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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=126.147.96.205&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-05T01:02:56Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 日本刀 2018-08-07T03:28:00Z <p>126.147.96.205: /* 室町以降 */</p> <hr /> <div>{{複数の問題<br /> |出典の明記 =2014年1月<br /> |独自研究 =2015年11月14日 (土) 01:21 (UTC)<br /> }}<br /> <br /> {{Infobox Weapon<br /> |name= 日本刀<br /> |image= [[File:Antique Japanese (samurai) katana met museum.jpg|300px]]<br /> |caption= <br /> |origin= [[日本]]<br /> |type= [[刀]]<br /> &lt;!-- Type selection --&gt;<br /> |is_bladed= yes<br /> &lt;!-- Production history --&gt;<br /> |production_date= <br /> &lt;!-- General specifications --&gt;<br /> |weight= <br /> |length= <br /> |part_length= 約60&amp;ndash;73 cm(23.6&amp;ndash;28.7 in)<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;日本刀&#039;&#039;&#039;(にほんとう)は、[[日本]]固有の[[鍛冶]]製法によって作られた[[刀]]類の総称である。<br /> <br /> 刀剣類は、日本では[[古墳時代]]以前から製作されていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、[[平安時代]]末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり刀身の片側に刃がある[[刀剣]]のことを指す。<br /> <br /> 寸法により[[刀]]([[太刀]]・[[打刀]])、[[脇差]](脇指)、[[短刀]]に分類される。広義には、[[長巻]]、[[薙刀]]、[[剣]]、[[槍]]なども含まれる。<br /> <br /> == 概説 ==<br /> 著名な日本刀には、[[日本国]][[国宝]]「[[大包平]]」、[[妖刀]]「[[村正]]」、「[[雷切]]」、[[豊臣秀吉]]の愛刀「[[一期一振]]」、「[[天下五剣]]」と称される5つの名刀([[国宝]]「[[童子切]]」、「[[三日月宗近]]」、「[[大典太]]」、[[重要文化財]]「[[数珠丸]]」、[[御物]]「[[鬼丸]]国綱」)などがある。詳しくは[[日本刀一覧]]を参照されたい。<br /> <br /> 古来から[[武器]]としての役割と共に、美しい姿が象徴的な意味を持っており、[[美術]]品としても評価の高い物が多い。古くから続く血統では権威の証として尊ばれていた。また武家に関するものとして挙げられることもある。その特徴は、「折り返し鍛錬法」で鍛え上げられた[[鋼]]を素材とする点と、刀身となかご([[茎 (刀)|茎]]、中心)が一体となった構造である。茎には刀身を目釘で柄に固定する目的の孔(目釘孔)が設けられている(稀に[[奉納]]用の刀などで目釘孔がないものもある)。また、日本刀は諸外国の刀剣類と異なり、外装(拵え)とは別に刀身自体が美術的価値を発揮していることが特徴である。<br /> <br /> == 「日本刀」という呼称 ==<br /> 「日本刀」は元来、日本国外からみた場合の呼称&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;アジアでは倭刀と呼ばれたが、現地で日本刀に模して作成されたものを指す事も多い。現代の漢文圏では「倭」を忌んで「和刀」と表記することもある。西欧では認知の普及により和語をそのまま&quot;katana&quot;と利用されたり、象徴的意味合いとして慣用的に“samurai sword”と呼ばれることもある。&lt;/ref&gt;である。古来の日本では「刀(かたな)」、もしくは「剣(けん・つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称を使っていない。また、[[木刀]]・[[竹刀]]・[[模擬刀]]に対置して「[[真剣]]」と呼ばれることもある。<br /> <br /> 「日本刀」という呼称は、[[北宋]]の詩人である[[欧陽脩]]の「日本刀歌」に見られる。この詩の中で、[[越]]([[華南]])の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行くことやその外装や容貌などの美術的観点が歌われている。日本刀の美しさが、平安時代後期 - 鎌倉時代初期に既に海外の好事家などにも認められており、[[輸出]]品の1つとされていたことを示している。<br /> <br /> 「日本刀」という名称は日本国外の刀剣とは異なる日本固有の刀剣の総称であり、日本人にとっての一般的名称として広まったのは[[幕末]]以降のことである。それ以前は「打刀(うちがたな)」や「太刀」など小分類で呼ぶのが普通であった。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> 日本刀は、政治・経済・文化・風俗・習慣など、その時々の歴史的要因により、変貌を続けてきた。<br /> <br /> === 上古から湾刀の出現まで ===<br /> [[ファイル:Prince Shotoku.jpg|thumb|[[直刀|大刀]](たち)を佩用する[[聖徳太子]]。黒漆塗の鞘に山形金物と長金具が付いた大刀を帯取と佩緒で下げている。]]<br /> 日本では独自に青銅製の刀剣類が生産されていたが、[[古墳時代]]以前にはすでに鉄製の刀剣類の生産が始まっていた。例えば、[[古事記]]に登場し古代天皇の[[三種の神器]]とされ、そのなかの一つ[[天叢雲剣|草那藝之大刀]](湾刀完成以前の[[直刀]]には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)がそれであり、[[埼玉県]]の[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]や[[島根県]][[安来市]]の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である[[造山古墳 (安来市)|造山古墳]](現古代出雲王陵の丘の一部)からは[[鉄剣・鉄刀銘文|鉄剣]]、[[直刀|大刀]]が出土している。稲荷山古墳から出土した[[金錯銘鉄剣]]にはワカタケル([[雄略天皇]])に仕えた功績を記念して[[471年]]に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。<br /> <br /> この時代の刀剣の多くは朽損しているが、古墳時代後期([[6世紀]])以降の直刀は「[[装飾付大刀]]」とも呼ばれ、金装・銀装・金銅装の煌びやかな装具を装着し、形態的にも様々なバリエーションのものが出現した。島根県安来市のかわらけ谷出土の[[金銅装環頭大刀]]は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも[[古代]]の輝きを今に伝える稀有な例として有名である。<br /> <br /> [[7世紀|7]] - [[8世紀]]以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、[[四天王寺]]の「[[丙子椒林剣]](へいししょうりんけん)」や「[[七星剣]](しちせいけん)」、[[正倉院]]の「[[金銀鈿荘唐大刀]](きんぎんでんかざりのからたち/きんぎんでんそうのからたち)」などが知られている。[[推古天皇]]が「馬ならば[[日向国|日向]]の駒、大刀ならば[[呉]]のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉([[中国]]南東部の総称)の刀が最良とされていたが、日本の鍛冶職人の水準も上昇してきた。正倉院では唐大刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、[[唐様大刀]]と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、[[平造り]]・[[切刃造り]]の[[直刀]]、[[蕨手刀]](わらびてのかたな)といった国産の刀も現存している。<br /> <br /> [[平安時代]]初期の刀剣は遺品にこそ乏しいが、[[坂上田村麻呂]]の儀仗用とされる[[鞍馬寺]]の「[[黒漆剣]](くろうるしのつるぎ)」や、兵仗用とされる[[清水寺 (加東市)]]の「[[騒速]](そはや)」が現存している。特に清水寺の大刀は切刃造の1口の他に鋒両刃造の2口があり、特色として3口とも鎬筋がやや中央に寄り、刀身全体に浅い反りがあることから、奈良時代末期から平安時代中期にかけて兵仗が直刀から湾刀へと変遷する過程の初期のものとも考えられる。しかし作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、はっきりと分かっていない。おそらくは奥州に住んでいた蝦夷の技術の影響を受け&lt;ref name=&quot;T.Saitou72p&quot;&gt;『金属が語る日本史』72p(斎藤努著、吉川弘文官出版、2012年初版)&lt;/ref&gt;、直刀片刃に角度をつけた[[蕨手刀]](彎曲刀)や、柄に透かしをつけて斬撃の衝撃を緩めた毛抜形蕨手刀、毛抜形刀、毛抜形を経て、反りのある日本刀に変化していった&lt;ref name=&quot;T.Saitou72p&quot; /&gt;。反りがつくことで引き切りに適した武器となり&lt;ref name=&quot;T.Saitou72p&quot; /&gt;、特に騎馬戦で使いやすくなった&lt;ref&gt;日本の歴史07『武士の成長と院政』 2001年 下向井龍彦 [[講談社]] ISBN 4-06-268907-3 &lt;/ref&gt;。{{要出典範囲|date=2016-1|刃金となる硬鉄を炭素含有量のことなる地金で巻き鍛造する製刀法は蕨手刀より見られるようになる。}}<br /> <br /> また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の[[太刀#毛抜形太刀|毛抜形太刀]]や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある[[小烏丸]](こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には[[大宝 (日本)|大宝]]年間(8世紀初頭)の刀工・[[天国 (人物)|天国]](あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。[[太刀#毛抜形太刀|毛抜形太刀]]は、[[藤原秀郷]]所用と伝える[[伊勢神宮]]のものが著名である。柄に[[毛抜]]形の透かし彫りがあることからこの名がある。<br /> <br /> === 平安時代 ===<br /> [[ファイル:Blacksmith_Munechika,_helped_by_a_fox_spirit,_forging_the_blade_Ko-Gitsune_Maru,_by_Ogata_Gekkō.jpg|thumb|稲荷山 小鍛冶。刀匠・[[三条宗近|宗近]]が[[稲荷神|稲荷]]の使いに相づちを打たせ、[[小狐丸]]という名刀を作り上げた。]]<br /> 平安時代後期、特に武家勢力が活発になった[[前九年の役]]や[[後三年の役]]あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。良質な[[砂鉄]]がとれる[[雲伯]]国境地域や[[備前国]]と、政治文化の中心である[[山城国]]・[[大和国]]などに刀工の各流派が現れてきた。[[源頼光]]が[[大江山]]の[[酒呑童子]]を斬ったとされる「[[童子切]]」([[伯耆国]]の[[安綱]]作、[[国宝]])や[[キツネ#日本人と狐(アカギツネ)の関係|キツネ]]に合鎚を打たせたという伝説のある「[[小狐丸]]」(山城国の[[三条宗近]]作、[[第二次大戦]]時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めとするが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっている。安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、[[古備前派|古備前友成]]などが、現存在銘作のある最古の刀工とみなされる。<br /> <br /> 平安時代の太刀の特徴を以下に列記する。造り込みは鎬造り、庵棟(いおりむね)で、身幅(みはば)は総じて狭く、鋒(きっさき)が詰まって小切先となる。姿は腰から棟側にあたかも倒れるような姿をしており、反り高く、物打(ものうち)は反りが伏せごころ。踏ん張りのある(元幅に比べて先幅が狭くなっていく形)優美な姿をしている。刃文(はもん)は直刃(すぐは)または小丁子(こちょうじ)・小乱(こみだれ)が入っており、沸(にえ)出来である。焼幅はあまり広くなく、刃区(はまち)から少し先の方から刃文が始まっているものが多い。これは[[日本刀研磨|研ぎ]]減りの関係でもあるが、「焼き落とし」とも呼び、豊後国[[行平]]など、九州鍛冶には後世でも見られる。茎(なかご)は反りがあり、雉股(きじもも)形が主流である。稀に元先の身幅(みはば)に差があまりない豪快な太刀も存在し、[[古備前派]]の[[包平]]の[[大包平]](おおかねひら [[東京国立博物館]]蔵)、真恒(さねつね [[久能山東照宮]]蔵)、友成(ともなり [[厳島神社]]蔵)、九州の[[三池光世]](みいけみつよ)の[[大典太]](おおでんた [[前田育徳会]]蔵)が著名でいずれも[[国宝]]に指定されている。<br /> <br /> === 鎌倉時代 ===<br /> [[鎌倉時代]]は武士の台頭とともに諸国で争乱が生じ、それに伴い日本刀の需要が急激に高まり&lt;ref name=&quot;MOOK-1,34&quot;&gt;[[#MOOK-1|図説・日本刀大全―決定版 34頁。]]&lt;/ref&gt;、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]による[[後鳥羽院番鍛冶|御番鍛冶]]制度の創設で刀工に対して積極的に作刀を奨励したこともあり、日本刀の黄金期を迎えた{{sfn|得能一男|2007| p=17}}。<br /> [[ファイル:Minamoto no Yoritomo.jpg|thumb|left|250px|伝[[源頼朝]]像。毛抜形太刀を佩刀している。]]<br /> <br /> ==== 鎌倉時代初期 ====<br /> [[鎌倉幕府]]による[[武家政権|武家政治]]の体制が確立し、刀剣界が活発になっていく{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=30}}。[[源頼朝]]の没後、源氏の三代目の[[源実朝]]でその政権が途絶え、代わりに北条氏が実権を掌握したが、この変動に乗じて後鳥羽天皇は自らの朝威を回復しようとした{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=30}}。[[土御門天皇]]に位を譲った後鳥羽上皇は院政を行い、熱心な愛刀家であったため日本刀の鑑定にも詳しく、自らも焼刃を施したといわれる{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=30}}。『[[銘尽|正和銘尽]]』{{Refnest|group=&quot;注&quot;|name=&quot;note&quot;|日本最古といわれる観智院本。「後鳥羽院御字被召抜鍛冶十二月結番次第」という記述がある{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=30}}。}}によると後鳥羽上皇は月ごとに山城・備前・備中などから刀工を召して鍛刀させ{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=30}}{{sfn|得能一男|2007| p=17}}、番鍛冶制度の影響で日本刀を代表する名刀がこの時代に多数生まれた{{sfn|得能一男|2007| p=17}}。<br /> <br /> 鎌倉初期の日本刀は、[[平安時代|平安]]後期にみられる初期日本刀の上品さを思わせる姿から、鎌倉中期に確立された豪壮な造りに移行する過渡期にあった{{sfn|得能一男|2007| p=17}}{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=32}}。反りに関しては、平安後期のような鎺金(はばきがね)のある部位から勢いがついて曲がるような形状から、鎺元の上あたりに反りの中心がくるような上品な立ち姿へと変化していった{{sfn|得能一男|2007| p=17}}。また、切先は小切先に分類されるが、この時期になると一回り大きくなり、それに伴い元身幅と先身幅の間が小さくなっていった{{sfn|得能一男|2007| p=17}}。この時期の日本刀を代表する刀工の栗田口久國の地金にみられるように、肌がよくつんで微細な地沸が良く付いたきれいな地金が造られるようになった{{sfn|得能一男|2007| p=18}}。刃文も美麗な小丁子乱がみられるようになり{{sfn|得能一男|2007| p=18}}、華麗な見栄えに加えた勇渾な作品が目立つようになってきた{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=32}}。<br /> <br /> 同時代の著名な刀工としては、備前国の末古備前派の正恒・延房・吉包、同国の古一文字派の[[則宗]]・助宗・助則、同国の福岡一文字派の延房・宗吉・助包、山城国の[[粟田口派]]の國友・久國・國安、大和国の古[[千手院派]]の行信・重弘、陸奥国の舞草派、出羽国の月山派、伯耆国の安鋼派、備中国の古[[青江派]]の守次・恒次・康次・貞次・助次・家次・正恒、豊後国の定秀派、薩摩国の古波平派の行安などが存在する{{sfn|得能一男|2007| p=18}}{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=246}}{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=247}}。<br /> <br /> ==== 鎌倉時代中期 ====<br /> 鎌倉幕府は[[承久の乱]]で[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]と争い、「[[御成敗式目]]」の制定により武士の全国支配を確固たるものにさせ、必然的に鎌倉が武家文化の中心地となっていった{{sfn|得能一男|2007| p=23}}。こうした変化に伴い武士が用いる武器の需要がますます高まり、それに応じて[[山城国]]の栗田口国網、備前の三郎國宗や福岡一文字助眞はじめとする刀工一族が鎌倉に集まった{{sfn|得能一男|2007| p=23}}。[[承久の乱]]で敗れた際に隠岐島に流された後鳥羽上皇は、そこでも刀を制作したとされ、後世に菊御作を残した{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=31}}。こういった事実はこの時代の世相をよく物語るものとなっている{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=31}}。また、この時代の寺院の権力化に伴う僧侶の武装化も刀剣界に影響を与えている{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=31}}。大和国では寺院お抱えの刀工群が生じたが、寺院が公家や武家以外の[[寺社勢力|一大勢力]]へ変化していくのに伴い、刀工の各流派はしだいに各宗派の影響力がある地域へと移住し、そのことによって寺社と刀工流派は双方に影響を及ぼすようになった{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=31}}。寺社権力の強大化を恐れた幕府は[[六波羅探題]]を通して、1228年に高野山の僧徒などに武装を禁止する命令を下し、また、1235年に再び禁止令を徹底しようと試みたがいずれも失敗し、この時代の流れに逆らうことはできなかった{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=31}}。 <br /> <br /> 鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついてくる{{sfn|得能一男|2007| p=23}}{{sfn|石井昌国|加島進|1966| p=80}}。鎌鋒は幅が広く長さが詰まって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がよくでている{{sfn|得能一男|2007| p=23}}{{sfn|石井昌国|加島進|1966| p=80}}。剛健な武家文化の特徴をよく表した強さが刀にも反映され、鎌倉初期に見られた傾向がより顕著になっていき、堅牢な武具を断ち切ることが可能なように造り込みが変化していった{{sfn|得能一男|2007| p=23}}。反りに関しては前時代のものと比べると浅くなっており、鎌倉末期から南北朝期の作品に特徴的な中間に反りがくるような姿になる過渡期にあった{{sfn|得能一男|2007| p=23}}{{sfn|石井昌国|加島進|1966| p=82}}。地鉄は全般的に多様化しており{{sfn|得能一男|2007| p=23}}、備前鍛冶の作にみられるように匂出来で映りが雲煙のごとくたなびくものが多くあらわれるようになった{{sfn|得能一男|2007| p=23}}{{sfn|石井昌国|加島進|1966| p=82}}。また、一文字派の吉用の例では、地景と映りが断続的にあらわれ、第二の刃文が確認できるように地は変化に富む{{sfn|石井昌国|加島進|1966| p=83}}。この時期の刃文は歴史上、最も美しく華やかなものとされ、備前と山城の作にみられるような大房丁子乱れが多く流行した{{sfn|得能一男|2007| p=23}}。<br /> <br /> この時期の短刀の特徴としては、反りがないか([[刺刀|刺刀:さすが]])、わずかに内反り(棟が研ぎ減ったと考えられているかあるいは元から筍反:たけのこぞりと呼ばれる&#039;&#039;&#039;筍造:たけのこづくり&#039;&#039;&#039;)になっており、茎は反りのないものと振袖形(ふりそでがた)がある{{sfn|石井昌国|加島進|1966| p=80}}。この頃から[[短刀]]の制作が活発になり、作例がしばしば見うけられる{{sfn|得能一男|2007| p=24}}。<br /> <br /> 同時期の著名な刀工としては、備前国の福岡一文字派の吉房・吉平・吉用・吉宗・吉家・吉包・助眞・助依・則包、同国片山一文字の則房、同国備前三郎派の國宗・國貞、同国古長船の光忠・長光、山城国の栗田口派の國綱・有國・國清・則國・國吉・吉光、同国の[[来派]]の國行・國俊、同国綾小路派の定利、大和国の千手院の力王・金王、備中国の古[[青江派]]の守次・助次・俊次・包次、周防国の仁王派の清綱・清久、薩摩国古波平派の家安などが存在する{{sfn|得能一男|2007| p=24}}{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=247}}。<br /> <br /> ==== 鎌倉時代末期 ====<br /> <br /> また、鎌倉幕府では、作刀研究推進のため、各地から名工を招聘した。主な刀工は、山城国から粟田口藤六左近[[国綱]]、備前国から[[福岡一文字]]派の[[助真]]、国宗派の[[国宗]]、京伝、大和伝の流れを汲む[[新藤五国光]]などと言われている。特に[[新藤五国光]]は、従来の山城伝伝統の精緻な地鉄の上に、大和伝に見られる沸働きの強い作風を確立し、事実上「相州伝」の祖と言われている。その弟子には[[行光]]、国広がおり、[[行光]]の弟子に越中[[則重]]、岡崎五郎入道[[正宗]]が知られている。備前伝が「匂出来」で知られる一方、相州伝は「沸出来」である。<br /> <br /> 山城・大和・備前・美濃・相模の5か国の作刀方式を「[[五箇伝]]」という。これら5か国の作刀には、それぞれ地鉄、鍛え、刃文などに独自の特色があり、それを「山城伝」、「相州伝」などと称する。なお、相模国については「相模伝」とは言わず「相州伝」という習慣がある。[[五箇伝]]は桃山 - 江戸時代にかけて[[日本刀研磨|刀剣研磨]]・[[鑑定]]を生業とした[[本阿弥]]一族が整理した区分であり、大正 - 昭和初期にかけて[[本阿弥光遜]]が体系的に整理した。<br /> <br /> 鎌倉時代末期、2度の[[元寇]]や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づく。この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をより豪快にしたものに変わっていく。身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒が延びたものが増えてくる。短刀やその他の刀剣にも太刀と同じように長寸の作がでてくる。ただし、全般に重ねが薄い点が他の時代との大きな差異である。<br /> <br /> 古今で最も著名な刀工、相州の岡崎五郎入道[[正宗]]は、ちょうど鎌倉中期から末期にかけて活躍したと推測されている。彼は、[[新藤五国光]]が確立した「相州伝」をさらに強化した作風で知られる。硬軟の鋼を巧みに組み合わせた地鉄を鍛えることによって、砂流(すながし)・金筋(きんすじ)・沸裂(にえさけ)・地景(ちけい)・湯走り(ゆばしり)・沸映り(にえうつり)と称される地刃中の「沸の働き」を従来の刀工以上に表現した。殊に刃中の細かい沸の輝きは、後世の沸荒く飛び焼き顕著な「相州伝」と一線を引き、同時代の「相州伝」刀工の作を「相州上工の作」と区別し褒め称えられている。また、地鉄の「働き」が豪華絢爛であるのと同様、「湾れ(のたれ)」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えた、従来にはなかった大乱れの華やかな刃文を確立した。正宗の作風は鎌倉末期から南北朝期の各地の刀工に絶大な影響をあたえた。世に「正宗十哲」とよばれる刀工がいる。彼らの大部分は、後世の仮託であり、正宗とは実際の師弟関係がないにもかかわらず、正宗の相州伝が各地に影響を及ぼしたことがよくわかる。<br /> <br /> === 南北朝時代 ===<br /> 政治的[[日本史時代区分表|時代区分]]では[[室町時代]]に包含されることの多い[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的である。この時代の刀剣は他の時代と違い[[大太刀]]・野太刀といった大振りなものが多く造られている。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=トマス・D・コンラン|title=図説 戦国時代武器防具戦術百科|date=|year=|accessdate=|publisher=原書房|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;薙刀も大薙刀と呼ばれる大ぶりな物が多く造られている。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=近藤好和|title=騎兵と歩兵の中世史|date=|year=|accessdate=|publisher=吉川弘文館|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;槍も穂先の長い大身槍が登場し、大鉞や金砕棒といった武器も登場している。&lt;ref name=&quot;:0&quot;&gt;{{Cite book|author=|title=日本の武器と武芸|date=|year=|accessdate=|publisher=別冊宝島|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|author=日本甲冑史 上巻|title=中西立太|date=|year=|accessdate=|publisher=大日本絵画|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;これらの武器は、取り扱いが非常に難しいが、威力があり、大変目立つために武士の羨望の的となった&lt;ref name=&quot;:0&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;:1&quot; /&gt;。すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしている。刃文は「のたれ」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えたものが良く見受けられ、古来より一大勢力であった備前国においても、当時[[長船流|長船派]]の棟梁格であった[[備前長船兼光|兼光]]一派の作にも、伝統の丁子乱れ(ちょうじみだれ)ではなく、互の目乱れが見られ、後の長船一派の刀工へ影響を及ぼしている。この時代の太刀は、元来長寸の大太刀であったものを後世に磨上げ(すりあげ)・大磨上げ(おおすりあげ)されて長さを調整され、打刀に造り直されているものが多い。[[天正]]年間に[[織田信長]]などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させていることから、室町末期の磨上を「天正磨上」と呼び非常な名刀が多い。また、この時代には[[小太刀]]もいくらか現存しており、後の打刀を連想させるものと思われる。(この時代以前の目釘穴の位置は茎の中心に存在したが、不具合があったため南北朝時代の初期の建武の頃から区よりに目釘穴を設けるようになったという&lt;ref&gt;臺丸谷政志『日本刀の科学』サイエンス・アイ新書、163頁。&lt;/ref&gt;。)室町時代には大太刀がある一方で、総体的には刀剣が短寸化する時代と言われるが、&lt;ref&gt;{{Cite book|author=近藤好和|title=騎兵と歩兵の中世史|date=|year=|accessdate=|publisher=吉川弘文館|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;この南北朝時代に流行した大太刀・大薙刀が再び流行したとする説もある。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=藤本正行|title=鎧をまとう人びと|date=|year=|accessdate=|publisher=吉川弘文館|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|author=渡辺誠|title=刀と真剣勝負 日本刀の虚実|date=|year=|accessdate=|publisher=ワニ文庫|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 室町以降 ===<br /> [[室町時代]]初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍した。主な刀工は長船政光、秀光、師光などである。続く[[応永]]年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出した。これらは[[応永]]年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれている。応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、[[嘉吉の乱]]で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、[[脇差]]の製作が行われた点も重要なポイントである。太刀から打刀・脇差の[[大小 (日本刀)|二本差し]]スタイルが生まれたのはちょうどこの時期である。応永備前の打刀(2[[尺]]3[[寸]]前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く、江戸時代に[[大名]]が美しい拵えを作るために珍重された。この頃、[[たたら製鉄]]技術が一段進歩したと言われ、大規模な製鉄場跡が見られるようになる。<br /> <br /> (室町中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く&#039;&#039;&#039;太刀&#039;&#039;&#039;から、刃を上向きにして腰に差す&#039;&#039;&#039;打刀&#039;&#039;&#039;(うちがたな)に代わってくる。なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の表で、その面に刀工銘を切るのが普通である。したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いが、裏銘に切る刀工もいる。)<br /> [[ファイル:Tachi-p1000620.jpg|300px|thumb|太刀:備前長船祐定(青貝螺鈿拵)。室町時代の太刀。]]<br /> 平和な時代が始まったため刀剣の国内需要は低下したが、[[明]]への重要な貿易品としての生産も行われるようにもなった。そして、[[応仁の乱]]によって再び戦乱の世が始まると、膨大な需要に応えるため、[[足軽]]など[[農民]]兵用に「お貸し刀」(貸与される刀)などの粗悪な「数打物」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入ると刀剣生産が各地で行われ、特に[[長船流|祐定]]を名乗る刀工だけでも60名強揃った備前国と、兼「某」を名乗る刀工が活躍した美濃国が生産拠点の双璧である。他には、豊後、三原、大和、加賀、越中、駿州が知られている。[[寛正]]年間から[[火縄銃]]が普及する[[天正]]頃まで、片手打ちの刀(2尺前後)が多い。また、合戦に明け暮れる武将は、己が命運を託する刀剣を特注することもあった。これら「注文打ち」には名刀が揃っている。[[重要文化財]]に指定されている「[[長船流|長船與三左衛門祐定]]」の[[永正]]年期作は、注文主の栗山某の美意識を反映してか、元から中ほどまで中直刃で、中から先まで互の目乱れを焼き、従来にはない感覚の異色の名刀である。同時代の著名な刀工としては、備前の則光、在光、賀光、祐光、勝光、宗光、清光、春光、治光、幸光など、美濃の[[和泉守兼定|兼定]]、[[孫六兼元|兼元]]、兼常、兼房、兼先、兼道、兼則、兼若、兼生、氏貞、正吉、正善、正利などが挙げられる。他の地方では、相州綱広、[[村正|千子村正]]、高天神兼明、豊後平鎮教、平安城長吉、手掻包真、加州行光、宇多国宗、波平某などがある。その他無名の刀工を含めると、第二次世界大戦時より刀工の数が多かったものと思われる。<br /> <br /> [[南蛮貿易]]による[[鉄砲]]の伝来によって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていった。まず、鉄砲に対抗するため[[甲冑]]が強化された。また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、身幅広く、重ね厚く、大切先の刀剣が現われ始めた。この姿が[[豊臣秀吉]]による天下統一後にも受け継がれ、豪壮な「慶長新刀」体配を生み出す土壌となった。南北朝時代から使われた大身槍&lt;ref&gt;{{Cite book|author=中西立太|title=日本甲冑史|date=|year=|accessdate=|publisher=大日本絵画|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;が室町時代末期から安土桃山時代の軍記などの文献にはよく現れ&lt;ref&gt;{{Cite book|author=戸田藤成|title=武器と防具 日本編|date=|year=|accessdate=|publisher=新紀元社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;、南北朝時代に流行した大太刀・野太刀が安土桃山時代に再び流行した。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=戸部民夫|title=図解 武器・甲冑全史 日本編|date=|year=|accessdate=|publisher=綜合図書|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;また、室町時代に大太刀の改良型である長巻が登場し、戦国時代に最もよく使われた。&lt;ref name=&quot;:1&quot;&gt;{{Cite book|author=戸田藤成|title=武器と防具 日本編|date=|year=|accessdate=|publisher=新紀元社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 江戸以降 ===<br /> 刀剣史上注記すべき点としては、長らく続いた備前長船一派が度重なる[[吉井川]]の氾濫で天正末期に壊滅したことがある。これによって備前鍛冶の伝統は一時休眠状態となった。そのため、各地の[[大名]]は量産体制のある美濃の鍛冶をこぞってお抱え刀工に採用した。この点は「新刀」を語る上で非常に重要なポイントとなる。<br /> <br /> 刀剣史では、[[慶長]]以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」と区別がされている。違いは地鉄にある。従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われた。しかし、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったため、基本的に新刀の地鉄は綺麗である。新刀の祖は[[埋忠明寿]]と言われており、その弟子に肥前国[[忠吉 (初代)|忠吉]]がいる。<br /> <br /> 備前鍛冶が壊滅状態に陥ったこともあり、[[京都]]に近い美濃国から京都、近江、越前、尾張、大坂へと刀工が移住していった。中でも京都に入った兼道一族は、全国を転々とし京都堀川に居住した国広一派と技術交換含め、新刀期の技術的基礎を築いた。諸国の刀鍛冶は両派のいずれかに入門し、身につけた技術を全国へ伝播していった。即ち、新刀の特色としては、美濃伝の特徴である「鎬地に柾目が流れる」ものとなる。[[徳川家康]]が[[越前康継|越前下坂康継]]をお抱え工としているが、康継も美濃伝を受け継いでおり、一部地域を除いて、文字通り美濃伝が主流となった。これが新刀初期の実態である。<br /> <br /> [[江戸時代]]に入り、風紀取締りを目的として、武家の[[大小 (日本刀)|大小]]差し(打刀、脇差)の差し料の寸法、[[町人]]などの差し料の寸法が制定された。特に武家の大小差しの新規需要が多く、[[寛永]]から[[寛文]]、[[延宝]]にかけて各地の刀鍛冶は繁栄し、技術水準も向上した。一方で幕末までの間、普段差しを中心に用いられる短刀の作刀は急激に減る。江戸初期に活躍した各地の著名刀工は以下の通り。北から 仙台・国包、会津・政長、兼定、江戸・越前康継(初、2代)・江戸石堂是一(初代)、相州・綱広、尾張・伯耆守信高(初代)・政常・氏房、加州・兼若、越前・下坂一派(忠国・重高・包則)、京・堀川派(国路・国安・国儔)・三品派(金道・吉道・正俊)、大坂・親国貞、紀州・重国・紀州石堂正俊、[[筑前信国派]]、福岡石堂一派(守次、是次)、肥前・忠吉一派(初代・忠廣)、薩摩・波平一派などである。寛文頃から江戸での鍛刀も盛んになるが、元和、寛永時期においては、京都、越前、美濃が中心地であった。<br /> <br /> [[江戸]]においては、[[江戸幕府|幕府]]お抱え刀工である越前下坂[[越前康継|康継一派]]が大いに活躍し、また、石堂(いしどう)と呼ばれる備前鍛冶の末裔を名乗る刀工、室町期の法城寺(ほうじょうじ)派の末裔を名乗る刀工、武州土着の下原鍛冶も出現し、お互い技量を高めた。また、[[島原の乱]]以降平和な時代が続き、寛文頃になると、[[剣術]]が[[竹刀稽古]]中心となった影響で、[[竹刀]]に近い、反り浅く伏せごころで小切先詰まる刀が求められた。この姿を&#039;&#039;&#039;寛文新刀&#039;&#039;&#039;と呼び、江戸時代の刀剣の姿の代表である。寛文新刀の中心地は江戸であり、その武骨な姿が武芸者に好まれた。主な刀工としては、江戸越前康継(3代)・[[初代武蔵大掾是一|石堂是一]](初、二代)・[[上総介兼重|和泉守兼重]]・[[上総介兼重]]・[[大和守安定]]・[[法城寺正弘]]・八幡平高平・そして特に著名な長曾祢[[虎徹]]、奥里、奥正がいる。少し後れて、石堂派から[[日置光平]]、対馬守常光がいる。<br /> <br /> 交易の中心地の[[大阪|大坂]]には、近郊から刀工が次第に集まってきた。同時代の著名な刀工としては、三品派(親国貞・国貞(二代)・吉道・河内守国助)、紀州から移住した大坂石堂派(康広、多々良長幸)、地元の助廣(初代、二代)、粟田口忠綱一派([[一竿子忠綱|忠綱]]、国綱)がいる。これらの刀工集団の作を&#039;&#039;&#039;大坂新刀&#039;&#039;&#039;と呼び、新刀の中でも特に区別される。その特徴は地鉄にあり、地鉄の美しさは新刀内でも群を抜く。背景には大坂の力と、古来より鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨を近辺に控えていることもあるだろう。そして、美しい地鉄の上に華やかな刃文を創始した。特に有名なのは、大坂正宗と賞される国貞(二代)[[井上真改]]の匂い沸深い直刃と、助廣(二代)[[津田越前守助広|津田助廣]]が創始した涛瀾乱れ。中には「富士見西行」「菊水刃」と呼ばれる絵画的で華美な刃文も登場したが、保守的な武士からは退廃的だと忌避されるものもあった。また、[[元禄]]以降太平の世になると新たな刀の需要はなくなり、刀を作る者も殆どいなくなった。中には武芸者が特注打ちで流派に即した刀を鍛えさせているがごく少数である。その中でも粟田口忠綱二代の[[一竿子忠綱]]は刀身の出来、[[彫刻|彫り]]ともに優れている。<br /> <br /> 刀剣の需要が衰退する一方で、[[鍔|鐔]](つば)、[[小柄]](こづか)、[[目貫]](めぬき)、[[笄]](こうがい)などの刀装具の装飾が発達し、これらの装剣金工の分野にも林又七・志水甚吾を代表とする肥後鐔工、京透かし鐔工、山吉兵などの尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工・伊藤鐔工、全国に散った京正阿弥一派と言った鉄地を細工する&#039;&#039;&#039;鐔工&#039;&#039;&#039;だけでなく、町彫りの祖と呼ばれる横谷宗珉を始め[[土屋安親]]、奈良利壽、濱野政随など、従来の後藤一派の伝統から離れた&#039;&#039;&#039;[[金工]]&#039;&#039;&#039;職人に殊に独創的な名工が生まれた。刀剣は消耗しないものの、刀装具は各々時代の流行に合わせて変化し(一方で登[[城]]差しなど掟に縛られた拵えもある)、刀装具の繁栄に反比例するが如く、鍛刀界は衰退していく。<br /> <br /> === 幕末動乱期 ===<br /> [[ファイル:Edo period Wakizashi.jpg|thumb|200px|江戸期の脇差([[東京国立博物館]]所蔵)]]<br /> [[黒船来航]]前夜の安永前期。黒船来航を待たずして度重なる[[飢饉]]、政策の失敗続きなどにより、武家の衰退が顕著となり、社会の変革の風を人々が意識・無意識に感じ始めた。そんな時代に[[出羽国]]から江戸へ上り、鍛刀技術を磨くものが現れた。[[安永 (元号)|安永]]3年に正秀と銘を改めた川部儀八郎藤原正秀、即ち新々刀の祖と呼ばれる[[水心子正秀]](すいしんしまさひで)の登場である。これより[[明治維新]]までの時代を「新々刀」と区分する。特徴としては、製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったため、地鉄が無地に見えることがある。後期には洋鉄精錬技術も取り入れられ、さらに無地風の地鉄が作られた。地鉄の変化と焼入れ技術の低下からか、総じて匂い口が漫然とするものが多い。また逆行するが如く、色鉄を用いたり、無理に肌を出した刀や、古作の写しものが出現する。姿は各国でまちまちであるが、総じて身幅広く、切先伸び、反りのつくものとなる。<br /> <br /> 新々刀初期に、[[鎌田魚妙]]という侍が『新刀弁疑』という著書で、名刀の条件に、沸匂深い作を主張し、大坂新刀の[[井上真改]]、[[津田越前守助広|津田助廣]]を褒め称えた。そのため新々刀初期には江戸時代前期の津田助廣が創始した華麗な涛瀾乱れを焼くのが流行した。しかし、本科と比べると、地鉄は無地調で弱く、刃は鎬にかかるほど高く焼き、そして、茫々とした締まりのない匂い出来で、斑沸つく作が多い。実用刀とはほど遠いと感じた正秀は、鎌田魚妙の説に疑問を抱き、実用刀剣の復古、即ち鎌倉時代・南北朝時代の刀剣への復古を唱えた。この復古運動は、後の[[勤王]]思想が盛んになりつつある社会情勢と響きあい、各地の鍛冶と交流し(相州伝、備前伝の秘儀を学ぶべく弟子入りした)、同時に大勢の門弟を育てた。卸し鉄など様々な工夫を凝らし目標とする鎌倉・南北朝期の地鉄作製を試みるも、たどり着くことはなかった。これは今日でも同様である。勤皇の[[志士]]は&#039;&#039;&#039;勤皇刀&#039;&#039;&#039;を使用した。<br /> <br /> 正秀の弟子は全国各地へ散り、文字通り新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどである。著名な弟子に[[大慶直胤]]、細川正義、加藤綱俊がおり、各々正秀と同様、多くの門人を育てた。<br /> <br /> 正秀一派が活躍する一方で、信州から[[源清麿]]が登場した。はじめは大坂新刀の流れを汲む尾崎一門の河村寿隆に作刀を学び、侍になるべく江戸へ出、[[幕臣]]であり[[軍学者]]であった[[窪田清音]]に才能を見出され、各家伝来の古名刀の写しを作る。源清麿は初銘を「秀寿」と切り・「環」・「正行」・「清麿」と推移する。[[四谷]]に住んだため「四谷正宗」の異名を持つ。古作の現物を見て写しを造り腕を磨いたため、正秀一門の写し物とは姿、出来が大いに異なる。特に左文字写し、志津兼氏写しを得意とした。地鉄も他の新々工とは一線を引き、鍛え肌美しく力強い。また、焼き刃は古作の如く、盛んに金筋を交える。しかし、多額の借金(鍛刀の前受け金)を残し42歳で自殺した。弟子に栗原信秀、藤原清人、鈴木正雄がいる。藤原清人と栗原信秀は、師匠が自殺した後、残された約定の鍛刀を引き受け、借金を返したという逸話を残している。<br /> <br /> [[水戸藩|水戸]]勤皇派による[[天狗党の乱]]、[[大老]][[井伊直弼]]が暗殺された[[桜田門外の変]]などがあり、諸国でも[[佐幕]]派と[[尊王攘夷]]派が入り乱れて闘争が行われるようになる。時代環境に合わせて、江戸初期以降、作刀数の少ない短刀の需要、長大な刀を好む武士も増え、作刀が再び繁栄を始めたところで[[明治維新]]を迎える。<br /> <br /> === 明治から第二次世界大戦 ===<br /> [[ファイル:Battle of Pyongyang by Mizuno To.jpg|thumb|200px|right|[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]の[[軍旗#大日本帝国陸軍|軍旗]]のもと、[[将校]]は[[軍刀]]で、[[下士官]][[兵 (日本軍)|兵]]は[[銃剣]]を着剣した[[小銃]]で戦う模様を描いた[[浮世絵|錦絵]]([[日清戦争]]・[[平壌の戦い (日清戦争)|平壌の戦い]])]]<br /> [[明治]]6年、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]で開かれた[[万国博覧会]]に日本刀を出品。国際社会に[[日本人]]の技術と精神を示すものであった。しかし明治6年([[1873年]])に[[仇討ち]]が禁止され、明治9年([[1876年]])には[[廃刀令]]が発布され[[大礼服]]着用者・[[軍人]]・[[日本の警察官|警察官]]以外は帯刀を禁止されたことにより、日本刀は急速に衰退してしまった。新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失った。また、多くの名刀が海外に流出した。それでも政府は[[帝室技芸員]]として、[[月山 (日本刀)|月山貞一]]、[[宮本包則]]の2名を任命。伝統的な作刀技術の保存に努めた。<br /> <br /> [[ファイル:Banzai on Guanghua Gate01.jpg|200px|thumb|right|[[歩兵連隊#大日本帝国陸軍|歩兵連隊]]長を筆頭に、連隊長(将校)は日本刀を仕込んだ両手握り[[サーベル]]拵えの[[軍刀#明治19年制式|明治19年制式刀]]、左後方の本部附[[見習士官]]・下士官は日本刀風拵えの[[軍刀#九五式軍刀|九五式軍刀]]、他の一般下士官兵は着剣した[[三八式歩兵銃]]で軍旗の[[敬礼#旧日本陸軍の礼式|敬礼]]を行う姿([[日中戦争]]・[[南京攻略戦]])]]<br /> 創設されてまもない[[日本軍]]([[大日本帝国陸軍|陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]])は[[1875年]](明治8年)の[[太政官布告]]によって[[将校]][[准士官]]の軍装品として「&#039;&#039;&#039;[[軍刀]]&#039;&#039;&#039;」を採用した(なお、同布告では野戦や常勤時に使用するこの軍刀とは別に、[[正装]]時に用いる「正剣」も採用されている(のち廃止)。様式はサーベルではなく[[エペ]])。陸軍・海軍ともに欧米[[列強]]に範をとったため、当初は拵え・刀身ともに[[サーベル]]であったが、[[西南戦争]]における[[抜刀隊]]の活躍や日本刀に対する日本人の想い入れから、次第にサーベル様式の拵えに日本刀を仕込むのが普通となり、さらには[[日露戦争]]における[[白兵戦]]で近代戦の武器としての刀剣類の有効性が再評価され、それら軍刀需要で日本刀は復権をとげた。さらに[[昭和]]時代には[[国粋主義]]的気運が高まったことと[[満州事変]]や[[第一次上海事変]]における戦訓もあり、陸海軍ともにサーベル様式に代わり鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、日本刀を納めるのにより適した将校軍刀拵えが登場した。また、同時期には将校准士官用と異なり長きに渡り拵え・刀身ともに純サーベル様式([[軍刀#三十二年式軍刀|三十二年式軍刀]])であった[[下士官]][[兵 (日本軍)|兵]]用の官給軍刀でも太刀拵え・日本刀々身([[軍刀#九五式軍刀|九五式軍刀]])が採用された。しかし同時に、軍刀として出陣した古今の数多くの刀が戦地で失われることにもなった。<br /> <br /> 日本軍において下士官兵([[騎兵]]・[[輜重兵]]・[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]など帯刀本分者)の軍刀は基本的に官給品であり扱いは「[[兵器]]」であるが、将校准士官の軍刀は上述の建軍まもない1875年の太政官布告以降、[[第二次世界大戦]][[日本の降伏|敗戦]]による日本軍解体に至るまでほぼ一貫して服制令上の制式であり、そのため扱いは「兵器」ではなくあくまで[[軍服]]などと同じ「軍装品」であった(軍刀を含む将校准士官が使用する大半の軍装品は自弁調達であるため、官製のものを購入していても「私物」であった)(「[[軍服 (大日本帝国陸軍)]]」および「[[軍服 (大日本帝国海軍)]]」参照)&lt;!--インラインで置くほうが自然--&gt;。<br /> <br /> [[ファイル:Sabre-seconde-guerre-mondiale-p1000712.jpg|thumb|200px|right|九五式軍刀(官給軍刀)。鞘を除く拵え自体は日本古来の太刀をイメージしながらも実戦に特化した全金属製となる。刀身も実戦に特化した[[陸軍造兵廠]]製の日本刀]]<br /> 従来の日本刀は北方の極寒の中では簡単に折れるため強度に対して、また海軍からは錆に対する不満が高まっていたため[[満州事変]]以後、陸海軍の[[工廠]]、[[帝国大学]]など各機関の研究者は拵えだけでなく刀身においても実戦装備としての可能性を追求した。例として、官給軍刀の刀身をベースにした[[陸軍造兵廠]]の「造兵刀」、[[満州]]産出の鋼を用いた[[南満州鉄道]]の「興亜一心刀(満鉄刀)」、北支・北満や北方方面の厳寒に対応した「振武刀」、海軍が主に使用した[[塩害]]に強い[[ステンレス鋼]]使用の「不錆刀」など、各種の刀身が研究開発された。日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで様々な刀身が試作・量産され、「&#039;&#039;&#039;昭和刀&#039;&#039;&#039;」「昭和新刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称された。官給軍刀を含むこれら特殊軍刀々身は、近代[[科学技術]]の力をもって開発されたものであるため、物によっては従来の日本刀よりも(俗に名刀と呼ばれる刀であっても)武器としての資質において勝るものも数多くあった。軍刀(工業刀)は総じて粗悪品だったという俗説も未だ根強いが、そういったものは悪徳業者の販売した粗悪刀などで、一部を除き(試行錯誤の初期や、余裕の無くなる[[第二次世界大戦]]末期には粗悪品が見られる)妥当な評価ではなく、また近代戦における[[戦争|戦場]]という劣悪な環境に置かされる事情も考慮に入れる必要がある。鋳造説、官給軍刀・造兵刀は粗悪品説に至っては論外である。これらは陸海軍の将校に、従来の日本刀に比べて手入れが少なく切れ味が持続するという圧倒的に優れた性能を持ち、安価で惜しげなく使える刀身として重宝され、下士官兵には官給軍刀の刀身として支給・実戦投入され、第二次大戦終戦まで大量に使用された。<br /> <br /> 将校准士官の軍刀は軍装品であり私物であるため、これら特殊軍刀以外にも先祖伝来のものや内地で特に入手したような旧来の日本刀(古刀から新作現代刀まで)も大量に軍刀として使用された。広義に「軍刀」とは軍隊で使用される刀剣を総称(通称)する単語であり、場合により語弊が生じることにも注意を要する(「[[軍刀#刀身]]」参照)&lt;!--インラインで置くほうが自然--&gt;。<br /> <br /> 本来の「戦う日本刀」「戦いの武器としての日本刀」「実戦刀」という観点では、各特殊軍刀々身は「完成された日本刀」となり、肝心の実用性に於いては究められたものの、刃紋を有しないなど見た目の美的要素は二の次な物が多く(特殊軍刀々身においても、関の古式半鍛錬刀の様に双方を兼ね備えた刀身も開発されている)、今日では製造方法の上からも狭義の日本刀の範疇には含まれないことにはなっている。しかし、近年では刀剣界では今まで見向きもされなかったこれらの軍刀にも人気が出てきており、同時に研究家や収集家の新たな発見や偏った俗説の否定など、再評価の声が高くなっている。<br /> <br /> === 第二次世界大戦後 ===<br /> [[ファイル:Iaidovyuka2.jpg|thumb|200px|right|[[居合道]]]]<br /> [[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終結後、日本刀を武器であると見なした[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)]]により刀狩が行われ、[[蛍丸]]を始めとした数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあった([[熊本県]]のように、石油をかけて焼かれた後海中投棄された例もある)。また、「刀があるとGHQが[[金属探知機]]で探しに来る」との流言も飛び交い、土中に隠匿して、その結果刀を朽ちさせ駄目にしたり、回収基準の長さ以下になるように折って[[小刀]](こがたな)としたり、日常生活に使えるよう鍛冶屋に持ち込み[[鉈]]や[[鎌]]、その他日常用の刃物に改造したりと日本刀の価値を貶めた例は枚挙に遑がない。GHQに没収された刀の多くは[[赤羽]]にあった[[アメリカ軍|米軍]]の倉庫に保管され、占領の解除と共に日本政府に返還された。しかし、元の所有者が殆ど不明のため、所有権は政府に移り、刀剣愛好家の間でこれらの刀剣は「[[赤羽刀]]」と呼ばれている。<br /> <br /> 一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれたが、日本側の必死の努力により、登録制による所有が可能となった。登録されていない刀は、[[日本の警察|警察]]に届け出た後に審査を経て合格すれば各[[都道府県]]の[[教育委員会]]から登録証が交付される。この登録がされた刀は、携帯や運搬に関しては[[銃砲刀剣類所持等取締法|銃刀法]]による制限はあるが、単なる所持については許可は必要なく誰でも可能である([[条例]]により18歳以下への販売を規制している地域はある)。なお、購入・相続など所有者変更の際には、登録証記載の各都道府県教育委員会への届け出が必要である(詳細は「&#039;&#039;&#039;[[銃砲刀剣類登録]]&#039;&#039;&#039;」を参照)。<br /> <br /> 今日では日本刀は武器ではなく、[[居合道]]・[[抜刀道]]といった[[武道]]用の道具、[[絵画]]や[[陶器]]と同格の[[美術|美術品]]であり、その目的でのみ製作・所有が認められている。世界の刀剣の中でも日本刀は、美術品としての価値が高く、国宝、重要文化財、重要美術品に指定されたものもある。日本刀は独自の鍛錬による、さまざまな刀姿、刃文、帽子、茎形、銘を鑑賞する、いわば鉄の芸術品であり、その価値を知るには、特色をよく理解しなくてならない。日本刀の鑑賞の歴史は千年以上の歴史があり、名刀と言われる日本刀は、実際に武器として使われず、千年以上の時を経ても健全な形で残っていることも多い。現代刀に関しては、刀匠1人当たり年に生産してよい本数の割り当てを決め、粗製濫造による作品の質の低下を防いでいる。しかしその一方で、作刀需要が少ないため、一部の刀匠を除き多くの刀匠は本業(刀鍛冶)だけでは生活が難しく、かと言って上述の本数制限もあり無銘刀は作刀できず、武道家向けに数を多く安く作りその分稼ぐこともできないため、他の伝統工芸の職人と同じく数々の問題を抱えている。そのような状況の中でも現代の刀匠も、美術品としての日本刀の作刀を、さまざまな形で現代に伝えている。<br /> <br /> == 日本刀の製法 ==<br /> 「折れず、曲がらず、良く斬れる」の3要素を非常に高い次元で同時に実現させるため、日本刀の原材料となる鋼の製法、選定、刀剣の鍛錬には、古来より多くの刀工が工夫している。今日においては、古くから伝わる卸鉄(おろしがね。鉄材を再還元して刀剣用に供する鋼を造ること)や自家製鉄した鋼を用いる刀工もおり、日本固有の伝統技術として継承されている。<br /> <br /> なお、中世以前の日本刀の製作方法や使用原料については史料がなく不明であり、現在の伝統的な日本刀の製作方法は江戸時代以降の記録に基づくものである&lt;ref&gt;(渡邉・住、2014)、p.6&lt;/ref&gt;。[[人間国宝]](重要無形文化財保持者)の刀工であり、長年自家製鉄に取り組んでいた[[天田昭次]]は、古刀と新刀の地鉄には決定的な違いがあると言い、古刀期の作刀の原料や鍛法は判然としないとする&lt;ref&gt;(天田、2004)、pp.12, 13,78&lt;/ref&gt;。鎌倉時代の名刀の材料や製作法については、いまだ研究途上にある&lt;ref&gt;(渡邉・住、2014)、p.9&lt;/ref&gt;。江戸時代末期以来、刀工やさまざまな分野の専門家が研究を続けているが、古刀の実物から試料を取って分析することが不可能なこともあり、鎌倉期の名刀を再現するまでには至っていないといわれていた&lt;ref&gt;(渡邉・住、2014)、「はじめに」のp.ii&lt;/ref&gt;。しかし2014年に[[河内國平]]が、日本美術刀剣保存協会主催の「新作名刀展」に出展した「國平河内守國助(くにひらかわちのかみくにすけ)」で、現在の原料では不可能といわれていた古刀の特徴である地紋の「乱れ映り」の再現に完全に成功し、刀剣界の最高賞と言われる「正宗賞」(太刀・刀の部門)を受賞した&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;正宗賞の受賞刀の解説文によると「均整のとれた力強い太刀姿や現代丁子とは明らかに異なる焼刃の古色さもさることながら、その映りである。備前伝を手掛ける多くの刀匠にとっては刃文と共に地鉄、ひいては乱れ映りの再現が長年の課題であったが、本作では随所に現れた地斑状の暗帯部によって乱れ映りが明瞭に形成され、古作に近い雰囲気を湛えるのに見事成功している。このことから映りの解明に向けて大きく前進したことは間違いなく、一つの到達点に達したと言え、革新的な功績として今回の受賞は称えられるべきである」としている。(『刀剣美術』、平成26年6月号より)&lt;/ref&gt;。太刀・刀の部門は長らく「該当なし」であり、18年ぶりの受賞であった。これにより乱れ映りのメカニズムが解明されほぼ100%再現できるようになった。河内によると、受賞刀は一般的な作刀法で作られた刀と比べて地鉄が柔らかく、刃紋を美しく見せる芸術品ではなく武器としての強靭さを重視して焼入れの仕方を変えたことが成功に繋がったという&lt;ref&gt;[http://www.sankei.com/west/news/140613/wst1406130059-n1.html 不可能とされた名刀の地紋再現に成功 奈良・吉野の刀匠、刀剣界最高賞を受賞] 産経WEST 2014年6月13日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.nikkei.com/article/DGKKZO89695690U5A720C1NNP000/ 現代に生きる刀匠 河内國平さんに聞く 精神を強くするのが名刀 切れ味追求へ回帰] 日本経済新聞 2015年7月25日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.nikkei.com/article/DGXMZO89590000S5A720C1000000/ 日本刀名匠の眼力、武器にこそ潜む「本来の美」神が宿る武器「日本刀」(4) ] 日本経済新聞 2015年8月21日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 古刀期以降の刀工が主たる原材料としてきたものは、砂鉄を原料とした[[たたら吹き]]によって製造される「[[玉鋼]]」と呼ばれる鋼である。玉鋼の名称は古来のものではなく、明治時代半ば以降に命名されたもので、もとは島根県の安来製鋼所で製造し、陸軍、海軍に坩堝の材料として納入していた鋼の商品名であった&lt;ref&gt;(渡邉・住、2014)、pp.i, ii(「はじめに」)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;(天田、2004)、p.83&lt;/ref&gt;。分析から、鋼の質については鎌倉時代を頂点にそれ以降低下し始めるという現象が起こっており、一因としてどこかで鋼を作る製法に変化があった可能性について述べられることもある&lt;ref&gt;http://doi.org/10.15027/32973 「たたら製鉄法」の基礎研究と定量実験としての教材化&lt;/ref&gt;。上古刀に関しては、鉱石系箱形炉という鉄鉱石を原材料にした小型の炉が用いられていたことが判明している。以下の説明は、現代刀工によって行われている一般的な製作方法である&lt;ref&gt;(渡邉・住、2014)、p.10&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 質の高い鋼の作成 ===<br /> ; たたら吹き<br /> :日本刀の材料となる[[鋼]]を[[和鋼]](わこう)もしくは[[玉鋼]](たまはがね)と呼ぶ。玉鋼は日本独自の[[製鋼]]法である「[[たたら吹き]]」で造られる。諸外国の[[鉄鉱石]]を原料とする製鋼法とは異なり、原料に[[砂鉄]]を用いることで低温で高速還元を実現し、さらには近代的な製鋼法に比べて不純物の少ない砂鉄を原料として使うため、良質の[[鋼]]を得ることができる&lt;ref&gt;[http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/index.htm 日立金属「たたらの話」]&lt;/ref&gt;。 <br /> ; 水減し<br /> : 熱した玉鋼を鎚(つち)で叩き、薄い扁平な板をつくる。これを水に入れて急冷すると、余分な炭素が入っている部分が剥落ちる。これを「水減し」または「水圧し(みずへし)」という。ここまでがへし作業と呼ばれる地金づくりである。<br /> ; 積沸かし<br /> : この焼きを入れて硬くした塊はへし金(へしがね)と呼ばれ、鎚で叩いて小さな鉄片に砕く。その破片の中から炭素分の多い硬い鉄と少ない軟らかい鉄に分け、これらの鉄片を別々に「てこ」と呼ばれる鍛錬用の道具の先に積み上げて和紙でくるむ。周囲に藁灰を付けさらに粘土汁をかけて火床(ほど)に入れ表面の粘土が溶けるくらい加熱する。藁灰([[プラント・オパール]]由来の珪酸分)と粘土の[[珪酸]]分が加熱によってガラス様に熔解して鋼の接着面の表面を覆い、鉄の[[酸化皮膜]]([[酸化鉄(II)]]および[[酸化鉄(II,III)]])形成を阻害することで鋼の焼減りすることを防ぐ(※溶けた[[珪酸]]による酸化皮膜防止は同様の現象を利用して後述の鍛接の際に鋼の圧着にも用いられる。またいずれの鍛接の際にも融けたガラス状になった珪酸分は叩き出されて鋼の外に飛び散り、鋼間の結晶同士は圧着される)。小槌で叩いて6×9cmくらいに固める。鉄片が足りなければ、さらに積み上げ加熱して小槌で叩いて成形し所要の1.8-2.0kg程度の量にする。以上が「積沸かし」の工程である。玉鋼以外に炭素量の多い銑鉄と包丁鉄と呼ばれる純鉄も積沸かしと次の下鍛えの作業を行なう。<br /> ; 鍛錬(下鍛え)<br /> : 赤熱したブロックを鎚(つち)で叩き伸ばしては中央に折り目を入れて折り重ねる「折り返し鍛練」を縦横方向で繰り返し行う。ちなみに刀匠(横座)と弟子(先手)が交互に刀身を鎚で叩いていく「向こう槌」が「相槌を打つ」という言葉の語源となった。この段階では5-6回程度の折り返しが行なわれる。<br /> <br /> === 鋼の組合せ ===<br /> ; 積沸かし<br /> : 玉鋼、銑鉄、包丁鉄の3種類の下鍛えが済めば再び小槌で叩いて鉄片にし、それぞれの鋼の配合が適切になるように選んで、1回目の積沸かしと同じく積み上げて溶かし固める。この段階で含有炭素量が異なる心金(しんがね)、棟金(むねがね)、刃金(はのかね)、側金(がわがね)の4種類の鋼に作り分けられる。<br /> ; 鍛錬(上鍛え)<br /> : 心金で7回、棟金で9回、刃金では15回、側金では12回程度の折り返しが行なわれる。叩き延ばした鋼を折り返しながら鍛錬を重ねることで、[[硫黄]]などの不純物や余分な[[炭素]]、非金属介在物を追い出し、数千層にも及ぶ均質で[[強靭]]な鋼へと仕上がっていく。<br /> ; 鍛接と沸延べ<br /> :[[ファイル:Nihontou Steels 1 J.PNG|thumb|200px|right|日本刀の鋼の構成と各部名称(四方詰鍛えの断面)&lt;br /&gt;造込みには他にも、本三枚鍛え、捲り鍛え、甲伏せ鍛え、無垢鍛えがある。([http://en.wikipedia.org/wiki/File:Katana_brique.png 参考画像(英語)])]]<br /> : 下鍛えと2回目の積沸かし、上鍛えによって心金、棟金、刃金、側金の4種類の鋼が得られた後、棟金、心金、刃金の3層を鍛接して厚さ20mm、幅40mm、長さ90mm程の材料が4個取れるくらいに打ち伸ばして4つに切り離す。これは「芯金」と呼ばれる。側金も加熱され長さが芯金の倍になるくらいに叩き伸ばされ中央から切り離されて、芯金と同じ長さの側金が2本作られる。<br /> : (四方詰鍛えの造込みでは、)側金、芯金、側金の順で重ねられ、沸かして鍛接されて、厚さ15mm、幅30mm、長さ500-600mm程度に打ち伸ばされる。「てこ」が切り離されて、刀の握り部分になる「[[茎 (刀)|茎]](なかご)」が沸かされ鍛接される。<br /> ; 素延べ<br /> : 刀の形に打ち延ばす「素延べ(すのべ)」を行い、先端を3角に切り落とすがそのままでは刃先側に棟金や心金が現れるため、とがった先を背の側に打ち曲げて硬い刃金だけが刃の側に来るようにする&lt;ref&gt;柴山光男著 『趣味の日本刀』 [[雄山閣]] 2002年6月20日発行、ISBN 4639010265&lt;/ref&gt;。ここでの姿が最終的な日本刀の完成形を決めるため、慎重に小槌で叩き形を整えていく。<br /> ; 火造り<br /> : 刀身の棟は三角になるように叩いて、刃の側(平地)は薄くなるように叩き延ばす。茎の棟を叩いて丸みを付け、最後に「鎬地(しのぎち)」を叩いて姿を整える。刀身全体をあずき色まで低く加熱し除冷する。<br /> ; 空締め<br /> : 冷えてから表面の黒い汚れを荒砥石で砥ぎ落とし、平地と鎬地を小槌で叩いて冷間加工を行なう。棟と刃の直線を修正して、銛(せん:銑とも)と呼ばれる鉄を削る[[押切り]]の刃のような大振りの手押しかんなで凹凸を削る。この段階で「刃渡り」と「区(まち)」が定まる。<br /> ; 生砥ぎ<br /> : かんなの削り跡を砥石で砥ぎ落とす「生砥ぎ(なまとぎ)」を行なう。その後、水を含む藁灰で油脂分を落とし乾燥させる。<br /> <br /> === 温度管理 ===<br /> ; 土置き<br /> : 加熱した刀身を水などで急激に冷やす「焼入れ」の準備として、平地用、刃紋用(刃文用)、鎬地用の3種類の焼場土(やきばつち)を刀身に盛る「土置き」を行なう。一般的には平地に平地用の焼場土を均一に薄く塗り、刃紋に筆で刃紋用焼場土を描く。最後に刃紋から棟までを鎬地用焼場土を厚く盛る。鎬地の焼場土を厚くすることで、焼入れでの急冷時に刃側はすばやく冷やされ十分に焼きが入り、棟の側は比較的緩慢に冷えるために焼きはそれほど入らなくなる。逆に刃紋の部分だけに土を置き、土を置いた部分の気泡の発生を抑えて刃先だけを急冷し、しのぎの部分は自然発生する気泡で緩慢に冷却する方法や、全く土を置かずに刃の薄くなった部分が先に冷えること利用した焼き入れの仕方なども存在する。焼きによって容積が膨張しながら硬くなり、日本刀独特の刃側が出っ張った湾曲を生む。棟の側は膨張が少なく硬度より靭性に富んだ鋼となり硬いが脆い刃側の鋼を支える機能を担う。<br /> ; 焼入れ<br /> : 通常、刀匠は焼入れの時には作業場の照明を暗くして、鋼の温度をその光加減で判断する。土置きした刀身を火床に深く入れ、先から元まで全体をむらなく800℃程度にまで加熱する。加熱の温度は最も重要であり、細心の注意を払って最適の加熱状態を見極め、一気に刀身を水槽に沈め急冷する。刀身は前述の通り水の中で反りを生じ、十分な冷却の後に引き上げられ、荒砥石で研がれ焼刃が確認される。槍や剣などの諸刃の形状の場合は田楽炉という全体が均等に加熱できる専用の火床を用いる。<br /> : 焼入れにより、刀の表面には[[マルテンサイト]]と呼ばれる非常に固い組織が現れる。マルテンサイトの入り方によって、肉眼で地鉄の表面に刃文が丸い粒子状に見えるものを錵(にえ)または沸(にえ)と呼び、1つ1つの粒子が見分けられず細かい白い線状に見えるものを匂(におい)と区別する。<br /> ちなみに冷却水の温度は10度から30度程度、油の場合は60度から80度程度である。<br /> : 他の刃物類では、水以外にも油などで焼きを入れることあり、日本刀の場合では戦中の軍刀などで行われたが、現在では油で日本刀に焼きを入れることは少ないと思われる。油で焼きを入れると急冷しないため刃切れなどの失敗は少ないが、水焼きよりも柔軟性のある鋼組織となる場合が多い。また、匂い出来となることが殆どである。ただしこれは焼き入れの技術に大きく左右される問題で、冷却剤の撹拌度合いによっては、油焼きで水焼きよりも硬く焼く事は可能である。斬れ味は別(居合道を別とすれば現代社会で刃物として使う機会は無いに等しい)としても、油焼きは刃紋に冴えを出せず美術工芸品を志向する現代刀には不向きだとされている。&lt;ref name=&quot;もの作り不思議百科&quot;&gt;JSTP編 『もの作り不思議百科』 [[コロナ社 (出版社)|コロナ社]] 1996年7月25日初版第3刷発行 ISBN 4-339-07668-6&lt;/ref&gt;。なお、文部科学省の定める現代日本刀の定義は水焼きであるので、油焼きは銃刀法違法となる。<br /> ; 合い取り<br /> これは焼戻しの工程で、炉の火の上で時間をかけて刀身を150度程度に熱する。これにより焼入れにより組成変化した鋼を安定化させ、靭性などが強化され刃こぼれなどの防止に役立つ。反りは横方向にも少し生じるので木の台で小槌を使い修正する。なかごも焼きなまして形を整える。<br /> <br /> 場合によってはこの後、熱した銅の塊で刀身をはさみ、棟焼きを取るなどの作業をする場合もある。<br /> <br /> === 仕上げ ===<br /> ; 鍛冶押し(かじおし)<br /> : 焼き入れを終了させた刀の反り具合を修正し、刀工が荒削りをする。この時に細かな疵や、肉の付き具合、地刃の姿を確かめながら最終的な調整を行う。<br /> ; 茎仕立て<br /> : 茎(なかご)は銑ややすりで形を整え、柄(つか)をはめる時に使用する目釘穴を普通は1つ、幕末期の一部の刀や一部の槍や居合用の刀の場合2つ以上開ける。この後に刀工独自の鑢目(やすりめ、滑り止め目的)を加える。<br /> ; 樋掻き<br /> : 樋(ひ)をいれる物はここで入れる。<br /> ; 下地研(したじとぎ)<br /> : 地金と刃紋を主に砥石で研ぐ。<br /> ; 銘切り<br /> : 刀工は最後に鑿(たがね)を使い、自らの名前や居住地、制作年などを茎に銘を切る。一般的に表(太刀や刀を身に付けた際、外側になる面)に刀工名や居住地を切り、裏に制作年や所持者名などを切ることが多いが、裏銘や無銘など例外もある。<br /> ; 仕上研(しあげとぎ)<br /> : 地金と刃紋を研ぎ、磨き棒で鏡面加工する。帽子を「なるめ」加工する。<br /> <br /> 刀工が行う一通りの作業が終わり、これからは[[研師]]により最終的な研ぎを行うが、室町時代以前は刀工自ら研磨も行っていたといわれる。[[日本刀研磨]]で、他の刃物砥ぎと大きく相異する点としては、刃物としての切れ味を前提としつつ、工芸品としての日本刀の美的要素を引き出すことを主眼としている点、刃部のみで無く、刀身全体に砥ぎを施すことなどがあげられる。[[鞘師]]によりその刀に見合った[[鞘]]を作成することになる。日本刀は刀工だけが造るものではなく、研師や鞘師、塗師、蒔絵師、金工師、白銀師などの職人によって初めて完成するものである&lt;ref name =&quot;図解 日本刀事典&quot; /&gt;。それぞれの職人は、大きく以下の部分を担当する。<br /> *刀工(とうこう):刀身を作る。「刀匠」、「刀鍛冶」とも呼ばれる。<br /> *研師(とぎし):刀身の研ぎを行う。<br /> *鞘師(さやし):鞘の作成を行う。<br /> *白銀師(しろがねし):はばきや鍔などの金属部分を作成する。<br /> *柄巻師(つかまきし):柄部分に紐を巻く。<br /> *塗師(ぬりし)、蒔絵師(まきえし)、金工師(きんこうし):鞘や鍔などに装飾を施す。<br /> <br /> == 日本刀の研磨 ==<br /> 日本刀の[[研磨]]に関しては、&#039;&#039;[[日本刀研磨]]&#039;&#039; を参照。<br /> <br /> == 各部名称 ==<br /> [[ファイル:Katana (ja).png|thumb|right|300px|各部の名称]]<br /> 日本刀は、まず本体である&#039;&#039;&#039;刀身&#039;&#039;&#039;とその外装品である&#039;&#039;&#039;拵え&#039;&#039;&#039;(こしらえ)に分けられ、拵えは&#039;&#039;&#039;[[鞘]]&#039;&#039;&#039;(さや)、&#039;&#039;&#039;[[柄]]&#039;&#039;&#039;(つか)、&#039;&#039;&#039;[[鍔]]&#039;&#039;&#039;(鐔、つば)の各部に分けられる。部位および形状は右図を参照。<br /> <br /> {{refbegin|15em}}<br /> # 柄頭(つかがしら)/頭(かしら)<br /> # 鮫肌(さめはだ)<br /> # 柄糸(つかいと)/柄巻(つかまき)<br /> # 目釘(めくぎ)<br /> # [[茎 (刀)|茎]](なかご)<br /> # 柄(つか)<br /> # 目貫(めぬき)<br /> # 縁(ふち)<br /> # 鍔(鐔、つば)<br /> # 切羽(せっぱ)<br /> # [[ハバキ]]<br /> # 棟(むね)/峰(みね)/背(せ)<br /> # [[刃文]](はもん)<br /> # 樋(ひ)/棒樋(ぼうひ)<br /> # 長さ(ながさ)<br /> # 反り(そり)<br /> # 鎬(しのぎ)<br /> # 鎬地(しのぎじ)<br /> # 地(じ)/平地(ひらじ)<br /> # [[刃]](は)<br /> # 横手(よこて)<br /> # 切先/鋒(きっさき)<br /> # 頭金(かしらがね)<br /> # 巻止(まきどめ)<br /> # 鯉口(こいぐち)<br /> # 栗形(くりがた)<br /> # 鵐目(しとどめ)<br /> # [[下緒]](さげお)<br /> # 鞘(さや)<br /> # 小尻/鐺(こじり)<br /> # ものうち<br /> # 刃先(はさき)<br /> # 帽子(ぼうし)<br /> {{refend}}<br /> === 刀身 ===<br /> 日本刀の多くは片刃であり、[[刃]]のない側は棟(むね)または峰(みね)、また刃と棟の間の膨らんだ部分を鎬(しのぎ)と呼ぶ。鎬地と棟の間には樋(ひ)と呼ばれる溝が両面にそれぞれ1本または2本掘られるものがある。重量軽減しながら強度を保つ工夫であるが、実際は鎬地の傷隠しのために後世になってから彫るものが圧倒的に多い。また、鎬を高く棟を卸した作り込みが大和伝の特徴(棟を盗むという)で、これも樋と同じ目的となっている。大和伝以外では、戦国期に[[長船流|長船與三左衛門祐定]]と[[和泉守兼定]]が棟を盗む造りの名人であり、実用刀として珍重された。<br /> <br /> 刀身のうち[[柄]](つか)に収まる部分を[[茎 (刀)|茎]](なかご)、茎を柄に固定する棒状のものを目釘、それを通す孔を目釘孔(めくぎあな)と呼ぶ。茎には鋼の平鑢(ひらやすり)を丁寧にかけ(鑢目の種類は後述)、刃区(はまち)、棟区(むねまち)を整える。茎棟には流儀によって丸棟(まるむね)、角棟(かくむね)がある。さらに茎の尻を鑢で仕上げ、最後に目釘孔を設け銘を切る。古来、茎の鑢がけは柄から抜けにくくするためとされたが、江戸時代においては美観と贋物防止が目的となる。<br /> <br /> 一般的に日本刀を鑑賞するときには、刃文と地鉄に注目することが多い。刃文を構成する匂い口の様子や刃中の働き、鍛錬して鍛えた地鉄中の働き、鉄色の冴えを見る。さらに深く鑑賞、もしくは鑑定する場合は、茎を手に持ち垂直に立て、まず姿を見、作刀時代の検討をつける。続いて、各々の時代特色が刀身に現れているか鉄色、匂口の雰囲気、そして特に切先である帽子の出来から観察し、鑑賞する。最後に茎の具合を手のひらの感触、錆の具合、目釘孔の状態、鑢目、茎尻、茎棟の仕上げ状態、そして銘があれば銘を鏨切りの方向からも観察し、文字通り撫で回すように鑑賞する&lt;ref&gt;[http://www.kajita-token.com/appreciation.html 【日本刀の美の壺】日本刀鑑賞の要点]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 鞘 ===<br /> [[鞘]](さや)は、刀身に擦り傷が付かないように軟質な朴(ほお)の木を、加工後の反りを防ぐために10年以上寝かして使う。刀身を差し入れる方を「鯉口」(こいくち)、逆の側を「小尻」または「鐺」(こじり)と呼ぶ。鐺の端には鐺金具と呼ばれる保護具が付くことがある。腰に刀を差したとき、鞘の体に接する側を「差裏」(さしうら)、外に面した側を「差表」(さしおもて)と呼ぶ&lt;ref&gt;[http://kotobank.jp/word/差裏 差裏](kotobank)&lt;/ref&gt;。差表の腰にくるあたりには角や金属製の「栗形」(くりがた)と呼ばれる装置があり、ここに[[下緒]](さげお)を通して帯からの脱落を防止する。また栗形の鐺よりには「返り角」(かえりづの)、「逆角」(さかづの)、「折金」(おりがね)と呼ばれる突起部品が付けられる場合もあり、刀身を抜く時に鞘ごと抜けないようにこの部分を帯に引っ掛ける。さらに「[[笄]]」(こうがい)という、整髪などに使う小さなへら状の装身具を収納するために、主に鞘の鯉口近くの指表に「笄櫃」(こうがいびつ)と呼ばれる溝が設けられることもある&lt;ref name=&quot;図解 日本刀事典&quot;&gt;[[歴史群像]]編集部編 『図解 日本刀事典』 [[学研]] 2006年12月26日第1刷発行 ISBN 4054032761&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 鞘は塗り加工などが行なわれて完成すると、内部の汚れは容易に除けなくなる。これを避けるために鞘の内部に別の小さな鞘を入れた「入子鞘」(いりこざや)と呼ばれるものがあり、2枚に分割可能な構造をしている。<br /> <br /> 親指を鍔にかけて鞘から少し押し出す所作を「鯉口を切る」という。<br /> <br /> === 柄 ===<br /> [[ファイル:Tsuka-p1000660.jpg|thumb|right|柄]]<br /> [[柄]](つか)は[[茎 (刀)|茎]](なかご)を包みこみ、使用者の握りを確かなものにするために重要な役割を持つ部分である。多くは木製&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;『実戦刀譚』の著者である成瀬関次は、柄に使われる木材は朴が最も多く、その中でもくるいの少ない板目・柾目のしっかりしたモノを使うべきであり、若木、樹皮に近い部分、節目、逆目、木取の都合で斜になったモノは使ってはならないとしている。&lt;/ref&gt;で、その上に[[鮫皮]]を張り柄巻きと呼ばれる帯状の細い紐を巻く。<br /> <br /> 柄と刀身を貫いて固定するための小片を目釘、通すための穴を目釘孔と呼ぶ。目釘は古来は金属製であったが、後世では主に煤竹という燻上した肉厚の[[竹]]が用いられる。目釘には[[マダケ|真竹]]の根本から三寸ほど上の部分が最適であり、さらに100年以上寝かせたものが最適であると言われている。また、目貫(元来は目釘の役目をしていた)という装飾がつけられる。さらに、柄の一番手元に来る部分は柄頭と呼ばれ、装飾と実用を兼ねた金属が付けられることも多い。<br /> <br /> === 鍔(鐔) ===<br /> [[ファイル:Tsuba Asian Art Museum SF.JPG|thumb|250px|right|刀の鍔]]<br /> 日本刀は刀身と拵え(こしらえ=外装品)を別々に分けることができるが、[[ハバキ]]や切羽(せっぱ=鍔に添える金具)などで[[鍔]]は刀身に固定されている。<br /> <br /> == 日本刀の種類 ==<br /> === 時代による分類 ===<br /> ; 上古刀<br /> : 通常日本刀の分類に入らない、古刀以前の刀をさす。[[直刀]]が主であるが、大刀などにはそりが見られるものがある。<br /> ; 古刀<br /> : 狭義の日本刀が制作されてから、[[慶長]]([[1596年|1596]]-[[1615年]])以前の日本刀をさす。[[室町時代|室町]]中期以前は、[[太刀]]が主である。<br /> ; 末古刀<br /> : [[室町時代]]末期、[[応永]]以降の概ね[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]頃の古刀を、「末古刀」と呼び、区別することがある。「数打ち」の粗製濫造品が多い。<br /> ; 新古境<br /> : [[安土桃山時代]] - [[江戸時代|江戸]]最初期頃の、古刀から新刀への過渡期をこう呼んで区別することがある。[[慶長]] - [[元和 (日本)|元和]]の頭文字を取り、「慶元新刀」とも呼ばれる。<br /> ; 新刀<br /> : [[慶長]]以降の刀をさす。この時期の日本刀は、さらに「慶長新刀」「[[寛文]]新刀」「[[元禄]]新刀」に分類される。<br /> ; 新々刀<br /> : 「[[水心子正秀]]が提唱した古刀の鍛錬法」を用い制作された刀などの諸説あるが、新刀の内でも[[明和]]年間([[1764年|1764]]-[[1772年]])以降の日本刀をさす。<br /> ; 幕末刀<br /> : 新々刀の内でも[[幕末]]頃に作成されたもの。<br /> ; 復古刀<br /> : 江戸時代後期に[[鎌倉時代]]などの古名刀を手本として製作されたもの&lt;ref name =&quot;図解 日本刀事典&quot; /&gt;。<br /> ; 現代刀<br /> : これも諸説あるが[[明治]]9年([[1876年]])の[[廃刀令]]以降に作刀された刀剣をさすことが多い。<br /> ; 昭和刀<br /> : 主に[[軍刀]]向けとして作られた刀をさす。[[美術]]刀剣としての日本刀の分類から除外されることが多いが、[[昭和]]に製作された刀の全てを指すわけではない。製法は様々であるが、本鍛錬刀でないものは原則的に[[教育委員会]]の登録審査に通らず、[[公安委員会]]の所持許可が必要となる。しかしながら、必ずしも厳密なものではなく明らかに鍛錬刀とは見られない特殊刀身であっても登録が通っているものや、特例として戦後間もなくは遺品などとして登録証の交付を受けているものも数多くある。<br /> <br /> === 形状による分類 ===<br /> [[ファイル:Image19swardjp.jpg|thumb|200px|形状による分類]]<br /> ; [[剣]](けん、つるぎ)<br /> : 外国からの影響を受けず日本古来の型もこれ。刀身に反りがなく、切っ先から刃区および棟区まで完全に両刃となっている造りのもの。実用とされていたのは[[古墳時代]]の頃までであるが、装飾用もしくは儀礼用、[[仏具|仏教法具]]としてその後の時代でも作刀されている(数は少ないが現代物も存在する)。<br /> : なお、現行の[[銃砲刀剣類所持等取締法|銃刀法]]では「剣」として登録できるものは、日本の刀剣として古来よりの伝来が確かなもの、もしくは日本で[[玉鋼]]を用いて古式に則り作刀されたものに限られており、国外で製作された剣(例えば、[[中世ヨーロッパ]]製の[[ブロードソード]])は「剣」として登録できず、それらを日本国内で個人が合法的に所持することは基本的に不可能である。<br /> :; [[直刀]](ちょくとう)<br /> :: 「&#039;&#039;&#039;[[大刀]]&#039;&#039;&#039;(たち)」とも呼ばれる反りのない刀身の作りで、[[奈良時代]]頃までの「刀」とはこれを指す。平造りもしくは切刃造りが一般的だが、刀身の先端もしくは刀身の半ばまで両刃となっているものも多くある。前述のように刀身には反りがつかないが僅かに内反りとなっているものも存在する。<br /> :: 直刀に対し[[平安時代]]より一般的となった刀身に反りのある刀を「&#039;&#039;&#039;彎刀&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;弯刀&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;湾刀&#039;&#039;&#039;(わんとう、まがりがたな)」と呼ぶ。<br /> :; [[小烏丸|小烏丸太刀]](こがらすまる たち)<br /> :: &#039;&#039;&#039;鋒両刃造&#039;&#039;&#039;(きっさきもろはづくり、ほうりょうじんづくり)と呼ばれる刀身の造りで、[[皇室]]に伝来した際の逸話から特に「小烏丸作り」と呼ばれる。[[刃区]]から[[物打]]辺りまで鎬造り(しのぎづくり)であるが、切先から刀身の半ばほどまでが両刃となっている。反りは緩やかで浅い。直刀から湾刀への過渡期の存在と見られ、日本刀の変遷を示す例とされる。<br /> :; [[太刀#毛抜形太刀|毛抜形太刀]](けぬきがた たち)<br /> :: [[茎 (刀)|茎]](なかご)が[[柄]](つか)の役割を兼ねている太刀。柄に茎を差し込んで目釘で固定する一般的な日本刀とは違い、茎部分に装飾を施して直接「柄」として用いる。名の由来は、柄に[[毛抜]]型の透かしが施されていることによる。直刀から湾刀への過渡期に存在したもので、[[蝦夷]]の用いていた&#039;&#039;&#039;[[蕨手刀]]&#039;&#039;&#039;の影響を受けていると考えられている。<br /> :<br /> ; [[太刀]](たち)<br /> : [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]頃までの一般的な刀。「[[打刀]]」は刃を上にし帯に差して携行するのに対し、太刀は刃を下にして吊るして携行する(これを「&#039;&#039;&#039;佩く&#039;&#039;&#039;(はく)」と呼ぶ)、それに伴い拵(外装)も異なる。また、打刀と比べると刀身の反りが深いものが多い。また、打刀はあまり刀身の幅に変化がないのに対して、太刀は鍔元は太く切先は細いという形状が多く見られる。なお、現代の分類では刃長60cm以上のものを指し、60cm未満のものは「太刀」として造られたものでも「[[脇差]]」と呼ぶ。<br /> :;[[大太刀]](おおだち、おおたち)<br /> :: 長大な刀身を持つ刀。&#039;&#039;&#039;野太刀&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。現代の分類では、刃長が90cm以上のものを指す。腰に差す(佩く)には長すぎるため、背負うか担ぐかして携帯された。通常のように立ち会いで使うものではなく、合戦の際に馬上から下にいる足軽などを叩き斬るために使われ、刃の半ほどまで紐や布を巻いて[[薙刀]]のように使う例もあったと伝わる。徒歩での戦いで使うこともあった。また、神社仏閣への奉納用としても用いられた。<br /> :; [[小太刀]](こだち)<br /> :: 刀身の短い太刀。現代の分類では「脇差」との区別は特にされておらず、刃長30cm以上60cm未満のもので刃を下にして佩く刀剣を指すが、古来は2尺(60.06cm)前後の全長の短い太刀のことをこう呼んだ。「小太刀」という呼称、定義については諸説あり、現在でもはっきりとは定まっていない。<br /> :;[[刺刀]]<br /> ::[[鎌倉時代]]、徒歩の兵士たちの主要武器が薙刀であった頃に、薙刀が使えなくなった時に用いられた刀。役割的には脇差と同じであるが脇差しより反りが少ないか内反りのものである。刺突に重点をおいた小武器で、やがて長くなり[[打刀]]へと発展する。また刺殺武器としての刺刀は、反りがなく重ねが厚い(刀身の断面形状が厚い)[[鎧通し]]に発展した。<br /> :<br /> ; [[打刀]](うちがたな、うちかたな)<br /> : [[室町時代]]頃より登場した、反りのある刀身を持ち、刃を上にし帯に差して携行する刀。[[江戸時代]]以降一般的な「刀」となる。現代の日本では、単純に「刀」や「日本刀」と言った場合、打刀を指すことが多い。現代の分類では、切っ先から棟区までの直線で測った長さ(「刃長」)が60cm以上のものを指し、60cm未満のものは「&#039;&#039;&#039;脇差&#039;&#039;&#039;」と呼ぶ{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=221}}。<br /> :; [[脇差]](わきざし)<br /> :: 刀身の短い打刀、または太刀。現代の分類では、脇差は刃長30cm以上60cm未満のものを指す。江戸時代には長さに応じて大脇差(1[[尺]]7[[寸]]前後)、中脇差(1尺4寸前後)、小脇差、もしくは喰出し(はみだし)(1尺2寸未満)の言葉があてられた。<br /> :; [[短刀]](たんとう)<br /> :: 元々は全長1尺‐1尺2寸(約30-36cm)以下の刀で、現代の分類では、刃長30cm未満のものをいう{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=222}}。「&#039;&#039;&#039;合口&#039;&#039;&#039;」や「&#039;&#039;&#039;[[匕首]]&#039;&#039;&#039;(あいくち)」も短刀の別名である。刃長が1尺(約30cm)以上あるが、反りがほとんどなく、鎬のない平造りの刀身形状を持ものは「&#039;&#039;&#039;寸延短刀&#039;&#039;&#039;(すんのびたんとう)」と呼ばれ、現代の分類でも「短刀」に分類されることが多い。<br /> :; [[鎧通し]](よろいどおし)<br /> :: 身幅が狭く重ねが極端に厚く、寸の短い刃長7寸(約21cm)前後で身幅7[[分 (数)|分]](約2.1cm)前後の短刀で、[[組討|組討ち]]時にとっさに抜き[[鎧]]の隙間を狙うためのもの。合戦では右腰に指すことから「馬手指し(めてざし)」とも呼ばれる。古来より有名なのが粟田口藤四郎[[粟田口吉光|吉光]]の名物[[粟田口吉光|「厚(あつし)藤四郎」]]([[東京国立博物館]]蔵、国宝)で、重ねは約1.1cm。[[尾張徳川家]]伝来[[徳川美術館]]収蔵の室町期の[[平安城長吉]]の作は重ねが約1.7cm。両者とも刃長は7寸前後だが、茎が長く、4寸前後あり、柄なしでも握りやすい肉置きとなっているのが特徴である。新々刀期に入ると時代情勢を反映してか重ねの厚い短刀が再出現するが、古作の如く、全体の姿が手馴れていないが、[[源清麿]]が鍛えた左文字写しの作は同時代を代表する鎧通し造りと言われている。鎧通しは広く知られている割に、重ねの定義も様々で、重ねが3分以上ある短刀ですら遺作が少ない。時代の姿およびその刀工の一般的な作風から逸脱する傾向があるため、刀工鑑定が困難である。また、入念作であるが元来無銘の鎧通しの名品もあり、基本的に[[一騎討ち]]を行う侍大将クラスの特注品だったと考えられる。<br /> :<br /> ; [[長巻]](ながまき)<br /> : ほぼ刀身と同じ長さの柄を持つ大太刀。大太刀の柄を延長して取り回し易くした「&#039;&#039;&#039;中巻き&#039;&#039;&#039;」から発展したもの。長巻と中巻きの違いは、最初から茎を長く作ってあるか、通常の茎の長さの大太刀の柄を延長して長くしたものか、の違い。[[正倉院]]の収蔵品に原型らしき長柄武器が残されている。<br /> :; 長巻直し<br /> :: 長巻を基にして刀に造り変えたもの。基となったものをどう造り変えたかにより刃渡り3尺(約90cm)の「大太刀」から2尺(約60cm)以下の「脇差」まで様々なものがあるが、基となった長巻の刀身形状から、先反りから中反りで「鵜の首造り」もしくは「冠落造り」の刀身形状になっているものが多い。また、鎬造りの刀の如く、横手を引き、切先をナルメて帽子を作ってあるのが特徴である。<br /> :<br /> ; [[薙刀]](なぎなた)<br /> : 切ることを主たる攻撃方法とする刀に対して、薙刀は薙ぎ払うことを目的とした武器である{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=222}}。打刀や太刀の様に湾曲した刀身を持つ、長柄の武器。「長刀(ながなた)」とも表記される。<br /> :; 薙刀直し<br /> :: 薙刀を基にして刀に造り変えたもの。薙刀の刀身形状から、先反りで「鵜の首造り」もしくは「菖蒲造り」の刀身形状になっているものが多い。薙刀は刀や太刀に比べると刃渡りが比較的短いため、茎を切り詰めて脇差や短刀に仕立てたものが多い。横手は引かず、帽子は作らない。<br /> :: 長巻や薙刀を造り変えて「刀」としたものではなく、作刀時から長巻直しもしくは薙刀直しであるかのような形状として造られた刀もあり、それらは「&#039;&#039;&#039;長巻直し造り&#039;&#039;&#039;(ながまきなおしつくり)」「&#039;&#039;&#039;薙刀直し造り&#039;&#039;&#039;(なぎなたなおしつくり)」と呼ばれる。これらは[[新々刀]]期に見られる。<br /> :<br /> ; [[仕込み刀]](しこみがたな)<br /> : 様々なものに刀身を仕込み、刀であることを偽装した[[暗器#日本の隠し武器|隠し武器]]。主に[[杖]]・[[煙管]]・[[扇子]]といった日用品などに偽装したものと、他の武器に小さな刀身を仕込み二段構えの武器としたものの2種類がある。<br /> : 外装を[[杖]]に模したものは特に「&#039;&#039;&#039;仕込杖&#039;&#039;&#039;」と呼ばれる。<br /> <br /> === 斬れ味による分類 ===<br /> 刀剣の&#039;&#039;&#039;大業物(おおわざもの)&#039;&#039;&#039;や&#039;&#039;&#039;業物(わざもの)&#039;&#039;&#039;という表現は、切れ味による分類である。文化12年(1815年)、公儀[[介錯]]人の[[山田浅右衛門]]が多数の刀を集めて[[試し斬り]]を行い、切れ味により刀工ごとに刀を最上大業物、大業物、良業物、業物に分類し、結果を『懐宝剣尺』という書物にまとめて公表した。詳細は&#039;&#039;&#039;[[刀剣の業物一覧]]&#039;&#039;&#039;を参照。<br /> <br /> === 造り込みの分類 ===<br /> [[ファイル:Image20swjp.jpg|thumb|250px|造り込みによる分類]]<br /> ; 鎬造り(本造り)<br /> : ほとんどの日本刀はこの造り込みで作られている。上記の写真もこの造り込みである。切刃造りが進化してできたと思われる。<br /> ; 平造り<br /> : 短刀や小脇差によくある造り込み{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=223}}。鎬がないもの{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=223}}。[[古墳時代]]や[[奈良時代]]に作られた反りがない直刀は平造りになっており上古刀と呼ばれる{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=223}}。鎌倉中期の刀工、粟田口[[国吉]]の「鳴狐」と号のある打刀が著名である。[[国宝]]に指定されている、[[春日大社]]の菱作腰刀の刀身は、[[焼き直し]]であるが、鎌倉時代をくだらない古作の打刀として知られる。平造りの打刀も[[室町時代]]中期から末期の間にごく少数見られる。<br /> ; 片鎬造り<br /> : 片面が鎬造り、片面が平造りでできている。南北朝期の濃州鍛冶、兼氏の重要文化財指定の刀が遺作として著名である。<br /> ; 切刃造り、片切刃造り<br /> : 鎬線がより刃先の方にある造り込み{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=223}}。上古刀期から見られる{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=223}}。南北朝期においては、[[貞宗]]の作と伝えられている名物の「切刃貞宗」が有名で、同時代前後の刀工に見られる造り(主に短刀)である。以来、慶長年間においては新刀の祖と言われる[[埋忠明寿]]を始めとし、特に越前[[初二代康継|康継]]の切刃貞宗写しは多数作られている。また、幕末において、各国の刀工に写し物が見られる。<br /> ; 切先双刃造り・鋒双刃造り・切先両刃造り・鋒両刃造り(きっさきもろはづくり)、小烏造り(こからすづくり)<br /> : 切先に近い部分のみが、剣のように両刃になっているもの{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=224}}。特に、&#039;&#039;&#039;小烏造り&#039;&#039;&#039;は刀身の2分の1以上が両刃になった[[擬似刀]]と呼ばれる[[剣]]の造りを指す。現存する刀では[[小烏丸]]がこの造り込みでできている。新々刀期の刀工、明治期の刀工が写しを作刀している。<br /> ; 菖蒲造り(しょうぶずくり)<br /> : 鎬造りに横手を取り除いた形の造り込み{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=224}}。形状が[[菖蒲]]の葉に酷似しているのが、この名前の由来である。この造り込みは鎌倉時代中期から始まり、主に脇指や短刀に見られるが{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=224}}、室町時代中期から末期の間に備前鍛冶や美濃鍛冶にたまに2尺を越えた打刀が見られる。<br /> ; 鵜の首造り(うのくびずくり)<br /> : 鋒から少し下だったところから途中まで、棟の側肉が落とされているもの。[[鵜]]の首のように細くなっていることが、この名前の由来である。<br /> ; 冠落造り(かんむりおとしずくり)<br /> : 鋒に向かって棟の側肉が落とされているもの。一般的に薙刀樋を付けたものが多く、短刀によく見られる。<br /> ; 両刃造り(もろはづくり)<br /> : 鎬を境にして双方に刃が付いており、鋒が上に向いているもの{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=224}}。室町時代中期以後の短刀に見られる{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=224}}。7寸前後の懐刀が多く、まれに両刃造りの長刀も存在するが、両者とも直ぐに廃れた。古刀期では末備前の勝光・宗光兄弟の作が比較的多く現存し、新々刀期においては各地で見られる。<br /> ; おそらく造り<br /> : 横手の位置が通常の鎬造りと違い大きく茎の方によっており、鋒が刀身の半分から3分の2を占めているもの{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=224}}。短刀や脇差に見られる{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=224}}。この名称の発端については諸説あり、室町末期の刀工、 [[島田助宗]]の短刀にこの造りがあり{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=224}}、その刀身に「おそらく」(恐ろしきものという意味)と彫ってあったのでこの名がついたと言う説が主流だが{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=224}}、「恐らく他に存在するまい」という意味である、という説もある。<br /> ; 鋸刃造り(のこばづくり、のこぎりばづくり)<br /> : 峰の部分が[[鋸]]になっているもの。船上で刀として使う他に[[ロープ#船舶|もやい綱]]などの[[船具]]を切るための道具として用いられたもので、[[阿波水軍]]で多く用いられた。[[阿波国]]の郷土刀である「[[海陽町#海部刀|海部刀]]」にはこの鋸刃造りの刀身を持つ脇差や短刀が多くあり、現在でも幾振りが現存している。<br /> <br /> === 反りの種類 ===<br /> 一般的に時代が降るにつれ、腰から先へ反りの中心が移動していく傾向になっている{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=226}}。<br /> ; 腰反り(こしぞり)<br /> : 反りの中心が鋒と棟区の中心より下の方に位置するもの{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=226}}。[[焼き入れ]]の関係上、鎬造りの刀には必ず腰反りがつく。棟側にあたかも倒れるような腰反りは平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての太刀に見られる。<br /> ; 中反り(なかぞり)、鳥居反り(とりいぞり)<br /> : 反りの中心が鋒と棟区のほぼ中心に位置するもので、鳥居の笠木から由来する{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=226}}。鎌倉時代中期頃の山城伝、大和伝に見られる。<br /> ; 先反り(さきぞり)<br /> : 物打ち付近から切先にかけて反りのついた姿を「先反りがつく」と表現する{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=226}}。室町時代以降の片手打ちの刀{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=226}}、また、[[五箇伝]]から外れた刀工の刀に見られる。<br /> ; 内反り(うちぞり)<br /> : 一般的に棟に向かって反るものだが、その逆で刃に向かって反っているものをいう{{sfn|小泉富太郎|辻本直男|沼田鎌次|渡辺国雄|1966| p=226}}。鎌倉時代の短刀・[[正倉院]]宝物の「[[刀子]](とうす)」に見られる。然しながら短刀の場合、度々の[[日本刀研磨]]によって重ねの薄い切先部分のほうから研ぎ減り、内反りになることは知られており、むしろ内反りがつかない短刀程健全と言い得る。<br /> ; 踏ん張り(ふんばり)<br /> : 厳密には反りではないが、反りを語る上で同時に用いられる表現なので記す。刃区(はまち)、棟区(むねまち)から2寸ほどの間で、刃、棟とも末広がりのような形状をしているもので(鎬地が緩やかに広くなる)、あたかも人が両足で踏ん張って立っている様子に似ていることから「踏ん張り」がある、と表現する。特に棟側の踏ん張りは重要で、研磨の際、損ないやすい。「踏ん張り」は、区送り(まちおくり)、磨上、度重なる研磨で失われるため、「踏ん張り」のある刀は見た目的にも安定感があるだけでなく保存状態が良い。生ぶ茎にのみ見られる。[[ハバキ]]の収まりも良い。<br /> <br /> === 鑢目の種類 ===<br /> [[ファイル:Y01xswardjp.JPG|thumb|250px|鑢目と茎の形状の種類]]<br /> 鑢目(やすりめ)は柄から刀身を抜けにくくするために施される。国、時代、流派により使われる鑢目が違うため、日本刀の鑑定でよく見られる。<br /> * 切り(横、一文字)<br /> * 勝手下り<br /> * 勝手上り<br /> ** 左利きの刀鍛冶に特徴的な鑢目であるため、鑑定では大きなポイントになる。<br /> * 筋違<br /> * 大筋違<br /> * 逆大筋違<br /> * 鷹の羽(羊歯)<br /> * 檜垣<br /> * 化粧鑢<br /> ** 上記各鑢目に組み合わされる装飾である。新刀期の後半以降に見られるため、時代判別の際のポイントになる。<br /> * ならし(&amp;#37855;)鑢<br /> <br /> === 鋩子の種類 ===<br /> [[ファイル:Types of bōshi-ja.svg|thumb|300px|鋩子の種類]]<br /> * 小丸(こまる)<br /> * 小丸上がり<br /> * 小丸下がり<br /> * 一文字返り<br /> * 横手上刃細し<br /> * 大丸(おおまる)<br /> * 焼き詰め<br /> * 掃きかけ<br /> * 乱れ込み<br /> * 丁字乱れ込み<br /> * 地蔵<br /> * 火炎<br /> * 一枚<br /> * 沸崩れ<br /> * 湾れ込み<br /> * 突き上げ<br /> <br /> === 切先の種類 ===<br /> [[ファイル:Types_of_Kissaki-ja.svg|thumb|250px|切っ先による分類]]<br /> * かます切先<br /> * 小切先<br /> * 猪首切先<br /> * 中切先<br /> * 大切先<br /> <br /> === 地肌による種類 ===<br /> * 杢目肌<br /> ** 大杢目肌<br /> ** 中杢目肌<br /> ** 小杢目肌<br /> * 柾目肌<br /> * 板目肌<br /> ** 大板目肌<br /> ** 小板目肌<br /> * 綾杉肌(月山肌)<br /> * 松皮肌<br /> * 則重肌<br /> * ひじき肌<br /> * 梨子地肌<br /> * 小糠肌<br /> * 縮緬肌<br /> * 無地肌<br /> <br /> === 地刃の働きの種類 ===<br /> 日本刀の地刃の働きは主に鋼を焼き入れした時に生じる[[マルテンサイト]]によって構成される。<br /> ; 沸(にえ)<br /> : [[マルテンサイト]]の粒子が大きいもの<br /> ; 匂い(におい)<br /> : マルテンサイトの粒子が小さいもの<br /> <br /> 沸と匂いの組み合わせによって以下の様々な働きが現象する。<br /> * 映り(うつり)<br /> * 地景(ちけい)<br /> * 金筋(きんすじ)・金線(きんせん)<br /> * 砂流し(すながし)<br /> * 湯走り(ゆばしり)<br /> * 足(あし)<br /> * 葉(よう)<br /> <br /> == 日本刀の多様な側面 ==<br /> === 日本刀の性能と力学的性質 ===<br /> 日本刀は「折れず、曲がらず、よく切れる」といった3つの相反する性質を同時に達成することを追求しながら作刀工程が発達してきたと考えられている。「折れず、曲がらず」は[[材料工学]]においての[[強度]]と[[じん性|靭性]]の両立に相当する。両者の均衡を保つことは高度な技術の結果である。また「よく切れる」と「折れず」の両立も難しい。これについては刃先は硬く、芯に向かうと硬さが徐々に下がるいわゆる傾斜機能構造を持つことで圧縮残留応力を刃先に発生させて実現されている。<br /> <br /> 日本刀の切れ味については、様々なところで語られる。有名な逸話として、[[榊原鍵吉]]の[[同田貫]]一門の刀による「[[天覧兜割り]]」がある。ただし、この切れ味も最適な角度で切り込んでこそ発揮できるもので、静止物に刀を振り下ろす場合はともかく、実戦で動き回る相手に対し常に最適の角度で切り込むのは至難の業とされる。<br /> <br /> 日本刀のうち、江戸時代の[[打刀]]は、[[江戸幕府]]の規制(2尺9寸以上の刀すなわち野太刀は禁止された)と、外出中は[[大小 (日本刀)|大小]]を日常的に帯刀することから、(江戸幕府の)創成期と幕末期を除き、刃渡り2尺3寸(約70cm)程度が定寸である。また、江戸時代には実戦に供する機会がなくなり、[[試し斬り]]が多々行われた&lt;ref&gt;[http://www.geocities.jp/kanetoyo2666/tameshigiri.html 試し斬りについて]&lt;/ref&gt;。刀剣は一般通念よりも軽く作られている。<br /> <br /> 以下は各地域発祥の刀剣との比較。なお、重量は全て抜き身の状態のもの。<br /> <br /> * [[打刀]](日本):刃渡り70-80[[センチメートル|cm]]の場合 850-1400[[グラム|g]]程度([[柄]]、[[鍔]]などを含める、抜き身の状態。刃渡り100cm程のものは、2,000g前後)<br /> * [[サーベル]](世界各地):刃渡り70-100cmの場合 1000g-1500g程度(地域によって異なり、この値より上下する場合もある。)<br /> * [[シャスク]]([[東ヨーロッパ]]):刃渡り80cm 900-1,100g程度<br /> * バック・ソード(西ヨーロッパ) :刃渡り90cm以下、1200g-1300g(籠状の鍔も含む)<br /> * ロングソード(西ヨーロッパ) :刃渡り90-110cm(全長は100-130cm) 1300-1500g<br /> * [[中国剣]]([[中国]]):刃渡り70-100cmの場合 900-1,000g程度 (両手用、刃渡り100cmほどのものは3,000g程度以上)<br /> <br /> 以上は[[近代]]まで使われていた物である。日本の刀は、他の刀剣と比べ柄が長く、刃の単位長さ当たりの密度が低いわけではない。しかし、両手で扱う刀剣の中では最も軽量な部類に入る。日本刀は、「断ち切る」ことに適した刀剣である。{{要出典|しかし、刀自体の重量が軽いので切断する際手前にスライドさせて力の向きを切断物に対し直角からそらして加える必要がある。|date=2017年7月}}。同じ理由により、「斬る」ために刀を砥ぐ際は、[[包丁]]のように、スライドさせる方向に砥ぎをかける([[剣]]の扱いに似ている)。<br /> &lt;!--<br /> ==== テレビ番組による実験 ====<br /> ; [[トリビアの泉]]<br /> : [[2004年]](平成16年)の夏頃に放送された実験結果。<br /> :; 日本刀と[[拳銃]](“コルト・ガバメント”[[M1911]])<br /> :: 刀身に向けて、ベンチレストを用いて垂直に[[弾丸]]を撃ち込む実験。弾丸は両断され、全く刃こぼれしなかった。ここで使われた弾丸「[[.45ACP弾]]」はレッド(lead)=鉛のみで銅による被甲(ジャケット)も施されておらず、日本刀の鋼に対して「軟らかい」素材であった。またM1911A1と日本刀はそれぞれ正対するよう位置調整されたバイス台に固定されていた。<br /> :; 日本刀と[[ウォータージェット]](水圧の刃)<br /> :: 刀身に向けて、垂直にウォータージェットを噴射する実験。キズ一つ無く、通過した。同じ条件で包丁は両断された。<br /> :; 日本刀と[[機関銃|マシンガン]]<br /> :: 拳銃と同じ角度から[[ブローニングM2重機関銃]]を使用して、[[12.7x99mm NATO弾]]という一般的な自動小銃弾の10倍以上の質量を持つ対機械車両用の大口径弾を100発撃ち込み、何発まで耐えられるかという実験。6発の銃弾を切断するも、弾丸が当たるにつれ刃こぼれが深くなり、7発目で耐え切れずに折れる。安全のため後ろに置かれていた[[コンクリート]]の壁は粉砕された。使用された弾丸は[[対戦車ライフル]]([[対物ライフル]])などに使われるもので、弾丸の持つ[[エネルギー]]量は前述の拳銃弾である.45ACP弾の30倍、一般的なマシンガンの弾丸([[5.56mm NATO弾]])に対してさえ7.5倍を超える、極めて高威力の弾丸であった。--&gt;<br /> : &lt;!-- バグ回避のための行 --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ; [[怪しい伝説]]<br /> : 「映画によくある、剣で剣を斬るというシーンは実際に可能なのか?」というコンセプトのもとに行われた実験。大まかな内容は、同じ力で剣を振るための機械を自作し、その機械を使って剣を振り固定した別の剣に刃をぶつけるというもの。用いられたクレイモアやレイピアは[[炭素鋼]]を使用して作成されたレプリカである。<br /> :; 日本刀をステンレス製の[[模造刀]]の側面にぶつける<br /> :: 模造刀はぶつけられた部分から折れた。<br /> :; 日本刀を日本刀の側面にぶつける<br /> :: 日本刀は大きくしなるだけで折れなかった。<br /> :; 日本刀の刃同士をぶつける<br /> :: 固定された方の日本刀はぶつけられた部分が少し曲がって刃が欠け、根本から折れた。振られた方の日本刀の状態は不明。<br /> :; 日本刀を[[レイピア]]にぶつける<br /> :: レイピアは大きくしなり、ぶつけられた部分から折れた。<br /> :; [[クレイモア]]を日本刀の側面にぶつける<br /> :: 日本刀は大きくしなるだけで折れなかった。<br /> : 同番組の別企画「[[デイヴィッド・クロケット]]の伝説の実証」では、斧の刃に先込式銃で撃って、弾を2つに斬れるかという実験が行われた。25mと35mの距離から射撃した結果、折れることなく2つに斬ることに成功している。--&gt;<br /> : &lt;!-- バグ回避のための行 --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ; [[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]<br /> :(日本国内では編集版が[[世界まる見え!テレビ特捜部]]で放送、2008年8月24日に[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]・[[ケーブルテレビ]]などを通じ、完全版が放送された)<br /> :番組内で取り上げた海外番組『Fight Science』での検証で、日本刀が世界最強の武器であると結論している。同番組では衝撃力・攻撃範囲・扱い易さの3つを兼ね揃えた武器が最強としており、扱いやすく威力の高い武器として刀剣類をあげている。「剣は突き中心」「刀は斬撃中心」と両者の特徴の違いを説明した上で、刀でありながら斬撃と突き攻撃両方に使え、丈夫で優れた武器として日本刀が紹介された。日本人[[居合道]]有段者による[[藁|巻藁]]や[[竹|青竹]]を[[試斬]]するシーンや、実験用[[ゼラチン]]で作ったモデル人形(人間の筋肉の密度を再現している)を白人が突き刺したり(胴体を貫通)一刀両断にするシーン(胴体を切断)を流し、日本刀の武器としての優秀性について証明した。ただ、人形を用いた試斬を行ったのは[[居合術]]や[[剣術]]に長けた人物では無く、日本刀により行った演武([[中国武術]]家の演武)が日本剣術の操法では無いことから、日本剣術の修練者が行っていたならばより日本刀の性能を引き出せた可能性は残る。--&gt;<br /> : &lt;!-- バグ回避のための行 --&gt;<br /> &lt;!--<br /> ; [[ヒストリーチャンネル]]<br /> : [[R・リー・アーメイ]]が司会の武器紹介番組『ガニー軍曹のミリタリー大百科』(Lock N&#039; Load )で、日本刀と同じく焼入れ技術が用いられた中世期の刀剣として[[ブロードソード]](番組では[[ロングソード]]と表現)と比較された。実験は、突き以外、すべて「元打ち」のたたくような切り方であった。<br /> : 氷柱は日本刀では一撃で切れ、ロングソードでは3回たたいても切れなかった。ダミー人形に装着した革鎧はロングソードによる寸胴切りでは切れなかったが、日本刀による袈裟懸けでは切り裂き、致命傷を与えると判定された。日本刀の場合は[[剣道]]の「面」より手が下がっており、刀が滑って切る効果が出た。鉄の鎧に対する突きは、刃を水平にし、[[打突]]の勢いがない腕の力だけによるものであったが、日本刀の方がロングソードより深く刺さった。番組では日本刀の勝ちと判定した。振るったのがアーメイ自身でそれぞれの刀剣に適した振り方か不明なので、検証の正確さには若干の疑問があるかもしれない。<br /> --&gt;&lt;!--テレビの娯楽番組の内容を一々記録するべきなのか?疑問--&gt;<br /> ==== 日本刀の性能に言及されている史料 ====<br /> [[支那事変]]([[日中戦争]])中、日本軍将校2人が[[百人斬り競争]]を行ったという。将校の一方は自らの関の孫六について、56人の時点で刃こぼれが1つ、86人の時点で「まだ百人や二百人斬れるぞ」と言ったという([[東京日日新聞]]1937年11月30日・同12月4日)。{{要出典範囲|date=2016-01|これについて「名誉毀損」として訴訟が起きており、「全くの虚偽であると認めることはできない」とされた高裁判決が確定している。ただし、この裁判自体は戦時報道の虚偽性に関するものであり、日本刀の性能に関しては判断されていない。判決自体も結局のところ「総合的には真実とも虚偽ともどちらとも言えない」というような曖昧なものである。}}<br /> <br /> 刀工の成瀬関次は『戦ふ日本刀』(1940)で日本刀での47人斬り他複数の逸話や伝聞の信憑性を肯定的に述べている。秦によると、鵜野晋太郎という[[少尉]]が『ペンの陰謀』に、[[捕虜]]10人を並べてたてつづけに首を切り落とした経験を寄稿したという&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;[[山本七平]]は「自身の経験に照らして日本刀で斬れるのは高々3人である」としている(『私の中の日本軍』より)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 戦史上の日本刀 ===<br /> {{独自研究|section=1|date=2015年11月14日 (土) 01:17 (UTC)}}<br /> 日本刀は元来、「断ち切る」ことに適した刀剣である。起源をさかのぼれば、[[古墳時代|古墳]] - [[奈良時代]]に、儀式用と実戦用とが区別され始めた時、「圭頭大刀(けいとうたち)」や「黒作大刀(くろづくりのたち)」は「断ち切る」専用だった。平安時代に「小烏」などが「切っ先諸刃作り」を採用して「突き刺す」ことにも適性を持っていたが、その後、太刀や打刀では、切っ先諸刃作りは排され、手首を利かせて「切る」ことに適するよう、湾曲している。一部の武芸者は、切先三寸が両刃となった刀を使用したが、これは例外である。<br /> <br /> ==== 近代以前の戦史における日本刀の役割についての論争 ====<br /> 日本刀が[[日本の合戦一覧|日本史上の戦場]]でそれほど活躍しなかったと主張する書籍がある&lt;ref&gt;山本七平著 『私の中の日本軍』 [[文春文庫]] 1983年1月初版第1刷発行 ISBN 978-4167306014&lt;/ref&gt;([[山本七平]]、[[鈴木眞哉]])。鈴木眞哉は、日本刀が普及していた理由は、首を切り落として[[首級]]をとるために必要不可欠な道具であったからだと結論づけている。しかし、そのような用途では[[脇差]]・[[短刀]]の類で十分であり、[[太刀]]・[[打刀]]のような中型の日本刀が普及した事の説明にならない。山本七平のものは、彼自身が戦時中に軍刀で死体を切ってみた感想に基づいた意見である。<br /> <br /> 日本刀不要物論において彼らが挙げた根拠は以下のもの。<br /> <br /> # 南北朝~戦国時代における合戦における負傷理由のうち、刀傷は弓矢による傷より圧倒的に割合が低い。とする&lt;ref&gt;「刀と首取り」鈴木真哉&lt;/ref&gt;。<br /> # 刀剣は[[白兵戦|接近戦]]向きで、統制の維持されている集団が広い空間で戦う場合は長柄武器([[槍]]・[[薙刀]]など)に対して不利だったこと&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;各種の軍記物や戦陣訓において、開戦から時間が経ち乱戦となった局面や二間より近い間合いで槍を揮うのは下策としている。&lt;/ref&gt;。<br /> # [[鎧]]や[[鎖帷子]]を着用した部位に対する斬撃は威力を減じる。<br /> # 刀身と柄が一体でなく、その接合方法上強い打撃に耐えられない構造上の問題があること。それに比べて、長柄物は柄が木製である特性上刀よりも容易に毀損する。刃の薄いものは力を加える方向によっては容易に変形や毀損を来たし、日本刀の利点である切れ味が失われる。<br /> # 高品質の銘刀や大型の野太刀は拵えるのに手間が掛かるため、量産化や兵士への支給ができなかったこと。<br /> # 日本刀の草創期からすでに武士の主戦術は[[騎射]]だったこと。&lt;!--長柄槍による組織行動が行われるようになるのは戦国時代中期以降 さらに鎌倉末期からは[[槍術|槍兵]]による集団戦術、戦国時代からは鉄砲が加わったこと。--&gt;<br /> # 日本人の間で広く[[剣術]]が盛んになったのは、平和な江戸時代に[[竹刀稽古]]が隆盛してからであったこと。<br /> <br /> これに対して、以下の根拠から反論がなされている。<br /> # 戦闘が経過し隊伍の乱れた状況での闘い、および夜襲や悪天候下など、[[長柄武器]]や[[飛び道具]]が有効でない状況において特に有効な武器であり、必要不可欠であった。<br /> # 数打ちと呼ばれる量産品が生産されるようになり、足軽へ支給していたこと。<br /> # [[足軽]]は手足の露出した簡素な鎧だったり雑兵などは鎧なしの者もいるなど、鎧は全身を覆っていない。また、金属部分であっても最適な条件で斬りつけた場合は鎖帷子などでは切断されるし、鎧であっても多少なり斬り込まれる。<br /> # 血糊や多少の刃毀れにより切れ味が失われても、殺傷力に大きな影響は生じない。鎧は打撃に若干弱い面があり、南北朝期や戦国期には刀を刃物付き[[鈍器]]として扱う戦い方もあったこと(戦乱期の刀には[[蛤刃]]といって刀身を分厚くこしらえたものが存在する)。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=樋口隆晴|title=歴史群像 武器と甲冑|date=|year=|accessdate=|publisher=歴史群像|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;<br /> # 精神性を重視されるようになるのは江戸時代以降であり、当時の様々な記録に残っている通り刀は実用品であった。<br /> # 美術的価値のみが重視されたのは近代以降であり、当時において美術的価値を持ったのは極限られた銘刀でしかなかった。<br /> # 相手を倒すためには何も首を刎ねたり胴を真っ二つにする必要はないということ。日本刀の鋭さは人体を切り落として出血させるに十分であるし 刺突すれば容易に臓器や動脈を傷つけて致死性の傷を負わせられる。これを防げる鎧というものはかなりの重さになってしまうため、全身くまなく覆うのは非現実的であり、部分的にしか日本刀の斬撃を防げなかった。また、鎧は高価であり部分的な鎧しか、または全く身につけていない者も多かった。<br /> #騎射を行う騎馬武者にこそ、未使用時に腰に差しておける副武装としての日本刀が重要であった。そもそも日本刀はもともと騎馬武者用の太刀として発展した。そして騎射を行わない打物武者も、槍などの主武装が失われた時に備えて副武装の刀を携帯していた。<br /> #南北朝期の負傷率統計では矢傷が最も多くとも、刀傷や薙刀傷、鉞傷を含めた切傷が一定の割合で存在するものもある。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=トマス・D・コンラン|title=図説 戦国時代武器防具戦術百科|date=|year=|accessdate=|publisher=原書房|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;<br /> #合戦手負注文や軍忠状といった古文書では矢傷が多いが、”生存者の負傷原因”はわかっても、おおむね”戦死者の死因”が不明である。&lt;ref&gt;「騎兵と歩兵の中世史」近藤好和&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;「刀と真剣勝負 日本刀の虚実」渡辺誠&lt;/ref&gt;<br /> #合戦手負注文(及び討死注文)に記載される対象は勝った方の士分以上の者のみであり、徴収された雑兵・軍夫は対象外である。&lt;ref&gt;笹間良彦『図説 日本戦陣作法辞典』柏書房、280頁。&lt;/ref&gt;<br /> #南北朝期~室町期(戦国期除く)において、矢傷が多くとも、敵を撃退する効果が高いのは太刀や薙刀を手にした打物騎兵の突撃であった。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=樋口隆晴|title=歴史群像 武器と甲冑|date=|year=|accessdate=|publisher=歴史群像|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==== 合戦に刀が使用された理由 ====<br /> ;[[騎兵#日本における騎兵|騎馬武者]]の武器として<br /> :太刀は刀身が大きく反っているため、馬上から斬りつけるのに適していた&lt;ref&gt;{{Cite book|author=戸田藤成|title=武器と防具 日本編|date=|year=|accessdate=|publisher=新紀元社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;。平安時代から鎌倉時代等の戦では遠距離では[[和弓]]を放ち、近距離では持ち替えて戦うことがあったとされる。<br /> :また、南北朝期~室町期(戦国期除く)では、太刀、大太刀、長巻が騎馬武者(打物騎兵)のメインウェポンとして使われた。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=樋口隆晴|title=歴史群像 武器と甲冑|date=|year=|accessdate=|publisher=歴史群像|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;<br /> ; 予備の武器としての価値<br /> : 武器は武人の蛮用により破損してしまうことが日常的にあり、予備の武器が必要である。古今東西、人は丸腰になることを恐れる。<br /> ; 自衛用の武器としての価値<br /> : 白兵戦を専門とし、[[長柄武器]]を持つ兵は一部である。それ以外の兵も自衛用の武器が必要とされ、主に刀を身につけていた。たとえば弓・鉄砲・石つぶてといった投射兵種、荷駄や[[黒鍬]]といった支援兵種など。<br /> ; 長柄武器を使用しづらい状況での使用<br /> : 室内や山林など、長柄の武器の取り回しが悪い環境では刀に持ち替えて戦った。<br /> ; 槍の補助として乱戦での使用<br /> : 日本の合戦は中世の[[和弓|弓]]や近世の鉄砲などといった遠戦から始まり、統制の取れている段階で槍などで闘い、乱戦になると槍を捨てて日本刀が使われることが多かった。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=|title=図説・日本武器集成|date=|year=|accessdate=|publisher=学研|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;<br /> : 合戦で使用された刀の中には、峯などに相手の刀などによる切り込み傷のあるものが多い。たとえば、名物[[石田正宗]]には、大きな切り込み傷が多数存在し、実戦で使用されたことを窺わせている。<br /> ; 敵将の首級を挙げる<br /> : 槍などの刀以外の武器では、戦場の真っ只中で迅速に首を切り落とすのは、非常に困難であり、合戦では自らの功績を示すものが敵将の[[首級]]であったため、重要であった。(ただし、打刀や太刀よりも短刀や小脇差の方が最適だったと思われる。)<br /> <br /> ==== 戦場外での日本刀 ====<br /> 戦場外でも本差と脇差は携帯され、これは比較的扱いやすく丈夫(いざというときは命を預けられる)すぐれた[[護身]]用の携帯汎用武器として秀逸であったことを示している。特にその優れた切れ味は、戦場用よりも護身用の武器としてより役立った。切り傷を負わせる事で相手の戦意を喪失させたり、出血多量で戦闘能力を失わせる事に効果があったと考えられる。ただし江戸時代等では緊急時以外は殆ど用いられることがなくなった為、使用機会は少なくなった。また[[苗字帯刀]]が許されることは名誉なことであることとされた。また[[敵討|あだ討ち]]などにも日本刀は使われ、十分な殺傷力を秘めていることを実証している。<br /> <br /> === 日本刀の文化・宗教的側面 ===<br /> 合戦、人間同士の生命を賭した戦いという極限的状況には相応の覚悟が必要となる。それに際して日本刀に神器としての精神的的要素、[[宗教]]的価値や美術的価値がある意味現実的な力として求められたとしても不思議ではない。戦乱の時代に作られた刀に所有者が信じる[[神仏]]の名や[[真言]]が彫り付けてある遺例が数多く存在することも当時の武士達の赤裸々な心情を窺わせて興味深い。<br /> <br /> [[工学]]的側面からは、金属の[[結晶]]の理論や[[相変化]]の理論が解明されていない時代において、刀工たちが連綿と工夫を重ね[[自然科学|科学]]的にも優れた刃物の到達点を示しえたことに今も関心がもたれている。理論や言語にならない、見た目の変化、手触り、においなどの情報を多く集積したり伝承したりすることで、ブラックボックス型の工学的知識を実現しているためと思われる。<br /> <br /> == 日本刀の新聞 ==<br /> * [[刀剣春秋新聞社]]『刀剣春秋』<br /> <br /> == 日本刀の雑誌 ==<br /> * [[日本美術刀剣保存協会]] 『刀剣美術』<br /> * [http://nihontouken.org/ 日本刀剣保存会]『刀剣と歴史』<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注}}<br /> === 出典 ===<br /> {{reflist|30em}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 2006<br /> |title = 図説・日本刀大全―決定版<br /> |series = 歴史群像シリーズ<br /> |publisher = [[学研|学研マーケティング]]<br /> |ISBN = 978-4056040395<br /> |ref = MOOK-1<br /> |accessdate= 2015-12-11 <br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 2004<br /> |title = 鉄と日本刀<br /> |publisher = 慶友社<br /> |ISBN = 978-4874492352<br /> |ref = Tetsu<br /> |accessdate= 2015-12-11 <br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |author = 得能一男<br /> |year = 2007<br /> |title = 日本刀図鑑 保存版<br /> |publisher = [[光芸出版]]<br /> |ISBN = 978-4769401285<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-11<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 1966<br /> |title = 日本刀全集・1 日本刀の歴史<br /> |series = 日本刀全集<br /> |publisher = [[徳間書店]]<br /> |author = 小泉富太郎<br /> |author2 = 辻本直男<br /> |author3 = 沼田鎌次<br /> |author4 = 渡辺国雄<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-11<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 1966<br /> |title = 日本刀全集・2 日本刀の時代の見どころ<br /> |series = 日本刀全集<br /> |publisher = [[徳間書店]]<br /> |author = 石井昌国<br /> |author2 = 加島進<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-11<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 1966<br /> |title = 日本刀全集・3 日本刀の流派の見どころ、古刀編<br /> |series = 日本刀全集<br /> |publisher = [[徳間書店]]<br /> |author = 小泉富太郎<br /> |author2 = 加島進<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-11<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 1966<br /> |title = 日本刀全集・4 日本刀の流派の見どころ、新刀・新々刀編<br /> |series = 日本刀全集<br /> |publisher = [[徳間書店]]<br /> |author = 広井雄一<br /> |author2 = 柴田和雄<br /> |author3 = 墨賢蔵<br /> |author4 = 小泉富太郎、池田末松、[[佐藤貫一]]<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-11<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 1966<br /> |title = 日本刀全集・5 日本刀の著名刀工の見どころ<br /> |series = 日本刀全集<br /> |publisher = [[徳間書店]]<br /> |author = 加島進<br /> |author2 = 藤代松雄<br /> |author3 = 池田末松<br /> |author4 = 高橋信一郎<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-11<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 1966<br /> |title = 日本刀全集・6 日本刀の風俗、拵・鐔・小道具<br /> |series = 日本刀全集<br /> |publisher = [[徳間書店]]<br /> |author = 尾崎元春<br /> |author2 = 鈴木敬三<br /> |author3 = 宮崎芳樹<br /> |author4 = 他<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-11<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 1966<br /> |title = 日本刀全集・7 日本刀のできるまで<br /> |series = 日本刀全集<br /> |publisher = [[徳間書店]]<br /> |author = 柴田光男<br /> |author2 = 宮入昭平<br /> |author3 = 高橋貞次<br /> |author4 = 他<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-11<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 1966<br /> |title = 日本刀全集・8 私の愛刀<br /> |series = 日本刀全集<br /> |publisher = [[徳間書店]]<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-11<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 1966<br /> |title = 日本刀全集・9 私の愛刀・続<br /> |series = 日本刀全集<br /> |publisher = [[徳間書店]]<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-11<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 2014<br /> |title = 日本刀の教科書<br /> |publisher = [[東京堂出版]]<br /> |author = 渡邉妙子<br /> |author2 = 住麻紀<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-15<br /> |ISBN = 978-4490208771<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |author = 得能一男<br /> |year = 2015<br /> |title = 日本刀ファイル<br /> |publisher = [[光芸出版]]<br /> |ISBN = 978-4769401537<br /> |ref=harv<br /> |accessdate= 2015-12-15<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |year = 2003<br /> |title = 日本刀価値考 (復刻叢書)<br /> |publisher = [[光芸出版]]<br /> |ISBN = 978-4769401179<br /> |ref=価値<br /> |accessdate= 2015-12-15<br /> }}<br /> <br /> == 関連文献 ==<br /> *川口陟・飯田一雄 『改訂増補 刀工総覧』 [[刀剣春秋新聞社]]・[[宮帯出版社]](発売)<br /> *若山泡沫・飯田一雄 『金工事典』 刀剣春秋新聞社・宮帯出版社(発売)<br /> *[[本阿弥光遜]] 『日本刀の掟と特徴』 美術倶楽部<br /> *[[永山光幹]] 『刀剣鑑定読本』 永山美術刀剣研磨所<br /> *永山光幹 『日本刀を研ぐ』 [[雄山閣]]<br /> *鈴木卓夫 『作刀の伝統技術』 [[理工学社]]<br /> *鈴木卓夫 『たたら製鉄と日本刀の科学』 雄山閣<br /> *渡辺誠 『刀と真剣勝負 日本刀の虚実』 ベストセラーズ ワニ文庫<br /> *[[鈴木眞哉]] 『戦国合戦の虚実』 [[講談社]]<br /> *鈴木眞哉 『刀と首取り』 [[平凡社]] [[平凡社新書]]<br /> *鈴木眞哉 『鉄砲と日本人』 [[ちくま学芸文庫]]<br /> *鈴木眞哉 『謎とき日本合戦史』 [[講談社]]<br /> *[[藤本正行]] 『逆転の日本史 戦国合戦本当はこうだった』 [[洋泉社]]<br /> *近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 吉川弘文館<br /> *成瀬関次 『戦ふ日本刀』 [[実業之日本社]]<br /> *刀剣春秋編集部 編 『刀剣甲冑手帳』 [[刀剣春秋新聞社]]・[[宮帯出版社]](発売)<br /> *[[日立金属]] [http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/index.htm 『たたらの話』 日立金属HP]<br /> *美術誌『Bien(美庵)』Vol.44(2007年夏号 藝術出版社) 特集「彼らは刀装具の何に魅かれるのか?」(志塚徳行・笠原光寿・新井茂・園平治・銀座長州屋、廣井章久・永田宙郷 執筆・結城庵) ISBN 978-4-434-10758-0、{{全国書誌番号|00113455}}。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons&amp;cat|Katana|Katana}}<br /> *[[太刀]] - [[打刀]] - [[刺刀]] - [[忍刀]] - [[大太刀]]<br /> *[[長巻]] - [[薙刀]] - [[槍]]<br /> *[[脇差]]<br /> *[[天下五剣]] - [[日本刀一覧 ]]<br /> *[[模擬刀]] - [[模造刀]]<br /> *[[椿油]] - [[クローブ|丁子油]]<br /> *[[テムズ・スクラマサクス|テムズ・スクラマサクス(サクソン刀)]] - 10世紀の[[アングロ・サクソン人]]が製造・運用していた刀。日本刀の様に、軟鋼と硬鋼を一緒に鋳造・鍛錬して造られていたとされる。<br /> *[[韓国刀]] - [[倭刀]]<br /> *[[アイヌ刀]]<br /> *[[サーベル]]<br /> *[[砂鉄]] - [[たたら吹き]]<br /> *[[刀工]]<br /> *[[日本刀研磨]]<br /> *[[抜刀術|居合]] - [[居合道]]<br /> *[[試し斬り]] - [[リアル斬鉄剣]]<br /> *[[剣術]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.touken.or.jp/ 財団法人日本美術刀剣保存協会]<br /> *{{PDFlink|[http://www.taiiku.tsukuba.ac.jp/~sakai/kenso-date/hakuron%20syouroku.pdf 刀剣観日本精神史的研究]}}<br /> *{{Cite journal|和書|author=蒔田宗次 |title=支那事變に於ける日本刀の威力 |date=1938-12-25 |journal=鐵と鋼 : 日本鐡鋼協會々誌 |url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110001869462/ |volume=24 |number=12 |naid=110001869462 |pages=1106-1112 |ref=harv}}<br /> *[http://dx.doi.org/10.1299/kikaia.77.638 臺丸谷政志、小林秀敏:日本刀の衝撃工学的考察] 日本機械学会論文集A編 Vol.77 (2011) No.776 P638-646<br /> *[http://www.city.setouchi.lg.jp/token/ 備前長船刀剣博物館]<br /> <br /> {{デフォルトソート:にほんとう}}<br /> [[Category:日本刀|*]]<br /> [[Category:武士]]</div> 126.147.96.205 大陸軍 (フランス) 2018-07-28T10:10:34Z <p>126.147.96.205: /* 軽騎兵 */</p> <hr /> <div>{{脚注の不足|date=2018年3月}}<br /> <br /> {{Infobox military unit<br /> |unit_name= La Grande Armée&lt;BR /&gt;大陸軍<br /> |image= [[File:Emblem of Napoleon Bonaparte.svg|100px]]<br /> |start_date=1805<br /> |end_date=1815<br /> |country={{Flagicon|FRA}}フランス帝国<br /> |size=685,000名&lt;BR /&gt;(1812年6月)<br /> |battles=<br /> [[第三次対仏大同盟]]<br /> :[[ウルムの戦い|ウルム]]<br /> :[[アウステルリッツの戦い|アウステルリッツ]]<br /> [[第四次対仏大同盟]]<br /> :[[イエナ・アウエルシュタットの戦い|イエナ・アウエルシュタット]]<br /> :[[フリートラントの戦い|フリートラント]]<br /> [[第五次対仏大同盟]]<br /> :[[アスペルン・エスリンクの戦い|アスペルン・エスリンク]]<br /> :[[ワグラムの戦い|ワグラム]]<br /> [[半島戦争|スペイン半島戦争]]<br /> :[[バイレンの戦い|バイレン]]<br /> :[[ビトリアの戦い|ビトリア]]<br /> [[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]<br /> :[[スモレンスクの戦い|スモレンスク]]<br /> :[[ボロジノの戦い|ボロジノ]]<br /> [[第六次対仏大同盟]]<br /> :[[リュッツェンの戦い (1813年)|リュッツェン]]<br /> :[[ドレスデンの戦い|ドレスデン]]<br /> :[[ライプツィヒの戦い|ライプツィヒ]]<br /> :[[アルシー・シュル・オーブの戦い|アルシー・シュル・オーブ]]<br /> [[第七次対仏大同盟]]<br /> :[[ワーテルローの戦い|ワーテルロー]]<br /> |commander1=[[ファイル:Imperial Standard of Napoléon I.svg|20px]] [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of the Kingdom of Naples (1811).svg|20px]] [[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ジャン・ランヌ|ランヌ]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ミシェル・ネイ|ネイ]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of Sweden.svg|20px]] [[ジャン=バティスト・ベルナドット|ベルナドット]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ガブリエル・スーシェ|スーシェ]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[クロード・ヴィクトル=ペラン|ヴィクトル]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ピエール・オージュロー|オージュロー]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル|ルフェーヴル]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[エドゥアール・モルティエ|モルティエ]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ジャン=バティスト・ベシェール|ベシェール]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ニコラ・ウディノ|ウディノ]]&lt;BR /&gt;[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[オーギュスト・マルモン|マルモン]]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;大陸軍&#039;&#039;&#039;(仮名:だい・りくぐん|仏語:&#039;&#039;Grande Armée&#039;&#039;)は、[[フランス第一帝政]]下の陸軍組織であり、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が命名したフランス兵を中核とする軍隊の名称である。1805年8月29日に発足した。いわゆる{{仮リンク|ナポレオン軍|fr|Armée napoléonienne}}であり、[[ナポレオン戦争]]の中心的軍隊となった。<br /> <br /> その前身は1804年に&#039;&#039;&#039;大西洋沿岸軍&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Armée des côtes de l&#039;Océan&#039;&#039;)の名で編制された方面軍であり、イギリス本土侵攻を目的に[[ドーバー海峡]]に面する[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に配置されて総勢18万の兵員で構成されていた。しかし、翌1805年にナポレオンはイギリス上陸作戦が実は困難な事を悟らされて目標の変更を迫られていた。折りしもイギリスとオーストリアの間で[[第三次対仏大同盟]]が結成された事でその口実を得たナポレオンは、同年8月29日から大西洋沿岸軍を内陸部の[[ライン川]]に向けて進軍させ、同日の参謀長[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]に宛てた手紙の中で始めて「&#039;&#039;Grande Armée&#039;&#039;」という言葉を使っている。この時から大西洋沿岸軍は&#039;&#039;&#039;大陸軍&#039;&#039;&#039;に改称したと見られ、以後はヨーロッパ大陸全域を管轄にして戦う事になった。<br /> <br /> 1805年にオーストリア、ロシアと交戦した後も、1806~1807年のプロイセン、ロシアとの戦い、1808年から1814年までの[[半島戦争|スペイン半島戦争]]、1809年のオーストリアとの決戦、1812年の[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]の各戦役においても大陸軍の名称が使われていた。ナポレオンの方針で諸外国の部隊と外国人兵士が積極的に加えられていた事も特徴であり、1812年夏にピークを迎えた兵員数は685,000名を数えて事実上の多国籍軍隊となった&lt;ref&gt;Elting, John R.:&quot;Swords Around A Throne.&quot;, pages 60-65. Da Capo Press, 1997&lt;/ref&gt;。ロシア遠征の敗北後もナポレオンは新たな兵員を徴集して大陸軍を立て直し、1813年のドイツ戦役、1814年のフランス防衛戦、そして1815年の[[百日天下]]まで死闘を繰り広げた。なお、1815年時の名称は&#039;&#039;&#039;北方軍&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Armée du Nord&#039;&#039;)だった。<br /> <br /> == 組織構造 ==<br /> === 皇帝軍事本営 ===<br /> [[ファイル:Napoleon bivouac Wagram.jpg|サムネイル|ナポレオンと幕僚たち]]<br /> [[ファイル:Vereshagin.Napoleon near Borodino.jpg|サムネイル|ナポレオンと幕僚たち]]<br /> 大陸軍(グランダルメ)は事実上皇帝ナポレオンが直率する軍隊であり、その指揮統率を助ける側近達は皇帝軍事本営(&#039;&#039;Maison militaire de l&#039;Empereur&#039;&#039;)としてまとめられていた。この組織は皇帝の身の安全を保証しその戦争指導を支え各軍への指示伝達を円滑化する為の統帥機関であり、侍従武官と幕僚本部と皇帝近衛隊指揮官で構成されていた。国家予算の1割強を消費しており皇帝近衛隊の維持費はまた別枠だった。常にナポレオンと従軍を共にし親征地の最前線にもそのまま移動した。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;侍従武官&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Aides-de-camp de l&#039;Empereur&#039;&#039;)は戦場におけるナポレオンの最側近であり作戦立案と指揮統率を助けていた。その職務は柔軟かつ多岐に渡った。任命されたのはナポレオンに忠実で特にイタリアとエジプトで共に戦った経験を持つ歴戦の高級将校達だった。宮殿総監(&#039;&#039;Grand maréchal du palais&#039;&#039;)は宮廷内の警護を担当し、馬事総監(&#039;&#039;Grand écuyer&#039;&#039;)は戦場での警護を担当した。この両名は軍事作戦中の外交交渉を担当する事も多かった。侍従武官は全期間を通して合計37人が任命されたが一度の在任者は12名までに限られていた。彼らはそれぞれが秘書を持ち自身の職務を助けさせた。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;参謀総監&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Major général&#039;&#039;)は、幕僚本部(&#039;&#039;État-major général de l&#039;armée&#039;&#039;)の統括者であり、各種専門スタッフをまとめる他、ナポレオンから発せられた戦争指導を具体的な命令書に書き表して各司令官に伝達する事務統括の役目を果たした。大陸軍の参謀長(&#039;&#039;Chef d&#039;état-major&#039;&#039;)と同義であり、[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]がほぼ全期間を通して在任していた。<br /> <br /> === 軍団と師団 ===<br /> 17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパの軍隊は、封建制度特有の事情で極めて集権的な組織構造になっており、一人の軍司令官が長大な隊列の進退を決めて衝突した敵と順次交戦していく運用法が標準となっていた。封建領地ごとに連隊(&#039;&#039;régiment&#039;&#039;)が組織され、戦争時は複数個の連隊が合同して旅団(&#039;&#039;brigade&#039;&#039;)を形成し、旅団は長大な隊列の一部分となった。<br /> <br /> [[フランス革命戦争|革命期]]のフランス軍は共和制に移行した軍隊内情の変化により、従来にはない軍事制度の改革に取り組める余地が生まれたので、それまでの長大な隊列を機能的に分割して独自の行動権限を持たせた師団と、各師団を有機的に結合し高度な連携を可能にした軍団の編制単位が考案される事になった。師団(&#039;&#039;division&#039;&#039;)は[[フランス第一共和政]]の陸軍大臣[[ラザール・カルノー]]によって1793年から1794年にかけて整備され、軍団(&#039;&#039;corps d&#039;armée&#039;&#039;)は時の第一執政ナポレオン・ボナパルトによって1800年に誕生した。複数の軍団に分けて運用された大陸軍(グランダルメ)は従来にはない軍隊の多元的な活動を実現してヨーロッパ大陸を席巻するに到った。<br /> <br /> === 各編制単位 ===<br /> &#039;&#039;&#039;軍団&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> :[[軍団]]は&#039;&#039;&#039;歩兵軍団&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;corps d&#039;infanterie&#039;&#039;)とも呼ばれ、その兵員数は10,000名から50,000名と幅広く平均20,000名前後であり、標準構成は3個歩兵師団+1個軽騎兵師団+大砲44門であった。歩兵軍団は1805年に7個、1813年に14個存在した。ロシア遠征までは&#039;&#039;&#039;騎兵予備集団&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;corps de réserve de cavalerie&#039;&#039;)が全重騎兵師団を一括管理していたが、1812年に3個の&#039;&#039;&#039;騎兵軍団&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;corps de cavalerie&#039;&#039;)に分割された。その兵員数は約10,000名で概ね4個騎兵師団+大砲30門で構成された。1813年以降の騎兵軍団は小規模化して6個となり、兵員数は約4,000名で標準構成は2個騎兵師団+大砲12門となった。<br /> <br /> :軍団長は副官5名と幕僚部(&#039;&#039;état-major&#039;&#039;)と兵站部(&#039;&#039;parc&#039;&#039;)と予備砲兵(&#039;&#039;réserve d&#039;artillerie&#039;&#039;)と工兵部(&#039;&#039;génie&#039;&#039;)を持った。副官には私設副官(&#039;&#039;aide-de-camp&#039;&#039;)と公式副官(&#039;&#039;adjudant&#039;&#039;)がおり後年は後者のみとなった。幕僚部は各種専門スタッフのグループで参謀長(&#039;&#039;chef d&#039;état-major&#039;&#039;)が統括した。憲兵もここに在籍した。軍団、師団は司令官(&#039;&#039;commandant&#039;&#039;)と参謀長の二人三脚で運営されていた。兵站部は軍需品を積んだ荷馬車群の集合場所で砲兵部署(&#039;&#039;parc d&#039;artillerie&#039;&#039;)と輜重部署(&#039;&#039;parc des équipages&#039;&#039;)に分かれており、木工職人や鍛冶職人もここで活動した。大砲10~20門からなる予備砲兵は砲兵指揮官(&#039;&#039;chef de l&#039;artillerie&#039;&#039;)が管理し、また配下の師団砲兵(6~8門)も管理下に置いた。工兵部は概ね3個工兵中隊からなり工兵指揮官(&#039;&#039;chef du génie&#039;&#039;)が率いた。この軍団長+スタッフ達には2個騎兵大隊(400名)が護衛として随伴した。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;師団&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> :[[師団]]は一つの戦場または広大な戦場の一区域を受け持つ戦術面の基本単位であり、&#039;&#039;&#039;歩兵師団&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;division d&#039;infanterie&#039;&#039;)と&#039;&#039;&#039;騎兵師団&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;division de cavalerie&#039;&#039;)に分類された。歩兵師団の兵員数は5,000名から10,000名で徒歩砲兵の大砲8門が標準で付いた。騎兵師団の兵員数は2,000名から4,000名で騎馬砲兵の大砲6門が標準で付いた。歩兵師団は大抵3~6個の歩兵連隊と1個の徒歩砲兵中隊で構成され、騎兵師団は概ね2~4個の騎兵連隊と1個の騎馬砲兵中隊で構成された。<br /> :師団長は副官3名と参謀長が統括する幕僚部を持ち、1個騎兵大隊(200名)が護衛として随伴した。軍団のものより小規模な師団の幕僚部(&#039;&#039;état-major&#039;&#039;)には砲兵中隊士官と、軍需品を積んだ荷馬車を各連隊に捌く輜重士官(&#039;&#039;officier des équipages&#039;&#039;)や野戦病院を設置する衛生士官(&#039;&#039;officier de santé&#039;&#039;)などの他、旅団長も在籍した。また、前線での必要に応じて配下連隊が持つ各荷車を集めて一括保管する兵站部(&#039;&#039;parc&#039;&#039;)が設けられる事もあった。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;歩兵旅団+連隊+大隊+中隊&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> :フランス軍の&#039;&#039;&#039;旅団&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;brigade&#039;&#039;)は言わば戦場専用の編制単位となり、旅団長は副官2名を持つのみで、師団配下の連隊1~3個の指揮権を与えられ、その各連隊が擁する各大隊を戦場で動かす役割だった。大抵は連隊2個分の大隊の戦場運用をまかされた。結果的に師団は2~3個の旅団を持つ事になった。<br /> <br /> :&#039;&#039;&#039;大隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;bataillon&#039;&#039;)は戦場での基本行動単位であり、定員は800~1,000名だが従軍中の消耗で実際は500名程度の事が多く、戦場に展開される長大な隊列および陣形は基本的にこの大隊が組む戦闘隊形を連結して形成された。&#039;&#039;&#039;中隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;compagnie&#039;&#039;)は配膳を共にする兵営生活の基本単位であり定員は120~140名だが実際はその6~8割程度の事が多く、これが複数集まって大隊を形成した。<br /> :&#039;&#039;&#039;連隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;régiment&#039;&#039;)は軍隊管理の基本単位であり各県ないし郡ごとに設置され、地元の人口情勢に応じて2~6個大隊を編制して管理した。大きな戦場での大隊運用は師団長ないし旅団長に一任されたが、旅団が無く師団長が一括運用しない時は連隊長が保有大隊を動かした。連隊長は運営スタッフを持ち、戦場では第1大隊と共に行動する事が多かった。連隊は各地域に根差して組織される恒久的な編制単位であり兵員数が極度に減少してもその存在が失われる事はなかった。従軍中の消耗で少人数となった連隊を幾つもまとめて一部隊として率いる役割も旅団は持っていた。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;騎兵旅団+連隊+大隊+中隊&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> :騎兵旅団は、軍団または騎兵師団に属して、連隊1~4個分の大隊の戦場運用をまかされた。&#039;&#039;&#039;騎兵大隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;escadron&#039;&#039;)は2個中隊をまとめてその定員は約200名であり、騎兵中隊の定員は約100名だったが、実際の人数はその半分程度の事が多かった。特定の地域で設立される恒久的な編制単位である騎兵連隊は3~4個大隊を編制して管理した。騎兵も戦場では大隊ごとに行動した。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;砲兵連隊+中隊&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> :歩兵騎兵と異なり、砲兵は中隊単位で戦闘活動に従事した。&#039;&#039;&#039;砲兵中隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;batterie&#039;&#039;)の定員は約120名であり砲兵連隊に直接管理された。砲兵連隊は純粋な軍政上の管理組織であり実戦指揮機能は持たなかった。戦場での砲兵中隊は軍団長配下の砲兵指揮官または師団長に指揮された。<br /> <br /> == 皇帝近衛隊 ==<br /> [[ファイル:Grenadier Pied 1 1812 Revers.png|サムネイル|200x200ピクセル|近衛歩兵隊のマーク]]<br /> 1804年5月に発足した皇帝近衛隊(&#039;&#039;Garde impériale&#039;&#039;)はフランスの精鋭軍隊であり、前身の執政親衛隊(&#039;&#039;Garde des consuls&#039;&#039;)から発展した組織だった。皇帝近衛隊は軍団(&#039;&#039;corps d&#039;armée&#039;&#039;)の編制単位と同等で、歩兵騎兵砲兵工兵の四兵科と各種牽引兵および支援部門を備えていた。ナポレオンは皇帝近衛隊が全軍隊の模範となる事を望み絶対の忠誠を示す事を求めた。<br /> <br /> 皇帝近衛隊に存在する様々な兵種は連隊(&#039;&#039;régiment&#039;&#039;)単位で管理された。1806年以降の近衛歩兵連隊は2個大隊構成となり両大隊は4個中隊を擁していた。各近衛歩兵中隊の兵員数は約100名だった。近衛騎兵連隊は当初は2個大隊構成で、重騎兵科は6個大隊、軽騎兵科は10個大隊まで拡張された。各大隊は2個中隊を擁しており各近衛騎兵中隊の兵員数は約100名だったが、従軍中の消耗で後年は定員の半分以下になってる事が多かった。各近衛連隊は旅団、師団、集団(&#039;&#039;corps&#039;&#039;)などの編制単位にまとめられて戦った。各連隊の組み合わせである戦闘序列(&#039;&#039;ordre de bataille&#039;&#039;)は戦役ごとに臨機応変に変化しており一定でなかった。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ 近衛隊の規模の変遷<br /> |-<br /> ! 年 !! 兵士数<br /> |-<br /> | 1800 || 4,000<br /> |-<br /> | 1804 || 10,000(皇帝近衛隊発足)<br /> |-<br /> | 1806 || 15,000<br /> |-<br /> | 1809 || 31,000(新規近衛隊を追加)<br /> |-<br /> | 1811 || 52,000<br /> |-<br /> | 1813 || 92,000(若年兵が大量採用された)<br /> |-<br /> | 1815 || 25,000<br /> |}<br /> <br /> === 古参、中堅、新規近衛隊 ===<br /> 最終的に皇帝近衛隊は経験と能力によって三階層に分けられる構造となっていた。1806年から本格的な増員が始まり、1809年の組織拡張の中で新規近衛隊が創設され新しい採用者はそこに編入された。同時に従来の近衛隊は古参近衛隊と呼ばれるようになった。1810年に新規と古参の渡り橋となる中堅近衛隊が新設され、1806年からの増員組がその主な構成員となった。各近衛部隊の格式とそこに所属する近衛兵の格式はまた別であり、中堅ないし新規近衛隊の士官は古参近衛隊からの編入者(古参近衛兵)である事が多く、新規近衛隊の下士官は中堅近衛隊からの編入者(中堅近衛兵)である事が多かった。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;古参近衛隊(&#039;&#039;Vieille Garde&#039;&#039;)&#039;&#039;&#039;[[ファイル:Montfort - Adieux de Napoleon a la Garde imperiale.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|古参近衛隊との別れ]]<br /> [[古参近衛隊]]は皇帝近衛隊の最高格であり、構成員は全て3~5回以上の方面作戦(&#039;&#039;campagne&#039;&#039;)従軍経験を持ち、戦闘能力と勇敢さを表彰された者たちだった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。<br /> <br /> * 近衛擲弾兵第1連隊+第2連隊<br /> * 近衛猟歩兵第1連隊+第2連隊<br /> * 近衛精鋭憲兵レギオン<br /> * 近衛騎馬擲弾兵連隊の第1大隊~第4大隊<br /> * 近衛猟騎兵連隊の第1大隊~第5大隊+近衛マムルーク騎兵大隊<br /> * 皇后竜騎兵連隊の第1大隊~第4大隊<br /> * 近衛軽槍騎兵第1連隊の第1大隊~第3大隊<br /> * 近衛軽槍騎兵第2連隊の第1大隊~第5大隊<br /> * 近衛徒歩砲兵第1連隊<br /> * 近衛騎馬砲兵連隊の第1大隊+第2大隊<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;中堅近衛隊(&#039;&#039;Moyenne Garde&#039;&#039;)&#039;&#039;&#039;<br /> [[ファイル:Crofts-Napoleon&#039;s last grand attack at Waterloo.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|中堅近衛隊への攻撃命令]]<br /> 中堅近衛隊&lt;ref&gt;[http://web2.airmail.net/napoleon/IMPERIAL_GUARD_infantry_1.htm#frenchthemiddleguard Napoleon&#039;s Guard Infantry - Moyenne Garde], Accessed March 16, 2006&lt;/ref&gt;は皇帝近衛隊の次席格であった。新規近衛隊で経験を積んだ者を引き上げて精鋭歩兵団を構成させつつ、古参近衛候補生とするか、又は新規近衛隊の士官ないし下士官の補充要員としていた。1814年のナポレオン退位時に解散し1815年の[[百日天下]]でも再建されなかった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。<br /> <br /> * 近衛小銃擲弾兵連隊<br /> * 近衛小銃猟歩兵連隊<br /> * 近衛軽槍騎兵第1連隊の第4大隊~第6大隊<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;新規近衛隊(&#039;&#039;Jeune Garde&#039;&#039;)&#039;&#039;&#039;[[ファイル:Napoleon-imperial-guard.png|サムネイル|273x273px|近衛隊の閲兵]]<br /> 新規近衛隊&lt;ref&gt;[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_tirailleurs.html Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815], Accessed March 16, 2006&lt;/ref&gt;は皇帝近衛隊の末席格であった。元々は最低1回の従軍経験を持つ推薦された若年士官と年間表彰兵が入隊していたが、後には新兵からの選抜者が大半を占めるようになった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。<br /> <br /> * 近衛狙撃歩兵第1連隊~第12連隊<br /> * 近衛選抜歩兵第1連隊~第12連隊<br /> * 近衛海兵大隊<br /> * 近衛騎馬擲弾兵連隊の第5大隊+第6大隊<br /> * 近衛猟騎兵連隊の第6大隊~第9大隊<br /> * 皇后竜騎兵連隊の第5大隊+第6大隊<br /> * 近衛軽槍騎兵第1連隊の第7大隊<br /> * 近衛軽槍騎兵第2連隊の第6大隊~第10大隊<br /> * 近衛徒歩砲兵第2連隊<br /> * 近衛騎馬砲兵連隊の第3大隊<br /> <br /> === 近衛歩兵 ===<br /> ; 近衛擲弾兵(&#039;&#039;Grenadiers-à-Pied de la Garde impériale&#039;&#039;)&lt;ref&gt;[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_impgren.html Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006&lt;/ref&gt;<br /> [[ファイル:Grenadier-a-pied-de-la-Vieille-Garde.png|thumb|354x354px|近衛擲弾兵]]<br /> : 執政親衛隊の擲弾兵を起源とするフランス軍の最上級歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。密集隊形を組む戦列歩兵科だった。フランス軍内で最も経験を積んだ最優秀の古参歩兵である近衛擲弾兵は、ナポレオンの最後の切り札とされ他の近衛兵ほど戦闘に投入される機会もなく言わば殿堂入りの存在だった。彼らはナポレオンから家族同然に扱われ従軍中の愚痴をこぼす事も許されていた。この連隊への採用には厳しい基準が定められており、10年以上の軍隊勤務歴と勇敢さでの表彰歴を持ち、品行方正かつ読み書きが出来て178cm以上の身長である必要があった。1806年に新設された第2連隊は1809年に消滅し1811年に再設されて中堅近衛隊所属となり1813年に古参近衛隊に昇格した。1810年の[[ホラント王国]]併合時にその近衛歩兵隊が編入され第3連隊となったが1813年に解散している。1815年の[[百日天下]]の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され古参近衛隊に所属した。<br /> : 装備品は[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]とその銃剣と歩兵用小剣(&#039;&#039;sabre briquet&#039;&#039;)であり、これは他の近衛歩兵にも共通していた。<br /> : 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。前面に金の彫刻板を留め金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった&lt;ref&gt;[http://www.napoleon-series.org/military/organization/c_grenadiers.html Foot Grenadiers in the Imperial Guard], Accessed March 16, 2006&lt;/ref&gt;。第2連隊は赤い羽飾りの熊毛帽となり、第3、第4連隊は赤い羽飾りを立て白紐を巻いた黒い円筒帽となった。<br /> :ワーテルローの戦いにおいてイギリス軍のメイトランド旅団に撃破され皇帝近衛軍は総崩れとなった。この功績からメイトランド旅団は第一又は擲弾兵近衛歩兵連隊([[グレナディアガーズ]])と命名された。<br /> ; 近衛猟歩兵(&#039;&#039;Chasseurs-à-Pied de la Garde impériale&#039;&#039;)<br /> : 執政親衛隊の猟歩兵を起源とする最上級に次ぐ地位の歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。散開して戦う軽歩兵科だった。近衛擲弾兵と双璧をなす彼らも殿堂入りの存在であり戦闘に投入される機会は少なかった。採用基準も近衛擲弾兵と概ね同じで身長のみ172cm以上だった。1806年に新設された第2連隊は1809年に消滅し1811年に再設されて中堅近衛隊所属となり1813年に古参近衛隊に昇格した。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され、彼らはワーテルローの戦いで最終突撃を敢行した。<br /> : 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった&lt;ref&gt;[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/chasseurs/c_chasseursapied.html Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006&lt;/ref&gt;。第2連隊は赤+緑の羽飾りの熊毛帽となり、第3、第4連隊は赤+緑の羽飾りを立て白紐を巻いた黒い円筒帽となった。<br /> ; 近衛海兵(&#039;&#039;Marins&#039;&#039;&#039; de la Garde impériale&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;)<br /> :1803年にイギリス上陸作戦に向けて皇帝座乗船の乗組員となる近衛海兵大隊が組織された。この大隊の構造は海軍式であり5個の海兵中隊(&#039;&#039;équipage&#039;&#039;)をまとめていた。近衛海兵中隊の人数は約150名だった。イギリス侵攻作戦が中止された後は近衛歩兵の一員となり、ナポレオンが乗り込む船舶やボートの操舵と管理を担当した。船舶作業の時は邪魔にならない拳銃を主武器とした。<br /> : 制服は金のモールを肋骨状に並べた青いジャケットと、金のストライプの入った青いズボンだった。赤い羽飾りが立てられ上辺に金色の縁取りがされた青い円筒帽をかぶった&lt;ref&gt;[http://www.fusiliers.com/item_gdemarinv8.html Grand Tenue - Marins de la Garde], Accessed March 16, 2006&lt;/ref&gt;。<br /> ; 近衛小銃擲弾兵(&#039;&#039;Fusiliers-Grenadiers&#039;&#039;&#039; de la Garde impériale&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;)&lt;ref&gt;[http://grenadier1812.narod.ru/uniforme/fusiliers_grenadiers.html FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N&quot; 101], Accessed March 16, 2006&lt;/ref&gt;<br /> :[[ファイル:Napoleon Fusilier grenadier by Bellange.jpg|サムネイル|281x281px|近衛小銃擲弾兵]]1806年に近衛擲弾兵連隊に属していたウェリテス大隊(二軍大隊)を独立させて近衛ウェリテス擲弾兵(&#039;&#039;Velites-Grenadiers de la Garde impériale&#039;&#039;)連隊として組織されたが、すぐに近衛小銃兵(&#039;&#039;Fusiliers de la Garde impériale&#039;&#039;)第2連隊と改称された。1809年の新規近衛隊の創設と共にそこに所属し今度は近衛小銃擲弾兵連隊と改称された。1811年に中堅近衛隊に昇格した。密集隊形を組む戦列歩兵科である彼らは姉妹部隊である近衛小銃猟歩兵と連携して戦った。1814年のナポレオン退位と共に解散し、1815年の百日天下では近衛擲弾兵に鞍替えされてその第3、第4連隊の中核構成員となり古参近衛隊に所属した。近衛擲弾兵第1連隊は三十代半ばの者が多く年齢的な衰えがあったので、実質的に皇帝近衛隊の中枢戦力となったのは近衛擲弾兵第2連隊とこの近衛小銃擲弾兵だった。<br /> :制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章(房紐は白)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。<br /> ; 近衛小銃猟歩兵(&#039;&#039;Fusiliers-Chasseurs&#039;&#039;&#039; de la Garde impériale&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;)<br /> : 1806年に近衛猟歩兵連隊に属していたウェリテス大隊(二軍大隊)を独立させて近衛小銃兵(&#039;&#039;Fusiliers de la Garde impériale&#039;&#039;)連隊として組織された後に、近衛小銃兵第1連隊と番号付きの呼称となった。1809年の新規近衛隊創設時にそこに所属し近衛小銃猟歩兵連隊に改称された。1811年に中堅近衛隊に昇格した。散開して戦う軽歩兵科の彼らは姉妹部隊である近衛小銃擲弾兵と連携して戦った。1814年に解散し、1815年の百日天下では近衛猟歩兵第3、第4連隊の中核構成員に改組されて古参近衛隊に所属した。近衛猟歩兵第1連隊は年齢層の高さから敏捷さに衰えがあったので、実質的に皇帝近衛隊の中枢となって高度な散兵戦を行ったのは近衛猟歩兵第2連隊とこの近衛小銃猟歩兵だった。<br /> : 制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。<br /> ; 近衛狙撃歩兵(&#039;&#039;Tirailleurs&#039;&#039;&#039; de la Garde impériale&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:French attack in 1812 in Russia.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|近衛狙撃歩兵]]1809年に近衛狙撃擲弾兵(&#039;&#039;Tirailleurs-Grenadiers de la Garde impériale&#039;&#039;)として組織され、翌年に近衛狙撃歩兵と改称された。彼らは隊列を組む戦列歩兵であり、ここでの&#039;&#039;’’[[散兵|tirailleurs]]’’&#039;&#039;は実は&#039;&#039;’’[[ウェリテス|velites]]’’&#039;&#039;(元はローマ帝国の若年軽装歩兵であり、ナポレオンは二軍部隊の意味で用いていた)&#039;&#039;と同義の言葉だったようでつまり’’足軽’’の様な意味だった。&#039;&#039;まず2個連隊が編制され姉妹部隊である近衛選抜歩兵2個連隊と共に、同年に創設された新規近衛隊を構成した。新規近衛兵の中で背の高い者が入隊した。狙撃歩兵連隊は言わば精鋭部隊育成の為の練兵場であり、古参近衛兵が士官となり中堅近衛兵が下士官となって新規近衛兵達を鍛えて戦場に導く形となった。次々と連隊が新設され1811年に6個、1814年には16個連隊が存在した。1813年以降は若者達を近衛兵の名で熱狂させて危険な最前線に駆り立てる為のブランド部隊と化していた面があった。<br /> :制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。赤い飾り紐を巻き赤+白の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。<br /> ; 近衛選抜歩兵(&#039;&#039;Voltigeurs&#039;&#039;&#039; de la Garde impériale&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Napoleon Guard Tirailleur and Voltigeur by Bellange.jpg|サムネイル|266x266ピクセル|近衛選抜歩兵と近衛狙撃歩兵]]1809年に近衛狙撃猟歩兵(&#039;&#039;Tirailleurs-Chasseurs de la Garde impériale&#039;&#039;)として組織され、翌年に近衛選抜歩兵と改称された。この名称はナポレオンの発案であり、単に従来の軽歩兵を言い換えたものだった。まず2個連隊が編制され、姉妹部隊である近衛狙撃歩兵と対をなして新規近衛隊を構成した。1811年に6個、1814年には16個連隊が存在した。密集隊形を組む近衛狙撃歩兵の周辺で近衛選抜歩兵は散兵線を築き連携して戦った。ロシア遠征の惨敗で戦局が悪化した1813年から若年兵の大量採用が始まり、近衛兵の誇りを持たされた彼らは消耗の激しい最前線に送り出される事になった。<br /> : 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには黄色肩章(房紐は緑)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;近衛哨戒擲弾兵(&#039;&#039;Flanqueurs-grenadiers de la Garde impériale&#039;&#039;)&#039;&#039;&#039;<br /> :[[ファイル:Flanqueur-grenadier et officier subalterne de flanqueurs-chasseurs 1813.jpg|サムネイル|294x294ピクセル|近衛哨戒擲弾兵と近衛哨戒猟歩兵]]ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。その役割は露払いのようなものであり、皇帝近衛隊の各部隊が行軍する周辺に配置されて敵の奇襲や待ち伏せを警戒し本隊の長蛇の移動を支援した。彼らは近衛兵と言っても名ばかりの存在でありそれに準じた待遇は無かった。1814年に解散した。<br /> : 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+赤の羽飾りを立てて赤い飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。<br /> &#039;&#039;&#039;近衛哨戒猟歩兵(&#039;&#039;Flanqueurs-chasseurs de la Garde impériale&#039;&#039;)&#039;&#039;&#039;<br /> : ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。姉妹部隊である近衛哨戒擲弾兵と同じ役割で、近衛兵たちの前方および側面に配置されて敵の奇襲と待ち伏せを警戒し本隊の長大な行軍を支援した。彼らはより外側の範囲に展開されていた。彼らもまた名前だけの近衛兵で特別な待遇は無かった。1814年に廃止された。<br /> : 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+緑の羽飾りを立てて黄色の飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。<br /> <br /> === 近衛騎兵 ===<br /> ; 近衛騎馬擲弾兵(&#039;&#039;Grenadiers-à-Cheval de la Garde impériale&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Guard Grenadier at Eylau.jpg|サムネイル|253x253ピクセル|近衛騎馬擲弾兵]]執政親衛隊の重騎兵を起源とするフランス軍の最上級騎兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。背高の熊毛帽をかぶり巨大な黒馬に騎乗する近衛騎馬擲弾兵の行進はさながら黒い森林が迫ってくるように見え周囲を圧倒した。「神」とも「巨人」ともあだ名されるこの偉大な連隊への採用には厳しい審査が課せられており、身長176cm以上の屈強な体格を持ち、4回以上の方面作戦に参加して10年以上の軍隊勤務歴があり、勇敢さで表彰されている必要があった。カービン騎兵連隊と胸甲騎兵連隊から採用されるのが常だったが、その他の騎兵科からの選抜者もいた。<br /> :近衛騎馬擲弾兵連隊の歴史は数々の武勲で飾られていた。1805年のアウステルリッツの戦いではロシア皇帝の騎兵隊を撃破し、1807年のアイラウの戦いでは大砲60門による苛烈な集中砲火に晒されるが、指揮官の「諸君!あれは糞ではない!ただの砲弾だ!」の一言でロシア軍の陣地に雪崩れ込んだ。1812年のロシア遠征ではフランス兵を散々に苦しめたコサック騎兵でさえも高い熊毛帽の陣列を見ると逃げ去ったという。近衛騎馬擲弾兵は白兵戦で無敗を誇り、ナポレオンが最も頼りにした重騎兵だった。<br /> :制服は白いチョッキの上に中央の襟返しが白いダークブルーのコートを着て、白色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった。装備品は直刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。<br /> ; 近衛猟騎兵(&#039;&#039;Chasseurs-à-cheval de la Garde impériale&#039;&#039;)<br /> [[ファイル:GericaultHorseman.jpg|thumb|235x235px|近衛猟騎兵]]<br /> :1796年のイタリア遠征中に敵騎兵の奇襲から命拾いしたナポレオンは護衛用の軽騎兵を組織しこの200名が起源となった。最古参の騎兵団とも言える彼らは執政親衛隊に組み込まれ、そこから皇帝近衛隊の1個連隊に発展した。この連隊に採用されるには3回以上の方面作戦従軍経験と10年以上の軍歴、身長170cm以上が必要であった。1815年の[[百日天下]]の時に2個目の連隊も作られていた。<br /> :近衛猟騎兵は最優秀の斥侯であり戦場におけるナポレオンの目となり耳となった。高度に融通が利きナポレオンと密接な関係にあった彼らは「皇帝の寵児」と呼ばれていた。それ故かやや規律に欠ける面もあり皇帝の前での無作法を指揮官から注意される事が度々あったという。アウステルリッツの戦いで武勲を挙げたが、スペインの戦場ではイギリス騎兵の奇襲で大きな被害を出した。だが概ね活躍してその戦歴を飾りワーテルローの戦いでも勇敢な戦いぶりを見せた。<br /> :彼らは特に豪華に飾り立てたユサール様式の制服を着用していた。白い羊毛で裏打ちされ金の装飾が施された赤い短丈外套を羽織り、金色モールを肋骨状に並べた緑色のジャケットを着て、白金色のハンガリー風ズボンと黒い膝下長靴を履いた。古参近衛兵は赤いスカーフをかけ赤+緑の羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶり、新規近衛兵は赤+緑の羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は曲刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。<br /> :; 近衛マムルーク騎兵(&#039;&#039;Mamelouks de la Garde impériale&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Mamelouks au défilé.JPG|サムネイル|246x246ピクセル|近衛マムルーク騎兵]]ナポレオンは[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]の中でこの砂漠の戦士達を見出しフランスに連れ帰った。狂信的な勇気を持ち中東の馬術と剣技を見せる彼らはフランス軍内にその名を轟かせ、近衛猟騎兵連隊に所属する異質な軽騎兵中隊となった。1805年の[[アウステルリッツの戦い]]で活躍した事で独自の軍旗を獲得し増員されて大隊待遇の中隊となった。1813年には新中隊が追加されて正式に騎兵大隊となり、第1中隊は古参近衛隊に、第2中隊は新規近衛隊に所属した。近衛猟騎兵連隊の管理下にあったが、ナポレオンの下で独自に行動する事もあった。<br /> :彼らの制服は異国情緒に溢れていた。白いターバンを巻いた赤い帽子をかぶり、紺、緑、黄、橙、紫など銘々の色鮮やかなシャツとチョッキを着て、赤いズボンと茶色の長靴を履いた。武器もまた異国的であり、反りの深い[[シャムシール|三日月刀]]と二丁の拳銃を中心にして短刀や槌矛を使い、はたまた戦斧を持つ者もいたという。<br /> ; 近衛精鋭憲兵(&#039;&#039;Gendarmes d&#039;élite de la Garde impériale&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Les gendarmes d&#039;élite devant les grilles des Tuileries, le 20 mars 1811.jpg|代替文=|サムネイル|258x258ピクセル|近衛精鋭憲兵]]皇帝近衛隊を引き締める最高峰の監視員である彼らは鉄の規律を持ち、その高潔さと無慈悲さによって近衛兵から畏怖される存在であった。皇帝近衛隊に組織された憲兵レギオンは精鋭レギオン(&#039;&#039;légion d’élite&#039;&#039;)と呼ばれ、当初は4~6個中隊をまとめ1813年に12個中隊となった。近衛憲兵中隊の定員は120名だった。彼らは皇帝の本営を警備して周囲の秩序を保つ他、捕虜の尋問や賓客の護衛も担当した。1807年以降は中隊数の増加に伴い前線に出て戦闘する機会が増えた。採用には厳重な審査が課せられ従軍経験4回と勇敢さの表彰歴、品行方正で教養を備え身長176cm以上が必須とされた。後年はドイツ語能力も求められた。採用者は主に一般の憲兵レギオンからで、また重騎兵科からの者もいた。<br /> : 制服は黄色のチョッキに赤い襟返しのダークブルーのコートを着て肩から白い飾緒を下げていた。そして黄色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった。<br /> ; 皇后竜騎兵(&#039;&#039;Dragons de l’Impératice&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Officier des dragons de la Garde impériale.jpg|サムネイル|265x265ピクセル|皇后竜騎兵]]1806年に近衛竜騎兵(&#039;&#039;Dragons de la Garde impériale&#039;&#039;)連隊として創設されたが翌年に改称された。3番目の近衛騎兵隊である彼らの装備品は一般の竜騎兵と異なっており、下馬戦闘を行わない中騎兵の位置付けだった。採用資格は軍歴6年、従軍経験2回、勇敢さの表彰歴、読み書きの教養と身長173 cm以上だった。各竜騎兵連隊から一度に10名ずつが採用され、後には他からの門戸も開かれた。<br /> : 制服は白のチョッキに白い襟返しのダークグリーンのコートを着て肩から金の飾緒を下げていた。白いズボンと黒い膝下長靴を履き、黒い房飾りを後ろに下げ赤い羽飾りを立てた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶっていた。曲刀サーベルと拳銃と竜騎兵用マスケット銃で武装していた。<br /> ; 近衛軽槍騎兵(&#039;&#039;Chevau-Légers-Lanciers de la Garde impériale&#039;&#039;)&lt;ref&gt;[http://www.napoleonseries.org/military/organization/frenchguard/c_polishlancers1.html Napoleon&#039;s Polish Lancers], Accessed March 16, 2006&lt;/ref&gt;<br /> :4番目の近衛騎兵隊であり、ポーランド人騎兵の活躍を高く評価したナポレオンの考えでポーランド式槍騎兵([[ウーラン]])の部隊が編制される事になった。装備品はその名が示す通り槍であったが実際に槍を構えるのは前列だけで、後列は銃剣付きカービン銃を用いておりそれがポーランド式であった。補助武器として曲刀サーベルと拳銃も携行していた。<br /> :; 第1連隊(ポーランド)<br /> :[[ファイル:Woodville Richard Caton - Poniatowski&#039;s Last Charge at Leipzig 1912.jpg|代替文=|サムネイル|251x251ピクセル|近衛ポーランド槍騎兵]]1795年の[[ポーランド分割]]により祖国を失ってフランスに亡命し、その優れた騎兵技術を買われて皇帝近衛隊に採用されたポーランド軍人達はナポレオンの期待を裏切らなかった。1807年にナポレオンはポーランド人騎兵の功績に応える形で、彼らだけの独立部隊である近衛ポーランド軽騎兵(&#039;&#039;Chevaux-légers polonais de la Garde impériale&#039;&#039;)連隊の創設を承認した。ただし担当教官はフランス人でありフランス式の騎兵隊として編制された。翌年の[[半島戦争|スペイン戦線]]のソモシエラの戦いの中で、彼らはスペイン軍砲兵陣地への伝説的な突撃を敢行し大いに名声を高めた。ナポレオンは彼らの人間離れした勇気を絶賛し、槍を主武器とする本来のポーランド形式で戦う事を認めて近衛軽槍騎兵と改称させた。彼らは教えられる側から教える側になり後年、フランス軍内に槍騎兵連隊が新編制される時にその手腕を振るった。近衛軽槍騎兵第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊と共に騎兵戦闘において一度も敗れた事がない部隊だった。ワーテルローの戦いでイギリス軍の近衛騎兵連隊を撃破した事も彼らの偉大な武勇伝の一つとなった。<br /> : 制服は白く縁取られた赤い襟返しの濃青のコートと緋色のストライプの入った濃青のズボンだった。ポーランド風の特徴的な四角筒帽をかぶった。四角筒帽は赤く塗装され黒い牛皮を巻き白の飾り紐を付け前面に金のプレートを留めて中央から白い羽飾りを立てていた。<br /> :; 第2連隊(オランダ、後にフランス)<br /> :[[ファイル:Lanciers rouges de la Garde impériale.JPG|サムネイル|222x222ピクセル|赤い槍騎兵]]1810年の[[ホラント王国]]併合時に、その近衛騎兵隊を改組編入させる形で組織された。彼らオランダ人槍騎兵はその特徴的な赤一色の軍装で知られており赤い槍騎兵(&#039;&#039;les lanciers rouges&#039;&#039;)と呼ばれていた。ロシア遠征の中で壊滅状態となり、1813年に再編制された後の構成員はほぼフランス人となった。フランス人槍騎兵もまた赤い軍装を受け継いだ。正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵である彼らをナポレオンは気に入っており、最後までこの槍騎兵連隊の規模拡張を計画していた。幾多の戦いを経てワーテルローの戦いにも参加した。<br /> :制服は青い襟返しの赤色のコートと赤色のズボンだった。赤いポーランド風四角筒帽をかぶった。四角筒帽は金色の飾り紐を巻き白い羽飾りを立てて前面に金のプレートが留められていた。<br /> :; 第3連隊(リトアニア)<br /> : [[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]直前の1812年にナポレオンは祖国回復を夢見る[[リトアニア人]]達の熱意を認めて、彼らの騎兵連隊を新規近衛隊に加えた。1795年の[[ポーランド分割|ポーランド・リトアニア分割]]で[[ロシア帝国]]に祖国を奪われていた彼らは、その遠征に参加する事で自分達の悲願を果たそうとしていた。しかし厳しい遠征の中で苦戦を強いられ、ロシア・コサック騎兵とウクライナ・ユサール騎兵に包囲された後に[[スロニム]]で滅ぼされた。その生き残り達は近衛軽槍騎兵第1連隊に編入された。<br /> : 制服は青い襟返しの紺色のコートと紺色のズボンだった。紺色のポーランド風四角筒帽をかぶった。<br /> ; 近衛護衛騎兵(&#039;&#039;Gardes d&#039;honneur de la Garde impériale&#039;&#039;)<br /> : ナポレオンの指示で1813年に新設された彼らの役割は、各近衛騎兵連隊に随伴して様々な支援任務をこなす事だった。新しく徴集した青年騎兵の中から選ばれた者達で4個連隊が編制された。ナポレオンは上流家庭と富裕家庭出身の若者達を動員し馬と装備品の費用も負担させる事を望んでいたが、実際には庶民層の若者も少なからず存在していた。この頃はロシア遠征での騎兵大量喪失により近衛騎兵入隊のハードルが大幅に下がっていた。これを発展させたものが近衛偵察騎兵となった。1814年のフランス防衛戦の中で消滅した。<br /> : 制服は、白いモールを肋骨状に飾り付けた緑色のジャケットを着用し、肩から白の飾り帯をかけ、グリーンの短丈外套を羽織った。赤いズボンに黒い膝下長靴を履いた。緑の羽飾りを付けた赤い円筒帽をかぶった。<br /> ; 近衛偵察騎兵(&#039;&#039;Eclaireurs de la Garde impériale&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Sous-officier des éclaireurs-grenadiers, 1814.jpg|サムネイル|287x287ピクセル|近衛偵察騎兵]]ロシア遠征の退却中、コサック騎兵の戦闘技術に強い印象を受けていたナポレオンは、フランス本土決戦前夜の1813年12月にコサック騎兵を参考にした新しい騎兵団を創設し近衛偵察騎兵と名付けた。軽騎兵科である近衛偵察騎兵は純粋な支援部隊であり、編制された3個の連隊は近衛重騎兵の各隊に随伴する位置付けだった。第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊に、第2連隊は皇后竜騎兵連隊に、第3連隊は近衛軽槍騎兵第1連隊にそれぞれ付属して、専ら偵察と戦闘支援を担当するものとされた。装備品はポーランド槍騎兵と似て、前列は槍と曲刀サーベル、後列は銃剣付きカービン銃と曲刀サーベルだった。訓練期間も短く、彼らがどれだけコサック騎兵の技術を身に付ける事が出来たのか疑問が残った。1814年のフランス防衛戦に投入されたが、敗戦によるナポレオン退位と共に解散した。<br /> : 第1連隊第1大隊の制服は熊毛コルパック帽と白いモールで飾った緑色のジャケットと緑色のズボンだった。その他大隊は猟騎兵風で黒い円筒帽と緑のコートと緑のズボンだった。第2連隊も猟騎兵風だが赤い円筒帽をかぶった。第3連隊は赤い襟返しの濃青色コートと白いズボンと赤いポーランド風四角筒帽だった。<br /> <br /> === 近衛砲兵 ===<br /> ; 近衛徒歩砲兵(&#039;&#039;Artillerie a Pied de la Garde impériale&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Guard Foot Artillery 1808.jpeg|サムネイル|220x220px|近衛徒歩砲兵|代替文=]]前身の執政親衛隊では1個中隊のみの規模だった。この皇帝直属の砲兵連隊の入隊資格は、背が高く勇敢さの表彰歴を持ち教養を備えた3回以上の従軍経験者であり、各砲兵連隊より2名が採用された。1806年には35歳以下で10年以上の軍隊勤務者という条件が加わり各連隊から15名が採用されるようになった。フランス徒歩砲兵の最精鋭であるこの連隊は3個大隊で構成されており、第1、第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属した。各大隊は3個中隊を擁しており、近衛徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名で重砲4門か軽砲8門を保有していた。1809年に第3大隊はスペインに遠征して連隊から分離し、やがてこの第3大隊を中核とした近衛徒歩砲兵第2連隊が新編制されて新規近衛隊の支援砲兵となり、1813年には16個中隊まで増やされた。第1、第2大隊の計6個中隊は近衛徒歩砲兵第1連隊を形成し古参近衛隊の支援砲兵となる他、皇帝直率の予備砲兵ともなった。<br /> :制服は袖口が赤く襟口と襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートにダークブルーのズボンだった。コートには赤色肩章が付いていた。古参近衛砲兵は赤い飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽を、新規近衛砲兵は赤い羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。<br /> ; 近衛騎馬砲兵(&#039;&#039;Artillerie a Cheval de la Garde impériale&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Artillerie a cheval garde tanconville.jpg|サムネイル|238x238px|近衛騎馬砲兵|代替文=]][[ファイル:Napoleon Guard Artillery train and Foot artillerist by Bellange.jpg|サムネイル|265x265px|近衛砲車牽引兵と近衛砲兵|代替文=]]前身の執政親衛隊にも1個中隊が存在していた。ナポレオンは1802年から騎馬砲兵の増設に力を注ぎ3個大隊構成の連隊にまで拡張した。各大隊は2個中隊を擁しており、近衛騎馬砲兵中隊の兵員数は約100名で大砲6門を保有していた。近衛騎馬砲兵の採用には更に厳しい基準が定められて帝国全土から最優秀の人材が探し出されていた。比類なき砲兵である彼らは戦場を神出鬼没に駆け巡り、全速力で駆けつけて来て馬車から大砲を降ろして最初の砲弾を放つのに1分と掛からなかったという。近衛騎馬砲兵連隊は徒歩と騎馬双方を含めたフランス全砲兵中の最上級部隊であった。用いられる軍馬も巨大で怪力の超一流であり、もしこの連隊の馬が不足した場合は皇帝の命令で、全騎兵中の最上級部隊である近衛騎馬擲弾兵連隊から軍馬を融通して貰えるよう定められていたので、近衛騎馬砲兵は全軍隊の頂点に立つ戦力と見なされていた事が分かる。第1大隊と第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。<br /> : 制服はユサール様式の洗練されたもので、金色モールで肋骨状に装飾したダークブルーのジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされ金の組み紐で飾られたダークブルーの短丈外套を羽織った。きつめの濃青ハンガリー風スボンと黒い膝下長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。<br /> ; 近衛砲車牽引兵(&#039;&#039;Train d’artillerie de la Garde impériale&#039;&#039;)<br /> :近衛砲車牽引兵中隊(&#039;&#039;compagnie&#039;&#039;)は近衛砲兵中隊(&#039;&#039;batterie&#039;&#039;)の大砲運搬を一対一で担当して作戦中の行軍を支援した。当初は大隊組織で全中隊を管理したが、中隊数の増加に伴い1812年からは連隊組織で管理されるようになった。制服は青みのある灰色基調で赤い肩章が付いていた。<br /> <br /> == 歩兵 ==<br /> ”&#039;&#039;Une bonne infanterie est sans doute le nerf de l&#039;armée, mais si elle avait longtemps à combattre contre une artillerie très supérieure, elle se démoraliserait et serait détruite.&#039;&#039;”(優れた歩兵は疑いなく軍隊の要である。しかしより優れた砲兵の前ではその士気を挫かれやがて壊走するだろう)。ナポレオンの歩兵観はこの様なものであった。歩兵は最も数の多いナポレオン軍の主要構成員であり、密集隊形で戦う&#039;&#039;&#039;[[戦列歩兵]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;infanterie de ligne&#039;&#039;)と、散開して戦う&#039;&#039;&#039;[[軽歩兵]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;infanterie légère&#039;&#039;)の二つの兵科に分けられていた。<br /> <br /> === [[戦列歩兵]] ===<br /> [[ファイル:Waterloo - Juin 2012 (17).JPG|サムネイル|戦列歩兵]]<br /> 戦列歩兵(&#039;&#039;infanterie de ligne&#039;&#039;)はフランス軍の基本構成員であり最も人数の多い兵科だった。戦場の彼らは密集した隊形を組み、何があっても隊列から離れない事を求められ、常に隊形の一部となって戦った。これは近世ヨーロッパ歩兵の標準的な戦い方だった。<br /> <br /> ナポレオンが半旅団(&#039;&#039;demi-brigade&#039;&#039;)を&#039;&#039;&#039;連隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;régiment&#039;&#039;)に改称した1803年当時は、112個の戦列歩兵連隊が存在し最終的には156個となった。連隊はフランスの各県ないし郡ごとに組織されていた。戦列歩兵連隊は2~6個大隊+後備大隊で構成されており、大隊の数は地元の人口情勢に左右された。後方支援役の&#039;&#039;&#039;後備大隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;bataillon de dépôt&#039;&#039;)は4個中隊で構成され主に新兵の教育部署となり、新兵達は連隊の荷車を運搬する小荷駄隊を兼ねた。戦場での基本行動単位である&#039;&#039;&#039;大隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;bataillon)&#039;&#039;は複数の中隊で構成された。&#039;&#039;&#039;中隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;compagnie&#039;&#039;)は配膳を共にする兵営生活の基本単位だった。1800~1804年の大隊構成は8個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊で各中隊の人数は約120名だった。1805~1807年は7個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊となった。1808~1815年は4個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊で各中隊は約140名となった。戦列歩兵大隊の兵員数は1800年からは約1,000名、1808年からは約800名であり、戦列歩兵連隊の兵員数は大雑把に見て1,600~3,200名という事になるが、従軍中の消耗で実際には定員の5~7割程度になってる事が多かった。<br /> <br /> 連隊長(大佐)には運営事務役(中佐)とスタッフ達(会計士官、給与仕官、連隊副官、旗手、軍医長、鼓手長、軍楽長)と職人達(仕立て師、靴職人、理容師、パン屋、大工、鍛冶師)が付いた。後備大隊は中佐が管理した。大隊長(少佐)には副官(大尉と中尉)2名と准尉1名と鼓手伍長1名が付いた。中隊長(大尉)には副長(中尉と少尉)2名、曹長1名、軍曹4名、給養係伍長1名、伍長8名、鼓手2名が付いた。<br /> <br /> ; [[フュージリアー|小銃兵]](&#039;&#039;Fusiliers&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:199 - Austerlitz 2015 (23705957414).jpg|サムネイル|小銃兵]]小銃兵は最も人数の多い標準的な歩兵だった。彼らには行軍訓練が最優先に課せられて歩行速度と持久力を伸ばす事に最大の注意が払われた。”&#039;&#039;La première vertu d&#039;un soldat est l&#039; endurance de fatigue courage est seulement la deuxième vertu.&#039;&#039;”(兵士の第一の美徳は疲労に耐える事であり、勇気はその次でよい)とはナポレオンの言葉であり、この戦略眼による訓練で養われた長い距離を短い時間で踏破出来る歩兵達の移動能力はフランス軍の勝利を支え続けた。また戦場においては敵への接近中、個々に狙いを定めて射撃する事が奨励されており、加えて半ば自由行動となる銃剣突撃が積極的に用いられた。この様な兵士達の自主性にまかせる戦い方が出来たのはひとえにフランスが国民軍であるが故であり、他のヨーロッパ諸国ではこうは行かず、戦場では常に隊列を維持させ個々の発砲は許されず指揮官の号令下での一斉射撃を順守させる事が普通であった。<br /> : 小銃兵の武器は、前装式火打石発火型滑腔砲である[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]とその銃剣であった。制服は白いチョッキと白いズボンの上に、襟口と袖口は赤く中央の襟返しは白い濃青色のコートを着た。濃青色コートは1812年までは尾の長いハビットロングで1813年からは尾の短いハビットベストとなった。始めは[[二角帽子]]をかぶり1807年に円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なる[[ポンポン]]を付けていた。1808年の再編制では第1中隊は緑色、第2中隊は水色、第3中隊は橙色、第4中隊は紫色のポンポンと決められた。<br /> <br /> ; [[擲弾兵]](&#039;&#039;Grenadiers&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Napoleon Grenadier and Voltigeur of 1808 by Bellange.jpg|サムネイル|284x284px|擲弾兵と選抜歩兵]]擲弾兵とは18世紀以前に大柄で精強な者が選ばれて敵戦列に擲弾(手榴弾)を投げ付ける役目を担った伝統に由来する名称であり、即ち精鋭兵を意味する兵種だった。背が高く勇敢で精強な者が選抜されて擲弾兵となった。彼らが構成する擲弾兵中隊は各大隊に1個ずつ組織された。擲弾兵中隊は大隊が縦隊を組んだ時はその先頭に立ち、横隊の時は古代ローマ&ギリシャ時代に最も名誉な位置と言われた右端に置かれた。戦況に応じて各擲弾兵中隊を合わせた擲弾兵集団が編制される事もあり、大規模戦闘隊形の要所に配置されて強力な突破力となった。<br /> : 擲弾兵は威圧感を持つ為に全員が口ひげを蓄えるよう求められた。彼らは赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶったが、1807年に赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、擲弾兵は歩兵用小剣(&#039;&#039;sabre briquet&#039;&#039;)を腰に帯びた。歩兵用小剣はエリート歩兵の証であると同時に白兵戦用の武器でもあったが肝心の戦闘では滅多に使われず、ただの薪割りの道具になったという。<br /> ; {{ill2|選抜歩兵|en|Voltigeur}}(&#039;&#039;Voltigeurs&#039;&#039;、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)<br /> : 1803年に軽歩兵大隊の中に選抜歩兵中隊が組織されたのに続いて、ナポレオンは1805年から戦列歩兵大隊にも選抜歩兵中隊を組織させた。その趣旨は軽歩兵のものとはやや異なり、各戦列歩兵大隊に独自の[[散兵|散兵線]]を持たせる事だった。背が低く射撃技術と身のこなしに優れた者が採用されて選抜歩兵となった。低身長者を選り分けたのは銃剣のリーチを揃える為でもあり、小柄な者ほど弾に当たりにくいと信じられていたからでもあった。彼らは擲弾兵に次ぐ精鋭と見なされて1809年から給与待遇が上げられた。通常は大隊横隊の左端か大隊縦隊の後方に位置し、散開を命じられると前方に展開して[[散兵|散兵線]]を敷いた。また市街戦や山岳戦の際には機敏さを活かした突入要員としても活躍した。師団または連隊内の全選抜歩兵中隊が集められて前面に配置され、広大な散兵線を築く事がしばしばあった。<br /> : 彼らは黄+緑色の羽飾りを立てた二角帽をかぶったが、1807年に黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。装備品は竜騎兵用マスケット銃(銃身がやや短い)とされたが、実際には歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付いた。歩兵用小剣も腰に帯びた。<br /> <br /> === [[軽歩兵]] ===<br /> [[ファイル:Une compagnie d&#039;infanterie légère française dans les bois.jpg|サムネイル|軽歩兵]]<br /> 近世の歩兵の大半は隊列を組み隊形の一部となって戦ったが、それとは別に隊列を組まず散開し、各自の判断で動き戦う者達もいて彼らは軽歩兵(&#039;&#039;infanterie légère&#039;&#039;)と呼ばれた。軽歩兵は、密集した戦列歩兵隊形の周辺に配置されて[[散兵|散兵線]]を築き、強固だが正面以外への融通が利かない歩兵陣形を臨機応変に援護した。戦列歩兵と異なり軽歩兵は選抜扱いで人数は少なく、1803年の31個連隊から最終的に37個を越える事はなかった。しかし他のヨーロッパ諸国と比べるとかなりの大人数ではあった。軽歩兵の役割は敵前逃亡しない強い責任感を持つ者だけにまかせる事が出来たので強制徴募と傭兵中心の封建軍隊では編制が難しく、国民国家の軍隊に限り大量編制が可能だった。<br /> <br /> 軽歩兵連隊は2~3個大隊+後備大隊で構成された。軽歩兵大隊の構成内容は1807年までは7個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約120名、1808年からは4個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊の構成で中隊の人数は約140名だった。<br /> <br /> 軽歩兵は正確で素早い射撃と機敏な動作を身に付ける為の専門的な訓練を受けており、哨戒や斥侯や伏兵などの様々な任務をまかされるのが常だった。入隊基準は身のこなしに優れた者であったが、小柄な者が優先採用される傾向があり平均身長は戦列歩兵より2cmほど低かった。この小柄さは実際に森林を駆け抜ける時の敏捷性や物陰に隠れる動作に活かされていた。<br /> <br /> ; [[猟歩兵]](&#039;&#039;Chasseurs&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:1er régiment d&#039;infanterie légère napolitain, 1812.jpg|サムネイル|277x277px|猟歩兵]]猟歩兵は軽歩兵科で最も人数の多い標準的な存在だった。武器は[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]と銃剣だった。1806年までは選抜扱いだったが、軽歩兵連隊の増加と選抜歩兵中隊の設立に伴い1807年からは待遇が下げられ、歩兵用小剣と円筒帽の羽飾りも取り外される事になった。<br /> : 猟歩兵の制服は全体的にダークブルーで統一されており、濃青のチョッキと濃青のスボンの上に濃青のコートを着て、コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いた。緑の羽飾りを立てた白紐円筒帽をかぶり、1807年から羽飾りは無くなり白い紐飾りだけの円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なる[[ポンポン]]が付いた。<br /> ; カービン歩兵(&#039;&#039;Carabiniers&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Napoleon Voltigeur and Carabinier by Bellange.jpg|サムネイル|225x225px|選抜歩兵とカービン歩兵]]この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来しており、即ちカービン兵は擲弾兵と対をなす精鋭の意味だった。彼らは戦列歩兵大隊の擲弾兵と同じ位置付けだった。背が高く勇敢で精強な猟歩兵が選ばれてカービン歩兵中隊に入った。彼らは擲弾兵と同様に口ひげを蓄える事を求められた。<br /> : 制服は猟歩兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶり、1807年からは赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、カービン歩兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。<br /> ; 選抜歩兵(&#039;&#039;Voltigeurs&#039;&#039;、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)<br /> : 1803年にナポレオンの指示で、軽歩兵連隊の中から背の低い者を集めて選抜歩兵中隊が組織されるようになった。当初の基準は152cm以下だったが、その後は平均より低い程度となった。軽歩兵はすでに選抜要員であり身のこなしに優れた者だったので、小柄さの利点を存分に発揮出来る特別な部隊が誕生した事になる。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦山岳戦の時に活躍し、他に偵察や奇襲も専門とした。ナポレオンの命名である「&#039;&#039;voltigeur&#039;&#039;」には敵騎兵に対して「飛び上がって」攻撃出来る歩兵という意味が込められていたが、この斬新な構想は上手くいかなかった。しかし特殊任務担当要員としての必要性を確立し、後年には戦列歩兵連隊の方にも選抜歩兵中隊が編制されるようになった。<br /> : 制服は猟歩兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。黄色の羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶり、1807年からは黄色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。竜騎兵用マスケット銃が標準装備とされたが、実際は歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付き、歩兵用小剣も腰に帯びた。<br /> <br /> == 騎兵 ==<br /> ”&#039;&#039;La cavalerie est utile avant, pendant et après une bataille.&#039;&#039;”(騎兵は戦闘前、戦闘中、そして戦闘後に役に立つ)とはナポレオンが残した言葉である。直線的な白兵戦を専門とする&#039;&#039;&#039;重騎兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;cavalerie lourde&#039;&#039;)と柔軟な機動任務を専門とする&#039;&#039;&#039;軽騎兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;cavalerie légère&#039;&#039;)の二つの兵科があった。フランス革命で騎兵の中核である貴族階層の士官下士官の大半が国外亡命しフランス騎兵はその質をひどく落としていたが、ナポレオンはこの部門の再建に取り組み成功している。<br /> <br /> 革命前の旧体制下では、精鋭集団であるカービン騎兵連隊2個、白兵戦専門の大騎兵連隊24個、乗馬歩兵である竜騎兵連隊18個、フランス式軽騎兵の猟騎兵連隊6個、ハンガリー式軽騎兵のユサール騎兵連隊6個が存在し、革命戦争期間に幾度か改編され取り分け猟騎兵連隊が増設されていた。1802年頃から騎兵の組織改革に取り組んだナポレオンは、大騎兵(&#039;&#039;Grosse cavaleries&#039;&#039;)を約半数に選別し、重量胸甲を着せて胸甲騎兵と改称させ重騎兵の一線級とした。この胸甲騎兵による肉弾突撃を多用したのがナポレオン戦術の特徴だった。選別に漏れた者達は竜騎兵に転向させられたので竜騎兵の数は倍増し重騎兵の二線級に位置付けられた。また軽騎兵の育成を強化し、ハンガリー式である[[ユサール|ユサール騎兵]]を一線級に定めて軍服を華やかに飾らせた。フランス式である猟騎兵は二線級とされ質より量の方針で大幅に増員させた。ナポレオンは軽騎兵による組織的な偵察活動を特に重視した。後年にはポーランド式槍騎兵([[ウーラン]])を正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵としてフランス軍に導入した。<br /> <br /> 騎兵連隊の兵員数は800名から1000名であり、各連隊は概ね4個大隊+後備大隊で構成された。戦場での基本行動単位である&#039;&#039;&#039;騎兵大隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;escadron&#039;&#039;)は2個中隊構成であり、兵営生活の基本単位である騎兵中隊の人数は約100名だった。後方支援役である&#039;&#039;&#039;後備大隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;escadron&#039;&#039; &#039;&#039;de dépôt&#039;&#039;)は新兵教育と軍馬の入れ替えと小荷駄隊を兼ねていた。各連隊の第1大隊の第1中隊は&#039;&#039;&#039;精鋭中隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;compagnie d&#039;élite&#039;&#039;)であり連隊内の選抜者が入隊した。騎兵連隊は従軍中の消耗で定員に足りてない事が多く、後年は半数以下になってる連隊も珍しくなかった。騎兵連隊と騎兵大隊のスタッフ構成は歩兵科とほぼ同じだったが、連隊スタッフに獣医と馬鞍職人と蹄鉄職人が加わった。騎兵中隊長(大尉)には副長(中尉と少尉)2名、曹長1名、給養係伍長1名が付き、胸甲騎兵中隊は軍曹2名と伍長4名、それ以外は軍曹4名と伍長8名が付いた。<br /> <br /> === 重騎兵 ===<br /> ; [[胸甲騎兵]](&#039;&#039;{{lang|fr|Cuirassiers}}&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:GericaultWoundedCavalry.jpg|サムネイル|221x221ピクセル|胸甲騎兵]]突撃と白兵戦を専門とする彼らは中世の騎士を彷彿とさせる騎兵であり、胸甲を身に着け兜をかぶり直刀サーベルと拳銃で武装した。1812年にカービン銃も装備品となったが携行しない者もいた。1802年までは大騎兵(&#039;&#039;Grosse cavaleries&#039;&#039;)という名称で27個連隊が存在したが、1803年の騎兵改革で12個連隊に選別され、重量胸甲の着用を義務付けられた彼らは胸甲騎兵と改称した。1810年頃に2個の連隊が追加された。大きな軍馬にまたがる胸甲騎兵は正面から突撃して敵の隊列を突き崩し戦いの流れを変える決定打となり、危険な突撃を敢行する彼らには高い名誉が与えられていた。彼らの胸甲と兜は銃弾に対しても、白兵戦におけるサーベルと槍に対しても大きな防護効果を発揮した。&lt;ref name=&quot;:1&quot;&gt;{{Cite book|author=|title=戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編|date=|year=|accessdate=|publisher=創元社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、前面と背面を覆う胸甲の採用はナポレオンのアイディアだった。重量胸甲の着用は短期の訓練では身に付かない白兵戦技術を補い、個人の技量に頼らず騎兵の練度を底上げさせる為の手段だった。この事は胸甲騎兵の大量補充を可能にし、ナポレオンは犠牲を顧みない騎兵の肉弾突撃を多用してそれがナポレオン軍の強さにつながった。<br /> :胸甲騎兵はナポレオン時代における最強の騎兵であり、近衛騎馬擲弾兵と並び他国の悩みの種となった。&lt;ref name=&quot;:1&quot; /&gt;<br /> :しかし、オーストリア軍のウーラン、ロシア軍のコサック、イギリス軍の胸甲騎兵もナポレオン軍の胸甲騎兵に勝るとも劣らない戦闘力と勇猛さを持っていた。&lt;ref name=&quot;:2&quot;&gt;{{Cite book|author=|title=図解 ナポレオンの時代 武器・防具・戦術大全|date=|year=|accessdate=|publisher=レッカ社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;<br /> : 制服は白のズボンに濃青のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。その上に銀色の胸甲を着けた。鉄と真鍮製の兜は黒い牛皮を前面に巻き黒い房飾りを後ろに下げて金のとさかが付き赤い羽飾りが立てられていた。<br /> ; カービン騎兵(&#039;&#039;Carabiniers-à-Cheval&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Carabiniers à cheval.jpg|サムネイル|213x213px|カービン騎兵]]この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来していた。彼らはフランス重騎兵の中から剣の達人を選抜したエリート部隊であり2個の連隊が存在した。当初は赤い羽飾り付きの熊毛帽をかぶり白のチョッキと赤い襟返しの濃青色コートを着て白いズボンを履いていた。胸甲騎兵と同じく突撃と白兵戦を主な任務とし、直刀サーベルとカービン銃で武装したが、カービン騎兵は胸甲を着用しなかった。彼らは胸甲に頼らず剣の技術のみで敵と格闘する事を許されたエリートだった。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、重量胸甲は銃撃には無力な上に疲労が増し落馬時の受け身と離脱行動も難しくなる厄介な代物でもあった。しかし突撃を多用するナポレオン戦術の下で白兵戦の機会が急増すると徐々に消耗を強いられ、1809年にはオーストリア軍の[[ウーラン|ウーラン騎兵]](ポーランド式槍騎兵)との戦いで大損害を被り、ついにナポレオンはカービン騎兵に胸甲の着用を命じた。彼らは口惜しがったが以後の軍装は一新され、熊毛帽の代わりに赤いとさかで飾られた鉄と真鍮製の金色兜をかぶり、白いコートの上に金色の胸甲を着用するようになった。カービン騎兵は近衛騎馬擲弾兵に次ぐ地位の重騎兵であったが、その戦歴は振るわなかった。<br /> ; [[ドラグーン|竜騎兵]](&#039;&#039;Dragons&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Battle of Jena.jpg|サムネイル|258x258ピクセル|竜騎兵]]彼らは重騎兵科であったが用途的には中騎兵であり、正面戦闘の白兵戦を行う他、哨戒や斥侯などの遊撃任務も担当する多芸で汎用な存在だった。騎兵用の直刀サーベルと歩兵用の銃剣付きマスケット銃で武装しており、マスケット銃は通常馬鞍に取り付けられ馬上戦闘中はベルトで背負っていた。竜騎兵は歩兵戦闘の訓練も受けており必要に応じて下馬して戦った。故に軍馬が不足した際は徒歩竜騎兵となって柔軟に存在価値を示す事が出来た。徒歩竜騎兵は標準以上の歩兵戦力と見なされており、取り分け騎兵支援用の歩兵となる事が多かった。竜騎兵は二線級重騎兵であったが、同じく二線級軽騎兵である猟騎兵よりも練度的に上の位置付けだった。1803年の騎兵改革で15個の大騎兵(&#039;&#039;Grosse cavaleries&#039;&#039;)連隊が竜騎兵連隊に改組される事になり、1804年に竜騎兵連隊は30個存在した。1811年にナポレオンがポーランド式槍騎兵の価値を認めると、6個の竜騎兵連隊が槍騎兵連隊に改組された。<br /> :制服は白のチョッキと白のズボンに赤い襟返しの緑色のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。前面に豹皮を巻き後ろに黒い房飾りを下げた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶった。<br /> <br /> === 軽騎兵 ===<br /> ; [[ユサール|ユサール騎兵]](&#039;&#039;Hussards&#039;&#039;) <br /> :[[ファイル:9e Hussards, par Victor Huen.jpg|サムネイル|ユサール騎兵]]ユサール騎兵の軍装はきらびやかで華麗な事で有名だった。彼らの中にはカービン銃を持つ者もいたが、大抵は敏捷さを重視して曲刀サーベルと拳銃のみで武装した。ユサール騎兵の主な任務は偵察であったが、本隊が交戦するまでの前哨戦の中で様々な任務をこなした。作戦地域を駆け巡って敵部隊の動きをくまなく司令官に知らせるのと同時に、敵の斥侯を見つけた際にはこれを撃退して味方の情報を与えないようにした。ナポレオン軍の高度な戦略機動と分進合撃を可能にしたのは軽騎兵の組織的な情報収集力に拠る所が大きく、精鋭であるユサール騎兵は特に目覚しい働きを見せていた。また戦闘終了後に敵軍隊を再捕捉する追撃戦も彼らの重要な役目であった。敵地への危険な強行偵察を敢行する彼らはほとんど自殺行為と言えるほどの無謀な勇敢さで有名であり、30歳まで生き延びたユサール騎兵は真の古参兵であり幸運の持ち主(卑怯者)であると言われた。&lt;ref name=&quot;:1&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;:2&quot; /&gt;1804年に12個連隊が存在し、1814年に14個連隊となった。<br /> : ユサール騎兵の制服はジャケット、モール、襟口、袖口、スボン、短丈外套、羽飾りの各パーツの色の組み合わせが連隊毎に異なり色彩の変化に富んでいた。配色は濃青、赤、緑、黄、茶、白、水色だった。前面にモールが肋骨状に並んだジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされた短丈外套を羽織り、きつめのハンガリー風ズボンと膝下長靴を履いた。頭には羽飾りを立てた円筒帽をかぶった。士官と精鋭中隊は熊毛コルパック帽だった。<br /> ; [[猟騎兵]](&#039;&#039;Chasseurs-à-Cheval&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Grande Armée - 1st Regiment of Chasseurs à Cheval.jpg|サムネイル|201x201ピクセル|猟騎兵]]彼らの役割と任務はユサール騎兵と同じで偵察、哨戒、奇襲、遊撃、追撃などであったが精鋭扱いされない二線級の軽騎兵だった。1804年に24個連隊が存在し、1811年には31個連隊を数えた。その内の6個連隊はドイツ人、イタリア人などの外国人部隊であった。猟騎兵の馬と装備品の費用は安く訓練も簡素で短かった。1805年には数ヶ月の乗馬射撃訓練だけで実戦投入される事もあった。装備品はカービン銃と曲刀サーベルで、カービン銃用の銃剣も渡されていたが多くの者はこれを用いなかった。この銃剣は下馬戦闘の為でもあり、猟騎兵もまた竜騎兵と同様に下馬戦闘の実技を課せられていたが、訓練が簡素過ぎたせいか徒歩騎兵として用いられる事はなく、軍馬欠乏の際はそのまま待機させられる事が多かった。<br /> :猟騎兵の軍装は全体的にダークグリーンで統一されていた。制服は黒い円筒帽をかぶり、緑色のコートを着て、緑色のズボンと黒い膝下長靴を履いた。精鋭中隊は熊毛コルパック帽をかぶった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊毎に12色で色分けされていた。<br /> ; [[槍騎兵]](&#039;&#039;Lancers&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Napoleon French Lancer by Bellange.jpg|サムネイル|259x259ピクセル|槍騎兵]]ポーランド式槍騎兵([[ウーラン]])を高く評価したナポレオンは、1811年に6個の竜騎兵連隊と1個の猟騎兵連隊を槍騎兵連隊に改組させ、皇帝近衛隊のポーランド人騎兵たちにその教練をまかせた。更に槍騎兵の本場である同盟国ポーランド([[ワルシャワ公国]])から2個の槍騎兵連隊の提供を受けて合計9個連隊となった。彼らは名前が示す通り槍で武装しており、他に曲刀サーベルと拳銃も携行した。編制当初は前後二列に槍を構えさせていたが、実戦の中でポーランド式戦術の正しさが証明されると後列には槍の代わりに銃剣付きカービン銃を装備させた。彼らの槍は銃剣より長かったので歩兵陣形を攻めるのに効果があり、同様に長い槍のリーチで騎兵との白兵戦にも有利だった。&lt;ref name=&quot;:1&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;:2&quot; /&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|author=中里融司|title=覇者の戦術 戦場の天才たち|date=|year=|accessdate=|publisher=新紀元文庫|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;ただし槍騎兵の本領を満足に発揮出来たのはもっぱらポーランド人と近衛騎兵に限られており、一般のフランス人槍騎兵の方は力不足を指摘される事が多かった。また、騎兵槍は騎兵同士の戦闘では乱戦で返って邪魔になる事も多く、槍を捨ててサーベルに武器を切り替える事も珍しくなかった。&lt;ref name=&quot;:1&quot; /&gt;中世の騎士とは異なり、鎧を纏っていないせいか乱戦に弱いという欠点があり、背後にサーベルを主力武器とする騎兵が控えて援護していた。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=R・G・グラント|title=兵士の歴史 大図鑑|date=|year=|accessdate=|publisher=創元社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;また、槍騎兵の育成には手間がかかり、木製の騎兵槍で訓練をしていた。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=ハーピー・S・ウィザーズ|title=世界の刀剣歴史図鑑|date=|year=|accessdate=|publisher=原書房|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;<br /> :制服は黒いとさかで飾られた真鍮製ヘルメットとグリーンのコートとグリーンのズボンだった。コートの前面の襟返しは連隊別に6色で色分けされた。なお、ポーランド人の第7、第8連隊の方は黄色の襟返しのブルーのコートとブルーのズボンで頭には青いポーランド風四角筒帽をかぶった。<br /> :胸甲騎兵には及ばないもののナポレオン時代に復活した槍騎兵は、多くの騎兵がサーベルを主力武器とする中、実戦で恐ろしい威力を発揮した。&lt;ref&gt;{{Cite book|author=市川定春|title=武器事典|date=|year=|accessdate=|publisher=新紀元社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 砲兵 ==<br /> ”&#039;&#039;Dieu se bat sur le côté avec la meilleure artillerie.&#039;&#039;”(神は優れた砲兵を持つ側に味方する)&lt;ref name=&quot;artillery&quot;&gt;Mas, M.A. M., p.81.&lt;/ref&gt; 。砲兵士官の出身であるナポレオンはしばしばこの様に語っていたとされる。大砲はナポレオン軍の柱石であり、歩兵と騎兵が突入する前の敵隊列を乱す攻撃の要であった。&#039;&#039;&#039;徒歩砲兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Artillerie a pied&#039;&#039;)と&#039;&#039;&#039;[[騎馬砲兵]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Artillerie a cheval&#039;&#039;)の二つの兵種があり、更に大砲運搬を専門に行う&#039;&#039;&#039;砲車牽引兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Train d’artillerie&#039;&#039;)と、大砲を載せる台車や荷車の修理修繕を行う&#039;&#039;&#039;工匠兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Ouvriers&#039;&#039;)と、大砲の修理修繕を行う&#039;&#039;&#039;大砲鍛冶兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Armuriers&#039;&#039;)の三つの支援兵種があった。<br /> <br /> 1805年には8個の徒歩砲兵連隊と6個の騎馬砲兵連隊が存在した。各徒歩砲兵連隊は概ね20個位の&#039;&#039;&#039;徒歩砲兵中隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;batterie&#039;&#039;)を一括管理した。各騎馬砲兵連隊は6個の&#039;&#039;&#039;騎馬砲兵中隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;batterie&#039;&#039;)を管理し1814年に8個となった。徒歩砲兵中隊は[[カノン砲]]6門と[[榴弾砲]]2門の計8門を持つのが標準で、騎馬砲兵中隊は[[カノン砲]]6門を保有するのが標準だった。砲兵連隊は戦場で一体的に行動する訳ではなく単に軍政上の管理組織だったので、各砲兵中隊は個別に師団ないし軍団に配属されていた。砲兵中隊には大尉2名、中尉2名、曹長1名、軍曹4名、給養係伍長1名、伍長4名がいた。砲兵は1等と2等にランク分けされていた。<br /> <br /> 師団には標準1個の砲兵中隊が配属されて&#039;&#039;&#039;師団砲兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;artillerie divisionnaire&#039;&#039;)と呼ばれた。歩兵師団には徒歩砲兵が、騎兵師団には騎馬砲兵が割り当てられた。軍団には徒歩と騎馬の2個砲兵中隊を配属するのが標準とされ&#039;&#039;&#039;軍団予備砲兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;réserve d&#039;artillerie du corps&#039;&#039;)となった。軍団予備砲兵とその配下の師団砲兵は合併して軍団指揮下の大砲列となる事もあった。大砲の大量鹵獲により余裕が出た1809年からは革命戦争末期に廃れた&#039;&#039;&#039;連隊砲兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;artillerie régimentaire&#039;&#039;)の編制が再び始まり、[[カノン砲]]2門を持つ砲兵分隊(&#039;&#039;section&#039;&#039;)が配属された歩兵連隊も存在するようになったが、ロシア遠征での大量喪失で再び消滅した。<br /> <br /> 砲車牽引兵中隊(&#039;&#039;compagnie&#039;&#039;)は砲兵中隊(&#039;&#039;batterie&#039;&#039;)の大砲運搬に一対一で対応した&lt;ref name=&quot;:0&quot;&gt;Elting, John R.:&quot;Swords Around A Throne.&quot;, page 186, 194. Da Capo Press, 1997&lt;/ref&gt;。砲兵中隊には工匠兵と大砲鍛冶兵が随伴して大砲と砲車の修理修繕を担当した。工匠兵は1811年に18個中隊あり、木工職人である彼らは軍隊内の様々な工作作業も担当した。大砲鍛冶兵は1811年に5個中隊あり、鍛冶職人である彼らは軍隊内の銃器全般の修理も担当した。工匠兵と大砲鍛冶兵は5名位のグループに分かれて各任地に赴いていた。&lt;gallery widths=&quot;180&quot; heights=&quot;150&quot; mode=&quot;packed&quot;&gt;<br /> ファイル:Gribeauval cannon de 12 An 2 de la Republique.jpg|[[12ポンドグリボーバル野砲|グリボーバル12ポンドカノン砲]]<br /> ファイル:Obusier de 6 pouces Gribeauval.jpg|[[6インチグリボーバル榴弾砲|グリボーバル6インチ榴弾砲]]<br /> ファイル:Systeme An XI cannon de 6 Douay 1813.jpg|[[:en:Canon de 6 système An XI|共和暦11年式6ポンドカノン砲]]<br /> &lt;/gallery&gt;&#039;&#039;&#039;大砲&#039;&#039;&#039;<br /> : 旧体制時代の1765年にフランスの大砲製造技術は大幅な革新が為されており、ナポレオンはその優れた遺産を受け継ぐ幸運に恵まれた。[[ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバル]]が考案した[[グリボーバル・システム]]の下で製造された大砲は軽量化されて運搬が容易となり、砲身口径も標準化されて照準も合わせやすくなった。また台車も強化されて安定性も増した。標準型式は4ポンド、[[8ポンドグリボーバル野砲|8ポンド]]、[[12ポンドグリボーバル野砲|12ポンド]]の[[野砲|カノン砲]]と[[6インチグリボーバル榴弾砲|6インチ]]の[[榴弾砲]]に定められた。1803年にナポレオンはこれを改定した[[共和暦11年システム|共和暦11年式システム]]を発案し、4ポンド砲と8ポンド砲は6ポンド砲に置き換えられた。12ポンド砲は牽引に馬6頭を必要とする重砲で専ら軍団予備砲兵で用いられた。6ポンド砲は馬4頭で牽引された。砲身は[[真鍮|真鍮(黄銅)]]製であった。[[青銅砲]]ともされるがこれは慣例上、[[真鍮]]製の物も含めて[[青銅]]砲と呼ばれたからである。[[砲架]]、車輪、[[前車]]はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。<br /> ; 徒歩砲兵(&#039;&#039;Artillerie a pied&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:French foot artillery 1809.jpeg|サムネイル|277x277px|徒歩砲兵]]徒歩砲兵は標準的な砲兵だった。1805年に徒歩砲兵連隊は8個存在し1810年に9個目の連隊が追加された。軍政上の管理組織である徒歩砲兵連隊は概ね20個位の中隊を一括管理していた。徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名であり、標準保有数は[[カノン砲]]6門と[[榴弾砲]]2門の計8門だったが従軍中の破損でその半数程度になってる事が多かった。<br /> :徒歩砲兵中隊の構造は二通りあり、&#039;&#039;&#039;(A)&#039;&#039;&#039;下士官が大砲1門を管理しその下士官2人(伍長と軍曹)を士官が管理して大砲2門の分隊(&#039;&#039;section&#039;&#039;)を構成しその士官2人(中尉と大尉)で大砲4門の半中隊(&#039;&#039;demi-batterie&#039;&#039;)を構成し大尉が管理者になるものと、&#039;&#039;&#039;(B)&#039;&#039;&#039;下士官が大砲1門を管理しその下士官数名を大尉が管理して半中隊を構成するものがあった。従軍中の大砲破損で大抵は(B)になった。砲兵中隊には大尉が2人いたので半中隊2個のペア部隊と言えた。この構造から砲兵中隊は分割運用される事が多かった。<br /> :制服は襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートとダークブルーのズボンで、赤い飾り紐を巻き上辺を赤く縁取った黒い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。<br /> ;[[騎馬砲兵]](&#039;&#039;Artillerie a cheval&#039;&#039;)<br /> :[[ファイル:Detaille - Artillerie à cheval de la Garde Imperiale.jpg|サムネイル|268x268ピクセル|騎馬砲兵]]騎馬砲兵は騎兵と砲兵の高度な融合であり、大砲を荷馬車に乗せて戦闘に参加した。後方で砲列を敷く徒歩砲兵とは対照的に、ほぼ最前線で大砲の移動を繰り返す騎馬砲兵は近接戦闘の訓練も施されていた。彼らは指定位置に着くと素早く下馬して大砲を設置し敵を砲撃した。そして再び大砲を荷車に載せて乗馬し新しい場所へ素早く移動した。この一連の動作を成し遂げる為に相当の訓練を積んでいた彼らは精鋭と見なされており総人数は徒歩砲兵の五分の一程度だった。騎馬砲兵はナポレオン軍の虎の子部隊であり極めて優秀な戦力となったが、その編制と維持に掛かる費用もかなりのものであった。<br /> :1807年に騎馬砲兵連隊は6個存在し1810年に7個目の連隊が追加された。軍政上の管理組織である騎馬砲兵連隊は6個の中隊を管理し1814年に8個となった。なお1802年に中隊2個をまとめる大隊(&#039;&#039;escadron&#039;&#039;)の編制単位が導入され、各連隊は3個大隊を擁する事になり1814年に4個となったが、この大隊編制は実際には形骸化していたようだった。騎馬砲兵中隊は騎兵師団の支援砲兵となり、軍団にも1個が配属される事があって貴重な戦力となった。騎馬砲兵中隊の兵員数は約100名で[[カノン砲]]6門を保有するのが標準だった。これも半中隊(&#039;&#039;demi-batterie&#039;&#039;)に分けて運用される事がしばしばあった。<br /> :制服は赤色モールを肋骨状に飾り付けた濃青のジャケットを着て、濃青のズボンと黒い膝下長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。<br /> &#039;&#039;&#039;砲車牽引兵(&#039;&#039;Train d’artillerie&#039;&#039;)&#039;&#039;&#039;<br /> :[[ファイル:Napoleon Artillery train and Foot artillerist by Bellange.jpg|サムネイル|238x238ピクセル|砲車牽引兵と砲兵]]砲車牽引兵は大砲運搬を専門に担当して砲兵部隊の行軍を支援した&lt;ref&gt;Elting, John R.:&quot;Swords Around A Throne.&quot;, page 250. Da Capo Press, 1997&lt;/ref&gt; 。革命戦争期間は民間の人夫を雇っていたが、彼らは敵に襲撃されるとすぐに大砲を放棄する事が多かったので&lt;ref name=&quot;Elting2&quot;&gt;Elting, John R.:&quot;Swords Around A Throne.&quot;, page 254-5. Da Capo Press, 1997&lt;/ref&gt;、これを作戦上の重大な懸案と見なしたナポレオンは1800年1月に専門の兵員を用意させる事にした。砲車牽引兵は黄色のズボンとチョッキの上に襟返しが青い灰色のコートを着て黒い円筒帽をかぶった。下士官は軽騎兵用サーベルを腰に下げ、一般兵は短いサーベルを携行した。カービン銃ないし拳銃で武装する者もいて運搬中の大砲を守った。<br /> :砲車牽引兵中隊は砲兵中隊の大砲運搬に一対一で対応し&lt;ref name=&quot;:0&quot; /&gt;、このペアは砲兵分団(&#039;&#039;division d’artillerie&#039;&#039;)と呼ばれた。当時の’’&#039;&#039;division’’&#039;&#039;には師団と中隊ペア(分団=分大隊)の二つの意味があった。砲車牽引兵中隊は曹長に率いられた。&#039;&#039;各中隊は&#039;&#039;軍政上の管理組織である砲車牽引兵大隊にまとめられていた。1805年に5個中隊を管理する大隊10個があった。1808年に6個中隊を管理するようになり、1811年に27個大隊にまで拡張された。1809年からは連隊砲兵を運搬支援する分遣隊も柔軟に編制されるようになった&lt;ref name=&quot;Elting2&quot; /&gt;。<br /> <br /> == 工兵 ==<br /> &#039;&#039;&#039;戦闘工兵(S&#039;&#039;apeurs grenadiers&#039;&#039;)&#039;&#039;&#039;<br /> [[ファイル:Sapeur-23RIL.jpg|サムネイル|303x303px|戦闘工兵]]<br /> :戦闘工兵は厳密に言えば工兵(&#039;&#039;Génie&#039;&#039;)ではなく擲弾兵中隊の中から選抜された者達であり各歩兵大隊に5名が置かれていた。彼らはトレードマークである大斧を持ち、部隊の先頭に立って敵施設の解体作業を行った。敵の城門、防御柵、橋梁、防塞などを破壊して回り、また壁に穴を開けて味方の為の銃眼を作る事もあった。敵前での危険な解体作業に当たる事が多かったので名誉ある地位とされた。彼らは熊毛帽をかぶり、擲弾兵の制服の上に足元までを覆う厚地のエプロンをつけて作業中に飛び散る破片から身を守った。また、ユサール騎兵連隊と竜騎兵連隊にも10名の戦闘工兵が置かれており、精鋭中隊(第1大隊第1中隊)から選抜された彼らは先発隊として連隊野営地の確保を担当した。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;土木工兵(S&#039;&#039;apeurs&#039;&#039;)&#039;&#039;&#039;<br /> [[ファイル:Sapeurs du génie de la Garde impériale, 1810.jpg|サムネイル|232x232ピクセル|近衛土木工兵]]<br /> :土木工兵は軍内の土木作業を担当する者達でその任務は多岐に渡った。堡塁を築き、塹壕を掘り、簡易兵舎を建て、城塞都市攻略の際には土木技術を活かして味方を支援した。都市攻略戦が多発した革命戦争中は12個大隊を数えたが、1805年には5個大隊に選別されてそれぞれが8個中隊を擁した。土木工兵中隊の兵員数は150~200名だった。1812年には8個大隊まで増やされた。土木工兵大隊は軍政上の管理組織であり、戦場では中隊ごとに活動していた。土木工兵中隊は各軍団に複数個配属されて、軍団長配下の工兵指揮官の指示を受けた。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。必要な工具、資材などは&#039;&#039;&#039;工具牽引兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Train du génie&#039;&#039;)が専門の荷車で運搬していた。工具牽引兵は1806年に創設され1810年には6個中隊が存在した。皇帝近衛隊には&#039;&#039;&#039;近衛土木工兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Sapeurs de la Garde impériale&#039;&#039;)の1個大隊が存在し4個中隊を擁していた。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;坑道工兵(&#039;&#039;Mineurs&#039;&#039;)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> :坑道工兵は城塞都市を攻略する攻城戦の際に城外から地下にトンネルを掘って城内に侵入する作業に従事した。1805年の時点で9個の坑道工兵中隊が存在し、1808年には12個にまで増やされ、2個大隊がそれぞれ6個の中隊を管理した。坑道工兵中隊の兵員数は150~200名だった。坑道工兵大隊も軍政上の管理組織であり、各中隊は必要に応じて個別に各地の軍団に配属された。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;架橋工兵(&#039;&#039;Pontonniers&#039;&#039;)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> :架橋工兵は工兵科(&#039;&#039;Génie&#039;&#039;)ではなく砲兵科(&#039;&#039;Artillerie&#039;&#039;)に属する兵種であり、制服も徒歩砲兵と同じものを着用していた。遠征中の河川の問題に対処する彼らは「[[艀|はしけ]]」をつなぎ合わせてその上に橋梁を渡した浮き橋を構築するか、又は橋台橋脚が支える橋梁を組み立てて味方の渡河を助けた。フランス軍架橋工兵部門の責任者であった[[ジャン=バティスト・エブレ|ジャン・バプティスト・エーブレ]]による技術革新は名高く、彼が考案した工具と工作機械を用いる特別な訓練を施された工兵たちは、様々な橋梁部品を素早く作ると同時にそれらを組み立てて橋を完成させ、また分解した後は各部品の再利用も出来るようにした。必要な資材、工具、特殊部品は&#039;&#039;&#039;工具牽引兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Train du génie&#039;&#039;)が運搬する専門の荷車で運ばれた。特殊部品が破損した時も専門の荷車に備えている鍛造機などの工作機械で製造し補充出来た。一つの架橋工兵中隊で全長120mから150m程の[[艀|はしけ]](艀)約80艘からなる浮き橋を7時間以内に組み立てる事が出来た。1805年の時点で5個中隊を管理する2個の架橋工兵大隊が存在し、最終的には8個中隊構成の3個大隊となり合計24個中隊まで増やされた。架橋工兵中隊の兵員数は100~150名だった。架橋工兵大隊も軍政上の管理組織であり、各中隊は必要に応じて各地の軍団に配属され中隊ごとに活動したが、大きな川の架橋作業で合同する機会が多かった。皇帝近衛隊には&#039;&#039;&#039;近衛架橋工兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Pontonniers de la Garde impériale&#039;&#039;)の1個中隊が存在した。<br /> <br /> == その他の兵科 ==<br /> ; 憲兵(&#039;&#039;Gendarmes&#039;&#039;)<br /> <br /> [[ファイル:Gendarme d&#039;élite au quartier général de l&#039;Empereur.jpg|サムネイル|251x251ピクセル|憲兵|代替文=]]<br /> :軍隊内の不正を調査し軍規を引き締める役割を担っていた憲兵は、レギオン(&#039;&#039;légion&#039;&#039;)の編制単位でまとめられていた。憲兵レギオンの兵員数は50~120名であり中隊と同規模の集団だった。騎馬憲兵と徒歩憲兵の比率は6:4だった。1804年に27個の憲兵レギオンが存在し、1811年には34個まで増やされた。憲兵レギオンは各軍団に1個ずつが配属されており、また各方面の要地にも出向した。全レギオンは憲兵総監(&#039;&#039;Inspecteur général des armées gendarmerie&#039;&#039;)に管理されていた。<br /> <br /> :皇帝近衛隊内に組織されたレギオンは精鋭レギオン(&#039;&#039;légion d’élite&#039;&#039;)と呼ばれ、これは騎兵連隊と同規模の集団となり複数の近衛憲兵中隊(&#039;&#039;compagnie&#039;&#039;)をまとめていた。近衛憲兵中隊の兵員数は120名だった。1804年は騎馬4個と徒歩2個の計6個中隊が存在し、1806年に徒歩憲兵中隊が廃止されて4個中隊となり、1813年には12個中隊にまで拡張された。<br /> <br /> :制服は熊毛帽をかぶり、黄色のチョッキの上に赤い襟返しと赤い襟と赤い袖口の濃青色コートを着て、黄色のズボンを履いていた。<br /> <br /> ; 海兵(&#039;&#039;Marins&#039;&#039;)<br /> <br /> :[[ファイル:Marins de la Garde royale napolitaine, 1812.jpg|サムネイル|282x282ピクセル|海兵]]海兵とは海軍に属す兵科であり、水兵(&#039;&#039;Matelots&#039;&#039;)と共に軍用船に乗り込んだが、船舶の操作を担当する水兵とは異なり、艦砲の砲手と艦上での白兵戦を専門とする者たちだった。近世の帆船同士の戦いでは大砲を放ちながら船体をぶつけて接舷した後に、海兵たちが斬り込んで敵乗組員を駆逐し敵艦の捕獲にまで到るケースが最も多かった。彼らは海戦時の主役であり、また敵地に上陸する際は歩兵戦力として活躍した。<br /> <br /> :[[ファイル:Napoleon Guard Marine by Bellange.jpg|サムネイル|265x265px|近衛海兵|代替文=]][[アンシャン・レジーム|旧体制時代]]の国王海軍海兵部隊は、フランス革命後の1794年に7個の歩兵半旅団に改組される形で一時消滅したが、イギリス上陸作戦が計画される中の1803年に海軍内に再び組織されて、砲手海兵(&#039;&#039;Artellerie de la Marine&#039;&#039;)の名称で4個の海兵連隊が編制される事になった。加えて皇帝近衛隊の中にも近衛海兵大隊が新設され、選抜された海兵達がその構成員となった。1805年10月に発生した[[トラファルガーの海戦]]の敗北でイギリス上陸作戦が中止されると、海兵の一部は陸軍の指揮下に移され、イギリス海軍に備えた沿岸警備を担当するようになった。ロシア遠征敗北後の1813年になると4個の海兵連隊は陸上海兵(&#039;&#039;Infanterie de Marine&#039;&#039;)と改称された後に大陸軍(グランダルメ)に組み込まれて内陸部へと従軍し、ドイツ方面の戦いに投入された彼らは[[ライプツィヒの戦い|ライプツィッヒの戦い]]などに参加した。<br /> <br /> :海兵連隊では海軍式の構成と階級が用いられており、第1連隊は8個大隊、第2連隊は10個大隊、第3連隊と第4連隊は4個大隊を擁していた。各大隊は3~4個の海兵中隊(&#039;&#039;équipage&#039;&#039;)をまとめていた。海兵中隊の人数は100~150名であり、鼓手とトランペット手の両方を持つ唯一の兵科だった。制服は青い襟返しのブルーのコートを着て青いズボンを履き、上辺を赤く縁取って前面に金色の錨マークを付けた黒い円筒帽をかぶった。<br /> <br /> == 補給部門 ==<br /> [[ファイル:Adrien Moreau Soldaten bei einer jungen Markthändlerin auf der Rast.jpg|サムネイル|平和的な購買調達]]<br /> 有名な”&#039;&#039;une armée marche sur son estomac.&#039;&#039;”(軍隊は胃で行進する)の言葉を残したナポレオンは、[[兵站]]の重要性を明確に認識していた。従軍開始時にフランス兵は食料4日分を各自所持した。また各連隊の後備大隊(&#039;&#039;bataillon de dépôt&#039;&#039;)は全兵員に行き渡る食糧8日分を保管しておりこれは緊急時にのみ消費された。ナポレオンも安定した補給が困難である事を悟っており、兵士達になるべく狩猟採集と現地調達で日々を賄うように勧めていた。狩猟採集とは家畜と収穫間近の農作物の収奪である事が多く、現地調達とは強制徴発と略奪である事が多かった。<br /> <br /> 国家から各軍(方面軍)に提供される軍需品は&#039;&#039;&#039;戦争委員&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Commiissares des guerres&#039;&#039;)が手配した。戦争委員は政府から各軍司令部に派遣されていた役人だった。軍需品は方面軍(&#039;&#039;armée)&#039;&#039;の倉庫に蓄えられて逐次運送された。まず各軍団の&#039;&#039;&#039;兵站部&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;parc&#039;&#039;)に補給物資を積んだ荷車が運び込まれて管理され、そこから配下の各師団を中継地点として、補給品の荷車が各連隊に届けられると中佐が監督する&#039;&#039;&#039;後備大隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;bataillon de dépôt&#039;&#039;)で保管運搬しつつ、各中隊の下士官(曹長と給養係伍長)による分配と配膳を経て糧秣弾薬衣料その他が兵士達に支給された。フランス軍の中で軍需品の管理保管運搬に直接携わる編制単位は軍団と連隊だった。<br /> [[ファイル:Jean Louis Théodore Géricault 008.jpg|サムネイル|民間の馬借]]<br /> 1806年までは民間の人夫を雇い軍隊に随伴させて物資全般の運搬をまかせていたが、戦利品を勝手に放棄する無責任さと運送能力に不満を募らせたナポレオンは、1807年に&#039;&#039;&#039;輜重牽引兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Train des équipages&#039;&#039;)を創設して物資運搬の専門要員とした。彼らは砲車牽引兵と似た制服を着て同等の武装をし、糧秣武器弾薬などの軍需品および戦利品と更には負傷兵の運搬も担当した。各輜重牽引兵中隊は4頭立ての荷馬車32台を持ち、軍政上の管理組織である輜重牽引兵大隊にまとめられていた。中隊は更に4個の分隊(&#039;&#039;section&#039;&#039;)に分割されて運用される事が多かった。各分隊は荷馬車8台を持ち軍曹に指揮された。1807年には8個の大隊があり各大隊は4個中隊を管理した。1812年には16個大隊に増え6個中隊を管理するようになった。だがロシア遠征でほとんどの荷馬車が失われて壊滅状態となり、1813年には4個大隊が再建されたのみとなった。皇帝近衛隊には&#039;&#039;&#039;近衛輜重牽引兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Train des équipages&#039;&#039; &#039;&#039;de la Garde impériale&#039;&#039;)の1個大隊が1811年に編制されて6個中隊を擁していた。<br /> <br /> 遠征ないし作戦開始前の兵舎生活を送る兵士に支給された食糧1日分はパン750g、ビスケット550g、肉250g、豆類60g、米穀30g、ワイン250ccだった。他によく語られるものとして、1804年にナポレオンが懸賞を掛けた食糧保存技術の公募に応えて[[ニコラ・アペール]]が発明した「[[瓶詰]]」の実用的製法があった。しかし肝心の製造ラインと特に輸送手段の確立がなかなか進まず軍隊全体への普及は遅れ気味で、1814年にようやくその目処が立った時はすでに敗戦間近だった。<br /> <br /> == 医療部門 ==<br /> 近世の医療は正しい知識が確立される以前の不完全なものであり、それはナポレオン戦争でも同様であった。戦場での治療と言えば、負傷者の身体を包帯でぐるぐるに巻いて止血し、傷口が開かないように包帯の上から革帯で固定して縫合代わりにし、泥と血にまみれた軍服を脱がせて患者衣に着替えさせ、身体に食い込んだ破片異物を摘出し、損傷して回復する見込みがない四肢を切断する事だった。苦痛とショックをやわらげる目的でアヘンもよく使われていた。アヘンは丸薬か液体瓶として携行され、負傷者に摂取させて麻酔同様の働きをした。傷口を洗浄して清潔に保つ事も行われていた。また手法は不明だが挫傷の為の治療も存在していた&lt;ref&gt;Campagne 1793-1837 de François Vigo-Roussillon, Grenadier de l&#039;Empire(Broché – 1981)&lt;/ref&gt;。<br /> [[ファイル:Antoine-Jean Gros - Bonaparte visitant les pestiférés de Jaffa.jpg|サムネイル|野戦病院]]<br /> 各連隊には&#039;&#039;&#039;軍医長&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Chirurgien-major&#039;&#039;)1名と&#039;&#039;&#039;軍医助手&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Aide-chirurgien&#039;&#039;)4~5名とその他補助員達が在籍していた。彼らは50kg以上の患者衣と10kg以上の包帯と外科道具を携行して困難な医療活動に従事した。また師団ごとに&#039;&#039;&#039;野戦病院&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;dépôt d&#039;ambulance&#039;&#039;)が設置され負傷兵はここに運ばれたが、その実態はただの負傷者置き場と変わりなかった。満員で溢れ返るようになると付近の教会に可能な限り搬送され、ここでは敵味方の国籍を問わない救命活動が行われる事が多かった。皇帝近衛隊の衛生部門(&#039;&#039;service de santé&#039;&#039;)は正規の医療関係者で占められていたが、その他の部隊では事情が異なった。[[ファイル:Ambulance of the French Army.jpg|サムネイル|救急馬車]]当時の欧州諸国の中でフランス軍の医療事情は比較的ましな方とされており、特に負傷兵の救命救護の改善に貢献した二人の人物がいた。{{仮リンク|ドミニク・ジャン・ラリー|fr|Dominique-Jean Larrey|en|Dominique Jean Larrey}}が発明した&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;救急馬車&#039;&#039;&#039;(ambulance volante)&#039;&#039;は、前線の負傷兵を迅速かつ効率的に後方の野戦病院に搬送する事を可能にした。ラリーはまた[[野戦病院]]の改善にも取り組んだ。{{仮リンク|ピエール・フランシス・パーシー|fr|Pierre-François Percy|en|Pierre-François Percy}}は逆のアプローチを取り、前線の負傷兵の下に素早く駆け付けて担架に乗せ安全な所に運ぶとその場で治療を施す&#039;&#039;&#039;移動外科&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;chirurgie mobile&#039;&#039;)を組織した。治療と言っても破片異物を取り除いて包帯でぐるぐるに巻いて止血する位だったが、これは衛生兵の元祖とも言えた。ラリーとパーシー両名の業績は他の欧米諸国をも啓発し各国の軍隊でも取り入れられる事になった。<br /> <br /> ナポレオンは負傷兵たちに最良の病院で静養出来る保証を与えた。[[傷痍軍人]]は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給が支払われ必要ならば義肢も与えられた。傷痍者となっても帰郷後の保証がある事が知れ渡ると、軍人全体の士気も盛んになり戦力の向上につながった。<br /> <br /> == 情報通信部門 ==<br /> [[ファイル:Sapeurs du Génie de la Garde impériale.jpg|サムネイル|205x205ピクセル|近衛隊の鼓手]]<br /> 楽器演奏は軍隊内で重要な役割を果たし、指示伝達の合図だけでなく規律を保ち士気を高める為の精神的効果も期待されていた。各歩兵中隊には2名の&#039;&#039;&#039;鼓手&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Tambours&#039;&#039;)が所属しドラムを鳴らして歩行ペースの調整と一斉射撃の合図をした。選抜歩兵中隊では&#039;&#039;&#039;ホルン手&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Cornets&#039;&#039;)となったが音色が不評でドラムに戻される事が多かったという。騎兵中隊には&#039;&#039;&#039;トランペット手&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Trompettes&#039;&#039;)2名が所属した。各連隊には約8名の&#039;&#039;&#039;軍楽兵&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Musiciens&#039;&#039;)が在籍したが、連隊長の裁量で20~30名規模の軍楽隊になる事もあった。<br /> <br /> 軍旗もまた部隊の位置と存在を示すだけでなく、兵士達を結束させる精神的支柱の役割を果たすものと見なされていた。1804年に[[第一帝政]]が樹立するとナポレオンは各戦闘隊形に国軍の象徴である&#039;&#039;&#039;鷲章軍旗&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;aigle&#039;&#039;)が掲げられる光景を望んで、従来の連隊だけでなく各大隊にも鷲章軍旗を授けた。しかし数の多さから戦場での喪失も目立った為に1808年以降の鷲章軍旗は各連隊に一本と定められて、各大隊は所在を示すだけの&#039;&#039;&#039;小旗&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;fanion&#039;&#039;)を持つ様になった。第1大隊が連隊旗を掲揚し、第2大隊は白色、第3大隊は赤色、第4大隊は青色、第5大隊は緑色、第6大隊は黄色の小旗を掲げた。各大隊の第2中隊が連隊旗または小旗を保有した。連隊旗の&#039;&#039;&#039;旗手&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Porte-aigle&#039;&#039;)は選抜された士官であり下士官2名がその従者となった。<br /> [[ファイル:Décret de Napoléon du 7 décembre 1805 1 - Archives Nationales - AE-II-2303.jpg|サムネイル|265x265ピクセル|当時の命令書]]<br /> 当時の遠距離通信は文書や手紙のやり取りで行われる他はなかった。近世を通して軍内の命令は馬に乗った伝令によって運ばれていた。敵方の文書を接収出来ればそれだけ作戦行動の先手を取る事が可能であり、また現地の一般的な書信からも貴重な情報を得れる事があったので、作戦地域における敵伝令の捕縛と書簡収集は重視された。連隊には&#039;&#039;&#039;郵便士官&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Vaguemestre&#039;&#039;)が在籍する事もあり占領地での文書の押収とその分析を担当した。また状況により部隊内の私信検閲を行う事もあった。他にもフランス軍は[[伝書鳩]]を大規模かつ組織的に用いて遠距離通信に役立てていた。<br /> <br /> 文書に頼らない革新的な通信手段も存在していた。観測用[[熱気球]]をいち早く実用化したフランスは、それを偵察だけでなく遠方に合図を送る用途で空に上げる事もあった。また[[腕木通信]](セマフォ)の施設も国内各所に整備されていた。ナポレオンも[[腕木通信]]に注目し、その開発者であった[[クロード・シャップ|シャップ]]の兄弟を通信監督(&#039;&#039;directeur du télégraphe&#039;&#039;)として皇帝軍事本営に一時期在籍させた事もあった。この工芸的な通信ネットワークは前線部隊と後方兵站の調整などに役立てられた。<br /> <br /> == 外国人部隊 ==<br /> [[フランス第一共和政|フランス革命政府]]は共和主義と市民社会の理念に沿わないものとして外国人傭兵部隊を廃止したが、ナポレオンは[[第一帝政]]の樹立と共にこれを復活させ、旧体制下の伝統的なスイス人傭兵部隊も呼び戻した。ナポレオンは愛国心を基にした国民軍隊を率いるのと同時に、金銭で雇った外国人部隊を用いる事にも前向きだった。皇帝近衛隊にも外国人兵士は積極採用され、愛国心とは無縁の彼らは金銭に加えて名誉欲とナポレオン個人への忠誠心を基にして戦った。自身も元は外国人であるナポレオンは、[[フランス皇帝|フランス人民の皇帝]](&#039;&#039;Empereur des Français&#039;&#039;)であり、市民革命の成果を守護する防衛機構に必要な存在であるとして外国人部隊の編制を正当化した。結果的に当時のヨーロッパに存在した国々の多くがナポレオン戦争中の様々な局面で大陸軍(グランダルメ)の一部となった。外国人部隊は同盟軍として協力するものと、フランス軍の指揮下に組み込まれたものの二つに分類された。<br /> <br /> ;ポーランド<br /> :[[ファイル:Lancer.jpg|サムネイル|237x237ピクセル|ポーランド槍騎兵]]1795年の[[ポーランド分割]]で祖国を失いフランスに亡命したポーランド軍人達が近衛軽槍騎兵第1連隊となっていた他、イタリアに亡命していたポーランド軍人達はフランス傘下の[[ナポリ王国]]に仕えて1807年にナポリ軍の一部としてプロイセン・ポーランド方面に遠征し、翌年の祖国の地において兵力6,000名からなるヴィスワ軍団(&#039;&#039;Légion de la vistule&#039;&#039;)として新編制された。1807年に成立したポーランド人の[[ワルシャワ公国]]は槍騎兵連隊2個をフランス軍に編入させる他、自国の軍団や師団を積極的に派遣して協力した。しかし[[ライプツィヒの戦い|ライプツィッヒの敗戦]]によるナポレオンの凋落でポーランド人達は再び祖国を失う事になった。また同様の事情で祖国回復を目指す[[リトアニア]]もロシア遠征に際して複数の連隊を提供し、その中の一つは近衛軽槍騎兵第3連隊となった。<br /> ;イタリア<br /> : 1803年にイタリア北部で[[ポー川]]狙撃兵(&#039;&#039;Tirailleurs du pô&#039;&#039;)大隊が組織され、後にフランス軍の軽歩兵連隊となった。ナポレオンの継子[[ウジェーヌ・ド・ボアルネ|ウジェーヌ]]が治める[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]]の軍隊、ナポレオンの義弟[[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]が治める[[ナポリ王国]]の軍隊、ナポレオンの妹[[エリザ・ボナパルト|エリザ]]が治める[[トスカーナ大公国]]の軍隊は当然の如くフランスの同盟軍となった。ナポレオンの故郷では[[コルシカ島|コルシカ]]狙撃兵(&#039;&#039;Tirailleurs corses)大隊が組織され、彼らは皇帝の従兄弟(Les Cousins de l&#039;Empereur)と呼ばれていた。&#039;&#039;<br /> ;ドイツ<br /> : 1803年にフランスが占領した[[ハノーファー|ハノーヴァー]]では、軽歩兵と軽騎兵を合わせたハノーヴァー軍団(&#039;&#039;Légion hanovrienne&#039;&#039;)が組織されフランス軍の一部となった。ナポレオンの弟[[ジェローム・ボナパルト|ジェローム]]が治める[[ヴェストファーレン王国]]は忠実な同盟軍となり多数の住民を動員してフランス軍に協力した。ナポレオンの甥っ子が治める[[ベルク公国|ベルク大公国]]も複数の連隊を提供した。ドイツ諸国の中では[[ザクセン王国]]と[[バイエルン王国]]が大きな兵力で協力し、[[ライン同盟]]諸国もそれぞれ師団や連隊をナポレオンの下に派遣して同盟軍の役割を果たしたが、[[ライプツィヒの戦い|ライプツィッヒの戦い]]で離反した。<br /> ;その他<br /> :[[ファイル:Napoleon Swiss Grenadier in 1812 by Bellange.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|スイス人傭兵]]1803年に[[アイルランド合併法|アイルランド]]からの亡命者を中心にしたアイルランド軍団(&#039;&#039;Légion irlandaise&#039;&#039;)が組織されてイギリス上陸作戦に備えたが計画は中止され、その後は一つの外国人連隊に改組された。[[アンシャン・レジーム|旧体制下]]の優秀な歩兵戦力だった[[スイス傭兵|スイス人傭兵隊]]は[[フランス革命]]時に解雇されたが、1804年にナポレオンが皇帝になると再雇用されて4個のスイス歩兵連隊がフランス軍の指揮下に入った。1805年にオーヴェルニュ遠征連隊(&#039;&#039;Régiment de la tour d’auvergne&#039;&#039;)が編制され4個連隊まで拡張し1811年に外国人連隊(&#039;&#039;Régiment étranger&#039;&#039;)と改称した。この傭兵部隊には故郷を捨てた様々な国籍の者達が集まっていた。ナポレオンの弟[[ルイ・ボナパルト|ルイ]]が治める[[ホラント王国]]が1810年に併合されると国王騎兵隊は近衛軽槍騎兵第2連隊に、国王歩兵隊は近衛擲弾兵第3連隊にそれぞれ改組された。フランスの占領下にあったポルトガルでは、1808年に9,000名の選抜兵員からなるポルトガル軍団(&#039;&#039;Légion portugaise&#039;&#039;)が組織されてヨーロッパ各地に遠征した。1809年にオーストリアからフランスに割譲された[[ダルマチア]]では1811年に4個の[[クロアチア人]]歩兵連隊が組織された。彼らは優れた[[猟兵]]と言われていた。<br /> <br /> == 階級構成 ==<br /> [[ファイル:Premiere-legion-dhonneur.jpg|サムネイル|勲章を授けるナポレオン]]<br /> 封建制度の軍隊とは異なり、ナポレオン軍での昇進は生来の身分や富でなく個人の能力と勇気で審査された。ナポレオンは ”&#039;&#039;Tout soldat français porte dans sa giberne le bâton de maréchal de France.&#039;&#039;&quot;(全てのフランス兵の背嚢には未来の[[元帥杖]]が入っている)と声明して、どの兵士も成した功績によって最高位まで昇進出来る事を示した。フランス革命前は庶民は将校になれず、名門貴族出身でないと大佐以上になれなかったのでこの違いは大きかった。ただし[[フランス革命戦争|革命戦争]]時代に見られた様な急速な昇進は無くなり長く地道な軍隊勤務履歴が必要となっている。<br /> <br /> [[フランス第一帝政]]陸軍の最高階級は師団将軍(&#039;&#039;Général de division&#039;&#039;)であった&lt;ref&gt;John R. Elting &quot;Swords Around A Throne&quot;, p124, Da Capo Press, 1997&lt;/ref&gt;。その中で特に功績を認められた者には帝国元帥、大将、軍司令官将軍の栄典ないし役職が授与された。階級ではない名誉称号である為、これらを重複して授けられた者もいた。&#039;&#039;&#039;帝国元帥&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Maréchal d’Empire)&#039;&#039;の栄典は軍功卓抜な者への表彰と、帝政樹立時に著名な古将への懐柔策として使われた。高い給与と大きな指揮権限が付与され合計26名が叙任された。&#039;&#039;&#039;大将&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Colonel général&#039;&#039;)は旧体制下では各兵科最先任の将官を意味する役職であったが&lt;ref&gt;「華麗なるナポレオン軍の軍服」134頁 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子翻訳 マール社 2014年&lt;/ref&gt;革命時に廃止された後に、第一帝政下では名誉称号として復活し専らナポレオンの取り巻きが叙任されていた。&#039;&#039;&#039;軍司令官将軍&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Général en chef commandant une armée&#039;&#039;)は方面軍(&#039;&#039;armée&#039;&#039;)の指揮権を必要に応じて与えられた役職で[[半島戦争]]などで叙任が見られた。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;師団将軍&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Général de division&#039;&#039;)は旧体制の中将(&#039;&#039;Lieutenant général&#039;&#039;)に、&#039;&#039;&#039;旅団将軍&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Général de brigade&#039;&#039;)は旧体制の少将(&#039;&#039;Maréchal de camp&#039;&#039;)に相当し、革命時の改称をナポレオンもそのまま使用した。旧体制の准将(&#039;&#039;Brigadier des armées du roi&#039;&#039;)は革命時に廃止されたままとなった。&#039;&#039;&#039;将軍副官&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Adjudant-commandant&#039;&#039;)は階級ではなく軍団、師団の管理スタッフとしての役職名であり大佐ないし中佐の者が任命された。序列は旅団将軍と大佐の間とされた。<br /> <br /> ナポレオンは1803年に、革命時に改称された半旅団(&#039;&#039;demi-brigade&#039;&#039;)を連隊(&#039;&#039;régiment&#039;&#039;)に、半旅団長(&#039;&#039;Chef de brigade&#039;&#039;)を&#039;&#039;&#039;大佐&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Colonel&#039;&#039;)に戻させ、更に革命時に廃止された&#039;&#039;&#039;中佐&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Major&#039;&#039;/又は&#039;&#039;Gros-major&#039;&#039;とも呼ばれた)を再設して各連隊に1名置くよう指示した&lt;ref&gt;Tome huitieme &quot;Correspondance de Napoleon I&quot;, p452, &quot;ttp://books.google.com/books?id=KXAPAAAAQAAJ&quot;&lt;/ref&gt;。中佐は連隊の管理と運営事務を担当した。大佐と中佐には一等、二等の等級が存在した。二等大佐(&#039;&#039;Colonel en second&#039;&#039;)は1809年の間のみ正式に階級化して特設連隊(&#039;&#039;régiment provisoire&#039;&#039;)を率いる事になった。&#039;&#039;&#039;少佐&#039;&#039;&#039;=大隊長(&#039;&#039;Chef de bataillon&#039;&#039;)を補佐する大尉は&#039;&#039;&#039;副官勤務大尉&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Capitain adjudant-major&#039;&#039;)、中尉は副官中尉(&#039;&#039;Lieutenant sous-adjudants-major&#039;&#039;)と呼ばれ、役職的立場として一つ上のランクに扱われた。&#039;&#039;&#039;准尉&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Adjudant sous-oficier&#039;&#039;)は各大隊に1名置かれて下士官達の監査役となり中佐の管理業務を補佐した。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;大尉&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Capitaine&#039;&#039;)は中隊長であり、&#039;&#039;&#039;中尉&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Lieutenant&#039;&#039;)は副中隊長だった。大尉と中尉には一等、二等の等級があり砲兵科のみ三等まであった。&#039;&#039;&#039;少尉&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Sous-lieutenant&#039;&#039;)は副中隊長の次席か連隊付き士官となった。&#039;&#039;&#039;軍曹&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Sergent&#039;&#039;)は兵士達の現場監督であり、&#039;&#039;&#039;伍長&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Caporal&#039;&#039;)はその補佐役となった。第一帝政下の伍長は旧体制の上等兵扱いから引き上げられ下士官待遇とされた。&#039;&#039;&#039;曹長&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Sergent-major&#039;&#039;)は中隊の物資全般を管理し、&#039;&#039;&#039;給養係伍長&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Caporal-fourrier&#039;&#039;)は中隊の食糧を管理した。軍需品を扱うこの両名は誠実で教養ある者が選ばれた。なお各種牽引兵中隊では曹長が中隊長となった。<br /> <br /> なお、下記表内で※が付いたものは階級ではなく役職的地位、名誉称号である。「AまたはB」のBは騎乗部隊(騎兵、騎馬砲兵、憲兵)での呼称である。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;margin-left:1em&quot;<br /> ! 大陸軍の階級 !! 現代の米陸軍で相当する階級<br /> |-<br /> |帝国元帥 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Maréchal d’Empire&#039;&#039;&#039;)}}※&lt;br/&gt;大将   {{lang|fr-Fr|(&#039;&#039;&#039;Colonel général&#039;&#039;&#039;)}}※&lt;br/&gt;軍司令官将軍 {{lang|fr-Fr|(&#039;&#039;&#039;Général en chef commandant une armée&#039;&#039;&#039;)}}※&lt;br/&gt;師団将軍 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Général de division&#039;&#039;&#039;)}} <br /> | [[大将]] {{lang|en-US|(General)}}&lt;br /&gt;[[中将]] {{lang|en-US|(Lieutenant general)}}&lt;br /&gt;[[少将]] {{lang|en-US|(Major general)}}<br /> |-<br /> |旅団将軍 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Général de brigade&#039;&#039;&#039;)}} || [[准将]] {{lang|en-US|(Brigadier general)}}<br /> |-<br /> |将軍副官 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Adjudant-commandant&#039;&#039;&#039;)}}※|| [[大佐]] {{lang|en-US|(Staff Colonel)}}<br /> |-<br /> |大佐 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Colonel&#039;&#039;&#039;)}}|| [[大佐]] {{lang|en-US|(Colonel)}}<br /> |-<br /> |二等大佐 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Colonel en second&#039;&#039;&#039;)}}※1809年のみ || [[中佐]] {{lang|en-US|(Senior lieutenant colonel)}}<br /> |-<br /> |中佐 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Major&#039;&#039;&#039;)}} || [[中佐]] {{lang|en-US|(Lieutenant Colonel)}}<br /> |-<br /> |少佐 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Chef de bataillon&#039;&#039;&#039;}} または {{lang|fr-FR|&#039;&#039;&#039;Chef d&#039;escadron&#039;&#039;&#039;)}} || [[少佐]] {{lang|en-US|(Major)}}<br /> |-<br /> |副官勤務大尉 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Capitaine adjudant-major&#039;&#039;&#039;)}}※||[[大尉]] {{lang|en-US|(Staff Captain)}}<br /> |-<br /> |大尉 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Capitaine&#039;&#039;&#039;)}} || [[大尉]] {{lang|en-US|(Captain)}}<br /> |-<br /> |中尉 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Lieutenant&#039;&#039;&#039;)}} || [[中尉]] {{lang|en-US|(First Lieutenant)}}<br /> |-<br /> |少尉 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Sous-lieutenant&#039;&#039;&#039;)}} || [[少尉]] {{lang|en-US|(Second Lieutenant)}}<br /> |-<br /> |准尉 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Adjudant sous-oficier&#039;&#039;&#039;)}} || [[准尉]] {{lang|en-US|(Warrant Officer)}}<br /> |-<br /> |曹長 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Sergent-major&#039;&#039;&#039;}} または {{lang|fr-FR|&#039;&#039;&#039;Maréchal-des-logis-major&#039;&#039;&#039;)}} || [[曹長]] {{lang|en-US|(Sergeant-Major)}}<br /> |-<br /> |軍曹 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Sergent&#039;&#039;&#039;}} または {{lang|fr-FR|&#039;&#039;&#039;Maréchal des logis&#039;&#039;&#039;)}} || [[軍曹]] {{lang|en-US|(Sergeant)}}<br /> |-<br /> |給養係伍長 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Caporal-fourrier&#039;&#039;&#039;}} または {{lang|fr-FR|&#039;&#039;&#039;Brigadier-fourrier&#039;&#039;&#039;)}} || 中隊書記 / 補給係軍曹 {{lang|en-US|(Company clerk / Supply sergeant)}}<br /> |-<br /> |伍長 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Caporal&#039;&#039;&#039;}} または {{lang|fr-FR|&#039;&#039;&#039;Brigadier&#039;&#039;&#039;)}} || [[伍長]] {{lang|en-US|(Corporal)}}<br /> |-<br /> |兵士 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Soldat&#039;&#039;&#039;)}} または騎兵 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Cavalier&#039;&#039;&#039;)}} または砲兵 {{lang|fr-FR|(&#039;&#039;&#039;Canonnier&#039;&#039;&#039;)}} || [[一等兵]] {{lang|en-US|(Private)}}<br /> |}<br /> <br /> == 戦術と戦闘隊形 ==<br /> 18世紀のヨーロッパの戦いは概して横長の長方形隊列を組んだ歩兵が互いに小銃を撃ち合い、頃合を見て銃剣突撃を仕掛けるという定形的なものだった。大砲は戦いの始めに放たれて敵を脅かし、騎兵は戦いが佳境に差し掛かった時に突入した。封建時代の軍隊の構成員は強制徴募兵と傭兵で占められていたので、モラルと責任感に欠ける彼らを複雑に操作するのは難しく、必然的に戦いはシンプルな作法で行われていた。歩兵、騎兵、砲兵の各隊が戦場に配置された後は、それぞれが前進して正面からぶつかり合うのが当時の戦いの通例だった。<br /> <br /> [[フランス革命]]で誕生した[[国民皆兵|国民皆兵軍隊]](&#039;&#039;levée en masse&#039;&#039;)は素人の集まりゆえに練度面は劣っていたものの圧倒的人数を誇り、また愛国心を持つ彼らのモラルと責任感は高かった。その特徴を生かした大量の兵士が一斉突入する群衆戦術は革命戦争の中で確立されて大きな威力を発揮した。彼らが実戦経験を積んだ後はモラルの高さゆえに複雑な隊列運動をまかせる事も可能となった為、ナポレオンはこの長所を存分に活かして高度に柔軟な陣形戦術を駆使し、固定的な戦術しか使えない封建軍隊を圧倒していった。その代表例は敵陣形の端に陽動攻撃を仕掛けるか、又は自軍の一部を囮にして敵部隊を釣り出し、敵の予備兵が出払った隙に一気に中央突破を図るというものだった。これは[[アウステルリッツの戦い]]などで用いられており戦争の芸術と称えられた。<br /> <br /> [[ファイル:Inspecting the Troops at Boulogne, 15 August 1804.png|サムネイル|戦闘隊形の集合]]<br /> <br /> 戦場の基本行動単位は&#039;&#039;&#039;[[大隊]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;bataillon&#039;&#039;)であり、その定員は1807年までは約1,000名、1808年からは約800名であったが、従軍中の消耗で実際は400~600名である事が多かった。&#039;&#039;&#039;戦闘隊形&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;formation de combat&#039;&#039;)はこの大隊ごとに組まれており、一軍の戦力は大隊の数で換算されるのが通例だった。師団は概ね8個から16個の戦闘隊形を展開する事になり、師団長が一括運用する時もあったが、大抵は左右または前後半々に分けられて双方の旅団に4個から8個の戦闘隊形の運用が分担された。連隊は地域ごとに設立される2~6個大隊の管理組織であり、戦闘時の連隊長は第1大隊と共に行動する事が多かった。旅団編制が存在せず師団長が一括運用しない時は連隊長が管理下大隊を指揮した。師団は幾何学模様的に戦闘隊形を配置し、大抵は&#039;&#039;&#039;散兵線&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Formation en tirailleur&#039;&#039;)を前面に敷き、&#039;&#039;&#039;横隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Ligne&#039;&#039;)を中央に並べて、&#039;&#039;&#039;縦隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Colonne&#039;&#039;)を両端か後方または横隊の切れ目に置いた。この布陣は&#039;&#039;&#039;混成配置&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Ordre mixte&#039;&#039;)と呼ばれた。軍団はそれら歩兵師団陣形と騎兵と砲兵の連携を行った。<br /> <br /> 「陣形」の基本要素である大隊戦闘隊形と、その部品となる中隊隊形の種類は以下の通りであった。大隊は1807年までは9個中隊、1808年からは6個中隊で構成されていた。<br /> <br /> &lt;gallery mode=&quot;packed&quot; widths=&quot;200&quot; heights=&quot;120&quot;&gt;<br /> ファイル:Hohenfriedeberg - Attack of Prussian Infantry - 1745.jpg|横隊<br /> ファイル:Butler Lady Quatre Bras 1815.jpg|方陣<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> ; 戦列歩兵中隊の隊形<br /> : 横幅30~40名が前後三列に並ぶのが基本だった。横幅15~20名の&#039;&#039;&#039;分隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;section&#039;&#039;)2個が左右に並ぶ形で構成されたので真ん中から分かれる事も出来た。従軍中の消耗で実際の横幅はこれより少ない事が多かった。また戦場をピンポイントで移動する時は横幅3名位の縦隊になる事があった。<br /> ; 戦列歩兵大隊の戦闘隊形<br /> : &#039;&#039;&#039;横隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Ligne&#039;&#039;)<br /> :: 各中隊を横一列に並べたもので一斉射撃用の隊形だった。右端は擲弾兵中隊だった。左端の選抜歩兵中隊が前方に展開して散兵線を敷く事もあった。<br /> : &#039;&#039;&#039;分団縦隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Colonne par division&#039;&#039;)<br /> :: 中隊2個を繋げた&#039;&#039;&#039;分団&#039;&#039;&#039;=分大隊(&#039;&#039;division)&#039;&#039;を前後4列または3列(1808年以降)に並べたもので銃剣突撃用の隊形だった。当時の’’&#039;&#039;division&#039;&#039;’’には師団と分団の二つの意味があった。擲弾兵中隊は最前列の右だった。選抜歩兵中隊は最後列の左だったが縦隊の前面に出て散兵線となる事もあった。散兵線を前衛にしたものは&#039;&#039;&#039;攻撃縦隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Colonne d&#039;attaque)と呼ばれた。&#039;&#039;各分団の前後間隔は列を詰めるもの(&#039;&#039;serrée&#039;&#039;)と一定の距離を空けるもの(&#039;&#039;à distance&#039;&#039;)のニつがあった。<br /> : &#039;&#039;&#039;中隊縦隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Colonne par peloton&#039;&#039;)<br /> :: 各中隊を縦一列に並べたものでこれも銃剣突撃用の隊形であり、狭い地形や都市ないし城塞への突入時に用いられた。’’&#039;&#039;peloton’’&#039;&#039;は欠員無しの完全中隊を意味した。擲弾兵中隊が先頭で選抜歩兵中隊が最後尾となり、大抵は前後の間隔を詰めて並んでいた。<br /> : &#039;&#039;&#039;方陣&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Carré&#039;&#039;)<br /> :: 各中隊を正方形ないし長方形の四辺となるように並べたもので騎兵に対する防御用隊形だった。6個中隊の時は前辺に2個、後辺に2個、左辺に1個、右辺に1個のように配置された。<br /> <br /> ; 軽歩兵中隊の隊形<br /> : 各兵士が広い間隔を取って横幅10~13名の前後三列に並ぶ&#039;&#039;&#039;分隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;section&#039;&#039;)3個を、左と中央と右に並べるのが基本だった。平地では左右分隊がやや前進してその三列が交互に入れ替わりつつ狙撃を行い、銃剣を構える中央分隊は緊急時の集結地点を示す控えとなった。森林や起伏のある地形では各分隊の位置を保ちながら流動的に進んだ。これは&#039;&#039;&#039;散兵線&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Formation en tirailleur&#039;&#039;)の基本要素となった。<br /> ; 軽歩兵大隊の戦闘隊形<br /> : &#039;&#039;&#039;分団縦隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Colonne par division&#039;&#039;)<br /> :: 軽歩兵中隊2個を繋げた[[散兵|散兵線]]を前後4層または3層(1808年以降)に配置した。戦列歩兵大隊の横隊二つ分の横幅をカバー出来る浅めの&#039;&#039;&#039;散兵線&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Formation en tirailleur&#039;&#039;)を形成した。<br /> : &#039;&#039;&#039;中隊縦隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Colonne par peloton&#039;&#039;)<br /> :: 軽歩兵中隊の[[散兵|散兵線]]を前後9層または6層(1808年以降)に配置した。横隊を組んだ戦列歩兵大隊の横幅をカバー出来る深めの&#039;&#039;&#039;散兵線&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Formation en tirailleur&#039;&#039;)を形成した。<br /> <br /> &lt;gallery mode=&quot;packed&quot; widths=&quot;200&quot; heights=&quot;160&quot;&gt;<br /> ファイル:Detaille 4th French hussar at Friedland.jpg<br /> ファイル:Grenadiers à cheval de la Garde impériale avant la charge.jpg<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> ; 騎兵中隊の隊形<br /> : 横幅30~40名の騎兵が前後二列に並ぶのが基本だった。横幅15~20名の&#039;&#039;&#039;分隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;section&#039;&#039;)が左右に並ぶ形で構成されたので真ん中から分かれる事も出来た。ピンポイントで進む時は隊列の真ん中から折れた逆V字型の両翼を閉じるようにして横幅四名の縦隊となった。また分隊が前後に並ぶ事もあった。それらに加えて軽騎兵中隊は、斥侯や遊撃などの任務に応じて一定の集合を保ちつつも臨機応変に動く&#039;&#039;&#039;解放態勢&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Ordre lâche&#039;&#039;)を取る事が多かった。<br /> ; 騎兵大隊の戦闘隊形<br /> : &#039;&#039;&#039;横隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Ligne&#039;&#039;)<br /> :: 2個の騎兵中隊を左右に並べた。<br /> : &#039;&#039;&#039;縦隊&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Colonne&#039;&#039;)<br /> :: 2個の騎兵中隊を前後に並べた。<br /> <br /> == 戦歴 ==<br /> {{main|ナポレオン戦争}}<br /> [[ファイル:Jacques-Louis David, The Coronation of Napoleon edit.jpg|サムネイル|皇帝ナポレオン]]<br /> 1803年、ヨーロッパ大陸内における英仏間の貿易上の対立などの要因からイギリスは[[アミアンの和約]]を破棄してフランスに宣戦布告した。革命の波及を警戒する他のヨーロッパ諸国もまたフランスを公然と敵視しており、1804年5月の膨張主義を伴う[[フランス第一帝政]]の樹立と、同年12月のナポレオンの戴冠式によって国際間の緊張は再び高まり始めていた。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;第三次対仏大同盟(1805)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> イギリス征服を企図したナポレオンは[[ドーバー海峡]]に面した[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に総勢18万を数える軍勢を集結させていた。それに対抗してイギリスは1805年4月にオーストリア、ロシアと共に[[第三次対仏大同盟]]を結成した。イギリス上陸作戦が実は困難な事を悟ったナポレオンは、9月から矛先をオーストリアに変えてドイツ南部に進軍し10月の[[ウルムの戦い]]を経て11月に首都ウィーンを占領した。翌12月にナポレオンは[[アウステルリッツの戦い|アウステルリッツ]]の地でオーストリア=ロシア連合軍を破り、オーストリアに[[プレスブルクの和約]]を調印させて戦争に勝利した。翌1806年にオーストリアを宗主とする[[神聖ローマ帝国]]は解体され、代わりにフランスを盟主とする[[ライン同盟]]がドイツ圏に誕生した。更にナポレオンは同年11月にイギリスとの貿易を禁止し、フランス国内業者に取引を独占させる事になる[[大陸封鎖令]]を発令しヨーロッパ諸国に参加を強制した。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;第四次対仏大同盟(1806 - 1807)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> ナポレオンを危険視したプロイセンは1806年10月、ロシアと共に[[第四次対仏大同盟]]を結成した。直ちに出征したナポレオンは[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を撃破した。続くポーランド方面の冬季遠征では苦戦するが、翌1807年5月にプロイセン軍を降服させ、6月の[[フリートラントの戦い]]でもロシア軍を撃破した。その後の[[ティルジットの和約|ティルジット条約]]でロシア、プロイセン両国と講和し、先の[[大陸封鎖令]]にも参加させた。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;スペイン半島戦争(1808 - 1814)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> 1807年10月、ナポレオンは親仏派であるスペインの[[マヌエル・デ・ゴドイ|ゴドイ]]政権と[[フォンテーヌブロー条約 (1807年)|フォンテーヌブロー条約]]を結び、[[大陸封鎖令]]を拒否するポルトガル占領の同意と、スペイン領内のフランス軍通過の合意を得た後に遠征を開始し、12月にポルトガルを制圧した。だがその後も様々な口実でスペイン各地に軍を進駐させた事から反仏感情が高まり、1808年3月の政変でナポレオンに忠実な[[マヌエル・デ・ゴドイ|ゴドイ]]政権が倒されるに到った。するとナポレオンはスペイン王家を追放して5月に自身の兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]を王位に据えた。フランスの占領に反対するスペイン民衆は全土で蜂起して[[ゲリラ]]の語源となると共に、凄惨な[[半島戦争]]が始まった。7月に起きたフランス軍の[[バイレンの戦い|衝撃的な敗北]]で新王ジョゼフは逃亡を余儀なくされた。ポルトガルでも反乱が起きており、これを契機と見たイギリスは8月に[[イベリア半島]]へ軍勢を上陸させた。英葡西の三軍は各地でフランス軍の撃退に成功し、戦況が悪化した事から11月にナポレオンはスペインへの親征に踏み切った。12月に首都マドリードを占領して兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]をスペイン王に復帰させ、翌1809年1月にナポレオン自身はフランスに帰国した。しかしイギリス軍に支援されたスペイン人は頑強に抵抗して戦いは泥沼化し、半島戦争はそのまま長期化して1814年夏にスペインから追い出されるまでフランスを消耗させ続ける事になった。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;第五次対仏大同盟(1809)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> [[半島戦争]]でのフランスのつまづきを見たオーストリアは再度の挑戦を決意して1809年4月にイギリスと[[第五次対仏大同盟]]を結成した。オーストリア軍はドイツとイタリアで急速な軍事作戦を展開し、それに応じてナポレオンも反撃を開始するが、5月に発生した[[アスペルン・エスリンクの戦い]]で始めて一敗地に塗れる事になった。だが7月の[[ヴァグラムの戦い|ワグラムの戦い]]で勝利した事から、オーストリアは意気消沈して停戦への運びとなり、10月の[[シェーンブルンの和約]]でオーストリアは巨額の賠償金と領土割譲を課せられ[[大陸封鎖令]]の遵守も確約させられた。この頃がナポレオン帝国の絶頂期であり、その後二年間のヨーロッパ大陸はスペインを除いて平穏な状態が続いた。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ロシア遠征(1812)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> [[大陸封鎖令]]による貿易の不自由と経済の悪化でヨーロッパ諸国の不満は高まり、1810年にロシアが離脱を表明してイギリスとの貿易を再開した。これを認めないナポレオンは主にドイツ圏の外国人が4割を占める総勢60万の巨大な多国籍軍を編制し、1812年6月からロシア遠征を開始した。ロシアはナポレオンをひたすら自国の荒野に引きずり込んで疲弊させていく[[焦土作戦]]を展開して侵攻するフランス軍を大きく消耗させた。9月の[[ボロジノの戦い|ボロディノの戦い]]の後に首都モスクワに到着したが、そこももぬけの殻で食糧と物資の欠乏に更に苦しむ事になった。ナポレオンはロシアとの講和を探ったが無駄に終わり10月から退却を開始した。この退却行は苦心惨憺を極め、過酷な極寒と執拗な追撃で多数の兵士が失われて総勢60万のうち生還出来たのは2万名ほどだった。フランスは壊滅的な大敗北を喫した。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;第六次対仏大同盟(1813 - 1814)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> ナポレオンのロシア遠征惨敗とスペインでの敗色を好機と見たプロイセンは、1813年3月にロシアと[[第六次対仏大同盟]]を結成しフランスへ宣戦するが、素早く軍隊を再建したナポレオンの反撃に手を焼いて6月に一時休戦した。同じく6月にスペインでは英葡西の三軍がフランス軍を敗走させ、7月には仏西国境の[[ピレネー山脈]]を越える勢いだった。同時にスウェーデンもフランスに宣戦した。ナポレオンは対仏同盟諸国との講和を求めるが決裂し、[[ライン同盟]]諸国も次々とフランスから離反して[[大陸封鎖令]]も有名無実化された。8月にはオーストリアも宣戦して総勢45万を数える対仏同盟軍が一斉にドイツ方面から攻撃を開始した。同盟軍はナポレオンとの対決を避けて周囲の軍を叩く作戦を取った為に、ナポレオン自身は敗北しないままフランス軍は次第に消耗し追い詰められていった。10月、[[ライプツィヒの戦い|ライプツィヒ]]で史上最大規模の決戦が行われてフランス軍は大敗しドイツから完全撤退した。<br /> <br /> 1814年はフランス本土の防衛戦となり、南から英葡西連合軍が、東から普露奥瑞の四軍がフランス国内に殺到し、3月には首都パリが包囲された。ナポレオンは徹底抗戦を望んだが部下達に退位を迫られて4月に降服した。[[フォンテーヌブロー条約 (1814年)|フォンテーヌブロー条約]]に従いナポレオンは[[エルバ島]]に追放され、ルイ18世が帰還して王政復古となり5月の[[パリ条約 (1814年)|パリ条約]]で諸外国と講和した。9月からヨーロッパ諸国の間で[[ウィーン会議]]が開かれ戦後の領土分割が協議されたが、各国の利害が対立してまとまる気配を見せなかった。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;第七次対仏大同盟(1815)&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> 1815年2月、ルイ18世に対する国民の不満と[[ウィーン会議]]の混迷を好機と見たナポレオンは[[エルバ島]]を脱出して3月にパリへ到着し、特に軍人達に迎えられて皇帝の座に返り咲いた。ルイ18世は国外に逃亡した。驚いたウィーン会議中の諸国は急いで妥協案を成立させると[[第七次対仏大同盟|第七次対大同盟]]を結成し、ナポレオンを法の外に置く旨を宣言した。戦争は不可避となり、兵力で劣るナポレオンは対仏同盟諸国の合流前に各個撃破する作戦を立て、まずベルギー方面にいるイギリス軍とプロイセン軍の攻撃に向かった。しかし6月の[[ワーテルローの戦い]]で敗北した事で再び退位に追い込まれ、11月の[[第二次パリ条約]]の締結でナポレオン戦争は幕を閉じた。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;!--The referencing mechanism used on this page is explained at [[m:Cite/Cite.php]].--&gt;<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;<br /> &lt;references /&gt;<br /> &lt;/div style=&quot;font-size: full&quot;&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * Mas, M.A. M. &#039;&#039;La Grande Armee: Introduction to Napoleon’s Army&#039;&#039;. 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(https://archive.is/20121220114621/http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM)<br /> * &#039;&#039;Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 3 - Cavalry - Line, National Guard, Irregular, &amp; Coastal Artillery, Artillery &amp; Supply Train, and Balloon Companies.&#039;&#039;, Nafziger, George. 127 pages. <br /> * &#039;&#039;Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 4 - Imperial Guard&#039;&#039;, Nafziger, George. 141 pages. (https://archive.is/20121220114621/http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM)<br /> * &#039;&#039;1812: Napoleon&#039;s Fatal March on Moscow&#039;&#039;, [[Adam Zamoyski]], ISBN 0007123752<br /> * &#039;&#039;Blundering to Glory: Napoleon&#039;s Military Campaigns (2nd edition)&#039;&#039; Owen Connelly. 254 pages. 1999. ISBN 0842027807<br /> * &#039;&#039;Napoleon on the Art of War&#039;&#039;, Jay Luvaas. 196 pages. 1999. 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