[[通字]]の「家」の字を取って&#039;&#039;&#039;家重&#039;&#039;&#039;と名乗る。生来虚弱の上、障害により言語が不明瞭であった&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;『[[徳川実紀]]』には「御多病にて、御言葉さはやかならざりし故、近侍の臣といへども聞き取り奉る事難し」とある。&lt;/ref&gt;ため、幼少から[[大奥]]に籠りがちで酒色にふけって健康を害した。享保16年12月([[1731年]])、[[増子女王|比宮増子]]と結婚した。<br /> <br /> 発話の難に加え、[[猿楽]]([[能]])を好んで文武を怠ったため、文武に長けた次弟・[[徳川宗武|宗武]]と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;[[一条兼香]]の日記『兼香公記』では「武道は修めるも文道に及ばず、酒色遊芸にふけり狩猟を好まず」とある。&lt;/ref&gt;、父・吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。このため、一時は老中・[[松平乗邑]]によって[[廃嫡]]されかかったこともある。[[延享]]2年([[1745年]])に吉宗は[[隠居]]して[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし[[宝暦]]元年([[1751年]])までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重の将軍職継承は、家重の長男・[[徳川家治|家治]]が父とは逆に非常に聡明であったことも背景にあったと言われている。それでも吉宗存命中に、[[松平乗邑]]を老中から罷免して[[減封]]を命じ、弟の宗武には謹慎を命じ、3年後に謹慎を解いた後も生涯謁見を許さなかった。<br /> <br /> === 将軍として ===<br /> 家重の時代は吉宗の推進した[[享保の改革]]の遺産があり、[[徳川綱吉|綱吉]]が創設した[[勘定吟味役]]を充実させ、現在の[[会計検査院]]に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、[[酒株#宝暦の勝手造り令|宝暦の勝手造り令]]で[[酒造統制]]の規制緩和など、幾つかの独自の経済政策を行った。しかし負の遺産も背負うこととなり、享保の改革による増税策により[[一揆]]が続発し(直接には宝暦5年([[1755年]])の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である)、社会不安が増していった。[[郡上一揆]]では、家重は真相の徹底究明を指示し、[[田沼意次]]が[[評定所]]の吟味に参加し、老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが処罰され、[[郡上藩]]と[[相良藩]]2藩が改易となった。百姓一揆で幕府上層部にまで処罰が及んだ例は郡上一揆が唯一である。また[[薩摩藩]]に対して[[木曽三川]]の工事を命じ、膨大な財政負担を薩摩藩に負わせた([[宝暦治水事件]])。京都で[[宝暦事件]]が起きたのも、家重が将軍職にあった時期である。また次男の重好に[[江戸城]]清水門内で屋敷を与えて徳川姓を許し、[[御三卿]]体制を整えた。ただ、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の[[大岡忠光]]のみが聞き分けることができたため彼を重用し、[[側用人]]制度を復活させた。[[田沼意次]]が[[大名]]に取り立てられたのも家重の時代である。<br /> <br /> [[大岡忠光]]は、権勢に奢って失政・暴政を行うことはなかったと言われる。宝暦10年4月26日(1760年6月9日)に忠光が死ぬと、家重は[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]([[6月25日]])に長男・家治に将軍職を譲って大御所と称した。<br /> <br /> 宝暦11年(1761年)6月12日、田沼意次の重用を家治に遺言し、死去した。数え年51歳であった。<br /> <br /> == 人物・逸話 ==<br /> [[File:Tokugawa Ieshige Hase-dera.jpg|thumb|徳川家重像([[長谷寺]]蔵)]]<br /> * 家重の言語不明瞭は、[[脳性麻痺]]による[[言語障害]]とする説がある。<br /> * あまりに頻繁に尿意を催していたせいで口さがない人々から&#039;&#039;&#039;小便公方&#039;&#039;&#039;と揶揄された。&lt;!---理由は後述にあるものと推察されている。---&gt;<br /> ** [[江戸城]]から[[上野]][[寛永寺]]へ出向く道中(数km)に23箇所も[[便所]]を設置させたとされ、少なくともこの時期、いわゆる[[頻尿]]であったことは確認できる。<br /> * 正室が死去したのち、側室のお幸の方を寵愛した。やがて長男・家治が生まれ、お幸の方は「お部屋様」と崇められた。しかし家重は後に、お千瀬の方を寵愛するようになった。女だけでなく酒にも溺れるようになった家重に対し、お幸の方が注意をしたもののそれを聞かず、むしろ疎むようにさえなった。そうした中、側室との睦みごとの最中にお幸の方が入ってきたことで癇癪を起こし、お幸の方を牢獄に閉じ込めた。それを聞いた吉宗が「嫡男の生母を閉じ込めるのはよくない」と注意し、お幸の方は牢から出られたものの、2人の仲が戻ることはなかったという。<br /> * [[太平洋戦争]]後、増上寺の改修に伴い、同寺境内の徳川将軍家墓所の発掘・移転が行われた。この時、歴代将軍やその家族の遺骨の調査も行なわれた。<br /> ** 死後、埋葬された歴代将軍の中でも家重は、最も整った顔立ちをしており、さまざまな行事で諸大名に謁見した際に非常に気高く見えたという『[[徳川実紀]]』における内容の記述を裏付けている。にもかかわらず、[[肖像画]]では[[ひょっとこ]]のような顔で描かれている。これは[[顔面麻痺]]によるものとする説がある。<br /> ** 歯には約45度の角度での磨耗が見られ、これにより、少なくとも[[歯#乳歯|乳歯]]から[[歯#永久歯|永久歯]]へと生え変わって以降、四六時中[[歯ぎしり]]を行なっていたと推察された。これは[[アテトーゼ]]タイプの脳性麻痺の典型的症状としても見られるものである。また頻尿は[[排尿障害]]によるものと考えられ、死因は[[尿路感染]]、[[尿毒症]]のためと推測されている&lt;ref&gt;[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』([[新潮新書]]、[[2005年]][[5月]]、ISBN 978-4106101199)より。また、[[謎解き!江戸のススメ]]([[BS-TBS]]、[[2015年]][[3月9日]]放送)でも紹介された。&lt;/ref&gt;。<br /> ** [[ABO式血液型|血液型]]はA型であった。<br /> ** 四肢骨から推定した身長は156.3cmであった。これは、当時の男性の平均身長(157.1cm)よりわずかに低く、当時の女性の平均身長(145.6cm)より10cm高い。<br /> ** 女性説もあるが定かではない。<br /> <br /> == 評価 ==<br /> 『[[徳川実紀]]』には、「近習の臣といえども、常に見え奉るもの稀なりしかば、御言行の伝ふ事いと少なし」、「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に俗しけるは、有徳院(吉宗)殿の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」と記されている。つまり、無能な将軍だったが、幕閣の大岡忠光や父・吉宗の遺産もあって、平穏を保ったと言われているのである。<br /> <br /> その一方で、忠光や[[田沼意次]]のような優秀な幕臣を見出して重用していたり、勘定吟味役を充実させていることから、[[井沢元彦]]は「人事能力は優れている」「隠れた名君である」と評し、『徳川実紀』の評価を、障害ゆえに知性も低いという偏見、あるいは抜擢した意次の低評価によるものとしている。また[[甲斐素直]]も、障害があっても頭脳は怜悧で強力なリーダーシップで政治実権を握った将軍であり、[[徳川綱吉|綱吉]]同様、幕閣に不人気だったために低評価になったとの見方をしている。<br /> <br /> == 経歴 ==<br /> * [[享保]]9年([[1724年]])[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]、将軍後継者となる。<br /> * 享保10年([[1725年]])[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]、従二位[[大納言|権大納言]]に叙任。元服して&#039;&#039;&#039;家重&#039;&#039;&#039;と名乗る。<br /> * [[寛保]]元年([[1741年]])[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]、右近衛大将を兼任。<br /> * 延享2年([[1745年]])[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]、正二位[[内大臣]]に昇叙転任し、右近衛大将の兼任元の如し。併せて征夷大将軍・[[源氏長者]]宣下。<br /> * 宝暦10年([[1760年]])<br /> ** [[2月4日 (旧暦)|2月4日]]、[[右大臣]]に転任。<br /> ** [[4月1日 (旧暦)|4月1日]]、征夷大将軍を辞す。<br /> * 宝暦11年([[1761年]])<br /> ** [[6月12日 (旧暦)|6月12日]]、薨去。<br /> ** [[7月24日 (旧暦)|7月24日]]、贈正一位[[太政大臣]]。<br /> <br /> == 系譜 ==<br /> * 父:徳川吉宗<br /> * 母:お須磨の方(深徳院)<br /> * 弟<br /> ** [[徳川宗武]]:[[田安徳川家]]初代<br /> ** [[徳川宗尹]]:[[一橋徳川家]]初代<br /> * 正室:[[比宮増子]](証明院、[[伏見宮邦永親王]]の娘)<br /> * 側室:於幸([[至心院]]、[[公家]][[梅渓通条]]の娘)<br /> ** 長男・[[徳川家治]]:10代将軍<br /> * 側室:於遊([[安祥院 (徳川家重側室)|安祥院]]、[[三浦義周]]の娘、[[松平親春]]養女)<br /> ** 次男・[[徳川重好]]:[[清水徳川家]]初代<br /> * 猶子:[[尊峰入道親王]]:[[京極宮家仁親王]]王子、[[桜町天皇]]養子<br /> * 孫:[[徳川家基]]、[[徳川貞次郎|貞次郎]]<br /> <br /> == 家重が偏諱を与えた主な人物 ==<br /> * [[二条重良|二条&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;良]](公家)<br /> * [[徳川家治|徳川&#039;&#039;&#039;家&#039;&#039;&#039;治]](長男、第10代将軍)<br /> * [[徳川重好|徳川&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;好]](次男、[[清水徳川家]]の祖で清水重好とも)<br /> * [[徳川重倫|徳川&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;倫]](紀伊藩第8代藩主、義兄弟(父・吉宗から紀伊藩主を継いだ)[[徳川宗直]]の孫)<br /> * [[松平重昌|松平&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;昌]](甥(弟・宗尹の長男)、[[越前松平家#福井松平家|福井松平家]]を継ぐ)<br /> * [[松平重富|松平&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;富(&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;福)]](甥(弟・宗尹の三男)、重昌の実弟・養嗣子、※家重が将軍職を辞した年に元服)<br /> * [[上杉重定|上杉&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;定]]<br /> * [[伊達重村|伊達&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;村]]<br /> * [[前田重煕|前田&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;煕]]<br /> * [[前田重靖|前田&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;靖]](重煕の弟)<br /> * [[前田重教|前田&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;教]](重煕・重靖の弟)<br /> * [[浅野重晟|浅野&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;晟]]<br /> * [[池田重寛|池田&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;寛]]<br /> * [[蜂須賀重矩|蜂須賀&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;矩]]([[徳島藩]]第6代藩主[[蜂須賀宗員]]の子。第8代藩主[[蜂須賀宗鎮]]の養子。跡を継ぐことなく早世)<br /> * [[蜂須賀重隆|蜂須賀&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;隆]](蜂須賀宗鎮の養子、重矩の従弟。養嗣子だったが後に廃嫡)<br /> * [[蜂須賀重喜|蜂須賀&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;喜]](同藩第10代藩主。第9代藩主[[蜂須賀至央]](宗鎮の実弟・養嗣子)の養嗣子)<br /> * [[毛利重就|毛利&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;就]]<br /> * [[毛利重広|毛利&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;広]](重就の養子(※跡を継ぐことなく死去))<br /> * [[黒田重政|黒田&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;政]](継高の長男(※跡を継ぐことなく死去))<br /> * [[鍋島重茂|鍋島&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;茂]]<br /> * [[細川重賢|細川&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;賢]]<br /> * [[島津重年|島津&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;年]]<br /> * [[島津重豪|島津&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;豪]](重年の子、※家重が将軍職を辞する2年前に元服)<br /> <br /> 逆に、家重の「重」の字を避けて改名した者もいる(例:[[入来院定恒]](初め重教)、[[東郷実満]](初め重通・重治)・[[東郷位照]](初め重矩)など[[薩摩国|薩摩]][[渋谷氏]]の一族&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;[[江戸時代]]には、将軍の諱やその字の訓読みは藩主レベルでも将軍が下賜しない限り使用しない慣習があり、[[長州藩]]の[[毛利重就]]や[[桑名藩]]の[[松平定猷]]のように、藩主でも改名や読みを変える場合があった。薩摩藩では将軍や藩主の本名の字を使ってならないという藩法があり(「薩藩政要録」参照)、これにより[[通字]]が「&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;」の字であった薩摩の渋谷氏一族は一斉に改名している。&lt;/ref&gt;)<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 注釈 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references group=&quot;注釈&quot; /&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[鈴木尚]]・矢島恭介・山辺知行編『[[骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと]]』 東京大学出版会、1967年。<br /> * 鈴木尚『[[増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体]]』 東京大学出版会、1985年。<br /> * 古川愛哲『九代将軍は女だった! 平成になって覆された江戸の歴史』 講談社+α新書 、2008年。<br /> <br /> == 徳川家重が登場する作品 ==<br /> ; テレビドラマ<br /> * [[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥]](1968年、演:[[伊村賢一郎]]→[[川口浩 (俳優)|川口浩]])<br /> * [[影の軍団II]] (1981〜1982年、[[石橋蓮司]])<br /> * [[大奥 悪霊の館]](1981年、演:[[和田浩治]])<br /> : この作品の家重は、史実と違って聡明であり、また、言語も明瞭である。<br /> * [[八代将軍吉宗]](1995年、演:[[中村梅雀]])<br /> * [[逃亡者 おりん|逃亡者おりん]](2006年、演:[[小林隆]])<br /> <br /> ; 小説<br /> * [[近藤五郎]]『[[剣豪将軍 徳川家重]]』([[コスミック出版]])<br /> <br /> ; 情報番組<br /> * [[超歴史ミステリーロマン]](2006年、演:[[水野裕子]])<br /> <br /> ; 漫画<br /> * [[よしながふみ]]『[[大奥 (漫画)|大奥]]』([[白泉社]])<br /> * [[福田宏]]『[[常住戦陣!!ムシブギョー]]』([[小学館]])<br /> <br /> {{徳川氏歴代当主|||第9代}}<br /> {{江戸幕府将軍}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:とくかわ いえしけ}}<br /> [[Category:江戸幕府の征夷大将軍|いえしけ]]<br /> [[Category:徳川吉宗の子女|いえしけ]]<br /> [[Category:徳川氏|いえしけ]]<br /> [[Category:紀州徳川氏|いえしけ]]<br /> [[Category:言語障害を持つ人物]]<br /> [[Category:墓を暴かれた人物]]<br /> [[Category:1712年生]]<br /> [[Category:1761年没]]</div> 221.26.162.233 ジョゼフ・フーシェ 2018-05-21T10:11:14Z <p>221.26.162.233: 内容追加</p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |各国語表記 =Joseph Fouché<br /> |画像 = Joseph Fouché.png<br /> |画像サイズ = 225px<br /> |画像説明 = <br /> |国略称 = {{FRA}}<br /> |生年月日 = [[1759年]][[5月21日]]<br /> |出生地 =[[ル・ペルラン]]<br /> |没年月日 = [[1820年]][[12月25日]]<br /> |死没地 =[[トリエステ]] <br /> |称号・勲章 = {{ill2|オトラント公爵|en|Duke of Otranto}}(1808年)<br /> |出身校 = <br /> |前職 = [[教師]]&lt;!--生涯世俗のままであり、僧籍に入ったことはない--&gt;<br /> |国旗 = FRA<br /> |職名 = 警察大臣<br /> |内閣 = <br /> |当選回数 = <br /> |就任日 = [[1799年]][[7月20日]] - [[1810年]][[6月3日]]&lt;br /&gt;[[1815年]][[3月20日]] - 1815年[[6月22日]]&lt;br /&gt;1815年[[7月7日]]<br /> |退任日 = 1815年[[9月26日]]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ジョゼフ・フーシェ&#039;&#039;&#039;({{lang-fr-short|Joseph Fouché}}, &lt;small&gt; [http://ja.forvo.com/word/joseph_fouché#fr 発音例]&lt;/small&gt;, [[1759年]][[5月21日]] - [[1820年]][[12月25日]])は、[[フランス革命]]、[[フランス第一帝政|第一帝政]]、[[フランス復古王政]]の政治家である。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]体制では警察大臣を務め、[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]と共に体制の主要人物となった。特に[[百日天下]]崩壊後は臨時政府の首班を務めて[[ナポレオン戦争]]の戦後交渉を行った。<br /> <br /> 近代[[警察]]の原型となった警察機構の組織者で、特に[[秘密警察]]を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家として知られる。権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物であったとされ、「カメレオン(冷血動物)」の異名を持つ。オーストリアの[[ユダヤ人]]作家[[シュテファン・ツヴァイク]]による評伝が有名である。<br /> <br /> == 略歴 ==<br /> [[ナント]]近郊の[[ル・ペルラン]]出身。父は船員で、フーシェにも後を継がせるつもりだったが、体が弱く、勉学の才があったためにナントのオラトリオ教団([[:en:Oratory of Jesus|en]])で学ぶ&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;オラトリオ教団は、16世紀にローマで設立され、1611年よりフランスで活動したカトリックに属する寄宿修道会。教育や音楽での功績が有名。&lt;/ref&gt;。その後、僧籍には入らずに、同教会所属の学校で物理科学を教える教師となった。なお、この時期に北部の町[[アラス]]において、[[ラザール・カルノー|カルノー]]や無名の弁護士であった[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]と交わり、彼の妹と交際している。<br /> <br /> こうした面々とのつながりから政治運動に目覚めたフーシェは[[フランス革命]]後にカトリック教会を否定する「[[フランス革命期における非キリスト教化運動|非キリスト教化運動]]」に関わるようになって、[[1792年]]に[[国民公会]]の議員に当選し、パリに向かった。当初は同郷である[[ジロンド派]]に近い穏健共和派の立場であったが、国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の裁判の際に[[死刑|処刑]]票を投じ、それを契機に[[ジャコバン派]]内の[[山岳派]]に鞍がえした。これによりジロンド派追放から免れるが、国王殺しの罪が後に尾を引くことになる。彼はまた、1793年10月に墓地令を発し、共同墓地の十字架を撤去させている&lt;ref name=&quot;tanig_71&quot;&gt;[[#谷川3|谷川(2006)pp.71-73]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ロベスピエールによる[[恐怖政治]]を支持して革命運動に身を投じ、1793年には私有財産を禁じる法令をナント州などで発布し、[[リヨンの反乱|リヨンの大虐殺]]を指導するなど辣腕をふるうが、その後ロベスピエールと対立した。[[テルミドール9日のクーデター]]に参加し、情報収集能力の高さを評価されて[[総裁政府]]の警察大臣を務めた。[[ブリュメール18日のクーデター]]では体制側であったが、ナポレオンの政権奪取に貢献し、[[統領政府]]でも引き続いて警察大臣に就任した。[[1800年]]のサン・ニケーズ街暗殺未遂事件の阻止には失敗したが、その入念な捜査でカドゥーダルの陰謀を暴き、王党派を一網打尽にすることに成功。終身制に反対して一時失脚するが、[[ルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデ|アンギャン公]]事件で再評価され、ナポレオン1世の[[フランス第一帝政|帝政]]において警察大臣、[[護憲元老院|元老院]]議員を歴任した。<br /> <br /> フーシェは総裁政府時代から密偵を雇い、[[秘密警察]]を使って国家のあらゆるものを監視させたと言われる。ナポレオンの妻・[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョゼフィーヌ]]すら買収し、ナポレオンの私生活まで監視していた&lt;ref&gt;両角良彦『反ナポレオン考』朝日選書、1991年、p.226&lt;/ref&gt;。ナポレオンはフーシェの情報収集力を高く評価し、用事があるときは秘書官に呼びに行かせた。ナポレオンは、大臣たちを自分の秘書官程度に考え、時には口述筆記させることすらあったといい、直接呼びつけるのではなく、秘書官に呼びに行かせるのはナポレオンにとっては格別の配慮であった。なお、フーシェと共にナポレオンが配慮を示したのは、タレーランである&lt;ref&gt;両角良彦『反ナポレオン考』朝日選書、1991年、pp.229-230&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1808年に衛星国[[ナポリ王国]]の[[オトラント]]公爵に叙されるが、タレーランと同様にナポレオン帝国の崩壊を予想して、次政権の構想を画策し始める。翌年イギリス軍が[[ベルギー]]に迫ったときに独断で国民軍を編成し、[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]を司令官に据えた越権行為、対英和平交渉が露見して辞職した。この時の駐仏オーストリア大使{{仮リンク|カール・フィリップ・ツー・シュヴァルツェンベルク|label=シュヴァルツェンベルク|en|Karl Philipp, Prince of Schwarzenberg}}は、「ナポレオンをなだめられる唯一の人物が全国に惜しまれつつ去った」と本国に報告している&lt;ref&gt;両角良彦『反ナポレオン考』朝日選書、1991年、p.232&lt;/ref&gt;。後、[[1813年]]、短期間であったが、[[ジャン=アンドシュ・ジュノー|ジュノー]]将軍の後任として[[イリュリア州]]総督を務めた。<br /> <br /> 百日天下では再びナポレオンを支持して警察大臣に再復帰。崩壊後、退位したナポレオンに代わって臨時政府首班となり、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]を[[パリ]]に迎えたが、首班の地位はタレーランに奪われた。[[フランス復古王政|王政復古]]でも短期間だけ警察大臣となったが、[[レジティミスト|王党派]]は国王殺しのフーシェを忘れていなかった。両親であるルイ16世と[[マリー・アントワネット]]を殺された[[マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス|マリー・テレーズ]]は、フーシェが現れると席を蹴り、決して同席しようとしなかった。[[1815年]]8月、フーシェは大臣就任後わずか2ヶ月で失脚し、[[ザクセン王国]](当時は[[ドイツ連邦]]の加盟国)駐在大使として[[ドレスデン]]に左遷された。[[1816年]]1月9日、パリの議会による百日天下の際にナポレオンに与した国王死刑賛成投票者はフランスから永遠に追放するというフーシェを狙い撃ちにする決議により国外追放される形で[[プラハ]]に亡命した&lt;ref&gt;鹿島『[[#ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815|ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815]]』p.565&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その後は[[オーストリア帝国|オーストリア]]の[[リンツ]]、[[イタリア]]へと渡り歩き、1820年に[[トリエステ]]で死んだ。晩年は家族と友人に囲まれた平穏な生活を営み、人が変わったように教会の参拝を欠かさなかったという。フーシェは死ぬまで敵対者の個人情報を手中に収め、保身に成功した。オトラント公としての居城跡地の{{仮リンク|フェリエール城|en|Château de Ferrières}}がある[[セーヌ=エ=マルヌ県]]・{{仮リンク|フェリエール・アン・ブリー|en|Ferrières-en-Brie}}に埋葬されている&lt;ref&gt;{{Cite web |url=http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&amp;GSln=Fouch%E9&amp;GSfn=Joseph+&amp;GSbyrel=in&amp;GSdyrel=in&amp;GSob=n&amp;GRid=37561614&amp; |title=Joseph Fouche (1759 - 1820) |publisher=Find A Grave |accessdate=2009-07-23}} {{en icon}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[明治時代]]に[[日本の警察]]を創設した[[川路利良]]は、フーシェに範を取ってその事跡を取り入れた。<br /> <br /> == 家族 ==<br /> * 妻:ボンヌ=ジャンヌ・コワニョー。[[1792年]]に結婚、のち死別。<br /> :* 長女:ニエーヴル・フーシェ([[1793年]] - [[1794年]])<br /> :* 長男:ジョゼフ=リベルテ・フーシェ([[1796年]] - [[1862年]])第2代オトラント公爵。 <br /> :* 二男:アルマン・フーシェ(1800年 - [[1878年]])第3代オトラント公爵。 <br /> :* 三男:[[アタナス・フーシェ]]([[1801年]] - [[1886年]])第4代オトラント公爵。兄らと共にスウェーデンに渡り、スウェーデンの貴族として定住する。<br /> :* 二女:ジョゼフィーヌ=リュドミール・フーシェ([[1803年]] - [[1893年]]) [[1985年]]に歌手のジュリアン・クレルクと結婚したヴィルジニー・クーペリはこの系統。<br /> * 妻:ガブリエル=エルネスティーヌ・ド・キャステラーヌ。前妻との死別後、[[1818年]]に結婚。子はいない。<br /> <br /> == 脚注 == <br /> {{脚注ヘルプ}} <br /> === 注釈 === <br /> &lt;references group=&quot;注&quot;/&gt;<br /> === 出典 === <br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{参照方法|date=2016年9月11日 (日) 11:54 (UTC)}}<br /> * {{Cite book |和書 |author=[[鹿島茂]] |title=ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815 |publisher=講談社 |series=講談社学術文庫 1959 |date=2009-08 |isbn=978-4-06-291959-3 |ref=ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815 }}<br /> ** 上の書籍は、鹿島茂『情念戦争』([[集英社インターナショナル]]、2003年10月、ISBN 978-4-7976-7080-6 を学術文庫に収録したものである。<br /> * {{Cite book|和書|author=[[谷川稔]]|editor=谷川稔、[[渡辺和行]]編著|chapter=第二章フランス革命とナポレオン帝政 3.文化と習俗の革命|year=2006|month=2|title=近代フランスの歴史-国民国家形成の彼方に-|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|series=|isbn=4-623-04495-5|谷川3}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[両角良彦]] |title=反ナポレオン考 時代と人間 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=[[朝日選書]] 615 |date=1998-12 |edition=新版 |isbn=978-4-02-259715-1 }}<br /> <br /> <br /> == 関連書籍 ==<br /> &lt;!--この節のみ、ここに挙げた情報での発行年順--&gt;<br /> &lt;!--下記の書籍を出典として加筆された場合は、お手数でも上の参考文献の欄に移動願います--&gt;<br /> * シュテファン・ツヴァイク『ジョゼフ・フーシェ』[[吉田正己]]、小野寺和夫訳、[[みすず書房]]、1969年、{{全国書誌番号|73004544}}。<br /> * シュテファン・ツワイク『ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像』[[高橋禎二]]、[[秋山英夫]]訳、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1981年 ISBN 978-4-00-324374-9。<br /> * [[長塚隆二]]『ジョゼフ・フーシェ 政治のカメレオン』[[読売新聞社]]、1996年6月、ISBN 978-4-643-96054-9。<br /> <br /> === フィクション作品 ===<br /> * 小説<br /> ** [[辻邦生]]『フーシェ革命暦』第1部・第2部(未完)<br /> *** [[文藝春秋]]、1989年7月。ISBN 第1部:{{ISBN|978-4-16-363670-2}}、第2部:{{ISBN|978-4-16-363680-1}}。<br /> *** のち『辻邦生全集』11・12巻に収録。[[新潮社]]、11巻:2015年4月、ISBN 978-4-10-646911-4、12巻:2005年5月 ISBN 978-4-10-646912-1。<br /> ** [[ジョン・ディクスン・カー]]『喉切り隊長』<br /> *** [[村崎敏郎]]訳、[[早川書房]]〈世界探偵小説全集〉、1958年、{{全国書誌番号|58003343}}。<br /> *** [[島田三蔵]]訳、早川書房〈[[ハヤカワ文庫#ハヤカワ文庫HM(ハヤカワ・ミステリ文庫)|ハヤカワ・ミステリ文庫]] HM 5-12〉、1982年8月、ISBN 978-4-15-070362-2。<br /> <br /> * 漫画<br /> ** [[倉多江美]]『[[静粛に、天才只今勉強中!]]』<br /> ** 長谷川哲也『[[ナポレオン‐獅子の時代‐]]』<br /> ** [[池田理代子]]『[[栄光のナポレオン-エロイカ]]』<br /> <br /> === その他 ===<br /> * {{Cite book|和書|author=西部邁|authorlink=西部邁|coauthors=[[佐高信]]|date=2012-10-20|title=西部邁と佐高信の快著快読|chapter=ツヴァイク「ジョセフ・フーシェ」|publisher=[[光文社]]|pages=9-46|isbn=978-4-334-97716-0}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[秘密警察]]<br /> * [[ウィーン会議]]<br /> * [[フランス革命期における非キリスト教化運動]]<br /> <br /> === フーシェになぞらえられた人物 ===<br /> * [[クラウス・バルビー]] - [[ヴィシー政権]]期の所業から「&#039;&#039;&#039;リヨンの屠殺人&#039;&#039;&#039;」と呼ばれた[[ドイツ人]]<br /> * [[川島正次郎]] - [[党人派]]出身で「江戸前フーシェ」とあだ名された。<br /> * [[後藤田正晴]] - 内務官僚出身だが「日本のフーシェ」とあだ名された。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *{{commons-inline|Joseph Fouché}}<br /> *[http://www.gutenberg.org/browse/authors/f#a8355 &quot;Ses Mémoires&quot; Project Gutenberg] {{en icon}}<br /> <br /> {{History-stub}}<br /> {{フランス革命}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ふうしえ しよせふ}}<br /> [[Category:フランス第一帝政の人物]]<br /> [[Category:復古ブルボン朝の人物]]<br /> [[Category:フランスの内相]]<br /> [[Category:フランスの貴族]]<br /> [[Category:フランスの大使]]<br /> [[Category:フランスのスパイ]]<br /> [[Category:フランスの亡命者]]<br /> [[Category:ジャコバン派]]<br /> [[Category:イタリアの公爵]]<br /> [[Category:ブルターニュの人物]]<br /> [[Category:1759年生]]<br /> [[Category:1820年没]]</div> 221.26.162.233 会津騒動 2017-07-24T15:17:00Z <p>221.26.162.233: /* 関連項目 */内容追加</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;会津騒動&#039;&#039;&#039;(あいづそうどう)は、[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]において、藩主・[[加藤明成]]の時代に起こった[[江戸時代]]前期の[[お家騒動]]である。<br /> <br /> == 経過 ==<br /> === 加藤明成 ===<br /> [[寛永]]4年([[1627年]])、[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]主・[[加藤嘉明]]は20万石から40万石に加増された上で会津藩主として移封された。そして寛永8年([[1631年]])9月に死去する。<br /> <br /> 嘉明の死後、家督は長男の[[加藤明成|明成]]が継いだが、明成は古今武家盛衰記において「私欲日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割付け取りける故、家士の口論、商工の公事喧嘩止むことなし」、また[[飯田忠彦]]の『[[大日本野史]]』によれば「明成財を貪り民を虐げ、好んで一歩金を玩弄す。人呼んで一歩殿といふ。歴年、貪欲暴横、農商と利を争ひ、四民貧困し、訟獄止まず、群臣あるひは諫むるも聴かず」と伝えられる。<br /> <br /> === 堀主水との対立 ===<br /> 堀主水は嘉明時代の功臣で、本姓は「多賀井」であるが、[[大坂の役]]では敵と組みあい、堀に落ちても相手の首を取ったということから「堀」と名乗ることを嘉明に許されていた。<br /> 先代からの実績もあり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の気骨があった堀は明成の素行に対して何度も諫言したが、堀と明成は次第に不仲になっていく。<br /> そんなとき、堀の家臣と明成の家臣が喧嘩をするという事件が起こる。一方は筆頭家老の家来、一方は藩主の直臣であったことから奉行の権限で裁けることではなく、明成による裁断が仰がれた。すると明成は堀の家来に非があるとして処罰し、さらに堀も連座として[[蟄居]]を命じた。この処置に怒った堀は、蟄居を破って明成のもとに現れ、再度の裁断と処罰の無効を訴えた。これに対して明成は怒り家老職を罷免する。<br /> <br /> === 堀主水の出奔 ===<br /> 寛永16年([[1639年]])4月16日、堀は実弟の多賀井又八郎ら一族郎党を率いて、白昼堂々と[[若松城]]から立ち去った。しかもこのとき、若松城に向かって鉄砲を撃ち、関所を押し破るという暴挙にも出ている。<br /> 堀は鎌倉に立ち寄ったあと[[高野山]]に逃れた。高野山は堀主水を匿いきれず、主水は紀州藩を頼るが、明成は紀州藩にも引き渡しを要求する。堀主水は紀州にも居られなくなり、江戸へ出て幕府へ「おのれつみなきよしを申す」が、<br /> 家臣でありながら関所を破り、城に鉄砲を撃ちかけたことは「家臣の礼を失ひ国家の法をみだる。罪ゆるさるべからず」と明成に引き渡され、明成によって弟二人と共に処刑された。<br /> <br /> === 所領返上 ===<br /> 寛永20年([[1643年]])4月、明成は「我は病で藩政を執れる身ではなく、また大藩を治める任には堪えられず、所領を返還したい」と幕府に申し出た。5月、幕府は加藤氏の[[改易]]・取り潰しを命じたが、加藤嘉明の幕府に対する忠勤なども考慮して、明成に1万石を新たに与えて家名再興を許した。しかし明成が応じなかったため、幕府は明成の子・[[加藤明友|明友]]に[[石見国|石見]][[吉永藩]]1万石を新たに与えて家名を再興させた。<br /> 『徳川実紀』が伝えるのは以上のような経緯である。ただし『徳川実紀』&lt;ref&gt;[[#徳川実紀3|徳川実紀3]]収録の「大猷院殿御実紀」pp.312-313。大猷院殿とは三代将軍家光の戒名。&lt;/ref&gt;巻53、寛永20年5月2日条は改易の事実を記したあとで「世に伝うる処は」と経緯を記し、そこに堀主水の一件があるので、この経緯は幕府の記録(日記)に基づくものではなく、同時代の確実な史料はない。<br /> 明成は明友の庇護のもとで藩政に口出しせずに余生を送り、[[万治]]4年([[1661年]])1月に死去した。<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book|和書 |ref =徳川実紀3 |last = 黒板勝美編輯 |title = 国史大系第40巻 新訂増補 徳川実紀 第三篇 |year = 1990 |publisher =吉川弘文館}}<br /> * {{Cite book|和書 |ref = 古今武家盛衰記 |last = 黒川真道編 |title = 古今武家盛衰記. 1 |year = 1914 |publisher =国史研究会}}<br /> * {{Cite book|和書 |ref = 武将感状記 |last = 博文館編輯局編 |title = 武将感状記 |year = 1941 |publisher =続群書類従完成会}}<br /> *『三百藩藩主人名事典』 (新人物往来社)<br /> *『三百藩家臣人名事典』 (新人物往来社)<br /> *[[南條範夫]]『大名廃絶録』 (新人物往来社)<br /> *[[児玉幸多]]・[[北島正元]]『藩史総覧』 (新人物往来社)<br /> *[[竹内誠]]『徳川幕府事典』 (東京堂出版)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[天秀尼#会津四十万石改易事件|天秀尼・会津四十万石改易事件]]<br /> * 『[[柳生忍法帖]]』 - [[山田風太郎]]の長編小説。堀主水の退転が物語の発端となる。<br /> {{デフォルトソート:あいつそうとう}}<br /> <br /> [[Category:江戸時代の事件]]<br /> [[Category:会津藩]]<br /> [[Category:1639年の日本]]</div> 221.26.162.233
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