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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=221.244.37.138&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-19T13:27:42Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ロバート・スコット 2018-08-11T03:19:13Z <p>221.244.37.138: </p> <hr /> <div>{{Otheruses|イギリスの探検家|アメリカ出身の俳優・タレント|ロバート・スコット (俳優)}}<br /> {{出典の明記|date=2017年12月}}<br /> {{基礎情報 軍人<br /> | 氏名 = ロバート・ファルコン・スコット<br /> | 各国語表記 = Robert Falcon Scott<br /> | 生年月日 = [[1868年]][[6月6日]]<br /> | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1868|6|6|1912|3|29}}<br /> | 画像 = Scott of the Antarctic crop.jpg<br /> | 画像サイズ = 200px<br /> | 画像説明 = 1912年<br /> | 渾名 = <br /> | 生誕地 = {{ENG}}、[[プリマス]]<br /> | 死没地 = [[南極大陸]]<br /> | 所属政体 = {{GBR}}<br /> | 所属組織 = [[イギリス海軍]]<br /> | 軍歴 = 1883年 - 1912年<br /> | 最終階級 = 大佐<br /> | 指揮 = <br /> | 部隊 = <br /> | 戦闘 = <br /> | 戦功 = <br /> | 賞罰 = <br /> | 除隊後 = <br /> | 廟 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ロバート・ファルコン・スコット&#039;&#039;&#039;(Robert Falcon Scott, [[1868年]][[6月6日]] - [[1912年]][[3月29日]])は、[[イギリス]]の[[イギリス海軍|海軍]][[軍人]]、[[探検家]]。[[南極]]探検家として知られ、1912年に[[南極点]]到達を果たすが、帰途遭難し、死亡した。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[1868年]]、[[醸造]]業を営むジョン・エドワード・スコットの長男として、誕生。武人の家系であり、13歳で[[海軍兵学校 (イギリス)|海軍兵学校]]に入学する。15歳で[[士官候補生]]となる。[[1888年]]、[[海軍大学 (イギリス)|海軍大学]]を卒業。<br /> <br /> 1899年、[[少佐]]だったスコットは、[[王立地理学協会]]による南極探検計画を知り、隊長として参加する事を熱望する。翌年[[中佐]]に昇進し、その任にあたった。<br /> <br /> [[1901年]]から[[1904年]]にかけて、第1回南極探検([[ディスカバリー遠征|ディスカバリー号の探検]])が行われた。この際、[[アーネスト・シャクルトン]]らと共に[[南極点]]到達を目指し、残り733kmの地点まで迫っている。また、[[ペンギン]]生態観察等を行い、南極に関する多くの科学的知見を得て、高い評価を得、帰国と同時に大佐に昇進する。[[1904年]]には、南極探検の功績に対して、[[王立地理学会]]から[[金メダル (王立地理学会)|金メダル(パトロンズ・メダル)]]を贈られた&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.rgs.org/NR/rdonlyres/C5962519-882A-4C67-803D-0037308C756D/0/GoldMedallists18322011.pdf|format=PDF|title=Medals and Awards, Gold Medal Recipients|publisher=Royal Geographical Society|accessdate=2016年11月26日}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1908年]]に、[[彫刻家]]の[[キャサリン・スコット|キャサリン・ブルース]]と結婚。[[1909年]]9月、彼の南極探検計画が発表され、同年12月には自ら[[予備役]]に転じ資金調達に奔走する。前回の南極探検は国家的プロジェクトだったが、この時の探検はその立案からスコット個人によるところが大きい。<br /> <br /> [[1910年]]から[[1912年]]にかけて、南極探検([[テラノバ遠征|テラ・ノヴァ号の探検]])が行われた。学術調査だけでなく、ノルウェーと人類史上初の南極点到達を競うことになる(後述)が、2着に終わり、さらに帰路[[1912年]][[3月29日]]、死去した。43歳没。同年10月に救援隊により遺体が確認され、遺品の一部が回収された。[[ロンドン]]のウォータールー・プレイスには、[[フランクリン遠征]]を率いての北極探検の半ばに死亡した[[ジョン・フランクリン]]の銅像と並び立つように、スコットの像が建てられている。この銅像は、キャサリン夫人が製作したものである。<br /> <br /> == テラ・ノヴァ号の探検 ==<br /> {{Main|テラノバ遠征}}<br /> === 探検隊 ===<br /> *隊長:ロバート・スコット海軍大佐<br /> *副隊長:[[エドワード・エヴァンズ (初代マウントエヴァンズ男爵)|エドワード・エヴァンズ]]海軍少佐<br /> *ヴィクター・キャンベル海軍少佐<br /> *ヘンリー・バウアーズ海軍少佐<br /> *ローレンス・オーツ陸軍大尉<br /> *エドワード・ウイルソン医師<br /> *他海軍士官7名<br /> *科学者8名<br /> *技術者4名<br /> *エドガー・エヴァンズ(海軍)<br /> *トマス・クリーン(海軍)<br /> *他普通隊員12名<br /> <br /> *[[ウーズレー#(1909年-1926年)|ウーズレー]]社製 モーター雪上車 3台<br /> *矮馬([[ポニー]]) 19頭<br /> *犬 33頭<br /> <br /> === 南極点到達競争の勃発 ===<br /> [[File:Herbert Ponting Scott&#039;s ship Terra Nova 1910.jpg|thumb|180px|テラ・ノヴァ号(1910年12月)]]<br /> [[1910年]][[6月1日]]、スコットはテラ・ノヴァ号にて第2回南極探検に出発する。この探検には8,000名の希望者から選抜された33名の上陸隊員が参加し、南極の科学的探査を行うと共に、世界初の南極点到達を目標としていた。<br /> <br /> 同年[[ロアール・アムンセン]]率いる[[ノルウェー]]隊は、北極点到達が[[ロバート・ピアリー]]の米国隊により達成されたことを知り、目標を南極に変更。<br /> <br /> 10月12日、[[オーストラリア]]の[[メルボルン]]に、10月27日には[[ニュージーランド]]の[[ウェリントン]]に到着。ここで、ノルウェーのアムンセン隊も南極点到達を目指すことを知る。なお、スコット本人は資金調達のため別行動を取った。両隊とも、1911年1月には南極大陸に上陸し、翌夏の南極点到達を目指し、デポ(前進基地)の建設等準備を進めた。この冬の段階で、すでに馬は10頭まで減っている。<br /> <br /> また、ウィルソンやキャンベルを中心に学術調査も行われた。<br /> <br /> === 南極大陸上陸 ===<br /> [[File:Robert Falcon Scott by Herbert Ponting.jpg|thumb|180px|1911年]]<br /> [[1911年]]10月、マクマード湾での越冬を終えたスコット隊は、エヴァンス岬([[ロス棚氷]])から南極点に向け出発する。[[雪上車]]2台による先発隊が[[10月24日]]、そしてロバート・スコットが率いる馬ぞりの本隊が[[11月1日]]に出発した。<br /> <br /> しかし、これに先立つ[[10月19日]]には、より南極点に近いクジラ湾からアムンセンの[[イヌぞり|犬ぞり]]隊も南極点を目指し出発していた。出発前にアムンセンはスコット隊の隊員と会見した時、そり犬を譲ろうと申し出ているが、イギリス側はその申し出を断っている。<br /> <br /> スコット隊は2台の雪上車を投入したが、これはエンジン付きのそりといった代物だった。スコットの期待に反して1週間足らずで両方ともエンジンが故障し、修復不可能になってしまったため、南下は困難を極める。また、羽織っていた毛織物の防寒具が水を吸って凍り付いてしまい、体温の管理にも支障をきたす。主力の馬も寒さと疲労、餌の欠乏で次々と失い、南下のペースが徐々に鈍ってゆく。12月2日、ついに食料節約のため最後の1頭も射殺せざるを得ない状況に追い込まれ、終いには人力でそりを曳かざるを得なくなった。この時点で、4人1組で曳引するそりが3台、犬ぞりが2台となる。<br /> <br /> 12月11日、まず犬ぞり隊が帰還。同月22日に、4名が帰還した。<br /> <br /> === 南極点到達 ===<br /> [[File:Scottgroup.jpg|180px|thumb|南極点到達メンバー&lt;br /&gt;(後列左から)ウィルソン、スコット、エヴァンズ&lt;br /&gt;(前列左から)バウアーズ、オーツ]]<br /> [[1912年]][[1月4日]]に南緯87度32分の地点でグループは分かれ、エヴァンス少佐ら3名が帰還した。最終的に南極点を目指すのはスコット、エドワード・ウィルソン、ヘンリー・バウアーズ、[[ローレンス・オーツ]]大尉、エドガー・エヴァンスの5人に絞られた。スコットが直前になってバウアーズを加え、当初の予定より1名多い。<br /> <br /> 1月9日、かつて[[アーネスト・シャクルトン|シャクルトン]]が到達した南緯88度23分を越える。翌10日、最後のデポを建設。<br /> <br /> [[1月17日]]18時30分頃、スコット達は遂に南極点に到達した&lt;ref&gt;『[[山と溪谷]]』2018年3月号、[[山と溪谷社]]、 19頁。&lt;/ref&gt;。翌18日に英国国旗を立てる。しかしその時は、アムンセン隊が南極点に到達してから既に約1ヶ月も経っており、極点にはノルウェーの国旗が立てられていた。極点から3km程離れた場所にテントが設営され、食料・防寒具・手紙が置かれていた。<br /> <br /> 映画などでは劇的効果を高めるために、アムンセン隊に先を越されたことが南極点到達時に初めて判明したように描写されることが多い。しかしスコットたちはそれ以前にアムンセン隊のそりの滑走痕を視認しており、遅くとも1月16日には彼らに先を越されたことはほぼ確実であると認識していた。<br /> <br /> === パーティーの遭難 ===<br /> [[File:Scott last page.jpg|thumb|180px|1912年3月29日、スコットの最後の日記。内容には「We shall stick it out to the end, but we are getting weaker, of course, and the end cannot be far. &#039;It seems a pity, but I do not think I can write more. &#039;R. SCOTT. &#039;Last entry For God&#039;s sake look after our people.」と記されている。]]<br /> 失望に覆われたパーティーは帰途、[[3月29日]]までに全員が死亡した。<br /> <br /> エヴァンズの衰弱と凍傷は激しく、[[2月16日]]に最初に死亡した。<br /> <br /> しかしこのような状況にあっても、ウィルソンを中心に標本採集を継続していた。さらに不運なことに、2月から3月としては例外的な荒天が続いた。また、前年にデポに貯蔵した燃油も、冬と夏の気温差により缶が損傷したため、著しく欠乏していた。<br /> <br /> 続いてオーツが足に重度の凍傷を負い、自らを見捨てるよう嘆願するようになった。彼が重体となった3月14日、スコットは日記に、携行していたアヘン・[[モルヒネ]]の使用をウィルソンに相談したことを記した。[[3月17日]]の朝、オーツは「&#039;&#039;&#039;I am just going outside and may be some time&#039;&#039;&#039;」(「&#039;&#039;&#039;ちょっと外へ出てくる&#039;&#039;&#039;」)と言葉を残して[[ブリザード]]の中、テントから出て行方不明となる。この日は、彼の32歳の誕生日でもあった。<br /> <br /> 3月21日、食料を置いたデポまであと20kmのところで猛吹雪に見舞われ、テントでの一時待機を余儀なくされる。吹雪は10日間も吹き荒れ、テントに閉じ込められたが、スコット隊の持っていた食料はたったの2日分だけだった。スコットは日記に1912年3月29日付で「&#039;&#039;&#039;我々の体は衰弱しつつあり、最期は遠くないだろう。残念だがこれ以上は書けそうにない。どうか我々の家族の面倒を見てやって下さい&#039;&#039;&#039;」と書き残し、寝袋に入ったまま、残りの3人全員がテント内で息を引き取った。<br /> <br /> 先に帰還した隊員たちは、2月末までに全員エヴァンズ岬の基地に到着した。捜索隊により3人の遺体が発見されたのは、次の夏を迎えた6ヵ月後のことだった。スコットは親友でもあったウィルソンの胸に手をかけ、もう一方の手には[[ロバート・ブラウニング|ブラウニング]]の詩集が握られていた。<br /> <br /> テント内では、遺品の他、死の直前まで書かれた日記・地質標本等も遺されていた。特筆すべきは、南極点でアムンセン隊から委託されていた&lt;ref&gt;南極点に設営されたテント内に、スコット隊への手紙・食料が置かれていた&lt;/ref&gt;手紙である。アムンセン隊が帰途に全員遭難死した場合に備え、2着の到達者に自分たちの初到達証明書として持ち帰ることを依頼し書かれたものであった。スコット隊が所持していたことにより、アムンセン隊の南極点先達は証明され、また「自らの敗北証明を持ち帰ろうとした」としてスコット隊の名声を高めた。<br /> <br /> スコット本人の遺書(スコットの遺族・隊員の遺族らに計12通)はイギリスの名誉に対する隊員の働きを称え、遺族への保護を訴え、キャサリン夫人に対しては、相応しい男性と出会えば再婚を勧めるという内容のものであった。<br /> <br /> 生還した探検隊員たちは、翌[[1913年]][[1月22日]]に南極を離れ、帰国の途についた。<br /> <br /> === 墓 ===<br /> [[File:Grave of the Southern Party.jpg|thumb|スコットとウイルソンとバウアーズの墓]]<br /> スコットたち三人の墓は、1912年10月の救助隊の手によって南極の最後の地に作られた。救助隊はオーツの行方も探したが、スコットが置いたとみられる寝袋のみが見つかっただけで、最終的にオーツの遺体探索は断念している&lt;ref&gt;ロバート・スコット『探検日誌』、pp.398-399、「極点班最終野営発見」より。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 南極到達レースの敗因・遭難の原因の分析 ==<br /> [[File:Antarctic expedition map (Amundsen - Scott)-en.svg|thumb|225px|赤:アムンセン隊、緑:スコット隊]]<br /> スコット隊がロアール・アムンセン隊に敗れ、遭難死した理由については、その当時から数多くの者が分析を行っている。中でも、スコット率いる南極探検隊に参加し、スコットたちの捜索隊にも参加した[[アスプレイ・チェリー=ガラード]]らは、スコットがアムンセンに遅れをとったことや遭難死に至ったその敗因について、以下のような分析を残している。<br /> * アムンセン隊は犬ぞりとスキーによる移動で極点に到達したが、スコット隊は当初使用した[[雪上車]]、主力とした馬による曳行がことごとく失敗し、人力でそりを曳かざるを得ず、いたずらに体力の消耗を招いた。寒冷な気候に強いとされる品種の馬を用意していたものの、馬そのものの体重が重いため雪に足をとられたり、[[クレバス]]に転落したことなどに加え、馬が生存できる耐寒温度を遥かに下回っており、馬は体力の低下とともに次々に死んでいった。<br /> * アムンセン隊では現地に棲息する海獣を狩るなどして携行食糧を少なめに抑え、足りなかった場合は犬ぞりの犬も食用としている。一方、スコット隊は全ての食料を持ち運んだ。特に馬のための干草類は現地では全く入手できるものではない上、馬の体力消耗で思いのほか早く尽きてしまった。<br /> * アムンセン隊が南極点到達を最優先していたのに対し、スコットは地質調査などの学術調査も重視しており、戦力を分散させる結果となった。<br /> * アムンセン隊は南極点への最短距離にあたる[[クジラ湾]]より出発したが、スコット隊は学術的調査の継続のため、より遠い[[マクマード湾]]より出発せざるを得なかった。<br /> * スコット隊の最終メンバーは、43歳のスコットを筆頭として30代が中心であり、30歳未満の若い隊員はバウアーズ1人だけであった。<br /> * 夏期としては異例とも言える長期間の暴風雪に見舞われた。<br /> この他にも、アムンセンは[[北西航路]]の探検時に越冬した際、地元の[[イヌイット]]から[[犬ぞり]]の使い方や、毛皮を使った防寒着の作り方など、[[寒帯]]での生存術を学んでいた。また隊員は[[クロスカントリースキー]]が盛んなノルウェー出身だったため、スキーによる長時間の滑走にも慣れていたが、スコット隊はそのような技術や知識を持つ人間がいなかったことも要因とされる。<br /> <br /> 何よりも、スコットとアムンセンは南極探検の動機が全く異なっていた。アムンセンは子供の頃から純粋に極地探検を人生の目標としており、南極探検はあくまでもアムンセンの個人的な動機によるもので、探検の途中で重大な危機に遭遇した場合にはアムンセン自身の判断で引き返せる余地もあった。これに対し、スコットは[[大英帝国]]の威信をかけた国家事業の代表者として選ばれ、国家の期待を一身に背負って南極探検に臨んでいた。そのため、失敗しても失うのは極地探検家の面目だけの気楽なアムンセンと異なり、スコットは探検の初期の段階で雪上車の故障や馬の全滅といった想定外の危機に見舞われても、国家の期待に背いて引き返すことを潔しとせず、職業軍人としてのプライドもあって、そのまま死へと向かって前進を続ける以外に選択肢がなかったとも言える。<br /> <br /> === 防寒服 ===<br /> [[File:Amundsen-in-ice.jpg|thumb|right|140px|毛皮の防寒着を着たアムンセン]]<br /> 両者の防寒服は、[[バーバリー]]社が開発した[[ギャバジン (織物)|ギャバジン]]をベースにしたものであるが、アムンセン隊の防寒服はイヌイットの伝統に基づき[[アザラシ]]の毛皮などで作られたのに比べ、スコット隊の服は牛革を重ねた形状の防寒服であった。この素材の差が致命傷となり、スコット隊の防寒服は汗などの体から出る水蒸気を吸い込み氷結した結果、次第に体温は奪われ、最後は保温の役目をほとんど果たしていなかったとも考えられている。<br /> <br /> === 輸送手段 ===<br /> 南極の最深部の気候はスコットの想定を遥かに超えており、1トンの荷物を曳ける大型馬に至ってはデポ(前進基地)を設置するための往路の段階で次々に喪失しているなど、彼の用意した装備は南極の気候に耐えられるものではなかった。犬ぞりはスコット隊も用いていたが、小規模(アムンセンはスコットの3倍以上の116頭を投入)かつ極めて限定的な補助用途であった。<br /> <br /> 前回1901年の南極探検の折、スコットは訓練不足の犬が使い物にならなかった&lt;ref&gt;実際には、イギリスから南極までの航海途上、[[熱帯]]を通過したときに、犬の餌となる干し魚が変質するか腐ったことが原因と考えられているが、スコットにはそれがわからず、[[西堀栄三郎]]はこれを「あわて者の過誤」と指摘している。&lt;/ref&gt;反省として、荷物の移動手段を馬と機械に頼ったのが仇となり、両方とも途中で使い物にならなくなった結果、最終的に人力が主体となってしまった。ただし、人力を主体とすることが必ず失敗につながるわけではなく、事例としてノルウェーの[[フリチョフ・ナンセン]]は、[[グリーンランド]]横断の時、2か月間人力でそりを引き、5人の隊員を一人として欠くことなく探検を成功させている。<br /> <br /> 当初、南極点到達隊は4人の予定で資材・食料などを計画していたが、スコット自身の判断で土壇場で5人にしたことも影響を与えたのは否めない。1人の増加とはいえ、4人用テントでの十分な休息は困難となり、荷物の増加に伴い移動時間も増大するなど、探検の末期にはその悪影響は甚大なものとなっていた。これは、1人でも多くの隊員に南極点到達の栄誉を分け与えたいというスコットの情によるものと考えられている。なお、最終的にはスコット隊と同数(ただし、アムンセンの場合は8人から減らした結果の5人である)で南極点を目指したアムンセンは、資材の重量増より隊員の休息を優先し、3人用のテントをカスタマイズして5人が十分休息できるテントを作っていた。<br /> <br /> === 移動コース ===<br /> スコット隊のルートは約1,500kmと若干長距離であるものの、大部分がシャクルトンなどこれまで数次のイギリス探検隊により踏破済みのルートで、地形やコースコンディションなどはほぼ把握されており、未知の部分は全体の約1割の155kmに過ぎず、リスクは比較的低いと見られていた。一方、アムンセン隊が選択したルートは直線距離こそ若干短いものの、約1,150kmの全行程が未踏破であるどころかベースキャンプを設置する上陸地点からしても、誰も上陸したことがなかったという文字通り手探り状態からのスタートであった。<br /> <br /> 結果として、アムンセン隊のコースは比較的平坦なコースでデポの設置も滞り無く行えるなど、本来の位置にデポを設置できなかったスコット隊と対照的な結果となった。しかし、スタート時点ではその事実は判明しておらず、コースの状況次第では大回りもしくは探検中止を余儀なくされていたか、スコット隊と同じく何らかのアクシデントにより遭難していた可能性すらあった。このため、単純に距離の長短をもってスコット隊が不利だったと判断できないという意見もある。<br /> <br /> === 学術調査 ===<br /> 純粋に南極点到達だけを目指したアムンセン隊と違い、スコット隊は学術的に大きな価値を持つもの(南極がかつて[[ゴンドワナ大陸]]の一部だったことの証拠である[[グロッソプテリス]]の化石など)が含まれていたとはいえ、35ポンド(約16kg)におよぶ標本を最後まで手放さずに持ち帰ろうとしていた。その分、スコット隊の隊員たちが運ばなければならない荷物の重量はより増加していた。<br /> <br /> === リーダーシップ ===<br /> [[File:Edward Adrian Wilson, Camping after dark.jpg|thumb|180px|ウィルソンのスケッチによる、テント内の様子]]<br /> [[西堀栄三郎]]は、両者の生い立ちや隊の運営の仕方にも原因があることを指摘している。<br /> <br /> まず、アムンセンは少年の頃から極地探検家(当初は北極だった)になることを夢見て、必要となる準備を進めてきた。一方のスコットは、南極探検の計画者である王立地理学協会長の[[クレメンツ・マーカム]]卿によって隊長に抜擢された。その理由はスコットがたまたまマーカム卿の従兄弟と同じ海軍の部隊に所属していたからである。いうなればスコットの極地探検は、マーカム卿によりお膳立てされていたものであった。このことから、南極行きを志した時点で既に両者の間に「心構え」の差ができていたと指摘している。<br /> <br /> また、アムンセンは隊員の自主性を尊重するチームワークで運営したことに対し、スコットはイギリス海軍式の階級制度を取り入れた運営だった点も指摘している。アムンセンの場合は、隊員に装備品の改良の提案を募集するなどし、隊員全員が参画意識を持って自主的に一つの目的に向かえるよう配慮した。一方スコットの場合は、階級制度による上意下達的な隊の運営が隊員の士気にも影響し、細心の注意を払うことができなかったものと推測している。<br /> <br /> 西堀は、『仕事というものは自らが強い「やる気」をもってやるのでなければ「細心の注意で」など決してできるものではない』と自らの南極体験から指摘している。さらに、アムンセンはリーダー自らが常に平常心を持って決断し行動できるよう、「行ってみて、無理ならば引き返せばいい」というような楽観的態度を心がけた。一方スコットの場合は、極点到達がアムンセンに先を越されたときに帰途の不安をのぞかせているが、リーダーが少しでも不安顔をのぞかせるとそれが隊員にも伝播し、隊員の不安をもつのらせ、平常心を失わせ、重要なときに物事の判断を誤らせることになったと指摘している。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * A・チェリー・ガラード著 『世界最悪の旅 悲運のスコット南極探検隊』 [[朝日新聞社]] ISBN 4-02-260744-0 C0126 P1300E。<br /> * [[本多勝一]]著 『アムンセンとスコット』教育社 のち 本多勝一集(朝日新聞社)にも収録。<br /> *ロバート・スコット『探検日誌』(オセアニア出版)、1986年<br /> *[[佐々木マキ]]著 『南極のスコット大佐とシャクルトン』 (福音館書店)、2016年<br /> * {{Cite book|和書|author=[[中野好夫]]||year=1949|title=南極のスコット|publisher=小山書店|url={{近代デジタルライブラリーURL|45018687}}|id={{近代デジタルライブラリー|1168083}}}} - 全文のデジタル画像を閲覧できる<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[アムンゼン・スコット基地]]<br /> * [[白瀬矗]] - ほぼ同時期に南極点を目指した日本の探検家<br /> * [[南極交響曲]] - [[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ]]の交響曲。1948年のイギリス映画『[[南極のスコット]]』の音楽を改作したもの。<br /> * [[スコット (小惑星)]] - ロバート・スコットにちなんで命名された小惑星。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons&amp;cat|Robert Falcon Scott}}<br /> {{Commonscat|Terra Nova Expedition|テラ・ノヴァ号による南極探検}}<br /> * {{Gutenberg author | id=Scott,+Robert+Falcon}}<br /> * {{Internet Archive author |name=Robert Falcon Scott|sname=Robert Falcon Scott |sopt=t}}<br /> *{{Find A Grave|2791}}<br /> <br /> {{南極}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:すこつと ろはあと}}<br /> [[Category:ロバート・スコット|*]]<br /> [[Category:南極探検家]]<br /> [[Category:イングランドの探検家]]<br /> [[Category:イギリス海軍の軍人]]<br /> [[Category:カラム地理学メダル受賞者]]<br /> [[Category:金メダル (王立地理学会) 受賞者]]<br /> [[Category:自然災害で死亡した人物]]<br /> [[Category:プリマス出身の人物]]<br /> [[Category:1868年生]]<br /> [[Category:1912年没]]</div> 221.244.37.138 日本の鉄道事故 (2000年以降) 2018-08-04T03:47:18Z <p>221.244.37.138: /* 2010年代 */</p> <hr /> <div>{{告知|議論|本項目への事故等の掲載基準について}}<br /> &#039;&#039;&#039;日本の鉄道事故&#039;&#039;&#039;(にほんのてつどうじこ)では、2000年以降に発生した日本の主な[[鉄道事故]]について記述する。[[運輸安全委員会]](2001年10月1日以降、2008年9月30日以前は[[航空・鉄道事故調査委員会]])の調査案件には★を付す。<br /> * 1949年以前に発生した日本の鉄道事故については[[日本の鉄道事故 (1949年以前)]]を参照。<br /> * 1950年から1999年までに発生した日本の鉄道事故については[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)]] を参照。<br /> &lt;!-- 事故調が調査報告を出している事故は報告書の表題を使うと良いと思います。JR九州(2002)、名鉄(2002)などはそうしていました。一部歴史的な事故でなかば固有名詞化しているものはその名前を採用していますが適宜加筆修正してください。<br /> 年表に鉄道事故を追加記載する場合は、出典の明記をお願いします。もし独立記事もなく未出典のまま項目が追加されていましたら、出典の追加記載にご協力お願いします。&lt;br /&gt;(2001年以降は事故調データベースで検索できる場合あり)<br /> 各項目の見出し(事故の名称)を変更する場合は、ほかの記事から[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#○○事故|○○事故]]などの形でリンクが貼られていることがありますので、リンク元の記事のリンクも確認・修正して下さい。--&gt;<br /> <br /> == 主な鉄道事故 ==<br /> === 2000年代 ===<br /> ==== 営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故 ====<br /> ; [[2000年]](平成12年)[[3月8日]] 9時1分頃([[列車脱線事故]]、列車衝突事故)<br /> : [[帝都高速度交通営団]](現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]の[[東急東横線|東横線]]直通列車が、[[中目黒駅]]直前の急曲線で脱線、対向電車の側面をえぐる形で衝突し、死者5名、負傷者64名を出した。この事故で、日比谷線[[営団03系電車|03系]]1両(03-802)が[[廃車 (鉄道)|廃車]]になった。同駅付近では引上線で1992年と、ほぼ同位置で1965年にも事故が発生している。<br /> {{main|営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故}}<br /> <br /> ==== 京福電気鉄道越前本線列車衝突事故(松岡町) ====<br /> ; 2000年(平成12年)[[12月17日]] 13時頃([[列車衝突事故]])<br /> : [[京福電気鉄道]][[京福電気鉄道永平寺線|永平寺線]]の上り列車(1両編成)が[[鉄道のブレーキ|ブレーキ]]故障により分岐駅である東古市駅(現在の[[永平寺口駅]])に停車せず、[[えちぜん鉄道勝山永平寺線|越前本線]]に進入し越前本線下り列車と正面衝突、上り列車の運転士1名が死亡、両列車の乗客ら24名が重軽傷を負った。<br /> : ブレーキ故障は、車体中央のブレーキシリンダから前後台車の基礎ブレーキ装置へブレーキ力を伝達する引ロッドの改造接続箇所の溶接に欠陥があり、溶接箇所が疲労破断したのが原因であり、同社の車両検査体制が問われた。<br /> {{main|京福電気鉄道越前本線列車衝突事故}}<br /> <br /> ==== 新大久保駅ホーム転落死亡事故 ====<br /> ; [[2001年]](平成13年)[[1月26日]] 19時14分頃([[鉄道人身障害事故]])<br /> : [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[山手線]][[新大久保駅]]で線路に泥酔した男性が転落し、助けようとして2名が[[プラットホーム|ホーム]]から線路に飛び降りたが、3名とも折から進入してきた電車と接触し、死亡した。<br /> {{main|新大久保駅乗客転落事故}}<br /> <br /> ==== 福島駅駅ビル衝突事故 ====<br /> ; 2001年(平成13年)[[4月8日]] 21時35分頃(列車脱線事故)<br /> : [[福島交通]][[福島交通飯坂線|飯坂線]][[福島駅 (福島県)|福島駅]]で、[[飯坂温泉駅|飯坂温泉]]発福島行き上り列車([[福島交通7000系電車|7000系]]、[[東急7000系電車 (初代)|東急7000系]]の譲渡車両)のブレーキが作用せずホームを通過、[[車止め]]を乗り越え12[[メートル|m]]先の駅ビル・イーストビルに突入し乗員乗客4名が負傷した。この影響で当該車両は[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった。<br /> : この列車は2駅手前の[[美術館図書館前駅]]を発車後、一時車内照明が消えるなど[[停電]]に見舞われた後にブレーキ装置が故障、非常用ブレーキ装置も扱ったがこれも作用せず[[曽根田駅]]を通過、暴走状態となり事故に至った。この列車は始発前の点検では異常が見つからなかった。現代の車両では、通常は複数の独立したブレーキ装置を備えているが、これらすべてが作用しないという稀有な事例であり、原因は究明されていないが、電源装置の不良によるブレーキ装置の動作不良が疑われている。<br /> : この後、[[東北運輸局]]は福島交通に対し事故原因の早期究明と再発防止策を求める警告書を出し立ち入り検査を実施した。4月13日深夜に試験運転を行い、翌日の始発から運転を再開した。<br /> <br /> ==== 東海道線富士駅冒進阻害事故 ====<br /> ; 2001年(平成13年)[[4月18日]](信号違反、線路障害)<br /> : [[東海旅客鉄道]](JR東海)[[東海道本線]][[富士駅]]で下り[[貨物列車]]が出発信号機の停止現示を見落として進行し、東海型過走防止装置により停止したが、同駅始発電車列車に向けられた出発信号機の進行現示を自列車のものと勘違いし、[[分岐器|ポイント]]の開通方向が違うのに気付かず[[自動列車停止装置|ATS]]停止を無断解除して出発した。駅側がそれに気づき始発電車の防護無線を発報したが間に合わず非開通のポイントを割り込んで破損した。<br /> : 当日は貨物列車が約10分遅れだったことから富士駅始発列車を先行させることとし、貨物列車が到着する番線の出発信号機に「停止」を現示したがこの停止信号を見落として進行したため場内信号による注意現示速度以下の速度で出発信号80m外方の過走防止速度照査が動作して非常制動が働き、75m冒進して停止した。<br /> : 運転士&lt;!--JR貨物では「機関士」の職制はありません--&gt;は4つのエラーを冒したが、特に指令の許可を得ずにATSを解除して出発したことで衝突が危惧される事態となり、JR東海は[[日本貨物鉄道]](JR貨物)に再発防止を求めた。<br /> : 背景として、ATS-Sxが冒進前提の防御で、停止後は運転士に停止理由が見えないことで遅れ回復の気持ちに押され見落とし思い違いのままの行動が続いてしまったことが挙げられる。運転士が場内信号も見落としていたら注意現示以下に対応する東海型過走防止装置の防御対象外で[[土佐くろしお鉄道宿毛駅衝突事故|宿毛事故]]のような高速冒進となる危険があることを示した。<br /> <br /> ==== 京福電気鉄道越前本線列車衝突事故 (勝山市) ====<br /> ; 2001年(平成13年)[[6月24日]] 18時頃([[列車衝突事故]])<br /> : 京福電気鉄道[[えちぜん鉄道勝山永平寺線|越前本線]][[保田駅 (福井県)|保田]] - [[発坂駅|発坂]]間で[[勝山駅|勝山]]発[[福井駅 (福井県)|福井]]行きの上り[[普通列車]](1両編成)と福井発勝山行きの下り[[急行列車]]が正面衝突して乗員乗客24名が重軽傷を負った。<br /> : 事故原因は、本来途中駅で対向する急行列車とすれ違う必要があったのを普通列車の運転士が[[鉄道信号機|信号]]を確認せず早発したという人為ミスだった。2件の連続事故に伴い、京福電気鉄道福井地区各線の運行が停止に追い込まれ、後に[[えちぜん鉄道]]に譲渡された。<br /> {{main|京福電気鉄道越前本線列車衝突事故}}<br /> <br /> ==== 名鉄新羽島駅電車衝突事故 ====<br /> ; ★[[2002年]](平成14年)[[1月3日]] 10時頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[岐阜県]][[羽島市]]の[[名古屋鉄道]][[名鉄羽島線|羽島線]][[新羽島駅]]構内で、[[羽島市役所前駅|羽島市役所前]]発新羽島行き普通電車([[名鉄3500系電車 (2代)#3100系|3100系&lt;!--3121編成--&gt;]]、2両編成)が車止めに衝突、先頭車両の前部2.5[[メートル|m]]が高架橋終端から突き出て停止した&lt;ref name=&quot;RJ426&quot;&gt;{{Cite journal|和書 |date = 2002-04-01 |title = DIARY 2002/1 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |issue = 4 |volume = 36 |publisher = 鉄道ジャーナル社 |page = 108 }}&lt;/ref&gt;。けが人はなかった&lt;ref name=&quot;RJ426&quot;/&gt;。<br /> : 原因は降雪時に耐雪ブレーキを使用せずに運転したため、氷塊詰まりにより制動力が極端に落ちたものと推定された&lt;ref&gt;{{Cite report|format=pdf|url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/2002-5-2.pdf|title=鉄道事故調査報告書 II 名古屋鉄道株式会社羽島線新羽島駅構内 列車脱線事故|date=2002-12-27|publisher=[[運輸安全委員会]]|accessdate=2018-2-7}}&lt;/ref&gt;。この事故を受けて名鉄では耐雪ブレーキの使用基準などを改めた。また、ホームの長さを2両に短縮し、[[ドアカット]]を行う措置を一時的に行った。<br /> <br /> ==== 鹿児島線列車追突事故 ====<br /> ; ★2002年(平成14年)[[2月22日]] 21時30分頃([[列車衝突事故]])<br /> : [[福岡県]][[宗像市]]の[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[鹿児島本線]][[海老津駅|海老津]] - [[教育大前駅|教育大前]]間で、[[門司港駅|門司港]]発[[荒尾駅 (熊本県)|荒尾]]行き下り普通列車([[JR九州811系電車|811系]]+[[JR九州813系電車|813系]]7両編成)が[[イノシシ]]に衝突し車両点検のために停止中、[[無閉塞運転]]で進行してきた後続の門司港発[[荒木駅|荒木]]行き下り[[快速列車]](813系5両編成)が追突し134名が重軽傷を負った。<br /> : 後続列車が中継信号機の進行現示を自列車に対するものと勘違いし、無閉塞運転取扱規則に反して加速したのが原因。<br /> : 軽合金製の車体は追突の衝撃で各車とも車端部が破損しており、結果として全車が[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった。なお先行列車の先頭車両の前頭部(811系)は[[九州鉄道記念館]]の運転シミュレーターとして活用されている。また、事故廃車になった813系は被害を受けてない部品がのちに製造された300番台に再利用されている。(詳しくは[[JR九州813系電車|813系電車]]のページの300番台の項を参照。)<br /> {{See|[[無閉塞運転#無閉塞運転による事故|無閉塞運転による事故]]}}<br /> <br /> ==== 真岡鐵道真岡線久下田駅構内列車脱線事故 ====<br /> ; ★2002年(平成14年)[[8月1日]] 12時18分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[真岡鐵道]][[真岡鐵道真岡線|真岡線]]([[閉塞 (鉄道)#特殊自動閉塞式|特殊自動閉塞]]・[[列車集中制御装置|CTC]]付帯)[[久下田駅]]で、隣の[[ひぐち駅]]で故障し走行不能となった営業列車([[下館駅|下館]]発[[茂木|茂木駅]]行き第117列車、[[真岡鐵道モオカ63形気動車|モオカ63形気動車]]1両)を連結して救援した列車(同じくモオカ63形気動車1両)が久下田駅構内のひぐち駅方にある11号[[分岐器|転轍器]]へ進入したところ脱線した。<br /> : 原因は運転指令員が信号および転轍器に対しマニュアルと異なる誤った取り扱いをしたためであった。運転指令員はひぐち駅の両隣である久下田駅と[[折本駅]]の間を[[閉塞 (鉄道)#伝令法|伝令法]]による運転に切り替え、ひぐち駅の3駅先の[[真岡駅]]から救援列車と要員を派遣し、故障車をひぐち駅から真岡駅まで牽引しようとしたが、救援列車をひぐち駅へ向かわせる際に久下田駅の11号転轍器鎖錠を手動解錠しなかったため、救援列車が通過した時に転轍転換器を破損して半開きのまま固着した&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;発条転轍器の反位側からの通過だが、鎖錠装置付のため事前に手動解錠操作が必要であり、これを失念したものである。また運転士からは鎖錠の状態が確認出来ないことから、鎖錠解錠の確認は派遣駅長が行うべき業務である。&lt;/ref&gt;。転轍器が破損して復位しないので久下田駅場内信号は停止現示のままになり、故障列車を牽引してひぐち駅から戻ってきた救援列車が再び久下田駅に進入できなくなった。運転指令員は久下田駅の場内信号が停止現示から切り替わらない理由が分からず、場内代用テコで強制的に場内信号を進行現示として救援列車を久下田駅に進入させた。救援列車は損傷した11号転轍機上を通過し、先頭車前方2軸が脱線するに至った。<br /> :&lt;!--NOR 負傷者はなく車両と線路の被害も大きくなかったが、信号機の停止現示固着の原因を理解できないまま独断で列車を進行させたのが事故原因であり、[[信楽高原鐵道列車衝突事故]]の人的原因と類似している点は鉄道信号システムの根幹を揺るがす行為で極めて危険である。--&gt;救援列車の運転士は運転歴29年のベテランで訓練・検査も行われており、異常も無く正常に運転していたが、当時の運転指令員が運転士と兼務の上に運転士の仕事ばかりで全く訓練や検査も行われていなかった。指令業務に不安を覚えた運転指令員は、茂木駅で別の作業をしていた信号関係ベテランの工務区副長の助言を受けながら&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;工務区副長は直前の業務を中断し、携帯電話で助言をしつつ自動車で現場に向かったが、事故には間に合わなかった。&lt;/ref&gt; 運転取扱をしていたが、工務区副長も助言を誤り、関係者が誰もその誤りに気づかなかったために誤った取扱が実施された。さらに人員不足で折本駅に臨時の駅長が派遣されなかったこと、久下田駅に派遣された派遣駅長も訓練を受けておらず代用手信号の現示や転轍機確認を怠ったこと、信号に関する知識の乏しい者を久下田駅派遣信号係としたことなど、複数の対応の誤りが招いた事故であった&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2003-06-27 |url = http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/report/03-3-1.pdf |title = 運輸安全委員会による調査報告 |format = PDF |accessdate = 2015-04-08 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20130106004936/http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/report/03-3-1.pdf |archivedate = 2013年1月6日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 名鉄名古屋本線衝突脱線事故 ====<br /> ; ★2002年(平成14年)[[9月26日]] 8時32分頃([[列車脱線事故]])&lt;!--事故現場は踏切外ではなく線路上--&gt;<br /> : 名古屋鉄道[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]新岐阜(現・[[名鉄岐阜駅|名鉄岐阜]])発[[豊橋駅|豊橋]]行きの[[名鉄特急|特急]]86列車(8両編成。内訳は[[名鉄1000系電車#1030系・1230系|1030系&lt;!--1134編成--&gt;]]6両+[[名鉄1800系電車#1800系|1800系&lt;!--1804編成--&gt;]]2両。乗員3名、乗客約900人乗車)が、[[稲沢市]]奥田堀畑町地内([[奥田駅|奥田]] - [[大里駅|大里]]間)にある大里8号[[踏切]]付近の軌道内で普通[[乗用車]]と衝突。うち前2両が軌道を外れ、軌道東側に設けられていた[[コンクリート]]製[[溝渠|暗渠]]の[[用水路]]沿いに大きく脱線し特に先頭車両は用水路に乗り上げた状態で停止した。<br /> : 普通乗用車の[[スリランカ]]人の運転者1名が死亡、列車の乗客21名と運転士、[[車掌]]各1名の計23名が負傷した。[[ラッシュ時|通勤ラッシュ時間帯]]で脱線した特急列車には多くの乗客が乗っていたため負傷者が多数発生した。なお、事故当時対向列車が事故現場へ近づいていたが、脱線列車が[[架線]][[電柱|柱]]をなぎ倒したことから[[停電]]となり、現場直前にて停止したため、さらなる大惨事は免れた。<br /> : 事故の原因はスリランカ人の運転する普通乗用車(盗難車)が[[遮断機|遮断桿]]が下がっていた踏切内に進入、踏切内で[[脱輪]]した上に線路上を[[名鉄名古屋駅|新名古屋方]]面に走行し、これに追突した列車が乗用車を巻き込んで脱線したためである。<br /> : 事故車両のうち後方に連結されていた1800系2両はそのまま修理された。残りの6両のうち大破した1030系前2両は事故廃車となったものの、1030系の後部4両に関しては豊橋寄りの車両に[[操縦席|運転台]]を取り付ける工事を行い、新たな固定[[編成 (鉄道)|編成]]に改造された。詳しくは[[名鉄1000系電車#1380系|名鉄1380系]]の項目を参照。<br /> ; 外部リンク<br /> : [https://web.archive.org/web/20150428041450/http://www.47news.jp/CN/200209/CN2002092601000181.html 「名鉄特急が車と衝突、脱線1人死亡、乗客ら23人負傷」]([[47NEWS]])<br /> : [https://web.archive.org/web/20130712021431/http://www.47news.jp/CN/200209/CN2002092601000525.html 「踏切で脱輪、線路を迷走 名鉄特急の脱線事故」](47NEWS)<br /> <br /> ==== 東海道線救急隊員死傷事故 ====<br /> ; ★2002年(平成14年)[[11月6日]] 19時45分頃([[鉄道人身障害事故]])<br /> : [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[東海道本線]]([[JR神戸線]])[[塚本駅|塚本]] - [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎]]間で、フェンスを乗り越え線路内で遊んでいて[[大阪駅|大阪]]発[[姫路駅|姫路]]行きの[[新快速]]にはねられた中学生を救助中の救急隊員2名が、後続の[[京都駅|京都]]発[[鳥取駅|鳥取]]行きの特急「[[スーパーはくと]]11号」にはねられ1名が死亡、1名が重傷となった事故である。<br /> : この原因として当時JR西日本に人身事故発生時の明確な[[マニュアル]]がなく、現場を[[監視]]していた同社社員と同社[[運転指令所]]との連繋が上手くいかなかったため、運転指令所が現場の状況を正確に把握しないまま、運行再開を指示したことが原因の一つであるとされている。なお裁判では社員に関しては無罪、指令所員に対しては有罪判決が下されている<br /> : 後に[[JR福知山線脱線事故]]が発生した際、同社の運行管理体制のずさんさを指摘する例としてこの事故が報道などで再び取り上げられることにもなった。<br /> : この事故においてはきっかけとなった中学生の線路侵入による人身事故で運転抑止が長引くことによって、JR西日本が乗客からの[[苦情]]が殺到することを恐れていたことが指摘されている。なお、この事故以降、JR線人身事故時の[[警察]]現場検証などによる運転抑止時間が、安全確保を理由に、それまでの平均20 - 30分から平均1時間以上を要するようになった。<br /> : 外部リンク:{{失敗知識データベース|CZ0200724|JR東海道線で救急隊員轢死}}<br /> <br /> ==== 長崎本線特急列車脱線転覆事故 ====<br /> [[ファイル:JR Kyushu 885 SM3 1st car and 6th car.png|thumb|200px|事故に遭ったSM3編成。下画像が代替製造された400番台。]]<br /> ; ★[[2003年]](平成15年)[[7月18日]] 21時45分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[長崎県]][[諫早市]]のJR九州[[長崎本線]][[肥前長田駅|肥前長田]] - [[小江駅|小江]]間で、長崎発博多行きの上り特急「[[かもめ (列車)|かもめ]]46号」([[JR九州885系電車|885系]]&lt;!--SM3編成--&gt;6両編成。乗員2名、乗客76名)が大雨により線路横ののり面から線路上に崩れた岩石に衝突し脱線、転覆した&lt;ref&gt;{{Cite news |title=特急横転、35人けが |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2003-07-19 |page=1 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : この事故で運転士と乗客36名が重軽傷(2両目に乗っていた2名が重傷、運転士と1両目に乗っていた34名が軽傷)&lt;ref&gt;{{Cite news |title=風雨で落石 乗り上げ? |newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=2003-07-19 |page=11(夕刊) }}&lt;/ref&gt;。脱線車両の落下場所が[[梅雨]]期の水田で衝撃を和らげたこともあり、比較的負傷者が少なくて済んだと見られる&lt;ref&gt;{{Cite news |title=地面滑り衝撃吸収? |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2003-07-19 |page=19(夕刊) }}&lt;/ref&gt;。岩石は直径80[[センチメートル|cm]]・質量約130[[キログラム|kg]]で、線路脇の斜面にあったものが降雨による地盤の緩みで落下したものと思われ、線路周囲の法面の点検の徹底が[[国土交通省]]から指示された。<br /> : 事故で大破した3両は廃車となり、半年後に885系400番台が代替製造された。また、この事故の影響で長崎本線の[[湯江駅|湯江]] - [[諫早駅|諫早]]間が数日間運休になった。<br /> <br /> ==== 名鉄新岐阜駅電車衝突事故 ====<br /> ; ★2003年(平成15年)[[10月18日]] 17時15分頃 ([[列車脱線事故]])&lt;ref name=&quot;事故調2005名鉄岐阜&quot;&gt;{{cite press release |title=名古屋鉄道株式会社名古屋本線新岐阜駅構内列車脱線事故(鉄道事故調査報告書) |publisher=[[航空・鉄道事故調査委員会]] |date=2005-04-22 |format=pdf |url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2005-2-2.pdf |accessdate=2016-02-10 }}&lt;/ref&gt;<br /> : [[岐阜県]][[岐阜市]]の名古屋鉄道名古屋本線[[名鉄岐阜駅|新岐阜駅]]構内で、[[豊川稲荷駅|豊川稲荷]]発新岐阜行き[[名鉄名古屋本線#快速急行・急行・準急|急行列車]](3100系&lt;!--3123編成--&gt;+[[名鉄3500系電車 (2代)|3500系]]6両編成&lt;ref name=&quot;事故調2005名鉄岐阜&quot;/&gt;。乗員2名、乗客約60名&lt;ref name=&quot;日経2003&quot;&gt;{{Cite news |title=新岐阜駅/名鉄電車が脱線/車止めに衝突、4人軽傷 |newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |page=39(朝刊・社会) |date=2003.10.19 }}&lt;/ref&gt;)が所定位置で停車せずに5.7m通り過ぎて[[プラットホーム|ホーム]]端の[[車止め]]に衝突、1両目と3両目が脱線し乗客4名が軽傷を負った&lt;ref name=&quot;日経2003&quot;/&gt;。<br /> : 原因は運転士の体調不良による運転操作ミスとされる。運転士が駅進入の際に気を失って[[マスター・コントローラー|運転レバー(主幹制御器)]]に倒れ込み、加速の向きに操作したため&lt;ref name=&quot;事故調2005名鉄岐阜&quot;/&gt;。運転士は事故後の精密検査で[[睡眠時無呼吸症候群]] (SAS) の疑いがあると診断された&lt;ref name=&quot;事故調2005名鉄岐阜&quot;/&gt;。<br /> : この事故を受けて名鉄では運転台に主幹制御器の誤動作防止装置を取り付けた&lt;ref name=&quot;事故調2005名鉄岐阜&quot;/&gt;。また、事故現場となった新岐阜駅名古屋本線ホームには[[車止め#油圧式|油圧式の車止め]]と過走防止用のATSが設置された&lt;ref name=&quot;事故調2005名鉄岐阜&quot;/&gt;。<br /> <br /> ==== 飯田線列車脱線転覆事故 ====<br /> ; ★[[2004年]](平成16年)[[10月20日]] 22時50分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[長野県]][[上伊那郡]][[辰野町]]のJR東海[[飯田線]][[羽場駅 (長野県)|羽場駅]] - [[伊那新町駅]]間で[[天竜峡駅|天竜峡]]発[[岡谷駅|岡谷]]行き普通列車([[国鉄119系電車|119系]]2両編成)が脱線転覆し約3m下へ落下、乗客乗員4名が軽傷を負った。<br /> : 事故当時は[[平成16年台風第23号|台風23号]]による大雨の影響で盛土が流出していた。事故車両は[[2006年]][[3月28日]]付で廃車となった。<br /> <br /> ==== 上越新幹線脱線事故 ====<br /> ; ★2004年(平成16年)[[10月23日]] 17時56分頃([[列車脱線事故]])<br /> : 17時56分頃に[[新潟県中越地震]]が発生。[[震央]](いわゆる震源地)に近い[[上越新幹線]][[浦佐駅|浦佐]] - [[長岡駅|長岡]]間を走行中だった[[東京駅|東京]]発[[新潟駅|新潟]]行き「[[とき (列車)|とき]]325号」([[新幹線200系電車|200系]]10両編成&lt;!--、K25編成--&gt;)のうち7・6号車を除く計8両が脱線した。地震発生当時、同列車は長岡駅への停車のため約200[[キロメートル毎時|km/h]]に減速して走行中だったが、早期地震検知警報システム「[[ユレダス]]」による非常ブレーキが作動し長岡駅の東京寄り約5[[キロメートル|km]]の地点で停車した。<br /> : [[自然災害]]が直接の原因とはいえ、新幹線の営業列車が脱線した初の事例([[回送|回送列車]]では既に[[1973年]]の[[東海道新幹線]][[鳥飼車両基地|鳥飼基地]]における[[冒進]]脱線事故などがある)となったが、高架橋が頑強に造られており倒壊を免れたことと対向列車が無かったこと、脱線はしたものの転覆には至らなかったことなどが幸いし、死者・負傷者は発生しなかった。<br /> {{main|上越新幹線脱線事故}}<br /> <br /> ==== 土佐くろしお鉄道宿毛駅列車衝突事故 ====<br /> ; ★[[2005年]](平成17年)[[3月2日]] 20時41分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[高知県]][[宿毛市]]の[[土佐くろしお鉄道]][[土佐くろしお鉄道宿毛線|宿毛線]][[宿毛駅]]構内で、[[岡山駅|岡山]]発宿毛行きの特急「[[南風 (列車)|南風]]17号」(3両編成・乗客11名)が116km/hで宿毛駅に進入し、頭端式(行き止まり式)ホームの車止めを突破して駅舎に激突した。<br /> : この事故で運転士が死亡し、車掌1名、乗客10名が負傷、特急車両([[JR四国2000系気動車]])は2両(2008・2218)が廃車、宿毛駅の駅舎は大破。半年以上にわたって駅舎の使用停止・部分運休を余儀なくされた。なお、後ろ1両(2116)は修理復旧された。<br /> {{main|土佐くろしお鉄道宿毛駅衝突事故}}<br /> <br /> ==== 東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切死傷事故 ====<br /> [[File:Isesaki Line No. 37 Railroad crossing 1.jpg|thumb|連続立体交差事業中の伊勢崎線第37号踏切道(2018年1月)]]<br /> ; 2005年(平成17年)[[3月15日]] 16時50分頃([[踏切障害事故]])<br /> : [[東京都]][[足立区]]の[[東武鉄道]][[東武伊勢崎線|伊勢崎線]][[竹ノ塚駅]]南側の伊勢崎線第37号踏切で、女性4名が[[浅草駅|浅草]]行き上り[[東武伊勢崎線#区間急行|準急列車]](当時)にはねられ、2名が死亡し2名が負傷した&lt;ref name=&quot;isesaki2005-03&quot;&gt;{{Cite journal |和書|author =半沢一宣|title =東武鉄道「伊勢崎線第37号踏切」での死傷事件はなぜ起きたか-手動式踏切における保安対策のあり方に関する考察|date =2006|publisher = |journal =交通権|volume =2006|issue =23|doi=10.20611/kotsuken.2006.23_91|pages =91-108|ref = }}&lt;/ref&gt;。<br /> : 当時、この踏切は手動式([[踏切#種類|第1種乙踏切]])であり、東武鉄道の係員が操作していた&lt;ref name=&quot;isesaki2005-03&quot;/&gt;。事故発生前の列車が通過後に列車の接近を知らせる警報ランプが点灯しているにも関わらず、次の準急列車通過までに余裕があると踏切警手が思い込み、遮断機のロックを解除して2 - 3m上げてしまうという操作が原因だった。<br /> : 東武伊勢崎線は[[北千住駅|北千住]] - [[北越谷駅|北越谷]]を複々線化する際、同時に[[西新井駅]] - 竹ノ塚駅の一区間を除き高架・立体交差化を行っていた。この区間は竹ノ塚駅のすぐ南側に東京地下鉄(東京メトロ)の[[千住検車区竹ノ塚分室]]が立地しているなどの理由により高架化が困難なため、踏切をそのまま残して平面交差のままとしていた、と東武鉄道は説明した&lt;ref name=&quot;isesaki2005-03&quot;/&gt;。その一方で同分室への入出庫列車や駅北側でも当駅始発・終着列車用留置線との出入りが頻繁にあったため、どちらもいわゆる「[[開かずの踏切]]」となっており、自動化すると遮断時間が長くなる恐れがあったため手動踏切として残していた&lt;ref name=&quot;isesaki2005-03&quot;/&gt;。<br /> : しかしながら、輻輳する[[ダイヤグラム|ダイヤ]]の影響で踏切の待ち時間は長ければ20分以上に至ることもあり、更には列車が通過して遮断機が開いたかと思いきやすぐさま警報機が作動して遮断機が再び降りるという現象も頻繁に発生しているため利用客からの苦情が絶えなかった。さらに、悪質な者は詰め所のドアを蹴ったり、警手に対して罵声を浴びせていた&lt;ref&gt;{{Cite news |title = 竹ノ塚事故、元保安員に実刑 |newspaper = [[ライブドアニュース]] |date = 2006-02-03 |url = http://news.livedoor.com/article/detail/1684663/?select_id=0 |accessdate = 2015-04-08 }}&lt;/ref&gt;。精神的圧迫を感じていた警手らは「一人でも多くの待ち時間を減らしたい」と考え、焦って踏切に駆け込んできた横断者に対して、違法であることを知りつつロックの解除を行っていた&lt;ref name=&quot;isesaki2005-03&quot;/&gt;。この踏切を操作していた警手は2006年2月に禁錮1年6か月の実刑判決を受ける&lt;ref&gt;{{Cite web |author = 飯野謙次 |url = http://www.shippai.org/shippai/html/index.php?name=nenkan2005_03_Takenozuka |title = 竹ノ塚駅踏切死傷事故 |publisher = [[失敗学会]] |accessdate = 2015-04-08 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : 事故後東武線内に存在していた手動踏切はすべて自動化され、竹ノ塚駅の前後に存在する踏切では踏切道の拡幅や歩道橋の設置が行われた&lt;ref&gt;[http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2005/04/20f4m700.htm 東武伊勢崎線竹ノ塚駅付近における緊急踏切対策について(平成17年4月22日・東京都)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080614073904/http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2005/04/20f4m700.htm |date=2008年6月14日 }}&lt;/ref&gt;。また、[[京成電鉄]][[京成高砂駅]]にあった手動踏切についても自動化された&lt;ref&gt;[http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2006/07/20g73500.htm 京成本線京成高砂駅付近における踏切対策について(平成18年7月3日・東京都)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080614073910/http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2006/07/20g73500.htm |date=2008年6月14日 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : さらに国土交通省もこの事故を踏まえて踏切対策のスピードアップを図る方針&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2006-01-10 |url = http://www.mlit.go.jp/road/press/press06/20060110/20060110.html |title = 踏切交通実態総点検および踏切対策の推進について |publisher = 国土交通省 |accessdate = 2015-04-08 }}&lt;/ref&gt; としている。なお、この事故をきっかけに現場付近は立体化されることになった。もし、事故が発生した踏切を高架化工事をせずにそのまま廃止した場合は近隣利用者が大きく迂回することを余儀なくされ、迂回路の渋滞の誘発も予想されたことから行われなかった。<br /> : 制度が改正されたことなどにより2011年3月31日には都市計画が決定し、12月20日には東京都から事業認可を取得した。そして、2012年3月30日に東武鉄道株式会社と費用負担や施工区分などを取り決める施行協定を締結。10月29日、10月30日に地元への工事説明会を開催し、11月4日、起工式を迎えた。事故発生から約7年7カ月で連続立体交差事業に工事着手できるのは異例の早さである。2021年3月31日に事業認可完了予定&lt;ref&gt;{{Cite web |title=現在事業中の連続立体交差事業(都知事認可路線) |url=http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/kiban/ritutaikousa/ |publisher=東京都都市整備局 |accessdate=2017-09-17}}&lt;/ref&gt;。<br /> &lt;!--: 事故から10年目にあたる2015年3月1日にも同じ踏切で軽乗用車との衝突事故が発生し、軽乗用車の男性運転手が死亡している&lt;ref&gt;[http://www.yomiuri.co.jp/national/20150301-OYT1T50024.html 東武線「開かずの踏切」また事故、車衝突…死亡]{{リンク切れ|date=2015年4月}} - 読売新聞 2015年3月1日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[https://www.youtube.com/watch?v=sDkaSxXYPdo 竹ノ塚踏切事故から10年 遺族ら安全対策強化訴え(15/03/15)][[ANNニュース]]公式[[YouTube]]チャンネル(2015年12月10日閲覧)&lt;/ref&gt; ほか、下り急行線の高架化に伴う線路切替初日の[[2016年]][[5月29日]]にも人身事故が発生している(ただしこちらは自殺である)。--&gt;<br /> <br /> &lt;!--まず事故ですらなく、単なる車両障害。209系の記事への転記をお勧めします。<br /> ==== 京浜東北線209系に相次いで発生した車両故障 ====<br /> ; 2004年から2005年までの間<br /> : 2004年から2005年にかけて、[[京浜東北線]]を走行している[[JR東日本209系電車|209系]]が経年による機器劣化で故障が相次ぎ、夏には冷房が作動せず、熱中症で搬送される人が相次いだ。<br /> : JR東日本は、この事故を教訓に京浜東北線の車両を故障に強い[[JR東日本E233系電車|E233系1000番台]]に置換えることを決定し、置き換えられた209系は初期車が廃車となり、後期車は[[国鉄113系電車|113系]]を置き換えるべく房総地区などへ転属した。[[国鉄205系電車|205系]]と違い、廃車となった209系の[[インドネシア]]・[[KRLジャボタベック]]への譲渡は行われていない。また、209系は500番台・1000番台の一部車両を除き、車両の端しか窓が開閉できず、換気に問題があったことから、[[東京臨海高速鉄道]][[東京臨海高速鉄道70-000形電車|70-000形]]も含めて固定窓を開閉可能にする工事が行われ、使用を継続する209系についても、機器更新を行った。<br /> --&gt;<br /> <br /> ==== 福知山線列車脱線転覆事故(JR宝塚線脱線転覆事故) ====<br /> ; ★2005年(平成17年)[[4月25日]] 9時18分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[兵庫県]][[尼崎市]]のJR西日本[[福知山線]](JR宝塚線)・[[塚口駅 (JR西日本)|塚口]] - [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎]]間の曲線で、列車の遅延回復のための速度超過運転などが原因となり、[[宝塚駅|宝塚]]発[[同志社前駅|同志社前]]行きの上り5418M[[福知山線#快速・丹波路快速|快速列車]]([[JR西日本207系電車|207系]]7両編成)が脱線・転覆。特に前方の2両目、3両目は脱線・転覆後、線路脇の[[マンション]]に激突し、これに巻きつく形で大破したため、1階駐車場へ突入した1両目よりも大勢の死傷者が出た。このとき、列車は制限速度70km/hのカーブに116km/hで進入していた。<br /> : この事故で運転士1名と乗客106名が死亡し、562名が負傷した。死者の数は鉄道事故としてはJR発足以降最悪で、鉄道事故全般では歴代7番目に多い。また国土交通省[[航空・鉄道事故調査委員会]]がまとめた事故報告の事実関係の記述だけで300ページ超と、1985年に発生した[[日本航空123便墜落事故]]報告書を上回り、日本の事故調査報告書としては過去最大の分量となる大事故となった。<br /> : 事故車両のうち、損傷が激しかった進行方向前寄り4両は現地解体されたが、被害が少なかった後寄りの3両については、事故の風化防止に役立てるため、解体せず遺族の手記とともに鉄道施設に展示される予定となっている。<br /> {{main|JR福知山線脱線事故}}<br /> &lt;!--<br /> ==== 常磐線羽鳥駅列車衝突脱線事故 ====<br /> ; ★2005年(平成17年)[[4月26日]] 12時49分頃([[列車脱線事故]]〈踏切障害に伴うもの〉)<br /> : [[茨城県]][[東茨城郡]][[美野里町]](現在の[[小美玉市]])の[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[常磐線]]・[[羽鳥駅]]南側構内にある脇山踏切(警報機・遮断機付き)で、[[上野駅|上野]]発[[いわき駅|いわき]]行きの特急「[[ひたち (列車)|スーパーひたち]]」23号([[JR東日本651系電車|651系]]、11両編成)が、踏切内で脱輪して立ち往生していた大型[[貨物自動車|トレーラー]]と衝突、先頭車両が脱線した。乗客数人とトレーラーの運転手の男が怪我をした。脇山踏切は幅3.6mで大型車の通行は禁止されていた。トレーラーは右折で踏切に進入したところ運転台下の車輪が脱輪した。さらにトレーラーの男は運転前に缶ビールを数本飲んでいたことも分かり、警察はトレーラーの男を過失往来危険と道路交通法違反容疑で逮捕した。<br /> --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ==== 相鉄本線天王町踏切事故 ====<br /> ; 2005年(平成17年)[[4月27日]] 9時頃([[踏切障害事故]])<br /> : [[神奈川県]][[横浜市]][[保土ヶ谷区]]の[[相模鉄道|相鉄]][[相鉄本線|本線]][[天王町駅|天王町]] - [[星川駅 (神奈川県)|星川]]間にある天王町1号踏切(警報機・遮断機付き)で、[[横浜駅|横浜]]発[[二俣川駅|二俣川]]行きの下り普通列車([[相鉄7000系電車|7000系]]、8両編成)が踏切内を通過中に、軽自動車が下りていた遮断機を越えて進入、先頭から4両目の側面に衝突し軽自動車が大破した。<br /> : この事故で軽自動車を運転していた70代の男が重傷を負った。乗員乗客には死傷者なし&lt;ref&gt;{{Cite news |title = 【差替】相鉄線で接触事故 |newspaper = [[ライブドアニュース]] |date = 2005-04-27 |url = http://news.livedoor.com/article/detail/1105434/ |accessdate = 2016-08-16 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : 先頭から2 - 4両目の7000系3両が廃車、車両が不足したため、運用から外れ休止扱いで唯一残っていた[[相鉄5000系電車|5000系]]1編成を整備した後に運用に復帰した。<br /> {{See|相鉄5000系電車|相鉄7000系電車}}<br /> --&gt;<br /> <br /> ==== 新飯塚駅構内列車衝突事故 ====<br /> ; ★2005年(平成17年)[[8月6日]] 13時42分頃([[列車衝突事故]])<br /> : [[福岡県]][[飯塚市]]のJR九州[[後藤寺線]]・[[新飯塚駅]]構内で、[[直方駅]]寄りにある引上線に留置されていた車両([[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形気動車]]1両編成)が下り勾配により逸走し、発車待ちをしていた[[田川後藤寺駅|田川後藤寺]]行き普通列車(キハ40形気動車1両編成)に低速(おおむね15km/h以下)で衝突した。<br /> : この事故で普通列車の運転士1名が負傷した。乗客には死傷者なし。逸走車両と普通列車双方の[[連結器]]が破損した。<br /> : 留置車両に手歯止(車輪止ブロック)を使用せずに長時間留置されたため、[[自動空気ブレーキ|自動ブレーキ]]の定圧空気タンクの配管接続部分から圧縮空気が徐々に漏れ出し、ブレーキが自然緩解したのが原因とされた&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2007-07-27 |url = http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/report/RA07-4-2.pdf |title = 鉄道事故調査報告書 RA2007-4 九州旅客鉄道株式会社後藤寺線新飯塚駅構内列車衝突事故 |format = PDF |publisher = 航空・鉄道事故調査委員会 |accessdate = 2015-04-08 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20130106001327/http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/report/RA07-4-2.pdf |archivedate = 2013年1月6日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 羽越線特急脱線転覆事故 ====<br /> ; ★2005年(平成17年)[[12月25日]] 19時14分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[山形県]][[東田川郡]][[庄内町]]榎木のJR東日本[[羽越本線]][[北余目駅|北余目]] - [[砂越駅|砂越]]間の[[第二最上川橋梁|第2最上川橋梁]]で、[[秋田駅|秋田]]発[[新潟駅|新潟]]行きの上り特急「[[いなほ (列車)|いなほ]]14号」([[国鉄485系電車|485系3000番台]]6両編成)が橋梁通過直後に全車両が脱線し、先頭車両は沿線にある家畜共同団地内の[[養豚|養豚場]]に隣接する[[堆肥]]小屋に激突・大破した。<br /> : この事故により先頭車両に乗っていた5名が死亡、33名が重軽傷を負った。突風が原因とされている。<br /> : その後突風対策として[[余目駅]]に[[ドップラー・レーダー#気象観測用レーダー|ドップラーレーダー]]が設置され、線路沿いには防風フェンスが設置された。<br /> {{Main|JR羽越本線脱線事故}}<br /> <br /> ==== 伯備線保線作業員死傷事故 ====<br /> ; [[2006年]](平成18年)[[1月24日]] 13時20分頃([[鉄道人身障害事故]])<br /> : [[鳥取県]][[日野郡]][[江府町]]武庫のJR西日本[[伯備線]]の[[単線]]区間で、[[線路 (鉄道)|線路]]内で[[保線]]作業中だった同社[[西日本旅客鉄道米子支社|米子支社]]の作業員5人が[[岡山駅|岡山]]発[[出雲市駅|出雲市]]行きの[[特別急行列車|特急]]「[[やくも (列車)|スーパーやくも]]9号」にはねられ、3人が死亡、2人が負傷した。<br /> : 事故を起こした「スーパーやくも9号」は[[岡山駅]]で遅れていた[[山陽新幹線]]の接続待ち合わせたため15分程度遅れていた。<br /> : この事故では、当時の米子支社の作業責任者が輸送指令から「スーパーやくも9号」の遅れを伝えられていたが、既に同列車が通過したと勘違いして当該列車とは逆方向に当たる上り列車を警戒するように[[列車見張員|見張員]]を誤って配置して作業を開始したことが一因とされる。&lt;!--http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/071003/dst0710032155006-n1.htm ほか--&gt;<br /> : [[2008年]]3月に、[[鳥取地方裁判所]]米子支部は作業責任者に対し[[禁錮]]3年・[[執行猶予]]5年の判決を言い渡した。その上でJR西日本の安全対策の不十分さも指摘した。<br /> : なお、同線では[[1969年]]2月にも同様の接触事故が発生しており、この時には6人が死亡している(詳細は[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#伯備線保線作業員死傷事故|伯備線保線作業員死傷事故(1969年)]]を参照のこと)。<br /> <br /> ==== 都電荒川線追突事故 ====<br /> ; ★2006年(平成18年)[[6月13日]] 9時35分頃(軌道、列車衝突事故)<br /> : 東京都[[北区 (東京都)|北区]]の[[東京都交通局]][[都電荒川線]]で営業電車ダイヤ間に投入された試運転電車([[東京都交通局7000形電車|7000形]][[東京都交通局7000形電車#7020|7020号]])が、梶原 - 栄町間で、実際の時速34kmから常用ブレーキを最大まで効かせて停止させるブレーキ性能試験を予定どおり実施した。しかし、車間の詰まっていた後続の営業電車([[東京都交通局7500形電車|7500形]]7505号)が止まりきれず追突し、乗客27名および試運転担当者3名が負傷した(うち乗客1名重傷)。<br /> : 原因解析の結果、車間距離が100m以下に縮まっていたにもかかわらず、事故電車は時速約33kmに加速されていたために、非常ブレーキまで用いても時速10km程度で衝突してしまったことが分かった&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2008-1-1.pdf 鉄道事故調査報告書 RA2008-1] - [[国土交通省]][[航空・鉄道事故調査委員会<br /> ]]&lt;/ref&gt;。<br /> : 事故電車運転士を含む荒川線運転士の誰も、試運転電車のブレーキ性能試験を行うことはもとより試運転があると知らされていなかった。また「[[軌道運転規則]]」の「先行車両との距離が100m以下のときの運転速度は15km/h 以下とする」という規定は形骸化し、教育訓練で徹底されることもなかった。<br /> : 追突した7500形は緩衝器等が修理されて運用に復帰したが、追突された7000形は緩衝器脱落、空気配管と電線管の損傷のほか、車体台枠の折れ曲がりで床面が盛り上がるなどのダメージが酷かったので、廃車となった。<br /> &lt;!-- : {{要出典|範囲=事故の遠因としては走行開始後の運転士に対する乗客の問い合わせという行為も存在する。|date=2017年6月}} --&gt;<br /> : また後続車から先行車の制動がわかりづらいことも原因のひとつと考えられたため、この事故を受けて荒川線に在籍する全車両に赤色の[[尾灯#路面電車|ブレーキランプ]]が取り付けられた。事故後に入線した[[東京都交通局9000形電車|9000形]]・[[東京都交通局8800形電車|8800形]]・[[東京都交通局8900形電車|8900形]]についても新製当初から取り付けられている。そのほか、ブレーキ試験時に黄色[[回転灯]]を使うことになった。<br /> : この事故での救急処置が国内での[[トリアージ#トリアージ・タッグ|トリアージ・タッグ]]の初適用例となった。<br /> <br /> ==== 日豊本線脱線転覆事故 ====<br /> ; ★2006年(平成18年)[[9月17日]] 13時50分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[宮崎県]][[延岡市]]の[[九州旅客鉄道|JR九州]][[日豊本線]][[延岡駅|延岡]] - [[南延岡駅|南延岡]]間(南延岡駅構内)で、[[別府駅 (大分県)|別府]]発[[宮崎空港駅|宮崎空港]]行特急「[[にちりん (列車)|にちりん]]9号」が、徐行にて南延岡駅に進入中に[[平成18年台風第13号|台風13号]]の接近によって発達した[[積乱雲]]に伴う[[竜巻]]にあおられて、先頭2両が脱線・横転し、乗客と運転士合わせて6人が負傷する事故となった。<br /> {{main|JR日豊本線脱線転覆事故}}<br /> <br /> ==== 津山線列車脱線事故 ====<br /> ; ★2006年(平成18年)[[11月19日]] 5時32分頃([[列車脱線事故]]、線路障害)<br /> : [[岡山県]][[岡山市]]の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[津山線]][[玉柏駅|玉柏]] - [[牧山駅|牧山]]間を走行中の[[津山駅|津山]]発[[岡山駅|岡山]]行き普通列車([[JR西日本キハ120形気動車|キハ120形気動車]]2両編成)が、運転士が前方の線路上に[[ササ|笹]]が倒れているのを視認したため非常制動を執ったが、その箇所で左側に傾き脱線・転覆した。乗客25名と運転士1名が乗車していたが、重傷2人、軽傷24人と全員が負傷した。<br /> : 脱線の原因は線路から100m上の斜面の岩盤から風化作用によって落石(推定110[[トン|t]])が発生し、落下の途中でレールに当たって損傷させたため。なお同区間は落石防止工事が必要となり、[[2007年]](平成19年)[[3月18日]]まで不通になった。<br /> <br /> ==== 川越線指扇駅~日進駅間列車火災事故 ====<br /> ; ★2007年[[1月21日]] 8時8分頃([[列車火災事故]]〈踏切障害に伴うもの〉、列車脱線事故)&lt;!--報告書原題:東日本旅客鉄道株式会社川越線指扇駅~日進駅間列車火災事故(踏切障害に伴うもの)--&gt;<br /> : [[埼玉県]][[さいたま市]][[北区 (さいたま市)|北区]]の[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[川越線]][[指扇駅|指扇]] - [[日進駅 (埼玉県)|日進]]間(現:[[西大宮駅|西大宮]] - 日進間)を走行中の[[川越駅|川越]]発(指扇8時4分発)[[埼京線]]・[[東京臨海高速鉄道]][[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]直通[[新木場駅|新木場]]行き上り列車([[国鉄205系電車|205系電車]]10両編成、[[列車番号]]708F)が、日進第一踏切(起点の[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]から約4.1km)で小型[[乗用車]]と衝突した。列車の運転士は時速約70kmで走行中、踏切の手前で乗用車が遮断機が作動しているのにも関わらず踏切に進入してくるのを認め、[[非常ブレーキ]]をかけたが間に合わず、列車は乗用車に衝突し、踏切を約160m過ぎて停止した。乗用車は4号車(モハ204-388)の進行方向左側付近で激しく炎上し、列車の窓ガラスが破損した上、列車の外板及び客室内の座席等に類焼した。列車は自走不能となった。この事故で乗用車を運転していた当時21歳の女性が死亡した。更に13時1分頃、この踏切事故で自走不能となった列車を別の205系電車が救援していた際、救援列車のATC作動でブレーキが作動したが事故編成のブレーキが作動せず、衝突する形で脱線した。この2件の事故の影響で川越線は終日運転を見合わせた。&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2008-2-2.pdf 鉄道事故調査報告書 東日本旅客鉄道株式会社川越線指扇駅~日進駅間列車火災事故][[国土交通省]][[航空・鉄道事故調査委員会]]2008年2月29日&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==== 東武東上線ときわ台駅構内死傷事故 ====<br /> ; [[2007年]](平成19年)[[2月6日]] 19時30分頃([[鉄道人身障害事故]])<br /> : 東京都[[板橋区]]の[[東武鉄道]][[東武東上本線|東上本線]][[ときわ台駅 (東京都)|ときわ台駅]]で、[[小川町駅 (埼玉県)|小川町]]行きの急行電車([[東武10000系電車|10030系]]10両編成)が、60km/hでときわ台駅に進入する際に、[[板橋警察署|警視庁板橋署]]常盤台交番の[[巡査部長]](二階級特例特進で[[警部]]に)の[[宮本邦彦]](当時53歳)と、自殺を図った女性(当時39歳)に衝突、巡査部長は重体に陥り、その後2月12日に[[殉職]]。女性は腰を骨折する重傷を負ったものの、一命は取り留めた。&lt;!--主記事があるので詳細は削る--&gt;<br /> {{main|ときわ台駅 (東京都)#2007年の踏切事故}}<br /> <br /> ==== 石北線列車脱線事故 ====<br /> ; ★2007年(平成19年)[[3月1日]] 8時20分頃([[列車脱線事故]]〈踏切障害に伴うもの〉)<br /> : 北海道[[網走郡]][[美幌町]]のJR[[石北本線]][[美幌駅|美幌]] - [[緋牛内駅|緋牛内]]間の踏切で、[[網走駅|網走]]発[[北見駅|北見]]行きの普通列車([[国鉄キハ54形気動車|キハ54 520]] 1両編成)が木材を運搬中の大型トレーラーと衝突し、全ての車軸が脱線した。この事故で、列車は前面を中心に激しい損傷を受け、[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]と[[自動空気ブレーキ#自動ブレーキ弁|ブレーキ弁]]に両膝を挟まれて運転士が重傷を負うなど、列車側の乗客乗員合わせて51名が負傷した&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2008-01-25 |url = http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2008-1-2.pdf |title = 国土交通省 鉄道事故調査報告書 RA2008-1 北日本旅客鉄道会社 石北線美幌駅?緋牛内駅間(単線) 列車脱線事故 (踏切障害に伴うもの) |format = PDF |publisher = 航空・鉄道事故調査委員会 |accessdate = 2015-04-08 }}&lt;/ref&gt;。事故車両は現場検証後に廃車となり、現地で解体されている。<br /> : 事故原因はトレーラー側の運転手の前方不注意によるもので、運転手は積荷の状態について考え事をしていたと認めている。これにより、トレーラー側の運転手は[[業務上過失傷害罪|業務上過失傷害]]などの疑いで[[北海道警察]]に逮捕され、後に執行猶予付きの有罪判決が確定している。<br /> <br /> &lt;!--<br /> ==== 東海道本線共和駅構内死亡事故 ====<br /> ; 2007年(平成19年)[[12月7日]]([[鉄道人身障害事故]])<br /> : 愛知県大府市のJR[[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]][[共和駅]]構内で、[[認知症]]の症状が出て[[徘徊]]していた当時91歳の男性が電車にはねられ死亡した。死亡した男性は、当時「要[[介護]]4」の認定を受けていたが、家族が目を離した隙に外出し徘徊していた模様である。<br /> : この事故でJR東海は、遺族との賠償協議が合意に至らなかったことから、[[2010年]]に[[名古屋地方裁判所]]に、運行に支障が出たなどとして提訴。一審は男性の長男と妻の双方の責任を認め、2人に合わせて720万円の支払いを命じ、遺族側が控訴。二審の[[名古屋高等裁判所]]は、長男への請求は退けたものの、男性の妻に359万円の支払いを命じ、遺族とJR東海の双方が[[上告]]。[[2016年]][[3月1日]]に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第三小法廷は「介護する家族に賠償責任があるかどうかは、生活状況などを総合的に考慮し決めるべき」とした上で「男性の妻と長男は監督義務者には該当せず、賠償責任はない」として、遺族側勝訴の逆転判決を言い渡した&lt;ref&gt;[http://www.sankei.com/affairs/news/160301/afr1603010024-n1.html 認知症事故訴訟、家族に賠償責任なし JR東海の逆転敗訴が確定 最高裁判決] 産経新聞 2016年3月1日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/articles/ASJ322J8KJ32UBQU001.html 認知症徘徊事故、家族に責任なし JR賠償請求に最高裁判決] 朝日新聞 2016年3月2日&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> <br /> ==== 阿佐海岸鉄道阿佐東線回送列車脱線事故 ====<br /> ; 2008年(平成20年)[[6月30日]] 21時30分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[徳島県]][[海部郡]][[海陽町]]の、[[阿佐海岸鉄道]][[阿佐海岸鉄道阿佐東線|阿佐東線]][[宍喰駅]]から車庫に入ろうとした回送列車(ASA201)が、ブレーキが遅れたため、車止めを乗り越えて脱線。当該車両は廃車となった。<br /> <br /> ==== 近鉄鈴鹿線三日市駅構内列車火災事故 ====<br /> ; ★2008年(平成20年)[[8月12日]] 23時45分頃([[列車火災事故]]、電気火災事故)&lt;ref&gt;[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1749 運輸安全委員会公式ホームページ 報告書番号RA2009-8-2]&lt;/ref&gt;<br /> : 三重県[[鈴鹿市]]の[[近鉄鈴鹿線]][[鈴鹿市駅|鈴鹿市]] - [[三日市駅|三日市]]間を走行中の[[伊勢若松駅|伊勢若松]]発[[平田町駅|平田町]]行き最終普通電車([[近鉄1010系電車|1010系]]3両編成)の2両目の床下から発煙。三日市駅で停車中に発火して床下や座席が焼けたため運転が打ち切られた。死傷者はなし。<br /> : 原因は、床下機器の[[断流器]]および断流器箱取付部の絶縁が低下し、異常電流が流れたことによるものとみられる。<br /> : 事故を起こした車両は復旧後の[[2011年]][[1月2日]]にも同一区間で再び発煙を起こすトラブルを起こしたため、後に編成から外され、電装を取り外して付随車化しサ8177と改番され、奈良線[[近鉄8000系電車#8600系|8600系]]サ8167(1972年の奈良線爆破事件被災車を復旧したもの)の差し替え更新に利用された。<br /> : {{see also|近鉄1010系電車#組成変更}}<br /> <br /> ==== 青梅線踏切事故 ====<br /> ; ★2008年(平成20年)[[9月8日]] 18時25分頃([[列車脱線事故]]〈踏切障害に伴うもの〉)<br /> : 東京都[[青梅市]]のJR東日本[[青梅線]][[青梅駅|青梅]] - [[東青梅駅|東青梅]]間を走行中の[[青梅駅|青梅]]発[[立川駅|立川]]行き各駅停車([[JR東日本E233系電車|E233系]]・10両編成)と踏切内で立ち往生していたトラックが激突。トラックは大破し、電車も車体が損傷し先頭車の前台車第1軸が左側に脱線した。<br /> : 被災したE233系の前寄り6両(&lt;!--青661編成・--&gt;[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]製)は大きく損傷しており、編成最後尾の1両以外の5両が[[新津車両製作所]]にて車体を新製し、修復扱いで復旧した。大きく損傷した前述した5両は、東京総合車両センターで解体された。<br /> : トラックの運転者が軽傷を負ったが、E233系特有の衝撃吸収構造や、[[クラッシャブルゾーン]]が備えられていたこともあり、電車の乗務員・乗客に死傷者は出なかった。<br /> : 国土交通省航空・鉄道事故調査委員会は同日、調査官2人を現場に派遣した。<br /> ==== 阪急甲陽線甲陽園駅脱線事故 ====<br /> [[File:Hankyu_koyosen_derailed.jpg|thumb|脱線した列車]]<br /> ; ★2008年(平成20年)[[9月20日]]([[列車脱線事故]])<br /> : [[阪急甲陽線]]の終点・[[甲陽園駅]]に列車が進入途中、レールの摩耗変形が基準値を超えたことにより、2両目と最後尾の車両が脱線した。<br /> : この事故を契機に甲陽園駅は改良工事に着手し、棒線化された。<br /> <br /> ==== 近鉄大阪線東青山駅構内列車脱線事故 ====<br /> ; ★[[2009年]](平成21年)[[2月27日]] 5時30分過ぎ(列車脱線事故)<br /> : 三重県津市白山町の[[近鉄大阪線]][[東青山駅]]付近を走行中の[[名張駅|名張]]発[[伊勢中川駅|伊勢中川]]行き始発[[近鉄大阪線#普通|普通電車]]([[近鉄1220系電車#1253系|1253系]])が、東青山駅の西方約300mの下り線上で脱線し、[[架線]]を支える[[鉄塔]]に衝突した後大きく右に傾いて停止した。<br /> : 事故は[[保線]]車両を留置する[[引き込み線]]が本線から進行方向向かって左へ分岐する部分で起きた。脱線の原因は前日深夜に架線の部品交換作業を行った後、保線車両を引き込み線に収容する際に使用した3個の[[分岐器#乗越分岐器|移線横取装置]]のうち、進行方向向かって右側のレール上の横取装置の取り外しを忘れたため、左右とで異なる方向に列車の車輪が導かれたことにより車両全体がバランスを崩したためと見られる。<br /> : この事故により乗客9名のうちの1名が右足首ねんざなどの軽傷を負ったほか、近鉄大阪線は[[青山町駅|青山町]] - 伊勢中川駅間が27日終日に渡って不通になった。<br /> : 事故後近鉄は、線路の確認を怠ったなどとして作業責任者と東青山駅助役を[[懲戒解雇]]とするなど関係者11人を処分し、同時に移線横取装置の運用箇所の削減、横取装置使用時の停止信号の表示、横取装置使用時に作動するATSの設置、横取装置使用後に同箇所を最初に通過する列車を[[徐行|徐行運転]]とするなどの再発防止策を発表した。<br /> <br /> ==== 名松線列車無人走行事故 ====<br /> ; 2009年(平成21年)[[4月19日]] 22時13分頃(本線逸走)<br /> : 三重県津市白山町のJR東海[[名松線]][[家城駅]]で、車両の[[入換 (鉄道)|入換]]準備作業中に運転士がおよそ5分間列車を離れたところ、列車([[JR東海キハ11形気動車|キハ11形気動車]]1両)が無人で下り坂を走り始め、およそ8.5km離れた[[井関駅|井関]] - [[伊勢大井駅|伊勢大井]]間の踏切付近で停止した。けが人はいなかった。<br /> : 無人で走り出した原因は担当運転士が列車のエンジンを始動後、ブレーキの効きを確認しないまま列車を離れたことによるものと見られる。<br /> : 同駅では2006年8月20日にも、[[手歯止め]]を忘れたことで今回とほぼ同地点まで無人車両が流転するという事故が起きており、同事故を受けてJR東海では停泊車両へ手歯止めを装着した後の報告の義務化や、エンジンを停止すると同時にブレーキがかかるよう車両を改良するなど対策を講じていたが、今回は入換作業中のため機能しなかった。<br /> <br /> ==== 東京メトロ東西線衝突事故 ====<br /> ; 2009年(平成21年)[[9月9日]] 4時10分頃(車両衝突、輸送障害)<br /> : [[東京メトロ東西線]]・[[東陽町駅]]に留置されていた始発の営業用電車([[営団05系電車|05系]]&lt;!--01編成--&gt;)に保線用機器&lt;!--車両ではありません--&gt;が正面衝突し、走行不能になった(保線用機器には[[自動列車制御装置|ATC]]車上装置は搭載されていない)。そのため東西線は始発から[[高田馬場駅|高田馬場]] - [[葛西駅|葛西]]間で運休となり、途中高田馬場 - [[九段下駅|九段下]]間では部分的に運転を再開するものの、衝突された営業電車の先頭車両が連結器破損のため牽引できず、先頭車両を人力で撤去せざるをえなかったためもあり全線での運転を再開するのに5時間以上を要した。けが人はいなかったものの、通勤ラッシュの時間帯を直撃したため29万人に影響した。<br /> : この事故の影響を重く見た国土交通省[[関東運輸局]]は、東京メトロに対して早期の原因究明と再発防止を求める警告文書を発出した。<br /> <br /> ==== 富良野駅構内除雪車衝突事故 ====<br /> ; ★2009年(平成21年)[[12月28日]] 21時40分頃([[鉄道人身障害事故]]&lt;ref&gt;[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1774 態様としては列車衝突事故(鉄道事故等報告規則3条1項1号)であるが、鉄道人身障害事故に分類されている。]&lt;/ref&gt;)<br /> : [[北海道]][[富良野市]]の[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[富良野駅]]構内で、[[滝川駅|滝川]]発[[新得駅|新得]]行きの[[根室本線#地域輸送|快速列車]]と[[雪かき車|除雪車]]が衝突した。この事故で、快速列車の乗客9人と、除雪車の乗務員3人がけがをした。<br /> : [[北海道警察]]は12月30日に、被疑者不詳の業務上過失傷害容疑で、JR北海道本社を[[家宅捜索]]した。民営化後のJR北海道本社に家宅捜索が入るのは初。<br /> <br /> === 2010年代 ===<br /> ==== 函館本線踏切事故 ====<br /> ; ★[[2010年]](平成22年)[[1月29日]] 12時20分頃([[列車脱線事故]]〈踏切障害に伴うもの〉)<br /> : [[深川市]]深川町6号線のJR北海道[[函館本線]]の踏切で、ダンプカーが雪道をスリップして踏切内に進入。踏切にある列車停止警報装置を作動させて発報したが間に合わず、そこに[[旭川駅|旭川]]発[[札幌駅|札幌]]行き特急「[[スーパーカムイ]]」24号([[JR北海道789系電車|789系]]5両 HL-1005編成)が衝突した。ダンプカーは運転台部分と荷台部分が引きちぎられ、荷台部分が20mほど飛ばされ、先頭車は脱線し前部は原型をとどめないほどに破損した。この事故で特急の運転士・車掌・乗客42人とダンプカーの運転手の計45人が重軽傷を負い病院に搬送された。残りの乗客はバスで代替輸送を行った。この事故により、18時までに54本の列車が運休し、約8200人の足に影響が及んだ&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20100201034853/http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20100129/ 列車事故:特急とトラック衝突 乗客ら25人軽傷 北海道] - [[毎日新聞]] 2010年1月29日(2010年2月1日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;復旧は翌日昼以降に滝川 - 旭川間がされており、それまでの同区間はバスによる代行運転となっていた&lt;/ref&gt;。<br /> : 原因はダンプカーがスリップしたことにより踏切内に侵入したためであるが、当日は風速4 - 5mの吹雪が吹いており、ダンプカーの運転手の証言によると、踏切の警報機の音が聞こえなかったという。<br /> : その後789系HL-1005編成は、2011年3月24日付で正式に全て[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった&lt;ref&gt;{{Cite book |和書 |year = 2011 |title = JR電車編成表 2011夏 |publisher = [[交通新聞社]] |pages = {{要ページ番号|date=2015年4月}} |isbn = 9784330212111 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : [[JR北海道789系電車|789系電車]]は、1991年の[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#日高本線勇払沼ノ端通踏切事故|日高本線での踏切事故]]を教訓に、JR北海道が採用してきた高運転台仕様と衝撃吸収構造のため、運転台へのダメージや客室への衝撃が最小限に抑えられた。<br /> : この事故を受けて、JR北海道は安全対策として、[[JR北海道キハ261系気動車|キハ261系]]・[[JR北海道キハ281系気動車|キハ281系]]・[[JR北海道キハ283系気動車|キハ283系]]などにも存在する、同様の高運転台タイプ特急形車両にある貫通路や、「[[クリスタルエクスプレス トマム &amp; サホロ|クリスタルエクスプレス]]」などの[[臨時列車]]運用編成にあたる先頭車両を全て立入禁止とし、座席も撤去された&lt;ref&gt;{{Cite news |title = JR北海道、特急先頭座席を撤去 函館線の踏切衝突事故受け |newspaper = [[47NEWS]] |date = 2010-05-25 |url = http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010052501000782.html |accessdate = 2015-04-09 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20131005000200/http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010052501000782.html |archivedate = 2013年10月5日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;789系1000番台は同系基本番台やキハ261系・キハ281系・キハ283系とは異なり、製造当初から貫通路部分が乗務員室内の領域で完全に仕切られているため一般客の立ち入りは元からできない構造となっている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 東海道新幹線架線切断停電事故 ====<br /> ; 2010年(平成22年)[[1月29日]] 13時50分頃(電気火災事故、輸送障害)<br /> : [[神奈川県]]のJR東海[[東海道新幹線]]・[[新横浜駅|新横浜]] - [[小田原駅|小田原]]間で、「[[こだま (列車)|こだま]]」659号([[新幹線300系電車|300系]])12号車の[[集電装置|パンタグラフ]]が走行中に破損、その破片が[[架線]]に接触してパンタグラフへ電気を供給する[[饋電線|トロリー線]]を吊っている補助吊架線が切断され、その際発生した火花により線路横の[[法面]]の枯れ草が燃える火災が発生。火災はすぐに消し止められたが、[[品川駅|品川]] - 小田原間で停電した。「こだま」659号は[[三島駅]]まで走行したが、停電区間で立ち往生した上下5本に乗車していた乗客計約3,100人が缶詰め状態になった。16時30分には停電区間は[[新大阪駅]]まで拡大。17時13分に全線で運転を再開したが、この事故で東海道新幹線区間だけでも56本が運休し、直通運転する&lt;!--「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」も運休し--&gt;[[山陽新幹線]]にも余波が及んだことで14万9,000人に影響した。<br /> : 原因はパンタグラフの集電舟を交換した際、集電舟と上枠を留めるボルトを締め忘れたため、走行中に集電舟が落下し、上枠と補助吊架線が接触したため&lt;ref&gt;{{Cite press release |title = 東海道新幹線 品川駅?小田原駅間における停電の原因について |publisher = 東海旅客鉄道 |date = 2010-02-01 |url = http://jr-central.co.jp/news/release/nws000456.html |accessdate = 2015-04-09 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : 同線では翌々日の31日午前6時頃に、停電を起こした区間と同じ新横浜駅 - 小田原駅間で[[自動列車制御装置|ATC]]に異常があり、午前7時15分まで運転を見合わせた。上下線14本が最大で76分遅れ、約3,800人に影響が出た。JR東海によると、下り始発の「[[ひかり (列車)|ひかり]]」493号([[新幹線N700系電車|N700系]])が新横浜駅を発車した直後、前方に列車がないのに走行しているよう誤認させる表示が出た。これは変電所内の電源装置に異常があったといわれているが、関連は不明である。<br /> <br /> ==== 山陽新幹線事業用車両追突事故 ====<br /> ; 2010年(平成22年)[[7月22日]] 4時20分頃(鉄道物損事故、車両衝突、輸送障害)<br /> : 兵庫県のJR西日本[[山陽新幹線]][[新神戸駅|新神戸]] - [[西明石駅|西明石]]にある、須磨トンネル内において、前を走っていた8両編成の軌道工事用機械車両&lt;!--車籍はありません--&gt;に、後ろから接近した2両編成の[[レール削正車]]が追突した。<br /> : この車両には、前方の工事用機械車両との距離が300m以下になると自動的にブレーキがかかる衝突防止装置が付いていたが、運転していた作業員は「砂ぼこりで前が見えにくく、ブレーキをかけたが間に合わなかった」、今回は136mに接近するまで作動しなかったので、間に合わず衝突した。<br /> : 事故が発生したのは営業運転開始時間前で、事故による死傷者はなかったが、衝撃嵌合してしまった事故車両の切り離し撤去回送に手間取り、山陽新幹線は6時から14時30分まで8時間半にわたって[[新大阪駅]] - [[姫路駅]]間で上下97本の列車が運休し、約6万2,500人に影響が及んだ。<br /> : 事故を受け、国土交通省近畿運輸局はJR西日本に警告文書を発し、JR西日本はこの事故の原因を調査し、ウェブサイトで公開した&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20100904073630/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174927_799.html 山陽新幹線新神戸から西明石駅間での保守用車の追突について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年8月23日(2010年9月4日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 岩泉線列車脱線事故 ====<br /> ; ★2010年(平成22年)[[7月31日]] 7時35分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[岩手県]]のJR東日本[[岩泉線]]・[[押角駅|押角]] - [[岩手大川駅|岩手大川]]間を走行中の[[茂市駅|茂市]]発[[岩泉駅|岩泉]]行きの普通列車([[JR東日本キハ100系気動車#100番台|キハ110]]-133 1両編成&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2011-6-1.pdf|title=鉄道事故調査報告書 東日本旅客鉄道株式会社 岩泉線 押角駅~岩手大川駅間 列車脱線事故|accessdate=2016-12-03|author=|date=2011-12-16|publisher=[[運輸安全委員会]]}}&lt;/ref&gt;)で、運転士が前方の落石シェルター付近で[[土砂崩れ]]が発生しているのを視認したため非常制動を執ったが、間に合わず土砂へ突っ込み脱線した。乗員2名と乗客7名のうち、運転士と乗客3名が軽傷を負った。当該車両は、前面ガラス窓が破損し、11月18日に撤去されるまで4か月間にわたり現場に残された。<br /> : 岩泉町内では、29日から30日午後6時にかけて、120[[ミリメートル|mm]]の雨量を観測していたが、事故当日は雨量が運行規制値に達していなかったため、通常の速度で運行していたという。<br /> : この土砂災害の影響で、8月2日よりバスによる[[振替輸送]]を行っていたが、翌年3月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の影響により、この振替輸送も運休した(3月20日にバス輸送を再開)。<br /> : 2012年3月30日には、岩泉線を廃線とすることを明らかにした&lt;ref&gt;{{Cite news |title = 岩泉線 復旧を断念、廃線へ |newspaper = 鉄道コム |date = 2012-03-31 |url = http://www.tetsudo.com/news/732/%E5%B2%A9%E6%B3%89%E7%B7%9A+%E5%BE%A9%E6%97%A7%E3%82%92%E6%96%AD%E5%BF%B5%E3%80%81%E5%BB%83%E7%B7%9A%E3%81%B8/ |accessdate=2015-04-09}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2012-03-30 |url = http://www.jreast.co.jp/press/2011/20120316.pdf |title = 岩泉線(茂市?岩泉)について |format = PDF |publisher = 東日本旅客鉄道株式会社 |accessdate = 2015-04-09 }}&lt;/ref&gt;。[[2013年]][[11月8日]]にはJR東日本から廃止届が提出され、[[2014年]][[4月1日]]に廃止された。[[第三セクター鉄道]]転換を除けば、JR東日本発足以来初の全線廃線となった。<br /> <br /> ==== 舞子駅乗客転落死亡事故 ====<br /> ; 2010年(平成22年)[[12月17日]] 21時50分頃([[鉄道人身障害事故]])<br /> : [[兵庫県]][[神戸市]][[垂水区]]の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]・[[JR神戸線]][[舞子駅]]で、女性が先頭車と先頭車の隙間に転落。これに気づかなかった乗務員が列車を発車させてしまい、女性は列車にひかれて死亡した。<br /> : この事故を重く見たJR西日本は、死角対策及び注意喚起として、一部の車種(国鉄時代に製造された気動車など)や他社線に乗り入れる列車を除き、編成の中間に挟まれる全ての先頭車の前照灯を点灯する措置を行った。一部の先頭車両には音声による警告放送装置が取り付けられているものもある。[[JR西日本521系電車|521系]]・[[JR西日本227系電車|227系]]といった短編成を組む車両には先頭車間転落防止幌を取り付けた。[[JR西日本207系電車|207系]]・[[JR西日本221系電車|221系]]・[[JR西日本223系電車|223系]]・[[JR西日本225系電車|225系]]についても、先頭車間転落防止幌が順次検査時などに取り付けられている。<br /> <br /> {{main|舞子駅#ホーム転落事故(2010年12月17日)}}<br /> <br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:JRW series223-6000 &amp; series221 connection.JPG|死亡事故発生後、乗客の転落防止のため、連結部分の前照灯を点灯させる措置が行われている。<br /> File:JRW 521Kei Sotohoro or Light On.JPG|死亡事故発生後、装着が進められている先頭車間転落防止幌<br /> File:227系 連結面.jpg|thumb|増解結をする新型車両には予め先頭車間転落防止幌が設置されている。<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> ==== 滑河駅列車脱線事故 ====<br /> ; ★[[2011年]](平成23年)[[3月10日]] 12時35分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[千葉県]][[成田市]]のJR東日本[[成田線]][[滑河駅]]を走行中の[[東京貨物ターミナル駅|東京貨物ターミナル]]発[[鹿島サッカースタジアム駅|鹿島サッカースタジアム]]行き貨物列車([[国鉄EF65形電気機関車|EF65形電気機関車]]+[[JR貨物コキ100系貨車|コキ106・107形コンテナ車]]+[[JR貨物コキ200形貨車|コキ200形コンテナ車]]10両編成)のうち、後方のコキ200形2両が脱線し、1両が転覆。乗務していた運転士1名にけがは無かった。<br /> <br /> : 脱線の原因は軌道の平面性変位とコキ200形の輪重抜けとされた。脱線箇所の軌道には基準値範囲内ながら若干の歪みが検出されており、JR東日本は[[マルチプルタイタンパー]]で修正する計画であった。一方コキ200形は海上コンテナ用貨車で、台車の枕バネが大きな海上コンテナの重量に対応するために硬く設定されており、軸バネとして使用されている積層ゴムは経年劣化によりやや硬化していた。しかも空荷(空の[[エチレンオキシド|酸化エチレン]]専用[[JR貨物UT17C形コンテナ|UT17Cコンテナ]]1個を積載)で重量が軽かったため、線路への追従性が悪い状態であった。このため、線路の歪みにより発生した大きな揺動が収まらず、9両目の台車の車輪のフランジが乗り上がって脱線し、これに引っ張られて10両目も脱線した。さらに脱線したことに機関士が気づかないまま走行した結果、転轍機で後台車が本線と異なる線路に乗り上げて斜行し転覆した。コキ200形の台車は輪重抜け対策として空車時に軸バネの定数を小さくする機構が採用されていたが、それでも事故は発生した。事故を受け、JR貨物は対策としてコキ200形の枕バネの設定を柔らかくし、コキ200形への空コンテナ積載を禁止した。&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2012-06-24 |url = http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2012-5-3.pdf |title = 国土交通省 鉄道事故調査報告書 RA2012-5-3 日本貨物鉄道株式会社 成田線 久住駅~滑河駅間 列車脱線事故) |format = PDF |publisher = 運輸安全委員会 |accessdate = 2016-01-19 }}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> : 成田線は翌日午前11時頃に運転を再開したが、14時46分に発生した[[東日本大震災]]の影響により、再び運転見合わせとなった。<br /> <br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:After the vehicle removal of the freight train derailment,Narita-city,Japan.jpg|事故車両を線路より撤去した11日朝の状況<br /> File:Two damage points that there was in the railroad crossing near the freight train sideslip accident,Narita-city,Japan.jpg|事故車両が通過した滑河県道踏切の損傷跡<br /> File:Two traces which the wheel of the freight train which derailed passed,Narita-city,Japan.jpg|大菅跨線橋下の破損した枕木<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> ==== 東日本大震災による事故 ====<br /> ; 2011年(平成23年)[[3月11日]] 14時46分頃(鉄道災害&lt;ref&gt;鉄道事故等報告規則3条5項&lt;/ref&gt;)<br /> : この日発生した[[東北地方太平洋沖地震]]およびこの地震によって引き起こされた[[津波]]により、太平洋沿岸部を中心に鉄道施設に甚大な被害が発生した。[[常磐線]]や[[仙石線]]、[[石巻線]]などでは、列車が津波に巻き込まれて脱線大破したが、乗務員の適切な避難誘導により、人的被害は最小限にとどめられた。<br /> {{main|東日本大震災による鉄道への影響}}<br /> <br /> ==== 石勝線特急列車脱線(火災)事故 {{Anchors|石勝線特急列車脱線事故|石勝線特急列車火災事故|石勝線特急列車脱線火災事故}}====<br /> ; ★2011年(平成23年)[[5月27日]] 21時56分頃([[列車脱線事故]]、列車火災事故)<br /> : JR北海道で相次いだ一連の事故と不祥事のうちの1件。[[石勝線]][[占冠駅|占冠]] - [[新夕張駅|新夕張]]間を走行中の[[釧路駅|釧路]]発[[札幌駅|札幌]]行きの[[特急列車|特急]]「[[おおぞら (列車)|スーパーおおぞら]]」14号([[キハ283系]]、&lt;!--札幌方からキハ283-9 + キハ282-101 + キハ282-1 + キロ282-7 + キハ282-3001 + キハ283-1の--&gt;6両編成)が[[清風山信号場]]内で脱線、信号場構内の第1ニニウトンネル内に停止後に全車炎上した&lt;ref&gt;{{Cite web |date= |url=http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1799 |title=概要 |publisher=運輸安全委員会 |accessdate=2018-05-18 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : 248名の乗客は車掌の指示で発煙があった車両から別の車両に避難したが、その後[[乗務員]]が状況確認や[[運転指令所|運輸指令]]との連絡に手間取り、車内に[[煙]]が充満した。乗客が自らの判断で非常[[ドアコック]]を使用して外へ避難。煙を吸い込むなどして39名が病院に搬送された&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20110530004644/http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110529k0000m040119000c.html 特急脱線:800メートル手前 車両下部の部品2個が落下] - [[毎日新聞]] 2011年5月28日(2011年5月30日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])&lt;/ref&gt;。[[運輸安全委員会]]鉄道事故調査官並びに[[富良野警察署|北海道旭川方面富良野警察署]]による事故原因調査も実施されている&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20110530000144/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110528/dst11052811470016-n1.htm 搬送者40人「振り子式」車両が脱線か JR石勝線事故] - [[産経新聞]] 2011年5月28日(2011年5月30日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])&lt;/ref&gt;。<br /> : その後行われた、JR北海道による事故現場調査では、3号車(&lt;!--キロ282-7・--&gt;札幌方先頭から4両目)の[[鉄道車両の台車|台車]]にある[[減速機]]を支える「吊りピン」と呼ばれる[[金属]][[部品]]の脱落を確認し&lt;ref name=&quot;turipin&quot;&gt;[http://megalodon.jp/2012-0602-0200-07/mainichi.jp/area/hokkaido/news/20120527ddlk01040164000c.html サンデー・トピックス:JR石勝線特急炎上事故1年 長引く調査、安全模索 固定部品は見つからず /北海道] 毎日jp 2012年5月27日(2012年6月2日時点の[[ウェブ魚拓]])&lt;/ref&gt;、次位の2号車(&lt;!--キハ282-3001・--&gt;先頭から5両目)についてはトンネルに入る以前から脱線していたことが判明している&lt;ref&gt;{{Cite press release |title = 石勝線 清風山信号場構内で発生した列車脱線事故について |publisher = 北海道旅客鉄道 |date = 2011-05-28 |url = http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/110528-1.pdf |format = PDF |accessdate = 2015-04-09 }}&lt;/ref&gt;。事故2日前に行われた目視検査では、異常が発見されていなかった。道警は事故後、釧路 - 札幌間を捜索したが、脱落した部品は事故から1年以上経過した2012年現在も見つかっていない&lt;ref name=&quot;turipin&quot; /&gt;。<br /> : 乗務員の指示を待たずに非常ドアコックを使用して外へ避難した乗客に対して社員が激怒したことが問題になったが、これは当時の異常時[[マニュアル]]で運輸指令の指示がないと乗客を外へ避難させることができなかったことが理由とされている。しかしながら、このマニュアルが皮肉にも避難誘導が遅れた原因となった。さらにこうした異常時マニュアルが部署別に多数作成されており、内容もそれぞれ異なっていることが発覚したため、[[国土交通大臣]]より[[業務改善命令|事業改善命令]]を受けている。後にマニュアルは改訂・一本化され、現場の判断での避難も可能とされた。<br /> : 事故車両は廃車となり、代替車両として機能を簡素化した[[JR北海道キハ261系気動車|キハ261系気動車]]が新製された&lt;ref&gt;{{Cite journal |和書 |title = JR車両ファイル2012 |date = 2012-07 |publisher = 交友社 |journal = [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |volume = 52 |issue = 615 |page = 23 }}&lt;/ref&gt;。事故の4か月後の同年9月には、JR北海道の[[中島尚俊]]社長が安全意識の向上を社員に促す遺書を残して自殺した&lt;ref&gt;遠藤修平、久野華代、千々部一好、鈴木勝一、近藤卓資「特急の相次ぐ発煙・出火 JR北 解明できず」『[[毎日新聞]]』 2013年7月25日付け朝刊、3面。&lt;/ref&gt;。<br /> : 2013年(平成25年)5月31日、[[運輸安全委員会]]は、[[輪軸 (鉄道車両)|車輪]]の剥離やへこみにより生じた異常な振動により部品が脱落したことが、事故の原因になったとする調査報告書を発表した&lt;ref name=&quot;nikkei20130531&quot;&gt;「車輪のへこみ原因 JR石勝線脱線 振動で部品脱落 安全委報告」『[[日本経済新聞]]』 2013年5月31日付け夕刊、14面。&lt;/ref&gt;。4両目の車輪の踏面が長さ40センチメートルにわたって剥離し&lt;ref name=&quot;yomiuri20130601&quot;&gt;「「車両検査の体制不十分」小池社長責任認める JR石勝線脱線炎上」『[[読売新聞]]』 2013年6月1日付け朝刊、北海道35面。&lt;/ref&gt;、4.5ミリメートルのへこみが生じたことにより&lt;ref name=&quot;nikkei20130531&quot; /&gt;、異常な振動が発生し、減速機を固定していた吊りピンが脱落&lt;ref name=&quot;yomiuri20130601&quot; /&gt;。減速機が垂れ下がって[[枕木]]に衝突したり、その衝撃で[[プロペラシャフト|推進軸]]など周辺の部品が脱落したことにより、脱線および火災を招いたと推定している&lt;ref name=&quot;yomiuri20130601&quot; /&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title = 運輸安全委員会、石勝線火災事故の報告書を公表…車輪踏面の管理徹底を勧告 |newspaper = [[Response.]] |date = 2013-06-01 |url = http://response.jp/article/2013/06/01/199182.html |accessdate = 2015-04-09 }}&lt;/ref&gt;。JR北海道は、運輸安全委員会の求めに応じ、再発防止策をまとめ、7月31日に委員会に提出した&lt;ref&gt;「石勝線事故受け対策を国へ発送 JR北海道」『[[北海道新聞]]』 2013年8月1日付け朝刊、31面。&lt;/ref&gt;。また、車輪の異常摩耗が事故の原因となったことを受け、すり減った車輪を修正する在姿車輪旋盤の増設などの対策に取り組んでいる&lt;ref&gt;「JR北海道 車輪修正の旋盤増設 石勝線事故 安全向上図る」『北海道新聞』 2013年6月6日付け朝刊、29面。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 西武新宿線東村山駅列車脱線事故 ====<br /> ; ★2011年(平成23年)[[12月24日]] 16時39分頃&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://web.archive.org/web/20120117082844/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/information/__icsFiles/afieldfile/2011/12/25/20111225higashimurayama.pdf 東村山駅構内における脱線事故について(お詫び)]}} - 西武鉄道からのお知らせ、2011年12月25日(2012年1月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])&lt;/ref&gt;([[列車脱線事故]]、線路障害)<br /> : [[西武鉄道]][[西武新宿線|新宿線]][[東村山駅]]構内において、ホームに入る直前の[[西武園駅|西武園]]発[[西武新宿駅|西武新宿]]行き[[西武新宿線#各停|各駅停車]]([[西武20000系電車|20000系]]&lt;!--20156編成・--&gt;8両編成)のうちの7号車(&lt;!--モハ20956・--&gt;西武新宿側から7両目)が脱線した。乗客450人を含めけが人はなかったが、同線が全線で運転を見合わせたほか、[[小平駅|小平]] - [[所沢駅|所沢]]間は終日運休となり[[クリスマス]]の時期であったこともあり、約72,000人の足に影響が出た&lt;ref&gt;{{Cite news |date = 2011-12-25 |url = http://mainichi.jp/select/jiken/news/20111225ddm041040079000c.html |title = 鉄道事故:西武新宿線が脱線 一部区間、終電まで不通--東京・東村山駅 |publisher = 毎日.jp |accessdate = 2012-01-18 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120114162645/http://mainichi.jp/select/jiken/news/20111225ddm041040079000c.html |archivedate = 2012年1月14日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : 本事故では7両目のみが脱線しており、他の車両が無傷であった。先頭車両に影響がないため、置石などの障害物が脱線の原因ではなく、当初は原因が分からなかった&lt;ref&gt;{{Cite news |date = 2011-12-25 |url = http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111225/dst11122500310000-n1.htm |title = 【西武脱線事故】なぜ7両目だけ脱線? |publisher = MSN産経ニュース |accessdate = 2012-01-18 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20111228091951/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111225/dst11122500310000-n1.htm |archivedate = 2011年12月28日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}&lt;/ref&gt;。事故から5か月後の2012年5月16日になって[[分岐器#構造|トングレール]]の磨耗が原因と推定されると発表した&lt;ref&gt;{{Cite news |date = 2012-05-16 |url = http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120516/dst12051623260016-n1.htm |title = 西武鉄道、ポイントレール摩耗か 謎の7両目だけが脱線 |publisher = MSN産経ニュース |accessdate = 2012-05-21 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120517043929/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120516/dst12051623260016-n1.htm |archivedate = 2012年5月17日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}&lt;/ref&gt;。なお、翌日の始発列車から新宿線は運転を再開しているが、12月30日より平日の競輪開催時と土曜・休日に運転している[[西武西武園線|西武園線]]から新宿線への直通運転を取りやめ、それぞれ東村山駅で乗り換える形となった。<br /> <br /> ==== 岐阜貨物ターミナル駅列車脱線事故 ====<br /> ; ★2011年(平成23年)[[12月27日]] 21時51分頃([[列車脱線事故]])<br /> : JR貨物[[岐阜貨物ターミナル駅]]にて、着発線から出発し本線へ進出していた、[[名古屋貨物ターミナル駅|名古屋貨物ターミナル]]発[[福岡貨物ターミナル駅|福岡貨物ターミナル]]行き1065列車が、機関車を含む27両編成のうち、12、13両目が本線合流部で脱線した。脱線した車両は傾斜したまま走行し、信号機に衝突して停止した。この事故で、後続の貨物列車や、東海道本線の列車に遅れや運休が生じた。本線上に進出していた10両を切り離し、28日1時50分頃運転を再開した。東海道本線で上下24本が運休、27本に最大4時間の遅れが発生した。原因は、岐阜貨物ターミナル駅でコンテナの荷扱いをしていた際、コンテナ[[緊締装置]]の開放を失念したまま荷役作業を行って、フォークリフトで12両目の貨車ごと持ち上げ脱線させたのに気付かず、発車させたため&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20120304113021/http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20111228/201112281208_15840.shtml 積み降ろしで脱輪か 岐阜市の貨物列車脱線 運転再開] 岐阜新聞 2011年12月28日閲覧(2012年3月4日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2012-08-31 |url = http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2012-6-2.pdf |title = 鉄道事故報告書 RA2012-6 日本貨物鉄道会社 東海道線 岐阜貨物ターミナル駅 列車脱線事故 |format = PDF |publisher = [[運輸安全委員会]] |accessdate = 2015-04-09}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 石勝線貨物列車脱線事故(2012年) ====<br /> ; ★[[2012年]](平成24年)[[2月16日]] 20時50分頃([[列車脱線事故]])<br /> : JR北海道石勝線[[東追分信号場|東追分駅]]構内で、JR貨物の[[新富士駅 (北海道)|釧路貨物]]発[[札幌貨物ターミナル駅|札幌貨物ターミナル]]行き貨物列車([[JR貨物DF200形ディーゼル機関車|DF200形ディーゼル機関車]]&lt;!--56号機--&gt;牽引、貨車15両の16両編成)が停車位置をオーバーランして安全側線に乗り上げ脱線・転覆した上、[[スノーシェルター]]の壁を突き破って停車した。死傷者はなかったが、雑誌の発売に大幅な遅れが出るなど、[[道央]]と[[道東]]を運搬する物流に支障が出た。<br /> : 当該貨物列車は通常東追分駅で停車しないが、[[バラスト]]と呼ばれる線路に敷かれた石を跳ね上げるのを防止するための減速運転で遅延していた対向列車とのすれ違いによる[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]を予定していた。このため赤信号でブレーキをかけたものの、ブレーキの効きが悪かった、と運転士はコメントしており、運輸安全委員会の調査の結果、事故原因は、貨車のブレーキ装置に雪が固着してブレーキ装置の作動を阻害し、列車を停車させるための十分なブレーキ力が得られなかったため、と最終的に推定された&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2013-02-22 |url = http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/report/RA2013-1-3.pdf |title = 鉄道事故調査報告書 RA2013-1 日本貨物鉄道株式会社 石勝線 東追分駅構内 列車脱線事故 |format = PDF |publisher = 運輸安全委員会 |accessdate = 2015-04-09 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20130530231652/http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/report/RA2013-1-3.pdf |archivedate = 2013年5月30日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : この事故により石勝線は[[追分駅 (北海道)|追分]] - 新夕張 - [[夕張駅|夕張]]間が2月18日まで終日運休となった。当該区間を走行する特急は復旧までの間は札幌 - 新夕張間をバス代行&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;新夕張駅に臨時停車し代行バスに乗り換える処置がなされた。なお、当該区間を走行する特急は指定席(グリーン席を除く)を全て自由席に振り替え、乗客を極力乗車させる兼ね合いから通常の6両編成を最大9両編成に連結し対応した&lt;/ref&gt;、普通列車においてもバス代行が行われた。<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Train accident1 (sekisyoLINE).jpg|thumb|機関車が除雪シェルターを突き破っている。<br /> File:Train accident2 (sekisyoLINE).jpg|thumb|事故列車全景。<br /> File:Train accident3 (sekisyoLINE).jpg|thumb|機関車の様子。<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> ==== 富山地方鉄道上滝線脱線事故 ====<br /> ; ★2012年(平成24年)[[7月28日]] 14時45分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[富山地方鉄道]][[富山地方鉄道上滝線|上滝線]][[上堀駅]]付近で、[[岩峅寺駅|岩峅寺]]発[[富山駅|電鉄富山]]行き624列車([[富山地方鉄道14760形電車|14760形電車]]2両編成)が上堀駅に進入する際に、車両の全車軸が脱線した。当該列車には乗客20人が乗車していたが、負傷者は発生しなかった。事故後に現地へ鉄道事故調査官が派遣され、調査の結果、枕木の老朽化によってレール間隔(軌間)が過大となり脱線に至ったことが判明した。なお、一部報道では猛暑によるレールのゆがみが原因である可能性が高いと報じられていた。<br /> : この事故により上滝線は[[南富山駅|南富山]] - [[月岡駅 (富山県)|月岡]]間が7月29日まで運休となりバス代行輸送が行われていたが、7月30日の始発列車から通常通り運転を再開した。また、事故の影響で車両運用の都合により、[[富山地方鉄道本線|本線]]の一部列車にも運休が発生した。<br /> <br /> ==== 秩父鉄道広瀬川原車両基地車両脱線 ====<br /> ; 2012年(平成24年)[[8月6日]] 9時32分頃(車両脱線、輸送障害)<br /> : [[秩父鉄道]][[広瀬川原駅]]構内の[[広瀬川原車両基地]]内にて、「[[パレオエクスプレス]]」運転のために構内を入れ換え中だった[[国鉄C58形蒸気機関車#C58 363|C58形363号機]]が[[転轍器]]通過時に進行方向右側へ脱線した。秩父鉄道の発表では係員の手違いが原因とされている。負傷者は発生しなかったが、脱線の影響でC58形363号機は車軸折れや車輪ゆがみなど損傷が大きく、修理に約半年を要することから「パレオエクスプレス」は2012年内は電気機関車での牽引となった(C58形は2013年3月20日の運行より復帰&lt;ref&gt;[http://www.chichibu-railway.co.jp/info/file/2012/ctk_0921.pdf 平成24年のSL パレオエクスプレス運行中止について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121106234536/http://www.chichibu-railway.co.jp/info/file/2012/ctk_0921.pdf |date=2012年11月6日 }}(秩父鉄道 2012年9月21日)&lt;/ref&gt;)。<br /> : [[日本国有鉄道]](国鉄)における[[蒸気機関車]]全廃後、[[動態保存]]運転に使用されていた蒸気機関車が脱線を起こしたのは、JR・私鉄を通してこれが初めてである。<br /> <br /> ==== 江差線貨物列車脱線事故 ====<br /> ; ★2012年(平成24年)[[9月11日]] 19時50分頃([[列車脱線事故]])<br /> : JR北海道[[江差線]][[釜谷駅|釜谷]] - [[泉沢駅|泉沢]]間で、JR貨物の[[函館貨物駅|函館貨物]]発[[仙台貨物ターミナル駅|仙台貨物ターミナル]]行き高速貨物列車(機関車1両+コンテナ車20両)が脱線・転覆。死傷者は発生しなかった&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2012-09-26 |url = http://www.mlit.go.jp/jtsb/flash/jrkamotsuesashi_120911-120926.pdf |title = 日本貨物鉄道(株) 江差線 列車脱線事故の進捗状況 |format = PDF |publisher = 運輸安全委員会 |accessdate = 2015-01-24}}&lt;/ref&gt;。本州と北海道を結ぶ唯一の鉄道路線である[[海峡線]](津軽海峡線、江差線の[[木古内駅|木古内]] - [[五稜郭駅|五稜郭]]もその一部)を経路とする旅客列車・貨物列車が全列車通過不可能による運休となったことにより、本州と北海道の旅客輸送・物流に大きな影響が出た。<br /> : 後日、運輸安全委員会の事故報告書として発表された脱線原因は、コンテナー貨車コキ106/107型の軽荷重時のローリング共振による輪重抜け脱線とされ、サスペションの特性切り替え重量が従前のコキ104型14.6トンより4トン余高い18.6トンだったことで、軽荷重で脱線に到る3倍もの大きな共振になったとされて、荷重範囲、応答特性で対応が求められた。[[鶴見事故]](1963年)でのワラ1型の軽荷重での走行特性不安定を、軽荷重でのローリング共振でなぞった事故となった。<br /> : 江差線では(1)2012年4月26日、(2)2012年9月11日、(3)2014年6月22日と、3件連続してコンテナ貨物の脱線事故が起こり、(1)は線路の整備不良、(2)は本件、異常共振点の存在、(3)は新聞ロール紙3個単位での片積みとして対応を求めており、JR貨物の対策として、該当区間での45km/hの徐行運転を実施した。重量計によるコンテナの重量バランスの測定(サンプルチェック)を実施している他、トップリフターによる測定を導入(20 フィート以上のコンテナの一部を対象)する他、輪重測定装置・積付けガイドラインの対策をしている&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2014-07-16 |url = http://www.jrfreight.co.jp/common/pdf/news/20140716-03.pdf |title = 江差線における貨物列車脱線事故に対する対応について |format = PDF |publisher = 日本貨物鉄道株式会社 |accessdate = 2015-01-24}}&lt;/ref&gt;。<br /> : また、運行安全員会におけるJR北海道側の対策として、45km/hの徐行運転以外にも高速軌道検測車での測定を検討した&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2014-08-11 |url = https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140811-3.pdf |title = 運輸安全委員会による江差線貨物列車脱線事故調査報告書公表を受けての当面の対応について |format = PDF |publisher = 北海道旅客鉄道 |accessdate = 2015-01-24}}&lt;/ref&gt;。その後、11月4日に損傷した枕木交換により、当該区間の45km/hの徐行運転を、貨物列車のみとした&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2014-11-04 |url = http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141104-1.pdf |title = 江差線における徐行区間及び対象列車の変更について |format = PDF |publisher = 北海道旅客鉄道 |accessdate = 2015-01-24}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 京急本線列車脱線事故 ====<br /> [[ファイル:KHK1706 Shioiri 20100514.jpg|thumb|right|200px|被害車両の1500形1701編成]]<br /> ; ★2012年(平成24年)[[9月24日]] 23時58分頃&lt;ref name=&quot;yomiuri20130924&quot;&gt;光尾豊「京急脱線1年 落石検知装置 24か所に」『読売新聞』 2013年9月24日付け朝刊、33面。&lt;/ref&gt;([[列車脱線事故]])<br /> : [[京浜急行電鉄]][[京急本線|本線]][[追浜駅]] - [[京急田浦駅]]間で[[京成高砂駅|京成高砂]]発[[三浦海岸駅|三浦海岸]]行き[[京急本線#特急|特急]]第2268H列車&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;京成高砂 - 押上間は普通、押上 - 三浦海岸間は特急。&lt;/ref&gt;([[京急1500形電車|1500形電車]]1701編成・8両)が大雨により崩壊した落石防護柵のコンクリート製の土台と土砂に乗り上げた&lt;ref&gt;{{Cite news |title = 京急脱線事故、コンクリート土台が壊れて落下 運輸安全委 |newspaper = 日本経済新聞 |date = 2012-10-24 |url = http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2403L_U2A021C1CC1000/ |accessdate = 2015-04-09}}&lt;/ref&gt;。1 - 3号車の3両が脱線し、運転士1名と乗客10名が重軽傷を負った。トンネルの手前約20m地点で左斜面の土砂が幅11m 高さ12mにわたって基礎もろとも崩壊し、土砂が上下線を支障した。当日横須賀市内では1時間に88mmの雨が観測されており、この影響で地盤が緩んでいたために土砂崩壊が発生したとみられる。当該の列車は現場を75km/h(制限速度80km/h)で走行していた。京急本線では[[1997年]]4月にも[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京浜急行電鉄脱線事故|土砂崩れによる脱線事故]]があり、その際に大雨による速度規制を5か所設けたが、現場付近は速度規制の対象外だった&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2012-9-25 |url = http://mainichi.jp/select/news/20120926k0000m040094000c.html |title = 京急脱線: 現場は速度規制の対象外…司令所長も指示せず |publisher = 毎日jp |accessdate = 2013-11-10 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120928001328/http://mainichi.jp/select/news/20120926k0000m040094000c.html |archivedate = 2012年9月28日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : 翌日9月25日は始発から[[金沢八景駅|金沢八景]] - [[堀ノ内駅|堀ノ内]]間で運転を見合わせた。10時24分頃から堀ノ内 - [[逸見駅|逸見]]間が運転を再開し、不通区間は金沢八景 - 逸見間となったが、トンネル内の脱線車両の撤去に時間がかかり、全線が復旧したのは3日後の27日朝7時25分頃のことであった。運転見合わせ中は直通運転先の[[都営地下鉄]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]]、[[京成電鉄|京成線]]、[[北総鉄道]][[北総鉄道北総線|北総線]]にも遅延や運休が発生した。<br /> : 代行バスを金沢八景 - [[汐入駅|汐入]]間で運行したが、事故現場付近の道路は大渋滞が発生した。また、京急線の三崎口、浦賀、横須賀中央方面から横浜・都心方面への唯一の鉄道路線となったJR東日本[[横須賀線]]には利用者が集中したが、横須賀線の[[横須賀駅|横須賀]] - [[久里浜駅|久里浜]]間は単線で、15分間隔より運行本数を増発できなかったため、[[久里浜駅]]などでは入場制限を伴うなど、この地域の交通は大混乱に陥った。<br /> : なお、[[神奈川県警察]]は任意で当該列車の運転士に対し[[業務上過失傷害]]容疑で事情聴取し、事故当時の詳しい状況を聴いた&lt;ref&gt;[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/accident/593970/ 京急脱線:「京急脱線 運転士から任意聴取 業務上過失傷害容疑で]{{リンク切れ|date=2015年4月}} 産経新聞 2012年9月25日&lt;/ref&gt;。<br /> : [[国土交通省]]の[[運輸安全委員会]]は調査を実施し、事故から約1年後の2013年9月27日に調査報告書を発表した&lt;ref name=&quot;asahi20130928&quot;&gt;竹野内崇宏「列車 1メートル跳ね上がる 京急脱線、運輸安全委が報告書」『朝日新聞』 2013年9月28日付け、29面。&lt;/ref&gt;。この中で、土砂に流された防護柵のコンクリート製の土台を巻き込んだ影響で、列車は1mも跳ね上がっていたことが明らかになった&lt;ref name=&quot;asahi20130928&quot; /&gt;。報告書では、京急電鉄が災害を事前に予測することは困難であったとした一方、運転規制区間の見直しが必要と指摘した&lt;ref name=&quot;asahi20130928&quot; /&gt;。事故後、京急は、現場の斜面について、コンクリートで補強したり、落石検知装置を設置したりするなどの対策をとった&lt;ref name=&quot;yomiuri20130924&quot; /&gt;&lt;ref&gt;皆川剛「落石検知装置や防護柵… 京急脱線事故 間もなく1年」『東京新聞』 2013年9月7日付け朝刊、22面。&lt;/ref&gt;。約10億円をかけ、沿線で防護柵や落石検知装置などの再発防止対策をとったうえ、大雨の際の運転規制についても見直した&lt;ref name=&quot;yomiuri20130924&quot; /&gt;。<br /> : 事故の当該編成である1701編成は2013年10月に廃車となった。<br /> <br /> ==== 鹿児島中央駅構内列車脱線事故 ====<br /> ; ★2012年(平成24年)[[10月14日]] 22時頃([[列車脱線事故]])<br /> : JR九州[[鹿児島本線]][[鹿児島中央駅]]構内で、同駅発[[川内駅 (鹿児島県)|川内]]行き普通列車(2両編成)が発車直後に脱線し、2両目が分岐器の両位に跨る形でしばらく進行したあと、異常に気づいた運転士が制動し停止した。乗員、乗客ともにけが人はいなかった。脱線した地点は発車地点から40メートルほどで、2両目の前方と後方台車が脱線し、前方台車は復線した。分岐器は左方に開通していたが、脱線した後方台車は開通していない右方に持っていかれたと見られる。運転士は乗客が騒いだので異常に気づき、後方を視認したところ車両が斜行していたという。本事故発生を受けて[[運輸安全委員会]]から[[運輸安全委員会|鉄道事故調査官]]が現地に派遣された&lt;ref&gt;{{cite news |title=駅構内で列車が脱線、乗客らけがなし JR鹿児島中央駅 |author= |newspaper=朝日新聞 |date=2012-10-15 |url=http://www.asahi.com/national/update/1015/SEB201210150001.html |accessdate=2013-07-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131004232547/http://www.asahi.com/national/update/1015/SEB201210150001.html |archivedate=2013年10月4日 |deadlinkdate=2017年10月 }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite news |title=鹿児島中央駅脱線事故 伊集院間が運休 16日朝、復旧へ |author= |newspaper=南日本新聞 |date=2012-10-15 |url=http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=43817 |accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121024203410/http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=43817 |archivedate=2012年10月24日 |deadlinkdate=2017年10月 }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |url=http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1829 |title=鉄道事故の概要 |publisher= 運輸安全委員会|accessdate=2013-07-14}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 三岐鉄道三岐線三里駅構内列車脱線事故 ====<br /> ; ★2012年(平成24年)[[11月8日]] 9時39分頃([[列車脱線事故]]、信号違反)<br /> {{節スタブ}}<br /> : [[三岐鉄道]][[三岐鉄道三岐線|三岐線]][[三里駅]]構内で、[[近鉄富田駅|近鉄富田]]発[[西藤原駅|西藤原]]行き列車(3両編成)が安全側線に突っ込み、車止めを突破して脱線、先頭車の台車や中間車のパンタグラフなどが破損した。乗客2人と運転士1人にけがはなかった。原因は、出発信号機が停止現示でありながら、当該列車は当駅で行き違いを行わないため、運転士がいつものように進行現示だろうと思い込み、運転士が停止現示に気がつかず発車させたことが直接の事故原因であった。停止信号が現示されていたのは、運転指令担当者が当駅で列車の行き違いがあると勘違いして、交換制御押ボタンを操作したためであった&lt;ref&gt;[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1830 三岐線三里駅構内列車脱線事故 鉄道事故調査報告書] - 運輸安全委員会&lt;/ref&gt;。<br /> :これにより事故当日は[[保々駅|保々]] - [[西藤原駅|西藤原]]間にてバスによる代行運行が行われ、夕方より[[梅戸井駅|梅戸井]] - 西藤原間が代行運行になった。現場はクレーンなどの機械の搬入が困難であったことから、被災編成の先頭車851系(元西武701系)クハ1851は翌日午後より現地解体され&lt;ref&gt;「脱線車両解体進む」『中日新聞』2012年11月10日付け朝刊 社会面&lt;/ref&gt;、代わりに[[部品取り|部品確保用]]として購入してあった元西武[[西武101系電車|新101系]]のクハ1238を整備、クハ1881として連結した。このため、復旧後の当該編成は前後で顔が異なっている。<br /> <br /> ==== 山陽電気鉄道荒井駅列車脱線事故 ====<br /> [[ファイル:Sanyo5030&quot;KIYOMORI&quot;.JPG|thumb|イベントラッピング時の被害車両]]<br /> [[ファイル:Sanyo Electric Railway Express train derailment 12 Feb 2013 15.JPG|thumb|事故時に破壊されたベランダ]]<br /> ; ★[[2013年]](平成25年)[[2月12日]] 15時50分頃([[列車脱線事故]]〈踏切障害に伴うもの〉)<br /> : [[兵庫県]][[高砂市]]荒井町南栄町の[[山陽電気鉄道]][[山陽電気鉄道本線|本線]][[荒井駅 (兵庫県)|荒井駅]]近くの神鋼前踏切で、[[山陽姫路駅|山陽姫路]]発[[梅田駅|阪神梅田]]行き[[直通特急]](&lt;!--5030系5630編成・--&gt;6両編成)と自動車運搬用トラックの後部が接触して先頭の2両が脱線して、電車はそのまま沿線の住宅の外壁やベランダなどを破壊しながら進行し、先頭車両が荒井駅のホームに激突して停止した。<br /> : 自動車運搬用トラックが踏切を横断する際に、約10メートル先の交差点で信号待ちをしていた車があったにも関わらず踏切に進入。後部を残した状態で停止したところに下りてきた[[遮断機|遮断棹]]が、直立収納状態にあった後部スロープ板(自動車を積載乗降させる際に使用する道板)に挟まってしまい、これに気付いたトラック運転者がスロープを地面に下ろして遮断棹を外し、トラックを前に進めようとしていたところ、下ろしたスロープに直通特急の車輪が乗り上げて脱線した。<br /> : これにより、電車運転士が重傷、乗客13名と信号待ちをしていた車の運転者・トラック運転者が軽傷を負った。トラック運転者は後に列車往来危険罪および自動車運転過失傷害罪の容疑で逮捕・起訴され、禁固2年6か月(執行猶予4年)の有罪判決を受けた。<br /> <br /> : 同事故を受け兵庫県公安委員会は事故を起こした踏切について通行規制を設け、終日、線路内立ち往生のもととなる、大型自動車、中型自動車、大型特殊自動車の北行への通行を禁止した。また、トラックの進入を誘発した信号予告灯を撤去し、信号機の増設及び信号灯器のLED化を行った。この他、特徴が類似した踏切について、踏切から直近の交差点までの路面のカラー舗装などの注意喚起の対策を行った&lt;ref&gt;{{Cite web |format=pdf |author=運輸安全委員会 |date=2014-6-27 |url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2014-6-1.pdf |title=鉄道事故調査報告書 |pages=26-27 |publisher=国土交通省 |accessdate=2015-06-07}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |format=pdf |date=2013-6-6 |url=https://www.police.pref.hyogo.lg.jp/sc/gidai/gidai_130530.pdf |title=第20回定例会議の開催状況 |page=2 |publisher=兵庫県公安委員会 |accessdate=2015-06-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160419183004/https://www.police.pref.hyogo.lg.jp/sc/gidai/gidai_130530.pdf |archivedate=2016年4月19日 |deadlinkdate=2017年10月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : この事故で被災した編成の先頭2両は激しい損傷を受けたため長期の運用離脱を余儀なくされ、2014年5月に川崎重工業を出場するまで車両組み換えの措置が取られた。<br /> <br /> ==== 秋田新幹線脱線事故 ====<br /> ; ★2013年(平成25年)[[3月2日]] 16時過ぎ([[列車脱線事故]])<br /> : [[秋田県]][[大仙市]]の[[奥羽本線]]([[秋田新幹線]])[[神宮寺駅|神宮寺]] - [[刈和野駅|刈和野]]間にて、東京発秋田行き「[[こまち (列車)|こまち]]」25号([[新幹線E3系電車|E3系]]6両編成)が吹雪の中を時速20kmで徐行走行中、吹き溜まりに乗り上げ先頭車両が脱線した。事故原因は[[三線軌条]]でありながら、在来線規格の除雪車で在来線車両限界範囲の除雪しか行わなかったため、外側の新幹線用レール上の積雪が厚く残ってしまい在来線車両では脱線しなかったのに対し、新幹線車両では25cmのずれが生じて乗り上げ脱線してしまったもの。乗客約130人にけがはなかったが、約6時間車内に閉じ込められた後、バスで救出された。この事故の影響で秋田新幹線は翌日まで[[盛岡駅|盛岡]] - [[秋田駅|秋田]]間(後に[[大曲駅 (秋田県)|大曲]] - 秋田間に短縮)で運転を見合わせた。<br /> : 営業運行中の新幹線車両の脱線事故は、新潟県中越地震による[[上越新幹線脱線事故]]以来2度目。<br /> <br /> ==== 東海道本線列車脱線事故 ====<br /> ; ★2013年(平成25年)[[4月7日]] 20時40分頃([[列車脱線事故]]〈踏切障害に伴うもの〉)<br /> : 神奈川県[[茅ヶ崎市]]のJR東日本[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]][[茅ケ崎駅|茅ケ崎]] - [[平塚駅|平塚]]間の十間坂踏切にて、踏切内に立ち往生した軽自動車と[[沼津駅|沼津]]発上り東京行き普通電車([[JR東日本E231系電車|E231系]]10両編成&lt;!-- K-08編成--&gt;)が衝突、200mほど軽自動車を引きずった後停止、先頭車両が脱線した。軽自動車に乗っていた男女は衝突直前に脱出し怪我はなかったが、乗客300名のうち1名が軽傷を負った&lt;ref&gt;{{Cite news |title = 東海道線が脱線 車と衝突、乗客1人けが/茅ケ崎 |newspaper = [[神奈川新聞|神奈川新聞・カナロコ]] |date = 2013-04-07 |url = http://www.kanaloco.jp/article/52277 |accessdate = 2015-04-09 }}&lt;/ref&gt;。この事故の影響で東海道本線は[[藤沢駅|藤沢]] - [[小田原駅|小田原]]間で終日運転を見合わせ、翌8日13時過ぎに事故編成を自走で茅ケ崎駅構内の留置線に収容し、15時頃に完全に復旧した。<br /> : 事故現場は歩行者専用踏切で、車両進入を阻むポールが踏切の手前に立っていたが、この踏切には[[日本の道路標識#規制標識|自動車通行止めを示す標識]]や看板は設置されていなかった&lt;ref&gt;{{Cite news |title = 東海道線衝突 茅ケ崎の踏切で軽乗用車が通行止めすり抜け/神奈川 |newspaper = 神奈川新聞・カナロコ |date = 2013-04-09 |url = http://www.kanaloco.jp/article/52236 |accessdate = 2015-04-09 }}&lt;/ref&gt;(事故後、自動車通行止めを示す看板を設置&lt;ref&gt;{{Cite news |title = 東海道線踏切事故:事故受けJRが新看板とポール増設/神奈川 |newspaper = 神奈川新聞・カナロコ |date = 2013-04-13 |url = http://www.kanaloco.jp/article/52164 |accessdate = 2015-04-09 }}&lt;/ref&gt;)。軽自動車の運転者は道に迷ってしまい&lt;ref&gt;[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130408-OYT1T00803.htm?from=navr 東海道線事故「道に迷って」車進入禁止の踏切へ]{{リンク切れ|date=2015年4月}} 読売新聞 2013年4月8日閲覧&lt;/ref&gt; ポールをすり抜け踏切に進入し、その後バックして踏切外へ出ようとして脱輪した。<br /> <br /> ==== 神戸電鉄列車脱線事故 ====<br /> ; ★2013年(平成25年)[[5月28日]] 19時59分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[神戸電鉄]][[神戸電鉄三田線|三田線]][[有馬口駅]]を出発した[[新開地駅|新開地]]発[[道場南口駅|道場南口]]行き普通列車(4両編成)運転士が、分岐器部分で異常な振動を感じて停車したところ、前から2両目の前台車全2軸が進行方向右側に脱線していた。原因は分岐器の形状であった。 同駅では2006年にも別の分岐器で2回の脱線事故が発生している。<br /> : 事故の影響で[[神戸電鉄有馬線|有馬線]][[谷上駅|谷上]] - [[有馬温泉駅|有馬温泉]]、三田線有馬口 - [[岡場駅|岡場]]間が5月31日まで運転見合わせとなったが、6月1日の始発列車より運転を再開した。ただし、事故の影響で有馬口駅構内の分岐器を暫定的にダブルスリップスイッチから片開き分岐器に交換し、有馬線からの渡り線の撤去・有馬線側の片開き分岐器の鎖錠を行った。そのため、新開地方面から有馬温泉駅への配線が無くなったことから、同日にダイヤ修正を実施した。<br /> : 2014年4月から6月にかけて配線変更の本工事が行われ、三田線方面は1・3番線、有馬線方面は2・4番線に振り分けられ、交差する2・3番線の線路は分岐機能が無く、交差するだけのダイヤモンドクロッシングとなった。以前と比べシンプルな線路配置となり、ポイントも3か所から単純な片開き分岐2か所に整理された。同年6月28日にダイヤ変更を実施し新開地 - 有馬温泉間の直通列車が再開された。<br /> <br /> ==== 函館本線特急列車出火事故 ====<br /> [[ファイル:Dml30hsi.jpg|thumb|出火を引き起こしたエンジンと同形式のDML30系エンジン]]<br /> ; ★2013年(平成25年)[[7月6日]] 15時45分頃&lt;ref name=&quot;sankei20130707&quot;&gt;「特急から出火 乗客200人避難」『産経新聞』 2013年7月7日付け、24面。&lt;/ref&gt;(車両障害&lt;ref&gt;[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1842 概要 | 鉄道 | 運輸安全委員会&lt;!-- Bot generated title --&gt;]&lt;/ref&gt;)<br /> : JR北海道で相次いだ一連の事故と不祥事の内の一件。[[函館本線]][[鷲ノ巣信号場|鷲ノ巣]] - [[山崎駅 (北海道)|山崎]]間を走行中の[[札幌駅|札幌]]発[[函館駅|函館]]行きの特急「[[北斗 (列車)|北斗]]」14号([[国鉄キハ183系気動車|キハ183系]]&lt;ref&gt;「細る大動脈 JR特急運休続く」『北海道新聞』 2013年7月25日付け朝刊、35面。&lt;/ref&gt; 8両編成)のうち、キハ182-2557&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2013-07 |url = http://www.mlit.go.jp/jtsb/flash/jrhhakodate_130706-130724.pdf |title = 北海道旅客鉄道株式会社 函館線 重大インシデント(車両障害) 進捗状況報告 |format = PDF |publisher = 運輸安全委員会 |accessdate = 2015-04-09 }}&lt;/ref&gt; の床下のエンジン付近から出火&lt;ref name=&quot;sankei20130707&quot; /&gt;、山崎駅構内で非常停止した&lt;ref name=&quot;doshin20130725&quot;&gt;「停止2キロ手前から油漏れ 北斗出火事故で運輸安全委」『北海道新聞』 2013年7月25日付け朝刊、1面。&lt;/ref&gt;。火はすぐに消し止められ、車外に避難した乗客約200人にけがはなかったが&lt;ref name=&quot;sankei20130707&quot; /&gt;、出火元の4号車の側面は黒く焼け焦げた&lt;ref&gt;「窓越しに炎 パニック 特急火災」『北海道新聞』 2013年7月7日付け朝刊、35面。&lt;/ref&gt;。出火した[[ディーゼルエンジン]]は、[[DML30系エンジン|DML30系]]であった。同型のエンジンに関しては、2012年9月18日に[[千歳線]][[新札幌駅]]で、同じく特急「北斗」のエンジンから冷却水と[[エンジンオイル|潤滑油]]が漏れるトラブルがあったほか&lt;ref name=&quot;doshin20130710-35&quot;&gt;「JR特急出火 新品なぜ折れた」『北海道新聞』 2013年7月10日付け朝刊、35面。&lt;/ref&gt;、2013年4月8日にも函館本線[[八雲駅]]に停車中の特急「北斗」のエンジンから出火するトラブルが発生したばかりであった&lt;ref name=&quot;doshin20130710-35&quot; /&gt;。これらのトラブルについては、スライジングブロック(スライディングブロック)と呼ばれるエンジンの[[燃料]][[噴射ポンプ]]内の[[部品]]が破損したことが原因とみられており&lt;ref name=&quot;doshin20130710-01&quot;&gt;「JR特急出火 4月事故と同部品破損 交換わずか3カ月」『北海道新聞』 2013年7月10日付け朝刊、1面。&lt;/ref&gt;、JR北海道は同型エンジンのスライジングブロックを4月に全て交換したばかりであったが、約3か月という短期間で再び事故が発生した&lt;ref name=&quot;doshin20130710-01&quot; /&gt;。<br /> : [[国土交通省]]の[[運輸安全委員会]]は、事故につながるおそれがある[[重大インシデント]]に当たると判断&lt;ref&gt;「特急北斗出火 調査官を派遣 運輸安全委」『読売新聞』 2013年7月9日付け朝刊、38面。&lt;/ref&gt;、車両の保全命令を出し&lt;ref&gt;「JR特急出火「重大事案」運輸安全委」『北海道新聞』 2013年7月8日付け朝刊、1面。&lt;/ref&gt;、8日に鉄道事故調査官2名をJR北海道[[苗穂運転所]]に派遣した&lt;ref name=&quot;doshin20130709&quot;&gt;「JR特急出火 エンジン分解調査へ」『北海道新聞』 2013年7月9日付け朝刊、32面。&lt;/ref&gt;。また、同日に国土交通省[[北海道運輸局]]は、局長名での文書指導を行った&lt;ref name=&quot;doshin20130709&quot; /&gt;。JR北海道に対する局長名での文書指導は、2011年5月の[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#石勝線特急列車脱線火災事故|石勝線特急列車脱線火災事故]]以来となる&lt;ref name=&quot;doshin20130709&quot; /&gt;。11日には、[[国土交通副大臣]]の[[鶴保庸介]]がJR北海道社長の野島誠を国土交通省に呼んで注意喚起を行い&lt;ref&gt;「合理化 トラブル増発」『東京新聞』 2013年7月18日付け朝刊、27面。&lt;/ref&gt;、翌12日には[[国土交通大臣]][[太田昭宏]]が安全確保の徹底を求めたが&lt;ref name=&quot;doshin20130713&quot; /&gt;、直後の15日にもねじの緩みが原因で&lt;ref name=&quot;mainichi20130824&quot;&gt;遠藤修平「途切れた安全 JR北海道の危機 (上)」『毎日新聞』 2013年8月24日付け朝刊、北海道支社発行、25面。&lt;/ref&gt; 千歳線を走行中の特急列車「[[おおぞら (列車)|スーパーおおぞら]]」3号の配電盤から出火するトラブルが発生&lt;ref&gt;「JR特急 配電盤出火 運休、2万人影響」『北海道新聞』 2013年7月16日付け朝刊、34面。&lt;/ref&gt;、22日にはナットの緩みが原因で&lt;ref name=&quot;mainichi20130824&quot; /&gt;[[根室本線]]を走行中の「[[とかち (列車)|スーパーとかち]]」1号のディーゼルエンジンの内部が破損し、発煙や油漏れが起きた&lt;ref&gt;「JR特急発煙 エンジン内5か所破損」『北海道新聞』 2013年7月24日付け朝刊、1面。&lt;/ref&gt;。このため、国土交通省がJR北海道に対し、車両整備についてJR東日本に技術的協力を要請するよう指示をする異例の事態となり&lt;ref&gt;「車両整備「JR東に協力要請を」JR北海道に異例の指示」『北海道新聞』 2013年7月23日付け夕刊、1面。&lt;/ref&gt;、JR北海道はJR東日本に車両保守について協力を求めることとなった&lt;ref&gt;「車両保守の協力 JR東に要請へ JR北海道」『日本経済新聞』 2013年7月24日付け朝刊、13面。&lt;/ref&gt;。また、JR北海道は、車両のメンテナンスに時間的余裕を持たせるため、これまでの方針を転換し、特急の減速や減便を行うダイヤ変更を11月に行うこととなった&lt;ref name=&quot;yomiuri20130905&quot;&gt;「JR北海道「減速・減便」 ダイヤ改正で整備時間確保」『読売新聞』 2013年9月5日付け朝刊、33面。&lt;/ref&gt;。鉄道事業者が、安全対策のために減速・減便のダイヤ変更を行うのは、極めて異例のことである&lt;ref name=&quot;yomiuri20130905&quot; /&gt;。<br /> : 運輸安全委員会の調査では、今回も4月のトラブルのときと同様、スライジングブロックとエンジン内の[[ピストン]]の一部が破損していた&lt;ref&gt;「JR特急出火 ピストンも一部破損」『北海道新聞』 2013年7月11日付け朝刊、1面。&lt;/ref&gt;。また、今回の事故では、[[シリンダーブロック]]に直径約10センチメートルもの穴が開いており&lt;ref name=&quot;doshin20130710-35&quot; /&gt;、非常停止した地点の2キロメートル手前からエンジンの潤滑油が漏れた跡が残っていた&lt;ref name=&quot;doshin20130725&quot; /&gt;。JR北海道は、DML30系エンジンを搭載する車両36両について、事故原因が判明するまで運行を取り止めることとなり&lt;ref&gt;「JR特急出火 続発招く体質にメスを」『北海道新聞』 2013年7月10日付け朝刊、3面。&lt;/ref&gt;、北海道運輸局も事故原因の究明と再発防止策の確立がなされるまで運行禁止する措置を執った&lt;ref name=&quot;doshin20130713&quot;&gt;「JR出火1週間 同部品3度破損 なぜ」『北海道新聞』 2013年7月13日付け朝刊、34面。&lt;/ref&gt;。この結果、繁忙期にもかかわらず札幌・函館間の特急の本数は約3分の2となり、利用者に大きな影響が出た&lt;ref&gt;「札幌-函館 本数減り混雑 乗車率130% デッキ蒸し風呂」『北海道新聞』 2013年7月14日付け朝刊、30面。&lt;/ref&gt;。なお、同型エンジンを搭載していた[[国鉄キハ66系気動車|キハ66・67系]]は、すでに全車両が別形式のエンジンへの換装が終了しており、運用禁止措置は執られなかった。また、本系列を搭載した車両にはJR西日本の[[キハ181系]]もあったが、同様の事故が起こることはなく、2010年に全車引退している。<br /> <br /> ==== 函館本線貨物列車脱線事故(八雲事故) ====<br /> ; ★2013年(平成25年)[[8月17日]] 1時5分頃&lt;ref name=&quot;tokyo20130818&quot;&gt;「函館線の脱線現場 8日前も土砂流出」『東京新聞』 2013年8月18日付け朝刊、27面。&lt;/ref&gt;([[列車脱線事故]])<br /> : JR北海道[[函館本線]][[八雲駅|八雲]] - [[山越駅|山越]]間を走行中の[[札幌貨物ターミナル駅|札幌貨物ターミナル]]発[[福岡貨物ターミナル駅|福岡貨物ターミナル]]行き[[貨物列車]](21両編成)が倒木と衝突し停車、[[機関車]]と[[貨車]]3両が脱線した&lt;ref name=&quot;doshin20130818&quot;&gt;「JR函館線 貨物脱線 7000人に影響 運輸安全委が調査」『北海道新聞』 2013年8月18日付け朝刊、1面。&lt;/ref&gt;。線路下を流れる熱田川の氾濫の影響で、土砂が流出して線路が宙に浮いた状態となっており、浮いた線路や倒木が脱線の原因となったとみられている&lt;ref name=&quot;doshin20130818&quot; /&gt;。[[国土交通省]]の[[運輸安全委員会]]は鉄道事故調査官2名を現地に派遣&lt;ref name=&quot;doshin20130818&quot; /&gt;、委員会の調査によれば、機関車の[[排障器]]に大きなへこみが見つかっており、たわんだ線路に衝突したか、倒木に乗り上げた可能性があるとみられている&lt;ref&gt;「函館線の貨物脱線、機関車にへこみ」『産経新聞』 2013年8月29日付け、26面。&lt;/ref&gt;。事故現場は、8日前の9日にも土砂が流出したばかりの場所であった&lt;ref name=&quot;tokyo20130818&quot; /&gt;。同様の流出は2010年8月の台風による大雨でも発生しており、JR北海道、国土交通省[[北海道開発局]]函館開発建設部、[[八雲町]]の3者は、治水対策を進めていたが、9日に降った雨は、この治水対策の目安を大きく上回っていた可能性があるとみられている&lt;ref&gt;「八雲・砂利流出 防災目安上回る雨量」『北海道新聞』 2013年8月24日付け朝刊、35面。&lt;/ref&gt;。3者は、熱田川の氾濫を防止するため、計画していた治水対策に加え、新たに流水溝を設置する方針を固めている&lt;ref&gt;「八雲の脱線 流水溝で川の氾濫防止」『北海道新聞』 2013年9月2日付け朝刊、29面。&lt;/ref&gt;。<br /> : この事故の影響に加え、翌18日の午前10時すぎには、函館本線[[東山駅 (北海道)|東山]] - [[姫川駅 (北海道)|姫川]]間で線路に土砂が流入し、臨時特急列車が緊急停車する事故も発生&lt;ref&gt;「北海道大雨 函館線土砂崩れ」『読売新聞』 2013年8月19日付け朝刊、36面。&lt;/ref&gt;、お盆の帰省客などに大きな影響が出た&lt;ref&gt;「JR函館線 全線再開 雨量基準など見直し」『北海道新聞』 2013年8月20日付け朝刊、1面。&lt;/ref&gt;。[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#函館本線特急列車出火事故|函館本線特急列車出火事故]]に伴う運休も重なり、2013年のお盆のJR北海道の利用者は前年に比べ11パーセントも減少する事態となった&lt;ref&gt;「お盆利用11%減 脱線響く」『北海道新聞』 2013年8月20日付け朝刊、33面。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 水間鉄道踏切事故 ====<br /> ; 2013年(平成25年)8月27日([[踏切障害事故]]、施設障害)<br /> : [[大阪府]][[貝塚市]]内の[[水間鉄道水間線]]の『森2号踏切』で、電車と踏切内に進入していた乗用車とが衝突し、乗用車の運転者の男性1名が軽傷を負った。[[大阪府警察]]が捜査を行ったところ、同社線内の踏切の遮断機が作動しなくなっているとの通報が複数入っていたことが明らかになった。このため府警は、同社の男性助役が、同社の内規に違反して故障調査のための職員を派遣せず、また当該の電車の運転士も、踏切の状態を確認しないまま運転業務に当たっており、これらの事象が重なった結果事故が引き起こされたとして、助役と運転士とを業務上過失致傷容疑で書類送検&lt;ref&gt;[http://www.sankei.com/west/news/151217/wst1512170074-n1.html 水間鉄道助役らを書類送検、踏切事故で安全対策怠った疑い 大阪府警] 産経WEST 2015年12月17日&lt;/ref&gt;、両名は岸和田簡易裁判所より罰金刑の略式命令を受けた。<br /> <br /> ==== 函館本線貨物列車脱線事故(大沼事故) ====<br /> ; ★2013年(平成25年)[[9月19日]] 18時5分頃&lt;ref name=&quot;doshin20130920&quot;&gt;「大沼駅 貨物4両脱線」『北海道新聞』 2013年9月20日付け朝刊、1面。&lt;/ref&gt;([[列車脱線事故]])<br /> : JR北海道で相次いだ一連の事故と不祥事の内の一件。[[北海道]][[亀田郡]][[七飯町]]のJR北海道[[函館本線]][[大沼駅]]構内にて、[[ジャガイモ]]を輸送中の[[帯広貨物駅|帯広貨物]]発[[熊谷貨物ターミナル駅|熊谷貨物ターミナル]]行き[[貨物列車]](18両編成)の6両目から9両目が、[[分岐器]](ポイント)付近を通過時に脱線した&lt;ref name=&quot;doshin20130920&quot; /&gt;。脱線した車両は大きく傾き、一部の台車には砂利がめり込んだ&lt;ref name=&quot;doshinyu20130920&quot;&gt;「大沼貨物脱線 トラブル続き 客離れ」『北海道新聞』 2013年9月20日付け夕刊、13面。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2013-9-21 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130921-1-2.pdf |title=函館線 大沼駅構内で発生した列車脱線事故について |format=PDF |publisher=JR北海道 |accessdate=2015-01-24}}&lt;/ref&gt;。[[国土交通省]][[運輸安全委員会]]の鉄道事故調査官は翌20日午前から調査を実施&lt;ref name=&quot;doshinyu20130920&quot; /&gt;、委員会によれば、脱線現場付近の[[軌条|レール]]の幅が、分岐器の手前で規定より最大37ミリメートルも広がっていた&lt;ref&gt;工藤隆治、五十嵐透「レール幅拡大 基準の倍」『朝日新聞』 2013年9月26日付け朝刊、1面。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2013-9 |url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/flash/jrkamotsuhakodate_130919-130925.pdf |title=日本貨物鉄道株式会社 函館線 大沼駅構内 列車脱線事故 進捗状況報告 |format=PDF |publisher=国土交通省 運輸安全委員会 |accessdate=2015-01-24}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |author = 草町義和 |date = 2013-9-26 |url = http://response.jp/article/2013/09/26/207146.html |title = JR北海道、大沼駅の貨物列車脱線事故について説明 |publisher = レスポンス |accessdate = 2015-01-24}}&lt;/ref&gt;。また、JR北海道は巡回点検で現場のレール幅の異常を把握しながら、1年以上も放置していた&lt;ref&gt;「レール幅異常 1年放置」『北海道新聞』 2013年9月22日付け朝刊、1面。&lt;/ref&gt;。また、その後の調査で、事故現場以外にも多数のレールの異常を補修せずに放置していた&lt;ref name=&quot;yomiuri20130926&quot;&gt;間野勝文、石井一秋「「お粗末」JR北にメス 国交省」『読売新聞』 2013年9月26日付け朝刊、3面。&lt;/ref&gt;。放置だけでなく軌道検査データ改ざんが習慣化しており&lt;ref name=&quot;第5回JR北海道再生推進会議&quot;&gt;{{Cite press release |title=第5回 JR北海道再生推進会議 議事概要 |publisher=JR北海道 |date=2015-2-13 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150213-1.pdf |format=PDF |accessdate= 2015-02-13}}&lt;/ref&gt;、その改ざんのままで運輸安全委員会に提出していたことも判明した&lt;ref name=&quot;大沼・事故調査報告書&quot;&gt;{{Cite press release |title=函館線 大沼駅構内 列車脱線事故に係る「鉄道事故調査報告書」の公表を受けて |publisher=北海道旅客鉄道株式会社 |date=2015-01-29 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150129-1.pdf |format=PDF |accessdate= 2015-01-30}}&lt;/ref&gt;。<br /> : 国土交通省は21日から、[[鉄道事業法]]に基づき特別保安監査を実施した&lt;ref name=&quot;doshin20130924&quot;&gt;「JR異常放置 運行全部門を監査」『北海道新聞』 2013年9月24日付け朝刊、1面。&lt;/ref&gt;。特別保安監査は緊急的に行われるもので、死傷者のいない事故で実施されるのは異例のことである&lt;ref name=&quot;doshin20130924&quot; /&gt;。当初は23日までの予定で、4人で保線部門を監査していたが、次々にJR北海道の不備が判明したため、監査員を9人に増員したうえ、27日まで監査を延長し、全部門を監査する事態となった&lt;ref name=&quot;doshin20130924&quot; /&gt;。また[[官房長官]]の[[菅義偉]]が、レールの異常を放置していたことは極めて悪質であると批判し、監査の徹底を国土交通省に指示&lt;ref&gt;「JR北海道の監査徹底指示 官房長官「悪質だ」」『朝日新聞』 2013年9月24日付け夕刊、2面。&lt;/ref&gt;、これを受け、国土交通省は監査態勢を20人に増員し、対象も全支社に拡大したうえで監査を実施した&lt;ref name=&quot;asahi20130925&quot;&gt;「補修状況 把握できず JR北の責任者 レール異常放置」『朝日新聞』 2013年9月25日付け朝刊、39面。&lt;/ref&gt;。また、特急列車の非常ブレーキが作動しない状態のまま運行していた問題が発覚したことなどを受け&lt;ref name=&quot;sankei20131013&quot;&gt;「JR北会長からも聴取 国交省の追加監査終了」『産経新聞』 2013年10月13日付け、29面。&lt;/ref&gt;、10月9日から12日にかけて&lt;ref name=&quot;sankei20131013&quot; /&gt;、16人態勢で追加の特別保安監査を行った&lt;ref&gt;「JR北海道 社長「ご迷惑おわび」」『東京新聞』 2013年10月10日付け朝刊、29面。&lt;/ref&gt;。また、過去に例のない大規模な監査となったため、国土交通省は特別保安監査の結果をまとめる前に、JR北海道に改善指示を出すという異例の対応をとった&lt;ref&gt;「国交省 不安解消へ厳格対応」『北海道新聞』 2013年10月5日付け朝刊、2面。&lt;/ref&gt;。2016年2月24日、鉄道事業法違反と運輸安全委員会設置法違反でJR北海道工務部副部長ら本社の3人が在宅起訴され、現場保線部署に所属していた14人が略式起訴された&lt;ref&gt;本社副部長ら3人在宅起訴 JR北海道も 貨物脱線めぐる数値改竄 産経新聞 2016年2月24日&lt;/ref&gt;。<br /> : JR北海道では、レールの補修状況を本社に伝える体制となっていなかった&lt;ref name=&quot;asahi20130925&quot; /&gt;。この事故の直後には、次々に他のトラブルも露呈した。24日の会見中には、普通列車から発煙するトラブルがあったことが判明&lt;ref name=&quot;asahi20130925&quot; /&gt;。また、同日に特急「[[オホーツク (列車)|オホーツク]]」の[[ブレーキ]]部品が脱落するトラブルも発生した&lt;ref&gt;「特急ブレーキ部品欠落」『北海道新聞』 2013年9月25日付け朝刊、35面。&lt;/ref&gt;。1回目の特別保安監査直後の10月1日にも、特急「[[北斗 (列車)|スーパー北斗]]」が工事のため徐行すべき区間で、制限速度を時速35キロメートル超過して運転する事案が発生&lt;ref&gt;「JR北 特急35キロ速度超過」『読売新聞』 2013年10月5日付け夕刊、15面。&lt;/ref&gt;、また同日には、9月に[[自動列車停止装置]] (ATS) を破壊する問題を起こした運転士が保守部門に異動していたことも判明した&lt;ref&gt;「ATS破壊運転士 列車保守に異動」『北海道新聞』 2013年10月2日付け朝刊、33面。&lt;/ref&gt;。この他にも、特急「オホーツク」が、ATSなどの保安装置が作動しない状態のまま営業運行していたことも発覚した&lt;ref&gt;「ATS異常の特急運行」『読売新聞』 2013年10月8日付け朝刊、38面。&lt;/ref&gt;。こうしたトラブルが続発する背景としては、不採算路線を抱え経営環境が厳しいことや&lt;ref name=&quot;yomiuri20130926&quot; /&gt;、ミスを責められ、意見を言いにくい雰囲気が情報共有を妨げているとの見方&lt;ref name=&quot;第5回JR北海道再生推進会議&quot; /&gt;&lt;ref&gt;「JR北、物言えぬ現場「ミス責められる」」『毎日新聞』 2013年10月5日付け朝刊、34面。&lt;/ref&gt;、また、[[労働組合]]間の対立が情報の伝達を阻害しているという見方もある&lt;ref&gt;西山太郎「トラブル背景 労組の闇深く」『産経新聞』 2013年10月7日付け、1面。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;「JR北海道 組織に病巣」『日本経済新聞』 2013年10月4日付け朝刊、2面。&lt;/ref&gt;。<br /> : 事故から1年経過後、JR北海道は事故発生当日の9月19日を「保線安全の日」として制定した&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2014-9-10 |url=https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140910-4.pdf |title=「保線安全の日」の制定について |format=PDF |publisher=JR北海道 |accessdate=2015-01-24}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2014-9-19 |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201409/2014091900330 |title=「保線安全の日」定め再発防止誓う=貨物列車脱線から1年で-JR北海道 |publisher=時事ドットコム |accessdate=2015-01-24 |deadlinkdate = 2015-04-09}}{{リンク切れ|date=January 2017}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |author = 佐々木康弘 |date=2014-9-15 |url=http://news.mynavi.jp/news/2014/09/15/005/ |title=JR北海道、9/19を「保線安全の日」に - 函館本線大沼駅での脱線事故から1年 |publisher=マイナビニュース |accessdate=2015-01-24}}&lt;/ref&gt;。また、[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#江差線貨物列車脱線事故|江差線貨物列車脱線事故]]や[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#函館本線貨物列車脱線事故(八雲事故)|函館本線貨物列車脱線事故(2013年8月)]]を受けての安全対策として、代行バス運転を実施した上で2014年12月10日に[[函館本線]][[大沼駅|大沼]] - [[森駅 (北海道)|森]]間([[渡島砂原駅|渡島砂原]]経由)における軌道強化工事の完了した。この際に交換したマクラギの木を利用して関係者向けに「安全の誓い」を戒めたストラップを作成している&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2014-12-10 |url = http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141210-1.pdf |title = 函館線 大沼駅?森駅間(渡島砂原駅経由)における軌道強化工事の完了について |format = PDF |publisher = 北海道旅客鉄道 |accessdate = 2015-01-24}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 横浜線川和踏切死傷事故 ====<br /> ; 2013年(平成25年)[[10月1日]] 11時30分頃([[踏切障害事故]])<br /> : 横浜市[[緑区 (横浜市)|緑区]]中山町のJR[[横浜線]]・川和踏切で、遮断中の踏切内に倒れていた同区の高齢者男性を助けようと踏切内に入った女性が、男性とともに[[東神奈川駅|東神奈川]]発[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]行き電車([[国鉄205系電車|205系]])に[[鉄道人身障害事故|触車]]し、女性は死亡、男性は重傷を負った。<br /> : [[神奈川県警察]]によると、現場は警報機と遮断機のある幅10.8mの踏切で、女性は、父親の乗用車の助手席に乗り、踏切待ちをしていた。踏切内に倒れていた男性に気付いて、父親の制止を振り切って車を降り、踏切内に入ったという。<br /> : 女性には、[[紅綬褒章]](および女性の遺族に[[銀杯]]&lt;ref&gt;{{Cite web |url = http://www.47news.jp/CN/201310/CN2013100601002012.html |title = 踏切救助死の村田さん悼み通夜 横浜、首相も感謝状 |accessdate = 2014-03-03 |date = 2013-10-06 |publisher = [[共同通信]] |6 = &lt;!--archiveurl=http://archive.is/eDatg|archivedate=2014-03-02--&gt; |archiveurl = https://web.archive.org/web/20140302220941/http://www.47news.jp/CN/201310/CN2013100601002012.html |archivedate = 2014年3月2日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}&lt;/ref&gt;)、「勇気ある行為を称えるとともに弔意を表するため」として&lt;ref&gt;{{Cite web|url = http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201310/04_a.html |title = &lt;nowiki&gt;平成25年10月4日(金)午前 | 平成25年 | 官房長官記者会見 | 記者会見 | 首相官邸ホームページ&lt;/nowiki&gt; |accessdate = 2014-03-03 |publisher = [[首相官邸]] |&lt;!--archiveurl=http://archive.is/5fdm1|archivedate=2014-03-02--&gt;}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |url = http://www.47news.jp/CN/201310/CN2013100401001869.html |title = 政府、踏切救助女性に感謝状 紅綬褒章を授与 |accessdate = 2014-03-03 |date = 2013-10-04 |publisher = 共同通信 |6 = &lt;!--archiveurl=http://archive.is/XDRdO|archivedate=2014-03-02--&gt; |archiveurl = https://web.archive.org/web/20140302231122/http://www.47news.jp/CN/201310/CN2013100401001869.html |archivedate = 2014年3月2日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}&lt;/ref&gt;[[内閣総理大臣]][[安倍晋三]]の書状、[[警察庁]]の[[警察協力章]]、[[神奈川県警察]][[本部長]]と[[緑警察署 (神奈川県)|緑警察署]][[警察署長|署長]]の[[感謝状#警視総監または道府県警察本部長及び本部部長等からの感謝状|感謝状]]が贈られた&lt;ref&gt;{{Cite web |url = http://www.jiji.com/jc/zc?k=201310/2013100600231 |title=時事ドットコム:村田さん通夜に長い列=両親「行動は誇り」-横浜 |accessdate = 2014-03-03 |date = 2013-10-06 |publisher = [[時事通信]] |&lt;!--archiveurl=http://archive.is/zlUTv|archivedate=2014-03-02--&gt;}}{{リンク切れ|date=January 2017}}&lt;/ref&gt;。<br /> : 通夜には、[[黒岩祐治]]神奈川県知事や[[林文子]]横浜市長、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[冨田哲郎]]社長も参列した。<br /> : ただし、救助者が死傷する二重事故を防ぐという観点からは、非常停止ボタンを押すなどして接近する列車を緊急停車させる防護処置を行うのが好ましく、防護処置を行わずに遮断棹の下りた踏切に入ることには否定的意見もある&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2013-10-08 |url = http://hunter-investigate.jp/news/2013/10/post-414.html |title = 横浜・踏切事故について一言― 置き去りにされる「非常ボタン」の重要性 ― |publisher = ニュースサイト HUNTER |accessdate = 2014-12-22 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 東急東横線元住吉駅追突事故 ====<br /> [[ファイル:Yokohama-minatomirai-railway-Y516-20130529.jpg|thumb|right|200px|被害車両のY500系Y516編成]]<br /> [[ファイル:Tōkyū 5000kei train made up of eight cars.JPG|thumb|right|200px|追突した後続列車と同形式の車両(5050系)&lt;/blockquote&gt;]]<br /> ; ★2014年(平成26年)[[2月15日]] 0時30分頃([[列車衝突事故]])<br /> : [[川崎市]][[中原区]]の東急東横線[[元住吉駅]]内において、[[渋谷駅|渋谷]]発[[元町・中華街駅|元町・中華街]]行きの下り各駅停車([[東急5000系電車 (2代)|東急5050系]]・8両編成)が、駅に停車中だった先行列車の渋谷発元町・中華街行きの下り各駅停車([[横浜高速鉄道Y500系電車|横浜高速鉄道Y500系]]・8両編成)に追突、先行列車のデハY546(元町・中華街方から7両目)と、後続列車の1両目のクハ5855と2両目のデハ5755が脱線し、デハ5755がクハ5855の車端部にめり込む形で双方が大破。当時は[[平成26年豪雪]]により運行ダイヤが大幅に乱れていた。原因は[[制輪子|ブレーキシュー]]と車輪の隙間に雪などが入って制動力が低下し、追突に至ったとされる&lt;ref&gt;[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1852 東京急行電鉄株式会社 東横線 元住吉駅構内 列車衝突事故 鉄道事故調査報告書] - 運輸安全委員会&lt;/ref&gt;。<br /> : この影響で東急東横線は[[渋谷駅|渋谷]] - [[菊名駅|菊名]]間で運転を中止し、乗り入れ先の東京メトロ副都心線・東武東上線・西武有楽町線・西武池袋線との直通運転中止および一部列車運休、および目黒線[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]] - [[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]間で運転を見合わせ、翌16日よりいずれも平常運転に復帰した&lt;ref&gt;また東急5000系は事故廃車になっている [http://www.asahi.com/articles/ASG2H0CT3G2GUTIL05N.htmll 東急東横線で脱線、19人けが 元住吉駅で電車追突]{{リンク切れ|date=2015年4月}} 朝日新聞 2014年2月15日閲覧&lt;/ref&gt;。負傷者は乗客65名。2017年2月6日、警察は運転士及び運行を指示した電車区長が運行を規制しなかったことが事故原因とし、2人を業務上過失傷害容疑で書類送検する方針を固めた。2人とも容疑を認めている&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170206/k10010866381000.html|title=大雪で東急東横線 追突事故 運転士ら書類送検へ|date=2017-02-06|newspaper=NHK|accessdate=2017-02-06}}&lt;/ref&gt;。2017年10月5日、横浜地検川崎支部は運転士と電車区長を不起訴処分とした&lt;ref&gt;{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASKB556FCKB5ULOB00Y.html|title=東急東横線の追突事故、当時の運転士ら2人が不起訴に|newspaper=朝日新聞|date=2017-10-5|accessdate=2017-10-5}}&lt;/ref&gt;。<br /> : 2016年に製造された5050系5177編成&lt;ref&gt;[http://railf.jp/news/2016/09/07/170000.html 東急5050系5177編成が甲種輸送される] - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2016年9月6日&lt;/ref&gt;は、この事故を教訓に、スノープロウ一体型スカートに変更された。5155編成は5177編成が製造されたことに伴い、運用に復帰せず2017年7月3日に廃車された。Y516編成についても[[総合車両製作所]]横浜事業所に陸送されたが、修復されることなく2017年10月に解体場へ陸送された。編成全体が廃車になった理由は軽量ステンレス車体のために修理が困難なことや全体で衝撃を吸収するような格好になっていたことにもよる。<br /> : なお、Y500系の代替としては、暫定的に[[東急5000系|東急5050系4000番台]]の4103Fを8両で運行していたが、5156Fが[[2017年]](平成29年)に[[横浜高速鉄道]]に譲渡され、Y517編成として[[2018年]] (平成30年)3月に塗装変更されて運転を開始した。方向幕がフルカラーLEDで(ほかの編成は[[方向幕]]と3色LED)、座席が赤系になっている車両が譲渡された車両である。<br /> <br /> ==== 京浜東北線脱線転覆事故 ====<br /> ;★2014年(平成26年)[[2月23日]] 1時11分頃([[列車衝突事故]])<br /> [[ファイル:E233-1000 .webp|サムネイル|事故当該車と同形式の車両。]]<br /> : 川崎市[[川崎区]]のJR[[川崎駅]]構内で、[[京浜東北線]]の上り[[蒲田駅|蒲田]]行き&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;京浜東北線は北行が上り。&lt;/ref&gt; 回送電車([[JR東日本E233系電車|E233系1000番台]])が、軌道上の工事用車両と衝突、先頭の1両目のクハE233-1077と2両目のサハE233-1277が脱線して1両目が完全に横転し、正面と進行方向右側面に激しい損傷を受け、2両目も傾斜して停止した。&lt;ref&gt;{{Cite news|title =京浜東北線の回送電車が横転 蒲田―鶴見間で見合わせ|newspaper =朝日新聞|date =2014-02-23|url =http://www.asahi.com/articles/ASG2R0J1WG2QUTIL01W.html|accessdate =2015-04-09|archiveurl =https://web.archive.org/web/20150214060951/http://www.asahi.com/articles/ASG2R0J1WG2QUTIL01W.html|archivedate =2015年2月14日|deadlinkdate =2017年10月}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140223/dst14022321170004-n1.htm 「間違って線路に載せた」 JR川崎駅で京浜東北線の回送電車横転 作業車と衝突、2人軽傷] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140224021114/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140223/dst14022321170004-n1.htm |date=2014年2月24日 }} 産経新聞 2014年2月23日閲覧&lt;/ref&gt;。原因は作業員が京浜東北線の終電車確認を怠って作業用車両を誤って出したため。<br /> : この影響で京浜東北線・根岸線は2月23日いっぱいまで蒲田 - [[鶴見駅|鶴見]]間で運転を見合わせた。24日未明に事故列車を側線に移動させたことで、24日の始発から運転を再開した。このため、運転見合わせ中は並行して走っている[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]との乗り換えが必要だった。また、復旧作業による送電停止の影響で、[[南武線]]の川崎 - [[武蔵中原駅|武蔵中原]]間で同日午前10時から11時頃まで運転を見合わせた&lt;ref&gt;{{Cite news |title = JR東日本、京浜東北線蒲田 - 鶴見間運転見合わせ - 川崎駅脱線事故の影響で |newspaper = マイナビニュース |date = 2014-02-23 |url = http://news.mynavi.jp/news/2014/02/23/014/ |accessdate = 2015-04-09}}&lt;/ref&gt;。<br /> :この事故で運用を離脱したウラ177編成は復帰せず編成ごと廃車となった。このうち、損傷の激しかったクハE233-1077とサハE233-1277は2016年12月4日付で&lt;ref&gt;ジェー・アール・アール編『JR電車編成表』2017夏 ジェー・アール・アール、交通新聞社、2017年、356頁。ISBN 9784330787176。&lt;/ref&gt;、{{要出典範囲|date=2018年5月|東京総合車両センターに回送された残り8両は、4年程留置されていたが、2018年5月までにそれぞれ解体された。}}<br /> :当該編成は、E233系初の廃車となった。事故編成最後尾のクハE232-1077の運転台は、2018年7月にオープンした大宮の鉄道博物館新館のシミュレーターとして活用されている。<br /> <br /> <br /> &lt;!--<br /> ==== 甘木鉄道列車脱線事故 ====<br /> ; 2014年(平成26年)[[3月16日]]午前9時16分頃([[列車脱線事故]]〈踏切障害に伴うもの〉)<br /> : [[甘木鉄道]]の[[西太刀洗駅]]前の踏切において、[[甘木駅|甘木]]発[[基山駅|基山]]行きの列車([[甘木鉄道AR300形気動車|AR300形]]1両編成)が踏切内に侵入してきた2tトラックと衝突した。列車は前輪が脱線し、トラックも大破した。この事故で列車の乗客5名とトラックの運転手1名の合わせて6名が重軽傷(列車の乗客5名が軽傷、トラックの運転手が重傷)を負った。列車の運転士や列車待ちをしていた人によるとトラックは遮断機の降りた踏切に侵入してきたという。列車の運転士は侵入してきたトラックに気付き、非常ブレーキをかけたが間に合わなかったという。この影響で甘木鉄道はほぼ一日運転を見合わせた&lt;ref&gt;{{Cite news |title=保冷車と衝突、甘木鉄道脱線 福岡、一時不通 |newspaper=朝日新聞(西部朝刊) |date=2014.03.17 |accessdate=2016.1.2 |publisher=朝日新聞社 |page=39(社会) }}&lt;/ref&gt;。<br /> : なお、この事故で被害を受けた車両は運用を離脱し、およそ半年後に運用復帰した。<br /> --&gt;<br /> ==== 小田急小田原線相模大野駅構内車両脱線 ====<br /> [[File:Model_1700-First_of_Odakyu_Electric_Railway.JPG|thumb|事故車両と同形式の車両]]<br /> ; 2014年(平成26年)[[6月19日]] 18時09分頃(車両脱線、その他の電気事故、輸送障害)<br /> : [[小田急電鉄]][[小田急小田原線|小田原線]]の[[相模大野駅]]構内にて、隣接する大野総合車両所より出庫して駅ホームへ走行中であった回送電車(&lt;!--[[小田急1000形電車|1000形]] ←事故調の報告書など、検証可能性を満たす資料にて車両形式が特定されない限りコメントアウトを解除しないこと--&gt;[[小田急1000形電車|小田急1000形ワイドドア車]]1754F・6両編成)のうち、3・4・6両目の計3両が出庫線と本線が合流する分岐器付近で脱線した&lt;ref name=&quot;mainichi20140620&quot;&gt;[http://megalodon.jp/2014-0620-1036-49/mainichi.jp/select/news/20140620k0000m040155000c.html 小田急線:脱線で相模大野?大和間は運転再開できず] - 毎日新聞 2014年6月20日配信・閲覧(WEB魚拓保存)&lt;/ref&gt;。乗客はおらず、乗務員を含め人的被害はなかったものの、パンタグラフが架線を切断し停電が発生、一時小田急全線で運転を見合わせた&lt;ref&gt;[http://megalodon.jp/2014-0619-2301-28/www3.nhk.or.jp/news/html/20140619/t10015358611000.html 小田急線で脱線事故 一時全線で不通に] - NHK NEWSWEB 2014年6月19日閲覧(WEB魚拓保存)&lt;/ref&gt;。その後も事故被災車両の移動や破損した分岐器の復旧に時間を要したことから、小田原線[[新百合ヶ丘駅|新百合ヶ丘]] - [[相武台前駅|相武台前]]間および[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]相模大野 - [[大和駅 (神奈川県)|大和]]間については終日運休となった&lt;ref name=&quot;mainichi20140620&quot; /&gt;。<br /> : この事故の影響により、19日終電までに上下列車計288本が運休し、事故発生時刻が夕刻ラッシュ時間帯と重なったこともあり約15万人の利用客が影響を受けた&lt;ref name=&quot;mainichi20140620&quot; /&gt;。また、[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]および[[東京メトロ千代田線|地下鉄千代田線]]への直通列車が翌20日にかけて全面運休となった&lt;ref name=&quot;odakyu20140620&quot;&gt;[http://megalodon.jp/2014-0620-1046-49/www.odakyu.jp/cgi-bin/user/emg/emergency_bbs.pl 小田急線列車運行状況] - 小田急電鉄公式WEB 2014年6月20日閲覧(WEB魚拓保存)&lt;/ref&gt;。<br /> {{-}}<br /> <br /> ==== 指宿枕崎線特急「指宿のたまて箱」脱線事故 ====<br /> [[File:Ltd_Exp_Ibusuki-no-Tamatebako_110312_1.jpg|thumb|事故の被害車両である「指宿のたまて箱」]]<br /> ; ★2014年(平成26年)[[6月21日]] 11時07分頃([[列車脱線事故]])<br /> : JR九州[[指宿枕崎線]]の[[指宿駅|指宿]]発[[鹿児島中央駅|鹿児島中央]]行きの特急列車「[[指宿のたまて箱]]」2号([[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系]]・キハ47 8060+キハ47 9079)が[[生見駅]] - [[薩摩今和泉駅]]間を走行中、直前に発生した土砂崩れで線路に流入した土砂に乗り上げて脱線、同じく流入した倒木に衝突して車両の前面が破損。乗員・乗客計15人が重軽傷を負った&lt;ref&gt;{{Cite news |title = 列車が土砂に乗り上げ、約10人けが JR指宿枕崎線 |newspaper = 朝日新聞 |date = 2014-06-21 |url = http://www.asahi.com/sp/articles/ASG6P436JG6PTIPE006.html |accessdate = 2015-04-09 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20140714144719/http://www.asahi.com/sp/articles/ASG6P436JG6PTIPE006.html |archivedate = 2014年7月14日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}&lt;/ref&gt;。事故当時は豪雨により、[[枕崎市]]では6月の降雨記録を更新していた。<br /> : この影響で、事故発生時から指宿枕崎線の[[喜入駅]] - [[指宿駅]]間は終日運休、事故から3日後の6月24日までに脱線車両を撤去、土砂崩れの起きた斜面の補修などの安全対策を終えて6月28日の始発列車から運転を再開した。JR九州は、この影響で当該区間の特急・快速・普通列車計358本が運休、2万9,600人に影響が出たと発表した。全線再開後も、事故の被害列車である「指宿のたまて箱」は車両の修理のため引き続き運休となり、代替として臨時快速列車を運行していた&lt;ref&gt;{{Cite news |title=JR指宿枕崎線 きょう全面再開 |newspaper=読売新聞(西部朝刊) |date=2014.06.28 |accessdate=2016.1.2 |publisher=読売新聞社 |page=38 }}&lt;/ref&gt;。<br /> :その後、「指宿のたまて箱」は2014年7月12日に運転を再開した&lt;ref&gt;{{Cite news |title=いぶたま「ただいま!」 脱線事故 3週間ぶり運行 |newspaper=読売新聞(西部夕刊) |date=2014.07.12 |accessdate=2016.1.2 |publisher=読売新聞社 |page=10 }}&lt;/ref&gt;。<br /> &lt;!--<br /> ==== 流鉄流山線踏切事故 ====<br /> ; ★2014年7月11日午後2時5分頃([[列車脱線事故]]〈踏切障害に伴うもの〉)<br /> : [[千葉県]][[松戸市]][[大谷口]]の[[流鉄流山線]][[小金城趾駅|小金城趾]] - [[幸谷駅|幸谷]]間の踏切で、[[流山駅|流山]]発[[馬橋駅|馬橋]]行き普通電車(5000系(5102-5002、流星編成)2両編成)と乗用車が衝突し、電車の1両目前半分の車輪が脱線した。千葉県警の調べでは乗用車に乗っていた男性と女性は骨盤が折れるなどの重傷を負い搬送先の病院で死亡が確認された。電車の乗客約20人のうち男性1人が体の痛みを訴え、病院に運ばれた。現場の踏切は遮断機と警報機がなく、車1台が通行できる程度の幅しかなかった。運転士は「踏切内に車が見えたので警笛を鳴らしたが、ブレーキが間に合わなかった」と話している。事故後、全線不通となり翌12日午前7時15分に運転再開した&lt;ref&gt;{{Cite news |title=重傷の夫婦が死亡 流鉄流山線、運転再開 松戸 |newspaper=千葉日報 |date=2014.07.12 |url=http://www.chibanippo.co.jp/news/national/203340 |accessdate=2016.1.2 |page=社会面 }}&lt;/ref&gt;。<br /> : その後、運輸安全員会から事故調査報告書が公表され、脱線の原因は衝突した乗用車が車両の下の台車に接触したためと結論づけた。なお、乗用車が進入した理由については特定できなかった&lt;ref&gt;{{Cite news |title=車が下に入り込み脱線 松戸の流鉄踏切事故 運輸安全委 |newspaper=千葉日報 |date=2014.11.28 |url=http://www.chibanippo.co.jp/news/national/227287 |accessdate=2016.1.2 |page=社会面 }}&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> <br /> ==== 篠ノ井線踏切事故 ====<br /> ; ☆2014年(平成26年)[[12月18日]]午前1時半頃([[列車脱線事故]]〈踏切障害に伴うもの〉)<br /> :長野市篠ノ井塩崎のJR篠ノ井線谷川踏切(警報機、遮断機付き)に止まっていた乗用車に名古屋発長野行き特急「ワイドビューしなの25号」(6両)が衝突、車を押したまま約100メートル進み、先頭車両が脱線した。乗客84人にけがはなく、列車内で夜を明かした。乗用車を運転していた男性は衝突前に車外に出て無事だった。事故当時の現場の積雪は10~15cmだった。<br /> <br /> ; ☆[[2015年]](平成27年)1月24日午後7時半頃([[列車脱線事故]]〈踏切障害に伴うもの〉)<br /> 篠ノ井線姨捨‐稲荷山駅間で線路内に誤進入した軽トラックが上諏訪発長野行普通列車と衝突。列車は軽トラを巻き込み「城山トンネル」内で脱線して停車した。乗客乗員および軽トラックの運転手に怪我はなかった。この事故で同線は不通になり、当該列車が事故トンネルから出てきたのは19時間後の25日14時半頃だった。軽トラが誤進入した踏切は城山トンネルから篠ノ井方面へ向かって2つ目の谷川踏切と思われる。近所の住人によると以前も車の誤進入があったと言う。<br /> <br /> 長野県警長野南署によると、踏切前後の道路はクランク状になっている。乗用車も軽トラも、緩やかな上り坂を進んで右に折れながら踏切内に入り、下り坂を左方向に進む際に、誤って線路内に入ったとみられる。線路に沿って延びる西側の道との間にガードレールがある。2012年の河川改修工事で、線路に平行して流れていた川をコンクリートの下に潜らせた際に設けられた。「夜間はガードレールが正面に見えリンゴ畑が真っ暗になるため、ガードレールの向こうの道路がとぎれているように錯覚しやすい」というのが捜査関係者の見方である。 <br /> <br /> 国の鉄道事故調査官は「似たような事故が短期間に起こっており、科学的な原因究明が必要」と調査を進めている。JR東日本長野支社は1月の事故後、踏切の左右にある脱輪防止の縁石の蛍光塗料を塗り直したほか、踏切内を照らすライトを一つから二つに増やしたり、踏切内に誘導灯を埋め込むなどの対策をとった。踏切付近の道路管理者の長野市も24時間点滅するランプを踏切に入る手前に設けるほか、西側の道路が見えやすいよう、ガードレールを隙間のあるガードパイプに変更するなど、安全対策を進めている。<br /> <br /> ==== 山陽本線踏切事故 ====<br /> ; [[2015年]](平成27年)[[2月13日]]午前8時20分頃([[踏切障害事故]])<br /> : [[岡山県]][[倉敷市]]船穂町のJR西日本[[山陽本線]][[西阿知駅|西阿知]] - [[新倉敷駅|新倉敷]]間の踏切で、[[岡山駅|岡山]]発[[福山駅|福山]]行普通電車([[岡山電車区]]・[[国鉄115系電車|115系]]D-24編成+D-04編成の6両編成)が、踏切内に立ち往生していた[[大型自動車|大型]][[貨物自動車|トラック]]と衝突し、双方(電車は前2両)とも大破した。電車の乗客のうち1人が一時意識不明の重体(のちに意識を回復)、運転士と乗客16人が軽傷を負った。その影響で17時50分まで[[倉敷駅|倉敷]] - [[金光駅]]間で運転を見合わせた。[[岡山県警察]]は、トラックの男性運転手を[[往来を妨害する罪|過失往来危険]]容疑で[[逮捕 (日本法)#現行犯逮捕|現行犯逮捕]]した。トラックの運転手は、エンジンがかかっているのにギアが入らずに動かなくなり、踏切の非常ボタンを押したが、間に合わなかったと証言している。トラックは平成24年5月製造の「ふそう[[スーパーグレート]]」のオートマチック車。三菱自動車への部品運搬車で、平成26年の年末に故障して修理に出されていた。修理を請け負った岡山三菱ふそう自動車にも過失往来危険の容疑がかけられ、同年2月17日に家宅捜索が行われた。ふそうスーパーグレートは変速機の不具合で過去に6度のリコールが行われている。<br /> : この事故を受けて、3月10日にJR岡山駅で予定されていた山陽新幹線40周年の式典が中止となった&lt;ref&gt;[http://www.sankei.com/west/news/150226/wst1502260061-n1.html 山陽新幹線40年の式典中止 JR岡山駅、踏切事故受け] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150704051036/http://www.sankei.com/west/news/150226/wst1502260061-n1.html |date=2015年7月4日 }} 産経新聞 2015年2月26日&lt;/ref&gt;。<br /> :また、被害車両のうち損傷の少なかったD-04編成は5月上旬ごろに運用復帰、次の損傷の少なかったD-24編成のうちの前から3両目(クモハ115-323)は大破した2両と交換する形で岡山電車区のA-13編成(115系4両編成)の福山側2両(クハ115-356、モハ114-316)と編成を組んで8月中旬に運用復帰、大破した前2両(クハ115-408、モハ114-359)は2016年3月1日に廃車となった。またA-13編成の岡山側2両(モハ115-316・クハ115-325)は[[吹田総合車両所]]に回送され、同年9月9日付で廃車となった&lt;ref&gt;「JR電車編成表2016冬」p.189・359。&lt;/ref&gt;。<br /> : 2017年9月15日、岡山県警は、運転士が[[非常ブレーキ]]で止まることのできる約450m手前の地点より前でトラックを確認することが可能だったにもかかわらず、[[時刻表]]などの確認に気を取られ、非常ブレーキをかけた地点が約260m手前になったとして、運転士を[[業務上過失致死傷罪|業務上過失傷害]]などの容疑で[[書類送検]]した。また、トラック運転手も[[自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律|自動車運転処罰法]]違反(過失傷害)などの容疑で書類送検した。運転士は容疑を認めたが、トラック運転手は「トラックに不具合が起き(マニュアルにある)復旧操作をしたが動かなかった」と一部否認した&lt;ref&gt;{{Cite news|title=JR運転士ら書類送検、乗客ら19人重軽傷の山陽線踏切事故|url=https://www.sankei.com/west/news/170915/wst1709150086-n1.html|newspaper=産経WEST|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2017-09-15|accessdate=2018-05-13}}&lt;/ref&gt;。岡山三菱ふそう自動車については、立ち往生の原因と直接の関係はなく、責任を問えないとした&lt;ref&gt;毎日新聞 2017年9月15日&lt;/ref&gt;。12月27日、倉敷区検は運転士を業務上過失傷害罪などで[[略式手続|略式起訴]]した。同日、[[岡山地方検察庁]]はトラック運転手を「過失を認めるに足る証拠がなかった」として[[起訴#不起訴処分|不起訴処分]]とした&lt;ref&gt;[[毎日新聞]] 2017年12月28日&lt;/ref&gt;。[[倉敷簡易裁判所]]は、2018年1月16日までに運転士に罰金30万円の略式命令(1月10日付)を出した&lt;ref&gt;{{Cite news|title=山陽線踏切事故でJR運転士に罰金30万円 岡山|url=https://www.sankei.com/west/news/180116/wst1801160063-n1.html|newspaper=産経WEST|publisher=産業経済新聞社|date=2018-01-16|accessdate=2018-05-13}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 青函トンネル特急列車ボヤ騒動 ====<br /> ; 2015年(平成27年)[[4月3日]]午後5時15分頃(列車火災事故)<br /> : JR北海道で相次いだ一連の事故と不祥事の内の一件。[[津軽海峡線]][[青函トンネル]]内で、[[函館駅|函館]]発[[新青森駅|新青森]]行特急「[[白鳥 (列車)|スーパー白鳥]]34号」([[JR北海道789系電車|789系]])の5号車から火花が出ているのが見つかり、同列車は緊急停車した。火花は[[消火器]]で消し止められた。モーターへの配線が全て焦げており、制御装置の異常から過電流が生じて発熱し、火花が出たものと考えられる。124人の乗客は全員が[[竜飛定点]]を経由して地上に避難したが、うち2名が病院へ搬送された。列車から1キロ以上の徒歩移動を強いられた上、[[青函トンネル竜飛斜坑線|竜飛定点と地上を結ぶケーブルカー]]は一度に15人程度しか運べず、全員が地上に避難するまで5時間以上を要するなど、北海道新幹線開業を目前に課題が浮き彫りとなった。[[1988年]]の同トンネル開業以来、乗客の避難は初めてのこととなる&lt;ref&gt;{{Cite news|title =青函トンネル、特急車両から火花 乗客が歩いて避難|newspaper =朝日新聞|date =2015-04-04|url =http://www.asahi.com/articles/ASH4362LWH43IIPE01Z.html|accessdate =2015-04-09|archiveurl =https://web.archive.org/web/20150409083548/http://www.asahi.com/articles/ASH4362LWH43IIPE01Z.html|archivedate =2015年4月9日|deadlinkdate =2017年10月}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 長崎電気軌道桜町支線脱線事故 ====<br /> ; 2015年(平成27年)[[10月11日]]&lt;!--報告書原題:長崎電気軌道株式会社 桜町支線 諏訪神社前停留場~公会堂前停留場間 車両脱線事故--&gt;(車両脱線&lt;ref&gt;報告書。態様としては列車脱線事故&lt;/ref&gt;)<br /> ; 2016年(平成28年)[[6月2日]]&lt;!--報告書原題:長崎電気軌道株式会社 桜町支線 諏訪神社前停留場~公会堂前停留場間 車両脱線事故--&gt;(車両脱線&lt;ref&gt;報告書。態様としては列車脱線事故&lt;/ref&gt;)<br /> : [[長崎電気軌道]]の[[公会堂前停留場]]付近で連続脱線事故が発生。この影響で、3号系統の赤迫方面は2017年11月29日に運行を再開するまで、長期運休を強いられた。&lt;ref&gt;[https://response.jp/article/2017/11/22/302852.html 長崎電軌の3号系統、11月29日から全面再開…脱線地点の工事が完了] レスポンス 2017年11月22日&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==== 長崎本線列車同一線路進入事故 ====<br /> ; ★2015年(平成27年)[[5月22日]] 12時22分頃(信号違反)&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-inci/RI2016-1-1.pdf 九州旅客鉄道株式会社 長崎線 肥前竜王駅構内 鉄道重大インシデント調査報告書 国土交通省 2016年6月30日付]&lt;/ref&gt;<br /> : JR九州[[長崎本線]][[肥前竜王駅]]で[[長崎駅|長崎]]発[[博多駅|博多]]行き上り特急「[[かもめ (列車)|かもめ]]20号」([[JR九州885系電車|885系]]6両編成)が待避線に進入しようとした際に&lt;ref&gt;マスメディア報道では上り特急が待避線にて停車中とあるが事故報告書はこの通り&lt;/ref&gt;、対向の博多発長崎行き下り特急「かもめ19号」([[JR九州787系電車|787系]]7両編成)が同一の待避線に進入した。下り「かもめ19号」は運転士が異線進入に気付いて緊急停止し、一方上り「かもめ20号」は下り特急の93m手前の、待避線ホームの停止目標位置付近で停車したため正面衝突は避けられた。<br /> : 本来のダイヤでは両列車は[[肥前鹿島駅]]で行き違いを行うが、当日は「かもめ19号」が肥前竜王駅手前で異音を感知して同駅下り場内信号機の横で停車したため、行き違いを肥前竜王駅に変更していた。<br /> : 運輸安全委員会はこれを深刻な事故になりかねなかったとして、[[重大インシデント]](インシデントの中で最も事故の可能性があり、危険だったもの)と認定し、現地に事故調査官2人を派遣した&lt;ref&gt;事故調査官、現地調査へJR長崎本線の特急衝突回避:日本経済新聞&lt;/ref&gt;。原因は、輸送指令員と下り列車運転士の間で列車の機外停止位置の認識に齟齬がある状態で、運転再開の指示を行った事に加えて、運転整理のために下り場内信号機を復位し上り列車を待避線に進入する進路構成変更取扱を実施し、それにより博多方の分岐器が過走防護のため待避線側に転換していた事による。また、機外停止位置が下り場内信号機の内方にわずかに入ったが先頭車輪が軌道回路分界点(絶縁ポイント)を超えていないという微妙な位置であったため、システム上も齟齬に気づく機会が無かった。<br /> : これにより上下線の特急・普通合わせて32本(特急19本、普通13本)が運休、17本(特急6本、普通11本)が遅延するなど最大で7時間の遅れが発生し、約6000人に影響した&lt;ref&gt;{{Cite news |title=特急あわや正面衝突 運転士と指令、すれ違い JR九州、連絡ミス認める |newspaper=毎日新聞(西部朝刊) |date=2015.05.23 |url=http://mainichi.jp/articles/20150523/ddp/041/040/017000c |accessdate=2016.1.2 |publisher=毎日新聞社 |page=25(社会) }}{{リンク切れ|date=January 2017}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/top_info/pdf/515/hizenryuooowabi.pdf 長崎本線 肥前竜王駅におけるインシデントに対するお詫び]{{リンク切れ|date=January 2017}}}} - JR九州&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 名鉄名古屋本線岐南駅構内ポイント破損事故 ====<br /> ; 2015年(平成27年)[[6月3日]] 7時32分頃(信号違反、線路障害、輸送障害)<br /> : 名鉄名古屋本線[[岐南駅]]構内に[[名鉄1000系電車|1853編成]]による名鉄岐阜発[[須ヶ口駅|須ヶ口]]行2両編成普通列車が進入した際に、何らかの原因で車両電源が喪失し、停車できずに300mオーバーランして停車。その際、[[笠松駅|笠松]]寄りのポイントを破損して通過。当該列車は電源が復旧し終点まで運転を再開。また、破損したポイント上を後続の列車3本が通過(岐南駅は普通列車のみ停車)。その後、普通列車が発車しようとした際、出発信号機が停止信号のまま切り替わらなかったため、ポイント破損が判明した&lt;ref&gt;{{Cite news |title= 名鉄でオーバーラン 岐南駅 あわや重大事故|newspaper=[[中日新聞]] |date= 2015-06-04|at= 31面(社会)}}&lt;/ref&gt;。<br /> : この影響で8時00分頃から11時02分頃まで、名鉄岐阜 - [[新木曽川駅|新木曽川]]間の上下線で運転見合わせ。運転再開後も破損したポイントが切り替わらなくなったため、列車が待避線に入線できなくなったため、上りホームを終日閉鎖した&lt;ref name=&quot;MA150603&quot;&gt;[https://archive.is/20150603093631/http://www.meitetsu.co.jp/info/2015/1242568_5297.html 6月3日(水) 岐南駅における輸送障害について(お詫び)] - 名古屋鉄道、1998年2月27日(Archive.isによるアーカイブ、2015年6月3日取得、2016年3月12日閲覧)。&lt;/ref&gt;。<br /> : [[中部運輸局]]は、当該列車が電源喪失し、その後、再び電源喪失する可能性があったにも関わらず、運転を再開したことと、後続列車が破損したポイント上を通過し、脱線した可能性もあったとして、調査員を派遣した。なお、電源喪失した原因は、「[[連結器]](電気連結器)内に雨水が入り込みショートした」と報道された。電気連結器のカバーは通常は閉まっているが、カバーが開いた状態で走行し、電気連結器の内部の端子に塵が付着し、ショートしたため電源喪失した。<br /> : 同編成はオーバーラン事故の当該車両だったこともあり、国土交通省中部運輸局から保全命令が発出され、営業運転には復帰せず犬山検査場新川検査支区で休車留置が続いていたが、2016年1月12日に廃車となった。<br /> <br /> ==== 根岸線エアセクション内停車に伴う架線断線事故 ====<br /> ; 2015年(平成27年)[[8月4日]] 19時11分頃(その他の電気事故、輸送障害)<br /> : JR東日本[[根岸線]][[横浜駅]] - [[桜木町駅]]間で架線断線が発生し、[[京浜東北線]]・根岸線・横浜線・[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]の各線で長時間の運転見合わせが発生した。また、[[新子安駅]]付近で乗客が非常用ドアコックを操作し車外に飛び出したことから[[横須賀線]]でも運転見合わせとなった。原因は[[エアセクション]]内で列車が停車した後に加速し、ショートして架線が破断したためである。<br /> : 事故発生の当日は[[横浜みなとみらい21|横浜みなとみらい]]エリアでの[[神奈川新聞花火大会|花火大会]]や[[新横浜]]駅周辺で大型ライブ・コンサートなどが開催されたことも重なり、品川から横浜までの周辺沿線が大混乱に陥り、約350,000人に影響が出た&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/articles/ASH846T7RH84ULOB02Z.html 京浜東北線など、一部運転見合わせ 花火帰りの足直撃] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150804125541/http://www.asahi.com/articles/ASH846T7RH84ULOB02Z.html |date=2015年8月4日 }} 朝日新聞&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title=京浜東北線架線切断 禁止区間での停車原因 3路線、35万人に影響 |newspaper=岩手日報(朝刊) |date=2015.08.06 |accessdate=2016.1.2 |page=28(社会) }}&lt;/ref&gt;&lt;!--個人のツイートは信頼できる情報源には当たらないので除去しました--&gt;&lt;ref&gt;{{PDFLink|[http://www.jreast.co.jp/aas/20150805_o_keihin_01.pdf 京浜東北線・根岸線 架線切断による運転見合わせについて] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150805023153/http://www.jreast.co.jp/aas/20150805_o_keihin_01.pdf |date=2015年8月5日 }}}} 東日本旅客鉄道&lt;/ref&gt;。<br /> {{See also|エアセクション#エアセクションに関連したトラブル}}<br /> <br /> ==== 山陽新幹線部品脱落事故 ====<br /> ; ★ 2015年(平成27年)[[8月8日]] 17時27分頃(車両障害、[[鉄道人身障害事故]])<br /> : JR西日本山陽新幹線[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]] - [[博多駅]]間の四郎丸トンネル([[福岡県]][[宮若市]])を走行中の新大阪発鹿児島中央行きの「さくら」561号([[新幹線N700系電車|N700系]]S4編成、8両編成)の2号車(788-7004)に装着されていた、床下機器を覆うカバーが脱落し舞い上がり、3号車(786-7004)の側面に衝突した後、架線をショートさせ停電、事故列車を含む3本の列車が停止した。この事故で3号車に乗っていた女性客1人が負傷、約1万5,100人に影響が出た。JR西日本は9日、カバーを固定していたボルトが2本紛失していたと発表&lt;ref&gt;[http://www.westjr.co.jp/press/article/2015/08/page_7481.html 山陽新幹線 小倉~博多駅間 車両部品の落失・停電について] 西日本旅客鉄道&lt;/ref&gt;。隣に取り付けられていた別のカバーのボルトも1本が脱落し、1本が緩んでいた&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2016-5-1.pdf 鉄道事故報告書 西日本旅客鉄道株式会社 山陽新幹線 小倉駅~博多駅間 鉄道人身障害事故]&lt;/ref&gt;。<br /> : 原因は7月24日の走行試験でカバーをつけ直した際ボルトの締め付けが不十分であったため。福岡県警察は業務上過失傷害を視野に捜査を始めた。事故を重く見た九州運輸局はJR西日本に対し、再発防止に向けた措置を講じるよう文書で警告した。[[国土交通省]]の[[運輸安全委員会]]は10日、鉄道事故調査官2名を現地に派遣した&lt;ref&gt;{{Cite news |title=山陽新幹線、カバー装着不十分か 先月つけ直し、ボルト2本脱落 |newspaper=毎日新聞(東京朝刊) |date=2015.08.10 |accessdate=2016.1.2 |publisher=毎日新聞社 |page=27(社会) }}&lt;/ref&gt;。&lt;!--東北新幹線の事故は関係ないので除去しました--&gt;<br /> : JR西日本はこの事故を重大に受け止め、同社役員の報酬返上を実施した。加えて、事故に関係した指導・監督者と作業責任者、計9名に対して戒告等の処分を行った&lt;ref&gt;[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/150918_01_sanyoshinkansen.pdf 役員の報酬返上等について] 西日本旅客鉄道2015年9月24日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 山陽本線エアセクション内停車に伴う架線溶断事故 ====<br /> ; 2015年(平成27年)[[11月16日]]8時6分頃(その他の電気事故、輸送障害)<br /> : [[山陽本線]]([[JR神戸線]])[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] - [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]間で、上り新快速電車([[網干駅]]6時30分発、[[野洲駅]]9時着)がエアセクション内に停車し、その後、再び動き出した際に発生した熱で架線が溶断されたため、[[須磨駅]] - [[灘駅]]間で停電が発生した。このため、[[西明石駅]] - [[大阪駅]]間の上り外側線で運転を見合わせた。また、[[塩屋駅 (兵庫県)|塩屋駅]] - 須磨駅間でも、上り新快速電車([[上郡駅]]6時20分発、野洲駅9時14分着)と上り快速電車(網干駅6時33分発、大阪駅8時25分着)が停車し、乗客の降車及び架線復旧の為、9時10分から[[姫路駅]] - [[芦屋駅 (JR西日本)|芦屋駅]]間で運転を見合わせた。その後、12時15分に運転を再開した。この影響で、150本の列車に運休・遅れが発生し、乗客約15万人に影響が出た(7時35分に[[住吉駅 (JR西日本・神戸新交通)|住吉駅]]で発生した人身事故を含む)&lt;ref&gt;{{Cite news|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2015/11/page_7915.html |title= JR神戸線 神戸?元町駅間 架線が溶断し停電が発生した事象について |publisher=JR西日本ニュースリリース |date=2015-11-16 |accessdate=2015-11-16}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title=朝のJR神戸線止まる 架線切断、5千人降りて歩く |newspaper=朝日新聞(大阪夕刊) |date=2015.11.16 |accessdate=2016.1.2 |publisher=朝日新聞社 |page=1 }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title=架線切れ JR立ち往生 神戸 計4本、15万人影響 乗客5千人 線路歩く |newspaper=神戸新聞(夕刊) |date=2015.11.16 |accessdate=2016.1.2 |page=1 }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title=JR神戸線事故 乗客 2時間閉じ込め 連続トラブル 通勤直撃 体調不良訴え、救護次々 |newspaper=神戸新聞(夕刊) |date=2015.11.16 |accessdate=2016.1.2 |page=9 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> : 運転士がエアセクションの停止禁止区域外に停車しているものと勘違いしたために起きた事故である&lt;ref&gt;{{Cite news |title=運転士、停車位置勘違い 過大電流で架線切断か JR神戸線 |newspaper=朝日新聞(大阪朝刊) |date=2015.11.17 |accessdate=2016.1.2 |publisher=朝日新聞社 |page=34 }}&lt;/ref&gt;。<br /> {{See also|エアセクション#エアセクションに関連したトラブル}}<br /> <br /> ==== 山田線列車脱線事故 ====<br /> ; ★2015年(平成27年)[[12月11日]] 19時30分頃([[列車脱線事故]])<br /> : JR東日本[[山田線]]の[[松草駅]] - [[平津戸駅]]間で、[[盛岡駅]]行きの上り最終普通645D列車([[JR東日本キハ100系気動車|キハ110 - 132]] 1両編成)が線路上に崩れていた土砂に乗り上げ全軸が脱線、車体が進行方向右側へ傾き、乗客22名及び乗務員2名(運転士及び車掌)のうち、乗客1名が重傷、乗客14名及び運転士が軽傷を負った&lt;ref name=&quot;:0&quot;&gt;{{Cite web|url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2017-3-1.pdf|title=鉄道事故調査報告書 Ⅰ 東日本旅客鉄道株式会社 山田線 平津戸駅~松草駅間列車脱線事故|accessdate=2017-05-17|date=2017-04-27|publisher=運輸安全委員会}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201512/20151212_33021.html 山田線が土砂崩れで脱線、10人けが] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20151222120214/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201512/20151212_33021.html |date=2015年12月22日 }}河北新報 2015年12月11日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title=「ドン」悲鳴 傾く車両 山田線脱線 「衝撃で乗客飛んだ」 闇の中、支え合い避難 |newspaper=[[岩手日報]](朝刊) |date=2015-12-12 |page=27 |url=https://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20151212_2 |accessdate=2016-01-02}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title=脱線「まさかここで」 山田線事故 住民、早期の復旧願う |newspaper=岩手日報(朝刊) |date=2015-12-13 |page=29 |url=http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20151213_7 |accessdate=2016-01-02}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail2.php?id=1881 鉄道事故の概要] 運輸安全委員会 2015年12月14日、同日閲覧&lt;/ref&gt;。山田線は翌[[12月12日|12日]]には[[盛岡駅]] - [[上米内駅]]間、[[川内駅 (岩手県)|川内駅]] - [[宮古駅]]間で運転再開した&lt;ref&gt;{{Cite news|title=運輸安全委が調査 山田線脱線 JR東日本「5日に落石」|newspaper=岩手日報(朝刊)|date=2015.12.13|accessdate=2016-01-02|page=1}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[https://archive.is/20151213111630/http://traininfo.jreast.co.jp/train_info/tohoku.aspx 東北エリアの運行状況] 東日本旅客鉄道(2015年12月13日時点でのアーカイブ)&lt;/ref&gt; が、事故の2日後には崩壊斜面上部3か所で亀裂が見つかり&lt;ref name=&quot;:0&quot;/&gt;、事故現場を含む上米内駅 - 川内駅間については運休、盛岡 - 宮古間で並行する[[106急行バス]]による振替輸送を実施している。<br /> : [[運輸安全委員会]]による調査によれば、斜面崩壊の原因は、「急な斜面であること及び風化により斜面表層部が不安定化していたところに降雨や融雪などにより斜面表層の重量が増加したこと」によるものとされている&lt;ref name=&quot;:0&quot; /&gt;。なお、事故発生前の2015年12月5日に、崩壊箇所内で防護ネットの下から露岩が抜け出す、崩壊の予兆とみられる事象が発生していたが、この事象からの予測は困難であったとしている&lt;ref name=&quot;:0&quot; /&gt;。<br /> : 復旧に当たってJR東日本盛岡支社と[[林野庁]]東北森林管理局では2016年9月に斜面の安全対策工事に着手し、斜面上部の国有林は森林管理局が担当し、グランドアンカー約140本を打ち、約1万2000立方メートル土砂を撤去した。その後、5月の大型連休後に、JRにより脱線車両の重機による切断・撤去&lt;ref&gt;{{Cite news|title=<山田線>脱線車両 GW明け撤去へ|newspaper=河北新報ONLINE NEWS|date=2017-04-15|author=|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201704/20170415_33009.html|accessdate=2017-04-16|publisher=河北新報社}}&lt;/ref&gt;、斜面下部へのグランドアンカー約180本の打ち込み、表土約1000立方メートルの撤去が行われた。この復旧に当たって閉伊川には現場と国道106号をつなぐ仮設橋も整備した。そして、2017年11月5日に運転を再開した&lt;ref&gt;{{Cite web |title=山田線(盛岡〜宮古間)運転再開について |url=https://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1506065210_2.pdf |publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社|format=PDF|date=2017-09-22|accessdate=2017-09-22}}&lt;/ref&gt;。<br /> : また、JR東日本では事故発生箇所周辺の施設管理者や地元自治体などで構成する「山田線土砂崩壊に関する斜面防災協議会」を設置している&lt;ref name=&quot;:0&quot; /&gt;。<br /> <br /> ==== 函館本線嵐山トンネル架線火災事故 ====<br /> ; 2015年(平成27年)[[12月27日]]5時頃(電気火災事故、輸送障害)<br /> : JR北海道[[函館本線]][[伊納駅]] - [[近文駅]]間の嵐山トンネル内で、回送列車の運転士が架線から火が出ているのを発見、天井部分のポリエチレンが燃える被害が発生&lt;ref&gt;{{Cite news |title=JR北 副社長が陳謝/トンネル火災 きょう再開めざす |newspaper=[[日本経済新聞]](朝刊) |publisher=[[日本経済新聞社]] |page=35(社会) |date=2015.12.29 }}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;日経151230&quot;&gt;{{Cite news |title=火災のトンネル、復旧し運転再開 JR函館線、2日ぶり |newspaper=[[日本経済新聞]](朝刊) |publisher=[[日本経済新聞社]] |page=31(社会) |date=2015.12.30 }}&lt;/ref&gt;。火災は同日正午前後に鎮火された&lt;!--日経ほか数紙では午後0時40分鎮火と記載--&gt;&lt;ref name=&quot;日経151230&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;日経151228朝刊&quot;&gt;{{Cite news |title=函館線 トンネル火災/JR北 運休続出 けが人なし |newspaper=[[日本経済新聞]](朝刊) |publisher=[[日本経済新聞社]] |page=35(社会) |date=2015.12.28 }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news|title=<JR函館線>トンネル火災鎮圧 復旧のめどは立たず|newspaper=毎日新聞|date=2015.12.27|author=小川祐希|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151227-00000019-mai-soci|accessdate=2015-12-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160102193417/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151227-00000019-mai-soci|archivedate=2016年1月2日|deadlinkdate=2017年10月}}&lt;/ref&gt;。JR北海道は函館線深川 - 旭川駅間で運転を見合わせ、特急を含む上下233本が運休となった&lt;ref name=&quot;日経151228朝刊&quot;/&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title=JR函館線トンネルで火災、直前に送電トラブル |newspaper=読売新聞 |date=2015.12.27 |url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151227-00050015-yom-soci |accessdate=2015-12-29}}{{リンク切れ|date=January 2017}}&lt;/ref&gt;。2015年12月29日午後、不通区間であった深川駅 - 旭川駅間が運行再開された&lt;ref name=&quot;日経151230&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0218120.html JR函館線運行再開、2日半ぶり] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160126171923/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0218120.html |date=2016年1月26日 }} - [[北海道新聞|どうしん]]ウェブ/電子版(社会)、2015年2015年12月29日13時26分配信&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 高徳線普通列車脱線事故 ====<br /> ; ★2015年(平成27年)[[12月31日]]12時頃(列車脱線事故、信号違反)<br /> : [[香川県]][[さぬき市]]の[[高徳線|JR高徳線]][[オレンジタウン駅]]構内で、[[徳島駅|徳島]]発[[高松駅 (香川県)|高松]]行き普通列車(1両)が客扱い後、誤って出発信号機が赤信号のまま発車、[[安全側線]]に進入し脱線した。乗客、乗員計46人にけがはなかった&lt;ref name=&quot;mainichi20151231&quot;&gt;[http://mainichi.jp/articles/20151231/k00/00e/040/170000c 脱線事故 普通列車が砂利に乗り上げ、JR四国高徳線] 毎日新聞 2015年12月31日 16時40分(最終更新 12月31日 20時06分)&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;sankei151231&quot;&gt;{{Cite news |title=JR高徳線で列車脱線 けが人はなし(産経ニュース>産経WEST) |newspaper=産経新聞社 |date=2015.12.31 |url=http://www.sankei.com/smp/west/news/151231/wst1512310049-s.html |accessdate=2016-01-02}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;毎日20160101&quot;&gt;{{Cite news |title=鉄道事故:赤信号で発車し、JR高徳線脱線 けが人なし 香川 |newspaper=[[毎日新聞]](大阪朝刊) |publisher=[[毎日新聞社]] |page=30 |date=2016.01.01 }}&lt;/ref&gt;。この事故で高徳線[[志度駅]]と[[三本松駅 (香川県)|三本松駅]]間は約6時間にわたり不通になった。上下あわせて特急列車13本、普通列車18本が運転を見合わる事態となり、約1,600人に影響が出た&lt;ref name=&quot;mainichi20151231&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;毎日20160101&quot;/&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title=香川 JR高徳線 列車が側線に誤進入し脱線 |newspaper=NHKニュースWEB |date=2015.12.31 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151231/k10010357671000.html |accessdate=2016-01-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160102070951/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151231/k10010357671000.html |archivedate=2016年1月2日 |deadlinkdate=2017年10月 }}&lt;/ref&gt;。運輸安全委員会は「対向列車と正面衝突の危険があった」として12月31日、鉄道事故調査官2人を派遣し、詳しい事故原因を調べている&lt;ref name=&quot;sankei151231&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;毎日20160101&quot;/&gt;。<br /> <br /> ==== 東京メトロ半蔵門線九段下駅におけるベビーカー挟み事故 ====<br /> ; 2016年(平成28年)4月4日15時頃(その他の事故)<br /> : [[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]][[九段下駅]]で、[[中央林間駅|中央林間]]発[[押上駅|押上]]行電車([[営団8000系電車|東京メトロ8000系]]10両編成)が、電車到着前から並んでいた家族連れの乗車途中にドアを閉めてしまい、6両目の車両のドアに[[乳母車|ベビーカー]]を挟んだまま発車。電車はそのまま走行し、ベビーカーはホーム端の柵に衝突、大破した。ベビーカーに子供は乗っておらず、負傷者はいなかった。当時ホームや電車内の乗客が異常に気付き非常停止ボタンや車内通報器を押したものの、列車は停止せず、そのまま隣駅の神保町まで走行を続けた。これに対し車掌は、車内通報器に応答したが返事がなかった為、400m先の神保町駅で対応しようと思ったと報告している&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/articles/20160405/ddm/041/040/142000c 鉄道トラブル ベビーカー挟み100メートル 車掌気付かず大破 けが人なし 東京・九段下駅] 毎日新聞 2016年4月5日&lt;/ref&gt;。また、車掌は、非常ベルが押されたことは知っていたものの、電車を停車させることは躊躇していた模様である&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/articles/20160405/dde/041/040/057000c 東京メトロ・ベビーカー大破 警報聞いても停車せず 車掌「ためらった」] 毎日新聞 2016年4月5日&lt;/ref&gt;。<br /> : これ以前にもベビーカーがドアに挟まれたまま発車し引きずられる事故が発生しており、東京メトロでは対策として、ドアに1[[センチメートル|cm]]以上の隙間があると発車できないようにし、ドアのゴムの下部30cmは挟まっていることを検知しやすいように固いゴムを使用していたほか、[[製品安全協会]]は2009年に基準を見直し、ベビーカーの前輪パイプ部分の太さを3.5cm以上とするといった各種対策をとっていたが、本事故では挟まれたベビーカーの前輪パイプの太さが1.5cmと細かったことや、挟まれた位置が下から約60cmの柔らかいゴムの部分であったことなどから、挟み込みを検知できなかったとみられている&lt;ref&gt;[http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/242301.html 鉄道のベビーカー事故を防ぐには(時論公論)] - NHK解説アーカイブス、2016年4月12日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 札幌市電衝突事故 ====<br /> ; 2016年(平成28年)4月5日14時20分頃(道路障害事故)<br /> : [[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]の[[札幌市電]]の[[ロープウェイ入口停留場|ロープウェイ入口]] - [[西線16条停留場|西線16条]]間において、外回り循環便の列車([[札幌市交通局240形電車|240形]]1両編成)が交差点を右折した乗用車と衝突した。この事故により乗用車を運転していた50代の男性が重傷を負い、市電の乗客からも3人が軽傷で病院に搬送された。この事故の影響で30本が部分運休となり、約2400人に影響が出た。&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20160406/ddr/041/040/006000c 鉄道事故:札幌市電と乗用車衝突 4人けが] 毎日新聞 2016年4月5日&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==== 平成28年(2016年)熊本地震による事故 ====<br /> ; 2016年(平成28年)4月14日21時26分頃(九州新幹線、列車脱線事故)([[熊本地震 (2016年)|平成28年(2016年)熊本地震(前震)]])<br /> : [[九州旅客鉄道|JR九州]]、[[九州新幹線 (鹿児島ルート)|九州新幹線]]の[[熊本駅]]の下り方2km近く先で[[熊本総合車両所]]に向かっていた回送列車([[新幹線800系電車|800系]]U005編成)が、この日発生した[[熊本地震 (2016年)|平成28年(2016年)熊本地震]]の前震により6両全車両が脱線した&lt;ref&gt;{{Cite news|title=九州新幹線、回送列車脱線=全線で運休-熊本地震|newspaper=時事通信|date=2016-4-15|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041500105&amp;g=soc|accessdate=2016-5-19}}{{リンク切れ|date=January 2017}}&lt;/ref&gt;。足回りが粉砕したため、復帰することなく廃車された。1両目は、工場公開イベントの際、車体にありがとうメッセージが書けるようになっていた。JR九州によると、車両の一部を保存するとのこと。<br /> ; 2016年(平成28年)4月16日1時25分頃(豊肥本線、列車脱線事故)([[熊本地震 (2016年)|平成28年(2016年)熊本地震(本震)]])<br /> : JR九州[[豊肥本線]][[赤水駅]]構内を出たばかりの[[宮地駅|宮地]]方面行きの線路点検を行っていた[[回送列車]]([[キハ47系]]2両)が[[熊本地震 (2016年)|平成28年(2016年)熊本地震]]の[[本震]]により先頭車が踏切上で脱線した。いずれの事故も乗客はなく、運転士にも怪我はないという&lt;ref&gt;{{Cite news|title=豊肥線で脱線 在来線35路線が運休|newspaper=産経新聞|date=2016-4-16|url=http://www.sankei.com/affairs/news/160416/afr1604160069-n1.html|accessdate=2016-5-19}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 長良川鉄道脱線事故 ====<br /> ; 2016年(平成28年)4月15日19時25分頃(列車脱線事故、線路障害)<br /> : [[長良川鉄道越美南線]][[母野駅|母野]] - [[洲原駅|洲原]]間の[[洲原トンネル]]で、[[北濃駅|北濃]]発[[美濃太田駅|美濃太田]]行列車が走行中に脱線し、運転士が負傷。同線は事故の影響で、翌16日まで運行を見合わせた&lt;ref&gt;[http://response.jp/article/2016/04/16/273666.html 長良川鉄道、脱線事故で全線運転見合わせ] [[Response.]] 2016年4月16日&lt;/ref&gt;。その後17日より美濃太田 - [[関駅|関]]間で運行を再開&lt;ref&gt;[http://response.jp/article/2016/04/17/273681.html 長良川鉄道、美濃太田~関で運行再開…関~北濃間も代行バス運行] Response. 2016年4月17日&lt;/ref&gt;、18日には運行再開が[[美濃市駅|美濃市]]まで拡大され&lt;ref&gt;[http://response.jp/article/2016/04/18/273711.html 脱線事故の長良川鉄道、運行区間を美濃太田~美濃市に拡大] Response. 2016年4月18日&lt;/ref&gt;、25日には全線で運行が再開された&lt;ref name=&quot;response20160427&quot;&gt;[http://response.jp/article/2016/04/27/274329.html トンネル内で脱線の長良川鉄道、10日ぶり全線の運転を再開] Response. 2016年4月27日&lt;/ref&gt;。トンネル内の漏水によるレールの腐食や、横圧によるヒビなどによってレールが破断したことが原因と見られている&lt;ref name=&quot;response20160427&quot; /&gt;。<br /> <br /> ==== 東武東上線中板橋駅付近での脱線事故 ====<br /> ; ★2016年(平成28年)5月18日12時20分頃(列車脱線事故、車両障害)<br /> : [[東武鉄道]][[東武東上本線|東上線]][[中板橋駅]]付近の踏切で、[[成増駅|成増]]発[[池袋駅|池袋]]行きの普通列車([[東武10000系電車|10000系]](11003F・10両編成))の中間車が脱線した&lt;ref&gt;{{Cite web |url=http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail2.php?id=1888 |title=運輸安全委員会ホームページ 鉄道>調査中の案件>概要 (2016年5月18日 東武鉄道株式会社 東上本線 中板橋駅~大山駅間 (東京都板橋区)列車脱線事故) |publisher=[[運輸安全委員会]] |accessdate=2016-05-22}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news|title=東武東上線が脱線、乗客線路歩く…一部区間不通|newspaper=読売新聞|date=2016年5月18日13時34分|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20160518-OYT1T50069.html|accessdate=2016-05-22}}{{リンク切れ|date=January 2017}}&lt;/ref&gt;。死者・負傷者はいなかったが、事故直後の調査で脱線した車両の後方の台車枠に約15cm幅12mmの亀裂が見つかった&lt;ref&gt;{{Cite news|title=東上線脱線、電車台車枠に15センチの亀裂|newspaper=読売新聞|date=2016年5月19日13時12分|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20160519-OYT1T50000.html|accessdate=2016-05-22}}{{リンク切れ|date=January 2017}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news|title=東武東上線「脱線事故」は、なぜ起きたのか 中間車両の2軸だけ脱輪、台車が割れた?|newspaper=東洋経済オンライン|date=2016年5月18日|url=http://toyokeizai.net/articles/-/118591|accessdate=2016-05-22}}&lt;/ref&gt;。事故の影響で池袋 - [[和光市駅|和光市]]間(後に区間が短縮され、池袋 - [[上板橋駅|上板橋]]間)が事故直後より終日運転見合わせになり、運行区間も間引き運転、直通運転先の種別・行き先変更となるなど大混乱をきたした&lt;ref&gt;{{Cite news|title=東上線 始発から運転|newspaper=テレビ東京 (ニュース MORNING SATELLITE)|date=2016年5月19日|url=http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/nms/news/post_111658|accessdate=2016-05-22}}&lt;/ref&gt;。亀裂が入った台車は1989年(平成元年)に[[住友金属工業]](現・[[新日鐵住金]])が製造したもので、台車の枠とそれを裏より補強する鉄製の板の溶接が不十分であったとみられる{{Refnest|亀裂破面の損傷等により詳細な検証ができず断定には至らなかった。&lt;ref name=&quot;RA2018-1-1&quot; /&gt;}}。当該箇所が応力の高い箇所であったことも災いし、溶接不良箇所から繰り返し荷重により金属疲労による亀裂が進行し事故時には側梁上面にまで達した。亀裂が入った台車は輪重バランスが極端に悪くなり、車輪が乗り上がり脱線を起こした&lt;ref name=&quot;RA2018-1-1&quot;&gt;{{Cite report|format=pdf|url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2018-1-1.pdf|title=&quot;鉄道事故調査報告書 I 東武鉄道株式会社 東上本線 中板橋駅構内 列車脱線事故&quot; |date=2018-1-25|publisher=[[運輸安全委員会]] |accessdate=2018-2-7}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news|title=溶接不十分で台車に亀裂 東武東上線の脱線事故|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22234280T11C17A0CC1000/|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2017-10-13|accessdate=2017-10-13}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Tobu-20171013164547&quot;&gt;{{cite press release<br /> | title = 列車の一部脱線に関する調査結果と再発防止策について<br /> | publisher = 東武鉄道株式会社 | date =2017-10-13 | url =http://www.tobu.co.jp/file/pdf/d0fadcec578203eed747c30dde47fc92/171013.pdf?date=20171013164547|format=PDF | accessdate = 2017-11-10}}&lt;/ref&gt;。これにより東武鉄道は同型を含む類似構造を持つ台車に対し、同年10月より亀裂の入った箇所を非破壊検査部位に追加&lt;ref name=&quot;Tobu-20171013164547&quot; /&gt;、国土交通省も同年10月に類似構造台車を所有する鉄軌道事業者に対し緊急点検を指示した&lt;ref name=&quot;RA2018-1-1&quot; /&gt;。<br /> <br /> ==== 東北本線水沢駅構内貨物列車脱線事故 ====<br /> ; 2016年(平成28年)6月9日8時50分頃(列車脱線事故)<br /> : JR東日本[[東北本線]][[水沢駅]]を発車しようとした貨物列車(機関車1両、コンテナ車17両)のうち、コンテナ車1両が脱線した。この事故の影響で、同線は同日午後まで運転を見合わせ、東北新幹線による振り替え輸送を実施した&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/articles/ASJ6936DBJ69UJUB001.html JR東北線で貨物列車が脱線事故 岩手・水沢駅] 朝日新聞 2016年6月9日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 山陽本線脱線事故(2016年) ====<br /> ; 2016年(平成28年)6月23日0時30分頃(列車脱線事故)&lt;!--報告書原題:西日本旅客鉄道株式会社 山陽線 瀬野駅~八本松駅間 列車脱線事故--&gt;<br /> : JR西日本山陽本線[[瀬野駅]] - [[八本松駅]]の間の[[瀬野八]]区間で上り普通列車(広島発西条行、[[国鉄115系電車|115系]]4両編成/ヒロL-13編成)が線路上に流れ込んでいた土砂に乗り上げて先頭車両が脱線した。けが人はおらず、乗客はJR西日本が用意したバスで移動した。<br /> <br /> ==== えちぜん鉄道勝山永平寺線踏切事故 ====<br /> ; 2016年(平成28年)7月14日15時55分頃(踏切障害事故)<br /> : [[えちぜん鉄道勝山永平寺線]][[光明寺駅]] - [[轟駅]]間の「轟踏切」で、[[軽自動車|軽]][[乗用車]]が踏切を横断しようとしたところ、同踏切を通過中の[[福井駅 (福井県)|福井]]発[[勝山駅|勝山]]行電車と衝突した。[[遮断機]]が電車の通過直前に上がったためとされており、遮断機の誤作動が原因とみられている&lt;ref&gt;[http://response.jp/article/2016/07/17/278613.html 通過直前に遮断機が誤作動、軽乗用車と列車が衝突] Response.2016年7月17日&lt;/ref&gt;。その後の調べで、踏切の軌道回路受信器の安全マージン設定が不適切だった所に短絡不良が発生したために遮断機が誤作動したと判明した&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.echizen-tetudo.co.jp/company/image/safety17.pdf えちぜん鉄道 2017年安全報告書]}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> &lt;!--<br /> ==== 東京メトロ銀座線青山一丁目駅ホーム転落事故 ====<br /> ; 2016年(平成28年)8月15日17時45分頃(鉄道人身障害事故)<br /> : [[東京メトロ銀座線]][[青山一丁目駅]]で、[[盲導犬]]を連れてホームを歩いていた[[視覚障害者]]の男性が、足を踏み外してホームから線路に転落し、入線してきた電車に轢かれ死亡した。盲導犬はホーム上に残っており無事だった&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/articles/20160816/ddm/041/040/057000c 鉄道事故 盲導犬連れた男性死亡 ホームから転落、ひかれる 東京メトロ銀座線] 毎日新聞 2016年8月16日&lt;/ref&gt;。この事故においては、[[視覚障害者誘導用ブロック|点字ブロック]]上に柱があり、その分ホーム幅が狭まっていて、これが元で盲導犬が白線の外側を線路寄りに歩いていたことが原因となった可能性が指摘されている。<br /> --&gt;<br /> ==== 西武多摩湖線脱線事故 ====<br /> ; 2016年(平成28年)8月22日11時20分頃(列車脱線事故)&lt;!--要検討:脱線事故では無く鉄道災害&lt;ref&gt;鉄道事故等報告規則3条5項&lt;/ref&gt;か?--&gt;<br /> : 台風9号接近により、[[西武多摩湖線]][[西武遊園地駅]] - [[武蔵大和駅]]を走行中の[[国分寺駅|国分寺]]行きの電車([[西武101系電車#新101系・301系|新101系261編成]]4両編成)が武蔵大和駅近くで緊急停車したところ、軌道に流れ込んだ土砂が車両を押し上げて脱線した。この土砂崩れによって線路脇の架線柱も倒れた。<br /> : 事故列車には乗員、乗客合わせて6人が乗っていたがけが人はおらず、近くの駅まで歩いて移動した。8月28日までに車両と線路の間に流れ込んでいた土砂の搬出作業が終わったことから、午後3時ごろ車両を保線用モーターカーを使って搬出した&lt;ref&gt;[http://news.tbs.co.jp/sp/newseye/tbs_newseye2855615.htm 台風被害の西武多摩湖線、傾いた車両の搬出始まる]{{リンク切れ|date=January 2017}} TBS News i&lt;/ref&gt;。当初運転再開には3週間ほどかかる見込みであるとされたが、その後復旧作業が進展し9月6日初電から運転を再開した&lt;ref&gt;[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160901/k10010664621000.html 台風で一部不通の西武多摩湖線 6日に運転再開へ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160904220550/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160901/k10010664621000.html |date=2016年9月4日 }}NHKニュース(9月1日)&lt;/ref&gt;。<br /> &lt;!--<br /> ==== 北神急行電鉄における高齢者死亡事故 ====<br /> ; 2016年(平成28年)9月18日9時頃(鉄道人身障害事故)<br /> : [[北神急行電鉄北神線]]・[[神戸市営地下鉄山手線]][[新神戸駅]]から北に約100mに位置する北神トンネル内で、線路上を歩いていた88歳の女性が、走行してきた電車にはねられ死亡した。この女性には[[認知症]]などの症状が確認されている&lt;ref&gt;[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160918/k10010691941000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_001 トンネル内で列車にはねられ88歳女性死亡]{{リンク切れ|date=January 2017}} NHKニュース 2016年9月18日&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> <br /> ==== 西濃鉄道市橋線脱線事故 ====<br /> ; ★2016年(平成28年)10月6日8時40分頃(列車脱線事故)<br /> : [[岐阜県]][[大垣市]]内の[[西濃鉄道市橋線]][[美濃赤坂駅]] - [[乙女坂駅]]間で、[[石灰石]]輸送の貨物列車(25両編成)のうち、11 - 13両目の車両が脱線。機関士をはじめ乗務員3人に負傷者はおらず、周辺への被害も無かった。運輸安全委員会の報告書によれば、原因は枕木劣化等の軌道保守不良があり、カーブ部分を列車が走行することで軌間が拡がり、内側に脱線したことによるもの。<br /> &lt;!--<br /> ==== 近鉄大阪線河内国分駅ホーム転落事故 ====<br /> ; 2016年(平成28年)10月16日11時10分頃(鉄道人身障害事故)<br /> : [[大阪府]][[柏原市]]の[[近鉄大阪線]][[河内国分駅]]下りホームで、[[全盲]]の40歳の男性が線路上に転落し、駅を通過中の[[大阪上本町駅|大阪上本町]]発[[鳥羽駅|鳥羽]]行[[近鉄特急|特急]]にはねられ死亡した。男性は特急の通過退避中の電車に乗車していたが&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/articles/20161017/k00/00m/040/047000c 線路に転落 全盲男性、特急にはねられ死亡 大阪・近鉄線] 毎日新聞 2016年10月17日&lt;/ref&gt;、[[鉄道ファン]]だったため、通過する列車の音を聞くためにホーム上に降りていた模様である&lt;ref&gt;[http://www.sankei.com/west/news/161031/wst1610310004-n1.html 「欄干のない橋」の悲劇 後絶たぬ視覚障害者ホーム転落、ホームドアは高コスト・技術の壁…〝妙案〟は意外にもアナログ] 産経新聞 2016年10月31日&lt;/ref&gt;。この事故を受け[[国土交通省]]は、全国の鉄道事業者を集めての緊急検討会を開催し、各鉄道事業者に対し、ホームドアや点字ブロックなどの整備を急ぐよう指示した&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/articles/20161019/ddn/012/040/058000c 大阪・柏原の全盲男性転落死 国交省が検討会] 毎日新聞 2016年10月19日&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ==== 京浜東北線蕨駅ホーム転落事故 ====<br /> ; 2017年(平成29年)1月14日7時10分頃(鉄道人身障害事故)<br /> : [[埼玉県]][[蕨市]]の[[京浜東北線]][[蕨駅]]ホームから、盲導犬を連れた全盲の男性がホームから転落し、入線してきた[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]発[[大船駅|大船]]行の南行電車の側面に接触。男性は全身[[打ち身|打撲]]で同日正午過ぎに死亡確認。盲導犬は無事だった模様である。同駅では平日ダイヤではホーム上に駅員4名を配置しているが、同日は休日ダイヤであったため配置していなかった&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/articles/20170114/k00/00e/040/175000c JR蕨駅 盲導犬連れの男性転落、電車と接触、死亡] 毎日新聞 2017年1月14日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/articles/20170115/k00/00m/040/090000c 全盲男性転落死 ホームに駅員不在 埼玉・蕨] 毎日新聞 2017年1月14日&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> <br /> ==== 紀州鉄道脱線事故 ====<br /> ; ★2017年(平成29年)1月22日11時頃(列車脱線事故)<br /> : [[和歌山県]][[御坊市]]の[[紀州鉄道線]][[御坊駅]] - [[学門駅]]間で、御坊発[[西御坊駅|西御坊]]行列車([[紀州鉄道線#現有車両|KR301形]]1両編成)が脱線。乗客と運転士に負傷者はいなかった。当時、列車の運転士はカーブを過ぎた辺りで強い衝撃を感じ、急ブレーキを掛けたところ、後部の車輪がレールから外れていた模様である&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/articles/ASK1Q4PTGK1QPXLB009.html 紀州鉄道が脱線、けが人なし 「西日本一短い私鉄」] 朝日新聞 2017年1月22日&lt;/ref&gt;。同社はレール交換などを実施し、同年2月23日に全線で運転を再開した&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/articles/ASK1R42VXK1RPXLB00H.html 和歌山)紀州鉄道の脱線 運輸安全委調査官が現場調べる] 朝日新聞 2017年1月24日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 伯備線豪渓駅構内脱線事故 ====<br /> ; 2017年(平成29年)1月24日11時31分(列車脱線事故)<br /> : [[岡山県]][[総社市]]の[[伯備線]][[豪渓駅]]構内で、[[岡山駅|岡山]]発[[備中高梁駅|備中高梁]]行下り普通列車の運転士が、[[枕木]]から煙が出ているのを発見し消火活動を実施し、消火後に運行再開しようとしたところ、3両目の一部が脱線。この事故で計18本の列車が運休した。当列車の乗務員は、3両目の台車に車輪止めの器具を施した上で消火活動を行ったが、運行再開の際に取り外すのを忘れていたために脱線した模様である&lt;ref&gt;[http://response.jp/article/2017/01/25/289158.html 伯備線の普通列車が脱線…車輪止め取り外しを失念] Response.2017年1月25日&lt;/ref&gt;。<br /> &lt;!--<br /> ==== 山陽線作業員触車事故 ====<br /> ; ★2017年(平成29年)2月11日1時50分頃(鉄道人身障害事故)<br /> : [[広島県]][[三原市]]の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[山陽本線]][[糸崎駅]]構内でがいしの修繕作業を行っていた現場の列車見張業務を行っていた作業員と貨物列車が接触し、作業員が死亡した。作業員が線路に近づきすぎたのが原因と思われている&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2017-02-11 |url=http://www.news24.jp/nnn/news8667347.html |title=保線作業中列車にはねられ死亡 |publisher=[[広島テレビ放送|広島テレビ]] |accessdate=2017-02-13}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2017-02-11 |url=http://news.rcc.jp/?i=27335 |title=JR山陽線 貨物列車にはねられ作業員死亡 |publisher=[[中国放送]] |accessdate=2017-02-13}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2017-02-13 |url=http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail2.php?id=1911 |title=平成29年2月11日に西日本旅客鉄道株式会社 山陽線で発生した鉄道人身障害事故 |publisher=[[運輸安全委員会]] |accessdate=2017-02-13}}&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> ==== 熊本電鉄藤崎線脱線事故 ====<br /> ; ★2017年(平成29年)2月22日21時25分頃(列車脱線事故)<br /> : [[熊本県]][[熊本市]][[中央区 (熊本市)|中央区]]の[[熊本電鉄]][[藤崎線]][[藤崎宮前駅]] - [[黒髪町駅]]間で、藤崎宮前発[[御代志駅|御代志]]行列車が、藤崎宮前駅を発車した直後、約30mほど進行したところで突然1両目の前台車が全軸脱線した。乗員、乗客50名に怪我は無かった。現場付近の[[枕木]]が水に浸かってレールを支える[[犬釘]]が緩みやすくなっており、そこに列車の車体の自重などが加わってレールが傾くなどして軌道の幅が一時的に広がったのが原因で脱線に繋がったと見ている。<br /> <br /> ==== 室蘭本線貨物列車脱線事故(2017年) ====<br /> ; ★2017年(平成29年)2月23日3時59分頃(列車脱線事故)<br /> : [[北海道]][[洞爺湖町]]の[[北海道旅客鉄道|JR北海道]][[室蘭本線]][[北入江信号場]]構内で、19両編成の[[隅田川駅|隅田川]]発[[札幌貨物ターミナル駅|札幌貨物ターミナル]]行[[貨物列車]](下り高速貨3055列車、牽引機関車([[JR貨物DF200形ディーゼル機関車|DF200]]-8)+無動力回送機関車([[JR貨物DF200形ディーゼル機関車|DF200]]-6)+[[コンテナ車]]17両)が、分岐器通過後に運転士が異常な振動を感じ非常ブレーキにより停車したところ、1両目の機関車の6軸中後台車の全2軸が脱線していた。乗務員1名を含め負傷者はなかった&lt;ref name=&quot;:4&quot;&gt;{{Cite report|format=pdf|url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2018-5-1.pdf|title=&quot;鉄道事故調査報告書 I 日本貨物鉄道株式会社 室蘭線 北入江信号場構内 列車脱線事故&quot;|date=2018-07-26|publisher=[[運輸安全委員会]]|accessdate=2018-07-28}}&lt;/ref&gt;。なお、当該の列車は1つ前の[[洞爺駅]]通過後から踏切通過の度に運転士が異音を感じていたが、雪氷などが接触した際の音と判断し運転を継続していた&lt;ref name=&quot;:4&quot; /&gt;。<br /> :運輸安全委員会による調査で、脱線原因は1両目の機関車の後台車の中心ピンとけん引装置を締結する取付ボルトを、[[五稜郭機関区]]での[[日本の鉄道車両検査|重要部検査]]の際に所定のトルク値で締め付けず、仮締めのまま作業を終了したことにより、走行による振動等でボルトが緩み脱落(ボルト等は[[大岸駅]] - [[豊浦駅]]間で発見された)し、これにより垂下したけん引装置が踏切のガードレールに衝撃し、さらに垂下したのちに信号場内の分岐器リードレールに接触したことによるとされた&lt;ref name=&quot;:4&quot; /&gt;。なお、軌道に関する異常は認められていない&lt;ref name=&quot;:4&quot; /&gt;。<br /> &lt;!--<br /> ==== 東海道本線踏切衝突脱線事故 ====<br /> ; ★2017年(平成29年)3月2日6時55分頃([[列車脱線事故]]〈踏切障害に伴うもの〉)<br /> : [[愛知県]][[安城市]]の[[東海旅客鉄道|JR東海]][[東海道本線]]小薮踏切([[西岡崎駅|西岡崎]]-[[安城駅]]間)で[[豊橋駅|豊橋]]発[[岐阜駅|岐阜]]行き普通列車([[JR東海313系電車|313系5000番台Y102編成]])と踏切に侵入していた乗用車が衝突して先頭車両が脱線し、乗用車が衝突の弾みで近くの電柱にぶつかって大破炎上した。この事故で乗用車を運転していた男性が[[多発性外傷]]で[[即死]]した。列車には乗員、乗客約280名が乗車していたが、このうち乗客数人が体調不良を訴え、うち3名が病院に搬送された&lt;ref&gt;{{Cite news |title=踏切で列車と車衝突、車が炎上し男性死亡 JR東海道線|newspaper=朝日新聞|date=2017-03-02|author= |url=http://www.asahi.com/articles/ASK322QTHK32OIPE001.html|accessdate=2017-03-02}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title=愛知の車衝突、脱線事故 東海道線の復旧作業続く|newspaper=産経フォト|date=2017-03-02|author= |url=http://www.sankei.com/smp/photo/story/news/170302/sty1703020015-s.html|accessdate=2017-03-02}}&lt;/ref&gt;。事故の影響により上下線で13時間運転を見合わせ、計123本が運休した&lt;ref&gt;{{Cite news |title=JR東海道線の運転再開 愛知の車衝突、脱線事故。|newspaper=中日新聞|date=2017-03-02|author= |url=http://www.chunichi.co.jp/s/article/2017030201001319.html|accessdate=2017-03-04}}&lt;/ref&gt;。死亡した男性は[[愛知県警]]保安課に勤務する43歳の[[警部補]]と判明。警部補は1月に個人的なトラブルで指導処分を受けており、これを苦に自殺を図ったものと見られている&lt;ref&gt;{{Cite news |title=電車衝突は実は警部補の車だった…愛知の東海道線脱線事故 |newspaper=産経WEST|date=2017-03-03|author= |url=http://www.sankei.com/west/news/170303/wst1703030085-n1.html|accessdate=2017-03-03}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title=東海道線踏切事故・死亡は愛知県警警部補 |newspaper=毎日新聞|date=2017-03-04|author= |url=http://mainichi.jp/articles/20170304/k00/00m/040/237000c|accessdate=2017-03-04}}&lt;/ref&gt;。<br /> : この事故の影響により、Y102編成は長期の運用離脱を余儀なくされ、この結果車両不足となった。このため、[[神領車両区]]から313系1100番台B6編成を転入する措置がとられた。<br /> --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ==== 京急本線八丁畷駅前踏切人身事故 ====<br /> ; 2017年(平成29年)4月15日9時10分頃([[踏切障害事故]])<br /> : [[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]]の[[京急本線]]・[[八丁畷駅]]前の踏切で、77歳男性と52歳男性が[[京成高砂駅|京成高砂]]発[[三崎口駅|三崎口]]行き下り快特列車に跳ねられて死亡した&lt;ref&gt;{{Cite news |title=川崎の京急踏切で2人死亡 立ち入りの高齢男性、引き戻そうと?|newspaper=産経新聞|date=2017-04-15|author= |url=http://www.sankei.com/affairs/news/170415/afr1704150011-n1.html|accessdate=2017-04-19}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;jisatsu0415&quot;&gt;{{Cite news |title=【川崎踏切事故】高齢男性は自殺図ったか 家族に「死にたい」|newspaper=産経新聞|date=2017-04-17|author= |url=http://www.sankei.com/affairs/news/170417/afr1704170021-n1.html|accessdate=2017-04-19}}&lt;/ref&gt;。77歳男性は、付近の防犯カメラの映像や目撃情報によると、事故直前に駅前でタクシーを降り&lt;ref&gt;{{Cite news |title=京急踏切内で45秒、脱出できず 死亡の高齢男性 川崎|newspaper=産経新聞|date=2017-04-15|author= |url=http://www.sankei.com/affairs/news/170415/afr1704150016-n1.html|accessdate=2017-04-19}}&lt;/ref&gt;、警報灯点滅後に踏切内に入り立ち止まった&lt;ref&gt;{{Cite news |title=【川崎踏切事故】救助を試み死亡した男性は横浜銀行勤務 遺族「心の整理がつかない。そっとして」高齢男性、認知機能低下?|newspaper=産経新聞|date=2017-04-17|author= |url=http://www.sankei.com/affairs/news/170417/afr1704170003-n1.html|accessdate=2017-04-19}}&lt;/ref&gt;。52歳男性はそれを見て駅の改札付近から踏切に向かい、遮断機が降りた後声を出しながら手招きして踏切内に入り、77歳男性の救助を試みた。電車の運転士は約50m手前で2人に気付き&lt;ref&gt;{{Cite news |title=2人死亡踏切事故 銀行員男性は駅への途中で救助に向かったか|newspaper=NHK|date=2017-04-17|author= |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170417/k10010951231000.html|accessdate=2017-04-19}}&lt;/ref&gt;、ブレーキをかけたが間に合わなかった&lt;ref&gt;{{Cite news |title=踏切で2人死亡 高齢男性助けようとして一緒にはねられたか|newspaper=NHK|date=2017-04-15|author= |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170415/k10010949561000.html|accessdate=2017-04-19}}&lt;/ref&gt;。77歳男性は以前から家族に「死にたい」などと話しており、[[自殺]]を図ったとみられる&lt;ref name=&quot;jisatsu0415&quot; /&gt;。なお、踏切にあった非常ボタンが押されていなかったことが後の調査で判明している。<br /> --&gt;<br /> <br /> ==== わたらせ渓谷鐵道脱線事故 ====<br /> [[File:East i d0001.jpg|thumb|事故の当該車両である[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]キヤE193系「East i-D」|代替文=]]<br /> ; ★2017年(平成29年)5月22日14時59分頃(列車脱線事故)<br /> : [[群馬県]][[桐生市]]の[[わたらせ渓谷鐵道]][[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線|わたらせ渓谷線]]の八木原踏切付近([[水沼駅]] - [[花輪駅]]間)で、[[桐生駅]]から[[間藤駅]]までの線路の点検を終え、桐生駅へ回送途中だった3両編成の電気・軌道総合検測車(JR東日本[[JR東日本キヤE193系気動車|キヤE193系]]([[East i|East i-D]]))が半径160mの右曲線を約36 km/h で通過中、衝撃を感じ非常ブレーキにより停車させたところ、2両目の前台車全軸が脱線していた。乗車していた鉄道会社の社員等計7人に負傷者はいなかった&lt;ref name=&quot;:5&quot;&gt;{{Cite report|format=pdf|url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2018-4-1.pdf|title=&quot;鉄道事故調査報告書 I わたらせ渓谷鐡道株式会社 わたらせ渓谷線 花輪駅~水沼駅間 列車脱線事故&quot;|date=2018-06-28|publisher=[[運輸安全委員会]]|accessdate=2018-08-01}}&lt;/ref&gt;。<br /> :その後の運輸安全委員会による調査で、脱線原因はまくらぎやレール締結装置、道床の不良が連続していたことにより、列車通過時の横圧で軌間が増大し、2両目前台車第1軸が軌間内に落下し、軌間を広げながら走行したのち、左車輪が左(外軌)側レールに乗り上げたことによるものとされた&lt;ref name=&quot;:5&quot; /&gt;。なお報告書では、組織としての技術力の不足により適切な軌道整備が行われていなかったことや、直前の軌道検測(事故列車の往路)で著大な軌間変位が確認されていたにも関わらず、適切な運転規制、軌道整備が行われなかったことも指摘している&lt;ref name=&quot;:5&quot; /&gt;。<br /> :この影響で、わたらせ渓谷線の[[大間々駅]] - 間藤駅間の上下線が運転を見合わせ、バスによる代行輸送が実施された&lt;ref&gt;[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170522/k10010990921000.html わたらせ渓谷鉄道で点検車両が脱線 けが人なし] {{webarchive|url=https://archive.is/20170525234031/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170523/k10010991781000.html |date=2017年5月25日 }} NHK NEWSWEB (2017年5月22日). 点検車両の脱線事故の瞬間を捉えた映像が収録されていた。&lt;/ref&gt;。その後、車両の撤去作業は24日午前に始まり、線路の緊急点検、枕木交換や試運転を行い、6月10日の始発列車より19日ぶりに運転を再開した&lt;ref&gt;{{Cite news |title=わたらせ渓谷鉄道、10日始発から運転再開 脱線での運休区間で|newspaper=下野新聞|date=2017-06-10|author= |url=http://www.shimotsuke.co.jp/category/life/entertainment/train/news/20170610/2717113|accessdate=2017-06-10}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 唐津線踏切衝突事故(2017年) ====<br /> ; 2017年(平成29年)6月11日8時25分頃(踏切障害事故、逸走)<br /> : [[佐賀県]][[多久市]]の[[九州旅客鉄道|JR九州]][[唐津線]]の宝蔵寺踏切([[東多久駅]] - [[中多久駅]]間)で、踏切内で立ち往生していた2トントラックに[[西唐津駅|西唐津]]発[[佐賀駅|佐賀]]行きの普通列車([[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ47]]・2両編成)が衝突した。トラックは中破程度だったが、列車はブレーキ管や制御装置を大きく損傷して非常ブレーキを含むほぼ全てのブレーキが使用不能となり暴走し始め、そのまま東多久駅を通過した後、運転士が駐車ブレーキ([[手ブレーキ]])を操作して現場から約1.5kmほど進んだ箇所で停止した。この事故でトラックの運転手が軽傷を負ったほか、列車の乗員乗客27名にケガは無かった。列車は運転不能となり、他の列車による救援作業を行ったため、[[久保田駅]] - [[多久駅]]間で11時間運転を見合わせ、19時12分に運転を再開した&lt;ref&gt;{{Cite news |title=踏切で列車とトラック衝突、運転再開に11時間|newspaper=読売新聞|date=2017-06-11|author= |url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170611-00050040-yom-soci|accessdate=2017-06-11}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title=トラックとの衝突で列車のブレーキに不具合、約1.5km先まで滑走|newspaper=Response|date=2017-06-12|author= |url=https://response.jp/article/2017/06/12/296024.html?utm_source=newspass&amp;utm_medium=delivered&amp;utm_campain=syndication|accessdate=2017-06-12}}&lt;/ref&gt;。<br /> &lt;!--<br /> ==== 東海道新幹線架線断線事故 ====<br /> ; 2017年(平成29年)6月21日19時54分頃(その他の電気事故、輸送障害)<br /> :上記の時間に、京都-新神戸で停電が発生。下り線は山陽新幹線の博多まで運転を見合わせることになった。後に高槻市内で架線が切断されているのが発見された。<br /> --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ==== しなの鉄道線踏切衝突事故 ====<br /> ; ★2017年(平成29年)7月5日7時50分頃(踏切障害事故)<br /> : [[長野県]][[埴科郡]][[坂城町]]の[[しなの鉄道]][[しなの鉄道線]]の岩崎街道踏切([[坂城駅]] - [[戸倉駅]]間。[[遮断機]]、[[踏切警報機|警報機]]付き&lt;ref name=&quot;nhk20170705&quot;&gt;{{Cite news|title=踏切で電車と車衝突 けが人なし|url=http://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/1014875971.html|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|date=2017-07-05|accessdate=2017-07-06|archiveurl=https://archive.is/20170705144122/http://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/1014875971.html|archivedate=2017年7月5日|deadlinkdate=2017年10月}}&lt;/ref&gt;)で&lt;ref name=&quot;sdt20170705&quot;&gt;{{Cite news|title=しなの鉄道で列車と乗用車が衝突(長野県)|url=https://www.tv-sdt.co.jp/nnn/news8848131.html|publisher=[[静岡第一テレビ]]|date=2017-07-05|accessdate=2017-07-06|archiveurl=https://archive.is/20170706102751/https://www.tv-sdt.co.jp/nnn/news8848131.html|archivedate=2017年7月6日|deadlinkdate=2017年10月}}&lt;/ref&gt;、[[1972年]]([[昭和]]47年)製の[[マニュアルトランスミッション]]の[[普通自動車|普通]]乗用車が[[エンスト]]して立ち往生し、乗用車の運転手によると[[踏切支障報知装置]]のボタンを押したが間に合わず&lt;ref name=&quot;ann20170705&quot;&gt;{{Cite news|title=踏切内でエンスト・・・列車と衝突 乗客300人けがなし(17/07/05)|url=https://www.youtube.com/watch?v=WTHdjRLxnhM|publisher=[[ANNニュース]]|date=2017-07-05|accessdate=2017-07-06}}&lt;/ref&gt;、[[小諸駅|小諸]]行き上り普通列車(乗員・乗客計約300人)が衝突し&lt;ref name=&quot;sdt20170705&quot; /&gt;、運転手によると乗用車は6 - 7m移動した&lt;ref name=&quot;ann20170705&quot; /&gt; が、怪我人は出なかった&lt;ref name=&quot;sdt20170705&quot; /&gt;。この事故でしなの鉄道線は小諸駅 - [[篠ノ井駅]]間で&lt;ref name=&quot;nhk20170705&quot; /&gt; 1時間13分運転を見合わせ、上下線計4本が運休し&lt;ref name=&quot;sdt20170705&quot; /&gt;、通勤・通学客等約3,500人に影響が出た&lt;ref name=&quot;nhk20170705&quot; /&gt;。<br /> --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ==== 琵琶湖線架線断線事故 ====<br /> ; 2017年(平成29年)7月26日22時32分頃(その他の電気事故、輸送障害)<br /> : [[滋賀県]][[大津市]]の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[琵琶湖線]]の[[瀬田駅]] - [[石山駅]]間で、下り外側線の架線が断線し火花・小爆発の現象が発生した&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20170727/k00/00m/040/147000c JR東海道線:架線切れ、運転見合わせ 山科-米原間] 毎日新聞 2017年7月26日&lt;/ref&gt;。その付近を走行中の播州赤穂発野洲行き新快速電車([[JR西日本223系電車|223系2000番台]]・[[JR西日本225系電車|225系100番台]]12両編成、[[石山駅]]22時30分発・[[南草津駅]]22時33分着)の運転士が現場を発見し、非常ブレーキを扱うも間に合わず、パンタグラフや屋上機器などを破損しながら進入し、瀬田駅構内で停止した。列車の乗客約300人にケガは無く、列車は自走が出来ないと判断されたため全員が瀬田駅ホームに降車した。このため、[[米原駅]] - [[山科駅]]間の上下線で終日運転を見合わせ、乗客約62,000人に影響が出た&lt;ref&gt;[https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/07/page_10864.html 琵琶湖線(東海道線)瀬田~石山駅間で発生した架線切断事象について] 西日本旅客鉄道 2017年7月27日&lt;/ref&gt;。架線や列車の復旧は当日までには処理できず、翌日の7時頃に復旧作業が終了し7時24分に運転を再開した。事故当該列車は事故翌日に、後続の列車に救援され20両編成となって13時頃に[[網干総合車両所#野洲派出所|網干総合車両所宮原支所野洲派出所]]へと回送された。調査の結果、エアセクション区間において2組の[[架空電車線方式|吊架線]]の間を導電性の物体がまたぐように介在し、吊架線の相互を短絡し電流が流れ、不完全接触により吊架線が断線したと推定されている&lt;ref&gt;[https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/09/page_11148.html 琵琶湖線(東海道線)瀬田~石山駅間で発生した架線切断事象の調査結果と対策について] 西日本旅客鉄道 2017年9月14日&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> <br /> ==== 東海道新幹線浜松工場付近に於ける脱線事故 ====<br /> ; 2017年(平成29年)8月8日16時45分頃(車両脱線)<br /> : [[静岡県]][[浜松市]][[中区 (浜松市)|中区]]の[[東海旅客鉄道|JR東海]][[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工場]]の[[回送線]]に於いて、試運転のため走行していた[[新幹線N700系電車|N700系]]が、16両編成のうち9号車から11号車にかけて脱線した。原因は線路のレールを留める釘が緩んでいたため。負傷者は出なかったものの、回送線と[[市町村道|市道]]とが交差する[[踏切]]上で当該の編成が立往生する形となり、市道が約4時間に亘り通行できなくなる影響が出た&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/articles/ASK886H1PK88UTPB00R.html 出庫中の新幹線が脱線 踏切で立ち往生、市道通行止めに] 朝日新聞 2017年8月8日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 小田急小田原線沿線火災による車両火災事故 ====<br /> {{external media|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=Y6T5hSX-suM 小田急線乗客300人線路歩いて避難=沿線火災]&lt;br /&gt;[[YouTube]]:[[時事通信社|時事通信映像センター]]が2017年9月10日にアップ}}<br /> {{external media|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=l0EMpC1BM5U 小田急が燃えた車両を公開 「今後も安全な運行目指す」]&lt;br /&gt;[[YouTube]]:[[共同通信社]]が2017年9月11日にアップ}}<br /> ; 2017年(平成29年)9月10日16時5分頃&lt;ref name=&quot;asahi 20170910&quot;&gt;{{Cite news|title=小田急線で沿線火災、車両に一時燃え移る 乗客は避難|newspaper=アサヒ・コム|date=2017-9-10|url=http://www.asahi.com/articles/ASK9B5J6NK9BUTIL00H.html|agency=朝日新聞社|accessdate=2017-9-10}}&lt;/ref&gt;(列車火災事故)<br /> <br /> : [[小田急小田原線]][[参宮橋駅|参宮橋]] - [[代々木八幡駅|代々木八幡]]間沿いのボクシングジムが入る建物([[東京都]][[渋谷区]])から出火し&lt;ref name=&quot;asahi912&quot;&gt;[[朝日新聞]] 2017年9月12日朝刊35面&lt;/ref&gt;、これにより緊急停止した[[本厚木駅|本厚木]]発[[新宿駅|新宿]]行き各停電車([[小田急3000形電車 (2代)]]3651F&lt;ref name=&quot;ann0911&quot;&gt;{{Cite news|title=焼けた車両を間近に 黒焦げの屋根と依然煙の臭い(17/09/11)|url=https://www.youtube.com/watch?v=aUf3KJZwJ8A|newspaper=ANNニュース(YouTube)|publisher=[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]|date=2017-09-11|accessdate=2017-09-12}}&lt;/ref&gt;)に飛び火し、7号車(前から2両目)の屋根が約15平米焼けた。電車は引火後小移動し再び止まった。乗客約300人は全員車外に降ろした上で参宮橋駅まで避難誘導を実施。16時45分頃に避難を完了し、怪我人はいなかった&lt;ref name=&quot;asahi 20170911&quot;&gt;{{Cite news|title=乗客300人、避難完了まで30分 小田急線沿線火災|newspaper=アサヒ・コム|date=2017-9-11|url=http://www.asahi.com/articles/ASK9C3K4KK9CUTIL017.html?ref=tetsudocom|agency=朝日新聞社|accessdate=2017-9-11}}&lt;/ref&gt;。小田原線は同日16時20分頃から新宿 - [[経堂駅|経堂]]間の上下線で運転を見合わせ&lt;ref name=&quot;odakyu910&quot;&gt;{{Cite news|title=小田急小田原線の沿線で火事 一時車両に燃え移る|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170910/k10011134101000.html|newspaper=NHK NEWS WEB|publisher=[[日本放送協会]]|date=2017-09-10|accessdate=2017-09-10|archiveurl=https://archive.is/20170910084318/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170910/k10011134101000.html|archivedate=2017年9月10日|deadlinkdate=2017年10月}}&lt;/ref&gt;、21時33分に運転を再開した&lt;ref name=&quot;Sankei 20170910&quot;&gt;{{Cite news|title=小田急車両火災 10日午後9時33分、全線運転再開 ダイヤ乱れ続く|newspaper=産経ニュース|date=2017-9-10|url=http://www.sankei.com/affairs/news/170910/afr1709100017-n1.html|agency=産業経済新聞社|accessdate=2017-9-10}}&lt;/ref&gt;。この火災事故の影響により小田急線・[[東京メトロ千代田線]]の相互直通運転を見合わせる等、運行ダイヤに乱れが生じ&lt;ref name=&quot;Sankei 20170910&quot;/&gt;、約7万1千人の乗客に影響が出た。緊急停止の経緯は、16時11分頃に消防隊から「消火活動をする為電車を止めて欲しい」との依頼を受けた[[代々木警察署]]員が[[踏切支障報知装置]]のボタンを押し&lt;ref name=&quot;sankei911&quot;&gt;{{Cite news|title=【小田急火災】屋根に延焼 警察官停止ボタン→現場前で緊急停止→120メートル動くも燃え移り、避難開始|url=http://www.sankei.com/affairs/news/170911/afr1709110008-n1.html|newspaper=産経ニュース|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2017-09-11|accessdate=2017-09-11}}&lt;/ref&gt;、[[自動列車停止装置]](ATS)が作動し電車が自動停止したものである&lt;ref name=&quot;asahi912&quot; /&gt;。[[運転士]]が確認したところ、火災に気付き、早急に電車を安全な場所に移動させようとしたが、司令所からの承諾に約8分掛かり、この間に飛び火した&lt;ref name=&quot;Jiki 20170911&quot;&gt;{{Cite news|title=現場に8分、延焼招く=緊急停止、運行再開で-小田急線火災・警視庁|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2017091100947&amp;g=soc|newspaper=時事ドットコム|publisher=[[時事通信社]]|date=2017-09-11|accessdate=2017-09-12}}&lt;/ref&gt;。承諾後、新宿方面に動かし始めたが、消防士に飛び火を知らされ、約120m動いたところで再び止めた&lt;ref name=&quot;sankei911&quot; /&gt;。承諾時間に約8分掛かったことについて[[小田急電鉄]]は「安全の確認も必要であり、この度合いの時間は必要」としている&lt;ref name=&quot;Jiki 20170911&quot;/&gt;。なお、沿線火災の場合、現場手前での停止が間に合わない場合は通過するのが通例である&lt;ref&gt;[[読売新聞]] 2017年9月11日夕刊13面&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> : なお、本件火災の原因に関し、出火場所のボクシングジム関係者が「建物の三階でタバコを吸った」と語っていることから、代々木警察署は出火原因についてタバコの不始末による失火の疑いで調査をしている&lt;ref name=&quot;Sponichi 20170912&quot;&gt;{{Cite news|title=小田急線延焼タバコ原因か 火元ジム関係者「3階で吸った」|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2017-9-12|url=http://www.sponichi.co.jp/society/news/2017/09/12/kiji/20170911s00042000313000c.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2017-9-12}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> : 小田急は事故翌日の[[9月11日]]、東京都[[世田谷区]]の[[小田急電鉄の車両検修施設#喜多見検車区|車両基地]]で当該編成を報道陣に公開&lt;ref name=&quot;ann0911&quot; /&gt;。屋根の延焼について、屋根の一部は[[絶縁体]]である[[ポリウレタン]]で覆われていて、難燃剤を混合しているが延焼することもあると説明した&lt;ref&gt;映像外部リンク「小田急が燃えた車両を公開 「今後も安全な運行目指す」」参照&lt;/ref&gt;。車内も公開され、7号車に化学性の刺激臭があった以外は通常の室内が維持されていたことも明らかになった&lt;ref name=&quot;Response 20170911&quot;&gt;{{Cite news|title=小田急線、列車延焼火災で車両を公開 屋根の一部に変形した焦げ跡|newspaper=[[Response.]]|date=2017-9-11|url=https://response.jp/article/2017/09/11/299630.html|agency=イード|accessdate=2017-9-14}}&lt;/ref&gt;。小田急の広報部は「沿線火災による鉄道車両への影響は前例がなく、これを教訓とし、どのような対応ができるのか検証する」と話している&lt;ref name=&quot;Response 20170911&quot;/&gt;。なお、2018年7月9日現在、該当車両は相模大野車庫の中にいる。<br /> <br /> : 9月12日、[[石井啓一]][[国土交通大臣]]は定例記者会見に於いて、国土交通省の事務方に対して「鉄道線路の間近で火災が発生した場合の、列車の運行と消防による消防活動」のあり方等について検証するよう指示すると共に、小田急電鉄に対しても「電車運転及び火災対応や避難誘導が適切に行われたかどうかに関し、小田急の社内で検証するよう」指示したことを明らかにしている&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/interview/daijin170912.html 石井大臣会見要旨] 国土交通省 2017年9月12日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news|title=石井国交大臣が検証を指示 小田急線の車両“延焼”(17/09/12)|url=https://www.youtube.com/watch?v=awbslwdVWjw|newspaper=[[ANNニュース]]|publisher=[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]|date=2017-09-12|accessdate=2017-09-13}}&lt;/ref&gt;。<br /> &lt;!--<br /> ==== 東京モノレール立ち往生トラブル ====<br /> ; 2017年(平成29年)9月12日14時15分頃(輸送障害)<br /> : [[東京モノレール]][[東京モノレール羽田空港線|羽田空港線]]の[[昭和島駅]] - [[整備場駅]]間で送電トラブルが発生し、走行中の列車が駅間で停止し、乗客が閉じ込められ、別の車両を横付けして脱出した&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20170913/k00/00m/040/061000c 東京モノレール運転停止 乗客閉じ込め 横付け車両で救出] 毎日新聞 2017年9月12日&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ==== 小湊鉄道線下沖田踏切事故 ====<br /> ; 2017年(平成29年)9月16日9時20分頃(踏切障害事故)<br /> : [[小湊鐵道]][[小湊鉄道線]]の[[市原市]][[馬立 (市原市)|馬立]]の下沖田踏切にて[[上総中野駅|上総中野]]発[[五井駅|五井]]行き(2両編成)が乗用車と接触する事故が発生。乗用車を運転していた87歳の男性が重傷を負い、乗客乗員約30人にけがは無かった。この事故により上下線11本が運休約600人に影響が出た。&lt;ref&gt;読売新聞 2017年9月12日 2017年9月17日付け朝刊 23面&lt;/ref&gt;<br /> --&gt;<br /> <br /> ==== 直方車両センターにおける脱線事故 ====<br /> ; ★2017年(平成29年)9月18日5時20分頃(列車脱線事故)<br /> : [[福岡県]][[直方市]]の[[九州旅客鉄道|JR九州]][[筑豊篠栗鉄道事業部#直方車両センター|直方車両センター]]で、[[JR九州BEC819系電車|BEC819系]]2両編成を隣接する[[筑豊本線]]([[福北ゆたか線]])[[直方駅]]に移動しようとしたところ、車両が停止位置を超えて[[車止め#鉄道の車止め|車止め]]に衝突し脱線。この影響で、同線は一部区間で終日運転を見合わせた。運転士のブレーキ操作が遅れたことが原因と見られている&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20170919/ddp/041/040/022000c 鉄道事故 JR直方駅で営業前に脱線 一部運転見合わせ] 毎日新聞 2017年9月19日&lt;/ref&gt;。<br /> &lt;!--<br /> ==== 鹿児島本線における列車と自動車との衝突事故 ====<br /> ; 2017年(平成29年)9月24日7時50分頃(鉄道物損事故)<br /> : [[福岡県]][[岡垣町]]の[[九州旅客鉄道|JR九州]][[鹿児島本線]][[遠賀川駅]] - [[海老津駅]]間で、並行する[[市町村道|町道]]を走行していた乗用車が、T字路のガードレールを突き破って線路内に転落し、通り掛かった[[博多駅|博多]]発[[小倉駅 (福岡県)|小倉]]行普通列車(6両編成)と衝突。この事故で、乗用車を運転していた79歳の男性が死亡。列車の乗務員や乗客には負傷者は無かった&lt;ref&gt;[https://response.jp/article/2017/09/25/300224.html ガードレールを突き破って15m下まで転落したクルマ、さらに列車と衝突] Response. 2017年9月25日&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ==== 阪和線富木駅ホーム転落事故 ====<br /> ; 2017年(平成29年)10月1日21時25分頃(鉄道人身障害事故)<br /> : [[大阪府]][[高石市]]の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[阪和線]][[富木駅]]で、ホーム上を歩いていた59歳の全盲の男性がホームから転落。男性は駅を通過してきた[[天王寺駅|天王寺]]発[[和歌山駅|和歌山]]行[[阪和線#快速|快速]]にはねられ、搬送先の病院で死亡した。[[大阪府警察]]は、男性が誤ってホームから転落したと見ている&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20171002/k00/00m/040/152000c 視覚障害者事故 ホームから男性転落、はねられ死亡 大阪] 毎日新聞 2017年10月2日&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ==== 肥薩線特急「かわせみ やませみ」踏切障害事故 ====<br /> ; 2017年(平成29年)11月3日10時15分頃(踏切障害事故)<br /> : [[熊本県]][[八代市]]の[[九州旅客鉄道|JR九州]][[肥薩線]]の踏切で観光列車「[[かわせみ やませみ]]」が[[建設機械|重機]]を載せた[[貨物自動車|トラック]]と衝突した。子供などを含む乗客11人が負傷をした。この事故でレール変形などの被害が出たため特急6本と普通17本が運休し、約1,650人に影響が出た&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20171103/k00/00e/040/222000c 列車事故:観光特急がトラックに衝突、11人けが 熊本] - 毎日新聞、2017年11月3日&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ==== 長崎本線における踏切ワイヤー破断事故 ====<br /> ; 2017年(平成29年)11月9日12時40分頃(鉄道物損事故)<br /> : [[佐賀県]][[吉野ヶ里町]]内のJR九州[[長崎本線]][[神埼駅|神埼]] - [[吉野ヶ里公園駅|吉野ヶ里公園]]間の踏切で、トラックが踏切を通過した際、高さ制限のワイヤーに接触しワイヤーが切断。通り掛かった[[肥前山口駅|肥前山口]]発[[鳥栖駅|鳥栖]]行普通列車の[[集電装置|パンタグラフ]]に切断したワイヤーが接触し、パンタグラフが破損した。この事故で当該の列車は現場付近で長時間立ち往生した。[[架線]]に引っ掛かり破断した場合、交流2万[[ボルト (単位)|ボルト]]の高圧電流の直撃を受ける危険があった&lt;ref&gt;[https://response.jp/article/2017/11/10/302381.html あわや2万ボルト…トラックが踏切の高さ制限ワイヤーに接触、列車も被害] Response.2017年11月10日&lt;/ref&gt;。<br /> --&gt;<br /> ==== 東海道・山陽新幹線「のぞみ34号」台車破損トラブル ====<br /> ; ★2017年(平成29年)12月11日17時3分頃(車両障害、輸送障害)<br /> : [[博多駅|博多]]発[[東京駅|東京]]行「[[のぞみ (列車)|のぞみ34号]]([[新幹線N700系電車|N700系]](JR西日本所属編成))」車内で[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]にて乗務員らが異臭を確認し、その後13号車の乗客からも「車内にもやがかかっている」とする指摘があった&lt;ref name=&quot;sankei_wst1712160058&quot;&gt;{{Cite news|url=http://www.sankei.com/west/print/171216/wst1712160058-c.html|title=【新幹線台車亀裂・動画】のぞみ台車撤去、本格調査へ 異変3時間…対応は、原因は|date=2017-12-16|newspaper=産経新聞|accessdate=2017-12-18}}&lt;/ref&gt;。[[岡山駅]]から添乗したJR西日本の保守係員は「うなり音」を確認したが、東京の輸送指令は運行に支障なしとして運行継続を指示。新大阪駅で乗務員はJR東海と交替し、[[京都駅]]出発直後に車掌が&lt;ref name=&quot;sankei_wst1712160058&quot; /&gt;再び異臭を認めたものの、輸送指令(東海)は[[名古屋駅]]まで運行継続させ同駅でJR東海の保守係員が床下点検を行ったところ、13号車の歯車箱付近に油漏れが見つかり同列車は名古屋駅で運転を打ち切った。その後台車の側梁に10 cm以上に達する亀裂と&lt;ref&gt;{{Cite news|title=新幹線の台車亀裂は10センチ以上 脱線のおそれも|newspaper=NHK NEWS WEB|date=2017-12-13|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171213/k10011257381000.html|accessdate=2017-12-18|agency=日本放送協会}}&lt;/ref&gt;、歯車箱と主電動機とをつなぐ[[WN継手]]の変色も確認された&lt;ref name=&quot;westjr_2017_p11605&quot; /&gt;。[[運輸安全委員会]]はこのトラブルを重く受け止め、新幹線としては初の「[[重大インシデント]]」に認定した&lt;ref name=&quot;westjr_2017_p11605&quot;&gt;[https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/12/page_11605.html 12月11日に発生した「のぞみ34号」の一部区間の運転取り止めについて] - JR西日本、2017年12月12日&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;:1&quot;&gt;[https://mainichi.jp/articles/20171213/k00/00m/040/104000c 東海道・山陽新幹線の台車に亀裂] - 毎日新聞、2017年12月12日&lt;/ref&gt;。なお、このトラブルにより事故車が名古屋駅14番線ホームに12月17日まで停泊したため一部列車に遅延などの影響が出た&lt;ref&gt;{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171218/k10011262261000.html|title=新幹線に亀裂 名古屋駅のホーム使用再開 遅れは解消へ|newspaper=NHK NEWS WEB|date=2017-12-18|agency=日本放送協会|accessdate=2017-12-18}}&lt;/ref&gt;。事故台車は同年2月に行った[[全般検査]]、10月に行った目視前検査ではいずれも異常は発見されなかったが&lt;ref name=&quot;westjr_2017_p11605&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;:1&quot; /&gt;、翌年2月にJR西日本は問題の台車の調査結果を公表し、破断部分付近の鋼材にばね座を溶接する際、両者を密着させるため側梁を削った際に規定厚さの7 mmよりも薄く4.7 mmまで削ったため、台車枠の強度が基準を下回っていた可能性が判明&lt;ref name=&quot;:2&quot;&gt;https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27504090Y8A220C1000000/&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;:3&quot;&gt;{{Cite news|title=のぞみ台車亀裂は強度不足 製造段階で溶接不備か|newspaper=[[神戸新聞]]NEXT|date=2018年2月24日|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201802/0011013132.shtml|accessdate=2018年2月25日|publisher=[[神戸新聞社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180224001123/https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201802/0011013132.shtml|archivedate=2018年2月24日}}&lt;/ref&gt;。さらにJR西日本の所有新幹線台車303台のうち、他の車両分の100台が規定厚さ未満まで削られている事も判明、当該台車は順次交換するとした&lt;ref name=&quot;:2&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;:3&quot; /&gt;。再発防止策として超音波探傷装置や台車温度検知装置などを活用し、安全の確保に努めると発表した&lt;ref&gt;[http://www.westjr.co.jp/press/article/2018/02/page_11962.html 新幹線台車の安全確保について]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/180228_00_nozomi.pdf 概況]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/180228_02_nozomi.pdf 台車枠き裂の発生状況]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/180228_03_nozomi.pdf 異音・異臭の発生に至った推定メカニズム]&lt;/ref&gt;。<br /> {{see also|新幹線N700系電車#重大インシデント}}<br /> <br /> ==== 札幌市営地下鉄南北線大通駅における接触事故 ====<br /> ; 2018年(平成30年)1月9日13時14分頃(鉄道人身障害事故)<br /> : [[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]内の[[札幌市営地下鉄南北線]][[大通駅]]の[[麻生駅|麻生]]方面行ホームで、[[真駒内駅|真駒内]]発麻生行電車が停車する直前に、ホームの鉄柵を乗り越えて線路内に入っていた55歳の女性が先頭車両に接触し、左足骨折の怪我をした。この事故で同線は上下19本が運休した。同線ではホームからの転落事故防止のため、2013年3月に全駅に[[ホームドア]]の設置を完了しているが、それ以降では初の事故となった&lt;ref&gt;[https://response.jp/article/2018/01/10/304520.html ホームドア設置後初 1月9日に発生した札幌市営地下鉄の人身事故] Response. 2018年1月10日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 山陽本線踏切事故(2018年1月) ====<br /> ; 2018年(平成30年)1月12日15時30分頃(踏切障害事故)<br /> : [[兵庫県]][[高砂市]]内の[[山陽本線]][[JR神戸線]][[宝殿駅]]近くの踏切で、踏切を横断していた[[車椅子#電動車いす|電動車椅子]]使用の[[高齢者|高齢]]女性が、[[網干駅|網干]]発[[米原駅|米原]]行普通列車にはねられ、間もなく死亡が確認された。[[兵庫県警察]]の調べでは、電動車椅子が踏切内で脱輪したため、女性は車椅子を操作しようとしたり、危険を知らせるため手を挙げるなどしていた模様である&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20180113/ddm/041/040/140000c 鉄道事故 電動車椅子の女性死亡 踏切内、電車にひかれ 兵庫] 毎日新聞 2018年1月13日&lt;/ref&gt;。<br /> : なお、同様の事故は同年5月に中央本線でも発生している。電動車いすで踏切横断中に何らかの理由で立ち往生するなど、共通点が多い。<br /> : 電動車いすは重量が重いため、踏切内で脱輪や車輪がレールの溝に落下すると利用者が独りで持ち上がるのが不可能になるほか、足が不自由なため踏切の外に避難したり非常停止ボタンの位置まで移動することも困難である。このため、踏切内で立ち往生した場合は周囲の人に助けを求めるか、危険を知らせるため手を振るくらいしか出来ることがないのが現状である。<br /> <br /> ==== 三岐鉄道三岐線列車火災事故 ====<br /> ; 2018年(平成30年)2月5日17時25分頃(列車火災事故)<br /> : [[近鉄富田駅|近鉄富田]]発[[西藤原駅|西藤原]]行き普通列車(1979年製、3両編成)が[[三重県]][[いなべ市]]の[[梅戸井駅]]に停車中、運転士が[[前照灯#鉄道車両|前照灯]]や車内の[[蛍光灯]]が消えていることに気付いた。運転士が2両目床下の[[電動発電機]]([[三菱電機]]製)を確認したところ発煙しており、最後尾運転台の低圧スイッチからは出火していた。火は運転士が車両備え付けの[[消火器]]で消し止め、列車は運行を取り止めた&lt;ref&gt;{{Cite news|title=三重・三岐鉄道 梅戸井駅停車の普通列車の設備から出火|url=https://mainichi.jp/articles/20180206/k00/00m/040/110000c|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=2018-02-06|accessdate=2018-02-06}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 石勝線貨物列車脱線事故(2018年) ====<br /> ; 2018年(平成30年)2月24日午前2時10分頃([[列車脱線事故]])<br /> : [[北海道]][[占冠村]]の[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[石勝線]][[トマム駅]]構内で、通過中の[[札幌貨物ターミナル駅|札幌貨物ターミナル]]発[[帯広貨物駅|帯広貨物]]行き[[貨物列車]](17両編成)の3両目が一時的に脱線した。この事故により、トマム駅構内の[[分岐器]]が破壊され、切り替わらなくなった。また、34本の列車が運休した&lt;ref&gt;{{Cite news|title=JR北海道、貨物列車が一時脱線…そのまま目的地へ トマム駅のポイント付近に痕跡|url=http://www.sankei.com/affairs/news/180224/afr1802240018-n1.html|newspaper=[[産経新聞|産経ニュース]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2018-02-24|accessdate=2018-02-24}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 福北ゆたか線におけるトレーラー進入事故 ====<br /> ; 2018年(平成30年)3月26日5時頃(鉄道物損事故・輸送障害)<br /> : [[福岡県]][[小竹町]]の[[九州旅客鉄道|JR九州]][[筑豊本線]]([[福北ゆたか線]])[[勝野駅]] - [[小竹駅]]間の線路敷地内に、[[大型自動車|大型]][[牽引自動車|トレーラー]]が進入し、線路沿いの[[鉄道信号機|信号機]]を破壊し停止した。トレーラーは、線路と並走する[[国道200号]]で[[軽自動車|軽]][[乗用車]]と衝突したはずみで線路内に進入したものと見られている。この影響で、同線は[[直方駅]] - [[新飯塚駅]]間で運転を見合わせ、[[バス代行]]輸送を実施した&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20180326/ddg/041/040/005000c 鉄道トラブル 筑豊線線路敷地、トレーラー進入 福岡・小竹町] 毎日新聞 2018年3月26日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 愛知環状鉄道線保守用車両脱線事故 ====<br /> ; 2018年(平成30年)4月4日3時50分頃(列車脱線事故)<br /> : [[愛知県]][[瀬戸市]]の[[愛知環状鉄道線]][[瀬戸口駅]]付近で、2両編成の[[モーターカー|保守用車両]]が突然脱線。負傷者はいなかった。この事故の影響で、同線は瀬戸口駅 - [[高蔵寺駅]]間で朝の下り列車2本が運休した&lt;ref&gt;[https://www.asahi.com/articles/ASL443GV9L44OIPE00F.html?iref=pc_ss_date 愛知環状鉄道で保守用車両が脱線 けが人なし、運休も] 朝日新聞 2018年4月4日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 西鉄天神大牟田線での車両ドア開き走行 ====<br /> ; ★2018年(平成30年)5月15日16時50分頃(車両障害)<br /> : [[西鉄天神大牟田線]][[白木原駅]] - [[雑餉隈駅]]間で、[[大善寺駅|大善寺]]発[[西鉄福岡(天神)駅|西鉄福岡(天神)]]行き2152普通列車([[西鉄5000形電車|5000形]]、4両編成)が、前から3両目の車両の扉1か所が最大65cm開いたままの状態で走行した。同列車が[[春日原駅]]を発車した直後に車掌が同駅ホーム上の乗客から指摘を受け、雑餉隈駅で施錠したのち、指令所からの指示により、雑餉隈駅 - [[井尻駅]]間で停車し、他の扉に異常がないことを確認して運行再開した&lt;ref&gt;[https://www.asahi.com/articles/ASL5K6F3NL5KTIPE027.html 西鉄のドア、実は2駅間で開いたまま 投稿動画で発覚] - 朝日新聞、2018年5月18日&lt;/ref&gt;。<br /> : [[運輸安全委員会]]は5月16日に、事故に繋がりかねない重大インシデントであるとして調査を実施した&lt;ref&gt;[https://www.asahi.com/articles/ASL5J5GBBL5JTIPE01L.html 西鉄のドア開いたまま走行、重大インシデントに認定] 朝日新聞 2018年5月16日&lt;/ref&gt;。<br /> : 直接的な原因は扉の上の開閉装置と扉を連結する金具が外れたことによるものであるが、詳細な原因は調査中&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.nishitetsu.jp/pdf/180518.pdf 西鉄天神大牟田線における重大インシデントについて]}} - 西日本鉄道、2018年5月18日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== JR学研都市線における乗用車侵入事故====<br /> ; 2018年(平成30年)6月9日9時20分頃(鉄道物損事故・輸送障害)<br /> : [[大阪府]][[大東市]]の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[片町線]]([[学研都市線]])[[住道駅]] - [[野崎駅 (大阪府)|野崎駅]]間の線路敷地内に乗用車が進入し、走行中の[[京橋駅 (大阪府)|京橋]]発[[木津駅 (京都府)|木津]]行上り普通列車([[JR西日本321系電車|321系]]7両編成)と衝突し、乗用車を運転していた男性が死亡、同乗していた女性が軽傷を負った。<br /> : 大阪府警四條畷署によると、乗用車を運転していた男性は、現場の線路沿いにある病院駐車場の発券機前でバックした際に後続車に接触。直後に急発進し、100メートル以上離れた線路内に駐車場のフェンスを破って突っ込んだ。電車の乗客約150人にけがはなかった。<br /> : JR西日本によれば、この事故により同線は[[放出駅]] - [[長尾駅 (大阪府)|長尾駅]]間の上下線で運転を一時見合わせるなどして利用者約6万5千人に影響が出た&lt;ref&gt;[https://r.nikkei.com/article/DGXMZO3157749009062018AC1000 JR線路内で電車と衝突車の夫婦死傷、大阪・大東] 日本経済新聞 2018年6月9日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[https://www.asahi.com/sp/articles/ASL6935STL69PTIL003.html JR学研都市線が一時運転見合わせ 約6万5千人に影響] 朝日新聞 2018年6月9日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 山陽新幹線における人身事故(2018年) ====<br /> ; 2018年(平成30年)6月14日14時過ぎ(鉄道人身障害事故)<br /> : [[北九州市]][[八幡西区]]内の[[山陽新幹線]][[博多駅]] - [[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]間で、走行中の博多発[[東京駅|東京]]行[[のぞみ (列車)|のぞみ]]176号([[新幹線700系電車|700系]]16両編成)の[[ボンネット]]が破損しているのに運転士が気付いた。その後[[新下関駅]]に臨時停車させ調べたところ、ボンネットに入った亀裂の付近に、人体の一部が付着しているのが見つかった。また同日20時過ぎに、線路付近から人体の一部が見つかった。この事故の影響で、山陽新幹線は同日一杯、[[広島駅]] - 博多駅間で運行を見合わせた&lt;ref&gt;[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180615/k10011478601000.html 山陽新幹線が人と接触 北九州市内の線路上に人体の一部] NHKニュース 2018年6月15日&lt;/ref&gt;。この事故に於いては、運転士が異常音に気付いていながら、過去の事例から鳥などの小動物に当たったものと判断し、報告せずに運転を続けていた&lt;ref&gt;[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180615/k10011478741000.html 山陽新幹線が人と接触 異常音に気付くも報告せず走行] NHKニュース 2018年6月15日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 蘇我駅付近における貨物列車脱線事故 ====<br /> ; ★2018年(平成30年)6月16日(列車脱線事故)<br /> : [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[蘇我駅]]付近で、[[東京貨物ターミナル]]発[[千葉貨物駅]]行[[貨物列車]]([[機関車]]1両・[[コンテナ車]]18両編成)のうち、コンテナ車1両が脱線。当該の列車は、同駅まで[[日本貨物鉄道]](JR貨物)が運行し、同駅で[[京葉臨海鉄道]]の運転士に交代していた。事故による負傷者はおらず、並行する[[外房線]]などへのダイヤの影響はなかったが、[[運輸安全委員会]]が調査官を派遣した&lt;ref&gt;[https://www.asahi.com/articles/ASL6J6GB6L6JUTIL01K.html 貨物列車が脱線、運転手交代直後に 千葉・蘇我駅付近] 朝日新聞 2018年6月16日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ====高崎線踏切事故====<br /> ; 2018年(平成30年)6月29日11時頃(踏切障害事故)<br /> : [[埼玉県]][[深谷市]]宿根の踏切で、[[上野駅|上野]]発[[長野原草津口駅|長野原草津口]]行[[草津 (列車)|草津]]1号([[JR東日本651系電車|651系]]7両編成)が踏切内にいた軽乗用車と衝突し、車に乗っていた1名が死亡した。列車の乗客乗員約230名にけがはなかった。この事故の影響で、高崎線は東京 - 高崎間の上下線で13時前まで運転を見合わせた&lt;ref&gt;[https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20180629-00000030-jnn-soci JR特急と車衝突 1人死亡、埼玉・深谷市の踏切]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 京福電気鉄道北野線における踏切事故 ====<br /> ; 2018年(平成30年)7月17日13時10分頃(踏切障害事故)<br /> : [[京都市]][[右京区]]の[[京福電気鉄道北野線]][[北野白梅町駅]] - [[等持院駅]]間の踏切で、踏切を通過中の電車と、踏切に差し掛かった[[日本のタクシー|タクシー]]が衝突。事故でタクシーは中破し、運転者が打撲などの怪我をした。この事故においては、当事者のタクシー運転手の他、周辺の事故の目撃者も「踏切の[[警報機]]と[[遮断機]]が作動していなかった」と証言しており、[[京都府警察]]は京福電気鉄道と共に検証を行っている&lt;ref&gt;[https://response.jp/article/2018/07/18/312059.html タクシーと列車が踏切で衝突…警報機や遮断機が作動せず?] Response.2018年7月18日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 万葉線脱線事故 ====<br /> ; 2018年(平成30年)7月21日16時頃(列車脱線事故)<br /> : [[富山県]][[射水市]]の[[万葉線]][[中新湊駅]]構内で、[[高岡駅#万葉線|高岡駅]]発[[越ノ潟駅|越ノ潟]]行電車(2両編成)が発車直後、2両中先頭の1両が脱線。電車の乗客・乗務員合わせて5人に負傷者はいなかった。この年の折からの[[猛暑]]で、レールが歪んだためと見られている&lt;ref&gt;[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180722/k10011543891000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_003 路面電車が脱線 暑さでレールゆがんだか 富山 射水] NHKニュース 2018年7月22日&lt;/ref&gt;。この事故を受け同社は、融雪装置によって水を散布しレールを冷却するなどの対策を取った&lt;ref&gt;[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180723/k10011545591000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_002 路面電車脱線受け 融雪装置で水まきレール冷やす対策] NHKニュース 2018年7月23日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 京阪本線萱島駅に於けるパンタグラフ破損事故 ====<br /> ; 2018年(平成30年)7月30日8時頃(車両障害)<br /> : [[大阪府]][[寝屋川市]]の[[京阪本線]][[萱島駅]]で、停車中の列車([[京阪1000系電車|1000系]]7両編成)の[[パンタグラフ]]が変形しているのが見つかった。このトラブルで、当該の車両は[[エア・コンディショナー|エアコン]]が停止し、車内にいた乗客22人が体調不良などを訴えた。また、この影響で、京阪本線・[[京阪鴨東線|鴨東線]]・[[京阪中之島線|中之島線]]が約4時間に亘り運転を見合わせた&lt;ref&gt;[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180730/k10011556081000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_002 京阪電鉄車両トラブル 乗客22人体調不良で搬送 大阪] NHKニュース 2018年7月30日&lt;/ref&gt;。[[京阪電気鉄道]]が原因を調べたところ、この年の夏の連日に亘る記録的[[猛暑]]の影響で架線が延びて弛み、パンタグラフが過剰に上昇して金具に接触したためと見られる&lt;ref&gt;[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180803/k10011562571000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_001 京阪電鉄の車両トラブルは猛暑の影響] NHKニュース 2018年8月3日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|4}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Rail transport accidents in Japan|日本の鉄道事故}}<br /> * [[鉄道事故]]<br /> <br /> {{日本の鉄道史|しこ2000}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:にほんのてつとうしこ2000}}<br /> [[Category:日本の鉄道事故|*2000]]<br /> [[Category:鉄道関連一覧|てつとうしこ2000]]</div> 221.244.37.138 国道43号 2018-08-04T03:25:05Z <p>221.244.37.138: /* 通称 */ 満更誤用でもないと思われるため、修正。</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2013年8月|ソートキー=道国043}}<br /> {{Infobox road<br /> |種別・系統 = [[一般国道]]<br /> |アイコン = {{Ja Route Sign|43|width=100}}<br /> |名前 = 国道43号<br /> |地図画像 = [[File:Japan National Route 43 Map.png|250px]]<br /> |総延長 = 30.0 [[キロメートル|km]]<br /> |実延長 = 30.0 km<br /> |現道 = 30.0 km<br /> |制定年 = [[1953年]]指定<br /> |起点 = [[大阪府]][[大阪市]][[西成区]]&lt;br /&gt;花園北交差点({{ウィキ座標|34|39|1.59|N|135|29|51.47|E|region:JP-05|地図|name=花園北交差点}})<br /> |主な経由都市 = [[兵庫県]][[尼崎市]]、[[西宮市]]、[[芦屋市]]<br /> |終点 = [[兵庫県]][[神戸市]][[灘区]]&lt;br /&gt;岩屋交差点({{ウィキ座標|34|42|14.32|N|135|13|30.22|E|region:JP-05|地図|name=岩屋交差点}})<br /> |接続する主な道路 = &lt;!-- 国道のみを最大7路線を基準に記述 --&gt;[[ファイル:Japanese National Route Sign 0026.svg|24px]][[国道26号]]&lt;br /&gt;[[ファイル:Japanese National Route Sign 0172.svg|24px]][[国道172号]]&lt;br /&gt;[[ファイル:Japanese National Route Sign 0002.svg|24px]][[国道2号]]&lt;br /&gt;[[ファイル:Japanese National Route Sign 0171.svg|24px]][[国道171号]]<br /> }}<br /> {{Double image stack|right|Route43 Kobe-Ogi.jpg|Route 43 (Japan) Nada Kobe.jpg|250|神戸市灘区青木付近&lt;br /&gt;大型車は道路の中央よりを走る通行規制が敷かれている。}}<br /> &#039;&#039;&#039;国道43号&#039;&#039;&#039;(こくどう43ごう)は、[[大阪府]][[大阪市]][[西成区]]から[[兵庫県]][[神戸市]][[灘区]]へ至る[[一般国道]]である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> {{独自研究|section=1|date=2013年8月|ソートキー=道国043}}<br /> 大阪 - 西宮間は、往時の[[中国街道]](中国路、浜街道)と重なる区間をとっている。大阪市[[西淀川区]]出来島2丁目以西は全区間[[阪神高速3号神戸線]]が真上を通り、[[阪神高速17号西大阪線]]の全区間はこの国道43号と並行に経路をとる。<br /> <br /> このため深刻な[[大気汚染]]が発生している。[[西淀川公害訴訟]]では自動車[[排気ガス]]の健康被害が初めて認められた。これを受けて、速度規制(40km/h、一部区間で50km/h)、逆[[位相]]による防音措置、多数の[[オービス]]設置などの処置が施された。<br /> <br /> 西淀川公害訴訟の結果に加え、1995年の[[阪神・淡路大震災]]の被災・復興も兼ね、43号は広域防災帯と位置づけられた。両側車線数削減を実施し、用地買収がなされている。このため、開通当時は片側5[[車線]]だったのが、その後緑地帯追加で片側4車線となり、震災後は阪神高速湾岸線へ交通移動も考慮し片側3車線となっている。さらに歩道を挟んで外側に、緑地が確保されている場所もある。また、西淀川公害訴訟の原告団は、時間帯を区切る形での罰則付きでの[[大型自動車|大型車]]規制を盛り込んだルールの制定を求めていたが、同訴訟の和解内容に盛り込まれていなかったことや、原告の高齢化などの事情で断念し、「環境レーン」を設ける形で、罰則無しでの規制を実施し、通行禁止を事実上断念することになった&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/111222/wec11122213220002-n1.htm 国道43号に「環境レーン」 尼崎、大型車禁止は断念]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 西淀川区出来島から[[港区 (大阪市)|港区]]安治川大橋までの5kmほどは連続立体交差となっている。この区間は[[阪神高速道路]]と類似した構造のため、{{要出典範囲|スピードを出すドライバーが多く、事実最高速度である40km/hを守るドライバーはほとんど見られない。|date=2017年7月31日 (月) 05:52 (UTC)}}<br /> <br /> 大阪市内では、[[国道172号]]([[みなと通]])と交差する市岡元町3交差点を中心に、[[大正通]]と交差する泉尾交差点、[[中央大通]]と交差する[[弁天町駅|弁天町駅前]]交差点で[[渋滞]]が頻発する。&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2013-02-15 |url=http://www.kkr.mlit.go.jp/road/sesaku/qgl8vl0000005xlf-att/kasho.pdf |title=「地域の主要渋滞箇所」の公表について~官民一体で京阪神圏内の主要渋滞箇所を選定~ |format=PDF |publisher=京阪神圏渋滞ボトルネック対策協議会 |accessdate=2017-10-07}}&lt;/ref&gt;{{独自研究範囲|この渋滞を避けるために、並行する[[阪神高速17号西大阪線]](安治川から北津守の区間料金は西大阪線末端区間割引となり普通車210円)を利用する車も多い|date=2017年7月31日 (月) 05:52 (UTC)}}。<br /> <br /> 兵庫県内では、[[阪神高速3号神戸線]]が真上を走っているため、{{独自研究範囲|ランプ付近で渋滞していることが多い|date=2017年7月31日 (月) 05:52 (UTC)}}。<br /> <br /> === 路線データ ===<br /> 一般国道の路線を指定する政令&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S40/S40SE058.html|title=一般国道の路線を指定する政令(昭和40年3月29日政令第58号)|work=法令データ提供システム|publisher=[[総務省]][[行政管理局]]|accessdate=2013-08-29}}&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;一般国道の路線を指定する政令の最終改正日である2004年3月19日の政令(平成16年3月19日政令第50号)に基づく表記。&lt;/ref&gt;に基づく起終点および経過地は次のとおり。<br /> * 起点 : [[大阪市]](西成区花園北交差点=[[国道26号]]交点)<br /> * 終点 : [[神戸市]](灘区岩屋交差点=[[国道2号]]・[[国道171号]]交点)<br /> * 重要な経過地 : [[尼崎市]](東本町)、[[西宮市]](本町)、[[芦屋市]](平田町)<br /> * [[延長 (日本の道路)#総延長|総延長]] : 30.0 [[キロメートル|km]]&lt;small&gt;(大阪市 9.8 km、兵庫県 12.7 km、神戸市 7.5 km)&lt;/small&gt;&lt;ref name=&quot;encho&quot;&gt;{{Cite web|format=PDF|url=http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-data/tokei-nen/2016/pdf/d_genkyou26.pdf|title=表26 一般国道の路線別、都道府県別道路現況|page=4|work=道路統計年報2016|publisher=[[国土交通省]][[道路局]]|accessdate=2017-05-06}}&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot; name=&quot;encho&quot;&gt;2015年4月1日現在&lt;/ref&gt;<br /> * [[延長 (日本の道路)#重用延長|重用延長]] : なし&lt;ref name=&quot;encho&quot; /&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot; name=&quot;encho&quot; /&gt;<br /> * [[延長 (日本の道路)#未供用延長|未供用延長]] : なし&lt;ref name=&quot;encho&quot; /&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot; name=&quot;encho&quot; /&gt;<br /> * [[延長 (日本の道路)#実延長|実延長]] : 30.0 km&lt;small&gt;(大阪市 9.8 km、兵庫県 12.7 km、神戸市 7.5 km)&lt;/small&gt;&lt;ref name=&quot;encho&quot; /&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot; name=&quot;encho&quot; /&gt;<br /> ** 現道 : 30.0 km&lt;small&gt;(大阪市 9.8 km、兵庫県 12.7 km、神戸市 7.5 km)&lt;/small&gt;&lt;ref name=&quot;encho&quot; /&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot; name=&quot;encho&quot; /&gt; <br /> ** 旧道 : なし&lt;ref name=&quot;encho&quot; /&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot; name=&quot;encho&quot; /&gt; <br /> ** 新道 : なし&lt;ref name=&quot;encho&quot; /&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot; name=&quot;encho&quot; /&gt; <br /> * [[指定区間]]&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S33/S33SE164.html|title=一般国道の指定区間を指定する政令(昭和33年6月2日政令第164号)|work=法令データ提供システム|publisher=[[総務省]][[行政管理局]]|accessdate=2013-08-29}}&lt;/ref&gt;<br /> ** 大阪市西成区出城一丁目1番 - 神戸市灘区岩屋南町3番(全線)<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> * [[1953年]]([[昭和]]28年)[[5月18日]]<br /> ** [[二級国道]]173号大阪神戸線(大阪市 - 神戸市)として指定施行&lt;ref&gt;{{Wikisource-inline|二級国道の路線を指定する政令 (昭和二十八年)|二級国道の路線を指定する政令(昭和28年5月18日政令第96号)}}&lt;/ref&gt;。<br /> * [[1958年]](昭和33年)[[9月30日]]<br /> ** [[一級国道]]に昇格し、一級国道43号(大阪市 - 神戸市)として指定施行&lt;ref&gt;{{Wikisource-inline|一級国道の路線を指定する政令 (昭和三十三年)|二級国道の路線を指定する政令(昭和43年9月30日政令第281号)}}&lt;/ref&gt;。国道173号は1963年まで欠番となる。<br /> * [[1965年]](昭和40年)[[4月1日]]<br /> ** 道路法改正により一級・二級区分が廃止されて一般国道43号として指定施行&lt;ref&gt;一般国道の路線を指定する政令(昭和40年3月29日政令第58号)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 路線状況 ==<br /> === 通称 ===<br /> ; 二国(にこく)<br /> : 兵庫県内では、「こくどう」と呼ばれる「[[国道2号|第一阪神国道]]」([[国道2号]])の0.5kmから1.5kmほど南側に並行していることから、「第二阪神国道」→「にこく」と呼ばれる。しかし、近年では国道2号を「にこく」と略称することも多い。<br /> ; 43(よんさん)<br /> : 国土交通省が機関紙として『よんさん』を発行し、この「よんさん」が「二国(にこく)」に代わる国道43号の通称になりつつある。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> === 通過する自治体 ===<br /> * [[大阪府]]<br /> ** [[大阪市]]([[西成区]] - [[大正区]] - [[港区 (大阪市)|港区]] - [[此花区]] - [[西淀川区]])<br /> * [[兵庫県]]<br /> ** [[尼崎市]] - [[西宮市]] - [[芦屋市]] - [[神戸市]]([[東灘区]] - [[灘区]])<br /> <br /> === 交差する道路 ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> !style=&quot;border-bottom:3px solid blue;&quot;|交差する道路<br /> !colspan=&quot;4&quot; style=&quot;border-bottom:3px solid blue;&quot;|交差する場所<br /> !style=&quot;border-bottom:3px solid blue;&quot;|備考<br /> |-<br /> |[[国道26号]]<br /> |rowspan=&quot;11&quot; style=&quot;width: 1em;&quot;|[[大阪府]]<br /> |rowspan=&quot;11&quot;|[[大阪市]]<br /> |rowspan=&quot;4&quot;|[[西成区]]<br /> |花園北<br /> |<br /> |-<br /> |[[大阪府道41号大阪伊丹線]]&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;〈[[なにわ筋]]〉&#039;&#039;&#039;<br /> |中開<br /> |<br /> |-<br /> |[[大阪府道29号大阪臨海線]]&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;〈[[新なにわ筋]]〉&#039;&#039;&#039;<br /> |中開3北<br /> |<br /> |-<br /> |大阪府道29号大阪臨海線<br /> |北津守ランプ前<br /> |<br /> |-<br /> |[[大阪府道173号大阪八尾線]]&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;〈[[大正通]]〉&#039;&#039;&#039;<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|[[大正区]]<br /> |泉尾<br /> |<br /> |-<br /> |[[大阪市道浪速鶴町線]]&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;〈[[大浪通]]〉&#039;&#039;&#039;<br /> |泉尾公園前<br /> |※平面側道部のみ接続<br /> |-<br /> |[[国道172号]]&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;〈[[みなと通]]〉&#039;&#039;&#039;<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|[[港区 (大阪市)|港区]]<br /> |市岡元町3<br /> |<br /> |-<br /> |[[大阪市道築港深江線]]&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;〈[[中央大通]]〉&#039;&#039;&#039;<br /> |[[弁天町駅|弁天町駅前]]<br /> |<br /> |-<br /> |[[大阪市道福島桜島線]]&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;〈[[北港通]]〉&#039;&#039;&#039;<br /> |[[此花区]]<br /> |梅香<br /> |※平面側道部にて接続・此花高架橋へのオンランプ・オフランプあり<br /> |-<br /> |[[大阪市道福町浜町線]]&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;〈[[姫島通]]〉&#039;&#039;&#039;<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|[[西淀川区]]<br /> |福町<br /> |※平面側道部のみ接続<br /> |-<br /> |[[大阪府道10号大阪池田線]]&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;〈[[淀川通]]〉&#039;&#039;&#039;<br /> |大和田西<br /> |※平面側道部のみ接続<br /> |-<br /> |[[兵庫県道57号尼崎港線]]&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;〈玉江橋線〉&#039;&#039;&#039;<br /> |rowspan=&quot;5&quot; style=&quot;width: 1em;&quot;|[[兵庫県]]<br /> |rowspan=&quot;2&quot; colspan=&quot;2&quot;|[[尼崎市]]<br /> |西本町<br /> |<br /> |-<br /> |兵庫県道57号尼崎港線&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;〈五合橋線〉&#039;&#039;&#039;<br /> |五合橋<br /> |<br /> |-<br /> |[[名神高速道路]][[西宮インターチェンジ|西宮IC]]<br /> |rowspan=&quot;1&quot; colspan=&quot;2&quot;|[[西宮市]]<br /> |西宮インター<br /> |<br /> |-<br /> |[[兵庫県道95号灘三田線]]<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|[[神戸市]]<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|[[灘区]]<br /> |東明<br /> |<br /> |-<br /> |[[国道2号]]<br /> |[[岩屋駅 (兵庫県)|岩屋]]<br /> |<br /> |-<br /> |}<br /> ※ 交差する場所の括弧書きは地名、それ以外は交差点名で表示<br /> <br /> === 並行する都市高速道路 ===<br /> * [[阪神高速17号西大阪線]]<br /> ** [[北津守出入口]] (大阪市西成区・大正区)<br /> ** [[大正東出入口]]・[[大正西出入口]] (大阪市大正区)<br /> ** [[弁天町出入口]]・[[安治川出入口]] (大阪市港区)<br /> * [[阪神高速3号神戸線]]<br /> ** [[尼崎東出口]]・[[尼崎西出入口]] (尼崎市)<br /> ** [[武庫川出入口]]・[[西宮出入口]] (西宮市)<br /> ** [[芦屋出入口]] (西宮市・[[芦屋市]])<br /> ** [[深江出入口]]・[[魚崎出入口]] (神戸市東灘区)<br /> <br /> === 沿線 ===<br /> ; 大阪市<br /> * [[ユニバーサルスタジオジャパン]](此花区)<br /> ; 尼崎市<br /> * [[尼崎競艇場]]<br /> * アマドゥ(ショッピングモール)<br /> * [[元浜緑地]]<br /> * [[尼崎21世紀の森]]<br /> ; 西宮市<br /> * [[武庫川女子大学]]中央キャンパス<br /> * [[阪神鳴尾浜球場|鳴尾浜球場]]<br /> * [[阪神甲子園球場|甲子園球場]]<br /> * [[西宮神社]]<br /> * [[西宮市大谷記念美術館]]<br /> ; 芦屋市<br /> * 芦屋市役所<br /> * [[芦屋市立美術博物館]]<br /> * [[谷崎潤一郎記念館]]<br /> ; 神戸市<br /> * [[神戸大学]]海事科学部<br /> * [[ハーバーハイウェイ]]<br /> ; 鉄道<br /> * [[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[大阪環状線]]([[弁天町駅]]・[[新今宮駅]])<br /> * [[南海電気鉄道]][[新今宮駅]]<br /> * [[大阪市営地下鉄中央線]][[弁天町駅]]<br /> * [[阪神電気鉄道|阪神電鉄]]([[阪神本線]]・[[阪神なんば線]]・[[阪神武庫川線]])各駅<br /> ; [[阪神工業地帯]]<br /> * [[神戸製鋼所]]<br /> * [[JFEスチール]]<br /> * [[新明和工業]]<br /> * [[旭硝子]]<br /> * [[日本山村硝子]]<br /> * [[住友金属工業]]鋼管製造所<br /> * [[三菱電線工業]]<br /> * [[住友電工]]<br /> * [[住友化学]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注釈}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.kkr.mlit.go.jp 国土交通省近畿地方整備局]<br /> ** [http://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/ 大阪国道事務所] : 大阪府の区間を管理。<br /> ** [http://www.kkr.mlit.go.jp/hyogo/ 兵庫国道事務所] : 兵庫県の区間を管理。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commonscat|Rute 43 (Japan)}}<br /> * [[日本の一般国道一覧]]<br /> * [[近畿地方の道路一覧]]<br /> <br /> &lt;!-- {{国道43号}} --&gt;<br /> {{日本の一般国道一覧}}<br /> {{デフォルトソート:こくとう043}}<br /> [[Category:一般国道|043]]<br /> [[Category:大阪府の道路]]<br /> [[Category:兵庫県の道路]]</div> 221.244.37.138 柔道 2018-07-07T03:18:25Z <p>221.244.37.138: /* 柔道事故 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;柔道&#039;&#039;&#039;(じゅうどう)は、[[柔術|「柔」(やわら)の術]]を用いての徳義涵養を目的とした[[芸道]]、[[武道]]のことである。現代では、その修養に用いられる[[嘉納治五郎]]流・[[講道館]]流の柔術技法を元にした理念を指して「柔道」と呼ぶことが一般化している。柔道は、[[投げ技]]、[[固め技]]、[[当身技]]の三つを主体とする武術・武道、そしてそれを元にした社会教育的な大系となっている。<br /> # 日本伝講道館柔道 - 世界的に普及している柔道でオリンピック種目にもなっている。<br /> # [[七帝柔道]]([[高専柔道]])<br /> # [[起倒流|起倒流柔道]]<br /> # [[直信流|直信流柔道]]<br /> なお、本項では1を詳述する。<br /> &lt;hr&gt;<br /> {{独自研究|date=2012年9月}}<br /> {{Infobox 武道・武術<br /> |名称=日本伝講道館柔道<br /> |読み=にほんでんこうどうかんじゅうどう<br /> |画像名=Haraigoshi.jpg<br /> |画像説明=<br /> |別名=<br /> |競技形式=<br /> |使用武器=[[木刀]]、[[短刀]]、[[棒]]など(形の技法において使用する)<br /> |発生国={{JPN}}<br /> |発生年=[[1882年]]([[明治]]15年)<br /> |創始者=[[嘉納治五郎]]<br /> |源流=[[天神真楊流]]<br /> <br /> [[起倒流|起倒流柔道]]<br /> |流派=<br /> |派生種目=<br /> |主要技術=[[投げ技]]、[[固め技]]、[[当身技]]<br /> |オリンピック=[[オリンピック柔道競技|有り]]([[1964年]]、[[1972年]] - )<br /> |公式ウェブサイト=[http://www.judo.or.jp/ 全日本柔道連盟]&lt;br /&gt;[http://www.ijf.org/ 国際柔道連盟 (IJF)]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;柔道&#039;&#039;&#039;(じゅうどう)、&#039;&#039;&#039;日本伝講道館柔道&#039;&#039;&#039;(にほんでんこうどうかんじゅうどう)は、柔術修行に打ち込み修めた[[嘉納治五郎]]が様々な流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の「柔よく剛を制す」という心身の力をもっとも有効に活用した原理を完成させ、[[1882年]]([[明治]]15年)にその考察から創始した文武の道である&lt;ref&gt;『DVDシリーズ柔道パーフェクトマスター』16頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 概説 ==<br /> [[古武道]]の一つ、[[柔術]]から発展した[[武道]]で、&#039;&#039;&#039;[[投げ技]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[固め技]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[当身技]]&#039;&#039;&#039;を主体とした技法を持つ。[[明治]]時代に[[日本の警察|警察]]や[[学校]]に普及し、[[第二次大戦]]後には[[国際柔道連盟]]の設立や[[近代オリンピック|オリンピック]]競技に採用されるなど広く国際化に成功している。多くの国では「Judo=講道館柔道」となっているため、今日では単に「柔道」と言えばこの柔道を指す&lt;ref&gt;[http://www.joc.or.jp/sports/judo.html [[日本オリンピック委員会|JOC]]ウェブサイト]より&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 今日では[[スポーツ]][[競技]]・[[格闘技]]にも分類されるが、[[講道館]]柔道においては「&#039;&#039;&#039;精力善用&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;自他共栄&#039;&#039;&#039;」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、身体・精神の鍛錬と[[教育]]を目的としている&lt;ref&gt;講道館師範嘉納治五郎先生遺訓「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である。その修行は攻撃防禦の練習に由つて身体精神を鍛錬修養し、斯道の神髄を体得する事である。さうして是に由つて己を完成し世を補益するが、柔道修行の究竟の目的である。」&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 柔道の国際統括団体[[国際柔道連盟]]では2015年8月アスタナの総会で採択された規約前文において、「柔道は1882年、嘉納治五郎によって創始されたものである」と謳っている&lt;ref&gt;[http://99e89a50309ad79ff91d-082b8fd5551e97bc65e327988b444396.r14.cf3.rackcdn.com/up/2016/08/IJF_Statutes_Swis_Asociation_2-1470134982.pdf IJF Statutes (Swiss Association) 21 08 2015 ENG.pdf]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 柔術から柔道成立まで ===<br /> {{see_also|柔術#歴史}}<br /> <br /> [[ファイル:Kano kitoryu judo menjo.jpg|thumb|250px|飯久保恒年から嘉納治五郎に授与された「日本伝起倒柔道」の免状(明治16年)。柔道という用語は嘉納が学んだ起倒流ですでに使われていた。]]<br /> 古くは、[[12世紀]]以降の[[武家政権|武家社会]]の中で[[武芸十八般]]と言われた[[武士]]の[[日本の合戦一覧|合戦]]時の技芸である[[武芸 (日本)|武芸]]が成立し、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]が終わって[[江戸時代]]にその中から[[古武道|武術]]の一つとして[[柔術]]が発展した。<br /> <br /> [[明治10年]] に、[[天神真楊流]]の福田八之助に入門し、[[当身技]](真之当身)を中心として[[関節技]]や[[絞め技]]といった捕手術の体系を持ち、[[乱捕]]技としての[[投げ技]]、[[固技]]も持つ[[天神真楊流]]を稽古した。<br /> <br /> また、[[捨身技]]を中心として他に中(=当身技)なども伝えていた[[起倒流]]柔術を稽古した。<br /> <br /> [[天神真楊流]]と[[起倒流|起倒流柔道]]の&#039;&#039;&#039;乱捕技&#039;&#039;&#039;を基礎に、起倒流の稽古体験から「[[崩し]]」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは&#039;&#039;&#039;[[柔道#教育・精神修養・応用としての柔道(修心法)|修身法]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[柔道#体育としての柔道(体育法)|練体法]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[柔道#武術としての柔道(勝負法)|勝負法]]&#039;&#039;&#039;としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして&#039;&#039;&#039;柔道&#039;&#039;&#039;と名付け、明治15年([[1882年]])、[[東京府]][[下谷]]にある[[永昌寺 (台東区)|永昌寺]]という寺の書院12畳を道場代わりとして「&#039;&#039;&#039;[[講道館]]&#039;&#039;&#039;」を創設した。<br /> <br /> もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、[[滝野遊軒]]の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例&lt;ref&gt;菊池智之「松平定信の武芸思想に関する一考察-新甲乙流への道程-」『武道学研究』第23巻第3号、1991年3月、pp.10-23&lt;/ref&gt;などがあり、「柔道」という語自体はすでに[[江戸時代]]にあったため、嘉納の発明ではない。<br /> <br /> 嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。<br /> <br /> 講道館においての指導における「柔道」という言葉を使った呼称の改正には、嘉納自身の教育観・人生観、社会観、世界観などが盛り込まれており、近代日本における武道教育のはじまりといえる&lt;ref&gt;杉山重利 編著『武道論十五講』pp.75&lt;/ref&gt;。柔道がまとめて採用した数々の概念・制度は以降成立する種々の近代武道に多大な影響を与えることになる。嘉納のはじめた講道館柔道は武術の近代化という点で先駆的な、そしてきわめて重要な役割を果たすことになる&lt;ref&gt;井上俊『武道の誕生』pp.7&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その歴史的影響力、役割の大きさから柔道は[[武道]]([[日本武道]]、日本九大武道([[日本武道協議会]]加盟九団体))の筆頭に名を連ねている。<br /> <br /> === 警察と柔道 ===<br /> [[ファイル:警視庁武術世話掛.jpg|thumb|250px|明治21年頃の[[警視庁武術世話掛]]。最前列の左から2人目は後に講道館史上初の柔道十段となる[[山下義韶]]。]]<br /> 嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(昭和3年([[1928年]])『作興』に連載)によれば、明治21年([[1888年]])頃、&#039;&#039;&#039;[[弥生慰霊祭記念柔道剣道試合|警視庁武術大会]]&#039;&#039;&#039;で主に[[揚心古流|楊心流戸塚派]]と試合し2〜3の[[引き分け]]以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。<br /> <br /> また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は[[天神真楊流]]などの他流柔術出身の実力者であった。<br /> <br /> この試合の後、[[三島通庸]][[警視総監]]が講道館柔道を警視庁の必修科として[[警視庁武術世話掛|柔術世話掛]]を採用した為、全国に広まっていったという(なお該当の試合については日時、場所、対戦相手、勝敗結果について明白な史料はなく、[[山下義韶]]の回想記(雑誌『[[キング (雑誌)|キング]]』1929年(昭和4年)10月号)では明治19年(1886年)2月に[[講道館四天王]]の[[西郷四郎]](小説「[[姿三四郎]]」のモデル)が好地円太郎に[[山嵐 (柔道)|山嵐]]で勝ったという他、明治18年5月、明治19年(1886年)6月、10月説などもあり、西郷四郎の相手も昭島太郎であったという説もある)。<br /> <br /> 現在も[[日本の警察官]]は柔道又は[[剣道]](女性のみ又は[[合気道]])が必修科目となっている。[[警察学校]]入学時に無段者の場合、在校中に初段をとるようにしなければならない。[[警察署]]では[[少年|青少年]]の健全育成のための[[在籍者 (学習者)|小中学生]]を対象にした柔剣道教室を開いていることも多い。<br /> <br /> === 大日本武徳会における柔道 ===<br /> 1895年(明治28年)、対外戦争の勝利や平安遷都1100年記念によって日本武術奨励の気運が高まり、武道の奨励、武徳の育成、教育、顕彰、国民士気の向上を目的として京都に公的組織として&#039;&#039;&#039;[[大日本武徳会]]&#039;&#039;&#039;が設立された。<br /> <br /> 初代総裁に[[小松宮彰仁親王]](皇族、陸軍大将)、会長に[[渡辺千秋]](京都府知事)、副会長に[[壬生基修]](平安神宮宮司)が就任した。同年に第1回の武徳祭と武術大会が行われ、1942年(昭和17年)太平洋戦争のため中止されるまで、恒例の行事として行われた。<br /> <br /> 大日本武徳会は、剣術、柔術、弓術など各部門で構成され、各部門には諸流派・人物がそれぞれの流派を超越して参加することになる。<br /> <br /> 技術技法の異なった(古流)[[柔術]]各流派間の試合が行われるに際し、武徳会において審判規定を定める必要に迫られ、1899年(明治32年)、柔術部門において、[[投技]]、[[固め技]]、[[当身技]]の技術を包含し形稽古のみでなく乱取稽古の整備の進んでいた講道館柔道の[[嘉納治五郎]]が原案を作成し、講道館の[[山下義韶]]、[[横山作次郎]]、[[磯貝一]]、[[大東流]]の半田彌太郎、[[四天流]]の星野九門、[[楊心流]]の[[戸塚英美]]、[[良移心頭流]]の上原庄吾、[[起倒流]]の近藤守太郎、[[竹内三統流]]の佐村正明、[[関口流]]と楊心流を兼ねた鈴木孫八郎の諸委員によって評議され、「&#039;&#039;&#039;大日本武徳会柔術試合審判規定&#039;&#039;&#039;」が制定された。<br /> <br /> 1899年(明治32年)大日本武徳会柔道講習所が大日本武徳会に設置され、主任教授に[[磯貝一]]四段が就任した。この時から、武徳会において教授される流派は正式に講道館柔道となる。<br /> <br /> 翌年、1900年(明治33年)武徳会審判規定と照らし合わせ、&#039;&#039;&#039;講道館乱捕試合審判規定&#039;&#039;&#039;が整備される。<br /> <br /> 1906年(明治39年)8月8日、[[嘉納治五郎]]を委員長とし[[戸塚派揚心流]]の[[戸塚英美]]委員、[[四天流]]組討の星野九門委員、他17名の委員補([[双水執流]]組討腰之廻第14代青柳喜平、[[不遷流]]4代[[田辺又右衛門]]など)柔術10流・師範20名で構成される「&#039;&#039;&#039;大日本武徳会柔術形制定委員会&#039;&#039;&#039;」によって、議論・研究の末、講道館の真剣勝負の形を基に、各流派の案による技を追加し、全柔術流派を統合する形として「大日本武徳会柔術形」が制定される。これは現在の講道館における極の形に相当する。<br /> <br /> 1919年(大正8年)、大日本武徳会は、先んじる講道館柔道の影響も与し「剣術」「撃剣」などの名称を「剣道」に統一し、弓術を弓道と改称し、柔術部門も改めて柔道部門と改称する。<br /> <br /> 1934年には、本土に上陸して間もない[[空手]]が大日本武徳会において柔道部門への入部が認められ、柔道部門の分類下におかれる。<br /> <br /> このように、柔道は当時国内の柔術諸流派において共通試合の統一流派となり、いわば国内の徒手格闘技を統括する立場としてあった。<br /> <br /> しかし武徳会において、制定されていた従来の武徳会称号「[[範士]]」「[[教士]]」「[[精錬証]]受有者(昭和9年以降「[[錬士]]」)」の制度以外に、講道館柔道の採用に際し、修行の進みに応じて発行する講道館の制定した段級位も各部門において採用することとなる。当初は武徳会でも、柔道段位は講道館の認定の元、正式発行が行われていたが、時とともに講道館の認定を受けず独自に段位を発行するようになる。武徳会において段位を受けた者、修業をした者は武徳会に帰属意識を持つようになり、講道館と武徳会はそのことで軋轢も生まれ、云わば(講道館)柔道という一つの統一流派を、東の講道館と西の大日本武徳会という二つの組織が重なり合いながら時に対立を含みながら共存し互いに管理、執行するという構造になっていった。&lt;ref&gt;『嘉納治五郎大 系』第一巻 p.303講道館と第日本武徳会との関係について&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『柔道大事典』「大日本武徳会」の項&lt;/ref&gt;<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;戦時中の柔道については&#039;&#039;&#039;<br /> {{Main|#国内における軍隊格闘技としての採用・影響}}<br /> <br /> その後、1946年(昭和21年)11月9日、[[大日本武徳会]]は[[連合国軍最高司令官総司令部]]([[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]])の指令により強制解散し、柔道は武道禁止令の影響を大きく受けることになる。<br /> <br /> しかし、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、1932年にドイツにおいて[[ヨーロッパ柔道連盟]]が発足するなど国内外の働きかけもあり、国内においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。<br /> <br /> === 学校体育と柔道 ===<br /> 日本の[[学校教育#日本の学校教育|学校教育]]においては、明治31年([[1898年|1898年)]]に[[旧制中学校]]の課外授業に柔術が導入された際、柔道も、必修の正課になった。<br /> <br /> 経緯については{{Main|#体育としての柔道(体育法)}}<br /> [[太平洋戦争]]後、[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]](GHQ)により学校で柔道の教授が禁止されて以降、武道は一度禁止されたが、昭和25年([[1950年]])に[[文部省]]の[[新制中学校]]の選択科目に柔道が採用された。次いで昭和28年([[1953年]])の[[学習指導要領]]で、柔道、[[剣道]]、[[アマチュア相撲|相撲]]が「格技」という名称で正課の[[授業]]とされた。<br /> <br /> [[平成]]元年([[1989年]])の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。平成24年([[2012年]])4月から中学校[[体育]]で男女共に武道(柔道、剣道、相撲から選択)が必修になった(中学校武道必修化)。<br /> <br /> :;&#039;&#039;[http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1330882.htm 武道・ダンス必修化] 文部科学省&#039;&#039;<br /> :;&#039;&#039;[http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/judo/1318541.htm 柔道の授業の安全な実施に向けて] 文部科学省&#039;&#039;<br /> <br /> [[クラブ活動|部活動]]としてほとんどの[[中学校]]、[[高等学校]]に「柔道部」があり、学習指導要領に沿った形で生徒の自主的、自発的な参加による課外活動の一環としての部活動が行われている。フランスや北欧などは日本のように学校管理下、教員顧問による指導の部活動自体が殆ど無く、地域のスポーツクラブに任意で加入して、そこで柔道(や、他スポーツ)の指導、練習を受けるのが一般的となっている。<br /> <br /> === 社会体育としての柔道 ===<br /> 民間[[道場]]での活動のほかに、[[企業]]の[[実業団]]活動が行われている。柔道がオリンピック種目となってから、企業は実業団による選手育成に力を入れ、現在は警察柔道を凌ぐ勢力となっている。<br /> <br /> === 国際的競技としての普及 ===<br /> [[ファイル:Judo03.jpg|thumb|250px|right|国際的競技としての柔道においても礼節は重んじられている。]]<br /> <br /> {{see_also|オリンピック柔道競技|世界柔道選手権大会}}<br /> <br /> 柔道の試合競技は、オリンピックでは[[1932年]]の[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]で[[オリンピック公開競技|公開競技]]として登場し、[[1964年]]の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]で正式競技となる。東京オリンピックでは、無差別級で[[オランダ]]の[[アントン・ヘーシンク]]が日本の[[神永昭夫]]を破って金メダルを獲得し、柔道の国際的普及を促す出来事となった。女子種目も[[1988年]]の[[ソウルオリンピック]]で公開競技、[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]では正式種目に採用された。<br /> <br /> 世界選手権は1956年に第1回大会が開催され、女子の大会は1980年に初開催された。日本の女子は明治26年以来長年試合が禁止され、昇段も「型」が中心であった。1979年夏に日本女子の一線級と西ドイツのジュニア選手が講道館で対戦したが、日本は一勝三敗で二人が負傷し、ドイツ選手との腕力の差は日本の柔道関係者に衝撃を与えた&lt;ref&gt;女子柔道に世界の試練「型」より腕力が課題 [[朝日新聞]] 1979年12月19日朝刊15ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 現在は、世界中に普及し[[国際柔道連盟]]の加盟国・地域が199カ国もある(2007年9月現在)。[[日本]]以外では、[[大韓民国|韓国]]、[[ヨーロッパ|欧州]]、[[ロシア]]、[[キューバ]]、[[ブラジル]]で人気が高く、特に[[フランス]]の登録競技人口は50万人を突破し、全日本柔道連盟への登録競技人口20万人を大きく上回っている。ただし、幼少期の数など両国の登録対象年齢が異なるため、この数字を単純に比較することはできない。<br /> <br /> また、この登録人口そのものに関しても一般に想起されるいわゆる柔道人口とは異なる。これは、柔道の役員、審判員、指導者、選手として公的な活動に参加するために行われる制度で[[全日本柔道連盟]]の財政的基盤でもある。日本国内では、学校体育の授業として経験した人、学生時代に選手まで経験したが現在は全く柔道着どころか試合観戦程度という人、子供と一緒に道場で汗を流しているが、段がほしいわけでも試合をするわけでもない人など、未組織の人たちがたくさんいる。[[講道館]]でも、地方在住者は初段になった段階で入門するのが通例であり、門人、有段者ではあるが、毎年、登録しているとは限らない。したがって柔道人口、登録人口、競技人口、講道館入門者数は意味合いが違うので注意する必要がある。故に「柔道人口」を把握することはほぼ不可能で、推定でしかないのが実状である。<br /> <br /> == 稽古方法 ==<br /> 講道館柔道において[[稽古]]は、主に&#039;&#039;&#039;[[柔道形|形]]&#039;&#039;&#039;と&#039;&#039;&#039;[[乱取り]]&#039;&#039;&#039;によって行われる。嘉納治五郎はこれについて「形とは、攻撃防御に関し予め守株の場合を定め、理論に基づき身体の操縦を規定し、その規定に従いて、練習するものをいう。乱取とは一定の方法によらず、各自勝手の手段を用いて練習するものをいう」と述べている。形と乱取りは別物と考えてはならない、根本の原理、その精神は変わりがないからである。また、初期の講道館における状況を嘉納師範は、次のように述べている。「明治維新の前は柔術諸流の修行は多く形によったものである。幕府の末葉にいたって楊心流をはじめ起倒流、天神真楊流その他の諸流も盛んに乱取を教えるようになったが、当時なお形のみを教えていた流派は少なくなかった。然るに予が、講道館柔道において乱取を主とし形を従とするに至ったのは、必ずしも形を軽んじたが為ではない。まず乱取を教え、その修行の際、適当の場合に説明を加えて自然と各種の技の理論に通暁せしむるようにして、修行がやや進んだ後に形を教えるようにしたのである。その訳はあたかも語学を教える際、会話作文の間に自然と文法を説き、最後に組織を立ててこれを授くるのと同様の主旨によったのである」。<br /> <br /> また、嘉納は柔道の修行の方法を四種、「形」と「乱取り」の他に「&#039;&#039;&#039;[[講義]]&#039;&#039;&#039;」と「&#039;&#039;&#039;[[問答]]&#039;&#039;&#039;」についても挙げている。講義により、技の道理を解剖学、生理学、物理学などの観点からも学び、勝負上必要な心の修め方、心身鍛練に関する注意心掛けなどをまた学び、心理学、倫理学などの観点からも学び、それらについて時間を費やして説き及す必要性について嘉納は説く。またや勝負事があり修行者の心が勇んでいるときにはその場に適する話をし、祝日、寒稽古の開始式などにはそれ相応の講義をし、平素においては礼儀作法、人としての一般の心得など講義する必要を説く。そして問答により修行上の理解、応用を深めることの重要性について言及している。柔道の修行目的の「練体」「勝負」「修心」のうちの、徳性を涵養する、智力を練る、勝負の理論を世の百般に応用する、人間の道を講ずることを目的とする「修心法」についての内容を多く含む修行法となっている。<br /> <br /> == 技術体系 ==<br /> 講道館柔道の技は「&#039;&#039;&#039;[[投技]]&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;[[固技]]&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;[[当身技]]&#039;&#039;&#039;」の3種類に分類される。投技は[[天神真楊流]]、[[起倒流]]の&#039;&#039;&#039;乱捕技&#039;&#039;&#039;をもとにしている。<br /> <br /> 固技や[[絞技]]は天神真楊流の技に由来していて、当身技は攻撃することによって受の急所に痛みを負わせたりするのに適した護身術である、とされる&lt;ref&gt;講道館(1995)『決定版 講道館柔道』講談社 第9章当身技、142ページ&lt;/ref&gt;。&lt;br /&gt;投技の過程を[[崩し]]、作り、掛け、の三段階に分けて概念化したことが特徴である。<br /> <br /> またこれと平行して、一般的には、&#039;&#039;&#039;[[立技]]&#039;&#039;&#039;と&#039;&#039;&#039;[[寝技]]&#039;&#039;&#039;にも分類するが、寝技は審判規定において使われる寝姿勢における攻防のことであり、固技と同義ではない。[[絞技]]と[[関節技]]は立ち姿勢でも施すことが可能である。<br /> <br /> 練習形態は[[柔道形|形]]と[[乱取り]]があり、形と乱取りは車輪の両輪として練習されるべく制定されたが、講道館柔道においては乱取りによる稽古を創始当時から重視する。嘉納師範により、当身技は危険として乱取り・試合では「投げ」「固め」のみとした。そして[[スポーツ]]としての柔道は安全性を獲得し、広く普及していく事となった。<br /> <br /> 試合で用いることができるのは、投げ技と固め技であり、[[講道館]]では100本としている&lt;ref&gt;[http://kodokanjudoinstitute.org/news/2017/04/epost-133/ 柔道の技名称について]&lt;/ref&gt;。しかし、実際のポイントになる技は92本である。(当身技は形として練習される。)競技としては投技を重視する傾向が強く、寝技が軽視されてきたきらいがある。しかし、寝技を重視した上位選手や指導者らによって寝技への取り組みは強化されるようになった。またIJFルールの改正によって寝技の攻防時間が短縮し決着の早期化が計られたことと、主に外国選手による捨て身技や返し技と一体化した寝技の技法の普及によって、寝技の重要性は一層増している。<br /> <br /> === 投技 ===<br /> 投技とは理合いにしたがって相手を仰向けに投げる技術である。立って投げる立ち技と体を捨てて投げる捨身技にわけられる。立ち技は主に使用する部位によって手技、腰技、足技に分かれる。捨身技は倒れ方によって真捨身技、横捨身技に分かれる。また、関節を極めながら投げると反則ではないが投技とはみなされない。詳しくは[[投技]]を参照。<br /> <br /> === 固技 ===<br /> 固技(かためわざ)には&#039;&#039;&#039;[[抑込技]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[絞め技|絞技]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[関節技]]&#039;&#039;&#039;がある。<br /> <br /> 主に&#039;&#039;&#039;[[寝技]]&#039;&#039;&#039;で用いることが多いが、立ち姿勢や膝を突いた姿勢でも用いられ、固技のすべてが寝技の範疇に入るわけではない。(寝技と固技は互いに重なり合う部分が大きいとは言える。)<br /> <br /> 固技のうち[[関節技]]は、肘以外はあまり採用されず、現行の乱取や試合では肘以外に関節技をほどこすことは反則とされている。立技での関節技もほとんど行われていない。抑込技は、寝技の場面での攻防を続けるために、うつ伏せでなく、仰向けに抑えるのが特徴である。<br /> <br /> 絞技は、[[天神真楊流]]から多様な方法が伝わっており、柔道を首を絞めることを許すという珍しいルールを持った競技にしている。<br /> <br /> 創立当初、&#039;&#039;&#039;[[寝技]]&#039;&#039;&#039;はあまり重視されておらず、草創期に他流柔術家たちの寝技への対処に苦しめられた歴史がある。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;分類&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> 講道館柔道では[[固技]]が全部で29本あり、[[抑込技]](おさえこみわざ)7本、[[絞技]](しめわざ)12本、[[関節技]](かんせつわざ)10本である。IJFルールでは一部異なるものがある。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;抑込技(10本)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> 相手の体を仰向けにし、相手の束縛を受けず、一定時間抑える技。<br /> <br /> * [[肩固]](かたがため)<br /> * [[袈裟固]](けさがため)<br /> * [[崩袈裟固]](くずれけさがため)<br /> * [[後袈裟固]](うしろけさがため)<br /> * [[崩上四方固]](くずれかみしほうかため)<br /> * [[上四方固]](かみしほうかため)<br /> * [[縦四方固]](たてしほうかため)<br /> * [[横四方固]](よこしほうかため)<br /> * [[裏固]](うらがため)<br /> * [[浮固]](うきがため)ただし、明治時代の技&lt;ref&gt;『柔道手引草』 磯貝一 武徳会誌発売所、明治43年 {{NDLDC|860056/22}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『通俗柔道図解』 有馬純臣 岡崎屋、明治38年 {{NDLDC|860394/72}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『柔道大意』 有馬純臣 岡崎屋、明治38年 {{NDLDC|860055/62}} 。小手挫、首挫~足詰も上記三書に収載。&lt;/ref&gt;とは異なる。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;絞技(12本)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> 頸部すなわち[[頚動脈]]か[[気管]]を、腕あるいは[[道着|柔道着]]の襟で絞めて[[失神]]または「[[タップアウト|参った]]」を狙う技(胴絞は足でどうを絞める技で、乱取りでは禁止技である)。指や拳、帯、柔道着の裾、直接足などで絞めること及び頸椎に対して無理な力を加えることは禁止されている。<br /> <br /> * [[逆十字絞]](ぎゃくじゅうじじめ)<br /> * [[裸絞]](はだかじめ)<br /> * [[片羽絞]](かたはじめ)<br /> * [[片十字絞]](かたじゅうじじめ)<br /> * [[片手絞]](かたてじめ)<br /> * [[並十字絞]](なみじゅうじじめ)<br /> * [[送襟絞]](おくりえりじめ)<br /> * [[両手絞]](りょうてじめ)<br /> * [[袖車絞め|袖車絞]](そでぐるまじめ)<br /> * [[突込絞]](つっこみじめ)<br /> * [[三角絞め|三角絞]](さんかくじめ)<br /> * [[胴絞]](どうじめ)※現在のルールでは反則である。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;関節技(10本)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> [[関節]]を可動域以上に曲げたり伸ばしたりして苦痛を与える技。現行の乱取りでは肘関節のみが許されている。<br /> <br /> [[ファイル:Omoplata(submission).jpg|thumb|250px|right|腕挫膝固]]<br /> * [[腕挫脚固]](うでひしぎあしがため)<br /> * [[腕挫腹固]](うでひしぎはらがため)<br /> * [[腕挫膝固]](うでひしぎひざがため)<br /> * [[腕挫十字固]](うでひしぎじゅうじがため)<br /> * [[腕挫三角固]](うでひしぎさんかくがため)<br /> * [[腕挫手固]](うでひしぎてがため)<br /> * [[腕挫腋固]](うでひしぎわきがため)<br /> * [[腕挫腕固]](うでひしぎうでがため)<br /> * [[腕緘]](うでがらみ)<br /> * [[足緘]](あしがらみ)※現在のルールでは反則である。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;上記以外の技&#039;&#039;&#039;<br /> * [[小手挫]]([[小手捻]]) 明治時代に存在し、削除されたが、講道館護身術に再採用された。<br /> * [[小手返]] 講道館護身術にある。<br /> * [[首挫]] 削除されたが、明治時代には存在した。<br /> * [[逆指]] 削除されたが、明治時代には存在した。<br /> * [[足緘|足挫]] 削除されたが、明治時代には存在した。<br /> * [[足詰]] 削除されたが、明治時代には存在した。<br /> * [[足の大逆]]([[膝十字固め]] )[[高専柔道]]において発展し用いられた。<br /> <br /> === 当身技(あてみわざ) ===<br /> 当身技は、[[天神真楊流]]の技術を踏襲している。<br /> <br /> 当身技もしくは当技(あてわざ)とは、[[人体の急所|急所]]といわれる相手の生理的な弱点などを&#039;&#039;&#039;突く&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;打つ&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;蹴る&#039;&#039;&#039;などの技であり、試合や乱取りでは禁止されているが、[[柔道形|形]]の中で用いられる。そのため柔道では当身技が禁じ手・反則技として除外されたと思われている。講道館では極の形・柔の形、講道館護身術などに含まれる柔道の当身技について、「当身の優れたテクニック同様、こういった攻撃されやすいところ(編注:急所のこと)という認識は[[天神真楊流]]から伝えられてきたものである」としている&lt;ref&gt;講道館(1995)『決定版 講道館柔道』講談社 第9章当身技、144ページ&lt;/ref&gt;。極の形、柔の形は精力善用国民体育の形・相対動作の元になっている。極の形は、初め天神真楊流から引き継いだ形を元にしており&#039;&#039;&#039;真剣勝負の形&#039;&#039;&#039;と呼ばれていたが、[[武徳会]]時代に嘉納治五郎を委員長とし武徳会参加全流派からの代表を委員とした日本武徳会柔術形制定委員会によって講道館の真剣勝負の形を元に長時間の白熱した議論がなされ、柔術緒流派の技を加えて柔術統一形としての今の形となった。<br /> <br /> 一方、[[空手]]界側から柔道の当身技のうち精力善用国民体育の形・単独動作の当身技は[[唐手]](現・空手)の影響を受けているという説が唱えられている&lt;ref&gt;儀間真謹・藤原稜三『対談近代空手道の歴史を語る』ベースボール・マガジン社、1986年、110、111頁参照。&lt;/ref&gt;点についても下に記載する。<br /> <br /> ==== 当所・急所 ====<br /> &#039;&#039;&#039;当所(用いる部位)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> 臂(うで):<br /> *指先当(ゆびさきあて):突出、両眼突、摺上*<br /> *拳当(こぶしあて):斜当、横当、上当、突上、下突、後突、後隅突、突掛、横打、後打、打下、後押*<br /> *[[手刀打ち|手刀当]](てがたなあて、手掌の小指側縁):切下、斜打、後取*<br /> *肘当(ひじあて):後当、後取*<br /> <br /> 脚(あし):<br /> *膝頭当(ひざがしらあて):前当、両手取*、逆手取*<br /> *蹠頭当(せきとうあて、足蹠の前端):斜蹴、前蹴、高蹴<br /> *踵当(かかとあて):後蹴、横蹴、足踏*<br /> <br /> &lt;small&gt;上記は嘉納治五郎『柔道教本』(1931年)、*は『決定版 講道館柔道』講道館著(1995年)、『日本の武道』「講道館柔道の技名称一覧」日本武道館編(2007年)の分類に拠る。&lt;/small&gt;<br /> <br /> 当身技の大部分は、腕や脚でもって掛けられるが、頭部もときに使われる&lt;ref&gt;『決定版 講道館柔道』講道館著(1995年)&lt;/ref&gt;。相手に抱きつかれたとき、前からならば前額部で、後ろからならば後頭部で相手の顔面を攻撃する&lt;ref&gt;『柔道大事典』「頭」の項&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;急所&#039;&#039;&#039;<br /> 急所は、[[天神真楊流]]の名称を踏襲している。<br /> <br /> 天倒、霞、鳥兎、獨鈷、人中、三日月、松風、村雨、秘中、タン中、水月、雁下、明星、月影、電光、稲妻、臍下丹田、釣鐘(金的)、肘詰、伏兎、向骨。<br /> <br /> 当身技は形の中で教授されるが、現在では昇級・昇段審査においても行われる事が稀である為、柔道修行者でもその存在を知らない事も多く、また指導者も少ない。<br /> <br /> ==== 当身技と体育====<br /> =====精力善用国民体育=====<br /> 嘉納治五郎の[[体育]]と当身技を合わせた論考は、明治42年7月発行『中等教育』掲載の小論「擬働体操について」にある四方蹴と四方当についての記載や、『柔道概説』(大正2年)&lt;ref&gt;嘉納治五郎「柔道概説」『嘉納治五郎大系』第3巻、本の友社、1987年、114頁参照。&lt;/ref&gt;などと続いて行き、[[昭和]]に入ってからは「&#039;&#039;&#039;攻防式国民体育&#039;&#039;&#039;」(昭和2年)として精力善用国民体育の形が発表され、『精力善用国民体育』(昭和5年)や『柔道教本』(昭和6年)等も併せて昭和2年から6年の間に発表された一連の著作で夥しい言及がなされている&lt;ref&gt;『嘉納治五郎大系』第8 本の友社、1988年、参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 研究成果は「&#039;&#039;&#039;精力善用国民体育&#039;&#039;&#039;の形」(単独動作・相対動作)としてまとめられたが、この形の制定理由について、嘉納治五郎は「私がこの国民体育を考察した理由は、一面に今日まで行われている柔道の形・乱取の欠陥を補おうとするにあるのだから、平素形・乱取を修行するものも、そこに留意してこの体育を研究もし、また実行もしなければならぬ」&lt;ref name=&quot;r1&quot;&gt;嘉納治五郎「精力善用国民体育と従来の形と乱取」『嘉納治五郎大系』第8巻 本の友社、1988年、214-219頁。&lt;/ref&gt;(昭和6年)と述べ、従来の講道館柔道の稽古体系に不足していた点を補う目的があったと述べている。<br /> <br /> 精力善用国民体育の形には、単独動作と相対動作がある{{refnest|group=注釈|『柔道教本』([[1931年]])では「単独練習」と「極式相対練習」と表記している&lt;ref&gt;嘉納治五郎『嘉納治五郎大系』第3巻、本の友社、1987年、3頁参照。&lt;/ref&gt;。}}。下記の形は[[1930年]](昭和5年)発行の嘉納治五郎『精力善用国民体育』による分類であるが、時期によって分類の仕方に多少の差異がある&lt;ref&gt;嘉納治五郎『嘉納治五郎大系』第3、8巻 本の友社、1987-1988年、参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 単独動作:<br /> * 第一類:五方当(前斜当、横当、後当、前当、上当)、大五方当(大前斜当、大横当、大後当、大前当、大上当)、五方蹴(前蹴、後蹴、前斜(左右)蹴、前斜(左右)蹴、<br /> 高蹴)。<br /> * 第二類:鏡磨、左右打、前後突、上突、大上突、左右交互下突、両手下突、斜上打、斜下打、大斜上打(甲乙)、後隅突、後打、後突前下突。<br /> <br /> 相対動作:<br /> * 第一類:居取(両手取り、振り放し、逆手取り、突掛け、切掛け)、立合(突上げ、横打ち、後取り、斜突き、切下し)。<br /> * 第二類:柔の形(突出、肩押、肩廻、切下し、片手捕、片手上、帯取、胸押、突上、両目突)。<br /> <br /> <br /> =====精力善用国民体育に対する空手界からの主張=====<br /> また、この形に使用されている当身技、特に単独動作の当身技については、嘉納治五郎の[[唐手]](現・[[空手]])研究の成果によるものとの空手界からの指摘がある&lt;ref&gt;儀間真謹・藤原稜三『対談近代空手道の歴史を語る』ベースボール・マガジン社、1986年、110、111頁参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1922年]](大正11年)5月、[[船越義珍]]は[[文部省]]主催の第一回体育展覧会に唐手を紹介するために上京してくる。その第一回体育展覧会における唐手の演武の実現は船越からの頼み込みを受け、その同郷の先輩であった[[東京高等師範学校]]教授の金城三郎の懇願を通して、当時[[大日本体育協会]]名誉会長として本大会主催者であり[[東京高等師範学校]]前学校長であった嘉納治五郎の斡旋により実現したものであった。<br /> <br /> 同年6月、嘉納は船越を講道館に招待して、唐手演武を参観した。その際全ての演武が終了すると、嘉納は師範席から立ち上がり、「形」の運足法や組手形の要領について鋭い質問した。当時、講道館には柔術や拳法の家系や流派出の専門家も沢山おり質問も専門的なものであった。船越と共に唐手の演武を行った[[儀間真謹]]は嘉納の質問の鋭さ、具体性に舌を巻きその際の緊張感について述懐している&lt;ref&gt;藤堂良明『柔道の歴史と文化』不昧堂、2007年、131頁参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 嘉納が唐手に興味をもったきっかけは、[[1908年]](明治41年)、沖縄県立中学校の生徒が京都武徳会青年大会において、武徳会の希望により唐手の型を披露としたときであったとされ、このとき「嘉納博士も片唾を呑んで注視してゐた」という&lt;ref&gt;『球陽』第18号、1909年、沖縄県公文書館所蔵。高宮城繁・仲本政博・新里勝彦『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、736頁参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、[[1911年]](明治44年)、沖縄県師範学校の唐手部の生徒6名が修学旅行で上京した際、嘉納治五郎に招かれて講道館で唐手の演武、形の解説、板割りなどを行った。このときも「柔道元祖嘉納先生をして嘆賞辟易せしめた」という&lt;ref&gt;山内盛彬・諸見里朝保「唐手部記録」『龍潭』創立四十周年記念沖縄県師範学校学友会、1911年。高宮城繁・仲本政博・新里 勝彦『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、735頁参照。&lt;/ref&gt;。これは船越が上京する11年前の出来事であった。また、嘉納が沖縄を訪問した際には、[[本部朝基]]を料理屋に招いて唐手について熱心に質問するなど&lt;ref&gt;中田瑞彦「本部朝基先生・語録」、小沼保編著『琉球拳法空手術達人・本部朝基正伝(増補版)』壮神社、2000年、87頁参照。&lt;/ref&gt;、唐手に対して並々ならぬ関心を抱いていた。<br /> <br /> 嘉納は、「乱取だけでは、当身の練習ができぬ」と述べ&lt;ref name=&quot;r1&quot; /&gt;、当身技を研究した。講道館で唐手演武をした儀間真謹によれば、「この形(精力善用国民体育の形)の中には、沖縄唐手術の技法が随所に用いられている」と指摘し、その研究成果は精力善用国民体育の形としてまとめられた、と考えている&lt;ref&gt;儀間真謹・藤原稜三『対談近代空手道の歴史を語る』ベースボール・マガジン社、1986年、110頁参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ただし、嘉納が明治42年に発表した「擬働体操」には竪板磨、四方蹴、四方当など、精力善用国民体育の形に含まれる鏡磨、五方蹴、五方当の原型とも考えられる動作が既に紹介されている。<br /> <br /> なお、嘉納の[[船越義珍]]、[[本部朝基]]、[[宮城長順]]、[[摩文仁賢和]]等への接近やその上京への斡旋、協力などを通し、1934年には唐手の名称改め空手は嘉納の斡旋によって大日本武徳会の柔道部門への入部が認められることになる。空手の本土における上陸、全国的な普及活動の糸口となったのが講道館での演武会であり、それが近代空手道の出発点となる&lt;ref&gt;藤堂良明『柔道の歴史と文化』不昧堂、2007年、133頁参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 柔道形 ===<br /> {{Main|柔道形}}<br /> 講道館の設立当初においては、[[天神真楊流]]や[[起倒流]]の形がそのままの修行され、当身技の技法、概念もそこから継承され修行されていた&lt;ref&gt;藤堂良明『柔道 その歴史と技法』日本武道館&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;有馬純臣『柔道大意』&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;渥美義雄『柔道極意独習』&lt;/ref&gt;。その後、乱取り技や真剣勝負の技など目的ごとに整備分類され技も追加され、[[大日本武徳会]]における形制定委員会などを通して古流柔術諸流派との議論・研究の元、「実地に就いて研究の結果、遂に全員の一致を見るに至」&lt;ref&gt;『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』松本芳三 p.17&lt;/ref&gt;り、各流派の技も追加されていき、現在の形の姿になっていった。<br /> <br /> 嘉納治五郎は次のように書き残している。「従来の柔術諸派の形は、大別して見ると、[[起倒流]]、[[扱心流]]等を以て代表せしめ得る&#039;&#039;&#039;[[組討|鎧組打]]&#039;&#039;&#039;系統の形と、[[楊心流]]、[[天神真楊流]]等を以て代表せしめる&#039;&#039;&#039;[[当身]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[捕手術|捕縛術]]&#039;&#039;&#039;系統の形とに大別することが出来る。乱取の形の中、投の形は前者に属し、固の形と極の形は後者に属するものである。かくして出来た極の形も、未だ完全のものと認むることは出来ぬが、今日の儘でも、従来の柔術諸派の形に比して一段優れたものであるということはこれを明言し得る所であるー。」&lt;ref&gt;『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』松本芳三 p.17&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 特種の目的に応じた形 ===<br /> 嘉納治五郎は、&#039;&#039;&#039;[[柔道形]]&#039;&#039;&#039;について次のように述べている。「&#039;&#039;&#039;[[柔道形|形]]&#039;&#039;&#039;には色々の種類があって、その目的次第で練習すべき形が異なるべきである。勝負に重きを置いてする時は、極の形の類が大切であり、体育としても価値はあるが特に美的情操を養うというようなことを目的とする時は、古式の形とか、柔の形の類が必要である。体育を主眼とし、武術の練習、美的情操の養成および精神の修養を兼ねて行おうと思えば、精力善用国民体育に越したものはないというふうに、その目指すところによって異なった形を選択せねばならぬ。今日はあまり多くの種類はないが、形はどれほどでも増やすことが出来るものであるから、将来は特種の目的をもって行ういろいろの形が新たに出来てよいはずである」&lt;ref&gt;「柔道」第1巻第三号 昭和五年六月&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『嘉納治五郎大系』第三巻 p.269&lt;/ref&gt;。嘉納は、目的に応じて形を新たにつくり出されること、その必要性も想定していた。<br /> <br /> 現在、講道館が認定している形以外にも、例えば[[三船久蔵]]とその高弟の[[伊藤四男]]との共同研究で作られ、現在も国際武道院の昇段や[[日本柔道整復師会]]の柔道の大会においても伝えられ行われている「投技裏之形」&lt;ref&gt;『柔道の真髄 神技三船十段 [完全版]』&lt;/ref&gt;や、伊藤四男が創意工夫した「固め技裏之形」、三船久蔵による[[護身術]]の形&lt;ref&gt;『柔道の真髄 神技三船十段 [完全版]』&lt;/ref&gt;、[[山下義韶]]が制定した[[警視庁]][[捕手術|捕手]]の形&lt;ref&gt;『警視庁柔道基本 捕手の形]』&lt;/ref&gt;、[[平野時男]]の考案した「投げの形(応用)」や「五(後)の先の形」&lt;ref&gt;平野時男『柔道世界投げ歩る記』&lt;/ref&gt;、「七つの形」などのように、歴史的に見ると個人が創意工夫し創作された形も幾つも存在する。&lt;ref&gt;『[[月刊秘伝]]』2000年7月号&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『道と術』三船久蔵&lt;/ref&gt;<br /> <br /> またヨーロッパにおいては技の種別毎や、目的に応じた様々な形の創作が流行っており、研究が行われ、実演されている実態もある。&lt;ref&gt;「柔道の形に関する研究 : 連絡の形の創作」光本 健次&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;柔道の形に関する研究(その1)―デンマークで考案された連絡の形の一考察―&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;柔道の形に関する研究(その2)―連絡の形の一考察―&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『Het Hikomi-no-kata Judo :thematische werkstukken』 Mark Bette &amp; Berber Roorda&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 「Ukemi no kata」「Kaeshi no kata」「Renraku no kata」&lt;ref&gt;「柔道の形に関する研究 : 連絡の形の創作」光本 健次&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;柔道の形に関する研究(その1)―デンマークで考案された連絡の形の一考察―&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;柔道の形に関する研究(その2)―連絡の形の一考察―&lt;/ref&gt;「Renzoku no kata」「Hikomi no kata」&lt;ref&gt;『Het Hikomi-no-kata Judo :thematische werkstukken』 Mark Bette &amp; Berber Roorda&lt;/ref&gt;「Rensa no kata」「Atemi no kata」などが研究、創作され行われている。<br /> <br /> === 武術としての柔道(勝負法) ===<br /> 今日周知されているような体育としての柔道観、人間教育としての柔道観以上に、嘉納治五郎の柔道観は元々幅の広いものであった。嘉納は柔道修行の目的を「&#039;&#039;&#039;修心法&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;体育法&#039;&#039;&#039;(練体法、鍛錬法とも言う)」「&#039;&#039;&#039;勝負法&#039;&#039;&#039;(護身法とも言う)」(時に「&#039;&#039;&#039;慰心法&#039;&#039;&#039;」を含む)とし、柔道修行の順序と目的について、上中下段の柔道の考えを設けて、最初に行う&#039;&#039;&#039;下段の柔道&#039;&#039;&#039;では、攻撃防御の方法を練習すること、&#039;&#039;&#039;中段の柔道&#039;&#039;&#039;では、修行を通して身体の鍛練と精神の修養をすること、&#039;&#039;&#039;上段の柔道&#039;&#039;&#039;では終極的な目的として下段、中段の柔道の修行で得た身体精神の力を最も有効に使用して、世を補益することを狙いとした&lt;ref&gt;『柔道大事典』p.214&lt;/ref&gt;。武術としての柔術(&#039;&#039;&#039;勝負法&#039;&#039;&#039;)をベースに、体育的な方法としての乱取り及び形(&#039;&#039;&#039;体育法&#039;&#039;&#039;)、それらの修行を通しての強い精神性の獲得(&#039;&#039;&#039;修心法&#039;&#039;&#039;)を同時に狙いとしていた。<br /> <br /> その一方で嘉納は武術としての柔道について「まず権威ある研究機関を作って我が国固有の武術を研究し、また広く海外の武術も及ぶ限り調査して最も進んだ武術を作り上げ、それを広くわが国民に教へることはもちろん、諸外国の人にも教へるつもりだ」との見解を述べており&lt;ref&gt;『嘉納治五郎著作集 第2巻』p.105&lt;/ref&gt;、研究機関を作り世界中の武術を研究して最も進んだ武術を拵えたいとの考えも持っていた。<br /> <br /> ==== 勝負法の乱取り====<br /> 嘉納は柔道に柔術のもつ武術性を求めていたが、しかし勝負に効き目ある手(当身技)が危険であり教えることが難しいため、従来の柔術諸流派の修行法と同じ様に「専ら形に拠って練習」 しなければならぬとした。しかし形だけではなく、そこから先へと進めた、当て身を含む乱取りも工夫すべきという考えを嘉納は早くから持ち続けた。<br /> 1889年の講演「&#039;&#039;&#039;柔道一班並二其教育上ノ価値&#039;&#039;&#039;」の中において、嘉納は当身を含み対処する柔道の「勝負法の乱取り」の可能性、構想について述べている。「初めから一種の約束を定めていき又打ったり突いたりする時は手袋の様なものをはめてすれば、勝負法の乱捕も随分できぬこともない。形ばかりでは真似事のやうで実地の練習はできないから、やはり一種の乱捕があったほうがよい。」とし勝負法の技を実演している。<br /> その際、勝負法の形のうちから簡単な技として5つほど、<br /> * 対手が右の手で打ってくるのを捌き対処し腰で投げる。<br /> * 対手が右の手で打ってくるのを捌き対処しその手先を捕り捩り対手を縛る。<br /> * 対手が突いてくるのを捌き対処し対手が引いたのを入り込んで咽喉を絞める。<br /> * 対手が横から打ってくるのを捌き対処し咽喉を絞めるなり急所に当てなりする。<br /> * 対手が蹴ってくるのを足先を捕り捌き対処し投げる。または固める。<br /> を実演し、またその上に種々込み入った手があり大抵の場合に応ずることを目的とするものであることを説明する。<br /> <br /> ==== 古武道研究会====<br /> 嘉納は古流柔術の定義について「無手或は短き武器を持って居る敵を攻撃し又は防御するの術」とし、柔道の修行・技術についても「その修行方法は攻撃防御の練習によって身体精神を鍛錬修養し斯道の真髄を体得することである」「攻撃防御の練習、柔道でいう攻撃は、便宜上、投、固、当の三種に分けることとしている。投とは場合場合でいろいろの動作をして対手を地に倒すことをいい、固とは絞業、関節業、抑業の区別はあるが、要するに対手の体躯、頸、四肢などに拘束を加えて動けなくしまたは苦痛に耐えられぬようにすることをいい、当とは手、足、頭、時には器物または武器をもって対手の身体の種々の部分に当て苦痛を感じしめ、または死に至らしめることをいうのである。そうして防御とはこれらの攻撃に対して己を全うするために施すいろいろの動作をいうのである。」&lt;ref&gt;『嘉納治五郎著作集 第2巻』p.18&lt;/ref&gt;と述べている。柔道の当身の中に武器術、対武器術の概念を含むことを述べている。<br /> <br /> 嘉納は理想の柔道教師の条件として、「無手は勿論、棒、剣を使う術においても攻撃防御の術に熟練し、勝負上の理論も心得、同時に体育家として必要な知識を有し、且つその方法にも修熟し、また教育家として必要な道徳教育の理論にも通暁し、訓練の方法にも達し、のみならず柔道の原理を社会生活に応用する上において精深なる知識を有し、方法をわきまえている」&lt;ref&gt;『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』理想の柔道教師 p.92&lt;/ref&gt;人物としている。嘉納の理想としての柔道の攻撃防御の修行には無手のみではなく武器術を含むものであったことが伺える。<br /> <br /> また嘉納は大正15年(1926年)、当時の機関誌「作興」に、「武術としての柔道は無手術はもちろん、剣術、棒術、槍術、弓術、薙刀その他あらゆる武術を包含する」と書き、「剣術、棒術はいずれも価値あるものと認むるが、剣術の試合の練習はすでに世間に普及しているから、差し当たり無手術の他には剣術および棒術の形をするつもりである」と述べている。&lt;ref&gt;『[[月刊秘伝]]』2011年12月号「特集 形に秘められた実戦柔道 嘉納治五郎と武器術」&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『作興』1926&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 嘉納はそのような修行形態を再試行する目的で、1928年に講道館内に「&#039;&#039;&#039;古武道研究会&#039;&#039;&#039;」を立ち上げ、柔、剣、棒、杖術等の古い武術の保存と柔道としての体系化への研究に進んでいる。<br /> <br /> 参加メンバーの[[望月稔]]は、古武道研究会について「武術が殺傷の技術であったのに対し、武道は青少年の体育、徳育、知育に志向した教育手段として近代化されたものである。従って技術的には殺傷の技としては有効であっても、体育的には不適当と見做された多くの技が全て淘汰されてしまった。嘉納治五郎先生は大正の末期から、之に対する再検討に入られて、当時既に消滅に瀕していた古流武術の保存に力を入れられたのである」&lt;ref&gt;『柔道の歴史と文化』藤堂良明 p.127&lt;/ref&gt;と述べている。<br /> <br /> ==== 離隔態勢の柔道====<br /> 嘉納亡き後も、嘉納の求めた「離れて行う柔道」の試行は望月稔や[[富木謙治]]などに引き継がれ、1942年に講道館2代目館長[[南郷次郎]]時代に講道館において「柔道の離隔態勢の技の研究委員会」が設置されている。中でも富木謙治による離れて行う柔道の当身と立ち関節を主体とする「離隔態勢の柔道」の研究は、講道館護身術や合気道競技(柔道第二乱取り法)などとしてまとめられることになる。<br /> <br /> <br /> 富木謙治は、嘉納治五郎の遺した言説から、古流柔術各流派、合気柔術([[合気道]])、また剣術([[剣道]])を包括する嘉納の『&#039;&#039;&#039;柔道原理&#039;&#039;&#039;』を分析する。また柔道の技を、従来の乱取で行われる組む技(第一部門)「&#039;&#039;&#039;[[投技]]&#039;&#039;&#039;」、(第二部門)「&#039;&#039;&#039;[[固め技]]&#039;&#039;&#039;」と、従来の形で行われる(打・突・蹴や武器に対峙する)離れた技(第三部門)「&#039;&#039;&#039;[[当身技]]&#039;&#039;&#039;」、(第四部門)「(立ち)&#039;&#039;&#039;[[関節技]]&#039;&#039;&#039;(手首関節や肘関節を捕っての立ち関節技や居取り技の投げや固め)」、の4種に再度分類し、「投技」「固め技」の従来の乱取に対して、「当身技」「関節技」によって行われる柔道の第二乱取法を提唱する。<br /> <br /> 富木は、嘉納の帰納した古い各流柔術に一貫する基本術理としての「柔道原理」を、「&#039;&#039;&#039;自然体の理&#039;&#039;&#039;」、「&#039;&#039;&#039;柔の理&#039;&#039;&#039;」、「&#039;&#039;&#039;崩しの理&#039;&#039;&#039;」の3つにまとめ、攻防の理論として、また「投技」「固め技」「関節技」「当身技」のわざをそれぞれの状況に当てはめる。<br /> <br />  1、「攻防」に即応する、自在な姿勢の取り方として『自然体の理』 (変幻自在、臨機応変に、且つ「不動心」や「心身一如」「動静一如」の禅の心法に通じる「無構え」の思想)<br /> <br />  2、「防御」の立場で、相手の攻撃を無効にする柔らかい働きかけとして『柔の理』 (「不敗の理」の柔軟な体の運用)<br /> <br />   (1)「組んで」相手の力を流す<br /> <br />   (2)「離れて」相手の斬突をかわしうける<br /> <br />  3、「攻撃」の立場で、相手の姿勢のバランスを崩して勝機を「つくる」『崩しの理』 (古流柔術の技の本質・中心技法としての「倒すこと」と「抑えること」)<br /> <br />   (1)「組んで」相手の襟・袖(着物、服、又は手や首、胴、脚など)をつかんで崩す<br /> <br />   (2)「離れて」相手のあご・肘・手首に触れて崩す<br /> <br />    ・相手の手首または前腕をつかむことによって、特にそのつかんだ腕をひねることによって相手の「姿勢」を崩す場合。「関節技」<br /> <br />    ・相手の体、特に顔面に力を加えることによって相手の姿勢を「崩す」場合。「当身技」<br /> <br /> 崩しの理において富木は「つくり」と「かけ」をそれぞれ重視する。またその中で富木は、柔術における「「わざ」の大目的は「倒すこと」と「抑えること」の二つに帰することが出来る」とし、柔道の第一乱取、第二乱取のそれぞれの技の分類に当てはめる。<br /> <br /> ○「倒すこと」の練習<br /> <br />   第一の場合<br /> <br />    「組みついて」からかける「わざ」の練習であって、主として、お互いが襟・袖(着物、服、又は手や首、胴、脚など)に組みついて、足や腰のはたらきによる「わざ」を練習する。(「腰技」「足技」など「投技」)<br /> <br />   第二の場合<br /> <br />    「離れて」相手の打・突・蹴や武器の斬突を防ぎながらかける「わざ」の練習であって、主として、手刀(広義)のはたらきによる「わざ」を練習する。(「当身技」)<br /> <br />          倒すときに腕手首をとる。(「関節技」)<br /> <br /> ○「抑えること」の練習<br /> <br />   第一の場合<br /> <br />    「[[寝技]]」に属する「わざ」の練習であって、主として、相手を「仰向け」の姿勢に抑えることを練習する。(「固め技」)<br /> <br />   第二の場合<br /> <br />    「座技」([[柔道形]]における居取り技)に属する「わざ」の練習であって、主として、相手を「うつ伏せ」の姿勢に抑えることを練習する。(「関節技」)<br /> <br /> なお、富木は「当身技には二つの性格がある」、「一撃必殺の打・突・蹴の威力を発揮するもの」で「拳・手刀・肘・足などの鍛錬に重点を置く」(衝撃的破壊的なもの)、「相手の姿勢の「崩れ」に乗じて、一点の力の働きで相手を「倒す」」もの(柔らかい力の働きであるが、加えた力が持続的であることによって相手を「倒す」ことが出来る)があり、「「当身技」における二つの性格の相違は、その練習方法においても根本的に異なる」と説明する。&lt;ref&gt;『武道論』p.125 富木謙治著 大修館書店&lt;/ref&gt;<br /> <br /> また、富木は嘉納の言説における、「『柔道原理』で剣を使えば剣術となり、槍を使えば槍術となる」の思想から、「「柔道原理」の中には「剣道原理」も吸収されていることを意味する」とし、<br /> <br />  (相手に触れないで斬突する)剣道原理<br /> <br />   1、目付 2、間合 3、刀法<br /> <br /> を基とする「手刀」法の働きを持っても「柔道原理」を分析する。<br /> <br /> 富木は「柔道原理」の手刀法として、「相手の打・突・蹴や武器による斬突を、刀法の術理で防御するばかりでなく、相手が自分に「組み」つこうとするのを瞬間的にそれを止める働き、また、「組み」つかれてから、それを「離脱」するはたらきなど、すべて広い意味での「手刀」の働き」とした。&lt;ref&gt;『武道論』 富木謙治著 大修館書店&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==== 巨人に対する技術の研究(足取り技) ====<br /> [[神田久太郎]]九段は「巨人に対する技術の研究」として、古流柔術各流派の中にあった「自分より大きい対手を組む前に投げる技」として「各流派の文献を見たり古流の先生方に聞いたりし」研究を進め、「[[朽木倒し]]」「[[双手刈り]]」として整備し乱取技として完成させ、嘉納治五郎に認められ正式に柔道技に採用された&lt;ref&gt;『柔道』講道館刊・昭和32年5月号&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『講道館柔道 投技 手技・腰技』「双手刈り」「朽木倒し」醍醐敏郎著 本の友社&lt;/ref&gt;。また「[[踵返]]」は[[三船久蔵]]が編み出した技とされている&lt;ref&gt;『講道館柔道 投技 手技・腰技』「踵返し」醍醐敏郎著 本の友社&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 海外へ渡った柔道家====<br /> また一方で嘉納の志向した武術としての柔道とは異なる流れとして、海外に渡り柔道普及活動の一環で異種格闘技を戦い名声を上げた[[谷幸雄]]や[[前田光世]]などの活躍もある。<br /> <br /> 世界を戦い渡り歩いた前田光世は旅先から日本在住の友人[[薄田斬雲]]宛にいくつかの手紙を送っており、幾多の戦いを通しての異種格闘技戦の「セオリー」が詳細に記録されている。そこでは前田が対峙したレスリング(西洋角力)やボクシング(拳闘)に対する歴史的分析、対策、勝負時の条件等を考察している。前田はレスリング、ボクシングの油断ならない面倒であることを述べながら、同時に柔道こそ世界最高の総合的かつ実戦的な格闘技だという自負を語る。「我が柔道は西洋の相撲(WRESTLING)や拳闘(BOXING)以上に立派なものであることは僕も確信している。拳闘は柔道の一部を用いているだけで、護身術としては幼稚なものだ。(中略)(拳闘は)個人的なゲームで、八方に敵を予想した真剣の護身術ではない。だから体育法としても精神修養法としても、また理詰めの西洋人流に科学的に立論しても、我が柔道と彼らの拳闘とは優劣同日の談にあらずである。」前田はその言説において柔道=護身術と明確に定義しており、その体系にレスリング、ボクシング技術や当て身の突きや蹴りを内包するものという主張が見受けられる。&lt;ref&gt;神山典士『グレイシー一族に柔術を教えた男 不敗の格闘王 前田光世伝』祥伝社、『前田光世の世界制覇』巻末 前田光世・筆「余が経験せる西洋角力」、『冒険世界』1911年10月1日発行 前田光世・投稿「余が経験せる拳闘」&lt;/ref&gt;<br /> <br /> また、前田は異種格闘技を戦うその練習の上において現在における[[オープンフィンガーグローブ]]の原型を考案し、前田の日本に宛てた手紙をまとめた単行本『世界横行・柔道武者修行』(1912年)、『新柔道武者修行 世界横行 第二』(1912年)においてその言及が確認出来る。 「何らかの道具を新案して、当てる蹴るの練習をする必要がある。僕はいま、ゴム製の拳闘用手袋風にして、指が一寸ばかり(約三センチ)出るようなものを新案中だ。それから、軽い丈夫な面を、これもゴム製にして、目と鼻腔の呼吸をなし得るものを新案中だ。胸は撃剣の胴のようなものをつけてもよい。これで当てることと蹴ることの練習をやる。それから袖をとりに来る手の逆を取ること。以上の練習は柔道家には、ぜひとも必要と考える。」&lt;ref&gt;『世界横行・柔道武者修行』前田光世・記&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『―日本プロレス秘話―力道山以前の力道山たち』小島貞二 三一書房&lt;/ref&gt;<br /> <br /> また、フランス柔道の父[[川石酒造之助]]の[[川石酒造之助#技術体系 「川石メソッド」 Judo de Methode Kawaishi|「川石メソッド」]]などの例からも、海外に渡った柔道家の残した柔道技術の中には現在国内においては失われたものもあることが伺える。<br /> <br /> ==== 世界の軍隊格闘技・近接格闘術における影響 ====<br /> 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、世界の軍における格闘技というのは基本的に軽視されていた。<br /> <br /> 戦争はほとんど砲と銃で戦う時代であり、この時代の近接戦闘と言えば主に騎兵が使う軍刀(サーベル)と、歩兵がライフルに装着(着剣)して槍のように使う銃剣で戦うことだった。しかし[[第一次世界大戦]]では、大規模な[[塹壕戦]]が繰り広げられた。塹壕内での極めて近い距離、狭い場所での戦闘が頻発したことで近距離向きの銃器や手榴弾以外に、敵に悟られないように塹壕に侵入していくことも重要だったため、音を出さない白兵戦用の武器も重視された。そうした白兵戦で敵に対処するために防御側も同様の至近距離での戦闘技術が必要となった。このため各国で近接戦闘の工夫がされていった。塹壕戦によって近い距離で戦う武器術や格闘技術が求められるようになっていったのがこの時代の最大の特徴であり、軍における訓練では近接戦闘のために既存の格闘技を取り入れるようになった。第一次大戦を境に[[軍隊格闘技]]・[[近接格闘術]]の基として注目された格闘技の一つに日本の柔道や(古流)柔術がある。そしてこの時期の徒手格闘術は[[ボクシング]]や柔道が中心となっている。<br /> <br /> 柔道や柔術の海外への伝播はちょうど第一次世界大戦前であり、多くの柔道家・柔術家が海外に渡って普及活動を行っている。アメリカなどでは第一次大戦前、柔術ブームとでも呼ぶべき現象が起きていた。またそこには当時、日清・日露戦争での勝利に対して世界から向けられた日本への興味、東洋趣味からの観点や、[[嘉納治五郎]]の教育者の立場からの部下にあたる[[ラフカディオ・ハーン]]([[小泉八雲]])などによる柔道(柔術)の海外への紹介、また嘉納治五郎自身の渡欧の影響なども柔道・柔術ブームへの影響が見受けられる。<br /> アメリカ大統領[[セオドア・ルーズベルト]]の信頼を得て合衆国海軍兵学校の教官として講道館柔道を教えた講道館四天王の一人[[山下義韶]](のちの史上初の十段位)などの例や、講道館柔道を学びロシアにおいて[[サンボ]]の創始者となった[[ワシリー・オシェプコフ|オシェプコフ]]の例などから、米露英仏など各国で柔道は軍隊近接格闘技要素に取り入れられていった。<br /> <br /> ==== 国内における軍隊格闘技としての採用・影響 ====<br /> 日本においては明治維新、柔道創設以降、[[陸軍士官学校]]、[[陸軍憲兵学校]]、[[海軍兵学校]]等の軍学校で柔道が取り入れられ盛んに行われた。またそれとともに&#039;&#039;&#039;[[大日本武徳会]]&#039;&#039;&#039;で講道館柔道が柔術部門を統一する立場となる役割の流派として正式採用され、&#039;&#039;&#039;[[大日本武徳会武道専門学校]]&#039;&#039;&#039;で稽古が行われた。<br /> <br /> ===== 新武徳会柔道試合審判規定 =====<br /> 嘉納治五郎の没後、第二次世界大戦が起こり戦況が拡大するにつれ、昭和十七年に従来の[[大日本武徳会]]は改組が行われ、内閣総理大臣[[東条英機]]を会長とする大日本武徳会(新武徳会)が結成される。<br /> <br /> 昭和一八年(1943年)、新武徳会において「実戦的修練を目標とし、[[白兵戦]]闘に実効を挙げ得る短時日の修練」を旨とした「柔道の決戦態勢とも言ふべき」内容の新武徳会における柔道の指導方針が発表される。<br /> 柔道の実戦性についての再検討は嘉納治五郎存命中の頃より始まっており、嘉納の述べる「当て身」や「形」を怠ることのない「真剣勝負」の重要性の主張と矛盾するものではなかった。<br /> <br /> 新武徳会は柔道範士、[[栗原民雄]](後の講道館十段)を中心とし、柔道の戦技化を推奨していく。栗原は柔道を相手と「離れた場合」・「組んだ場合」の二つに分け、離れた場合「極の形に躱攻動作を応用し、起こり得べき種々の場合を想定し、その組み手を多くして之れを練習し、相当習熟した場合は防具を使用して[[乱取り]]程度まで修練すればよかろう(中略)相手を単に一人と想定せず、常に数人と仮想して研究することも怠ってはならない」と述べた。<br /> 次に組んだ場合には「指関節や腕関節を取ること」の復活研究を説き、また「古流」の研究と応用に留意すること、温故知新の必要性も説いた。<br /> <br /> 新武徳会に先立ち講道館においては、昭和一六年(1941年)「立ちたるまま絞技、関節技を掛け、技が相当の効果を収めた場合に限り寝技に移れる旨改正され」立った状態からの固め技を認めるようになっていた。<br /> <br /> 新武徳会で新たに作成された柔道審判規定では「第二条 試合は[[当身技]]、[[投げ技]]、[[固め技]]を以て決せしむ、但し普通の試合に於いては当て身技は用ひしめざるものとす」と条件付きであるが、当て身技の使用を認める条項が追加される。<br /> 防具着用によって当て身技のある試合の安全性に配慮しながらも、特殊なケースとして防具を使用しない試合の実施も示唆されていた。<br /> <br /> また[[関節技]]も緩和されることになる。<br /> <br /> 第十一条 関節技は次の基準により之を行わしむ<br /> *(一)等外者は肘関節<br /> *(二)有等者は肘関節、手首関節、足首関節<br /> *(三)称号受有者は脊柱関節を除く全関節<br /> <br /> として等級称号によって制限はあるが、脊柱以外の全ての関節への攻撃が許されている。<br /> <br /> また技術以外の面でも柔道試合の戦技化は図られた。<br /> <br /> 稽古場、服装として「柔道は戸外に於いても如何なる服装にても実施し得るやう工夫し砂場芝生等を道場として活用せしむこと」とされた。稽古においては「特に青少年に重点を置き野外戦技を弊習せしむこと」とされた。稽古の形態は「従来個人的修練のみに傾き易きに鑑み特に団体的訓練を教習せしむこと」とされ複数人で自由に攻防をする自由掛けなどが行われた。<br /> さらに「[[錬士]]以上の者にありては当て身技を併用し試合せしめ」ることとし、乱取りが課せられた。しかし乱取りばかり行うことは戒められ、<br /> 「修練は短時日に於いて白兵戦闘に実効を挙げ得るよう基本動作及び技術(形を含む)を修得せしむこと」となり、「基本動作」「[[柔道形|形]]」といった稽古法の価値が戦闘訓練の文脈で再評価された。<br /> また柔道指導者に対しては「己が任務の遂行を期すると共に[[剣道]][[銃剣道]]を始め武道各般ににつき努めて研修すべきこと」と、あらゆる武道を総合的に稽古することが求められた。<br /> &lt;ref&gt;『近代日本の武道論〈武道のスポーツ化〉問題の誕生』 中嶋哲也 国書刊行会&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ===== 体鎌科武道 =====<br /> また戦況が深刻になるにつれ、学校においても明治以来の「体操科」は新たに「体錬科」と名称を変える。政府主導の国民学校体錬科においては皇国思想の養成と戦技能力の鍛錬が求められた。体錬科の教材として「教練」、「体操」(徒手体操、跳躍、懸垂、角力(相撲)、水泳など)、「武道」(剣道、柔道、銃剣道)が課せられ、柔道と剣道は偏ることなく併せて行い、常に攻撃を主眼として行うことが説かれた。<br /> 体錬科武道の柔道の内容は、「基本」として「礼法」、「構」、「体の運用」、「受身」、「当身技」が教えられ、「応用」として「極技」、「投技」、「固技」があった。この当身技は、精力善用国民体育の単独動作の技であり、極技は相対動作の技と一致している。柔道技術の中の当身技が「基本」として重視され、戦時下において、柔道は実戦を目的とした教材に変えられたと言える&lt;ref&gt;藤堂 良明『柔道 その歴史と技法』&lt;/ref&gt;。第二次大戦下「体練科武道」が実施される間、当身技は学校柔道を中心にして組織づけられ、発展した。柔道の当身技は武術的に取り扱われ、基礎的な修練から進んで撃突台や撃突具を使用しての実戦的な指導に進み、終戦末期に至っては、当身技は従来の指導体系を放棄して、白兵戦闘的動作へ移行し、そこで終戦を迎えた&lt;ref&gt;松本芳三『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』大修館書店&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===== 武道禁止令と学校柔道の復活 =====<br /> 大戦の終戦に伴い、日本の民主化政策の一環として[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]とその一部局である[[CIE]]によって「武道」の実施に対する処置が検討された。CIEは武道を軍事的な技術(Military Arts)とみなし、国民に軍国主義を養成するものとして警戒した。これに伴い武道という枠組みに位置付けられていた柔道は、剣道や弓道同様に禁止された。(武道禁止令)<br /> <br /> さらに戦時中に軍による統制を受けていた大日本武徳会も「依然軍国主義的団体としての建前をとっている」とされ解散を余儀なくされた。<br /> <br /> しかし柔道復活の陳情は相次ぎ多く、文部省による請願書による<br /> # 教育的価値について、<br /> # 実施方法について、<br /> # 審判について、<br /> # 一般人の関心について、<br /> # 競技会について、<br /> # 柔道界の組織について、<br /> <br /> の説明、改革案が総司令官に提出される。そこで提示された新しい柔道は、“競技スポーツ”として向かう下地があったと言える。これに対しGHQから「学校柔道の復活について」という覚書が日本政府に出され、CIEからの注意事項として「実施してよい柔道とはあくまでも大臣の請願書に規定された柔道であること」とされた上で、その復活が認められる。<br /> <br /> しかし「2.実施方法について」において、○段別の外に体重別・年齢別の試合の実施、○戦時中行ったような野外で戦技訓練の一部として集団的に行う方法の全面的廃止、などと並んで、○当身技、関節技等の中で危険と思われる技術を除外する旨が請願書には含まれており、その当身技や関節技を中心に構成された&#039;&#039;&#039;精力善用国民体育&#039;&#039;&#039;は武術的色彩が強いということで行われなくなってしまうこととなる。<br /> <br /> 嘉納治五郎が生前に考案し発表した精力善用国民体育は、GHQの警戒した武術的側面のみではなく、体育として徳育としても従来の柔道を補完するものであり、練習法においても単独練習を可能にするものであり、嘉納の柔道の精神、「精力善用・自他共栄」の思いを強く含むものであった。<br /> <br /> 嘉納の万感の思いのこもった精力善用国民体育が、占領期間中の禁止・制限が解かれることなく占領後もなおも軽視されていることを惜しむ声は依然今も挙がっているものである。&lt;ref&gt;藤堂 良明『柔道 その歴史と技法』&lt;/ref&gt;<br /> <br /> そして戦後スポーツとしての柔道が国内の斯界を風靡し、修行者はもっぱら乱取り練習に興味を持ち、試合における勝敗にのみ熱中するようになっていった。形は閑却され、当身技の研究も習練も軽視されおろそかにされていた。しかしながら皮肉にも欧米各国では、&#039;&#039;&#039;[[護身術]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;[[セルフディフェンス]]&#039;&#039;&#039;)の重要性が強調され、柔道の当身技が盛んに行われていた実態がある&lt;ref&gt;松本芳三『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』大修館書店&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『JUDO KODOKAN ATEMI WAZA』José A Caracena&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『JUDO ATEMI』Geremia Zilio &amp; F.Cattaneo&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 国際柔道協会(プロ柔道)====<br /> 戦後、日本の敗戦のため行われたGHQによる占領政策としての柔道のスポーツ化の流れの一方で、再び武術・武道としての柔道の再生を求める動きとして、1950年に、その乱取り競技内においてもほぼ全ての関節技の解禁などの実験的ルールを採用した武道・武術を志向した[[国際柔道協会]]([[プロ柔道]])も興っている。<br /> <br /> ==== 柔拳興行(略記) ====<br /> <br /> 明治後期から第二次世界大戦後にかけて外国人ボクサーと柔道家による他流試合興行「柔拳試合」が流行し行われていた歴史がある。戦前の柔拳興行は嘉納治五郎の甥の[[嘉納健治]]によって隆盛し、戦後の柔拳興行は[[万年東一]]によって行われている。<br /> <br /> : {{Main|#柔拳興行}}<br /> <br /> === 体育としての柔道(体育法) ===<br /> 日本伝講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、武術に教育的価値を見出し整備した武道のパイオニアであり、武術家としてその実績から「維新以降百年の柔術界の最高の偉人」&lt;ref&gt;『古流柔術――その術理と知られざる秘技』寺尾正充&lt;/ref&gt;と評される武術・柔術界の第一人者であった。<br /> <br /> それと共に、教育界における教育者としての観点からも、若くして[[学習院大学]]教頭や[[東京高等師範学校]](のちの[[東京教育大学]]を経た現・[[筑波大学]])校長などを歴任し、[[灘中学校]]・[[灘高校]]の設立にも尽力するなど第一人者であった。<br /> <br /> また体育面・日本体育における観点においても「&#039;&#039;&#039;日本体育の父&#039;&#039;&#039;」、「教育上、体育を尊重し、体育の地位の向上をせしめたる卓見と努力は、他に比較すべき人を見ない」&lt;ref&gt;『嘉納先生傳』横山健堂&lt;/ref&gt;と言われるように卓越した見識を持ち、アジア初のオリンピック委員、&#039;&#039;&#039;[[大日本体育協会]]&#039;&#039;&#039;初代会長などの実績からも見られるように、嘉納は武術家・武道家としての面以外にも教育者としても卓見であり、また西洋の他の格闘技や体育・体操・スポーツへの知識、造詣も深くあった。<br /> <br /> 嘉納が古流柔術の修行を修め、柔道が創始された明治初期の日本では、一刻も早く欧米列強に肩を並べ対峙できるよう近代化を推し進めることが至上命令とされ、「[[富国強兵]]」「[[殖産興業]]」というスローガンによって強い国家を構築することが重要な国策となっていった。国民の「体力の向上」が国家的課題となり、それは教育界においても、いわゆる「&#039;&#039;&#039;国民体育&#039;&#039;&#039;」の概念の下で身体鍛錬が重視され、そのための具体的な内容と方法が模索され続けた。<br /> <br /> 学校教育では、体育が実施されるようになり、その中心教材には欧米に倣って西洋式の体操が位置づけられた。医学・生理学に根拠を持つ体操を採用した文部省では、体操を万能とする体育観が支配的となった。<br /> <br /> 明治10年代頃から国内の学校教育の場への武術の正科採用を推す声が武術家を中心に出されるようになり、ついに明治16年文部省は&#039;&#039;&#039;[[体操伝習所]]&#039;&#039;&#039;に対し剣術や柔術の教育に対する利害適否を調査するよう通達した。<br /> <br /> そこで行われた剣術、柔術への、実施、医学的検討、視察、調査の結果として、明治17年10月、体操伝習所は次のような結論を出した。(&#039;&#039;&#039;体操伝習所答申&#039;&#039;&#039;)<br /> <br /> 二術(剣術、柔術)の利とする方<br /> # 身體の発育を助く。<br /> # 長く體動に堪ふる力量を得しむ。<br /> # 精神を壮快にし志氣を作興す。<br /> # 柔惰の風恣を去りて剛壮の姿格を収めしむ。<br /> # 不慮の危難に際して護身の基を得しむ。<br /> <br /> 害若くは不便とする方<br /> # 身體の発育往々平均均一を失はん。<br /> # 實習の際多少の危険あり。<br /> # 身體の運動適度を得しむること難く強壮者脆弱者共に過剰に失し易し。<br /> # 精神激し易く輙もすれば粗暴の氣風を養ふべく。<br /> # 争闘の念志を盛にし徒らに勝を制せんとの風を成しやすし。<br /> # 競進に似て却て非なる勝負の心を養ひがちなり。<br /> # 演習上毎人に監督を要し一級全體一斉に授けがたし。<br /> # 教場の坪数を要すること甚大なり。<br /> # 柔術の演習は単に稽古着を要するのみなれども剣術は更に稽古道具を要し、且つ常に其衣類及道具を清潔に保つこと生徒の業には容易ならず。<br /> <br /> その理由から<br /> # 学校体育の正課として採用することは不適当なり。<br /> # 慣習上行われ易き所あるを以て彼の正課の体操を怠り専ら心育のみに偏するが如き所に之れを施さば其利を収むることを得べし。<br /> <br /> とされ、武術の正課体操教材化はならなかった。<br /> <br /> その5年後にあたる明治22年、当時29歳であった嘉納治五郎は[[大日本体育協会]]の依頼により、文部大臣[[榎本武揚]]やイタリー公使らの出席を仰ぎ、「&#039;&#039;&#039;柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値&#039;&#039;&#039;」と題して講演を行った。<br /> <br /> 講演「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」においては、明治17年の体操伝習所答申に沿う形で構成されており、害若しくは不便とする方として挙げられた条件を一つ一つクリアーしていく形で構成されている。<br /> <br /> そこでは講道館柔道を従来の(古流)柔術から更に進めた&#039;&#039;&#039;柔道勝負法&#039;&#039;&#039;(柔道護身法とも言う)、&#039;&#039;&#039;柔道体育法&#039;&#039;&#039;(柔道練体法、柔道鍛錬法とも言う)、&#039;&#039;&#039;柔道修心法&#039;&#039;&#039;の分類により、修行目的、効用、修行方法を分けて考えた上で構成された。講道館柔道では「体育、勝負(武術の真剣勝負の方法)、修心の三つの目的を持っておりまして、これを修行致しますれば体育も出来勝負の方法の練習も出来、一種の智育徳育も出来る都合になっております。」と述べて、柔道の目的として体育と勝負と修心の三つを挙げ智徳体を学べる、と説いた。<br /> <br /> 講道館柔道の独自性・理論的大系・教育界における影響力は、この嘉納の講演「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」によって公に知るところとなり、武術改め武道の教育の場における正規採用に大きな影響を与えていくことになる。<br /> <br /> <br /> 「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において、柔道体育法の効用は&#039;&#039;&#039;乱取り&#039;&#039;&#039;と&#039;&#039;&#039;形&#039;&#039;&#039;の両立で説かれる。<br /> <br /> 乱取りにおいては「身体の強化」や、実践者が「興味・面白み」を得られるという点、「主体性の育成」の点から価値を説く。<br /> <br /> 形においては、学校体育の主目的たる「身体の調和的発達」の観点、「乱取」を補完するものとして必要性を強調し、老若男女が実施可能なものとしてしつらえ、「大衆性」や「生涯性」を備えた体育法として位置づけた。<br /> <br /> 体育法における乱取りと形に嘉納は工夫をこらすことになる。<br /> <br /> 従来の乱取りは体育としての利点がある反面、初学の者が方法を誤ると運動が過激になり過ぎ危険を生じることも懸念される。そのため嘉納は、子どもの発達段階と技の難易度を考慮した乱取技の指導順序を示して、学校柔道に適した段階的指導の方法を整備していく。<br /> <br /> また柔道における形はその目的から、それぞれ&#039;&#039;&#039;乱取りの形&#039;&#039;&#039;(投げの形、固めの形)、&#039;&#039;&#039;体操の形&#039;&#039;&#039;(柔の形、剛柔の形)、&#039;&#039;&#039;真剣勝負の形&#039;&#039;&#039;(極の形、講道館護身術、女子柔道護身法)、&#039;&#039;&#039;古式の形&#039;&#039;&#039;など目的用途ごとに分けられるが、嘉納は「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において柔道体育法の目的に沿うものとして、その中から体操の形として体育法の形第一種(剛柔の形)、体育法の形第二種(柔の形)を挙げる。昭和期に入るとさらに改良を加えた「精力善用国民体育(の形)」を嘉納は考案し、学校柔道において「形」から「乱取」へという教習課程を確立していくことになる。<br /> <br /> また嘉納は「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において柔道体育法として乱捕を体操に用いる際に怪我がないために、また道場を離れた日常においても車から転げ落ちたり梯子を踏み外したり他人から害を加えられかかったりしたとき危険を避けることの出来る利益のあることとして、危険を避ける方法として種々の&#039;&#039;&#039;[[受身]]&#039;&#039;&#039;の方法論と重要性を説明している。<br /> <br /> このような嘉納による学校柔道における教授内容・方法を整備・確立するための工夫の過程に共通する視点は、「易しいものから難しいものへ」ということである。それは、初学の者を対象とする学校柔道における段階的指導の観点の一環として捉えることができる。<br /> <br /> 嘉納は柔道の体育法の目的・優位性・効用として、「&#039;&#039;&#039;強&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;健&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;用&#039;&#039;&#039;」(強化・調和的発達・実用性)を挙げる。<br /> <br /> 昭和5年嘉納は「理想的体育」として次の条件・内容を述べている。<br /> # 筋肉としても、内臓としても、身体を円満均斉に発達せしめて、なるべく危険の伴わないこと。<br /> # 運動はいちいち意味を有し、したがって熟練がこれに伴い、かつ其の熟練が人生に用をなすものであること。<br /> # 単独でも団体にても出来、老若男女の区別なく実行し得らるること。<br /> # 広い場所を要せず、なるべく簡単なる設備で行い得られ、服装のごときも平素のままで行い得らるること。<br /> # 時間を定めて行うも、随時零砕の時間を利用して行うも、人々の境遇上および便宜上自由になし得ること。<br /> <br /> また柔道修行における必要な医学・生理学的根拠を学ぶ方法・場としては柔道の修行法の一つ「&#039;&#039;&#039;講義&#039;&#039;&#039;」を設け、それによって補完する必要のあることを嘉納は述べる。<br /> <br /> 柔道修行におけるその強度の違い、真剣勝負(武術)、競技、教育目的の体育、はその修行方法、修行者を考慮して行われるべきものである。<br /> <br /> 武術としての真剣勝負の柔道勝負法の修行は、「柔道勝負法とは、人を殺そうと思えば殺すことが出来、傷めようと思えば傷めることが出来、捕えようと思えば捕えることが出来る。又相手がその様なことを仕掛けてきた時、自分は能く之を防ぐことの出来る術の練習である。要約すると肉体上で人を制し、かつ人に制せられない術といえよう。」と嘉納は説明するものであり、急所への当身技、武器術を含む柔道の勝負法の修行方法は「たやすいものではない」と嘉納は述べる。<br /> <br /> またチャンピオンシップにもとづいた競技中心の柔道においては「強い選手を育てること」に主眼が置かれる「強者のための柔道」であり、そこには弱者に対する配慮はほとんど行われない可能性があるという指摘がある。その一方で教育として行われるべき学校柔道は初学の者を対象としており、競技として行うことはできない「弱者」(例えば、子どもたち)に適した指導がなされるべきである。各々の柔道の修行目的、修行方法を見極める必要がある。<br /> <br /> === 教育・精神修養・応用としての柔道(修心法) ===<br /> 講道館柔道の創始者嘉納治五郎は、明治22年に行われた「&#039;&#039;&#039;柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値&#039;&#039;&#039;」の講演において、柔道の三つの目的「柔道勝負法」「柔道体育法」「柔道修心法」のうち、「&#039;&#039;&#039;柔道修心法&#039;&#039;&#039;」について主に三つの効用を挙げる。<br /> <br /> *&#039;&#039;&#039;徳目の涵養&#039;&#039;&#039;<br /> *&#039;&#039;&#039;知育&#039;&#039;&#039;<br /> *&#039;&#039;&#039;勝負の理論の応用&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> ==== ①徳性を涵養する ====<br /> 嘉納は日本における古くからの高等教育の手段とされて来た武芸の精神を受け継ぐ柔道の修行によって、自ら「自国を重んじ」「自国の事物を愛し」「気風を高尚にし」「勇壮活発な性質」などの徳性を涵養することが出来るとする。また、礼に始まり礼に終わる柔道の修行は正しい礼儀作法を身に付け、かつ、自主、沈着、真摯、勇気、公正、謙譲等の諸徳目を涵養することが出来るとする。しかし、これらの徳性の涵養は、柔道の修行の固有の性質から自然に涵養することのできるものと、柔道に関係ある総ての外囲の事柄を利用して、特に徳育上の教育を施してその目的を達するものとがあり指導上留意する必要があるとした。前者は柔道修行のうち「乱取り」「形」から学び、後者は柔道修行の「&#039;&#039;&#039;講義&#039;&#039;&#039;」と「&#039;&#039;&#039;問答&#039;&#039;&#039;」の修行によって学ぶ必要性がある。<br /> <br /> <br /> 嘉納の述べる柔道修行から学べる徳目の例を具体的に挙げると次のようになる。<br /> * 気風が高尚であること<br /> * 驕奢の風を嫌うこと<br /> * 正義を重んずること<br /> * 道のためには艱苦をいとわず、容易に身命をなげうつ覚悟があること<br /> * 公正なること<br /> * 礼儀を守ること<br /> * 信実なること<br /> * 身体を大切にすること<br /> * 有害な情を制止すること<br /> * 艱苦に耐える習慣を養うこと<br /> * 耐忍の力を強くすること<br /> * 勇気を富ませること<br /> * 教えを受けることと自ら考究することの関係を知らせること<br /> * 準備すること<br /> * その他である。<br /> <br /> ==== ②智力を練る ====<br /> 嘉納は柔道の修行、柔道修心法を通じて会得を目指す智力について多くある中で一部分として主に次のように挙げる。<br /> <br /> 「観察」、「注意」、「記憶」、「推理」、「試験」、「想像」、「分類」、「言語」、「大量(新しい思想を嫌わず容れる性質と種々さまざまなことを同時に考えて混淆せしめぬように纏める力の二つ)」、「その他」となる。<br /> <br /> ==== ③勝負の理論を世の百般に応用する ====<br /> 嘉納は柔道の修行について、勝負道の追求でもあり、勝負に勝つことが重要な目標になるともする。その勝負に勝つための理論は、単に勝負のみでなく、世の政治、経済、教育その他一切の事にも応用できる物であるとする。その応用の部分は修心法の中でも随分面白くもあり有益であると嘉納は説く。嘉納の挙げる勝負の理論の応用の例について要約すると次のようになる。<br /> <br /> 自他の関係を見ること 迅速な判断 先を取れ(先の先、先、後の先) 熟慮断行 先を取られた時のなすべき手段 我を安きに置き、相手を危うきに置くこと 止まることを知ること 制御術 その他 等である。また、練習の必要 駆け引き 彼我の接触 眼の着けどころ おのれを捨てること 注意、観察、工夫 最善を尽くす 進退の仕方 あらゆる機会を利用する 格外の力に応じる時の心得 業に掛った時の心得なども嘉納の発言・著作から伺い知ることが出来る。<br /> <br /> 嘉納はこれらの教えは、単に柔道勝負の修行のみでなく、総て社会で事をなす上で大きな利益の有るものであるとした。<br /> <br /> 最後に最も肝要なる心得の一つとして「&#039;&#039;&#039;勝ってその勝ちに驕ることなく、負けてその負けに屈することなく、安きに在って油断することなく、危うきにあって恐るることなく、唯々一筋の道を踏み行け&#039;&#039;&#039;」の教えを強調して、いかなる場合においても、その場合において最善の手段を尽くせということを嘉納は強調する。<br /> &lt;ref&gt;『武道十五講』&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==== フランスの柔道教育の応用 ====<br /> 柔道は世界的に普及が進み大きく広がり受け入れられる中で、フランスにおいても幅広く受け入れられ、その教育的効用も受け継がれている。<br /> <br /> その背景について、次のような意見がある。<br /> <br /> 「東洋文化の象徴でもある柔道。だが、フランスには受け入れる土壌もあった。粟津([[粟津正蔵]])の教え子で、1975年にフランス初の世界王者(男子軽重量級)になった[[ジャン=リュック・ルージェ]]仏柔連会長は「礼儀を重んじる柔道の武士道とフェンシングに代表される騎士道には共通点がある。国民性に合っていた」と指摘する。」&lt;ref&gt;『[第1部・フランス](上)AWAZUの柔道50年』 『[第1部・フランス](下)エリート育成 国主導』&lt;/ref&gt;<br /> <br /> またフランス柔道には、武士道と騎士道を融合させた「8つの心得」があり、教育的目的、価値として重視される。<br /> <br /> そのフランス柔道における「8つの心得」として、<br /> <br /> 「友情」「勇気」「謙虚」「礼儀」「誠意」「名誉」「尊敬」「克己」が挙げられる。<br /> <br /> そこには[[新渡戸稲造]]が『[[武士道]]』において挙げる徳目の、「義」「勇気・敢闘及び忍耐の精神」「仁・惻隠の情」「礼儀」「誠実・信実」「名誉」「忠義」「克己」と通ずるものであることが分かる。<br /> <br /> また、フランスにおける柔道の指導者資格は国家的ライセンスとなっており、その300時間に及ぶ講習は柔道の座学として、医学的見地などや修心的要素も学ぶものであり、嘉納の挙げる柔道修行法の一つ「&#039;&#039;&#039;講義&#039;&#039;&#039;」の応用となっていると言うことが出来る。<br /> <br /> ==== 残心 ====<br /> 残心(ざんしん)とは日本の武術、武道および芸道において用いられる言葉であり、武術、武道としての柔道における残心は、「相手を投げた後、相手の反撃に備える態度と心構え」&lt;ref&gt;『和英対照柔道用語小事典』&lt;/ref&gt;等、技を決めた後も心身ともに油断をしないことを言う。たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えてもそれは擬態である可能性もあり、油断した隙を突いて反撃が来ることが有り得る。それを防ぎ、完全なる勝利へと導くのが残心である。<br /> <br /> 投げ技で崩れず態勢を保つ、立技から寝技へのスムーズな移行、相手の当身を意識する、当て身を含む形の技法においてはとどめの当て身を入れる動作をする等も柔道における残心となる。なお、柔道の投げ技には捨て身技も含まれており、寝技の攻防技法も含まれ、形の技法の中には居取り技も含まれるため、常に立ち姿勢で残心を取る訳ではないことを留意する必要もある。<br /> <br /> 講道館柔道の母体の一つになっている天神真楊流においては、技を行う前の心構えとして「前心」、技の挙動中の心の動きとして「通心」、挙動を終わって我が目を相手に注ぐこととして「残心」を説き、前心、通心、残心まで気を抜いてはいけないことを説いている。&lt;ref&gt;『天神真楊流柔術極意教授図解』&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『柔道大事典』&lt;/ref&gt;<br /> <br /> また、残心は、茶道や日本舞踊など日本の芸道にも用いられるように、柔道における&#039;&#039;&#039;礼法&#039;&#039;&#039;にも通じる。何があっても興奮せず、油断せず、ゆとりを持ちながら周りを意識し、感情を抑えて冷静な態度・平常心を保ち、謙虚に勝敗を受けとめ、相手の気持ちを考えることができる。実戦から生まれたこのコンセプトは、確実なことがないという覚悟と同時に、倒した敵に対する懺悔と敬意を表す。&lt;ref&gt;柔道チャンネル 『柔道用語辞典』&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 安全面において:全日本柔道連盟主催の安全指導講習において、体育としての指導、初心者指導における柔道の「受け身」を指導する際、安全に受け身が取れるために、安全面でのキーワードとして<br /> <br /> (1)危険な時は自ら倒れる「潔さ」 <br /> <br /> (2)相手を投げる時は倒れない「残身(心)」<br /> <br /> (3)互いの柔道衣を引っ張り合ってバランスを保つ「命綱」<br /> <br /> の大切さを強調している。<br /> <br /> === 娯楽や美育,幅広い目的の柔道(慰心法) ===<br /> 嘉納治五郎は1889 (明治22) 年に大日本教育会において文部大臣らを招き、&#039;&#039;&#039;「柔道一班並ニ其教育上ノ価値&#039;&#039;&#039;」と題した講演を行い,柔道の目的として体育,勝負,修心を挙げて、「此學科ヲ全國ノ教育ノ科目ノ中ニ入レマシタナラバ目下教育上ノ缺点ヲ補フコトノ出来ル」と述べ,全国の教育機関,とりわけ中学校への採用と国民への普及を主張していく。<br /> <br /> こうした嘉納の活動や剣道界の尽力により,1911 (明治44) 年に撃剣・柔術が正課採用を果し,柔道は日本の中学校における正科になる。その後,嘉納は柔道の目的として慰心法を含めて発表し,さらに新しい要素(運動の楽しさ,乱取,試合,そして形を見る楽しみ,芸術形式としての形による美育を含む)を柔道に付け加え柔道における幅広い目的を主張していく。<br /> <br /> 嘉納は当時国内において採用されていた西洋式の普通体操に面白みが無く学校卒業後に長く続けられないことに関する当時の教育家からの不満と、柔道の様々な利益,逆に競技運動は面白く長く続けられるという社会的背景から慰心法の新しい発想を生み出した。<br /> <br /> 1913 (大正2) 年,嘉納は「柔道概説」に「柔道は柔の理を応用して対手を制御する術を練習し,又其理論を講究するものにして,身体を鍛錬することよりいふときは体育法となり,精神を修養することよりいふときは修心法となり,娯楽を享受することよりいふときは慰心法となり,攻撃防禦の方法を練習することよりいふときは勝負法となる」と記し,柔道は「柔の理を原理とし,身体鍛錬には体育法,精神修養には修心法,娯楽には「慰心法」,そして攻撃防御の習得には勝負法となる」と説いた。<br /> <br /> 「慰心法」の内容は「慰心法とは柔道を娯楽として修行する場合をいふ。眼の色を楽み耳の音を楽むが如く,筋肉も亦運動して快楽を感ずるものにして,人が他の人と筋肉を使用して勝負を決する如きは更に大なる快楽のこれに伴ふこと論を侯たざるなり,且自ら其の快楽を感ずるのみならず其勝負の仕方,業の巧拙等を味ひてこれを楽み得る素養ある人は,他人の勝負を見ても快樂を感ずるはまた當然のことなり。殊に名人の試合及起倒流扱心流の形,講道館五の形,柔の形の如きものに至りては,眞に勝負の形たる性質を離れ自ら美的情操を起さしむるものにして,其の見る者に快楽を感ぜしむるや大なり。かく單純なる筋肉の快楽より高尚なる美的情操に至るまで快楽を得るを目的として修行するは,これを慰心法として柔道を修行すといふ」と述べ、<br /> <br /> # 運動や勝負の楽しみ<br /> # 他人の勝負や技の巧拙を見る楽しみ<br /> # 他人の形を見る楽しみ<br /> <br /> などを例に挙げた。<br /> <br /> また,修行に際しては「柔道はかく四様の着眼点より修行するを得るものなれど,實際に於てはこれを兼ね修むるを得策とす・・・(中略)・・・慰心法として修むるときも亦同様にして,実益の伴はざる娯楽は人事多端の世に於て多くこれを貧ることを得ざるものなれど,種々の實益を伴ふ柔道の娯楽は,これを享くること多きも益を得ることありて毫も其弊を見ず」と述べ,慰心法以外の目的を兼ねて練習を行うことで楽しみながらも体育や勝負,修心上の利益を得ることが出来ると主張した。<br /> <br /> しかしその後、嘉納の言説の中から「慰心法」の名称は見られなくなり、再び「体育法」「勝負法」「修心法」を中心としたものになっていく。それでも1915年3月の「立功の基礎と柔道の修行」の中に見られるように体育法としては①運動の種類が多く老若男女に適する②多目的で興味が尽きない③実生活に役立つといった3つの利点を挙げた。<br /> <br /> 嘉納は②について「柔道は他の運動に比して最も多くの目的を有し,従って先から先へと尽きぬ興味がある。一体育そのものより外に目的のない運動やその目的の明かでない運動は,興味を感じないものである。興味のない運動は,人に持績して行はせることも出来ず,熱心に練習させることも出来ず,体育の方法として価値の少ないものである。然るに柔道は身体を強健にする外に,己を護り人に勝つことを目的とし,五體を自由自在に動作させることを目的とし,精神の摩礪を目的として居る為に,競争の興味,業の熟練の興味,人格向上の興味,美的感情の養成,その他言ひ蓋せぬ程多様の興味を喚起し知らず識らずの間に体育上の功果を収めることが出来る」と述べ,競技の楽しさを魅力の1つに挙げている。このように「慰心法」の名称は消失するが,その内容は柔道奨励の一手段として位置づけられていく。<br /> <br /> しかし明治後期から対校試合の隆盛と共に試合に対する学生の関心は高まる一方で、学生間の紛擾や学校間の対立などが生じることになる。やがて大正後期になると高等専門学校柔道大会が活況を呈し,学生が母校の名誉のために過熱し,様々な弊害が現れてくることになる。それらに対し,嘉納は慰心法に代わり、状況の改善策を講じ,柔道を本来のあり方へ戻そうと腐心していくことになる。<br /> <br /> 時代は下り第二次大戦後には軍事的色彩が強しとして一時禁止されていた柔道であったが,1949 (昭和24) 年には全日本柔道連盟が結成され,翌年(1950) には学校柔道も解禁される。<br /> <br /> 講道館の三代目館長となった[[嘉納履正]]は著書『伸び行く柔道一戦後八年の歩み一』において「スポーツとしての柔道」と題し「快適なスポーツとして柔道の練習方法を考へる場合,必ずしも鍛錬主義が全面的によいとは言へず, 教育的な見地からその対照によっては再考すべき点もあるであらう。講道館柔道を一部では,旧弊な非スポーツ的なものであるといふ様な誤解もあるが,遠く明治四十三年に嘉納治五郎の書いた柔道の説明の内に, 柔道は・・・(中略) ・・- 娯楽を享受する事より云ふ時は慰心法となり・・・(中略)・・・とある様に娯楽としての柔道の面も唱ってゐるので,決して講道館柔道は単なる武道的な厳しい面を強調するものでなく,心を慰むるものとして,則ちスポーツの字義通りの内容をも具備するものである」と述べ,これまでの柔道は勝負や精神面が強調され過ぎたが,娯楽の意義も今後大切であると説いている。柔道「慰心法」の存在と意義を再認識する時ともいえる。&lt;ref&gt;桐生習作『柔道「慰心法j の導入と嘉納治五郎の思想』&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 段級位制 ==<br /> 講道館柔道では[[段級位制]]を採用している。これは、数字の大きい級位から始まり、上達につれて数字の小さな級位となり、初段の上はまた数字の大きな段位になってゆくものである。<br /> <br /> 段位制は[[囲碁]]、[[将棋]]において古くから行われていたが、それを武道・格闘技で最初に導入したのは、[[嘉納治五郎]]の講道館柔道である。その後&#039;&#039;&#039;[[大日本武徳会]]&#039;&#039;&#039;が、&#039;&#039;&#039;[[警視庁武術世話掛|警視庁]]&#039;&#039;&#039;で導入されていた級位制を段位制と組み合わせて段級位制とし、柔道・[[剣道]]・[[弓道]]に導入した(なお、武徳会は戦後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により解体されたため、[[1948年]]には武徳会で取得した段位を講道館の段位として認める特例が取られた&lt;ref name=&quot;全柔連の歴史・国内の柔道界&quot;&gt;{{Cite news|author=|authorlink=|url= http://www.judo.or.jp/shiru/rekishi|title= 全日本柔道連盟50年誌 第四部資料編 日本柔道史年表|newspaper = 全日本柔道連盟公式ページ|publisher = 全日本柔道連盟|date = |accessdate = }}&lt;/ref&gt;)。<br /> <br /> 初段が[[黒帯]]というのは広く知られており、&#039;&#039;&#039;クロオビ&#039;&#039;&#039;は英語圏でも通用する単語となっていて、[[アメリカ合衆国|米国]]では黒帯を英訳した『Black Belt』という雑誌も発行されている。元々、柔道の[[帯 (柔道)|帯]]は洗濯しないのが基本であり、[[稽古]]の年月を重ねるうちに黒くなっていく事から、黒帯が強さの象徴となったのであり、[[茶帯]]が白から黒に至る中途に設定されているのはこの残存形式であるとも言われる。<br /> <br /> 柔道の創始者である嘉納治五郎は『&#039;&#039;&#039;柔道概要&#039;&#039;&#039;』の中で「&#039;&#039;&#039;初段より昇段して十段に至り、なお進ましむるに足る実力ある者は十一段十二段と進ましむること際限あるなし&#039;&#039;&#039;」と述べている通り上限は決められていない。ただし十段よりも上へ昇段した前例はなく、今日では十段が事実上の最高段位になっている&lt;ref name=&quot;朝日新聞&quot;&gt;{{Cite news|url=|title=読むキーワード -十段 柔道、12万人に1人-|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=2006年3月7日}}&lt;/ref&gt;。そもそも段位は柔道の「強さ」のみで決まるものではないため、高段者になればなるほど、[[名誉称号|名誉段位]]という意味合いが強くなっている。実際に、昇段の為の条件(競技成績・修業年限・審判実績など)が明文化されているのは八段までで、九段の昇段については存命の九段所有者が審議して決める事になっており、十段については講道館長の裁量に任されるなど、基準が非常に曖昧になっている&lt;ref name=&quot;朝日新聞&quot;/&gt;。一方、現役選手では三~五段までが殆どで、これは[[全日本柔道選手権大会|全日本柔道選手権]]や[[オリンピック柔道競技]]、[[世界柔道選手権大会|世界柔道選手権]]、春・秋の講道館紅白試合の技量抜群者に与えられる「特別昇段」の段位上限や、年齢・修行年限などの制限が課されているためである。実際にオリンピック2連覇で世界選手権を7度制した[[谷亮子]]も、現役時代の段位は四段であった。<br /> <br /> なお、[[2012年]]現在での[[講道館]]十段所有者は、[[山下義韶]]、[[磯貝一]]、[[永岡秀一]]、[[三船久蔵]]、[[飯塚国三郎]]、[[佐村嘉一郎]]、[[田畑昇太郎]]、[[岡野好太郎]]、[[正力松太郎]]、[[中野正三]]、[[栗原民雄]]、[[小谷澄之]]、[[醍醐敏郎]]、[[安部一郎]]、[[大沢慶己]](昇段年順)の15人のみで、柔道入門者12万人に1人と非常に狭き門となっている&lt;ref name=&quot;朝日新聞&quot;/&gt;。また[[国際柔道連盟]]での十段所有者は、[[アントン・ヘーシンク]]([[オランダ]])、[[チャールズ・パーマー]]([[イギリス]])、[[ジョージ・カー_(柔道)|ジョージ・カー]](イギリス)の3人となっている。他にもフランス柔道連盟の[[アンリ・クルティーヌ]]、オランダ柔道連盟の[[:nl:Jaap Nauwelaerts de Agé]]が十段位を取得している。女子では十段は[[福田敬子]](在アメリカ)ただ1人([[2011年]]8月に昇段)である(講道館は九段)。<br /> <br /> 昇級・昇段のためには全国の各団体が[[講道館]]の認可を受けて行う昇級試験・昇段試験を受験する必要がある。級においては試験は受験者同士の試合形式で行われ、結果が優秀であった場合は飛び級も認められる。初段以上では、試験は試合・[[柔道形]]の演武・筆記試験の3点の総合成績で判定を行うのが基本であるが、実施母体により異なる場合もある。(注下記)初段の試験に合格した時点で正式に[[講道館]]への入門を認められ、会員証が発行されると共に[[黒帯]]の着用が認められる。<br /> <br /> [[ファイル:柔道の段帯.jpg|thumb|250px|柔道の段帯]]<br /> [[ファイル:女子帯.jpg|thumb|250px|女子用帯]]<br /> 成年部(原則13歳以上)の場合の帯と段級位の関係は以下のようになっている(四級以下については、道場によって違いもある)。<br /> * 四級以下:[[白帯]]<br /> * 三級から一級:[[茶帯]]<br /> * 初段から五段:[[黒帯]]<br /> * 六段から八段:[[紅白帯]]<br /> * 九段から十段:[[赤帯|紅(赤)帯]]<br /> ※六段以上は黒帯でも構わない。<br /> <br /> 少年部(原則13歳未満)の場合の帯と級位の関係は以下のようになっている。<br /> * 初心者:白帯<br /> * 五級:黄帯<br /> * 四級:橙帯<br /> * 三級:緑帯<br /> * 二級:紫帯<br /> * 一級:茶帯<br /> <br /> また女子部は国内ルールでは1/5幅の白線入りだが、国際ルールでは男女とも同じものを用いる。なお日本国内の大会では、国際ルールを用いる試合であっても、女子は講道館の段位であるとして白線入り帯を締める事になっている。<br /> &lt;!--注:例えば東京都23区下では演武を重視し試合は乱取形式、筆記試験は省かれる場合があり、千葉県においては演武は行われず試合と筆記のみという場合もある--&gt;<br /> <br /> == 柔道競技 ==<br /> === 試合 ===<br /> 講道館柔道は&#039;&#039;&#039;[[柔道形|形]]&#039;&#039;&#039;(かた)、&#039;&#039;&#039;[[乱取り|乱取]]&#039;&#039;&#039;(らんどり)によって技術を修行するように示されている。しかし現代の競技大会における「柔道」とはほぼ乱取を意味するものであり、形については国民の認識も薄い。<br /> <br /> このことから[[1990年代]]以降は「形」の競技化が進められ、次項にて説明する形競技も行われるようになった。<br /> <br /> === 形試合 ===<br /> &#039;&#039;&#039;形&#039;&#039;&#039;の競技化、試合も始まっている。<br /> 日本国内では、1997年(平成7年)には講道館と全柔連が[[全日本柔道形競技大会]]を開催したことで、形の競技化が始まった。10回(10年)の国内選手権大会を経てからは、形の国際大会開催の機運が高まり、[[第1回講道館柔道「形」国際大会]]が2007年に講道館大道場で開催された。ここでは講道館講道館護身術、五の形、古式の形を除く、4種類の形が採用されたが、すべて日本チームが優勝した。ヨーロッパでは2005(平成17)年に欧州柔道連盟が第1回欧州柔道「形」選手権大会をロンドン郊外で開催した。さらに東南アジア地区のSEA (South East Asia) Gamesでは、2007年から投の形と柔の形が実施されている。<br /> 2008年11月には、国際柔道連盟が[[IJF形ワールドカップ]]をパリで開催したが、投の形では優勝を逃している。<br /> 2009年10月には第1回[[世界形選手権大会]]が[[マルタ共和国|マルタ]]で行われ、こちらは5種目とも日本勢が優勝した。第2回世界形選手権大会は2010年5月、ブダペストで行われ、日本チームは全5種類の形で優勝した。<br /> <br /> === 大会 ===<br /> ==== 大会のレベル ====<br /> 講道館柔道の試合は、通常、年齢と体重によって制限されており、男女も別である。年齢には下記のように制限がある。<br /> # マスターズ:30歳以上<br /> # シニア<br /> # ジュニア:15歳以上21歳未満<br /> # ユース<br /> # カデ:15歳以上18歳未満<br /> <br /> ==== 主な大会 ====<br /> * [[オリンピック柔道競技|オリンピックゲームズ]]<br /> * [[世界柔道選手権大会]]<br /> * [[全日本柔道選手権大会]]<br /> * [[全日本選抜柔道体重別選手権大会]]<br /> * [[嘉納治五郎杯東京国際柔道大会]](2008年をもって終了、[[グランドスラム (柔道)|グランドスラム]]に引き継がれる)<br /> * [[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会]]<br /> * [[講道館杯全日本柔道体重別選手権大会]]<br /> * [[都道府県対抗全日本女子柔道大会]](2009年をもって終了)<br /> * [[福岡国際女子柔道選手権大会]](2006年をもって終了)<br /> * [[国民体育大会]]<br /> * [[全日本学生柔道優勝大会]]<br /> * [[全日本学生柔道体重別選手権大会]]<br /> * [[全国高等学校柔道選手権大会]]<br /> * [[金鷲旗全国高等学校柔道大会]]<br /> * [[全国青年大会]]<br /> * [[全日本柔道形競技大会]]<br /> * そのほか[[柔道の大会]]も参照のこと<br /> <br /> ==== 体重別階級 ====<br /> {{Main|オリンピック柔道競技#実施階級}}<br /> 柔道は本来無差別で争われるべきという考えに基づいていたため、講道館柔道では無差別を除くと段別・年齢別がその区分の中心であった。しかし、東京オリンピック開催を機に、体重による区分を軽量級、中量級、重量級の3階級設けたのが最初である。講道館柔道では現在8つの階級に分かれているが、主催者や競技者の年齢によって異なることがある。国際大会では、シニア、ジュニア、カデなどで制限が異なる。<br /> <br /> ; シニアの個人戦<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;8&quot; | 男子<br /> |-<br /> | 60 kg 以下<br /> | 60〜66 kg<br /> | 66〜73 kg<br /> | 73〜81 kg<br /> | 81〜90 kg<br /> | 90〜100 kg<br /> | 100kg 超<br /> | 無差別<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;8&quot; | 女子<br /> |-<br /> | 48 kg 以下<br /> | 48〜52 kg<br /> | 52〜57 kg<br /> | 57〜63 kg<br /> | 63〜70 kg<br /> | 70〜78 kg<br /> | 78kg 超<br /> | 無差別<br /> |}<br /> <br /> ; シニアの団体戦<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;8&quot; | 男子<br /> |-<br /> | 66 kg 以下<br /> | 66〜73 kg<br /> | 73〜81 kg<br /> | 81〜90 kg<br /> | 90kg 超<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;8&quot; | 女子<br /> |-<br /> | 52 kg 以下<br /> | 52〜57 kg<br /> | 57〜63 kg<br /> | 63〜70 kg<br /> | 70kg 超<br /> |}<br /> <br /> ; 世界ジュニア<br /> 大会開催年の12月31日時点で年齢15歳以上21歳未満。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;8&quot; | 男子<br /> |-<br /> | 55 kg 以下<br /> | 55〜60 kg<br /> | 60〜66 kg<br /> | 66〜73 kg<br /> | 73〜81 kg<br /> | 81〜90 kg<br /> | 90〜100 kg<br /> | 100kg 超<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;8&quot; | 女子<br /> |-<br /> | 44 kg 以下<br /> | 44〜48 kg<br /> | 48〜52 kg<br /> | 52〜57 kg<br /> | 57〜63 kg<br /> | 63〜70 kg<br /> | 70〜78 kg<br /> | 78kg 超<br /> |}<br /> <br /> ; 世界カデ<br /> 大会開催年の12月31日時点で年齢15歳以上18歳未満。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;8&quot; | 男子<br /> |-<br /> | 50 kg 以下<br /> | 50〜55 kg<br /> | 55〜60 kg<br /> | 60〜66 kg<br /> | 66〜73 kg<br /> | 73〜81 kg<br /> | 81〜90 kg<br /> | 90kg 超<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;8&quot; | 女子<br /> |-<br /> | 40 kg 以下<br /> | 40〜44 kg<br /> | 44〜48 kg<br /> | 48〜52 kg<br /> | 52〜57 kg<br /> | 57〜63 kg<br /> | 63〜70 kg<br /> | 70kg 超<br /> |}<br /> <br /> 無差別は[[世界柔道選手権大会]]にはあるが、オリンピックの種目ではない。また日本で一番格式のある[[全日本柔道選手権大会]]は無差別で行われる。<br /> <br /> ==== 国際大会の敗者復活トーナメント戦 ====<br /> また、[[オリンピック柔道競技|オリンピック]]や[[世界柔道選手権大会]]では、敗者復活トーナメントも行われる。これは予選トーナメントで敗れた選手の中から、ベスト4の選手と直接対決した選手が出場できる。そして復活トーナメントを勝ち上がった選手と準決勝で負けた選手が銅メダルを争うことになる。このため銅メダルが必ず2つ出る。[[国際オリンピック委員会]]は他の競技との兼ね合いから1つにするように通達している{{refnest|group=注釈|他の競技では原則として、準決勝で敗れた国・地域同士による対戦。競技により行われず3位が2カ国となるものもある。}}が、[[国際柔道連盟]]はこれを拒否している。<br /> <br /> 2012年の[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]からは敗者復活戦のシステムが変更になり、準々決勝の敗者のみが出場でき、敗者復活戦の勝者と準決勝で負けた選手で銅メダルを争うことになった。<br /> <br /> 一方で国内の大会である、[[全日本柔道選手権大会]]や[[全日本選抜柔道体重別選手権大会]]では行われていない。<br /> <br /> == 柔道競技のルール ==<br /> 日本において、現在の試合ルールは講道館柔道試合審判規定(以降、講)と国際柔道連盟試合審判規定(以降、国)がある。現在は国内でもほとんどの試合が国際規定で行われているが、試合のレベルなどにより、国内独自の方法や判定基準が採用されている。<br /> <br /> === 試合場 ===<br /> 試合場内は、9.1m×9.1m(5間)(講1条)、もしくは8m×8mから10m×10m四方(国1条)の[[畳]]の上(「試合場」は、講14.55m(8間)、国14〜16m四方の場外を含めた場所をいう。)。試合は、試合場内で行われ、場外でかけた技は無効となる。場外に出たとは、立ち姿勢で片足でも、捨身では半身以上、寝技では両者の体全部が出た時をいう。ただし、技が継続している場合はこれにあたらない(講5条、国9条)。<br /> <br /> === 試合の技 ===<br /> 講道館規定67種類、国際規定66種類の「投技」と29種類(講道館、国際共)の「固技」を使って、相手を制する事を競う。当て身技は使えない。<br /> <br /> === 審判員 ===<br /> [[審判員]]は[[主審]]1名、[[副審]]2名の3名が原則であるが、主審1、副審1、もしくは審判員1でも可能である(講17条、国5条は主審1、副審2の構成しか認めていない)。2014年から試合場の審判は1人となる。副審2名は審判委員席でビデオを確認しながらサポート役に徹する。ジュリー(審判委員)は試合場の審判と無線でコミュニケーションを取り合うことになるが、必要とみなされた場合を除き技の評価などへの介入は控える&lt;ref name=&quot;規定&quot;&gt;[http://www.judo.or.jp/p/31724 国際柔道連盟試合審判規定(2014-2016)]&lt;/ref&gt;。審判に抗議する事はできない(講16条)。<br /> <br /> === 試合 ===<br /> [[試合]]は立ち姿勢から始まる(講10条)。[[一本勝負]]であり(講9条)、「&#039;&#039;&#039;[[一本]]&#039;&#039;&#039;」の場合残り時間にかかわらずその時点で試合は終了する。&#039;&#039;&#039;2度の「[[技あり]]」&#039;&#039;&#039;、「技あり」と相手の反則「警告」(講)(3度の「指導」(国))を合わせた「&#039;&#039;&#039;総合勝ち&#039;&#039;&#039;」の場合も「一本」と同等に扱う。「技あり」2回の総合勝ちによる一本の場合は通常&#039;&#039;&#039;「合わせて一本」&#039;&#039;&#039;と主審がコールする。<br /> <br /> 試合時間内に両者とも「一本」に至らない場合には、それまでの技の優劣の差で「&#039;&#039;&#039;[[優勢勝ち]]&#039;&#039;&#039;」を決する。この優劣の差には「&#039;&#039;&#039;[[柔道#禁止事項に対する罰則|指導]]&#039;&#039;&#039;」による得点も加味される。規定時間終了時に両者の技に優劣の差がない場合には、&#039;&#039;&#039;[[ゴールデンスコア方式]]&#039;&#039;&#039;として、試合を延長し一方が有効な技を決めるか相手に宣告された反則(指導2回以上)による得点が入った時点で試合終了となる(ただし講、国ともに、[[ゴールデンスコア方式]]で行うとは明記されていない)。それでもなお時間切れになった場合は&#039;&#039;&#039;主審および副審の「[[判定]]」&#039;&#039;&#039;により「優勢勝ち」が告げられる。大会の規定によっては[[引き分け]]とする場合もある。<br /> <br /> === 試合時間 ===<br /> 3分から20分の間で予め定められる(講12)。国体は成年男女、少年男女ともに4分。全日本選手権は6分。国際規定では、マスターズ3分(60歳以上は2分30秒)、シニアの場合、男女とも4分、ジュニアとカデも4分と決められている。「待て」から「始め」、「そのまま」から「よし」までの時間はこれに含まれない(講12条、国11条)。また、試合終了の合図と共にかけられた技は有効とし、「抑え込み」の宣告があれば、それが終了するまで時間を延長する(講14条、国14条)。規定時間終了時に両者の技に優劣の差がない場合には[[ゴールデンスコア]]となり、どちらかが技か指導でポイントを挙げるまで試合は続行される(旗判定の廃止)&lt;ref name=&quot;規定&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 技の判定 ===<br /> 有効な技は、「&#039;&#039;&#039;[[一本]]&#039;&#039;&#039;」、「&#039;&#039;&#039;[[技あり]]&#039;&#039;&#039;」の2つの判定で評価される。以前の国際規定では判定の種類に「&#039;&#039;&#039;[[効果]]&#039;&#039;&#039;」と「&#039;&#039;&#039;[[有効]]&#039;&#039;&#039;」があったが、ルール改定により2009年1月1日から「効果」、2017年1月1日からは「有効」が正式に廃止された。講道館規定ではもともと「効果」の判定はなかった。判定の優劣は「一本」に準ずる技の判定が「技あり」、「技あり」に準ずる技の判定が「有効」だった。また、「技あり」2つで「一本」となるが、「有効」は何回とっても上位の「技あり」に及ばなかった。しかし、2017年からは「技あり」が有効をも含む判定となったために、何度技ありを取っても一本にはならない(合わせ技一本の廃止)&lt;ref name=&quot;jiji&quot;&gt;[http://www.jiji.com/jc/article?k=2016121000150 有効、合わせ技一本を廃止=来年からルール改正-国際柔道連盟] [[時事通信]] 2016年12月10日&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ijf&quot;&gt;[https://www.ijf.org/news/show/adapted-rules-of-the-next-olympic-cycle Wide consensus for the adapted rules of the next Olympic Cycle]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 投技 ====<br /> : 一本:相手を制しながら、「&#039;&#039;&#039;背を大きく畳につくように&#039;&#039;&#039;」相当な「&#039;&#039;&#039;強さ&#039;&#039;&#039;」と「&#039;&#039;&#039;速さ&#039;&#039;&#039;」をもって投げた場合<br /> : 技あり:相手を制しながら投げ、「一本」の要件「背を大きく畳につく」「強さ」「速さ」の&#039;&#039;&#039;どれか一つが部分的に欠けた場合&#039;&#039;&#039;<br /> : 有効:相手を制しながら投げ、「一本」の要件「背を大きく畳につく」「強さ」「速さ」の&#039;&#039;&#039;どれか二つが部分的に欠けた場合&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> * 改正前の国際規定では、相手を制しながら、相手の片方の肩、尻、大腿部が畳につくように、「強さ」「速さ」をもって投げた場合を「効果」としていたが、改正後は得点とならない。<br /> <br /> ==== 固技 ====<br /> 固技の勝ち方には次の3つがある(講37条、38条、39条)。(注:固技は抑込技、絞技、関節技の総称である)<br /> <br /> 1つ目は、抑込技で、国際審判規定では相手の背、両肩または片方の肩を畳につくように制し、相手の脚によって自分の身体、脚が挟まれていない場合で、&#039;&#039;&#039;20秒経過すると「一本」&#039;&#039;&#039;になる(講道館規定では30秒)。但し、先に(投げ技、固め技の)「技あり」ポイントを持っていれば、&#039;&#039;&#039;10秒経過すると「技あり」&#039;&#039;&#039;となり、「総合勝ち」となって、いわゆる&#039;&#039;&#039;「合わせて一本」&#039;&#039;&#039;になった(講道館規定では25秒)。同様に一定時間の抑込で以下のように技が判定される&lt;ref name=&quot;規定&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;jiji&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;ijf&quot;/&gt;。<br /> <br /> : 一本:&#039;&#039;&#039;20秒間(講:30秒間)&#039;&#039;&#039;抑え込んだ場合。<br /> : 技あり:&#039;&#039;&#039;10秒以上&#039;&#039;&#039;20秒未満(講:&#039;&#039;&#039;25秒以上&#039;&#039;&#039;30秒未満)、抑え込んだ場合。<br /> : 有効:&#039;&#039;&#039;10秒以上&#039;&#039;&#039;15秒未満(講:&#039;&#039;&#039;20秒以上&#039;&#039;&#039;25秒未満)、抑え込んだ場合(2017年より廃止)。<br /> <br /> * 2009年にルールが改正される前の国際規定では10秒以上15秒未満抑え込んだ場合「効果」と判定されていた。<br /> <br /> 2つ目は、固め技で、相手が&#039;&#039;&#039;「[[タップアウト|参った]]」&#039;&#039;&#039;と発声するか、その合図(相手の体もしくは畳を審判に分かるように2〜3回叩く)をすれば「一本」勝ちになる。<br /> <br /> 3つ目は、絞技と関節技で、技の&#039;&#039;&#039;効果が十分に現れた&#039;&#039;&#039;時である。<br /> <br /> * 3つ目の条件には、脱臼、骨折、「落ちる」等がこれにあたる。<br /> * 大会参加選手の程度によって、関節技や絞め技が完全に極まっていれば、安全の為、選手が「参った」をしなくても「一本」になる事がある。これを「見込み一本」という。これを採用するかどうかはその大会の前に決められる。<br /> * 中学生以下は安全のため関節技・三角絞め禁止(講・少年規定による)。<br /> * 小学生以下は安全のため絞め技・関節技禁止(同上)。<br /> <br /> ==== 禁止事項に対する罰則 ====<br /> 禁止事項に抵触する行為に対しては、審判から「&#039;&#039;&#039;指導&#039;&#039;&#039;」が与えられる。重大な違反行為に対しては「&#039;&#039;&#039;反則負け&#039;&#039;&#039;」が宣告される場合もある。「指導」に対しては違反行為の重さ(講)に応じて、相手側に得点が与えられる。ただし、2014年からの国際ルールでは、&#039;&#039;&#039;指導は3回目までポイントにならず&#039;&#039;&#039;、技のポイント以外はスコアボードに表示されないことになった(これにより、技ありと指導3を合わせた総合勝ちは成立しなくなった)。&#039;&#039;&#039;4回目の指導が与えられた場合は反則負けとなる&#039;&#039;&#039;。試合終了時に技のスコアが同等の場合は、指導の少ない方の選手を勝ちとする&lt;ref name=&quot;規定&quot;/&gt;。<br /> 以下の規定は講道館ルール。<br /> <br /> : 「1回目の指導」(講)では、得点は与えられない。<br /> : 「&#039;&#039;&#039;2回目&#039;&#039;&#039;の指導(注意)」(講)では、相手側に「&#039;&#039;&#039;有効&#039;&#039;&#039;」の得点が与えられる。<br /> : 「&#039;&#039;&#039;3回目&#039;&#039;&#039;の指導(警告)」(講)では、相手側に「&#039;&#039;&#039;技あり&#039;&#039;&#039;」の得点が与えられる。<br /> : 「&#039;&#039;&#039;4回目&#039;&#039;&#039;の指導」(国)または「&#039;&#039;&#039;反則負け&#039;&#039;&#039;」(国、講)では、相手側に「&#039;&#039;&#039;一本&#039;&#039;&#039;」の得点が与えられる。<br /> <br /> === 得点表示 ===<br /> 得点表示の例(青(赤)が一本、白が技あり1回、有効1回の場合)<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;width:20%&quot;<br /> |- style=&quot;background-color:white; text-align:right&quot;<br /> |style=&quot;width:10%; text-align:left; white-space:nowrap&quot;|青 (B) /赤 (R)||1||0||0<br /> |-<br /> !||style=&quot;width:10%&quot;|I||style=&quot;width:10%&quot;|W||style=&quot;width:10%&quot;|Y<br /> |- style=&quot;background-color:white; text-align:right&quot;<br /> |style=&quot;text-align:left&quot;|白 (W)|| ||1||1<br /> |}<br /> <br /> 試合場やテレビ中継での得点表示は、有効な技の回数が、左から、一本 (I)、技あり (W)、有効 (Y) の順に表示される。上下に列記される場合もある。<br /> <br /> 上記の例の場合、一見100点満点のようにも見えるが、希な例として有効の回数が2桁になる場合がありうるので、これを「100点」「11点」とは読まない。このような読み方は、[[北京五輪]]頃のテレビ中継(民放)で盛んに推奨されていたが、誤りである。<br /> <br /> == 競技・規定の変遷 ==<br /> * [[1900年]](明治33年) - 講道館柔道乱捕試合審判規定制定。<br /> * [[1924年]](大正13年) - 「引き込み」を禁止。それまで二本先取で勝敗を決する「二本勝負」で行われていた柔道試合を[[一本]]勝負で決する審判規定変更。<br /> * [[1929年]](昭和4年) - [[昭和天覧試合|御大礼記念天覧武道大会]]柔道乱捕試合規定、審判員3人、姿勢・態度・技術等の基準による「優勢勝ち」制定。<br /> * [[1951年]](昭和26年) - 講道館柔道試合審判規定改正。(新しい競技規定として試合場、柔道衣の規格規定)<br /> * [[1955年]](昭和30年) - 講道館柔道試合審判規定改正、「技あり」後の「抑え込み」25秒で合わせ技一本等。<br /> * [[1957年]](昭和32年) - 講道館柔道試合審判規定改正。「技あり」と「警告」による勝ちを「総合勝ち」とする。<br /> * [[1961年]](昭和36年) - IJF体重別制。4階級。<br /> * [[1967年]](昭和42年) - IJF試合審判規定が制定・IJF体重6階級。<br /> * [[1974年]](昭和49年) - 国際規定改正に「有効」「効果」を採用。<br /> * [[1975年]](昭和50年) - [[1975年世界柔道選手権大会|ウィーン世界選手権]]から「効果」を採用。<br /> * [[1977年]](昭和52年) - IJF体重別制、8階級制。<br /> * [[1982年]](昭和57年) - 講道館試合審判規定・少年規定。<br /> * [[1986年]](昭和61年) - 第1回視覚障害者柔道大会開催(講道館)<br /> * [[1995年]](平成7年) - IJF技名称発表(100本)<br /> * [[1997年]](平成9年) - IJF総会で[[カラー柔道着]]導入可決。<br /> * [[1997年]](平成9年) - 講道館技名称発表(96本)<br /> * [[1998年]](平成10年) - IJF技名称発表(99本)<br /> * [[1998年]](平成10年) - 全国高校総体個人戦は体重別7階級になる。(於:高松)個人戦は予選リーグを廃止しトーナメントのみ。<br /> * [[1998年]](平成10年) - 全国中学校大会の女子団体戦(3人制)始まる。<br /> * [[1998年]](平成10年) - 全日本女子柔道ジュニア選手権大会始まる。(講道館)<br /> * [[1998年]](平成10年) - IJF公式大会として初めてブルー柔道着採用される。ワールドカップ(ミンスク)<br /> * [[1999年]](平成11年) - 全日本学生柔道体重別団体選手権大会開催。初の体重別団体戦開始。<br /> * [[2000年]](平成12年) - 福岡国際女子柔道選手権大会で全柔連初の審判ビデオ試行。<br /> * [[2003年]](平成15年) - 世界選手権大会の女子のシニア試合時間を5分に。国際規定の罰則を「指導」と「反則負け」に二分化。延長戦「ゴールデンスコア」採用。<br /> * [[2008年]](平成20年) - 国際規定「効果」を廃止。(2009年1月実施)<br /> * [[2009年]](平成21年) - [[IJFグランプリシリーズ]]及び[[ランキング制 (柔道)|世界ランキング制度]]が始まる<br /> * [[2009年]](平成21年) - 第1回学生柔道女子選抜体重別団体優勝大会開催。<br /> * [[2009年]](平成21年) - 嘉納治五郎杯国際柔道大会がIJFグランドスラム東京2009として開催。<br /> * [[2010年]](平成22年) - 国際規定「抱きつき」を規制&lt;ref&gt;[http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20100906-OYT1T00873.htm いきなり抱きつく攻撃はダメ、柔道に新ルール] [[読売新聞]] 2010年9月6日&lt;/ref&gt;。また、「双手刈(タックル)」・「朽木倒」等の脚を掴む技を制限(禁止ではない)&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.judo.or.jp/article/1336-newrule2010/attach/2010newijfrule0318.pdf 国際柔道連盟(IJF)試合審判規定改正]}}&lt;/ref&gt;。<br /> * [[2013年]](平成25年) - 2013年2月の[[グランドスラム・パリ2013|グランドスラム・パリ]]から8月の[[2013年世界柔道選手権大会|リオデジャネイロ世界選手権]]までの期間、1人審判制、変則組み手や組み手争いに対する罰則強化、脚取りを含めた帯から下を掴む行為の全面禁止、旗判定の廃止、抑込技の時間短縮などの大幅なルール改正案が試験導入されることに決まった。この結果を検証して、正式導入されるか改めて協議されることになる&lt;ref&gt;[http://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKF0486_Q2A131C1000000/ 柔道国際大会、1人審判を試験導入へ 連盟会長が明言] [[日本経済新聞]] 2012年11月30日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20121210-OYT1T01421.htm 柔道、「脚取り」全面禁止へ…国際大会新ルール] [[読売新聞]] 2012年12月10日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.intjudo.eu/upload/2012_12/09/135504772881923998/v_eng_refeeing_rules_2013_2016.pdf ENG-Refereeing-Rules-2013-2016]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[2014年]](平成26年) - 2014年1月の[[コンチネンタルオープン]]から[[リオデジャネイロオリンピック]]が開催される2016年まで、国際大会において新たな[[国際柔道連盟|IJF]]試合審判規定が導入されることになった&lt;ref name=&quot;規定&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo&amp;k=2013112800977 女子は4分間に短縮=柔道新規則] [[時事通信]] 2013年11月28日&lt;/ref&gt;。<br /> * [[2014年]](平成26年) - IJFは2015年から世界ランキングに入っている全ての選手に対して、他の格闘技の国際大会へ参加することを禁じる方針を打ち出した&lt;ref&gt;[http://www.hochi.co.jp/sports/etc/20141209-OHT1T50309.html 【柔道】国際連盟、柔道以外の格闘技大会出場禁止を通達 石井慧にも影響か] [[スポーツ報知]] 2014年12月10日&lt;/ref&gt;。<br /> * [[2017年]](平成29年) -2017年からは以下のような新ルールが適用されることになった。男子の試合時間は女子と同じく4分間になった。有効が廃止されて技のポイントは一本と技ありのみ。技ありは従来の有効評価を含むため、いくら取っても一本にはならない(技あり合わせて一本の廃止)。本戦で技のポイントが入らない場合は例え指導を取っていても勝利にはならずGSに突入する。GSでは技のポイントか、本戦終了時の指導ポイント差に変化が生じた時に決着する。ただし、本戦終了時点で、与えられた指導が多かった選手がGSにおいて相手の指導により勝利するためには、相手が2回、もしくは3回連続で指導を受けることが必要となる。指導は3度取られると反則負け。脚取りは1度目が指導、2度目が反則負け。ピストルグリップやクロスグリップなどの変則組み手になった場合は即座に攻撃しなければ指導が与えられる。また、[[マウスピース]]の装着が認められることになった&lt;ref name=&quot;jiji&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;ijf&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.judo.or.jp/wp-content/uploads/2017/03/ce52948bab3c7eecd73931288d15662d-1.pdf 国際柔道連盟試合審判規定(2017-2020)改正の要点]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.judo.or.jp/p/40542 【審判委員会】大会におけるマウスピース(マウスガード)の装着について(通達)]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[2018年]](平成30年) -2018年からは前年の暫定ルールに以下のような修正が加えられた。技あり2つで一本(技あり合わせて一本)が復活した。技によるポイントか反則勝ちのみで勝負が決することになり、従来のようにGSにおける指導決着は取り除かれた&lt;ref&gt;[https://www.ijf.org/news/show/detailed-explanation-of-the-ijf-judo-refereeing-rules Detailed Explanation of the IJF Judo Refereeing Rules effective from 01 January 2018]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 公認審判員規定 ==<br /> 柔道の公式試合は国内、IJFともに認定を受けた審判員が試合を司ることになっている。審判員は公認審判員規定によって資格が管理されている。国内の審判員はS、A、B、Cに分けられ、各審判員は研修会に参加して資格を維持している。国際はインターナショナル、コンチネンタルの2種類がある。<br /> <br /> &#039;&#039; 外部リンク &#039;&#039;<br /> * [http://www.ejudo.info/history/ 柔道史年表]<br /> <br /> == 柔道の派閥 ==<br /> [[東海大学]]・[[日本体育大学]]・[[国士舘大学]]・[[天理大学]]等をオピニオンリーダーとする[[全日本学生柔道連盟]](学柔連)と[[講道館]](東京教育大学(現[[筑波大学]])等)の対立は政界をも巻き込み、[[1983年]]あたりから長く続いた。学士インテリ対町道場主&amp;骨接ぎとも揶揄された。発端は正力杯国際柔道大会の運営に関する学柔連と全柔連のボタンの掛け違いといわれている。学柔連が全柔連を脱退するという事態から組織の分裂に問題が発展した。[[国際柔道連盟]]は当時[[松前重義]][[東海大学]]総長が会長をつとめており、さらに学柔連側には[[山下泰裕]]ら主力選手が多くいた背景もあったので、全柔連も対応に苦しんだ。完全統一がなったのはニュージャパン柔道協会が講道館大阪支部となった[[1995年]]のときといわれている。<br /> <br /> == 高専柔道(七帝柔道) ==<br /> {{Main|高専柔道|七帝柔道}}<br /> &#039;&#039;&#039;七帝柔道(高専柔道)&#039;&#039;&#039;は立ち技重視の講道館柔道に反発して大正時代に誕生した柔道である。<br /> <br /> 七帝柔道(高専柔道)では寝技を重視したスタイルを採用しており、膠着時の「待て」や「場外」の要素や「有効」・「技あり」などのポイント制度を極力排除しているのが特徴である。試合においても[[団体戦]]による勝ち抜き戦を基本としており、試合時間も講道館柔道(国際柔道)のそれに比べて長い。選手は旧[[帝国大学]]およびその系列の者が多く、対抗戦のほかに[[ブラジリアン柔術]]・[[総合格闘技]]などのバックボーンとして[[格闘技]]分野で主に活躍している。<br /> <br /> == 派生してできた武道、格闘技 ==<br /> 柔道から派生した武道として、[[前田光世]]から受け継がれた[[ブラジリアン柔術]]の各派や[[日本拳法]]、[[サンボ]]、[[富木流合気道]](合気乱取り)などがある。<br /> <br /> 日本拳法は、柔道家の[[澤山宗海]]が柔道では廃れてゆく当身技の練習体系を確立する為に創始した。<br /> <br /> サンボは講道館で柔道を学んだロシア人[[ワシリー・オシェプコフ]]によりロシアに伝えられソ連時代にその弟子により国技として普及する。<br /> <br /> 富木流合気乱取りは柔道の当身技と立ち関節技(離隔態勢の柔道)の乱取り化を進めようとしていた嘉納治五郎により、合気道の[[植芝盛平]]のもとへ派遣されていた[[富木謙治]]によりまとめられ、別名柔道第二乱取り法とも呼ばれる。早稲田大学教育学部教授であった富木は早稲田大学柔道部合気班の中で柔道の第二乱取り法として指導をしていた。<br /> <br /> 他には&lt;!--[[総合格闘技]]団体[[J-DO]]がある。また、--&gt;柔道出身の極真空手家・[[東孝]]が興した[[大道塾空道|空道]]も投げや寝技の中に柔道の影響が強く見られる。<br /> <br /> 講道館で嘉納治五郎による古武道研究会で師事を受けた[[望月稔]]の[[養正館武道]]にも嘉納の思想、柔道理論、影響は受け継がれている。<br /> <br /> 欧州で競技の行われている[[ヨーロピアン柔術]]にも柔道の影響が伝統空手の技術と共に見受けられる。<br /> <br /> [[琉球]]([[沖縄]])で発祥した[[唐手]]([[空手]]、[[空手道]])は講道館創始者嘉納治五郎の紹介によって本土に上陸し、1933年、[[大日本武徳会]]沖縄県支部より日本の武道、柔術の流派として承認され、 1934年に大日本武徳会において柔道部門の中に組み入れられる。当時の唐手は自由乱取りに相当する[[組手 (空手) |組手]]は存在せず型のみが行われていたが、柔道の[[乱取り]]や[[剣道]]の[[竹刀稽古]]を参考に本土上陸後に組手が研究され整備されていく。また講道館柔道が整備した今日のような道着や色帯制度、段位性を唐手改め空手は武徳会時代・柔道傘下時に採用する。[[第二次世界大戦]]での日本の敗戦後、柔道や剣道は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による武道禁止令の影響を大きく受け、柔道はその三大部門の一つであった[[当身技]]が制限・軽視されることになる。当時国内での影響力も少なく制限を受けることの少なかった空手は戦後の柔道の当身技の軽視の間隙を突いて進出することになる&lt;ref&gt;松本芳三『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』大修館書店&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 柔道とウェイトトレーニング ==<br /> 日本に本格的な筋力トレーニングが伝えられたのは、1900年頃であり、柔道の創始者である[[嘉納治五郎]]の功績が大きかったと言われている。嘉納は「柔道の創始者」のみならず、「&#039;&#039;&#039;日本近代筋力トレーニングの父&#039;&#039;&#039;」とも呼ばれている。&lt;ref&gt;『臨床整形外科』2015年9月号「世界と戦うために 全日本柔道における筋力トレーニングの現状と未来への提案」紙谷武 柏口新二&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 嘉納は、世界に柔道の普及活動を行う中で渡欧中、ヨーロッパにて近代トレーニングの父と呼ばれる[[ユージン・サンドウ]]が著した筋力トレーニングの書籍『Sandow&#039;s System of Physical Training』(1894)に出会い共鳴している。その効用を実感した嘉納は講道館の雑誌「國士」にて連載し紹介した。当時この連載は好評となり、1900年には嘉納は『サンダウ体力養成法』を造士会から出版するに至っている。嘉納は柔道界のみならず国民へもその体力養成法を推奨し、サンドウが体操に用いた手具(鉄亜鈴)などの販売、宣伝も行った。<br /> <br /> また1933年(昭和8年)、IOC委員としてウィーン会議に出席していた嘉納はその帰途、オーストリアから正式なバーベル一式を購入、輸入した。このバーベルは、当時、東京・代々木にあった文部省体育研究所に運ばれ、[[ウエイトリフティング]]の技術研究と練習が行われ、普及のための講習会も開かれた。<br /> <br /> 嘉納の活動・翻訳本は日本のボディビル界の祖、[[若木竹丸]]などにも影響を与え、若木がウエイトトレーニングに目覚めたきっかけにもなっている。 柔道家[[木村政彦]]などもその先見性から若木からウェイトトレーニングの指導を受けている。<br /> <br /> このように嘉納は筋力トレーニングの有効性を理解し紹介していたが、柔道界において暫くはあまり広く普及せずあまり重視されてこなかった。<br /> <br /> その理由として、「柔道の稽古自体が筋力トレーニングになっている」こと、「柔道で使う力と筋トレで養われる力は違う」という意見、「柔能く剛を制すが正しい柔道である」という考え方が影響してたと言われている。また、当時は体力に勝る外国人にも日本人の持っている技術が十分通用したということも挙げられる。<br /> <br /> しかし嘉納の目指した柔道の精神「&#039;&#039;&#039;精力善用&#039;&#039;&#039;」は「柔の理」「柔能制剛」を発展させたものであり、剛も内包するバランスの取れた一種の柔剛一体であると言えるものであった。<br /> <br /> また、やがて柔道が世界中に広がり、外国人が技を身に付けるようになってくると、色々な戦略を取れるようになり、日本人は国際大会で苦戦するようになってくる。「技は力の中にあり」というように基本の技が身に付いた上級者同士の戦いになると、今度は力が勝敗を分ける一因となり技を活かすために力が必要になってくる。<br /> <br /> 日本柔道界への筋力トレーニングの本格的な導入は、1988年[[ソウルオリンピック]]の惨敗を受けて、基礎体力不足という敗因の分析の結果からと言われている。また[[2012年ロンドンオリンピック]]の惨敗をきっかけに発足した[[井上康生]]監督の全日本柔道の体制では、より精度の高い科学的見地に基づいたフィジカルトレーニングを導入するに至っている。<br /> <br /> そこでは、体力面で負けないトレーニングを導入するとして、トレーニング目標として次のような方針を掲げた。<br /> *世界の強豪相手にパワーとスピード負けしないための総合的な筋力を身に付け、屈強な身体を作る。<br /> *個人、階級に応じた体力強化をはかる。技や動きの特徴を生かし、弱点を補うような筋力をつける。<br /> *試合で使える筋持久力を養う。<br /> *ケガ防止と予防のために身体を作る。&lt;ref&gt;『臨床整形外科』2015年9月号「世界と戦うために 全日本柔道における筋力トレーニングの現状と未来への提案」紙谷武 柏口新二&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『改革』井上康生&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 柔道の総合化と海外の格闘技 ==<br /> 柔道の国際化が進む中、外国選手を中心とした技術の変化も見られるようになった。これは、海外の柔道競技者の多くは柔道と同時に各国の格闘技や民族武術に取り組み、その技術を柔道に取り込んだり、試行錯誤の上新たな技術を考案するなど、日々技術を変化(進化)させているからである。技術が柔道に取り込まれている民族武術・格闘技としては[[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン]]、[[ブフ]]、[[サンボ (格闘技)|サンボ]]、[[ブラジリアン柔術]]などがある{{refnest|group=注釈|ブラジリアン柔術については、柔道から派生したという歴史的な経緯や高専柔道の技法との共通性から、日本の柔道選手の間でも取り組まれつつある。}}。技術の変化に対して、世界的に見た海外における柔道は、[[武道]]としての「柔道」ではなく、[[競技]]としての「&#039;&#039;&#039;JUDO&#039;&#039;&#039;」となりつつあるという指摘があり、柔道本来の精神が忘れられていくのではないかと、柔道の変質を危惧する意見もある。一方で、柔道は発足当初から日本国内の柔術のみならず海外の格闘技を工夫して取り入れて形成されたものであり、国際柔道のような各格闘技を総合したスタイルこそ柔道本来の形と精神に近いと考えている意見もある。<br /> 「明治時代に[[嘉納治五郎]]が日本の柔術諸派から技を抜粋して柔道を作ったとき、柔道は一種の総合格闘技になったのです。さらに今回は、国際的にも柔道が総合格闘技化しているのです。[[チタオバ]]や[[サンボ]]、[[BJJ]]までが総合化されているのですね。柔道でメダルを獲得した国が23カ国ということを見ても国際化はかなり進んでいる。」&lt;ref&gt;『GONG 格闘技 2012 10.23 No.244』「柔の現在。」[[松原隆一郎]]・[[溝口紀子]]・対談&lt;/ref&gt;<br /> <br /> [[2012年ロンドンオリンピック]]での柔道の競技における日本人選手の苦戦を受けて、就任発足した[[井上康生]]監督体制では、「国際化したJUDOは世界の格闘技の複合体になった。柔道の枠の中に収まっていては、新たな発想は生まれない」とし、色々な格闘技が流入した世界の柔道に勝つために[[ブラジリアン柔術]]、[[サンボ]]、[[モンゴル相撲]]、[[沖縄角力]]などの民族格闘技との積極的な交流、練習の取り入れを行い、強化を図った。また、組手を取り合う際の対策、強化として柔道の当身の練習に通じる、打撃のミット打ちの練習なども取り入れるなど改革・創意工夫を進めた。&lt;ref&gt;[[ひるおび]]TBS系列 2016年8月15日放送&lt;/ref&gt;<br /> <br /> また、計画的体系的な筋力トレーニング、栄養、データ分析の強化など指導に医科学も取り入れた強化を進めた。&lt;ref&gt;「康生改革支えた裏方=筋トレ、栄養、データ分析」-柔道〔五輪・柔道〕2016/08/14&lt;/ref&gt;<br /> 2016年[[リオデジャネイロ五輪]]の柔道で日本は1大会で最多となる男女計12個のメダルを獲得した。<br /> <br /> == 柔道と空手道の道衣 ==<br /> 柔道は当初柔術の[[道着|稽古着]]を着て稽古していたが、袖と裾の長い現在の柔道衣を作成し稽古するようになった。[[1922年]]、嘉納治五郎がプロデュースし、[[船越義珍]]に依頼して、[[講道館]]で空手(唐手)の演武、指導をした時に義珍が着用していたのが&#039;&#039;&#039;柔道衣&#039;&#039;&#039;である。その後、唐手と柔道は、動作も稽古内容も柔道とは違う為、柔道衣に徐々に改良がなされ、[[空手道]]に今のような&#039;&#039;&#039;空手道衣&#039;&#039;&#039;が誕生した。このように一般には別々と思われている柔道と空手道ではあるが、道衣において共通点が存在しているのは、そのためである(詳細は[[空手道#空手道衣]])。<br /> <br /> 柔道衣の色は基本的に白のみとされている。しかし、試合で両選手とも白の柔道衣では観客にとって見分けがつきにくいという問題があったため、[[1997年]]に国際柔道連盟はカラー柔道衣の導入を決定し、それ以来国際大会では青の柔道衣が使われるようになり、日本で開催する時も国際試合に限り青の柔道着を着用を認めている。これに対し、日本はカラー柔道衣の導入に反対しているため、国内大会では白の柔道衣のみが使われている。<br /> <br /> カラー柔道着の導入を巡る検討段階では、青以外にも赤・緑・黄などの様々な色・[[ナショナルカラー]]の柔道着の着用を自由に認めるようヨーロッパの柔道連盟など賛成の立場の国は強硬に迫った。最終的には見分けが付けばいいと言う事と、日本などの反対する立場の国々への配慮から、青のみの導入にとどまった。<br /> <br /> {{Main|カラー柔道着}}<br /> <br /> == 柔拳興行 ==<br /> <br /> 明治末期から昭和30年代頃まで、時代のあだ花のように存在した「柔拳」という異種格闘競技があった。柔拳は柔道vs拳闘([[ボクシング]])を意味し、柔道家は道衣を着用した柔道スタイルで、ボクサーはグローブを着用したボクサー・スタイルで闘った。1853年のペリー来航以降、日本にボクシングが紹介されると、ボクシング技術を使う外国人水兵と日本人力士や武術家との他流試合がなされるようになった。それらの他流試合が明治後期から第二次世界大戦後にかけて流行した外国人ボクサー(そのほとんどが力自慢の水兵)と柔道家による他流試合興行「柔拳試合」を生み、また、ボクシング技術を学ぶ者を増やすことになる。<br /> <br /> 初めて「柔拳」の名称を使用したのは柔道の創始者[[嘉納治五郎]]の甥にあたる[[嘉納健治]]とされる。若くして講道館を飛び出した健治は横浜で、柔拳試合を見たのをきっかけに神戸の自宅に日本初のボクシングジム国際柔拳倶楽部(後に大日本拳闘会と改名)を設立した。健治が行った柔拳興行は大成功を治め、関西圏はもとより東京でも満員の観客を集めるほどの大きな人気を呼んだ。<br /> その後1931年(昭和7年)には、全日本プロフェッショナル拳闘協会(現在の日本プロボクシング協会)結成に参加。日本のボクシング界を発展させる礎を作った。<br /> <br /> その後、戦後消滅したも同然であった柔拳が復活したのは、第2次大戦後のことであり、東京の[[万年東一]]が中村守恵、木島幸一らを使って旗揚げした「日本柔術連盟」がそれである。万年東一は柔拳興行の後、[[全日本女子プロレス]]を設立し活動内容を変えていくことになる。<br /> <br /> <br /> 嘉納健治の行った柔拳興行では、その活動時期から、前中後の3期に活動内容が分けられる。前期柔拳において健治はボクサーとの対戦を通じて、柔道を当身や武器にも対処しうる武術として蘇らせようとしていたとされる。健治は拳闘以外の武道・格闘技との対戦も企画し、柔道改造を推し進めていった。<br /> <br /> それは叔父の嘉納治五郎と共通する思想からとされる。嘉納治五郎は、柔道において、心身の力を最も有効に使用して世を補益する「&#039;&#039;&#039;上段の柔道&#039;&#039;&#039;」を最終目的とし、体育と修心を目指す「&#039;&#039;&#039;中段の柔道&#039;&#039;&#039;」、攻撃防御の方法としての「&#039;&#039;&#039;下段の柔道&#039;&#039;&#039;」の3段階の構造を描いた上で、「下段の柔道」から柔道を始めるのが最も良いとした。嘉納は「攻防の技術」としてあらゆる攻撃に対応できる護身術・総合格闘技でなければならないと考えていた。そして嘉納はボクシング、唐手、合気柔術、棒術などの他の武道・格闘技の研究を通じて、その晩年に至るまで彼の理想とする「柔道」の完成を追求している。嘉納健治は「柔拳興行」という公開試合の場で、他武道・格闘技との異種格闘技という実践を通じて「攻防の技術」として柔道を追求していたのであり、その点で嘉納健治は叔父と同じ問題意識を共有していたとされる。<br /> <br /> しかし1921年に行われた米国レスラー、アド・サンテルと児島光太郎の門下生が行った柔道対レスリングの公開試合「アド・サンテル事件」により、それまで興行的異種格闘試合を黙認していた立場だった嘉納治五郎は公職の立場にある身から、「木戸銭」を取って行う「興行」活動への参加を禁止する方針転換がなされることになる。<br /> <br /> 「金を取って柔道の業を見せたり、勝負をして見せるのは、軽業師が木戸銭を取って芸を見せるのと何も択ぶ所はない。我も彼もさういふやうなことをするやうになつたならば、柔道の精神は全く消滅して仕舞ふことになるから、一般の修行者は、大に慎んで貰はねばならぬ。」<br /> <br /> そして柔拳興行はスペクテーター・スポーツへの方向転換を余儀なくされ、次第にナショナリスティックなショーへと変貌しやがて終焉していくことになる。&lt;ref&gt;「嘉納健治の「柔拳興行」と日本ボクシング史におけるその位置づけ」池本淳一&lt;/ref&gt;<br /> <br /> <br /> 昭和11年に発行された講道館六段・竹田浅次郎の技術書『對拳式実戦的柔道試合法』において、柔道家の対拳闘相手の対戦法が解説・紹介されている。<br /> <br /> 心構え、構え方、目の付け所や呼吸の仕方、両手の働き、足の動作、身体の動作、拳闘の分析、ボクシングのパンチの防御法、その捌き方と攻撃法、異種との戦いにおいて柔道家が注意すべき裸体の相手への組み付き方、腕・手首・首・体といった箇所への組み付き方、投げ技・絞め技・関節技の応用、足関節技、種々の双手刈りの方法、現在でいう「片足・両足タックル」が有効であることなどが解説されている。 &lt;ref&gt;竹田浅次郎『對拳式実戦的柔道試合法』&lt;/ref&gt;<br /> <br /> <br /> 昭和16年に発行された講道館七段・星崎治名の技術書『新柔道』には、「拳闘に對する柔道家の心得」と題して、彼が提唱した当時の柔拳興行におけるボクサーとの対戦法が紹介されている&lt;ref&gt;星崎治名『新柔道』「拳闘に対する柔道家の心得」&lt;/ref&gt;。<br /> *まず柔道家自身が、最低でも数ヶ月は拳闘の訓練をする。柔道の当て身を使うことも勿論有効だが、観衆に好感を持たして奇麗に勝利を得る方法としてはボクシングの練習を第一条件とする。<br /> *フットワークの種々を研究、敵がどんなパンチを出すのかを足使いから読む練習。<br /> *両腕でしっかり顔面ガードしながらの自在な進退、相手のパンチにカウンターで蹴りを入れる練習。<br /> *敵のスキを見て一気に飛込む練習。全身のバネとタイミングが肝要。<br /> *飛込んだらすぐ投げ、逆・絞に繋げる練習。 <br /> *拳闘家に対して当て身もつかい足も用い寝技立ち技の連繋を運行し勝ちを制する。<br /> *対拳闘は、常に平静に「後の先」を狙う気持ちが肝要。<br /> <br /> == プロ柔道によるブラジルでの異種格闘技戦 ==<br /> [[ファイル:Kimura kesa.jpg|thumb|250px|right|[[エリオ・グレイシー]]の首を締め付ける[[木村政彦]]]]<br /> [[1951年]]、&#039;&#039;&#039;[[国際柔道協会]](プロ柔道)&#039;&#039;&#039;の[[木村政彦]]七段、[[山口利夫]]六段、加藤幸夫五段の日本柔道使節が[[ブラジル]]に招かれた。この時、[[グレイシー柔術]]と[[異種格闘技戦]]を行っている。<br /> <br /> [[9月6日]]に加藤幸夫が[[リオデジャネイロ]]で[[エリオ・グレイシー]]と対戦。試合は10分3ラウンド、投げによる一本勝ちはなし、ポイント制無しの柔術デスマッチルールで行われ引き分けに終わる。[[9月23日]]に二人は再戦したが、8分目で加藤が下からの十字絞めで絞め落とされエリオの一本勝ちに終わった。すでにこの頃から[[ブラジリアン柔術]]の寝技技術はかなり高いレベルにあったものと思われる。<br /> <br /> 雪辱戦として[[10月23日]]に[[木村政彦]]がエリオ・グレイシーと対戦。だが、さすがのエリオも木村相手では子供扱いされた。木村が2R開始3分目で得意の[[腕緘]]に取りエリオは意識がなくなっていたため、兄のカルロスがストップを申し出し木村が勝利、日本柔道の名誉を守った。木村政彦は「鬼の木村」の異名を持ち、戦前から全日本選手権を13年連続保持、15年間無敗のまま引退した柔道家で、史上最強と言われる。木村は切れ味鋭い[[大外刈り]]で有名だが、寝技でも日本トップの力を持っていた。<br /> <br /> この木村政彦とエリオ・グレイシー戦までの経緯、試合内容については「[[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]」が詳しく記述している。それによると、試合後は互いに2人が相手の強さと精神を称え合うものだったという。エリオは木村の強さに感動し、腕緘に[[キムラロック]]という名前をつけた。<br /> <br /> == 嘉納治五郎の柔道における修心活動 文化会、啓蒙雑誌、講演活動 ==<br /> 講道館柔道の創設者の嘉納治五郎は、教育者としても第一人者であり、学習院教授・教頭、旧制熊本第五高等学校(現・熊本大学)校長、第一高等学校(現在の東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部)校長、東京高等師範学校(東京教育大学を経た現在の筑波大学)校長、文部省などの学校教育に関わる傍ら、日本傅講道館柔道を創始し活動を広げていった。その一方で親類や知人の子弟を預かり、嘉納が彼らと共に生活をしながら指導教育を行う私塾活動を行った。<br /> <br /> 1882年創立の&#039;&#039;&#039;嘉納塾&#039;&#039;&#039;以降、1888年&#039;&#039;&#039;善用塾&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;成蹊塾&#039;&#039;&#039;、1900年&#039;&#039;&#039;全一塾&#039;&#039;&#039;と対象年齢毎の私塾を展開していく。そこでは知育、徳育、体育のどれにも偏らない教育を塾の方針とし、そこから[[杉村陽太郎]]、[[高島平三郎]]、[[南郷次郎]]、[[嘉納徳三郎]]など様々な各方面に活躍する多くの卒業生が巣立っている。<br /> <br /> また1898年に嘉納は嘉納塾以外の私塾を統合して&#039;&#039;&#039;造士会&#039;&#039;&#039;を創立し、1915年に&#039;&#039;&#039;柔道会&#039;&#039;&#039;、1922年に&#039;&#039;&#039;講道館文化会&#039;&#039;&#039;の創立をし、教育薫陶、世の中に有益な人物の輩出を目的として対象を広げていく。<br /> <br /> 1898年の「造士会創立の趣旨」において造士会の事業として、①塾舎を設けて子弟を教育薫陶する、②講道館柔道やその他の武芸体操を教授する、③雑誌を刊行して本会の趣旨の貫徹を図る、とある。<br /> <br /> 1915年の「柔道会創設の趣旨」において、「講道館と連携し、柔道会を設け柔道のみならず人間形成に役立てる」とし、具体的には「柔道の本義や修行の方法をさずけるだけでなく、役に立つ人間乃ち有数健全なる国民の育成を目指す」「雑誌・図書の刊行、講演会・講習会の開催、柔道の奨励・指導を行う」としている。<br /> <br /> 1922年の「講道館文化会」の目的としては、<br /> <br /> ①個人に対しては身体強健、知徳の練磨、社会において有力なることとする。<br /> <br /> ②国家に就いては、国体を尊び歴史を重んじ、その隆昌を図ろうとするため常に必要な改善を怠らない。<br /> <br /> ③社会にあっては個人団体ともお互いに助け合い譲り合い、融和を実現する。<br /> <br /> ④社会においては人種的偏見をせず、文化の向上、人類の共栄を図る。<br /> <br /> とした。<br /> <br /> そして、雑誌の発刊として、私塾教育においては嘉納塾の機関紙『嘉納塾同窓会雑誌』を発刊し、造士会においては『國士』、柔道会においては『柔道』・『有効之活動』、講道館文化会においては『大勢』・『柔道界』・『柔道』・『作興』とその時期その時期で対象読者を上げてテーマを広げ、目的ごとに使い分け、改題しながらも活動を続けていく。<br /> <br /> 雑誌刊行の目的として嘉納は「講道館柔道の修行者として、さらに多方面にも修養の資料となるべき雑誌を発行したならば、これによりて継続的に、秩序的に、柔道に関する自分の考えを示すことができる。さらにこの仕事に加えて、適当なる機会を利用して、講道館において話をしたならば、やや教育が行き渡るであろう」と述べている。<br /> <br /> 雑誌の講述において嘉納の扱うテーマは多岐にわたり、その内容は、<br /> <br /> ①技や技術、また試合をも含める修行の仕方について理想を説くもの。<br /> <br /> ②日常生活を通じての修養や訓育に関するもの。<br /> <br /> ③国家や社会の問題を指摘し、見解と訓育を述べるもの。<br /> <br /> に大別することが出来る。<br /> <br /> == 柔道における「柔の理」の背景・意味 ==<br /> 講道館柔道は、戦国時代から江戸時代にかけて興り隆盛を極めた古流柔術を母体とするものであり、講道館柔道の「柔」の名称も、柔術から採ったものである。柔術の名称由来については明確な詳細は定かではないとされるが、通説では「三略」の文中、「&#039;&#039;&#039;柔能制剛&#039;&#039;&#039;」の「柔」を意味するといわれている。柔術から発展した柔道の術技も多くは柔の理と言えるとされる。<br /> <br /> 講道館の草創時代、勝負の理論は古来の教えを受け継いだ傾向が強く、&#039;&#039;&#039;柔の理&#039;&#039;&#039;に総括されていた。<br /> 嘉納治五郎は「柔の理とは全て相手の力に順応してその力を利用し勝ちを制する理合である」とし、「柔の理は全ての柔道の勝負に通じ働いている大切な原理である」とも説いている。<br /> <br /> 柔道の基になった起倒流や関口流や楊心流など古流柔術の主要な流派の伝書類において散見される「柔」という語には「柔・剛などの相対する気が和合し、どちらにも偏りのない、安定、円満な状態」を意味しているという点において、実際に『三略』やそれに影響を与えたとされる『老子』の「柔の思想」との共通性を認めることが出来るとされる&lt;ref&gt;『嘉納柔道思想の継承と変容』永木耕介p.107&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 『[[易経]]』における柔 ===<br /> <br /> 中国古典に於いて、柔と剛を初めて唱えたのは『易経』であるとされる。「天は尊く地は卑くして乾坤定まる。動静常有り、剛柔断る。是故剛柔相摩し、八卦うごかす」と記され、自然界は陰と陽、柔と剛の対立と転化により成り立つと述べられている。よって柔は剛を兼ねて初めて柔徳を発揮するという、柔剛兼備の「柔」であった&lt;ref&gt;「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 『[[老子]]』における柔 ===<br /> 『[[三略]]』に影響を与えたと言われる『[[老子]]』において「柔の思想」は、<br /> 「天下の至柔は、天下の至堅を馳騁し、無有は無間に入る」<br /> <br /> 「小を見るを明と曰い、柔を守るを強と曰う」<br /> <br /> 「人の生くるや柔弱、其の死するや堅強。万物草木の生くるや柔脆、其の死するや枯槁。故に、堅強なる者は死の徒。柔弱なる者は生の徒。是を以て、兵強からば則ち勝たず、木強からば則ち共さる。強大は下に処り、柔強は上に処る。」<br /> <br /> 「天下に水より柔弱なるは莫し。而も堅強をせ攻むる者、之に能く勝る莫きは、其の以て之を易うる無きを以てなり。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下、知らざるを莫くして、能く行う莫し。」<br /> <br /> などに見られるように、[[老子]]はたびたび水をひきあいに出し水の「流動性、順応性、変幻自在な動き」が、堅強を崩せる要素であると指摘している&lt;ref&gt;「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また「「道」は万物を生み出すのみならず、すべてを受け入れる。「道」の形容詞が「柔」(或いは弱)とすれば、「剛、強、堅」などの形を成すものは全て「柔」から生まれて「柔」に帰ることになる。「柔」は全ての物を包含するのである」&lt;ref&gt;「柔の意味に関する研究」籔根敏和、岡田修一、山崎俊輔、永木耕介、猪熊真&lt;/ref&gt;と解釈もされる。<br /> <br /> === 『[[三略]]』における柔 ===<br /> 中国の兵法書である『[[三略]]』においては、「柔能く剛を制し、弱能く強を制す。柔は徳なり剛は賊なり、弱は人の助くるところ、強は怨の攻むるところ。柔も設くるところあり、剛も施すところあり。弱も用うるところ有り、強も加うるところ有り。此の四者を兼ね、而して其の宜しきを制す。」と記され、「柔」は他者を包み育む徳により剛を制せるとしながらも、兵法論としては柔弱のみではなく、柔剛強弱を兼備して変幻自在に対処せよと述べている。<br /> <br /> 中国古典に於ける「柔」とは、もともと自然界の法則に基づく、剛を含んだ絶対の「柔」であった。一方老子や三略の「柔能制剛」所の「柔」は、水の性質である。「流動性、順応性、変幻自在な動き」をいったものであり、また争わざる徳も意味していた&lt;ref&gt;「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 古流柔術における柔の理 ===<br /> <br /> 古流柔術の伝書においては、&#039;&#039;&#039;柔の理&#039;&#039;&#039;はしばしば歌などに託されたりして抽象的に表現されている。<br /> 例えば楊心流では「降るを見れば積もらぬさきに打ち払え、風ある松に雪折れはなし」「乗り得ては波に揺らるる蜑小舟、ただ浦々の風にまかせて」といい、起倒流では「我が力をすて敵の力をもって勝つ」と説き、天神真楊流では「身体をして心の欲するところに従順ならしむ」と説いている&lt;ref&gt;『柔道の歴史 嘉納治五郎の生涯』(原作・橋本一郎 画・作麻正明)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 正徳年間(1711-1715年)に記された日夏繁高による『本朝武芸小伝』においては「柔にして敵と争わず。しばしば勝たむ事を求めず。虚静を要とし、物をとがめず、物にふれ動かず、事あれば沈みて浮かばず、沈を感じると云ふ」とされている&lt;ref&gt;「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また「敵の動きに先立つ気を読み、気のコントロールによって敵と力を合わせず、敵の気の外れの虚をついて制する」という様な、力の衝突のない滑らかな動き様を形容した言葉であり、さちに本体そのものが現す安定感や無形さを形容した言葉であると考えられた。従って「柔能制剛」とは、「気を扱う者が、力の勝負をする者に勝つ」という意味となるとされる&lt;ref&gt;「柔の意味に関する研究」籔根敏和、岡田修一、山崎俊輔、永木耕介、猪熊真&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これらの古流柔術における「柔の理」は、嘉納の言う「柔の理とは、相手が力を用いて攻撃し来る場合我はこれに反抗せず、柔に対手の力に順応して動作し、これを利用して勝ちを制する理合」と合致するとされる&lt;ref&gt;「講道館柔道の思想的背景について」藤堂良明&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展 ==<br /> <br /> 講道館の草創時代、勝負の理論は古来の教えを受け継いだ傾向が強く、&#039;&#039;&#039;柔の理&#039;&#039;&#039;に総括されていた。しかし柔の理をもって柔術や柔道の根本原理を考えていた嘉納も、攻撃防御の実際において、柔の理以外で説明しなくてはならない多くの事例にぶつかることになる。曰く、<br /> <br /> 「たとえば立って居る処を他人が後ろから抱きついたと仮定せよ。此の時厳格なる柔の理では逃れることは出来ぬ。対手の力に順応して動作する途はない。本当に抱きしめられる前ならば体を低く下げて外す仕方もあるけれども一旦抱きしめられた以上はその力に反抗して外すより別に仕方はない。」<br /> <br /> 「要するに反対すれば力が少ないから負けるが、順応して退けば向こうの体が崩れて力が減ずるから勝てる。柔能く剛を制すという理屈になる。ところが深く考えてみると、いつでも柔能制剛の理屈では説明は出来ない。(中略)勝負の時には相手を蹴るということがある。この場合は柔能く剛を制するとはいえない。これは積極的にある方向に力を働かせて向こうの急所を蹴って相手を殺すとか傷つけるとかいうことになる。ある手で突くのも同様である。刀で斬るのも同様である。棒で突くのも同様である。これも柔能く剛を制するということではない。こう考えてみると、柔術という名称は攻撃防御の方法のただある場合を名状した呼称である。」<br /> <br /> つまり、「相手の力を利用して相手を制する」という「柔の理・柔能く剛を制す」だけでは全ての場面を説明できず、いわば状況に応じた臨機応変な「主体的・積極的な力の発揮」も必要であることから、加えて攻撃防御の際の精神上の働きから考えてみても、単に柔の理の応用だけでは困難であると感じた嘉納は明治30年代に至って柔の理のみに依らぬ柔道を解説するようになる。<br /> <br /> 「勝負においてはいかなる場合でも精神を込め最上の手段を尽くすべきである。いかなる技でもまず目標を立て投げる、固める、当てるという目的を遂げるためには己の精神力、身体の力を最も効果的に働かせる必要がある。心身の力、すなわち精力を最善に活用することである。今日精力善用と言っているがこれが柔道の技術原理である。」と言っている。嘉納はより普遍的な「力の用い方」を再定義した結果、「心身の力を最も有効に活用する」とした。<br /> <br /> そして心身の力を精力の二文字に詰め、「精力最有効使用」「精力最善活用」などと表現されて、「&#039;&#039;&#039;精力善用&#039;&#039;&#039;」へと至る。<br /> <br /> 嘉納は柔道の意味を単に心身の力を有効に攻撃防御勝負に使うだけでなく、更に広く人間万事の事柄に応用、心身の力を最も有効に発揮する道のあるところにも柔道の名称を用いるようになる。精神と身体の力を合理的に活用させそれを日常生活に応用させることが精力善用としたのである。<br /> <br /> またそれまでも明治22年の「教育上ノ価値」の講演において嘉納が示した「勝負の理論を世の百般の事に応用する」の中の「自他の関係を見るべし」に見られていたような柔の理における融和の原理から「&#039;&#039;&#039;自他共栄&#039;&#039;&#039;」の理論の確立に至る。<br /> <br /> 嘉納は1922年の「講道館文化会」の創立における「講道館文化会」綱領において「&#039;&#039;&#039;精力善用&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;自他共栄&#039;&#039;&#039;」を発表する。<br /> <br /> ①精力の最善活用は自己完成の要決なり。<br /> <br /> ②自己完成は他の完成を助くることによって成就す。<br /> <br /> ③自他完成は人類共栄の基なり。<br /> <br /> 「精力善用」「自他共栄」の二大原理が、単なる攻撃防御の方法の原理ということから、人間のあらゆる行為の原理へと、大きく拡大したことによって、柔道の意味内容も大きく拡大することになる。<br /> <br /> ここに至り、精力最善活用によって自己を完成し(個人の原理)、この個人の完成が直ちに他の完成を助け、自体一体となって共栄する自他共栄(社会の原理)によって人類の幸福を求めたのである。<br /> <br /> == 戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾 ==<br /> ===生前の嘉納治五郎の柔道観と他の競技運動観・オリンピック活動===<br /> 講道館柔道創始者の嘉納治五郎は柔道の国民的・国際的普及を進めるとともに、[[大日本体育協会]]初代会長やアジア人初の[[IOC]]([[国際オリンピック委員会]])委員などの役職を兼任し、他の体育や他の外来の競技運動についても国民的に奨励し推進していた。嘉納は、競技運動と柔道の関係について受ける質問について、両極端なものとして、「外来の競技運動を排斥し日本人の精神教育も道徳的修養も出来る日本固有の武術のみで事足りるという声」、逆に「競技運動の利益を説いて完全に競技運動化を推進する声」、のいずれも当を得た考えでないとし、次のように言及していた。<br /> <br /> 「柔道とは大きな普遍的な道である。それを応用する事柄の種類によっていろいろな部門に別れ、武術ともなり体育ともなり智育徳育ともなり、実生活の方法ともなるのである。しかるに、競技運動とは勝敗を争う一種の運動であるが、ただそういうことをする間に自然身体を鍛錬し、精神を修養する仕組みになっているものである。競技運動は、その方法さえ当を得ていれば、身体鍛錬の上に大なる効果のあるものであるというのは争う余地はない。さりながら、競技運動の目的は単純で狭いが、柔道の目的は複雑で広い。いわば競技運動は、柔道の目的とするところの一部を遂行せんとするに過ぎぬのである。柔道を競技的に取り扱うことはもちろん出来ることであり、また、して良いことであるが、ただそういうことをしただけでは柔道本来の目的は達し得らるるものではない。それゆえに、柔道を競技運動的にも取り扱うことは今日の時勢の要求に適ったものであるということを認めると同時に、柔道の本領はどこにあるかということを片時も忘れてはならぬのである。」&lt;ref&gt;『嘉納治五郎大系 1巻』「柔道と競技運動」p.18&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 一方で嘉納は普及や国民の理解を得る上での乱取試合や競技面の利点も挙げながら、戦前から活発になっていった試合とその上での勝利至上主義に向かう柔道修行者を強く憂いてもおり、身体鍛練で技を争うのは「&#039;&#039;&#039;下の柔道&#039;&#039;&#039;」で、精神修養を含むのが「&#039;&#039;&#039;中の柔道&#039;&#039;&#039;」、さらに身心の力を最も有効に使って世を補益するのが「&#039;&#039;&#039;上の柔道&#039;&#039;&#039;」と論じた。大正11年(1922)、「&#039;&#039;&#039;精力善用&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;自他共栄&#039;&#039;&#039;」を柔道原理として制定していた。<br /> <br /> 嘉納は「柔道は単に競技として見るよりは、さらに深く広いもの故、自ら求めてオリンピックの仲間に加わることを欲しない」と語っており、柔道が五輪競技となることには消極的であったと言われているが、[[クーベルタン男爵]]や国際オリンピック委員会の推薦を受け自身がIOC委員となりオリンピック・ムーブメントに参加するに際し、嘉納は柔道と戸外スポーツの両立の必要性について言及している。<br /> <br /> 「それまでには、体育のことなら柔道さえやっていればそれでよいと考えていたのだが、翻ってさらに深く思いをよせると、柔道だけではいけないことが分かってきた。柔道も剣道も体力を鍛え、武士道精神を修練させる秀れたものには違いないが、一般大衆の体育を振興させるにはこれだけでは満足できない。といって(当時の)体操は興味に乏しいのと、学校を出るとやるものがない。野球や庭球は面白いが設備が要るから誰でもやれない。少数のものには良いが、国民全般がやるには向かない。<br /> だが歩行、駆け足、跳躍なんかはだれでも出来る。また費用も要らない。単に歩行することは面白くないかもしれぬが、神社仏閣に詣でるとか、名所旧跡を訪ねるようにすれば、道徳教育とも結びついてくる。大いに奨励すべきことだ。水泳もやらねばならぬ運動である。(中略)そしてすでに高等師範学校では生徒に長距離競走や水泳を奨励して実践させていた。<br /> <br /> (中略)だから武道と戸外スポーツとは、どうしても両々相俟って発達していくようにしたいと思っていた。(中略)西洋で発達したオリンピック競技もこれを取り入れ、武士道精神を加味させることは出来ない相談ではないと考えた。」<br /> <br /> そして他競技上でも日本人のオリンピック参加における大きな展望を掲げていた。<br /> <br /> 「日本精神をも吹き込んで、欧米のオリンピックを、世界のオリンピックにしたいと思った。それには自分一代で達成することが出来なかったら、次の時代に受け継いでもらう。長い間かかってでもよいから、オリンピック精神と武道精神とを渾然と一致させたいと希ったのである。<br /> その最も手近い方法としては、我が国の選手が、心にしっかりとした大和魂、武士道精神を持っていて、競技場では世界選手の模範になることだ。」&lt;ref&gt;『嘉納治五郎大系 8巻』「わがオリンピック秘録」p.368&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ===戦後柔道の変容とその抱えた矛盾===<br /> 嘉納治五郎の没後、柔道は大きな変遷を経験することになる。<br /> <br /> 1938年(昭和13年)5月、嘉納治五郎はカイロでのオリンピック会議の帰途、病死するに至る。<br /> <br /> 日本政府はその年、7月15日、1940年に開催が決定していた[[1940年東京オリンピック]]返上を閣議決定する。<br /> <br /> 1939年(昭和14年)9月にヨーロッパで[[第二次世界大戦]]が勃発し、1941年(昭和16年)12月には[[太平洋戦争]]が起こる。戦況が拡大するにつれ、1942年(昭和17年)には日本では[[大日本武徳会]]が政府主導に改組され、剣道、柔道、弓道などが軍国主義思想に利用されていくことになる。<br /> <br /> 1945年(昭和20年)、日本は太平洋戦争における敗戦を経験し、1946年(昭和21年)11月には剣道、柔道、弓道などは軍国主義に加担したとして[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により武道禁止令を受け、大日本武徳会は解散させられることになる。<br /> <br /> その後国内での再開の努力や文部省による嘆願書の提出、海外の柔道連盟の発足などを受けて1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。<br /> <br /> しかし柔道は武道禁止令の解禁に際し、「&#039;&#039;&#039;競技スポーツとしての柔道&#039;&#039;&#039;」が外圧によって誓約されることになる。それはいわば便宜的なものとも捉えられるものでもあったため、日本の指導者の中にはいつか再び武道を精神教育の中心として復活させようという志を持つ者も多くいた。<br /> <br /> しかし国際スポーツ化の流れの中で、[[1964年東京オリンピック]]開催に際し、生前の嘉納治五郎が消極的態度をとっていた柔道のオリンピック競技化への道を進むことになる。<br /> <br /> <br /> それらの流れの上で柔道の変容については次のような指摘がある。<br /> <br /> <br /> 「「体育」面では、<br /> <br /> 「競技の国際化に伴って、次第に競技に勝つための「身体(体力)強化」論が強まることになる。一方では「形」が実践されなくなることに示されるように、嘉納が強調した「身体の調和的発達や保健」という側面は弱化されていく。結果的に、競技力向上のための「強化」が柔道実践の中心となっていき、「体育」として嘉納が重視した大衆性や生涯に亘る継続性の側面は見失われていった。」<br /> <br /> <br /> 「勝負(武術)」面では、<br /> <br /> 「「競技スポーツとしての柔道」が浸透することによって「勝負は競技場の場における出来事」として限定されていき、戦前ではかなり強く意識されていた、武術としての追及は急速に弱化していった。<br /> そのことはまた、武術性を保持する目的が加味されていた「形」の実践の低下とも結びついていった。「柔道はスポーツである」ことが世界共通の認識となっていき、ますます「武術としての柔道」論は顧みられなくなっていくことになった。」<br /> <br /> <br /> 「修心」面、特にその「徳育」面には、<br /> 昭和60年頃までは、「武道」や「修行」そして「礼儀」という観点から「徳育の低下」を食い止めようとする論調が盛んであった。それら徳育の低下への憂いは基本的に、たとえ「競技スポーツとしての柔道」を容認する者であっても、「他の競技スポーツと柔道は単純に同一ではない」という認識から発せられていた。特に戦前来の多くの指導者では、武道が有する「真剣味」こそが精神の高揚に役立つとする「武道としての柔道」論も根強く残存し、また「修行」という弛まぬ継続性が人間を向上させ、「礼儀」とは日常生活全般に浸透したものでなければならない、という価値観が継承されていた。<br /> <br /> しかし、柔道による徳育の効果が、戦前では人間としての「生き方」や「生活」に結びつくものでなければならなかったのに対して、「競技スポーツとしての柔道」では競技という場に限定されてしまうことが問題視されたのであった。<br /> <br /> また、武道独特の修行観や段位に対する価値観、あるいは礼儀作法という行動面においてもその低下が憂慮されてきた。<br /> <br /> <br /> また「精力善用・自他共栄」は、<br /> <br /> 戦後も不断に唱えられ続けてきたが、昭和60年頃から以降はその唱えはかなり減少する。<br /> <br /> 概して、嘉納が唱えたようにそれらを「日常・社会生活へ応用する」といった側面は強調されなくなり、「精力善用・自他共栄」を「競技スポーツとしての柔道」にどのように活かしうるか、そこへの関心が集中することになる。<br /> <br /> 一部で、「競技スポーツとしての柔道では精力善用・自他共栄の理念を活かし難い」という批判が出されていったが、その論調は、「勝ちさえすれば目的を達するような傾向が横行しだした」というように、「勝利第一主義への批判」と結び付いたものであった。<br /> <br /> <br /> それら変容を決定づけた最大の原因は、競技場で当然のごとく求められた「勝利志向」の強まりにみられる。<br /> その理由は、勝利志向の「強まり」と、弱者への配慮(すなわち大衆性)や他者肯定(すなわち道徳性)の「低下」との間には避けがたい相関があり、また、「勝利志向の強まり」が、「競技」の時空のみへと視野を限定させ、柔道を生活や生き方に応用するという幅広い価値観も見失わせた。<br /> <br /> ことに日本の柔道界では、国際舞台での勝利が、発祥国としての意地と誇りによって強く求められたがゆえに、「勝利」という価値が「競技化の促進」という価値と容易に結びつき、戦前では修行者の動機づけを高めるための手段的価値に位置づいていた「勝利」が、次第に目的的な価値へと転換していった。<br /> <br /> 嘉納は生前、教育的価値の体系を保持するために、幾度も「目の前の勝敗に囚われるな」と唱えたが、このような戦後における「勝利の目的化」によって、その体系は崩れていった。」<br /> &lt;ref&gt;『嘉納柔道思想の継承と変容』永木耕介 風間書房&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 近年における社会活動 ==<br /> <br /> 近年において講道館や全日本柔道連盟は、柔道修行者のマナー・モラルの乱れを受け止め、修心面での再生を目的として社会活動を行っている。<br /> <br /> === 柔道ルネッサンス ===<br /> 国内において講道館・全日本柔道連盟が、平成13年度から合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げ、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎師範の理想とした“人間教育”を目指して活動を行っている。<br /> <br /> 「国際化、競技化、スポーツ化が進み競技成績や勝敗ばかりが注目されているが21世紀を迎えた今こそ嘉納治五郎師範が提唱した柔道の原点に立ち返り、人間教育を重視した事業を進めようとするものである。」&lt;ref&gt;全日本柔道連盟ホームページ&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 「講道館・全日本柔道連盟は、競技としての柔道の発展に努力を傾けることはもちろん、ここに改めて師範の理想に思いを致し、ややもすると勝ち負けのみに拘泥しがちな昨今の柔道の在り方を憂慮し、‘師範の理想とした人間教育’を目指して、合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げる。その主目的は、組織的な人づくり・ボランティア活動の実施であり、本活動を通して、柔道のより総合的普及発展を図ろうとするものである。」&lt;ref&gt;柔道ルネッサンス実行委員会」&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 柔道教育ソリダリティー ===<br /> 2006年には特定非営利活動法人 [[柔道教育ソリダリティー]]が設立されている。理事長として[[山下泰裕]]が就任し、「柔道の国際的な普及に寄与するとともに、その活動を通して人と人との交流を図り、異文化理解を進め、もって日本のさらには世界の青少年育成に寄与すること」を目的とし、<br /> <br /> 「柔道・友情・平和」をスローガンとし、<br /> <br /> 事業内容として、<br /> <br /> 1. 柔道の国際的普及、振興に係わる事業。<br /> <br /> 2. 柔道による文化交流、異文化理解の推進に係わる事業。<br /> <br /> 3. 柔道による青少年育成に係わる事業。<br /> <br /> を行っている。<br /> <br /> == 柔道事故 ==<br /> まず、柔道の投技の基本は受の背中が大きく畳に着くように投げることだが、取は受を頭から落さないように投げ、多くの投技では受の体が畳に着く寸前に引き手を引いて受の体をわずかに引かなければならず、受は正しい受身(腕で畳を打って緩衝し、同時に顎を引いて固定し後頭部を打たないように護る)を身に付けなければならない。<br /> <br /> しかし、取と受の双方若しくはいずれか一方が未熟な場合や極端な体格差であった場合に受が頭部を畳にぶつけることがある。例えば[[大外刈り]]は、受が後ろ倒しになるという技の性格上、初心者や過度に疲弊して正しく受身を取れない状態の者にかけると後頭部を強打する危険性が高い。また、頭からの落下による事故原因の他に加速損傷(回転加速度損傷)が原因と思われる可能性も示唆されており、これは頭部に外力(極端な遠心力、加速度)が加わることで頭蓋骨に回転加速度がつき頭蓋骨内の脳が全体的に回転(一方向への偏り)することで脳と硬膜を繋ぐ橋静脈が破断、[[急性硬膜下血腫]]に至るという機序である&lt;ref&gt;[http://www.judo.or.jp/data/docs/print-shidou.pdf 柔道の安全指導 2011年第3版] 8-12頁 [[全日本柔道連盟]]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/sports/spo/OSK201108240163_01.html 遺族の思い、柔道界動かす 滋賀の柔道部員死亡から2年] asahi.com 2011年8月24日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/sports/spo/OSK201111270076.html 柔道のリスク知って 中学で必修化控えシンポ 滋賀] asahi.com 2011年11月28日]&lt;/ref&gt;。他に間(日にち)を置かず頭部への強打によって起こる脳震盪([[:en:Second-impact syndrome|セカンドインパクト症候群]])が原因となり脳が物理的ダメージを負う事で、障害、死亡などのリスクが高まる報告がある。<br /> <br /> ;学校等での柔道事故事例<br /> *2003年、[[須賀川市第一中学柔道部暴行傷害事件]]<br /> *2004年、[[横浜市奈良中学柔道部暴行事件]]<br /> *2007年7月、大阪府高槻市金光大阪高校柔道部1年生男子生徒が練習中に脳震盪で倒れた3日後に昇段審査などの講習会に参加。模範演技後に頭痛を訴えるも取下げられ、会場に駆けつけた母親の119番通報で病院に搬送。急性硬膜下血腫を発症し遷延性意識障害による意識不明の寝たきり状態になり、後、本人を含む家族が、学校法人、全日本柔道連盟、大阪府柔道連盟を相手に計約4億円の損害賠償を求める。全柔連への請求を除き、大阪地裁 &lt;small&gt;(佐藤達文裁判長)&lt;/small&gt; にて約1億円の和解金を支払うことで合意。<br /> *2008年、[[横浜商科大学高等学校#事故・訴訟|横浜商科大学高等学校柔道部員後遺障害事件]]<br /> *2009年、広島県の[[尾道中学校・高等学校|私立尾道高等学校]]1年生男子生徒が柔道部の練習中に畳で頭を強打し急性硬膜下血腫を発症、高次脳機能障害を負う。後、被害者本人と両親が同校を運営する尾道学園に計約1億4400万円の損害賠償を求めた。2015年8月、広島地裁尾道支部 &lt;small&gt;(次田和明裁判官)&lt;/small&gt; は「事故を防ぐための適切な措置を講じる義務に違反した」として同学園に計約8150万円の支払いを命じた&lt;ref&gt;[https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20150820-OYTEW50853/ 記憶・言語障害や視野狭窄…柔道練習で後遺症、学校側に賠償命令] 読売新聞 2015年8月20日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> *2009年7月29日、滋賀県愛荘町立秦荘中学校&lt;!--http://www.asahi.com/articles/ASK287K8JK28UTIL04G.html 部活の柔道、息子は死んだ 母は裁判後も闘い続ける 朝日新聞 2017年2月12日--&gt;柔道部の練習中、部員(当時12歳)が上級生との乱取り稽古後「声が出てない」との理由から柔道部顧問(当時27歳)の直接指導を受け。二度投げ一度締めの合わせ技を蒙った直後に失神、顧問が平手で殴打するも搬送先の病院で急性硬膜下出血で意識が戻らないまま1か月後に死亡。後、愛荘町中学校柔道部事故検証・安全対策検討委員会を設置。<br /> :[http://judojiko.net/dl_data/aishou_jiko_kenshou100714.pdf 「愛荘町中学校柔道部事故検証・安全対策検討委員会報告書」](※PDF) &lt;span style=&quot;font-size:60%;&quot;&gt;愛荘町中学校柔道部事故検証・安全対策検討委員会 平成22年7月14日&lt;/span&gt;<br /> &lt;!--http://www.town.aisho.shiga.jp/reiki_int/reiki_honbun/r304RG00000880.html<br /> http://www.pref.shiga.lg.jp/a/bunken/files/6dantaisympo25-siryou2.pdf<br /> http://www.shigahochi.co.jp/info.php?id=A0005103&amp;type=article<br /> --&gt;&lt;!--https://www.asahi.com/articles/ASK287K8JK28UTIL04G.html 部活の柔道、息子は死んだ 母は裁判後も闘い続ける 朝日新聞 2017年2月12日--&gt;<br /> <br /> *2010年5月1日、[[大分県立竹田高等学校]]柔道部合同合宿練習中に男子生徒部員(当時17歳)が大外刈を受けて頭部を強打し緊急搬送、同日深夜に搬送先病院にて死亡した。司法解剖の結果、死因は急性硬膜下出血と判明。<br /> <br /> *2011年6月15日&lt;!--17時頃--&gt;、[[名古屋市立向陽高等学校]]の武道場において1年生男子部員が乱取り稽古中に大外刈で投げられ頭部を強打、休憩中に体調不良を訴え流延を発症し緊急搬送を要請、搬送先病院にて急性硬膜下血腫の緊急開頭手術を行うが同年7月23日に死亡。<br /> :[http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000052/52831/houkokusyo.pdf 事故調査報告書](※PDF 外部リンク)<br /> <br /> *2014年10月、[[福岡市]]内の同情で稽古を受けていた当時中学校2年生の男性が、指導者から「[[絞め落とし]]」を掛けられて一時意識不明となった。男性は[[福岡地方裁判所]]に2015年2月にこの指導者を相手取り提訴。一・二審は男性の訴えを認めて4万4,000円の支払いを命じ、2018年6月19日付で[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は、指導者側の上告を受理しない決定をし、賠償が確定した&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20180704/k00/00m/040/093000c 損害賠償訴訟 柔道絞め落とし「違法」の判決確定] 毎日新聞 2018年7月4日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> *2015年5月22日夕、[[福岡市立席田中学校]]柔道部の約束稽古中、大外刈をかけられた女子部員(当時13歳)が頭部を強打、意識不明に陥り、翌日搬送先病院で死亡&lt;!--産経新聞 2015年--&gt;。後、市は事故調査委員会を設置&lt;!--時事通信社 2015年--&gt;。<br /> :[http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/51810/1/Judohoukokusyo.pdf 福岡市立中学校柔道事故調査報告書](※PDF 外部リンク) &lt;small&gt;福岡市柔道安全指導検討委員会 平成27年12月・福岡市&lt;/small&gt;<br /> <br /> *2016年4月25日、仙台市内の私立高校の柔道部に所属する3年生男子部員(当時17歳)が部活動の試合中に頸椎と脊髄を損傷、緊急搬送されて手術を行うも、同年5月13日に死亡&lt;ref&gt;[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201605/20160513_13044.html 柔道の試合後に部員死亡 仙台の私立高] 河北新報社 2016年5月13日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> *2016年5月31日夕、群馬県館林市の市立中学校にて柔道部約束稽古中に3年生男子部員(14歳)が同級生に投げられて頭を打ち失神、以降、急性硬膜下血腫で意識不明の重体。&lt;!--http://mainichi.jp/articles/20160722/k00/00e/040/146000c・http://mainichi.jp/articles/20160721/k00/00m/040/092000c・http://mainichi.jp/articles/20160721/ddl/k10/040/108000c--&gt;<br /> :[http://www.city.tatebayashi.gunma.jp/docs/2017013100014/files/houkokusyo.pdf 館林市立中学校柔道事故調査報告書及び提言書](※PDF)&lt;small&gt;館林市柔道安全指導検討委員会 平成29年1月&lt;/small&gt;<br /> <br /> ;その他事例<br /> *[http://judojiko.net/apps/wp-content/uploads/2011/01/judo_fatal_cases.pdf 学校管理下の柔道死亡事故 全事例](※PDF)全国柔道事故被害者の会<br /> <br /> ;判例&lt;!--http://www.courts.go.jp/--&gt;<br /> *[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/495/020495_hanrei.pdf 昭和49(ネ)2185  損害賠償請求事件]<br /> *[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/746/062746_hanrei.pdf 平成6(オ)1237  損害賠償]<br /> *[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/421/008421_hanrei.pdf 平成9(ワ)1282  損害賠償請求]<br /> *[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/720/036720_hanrei.pdf 平成16(ワ)484  国家賠償請求事件]<br /> *[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/771/037771_hanrei.pdf 平成18(ワ)283  損害賠償請求事件]<br /> *[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/044/083044_hanrei.pdf 平成22年(ワ)第3461号 損害賠償請求事件]<br /> *[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/444/083444_hanrei.pdf 平成22(ワ)8232  損害賠償請求事件]<br /> *平成23年 (ワ) 第251号 損害賠償請求事件 大津地方裁判所&lt;!--判例時報2199号--&gt;<br /> <br /> === 柔道事故の統計 ===<br /> 2000年から2009年における中学生10万人当たりの平均死亡事例は柔道2.376人/年、2番目に高率な[[バスケットボール]]で0.371人/年であるとされ、学校における柔道の活動中の死亡事故発生率はバスケットボールや[[野球]]などのスポーツに比べて高いといえる。なお競技者人口からの死亡数の[[絶対値]]は[[水泳]]や[[陸上競技]]のほうが多い(独立行政法人[[日本スポーツ振興センター]]が平成2年から21年までに、学校内で柔道業や部活動で死亡し見舞金を支給したのは74件。陸上競技275件、水泳103件)。<br /> <br /> 学校での柔道の練習中に死亡する子どもの数は年平均4人以上というデータがあり、過去27年間で計110人の生徒が死亡、2009年から2010年にかけては計13人の死亡事故が確認されている&lt;ref&gt; http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2781906/6629423&lt;/ref&gt;。[[名古屋大学]]の[[内田良]][[准教授]]の調査では1983年から2010年の28年間に全国で114人が死亡、内訳は中学39人、高校75人で中高ともに1年生が半数以上を占め、14人が授業中での死亡とされる。[[後遺症]]が残る障害事故は1983年から2009年にかけて275件で、内3割は授業中での事故との調査報告が出ている&lt;ref&gt;[http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/2931/1/kenkyo59131141.pdf 内田良「柔道事故ー武道の必修化は何をもたらすのかー学校安全の死角4(pdf)]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120117-OYT1T00433.htm 中高生114人、柔道で死亡していた…名大調査] (2012年1月18日 読売新聞)2012年1月30日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 大阪府警察学校の初任科生の柔道における頭部受傷事故発生の統計データが公表されています。出典&lt;ref&gt;(講道館 昭和54年3月1日発行『柔道』平成10年8月号 第69巻 第8号 50頁~54頁 加藤俊雄著「昭和41年に考案したヘッドサポーターとその使用実態」)、(大阪府柔道連盟昭和54年3月1日発行『大阪の柔道』第2号 44頁~46頁 加藤俊雄著「ヘッドサポーターの考案とその効果」)<br /> &lt;/ref&gt;によると、以下の通りである。<br /> <br /> 昭和41年から段外者の初任科生にヘッドサポーター着装をはじめ、以後、頭部受傷事故発生総数が激減している。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> | 前後 || \(項目) || 調査人員 || 頭部受傷者 || 発生率(注2) || 発生率指数(注1)<br /> |-<br /> | 着装前 || 昭和年度 || || || ||<br /> |-<br /> | || [[1963年|38]] || 753 || 10 || 1.3 || 100<br /> |-<br /> | || [[1964年|39]] || 666 || 19 || 2.9 || 223<br /> |-<br /> | || [[1965年|40]] || 672 || 18 || 2.7 || 208<br /> |-<br /> | || 計 ||2091 || 47 || 2.3 || 173<br /> |-<br /> | 着装後 || || || || ||<br /> |-<br /> | || [[1966年|41]] || 861 || 7 || 0.8 || 62<br /> |-<br /> | || [[1967年|42]] || 932 || 5 || 0.5 || 42<br /> |-<br /> | || [[1968年|43]] || 985 ||6 || 0.6 || 47<br /> |-<br /> | || 計 || 2778 || 18 || 0.65 || 50<br /> |-<br /> | 着装後 || 材質変更(注3) || || || ||<br /> |-<br /> | || [[1975年|50]] || 742 || 0 || 0 || 0<br /> |-<br /> | || [[1976年|51]] || 710 || 3 || 0.4 || 30<br /> |-<br /> | || [[1977年|52]] || 533 || 1 || 0.01 || 0.7<br /> |-<br /> | || 計 || 1985 || 4 || 0.13 ||10<br /> |}<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 注1. 発生率指数とは、昭和38 年を100 として以降の発生数の増減を指数で表わしたものである。<br /> <br /> 注2. 発生率とは調査対象が1年間で発生した頭部損傷者数の100 分率。<br /> <br /> 注3. 1974(昭和49)年にスポンジよりすぐれた吸収力を持つソフトロンを採用した。<br /> <br /> この著者は、大阪府警柔道師範で、大阪府柔道連盟・副会長も含まれている。<br /> <br /> <br /> <br /> この他に、柔道傷害の実態調査については、大阪府柔道連盟が取り扱った昭和52年5月から昭和53年8月までの間の調査結果に関して、次のとおり取りまとめられている。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> | || 中学生 || 高校生 || 大学生 || 警察官 || 一般 || 計<br /> |-<br /> | 鎖骨骨折 || 1 ||3 || 0 || 2 || 0 || 6<br /> |-<br /> | 上腕骨骨折 || 1 || 1 || 0 || 1 || 0 || 3<br /> |-<br /> | 橈尺骨骨折 || || || || || ||<br /> |-<br /> | 手指骨骨折 || 0 || 0 || 0 || 0 || 1 || 1<br /> |-<br /> | 肋骨骨折 || 0 || 1 || 0 || 0 || 1 || 2<br /> |-<br /> | 肩鎖関節 || 1 || 3 || 0 || 3 ||0 || 7<br /> |-<br /> | 大腿骨|| || || || || ||<br /> |-<br /> | 腓骨骨折 || 0 || 0 || 0 || 1 || 0 || 1<br /> |-<br /> |中足骨骨折 || 0 || 1 || 1 || 1 || 0 || 3<br /> |-<br /> | 肘関節脱臼 || 2 || 0 || 0 || 4 || 1 || 7<br /> |-<br /> | 計 || 5 || 9 || 1 || 12 || 3 ||30<br /> |}<br /> <br /> <br /> <br /> 出典 大阪府柔道連盟昭和54年3月1日発行『大阪の柔道』第2号 61頁 奥村金昭 (大阪府柔道連盟理事 試合部傷害係)著 「柔道傷害の実態と負傷の傾向及び救急措置について」<br /> <br /> <br /> <br /> 大阪府立高校体育連盟柔道部が全国高校体育連盟柔道部の求めに応じて高校柔道の実態調査をした調査結果の中の1977(昭和52)年度1年間の柔道の事故件数は次の通りです。(調査の対象は第27回大阪高校新人柔道大会に参加した118校で、回答は89校)<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> | || 授業 || 必修クラブ || 部活動 || 対外試合 || その他 || 合計<br /> |-<br /> | 入院1ヶ月以上 || 1 || || 1 || || || 2<br /> |-<br /> | 入院1週間以上1ヶ月未満 || 8 || || 9 || 2 || || 19<br /> |-<br /> | 入院1週間未満 ||9 || || 4 || 4 || || 17<br /> |-<br /> | その他学校安全会の適用を受けたもの || 155 || 1 || 163 || 28 || 2 || 349<br /> |-<br /> |合計 || 173 || 1 || 177 ||34 || 2 || 387<br /> |}<br /> <br /> <br /> 出典 大阪府柔道連盟昭和54年3月1日発行『大阪の柔道』第2号 71頁、72頁 「高校柔道の実態調査」 大阪高体連柔道部研究部より<br /> <br /> <br /> <br /> 1964(昭和39)年度の大阪府立高校におけるクラブ活動の傷害件数として、日本学校安全会大阪府支部資料に基づき、柔道209件、野球124件、ラグビー105件、<br /> また、日本学校安全会大阪府支部調べの昭和51年度大阪府下全高校全日制男子のクラブ活動の傷害件数として、ラグビー443件、格技(主として柔道)382件、野球369件と報告されている。&lt;ref&gt;大阪府柔道連盟昭和54年3月1日発行『大阪の柔道』第2号 30頁 岩井邦利(大阪体育協会スポーツ少年団本部長)著 「スポーツ少年柔道について」 &lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 柔道事故と民事訴訟 ===<br /> 柔道の事故に関して[[全国柔道事故被害者の会]]が存在する。[[クラブ活動|部活動]]後や帰宅時に容態が急変した場合、回転加速度損傷は外傷が殆ど無い為に柔道事故と死亡の[[因果関係 (法学)|因果関係]]の立証が困難になる&lt;ref&gt;[2009年7月 http://judojiko.net/news/364.html 滋賀県愛荘町立秦荘中学校柔道部の事故]では、第1回口頭弁論の段階では町側は過失について争う姿勢を見せていた([http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20120124000141 町側が過失認める 愛荘の中学生柔道部員死亡訴訟]京都新聞 2012年01月24日 22時30分)([http://www.asahi.com/edu/news/TKY201201250195.html 中学柔道部死亡事故で元顧問の過失認める 滋賀・愛荘町] 朝日新聞 1/25) &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 柔道事故対策 ===<br /> 柔道事故に対して(財)[[全日本柔道連盟]]は&#039;&#039;&#039;安全指導プロジェクト特別委員会&#039;&#039;&#039;を設け、事故予防や事故時の対応などを指導者に啓発している&lt;ref name=&quot;renmeitaisaku&quot;&gt;(2011年度) http://www.judo.or.jp/data/docs/print-shidou.pdf&lt;/ref&gt;。同財団では柔道事故による見舞金制度が設けられており、死亡または1級から3級の[[後遺障害]]に見舞金200万円、障害補償として2000万円が支払われる。<br /> <br /> 『[[ゴング格闘技]]』は2010年6月の[[七帝柔道]]大会の試合後に[[松原隆一郎]](東大教授)と[[増田俊也]](作家)を招き、全柔連ドクターと京大柔道部OBの医師を交えた4人による緊急鼎談を行い、「未然に事故を防げるように柔道界で一致団結して前向きに対策を練っていこう」という話にまとまった。京大OBからは、寝技中心の七帝柔道らしく「中学生はまだ体ができていないので、授業ではまず寝技だけを教えて、危険な立技は体ができてから教えても遅くないのではないか」との意見が出ている。ただし、高校2年生が寝技の基礎練習中に頸椎を損傷して首から下が不随の状態になっている事例もある&lt;ref&gt;[http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20120118-OYT8T00700.htm 柔道部練習で高2が首脱臼、首から下が不随に](2012年1月18日 読売新聞)2012年1月30日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[名古屋大学]][[大学院]]教育発達科学研究科の内田良[[准教授]]の調査によれば、日本の柔道現場では、安全対策に取り組んだ結果、2012年から3年間、死亡者はゼロとなったとしている&lt;ref&gt;{{cite news |title=柔道事故 死亡ゼロが続いていた――マスコミが報じない柔道事故問題「改善」の事実 |newspaper=[[BLOGOS]] |url=http://blogos.com/article/100654/ |date = 2014-12-7 |accessdate=2014-12-7 }}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 柔道事故とNHK番組 ===<br /> {{単一の出典|section=1|date=2013年9月}}<br /> 「頭をぶつけると起きるから、頭をぶつけないようにすれば大丈夫」などと思っている指導者が多いが、その考え方は甘い&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot;&gt;NHK[[クローズアップ現代]] 「“必修化”は大丈夫か 多発する柔道事故」20120206 [http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20120206-21-10831&amp;pf=f]&lt;/ref&gt;。たしかに頭をぶつけた場合も危険であるが、頭をぶつけていなくても頭に強い加速度が加わるだけでも頭蓋内出血が起き命にかかわることがある&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。<br /> <br /> 日本の[[文部省]]の対応は非常に杜撰で誠意の無いものであり、[[日本国政府]](文部省)は、柔道が原因となった加速損傷で死亡事後が起きるという事実を30年前に把握していたにもかかわらず、そうした事実を隠蔽し、指導現場へ伝えることすら無かった&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。<br /> <br /> 日本国政府(文部省)は30年前に学校での柔道の指導中に起きた死亡事故で被害者家族から訴訟を起こされ、家族が「頭をうったと思われる」としたところ、文部省側は無罪を主張するために「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」ということを主張するために、わざわざ英語で書かれた論文を持ち出して自己弁護したにもかかわらず、自らの弁護のために持ち出した「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」という事実に基づいて対応策を打てば状況を改善できたはずであるにもかかわらず、その事実を全国の学校現場に伝える努力をまったくせず、結果としてその後に日本で100人以上の若者が命を落とすような状況を作り出していたのである&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。<br /> <br /> さらに文部省は、「学校での柔道の指導中の事故を文部省に報告する必要はない」などとする(不適切な)きまりを数十年前につくってしまい、文部省に事故情報が集まってこない体制にしてしまった&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。これによって、ますます危険が把握されず放置される状況が作り出された&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。<br /> <br /> こうした危険な状態が放置・隠蔽されていた実態が、中学校での武道必修化(結果として柔道必修化を選ぶ学校が多いと予測される)を目前とした2011年になって、明らかにする人が出て、問題として浮上してきた&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。<br /> <br /> 全国の[[体育]]教師のほとんどは、自身が柔道をした経験もない状態なのに、そうした体育教師に柔道の指導をさせるつもりで、体育教師に対して最低限の研修(柔道着の着方、帯のしめかた、受身のとりかた)を急遽行っているようなありさまである&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。指導者としてのレベルには全然達していない&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。上述のような、高い死亡率、障害者率の実態がこの数年で急に明らかになったわけであり、このままの指導現場のありかたで武道必修化(柔道必修化)を実施し柔道を行う生徒が急増すると必然的に死亡者や障害を負う生徒(被害者)が急増することが、当然予測される&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;{{refnest|group=注釈|関連項目:[[未必の故意]]}}。にもかかわらず文部省の役人は「4月の柔道必修化は予定どおり実施する」というかたくなな態度を変えていない&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。<br /> <br /> ([[フランス]]は現在では、日本の3倍の柔道人口を持つ柔道大国である)、フランスではかつて起きた1名の死亡事故をきっかけとして、安全対策として、(競技者としてではなく)生徒に安全に柔道を指導するための[[国家資格]]を設立、[[応急処置|救急救命]]や生理学やスポーツ心理学なども含めて300時間以上の学習・訓練を経なければ、決して柔道の指導はできないようにし&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;、例えばたとえ競技者として優秀でも受身の安全な指導ができなければ絶対に生徒の指導はできない、というきまりにした&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。そうしたフランス政府の誠意ある姿勢と日本の文部省のずさんな態度は、非常に対照的で逆方向である&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。<br /> <br /> 日本柔道連盟でも、連盟内に医師グループはいたものの、その中に頭を専門とする[[脳神経外科]]医がおらず、柔道事故の内実をよく理解していなかった&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。<br /> <br /> [[二村雄次]](日本柔道連盟所属の医師、自身も講道館柔道六段)は、NHKの[[クローズアップ現代]](2012年2月6日放送)で、武道必修化(柔道必修化)の前に、第三者による柔道事故検証のしくみ(システム)を事前に用意しておくべきで、そうすればもしも柔道指導中の事故が起きた場合は(文科省でもなく、事故を起こしてしまってから責任を回避しようとする現場の体育教師や校長などでもなく)第三者によって事故の実態を解明・分析し、そうすることで柔道事故の実態を解明し情報を蓄積すれば事故の防止策も打つことができる、と指摘した&lt;ref name=&quot;nhk_closeup&quot; /&gt;。<br /> <br /> 2012年、文部科学省の外郭団体[[日本スポーツ振興センター]]名古屋支所が、同競技機関誌で掲載予定していた柔道の部活動や授業中の死亡事故への注意を呼びかける特集記事について、「中学の武道必修化が始まる前の掲載は慎重にすべきだ」という本部からの指摘を受けて不本意ながら掲載を見送った&lt;ref&gt;http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120125/k10015523971000.html 柔道事故への注意記事 掲載見送り<br /> 1月25日 16時27分 2012年1月30日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 感染症 ===<br /> 2001年頃から肉体の接触で皮膚感染する[[トリコフィトン・トンズランス]]感染症(白癬菌の一種、いわゆる水虫、タムシ)が柔道及び、レスリング競技者間での集団感染の例が報告されている。皮膚科などの専門医にて治療が可能&lt;ref&gt;公益財団法人 全日本柔道連盟<タムシ>「皮膚真菌症(感染症)について」 Q &amp; A http://www.judo.or.jp/data/data-shinkin.php&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> &#039;&#039; 外部リンク &#039;&#039;<br /> * [http://www.judo.or.jp/data/docs/print-shidou.pdf/ (財)全日本柔道連盟 安全指導プロジェクト特別委員会『柔道の安全指導』]<br /> <br /> === 耳介血腫 ===<br /> いわゆる「柔道耳」「餃子耳」、専門医にて治療可。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> <br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[小谷澄之]]他編、講道館監修『嘉納治五郎大系』全14巻・別巻1 本の友社 1987-88年<br /> * [[小俣幸嗣]]、[[尾形敬史]]、[[松井勲]]著、[[竹内善徳]]監修『詳解 柔道のルールと審判法』大修館書店 ISBN 4-469-26423-7<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons&amp;cat|Judo|Judo}}<br /> {{Wiktionary|柔道}}<br /> <br /> === 柔道家・技・用語 ===<br /> * [[柔道家一覧]]<br /> * [[柔道の日本人オリンピックメダリスト一覧]]<br /> * [[柔道整復術]]<br /> * [[柔道整復師]]<br /> * [[受身 (格闘技)]]<br /> <br /> === 柔道を扱った作品 ===<br /> ==== 小説 ====<br /> * 講道館今昔物語(古賀残星)1932<br /> * [[姿三四郎]]([[富田常雄]])小説 1942-<br /> * [[にっぽん製]]([[三島由紀夫]])1953-<br /> * 花の講道館―近世名勝負物語([[村松梢風]])1953<br /> * 天才永岡十段―和して流れず―(古賀残星)1954<br /> * 徳三宝([[山田克郎]])1958<br /> * [[北の海]]([[井上靖]])1968<br /> * 琥珀の技 三船十段物語([[三好京三]])1985<br /> * 東天の獅子([[夢枕獏]])連載 1998- 単行本 2008-<br /> * 山嵐([[今野敏]])2000<br /> * [[七帝柔道記]]([[増田俊也]])2013-<br /> <br /> ==== ノンフィクション ====<br /> * [[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]([[増田俊也]])書籍 連載 2008- 単行本 2011-<br /> * Aprendiz de Samurai(侍の修行)(著・マックス・トロンビニ)Editora Evora出版 2011年 日本語翻訳版 柔道に学ぶ(映画・[[:pt:A Grande Vitória|A Grande Vitória]](邦題・偉大な勝利))原作<br /> * [[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか|続 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]([[増田俊也]])連載 2018-<br /> <br /> ==== 映画 ====<br /> * 柔道選手の恋(原作・[[依田義賢]])(監督・[[千葉泰樹]])1934<br /> * [[姿三四郎 (1943年の映画)|姿三四郎]](監督・[[黒澤明]])1943<br /> <br />    [[續姿三四郎]](監督・[[黒澤明]])1945<br /> <br />    [[姿三四郎 (映画)]] 他、1955年版 配給[[東映]]、1965年版 配給[[東宝]]、1970年版 配給[[松竹]]、1977年版 配給東宝 と映画化されている。<br /> * [[銀座三四郎]](縮小版・銀座の猛者(もさ))(原作・富田常雄)(監督・[[市川崑]])1950<br /> * [[にっぽん製]](原作・[[三島由紀夫]])(監督・[[島耕二]])1953<br /> * 慕情(原作・富田常雄『慕情』)(監督・[[佐伯幸三]])1954<br /> * 柔道流転(原作・古賀残星『天才永岡十段』)(監督・[[内川清一郎]])1955<br /> * 黒帯無双(「柔道流転」の続編・第二部)(原作・古賀残星『天才永岡十段』)(監督・内川清一郎)1955<br /> * 柔道開眼(原作・秋永芳郎『柔道開眼』)(監督・[[岩間鶴夫]])1955<br /> * 風雪講道館(原作・富田常雄『風雪講道館』)(監督・[[森一生]])1955<br /> * 講道館四天王(監督・[[枝川弘]])1955<br /> * 黒帯三国志(原作・下村明『黒帯三国志』)(監督・[[谷口千吉]])1956<br /> * 黒帯有情 花と嵐(原作・[[松浦健郎]])(監督・[[滝沢英輔]])1956<br /> * 燃ゆる黒帯 花の高校生(監督・[[関喜誉仁]])1956<br /> * 残月講道館(原作・長谷川泰一『残月講道館』)(監督・[[村山三男]])1957<br /> * 嵐の講道館(監督・枝川弘)1958<br /> * 講道館に陽は上る(監督・田坂勝彦)1959<br /> * 大学の暴れん坊(監督・[[古川卓巳]])1959<br /> * [[柔道一代]](原作・近藤竜太郎)(監督・[[佐伯清]])1963 主題歌 [[村田英雄]]「柔道一代」<br /> * 近世名勝負物語 花の講道館(原作・[[村松梢風]])(監督・[[森一生]])1963<br /> * 柔道一代 講道館の鬼(原作・近藤竜太郎)(監督・[[佐伯清]])1964<br /> * 日本名勝負物語 講道館の鷲(監督・[[瑞穂春海]])(原作・富田常雄『日本名勝負物語 講道館の鷲』)1964<br /> * 柔道名勝負物語 必殺一本(監督・西山正輝)1964<br /> * 明治の風雪 柔旋風 (監督・[[渡辺邦男]])配給[[松竹]] 1965<br /> * 続・柔旋風 四天王誕生 (監督・西山正輝)配給松竹 1965<br /> * 柔旋風 怒涛の対決 (監督・西山正輝)配給松竹 1965<br /> * 雲を呼ぶ講道館(監督・[[弓削太郎]])1965<br /> * 講道館破門状(監督・[[井上昭]])1968<br /> * [[柔の星]](監督・[[山田達雄]])1970<br /> * 若き日の講道館(原作・[[松浦健郎]])(監督・森一生)1971<br /> * [[ドカベン]] (原作・[[水島新司]]) 実写映画 1977<br /> * 山下少年物語 (監督・[[松林宗恵]])1985<br /> * [[YAWARA!]](原作・[[浦沢直樹]])(監督・吉田一夫)実写映画 1989<br /> * [[柔道龍虎房]](監督・[[ジョニー・トー]])2004-<br /> * 福田敬子~女子柔道のパイオニア(原題 Mrs.judo:Be Strong, Be Gentle, Be Beautiful!)(監督・ユリコ・ガモウ・ロマー) アメリカ映画 2013 (日本公開 2016)<br /> * 柔道ガールズ(監督・[[かわさきひろゆき]])2014-<br /> * [[:pt:A Grande Vitória|A Grande Vitória]](邦題・偉大な勝利) ブラジル映画 2014 - 柔道により貧困・非行から立ち直った[[ブラジル人]]の実話を基にしたもの 原作・Aprendiz de Samurai(侍の修行)(著・マックス・トロンビニ)Editora Evora出版 2011年 日本語翻訳版 柔道に学ぶ<br /> * あの日、兄貴が灯した光(監督・クォン・スギョン) 2017<br /> <br /> ==== ドラマ ====<br /> * [[姿三四郎 (テレビドラマ)]] (6度にわたりテレビドラマ化されている。)<br /> <br />  ・1957年版 [[TBSテレビ|KRテレビ(現・TBSテレビ)]] 全32回 <br /> <br />  ・1962年版 [[日本放送協会|NHK]] 全4回 <br /> <br />  ・1963年版 [[フジテレビ系]] 全26回 <br /> <br />  ・1970年版 [[日本テレビ系]] 全26回+総集編1回 (主演・[[竹脇無我]]) 主題歌・[[姿憲子]]「姿三四郎」<br /> <br />  ・1978年版 日本テレビ系 全26回 <br /> <br />  ・2007年版 [[テレビ東京系]] スペシャルドラマ<br /> <br /> * 黒帯先生青春記(脚本・[[阿木翁助]])1958-1959<br /> * [[イガグリくん]](原作・[[福井英一]])1960<br /> * [[あすをつげる鐘]]「柔道の鬼 [[徳三宝]]」1961年- 全7回<br /> * [[にっぽん製]](原作・[[三島由紀夫]])1963<br /> * [[柔道一代]](原作・近藤竜太郎 監督・[[佐伯清]])1963- 主題歌 [[村田英雄]]「柔道一代」<br /> * [[暗闇五段]](原作・[[寺田ヒロオ]])(監督・松島稔・[[奥中惇夫]])1965-<br /> * [[柔]] (監督・[[渡辺邦男]])1964年- 主題歌 [[美空ひばり]]「[[柔 (美空ひばりの曲)|柔]]」<br /> * [[青春をぶっつけろ!]](監督・板谷紀文ほか)1965-<br /> * 柔一筋(監督・[[渡辺邦男]])1965- 主題歌・美空ひばり「柔」<br /> * 続 柔(監修・渡辺邦男、監督・西山正輝)1965 主題歌・美空ひばり「柔」<br /> * 柔道水滸伝 (監督・[[萩原遼]])1965年- 主題歌 村田英雄「柔道水滸伝」<br /> * [[柔道一直線]](原作・梶原一騎 [[永島慎二]]・[[斎藤ゆずる]])1969-<br /> * [[黒帯風雲録 柔]] (演出(監督)・[[渡辺邦男]])1972- <br /> * [[けっぱれ!大ちゃん]](監督・[[湯浅憲明]]・上野英隆・[[枝川弘]]ほか)1979-<br /> * [[めざせ!金メダル 山口香物語]](監督・[[大森一樹]]・高野昭二・[[石田勝心]]・小川基之)1992-<br /> * [[愛情イッポン!]](制作・日本テレビ)2004-<br /> * つぶやき三四郎 ~一本なう!~ スマートフォン配信ドラマ 2011-<br /> <br /> ==== 漫画 ====<br /> * [[イガグリくん]]([[福井英一]])1952-<br /> * すがた三四郎君([[横山光輝]])1952<br /> * 少年柔道王 月影四郎 シリーズ([[武部本一郎]](名義・宇田野武))絵物語 1953-<br /> * ダルマくん([[田中正雄]])1954-<br /> * 痛快熱血柔道絵物語 花も嵐も ([[永松健夫]])1955-<br /> * イナズマ君 (下山長平)1955-<br /> * 熱血友情柔道絵物語 少年四天王 ([[梶原一騎]] 永松健夫)1956-<br /> * こがらし大助([[横山光輝]])1956<br /> * 黒帯くん([[高野よしてる]])1956-<br /> * もうれつ先生([[寺田ヒロオ]])1958-<br /> * 黒帯先生(原作・[[阿木翁助]]脚本ドラマ「黒帯先生青春記」 漫画・[[石森章太郎]])1959<br /> * ジュードーくん 世界をいく([[武内つなよし]])1961-<br /> * ジュードー・ボーイ([[九里一平]])1961-<br /> * ハリス無段(原作・[[梶原一騎]]、画・[[吉田竜夫]])1963-<br /> * [[暗闇五段]]([[寺田ヒロオ]])1963-<br /> * [[柔道一直線]](原作・梶原一騎、画・[[永島慎二]]・[[斎藤ゆずる]])1967-<br /> * [[いなかっぺ大将]]([[川崎のぼる]])1968-<br /> * [[紅三四郎]]([[九里一平]]と[[タツノコプロ]])原作漫画版 1968- (原作・吉田竜夫・[[タツノコプロ]])コミカライズ漫画版 1969-<br /> * 「柔俠伝」シリーズ([[バロン吉元]])漫画 1970年- 新2000-<br />    柔俠伝・昭和柔俠伝・現代柔俠伝・男柔俠伝・日本柔俠伝・新柔俠伝<br /> * さいごの山嵐([[横山光輝]])1970<br /> * [[柔道讃歌]](原作・梶原一騎 画・[[貝塚ひろし]])1972-<br /> * [[ドカベン]](チャンピオンコミックス版1~6巻)([[水島新司]])1972-<br /> * 姿三四郎(作画・[[本宮ひろし]])1976-<br /> * 実録格闘巨編 プロレス対柔道(原作・[[桜井康雄]] 漫画・[[竜崎遼児]])1976<br /> * おれが大将([[大島やすいち]])1978-<br /> * [[1・2の三四郎]]([[小林まこと]])1978-<br /> * あゝ五高 武夫原頭に草萌えて(原作・[[梶原一騎]] 漫画・[[影丸譲也]])1978-<br /> * どっこい魂([[吉森みき男]])1979-<br /> * [[ああ一郎]]([[こせきこうじ]])1980-<br /> * まっぴら半次郎(安紀宏紀)1980-<br /> * 大の字が行く(岡本まさあき)1980-<br /> * [[JUDOしてっ!]]([[山上たつひこ]])1983-<br /> * レッツ☆光二!([[金井たつお]])1983-<br /> * 弥生の大空([[野部利雄]])1984-<br /> * [[柔道部物語]]([[小林まこと]])1985-<br /> * [[YAWARA!]]([[浦沢直樹]])1986-<br /> * JIGORO!(浦沢直樹)<br /> * 柔道の歴史 嘉納治五郎の生涯(原作・[[橋本一郎]] 画・作麻正明)1986-<br />   (生誕編、熱闘編、風雲篇、怒濤編、躍進編、雄飛編)<br /> *[[「坊っちゃん」の時代]]([[関川夏央]]・[[谷口ジロー]])1987-<br /> * 黒帯疾風録(原作・[[橋本一郎]] 画・[[ほんまりう]])1988-<br /> * [[帯をギュッとね!]]([[河合克敏]])1988-<br /> * 青雲伝([[司敬]]([[倉科遼]]))1988-<br /> * 三船久蔵(まんが岩手人物シリーズ)(原作・[[泉秀樹]] 作画・[[ひおあきら]]  監修・清水孝一)1988<br /> * ぷりんせすARMY([[北川みゆき]])1990-<br /> * [[ひかる!チャチャチャ!!]]([[みのもけんじ]])1990-<br /> * ケンカJUDO([[松田一輝 (漫画家)|松田一輝]])1990-<br /> * [[ビバ!柔道愚連隊]](ニッシー西) 1991-<br /> * 花マル伝([[いわしげ孝]])1993-<br /> * 風のように(漫画作品)([[伊万里すみ子]])1993-<br /> * [[そばっかす!]]([[きくち正太]])1994-<br /> * 【マンガ明治格闘技物語】 治五郎の夢-講道館柔道対警視庁柔道-(「別冊歴史読本 読本シリーズ⑦日本伝承武芸流派読本」収録)(子安啓吾)1994<br /> * [[新・コータローまかりとおる! 柔道編]]([[蛭田達也]])1995-<br /> * 感動王列伝 実録 吉田秀彦物語(取材・構成・根岸康雄 作画・竹本章)1995<br /> * 大樹の道([[かざま鋭二]])1996-<br /> * ビュンと春兵!(原作・若林敏生 画・風巻弦)1996-<br /> * あわせて1本!([[川村美香]])1996-<br /> * ヤワラーマン(ニッシー西)1996-<br /> * [[コンデ・コマ]](原作・鍋田吉郎 画・[[藤原芳秀]])1997-<br /> * 走れ!!天馬([[吉田聡]])1997-<br /> * 新・花マル伝([[いわしげ孝]])1998-<br /> * どうぎんぐ(斉藤邦和)1999-<br /> * [[タケル道]]([[大和八重子]] 監修・[[小川直也]])2000-<br /> * ドンと一本!([[三鷹公一]])2001-<br /> * [[いでじゅう!]]([[モリタイシ]])2002-<br /> * 風の柔士([[真船一雄]])2002-<br /> * 柔道放物線(今井智文)2002-<br /> * [[サラブレッドと呼ばないで]](原作・[[長谷川尚代]] 画・[[藤野耕平]])2003-<br /> * いっぽん!([[佐藤タカヒロ]])2004-<br /> * [[ますらお (斎藤けいのの漫画)]](斎藤けいの)2004-<br /> * [[主将!!地院家若美]]([[やきうどん]])2004-<br /> * 畳の花道([[瀬口忍]])連載 2004- 単行本 2014-<br /> * [[武心 BUSHIN]]([[万乗大智]])2006-<br /> * 実録・前田光世決闘伝 グレイシーを創った男(原作・はらやすし 画・[[みのもけんじ]])2007-<br /> * [[からん]]([[木村紺]])2008-<br /> * 畳の上のミクロ(吉木まさかず)2009-<br /> * [[お嬢様は武道会で踊る]](モトエ恵介)2010-<br /> * ぶろおど!(笠原巴)2011<br /> * [[むねあつ]]([[村岡ユウ]])2012-<br /> * 合わせて三本!!!(尾金コトマ)2012<br /> * [[KIMURA (漫画)]] [[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]](原作・[[増田俊也]] 画・[[原田久仁信]])2013-<br /> * ウチコミ!!(村岡ユウ)2013-<br /> * 真・餓狼伝(原作・夢枕獏 画・[[野部優美]])2013-<br /> * [[七帝柔道記]](原作・増田俊也 画・[[一丸]])2014-<br /> * [[ジュウドウズ]]([[近藤信輔]])2014-<br /> * やわらか(村岡ユウ)2015-<br /> * 暁の暴君(タイラント)([[伊織]])2015-<br /> * [[JJM 女子柔道部物語]](原作・[[恵本裕子]] 画・小林まこと)2016-<br /> * 初恋ボディー (萩倉ゆうき)2016<br /> * 柔のミケランジェロ(カクイシシュンスケ)2017-<br /> * TOUGHタフ 番外編 柔の章([[猿渡哲也]])2017-<br /> <br /> ==== アニメ ====<br /> * [[紅三四郎]](原作名義・[[吉田竜夫]])1969-<br /> * [[いなかっぺ大将]](原作・[[川崎のぼる]])1970-<br /> * [[柔道讃歌]](原作・梶原一騎・[[貝塚ひろし]])1974-<br /> * 姿三四郎(キャラクターデザイン・[[モンキーパンチ]] 東京ムービー新社)1981<br /> * 姿三四郎(キャラクターデザイン・[[ちばてつや]] 日本アニメーション)1986<br /> * [[柔道部物語]]([[小林まこと]])OVA 1985-<br /> * [[YAWARA!]]([[浦沢直樹]])1989-<br /> * ぷりんせすARMY ウェディング★COMBAT(原作・[[北川みゆき]])OVA 1992<br /> <br /> ==== 舞台 ====<br /> * 柔道少年([[Dステ]]20th)2017-<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> ; 公式<br /> * [http://www.ijf.org/ IJF] - [[国際柔道連盟]] {{En icon}}<br /> * [http://www.juaonline.org/index.asp JUA] - [[アジア柔道連盟]] {{En icon}}<br /> * [http://www.judo.or.jp/ AJJF] - [[全日本柔道連盟]] {{Ja icon}}<br /> *[http://judob.or.jp/ 日本視覚障害者柔道連盟]<br /> <br /> ; その他<br /> * [http://www.lib.nifs-k.ac.jp/HPBU/annals/an5/5-53/5-53_1.html 背負い投げの変遷]<br /> * [http://www.judo-educazione.it/video/koshiki.html 嘉納治五郎 - 古式の形:こしきのかた]<br /> * [http://www.gws.ne.jp/home/demo2/ 寝技柔道聞きかじり](柔道の寝技の解説)<br /> <br /> {{柔道}}<br /> {{武道・武術}}<br /> {{日本の柔道}}<br /> {{日本関連の項目}}<br /> {{デフォルトソート:しゆうとう}}<br /> [[Category:柔道|*]]<br /> [[Category:柔術]]<br /> [[Category:オリンピック競技]]<br /> [[Category:パラリンピック競技]]<br /> [[Category:視覚障害者のスポーツ]]<br /> [[Category:明治以降に創始された日本武術の流派]]</div> 221.244.37.138
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