Warning: Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297

Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660

Warning: session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127

Warning: session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133

Warning: session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=202.252.105.100&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-17T16:19:33Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 蔵前国技館 2018-05-14T03:59:31Z <p>202.252.105.100: /* 概要 */</p> <hr /> <div>{{体育館<br /> |名称=蔵前国技館&lt;br /&gt;The Kuramae Kokugikan&lt;br /&gt;Sumo Arena<br /> |画像=[[ファイル:Kuramae Kokugikan in 1950s.JPG|300px|旧蔵前国技館(昭和29年頃)]]<br /> |用途=大相撲興行・イベントホール<br /> |正式名称=藏前國技館<br /> |旧用途=<br /> |収容人数=約11,000人<br /> |設計者=<br /> |事業主体=<br /> |管理運営=[[財団法人]][[日本相撲協会]]<br /> |延床面積=<br /> |階数=地上2階<br /> |高さ=<br /> |総工費=<br /> |着工=[[1949年]]10月<br /> |竣工=[[1954年]]9月<br /> |所在地郵便番号=111-0051<br /> |所在地=[[東京都]][[台東区]][[蔵前]]2丁目1-1<br /> | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 42 | 緯度秒 = 8 <br /> | 経度度 = 139 |経度分 = 47 | 経度秒 = 30 <br /> }}<br /> [[Image:Kuramae Kokugikan main entrance.jpg|thumb|250px|蔵前国技館正門(昭和29年)]]<br /> &#039;&#039;&#039;蔵前国技館&#039;&#039;&#039;(くらまえこくぎかん、正字体:藏前國技館)は、[[両国国技館]](2代目)が造られるまで[[東京都|東京]]での[[大相撲]]の[[本場所]]を開催していた場所である。外観は純和風で独特の雰囲気のあるものであった。<br /> <br /> ==概要==<br /> 東京都[[台東区]][[蔵前]]2丁目1-1に所在していた。[[都営地下鉄浅草線]][[蔵前駅]]から約徒歩5分。同駅南側([[西馬込駅|西馬込]]方)の改札口が広く、南・北行線間の連絡通路が南側にあるのは、当時の催事輸送時における混雑緩和に対応していたものである。<br /> <br /> [[1941年]]([[昭和]]16年)に購入していた[[日本相撲協会]]の土地に戦後、[[大日本帝国海軍|海軍]][[戦闘機]]組立工場の鉄骨の払い下げを受けて仮設される。収容人員は約11,000人。2階建てで、1階は溜まり席と[[枡席]]、2階は椅子席と[[貴賓室|貴賓席]]が設けられていた。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により両国国技館が[[接収]]され、相撲興行が出来なくなった相撲協会は、[[明治神宮外苑]]の野天相撲や[[日本橋浜町|浜町]]の仮設国技館&lt;!--(当時は&#039;&#039;&#039;假設國技館&#039;&#039;&#039;と書いた)--&gt;などで興行を続けていたが、本格的な興行場所を求めて蔵前に[[1949年]]([[昭和]]24年)[[10月23日]]の[[地鎮祭]]より建設を開始、翌年「仮設」のまま蔵前国技館として開館した。<br /> <br /> 蔵前国技館が正式に完成したのは[[1954年]](昭和29年)9月である。[[1952年]](昭和27年)9月場所直前の9月19日、[[享保]]年間より250年にわたって続いてきた四本柱を撤廃、この場所より[[吊り天井]]となり4色(青・白・赤・黒)の房がぶらさげられるようになった。この時は吊り天井に屋根は無く、翌[[1953年]](昭和28年)5月場所からは[[神明造]]の屋根(四本柱時代の[[1931年]](昭和6年)5月場所より[[入母屋造]]の屋根から改められた)付きの吊り天井となった。これで土俵の雰囲気が変わるのはやむを得なかったが、勝負は見やすくなった。四本柱撤廃と同時期に[[1909年]]([[明治]]42年)1月の[[回向院]]以来、43年間にわたって本場所では絶えていた力士[[幟]]が[[1952年]](昭和27年)1月場所より復活、国技館の前は相撲情緒が大いに盛り上がった。またこの場所より[[弓取式]]を連日、結びの一番後に行うことになった。<br /> <br /> 開館式([[1954年]][[9月18日]])では、[[千代の山雅信|千代の山]]と[[鏡里喜代治|鏡里]]の両[[横綱]]が[[三段構え]]を行った。[[1971年]](昭和46年)1月の改修落成記念式でも、[[玉の海正洋|玉の海]]と[[北の富士勝昭|北の富士]]の両横綱がこれを行っている。<br /> <br /> この前年(1953年)の5月場所からテレビ[[中継放送]]が始まり、[[1958年]](昭和33年)5月場所からは、東西2階席手摺りに自動[[電光掲示板]]が新設([[十両]]以上の取組)された。[[1955年]](昭和30年)5月場所(5月24日)10日目には[[昭和天皇]]が初めて国技館で相撲を観戦、以後[[天覧相撲]]は国技館で行われることとなる。<br /> <br /> 以上のように相撲史に残る数多くの出来事があり、「[[栃錦清隆|栃]][[若乃花幹士 (初代)|若]]時代」「[[柏戸剛|柏]][[大鵬幸喜|鵬]]時代」「[[輪島大士|輪]][[北の湖敏満|湖]]時代」の各黄金時代の舞台となるなど、蔵前国技館が使用されていた時代は、戦後の大相撲で最も活気ある時代でもあったといえる。<br /> <br /> この時代の興行収入や[[プロレス]]・[[ボクシング]]などの使用料収入が両国「新」国技館の建設費用に貢献したと言われている。プロレスでは、プロレスブームの出発点となった[[力道山]]・[[木村政彦]]対[[シャープ兄弟]]の一戦に始まり、力道山対木村の日本選手権、[[ミルドレッド・バーク]]らを招いて行われた日本初の[[女子プロレス]]大会、[[アントニオ猪木]]対[[ジョニー・バレンタイン]]の[[東京プロレス]]旗揚げ戦、[[ジャイアント馬場]]対[[ボボ・ブラジル]]の馬場の[[ドロップキック|三十二文ロケット]]三連発、[[ザ・ファンクス]]対[[アブドーラ・ザ・ブッチャー|ブッチャー]]・[[ザ・シーク|シーク]]の『[[世界オープンタッグ選手権]]』最終戦、[[佐山聡|初代タイガーマスク]]デビュー戦・タイガーマスク対[[ダイナマイトキッド]]など、昭和プロレスの名勝負の数々が戦われた会場でもある。ボクシングでも[[ポーン・キングピッチ]]対[[関光徳]]の世界[[フライ級]][[タイトルマッチ]]を皮切りに数多くの世界戦が組まれた。蔵前国技館で初めて世界王座を獲得した日本人選手は[[ファイティング原田]]で、ポーンを11ラウンド[[ノックアウト|K.O.]]で退けた後に世界チャンピオン誕生を祝福する[[座布団の舞]]が起こった。また、[[沼田義明]]対[[小林弘]]の史上初となる日本人同士の世界戦が行われたのも蔵前国技館である。<br /> <br /> なお、当時は現在の両国国技館のように[[エレベーター]]式の昇降型[[土俵]]ではなかったため、プロレスやボクシングなどの興行を行うときには、土俵の真上に(土俵に覆い被せる形で)リングを設置していた。そのため、プロレス興行に登場する[[ヒール (プロレス)|悪役レスラー]]が、リングの下から土俵の土や砂を握って、反則攻撃に使うことがお馴染みとなっていた。また、あくまで女人禁制の大相撲の土俵上であるために花束嬢はリングには上がれなかった&lt;ref&gt;[https://www.zakzak.co.jp/spo/news/180407/spo1804070003-n3.html 世界が八角理事長にNO! 女人禁制問題、米・英・仏でも報道 「日本でどのように女性が扱われているかを物語った」(3/3ページ)]『[[夕刊フジ|zakzak]]』2018年4月7日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1953年]](昭和28年)、第1回[[全日本剣道選手権大会]]、[[1956年]](昭和31年)、[[1956年世界柔道選手権大会|第1回世界柔道選手権大会]]の会場にも使用された。<br /> <br /> 漫画『[[あしたのジョー]]』でも金竜飛戦の会場として描かれたことがあった。<br /> <br /> 1966年5月18日付の『[[スポーツ報知|報知新聞]]』には「蔵前国技館の跡地に収容人数2万2000人の新国技館を建設する」という趣旨の記事が掲載されていたが、この年あたりから相撲人気の陰りが見えて民放テレビ各局が相撲中継から撤退した影響で、結局この「新大国技館構想」は実現しなかった&lt;ref&gt;『[[NHK G-Media 大相撲ジャーナル|大相撲ジャーナル]]』2014年2月号98頁から99頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1975年]][[10月19日]]、『[[キャンディーズ]]10000人カーニバル』、[[1976年]][[10月11日]]、『キャンディーズ10000人カーニバル Vol.2』のコンサートがそれぞれ開催され、『10000人カーニバルVol.2』では、13500人が入場している。<br /> <br /> 建物の老朽化もあり[[1984年]](昭和59年)9月場所[[千秋楽]]を最後に閉館。翌年1月場所からは現在の両国国技館へ興行場所が移った。蔵前国技館跡地は東京都に売却し、その売却益が両国国技館建設の資金となった。跡地は現在、[[東京都下水道局]]北部下水道事務所と見学施設「蔵前水の館」となっており、見学施設内では蔵前国技館に関する展示もある。<br /> <br /> == 蔵前国技館に関する記録 ==<br /> * 蔵前仮設国技館最初の場所(1950年1月場所)で[[幕内]]最高優勝をしたのは千代の山(大関、当時は「千代ノ山」)、蔵前国技館となってから(1954年9月場所)最初は[[栃錦清隆|栃錦]]で、最後の場所(1984年9月場所)では[[前頭|平幕]]の[[多賀竜昇司|多賀竜]](最高位は関脇)だった。多賀竜は蔵前国技館での優勝経験者として最後に現役に残った力士でもあった。<br /> * 蔵前での優勝の最多は[[大鵬幸喜|大鵬]]と[[北の湖敏満|北の湖]]でともに16回。また、ともに蔵前場所連続優勝の記録でも最多(5場所連続)である。北の湖は最初の6回の優勝は全て蔵前での本場所で達成(しかも1月場所と5月場所のみ)している。<br /> * 旧両国国技館と蔵前国技館の両方で優勝したのは、[[羽黒山政司|羽黒山]]だけ(旧両国で3回、蔵前で1回。蔵前での唯一の優勝は37歳2か月の時に全勝で記録し同時に最年長全勝優勝の記録となっている。)。戦後すぐの流浪の時期も含めれば、[[東富士欽壹|東富士]]、[[照國萬藏|照國]]、それに千代の山らも、ふたつの「仮設国技館」で優勝したことになる。[[増位山大志郎|増位山]]の2度の優勝は、ともに大阪[[福島公園]]と[[浜町公園]]での本場所で、蔵前での優勝はなかったが、やはりふたつの「仮設国技館」で優勝している。<br /> * 蔵前国技館と新両国国技館で優勝した力士は[[千代の富士貢|千代の富士]]だけ(蔵前で2回、新両国で11回。千代の富士は初優勝以降蔵前での本場所を10回経験しているが優勝は2回だけである。)。国技館移転をまたいで優勝した者には、他に[[北天佑勝彦|北天佑]]がいるが、2度目の優勝は地方場所([[名古屋市|名古屋]])でだった。<br /> * 蔵前で幕内を務め、現役で最後に残ったのは[[水戸泉政人|水戸泉]]。[[2011年の相撲|2011年]]([[平成]]23年)5月[[技量審査場所]]で[[序二段]](元[[十両]])の[[栃天晃正嵩|栃天晃]]が引退し、蔵前国技館を経験した力士は全て[[引退]]した。<br /> * 蔵前の土俵に上がった最古参の幕内経験者は元[[大関]]の[[名寄岩静男|名寄岩]]で仮設開館当時35歳3か月。1954年9月場所まで土俵を務めた。<br /> <br /> == エピソード ==<br /> * 蔵前国技館では1階観客通路に面して[[支度部屋]]が設けられていた。従って観客は支度部屋の様子を窓越しに見ることができ、支度部屋と土俵を行き来する力士たちを通路で直に見ることもできた。現在の両国国技館では保安などの関係から観客通路は支度部屋から分離されている。<br /> * [[1966年]]に公開された[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[映画]]『[[007は二度死ぬ]]』では、主要なロケ地のひとつとして使用された。<br /> * 1971年の改修前は館内にすきま風が吹き、初場所では寒さに震えながら観客が相撲を観戦するような状態だった。大相撲担当記者からそのことを問われた当時の[[双葉山定次|時津風]]理事長が「そこは土俵の熱戦で暖まっていただいて……」と苦しい答弁をする程だったが、時津風の没後3年して改修が完了した。<br /> * 両国国技館は地下に[[焼き鳥]]の仕込や調理を一括しておこなう「焼き鳥工場」があることが有名だが、この焼き鳥事業は[[相撲茶屋|国技館サービス株式会社]]の前身・相撲サービス株式会社が蔵前国技館時代から行なっていた事業。当時は地上にあった調理場で一つひとつ炭火焼きにしていた。そのため午前中は国技館から鶏肉を焼く煙と香匂が広がり、これも蔵前界隈の風情を代表する光景のひとつだった。<br /> * 大相撲や格闘技以外のイベントでは、[[日本将棋連盟]]が行うイベント『[[将棋の日]]』で使用されたことがあり、将棋の対局が土俵上で行われた。1975年にはイベントの一環として『将棋の日』開催当時に行われていた[[十段戦 (将棋)|十段戦]]七番勝負の[[中原誠]]対[[大山康晴]]の対局の一部が蔵前国技館での[[公開対局]]として行われたが、これは将棋史上初のタイトル戦の公開対局だった。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commonscat|Kuramae Kokugikan}}<br /> * [[相撲用語一覧]]<br /> * [[相撲]]<br /> * [[大相撲]]<br /> * [[出羽ノ花國市]] - 蔵前建設の際に奔走。<br /> {{相撲}}<br /> <br /> <br /> {{DEFAULTSORT:くらまえこくきかん}}<br /> [[Category:現存しない日本のプロレス会場]]<br /> [[Category:現存しない日本のボクシング会場]]<br /> [[Category:日本の屋内競技施設|廃くらまえこくきかん]]<br /> [[Category:現存しない日本の競技場]]<br /> [[Category:現存しない東京都のスポーツ施設]]<br /> [[Category:大相撲]]<br /> [[Category:台東区の歴史]]<br /> [[Category:台東区のスポーツ]]<br /> [[Category:東京都区部のスポーツ施設|廃くらまえこくきかん]]<br /> [[Category:1954年竣工の建築物]]<br /> [[Category:戦後の東京]]</div> 202.252.105.100
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46