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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=153.230.252.38&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-20T22:30:57Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 2018-08-06T05:14:19Z <p>153.230.252.38: </p> <hr /> <div>{{Redirect|モーツァルト}}<br /> {{Infobox Musician &lt;!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--&gt;<br /> | Name = ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト&lt;br&gt;Wolfgang Amadeus Mozart<br /> | Img = Wolfgang-amadeus-mozart_1.jpg<br /> | Img_capt = バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年)&lt;BR&gt;モーツァルトの死後に想像で描かれた<br /> | Img_size = &lt;!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --&gt;<br /> | Landscape = &lt;!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --&gt;<br /> | Background = classic&lt;!-- <br /> singer/group/bandなど --&gt;<br /> | Birth_name = Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart<br /> | Alias = 神童<br /> <br /> | Blood = &lt;!-- 個人のみ --&gt;<br /> | School_background = &lt;!-- 個人のみ --&gt;<br /> | Born = [[1756年]][[1月27日]]&lt;br/&gt;{{HRR}}・[[ザルツブルク]]<br /> | Died = {{死亡年月日と没年齢|1756|1|27|1791|12|5}}&lt;br/&gt;{{HRR}}・[[ウィーン]]<br /> | Origin = <br /> | Instrument = &lt;!-- 個人のみ --&gt;<br /> | Genre = [[古典派音楽]]<br /> | Occupation = &lt;!-- 個人のみ --&gt;<br /> | Years_active = [[1759年]] - [[1791年]]<br /> | Label = <br /> | Production = <br /> | Associated_acts = <br /> | Influences = <br /> | URL = <br /> | Current_members = &lt;!-- グループのみ --&gt;<br /> | Past_members = &lt;!-- グループのみ --&gt;<br /> | Notable_instruments = <br /> }}<br /> {{ウィキポータルリンク|クラシック音楽}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト&#039;&#039;&#039;&lt;ref&gt;「&#039;&#039;&#039;モーツァルト&#039;&#039;&#039;」は[[舞台ドイツ語]]による発音であり、現在ドイツ語では「&#039;&#039;&#039;モーツァート&#039;&#039;&#039;」がより近く発音される。&lt;/ref&gt;({{llang|du|言語記事名=ドイツ語|Wolfgang Amadeus Mozart}}、洗礼名:&#039;&#039;&#039;ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト&#039;&#039;&#039; [{{lang|de|Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart}}]、[[1756年]][[1月27日]] - [[1791年]][[12月5日]])は[[オーストリア]]の音楽家である&lt;ref&gt;別記のように、国籍については議論が絶えないが、生地の現在版図と主要活躍地を併せ、現時点で「オーストリアの」と記す。広辞苑、大辞林、大辞泉のいずれもこの記載となっている。&lt;/ref&gt;。[[古典派音楽]]の代表であり、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]と並んで[[ウィーン古典派]]三大巨匠の一人である。[[称号]]は[[神聖ローマ帝国]]皇室宮廷作曲家、神聖ローマ帝国皇室[[クラヴィーア]]教師、[[ヴェローナ]]のアカデミア・フィラルモニカ[[名誉楽長]]などを務めた。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[ファイル:Wolfgang-amadeus-mozart 2.jpg|200px|thumb|少年時代のモーツァルト]]<br /> <br /> === 幼年期 ===<br /> [[1756年]][[1月27日]]、[[ザルツブルク]]に生まれる。現在はオーストリアの都市であるが、当時は[[神聖ローマ帝国]]領(当時の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に属する大司教領であり、オーストリアの前身国家である大公領には含まれていない。この点が現代にまで議論を招いている点は後述)であった。<br /> <br /> 父・[[レオポルト・モーツァルト]]は元々は[[哲学]]や[[歴史]]を修めるために[[大学]]に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった。母は[[アンナ・マリア・モーツァルト|アンナ・マリーア・ペルトル]]で、七番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。他の五人は幼児期に死亡し、唯一、五歳上の姉[[マリア・アンナ・モーツァルト|マリーア・アンナ]]だけがいた。この幼児の低い生存率は当時では普通であった&lt;ref&gt;ピーター・ゲイ『モーツァルト』4頁&lt;/ref&gt;。なお、祖先の姓はモッツハルト (Motzhardt)。<br /> <br /> 父・レオポルトは息子が[[天才]]であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。3歳のときから [[チェンバロ]]を弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行う(アンダンテ ハ長調 K. 1a)。11歳ごろの作曲譜も発見された&lt;ref&gt;[http://www.cnn.co.jp/fringe/30006016.html 新発見のモーツァルトのピアノ曲演奏、オーストリア生家で]&lt;/ref&gt;。父とともに音楽家として[[ザルツブルク大司教]]ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、[[パリ]]、[[ロンドン]]、および[[イタリア]]各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。[[1762年]]1月に[[ミュンヘン]]へ、9月に[[ウィーン]]へ旅行したのち、[[10月13日]]、[[シェーンブルン宮殿]]で[[マリア・テレジア]]の御前で演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはその時手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(後の[[マリー・アントワネット]])に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話がある。7歳のときフランクフルトで演奏した際に作家の[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]がたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画での[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]、文学の[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]に並ぶと思ったと後に回想している&lt;ref&gt;『エッカーマンとの対話』岩波書店。またピーター・ゲイ『モーツァルト』3頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 巡業と音楽教育 ===<br /> [[1769年]]から[[1771年]]にかけて、第1回目の[[イタリア]]旅行を行い、父と共に[[ミラノ]]、[[ボローニャ]]、[[ローマ]]を巡回する。[[システィーナ礼拝堂]]では、門外不出の秘曲とされていた[[グレゴリオ・アレグリ]] (Gregorio Allegri) の9声部の『[[ミゼレーレ (アレグリ)|ミゼレーレ]]』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてから間もない[[古代ローマ]]遺跡[[ポンペイ]]を訪れている&lt;ref&gt;このことを詳細に語る父の手紙が残されている。&lt;/ref&gt;。イタリア旅行は三度におよぶが、なかでも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた&lt;ref&gt;ピーター・ゲイ『モーツァルト』23頁&lt;/ref&gt;。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。<br /> <br /> [[1770年]]にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャの[[アカデミア・フィラルモニカ]]の会員に選出される。しかしこうした賞賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『[[ポントの王ミトリダーテ]]』K. 87は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった&lt;ref&gt;ピーター・ゲイ『モーツァルト』25頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === マンハイム時代 ===<br /> [[Image:Aloysia weber.jpg|thumb|200px|アロイジア・ヴェーバー]]<br /> [[1777年]] にはザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、次いで[[マンハイム]]へ移る。同年10月、パリに行く途中、アウクスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従姉妹の[[マリア・アンナ・テークラ・モーツァルト]]と再会した。マリアは父・レオポルトの弟の娘で、この時、二人は互いにひかれあい、モーツァルトは初めて肉体関係を持った&lt;ref&gt;[[メイナード・ソロモン]]前掲書第10章。ピーター・ゲイ『モーツァルト』37 - 38頁&lt;/ref&gt;。マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だった[[マンハイム楽派]]の影響を受ける。モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた&lt;ref&gt;ピーター・ゲイ『モーツァルト』42頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> モーツァルトはマリアに未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘アロイジア・ヴェーバーに恋し、結婚の計画をたてるが&lt;ref&gt;ピーター・ゲイ『モーツァルト』40頁&lt;/ref&gt;、父・レオポルトは猛然と反対し、[[1778年]] 2月にはパリ行きを命じる&lt;ref&gt;父・レオポルトは唖然としてモーツァルトに「家族がお前に期待しているのは有名になり、お金を稼ぐことだ。」といった。同書。&lt;/ref&gt;。3月から9月までのパリ滞在は悪夢であった&lt;ref&gt;ピーター・ゲイ『モーツァルト』42頁&lt;/ref&gt;。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎも良くなかった&lt;ref&gt;父への手紙で「通りは言葉にできないほどの糞だらけで」通行不能だったと記している。ピーター・ゲイ『モーツァルト』43頁。ただし当時の西欧では、このような状態はよくある光景であった。コルバン『においの歴史』藤原書店参照。&lt;/ref&gt;。また自邸に招いて演奏させた人々は絶賛するが、報酬は出し惜しみした。[[交響曲第31番 (モーツァルト)|交響曲第31番ニ長調(K297)「パリ」]]を作曲する。[[7月3日]]、同行した母がパリで死去した。<br /> <br /> === ウィーン時代 ===<br /> [[1781年]]3月、25歳のモーツァルトは[[ザルツブルク大司教]]ヒエロニュムス・コロレドの命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、[[5月9日]]、コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。以降、フリーの音楽家として演奏会、[[オペラ]]の作曲、レッスン、[[楽譜]]の出版などで生計を立てた。<br /> <br /> 翌[[1782年]]、父の反対を押し切り[[コンスタンツェ・モーツァルト|コンスタンツェ・ヴェーバー]]と結婚する。コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、『[[魔弾の射手]]』の作曲家[[カール・マリア・フォン・ヴェーバー]]の従姉であった。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。<br /> <br /> [[1783年]]、この頃『[[ピアノソナタ第11番 (モーツァルト)|ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)]]』を作曲したといわれる(1778年説もある)。<br /> <br /> [[1785年]]には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈する(「[[ハイドン・セット]]」)。2月に父・レオポルトがウィーン訪問した際には、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]から息子の才能について賛辞を受ける。ハイドンは2年後の[[1787年]]、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦した。ハイドンはもし有力者が彼の才能を理解できるのなら「多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言した&lt;ref&gt;ピーター・ゲイ『モーツァルト』3頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1786年]][[5月1日]]、オペラ『[[フィガロの結婚]]』K. 492を[[ブルク劇場]]で初演し、翌年[[プラハ]]で大ヒットしたためプラハを訪問する。4月には[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]がモーツァルトを訪ねたとされるが記録は無い。5月には父・レオポルトが死去する。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『[[ドン・ジョヴァンニ]]』K. 527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとる。しかしこのころから借金依頼を頻繁に行う。<br /> <br /> [[1787年]]8月10日に[[ウィーン]]で『[[アイネ・クライネ・ナハトムジーク]]』を作曲。<br /> <br /> 翌[[1788年]]にはいわゆる「3大交響曲」([[交響曲第39番 (モーツァルト)|交響曲第39番]]、[[交響曲第40番 (モーツァルト)|第40番]]、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|第41番]])を作曲する。<br /> <br /> === 晩年 ===<br /> [[File:Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart.jpg|thumb|ヨーゼフ・ランゲ作 鍵盤に手を置くモーツァルト(首より下未完成&lt;ref&gt;元来は頭部と首および肩の部分を描いた完成作だったが、後に新たなカンバスを貼って加筆した部分が未完となった。[http://www.mozarteum.at/en/content/latest-news.html?meldung=142 New Mozart Portrait] - Stiftung Mozarteum Salzburg&lt;/ref&gt;)妻・コンスタンツェいわく「モーツァルトに最もよく似た肖像画&lt;ref&gt;MOSTLY CLASSIC 2012年2月号 P.132&lt;/ref&gt;」]]<br /> ウィーンでは[[ピアニスト]]として人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に怖れをなした[[宮廷楽長]][[アントニオ・サリエリ]]らのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする憶説もある。<br /> <br /> [[1790年]]1月、オペラ 『[[コジ・ファン・トゥッテ]](女はみなこうしたもの)』 K. 588を初演する。2月には皇帝[[ヨーゼフ2世]]が逝去し、[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]が即位する。モーツァルトは[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]で行われた[[戴冠式]]に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、[[ピアノ協奏曲第26番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲26番ニ長調 K. 537「戴冠式」]]、[[ピアノ協奏曲第19番 (モーツァルト)|同19番ヘ長調 K. 459「第二戴冠式」]]などを演奏するも聴衆は不入りだった。<br /> <br /> [[1791年]] 1月、最後のピアノ協奏曲となる[[ピアノ協奏曲第27番 (モーツァルト)|第27番]] K. 595を作曲する。この曲を自ら初演した[[3月4日]]のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなった。7月には、第6子[[フランツ・クサーヴァー・モーツァルト]](モーツァルト2世)が誕生する。9月、プラハで行われたレオポルト2世の[[ボヘミア]]王戴冠式でオペラ 『[[皇帝ティートの慈悲]]』 K. 621を初演。<br /> <br /> [[9月30日]]、[[エマヌエル・シカネーダー|シカネーダー]]の一座のために[[ジングシュピール]] 『[[魔笛]]』 K. 620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。<br /> <br /> 体調は11月から悪化し、[[レクイエム (モーツァルト)|レクイエム]] K. 626に取り組んでいる最中の[[11月20日]]から病床に伏し、2週間後の[[12月5日]]0時55分にウィーンで死去した。35歳没。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、[[病者の塗油|終油の儀]]は受けていない。<br /> <br /> この年、[[レオポルト・ホフマン]]の推挙でモーツァルトは[[シュテファン大聖堂]]の副楽長に任ぜられたが、無給であった。ホフマンは病床にあったため、彼が次期の楽長になる望みもあった。しかしモーツァルトの方が先に死去し、ホフマンが病から回復したため楽長に昇進することはなかった。ホフマンの死後に楽長を引き継いだのは[[アルブレヒツベルガー]]であった&lt;ref&gt;[[レオポルト・ホフマン]]の項目に記事がある。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 死去する3年前の手紙に自分自身のことを語っている。「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だった頃から、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。ぼくが幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」<br /> <br /> === 妻子 ===<br /> 妻・[[コンスタンツェ・モーツァルト|コンスタンツェ]]との間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのは、[[カール・トーマス・モーツァルト|カール・トーマス]]と[[フランツ・クサーヴァー・モーツァルト|フランツ・クサーヴァー]]だけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している&lt;ref&gt;当時は医学が発達した時代ではなかった。&lt;/ref&gt;。フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った&lt;ref&gt;フランツは弟子の[[フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー|ジュースマイヤー]]の名であり、このためフランツ・クサーヴァーはモーツァルトの実子ではなく、妻・コンスタンツェとジュースマイヤーとの婚外子という説がある。&lt;/ref&gt;。成人した2人の男子はどちらも子供を残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫はいない。<br /> <br /> === 年譜 ===<br /> [[File:Wolfgang Amadeus Mozart Signature.svg|thumb|250px|モーツァルトのサイン]]<br /> *[[1756年]] (0歳) [[1月27日]]、[[ザルツブルク]]に生まれる。<br /> *[[1761年]] (5歳) 最初の作曲を行う(アンダンテ ハ長調 K. 1a)。<br /> *[[1762年]] (6歳) 10月[[マリア・テレジア]]御前演奏。<br /> *[[1763年]] - [[1766年]] (7 - 10歳) [[パリ]]・[[ロンドン]]旅行。<br /> *[[1767年]] - [[1769年]] (11 - 13歳) 第2回ウィーン旅行。オペラ『[[みてくれの馬鹿娘]]』K. 51上演。<br /> *[[1769年]] - [[1771年]] (13 - 15歳) 第1回[[イタリア]]旅行。<br /> *[[1770年]] (14歳) 黄金拍車勲章授与。[[12月26日]] オペラ『[[ポントの王ミトリダーテ]]』K. 87初演。<br /> *1771年 (15歳) 第2回イタリア旅行。セレナード『[[アルバのアスカニオ]]』K.111ミラノ上演。<br /> *[[1772年]] - [[1773年]] (16 - 17歳) 第3回イタリア旅行。ミラノでオペラ『[[ルーチョ・シッラ]]』K. 135上演。<br /> *1773年 (17歳) 第3回ウィーン旅行。<br /> *[[1774年]] - [[1775年]] (18 - 19歳) 第4回ウィーン旅行。オペラ『[[偽の女庭師]]』K. 196上演。<br /> *[[1777年]] (21歳) ザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、[[マンハイム]]へ移る。<br /> *[[1778年]] (22歳) パリへ移り。7月、同行した母はパリで死去する。<br /> *[[1779年]] (23歳) ザルツブルクに帰郷。ザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。<br /> *[[1780年]] (24歳) オペラ『[[イドメネオ]]』K. 366準備のためにミュンヘンに赴く。マリア・テレジア崩御。<br /> *[[1781年]] (25歳) [[ザルツブルク大司教]]コロレドと衝突、解雇。ウィーン定住を決意。<br /> *[[1782年]] (26歳)<br /> **7月、オペラ『[[後宮からの誘拐]]』K. 384をウィーンで初演。<br /> **[[8月3日]]、[[コンスタンツェ・モーツァルト|コンスタンツェ・ヴェーバー]]と結婚。<br /> *[[1783年]] (27歳)<br /> **ザルツブルクに帰郷。[[大ミサ曲]]ハ短調 K. 427を上演。<br /> **6月、長男誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。<br /> *[[1784年]] (28歳)<br /> **第2子[[カール・トーマス・モーツァルト]]誕生。<br /> **[[フリーメイソン|フリーメイソンリー]]の&#039;&#039;&#039;慈善ロッジ([[ウィーン]])&#039;&#039;&#039;に入会(書類上では[[12月5日]])。<br /> *[[1785年]] (29歳) 弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「[[ハイドン・セット]]」)。<br /> *[[1786年]] (30歳) オペラ『[[フィガロの結婚]]』K. 492初演。<br /> *[[1787年]] (31歳) 父・レオポルト死去。オペラ『[[ドン・ジョヴァンニ]]』K. 527初演。<br /> *[[1788年]] (32歳) いわゆる「3大交響曲」を作曲。<br /> *[[1789年]] (33歳) ベルリン旅行。<br /> *[[1790年]] (34歳) オペラ『[[コジ・ファン・トゥッテ]]』K. 588初演。<br /> *[[1791年]] (35歳) オペラ『[[皇帝ティートの慈悲]]』K. 621、オペラ『[[魔笛]]』K. 620初演。[[12月5日]]ウィーンにて死去。<br /> <br /> === 死因 ===<br /> 症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「[[粟粒熱|急性粟粒疹熱]]」とされる。実際の死因は「[[リウマチ熱|リューマチ性炎症熱]]」であったと考えられている&lt;ref&gt;ピーター・J・デイヴィーズは、モーツァルトは以前にかかった[[伝染病]]の影響で慢性的な[[腎臓病]]を患っており11月に再び伝染病にかかったため、症状が急激に悪化して死に至ったとしている。ランドンの前掲書、268頁を参照。&lt;/ref&gt;。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹ったとされている&lt;ref&gt;旅行先で病に伏すことが少なくなかったことが手紙や記録に残されている。これは当時の医療技術が未熟であったがために幼児の死亡率が高かったことと、[[道路]]の[[舗装]]が不完全であったがために[[馬車]]の振動が健康を脅かしていったことが背景にある。罹患したリューマチに終生悩まされ、この持病のため体格が小柄になり、さらに直接の死因にまでなってしまったとも考えられた。&lt;/ref&gt;。また、医者が死の直前に行った[[瀉血]]が症状を悪化させたとも言われる。<br /> <br /> モーツァルトは[[1791年]]7月に、自分がアクア・トファーナ(別名ナポリ水とも呼ばれた亜砒酸が主要成分の水溶液で、当時の美顔、美白薬だが毒としても有名だった)で毒殺されかけていると考え、それを妻に伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでおり、それによって後述の、サリエリに関するうわさが一気に広まった&lt;ref&gt;これは現在証明は困難であるが、実際、当時の売れなかった二流の音楽家達は彼を非常に敵対視していたため、可能性が再浮上している。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。[[1820年]]ごろになると、ウィーンでは「[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]を担ぐイタリア派と[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]を担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとして、数多くの背任をまた非難されることになった。この噂にサリエリは[[1825年]]に死ぬまで悩まされた&lt;ref&gt;この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』([[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]])や『[[アマデウス]]』などの作品が作られた。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 葬儀と墓 ===<br /> [[葬儀]]の日取りは「[[12月6日]]説」と「[[12月7日]]説」の2つがある&lt;ref&gt;寺院に残された台帳によれば葬儀は[[12月6日|6日]]に行われた。[[ヨーゼフ2世]]の勅令で、[[死人]]は死後48時間経たないと[[埋葬]]できない規定があったため、6日の深夜から[[12月7日|7日]]の朝に埋葬されたと思われる。葬儀の日は[[嵐]]だったとする報告があり6日は穏やかな天候であったため、葬儀は7日に行われたとする説がある。しかし実際には7日にも降水はなく、強風が吹き始めたのは7日の深夜になってからであった。ソロモンの前掲書、749頁参照。&lt;/ref&gt;。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩[[馬車]]に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である&lt;ref&gt;葬儀の簡素化はヨーゼフ2世の合理主義的政策の1つであり、家族や知人が葬列に同行しないことは当時の慣習となっていた。ソロモンの前掲書、751頁参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 没後100年の[[1891年]]、中央墓地([[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]ら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである&lt;ref&gt;もちろん、「墓とされるもの」の下に骨があるわけではない。&lt;/ref&gt;。なお、サンクト・マルクス墓地は[[1874年]]に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。[[ヨハン・シュトラウス2世]]の弟[[ヨーゼフ・シュトラウス]]も最初はここに埋葬されていた([[1909年]]に中央墓地に移設)。<br /> <br /> 現在、[[モーツァルテウム|国際モーツァルテウム財団]](ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる[[頭蓋骨]]が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され、[[遺骨]]は散逸し、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て[[1902年]]に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、[[2004年]]に[[ウィーン医科大学]]の研究チームがモーツァルトの父・レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨との[[DNA型鑑定|DNA鑑定]]を行った&lt;ref&gt;鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の[[2006年]][[1月8日]]に、[[オーストリア国営放送]]の[[ドキュメンタリー]]番組として公表された。これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯とモーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取された[[デオキシリボ核酸|DNA]]であった。&lt;/ref&gt;。検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったものの、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。<br /> <br /> == 作品 ==<br /> {{main|モーツァルトの楽曲一覧}}<br /> 作品総数は断片も含め900曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲([[オペラ]]、教会用の[[宗教音楽]]、[[歌曲]]など)と器楽曲([[交響曲]]、[[協奏曲]]、[[重奏|室内楽曲]]、[[クラヴィーア]][[ソナタ]]など)のどちらにも多数の作品が残されている。<br /> <br /> 作品を識別するには、音楽家の[[ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル]]が分類した作曲順の目録である[[ケッヘル番号]](K.+数字)が使われる&lt;ref&gt;ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。&lt;/ref&gt;。モーツァルト自身は[[1784年]]以降に自作の作品目録を付けている。[[1784年]]より前の作品やモーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。<br /> ; 代表的な作品<br /> *5大オペラ:『[[後宮からの誘拐]]』、『[[フィガロの結婚]]』、『[[ドン・ジョヴァンニ]]』、『[[コジ・ファン・トゥッテ]](女はみなこうしたもの)』、『[[魔笛]]』<br /> *宗教音楽:[[大ミサ曲]]、[[レクイエム (モーツァルト)|レクイエム]]、『[[アヴェ・ヴェルム・コルプス]]』<br /> *交響曲:[[交響曲第25番 (モーツァルト)|第25番]]、[[交響曲第29番 (モーツァルト)|第29番]]、[[交響曲第35番 (モーツァルト)|第35番『ハフナー』]]、[[交響曲第36番 (モーツァルト)|第36番『リンツ』]]、[[交響曲第38番 (モーツァルト)|第38番『プラハ』]]、[[交響曲第39番 (モーツァルト)|第39番]]、[[交響曲第40番 (モーツァルト)|第40番]]、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|第41番『ジュピター』]]<br /> *セレナード:『[[アイネ・クライネ・ナハトムジーク]]』、『[[セレナータ・ノットゥルナ]]』<br /> *ピアノ協奏曲:[[ピアノ協奏曲第20番 (モーツァルト)|第20番]]、[[ピアノ協奏曲第21番 (モーツァルト)|第21番]]、[[ピアノ協奏曲第23番 (モーツァルト)|第23番]]、[[ピアノ協奏曲第24番 (モーツァルト)|第24番]]、[[ピアノ協奏曲第26番 (モーツァルト)|第26番]]、[[ピアノ協奏曲第27番 (モーツァルト)|第27番]]<br /> *ヴァイオリン協奏曲:[[ヴァイオリン協奏曲第3番 (モーツァルト)|第3番]]、[[ヴァイオリン協奏曲第5番 (モーツァルト)|第5番『トルコ風』]]<br /> *管楽器のための協奏曲:[[クラリネット協奏曲 (モーツァルト)|クラリネット協奏曲]]、[[フルート協奏曲第1番 (モーツァルト)|フルート協奏曲第1番]]、[[フルートとハープのための協奏曲 (モーツァルト)|フルートとハープのための協奏曲]]、[[オーボエ協奏曲 (モーツァルト)|オーボエ協奏曲]]、ホルン協奏曲<br /> *弦楽四重奏曲:[[ハイドン・セット]]、[[ディヴェルティメント K.136|ディヴェルティメント K. 136]]<br /> *弦楽五重奏曲:[[弦楽五重奏曲第3番 (モーツァルト)|第3番]]、[[弦楽五重奏曲第4番 (モーツァルト)|第4番]]<br /> *その他室内楽曲:[[クラリネット五重奏曲 (モーツァルト)|クラリネット五重奏曲]]、[[オーボエ四重奏曲 (モーツァルト)|オーボエ四重奏曲]]<br /> *ピアノソナタ:[[ピアノソナタ第11番 (モーツァルト)|第11番『トルコ行進曲付き』]]<br /> *ピアノのための変奏曲: [[きらきら星変奏曲]](フランスの歌曲『ああ、お母さん、あなたに申しましょう』による12の変奏曲)ハ長調 K. 265<br /> <br /> == 作風 ==<br /> 最初は父経由で[[ヨハン・ショーベルト]]などの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、チェンバロ曲を中心に学んだ。その後[[ヨハン・クリスティアン・バッハ]]の影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けた。後期に入るとハイドンと[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]の影響が強い。<br /> <br /> モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。聴衆にとっては、明るく、華やかに聞こえる作品が多い。これは当時の音楽の流行を反映したもので、[[ロココ]]様式あるいは[[ギャラント様式]]と呼ばれる。彼が主に使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、非常に軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えた&lt;ref&gt;斎藤信哉著『ピアノはなぜ黒いのか』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 晩年に向かうにつれて長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、[[交響曲第40番 (モーツァルト)|交響曲第40番]]ト短調のように人気が高い。<br /> <br /> モーツァルトの時代には[[ポリフォニー]]音楽が流行遅れになり、[[ホモフォニー]]音楽が支配的になっていた。しかし彼はJ.S.バッハや[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]の作品を研究し、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|交響曲第41番]]の終楽章のように[[対位法]]を活用する手腕があった。<br /> <br /> 「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが並外れた記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されている。人気の高い[[ピアノ協奏曲第23番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲23番]]については、その数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば[[交響曲第36番 (モーツァルト)|交響曲第36番]]は[[リンツ]]滞在中に作曲されたが、父との手紙のやり取りから3日で書き上げたことが分かっている。[[交響曲第39番 (モーツァルト)|交響曲第39番]]から[[交響曲第41番 (モーツァルト)|41番]]「ジュピター」までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲したという手順を踏んでいたということが分かっている。<br /> <br /> モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである&lt;ref&gt;このことは、当時の手紙や各種の資料で確認できる。作曲家が「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される。」という形態には至っていなかったようである{{要出典|date=2009年11月}}。&lt;/ref&gt;。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた&lt;ref&gt;ピーター・ゲイ『モーツァルト』50頁&lt;/ref&gt;。18世紀になってからはパトロンから市場に移ることが徐々に可能になっていく。幼いころから各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であった&lt;ref&gt;モーツァルトの作品はベートーヴェンの作品と比較され差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのは2人が置かれていた社会的状況とヨーロッパを旅行してその歴史を知り尽くしていたかどうかの差であると言える{{要出典|date=2009年11月}}。&lt;/ref&gt;。従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったことの証でもある。実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父による規制が無くなったため、モーツァルト自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。交響曲などがそれに当たる。<br /> <br /> 思想的には、[[フリーメイソン]]がパトロンであったこともあり、作品では特に魔笛、ピアノ協奏曲第20番にその影響が指摘されている&lt;ref&gt;なかにし礼『三拍子の魔力』([[毎日新聞社]]、ISBN 4620318426)を参照のこと。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> [[ファイル:Mozart drawing by Doris Stock 1789.jpg|thumb|200px|モーツァルト(1789年の肖像画)]]<br /> [[ファイル:Martini bologna mozart 1777.jpg|thumb|200px|1777年のモーツァルトGiovanni Battista Martiniの依頼による&lt;ref&gt;[http://asv.vatican.va/en/doc/1770.htm &quot;Award of the Papal Equestrian Order of the Golden Spur to Wolfgang Amadeus Mozart&quot;] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100918061819/http://asv.vatican.va/en/doc/1770.htm |date=2010年9月18日 }}, [[Vatican City|Vatican]] Archives&lt;/ref&gt;]]<br /> <br /> === 名前 ===<br /> モーツァルトの洗礼名([[ラテン語]])は、ヨハンネス・クリュソストムス&lt;ref&gt;4世紀の[[教会博士]]で[[聖人]]の[[ヨハネス・クリュソストモス]]にちなんでいる。&lt;/ref&gt;・ウォルフガングス・&#039;&#039;&#039;テオフィルス&lt;ref&gt;「テオフィルス」は[[ギリシア語]]で「神を愛する」または「神に愛された」の意のテオフィロス({{lang|el|Θεόφιλος, Theophilos}})をラテン語形にしたもの。&lt;/ref&gt;&#039;&#039;&#039;・モザルト({{lang|la|Johannes Chrysostomus Wolfgangus &#039;&#039;&#039;Theophilus&#039;&#039;&#039; Mozart}})である。当時は[[イタリア]]の[[音楽家]]がもてはやされており、モーツァルトは「テオフィルス」よりもラテン語で意訳した「アマデウス({{lang|la|Amadeus}})」を[[通称]]として使用していた。ただしモーツァルトは {{lang|la|Amadeus}}ではなく[[イタリア語]]風のアマデーオ({{lang|it|Amadeo}})を主に使っていたともいわれ&lt;ref&gt;石井宏『反音楽史』127頁&lt;/ref&gt;、ほか[[フランス語]]風のアマデ({{lang|fr|Amadé}})、[[ドイツ語]]風のゴットリープ({{lang|du|Gottlieb}})も用いたことがある。<br /> <br /> === 容姿 ===<br /> 肖像画や銅像ではいずれも“神童”に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子どもの姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。最初の伝記作者{{仮リンク|ニーメチェク|en|Franz Xaver Niemetschek}}によれば、身体的に見て「小柄で顔つきは楽しげだったが、情熱的な大きな目を除けば何一つ、その大きな才能を示すものはなかった」という。有力なのは「21歳の時に罹った[[天然痘]]の痕がいくつもあり丸鼻で近眼」というものである。本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだった[[デスマスク]]は、彼の死後すぐに製作を依頼し、美術陳列館のシュトリテッツ伯爵に[[石膏]]で型取られたことが義妹ゾフィー・ハイブルにより証言されているが、その後は行方不明になり現在まで発見されていない。19世紀後半には、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまったと語られ、未だに事実のように伝えられているが、実際にはそのような記録はなく憶測に過ぎない。体躯に関しても「小男である」「肥満が著しかった」という説がある。<br /> <br /> 検死による実際の身長は163センチメートルであった。左耳は奇形で対耳輪上脚と耳垂が欠けていた。この形の耳は「モーツァルト耳」と呼ばれている。また末子のフランツも同様の耳をしており、フランツが不義の子であることを否定する根拠にもなっている。<br /> <br /> [[File:Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart.jpg|thumb|ヨーゼフ・ランゲ作 コンスタンツェいわく「モーツァルトに最もよく似た肖像画&lt;ref&gt;MOSTLY CLASSIC 2012年2月号 P.132&lt;/ref&gt;」]]信頼性があるのは、義兄(アロイジアの夫)のヨーゼフ・ランゲによるスケッチである(右下)。<br /> <br /> === 人柄 ===<br /> *優秀な音楽家としての顔を持ちながら、その実は猥談を好み、妻のコンスタンツェに宛てた卑猥な内容の手紙が数多く残されている。<br /> *女性小説家である[[カロリーネ・ピヒラー]]([[w:Karoline Pichler|Karoline Pichler]])は「私がよく知っていたモーツァルトもハイドンも、高級な知能を全く示さない交友関係の人たちだった。凡庸な精神という素質、おもしろみのない冗談、そしてモーツァルトにおいては軽薄な生活が彼らとの交遊関係でみられたすべてであった。しかし、この取るに足らない殻の中には、素晴らしいファンタジー、メロディー、ハーモニー、そして感情の世界が隠されていた!」と書いている。<br /> *モーツァルトが書いたとされる手紙は多く残されているが、手紙は最大5ヶ国語を使い分けて書かれている。また友人などに宛てた手紙の中においては何の脈絡もなく世界の大洋や大陸の名前を列挙し始めたり、文面に何の関係もない物語を唐突にかつ仔細に書き出したりしていた。<br /> [[Image:Marianne Thekla Mozart.jpg|thumb|200px|マリア・アンナ・テークラ(ベーズレ)の鉛筆画]]<br /> *モーツァルトは従姉妹に[[排泄]]にまつわる[[駄洒落]]にあふれた手紙を送ったことがある&lt;ref&gt;前掲『モーツァルトの手紙』上巻79頁。[[1777年]]の「ベーズレ書簡」。「あなたの鼻に糞をします」などの記述がある。このことから「才能は今の半分でいいから社会性が2倍ほしい」と言われたことがある。&lt;/ref&gt;。いわゆる「ベーズレ書簡」といわれるもので、「あなたの鼻に糞をします」、「ウンコで君のベッドを汚してやるぞ!僕のおしりが火事になった! どういうこと! 知ってるぞ、みえるぞ、なめてやろうか、ん、何だ? - ウンコが出たがってる? そう、そうだウンコだ。俺は変態だ!」などの記述がある&lt;ref&gt;ピーター・ゲイ『モーツァルト』39頁&lt;/ref&gt;。従姉妹は[[マリア・アンナ・テークラ・モーツァルト]]といい、父・レオポルトの弟の娘で、ヴォルフガングがこの女性と従姉妹以上の恋愛関係にあったともされる&lt;ref&gt;[[メイナード・ソロモン]]前掲書第10章。ピーター・ゲイ『モーツァルト』37 - 38頁&lt;/ref&gt;。<br /> *ベーズレ書簡はヴォルフガングの死後、息子たちによって破棄を望まれたが、現在6通が保管されており、これらの手紙は彼の男性的で激しい部分や、言葉による旺盛な想像力を示している。ベーズレの残された数少ない銅版画は、彼女の素晴らしい美貌を示しているが、この点は彼女の強みとはならず、彼女がかなり移り気な女性であったことがのちに証明されることとなった。<br /> *遠く離れた妻のコンスタンツェにあてた手紙では、そういった言葉づかいは見当たらず、繊細さや優しさを帯びた手紙となっている。ほかに『[[俺の尻をなめろ]]』(K. 231、K. 233)というカノンも作曲するなど、この類の話は彼に[[スカトロジー]]の傾向があったとしばしば喧伝されるエピソードであるが、当時の南ドイツでは親しい者どうしでの尾籠な話は日常的なものであり[[タブー]]ではなかったし&lt;ref&gt;アインシュタイン、前掲書、47頁&lt;/ref&gt;、またモーツァルトの両親も大便絡みの冗談をいっていた&lt;ref&gt;ピーター・ゲイ『モーツァルト』33頁&lt;/ref&gt;。<br /> *[[19世紀]]の伝記作者はスカトロジーの表現を無視したり破棄したりしてモーツァルトを美化したが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められている。また、上掲の「俺の尻をなめろ」&quot;Leck mir den Arsch&quot;、&quot;Leck mich im Arsch&quot; は英語の&quot;Kiss my ass&quot;(「糞ったれ!」など)と同類の慣用表現であり、下品ではあるが必ずしもスカトロジー表現とはいえない。<br /> *そのほか冗談好きな逸話としては、ある貴族から依頼を受けて書いた曲を渡すときに手渡しせず自分の家の床一面に譜面を並べ、その貴族に1枚1枚拾わせたというエピソードがある。<br /> *[[精神医学]]界には、こうした珍奇な行動が[[サヴァン症候群]]によるものであるという憶測もある&lt;ref&gt;Aidin Ashoori, Joseph Jankovic: &quot;Mozart’s movements and behaviour: a case of Tourette’s syndrome?&quot; &#039;&#039;Journal of Neurology, Neurosurgery, and Psychiatry&#039;&#039; 2007;78:1171-1175; PMID 17940168&lt;/ref&gt;。<br /> *[[九柱戯]]([[ボウリング]])や[[ビリヤード]]を好み&lt;ref&gt;関連項目:[[P. D. Q. バッハ]]&lt;/ref&gt;、自宅にはキャロムテーブルを置きビリヤードに興じていた&lt;ref&gt;CUE&#039;S([[2006年]]5月号114頁)&lt;/ref&gt;。ビリヤード台の上に紙を置き、そこで楽譜を記していたというほどである。[[賭博]]にもよく興じたという。高価な衣装を好み、立派な住居を求めて何度も引越しをした。モーツァルトの晩年の借金の原因として浪費に加えて「ギャンブラー説」を唱える人もいるが、確かなことは不明である&lt;ref&gt;礒山雅『モーツァルト=二つの顔』講談社選書メチエ、37 - 40頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ドイツ人論議 ===<br /> [[2006年]]、ドイツのテレビ局[[第2ドイツテレビ|ZDF]]が「史上もっとも偉大な[[ドイツ人]]は誰か」というアンケートにモーツァルトをノミネートしたことに在独オーストリア大使館が抗議したことから、議論が巻き起こった。<br /> <br /> ザルツブルクに生まれ、後生はウィーン住まいであったことを現在の国家をあてはめると大使館の主張には理があるが、局側は、当時オーストリアという国家は存在しなかったと一蹴。これに対してオーストリア側は「ではドイツという名の国家も存在しなかったのだから、ゲーテはドイツ人ではない」と反論した。厳密には当時はハプスブルク家を皇帝に戴いて「[[神聖ローマ帝国|ドイツ国民の神聖ローマ帝国]]」(これをドイツ帝国と略称することもある)が存続していたが、実態は統率の緩い国家連合と化しており、[[ナポレオン戦争]]以後は新しく成立したオーストリア帝国を議長国とするドイツ連邦に衣替えしている。実際の国家主権はその下に属するザルツブルク大司教領、ウィーンを含むオーストリア大公領、バイエルン、プロイセン、ザクセンなどの大小のドイツ人諸邦が持っていた。そして、このオーストリア大公領が国号でなく、この称号も併せ持つ神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の実質支配地域という曖昧な存在であったこと、つまり当時この地域に国号は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」しか存在しなかった、という点がZDFの論拠となっている。<br /> <br /> モーツァルト自身は手紙の中で再三「れっきとしたドイツ人として」「ドイツ民族の栄光に寄与できればうれしい」などと繰り返しており、「われわれドイツ人が、ドイツ風に考え、ドイツ風に演技し、[[ドイツ語]]で語り、ドイツ語で歌うことを今やっと始めたのだとすると、それはドイツにとって永遠の汚点となるに違いない」という強烈なドイツオペラ宣言まで行っている&lt;ref&gt;海老沢敏・高橋英郎 編訳『モーツァルト書簡全集』白泉社&lt;/ref&gt;。また、[[ショパン]]の生前、その生国の新聞が「モーツァルトがドイツ人の誇りならショパンはポーランド人の誇りである」と絶賛したのも有名である。ただし、ここでいう「ドイツ人」とは、未だ確たる統一国家を持たない18 - 19世紀に掲げられた[[大ドイツ主義]]に基づく「ドイツ人」であり、現在の[[小ドイツ主義]]をもとにしたドイツ連邦共和国の国民とは異なるものであるとはいえる。また、書簡の中で自らをオーストリア人と述べる言葉がまったくない点も、上記のような国体情勢(大公領としてのエリア区分でしかなかった当時のオーストリアには国家とか国民とかいう概念は希薄だったうえに、モーツァルトは、その域外の出身者であり、域内のウィーンに在住したのは最後の十年にすぎない)からはやむをえない点である。同じ論法だと[[マリア・テレジア]]も[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]もれっきとしたドイツ人だが、こうした、どこまでがドイツ人なのか、ドイツ民族なのか、という問題があるにもかかわらず(これは、[[オーストリア人]][[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]や伊仏露など周辺国だけでなく[[アメリカ合衆国|米国]]も含まれる海外ドイツ系住民地域など非常に多くの難しい課題をはらんでいる)、結果としてモーツァルトだけがノミネートされたことは議論を呼ぶことになった。現在はザルツブルクやウィーンで、モーツァルトはオーストリア人の英雄として内外に伝えられている。<br /> <br /> === 逸話 ===<br /> *モーツァルト一家の親しい友人であり、ザルツブルク大司教に仕えたトランペット奏者、ヴァイオリニスト、チェリストのシャハトナーは[[1763年]]のある日、わずか6歳のヴォルフガングがヴァイオリンを弾こうとしているところに出くわし、彼から「あなたのヴァイオリンは僕のよりも8分の1ピッチ高く調律されていますよ」と言われた。シャハトナーは最初それを聞いて笑ったが、ヴォルフガングの異常な感覚能力と音の記憶力を知っていた父がヴァイオリンを取ってきて「この子の言う通りか確かめてみてくれ」と言うので確かめてみると、ヴォルフガングの言うとおりだったという&lt;ref&gt;ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』78頁&lt;/ref&gt;。<br /> *シャハトナーとの逸話は他にも残されていて、彼はマリアンネ・モーツァルトに向けた[[1792年]]4月の手紙にて、次のように書いている。<br /> {{quotation|10歳ころまでの彼は、独奏のトランペットに常軌を逸した恐怖感を抱いていました。ある日あなたのお父さんがこの恐怖感を取り除くべく、近くでトランペットを吹いてやってくれ、と仰ったのでそうしてみたところ、あの甲高い音色を聞くとたちまち蒼白になり、気を失いそうになりました。あのまま続けていれば彼は引付を起こしていたでしょう…(中略)あなたは私がとても良いヴァイオリンを持っていたのをご存じのはずです。亡きヴォルフガングはそれの音色が柔らかくまろやかだというので、『バターみたいなヴァイオリン』と呼んでいました。&lt;ref&gt;ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』219頁&lt;/ref&gt;}}音楽てんかん、トランペット恐怖症のどちらかが疑われるが、幼いころにサイレンや航空機などの大きな音を出すものを嫌う子どもは珍しくない。モーツァルトの文献を探しても、既往症であるてんかんの疑惑に対する言及や暗示は見つかっていないので、彼には持続的な恐怖心があり、それが恐怖症へ発展したと考えるのが妥当である。<br /> *姉ナンネルがウォルフガングのことをよく知っていた人から回想文を集めて出版された本には次のような証言がある。<br /> {{quotation|彼は最も複雑な音楽の中でさえ最小の不協和音を指摘し、ただちにどの楽器がしくじったかとか、どんなキーで演奏すべきだったかというようなことまで口にした。演奏中の彼は最小の夾雑音にさえいらだった。要するに音楽が続く限りは彼は音楽そのものであり、音楽が止むとすぐに元の子どもに戻るのだった。&lt;ref&gt;ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』79頁&lt;/ref&gt;}}<br /> *[[1763年]][[5月19日]]付の「アウクスブルガー・インテリゲンツ・ツェッテル」紙にもウォルフガングについての記事が載せられている。<br /> {{quotation|…私は同じく、ある時は鍵盤の低音で、またあるときは高音で、そして可能なすべての楽器で演奏される音を別の部屋で聞かされて、たちどころに演奏された音符名を伝える彼を見聞きした。その通り、彼は鐘や大時計の音を聞き、懐中時計の音さえ聞きながら、聞き取った音をただちに口にすることができたのである…&lt;ref&gt;ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』79頁&lt;/ref&gt;}}<br /> こういった彼の異常な感覚能力についての話は他にも数多く伝えられており、たとえばデインズ・バリントンというイギリスの法律家は「あるロンドン王立協会への手紙」にて、モーツァルトが大バッハの未完のフーガの主題と展開を完全に記憶していて、いかに即座に再現し弾き終えたかを語っている。[[#巡業と音楽教育]]の項で触れた、システィーナ礼拝堂での一件はモーツァルトの逸話として非常に有名であるが、それと併せてこういった証言の数々は彼の才能を示すひとつの証左となっている。<br /> <br /> == モーツァルトを扱った作品 ==<br /> *{{仮リンク|モーツァルトとサリエリ|ru|Моцарт и Сальери}} - [[1830年]]、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]の戯曲。<br /> **[[1897年]]、[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]が{{仮リンク|オペラ化|ru|Моцарт и Сальери (опера)}}。<br /> *[[哀しみのシンフォニー]] - [[シルヴィ・ヴァルタン]]の[[1972年]]の[[シングル]]曲。交響曲第40番に[[イタリア語]]の[[歌詞]]を乗せて歌唱。<br /> *{{仮リンク|旅の日のモーツァルト|de|Mozart auf der Reise nach Prag}} - [[エドゥアルト・メーリケ|メーリケ]]の小説。<br /> *[[アマデウス]] - [[1979年]]、[[ピーター・シェーファー]]の戯曲。<br /> **[[1984年]]、[[ミロス・フォアマン]]監督により[[アマデウス (映画)|映画化]]。<br /> *モーツァルト - [[1982年]]フランスのTVドラマ(全6回、540分)(マルセル・ブリュワル監督作品)。<br /> *{{仮リンク|くたばれアマデウス|de|Vergeßt Mozart}} - [[1985年]]西ドイツ映画 ウィーン警察と関係者が死因を探る推理ドラマ。<br /> *[[ピンクのモーツァルト]] - [[松田聖子]]のシングル。<br /> *Rock me Amadeus - [[1985年]]、[[オーストリア]]の歌手・[[ファルコ (ミュージシャン)|ファルコ]]の楽曲。<br /> *モーツァルトは子守唄を歌わない - 1985年、[[森雅裕]]の小説。<br /> *[[マドモアゼル モーツァルト]] - [[1989年]]、[[福山庸治]]の漫画。<br /> **[[1991年]]、[http://www.ongakuza-musical.com/ 音楽座]がミュージカル化、[[2004年]]にも『21C:マドモアゼル・モーツァルト』として公演。<br /> *[[モーツァルト!]] - [[1999年]]、ミュージカル作品。日本では[[2002年]]に初演。<br /> *Wolfango Amedeo(ヴォルフガング・アマデウス) - [[2006年]]、G.ファザーノ作曲、V.セッサ=ヴィタリ作詞 同年の第49回[[ゼッキーノ・ドーロ]](イタリア)優勝歌曲。<br /> *モーツァルトの魔法の笛-[[2009年]]、[[メアリー・ポープ・オズボーン]]作 [[マジック・ツリーハウス]]シリーズの第27巻。<br /> *[[ロックオペラ モーツァルト]] - [[2009年]]、Olivier Dahan演出 Dove Attia, Albert Cohen制作 ミュージカル作品。<br /> *プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード - [[2016年]]の映画。<br /> <br /> == その他 ==<br /> *ユーロ導入前のオーストリアの最高額面の5000シリング紙幣、また現在のオーストリアの1ユーロ硬貨にも同じ肖像が採用されている。<br /> *彼を讃え、[[水星]]には「モーツァルト」という名の[[クレーター]]が存在する。<br /> *モーツァルト没後200周年となる1991年に発見された鉱物に「[[モーツァルト石]]」([[:it:Mozartite]])という名前がつけられている。<br /> *モーツァルトの時代、ピアノ協奏曲の多くはピアノと明記されることは稀で、通常クラヴィーアと書かれていた。クラヴィーアとは鍵盤楽器のことであるが、通常有弦鍵盤楽器を指し、[[フォルテピアノ]]、[[チェンバロ]](ハープシコード、クラヴサン)、[[クラヴィコード]]のいずれかで演奏される選択の自由があったが、協奏曲などは編成からフォルテピアノかチェンバロで演奏された。今日ではチェンバロで演奏される機会も増えている。モーツァルトが自身の作品でフォルテピアノのためと明記したのは[[1785年]]に出版した作品が初めてであった。チェンバロはバロック音楽に限定されると思われることが多いが、ウィーンでは19世紀初頭までチェンバロが製作されており、ベートーベンの作品の中にも[[マンドリン]]とチェンバロのためのソナチネと言う作品が2つあるほどである。<br /> *彼が[[フリーメイソン]]の会員であったことは比較的有名である。<br /> <br /> == メディア ==<br /> [[フルートとハープのための協奏曲 (モーツァルト)|フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K. 299 (297c)]]<br /> {{multi-listen item|filename=Mozart - Concerto for Flute and Harp - 1. Allegro.ogg|title=I. Allegro}}<br /> {{multi-listen item|filename=Mozart - Concerto for Flute and Harp - 2. Andantino.ogg|title=II. Andantino: Adagio|description=|format=[[Ogg]]}}<br /> {{multi-listen item|filename=Mozart - Concerto for Flute and Harp - 3. Rondeau Allegro.ogg|title=III. Rondeau – Allegro: Rondo allegro|description=|format=[[Ogg]]}}<br /> :Performed by<br /> :Alexander Murray (flute)<br /> :Ann Yeung (harp)<br /> :the Sinfonia da Camera of [[イリノイ大学|the University of Illinois]]<br /> {{multi-listen end}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *&#039;&#039;NEUE MOZART-AUSGABE&#039;&#039;(新モーツァルト全集)<br /> **[[ベーレンライター出版社|ベーレンライター社]]・パックスアーレン社のソフトカバー版が入手できる。<br /> *[[アルフレート・アインシュタイン]] 『モーツァルト-その人間と作品』 [[浅井真男]]訳、[[白水社]]、初版[[1961年]](原著[[1945年]]) &lt;span style=&quot;font-size:90%;&quot;&gt;(新版[[1997年]])ISBN 4-560-03732-9&lt;/span&gt;<br /> **著者アルフレート・アインシュタインは音楽史研究家で、物理学者[[アルベルト・アインシュタイン]]の従弟。<br /> *『モーツァルトの手紙』 [[柴田治三郎]]編訳、[[岩波文庫]](上下巻)、初版[[1980年]] &lt;span style=&quot;font-size:90%;&quot;&gt;ISBN 4-00-335041-3 ISBN 4-00-335042-1&lt;/span&gt;<br /> *H.C.ロビンズ・ランドン 『モーツァルト最後の年』 [[海老沢敏]]訳、[[中央公論社]]、[[2001年]](原著[[1988年]]) &lt;span style=&quot;font-size:90%;&quot;&gt;ISBN 4-12-003114-4&lt;/span&gt;<br /> *メイナード・ソロモン 『モーツァルト』 石井宏訳、新書館、[[1995年]](原著1995年) &lt;span style=&quot;font-size:90%;&quot;&gt;ISBN 4-403-12006-7&lt;/span&gt;<br /> *ピーター・ゲイ 『モーツァルト』 高橋百合子訳、岩波書店、[[2002年]](原著[[1999年]]、PenguinPutnum Inc.)<br /> *[[石井宏 (音楽評論家)|石井宏]] 『反音楽史-さらば、ベートーヴェン』 [[新潮社]]、[[2004年]] &lt;span style=&quot;font-size:90%;&quot;&gt;ISBN 4-10-390303-1&lt;/span&gt;<br /> *[[ノルベルト・エリアス]] 『モーツァルト ある天才の社会学』 [[青木隆嘉]]訳、[[法政大学出版局]]〈叢書ウニベルシタス〉、[[1991年]] &lt;span style=&quot;font-size:90%;&quot;&gt;ISBN 4-588-00353-4&lt;/span&gt;<br /> *[[岡田暁生]] 『恋愛哲学者モーツァルト』 新潮社 [[2008年]] &lt;span style=&quot;font-size:90%;&quot;&gt;ISBN 4106036002&lt;/span&gt;<br /> *[[なかにし礼]] 『三拍子の魔力』 毎日新聞社 2008年 &lt;span style=&quot;font-size:90%;&quot;&gt;ISBN 4620318426&lt;/span&gt;<br /> *[[真木洋三]] 『モーツァルトは誰に殺されたか』<br /> *[[三枝成彰]] 『名曲の履歴書』 朝日新聞出版 2013年 ISBN 978-4-02-251039-6<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Compositions by Wolfgang Amadeus Mozart}}<br /> {{Commons|Wolfgang Amadeus Mozart}}<br /> {{Wikiquote|モーツァルト}}<br /> *[[モーツァルト (曖昧さ回避)]]<br /> *[[ウィーン古典派]]<br /> *[[ケッヘル番号]]<br /> *[[国際モーツァルテウム財団]]<br /> *[[ザルツブルク・モーツァルテウム大学]]<br /> *[[モーツァルテウム管弦楽団]]<br /> *[[モーツァルト国際コンクール]]<br /> *[[モーツァルト管弦楽団]]<br /> *[[モストリー・モーツァルト・フェスティバル]]<br /> *[[ヴュルツブルク・モーツァルト音楽祭]]<br /> *[[モーツァルト効果]]<br /> *[[ピョートル・チャイコフスキー]] - モーツァルトを敬愛し、{{仮リンク|組曲第4番「モーツァルティアーナ」|en|Orchestral Suite No. 4 &#039;&#039;Mozartiana&#039;&#039; (Tchaikovsky)}}という曲を書いている。<br /> *[[アルフレート・シュニトケ]] - モーツァルトの楽曲の主題や様式を取り入れた&quot;Moz-Art&quot;というタイトルの曲をいくつか書いている。<br /> *[[ジョゼフ・ブローニュ・シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュ]] - 「黒いモーツァルト」<br /> *[[ヨーゼフ・マルティン・クラウス]] - 「スウェーデンのモーツァルト」<br /> *[[フランソワ・ドヴィエンヌ]] - 「フランスのモーツァルト」<br /> *{{仮リンク|サミュエル・ウェズリー|en|Samuel Wesley}} - 「イングランドのモーツァルト」<br /> *[[ホアン・クリソストモ・アリアーガ]] - 「スペインのモーツァルト」<br /> *[[キダ・タロー]] - 「浪花のモーツァルト」<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> === 音源 録音ファイル ===<br /> *[http://www.europarchive.org/results.php?query=mozart&amp;additional=&amp;x=0&amp;y=0 - the european archive : Seach Results page -]<br /> *[http://classical-music-online.net/en/composer/Mozart/46 Composer Wolfgang Amadeus Mozart - listen online, download mp3 - complete works]<br /> <br /> === 楽譜 ===<br /> *{{IMSLP|id=Mozart,_Wolfgang_Amadeus}}<br /> *[http://dme.mozarteum.at/DME/nma/start.php?l=3 新モーツァルト全集・デジタル版] - [[新モーツァルト全集]]の総譜すべてが網羅されており、[[Portable Document Format|PDF]]として入手できる。<br /> <br /> === その他 ===<br /> *[http://www.classicalmusicdb.com/composers/view/7 モーツァルトの楽曲一覧]<br /> *[http://www.mozarthausvienna.at/jp/ Mozarthaus Vienna](日本語 - モーツァルトハウス・ウィーン)<br /> *[https://classicmanager.com/artists/11?kind=works Classic Manager] - モーツァルトの楽曲無料鑑賞サイト<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:もおつあると うおるふかんく あまてうす}}<br /> <br /> [[Category:モーツァルト|*]]<br /> [[Category:オーストリアの作曲家]]<br /> [[Category:古典派の作曲家]]<br /> [[Category:オペラ作曲家]]<br /> [[Category:教会音楽家]]<br /> [[Category:フリーメイソンの作曲家]]<br /> [[Category:18世紀の音楽家]]<br /> [[Category:18世紀の作曲家]]<br /> [[Category:オーストリア・シリング紙幣の人物]]<br /> [[Category:モーツァルト家|うおるふかんく あまてうす]]<br /> [[Category:ザルツブルク出身の人物]]<br /> [[Category:1756年生]]<br /> [[Category:1791年没]]</div> 153.230.252.38
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