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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=219.165.187.81&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-16T04:26:45Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 アテナイ 2018-06-02T10:59:37Z <p>219.165.187.81: /* 初期アテナイ経済 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2014年1月8日 (水) 07:21 (UTC)}}<br /> [[ファイル:Map_ancient_athens.png|thumb|300px|アテナイの地図。中央北西に[[アテナイのアゴラ|アゴラ]]、中央南東に[[アテナイのアクロポリス|アクロポリス]]、間に[[アレオパゴス]]、西に[[プニュクス]]がある。]]<br /> [[ファイル:AtheneOudheid.JPG|300px|thumb|アテナイと外港[[ペイライエウス]]]]<br /> &#039;&#039;&#039;アテナイ&#039;&#039;&#039;({{ISO639言語名|grc}}: {{lang|grc|Ἀθῆναι}}, {{lang-*-Latn|grc|Athēnai}})は、[[ギリシャ|ギリシャ共和国]]の首都[[アテネ]]の古名。中心部に[[パルテノン神殿]]がそびえる[[イオニア人]]の[[古代ギリシア]]の[[都市国家]]。名は[[ギリシア神話]]の女神[[アテーナー]]に由来する。[[アッティカ半島]]の西[[サロニコス湾]]に面し外港[[ペイライエウス]]を有していた。<br /> <br /> == アテナイの歴史 ==<br /> {{main|{{仮リンク|アテナイの歴史|en|History of Athens}}|ギリシャの歴史}}<br /> <br /> === アテナイの成立 ===<br /> [[アカイア人]]分派の[[イオニア人]]がアッティカ地方に定住したのは前2000年ころと推定され、紀元前1200年ころから紀元前1100年ころにかけて[[ドーリス人]]の侵入をうけ周辺村落は次々と征服された。アテナイは、これを鎬いで続く[[暗黒時代 (古代ギリシア)|暗黒時代]]を通して王政を維持しつつ存続した(もっとも、当時のアテナイは経済的に未熟で土地も肥沃ではないため、ドーリス人が攻略する価値を見出せなかった)。このころ代々の王家に代わって、移住者の子孫であるピュロス王家が成立する。<br /> <br /> アテナイは立地条件を生かし、[[エーゲ海]]や[[黒海]]での海上交易を中心に、交易都市として発展していく。[[ソロン]]の改革によって経済的に活性化され、主に陶器や奴隷の輸出や穀物や織物の輸入などが扱われていく。また、[[アイギナ]]と[[コリントス]]の経済を巡る覇権争いでは、当初はアイギナ側に立ったが後にコリントス側に移ってその優位を助け、後にコリントスが衰退の気配を見せると並び立った。この動きに拍車をかけたのは[[ラウリオン|ラウリオン銀山]]({{lang-grc-short|Λαύριον}}, {{lang-*-Latn|grc|Laurion}})の存在である。その発掘の歴史はカルタゴのイベリア開発等と比べ遅れるものの、ギリシア世界では殆どとれなかった[[銀]]を唯一大量にとれる同銀山の本格的な採掘が開始されると、短期間のうちにその豊富な資金でアイギナ・コリントスに並ぶ存在となり、やがてギリシャ地方有数の都市となった。<br /> <br /> === ペルシア戦争 ===<br /> [[画像:Map Greco-Persian Wars-en.svg|thumb|left|250px|ペルシア戦争の展開]]<br /> {{main|ペルシア戦争}}<br /> <br /> 海上交易への依存度が強かったアテナイを始めとしたギリシア諸ポリスは、小アジアにまで伸張する大国[[アケメネス朝]]ペルシアに[[エーゲ海]]の制海権を奪われた。こうした中、当時アケメネス朝の影響下におかれていた小アジアにおいて、イオニア植民市の反乱が勃発した。これをアテナイを中心とするアッティカ、イオニア系都市の一部が支持したことでアケメネス朝の[[ダレイオス1世]]はギリシア地方の諸部族に対して強硬策を採り、ついに[[ペルシア戦争]]が勃発した。これに対して圧倒的な国力と先進性を誇るペルシャを恐れ中立を保つポリスやペルシャ側へ付くポリスも多かったが、アテナイや[[スパルタ]]を中心とした[[ポリス]]は一致結束してギリシア連合軍を結成した。そして[[マラトンの戦い]]、[[サラミスの海戦]]、[[プラタイアの戦い]]などでギリシア側が勝利を収め、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]の侵攻を頓挫させた。<br /> <br /> === 全盛期のアテナイ ===<br /> [[Image:Map athenian empire 431 BC-fr.svg|thumb|right|200px|デロス同盟(「アテネ帝国」)の勢力圏]]<br /> [[ペルシア戦争]]に勝利し海上交易における覇権的地位を確立したアテナイは、[[ギリシャ|ギリシア]]第一の[[ポリス]]となり、軍事のみならず経済の中心都市としても発展した。また、前の戦争において[[市民]]による[[重装歩兵]]が都市の防衛の主役となったほか、海戦における軍艦の漕ぎ手として無産市民も活躍したことで彼らも政治的地位を向上させ、[[軍事民主制]]による政治体制が確立されていった。こうした状況下で、優れた政治的指導者である[[ペリクレス]]将軍統治の下、アテネは繁栄した。<br /> <br /> 外交面では、アテナイを盟主としてイオニア地方やエーゲ海のポリスまで含んだ[[デロス同盟]]と称される軍事同盟が結成された。当初はアケメネス朝の再襲に備えたものであったが、アケメネス朝の脅威が減少するにつれ、徐々にアテナイが他のポリスを支配する道具になっていった。当初はデロス島に設置されていた金庫がアテナイに移されて以降、潤沢な資金はアテナイの為に流用され公共事業である[[アテナイのアクロポリス]]での[[パルテノン神殿]]建設や海軍増強などに注ぎ込まれた。<br /> <br /> === ペロポネソス戦争 ===<br /> {{main|ペロポネソス戦争}}<br /> <br /> [[ペルシア戦争]]での威信を利用したアテナイが急激な軍備拡張と諸ポリスの占領・隷属化を進め、ギリシア最強の[[都市国家]]として拡張していく様子に対し、他の多くの[[ポリス]]はアテナイの専横的かつ強圧的な振る舞いを苦々しく感じていた。アテナイが帝国主義的な振る舞いを加速するに連れデロス同盟内の[[ポリス]]からも反発が起こるようになった。そして元々農業国で[[ペルシア戦争]]のもう一つの戦勝功績国[[スパルタ]]は、こうしたアテナイの拡張・侵略政策と相容れない[[ポリス]]を支援して両者は激しく対立するようになる。<br /> <br /> 紀元前431年、アテナイと[[スパルタ]]を中心とするペロポネソス同盟の間に[[ペロポネソス戦争]]が開始された。陸戦に強いが国内に多くの農奴及び奴隷を抱える[[スパルタ]]、海戦に強いが国内に多くの奴隷及び国外に多数の隷属都市を抱える&#039;&#039;&#039;アテナイ&#039;&#039;&#039;は、共に政治的な不安定さと国家組織の未発達から長期間の遠征が無理であったため、指導者[[ペリクレス]]は籠城戦を選択する。陸での決戦を避けて戦力を温存、強大な海軍と合わせ海外の植民地を維持し長期戦に耐える計画であった。<br /> <br /> 紀元前429年、アテナイ城内に蔓延した[[疫病]](19世紀には[[ペスト]]説が有力であったが、実際は別の伝染病であったと考えられる)によってペリクレスを含めた多数の人間が死亡した後、漸次隷属させていた植民地が離反するなどしてアテナイは劣勢に立たされ、戦争は紀元前404年にスパルタの勝利の内に終結した。<br /> <br /> === アテナイの衰退 ===<br /> スパルタに敗れた後のアテナイには[[三十人政権]]と呼ばれる[[寡頭制]]政権が成立し恐怖政治を敷いた。間もなく[[トラシュブロス (将軍)|トラシュブロス]]によって寡頭制は崩壊し富裕市民の合議制に戻ったものの、海外領土および隷属都市を失ったアテナイの経済力は衰退し政治が大きく乱れた。[[コリントス戦争]]後、[[紀元前377年]]に再度海上同盟を結成するなど国力を回復したものの、かつての勢いを取り戻すことは二度と無かった。[[紀元前357年]]に起きた{{仮リンク|同盟市戦争 (紀元前357-355年)|en|Social War (357–355 BC)|label=同盟市戦争}}により同盟市に対して大幅な譲歩を強いられ、[[紀元前338年]]に[[カイロネイアの戦い]]で[[マケドニア王国|マケドニア]]の[[ピリッポス2世|フィリッポス2世]]に降伏してからは[[デモステネス]]の抵抗も空しく政治的独立性を失い[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]とそれに続く[[ディアドコイ]]の帝国に編入された。アレクサンドロス大王の死後反乱({{仮リンク|ラミア戦争|en|Lamian War}})を起こしたものの、短期間で鎮圧された。[[古代ローマ|ローマ]]の支配下となった後は文化都市として栄えたが、域内完結型のローマ経済圏において生産力の乏しさから徐々に衰退し、6世紀頃までには[[東ローマ帝国]]の一地方都市となった。<br /> <br /> == アテナイの政治 ==<br /> アテナイ成立の当初は[[王政]]だったとされるが、その実態は明らかではない。その後、王政から[[貴族政]](寡頭政)へと移行していった。しかし、商工業の発展にともなって貧富の差の拡大が進むと、一部の富裕化した[[市民]]層は、自ら武装して[[重装歩兵]]部隊を編成することが可能になった。こうして、ポリスの防衛や略奪、侵略などに市民が活躍するようになると、彼らは政治的権利の拡大を要求し始め、相次ぐ[[戦争]]を通じて市民と貴族の区別を超えた権益共同体としてのアテナイが形成された。<br /> <br /> === 王政・貴族政 ===<br /> 紀元前8世紀頃、アテナイ中心部へ集住([[シュノイキスモス]])が行われ、これがアテナイの出発点となったと考えるのが一般的である。伝承によれば王政が打倒され、まもなく貴族制([[寡頭制]])へと移行したとされる。彼らは[[アレオパゴス]]から政治を支配した。当時、古代ギリシア人は各地に[[植民]]活動を行っており、植民市との間で次第に交易が行われるようになっていた。こうした中で商業の発展が促され、一部の市民の富裕化を招く一方、貧困層の困窮も深刻化していた。史料上最初の政治的事件は、前630年頃に[[キュロン]]が非合法的に権力掌握を図ったというものである。しかし失敗して殺害され、[[僭主]]の地位を手にすることはなかった。紀元前624年頃に[[ドラコン (立法者)|ドラコン]]によって慣習法が成文化されたとされる。これにより貴族による法知識の独占が崩された。<br /> <br /> === 軍事民主制の歩み ===<br /> [[画像:Phalanx1.png|thumb|250px|right|ファランクス]]<br /> 貧富の差の拡大は、アテナイ社会の深刻な問題となっていた。「六分の一([[ヘクテモロイ]])」と称される奴隷や農奴の上に位置した市民貧困層は債務奴隷となり他ポリスに売却されることもあったため、こうした事態がアテナイの弱体化につながる懸念もあった。一方、アテナイ成立の早期より、市民権を持つ富裕な市民は自弁して[[重装歩兵]]となりポリス防衛や略奪、敵対部族の撃滅などに活躍して発言力を強めており、身分により指導部が下した政治決定への意思表明機会に区別があることは、当時の兵役を請負う市民から不平不満が高まっていた。こうした状況を受け、紀元前594年に[[アルコン]]に就任した[[ソロン]]は、市民の債務を帳消しにすると共に市民の債務奴隷化を禁止させ、アテナイ内に於けるアテナイ市民(もちろん奴隷や農奴に指導部が下した政治判断への投票参加は認められず、奴隷は人格も認められない)の地位を守ると共に、財産額によって市民を4等級に分け、その等級に応じて指導部が下した政治決定に賛否を表明する投票への参加を認めた。これにより家柄でなく財産の多寡が政治参加の度合いを決める事となった。<br /> <br /> ところが、ソロンの改革を巡っては、古くからの特権を保持する貴族と改革支持派が対立し、それぞれの居住区から前者は平野党(Pediaei)、後者は海岸党(Paraloi)と呼ばれた。更に後者からは急進改革派である高地党(Hyperakrioi、後に山地党(Diakrioi)と改名)が分離して、ソロンが引退すると三派が激しく争った。紀元前561年に権力を掌握した[[僭主]][[ペイシストラトス]]は、山地党の支持を受けて、中小農民の保護育成につとめ貴族に打撃を与えた。僭主を倒した[[クレイステネス]]は、紀元前508年に10部族制を創設し市民を再編して[[五百人評議会]]の設置とオストラキスモス([[陶片追放]])を採用した。<br /> <br /> === 軍事民主制の発展と確立 ===<br /> [[ペルシア戦争]]に勝利したアテナイは、[[サラミスの海戦]]などで[[三段櫂船]]の漕手として活躍した下層[[市民]]の発言権が強まり、[[ペリクレス]]時代には「[[五百人評議会]](有力者層から成る)」の方針を討議する「[[民会]]」(参照:[[プニュクス]])も設置された。一部の上級職(将軍職)を除いた全ての公職が[[市民]]に解放され、出自や能力に関係なく立候補が可能になった。また、経済的に任に堪えない市民(市民のみが兵役の義務を負う)に対しては「公職手当」が支給された。後世、[[ソクラテス]]や[[プラトン]]は「市民を怠け者にした」として、これを非難する。<br /> <br /> 公職は、毎年改選される[[将軍職 (アテナイ)|将軍職]]を除いて、その地位を希望する市民に対して籤引きで決定された。籤引きは神による選択の現れとも信じられていて、アテナイ人はそれが純粋に民主的であると考えていた。これに対してソクラテスや[[アリストテレス]]は専門的知識が必要な決定ですらそれを持たない市民で決められてしまうと批判するが、こうした批判は正しいと言わざるを得ない、なぜなら後にソクラテスは専門的な法律知識を有する者が参加していない籤引きで選ばれた裁判官の私感によって、[[死刑]]判決が下されたからである。<br /> <br /> == アテナイの経済 ==<br /> アッティカ半島の土壌は[[オリーブ]]と[[ブドウ]]、すなわち[[オリーブ油]]と[[ワイン]]の生産に適していた。穀物は魚介類とあわせて食生活の中心となったが、アテナイの穀物資源は不足し、食糧供給のための穀物輸入が常に問題とされた。<br /> === 初期アテナイ経済 ===<br /> 初期のアテナイはギリシアでも後進地域であり、土地はやせ何の特産物も工芸品もない部族集落であった。暗黒時代に破壊を免れたのはアテナイのあまりの貧しさに侵略者であるドーリス人が攻撃の価値を見出せなかったから、という説もある。また、当然に独自の通貨を持つ技術も無く、アイギナの通貨・経済圏の下に組み込まれていた。<br /> <br /> アテナイが経済的に注目されることになったのは、ソロンの改革以後である。ソロンはアテナイの産業不振の原因をアテナイ市民が商業や工芸の仕事を[[奴隷]]の仕事として卑しんでいるからだと考えて、故国を追われて[[亡命]]先を求める職人や貿易商人をアテナイに招聘できるように[[市民権]]獲得条件を緩和した。また、当時ギリシア最大の商業都市であったアイギナと商圏が重なる事から、アイギナの通貨圏から離脱してコリントス通貨圏に移った。これにより、東方から招き入れた職人達によって陶芸技術がアテナイに持ち込まれ、アテナイが陶器の産地になるとともに、アイギナ商人が及ばないコリントス経済圏に市場を広げる結果となった。<br /> <br /> また、続くペイシストラトス時代には[[マケドニア王国|マケドニア]]から来た鉱山技師によってラウリウム銀山の本格採掘が始まった。銀が採れないとされてきたギリシア地域で唯一本格的銀山を保有するアテナイは、これにより独自の通貨([[ドラクマ#古代のドラクマ|ドラクマ]][[銀貨]])を生産する。そして食料自給率が推定で約3割から5割と低いアテナイにとって貴重な食料や[[船舶]]の材料である[[木材]]の輸入を可能になり、ギリシア世界の経済で優越した立場に立つ。[[銀山]]で働いていたのは[[奴隷]]達で、彼らの監督者はアテナイの財政を左右する要職として一流の市民が選ばれた。更にペルシア戦争最中の紀元前483年にラウリウム近くのマロネイアからも大規模な銀山が発見されると、当初は全市民に毎月産銀を分配する計画であったが、当時の指導者・[[テミストクレス]]の提案によって、その産銀を海軍予算に充てる事が了承された。アテナイがペルシアの侵攻を徒労に終わらせただけの海軍力を得たのも銀山のおかげであり、それは食料や木材の輸入量確保にとっても重要であった。<br /> <br /> === ギリシア世界での支配地域拡張 ===<br /> ペルシア戦争勝利後のアテナイはデロス同盟の支配者として各地へ侵略を繰り返し支配地域を拡大した。紀元前433年に[[ケルキュラ]]([[コルキュラ]])を巡って対立したかつての盟友・コリントスを破り、2年後にはかつてのライバルアイギナをデロス同盟の頚木へ従えた。等々、アテナイはギリシア最強の軍事都市に上り詰める一方、デロス同盟参加国から徴収する年賦金を自国財政に全額流用、アイギアを始めとする各国の通貨鋳造権を取り上げアテナイ通貨の使用を強制した。<br /> [[ファイル:Athens owl coin.jpg|thumb|300px|left|アテナイの[[テトラドラクマ]]銀貨 発行時期は紀元前454-415年。通称「ふくろう銀貨」と呼ばれるもの。アテナイはデロス同盟参加国から徴収した銀を用いて莫大な量の銀貨を発行した。]]<br /> <br /> アテナイの市場には、ポリス内部の地域市場である[[アゴラ]]と対外用の市場である[[エンポリウム]]が存在した。アゴラには[[カペーロス]]という小売人が居住し、中央集権制度にかわって食料の[[再配分]]を行なうための制度として食品が売られた。エンポリウムには[[エンポロス]]という対外交易者が居住し、ペイライエウスで取り引きを行なった。[[ペリクレス]]は自ら積極的にアゴラで売買を行ない、アテナイは商業的なアゴラを推進した&lt;ref&gt;『人間の経済2』 第12章、第13章&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 台頭が遅かったため、隷属市の急拡大とは対照的に[[植民市]]の入植競争では他の都市に乗り遅れた。遅ればせながら植民市も創設して「クレールーキア(klèrouchia)」と呼ばれるアテナイ市民権の保証と引き換えに従属義務を負う契約を結んだ都市の建設に乗り出した。<br /> <br /> === ペロポネソス戦争とアテナイ経済圏の崩壊 ===<br /> 陸軍大国スパルタと裕福なコリントスを中心とするペロポネソス同盟勢を敵に回したアテナイの指導者ペリクレスは籠城による長期戦を計画する。だが、籠城による人口過密からくる諸問題(都市の許容量を超えた人口の爆発的増加と治安の悪化、そして何より衛生環境の悪化による疫病の蔓延)が襲い始めた。ペリクレスは、アテナイの支配地域の農地は肥沃ではなく、[[食料自給率]]も低いので敵に農地を荒らされても食料は輸入で補えばいいという考えであったが、商工業を卑しむ傾向があったアテナイ市民には農園経営者が多く、またスパルタ軍のアテナイ領の略奪により、ペリクレスの生前より籠城の長期化による農地の荒廃に不満を抱くものが続出した。疫病に倒れたペリクレスの死後は好戦的[[デマゴーグ]]が幅を利かせ、アテナイは積極策を採りペロポネソス同盟軍や離反した隷属都市との一進一退を繰り返す事になる。やがて、徒労に終わった1度目のシケリア遠征やその他多数の各地への侵略と同じ様に軽く考えて開始した2度目の[[シケリア遠征]]に国力を注ぎ込むが遠征軍は壊滅、アテナイはその国力と威信を大いに減退させた。その隙を突いたスパルタの海軍力強化、穀物の主要な輸入ルート上にある[[デケレイア]]の占領、更にはアテナイの苛烈な政策(攻略した敵対都市の成人男子絶滅及び身分を問わない女子供の全奴隷化による都市の完全な解体や捕虜の殺害)による[[ラウレイオン]]・マロネイア両銀山における奴隷鉱夫の反乱逃亡とデロス同盟加盟国の離反によって、アテナイはその経済を支えてきた銀の生産・船舶・同盟年賦金といった全ての強みを失った。そして、[[紀元前405年]]の[[アイゴスポタモイの海戦]]でアテナイ艦隊を壊滅させてその制海権を奪い、黒海からアテナイへの穀物輸送ルートを押さえたスパルタ・コリントスなどのペロポネソス同盟海軍はアテナイの陸海からの封鎖に成功して、アテナイは[[飢餓]]状態に陥った。これによって、アテナイは降伏へと追い込まれた。<br /> <br /> == アテナイの社会と文化 ==<br /> アテナイは、市民、外国人である[[メトイコイ]]、[[奴隷]]の3つの身分に分かれていた。最盛期のアテナイは、3万人弱の市民(青年の男性。家族等を含めると約8万人強)、[[奴隷]]6万人強、商業や学芸などに従事するメトイコイ3,000~4,000が居住した。上流階層の男性は7歳になると、私学に通って読み書き、計算、体育、音楽を修得した。成人すれば戦争や民会などに参加し、平時には[[アゴラ]]({{lang|el|αγορά}})に集って体育に汗を流した。女性の地位は低く、家庭内の仕事や家内産業に従事し15歳位で親が決めた30歳位の男性と結婚した&lt;ref&gt;[[桜井万里子]]『古代ギリシアの女たち』中公文庫、2010年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 奴隷は例外的に解放されることもあったが、農作業、商売、鉱夫、職人、家内の雑用、公文書の保管、市中警備などあらゆる部門で非常に酷使され、過酷かつ不健康な状態に置かれた。4~5人家族であれば、男性の奴隷1名を公共工事に従事させて得る報酬で生活ができた。解放奴隷はメトイコイに属した。<br /> <br /> ギリシア各地から学者、芸術家が集まり文化の花が開き、[[ギリシア哲学]]の[[ソクラテス]]、[[プラトン]]、[[アリストテレス]]、劇作家の[[アイスキュロス]]、[[ソポクレス]]、[[エウリピデス]](→[[ギリシャ悲劇]])、[[アリストパネス]](→[[ギリシャ喜劇]])、彫刻家の[[ペイディアス]]、歴史家の[[トゥキディデス]]、著述家の[[クセノポン]]らが輩出した。皮肉なことに彼らの多くがアテナイの没落を目にして役職の直接選挙制に否定的な思想を唱えた。<br /> <br /> == 神話の中のアテナイ ==<br /> ギリシア神話では、アテナイは[[オリュンポス十二神]]の水神[[ポセイドン]]と女神[[アテナ]]が、その当時まだ名前の無かったアテナイの領有権をめぐって争い、それにアテナが勝利したため、女神の名にちなんでアテナイと名づけられたとされている。その争いとは、アテナイ市民により有益なものを作り出したほうを勝者とする者であり、ポセイドンは泉の中から馬を出し(塩水の源泉を湧かせたとも)、アテナは[[オリーブ]]の木を生み出し、オリーブの油の方がより有益であると市民に判定されたとされる。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *[[カール・ポランニー]] 『[[人間の経済]]2 交易・貨幣および市場の出現』 [[玉野井芳郎]]・[[中野忠]]訳、岩波書店〈岩波モダンクラシックス〉、2005年。<br /> <br /> ==脚注・出典==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[カリストラトス]]<br /> * [[イフィクラテース]]<br /> * [[プニュクス]]<br /> * [[ケラメイコス]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:あてない}}<br /> [[Category:古代ギリシア都市]]<br /> [[Category:民主主義]]<br /> [[Category:海洋国家]]<br /> [[Category:アテネ|*あてない]]<br /> [[Category:アテネの歴史]]<br /> [[Category:アテナイ|*]]<br /> [[Category:かつて存在した共和国]]</div> 219.165.187.81 ドラクマ 2018-06-02T10:57:46Z <p>219.165.187.81: </p> <hr /> <div>{{出典の明記| date = 2017-12-11}}<br /> {{聖書の貨幣}}<br /> &#039;&#039;&#039;ドラクマ&#039;&#039;&#039;([[ギリシア語]]: 単数形 {{lang|el|δραχμή}}、複数形 {{lang|el|δραχμές}} または {{lang|el|δραχμαί}}、{{lang-en|Drachma}})とは、[[古代ギリシア]]および[[ヘレニズム]]世界で広く用いられた[[通貨]]の単位であり、同時に近代に入って復活し、[[ユーロ]]が導入される前の[[ギリシャ]]で用いられていた通貨単位でもある。<br /> <br /> 略号は&#039;&#039;&#039;GRD&#039;&#039;&#039;。通貨記号は{{通貨フォント|₯}}([[Unicode|ユニコード]]ではU+20AF)で、しばしばギリシア語で&quot;{{lang|el|Δρ}}&quot;とも表記される。<br /> <br /> == 古代のドラクマ ==<br /> [[Image:Tetradrachma från Aten (omkr 490 fKr, ur Nordisk familjebok).png|thumb|right|紀元前490年頃アテネで用いられていた4ドラクマ硬貨]]<br /> ドラクマという名前は「つかむ」という意味の動詞「ドゥラットー({{lang-el|δράττω}})」に由来している。これはもともとドラクマが手のひらいっぱいの量の金属塊にあたる6[[オボルス|オボロイ]]に相当したからである。オボロイ(単数:オボロス)は、[[紀元前11世紀]]以降使われていた通貨単位である。<br /> <br /> [[紀元前5世紀]]以降、[[アテネ]]でつくられた[[テトラドラクマ|四ドラクマ硬貨]]は、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]以前のギリシア世界でもっとも広く用いられた硬貨であった。このコインでは、表にかぶとをかぶった[[アテナ]]女神の胸像が彫られており、裏にはアテナの使い[[フクロウ]]の像が彫られていた。通常この硬貨は、フクロウを意味するグラウカイ({{lang-el|γλαῦκαι}})と呼ばれていた。この裏面は、ギリシアの1ユーロ硬貨の意匠にも用いられている。<br /> <br /> アレキサンダー大王の東征の後、ドラクマ硬貨は大王の征服した中東諸国で広く流通するようになった。[[ディアドコイ]]たちの諸国でもこれは引き継がれ、[[プトレマイオス朝]]エジプトでも用いられていた。[[イスラム教]]以前の中東諸国で用いられていた通貨単位であった[[ディルハム]]({{lang-ar|درهم}})もドラクマの名に由来するものであることがわかっている。ディルハムは[[モロッコ]]と[[アラブ首長国連邦]]ではいまだに用いられている。[[アルメニア]]の[[ドラム (通貨)|ドラム]]という通貨単位もまたドラクマに由来するものである。<br /> <br /> ドラクマは、[[紀元前3世紀]]以降ローマ領の地域でも流通した。ドラクマは長期にわたって広大な地域に流通したため、現代の貨幣価値への換算は難しいが、[[紀元前5世紀]]の1ドラクマは、[[1990年]]の25ドルに相当するという研究がある。研究者たちは、[[ローマ帝国]]の初期には1ドラクマは労働者の一日の賃金であったという。<br /> <br /> ドラクマ[[銀貨]]が、ローマ帝国の領域内で広く用いられたことは、[[新約聖書]]にドラクマの名が現れることからもわかる。たとえば『[[ルカによる福音書]]』15:8がドラクマ銀貨に言及している&lt;ref&gt;{{Cite web|url=https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#15:8|title=ルカによる福音書(口語訳)|accessdate=2017年12月11日|publisher=Wikisource}}&lt;/ref&gt;。また『[[マタイによる福音書]]』17:27&lt;ref&gt;{{Cite web|url=https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#17:27|title=マタイによる福音書(口語訳)|accessdate=2017年12月11日|publisher=Wikisource}}&lt;/ref&gt;で、[[イエス・キリスト]]の一行が、神殿税として魚から取り出すのもドラクマ銀貨であると考えられる。<br /> <br /> ドラクマ硬貨は、重さの単位としても使用されていた。1ドラクマは、およそ4.3[[グラム]]に相当する。<br /> <br /> === ドラクマの価値 ===<br /> * 6オボルス=1ドラクマ<br /> * 100ドラクマ=1[[ミナ]](ムナ)<br /> * 60ミナ=1アテネ・タレント<br /> * ミナとタレントは実際に作られた貨幣でなく、計算上の通貨単位である。金や銀の量によって代えられた。<br /> <br /> == ギリシャのドラクマ ==<br /> ドラクマは、[[ギリシャ]]の成立とともに、[[1832年]]に[[フェニックス (通貨)|フェニックス]]に変わる通貨単位として復活した。[[1868年]]にギリシアは[[ラテン通貨連盟]]に加盟し、ドラクマは1[[フランス・フラン]]と等価であると定められた。[[1941年]]から[[1944年]]にかけての[[ナチス・ドイツ]]の占領時代には、[[ハイパーインフレーション]]が発生し、ドラクマはほとんど無価値になった。1944年には占領下で新ドラクマへの切り上げ([[デノミネーション]])が行われたが、1新ドラクマは500億旧ドラクマにあたるというひどいものだった。[[1953年]]、疲弊した経済を立て直すべくギリシアは西側諸国の一員として[[ブレトン・ウッズ体制]]に加わり、それに伴って[[1954年]]に、改めて旧ドラクマから新ドラクマへの切り上げが行われた。その時の換算は新1対旧1000であった。この新ドラクマ30に対して1[[アメリカ合衆国ドル]]という換算が行われることになった。<br /> <br /> [[1973年]]に[[ブレトン・ウッズ体制]]が廃止されると、ドラクマの価値は下がり続け、[[2000年]]には1米ドルが400ドラクマになっていた。<br /> <br /> [[2001年]]1月1日、ギリシャは[[欧州連合]]に加入し、移行期間を経て、ドラクマから[[ユーロ]]への切り替えが行われた。この時の[[為替レート]]は1ユーロが340.75ドラクマというものであった。[[2004年]][[3月1日]]までは、ドラクマ硬貨のユーロへの交換が認められていた。紙幣なら[[2012年]]3月1日までドラクマの使用が認められていた。<br /> {{clear}}<br /> <br /> === ユーロ切り替え前に使用されていたギリシャ紙幣 ===<br /> * 100ドラクマ - アテナ、[[アダム・アンティノス・コライス]]、[[アルカディ修道院]](29.35ユーロセント)<br /> * 200ドラクマ - [[リガス・ヴェレスティンリス・フェレオス]](58.69ユーロセント)<br /> * 500ドラクマ - [[イオアニス・カポディストリアス]](1.47ユーロ)<br /> * 1,000ドラクマ - [[アポローン|アポロン]](2.93ユーロ)<br /> * 5,000ドラクマ - [[テオドロス・コロコトロニス]](14.67ユーロ)<br /> * 10,000ドラクマ - [[ゲオルギオス・パパニコロウ]]、[[アスクレーピオス|アスクレピオス]](29.35ユーロ)<br /> <br /> ==記号の符号位置==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center;&quot; <br /> !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称<br /> {{CharCode|8367|20AF|-|ドラクマ記号|font=通貨フォント}}<br /> |}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}<br /> <br /> ==関連項目==<br /> * [[通貨の一覧]]<br /> * [[聖書の貨幣]]<br /> * [[ザ・パウンド・イズ・シンキング]]<br /> {{Currency signs}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:とらくま}}<br /> [[Category:通貨単位]]<br /> [[Category:各国の通貨]]<br /> [[Category:ユーロに移行された通貨]]<br /> [[Category:ギリシャの経済]]<br /> [[Category:貨幣史]]<br /> [[Category:通貨記号]]</div> 219.165.187.81
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