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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=126.237.118.169&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-14T22:09:03Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 エドワード8世 (イギリス王) 2018-05-23T17:17:17Z <p>126.237.118.169: /* 軍の階級 */</p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> |人名 =エドワード8世<br /> |各国語表記 ={{Lang|en|Edward VIII}}<br /> |君主号 =[[イギリス君主の称号|連合王国国王]]・[[インド皇帝]]<br /> |画像 =A022344.jpg<br /> |画像サイズ =<br /> |画像説明 =エドワード8世<br /> |在位 =[[1936年]][[1月20日]] - [[12月11日]]<br /> |戴冠日 =未戴冠<br /> |別号 =<br /> |全名 ={{Lang|en|Edward Albert Christian George Andrew Patrick David}}&lt;br /&gt;エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド<br /> |出生日 ={{生年月日と年齢|1894|6|23|no}}<br /> |生地 ={{UK}}&lt;br /&gt;{{ENG}}、[[ロンドン]]、[[:en:White Lodge, Richmond Park|ホワイト・ロッジ]]<br /> |死亡日 ={{死亡年月日と没年齢|1894|6|23|1972|5|28}}<br /> |没地 ={{FRA}}、[[パリ]]近郊[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]<br /> |埋葬日 =[[1972年]][[6月5日]]<br /> |埋葬地 ={{UK}}&lt;br /&gt;{{ENG}}、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]、[[:en:Royal Burial Ground|王室墓地]]<br /> |継承者 =<br /> |継承形式 =<br /> |配偶者1 =[[ウォリス・シンプソン]]<br /> |子女 =<br /> |王家 =<br /> |王朝 =[[ウィンザー朝]]<br /> |王室歌 =<br /> |父親 =[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]<br /> |母親 =[[メアリー・オブ・テック]]<br /> |宗教 =[[キリスト教]][[イングランド国教会]]<br /> |サイン =Edwardsig.svg<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;エドワード8世&#039;&#039;&#039;({{Lang-en|&#039;&#039;&#039;Edward VIII&#039;&#039;&#039;}}、エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド、{{lang|en|Edward Albert Christian George Andrew Patrick David}}、[[1894年]][[6月23日]] - [[1972年]][[5月28日]])は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国([[イギリス]])ならびに[[英連邦王国|海外自治領]]({{lang|en|The British Dominions beyond the Sea}})の[[イギリスの君主|国王]]、[[イギリス領インド帝国|インド]][[インド皇帝|皇帝]](在位:[[1936年]][[1月20日]] - 1936年[[12月11日]])。[[ウィンザー朝]]の第2代国王。退位後の称号で&#039;&#039;&#039;ウィンザー公爵&#039;&#039;&#039;({{lang|en|The Prince Edward, &#039;&#039;&#039;Duke of Windsor&#039;&#039;&#039;}})としても知られる。<br /> <br /> 離婚歴のある平民のアメリカ人女性[[ウォリス・シンプソン]]と結婚するために[[グレートブリテン王国]]成立以降のイギリス国王としては歴代最短の在任期間わずか325日で退位した「&#039;&#039;&#039;王冠を賭けた恋&#039;&#039;&#039;」で知られている。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 出生 ===<br /> [[ファイル:Jorge v, esposa e filho eduardo.jpg|thumb|left|160px|生後間もないエドワードと両親]]<br /> 当時[[ヨーク公]]だったジョージ王子(後の[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]])と[[メアリー・オブ・テック|メアリー]]妃の長男として生まれる。弟に[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]、[[ヘンリー (グロスター公)|グロスター公ヘンリー]]、[[ジョージ (ケント公)|ケント公ジョージ]]、妹に[[メアリー (ハーウッド伯爵夫人)|ハーウッド伯爵夫人メアリー]]がいる。<br /> <br /> 7月16日、ホワイト・ロッジで[[カンタベリー大主教]][[エドワード・ホワイト・ベンソン]]によって[[洗礼]]を施された。名前のうち、アルバートは伯父[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|クラレンス公アルバート・ヴィクター]]、クリスチャンは曾祖父の[[デンマーク]]国王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]にそれぞれちなんだもので、アルバートは曾祖母[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の強要によって含まれたものだった。また、[[洗礼名]]の[[ゲオルギウス|ジョージ]]・[[アンデレ|アンドルー]]・[[パトリキウス|パトリック]]・[[デイヴィッド (聖人)|デイヴィッド]]は、いずれも[[イングランド]]、[[スコットランド]]、[[アイルランド]]、[[ウェールズ]]の[[守護聖人]]にちなんだものだった。ちなみに、家族と友人からは終生、最後の洗礼名で“デイヴィッド”と呼ばれ続けていた。<br /> <br /> === 教育 ===<br /> [[ファイル:Edward VIII boy.jpg|thumb|left|160px|祖母[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アリックス]]によって撮影された幼少時のエドワード]]<br /> {{commons&amp;cat|Edward VIII of the United Kingdom|Edward VIII of the United Kingdom|エドワード8世}}<br /> 幼少期は、当時のイギリスの上流階級の家庭の常として、両親ではなく乳母から[[しつけ]]を受けた。しかし、弟のアルバート(ジョージ6世)とともに、乳母の一人から両親が不在の度に体をつねられるなどの虐待を受け、エドワードが異常なまでに泣き叫ぶことから、両親が慌ててその乳母を追い出したこともあった。<br /> <br /> 13歳頃まで自宅で家庭教師によって厳格な教育を施された。[[1907年]]からは、[[オズボーン・ハウス|オズボーン海軍兵学校]]で教育を受けたが、[[イギリス海軍|海軍]]軍人となるべく施される過酷なトレーニングや[[スパルタ教育]]、寮生活などといったそこでの生活には馴染めず、特に一番苦手だった数学に関しては、他の生徒とは別に休日に補習授業を受けることも多く、祖父[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]にしばしば涙ながらに愚痴をこぼしていたという。オズボーンで2年間を過ごした後は、[[ダートマス]]の[[海軍兵学校 (イギリス)|海軍兵学校]]に移り、2年間にわたる教育を受けることとなり、ダートマスでの生活では以前に比べある程度の自由があったものの、そこでも同級生から[[いじめ]]を受けるなどの経験をし、エドワード自身もこの頃には既に自分には海軍士官としての素質は無いことを自覚していたという。<br /> <br /> 1910年にエドワード7世が死去したことに伴い[[プリンス・オブ・ウェールズ]]となったエドワードは、将来の国王として即位するための準備を始めなければならなくなり、兵学校の卒業を前にして正式な海軍軍人としてのコースから外されることとなった。[[1911年]]に戦艦「[[ヒンドゥスタン (戦艦)|ヒンドゥスタン]]」での3ヶ月の研修を経て、[[士官候補生]]となった後は、[[オックスフォード大学]]のモードリン・カレッジに入学し、ここも正式な課程を経ずに修了した。<br /> <br /> === 王太子時代 ===<br /> [[ファイル:Edward V111 circa1915.jpg|thumb|160px|ウェールズ大公エドワード(1915年)]]<br /> [[1910年]]5月6日に[[ロスシー公]]並びに[[コーンウォール公]]、同年6月23日に[[プリンス・オブ・ウェールズ]]並びに[[チェスター伯]]となり、翌[[1911年]]7月13日に[[ウェールズ]]の[[カーナーヴォン城]]で叙位式を行った。その際、[[ウェールズ語]]で答辞を述べ、これは以降のプリンス・オブ・ウェールズの答辞として定着することとなる。<br /> <br /> これと相前後して[[第一次世界大戦]]が勃発し、[[イギリス軍|軍]]に志願できる最低限の年齢に達していたエドワードは、軍への入隊を熱望し、[[1914年]]6月に[[イギリス陸軍|陸軍]]の[[グレナディアガーズ]]に入隊、自らを一兵士として最前線に派遣するよう直訴した。しかし、陸軍大臣である[[ホレイショ・キッチナー]]が、[[イギリス王位継承順位|王位継承権]]第1位にあるプリンス・オブ・ウェールズが捕虜となるような事態が起こればイギリスにとって莫大な危害が及ぶとの懸念を示したことから、拒否されることとなった。<br /> <br /> それでも、エドワードは最前線を可能な限り慰問に訪れ、これにより[[1916年]]には[[ミリタリー・クロス]]を授与され、後に[[退役軍人]]の間で大きな人気を得ることに繋がった。[[1918年]]には[[イギリス空軍|空軍]]で初めての飛行を行い、後に[[パイロット (航空)|パイロット]]のライセンスを取得した。1922年来日。<br /> <br /> 大戦後は、海外領土における世論がイギリスに対して反発的なものになるのを防ぐべく、[[イギリスの海外領土|自国領]]や[[イギリス帝国|植民地]]を訪問した。その一方で世界各国を歴訪し、訪問先では度々絶大な歓迎を受け、[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]][[イギリスの首相|首相]]からは「私たちの最も素晴らしい大使」と評された。<br /> <br /> また、失業問題や労働者の住宅問題に関心を寄せ、いわゆる「平民」や一兵卒のなかに飛び込んで、気さくに言葉を交わし、王族の人間としては最初に[[煙草]]を吸っているところを新聞社に撮らせたり、ラジオ放送に出演したことでも知られている。他にも、オックスフォード大学在学中には、キャンパス内で[[バンジョー]]を弾きながら「[[赤旗の歌]]」(王制を否定する[[共産主義]]の歌)を歌ったり、ロンドンの高級レストランで[[オーストラリア国防軍]]の兵隊達が店員から食事を拒否されている場面を目の当たりした際は、兵隊全員を自分のテーブルに招いて食事を振舞った、などといったエピソードもあり、マスコミからは「比類なき君主制度のPRマン」などと評されるなど、国内外を問わず大変な人気者となった。<br /> <br /> しかし、[[オーストラリア]]を訪問した際に[[先住民]][[アボリジニ]]のことを「私がこれまでに見た生物での中でも、最も醜悪な容姿をしている。彼らは人間の中でも最も[[サル|猿]]に近い」などという[[人種差別]]そのものの発言をして、物議を醸したこともあった。<br /> <br /> [[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-13538, Edward Herzog von Windsor.jpg|thumb|left|160px|ウェールズ大公エドワード(1932年)]]<br /> また、[[刺繍]]や[[狩猟|キツネ狩り]]、[[乗馬]]、[[バグパイプ]]の演奏、[[ゴルフ]]、[[ガーデニング]]など非常な多趣味で知られていた一方で、ヨーロッパでも屈指のプレイボーイとしても有名で、14年間愛人関係にあったフリーダ・ダドリー・ウォード[[自由党 (イギリス)|自由党]][[庶民院 (イギリス)|庶民院]](下院)議員夫人をはじめとして、貴族令嬢から芸能人まで交際相手は幅広かった。また、黒人歌手の[[フローレンス・ミルズ]]がプリンス・オブ・ウェールズとの関係を「あなたにあげられるもの、それは愛だけ」と歌って、一躍人気歌手の仲間入りを果たしたり、エドワードとの赤裸々な情事を綴った[[テルマ・ファーネス]]とその妹による暴露本がベストセラーになるなど、その美男子ぶりと派手な女性遍歴から「プリンス・チャーミング」や「世界で一番魅力的な独身男性」などと評されたこともあった。<br /> <br /> そんな中、[[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]女性[[ウォリス・シンプソン]]との交際が[[1931年]]頃から始まる。気さくな性格で、母親からの愛情に恵まれないまま育ったことから年上の女性や人妻からの温もりを求めがちだったエドワードにしてみれば、自由奔放かつ博識で(実際には年下であったが)母性を感じさせるウォリスの存在は大変に魅力的であり、彼女との結婚を真剣に検討するようになる。<br /> <br /> しかし、ウォリスは離婚歴を持ち、また交際当時にはれっきとした人妻であった。しかも[[イングランド国教会]]では離婚は禁じられているにもかかわらず、エドワードは無理にウォリスを離婚させて妃として迎え入れようとしていた。この行為は将来国教会首長兼務の連合王国国王となるプリンス・オブ・ウェールズとしての立場上許されることではなく、身分を問わず国民大多数がこの交際と将来の成婚に反発した。この問題に悩まされたジョージ5世は、人妻ばかりと交際し続けるエドワードの性癖を本気で軽蔑し、2人の間には言い争いが絶えず、[[1935年]]9月に[[カンタベリー大主教]][[コズモ・ラング]]と協議を重ねたが結論は見出せず、「自分が死ねば、1年以内にエドワードは破滅するだろう」と言い残した。<br /> <br /> === 国王時代 ===<br /> [[ファイル:King Edward VIII and Mrs Simpson on holiday in Yugoslavia, 1936.jpg|thumb|ユーゴスラビアでウォリスとともに休暇を過ごすエドワード8世(1936年)]]<br /> [[1936年]]1月のジョージ5世の死後、独身のまま「エドワード8世」として王位を継承し、即位式にはウォリスが立会人として付き添った。しかし、[[イギリス王室|王室]]関係者はウォリスを「ただの友人」扱いをしたため、エドワード8世はウォリスに対して「愛は募るばかりだ。別れていることがこんなに地獄だとは」などと熱いまでの恋心を綴ったラブレターを送ったり、これ見よがしにウォリスと同年の8月から9月の間に王室の所有するヨットで海外旅行に出かける、ウォリスと共にペアルックのセーターを着て公の場に登場する等アピールを繰り返した。しまいには、[[スタンリー・ボールドウィン]]首相らが出席しているパーティーの席上で、ウォリスの夫[[アーネスト・シンプソン|アーネスト]]に対して「さっさと離婚しろ」などと恫喝した挙句に暴行を加えるなどといった騒ぎまで引き起こした。<br /> <br /> また、ウォリスも10月27日に離婚手続きを済ませいつでも王妃になれるよう準備をしたが、エドワードとの関係を持ちながら、同年8月より駐英ドイツ大使となった[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]との関係があったと取りざたされた上に、エドワード8世は[[アドルフ・ヒトラー]]や[[ベニート・ムッソリーニ]]ら[[ファシズム|ファシスト]]に親近感があるような態度を取り、この言動は[[保守党 (イギリス)|保守党]]内における抗争の火種にまで発展することとなった。<br /> <br /> エドワード8世は[[ウィンストン・チャーチル]]と相談しながら、「私は愛する女性と結婚する固い決意でいる」という真意を国民に直接訴えようと、ラジオ演説のための文書を作成する準備をしたが、ボールドウィン首相は演説の草稿の内容に激怒し、「政府の助言なしにこのような演説をすれば、[[立憲君主制]]への重大違反となる」とエドワード8世に伝えた。チャーチルは「国王は極度の緊張下にあり、[[神経症|ノイローゼ]]に近い状態」であるとボールドウィン首相に進言したが、ボールドウィン首相はそれを黙殺し、事態を沈静化させるために意を決し、[[1936年]][[11月]]にエドワード8世の側近である個人秘書の[[アレグザンダー・ハーティング]]を呼び寄せてエドワード8世のもとに派遣し、「王とシンプソン夫人との関係については、新聞はこれ以上沈黙を守り通すことはできない段階にあり、一度これが公の問題になれば総選挙は避けられず、しかも総選挙の争点は、国王個人の問題に集中し、個人としての王の問題はさらに王位、王制そのものに対する問題に発展する恐れがあります」という文書を手渡し、王位からの退位を迫った。<br /> <br /> [[ファイル:Edward abdication.png|thumb|180px|エドワード8世と3人の弟達のサインが記入された退位文書]]<br /> この文書をきっかけにエドワード8世は退位を決意し、[[12月8日]]に側近に退位する覚悟を決めたことを伝えた。イギリス国内では、7日頃からエドワード8世がウォリスとの結婚を取り消すことを発表するだろうとの噂が流れていたが、9日の夜頃に一転して、国民の間でも退位は確実との情報が流れて、国内には[[宣戦布告]]をも上回る衝撃が走ったといわれている。[[12月10日]]に正式に詔勅を下し、同日の[[東京朝日新聞]]をはじめとする日本国内の各[[新聞社]]の[[夕刊]]もこのニュースをトップで報道した。同日午後3時半に、ボールドウィン首相が[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]の議場において、エドワード8世退位の詔勅と、弟のヨーク公が即位することを正式に発表した。<br /> <br /> この影響で、[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]では[[電話回線]]がパンクし、ビジネスマン達はエドワード8世退位による経済変動の対策に追われ、[[映画館]]では字幕スーパーでニュース速報が流れ{{要出典|date=2011年4月}}、上映終了後に観客全員に起立を呼びかけたうえで『[[女王陛下万歳|国王陛下万歳]]』が演奏された。[[ロンドン]]の市街地では、[[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウエスト・エンド]]をはじめとする商業施設の機能が停止し、群集が午後4時頃から出された[[号外]]を奪い合い、[[バッキンガム宮殿]]に出入りする王族を一目見ようと宮殿付近に殺到するといったような事態にまでなり、ロンドンの街は大混乱に陥った。<br /> <br /> そして翌日の[[12月11日]]午後10時1分に[[英国放送協会|BBC]]のラジオ放送を通じて、王位を継承するヨーク公への忠誠、王位を去ってもイギリスの繁栄を祈る心に変わりはないことを国民に語りかけた上で、王である前に一人の男性であり、自分の心のままに従いたく、ウォリスとの結婚のために退位するのに後悔はないとして、「&#039;&#039;&#039;私が次に述べることを信じてほしい。愛する女性の助けと支え無しには、自分が望むように重責を担い、国王としての義務を果たすことが出来ないということを。&#039;&#039;&#039;({{lang|en|But you must believe me when I tell you that I have found it impossible to carry the heavy burden of responsibility and to discharge my duties as King as I would wish to do without the help and support of the woman I love.}})」&lt;ref&gt;{{citation|author=Edward VIII|title=Broadcast after his abdication, 11&amp;nbsp;December 1936|publisher=Official website of the British monarchy|url=http://www.royal.gov.uk/pdf/edwardviii.pdf |accessdate=1 May 2010|format=PDF}}&lt;/ref&gt; という言葉で名高い退位文書を読み上げた。在位日数はわずか325日で、[[1483年]]の[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]]以来453年振りに未戴冠のまま退位した国王となった。この一連の出来事を「&#039;&#039;&#039;王冠を捨てた&#039;&#039;&#039;」または「&#039;&#039;&#039;王冠を賭けた恋&#039;&#039;&#039;」とも言う。<br /> <br /> 放送終了後に、王族達と最後の食事を摂った「元国王」のエドワードは、日付が変わった[[12月12日]]深夜に[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]の[[軍港]]から出航し、イギリスを去った。<br /> <br /> &lt;blockquote {{法令/blockquote@style}}&gt;<br /> ;エドワード8世国王陛下の退位宣言への効力付与等のための法律(英国)&lt;ref&gt;[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai7/sankou1.pdf 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議 2016年12月14日 配付資料 海外制度関連規定(PDF/ 67KB)]&lt;/ref&gt;<br /> ;第1条 国王陛下の退位宣言の効力<br /> :(1)[[1936年]]12月10日に現国王陛下(注:エドワード8世)により作成され、この法律の附則にも付した退位宣言書は、この法律に国王が裁可した後ただちにその効力を発する。これにより国王陛下は国王の職を解かれ、王位を失い、[[推定相続人|王位継承第一位]]の王族の一員により王位及びこれに付随する全ての権利、特権、権威が引き継がれる。<br /> :(2)国王陛下、もしあれば同陛下の子および同陛下の子の子孫は、同陛下の退位後は、王位継承に関していかなる権利も資格も利害も有せず、それゆえ[[1701年王位継承法]]第1条の規定はそのように解釈される。<br /> :(3)[[1772年]]王室婚姻法の規定(注:婚姻に国王の許可が必要、などの定め)は、国王陛下の退位後は、同陛下、もしあれば同陛下の子および同陛下の子の子孫には適用されない。<br /> ;第2条 <br /> :この法律は、[[1936年]]国王陛下退位宣言法として引用することができる。(1936年12月11日法律第3号)(抄)<br /> ;附則<br /> :私こと、グレートブリテン、アイルランドおよび英国海外自治領の国王であり、[[インド皇帝]]であるエドワード8世は、私および私の子孫のために王位を放棄する私の不退転の決断と、この退位宣言書にただちに効力が付されることを望む私の気持ちをここに表明する。<br /> :その証として、次に署名のある者の立会いの下、1936年12月10日、ここに名を記す。<br /> :国王・皇帝 ({{lang|en|&#039;&#039;Rex Imperator&#039;&#039;}}) エドワード <br /> :[[ジョージ6世 (イギリス王)|アルバート]]、[[ヘンリー (グロスター公)|ヘンリー]]、[[ジョージ (ケント公)|ジョージ]]の立会いの下、フォート・ベルヴェデーレにて署名 <br /> &lt;/blockquote&gt;<br /> <br /> === 退位後 ===<br /> ==== ウォリスとの結婚 ====<br /> 退位後は、弟のヨーク公が「ジョージ6世」として即位した。エドワードは[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]へ渡り、退位後の行動を嗅ぎ回るマスコミから身を守るために、イギリス政府が用意した[[スイス]]の[[チューリッヒ]]にあるホテルではなく、祖父の代から親密な関係にあった[[ロスチャイルド家]]によって準備された、[[ウィーン]]郊外のエンツェスフェルト城において、退位から2日後の[[12月13日]]より隠遁生活を始めた。その後は[[フランス第三共和政|フランス]]へ渡り、翌[[1937年]]3月8日に「ウィンザー公」の称号を与えられた。<br /> <br /> 5月4日にウォリスと約半年ぶりに再会し、正式に結婚。父ジョージ5世の誕生日でもある6月3日にフランスの[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|トゥール]]近郊のシャトゥー・ドゥ・キャンデにあるサロンでごく親しい友人のみを招いて挙式した。<br /> <br /> 以後、王室とはしばらくの間疎遠となり、特に母メアリー王太后と弟ジョージ6世の妻[[エリザベス・ボーズ=ライアン|エリザベス]]王妃とは完全な絶縁状態となった。当初、ウィンザー公はフランスで1、2年間「亡命生活」を過ごした後、再度イギリスで生活することを仮定していたが、メアリー王太后とエリザベス王妃を味方につけたジョージ6世が「許可を得ずに帰国するようなことがあれば、王室からの手当を打ち切る」と強硬な態度に出たため、実現には至らなかった。<br /> <br /> ==== ドイツとの親密な関係 ====<br /> [[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-17964, Ordensburg Krössinsee, Herzog von Windsor.jpg|thumb|right|220px|[[ロベルト・ライ]][[博士]]とともに[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]を視察するウィンザー公(1937年10月13日)]]<br /> [[1937年]]10月、ウィンザー公夫妻は[[イギリス政府]]の忠告に反して[[アドルフ・ヒトラー]]の招待を受けて[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]を訪問し、ヒトラーの山荘である[[ベルヒテスガーデン]]に滞在した。夫妻の訪独はドイツのメディアで大々的に報道され、滞在中の挨拶は[[ナチス式敬礼]]で通していた。<br /> <br /> ドイツによる国賓扱いや国民の歓迎を受けたことで、夫妻の自尊心と虚栄心は満たされたものの、ドイツの[[アンシュルス|オーストリア併合]]や[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア併合]]の実施など、ドイツによる覇権拡大政策をめぐりヨーロッパにおける情勢が緊迫を増し、英独関係が悪化を続けた後もしばしばドイツを訪問した。当時イギリスでは[[ネヴィル・チェンバレン]]政権によるドイツに対する[[宥和政策]]が進められていたものの、ウィンザー公夫妻による度を越したドイツへの肩入れは、ドイツに誤ったシグナルを送るものとして、イギリス王室と政府、そしてマスコミから強い反発を受けた。<br /> <br /> [[1939年]][[9月1日]]にドイツが[[ポーランド侵攻|ポーランドへの侵攻]]を開始したことを受けて、[[9月3日]]にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告した直後に、[[ルイス・マウントバッテン]]の命令で、夫妻は滞在先のフランスから[[イギリス海軍|海軍]][[駆逐艦]]「[[ケリー (駆逐艦)|ケリー]]」で帰国させられ、ウィンザー公はフランスの[[マジノ線]]における[[イギリス陸軍|陸軍]]の軍事作戦に従軍する[[少将]]に任ぜられた。<br /> <br /> しかし、ウィンザー公夫妻はそのままイギリスに留まることを拒否しフランスに戻ったが、[[1940年]]5月の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ドイツのフランス国内への進軍]]に伴い、夫妻は南へ移住することを決め、同月にフランスの[[ビアリッツ]]、6月に[[フランコ体制下のスペイン|スペイン]]に滞在した後、7月に[[エスタド・ノヴォ|ポルトガル]]の[[リスボン]]在住の英独双方と接触を持つ銀行員の邸宅に身を寄せた。<br /> <br /> リスボン滞在中の[[1940年]]7月に、ヒトラーが「イギリス政府の理性的反省にもとづく和平交渉に臨む用意がある」としたうえで、「この提案を無視すれば[[グレートブリテン島|イギリス本土]]での全面戦争も辞さない」と述べたことに対し、ウィンザー公はロイド・ジョージ等とともに和平に応じるよう呼びかけた。このウィンザー公の言動に対して、対独強硬派のチャーチル首相が「ウィンザー公の欧州戦争に対する影響力を最小限に止めたい」と主張したことや後述のスパイの報告から、イギリス政府は[[8月18日]]に急遽、ウィンザー公をイギリスの[[植民地]]であり、ヨーロッパの戦場から遠く離れた[[バハマ]]における[[総督]]と駐在[[イギリス軍]]の総司令官に任命し、直ちにウィンザー公夫妻を同地に送った。<br /> <br /> 総督とはいえ、実際には[[名誉職]]であり、閑職も同然という状態であったが、バハマを「3等植民地」として言及し、[[農業]]生産の拡大や[[子供]]たちを対象とした[[診療所]]の開設など、同地域における[[貧困]]対策に尽力する姿勢は、一定の評価を受けた。しかし、前述のような[[人種差別]]志向から、ウォリス夫人と同様、現地の[[ネグロイド|黒人]]を差別するような言動も多かったと言われている。<br /> <br /> [[ファイル:The Duke of Windsor (1945).jpg|thumb|220px|バハマ総督時代(1945年)]]<br /> さらに、[[プラハ]]にいたイギリスの[[スパイ]]から[[外務次官]]宛の1940年6月付の報告で「ウィンザー公が水面下でドイツ政府と交渉を行った結果、ウィンザー公とドイツ政府の間で、ウィンザー公を首班とした反政府組織の設立にドイツが協力することと、ドイツが勝利した後に自身を[[イギリスの君主|イギリス国王]]へ返り咲かせる(そしてウォリスを王妃に就かせる)という密約を結んだ」ことが明らかになった(なおこのような報告があった事実は[[2010年代]]まで公表されなかった)上に、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の情報をドイツにリークしていたという疑惑も挙がった。<br /> <br /> ウィンザー公はこのような疑惑や、「バハマ総督の職務以上の事に関与しようとしている」ことを否定したものの、1941年4月に夫人と共に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フロリダ州]][[パームビーチ (フロリダ州)|パームビーチ]]に出向いた際は、[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の指令により、常に[[連邦捜査局|FBI]]の監視下に置かれていたと言われている。なお、ドイツの降伏の1か月半前の[[1945年]]3月16日に総督を辞任した後は、イギリスに帰国せずに同年8月の[[第二次世界大戦]]終了までアメリカでバカンスを過ごした。<br /> <br /> なお、第二次世界大戦後に自ら認めた回顧録『ある王の物語』の中でウィンザー公は、自らを親独派であったことを認めたうえで、「決して[[ナチズム]]を支持していた訳ではない」と釈明した。また、[[アルベルト・シュペーア]]は戦後、ヒトラーは「ウィンザー公との接触を失ったことは、我々にとって、大きな痛手だった」という旨の発言をしていたことを証言しており、ドイツ政府が水面下でウィンザー公と接触していたこと、そしてそれに気づいたイギリス政府が接触を切ったことが明らかになった。<br /> <br /> 他にも、ヒトラーはイギリスを降伏させたあとの[[傀儡政権]]のトップとしてウィンザー公を利用するため、[[ヴァルター・シェレンベルク]][[親衛隊少将]]に命じて、リスボン滞在中のウィンザー公を誘拐する作戦([[コードネーム]]は“{{lang|en|Operation Willi}}”)を企てていたという説がある。<br /> <br /> ==== 戦後 ====<br /> 第二次世界大戦後はフランスに戻り、[[パリ]]近郊の[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]で、[[フランス第四共和政|フランス]]政府から[[所得税]]を免除され、パリ市から提供された住宅に住むといった、悠々自適の生活を過ごす一方で、夫妻で[[ホワイトハウス]]の[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]大統領を訪問したり、[[エドワード・R・マロー]]司会の「{{lang|en|Person to Person}}」に出演するなど、積極的な活動を続けていた。<br /> <br /> [[ファイル:Nixon and the Windsors.jpg|thumb|240px|ニクソン大統領とともに(1970年4月4日)]]<br /> だが、[[イギリス王室]]との不和な状態は相変わらずであり、王室はウォリスを決して「ウィンザー公夫人」として受け入れようとはしなかった。特に、メアリー王太后がウォリスを王室に受け入れることを頑なに拒んだため、[[1952年]]のジョージ6世の死去の際などへの参列ではウォリスを伴うことをためらって単身で参列し、[[1953年]][[6月2日]]に行われた姪の[[エリザベス2世]]の[[戴冠式]]には出席せず、パリの自宅でテレビ中継を観るだけに留まった。<br /> <br /> しかし、[[1965年]]になってエリザベス2世と[[マリナ (ケント公爵夫人)|ケント公爵夫人マリナ]]、[[メアリー (ハーウッド伯爵夫人)|プリンセス・ロイヤル]]の3名の名義によって初めて公式に夫妻で招待され、事実上ウォリスが「ウィンザー公夫人」として認められることとなった。このことから、同年に執り行われたプリンセス・ロイヤルの葬儀、[[1967年]]の[[メアリー・オブ・テック|メアリー王太后]]の生誕100周年記念式典、[[1968年]]の[[マリナ (ケント公爵夫人)|ケント公爵夫人マリナ]]の葬儀には、夫妻で出席した。<br /> <br /> 晩年には、アメリカの[[リチャード・ニクソン]]大統領とも親密な関係になり、[[英国放送協会|BBC]]のインタビューに答えるなど、衰えを感じさせない活動ぶりを見せていた。しかし実際には、[[1960年代|60年代]]の中頃からウィンザー公は体調を崩してしまうようになり、[[1964年]]12月には腹部大動脈瘤、翌[[1965年]]2月には左眼の[[網膜剥離]]の手術を相次いで受けたほか、[[1971年]]末には[[食道癌]]を発症したことから[[放射線療法]]を受けた。1971年10月には、公邸で[[ヨーロッパ]]訪問中の[[昭和天皇]]と半世紀ぶりに会見した。<br /> <br /> === 死去 ===<br /> エリザベス2世は[[1972年]]に[[フランス]]を公式訪問した際、[[5月18日]]に[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]のウィンザー公邸を訪問し、末期の[[食道癌]]で重体のウィンザー公を見舞った。その10日後の現地時間[[5月28日]]午前2時25分にウィンザー公は死去し、そのニュースは「ウィンザー公ひっそり逝く」、「祖国を出て36年、世紀の恋の終焉」、「枕辺に最愛のシンプソン夫人」などといった形で、世界各国で大々的に報道された。<br /> <br /> 遺体はイギリスに帰り、死去から8日後の[[6月5日]]に葬儀が執り行われたが、その際ウォリスはエリザベス2世らがなだめるのを聞かないほど取り乱して号泣していたという。遺体は他の王族と同様に、王室墓地に埋葬されることとなった。その後ウォリスは[[1986年]]に亡くなり、遺産は遺言で[[パスツール研究所]]に全額寄付された。なお子はいなかった。<br /> <br /> ウォリスとの結婚や退位については、「もし時計の針を元に戻せても、私は同じ道を選んだでしょう」として亡くなるまで一度も後悔しなかったが、テレビインタビューでほじくり返すようにこの件について質問してきたインタビュアーに対して、露骨に不快感を示す一幕もあったという。<br /> <br /> == 来日 ==<br /> [[1922年]]に[[プリンス・オブ・ウェールズ]]として来日した。裕仁親王(後:[[昭和天皇]])の訪欧の返礼として[[日本]]を訪問し、4月16日に[[新宿御苑]]にて観桜会に参加、4月17日に[[浜離宮]]の[[鴨場]]で鴨猟をしたほか、4月18日15時30分頃に、吹上御苑から日比谷公園へ向かう途中で、{{要出典範囲|date=2017年9月|イギリス王族としては初めて}}[[靖国神社]]にて降神の祝詞に続いて玉串を捧げた&lt;ref&gt;{{Cite news | title = 九段へ行啓 | newspaper = [[東京朝日新聞]] 朝刊 | date = 1922-4-19 | at = 5面 | ref = asahi_1922_4_19_kudan<br /> }}&lt;/ref&gt;。5月5日には[[大阪電気軌道]](現:[[近鉄奈良線]])の[[近鉄奈良駅|奈良駅]]〜[[大阪上本町駅|上本町駅]]間の電車に乗車した。また、[[京都]]などを回って皇族や軍人などと面談したほか、[[鹿児島県]]では[[島津家]]の邸宅(現:[[仙巌園]])を訪ね、鎧兜を着用して祝賀会に出席した。パーティでは随行員らとともに、着物姿と[[法被]]姿を披露した。法被は名入りのものを京都で自らあつらえた。襟に[[高島屋]]呉服店配達部とあるものもあり、[[人力車]]夫に扮した姿が残されている&lt;ref&gt;[http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/27408/1/japonisme32_31.pdf 第一部報告 第二ジャポニスム論の試み]橋本順光、大阪大学『ジャポニスム研究』 31 2011-11&lt;/ref&gt;。日本側の歓迎や来日時の動静・写真は、東京市 編『英国皇太子殿下東京市奉迎録』&lt;ref&gt;{{Open access}}{{Cite book|和書|author = 東京市|authorlink = 東京市|title = 英国皇太子殿下東京市奉迎録|date = 1923|publisher = 東京市|location = 東京市|id = {{NDLJP|1185096}}|ref=英国皇太子殿下東京市奉迎録}}&lt;/ref&gt;や、大阪毎日新聞社編 『答礼使御来朝記念写真帖』&lt;ref&gt;{{Open access}}{{Cite book|和書|author = 大阪毎日新聞社|authorlink = 大阪毎日新聞社|title = 答礼使御来朝記念写真帖|date = 1922|publisher = 荒木利一郎|location = 箕面村 (大阪府)|series = 答礼使御来朝記念写真帖|id = {{NDLJP|967729}}|volume = 中巻|ref=答礼使御来朝記念写真帖上巻}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Open access}}{{Cite book|和書|author = 大阪毎日新聞社|authorlink = 大阪毎日新聞社|title = 答礼使御来朝記念写真帖|date = 1922|publisher = 荒木利一郎|location = 箕面村 (大阪府)|series = 答礼使御来朝記念写真帖|id = {{NDLJP|967730}}|volume = 下巻|ref=答礼使御来朝記念写真帖上巻}}&lt;/ref&gt;に記録されている。<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Empress Sadako with Prince of Wales in 1922.jpg|4月16日午後3時から[[新宿御苑]]で行われた観桜会<br /> File:Edward VIII in Japan 1922 Shinjuku Gyoen ndl 1185096 148.jpg|[[新宿御苑]]観桜会。右端先頭の陸軍大佐の軍服がエドワード王太子、先頭列中央が[[貞明皇后]]、横に[[昭和天皇|皇太子摂政宮裕仁親王]]、後ろに[[閑院宮載仁親王|閑院宮]]、[[東伏見宮依仁親王|東伏見宮]]、[[依仁親王妃周子|同妃]]、[[賀陽恒憲|賀陽宮]]、[[山階武彦|山階宮]]、[[珍田捨巳|珍田伯]]ら<br /> File:Edward VIII in Japan 1922 Hamarikyu ndl 967729 49.jpg|4月17日[[浜離宮]]で行われた鴨猟。縞のハンチング帽で網を持っているのがエドワード王太子、その後ろの中折れ帽が裕仁親王<br /> File:Edward VIII wearing Samurai clothes in Kagoshima Japan 1922.jpg|島津邸での鎧姿。<br /> File:Edward VIII with his staff in Japan 1922.jpg|船上パーティでの着物姿。随行員らと。<br /> File:Edward VIII wearing Kimono 1922.jpg|船上パーティでの着物姿。<br /> File:Edward VIII wearing Happi 1922.jpg|船上パーティで法被を着て車夫に扮する。<br /> File:Edward VIII with his staff wearing Happi 1922.jpg|船上パーティでの車夫姿。<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 栄典 ==<br /> === 王族称号 ===<br /> * 1894年7月16日 – 1898年5月28日<br /> *:エドワード・オブ・ヨーク王子({{lang|en|His Highness Prince Edward of York}})<br /> * 1898年5月28日 – 1901年1月22日<br /> *:エドワード・オブ・ヨーク王子殿下({{lang|en|His Royal Highness Prince Edward of York}})<br /> * 1901年1月22日 – 1901年11月9日<br /> *:エドワード・オブ・コーンウォール・アンド・ヨーク王子殿下({{lang|en|His Royal Highness Prince Edward of Cornwall and York}})<br /> * 1901年11月9日 – 1910年5月6日<br /> *:エドワード・オブ・ウェールズ王子殿下({{lang|en|His Royal Highness Prince Edward of Wales}})<br /> * 1910年5月6日 – 1910年6月23日<br /> *:コーンウォール公爵殿下({{lang|en|His Royal Highness The Duke of Cornwall}})<br /> * 1910年5月6日 – 1936年1月20日<br /> *:ロスシー公爵エドワード王子殿下({{lang|en|His Royal Highness The Prince Edward, Duke of Rothesay}})<br /> * 1910年6月23日 – 1936年1月20日<br /> *:プリンス・オブ・ウェールズ殿下({{lang|en|His Royal Highness The Prince of Wales}})<br /> * 1936年1月20日 – 1936年12月11日<br /> *:国王陛下({{lang|en|His Majesty The King}})<br /> * 1936年12月11日 – 1937年3月8日<br /> *:エドワード王子殿下({{lang|en|His Royal Highness The Prince Edward}})<br /> * 1937年3月8日 – 1972年5月28日<br /> *:ウィンザー公爵殿下({{lang|en|His Royal Highness The Duke of Windsor}})<br /> &lt;center&gt;<br /> {{Gallery<br /> |title=<br /> |footer=<br /> |width=200<br /> |height=200<br /> |lines=4<br /> |ファイル:Coat of Arms of Edward, Prince of Wales (1910-1936).svg|プリンス・オブ・ウェールズとしての[[紋章]]<br /> |ファイル:Coat of Arms of the United Kingdom (1837-1952).svg|エドワード8世としての紋章<br /> |ファイル:Coat of Arms of the United Kingdom in Scotland (1837-1952).svg|スコットランドにおけるエドワード8世としての紋章<br /> |ファイル:Coat of Arms of Edward, Duke of Windsor.svg|ウィンザー公としての紋章<br /> }}<br /> &lt;/center&gt;<br /> === 軍の階級 ===<br /> * [[1911年]][[6月22日]] - [[イギリス海軍|海軍]]士官候補生<br /> * [[1913年]][[3月17日]] - 海軍[[大尉]]<br /> * [[1914年]][[11月18日]] - [[イギリス陸軍|陸軍]][[中尉]]<br /> * [[1916年]][[3月10日]] - 陸軍大尉<br /> * [[1918年]] - 陸軍暫定[[少佐]]<br /> * [[1919年]][[4月15日]] - 陸軍[[大佐]]<br /> * 1919年[[7月8日]] - 海軍大佐<br /> * [[1922年]][[12月5日]] - [[イギリス空軍|空軍]]大佐<br /> * [[1930年]][[9月1日]] - 空軍[[中将]]<br /> * [[1935年]][[1月1日]] - 陸海空軍[[大将]]<br /> * [[1936年]] - [[元帥 (イギリス)|陸海空軍元帥]]<br /> * [[1939年]] - 陸軍[[少将]]<br /> ** その他、外国の国軍においても叙任されている。[[日本]]からは[[1922年]][[4月12日]]に[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[大将]]位を送られている。<br /> <br /> === 勲章 ===<br /> *[[1910年]]、[[ガーター勲章]]勲爵士(KG)<br /> *[[1916年]]、{{仮リンク|ミリタリー・クロス (イギリス)|label=ミリタリー・クロス|en|Military Cross}}(MC)<br /> *[[1920年]]、[[ロイヤル・ヴィクトリア勲章]]ナイト・グランド・クロス(GCVO)<br /> *[[1921年]]、[[インドの星勲章]]ナイト・グランド・コマンダー(GCSI)<br /> *1921年、[[インド帝国勲章]]ナイト・グランド・コマンダー(GCIE)<br /> *[[1922年]]、[[シッスル勲章]]勲爵士(KT)<br /> *[[1927年]]、[[聖パトリック勲章]]勲爵士(KP)<br /> *[[1936年]]、[[バス勲章]]ナイト・グランド・クロス(GCB)&lt;ref name=&quot;thepeerage&quot;&gt;{{Cite web|last=Lundy|first=Darryl|url=http://thepeerage.com/p10068.htm#i100678|title=Edward VIII Windsor, King of the United Kingdom|work=thepeerage.com|language=英語|accessdate=2015年8月3日}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==== 外国勲章 ====<br /> 以下、国名五十音順。カッコ内の年代は授与された年。<br /> *[[バーラクザイ朝|アフガニスタン王国]]:太陽勲章({{lang|en|Order of the Sun}})([[1928年]])<br /> *[[イタリア王国]]:[[聖アヌンツィアータ騎士団|受胎告知勲章]]([[1915年]])、[[サヴォイア軍事勲章]]([[1917年]])<br /> *[[イラク王国]]:{{仮リンク|二大河勲章|en|Order of Al Rafidain}}([[1927年]])<br /> *[[エジプト王国]]:ムハンマド・アリー勲章({{lang|en|Order of Mohammed Ali}})([[1922年]])<br /> *[[サン・マリノ共和国]]:{{仮リンク|サン・マリノ勲章|it|Ordine equestre per il merito civile e militare}}([[1935年]])<br /> *[[スウェーデン]]:{{仮リンク|熾天使勲章|sv|Serafimerorden}}([[1923年]])<br /> *[[スペイン]]:[[金羊毛騎士団|金羊毛勲章]]([[1912年]])<br /> *[[タイ王国]]:[[大チャクリー勲章]]<br /> *[[チリ]]:{{仮リンク|功労勲章|es|Orden al Mérito de Chile}}([[1925年]])<br /> *[[デンマーク]]:[[象勲章]]([[1914年]])<br /> *[[日本]]:[[大勲位菊花大綬章]]([[1918年]])、[[大勲位菊花章頸飾]]([[1922年]])<br /> *[[ノルウェー]]:[[聖オーラヴ勲章]]([[1914年]])<br /> *[[ブラジル]]:{{仮リンク|南十字星勲章|pt|Ordem Nacional do Cruzeiro do Sul}}([[1931年]])<br /> *[[フランス]]:[[レジオンドヌール勲章]]([[1912年]])<br /> *[[プロイセン王国]]:[[ホーエンツォレルン王家勲章]]([[1913年]])<br /> *[[ペルー]]:{{仮リンク|ペルーの太陽勲章|es|Orden El Sol del Perú}}([[1931年]])<br /> *[[ベルギー]]:{{仮リンク|レオポルド勲章|nl|Leopoldsorde (België)|fr|Ordre de Léopold}}([[1918年]])<br /> *[[ボリビア]]:{{仮リンク|アンデスのコンドル勲章|es|Orden del Cóndor de los Andes}}<br /> *[[ポルトガル]]:キリスト・聖ベネディクト勲章(1931年)<br /> *[[ルーマニア王国]]:{{仮リンク|ミハイ勇敢公勲章|ro|Ordinul Mihai Viteazu}}([[1918年]])、[[カロル1世勲章]]([[1924年]])<br /> *[[ロシア帝国]]:{{仮リンク|聖ウラジーミル勲章|ru|Орден Святого Владимира}}([[1915年]])、{{仮リンク|聖ゲオルギー勲章|ru|Орден Святого Георгия}}&lt;ref&gt;[[#君塚(2004)|君塚(2004)]] p.298-299&lt;/ref&gt;<br /> この他、[[ドイツ帝国]][[領邦]]諸国などからも勲章をもらっている。<br /> {{-}}<br /> <br /> == 備考 ==<br /> [[ファイル:HRH-The-Prince-Of-Wales.jpg|thumb|180px|ウェールズ大公エドワードを描いた[[戯画]](1929年)]]<br /> * 前述の通り、幼少期に乳母から虐待を受けた経験から、長く神経性胃炎と[[双極性障害]]を患っていた。また大人になってからも、何か自分に気に入らないことがあると、すぐに大声で泣き叫ぶなど、年不相応に幼い面が多く見られたという。<br /> * 当時としては珍しい襟の大きなワイドスプレッドカラーのシャツを着用していたことから、そのシャツは彼の名前を取ってウィンザーカラーシャツとも呼ばれている。当時普段着として着られていたセーターをゴルフウェアとして着たり、ネクタイの結び方[[ウィンザーノット]]の名前の由来になったり(しかし本人は自著で関連を否定している)と、[[ダンディ|洒落者]]として知られている。<br /> * 即位前年の1935年に発行された5[[カナダドル]]紙幣に肖像が使用されている。<br /> * [[お召し列車]]を極端に嫌い、エドワード8世の治世が長く続けばイギリスでのお召し列車が廃れる可能性も大きかった&lt;!--(現在では、日本の[[皇室]]がこれほど過激なものでないにせよ、お召し列車をほどほどに控えるなど似たような傾向にある)--&gt;&lt;!-- 脱線トリビア --&gt;。<br /> * 1937年に[[トリニダード・トバゴ]]の[[カリプソニアン]]である[[ロード・カレッサー]]が発表した“Edward VIII”は、当時最も人気のある[[カリプソ (音楽)|カリプソ]]のひとつだった。<br /> * ウォリスとは終生仲の睦まじさをアピールしていたが、実際は晩年にはふたりの仲は冷え切っていたという。また近年公表された[[イギリス情報局秘密情報部]]の資料によると、ウォリスはプリンス・オブ・ウェールズ時代のエドワードとの交際と並行して、別の年下の男性とも交際していたという。<br /> *ウォリスは後にドイツの外相となる[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ|リッベントロップ]]とも愛人関係にあったことが指摘されている。彼が駐英大使としてロンドンにいた1936年前後から関係が始まり、エドワード8世の在位中にも密会を重ねており、英独開戦後にイギリス政府がウィンザー公夫妻をバハマに追いやったのも、ウォリスとドイツ高官との極めて近い関係がイギリスの戦略機密保持の妨げになりかねないことを警戒したためだったという説が現在では有力となっている。<br /> * 戦後は、度々パーティーを主催したり、パリと[[ニューヨーク]]を行き来する生活を過ごしていたが、[[ゴア・ヴィダル]]等ウィンザー公と会った人々は、一様に彼の愚鈍振りを語っていたという。<br /> * 昭和天皇は皇太子時代の訪欧で、やはり王太子だったエドワードの気さくで闊達な態度に感銘を受けている。帰国後そのスタイルを取り入れて開かれた皇室を目指そうとしたが、これは[[西園寺公望]]などの反発に遭って挫折した。その後のエドワードの訪日時にはゴルフで対戦したが、お世辞にも上手とはいえない裕仁親王に苦笑しつつ最大限の手加減をしたエドワードが僅差で勝利を収めている。<br /> * ウォリスとの経緯は、日本では『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』の昭和25年10月号に「わが愛の物語・王冠を賭けた世紀の恋」と題した回想録が掲載された。&lt;!--<br /> * 晩年に[[パグ]]を飼って以降は、夫人ともども非常に可愛がっていた。<br /> * 宝塚歌劇団月組公演において、「エドワード8世-王冠を賭けた恋-」が上演される。(2012年2月3日~宝塚大劇場、3月23日~東京宝塚劇場)--&gt;&lt;!-- 脱線トリビア --&gt;<br /> *[[フリーメイソン]]のハウスホールド・ブリゲート・ロッジNo2614のメンバーだった&lt;ref&gt;{{Cite web |url=http://www.lodgestpatrick.co.nz/famous.php|title=Famous Freemasons|accessdate= 2015-9-7|work= [http://www.lodgestpatrick.co.nz/index.php Lodge st.Patrick] |language= 英語 }}&lt;/ref&gt;<br /> ==脚注==<br /> ===注釈===<br /> {{Reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> ===出典===<br /> {{Reflist}}<br /> == 参考文献 ==<br /> *{{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=2004年(平成16年)|title=女王陛下のブルーリボン ガーター勲章とイギリス外交|publisher=[[NTT出版]]|isbn=978-4757140738|ref=君塚(2004)}}<br /> * [[河原敏明]]『天皇裕仁の昭和史』(1986年、[[文藝春秋]]、ISBN 4167416018)<br /> * [[森護]]『英国王室史話(下)』(2000年、[[中央公論新社]]、ISBN 4122036178)<br /> <br /> ==関連作品==<br /> *[[ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋]] - エドワードとウォリス・シンプソンの「王冠をかけた恋」を、[[マドンナ (歌手)|マドンナ]]が映画化した作品。<br /> *[[宝塚歌劇団]][[月組 (宝塚歌劇)|月組]]公演『[[エドワード8世 (宝塚歌劇)|エドワード8世-王冠を賭けた恋-]]』 - トップスター・[[霧矢大夢]]/トップ娘役・[[蒼乃夕妃]]の退団公演でもある。<br /> *[[英国王のスピーチ]] - [[2010年]]のイギリスの歴史ドラマ映画。[[ガイ・ピアース]]が彼の役を演じた。<br /> <br /> {{s-start}}<br /> {{s-hou|[[ウィンザー家]]|1894年|6月23日|1972年|5月28日|[[ヴェッティン家|ヴェッティン]]}}<br /> {{s-roy|uk}}<br /> {{s-bef|before=[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]}}<br /> {{s-ttl|title=[[イギリスの君主|イギリス国王]]&lt;br/&gt;[[自治領#イギリスの自治領(ドミニオン)|大英帝国自治領]]国王&lt;br /&gt;[[インド皇帝]]|years=1936年1月20日-1936年12月11日}}<br /> {{s-aft|after=[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]}}<br /> {{S-bef|before=[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ皇太子]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;&#039;&#039;後のジョージ5世&#039;&#039;&lt;/small&gt;}}<br /> {{s-ttl|title=[[プリンス・オブ・ウェールズ]]&lt;br&gt;[[コーンウォール公爵]]&lt;br&gt;[[ロスシー公爵]]|years=1910年–1936年}}<br /> {{s-vac|next=[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ皇太子]]}}<br /> {{s-reg|uk}}<br /> {{s-new| creation}}<br /> {{s-ttl|title=初代{{仮リンク|ウィンザー公爵|en|Duke of Windsor}}|years=[[1937年]]–[[1972年]]}}<br /> {{S-non|reason=廃絶}}<br /> {{s-gov}}<br /> {{s-bef|before={{仮リンク|チャールズ・ダンダス 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