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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=183.177.181.43&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-15T00:02:48Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 栃錦清隆 2018-07-29T07:55:49Z <p>183.177.181.43: /* 誕生~入門 */</p> <hr /> <div>{{Infobox 力士<br /> |名前 = 栃錦 清隆<br /> |画像 = [[File:Tochinishiki.JPG|200px]]<br /> |説明 = 1954年秋場所での横綱昇進時<br /> |四股名 = 大塚 清 → 栃錦 清隆<br /> |本名 = 中田 清(旧姓:大塚)<br /> |愛称 = マムシ・兎・名人横綱&lt;br/&gt;技の展覧会・デンマーク体操&lt;br/&gt;土俵の名人<br /> |生年月日 = [[1925年]][[2月20日]]<br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1925|2|20|1990|1|10}}<br /> |出身 = {{JPN}}・[[東京府]][[南葛飾郡]]&lt;br/&gt;(現:[[東京都]][[江戸川区]])<br /> |身長 = 177cm<br /> |体重 = 132kg<br /> |BMI = 42.13<br /> |所属部屋 = [[春日野部屋]]<br /> |得意技 = 左四つ、寄り、押し、上手出し投げ<br /> |現在の番付 = 引退<br /> |最高位 = 第44代[[横綱]]<br /> |生涯戦歴 = 578勝245敗1分1預44休(66場所)<br /> |幕内戦歴 = 513勝203敗1分32休(52場所)<br /> |優勝 = 幕内最高優勝10回<br /> |賞 = [[殊勲賞]]1回&lt;br&gt;[[技能賞]]9回<br /> |初土俵 = [[1939年]]1月場所<br /> |入幕 = [[1947年]]6月場所<br /> |引退 = [[1960年]]5月場所<br /> |引退後 = <br /> |他の活動 = <br /> |趣味 = <br /> |備考 = [[金星 (相撲)|金星]]1個([[東富士欽壹|東富士]]1個)<br /> |作成日時 = [[2013年]][[11月12日]]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;栃錦 清隆&#039;&#039;&#039;(とちにしき きよたか、[[1925年]][[2月20日]] - [[1990年]][[1月10日]])は、[[東京府]][[南葛飾郡]](現・[[東京都]][[江戸川区]])出身の元[[大相撲]][[力士]]。第44代[[横綱]]。本名は&#039;&#039;&#039;大塚 清&#039;&#039;&#039;(おおつか きよし)で、のちに[[栃木山守也]]の養子となって&#039;&#039;&#039;中田 清&#039;&#039;&#039;(なかた きよし)となる。<br /> <br /> == 来歴 ==<br /> === 誕生~入門 ===<br /> 1925年に、[[傘#和傘|蛇の目傘]]の製造を営む家の二男として生まれる。&lt;ref name=&quot;sengo&quot;&gt;ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』20ページ&lt;/ref&gt;少年時代から運動神経は抜群で、並外れた体力と恵まれた体格を見た近所の[[八百屋]]の勧めもあって、[[春日野部屋]]の門を叩く。[[1939年]]1月場所で[[初土俵]]を踏む。[[四股名]]の「栃錦」は、師匠春日野の現役名・[[栃木山守也]]と、その兄弟弟子だった[[大錦卯一郎]]から付けた&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;&gt;北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)51ページから56ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[新弟子検査]]では直前に白飯と水を腹一杯に詰め込み、体重計の上に飛び乗って針を大きく揺らして通過したと&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;いうほどの軽量で、周囲の期待はさほど高くはなかった。ただ、春日野だけは「軽量だから[[三段目]]でさすがに厳しいかと思っていると、ちゃんと相応の相撲を取る」と評価していた。これは、有望な弟子たちを次々に兵役へ取られていく中で、春日野としては栃錦に期待するしかなかった、とも言われている。春日野は死去する直前、「(栃錦が)新[[十両]]の頃は『これが唯一の関取経験になる』と思ったら十両でも通用した。そう思った頃には幕内になって、それでも『上位には通用しない』と思ったら三役、『三役はつらいか』と思ったら[[大関]]になった。大関になって『もう流石に横綱は無理だ』と思ったら横綱になった。こんなことなら、栃錦に対して若い頃からもっと稽古をつけるべきだった」と後悔混じりに語っている。<br /> <br /> 栃錦は春日野から「寝る時はエビのように小さくなって寝ろ。飯を食うときは大きな体で食え」という指導を受けたことを自伝の中で明かしている&lt;ref name=&quot;ebikarada&quot;&gt;『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p39&lt;/ref&gt;。[[序二段]]で一度負け越しただけで順調な出世を遂げ、[[1944年]]5月場所で十両昇進を果たす。しかし、第二次世界大戦の激化によって徴兵され、1945年8月15日の終戦まで軍隊生活を送る&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 入幕~大関へ ===<br /> 戦後最初の場所となった[[1945年]]11月場所で十両4枚目格で番付に復帰。当時復員力士については番付復帰後一場所は休場しても地位を据え置く救済措置が取られていたが、これを受けずに出場、6勝4敗と勝ち越す。翌[[1946年]]11月場所は東十両筆頭の地位に進み、相手力士負傷による[[痛み分け]]があって6勝6敗1分、そのままの地位に据え置きかと思われたが、幕内で[[横綱]][[安藝ノ海節男|安藝ノ海]]はじめ4力士が引退した事情などが幸いし、翌[[1947年]]6月場所で新入幕を果たす。入幕時の体重は僅か75kgしかなかった&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;waza2&quot;&gt;『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p28&lt;/ref&gt;。この場所は4勝6敗と負け越したが、このときはまだ[[東西制]]が実施されており、翌場所の陥落を免れた&lt;ref&gt;翌場所から系統別総当り制が実施されたこともあり、これは強運だった。&lt;/ref&gt;。この後、幕内に定着する。<br /> <br /> 入幕2場所目となる同年11月場所では西前頭16枚目で9勝2敗、10勝1敗で優勝の横綱[[羽黒山政司|羽黒山]]に次ぐ星をあげる。[[三賞]]制度の始まった場所であり、当人も「なにかもらえるかと思った」というが、新入幕(西11枚目)で同じ9勝の[[出羽錦忠雄|出羽錦]]に殊勲賞&lt;ref&gt;現在の三賞の基準に照らすと敢闘賞がふさわしいが、同場所新小結で1横綱3大関を倒し7勝4敗の[[輝昇勝彦|輝昇]]に敢闘賞が贈られるなど、当時はまだ各賞の性格が定まっていなかった。&lt;/ref&gt;が贈られ、栃錦にはなにもなかった。のちに彼の独占するところとなる技能賞を初受賞するのは3場所後、[[1949年]]1月場所でのことになる。この1月場所では優勝候補のひとりであった大関・佐賀ノ花に立合いで思い切り当たり、とっさに前褌を引いて右から強烈な出し投げを打って破ったことが評価され、これが技能賞受賞の理由となった&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1951年]]1月場所では前頭2枚目で初日から7連敗したが、その後8連勝して8勝7敗と勝ち越した&lt;ref&gt;当人によれば、「上に負けて下に勝ったというだけ」となるが、もうひとつも負けられないところからの復活は恐るべき集中力といえるだろう。&lt;/ref&gt;。翌場所で小結に復帰すると、以降は三役に定着し、大関・横綱へ駆け上がっていく。[[1952年]]5月場所、10勝5敗で8回目の技能賞を獲得、協会から特別表彰を受けた&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;。同年9月場所では場所中に高熱を発したが14勝1敗で初優勝、感涙に暮れた。場所後に大関に昇進するが、この時の体重は98kgしかなかった&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;。<br /> <br /> 新大関として迎えた[[1953年]]1月場所は、横綱[[照國萬藏|照国]]が3日目に引退、残る横綱大関6人中3人が途中休場という大荒れの場所だったが、12日目まで1敗で優勝を争い終盤3連敗したものの11勝4敗、優勝の大関[[鏡里喜代治|鏡里]](14勝1敗)とともに上位陣の面目を保った。続く3月場所では14勝1敗で大関として初優勝、5月場所でも13勝2敗で全勝の[[時津山仁一|時津山]]、14勝1敗で準優勝の[[吉葉山潤之輔|吉葉山]]に次ぐ3位の星をあげ&lt;ref&gt;千秋楽は吉葉山と1敗同士で対戦、時津山の結果次第で勝った方が[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]出場を争う一番になるところだったが、結局時津山が全勝のまま優勝を決めた。&lt;/ref&gt;、その軽量から短命大関で終わってしまうのではないかと不安視する声を一掃し、次の横綱候補と目されるようになる。しかしこの直後、巡業先で一晩ハメを外したために体調を崩し、このあとの3場所を8勝、9勝、9勝と低迷する。師匠からは「一晩の不摂生が半年祟る」と慢心を叱責された。<br /> <br /> === 栃若時代の到来から現役引退まで ===<br /> [[File:Tochinishiki 541005 Scan10001.JPG|thumb|300px|1954年秋場所に優勝し、パレードに臨む栃錦]]<br /> 1954年5月場所において14勝1敗の好成績を挙げ、大関では2度目、通算3度目の優勝を果たす。この当時は[[横綱審議委員会]]の連続優勝に関する内規が成立しておらず、諮問されたが横綱昇進は見送られた。当時は[[東富士欽壹]]・[[千代の山雅信]]・[[鏡里喜代治]]・[[吉葉山潤之輔]]の4横綱が存在していたため、前例のない5横綱時代が実現しかねなかった。9月場所は初日黒星ながらその後は白星を順調に積み重ね、このまま連続優勝すると思われたが、最悪の場合として今度も昇進を見送られる可能性があった。しかし、14日目に東富士が突然引退を申し出た。それを聞いた栃錦もすぐに付き人を使者に立てて引退しないように説得したが、東富士の意思は変わらなかった。そして、栃錦は千秋楽に吉葉山に勝利して14勝1敗・連続優勝を決め、場所後に第44代横綱に昇進した&lt;ref&gt;結果的に東富士の引退と栃錦の横綱昇進は重なることになり、「一瞬の5横綱時代」とされている。番付面で5横綱が並ぶことは現在までないが、まだ髷を落とす前の東富士を交えて、5人の横綱がそろった写真が数枚残されている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 新横綱場所の[[1955年]]1月場所は初日にいきなり[[大昇充宏|大昇]]に[[小手投げ]]で敗れ、[[金星 (相撲)|金星]]初供給。昭和以降の横綱で昇進場所が黒星スタートだったのは栃錦が初だった。その後も4日目に[[若瀬川泰二|若瀬川]]に[[うっちゃり|うっちゃられ]]るなど平幕戦だけで3敗を喫し、10勝5敗に終わる。続く3月場所も初日に[[双ツ龍徳義|双ツ龍]]に敗れたあと、5日目まで黒星と白星が交互するいわゆる「[[ヌケヌケ]]」の立ち上がりだったが、6日目から10連勝で盛り返し、終わってみれば12勝3敗、13勝2敗で優勝の[[千代の山雅信|千代の山]]、優勝同点の[[大内山平吉|大内山]]に次ぐ3位の成績だった&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;。<br /> <br /> 横綱3場所目となる5月場所は初日から8連勝、9日目[[時津山仁一|時津山]]に敗れたが結局この1敗だけで14勝、横綱として初となる5回目の優勝を果たす。5回の優勝はこの時点で千代の山と並び現役最多だったが、この直後の巡業中から体調を崩し続く9月場所は7日目から初土俵以来初めての休場&lt;ref&gt;戦時中の徴兵によるものを除く。&lt;/ref&gt;となる。このあとの1年弱は「土俵生活で一番辛かった時期」というほど衰弱が著しく、結局次の優勝([[1957年]]9月)まで丸2年を要することになった&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1958年]]後半は不調で引退も囁かれたが、稽古不足で太った身体を逆に生かして正攻法の相撲に変え、1959年3月場所で「奇跡」と言われた復活優勝を果たし、その後は引退まで12勝を下回ることがない(昭和35年3月場所までの7場所間で95勝10敗、勝率9割0分5厘)という驚異の成績を続ける。<br /> <br /> [[1959年]]に春日野が亡くなると、前年に廃止されていた[[二枚鑑札]]が特例として認められ、[[春日野部屋]]を継承する。1959年7月場所は優勝できなければ引退しようと考えた上で挑み、場所前から床山に中剃を断っていた。この場所では14日目に優勝を決めたものの、その晩に祝宴に駆けつけようとした父親が交通事故死する悲運に見舞われた。しかし翌日の千秋楽に[[若乃花幹士 (初代)|若乃花]]を破って全勝優勝を決め、亡父への手向けとした&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;。千秋楽の取組では、左差し右おっつけの鋭い出足で若乃花を一気に寄り切った。この場所の優勝を決めた際、栃錦は「わしが相撲取りじゃなかったら、おやじもこんなことにはならなかった。やっぱりわしが死なせたようなもの」と喜びはなかった&lt;ref&gt;『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p46&lt;/ref&gt;。最後の優勝となった[[1960年]]1月場所では、この年から[[エール・フランス航空]]が毎年、初場所の優勝力士を[[ヨーロッパ]]へ招待することになり、栃錦は[[出羽ノ花國市|武藏川]]とともに渡欧した。<br /> <br /> 1960年3月場所には若乃花と史上初となる「14戦全勝同士で千秋楽に対決」したが敗れた。若乃花との通算対戦成績は栃錦の19勝15敗&lt;ref&gt;[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]を含むなら19勝16敗。うち一回は[[1956年]]9月場所、栃錦の不戦勝。この場所は、直前に長男を事故で亡くした若乃花が初日から12連勝したが、病気で無念の休場となった。&lt;/ref&gt;。5月場所は初日から2連敗すると、「衰えてから辞めるのは本意ではない」という師匠の教えを忠実に守るかのように、潔く引退を表明した。こうして栃若時代が終焉した直後には柏鵬時代に移り変わっており、その様子は丁度世相が[[安保闘争]]から[[高度経済成長]]へと移行したタイミングと一致している。後年[[日本放送協会|NHK解説委員会]]でもこの点について話題が挙がっている。&lt;ref name=&quot;nhk&quot;&gt;[http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/147198.html 視点・論点「大鵬の時代」]NHK解説委員会 2013年02月06日(水)東京工業大学名誉教授・[[芳賀綏]]の記述&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 幕内通算513勝は当時の最多勝記録だったが、1年2ヶ月後の[[1961年]]7月場所で若乃花によって更新される&lt;ref&gt;2013年現在の記録は[[魁皇博之]]の879勝。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 若乃花との取り組み ===<br /> 若乃花とは1951年5月場所の初対決から、いきなり激しい攻防の大熱戦を演じ(この初対決は若乃花の勝ち)、以来常に熱戦・好勝負を演じ続けてきた。1953年3月場所にはあまりの大勝負に栃錦の水引が切れて髷がほどけ、しばらくそのまま取組を続けたが動きが止まったところで行司が待ったをかけ、土俵下でとりあえずの髷を結って勝負再開、大熱戦の末に栃錦が外掛けで勝った&lt;ref&gt;『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p51&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『大相撲ジャーナル』2018年3月号 p.58-59&lt;/ref&gt;。栃若の対戦となれば[[水入り]]は当たり前、激しい技の打ち合いとしのぎ合いの連続は観衆だけでなく、当時日本に登場した[[テレビ]]を通して全国のファンを熱狂させた。小さい体で大兵肥満の力士たちをなぎ倒す二人の姿に、敗戦から復興に向けて立ち上がる日本の姿を、そして自らを投影した人々は多かった。土俵狭しとめまぐるしく動き回る二人の攻防がテレビ時代の到来にふさわしいものであったとも言える。この二人の対決と、それを取り巻く数多の個性的な力士たちの活躍により相撲人気は一気に高まり、今なお戦後最高と呼ばれる黄金時代となっていった。1950年代のこの黄金期を世に &#039;&#039;&#039;「栃若時代」&#039;&#039;&#039;という。<br /> <br /> 両者の対戦は、1951年5月場所 - 1960年3月場所の40場所間で34回実現(栃錦の1不戦勝を含む)し、千秋楽において両者優勝圏内の対戦が5回(相星決戦が2回)あった。また両者の相撲は水入りになることが多かった。&#039;&#039;&#039;千秋楽&#039;&#039;&#039;(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> !場所 !!対戦日!!栃錦勝敗&lt;br/&gt;(通算成績) !!若乃花勝敗&lt;br/&gt;(通算成績) !!優勝力士!!備考<br /> |-<br /> |1951年5月場所||8日目||●(0)||○(1)||千代の山||初対戦<br /> |-<br /> |1951年9月場所||12日目||○(1)||●(1)||東富士||<br /> |-<br /> |1952年1月場所||12日目||●(1)||○(2)||羽黒山||<br /> |-<br /> |1952年5月場所||6日目||○(2)||●(2)||東富士||<br /> |-<br /> |1952年9月場所||-||-||-||&#039;&#039;&#039;栃錦(1)&#039;&#039;&#039;||対戦なし。<br /> |-<br /> |1953年1月場所||初日||○(3)||●(2)||鏡里||栃錦、新大関昇進<br /> |-<br /> |1953年3月場所||7日目||○(4)||●(2)||&#039;&#039;&#039;栃錦(2)&#039;&#039;&#039;||<br /> |-<br /> |1953年5月場所||4日目||○(5)||●(2)||時津山||<br /> |-<br /> |1953年9月場所||3日目||●(5)||○(3)||東富士||<br /> |-<br /> |1954年1月場所||10日目||●(5)||○(4)||吉葉山||<br /> |-<br /> |1954年3月場所||11日目||●(5)||○(5)||三根山||<br /> |-<br /> |1954年5月場所||12日目||○(6)||●(5)||&#039;&#039;&#039;栃錦(3)&#039;&#039;&#039;||<br /> |-<br /> |1954年9月場所||14日目||○(7)||●(5)||&#039;&#039;&#039;栃錦(4)&#039;&#039;&#039;||<br /> |-<br /> |1955年1月場所||12日目||●(7)||○(6)||千代の山||栃錦、横綱昇進<br /> |-<br /> |1955年3月場所||千秋楽||○(8)||●(6)||千代の山||<br /> |-<br /> |1955年5月場所||12日目||○(9)||●(6)||&#039;&#039;&#039;栃錦(5)&#039;&#039;&#039;||<br /> |-<br /> |1955年9月場所||-||-||-||鏡里||栃錦休場により対戦なし。<br /> |-<br /> |1956年1月場所||9日目||○(10)||●(6)||鏡里||若乃花、大関昇進<br /> |-<br /> |1956年3月場所||千秋楽||●(10)||○(7)||朝潮||<br /> |-<br /> |1956年5月場所||-||-||-||&#039;&#039;&#039;若乃花(当時若ノ花)(1)&#039;&#039;&#039;||栃錦休場により対戦なし。<br /> |-<br /> |1956年9月場所||千秋楽||□(11)||■(7)||鏡里||<br /> |-<br /> |1957年1月場所||14日目||○(12)||●(7)||千代の山||<br /> |-<br /> |1957年3月場所||千秋楽||●(12)||○(8)||朝潮||<br /> |-<br /> |1957年5月場所||12日目||○(13)||●(8)||安念山||<br /> |-<br /> |1957年9月場所||13日目||○(14)||●(8)||&#039;&#039;&#039;栃錦(6)&#039;&#039;&#039;||<br /> |-<br /> |1957年11月場所||14日目||○(15)||●(8)||玉乃海||<br /> |-<br /> |1958年1月場所||14日目||●(15)||○(9)||&#039;&#039;&#039;若乃花(2)&#039;&#039;&#039;||<br /> |-<br /> |1958年3月場所||14日目||●(15)||○(10)||朝潮||若乃花、横綱昇進<br /> |-<br /> |1958年5月場所||14日目||○(16)||●(10)||&#039;&#039;&#039;栃錦(7)&#039;&#039;&#039;||<br /> |-<br /> |1958年7月場所||&#039;&#039;&#039;千秋楽&#039;&#039;&#039;||●(16)||○(11)||&#039;&#039;&#039;若乃花(3)&#039;&#039;&#039;||&#039;&#039;&#039;千秋楽2敗同士相星決戦&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |1958年9月場所||-||-||-||&#039;&#039;&#039;若乃花(4)&#039;&#039;&#039;||栃錦休場により対戦なし。<br /> |-<br /> |1958年11月場所||-||-||-||朝潮||栃錦休場により対戦なし。<br /> |-<br /> |1959年1月場所||&#039;&#039;&#039;千秋楽&#039;&#039;&#039;||●(16)||○(12)||&#039;&#039;&#039;若乃花(5)&#039;&#039;&#039;||<br /> |-<br /> |1959年3月場所||&#039;&#039;&#039;千秋楽&#039;&#039;&#039;||○(17)||●(12)||&#039;&#039;&#039;栃錦(8)&#039;&#039;&#039;||&#039;&#039;&#039;千秋楽栃錦1敗、若乃花2敗で対戦&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |1959年5月場所||&#039;&#039;&#039;千秋楽&#039;&#039;&#039;||●(17)||○(13)||&#039;&#039;&#039;若乃花(6)&#039;&#039;&#039;||&#039;&#039;&#039;千秋楽栃錦全勝、若乃花1敗で対戦&#039;&#039;&#039; 優勝決定戦も若乃花勝利、若乃花優勝。<br /> |-<br /> |1959年7月場所||&#039;&#039;&#039;千秋楽&#039;&#039;&#039;||○(18)||●(13)||&#039;&#039;&#039;栃錦(9)&#039;&#039;&#039;||<br /> |-<br /> |1959年9月場所||&#039;&#039;&#039;千秋楽&#039;&#039;&#039;||●(18)||○(14)||&#039;&#039;&#039;若乃花(7)&#039;&#039;&#039;||&#039;&#039;&#039;千秋楽栃錦2敗、若乃花1敗で対戦&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |1959年11月場所||&#039;&#039;&#039;千秋楽&#039;&#039;&#039;||○(19)||●(14)||若羽黒||千秋楽両者3敗で対戦、栃錦勝利。&lt;br/&gt;(千秋楽対決は年間最多勝をかけた対戦だった。)<br /> |-<br /> |1960年1月場所||-||-||-||&#039;&#039;&#039;栃錦(10)&#039;&#039;&#039;||若乃花休場により対戦なし。<br /> |-<br /> |1960年3月場所||&#039;&#039;&#039;千秋楽&#039;&#039;&#039;||●(19)||○(15)||&#039;&#039;&#039;若乃花(8)&#039;&#039;&#039;||&#039;&#039;&#039;千秋楽全勝同士の相星決戦&#039;&#039;&#039; 最後の対戦。<br /> |-<br /> |}<br /> * 若乃花横綱昇進前まで(1958年1月場所まで)の対戦成績は、&#039;&#039;&#039;栃錦の15勝9敗。&#039;&#039;&#039;<br /> * 両者横綱同士の対戦成績(1958年3月場所以降)は、&#039;&#039;&#039;若乃花の6勝4敗&#039;&#039;&#039;。<br /> <br /> === 引退後 ===<br /> 引退後は先代から引き継いだ[[栃ノ海晃嘉]]を横綱へ、[[栃光正之]]を大関まで育て、それ以外にも数多くの関取を育てた。<br /> <br /> 年寄・春日野としては「力士とは力の紳士と書く、ただの相撲取りであってはいけない」との思想を基にした厳しい指導を行なった。他に審判部長・事業部長などを歴任し、審判部長としては[[1969年]]3月場所2日目、[[羽黒岩智一|戸田智次郎]] - [[大鵬幸喜]]戦&lt;ref&gt;[[木村庄之助 (26代)|式守伊之助]]と共に大鵬の勝ちと主張したが、春日野以外の審判は戸田の勝ちを支持し、行司差し違えで「戸田の勝利・大鵬46連勝ならず」となるが、これは誤審であることが判明した。相撲判定にビデオ判定を導入する用意は行なわれていたが、この相撲が前倒し導入のきっかけとなった。&lt;/ref&gt;、[[1972年]]1月場所8日目の[[貴ノ花利彰|貴ノ花満]] - [[北の富士勝昭]]戦&lt;ref&gt;北の富士の[[つき手]]か[[かばい手]]かを巡って大物言いとなる。[[木村庄之助 (25代)|木村庄之助]]は「付き手」として貴ノ花に軍配を上げたが、春日野は「かばい手」=貴ノ花は[[死に体]]と主張し、行司差し違えで北の富士の勝ちとなり、木村庄之助引退の原因となった。&lt;/ref&gt;といった、判定を巡る歴史的な大事件に関わった。<br /> <br /> [[1974年]]には[[出羽ノ花國市|武蔵川]]から日本相撲協会理事長職を継ぐ&lt;ref name=&quot;waza2&quot;/&gt;。{{要出典範囲|この時、武蔵川の娘婿である[[佐田の山晋松|出羽海]]が理事長になるまでの繋ぎの短期政権と見られていた。|date=2013年5月}}しかし理事長となってからは、<br /> # 新しい[[両国国技館]]への移転<br /> # 国技館を無借金で建設する&lt;ref name=&quot;ebikarada&quot;/&gt;(理事長就任時、武蔵川から「新(両国)国技館を建てるのは君しかいない」とメッセージを託されている)<br /> # 椅子席観覧客の待遇を改善<br /> # 相撲茶屋制度を改革<br /> するなど、1990年代の若貴人気につながる相撲人気の復興のための数々の改革を、大鵬・[[柏戸剛|鏡山]]・出羽海、[[豊山勝男|時津風]]などの若手親方を協会の要職に起用しながら推進し、現役時代を髣髴とさせる多彩な技と、大きく素早い動きを見せて7期14年の長期安定政権を維持した。<br /> <br /> 理事長就任当時は協会内部で主流派・反主流派の派閥争いが展開されており、前述の「短期政権」と見られる原因となっていたが、派閥に関係なく能力次第で協会の要職に登用するなどして争いは沈静化し、「すぐに『理事長に一任します』と言われて拍子抜けするんだ」と本人が述べるほど、スムーズな協会運営が可能となった。その後、[[糖尿病]]などの影響で一時は歩けなくなるほど体調が悪化するが、これを克服。[[1985年]]には落成したばかりの国技館で、[[露払い]]に出羽海・[[太刀持ち]]に[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]を従えて[[還暦土俵入り]]を披露した。また横綱・[[北尾光司|双羽黒]]に対してもかなり理解ある立場を取っていたことで知られており、双羽黒が横綱時代に起こした付き人脱走事件や不祥事による廃業については[[安念山治|立浪]]の指導方針や部屋経営に問題があるという主張を展開していた。<br /> <br /> === 晩年 ===<br /> [[1988年]]1月場所をもって理事長職を二子山に譲って勇退し、自らは相撲協会の[[相談役]]に就任した。翌[[1989年]]11月場所の初日直前に[[脳梗塞]]で倒れ、福岡市の病院へ緊急入院。その後も予断を許さない状況が続く中、翌[[1990年]]1月場所開催中の4日目だった同年[[1月10日]]に脳梗塞で逝去、{{没年齢|1925|2|20|1990|1|10}}。65歳の停年退職を迎える僅か約1ヶ月前だった。<br /> <br /> 現役時代の[[ライバル]]だった二子山理事長(当時)は、栃錦の訃報に関する記者会見に臨むも言葉に詰まり、「ちょっと席を外させてもらえるかな」と数分間会見の席を立ち去った。その後会見場に戻ってからの二子山は動揺を抑えきれずに「昔の思い出がキューッと込み上げて、気持ちを落ち着かせたいんだけど…」と大粒の涙を拭いつつ、共に土俵を盛り上げた最大のライバルの死を悼んだ。その日、日本相撲協会は黙祷を行うことも検討したが、公私の区別に厳しかった故人の考えに基づき、葬儀を協会葬で行う以外の弔意を表す特別な行事は控えられた。<br /> <br /> 没後の1990年[[12月25日]]、相撲界における多大な功績を讃えられ、故郷・江戸川区南小岩にある[[東日本旅客鉄道|JR]][[中央・総武緩行線|総武線]]・[[小岩駅]]の改札前に、横綱当時の[[横綱土俵入り|土俵入り]]の姿をかたどった栃錦の銅像が建てられた。栃錦像は現在も小岩駅のシンボルとして、待ち合わせ場所の目印になっている。<br /> <br /> また、相撲界としては初めて[[従四位]]・勲二等[[瑞宝章]]を追贈された&lt;ref&gt;[http://www.nihontosho.co.jp/1997/06/39.html 『人間の記録39 栃錦清隆 栃錦一代』内容構成]<br /> 日本図書センター &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> [[File:Tochinishiki VS Wakasegawa 1954-3b-05 Scan10002.JPG|thumb|right|1954年春場所5日目、[[若瀬川泰二]]を[[上手出し投げ]]で破る栃錦]]<br /> 入門直後は兄弟子の栃ノ峯などから押し相撲を教わった&lt;ref name=&quot;waza&quot;&gt;『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p17&lt;/ref&gt;が、取的時代に春日野の付き人になってからは春日野の燗番をしている時に廻しの切り方や四十八手の難しそうな技を手取り足取り教わり、これがのちの技巧につながった&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;。中でも出し投げの技術は弟子たちにも伝えられた&lt;ref name=&quot;waza&quot;/&gt;。平幕から三役にかけては、「相撲の技は全て使った」と言われる業師ぶりを発揮した(その相撲ぶりを&#039;&#039;&#039;技の展覧会&#039;&#039;&#039;と評されたりもした)。現在でも反り技など滅多に出ないものが決まり手の中に残されているのは、最初に協会発表の公式の決まり手が制定された当時、栃錦が現役でいたからだといわれている。5場所連続で技能賞を受賞する&lt;ref name=&quot;waza2&quot;/&gt;など、「[[三賞|技能賞]]は栃錦のためにある」とまで言われた。その一方で「無駄な動きが多すぎる」といった批判もあったが、横綱昇進のころ(106kg)から見違えるように体重も増え140キロにもなるほどになり、無駄を排した寄り押し相撲中心の取り口に変わった。この頃のような相撲を取れた背景には新弟子時代に押し相撲を仕込まれたことがある&lt;ref name=&quot;waza&quot;/&gt;。一人の力士がその土俵人生でこれほど明らかに取り口が変化し、そして大成した例は少ない。<br /> <br /> 大関から横綱にかけての相撲についての評価が高いが、当人は終生、「身体の小さいものでも努力次第であれだけ取れた」と平幕時分の相撲の方を重視していた。後に理事長となってから、[[新弟子検査]]の審査基準の撤廃に最後まで反対したが、「小さいものが生き残るのは大変な世界だから」という言葉は実感であっただろう。<br /> <br /> 相撲っぷりだけでなく、土俵上の立ち居振る舞いも栃錦の人気の源であった。両の歯を食いしばり気迫に満ちた仕切りを重ねる毎に肌が朱に染まっていき、[[立合い]]の時には足の親指が土俵にめり込むかのようにじりじりと腰を割り、一気に立ち上がるという栃錦の姿はファンを虜にした。その一方で小兵のハンディをカバーするため早く立ち合おうとする余り両手をつかずに立ち上がるようになり、それが後年の力士の立合いの乱れにつながったと指摘する人は多い。彼が戦後の時代における相撲界の大功労者であることは間違いのない事実だが、立合いだけは唯一の汚点であるとされ、栃木山は滅多に栃錦の相撲を批判することはなかったが、立合いについては「下ろさないと損だ」と注意していたという。しかし師匠に敬服していた栃錦もそれだけは譲らず、どんな先輩や識者の言う事も聞かなかったという。これについては自著『栃錦一代』の中で、関脇までは自分の呼吸で立てば良かったものが大関横綱となると相手の呼吸にあわせて立つことが求められるようになり、軽量ゆえに一瞬の立ち遅れが致命的になるのでどうしても性急な立合いになってしまったという趣旨の弁明をしている。現役時は注意されてばかりだったが、理事長時代は逆に手を下ろす事を皆に勧め、現在のように一般化させた。<br /> <br /> == エピソード ==<br /> === 横綱昇進まで ===<br /> * 初土俵を踏んだ1939年1月場所の4日目、[[双葉山定次]]が[[安藝ノ海節男]]に敗れて連勝が69で止まった「世紀の一番」を、結びの一番を取る兄弟子の[[鹿嶌洋起市]]の世話のために花道の奥にいて目撃した。「あの相撲をこの目で見られたことは、土俵人生を通じての財産だった」と後年まで語った。<br /> * 新弟子時代、[[相模川佶延]]を贔屓にしていた[[尾上菊五郎 (6代目)|6代目尾上菊五郎]]に気に入られていた。後に菊五郎は「春日野部屋にいた『マムシ』&lt;ref name=&quot;sengo&quot;/&gt;&lt;ref&gt;エラの張った顔で眼光鋭く、一度食いついたら離さない相撲ぶりからそう渾名された。&lt;/ref&gt;はどうしてる?」と聞き、幕内にいる栃錦がそうだと教えられて驚いたという。<br /> * 兄弟子の[[付き人]]に付いていた時、年端もいかないうちからこき使われるのを見かねた春日野が、栃錦を自分付きにした。その食事の世話をしながら様々な訓話を聞かされた。栃錦の十両昇進が決まった時に春日野の指示で靴磨きをしていたが、関取にしか着用を許されない[[丹前|ドテラ]]を着ていることに気がついた春日野から一度は叱責されたものの、直後に「おお、すまん。お前(栃錦)はもう関取だったな」と言われたことがあった。<br /> * 同門で自分より若い[[千代の山雅信]]に出世で追い越され、一時期は千代の山との稽古を嫌っていた。しかし、[[栃木山守也|春日野]]から「そういう力士と稽古しないでどうやって追い越すんだ?」と言われてからは、千代の山との猛稽古を展開した。後に千代の山の息子が歯科医になった時には、千代の山自慢の[[突っ張り]]を何発も顔に当てた影響で早く歯を失ったため、「ワシは昔、千代の山との稽古で歯をやられたから、ワシだけは安く診てもらわないとな」と笑っていた。千代の山が引退して九重を襲名後、一門から九重が破門されても決して険悪にならず、栃錦が理事長として役員待遇を新設した際には九重を指名した。<br /> * 同郷で仲が良かった[[大江戸勇二]]と江戸時代の大関[[両國梶之助 (初代)|両國梶之助]]を描いた映画を見に行ったとき、映画の中のセリフを真似て「俺は天下第一の力士になる」と言うと、「大塚さん(栃錦)が天下第一の力士になったら東京中を逆立ちして歩いてやる」と笑われた。栃錦が大関に昇進した時、大江戸に「おい、何か忘れてないか」と聞くと、大江戸は頭を抱えて「降参、降参! 勘弁して下さい」と苦笑したという。<br /> * 「自分にとって栃木山と双葉山は神様です」と語っていた。[[幕下]]時代、双葉山が春日野部屋の幕下力士全員を呼んで稽古をつけた時、栃錦は[[ちゃんこ]]番だったにも関わらず志願して参加した。しかし、直前までちゃんこに入れる魚を調理しており手も洗わずにいたため、双葉山と組んだ瞬間に「お前、魚臭いな」と冗談交じりに言われて放り投げられた&lt;ref name=&quot;sengo&quot;/&gt;。また、春日野の用事で料亭にいる双葉山を訪ねた時、その場にいた[[芸妓]]の美しさと、美女をはべらせて悠然としている双葉山の姿に胸を打たれ、強くならなくてはと誓った逸話を、後に明かしている。<br /> * 兵役にとられた時すでに十両だったが、最初は力士とは思ってもらえなかった。上官との草相撲で手心を加えることなく連戦連勝し、それでようやく本職だと知ってもらえたが、やはり軽量のため「三段目くらいか?」「幕下か?」と言われ、なかなか関取だとは思ってもらえなかった。<br /> * [[蔵前国技館|蔵前仮設国技館]]での最初の場所となった[[1950年]]1月場所で新小結、土俵から四本柱の取り除かれた[[1952年]]9月場所で初優勝して大関昇進、国技館が正式に落成した[[1954年]]9月場所で横綱昇進と、当人も「相撲場で何か変化のあった場所はゲンが良い」と言っていた。<br /> <br /> === 横綱時代 ===<br /> [[File:Tochinishiki 1954 Sep Dohyo-iri from Mainichi Shinbun.jpg|thumb|right|栃錦の土俵入り(1954年9月場所)]]<br /> * 横綱昇進が決定した日の夜、喜び勇んでいた栃錦は、春日野から「今日からは毎日、辞める時のことを考えて過ごせ」と言い渡された。横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、体力が衰えて横綱の地位に見合った好成績を出せなくなれば即刻引退するほか道が無いため、横綱昇進が決定した当日から常に「引退」の覚悟を持ち続けなければならないという意味の説教だった。横綱に昇進したその日に早くも引退の話を切り出されて驚いたが、春日野自身も3場所連続優勝という絶頂期に「力が衰えてから辞めるのは本意ではない」と言いつつ周囲の反対を押し切って現役を退いた過去を持つ人物だったため、この説教を言い渡された栃錦はそれまで浮ついていた気持ちが一気に引き締まったと後年語っていた。また、この春日野の教えは、栃錦の談話を通して同門の[[千代の山雅信]]・[[北の富士勝昭]]・[[千代の富士貢]]へと代々受け継がれ、さらに別門の[[大鵬幸喜]]にも真摯に受け継がれた。<br /> * 土俵入りは春日野直伝の「雲龍型」だったが、当人によれば出羽一門伝統の「[[常陸山谷右エ門|常陸山]]型」と呼ぶべきものだったという。テンポの速い土俵入りで、「要所要所でのタメがなく忙しない」などの批判もあったが、現役時代から取口も土俵入りも早いことで有名だった春日野から「体の小さい者が大型力士のようにゆったり演じても格好がつかない」と指導されたのと、新横綱の場所に初日から黒星を喫してから序盤で黒星が付く負け癖が付き、観客の野次が気になって土俵入りを早く終わらせたいと思っているうち、それが癖になってしまったという。<br /> * [[1959年]][[7月18日]]の名古屋場所14日目で、栃錦は9度目の幕内最高優勝を決定させた。この日の祝賀会に向かっていた父の大塚夏五郎が、[[東京都]][[江戸川区]]小岩の千葉街道でオート3輪に轢かれる[[交通事故]]に遭い、脳底骨折で翌日25時に73歳で死亡した。自分の優勝が結果として父親の死亡に結びついたことに栃錦は沈痛な気持ちとなり、弔い合戦となった千秋楽は見事勝利して全勝優勝を決めた。<br /> * [[1959年]]5月場所と[[1960年]]3月場所の二度、初日から14連勝しながら優勝を逃している。同様のケースは2012年7月場所の[[白鵬翔|白鵬]]まで8例あるが、一人で二度記録したのは栃錦だけで、しかも「千秋楽に本割・決定戦と連敗して逆転を許す」と「全勝対決に敗れて優勝次点」というふたつのパターンを両方やっている。どちらの時も優勝をさらわれた相手は若乃花だった。<br /> * 1959年7月場所初日から翌9月場所9日目までの24連勝は、この時点で双葉山、羽黒山らの記録についで昭和以降6位&lt;ref&gt;自著『栃錦一代』の中で「(昭和では)双葉関六十九連勝、羽黒関の三十二連勝につぐもの」(p.198)と書いているが、双葉山には他に36連勝と29連勝が、[[玉錦三右エ門|玉錦]]にも27連勝があって、これは誤り。&lt;/ref&gt;、年6場所制での記録としては、3年後に[[大鵬幸喜|大鵬]]に抜かれるまで最多だった。<br /> * 春日野から相撲を誉められたのはただ一番、[[1955年]]5月場所千秋楽の[[大内山平吉]]戦だけだったという。大内山の猛突っ張りを受けながら乾坤一擲の[[首投げ]]で破った死闘だったが、春日野からは「優勝が決まったあとの千秋楽(前日14日目に栃錦の優勝が決まっていた)によくあれだけの相撲を取った」と誉められたという。<br /> * 栃錦自身は徴兵経験があるが、栃錦曰く「相撲部屋は軍隊の訓練より厳しい」というのが持論だった。<br /> * 最後の優勝となった[[1960年]]1月場所は初土俵から21年目で、これは昭和以降最長記録。のちに[[千代の富士貢|千代の富士]]と[[旭天鵬勝|旭天鵬]]がともに初土俵から122場所目での優勝を達成しているが、年数で見ると20年2ヶ月目となる。また、これは大正生まれの力士の最後の幕内優勝にもなった。<br /> <br /> === 理事長時代・晩年 ===<br /> * 1978年頃のある日、天覧相撲の席で[[昭和天皇]]に取組を解説していた時、前頭上位で成長著しい[[蔵間龍也]]を取り上げて「蔵間は大関になります」と胸を張った。しかし当の蔵間は大関どころか三役に定着することすら出来ず、天皇は「蔵間、大関にならないね」と漏らした。春日野は「私は陛下に嘘を申し上げてしまいました」と謝罪し、その直後に蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという。<br /> * [[両国国技館]]建設の折り、[[鹿島建設]]が当初出した工事の見積もりは161億5千万円だったが、二子山と二人で鹿島建設の社長に会い、端数の11億5千万円を値引きさせて150億円に負けてもらった。社長には「相撲取りは相手を負かすのが仕事です。今日は負かしに来ました。相撲には横綱五人掛かりがあるが、社長には栃若二人掛かりです」と言ったという。それでも150億円もの建設費は武蔵川理事長の時代から続く徹底した経費節約があって初めて完全に用意できるものであった&lt;ref&gt;資金調達のために力士や親方の給与を抑えており、後年、八角理事長(元横綱・[[北勝海信芳]])は自身が1983年に新十両に昇進した際の給料について「月給28万円だった。ずいぶん抑えられていたよね」と笑ってコメントしたことがある。<br /> : [http://www.asahi.com/articles/ASJDM5D7QJDMUULB00F.html 国技館、無借金で再建の訳 2人の名横綱が「寄り切り」] 朝日新聞DIGITAL 2017年1月26日10時59分&lt;/ref&gt;。さらに両国の土地所有者である[[日本国有鉄道]]が大赤字であり蔵前が両国より土地の値段の高い時期を狙ったことで、蔵前の土地を売って両国の土地に買い替えつつ差額で建設費の一部を手に入れることもできた。<br /> * 趣味は[[ゴルフ]]で、自慢は「角界第一号の[[ホールインワン]]」。ある時のラウンドで大叩きするが、バンカーショットは上手いので一緒に回っていたプロに皮肉られると「こちとらは土俵の砂の上でさんざん苦労してきましたからね」とやり返した。<br /> * 別格の話好きで、取材に来た報道陣を捕まえては面白おかしく聞かせる話上手だった。晩年の代表作は幕内最高優勝者に送られる「全農賞」の副賞である米30俵についてで、「&#039;&#039;&#039;オレが頭を下げてもらってきたのに、ウチの部屋には一度も来ない。いつも[[千代の富士貢|九重部屋]]に持っていかれるんだから情けない。九重部屋じゃ、米を買ったことがないっていうじゃないか&#039;&#039;&#039;」と発言したこともある。<br /> * 親方としては珍しく実子がおらず、ある時は「部屋の若衆が子供のようなものだ」と述べたことがある。[[北の湖敏満]]を養子に迎える意向を持っていたともいわれる&lt;ref&gt;1995年7月24日付日刊スポーツ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === その他 ===<br /> * [[ジョン・フォード]]の大ファンでもあって、1954年に[[淀川長治]]が編集長の雑誌「映画の友」のインタビューを受けて、「西部劇の魅力」について存分に語ったことがある&lt;ref&gt;[[佐藤有一]]『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)&lt;/ref&gt;。<br /> * [[にわのまこと]]の漫画「[[THE MOMOTAROH]]」に“&#039;&#039;&#039;カス日野理事長&#039;&#039;&#039;”という名のパロディで登場している。役職は河童族の伝統的な神事である「河童相撲」の理事長。<br /> * 尻がおできやその痕で汚いと言われており、「尻が汚いときの栃錦は好調だ」というあまりありがたくない言われ方もされていた。<br /> <br /> == 主な成績 ==<br /> === 通算成績 ===<br /> * 通算成績:578勝245敗1分1預44休 勝率.702<br /> * 幕内成績:513勝203敗1分32休 勝率.716<br /> * 大関成績:92勝28敗 勝率.767<br /> * 横綱成績:292勝84敗32休 勝率.777<br /> * 現役在位:66場所<br /> * 幕内在位:52場所<br /> * 横綱在位:28場所<br /> * 大関在位:8場所<br /> * 三役在位:7場所(関脇4場所、小結3場所)<br /> * [[連勝記録 (大相撲)|連勝記録]]:24(1959年7月場所初日 - 1959年9月場所9日目) ※初代若乃花と同様<br /> * [[年間最多勝]](1957年設立):1957年(59勝16敗・当時年5場所制)、1959年(77勝13敗)<br /> * 連続6場所勝利:81勝(1959年3月場所 - 1960年1月場所、1959年5月場所 - 1960年3月場所)<br /> * 通算幕内連続[[勝ち越し]]記録:18場所(1950年9月場所 - 1955年5月場所)<br /> * 幕内連続2桁勝利記録:10場所(1956年9月場所 - 1958年7月場所)<br /> * 幕内12勝以上連続勝利記録:7場所(当時1位・現在歴代7位タイ、1959年3月場所 - 1960年3月場所)<br /> <br /> === 各段優勝 ===<br /> * 幕内最高優勝:10回(全勝1回)(1952年9月場所、1953年3月場所、1954年5月場所・9月場所、1955年5月場所、1957年9月場所、1958年5月場所、1959年3月場所・7月場所、1960年1月場所) ※初代若乃花と同じ優勝回数、全勝回数<br /> : 同点:1回<br /> : 次点:9回<br /> <br /> === 三賞・金星 ===<br /> * 三賞:10回<br /> ** 殊勲賞:1回(1952年1月場所)<br /> ** 技能賞:9回(1949年1月場所・9月場所、1950年1月場所・9月場所、1951年5月場所・9月場所、1952年1月場所・5月場所・9月場所)<br /> * [[金星 (相撲)|金星]]:1個([[東富士欽壹|東富士]]1個)<br /> <br /> === 場所別成績 ===<br /> {{Sumo record box start|栃錦清隆}}<br /> {{Sumo record year start|1939}}<br /> {{Basho|maezumou}}<br /> {{Basho|}}<br /> {{Basho|sj||w|2|1}}<br /> {{Basho|}}<br /> {{Basho|}}<br /> {{Basho|}}<br /> {{Sumo record year end}}<br /> {{Sumo 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{{Basho|KYUJO|rank=y|tozai=w|&lt;ref&gt;慢性腎臓炎・右アキレス腱炎・腓腹筋リューマチにより全休&lt;/ref&gt;}}<br /> {{Sumo record year end}}<br /> {{Sumo record year start|1959}}<br /> {{Basho|y||w|10|5}}<br /> {{Basho|y||w|14|1||y}}<br /> {{Basho|y||e|14|1&lt;ref&gt;若乃花と優勝決定戦&lt;/ref&gt;}}<br /> {{Basho|y||e|15|0||y}}<br /> {{Basho|y||e|12|3}}<br /> {{Basho|y||w|12|3}}<br /> {{Sumo record year end}}<br /> {{Sumo record year start|1960}}<br /> {{Basho|y||e|14|1||y}}<br /> {{Basho|y||e|14|1}}<br /> {{Basho|intai|rank=y|tozai=w|win=0|loss=3}}<br /> {{Basho|}}<br /> {{Basho|}}<br /> {{Basho|}}<br /> {{Sumo record year end}}<br /> {{Sumo record box end}}<br /> <br /> == 改名歴 ==<br /> *大塚 清(おおつか きよたか):1939年1月場所-1944年1月場所<br /> *栃錦 清隆(とちにしき きよたか):1944年5月場所-1960年5月場所<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK) <br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[横綱一覧]]<br /> {{大相撲幕内優勝力士}}<br /> {{年間最優秀力士賞}}<br /> {{年間最多勝}}<br /> {{日本相撲協会理事長}}<br /> {{歴代横綱|第44代|1955年1月-1960年5月}}<br /> {{歴代大関|第183代|1953年1月-1954年9月}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:とちにしき きよたか}}<br /> {{Normdaten}}<br /> [[Category:東京都出身の大相撲力士]]<br /> [[Category:春日野部屋]]<br /> [[Category:日本相撲協会理事長]]<br /> [[Category:東京都区部出身の人物]]<br /> [[Category:勲二等瑞宝章受章者]]<br /> [[Category:1925年生]]<br /> [[Category:1990年没]]<br /> [[Category:横綱]]</div> 183.177.181.43 佐賀ノ花勝巳 2018-07-29T07:43:27Z <p>183.177.181.43: /* 来歴 */</p> <hr /> <div>{{Infobox 力士<br /> |名前 = 佐賀ノ花 勝巳<br /> |画像 = [[File:Saganohana.jpeg|180px]]<br /> |説明 = <br /> |四股名 = 佐賀ノ花 勝巳<br /> |本名 = 北村 勝巳<br /> |愛称 = 飛燕の出足<br /> |生年月日 = [[1917年]][[12月5日]]<br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1917|12|5|1975|3|28}}<br /> |出身 = [[佐賀県]][[佐賀市]]<br /> |身長 = 170cm<br /> |体重 = 128kg<br /> |BMI = 44.29<br /> |所属部屋 = [[粂川部屋]]→[[二所ノ関部屋 (1911-2013)|二所ノ関部屋]]<br /> |得意技 = 右四つ、寄り<br /> |現在の番付 = 引退<br /> |最高位 = 東[[大関]]<br /> |生涯戦歴 = 263勝189敗30休1分(39場所)<br /> |幕内戦歴 = 200勝160敗30休1分(29場所)<br /> |優勝 = 幕内最高優勝1回<br /> |賞 = <br /> |初土俵 = [[1934年]]5月場所<br /> |新十両 = [[1938年]]1月場所<br /> |入幕 = [[1939年]]5月場所<br /> |引退 = [[1952年]]1月場所<br /> |引退後 = <br /> |他の活動 = <br /> |趣味 = 読書(特に漢書)<br /> |備考 = [[金星 (相撲)|金星]]2個([[男女ノ川登三|男女ノ川]]2個)<br /> |作成日時 = [[2013年]][[1月30日]]<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;佐賀ノ花 勝巳&#039;&#039;&#039;(さがのはな かつみ、[[1917年]][[12月5日]] - [[1975年]][[3月28日]])は、[[佐賀県]][[佐賀市]]出身の元[[大相撲]][[力士]]。本名は&#039;&#039;&#039;北村 勝巳&#039;&#039;&#039;(きたむら かつみ)。師匠の玉錦譲りの鋭い出足から「飛燕の出足」「サッと寄り切る佐賀ノ花」などと呼ばれていた&lt;ref name=&quot;nishonoo2&quot;&gt;ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p20&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> <br /> == 来歴 ==<br /> [[1934年]]に九州へ巡業に来た[[玉錦三右エ門]]を頼って[[粂川部屋]]へ入門し、同年5月場所に[[初土俵]]を踏んだ&lt;ref name=&quot;nishonoo2&quot;/&gt;。翌年から玉錦三右エ門が[[二所ノ関部屋 (1911-2013)|二所ノ関部屋]]を創立したことで移籍した&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;&gt;北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)30ページから31ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1939年]]5月場所で新入幕を果たす&lt;ref name=&quot;nishonoo2&quot;/&gt;と、横綱[[男女ノ川登三]]から2つの金星を奪うなど活躍した。前頭筆頭で迎えた[[1941年]]1月場所は8勝7敗で三役昇進を決めたかと思われたが、同年5月場所も同じ前頭筆頭に据え置かれた。この場所を9勝6敗として今度こそ三役昇進かと思われたが、[[1942年]]1月場所も再々度前頭筆頭に据え置かれるなど、入幕直後は番付運が悪かった&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;。それでも男女ノ川登三から再び金星を奪って9勝6敗とすると、ようやく同年5月場所に念願の[[小結]]昇進を果たした。翌[[1943年]]1月場所は関脇で8勝7敗と勝ち越し、前途は多くのファンから期待されたが、翌5月場所は13日目に7勝5敗と勝ち越しまであと一歩の所で急性盲腸炎による途中休場を喫し、翌[[1944年]]1月場所は小結に逆戻りとなった&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1944年]]1月場所は横綱[[照國萬藏|照國]]を激しく突き合った末に押し切る&lt;ref name=&quot;nisho48&quot;&gt;ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p48&lt;/ref&gt;殊勲の星を挙げるなどして13勝2敗の好成績で幕内最高優勝を遂げ、5月場所も好成績をあげて場所後に大関昇進を決定させた&lt;ref name=&quot;nishonoo2&quot;/&gt;が、巡業の都合で玉錦三右エ門の法要を繰り上げて行う際に昇進を伝えられたことから、玉錦の霊前に向かって涙を流しながら報告した。同年2月に[[両国国技館]]が[[大日本帝国陸軍]]に接収されて[[風船爆弾]]の工場として使用された関係上長年佐賀ノ花の優勝額は掲額されなかったと一般に伝わっていたが、後年になって同年5月場所中である同月17日に優勝額の掲額作業が行われていたことが明らかになった&lt;ref&gt;この場所は後楽園球場での開催であった&lt;/ref&gt;。その優勝額も翌1945年3月10日の[[東京大空襲]]により焼失してしまったことから、一般の好角家にはこの額をまず目にしなかったとされる。&lt;ref&gt;『相撲』2009年8月号&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 戦中〜戦後にかけて混乱期の大相撲を屋台骨となって支え続け、[[1949年]]5月場所には史上初めて1場所で4横綱を倒したが、この場所を7勝8敗と負け越すと[[1951年]]1月場所を最後に大関を陥落した。さらに師匠二所ノ関([[玉ノ海梅吉]])の廃業を受けて年寄・[[二所ノ関]]を[[二枚鑑札]]によって襲名したあと、[[1952年]]1月場所で現役を引退して部屋経営に専念した&lt;ref name=&quot;nishonoo2&quot;/&gt;。継承当時、部屋は借金や食糧難などに苦しみ、家財が差押え寸前という経営状態であったという&lt;ref name=&quot;nishonoo&quot;&gt;ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p10-11&lt;/ref&gt;。出羽海一門と同じ巡業地になるとそちらに客を取られてしまうため、そうなると次の巡業地への移動資金を稼ぐために2日、3日と同じ場所で興行しなければならなかった。新築の部屋施設を建築した時も、目黒にあった仮宿舎から両国までの長い距離を部屋一同がリヤカーを引いて荷物を運んで歩いたという&lt;ref name=&quot;nisho44&quot;/&gt;。<br /> <br /> 引退後は先代以来の「分家独立を歓迎」という方針の下、親方初期の[[若乃花幹士 (初代)|若乃花幹士]]・[[琴ヶ濱貞雄]]・[[玉乃海太三郎]]のほか、後に大横綱となる[[大鵬幸喜]]・大関[[大麒麟將能]]、親方晩年に幕内優勝を成し遂げた[[金剛正裕]]を育成した。特に大鵬に関しては「天の配剤」と表現していた&lt;ref name=&quot;nishonoo&quot;/&gt;。そのおかげもあって1962年には鉄筋4階建て、4階に稽古場を持つという新築の部屋も完成した&lt;ref name=&quot;nishonoo&quot;/&gt;。協会員としては取締や理事を長く務めた&lt;ref name=&quot;nisho39&quot;&gt;ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p39&lt;/ref&gt;。&lt;br /&gt;[[1962年]]には、年寄・片男波を襲名していた玉乃海太三郎の独立を巡る騒動([[片男波部屋]]を参照)が勃発したほか、二所ノ関部屋自体の相続を巡る混乱(大麒麟將能の項目を参照)が勃発するなど、後年は独立による紛争が後を絶たなかった。<br /> <br /> [[1975年]][[3月28日]]に死去、{{没年齢|1917|12|5|1975|3|28}}。二所ノ関部屋は[[十勝岩豊|湊川]]が一時的に引き継いだ後、佐賀ノ花の次女と結婚した金剛正裕が28歳で引退して継承した。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> 「片男波騒動」や「押尾川の乱」などに表れるように他者との衝突が絶えない性格であったとされ、当時平幕だった弟子の麒麟児(のち大麒麟)を指して「あいつは佐賀県人特有のひねくれた性格だから大成しない」と平気で貶すことがあったという。これは自身と同じ佐賀県佐賀市出身者(厳密に言うと大麒麟は旧・佐賀郡東川副村出身)であっただけに理不尽さが一際目立つと言える。ノンフィクション作家の塩沢実信は、自身の著書で「名力士にありがちの偏執狂」と評している&lt;ref name=&quot;100retsu&quot;/&gt;。<br /> <br /> 予てより特に確執の深かった大麒麟が部屋を継承することを望まなかった上に他の弟子とも協議が進まず、自身の死後に夫人の後押しで金剛が後継に指名されたことで「押尾川の乱」は起こってしまった。[[神風正一]]は終戦直後の二所ノ関部屋が玉ノ海派、佐賀ノ花派、その他の派閥に分裂していたという事情を説明した上で、部屋の師匠であった玉ノ海の懐刀として働いていた自身を尻目に分派行動を取る佐賀ノ花に対して批判的な見解を示していた。&lt;ref&gt;神風正一『神風一代―わたしの昭和相撲小史』日本放送出版協会&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 一方でマスコミ対策には定評があり、人気絶頂期の大鵬に取材陣が殺到して大鵬が稽古をする時間を確保できるかどうかで困っていた際に特にその腕前を発揮したという。これに関しては女将が代わりに取材を引き受けるように命じ、女将一人が泥を被ることで所属力士本人達が悪印象を持たれる余地を作らなかったのだと伝わっている。大鵬が不調だと判断した際には報道を通じて大鵬を誘導したともいい、結果として大鵬は休場を重ねながらも幕内優勝回数を32まで伸ばすことができた。<br /> <br /> 元来漢書を中心として読書を好み、四股名命名にも大いにこの影響が出ていた。「大鵬」「麒麟児」等の漢書に由来した四股名を命名した人物で知られており、実在・架空問わず漢書から動物の名称を引用した四股名を冠した幕内力士が続々輩出されたことで部屋が「二所ノ関動物園」の異名を与えられたこともある。自身が師匠を務めていた頃の二所ノ関部屋から音読み四股名の力士が多く世に出されており、こうしたことから佐賀ノ花が音読み四股名の走りともいえる。<br /> <br /> [[天龍源一郎]]の証言によると、当時14歳か15歳程度で既に年寄り専任であった自身の付け人であった天龍に「空間には三次元、四次元があるのを知っているか」と聞いてきて、理路整然と答えるような博学さを見せた。稽古場では、座って腕組みすると一言も発せずじっと見る一面もあった一方、横綱に上がりたての頃までは大鵬を竹刀で殴っていたといい、ある時大鵬が「私も横綱になったし、稽古を見に来るファンもいる。もう竹刀で殴るのはやめてもらえませんか」と頼んだ時からようやく大鵬に対しては一切竹刀を使わなくなったという&lt;ref name=&quot;nisho44&quot;&gt;ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p44&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 主な成績 ==<br /> * 通算成績:263勝189敗30休1分 勝率.582<br /> * 幕内成績:200勝160敗1分30休 勝率.556<br /> * 大関成績:101勝77敗1分7休 勝率.567<br /> * 通算在位:39場所<br /> * 幕内在位:29場所<br /> * 大関在位:15場所&lt;ref name=&quot;nishonoo2&quot;/&gt;<br /> * 三役在位:6場所(関脇4場所、小結2場所)<br /> *各段優勝<br /> **幕内最高優勝:1回 (1944年3月場所)<br /> * [[金星 (相撲)|金星]]:2個([[男女ノ川登三|男女ノ川]]2個)<br /> <br /> === 場所別成績 ===<br />  {{Sumo record box start old|佐賀ノ花勝巳}}<br />  {{Sumo record year start|1934}}<br /> {{Basho|}}<br /> {{Basho|MAEZUMOU}}<br /> {{Basho|}}<br />  {{Sumo record year end}}<br />  {{Sumo record year start|1935}}<br /> {{Basho|jk|5|e|5|1}}<br /> {{Basho|jo|13|e|5|1}}<br /> {{Basho|}}<br />  {{Sumo record year end}}<br />  {{Sumo record year start|1936}}<br /> {{Basho|sa|12|e|5|1}}<br /> {{Basho|ma|20|e|5|6}}<br /> {{Basho|}}<br />  {{Sumo record year end}}<br />  {{Sumo record year start|1937}}<br /> {{Basho|ma|23|e|8|3}}<br /> {{Basho|ma|6|w|9|4}}<br /> {{Basho|}}<br />  {{Sumo record year end}}<br />  {{Sumo record year start|1938}}<br /> {{Basho|j|11|e|10|3}}<br /> {{Basho|j|3|e|6|7}}<br /> {{Basho|}}<br />  {{Sumo record year end}}<br />  {{Sumo record year start|1939}}<br /> {{Basho|j|6|w|10|3}}<br /> {{Basho|m|14|w|8|7}}<br /> {{Basho|}}<br />  {{Sumo record year end}}<br />  {{Sumo record year start|1940}}<br /> {{Basho|m|6|e|4|11}}<br /> {{Basho|m|13|e|10|5|||*}}<br /> {{Basho|}}<br />  {{Sumo record year end}}<br />  {{Sumo record year start|1941}}<br /> {{Basho|m|1|w|8|7}}<br /> {{Basho|m|1|w|9|6}}<br /> {{Basho|}}<br />  {{Sumo record year end}}<br />  {{Sumo record year start|1942}}<br /> {{Basho|m|1|e|9|6|||*}}<br /> {{Basho|k||e|11|4}}<br /> {{Basho|}}<br />  {{Sumo record year end}}<br />  {{Sumo record year start|1943}}<br /> {{Basho|s||w|8|7}}<br /> {{Basho|s||e|7|6|2&lt;ref&gt;急性盲腸炎により13日目から途中休場&lt;/ref&gt;}}<br /> {{Basho|}}<br />  {{Sumo record year end}}<br />  {{Sumo record year start|1944}}<br /> 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