Warning: Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297

Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660

Warning: session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127

Warning: session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133

Warning: session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=124.39.100.132&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-02T16:22:55Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 イングリッド・バーグマン 2018-09-19T12:03:57Z <p>124.39.100.132: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{ActorActress<br /> | 芸名 = イングリッド・バーグマン<br /> | 画像ファイル = Ingrid Bergman in Casablanca trailer(3).jpg<br /> | 画像サイズ = 250<br /> | 画像コメント = 『[[カサブランカ (映画)|カサブランカ]]』のバーグマン、1942年<br /> | 本名 = Ingrid Bergman<br /> | 出生地 = {{SWE}} [[ストックホルム]]<br /> | 死没地 = {{ENG}} [[ロンドン]] [[ケンジントン・アンド・チェルシー区]] [[チェルシー (ロンドン)|チェルシー]]チェイニー・ガーデンズ ([[:en:Cheyne Wark|en]]) 9番地&lt;ref&gt;[https://www.theresident.co.uk/homes-interiors/vintage-hollywood-stars-homes-sale/ HOLLYWOOD STARS&#039; HOMES FOR SALE] The Resident 29/4 2015&lt;/ref&gt;<br /> | 国籍 = {{SWE}}<br /> | 民族 = <br /> | 身長 =<br /> | 血液型 = <br /> | 生年 = 1915<br /> | 生月 = 8<br /> | 生日 = 29<br /> | 没年 = 1982<br /> | 没月 = 8<br /> | 没日 = 29<br /> | 職業 = [[俳優|女優]]<br /> | ジャンル = <br /> | 活動期間 = 1932年 - 1982年<br /> | 活動内容 = <br /> | 配偶者 = ペッテル・リンドストローム(1937年 - 1950年)&lt;br /&gt;[[ロベルト・ロッセリーニ]](1950年 - 1957年)&lt;br /&gt;ラルス・シュミット(1958年 - 1978年)<br /> | 著名な家族 = [[ピア・リンドストローム]]&lt;br /&gt;ロベルティーノ・ロッセリーニ&lt;br /&gt;[[イザベラ・ロッセリーニ]]&lt;br /&gt;イゾッタ・イングリッド・ロッセリーニ<br /> | 事務所 =<br /> | 公式サイト =<br /> | 主な作品 =&#039;&#039;&#039;映画&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;『[[別離 (1939年の映画)|別離]]』&lt;br&gt;『[[誰が為に鐘は鳴る]]』&lt;br&gt;『[[ガス燈 (映画)|ガス燈]]』&lt;br&gt;『[[オリエント急行殺人事件 (1974年の映画)|オリエント急行殺人事件]]』&lt;br /&gt;『[[秋のソナタ]]』<br /> | アカデミー賞 = &#039;&#039;&#039;[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;[[第17回アカデミー賞|1944年]]『ガス燈』&lt;br /&gt;[[第29回アカデミー賞|1956年]]『追想』&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;[[アカデミー助演女優賞|助演女優賞]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;[[第47回アカデミー賞|1974年]]『オリエント急行殺人事件』<br /> | 英国アカデミー賞 = &#039;&#039;&#039;[[英国アカデミー賞 助演女優賞|助演女優賞]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;1974年『オリエント急行殺人事件』<br /> | ゴールデングローブ賞 = &#039;&#039;&#039;女優賞&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;[[第2回ゴールデングローブ賞|1944年]]『ガス燈』&lt;br /&gt;[[第3回ゴールデングローブ賞|1945年]]『[[聖メリーの鐘]]』&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;1956年『追想』<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;イングリッド・バーグマン&#039;&#039;&#039;({{lang-sv-short|Ingrid Bergman}}, [[1915年]][[8月29日]] - [[1982年]][[8月29日]])は、[[ヨーロッパ]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で活躍した[[スウェーデン]]出身の[[俳優|女優]]&lt;ref name=&quot;WVobit&quot;&gt;Obituary &#039;&#039;Variety Obituaries&#039;&#039;, 1982-9-1.&lt;/ref&gt;。{{lang|sv|Ingrid Bergman}} は[[スウェーデン語]]では&#039;&#039;&#039;インリド・ベリマン&#039;&#039;&#039; [ˈɪŋːrɪd ˈbærjman] &lt;ref&gt;{{cite web |url=http://ja.forvo.com/search/Bergman/ |title=Bergmanの発音 ( Bergman から Ingrid Bergman  へ) |publisher=Forvo |accessdate=2016-6-10}}&lt;/ref&gt;と発音される。<br /> <br /> == 業績 ==<br /> [[アカデミー賞]]を3回、[[エミー賞]]を2回、[[トニー賞]]の[[トニー賞 演劇主演女優賞|演劇主演女優賞]]の受賞経験があり、AFI([[アメリカ映画協会]])選定の「[[映画スターベスト100]]」の女優部門では第4位となっている。バーグマンが演じた役でもっとも有名な役と言われているのが、[[ハンフリー・ボガート]]と共演した『[[カサブランカ (映画)|カサブランカ]]』(1942年)のイルザ・ラント役と[[ケーリー・グラント]]と共演した『[[汚名]]』(1946年)のアリシア・ヒューバーマン役である&lt;ref&gt;<br /> {{cite web<br /> |url=http://www.afi.com/tvevents/100years/stars.aspx<br /> |title=AFI&#039;s 100 Years...100 Stars<br /> |work=American Film Institute<br /> |accessdate=2006-10-23<br /> |archiveurl=http://web.archive.org/web/20061020084914/http://www.afi.com/tvevents/100years/stars.aspx<br /> |archivedate=2006-10-20<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> バーグマンはアメリカで女優として成功をおさめる以前から、スウェーデンでは名を知られた女優だった。バーグマンがアメリカ映画に初出演したのは、スウェーデン映画の『間奏曲』をリメイクした『[[別離 (1939年の映画)|別離]]』(1939年)である。その際立った美貌と知性でアメリカ映画に「北欧からの瑞々しい息吹」を吹き込んだバーグマンは、すぐさま「アメリカ人女性の理想」となり[[ハリウッド]]を代表する女優の一人となったと『ポピュラーカルチャー百科事典』([[:en:St. James Encyclopedia of Popular Culture]])に記されている&lt;ref name=James&gt;&#039;&#039;St. James Encyclopedia of Popular Culture&#039;&#039;, St. James Press, Gale Publishing (2000)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 映画監督[[ヴィクター・フレミング]]がリメイクした映画『[[ジキル博士とハイド氏 (1941年の映画)|ジキル博士とハイド氏]]』(1941年)に出演したバーグマンは、後に自身をハリウッドへ招くことになる[[映画プロデューサー]]の[[デヴィッド・O・セルズニック]]に認められた。セルズニックはバーグマンのことを、今までともに仕事をしてきた中で「もっとも完成された誠実な女優」と評価している。セルズニックはバーグマンに7年間の出演契約を提示し、その後の女優活動をプロデューサーとして支えていくことになる。バーグマンがセルズニックとは無関係に出演した映画には『カサブランカ』(1942年)、『[[誰が為に鐘は鳴る]]』(1943年)、『[[ガス燈 (映画)|ガス燈]]』(1944年)、『[[聖メリーの鐘]]』(1945年)『汚名』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)があり、独立系映画としては『[[ジャンヌ・ダーク]]』(1948年)がある。<br /> <br /> ハリウッド進出以来、10年間にわたってアメリカでスター女優の地位を守り続けたバーグマンは、1950年に[[ロベルト・ロッセリーニ]]が監督するイタリア映画『ストロンボリ/神の土地』に主演した。この作品がきっかけとなり、バーグマンとロッセリーニはともに既婚者であったにも関わらず、不倫関係を持つようになる。この不倫関係とその後の二人の結婚は大きなスキャンダルとなり、バーグマンはその後の数年間アメリカに戻ることができなくなった。1956年の『[[追想 (1956年の映画)|追想]]』でハリウッドに復帰したバーグマンは、この映画で[[アカデミー主演女優賞]]を受賞するとともに、旧来のファンもバーグマンを許したといわれている。バーグマンに関する私生活や映画関連の文献は、[[ウェズリアン大学]]のシネマ・アーカイブが多く所蔵している&lt;ref&gt;[http://www.wesleyan.edu/cinema/collections/bergman.htm バーグマン・アーカイブ]、ウェズリアン大学&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 前半生(1915年 - 1938年) ==<br /> [[file:Ingrid Bergman at age 14.jpg|right|thumb|200px|14歳のバーグマン。]]<br /> バーグマンは1915年8月29日にスウェーデンの[[ストックホルム]]で生まれ、スウェーデン王女[[イングリッド・アヴ・スヴェーリエ]]にちなんでイングリッドと名付けられた。父親は[[スウェーデン人]]ユタス・ベリマン(「バーグマン」は「ベリマン」の英語読み)で、母親は[[ドイツ人]]フリーデル・アドラー・ベリマンである&lt;ref name=Chandler&gt;<br /> {{cite book<br /> |author=Chandler, Charlotte<br /> |title=Ingrid: Ingrid Bergman, A Personal Biography|publisher=Simon &amp; Schuster<br /> |year=2007<br /> |location=New York<br /> |isbn=0-7432-9421-1<br /> |pages=21; 294<br /> }}&lt;/ref&gt;。バーグマンは3歳のときに母親を、13歳のときに芸術家・カメラマンだった父親を失った。生前の父親はバーグマンがオペラ歌手になることを望んでいたため、バーグマンは3年間声楽を学んでいる。しかしながら「最初から女優の道に進むことを夢見ていた」バーグマンは、誰もいない父親の写真スタジオで亡き母のドレスを身にまとって一人芝居を演じることもあった。バーグマンの父親は死去するまで、誕生日には毎年バーグマンの写真を撮影していた&lt;ref name=LifeMag/&gt;。<br /> <br /> [[file:Bergman first role.jpg|right|thumb|200px|バーグマンが初めて出演した映画『ムンクブローの伯爵』より。1934年に撮られた写真で、当時のバーグマンは19歳だった。]]<br /> 父親の死後バーグマンは叔母に引取られたが、この叔母も心臓合併症のために6カ月後に死去してしまう。そしてバーグマンは5人の子持ちの叔母フルダと叔父オットー夫妻の家に身を寄せた。バーグマンにはエルザ・アドラーという名前の叔母もおり、この叔母が11歳のバーグマンに生母フリーデルにはおそらく「ユダヤ人の血が混じっている」ことを最初に告げた人物である。ただし父ユストは結婚前からこのことを知っていた。エルザは、バーグマンがもしこの血筋を他人に話すようなことがあれば「ちょっと厄介なことになるかもしれない」と忠告している&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|294}}。<br /> <br /> バーグマンは17歳のときに、ストックホルムの王立ドラマ劇場 ([[:en:Royal Dramatic Theatre]]) の役者になるためのオーディション参加を一度だけ許可された&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|30–31}}。バーグマンはこのときのオーディションの様子を次のように回想している。<br /> {{Quotation|<br /> オーディションが終わってステージを去るときの私は、自分の葬式に参列しているような心境でした。女優になるという夢が破れ、心は張り裂けんばかり。私の台詞回しも芝居もそれはひどいものだったのです。<br /> }}<br /> しかしながら、このバーグマンの落胆は尚早だった。後にこのオーディションの審査員の一人がバーグマンのもとを訪れ、審査員たちがバーグマンの演技をどのように評価したのかを伝えた。<br /> <br /> {{Quotation|<br /> 私たちは貴女の一見傍若無人にも見える落ち着き振りに感銘を受けました。貴女個人も話しぶりも素晴らしい。これ以上何十人ものオーディションを実施するのは時間の無駄です。貴女には天賦の才があります。将来素晴らしい女優になることでしょう&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|31–33}}。<br /> }}<br /> オーディションに合格したバーグマンは国からの奨学金を受け、王立ドラマ劇場付属の演劇学校へ入学した。この演劇学校は、数年前まで[[グレタ・ガルボ]]が同じような奨学金を得て学んでいた学校でもあった。バーグマンは入学した数カ月後に、ジークフリード・シーウェルツの戯曲『犯罪 ({{lang|sv|Ett Brott}})』に出演している。しかしながらこのバーグマンの行動は、演劇学校の「慣例とは全く相容れない」ものだった。この演劇学校では、少なくとも3年間演技を学んでからでないと外部の作品に出演してはならないという不文律があったためである&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|33}}。バーグマンは最初の夏休みにも映画スタジオからの仕事を受けた。そして一年後に、映画女優に専念するために通っていた演劇学校を退学した。退学後にバーグマンが得た最初の出演作は1935年に公開された『ムンクブローの伯爵』である(1932年の映画『{{lang|sv|Landskamp}}』でエキストラとしての出演経験はあった)。その後バーグマンは、1941年に[[ジョーン・クロフォード]]主演で『[[女の顔 (1941年の映画)|女の顔]]』という題名でリメイクされることになる『女の顔 ([[:sv:En kvinnas ansikte]])』(1938年)の主役アンナ・ホルムを始め、12本のスウェーデン映画に出演したほか、ドイツ映画の『4人の仲間 ([[:de:Die 4 Gesellen]])』(1938年)にも出演している。<br /> <br /> == ハリウッド時代、1939年 - 1949年 ==<br /> === 『別離』(1939年) ===<br /> バーグマンが初めてアメリカに渡ったのは1939年のことで、アメリカ映画『[[別離 (1939年の映画)|別離]]』(1939年)に出演するためだった。『別離』はバーグマンが主演した1936年のスウェーデン映画『間奏曲』の英語版リメイク作品で、[[ハリウッド]]の映画プロデューサーの[[デヴィッド・O・セルズニック]]が、バーグマンをハリウッドに招いて製作した映画である。この映画でのバーグマンの役は、[[レスリー・ハワード]]演じる名ヴァイオリニストのピアノ伴奏者で、妻子あるこのヴァイオリニストとの恋愛関係に落ちていくというものだった。自身が英語をろくに話すことができないことと、アメリカの観客からの受けも不明瞭だったため、バーグマンはアメリカで出演する映画は『別離』が最初で最後で、すぐにスウェーデンに戻るものと思い込んでいた。バーグマンの夫の医師ペッテル・リンドストロームはスウェーデンに残っており、1938年に生まれた一人娘である[[ピア・リンドストローム|ピア]]とともにバーグマンの帰国を待っていたという背景もあった&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|63}}。<br /> <br /> 『別離』の撮影のためにバーグマンは1939年5月6日に[[ロサンゼルス]]へ到着し、宿泊先が見つかるまでセルズニックの家に滞在した。当時まだ子供だったセルズニックの息子ダニーは、セルズニックがバーグマンについて「英語が話せない、背が高すぎる、名前があまりにドイツ風だし眉も太すぎる」という欠点を挙げていたと語っている。しかしながら、このようなセルズニックの懸念は外れ、バーグマンは外見も名前も変えることなく、すぐにアメリカの観客たちに受け入れられた&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|6}}。『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌はバーグマンの特集記事で「彼(セルズニック)が彼女(バーグマン)を成功へと導いた」と指摘している。セルズニックはバーグマンが、どこの誰だか分からなくなるくらいに厚化粧を施すハリウッドの[[メイクアップアーティスト]]たちに恐怖心を抱いていることを知っており、バーグマンのことを「そっとしておくように指示」した。またセルズニックはバーグマンが持つ天性の美貌が「人工的に飾り立てた」ハリウッドの女優たちに勝るとも劣らないことも確信していた&lt;ref name=LifeMag/&gt;。当時のセルズニックは『別離』と並行して『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』の製作も手がけていた。このときにセルズニックは広報担当のウィリアム・ハーバートに、バーグマンの印象を綴った書簡を送っている。<br /> <br /> {{Quotation|<br /> バーグマンは今まで私がともに仕事をした中で、もっとも優れて誠実な女優だ。何も考えていないように見えるかもしれないが、その仕事ぶりには文句のつけようがない。撮影スタジオを離れることもほとんどなく、彼女の控え室は撮影の間中そこで暮らすことができるんじゃないかと思うくらいに整えられている。彼女は午後6時になると同時に仕事をやめてしまうような女優じゃない。『風と共に去りぬ』には4人の映画スターが出演していて、みんな最上級の控え室を占有しているから、彼女にはもっと小さな控え室しか用意できなかった。それでも彼女は今までこんなに豪華な控え室は初めてだといって大喜びだったよ。まったく気取ったところのない稀有な女優だから、彼女を売り出すときには重々しさを付け加えるようにすべきだね。生来の美しさ、思慮深さ、誠実さは、彼女を伝説的な女優にすることだろう。さらに、このうえなく清らかな性格と容貌が、私に彼女との契約を決心させた理由だ&lt;ref name=Selznick&gt;Selznick, David O. &#039;&#039;Memo from David O. Selznick&#039;&#039;, Selected and edited by Rudy Behlmer, Viking Press (1972), in letter dated 22 June 1939&lt;/ref&gt;{{rp|135–136}}。<br /> }}<br /> [[File:Ingrid Bergman in Dr. Jekyll and Mr. Hyde Trailer(3).jpg|right|thumb|250px|『[[ジキル博士とハイド氏 (1941年の映画)|ジキル博士とハイド氏]]』の予告編より。1941年。]]<br /> 『別離』は大きな興行的成功を収め、バーグマンは一躍人気女優となった。『ライフ』誌の特集記事によると、監督のグレゴリー・ラトフ ([[:en:Gregory Ratoff]]) はバーグマンを「まったく驚くべき」女優であると評した。さらに『ライフ』誌には、撮影現場の作業員たちがバーグマンのためならば自身の仕事を後回しにしかねないほどに心酔し、さらに共演者やスタッフも「すぐに(バーグマンに)信頼を寄せるようになり、彼女の演技の方向性や台詞まわしに細心の注意を払うようになった」と記されている&lt;ref name=LifeMag/&gt;。イギリス人映画評論家ディヴィッド・トムソン ([[:en:David Thomson (film critic)]]) はバーグマンが「大きな衝撃をハリウッドとアメリカに与えた」とし、化粧っ気のないその容貌が「気高い雰囲気」づくりに貢献したと指摘している。『ライフ』誌には、バーグマンがハリウッド映画に出演してからは、背が高く(バーグマンの身長は約175cm)&lt;ref&gt;{{IMDb name|id=0000006|name=Ingrid Bergman|section=bio}}&lt;/ref&gt;「栗色の髪と青い目を持つ女性は、極度に内気ではあるけれど、内心は親しみやすく温かで、誠実かつ控えめな笑顔の持ち主」という一般的な印象を持たせるまでになったと記されている&lt;ref name=LifeMag/&gt;。セルズニックはバーグマンの独自性を高く評価し、その妻アイリーン ([[:en:Irene Selznick]]) とともに、女優バーグマンの全キャリアに渡ってかけがえのない友人となっていった&lt;ref name=Thomson/&gt;{{rp|76}}。<br /> <br /> === 『カサブランカ』(1942年) ===<br /> [[File:Ingridbergman casa.jpg|right|thumb|250px|[[ハンフリー・ボガート]]と共演した『[[カサブランカ (映画)|カサブランカ]]。1942年。]]<br /> [[第二次世界大戦]]が勃発したときにバーグマンは、ドイツで『4人の仲間 ({{lang|de|Die vier Gesellen}})』に出演したことを「間違った選択だったと自責の念にかられ」るようになった。バーグマンの伝記作家の一人シャーロット・チャンドラーは2007年の著書で、バーグマンは[[ナチズム|ナチス]]を「一過性の異常な状態で、まじめに受け止めるにはあまりに馬鹿げている」と考えており、ドイツが戦争を始めることはありえず「ドイツの良識派が戦争を容認するはずがない」と信じていたとしている。さらにチャンドラーは「イングリッドは終戦時にドイツにいたことについて生涯にわたって罪悪感を感じており、ナチスの[[絶滅収容所]]を誰かと訪れることに恐怖感を抱き続けていた」と書いている&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|293–295}}。<br /> <br /> スウェーデンで最後の映画に出演した後、1941年にバーグマンは『四人の息子』、『天国の怒り』、『[[ジキル博士とハイド氏 (1941年の映画)|ジキル博士とハイド氏]]』の3本のアメリカ映画に出演し、どの作品も大きな成功を収めた。翌1942年には、現在でもバーグマンの代表作と目されている『[[カサブランカ (映画)|カサブランカ]]』で[[ハンフリー・ボガート]]と共演した。『カサブランカ』の舞台は[[ナチス]]の影響力が及ばない中立地帯であるフランス領モロッコの[[カサブランカ]]で、バーグマンは[[ポール・ヘンリード]]が演じた反ナチス地下組織の指導者ヴィクター・ラズローの妻である美しいノルウェー人女性イルザ役を演じた&lt;ref name=Chandler/&gt;。世評とは裏腹にバーグマン自身は『カサブランカ』に必ずしも満足しておらず「私は多くの映画に出演し、なかには『カサブランカ』よりも重要な役も演じてきたつもりです。しかし人々が話題にしたがるのはボカートと共演した映画のことばかりなのです&lt;ref&gt;[http://www.ingridbergman.com The Official Ingrid Bergman Website].&lt;/ref&gt;と語ったこともある。しかしながら後にバーグマンは「すでに『カサブランカ』は独り歩きしている映画なのでしょう。人々を惹き付ける不思議な魅力を持つ作品で、映画に求められていた想いを十分に満足させることができる作品といえます」とも語っている&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|88}}。<br /> <br /> === 『誰が為に鐘は鳴る』(1943年) ===<br /> バーグマンは1943年に、自身初のカラー映画作品となる『[[誰が為に鐘は鳴る]]』にマリア役で出演し、初めて[[アカデミー主演女優賞]]にノミネートされた。『誰が為に鐘は鳴る』は、アメリカの文豪[[アーネスト・ヘミングウェイ]]の同名小説『[[誰がために鐘は鳴る]]』を原作とした映画である。原作の映画化権が[[パラマウント映画]]に売却されたときに、原作者のヘミングウェイは「この役を演じるのはバーグマン以外にありえない」と言い切った。ヘミングウェイはバーグマンと面識はなかったが、アメリカでの初主演作『別離』でバーグマンのことを知っていたのである。数週間後この二人は顔を合わせ、バーグマンのことを理解したヘミングウェイは「貴女はマリアだ!」と叫んだ&lt;ref name=LifeMag&gt;Carlile, Thomas, and Speiser, Jean. &#039;&#039;Life Magazine&#039;&#039;, 26 July 1943, pp. 98–104&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 『ガス燈』(1944年) ===<br /> [[File:Gaslight 1944 trailer(3).jpg|thumb|『[[ガス燈 (映画)|ガス燈]]』の予告編より。1944年。]]<br /> バーグマンは1944年に出演した『[[ガス燈 (映画)|ガス燈]]』で初のアカデミー賞となる主演女優賞を受賞した。『ガス燈』では[[シャルル・ボワイエ]]と共演し、監督の[[ジョージ・キューカー]]はバーグマンに「狂気へと堕ちていく人妻」という演技を求めた。映画評論家トムソンはこの『ガス燈』がバーグマンの「ハリウッドでの全盛期だった」としている&lt;ref name=Thomson/&gt;{{rp|77}}。バーグマンは1945年に『[[聖メリーの鐘]]』に[[ビング・クロスビー]]の相手役として出演し、3回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。<br /> <br /> === ヒッチコック映画 ===<br /> [[File:Ingrid Bergman in Notorious Trailer(3).jpg|right|thumb|250px|『[[汚名]]』の予告編より。1946年]]<br /> バーグマンは『[[白い恐怖]]』(1945年)、『[[汚名]]』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)と、3本の[[アルフレッド・ヒッチコック]]の監督映画作品に出演している。これらの映画のうち史劇の『山羊座のもとに』だけがカラー作品だが、『白い恐怖』や『汚名』ほどには評価の高い作品とはいえない。また、バーグマンは1940年代に俳優、演出家[[マイケル・チェーホフ]]のもとで演技を学んでいた。チェーホフはバーグマンが主演した『白い恐怖』にブルロフ役で出演しており、これがチェーホフ唯一のアカデミー賞のノミネートとなっている&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.litencyc.com/php/speople.php?rec=true&amp;UID=5949|title=Michael Chekhov|work=Literary Encyclopedia|publisher=The Literary Dictionary Company Limited|author=Adam J. Ledger|accessdate=2007-03-06}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 『ジャンヌ・ダーク』(1948年) ===<br /> バーグマンは1948年に公開された『[[ジャンヌ・ダーク]]』でもアカデミー主演女優賞にノミネートされた。この作品は[[マクスウェル・アンダーソン]]の戯曲『ロレーヌのジャンヌ』を原作としたもので、ウォルター・ウェンジャー製作、[[ヴィクター・フレミング]]監督、[[RKO]]配給の独立系映画作品である。バーグマンがこの映画で主役を射止めたのは、以前に戯曲版の『ロレーヌのジャンヌ』をブロードウェイの舞台で演じていたことも理由の一つとしてあげることができる。しかしながら『ジャンヌ・ダーク』は興行的成功を収めたとはいえない。この作品の公開中に、バーグマンとイタリア人映画監督[[ロベルト・ロッセリーニ]]との不倫スキャンダルが明るみになってしまったことにもその一因があった。さらに映画関係者からの評価もよくなく、複数のアカデミー賞にノミネートされ、[[アカデミー撮影賞|撮影賞]]と[[アカデミー衣装デザイン賞|衣装デザイン賞]]を受賞したが、最優秀作品賞を受賞することはできなかった。公開時にはオリジナルのストーリーから45分がカットされていたが、1998年にもとの長さに復元され、2004年にはこの完全版がDVDでリリースされている。<br /> <br /> ハリウッドでのバーグマンは映画だけでなく舞台にも出演していた。『[[リリオム]]』、『アンナ・クリスティ』([[:en:Anna Christie]])、そして『ロレーヌのジャンヌ』である。『ロレーヌのジャンヌ』のプロモーションのために[[ワシントンD.C.]]で開催されたプレス・カンファレンスの場で、バーグマンは自身が出演していた劇場で直接目にした、人種差別事件を非難したことがある。この出来事は大きな注目を集め、嫌がらせの手紙がバーグマンに届いたこともあった。またバーグマンは[[第二次世界大戦中]]にアラスカのアメリカ陸軍を慰問したことがある。さらにバーグマンは軍の慰問でヨーロッパにも渡り、戦争が引き起こす荒廃を目の当たりにした。有名なカメラマン[[ロバート・キャパ]]と知り合ったのもこの時期のことで、二人は一時期不倫関係にあったともいわれている&lt;ref&gt;<br /> {{cite book <br /> |last=Marton <br /> |first=Kati <br /> |title=The Great Escape: Nine Jews Who Fled Hitler and Changed the World<br /> |location=New York <br /> |publisher=Simon &amp; Schuster <br /> |year=2006 <br /> |isbn=978-0-7432-6115-9 <br /> |page=176<br /> |oclc=70864519 <br /> |lccn=2006049162<br /> }}&lt;/ref&gt;。&lt;!--【訳出せず】She became a regular cigarette smoker after needing to smoke for her role in &#039;&#039;[[Arch of Triumph (1948 film)|Arch of Triumph]]&#039;&#039;. {{Citation needed|date=December 2012}}--&gt;<br /> <br /> == 私生活 ==<br /> バーグマンは1937年に21歳で歯科医ペッテル・アロン・リンドストロームと結婚し、翌1938年9月20日には娘のピアが生まれた。『別離』の完成後にいったんスウェーデンに戻っていたバーグマンだったが、1940年に再びアメリカへ渡り、ブロードウェイで舞台女優を続けてハリウッドでの映画出演に備えていた。1941年には夫リンドストロームと娘ピアがアメリカを訪れ、ニューヨークの[[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]に滞在している。このアメリカ滞在中にリンドストロームは[[ロチェスター大学]]で薬学と外科学を学んだ。バーグマンはニューヨークに小さな家を借りて夫と娘を住まわせ、撮影の合間を見つけてはニューヨークを訪れ、数日間から数ヶ月間にわたって家族との時間を持っていた。<br /> <br /> 『ライフ』誌の記事では「リンドストロームは自身こそが家長であり、バーグマンも喜んでそのことを認めていると考えていた」とし、リンドストロームが「ハリウッドで飾りたてられた人工的な美女と関連性を持って見られることを毛嫌いしていた」ために、バーグマンは女優としての生活と私生活とをはっきりと分けていると断言していたと書かれている。リンドストロームは後にニューヨークからサンフランシスコへと居を移し、当地の私立病院でインターンシップを終えている。そしてバーグマンも映画出演の合間にサンフランシスコを訪れて、家族と共に過ごす生活を続けた&lt;ref name=LifeMag/&gt;。<br /> <br /> バーグマンは1950年にイタリア映画『ストロンボリ/神の土地』に主演し、この作品の撮影中に不倫関係となった監督[[ロベルト・ロッセリーニ]]とのスキャンダルが原因でハリウッドを離れヨーロッパへと戻った。そして『ストロンボリ/神の土地』が公開されたのと同じ月の1950年2月2日に、バーグマンとロッセリーニの間には息子ロベルティーノが生まれている。ロベルティーノが生まれてから一週間後にバーグマンはリンドストロームと離婚し、[[メキシコ]]でロッセリーニと再婚した。1952年6月18日には双子の娘イゾッタ・イングリッドと[[イザベラ・ロッセリーニ|イザベラ]]が生まれた。しかしながら1957年にバーグマンとロッセリーニは離婚した。翌1958年にバーグマンは富裕なスウェーデン貿易商一家出身の演劇プロモータのラルス・シュミットと結婚したが、この結婚も1975年に破局している。<br /> <br /> == ロッセリーニとのイタリア時代(1949年 - 1957年) ==<br /> [[File:Ingrid Bergman - 1954.JPG|thumb|マシアス・ヴィーマンと共演した1954年公開の『不安』。]]<br /> バーグマンはアメリカ滞在中に目にした、イタリア人映画監督[[ロベルト・ロッセリーニ]]の2本の映画に深い感銘を受けた。1949年にバーグマンは、自分がいかにロッセリーニの映画を賞賛しているか、いかにロッセリーニ監督作品への出演を望んでいるという内容の手紙をロッセリーニに送った。この縁でバーグマンが主演したロッセリーニ監督作品が、1950年の『ストロンボリ/神の土地』である。撮影中にバーグマンはロッセリーニに好意を抱くようになった。二人は不倫関係となり、バーグマンはロッセリーニの子供、レナート・ロベルト・ラナルド・ジュスト・ジュゼッペ・ロッセリーニを身篭った&lt;ref name=Bondanella&gt;Bondanella, Peter E. &#039;&#039;The Films of Robert Rossellini&#039;&#039;, Cambridge University Press (1993)&lt;/ref&gt;{{rp|18}}。<br /> <br /> バーグマンとロッセリーニの不倫はアメリカでも大きなスキャンダルとなり、 アメリカ上院議会でも二人の関係が非難されるほどだった。[[エド・サリヴァン]]は自身のTV番組[[エド・サリヴァン・ショウ]]に、聴衆からの出演希望でバーグマンが一位だったにも関わらず、バーグマンを番組に呼ぼうとはしなかった&lt;ref name=Sullivan&gt;<br /> {{cite episode<br /> |title=Steve Allen<br /> |url=http://www.hrc.utexas.edu/multimedia/video/2008/wallace/allen_steve.html<br /> |series=The Mike Wallace Interview<br /> |network=ABC<br /> |city=New York City<br /> |airdate=7 July 1957<br /> |transcripturl=http://www.hrc.utexas.edu/multimedia/video/2008/wallace/allen_steve_t.html<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> しかしながら、エド・サリヴァン・ショウと同じくらいに人気のあったテレビ番組の司会者スティーヴ・アレン ([[:en:Steve Allen]]) はバーグマンを自身の番組に出演させた。後にアレンは「私生活をもって芸術活動を断罪するかのような危険な賭けだった」と語っている&lt;ref name=Sullivan/&gt;。伝記作家ドナルド・スポートは、バーグマンが演じた役やキャラクターのイメージを壊さないために「高く自身を律していた」と指摘している。『[[聖メリーの鐘]]』では修道女を、『[[ジャンヌ・ダーク]]』では聖女を演じたバーグマンは後に「人々は私にジャンヌ・ダルクを重ね合わせ、聖女のような人物だと思っていました。そうではないのです。私はただの女、普通の人間なのです」と語っている&lt;ref name=Spoto/&gt;{{rp|300}}。<br /> <br /> ロッセリーニとのスキャンダルに追われるように、夫リンドストロームと娘ピアを残して、バーグマンはアメリカからイタリアへと戻った。そしてリンドストロームとは離婚が成立し、娘の養育権を巡る争いへと発展していった。バーグマンとロッセリーニは1950年5月24日に結婚した。二人の間には結婚前に生まれたロベルティーノと、1952年に双子の姉妹イゾッタ・イングリッドとイザベラが生まれた。長じて[[イザベラ・ロッセリーニ|イザベラ]]は女優、モデルに、イゾッタ・イングリッドはイタリア文学者となった。<br /> <br /> === 『ストロンボリ/神の土地』とネオレアリズモ ===<br /> [[File:Bergman with Rossellini.jpg|thumb|バーグマンとロッセリーニ。1951年。]]<br /> 1949年から1955年にかけて、ロッセリーニはバーグマンを主役とした映画を5本撮影した。『ストロンボリ/神の土地』、『ヨーロッパ一九五一年』、『[[イタリア旅行]]』、『火刑台上のジャンヌ・ダルク』、『不安』である。1953年にはオムニバスのドキュメンタリー映画『[[われら女性]]』の、ロッセリーニが監督した第三話に映画女優の本人役で出演した&lt;ref name=Bondanella/&gt;{{rp|18}}。ロッセリーニの伝記作家ピーテル・ボンダネッラは、バーグマンとロッセリーニの結婚生活での言葉を巡る意思疎通のトラブルが、ロッセリーニ作品の中核テーマである「倫理的価値観とは無関係な、孤独、品位、高い精神性」をもたらしたのではないかとしている&lt;ref name=Bondanella/&gt;{{rp|19}}。<br /> <br /> [[File:Bergman stromboli mpazdziora.JPG|thumb|left|『ストロンボリ/神の土地』の撮影中に、バーグマンとロッセリーニが同棲していた家に掲げられているメモリアル・プレート。]]<br /> ロッセリーニは自身の監督作品にセミプロの役者を配することが多く、[[ネオレアリズモ]]の映画作品へのハリウッド映画スターの起用は、周囲に否定的に捉えられることもあった。バーグマンが最初にロッセリーニの映画に出演したときには「観客の期待を裏切る」演技を求められた。ロッセリーニからの演技指導はなく、バーグマンは「自らの考えで迫真の演技を着想する」ことを余儀なくされた。これはボンダネッラが「内省感を表現した新しい映画」と呼んだスタイルだった&lt;ref name=Bondanella/&gt;{{rp|98}}。ただしバーグマンは、ロッセリーニの「基本的な着想があるだけで、(撮影の進行と共に)ごく僅かずつ考えを深めていく」という手法を撮影前から知っていた&lt;ref name=Bondanella/&gt;{{rp|19}}。<br /> <br /> ロッセリーニとの結婚生活がすでに破綻を来たしていた1956年に、バーグマンはジャン・ルノワール監督の『[[恋多き女 (1956年の映画)|恋多き女]]』に主演した。『恋多き女』は恋愛コメディ作品で、バーグマンは政治的陰謀に振り回されるポーランドの公爵夫人を演じている。公開当時のこの映画は商業的に成功したとはいえなかったが、徐々にバーグマンの演技がもっとも優れている作品のひとつと見なされるようになっていった。<br /> <br /> == 後半生(1957年 - 1982年) ==<br /> === 『追想』(1956年) ===<br /> [[File:Anastasia trailer1.jpg|right|thumb|200px|1956年公開の『[[追想 (1956年の映画)|追想]]』で[[アナスタシア・ニコラエヴナ]]を演じる]]<br /> バーグマンは1956年の映画『[[追想 (1956年の映画)|追想]]』でアメリカ映画に復帰し、この作品で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞した。この授賞式でバーグマンの代理としてオスカーを受け取ったのは、バーグマンの昔からの友人である[[ケーリー・グラント]]だった&lt;ref&gt;<br /> {{cite web<br /> |url=http://www.imdb.com/Sections/Awards/Academy_Awards_USA/1957<br /> |title=1957 Academy Awards<br /> |work=Internet Movie Database<br /> |accessdate=23 October 2006<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ロッセリーニとの不倫スキャンダルが発覚して以降、バーグマンがハリウッドで大衆の前に初めて姿を見せたのは、1958年度のアカデミー賞授賞式である&lt;ref&gt;<br /> {{cite web<br /> |url=http://theoscarsite.com/1958.htm<br /> |title=All the Oscars: 1958<br /> |work=OscarSite.com – A celebration of all things Oscar<br /> |author=Gary Moody<br /> |accessdate=10 December 2006<br /> }}&lt;/ref&gt;。旧友ケーリー・グラントからの紹介を受けて[[アカデミー作品賞|作品賞]]のプレゼンターとしてステージにあがったバーグマンは、観客からのスタンディング・オヴェーションで迎えられた。その後のバーグマンはアメリカ映画とヨーロッパ映画の両方に出演し、ときにはテレビドラマにも出演している。1959年に出演したテレビドラマ『[[ねじの回転]]』では[[エミー賞]]を受賞した。また、この時期のバーグマンはいくつかの舞台作品にも出演している。<br /> <br /> 1957年にロッセリーニと離婚したバーグマンは、1958年12月21日に演劇プロデューサーのラルス・シュミットと結婚したが、1975年に離婚している。シュミットと結婚してからバーグマンの映画出演の本数は減少していたが、1964年の『[[黄色いロールスロイス]]』以来5年ぶりになる映画『[[サボテンの花 (映画)|サボテンの花]]』で、[[ウォルター・マッソー]]、[[ゴールディ・ホーン]]と共演している。<br /> <br /> バーグマンとロッセリーニとの不倫関係が一大スキャンダルとなったのは、当時の[[アメリカ合衆国上院|アメリカ合衆国上院議員]]エドウィン・ジョンソン ([[:en:Edwin C. Johnson]]) が上院で二人を弾劾する演説を行ったことにも一因があった。その22年後の1972年に同じく上院議員の[[チャールズ・パーシー]]が、この演説に関して公式に謝罪の意を示している。また、1973年にバーグマンは、[[カンヌ国際映画祭]]の議長に選ばれた&lt;ref&gt;<br /> {{cite web<br /> |url=http://www.festival-cannes.fr/perso/index.php?langue=6002&amp;personne=4296444<br /> |title=Ingrid Bergman profile<br /> |work=Cannes Film Festival<br /> |accessdate=23 October 2006<br /> }} {{リンク切れ|date=September 2010|bot=H3llBot}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 『オリエント急行殺人事件』(1974年) ===<br /> [[File:Ingrid Bergman The Constant Wife 1975.JPG|right|thumb|200px|1975年公開の『忠実な妻』。]]<br /> バーグマンは1974年に出演した『[[オリエント急行殺人事件 (1974年の映画)|オリエント急行殺人事件]]』で[[アカデミー助演女優賞]]を受賞した。合計3つのアカデミー賞を手にしたバーグマンは名実共に最高の女優のひとりとなった。『オリエント急行殺人事件』の監督[[シドニー・ルメット]]は、当初バーグマンに重要な役であるドラゴミロフ公爵夫人を打診していた。ルメットはこの役を演じることによって、バーグマンがアカデミー賞を受賞するのは間違いないと確信していた。しかしながらバーグマンは、さほど重要ではないスウェーデン人宣教師グレタ・オルソン役に興味を示した。ルメットはバーグマンが演じた役について、次のように語っている。<br /> <br /> {{Quotation|<br /> 彼女(バーグマン)は端役を選び、私にはその決心を変えることはできませんでした。彼女は愛らしくも頑固な女性だったといえるでしょう。とはいえ、あまりにグレタ・オルソンが小さな役だったために、私はひとつの決断をしました。彼女一人をスクリーンに写して、ひとつのテイクで5分間にわたって喋らせ続けたのです。ほとんどの女優はこのような演出を嫌がります。でも彼女はこのアイデアを気に入って、やりとげてくれました。彼女はあらゆる感情をこのシーンで表現しつくしました。このような経験は私にとっても初めてことだったのです&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|246–247}}。<br /> }}<br /> <br /> バーグマンは母語であるスウェーデン語のほかに、ドイツ人の母親に教わったドイツ語、アメリカ滞在中に覚えた英語、イタリア滞在中に覚えたイタリア語、学校で習ったフランス語を話すことができた&lt;ref name=&quot;Leamer&quot;&gt;<br /> {{cite book<br /> |title=As Time Goes By: The Life of Ingrid Bergman<br /> |author=Leamer, Laurence<br /> |publisher=Harper &amp; Row<br /> |year=1986<br /> |isbn=0-06-015485-3<br /> }}&lt;/ref&gt;。バーグマンはこれらの5カ国語で喋る役を演じたこともあった。『オリエント急行殺人事件』でバーグマンと共演し、『コンスタントワイフ』でバーグマンの演出にも携わった[[ジョン・ギールグッド]]は、冗談口調で「彼女(バーグマン)は五カ国語を話すことができる。しかしそれらのどの言語でも演技は出来ない。(&quot;{{lang|en|can&#039;t act in any of them}}&quot; 」と語ったことがある&lt;ref&gt;<br /> {{cite news<br /> |url=http://www.reviewjournal.com/lvrj_home/2002/Aug-26-Mon-2002/news/19489130.html<br /> |title=The Punch Line<br /> |publisher=Las Vegas Review-Journal<br /> |date=26 August 2002<br /> |accessdate=22 October 2006<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> &lt;!-- 【訳出せず】Although known chiefly as a film star, Bergman strongly admired the great English stage actors and their craft. She had the opportunity to appear in London&#039;s [[West End theatre|West End]], working with such stage stars as [[Michael Redgrave]] in &#039;&#039;A Month in the Country&#039;&#039; (1965), Sir John Gielgud in &#039;&#039;The Constant Wife&#039;&#039; (1973) and [[Wendy Hiller]] in &#039;&#039;Waters of the Moon&#039;&#039; (1977–78). {{Citation needed|date=December 2012}} --&gt;<br /> === 『秋のソナタ』(1978年) ===<br /> 1978年にバーグマンはイングマール・ベルイマン監督のスウェーデン映画『秋のソナタ』に出演した。最後の映画となったこの作品で、バーグマンは[[リヴ・ウルマン]]演じる過去に見捨てた娘を訪ねるために、ノルウェーへと旅する裕福なピアニストを演じた。ノルウェーで撮影されたこの『秋のソナタ』で、バーグマンはアカデミー賞に通算7回目のノミネートを受けた。また、バーグマンは[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]が、1979年にヒッチコックへ生涯功労賞を授与したときの司会進行役を務めている&lt;ref&gt;<br /> {{cite web<br /> |url=http://imdb.com/title/tt0268597<br /> |title=The American Film Institute Salute to Alfred Hitchcock<br /> |work=Internet Movie Database<br /> |accessdate=23 October 2006<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 『ゴルダと呼ばれた女』(1982年) ===<br /> 1982年にバーグマンは、[[イスラエル]]の女性首相[[ゴルダ・メイア]]を主人公としたテレビドラマシリーズ『ゴルダと呼ばれた女』の主役のオファーを受けた。この『ゴルダと呼ばれた女』はバーグマンの最後の出演作であり、二度目の[[エミー賞]]主演女優賞を受ける作品となった。オファーを受けたバーグマンは当初、世界的な著名人を演じることが想像もつかず、ゴルダ・メイアと自分とでは身長などの容姿があまりに違いすぎるとして出演に難色を示した。バーグマンの娘イザベラ・ロッセリーニは、バーグマンがこのオファーに驚いていたことと、プロデューサーが「大衆は貴女(バーグマン)を信用、信頼しています。それこそが私が求めているものなのです。ゴルダ・メイアも人々から信頼されていた女性だったからです」とバーグマンを説得しようとしたことを紹介し、さらに「そして母はこの言葉に心を動かされました」と語っている。さらにプロデューサーは、ゴルダが「スケールの大きな女性」であり、人々は実際よりもゴルダを長身の人物だと思っていたとしてバーグマンを説き伏せた。バーグマンの伝記作家シャーロット・チャンドラーはこのゴルダ役が「彼女(バーグマン)にとって非常に重要な意味合いをもっていました。イングリッドは第二次世界大戦中にドイツでひどい過ちを犯してしまったという罪悪感に捕らわれ続けていたからです」としている&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|293}}。<br /> <br /> チャンドラーは「イングリッドの急速な体調悪化は非常に深刻な問題となっていました。イングリッドの命を永らえさせることは不可能でした。彼女が患っていた癌は全身に転移しており、もしイングリッドの病状を本当に知っている人がいたのなら、この作品への出演を止めさせようとしたでしょう」としている。そして完成した『ゴルダと呼ばれた女』を、バーグマンの死後に観た娘のイザベラは次のように語っている。<br /> &lt;!--【誤訳の可能性高し、Mum、Mother が一般名詞なのかバーグマンなのか不明】--&gt;<br /> {{Quotation|<br /> 生前の彼女(バーグマン)はこのような女性ではありませんでした。母は強いといわれます。でも彼女はどこか傷つきやすい人でした。強さを見せるときもありましたが、本質的には弱い女性だったのです。ただ、母にはゴルダのような側面もあったのでしょう。彼女の演技を目にしたときにはとても驚きました。私が見たことがない、本物の勇気を持った母がそこにいたのです&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|290}}。<br /> }}<br /> <br /> 『ゴルダと呼ばれた女』の撮影中にもバーグマンの病状は悪化していったが、バーグマンが弱音を吐くことも態度に出すこともほとんどなかった。そして『ゴルダと呼ばれた女』が完成してから4カ月後にバーグマンはこの世を去った。『ゴルダと呼ばれた女』で受賞したエミー賞を、バーグマンの代わりに受け取ったのは娘のピアだった&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|296}}。<br /> <br /> == 死去 ==<br /> [[File:Norra, Ingrid.JPG|thumb|left|ストックホルム北霊園のバーグマンの墓。]]<br /> バーグマンは67歳の誕生日に当たる1982年8月29日に、長きにわたる乳がんとの闘病生活の末にロンドンで死去した。遺体はロンドンのケンサル・グリーン霊園で火葬に付され、遺灰がスウェーデンへと送られた。遺灰のほとんどはスウェーデン西海岸の[[ブーヒュースレーン地方]]の小島にある漁村フヤルバッカ周辺の海に散骨された。この小島は、バーグマンが1958年から死去する1982年まで夏季の多くを過ごした場所だった。海に散骨されなかった遺灰は、[[ストックホルム]]の北霊園 ([[:en:Norra begravningsplatsen]]) の、バーグマンの両親が眠る墓の隣に埋葬された。<br /> <br /> バーグマンの伝記作家ドナルド・スポート ([[:en:Donald Spoto]]) はバーグマンのことを「エンターテインメント史上、もっとも国際的なスターであることは間違いない」としている。5カ国語をあやつって舞台、映画、テレビで活躍し、3つのアカデミー賞など数多くの賞に輝いた名女優だった&lt;ref name=Spoto&gt;Spoto, Donald. &#039;&#039;Notorious: The Life of Ingrid Bergman&#039;&#039;, HarperCollins (1997), Intro.&lt;/ref&gt;。レスリー・ハワードと共演した1939年のアメリカでのデビュー作『別離』の公開以来、ハリウッドはバーグマンのことを、メイクアップを必要としない完全に自然体の他に類を見ない女優であると評価してきた。映画評論家[[ジェームズ・エイジー]]はバーグマンが「およそ人が想像しえる理想的な女性というだけでなく、彼女は演技というものを根本から理解していた。詩的な優雅さと徹底的な現実主義とを両立させた女優である」と語っている&lt;ref name=James/&gt;。<br /> <br /> バーグマンは背が高く、自然体で、知的な女性であり、スウェーデン出身ではあったが流暢な英語を操った。映画評論家デイヴィッド・トムソン ([[:en:David Thomson (film critic)]]) はバーグマンが「つねに「本物の」女性であろうと努力していた」とし、多くの映画ファンがバーグマンを次のような女優だとみなしてきた。<br /> <br /> {{Quotation|<br /> 1940年代初頭から半ばにかけて、バーグマンはこれまで類を見ないほどにアメリカから愛された。そして、スキャンダルの渦中にあったバーグマンが聖女ではなく激しい情熱を持つ女優のように振舞ったことが、大衆の愛情の裏返しとなって大きな騒ぎへと発展してしまった&lt;ref name=Thomson&gt;Thomson, David. &#039;&#039;The New Biographical Dictionary of Film&#039;&#039;, Alfred A. Knopf, N.Y. (2002)&lt;/ref&gt;{{rp|76}}。<br /> }}<br /> <br /> バーグマンのハリウッド時代初期の伝記を記事にした『ライフ』誌は「バーグマンの女優としての道のりは順風満帆で」「すべてがうまくいっており、バーグマンにはなにも心配することはなかった」としている&lt;ref name=LifeMag/&gt;。当時のバーグマンは、プロデューサーである[[デヴィッド・O・セルズニック]]が素晴らしい役どころをバーグマンにもたらすマネジメントに十分満足していた。収入の面でもバーグマンは満足しており「私は女優であり、演じることに生きがいを見出しています。決してお金のためではありません」と語っている。『ライフ』誌はさらに「彼女(バーグマン)は、他のあらゆるアメリカ映画の女優よりも多才だった。彼女が演じた役は適応能力と感受性を求められるものばかりで、ほとんどの女優にとって演じることが非常に困難なものだった」としている&lt;ref name=LifeMag/&gt;。<br /> <br /> バーグマンは8年間に及ぶがんとの闘病生活を続けながらも女優を止めることはなく、死去する直前に演じたゴルダ・メイア役でも国際的な賞を得た。スポートは「彼女(バーグマン)の精神は、驚くべき優雅さと勇気に満ちていた」と記している&lt;ref name=Spoto/&gt;。映画監督の[[ジョージ・キューカー]]は、バーグマンが映画界に果たした貢献についてバーグマンに「私がどれほど貴女のことを敬愛しているかご存知でしょうか、イングリッド。貴女の魅力は一言でいえば自然体であるということです。カメラは貴女の美しさ、演技、そして個性に惚れ込んでいます。映画スターには個性が必要ですが、その意味でも貴女はまさしく大スターといえるでしょう」と語ったことがある&lt;ref name=Chandler/&gt;{{rp|11}}。[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にはエンターテインメント界に貢献した人物を称える星型のプレートがあるが、バーグマンのプレートもハリウッド大通り6759番地に存在する。<br /> <br /> アメリカのフォーク歌手[[ウディ・ガスリー]]は、映画『ストロンボリ/神の土地』でのバーグマンとロッセリーニとの関係を揶揄するエロティック・ソング「イングリッド・バーグマン」を作詞した。ガスリー自身はこの歌をレコーディングすることはなかったがその死後に「イングリッド・バーグマン」が発見され、イギリス人ロック歌手ビリー・ブラッグ ([[:en:Billy Bragg]]) が曲をつけて、自身のアルバム『マーメイド・アヴニュー』に収録している&lt;ref&gt;<br /> {{cite web<br /> |last=Anna<br /> |first=Canoni<br /> |title=Woody Guthrie&#039;s daughter<br /> |url=http://www.songfacts.com/blog/interviews/anna_canoni_about_woody_guthrie/|work=Interview<br /> |accessdate=2013-7-4<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 自叙伝 ===<br /> 1980年にバーグマンは自叙伝『マイ・ストーリー』を出版した。アラン・バージェス ([[:en:Alan Burgess]]) の協力で書き下ろされたこの自叙伝には、バーグマンの子供時代、女優としてのキャリア初期、ハリウッド時代、そしてロッセリーニとのスキャンダルとそれにまつわる出来事が綴られている。バーグマンがこの自叙伝を書くきっかけとなったのは、もしバーグマンがこのまま自身のことを何も語らないままであれば、噂やインタビューを通じてしかバーグマンのことが知られなくなることを危惧した子供たちの勧めによるものだった。また、[[ロバート・キャパ]]と不倫関係にあったことが知られるようになったのも、この自叙伝を通じてのことだった。<br /> <br /> == 賞 ==<br /> バーグマンはアカデミー賞を3度受賞している。主演女優賞が2回、助演女優賞が1回である。2013年時点で、助演男優賞3回受賞の[[ウォルター・ブレナン]]、主演男優賞2回、助演男優賞1回受賞の[[ジャック・ニコルソン]]、主演女優賞2回、助演女優賞1回受賞の[[メリル・ストリープ]]、主演男優賞3回受賞の[[ダニエル・デイ=ルイス]]と並んで、アカデミー賞受賞回数としては歴代2位である。歴代1位は[[キャサリン・ヘプバーン]]で、主演女優賞を4回受賞している。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! 年度 !! 賞 !! 部門 !! 結果 !! 作品名<br /> |-<br /> | 1944年<br /> | [[アカデミー賞]]<br /> | [[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]<br /> | {{nom}}<br /> | 『[[誰が為に鐘は鳴る]]』<br /> |-<br /> | 1945年<br /> | アカデミー賞<br /> | 主演女優賞<br /> | {{won}}<br /> | 『[[ガス燈 (映画)|ガス燈]]』<br /> |-<br /> | 1945年<br /> | [[ゴールデングローブ賞]]<br /> | [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]]<br /> | {{won}}<br /> | 『ガス燈』<br /> |-<br /> | 1946年<br /> | アカデミー賞<br /> | 主演女優賞<br /> | {{nom}}<br /> | 『[[聖メリーの鐘]]』<br /> |-<br /> | 1946年<br /> | ゴールデングローブ賞<br /> | 主演女優賞 (ドラマ部門)<br /> | {{won}}<br /> | 『聖メリーの鐘』<br /> |-<br /> | 1946年<br /> | [[ニューヨーク映画批評家協会賞]]<br /> | 主演女優賞<br /> | {{won}}<br /> | 『[[白い恐怖]]』<br /> |-<br /> | 1947年<br /> | [[トニー賞]]<br /> | [[トニー賞 演劇主演女優賞|演劇主演女優賞]]<br /> | {{won}}<br /> | 『ロレーヌのジャンヌ』<br /> |-<br /> | 1949年<br /> | アカデミー賞<br /> | 主演女優賞<br /> | {{nom}}<br /> | 『[[ジャンヌ・ダーク]]』<br /> |-<br /> | 1956年<br /> | ニューヨーク映画批評家協会賞<br /> | 主演女優賞<br /> | {{won}}<br /> | 『[[追想 (1956年の映画)|追想]]』<br /> |-<br /> | 1957年<br /> | アカデミー賞<br /> | 主演女優賞<br /> | {{won}}<br /> | 『追想』<br /> |-<br /> | 1957年<br /> | ゴールデングローブ賞<br /> | 作品賞 (ドラマ部門)<br /> | {{won}}<br /> | 『追想』<br /> |-<br /> | 1958年<br /> | [[ナショナル・ボード・オブ・レビュー|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]<br /> | 主演女優賞<br /> | {{won}}<br /> | 『[[六番目の幸福]]』<br /> |-<br /> | 1959年<br /> | [[英国映画テレビ芸術アカデミー|英国映画テレビ芸術アカデミー賞]]<br /> | 主演外国人女優賞<br /> | {{nom}}<br /> | 『六番目の幸福』<br /> |-<br /> | 1959年<br /> | ゴールデングローブ賞<br /> | 主演女優賞 (ドラマ部門)<br /> | {{nom}}<br /> | 『六番目の幸福』<br /> |-<br /> | 1959年<br /> | ゴールデングローブ賞<br /> | [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)]]<br /> | {{nom}}<br /> | 『無分別』<br /> |-<br /> | 1960年<br /> | [[エミー賞]]<br /> | 主演女優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)<br /> | {{won}}<br /> | 『[[ねじの回転]]』<br /> |-<br /> | 1961年<br /> | エミー賞<br /> | 主演女優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)<br /> | {{nom}}<br /> | 『哀愁のモンテカルロ』<br /> |-<br /> | 1970年<br /> | ゴールデン・グローブ賞<br /> | 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)<br /> | {{nom}}<br /> | 『[[サボテンの花 (映画)|サボテンの花]]』<br /> |-<br /> | 1975年<br /> | アカデミー賞<br /> | 助演女優賞<br /> | {{won}}<br /> | 『[[オリエント急行殺人事件 (1974年の映画)|オリエント急行殺人事件]]』<br /> |-<br /> | 1975年<br /> | 英国映画テレビ芸術アカデミー賞<br /> | 助演女優賞<br /> | {{won}}<br /> | 『オリエント急行殺人事件』<br /> |-<br /> | 1976年<br /> | [[セザール賞]]<br /> | 名誉賞<br /> | {{won}}<br /> |-<br /> |-<br /> | 1978年<br /> | ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞<br /> | 主演女優賞<br /> | {{won}}<br /> | 『[[秋のソナタ]]』<br /> |-<br /> | 1978年<br /> | ニューヨーク映画批評家協会賞<br /> | 主演女優賞<br /> | {{won}}<br /> | 『秋のソナタ』<br /> |-<br /> | 1979年<br /> | アカデミー賞<br /> | 主演女優賞<br /> | {{nom}}<br /> | 『秋のソナタ』<br /> |-<br /> | 1979年<br /> | ゴールデングローブ賞<br /> | 主演女優賞 (ドラマ部門)<br /> | {{nom}}<br /> | 『秋のソナタ』<br /> |-<br /> | 1979年<br /> | [[全米映画批評家協会賞]]<br /> | 主演女優賞<br /> | {{won}}<br /> | 『秋のソナタ』<br /> |-<br /> | 1982年<br /> | エミー賞<br /> | 主演女優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)<br /> | {{won}}<br /> | 『ゴルダと呼ばれた女』<br /> |-<br /> | 1983年<br /> | ゴールデングローブ賞<br /> | 主演女優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)<br /> | {{won}}<br /> | 『ゴルダと呼ばれた女』<br /> |}<br /> <br /> == 出演作品 ==<br /> {{Main|en:Ingrid Bergman chronology of performances}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{cite book | author=Bergman, Ingrid and Burgess, Alan | title=Ingrid Bergman: My Story | publisher=Delacorte Press | year=1980 | location=New York | isbn=0-440-03299-7}}<br /> ** 『イングリッド・バーグマン マイ・ストーリー』 アラン・バージェス共著 (永井淳訳、新潮社 1982年) 回想記<br /> *{{cite book | author=Chandler, Charlotte | title=Ingrid: Ingrid Bergman, A Personal Biography | publisher=Simon &amp; Schuster | year=2007 | location=New York | isbn=0-7432-9421-1}}<br /> *{{cite book | author=Leamer, Laurence | title=As Time Goes By: The Life of Ingrid Bergman | publisher=Harper &amp; Row | year=1986 | location=New York | isbn=0-06-015485-3}}<br /> **『イングリッド・バーグマン 時の過ぎゆくまま』 ローレンス・リーマー (大社淑子訳、朝日新聞社 1989年) 伝記<br /> *{{cite book | author=Dagrada, Elena | title=Le Varianti Trasparenti. I Film con Ingrid Bergman di Roberto Rossellini | publisher=LED Edizioni Universitarie | year=2008 | location=Milano | isbn=978-88-7916-410-8}}<br /> &lt;!--*日本語文献は他に、『大女優の一生 イングリッド・バーグマン』 スクリーン・筈見有弘編 (近代映画社 1983年、同社の文庫判、1985年)<br /> 【出典がないためコメントアウト】<br /> == 関連項目 ==<br /> [[ファイル:Rosa sp.147.jpg|thumb|right|200px|ハイブリッド・ティの名花「イングリッド・バーグマン」。彼女を讃え、1985年に発表。[[2000年]]の[[世界バラ会議]]では「バラの殿堂」に加えられた。]]<br /> [[バラ]]:没後「イングリッド・バーグマン」というバラが発表された。2000年[[世界バラ会議]]によって「バラの殿堂」に入った。<br /> * [[ワイン]]:最も一般的とされる[[ボルドー]]型のワインボトルを「バーグマン型」と呼ぶことがある(肩幅が広いことから)。<br /> * [[フェラーリ]]:1954年、当時の夫ロベルト・ロッセリーニから贈られた[[フェラーリ・375MM|375MMベルリネッタ]]は、彼女のために製作された1台限りの車であった。そのエピソードから通称「バーグマン・クーペ」と呼ばれる。またその車に塗られた色は現代のフェラーリ車にオーダーすることが可能で、その名をGrigio Ingrid(=イングリッド・グレー)という。<br /> *[[水城蘭子]]:日本語吹き替え版の専任の声優。<br /> *[[モンブラン (企業)|モンブラン]]:バーグマンをオマージュし、2009年にイングリッド・バーグマン「ラ・ドンナ」を発売。--&gt;<br /> <br /> === ドキュメンタリー映画 ===<br /> *「イングリッド・バーグマン~愛に生きた女優~」(JAG AR INGRID/INGRID BERGMAN IN HER OWN WORDS)スティーグ・ビョークマン監督(2015年)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[フェラーリ]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commons|Ingrid Bergman}}<br /> {{wikiquote}}<br /> <br /> * [http://life.time.com/icons/ingrid-bergman-photos-of-a-hollywood-legend/?iid=lb-gal-viewagn#1 Ingrid Bergman: Photos From the Life and Career of a Hollywood Legend | LIFE.com]. - &#039;&#039;[http://life.time.com/ LIFE.TIME.com]([[ライフ (雑誌)|ライフ]]画像アーカイブ)&#039;&#039;.2014年9月3日閲覧<br /> === 伝記、出演作 ===<br /> * {{allcinema name|39398|イングリッド・バーグマン}}<br /> * {{Kinejun name|12722|イングリッド・バーグマン}}<br /> * {{IMDb name|6|Ingrid Bergman}}<br /> * {{IBDB name|66876|Ingrid Bergman}}<br /> * {{tcmdb name|14558|Ingrid Bergman}}<br /> * [http://www.tcm.com/2006/summer/confidential.jsp?id=29 TCM Confidential: Ingrid Bergman]<br /> <br /> === 公式サイト ===<br /> * [http://www.ingridbergman.com/ Ingrid Bergman site run by CMG]<br /> * [http://www.wesleyan.edu/cinema/collections/bergman.htm Ingrid Bergman Collection] at Wesleyan University<br /> <br /> === インタビュー ===<br /> * [http://www.nytimes.com/packages/html/movies/bestpictures/casablanca-ar.html 1943 New York Times Interview]<br /> * [http://transcripts.cnn.com/TRANSCRIPTS/0312/04/lkl.00.html Larry King transcript] with Ingrid Bergman&#039;s daughters on the 60th anniversary of &#039;&#039;Casablanca&#039;&#039;<br /> * [http://www.salon.com/july97/mothers/rossellini970704.html Excerpt from Isabella Rossellini&#039;s &#039;&#039;Some of Me&#039;&#039; that describes Ingrid Bergman&#039;s passion for cleaning]<br /> <br /> === 映像 ===<br /> *[http://www.youtube.com/watch?v=x0uqTlbs9ug clip from &#039;&#039;Intermezzo&#039;&#039;, 1936 Swedish version]<br /> *[http://www.youtube.com/watch?v=lMVGhbrcZdg clip from &#039;&#039;Intermezzo&#039;&#039;, 1939 U.S. version]<br /> *[http://www.youtube.com/watch?v=J07MoCdar2E clip from &#039;&#039;Casablanca&#039;&#039;]<br /> *[http://www.youtube.com/watch?v=A0m4K_zlhN8 clip from &#039;&#039;Gaslight&#039;&#039;]<br /> *[http://www.youtube.com/watch?v=IGptJ-D0MfY clip from &#039;&#039;Notorious&#039;&#039;]<br /> *[http://www.youtube.com/watch?v=uP0RWfGVayI clip from &#039;&#039;Joan of Arc&#039;&#039;]<br /> *{{fr icon}} [http://archives.radio-canada.ca/IDC-0-72-56-127-10/arts_culture/ingrid_bergman_amerique/ Television interview] by Radio-Canada reporter Judith Jasmin on 15 July 1957<br /> *{{fr icon}} [http://www.ina.fr/archivespourtous/index.php?vue=notice&amp;from=themes&amp;code=C0524217924&amp;num_notice=2&amp;total_notices=2 Television interview] on JT 20H on 22 February 1959<br /> *{{fr icon}} [http://www.ina.fr/archivespourtous/index.php?vue=notice&amp;from=themes&amp;code=C0524217924&amp;num_notice=1&amp;total_notices=2 Television interview] by France Roche on Cinépanorama on 19 November 1960<br /> <br /> === 音声 ===<br /> *Radio rich media may be found in the radio credits table.<br /> *[http://www.kiddierecords.com/2006/archive/week_47.htm Ingrid Bergman&#039;s Spoken Word Version of The Pied Piper of Hamelin]<br /> *[http://www.eoneill.com/artifacts/flash/msm1/msm1.htm Audio Recording of Ingrid Bergman in the NY Production of &#039;&#039;More Stately Mansions&#039;&#039; (1967)] ([[Adobe Flash]])<br /> <br /> {{アカデミー賞主演女優賞 1941-1960}}<br /> {{アカデミー賞助演女優賞 1961-1980}}<br /> {{英国アカデミー賞助演女優賞}}<br /> {{ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)}}<br /> {{ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:はあくまん いんくりつと}}<br /> [[Category:スウェーデンの女優]]<br /> [[Category:アカデミー賞受賞者]]<br /> [[Category:トニー賞受賞者]]<br /> [[Category:エミー賞受賞者]]<br /> [[Category:セザール賞受賞者]]<br /> [[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br /> [[Category:英国アカデミー賞受賞者]]<br /> [[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]<br /> [[Category:ストックホルム出身の人物]]<br /> [[Category:ドイツ系スウェーデン人]]<br /> [[Category:1915年生]]<br /> [[Category:1982年没]]</div> 124.39.100.132 テンプレート:スクーデリア・フェラーリ 2018-07-26T13:42:07Z <p>124.39.100.132: </p> <hr /> <div>{{Navbox<br /> |name = スクーデリア・フェラーリ<br /> |titlestyle = background:#E20714; color:white; border:1px solid white;<br /> |title = {{Flagicon|ITA}} [[スクーデリア・フェラーリ|{{Color|white|スクーデリア・フェラーリ}}]]<br /> |group1 = 創設者<br /> |list1 = {{Flagicon|ITA}} [[エンツォ・フェラーリ]]<br /> |group2 = 現在のチーム首脳<br /> |list2 = {{Flagicon|ITA}} [[マウリツィオ・アリバベーネ]] &amp;#124; {{Flagicon|FRA}} [[ロイック・ビゴワ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[マッティア・ビノット]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[ジョック・クリア]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[シモーネ・レスタ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[マッシモ・リヴォラ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ロレンツォ・サッシ]]<br /> |group3 = F1チーム関係者<br /> |list3 = {{Flagicon|RSA}} [[ロリー・バーン]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[パオロ・マルティネッリ]] <br /> |group4 = 元F1チーム関係者<br /> |list4 ={{Flagicon|ITA}} [[セルジオ・マルキオンネ]] &amp;#124;{{Flagicon|ITA}} [[ジョアッキーノ・コロンボ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[アウレリオ・ランプレディ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ヴィットリオ・ヤーノ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[カルロ・キティ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[マウロ・フォルギエリ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ジャコモ・カリーリ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ダニエル・オーデット]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[ハーベイ・ポスルスウェイト]] &amp;#124; {{Flagicon|AUT}} [[グスタフ・ブルナー]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[ジョン・バーナード]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[チェーザレ・フィオリオ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[クラウディオ・ロンバルディ]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[ナイジェル・ステップニー]] &amp;#124; {{Flagicon|JPN}} [[後藤治]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[ロス・ブラウン]] &amp;#124; {{Flagicon|FRA}} [[ジャン・トッド]] &amp;#124; {{Flagicon|FRA}} [[ジル・シモン (F1)|ジル・シモン]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[アルド・コスタ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ステファノ・ドメニカリ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ルカ・マルモリーニ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[マルコ・マティアッチ]] &amp;#124; {{Flagicon|GRE}} [[ニコラス・トンバジス]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[パット・フライ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ルカ・ディ・モンテゼーモロ]] &amp;#124; {{Flagicon|JPN}} [[浜島裕英]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ルカ・バルディッセリ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[マリオ・アルモンド]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[ジェイムズ・アリソン]]<br /> |group5 = 現在のF1ドライバー<br /> |list5 = {{Flagicon|GER}} [[セバスチャン・ベッテル]] &amp;#124; {{Flagicon|FIN}} [[キミ・ライコネン]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[アントニオ・ジョヴィナッツィ]] &amp;#124; {{Flagicon|SPA}} [[マルク・ジェネ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ダビデ・リゴン]]<br /> |group6 = 過去のF1ドライバー<br /> |list6 = {{Flagicon|ITA}} [[アルベルト・アスカリ]] &amp;#124; {{Flagicon|ARG}} [[ファン・マヌエル・ファンジオ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ジュゼッペ・ファリーナ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ピエロ・タルッフィ]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[マイク・ホーソーン]] &amp;#124; {{Flagicon|USA}} [[フィル・ヒル]] &amp;#124; {{Flagicon|USA}} [[リッチー・ギンサー]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ロレンツォ・バンディーニ]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[ジョン・サーティース]] &amp;#124; {{Flagicon|MEX}} [[ペドロ・ロドリゲス]] &amp;#124; {{Flagicon|NZL}} [[クリス・エイモン]] &amp;#124; {{Flagicon|BEL}} [[ジャッキー・イクス]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[デレック・ベル]] &amp;#124; {{Flagicon|SUI}} [[クレイ・レガツォーニ]] &amp;#124; {{Flagicon|USA}} [[マリオ・アンドレッティ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[アルトゥーロ・メルツァリオ]] &amp;#124; {{Flagicon|AUT}} [[ニキ・ラウダ]] &amp;#124; {{Flagicon|ARG}} [[カルロス・ロイテマン]] &amp;#124; {{Flagicon|CAN}} [[ジル・ヴィルヌーヴ]] &amp;#124; {{Flagicon|ZAF1928}} [[ジョディー・シェクター]] &amp;#124; {{Flagicon|FRA}} [[ディディエ・ピローニ]] &amp;#124; {{Flagicon|FRA}} [[パトリック・タンベイ]] &amp;#124; {{Flagicon|FRA}} [[ルネ・アルヌー]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ミケーレ・アルボレート]] &amp;#124; {{Flagicon|SWE}} [[ステファン・ヨハンソン]] &amp;#124; {{Flagicon|AUT}} [[ゲルハルト・ベルガー]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[ナイジェル・マンセル]] &amp;#124; {{Flagicon|FRA}} [[アラン・プロスト]] &amp;#124; {{Flagicon|FRA}} [[ジャン・アレジ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ジャンニ・モルビデリ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[イヴァン・カペリ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ニコラ・ラリーニ]] &amp;#124; {{Flagicon|GBR}} [[エディ・アーバイン]] &amp;#124; {{Flagicon|FIN}} [[ミカ・サロ]] &amp;#124; {{Flagicon|BRA}} [[ルーベンス・バリチェロ]] &amp;#124; {{Flagicon|GER}} [[ミハエル・シューマッハ]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ルカ・バドエル]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[ジャンカルロ・フィジケラ]] &amp;#124; {{Flagicon|BRA}} [[フェリペ・マッサ]] &amp;#124; {{Flagicon|ESP}} [[フェルナンド・アロンソ]]<br /> |group7 = F1マシン<br /> |list7 = [[フェラーリ・125F1|125F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・375F1|275F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・375F1|340F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・375F1|375F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・500F2|500F2]] &amp;#124; [[フェラーリ・553F1|553F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・625F1|625F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・553F1|555F1]] &amp;#124; [[ランチア・D50|D50]] &amp;#124; [[ランチア・D50|801F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・246F1|246F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・246F1|256F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・156F1|156F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・158F1|158F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・1512F1|1512F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・312|312F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・312B|312B]] &amp;#124; [[フェラーリ・312B|312B2]] &amp;#124; [[フェラーリ・312B|312B3]] &amp;#124; [[フェラーリ・312T|312T]] &amp;#124; [[フェラーリ・312T|312T2]] &amp;#124; [[フェラーリ・312T|312T3]] &amp;#124; [[フェラーリ・312T|312T4]] &amp;#124; [[フェラーリ・312T|312T5]] &amp;#124; [[フェラーリ・126CK|126CK]] &amp;#124; [[フェラーリ・126C2|126C2]] &amp;#124; [[フェラーリ・126C2|126C2B]] &amp;#124; [[フェラーリ・126C3|126C3]] &amp;#124; [[フェラーリ・126C4|126C4]] &amp;#124; [[フェラーリ・126C4|126C4M]] &amp;#124; [[フェラーリ・126C4|126C4M2]] &amp;#124; [[フェラーリ・156/85|156/85]] &amp;#124; [[フェラーリ・F186|F186]] &amp;#124; [[フェラーリ・F187|F187]] &amp;#124; [[フェラーリ・F187|F187/88C]] &amp;#124; [[フェラーリ・639|639]] &amp;#124; [[フェラーリ・640|640]] &amp;#124; [[フェラーリ・641|641]] &amp;#124; [[フェラーリ・641|641/2]] &amp;#124; [[フェラーリ・642|642]] &amp;#124; [[フェラーリ・643|643]] &amp;#124; [[フェラーリ・F92A|F92A]] &amp;#124; [[フェラーリ・F93A|F93A]] &amp;#124; [[フェラーリ・412T1|412T1]] &amp;#124; [[フェラーリ・412T1|412T1B]] &amp;#124; [[フェラーリ・412T2|412T2]] &amp;#124; [[フェラーリ・F310|F310]] &amp;#124; [[フェラーリ・F310B|F310B]] &amp;#124; [[フェラーリ・F300|F300]] &amp;#124; [[フェラーリ・F399|F399]] &amp;#124; [[フェラーリ・F1-2000|F1-2000]] &amp;#124; [[フェラーリ・F2001|F2001]] &amp;#124; [[フェラーリ・F2001|F2001B]] &amp;#124; [[フェラーリ・F2002|F2002]] &amp;#124; [[フェラーリ・F2002|F2002B]] &amp;#124; [[フェラーリ・F2003-GA|F2003-GA]] &amp;#124; [[フェラーリ・F2004|F2004]] &amp;#124; [[フェラーリ・F2004|F2004M]] &amp;#124; [[フェラーリ・F2005|F2005]] &amp;#124; [[フェラーリ・248F1|248F1]] &amp;#124; [[フェラーリ・F2007|F2007]] &amp;#124; [[フェラーリ・F2008|F2008]] &amp;#124; [[フェラーリ・F60|F60]] &amp;#124; [[フェラーリ・F10|F10]] &amp;#124; [[フェラーリ・150°イタリア|150°イタリア]] &amp;#124; [[フェラーリ・F2012|F2012]] &amp;#124; [[フェラーリ・F138|F138]] &amp;#124; [[フェラーリ・F14 T|F14 T]] &amp;#124; [[フェラーリ・SF15-T|SF15-T]] &amp;#124; [[フェラーリ・SF16-H|SF16-H]] &amp;#124; [[フェラーリ・SF70H|SF70H]] &amp;#124; [[フェラーリ・SF71H|SF71H]]<br /> |group8 = プロトタイプカー<br /> |list8 = [[フェラーリ・P|P]] &amp;#124; [[フェラーリ・512|512]] &amp;#124; [[フェラーリ・312PB|312PB]] &amp;#124; [[フェラーリ・333SP|333SP]]<br /> |group9 = チーム関連会社<br /> |list9 = {{Flagicon|ITA}} [[フィアット]] &amp;#124; {{Flagicon|ITA}} [[フェラーリ]]<br /> |group10 = 現在のスポンサー<br /> |list10 = [[フィリップモリス]] &amp;#124; [[アルファロメオ]] &amp;#124; [[サンタンデール銀行]] &amp;#124; [[ロイヤル・ダッチ・シェル]] &amp;#124; [[ユナイテッド・パーセル・サービス|UPS]] &amp;#124; [[カスペルスキー・ラボ|カスペルスキー]] &amp;#124; [[:en:Weichai Group|潍柴控股集团有限公司]] &amp;#124; [[:en:Claro Americas|クラロ]] &amp;#124; [[レイバン]] &amp;#124; [[ウブロ]] &amp;#124; [[マーレ]] &amp;#124; [[:it:Marco Bonometti|OMR]] &amp;#124; [[ビア・シン|シンハー]] &amp;#124; [[:pt:TNT Energy Drink|TNTエナジードリンク]]<br /> }}&lt;noinclude&gt;<br /> [[Category:F1コンストラクターのテンプレート|すくうてりあ ふえらあり]]<br /> <br /> &lt;/noinclude&gt;</div> 124.39.100.132 障害者 2018-07-07T14:35:23Z <p>124.39.100.132: /* ナチス・ドイツ */</p> <hr /> <div>{{redirect|チャレンジド|NHKのテレビドラマ|チャレンジド (テレビドラマ)}}<br /> [[File:Handicapped Accessible sign.svg|thumb|障害者が利用できる施設であることを示す「[[国際シンボルマーク]]」]]<br /> {{Disability}}<br /> &#039;&#039;&#039;障害者&#039;&#039;&#039;(しょうがいしゃ、{{lang-en-short|disability}}, handicapped)は、心身の障害の発露により生活に制限を受ける者。[[児童福祉法]]は18歳未満を&#039;&#039;&#039;障害児&#039;&#039;&#039;とする。<br /> <br /> ==定義==<br /> 法律は、[[身体障害|身体障害者]]、[[知的障害|知的障害者]]、[[精神障害者]]、[[発達障害|発達障害者]]を含む。軽度の障害で制約を受ける者も同様に分類される{{refnest|group=&quot;注&quot;|認定されないが事故により軽度な後遺症が発生した場合。}}が、本項は下記の内容を中心に説明する。<br /> <br /> {{Main2|障害の医療モデルとアプローチ|リハビリテーション#障害の分類と対策}}<br /> <br /> 和訳に際し、不可逆的な状態を指すdisabilityの訳語である障碍の字があてられる状態と、精神障害のdisorderの訳語である障害は異なる&lt;ref&gt;{{Cite journal |和書|author=日本精神神経学会/精神科病名検討連絡会|date=|title=DSM‒5 病名・用語翻訳ガイドライン(初版)|url=https://www.jspn.or.jp/activity/opinion/dsm-5/files/dsm-5_guideline.pdf|format=pdf|journal=精神神経学雑誌|volume=116|issue=6|pages=429-457}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === WHOの定義 ===<br /> {{quote|{{en|Disabilities is an umbrella term, covering impairments, activity limitations, and participation restrictions. An &#039;&#039;impairment&#039;&#039; is a problem in body function or structure; an &#039;&#039;activity limitation&#039;&#039; is a difficulty encountered by an individual in executing a task or action; while a &#039;&#039;participation restriction&#039;&#039; is a problem experienced by an individual in involvement in life situations. Thus disability is a complex phenomenon, reflecting an interaction between features of a person’s body and features of the society in which he or she lives.}}&lt;ref&gt;{{cite web |title=Disabilities |url=http://www.who.int/topics/disabilities/en/ |publisher=World Health Organization |accessdate=11 August 2012}}&lt;/ref&gt;.&lt;br /&gt;障害とは、身体の損傷、活動の制約、参加の制限が含まれる包括的な用語である。損傷は身体における機能もしくは構造に対するものを指し、活動の制約は個人が仕事や行動を行う際に直面する困難を指し、参加の制限は個人が生活する中で体験する問題である。したがって、障害は複雑な現象であり、ある個人の肉体が持つ特徴と、その人が生きる社会の特徴とがもたらす相互作用の反映である。}}<br /> <br /> === デラウェア大学の定義 ===<br /> {{仮リンク|デラウェア大学|en|University of Delaware}}出版の『脳性まひ看護ガイド』({{en|Cerebral Palsy: A Guide for Care}})は、以下の様に述べている&lt;ref&gt;{{cite web |title=Cerebral Palsy: a Guide for Care |url=http://gait.aidi.udel.edu/res695/homepage/pd_ortho/clinics/c_palsy/cpweb.htm |publisher=The Nemours Foundation |accessdate=2007-07-29}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{quote|減損 ({{en|Impairment}}) の語は、筋肉を自在に動かせない、不要な動きを制御できない、などを、標準からの統計的偏差として示す表現である。障害 ({{en|Disability}}) の語は、日常生活で同年齢の他人ができる正常な動きに制限があることに用いる。3歳児の多くは独歩できるが、できない子供は障害がある。ハンディキャップ ({{en|Handicap}}) の語は、障害を抱えるため、同じ社会文化的な環境条件で同世代の他人と、社会における正常な役割を活動できない子供や大人を表すのに使われる。食事、排泄、衛生などを自分で処理できない16歳の少年はハンディキャップがある。松葉杖を用いて自ら歩行して普通学級に通い、日常を自活できる同じ歳の少年は、障害があるがハンディキャップを抱えていない。すべての障害者は何らかの減損を持ち、全てのハンディキャップを抱える人は何らかの障害を持っている。減損を持つ人が必ず障害者ではなく、障害者がハンディキャップを抱えているとも限らない。}}<br /> <br /> ===国際連合の定義===<br /> 1975年、[[国際連合]]は[[身体障害]]({{en|Physical Disability}})及び[[精神障害]]({{en|Mental Disability}})に対する「障害者の権利宣言({{en|Declaration on the Rights of Disabled Persons}})」を決議した。同宣言は「『障害者』という言葉は先天的か否かにかかわらず、身体的または精神的能力の欠如のために、普通の個人または社会生活に必要なことを、自分自身で完全、または部分的に行うことができない人のことを意味する{{refnest|group=&quot;注&quot;|原文: &#039;The term &quot;disabled person&quot; means any person unable to ensure by himself or herself, wholly or partly, the necessities of a normal individual and/or social life, as a result of deficiency, either congenital or not, in his or her physical or mental capabilities.&#039; &lt;ref name=&quot;UN19751209&quot;/&gt;}}」と述べている&lt;ref&gt;{{Cite journal|和書|date=1976-07|title=国際連合の障害者の権利に関する決議|journal=リハビリテーション研究|issue=22|publisher=[[公益財団法人]][[日本障害者リハビリテーション協会]]|url=http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r022/r022_038.html}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;UN19751209&quot;&gt;{{Cite web|date=1975-12-09|title=Declaration on the Rights of Disabled Persons|publisher=[[国際連合人権高等弁務官事務所|Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights]]|accessdate=2014-08-11|url=http://www.ohchr.org/EN/ProfessionalInterest/Pages/RightsOfDisabledPersons.aspx}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 日本における定義 ===<br /> {{節スタブ}}<br /> <br /> ==== 条約 ====<br /> 1992年(平成4年)6月12日に日本が批准&lt;ref&gt;[http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c159.htm 職業リハビリテーション及び雇用(障害者)条約(第159号)] ILO駐日事務所 2011年8月26日閲覧&lt;/ref&gt;した「[[障害者の職業リハビリテーション及び雇用に関する条約]](第159号)」{{Quotation|この条約の適用上、「障害者」とは、正当に認定された身体的又は精神的障害のため、適当な職業に就き、これを継続し及びその職業において向上する見通しが相当に減少している者をいう。([[日本語]]訳より。[[正文]]は[[英語|英文]]または[[フランス語|フランス文]])}}<br /> <br /> ==== 法律 ====<br /> &#039;&#039;&#039;[[障害者基本法]]&#039;&#039;&#039;第二条 - &#039;&#039;&#039;障害者&#039;&#039;&#039;<br /> {{Quotation|身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。 <br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;[[身体障害者福祉法]]&#039;&#039;&#039;第四条 - &#039;&#039;&#039;身体障害者&#039;&#039;&#039;<br /> {{Quotation|この法律において、「身体障害者」とは、別表に掲げる身体上の障害を抱える十八歳以上の者であって、都道府県知事から身体障害者手帳の交付を受けたものをいう。}}<br /> 「別表」に「視力障害」「聴覚または平衡機能の障害」「音声機能、言語機能、咀嚼機能の障害」「肢体不自由」「重篤な心臓、腎臓、呼吸器機能の障害」がある。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;[[精神保健及び精神障害者福祉に関する法律]]&#039;&#039;&#039;第五条 - &#039;&#039;&#039;精神障害者&#039;&#039;&#039;<br /> {{Quotation|この法律で「精神障害者」とは、精神分裂病、精神作用物質による急性中毒又はその依存症、知的障害、精神病質その他の精神疾患を有する者をいう。}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;[[知的障害者福祉法]]&#039;&#039;&#039; - &#039;&#039;&#039;知的障害者&#039;&#039;&#039; の記載無し<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;[[児童福祉法]]&#039;&#039;&#039;第四条第二項 - &#039;&#039;&#039;障害児&#039;&#039;&#039;<br /> {{Quotation|この法律で、障害児とは、身体に障害のある児童又は知的障害のある児童をいう。}}<br /> 第四条 - &#039;&#039;&#039;児童&#039;&#039;&#039;<br /> {{Quotation|この法律で、児童とは、満十八歳に満たない者をいい(以下省略)}}<br /> 障害者自立支援法の改正法、&#039;&#039;&#039;[[障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律]]&#039;&#039;&#039;(障害者総合支援法)第四条 - &#039;&#039;&#039;障害者&#039;&#039;&#039;{{Quotation|この法律において「障害者」とは、身体障害者福祉法第四条 に規定する身体障害者、知的障害者福祉法 にいう知的障害者のうち十八歳以上である者及び精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第五条 に規定する精神障害者(発達障害者支援法 (平成十六年法律第百六十七号)第二条第二項 に規定する発達障害者を含み、知的障害者福祉法 にいう知的障害者を除く。以下「精神障害者」という。)のうち十八歳以上である者並びに治療方法が確立していない疾病その他の特殊の疾病であって政令で定めるものによる障害の程度が厚生労働大臣が定める程度である者であって十八歳以上であるものをいう。}}<br /> 第四条第二項 - &#039;&#039;&#039;障害児&#039;&#039;&#039;{{Quotation|この法律において「障害児」とは、児童福祉法第四条第二項に規定する障害児及び精神障害者のうち十八歳未満である者をいう。}}<br /> &#039;&#039;&#039;[[発達障害者支援法]]&#039;&#039;&#039;第二条第二項 - &#039;&#039;&#039;発達障害者&#039;&#039;&#039;{{Quotation|この法律において「発達障害者」とは、発達障害を有するために日常生活又は社会生活に制限を受ける者 }}<br /> <br /> === その他 ===<br /> [[聴覚障害]]や[[自閉症]]など特定の病状を「障害」と表現することに抵抗を抱く者は、発達上の相違と捉えるべきことが社会によって不当に汚名を着せられていると主張する&lt;ref name=&quot;The New Wave of Autism Rights Activists&quot;&gt;{{cite web |last=Solomon |first=Andrew |title=The New Wave of Autism Rights Activists |url=http://nymag.com/news/features/47225/ |publisher=New York Magazine |accessdate=2011-10-30}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 理論 ==<br /> ===医学モデル===<br /> 医学モデルとは、障害を引き起こすものは病気・トラウマ・その他の健康状態を起因とする個人の問題をして扱い、専門家が個別に継続的な治療を施す考え方である。このモデルは、障害の管理とは「治療」もしくは「ほとんど治療」または効果的な治療へと繋がる個人に対する調整や行動の変更を目的としている。医療が本題で、政治的な意味で統計解析が[[ヘルスケア]]に関する政策へ改革を促すものになる{{sfn|Nikora|Karapu|Hickey|Te Awekotuku|2004|p=5}}{{sfn|Donovan|2012|p=12}}。<br /> <br /> ===社会モデル===<br /> 障害に対する社会モデルとは、「障害」の問題を社会的に発生したものと捉え、個人が社会へ全面的に適応する際の課題とみなす。このモデルは、障害は個人に帰する問題ではなく、様々な状態が絡み合った複雑さとして受け止め、多くは社会環境から発生していると考える。従って、この問題と向き合うには社会活動が求められ、人々が障害者と社会生活全般の場面で供に生きられる環境を整備する社会全体の集団責任となる。この問題は[[文化]]と[[イデオロギー]]双方に関わり、また個人・共同体・そしてより広い社会の変化が必要になる。これらから、減損や障害を持つ人々の機会平等は、重要な人権問題となる{{sfn|Nikora|Karapu|Hickey|Te Awekotuku|2004|p=6–7}}{{sfn|Donovan|2012|p=12}}。<br /> <br /> == 規模 ==<br /> 全世界または国単位での障害者数割り出しには多くの問題がある。さまざまな障害者の定義があるにも関わらす、人口統計学者らは世界人口に占める障害者の割合は非常に大きいと考えている。例えば、2004年に[[WHO]]は世界65億人のうち、それなりの程度かもしくは深刻な状態の障害を持つ人は1億人近いと推計した&lt;ref name=&quot;World Health Organization&quot;&gt;{{cite web |title=Disease incidence, prevalence and disability |url=http://www.who.int/healthinfo/global_burden_disease/GBD_report_2004update_part3.pdf |work=[http://www.who.int/healthinfo/global_burden_disease/en/ Global Burden of Disease] |publisher=World Health Organization |year=2004 |accessdate=2012-08-11}}&lt;/ref&gt;。障害を取り扱う専門家の中で広く行き渡った共通認識に、障害は一般に先進国よりも発展途上国で多いある。障害と貧困の関係は一種の「悪循環」にあり、双方が状況の悪化を招き合っている&lt;ref&gt;Yeo, R. &amp; Moore, K. (2003). Including disabled people in poverty reduction work: “Nothing about us, without us”. World Development 31, 571-590.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[アメリカ合衆国国勢調査局]]によると、2004年に同国内の障害者数は18歳以上の大人で3200万人、18歳未満の子供で500万人がおり、障害までには行かないが減損を抱える人々を加えると総数は5100万人になる&lt;ref name=&quot;U.S. Bureau of the Census&quot;&gt;{{cite web |title=American FactFinder |url=http://factfinder.census.gov/servlet/STTable?_bm=y&amp;-geo_id=01000US&amp;-qr_name=ACS_2007_3YR_G00_S1801&amp;-ds_name=ACS_2007_3YR_G00_ |publisher=Factfinder.census.gov |accessdate=2012-08-11}}&lt;/ref&gt;。[[ベトナム戦争]]の帰還兵でも、負傷して戻った15万人のうち少なくとも21000人が障害を抱えることになった&lt;ref&gt;&quot;[http://www.digitalhistory.uh.edu/database/article_display.cfm?HHID=513 The War&#039;s Costs]&quot;. Digital History.&lt;/ref&gt;。2001年以来、合衆国軍の関与行為が増え、その結果として軍人が障害を負うケースが非常に増加している。Fox Newsによると増加率は25%、290万人の退役軍人が障害者である&lt;ref&gt;&quot;[http://www.foxnews.com/story/0,2933,354985,00.html VA: Number of Disabled Veterans Rising]&quot;. FOXNews.com. May 11, 2008.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 数年間にわたる[[アフガニスタン戦争]]によって100万人以上の身体障害者が生じた&lt;ref&gt;&quot;[http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/8073447.stm Homes for disabled in Afghanistan]&quot;. BBC News. May 29, 2009.&lt;/ref&gt;。[[アフガニスタン]]は障害者の数が非常に多いが&lt;ref&gt;&quot;[http://www.irinnews.org/report.aspx?reportid=26520 Afghanistan: People living with disabilities call for integration]&quot;. [[IRIN]] Asia. December 2, 2004.&lt;/ref&gt;およそ8万人は[[地雷]]によって四肢のどこかを失った&lt;ref&gt;{{cite news |last=Norton-Taylor |first=Richard |date=2008-02-13 |title=Afghanistan&#039;s refugee crisis &#039;ignored&#039; |url=http://www.guardian.co.uk/world/2008/feb/13/afghanistan |location=London |publisher=The Guardian |accessdate=2012-08-11}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2008年3月24日に[[厚生労働省]]社会・援護局障害保健福祉部企画課より発行された平成18年身体障害児・者実態調査結果&lt;ref name=&quot;mhlw-080324&quot;&gt;{{PDFlink|[http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/shintai/06/dl/01_0001.pdf 平成18年身体障害児・者実態調査結果(厚生労働省)]}}&lt;/ref&gt;によると、在宅の全国の身体障害者数は、3483000人と推計されている(2006年7月1日現在)。<br /> * 毎年約790万人の障害児が誕生して全出産数の約6[[パーセント|%]]んにあたる。<br /> * 障害児の出産、死亡の9割以上は発展途上国に偏っている&lt;ref&gt;『[http://www.recordchina.co.jp/group/g11475.html 障害児の出生率が増加傾向、年間100万人以上が誕生 - レコードチャイナ]』2007年9月21日付配信&lt;/ref&gt;。<br /> * 両親の[[喫煙]]や[[薬]]、[[汚水|汚染された水]]、[[空気]]、[[食物]]による影響が考えられている。<br /> <br /> == 障害と貧困 ==<br /> 障害と[[貧困]]には、さまざまな要因によってもたらされた結果として、世界的に相関関係がある。これらには悪循環を形成する可能性がある。身体的な障壁は収入を得る行動を難しくさせ、そのために治療機会や健康的な生活の維持を難しくしてしまう&lt;ref name=&quot;dfid&quot;&gt;Yeo, R. (2005). Disability, poverty, and the new development agenda. Disability Knowledge and Research Programme. Webaccessed: http://www.dfid.gov.uk/r4d/PDF/Outputs/Disability/RedPov_agenda.pdf&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 障害者施策 ==<br /> === ドイツ ===<br /> {{see also|T4作戦}}<br /> * ナチス政権下においては障害者は根絶すべき存在として、[[断種]]を目的に[[ユダヤ人]]同様に絶滅政策が取られ、多くの障害者を殺害した。秘密裏ではなく「障害者の存在が健全な家庭を圧迫している」と広報し、一般社会にも障害者の絶滅を訴えるなどされた。<br /> <br /> === 北朝鮮 ===<br /> * 北朝鮮で「[[生物化学兵器]]を開発するために、一般家庭の障害を持つ子女や将校・士官の子供や、[[政治犯]]が「[[人体実験]]の道具」として利用された」と、[[脱北者]]の元[[朝鮮人民軍]]将校の言を[[アルジャジーラ]]などが報じた&lt;ref&gt;[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&amp;d=0729&amp;f=politics_0729_010.shtml &amp;lt;北朝鮮&amp;gt;心身障害児を化学兵器の人体実験に-中国報道] [[サーチナ]] 2009年7月29日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 日本 ===<br /> ==== 戦前の状況 ====<br /> * [[戦前]]の[[日本]]は、公的な障害者施策は、ほとんど行われることがなかった。<br /> * 古来の日本の[[神道]]は、何か特別な能力を持った対象として、障害者を畏敬した。例えば、[[日本神話]]で、[[伊弉諾]](いざなぎ)と[[伊弉冉]](いざなみ)の2神の間に生まれた最初の[[子供]]である&#039;&#039;&#039;[[蛭子]]&#039;&#039;&#039;(ひるこ、ひるのことも呼ばれる)は、3歳になっても足が立たず舟に乗せられて海に捨てられたとされるが、[[中世]]以後になって、これを&#039;&#039;&#039;恵比寿&#039;&#039;&#039;([[えびす]])と呼んで[[信仰]]に結びついたとされる。障害者の中には、[[神職]]など祭儀を司る役割を担ってきた者もいた。例えば、片目片足伝承と結びついた&#039;&#039;&#039;[[ひょっとこ]]&#039;&#039;&#039;(火男)は、[[日本神話]]([[古事記]])に登場する[[天目一箇神]](あめのまひとつのかみ、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)をはじめとする[[鍛冶]]神の本尊が、火を吹く口の形を現したものとして伝えられている。<br /> * [[江戸時代]]には、「盲人」「いざり」「めくら」「腰引」「物いわず」など、様々な障害者と考えられる呼称が見られる。近世社会における障害者の実態は史料的制約が大きいが盲人に関しては比較的資料が多く、盲人でありつつも[[国学者]]として活躍した[[塙保己一]]の存在などが知られる。歴代[[征夷大将軍|将軍]]の中にも[[脳性麻痺]]で重い言語障害のあったと考えられている[[徳川家重]]ほか障害者、もしくはそうでなかったかと言われている人物がいた{{refnest|group=&quot;注&quot;|もっとも、これは能力より血筋を重視した結果であるが「[[側用人]]以外家重が何を言っているかわからない」という人物が将軍になったことは事実である。}}。また[[視力障害者]]のうち男子には[[当道座]]、女子には[[瞽女]]といった[[按摩]]師や[[音楽家]]の職業を斡旋する社会的身分保障がなされていた。<br /> * 在方社会における障害者の実態も家族内で扶養されている者や生業にある程度関わるものまで実態は多様であり、大家族においては介助・扶養の点で余力があるため障害者が多いことも指摘されている。障害者の百姓に対し領主が年貢や不役の免除を行っていたことは確認されないが、障害者の当主に対しては相続排除や家督交替を勧めていたと考えられている。<br /> * これら史実から、障害の蔑視は[[近代]]以降であるとする見解がある。<br /> * これに対する反論として、[[触穢思想]]との関連から、[[中世]]([[平安時代]]から[[室町時代]])において障害者を[[穢れ]]をもたらす存在として[[非人]]として扱われていたとする説がある。これは、神道の[[天つ罪]]に由来して[[陰陽道]]の普及によって強化された考え方と考えられ、後に[[謡曲]]が知られる[[蝉丸]]の伝説など、障害者は[[天皇]]の住まう[[平安京]]の清浄を守るために、穢れから平安京を守るための祭祀が行われていた[[四堺]]の外に放逐された。<br /> * 1945年の[[沖縄戦]]で、沖縄県内の学校児童らを対象に[[学童疎開]]が進められたが、[[沖縄県立盲聾唖学校]]は疎開が行われなかった。視覚、聴覚、歩行困難などの障害者の中には攻撃に気づかなかったり、避難することを断念して戦禍に巻き込まれたりするケースがあった&lt;ref&gt;『沖縄県史 各論編 第六巻 沖縄戦』(沖縄県教育庁文化財課史料編集班、2017年)304頁&lt;/ref&gt;。被弾や壕崩落などの事故、栄養失調による失明や疫病、不発弾事故を起因として生まれた障害者は1万人にも及ぶと推計される&lt;ref&gt;『障害福祉白書―沖縄の障害者福祉対策の現状と課題』(沖縄県生活福祉部、1982年)19頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 戦後の状況 ====<br /> * [[太平洋戦争]]を経た[[戦後]]、[[1947年]](昭和22年)より施行された『[[日本国憲法]]』の下での[[現代]]社会においては、[[社会福祉]]の理念が重視された。これを受けて、障害者を「援助」する施策が制定された。<br /> ** [[1947年]](昭和22年)には、戦争中に両親を亡くした[[戦災孤児]]への対策なども目的として[[児童福祉法]]が、[[1949年]](昭和24年)には、戦争によって障害を負った元[[日本軍]][[兵士]]への対策なども目的として[[身体障害者福祉法]]が、[[1950年]](昭和30年)に[[精神保健及び精神障害者福祉に関する法律|精神衛生法]](現在の精神保健福祉法)が、[[1960年]](昭和40年)に[[知的障害者福祉法]]が、相次いで制定された。<br /> * さらに、[[1970年]](昭和45年)に「[[基本法]]」として制定された『心身障害者対策基本法』が改正され、[[1993年]](平成5年)に[[障害者基本法]]が制定された。この[[法律]]で、「障害者」とは、「[[身体障害]]、[[知的障害]]又は[[精神障害]](以下「障害」と総称する。)があるため、継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者」であると定義された。障害者の定義に[[精神障害]]と[[発達障害]]が加えられたことなどが特徴である。<br /> * 他方、日本国憲法下でも、[[優生学]]を背景にして[[1948年]](昭和23年)に制定された[[優生保護法]]において、[[人工妊娠中絶]]が法的に認められていたが、[[1996年]](平成8年)に優生保護法は、[[母体保護法]]に名称が変更され、[[優生思想]]を名目とした妊娠中絶を認める法規定は削除された。<br /> <br /> ==== 21世紀の施策 ====<br /> * これまでの指摘を受けて、[[2004年]]([[平成]]16年)に[[発達障害者支援法]]が新たに制定され、[[自閉症]]、[[アスペルガー症候群]]その他の[[広汎性発達障害]]、[[学習障害]]、[[注意欠陥多動性障害]]などの発達障害者に対する支援策が、法的にも打ち出されることになった。また、[[2006年]](平成18年)から、新たに、従来は対象外とされてきた精神障害者も、障害者雇用枠の対象者となるなど、徐々に対策が広がっている。<br /> * [[2004年]](平成16年)、[[障害者基本法]]の改正が行われ、「障害を理由として差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない」ことが、基本的理念として条文化された。また、都道府県・市町村に「障害者計画」の策定が義務化された。<br /> * [[2005年]](平成17年)、これまで別個の法制度で行われてきた障害者支援策を、統一的に行う目的から、[[障害者自立支援法]]が新たに制定された。<br /> * [[2006年]](平成18年)、[[千葉県]]で全国初の障害者差別をなくすための条例である「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」が制定された。<br /> * [[2013年]](平成25年)、[[国会 (日本)|国会]]で「[[障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律]]」が成立、[[2016年]](平成28年)[[4月1日]]に施行。<br /> * [[2013年]](平成25年)、4月1日から[[障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律]]が施行。障害者の範囲に[[難病の患者に対する医療等に関する法律|難病]]が加わる。法律の目的が一部改正され、「障害者及び障害児が基本的人権を享有する個人としての尊厳にふさわしい日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付、地域生活支援事業その他の支援を総合的に行い、もって障害者及び障害児の福祉の増進を図るとともに、障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することを目的とする」(第一条)となり、基本的人権を享有する個人としての尊厳にふさわしい日常生活又は社会生活の実現に向けた支援を強化することと、障害福祉サービスに係る給付に加えて、地域生活支援事業・その他の新たな障害保健福祉施策を総合的に実施することが新しく明記された&lt;ref&gt;障害者総合支援法って何?,&lt;http://www.ee-life.net/hatena/s_sou_sien.html&gt;(参照2017-9-1).&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 学校での障害児教育 ====<br /> 障害児は[[1947年]](昭和22年)に成立した[[学校教育法]]に「障がい児」の定義があり、重度障害児は就学を希望しても[[就学猶予と就学免除|就学猶予・就学免除]]とされた。[[1979年]](昭和54年)に[[養護学校]]が義務化され、地域の公立小・中学校に通学する障害児も反対がなければ分離された。養護学校の設立当初は機能訓練が中心で、現在の養護学校とは様相が異なる。学校教育と[[精神医学|精神科医療]]で、障害者の分類が異なる。<br /> <br /> 2001年(平成13年)に文部科学省は、障害児教育を「[[特殊教育]]」から「[[特別支援教育]]」に改めたが、学校教育法上の法文は「特殊教育」から変更されなかった。2007年4月1日に「学校教育法等の一部を改正する法律」(平成18年6月21日法律第80号)&lt;ref&gt;[http://www.shugiin.go.jp/itdb_housei.nsf/html/housei/16420060621080.htm 学校教育法等の一部を改正する法律(平成18年6月21日法律第80号)]&lt;/ref&gt;が施行され、それぞれ別個の学校種であった盲学校・聾学校・養護学校は[[特別支援学校]]に移行し、以後は校名を変更した学校と変更していない学校が混在している。法文上「特殊教育」と記されていたものは、すべて「特別支援教育」と記された。<br /> <br /> 現在は[[統合教育]]と並行して、[[インクルージョン教育]]が推し進められている。<br /> <br /> ==== 障害者雇用 ====<br /> [[ファイル:LITALICO works Tokorozawa.jpg|thumb|250px|障害者雇用を推進している就労移行支援事業所「[[LITALICO|LITALICOワークス]]所沢」]]<br /> 障害者の[[雇用]]は、「[[障害者の雇用の促進等に関する法律]]」(障害者雇用促進法)で、一定規模以上(2013年時点で常用労働者数50人以上)の[[事業主]]は、障害者を一定割合以上雇用すべき法律上の義務を負う。<br /> <br /> 障害者雇用(法定雇用)の割合が障害者雇用率(法定雇用率){{refnest|group=&quot;注&quot;|具体的数値は、政令(障害者の雇用の促進等に関する法律施行令)で定められている。}}で、<br /> <br /> * 一般の民間[[企業]] 2.0%<br /> * [[特殊法人]] 2.3%<br /> * [[国]]、[[地方公共団体]] 2.3%<br /> * 都道府県等の[[教育委員会]] 2.2%<br /> : ※上記雇用率は2013年4月1日改正時点。<br /> : ※重度身体障害者及び重度知的障害者は、1人の雇用で、2人の身体障害者又は知的障害者を雇用しているとみなす。<br /> : ※2006年4月1日施行の法改正で、[[精神障害者]]も法定雇用の対象となった。<br /> <br /> 実際は障害者の就業が困難な職種もあり業種ごとに除外率を定めているが、下記職種を対象除外として廃止予定である。<br /> * [[警察官]]<br /> * [[自衛官]]並びに[[防衛大学校]]及び[[防衛医科大学校]]の学生<br /> * [[皇宮護衛官]]<br /> * [[刑務官]]<br /> * [[入国警備官]]<br /> * 密輸出入の取締りを職務とする者<br /> * [[麻薬取締官]]及び麻薬取締員<br /> * [[海上保安官]]、海上保安官補並びに[[海上保安大学校]]及び[[海上保安学校]]の学生及び生徒<br /> * 消防吏員及び[[消防団]]員<br /> <br /> 障害者雇用促進法第44条、第45条は、親会社が多数の障害者を雇用する目的で設立し、一定の要件を備えた子会社を障害者雇用率の算定で親会社の雇用とみなす制度を設けている。これが&#039;&#039;&#039;特例子会社&#039;&#039;&#039;制度である。2007年4月末現在、213社が特例子会社に認定されている。<br /> <br /> 厚生労働省の障害者雇用調査(2006年6月1日時点)によれば、従業員5000人以上の企業の平均雇用率は1.79%としている。<br /> <br /> * 上位5社<br /> # [[ユニクロ]] 7.42%<br /> # [[日本マクドナルド]] 2.94%<br /> # [[しまむら]] 2.83%<br /> # [[すかいらーく]] 2.82%<br /> # [[パナソニックエレクトロニックデバイス]] 2.79%<br /> <br /> [[難病の患者に対する医療等に関する法律|難病]]患者にも、特定求職者雇用開発助成金、障害者トライアル雇用事業、障害者雇用安定助成金等の就労支援を行っている&lt;ref&gt;http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/shougaishakoyou/06e.html&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし障害者枠は適用されておらず、差異が残る。<br /> <br /> ==== 税制 ====<br /> * [[所得税]]及び個人[[住民税]]は、「&#039;&#039;&#039;障害者控除&#039;&#039;&#039;」の[[所得控除]]制度がある。<br /> : 納税者本人・[[配偶者控除|同一生計配偶者]](2018年分以後)・[[扶養控除|扶養親族]]である障害者1名につき、所得税;27万円(特別障害者40万円、同居特別障害者75万円)、住民税:26万円(特別障害者30万円、同居特別障害者53万円)。<br /> * [[相続税]]は、「&#039;&#039;&#039;障害者控除&#039;&#039;&#039;」の税額控除制度がある。<br /> : 障害者である相続人(放棄者を含む)につき、年齢85歳までの年数一年毎に10万円(特別障害者20万円)、2014年以前の[[相続]]で6万円(特別障害者12万円)。<br /> * 税制上の主な障害者<br /> # 身体障害者手帳(障害の程度1級又は2級は、特別障害者)や精神障害者保健福祉手帳(障害等級1級は、特別障害者)、又は戦傷病者手帳が交付されている人。<br /> # 精神保健福祉センター、児童相談所などの公的機関や精神保健指定医により、知的な障害があると判定された人(重度の知的障害者は、特別障害者)。<br /> # 6か月以上寝たきり又は認知症により日常生活に支障がある65歳以上で、知的障害者又は身体障害者に準ずるものとして、市区町村や福祉事務所から「障害者控除対象者認定書」の交付を受けた人([[介護保険]]の[[要介護認定]]を受けただけでは、障害者控除の対象にならない)。<br /> * その外、特定障害者に対する[[贈与税]]の非課税や、心身障害者扶養共済制度に基づく給付金の非課税、[[少額貯蓄非課税制度]]などがある。<br /> <br /> ==== 社会福祉 ====<br /> <br /> * [[障害年金]]<br /> * [[特別障害者手当]]<br /> * [[身体障害者手帳#福祉サービスの具体的内容]]<br /> * [[障害者手帳#手帳を提示することによる各種サービス]]<br /> * [[難病の患者に対する医療等に関する法律]]<br /> <br /> == 表記・呼称 ==<br /> {{Seealso|障害}}<br /> [[国際人権法]]に基づき、[[2006年]]に[[国際連合総会|国連総会]]で採択された「{{lang-en|Convention on the Rights of Persons with Disabilities}}」([[外務省]]仮訳、[[障害者権利条約|障害者の権利に関する条約]])&lt;ref&gt;[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/shomei_32.html 障害者の権利に関する条約・日本語仮約](外務省)&lt;/ref&gt;は、[[当事者]]に言及する際「{{en|handicapped}}」や「{{en|disabled}}」ではなく、一貫して「{{en|with disabilities}}」の表現を用いている。これらの三語はどれも障害と訳され、{{en|&quot;challenged&quot;}} は「(体の)不自由な」の訳になる。<br /> <br /> === 日本 ===<br /> 戦前は不具者(ふぐしゃ)、不具癈疾者(ふぐはいしつしゃ)などと表記され、一般には「片輪者(かたわもの)」と呼ばれていた。<br /> <br /> 学術用語として、[[1924年]](大正13年)に刊行された[[樋口長市]]の著書『欧米の特殊教育』に、「視覚障碍者」「聴覚障碍者」「言語障碍者」の用例が確認される&lt;ref&gt;『[{{NDLDC|980144}} 欧米の特殊教育]』([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)。&lt;/ref&gt;。[[新聞]]記事は、[[1917年]](大正6年)1月20日付の『[[西日本新聞|福岡日日新聞]]』に「例えば生糸織物工場等は多少影響を蒙るやに想像せらるるも此等の工場が&lt;u&gt;障害者&lt;/u&gt;を生ずる事は甚だ少なきを以て」、[[1921年]](大正10年)12月17日付の『[[大阪毎日新聞]]』に「故に米国では工場法によつて工場主は労働者に賠償の方法を講じてゐるが一時に多数の&lt;u&gt;障害者&lt;/u&gt;を出した場合等が」{{refnest|group=&quot;注&quot;|原文は旧字[[歴史的仮名遣|旧仮名遣い]]。}}の使用例が確認される。「障碍者」「障害者」のいずれも、[[第二次世界大戦]]前のこうした用例は僅少である。<br /> <br /> 「障害者」および「障害者」を意味する「障害」は、[[1949年]](昭和24年)に[[身体障害者福祉法]]が制定されてから一般に用いられ始めた。同法律は、[[当用漢字]]の[[漢字制限|使用制限]]で「障害」「障礙(碍)」のうち「礙(碍)」が使えなくなり「障害」が採用された&lt;ref&gt;{{Cite journal|和書|author=周藤真也|date=2011-03-25|title=〈精神障害者〉の誕生 -心身二元論的世界観の終焉-|journal=早稲田社会科学総合研究|volume=11|issue=3|publisher=早稲田大学社会科学学会|page=8|issn=1345-7640|url=http://hdl.handle.net/2065/38735}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 「碍」は「礙」の俗字である&lt;ref name=&quot;kanwa&quot;&gt;『詳解漢和辞典』第178版 冨山房 (大正11年3月25日 発行)、『三省堂漢和辞典』第12版 三省堂書店 (明治42年7月10日 発行)&lt;/ref&gt;。「障害」「障礙」は、いずれも当用漢字制定前から同じ『さわり・妨げ』を意味する熟語として漢和辞典に掲載されていたが{{refn|group=&quot;注&quot;|「障害」と「障礙」は共に[[明治時代]]から使用例があり、「障害」という表記は「礙」を同音の「害」に単純に置き換えて戦後に造語されたものではないとされる&lt;ref name=&quot;kanwa&quot;/&gt;。}}、現在の「身体の器官や能力に不十分な点があること」は、後年に成立した{{refn|group=&quot;注&quot;|『詳解漢和辞典』第178版にこの意味は記載されていない&lt;ref name=&quot;kanwa&quot;/&gt;。}}。<br /> <br /> ==== 日本語の表記問題 ====<br /> [[File:Signboard of parking area of Fukuoka Child Guidance Center.jpg|thumb|250px|「障害者」を「障がい者」に書き換えた例]]<br /> 「害」の字が好ましくないとして、[[地方公共団体]]などが「&#039;&#039;&#039;障がい者・障がい児・障がい者手帳&#039;&#039;&#039;」と[[平仮名]]と交ぜ書きにする変更している&lt;ref&gt;[http://news.ameba.jp/special/2007/02/3563.html アメーバニュース『表記は「障害者」?それとも「障がい者」?』]2007年2月27日&lt;/ref&gt;。自治体は、「障害者」を「障がい者」に表記を変えるだけで、福祉に配慮した[[地方公共団体]]、福祉に配慮のない地方公共団体という、安易な印象付汚され、語彙に対する深い考察もなく変更してしまう。これについて、「障」「者」「児」の字が入っていても良いのか?と言及されることがある。<br /> <br /> この変更については批判も多く、<br /> # 今まで意識していなかった、負のイメージを逆に意識してしまう。<br /> # 過度な&#039;&#039;&#039;[[言葉狩り]]&#039;&#039;&#039;である。<br /> # [[小学校]]で習う[[常用漢字]]([[教育漢字]]){{refnest|group=&quot;注&quot;|「害」という漢字自体は、小学4年生の課程で習う。}}を否定している。<br /> # 障害者が置かれている実情から、目を背けているだけである。<br /> <br /> との批判もある&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091012/acd0910120913003-n2.htm MSN産経ニュース - 【新国語断想】塩原経央 子ども、障がい者 漢字が悪いわけじゃない] 2009年10月13日&lt;/ref&gt;。議論されること自体が不快とする障害者もいる&lt;ref&gt;{{cite press release | url = http://www.pref.mie.lg.jp/KENKIKA/SOGOH/23460023167.htm | title = 三重県保健・医療・福祉総合情報-「障がい者」の表記に改めます | work = [[三重県庁]] | publisher = [[三重県]] | accessdate = 2016-07-30 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 「障害者」の表記・表現の変更は、賛否両論があるが「『害』の字を不快に感じる人が一人でもいるのであれば」の観点で変更されてきた&lt;ref&gt;[http://www.pref.oita.jp/site/syougai/hyouki.html 「障がい」の表記について - 大分県福祉保健部](2006.2)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[2009年]]([[平成]]21年)12月の[[鳩山由紀夫内閣]]は、[[日本国政府]]が従来の「[[障害者施策推進本部]]」に代えて、「[[障がい者制度改革推進本部]]」を設置し&lt;ref&gt;[https://www.cabrain.net/news/regist.do;jsessionid=5221B3E67487F04407F5BCA72A6AAB0B 障がい者制度改革推進本部を設置―政府](キャリアブレイン)&lt;/ref&gt;、同推進本部に設置されている障害者制度改革推進会議で、法文における表記を「障害」から見直すことも協議されていたが&lt;ref&gt;[http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/s_kaigi/k_5/ 第5回障がい者制度改革推進会議議事次第]&lt;/ref&gt;、2012年(平成24年)7月24日に当本部は廃止された。<br /> <br /> [[佐賀県知事]]・[[古川康]]は、[[2010年]](平成22年)2月に「交ぜ書きは好ましくない」として、推進本部と[[文化審議会]]に対して「碍」を[[常用漢字]]に追加し「障碍者」を採用すべきとした&lt;ref&gt;[http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1552136.article.html 「障害」→「障碍」 佐賀県、国に見直し提案へ]([[佐賀新聞]]、2010年2月17日)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これに対し、[[文化庁]][[文化審議会]]国語分科会は、2010年5月に公表した答申案において、使用される[[熟語]]の少なさや、歴史的に「障碍」は「[[悪魔]]や[[怨霊]]が悟りへの到達を妨げる」とする、否定的な意味を有していたとする調査結果を挙げて、「碍」の[[常用漢字]]追加を拒否する方針を決定&lt;ref&gt;[http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kanji_41/pdf/shiryo4.pdf 要望の多かった「玻・碍・鷹」の扱いについて]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 但し、障がい者制度改革推進会議における議論の結果、同会議より追加の要望が出された場合は、11月に予定されている内閣告示前に改めて協議するものとしていたが、2012年(平成24年)7月24日に当本部は廃止された&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/soukai/pdf/kaitei_kanji_toushin.pdf 改定常用漢字表(答申)] 12ページ。}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、この[[平仮名]]「がい」表記の変更に合わせて、アメリカ合衆国の「ピープル・ファースト」(障害者である前に人間である)の考え方を取り入れて、出来る限り「障害者」ではなく「障がいのある人(方)」と、表記する方針に改めている地方公共団体も多い。しかし「障害者」を「障がい者」「障がいのある方」と、どんなに改めても、そこに障害者が置かれた実情や、ネガティブイメージが定着すると差別用語と化してしまい、根本的な解決には全く至っていない。<br /> <br /> 2015年(平成27年)6月時点で、「障&#039;&#039;&#039;がい&#039;&#039;&#039;」の名称を使用している主な組織としては、次の例がある。<br /> * 公益財団法人[[日本障がい者スポーツ協会]](2014年8月に現名称に変更)&lt;ref&gt;[http://www.jsad.or.jp/about/pdf/jsad_ss_2015_web_150410.pdf 障がい者スポーツの歴史と現状]&lt;/ref&gt;<br /> <br /> [[地方公共団体]]が、文書の表記だけでなく、障害者にかかわる部署名称をクレームを回避するために「障&#039;&#039;&#039;がい&#039;&#039;&#039;」に切り替えている場合が増えている。(障&#039;&#039;&#039;がい&#039;&#039;&#039;福祉課、障&#039;&#039;&#039;がい&#039;&#039;&#039;者自立相談支援センター、視聴覚障&#039;&#039;&#039;がい&#039;&#039;&#039;者情報センター、障&#039;&#039;&#039;がい&#039;&#039;&#039;者総合サポートセンター、障&#039;&#039;&#039;がい&#039;&#039;&#039;者手帳ほか)<br /> <br /> [[政令指定都市]]は、[[千葉市]]市長の[[熊谷俊人]]が「障&#039;&#039;&#039;がい&#039;&#039;&#039;」表記に、「障害者」とは「社会の障害」でも「身体に障害を持つ者」でも無く、「社会との関わりで障害に直面している者」の意味で、その障害を一つひとつ解消していくことが私達が求められていて、「障害」の言葉が引っかかるからこそ、社会的に解消しなければならなく、表現をソフトにすることは、決して[[バリアフリー]]社会の実現に資するものではないと、[[平仮名]]との交ぜ書き表記に断固反対している&lt;ref&gt;{{cite news | author = HuffPost Newsroom | url = http://www.huffingtonpost.jp/2015/05/21/disability-person_n_7349070.html | title = 「障がい者」表記に反対する熊谷俊人・千葉市長、どうして? | language = [[日本語]] | newspaper = [[ハフィントンポスト]] | date = 2015-05-21 | accessdate = 2016-07-16 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 中国・台湾 ===<br /> [[中国大陸]]は伝統的に「残疾人」の呼称が使用されているが、[[儒教]]思想に基づく差別的概念を前提とする呼称と批判が生じて{{要出典|date=2012年9月|}}、障害者権利条約&lt;ref&gt;&lt;span lang=&quot;zh&quot;&gt;[http://www.un.org/chinese/disabilities/convention/ 残疾人权利国际公约]&lt;/span&gt;(国際連合、[[簡体字]]中国語正文)&lt;/ref&gt;の批准に伴う、[[中華人民共和国残疾人保障法]]を始めとする国内法の整備に合わせ、「残疾」を「残障」とする案も提示されていたが、既に市井で「残疾人」が広く使用されているため、呼称の変更を周知するのに時間がかかる、さらには「残障」も十分に理想的な用語とは言えないとの理由で、現行のままとなっている&lt;ref&gt;[http://temp.cdpj.cn/bzfxg/2005-04/05/content_3933.htm 中华人民共和国残疾人保障法修改专题](中国残疾人联合会)&lt;/ref&gt;。[[中華民国]]は、[[繁体字]]を用いて「障礙者」もしくは「障礙人」が用いられている&lt;ref&gt;[http://law.moj.gov.tw/LawClass/LawAll.aspx?PCode=D0050046 身心障礙者權益保障法]([[中華民国]]法務部)[http://www.bwaroc.org.tw/ 中華民國視覺障礙人福利協會]など。&lt;/ref&gt;。[[中国語]]は大陸・台湾とも共通で、[[アクセシビリティ]]あるいは[[バリアフリー]]のことを「無障碍(礙)」と表記する。<br /> <br /> === 英語 ===<br /> [[イギリス英語]]でも「人を前に置く表現」に似た用法があるが、「{{en|people with impairments}}」(たとえば視覚減損を対象にした「{{en|people with visual impairments}}」)と減損に言及が多い。イギリスの場合、「{{en|disabled people}}」の方が人を前に置く表現よりも一般に都合が良い。社会モデルが議論される中で、障害 ({{en|disability}}) はその人の個性であり、例えば車椅子で通勤経路にスロープを設けるなど、公共設備の改善を促す契機に繋がるためである&lt;ref&gt;e.g., [http://www.gcil.org.uk/FileAccess.aspx?id=59 Glascow Centre for Inclusive Living: The Social Model of Disability]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 日本でよく言われる「ハンディキャップ({{en|handicap}})」は、英語圏でもよく使われる表現であるが、本来の語源&lt;ref&gt;[http://www.eigo21.com/etc/kimagure/072.htm 英語勉強サイト「eigo21」 handicap「ハンディキャップ」語源解説]&lt;/ref&gt;とは別に、民間語源によって「物乞いをする人が手にキャップ(帽子)を乗せている状態」を表すとされる&lt;ref&gt;[http://www.uhh.hawaii.edu/~ronald/HandicapDefinition.htm About the Meaning of &quot;Handicap&quot;]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 資料 ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+&#039;&#039;&#039;障害別にみた障害者数の推移&lt;br /&gt;(資料出所:厚生労働省 身体障害者・児実態調査結果の概要)&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> !rowspan=&quot;2&quot;|理由||colspan=&quot;2&quot;|1991||colspan=&quot;2&quot;|1996||colspan=&quot;2&quot;|2001<br /> |-<br /> !実数||比率||実数||比率||実数||比率<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align: left;&quot;|視覚障害||style=&quot;text-align: right;&quot;|353,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|13.0%||style=&quot;text-align: right;&quot;|305,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|10.4%||style=&quot;text-align: right;&quot;|301,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|9.3%<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align: left;&quot;|聴覚言語障害||style=&quot;text-align: right;&quot;|358,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|13.2%||style=&quot;text-align: right;&quot;|350,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|11.9%||style=&quot;text-align: right;&quot;|346,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|10.7%<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align: left;&quot;|肢体不自由||style=&quot;text-align: right;&quot;|1,553,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|57.1%||1,657,000||56.5%||style=&quot;text-align: right;&quot;|1,749,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|53.9%<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align: left;&quot;|内部障害<br /> |style=&quot;text-align: right;&quot;|458,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|16.8%||style=&quot;text-align: right;&quot;|621,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|21.2%||style=&quot;text-align: right;&quot;|849,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|26.2%<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align: left;&quot;|重複障害(再掲)||style=&quot;text-align: right;&quot;|121,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|4.4%||style=&quot;text-align: right;&quot;|179,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|6.1%||style=&quot;text-align: right;&quot;|175,000||style=&quot;text-align: right;&quot;|5.4%<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align: left;&quot;|総数||style=&quot;text-align: right;&quot; colspan=&quot;2&quot;|2,843,000||style=&quot;text-align: right;&quot; colspan=&quot;2&quot;|3,112,000||style=&quot;text-align: right;&quot; colspan=&quot;2&quot;|3,420,000<br /> |}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|30em}}<br /> === 参考文献 ===<br /> {{refbegin}}<br /> * {{cite web |url=http://www.returnondisability.com/pdf-docs/The_Global_Economics_of_Disability_2012.pdf |title=The Global Economics of Disability |accessdate=2012-08-11 |date=2012-03-01 |publisher=Return on Disability |ref=harv|last=Donovan |first=Rich }}<br /> * {{cite web |url=http://waikato.researchgateway.ac.nz/bitstream/10289/460/1/content.pdf |title=Disabled Maori and Disability Support Options |accessdate=2012-08-11 |year=2004 |publisher=Maori&amp;nbsp;&amp; Psychology Research Unit, University of Waikato |ref=harv|first1=Linda Waimari |last1=Nikora |first2=Rolinda |last2=Karapu |first3=Huhana |last3=Hickey |first4=Ngahuia |last4=Te Awekotuku }}<br /> {{refend}}<br /> {{参照方法|date=2017年2月|section=1}}<br /> * 「障害を知ろう!みんなちがって、みんないい」シリーズ([[金の星社]])<br /> * 「知っていますか?障害者の人権一問一答」([[解放出版社]])<br /> <br /> == 障害者のための大学・短期大学・専門学校 ==<br /> {{節スタブ}}<br /> * [[いずみ高等支援学校]] - 仙台市宮城野区安養寺に所在する、高等部と&#039;&#039;&#039;専攻科&#039;&#039;&#039;を設置し、女子のみを受け入れる私立の特別支援学校(「知的障害者に関する教育」を扱う)。<br /> * [[筑波技術大学]] - 聴覚障害・視覚障害を有するものを対象とする大学。<br /> *[[ギャローデット大学]] - 聴覚障害者のための私立大学。ワシントンDC。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * 独立行政法人[[高齢・障害・求職者雇用支援機構]]<br /> ** [[障害者雇用納付金制度]] - 法定雇用率2.0%を下回った場合、不足している障害者1人当たり5万円の納付が必要となる。逆に法定雇用率2.0%を超えた場合、この財源を基に、雇用率や人数に応じて各種調整金や報奨金が雇用会社へ給付される&lt;ref&gt;[http://www.jeed.or.jp/disability/koyounoufu/about_noufu.html 障害者雇用納付金制度の概要](独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構)&lt;/ref&gt;。<br /> * [[障害者差別]]<br /> * [[障害者権利条約]]<br /> * [[統合教育]](インクルージョン)<br /> * [[障害者スポーツ]] - [[パラリンピック]] - [[スペシャルオリンピックス]]<br /> * [[優生学]] - [[欠格]]条項<br /> * [[福祉]]<br /> * [[介護]] - [[ノーマライゼーション]] - [[バリアフリー]] - [[優先席]]<br /> * [[日本の女性専用車両|女性専用車]] - 鉄道事業者の多くは、障害者(介助者含む)の男性の利用を認めている。<br /> * [[障害・福祉・児童関係記事一覧]]<br /> * [[特例子会社]]<br /> * [[病身舞]]<br /> * [[エスキモー]] - 障害者の人口構成が極端に低かった社会。<br /> * [[当事者]]<br /> * [[健常者]]<br /> * [[バリバラ〜障害者情報バラエティー〜]]<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> === 障害に関する法律 ===<br /> * [[障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律]]<br /> * [[障害者基本法]] - [[障害を持つアメリカ人法]]<br /> * [[障害者虐待防止法]]<br /> * [[障害者差別解消法]]<br /> * [[高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律]](通称:ハートビル法)<br /> * [[高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律]](通称:バリアフリー新法)<br /> * [[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律]](通称:交通バリアフリー法)<br /> <br /> === 障害の種類 ===<br /> * [[身体障害]] - [[身体障害者手帳]] - [[身体障害者標識]]<br /> ** [[肢体不自由者]] - [[車椅子]] - [[介助犬]]<br /> ** [[視覚障害者]] - [[盲学校]] - [[点字]] - [[盲導犬]]<br /> ** [[聴覚障害者]] - [[聾学校]] - [[手話]] - [[聴導犬]] - [[聴覚障害者標識]]<br /> ** 重複障害者 - [[盲ろう者]]<br /> ** [[プリント・ディスアビリティ]]<br /> * [[内部障害]](身体障害のうち、心臓機能障害、じん臓機能障害、呼吸器機能障害、ぼうこう・直腸機能障害、小腸機能障害、ヒト免疫不全ウイルスによる免疫機能障害の6つの障害の総称)<br /> ** [[オストメイト]]- [[ストーマ]]- [[人工肛門]] -[[人工膀胱]]<br /> * [[知的障害]] - [[特別支援学級]] - [[特別支援教育]] - [[特別支援学校]] - [[発達検査]] - [[知能検査]] - [[療育手帳]] - [[ピープル・ファースト]]<br /> * [[精神障害]] - [[精神障害者]] - [[精神科|精神科-]][[精神障害者保健福祉手帳]]<br /> * [[難病]] - [[難病法]]<br /> * [[発達障害]]<br /> ** [[自閉症スペクトラム]](ASD)<br /> ** [[注意欠陥・多動性障害]](ADHD)<br /> ** [[学習障害]](LD)<br /> ** [[情緒障害]]<br /> * [[高次脳機能障害]]<br /> <br /> === 障害を扱った作品の一覧 ===<br /> [[障害を扱った作品の一覧]]及び[[:Category:障害を扱った作品]]を参照。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commons|Category:Disabled people}}<br /> &lt;!--Wikipediaはリンク集ではありません!!読者に役立ち、内容を補完するサイトに絞ってください--&gt;<br /> * [http://www.normanet.ne.jp/~jdf/ 日本障害フォーラム]<br /> * [http://www.nissinren.or.jp/ 日本身体障害者団体連合会]<br /> * [http://www.normanet.ne.jp/~nichimo/ 日本盲人会連合]<br /> * [http://www.jdnet.gr.jp/ 日本障害者協議会]<br /> * [http://www.jsad.or.jp/ 日本障害者スポーツ協会]<br /> * [http://www.jsrpd.jp/ 日本障害者リハビリテーション協会]<br /> * [http://dpi-japan.org/ DPI日本会議]<br /> * [http://www.ikuseikai-japan.jp/ 全日本手をつなぐ育成会]<br /> * [http://www.nanbyou.or.jp/ 難病情報センター]<br /> <br /> {{特別支援教育}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:しようかいしや}}<br /> [[Category:障害者|*]]<br /> [[Category:人間]]<br /> <br /> &lt;!--interwiki--&gt;</div> 124.39.100.132 ウィンストン・チャーチル 2018-07-05T09:27:27Z <p>124.39.100.132: /* 大英帝国の没落 */</p> <hr /> <div>{{Redirect|チャーチル|その他のチャーチル|チャーチル (曖昧さ回避)|2017年公開の映画|ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男}}<br /> {{政治家<br /> |人名 = ウィンストン・チャーチル<br /> |各国語表記 = Winston Churchill<br /> |画像 = Sir Winston Churchill - 19086236948.jpg<br /> |画像説明 = チャーチル([[1941年]]、[[ユーサフ・カーシュ]]撮影)<br /> |国略称 ={{GBR}}<br /> |生年月日 = [[1874年]][[11月30日]]<br /> |出生地 = {{GBR}} [[ウッドストック (イングランド)|ウッドストック]] [[ブレナム宮殿]]<br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1874|11|30|1965|1|24}}<br /> |死没地 = {{GBR}} [[ロンドン]]<br /> |出身校 = [[ハーロー校]]&lt;br /&gt;[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]<br /> |前職 = [[軍人]]、[[従軍記者]]<br /> |所属政党 = [[保守党 (イギリス)|保守党]]([[1900年]]-[[1904年]])&lt;br /&gt;[[自由党 (イギリス)|自由党]]([[1904年]]-[[1924年]])&lt;br /&gt;保守党([[1924年]]-[[1964年]])<br /> |称号・勲章 = [[ガーター勲章|ガーター勲章士]](KG)&lt;br /&gt;[[メリット勲章]](OM)&lt;br /&gt;[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)&lt;br /&gt;[[王立協会]][[フェロー]](FRS)&lt;br /&gt;{{仮リンク|コンパニオンズ・オブ・オーナー勲章|en|Order of the Companions of Honour}}(CH)&lt;br /&gt;{{仮リンク|州副知事|en|Deputy Lieutenant|FIXME=1}}(DL)<br /> |親族(政治家) = [[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|第7代マールバラ公爵ジョン]](祖父)&lt;br /&gt;[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ卿]](父)&lt;br /&gt;{{仮リンク|ランドルフ・チャーチル (1911-1968)|label=ランドルフ|en|Randolph Churchill}}(長男)<br /> |配偶者 = [[クレメンタイン・チャーチル|クレメンティーン・チャーチル]]<br /> |サイン = Sir Winston Churchill signature.svg<br /> |国旗 = GBR<br /> |職名 = [[イギリスの首相|首相]]<br /> |就任日 = [[1940年]][[5月10日]] - [[1945年]][[7月26日]]{{Sfn|秦|2001|p=511}}&lt;br /&gt;[[1951年]][[10月26日]]<br /> |退任日 = [[1955年]][[4月5日]]{{Sfn|秦|2001|p=514}}<br /> |元首職 = [[イギリスの君主|国王]]&lt;br /&gt;女王<br /> |元首 = [[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]&lt;br /&gt;[[エリザベス2世]]<br /> |国旗2 = GBR<br /> |職名2 = {{仮リンク|海軍大臣 (イギリス)|label=海軍大臣|en|First Lord of the Admiralty}}<br /> |内閣2 = [[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]内閣(自由党)&lt;br /&gt;[[ネヴィル・チェンバレン|チェンバレン]]内閣(保守党)<br /> |就任日2 = [[1911年]][[10月23日]] - [[1915年]][[5月26日]]{{Sfn|秦|2001|p=512}}&lt;br /&gt;[[1939年]][[9月3日]]<br /> |退任日2 = [[1940年]][[5月10日]]{{Sfn|秦|2001|p=512}}<br /> |国旗3 = GBR<br /> |職名3 = [[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]<br /> |内閣3 = 第2次[[スタンリー・ボールドウィン|ボールドウィン]]内閣(保守党)<br /> |就任日3 = [[1924年]][[11月6日]]<br /> |退任日3 = [[1929年]][[6月4日]]{{Sfn|秦|2001|p=512}}<br /> |国旗4 = GBR<br /> |職名4 = [[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]<br /> |内閣4 = [[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]内閣(自由党)<br /> |就任日4 = [[1910年]][[2月14日]]<br /> |退任日4 = [[1911年]]10月{{Sfn|秦|2001|p=511}}<br /> |国旗5 = GBR<br /> |職名5 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員<br /> |就任日5 = [[1900年]][[10月1日]] - [[1908年]][[4月24日]]&lt;ref name=hansard/&gt;<br /> &lt;br/&gt;[[1908年]][[5月9日]] - [[1922年]][[11月15日]]&lt;ref name=hansard/&gt;&lt;br /&gt;[[1924年]][[10月29日]]<br /> |退任日5 = [[1964年]][[10月15日]]&lt;ref name=hansard/&gt;<br /> |選挙区5 = {{仮リンク|オールダム選挙区|en|Oldham (UK Parliament constituency)}}&lt;ref name=hansard/&gt;&lt;br /&gt;{{仮リンク|マンチェスター・ノース・ウェスト選挙区|en|Manchester North West (UK Parliament constituency)}}&lt;ref name=hansard/&gt;&lt;br /&gt;{{仮リンク|ダンディー選挙区|en|Dundee (UK Parliament constituency)}}&lt;ref name=hansard/&gt;&lt;br/&gt;{{仮リンク|エッピング選挙区|en|Epping (UK Parliament constituency)}}&lt;ref name=hansard/&gt;<br /> |国旗6 = GBR<br /> |その他職歴1 = [[保守党 (イギリス)|保守党]]党首<br /> |就任日6 = [[1940年]][[10月9日]]<br /> |退任日6 = [[1955年]][[4月5日]]{{Sfn|秦|2001|p=542}}<br /> |国旗7 = GBR<br /> |その他職歴2 = [[国防担当閣外大臣]]<br /> |就任日7 = [[1940年]][[5月11日]] - [[1945年]][[7月27日]]{{Sfn|秦|2001|p=513}}&lt;br /&gt;[[1951年]][[10月28日]]<br /> |退任日7 = [[1952年]][[3月1日]]{{Sfn|秦|2001|p=516}}<br /> |その他職歴3 = {{仮リンク|植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}<br /> |国旗8 = GBR<br /> |就任日8 = [[1921年]][[2月14日]]<br /> |退任日8 = [[1922年]][[10月19日]]{{Sfn|秦|2001|p=513}}<br /> |その他職歴4 = {{仮リンク|戦争大臣 (イギリス)|label=戦争大臣|en|Secretary of State for War}}<br /> |国旗9 = GBR<br /> |就任日9 = [[1919年]][[1月10日]]<br /> |退任日9 = [[1921年]]2月{{Sfn|秦|2001|p=512}}<br /> |その他職歴5 = {{仮リンク|航空大臣 (イギリス)|label=航空大臣|en|Secretary of State for Air}}<br /> |国旗10 = GBR<br /> |就任日10 = [[1919年]][[1月10日]]<br /> |退任日10 = [[1921年]][[2月13日]]{{Sfn|秦|2001|p=512}}<br /> |その他職歴6 = {{仮リンク|軍需大臣 (イギリス)|label=軍需大臣|en|Minister of Munitions}}<br /> |国旗11 = GBR<br /> |就任日11 = [[1917年]][[7月17日]]<br /> |退任日11 = [[1919年]][[1月10日]]{{Sfn|秦|2001|p=514}}<br /> |その他職歴7 = {{仮リンク|ランカスター公領担当大臣|en|Chancellor of the Duchy of Lancaster}}<br /> |国旗12 = GBR<br /> |就任日12 = [[1915年]][[5月28日]]<br /> |退任日12 = [[1915年]][[11月11日]]{{Sfn|ペイン|1993|p=395}}<br /> |その他職歴8 = {{仮リンク|ビジネス・イノベーション・職業技能大臣|label=通商大臣|en|President of the Board of Trade}}<br /> |国旗13 = GBR<br /> |就任日13 = [[1908年]][[4月12日]]<br /> |退任日13 = [[1910年]]2月{{Sfn|秦|2001|p=513}}<br /> }}<br /> {{thumbnail:begin}}<br /> {{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1953年|ノーベル文学賞|歴史や伝記の記述の熟達に加え、高揚した人間の価値についての雄弁な庇護者であること}}<br /> {{thumbnail:end}}<br /> &#039;&#039;&#039;ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル&#039;&#039;&#039;({{lang-en|[[サー|Sir]] Winston Leonard Spencer-Churchill}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[メリット勲章|OM]], [[:en:Order of the Companions of Honour|CH]], [[:en:Territorial Decoration|TD]], [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[:en:Deputy Lieutenant|DL]], [[王立協会|FRS]], [[ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ|Hon. RA]]}}、[[1874年]][[11月30日]] - [[1965年]][[1月24日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[軍人]]、[[作家]]。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[サンドハースト王立陸軍士官学校]]で軽騎兵連隊に所属し、[[第二次キューバ独立戦争]]を観戦し、[[イギリス領インド]]で[[パシュトゥーン人]]反乱鎮圧戦、[[スーダン]]侵攻、[[ボーア戦争#第二次ボーア戦争|第二次ボーア戦争]]に従軍した。[[1900年]]のイギリス総選挙にオールダム選挙区から保守党候補として初当選。しかし[[ジョゼフ・チェンバレン]]が[[保護貿易]]論を主張すると、[[自由貿易]]主義者として反発し保守党から[[自由党 (イギリス)|自由党]]へ移籍した。[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]自由党政権が発足すると、植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人融和政策や[[中国人]][[奴隷]]問題の処理など英領南アフリカ問題に取り組んだ。[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]内閣では通商大臣・内務大臣に就任し、[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]とともに急進派として[[失業保険]]制度など[[社会改良]]政策に尽力、この体験を通じて暴動や[[ストライキ]]運動に直面し[[社会主義]]への敵意を強めた。<br /> <br /> [[ドイツ]]との[[建艦競争]]が激化する中、海軍大臣に就任。[[第一次世界大戦]]時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導した。しかし[[アントワープ]]防衛や[[ガリポリの戦い|ガリポリ上陸作戦]]で惨敗を喫し、辞任した。しかしロイド・ジョージ内閣で軍需大臣として再入閣。戦後は戦争大臣と航空大臣に就任し、[[ロシア革命]]を阻止すべく反共産主義戦争を主導し、赤軍の[[ポーランド・ソビエト戦争|ポーランド侵攻]]は撃退した。だが、首相は干渉戦争を快く思わず、植民地大臣への転任を命じられ、イギリス[[委任統治領]]の[[イラク]]や[[パレスチナ]]政策、ユダヤ人のパレスチナ移民を推し進めた。[[ラムゼイ・マクドナルド|マクドナルド]]内閣に反社会主義の立場から自由党を離党し、保守党へ復党した。[[スタンリー・ボールドウィン]]内閣では[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]を務め、新興国[[アメリカ]]や[[日本]]の勃興でイギリス貿易が弱体化する中、[[金本位制]]復帰を行ったが失敗し、労働党政権となった。<br /> <br /> [[1930年代]]には停滞したが、インド自治政策やドイツ[[ナチ党]]への融和政策に反対した。[[第二次世界大戦]]を機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰したが、[[ヴェーザー演習作戦|北欧戦]]で惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレン首相に帰せられ、1940年に後任として[[イギリスの首相|首相]]職に就き、[[1945年]]まで戦争を主導した。[[西方電撃戦]]、[[ギリシャ・イタリア戦争]]、[[北アフリカ戦線]]でドイツ軍に敗北するが、[[バトル・オブ・ブリテン]]では撃退に成功した。[[独ソ戦]]開始のため[[ソ連]]と協力し、またアメリカとも同盟関係となった。<br /> <br /> しかし[[1941年]]12月以降の[[日本軍]]参戦後に、東方植民地である[[香港]]や[[シンガポール]]をはじめとする[[マレー半島]]一帯のイギリス軍の相次ぐ陥落や[[インド洋]]からの放逐などの失態を犯した上に、[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]による[[トブルク]]陥落でイギリスの威信が傷付き、何とかイギリスの植民地として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招いた。<br /> <br /> [[1944年]]6月に[[ノルマンディー上陸作戦]]で攻勢に転じたものの、1945年5月にドイツが降伏すると労働党が挙国一致内閣を解消し、総選挙で保守党は惨敗した。第二次世界大戦で[[戦勝国]]の地位を獲得した中、チャーチルは野党党首に落ちたものの[[冷戦]]下で独自の反共外交を行い、[[ヨーロッパ合衆国]]構想などを推し進めた。イギリスは[[アメリカ]]と[[ソ連]]に並ぶ戦勝国の地位を得たが、大戦終結後に労働党政権がインド等の植民地を手放していくことを[[帝国主義]]の立場から批判し、植民地独立の阻止に力を注いだが、[[大英帝国]]は植民地のほぼ全てを失うこととなり、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。<br /> <br /> [[1951年]]に再び首相を務め、米ソに次ぐ[[原爆]]保有を実現し、[[東南アジア条約機構]](SEATO)参加など反共政策も進めた。[[1953年]]、[[ノーベル文学賞]]受賞。[[1955年]]に[[アンソニー・イーデン]]に首相職を譲って政界から退いた。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 出生 ===<br /> [[File:Randolph churchill.jpg|200px|thumb|父・ランドルフ卿]]<br /> [[File:JennieChurchill0001.jpg|200px|thumb|母・ジャネット・ジェローム]]<br /> 父[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル]][[卿]]は、第7代マールバラ公爵[[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|ジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチル]]の三男で{{Sfn|ペイン|1993|p=27}}、1874年春にマールバラ公爵家の領地であるウッドストック選挙区から出馬して[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に初当選した[[保守党 (イギリス)|保守党]]の政治家であった{{Sfn|ペイン|1993|p=38}}{{Sfn|河合|1998|p=20}}。母[[ジャネット・ジェローム]](愛称ジェニー)は[[アメリカ人]]投機家レナード・ジェロームの次女だった{{Sfn|ペイン|1993|p=34}}。1873年8月12日に[[ワイト島]]の{{仮リンク|カウズ|en|Cowes}}に停泊したイギリス商船上のパーティーでジャネットとランドルフ卿は知り合い、3日後に婚約した。ランドルフ卿の父ははじめ身分が違うと反対していたが、ジェローム家が金持ちであることから結局了承し、二人は1874年4月にパリのイギリス大使館で結婚し{{Sfn|河合|1998|pp=21-22}}{{Sfn|ペイン|1993|pp=37-38}}、[[ロンドン]]で暮らした{{Sfn|河合|1998|p=22}}。<br /> <br /> [[File:Blenheim Palace, Woodstock, Oxon. - geograph.org.uk - 801177.jpg|200px|thumb|チャーチルが生まれた祖父の居城ブレナム宮殿]]<br /> <br /> [[1874年]][[11月30日]]午前1時30分頃、父母の長男が[[オックスフォードシャー]]ウッドストックにある[[マールバラ公爵]]家自邸の[[ブレナム宮殿]]で生まれる{{Sfn|サンズ|1998|p=18}}{{Sfn|ペイン|1993|p=42}}{{Sfn|山上|1960|p=3}}。この日は聖アンドリューの日であり、ブレナム宮殿でマールバラ公爵主催の舞踏会が予定されていた{{Sfn|ペイン|1993|p=42}}。結婚して7カ月半で長男を儲けたのだった{{Sfn|河合|1998|p=22}}。スペンサー=チャーチル家の伝統で[[代父]](祖父レナード・ジェローム)の名前をミドルネームとしてもらい、ウィンストン・レナードと名付けられた{{Sfn|サンズ|1998|pp=26-27}}(以下、チャーチルと表記)。<br /> <br /> チャーチルは[[12月27日]]にブレナム宮殿内の礼拝堂で[[洗礼]]を受けた{{Sfn|サンズ|1998|p=27}}。新年を迎えるとランドルフ卿一家はロンドンの自邸へ帰り、[[乳母]]エリザベス・エヴェレストが養育した{{Sfn|サンズ|1998|p=27}}{{Sfn|山上|1960|pp=5-6}}。[[ヴィクトリア朝]]の上流階級では子供の養育は乳母に任せ、親と子供はほとんど関わりを持たず、時々顔を見るだけという関係であることが多かった。チャーチルの両親の場合、政界と社交界での活動が忙しかったので特にその傾向が強かった{{Sfn|河合|1998|p=33}}{{Sfn|サンズ|1998|p=35}}。<br /> <br /> ;アイルランドでの幼少期<br /> [[File:Churchill 1881 ZZZ 7555D.jpg|200px|thumb|7歳の頃のチャーチル(アイルランド・ダブリン)]]<br /> <br /> [[1876年]]にランドルフ卿は兄[[ジョージ・スペンサー=チャーチル (第8代マールバラ公)|ブランドフォード侯爵ジョージ]]と[[プリンス・オブ・ウェールズ|皇太子]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード・アルバート]](後の英国王エドワード7世)の愛人争いに首を突っ込んで、皇太子の不興を買い、皇太子から決闘を申し込まれるまでの事態となり、イギリス社交界における立場を失った{{Sfn|河合|1998|p=23}}{{Sfn|ペイン|1993|pp=43-44}}{{Sfn|森|1987|pp=265-266}}。仲裁した[[イギリスの首相|首相]]・保守党党首[[ベンジャミン・ディズレーリ]]からほとぼりが冷めるまでイングランド外にいるよう勧められたランドルフ卿は、[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]に任命された父マールバラ公の秘書として妻や2歳の息子を伴って[[1877年]][[1月9日]]に[[アイルランド]]に赴任した{{Sfn|河合|1998|p=23}}{{Sfn|ペイン|1993|p=44}}{{Sfn|サンズ|1998|pp=28-29}}。<br /> <br /> アイルランドにおいては公爵夫妻は[[ダブリン]]の[[フェニックス・パーク]]の総督官邸、ランドルフ卿一家はその近くのリトル・ラトラで暮らした{{Sfn|ペイン|1993|p=45}}。チャーチルにとってアイルランドは「記憶している最初の場所」であったと回顧録で書いている{{Sfn|河合|1998|p=23}}。<br /> <br /> アイルランドでも引き続き乳母エヴェレストが養育にあたっていた{{Sfn|ペイン|1993|p=45}}{{Sfn|ペイン|1993|p=47}}。チャーチルは乳母を「ウーマニ」と呼んで慕い、8歳になるまで彼女の側から離れることはほとんどなかった{{Sfn|ペイン|1993|p=27}}{{Sfn|ペイン|1993|p=32}}{{Sfn|ペイン|1993|p=47}}。チャーチルは後年まで彼女の写真を自室に飾り{{Sfn|河合|1998|p=34}}、「思慮のないところに感情はない(他人に冷淡な者は知能が弱い)」という彼女の言葉を謹言にしたという{{Sfn|ペイン|1993|p=47}}。またこの頃から[[家庭教師]]が付けられるようになったが、チャーチルは幼少期から勉強が嫌いだったという{{Sfn|サンズ|1998|pp=33-34}}。[[1879年]]の大飢饉後、アイルランドの政治情勢は不穏になり、アイルランド独立を目指す秘密結社[[フェニアン]]の暴力活動が盛んになっていった。そのため乳母エヴェレストもチャーチルが総督の孫として狙われるのではと常に気を揉んだという{{Sfn|河合|1998|p=24}}{{Sfn|サンズ|1998|p=30}}。<br /> <br /> 1880年2月4日、弟ジョン・ストレンジがダブリンで生まれる。ランドルフ卿の子供はチャーチルとこのジョン・ストレンジの二人のみである{{Sfn|サンズ|1998|p=34}}{{Sfn|ペイン|1993|p=48}}。チャーチルは基本的にこの弟と仲良く育った{{Sfn|サンズ|1998|p=68}}。ただチャーチルが幼いころに集めていた1500個のおもちゃの兵隊で弟と遊ぶ時、白人兵士はチャーチルが独占し、弟にはわずかな黒人兵士しか与えなかったという。チャーチルは黒人兵士のおもちゃに小石をぶつけたり、溺れさせたりし、弟の黒人軍隊が蹴散らされて終わるというのがお約束だった{{Sfn|ペイン|1993|p=49}}。<br /> <br /> この直後に1880年イギリス総選挙があり、ランドルフ卿もウッドストック選挙区から再選すべく、一家そろってイングランドに帰国し、再選を果たした{{Sfn|サンズ|1998|p=34}}。しかし保守党は大敗し、ディズレーリ内閣は総辞職し、マールバラ公もアイルランド総督職を辞した{{Sfn|河合|1998|p=25}}{{Sfn|サンズ|1998|p=34}}。<br /> <br /> === 学生生活 ===<br /> ;聖ジョージ・スクール<br /> [[File:Churchill at School in Hove C. 1884 s.jpg|200px|thumb|1884年のチャーチル]]<br /> 1882年、8歳を目前にしたチャーチルは、父の決定でバークシャー州アスコットの聖ジョージ・スクールに入学した{{Sfn|河合|1998|p=348}}{{Sfn|サンズ|1998|p=41}}{{Sfn|ペイン|1993|pp=52-53}}。<br /> <br /> チャーチルは落ちこぼれだった。成績は全教科で最下位、体力もなく、遊びも得意なわけではなく、クラスメイトからも嫌われているという問題児で{{Sfn|ペイン|1993|p=54}}、校長からもよく[[鞭打ち]]に処された{{Sfn|ペイン|1993|p=56}}{{Sfn|サンズ|1998|p=54}}。{{#tag:ref|この学校の生徒である作家{{仮リンク|モーリス・ベアリング|en|Maurice Baring}}によると、チャーチルは食堂から砂糖を盗んだ廉で校長から鞭打ち刑に処された際、反省するどころか、校長が大事にしていた麦わら帽子を踏み潰すという暴挙にでたという。ベアリングは「チャーチルはあの学校にいた間ずっと権力と衝突してばかりだった」と語っている{{Sfn|サンズ|1998|pp=48-49}}{{Sfn|ペイン|1993|p=56}}。|group=注釈}}。チャーチル自身もこの学校には良い思い出がなく、悲惨な生活をさせられたと回顧している{{Sfn|サンズ|1998|p=48}}。<br /> <br /> 1884年夏、乳母がチャーチルの身体に鞭で打たれた跡を見つけて、母ジャネットの判断で退学した。アメリカ人である母はイギリス上流階級の[[サディスティック]]な教育方法に慣れておらず、鞭打ちのような教育方法を嫌悪していたという{{Sfn|サンズ|1998|p=54}}。<br /> <br /> ;ブライトン寄宿学校<br /> つづいて[[ブライトン]]にある名もなき寄宿学校に入学した{{Sfn|サンズ|1998|p=56}}{{Sfn|ペイン|1993|pp=56-57}}。この学校は聖ジョージ・スクールと比べれば居心地が良かったらしく、「そこには私がこれまでの学校生活で味わったことのない、親切と共感があった。」と回顧している{{Sfn|サンズ|1998|p=56}}。この頃には父ランドルフ卿が保守党の中でも著名な政治家の一人になっていたので、その七光りでチヤホヤされるようになったことも影響しているとされる{{Sfn|河合|1998|p=35}}。チャーチルは巷で自分の父が「[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]首相のライバル」などと大政治家視されているのを聞いて嬉しくなり、この頃から政治に関心を持つようになった。学校でも「[[ノンポリ]]はバカなのだろう」などと公言していた{{Sfn|山上|1960|p=7}}。<br /> <br /> 成績は、品行はクラス最低だが、[[英語]]、古典、図画、[[フランス語]]はクラスで7番目から8番目ぐらいだった{{Sfn|ペイン|1993|pp=56-57}}。[[乗馬]]や[[水泳]]に熱中し{{Sfn|ペイン|1993|p=57}}{{Sfn|山上|1960|p=7}}、作文にも関心をもった{{Sfn|河合|1998|p=35}}。<br /> <br /> 父ランドルフ卿は[[1886年]]成立の[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]内閣で[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]・[[庶民院院内総務]]に就任し、次期首相の地位を固めた。ところが同年のうちにソールズベリー侯爵に見限られる形で辞職、事実上失脚することとなった{{Sfn|山上|1960|p=11}}{{Sfn|神川|2011|p=406}}{{Sfn|サンズ|1998|p=175}}。<br /> {{-}}<br /> <br /> ;ハーロー校<br /> [[File:Jennie Churchill with her sons.jpg|200px|thumb|弟ジョン・ストレンジ(左)、母ジャネット(中央)、チャーチル(右)、1889年]]<br /> [[1888年]]3月、[[パブリック・スクール]]の[[ハーロー校]]の入試を受けた。試験の出来はいまいちで、苦手な[[ラテン語]]にいたっては氏名記入欄以外、白紙答案で提出していたが、元大蔵大臣ランドルフ卿の息子であるため、校長の判断で合格した。ただしクラスは最も落ちこぼれのクラスに入れられた{{Sfn|ペイン|1993|p=58}}{{Sfn|山上|1960|p=8}}{{Sfn|河合|1998|pp=35-36}}。スペンサー=チャーチル家は伝統的に[[イートン校]]に入学することが多いが、チャーチルは病弱だったため、[[テムズ川]]の影響で湿気がひどいイートン校は避けたとされる{{Sfn|山上|1960|p=8}}{{Sfn|河合|1998|p=35}}。<br /> <br /> ハーロー校での成績は悪かった{{Sfn|ペイン|1993|p=58}}{{Sfn|山上|1960|p=9}}。無くし物が多く、遅刻が多く、突然勉強し始めたかと思うと全くやらなくなるという気分のムラが激しかったという{{Sfn|ペイン|1993|p=58}}。ハーロー校でも校長から二回鞭打ちの刑に処された{{Sfn|サンズ|1998|p=149}}。また当時のハーロー校では下級生は上級生に雑用として仕えなければならなかったが、チャーチルは上級生に反抗的だったため、上級生からもしばしば鞭打ちの刑に処されたという{{Sfn|ペイン|1993|p=60}}。<br /> <br /> しかしチャーチルはこの学校の軍事教練の授業が好きであり、射撃や[[フェンシング]]や[[水泳]]も得意だった{{Sfn|ペイン|1993|p=59}}{{Sfn|ペイン|1993|p=62}}{{Sfn|山上|1960|p=9}}{{Sfn|サンズ|1998|p=133}}{{Sfn|サンズ|1998|p=170}}。また落ちこぼれクラスに入れられたおかげで難しい古典は免除され、英語だけやればいいことになったので逆に英語力を特化して伸ばすことができた{{Sfn|河合|1998|p=36}}{{Sfn|山上|1960|p=8}}。「ハーローヴィアン」という校内雑誌に投書したり、詩も書くようにもなり、文章の才能を磨いていった{{Sfn|ペイン|1993|p=60}}。<br /> <br /> 当時のハーロー校には[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]への進学を目指す「軍人コース」があり、劣等生は大抵ここに進んだ。ランドルフ卿も成績の悪い息子チャーチルは軍人コースに入れるしかないと考えていた{{Sfn|河合|1998|p=38}}{{Sfn|ペイン|1993|p=62}}。チャーチルが子供部屋でおもちゃの兵隊を配置に付かせて遊んでいる時に父が部屋に入って来て「陸軍に入る気はないか」と聞き、それに対してチャーチルがイエスと答えたことで最終的に進路が決まった{{Sfn|河合|1998|p=38}}{{Sfn|サンズ|1998|pp=124-125}}。<br /> <br /> しかしサンドハースト王立陸軍士官学校も入試で多少の数学の知識を要求したため、ハーロー校在学中にチャーチルが二度受けた入試はともに不合格だった{{Sfn|河合|1998|p=38}}{{Sfn|ペイン|1993|p=62}}。校長の薦めでチャーチルはサンドハースト陸軍学校入試用の予備校に入学した。出題内容や傾向をかなり正確に分析してくれる予備校であり、チャーチルによれば「生まれつきのバカでない限り、ここに入れば誰でもサンドハースト王立陸軍士官学校に合格できる」予備校だった{{Sfn|河合|1998|p=38}}{{Sfn|サンズ|1998|p=187}}。<br /> {{-}}<br /> <br /> ;サンドハースト王立陸軍士官学校<br /> [[File:Winston Churchill 1874 - 1965 ZZZ5426F.jpg|200px|thumb|1895年2月、第4女王所有軽騎兵連隊に入隊したチャーチル]]<br /> 18歳の時の[[1893年]]6月、サンドハースト王立陸軍士官学校の入試に三度目の挑戦をして合格した。しかし成績は良くなかったので{{#tag:ref|この時のチャーチルの成績は製図72点、自由製図68点、国史64点、数学62点、英作文62点、フランス語61点、化学41点、ラテン語18点で総受験者数389人中95位となっている{{Sfn|ペイン|1993|p=64}}。|group=注釈}}、父が希望していた歩兵科の士官候補生にはなれず、騎兵科の士官候補生になった{{Sfn|ペイン|1993|p=64}}{{Sfn|山上|1960|p=12}}。騎兵将校は[[ポロ]]用の馬などの費用がかかり{{Sfn|河合|1998|p=47}}、そのため騎兵将校は人気がなく成績が悪い者が騎兵に配属されていた{{Sfn|河合|1998|p=38}}。<br /> <br /> こうして幼時から軍隊に憧れていたチャーチルは[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の軍隊の軍人となった{{Sfn|ペイン|1993|p=64}}。数学や古典に悩まされることはなくなり、地形学、戦略、戦術、地図、戦史、軍法、軍政など興味ある分野の学習に集中することができるようになった{{Sfn|山上|1960|p=12}}{{Sfn|ペイン|1993|p=66}}。とりわけ[[アメリカ独立戦争]]と[[普仏戦争]]に強い興味を持った{{Sfn|ペイン|1993|p=66}}。<br /> <br /> ただしこの頃、父の家計はかなり苦しくなっており、チャーチルに十分な仕送りはできなくなっていた{{Sfn|サンズ|1998|p=208}}。そのためチャーチルも馬のことで随分苦労し、将来の将校としての給料を担保に借金して馬を賃借りしている{{Sfn|河合|1998|p=41}}{{Sfn|ペイン|1993|p=66}}。<br /> <br /> 1894年12月に130人中20位という好成績で士官学校を卒業し、[[オールダーショット]]駐留の軽騎兵第4連隊に配属された{{Sfn|河合|1998|p=42}}{{Sfn|ペイン|1993|p=69}}。<br /> <br /> ;父の死<br /> 父ランドルフ卿は[[梅毒]]に罹り、健康状態は数年前から悪化し続けていた{{Sfn|河合|1998|p=31}}。ランドルフ卿は1894年6月に最後の思い出作りでジャネットとともに[[アメリカ]]や[[日本]]などの諸外国、また英領[[香港]]、英領[[シンガポール]]、英領[[ラングーン]]などアジアのイギリス植民地を歴訪する世界旅行に出た。この両親不在の間にチャーチルは医者から父の詳しい病状を聞き出し、父が助かる見込みがないことを知らされたという{{Sfn|河合|1998|p=41}}。父は帰国直後の[[1895年]][[1月24日]]、45歳で死去し{{Sfn|山上|1960|p=12}}、首相ら大物政治家が列席した{{Sfn|河合|1998|p=42}}{{Sfn|ペイン|1993|p=70}}{{#tag:ref|なおチャーチルはこの70年後、父と全く同じ日に死去することになる{{Sfn|サンズ|1998|pp=264-265}}。|group=注釈}}。チャーチルは「父と同志になりたいという夢、つまり議会入りして父の傍らで父を助けたいという夢は終わった。私に残された道は父の思い出を大切にし、父の意志を継ぐことだけだった」と書いている{{Sfn|河合|1998|p=42}}{{Sfn|サンズ|1998|p=267}}。父の死によって家長となったチャーチルは、逼迫したチャーチル家の家計をしょって立たねばならなくなった。父が晩年に[[ロスチャイルド家]]から融資を受けて購入していた南アフリカ金鉱株は南アフリカ景気で20倍に高騰したが、しかし相続した借金の返済に充てられた{{Sfn|河合|1998|p=47}}。<br /> <br /> 同年7月には乳母エヴェレストも死去し、チャーチルは「私の20年の人生で最も親密な友人だった」と評して悲しんだ{{Sfn|サンズ|1998|p=267}}{{Sfn|山上|1960|p=13}}。彼女の葬儀はチャーチルが一切を手配した{{Sfn|ペイン|1993|p=70}}。<br /> <br /> === 軍人として ===<br /> 父の死の翌月から[[オールダーショット]]に任官し訓練を受けたが、自由主義と民主主義の発展の結果、戦争はなくなるのではないかと考え、すでにこの時に軍人は「私の生涯の仕事ではない」と考えるようになっていた{{Sfn|河合|1998|p=43}}。<br /> <br /> ==== キューバ反乱鎮圧戦の観戦 ====<br /> 騎兵将校になったチャーチルは、戦争が起きる気配がないことを残念に思い、[[ナポレオン戦争]]時代に生まれたかったとよく愚痴をこぼしていた{{Sfn|山上|1960|p=14}}。そんな中の[[1895年]]、スペイン領キューバで[[スペイン]]の支配に抗するマクシモ・ゴメスや[[ホセ・マルティ]]らの反乱が勃発した([[第二次キューバ独立戦争]])。関心を持ったチャーチルは軍から2ヶ月半の長期休暇をもらい{{#tag:ref|騎兵将校はかなり暇な仕事であり、毎年5ヶ月休暇がもらえる{{Sfn|ペイン|1993|p=71}}。|group=注釈}}、さらにスペイン政府にキューバの反乱鎮圧に協力したいと申し出て、キューバ渡航の許可を得た{{Sfn|山上|1960|p=14}}。<br /> <br /> こうして1895年11月初め、同僚レジナルド・バーンズとともにキューバへ向けて出港した。途中[[ニューヨーク]]に立ち寄り、母方の祖父レナード・ジェロームの友人である[[アメリカ合衆国下院|アメリカ下院議員]]ウィリアム・バーク・コクランから歓迎された{{Sfn|河合|1998|pp=43-44}}{{Sfn|ペイン|1993|p=71}}。チャーチルは政界進出の野望を持っていたので、コクランから演説手法について色々と手ほどきを受けた{{Sfn|ペイン|1993|p=72}}。またコクランの紹介でニューヨーク市内の各所を見学したが、とりわけ裁判所に驚いた。法廷が普通の部屋であり、裁判官も検事も弁護士もイギリスのようにカツラや法服を着用せず平服で出廷してきたからである。チャーチルは「伝統や威厳などまったくなかった。それでも絞首刑判決を下せるというのは、大したことだ。」と感心している{{Sfn|ペイン|1993|p=72}}。<br /> <br /> キューバに到着した後はスペイン軍と行動を共にした。チャーチルはこの従軍中にキューバ製[[葉巻]]と昼寝の習慣を身につけたという{{Sfn|河合|1998|p=45}}{{Sfn|ペイン|1993|p=73}}{{Sfn|山上|1960|p=15}}。またこの戦争中、チャーチルは『デイリー・グラフィック』紙と特派員契約をしており、報告書を同新聞社に送り{{Sfn|ペイン|1993|p=71}}{{Sfn|ペイン|1993|p=74}}、特派員として戦地に赴くことは、いい小遣い稼ぎになることを知った{{Sfn|河合|1998|pp=45-46}}。<br /> <br /> 21歳の誕生日である1895年11月30日に初めて実戦経験を得た。道で朝食をとっていたところ、ゲリラの銃弾が顔のすぐ近くをかすめ、敵はすぐに姿を消した{{Sfn|河合|1998|pp=45-46}}{{Sfn|ペイン|1993|p=74}}{{Sfn|山上|1960|pp=14-15}}。数日後にも銃撃戦に遭遇し、敵は30分ほど銃撃を続けて撤退した。チャーチルは戦功を立てることはできなかったが、初めて戦死者を見た{{Sfn|ペイン|1993|pp=74-75}}。<br /> <br /> チャーチルは圧政に抗しようという反乱の精神には一定の理解を持っていたが、ゲリラの野蛮な戦法は嫌っており、それに勇敢に立ち向かうスペイン軍人たちを尊敬していた{{Sfn|河合|1998|p=45}}{{Sfn|ペイン|1993|p=73}}。またスペイン軍人と話しているうちにスペイン人は決してキューバ人を憎んでおらず、イングランド人がアイルランド人に対して持っているような感情をキューバ人に対して持っていると考えるようになった{{Sfn|河合|1998|p=45}}。<br /> <br /> ==== 英領インド勤務 ====<br /> [[File:Churchillpoloindia0001.jpg|200px|thumb|1897年インド勤務時代のチャーチル。[[ポロ]]用の馬とインド人召使とともに]]<br /> イギリスに帰国したチャーチルは、ますます苦しくなっていた家計のために更なる従軍経験と特派員としての原稿料を渇望し、[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]の支配に抗して蜂起した[[クレタ島]]、{{仮リンク|ジェームソン侵入事件|en|Jameson Raid}}が発生した南アフリカなどに特派員として赴く事を希望し、母を通じて各方面に手をまわしたが、実現しなかった{{Sfn|河合|1998|pp=46-47}}。<br /> <br /> 1896年冬に第4女王所有軽騎兵連隊とともにチャーチルは[[イギリス領インド帝国]]に転勤となった{{Sfn|河合|1998|p=48}}{{Sfn|山上|1960|p=15}}。インド駐留のイギリス軍将校はまるで王侯のように暮らし、日常生活をすべてインド人召使に任せていたが、チャーチルもそのような生活を送った{{Sfn|河合|1998|p=48}}{{Sfn|山上|1960|p=16}}。インド人召使はかなり薄給で雇うことができるが{{Sfn|山上|1960|p=16}}、困窮していたチャーチルはインド人金融業者から借金している{{Sfn|河合|1998|p=48}}。<br /> <br /> インドは平穏だったのでチャーチルは、[[アリストテレス]]の『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』、[[プラトン]]の『[[国家 (対話篇)|共和国]]』、[[エドワード・ギボン|ギボン]]の『[[ローマ帝国衰亡史]]』、[[トマス・ロバート・マルサス|マルサス]]の『[[人口論]]』、[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]の『[[種の起源]]』、[[トーマス・マコーリー|マコーリー]]の『{{仮リンク|イングランド史 (マコーリー)|label=イングランド史|en|The History of England from the Accession of James the Second}}』など多くの読書をした{{Sfn|河合|1998|p=49}}{{Sfn|山上|1960|pp=16-17}}{{Sfn|ペイン|1993|p=76}}。<br /> <br /> インド勤務時代に唯一参加した実戦は、1897年夏にインド西北の国境付近で発生した[[パシュトゥーン人]]の反乱の鎮圧戦だった。この反乱が発生するとチャーチルは鎮圧に派遣されたマラカンド野戦軍に入隊を希望し、はじめ新聞の特派員、将校に欠員が生じた後にはその後任として戦闘に参加した{{Sfn|河合|1998|pp=52-53}}。しかしチャーチルは勲章を得ようと焦るあまり、しばしば独断で無謀な行動に出たため、やがて帰隊させられた{{Sfn|河合|1998|p=53}}。<br /> <br /> この時の体験談を処女作『{{仮リンク|マラカンド野戦軍物語|en|The Story of the Malakand Field Force}}』としてまとめた。この作品の評判が良かったため、チャーチルは続いて『{{仮リンク|サヴロラ|en|Savrola}}』という地中海沿岸の某国の革命運動を舞台にした小説を書いた。これも好評を博し、かなりの収入になった{{Sfn|山上|1960|p=18}}{{Sfn|河合|1998|pp=53-56}}。<br /> <br /> ==== スーダン侵攻 ====<br /> [[File:Churchillkairo18980001.jpg|200px|thumb|1898年のチャーチル([[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]・[[カイロ]])]]<br /> この頃、イギリスでは[[スーダン]]問題が再浮上していた。スーダンはイギリスの傀儡国家[[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]の属領だったが、1881年に発生した[[マフディーの反乱]]により、時の英国首相[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]が放棄を決定して以来、マフディー軍の支配下に置かれ、英国支配から離れた独立国家となっていた。しかし[[ロシア帝国|ロシア]]と[[フランス第三共和政|フランス]]の[[エチオピア帝国|エチオピア]]への野心が高まる中、首相[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]はそれに先手を打つべく、エチオピアに隣接するマフディー国家への侵攻を決定した{{Sfn|川田|2009|pp=423-426}}。<br /> <br /> チャーチルは従軍を希望し、『マラカンド野戦軍物語』を高く評していた首相ソールズベリー侯爵と会見できたのを好機としてエジプトの実質的統治者だったイギリス駐エジプト総領事[[エヴェリン・バーリング (初代クローマー伯爵)|クローマー伯爵]]を紹介してもらい、従軍が許された{{Sfn|河合|1998|p=56}}。この戦争でもモーニング・ポスト紙と特派員契約を結んだ{{Sfn|山上|1960|p=19}}。<br /> <br /> 1898年8月に[[ホレイショ・キッチナー]]将軍率いるイギリス軍に加わって、ナイル河を遡って進軍{{Sfn|河合|1998|p=56}}、9月1日にはマフディー国首都[[オムドゥルマン|オムダーマン]]を包囲し{{Sfn|川田|2009|p=428}}、翌9月2日、マフディー軍4万が打って出てきて、[[オムダーマンの戦い]]が始まった。キッチナー将軍は第21槍騎兵連隊に突撃を行わせたが、これは歴史上最後の騎兵突撃とされる{{Sfn|河合|1998|p=57}}。チャーチルはインド勤務時代に肩を[[脱臼]]していた関係で、剣ではなく拳銃を使用して突撃したため、比較的安全に戦うことができた{{Sfn|河合|1998|pp=57-58}}{{Sfn|山上|1960|p=20}}。戦いは多くの戦死傷者を出しながらもイギリス軍の勝利に終わり、マフディー国家は滅亡し、スーダンはイギリスとその傀儡国家エジプトの主権下に戻った。<br /> <br /> インドの第4女王所有軽騎兵連隊に帰隊したチャーチルは、今回の戦争についてまとめた『{{仮リンク|河畔の戦争|en|The River War}}』を著した。この著書の中でチャーチルはキッチナー将軍を批判的に書いている。特に戦い方が犠牲を問わなすぎることや、兵士たちがマフディー国家の建国者ムハンマド・アフマド{{#tag:ref|ムハンマド・アフマドは[[マフディーの反乱]]を起こした人物。マフディー国家を建国した後、1885年に病死し、カリファ・アブドゥラヒが新しいマフディーとなっていた{{Sfn|川田|2009|p=426}}。|group=注釈}}の墓を暴いたのを止めなかったことを批判している{{#tag:ref|チャーチルはすでに政界に転じる決意を固めていたため、キッチナーに遠慮する必要がなかったのだと思われる{{Sfn|河合|1998|p=58}}|group=注釈}}。しかし、この本を読んだ[[ホレイショ・キッチナー]]は自分を批判した本の内容に激怒し、遺恨が生じた。このことは後々チャーチルに祟ることになる。<br /> {{-}}<br /> <br /> ==== 軍を除隊、選挙に初挑戦 ====<br /> [[1899年]]春に陸軍を除隊した{{Sfn|河合|1998|p=59}}。騎兵将校は経費がかかるし、文筆で生計を立てていく自信が付いたためであったといわれる{{Sfn|山上|1960|p=20}}。<br /> <br /> 1899年6月にオールダム選挙区の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員補欠選挙に[[保守党 (イギリス)|保守党]]候補として出馬した{{Sfn|山上|1960|p=22}}。[[オールダム]]は繊維産業の町で労働者が有権者の中心だったため、保守党としては[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]の「トーリー・デモクラシー」の継承者を自任していたランドルフ卿の息子を候補にした{{Sfn|河合|1998|pp=65-66}}。<br /> チャーチルも「トーリー・デモクラシー」を意識した選挙戦を展開し、「帝国を維持するには自由な人民、教育ある人民、飢えない人民が必要だ。だからこそ我々は[[社会政策]]を支持する」と演説した{{Sfn|河合|1998|p=67}}。だが補欠選挙の最大の争点は社会政策ではなく、国教会に地方税を投入するソールズベリー侯爵の政策に対する賛否だった。自由党はこれを徹底的に批判して選挙戦を有利に展開し、チャーチルも選挙戦後半でつい「私が当選したらこの法案には反対する」という失言をしてしまい、変節者という批判を受けてますます不利な立場に追いやられた{{Sfn|河合|1998|p=68}}。<br /> <br /> イギリスの選挙区は1884年の第3次選挙法改正以来、原則として[[小選挙区]]になっていたが{{Sfn|神川|2011|p=360}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=182}}、オールダム選挙区は数少ない2議席選出の[[大選挙区]]だった{{Sfn|河合|1998|p=65}}。しかし選挙の結果は、2議席とも自由党がとり、チャーチルは今一歩のところで落選となった{{Sfn|河合|1998|p=69}}。<br /> <br /> ==== 第2次ボーア戦争に従軍 ====<br /> [[File:Churchill gallery2.jpg|200px|thumb|1899年、第二次ボーア戦争時の従軍記者チャーチル]]<br /> 南アフリカの[[ボーア人]]国家[[トランスヴァール共和国]]と[[オレンジ自由国]]を併合せんと目論むソールズベリー侯爵内閣の[[ジョゼフ・チェンバレン]]植民地大臣はボーア人に挑発を続け、1899年10月に[[ボーア戦争#第二次ボーア戦争|第2次ボーア戦争]]が勃発した{{Sfn|坂井|1967|pp=187-195}}{{Sfn|山上|1960|p=22}}。<br /> <br /> チャーチルは再び『モーニング・ポスト』紙の特派員となり、今回は民間ジャーナリストとして戦地に赴いた{{Sfn|山上|1960|p=23}}。戦闘が発生しているナタール植民地へ向かい、11月15日には装甲列車に乗せてもらったが、この列車は途中ボーア人の攻撃を受けて脱線し、チャーチルを含めて乗っていた者らのほとんどが捕虜になった{{Sfn|河合|1998|p=69}}{{Sfn|山上|1960|p=23}}。トランスヴァール首都[[プレトリア]]の捕虜収容所に収容された。チャーチルは民間人だからすぐに釈放されると思っていたが、英字新聞が「『チャーチル中尉』の勇気ある行動」を称える記事を載せたせいで、釈放されるどころか、下手をすれば民間人に偽装したとして[[戦争法規]]違反で銃殺される可能性も出てきた{{Sfn|河合|1998|p=60}}。チャーチルは12月12日夜中に便所の窓から抜け出して収容所を脱走した{{Sfn|山上|1960|p=23}}。元イギリス人の帰化トランスヴァール人の炭鉱技師に数日間匿ってもらった後、貨車に乗って[[ポルトガル領モザンビーク]]の[[マプト|ロレンソ・マルケス]]のイギリス領事館にたどりついた{{Sfn|河合|1998|p=61}}{{Sfn|山上|1960|p=24}}。<br /> <br /> この間、新聞報道などで「チャーチルが捕虜収容所を脱走したが、再逮捕されて銃殺された」という噂が流れていたため、チャーチルの生存が判明したことへの反響は大きかった{{Sfn|河合|1998|p=61}}{{Sfn|山上|1960|p=25}}。この頃、戦況はレッドヴァース・ブラー将軍率いるイギリス軍が全滅したり、各地でイギリス軍が包囲されたり、イギリス軍が劣勢であった{{Sfn|坂井|1967|p=196}}。そのためチャーチルのこの脱走劇は戦意高揚のいい英雄譚となった{{Sfn|河合|1998|p=62}}。<br /> <br /> この後、チャーチルはブラー将軍のおかげでケープ植民地で新編成された南アフリカ軽騎兵連隊に中尉階級のまま再入隊できた{{Sfn|河合|1998|p=63}}{{Sfn|ペイン|1993|p=85}}。[[レディスミス]]で包囲されるイギリス軍の救援作戦に参加し、ついでフレデリック・ロバーツ卿の指揮下で[[ヨハネスブルク]]や[[プレトリア]]への侵攻作戦に従軍した{{Sfn|河合|1998|p=63}}{{Sfn|ペイン|1993|p=85}}。[[1900年]][[6月5日]]{{Sfn|坂井|1967|p=198}}のプレトリア占領の際にはチャーチルは真っ先に自分が収容されていた捕虜収容所に向かい、そこにイギリス国旗を掲げて復讐を果たした{{Sfn|河合|1998|p=63}}。国土が占領されてもボーア人は屈することはなく、ボーア戦争はゲリラ戦争と化していくのだが、チャーチルはプレトリア占領とともにイギリスへ引き上げた{{Sfn|河合|1998|p=63}}。<br /> <br /> 帰国後ただちにボーア戦争に関する『{{仮リンク|ロンドンからレディスミスへ|en|London to Ladysmith via Pretoria}}』と『{{仮リンク|ハミルトン将軍の行進|en|Ian Hamilton&#039;s March}}』の2作を著した{{Sfn|河合|1998|p=64}}。<br /> <br /> === 保守党時代 ===<br /> ==== 庶民院議員に当選 ====<br /> [[File:Winston Churchill Vanity Fair 1900-09-27.jpg|200px|thumb|1900年9月27日の『[[バニティ・フェア (イギリスの雑誌)|バニティ・フェア]]』誌のチャーチルの[[戯画]]]]<br /> トランスヴァール共和国首都プレトリアを占領したことによる戦勝ムードの中、首相[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]と植民地相[[ジョゼフ・チェンバレン|チェンバレン]]は、いま解散総選挙すれば有利な議会状況を作れると踏んで、1900年9月1日に総司令官[[ホレイショ・キッチナー]]将軍にトランスヴァール併合宣言を出させるとともに、9月25日に議会を解散した{{Sfn|坂井|1967|p=198}}。こうして「[[カーキ選挙|カーキ(軍服の色)選挙]]」と呼ばれた解散総選挙が行われた{{Sfn|河合|1998|p=69}}{{Sfn|山上|1960|p=26}}。<br /> <br /> チャーチルはこの総選挙に再びオールダム選挙区から保守党公認候補として出馬した。今度の選挙は、捕虜収容所からの脱走劇で名前が売れていたチャーチルが有利であった{{Sfn|河合|1998|p=69}}{{Sfn|山上|1960|p=26}}。与党([[保守党 (イギリス)|保守党]]と[[自由統一党 (イギリス)|自由統一党]])の選挙戦を取り仕切っていた植民地大臣チェンバレンもチャーチル応援のため選挙区入りしてくれた{{Sfn|山上|1960|p=26}}。<br /> <br /> 選挙結果は自由党候補アルフレッド・エモット男爵が最も得票したものの、チャーチルも第2位の得票を得て、オールダム選挙区2議席を選出するため、チャーチルも次点当選できた{{Sfn|河合|1998|pp=70-71}}。こうしてチャーチルは26歳にして庶民院議員となった{{Sfn|山上|1960|p=27}}。<br /> <br /> 総選挙全体の結果も与党保守党と自由統一党が野党[[自由党 (イギリス)|自由党]]と{{仮リンク|アイルランド国民党|en|Irish Parliamentary Party}}に134議席差をつけて勝利した{{Sfn|坂井|1967|p=200}}。<br /> <br /> チャーチルは翌年、自由党の[[ジャスパー・ウィルソン・ジョーンズ]]議員の娘で、夫が日本の初代首相[[伊藤博文]]の法制顧問のピゴットであるマーベルが[[1896年]]に設立していた植民地看護協会への支援を表明した&lt;ref&gt;[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2401195/?page=1 &#039;&#039;The Colonial Nursing Association&#039;&#039;], [[ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル]], 1901. US National Library of Medicine.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;講演会と処女演説<br /> [[File:Wc0042-3b13159r.jpg|200px|thumb|1900年末の保守党議員チャーチル。訪米時の写真]]<br /> 保守党の庶民院議員となったチャーチルはイギリス各地で講演会を行い、1900年末にはアメリカや英領カナダでも講演会を開いて金を稼いだ{{Sfn|山上|1960|p=27}}。講演会はかなりの収入にはなったが、アメリカ人の聴衆のうち[[アイルランド系アメリカ人]]は反英的な人が多く、それ以外のアメリカ人もボーア人寄りの人が多かった。<br /> <br /> そのためチャーチルもボーア戦争に関する厳しい追及を受けた。結局チャーチルも侵略戦争であることは否定できず、「戦争になれば、それが良い戦争だろうが、悪い戦争だろうが、祖国に従うしかない」と弁明した{{Sfn|河合|1998|p=64}}。<br /> <br /> 1901年1月にヴィクトリア女王が崩御し、[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]が国王に即位した{{Sfn|山上|1960|p=29}}。チャーチルは、新国王のもとで1901年2月から開会された庶民院に初登院した{{Sfn|河合|1998|p=72}}。<br /> <br /> チャーチルの処女演説は、自由党急進派でボーア戦争に反対する[[デビッド・ロイド・ジョージ]]議員の激しい反戦論に対抗して、政府を擁護するものだった{{Sfn|河合|1998|p=73}}。ただその演説の中でチャーチルは「私がボーア人だったら、やはり戦場で戦っているだろう」とボーア人を擁護するかのような発言も行い、植民地大臣チェンバレンをいらだたせた{{Sfn|河合|1998|p=74}}。<br /> <br /> 1901年5月24日には[[フリーメーソン]]に加入している&lt;ref&gt;{{cite web|title=Masonic Papers|url=http://www.freemasons-freemasonry.com/freemasonry_england.html|work=The Development of the Craft in England|publisher=freemasons-freemasonary.com|accessdate=2013-09-02}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite journal |last=Beresiner |first=Yasha |year=2002 |month=October |title=Brother Winston: Churchill as a Freemason |journal=Masonic Quarterly Magazine |issue=3 |location=London |publisher=Grand Lodge Publications Limited for the [[:en:United Grand Lodge of England&lt;!-- [[イングランド・連合グランドロッジ]] とリンク --&gt;]] |accessdate=2013-09-02|url=http://www.mqmagazine.co.uk/issue-3/p-06.php}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite web |url=http://204.3.136.66/web/articles/jan-feb05/morris.htm |title=Brother Winston S. Churchill |last=Morris |first=Robert |date=2005 |origyear=First published May 2003 |work=Scottishrite.org |publisher=[[:en:Supreme Council, Scottish Rite (Southern Jurisdiction, USA)|The Supreme Council, 33°]] |location=Washington, D.C. |accessdate=2013-09-02}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 造反から自由党への移籍 ====<br /> チャーチルが最初に目指したのは父ランドルフ卿が大蔵大臣として取り組もうとした陸軍予算の削減だった。戦争大臣(陸軍大臣)の[[シンジョン・ブロドリック (初代ミドルトン伯爵)|シンジョン・ブロドリック]]が常備軍を現行の二個軍団から三個軍団に増設方針を示したのに対して、チャーチルは1901年5月に反対演説に立ち、「非ヨーロッパの野蛮人を相手にするのは一個軍団で十分だし、ヨーロッパ人を相手にするには三個軍団でも不十分だ。イギリスには世界最強の海軍があればよい」と述べた{{Sfn|河合|1998|p=75}}。この演説は、野党自由党からは喝采が送られたが、保守党執行部は新米議員の造反に驚き、「親孝行と公務を混同してはならない」と批判された{{Sfn|河合|1998|p=75}}{{Sfn|山上|1960|p=30}}。これをきっかけにチャーチルは保守党執行部に造反することが増えていく。<br /> <br /> 父が「{{仮リンク|第四党|en|Fourth Party}}」と呼ばれる党執行部に造反する小グループを作っていたのに倣い、首相ソールズベリー侯爵の末子である{{仮リンク|ヒュー・セシル (初代クイックスウッド男爵)|label=ヒュー・セシル卿|en|Hugh Cecil, 1st Baron Quickswood}}らとともに反執行部的小グループを形成しはじめた。やがてこのグループは「[[フーリガン|フーリガンズ]]」と「ヒュー・セシル」の名前を組み合わせて、「{{仮リンク|ヒューリガンズ|en|Hughligans}}」と呼ばれるようになった{{Sfn|河合|1998|p=76}}。<br /> <br /> チャーチルは保守党左派と自由党右派([[自由帝国主義|自由帝国主義者]])を一つにまとめ、政界再編のきっかけとすることを考えていたという{{Sfn|河合|1998|pp=76-77}}。<br /> <br /> ;保護貿易論への抵抗<br /> [[File:Joseph Chamberlain.jpg|200px|thumb|[[保護貿易]]を主張した[[ジョゼフ・チェンバレン]]]]<br /> 1902年7月11日、長らく首相を務めてきたソールズベリー侯爵が病により退任し、代わって[[アーサー・バルフォア]]が大命を受けた。この頃からボーア戦争が客観的に評価されるようになったことで世論は政権に批判的になっていき、政権与党内の結束力も乱れていった。こうした中で関税問題をめぐって政権与党内の分裂が始まった{{Sfn|池田|1962|p=152}}。第二次ボーア戦争は1902年5月に講和条約が結ばれて正式に終結していたが、予想外の長期戦は予想外の膨大な戦費をもたらし、1900年以降イギリス財政が赤字となった。それを補うために各種増税が行われ、その一環で穀物関税再導入も暫定的かつ少額でという条件で実施された{{Sfn|坂井|1967|p=205}}。チェンバレンは[[大英帝国]]内に帝国特恵関税制度を導入する関税改革を行うべきと主張するようになった。これは帝国外に対する関税を永続させよという[[保護貿易|保護貿易論]]であった{{Sfn|坂井|1967|p=208}}{{Sfn|池田|1962|p=153}}。<br /> <br /> チェンバレンの保護貿易論をめぐってイギリス世論は二分された。貧しい庶民はパンの値段が上がることに反対し、保護貿易には反対だった{{Sfn|坂井|1967|p=212}}。金融資本家も資本の流動性が悪くなるとして保護貿易には反対し{{Sfn|池田|1962|p=156}}、綿工業資本家も自由貿易によって利益をあげていたので保護貿易には反対だった{{Sfn|坂井|1967|p=212}}{{Sfn|河合|1998|p=79}}。一方、工業資本家(廉価なドイツ工業製品を恐れていた)や地主(伝統的に保護貿易主義)は保護貿易を歓迎し、チェンバレンを支持した{{Sfn|池田|1962|p=157}}{{Sfn|坂井|1967|pp=211-212}}。この論争は政界にも大きな影響を及ぼし、第二次ボーア戦争の評価をめぐって小英国主義派と自由帝国主義派に分裂していた野党自由党が自由貿易支持・反チェンバレンのもとに団結した。一方政権与党は自由貿易派と保護貿易派に分裂した{{Sfn|池田|1962|p=156}}{{Sfn|坂井|1967|p=211}}。<br /> <br /> チャーチルやヒュー・セシル卿ら「ヒューリガンズ」は自由貿易を支持し、チェンバレン批判を行った{{Sfn|坂井|1967|p=211}}。自由貿易を支持することは父ランドルフ卿の魂を継承することでもあったし{{Sfn|山上|1960|p=32}}、またチャーチルの選挙区であるオールダム選挙区の主要産業である木綿産業を満足させる効果もあった{{Sfn|河合|1998|p=79}}。1903年5月、チェンバレンが関税改革案を明確に提示してきたのを受けてチャーチルはバルフォア首相に対して「首相がチェンバレン植民地相の保護貿易論を明確に否定する声明を出されないのであれば、私としては党を変える必要が出てきます」という内容の手紙を送った{{Sfn|河合|1998|p=79}}。さらに同年11月にはチェンバレンの本拠である[[バーミンガム]]に乗り込んで、チェンバレンの保護貿易論を批判するという挑発行動をとった{{Sfn|河合|1998|p=80}}。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 自由党の政治家として ===<br /> [[File:Churchill19040001.jpg|200px|thumb|1904年の自由党議員チャーチル]]<br /> チャーチルは自由貿易支持を明確にしない保守党を見限り、[[自由党 (イギリス)|自由党]]への移籍を希望するようになった。世論の自由党と自由貿易支持は圧倒的であり、自由党としては保守党内自由貿易派と手を結ぶ必要がほとんどなかったため移籍は容易ではなかったが、1904年5月にマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区からなら自由党候補としての出馬を認めると自由党から打診を受けた{{Sfn|河合|1998|pp=80-81}}。この選挙区は保守党が強く、自由党は1900年の解散総選挙の際にも対立候補を立てなかった選挙区だったが、元保守党議員のチャーチルなら当選の見込みもあると自由党執行部は考えた{{Sfn|河合|1998|pp=80-81}}。こうしてチャーチルは自由党に移った{{Sfn|坂井|1967|p=218}}。この移籍について彼は「我が父に酷い仕打ちをした保守党から離れる機会に恵まれて本当にうれしい」と述べている{{Sfn|山上|1960|p=32}}。<br /> <br /> 以降チャーチルはバルフォア政権や保守党に激しい攻撃を加えるようになった{{Sfn|河合|1998|p=82}}。並行して父ランドルフ卿の伝記の執筆を開始した。父に関する資料を徹底的に集め、元首相で自由党自由帝国主義派の領袖[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|ローズベリー伯爵]]や敵対する元植民地大臣チェンバレンからも協力してもらった{{Sfn|河合|1998|p=83}}。1905年末に完成したこの伝記は、ランドルフ卿を美化し、またチャーチル自身に我田引水を図ろうという意図も見えるが、ことさらバルフォア首相やチェンバレンを批判的に扱うような露骨なことはしなかったので、好評を得た{{Sfn|河合|1998|p=84}}{{Sfn|山上|1960|p=33}}。<br /> <br /> ==== 植民地省政務次官と英領南アフリカ ====<br /> 1905年12月、関税問題で閣内不一致となったバルフォア内閣は総辞職し、自由党党首[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]に大命降下があり、自由党政権が発足した{{Sfn|山上|1960|p=32}}{{Sfn|河合|1998|p=84}}{{Sfn|坂井|1967|p=319}}。この内閣にチャーチルは自ら希望して{{仮リンク|イギリス植民地省政務次官|label=植民地省政務次官|en|Under-Secretary of State for the Colonies}}として参加した{{Sfn|山上|1960|p=32}}{{Sfn|河合|1998|p=85}}。<br /> <br /> ;1906年の解散総選挙<br /> キャンベル=バナマンは少数与党政権の状態から脱するべく、1906年初頭にも[[1906年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た。この選挙でマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区から出馬したチャーチルは保守党候補からの「裏切り者」との批判に対して「私は保守党にいた時、バカなことをたくさん言いました。そしてこれ以上バカなことを言いたくなかったので自由党へ移ったのです」と反論して笑いをとったり自由貿易支持を訴えて支持を広げて当選した{{Sfn|河合|1998|pp=85-86}}{{Sfn|山上|1960|p=33}}。<br /> <br /> この総選挙は全国的に自由党の圧勝に終わった選挙であり、改選前に401議席をもっていた保守党と自由統一党は157議席に激減した。自由党は一気に377議席を獲得し、自由党の友党アイルランド国民党も83議席を獲得した{{Sfn|坂井|1967|p=340}}。自由党としては1886年以来の安定政権を作ることが可能となった選挙であった{{Sfn|河合|1998|pp=86-87}}。最大の勝因は自由党候補たちの自由貿易支持の主張である。前述したように、庶民は食品の値段が上がる保護貿易には断固反対だった。チャーチルも「この選挙ははじめから自由党有利だった」と分析している{{Sfn|坂井|1967|p=342}}。<br /> <br /> 植民地省政務次官となったチャーチルは、まず全土がイギリス領となった南アフリカの問題にあたった。前保守党政権は[[ボーア人]]を強圧的支配下に置こうとしたが、チャーチルはボーア人とイギリス人が協力して成り立つ自治政府の樹立を目指し[[英語]]と[[オランダ語]]の併用、またボーア人・イギリス人問わず100ポンド以上の財産を持つ成年男子に選挙権を認めた一方で先住民の黒人は無視され[[人種隔離政策]]が推進された{{Sfn|河合|1998|p=90}}。<br /> <br /> ;中国人移民労働者問題<br /> また、南アフリカでは1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人移民労働者が[[清]]から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていたが{{Sfn|市川|1982|p=156}}、これはイギリスが禁止している「[[奴隷貿易]]」に該当するのではという問題があった。1906年総選挙でも争点になって、自由党候補の一部が中国人奴隷が虐待されている姿を描いたポスターを使用していた{{Sfn|河合|1998|p=91}}。チャーチルは、はじめ「中国人労働者たちは自発的な雇用契約で南アフリカの鉱山で働いている。極端に解釈したとしても奴隷には分類できない。」と答弁していた{{Sfn|河合|1998|p=92}}{{#tag:ref|中国人が自発的契約で南アフリカに来ていることを裏付ける材料として、中国人にとって中国本国で働くより南アフリカで働いた方が15倍も給料が高いという事実がある{{Sfn|ブレイク|1979|p=207}}。|group=注釈}}。また[[ケープ植民地]]総督[[アルフレッド・ミルナー]]が中国人労働者に対する鞭打ちを許可したことが判明し批判動議が提出されチャーチルは自由党議員を結束させ否決に成功したが、批判熱は収まらず、さらにつめ込まれた中国人たちが[[同性愛]]をしている可能性について疑惑も出され、紛糾した{{Sfn|河合|1998|p=92}}。チャーチルは「中国人を顔だけで稚児(カタマイト)かどうか見分けるのは難しい」と答弁したが、この「稚児」という言葉に議会では議事録で別の単語で記入されたり、貴婦人が退席するなど異常な反応をとった{{Sfn|河合|1998|p=92}}。結局植民地省は1906年11月に中国人労働者の輸入を停止させた{{Sfn|市川|1982|p=157}}。その後、この問題の処理は1907年より設置された{{仮リンク|トランスヴァール植民地|label=トランスヴァール植民地自治政府|en|Transvaal Colony}}に委ねられることになり、同政府の決定で中国人労働者の新規移民は禁止され、移民が認められなかった者は契約期間満了次第、清へ強制送還された{{Sfn|河合|1998|p=93}}。<br /> <br /> ;英領東アフリカ視察旅行<br /> [[File:Churchillwatchtower0001.jpg|200px|thumb|1907年、[[イギリス領東アフリカ|英領東アフリカ]]。即席の観測台で辺りを見回すチャーチル]]<br /> 1907年にチャーチルは植民地大臣[[ヴィクター・ブルース (第9代エルギン伯爵)|エルギン伯爵]]の許可を得て[[イギリス領東アフリカ]]へ視察旅行に出て、[[マルタ島]]、[[キプロス島]]、[[スエズ運河]]を通過して10月に[[モンバサ]]に到着し、[[ナイロビ]]から[[ウガンダ]]へ入り、[[ヴィクトリア湖]]と[[アルバート湖]]を繋ぐ鉄道建設予定地を通った{{Sfn|河合|1998|p=97}}{{Sfn|ペイン|1993|p=113}}。当時の東アフリカは完全にイギリスの支配下にあり、現地のイギリス人たちは現地民に対して絶対的支配者としてふるまっていた。それを見たチャーチルはそうした統治でも平和を保つことができるイギリスの支配の偉大さを再確認したという{{Sfn|ペイン|1993|p=114}}。当時11歳の[[ブガンダ]]王ダウディ・チュワ2世の引見も受け、チャーチルはその気品に気後れして「イエス」「ノー」しか答えられなかったという。王はチャーチルに「戦の踊り」を披露してくれた。先住民たちはチャーチルを紳士的に歓迎し、チャーチルの方もアフリカ人が気に入ったようだった{{Sfn|ペイン|1993|pp=114-115}}。<br /> <br /> チャーチルはアフリカの風景の美しさに魅了され、『[[ストランド・マガジン]]』に寄稿した『アフリカ旅行記』の中でも風景をよく描写している{{Sfn|ペイン|1993|p=116}}。狩猟も楽しみ、[[サイ]]や[[イボイノシシ]]を仕留めた。[[ライオン]]も狙ったが、成功しなかったという{{Sfn|ペイン|1993|p=114}}。また鉄道が完成すればウガンダは[[ランカシャー]]の綿産業の原料供給地となるが、開発が進むとともに白人やインド人、黒人との間に摩擦が増えるという懸念も書いている{{Sfn|河合|1998|p=98}}。<br /> {{Gallery<br /> |lines=3<br /> |File:ChurchillwhiteRhino0001.jpg|1907年、[[シロサイ]]を仕留めたチャーチル<br /> |File:Churchillcarafrica19080001.jpg|1907年、車が泥濘にはまって動かなくなり、立ち往生するチャーチル。<br /> |File:Churchilldaudi19080002.jpg|1907年、「戦の踊り」を見学するチャーチルと[[ブガンダ]]王{{仮リンク|ダウディ・チュワ2世|en|Daudi Cwa II of Buganda}}<br /> }}<br /> {{-}}<br /> <br /> ==== アスキス内閣商務大臣 ====<br /> [[1908年]]1月にイギリスに帰国した{{Sfn|ペイン|1993|p=117}}。この年の4月にキャンベル=バナマン首相が退任し、大蔵大臣[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]に大命降下があり、アスキス内閣が成立した{{Sfn|坂井|1967|p=376}}。<br /> <br /> この内閣においてチャーチルは{{仮リンク|ビジネス・イノベーション・職業技能大臣|label=通商大臣|en|President of the Board of Trade}}として入閣した。これは通商大臣ロイド・ジョージがアスキスの首相就任で空いた大蔵大臣に就任したことによる玉突き人事だった{{Sfn|河合|1998|p=102}}{{Sfn|山上|1960|pp=33-34}}。<br /> <br /> ===== 補欠選挙と社会主義への敵意 =====<br /> 当時のイギリスには入閣する際に議員辞職して再選挙しなければならないという法律があったため{{#tag:ref|この法律は国王の閣僚任免権に対して立法権の独立を守る意図で1705年に制定された法律である。国王の閣僚任免権が形骸化し、議会の情勢に基づいて首相に任命されることが慣例化していたこの時代にあってはほとんど意味のない制度と化しており、1929年になって廃止されている{{Sfn|河合|1998|pp=103-104}}。|group=注釈}}、チャーチルも議員辞職し、それに伴うマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区の補欠選挙に出馬した。前回の総選挙と異なり、今回は自由党に風は吹いておらず、しかも元来保守党が強い選挙区であるから、チャーチルは苦しい選挙戦を強いられた。保守党も「裏切り者」チャーチルを落とすために全力をあげた結果、チャーチルは僅差で落選した{{Sfn|河合|1998|pp=104-106}}{{Sfn|山上|1960|pp=34-35}}。<br /> <br /> しかしチャーチルは知名度が高かったので彼に出馬要請する選挙区は他にもあった。[[スコットランド]]ダンディー選挙区で前職議員の叙爵(貴族院入り)に伴う補欠選挙が行われることになり、同選挙区の自由党組織から出馬を要請されたチャーチルはこれを承諾した。この補欠選挙にはチャーチルの他に保守党候補、[[労働党 (イギリス)|労働党]]候補、禁酒主義者の{{仮リンク|エドウィン・スクリムジャー|en|Edwin Scrymgeour}}の3候補が出馬していた{{Sfn|河合|1998|p=107}}。<br /> <br /> ダンディー選挙区は2議席選出する大選挙区だった。前回の総選挙では自由党と労働党が議席を分け合ったため、この選挙区の自由党員には労働党のせいで1議席しか取れなかったと恨む者が多く、チャーチルも自由党票を固めるため労働党批判を中心的に行った{{Sfn|河合|1998|p=107}}。その結果、チャーチルはこの選挙で初めて[[社会主義]]への本格的な敵意を露わにし、「社会主義は裕福な者を引きずり落とす。[[自由主義]]は貧困者を持ち上げる。」「社会主義は資本を攻撃する。自由主義は独占を攻撃する」「社会主義は支配を高める。自由主義は人を高める」といった対比型の社会主義攻撃を展開した。この演説が功を奏し、チャーチルは大勝した{{Sfn|河合|1998|p=108}}。<br /> <br /> ===== 結婚 =====<br /> [[File:Winston Churchill (1874-1965) with fiancée Clementine Hozier (1885-1977) shortly before their marriage in 1908.jpg|200px|thumb|1908年のチャーチルとクレメンティーン]]<br /> 1908年9月、33歳の時に[[クレメンタイン・チャーチル|クレメンティーン・ホージアー]]と結婚した{{Sfn|山上|1960|p=35}}{{Sfn|河合|1998|p=110}}。彼女は礼儀作法はしっかりしていたが、財産は特になく、フランス語の家庭教師をして生計を立てている女性だった。父親はサー・ヘンリー・ホージアー(Sir Henry Montague Hozier)という軍人であり、母親は{{仮リンク|デイヴィッド・オギルヴィ (第10代エアリー伯爵)|en|David Ogilvy, 10th Earl of Airlie}}の娘であった{{Sfn|ペイン|1993|p=118}}。<br /> <br /> 二人は1908年3月の晩餐会で知り合い、チャーチルの方が最初に彼女に惹かれたという。チャーチルは彼女に自分の著作『ランドルフ・チャーチル卿』を読んだか聞いてみたが、読んでいないようだったので本を送ると約束したが、チャーチルは本を送り忘れた。しかし後日再会した時にクレメンティーンもチャーチルに惹かれるようになっていた{{Sfn|河合|1998|p=109}}{{Sfn|ペイン|1993|p=118}}。8月に従兄弟マールバラ公のブレナム宮に彼女を招いた際にチャーチルの方からプロポーズし、受け入れられた{{Sfn|河合|1998|p=110}}{{Sfn|ペイン|1993|p=118}}。結婚式は[[ウェストミンスター大寺院]]で行われた{{Sfn|ペイン|1993|p=118}}。<br /> <br /> ===== 社会政策 =====<br /> [[File:Churchill und Wilhelm II. (1906).jpg|200px|thumb|ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]とチャーチル(1909年、ドイツ陸軍演習の視察)]]<br /> <br /> チャーチルが商務大臣となった頃のイギリスの経済状況は悪かった。1907年後半から[[不況]]が押し寄せ、1907年に3.7%だった失業率は、翌1908年には7.8%に跳ね上がっていた{{Sfn|ピーデン|1990|p=21}}。労働党の「[[労働権]]の確立」を訴える運動が盛り上がり{{Sfn|坂井|1967|p=383}}、他方保守党の関税改革派も「関税が国民の仕事を守る」と再攻勢をかけた{{Sfn|ピーデン|1990|p=21}}。自由党としては中産階級の支持を失わずに労働者階級に支持を拡大させて立て直しを図りたいところであり、それが本来[[自由放任主義]]の立場である自由党が[[社会政策]]を実施する背景となった{{Sfn|ピーデン|1990|pp=19-21}}。チャーチル自身も1906年総選挙の遊説の際に[[スラム街]]を見て、社会政策の必要性を痛感した{{Sfn|坂井|1967|pp=385-386}}。<br /> <br /> アスキス内閣によって実施された社会政策には「老齢年金法」や「国民保険法」([[健康保険]]と[[失業保険]])、「炭鉱夫[[8時間労働制]]」、「職業紹介所」などがある{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=235}}。このうちチャーチルが商務大臣として主導したのが「職業紹介所」と「失業保険制度」である{{Sfn|ピーデン|1990|pp=25-26}}{{Sfn|ピーデン|1990|p=34}}。<br /> <br /> 1909年秋に[[ドイツ]]を訪問し陸軍演習と職業紹介所を視察した。当時ドイツも失業者を抱えていたが、労働者の多くが失業保険に入っていることに感心したチャーチルは[[ウィリアム・ベヴァリッジ]]とともに職業紹介所設置法を成立させ、これまで地方公共団体が設置運営していた職業紹介所を中央政府が直接設置運営することで全国に大幅に増やすことが可能となった{{Sfn|河合|1998|pp=115-116}}{{Sfn|坂井|1967|pp=385-387}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=235}}。この法律は国民から歓迎され、チャーチルは至るところで「親愛なるチャーチル(Good Old Churcill)」の歓声を受けた{{Sfn|坂井|1967|p=387}}。しかし職業紹介所の設置は労働の市場化を押し進め、資本家が「最適の労働者」を見つけやすくなるため{{Sfn|坂井|1967|p=387}}{{Sfn|ピーデン|1990|p=26}}、労働組合も「労働組合の規定で定める賃金以下で労働者がかき集められる危険性がある」と反対し、労働党も「失業保険制度もない、失業対策事業もしない、労働者の再教育もしない、ただ職業紹介所を置くだけというこの法律では、労働権が確立したなどとは到底言えない」と批判した{{Sfn|坂井|1967|pp=385-387}}。<br /> <br /> チャーチルは1909年に労働党議員の要請を受け入れて、失業保険法案(Unemployment insurance bill)を議会に提出するも、この法案は貴族院で廃案にされた{{Sfn|高橋|1985|p=167}}。その結果、労働党の「労働権」確立を求める運動は強まっていった{{Sfn|坂井|1967|p=388}}。<br /> <br /> ===== ドイツとの建艦競争 =====<br /> [[File:ChurchillGeorge0001.jpg|200px|thumb|アスキス内閣の二大急進派閣僚[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]](左)とチャーチル(右)]]<br /> イギリスの国際的地位は[[1870年代]]以降、後発資本主義国の発展に押されて低下の一途をたどっていた。後発資本主義国の中でもとりわけドイツがイギリスに急追していた。ドイツ資本主義の急速な発展を背景にして、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は[[1890年代]]後半から「世界政策(Weltpolitik)」を掲げて海軍力を増強して[[帝国主義]]外交に乗り出し、世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった{{Sfn|坂井|1967|p=394}}。これに対抗したイギリスの海軍増強は保守党政権時代に開始されたが、キャンベル=バナマン内閣は保守党の海軍増強計画を若干縮小し、海軍の小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した{{Sfn|坂井|1967|pp=393-396}}。[[1908年]]2月に[[帝国議会 (ドイツ帝国)|ドイツ帝国議会]]で海軍法修正法が可決し、ドイツ海軍は毎年[[弩級戦艦]]を3艦、[[巡洋艦]]を1艦ずつ建艦していき、1917年までに弩級戦艦と大型巡洋艦合わせて58艦の保有を目指した{{Sfn|坂井|1967|p=397}}。これを受けてイギリスでも野党保守党やイギリス海軍軍部を中心に海軍増強が叫ばれるようになった{{Sfn|坂井|1967|pp=397-398}}。<br /> <br /> アスキス内閣発足後、自由帝国主義派と急進派の閣僚の間で海軍増強論争が起こった{{Sfn|坂井|1967|p=393}}。海軍大臣レジナルド・マッケナや外務大臣[[エドワード・グレイ]]ら自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦を主張した。これに対して大蔵大臣ロイド・ジョージや通商大臣チャーチルら急進派閣僚は海軍増強より社会保障費の財源確保を優先させるべきと主張した{{Sfn|坂井|1967|pp=397-398}}。チャーチルは1908年8月15日の[[スウォンジ]]での演説で「ドイツには戦う理由も、戦って得る利益も、戦う場所もない」としてドイツ脅威論を一蹴している{{Sfn|坂井|1967|p=398}}。ウィンザー城管理長官代理であるレジナルド・ベレット (第2代イーシャ子爵)は「チャーチルは信念や主義で海軍増強に反対しているわけではなく、自由党急進派を自分が指導しようという野心から反対している」と分析した{{Sfn|坂井|1967|p=403}}。<br /> <br /> しかしグレイ外相が「海軍増強が受け入れられないなら辞職する」と脅迫し、また1908年に訪独したロイド・ジョージがドイツ脅威論をある程度認めるようになったことでロイド・ジョージとチャーチルは1909年と1910年の2年間に4艦の弩級戦艦の建艦を認めるに至り、これにより閣内対立は一時収束した{{Sfn|坂井|1967|p=398}}。<br /> <br /> しかし[[1909年]]1月から2月の閣議でマッケナ海軍大臣ら自由帝国主義派閣僚が6艦の建艦を要求し、4艦の建艦に止めようとするロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚と再び対立を深め、海軍増強論争が再燃した{{Sfn|坂井|1967|pp=403-404}}。ロイド・ジョージとチャーチルは「もし4隻以上の弩級戦艦を建艦するつもりなら、辞職する」とアスキス首相を脅迫した{{Sfn|坂井|1967|p=404}}。結局アスキス首相は1909年2月24日の閣議で折衷案をとり、1909年の財政年度にまず4艦、情勢次第で[[1910年]]にはさらに4艦の弩級戦艦を建艦するとした。これにより自由帝国主義派と急進派の双方に一定の満足を与え、この時も閣内対立を収束させることができた{{Sfn|坂井|1967|p=407}}。<br /> <br /> ===== 「人民予算」をめぐって =====<br /> 大蔵大臣ロイド・ジョージは1909年4月に「{{仮リンク|人民予算|en|People&#039;s Budget}}」を議会に提出した。この予算はドイツとの[[建艦競争]]や社会保障費によって財政支出が膨大になったため、財政の均衡を図るために提出されたものだった{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=238}}。「人民予算」の増税案は[[所得税]]率の引き上げ、[[相続税]]の引き上げと[[累進課税]]性の強化、そして土地課税制度導入など富裕層から税金を取り立てるものだった{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=239}}{{Sfn|坂井|1967|p=414}}。しかし野党保守党は「富裕層から取るのではなく、関税改革によって歳入増加を図るべき」と主張して人民予算に反対した{{Sfn|ピーデン|1990|pp=26-29}}。<br /> <br /> この論争でイギリス社会は二分された。チャーチルは「人民予算」を支持する者たちを糾合して「予算賛成同盟(Budget League)」を結成した。一方保守党のウォルター・ロングらはこれに対抗して「予算反対同盟」を結成した。世論の支持はチャーチルの「予算賛成同盟」にあった{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=239}}{{Sfn|坂井|1967|p=421}}。ただロイド=ジョージによればチャーチルは従兄弟のマールバラ公から圧力を受けており、「人民予算」にいまいち熱心ではなかったという{{Sfn|河合|1998|p=120}}。<br /> <br /> 「人民予算」は1909年11月4日に庶民院を通過したが、保守党・地主貴族が牛耳る貴族院から「土地の[[国有化]]を狙う社会主義予算」として徹底批判を受け、11月30日に圧倒的大差で否決された。これを受けてアスキス首相は議会を解散した{{Sfn|村岡、木畑|1991|pp=239-240}}{{Sfn|坂井|1967|p=428}}。<br /> <br /> [[1910年]]1月に行われた解散総選挙でチャーチルは再びスコットランドのダンディー選挙区から出馬したが、スコットランドでは地主貴族や保守党に対する反発が強かったので当選は安泰だった。そのため選挙戦中、チャーチルは自分の選挙区よりも他の選挙区の自由党候補の応援演説に駆け回った{{Sfn|河合|1998|p=122}}。全国的には自由党は苦戦を強いられ、選挙の結果は、自由党275議席、保守党273議席、アイルランド国民党82議席、労働党40議席となった。前回比で自由党は104議席も失った{{Sfn|坂井|1967|p=434}}。人民予算については自由党を支持するが、海軍増強問題では大増強を訴える保守党を支持するという者が多かったのが原因だった{{Sfn|坂井|1967|p=433}}。この選挙で自由党は過半数を失い、以降アイルランド国民党と労働党の[[閣外協力]]を得て政権を維持することとなった{{Sfn|河合|1998|p=122}}。この両党の支持を得て「人民予算」は可決成立した{{Sfn|坂井|1967|p=435}}。<br /> <br /> ==== アスキス内閣内務大臣 ====<br /> [[File:Winston Churchill Vanity Fair 8 March 1911.jpg|200px|thumb|内務大臣チャーチルの戯画(1911年3月8日の『[[バニティ・フェア (イギリスの雑誌)|バニティ・フェア]]』誌)]]<br /> この選挙後、チャーチルは重要閣僚職である内務大臣に就任した。35歳での内務大臣就任であり、これは歴代内務大臣で第2位の若さである(1位は[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]の33歳){{Sfn|河合|1998|p=122}}。<br /> <br /> ===== 議会法 =====<br /> キャスティング・ボートを握る[[アイルランド国民党]]はアイルランド自治法案成立の妨げになっている貴族院の拒否権を縮小する貴族院改革を主張し{{Sfn|坂井|1967|pp=443-444}}、労働党党首[[ケア・ハーディ]]はさらに貴族院廃止を主張した{{Sfn|河合|1998|p=123}}。自由党も政権維持のため貴族院改革に乗り出さねばならなくなった。[[1910年]][[4月14日]]に「議会法案」を議会に提出した。これは財政法案に関する貴族院の拒否権を廃止し、また財政法案以外の法案についても貴族院が反対しても庶民院が3回可決させた場合は法律となるという内容だった{{Sfn|坂井|1967|p=447}}。チャーチルは庶民院におけるこの法案の審議を任された{{Sfn|河合|1998|p=125}}。審議最中の5月6日に国王エドワード7世が崩御し、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]が新国王に即位した。政界に「新王をいきなり政治的危機に晒してはいけない」という空気が広まり、自由党、保守党双方の話し合いの場が設けられた(「憲法会議(Constitutional conference)」){{Sfn|村岡、木畑|1991|p=241}}{{Sfn|坂井|1967|p=448}}。<br /> <br /> この時の融和ムードを利用してロイド・ジョージは自由党と保守党の中の「極端分子」を排除して[[大連立]]政権を作ることさえ計画し、バルフォアら保守党幹部に折衝を図った{{Sfn|坂井|1967|pp=449-452}}。チャーチルもこの計画に乗り気であり{{Sfn|高橋|1985|p=174}}、保守党内の知り合いの議員に折衝を図ったが、保守党のチャーチルへの嫌悪感は強く、ロイド・ジョージの大連立構想にとってチャーチルは邪魔な「極端分子」に該当したようである{{Sfn|河合|1998|p=125}}。<br /> <br /> 結局大連立構想も「憲法会議」も決裂し、首相アスキスは国王から「貴族院改革を問う解散総選挙に勝利したならば国王大権で貴族院改革に賛成する新貴族院議員を任命する」との確約を得たのち、1910年11月16日に議会を解散した{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=241}}{{Sfn|坂井|1967|pp=452-453}}。こうしてこの年二度目の総選挙が行われ、自由党は貴族院改革、保守党は関税改革を争点にして選挙戦を戦った{{Sfn|坂井|1967|pp=453-454}}。チャーチルは前回選挙と同様、自分の選挙区より他の選挙区の自由党候補の応援に駆け回り、貴族の特権をはく奪すべきことや、生活費の上昇をもたらす保守党の関税改革を批判する演説を行った{{Sfn|河合|1998|p=126}}。総選挙の結果は前回とほとんど変わらず、自由党272議席、保守党・自由統一党272議席、アイルランド国民党84議席、労働党42議席をそれぞれ獲得した{{Sfn|坂井|1967|p=455}}。しかし自由党とアイルランド国民党をあわせれば過半数を得たことから、アスキス首相は議会法案を再度提出。新貴族院議員任命をちらつかせて貴族院をけん制し、[[1911年]][[8月10日]]に[[議会法]]は成立し、庶民院の優越が確立した{{Sfn|坂井|1967|p=460}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=242}}。チャーチルは国王への報告書の中で「長期に及んだ不安な憲法危機が終結した」と報告している{{Sfn|河合|1998|p=127}}。<br /> <br /> ;失業保険制度の構築<br /> この[[議会法]]制定により蔵相ロイド・ジョージは国民保険法を制定させることができた{{Sfn|高橋|1985|p=168}}。この法律は第1部と第2部に分かれており、第1部は賃金労働者のほとんどを加入対象とする[[健康保険]]制度、第2部は建設や造船関係の業種の労働者を対象とした[[失業保険]]制度を定めたものであり、廃案になった先のチャーチルの失業保険法を再導入したものだった{{Sfn|高橋|1985|p=168}}{{Sfn|ピーデン|1990|p=30}}。失業保険は一部の職種の労働者に限定されているが、これは実験的導入であるためであり、成功した場合には他の業種の労働者にも拡大させるとしていた{{Sfn|ピーデン|1990|p=30}}。<br /> <br /> チャーチルは商務大臣だった頃から引き続いて失業保険問題を担当し、同法第2部の具体的制度の構築にあたった{{Sfn|河合|1998|p=123}}{{Sfn|ピーデン|1990|p=34}}。ロイド・ジョージが主導する健康保険の方は既存の民間保険団体や医療関係者の既得権とぶつかり合い、大揉めになったが、チャーチルの主導する失業保険の方はほとんど抵抗を受けなかったという。資本家は自分たちが必要としない労働者を失業保険が面倒を見てくれるということで基本的に歓迎し、労働組合も失業した組合員を持てあましていたため、反対の声は小さかったのである{{Sfn|ピーデン|1990|pp=33-34}}<br /> <br /> ===== 暴動鎮圧 =====<br /> [[File:Sidney street churchill.jpg|200px|thumb|{{仮リンク|シドニー街の戦い|en|Siege of Sidney Street}}の直接指揮を執る内務大臣チャーチル(丸で顔を囲ってある人物)]]<br /> 1910年11月16日、[[ロンドン]]の[[イーストエンド・オブ・ロンドン|イースト・エンド]]ハウンズディッチの宝石店で警官三名の殺害を伴った強盗事件が発生した{{Sfn|ペイン|1993|p=121}}。チャーチルは殉職した警察官たちの国葬を執り行った。捜査を進めると、[[ロシア]]から亡命してきたレット人の反帝政革命家グループの犯行である可能性が濃厚となった。[[1911年]]1月、グループの隠れ家がシドニー街にあることが判明し、警察が踏み込もうとしたが、銃で応戦され、シドニー街の戦いと呼ばれる銃撃戦が勃発し{{Sfn|ペイン|1993|pp=121-122}}、チャーチルは現場で警官隊の直接指揮を執った{{Sfn|河合|1998|p=130}}{{Sfn|山上|1960|p=45}}{{#tag:ref|庶民院では保守党党首バルフォアが「内務大臣が自ら事件現場に赴くのは軽率」という批判を展開したが、チャーチルは「そう怒るなよ。面白かったんだから」と答弁したという{{Sfn|河合|1998|p=130}}。|group=注釈}}。やがてその家から火の手が上がると、チャーチルは消火しようとする消防隊を押しとどめて、その家が燃え尽きるまで待機を続けた。家が焼け落ちた後、警察がその跡を調べたが、犯人の焼死体は2体しか出ず、他の者がどうなったかは不明だった{{Sfn|ペイン|1993|p=124}}。この事件によりチャーチルの脳裏には社会主義への恐怖が焼きついたという{{Sfn|ペイン|1993|p=125}}。社会政策に取り組み、軍拡に反対したチャーチルの急進性もこの頃から弱まっていくことになる{{Sfn|山上|1960|p=47}}<br /> <br /> [[File:Tonypandy riots 1.jpeg|200px|thumb|1910年、チャーチル内務大臣の命令で{{仮リンク|トニパンディの暴動|en|Tonypandy Riots}}を鎮圧すべく出動した警察官たちが道を閉鎖している。]]<br /> [[1910年]][[11月8日]]に南[[ウェールズ]]ロンダ渓谷の炭鉱労働者たちが{{仮リンク|トニパンディの暴動|en|Tonypandy Riots}}を起こした。チャーチルは、戦争大臣リチャード・ホールデンを通じてネヴィル・マックレディ将軍率いる軍隊や警察部隊を派遣し、炭鉱夫労働組合指導者に対して「軍事力を行使することも躊躇しない」と恫喝した{{Sfn|河合|1998|p=129}}{{Sfn|ペイン|1993|p=120}}{{Sfn|坂井|1967|p=478}}。この軍事的恫喝のおかげで炭鉱夫2人の殺害だけでスト鎮圧に成功した{{Sfn|ペイン|1993|p=120}}。チャーチルは個人的には炭鉱夫たちに同情していたが、内務大臣として法令の遵守を第一とし、また挑戦を受ければ退却しない性格と相まって決断を下した{{Sfn|河合|1998|p=130}}{{Sfn|ペイン|1993|p=120}}。それでも鎮圧軍を派遣するにあたっては軍隊に対し、「軍は炭鉱経営者たちの個人的使用人ではない」ことや「労働争議に介入したり、[[スト破り]]の役割を果たしてはならない」ことを訓令した{{Sfn|坂井|1967|p=478}}。この事件以降チャーチルは労働者の激しい憎悪の対象となり、「トニパンディを忘れるな」は労働運動の合言葉になった{{Sfn|河合|1998|p=129}}。労働党もチャーチルやロイド=ジョージら「自由党急進派」への不信を高めた{{Sfn|山上|1960|p=43}}。<br /> <br /> 国民保険法はこうした労働者の不満を抑えるためのものであったが、それもむなしく、1911年6月にはイギリス各港で海運労働者の大規模ストライキが勃発し、各港は海運機能が麻痺し、革命前夜の空気さえ漂った。一時下火になるも8月には鉄道労働者が海運労働者と連携したストライキを起こした{{Sfn|坂井|1967|pp=479-480}}。同時期の1911年7月にフランスが植民地化を推し進めている[[モロッコ]]・[[アガディール]]港にドイツ軍艦が派遣されるという[[第二次モロッコ事件]]が勃発し、独仏戦争の危機が発生した。アスキス内閣の[[エドワード・グレイ]]外相はドイツがこの港を獲得したら英国本国と英領南アフリカや南米との通商海路が危険に晒されるとしてドイツの行動に断固反対の立場をとった。アスキス首相はこの事件を機に対独戦争準備を急がせた{{Sfn|坂井|1967|p=466}}。戦争準備が決定された中での大ストライキであり、政府としては緊急に処理しなければならなかった{{Sfn|坂井|1967|p=479}}。<br /> <br /> チャーチルは弾圧路線を変更するつもりはなく、あちこちに軍隊を派遣してはストライキ弾圧を行った。労働者たちは軍隊派遣に強く反発し、むしろ軍隊が派遣された場所で積極的な暴動ストライキが発生した。ロンドン、リヴァプール、ラネリーでは軍隊の発砲で多数の労働者が死傷する事態となった{{Sfn|坂井|1967|pp=480-481}}。ここに至ってチャーチルも自分の弾圧路線が誤りであったことを認めざるをえなくなった。ルーシー・マスターマンはこの頃のチャーチルについて「打ちのめされたようだった」と語っている{{Sfn|坂井|1967|p=481}}。結局このストライキはロイド・ジョージが経営者を回ってドイツとの戦争が不可避かつ間近であると説得し、労働者に対して融和的態度を取らせたことで収束に向かった{{Sfn|坂井|1967|p=481}}。労働党議員[[ラムゼイ・マクドナルド]]は「この危機に際して、チャーチル内務大臣が、民衆操作に通じていたなら、市民的自由の意味を理解していたなら、内相の権限を機能的に行使できる能力があったなら、こんな大混乱には陥らなかっただろう」と語っている{{Sfn|坂井|1967|p=481}}。<br /> <br /> チャーチルは1911年[[8月15日]]の庶民院で「軍隊は国王陛下の物であるから、本来は労働争議にも干渉できる。しかし労働争議の仲裁は商務省に任せられているので、軍隊は労働争議が犯罪を伴った場合のみ治安維持目的で出動するべきだ」と述べ、自分が軍隊を出動させたのはあくまで治安維持のためであったことを強弁した{{Sfn|坂井|1967|p=484}}。だが労働組合側にこのような弁を信じる者はなく、労働組合のチャーチルへの嫌悪感は決定的となった。このことは労働者層に支持を拡大したいアスキス内閣にとって[[アキレス腱]]となった{{Sfn|坂井|1967|p=484}}。<br /> <br /> ==== アスキス内閣海軍大臣 ====<br /> 内閣の帝国防衛委員会の席上、戦争大臣ホールデン子爵が海軍にも陸軍の帝国参謀本部に相当する組織を設置すべきであると主張した。レジナルド・マッケナ海軍大臣は反対したが、委員のほとんどや首相も賛同したことで、マッケナは辞任した{{Sfn|坂井|1967|pp=468-469}}。1911年10月23日、後任としてチャーチルが海軍大臣に就任した。閣僚としての地位は内相の方が上だが、ドイツとの開戦が迫っている情勢だけにこの閣僚職への就任は責任重大であった{{Sfn|河合|1998|p=133}}。チャーチルは内務大臣として海軍火薬庫に警備を派遣するなどドイツとの戦争準備に尽力し、また帝国防衛委員会の会合にも積極的に参加し海軍の軍備や組織の問題に強い関心を持っており、その熱意をアスキスに認められていた{{Sfn|河合|1998|p=133}}。またアスキスはチャーチルを急進派から切り離すために就任を命じたともされる{{Sfn|坂井|1967|p=469}}。<br /> <br /> ===== ドイツとの建艦競争 =====<br /> [[File:Winston Churchill - 1914 Cartoon - Project Gutenberg eText 12536.png|200px|thumb|野党である保守党(TORY)から支持を受けるチャーチル海相の海軍予算増額案を風刺した絵(1914年1月14日『[[パンチ (雑誌)|パンチ]]』誌)]]<br /> 海軍大臣となったチャーチルは、[[バッテンベルク家]]の[[ルイス・アレグザンダー・マウントバッテン|ルイス公子]]を[[第一海軍卿]]に任じつつ、70歳過ぎですでに引退していた[[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]]元提督を顧問として重用した{{Sfn|河合|1998|p=135}}{{Sfn|山上|1960|p=56}}、フィッシャーの提案を受け入れながら、海軍軍備増強を進めた{{Sfn|ペイン|1993|p=133}}。<br /> <br /> 13半インチ砲にかわって15インチ砲を導入し、[[クイーン・エリザベス級戦艦]]に搭載した{{Sfn|河合|1998|p=136}}。またフィッシャーは装甲よりスピード重視の軍艦製造を目指したため、燃料を[[石炭]]から[[重油]]に転換する必要性に迫られ、フィッシャーが委員長を務める[[王立委員会]]のもとに{{仮リンク|アングロ=ペルシャン・オイル・カンパニー|en|Anglo-Persian Oil Company}}を創設し、19世紀以来イギリスが握っている中東の石油利権をより強力に掌握した{{Sfn|河合|1998|p=136}}{{Sfn|ペイン|1993|pp=133-134}}{{Sfn|山上|1960|p=56}}。また海軍航空隊の創設と育成にもあたったためチャーチルを「[[イギリス空軍]]の父」とする主張もある。チャーチル本人によれば「フライト(flight)」や「シープレイン(sea plain)」などの航空用語を作ったのは彼なのだという{{Sfn|山上|1960|p=57}}。<br /> <br /> 一方首相アスキスは建艦競争の緩和を目指し、1912年1月に戦争大臣ホールデン子爵を使者としてドイツに派遣し、「ドイツはイギリス海軍の優位を認めるべき。ドイツがこれ以上海軍増強を行わないなら、代わりにイギリスはドイツが植民地拡大するのを邪魔しない」という交渉をヴィルヘルム2世にもちかけた({{仮リンク|ホールデン使節|en|Haldane Mission}}){{Sfn|坂井|1967|p=491}}。このホールデン子爵訪独中の1912年2月9日、チャーチルが「イギリスにとって海軍は必需品、しかしドイツにとって海軍は贅沢品である。」という演説を行った{{Sfn|河合|1998|p=137}}{{Sfn|坂井|1967|p=491}}{{Sfn|ペイン|1993|p=134}}。チャーチルとしてはホールデン子爵をサポートするつもりでこの演説を行ったのだが、かえってヴィルヘルム2世の心証を悪くし、ホールデン子爵の提案はドイツ海軍力を一方的に封じ込めようというイギリスの陰謀であるとして拒絶された{{Sfn|坂井|1967|p=492}}。<br /> <br /> チャーチルは、1912年春にポーランド沖で150隻の軍艦と王室ヨットを動員した[[観艦式]]を開催し、ドイツを威圧した{{Sfn|ペイン|1993|p=135}}。さらに王室船「エンチャントレス」号(HMS Enchantress)で[[地中海]]の視察旅行を行った。チャーチルは第一次世界大戦前の海相在任期間のうち実に4分の1をこの船の上で過ごしている{{Sfn|ペイン|1993|p=135}}。[[古代ギリシアの演劇|古代ギリシャ劇場跡]]を訪問した際にチャーチルはシチリア遠征を思い起こし、ドイツ軍は[[アテナイ]]軍と同じ運命をたどるだろうと思い込むようになったという{{Sfn|ペイン|1993|p=135}}。<br /> <br /> 海軍予算の面では1912年は巨額を要求したが、1913年は控えめだった{{Sfn|河合|1998|p=138}}。1913年3月26日には、英独両国の建艦競争を1年間休戦するという「海軍休日案」をドイツに提案しているが、相手にされなかった{{Sfn|河合|1998|p=138}}{{Sfn|坂井|1967|p=492}}。そのため1914年1月には海軍予算の大幅増額を要求し、軍事費拡大に慎重な急進派閣僚ロイド・ジョージと対立を深めた{{Sfn|河合|1998|p=138}}{{Sfn|山上|1960|p=55}}{{Sfn|坂井|1967|p=508}}。結局この論争はアスキス首相の決定によりチャーチルの言い分が認められた{{Sfn|河合|1998|p=138}}{{Sfn|坂井|1967|p=508}}。3月の庶民院でチャーチルがこの海軍予算案を発表した際には、与党自由党からではなく、海軍増強を主張していた野党保守党から喝采されるという珍現象が発生した{{Sfn|河合|1998|p=139}}。<br /> <br /> ===== アイルランド問題 =====<br /> 1912年から1914年にかけてアイルランド自治法をめぐって議会が紛糾する中、アイルランド北部[[アルスター]]の[[プロテスタント]]や保守党員たちは「アルスター義勇軍」を結成し、アイルランド自治にアルスターが含まれることに抵抗した。これに対抗して[[カトリック教会|カトリック]]が大多数の南アイルランドもアイルランド義勇軍を結成した。この両軍が睨みあう状態となり、アイルランドは内戦寸前の状態に陥った。アイルランドにはカトリックが多く、カトリックはアイルランド自治を求める者が多いが、北部アイルランドの[[アルスター]]は複雑だった。アルスターは9つの州からなるが、[[プロテスタント]]が多数な州とカトリックが多数派な州、両方が混在している州があった{{Sfn|坂井|1967|p=494}}。またアルスターはイングランド本国と経済的に結びつきが強く、アイルランドの中では唯一[[産業革命]]を経た地域であったため、アイルランド自治にあたってここを失うことはカトリック・アイルランド自治派にとってもプロテスタント・イギリス派にとっても耐えがたいことだった{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=250}}。<br /> <br /> チャーチルは1914年3月19日に独断で艦隊を[[アラン島 (スコットランド)|アラン島]]に出動させてアルスター義勇軍を牽制した{{Sfn|坂井|1967|p=508}}。チャーチルの父ランドルフ卿はかつて「アルスターは戦うだろう。そしてアルスターは正しいだろう」と述べたことのある親アルスター派であり、チャーチルもそれに影響されており、そのため逆にチャーチルこそがアルスターを牽制する役にふさわしいと考えられたのである{{Sfn|河合|1998|pp=144-146}}。<br /> <br /> アイルランド自治法案は1914年5月26日に3度目の庶民院可決が成り、議会法に基づき、貴族院の賛否を問わず同法案は可決されることになった。しかし内乱誘発を恐れたアスキス首相は、アルスターを6年間自治の対象から除外する修正案も提出した。その修正案について各方面との交渉中に第一次世界大戦が勃発し、保守党党首[[アンドルー・ボナー・ロー]]との交渉の結果、アイルランド自治法案は棚上げすることになった。内乱の危機は世界大戦のおかげで回避されたのだった{{Sfn|坂井|1967|pp=512-513}}{{Sfn|河合|1998|p=149}}{{Sfn|山上|1960|p=59}}。<br /> <br /> ===== 第一次世界大戦 =====<br /> 1914年6月の[[サラエボ事件]]を機に7月終わりから8月初めにかけてドイツ、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]対ロシア、[[フランス]]の[[第一次世界大戦]]が勃発した。イギリスはロシアともフランスとも正式な軍事同盟は結んでいなかったので参戦義務はなく、閣内でも参戦すべきか否か意見が分かれ、とりわけロイド=ジョージが参戦に反対した。しかしチャーチルは、熱烈に参戦を希望し、ドイツがロシアに宣戦布告した8月1日には独断で海軍動員令を出した{{Sfn|河合|1998|p=150}}。自由党以外では保守党とアイルランド国民党が参戦を支持していた{{Sfn|河合|1998|p=151}}。チャーチルはもし戦争賛成・反対で内閣や自由党が分裂するなら、反戦派は容赦なく追放し、保守党と連立政権を作るべきことを主張した{{Sfn|山上|1960|p=63}}。<br /> <br /> 8月2日にドイツ軍が[[ベルギー]]の中立を犯して同国に侵攻を計画していることが判明し、これを機にロイド=ジョージも参戦派に転じたことで、アスキス内閣は対独参戦を決定した。参戦反対派のジョン・モーリー (初代ブラックバーン子爵)枢密院議長によればロイド=ジョージの転向はチャーチルの影響であったという{{Sfn|河合|1998|pp=150-151}}。8月4日にイギリス政府はドイツにベルギーからの撤退を求める最後通牒を発したが、午後11時までの期限になってもドイツからの返信はなく、同時刻から参戦を決定する閣議が首相官邸で開催されたが、アスキス首相夫人マーゴットによると、この時チャーチルは幸せそうな顔つきで大股で歩いて閣議室へ向かっていたという{{Sfn|山上|1960|p=63}}{{Sfn|河合|1998|pp=150-151}}。この頃の妻への手紙の中でチャーチルは「全てが破滅と崩壊に向かっているが、私は興味津津で、調子がよく、幸せです。恐ろしいことかもしれないが、戦争の準備は私には魅力的です。それでも私は、平和を守るために最善を尽くすつもりです」と書いている{{Sfn|河合|1998|p=151}}。<br /> <br /> [[File:Churchillfisher19140001.jpg|200px|thumb|引退した[[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]]元提督を[[第一海軍卿]]に任じるチャーチル海相の風刺画(『パンチ』誌)]]<br /> 英独の最初の海戦は8月5日に[[イギリス海軍|王立海軍]]の[[軽巡洋艦]]「[[アンフィオン (偵察巡洋艦)|アンフィオン]]」が[[ドイツ帝国海軍]][[機雷敷設艦]]「[[ケーニギン・ルイゼ (機雷敷設艦)|ケーニギン・ルイゼ]]」を撃沈するも機雷に接触し、「アンフィオン」も沈没したという小規模戦闘だった。以降、このような小規模戦闘が繰り返されることになり、両国とも主力艦隊は軍港に温存して決戦を避けた{{Sfn|ペイン|1993|pp=142-143}}。<br /> <br /> チャーチルは艦隊を[[英仏海峡]]から[[北海]]へ移し、陸軍を安全に大陸へ輸送することに貢献した{{Sfn|ペイン|1993|p=170}}。また海兵部隊を[[ダンケルク]]に送りこみ、ここに海軍航空部隊の基地を置き、ドイツ軍の爆撃飛行船[[ツェッペリン]]の英本土飛来を阻止しようとした。またこの飛行場を防衛するため、陸軍兵器の開発にも携わり、[[:en:Landships Committee|陸上戦艦委員会]]を創設して装甲自動車や無限軌道自動車の開発を行い、後に[[戦車]]を生み出した{{Sfn|河合|1998|p=154}}。<br /> <br /> 10月初めには予備水兵から成る師団をドイツ軍に包囲されるベルギーの[[アントワープ]]防衛に送り、かつ彼自身もアントワープに入り、防衛戦の直接指揮を執った{{Sfn|河合|1998|pp=154-155}}{{Sfn|ペイン|1993|p=146}}{{Sfn|山上|1960|p=66}}。しかし結局アントワープ防衛には失敗し、イギリス軍のうち二個大隊がドイツ軍の捕虜となった{{Sfn|ペイン|1993|p=147-148}}。チャーチルは何の戦果もあげられずに、アントワープ陥落の4日前の10月6日にイギリス本国へ逃げ戻ってきた。これによりチャーチルはマスコミや保守党から「無駄な犠牲を出した愚かな作戦」「ヒーロー気取り」と激しい批判を受けた{{Sfn|河合|1998|pp=154-155}}{{Sfn|ペイン|1993|p=148}}{{Sfn|山上|1960|p=67}}。チャーチルは、開戦以来マスコミの評判が悪かった第一海軍卿ルイス王子(ドイツ人の血をひいていた)にアントワープ事件の責任を取らせて辞職させ、その後任としてフィッシャーを第一海軍卿に任じた{{Sfn|ペイン|1993|p=150}}{{Sfn|河合|1998|p=156}}。<br /> <br /> 12月には[[フォークランド沖海戦]]が勃発し、王立海軍が勝利した。チャーチルは勝利に浮かれ、更なる大規模海戦を希望したが、ドイツ海軍はますます軍港に閉じこもってしまい、以降チャーチルの海相在任中には大規模な海戦は起こらなかった{{Sfn|ペイン|1993|p=151-152}}{{Sfn|山上|1960|p=68}}{{#tag:ref|この戦い以外ではチャーチルの海相退任後の1916年5月31日に起こった[[ユトランド沖海戦]]が唯一大海戦と呼べるものであった{{Sfn|山上|1960|p=80}}。|group=注釈}}。<br /> <br /> ;ガリポリの戦い<br /> [[File:Illustration par Carrey pour le journal Le Miroir en 1915.jpg|200px|thumb|1915年、[[ガリポリの戦い]]のイラスト。]]<br /> {{main|ガリポリの戦い}}<br /> 1914年10月には反露親独的な[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]がドイツ側で参戦しており、[[1915年]]1月にロシア帝国軍最高司令官[[ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)|ニコライ大公]]はイギリス政府に対してトルコを圧迫してほしいと要請した{{Sfn|河合|1998|p=156}}。閣内にはロシア軍との連携を重視する東方派とフランス軍との連携を重視する西方派の争いがあったが、このロシアからの要請を期に戦争大臣[[ホレイショ・キッチナー]]は東方派に転じた。チャーチルも東方派になり、王立海軍を[[ダーダネルス海峡]]に送りこむことを閣議で主張するようになった。閣議の結果、膠着状態の西部戦線打開策としてこの作戦が承認され、海軍だけではなく陸軍兵力をガリポリ半島から上陸する作戦も決定された{{Sfn|河合|1998|pp=156-157}}。この作戦は1915年3月18日に英仏連合軍で実施、合計18隻の英仏艦隊でもってダーダネルス海峡沖に攻めよせ、トルコ軍要塞を砲撃で壊滅させた。ところが戦闘中に英仏軍の戦艦3隻が機雷に接触し、2隻は沈没、もう1隻も大被害を受けたため、ジョン・ド・ロベック提督はエジプトからの増援の到着するまで作戦を延期すべしとの判断を下した{{Sfn|河合|1998|p=157}}{{Sfn|ペイン|1993|p=157}}{{Sfn|山上|1960|p=70}}。<br /> <br /> 報告を受けたチャーチルは激怒し、ただちに再攻撃を行い、ダーダネルス海峡を突破し、[[マルマラ海]]にいるトルコ艦隊を撃破すべしと主張したが、ド・ロベックの判断を支持するフィッシャーらが反対し、再攻撃を要求しつつも最終判断は提督に任せるという返信を送ることとなった{{Sfn|ペイン|1993|p=157}}{{Sfn|山上|1960|p=70}}。既に上陸を開始していた陸上部隊は海上からの援護なきまま戦う羽目となり、しかも一気に大軍を上陸させず、少しずつ上陸させたために、英仏海軍の攻撃から立ち直ったトルコ軍から攻撃を受けて大損害を被った{{Sfn|河合|1998|p=157}}{{Sfn|山上|1960|pp=70-71}}<br /> <br /> チャーチルは後年までこの時に迅速な行動を起こさなかったことを後悔し、「もし英国艦隊がこの時に[[コンスタンティノープル]]に砲塔を向けられていれば、トルコは戦争から脱落し、バルカン半島諸国はすべて連合国側につき、1915年までには連合軍の勝利で終わり、[[ロシア革命]]が起こる事もなかったであろう」と推測している{{Sfn|ペイン|1993|p=158}}{{Sfn|山上|1960|p=71}}。<br /> <br /> ===== 罷免 =====<br /> 5月半ば、もともとダーダネルス海峡での作戦に乗り気ではなかったフィッシャーが抗議の意味を込めて辞職した。チャーチルは慰留したが、拒否された。フィッシャーは保守党党首ボナー・ローに宛てて送った手紙の中で「海相が我々を破滅に導いています。あの男はドイツ人より危険です」と書いている{{Sfn|山上|1960|p=72}}。もともとチャーチルを激しく嫌っていた保守党は開戦以来、チャーチルを「素人海相」「専門家に対抗する策士」などとこき下ろして批判してきたが、そこにこのガリポリの戦いの失態とフィッシャー辞職が来たので、チャーチル批判の機運は最高潮に達した{{Sfn|山上|1960|p=72}}。<br /> <br /> また保守党は膠着状態の西部戦線の弾薬不足も批判しており、その批判動議が議会で可決された。これによりアスキス内閣は総辞職を余儀なくされた{{Sfn|村岡、木畑|1991|pp=258-259}}。しかし戦時の政治危機を危惧したアスキスやロイド・ジョージ、保守党のボナー・ローらが交渉した結果、保守党内で目の敵にされているチャーチルを海軍大臣から外すことを条件として自由党と保守党が[[大連立]]政権を樹立することで合意した{{Sfn|河合|1998|p=157}}{{Sfn|山上|1960|p=73}}{{Sfn|高橋|1985|p=181}}。チャーチルは5月17日にこれを知り、保守党党首に再考を願う手紙も書いたが、効果はなかった{{Sfn|山上|1960|p=73}}。「貴方のように素晴らしい才能を持った人が40歳やそこらで終わるわけはないですよ」と励ましてくれた者もいたが、それに対してチャーチルは「いや、私が望んでいた事は完全に失われたのだ。それは戦争を遂行し、ドイツを負かすことだ。」と語った{{Sfn|山上|1960|pp=73-74}}。<br /> <br /> ==== アスキス連立内閣ランカスター公領担当大臣 ====<br /> こうして[[挙国一致内閣]]としての第2次アスキス内閣が成立した。この政権には自由党と保守党のみならず、労働党からも戦争賛成派議員の一部が参加した{{Sfn|山上|1960|p=74}}。労働党は開戦以来、反戦派と「ドイツ軍国主義に対する戦い」として戦争を支持する戦争賛成派に分離していた{{Sfn|山上|1960|p=74}}。保守党前党首バルフォアがチャーチルに代わる海軍大臣に就任し、チャーチルは閑職のランカスター公領担当大臣に左遷された。ただ閣僚として戦争会議には残ることができ、チャーチルはこれが目的で閑職であっても閣僚職を引き受けた{{Sfn|河合|1998|pp=159-160}}。<br /> <br /> 戦争会議はダーダネルス委員会と改称され、ダーダネルスでの作戦指導を専門とするようになった。チャーチルはダーダネルス作戦の続行を主張して受け入れられ、8月に改めてガリポリ上陸作戦が決行されたが、更なる犠牲者を出しただけに終わった。結局10月末にはガリポリ半島から撤退することが委員会で決定された。ダーダネルス作戦は25万人に及ぶ英仏軍将兵の死傷者を出しただけで何も得る物なく終わった。ダーダネルス委員会も解散することとなった。アスキス首相は少数の閣僚で構成する戦争委員会を新設したが、もはやチャーチルはそこには入れてもらえなかった{{Sfn|河合|1998|pp=159-161}}{{Sfn|山上|1960|p=71}}{{Sfn|山上|1960|p=75}}。閣内に留まる意味がなくなったチャーチルは11月15日をもってランカスター公領担当大臣を辞し、内閣から離れた{{Sfn|河合|1998|p=161}}{{Sfn|山上|1960|p=75}}。<br /> <br /> ==== 西部戦線に従軍 ====<br /> [[File:WinstonChurchill1916Army.gif|200px|thumb|1916年、{{仮リンク|王立スコット・フュージリアーズ連隊|en|Royal Scots Fusiliers}}所属のチャーチル少佐(中央)]]<br /> とにかく行動をしていないと済まないチャーチルは、閣僚職を辞職してまもない1915年11月19日には西部戦線に従軍しようと、フランスへ向かった。[[イギリス海外派遣軍 (第一次世界大戦)|イギリス海外派遣軍]]総司令官[[ジョン・フレンチ]]将軍は、チャーチルに陸軍少佐の階級と、王立スコット・フュージリアーズ連隊所属の第6大隊長の地位を与えた。<br /> <br /> チャーチルは元騎兵中尉であり、オックスフォードシャー民兵では中佐の階級を持っていた{{Sfn|河合|1998|p=165}}{{Sfn|ペイン|1993|p=165}}{{Sfn|山上|1960|p=78}}。もっとも軍部内では「政治家崩れの軍人」と批判が強く、また本国議会でも保守党がチャーチルの行動を批判し、チャーチルの旅団長就任を妨害した{{Sfn|河合|1998|p=165}}{{Sfn|山上|1960|p=78}}。<br /> <br /> チャーチルは着任早々、部隊の[[シラミ]]に宣戦布告して、その駆除キャンペーンを実施した。さらにブリキの風呂を作らせて塹壕の中での生活の改善を図り、一日に三回は塹壕の状況の確認に回った{{Sfn|河合|1998|p=165}}{{Sfn|山上|1960|p=78}}。またなるべく早期に塹壕戦を終わらせねばならないと考え、塹壕を突破できる[[戦車]]の開発を急ぐべきと覚書の中で書いている{{Sfn|河合|1998|p=165}}。チャーチルの副官によればチャーチルは「戦争とは笑顔で楽しみながらやるゲームである」とよく語っていたという{{Sfn|河合|1998|p=165}}{{Sfn|山上|1960|p=79}}。<br /> <br /> [[1916年]]4月、チャーチルの大隊は戦死者を多く出し過ぎたため、他の大隊と合併され、チャーチルも大隊指揮官から解任された{{Sfn|河合|1998|p=167}}。結局チャーチルは主要な会戦に参加することなく{{Sfn|ペイン|1993|p=167}}、5月にロンドンに帰国することとなった{{Sfn|山上|1960|p=80}}。<br /> <br /> ==== 再起を狙って ====<br /> [[File:Chuchillpunch19160001.jpg|200px|thumb|失脚して文筆で生計を立てるチャーチルの風刺画(1916年『パンチ』誌)]]<br /> 帰国したチャーチルは新聞に投書する文筆業で生計を立てるようになった{{Sfn|河合|1998|p=167}}。また政界では再起を狙って大連立に否定的な野党的議員と連携して政界再編を起こそうと尽力した{{Sfn|河合|1998|p=167}}。<br /> <br /> 1916年9月から「ダーダネルス調査委員会」が開催され、ダーダネルス作戦についての文書公開と調査が行われ、チャーチルも聴聞会に召喚された。チャーチルは自分が常に海軍の専門家から同意を得て作戦を実行したことを強調した{{Sfn|河合|1998|p=167}}。<br /> <br /> 同年12月にはより強力に[[総力戦]]体制を構築できる政府の樹立を求めていたロイド・ジョージが、保守党の支持も得て、「戦争委員会の再編成を行い、少数の閣僚のみで構成するようにし、その委員長は自分にすべき」と首相アスキスに要求した。アスキスは首相である自分を委員長にするよう要求したが、ロイド・ジョージは拒否し、名目上の首相になるのを嫌がったアスキスが辞職したことで、ロイド・ジョージ内閣が成立{{Sfn|河合|1998|p=168}}{{Sfn|高橋|1985|pp=184-185}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=261}}した。<br /> <br /> チャーチルは再入閣を希望し、ロイド・ジョージもチャーチルを協力してくれたが、保守党党首ボナー・ローがチャーチルの入閣に強く反対し、ロイド・ジョージも当面はそれを受け入れざるを得なかった{{Sfn|河合|1998|p=169}}{{Sfn|山上|1960|p=83}}。チャーチルは諦めずに延々と入閣工作を進めた{{Sfn|ペイン|1993|p=167}}。<br /> <br /> 一方ロイド・ジョージ首相はダーダネルス調査委員会の報告でチャーチルの名誉が回復されるまで入閣を辛抱するようチャーチルを説得していた。この報告は1917年3月に発表され、ダーダネルス作戦の失敗の責任はチャーチル一人のせいにされるべきものではなく、アスキス元首相にも重大な責任があるとしていた{{Sfn|河合|1998|pp=169-170}}<br /> <br /> ==== ロイド・ジョージ内閣軍需大臣 ====<br /> 1917年7月にチャーチルは軍需大臣としてロイド・ジョージ内閣に入閣した{{Sfn|山上|1960|p=83}}。ただし{{仮リンク|戦争内閣|en|War Cabinet}}(戦争委員会)のメンバーには加えられず、必要に応じて召集され、意見を述べるだけとされた{{Sfn|河合|1998|p=173}}。保守党やマスコミのチャーチルへの憂慮は強く、ロイド・ジョージの回顧録によると彼はチャーチルを閣僚に任命した直後の数日間は保守党に離反されて政権が潰れることも覚悟しなければならなかったという{{Sfn|河合|1998|p=170}}{{Sfn|山上|1960|p=83}}。<br /> <br /> この閣僚就任でチャーチルは再び議員辞職し、それに伴って行われたダンディー選挙区補欠選挙に出馬した。大連立の建前から保守党は対立候補を立てることを見送ったが、禁酒派のスクリムジャーが禁酒に加えて反戦も訴えて出馬し、労働者層の票はかなり彼に流れた。チャーチルが再選したものの、この選挙区におけるチャーチルの安泰にも陰りが見えてきた{{Sfn|河合|1998|p=171}}。<br /> <br /> ;戦車の開発<br /> 1917年4月にはアメリカが連合国側で参戦していた。アメリカはそれ以前から金融や物資の面で英仏を支援していたが、アメリカ参戦以降はその支援が更に増加した{{Sfn|山上|1960|p=84}}。軍需大臣となったチャーチルはこれを全力で活用し、塹壕を突破するための新兵器「[[戦車]]」の開発を急いだ。11月の[[カンブレーの戦い]]では400台近い戦車を投入し、その有用性を証明できた。これ以降ロイド・ジョージ首相も戦車開発の拡大を支持した{{Sfn|河合|1998|p=174}}。戦争末期には1万台もの戦車製造計画を立てている{{Sfn|ペイン|1993|p=170}}。このためチャーチルはしばしば「戦車の父」と呼ばれるようになり、彼自身もこのあだ名を好んでいた{{Sfn|ペイン|1993|p=170}}。チャーチルは後に「政府が1915年の段階で戦車の有用性を理解できていれば戦争は1917年に終わらせられた」と評している{{Sfn|河合|1998|p=174}}{{Sfn|山上|1960|p=85}}。<br /> <br /> [[File:Clemenceau.jpg|200px|thumb|フランス首相・陸相[[ジョルジュ・クレマンソー]]]]<br /> 1917年3月、厭戦気分が高まるロシアで帝政が打倒され、混乱のすえに[[ウラジーミル・レーニン]]のソビエト政権が樹立された。11月に革命ロシアはドイツと[[ブレスト=リトフスク条約]]を締結して戦争から離脱してしまった{{Sfn|山上|1960|pp=85-86}}。フランスでも厭戦気分が高まり、反戦ストライキなどが多発するようになったが、1917年11月にフランス首相・陸相に就任した[[ジョルジュ・クレマンソー]]は反戦ストライキを徹底的に弾圧することで、戦争遂行体制を維持した{{Sfn|山上|1960|p=86}}。ロイド・ジョージはフランスの状況が不安になり、チャーチルをフランスに派遣した{{Sfn|河合|1998|p=175}}{{Sfn|山上|1960|p=86}}。チャーチルはクレマンソーとともに英仏両軍の前線を視察して回り、両国の結束を将兵たちに示した{{Sfn|河合|1998|pp=175-176}}{{Sfn|山上|1960|p=86}}。<br /> <br /> ;戦争終結<br /> 1918年3月からドイツ軍の最後の攻勢([[1918年春季攻勢]])があり、英仏軍・ドイツ軍双方に多くの犠牲者が出たが、7月頃からアメリカ軍の本格参戦でドイツ軍が劣勢となっていった{{Sfn|ベッケール、クルマイヒ|2012|p=145}}{{Sfn|ベッケール、クルマイヒ|2012|p=154}}。9月終わりにはドイツ軍の実質的指導者[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]大将も休戦を考えるようになり、ドイツ政府にアメリカ大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]との交渉を開始させた{{Sfn|ベッケール、クルマイヒ|2012|pp=163-164}}。11月初めには[[ドイツ革命]]が勃発し、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダへ亡命した{{Sfn|ベッケール、クルマイヒ|2012|pp=164-165}}。11月9日から宰相になっていた[[ドイツ社会民主党]]党首[[フリードリヒ・エーベルト]]は休戦協定の締結を急ぎ、11月11日に連合国軍総司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥との間に講和条約を締結し、第一次世界大戦を終結させた{{Sfn|ベッケール、クルマイヒ|2012|p=165}}{{Sfn|ベッケール、クルマイヒ|2012|p=170}}。<br /> <br /> ロンドンでは11月11日午前11時に終戦を告げる[[ビッグ・ベン]]の鐘が鳴らされた。この音を聞いたチャーチルは妻とともに首相官邸へ向かったが、その際に勝利に喜びかえる群衆を見た。中にはチャーチルの車の上に乗ってきた者もあったという。チャーチルはこの時の光景を「何千人という群衆が喜びのあまり走りまわっていた。ドアというドアが開き、誰もが仕事を放り出した。国旗があちこちに掲げられた。鐘が鳴り終わらぬうちにロンドンは勝ち誇る落花狼藉の街となった。世界を縛る鎖は断たれたのだ。」と書いている{{Sfn|山上|1960|pp=87-88}}。もっとも戦争に勝利しても、海外投資の縮小、軍需産業以外の産業の減退、アメリカと日本の台頭、ロシア革命やアイルランド民族運動の脅威などイギリスの受けた打撃・地位の低下は取り返しのつかないものがあった{{Sfn|山上|1960|p=105}}。<br /> <br /> ;クーポン選挙<br /> ロイド・ジョージ首相はこの戦勝気分が冷めぬうちに戦時中延期され続けていた総選挙を行うことを決意した{{Sfn|河合|1998|p=177}}{{Sfn|山上|1960|p=88}}。戦争終結翌月の12月に[[1918年イギリス総選挙|解散総選挙]]が実施され、大連立政権は「[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|カイザー]]を縛り首にしよう」「ドイツ人から賠償金を取り立てよう」といったスローガンを掲げて国民の愛国心を煽る選挙戦を展開した。大連立政権支持の候補者にはロイド・ジョージと保守党党首ボナー・ローから推薦書(クーポン)が与えられた(このためクーポン選挙と呼ばれる){{Sfn|村岡、木畑|1991|p=281}}。チャーチルは引き続きダンディー選挙区から出馬し、「反戦派、敗北主義者、臆病者」を罵りつつ、今後は[[国際連盟]]創設によって平和を維持しようと訴えた{{Sfn|河合|1998|p=179}}。選挙の結果は大連立政権が大勝をおさめ、チャーチルも大差で再選を果たした{{Sfn|河合|1998|p=179}}。一方「敗北主義者」とされたアスキス元首相ら自由党アスキス派、[[ラムゼイ・マクドナルド]]ら労働党反戦派などクーポンをもらえなかった議員たちは惨敗した{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=282}}{{Sfn|河合|1998|p=179}}{{Sfn|山上|1960|p=89}}。大連立の中でもとりわけ保守党が大勝し、今後の政局の主導権を握った{{Sfn|河合|1998|pp=179-180}}{{Sfn|山上|1960|p=88-89}}{{Sfn|高橋|1985|p=190}}。保守党はこの大勝後もしばらく自由党のロイド・ジョージを首相のままにして大連立政権を継続するが、これは戦争直後は挙国一致を続けるべきという空気が強かったためと言われている{{Sfn|ブレイク|1979|p=234}}。<br /> <br /> ==== ロイド・ジョージ内閣戦争大臣 ====<br /> [[File:Churchill and Pershing in London for Victory Parade July 1919 IWM Q 67721.jpg|200px|thumb|1919年7月19日、ロンドンで行われた戦勝パレードでアメリカ軍の[[ジョン・パーシング]]大将と会見するチャーチル戦争大臣]]<br /> チャーチルは[[1919年]]1月から戦争大臣兼航空大臣(空軍大臣)に任じられた{{Sfn|河合|1998|p=180}}{{Sfn|ペイン|1993|p=170}}。チャーチルが「戦争終結後に戦争大臣になってもな」と愚痴ると、保守党党首ボナー・ローから「戦時中にお前を戦争大臣に任命する変わり者はいないよ」と皮肉られたという{{Sfn|河合|1998|p=180}}。<br /> <br /> ==== 動員解除 ====<br /> チャーチルの戦争大臣としての最初の仕事は動員の解除であった。兵士たちは一日も早く動員解除されて帰国することを希望していたが、後述する干渉戦争の影響もあって動員解除はゆっくりと行われ、しかも雇用者から重要労働者と認められた者から順番に動員解除するという方針をとったため、兵士たちの間に不満が高まった{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=282}}。<br /> <br /> 1919年1月3日、港町フォークストンでフランスに向かわされるのを嫌がった兵士3000人から4000人が乗船命令を拒否して、動員解除を求める集会を開く事件が発生した。こうした動員解除に関する運動はイギリス各地、各部隊に急速に広がっていった{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=282}}。それでなくても長引く戦争でイギリス国内は貧困化しており、ストライキと暴動と扇動が多発し、[[赤旗]]があちこちに掲げられている状況だった。動員解除を適切に行わねば大変な事態に進展する可能性があった{{Sfn|ペイン|1993|p=170}}。チャーチルは評判の悪い重要労働者から動員解除という方針を変更し、入隊が早い者から順に動員解除という反発が少ない方式に切り変えた。これによって動員解除に関する蜂起は沈静化していった{{Sfn|河合|1998|p=180-181}}。<br /> <br /> 他方、労働運動系のストライキは高まっていく一方で2月には[[グラスゴー]]で[[ゼネスト]]があり、市役所が労働者に乗っ取られ、赤旗が立てられる事件が発生した。チャーチルは軍隊と戦車を派遣してこれを鎮圧した{{Sfn|河合|1998|p=181}}。7月に発生した炭鉱ストライキは首相ロイド・ジョージが「イギリスにもソビエト政権誕生か」と恐怖したほど拡大した{{Sfn|河合|1998|p=181}}。この時もチャーチルはラインに駐留している4個師団を呼び戻し、ストライキ参加者を徹底的に掃討することを主張したが、この時はロイド・ジョージ首相により却下された(もし4個師団を呼び戻していたとしてもその4個師団がストライキに参加して余計に目も当てられない状況になる可能性の方が高かった){{Sfn|ペイン|1993|p=170}}。<br /> <br /> ===== 反ソ干渉戦争 =====<br /> [[File:BritishInterventionPoster.jpg|200px|thumb|「赤の化け物」との戦いを支援することをロシア人に訴えるイギリスのポスター]]<br /> [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ソビエト・ロシア]]に対しては大戦中の1917年末頃からイギリス、フランス、[[日本]]、アメリカなどの連合国が[[干渉戦争]]を仕掛けて、共産革命の阻止を図ろうとしていた{{Sfn|山上|1960|p=93}}。イギリスは北ロシアに駐留する部隊を通じて[[アントーン・デニーキン]]、[[アレクサンドル・コルチャーク]]ら帝政派ロシア軍人から成る[[白軍]]を支援していた{{Sfn|河合|1998|p=182}}。ロイド・ジョージ首相は反ソ干渉戦争から撤退することを希望し、アメリカのウィルソン大統領とも協力して関係主要国及びロシア各勢力を招いた講和会議を提唱したが、白軍の反対により流産となった。イギリス国内でもチャーチルや保守党が[[ボルシェヴィキ]]との妥協に反対し、干渉戦争の続行を主張した{{Sfn|河合|1998|p=182}}。<br /> <br /> 戦争大臣チャーチルは各部隊司令官に対して兵士たちがロシア出兵可能な状況かどうかを問う秘密質問状を送ったが、各司令官とも否定的な返答をした。そのためイギリスの干渉戦争はロシア国内の反ソ勢力の支援継続以外には不可能であった{{Sfn|河合|1998|p=183}}。ロイド・ジョージが[[パリ講和会議]]出席のためにイギリス不在の間、チャーチルはこれに全精力を注いだ{{Sfn|河合|1998|p=182}}{{Sfn|山上|1960|p=94}}。チャーチルが白軍に行った支援は1億ポンドにも及ぶ{{Sfn|河合|1998|p=184}}{{Sfn|ペイン|1993|p=171}}。さらにアメリカ大統領ウィルソンから「各国が出兵するなら干渉戦争に反対しない」との言質を取ったチャーチルは、連合国ロシア委員会を設置し、連合国各国に反ソ行動を求めた{{Sfn|河合|1998|p=183}}。<br /> <br /> こうしたチャーチルの反共姿勢に労働者階級や労働党、動員解除を求める軍人たちの反発は強まった{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=284}}。労働党はチャーチルがイギリス軍撤退の無期限延期と新たな兵士を送り込むことを議会に諮る事もなく独断で白軍に約束したとして彼の逮捕を要求する決議さえ出そうとした{{Sfn|山上|1960|p=97}}。こうした声に押されて、チャーチルも1919年秋までには英軍を撤退させざるをえなくなり{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=284}}、[[1920年]]春までには[[ロシア内戦]]はソビエトの勝利で事実上終了した{{Sfn|河合|1998|p=184}}。また同年7月頃には[[ポーランド・ソビエト戦争]]の戦況もソビエト有利に傾いていった。ソビエト軍によるポーランド侵攻が開始されるようになると、チャーチルはポーランド側で参戦することさえ計画したが、労働者がゼネストを起こして抵抗したため、物資支援に留まらざるを得なかった。チャーチルは軍需品を[[ダンツィヒ]]経由で大量にポーランド軍に送り、ついにソビエト軍は[[ワルシャワ]]攻略に失敗してロシア本国に敗走していった{{Sfn|山上|1960|p=98}}。ロシアの赤化は阻止できなかったが、他のヨーロッパ諸国への赤化の拡大を食い止めることには成功し、チャーチルも干渉戦争に一定の成果があったと評価したようである{{Sfn|山上|1960|p=98}}。<br /> <br /> しかしロイド・ジョージは干渉戦争や反共闘争に否定的であり、チャーチルを植民地大臣に転任させることでこの問題から引き離し、同年3月16日にはソビエトと通商協定を締結することで世界に先駆けてソビエトの存在を容認した{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=284}}。一方チャーチルはロイド・ジョージがドイツに苛酷すぎる[[ヴェルサイユ条約]]を課したことでドイツを「[[反共の防波堤]]」にすることに失敗したと批判的に見ていた{{Sfn|河合|1998|p=187}}。チャーチルは「ボルシェヴィキが強くならないうちに倒しておかなかったことを、いつか諸列強は後悔する時が来るだろう」と予言している{{Sfn|山上|1960|p=97}}。<br /> <br /> この干渉戦争以降、チャーチルは保守党から好意的な目で見られるようになっていった{{Sfn|河合|1998|pp=184-185}}<br /> <br /> ==== ロイド・ジョージ内閣植民地大臣 ====<br /> [[File:Churchillhatter0001.jpg|200px|thumb|ロイド・ジョージから色々な役職を与えられるチャーチルの風刺画。今は植民地大臣の帽子をかぶっている(『パンチ』誌)]]<br /> 1921年1月にチャーチルは植民地大臣に転任した{{Sfn|河合|1998|p=188}}{{Sfn|ペイン|1993|p=171}}{{Sfn|山上|1960|p=99}}。<br /> 第一次世界大戦に勝利したイギリスは敗戦国のドイツやトルコの植民地や領土を国際連盟からの[[委任統治領]]という形で獲得したため、大英帝国は過去最大の領土を領有するに至った{{Sfn|河合|1998|p=188}}。しかしそれに伴い問題も多く抱えることになった。<br /> <br /> ===== 中東の委任統治領をめぐる問題 =====<br /> イギリスは大戦時、アラブ人にトルコに対する反乱([[アラブ反乱]])を起こさせるため、彼らに戦後の独立を約束していた([[フサイン=マクマホン協定]])。これにより[[ハーシム家]]の[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル王子]]らアラブ勢力は『[[アラビアのロレンス]]』として知られるイギリス軍人[[トーマス・エドワード・ロレンス]]らとともにトルコと戦った。一方でイギリスは大戦中にユダヤ人の協力を引き出すため、[[パレスチナ]]にユダヤ人国家建設も認めており([[バルフォア宣言]])、さらに他方でフランスとの間に「[[肥沃な三日月地帯]]」を英仏で分割統治するという[[サイクス・ピコ協定]]も結んでいた([[三枚舌外交]]){{Sfn|山上|1960|pp=99-100}}{{Sfn|河合|1998|p=189}}。戦後にはサイクス・ピコ協定が最優先され、パレスチナ([[イギリス委任統治領パレスチナ]])と[[イラク]]([[イギリス委任統治領メソポタミア]])はイギリス委任統治領、[[シリア]]([[フランス委任統治領シリア]])と[[レバノン]]([[フランス委任統治領レバノン]])はフランス委任統治領になったから、ファイサル王子の立てていた大アラブ帝国構想は粉々になり、アラブ人の間に不満が起こり、イラクやシリアで暴動が発生するようになった{{Sfn|河合|1998|p=189}}{{Sfn|山上|1960|pp=100-101}}。<br /> <br /> [[File:Cairo Conference 1921.jpg|200px|left|thumb|1921年5月18日のカイロ会議。中央に座っている人物がチャーチル植民地大臣]]<br /> <br /> これを鎮静化すべくチャーチルはロレンスを補佐役とし、1921年にカイロ会議を主宰した{{Sfn|河合|1998|p=189}}。この会議によりファイサルはファイサル1世としてイラク王に即位することとなり、またその兄[[アブドゥッラー1世]]もパレスチナから切り離した[[トランスヨルダン]]王に即位することが取り決められた。パレスチナ、トランスヨルダン、イラクの実質的支配権、また[[イラン]]との通商、エジプトのスエズ運河はイギリスががっちりと握りつつ、ハーシム家の顔も立てた形であった{{Sfn|山上|1960|p=101}}。またイラクに駐留するイギリス陸軍を撤退させ、変わって空軍が秩序維持にあたった{{Sfn|河合|1998|p=189}}。<br /> <br /> 一方ユダヤ人もバルフォア宣言でパレスチナ移住が認められており、国際連盟がイギリスにパレスチナ統治を委任した規約の第6条では「パレスチナの統治機構は、この地域の他の住民の権利と地位が侵害されないことを保証しながら、適切な条件下でユダヤ人の移住を促進する」と定められた{{Sfn|ヒルバーグ|1997|p=339}}。この条項には様々な解釈があったが、チャーチルは「この地域の経済力を超えない範囲、パレスチナ人の職が奪われない範囲内でのユダヤ人の移住促進」という意味だと解釈し、以降これがイギリス植民地省の基本スタンスとなった。これにより裕福なユダヤ人が無制限に入国・移民できる一方、貧しいユダヤ人は移住に様々な制限がかけられることが多いという不平等が生じた{{Sfn|ヒルバーグ|1997|p=339}}。以降イスラエル独立までに50万人のユダヤ人がイギリス植民地省の監督のもとにパレスチナへ移民し、パレスチナの総人口の30%を占めるようになった{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=360}}。<br /> {{-}}<br /> <br /> ===== アイルランド自由国 =====<br /> {{main|アイルランド独立戦争|アイルランド自由国}}<br /> {{seealso|血の日曜日事件 (1920年)|アイルランド共和軍|英愛条約|アイルランド内戦}}<br /> 大戦中の1916年4月に[[ダブリン]]でアイルランド民族主義者が蜂起を起こすも鎮圧され、その指導者が即決の軍事裁判で処刑されるという事件があった([[イースター蜂起]]){{Sfn|村岡、木畑|1991|p=275}}。この事件を機にアイルランド民族主義が燃え上がり、1918年の総選挙でもアイルランド国民党に代わって急進的なアイルランド独立政党[[シン・フェイン党]]が躍進した{{Sfn|村岡、木畑|1991|pp=286-287}}{{Sfn|河合|1998|p=179}}。<br /> <br /> シン・フェイン党はロンドンの議会に入ることを拒否し、ダブリンに独自の国民議会を形成した。アイルランド義勇軍の武装抵抗も激化し、まもなくシン・フェイン党の政治的抵抗と合流した{{Sfn|村岡|1991|&lt;!--ページ記入なし--&gt;}}{{Sfn|ブレイク|1979|pp=286-287}}。ロイド・ジョージ政権はこうした運動を[[白色テロ]]で厳しく弾圧し{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=287}}、シン・フェイン党も禁止処分とした{{Sfn|山上|1960|p=102}}。だがシン・フェイン党は屈さず、ゲリラ戦を続行し{{Sfn|山上|1960|p=102}}、イギリス人官吏に攻撃を加えていった{{Sfn|河合|1998|p=190}}。<br /> <br /> 国王ジョージ5世の北アイルランド訪問で対立関係が一時的に緩和して休戦が成り、その間の1921年10月からロイド・ジョージやチャーチルらイギリス政府と[[アーサー・グリフィス]]や[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]らシン・フェイン党代表者の交渉の場が設けられた{{Sfn|河合|1998|p=191}}。この交渉の際、コリンズはイギリス政府が自分に5000ポンドの懸賞金をかけたことを批判したが、それに対してチャーチルは「5000ポンドもの価値をつけられれば十分ではないかね。私は25ポンドだぞ。」と述べ、ボーア戦争で捕虜収容所から脱走した際に付けられた自分の懸賞金の額を引き合いに出したという{{Sfn|河合|1998|p=191}}。<br /> <br /> この交渉の結果、アルスターのうち統一派が多い6州にはイギリスに残るかアイルランドに加わるかの選択権を残しつつ、それ以外のアイルランドは大英帝国自治領[[アイルランド自由国]]として独立することで妥協に達した([[英愛条約]]){{Sfn|河合|1998|p=191}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=287}}{{Sfn|坂井|1974|p=17}}。その後この条約の是非をめぐってアイルランド内で[[アイルランド内戦]]が勃発するも条約支持派が勝利している{{Sfn|河合|1998|p=191}}。<br /> <br /> チャーチルは庶民院でアイルランド自由国法案の説明を行い、その中で「半世紀にわたるイギリス政治の苦しみであり、対外的にはアメリカや自治領諸国との関係悪化の原因だったアイルランド問題がこれで消滅する。」と宣言した{{Sfn|河合|1998|p=191}}。だが保守党のうち60名ほどの議員はこの法案に反対した{{Sfn|河合|1998|p=191}}。未来の保守党党首である[[スタンリー・ボールドウィン]]は、この法案は自由党ロイド・ジョージ派と保守党内法案賛成派を統合して新たな党を作ろうというロイド・ジョージの布石ではと疑いを持つようになった{{Sfn|坂井|1974|p=17}}。<br /> <br /> ===== チャナク事件 =====<br /> [[File:Atatürk in Izmir, 1922.jpg|200px|thumb|1922年の[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル・パシャ]]]]<br /> 敗戦国トルコは[[セーヴル条約]]によりギリシャに領土の一部を引き渡すことになったが、トルコ国民軍を率いる[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル・パシャ]]はこれを無視してギリシャ占領軍に攻撃を仕掛けて駆逐した([[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]])。のみならずケマル軍は1922年9月にダーダネルス海峡(第一次世界大戦後、中立化されていた)付近まで侵攻してきて、[[チャナク]]に駐屯するイギリス軍を攻撃する構えを見せた([[チャナク危機]]){{Sfn|河合|1998|p=193}}{{Sfn|山上|1960|p=104}}{{Sfn|坂井|1974|p=18}}。<br /> <br /> ロイド・ジョージ首相は熱烈にギリシャを支持し、現地イギリス軍に持ち場の死守を命じた。チャーチルははじめトルコに同情的だったがケマルの恫喝的な態度を見て、ロイド・ジョージの方針を支持した{{Sfn|河合|1998|p=193}}。チャーチルの主導で大英帝国自治領にも対トルコ開戦のときには出兵することを求める政府決議が出された{{Sfn|坂井|1974|p=19}}{{Sfn|山上|1960|p=104}}。さらにロイド・ジョージはトルコが侵略を辞めない場合にはイギリス地中海艦隊を派遣することを決定し、ギリシャにも支援を約束し、ケマルに最後通牒を突きつけた{{Sfn|坂井|1974|p=19}}。イギリスの強硬な態度を恐れたケマルはギリシャとの休戦に同意し、希土戦争を終結させた{{Sfn|河合|1998|p=194}}{{Sfn|山上|1960|p=104}}。<br /> <br /> ===== 政権崩壊 =====<br /> しかし、戦争に飽きた世論は政府の好戦的な態度を批判し、1921年3月に病で引退していた元保守党党首ボナー・ローは「イギリスは世界の警察官ではない」と述べた{{Sfn|河合|1998|p=194}}。大連立相手の保守党も連立政権離脱を決議し、ロイド・ジョージは辞職し、議会を解散した{{Sfn|河合|1998|p=194}}。ただし、ボナー・ロー退任後の保守党党首[[オースティン・チェンバレン]](ジョゼフ・チェンバレンの長男)は大連立維持派だった。チェンバレンは1922年9月の閣議でのロイド・ジョージ首相の早期解散方針にも賛同を与え、保守党内でひんしゅくを買った{{Sfn|ブレイク|1979|p=240}}。10月19日、保守党社交界カールトン・クラブで開催された保守党庶民院議員会合で一議員にすぎなかった[[スタンリー・ボールドウィン]]が大連立解消の動議を提出したところ、185対88で可決されるに至った。前党首ボナー・ローも連立解消に賛成していた{{Sfn|河合|1998|pp=193-195}}{{Sfn|ブレイク|1979|p=241}}{{Sfn|坂井|1974|pp=24-28}}。これを受けてチェンバレンは保守党首職を辞し、首相ロイド・ジョージも辞職した{{Sfn|ブレイク|1979|p=241}}{{Sfn|君塚|1999|p=191}}。<br /> <br /> ボナー・ローが組閣の大命を受諾した{{Sfn|河合|1998|p=194}}。ボールドウィンら保守党内の反大連立派はロイド・ジョージとチャーチルはキリストVSイスラムの戦争を起こして解散総選挙することで自分たちに有利な議会状況を作ろうとしているのでは、という疑いを持っていた{{Sfn|坂井|1974|pp=20-21}}。チャナク事件はきっかけに過ぎず、自由党と保守党の大連立はすでにガタが来ていた。保守党議員たちはロイド・ジョージのワンマン政治にうんざりしていたし、アイルランド自由国に承服しかねる思いの者も多くいた。このまま大連立を組んでいたら保守党は次の総選挙で惨敗し、党が分裂すると考えている者もいた{{Sfn|ブレイク|1979|p=235}}{{Sfn|ブレイク|1979|pp=239-241}}。<br /> <br /> ==== 議員失職 ====<br /> 首相となったボナー・ローは1922年11月にも[[1922年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た{{Sfn|山上|1960|p=107}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=289}}。<br /> <br /> チャーチルはこの頃、[[盲腸]]の手術のために入院中だったが、これまで通りダンディー選挙区から出馬した。しかし今回は自由党候補がもう一人出馬していた。また労働党候補として出馬した[[エドモンド・モレル (ジャーナリスト)|エドモンド・モレル]]とは連携が成らず、彼は対立候補として出馬した。結党されたばかりの[[イギリス共産党]]も対立候補を送りこんできた。禁酒主義者のスクリムジャーも再び対立候補として出馬した{{Sfn|河合|1998|p=195}}。チャーチルは病室から「私は自由党員、自由貿易主義者として出馬するが、有権者におかれては進歩的で理性的な保守党員とは協力していただきたい」という選挙区民に向けてのメッセージを出した。このメッセージの効果もあり保守党は対立候補を立てなかった{{Sfn|河合|1998|p=195}}。<br /> <br /> チャーチルは投票日直前に椅子ごと運ばれて選挙区入りし、自由貿易擁護や反共の演説を行ったが、「好戦派閣僚」との噂が尾を引き、選挙区民からの評判は悪かった{{Sfn|山上|1960|pp=107-108}}。また若い共産党員たちが民謡を詠って演説を妨害するとチャーチルは「この年端もいかぬ爬虫類ども」と怒鳴ると、若者たちは「赤旗」を歌ったり、「アイルランド共和国万歳」と叫んだ{{Sfn|河合|1998|p=196}}。選挙の結果、スクリムジャーとモレルが当選し、チャーチルは4位で落選した。これについてチャーチルは「私は一瞬にして、官職、議席、党、おまけに盲腸を失ったのである」と回顧している{{Sfn|河合|1998|p=196}}{{Sfn|山上|1960|p=108}}。<br /> <br /> 選挙全体の結果は保守党が345議席、労働党が142議席、自由党ロイド・ジョージ派が62議席、自由党アスキス派が54議席を獲得し、保守党の大勝に終わった{{Sfn|河合|1998|p=196}}。<br /> <br /> ;チャートウェル邸購入<br /> [[File:Chartwell02.JPG|200px|thumb|チャーチルが購入した[[チャートウェル]]邸]]<br /> 落選後、南フランスの[[カンヌ]]へ移住し、第一次世界大戦に関する著作『世界の危機(The World Crisis)』の口述筆記と絵を描くことに精を出した{{Sfn|山上|1960|p=109}}{{Sfn|河合|1998|p=197}}。この著作は「世界史を装ったチャーチルの自伝」「ダーダネルス作戦自己弁明の書」などの批判もあったものの{{Sfn|河合|1998|p=198}}{{Sfn|山上|1960|p=109}}、チャーチルにかなりの[[印税]]をもたらし、これによって[[ケント州]]の[[チャートウェル]]邸と広大な土地を購入することができた{{Sfn|河合|1998|p=199}}{{Sfn|山上|1960|p=110}}。以降チャーチルは週末にはこのチャートウェル邸で過ごすようになった{{Sfn|山上|1960|p=110}}。子供たちもこの屋敷が気に入った{{Sfn|ペイン|1993|p=176}}。<br /> <br /> ==== 再落選、自由党離党 ====<br /> [[File:Churchill by Matt0001.jpg|200px|thumb|1923年に描かれたチャーチルのイラスト]]<br /> [[1923年]]5月にボナー・ローが喉頭癌で首相を退任した。後任の候補としてボールドウィンか[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵]]の二人が考えられたが、国王ジョージ5世は、庶民院を優先してボールドウィンに大命を与えた{{Sfn|坂井|1974|p=34}}。しかし同年11月、党を固めきれていなかったボールドウィンは、党をまとめる効果を狙って、また世論も保護貿易に傾いてきたと判断して、関税改革を掲げた[[1923年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た{{Sfn|河合|1998|p=200}}{{Sfn|坂井|1974|pp=37-41}}。<br /> <br /> チャーチルはこの選挙にレスター・ウェスト選挙区の自由党候補として出馬した。チャーチルは保守党が対立候補を立てるのを控えてくれるのでは、という期待を抱いていたが、保守党は対立候補を立ててきた。労働党からの攻撃も激しく、とりわけダーダネルス作戦に関する『世界の危機』第2巻が出版された直後であったため、ダーダネルス作戦を批判する野次が盛んに飛んだという。結局、労働党候補が勝利し、チャーチルは再び落選した{{Sfn|河合|1998|p=201}}。<br /> <br /> この総選挙では自由党ロイド・ジョージ派とアスキス派が自由貿易擁護で共闘していた{{Sfn|ブレイク|1979|p=257}}。選挙戦で保守党は食料には関税をかけないと約束していたが、自由党と労働党が煽った結果、結局「高いパンか安いパンか」が争点になっていった{{Sfn|坂井|1974|p=42}}。その結果、保守党は87議席も落として257議席となり、労働党は191議席、自由党は151議席を獲得し、どこも単独では政権を作れない状態となった{{Sfn|ブレイク|1979|p=257}}{{Sfn|坂井|1974|p=42}}。<br /> <br /> 自由党の指導者に復帰していたアスキスは、労働党政権を誕生させる意向であった。チャーチルは「社会主義政権など誕生させたら重大な国家危機が生じる」としてこれに強く反対し、保守党・自由党連携による反社会主義政権の樹立を求めたが、受け入れられなかった。ここに至ってチャーチルは反社会主義の信条を失わぬため、自由党を離党する決意を固めた{{Sfn|河合|1998|p=202}}。<br /> <br /> === 保守党の政治家として ===<br /> ==== 復党と再選まで ====<br /> 1924年1月に労働党議員提出の内閣不信任案が自由党の賛成を得て可決され、ボールドウィンは辞職し、かわって労働党の[[ラムゼイ・マクドナルド]]が大命を受け、史上初の労働党政権が誕生した{{Sfn|坂井|1974|p=42}}。一方総選挙に敗れたボールドウィンは同年2月に関税改革を保守党の方針から取り下げた。これにより自由貿易主義者のチャーチルも保守党へ戻りやすくなった{{Sfn|河合|1998|p=202}}。<br /> <br /> 3月のウェストミンスター寺院選挙区で行われた補欠選挙に「無所属の反社会主義候補」として出馬した。ここは保守党のニコルソン家の地盤であった。チャーチルは「私は保守党と争うつもりはない。それどころか私は保守党こそが反社会主義者の集合場所になるべきだと考えている」と演説した{{Sfn|河合|1998|pp=202-203}}。保守党内では正式な保守党候補がいる選挙区にチャーチルが出馬したことへの怒りの声も多かったが、チャーチルの反社会主義姿勢を評価する声もあり、複数の保守党議員から選挙協力を受けた{{Sfn|河合|1998|p=204}}。オースティン・チェンバレンやバルフォアのような保守党大物政治家もチャーチルに推薦書を書いてくれた{{Sfn|山上|1960|p=115}}。だが選挙は僅差でニコルソン家の者の当選となり、チャーチルは三度目の落選を喫した{{Sfn|河合|1998|p=204}}{{Sfn|山上|1960|p=115}}。<br /> <br /> チャーチルは保守党に接近を続け、食料以外の関税導入にも前向きになっていった。1924年9月、エッピング選挙区の保守党候補に指名され{{Sfn|河合|1998|pp=204-205}}。ただしチャーチルが正式に保守党員になったのは1925年であり{{Sfn|ブレイク|1979|p=266}}、選挙区への立候補届け出では党派として「立憲派」という保守党組織がよく使用する名称を使っている{{Sfn|河合|1998|p=205}}。<br /> <br /> マクドナルド労働党政権の[[ソ連]]との国交正常化{{#tag:ref|後にボールドウィン内閣に政権交代後、イギリス政府はソ連との国交を断絶した{{Sfn|坂井|1974|p=76}}。|group=注釈}}やキャンベル起訴撤回問題など労働党左派に配慮した政策に保守党や自由党は批判を強め、10月8日に自由党のアスキスが親ソ政策批判動議が提出され、保守党が賛成し可決され、マクドナルド内閣は[[1924年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た{{Sfn|坂井|1974|pp=47-49}}{{Sfn|ブレイク|1979|p=263}}。<br /> <br /> この選挙でもチャーチルは激しい社会主義攻撃を展開し、「社会主義者が[[ブリタニア (女神)|ブリタニア]]に着せようとしているドイツ製、ロシア製のふざけたボロ切れを脱ぎ捨てろ。彼女の[[盾]]は汚らしい[[赤旗]]ではなく、[[ユニオン・ジャック]]の旗でなければならない」と演説した。エッピング選挙区は反共主義の機運が強く、チャーチルの反共演説も選挙区民を熱狂させ、圧勝した{{Sfn|河合|1998|p=206}}。投票日直前にジノヴィエフ書簡問題が発生して有権者の社会主義への恐怖が高まっていたことで全国的にも反共を掲げる保守党が圧勝している(保守党412議席、労働党151議席、自由党40議席){{Sfn|坂井|1974|pp=50-52}}。<br /> <br /> ==== 第2次ボールドウィン内閣大蔵大臣 ====<br /> 1924年11月4日にボールドウィンに大命があり、第2次ボールドウィン内閣が発足した{{Sfn|坂井|1974|p=53}}。<br /> <br /> ボールドウィンはチャーチルがロイド・ジョージと組んで保守党と自由党の中道派による「中央党」を結成する事態をかねてから恐れていた。そのためチャーチルを閣内に取り込んでおこうと考え、大蔵大臣という重要閣僚職を彼に提示した。チャーチルはそれほど高い地位の閣僚職に任命されるとは思っていなかったから、ボールドウィンから「チャンセラー(Chancellor)にならないか?」と聞かれた時、はじめランカスター公領担当大臣(Chancellor of the Duchy of Lancaster)のことかと思ったという。そのため、チャーチルは「ランカスターですか?」と聞き返したと言う。だが大蔵大臣(Chancellor of the Exchequer)のことだと聞かされた時、感動のあまり、チャーチルの目から涙が溢れたという{{Sfn|河合|1998|p=207}}{{Sfn|ブレイク|1979|pp=265-266}}。この閣僚職は父ランドルフ卿が務めていた地位であり、次期首相最有力候補の閣僚職であった{{Sfn|河合|1998|p=207}}。<br /> <br /> ;金本位制復帰<br /> 大蔵大臣チャーチルの事績として最も知られているのが第一次世界大戦の勃発で中断されていた[[金本位制]]への復帰である。大戦後、イギリスの輸出産業は新興国アメリカや日本に押されて弱体化を続けていた。またイギリスの海外投資の多くも戦争で手放すこととなり、イギリスの国際収支を支えてきた貿易外収入は大きく減少していた{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=292}}。当時イギリスの海外投資の多くはアメリカによって買い取られており、世界金融の中心はイギリスの[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]からアメリカの[[ウォール街]]に移ろうとしていた。ドルはポンドに先んじて大戦終結直後に金本位制に復帰し、世界通貨の地位を確立していった{{Sfn|河合|1998|p=209}}。国際的地位の低下に焦っていたシティの金融業界はイギリスの国際投資と国際貿易の再興を狙って戦前レート(1ポンド=4.86ドル)での金本位制復帰を主張するようになった{{Sfn|ピーデン|1990|p=60}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=292}}。1918年の膨大な政府支出のために戦後直後のイギリスは[[インフレ]]的な[[国内信用]]拡大が起こっていた{{Sfn|ピーデン|1990|p=62}}。しかし1920年以降は[[デフレ]]になり、需要は低下し、物価は下がり、失業率は高まった。ポンド高も進み、1922年末には1ポンド=4.63ドル、1924年総選挙後には1ポンド=4.79ドルとなった。戦前レートでの金本位制復活を行っても大きな混乱なく実施できそうな相場であり、いい機会に見えた{{Sfn|河合|1998|p=209}}{{Sfn|ピーデン|1990|pp=63-65}}。<br /> <br /> チャーチルは国際投資より国内信用の拡大を志向してインフレ政策を希望していたが、大蔵官僚や[[イングランド銀行]]総裁モンタギュー・ノーマン (初代ノーマン男爵)の説得を受けて、戦前の輝かしい地位にイギリスを戻したいという願望が強まり、ほとんど何の準備もなく、1925年4月に金本位制復活を宣言した{{Sfn|ピーデン|1990|p=66}}{{Sfn|河合|1998|pp=209-210}}{{Sfn|関嘉彦|1969|p=137}}。<br /> <br /> ;ゼネスト弾圧<br /> [[File:Rally in Hyde Park during the General Strike of 1926.jpg|200px|thumb|1926年の[[ゼネスト]]の際の[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]での集会]]<br /> 戦前レートでの金本位制復帰はポンドの過大評価であったので、イギリスの輸出競争力は低下し、輸出産業、とりわけ石炭産業が打撃を受けた。イギリス鉱山協会は1925年6月に賃金協定を破棄して賃金切り下げを宣言、これに対抗して炭鉱組合や労働組合会議は[[ゼネスト]]を表明した{{Sfn|河合|1998|pp=211-213}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=293}}{{Sfn|坂井|1974|pp=59-60}}{{Sfn|ピーデン|1990|p=68}}。<br /> <br /> このゼネストに対してボールドウィン首相は、王立委員会による調査が終わるまで賃金切り下げ分の補助金を政府が出すことを約束して懐柔した。しかし王立委員会は1926年3月に多少の労働環境の緩和を盛り込みながらも、賃金切り下げと補助金打ち切りを求める報告書を提出したため、再びゼネスト突入の危機が高まった{{Sfn|ピーデン|1990|pp=68-69}}{{Sfn|坂井|1974|p=63}}{{Sfn|関嘉彦|1969|p=138}}。労働組合会議幹部の間には交渉を求める声が多かったが、政府は『デイリー・メール』紙の植字工が政府のゼネスト批判の文を掲載しなかったことを理由として交渉を拒否、労働組合会議の総評議会は1926年5月3日からゼネストに突入した{{Sfn|村岡、木畑|1991|pp=293-294}}{{Sfn|坂井|1974|pp=65-66}}{{Sfn|関嘉彦|1969|p=138}}{{Sfn|河合|1998|pp=211-213}}。<br /> <br /> 王立委員会の設置はスト破りなどゼネストを骨抜きにする体制を整えるための政府の時間稼ぎで、態勢が整うや政府は挑発してゼネストを起こさせたという批判がある{{Sfn|ピーデン|1990|p=69}}。そしてその立場からは挑発を行わせた閣僚はチャーチルだという見方が多かったが、定かではない{{Sfn|河合|1998|pp=213-214}}。ボールドウィン首相は非常事態法を制定して労働運動弾圧を開始した{{Sfn|山上|1960|p=119}}。そしてその弾圧を最も強力に支持したのは労働運動の背後に常に共産主義者の陰謀を見ているチャーチルであった{{Sfn|山上|1960|p=119}}{{Sfn|河合|1998|p=215}}。チャーチルは政府機関紙『ブリティッシュ・ガゼット』を創刊し、ゼネストが違法であることを訴えた{{Sfn|坂井|1974|pp=67-68}}。こうした政府の攻撃は奏功し、ゼネストは大衆の支持を得なかった{{Sfn|関嘉彦|1969|p=139}}。<br /> <br /> 政府と資本家による労働運動切り崩し工作も成功し、労働組合会議は若干の賃金切り下げを認めるに至り、5月11日にはゼネスト中止を宣言した{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=294}}{{Sfn|関嘉彦|1969|p=138}}。鉱山労働組合のみ従おうとせず、単独での労働争議を続けたが、彼らも11月までに資本家の要求をすべて受け入れる無条件降伏に追い込まれてストは終結した{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=294}}{{Sfn|ピーデン|1990|p=69}}{{Sfn|坂井|1974|p=68}}{{Sfn|関嘉彦|1969|p=139}}。<br /> {{-}}<br /> <br /> [[File:Duceeburzagli.JPG|200px|thumb|1928年のイタリア首相[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]]]<br /> イギリスの半植民地エジプト訪問の帰路の1927年1月に[[イタリア]]を訪問し、1922年以来政権を掌握していた[[ファシスト党]]党首で[[イタリアの首相|首相]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]と会見した{{Sfn|山上|1960|p=122}}。イタリアを離れる際、イタリアの新聞記者たちに対してチャーチルは、「もし私がイタリア人だったら、レーニン主義の獣欲と狂気に対抗する貴方達の戦いを支持し、行動をともにしただろう。だが、イギリスにおいては死闘を演じる必要がなく、我々には我々流の物事の進め方がある。しかし最終的には我々が共産主義と戦い、その息の根を止めることに成功すると確信している。」と語った{{Sfn|河合|1998|p=216}}{{Sfn|山上|1960|p=122}}{{Sfn|ペイン|1993|p=192}}。さらに「ファシズムの国際的価値」として「破壊的な勢力に対抗して、文明社会の名誉と安定を守ろうという大衆の意思を正しく導く方法を世界に示した」ことを指摘し、「ロシア革命の毒に対する最も有効な解毒剤」であると評価した{{Sfn|山上|1960|p=122}}{{Sfn|ペイン|1993|pp=192-193}}。<br /> <br /> ===== 空白の10年 =====<br /> [[1929年]]5月の[[1929年イギリス総選挙|総選挙]]でチャーチルはエッピング選挙で再選を果たすも、選挙全体の結果は失業対策を訴えた労働党が289議席を獲得して第一党に躍進した。保守党は260議席、自由党は59議席しか獲得できず、保守党政権は崩壊、チャーチルも大蔵大臣を退任。代わって自由党の協力を受ける労働党政権、第2次マクドナルド内閣が発足した{{Sfn|山上|1960|pp=122-123}}。<br /> <br /> もっともこの選挙に保守党が勝利していたとしてもチャーチルは大蔵大臣から罷免されていたといわれる。というのもボールドウィン首相が選挙戦中に「チャーチルは再入閣させない」と周囲に漏らしているからである。チャーチルはこの段階でも自由党と保守党の連合構想を持っており、自由貿易を捨てきれないでいた。そのため党内保護貿易主義者から不満を買っており、孤立しつつあったのである。また個人的にもボールドウィン首相は大蔵省の管轄外のことにまで口を出して閣議の和を乱しがちなチャーチルを嫌っていた{{Sfn|河合|1998|p=218}}{{Sfn|山上|1960|p=123}}。以降チャーチルは10年にわたって閣僚職に就くことができなかった。<br /> <br /> [[File:ChurchillChaplin0001.jpg|200px|thumb|1929年、チャーチルと[[チャールズ・チャップリン|チャップリン]]]]<br /> 1929年秋のアメリカ・[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街の大暴落]]に端を発する[[世界恐慌|世界大恐慌]]はイギリスも襲い、1929年5月に115万人だったイギリスの失業者数が1930年12月には250万人に倍増した。失業手当が膨大となる中、労働党政権は失業手当削減案をめぐって閣内が分裂し、1931年8月に総辞職{{Sfn|山上|1960|p=123}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|pp=297-298}}。困難な時局に対応できる強力な政府が求められた結果、マクドナルドを首相のままとした保守党、自由党、労働党大連立派(労働党は大連立反対派が主流であり、マクドナルドらは事実上除名された形であった)の3党の大連立による[[挙国一致内閣]]が成立した{{Sfn|山上|1960|p=123}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=298}}。しかしチャーチルは入閣できなかった{{Sfn|山上|1960|pp=124-125}}。<br /> <br /> 挙国一致内閣はチャーチルが再導入した金本位制を停止し、大英帝国を排他的なブロック経済圏にする保護貿易を推し進めた。これはイギリスが1世紀近く前に自由貿易に移行して以来の歴史的な保護貿易への回帰だった{{Sfn|山上|1960|p=124}}。<br /> <br /> チャーチルは自由貿易主義者だったが、あまりの失業者数の増大に彼の信念も揺らぎ、新聞社経営者初代[[ビーヴァーブルック男爵]][[マックス・エイトケン (初代ビーヴァーブルック男爵)|マックス・エイトケン]]らが唱える「帝国自由貿易」という自由貿易の名を借りた帝国特恵関税制度を支持するようになった{{Sfn|河合|1998|p=220}}。<br /> <br /> 1930年には『My Early Life』を出版し、庶民院議員となるまでの自分の人生を振り返った。冒険活劇調であり、インド人を「蛮族」呼ばわりし、「蛮族」が自分の活躍でばたばたと倒されていった事を自慢げに書いている{{Sfn|ペイン|1993|p=194}}。1931年からは先祖である初代マールバラ公爵の伝記『マールバラ公 その生涯と時代』の執筆を開始し、マールバラ公を「貪欲で道徳とは無縁の人物」とするマコーレーの評価に反駁したものだった{{Sfn|ペイン|1993|p=195}}。<br /> <br /> ==== インド自治に反対 ====<br /> [[File:Charlie Chaplin and Gandhi, London 1931.png|200px|thumb|[[マハトマ・ガンディー|ガンジー]]とチャップリン(1931年)]]<br /> 第一次世界大戦中にロイド・ジョージ内閣はインド人から積極的な戦争協力を得るために、戦後のインド自治を約束していた。しかし戦争が終わっても自治の見通しは立たず、[[マハトマ・ガンディー|ガンジー]]の非暴力抵抗運動が盛り上がりを見せていた{{Sfn|山上|1960|p=125}}。これを懐柔すべく、インド総督[[エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵)|アーウィン卿(後のハリファックス卿)]]は、1929年にインドの大英帝国自治領化が最終目標であり、そのためのロンドンの円卓会議にインド人代表団が参加できるようにすることを宣言した{{Sfn|河合|1998|p=220}}。首相マクドナルドや保守党党首ボールドウィンは、アーウィン卿の宣言を支持したが、熱心な帝国主義者であるチャーチルは反対した。インド人には自治は尚早であること、インドの支配層はインドの民を代表しているとはとても言えない者たちであること、大英帝国の繁栄の根源であるインドに自治を与えることは自分で自分の手足を切り捨てているも同然であること、一度でもインド・ナショナリズムに譲歩したら、なし崩し的に独立まで突き進んでしまうであろうことなどを指摘した{{Sfn|河合|1998|p=221}}{{Sfn|山上|1960|p=125}}。<br /> <br /> ガンジーは、はじめアーウィン卿の宣言に対して歩み寄ろうとしなかったので1930年5月に投獄されたが、[[1931年]]1月には釈放されて交渉に応じた{{Sfn|河合|1998|p=222}}{{Sfn|坂井|1988|p=88}}。しかしガンジーを嫌悪するチャーチルは、交渉に応じるアーウィン卿を批判した{{Sfn|坂井|1988|pp=88-89}}。またインド自治の危険性を感じ取ろうとしない大衆にも怒りを感じており、「彼らは失業と増税の心配ばかりしている。あるいはスポーツと犯罪報道に夢中だ。今、自分たちが乗っている大型客船が静かに沈みつつあるというのが分からないのか。」と憂慮した{{Sfn|河合|1998|p=222}}。しかしチャーチルの強硬な反対論は党首ボールドウィンに嫌われた。1931年1月にボールドウィンが「インド政治指導層の支持を得たインド政策ならば支持する」と宣言したことがきっかけでチャーチルはボールドウィンと完全に袂を分かち、「[[影の内閣]]」からも離脱した{{Sfn|河合|1998|p=222}}{{Sfn|ブレイク|1979|pp=274-275}}{{Sfn|坂井|1988|p=90}}{{Sfn|マッケンジー|1965|p=188}}。<br /> <br /> 1933年3月17日にマクドナルド挙国一致内閣は、後のインド統治法の叩き台となる白書を発表した。そこにはインド各州に自治権を付与すること、インド人が参加する連邦政府を創設し、インド総督の権限の一部を連邦政府に移すこと、またインド総督が責任を負う立法議会を設置することなどが盛り込まれていた{{Sfn|坂井|1988|p=91}}。チャーチルはこの白書に反対し、1933年4月には自らを副総裁としたインド防衛連盟を結成した{{Sfn|坂井|1988|pp=93-94}}。その創設大会でチャーチルは「ガンジー主義の粉砕」を訴える演説を行ってイギリスでもインドでも注目された{{Sfn|河合|1998|p=225}}。インド防衛連盟は加入者数こそ少なかったが、父が創設した[[プリムローズ・リーグ]]と同様、保守党議会外大衆組織に大きな影響を及ぼしていた{{Sfn|河合|1998|p=225}}。1933年6月の保守党協会全国同盟会合では参加者の3分の1からインド自治反対の票を獲得し、1934年秋の保守党大会ではインド自治賛成543票に対して、インド自治反対派520票と僅差に持ち込んだ{{Sfn|河合|1998|p=225}}。<br /> <br /> しかし1935年1月にマクドナルド挙国一致内閣がインド統治法を提出するとチャーチル派の情勢は悪くなった。チャーチルが1935年1月30日に[[英国放送協会|BBC]]のラジオ放送で行ったインド自治反対の演説は評判が悪く、また同年2月には長男ランドルフがインド統治法反対を公約に掲げて保守党公認候補に対抗してウェイヴァトリー選挙区の補欠選挙に出馬するも落選した{{Sfn|坂井|1988|pp=102-104}}。インド統治法案の庶民院での審議においても第三読会までのどの投票でもチャーチル派は90票以上の票を集められなかった。最終的には1935年6月5日の庶民院の採決で264票差の大差をつけられて、チャーチルは敗北し、インド統治法が可決されることとなった{{Sfn|坂井|1988|pp=107-109}}。<br /> <br /> しかし結局インド統治法に定められた「インド連邦」は[[藩王国]]が反発して加盟を拒否したため、施行されなかった{{Sfn|坂井|1988|p=109}}。またヨーロッパ情勢が緊迫化している中、チャーチルもこれ以上この件で保守党執行部と対立を深めるのは好ましくないと判断し、自分の選挙区に宛てて闘争終了宣言を出した。その中で元首相ソールズベリー侯爵が1867年に選挙法改正をめぐって敗れた際の「政治的敗北を受け入れることは、あらゆるイギリス人や政党の義務だ」という言葉を引用した{{Sfn|坂井|1988|p=109}}。<br /> <br /> ==== 対ヒトラー ====<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 102-13166, Adolf Hitler.jpg|180px|thumb|選挙中の[[アドルフ・ヒトラー]]]]<br /> チャーチルは1932年夏に初代マールバラ公の古戦場めぐりの旅に出た際、ドイツ・[[バイエルン州]]・[[ミュンヘン]]に立ち寄ったことがあった。その時期ドイツでは[[1932年7月ドイツ国会選挙|国会議員選挙]]が行われ、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]が第一党となり、その党首[[アドルフ・ヒトラー]]が近いうちに[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領より[[ドイツの首相|首相]]に任命される可能性が高まっていた。チャーチルは、ミュンヘンでナチ党幹部[[エルンスト・ハンフシュテングル]]と知り合い、ヒトラーとの会談を勧められ承諾した{{Sfn|ルカーチ|1995|p=58}}。しかし、チャーチルは[[シオニズム]]を支持している政治家だった{{Sfn|ルカーチ|1995|p=72}}ためハンフシュテングルに「なぜヒトラーは[[ユダヤ人]]を、しかもユダヤ人であるという理由だけで迫害するのか」という質問をぶつけ、この質問がヒトラーの耳に入って機嫌を損ねたらしく、会見はヒトラーから拒否された{{Sfn|河合|1998|p=229}}。<br /> <br /> 後世にチャーチルは「こうしてヒトラーは私と会見するただ一度のチャンスを逃したのだった。ヒトラーが政権を握ってから、何度か会談オファーがあったが、私は口実を作って断った。」と回顧している{{Sfn|河合|1998|pp=229-230}}{{Sfn|山上|1960|pp=127-128}}。半年後の[[1933年]]1月に首相に任じられたヒトラーは独裁体制を整え、1935年3月には念願のヴェルサイユ条約ドイツ軍備制限条項の破棄を宣言して再軍備を開始した{{Sfn|山上|1960|pp=127-128}}。<br /> <br /> イギリスでは一般に保守党の政治家はナチ党に同情的だった。ヴェルサイユ条約のようなものを押し付けられては、その撤廃を主張するのは無理からぬことだし、ナチ党と[[ドイツ共産党]]以外の政党が力を失っているドイツではもしナチ党を政権から引き降ろせば、代わって政権につくのは恐らく共産党だった。そのためヒトラーの再軍備計画を徹底的に抑えつけるより、ある程度の国力回復を許し、対ソ防波堤にするのがよいと考える対独融和派が多かった{{Sfn|山上|1960|p=133}}。保守党党首ボールドウィンやその後任の党首となる[[ネヴィル・チェンバレン]]も同様であった。<br /> <br /> ところがチャーチルはこうした立場に立たず、対独強硬論者となった。ドイツに再軍備を許せばドイツは帝政時代並みの国力を備えようとするだろうし、反ソ防波堤のメリットより、大英帝国の世界支配体制をドイツが再び脅かすというリスクの方が大きそうに思えた{{Sfn|山上|1960|pp=134-135}}。また1930年代のチャーチルは干されていたことから、あえて保守党主流と一線を画す対独強硬論に立つことで、ドイツ脅威論が盛り上がってきたところを保守党中枢に返り咲こうという政治的狙いだった可能性もある{{Sfn|山上|1960|p=135}}。チャーチルはドイツの再軍備要求は断固拒否し、イギリスは軍備増強を行うべきであると主張した{{Sfn|山上|1960|pp=134-131}}。また次の戦争では海軍ではなく空軍が決定的役割を果たすと見ていたチャーチルは、とりわけドイツ空軍の増強に警鐘を鳴らした{{Sfn|河合|1998|p=235}}{{Sfn|山上|1960|p=132}}。<br /> <br /> 1936年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約で非武装地帯と定められていた[[ラインラント]]にドイツ軍を[[ラインラント進駐|進駐]]させた。フランス政府は対独開戦すべきかどうか判断に迷い、イギリス政府に窺いを立てたが、ボールドウィン首相(マクドナルドは1935年6月に退任し、保守党党首ボールドウィンが再び首相となった)は融和政策に基づき、放置すべしとした。イギリス国内の世論も「ドイツの領土にドイツ軍が入っていっただけ」という融和的空気が強かった。だがチャーチルは一人激怒し、「クレマンソーだったらボールドウィンごときに諮ることなく、ただちに戦争を開始しただろう」と述べ、フランスの人材不足を嘆いた{{Sfn|山上|1960|p=138}}。<br /> <br /> 一方でヒトラー以外のファシズム指導者には好意的であり、1935年にムッソリーニのエチオピア侵攻について帝国主義者の立場から「エチオピア人はインド人と同類であり、支配されるべき原始的人種」として熱烈に支持した{{Sfn|ペイン|1993|p=212}}。1936年のスペインの[[フランシスコ・フランコ|フランコ将軍]]による左翼との戦い([[スペイン内戦]])も反共主義者としての立場から共感を持ち、労働党が左翼政府を支持しようとするのに対してチャーチルはボールドウィン内閣の不干渉方針を支持した{{Sfn|ペイン|1993|p=213}}{{Sfn|山上|1960|pp=139-140}}。<br /> <br /> ==== エドワード8世の退位 ====<br /> [[File:Duc et duchesse de Windsor avec Hitler (1937).jpg|200px|thumb|退位後にヒトラーと会談する[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]と[[ウォリス・シンプソン]](1937年)]]<br /> 1936年1月に国王ジョージ5世が崩御し、皇太子エドワードが[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]として即位した。エドワード8世は即位時すでに40過ぎだったが、妃がいなかった。皇太子時代からアーネスト・シンプソンの夫人のアメリカ人女性[[ウォリス・シンプソン]]と付き合っていた{{Sfn|山上|1960|p=141}}。1936年10月27日にシンプソン夫妻の離婚が法的に決まると、エドワード8世は結婚の意思をボールドウィン首相に伝えた。だが伝統を重んじるボールドウィン以下保守党の政治家たちには、二度も離婚歴があり、さらに[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]駐英ドイツ大使との交際歴もあるアメリカ人女性との結婚には反対の声が根強かった{{Sfn|山上|1960|p=142}}。<br /> <br /> またエドワード8世は外交への介入が目立つ王であり、ラインラント問題の際にも、親独派としてドイツの邪魔をしないようイギリス政府をけん制してきた{{Sfn|坂井|1974|p=193}}。ボールドウィン首相としては自己主張の強い王より、気の弱い王弟[[ジョージ6世 (イギリス王)|ヨーク公アルバート]]の方がイギリスの王位に向いていると考えるようになり、エドワード8世に結婚するなら退位するよう迫った{{Sfn|河合|1998|p=246}}{{Sfn|山上|1960|p=142}}。チャーチルは、王室への忠誠心、またボールドウィンへの敵意もあってエドワード8世の擁護に回った{{Sfn|山上|1960|p=142}}{{Sfn|ペイン|1993|p=216}}。<br /> <br /> エドワード8世も11月16日にボールドウィン首相を引見した際には退位の意思を伝えていたが、11月25日になって保守党議員の一部が主張していた[[貴賎相婚]](シンプソン夫人を正式な王妃としてではなく、[[コーンウォール公]]夫人としてエドワード8世に嫁がせる)を可能とする法整備を要求するようになった{{Sfn|坂井|1974|pp=201-202}}。これを聞いたボールドウィンは自分を辞職させてチャーチルを首相にする陰謀と確信し、「退位されないつもりなら辞職させていただきます。その場合『国王対政府』の戦いがはじまり、イギリスは未曽有の危機に陥るでしょう」と奏上した{{Sfn|坂井|1974|p=202}}。<br /> <br /> これに対してチャーチルは「王が臣下の助言を拒否したら、退陣すべきは臣下であって王ではない。臣下が王に圧力をかける権利などない」と君主主義の立場からボールドウィン批判を展開した{{Sfn|ペイン|1993|p=216}}。チャーチルは自分を支持する議員たちをかき集めたが、40人程度しか糾合できなかった{{Sfn|坂井|1974|p=203}}。<br /> <br /> 12月2日にボールドウィン首相はエドワード8世に最後通牒を付きつけた。世論も自治領政府もボールドウィンを支持しているとのことだった{{Sfn|坂井|1974|pp=204-205}}。それでもエドワード8世はチャーチルと相談してから決断したいと即断は避けた{{Sfn|河合|1998|p=246}}。12月4日にエドワード8世の引見を受けたチャーチルは、退位を思いとどまるよう説得にあたったが、もうエドワード8世にはチャーチルとともに王党派を率いて政府と戦う意思はなくなっていた{{Sfn|ペイン|1993|p=216}}。結局エドワード8世はこの二日後の12月6日に弟ヨーク公に譲位することを国民に発表し{{Sfn|山上|1960|p=143}}、12月9日には正式に退位文書に署名した{{Sfn|坂井|1974|p=205}}。<br /> <br /> チャーチルの立場はなくなり、12月7日のチャーチルの庶民院での演説は批判の野次で轟々となった。激怒したチャーチルは、ボールドウィン首相に向かって「貴方は陛下を叩きのめさなければ気が済まないのですか」と叫んだ{{Sfn|ペイン|1993|p=216}}。<br /> <br /> ==== 対独融和政策への反対 ====<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 183-R69173, Münchener Abkommen, Staatschefs.jpg|200px|thumb|1938年9月の[[ミュンヘン会談]]。左から英首相チェンバレン、仏首相[[ダラディエ]]、独首相ヒトラー、伊首相ムッソリーニ、伊外相[[ガレアッツォ・チャーノ|チアーノ]]。]]<br /> 1937年5月にボールドウィン首相は政界引退し、代わって[[ネヴィル・チェンバレン]]が保守党党首・首相に就任した{{Sfn|河合|1998|p=247}}{{Sfn|坂井|1974|p=205}}。チェンバレンもボールドウィンと同様「閣議の和を乱す危険分子」チャーチルを入閣させる意思はなかった{{Sfn|河合|1998|p=248}}。<br /> <br /> 1937年中、チャーチルは駐英ドイツ大使[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]と会見し、東ヨーロッパに対する領有権主張を聞いて、ドイツの領土的野心が強まっているとの確信を強めた{{Sfn|ペイン|1993|p=217}}。実際この頃からヒトラーはかつてドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国が領有していた領土のうちドイツ系住民が多数派の地域の割譲を要求するようになっていた。1938年3月にはドイツ民族国家の[[オーストリア]]がドイツに[[アンシュルス|併合]]された。チェンバレンは許容範囲内と判断し無視したが{{Sfn|ペイン|1993|p=222}}、チャーチルはヒトラーのオーストリア併合計画を批判する演説を行った。<br /> <br /> つづいてヒトラーは旧オーストリア=ハンガリー帝国領[[ズデーテン地方]](当時は[[チェコスロバキア]]領)のドイツへの割譲を要求した{{Sfn|河合|1998|p=250}}。さすがに心配になってきたチェンバレンは1938年9月15日にドイツ・バイエルン州・[[ベルヒテスガーデン]]のヒトラーの別荘を訪問し、ヒトラーを直に説得しようとしたが、ヒトラーはズデーテンのドイツ人がいかにチェコスロバキア政府によって酷い弾圧を受けているかをとうとうと語り、逆にチェンバレンを口説き落とした{{Sfn|ペイン|1993|pp=224-225}}。結局チェンバレンはフランスを説き伏せて、9月29日に英仏独伊の四国首脳による[[ミュンヘン会談]]を行い、正式にズデーテンのドイツ領有を認めた{{Sfn|坂井|1977|pp=135-137}}{{Sfn|山上|1960|p=146}}。これを聞いたチャーチルは「我々は敗北した」{{Sfn|坂井|1977|p=145}}、「これが大英帝国の終焉に繋がらなければよいが」と語ったという{{Sfn|ペイン|1993|p=225}}。チャーチルとチャーチル派の議員30名ほどはミュンヘン協定に抗議すべくその批准決議に欠席した{{Sfn|山上|1960|p=148}}。<br /> <br /> しかしミュンヘン協定もむなしく、1939年3月にはチェコスロバキアの内紛でチェコとスロバキアが分離したのを利用してドイツはチェコを[[ベーメン・メーレン保護領|保護領]]とした([[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコ併合]]){{Sfn|山上|1960|pp=148-149}}。これにより政界も世論も融和政策は失敗だったとの認識が強まった{{Sfn|坂井|1977|pp=161-162}}。ここに至って労働党は英仏ソ同盟を主張{{Sfn|坂井|1977|p=176}}、反共主義者のチャーチルも[[勢力均衡]]論から賛成した{{Sfn|山上|1960|pp=149-150}}。<br /> <br /> だがチェンバレン首相はソ連との同盟には否定的だった。彼はソ連をイデオロギー的に嫌っていたし、ソ連は英仏とドイツを潰し合わせようとしているという疑念を強く持っていた。それに[[ソ連共産党]]の軍隊である[[赤軍]]は[[スターリン]]の[[大粛清]]によって[[ミハイル・トゥハチェフスキー|トゥハチェフスキー]]元帥をはじめとする高級将校のほとんどが抹殺されていたため、同盟を結んだところでまともな戦力として勘定できないと考えられた{{Sfn|坂井|1977|pp=183-184}}。<br /> <br /> 一方スターリンも独ソを反目させようという英仏の陰謀を警戒しており、ドイツと協定を結んでおく必要性を感じていた{{Sfn|坂井|1977|pp=193-194}}。ヒトラーも[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]以来のドイツの二正面作戦回避戦略であるロシアとの接近を考えていた{{Sfn|坂井|1977|p=192}}。こうして利害が一致したスターリンとヒトラーは、1939年8月23日に[[独ソ不可侵条約]]を締結した。この条約の秘密協定において東ヨーロッパを独ソ両国で分割支配することが取り決められた{{Sfn|坂井|1977|p=194}}。イデオロギー上相いれないはずの両国の握手に世界は驚いたが、チャーチルはスターリン支配下のソ連はレーニン時代に比べて、共産主義がお題目化しており、他の列強と大差がなくなってきていると考えていたため、さほど驚かなかったという。それよりみすみすソ連をドイツにくれてやったチェンバレンの外交センスの無さに批判的だった{{Sfn|河合|1998|pp=253-254}}。<br /> {{-}}<br /> ==== チェンバレン内閣海軍大臣 ====<br /> ===== 第二次世界大戦開戦と海相就任 =====<br /> 英仏とソ連の挟撃の危機を回避したドイツ軍は1939年9月1日に[[ポーランド]]へ[[ポーランド侵攻|侵攻]]を開始した。閣僚からも対独開戦を要求されたチェンバレンは、9月2日にドイツに宣戦布告した{{Sfn|河合|1998|p=254}}。イギリスに引きずられてフランスも対独参戦し{{Sfn|山上|1960|p=151}}、[[第二次世界大戦]]が開戦した。<br /> <br /> 開戦した以上、チェンバレンとしても対独強硬派の代表格チャーチルを登用しないわけにはいかず、チャーチルを海軍大臣に任じた。チャーチルは24年ぶりに海軍省大臣執務室に復帰した{{Sfn|山上|1960|p=152}}。全艦隊に「ウィンストン帰る」と書いた電報を送っている{{Sfn|河合|1998|p=254}}。チャーチルは長らく政権から離れていたとはいえ、コネを使って政府の軍事情報を収集するのを怠らなかったし、1935年からは帝国防衛委員会付属の防空研究委員会に所属していたので航空機の最新知識もそれなりに持っており、役職をこなすうえで難はなかった{{Sfn|河合|1998|p=255}}。<br /> <br /> チェンバレン首相は開戦後も早期の平和実現を願っており、今度の戦争は第一次世界大戦のような徹底抗戦ではなく、経済圧力を主眼にしようと考えていた。ドイツをやせ細らせて、領土拡大が「割に合わない」ことをヒトラーに思い知らせ次第、早期講和に持ち込む考えである{{Sfn|ルカーチ|1995|p=44}}。だがチャーチルは第一次世界大戦の時と同様イギリスかドイツ、どちらかが倒れるまで徹底的に戦うつもりだった。これについて閣僚の一人サミュエル・ホア (初代テンプルウッド子爵)卿は「奴は100年でも戦うつもりでいる」とチャーチルを批判している{{Sfn|ルカーチ|1995|p=45}}。<br /> <br /> 海戦の状況は一進一退だった。開戦間もない1939年10月13日から14日にかけてドイツ海軍の潜水艦[[Uボート]]によって[[ロイヤル・オーク (戦艦)|戦艦ロイヤル・オーク]]が沈められた{{Sfn|ルカーチ|1995|p=47}}{{Sfn|ペイン|1993|p=228}}。しかし12月には逆にイギリス戦艦がドイツ海軍の[[アドミラル・グラーフ・シュペー (装甲艦)|装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペー]]を自沈に追い込んだ{{Sfn|ルカーチ|1995|p=47}}{{Sfn|ペイン|1993|p=228}}。<br /> <br /> ===== 北欧での戦い =====<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 183-L03926, Drontheim, britische Kriegsgefangene.jpg|200px|thumb|北欧戦でドイツ軍の捕虜になったイギリス将兵]]<br /> {{main|ヴェーザー演習作戦}}<br /> 一方陸戦の方では、ポーランドが開戦からわずか4週間にしてドイツ軍とソ連赤軍によって蹂躙され、独ソ分割占領をうけていた。しかし英仏軍とドイツ軍の間に本格的な戦闘は発生していなかった([[まやかし戦争]])。沈黙を破ったのはソ連だった。1939年11月から赤軍が[[冬戦争|フィンランド侵攻]]を開始した。西欧を主戦場にするのを嫌がっていた英仏首脳は、フィンランドに遠征軍を送り、ここを独ソとの主戦場にすることを考えた。チャーチルもそれに賛成しつつ、フィンランド遠征の途中に[[ノルウェー]]北端の[[ナルヴィク]]港を占領し、またドイツの鉄供給地であるスウェーデンの鉄鋼鉱山を破壊するという計画を立案した。しかし結局[[モスクワ講和条約|フィンランドがソ連と講和]]して一時休戦したため、この作戦は流産した{{Sfn|ルカーチ|1995|pp=47-48}}{{Sfn|河合|1998|pp=259-260}}。チャーチルは冬戦争が起こる前からノルウェーの港の占領を目論んでおり、この計画はヒトラーにも察知されていた。ドイツ軍はイギリスの先手を打つ形で1940年4月9日から[[北欧侵攻]]を開始した{{Sfn|ペイン|1993|pp=49-50}}。[[デンマーク]]を一日で陥落させたドイツ軍は、ノルウェーの港に次々と上陸してきた。チャーチルも対抗して英仏軍をノルウェーに上陸させたものの、チャーチルの作戦は全て裏目に出て、精強なドイツ軍によって散々に粉砕されてしまった{{Sfn|ペイン|1993|p=229}}。チャーチルは「我々の最も優れた部隊でさえ、活力と冒険心に溢れ、優秀な訓練を受けたヒトラーの若い兵士たちにとっては物の数ではなかった」と回顧している{{Sfn|ルカーチ|1995|p=53}}。<br /> <br /> ===== チェンバレンの首相退任をめぐって =====<br /> ガリポリの戦い以来の惨敗にチャーチルも海相失脚を覚悟したが、5月7日から8日にかけて庶民院で行われたノルウェー作戦についての討議では、その批判はチャーチルではなく、首相チェンバレンに向かった。チャーチルは「ノルウェー戦の敗北は自分の責任だ」と主張してチェンバレンを擁護しようとしたが、自由党党首ロイド・ジョージは「防空壕になるのはやめろ」とチャーチルを止めた{{Sfn|ルカーチ|1995|pp=53-55}}{{Sfn|河合|1998|pp=260-261}}。与党議員からも続々と造反者が出る中、チェンバレンは、労働党との[[大連立]]による[[挙国一致内閣]]で政権強化する道を模索するようになった。だが労働党の議員たちはチェンバレンよりチャーチルを首相とする大連立を希望する者が多かった。彼らはかつてチャーチルが行った労働運動弾圧の恨みを忘れていなかったが、左翼イデオロギーからヒトラーとの戦いを徹底的に遂行する者を希望していたのである{{Sfn|ペイン|1993|pp=229-230}}。世論もチャーチルの首相就任を支持する者が多かった。チャーチルは[[クリミア戦争]]時の[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]、あるいは一次大戦時のロイド・ジョージのような立ち位置にあり、首相にふさわしい人物であった{{Sfn|ブレイク|1979|p=290}}。だが、もう一人、首相候補として各方面から割と反発が少ない外相ハリファックス子爵(インド総督だったアーウィン卿)もいた{{Sfn|河合|1998|pp=261-262}}。5月9日にチェンバレンはチャーチルとハリファックス子爵の両方を召集した。チェンバレンはハリファックス子爵を首相にしたがっており、チャーチルに「ハリファックス卿の内閣で働く意思はあるか」と聞いたが、チャーチルは沈黙していた。そこへハリファックス子爵が「貴族院議員の私が首相になるのは望ましくないでしょう」と述べたことでチャーチルの首相就任が決まった{{Sfn|ルカーチ|1995|p=55}}{{Sfn|河合|1998|p=262}}{{Sfn|君塚|1999|p=199}}。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 首相・保守党党首として ===<br /> ==== 第1次チャーチル内閣 ====<br /> 1940年5月10日午後6時に[[バッキンガム宮殿]]で国王ジョージ6世より組閣の大命を受けたチャーチルは、第1次チャーチル内閣を発足させた。労働党も参加を了承した挙国一致内閣であった戦時内閣は5人で構成したが、2人は労働党の議員であり、そのうちの1人が後の首相[[クレメント・アトリー|アトリー]]だった{{Sfn|河合|1998|p=263}}。<br /> <br /> 5月13日に首相として庶民院へ入り、「我々の目的が何かと言えば、一言で答えられる。勝利だ。どれだけ犠牲を出そうとも、どんな苦労があろうと、そこに至る道がいかに長く困難であろうとも勝利のみである」と演説し{{Sfn|ペイン|1993|p=232}}、保守党はチャーチルを歓迎しない者が多かったが、労働党はチャーチルに拍手を送った{{Sfn|河合|1998|pp=266-267}}。首相就任時、チャーチルは65歳、対するヒトラーは51歳だった{{Sfn|ルカーチ|1995|p=55}}。<br /> <br /> ===== 言論弾圧の強化 =====<br /> チャーチルは就任早々「内務大臣は、外国に従属している、または指導者が敵国政府指導者と関係を持っている、あるいは敵国政府のシステムに共感をもっていると認められる組織のメンバーを誰であろうとも裁判なしで無期限に投獄できるものとする」という{{仮リンク|防衛規則18B|en|Defence Regulation 18B}}の修正規則18(1a)を制定してイギリスを言論弾圧国家に変貌させ、ファシスト、共産主義者、敵性外国人を次々と逮捕した{{Sfn|ラベル|2005|pp=374-375}}{{Sfn|ルカーチ|1995|p=118}}。[[イギリスファシスト連合]]指導者[[オズワルド・モズレー|サー・オズワルド・モズレー准男爵]]が「[[マグナカルタ]]以来保障された人権を侵している」と同規則を批判したが、チャーチルは取り合わず、これを逮捕させた。他にもアーチボルト・ラムゼイ([[反ユダヤ主義]]者の保守党庶民院議員)やタイラー・ケント([[モンロー主義]]者の駐英アメリカ大使館員)らを逮捕した。親族といえども容赦せず、ミットフォード姉妹の三女でモズレーの妻であるダイアナも逮捕させ、夫と同じ牢獄に送った{{Sfn|ラベル|2005|pp=375-376}}{{Sfn|ルカーチ|1995|p=118}}。<br /> <br /> ===== フランス敗北 =====<br /> {{main|ナチス・ドイツのフランス侵攻}}<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 101I-126-0350-26A, Paris, Einmarsch, Parade deutscher Truppen.jpg|200px|thumb|1940年6月、パリで戦勝パレードを行うドイツ軍騎兵]]<br /> チャーチルが首相に就任した5月10日はちょうど「まやかし戦争」が終わった日だった。同日早朝、フランスを陥落させるべくドイツ軍が[[ベルギー]]と[[オランダ]]へ侵攻を開始し、「[[西方電撃戦]]」がはじまった。英陸軍は1939年9月以来、[[イギリス海外派遣軍 (第二次世界大戦)|海外派遣軍]]22万5000人をフランスに上陸させ、フランス・ベルギー北部に展開させていたが、ヒトラーはこの軍の包囲を狙って[[エーリヒ・フォン・マンシュタイン]]中将立案の作戦に基づく攻勢をかけさせた。[[ハインツ・グデーリアン]]装甲大将が率いるドイツ軍装甲部隊はフランス軍の盲点になっていた[[アルデンヌ]]を通過して、[[ディナン (ベルギー)|ディナン]]と[[セダン]]から[[マース川]]渡河に成功し英仏海峡めがけて進軍した{{Sfn|ルカーチ|1995|p=96}}。王立空軍は出撃するも、半数近くが撃墜された{{Sfn|ルカーチ|1995|p=98}}。<br /> <br /> 慧眼なヒトラーは、今は歩兵攻撃の時代ではなく、戦車や車両が最前線を突き進んでいく電撃戦の時代であることを見抜いていたが、チャーチルは第一次大戦の観念を捨てきれていなかった。戦後チャーチルは「猛スピードで進軍する重装甲部隊の侵略が、どれほど先の大戦の大革新であったか私は全く理解できていなかった」と回顧録の中で述べている{{Sfn|ルカーチ|1995|p=97}}。<br /> <br /> 5月15日朝7時頃にチャーチルはフランス首相[[ポール・レノー]]からの電話で「我が国は敗北しました。」と聞いた。寝ぼけていたチャーチルには意味がよく分からず、黙っていたが、レノーは「我々は敗北しました」を繰り返した。チャーチルはレノーを落ち着かせようとしたが、彼はパニック状態だった。チャーチルはとにかく明日にもパリを訪問することを約束した{{Sfn|ペイン|1993|pp=232-233}}{{Sfn|ルカーチ|1995|p=99}}。5月16日午後にパリに到着したチャーチルは、レノーの言ってることが大げさでも何でもなかったことに気付かされた。連合国最高司令官[[モーリス・ガムラン]]仏参謀総長は真っ蒼な顔で小刻みに震えていたという。チャーチルは「フランス軍の本隊と予備隊はどこにいるんです」と聞いたが、ガムランは「そんなものはもうありません。」と答え、ただちに王立空軍10個飛行中隊を増援に送ることを要求した。チャーチルはフランス脱落を恐れてやむなく了承したが、恐らくドイツ軍の電撃戦を空から阻止することはできないだろうと見抜いていたという。また、この増援によりイギリス本土に残る飛行中隊は25個だけになった。これはギリギリの線だった。これ以上出せばイギリス本土の制空権がドイツ空軍に脅かされる可能性が高かった{{Sfn|ペイン|1993|p=233}}{{Sfn|ルカーチ|1995|pp=99-100}}。<br /> <br /> ===== ダンケルクの撤退 =====<br /> 一方、海外派遣軍は英仏海峡に到達したドイツ軍によって南フランスのフランス軍主力と切り離されて、[[ダンケルク]]に追い込まれた。チャーチルは彼らの全滅も覚悟したが、なぜかヒトラーはグデーリアンらドイツ軍装甲部隊指揮官たちに追撃を許さなかったため、海外派遣軍とフランス軍部隊の一部を加えた33万8000人は5月29日から5日間にわたって行われたイギリス本土への撤退作戦に成功した([[ダンケルクの撤退]])。この謎の奇跡にイギリス国内はまるで勝利したかのように喜びに湧きあがった{{Sfn|ペイン|1993|p=234}}{{Sfn|山上|1960|pp=162-163}}{{Sfn|ルカーチ|1995|pp=127-156}}<br /> <br /> ダンケルクの撤退成功で決定的破滅を免れたとはいえ、撤退は勝利ではなく、イギリスが追い込まれている状況に変わりはなかった。さすがのチャーチルにも弱気が覗いてきた。5月28日には親ナチ派のロイド・ジョージに入閣を要請しているが、これはドイツに和平交渉を提案しなければならなくなった場合に備えてのことともいわれる(この入閣要請はロイド・ジョージの方から拒否された){{Sfn|ルカーチ|1995|p=153}}。ダンケルクの撤退成功後の6月4日の庶民院での演説では「万が一イギリス本土が占領されたとしても我々は戦いをやめないであろう。海の彼方にも広がる我が帝国は、[[新世界]]から海軍を使って[[旧世界]]の救援と解放を目指す。」と語り、アメリカの支援の期待と大英帝国植民地にイギリス政府を移す可能性を示唆している{{Sfn|ペイン|1993|p=235}}{{Sfn|山上|1960|p=163}}{{Sfn|河合|1998|p=270}}。<br /> <br /> ドイツ軍の南フランスへの進軍が開始される中、フランス政界では和平派の声がますます強まっていった。チャーチルはフランスが降伏してフランス海軍力がドイツに接収されるのを恐れるあまり、「フランス艦隊を全てイギリスの港に送れ」だの、英仏を「英仏連邦」という名の一つの国家にしよう(=フランスの全船舶をイギリスが共同所有)だの身勝手な要求を行い、フランス人から顰蹙を買った。イギリスの敗戦も時間の問題と考えられていたので「死体(イギリス)と結合するくらいならナチスの占領下に入った方がマシ」というのがフランスの政治家・軍人の主流意見となった{{Sfn|ルカーチ|1995|p=191-193}}{{Sfn|ペイン|1993|pp=236-237}}{{Sfn|山上|1960|p=166}}。<br /> <br /> 6月16日にフランス首相となった[[フィリップ・ペタン]]元帥はヒトラーに和平交渉の意思を伝え、6月22日にも[[独仏休戦協定]]の締結に応じた{{Sfn|山上|1960|p=167}}。こうして、[[シャルル・ド・ゴール]]など一部の亡命軍人を除き、フランスはドイツとの戦いから離脱した。<br /> <br /> ===== バトル・オブ・ブリテン =====<br /> [[File:Back to the wall.jpg|200px|thumb|政府の戦意高揚プロパガンダ・ポスター。追い詰められながらも大英帝国の壁を守るチャーチルの図]]<br /> [[File:Wc0107-04780r.jpg|200px|thumb|1940年、空襲警報でヘルメットをかぶるチャーチル]]<br /> {{main|バトル・オブ・ブリテン}}<br /> 1940年夏のイギリスは破滅の一歩手前だった。西欧諸国や北欧諸国はほとんどがドイツに占領されるか、その衛星国家になっていた。東欧も独ソに分割占領され、またドイツは日本やイタリアと[[日独伊三国同盟|同盟]]関係を結んでいた。アメリカ参戦だけがイギリスの唯一の希望という状態だったが、アメリカの国民世論はモンロー主義が根強く、大統領[[フランクリン・ルーズベルト]]も大統領選挙を前にしてチャーチルの誘いには簡単には乗ってこなかった。イギリスは独力で[[ブリテン島]]の守りを固め、ドイツ軍の攻撃を待つしかなかった。チャーチルはこの時の状況を後に「イギリスの最後の審判の時が刻まれたと全世界が思いこんでも何の不思議があろうか。」と評した{{Sfn|山上|1960|p=170}}。<br /> <br /> フランスに勝利したのち、ヒトラーはイギリスに和平を提唱したものの、チャーチルは強硬路線を曲げず、拒絶した{{Sfn|山上|1960|p=171}}。ドイツ軍はイギリス上陸作戦「[[アシカ作戦]]」の立案を開始したが、これを成功させるためにはイギリス本土の[[制空権]]を握る必要があった。チャーチルもまず襲来してくるのはドイツ空軍と予期しており、イギリス本土を攻撃させておいて、敵の空軍力を粉砕するという方針を取った{{Sfn|ペイン|1993|p=242}}。ドイツ空軍の空襲は8月10日から開始された{{Sfn|ペイン|1993|p=243}}。ドイツ空軍ははじめ港や基地、飛行場など軍事施設を中心に空襲をかけてきた{{Sfn|山上|1960|p=171}}。イギリス軍機がこれを迎え撃つべく出撃し、[[バトル・オブ・ブリテン]]と呼ばれるイギリス本土上空での激闘が始まった。最初の二週間はドイツ軍機が次々と撃墜されてイギリス優勢であったが、8月24日を境にイギリス軍機の撃墜も目立つようになり、消耗戦の様相を呈してきた。それでも王立空軍は最後までドイツ空軍に制空権を渡すことはなかった{{Sfn|ペイン|1993|p=243}}。<br /> <br /> またこの間にチャーチルは1000機の爆撃機をもって最初の[[ベルリン空襲]]を敢行したが、戦果は乏しかった{{Sfn|ペイン|1993|p=245}}。ヒトラーはこの復讐で、まだ制空権を握れていないにも関わらず、9月7日からドイツ空軍爆撃機に[[ロンドン空襲]]を開始させた{{Sfn|山上|1960|p=173}}{{Sfn|ルカーチ|1995|p=302}}。だが、これはドイツ側の重大な判断ミスとなった。これによってイギリス軍機に撃ち落とされるドイツ軍機の数が急増したのである。チャーチルも「戦闘機部隊司令官はドイツ空軍の攻撃目標がロンドンになったことに安堵していた」と書いている{{Sfn|山上|1960|p=173}}。チャーチルは爆撃を受けた町を視察して回り、そこで葉巻をくわえながら勝利のVictoryを意味した[[Vサイン]]をして見せた{{Sfn|山上|1960|p=177}}。これはやがて彼のトレードマークとなった。この一連の視察でチャーチルの国民的人気は大いに高まり、独裁的地位を確立するに至った。チャーチルはなおも議会を重んじるかのような発言はしていたが、反対派の声はこのチャーチル人気の前に圧殺されるようになった。<br /> <br /> バトル・オブ・ブリテンで失われたパイロットと航空機の損失にヒトラーも動揺し、9月17日にはアシカ作戦の中止を決定した{{Sfn|河合|1998|p=273}}{{Sfn|ペイン|1993|p=244}}{{Sfn|ルカーチ|1995|p=302}}。<br /> <br /> 1940年11月に行われた[[1940年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選挙]]でルーズベルトが三選し、アメリカ政府が平和を求める国民世論を無視してモンロー主義を放棄するようになり始めており、チャーチルにとって事態の好転の兆候があった。ルーズベルトは1940年12月末のラジオ放送で「イギリスが敗れれば、全ヨーロッパ、全世界がドイツに征服され、人類の自由と幸福は失われるだろう」などと演説し、公然とドイツを批判、イギリス支持の主張を行った。そして1941年3月にはモンロー主義者の反対を押し切って[[武器貸与法]]を制定し、イギリスに武器や兵器を戦後払いで提供し始めた{{Sfn|山上|1960|p=176}}。<br /> <br /> ===== 北アフリカ戦線 =====<br /> [[File:Rommel with his aides.jpg|200px|thumb|北アフリカのドイツ軍を指揮した[[エルヴィン・ロンメル]]。チャーチルは敵であっても彼には敬意を表していた{{Sfn|ショウォルター|2007|p=6}}。]]<br /> [[File:Churchill Morshead (AWM 024764).jpg|200px|thumb|1942年8月5日、エジプト駐留イギリス軍を視察するチャーチル]]<br /> イタリアのムッソリーニは大戦初期には中立を保っていたが、フランス戦のドイツの勝利が確実となった1940年6月になってドイツ側で参戦した。しかしイタリア軍は貧弱でフランスのアルプス山脈防衛部隊に返り討ちにされてしまった。続くバトル・オブ・ブリテンにはイタリア空軍も一部参加していたが、やはりその働きは杜撰を極めた{{Sfn|ショウォルター|2007|p=209}}。だがムッソリーニは、地中海の覇権を目指し、ヒトラーの援助の申し出も拒否して独断で[[エジプト王国]](名目上独立国家だったが、実質的にはイギリスの軍事支配下にあった)とギリシャに侵攻を開始した{{Sfn|ショウォルター|2007|p=209}}。チャーチルは乏しいイギリスの物資と戦力をこの地中海の戦いに注ぎこんだ。アメリカの参戦を促すためにイギリスの勝利が必要であったが、簡単に戦勝を上げられそうなのは目下この戦域だけだったからである{{Sfn|ショウォルター|2007|pp=209-210}}。この目論見は奏功し、1940年12月にエジプト駐留イギリス軍はイタリア軍を返り討ちにし、逆にイタリア植民地リビアへ侵攻し、イタリア軍を[[トリポリ]]まで追い詰めた{{Sfn|ショウォルター|2007|p=210}}。イタリア軍を北アフリカから駆逐できればイギリスは地中海を自由に動けるようになり、物資確保の面で有利であった{{Sfn|ショウォルター|2007|p=211}}。またギリシャ戦線でもイタリア軍は敗北し、イギリスはここに空軍基地を設置してドイツの重要な資源地である[[ルーマニア]]の油田への空襲も狙えるようになった{{Sfn|ショウォルター|2007|p=211}}。<br /> <br /> ヒトラーも看過できなくなり、地中海にドイツ軍派遣を決定した。1940年12月にはギリシャのイタリア軍救出のための[[マリータ作戦]]を発動し、ついで1941年1月には[[ゾネンブルーメ作戦]]を発動して[[ドイツアフリカ軍団]]がトリポリへ送られるようになり、2月にはその指揮官として[[エルヴィン・ロンメル]]中将が派遣された{{Sfn|ショウォルター|2007|p=212}}。<br /> <br /> 一方チャーチルは中東軍司令官[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|アーチボルド・ウェーヴェル]]の訴えを無視して北アフリカの兵力を強引にギリシャに割いたが、ドイツ軍に蹴散らされた{{Sfn|ペイン|1993|p=246}}。<br /> <br /> ロンメル指揮下の北アフリカ・ドイツ軍もこれに乗じて1941年3月末からイギリス軍に対する攻勢を開始し、リビアのほとんどの地域からイギリス軍は駆逐された。[[トブルク]]だけはオーストラリア軍の勇戦でなんとか持ちこたえたが、そこも包囲された{{Sfn|ショウォルター|2007|pp=218-225}}。チャーチルは6月にもトブルク包囲を解こうとイギリス中東軍司令官ウェーヴェル大将に命じて[[バトルアクス作戦]]を開始させたが、ドイツ軍に蹴散らされた{{Sfn|ショウォルター|2007|pp=226-227}}。チャーチルはウェーヴェルを解任し、[[クルード・オーキンレック]]大将を後任とすると、11月にも[[クルセーダー作戦]]を開始させ、ドイツ軍を後退させた{{Sfn|ショウォルター|2007|pp=229-241}}。しかし1942年5月からドイツ軍の反攻があり、6月までにリビアからイギリス軍は駆逐された([[ガザラの戦い]])。チャーチルはトブルク陥落を恐れ、守備軍に死守命令を下したが、司令官が独断で降伏してしまった{{Sfn|ショウォルター|2007|pp=252-256}}。<br /> <br /> トブルク陥落は、この数か月前の[[シンガポール陥落]]と相まって、イギリス国内に強い衝撃を与え、戦時中のチャーチル批判は1942年7月に最も強まった。議会では内閣不信任案が提出された。挙国一致内閣の[[オール与党]]だったため、不信任案自体は大差で否決されたものの、戦時の挙国一致内閣で内閣不信任案が提出されること事態が異例であった。こんなことは一次大戦時にも起きたことはなかった{{Sfn|河合|1998|pp=288-289}}。チャーチルもこれを「深刻な挑戦状」と捉えたという{{Sfn|ショウォルター|2007|p=256}}。19世紀以来続いているイギリスのエジプト占領体制も揺らぎ始めた。エジプト駐留イギリス軍は書類を焼き始め、パレスチナへの撤退準備を開始していた。これを見たエジプト民族主義者たちの間にはロンメルがイギリスの圧政から解放してくれるという期待感が広がり始めた{{Sfn|ショウォルター|2007|p=256}}。エジプト王[[ファールーク1世 (エジプト王)|ファールーク1世]]も独立のチャンスが来たと見て反英内閣の組閣を計画したが、エジプトの実質的支配者であるイギリス大使ミレス・ランプソン (初代キラーン男爵)がエジプト王の宮殿を包囲し、「イギリスに逆らうつもりなら拉致する」と無法な脅迫をしたことでこの計画は水泡に帰した{{Sfn|モリス|2010|pp=225-227}}。もしエジプトをドイツ軍に突破された場合、失われるのはエジプト支配権だけではなかった。北アフリカのドイツ軍が[[コーカサス]]に進軍している東部戦線のドイツ軍と合流することになり、イギリスの「インドの道」は閉ざされ、大英帝国アジア支配体制のすべてが崩壊する恐れがあった{{Sfn|ショウォルター|2007|p=257}}。<br /> <br /> だが、ロンメルの快進撃はここまでだった。ドイツ軍が勢いに乗って開始したエジプトへの進軍は7月中に停滞した。チャーチルは8月3日にもエジプト首都カイロに入り、チュニジアに上陸予定の英米軍支援のための攻勢に出ることを拒否したオーキンレックを解任し、第8軍司令官に[[バーナード・モントゴメリー]]を任じて新体制を整えた{{Sfn|ショウォルター|2007|p=257}}。10月から11月にかけての[[エル・アラメインの戦い]]でモントゴメリー率いるイギリス軍はロンメルのドイツ軍を撃破し、さらに11月にモロッコとアルジェリアに英米軍の上陸が成功した{{Sfn|河合|1998|p=290}}。1943年3月にはロンメルは戦線を離脱し、北アフリカのドイツ軍は5月までに降伏した。<br /> {{-}}<br /> <br /> ===== 独ソ戦勃発 =====<br /> [[File:Posters11.jpg|200px|thumb|[[セルビア救国政府]]の[[陰謀論]]系のプロパガンダ・ポスター。[[フリーメーソン]]のユダヤ人に操られるスターリンとチャーチルの図]]<br /> {{main|バルバロッサ作戦|独ソ戦|イラン進駐 (1941年)}}<br /> 北アフリカ戦中の1941年6月22日にヒトラーは[[バルバロッサ作戦]]を発動し、東ヨーロッパのソ連占領地域にドイツ軍が侵攻を開始した。これを見てチャーチルはその日のうちにスターリンに無条件の協力を約束する電報を送った。この時チャーチルは秘書に「ヒトラーが地獄へ攻めいれば、私は地獄の大王を支援するのだ」と語ったという{{Sfn|河合|1998|p=283}}。<br /> <br /> 1941年8月にもイギリスとソ連は共同で[[イラン]]へ[[イラン進駐 (1941年)|侵攻]]し、同国の石油資源を確保しつつ、ソ連支援ルートを作った{{Sfn|山上|1960|p=189}}。当面イギリスがソ連に対して行える支援はこのルートを使っての物資支援に限られていた。スターリンはチャーチルにフランスへ上陸して「第二戦線」(西部戦線)を開くよう再三要求し{{Sfn|河合|1998|p=283}}、イギリス国内でも左翼が「即刻、第二戦線を」と街の壁のあちこちに落書きして歩くようになった{{Sfn|山上|1960|p=195}}。だがチャーチルはこれを拒否し続けた。一度、駐英ソ連大使が「第二戦線を開け」とあまりにしつこかった時には、つい最近までの独ソの近しい関係を引き合いに出し、「貴方がたに何か要求される筋合いはない」と突っぱねた{{Sfn|河合|1998|p=283}}。アメリカ参戦後にはアメリカのルーズベルトが第二戦線論に乗り気だったが、チャーチルはルーズベルトに直談判して中止させ、北アフリカのアルジェリア・モロッコへの上陸作戦に変更させた{{Sfn|山上|1960|pp=195-196}}。結局、1944年6月のノルマンディー上陸作戦まで本格的な「第二戦線」が開かれることはなかった。<br /> {{-}}<br /> ===== 大西洋憲章 =====<br /> [[File:Franklin D. Roosevelt, F.D.R. jr. Churchill, and Elliott R. at the Atlantic Conference - NARA - 196902.tif|200px|thumb|1941年8月、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上のチャーチルとアメリカ大統領ルーズベルト]]<br /> {{main|大西洋憲章}}<br /> 1941年8月にはイギリス自治領カナダ・[[ニューファンドランド島]]沖に停泊中の[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|戦艦プリンス・オブ・ウェールズ]]上でアメリカ大統領ルーズベルトと会談した。ここで両首脳は「[[大西洋憲章]]」を締結した。これは第一次世界大戦時にウィルソンが発表した14カ条を真似たもので領土不拡大や民族自決を盛り込んでいた。後に[[国際連合憲章]]の原型になった米英の共同文書として知られている{{Sfn|山上|1960|p=188}}。<br /> <br /> だがチャーチルはこの憲章の適用範囲はドイツ支配下のヨーロッパ諸国のみであり、大英帝国が広がるアジアやアフリカは除外されるべきと主張した{{Sfn|河合|1998|p=287}}{{Sfn|坂井|1988|pp=163-164}}。そのことを憲章の民族自決に関する条項にも盛り込ませようとしたが、アメリカはかねてから大英帝国の破壊を目論んでいたため、拒否された{{Sfn|モリス|2010|p=261}}。ルーズベルトが「永久平和の手段」として世界自由貿易を提案したのに対して、チャーチルは「帝国内関税特恵制度を変更するつもりはない」と拒絶した。だがルーズベルトはなおも食い下がり、「ファシスト奴隷制と闘いながら、同時に自分たちの18世紀的植民地支配体制から全世界を解放する気はないというのはいかがなものか」などとイギリス批判をはじめた。これを聞いたチャーチルは激昂のあまり卒倒しかけた{{Sfn|河合|1998|pp=286-287}}。しかしアメリカがなんと言おうとチャーチルはアジアとアフリカは憲章の適用外という解釈を取り続け、憲章締結後も植民地の民族運動家に対する弾圧をやめなかった{{Sfn|山上|1960|p=188}}。また憲章のうち領土不拡大という理念もやがて英米ソの三国が領土分割を約束し合うようになったことで、完全に無視されるに至った{{Sfn|山上|1960|p=188}}。<br /> <br /> またこの会談の際、ドイツの同盟国であり、南西太平洋地域のフランス植民地に進駐した日本に対して戦争も辞さない強硬な姿勢をとるべきことがチャーチルの発案により米英両国で確認された{{Sfn|河合|1998|p=329}}。これに基づいてか、アメリカは11月に日本に対して「中国から撤兵せよ。[[満洲事変]]以前の状態に戻せ」というこれまでにない強硬要求を突き付けた。日本を戦争に追い込むための挑発だったという説もある{{Sfn|山上|1960|p=190}}。<br /> <br /> ===== 日本との開戦とアメリカの参戦 =====<br /> 1941年[[12月7日]]の[[大日本帝国陸軍]]による[[マレー作戦]]で日英間が開戦した。日英が交戦状態となったことを知らせる駐英日本大使への通知はやけに丁重で、「閣下の忠実なる僕、ウィンストン・S・チャーチル」という署名で結んでいた。チャーチルによれば「これから殺す相手にはできるだけ丁重にした方がいい」のだという{{Sfn|ペイン|1993|p=274}}。チャーチルはその翌日に日本に宣戦布告した。<br /> <br /> マレー作戦の直後に行われた[[真珠湾攻撃]]で日米も開戦した。日米開戦の報告を聞いたチャーチルは大喜びし、早速ルーズベルトに電話した。ルーズベルトは「その通りだ。日本は真珠湾を攻撃した。これで我々は同じ船に乗ったわけだ」とチャーチルに語ったという{{Sfn|ペイン|1993|p=273}}。チャーチルの回顧録は「その日の夜、興奮と感動で疲れ果てていたが、私は救われた人間、感謝の気持ちに溢れた人間として眠りに付くことができた」と書いている{{Sfn|河合|1998|p=331}}{{Sfn|ペイン|1993|pp=273-274}}。<br /> <br /> さらに日本の同盟国のドイツと[[イタリア]]もアメリカに宣戦布告した。これもチャーチルにとっては願ってもないことだった{{Sfn|山上|1960|p=191}}{{Sfn|ペイン|1993|p=281}}。回顧録の中でチャーチルはこの時に勝利を確信したと主張している。「ついにアメリカがその死に至るまで戦争に突入したのだ。これで我々は戦争に勝った。イギリスと大英帝国は滅亡を免れたのだ。ヒトラーの運命は決まった。ムッソリーニの運命も決まった。日本人にいたっては粉微塵に粉砕されるだろう」と書いている{{Sfn|山上|1960|p=191}}。1941年末に訪米したチャーチルは、アメリカ議会で「一体日本人は我々をどういう国民だと思っているのか!我々がそんなに簡単に屈する国民だと思っているのか!」と反日演説を展開した{{Sfn|河合|1998|p=288}}。<br /> <br /> なお数年前から日本と交戦状態にある[[中華民国]]総統[[蒋介石]]の政府とも連携関係に入ったが、チャーチルは蒋介石に「ドイツとの戦線が最優先であり、日本との戦線は二義的意味しかない」と通達している{{Sfn|ペイン|1993|p=289}}。蒋介石政府はすでにアメリカから大量の支援を受けていたにも関わらず、その多くを自らの私財として貯め込むような腐敗政権であり、このような政府を支援してもまともな戦いは期待できなかった。同盟国というよりもお荷物に近い存在だったことを知っていたためともいわれる{{Sfn|ペイン|1993|p=289}}。<br /> <br /> ===== 対日戦 =====<br /> [[ファイル:HMS Prince of Wales and HMS Repulse underway with a destroyer on 10 December 1941 (80-G-413520).jpg|thumb|200px|マレー沖海戦におけるプリンス・オブ・ウェールズとレパルス]]<br /> ;マレー作戦<br /> 北部マレー半島で[[日本軍]]は数的にはわずかに優勢であるにすぎなかったが、制空権、戦車戦、歩兵戦術、戦闘経験において優越していた。日本軍は瞬く間にマレー半島のイギリス軍を屈服させ南下を続けた。さらにイギリス領[[シンガポール]]沖ではイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと[[レパルス (巡洋戦艦)|巡洋戦艦レパルス]]が[[日本軍]]の爆撃機によって沈められた。チャーチルは「あの艦が」と絶句し、「戦争全体で(その報告以外)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と後に[[回顧録]]の中に記している。<br /> <br /> ;香港陥落<br /> イギリスが[[阿片戦争]]で獲得した永久領土である[[香港島]]を含む[[香港]]は、1941年12月8日の日本軍の侵攻開始よりわずか[[香港の戦い|18日間の戦い]]で日本軍の手に落ちた{{Sfn|モリス|2010|p=238}}。<br /> <br /> [[File:BritishSurrender.jpg|200px|thumb|1942年2月15日、シンガポール。[[山下奉文]]中将と降伏交渉を行う[[アーサー・パーシバル|パーシバル]]中将]]<br /> ;シンガポール陥落<br /> 1942年1月終わりからシンガポールは日本軍に包囲されたが、チャーチルは同市のイギリス軍に死守命令を下し、降伏を許さなかった{{Sfn|モリス|2010|p=244}}{{Sfn|ペイン|1993|p=278}}。また「アジア人に対するイギリスの威信が弱まる恐れがある」として「包囲」という言葉の使用を禁じた{{Sfn|モリス|2010|p=244}}。だが日本軍による猛攻を受けて、現地司令官[[アーサー・パーシバル]]中将は独断で包囲軍司令官[[山下奉文]]中将に降伏を申し出、シンガポールは陥落、イギリス軍、オーストラリア軍などからなく連合国軍12万人から13万人が捕虜となった{{Sfn|モリス|2010|p=247}}{{Sfn|ペイン|1993|p=278}}。<br /> <br /> シンガポールはイギリスがほぼゼロから作り上げ、世界第4位の港にまで育て上げた大英帝国繁栄の象徴であっただけに、それが陥落した衝撃は大きかった{{Sfn|モリス|2010|p=237}}。 「シンガポールは難攻不落」と豪語していたチャーチルは、先の2隻の戦艦の撃沈に続き、マレー半島全域の喪失とシンガポール陥落とそれに伴う多くの戦死者、捕虜を出したことで[[国会]]において野党の[[労働党]]からの厳しい追及を受け、ショックのあまり寝込んでしまったという{{Sfn|山上|1960|p=192}}。<br /> <br /> またチャーチルは自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評している。&lt;ref&gt;Churchill, Winston (1986). &#039;&#039;The Hinge of Fate, Volume 4&#039;&#039;&lt;/ref&gt;。一時は心労のあまり首相辞任を考えるほどであった。<br /> <br /> ;ビルマ、インド<br /> 日本軍は更に[[イギリス領インド帝国]]に隣接する植民地である[[ビルマ]]にも進軍を開始した。こうした中でインドの全インド会議派委員会は独立のチャンスが来たと見て1942年8月より反英闘争「インド退去運動(Quit India Movement)」を開始し、イギリス当局は徹底的に弾圧した{{Sfn|モリス|2010|p=237}}{{Sfn|浜渦|1999|p=185}}{{Sfn|坂井|1988|pp=186-187}}。ガンジーや[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]、全インド会議派委員会幹部が次々と逮捕・投獄されていった{{Sfn|浜渦|1999|p=185}}{{Sfn|坂井|1988|p=187}}。<br /> <br /> この直後、またしてもアメリカから「インドに大西洋憲章を適用せよ」との横やりが入ったが、チャーチルは拒絶した{{Sfn|坂井|1988|p=188}}。この後もアメリカはしつこくイギリスのインド支配破壊を画策し続け、我慢の限界に達したインド総督[[ヴィクター・ホープ (第2代リンリスゴー侯爵)|リンリスゴー侯爵]]は、1943年に本国インド担当省に対して「善意の干渉家がアメリカから流出してくるのを防いでほしい」と要請している{{Sfn|モリス|2010|p=262}}。<br /> <br /> ;インド洋、セイロン<br /> 日本海軍は、1942年4月に行われた[[セイロン沖海戦]]などでイギリス海軍を駆逐し、これまでは「イギリスの海」であった[[インド洋]]の制海権を手にした。この為にイギリスやインドとオーストラリア間の海上貿易や軍用品の供給は止まることを余儀なくされた。さらにシンガポールや[[ペナン]]の日本海軍基地に[[ドイツ海軍]]や[[イタリア海軍]]の潜水艦が常駐し、インド洋で通商破壊戦を行う有様であった。さらに日本海軍はアフリカ大陸沿岸の[[マダガスカル]]に上陸し、同地でイギリス軍との間に陸戦を展開した。<br /> <br /> ;オーストラリア<br /> 南下した日本軍は[[オーストラリア]]への攻撃を開始し、1942年初頭から1943年暮れにかけてオーストラリア本土への空襲を実施した。<br /> <br /> これらのアジア太平洋の戦局の方は、1943年中盤以降はアメリカの[[ダグラス・マッカーサー]]大将が率いる「飛び石作戦」の導入により、オーストラリア軍や[[ニュージーランド軍]]の協力を受けて日本への反撃の主戦地を太平洋諸島に移しており、イギリスの出る幕はなくなっていった{{Sfn|ペイン|1993|p=279}}。この状況についてイギリスの外交文書も「マッカーサー将軍の一人遊び」、「マッカーサー将軍の独裁」という表現をよく使用するようになる{{Sfn|河合|1998|p=332}}。<br /> <br /> ===== イタリア半島上陸 =====<br /> 北アフリカ戦線に勝利した米英軍は、イタリア侵攻が可能となった。1943年7月に[[シチリア]]へ上陸作戦を決行して成功{{Sfn|山上|1960|p=200}}。連合国の激しい空襲でイタリア人の戦意は衰え、ストライキや暴動が多発し、ムッソリーニは失脚。後任の首相[[ピエトロ・バドリオ]]は9月にも連合国と講和し、イタリアは戦争から脱落した{{Sfn|山上|1960|p=200}}。この後イタリアはドイツ軍によって占領されたため、結局戦場になった。米英軍は1943年[[9月9日]]に[[ナポリ]]の南方[[サレルノ]]への上陸に成功したが、[[アルベルト・ケッセルリンク]]元帥率いるドイツ軍の勇戦で米英軍は散々に蹴散らされてほとんど侵攻できなかった{{Sfn|ペイン|1993|p=307}}。最終的にはノルマンディー上陸作戦に呼応した1944年5月の攻勢でようやくドイツ軍を押し込むことに成功し、1944年6月4日に[[ローマ]]を陥落させた{{Sfn|山上|1960|p=202}}。<br /> <br /> ===== カイロ会談とテヘラン会談 =====<br /> [[File:American and Allied leaders at international conferences - NARA - 292624.tif|200px|thumb|[[カイロ会談]]の際の蒋介石、ルーズベルト、チャーチル]]<br /> 1943年11月、エジプト・カイロでルーズベルト、蒋介石と会談を行い、対日問題を協議した([[カイロ会談]]){{Sfn|山上|1960|p=201}}{{Sfn|河合|1998|p=293}}。ルーズベルトは蒋介石と仲が良く、以前から香港を日本から奪還したらイギリスではなく蒋介石に渡そうと目論んでいた(香港奪還後イギリス軍がただちに香港総督府にイギリス国旗を立てて植民地統治を再開したのでこの企みは阻止できた){{Sfn|モリス|2010|pp=262-263}}。さらに戦後には中華民国を[[四人の警察官構想|第四の大国]]にしようなどという構想さえ思い描いていた{{Sfn|ペイン|1993|p=310}}。チャーチルは中華民国など全く興味がなかったし、蒋介石とも話はしたが、何の感銘も受けなかった。こんな国を第四の大国にしようなどというアメリカの考えには到底賛成できなかった{{Sfn|ペイン|1993|p=310}}。<br /> <br /> 続けて、11月から12月にかけて英ソ占領下のイラン・[[テヘラン]]でルーズベルトとスターリン、チャーチルの初めての会談を行った([[テヘラン会談]])。ちょうどこの会議中にチャーチルは69歳の誕生日を迎えたため、3人は[[バースデーケーキ]]の前で会談した{{Sfn|山上|1960|pp=201-202}}。この会議で翌年5月にも米英軍が北フランスと南フランスに上陸作戦を決行することと、それに呼応してソ連軍が攻勢に出ることが約束された{{Sfn|山上|1960|p=202}}{{Sfn|河合|1998|p=292}}。またチャーチルは地中海のイギリスの覇権を確保しようと[[エーゲ海]]方面での作戦を提案したが、ルーズベルトに阻止された{{Sfn|河合|1998|p=292}}。会議ではスターリンの高圧的な態度が目に付いた{{Sfn|ペイン|1993|p=312}}。だがルーズベルトは「スターリンはチャーチルと違い帝国主義者ではない」と思っており、スターリンに好感を持っていた{{Sfn|河合|1998|p=293}}。何百万人も殺戮してきたスターリンに好感を抱くルーズベルトとは感覚が違い過ぎることを痛感させられる場面もあった。戦後のドイツ軍将校たちの処分について三巨頭の間でこのような会話があったという{{Sfn|ペイン|1993|p=313}}。<br /> *スターリン「5万人は銃殺すべきだな。特に参謀将校は全員銃殺だ。」<br /> *チャーチル「そんな大量処刑は英国議会も国民も黙ってはいない。そんな非道を許して私と我が国の名誉を汚すぐらいなら、私は今この場で庭に引きずり出されて銃殺された方がマシだ。」<br /> *ルーズベルト「では、こう言う中間策でいこうではないか。4万9000人を銃殺だ」<br /> <br /> ===== ノルマンディー上陸作戦と共産化阻止 =====<br /> [[File:The British Army in North-west Europe 1944-45 BU2637.jpg|200px|thumb|ドイツへ侵攻するイギリス軍部隊を視察するチャーチルとモントゴメリー]]<br /> 1944年6月6日には[[ドワイト・アイゼンハワー]]元帥率いる連合国軍が[[ノルマンディー上陸作戦]]に成功し、ドイツにとっての西部戦線が形成された。これに呼応してイタリア半島戦線の英米軍や東部戦線の赤軍も攻勢を開始([[バグラチオン作戦]])した。ドイツは1943年から本格化した連合国軍の空襲に苦しめられ燃料やベテラン兵員の不足によりこのような大規模な一斉攻勢を抑える力はもはやなかった。8月24日にはパリが陥落、1944年末までにはフランス全土からドイツ軍は駆逐された。11月11日にチャーチルはパリを訪問し、臨時政府大統領となった[[シャルル・ド・ゴール]]とともに無名戦士の墓に花をささげた{{Sfn|山上|1960|pp=202-203}}。<br /> <br /> 一方、チャーチルの懸念はもはやドイツではなく、戦後のソ連の脅威であった。ゲリラが多いバルカン半島は戦後共産化してソ連に呑み込まれる可能性が高かった。チャーチルは、これを阻止すべく1944年8月にもユーゴスラビアの[[チトー]]と会見し、ユーゴを共産化しないとの言質を得ている{{Sfn|山上|1960|pp=204-205}}。10月にはモスクワを訪問し、スターリンとの間にバルカン半島諸国の英米ソの勢力割合を話し合った{{Sfn|山上|1960|p=205}}{{Sfn|河合|1998|p=295}}。<br /> <br /> 同じ月にイギリス軍はギリシャへ上陸して同国を占領したが、12月には共産主義勢力ギリシャ人民解放軍が反乱を起こす。チャーチルはこれを徹底的に鎮圧させた。これには「イギリス人はドイツと戦ってきたギリシャの愛国者たちをアメリカの武器で殺している」としてアメリカやイギリス国内から批判が起こったが、この時のチャーチルの処置のおかげでバルカン半島の中でギリシャだけは共産化を免れた{{Sfn|山上|1960|p=206}}。チャーチルは回顧録の中で「ナチズムとファシズム亡き今、文明が直面しなければならない危険は共産主義であることを私は見抜いていた」と書いている{{Sfn|山上|1960|p=206}}。<br /> <br /> ===== ヤルタ会談 =====<br /> [[ファイル:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg|200px|thumb|ヤルタ会談の三巨頭。左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン]]<br /> {{main|ヤルタ会談}}<br /> 1945年2月、ソ連領[[クリミア半島]]の[[ヤルタ]]でスターリン、ルーズベルト、チャーチルの三巨頭による[[ヤルタ会談]]が行われた。ドイツを無条件降伏させ、その後、英米ソ仏で分割占領することがこの会談で取り決められた。当初、ルーズベルトとスターリンは英米ソの三国だけで分割占領するつもりだったが、チャーチルの説得でフランスも入れられることになった{{Sfn|山上|1960|pp=206-207}}。この会談で日本と中立条約を結ぶソ連が対日参戦する密約も結ばれた{{Sfn|山上|1960|p=208}}。<br /> <br /> この会談で一番揉めたのはポーランド問題だったが、これは結局ソ連優位で妥協する形となり、ソ連が送る「民主的指導者」がポーランドを統治することが取り決められた{{Sfn|河合|1998|p=296}}。チャーチルは回顧録の中で「これが米英ソの同盟関係を破綻に導く最初の大きな原因となった」と書いている{{Sfn|山上|1960|p=207}}。<br /> <br /> また[[国際連合]]に関する構想もヤルタ会談で本格的に具体化された。大国の[[拒否権]]制度もこの時に決まった。チャーチルも「我が国の帝国主義的利益を守るためには必要不可欠」として拒否権制度に賛成した{{Sfn|山上|1960|p=207}}。ちなみに国際連合はヤルタ会談で開催が決められた1945年5月のアメリカ・サンフランシスコでの[[サンフランシスコ会議|連合国会議]]において正式に創設されている{{Sfn|山上|1960|p=207}}。<br /> <br /> ===== V-Eデー =====<br /> [[File:Special Film Project 186 - Buckingham Palace 2.jpg|200px|thumb|[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]らとともにバッキンガム宮殿のバルコニーに立つチャーチル(1945年5月8日)]]<br /> [[File:Churchill waves to crowds.jpg|200px|thumb|保健省のバルコニーから群衆に演説するチャーチル(1945年5月8日)]]<br /> 1945年春に英米軍と赤軍は東西からドイツ領へ侵攻を開始し、1945年4月30日にヒトラーは赤軍が迫り来るベルリン内の総統地下壕内で自殺に追い込まれた。ヒトラーの遺書の指名でドイツ大統領となった[[カール・デーニッツ]]提督は5月8日に無条件降伏し、ヨーロッパ戦争は終結した{{Sfn|山上|1960|p=211}}。<br /> <br /> 「[[ヨーロッパ戦勝記念日|V-Eデー]]」と呼ばれたこの日は、1918年の第一次世界大戦終結時のようにビックベンが鳴り、人々は街に繰り出してお祭り騒ぎとなった。庶民院議員たちはみんなで[[ウェストミンスター寺院]]に参拝し、神に感謝を捧げた{{Sfn|河合|1998|p=298}}。チャーチルはジョージ6世ら王室メンバーとともにバッキンガム宮殿のバルコニーから観衆に手を振った後、保健省のバルコニーから群衆に「これは諸君の勝利である」と宣言し、皆で愛国歌「[[ルール・ブリタニア|ブリタニアよ、支配せよ]]」を熱唱した{{Sfn|山上|1960|p=211}}。<br /> <br /> ===== アジアにおける勝利と大英帝国の没落 =====<br /> 「V-Eデー」によりアジアを除く戦前の大英帝国は全て戻り、新たに北アフリカ全域、[[レヴァント]]地方、イランがイギリス軍の占領下に置かれていた。地中海の支配権も戦前以上に強力にイギリスが握っていた。さらにイギリス軍はドイツとイタリアとオーストリアを分割占領していた。チャーチルはそれをもって大英帝国衰退論を否定し、「大英帝国はそのロマンティックな歴史上、いつの時代よりも強力になっている」と宣言した{{Sfn|モリス|2010|pp=255-256}}。<br /> <br /> しかしそれは幻想だった。ビルマにおける日本軍との戦いは終わりに近づいていたものの、未だにマレー半島やシンガポール、香港などの旧植民地は日本軍の占領下にあった上に、これらのアジアの植民地におけるイギリスの権威は完全に失墜していた。さらにもはやイギリスには大英帝国を維持する力もなくなっており、実際にこの後10年程度の間に、インドやセイロン、マレー半島やパレスチナ、スーダンなど帝国の多くの地域が独立した。<br /> <br /> さらにイギリスの海外投資は戦前の4分の1に激減し(ケインズの試算によると、[[アメリカ本土攻撃|日本軍による攻撃]]以外に本土に対する攻撃を受けなかったアメリカの損失の35倍とされる)、イギリスの産業・貿易は衰退、国民生活は困窮した。武器貸与法は失効し、米英借款協定([[:en:Anglo-American_loan|Anglo-American_loan]])によって物資をローンで購入したせいで80億ポンドの負債を抱えることになったうえ、イギリスの工業産業は事実上兵器産業だけになってしまい、もはや世界の覇権国の地位をアメリカに奪われるのを防ぐ手段はなかった{{Sfn|山上|1960|p=222}}{{Sfn|モリス|2010|p=264}}。<br /> <br /> 勇ましい言葉で自国の力を誇示しながら、チャーチル自身も大戦中から自国の没落を肌で感じ取っていた。テヘラン会談の際に「我々が小国に堕ちたことを思い知らされた。会談にはロシアの大熊、アメリカの大牛、そしてその間にイギリスの哀れなロバが座っていた」と秘書に漏らしている{{Sfn|河合|1998|p=299}}。<br /> <br /> 自国の没落に加えてチャーチルが不安だったのは、スターリンの台頭であった。1945年4月に、スターリンと仲よしのルーズベルトの死でアメリカ政府もようやく共産主義を危険視するようになったものの、すでに手遅れな感があり、東ヨーロッパの大半はスターリンの支配下に堕ちていた。チャーチルは回顧録の中で「第二次世界大戦の長い苦悩と努力の末に実現されたことは、一人の独裁者(ヒトラー)が、他の独裁者(スターリン)に代わっただけであった」と書いている{{Sfn|山上|1960|p=214}}。<br /> <br /> ===== 退陣 =====<br /> [[File:Churchill Truman y Stalin en la Conferencia de Potsdam 23-07-1945 - BU 009195.jpg|200px|thumb|ポツダム会談の際のチャーチル、アメリカ大統領[[ハリー・トルーマン|トルーマン]]、スターリン。チャーチルは選挙戦中、この会議に出席したが、開票が近付くと帰国し、選挙に惨敗して再び出席することはなかった]]<br /> 1935年以来、イギリスでは選挙が行われていなかった。チャーチルは1944年10月にドイツとの戦争が終結次第、解散総選挙を行うと宣言していた{{Sfn|山上|1960|p=215}}。労働党も1944年の党大会で戦争終結後の総選挙では、挙国一致内閣を解消して野党として戦うことを決定していた{{Sfn|コール|1957|p=347}}。<br /> <br /> ドイツ降伏で労働党から解散総選挙すべきとの声が強まった。チャーチルは「日本の降伏までは挙国一致内閣を続けるべきである」と主張したが、労働党はそれを拒否した{{Sfn|コール|1957|p=348}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=331}}。保守党内でもチャーチルが英雄視されている今のうちに総選挙に打って出た方が保守党に有利とする意見が多かった{{Sfn|コール|1957|p=348}}。<br /> <br /> チャーチルは6月15日にも庶民院を解散し、7月5日に[[1945年イギリス総選挙|総選挙]]が行われた{{Sfn|山上|1960|p=215}}。労働党は「未来に目を向けよう」をスローガンに社会保障政策やイングランド銀行、燃料・動力産業、鉄鋼業の国有化など社会改良主義政策を主張した。対するチャーチル率いる保守党も社会保障政策を公約に掲げていたが、その訴えはチャーチルの戦功を誇示し、また労働党と社会主義政策を批判することを中心としていた{{Sfn|村岡、木畑|1991|pp=331-332}}。チャーチルはラジオ演説で労働党やアトリーが主張する政策は「社会主義である」として批判し、「社会主義は全体主義や卑屈な国家崇拝と不可分の存在」「教条主義的社会主義者は自由な議会を敵視する」「社会主義のたどり着く先は[[ゲシュタポ]]の弾圧政治」と国民に訴えたが、つい先日まで彼の内閣の閣僚だったアトリーをゲシュタポ扱いする罵倒は評判が悪かった{{Sfn|ブレイク|1979|pp=293-294}}{{Sfn|河合|1998|pp=302-303}}{{Sfn|山上|1960|pp=215-216}}。またチャーチルは、保守党、労働党のどちらが政権を握ってもイギリスの外交上の一貫性が保たれるよう、ソ連占領下ドイツ・[[ポツダム]]で開催予定の米英ソ三国首脳による[[ポツダム会談]]にアトリーも連れていこうと考えていたが、これに対して労働党全国執行委員会の[[ハロルド・ラスキ]]委員長は強く反対し、アトリーに行かないよう指示を出した{{Sfn|河合|1998|p=302}}{{Sfn|関嘉彦|1969|p=232}}。アトリーは議会内労働党の党首だが、労働党の党規約では全国執行委員会が党内での地位が最も高く、議会内労働党もその指示に従わねばならなかった{{Sfn|河合|1998|p=302}}。チャーチル率いる保守党はこれを労働党の「党指導部絶対」「議会政治軽視」の体質と批判した{{Sfn|河合|1998|p=302}}。保守党は「ナチス総統ラスキ」などという表現を使って批判運動を行ったため、逆に保守党の方が批判を招く結果となった{{Sfn|ブレイク|1979|p=295}}。総選挙の結果は労働党394議席、保守党213議席、自由党12議席という労働党の大勝に終わった{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=332}}。<br /> <br /> この選挙結果については様々な説があるが、前述の個人攻撃についての不評よりも、慢性的な保守党の人気の凋落が原因と考えられる{{Sfn|ブレイク|1979|p=295}}。[[ギャラップ (企業)|ギャラップ]]の世論調査によれば、チャーチルの人気は高かったものの、労働党は1942年以降順調に支持率を上げており、それに勝てなかっただけということのようである{{Sfn|河合|1998|p=304}}。また労働党の大勝は小選挙区制度の賜物でもあり、得票数で見れば実は労働党は過半数も獲得していない{{Sfn|関嘉彦|1969|p=232}}。<br /> <br /> ともかくこの議席差ではチャーチルは退任せざるを得ず、7月26日に国王ジョージ6世に辞表を提出した。国王からの慣例の次期首相の下問に対してアトリーを推挙した{{Sfn|関嘉彦|1969|p=233}}。またこの際に国王から[[ガーター勲章]]を授与するとの叡慮があったが、「選挙に敗れた首相が、どうして陛下からガーター勲章を頂けますでしょうか」と述べ、拝辞した{{Sfn|山上|1960|p=230}}。<br /> <br /> ==== 野党党首として ====<br /> [[File:Japanese surrender at Singapore, 1945.jpg|thumb|200px|シンガポールでイギリス軍に降伏する日本軍]]<br /> 下野したチャーチルは70歳になっていたが、引退する気はなく、引き続き保守党党首に留まった{{Sfn|河合|1998|p=305}}。1945年8月に日本が連合国に対して降伏し、第二次世界大戦が終結したことを受けて、この後に『{{仮リンク|第二次世界大戦 (ブック・シリーズ)|label=第二次世界大戦|en|The Second World War (book series)}}』を全6巻で著し、1948年から1年ごとに1巻ずつ出版されていった{{Sfn|河合|1998|p=305}}。<br /> <br /> チャーチルの口述方式で著され、チャーチルの自画自賛が目立つが、陸海軍将官や歴史学者などを総動員した大著となった。この本はベストセラーとなり、チャーチルに莫大な富をもたらし、首相在任中の1953年には[[ノーベル文学賞]]の受賞にも至っている{{Sfn|山上|1960|p=235}}。しかしチャーチルは[[ノーベル平和賞]]を欲しがっていたので、文学賞の受賞には失望したという{{Sfn|山上|1960)235&quot;/&gt;。|group=注釈}}。<br /> <br /> ===== 反共闘争 =====<br /> [[File:Photograph of President Truman waving his hat and Winston Churchill flashing his famous &quot;V for Victory&quot; sign from the... - NARA - 199350.jpg|200px|thumb|1946年3月、アメリカ・ミズーリ州へ向かう列車の中でVサインをするチャーチル。トルーマン大統領とともに]]<br /> 労働党は公約通り、イングランド銀行や重要産業の国有化を行い、また国民保険法や国家扶助法、福祉施設建設、累進課税強化など社会改良主義政策を推し進めていった{{Sfn|山上|1960|p=222}}。これに対してチャーチルは「困窮を均等化し、欠乏を組織化するこの政策が長く続けば、ブリテンの島々は死せる石と化す」「労働党政権は第二次世界大戦にも匹敵するイギリスの災厄」「イギリスは社会主義の悪夢に取りつかれている」「社会主義は必ず経済破綻と全体主義をもたらす」と強く批判した{{Sfn|山上|1960|p=223}}{{Sfn|河合|1998|p=306}}。<br /> <br /> 老いて反共闘争意欲がますます盛んとなったチャーチルは1946年3月にアメリカ・[[ミズーリ州]]{{仮リンク|フルトン (ミズーリ州)|label= フルトン|en|Fulton, Missouri}}で「[[鉄のカーテン]]」演説を行った{{Sfn|山上|1960|p=225}}{{Sfn|河合|1998|p=307}}。<br /> <br /> {{Quotation|[[バルト海]]の[[シュチェチン|シュテッティン]]から[[アドリア海]]の[[トリエステ]]まで、[[ヨーロッパ大陸]]を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中欧及び東欧の歴史ある首都は、全てその向こうにある。(略)これらの東欧諸国では弱小勢力であった共産党が、いまや優越して、その数にふさわしからぬ権力につき、いたるところで全体主義体制を敷いている。警察政府が君臨し、チェコスロバキアを除いては民主主義などどこにも存在しない。}}<br /> <br /> さらにこれに対抗する「英語諸国民の兄弟としての団結」を訴えた。これ以降、スターリンはいよいよチャーチルを「戦争屋」「反ソ戦争挑発者」「ヒトラーのドイツ民族優越論に匹敵する英語圏国民優越論者」と批判した{{Sfn|山上|1960|p=225}}。<br /> <br /> 一方ルーズベルト時代の親ソ方針を全面破棄する事を決意していたアメリカのトルーマン大統領もチャーチルのフルトン演説にこたえて、1947年3月に[[トルーマン・ドクトリン]]を発表し、ソ連[[封じ込め]]の反共政策をアメリカの公式政策に決定した{{Sfn|山上|1960|p=226}}{{Sfn|山上|1960|p=355}}。イギリス労働党政権は初めこうしたアメリカやチャーチルの反共姿勢に反対し、イギリスをアメリカとソ連の中間に立つ「第三勢力」にしようと考えていたが、二次大戦で消耗したイギリスは、[[マーシャル・プラン]]に参加してアメリカの援助を受けなければならない弱い立場だったため、最終的には労働党政権もアメリカに従って行動する路線を選択することになった{{Sfn|山上|1960|p=227}}。<br /> <br /> チャーチルは共産主義に対抗するため、西側ヨーロッパ諸国を一つにまとめる必要性を痛感し、1945年11月から[[ヨーロッパ合衆国]]構想を盛んに主張するようになった。1946年夏、いまだ[[ヘルマン・ゲーリング]]らドイツ人戦犯に対する[[ニュルンベルク裁判]]が行われていたこの時期にドイツもこのヨーロッパ合衆国の中に加えるべきと提案して人々を驚かせた{{Sfn|河合|1998|p=308}}。この構想は1948年3月の[[西欧同盟]]、1949年5月の[[欧州評議会]]などで結実を見た{{Sfn|山上|1960|p=226}}。アメリカも1949年4月にはヨーロッパ反共体制の[[北大西洋条約機構]](NATO)を発足させている{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=357}}<br /> <br /> 一方共産主義陣営も攻勢を強めていた。1948年2月には東欧で唯一西側に開かれていたチェコスロバキアでクーデタが発生し、同国が共産化された([[チェコスロバキア社会主義共和国]]){{Sfn|山上|1960|p=227}}。同年8月にはソ連が[[ベルリン封鎖]]を強行した{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=356}}。1949年9月にはソ連の原爆保有が判明し、[[西側諸国]]に衝撃を与えた。同年10月には中国の[[国共内戦]]が[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]軍の勝利に終わり、蒋介石らは[[台湾]]へ追われ、中国共産党率いる一党独裁国家の[[中華人民共和国]]が成立してしまう{{Sfn|山上|1960|p=227}}。<br /> <br /> さらに[[1950年]]6月には[[朝鮮半島]]で[[朝鮮戦争]]が勃発した。イギリス労働党政権は「韓国が侵攻を退けるのに必要な支援を行う」とした[[国連決議]]に基づき、日本の占領業務を行っていた[[イギリス連邦占領軍]]を改変し、朝鮮イギリス連邦軍を組織し派遣した{{Sfn|関嘉彦|1969|p=298}}。もちろん保守党もこの出兵を支持した{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=363}}。<br /> <br /> ===== 大英帝国の崩壊 =====<br /> この頃のイギリスにとって、共産主義と並ぶもう一つの脅威は植民地民族運動の激化であった。労働党政権時代にインド、[[パキスタン]]、[[スリランカ]]、[[ヨルダン]]、[[イスラエル]]などが続々と独立し、長きにわたる大英帝国のアジア中近東支配に終止符が打たれた。同時期フランスも植民地民族運動に悩まされて[[フランス植民地帝国|植民地帝国]]崩壊の瀬戸際に立たされていた。しかしフランスが強引に植民地を維持しようとして[[第一次インドシナ戦争|インドシナ]]や[[アルジェリア戦争|アルジェリア]]で泥沼の内戦に陥っていったのに比べると、イギリス労働党政権は「引き際を心得ていた」と評価されている{{Sfn|山上|1960|p=228}}{{#tag:ref|ただし英仏から独立しても、東西冷戦によりアメリカとソ連が影響下に置こうと進出してくるのが一般的だった{{Sfn|山上|1960|p=228}}。|group=注釈}}。<br /> <br /> だが帝国主義者チャーチルにはもちろんそんなことは認められなかった。「大英帝国はアメリカの借款と同様に急速に減少している。その急速さには慄然とさせられる。『逃亡』、これが唯一ふさわしい言葉だ」「労働党は我らの先人たちが200年の時を費やして行ってきたことの全てを、[[インド帝国]]とともに投げ捨てた。」と批判した{{Sfn|山上|1960|p=228}}。<br /> <br /> ===== 政権奪還 =====<br /> [[1950年]]2月の[[1950年イギリス総選挙|解散総選挙]]があった。争点はほとんど国内問題に集中した。というのも労働党政権の積極的な反共外交は保守党としても文句のつけようがなかったからである。植民地放棄には不満もあったが、今さら植民地回復は不可能であり、保守党も代替案は出せなかった{{Sfn|ブレイク|1979|p=309}}。選挙戦で労働党は5年間に行った社会改良政策の実績を誇り、対する保守党は労働党政権は国民全員に耐乏生活を押し付けただけと批判した{{Sfn|関嘉彦|1969|p=305}}。<br /> <br /> 選挙結果は労働党315議席、保守党298議席、自由党9議席をそれぞれ獲得し、労働党と保守党の議席差は17議席差にまで縮まった{{Sfn|河合|1998|p=309}}{{Sfn|ブレイク|1979|p=309}}{{Sfn|山上|1960|p=229}}。保守党は大幅に失地回復したものの、政権を獲得できず、失望感が広がった{{Sfn|ブレイク|1979|p=309}}。だが、過半数をわずか8議席上回ったに過ぎない労働党の政権維持は困難になった。落ち目になったことで労働党内の党内紛争も激化していった{{Sfn|関嘉彦|1969|p=306}}。政権運営に行き詰ったアトリーは1951年10月にも庶民院を解散して[[1951年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た{{Sfn|関嘉彦|1969|p=307}}。<br /> <br /> この頃、チャーチルが40年前に創設したアングロ=ペルシャン・オイル・カンパニーがイラン政府によって国有化された。激怒したチャーチルはイラン政府を激しく批判したので、チャーチルは「戦争挑発屋」か否かというのがこの選挙の争点の一つとなった{{Sfn|河合|1998|p=310}}。選挙戦でチャーチルは、労働党政権の北アフリカ政策や中近東政策の愚策を批判し、「[[スーダン]]、[[アーバーダーン危機|アーバーダーン]]、アニュエリン・ベヴァン」は三大惨事であると主張した{{Sfn|ブレイク|1979|p=311}}<br /> <br /> 選挙の結果、保守党が321議席、労働党が295議席を獲得し、保守党が政権を奪還した{{Sfn|君塚|1999|p=200}}。得票数の上では労働党の方が上回っていたが、小選挙区制度の賜物で保守党が勝利した{{Sfn|関嘉彦|1969|p=308}}{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=368}}。<br /> <br /> ==== 第2次チャーチル内閣 ====<br /> [[File:Churchillcabinet1955.png|200px|thumb|1955年、チャーチルとチャーチル内閣の閣僚たち]]<br /> こうして6年ぶりに首相に返り咲くことになったチャーチルだったが、彼はすでに77歳になっており、しばしば心臓発作を起こすなど健康な状態とは言い難かった{{Sfn|村岡、木畑|1991|pp=365-366}}。1952年2月にジョージ6世が崩御し、エリザベス王女が[[エリザベス2世]]として女王に即位した{{Sfn|山上|1960|p=230}}{{Sfn|河合|1998|p=366}}。1953年には女王より[[ガーター勲章]]を授与され、以降「サー・ウィンストン・チャーチル」となる{{Sfn|山上|1960|p=230}}。<br /> <br /> 政権奪還後ただちに労働党政権下で国有化された鋼鉄産業を[[民営化]]したが、一方でそれ以外の労働党政権の社会改良政策は継承した{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=367}}。住宅地方大臣[[ハロルド・マクミラン]]は住宅建設に力を入れ、1年間に30万戸の建設という先の総選挙の公約を達成した{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=367}}{{Sfn|河合|1998|p=310}}。<br /> <br /> 1953年3月のスターリンの死を契機として、外交面でもチャーチルの共産主義国に対する融和的態度が見られるようになった{{Sfn|君塚|1999|p=201}}。彼が軟化したのは原爆の時代に世界大戦を起こしたらイギリスの生存が危ういと考えたためだった{{Sfn|山上|1960|p=231}}。東西は「[[雪どけ (小説)|雪解け]]」と呼ばれる緊張緩和の時代へ向かっていき、同年7月には朝鮮戦争が終結している。さらに1954年7月にはインドシナ戦争をめぐる[[ジュネーヴ協定]]が締結されたが、イギリスはアメリカの軍事介入を抑えてこの協定締結を成功させる役割を果たした{{Sfn|山上|1960|p=231}}。<br /> <br /> しかしその一方でチャーチルは反共政策も粛々と進めた。[[西ドイツ]]を反共の防波堤にするために同国の再軍備を促し、それに関連して1954年11月24日に「大戦が終わる直前、私はモントゴメリー卿に投降したドイツ兵の武器を慎重に蓄えるよう命令を出したが、これはソビエトが前進してきた場合、ドイツ兵を再武装させて我々と共闘させるためであった」という裏話を暴露し、国際的な反響を呼んだ{{Sfn|山上|1960|p=232}}。また原爆開発を推進し、1952年10月にはオーストラリア沖で[[核実験]]を行った([[ハリケーン作戦]])。米ソに次ぐ第3の核保有国としての存在感を世界に知らしめた{{Sfn|山上|1960|p=233}}。1954年にはアジア反共体制の[[東南アジア条約機構]](SEATO)に参加した{{Sfn|山上|1960|p=233}}。<br /> <br /> 一方植民地については、帝国主義者チャーチルといえども時代の趨勢には抗えず、前政権に引き続いて、失われていく一方だった。1951年にはエジプトとの関係が緊迫する中、エジプトを反ソ陣営に引きとめるためにイギリス軍をエジプトから撤兵させることになった{{Sfn|山上|1960|p=233}}。イランとは引き続き、石油国有化をめぐって争い続けたが、1954年にはイギリス・イラン協定という妥協案を呑む羽目となった{{Sfn|山上|1960|p=233}}。1952年に[[ケニア]]で[[マウマウ団の乱]]が勃発すると、チャーチルは空軍をも出動させて反英ゲリラの鎮圧にあたった。だが懐柔のために様々な植民地支配の緩和を行うことも余儀なくされ、最終的にはチャーチル退任後の1963年12月にケニアは独立した{{Sfn|岡倉|2001|pp=199-202}}。<br /> <br /> 1954年11月30日に80歳を迎え、[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]に次ぐ高齢首相となった{{Sfn|君塚|1999|p=201}}。しかしこの頃にはチャーチルの耳はすっかり遠くなり、閣議で昔話をとりとめもなく語すばかりになっていた{{Sfn|村岡、木畑|1991|pp=370-371}}。多くの閣僚がチャーチルを引退させる必要を痛感していた中、ついにマクミランがチャーチルに引退を勧めた。チャーチルは素直にこれを了承し、1955年4月に首相職を辞した{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=371}}。後任の首相・保守党党首になったのは外相[[アンソニー・イーデン|サー・アンソニー・イーデン]]だった{{Sfn|河合|1998|p=312}}{{Sfn|君塚|1999|p=201}}。退任にあたってエリザベス2世は伯爵位を与えるとの叡慮を示したが、チャーチルは庶民院議員として政治家を続けることを希望し、これを拝辞した{{Sfn|村岡、木畑|1991|p=367}}。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 退任後 ===<br /> 首相退任後も1955年の[[1955年イギリス総選挙|総選挙]]、1959年の[[1959年イギリス総選挙|総選挙]]で当選を果たして庶民院議員を務め続けたが、政界の表に立つことはなかった。1956年にイーデン首相が[[第二次中東戦争]]の失敗で退任した際に一部にチャーチル待望論も出たが、実現はしなかった{{Sfn|山上|1960|p=243}}<br /> <br /> 1963年に[[アメリカ連邦議会]]からアメリカ[[名誉市民]]の称号を送られた。[[ホワイトハウス]]での授与式には長男ランドルフが代わって出席し、チャーチルはメッセージだけ送った。そこには「私はイギリスがおとなしい役割に追放されたという見解を拒否する」と書かれていた。これに対してアメリカの元国務長官[[ディーン・アチソン]]から「イギリスは帝国を失い、新しい役割は見つけられていない」と嫌味を返された{{Sfn|河合|1998|p=312}}。<br /> <br /> === 死去 ===<br /> [[File:Winston Churchill Grave.jpg|200px|thumb|チャーチルの墓]]<br /> [[1960年代]]に入った晩年のチャーチルはひどく老衰し、言葉の意味もよく分からなくなっていた{{Sfn|ペイン|1993|p=382}}。また頻繁に涙を流すようになったという{{Sfn|山上|1960|p=244}}。老いてもチャーチル人気は健在で、毎年チャーチルの誕生日の前夜にはチャーチルのハイド・パーク・ゲートの屋敷の周りに人々が集まってきた。チャーチルも屋敷の窓に立ち、集まってくれた人々に向けて[[Vサイン]]を送っていた。<br /> <br /> [[1964年]][[11月29日]]にもチャーチルは元気な姿を群衆に披露したが、これが公衆に見せたチャーチルの最期の姿となった{{Sfn|ペイン|1993|pp=384-385}}。1965年1月8日に[[脳卒中]]で左半身がマヒし、1月24日午前8時頃、家族に見守られながら永眠した。最後の言葉はなかったという{{Sfn|ペイン|1993|pp=384-385}}。奇遇にもこの1月24日は父ランドルフの命日であった{{Sfn|ペイン|1993|p=386}}。<br /> <br /> エリザベス2世女王の叡慮により、チャーチルの遺体を入れた棺は3日間{{仮リンク|ウェストミンスター・ホール|en|Westminster Hall}}に安置された。国民の弔問が許可され、30万人もの人々が訪れた{{Sfn|ペイン|1993|p=387}}。その後、チャーチルの棺は国葬で[[セント・ポール大聖堂]]まで送られた{{Sfn|河合|1998|p=313}}{{Sfn|ペイン|1993|p=387}}。セント・ポール大聖堂での葬儀にはエリザベス2世女王も出席した。イギリスには君主は臣民の葬儀に出席しないという慣例があり、これはその慣例が初めて破られた事例であった{{Sfn|ブレイク|1993|p=872}}{{Sfn|ペイン|1993|p=388}}。<br /> <br /> 遺体はブレナム宮殿の近くブラドンのセント・マーティン教会墓地に葬られた{{Sfn|河合|1998|p=313}}。ここはチャーチルの両親が葬られた墓地であり、チャーチルも両親の墓の近くで眠っている{{Sfn|ペイン|1993|p=388}}。<br /> {{Gallery<br /> |lines=3<br /> |File:Winston Churchill statue, Parliament Square SW1 - geograph.org.uk - 1318986.jpg|ロンドン・{{仮リンク|パーラメント・スクエア|en|Parliament Square}}のチャーチル像<br /> |File:Statues of Winston Churchill in Paris 2.jpg|フランス・パリの[[プティ・パレ]]にあるチャーチル像<br /> |File:Toronto - ON - Winston Churchill Statue.jpg|[[カナダ]]・[[トロント]]にあるチャーチル像<br /> |File:London - Marylebone - Allies.jpg|ロンドン・[[ウェストミンスター]]・{{仮リンク|ボンド・ストリート|en|Bond Street}}にあるルーズベルトとチャーチルの像<br /> }}<br /> {{-}}<br /> <br /> == 政治思想 ==<br /> === 帝国主義 ===<br /> チャーチルはロイド・ジョージと並ぶ急進派のリーダーとして知られていたが、1909年頃からロイド・ジョージともども[[自由帝国主義]]者となった{{Sfn|坂井|1988|p=83}}。チャーチルの帝国主義はある程度の柔軟性があったものの、基本的には絶頂期の[[ヴィクトリア朝]]大英帝国が未だ続いているかのような幻想の帝国像を思い描いていた{{Sfn|モリス|2010|pp=217-218}}。若い時のキューバでの反乱鎮圧経験から、イギリス人の支配民族としての責任感を強くすれば、搾取ではなく、被支配民族に慈悲を与えるものとなっていくという考えを抱いていた{{Sfn|河合|1998|p=45}}。<br /> <br /> チャーチルは1942年11月に「私は大英帝国を清算するために首相になったのではない」と宣言した{{Sfn|モリス|2010|p=217}}{{Sfn|山上|1960|p=194}}。これはかねてから大英帝国の破壊を目論んでいたアメリカの[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]をけん制した演説だった{{Sfn|山上|1960|p=194}}。ルーズベルトはしばしばチャーチルの帝国主義精神を批判し、面と向かって「貴方の血には400年の植民地獲得の本能が流れている」などと言ってきたこともある{{Sfn|山上|1960|p=194}}。一方チャーチルの方もルーズベルトに「貴方は大英帝国を無くそうとしているとしか思えない」と言い返したことがある{{Sfn|山上|1960|p=194}}。<br /> <br /> チャーチルがアドルフ・ヒトラーや[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]に対して抱いていた共感の一つに「優等文明は劣等文明を支配・指導する」という理論があった。<br /> <br /> チャーチルは常々インド人やインド文明を劣等視し、イギリスによって支配されることが必要不可欠と確信していた。インド人に選挙制度を与えるべきか否か聞かれた際にチャーチルは「彼らはあまりにも無知なので誰に投票したらいいか分かるはずもない。彼らは人口45万人の村で4、5人が集まって村の共通の問題を討論するような簡単な組織さえ作ることができない身分の卑しい原始的人種なのだ。」と答えている{{Sfn|ペイン|1993|p=209}}。<br /> <br /> 世界中の人たちが、[[日露戦争]]で有色人種国家の日本人が白人種国家のロシアを打ち破ったことを目のあたりにし、第二次世界大戦が始まる頃には、カナダ、オーストラリアなど白人自治政府は帝国に忠実だったものの、インドや[[イギリス領マラヤ|マレー半島]]、[[イギリス統治下のビルマ|ビルマ]]などの有色人種の植民地の住人たちはもはや忠実ではなくなっていた。この頃には有色人たちも情報を多く入手するようになっており、戦争の意味や帝国に支配され続ける意味に疑問を感じはじめていた。<br /> <br /> そして彼らの多くが[[枢軸国]]と連携することで、過酷なイギリスの植民地支配に立ち向かった。たとえばイギリス委任統治領パレスチナのイスラム教最高指導者([[大ムフティー]])である[[アミーン・フサイニー]]はドイツへ逃れ、「[[ムスリム解放軍]]」を組織してイギリスに反旗を翻した。英領ビルマの民族主義者[[アウンサン]]も日本へ逃れて「[[ビルマ防衛軍]]」を組織した。イギリス領インド帝国の[[チャンドラ・ボース]]もドイツで「{{仮リンク|自由インド部隊|de|Legion Freies Indien}}」、日本や日本統治下の[[シンガポール]]で「[[インド国民軍]]」を組織し、イギリスと戦った{{Sfn|モリス|2010|p=228}}。<br /> <br /> 1942年の日本軍の[[マレー作戦]]によるシンガポール陥落は、アジアにおけるイギリスの威信を決定的に崩壊させた。勇気を得たインド人たちは、同年から反英闘争「インドから出て行け」運動を開始した。これに対してチャーチルは徹底的弾圧をもって臨み、ガンジーやネルー、ヒンズー教指導者など1万人以上の者を投獄した。だが、それもむなしく大戦が終わるまでにイギリスの植民地支配体制は根底から揺さぶられた。枢軸国と協力した[[チャンドラ・ボース]]や[[ラス・ビハリ・ボース]]、[[A.M.ナイル]]そして彼らの指揮下にあったインド国民軍の兵士たちが殉教者としてインド国民の間で英雄視されていくことにイギリス人たちは落胆した{{Sfn|モリス|2010|pp=282-284}}。<br /> <br /> チャーチルが恐れていた通り、戦後の労働党政権がインドの民族主義者たちに譲歩の姿勢を見せた時、後は全てが時間の問題となり、一気にインド独立まで突き進んでいった。イギリスがインドを放棄した後、マレーやビルマなど他のアジア植民地もなし崩し的に独立していった{{Sfn|モリス|2010|p=284}}。波及はアジアに留まらなかった。第二次世界大戦中、イギリス軍はアフリカ植民地の住民たちを駆りだしてドイツ軍や日本軍と戦わせていた。この戦いを通じてアフリカ人兵士たちは「絶対的支配者」だと思っていたイギリス人が無敵の存在でもなんでもないことを知った。彼らは復員した後、第二次世界大戦での見聞を生かしてイギリス植民地支配との戦いの主力となり、ついにアフリカ各国の独立を実現した{{Sfn|岡倉|2001|p=186}}。<br /> <br /> 戦後のアジアとアフリカの独立の嵐が過ぎ去ったあと、イギリスに残されたものは[[イギリス連邦]]という加盟国を縛る規則が何もなく、女王を戴くか否かまでもが自由という奇妙な連邦だけだった{{Sfn|モリス|2010|pp=314-322}}。<br /> <br /> ヒトラーも自殺の少し前に「大英帝国はすでに滅びる運命にある」と予言し、チャーチルを「帝国の墓掘り人」と呼んで批判していた{{Sfn|モリス|2010|p=259}}。ヒトラーによれば「チャーチルがフランス戦後すぐにドイツとの講和に応じていれば、大英帝国は引き続き繁栄を謳歌していただろう」という。そして「こんな大酒のみのユダヤ化した半アメリカ人(チャーチル)ではなく、[[小ピット]]のような人物がイギリスを差配するべきだった」と結論している{{Sfn|河合|1998|p=298}}。<br /> <br /> === 反共主義 ===<br /> 第一次世界大戦前の自由党政権時代、チャーチルはロイド・ジョージとともに急進派閣僚として多くの社会改良政策に取り組んだが、第一次世界大戦後に2人の道は隔てられた。ロイド・ジョージは生涯社会改良政策に情熱を捧げたが、チャーチルの方は「アカの恐怖」に捕らわれていったからである{{Sfn|高橋|1985|p=166}}。第一次世界大戦後の列強諸国による反ソ干渉戦争の最大の推進力はチャーチルであった。チャーチルは「歴史上のあらゆる専制の中でもボルシェヴィキの専制は最悪であり、最も破壊的にして、最も劣等である。『ドイツ軍国主義よりはマシ』などというのもデマだ。ボルシェヴィキ支配下のロシア人は帝政時代よりずっと悲惨な状態に置かれている。[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]や[[レフ・トロツキー|トロツキー]]の残虐行為はカイザーのそれを軽く超える」、「ボルシェヴィズムは政策ではなく、疫病である。思想ではなく、[[ペスト菌]]である」「私がボルシェヴィキを嫌悪しているのはその愚かな経済政策や不合理な主義の故ではない。奴らが侵入した土地にはその犯罪的体制を支えるために[[赤色テロ]]が行われるからだ」などと共産主義国であるソビエト連邦への敵意を煽る演説を盛んに行った{{Sfn|山上|1960|pp=94-95}}{{Sfn|河合|1998|p=186}}。<br /> <br /> 第二次世界大戦中に行われた「テヘラン会談」や「ヤルタ会談」などの連合国軍同士の会議においても、チャーチルはソビエト連邦のスターリンとは幾度も衝突し、終いには同盟国であるアメリカのルーズヴェルト大統領とスターリンが親しくなる始末であった。<br /> <br /> チャーチルの反共はその後、死ぬまでずっと続いた。第二次世界大戦後も反共演説を続け、「ボルシェヴィズムはその誕生の時にくびり殺しておけば、人類にとって計り知れない幸福があったであろう」「共産主義者と議論をしても無駄だ。共産主義者を改宗させたり、説得しようとするのも無駄だ。もっと容赦なく実力を行使し、何が起ころうとも道徳的配慮などしないということをソ連政府に理解させることが唯一の平和への道だ。」「アメリカの原爆のみがソ連の軍事侵攻を抑えているのだ。」{{Sfn|山上|1960|p=231}}。<br /> <br /> 一方でチャーチルは共産主義者であっても[[レーニン]]だけは(忌み嫌いつつ)ある種の畏敬の念を抱くことがあった。レーニンについて「彼の慈愛は[[北極海]]のように冷たく広い。彼の憎悪は[[絞首刑]]執行人の首なわより固い。」「彼の目的は世界を救うことだった。そしてその方法は世界を爆破することだった。」「ロシア人の最大の不幸はレーニンが生まれてきたことだが、その次の不幸は彼が死んだことだ」と評している{{Sfn|ペイン|1993|pp=181-182}}。<br /> <br /> ロイド・ジョージは後年、チャーチルについて「彼は共産主義を心から憎悪していた。彼の公爵家の血が、ロシア大公皆殺しに強い怒りを感じさせたのだ。ロシア革命を病的に嫌悪する余り、帝政が凋落した原因を冷静に分析することができなかった」と評している{{Sfn|河合|1998|p=186}}{{Sfn|山上|1960|p=97}}。<br /> <br /> === 議会主義 ===<br /> ずっと議会政治の中で生きてきたチャーチルは基本的に[[議会主義]]者である。だが、1930年前後に世界各国で議会政治が終焉ないし後退していく中、チャーチルも議会主義はもう終わった思想であり、独裁政治にこそ未来があると考えた時期があった。1930年に出版された{{仮リンク|オットー・フォルスト・デ・バタグリア|de|Otto Forst de Battaglia}}著『試される独裁政治』の英語翻訳本でチャーチルは「イタリアのムッソリーニ、トルコのケマル、ポーランドの[[ユゼフ・ピウスツキ|ピウスツキ]]など権威ある国家指導者たちが、弱体にして非効率的、しかも民意を反映していない議会政治に取って代わる日は近い」という前書きを寄せている{{Sfn|ルカーチ|1995|p=25}}{{Sfn|ルカーチ|1995|p=81}}。<br /> <br /> しかし1935年頃からヒトラーとの対決姿勢を強めていくにつれて再び議会主義を旗印とするようになった。ヤルタ会談の際、チャーチルはスターリンとルーズベルトに対して「ここにいる3人の中でいつでも選挙で国民から放り出される危険があるのは私だけだ。だがその危険があることを私は誇りに思っている」と述べたという{{Sfn|山上|1960|p=219}}。ただし戦時中にはチャーチルもほぼ独裁者であった{{Sfn|ペイン|1993|p=240}}{{Sfn|ペイン|1993|p=279}}。<br /> <br /> 1945年の総選挙において、議会外組織が議員を含めた党全体を指導するという労働党を「議会政治軽視」としてナチ党になぞらえて批判したことは前述したとおりである。<br /> <br /> === 親ユダヤ主義 ===<br /> チャーチルは[[アーサー・バルフォア]]と並び、[[ハイム・ヴァイツマン]]に感銘を受けて英国政界で真っ先に[[シオニズム]]支持者になった政治家の一人である{{Sfn|ジョンソン|1999|pp=198-199}}。首相在任中にもチャーチルはしばしばユダヤ人のパレスチナ移民を増加させたがっていたが、外務大臣[[アンソニー・イーデン]]が現地アラブ人の反発を買って中東駐留英軍が危険に晒されかねないと反対して押しとどめていた{{Sfn|ジョンソン|1999|p=325}}。<br /> <br /> 第二次大戦前・戦中、アメリカ世論は概して反ユダヤ主義的であり、ユダヤ人の問題についてはナチス・ドイツの主張に共感を寄せる者さえ少なくなかった。アメリカ政府もユダヤ人を救うための行動をほとんど起こそうとしなかった。一方チャーチルはユダヤ人に同情し、[[ホロコースト]]について「この殺戮は恐らく世界史上最大かつ最悪の犯罪行為である」と怒りを表明し、[[アウシュヴィッツ強制収容所]]の[[ガス室]]を空爆してユダヤ人を救出すべしと訴え続けた。しかし米英政府内でそんなことを主張しているのはチャーチルだけであり、「軍事施設以外の空爆など費用と時間の無駄」とアメリカ軍に反対されて退けられてしまった{{Sfn|ジョンソン|1999|pp=325-328}}。<br /> <br /> 個人的にもチャーチルはユダヤ人との交友が多く、しばしば金銭援助も受けた。1938年に借金がかさみすぎてチャートウェル邸の売却を検討せねばならない家計難に陥ったことがあったが、ユダヤ金融業者サー・ヘンリー・ストラコッシュがその借金を肩代わりしてくれた{{Sfn|ルカーチ|1995|p=42}}。首相時代には[[ロスチャイルド家]]の第3代当主[[ヴィクター・ロスチャイルド (第3代ロスチャイルド男爵)|ヴィクター・ロスチャイルド]][[男爵]]を自らの護衛隊員として側近に置いていた{{Sfn|クルツ|2007|p=137}}。<br /> <br /> === 戦争観 ===<br /> チャーチルは「輝かしい栄光を残して滅びよ」という持論を持っており、ヒトラーと同じく[[死守命令]]を好んだ{{Sfn|ペイン|1993|p=277}}。また空襲で確実に敵国心臓部に打撃を与えていくという確実な戦法より、強襲、ゲリラ戦、おとり作戦、罠など派手な作戦を決行することを好んだ{{Sfn|ペイン|1993|p=305}}。<br /> <br /> チャーチルは第二次世界大戦を「不必要な戦争」と呼んでいた{{Sfn|山上|1960|p=152}}。<br /> <br /> チャーチルは最晩年には「私は非常に多くのことをやってきたが、結局何も達成することはできなかった」と語るようになった。チャーチルの二度の世界大戦の「勝利」は大英帝国の崩壊と米ソの世界支配をもたらしただけだった。「大ブリテンは神から選ばれ、世界を導く義務を負っている」というチャーチルの信念は崩れ去った{{Sfn|ペイン|1993|pp=381-382}}。<br /> <br /> === 死生観 ===<br /> [[File:Churchill Shooting M1 Carbine.jpg|200px|thumb|第二次世界大戦中、射撃練習をするチャーチル首相]]<br /> チャーチルは涙もろく、小鳥が死んだだけでも泣く人だったが、一方で真の同情は持っていないことが多かったという意見もある{{Sfn|ペイン|1993|p=245}}。<br /> <br /> === 人物評 ===<br /> ;クレマンソー<br /> 1917年にフランス首相・陸相に就任した[[ジョルジュ・クレマンソー]]は70代の高齢でありながら血気盛んな人で、しばしば砲火に身をさらすことも厭わなかった{{Sfn|河合|1998|pp=175-176}}。チャーチルは他の政治家を尊敬するということがほとんどない人だったが、その唯一の例外はこのクレマンソーであった。特にクレマンソーが「私は何の政治的原則もない男だ。私は現実に起こる事象を経験に照らし合わせて処理するだけだ。」と語ったことにチャーチルは共感を持った{{Sfn|ペイン|1993|p=169}}。チャーチルはクレマンソーの「私はパリの前面で戦い、パリ市中から戦い、パリの後方でも戦い続ける」という言葉を拝借した{{Sfn|ペイン|1993|p=169}}。<br /> <br /> ;ムッソリーニ<br /> チャーチルはムッソリーニに非常な興味を持ち、彼の著作を読み、その生涯を調べることに熱心だった。とりわけ彼の[[ローマ帝国]]を復活させて「劣等の文明」を支配して導こうという「帝国の使命」の思想には同じ帝国主義者として強い共感を持っていた。後の[[第二次エチオピア戦争]]と[[イタリア領東アフリカ帝国]]建設も高く評価していた。1940年にフランス戦役が勃発して英伊が交戦関係となった後にさえも「(ムッソリーニが)偉大な男であることは否定しない」と述べていた{{Sfn|ペイン|1993|p=193}}{{Sfn|ペイン|1993|p=209}}{{Sfn|ペイン|1993|p=212}}。また「この独裁者には共産主義からイタリアを守った功績がある。だが彼の失敗は1940年6月にヒトラーの勝利に惑わされてイギリスに宣戦布告してきたことだ。この時に彼は誤った道に進んでしまった。もしあの時に中立を保っていれば、この戦争を利用して更なる繁栄に至ったであろうに。」と惜しんでいる{{Sfn|山上|1960|p=201}}。<br /> <br /> ;ガンジー<br /> ガンジーを嫌い、「アジアによくいる[[托鉢]]に成り済ました英国法学院卒業の扇動家ガンジー弁護士が、半裸姿で陛下の名代たるインド総督と対等交渉している。このような光景を許していればインドの不安定と白人の危機を招く」と警鐘を鳴らし、さらにガンジーを「狂信的托鉢」と断じた{{Sfn|河合|1998|p=222}}{{Sfn|ペイン|1993|p=200}}{{Sfn|坂井|1988|p=89}}。<br /> <br /> ;ヒトラー<br /> チャーチルはヒトラーを歴史的文脈で捉えており、スペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]、フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]、フランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]といったイギリスが常に戦ってきた「ヨーロッパの[[勢力均衡]]を崩す者」に連なる存在だと考えていたのである{{Sfn|坂井|1974|p=139}}{{Sfn|山上|1960|p=134}}。<br /> <br /> ヒトラーの方もイギリス国内で対独強硬論をまき散らしているチャーチルを「戦争挑発屋」と批判している{{Sfn|山上|1960|p=148}}{{Sfn|河合|1998|p=252}}。<br /> <br /> == 日本との関係、日本観 ==<br /> チャーチルにとって大きなウェイトを占めるアメリカとドイツには及ばないが、日本も重視された国であり{{Sfn|関榮次|2008|p=122}}、[[日英同盟]]の締結には賛成し、第二次世界大戦への日本参戦に対しては融和工作を行っている{{Sfn|関榮次|2008|pp=153-177}}{{Sfn|河合|1998|pp=326-330}}。チャーチルは基本的に東洋には殆ど興味がなく、日本についても知識が多かったわけではない{{Sfn|ペイン|1993|p=277}}。<br /> <br /> だがチャーチルは、中国について全く興味がなかったのに対し、アジアで数少ない独立国で文明国であり、[[天皇]]を擁く君主制を持ちかつ5大国の一角を占め、その後同盟関係を築いた日本人に対しては一定の親近感を持っていた{{Sfn|ペイン|1993|p=201}}。<br /> <br /> チャーチルが日本を最初に意識したのは父ランドルフ卿と母ジャネットが日本旅行をした[[明治]]27年(1894年)である。日本から送られてきた母の手紙の中に日本の写真が同封されており、チャーチルは母への返信で「お母さんからの手紙はとてもうれしいです。写真は美しく、日本の思い出の品として一生大事にしようと思っています」と書いている(この時に日本で撮られた写真が父ランドルフ卿が映っている最後の写真でもある){{Sfn|河合|1998|pp=315-316}}。<br /> <br /> === 同盟国として ===<br /> 日本とイギリスは[[薩英戦争]]以後は友好関係にあり、駐日公使[[ハリー・パークス]]が幕府を見限り薩摩や長州に先行投資し、明治新政府を世界で最初に承認したこともあり、さらにチャーチルも賛成票を入れた日英同盟の影響もあり日露戦争や第一次世界大戦で勝利した{{Sfn|関榮次|2008|p=120}}。<br /> <br /> チャーチルは「日露戦争の結果はただ一国をのぞいて全ての列強を驚かせた。ヨーロッパで唯一、冷静な目で日本の軍事力を測定できていたイギリスは、今度の戦争で得るところは大きかった。イギリスの同盟国日本が勝利したことで、フランスはイギリスとの友好を求めるようになった。ドイツ艦隊はまだ建造中だが、イギリス艦隊が無事中国から本国へ帰還できるようになったことは大きい」と評した。イギリス艦隊が帰れるようになったのは、日本艦隊が中国におけるイギリスの権益の防衛を肩代わりしてくれたからであり、その代わり日本はイギリスから[[韓国併合|朝鮮半島の併合]]と中国、並びに太平洋諸島に一定の権益を持つことを歓迎された{{Sfn|河合|1998|p=318}}。<br /> <br /> [[第一次世界大戦]]でも日本はイギリスとともに連合国として参戦したが、日本が[[対華21ヶ条要求|中国への21カ条要求]]で権益拡張を主張するようになると、中国における自国の利権が侵されることを恐れたアメリカが反発し、アメリカがイギリスに対して日英同盟の破棄を促し、その結果日英同盟は1921年のワシントン会議で破棄された{{Sfn|関榮次|2008|p=121}}。<br /> <br /> 日英同盟が破棄された理由について、1936年にアメリカの雑誌「{{仮リンク|コリアーズ|en|Collier&#039;s}}」への寄稿文「日本とモンロー主義」の中でチャーチルは、「イギリスはアメリカとイギリス連邦との関係を分断するような目標は追求しないというのが方針であり、日米関係の悪化によってアメリカの圧力によって破棄せざるをえなかった」と述べたうえで、「しかし、日英同盟の破棄は歴史の悲劇的な一章となるかもしれない」と書き、また「日本は同盟破棄を日本の人種差別撤廃要求に対する侮辱的な回答として受け取ったが、英米はこの点について理解不足であった」と認めている{{Sfn|関榮次|2008|p=123}}。さらに同論文で以下評している。「私は第一次世界大戦での日本のイギリスに対する忠実な協力を熱心に見守ってきた。ミカドの政府と長年協力してきて私の心に残る印象は、日本人がまじめで堅実であり、重厚で成熟した人々であるということ、彼らが力関係やいろいろな要因を慎重に考える人達であると信じてよいこと、また理性を失ったり、よく考えないで無鉄砲な、計算を度外視した冒険に飛び込んだりはしないということである」{{Sfn|関榮次|2008|p=124}}<br /> <br /> === 日英離間・対立の中で ===<br /> 1931年9月の[[満洲事変]]の際には侵略と批判する声もあった中、チャーチルは「日本人が中国で行っている事は我々がインドで行っていることと同じ」、「これで中国も少しは収まるだろう」として支持を表明した{{Sfn|河合|1998|p=233}}{{Sfn|ペイン|1993|p=201}}。ただし満洲事変は、チャーチルのみならず、当時イギリス世論や政界は一般的に支持する者が多かった。腐敗し国民からの支持も低かった中華民国の政府は統治能力がなく、また中華民国が日本の合法的な通商権益を無法に犯していると考えられていたからである{{Sfn|坂井|1974|p=120}}。<br /> <br /> 1932年12月17日の「コリアーズ」誌の「太平洋における防衛」論文では、日本による[[韓国併合]]や満州進出を次のように評価している。「自分は日本帝国と国民に憧憬と長年の敬意をもっている。精力的で進取的な日本の国民が拡張の余地を必要とするのを認めるものである。我々は朝鮮で日本がしてきたことをみている。それは厳しいけれども良好であった。満州で彼らがやったことをみている。やはりそれは良好なものであるが、厳しいものであった」{{Sfn|関榮次|2008|p=152}}。<br /> <br /> 一方、昭和前期に起きた軍人による[[クーデター]]未遂事件や政治[[テロ]]事件である、1932年の「[[五・一五事件]]」や1936年の「[[二・二六事件]]」に対しては憂慮し、「偉大で名誉ある日本の政治家たちが次々と暗殺者の手にかかってしまった。尊厳と神聖性を持つミカドとその政府は懸命に犯罪者を処断したが、日本がこの不可欠の処置を取るのに悲痛な努力を必要としたこと自体に英米は注目している」と述べている{{Sfn|関榮次|2008|p=126}}。<br /> <br /> また1936年には、「イギリスやアメリカは日本を攻撃できるほど強くなく、アメリカとイギリス連邦が束になって兵力を展開しても3、4年はかかる」と以下のように述べ{{Sfn|関榮次|2008|p=129}}、他方で中国にはイギリス、アメリカ、ロシアも長年にわたって確立した利権を持っており、そうした利権が日本によって暴力で根こそぎにされることに英語圏諸国は耐えられないとして次のように述べた。「『日本人のアジア』を意味する『アジア人のアジア』というスローガンが実行に移されれば、英語圏諸国は反発しないではいないだろう。これらは日本が歩むにしては甚だ危険な道である」、「日本は昔、国外に目を転じた[[ローマ]]のようである。そのような日本の闘争の能力と情熱は、日本を軽視するものには不吉な展望を与えるものである。日本の中国への浸透は日中あるいは日ソ間の戦争をもたらすであろう。日中間の戦争は中国に勝ち目はないであろうが、ソ連との戦争は日本にとって危険である。ソ連は日本と戦っている間にドイツからの攻撃で失うものがあまりに大きすぎるのである。時は日本に有利である。日本は戦争を望まないというが、それは正直なところであろう。やがて日本は圧倒的な力を蓄えて、太平洋の列強の要求に抵抗できるようになろう。(中略)日本は自己破壊の武器を作らない限り、フィッシャー提督の論ずる通り、日本国民は安心して眠れるのである。何人も日本国民を傷つけようとしない。彼らを傷つけようとするには、かなりの期間にわたって道義的な理由づけ、資金、そして経済力を手にしていなければならない。そのようなものを準備しようと努力するのは無駄なことである。ここに日本の強みがある。しかし、日本はその強みを使うのに誤ってはならない」{{Sfn|関榮次|2008|pp=130-132}}。<br /> <br /> しかし、反社会主義反共産主義連盟25周年式典では、同じく反社会主義かつ反共である大国の日本の立場を理解するよう次のように演説している。「私は日本、最高度の国民的名誉心と愛国心をもち、過大な人口と精力をもつこの古い国の立場を、もう少し理解するようイギリスでも努力すべきだと考えている。日本人は、一方ではソ連の暗い脅威に直面し、他方で中国の混乱にも直面している。中国のいくつかの省は現実に共産党支配に苦しめられているのである」{{Sfn|河合|1998|p=326}}<br /> <br /> このように、チャーチルにとって日本はイギリスの軍事的脅威ではないと一貫して論じてきたが、1936年に締結された[[日独防共協定]]は、事実上の「日独軍事同盟」であるとみて警戒し、さらに1937年の[[日中戦争]]によって日英の利益はますます衝突するようになった{{Sfn|関榮次|2008|pp=153-158}}。しかしこの頃チャーチルは「日英同盟を破棄したのは間違いだった」と考えるようになった{{Sfn|関榮次|2008|pp=124-125}}。<br /> <br /> === 対日融和工作 ===<br /> 1939年9月にはドイツが[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]し、イギリスも宣戦布告し第二次世界大戦となった。しかし、チャーチルはその後も日本とドイツを引き離す努力を続け、第二次大戦開戦後の1940年5月17日に、チャーチルは駐英日本大使館において、日本が参戦しないよう欧州戦線について淡々と言及した{{Sfn|関榮次|2008|pp=153-158}}{{Sfn|河合|1998|p=328}}。<br /> <br /> [[重光葵]]大使はそれまでチャーチルを「平時の器でなく、変事の才」とみて反日的な政治家とみなしていたが、国家存亡の危機という難局に直面して動じないチャーチルに感嘆し、これを機にチャーチルとの日英関係調整に鋭意取り組んだ{{Sfn|関榮次|2008|pp=158-159}}。しかし、重光大使の報告は日本政府各省のなかで回覧されることはなかった{{Sfn|河合|1998|p=328}}。<br /> <br /> 1940年夏には、ニュージーランド首相に対してチャーチルは「日本軍閥が強硬で、交渉が決裂する恐れがあるところでは譲歩し、その危険がない場合には譲らないようにして、日本との戦争を回避するため最善を尽くすこと」が自分の方針であると通達した{{Sfn|関榮次|2008|p=170}}。1940年(昭和15年)9月27日に[[日独伊三国同盟]]が成立したあとでも、チャーチルは説得工作をすすめ、親日派のモーリス・ハンキー卿や外務省副大臣リチャード・バトラー保守党議員らが日本側に便宜をはかり、チャーチルは首相官邸で重光大使と会談するたびに欧州の戦争は基本的に日本に関わりのないものであるから介入しない方が日本の利益に合致するし、イギリスはドイツとの戦争を決意しており、日本とドイツが提携しても英米に勝ち目はないとはっきり指摘した{{Sfn|関榮次|2008|p=160}}。<br /> <br /> チャーチルは反英米派で知られる松岡外相宛てに親書をしたためた。内容は、制海権も制空権もないドイツはイギリスを征服することができるか回答がでるまで待つのが日本の利益ではないか、英米が全ての産業を戦争目的に転換しているときドイツの攻撃はアメリカの援助を阻止できるか、アメリカの鉄鋼生産力は1941年中に7500万トン、イギリスは1250万トン、合計9000万トンであるが、ドイツが敗北した場合、日本の鉄鋼生産量700万トンは単独で戦うのには不十分ではないかといった八項目で、1941年4月13日に、駐ソ英国大使スタフォード・クリップスからモスクワで松岡外相に渡された{{Sfn|関榮次|2008|pp=163-165}}。<br /> <br /> 同じ内容の書簡は日本でも近衛首相に渡そうとされたが、近衛首相は松岡外相の出張中は外国の使節に面会しないことを約束しており、これは日英関係の現状となんら関係なく、すべての国を平等に扱う方針であると拒絶されたため、書簡は大橋忠一外務次官に預けられた{{Sfn|関榮次|2008|p=167}}。4月22日の松岡外相からの返書では「[[八紘一宇]]の実現に最後まで努力する」と書かれていた{{Sfn|関榮次|2008|p=167}}<br /> <br /> 1941年6月12日夕刻、チャーチルは重光大使に対して独ソ開戦が切迫していること、翌年中にはアメリカやイギリス連邦の造船能力の増大などを述べ、勝利を確信しているとしたうえで、「イギリスは日中戦争については不幸にして日本と意見を異にし、国民的同情は中国にあるが、日本との長い関係は忘れない。日本が大国としてますます繁栄されることを切望しているし、戦後もこの考えは変わらない」と目に涙を浮かべながら語った{{Sfn|関榮次|2008|pp=172-173}}。<br /> <br /> 1941年11月10日のロンドン市長午餐会では「日米開戦になればイギリスは日本に宣戦布告することは私の義務であり、日本が必要もないのに世界的な闘争に飛び込むことは非常に危険な冒険である」と演説して以下のように語った。「私は1902年、40年前に日英同盟に賛成票を投じ、つねに島国の日本帝国とよい関係を促進するために最善を尽くしてきたのであり、心のなかではいつも日本国民によかれと願い、日本人の多くの天分と資質を賞賛してきた一人であったので、日本と英語圏の諸国との間で紛争が開始されるとしたならば、それを深く悲しむものである」{{Sfn|関榮次|2008|pp=176-177}}<br /> <br /> その後もチャーチルは、[[仏印進駐]]などを受けて日本に対して強硬な態度に出たアメリカよりも、日本に対して柔軟な態度を取ってきた。ポツダム会談でもチャーチルは「日本軍人たちの軍人としての面子が立つようにするなんらかのしぐさ」を取るべきだと主張したが、アメリカ大統領トルーマンは、「[[真珠湾攻撃]]以降、日本軍人に名誉などあろうはずがない」と突っぱねた{{Sfn|関榮次|2008|p=181}}。<br /> <br /> [[原爆投下]]については、もし原爆を使わずに日本本土上陸作戦を決行した場合、「100万人のアメリカ人とその半数のイギリス人が死ぬ」という見積りを立てており{{Sfn|山上|1960|p=218}}、米英軍の損害は150万人を超えると計算された{{Sfn|関榮次|2008|p=181}}。「原爆投下に関する時間をかけた討議はほとんどなかった。二、三回の原爆投下で巨大で際限のない殺戮を回避し、終戦へ導き、世界に平和をもたらすことができるのだから、それは奇跡のような手段だった」と弁明している{{Sfn|関榮次|2008|p=182}}。<br /> <br /> 戦後、チャーチルは回顧録で以下のように述べている。「日本がイギリスとアメリカ、ソ連と戦争をして自滅しようとは思いもよらなかった。日本が宣戦布告することは、どうしても理屈とかみ合わなかったのである。そのような暴挙で日本は2、30年の間は破壊されたままになるのではないかと感じていたが、それは事実となった。ところが、政府や国民というものはいつも物事を合理的に決定するとは限らないのである」と、また「日本が正気を失うことはないであろうとの確信を、自分はためらわずに何度も書き記してきた。いかに他人の立場に自分を置こうと誠実に務めても、理性が鍵をあけてくれない人間の心の動きと思考の過程を斟酌することは不可能である」{{Sfn|関榮次|2008|p=178}}<br /> <br /> === 第二次世界大戦後 ===<br /> ;皇太子明仁親王の訪英<br /> {{正確性|date=2015年6月|「スコットランド銀行頭取バックル?侯爵」とは誰か}}<br /> [[File:Crown Prince Akihito1952-11-10.jpg|200px|thumb|昭和27年の[[昭和天皇]]、[[香淳皇后]]、皇太子[[明仁]]親王]]<br /> 1953年にエリザベス2世の戴冠式に出席するため、若き皇太子[[明仁]]親王([[今上天皇]])が[[昭和天皇]]の名代として訪英した。だが当時イギリスでは[[反日感情]]が強く、アジアにおいて日本軍に虐待されたイギリス軍捕虜の体験を描いた出版物はベストセラーとなったほか、反日映画は高い興行収入を挙げ、メディアでは[[反日報道]]が連発し、在留邦人はイギリス人から嫌がらせを受けるという有り様だった{{Sfn|関榮次|2008|pp=186-189}}。チャーチルは、首相として日英両国が早急に憎しみの連鎖から抜け出すことが双方の国益と考え、明仁親王の訪英でイギリス人が凶行を起こさないよう心を砕いた。明仁親王の警護に自ら迅速で適宜適切な陣頭指揮を取るチャーチルの姿は、バトル・オブ・ブリテンの時のチャーチルの姿を思わせたという{{Sfn|関榮次|2008|p=191}}。<br /> <br /> チャーチルは明仁親王のための午餐会の席に、労働党党首の[[クレメント・アトリー]]、[[外務英連邦大臣|外務大臣]]{{仮リンク|セルウィン・ロイド|en|Selwyn Lloyd}}、[[マックス・エイトケン (初代ビーヴァーブルック男爵)|ビーバーブルック男爵]]、{{仮リンク|モーリス・ハンキー (初代ハンキー男爵)|en|Maurice Hankey, 1st Baron Hankey|label=ハンキー男爵}}、スコットランド銀行頭取バックル侯爵、[[デイリー・メール]]会長[[ハロルド・ハームズワース (初代ロザミア子爵)|ロザミア子爵]]、{{仮リンク|イギリス労働組合会議書記長|en|General Secretary of the Trades Union Congress}}サー・{{仮リンク|ヴィンセント・チューソン|en|Vincent Tewson}}と前書記長{{仮リンク|ウォルター・シトリン (初代シトリン男爵)|en|Walter Citrine, 1st Baron Citrine|label=シトリン男爵}}、[[サンデー・タイムズ]]主筆{{仮リンク|ゴーマー・ベリー (初代ケムスレー子爵)|en|Gomer Berry, 1st Viscount Kemsley|label=ケムスレー子爵}}、前[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]{{仮リンク|ジェイムズ・チューター・イード|en|James Chuter Ede}}、{{仮リンク|イギリス労働組合会議会長|en|President of the Trades Union Congress}}{{仮リンク|トム・オブライエン|en|Tom O&#039;Brien (trade unionist)}}、日本研究家の[[ジョージ・サンソム]]や[[アーサー・ウェイリー]]、元[[駐日英国大使館]]付[[駐在武官]][[フランシス・ピゴット]]少将らを招いた。<br /> <br /> このうち、当時日本批判の先頭に立つ新聞業界人を招待したのは、首相自らが日本の皇太子を大切な賓客として鄭重にもてなすことを眼前に披露し理解を深めてもらうことで、これらの新聞による反日論調を押さえるためで、[[反日]]の急先鋒の[[デイリー・エクスプレス]]系の社主だったビーバーブルック男爵も、チャーチルの熱意に打たれてこれ以降は過激な日本批判を控えるよう社内指示を出し、傘下の新聞の反日論調は緩和された{{Sfn|関榮次|2008|p=194}}。<br /> <br /> チャーチルは午餐会の演説で、日英両国が[[立憲君主制]]であることを次のように述べた。「ここに集まっておられる人たちは政治的にはそれぞれ異なった意見をもっている。我々は所属する政党が異なるとずいぶん激しく争うが、イギリス流のやり方を大切にし、それを擁護するという点では一致団結するのがイギリス人の特長であり、そのために我々イギリス国民は最後の一息、最後の血の一滴までかけて戦う。イギリス国民の生活が安定し、継続しているのはイギリスの制度、とくに[[立憲君主制]]のおかげである。そのようなイギリス国民は一致して皇太子殿下を歓迎する。殿下のイギリス滞在が楽しいものとなり、また何か学ばれるものがあることを心から願う。日英両国は君主を冠するという点で共通の紐帯を持っている」{{Sfn|関榮次|2008|pp=197-198}}<br /> <br /> さらに、チャーチルの母が1894年に日本から持ち帰ったという青銅の馬の置物を指して「母にこれを送ってくれた日本人は、『日本にはこうした美術を創る文化があったのに西洋人はそれを認めようとせずに野蛮国のように扱い、日本が何隻かの軍艦を持つようになってはじめて一等国として日本を認めるようになった』と語り、西洋諸国が外国のことを判断する基準に不満を漏らしていたということを母から聞いた。これは本当に含蓄のある言葉である。どの国もこのような美術品の制作に精力を用い、軍備には金を費やさないですむようにしたいものである。戦争より平和が大切である日本のために、ここで殿下の健康を願わなければならない」と慣例に反して自国の女王より先に日本の天皇に乾杯を捧げ、その演説の内容は当時のイギリスの反日ムードのなかで列席者を感動させるものであった{{Sfn|関榮次|2008|pp=197-198}}。<br /> <br /> チャーチルと会談する明仁親王は、79歳になり耳が遠くなっているチャーチルのために耳元で話すなどの配慮をし、その光景は孫が祖父に語りかけているようで出席者たちを和ませたという{{Sfn|関榮次|2008|p=195}}。<br /> <br /> ;吉田茂や岸信介の訪英<br /> 皇太子訪英に続いて、1954年10月には[[内閣総理大臣]][[吉田茂]]が訪英した。元駐イギリス[[特命全権大使]]であった吉田はずっと訪英を希望していたが、反日機運の強いイギリス世論に配慮してイギリス政府から拒否され続けていた。だが前年の皇太子訪英中にチャーチルが吉田の訪英を許可し、実現に至った。皇太子訪英のおかげで日英関係は改善に向かい始めたとはいえ、未だ反日世論は根強く、歓迎ムードはなかった{{Sfn|関榮次|2008|p=200-201}}。吉田を迎える晩餐会の席でチャーチルは青銅の馬の像の話をし、また戦時中の日本人の勇敢さを称賛し、「戦争の良い面は再び友人に成れることである」と語った{{Sfn|関榮次|2008|p=207}}。反共主義者同士であるチャーチルと吉田は独裁政治に反対し、立憲君主制を支持する立場で一致し、共産主義問題を話し合った{{Sfn|関榮次|2008|pp=207-208}}。また吉田から送られた[[安田靫彦]]の[[富士山]]の絵を、チャーチルは非常に気にいった様子だったという{{Sfn|関榮次|2008|p=210}}。<br /> <br /> 1957年には、内閣総理大臣の[[岸信介]]が訪英し、チャーチルの私邸を訪問した。この時チャーチルは富士山の絵を指して、いつか訪日して自分で富士山の絵を描いてみたかったが、叶いそうもないと涙ぐみながら語ったという{{Sfn|関榮次|2008|pp=210-211}}。<br /> <br /> == 評価 ==<br /> ;戦時作戦<br /> チャーチルが命じる数々の無謀な作戦には帝国参謀総長[[アラン・ブルック (初代アランブルック子爵)|アラン・ブルック]]大将や[[アメリカ陸軍参謀総長]][[ジョージ・マーシャル]]大将も頭を抱えた{{Sfn|ペイン|1993|p=378}}。チャーチルの無謀な作戦のために多くの人間が死に追いやられていったが、彼は誰が死のうとほとんど関心を持たなかった{{Sfn|ペイン|1993|p=245}}{{Sfn|ペイン|1993|pp=377-378}}。<br /> <br /> チャーチルは戦争を騎士道的な決闘ゲームのように考えていたため、栄光を残すためだけにこういう不合理な作戦を平気でやった。対して合理主義の権化であるアメリカ人たちは戦争など物量と物量のぶつかり合いでしかないのだから、相手の物量を叩き潰す空襲だけが重要と考えて、チャーチルの無駄な行動には不満を抱く者が多かった{{Sfn|ペイン|1993|p=305}}。<br /> <br /> ;指導者として<br /> チャーチルは自分が「選ばれた者」であり、全ての運命を決定する存在なのだと思い込んでいた{{Sfn|ペイン|1993|p=250}}。自分の「偉大さ」を追い求め、とりわけ先祖の初代マールバラ公に自分を重ねていた{{Sfn|ペイン|1993|p=376}}。たとえ自分や自国が実態の上でどれだけ没落していようとも顧みることもなく、自分を超大国の指導者と信じ、アメリカのルーズベルト大統領やソ連のスターリン大元帥と対等の存在だと思い込んでいた{{Sfn|モリス|2010|p=218}}。<br /> <br /> 第二次世界大戦中のチャーチルについてはイギリスに独裁者が現れるのは[[護国卿]][[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]以来とも評された{{Sfn|ペイン|1993|p=240}}。<br /> <br /> ;経済政策<br /> 経済学者[[ジョン・メイナード・ケインズ]]は1925年のゼネストに共鳴し、『チャーチル氏の経済的帰結』でシティの声ばかり聞いて炭鉱労働者を犠牲にしていると批判した{{Sfn|ピーデン|1990|p=60}}{{Sfn|河合|1998|p=212}}{{Sfn|ペイン|1993|p=186}}。<br /> <br /> ;演説<br /> チャーチルの演説は誇張が目立ち、中身がないとも言われるが、演説に盛り込まれる報告は割と詳細だった{{Sfn|河合|1998|p=272}}。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> === 生活習慣 ===<br /> 葉巻をよく噛んでいたが、噛んでいるだけの時も多く、実際に吸った量はそれほど多くはなかったという{{Sfn|山上|1960|p=237}}。酒豪であるが、晩餐会などの席上では酒も飲んでいるふりをしているだけの時が多く、酔い潰れないよう注意を払っていた{{Sfn|山上|1960|p=238}}。<br /> <br /> ヒトラーと同様、深夜型の生活を送っていた。通常は朝10時から活動を開始し、深夜2時に就寝していた。朝の眩しさから逃れるため、寝る時はいつも黒い目隠しをして寝ていた。また昼食後には2時間昼寝する習慣があった{{Sfn|山上|1960|pp=237-239}}<br /> <br /> [[猫背]]なうえに太っていた。猫背は小さい頃から、肥満は30代半ば頃からである。ダイエットのつもりで早足で歩く癖があった{{Sfn|河合|1998|p=140}}。<br /> <br /> === 趣味 ===<br /> チャーチルは第一次大戦中にランカスター公領担当大臣に左遷された際に暇な時間がたくさんでき、それ以降、[[絵画]]を描くことを趣味とするようになった{{Sfn|河合|1998|p=163}}{{Sfn|ペイン|1993|p=163}}{{Sfn|山上|1960|p=76}}。戦争中でも、どこに行くにしても絵の道具一式を持参するほどだった{{Sfn|山上|1960|p=236}}。[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット王女]]から「なぜ風景画しか書かないのです」と聞かれた際にチャーチルは「風景ならモデルに似せる必要がないからです」と答えたという{{Sfn|山上|1960|p=236}}。絵の腕前はなかなか高かったらしく、政治思想からチャーチルにあまり好感を持っていない[[パブロ・ピカソ]]が「チャーチルは画家を職業にしても、十分食っていかれただろう」と評価している{{Sfn|山上|1960|p=237}}。<br /> <br /> [[チャートウェル]]邸の屋敷は古ぼけていたので手直しが必要であり、チャーチルも職人たちとともに[[煉瓦]]積みに参加し、やがてそれが趣味の一つとなっていった{{Sfn|河合|1998|p=199}}{{Sfn|山上|1960|p=111}}。<br /> <br /> 読書家でもあり、大きな蔵書を残した。チャーチルは「本を全部読むことができぬなら、どこでもいいから目にとまったところだけでも読め。また本は本棚に戻し、どこに入れたか覚えておけ。本の内容を知らずとも、その場所だけは覚えておくよう心掛けろ」という言葉を残している{{Sfn|山上|1960|p=240}}。<br /> <br /> 映画では[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン]]提督の悲恋を主題とした『[[美女ありき]]』を好んだ{{Sfn|山上|1960|p=181}}。<br /> <br /> 鼻歌を歌うのが好きだったが、[[口笛]]は嫌い、人がやっているのを聞くとすぐに止めにかかったという{{Sfn|山上|1960|p=181}}。<br /> <br /> 動物好きであり、[[犬]]、[[ネコ]]、[[キツネ]]、[[白鳥]]、[[金魚]]などを飼っていた。(チャーチルはヒトラーとは対照的に猫が好きだった)ペットのことで困るとすぐに[[ロンドン動物園]]に電話して尋ねた{{Sfn|山上|1960|p=240}}。また[[競走馬]]も多数所有していた。チャーチルはこれらの馬を大切にし、馬に向かって数分にわたって語りかける癖があったという。また馬が驚くという理由で[[自動車]]を嫌っていた{{Sfn|山上|1960|pp=240-241}}。バトル・オブ・ブリテンの緒戦の頃、ロンドン動物園からロンドン空襲があった場合、動物は銃殺せねばならないとの意見が出たが、チャーチルはこの話にショックを受け、「ロンドン中に空襲があれば、火の海になり、死骸の山が累々だ。[[ライオン]]や[[トラ]]はその死体を求めて吠え回る。それを君たちは銃を持って撃って回るのだよ。可哀そうじゃないか」と語ったという{{Sfn|ペイン|1993|p=245}}。<br /> <br /> == 一族 ==<br /> === チャーチル家系譜 ===<br /> [[File:1st Duke of Marlborough arms.png|200px|thumb|マールバラ公爵の紋章]]<br /> チャーチル家が栄進するきっかけを作ったのは、[[17世紀]]の[[ウィンストン・チャーチル (1620-1688)|ウィンストン・チャーチル]]だった。このウィンストンは[[弁護士]]の息子で、自身も弁護士になったが、[[清教徒革命]]の際に[[王党派]]の騎兵将校として戦ったこと、また[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|初代バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズ]]の姪を妻としたことで[[1660年]]の[[王政復古]]後に成功を掴んだ。{{仮リンク|イングランド庶民院|en|House of Commons of England}}の議員に当選し、また宮内庁の会計官となり、[[ナイト爵]]を与えられた{{Sfn|森|1987|pp=240-242}}{{Sfn|臼田|1979|pp=18-23}}。<br /> <br /> ;初代マールバラ公爵<br /> その息子[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]は[[公爵]]となった。[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]、[[アン (イギリス女王)|アン女王]]の三代に軍人として仕えた彼は、[[モンマスの反乱]]を鎮圧し、[[名誉革命]]ではジェームズ2世を裏切って革命の成功に貢献し、[[大同盟戦争]]や[[スペイン継承戦争]]では対仏同盟軍の総司令官として数々の戦功をあげた{{Sfn|河合|1998|pp=11-15}}{{Sfn|森|1987|pp=248-253}}。アン女王の寵愛を受けた女官[[サラ・ジェニングス]]と結婚し、アン女王から引き立てられ、スペイン継承戦争の戦功により初代マールバラ公爵に叙され、またウッドストック (オックスフォードシャー)に広大な所領と、同地に[[ブレンハイムの戦い]]の戦勝を記念するブレナム宮殿(ブレンハイムの英語読み)を建設するための資金30万ポンドを下賜された{{Sfn|河合|1998|pp=14-15}}{{Sfn|サンズ|1998|p=24}}{{Sfn|森|1987|pp=252-254}}{{Sfn|山上|1960|p=3}}。これは戦功に対する恩賞としては前代未聞の大盤振る舞いだった{{Sfn|森|1987|p=255}}。<br /> <br /> 初代マールバラ公爵には無事成人した男子がなかった。議会はマールバラ公爵位を存続させるため特例として[[女系]]での継承を許可した{{Sfn|臼田|1979|p=192}}{{Sfn|サンズ|1998|p=24}}。これにより初代マールバラ公爵の死後、長女[[ヘンリエッタ・チャーチル (第2代マールバラ公)|ヘンリエッタ]]が第2代マールバラ女公爵となったが、彼女の息子も早世したため、彼女の死後、マールバラ公爵位は、彼女の妹である{{仮リンク|アン・スペンサー (サンダーランド伯爵夫人)|label=アン|en|Anne Spencer, Countess of Sunderland (1683–1716)}}と[[チャールズ・スペンサー (第3代サンダーランド伯)|第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサー]]の間の子[[チャールズ・スペンサー (第3代マールバラ公)|第5代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサー]]に継承された{{Sfn|臼田|1979|p=192}}{{Sfn|サンズ|1998|p=24}}(第5代チャールズの弟の家系は後に[[スペンサー伯爵]]に叙され、その子孫が[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ妃]]である)。<br /> <br /> ;スペンサー=チャーチル<br /> 以降このチャールズ・スペンサーの直系男子がマールバラ公爵位を継承していくことになるが、チャールズはスペンサーの家名を使い続けたのでチャーチルの家名はこの時に一度消えた{{Sfn|臼田|1979|p=192}}。しかしチャールズの孫であり、[[1817年]]に当主となった[[ジョージ・スペンサー=チャーチル (第5代マールバラ公爵)|第5代マールバラ公爵ジョージ]]は、[[ワーテルローの戦い]]の戦勝ムードの中で武勲ある家名チャーチルを復活させることを許可され、以降「スペンサー=チャーチル」の二重姓を使用するようになった{{Sfn|臼田|1979|p=194}}{{Sfn|森|1987|p=260}}。<br /> <br /> このジョージの孫にあたるのがチャーチルの祖父である第7代マールバラ公爵[[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|ジョン・スペンサー=チャーチル]]である。彼の代には歴代当主の浪費と、産業化に伴う地主の没落という世相を反映してマールバラ公爵家の家計は相当苦しく、所領や家財を売り飛ばして生計を保つという有様だった{{Sfn|臼田|1979|p=194}}{{Sfn|河合|1998|p=19}}{{Sfn|ペイン|1993|p=27}}。<br /> <br /> 第7代マールバラ公爵には5人の息子があったが、うち3人は早世し、2人が無事成長した。長男[[ジョージ・スペンサー=チャーチル (第8代マールバラ公)|ジョージ]]と三男[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ卿]]である{{Sfn|ペイン|1993|p=27}}。この三男ランドルフ卿がチャーチルの父親である。<br /> <br /> なお、父ランドルフは「Lord(卿)」の称号を持っているが、これは公爵の庶子だからである{{Sfn|ペイン|1993|p=45}}。イギリスでは法律上貴族であるのは爵位を持つ家の当主のみであり、それ以外はその息子であっても当主の地位を継ぐまでは平民である。伯爵以上の貴族の場合は従属爵位をもっており、その貴族の[[嫡男]]は、当主になるまで従属爵位を[[儀礼称号]]として使用する。また公爵家・侯爵家の場合は、嫡男の弟たちも「Lord(卿)」の儀礼称号を使用する。ただしどちらも儀礼称号に過ぎず、法的身分は平民である{{Sfn|神川|2011|pp=14-15}}。チャーチルは公爵の庶子の子供に過ぎないから称号を持っていなかった{{Sfn|ペイン|1993|p=45}}。<br /> <br /> ==== 母の家系 ====<br /> アメリカ人の母ジャネットは、[[1709年]]頃にイングランド・[[ワイト島]]から[[英領アメリカ]]に移民した開拓者ティモシー・ジェロームの子孫である{{Sfn|サンズ|1998|p=24}}{{Sfn|ペイン|1993|p=31}}。ティモシーは[[コネチカット州]][[ウォリングフォード (コネチカット州)|ウォリングフォード]]で一財産を築いた{{Sfn|ペイン|1993|p=32}}。ティモシーの末子であるサミュエルは[[マサチューセッツ州]]ストックブリッジの地主として成功を収め、その息子アーロンは[[アメリカ合衆国]]初代[[アメリカ大統領|大統領]][[ジョージ・ワシントン]]の親戚の娘と結婚した{{Sfn|ペイン|1993|p=32}}。アーロンの息子にアイザックがおり、そのアイザックの息子がチャーチルの祖父にあたるレナード・ジェロームだった{{Sfn|ペイン|1993|p=32}}。<br /> <br /> レナードは南北戦争後の復興事業で大きな成功を収め、銀行経営者、[[ウォール街]]の投機家、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』の株主、[[サンフランシスコ]]と[[横浜港|横浜]]を繋ぐ{{仮リンク|パシフィック・メール汽船会社|en|Pacific Mail Steamship Company}}の所有者、競馬場経営者、馬主にもなった{{Sfn|河合|1998|p=21}}{{Sfn|ペイン|1993|p=32}}。彼はニューヨーク州議会議員を1年だけ務めたアンブローズ・ホールの娘クラリッサ・ホールと結婚した。ホール家の伝承によるとホール家には[[インディアン]]の[[イロコイ族]]の血が流れているというが、正確なところは不明である{{Sfn|ペイン|1993|p=33}}。<br /> <br /> レナードとクラリッサ夫妻は4人の娘を儲けた。そのうちの次女がチャーチルの母ジャネットであった。ジェローム一家はヨーロッパの上流階級より排他性の強いニューヨークの保守的な上流階級の間では、南北戦争によって莫大な資産を築いただけの田舎者の新興成金として軽く扱われただけでなく、他のニューヨークの新興成金同様に仲間入りすら拒絶され、ニューヨークの名家の御曹司との結婚は事実上不可能であった為、資金力さえあれば出自に関わらず誰でも歓迎していた[[パリ]]に移住し、フランス皇帝[[ナポレオン3世]]から厚遇された{{Sfn|ペイン|1993|p=34}}。しかし金儲けと競馬とオペラ以外に興味がなく、更に上流階級というものに是非とも入りたいと思わなかったレナードはまもなくパリを離れたが、夫の財力を用いて超名門の貴族と自分の娘たちの縁組を夢見ていた、野心家で見栄っ張りのクラリッサと娘たちは、金さえ有れば外国人でも排除されず、上流階級の人間としてちやほやされるパリで暮らし続け、ジャネットもパリで育った{{Sfn|ペイン|1993|pp=34-35}}。母子は[[普仏戦争]]で一時フランスを離れたものの、戦後パリに戻った{{Sfn|ペイン|1993|p=35}}。<br /> <br /> === 家族・親族 ===<br /> [[File:Mr. and Mrs. Winston Spencer Churchill.jpg|180px|thumb|チャーチルと妻クレメンティーン(1915年)]]<br /> [[File:Churchillwithsonandgrandson.jpg|180px|thumb|ガーター騎士団の正装をまとうチャーチル。子のランドルフ、孫の{{仮リンク|ウィンストン・チャーチル (1940年-)|label=ウィンストン|en|Winston Churchill (born 1940)}}とともに(1950年代)。]]<br /> 1908年9月に軍人の娘[[クレメンタイン・チャーチル|クレメンティーン]]と結婚した。チャーチルは収入は多いものの、金銭に無頓着で最高級の贅沢品ばかりを集める浪費癖があったのでクレメンティーンが代わって家計を支えた{{Sfn|山上|1960|p=241}}。チャーチルは公的にも妻を頼りにし、彼女の前で演説の予行練習をするのを習慣としたという{{Sfn|山上|1960|p=241}}。<br /> <br /> 夫妻は5子に恵まれた。1909年生まれの長女{{仮リンク|ダイアナ・チャーチル|en|Diana Churchill|label=ダイアナ}}、1911年生まれの長男{{仮リンク|ランドルフ・チャーチル (1911-1968)|en|Randolph Churchill|label=ランドルフ}}、1914年生まれの次女{{仮リンク|サラ・チャーチル (女優)|label=サラ|en|Sarah Churchill (actress)}}、1918年生まれの三女マリーゴールド、1922年生まれの四女{{仮リンク|メアリー・ソームズ|en|Mary Soames|label=メアリー}} (のちソームズ男爵夫人)である{{Sfn|山上|1960|pp=241-242}}。<br /> <br /> 長女ダイアナは南アフリカの富豪サー・ジョン・ベイリー准男爵(Sir John Bailey, 2nd Baronet)と結婚したが、後に離婚して保守党の政治家{{仮リンク|ダンカン・サンデイス|en|Duncan Sandys}}と再婚した。しかし1960年に離婚した後、1963年に自殺した。ダイアナの自殺の時にはチャーチルも老衰しきって死を待つばかりだったので、娘の自殺を聞いてもさほど悲しんでいる様子はなかったという{{Sfn|ペイン|1993|p=383}}。<br /> <br /> 長男ランドルフは一時期庶民院議員も務めたが、基本的にはジャーナリストとして働いた{{Sfn|山上|1960|p=242}}。父の影に隠れて目立たない人物だったという{{Sfn|ペイン|1993|p=383}}。チャーチルの死後まもない1968年、後を追うように死去した{{Sfn|ペイン|1993|p=386}}。彼の最初の妻{{仮リンク|パメラ・ディグビー|en|Pamela Harriman}}は男爵令嬢であり、社交界の華でもあった。ランドルフとの離婚後、名だたる著名人らと浮名を流し、元[[ニューヨーク州知事]][[W・アヴェレル・ハリマン]]と結婚し、米国籍を取得。高額献金者として、政界に多大な影響力を持ち、1993年に駐仏米国大使に任ぜられた。なお、ランドルフとの離婚、ハリマンとの再婚後もチャーチル姓を名乗っていた&lt;ref&gt;[http://www.nytimes.com/1997/02/06/world/pamela-harriman-is-dead-at-76-an-ardent-political-personality.html Pamela Harriman Is Dead at 76; An Ardent Political Personality] [[ニューヨーク・タイムズ]]、1997年2月6日&lt;/ref&gt;。パメラとの間の長男{{仮リンク|ウィンストン・チャーチル (1940-2010)|en|Winston Churchill (1940–2010)}}は1970年から1997年まで保守党選出の庶民院議員を務めた&lt;ref&gt;[https://www.theguardian.com/politics/2010/mar/02/winston-churchill-obituary Winston Churchill obituary] [[ガーディアン]]、2010年3月2日&lt;/ref&gt;。2人目の妻ジューン・オズボーンとの間の長女{{仮リンク|アラベラ・チャーチル (1949-2009)|en|Arabella Churchill (charity founder)}}は1954年に米ライフ誌の表紙を飾り、幼少期から注目を集め、[[チャールズ皇太子]]や[[スウェーデン]]の[[カール16世グスタフ (スウェーデン王)|カール・グスタフ王子]]のお妃候補などと取りざたされたが&lt;ref&gt;[https://www.2neatmagazines.com/life/1954cover.html 1954 LIFE Magazine Cover Art]&lt;/ref&gt;、1960年代末には反戦運動家、[[ヒッピー]]になり、注目された。[[グラストンベリー・フェスティバル]]の創始者の一人としても知られている&lt;ref&gt;[http://www.dailymail.co.uk/news/article-410362/Not-Churchills-finest-hour.html Not the Churchills&#039; finest hour] [[デイリー・メイル]]、2006年10月13日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 次女サラは女優になり{{Sfn|山上|1960|p=241}}、芸人ヴィク・オリバーと結婚したが離婚し、写真家アンソニー・ビューチャンプと再婚するも死別。さらに第23代オードリー男爵トーマス・トウケット=ジェソンと三度目の結婚をした{{Sfn|ペイン|1993|p=383}}。<br /> <br /> 三女マリーゴールドは幼くして死んだ{{Sfn|山上|1960|p=241}}。<br /> <br /> 四女メアリーは保守党の政治家{{仮リンク|クリストファー・ソームズ|en|Christopher Soames, Baron Soames}}と結婚している{{Sfn|ペイン|1993|p=383}}。<br /> <br /> チャーチルは家族に動物のあだ名をつけていた。サラは「のろま」という意味で「[[ラバ]]」、メアリーは子供の頃不器量だったので「[[チンパンジー]]」、妻クレメンティーンは「ネコ」だったという{{Sfn|ペイン|1993|p=176}}。<br /> <br /> チャーチルの弟ジョン・ストレンジの娘{{仮リンク|クラリッサ・イーデン (エイヴォン伯爵夫人)|label=クラリッサ|en|Clarissa Eden, Countess of Avon}}はチャーチルの後任の首相イーデンに後妻として嫁いでいる{{Sfn|山上|1960|p=242}}。<br /> <br /> ;妻の親族<br /> 妻の親族は波乱万丈な生涯を送った人が多い。妻の甥にあたるエズモンド・ロミリーと、妻の[[従兄]]第2代[[リーズデイル男爵]][[デビッド・フリーマン=ミットフォード (第2代リーズデイル男爵)|デビッド・フリーマン=ミットフォード]]の娘たち[[ミットフォード姉妹]]がいる。エズモンドは学生時代から共産主義者として鳴らし、「チャーチルのアカの甥」と呼ばれていた{{Sfn|ラベル|2005|p=201}}。<br /> <br /> ミットフォード姉妹の五女[[ジェシカ・ミットフォード|ジェシカ]]も共産主義者で、エズモンドと駆け落ちし、スペイン内戦に左翼陣営で参加{{Sfn|ラベル|2005|pp=259-269}}。その後、アメリカへ移住し、大戦がはじまるとカナダ空軍に入隊してドイツ空軍と戦ったが、1941年11月末に北海上で戦死した。チャーチルから[[ジェシカ・ミットフォード|ジェシカ]]にエズモンドの戦死を伝えたという{{Sfn|ラベル|2005|p=400}}{{Sfn|ラベル|2005|p=404}}。<br /> <br /> ミットフォード姉妹の三女ダイアナはファシズム運動家となった。ダイアナは結婚していた貴族と離婚して[[イギリスファシスト連合]]指導者の[[オズワルド・モズレー]]と再婚したが、第二次世界大戦中にモズレーとともに投獄を受けた。<br /> <br /> 四女[[ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード|ユニティ]]はドイツへ飛び、ヒトラーとの関係が噂されるほどヒトラーの親密な側近となり、ドイツが[[オーストリア]][[アンシュルス|併合]]した時にはオーストリア人はみんな併合を望んでいるという手紙をチャーチル宛てに送ってきた。チャーチルは翻意することなく、「公正な国民投票が行われていたらオーストリア人はナチスの支配下にはいることを拒否したはずだ」と返信した{{Sfn|ラベル|2005|p=285}}。彼女は英仏開戦を阻止しようと努力していたが、開戦に至ってしまうと絶望して自殺未遂を起こした。その後イギリスへ戻されたものの、この時の傷がもとで後に死亡した{{Sfn|ラベル|2005|p=344}}{{Sfn|ラベル|2005|p=473}}。<br /> <br /> == 著作 ==<br /> * The Story of the Malakand Field Force (マラカンド野戦軍物語) , [[1898年]]。インド[[パシュトゥーン人]]反乱の鎮圧戦体験。<br /> * The River War: An Historical Account of the Reconquest of the Sudan (河畔の戦争:スーダン侵攻従軍記) ,[[1899年]]。<br /> * &#039;&#039;Savrola&#039;&#039;, 1900年。小説。<br /> *『{{仮リンク|ロンドンからレディスミスへ|en|London to Ladysmith via Pretoria}}』『{{仮リンク|ハミルトン将軍の行進|en|Ian Hamilton&#039;s March}}』1900年:ボーア戦争従軍記。<br /> * 『ランドルフ・チャーチル卿』1906年。<br /> * &#039;&#039;My African Journey&#039;&#039;, 1908年。<br /> * 『世界の危機(The World Crisis)』[[1923年]] - [[1929年]]): 全5巻。第一次世界大戦史。<br /> * &#039;&#039;My Early Life&#039;&#039;, 1930年。<br /> * &#039;&#039;Marlborough. His Life and Times&#039;&#039;, 1933年 - 1938年。<br /> * &#039;&#039;Great Contemporaries&#039;&#039;, 1937年。<br /> * &#039;&#039;The Second World War&#039;&#039;, 6巻, 1948年 - 1954年。<br /> *『A History of the English-Speaking Peoples (英語圏の人々の歴史)』1956-1958年。4巻。第二次大戦前から著しており、英米の連携強化を意識して「英語圏の国民の歴史上の地位と性格を探る」とした著作であり{{Sfn|山上|1960|p=236}}、[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]の[[ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)|ブリタニア侵攻]]からチャーチルが第二次ボーア戦争に立つまでを描いた{{Sfn|河合|1998|p=313}}。<br /> ;日本語訳(近年)<br /> * 『わが半生』 [[中村祐吉]]訳、[[中央公論新社]]〈[[中公クラシックス]]〉、2014年。<br /> * 『第二次世界大戦』全4巻、[[佐藤亮一]]訳、河出書房新社〈[[河出文庫]]〉、新装版2001年。<br /> * 『第二次大戦回顧録 抄』 [[毎日新聞社]]編訳、中央公論新社〈[[中公文庫]]〉、2001年。<br /> <br /> === チャーチルに関する回想・評伝(参考文献以外) ===<br /> * 『ウィンストン・チャーチル―二つの世界戦争』 山上正太郎、誠文堂新光社「歴史の人間像」、1960年。<br /> * 『チャーチル―第二次世界大戦の指導者』 山上正太郎、清水書院、1972年。センチュリーブックス―人と歴史シリーズ〈西洋〉。<br /> ** 『チャーチルと第二次世界大戦』 山上正太郎、清水書院〈人と思想〉、1984年。上記の改題新版。<br /> * &#039;&#039;Churchill&#039;s Wit: The Definitive Collection&#039;&#039;, by {{仮リンク|Richard M. Langworth|en|Richard M. Langworth}}(Editor), Ebury Press, 2009年。<br /> * &#039;&#039;The Definitive Wit of Winston Churchill&#039;&#039;, by Richard M. Langworth (Editor) , PublicAffairs, 2009年。<br /> * 『ダウニング街日記 首相チャーチルのかたわらで』(上下)、ジョン・コルヴィル、[[平凡社]]〈20世紀メモリアル〉、都築忠七ほか訳、1990年。<br /> * 『祖父チャーチルと私 若き冒険の日々』 ウィンストン・S・チャーチル、佐藤佐智子訳、法政大学出版局〈りぶらりあ選書〉、1994年。<br /> * 『危機の指導者―チャーチル』 [[冨田浩司]]、[[新潮選書]]、2011年。<br /> * 『チャーチルの亡霊―危機のEU』 前田洋平、[[文春新書]]、2012年。<br /> * 『チャーチル ガリマール新評伝シリーズ』 ソフィー・ドゥデ、神田順子訳、祥伝社新書、2015年。<br /> * 『チャーチル 不屈の指導者の肖像』 ジョン・キーガン、[[冨山太佳夫]]訳、岩波書店、2015年。<br /> <br /> == 現在 ==<br /> イギリスでは現在でもチャーチル人気は高く、[[2002年]]に[[BBC]]が行った「[[100名の最も偉大な英国人]]」の世論調査では1位になった&lt;ref name=wayback/&gt;。<br /> <br /> また[[2016年]]から発行される予定の5ポンド紙幣の裏面にチャーチルの肖像が使用される予定であり(表面はこれまで通りエリザベス2世女王)、[[イングランド銀行]]総裁[[マーヴィン・キング|サー・マーヴィン・キング]]は「偉大な英国の指導者」と述べた&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/international/update/0427/TKY201304270013.html チャーチル英元首相、5ポンド紙幣に「偉大な指導者」(朝日新聞2013年9月2日閲覧)]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[2015年]]、手記や著書・スピーチの原稿が[[ユネスコ記憶遺産]]に登録された&lt;ref&gt;[http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/flagship-project-activities/memory-of-the-world/register/full-list-of-registered-heritage/registered-heritage-page-8/the-churchill-papers/ The Churchill Papers] Memory of the World - UNESCO&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{reflist|group=注釈}}<br /> === 出典 ===<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;<br /> {{reflist|20em|refs=<br /> &lt;ref name=hansard&gt;[http://hansard.millbanksystems.com/people/mr-winston-churchill/ HANSARD 1803-2005]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=wayback&gt;{{cite web|url= http://web.archive.org/web/20040204074057/http://www.bbc.co.uk/history/programmes/greatbritons.shtml/ |title=Great Britons 1-10|publisher=BBC via Wayback Machine|accessdate=2012-08-01}}&lt;/ref&gt;<br /> }}<br /> &lt;/div&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{Cite book|和書|author=[[池田清 (政治学者)|池田清]]|date=1962年(昭和37年)|title=政治家の未来像 ジョセフ・チェムバレンとケア・ハーディー|publisher=[[有斐閣]]|asin=B000JAKFJW|ref={{Sfnref|池田|1962}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[市川承八郎]]|date=1982年(昭和57年)|title=イギリス帝国主義と南アフリカ|publisher=[[晃洋書房]]|asin=B000J7OZW8|ref={{Sfnref|市川|1982}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[臼田昭]]|date=1979年(昭和54年)|title=モールバラ公爵のこと チャーチル家の先祖|publisher=[[研究社出版]]|isbn=978-4327342098|ref={{Sfnref|臼田|1979}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[岡倉登志]]|date=2001年(平成13年)|title=アフリカの歴史 侵略と抵抗の軌跡|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4750313726|ref={{Sfnref|岡倉|2001}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[神川信彦]]、[[君塚直隆]]|date=2011年(平成13年)|title=グラッドストン 政治における使命感|publisher=[[吉田書店]]|isbn=978-4905497028|ref={{Sfnref|神川|2011}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[河合秀和 (政治学者)|河合秀和]]|date=1998年(平成10年)|title=チャーチル イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版|series= [[中公新書]]530|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4121905307|ref={{Sfnref|河合|1998}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[川田順造]](編著)|date=2009年(平成21年)|title=アフリカ史|series=新版世界各国史10|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634414006|ref={{Sfnref|川田|2009}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=1999年(平成11年)|title=イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref={{Sfnref|君塚|1999}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ヨアヒム クルツ|de|Joachim Kurz}}|date=2007年(平成19年)|title=ロスチャイルド家と最高のワイン 名門金融一族の権力、富、歴史|publisher=[[日本経済新聞出版社]]|isbn=978-4532352875|ref={{Sfnref|クルツ|2007}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|G.D.H.コール|en|G. D. H. Cole}}|date=1957年(昭和32年)|title=イギリス労働運動史 第3巻|translator=[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]、[[河上民雄]]、[[嘉治元郎]]|publisher=[[岩波書店]]|asin=B000JBBBHG|ref={{Sfnref|コール|1957}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[坂井秀夫]]|date=1967年(昭和42年)|title=政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として|publisher=[[創文社]]|asin=B000JA626W|ref={{Sfnref|坂井|1967}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=坂井秀夫|date=1974年(昭和49年)|title=近代イギリス政治外交史3 スタンリ・ボールドウィンを中心として|publisher=創文社|asin=B000J9IXRE|ref={{Sfnref|坂井|1974}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=坂井秀夫|date=1977年(昭和52年)|title=近代イギリス政治外交史4 人間・イメージ・政治|publisher=創文社|asin=B000J8Y7CA|ref={{Sfnref|坂井|1977}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=坂井秀夫|date=1988年(昭和63年)|title=イギリス・インド統治終焉史 1910年~1947年|publisher=創文社|isbn=978-4423710401|ref={{Sfnref|坂井|1988}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[シリア・サンズ]]|date=1998年(平成10年)|title=少年チャーチルの戦い|translator=河合秀和|publisher=[[集英社]]|isbn=978-4087732931|ref={{Sfnref|サンズ|1998}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|デニス・ショウォルター|en|Dennis Showalter}}|date=2007年(平成19年)|title=パットン対ロンメル 軍神の戦場|translator=大山晶|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562040858|ref={{Sfnref|ショウォルター|2007}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[ポール・ジョンソン (歴史家)|ポール・ジョンソン]]|translator=[[阿川尚之]]、[[山田恵子 (文学者)|山田恵子]]、[[池田潤 (ヘブライ語学者)|池田潤]]|year=1999|title=ユダヤ人の歴史 下巻|publisher=[[徳間書店]]|isbn=978-4198610692|ref={{Sfnref|ジョンソン|1999}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=ポール・ジョンソン|editor=山岡洋一、高遠裕子 訳、野中郁次郎 解説|title=チャーチルー―不屈のリーダーシップ|year=2013|publisher=日経BP社|isbn=978-4-8222-4957-1|ref={{Sfnref|ジョンソン|2013}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[関嘉彦]]|date=1969年(昭和44年)|title=イギリス労働党史|publisher=[[社会思想社]]|asin=B000J9KJV2|ref=harv}}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[関榮次]]|date=2008年|title=チャーチルが愛した日本|publisher=[[PHP研究所]]|series=[[PHP新書]]|isbn=978-4569693651|ref=harv}}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[高橋直樹 (政治学者)|高橋直樹]]|date=1985年(昭和60年)|title=政治学と歴史解釈 ロイド・ジョージの政治的リーダーシップ|publisher=[[東海大学出版部|東京大学出版会]]|isbn=978-4130360395|ref={{Sfnref|高橋|1985}} }}<br /> *{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref={{Sfnref|秦|2001}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[浜渦哲雄]]|date=1999年(平成11年)|title=大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120029370|ref={{Sfnref|浜渦|1999}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|G.C. ピーデン|en|G. C. Peden}}|translator=[[千葉頼夫]]、[[美馬孝人]]|date=1990年(平成2年)|title=イギリス経済社会政策史 ロイドジョージからサッチャーまで|publisher=[[梓出版社]]|isbn=978-4900071643|ref={{Sfnref|ピーデン|1990}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[ラウル・ヒルバーグ]]|translator=[[望田幸男]]|date=1997年(平成9年)|title=ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760115174|ref={{Sfnref|ヒルバーグ|1997}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=[[早川崇]]|date=1979年(昭和54年)|title=英国保守党史 ピールからチャーチルまで|publisher=[[労働法令協会]]|asin=B000J73JSE|ref={{Sfnref|ブレイク|1979}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=ブレイク男爵|translator=[[谷福丸]]|editor=[[瀬尾弘吉]]監修|date=1993年(平成5年)|title=ディズレイリ|publisher=[[大蔵省印刷局]]|isbn=978-4172820000|ref={{Sfnref|ブレイク|1993}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ペイン|en|Robert Payne (author)}}|translator=[[佐藤亮一 (翻訳家)|佐藤亮一]]|date=1993年(平成5年)|title=チャーチル|series=[[りぶらりあ選書]]|publisher=[[法政大学出版局]]|isbn=978-4588021466|ref={{Sfnref|ペイン|1993}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジャン=ジャック・ベッケール|fr|Jean-Jacques Becker}}、{{仮リンク|ゲルト・クルマイヒ|de|Gerd Krumeich}}|translator=[[剣持久木]]、[[西山暁義]]|date=2012年(平成24年)|title=仏独共同通史 第一次世界大戦(下)|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000237970|ref={{Sfnref|ベッケール、クルマイヒ|2012}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・マッケンジー|en|Robert McKenzie (psephologist)}}|translator=[[早川崇]]、[[三沢潤生]]|date=1965年(昭和40年)|title=英国の政党〈上巻〉 保守党・労働党内の権力配置|publisher=有斐閣|asin=B000JAD4LI|ref={{Sfnref|マッケンジー|1965}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[村岡健次 (歴史学者)|村岡健次]]、[[木畑洋一]]編|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref={{Sfnref|村岡、木畑|1991}} }}<br /> *{{Cite book|和書|date=1987年(昭和62年)|title=英国の貴族 遅れてきた公爵||author=[[森護]]|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240979|ref={{Sfnref|森|1987}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジャン・モリス|en|Jan Morris}}|translator=[[池央耿]]、[[椋田直子]]|date=2010年(平成22年)|title=帝国の落日 下巻|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062152488|ref={{Sfnref|モリス|2010}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[山上正太郎]]|date=1960年(昭和35年)|title=ウィンストン・チャーチル 二つの世界戦争|publisher=[[誠文堂新光社]]|asin=B000JAP0JM|ref={{Sfnref|山上|1960}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author={{仮リンク|メアリー・S. ラベル|en|Mary S. Lovell}}|translator=[[粟野真紀子]]、[[大城光子]]|date=2005年(平成17年)|title=ミットフォード家の娘たち 英国貴族美しき六姉妹の物語|publisher=講談社|isbn=978-4062123471|ref={{Sfnref|ラベル|2005}} }}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[ジョン・ルカーチ (歴史学者)|ジョン・ルカーチ]]|date=1995年(平成7年)|title=ヒトラー対チャーチル 80日間の激闘|publisher=[[共同通信社]]|isbn=978-4764103481|ref={{Sfnref|ルカーチ|1995}} }}<br /> <br /> == ウィンストン・チャーチルを扱った作品 ==<br /> *[[ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男]]<br /> *[[チャーチル ノルマンディーの決断]]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Wikiquote|ウィンストン・チャーチル}}<br /> {{Commons&amp;cat|Winston Churchill}}<br /> *[[保守党 (イギリス)]]<br /> *[[自由党 (イギリス)]]<br /> *[[チャーチル歩兵戦車]]<br /> *[[ウィンストン・S・チャーチル (ミサイル駆逐艦)]]([[アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦]]31番艦。フライトIIA)<br /> *[[チャールズ・ヴェーン (第3代ロンドンデリー侯爵)]]<br /> *[[ウォルター・H・トンプソン]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.fiftiesweb.com/usa/winston-churchill-blood-toil.htm 血と労苦と涙と汗](1940年5月13日、首相就任演説。英語)<br /> *[http://www.americanrhetoric.com/speeches/winstonchurchillsinewsofpeace.htm The Sinews of Peace](1946年3月5日、いわゆる「鉄のカーテン」演説。英語)<br /> *[http://www.hpol.org/churchill/ 鉄のカーテン演説(フルトン演説)(英語)]<br /> *[http://gold.natsu.gs/WG/Spectrum/20051219.html 画家としてのウィンストン・チャーチル] - Four Seasons Magazineの記事の翻訳 {{ja icon}}<br /> *[http://www.gutenberg.org/browse/authors/c#a1601 プロジェクト・グーテンベルク] <br /> <br /> {{Start box}}<br /> {{S-off}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[イギリスの首相|首相]]| years = [[1951年]] - [[1955年]]| before = [[クレメント・アトリー]]| after = [[アンソニー・イーデン|サー・アンソニー・イーデン]]}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[国防担当閣外大臣]]| years = [[1951年]] - [[1952年]]| before = [[マニー・シンウェル (シンウェル男爵)|マニー・シンウェル]]| after = [[ハロルド・アレクサンダー (初代アレクサンダー・オブ・チュニス伯爵)|初代アレクサンダー・オブ・チュニス伯爵]]}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 首相| years = [[1940年]] - [[1945年]]| before = [[ネヴィル・チェンバレン]]| after = [[クレメント・アトリー]]}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 国防担当閣外大臣| years = [[1940年]] - [[1945年]]| before = 新設| after = [[クレメント・アトリー]]}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[庶民院院内総務]]| years = [[1940年]] - [[1942年]]| before = [[ネヴィル・チェンバレン]]| after = [[スタッフォード・クリップス|サー・スタッフォード・クリップス]]}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|海軍大臣 (イギリス)|label=海軍大臣|en|First Lord of the Admiralty}}| years = [[1939年]] - [[1940年]]| before = {{仮リンク|ジェームス・スタンホープ (第7代スタンホープ伯爵)|label=第7代スタンホープ伯爵|en|James Stanhope, 7th Earl Stanhope}}| after = {{仮リンク|アルバート・アレクサンダー (初代アレクサンダー・オブ・ヒルズボロー伯爵)|label=アルバート・アレクサンダー|en|A. V. Alexander, 1st Earl Alexander of Hillsborough}}}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]| years = [[1924年]] - [[1929年]]| before = {{仮リンク|フィリップ・スノーデン (初代スノーデン子爵)|label=フィリップ・スノーデン|en|Philip Snowden, 1st Viscount Snowden}}| after = {{仮リンク|フィリップ・スノーデン (初代スノーデン子爵)|label=フィリップ・スノーデン|en|Philip Snowden, 1st Viscount Snowden}}}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}| years = [[1921年]] - [[1922年]]| before = [[アルフレッド・ミルナー|初代ミルナー子爵]]| after = [[ヴィクター・キャヴェンディッシュ (第9代デヴォンシャー公爵)|第9代デヴォンシャー公爵]]}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|航空大臣 (イギリス)|label=航空大臣|en|Secretary of State for Air}}| years = [[1919年]] - [[1921年]]| before = {{仮リンク|ウィリアム・ウィアー (初代ウィアー子爵)|label=初代ウィアー子爵|en|William Weir, 1st Viscount Weir}}| after = {{仮リンク|フレデリック・ゲスト|en|Frederick Guest}}}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|戦争大臣 (イギリス)|label=戦争大臣|en|Secretary of State for War}}| years = [[1919年]] - [[1921年]]| before = [[アルフレッド・ミルナー|初代ミルナー子爵]]| after = {{仮リンク|サー・ラミング・ウォーシントン=エヴァンズ (初代准男爵)|label=サー・ラミング・ウォーシントン=エヴァンズ|en|Sir Laming Worthington-Evans, 1st Baronet}}}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|軍需大臣 (イギリス)|label=軍需大臣|en|Minister of Munitions}}| years = [[1917年]] - [[1919年]]| before = {{仮リンク|クリストファー・アジソン (初代アジソン子爵)|label=クリストファー・アジソン|en|Christopher Addison, 1st Viscount Addison}}| after = {{仮リンク|アンドリュー・ウィアー (初代インヴァーフォース男爵)|label=初代インヴァーフォース男爵|en|Andrew Weir, 1st Baron Inverforth}}}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|ランカスター公領担当大臣|en|Chancellor of the Duchy of Lancaster}}| years = [[1915年]]| before = {{仮リンク|エドウィン・サミュエル・モンタギュー|label=エドウィン・モンタギュー|en|Edwin Samuel Montagu}}| after = [[ハーバート・サミュエル]]}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 海軍大臣| years = [[1911年]] - [[1915年]]| before = [[レジナルド・マッケナ]]| after = [[アーサー・バルフォア]]}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]| years = [[1910年]] - [[1911年]]| before = [[ハーバート・グラッドストン]]| after = [[レジナルド・マッケナ]]}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|ビジネス・イノベーション・職業技能大臣|label=通商大臣|en|President of the Board of Trade}}| years = [[1908年]] - [[1910年]]| before = [[デビッド・ロイド・ジョージ|デビッド・ロイド=ジョージ]]| after = {{仮リンク|シドニー・バックストン (初代バックストン伯爵)|label=シドニー・バックストン|en|Sydney Buxton, 1st Earl Buxton}}}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|イギリス植民地省政務次官|label=植民地省政務次官|en|Under-Secretary of State for the Colonies}}| years = [[1905年]] - [[1908年]]| before = [[チャールズ・スペンサー=チャーチル (第9代マールバラ公)|第9代マールバラ公爵]]| after = {{仮リンク|ジョン・シリー (初代モティストーン男爵)|label=ジョン・シリー|en|J. E. B. Seely, 1st Baron Mottistone}}}}<br /> {{s-ppo}}<br /> {{Succession box| title = [[保守党 (イギリス)|イギリス保守党]]党首| years = [[1940年]] - [[1955年]]| before = [[ネヴィル・チェンバレン]]| after = [[アンソニー・イーデン|サー・アンソニー・イーデン]]}}<br /> {{s-aca}}<br /> {{Succession box| title = {{仮リンク|アバディーン大学学長|en|Rector of the University of Aberdeen}}| years = [[1914年]] - [[1918年]]| before = [[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]| after = {{仮リンク|ウィートマン・ピアソン (初代コードレイ子爵)|label=初代コードレイ子爵|en|Weetman Pearson, 1st Viscount Cowdray}}}}<br /> {{Succession box| title = {{仮リンク|エジンバラ大学学長|en|Rector of the University of Edinburgh}}| years = [[1929年]] - [[1932年]]| before = {{仮リンク|サー・ジョン・ジルモア (第2代准男爵)|label=サー・ジョン・ジルモア|en|Sir John Gilmour, 2nd Baronet}}| after = {{仮リンク|イアン・スタンディッシュ・モンティス・ハミルトン|label=イアン・ハミルトン|en|Ian Standish Monteith Hamilton}}}}<br /> {{Succession box| title = [[ブリストル大学]]総長| years = [[1929年]] - [[1965年]]| before = {{仮リンク|リチャード・ホールデン (初代ホールデン子爵)|label=初代ホールデン子爵|en|Richard Haldane, 1st Viscount Haldane}}| after = [[ヘンリー・サマセット (第10代ボーフォート公)|第10代ボーフォート公爵]]}}<br /> {{s-hon}}<br /> {{Succession box| title = [[File:Lord Warden Cinque Ports (Lord Boyce).svg|23px]] {{仮リンク|五港長官|en|Lord Warden of the Cinque Ports}}| years = [[1941年]] - [[1965年]]| before = [[フリーマン・フリーマン=トーマス (初代ウィリングドン侯爵)|初代ウィリンドン侯爵]]| after = [[ロバート・メンジーズ|サー・ロバート・メンジーズ]]}}<br /> {{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|議会の父|en|Father of the House}}| years = [[1959年]] - [[1964年]]| before = {{仮リンク|デヴィッド・グレンフェル|en|David Grenfell}}| after = [[ラブ・バトラー]]}}<br /> {{End box}}<br /> {{ノーベル文学賞受賞者 (1951年-1975年)}}<br /> {{イギリスの首相}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{Good article}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ちやあちる ういんすとん}}<br /> [[Category:ウィンストン・チャーチル|*]]<br /> [[Category:イギリスの首相]]<br /> [[Category:国防担当閣外大臣]]<br /> [[Category:イギリスの内務大臣]]<br /> [[Category:イングランド選出のイギリス庶民院議員]]<br /> [[Category:スコットランド選出のイギリス庶民院議員]]<br /> [[Category:イギリス保守党の政治家]]<br /> [[Category:イギリス自由党の政治家]]<br /> [[Category:イギリスの保守政治家]]<br /> [[Category:イギリスの随筆家]]<br /> [[Category:イギリスの歴史学者]]<br /> [[Category:イギリスのノーベル賞受賞者]]<br /> [[Category:ノーベル文学賞受賞者]]<br /> [[Category:議会名誉黄金勲章受章者]]<br /> [[Category:ガーター勲章]]<br /> [[Category:メリット勲章]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国名誉市民]]<br /> [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]]<br /> [[Category:ボーア戦争のジャーナリスト]]<br /> [[Category:捕虜となった人物]]<br /> [[Category:マフディー戦争]]<br /> [[Category:軍事顧問]]<br /> [[Category:太平洋戦争の人物]]<br /> [[Category:第二次世界大戦期の政治家]]<br /> [[Category:第一次世界大戦期の政治家]]<br /> [[Category:第一次世界大戦期のイギリスの軍人]]<br /> [[Category:イギリスの反共主義者]]<br /> [[Category:シオニスト]]<br /> [[Category:吃音の人物]]<br /> [[Category:イギリス帝国]]<br /> [[Category:フリーメイソン]]<br /> [[Category:エディンバラ大学の教員]]&lt;!--学長、1929-1932。--&gt;<br /> [[Category:アバディーン大学の教員]]&lt;!--学長、1914-1918。--&gt;<br /> [[Category:ハーロー校出身の人物]]<br /> [[Category:スペンサー=チャーチル家|ういんすとん]]<br /> [[Category:アメリカ系イギリス人]]<br /> [[Category:ウェスト・オックスフォードシャー出身の人物]]<br /> [[Category:1874年生]]<br /> [[Category:1965年没]]</div> 124.39.100.132 戦時国際法 2018-04-14T13:20:33Z <p>124.39.100.132: /* 背信行為の禁止 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;戦時国際法&#039;&#039;&#039;(せんじこくさいほう、英:Law of War)は、[[戦争]]状態においてもあらゆる軍事組織が遵守するべき義務を明文化した[[国際法]]であり、狭義には交戦法規を指す。戦争法、戦時法とも言う。ただし現代では[[国際連合憲章]]により法的には「戦争」が存在しないため、武力紛争法、[[国際人道法]]({{lang-en-short|International humanitarian law, IHL}})とも呼ばれる。ここでは戦時国際法という用語を用いる。戦時国際法は、戦時のみに適用されるわけではなく、[[宣戦布告]]されていない状態での軍事衝突であっても、あらゆる軍事組織に対し適用されるものである。<br /> <br /> == 概説 ==<br /> 17世紀に始まる近代国際法において、戦争をいかに規制するかについては「戦争の正当な原因の追求(jus ad bellum)」と「戦闘中における害的手段の規制(jus in bello)」とが存在する。前者は戦争を正当なものと不当なものに区別し、正当なもののみを合法とするもので、正戦論と呼ばれる。<br /> しかし主権国家間において、国家の上位に存在する機関がない以上、紛争当事国が正当性を主張する限り、戦争はいずれにとっても正当とならざるを得ない。そこで18世紀になると、戦争の正否を問わない「無差別戦争観」という考えが登場した。19世紀においては、国際法学は戦争の開始から終了までの手続き、戦闘の手段・方法等の規制にあるとされ、戦争の正当原因の研究・規律は国際法学の対象外とされた。これを受けて国際法は平時法と戦時法の二元的構成となるに至った。<br /> <br /> これでは法理的な矛盾が発生するが、戦闘における非人道的な行為の被害を最小化するためにもこれは国際的に受け入れられている。[[第一次世界大戦]]後の戦争違法化の流れのなかで、戦時国際法は意味をなさないとの見解もあったが、国家間における武力衝突がなくなったわけではなく近年では「[[国際人道法]]」として再構成されている。<br /> <br /> 戦時国際法においては「軍事的必要性 (Military necessity) 」と「人道性 (Humanity) 」の原則、法的基盤がある&lt;ref&gt;「軍事的考慮」と「人道的考慮」とも言う。小寺彰、[[岩沢雄司]]、森田章夫編『講義国際法』(有斐閣、2006年)468頁&lt;/ref&gt;。軍事的必要性とは敵を撃滅するために必要な戦闘行動などの軍事的措置を正当化する原則であり、人道性とは適切な軍事活動には不必要な措置を禁止する原則である。<br /> <br /> 戦時国際法の内容は非常に幅広く、第1に戦時国際法が適用される状況についての規則、第2に交戦当事国間の戦闘方法を規律する規則、第3に戦争による犠牲者を保護する規則、第4に戦時国際法の履行を確保する規則、で主に構成される。具体的には開戦・終戦、[[交戦者]]資格、[[捕虜]]条約の適用、許容される諜報活動、害敵手段の禁止・制限、死傷者の収容・保護、病院地帯、非武装地帯などについて定めている。[[ハーグ陸戦条約|ハーグ陸戦の法規慣例に関する条約]]、[[ジュネーヴ条約]]などが有名。<br /> <br /> == 適用対象 ==<br /> 戦時国際法は戦時における国際法であるため、まず時間的な適用の範囲が規定されることとなる。つまり適用開始の要件と終了の要件である。現在の戦時国際法は武力紛争の存在を適用開始の要件としており、[[宣戦布告]]の有無や戦争状態の認定を問わない&lt;ref&gt;ジュネーブ条約共通2条1文、議定書Ⅰ1条3項4項・3条(a)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> さらに戦時国際法の適用を終了する要件としては紛争当事国の軍事行動の終了時、または占領の終了時である&lt;ref&gt;議定書Ⅰ3条(b)&lt;/ref&gt;。また適用対象となるのは紛争当事国である。また武力紛争を類型された上で適用される。これには国際的武力紛争と非国際的武力紛争がある。非国際的武力紛争においては国内法の維持と非国際的武力紛争の適用という矛盾がしばしば発生する。<br /> <br /> もし非国際的武力紛争の要件が満たせば犠牲者の保護が義務付けられ、さらに指揮系統の存在、反徒の組織性、軍事行動の時間的継続性と事実上の領域支配、という要件を満たすことができれば文民保護などの交戦法規が義務付けられる&lt;ref&gt;小寺彰、岩沢雄司、森田章夫編『講義国際法』(有斐閣、2006年)468-470頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 交戦法規 ==<br /> === 陸戦法規 ===<br /> 陸戦法規 (Rules of land warfare) は[[陸戦|陸上作戦]]における武力行使についての規則であり、現代では主に1977年に署名された[[ジュネーヴ諸条約第一追加議定書]]によって規定される。その内容は主に攻撃目標の選定と攻撃実行の規則であり&lt;ref&gt;ここでいう攻撃とは攻勢作戦、防勢作戦や、その戦術行動に拘らない暴力行為をさす。第1追加議定書第49条第1項&lt;/ref&gt;、従来の[[戦闘教義]]にも変化を促した。<br /> <br /> 攻撃目標の選定の原則は、攻撃を行う目標をどのように選定するのかについての原則である。まず攻撃目標は敵の戦闘員 (Combatants) か軍事目標 (military objectives) に定められる。戦闘員とは紛争当事国の軍隊を構成している兵員であり、陸戦法規における軍事目標とは野戦陣地、[[軍事基地]]、[[兵器]]、軍需物資などの物的目標である&lt;ref&gt;石油貯蔵施設、港湾施設、[[飛行場]]、[[鉄道]]、[[発電所]]、産業施設など間接的に[[軍事力]]に貢献するものについては、その全面的、または部分的な破壊、無力化、奪取が明らかに軍事的利益になる場合にのみ限られる。防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)60頁&lt;/ref&gt;。また攻撃目標として禁止されているものは、降伏者、捕獲者、負傷者、病者、難船者、軍隊の[[衛生兵|衛生要員]]、宗教要員、文民、[[民間防衛]]団員などの非戦闘員と、衛生部隊や[[病院]]などの医療関係施設、医療目的の[[車両]]及び[[航空機]]、教育施設、歴史的建築物、宗教施設、食料生産設備、堤防、火力や水力、[[原子力]]の[[発電所]]などの軍事目標以外の民用物&lt;ref&gt;民用物は軍事目標以外の全ての物を言う。第1追加議定書第52条第1項&lt;/ref&gt;である。<br /> <br /> 攻撃実行においては主に3つの規則が存在する。第1に軍人と文民、軍事目標と民用物を区別せずに行う無差別攻撃の禁止を定めている。これによって[[第二次世界大戦]]において見られた住宅地や文教施設、宗教施設を含む都市圏に対する[[戦略爆撃]]は違法化されている。第2に文民と民用物への被害を最小化することである。[[軍事作戦]]においては文民や民用物が巻き添えになることは不可避であるが、攻撃実行にあたっては、その巻き添えが最小限になるように努力し、攻撃によって得られる軍事的利益と巻き添えとなる被害の比例性原則に基づいて行われなければならない。第3に同一の軍事的利益が得られる2つの攻撃目標がある場合、文民と民用物の被害が少ないと考えられるものを選択しなければならない。<br /> <br /> === 海戦法規 ===<br /> 海戦法規(海戦法、海上作戦法規)は海上での武力紛争に適用される戦時国際法である。海戦法規は海上での軍事目標、武力紛争における[[臨検]]・[[拿捕]]、[[機雷]]使用などについて定めたものである。海戦法規は陸戦法規とは異なり、その大部分が19世紀まで[[慣習国際法]]に基づいたものである。ただし海上戦力の多様化や新しい[[海洋法]]や[[環境法]]の成立があったことで、人道法国際研究所は海上武力紛争法サンレモ・マニュアル (San Remo Manual on International Law Applicable to Armed Conflicts at Sea) を完成させ、海戦法規の普及と、将来の条約化に貢献している。<br /> <br /> 海戦における軍事目標の規定は慣習国際法によって構成される。軍事目標として識別される敵国の船舶はまず[[海軍]]に所属した[[軍艦]]と補助船舶であり、これに対しては攻撃または[[拿捕]]することが可能である。また[[商船]]も直接攻撃や機雷敷設などの敵国の戦争行為に従事している、または敵軍の補助を行っているならば軍事目標である。また軍事物資の輸送作戦の従事などの戦争遂行努力 (War effort) に組み込まれた敵国商船も軍事目標となる。ただし敵国の船舶であっても、[[病院船]]や沿岸救助用小型艇、などの非軍事的な任務を担う船舶は特別の保護を受けているために攻撃・拿捕が免除されている。<br /> <br /> 中立国軍艦及び軍用機は公海及び排他的経済水域から成る国際水域においては自由に航行・飛行・訓練・情報収集などを行う権利を有する。中立国の軍艦や軍用機に対して攻撃することは、中立国に対する武力攻撃であり、中立国は[[自衛権]]を行使することが出来る。過失であっても攻撃した国家は[[国家責任]]を負うことになり、謝罪・賠償・責任者処罰・再発防止措置などが求められる。<br /> <br /> === 空戦法規 ===<br /> 空戦法規(空戦規則、空戦に関する規則案、Rules of air warfare, Rules concerning the Control of Wireless Telegraphy in Time of War and Air Warfare)は航空戦における武力行使について規定したものであり、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン軍縮会議]]で設置された戦時法規改正委員会において日本、イギリス、オランダ、アメリカ、フランス、イタリアが1923年に署名した報告書で規則が定められたが、当時は将来的な[[航空機]]の発展可能性に鑑みて運用が制限されることを回避したために、現在[[条約]]として存在しない。しかし、[[慣習法]]としてしばしば引用される場合がある。<br /> <br /> 軍用機は全方位から視認できる軍用の外部標識と単一の[[国籍]]記載を有し、[[軍人]]が操縦する航空機であり、これだけに交戦権の行使が容認される。非軍用機や民間人は交戦権が認められず、どのような敵対行為も禁止される。空襲は非戦闘員保護の観点から軍事目標、すなわちその破壊が交戦国に明確に軍事的利益をもたらす目標に限定される、などが定められている。<br /> <br /> == 背信行為の禁止 ==<br /> 戦時国際法において背信行為とは、敵の信頼を裏切る目的を持ちながら敵の信頼を誘う行為であり、禁止されている。背信行為の禁止は中世の[[騎士道]]に由来し、慣習国際法として確立され、1907年にはハーグ陸戦条約、1977年にも第1議定書で記された。その具体的な行為としては、[[赤十字]]や[[赤新月]]旗などを揚げながらの軍事行動、休戦旗を揚げながら裏切る行為、[[遭難信号]]を不正に発信する行為、敵国の軍服や国籍標識の使用行為などが挙げられる。なおこれに則り、鹵獲した戦闘車両や航空機、船舶を軍事利用する場合は自国標識に変更することが必要である。<br /> <br /> == 非戦闘員及び降伏者、捕獲者の保護 ==<br /> 非戦闘員とは、軍隊に編入されていない人民全体&lt;ref&gt;[[田岡良一]]『空襲と国際法』(巌松堂書店、1937年)119-120頁&lt;/ref&gt;を指し、これを攻撃することは禁止されている。また、軍隊に編入されている者といえども、降伏者、捕獲者に対しては、一定の権利が保障されており、これを無視して危害を加えることは戦争犯罪である。<br /> <br /> *まず降伏者及び捕獲者は、これを捕虜としてあらゆる暴力、脅迫、侮辱、好奇心から保護されて人道的に取り扱わなければならない。捕虜が質問に対して回答しなければならない事項は自らの氏名、階級、生年月日、認識番号のみである。<br /> *また負傷者、病者、難船者も人道的な取り扱いを受け、可能な限り速やかに医療上の措置を受ける。衛生要員、宗教要員も攻撃の対象ではなく、あらゆる場合に保護を受ける。<br /> *文民とは、交戦国領域、占領地での 敵国民、中立国の自国政府の保護が得られない者、[[難民]]、無国籍者である。全ての文民は人道的に取り扱われる権利があり、女性はあらゆる猥褻行為から保護される。文民を強制的に移送、追放することは禁止されている。<br /> <br /> これらは、1949年のジュネーブ諸条約と1977年のジュネーブ条約追加議定書ⅠとⅡにおいて定められている。<br /> <br /> == 戦争犯罪の処罰==<br /> [[戦争犯罪]](War crimes)とは、軍隊構成員や文民による戦時国際法に違反した行為であり、かつその行為を処罰可能なものを言う。<br /> <br /> *交戦国は敵軍構成員または文民の戦争犯罪を処罰することができる。<br /> *また国家は自国の軍隊構成員と文民の戦争犯罪を処罰する義務を負う。戦争犯罪人には死刑を処すことができるが、刑罰の程度は国内法によって定められる。<br /> *特に重大な戦争犯罪として考えられるものとしては、非戦闘員への殺害・拷問・非人道的処遇、文民を人質にすること、軍事的必要性を超える無差別な破壊・殺戮など様々に考えられる。<br /> <br /> 1998年には、戦争犯罪等を裁く常設裁判所として[[国際刑事裁判所]]規程が国連の外交会議で採択された。<br /> <br /> == 中立国の義務 ==<br /> {{See also|中立主義|武装中立|非武装中立}}<br /> 交戦当事国とそれ以外の第三国との関係を規律する国際法である。[[中立国]]は戦争に参加してはならず、また交戦当事国のいずれにも援助を行ってはならず、平等に接しなければならない義務を負う。一般に、次の3種に分類される。<br /> ;回避の義務<br /> :中立国は直接、間接を問わず交戦当事国に援助を行わない義務を負う。<br /> ;防止の義務<br /> :中立国は自国の[[領域 (国家)|領域]]を交戦国に利用させない義務を負う。<br /> ;黙認の義務<br /> :中立国は交戦国が行う戦争遂行の過程において、ある一定の範囲で不利益を被っても黙認する義務がある。この点について[[外交的保護権]]を行使することはできない。<br /> <br /> === スイスの自衛努力 ===<br /> [[永世中立国]]として有名な[[スイス]]は、[[第二次世界大戦]]においても中立を守った。ただし、中立を守るために相応の努力をしている。[[スイス軍]]は[[領空侵犯]]に対しては迎撃を行い、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側航空機を190機撃墜、[[枢軸国]]側航空機を64機撃墜した。スイス側の被害は約200機と推定されている。<br /> <br /> == 条約履行の確保 ==<br /> <br /> == 条約化された戦時国際法の一覧 ==<br /> 多国間で条約化された戦時国際法の一覧&lt;ref&gt;防衛法規研究会『[[自衛官]]国際法小六法』(学陽書房、平成18年版)の総目次を参考&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ジュネーブ諸条約 ===<br /> [[ジュネーヴ諸条約 (1949年)|1949年8月12日のジュネーブ諸条約]]<br /> *戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーブ条約(第1ジュネーブ条約)<br /> *海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の改善に関する1949年8月12日のジュネーブ条約(第2ジュネーブ条約)<br /> *捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーブ条約(第3ジュネーブ条約)<br /> *戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーブ条約(第4ジュネーブ条約)<br /> <br /> === ジュネーブ諸条約の追加議定書 ===<br /> [[ジュネーヴ諸条約の追加議定書 (1977年)|1977年のジュネーブ諸条約の追加議定書]]<br /> *[[ジュネーヴ諸条約第一追加議定書|1949年8月12日のジュネーヴ諸条約に追加される議定書(第1追加議定書)]]<br /> *[[ジュネーヴ諸条約第二追加議定書|1949年8月12日のジュネーヴ諸条約に追加される議定書(第2追加議定書)]]<br /> *[[ジュネーヴ諸条約第三追加議定書|2005年12月8日のジュネーヴ諸条約に追加される議定書(第3追加議定書)]]<br /> <br /> === 児童の権利保護 ===<br /> *[[児童の権利に関する条約|武力紛争における児童の権利保護]]<br /> <br /> === 文化財の保護 ===<br /> *[[武力紛争の際の文化財の保護に関する条約]]<br /> <br /> === 戦闘手段に関する条約 ===<br /> *陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約<br /> *開戦ノ際ニ於ケル敵ノ商船取扱ニ関スル条約<br /> *商船ヲ軍艦ニ変更スルコトニ関スル条約<br /> *自動触発海底水雷ノ敷設に関スル条約<br /> *戦時海軍力ヲ以テスル砲撃ニ関スル条約<br /> *海戦ニ於ケル捕獲権行使ノ制限ニ関スル条約<br /> <br /> === 武器類の禁止・制限に関する条約 ===<br /> *対人地雷の使用、貯蔵、生産及び委譲の禁止並びに廃棄に関する条約<br /> *化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約<br /> *過度に傷害を与え又は無差別に効果を及ぼすことがあると認められる通常兵器の使用の禁止又は制限に関する条約<br /> *過度に傷害を与え又は無差別に効果を及ぼすことがあると認められる通常兵器の使用の禁止又は制限に関する条約に付随する1996年5月3日に改正された地雷、ブービートラップ及び他の類似の装置の使用又は制限に関する議定書<br /> *環境改変技術の軍事的使用その他の敵対的使用の禁止に関する条約<br /> *細菌兵器(生物兵器)及び毒素兵器の開発、生産及び貯蔵の禁止並びに廃棄に関する条約<br /> *窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止関する議定書<br /> *窒息セシムヘキ瓦斯ヲ散布スルヲ唯一ノ目的トスル投射物ノ使用ヲ各自ニ禁止スル宣言書<br /> *外包硬固ナル弾丸ニシテ其ノ外包中心ノ全部ヲ蓋包セス若ハ其ノ外包ニ截刻ヲ施シタルモノノ如キ人体内ニ入テ容易ニ開展シ又ハ扁平ト為ルヘキ弾丸ノ使用ヲ各自ニ禁止スル宣言書<br /> <br /> === 中立等に関する条約 ===<br /> *開戦ニ関する条約<br /> *陸戦ノ場合ニ於ケル中立国及中立人ノ権利義務ニ関スル条約<br /> *海戦ノ場合ニ於ケル中立国ノ権利義務ニ関スル条約<br /> <br /> === 国際組織等に関する条約 ===<br /> *[[国際連合憲章]]<br /> *国際連合要員及び関連要員の安全に関する条約<br /> *[[海洋法に関する国際連合条約]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *[[防衛大学校]]・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)<br /> *[[足立純夫]]『現代戦争法規論』(啓正社、1979年)<br /> *足立純夫『武力紛争関係条約集』(啓正社、1980年)<br /> *[[信夫淳平]]『戦時国際法講義』全4巻(丸善、1941年)<br /> *小寺彰、[[岩沢雄司]]、森田章夫編『講義国際法』([[有斐閣]]、2006年)<br /> *防衛法規研究会『自衛官国際法小六法』(学陽書房、平成18年版)<br /> *佐島直子編『現代安全保障用語辞典』(信山社出版、2004年)<br /> *[[田岡良一]]『空襲と国際法』(巌松堂書店、1937年)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Laws of war}}<br /> *[[国際法]] - [[戦争]]<br /> *[[軍備管理]] - [[軍縮]]<br /> *[[ジュネーブ条約]]<br /> *[[ハーグ陸戦条約]]<br /> *[[臨検]] <br /> *[[人道的介入]] <br /> *[[自衛権]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.icrc.org/eng/war-and-law/index.jsp War and International Humanitarian Law](赤十字国際委員会公式サイト)(フランス語、英語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、ロシア語、中国語)<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:せんしこくさいほう}}<br /> [[Category:戦争]]<br /> [[Category:軍事学]]<br /> [[Category:戦時国際法|*せんしこくさいほう]]<br /> [[Category:戦争犯罪]]<br /> {{Law-stub}}<br /> {{Gunji-stub}}</div> 124.39.100.132 ローゼンバーグ事件 2018-04-01T10:42:10Z <p>124.39.100.132: </p> <hr /> <div>[[Image:Julius and Ethel Rosenberg NYWTS.jpg|thumb|300px|逮捕されたローゼンバーグ夫妻]]<br /> &#039;&#039;&#039;ローゼンバーグ事件&#039;&#039;&#039;(ローゼンバーグじけん)は、[[ドイツ]]出身の核科学者の[[クラウス・フックス]]が[[スパイ]]容疑で逮捕されたのが発端となって、[[冷戦]]下の[[1950年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で発覚した、[[ソビエト連邦]]によるスパイ事件。<br /> <br /> 当時は容共的な[[左翼]][[メディア]]を中心に「[[冤罪]]である」としてアメリカ政府に対する批判に使われていたが、[[ヴェノナ文書]]でローゼンバーグ夫妻が実際にスパイ活動をおこなっていたことが明らかになった&lt;ref&gt;ヴェノナと現代史再検討 - 青山学院大学[http://www.gsim.aoyama.ac.jp/~fukui/VenonaSummary.pdf]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> === 逮捕 ===<br /> [[File:Julius Rosenberg mugshot.png|thumb|220px|ジュリアス・ローゼンバーグ]]<br /> [[File:Ethel Rosenberg mugshot.png|thumb|220px|エセル・グリーングラス・ローゼンバーグ]]<br /> [[第二次世界大戦]]後の冷戦中の[[1950年]]に、アメリカの[[ユダヤ人]]夫妻[[ジュリアス・ローゼンバーグ]]と[[エセル・グリーングラス・ローゼンバーグ]]{{enlink|Julius and Ethel Rosenberg|a=on}}は、エセルの実弟で第二次世界大戦中は[[ロスアラモス]]の[[原爆]]工場に勤務していたソ連のスパイ・{{仮リンク|デイヴィッド・グリーングラス|en|David Greenglass}}から原爆製造などの機密情報を受け取り、それをソ連に提供した容疑で[[連邦捜査局|FBI]]に逮捕された。<br /> <br /> === 死刑判決 ===<br /> 逮捕当時、公式に「証拠」とされるものはグリーングラスの自白のみだった。ローゼンバーグ夫妻は裁判で無実を主張したが、[[1951年]][[4月5日]]に死刑判決を受けた。アメリカ政府は「この死刑判決が重すぎる」とする「ガーディアン」紙などの世界のメディアによって厳しく批判されたほか&lt;ref&gt;http://www.theguardian.com/world/1953/.../usa.fromthearchi...&lt;/ref&gt;夫妻に同情した左翼を中心とした支援者によって、[[西側諸国]]を中心とした助命運動が行われた。<br /> <br /> ローゼンバーグ夫妻の冤罪を訴えた著名人には、[[ジャン=ポール・サルトル]]、[[ジャン・コクトー]]、[[アルベルト・アインシュタイン]]、[[ロバート・オッペンハイマー]]、[[ハロルド・ユーリー]]、[[ネルソン・オルグレン]]、[[ベルトルト・ブレヒト]]、[[ダシール・ハメット]]、[[フリーダ・カーロ]]、[[ディエゴ・リベラ]]、[[パブロ・ピカソ]]、[[フリッツ・ラング]]などの他に、[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]&lt;ref&gt;http://www.wsws.org/en/articles/2008/09/rose-s13.html&lt;/ref&gt;もいたが、これらの多くが[[共産主義]]者やその[[シンパ]]、または普段より容共的かつ左翼的な言動を行っている者であった。<br /> <br /> === 刑の執行 ===<br /> 司法側からは「供述すれば死刑にはしない」との[[司法取引|取引]]誘導もあったが、ローゼンバーグ夫妻は供述を拒否し続け、最終的に死刑が執行された。なお、[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]室と刑務所間の[[ホットライン]]が死刑執行まで繋がっており、この状況が刻々と報道されて全世界が注目し、興奮に沸いたが、ローゼンバーグ夫妻は[[1953年]][[6月19日]]夜、[[ニューヨーク州]][[シンシン刑務所]]にて同じ[[電気椅子]]にて、最初に夫ジュリアスが午後7時6分に、そして次に妻エセルが午後7時16分に、それぞれ処刑された。建国後初のスパイ容疑による民間人の処刑であった。<br /> <br /> === 真実解明 ===<br /> 冷戦が崩壊する[[1990年代]]前半までは、この事件は「[[マッカーシズム]]と[[反ユダヤ主義]]を背景にしたでっち上げである」として、容共的な左翼思想を持つ[[作家]]や[[学者]]などの「文化人」や、同じく左翼的なマスコミによって批判され、また「冷戦下のアメリカにおける人権蹂躙の象徴」として取り上げられてきた。<br /> <br /> しかし、その一方で、西側に亡命した[[ソ連国家保安委員会]](KGB)のエージェント達から育成訓練の課程で「ローゼンバーグ夫妻の功績」が語られていたことを証言する者もおり、諜報組織の世界では夫妻がソ連のエージェントだったことは常識となっており、そこから来る情報から夫妻の立場は完全に潔白だとは言いがたい状況となっていた。<br /> <br /> 東西冷戦終結と[[ソ連崩壊]]後に、[[1995年]]まで行われていた旧ソ連の暗号を解読する「[[ベノナ]]計画」に対する機密が解除された事で、それまでのアメリカ内部のスパイと旧ソ連の連絡の内容の一部が公開され、ローゼンバーグ夫妻が実際にソ連のスパイであり、アメリカの軍事機密をソ連側に渡していたことが明らかになった。<br /> <br /> == 事件後 ==<br /> === 「ベノナ計画」機密解除 ===<br /> 上記のように、長年の間多くの[[反米]]もしくは左翼思想を持つ作家や学者などの「文化人」や、同じく左翼的なマスコミにの間では、この事件そのものが「でっち上げである」とされ続けていた。しかし、冷戦崩壊後の1995年に「ベノナ計画」についての機密が解除されたことにより、裁判では明らかにされなかった証拠も明らかになり、夫婦共にソ連のスパイであったことが判明している&lt;ref&gt;なお[[:en:Venona_project#Julius_and_Ethel_Rosenberg]]によれば、ジュリアスがソ連に渡していた主な情報は、原爆に関するものではなく、[[近接信管]]や[[ロッキード]][[F-80 (戦闘機)|F-80]]戦闘機、エマーソン{{enlink|Emerson Radio}}に関するものであったとされる&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 妻エセルについては、弟夫婦をソビエトのスパイ組織に夫と共に勧誘している記述が存在するも、国家機密をソ連の工作員に手渡す行動を明確に示唆する記載はなく(だが、夫の行為を知っていたのは明らかである)、死刑となった罪状そのものには関与していなかった可能性も残っている&lt;ref name=sobell&gt;{{cite news |first=Sam |last=Roberts |title=For First Time, Figure in Rosenberg Case Admits Spying for Soviets |url=http://www.nytimes.com/2008/09/12/nyregion/12spy.html?partner=rssnyt&amp;emc=rss |quote=Sobell, who served nearly 19 years in Alcatraz and other federal prisons, admitted for the first time that he had been a Soviet spy.}}&lt;/ref&gt;。これに対して、エセルの弟のデイヴィッド・グリーングラスは、「自分の妻を庇うために法廷で偽証して、姉のエセルの罪を重くした」ことを[[2001年]]に告白した。なお、グリーングラスを通してジュリアスがソ連に伝えた情報の質については、より中枢に近い立場にいたフックスと比較するとかなり劣ったものであり、他にも複数いたソ連のエージェントの中では際だったものではなかった。<br /> <br /> また、この事件の担当検事の[[ロイ・コーン]]は、「判事への法廷外での働きかけを駆使し、なかば強引に夫妻の死刑判決を勝ち取った」ことを後に自伝で述べている。このように、妻エセルの有罪判決に対する疑問点が残る他、裁判自体には数多くの問題や誤りもあったものの、いずれにしても裁判から45年以上たった後に夫婦が実際にソ連のスパイであったことが証明された。<br /> <br /> === フルシチョフ回顧録 ===<br /> さらに、冷戦時にソ連の指導者だった[[ニキータ・フルシチョフ]]が失脚後に書いた回想録の中には、「[[ヨシフ・スターリン]]がローゼンバーグ夫妻の名前を挙げて『情報が役に立った』と述べていた」という記述がある。<br /> <br /> 回想記は、息子の[[セルゲイ・フルシチョフ]]によって西側に持ち出され、[[1971年]]にアメリカの[[タイム・ワーナー|タイム・ライフ]]社により出版されたが、ローゼンバーグ夫妻に言及した部分は、フルシチョフ本人の政治的配慮により回想記からは削除され、この部分が公開されたのは冷戦終結直前の[[1989年]]になってからである。<br /> <br /> == 一族のその後 ==<br /> *{{仮リンク|マイケル・ミアロポール|en|Michael Meeropol}}<br /> *:長男。経済学教授。娘(夫妻の孫)の{{仮リンク|アイヴィ・ミアロポール|en|Ivy Meeropol}}は映画監督。[[2004年]]に、ローゼンバーグ事件を扱ったドキュメンタリー映画「Heir to an Execution」を[[サンダンス映画祭]]に出品し話題となった。<br /> *{{仮リンク|ロバート・ミアロポール|en|Robert Meeropol}}<br /> *:次男。弁護士となる。のち、獄に繋がれた左翼活動家の子供たちのために[[ローゼンバーグ児童基金]]を設立。<br /> <br /> == 文献 ==<br /> 夫妻が獄中から幼い2人の息子たちに送った書簡は『愛は死をこえて&lt;ref&gt;山田晃訳『愛は死をこえて―ローゼンバーグの手紙』光文社、1953年&lt;/ref&gt;』の題名で日本語訳されベストセラーとなり、当時ソ連やそれを支援する者の[[プロパガンダ]]として機能することになった。なお、擁護する立場の評伝にレオン・クルチコフスキー『エセルとジュリアス ローゼンバーグ事件、最後の六時間』(中本信幸訳 未來社、1985年、ISBN 4624700503)。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commons|Rosenberg trial}}<br /> *[[CIA]] <br /> *[[モサド]] <br /> *[[MI6]] <br /> *[[ジョルジュ・コワリ]] - ソ連の原爆スパイ<br /> *[[レフチェンコ事件]]<br /> <br /> {{政府に関する情報漏洩・内部告発}}<br /> {{ソ連のスパイ}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ろおせんはあくしけん}}<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の事件 (1945年-1989年)]]<br /> [[Category:諜報工作]]<br /> [[Category:ロシアの工作活動]]<br /> [[Category:内務人民委員部]]<br /> [[Category:米露関係]]<br /> [[Category:1950年のアメリカ合衆国]]</div> 124.39.100.132 ヴィリー・ブラント 2018-03-24T13:37:08Z <p>124.39.100.132: /* 連邦首相辞任 */</p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |各国語表記 = Willy Brandt<br /> |画像 = Bundesarchiv_B_145_Bild-F057884-0009,_Willy_Brandt.jpg<br /> |画像説明 = ヴィリー・ブラント<br /> |国略称 = {{GER}}<br /> |生年月日 = [[1913年]][[12月18日]]<br /> |出生地 = {{DEU1871}}、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]][[リューベック]]<br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1913|12|18|1992|10|8}}<br /> |死没地 = {{GER}}、[[ラインラント・プファルツ州]]ウンケル<br /> |出身校 = <br /> |所属政党 = [[ドイツ社会民主党]]<br /> |称号・勲章 = <br /> |配偶者 = アンナ・カルロータ・トルキルゼン&lt;br /&gt;ルート・ベルガウスト&lt;br /&gt;ブリギッテ・ゼーバッハー<br /> |サイン = Willy Brandt signature.svg<br /> |ウェブサイト = <br /> |サイトタイトル = <br /> |国旗 = <br /> |職名 = <br /> |内閣 = <br /> |選挙区 = <br /> |当選回数 = <br /> |就任日 = <br /> |退任日 = <br /> |退任理由 = <br /> |元首職 = <br /> |元首 = <br /> |国旗2 = 西ドイツ<br /> |職名2 = 第4代[[ドイツの首相|連邦首相]]<br /> |内閣2 = ヴィリー・ブラント内閣<br /> |選挙区2 = <br /> |当選回数2 = <br /> |就任日2 = [[1969年]][[10月21日]]<br /> |退任日2 = [[1974年]][[5月7日]]<br /> |退任理由2 = [[ギヨーム事件]]引責のため<br /> |元首職2 = <br /> |元首2 = <br /> &lt;!-- ↓省略可↓ --&gt;<br /> |国旗3 = 西ドイツ<br /> |職名3 = 連邦副首相 兼 [[外務省 (ドイツ)|外務大臣]]<br /> |内閣3 = [[クルト・ゲオルク・キージンガー]]内閣<br /> |選挙区3 = <br /> |当選回数3 = <br /> |就任日3 = [[1966年]][[12月1日]]<br /> |退任日3 = [[1969年]][[10月20日]]<br /> |退任理由3 = <br /> |元首職3 = <br /> |元首3 = <br /> |国旗4 = <br /> |職名4 = [[西ベルリン]]市長<br /> |内閣4 = <br /> |選挙区4 = <br /> |当選回数4 = <br /> |就任日4 = [[1957年]][[10月3日]]<br /> |退任日4 = [[1966年]][[12月1日]]<br /> |退任理由4 = <br /> |元首職4 = <br /> |元首4 = <br /> |その他職歴1 = [[社会主義インターナショナル]]議長<br /> |就任日6 =[[1976年]]<br /> |退任日6 =[[1992年]]<br /> |国旗7 = ドイツ<br /> |その他職歴2 = [[ドイツ社会民主党]][[党首]]<br /> |就任日7 = [[1964年]]<br /> |退任日7 = [[1987年]]<br /> }}<br /> {{thumbnail:begin}}<br /> {{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1971年|ノーベル平和賞|[[東ドイツ]]を含めた東欧諸国との関係正常化を目的とした、彼の[[東方外交]]に対して}}<br /> {{thumbnail:end}}<br /> &#039;&#039;&#039;ヴィリー・ブラント&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Willy Brandt&#039;&#039;&#039;、[[1913年]][[12月18日]] - [[1992年]][[10月8日]])は、[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]](旧西ドイツ)の[[政治家]]。第4代[[ドイツの首相|連邦首相]]([[1969年]]-[[1974年]])。[[ドイツ社会民主党]] (SPD) [[党首]]([[1964年]] - [[1987年]])。[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]][[リューベック]]出身。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 労働者の家庭に生まれ第二次大戦前にドイツ社会民主党に所属し、その後に党を離れたが反ナチス活動で[[ノルウェー]]に逃れ、戦後は西ドイツの社会民主党に戻り、西ベルリン市長となって、1958年のベルリン危機、1961年のベルリンの壁の建設に対処し、1964年に社会民主党党首となった。1966年にキリスト教民主(社会)同盟との大連立内閣を組んでキージンガー内閣で外相となり、1969年秋に自由民主党と連立内閣を組み、戦後初の社会民主党党首として首相に就任した。在任中は積極的な東方外交を展開して、東西の緊張緩和を進め、東ドイツとも基本条約を結んで両ドイツ間の懸案を少しずつ解決していくことを示した。[[1971年]][[ノーベル平和賞]]を受賞したが、[[1974年]]に秘書の[[ギュンター・ギヨーム]]が東ドイツ[[シュタージ|国家保安省]]の潜入させていたスパイと発覚した([[シュタージ#対西ドイツ工作の成果 ギヨーム事件|ギヨーム事件]])により首相を辞任した。後に[[社会主義インターナショナル]]議長(1976年 - 1992年)を務めた。<br /> <br /> == 経歴 ==<br /> === 生い立ち===<br /> ヴィリー・ブラントの生い立ちは、かなり複雑で私生児であることから後に政敵から攻撃されることが多く、1961年夏のベルリンの壁が建設された時も当時のアデナウアー首相が選挙演説で彼の出生のことを揶揄されたりしたが、ブラントは一切ごまかそうとせずかえって周囲の評価を高めた。<br /> <br /> 本名は&#039;&#039;&#039;ヘルベルト・エルンスト・カール・フラーム&#039;&#039;&#039; (Herbert Ernst Karl Frahm)で、1913年12月18日、現在の[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]][[リューベック]]で生まれ、父はヨーン・メラー、母はマルタ・フレームであった。2日後にリューベックの出生登録簿に生まれた男子の名前と母のみの登録がされ、婚外子であった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』12P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 教会も私生児には冷たく、近所の[[ルーテル教会|ルター派教会]]は私生児であることを理由に[[洗礼]]を授けることを拒んだため、母マルタ・フラームは1914年2月26日、市内の離れた場所にある同じルター派の聖ローレンツ教会に幼子を連れて行きブラントはここで洗礼を受けた。<br /> <br /> 母マルタ・フレームの父(ブラントの祖父)はルートヴィッヒ・ハインリヒ・カール・フラームで母はヴィルヘルミーネと呼ばれたが、このブラントの母方の祖母はブラントが生まれる数週間前に亡くなった。そして母マルタは祖父ルートヴィッヒの実子ではなくヴィルヘルミーネが未婚時に生まれた娘であった。しかしルートヴィッヒは父親としてマルタを育て、そしてマルタが生んだブラントの父親代わりとなって幼少期にはパパと呼ばれ、ブラントの高校卒業証書でも父親と記入されていた。やがて第一次世界大戦で、祖父ルートヴィッヒは徴兵で戦線に赴き、4年後の大戦の終わりで戻り、1919年に10歳年下のドロテーア・シュタールマンと再婚した。そして母マルタの方も息子を養うため厳しく働かねばならなかった。そして1926年に左官職人頭のエミール・クールマンと結婚した。この時マルタは32歳でブラントは13歳であった。母はマルタ・クールマンとなり、やがて異父弟ギュンター・クールマンが生まれている。母マルタは「余り気張らない質で自然に愛着を持ち教養を渇望していた」とされ、「太り気味だが活発」であったとブラントは後に語っている。1969年8月に75歳で亡くなったが、これはブラントが首相に就任する2カ月前であった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』13-19P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> そして父ヨーン・メラーについて、ブラント自身が本当の父親を知ったのは戦後になってからで、母マルタに思い切って手紙で問い合せた時に母から送ってきたメモ用紙に書いていた名前がヨーン・メラーであった。1949年5月に姓名変更の申請手続きをした時に、ブラントはこの名前を父親欄に記入している。そして1961年6月に当時西ベルリン市長として東西対立の狭間で苦悩していた時期に、ゲルト・アンドレ・ランク&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;この人物は、実父ヨーン・メラーの母マリア・メラー(ブラントにとっては父方の祖母)の孫にあたる人物であった。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』16P参照&lt;/ref&gt;という人物から手紙が来て、実父の消息を知った。実父は第一次世界大戦で記憶能力が損なわれ、戦後は会計係として働き1958年にハンブルクで亡くなっていた。そして「並外れた深い人間味の持ち主で、周囲の人々に強い印象を与える品格の持ち主」&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ブラントに実父の存在を知らせたゲルト・アンドレ・ランクの言葉である。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』16P参照&lt;/ref&gt;であり、「穏やかで円満で思慮深い人」&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ゲルト・アンドレ・ランクはその後に妻と離婚したが、ブラントが75歳の時に書いた回想録を読んだこの従兄弟の妻が、読んですぐにペンを取り、ゲルト・アンドレのいう父親像は真実であったとして、そしてヨーン・メラーを評して書き添えたものである。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』16P参照&lt;/ref&gt;であったという。ブラントは父親についてほとんど何も語らず、75歳になって書いた「回想録」で初めてこのことを明らかにした&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』16P参照&lt;/ref&gt;。<br /> === 優秀な学業成績 ===<br /> 育ての親でもある母方の祖父ルートヴィッヒ・ハインリヒ・カール・フラームはいろいろと面倒を見てくれたが、必ずしも父親代わりにはなれなかった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』13P参照&lt;/ref&gt;。しかし第一次大戦から帰還した祖父がいることで行動や指針の面で頼りになる男性を身近にもって、6歳以降にブラントは成長していく。そして祖父ルートヴィッヒはトラック運転手として働き、ブラント少年に和やかな子ども時代を過ごさせ、社会主義的な労働運動への道に導き、専門の養成教育が受けられるようにして、その性格形成に大きく関わった一人である&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』20P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ブラントは聖ローレンツ少年中等学校で7年間通い、1927年にレアール・シューレに1年間学び、その後大学進学をめざすレアール・ギムナージウムへと進んだ&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;この時代のドイツの学校制度では、大学進学をめざす「ギムナージウム」、中間的な官吏や職員をめざす「レアール・シューレ」、職業訓練を受けながら通う「ハウプト・シューレ」の3つのコースがあった。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』21P参照&lt;/ref&gt;。1920年代に労働者の子弟で高等教育機関に進学できるのは、ほんの僅かな数であった。1932年2月26日に高等学校課程の修了試験[[アビトゥーア]]試験に合格し、「秀」の評価を受けた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』22P参照&lt;/ref&gt;。<br /> === 青年活動から政治活動へ ===<br /> しかしブラントは高校生の時には政治に参加していた。祖父ルートヴィッヒが[[ドイツ社会民主党]](SPD)党員で市議会議員選挙にも出馬したことがあり、ブラントは労働者スポーツの子どもクラブに入り、その後労働者マンドリンクラブに入り、そして14歳で自分の居場所を社会主義の青年運動に見出し、やがて社会主義労働者青少年団に入った。これはワンダーフォーゲルとボーイスカウトをミックスしたような団体であったと後にブラント自身が語っていたが、生涯を通してそうした青年運動が自分にとって連帯の体験、家庭の代用そして個人的な能力テストの基盤として大きな意味を持っていた、と述べて自然やキャンプ生活、野外のキャンプファイヤーで唄うのが好きな青年であった。そして16歳の時、1929年8月27日にリューベックの社会民主党機関誌『民衆の使者』に記事を寄稿し、翌1930年に17歳でドイツ社会民主党(SPD)に入党する&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』28-29P参照&lt;/ref&gt;。学校に通う間も地元機関紙に繰り返し寄稿し、その編集長である[[ユリウス・レーバー]]の影響を受けた。だが少年時代から急進左派に属していたブラントは、1931年10月にレーバーや社会民主党(SPD)と決別し、[[ドイツ社会主義労働者党]](SAP)に入党した&lt;ref&gt;[http://www.bwbs.de/bwbs_biografie/index.html?l=en&amp;id=646&amp;year=1932&amp;month=2 Willy Brandt joins the SAP] at Bundeskanzler Willy Brandt Stiftung&lt;/ref&gt;ことで、レーバーの世話で受けるはずだったSPDの奨学金が受け取れなくなったため、ブラントは大学進学を諦めて地元の造船所で働いた。そして地元の機関誌『民衆の使者』の編集からも1931年10月に去っている。ただこの『民衆の使者』の編集は若い彼にとって理想的な職業訓練の場となった。この『民衆の使者』編集部の同僚は後に「この若い社会主義者は官憲の反応を意に介さず、自分の考えをはっきりと述べる勇気と率直な姿勢に少なからぬ人たちが感銘を受けて、目立つ存在であった。」と語っている&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』33-34P参照&lt;/ref&gt;。<br /> === 反ナチス活動 ===<br /> 1933年1月30日に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政権が誕生し、2月27日に国会議事堂が炎上され、共産党も社会民主党も[[ドイツ社会主義労働者党]](SAP)も活動が禁止され、党指導者も解党方針を出したが党員の一部は反発して3月11日にドレスデンで秘密裡に集まり党の存続を決め、党事務所をノルウェーのオスロに置くこととし、その事務所の責任者を決めたが直後に逮捕されたため、この時まだ20歳前であったブラントを責任者としてオスロに送り込むことになった&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;この解党方針に反対してドイツ社会主義労働者党の指導者になったのが、ドイツ社会民主党からドイツ共産党に移り、やがて反主流派として離党してドイツ社会主義労働者党に入ったヤコプ・ヴァルヒャーであった。ブラントとはその後も親密な関係であったが、1940年にアメリカに亡命し、戦後1946年にドイツに戻り、ドイツ社会主義統一党に入って要職についたが、1950年代に失脚し、1970年3月に東ドイツで死去した。&lt;/ref&gt;。1933年4月1日から2日にかけてブラントはリューベック北方20キロの港から船でドイツを離れてまずデンマークに向かった。身に付けていたものは下着数枚と「資本論」第1巻と祖父がくれた100マルクの現金であった。祖父ルートヴィッヒとはこれが永遠の別れとなった。そして1歳下の女性ゲルトルート・マイヤーが彼を追っていた。<br /> ====オスロでの党活動====<br /> デンマークに到着後コペンハーゲンで数日滞在した後にノルウェーのオスロに向かった。そしてオスロで党組織再建のための活動に従事し、遅れてこの1933年夏にゲルトルート・マイヤーがオスロに来て、二人は一緒に住むことになった。このゲルトルート・マイヤーはその3年後の1936年2月にノルウェー人「グナル・ガースラント」&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;「グンナー・ゴースラン」と表記する資料もある。&lt;/ref&gt;と偽装結婚してノルウェーの国籍を取得して、以降ドイツへの連絡役を無難にこなした。このブラントとゲルトルート・マイヤーは1939年春まで一緒にいたが結婚はしなかった&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ゲルトルート・マイヤーは、その後オスロで一緒に作業していた秘書のヴィルヘルム・ライヒのあとを追って、ニューヨークに向かった。&lt;/ref&gt;。そして名目上の夫であるグナル・ガースラントはブラントを支援し仲間として旅行やスポーツなどの活動に積極的に参加し、そして1936年に危険なベルリンへの潜入のために偽造パスポートに自分の名前を使わしてくれた人物であった。ブラントはまたこのオスロ仲間の一人から警察の追及を避けるためにオスロ大学に籍を置くことを勧められて、学籍登録して歴史学を専攻した。そしてこのオスロ大学でアンナ・カルロータ・トルキルゼンというノルウェー人女性と知り合った。<br /> <br /> ブラントのオスロでの任務は[[ドイツ社会主義労働者党]](SAP)のノルウェー海外事務所を設立し、同時に外国における党の青年同盟の活動をコーディネートすることであった。そして彼の折衝相手は[[ノルウェー労働党]]であり、この党はブラントを経済的支援をして、またブラントが警察の手で故国へ送還されるのを防いでくれた。ただ当時の[[オスロ]]のドイツ外交部には「フラーン(Frahn)という名のアジテーターが登場している」という1933年8月9日付けのメモがあった。ノルウェーでの滞在許可が下りた時に政治的活動はしないとの条件が付けられていたが、ブラントはそれに従うつもりはなく、1933年4月11日付けのノルウェー労働党の機関紙に寄稿記事を書き始め、さまざまなペンネームを使って、やがてオスロに集まった亡命者のための新聞の活動を展開して、このオスロにいる時代にジャーナリストとして活躍していった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』46-55P参照&lt;/ref&gt;。そしてこの時に“&#039;&#039;&#039;ヴィリー・ブラント&#039;&#039;&#039;”を名乗り、やがてオランダやフランスのパリ、ベルギーそして元のドイツのベルリンを訪ね、ベルリン滞在中はノルウェー人になりきり、ノルウェー語なまりのドイツ語を話していた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』52P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1936年のクリスマス直前にブラントはベルリンを去ってチェコスロバキアを訪ね、ここで[[ユダヤ人|ユダヤ系]][[オーストリア人]][[ブルーノ・クライスキー]]と知り合った。その後ポーランドを経てオスロに戻ったが、すぐにドイツ社会主義労働者党指導部からバルセロナに行きスペイン内戦の状況についての報告を求められて、1937年2月にスペインに向かい、そしてこの[[スペイン内戦]]の取材活動を行った。ここでブラントは左翼陣営内の争いを見て、コミンテルンの横暴を知り、それは後々まで忘れることはなかった。1937年6月にスペインを離れパリに到着し、ドイツ社会主義労働者党指導部の拡大会議に出席してスペイン内戦の報告を行った際に、「己に同質化しようとしないあらゆる勢力を殲滅しようとするコミンテルン」を非難し「国際的な労働運動はコミンテルンのその種の攻撃を防ぐ必要がある」と述べて「インチキな手段、下品な中傷、虚偽、テロルという手段を阻止しなけらばならない」と述べた。このスペイン内戦でブラントがスターリン主義の共産主義相手になめた経験は、社会民主主義でも急進派であったブラントを主流派に再び接近する重要なインパクトとなった。またブラントのその後の政治的な経歴にとって決定的な部分となったのはノルウェー労働党であった。早くにコミンテルンから離れ1939年までに路線転換して、改革政策で労働者階級の利害と要望に応え成果を上げていることをブラントは学んだ&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』55-58P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 戦時下の活動 ===<br /> ====国籍剥奪====<br /> 1938年9月にナチスドイツは51名の国籍剥奪者リストを発表し、その中に「フラーム、ヘルベルト・エルンスト・カール 1918年12月18日生まれ リューベック」という記述があった。この前年5月にパリのドイツ大使館にヘルベルト・フラーム某なる者がフランスと北の国々との間を亡命者組織のための伝令役として行き来しているとのメモが届いていたが、まもなくこの人物がヴィリー・ブラントと同一人物であることを掴んでいた。ブラントにとってノルウェーに国籍の取得申請をするしか選択肢はなかった。そして彼はここでノルウェー国籍を取得する。この時にオスロ大学で知り合ったアンナ・カルロータ・トルキルゼンと再会し彼女も力づけてくれた。ブラントよりも10歳年上の彼女はノルウェー人の父とドイツ人の母の間にケルンで生まれ、知的で文学的な興味の持ち主でこの時はオスロの比較文化研究所で秘書として働いていた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』62-63P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ====第二次大戦勃発====<br /> 翌1939年8月24日にブラントは信じられない思いで独ソ不可侵条約が締結されたことを知った。スターリンとヒトラーが手を結んだことで、ブラントはヤーコブ・ヴァルヒャー党首に手紙を送り「今や革命勢力としてのソビエトをヒトラーと並ぶ第一級の反動勢力」と非難し、スターリンを過大に評価することの危険性を述べてソ連で起こっていることは恐るべきことだ、と書いて国内における血の粛清にも触れて、「社会主義は真にその名に値する政策を実行しようとするなら、自由とデモクラシーに基づくものでなかればならない」と述べた。これが「民主主義的社会主義」という理念を誕生させ、20年後の1959年にドイツ社会民主党がそれまでの階級政党から大衆政党に路線転換したゴーデスベルグ綱領を採択した。ブラントは1986年に「社会主義はデモクラシーによってのみ実現されるものであり、デモクラシーは社会主義によって実現するのだ」と語っている&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』59-62P参照&lt;/ref&gt;。そのほぼ1週間後にナチスドイツはポーランドに侵入し、英仏両国は宣戦布告し第二次大戦が始まった。そしてソ連も東からポーランドに侵入した。<br /> ====スウェーデンに亡命====<br /> そして翌1940年4月8日にカルロータから妊娠を打ち明けられ、また初めてノルウェーで自著を刊行したその日の次の早朝、ドイツ軍がノルウェーとデンマークに侵攻した。ノルウェーがドイツ軍に[[北欧侵攻|占領]]されたとき、ブラントは捕虜になるが、ノルウェー軍の軍服を着て正体がばれずに6月には釈放されて、スウェーデンに向かった。しばらくしてまたもう一度オスロに戻るが1941年の初めにストックホルムに滞在し、5月にオスロからスウェーデンに来たカルロータと結婚した。この時に彼が所持していた身分証明書は本来の「フラーム」の名前であったので、カルロータと「フラーム」の姓でストックホルムで暮らし、同年10月30日に女の子を出産してニーニャと名付けた。しかしカルロータとの結婚生活はわずか2年で破局で終わった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』64-66P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[スウェーデン]]は中立国の立場であったが公安警察はたびたびブラントを逮捕・拘留した。ただロンドンに移ったノルウェーの亡命政府が彼の国民証明書を交付して、[[スウェーデン]]では彼はノルウェー人として認めれて国内での活動は比較的自由に出来てジャーナリストとして記事を書き、4冊の著書も書いた。1941年6月22日にドイツは突然ソ連を急襲し、ドイツ人亡命者の状況も根本的に変化した。そしてこの当時の中立国の首都ストックホルムは世界各国の秘密諜報機関の暗躍の場であり、ブラントはノルウェーの友人からの情報をソ連、イギリス、アメリカの情報機関に情報提供したりしていた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』66-69P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1941年10月9日にブラントは亡命SPD(ナチスに活動禁止を命じられた社会民主党が当初はプラハに、そしてその後にパリに移っていた)に加入することを明らかにした。この時にアメリカに亡命していた[[ドイツ社会主義労働者党]](SAP)のメンバーは驚き、党首のヤーコブ・ヴァルヒャーも「面目を潰されるような一撃」と受け取った&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』70P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この亡命先で[[ユダヤ人|ユダヤ系]][[オーストリア人]][[ブルーノ・クライスキー]]と再会し、彼とは1942年9月に「民主主義的社会主義者たちの国際的グループ」(小さなインターナショナル)という国際的な集まりのサークルに一緒に参加している。このグループからは戦後に他の国で大臣、議員、外交官として活躍した人もいて、そのうちヴィリー・ブラントと[[ブルーノ・クライスキー]]はほぼ同時期に西ドイツとオーストリアの首相を務めている。この二人は終生の友となった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』70P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1943年のブラントの30歳の誕生日の折りにノルウェー人のルート・ベルガウストという既婚女性と知り合った。ブラントより8歳年下でストックホルムのノルウェー大使館の報道部門に勤めていて、どちらも既婚(ブラントはこの時まだカルロータとは離婚していなかった)であったが、1944年夏頃には頻繁に会う仲となった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』73P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1945年5月8日、ヒトラーが自殺して8日後にナチスドイツは無条件降伏した。ドイツ自身の未来はまだ何も分からない状態であった。<br /> <br /> === 戦後===<br /> 終戦後の1945年11月、ノルウェー紙の記者として[[ニュルンベルク裁判]]を取材するため9年ぶりにドイツに帰国し、そして母マルタ、継父エミール、異父弟ギュンターと再会した。[[ニュルンベルク裁判]]では占領軍政府の指示でノルウエー軍の制服を着て取材し、やがてオスロ時代の同志で後にノルウエーの外相となるハルヴァルト・ランゲの斡旋で1947年1月17日にベルリン駐留ノルウエー軍事使節団の報道担当官の職についた。しかしこうした立場では故郷ドイツの政治に働きかけをすることは出来ない認識して、同年11月に軍事使節団を辞した&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』76P参照&lt;/ref&gt;。<br /> ====ベルリンSPD====<br /> 1945年5月8日の無条件降伏後のドイツでは、6月11日にドイツ共産党(KPD)がソ連占領地区で創設され、6月15日にドイツ社会民主党(SPD)も新たに創立していた。共産党にはヴィルヘルム・ピークとヴァルター・ウルブリヒトが指導者として登場し決定的役割を果たした。社会民主党は当座の指導部として中央委員会が設けられ、そのスポークスマンとして[[オットー・グローテヴォール]]が務めた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』85P参照&lt;/ref&gt;。この他に6月26日にキリスト教民主同盟(CDU)、7月5日には自由民主党(FDP)が結成されて、これらドイツの伝統的政党が復活した7月にベルリンで4党で「反ファシズム民主諸政党統一戦線」をもとにして人事・教育・警察のポストに必ず共産党員がついていたが各党平等に行政を担当した。しかし、それから1年もたたない1946年春にソ連は共産党と当時ベルリンで最も有力であった社会民主党とを統一させて4月21日に社会主義統一党(SED)が結成された。この当時社会民主党内はグローテヴォールが率いるベルリングループと[[クルト・シューマッハー]]が率いるハノーファーグループが有力勢力であった。共産党との合併に反対であったシューマッハはベルリンに赴き説得し、3月31日に共産党との合併についての全党員を対象に特別投票が行われた。結果はベルリン西側地区32,547名のうち、投票数23,755名で賛成は僅か2,937名であった。東側地区はソ連が事前に形成不利を察知して投票を途中で打ち切り、そして共産党と社会民主党との合併を強行した&lt;ref&gt;本村実和子 著「ドイツ再統一」50-51P参照&lt;/ref&gt;。グローテヴォールはシューマッハーの反対を押し切ってSPDをKPDの側につき、社会主義統一党に参加した&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』85P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1946年10月20日にベルリン市議会議員選挙が全ての政党が参加して行われ、当時の有権者約230万人(投票率92%)の選挙結果はSPD-48.7%、 CDU-22.1%、SED-19.8%、LDP-9.4%であった。この初回選挙の結果、SPDのオストロウスキーが市長に就任したがまもなくSEDへの協力を誓った念書への署名をめぐって退職を余儀なくされ、その後任に同じSPDのエルンスト・ロイターが選ばれたがソ連は拒否権を行使したため就任出来なかった&lt;ref&gt;本村実和子 著「ドイツ再統一」51-52P参照&lt;/ref&gt;。ブラントにとって、このエルンスト・ロイターはやがてユリウス・レーバー、ヤーコプ・バルヒャーの後の彼の政治的指南役となった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』87P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ブラントは、潜伏中の1936年に一時隠密に帰国したことを除けば、ほぼ12年ぶりに故国への復帰であったが、彼が戻ってきた時のドイツの政治状況は東西の対立が鮮明になった時期であった。しかも政治家としては社会民主党を離れて社会主義労働者党に加わり、社会民主主義者と共産主義者との間に位置する社会主義左派の立場で活動し、そして亡命して展望も無く1944年にこの立場を放棄して社会民主党に復党したことで政治的には挫折であった。けれどもブラントはそうした挫折をチャンスと捉え、再出発してベルリンへの新しい道を歩み始めた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』81P参照&lt;/ref&gt;。そしてこの時のドイツ社会民主党はクルト・シューマッハが党首に選ばれて再建途上であったが、社会主義労働者党のヤーコプ・ヴァルヒャー党首がこの頃には東ドイツに行ったことで社会民主党内ではブラントを共産主義者と見る活動家がいて、彼の復党に反対する党員は多かった。しかしブラントは副党首[[エーリッヒ・オレンハウアー]]の推挙で1948年2月1日にベルリンの連合国占領軍との連絡員となった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』77P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この後に、ドイツ社会民主党員として戦後の政治活動が始まったが、第二次世界大戦中に国外亡命していた事実、社会民主党を離れて社会主義労働者党に移り、その時の指導者ヤコプ・ヴァルヒャーが戦後東ドイツの社会主義統一党に移ったこと、ナチスからノルウェーを逃れる際にノルウェーの軍服を着たこと、そしてニュールンベルク裁判でノルウェー軍の制服を着て軍事使節団に加わったこと、そして私生児であることなどが、のちに政敵に攻撃されることになる。<br /> <br /> ====国籍復活・再婚・改名====<br /> [[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F032086-0003, Kanzleramt, Brandt gibt Sommerfest, G. Grass.jpg|thumb|ヴィリーとルート夫人(左側)(1970年)]]<br /> 私生活では最初の結婚相手のカルロータと娘ニーニャはオスロに住み、恋人となったルート・ベルガウストもオスロに住んでいて、彼はベルリンで一人暮らしであったが、手紙をこの3人にずっと送り続け、結局この3人の女性たちとは生涯に渡って連絡を取り合った。ブラントにとってノルウェーは第二の故郷であり、カルロータとニーニャ、そしてルートとはノルウェー語で会話していた。1947年の春にルート・ベルガウストがベルリンにやって来て1948年9月4日に彼女と再婚し、数週間後の10月4日に長男ペーターが生まれた。この時はまだルート・フラーム、ペーター・フラームの名であった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』79P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1948年7月1日にリューベック市を管轄する[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]]から国籍復活の証明書を得て、1949年5月に姓名の変更申請を出した。そして同年8月2日に認可されて、この時にヘルベルト・エルンスト・カール・フラームからヴィリー・ブラントに正式に名前が変わった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』78P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ベルリン市議会議員及び連邦議員===<br /> ブラントがドイツ社会民主党に戻り、故郷の[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]]の連邦議会議員候補になることを断って、ベルリンで活動を始めた頃は、ベルリンSPDではフランツ・ノイマンとエルンスト・ロイターとが党内で対立し、ブラントはロイターの側に立っていた。1949年8月にベルリン市議会でドイツ連邦共和国議会における始めてのベルリン代表議員の一人に選ばれた&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;『1949年[[西ベルリン|ベルリン]]選挙区から出馬して第1回[[ドイツ連邦議会]]の議員に当選する』という言説があったが、この1949年時点でのベルリンでは選挙が難しい(他の州は自由選挙であった)状況であったと考えられ、ベルリン市議会で8名の代表委員を選出して連邦議会に送られた。なおブラントは故郷の[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]]の連邦議会議員候補になることも可能であったが断り、さらにエルンスト・ロイターがベルリン市の交通部門の責任者のポストを用意していたのに、彼に無断でベルリン市議会からの選出で連邦議員になったことで、しばらくロイターとは気まずい関係になった。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』89-90P参照&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;この連邦議員の地位はベルリン市長に当選した1957年10月まで8年務め、その後1992年の死去まで断続的に連邦議会議員を合計31年間務めた。&lt;/ref&gt;。同じ年にベルリンのヴィルメルスドルフ支部の支部長となり、翌1950年には[[西ベルリン]]市議会議員にも当選する&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;西ドイツでは兼職が可能であったので、この市会議員を首相在任中の1971年まで務めている。&lt;/ref&gt;。この当時は彼の党内での基盤はまだ弱く、党内でのポスト争いで敗北を続けた、1952年4月の社会民主党の州委員長の選挙では193対63で敗れ、2年後も再度敗れて副委員長に収まっている&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;後年ブラントは「敗北によって鍛えられる。ただし余り頻繁にならない場合に限る」と述懐している。そして委員長への当選が確実になるまでは、手を上げない賢さを身につけていった。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』88-89P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ベルリン市議会でのSPDは1950年12月の選挙で20%の票を失い、1954年12月の選挙でも票を伸ばすことは出来なかった。しかしそれでも市議会では最大多数を占め、CDUと連立を組んで、市議会議長のポストを取っていた。そして1955年1月に市議会議長にブラントが決まった。この頃には西ベルリン市長エルンスト・ロイターが死去して、ブラントは政治的に頭角を現し始めていた。<br /> ====アデナウアー首相就任====<br /> [[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F002449-0027, Bonn, Bundestag, Pariser Verträge, Adenauer.jpg|thumb|right|150px|アデナウアー初代首相 (1955年)]]<br /> [[東西冷戦]]のさなか、戦後ドイツでは東西ドイツに分裂して、1949年5月に建国した西ドイツは、同年8月14日に最初の連邦議会選挙を行い、社会民主党(SPD)は得票率では693万票(29.2%)・131議席を得て第1党となったもののキリスト教民主同盟(CDU)はバイエルンの姉妹党であるキリスト教社会同盟(CSU)と合せて736万票(31%)・139議席を取った&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;この最初の連邦議会選挙の議席総数は402議席であった。またいわゆる5%条項はこの当時は無く、4%以下の諸政党が合計で80議席を占めていた。&lt;/ref&gt;。そして11.9%・52議席の自由民主党(FDP)と4%・17議席のドイツ党と連立を組み、9月15日にボンで開かれた第1回連邦議会での首相選出投票で社会民主党の[[クルト・シューマッハー]]党首を僅差で破って[[コンラート・アデナウアー]]がドイツ連邦共和国初代首相となった。そしてアデナウアーは首相を辞任する1963年まで一貫して西ドイツと西側諸国との連携を目指した。<br /> <br /> [[キリスト教社会同盟]](CSU)は戦前のバイエルン国民党に発し戦後はバイエルン州の地域政党として誕生した政党で、キリスト教民主同盟(CDU)とは組織的には別々の政党だが議会においては統一行動をとるため、CDU/CSUと表記されている。このCDU/CSU連合は第2回連邦議会選挙以降、概ね40%台の支持を得て自由民主党(FDP)などとの連立内閣を組織し、1969〜1982年及び1998〜2005年の社会民主党政権時代を除いて長期に渡って政権を担当した。<br /> <br /> 1950年6月の朝鮮戦争の勃発でアメリカは東西の緊張が高まったヨーロッパの状況から、英仏とともに西ドイツを再軍備させて東側陣営と対峙させることを狙い、[[欧州防衛共同体]]の設立を提案した。アデナウアー首相はドイツ分断が固定化されるリスクがあることを認識しながらも他の西側諸国との対等な立場を目指して参加の意思を表明した。この防衛共同体構想はフランスが議会での条約批准に失敗したため頓挫したが、西側との協調路線で特にフランスと緊密な関係を築き、経済政策や社会政策の分野でもかなりの成果を挙げた。1952年に、[[欧州石炭鉄鋼共同体]]に加盟し、西ヨーロッパに限定した欧州統合の動きに対応してやがて[[欧州経済共同体]]条約と[[欧州原子力共同体]]条約に調印し、西欧の経済統合が加速して西ドイツ経済の復興を促進させた。一方で軍事面では1955年に[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟して、同時に西ドイツの主権を制約していた占領規約が解消され主権国家としての地位がほぼ回復した。[[東西冷戦]]で西ドイツは西側の軍事同盟に参加することで、主権回復と再軍備を果たすことになった&lt;ref&gt;田野大輔・柳原伸洋 編著『教養のドイツ現代史』210P参照&lt;/ref&gt;。そしてアデナウアーは西側共同体の一部として、やがて米ソ間の緊張緩和が達成されてヨーロッパの再統合を通してドイツの再統一が可能となると考えていた。故に1952年3月にソ連のスターリン首相からの「ドイツを再統一し、中立化・非武装化・非ナチ化して全ての占領軍は撤退する」との提案を一蹴した&lt;ref&gt;フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」上巻149P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ====社会民主党の低迷====<br /> この間社会民主党は野党としてこれらの政策に反対して、特に西側諸国との連携そして統合についてはドイツの再統一を難しくするものとして批判した。社会民主党のシューマッハー党首も反共主義者であったがドイツ再統一の可能性を執拗に追及していた。そして後任の[[エーリッヒ・オレンハウアー]]も再統一を最重要課題に掲げ東西分断の固定化につながるアデナウアーの西側統合路線に抵抗した&lt;ref&gt;石田勇治 著「20世紀ドイツ史」79P参照&lt;/ref&gt;。しかし西ベルリン市長となったブラントは、このような党内主流の考えには与しなかった。自ら西ベルリンを指揮する立場から見れば、自由な西ベルリンの維持は西側列強の支援なしには不可能であり、それはすなわち西側共同体、あるいは西側軍事同盟としっかり結びつくことが必要であり、自由な世界の防衛に積極的に参加することを意味していた。この1950年代に社会民主党は低迷を余儀なくされた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』92-93P参照&lt;/ref&gt;。そして1953年6月17日の[[ベルリン暴動]]で西ドイツ内では西側諸国との強固な同盟関係を望んでいた人々にとっては自分たちの考えが実証されたと感じ、西ベルリンのSPD内のエルンスト・ロイターのグループも同じであり、ロイターの死後にブラントとその周囲もますます強くそう思うようになった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』94-95P参照&lt;/ref&gt;。1953年の第2回連邦議会選挙で得票率28.2%と低迷し党員も1950年の68万人が58万人に減少した。<br /> <br /> 1956年11月に[[ハンガリー動乱]]が起こり、まだ[[ベルリン暴動]]の記憶が生々しい西ベルリンではシェーネベルクの市庁舎前広場で抗議集会が開かれた際に激高した市民がブランデンブルク門に向かったことで、ブラントは一触即発の事態を回避するために車の上からの呼びかけて、デモ隊をうまく西地区の記念碑に誘導して、ドイツ国歌を抵抗心を込めて歌おうと呼びかけて事態を鎮静化させた。このことでブラントはベルリン市民の心に残った。だがハンガリー動乱で再統一の可能性は薄らぎ、社会民主党は訴える力を失い、1957年の第3回連邦議会選挙で31.8%169議席に上昇したが、キリスト教民主同盟と社会同盟が50.2%270議席で過半数を許した。しかしベルリンでは、エルンスト・ロイターの後継者であったオットー・ズール市長が死去して、臨時の州党大会でベルリンSPDは賛成223、反対26でブラントを市長候補に推し、10月3日にブラントはベルリン市長に当選した。また翌年1月にそれまで2度敗れていた社会民主党の州委員長の選挙で163対124で勝って、ベルリンSPDのトップとなり、党内のライバルであったフランツ・ノイマンとの争いに決着がついた。<br /> === 西ベルリン市長===<br /> 西ベルリン市長には1950年から1953年に亡くなるまでSPDのエルンスト・ロイターが務め、1人おいて1955年から1957年に同じく亡くなるまでSPDのオットー・ズールが務めた後に、ブラントはその後任として西ベルリン市長となった。同時に同年11月から1年間、各州から任免された州政府の構成員で立法に携わる[[連邦参議院]]議長も務めている&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;西ドイツの連邦参議院は日本のように自由選挙で選出される議員で構成されるものでなく、州政府が選んだ議員を送っている。議員の任期はなく、議員は不定期に州から任免されている。&lt;/ref&gt;。<br /> ====フルシチョフのベルリン非武装自由都市宣言 ====<br /> そして1958年11月27日にソ連のフルシチョフ首相がベルリンに関する4ヵ国協定の破棄と西ベルリンから西側軍隊の撤退、そしてベルリンの非武装化と自由都市を要求した。ブラントは即日この要求を却下した。([[ベルリンの壁#フルシチョフのベルリン自由都市化宣言]])この直後の西ベルリン市議会選挙で、SPDは52.6%の得票を得たが、惨敗したCDUと西ベルリン市で大連立を組んだ。ブラントはベルリン市民から評価される存在となった。そしてそれは彼が社会民主党(SPD)の新しい希望の星となったことでもあった。1958年12月14日にパリで開かれた北大西洋条約機構(NATO)の理事会の席でベルリンの状況に関して報告を行い、流暢な英語を駆使したこの演説でベルリン市長は国際的な評価を得てその名声と地位を確かなものとなった。<br /> ====社会民主党の転換====<br /> 一方ボンの中央政界では社会民主党は核武装反対運動を展開し外国軍の撤兵を求めたが労働総同盟はゼネストを打てずに孤立していった。国内が繁栄し始めると、西ドイツ国民はドイツ再統一やイデオロギー論争よりも経済的豊かさと私生活の充足に関心が移っていた。1952年にシューマッハーの死後に社会民主党を率いていた[[エーリッヒ・オレンハウアー]]党首は、1957年にそれまで反対していた[[欧州経済共同体]]と[[欧州原子力共同体]]に関する条約に賛成する姿勢に転じ、1958年5月のシュトゥットガルトの党大会で社会民主党の執行部を刷新してブラントは執行部入りを果たした。そしてついに社会民主党は1959年11月15日にバート・ゴーデスベルクで開かれた党大会で新しい綱領を採択して結党以来のマルクス主義を否定して、階級政党から国民政党への転換を宣言し、経済政策についても「可能な限りの自由競争」「必要な限りの計画化」として市場経済を承認し、「様々な思想信条からなる人々の共同体」として自由な精神の党として生まれ変わっていった。<br /> <br /> さらに翌1960年には西欧・西側世界との協調、自国の安全保障の重視を明確にして、西ドイツの[[北大西洋条約機構]](NATO)加盟と徴兵制を認めた。そしてこの党の刷新を象徴するように11月の党大会でブラントは社会民主党の首相候補に選ばれた&lt;ref&gt;石田勇治 著「20世紀ドイツ史」80P参照&lt;/ref&gt;。しかしこの党大会は新旧の路線対決の場となり、ブラントを次期連邦議会選挙で社会民主党首相候補にしながら、彼の党内役職はずっと下位で執行部では22番目の地位にしてしまった。オレンハウアー党首と代議員の多数は外交政策と安全保障政策で政権党の路線に追随するものとして対決よりも協調を重視する路線を好まなかった。この時、ブラントはあくまで選挙戦用の首相候補者に過ぎなかった。この連邦議会選挙における首相候補というのは、西ドイツにおいて選挙時にあらかじめ政党は選挙後の首相指名投票で誰を指名するかを明示するもので、必ずしも党首が首相候補者になるとは限らないものであった&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;1961年の連邦議会選挙時の街角での与野党の選挙ポスターが林立した写真を見ると、CDU/CSUにはアデナウアーが、SPDにはブラントの顔写真が大きく印刷されていた。しかしこの時点ではブラントは社会民主党(SPD)の党首ではなかった。さらにその次の1965年連邦議会選挙では、逆にブラントは党首で首相候補であったが、キリスト教民主・社会同盟は現職のエアハルト首相が首相候補ではあるが、この時の党首はアデナウアーであった。&lt;/ref&gt;。<br /> ====ベルリンの壁建設 ====<br /> [[Image:John F. Kennedy meeting with Willy Brandt, March 13, 1961.jpg|thumb|left|250px|1961年3月13日、ホワイトハウスでのケネディ米大統領(左側)とブラント]]<br /> 1958年のフルシチョフのベルリン自由都市宣言は結局西側に無視される形で終わった。しかし、西側諸国はベルリン問題が東西対立の火種になることを恐れていた。だが妥協も許されず、西ベルリンの権利は必ず守り切らねばならなかった。1961年1月にアメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディもアメリカの立場は西側陣営にあって西側諸国を守ることで自由を脅かす何ものにも屈しないと決意していた。しかしアデナウアー首相はケネディ大統領に対して疑念を持っていた。西ベルリン問題について西ドイツとの相談もなく米ソ間の取引材料に使われることを懸念していたし、ケネディ大統領の就任演説や年頭教書演説がベルリンに触れていなかったことが取り沙汰されていた。そしてアメリカが確固とした姿勢を堅持する決意のほどを試す機会を窺うことになると予測していた。<br /> <br /> 3月に西ベルリン市長ヴィリー・ブラントのホワイトハウス訪問を受けたのも、どんなコストを支払っても西ベルリンを支持するアメリカの決意を世界に示す機会であるとラスク国務長官の進言から実現された。しかし就任早々に同盟国の元首及び首相クラスの受け入れはあっても、いきなり市長を受け入れるのは外交慣習に反していて、アデナウアー首相は不快感を隠さなかった。ブラントはケネディにフルシチョフが西側の決意を試すために行動に出ると予測され、それは10月のソ連共産党大会までに起こすだろうと述べた。そして西ベルリンは自由世界の窓だとして、東ドイツの人々の希望を生かし続ける窓であり、「西ベルリンがなくなればこの希望は死にます」と語った。ケネディは3年前のフルシチョフ提案を明確に拒否してブラントを安心させた&lt;ref&gt;フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」上巻 234-235P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし3ヵ月後の6月にウィーンで米ソ首脳会談が行われ、ケネディ大統領に、フルシチョフ首相は再びこの問題を持ち出して、ベルリン問題の解決策として米英仏ソの戦勝4ヵ国が東ドイツと平和条約を6ヵ月以内に結んで占領統治を終わらせて戦後処理を行いベルリンを自由都市とするとして、応じなければソ連が単独で東ドイツと平和条約を結んで西側3ヵ国の西ベルリンの駐留権と通行権は失効すると述べた。しかもケネディが拒否すると戦争も辞さない強硬な姿勢を見せてアメリカ側を驚かせた。ケネディは西ベルリンを守り切る決意を示してこの会談は物別れに終わった。([[ベルリンの壁#ウイーン会談]])<br /> <br /> 東西に分かれたベルリンは、戦後東から西への流出者が増加し、1960年には約20万人が西へ逃れ、1961年7月の1ヵ月間だけで3万人が東ドイツを離れていた。危機感を募らせた社会主義統一党のウルブリヒトはフルシチョフに西ベルリンの封鎖を懇請してフルシチョフは決断を下した。[[1961年]]8月12日深夜から13日にかけて、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]が突然東西ベルリンの境界線近くに壁を建設し、東西ベルリン間の市民の往来は不可能となった。この時、西ベルリン市長ウィリー・ブラントは[[ドイツ社会民主党|社会民主党]](SPD)の首相候補者でもあり、9月17日に総選挙が行われるのでその選挙遊説でバイエルン州[[ニュルンベルク|ニュールンベルク]]に出かけ、その夜には夜行列車でキールに向かっていた&lt;ref&gt;フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」上巻55P 下巻68-71P参照&lt;/ref&gt;。夜行の途次の13日午前4時、途中のハノーファーに連絡が入り、午前5時にハノーファーで夜行列車から急遽降りて、タクシーに乗り空港に向かい、飛行機で西ベルリンに戻ったブラントは、すぐに壁の建設現場に駆けつけた。「それまで何度かの危機でも頭は冷めていたのだが、今度ばかりは冷静、沈着でいられなかった。」「何千、何万という家族が引き裂かれ、ばらばらにされていくのを見て、怒り、絶望する以外にはなかった。」と後に自伝で述べている&lt;ref&gt;永井清彦 著「現代史ベルリン」163P&lt;/ref&gt;。彼はソ連の突然の措置にも西側同盟国の対応姿勢にもひどくショックを受けた。しかもブラントはその対応にも苦慮した。<br /> [[File:Bundesarchiv Bild B 145 Bild-P061246.jpg|right|thumb|280px|壁の前の[[ブランデンブルク門]]。左側が東側で右側が西側である。(1961年)]]<br /> 同じく選挙遊説していたアデナウアー首相はすぐに西ベルリンに行かず、それどころかブラントの出生に絡む問題を取り上げて個人攻撃をして西ドイツ国民から顰蹙をかっていた。アメリカのケネディ大統領はこの壁の建設を予想していてアメリカ軍部隊1600人を西ベルリンに派遣する示威的な行動をとったがそれ以上の事態悪化は望まず静観するだけであった。イギリスのマクミラン首相は休暇先で趣味の狩猟をしてそこから離れなかった。フランスのドゴール大統領は一報を聞いてこれでベルリン問題は片が付くと述べた。8月16日付けの西ドイツの大衆紙「ビルト」は一面トップで「西側、何もせず」という見出しを出した。西側は口頭での抗議するだけであった&lt;ref&gt;永井清彦 著「現代史ベルリン」163-166P&lt;/ref&gt;。後に有名になったこのビルト紙の見出しは「東側は行動を起こす・・西側は何をするか・・西側は何もせず・・ケネディは沈黙する・・マクミランは狩りに行く・・アデナウアーはブラントを罵る」であった&lt;ref&gt;エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」70P&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 米英仏にとっては、ベルリンの壁は境界線上に作られたものでなく、東側に入った所に作られたもので(これはフルシチョフの指示であった)あくまで東側の中での行動であり、米英仏の西ベルリンでの駐留権及びアクセス権(通行権)が冒されず確保される限り、軍事行動に出る理由は無かった。むしろ東から西への流出が続く事態は東西の安定を損なう不確定要素であり、壁建設で東側も安定化に向かうことは今後の東西関係を好転させる機会でもあると考えていた。この問題で軍事行動を選択し自国の青年の生命を危険に曝すことは、つい16年前までは敵国であったドイツの首都ベルリンであるがゆえにケネディもマクミランもドゴールもその考えを持つことは無かった。事実、壁の建設以降はベルリン問題でソ連が行動を起こすことはなく、緊張状態になることもなく安定していった。<br /> <br /> その大国の思惑と現場での混乱した雰囲気の中でブラントは苦悩していた。8月16日に市庁舎前の広場で25万人の市民が集まって抗議集会が開かれ、ブラント市長は抗議の演説した&lt;ref&gt;永井清彦 著「現代史ベルリン」167P&lt;/ref&gt;。しかしまかり間違えば、市民の怒りは連合国側へ向けられることも十分に予測される事態に苦渋に満ちたものであった。ここで「ソ連の愛玩犬ウルブリヒトはわずかな自由裁量権を得て、不正義の体制を強化した。我々は東側の同胞の重荷を背負うことは出来ません。しかしこの絶望的な時間において彼らと共に立ち上がる決意のあることを示すことでのみ、彼らを援助出来る。」としてアメリカに対して「ベルリンは言葉以上のものを期待します。政治的行動に期待しています。」と述べた。ブラントはケネディに書簡を送ったことも明らかにした&lt;ref&gt;フレデリック・ケンペ著 「ベルリン危機1961」下巻 116-117P&lt;/ref&gt;。([[ベルリンの壁#ベルリンの壁の建設]])<br /> [[File:JFKBerlinSpeech.jpg|thumb|left|ベルリン市民の前で演説するケネディ(1963年6月26日)]]<br /> 2年後の1963年6月に[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ジョン・F・ケネディ]]が西ベルリンを訪問してブラント市長と会談し、市庁舎前のシェーネブルク広場で30万人のベルリン市民が熱狂する中で演説を行い、「[[Ich bin ein Berliner]](私はベルリン市民である)」と述べた。この前年秋にキューバ危機で海上封鎖を行い、フルシチョフとのやり取りで冷静に危機を収束させてソ連のミサイル基地撤去を勝ち取ったケネディの声望は高く、多くのベルリン市民を熱狂させた。そしてこれまでギクシャクした関係であった西ドイツやベルリンとの関係も修復し、双方に深い印象を残した。この5カ月後のケネディ大統領暗殺事件でブラントはワシントンでの国葬に参列し、彼が演説したシェーネブルク広場をジョン・F・ケネディ広場と改称した。([[ベルリンの壁#ケネディ大統領の訪問]])<br /> <br /> この後に、ベルリンの壁は多くの犠牲者を出しながら西側の冷静な対応で鎮静化し、そして東西冷戦の最前線に立つブラントの姿は彼の個人的人気を高めた。<br /> <br /> しかしベルリンの壁を越えようとして命を落としたベルリン市民は1989年11月の崩壊までに200人を超えた。<br /> ====アデナウアーの引退 ====<br /> [[画像:Bundesarchiv Bild 173-1326, Bonn, Bundestagswahl, Wahlplakate.jpg|150px|thumb|right|1961年の連邦議会選挙時に街角に林立した選挙ポスター。ブラント(SPD)とアデナウアー(CDU)]]<br /> 社会民主党(SPD)内でのブラントの声望も高まり、初めて社会民主党の[[ドイツの首相|連邦首相]]候補となった1961年9月17日の連邦議会選挙で[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]](CDU)の首相候補で現職の[[コンラート・アデナウアー]]から私生児であることや亡命の経歴を攻撃されたが、この選挙で社会民主党(SPD)はほぼ5%の票数増と13名の議席増で36.2%・190議席の得票で躍進した。しかし結局キリスト教民主同盟(CDU)もキリスト教社会同盟(CSU)と合わせて45.3%・242議席の得票で自由民主党(FDP)12.8%・67議席との連立に成功し、ブラントの政権奪取はならなかった。この時にアデナウアー首相は、それまでの強引な政治姿勢で連立与党の自由民主党(FDP)との齟齬を生んで一時連立から離れ、キリスト教民主同盟(CDU)内で自己の後継者問題を巡って党内に波紋を引き起こし、しかもベルリンの壁の建設で再統一の現実味を失い、直後の行動で顰蹙をかって、単独過半数を確保出来なかったことで、自由民主党(FDP)との連立交渉が難航して、自身が会期末までに首相を辞任する約束をすることで政権を継続させた&lt;ref&gt;石田勇治 著「20世紀ドイツ史」80-81P参照&lt;/ref&gt;。そして1963年10月にアデナウアーは連邦首相を辞任し、経済相であった[[ルートヴィヒ・エアハルト]]が第2代の連邦首相に就任した。<br /> === 社会民主党党首 ===<br /> そしてブラントは1962年に副党首となり、1964年2月の臨時党大会で投票総数324のうち314票を得て社会民主党(SPD)党首に就任した。この間に1963年2月の市議会議員選挙でベルリンSPDは61.8%の得票で躍進した。だが1965年9月の第5回連邦議会選挙で社会民主党(SPD)は3%の票数増で39.9%・202議席を得たが、キリスト教民主同盟(CDU)・キリスト教社会同盟(CSU)も47.6%・245議席を獲得して9.5%・49議席を得た自由民主党(FDP)との連立政権を維持した。ブラントは首相候補となってから2度目の敗北を喫した。選挙後の記者会見で自分は社会民主党党首とベルリン市長は続けるが4年後の連邦議会選挙では首相候補にはならないと述べた。<br /> [[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F023513-0002, Bonn, Rücktritt Bundeskanzler Erhard.jpg|thumb|right|150px|エアハルト(左側・2代目首相)とキージンガー(右側・3代目首相)(1966年11月)]]<br /> しかしエアハルト政権が最初の2年間は好景気で内政に大きな混乱は無かったが、この選挙後に景気が急速に悪化し、わずか半年で失業者が10万人から67万人に増加し、戦後初の経済不況に見舞われこのため財政状況が悪化したため、その財政の立て直し策をめぐって増税で予算の均衡を保とうとするエアハルト首相に対して歳出の削減に固執した連立与党の自由民主党(FDP)が[[1966年]]10月に連立を離脱して、[[ルートヴィヒ・エアハルト]]政権が瓦解した。選挙からわずか1年後であった。ブラントは当初は社会民主党(SPD)と自由民主党(FDP)との連立政権を望んでいたが、[[ヘルベルト・ヴェーナー]]と[[ヘルムート・シュミット]](当時社会民主党議員団長、後の首相)はむしろCDU/CSUとの大連立を目指し、キージンガーとウェーバーとの間で共通の政府活動の基本原則について合意して、11月26日から27日の夜明け近くにかけて社会民主党議員団会議で侃々諤々の討論を経て自由民主党との小連立でなく大連立を実現することに決した&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』122-124PP参照&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;この大連立交渉をまとめ上げたのはヘルベルト・ウェーバーであり、彼はクルト・ゲオルク・キージンガーを連邦議会における共通の活動を通じて知っており、かつ評価をしていた。議員団長のヘルムート・シュミットとで事前に交渉し、ブラントが加わる時には、すでに合意がなされていたと言われている。その後、この時に強引に大連立にもっていったことで党内はまとまらず、連邦議会で反対に回った議員も多く、1年半後の1968年のニュールンベルクでの党大会でこの連立は僅差でやっと承認を得ている。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』123-124PP参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> そして1966年12月に、キリスト教民主同盟(CDU)・キリスト教社会同盟(CSU)と社会民主党(SPD)との連立交渉が合意に達し「[[大連立]]」政権が成立し、[[クルト・ゲオルク・キージンガー]]が第3代首相に就任し、戦後初めて社会民主党(SPD)が政権に参加し、ブラントは副首相兼外相に就任した。この時に、西ベルリン市長を辞任した。<br /> === 大連立政権の外相 ===<br /> 二大政党による連立政権は1960年代前半から社会民主党首脳部が描いていた構想であった。階級政党から国民政党に脱皮して政権担当能力を高めるためにキリスト教民主同盟・社会同盟との政策協議は続けられていて、キリスト教民主同盟・社会同盟もこの間に小政党である自由民主党に振り回されて嫌気がさしており、この際に社会民主党とで選挙制度改革を進めて、イギリス流の二大政党制を目指したいという思惑もあった&lt;ref&gt;杉本稔 著「現代ヨーロッパ政治史」126P参照&lt;/ref&gt;。また大連立政権で議会で絶対多数を確保し、噴出してきた諸問題に対処しようとする狙いもあった。<br /> [[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F039406-0011, Hannover, SPD-Bundesparteitag, Brandt.jpg|thumb|左からヘルベルト・ヴェーナー、ブラント、ヘルムート・シュミット(1973年)]]<br /> このキージンガー政権ではキージンガー首相は1933年から終戦までナチ党員であり、[[ゲアハルト・シュレーダー (CDU)|ゲアハルト・シュレーダー]]国防相は元ナチ党員で(一時突撃隊に在籍)で1941年に脱党した人間であり、[[フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス]]財務相は第二次大戦の前線将校でバイエルン州の地域政党である[[キリスト教社会同盟]]党首であった。一方社会民主党から入閣したブラントと[[ヘルベルト・ヴェーナー]]全ドイツ問題相は左派社会主義者か共産主義者で亡命暮らしを経験していた。哲学者カール・ヤスパースは当時「内面での敵対意識が払拭されることはなく、ただ押し隠しているしかない。ブラントは囚われ人のように見えた」と語っていた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』133-134PP参照&lt;/ref&gt;。大連立政権では経済と財政の領域では一定の成果を挙げたが、激しい論議となったのは緊急事態法で当時1968年の学生反乱で国内の民主主義的な体制秩序を内側から危険に晒されるのを防ぐ目的で立案されたもので、1968年5月に連邦議会で可決された。社会民主党議員団でも多くのメンバーがこの法案に反対したが、[[ヘルムート・シュミット]]がうまくまとめた。この時期にはかつてのブラントとノイマンではなく、ヴエーナーとシュミットとブラントの3人体制が社会民主党の中で固まりつつあった。<br /> <br /> キージンガー政権の外相となったブラントは東欧諸国との国交樹立政策を推進し、1967年1月にルーマニア、1968年1月にユーゴスラビアとの間で国交樹立に成功した。ここまで西ドイツ外交の基本原理であった[[ハルシュタイン原則|ハルシュタイン・ドクトリン]]はこうして破棄された。これはソ連を除いて東ドイツを認める国とは国交を開かないという原則であり、キリスト教民主同盟・社会同盟は東ドイツを正式な国家とは認めていなかった。一方、社会民主党は「2つのドイツ」を承認しない限りドイツの安全は得られないとする考え方であった。1968年のプラハの春へのソ連の武力介入でキージンガーはこれ以上の東方接近を拒否した&lt;ref&gt;石田勇治 著「20世紀ドイツ史」82-83P参照&lt;/ref&gt;。社会民主党とキリスト教民主・社会同盟の間の溝が広がり、その間に割り込んで自由民主党が社会民主党の外交路線に明確な支持を与えた。1969年3月の大統領選挙では自由民主党は社会民主党から立候補したハイネマンを支援して当選させた&lt;ref&gt;石田勇治 著「20世紀ドイツ史」84P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> そして1969年9月の第6回連邦議会選挙は、社会民主党(SPD)が42.7%・224議席を占めて、46.1%・242議席を得たキリスト教民主同盟・社会同盟(CDU/CSU)とで5.8%・30議席を占めた自由民主党(FDP)との連立を目指した。CDU/CSUはその3年前に自由民主党との連立を解消した経過があり、引き続き政権を担当するには社会民主党との大連立を継続するしか選択肢はなかった。しかし社会民主党は2つの選択肢があった。社会民主党からすればCDU/CSUとの大連立は自党よりも大きな政党のジュニアパートナーを継続することであり、州レベルではすでに自由民主党との連立政権がいくつかの州で実現しており、何よりも直近の大統領選挙で自党候補ハイネマンを自由民主党が支援して当選したことから、自由民主党との小連立の方が独自の政策を実現しやすいと考えていた。3年前はキリスト教民主同盟・社会同盟が大連立か小連立かの選択があったが、1969年秋は社会民主党がその選択をする立場に立っていた。結果は社会民主党(SPD)は自由民主党(FDP)との連立を選び、ここにヴィリー・ブラントが第4代首相に就任して、社会民主党(SPD)・自由民主党(FDP)連立政権が誕生した&lt;ref&gt;杉本稔 著「現代ヨーロッパ史」127P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ドイツ連邦共和国首相 ===<br /> [[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F033246-0022, Bonn, Bundestag, Rede Bundeskanzler Brandt.jpg|thumb|right|連邦議会で演説するブラント首相(1971年)]]<br /> [[1969年]]の連邦議会選挙で第二党の社会民主党(SPD)は第三党の[[自由民主党 (ドイツ)|自由民主党]](FDP)との連立政権を誕生させ、ブラントは戦後の[[西ドイツ]]で初のドイツ社会民主党出身の連邦首相となった。第一党のキリスト教民主同盟・社会同盟は初めて下野した。そして連立を組んだ自由民主党のシェール党首を副首相兼外相におき、同じ自由民主党からハンス=ディートリヒ・ゲンシャー&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;当時42歳。4年前に連邦議員となった。3年後のミュンヘン五輪テロ事件で内相としてその対応に追われ、結果人質も犯人も全員死亡する事態となり苦境に立たされたこともあった。5年後シェール党首が大統領に就任した後に自由民主党の党首となり、シュミット政権で副首相兼外相となり、その後コール政権時代を経てドイツ再統一後の1992年まで通算18年間その職に在任した。1989年9月30日、チェコの西ドイツ大使館に突然現れて、西への入国を待つ東ドイツ市民数千人に「今日、あなた方に出発できることをお伝えにここに来ました」と演説してその場は割れんばかりの歓声と涙に包まれた場面は多くの人々の記憶に残った。ベルリンの壁が崩壊する40日前のことである。&lt;/ref&gt;(後のコール政権の外相)を内相においた。そして社会民主党からヘルムート・シュミットは国防相に、カール・シラーを経済相に、アレックス・メラーを財務相に、キージンガー政権で法相だった[[ホルスト・エームケ]]を[[連邦首相府 (ドイツ)|連邦首相府]]長官に、西ベルリン市長時代からの腹心[[エゴン・バール]]を[[連邦首相府]]次官東方問題担当に、そして[[ヘルベルト・ヴェーナー]]は社会民主党議員団長になった。<br /> ====東方外交====<br /> [[ファイル:Bundesarchiv B 145 Bild-F031406-0017, Erfurt, Treffen Willy Brandt mit Willi Stoph.jpg|thumb|left|ブラントとヴィリー・シュトフ東独首相(右側)(1970年3月19日、エアフルト)]]<br /> [[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F037099-0021, Köln, Staatsempfang für Präsident Pompidou.jpg|thumb|left|ブラントとポンピドゥ仏大統領(左側)(1972年7月3日)]]<br /> ドイツ連邦共和国首相に就任した直後の1969年10月28日、初めての施政方針演説でブラントは東ドイツを国家として承認し対等の立場で関係改善を呼びかけるとともに、東欧諸国との友好関係樹立に向けての取り組んでいくことを明らかにした&lt;ref&gt;石田勇治 著「20世紀ドイツ史」84P参照&lt;/ref&gt;。ドイツ内に二つの国家があるとして「ドイツ民主共和国」と正式にその国名で呼んで、しかし二つの国家の住民は同じ民族として一体性があるから互いに外国ではないとして、一民族二国家と規定した。この時の演説にはそれまでの首相が触れていたドイツ再統一の言葉が触れられていなかった。これも従来の施政方針演説には無かったことである&lt;ref&gt;本村実和子 著「ドイツ再統一」72P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ここから特使[[エゴン・バール]]を交渉役にして東ドイツや[[ソビエト連邦|ソ連]]を始めとする[[共産主義]]諸国との関係改善を推し進める「[[東方外交]]」が展開された。<br /> <br /> 1969年11月にブラントは核不拡散条約に調印して西ドイツが核武装する可能性に対するワルシャワ条約加盟国の懸念を払拭した。そして翌12月からソビエト連邦との交渉に入った。その間の1970年3月に[[エアフルト]]で東ドイツの[[ヴィリー・シュトフ]]首相・国家評議会副議長と会談し、初の東西ドイツ首脳会談を実現した。この直前の1970年1月に東西ドイツ間で不可侵条約を結ぶことを提案したが東ドイツはこれを拒否した。その理由はこの提案に東西ドイツの相互承認が入っていなかったことで、シュトフ首相との会談も局面打開には至らなかった。これで西ドイツに近い東ドイツやポーランドとの関係改善と相互理解を深めるにはまず東側のリーダーであるソ連との合意形成がまず必要であると考え&lt;ref&gt;マックL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ 共著 伊藤裕子 訳「冷戦 1945-1991」148-149P参照 岩波書店 2009年6月発行&lt;/ref&gt;、1970年1月28日にソ連のグロムイコ外相との間で両国関係安定化のための予備交渉をスタートさせた。<br /> <br /> そしてソ連との交渉の場でソ連側が出した要求の概要は、まずヨーロッパの国境の現状を承認すること、東ドイツを国際法上承認すること、西ベルリンを西ドイツから切り離すこと、ヒトラー時代のミュンヘン協定の無効化であった&lt;ref&gt;杉本稔 著「現代ヨーロッパ政治史」128P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1970年7月27日からはシェール外相とグロムイコ外相との本格交渉が始まり、ヨーロッパの国境の現状承認は、将来の東西ドイツの統一を否定することにつながる恐れがあったが、現状の国境は不可侵であることを宣言するものの将来における東西ドイツの統一を排除するものでないことが認められた。西ベルリンの地位については1970年3月から始まった西ベルリンの地位協定の交渉の場で双方の主張に配慮することとなった。他の二点は西ドイツ側も了解しており、1970年8月12日にブラント首相とコスイギン首相との間で西ドイツとソ連との国境不可侵と武力不行使を誓ったモスクワ条約が調印された。この条約の第1条で平和の維持と緊張緩和の実現、第2条で武力不行使、第3条で現存の国境の不可侵が謳われた&lt;ref&gt;本村実和子著「ドイツ再統一」81-82P参照&lt;/ref&gt;。このモスクワ条約は後に東方外交の総合建築とも称されて、まさにブラントの東方外交の枠組みを為していた&lt;ref&gt;杉本稔 著「現代ヨーロッパ政治史」128P参照&lt;/ref&gt;。<br /> [[Image:Kniefall.jpg|thumb|right|150px|ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人犠牲者追悼碑。この碑の前にブラントは跪いて献花した]]<br /> 次に1970年12月にポーランドとの間で相互武力不行使とオーデル・ナイセ川をポーランドの西部国境とすることを定めたワルシャワ条約を締結した&lt;ref&gt;石田勇治 著「20世紀ドイツ史」84P参照&lt;/ref&gt;。これで第二次大戦後に西ドイツ国内で保守派から反対されてきたポーランドの西部国境を承認し、そのほかの一切の領土についての返還請求権を放棄した&lt;ref&gt;マックL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ 共著 伊藤裕子 訳「冷戦 1945-1991」148-149P参照&lt;/ref&gt;。この時12月7日に首都[[ワルシャワ]]で、[[ユダヤ人]][[ゲットー]]跡地を訪ねユダヤ人犠牲者追悼碑の前で跪いて献花し、[[ナチス・ドイツ]]時代の[[ホロコースト|ユダヤ人虐殺]]について謝罪の意を表した&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;後にブラントは回想録では当日のポーランド側の反応について「私は、ポーランド側を困惑させたようだ。あの日、ポーランド政府の誰も、それについて私に話しかけなかった」と述べている。ブラントはあくまでも[[ホロコースト]]について謝罪の意を示したのであって、戦争やポーランドへの侵略について謝罪したわけではないとして、帰国後にはポーランドが戦後行った[[旧ドイツ東部領土|旧東部ドイツ領]]からの[[ドイツ人追放]]を「戦後のドイツ人の旧東部ドイツ領からの追放という不正はいかなる理由があろうと正当化されることはありません(白水社「過去の克服 ヒトラー後のドイツ」より引用)」」と非難している。また跪いて献花するブラントの姿は共産党政権下のポーランド国内で公表されなかったため、ポーランドの一般人にはほとんど知られていなかった(中公新書「〈戦争責任〉とは何か」より)。日本ではしばしば「ブラントの跪きがポーランドの対独世論を変えた」という趣旨で論じられることがあるが、そのような事実はない。&lt;/ref&gt;。これによって旧ドイツ東部領の喪失が確定した。しかしブラントにとって国内で野党の激しい抵抗に遭遇することになった&lt;ref&gt;石田勇治 著「20世紀ドイツ史」84-85P参照&lt;/ref&gt;。<br /> ====ベルリン協定====<br /> モスクワ条約において問題となったベルリンの地位に関する協定については1971年9月3日に4ヵ国協定として調印の運びとなった。この協定の締結に際して東ドイツは①オーデルナイセ線を含む戦後の全ての国境の承認、②両ドイツ間の大使交換、③西ベルリンを独立の政治的単位として同市と西ドイツとの間に然るべき別の関係を持つことを認めるの3点を要求した。一方西ドイツは逆提案として①ドイツ民族を統一を維持する義務、②国際法の諸原則の適用、③相互の領土内の社会組織を変更しない了解、④隣国として相互協力の努力、⑤ベルリン及びドイツ全体に対する4ヵ国の権利と義務の尊重、⑥ベルリン内及びその周辺の状勢を向上させようとする4ヵ国の試みの尊重、を逆提案した。<br /> <br /> このベルリン協定においては西ベルリンの西ドイツ帰属は否定されたものの西ベルリンと西ドイツの結びつきが承認されて自由通行が認められた&lt;ref&gt;杉本稔 著「現代ヨーロッパ政治史」129P参照&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ソ連も東ドイツも西ベルリンが西ドイツ領であることを一切認めなかった。実質はブラントの政治家としての経歴で明らかであるにも関わらずだが・・。しかし別の観点から見ると、西側の米英仏も西ベルリンへの軍の駐留権と西ドイツから西ベルリンへの自由通行権を求めている限り、それは占領軍として占領を続けている状態であることが前提になり、西ベルリンにおける西ドイツの主権を承認できないことになる。もし西ドイツの主権を認めることになると米英仏の占領状態の根拠が無くなるからである。(マックL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ 共著 伊藤裕子 訳「冷戦 1945-1991」148-150P参照)そして面白いことに、これより前の西ドイツとソ連が交渉を始めた1970年1月から2月にかけて、バール特使とグロムイコ外相との予備交渉の場で、東ドイツの承認を迫るソ連に対して、バール特使は次のような巧妙な法理論を持ち出した。すなわち米英仏ソが平和条約を締結するまでドイツ及びベルリンに対する権利を有している状態で西ドイツであれ東ドイツであれ他方を国際法的に承認することは、完全な主権を認めたことになり、ソ連は占領国としての権利を放棄することになる、というソ連側の理論の盲点を突いた理屈であった。(本村実和子著「ドイツ再統一」79P参照)この後、西ドイツとソ連との関係は1980年代前半は停滞したがその後緊密化していき、ソ連はやがて1988年に東ドイツが西ドイツに吸収されることを予想し東ドイツを中立化させる方向を打ち出した文書をソ連外務省はまとめていた。西ベルリンの帰趨は結局ベルリンの壁の崩壊で東ドイツが消滅することで決着がついたことになる。&lt;/ref&gt;。この時、ブラントの狙いはドイツとポーランドの国境線を受け入れる代わりにベルリンに関してソ連の譲歩を引き出すことであった。必ずしもそれは成功したとは言えないが、西側諸国のベルリンへのアクセス権をソ連が認め、ベルリンとボンとの政治的な繋がりの正当性を認める一方で、ブラントはベルリンにおける西ドイツの政治的役割を縮小していくことを約束し、将来的に西ベルリンを西ドイツに統合するという望みは放棄した。また西側諸国が東ドイツを承認することでソ連はベルリンにおける4ヵ国の役割の継続を認めた。これらは現状を追認しただけに過ぎないものだったが、それでもこの合意は重要な意義を持っていた。1971年12月に西ドイツと西ベルリンとの間の通行を保障するトランジット協定が締結され、1972年5月に広範な通過合意が交わされて、そして最終的に1972年12月に東西ドイツ基本条約が締結されて、東西ドイツが相互に相手国を承認し、武力行使を放棄して相互間の通商と観光の増大を図ることを合意した&lt;ref&gt;マックL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ 共著 伊藤裕子 訳「冷戦 1945-1991」150-151P参照&lt;/ref&gt;。<br /> ====ノーベル平和賞受賞====<br /> 政権発足後2年間での東方外交の展開でこれらの功績を挙げたことでり[[1971年]]に[[ノーベル平和賞]]を受賞した。10月20日午後にブラントがノーベル平和賞を受賞したとのニュースが連邦議会に伝わり、議長が質疑を中断して受賞を報告した際に与党側の議員が一斉に立ち上がって拍手喝采したのに比べて野党側の議員は座ったままであった。夕べにブラントのパーティーに姿を見せた野党議員はたった1人であった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』166P参照&lt;/ref&gt;。<br /> ====建設的不信任案否決====<br /> だが国内では野党のみならず与党内でも東方外交に対する批判の声は挙がっていた&lt;ref&gt;杉本稔 著「現代ヨーロッパ政治史」129P参照&lt;/ref&gt;。東側への「接近」は共産主義への宥和政策であり、アデナウアー以降の「西側統合」を揺るがすものと非難された。また旧ドイツ東部領から追放された「被追放民」にとっては故郷が失われ共産主義の支配を認めることを意味していた。<br /> <br /> 1972年4月、キリスト教民主同盟(CDU)・社会同盟(CSU)は連邦議会に建設的不信任案を提出し、4月27日に採決が行われた。西ドイツの基本法では建設的不信任案が通った場合、首相は議会を解散することが出来ず、後任の首相にバトンを渡すだけである。この場合、次の首相の指名もこの不信任案に入っており、1972年4月にはブラントの次期首相にキリスト教民主同盟(CDU)のライナー・バルツェルが指名されていた。事前には可決されるという見方もあったが僅か2票差で否決された。議員総数496名で過半数は249票、不信任に賛成が247票であと2票足りなかった&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;この時にいかがわしい方法が取られたとの憶測を呼び、CDUのユーリウス・シュタイナー議員が翌年に5万マルクをSPDの議会事務局長から受け取って採決に棄権したことを明らかにし、そして同じ党で棄権に回ったレーオ・ヴァーグナー議員について2000年に東ドイツの秘密警察シュタージの資料にその名前があったことで、シュタージが関係していたとの疑いがある。(グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』168-169P 183P参照)なおこのような形で政権交代が実現したのは、これより10年後の1982年にブラントの後継者であったシュミット首相がこの建設的不信任案が可決されたことでシュミット政権が崩壊して、キリスト教民主同盟党首のコールが第6代首相に就任した。&lt;/ref&gt;。そして5月17日にモスクワ条約とワルシャワ条約の採決が行われて、野党側が戦意喪失で棄権にまわり、モスクワ条約は議員総数496名で賛成248名・反対10名、ワルシャワ条約は同じ賛成248名・反対17名でちょうど半数の賛成で野党側の多くが棄権に回ったため薄氷を踏む僅差で批准された&lt;ref&gt;本村実和子著「ドイツ再統一」82-85P参照&lt;/ref&gt;。この間に水面下で与野党の駆け引きがあったが、皮肉にもキリスト教民主同盟(CDU)党首であった[[ライナー・バルツェル]]の計らいが大きかったと後にブラントは高く評価していた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』169-170P参照&lt;/ref&gt;。<br /> ====連邦議会解散そして圧勝====<br /> [[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F038347-0030, Bonn, Willy Brandt, Walter Scheel nach Wahlsieg.jpg|thumb|right|200px|ブラントとシェール外相(右側) (1972年11月19日)]]<br /> ブラントはやがて東方外交の仕上げとして東ドイツとの関係正常化を目指すためには連邦議会での足場を強化する必要を感じていた。そのために1972年9月22日に基本法の規定に従い、政府信任案をあえて否決させて議会解散に踏み切った&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;西ドイツの基本法では政局の安定を図る施策として議会解散権は日本の総理大臣のように自由に使える権利にはなっていない。ヴァイマール共和国時代の政争に明け暮れてナチスの台頭を許した苦い経験からである。不信任案も次の首相を指名する内容を入れての「建設的不信任案」で過半数で可決されれば辞職しか選択肢は無い。しかし唯一逆の信任決議案が否決された場合のみ、首相は議会を解散することができるようになっている。(グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』172P参照)ただし議会を解散するのは大統領であって、首相ではない。&lt;/ref&gt;。1972年11月19日に連邦議会選挙が行われ、社会民主党は45.8%・230議席で、キリスト教民主同盟(CDU)・社会同盟(CSU)の44.9%・225議席を上回り、初めてCDU/CSUの合計票を上回り戦後最大の勝利を収めた。自由民主党は8.4%・41議席で、連立政権を維持した。<br /> ====東西ドイツ基本条約====<br /> 政治的基盤を強化したブラントはそして東ドイツとの関係正常化に取り組んだ。東ドイツをドイツ民主共和国と呼び、一民族二国家論の立場をとった。いわゆる「接近による変化」で東西間の対話や交流を促進し硬直した東西関係を改善するために12月21日に東ドイツと[[東西ドイツ基本条約]]を結び、相互に国家として承認した。ブラントは二国家に分かれても交流を進めることでドイツ人としての一体性は維持できると考えていた。東ドイツは外国ではなく再統一への含みを残したのである。<br /> ====東西デタントの実現====<br /> [[File:Willy-brandt-und-richard-nixon_1-588x398.jpg|thumb|right|200px|ブラントとニクソン米大統領(右側) (1971年)]]<br /> アメリカはこのようなブラントの東方政策を嫌っていた。それによってソ連が西ドイツその他の同盟国に対して有利な取引をすることになるのではないかと懸念したからである。キッシンジャーは回想録の中で、ニクソンと彼が米ソ間のデタントを追及しようとしたのは、一つには西ドイツ主導でヨーロッパとソ連との間のデタントがアメリカを排除した形で進行し西側陣営を分裂させることになることを止めるためであったと述べている&lt;ref&gt;マックL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ 共著 伊藤裕子 訳「冷戦 1945-1991」150-151P参照&lt;/ref&gt;。西側同盟国にとって伝統的なドイツ外交とは「東と西との間を自由に動く」ことで、ブラントの外交はまさにその再来であった。そしてそれが西側の結束の乱れが生じることを懸念しつつも、当時は米中関係がニクソンショックで劇的に外交関係を結び、米ソ関係もデタントにうごき、こうした国際政治で緊張緩和の流れが加速していた時期であったので、ブラントの東方政策による東側諸国との関係改善に真っ向から反対することはなかった。このブラント外交は、アデナウアーの西側統合に反することなく、東側との関係改善の突破口が切り開かれて、西ドイツ外交が新たな段階に入ったことを示していた。そしてその流れはやがて1975年に全欧安全保障協力会議が開催されて、東方政策の成果がヨーロッパ全体へと広がっていった&lt;ref&gt;田野大輔・柳原伸洋 編著『教養のドイツ現代史』231P参照&lt;/ref&gt;。この時のヘルシンキ宣言にブラントの後任のヘルムート・シュミット首相が調印したことでブラント外交は完成された&lt;ref&gt;石田勇治 著「20世紀ドイツ史」86P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 今日、政治学者や歴史学者の一部は、東方外交がのちの[[東欧革命]]や[[ドイツ再統一]]の基礎となったと評価しているが、当時は保守派の政治家からドイツ再統一を唱える基本法の精神に矛盾するとして激しく攻撃された。以後、チェコスロバキア、ブルガリア、ハンガリーとも国交が回復し、1973年9月には東西ドイツ双方が国際連合に加盟した。また1973年にドイツの首相として初めてユダヤ人国家[[イスラエル]]を訪問している。<br /> ====国内政策====<br /> ブラントは首相就任直後に「我々はもっと多くのデモクラシーに挑戦しよう」と述べた。そして国内政策の分野では1973年の第一次石油危機([[オイルショック]])による物価急騰で西ドイツ経済も打撃を受けて、経済政策では実現したものは少なかったが、「もっと多くのデモクラシーを」をスローガンに行政・教育改革を目指した。その中でも、民間企業における被雇用者の共同参加・共同決定を促す「事業所組織法」、被雇用者の資産形成で税制上の優遇や企業の支援を規定した「資産形成法」、教育政策では「職業教育促進法」「学位取得促進法」の制定などで機会均等を徹底させた。また児童手当の所得額に関係なく支給、家族法の改正、刑法の改正、障害・年金・疾病・失業の4部門での保険制度の整備・拡充などで社会福祉国家としての内実を整えた。そして国民の政治参加を促す選挙権取得年齢の18歳への引き下げも行った&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』155-156P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし1970年頃から[[ドイツ赤軍]]など左翼過激派の活動が激化していたため、1972年1月に過激派への取締りを強化するため過激な組織に所属する者を公務員として雇用を禁止する『過激派条例』を制定したが、社会民主党の党内からも批判が強く、多くの若者が非常な幻滅と苛立ちを呼び起こした。後年ブラントはこの条例について弁明に追われ、回想録の中でも自己の見解を正当化している。この1972年9月にはミュンヘン五輪が開催されたが大会期間中に選手村でパレスチナのテロ組織「黒い九月」がイスラエル選手団を襲い、その結果11名のイスラエル選手・コーチと犯人側全員が死亡する事件が起き、1970年代後半には赤軍派テロが殺人と誘拐にまでエスカレートしていた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』156-158P参照&lt;/ref&gt;。<br /> ====政権内の混乱と石油危機====<br /> 1972年秋に連邦議会で圧勝し、12月に東西ドイツ基本条約を締結して、ブラントの東方外交は国際的に注目を浴びたが、その後は目立った動きは無くなった。チェコスロバキアとの交渉は思った以上に長引き1973年12月にやっと調印された。選挙後の第二期内閣で、それまで側近として活躍した[[エゴン・バール]]は[[連邦首相府]]を離れていないが東方問題担当から特任大臣に担ぎ上げられて何らの指揮は任されなかった。[[ホルスト・エームケ]]は[[連邦首相府]]長官から研究・技術相兼郵政相の大臣ポストに就いたが、首相周辺から遠ざけられた。報道官コンラート・アーラースも辞任した。選挙後の第二次内閣の組閣に当たった時にブラントは入院していた。そして組閣人事は[[ヘルベルト・ヴェーナー]]議員団長が取り仕切って、ブラントは病気回復後に受け入れざるを得なかった。第一次内閣でも、アレックス・メラー財務相は1971年5月に去り、その後任で経済相を兼務したカール・シラーも1972年7月に辞任した。[[ヘルムート・シュミット]]国防相は結局ブラントに慰留される形で財務相・経済相を兼務する形で残った。この時期のブラントは消耗しきって、燃え尽きて、疲れ切っていた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』176-178P参照&lt;/ref&gt;。[[エゴン・バール]]は1972年秋の選挙戦勝利が彼の政治生活の頂点であり、そこから否応なしに下降した、と後に述べている&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』174P参照&lt;/ref&gt;。[[ヘルベルト・ヴェーナー]]と[[ヘルムート・シュミット]]もブラントを支えてきたが、第二期に入るとこの二人との溝も深まった。そして肝心の[[連邦首相府]]内が以前のエームケは万事にわたって指示を与えられる人であったが、新任のホルスト・グラーベルトではその任に耐えられなかった。<br /> <br /> そして1973年10月に第四次中東戦争の勃発とともに、産油国のいわゆる石油戦略で第一次石油危機が起こり、欧米や日本の経済が大混乱する事態となった。この事態で先進各国は国内での経済運営に苦しむが、西ドイツにおいてもブラント政権の人気が下降し、さらに外交の分野はともかく経済や財政の政策領域におけるブラントの力量が問われることとなった。1974年に入ると、かつてブラントを支持していた労働組合が大幅賃上げの要求を出し、ブラントはその要求を受け入れた。そのこともブラントにはイメージダウンであった。直後のハンブルクでの地方選挙でSPDは10%以上の票を失った&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』185-186P参照&lt;/ref&gt;。<br /> ====ギヨーム事件====<br /> [[File:Willy Brandt Guillaume.jpg|thumb|right|180px|ブラントとギュンター・ギヨーム(右側)]]<br /> そしてブラントを首相辞任に追いやったのが、個人秘書であった[[ギュンター・ギヨーム]]であった。ギヨームは1956年に東ドイツから西ベルリンに難民として入り、フランクフルトで職を得て、そしてフランクフルトの社会民主党党員となり、党書記となり、党議員団事務局長となった。[[ゲオルク・レーバー]]交通相の選挙対策事務局長として高い評価を得て、1970年1月から連邦首相府の職員となり、1972年秋から首相の個人事務所の職員となった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』189-190P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1973年の年初に、当時内務省公安局が15年前から傍受し解明した無線通信がギョームに関わっていることを突き止め、ギヨーム夫妻は東ドイツ[[シュタージ|国家保安省]]が潜入させていたスパイであるとの確証を持った。しかし、公安局長から憲法擁護庁長官に就任したギュンター・ノーラウは5月29日に当時のゲンシャー内相&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;この時に、ノーラウ長官は、もう一人にも報告していた。それは[[ヘルベルト・ヴェーナー]]社会民主党議員団長で、このことは後に決定的な場面でヴェーナーは重要な役割を果たすことになった。&lt;/ref&gt;に伝えたが証拠となるものがなく逮捕の決め手がなかったので、なおしばらく様子を見ることとして公安局の監視下に置かれた。<br /> <br /> ギヨームが監視下に置かれたことは、翌日ブラントにゲンシャー内相から伝えらえたが、ブラントは深刻には受け止めなかった。なぜなら東ドイツから難民として西ドイツへ移ってきた人々に対しては、「しばしば浮上する疑いの要素」であることをブラントも理解しており、無視することにしたからであった&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』191-192P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> そしてほぼ1年が過ぎた1974年3月初めにこの関係資料が連邦検察官に渡り&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』ではこう述べているが、別の資料では「1974年1月に連邦検察庁は証拠不十分で逮捕令状の申請を却下した」とされている。&lt;/ref&gt;捜査を続けている中で、4月24日にボンの自宅を捜査官が訪れてギヨームと妻クリステルは逮捕された。この時にギヨームは捜査官に対し「私は[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[国家人民軍]]将校で、国家保安省の職員でもある。将校としての私の名誉が尊重されることを望む」と語った&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;このことについては、捜査官が逮捕状を持ってきたという説と、あくまで逮捕する予定ではなく取り調べのため、自宅を訪ねたところ、観念したギヨームがいきなり捜査官に語ったという説がある。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』でも、ギヨームのこの突然の自白は歴史の奇妙なものの一つで、この時点でスパイを投獄するには証拠がまだ十分でなかった、と記している。(グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』192-193P参照)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ブラントにとっては手痛い打撃であった。しかし当時東ドイツ国家保安省次官でシュタージの対外諜報部門の長を30年以上務めた[[マルクス・ヴォルフ]]はドイツ再統一後に「ギヨームを西ドイツ首相の間近に置いたことなどは東ドイツ秘密警察の行動計画の結果ではなかった。一国のトップの人物近くに疑念の濃厚な人物など留め置いたことなど決してない」と述べている&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』192P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ====連邦首相辞任====<br /> [[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F042669-0060, Bonn, Tagung SPD Präsidium nach Rücktritt Brandt.jpg|thumb|left|220px|ヘルムート・シュミット(左側)とブラント(1974年)]]<br /> ブラントはギヨーム逮捕と共に引責辞任し当時は責任をとってと見られていた。しかしギヨーム逮捕直後の5月1日、当時ゲンシャー内相の腹心だったクラウス・キンケルがブラントに示した連邦検事局長官から内相に宛てた手紙から、検事局が首相の私生活に関する情報収集を行い、ブラントの女性関係を問題にしていたことがブラントにとって痛撃となった。<br /> <br /> ブラントには在任中に女性問題やアルコールに関する噂が絶えず、それを野党やメディアに激しく攻撃されて健康状態を悪化させるほどの精神状態になっており、ノーラウ長官にとってはこの女性問題と首相の傍に東側スパイがいたという二重のスキャンダルの深刻化を恐れていた。<br /> <br /> そして1974年5月4日にボン郊外での党指導部の会合の折りにヴェーナーに厳しく叱責&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;直後に連邦首相となったヘルムート・シュミットは、後に「ブラントに向かって大声でどなるようなむごい振る舞いをしてしまった。」と述べている。ただし「全くつまらん契機で辞任するなどしないようにとの意図で言ったことなのだが・・」とも付け足している。しかしヘルベルト・ヴェーナーが心配したのは、ノーラウ長官と同じであり、社会民主党が政権に留まろうとするなら、出来るだけ速やかにダメージを受けずにこのスキャンダルから抜け出さなければならない、そのために現職の社会民主党首相を犠牲にすることが必要ならそれもやむを得ない、と考えていた。ブラントはこの翌日の5月5日に辞表を書いている。(グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』195-196P参照)&lt;/ref&gt;されたブラントは5月6日にハイネマン大統領宛て辞表を提出した。スパイ事件との関わりで不注意のあった政治的責任をとる旨を記していた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』193-196P参照&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ヴィリー・ブラントが辞任に追い込まれた1974年5月という時期は、後から振り返ると先進各国の指導者が石油危機から波及した状況に苦闘するか、スキャンダルに包まれて国民の支持を失ったことで、軒並みに政権交代(政変》があった特異な時代でもあった。ノーラウ長官が二重のスキャンダルを恐れたのは、この当時の欧米の政局も影響していた。アメリカはウオーターゲート事件でニクソン弾劾が進んでいた時でニクソン大統領は8月に辞任しフォード副大統領が昇格した。イギリスは石油危機から国内で炭鉱ストが頻発して2月に総選挙が行われて保守党が敗れ当時のヒース首相が辞任し、労働党のウイルソン首相が返り咲いた。フランスはポンピドゥ大統領が死去して5月の大統領選挙でジスカールデスタン大統領が誕生した。イタリアは11月にルモール内閣が倒れ、モロ内閣に変わった。そして日本では田中角栄首相が石油危機以降の狂乱物価で国民の支持を失い、しかも金脈問題も絡んで自民党内からも支持を失い(ロッキード事件の発覚はこの2年後の1976年で首相辞任には関係はない)、11月に辞任し三木武夫が椎名裁定で首相に就任した。その他、ポルトガルでは4月にカーネーション革命が起こり、国内が混乱しつつも民主化を歩んだ。ベルギーも首相が交代している。翌年1975年11月にフランスのランブイエで開催された第1回主要先進国会議(ランブイエ・サミット)で参加した米・英・仏・西独・伊・日の6ヵ国首脳は全て前年1974年に就任した顔ぶれであった。&lt;/ref&gt;。そして財務相の[[ヘルムート・シュミット]]に連邦首相の座を譲った。<br /> <br /> === その後 ===<br /> [[Image:Willy.Brandt.Stockholm.2007.jpg|thumb|right|[[ストックホルム]]、ヴィリー・ブラント公園にあるブラントの銅像]]<br /> 首相を退いた後もブラントは社会民主党の党首として影響力を保持した。健康状態の悪化もあり1987年に退任するが、その際、希望後継者に党外のジャーナリストを指名して党内から批判の声が上がった(直後の党大会では別の人物が選出された)。退任と同時に終身名誉党首に選出された。<br /> ====社会主義インターナショナル議長====<br /> 一方、国際的な活躍も目覚ましく、1976年には[[社会主義インターナショナル]]議長に就任した(1992年まで)。1979年から1983年まで[[欧州議会議員]]を務め、1977年には[[世界銀行]]総裁の[[ロバート・マクナマラ]]に[[南北問題]]に関する独立諮問委員会の長に任命され、1980年に「ブラント・レポート」を発表した。また[[フィデル・カストロ]]、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]、[[鄧小平]]、[[エーリッヒ・ホーネッカー]]など共産圏の首脳と会見し、緊張緩和・平和推進に尽力した。1990年の[[湾岸危機]]の際には[[イラク]]に乗り込んで[[サッダーム・フセイン]]と直談判、「人間の盾」として人質となっていた194人の在留ドイツ人を解放させドイツに連れ帰った。<br /> ====ベルリンの壁の崩壊====<br /> 1989年11月9日に[[ベルリンの壁]]が崩壊した日、ブラントと3人目の妻であるブリギッテはウンケル市に建てた家の引っ越し作業で疲れたため早めに床についた。この日の夕方の記者会見の模様は知っていたが、全くその後の壁の突然の崩壊は知らなかったという。そして早朝に電話のベルで起こされて、緊急にインタビューをしたいとジャーナリストが申し入れた時に知らされた。<br /> <br /> そして急ぎイギリスの軍用機に乗ってベルリンに向かった。まだこの時代は西ドイツ機で西ベルリンに飛ぶことは許されていなかったのである。そして西ベルリン市庁舎前の広場での集会に参加した。この集会には昨夜ポーランドから急遽西ベルリンに飛んできた[[ヘルムート・コール]]首相、[[ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー]]外相、ヴァルター・モンパー市長、ユルゲン・ヴォールラーベ市会議長らとともにブラントは演壇に立った。そして検問所を通って東ベルリンに足を運んだ。翌年念願のドイツ再統一がなると、ブラントは連邦議会に首都を[[ボン]]から[[ベルリン]]に移転することを提議し、議決された。<br /> ====私生活====<br /> 私生活ではブラントは、1941年にノルウエー人女性アンナ・カルロータ・トルキルゼンと結婚し一女をもうけたが、1943年に別居し1948年2月に正式に離婚した。その後に戦時中から親しくしていたノルウエー人のルート・ベルガウスト(本名ルート・ハンセンで夫がいたが1946年に病死している)と結婚、三男をもうけた。32年の結婚生活ののち1980年にルートと離婚、1983年に歴史家のブリギッテ・ゼーバッハーと再婚した。<br /> ====死去====<br /> ブラントは1978年に最初の心臓発作を起こし、一時政治活動を休止したが快復した。1991年、腸にポリープが発見され除去手術を受けたが、ガンの転移が多臓器にわたっており、翌年再手術を受けた時はすでに手遅れになっていた。残された時間を家族と過ごすために退院してウンケル(Unkel)の自宅に隠棲した。そこを前年の末にソ連大統領の地位を追われた[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]が予告なしに訪問したが、本物と信じなかった妻により追い返されたというエピソードがある。それから1月後の1992年10月8日午後4時32分、ブラントは3番目の妻ゼーバッハーに看取られて息を引き取った。連邦議会はブラントの国葬を決定した。<br /> ==人柄==<br /> ヴィリー・ブラントは傷つきやすく神経質で争いを好まぬ人であった。人を知る能力も彼の得意ではなかったという。しかしもったいぶらず丁重な姿勢でウイットある素質を持っていた。そして上昇志向が強く野心的で大きな望みを持っていた。だが彼は青少年時代からたびたび政治的にまた個人的に敗北を繰り返したこともあり、政治家としては何十年と政敵からの中傷に耐え抜きながら神経をすり減らし、首相になった頃には心身ともに疲れ果てていた。首相就任時はまだ大丈夫であったが、1974年春には「本当のところ私はへとへとであった。」と後に語り、自分自身のことで苦悩していた&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』200P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また生涯にわたって孤独な人であった。東方外交の交渉役であった腹心の[[エゴン・バール]]は「内にこもる人であった」「個々の人たちに心を開くことはめったになかった」と語っている。連邦首相府の[[ホルスト・エームケ]]は、「彼が沈みこむ時にはいつも完全な放心状態で思いがけなく起こる」「一人でいることがよくあり、数日の間は家に臥せって周囲とのコミュニケーションをとらないこともあった」と20年後に語っている。自由民主党(FDP)党首で外相そして後に大統領となった[[ヴァルター・シェール]]も同じような見方を示しているが、シェールはブラントの複雑な性格を理解し次第に友情のような感情を抱いた数少ない一人であった。本当のブラントは人との交流や緊密な関係を求めていたが「自分の心の奥底を誰にも見せたことがなかった」と言っている。そして一方では「ブラントはとことん誠実で言葉を交わすだけで十分で、文書による申し合わせなど必要でなかった」と述べている&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』198-199P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> シェールはまた「あなたのような構造の男を政府のトップまで押し上げたのは偶然の異常な積み重ね以外の何ものでもない」と直接ブラントに語ったという。ブラントを間近でカメラで追っていたカメラマンのロベルト・レーベックは「この頑固で生真面目な社会民主主義者の評価はかなりオーバーだ。誰もかれも大きなビジョン家でリーダーだと思っていたが、ただ彼自身はそうとは思っていなかった」「彼の謎めいた内向的な性格は彼の支持者の大きな期待に対する防護壁の役割を果たしていた」と語っている&lt;ref&gt;グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』202-203P参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==記念物==<br /> 現在、ベルリンにあるSPDの党本部ビルはブラントを記念して&quot;Willy-Brandt-Haus&quot;と名付けられている。またドイツの各都市にはほとんどと言っていいほどブラントの名を冠した通りがあり、国外では[[ポルト]]と[[リール (フランス)|リール]]にもある。ブラントの名を冠した政府系財団もあり、2020年開業予定の[[ベルリン・ブランデンブルク国際空港]]にもブラントの名が付けられた。また、ブラントの死後から2002年まで流通していた2[[ドイツマルク|マルク]]硬貨の裏面にもブラントの肖像があしらわれていた。<br /> <br /> == 参考文献==<br /> * グレゴーア・ショレゲン著 岡田浩平訳『ヴィリー・ブラントの生涯』三元社 2015年発行<br /> * 石田勇治 著「20世紀ドイツ史」白水社 2005年発行<br /> * 杉本稔 著「現代ヨーロッパ政治史」北樹出版 2007年<br /> * 田野大輔・柳原伸洋 編著『教養のドイツ現代史』ミネルヴァ書房 2016年<br /> * マックL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ 共著 伊藤裕子 訳「冷戦 1945-1991」 岩波書店 2009年6月発行<br /> * 永井清彦 著「現代史ベルリン」朝日選書 1984年<br /> * フレデリック・ケンペ著 宮下嶺夫 訳「ベルリン危機1961〜ケネディとフルシチョフの冷戦〜」上下巻 白水社 2014年<br /> * エドガー・ヴォルフルム著  飯田収治 木村明夫 村上亮 訳「ベルリンの壁〜ドイツ分断の歴史〜」 洛北出版  2012年<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|Willy Brandt}}<br /> * [http://www.geocities.com/peace_888grom/brandt-lecture-t.html Nobel Prize Lecture]{{de icon}}<br /> * [http://www.brandt21forum.info/Bio_Brandt.htm Biography of Willy Brandt]<br /> * [http://www.depauw.edu/news/index.asp?id=17907 Ubben Lecture at DePauw University]<br /> * [http://www.globalautonomy.ca/global1/glossary_entry.jsp?id=EV.0025 Adam Sneyd, &quot;Brandt Commission&quot;, in Globalization and Autonomy Online Compendium, edited by William D. Coleman and Nancy Johnson]<br /> *[http://www.bwbs.de/ Bundeskanzler Willy Brandt Stiftung]{{de icon}}<br /> *[http://www.willybrandtcenter.org/ WBC Willy Brandt Center Jerusalem]{{en icon}}<br /> <br /> {{start box}}<br /> {{s-off}}<br /> {{succession box<br /> | title = [[連邦首相 (ドイツ)|ドイツ連邦共和国首相]]<br /> | before = [[クルト・ゲオルク・キージンガー]]<br /> | years = 1969年 - 1974年<br /> | after = [[ヘルムート・シュミット]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = [[ドイツ|ドイツ連邦共和国副首相]]<br /> | before = [[ハンス=クリストフ・ゼーボーム]]<br /> | years = 1966年 - 1969年<br /> | after = [[ヴァルター・シェール]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = [[ドイツ外務省|ドイツ連邦共和国外務相]]<br /> | before = [[ゲアハルト・シュレーダー (CDU)|ゲアハルト・シュレーダー]]<br /> | years = 1966年 - 1969年<br /> | after = [[ヴァルター・シェール]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = [[西ベルリン|西ベルリン市長]]<br /> | before = [[オットー・ズール]]<br /> | years = 1957年 - 1966年<br /> | after = [[ハインリヒ・アルベルツ]]<br /> }}<br /> {{s-ppo}}<br /> {{succession box<br /> | title = [[ドイツ社会民主党|ドイツ社会民主党党首]]<br /> | before = [[エーリッヒ・オレンハウアー]]<br /> | years = 1964年 - 1987年<br /> | after = [[ハンス=ヨッヘン・フォーゲル]]<br /> }}<br /> {{end box}}<br /> <br /> {{ノーベル平和賞受賞者 (1951年-1975年)}}<br /> {{ドイツの首相}}<br /> {{ドイツ連邦共和国外務大臣}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふらんと ういり}}<br /> [[Category:西ドイツの政治家]]<br /> [[Category:ドイツ社会民主党の政治家]]<br /> [[Category:社会主義インターナショナルの人物]]<br /> [[Category:ドイツの首相]]<br /> [[Category:ドイツの外相]]<br /> [[Category:ベルリン市長]]<br /> [[Category:ドイツの亡命者]]<br /> [[Category:スペイン内戦の人物]]<br /> [[Category:ドイツのノーベル賞受賞者]]<br /> [[Category:ノーベル平和賞受賞者]]<br /> [[Category:リューベック出身の人物]]<br /> [[Category:1913年生]]<br /> [[Category:1992年没]]</div> 124.39.100.132 ロッジP2 2018-03-21T23:19:24Z <p>124.39.100.132: /* 活動開始 */</p> <hr /> <div>{{Otheruses|かつて[[フリーメイソン]]のロッジであった組織|&#039;&#039;&#039;P2&#039;&#039;&#039;のその他の用法|P2 (曖昧さ回避)}}<br /> &#039;&#039;&#039;ロッジP2&#039;&#039;&#039;(Loggia P2、正式名称:Propaganda Due)は、[[イタリア]]に拠点を置く[[フリーメイソン]]のグランド・ロッジ「{{仮リンク|イタリア大東社|label=イタリア大東社 (Grande Oriente d&#039;Italia)|it|Grande Oriente d&#039;Italia}}」傘下で活動していたロッジである。メンバーの違法行為を問われ[[1976年]]にフリーメイソンのロッジとしての承認を取り消された後も、元メンバーにより[[秘密結社]]的な存在として運営されていた。<br /> <br /> ==概要==<br /> ===活動開始===<br /> [[File:Benito e Edda Mussolini, Cattolica 1925.jpg|thumb|right|220px|ベニート・ムッソリーニ(1925年)]]<br /> [[イタリア統一運動|イタリア統一]](リソルジメント)後の[[1877年]]に、「Propaganda Massonica」の名で[[トリノ]]を拠点にフリーメイソンのロッジとしての活動を始めた。しかしその後、[[ベニート・ムッソリーニ]]率いる[[ファシスト党]]政権下の[[1925年]]に「[[秘密結社]]禁止法」が施行され、イタリアにおける全てのフリーメイソンが活動を禁止されたために活動を停止し、その後は秘密裏に活動を行った。<br /> <br /> その後[[第二次世界大戦]]において北イタリアが[[ドイツ軍]]の占領下から解放され、[[イタリア社会共和国]](サロ政権)が崩壊しフリーメイソンの活動が解禁された[[1945年]]に、「Propaganda Due」の名でフリーメイソンのグランド・ロッジ「イタリア大東社」傘下のロッジとして活動を再開した。<br /> <br /> しかしその後[[1960年代]]に至るまで、その活動は政治的な色彩を帯びたものではない上に活発なものではなく、数回の会合を開いていた程度にすぎなかった。<br /> <br /> ===ジェッリの入会と反共化===<br /> [[File:Licio Gelli in paramenti.jpg|right|thumb|200px|リーチオ・ジェッリ]] <br /> しかし[[1966年]]に、元[[ファシスト党]]員で、極右政党である[[イタリア社会運動]](MSI)の幹部で、第二次世界大戦における[[ドイツ]]の戦犯容疑者の[[ブラジル]]や[[アルゼンチン]]などの[[南アメリカ]]諸国への海外逃亡を幇助した「[[オデッサ (組織)|オデッサ]]」と手を組み助けた人物としても知られた[[リーチオ・ジェッリ]]が入会してからは、ジェッリ自らが活動を活発化させ主導権を握り、[[1971年]]には代表(グランド・マスター=親方)に就任した。<br /> <br /> この前後に、東西[[冷戦]]下のイタリアにおいて[[ソビエト連邦]]と一定の距離を置く「[[ユーロコミュニズム]]」路線を敷いた、[[エンリコ・ベルリンゲル]]書記長率いる[[イタリア共産党]]が中道層の間にも支持を増し国政における議席を増やしたほか、[[首都]]の[[ローマ]]や、[[ボローニャ]]や[[フィレンツェ]]などの大都市の首長に共産党員が選出されるなど活動が活発化した。<br /> <br /> また[[ボリビア]]や[[ニカラグア]]などの南アメリカ諸国において、[[キューバ]]の[[チェ・ゲバラ]]などの[[共産主義]]者が率いる[[ゲリラ]]活動家らが反軍事独裁運動に浸透を図る中で、ジェッリ代表の主導の元、これらの左傾化に危機感を持つイタリアの右派[[政治家]]や[[イタリア軍]]人を中心に、アルゼンチンの[[ファン・ペロン]]政権や、当時軍政下にあったブラジルや[[ウルグアイ]]、[[チリ]]などの南アメリカ諸国の反共的な軍事政権の政治家や軍人もメンバーに持ち、さながら冷戦下における[[反共主義]]者の集まりとして活動していた。<br /> <br /> ===違法活動===<br /> [[File:Jorge Rafael Videla.png|thumb|200px|ホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領]]<br /> [[File:Otto Skorzeny.jpg|right|thumb|200px|[[オットー・スコルツェニー]]]]<br /> 反共主義活動の一環として、ジェッリ代表などを中心とした一部のメンバーが、左翼運動家や反政府[[ゲリラ]]のみならず、政府批判を行った国民を弾圧していたアルゼンチンやウルグアイなどの[[南アメリカ]]の軍事独裁政権や、民主的な選挙で選択された政権に対する軍事[[クーデター]]を起こそうと画策しているボリビアや[[チリ]]の軍部に向けて、[[戦闘機]]や[[ミサイル]]、[[装甲車]]などの武器買い付けを行った。<br /> <br /> なお、これらの南米諸国には古くからイタリア系移民が多く、軍首脳部にイタリア系移民の子孫も多かった。さらに、古くからドイツ系移民の子孫も多かった上に、第二次世界大戦後に南米諸国に亡命したナチス政権下のドイツ軍将校をアドバイザーとしていることも多かった。<br /> <br /> さらにジェッリ代表ら主要メンバーは、[[1970年代]]にアルゼンチンで反政府的な左翼運動家や反政府ゲリラに対して「[[汚い戦争]]」を進めていた、軍人出身の[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]][[大統領]]を資金面で積極的に支援していた。しかしこれらの資金の多くが違法に調達されたものであった。また、[[1982年]]にアルゼンチンと[[イギリス]]との間に起きた[[フォークランド紛争]]で、アルゼンチン空海軍機に搭載され、多くの[[イギリス海軍]]艦船を沈め有名になった[[フランス]]製の「[[エグゾセ]]・ミサイル」も、ジェッリ代表やメンバーにより調達されたものであることが明らかになっている。<br /> <br /> なお、ジェッリ代表やアルゼンチンのメンバーは、第二次世界大戦後に[[戦犯]]容疑者となったものの、ジェッリやバチカンの協力を得てボリビアに逃亡した後に同国の軍事政権のアドバイザーを務めていた元[[ナチス親衛隊]][[中尉]]の[[クラウス・バルビー]]や、同じく元ドイツ軍士官で[[グラン・サッソ襲撃|ムッソリーニ救出作戦]]の指揮官として知られ、ドイツの敗戦後は[[スペイン]]や南アメリカに亡命し暮らしていた[[オットー・スコルツェニー]]とも、これらの武器の輸出を通して関係を続けていた。<br /> <br /> さらに、ジェッリ代表を含む複数のメンバーは、バルビーやスコルツェニーのみならず、[[冷戦]]下においてこれらの南アメリカの軍事独裁政権を同じく支援していた[[アメリカ合衆国]]の[[中央情報局]](CIA)との関係、さらには「[[グラディオ作戦]]」との関係も噂されている&lt;ref&gt;「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===認証取り消し===<br /> この様な違法かつ倫理観に欠ける活動が明らかになったことが、当時共産党などの左翼政党が大きな勢力を維持していたイタリア国内で大きな疑惑と批判を浴び、[[1974年]]には「イタリア大東社」傘下のロッジとしての承認取り消しが提起され、[[1976年]]に「イタリア大東社」傘下のロッジとしての認証が取り消され、フリーメイソンから正式に破門されることとなった&lt;ref&gt;「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、その後もジェッリは「イタリア大東社」内の他のロッジで活動を続けた上に、他のメンバーも、イタリアの政治家や軍人、極右活動家を中心に他のロッジのメンバーとなりつつ秘密裏に「ロッジP2」として秘密裏に活動を続け、言葉通りの「[[秘密結社]]」的存在として活動した。<br /> <br /> ===コリエーレ・デラ・セラ紙への経営介入===<br /> [[File:Marcinkus retouch.jpg|right|thumb|200px|ポール・マルチンクス枢機卿]]<br /> その後[[1977年]]には、当時の与党である[[キリスト教民主主義 (イタリア 1942-1994)|キリスト教民主党]]との対立により、イタリアの主要[[銀行]]からの融資を止められ資金難に陥っていた日刊紙「[[コリエーレ・デラ・セラ]]」の親会社であるリッツオーリ社に、左派で知られたピエーロ・オットーネ編集長を解雇することを条件にジェッリが融資を持ちかけた。なお、リッツオーリ社のアンジェロ・リッツオーリ社長は「ロッジP2」のメンバーである&lt;ref&gt;「イタリア・マフィア」シルヴィオ・ピエロサンティ著 ちくま新書 2007年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その後ジェッリは、自らと関係の深かったバチカン銀行の総裁で、枢機卿でもある[[ポール・マルチンクス]]が違法に調達した資金をリッツオーリ社に提供し、その後オットーネ編集長は解雇された。以降同紙は現在に至るまで[[保守主義]]的な論調を取ることとなった。<br /> <br /> ===ボローニャ駅爆破事件===<br /> [[画像:Stragedibologna-2.jpg|right|thumb|200px|爆破されたボローニャ中央駅]]<br /> [[1980年]][[8月2日]]の朝に、[[ボローニャ]]にある[[ボローニャ駅爆破テロ事件|ボローニャ中央駅で爆弾テロ事件]]が発生し、駅舎と駅構内に停車していた客車が破壊され、これにより外国人を含む85人が死亡、200人以上が負傷した。当初この事件は鉄道事故と思われていたものの、事件後の調査で捜査員が爆心地近くで[[金属]]片と[[プラスチック]]片を発見したことにより、テロ事件と断定され捜査が開始された。<br /> <br /> 事件後には[[ローマ]]、[[ジェノバ]]、[[ミラノ]]のマスコミに、[[極左]][[テロ組織]]の「[[赤い旅団]]」と、ネオファシズム組織の「[[武装革命中核]]」(Nuclei Armati Rivoluzionari/NAR)が犯行を名乗り出たが、 その後武装革命中核は「事件とは無関係で、犯行声明はでっち上げである」という声明を3日夜発表した&lt;ref name=&quot;yomiuri0804&quot;&gt;ボローニャ惨事は爆弾テロ 犠牲者に早大生 死者84、負傷188人 [[読売新聞]] 1980年8月4日夕刊1ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかしその後捜査当局は武装革命中核が[[テロ]]の実行犯と断定し、さらに「ロッジP2」のメンバーで、[[SISMI|イタリア軍安全情報局]](SISMI)のナンバー2のピエルト・ムスメキ将軍が、ジェッリ代表の事件への関与の嫌疑をそらし、さらに極右組織「Terza Posizione」のリーダー達に嫌疑をかけるための偽装工作を行ったとして逮捕された。その後行われた裁判で、ジェッリとムスメキ将軍は捜査妨害などの罪で有罪判決を受けた。<br /> <br /> なお、事件の動機は詳しくは判明していないが、爆破テロを行い多くの市民を殺害しその罪を共産主義者になすりつけることで、これまでの暴力的革命路線を放棄したことで無党派や中道層を取り込むなど、当時イタリア国内で勢力を拡大していたイタリア共産党をはじめとする左翼勢力による脅威と、イタリア共産党との協力路線である「歴史的妥協」をすすめ、その結果左翼勢力の勢力拡大を招いた[[キリスト教民主主義]]の[[フランチェスコ・コッシガ]]政権の極左対策への無策をアピールし、世論を極右政党に対し有利な方向に誘導することが目的であったのではないかと言われている。<br /> <br /> ===「P2事件」===<br /> [[File:Silvio Berlusconi 09072008.jpg|right|200px|thumb|シルヴィオ・ベルルスコーニ]]<br /> 1981年3月に、ボローニャ中央駅爆弾テロ事件をはじめとする極右テロや複数の経済犯罪、さらに政府転覆謀議などへの関与の容疑でイタリア当局から逮捕状が出されていたジェッリ代表の[[ナポリ]]の別宅をイタリア[[警察]]が捜索した際に、既にフリーメイソンのロッジとしての認証を取り消されていた「ロッジP2」に、下記の10人を含む932人のメンバーがいることがジェッリ代表が隠し持っていたリストから確認され、イタリア政府より発表された&lt;ref&gt;「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その中には、第二次世界大戦後の王制廃止により、[[スイス]]や[[ポルトガル]]での[[亡命]]生活を余儀なくされていた[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア]]元[[イタリア王国]][[王太子]]の他にも、30人のイタリアの現役[[将軍]]、38人の現役[[国会議員]]、4人の現役[[閣僚]]、情報機関首脳、後のイタリア首相となる[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]などの[[実業家]]、[[大学教授]]などが含まれており、「P2事件」と呼ばれイタリア政財界のみならず、ヨーロッパ中を揺るがす大スキャンダルとなり、ときの[[アルナルド・フォルラーニ]]首相は辞任に追い込まれた&lt;ref&gt;「イタリア・マフィア」シルヴィオ・ピエロサンティ著 ちくま新書 2007年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===破門===<br /> このような事実が明らかになった結果、これらのメンバーとの関係を疑われることになってしまったフリーメイソン内の委員会は、すでにロッジとしての認証を正式に取り消していた「ロッジP2」そのものを再度正式に「破門」したと発表した。<br /> <br /> さらに、[[スイス]]に逃亡していたジェッリ代表を含む「ロッジP2」メンバーの中で、「ロッジP2」の認証取り消し後に他のフリーメイソンのロッジのメンバーとして活動していた者全員を、「フリーメイソンの名をかたった上で、フリーメイソンにふさわしくない活動を行った」として、[[1981年]][[10月31日]]に正式に破門した。<br /> <br /> また同年12月24日には、[[アレッサンドロ・ペルティーニ]][[大統領]]が「ロッジP2」を「犯罪組織」と正式に指名し、その後議会に調査委員会が発足し調査が開始された。<br /> <br /> ===カルヴィ暗殺事件===<br /> [[ファイル:Roberto Calvi.jpg|right|200px|thumb|ロベルト・カルヴィ]]<br /> [[File:Andreotti gelli.jpg|right|thumb|200px|アンドレオッティとジェッリ]]<br /> [[1982年]]に入ると、バチカン銀行の主力取引行で、「ロッジP2」メンバーである[[ロベルト・カルヴィ]]が頭取を務めていた[[アンブロシアーノ銀行]]が、10億ドルから15億ドルともいわれる使途不明金を出して破綻し、カルヴィに逮捕状が出されたものの偽造[[パスポート]]で逃亡した。<br /> <br /> その直後にカルヴィの秘書のグラツィエッラ・コロケールは、カルヴィを非難するメモを残して飛び降り自殺し、さらに[[6月17日]]にはカルヴィが逃亡先の[[イギリス]]の[[ロンドン]]で[[暗殺]]され、ブラックフライアーズ橋に首を吊った姿で発見された。なお死体が発見された時点では「自殺」とされたが、その後の調査で暗殺であると認定された。<br /> <br /> 後にジェッリは逃亡先の[[ジュネーヴ]]で逮捕され、[[1980年]][[8月2日]]に行われ多数の死傷者を出した[[ボローニャ駅爆破テロ事件]]やアンブロシアーノ銀行破綻、カルヴィ暗殺に関与した暗殺犯の1人としてスイスとイタリアで起訴され、4年の懲役刑の有罪判決を受け服役したものの、数回に渡り脱獄と再逮捕を繰り返した&lt;ref&gt;「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年&lt;/ref&gt;。なお、カルヴィ暗殺への関与については「証拠不十分」として無罪となった&lt;ref&gt;「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> またジェッリの脱獄と逃亡には、これまでに何度も[[首相]]を含む主要閣僚を務めていた[[ジュリオ・アンドレオッティ]]をはじめとするイタリアの政界関係者のバックアップがあったと言われている。<br /> <br /> なお、アンブロシアーノ銀行破綻とそれに続くカルヴィ暗殺事件には、ジェッリ代表やマルチンクス大司教をはじめとするバチカン関係者やイタリア政財界のみならず、マフィア関係者や[[ユダヤ系]]金融家で[[大富豪]]の[[ジェームズ・ゴールドスミス]]、果ては事件当時の[[ローマ教皇]]であった[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]とともに、出身国である[[ポーランド]]の反体制(=反[[共産主義]][[政府]])組織である「[[独立自主管理労働組合「連帯」|連帯]]」を資金援助していたCIAに至るまで、様々な組織の関与が噂された。<br /> <br /> ===現在===<br /> このように、「ロッジP2」とのそのメンバーの行動はイタリア内外から多くの批判を浴び、複数のメンバーは罪に問われ、またそのいくつかは暗殺されたものの、逃げおおせた者も多く、その後もベルルスコーニがイタリア首相の座に就くなど、元メンバーの多くがイタリア内外で活躍し続けている。<br /> <br /> なおジェッリは[[2003年]]に「P2再生プラン」を発表し話題を呼んだものの、実際に再興はされていない。また2007年に「カルヴィ暗殺事件」で無罪判決を受けた後には、自らの自叙伝的[[映画]]のための権利を譲渡する契約をアメリカの映画プロデューサーとの間に結んだものの、これらの計画が実現しないまま[[2015年]]12月にこの世を去った。<br /> <br /> ==主なメンバー==<br /> ===イタリア===<br /> [[File:Ricevuta di pagamento per l&#039;iscrizione del dott. Silvio Berlusconi alla loggia massonica P2.gif|right|200px|thumb|ベルルスコーニが加入した際の会費の領収証]]<br /> *リーチオ・ジェッリ:最後の代表で[[実業家]]、[[投資家]]。1919年ピストイア生まれ。<br /> <br /> *[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア]]:元[[イタリア王国]][[王太子]]。[[サヴォイア家]]当主。<br /> <br /> *[[ミケーレ・シンドーナ]]:[[弁護士]]。バチカン銀行の財政顧問を務めていると同時に、[[マフィア]]の[[マネーロンダリング]]を行っていたことでも知られる。[[1986年]]に刑務所内で死亡したが、[[暗殺]]された疑いがある。<br /> <br /> *[[ロベルト・カルヴィ]]:1920年生まれ。アンブロシアーノ銀行の[[頭取]]で、シンドーナとの関係が深かった&lt;ref&gt;「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年&lt;/ref&gt;。同行が破綻した1982年に、逃亡先のイギリスのロンドンで暗殺された。後にジェッリが暗殺犯の1人として起訴されたが「証拠不十分」として無罪となった。<br /> <br /> *[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]:元イタリア[[首相]]、[[自由の人民]]代表。[[1978年]]の入会当時は実業家。<br /> <br /> *アントニオ・マルティーノ:ベルルスコーニ政権下で[[2001年]]から[[2006年]]まで[[国防大臣]]を務めた。<br /> <br /> *ピエルト・ムスメキ:イタリア軍安全情報局(SISMI)のナンバー2であったが、ボローニャ駅爆破テロ事件の容疑者としてジェッリとともに逮捕された。<br /> <br /> *アンジェロ・リッツオーリ:イタリアの大手[[新聞社]]「[[コリエーレ・デラ・セラ]]」のオーナーで[[映画]]製作者。<br /> <br /> *ミーノ・ペコレッリ:[[ジャーナリスト]]。極左テロ組織の「[[赤い旅団]]」による[[アルド・モーロ]]元首相殺害事件へのジュリオ・アンドレオッティ首相による関与を暴く記事を執筆した後の[[1979年]]3月に暗殺された。後にアンドレオッティが起訴され有罪となったがその後逆転無罪となった。<br /> <br /> ===イタリア以外===<br /> *ラウル・アルベルト・ラスティーリ:内務大臣([[1971年]]から[[1973年]])。<br /> *ホセ・ロペス・レガ:アルゼンチンの社会[[福祉]]担当[[大臣]]。<br /> *カルロス・アルベルト・コルティ:[[アルゼンチン海軍]][[総督]]。<br /> *エミリオ・マセッラ:[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]]政権下の軍事評議会メンバー([[1976年]]から[[1978年]])。<br /> <br /> ==小説==<br /> *『P2』ルイス・ミゲル・ローシャ著、木村裕美訳、新潮社 2010年<br /> ::原著 『O ULTIMO PAPA(LA MUERTE DEL PAPA』2006年。オリジナルはポルトガル語、訳はスペイン語版から。<br /> <br /> ==索引==<br /> &lt;references/&gt; <br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[タンジェントポリ]]<br /> *[[国際商業信用銀行]]<br /> *[[北部同盟 (イタリア)|北部同盟]]<br /> *[[ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇) |ヨハネ・パウロ1世]]<br /> *[[サルヴァトーレ・リイナ]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ろつしP2}}<br /> [[Category:フリーメイソンリー]]<br /> [[Category:イタリア共和国]]<br /> [[Category:イタリアの事件]]<br /> [[Category:イタリアの政治]]<br /> [[Category:秘密結社]]<br /> [[Category:マフィア]]<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:反共主義]]<br /> [[Category:反共団体]]<br /> [[Category:諜報工作]]</div> 124.39.100.132 エド・サリヴァン・ショー 2018-03-14T22:01:28Z <p>124.39.100.132: /* 主な出演者 */</p> <hr /> <div>[[File:Ed sullivan theater.jpg|300px|right|thumb|収録が行われた「[[エド・サリヴァン・シアター]]」]]<br /> 『&#039;&#039;&#039;エド・サリヴァン・ショー&#039;&#039;&#039;』({{Lang-en|The Ed Sullivan Show}})は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[CBS]]で放送されていた[[バラエティ番組]]である。[[エド・サリヴァン]]({{Lang|en|Ed Sullivan}}, 1901年9月28日 - 1974年10月13日) がホスト役を務めていた。放送期間は1948年6月20日 - 1971年6月6日、当時の放送時間は日曜20時(現地時間{{どれ|date=2017年3月12日 (日) 15:08 (UTC)}})から。日本語では「&#039;&#039;&#039;エド・サリバン・ショー&#039;&#039;&#039;」とも称される。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> ===放送開始===<br /> [[File:Lucille Ball Paula Stewart Wildcat Ed Sullivan Show 1961.JPG|thumb|right|220px|[[ルシール・ボール]]とポーラ・スチュワート(1961年)]]<br /> [[File:1966 The Supremes.JPG|thumb|right|220px|スプリームス(1966年)]]<br /> アメリカにおけるテレビ黎明期の1948年6月20日に放送が開始された。番組発足当時のタイトルは『&#039;&#039;&#039;Toast of the Town&#039;&#039;&#039;』(トースト・オブ・ザ・タウン)で、直訳すると「町の人気者」となる。[[1955年]]9月に『Ed Sullivan Show』(エド・サリヴァン・ショー)改名された。<br /> <br /> ===番組内容===<br /> 番組内容は、ゲストとのトークと彼らによる芸の披露が主になっていた。出演したゲストは、[[コメディアン]]、[[バレエ]]ダンサー、曲芸師、[[クラシック音楽|クラシック]]演奏家、[[オペラ]]、[[ポピュラー音楽]]のシンガー、後には[[ロック_(音楽)|ロック]]ミュージシャンなど、ジャンルや人種を超えて多肢に亘った。<br /> <br /> ===出演ゲスト===<br /> アメリカを中心に活躍し、それぞれの分野で人気のあったゲストを主として迎えていたため、[[1956年]][[9月9日]]に[[エルヴィス・プレスリー]]が登場して以来、ロック系のミュージシャンも増えた。また、[[公民権]]法施行前で、まだまだアメリカ国内における[[人種差別]]が激しい状況にもかかわらず、人種差別を嫌うサリヴァンのイニシアチブにより[[アフリカ系アメリカ人]]のミュージシャンも多く登場した。<br /> <br /> 1960年代に至っては[[ビーチ・ボーイズ]]や[[ジャニス・ジョプリン]]、[[スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン]]など、それまでには考えられなかった方向性のミュージシャンやアーティストも多数出演することとなった。1969年には[[マイケル・ジャクソン]]ら[[ジャクソン5]]が出演している。<br /> <br /> また、1964年2月9日から3週間連続で出演した[[ビートルズ]]以降、アメリカ進出を果たした[[イギリス]]出身のロックミュージシャンの出演も増え、[[アニマルズ]]や[[ローリング・ストーンズ]]等、何組か出演を果たすこととなった。<br /> <br /> なおサリヴァンは、本人の保守的な志向と、老若男女を問わない幅広い視聴者層に合わせる為もあり、当時のアメリカの典型的な保守層の価値観を番組に持ち込んだため、プレスリーの登場時の服装やカメラの位置、[[ドアーズ]]やローリング・ストーンズの登場時の歌詞の変更など、現代では滑稽と思えるような様々なエピソードを提供することになった。<br /> <br /> ===打ち切り===<br /> [[ベトナム戦争]]を経てアメリカ社会全体の価値観が変化しつつあった[[1960年代]]後半になると、この様な保守的な番組構成がもはやマンネリ化し『エド・サリヴァン・ショー』の視聴率は20位にも届かなくなっていた。このため、CBSの上層部は[[1971年]][[6月6日]]を持って番組を打ち切ってしまう。サリヴァンは激怒し、[[1973年]]に『エド・サリヴァン・ショー』25周年スペシャル番組ほかの特番に出演するまでCBSと縁を切った。<br /> <br /> == 主な出演者 ==<br /> [[File:Elvis Presley and Ed Sullivan October 1956.jpg|thumb|right|220px|エド・サリヴァンとエルヴィス・プレスリー]]<br /> *[[エルヴィス・プレスリー]]<br /> *[[ビートルズ]]<br /> *[[ローリング・ストーンズ]]<br /> *[[ジェームス・ブラウン]]<br /> *[[サミー・デイヴィスJr.]]<br /> *[[ママス・アンド・パパス]]<br /> *[[ジャクソン5]]<br /> *[[スプリームス]]<br /> *[[ザ・ビーチ・ボーイズ]]<br /> *[[ザ・テンプテーションズ]]<br /> *[[ザ・ドアーズ]]<br /> *[[坂本九]]<br /> *[[ジャッキー吉川とブルーコメッツ]]<br /> *[[ザ・ピーナッツ]]<br /> *[[カーミット]]<br /> <br /> == エピソード ==<br /> === 強い影響力 ===<br /> [[File:Ed Sullivan Cole Porter Toast of the Town 1952.JPG|thumb|right|220px|[[コール・ポーター]]とサリヴァン(1952年)]]<br /> [[File:The Dave Clark Five with Ed Sullivan.JPG|thumb|right|220px|デイブ・クラーク・ファイブとエド・サリヴァン(1964年)]]<br /> 「この番組を見逃せば日常の中での会話に支障をきたす」と言われるほどに、[[1950年代]]から[[1970年代]]にかけての当時の文化と強く結びついた番組であった。報道関係にも従事したサリヴァン自身は、[[カトリック教会|カトリック]]の信仰を持つ保守派として知られた。また人種差別を嫌悪し、人種や国籍、性別を問わず様々な出演者を公平に扱った。<br /> <br /> === エルヴィス・プレスリー ===<br /> エルヴィス・プレスリー出演の際には寸前まで反対していた。しかし、プレスリーの真摯な態度を見たサリヴァンはプレスリーを「立派な若者です」と称賛し、実際に再度の出演も実現している(1956年9月9日、10月28日、1957年1月6日の通算3度出演)。また、プレスリーの最初の出演時には、全米[[視聴率]]が82.6%を記録している。3度目の出演時にはプレスリーの腰を振るアクションにクレームが入ったために、本番では延々と上半身だけのアングルの放送を行うことを要求し、プレスリー自身の顰蹙を買ったという逸話も残っている&lt;ref&gt;この件については、サリヴァン自身ではなくCBSの放送倫理部からの反対・依頼{{誰範囲2|との証言もある|date=2017年3月12日}}。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ローリング・ストーンズ ===<br /> ローリング・ストーンズは、ビートルズ出演に遅れること約8か月後の登場であったが、彼らの最初の演奏の後、サリヴァンは「もう金輪際、こいつらをこのテレビには出しません」というコメントを述べた&lt;ref&gt;英語表現は日本語と異なるため、この事をソフトに表現する文章が多いが、{{独自研究範囲|サリヴァンの番組内の権限と業界内でのキャリア、本人の保守性、さらに[[エド・サリヴァン#評価|サリヴァンの項にある評価欄に記されたエピソード]]をも考慮すると、むしろこれくらいのひどい言い方のニュアンスの方が近いと推測される|date=2017年3月12日}}。&lt;/ref&gt;。その後も、視聴者の人気に負けて5度出演させたが、1967年2月の出演の際には、演奏曲「&#039;&#039;Let&#039;s Spend The Night Together&#039;&#039;」(邦題「夜をぶっとばせ」)の「The Night」がSEXをイメージさせて破廉恥なため、「Some Time」に変えさせ、バンドのメンバー内でも揉めたというエピソードもある。<br /> <br /> === ドアーズ ===<br /> 1967年に[[ドアーズ]]が出演したとき、Light My Fire(&quot;ハートに火をつけて&quot;)の歌詞の一節 &quot;Girl, we couldn&#039;t get much higher&quot; が[[ドラッグ]]を暗示していて不穏当であるとの理由から、サリヴァン側は &quot;Girl, we couldn&#039;t get much better&quot; と変更して歌うことを要求したが、ヴォーカルの[[ジム・モリソン]]が生放送中にサリヴァンたちを出し抜いて本来の歌詞を歌ったため、サリヴァンたちは激怒して二度とドアーズを出演させなかった。<br /> <br /> === ボブ・ディラン ===<br /> 1963年5月12日には[[ボブ・ディラン]]が出演する予定だった。彼にとっても初めての全米中継のテレビ番組であった。当日の本番前の午後にリハーサルが行われたが、予定していた「[[ジョン・バーチ・ソサエティ]]・ブルース」は「[[赤狩り]]」に関連づけられた曲(反共団体「ジョン・バーチ・ソサエティ」を揶揄した曲)で、CBS側は「放送にふさわしくない」と曲の変更を要求した。するとディランはそれを拒否。歌えないのなら番組には出ないと、スタジオから出て行ってしまった。<br /> <br /> === ビートルズ ===<br /> ビートルズは1964年2月9日から3週連続出演(1、3週目は録画放送、2週目のみ生放送)、1965年9月12日には『[[4人はアイドル]]』のプロモーションを兼ねて番組出演。その後も、1965年から1970年にかけてはプロモーション・フィルムを提供する形での出演と回数は多かった。また、サリヴァンは1965年8月15日に行われたビートルズの[[シェイ・スタジアム]]公演でオープニングMCを担当したこともあった(映像にも残されている)。なお、彼らの最初の出演時には、当時のアメリカ全人口の60%とも言える約7300万人がその放送を観た{{誰範囲2|と言われ|date=2017年3月12日 (日) 15:08 (UTC)}}、その間の青少年犯罪がほぼ0件であったという記録{{どれ|date=2017年3月12日 (日) 15:08 (UTC)}}が残っている。<br /> <br /> == 日本人出演者 ==<br /> [[日本人]]としては、1960年代から[[雪村いづみ]]、[[ジャニーズ]]([[飯野おさみ]]、[[あおい輝彦]]、中谷良、真家ひろみ等の四名とバックバンドの[[ハイソサエティー]])、[[ザ・ピーナッツ]]や[[ジャッキー吉川とブルーコメッツ]](本放送ではなく再放送)が出演しており、当時小学生だったシンガーソングライター[[山本達彦]]も東京少年合唱隊の一員として出演している。その他のジャンルとしては舞踏家兼振付師・[[朱里みさを]](世界的に活躍した歌手・[[朱里エイコ]]の母親であり、後の[[宝塚歌劇団]]の講師と振付師となった人物)、1966年に特撮監督の[[円谷英二]]、1970年に当時[[オフ・ブロードウェイ]]進出中だった[[東京キッドブラザース]]が出演した。<br /> <br /> ジャッキー吉川とブルーコメッツのメンバーは日本での放送終了後に渡米して出演しているため、自分たちが出演した映像を見ることができなかったが、後にNHKが行った再放送によって自分たちの映像を初めて見ることができた。また、ジャニーズは帰国後直ぐに解散してしまったために国内での放送はされていない。<br /> <br /> ザ・ピーナッツの同番組の出演は、その後の日本人歌手の海外での活動の基礎となったことでその功績が大きく評価されている。出演時は通訳無しで、エド・サリヴァンとコミュニケーションをとった。<br /> <br /> ==スポンサー==<br /> * [[フォード・モーター]] - 1950年代においてアメリカ本国でのスポンサーとなっており、[[リンカーン (自動車)|リンカーン]]や[[マーキュリー (自動車)|マーキュリー]]などの同社製品のCMがDVDにて確認できる。<br /> * [[ユニリーバ]] - 1960年代においてアメリカ本国でのスポンサーとなっており、当時のCMをDVDにて確認することができる。<br /> * [[ケント (たばこ)]] - 1960年代においてアメリカ本国でCMを出稿していたが、後に発売されたDVDではカットされている。<br /> <br /> ==日本での放送==<br /> 日本では、1965年2月から[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で半年間だけ放送されていた。放送時間は毎週日曜 21:30 - 22:00 ([[日本標準時]])。また、当時アメリカの統治下にあった[[沖縄本島]]でも、[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]を通じて放送されていた。歴史的遺産ということもあり、後に[[日本放送協会|NHK]]と[[テレビ朝日]]が独自構成で放送している。<br /> <br /> ==現在==<br /> 現在はアメリカの[http://www.sofaentertainment.com/ ソファエンタテインメント社]が権利を所有しており、日本国内では[[衛星放送]]などで試聴可能である。また、各種編集版[[DVD]]や、ビートルズがスタジオ出演した4回の放送分、およびエルヴィス・プレスリーがスタジオ出演した3回の放送分を、現在の倫理規定に触れる部分のごくわずかな編集をしたのみで当時の放送フォーマットをCM内容まで再現した「完全版」DVDがリリースされている。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[日本BS放送]] (BS11) - 本番組を放送。<br /> * [[GYAO!]] - 本番組を放送。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{Tv.com show|toast-of-the-town|Toast of the Town}}<br /> * {{Tv.com show|the-ed-sullivan-show|The Ed Sullivan Show}}<br /> * [http://www2.nhk.or.jp/chronicle/pg/page010-01.cgi?keyword=%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%AE%BF%E5%A0%82%E3%80%80%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC 「スターの殿堂 エド・サリバンショー」番組表検索結果 &amp;#124; NHKクロニクル]<br /> <br /> {{前後番組<br /> | 放送局 = [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]<br /> | 放送枠 = 日曜21:30枠<br /> | 番組名 = エド・サリヴァン・ショー&lt;br /&gt;(1965年2月 - 1965年9月)<br /> | 前番組 = [[花と竜|村田英雄の花と龍]]&lt;br /&gt;(1964年10月25日 - 1965年1月17日)<br /> | 次番組 = [[ノンフィクション劇場]](第2期)&lt;br /&gt;(1965年10月 - 1965年12月)&lt;br /&gt;【日曜22:15枠から移動】<br /> }}<br /> {{前後番組<br /> | 放送局 = [[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]<br /> | 放送枠 = 日曜23:00枠<br /> | 番組名 = スターの殿堂 エド・サリバンショー&lt;br /&gt;(1993年4月11日 - 1994年4月3日)<br /> | 前番組 = [[音楽は恋人]]&lt;br /&gt;(1992年4月12日 - 1993年3月14日)&lt;br /&gt;※23:00 - 23:29&lt;hr /&gt;[[あなたのチャンネル]] 再放送&lt;br /&gt;(1991年5月12日 - 1993年3月14日)&lt;br /&gt;※23:30 - 23:40&lt;hr /&gt;[[NHKニュース|ニュース]]・[[天気予報]]&lt;br /&gt;(1992年4月12日 - 1993年3月14日)&lt;br /&gt;※23:40 - 23:57&lt;br /&gt;【日曜22:50枠へ移動】<br /> | 次番組 = [[新日本探訪]]&lt;br /&gt;(1994年4月10日 - 1995年3月26日)&lt;br /&gt;※23:00 - 23:24&lt;hr /&gt;[[ときめき夢サウンド]]&lt;br /&gt;(1994年4月10日 - 1995年4月2日)&lt;br /&gt;※23:25 - 23:54<br /> }}<br /> {{DEFAULTSORT:えとさりうあんしよお}}<br /> [[Category:1940年代のテレビ番組]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国のテレビ番組]]<br /> [[Category:テレビのバラエティ番組]]<br /> [[Category:CBS]]<br /> [[Category:日本テレビのバラエティ番組の歴史]]<br /> [[Category:NHK総合テレビジョンのバラエティ番組の歴史]]</div> 124.39.100.132 聖域都市 2018-03-01T04:10:05Z <p>124.39.100.132: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2017年2月1日 (水) 14:37 (UTC)}}<br /> &#039;&#039;&#039;聖域都市&#039;&#039;&#039;(せいいきとし、Sanctuary city)とは、[[アメリカ合衆国]]など[[不法移民]]が多い国で、不法移民に対して寛容な政策をとっている[[自治体]]の総称。<br /> <br /> ==概要==<br /> アメリカ国内では、[[ニューヨーク]]や[[ロサンゼルス]]などの大都市圏をはじめとして、約300あるとされる&lt;ref&gt;[http://toyokeizai.net/articles/-/162181 日本人が知らない米国「聖域都市」の謎な実態](2017年3月12日)2017年4月27日閲覧&lt;/ref&gt;。他国ではアメリカの隣国の[[カナダ]]でも同様の聖域都市がある。<br /> <br /> 具体的には、不法移民というだけでは[[逮捕]]や[[強制送還]]されることはない。聖域都市に属する[[警察官]]は、同市内に住む不法移民に対して在留資格の有無を調査することを許していない。また不法で入国して在住しているにもかかわらず。市民権がある市民とほぼ同様の公共サービスを受けることが出来る。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==関連項目==<br /> * [[在日]]<br /> * [[既得権]]<br /> <br /> {{Law-stub}}<br /> {{Socprb-stub}}<br /> {{Poli-stub}}<br /> {{US-stub}}<br /> {{CND-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:せいいきとし}}<br /> [[Category:アメリカ合衆国へ密入国した人物]]<br /> [[Category:移民]]<br /> [[Category:都市]]</div> 124.39.100.132 フレンチフリゲート瀬 2018-02-28T09:11:10Z <p>124.39.100.132: /* 概要 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2009年10月}}<br /> [[Image:French frigateISS004-E-11926.PNG|thumb|right|[[NASA]]によるフレンチ・フリゲート瀬の写真]]<br /> [[Image:ffs map lrg.png|right|thumb|フレンチフリゲート瀬の地図]]<br /> &#039;&#039;&#039;フレンチ・フリゲート瀬&#039;&#039;&#039;(French Frigate Shoals、ハワイ名:Kānemilohaʻi)は[[北西ハワイ諸島]]で最大の[[環礁]]である。フレンチ・フリゲート礁とも呼ばれる。<br /> <br /> ==概要==<br /> [[フランス]]人の探検家、[[ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー|ラ・ペルーズ伯]]に率いられた2隻の[[フリゲート艦]]が、[[1786年]][[11月6日]]深夜、前方に現れた未知の岩礁を衝突寸前で回避した。ラ・ペルーズはその乗艦に因んでこれを命名し位置を記録した。三日月状の32kmに及ぶ[[珊瑚礁]]と、12の[[砂州]]、高さ37mの[[ラ・ペルーズ尖礁]]で構成されている。総陸地面積は248.9km{{sup|2}}。[[ターン島]]には[[滑走路]]があり居住者もいる。[[パパハナウモクアケア海洋ナショナル・モニュメント]]内の管理地として[[合衆国魚類野生生物局]]によって管理されている。<br /> <br /> [[ミッドウェー島]]と[[オアフ島]]との間にあり、[[日本]]-[[ハワイ]]間の航空路上にある。[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]3月には、ハワイを空襲する「[[K作戦]]」を行った[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[二式飛行艇]]が経由地として使用した後、[[飛行艇]]基地を建設するために占領が計画されたこともあるが、[[ミッドウェー作戦]]の失敗のため実現しなかった。その後、環礁中のターン島に[[アメリカ軍]]により滑走路が建設され、ミッドウェー島-ハワイ間を中継する基地となった。<br /> <br /> ==自然保護==<br /> 現在は環礁全体が自然保護区の中にあるため、立ち入りは研究者に限られている。[[ハワイ諸島]]の[[アオウミガメ]](ホヌ)はここで繁殖する。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[K作戦]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commons|French Frigate Shoals}}<br /> *https://web.archive.org/web/20070928202942/http://www.midwaycommemoration.org/www.midwaycommemoration.org/2005/History.htm<br /> *http://www.wfu.edu/albatross/hawaii/history.htm<br /> *[http://www.hawaiireef.noaa.gov/welcome.html Northwestern Hawaiian Islands Coral Reef Ecosystem Reserve site]<br /> *[http://www.radiojerry.com/frigate/ The French Frigate Shoals Web Page]<br /> *[http://www.pbs.org/kqed/oceanadventures/episodes/kure/diaries/frenchfrigate.html Quick Facts on French Frigate Shoals from the PBS Ocean Adventures site]<br /> *http://www.ternisland.com<br /> *[http://starbulletin.com/2004/06/03/news/story2.html Tern Island: Noah&#039;s Ark of the Hawaiian Isles]<br /> *[http://www.airfields-freeman.com/HI/Airfields_W_Pacific.htm information on little-known airfield on French Frigate Shoals], and other [[Abandoned &amp; Little-Known Airfields]]<br /> * [http://www.pmnmims.org/ Papahānaumokuākea Marine National Monument Information Management System]<br /> {{Coord|region:US_type:isle|display=title|format=dms|nosave=1}}<br /> {{ハワイ}}{{ハワイの火山活動}}<br /> {{DEFAULTSORT:ふれんちふりけとせ}}<br /> [[Category:北西ハワイ諸島]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の環礁]]<br /> {{hawaii-stub}}</div> 124.39.100.132 プロヒューモ事件 2018-02-13T14:31:55Z <p>124.39.100.132: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;プロヒューモ事件&#039;&#039;&#039;(プロフューモじけん、&#039;&#039;&#039;Profumo Affair&#039;&#039;&#039;)は、[[1962年]]、当時の[[イギリス]]の[[ハロルド・マクミラン]]政権の[[陸軍大臣|陸相]]であった[[ジョン・プロヒューモ]]が、[[ソビエト連邦|ソ連]]側の[[スパイ]]とも親交があった[[モデル]]兼[[売春婦]]に国家機密を漏らした事件である。同政権の崩壊につながり、「20世紀最大の英政界スキャンダル」とされる。<br /> <br /> ==事件の概要==<br /> ===ソ連武官への売春===<br /> [[File:Christine Keeler on After Dark.JPG|thumb|right|220px|クリスティーン・キーラー([[1988年]]撮影)]]<br /> [[File:Cliveden House, Berkshire-9856441416.jpg|thumb|right|220px|クリーヴデン・ハウス]]<br /> 売春婦で[[ヌードモデル]]の[[クリスティーン・キーラー]]は、当時同棲していた著名な[[オステオパシー|整骨療法]]師の{{仮リンク|ステファン・ウォード|en|Stephen Ward}}による斡旋で、駐英ソ連[[大使館]]付[[海軍]][[武官]]の[[エフゲニー・イワノフ]][[大佐]]と金銭を介した肉体関係を持っていた。<br /> <br /> ===プロヒューモへの売春===<br /> その後1961年7月にプロヒューモは、「{{仮リンク|クリーヴデン・ハウス|en|Cliveden House}}([[バッキンガムシャー]]にある[[アスター子爵]]{{仮リンク|ウィリアム・アスター (第3代アスター子爵)|label=ウィリアム・アスター|en|William Astor, 3rd Viscount Astor}}所有の[[カントリー・ハウス]])」で行われた「プール・パーティー」で、キーラーを知人に紹介され、その後キーラーはプロヒューモとも金銭を介した肉体関係を持つことになる。なおこのパーティーには、キーラーと肉体関係を持っていたイワノフ大佐も招かれていた。<br /> <br /> 間もなくイギリスの上流階級の間においてプロヒューモとキーラーの関係に関する噂が広がり始め、この噂を知った内閣官房長官の[[サー]]・{{仮リンク|ノーマン・ブルック|en|Norman Brook, 1st Baron Normanbrook}}は、「キーラーがイワノフ大佐とも関係している」という[[MI5]]長官のサー・{{仮リンク|ロジャー・ホリス|en|Roger Hollis}}のアドバイスをプロヒューモに話した。プロヒューモはこのアドバイスを受けて1961年8月9日にキーラーに「もはや会うことができない」と手紙で伝え、2人の関係は数週間で終わることとなった。<br /> <br /> ===真相発覚===<br /> その後、1962年12月に発生した、キーラーと性的関係のある2人の男性の銃撃事件を調査した[[報道機関|マスコミ]]が、「キーラーはプロヒューモ陸相と、イギリス駐在ソ連大使館付海軍武官のイワノフ大佐とも親密な関係がある」という情報を入手。しかし、「[[政治家]]の[[プライバシー]]を尊重する」というイギリスの伝統のため、当初事件は大きく扱われなかった。<br /> <br /> しかし[[1963年]][[3月21日]]に、イギリス[[庶民院 (イギリス)|下院]]で[[労働党 (イギリス)|労働党]]議員ジョージ・ウィッグが「ある傷害事件の証人として出廷を命じられたキーラーと、マクミラン政権の閣僚の1人が関係があり、国家の安全のために事件を追究すべし」とし、噂の真相究明を要求した。疑いをもたれたプロヒューモは、「その女性は知っているが、不品行な関係はない」と下院で(下半)身の潔白を主張した。<br /> <br /> その後、キーラーがイワノフ大佐とも肉体関係があったことがマスコミにより明らかになり、国家の軍事機密漏洩事件にまで発展。イギリスのマスコミもこぞってこの事件の詳細を報道、国内の大きな関心事となった上、[[アメリカ]]や[[フランス]]、[[西ドイツ]]などのイギリスの同盟国でも大きく報じられた。<br /> <br /> ===辞任===<br /> [[File:JFKWHP-ST-A22-1-61 President John F. Kennedy with Prime Minister Harold Macmillan of Great Britain in Bermuda.jpg|thumb|right|220px|ハロルド・マクミラン(右)]]<br /> このためプロヒューモは、[[ハロルド・マクミラン]][[イギリスの首相|首相]]宛の手紙の中で、「議会での発言に嘘が含まれていた」と主張し、キーラーとの「親密な関係」については認めたが、「軍事機密の情報漏洩についてはなかった」と告白、謝罪して6月5日に辞任した。<br /> <br /> プロヒューモは「保守党の輝かしい星」ともいわれた政治生命を、恥辱のうちに自ら葬り去ることを余儀なくされた。なお告白前、プロヒューモは[[俳優|女優]]であった妻のヴァレリー・ホブソンに事件の事実を話したが、妻はスキャンダルの渦中でも夫の言い分を支持していた。<br /> <br /> なお当時は、プロヒューモがキーラーに対して職務上の機密を漏らしていたことや、キーラーがイワノフ大佐に対してプロヒューモから入手した機密情報を流していたという事実があったかは確認されていなかったこととされ、事件の早期の幕引きが図られた。<br /> <br /> この「世紀のスキャンダル」にイギリス議会は混乱し、マクミランの責任問題にまで発展。マクミランは、3月17日の下院における内閣不信任案は切り抜けたものの、11月には健康上の理由で辞意を表明、1964年の総選挙では同党は労働党に敗北した。<br /> <br /> ==その後==<br /> その後、銃撃事件における裁判においてキーラーは[[偽証罪]]で懲役9カ月の判決を受け、[[1963年]]12月に投獄され、その後も好奇の目にさらされて生きることを余儀なくされた。また、その後プロヒューモは慈善事業に専念し、[[1975年]]に叙勲されるなど名誉を回復し[[2006年]]に死去した。<br /> <br /> なお仲介者のウォードは1963年に刑事訴追され、[[保釈]]中の7月30日に[[オーバードース|服毒自殺]]を試み病院に搬送される。入院中に[[陪審制|陪審]]は売春斡旋罪についての有罪評決と他のいくつかの容疑の無罪評決を行うが、言い渡しがなされぬままウォードは死亡する。<br /> <br /> ==結果==<br /> なお事件発覚後に「イワノフ大佐とウォードは、キーラーに対して、[[アメリカ]]の[[核ミサイル]]がいつ[[西ドイツ]]に配備されるかプロヒューモに質問するように依頼した」と言われているが、その後の政府による調査の結果、プロヒューモがキーラーに対して軍事機密を含めた国家機密を話したか、また、キーラーがイワノフ大佐にそれらの話を流したかは証明されることはなかった。<br /> <br /> しかし[[2010年代]]に入り、キーラーは「[[サンデー・ミラー]]」や「[[デイリー・テレグラフ]]」の取材に対して、自らが母国への裏切り行為を行ったこと、そして当時自らがそのことを理解していたことを公式に認めた。<br /> <br /> なおこの事件の結果、プロヒューモのみならずマクミランも辞任を余儀なくされたうえに、保守党が[[1964年イギリス総選挙|1964年の総選挙]]で敗北するなどイギリス政界が混乱に陥ったことから、「イギリス政界を混乱させるために[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|ソ連情報部]](イワノフ大佐)の仕掛けた[[ハニートラップ]]による作戦の成功」という評価をされることもある。<br /> <br /> ==映画化==<br /> [[1989年]]に「[[スキャンダル (1989年の映画)|スキャンダル]]」 (Scandal)の題名で映画化されている。<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[ハニートラップ]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふろひゆもしけん}}<br /> [[Category:第二次世界大戦後のイギリス]]<br /> [[Category:英露関係]]<br /> [[Category:ロシアの工作活動]]<br /> [[Category:イギリスの事件]]<br /> [[Category:イギリスの政治史]]<br /> [[Category:スキャンダル]]<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:1963年のイギリス]]<br /> [[Category:1963年の政治]]</div> 124.39.100.132 モハンマド・モサッデク 2018-02-01T01:32:25Z <p>124.39.100.132: /* 石油国有化政策 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2011年1月}}<br /> {{政治家 | 人名=モハンマド・モサッデグ<br /> |各国語表記 = محمد مصدق <br /> |画像 = Mossadeghmohammad.jpg<br /> |画像説明 = <br /> |国略称 =[[ファイル:State flag of Iran 1964-1980.svg|25px]] [[イラン帝国]]<br /> |生年月日 =[[1882年]][[5月19日]]<br /> |出生地 =[[ファイル:Flag of Persia (1910).svg|25px]] [[テヘラン]]<br /> |没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1882|5|19|1967|3|5}}<br /> |死没地 = [[ファイル:State flag of Iran 1964-1980.svg|25px]] テヘラン<br /> |出身校 = <br /> |前職 = <br /> |現職 = <br /> |所属政党 = [[イラン国民戦線|国民戦線]]<br /> |称号・勲章 = <br /> |世襲の有無 = <br /> |親族(政治家) = <br /> |配偶者 = <br /> |サイン = Mohammad mossadegh Signature.svg<br /> |ウェブサイト = <br /> |サイトタイトル = <br /> |国旗 =<br /> |職名 = [[ファイル:State flag of Iran 1964-1980.svg|25px]] [[イラン帝国]][[イランの首相|首相]]<br /> |就任日 = [[1951年]][[4月28日]]<br /> |退任日 = [[1952年]][[7月16日]]<br /> |元首職 = 皇帝<br /> |元首 = [[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]<br /> |国旗2 =<br /> |職名2 = [[ファイル:State flag of Iran 1964-1980.svg|25px]] イラン帝国首相<br /> |就任日2 = [[1952年]][[7月21日]]<br /> |退任日2 = [[1953年]][[8月19日]]<br /> |元首職2 = 皇帝<br /> |元首2 = モハンマド・レザー・パフラヴィー<br /> }}&#039;&#039;&#039;モハンマド・モサッデグ&#039;&#039;&#039;({{Lang-fa|محمد مصدق}}、[[1882年]][[5月19日]] - [[1967年]][[3月5日]])は、[[イラン]]の[[民族主義者]]、[[政治家]]。同国の首相を2期務め、1951年に石油国有化政策を行った(→[[アーバーダーン危機]]も参照)。<br /> <br /> == プロフィール ==<br /> === 生い立ち ===<br /> イランの首都となる[[テヘラン]]で、[[ガージャール朝]]の縁戚にあたる名家に生まれる。[[フランス]]に留学し[[ソルボンヌ大学]]卒業を経て、[[スイス]]・{{仮リンク|ヌーシャテル大学|en|University of Neuchâtel}}で[[法学博士]]号を取得。<br /> <br /> === 政界へ ===<br /> イランへの帰国後に[[イラン立憲革命]]に参加、国会議員となり{{仮リンク|アフマド・カバム|en|Ahmad Qavam}}内閣で財務大臣となる。[[パフラヴィー朝]]成立後の[[1944年]]に{{仮リンク|国民戦線 (イラン)|en|National Front (Iran)|label=国民戦線}}を結成、民族主義を標榜しながら政治経済の両面で影響を及ぼしていた[[イギリス]]への抵抗運動を始める。<br /> <br /> === イラン首相 ===<br /> ==== 就任 ====<br /> [[1945年]]8月の[[第二次世界大戦]]の終結後、{{仮リンク|イラン共産党|en|Tudeh Party of Iran|label=トゥーデ党}}が[[1949年]]に非合法化されるとほぼ唯一の反植民地主義的勢力(=反イギリス勢力)となり国民の支持を得、[[1951年]]に行われた民主的選挙によりイランの首相に就任した。<br /> <br /> ==== 石油国有化政策 ====<br /> 第二次世界大戦においてイランは、北は[[ソビエト連邦|ソ連]]、南は[[イギリス]]に占領され(→[[イラン進駐 (1941年)|イラン進駐]])、戦後もイギリスの影響力の強い政権が続き、{{仮リンク|アングロ・イラニアン石油会社|en|Anglo-Persian Oil Company}}(AIOC)は[[アバダン]]の石油を独占し利益を独占、イラン国内に石油による利潤はほとんどもたらされない状態が続いていた。そのような中、以前から存在した石油生産の[[国有化]]案を民族主義者モサッデグは「石油国有化政策」へとつなげていった。<br /> <br /> イギリスは懐柔案として「アングロ・イラニアン石油会社の利益をイギリスとイランが半々ずつ受け取る」という石油協定の改正を提案するが、モサッデグはこれをイギリスのイラン支配継続の意図をみて断固として反対した。石油国有化はイランの完全な[[主権]]回復を主張する運動の[[シンボル]]として国民の支持を得て盛り上がりを増し、[[1951年]]の首相就任後に石油国有化法を可決させてアングロ・イラニアン石油会社から石油利権を取り戻し([[アーバーダーン危機|イギリスのイラン支配の終結]])、石油産業を国有化する。<br /> <br /> それによりイギリス、その後ろ盾となるアメリカを始めとした西側諸国から猛反発を受けたことから、対抗するためソ連に接近。1953年には[[ソ連・イラン合同委員会]]をつくり、ソ連と関係を深めていった。このことは[[西側諸国]]にイラン共産化の危機感を抱かせたが、実際にはモサッデグは共産化を警戒し、またソ連もモサッデグを「ブルジョワ」と警戒し、積極的に受け入れようとしていなかった。<br /> <br /> ==== 失脚 ====<br /> [[File:Operationajax.jpg|thumb|right|240px|勝利を祝うクーデター支持者たち(1953年)]]<br /> イラン産石油はイギリスやアメリカの[[国際石油資本]](メジャー)の報復より国際市場から締め出され、それによりイラン政府は財政難に瀕し、国民戦線の内部では離反者が出るなどしてモサッデグの支持は失われていく。<br /> <br /> アメリカとイギリスは再び石油利権を取り戻すため、[[アメリカ中央情報局|CIA]]により大量の資金を軍人・反政府活動家などへ投入することで暴力による政府転覆を目指す内政干渉の秘密工作を行い({{仮リンク|イラン・クーデター (1953年)|en|1953 Iranian coup d&#039;état|label=エイジャックス作戦}}、{{Lang-en-short|TPAJAX Project}})、その結果1953年8月15日から19日の[[皇帝]]派による[[クーデター]]によってモサッデグを含む国民戦線のメンバーは[[逮捕]]され[[失脚]]した。<br /> <br /> これにより、ファズロラ・ザヘディ将軍が首相に就任し、民主的政権から[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]の独裁世襲による王政となった。<br /> <br /> ====死去====<br /> モサッデグは不公正な裁判により死刑判決を受けたが、執行されず3年間投獄され、その後に自宅軟禁となるが軟禁中の[[1967年]]に死去した。[[1979年]]に起きた[[イラン革命]]の時には、モサッデクの顔の写真や絵画を掲げて讃えられた&lt;ref&gt;[http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160124 新・映像の世紀 第4集 世界は秘密と嘘に覆われた] 2016年1月24日放送&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注・出典・参考文献 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Mohammad Mosaddegh}}<br /> * [[ウィンストン・チャーチル]]<br /> * [[アーマンド・ハマー]]<br /> * [[日章丸事件]]<br /> * [[アーバーダーン危機]]<br /> * [[1953年のイランのクーデター]] - モサッデクが失脚したクーデター。<br /> <br /> {{先代次代|[[パフラヴィー朝|イラン帝国]][[イランの首相|首相]]|1951年 - 1952年|[[ホサイン・エラー]]|[[アフマド・カバム]]}}<br /> {{先代次代|イラン帝国首相|1952年 - 1953年|アフマド・カバム|[[ファズロラ・ザヘディ]]}}<br /> <br /> {{Politician-stub}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:もさつてく もはんまと}}<br /> [[Category:イランの首相]]<br /> [[Category:パフラヴィー朝]]<br /> [[Category:テヘラン出身の人物]]<br /> [[Category:1882年生]]<br /> [[Category:1967年没]]</div> 124.39.100.132 エヴァ・ガードナー 2018-01-31T12:29:52Z <p>124.39.100.132: /* 晩年 */</p> <hr /> <div>{{ActorActress|<br /> | 芸名 = エヴァ・ガードナー&lt;br /&gt;Ava Gardner<br /> | 画像ファイル = Mogambo Ava4.jpg<br /> | 画像サイズ = 275px<br /> | 画像コメント = 映画&#039;&#039;『[[モガンボ (映画)|モガンボ]]』&#039;&#039;(1953年)の一場面<br /> | 本名 = <br /> | 出生地 = [[ノースカロライナ州]]<br /> | 死没地 =<br /> | 国籍 = {{USA}}<br /> | 身長 =<br /> | 血液型 =<br /> | 生年 = 1922<br /> | 生月 = 12<br /> | 生日 = 24<br /> | 没年 = 1990<br /> | 没月 = 1<br /> | 没日 = 25<br /> | 職業 =<br /> | 活動期間 = <br /> | 配偶者 =<br /> | 著名な家族 = [[ミッキー・ルーニー]] (1942-1943)&lt;br /&gt;[[アーティ・ショー]] (1945-1946)&lt;br /&gt;[[フランク・シナトラ]] (1951-1957)<br /> | 事務所 =<br /> | 公式サイト = <br /> | 主な作品 = <br /> | 備考 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;エヴァ・ガードナー&#039;&#039;&#039;(Ava Lavinia Gardner、[[1922年]][[12月24日]] - [[1990年]][[1月25日]]&lt;ref&gt;{{cite news |last = Flint |first=Peter B. |url = http://www.nytimes.com/1990/01/26/obituaries/ava-gardner-is-dead-at-67-often-played-femme-fatale.html |title = Ava Gardner Is Dead at 67; Often Played Femme Fatale |publisher = [[ニューヨーク・タイムズ]] |date = 1990-01-26 |accessdate = 2009-06-28 |language = 英語}}&lt;/ref&gt;)は、[[アメリカ合衆国]][[ノースカロライナ州]]出身の[[俳優|女優]]&lt;ref&gt;名前の Ava については[[エヴァ]]を参照のこと。<br /> &lt;!--なお名の Ava の英語本来の発音は「エイヴァ」に近い。またつづりは &#039;&#039;&#039;A&#039;&#039;&#039;va で、Eva ではない。これは本国アメリカでも多く見られるミススペルとなっている--&gt;&lt;!-- Ava という名前一般についての話のため脚注・リンク化。--&gt;&lt;/ref&gt;。アメリカ映画協会(AFI)が1999年6月に選出したアメリカの「最も偉大なる女優50名」では第25位であった。<br /> <br /> == プロフィール ==<br /> ===生い立ち===<br /> 貧しい農家の7人兄弟の末っ子として生まれる。母親のモリーは[[バプテスト教会|バプティスト派]]の[[スコットランド]]系[[アイルランド人]]と[[イングランド人]]の混血、父親は[[カトリック教会|カトリック派]]のアイルランド系アメリカ人と[[タスカローラ族]]・[[インディアン]]の混血だった&lt;ref&gt;[http://books.google.ca/books?id=enskE0KWMQ4C&amp;pg=PA11&amp;dq=%22Ava+Gardner%22+Huguenot&amp;hl=en&amp;redir_esc=y]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.pophistorydig.com/?tag=ava-gardner-1940s Ava Gardner 1940s], The Pop History Dig&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.tcm.com/tcmdb/participant.jsp?spid=68501 Ava Gardner], [[:w:Turner Classic Movies|TCM]] website&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===デビュー===<br /> 姉の夫が写真家であり、彼が撮ったエヴァの写真がきっかけで映画界入りした。デビューしたものの強い南部訛りが災いし、何年も目だったヒット作がなく、女優としては低迷していた。仕事といえば[[ポスター|ピンナップ]]の撮影の方が多かった。<br /> <br /> 身長が170センチメートル近くあり、顔立ちがエキゾチックであるため、ブロンドの女優がもてはやされるハリウッドでは異色の存在だった。既定路線の役柄でなく、[[ジプシー]]の役、[[黒人]]の役(当時黒人俳優は人種差別のため用いられることが少なかった)などが多かった。早くから、[[ファム・ファタール]]適材の女優として目立っていた。<br /> <br /> ===2度の結婚===<br /> [[File:Thekillers2.jpg|thumb|right|220px|「殺人者」(1946年)]]<br /> [[File:Ava Gardner barefoot contessa.jpg|thumb|right|220px|「裸足の伯爵夫人」(1954年)]]<br /> [[第二次世界大戦中]]の1942年に、人気俳優の[[ミッキー・ルーニー]]と結婚したことで、名前は知られるようになった。この結婚は長続きせず、1年半で離婚した。その後、ミュージシャンの[[アーティ・ショウ]]と結婚するも1年で離婚した。<br /> <br /> アーティとの間に初めての子供を身ごもるも、所属映画会社社長の「子持ちの女優はスターになれない」との一言で中絶し、「夫より社長の言うことを聞くなんて!」と彼を嘆かせた{{要出典|date=2008年3月}}。なお、大富豪の[[ハワード・ヒューズ]]や、[[ドミニカ共和国]]の[[外交官]]で[[プレイボーイ]]として知られた[[ポルフィリオ・ルビロサ]]との交際も知られている。<br /> <br /> ===人気===<br /> 転機は1951年のミュージカル『[[ショウ・ボート (1951年の映画)|ショウ・ボート]]』で、強烈な存在感を残し一気にブレイクした。その後『[[モガンボ]]』や『[[渚にて]]』などの人気作に出演した。その後結婚する[[フランク・シナトラ]]とは、交際時からスキャンダルとなった。<br /> <br /> ===シナトラとの再婚===<br /> ティーン向けの歌手から出発し、幼なじみのナンシーと結婚して3児の父になっていたシナトラは、当時歌手として低迷し、俳優としてもくすぶっていた。エヴァと交際するようになっても、[[カトリック]]である上に[[マフィア]]の娘でもあるシナトラの妻が離婚を承諾せず、いらだったエヴァは前夫アーティー・ショーに会ったりしていた。そのことに怒ったシナトラが、エヴァと電話で会話中に、彼女に聞こえるようにピストルを壁に向けて発射するという事件を起こした{{要出典|date=2008年3月}}。<br /> <br /> なお、シナトラとは[[1951年]]11月に結婚&lt;ref name=&quot;Frank Sinatra and Ava Gardner&quot;&gt;[http://www.avagardner.org/jmi_story.html &#039;&#039;Frank Sinatra and Ava Gardner&#039;&#039;]. AvaGardner.org .Retrieved 2007-01-04.&lt;/ref&gt;したが、[[1953年]]に公開された『[[地上より永遠に]]』出演後のシナトラの人気復活とともに、シナトラに再発した浮気癖が原因で[[1957年]]に離婚している。<br /> <br /> ===晩年===<br /> [[1960年代]]以降に流行が変化すると一時の人気も衰えていったが、『[[北京の55日]]』や『[[天地創造]]』などの大作に出演している。次第に[[ハリウッド]]の作品から遠ざかり、国外の作品に多く出演するようになった。シナトラとの離婚後に[[スペイン]]の[[闘牛]]士と付き合ったことから、スペインに住所を移している。1990年に[[肺炎]]により死亡した。<br /> <br /> == 主な出演作品 ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; <br /> |-<br /> !公開年!!邦題&lt;br&gt;原題!!役名!!備考 <br /> |-<br /> |1944||恋愛聴診器&lt;br&gt;&#039;&#039;3 Men in White&#039;&#039; || ジェーン・ブラウン || <br /> |-<br /> |1946|| [[殺人者 (映画)|殺人者]]&lt;br&gt;&#039;&#039;The Killers&#039;&#039; || キティ・コリンズ || <br /> |-<br /> |1947|| 自信売ります&lt;br&gt;&#039;&#039;The Hucksters&#039;&#039; || ジェーン || <br /> |-<br /> |1948|| ヴィナスの接吻&lt;br&gt;&#039;&#039;One Touch of Venus&#039;&#039; || ヴィナス || <br /> |-<br /> |1949|| 賄賂&lt;br&gt;&#039;&#039;The Bribe&#039;&#039; || エリザベス || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;3&quot;|1951|| パンドラ&lt;br&gt;&#039;&#039;Pandora and the Flying Dutchman&#039;&#039; || パンドラ・レイノルズ || <br /> |-<br /> | [[ショウ・ボート (1951年の映画)|ショウ・ボート]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Show Boat&#039;&#039; || ジュリー || <br /> |-<br /> | 禁じられた過去&lt;br&gt;&#039;&#039;My Forbidden Past&#039;&#039; || バーバラ || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1952|| 栄光の星の下に&lt;br&gt;&#039;&#039;Lone Star&#039;&#039; || マーサ・ロンダ || <br /> |-<br /> | [[キリマンジャロの雪]]&lt;br&gt;&#039;&#039;The Snows of Kilimanjaro&#039;&#039; || シンシア・グリーン || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;3&quot;|1953|| 荒原の疾走&lt;br&gt;&#039;&#039;Ride, Vaquero!&#039;&#039; || コーデリア・キャメロン || <br /> |-<br /> | [[モガンボ (映画)|モガンボ]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Mogambo&#039;&#039; || エロイズ・Y・ケリー || <br /> |-<br /> | 円卓の騎士&lt;br&gt;&#039;&#039;Knights of the Round Table&#039;&#039; || グィネヴィア || <br /> |-<br /> |1954|| [[裸足の伯爵夫人]]&lt;br&gt;&#039;&#039;The Barefoot Contessa&#039;&#039; || マリア・ヴァルガス || <br /> |-<br /> |1956|| ボワニー分岐点&lt;br&gt;&#039;&#039;Bhowani Junction&#039;&#039; || ヴィクトリア・ジョーンズ || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1957|| 潮風のいたづら&lt;br&gt;&#039;&#039;The Little Hut&#039;&#039; || レディ・スーザン・アシュロー || <br /> |-<br /> | 陽はまた昇る&lt;br&gt;&#039;&#039;The Sun Also Rises&#039;&#039; || レディ・ブラット・アシュレイ || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1959|| [[裸のマヤ]]&lt;br&gt;&#039;&#039;The Naked Maja&#039;&#039; || マリア || <br /> |-<br /> | [[渚にて (小説)#映画|渚にて]]&lt;br&gt;&#039;&#039;On the Beach&#039;&#039; || モイラ・デヴィッドソン || <br /> |-<br /> |1960|| 夜と昼の間&lt;br&gt;&#039;&#039;The Angel Wore Red&#039;&#039; || Soledad || <br /> |-<br /> |1963|| [[北京の55日]]&lt;br&gt;&#039;&#039;55 Days at Peking&#039;&#039; || ナタリー・イヴァノフ || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1964|| 五月の七日間&lt;br&gt;&#039;&#039;Seven Days in May&#039;&#039; || エレノア・ホルブルック || <br /> |-<br /> | イグアナの夜&lt;br&gt;&#039;&#039;The Night of the Iguana&#039;&#039; || マキシーン || <br /> |-<br /> |1966|| [[天地創造 (映画)|天地創造]]&lt;br&gt;&#039;&#039;The Bible: In the Beginning&#039;&#039; || [[サラ]] || <br /> |-<br /> |1969|| [[うたかたの恋 (1968年の映画)|うたかたの恋]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Mayerling&#039;&#039; || [[エリーザベト (オーストリア皇后)]] || <br /> |-<br /> |1972|| [[ロイ・ビーン (映画)|ロイ・ビーン]]&lt;br&gt;&#039;&#039;The Life and Times of Judge Roy Bean&#039;&#039; || リリー || <br /> |-<br /> |1974|| [[大地震 (1974年の映画)|大地震]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Earthquake&#039;&#039; || レミー・グラフ || <br /> |-<br /> |1975|| 殺しの許可証&lt;br&gt;&#039;&#039;Permission to Kill&#039;&#039; || カティナ・ピーターセン || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1976|| [[青い鳥 (1976年の映画)|青い鳥]]&lt;br&gt;&#039;&#039;The Blue Bird&#039;&#039; || || <br /> |-<br /> | [[カサンドラ・クロス]]&lt;br&gt;&#039;&#039;The Cassandra Crossing&#039;&#039; || ニコール・ドレスラー || <br /> |-<br /> |1977|| センチネル&lt;br&gt;&#039;&#039;The Sentinel&#039;&#039; || ミス・ローガン || <br /> |-<br /> |1979|| シティ・オン・ファイア&lt;br&gt;&#039;&#039;City on Fire&#039;&#039; || マギー・グレイソン || <br /> |-<br /> |1980|| 大統領の誘拐&lt;br&gt;&#039;&#039;The Kidnapping of the President&#039;&#039; || ベス・リチャーズ || <br /> |-<br /> |1985|| 長く熱い夜&lt;br&gt;&#039;&#039;The Long Hot Summer&#039;&#039; || ミニー・リトルジョン || テレビ映画<br /> |-<br /> |}<br /> <br /> ==伝記==<br /> 日本語訳された伝記に、ジェーン・エレン・ウェイン『エヴァ・ガードナー 美しすぎた女の一生』(矢沢聖子訳、[[講談社]]、1993年)がある。<br /> <br /> == その他 ==<br /> *[[1954年]](昭和29年)[[11月28日]]に来日している。女優の[[津島恵子]]との写真が現存する&lt;ref&gt;[[マガジンハウス]]刊「スタアの40年 平凡 週刊平凡 秘蔵写真集」より&lt;/ref&gt;。同[[12月2日]]まで滞在した。<br /> <br /> == 参照 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{ウィキポータルリンク|映画|[[画像:Pictograms-nps-services-theater-2.svg|40px|Portal:映画]]}}<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commons&amp;cat|Ava Gardner}}<br /> *{{allcinema name|38956|エヴァ・ガードナー}}<br /> *{{Kinejun name|2292|エヴァ・ガードナー}}<br /> *{{IMDb name|0001257|Ava Gardner}}<br /> *[http://www.avagardner.org/ Ava Gardner Museum in Smithfield, N.C.]<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かあとなあ えうあ}}<br /> [[Category:アメリカ合衆国の女優]]<br /> [[Category:ノースカロライナ州の人物]]<br /> [[Category:イングランド系アメリカ人]]<br /> [[Category:スコットランド系アメリカ人]]<br /> [[Category:アイルランド系アメリカ人]]<br /> [[Category:アメリカ先住民の俳優]]<br /> [[Category:1922年生]]<br /> [[Category:1990年没]]</div> 124.39.100.132 キリバス 2018-01-27T00:38:26Z <p>124.39.100.132: /* 経済 */</p> <hr /> <div>{{基礎情報 国<br /> |略名 = キリバス<br /> |日本語国名 = キリバス共和国<br /> |公式国名 = &#039;&#039;&#039;{{Lang|en|Republic of Kiribati}}&#039;&#039;&#039;<br /> |国旗画像 = Flag of Kiribati.svg<br /> |国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Kiribati.svg|100px|キリバスの国章]]<br /> |国章リンク = [[キリバスの国章|国章]]<br /> |標語 = &#039;&#039;{{Lang|GIL|&lt;!-- &#039;Maaka te atua, karinea te uea; mataku i te atua, fakamamalu ki te tupu([[キリバス語]]: 神を畏敬し、王を尊敬する)&#039;&#039; --&gt;Te Mauri, Te Raoi ao Te Tabomoa}}&#039;&#039;&lt;br/&gt;(キリバス語: 健康、平和と繁栄)<br /> |位置画像 = Kiribati on the globe (Polynesia centered).svg<br /> |公用語 = [[キリバス語]]、[[英語]]<br /> |首都 = [[タラワ]]<br /> |最大都市 = タラワ<br /> |元首等肩書 = [[キリバスの大統領|大統領]]<br /> |元首等氏名 = [[タネティ・マアマウ]]<br /> |首相等肩書 = {{仮リンク|キリバスの副大統領|en|Vice President of Kiribati|label=副大統領}}<br /> |首相等氏名 = [[w:Kourabi Nenem|Kourabi Nenem]]<br /> |面積順位 = 186(184)<br /> |面積大きさ 9= 1 E8<br /> |面積値 = 811<br /> |水面積率 = 極僅か<br /> |人口統計年 = 2015<br /> |人口順位 = 176<br /> |人口大きさ = 1 E5<br /> |人口値 = 110,136<br /> |人口密度値 = 126.36<br /> |GDP統計年元 = 2005<br /> |GDP値元 = 8200万<br /> |GDP元追記 =<br /> |GDP統計年MER= 2005<br /> |GDP順位MER =<br /> |GDP値MER = 6300万<br /> |GDPMER追記 =<br /> |GDP統計年 = 2004<br /> |GDP順位 = 192<br /> |GDP値 = 7,900万<br /> |GDP/人 = 800<br /> |建国形態 = [[独立]]&lt;br/&gt;&amp;nbsp;- 日付<br /> |建国年月日 = [[イギリス]]から&lt;br/&gt;[[1979年]][[7月12日]]<br /> |通貨 = [[オーストラリア・ドル]] (A$)<br /> |通貨コード = AUD<br /> |時間帯 = +12 ~ +14<br /> |夏時間 = なし<br /> |国歌名 = いざ立て、キリバス人よ (Teirake Kaini Kiribati)<br /> |ISO 3166-1 = KI / KIR<br /> |ccTLD = [[.ki]]<br /> |国際電話番号 = 686<br /> |注記 = 註1 : 無人島を除いた面積は、717[[平方キロメートル|km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;]]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;キリバス共和国&#039;&#039;&#039;(キリバスきょうわこく)、[[通称]]&#039;&#039;&#039;キリバス&#039;&#039;&#039;は、[[太平洋]]上に位置する[[ギルバート諸島]]、[[フェニックス諸島]]、そして[[ライン諸島]]の一部等を[[領土]]とする[[国家]]で、[[イギリス連邦]]加盟国である。キリバスは33の[[環礁]]からなり、それらは[[赤道]]付近に350万km²にもわたって散らばっている。そのために世界第3位に相当する[[排他的経済水域]]を有している(ただし、陸地が少なく領海や接続水域も少ないため、これらを含めると15位にも入らない)。世界で最も早く[[日付]]が変わる国でもある&lt;ref&gt;1995年に[[標準時]][[UTC+14]]が制定されて以来、これに所属する国はキリバス一国のみであったが、2011年12月31日より[[サモア]]の[[夏時間]]およびニュージーランド領[[トケラウ]]の標準時が[[UTC-10]]から[[国際日付変更線]]をまたいでUTC+14に変更された。なお、[[トンガ]]も1999年から2002年まで夏時間として採用していた。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 国名 ==<br /> 正式名称は、Republic of Kiribati。通称、Kiribati。キリバス語での発音は「キリバシ」または「キリバス」のように聞こえる。<br /> <br /> 日本語の表記は&#039;&#039;&#039;キリバス共和国&#039;&#039;&#039;。通称&#039;&#039;&#039;キリバス&#039;&#039;&#039;。また、[[国名の漢字表記一覧|漢字を使った当て字]]では「吉里巴斯」と表記する。<br /> <br /> 国名は[[1788年]]、[[アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン|クルーゼンシュテルン]]らが島を発見した[[イギリス]]の水夫、[[トマス・ギルバート]]にちなみ[[フランス語]]でジルベール諸島 (îles Gilbert) と名づけたことに由来する。キリバス語はg音やl音を欠くため、英語読みの「Gilbert」が転じてキリバスとなった。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> &lt;!-- &#039;&#039;詳細は[[キリバスの歴史]]を参照&#039;&#039; --&gt;<br /> ===19世紀以前===<br /> [[先住民]]は、約2000年前西方からカヌーに乗ってやってきた[[ミクロネシア系]]の人々であった。最初の来航した[[ヨーロッパ人]]は[[スペイン人]][[航海家]]で、[[1537年]]に[[キリスィマスィ島|クリスマス島]](現[[キリティマティ島]])を望見した。[[1777年]]には[[イギリス人]]の[[ジェイムズ・クック]]が来島し、19世紀初めから[[ヨーロッパ人]]による経済活動が始まった。<br /> <br /> ===イギリス植民地===<br /> [[1892年]]から、ギルバート諸島は隣のエリス諸島と共にイギリスの[[保護領]]となった。[[1916年]]には[[植民地]]となった。[[第二次世界大戦]]中の[[1941年]]に、イギリスの植民地政府を放逐した[[大日本帝国]]に占領され、後に一部の島は要塞化された。[[1943年]]より、[[アメリカ軍]]との間に、[[ギルバート・マーシャル諸島の戦い]]といった激しい戦闘が行なわれた。<br /> <br /> [[1956年]]から[[1962年]]に、ライン諸島のクリスマス島がイギリスとアメリカ両国の[[核実験]]場とされた。[[1971年]]に自治領となった後、[[1978年]]に[[エリス諸島]]は[[ツバル]]として[[イギリス]]から[[独立]]した。<br /> <br /> ===独立===<br /> [[1979年]]にキリバスが独立した。独立の際、[[アメリカ]]はほとんど無人の[[フェニックス諸島]]および3つの島を除く[[ライン諸島]]すべての所有権を放棄し、それぞれキリバスの[[領土]]となった。<br /> <br /> 独立当初は領域内を[[日付変更線]]が通過し、[[キリバス時間|キリバスの時間体系]]は島によって日付が異なるという行政上において不便な設定になっていた。このため、[[1995年]]に日付変更線の位置を領域の東端にずらして不便を解消した。また、これによって「世界一早く新しい一日を迎える」国家になった。<br /> <br /> == 政治 ==<br /> &lt;!-- &#039;&#039;詳細は[[キリバスの政治]]を参照&#039;&#039; --&gt;<br /> &lt;!-- 本文 --&gt;<br /> [[File:KiribatiParliamentHouse.jpg|thumb|right|220px|キリバスの議会議事堂]]<br /> Maneaba ni Maungatabu と呼ばれるキリバスの議会は、4年に一度の選挙で選ばれ、46人(うち直接選出が44人)の議員で構成される&lt;ref&gt;「キリバス共和国」『世界年鑑2016』([[共同通信社]]、2016年)227頁。&lt;/ref&gt;。大統領は、[[元首]]であると同時に[[政府の長|行政府の長]]でもあり、Beretitentiと呼ばれる。<br /> <br /> 21の有人の島にはそれぞれ地方議会があり、日々の問題を処理している。<br /> <br /> 主要政党には[[真理の柱]] (BTK)、[[キリバス共同体党]] (MTM) の2党がある。<br /> <br /> [[2003年]]に、[[中華民国]](台湾)と外交関係を開いた際、[[二重承認]]を希望したにも関わらず、それに反発した[[中華人民共和国]]側が断交を発表。その結果、[[タラワ]]にある中華人民共和国の宇宙基地撤退で話題になった。<br /> <br /> == 地方行政区分 ==<br /> {{Main|キリバスの行政区画}}<br /> [[ファイル:Map_of_Kiribati_CIA_WFB.png|thumb|400px|キリバスの地図]]<br /> キリバスは、3つの行政区、ギルバート諸島、ライン諸島、フェニックス諸島からなっている。これに加えて、以下の6地区がある。<br /> <br /> * [[バナバ島|バナバ]] (Banaba)<br /> * [[中央ギルバート諸島]] (Central Gilberts)<br /> * [[ライン諸島]] (Line Islands)<br /> * [[北ギルバート諸島]] (Northern Gilberts)<br /> * [[南ギルバート諸島]] (Southern Gilberts)<br /> * [[タラワ]] (Tarawa)<br /> <br /> タラワを含む4つの地区は、ギルバート諸島にあり、住民の多くはここに住んでいる。ライン諸島には3つの島だけに人が住んでおり、フェニックス諸島では[[カントン島]]に住民がおり、ライン&amp;フェニックス地区を代表している。バナバの2001年の人口は約200人であるが、[[フィジー]]の[[ランビ島]]に移り住んだ人々を代表するランビ指導者評議会 (Rabi Council of Leaders) がフィジーのランビ島に設立されておりバナバ及びキリバス政府と緊密な関係を保っている。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> &lt;!-- &#039;&#039;詳細は[[キリバスの地理]]を参照&#039;&#039; --&gt;<br /> &lt;!-- 本文 --&gt;<br /> キリバスは、次の4つの主な島・諸島からなる。<br /> <br /> * バナバ: [[ナウル]]とギルバート諸島の間にある孤島<br /> * ギルバート諸島: [[フィジー]]の北およそ1500kmにある16の環礁<br /> * フェニックス諸島: ギルバート諸島の南東およそ1800kmにある8つの環礁・珊瑚島<br /> * ライン諸島: ギルバート諸島の東およそ3300kmにある9つの環礁・島<br /> <br /> ライン諸島にある他の3つの島は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が所有している。<br /> <br /> バナバは、隆起した珊瑚の島であり、かつて[[リン鉱石]] (phosphate) を豊富に産出したが、現在では枯渇してしまっている。他のキリバスの島は、環礁の砂と岩の小島、または海面のせいぜい2,3m上まで隆起した珊瑚島である。土地は痩せていてカルシウムを含んでおり、[[コプラ]](椰子の実)栽培以外の大規模農業を行うのは困難である。<br /> <br /> ライン諸島にある[[キリスィマスィ島]](クリスマス島、Christmas Island)は、世界最大の環礁である。また、[[1995年]][[1月1日]]に[[国際日付変更線|日付変更線]]をずらして、世界で最も早く日付が変わる島となった[[カロリン島]]は[[ミレニアム]]と[[新世紀]]の[[年越し]]を目論んで、ミレニアム島に改名された。<br /> <br /> 海抜の低い環礁が多いために、キリバスは近年の海面上昇で、国土の半数以上は水没の危機にある。 [[アノテ・トン]]大統領は、2007年8月に日本の[[読売新聞]]のインタビューで、もはやキリバスの水没は免れないと明言、全国民の他国への移住計画を発表した。大統領は、熟練労働者としての移住のため、キリバスでの職業訓練支援を日本、アメリカ、オーストラリアなどに呼びかけている。<br /> <br /> 2014年2月11日、[[フィジー]]の[[エペリ・ナイラティカウ]]大統領が、キリバスの国土が水没した場合にキリバスの全国民をフィジーに移住させる用意があることを公式に表明した。<br /> <br /> == 経済 ==<br /> [[File:Kiribatisupermarket.jpg|thumb|首都[[タラワ]]のスーパーマーケット]]<br /> <br /> &lt;!-- &#039;&#039;詳細は[[キリバスの経済]]を参照&#039;&#039; --&gt;<br /> [[ナウル]]など周辺のいくつかの国と同様、キリバスはほとんど天然資源を持たない。商業的に成立しうるリン酸塩の鉱床は、[[1979年]]の独立とちょうど同時に枯渇してしまった。現在は、コプラ、観賞用魚や海草が生産および輸出の大半を占める。<br /> <br /> 経済は、近年大きく揺れ動いている。経済発展は、熟練労働者の不足、インフラの未整備、国際市場から遠く離れていることにより、制約を受けている。経済成長率、物価上昇率ともに[[2003年]]で1.4%である。<br /> <br /> イギリス植民地時代にリン鉱石の売り上げの一部を積み立て歳入均等化準備基金 (Revenue Equalisation Reserved Fund) が 作られ、現在キリバス国外で運用・投資され国庫の赤字分を補填しており、残高は[[2005年]]末時点で6億豪ドル弱を記録した。<br /> <br /> === 農業 ===<br /> キリバスの土地利用においては、農地が最大の面積(50.7%、1994年)を占めている。農業従事者は人口の10%に相当する9000人である。[[タロイモ]](2000トン)と[[バナナ]](5000トン)よりも、加工して輸出に向けるための[[ココナッツ]](9万6000トン)の生産が盛ん。畜産業ではブタ(1万2000頭)。<br /> <br /> ===水産業===<br /> 水産業も小規模ではあるが存在する(漁獲高3万1000トン)。また広大な経済海域を持つことから、日本や中華民国、[[大韓民国]]やオーストラリアなどの外国漁船による入漁収入が政府の総収入の3割を占める重要な収入となっている。<br /> <br /> === 工業 ===<br /> 最大作物のココナッツを加工し、[[コプラ]](1万2000トン)を生産している。養豚により、食肉加工業も成立している(1000トン)。重工業は存在しない。<br /> <br /> === 貿易 ===<br /> 2001年の輸出額は729万オーストラリア・ドル、輸入額は7501万オーストラリア・ドルであり、かなり大きな貿易赤字である。輸出品は農産物と食品工業を中心とした農産物であり、輸入品は食糧、機械類、燃料である。<br /> <br /> 主な輸出品は、コプラ (63.7%)、魚介類 (20.9%)、野菜 (7.7%) である。主な貿易相手国は[[バングラデシュ]](約5割を占める)、[[アメリカ合衆国]]、[[マーシャル諸島]]、[[デンマーク]]、[[香港]]。<br /> <br /> 主な輸入品は、機械 (11%)、穀物 (10.7%)、石油製品 (10.2%)、電気機械 (6.8%)、肉類 (5.9%)。主な輸入相手国は、[[オーストラリア]](約4割を占める)、[[フィジー]]、[[日本]]、アメリカ、中華人民共和国。<br /> <br /> === 観光 ===<br /> 観光業は、GDPの5分の1以上を占めている。<br /> <br /> === 外国政府支援など ===<br /> 外国の財政支援、特に日本、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、中華民国からのものが、GDPに対しての大きな補助となっている。その額は近年では、GDPの25%から50%を占めている。2017年のキリバス金融経済省の発表によると、国家予算の約50%が海外からの支援によって賄われている。海外で働いている労働者からの送金は、毎年500万ドル以上である。<br /> <br /> == 情報・通信 ==<br /> キリバスには[[国営放送]]の[[BPA (キリバス国営放送)|BPA]]があり、インターネットにおいては[[:en:Telecom Services Kiribati Limited|Telecom Services Kiribati Limited]]という[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]が主流である。新聞は売店などでの販売が主流で、週に一回キリバス語における新聞が発行される。<br /> <br /> == 交通 ==<br /> タラワにある[[ボンリキ国際空港]]に[[ブリスベン]]、[[ホニアラ]]、[[ナンディ]]、ナウルとの間の飛行機が飛ぶ。日本から行く場合は直行便が無いため、[[グアム]]やブリスベン、[[フィジー]]のナンディまで行き、タラワに戻る格好になる。空港から中心地バイリキまでは車で1時間である。<br /> <br /> == 国民 ==<br /> [[File:Bonriki International Airportwelcomejpg.jpg|thumb|観光客を出迎える人々([[ボンリキ国際空港]])]]<br /> &lt;!-- &#039;&#039;詳細は[[キリバスの国民]]を参照&#039;&#039; --&gt;<br /> &lt;!-- (住民の人種構成、言語、宗教など) --&gt;<br /> 住民は、98.9%(1990年)がミクロネシア人で、他には少数のポリネシア人やヨーロッパ系人種や韓国系等の混成者もいる。<br /> <br /> 言語は、キリバス語と英語が公用語である。英語よりはキリバス語の方が広く話されている。<br /> <br /> [[キリスト教]]が主要な宗教だが、固有の宗教の習慣などが混ざったものになっている。<br /> <br /> == 文化 ==<br /> &lt;!-- &#039;&#039;詳細は[[キリバスの文化]]を参照&#039;&#039; --&gt;<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ style=&quot;font-weight: bold; font-size: 120%&quot; | 祝祭日<br /> |-<br /> !日付<br /> !日本語表記<br /> !現地語表記<br /> !備考<br /> |-<br /> | [[1月1日]]<br /> | [[元日]]<br /> | New Year Day<br /> |<br /> |-<br /> | [[イースター]] 2日前<br /> | [[聖金曜日]]<br /> | Good Friday<br /> |<br /> |-<br /> | [[イースター]] 翌日<br /> | [[イースター・マンデー]]<br /> | Easter Monday<br /> |<br /> |-<br /> | [[4月18日]]<br /> | [[健康の日]]<br /> | Health Day<br /> |<br /> |-<br /> | [[7月12日]] - [[7月14日]]<br /> | [[独立記念日]]<br /> | Independence Day<br /> |<br /> |-<br /> | [[8月7日]]<br /> | [[青年の日]]<br /> | Youth Day<br /> |<br /> |-<br /> | [[12月25日]]<br /> | [[クリスマス]]<br /> | Christmas<br /> |<br /> |-<br /> | [[12月26日]]<br /> | [[ボクシング・デー]]<br /> | Boxing Day<br /> |<br /> |}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[キリバス関係記事の一覧]]<br /> * [[南洋群島]]<br /> * [[キリバスの交通]]<br /> &lt;!--<br /> * [[キリバスの通信]]<br /> * [[キリバスの軍事]]<br /> * [[キリバスの国際関係]]<br /> --&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons&amp;cat|Kiribati|Kiribati}}<br /> * 政府<br /> ** [http://www.embassy-avenue.jp/kiri/index-j.html キリバス共和国名誉総領事館] {{ja icon}}<br /> * 日本政府<br /> ** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kiribati/ 日本外務省 - キリバス]<br /> ** [http://www.fj.emb-japan.go.jp/JapaneseVersion/index_j.html 在フィジー日本国大使館] - 在キリバス大使館を兼轄<br /> * その他<br /> ** [http://www.pic.or.jp/country/kiribati.htm PIC - キリバス]<br /> <br /> {{オセアニア}}<br /> {{イギリス連邦}}<br /> {{Normdaten|ISNI=000000012295548X|NLA=000035312259|SUDOC=034158502|BNF=cb12494455b|BNE=XX457054}}<br /> {{KI-stub}}<br /> {{Country-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:きりはす}}<br /> [[Category:キリバス|*]]<br /> [[Category:共和国]]<br /> [[Category:島国]]<br /> [[Category:イギリス連邦加盟国]]</div> 124.39.100.132 チェーザレ・フィオリオ 2018-01-25T11:06:42Z <p>124.39.100.132: /* その後 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;チェーザレ・フィオリオ&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Cesare Fiorio&#039;&#039; 、[[1939年]][[5月26日]] - )は、[[イタリア]]は[[トリノ]]出身の元レーシングチームマネージャー。[[世界ラリー選手権]](WRC)の[[ランチア]]、[[フォーミュラ1|F1]]の[[スクーデリア・フェラーリ]]などの強豪チームを指揮した。[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[F1グランプリ|F1中継]]では「&#039;&#039;&#039;チェザーレ・フィオリオ&#039;&#039;&#039;」と表記されていた。<br /> <br /> == 略歴 ==<br /> === ランチア時代 ===<br /> 大学で[[政治学]]を学びながらレース活動を始め、1961年にイタリアGT選手権1,150ccクラスのチャンピオンとなる。1962年、[[モンテカルロ・ラリー]]挑戦のため、仲間とプライベートチーム「&#039;&#039;&#039;HFスクアドラ・コルセ&#039;&#039;&#039;」を設立。その後ドライバーを辞め、中古車ディーラーのセールスマンとして働きながらチーム運営を行う。HF・スクアドラ・コルセはランチアの[[セミワークス]]からワークスチームに昇格し、[[ランチア・フルヴィア|ランチア・フルヴィア・ラリーHF]]で活躍。フィオリオは[[サンドロ・ムナーリ]]を発掘し、会社が[[フィアット]]に買収された後も指揮を取った。<br /> <br /> [[ファイル:Lancia Stratos Gr.4.JPG|thumb|right|200px|ランチア・ストラトス(1975年型)]]<br /> 1970年、トリノオートショーに出展された斬新なコンセプトカー、[[ベルトーネ]]・ストラトス・ゼロに目をつけ、[[ランチア・ストラトス]]開発計画を立ち上げる。その車に着目したのはスタイルではなく、[[ミッドシップ]]という点であった。同じフィアット傘下の[[フェラーリ]]から[[アルフレード・フェラーリ#V6エンジン|ディーノ]][[V型6気筒]]エンジンを獲得するため、総帥[[エンツォ・フェラーリ]]に直談判。スクーデリア・フェラーリの監督代行として[[タルガ・フローリオ]]で優勝し、エンジン供給を許された。この際、フィオリオを気に入ったエンツォが、ランチアとフィアットに譲ってくれないか持ちかけたという逸話もある&lt;ref name=&quot;CG2004&quot;&gt;「CAR GRAPHIC」 2004年9月号 二玄社 pp.101-102。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ランチアは1974年から1976年にかけてWRCマニュファクチャラーズ選手権3連覇を達成。しかし、フィアットの意向で[[フィアット・131|アバルト・131ラリー]]のワークス活動を優先することになり、ランチアチームの人員の大半はスポーツカーレースへ転向され、ストラトスの栄光は短命に終わった。実質上の生みの親であるフィオリオにとっても、まだ一線級で戦える完成度7割のストラトスの引き際を考える事は苦渋の選択であった&lt;ref&gt;三栄ムック ラリーカーズ Vol.1 Lanchia Stratos HF「Interview with Key Person チェザーレ・フィオリオ」、「History of Stratos 絶対王者のジレンマ」より抜粋参考。&lt;/ref&gt;。131の時代が終わるとフィアット車での参戦のメインストリームを[[フィアット・リトモ|リトモ]]等の小型車へ移行させる。<br /> <br /> フィオリオ自身は1976年末のランチアとフィアットのレース部門統合により、両方のチームマネージャーを兼任する。ランチアは1979年より[[スポーツカー世界選手権]]グループ5(1982年より[[グループC]])、1982年よりWRC[[グループB]]に参戦し、フィオリオもサーキットとオフロードを転戦する。WRCでは[[ランチア・ラリー037]]に続きモンスターマシン、[[ランチア・デルタS4]]を投入。[[アッティリオ・ベッテガ]]、[[ミキ・ビアシオン]]、[[ヘンリ・トイヴォネン]]ら有望なドライバーを抜擢する。1983年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得するが、[[ツール・ド・コルス]]で1985年にベッテガ、1986年にトイヴォネンを失った。フィオリオは「ヘンリは間違いなく私の30年以上に及ぶキャリアの中で出会った最高のドライバーだった。デルタS4の恐るべきポテンシャルを100%使い切ることができたのは、おそらく彼ひとりだったと思う」と振り返る&lt;ref name=&quot;CG2004&quot;/&gt;。[[グループA]]移行後は[[ランチア・デルタ|ランチア・デルタHF 4WD]]を投入し、1987年からマニュファクチャラーズタイトルを6連覇。WRC通算74勝、マニュファクチャラーズタイトル10回&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;WRC創設以前の国際メイクス選手権でも1972年にタイトルを獲得している。&lt;/ref&gt;という最多記録を残した。<br /> <br /> フィオリオは1984年よりフィアットグループのモータースポーツ部門を統括。1987年よりサッカー[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の名門[[ユヴェントスFC]]の経営陣に加わり、1988年には[[アルファロメオ]]のスポーティングディレクターに就任するなど、フィアットグループのスポーツ関連の要職を兼任する。<br /> <br /> === フェラーリ時代 ===<br /> 1988年、エンツォ・フェラーリの死去後、エンツォが掌握していたスクーデリア・フェラーリもフィアット傘下に入る。1989年、長年チームマネージャーを務めた[[マルコ・ピッチニーニ]]に代わり、フィオリオがF1の名門の指揮を取ることになる。革新的な[[フェラーリ・640]]でこの年3勝、翌1990年は[[フェラーリ・641]](および641/2)で6勝を挙げ、常勝[[マクラーレン]]・[[ホンダF1|ホンダ]]に対抗する。<br /> <br /> 1991年は開幕から不振に陥り、チームに内紛が発生。エースドライバーの[[アラン・プロスト]]はチームの管理能力を問うコメントを発し、第4戦[[モナコグランプリ]]後にフィオリオは更迭される。突然の解任劇の裏には、フィオリオと[[アイルトン・セナ]]が進めていた移籍交渉がフェラーリの幹部を怒らせたことも関連していた&lt;ref&gt;「Racing On」 2007年1月号 ニューズ出版 p.55&lt;/ref&gt;。後任はランチアのエンジン開発主任だった[[クラウディオ・ロンバルディ]]。そのまた後任は[[プジョー]]ラリーチームの元マネージャーで、フィオリオと因縁浅からぬ関係の[[ジャン・トッド]]だった(詳細は[[グループB#1986年]]を参照)。<br /> <br /> === その後 ===<br /> フェラーリを去った後しばらくF1界から離れるが、1994年、[[フラビオ・ブリアトーレ]]が買収した[[リジェ]]のチームマネージャーに就任する。しかし翌年[[トム・ウォーキンショー]]が共同オーナーになると、シーズン途中に解任される。<br /> <br /> 1996年は[[フォルティ]]に在籍した後、リジェに復帰。1997年にはリジェが[[プロスト・グランプリ]]となり、オーナーがアラン・プロスト、マネージャーがフィオリオというフェラーリ時代からは想像もつかない体制となる。1998年末にプロストを解任されると[[ミナルディ]]に合流し、2000年シーズン途中までスポーティングディレクターを務めた。<br /> <br /> 近年は[[イタリア放送協会]](RAI)のF1中継コメンテーターを務め、他にもいくつかの雑誌などでインタヴューに答えている。また[[サルデーニャ|サルデーニャ島]]で悠々自適の生活を送っている。<br /> <br /> == 人物・エピソード ==<br /> 親子3代ランチアの関係者。父親のサンドロ・フィオリオは皮革産業界の実力者で、ランチアの広報部長としてオーナーズクラブ「ハイファイ」([[Hi-Fi|HI.FI.]])を運営していた。その伝手でランチアから援助を受けたチェーザレは、チーム名にHF(アッカ・エッフェ)のイニシャルを付け忠誠心を示した。息子のアレッサンドロ・フィオリオ(アレックス・フィオリオ)はラリードライバーで、1987年の[[グループN]]チャンピオン。1988年、1989年は[[グループA]]でワークスのランチア・デルタ・HFインテグラーレに乗り、それぞれ選手権3位、2位の成績を残している。娘のジョルジア・フィオリオは歌手として成功した後、写真家に転身している。<br /> <br /> 派手な私服とトレードマークの黒いサングラスから、イタリア人記者に「[[ハリウッド]]」と渾名された。生来の競争好きで、[[パワーボート]]レースの分野でも一流の記録を持つ。1992年にはフィアットの[[ジャンニ・アニェッリ]]会長の支援をうけ「デストリエーロ号」で大西洋横断世界記録に挑み、[[ブルーリボン賞 (船舶)|ブルーリボン賞]]を獲得する&lt;ref&gt;[http://www.kahaku.go.jp/special/past/italia/ipix/b2f/4/8.html 国立科学博物館特別展 イタリア科学とテクノロジーの世界]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 勝利にこだわる哲学を持ち、高性能マシンの投入、サービス体制の強化など、アマチュア的なラリー界に現代的なプロフェッショナリズムを持ち込んだ。1972年のタルガ・フローリオでは、レース界初の本格的な無線交信システムを導入し、フェラーリを勝利に導いた。反面、厳格なリーダーシップやレギュレーションの隅を突く業師ぶりは軋轢や論争を生んだ&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;ストラトス誕生の経緯や、デルタのフロントバンパーを「誤差」と規定した車体全長の1%分だけオフセットして装着させた件など。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1976年の[[ラリー・サンレモ]]では、エースドライバーの[[サンドロ・ムナーリ]]を勝たせるためチームオーダーを発令。これに反して[[ビョルン・ワルデガルド]]が優勝すると激怒し、ワルデガルドをチームから放出する。1983年のモンテカルロ・ラリーでは、レース後の車検でレギュレーション違反が見つかり優勝を取り消されるが、問題の部品がパイプの一部だと主張し、1戦のみの特例として優勝を認めさせた。<br /> <br /> 1989年のF1[[ポルトガルグランプリ]]では、フェラーリの[[ナイジェル・マンセル]]がピット作業違反で失格になりながら走行を続けた。マクラーレンの[[ロン・デニス]]代表がフェラーリのピットへ向かい、3本指を立てて「3回黒旗が出ている」と抗議すると、フィオリオは[[ファックサイン|&#039;&#039;&#039;中指&#039;&#039;&#039;を立てて]]応酬した。その後マンセルはマクラーレンのセナと接触し一騒動となった。<br /> <br /> == 注釈 ==<br /> {{Reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[モータースポーツ]]<br /> * [[F1関係者の一覧]]<br /> <br /> {{スクーデリア・フェラーリ}}<br /> {{プロスト・グランプリ}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ふいおりお ちええされ}}<br /> [[Category:イタリアの人物]]<br /> [[Category:F1関係者]]<br /> [[Category:トリノ出身の人物]]<br /> [[Category:ランチアの人物]]<br /> [[Category:フェラーリの人物]]<br /> [[Category:1939年生]]<br /> [[Category:存命人物]]</div> 124.39.100.132 スタンリー・ボールドウィン 2018-01-24T11:52:06Z <p>124.39.100.132: /* 首相 */</p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |人名 = スタンリー・ボールドウィン<br /> |各国語表記 = Stanley Baldwin<br /> |画像 = Stanley Baldwin ggbain.35233.jpg<br /> |国略称 = {{GBR}}<br /> |生年月日 = [[1867年]][[8月3日]]<br /> |出生地 = {{flagicon|GBR}} [[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]&lt;br/&gt;{{ENG}}&lt;br/&gt;[[ウスターシャー]]、{{仮リンク|ビュードレー|en|Bewdley}}<br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1867|8|3|1947|12|14}}<br /> |死没地 = {{GBR}}&lt;br/&gt;{{ENG}}&lt;br/&gt;ウスターシャー、{{仮リンク|ストアポート=オン=セヴァーン|en|Stourport-on-Severn}}<br /> |出身校 = [[ハーロー校]]&lt;br&gt;[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]<br /> |所属政党 = [[保守党 (イギリス)|保守党]]<br /> |称号・勲章 = ガーター勲章 (KG)&lt;br/&gt;枢密顧問官 (PC)&lt;br/&gt;治安判事 (JP)&lt;br/&gt;王立協会フェロー (FRS)&lt;br/&gt;初代ビュードレーのボールドウィン伯爵<br /> |国旗 = イギリス<br /> |職名 = [[イギリスの首相|イギリス首相]]<br /> |就任日 = [[1923年]][[5月22日]] - [[1924年]][[1月22日]]&lt;br/&gt;1924年[[11月4日]] - [[1929年]][[6月5日]]&lt;br/&gt;[[1935年]][[6月7日]]<br /> |退任日 = [[1937年]][[5月28日]]<br /> |元首職 = [[イギリスの君主|国王]]<br /> |元首 = [[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]&lt;br&gt;[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]&lt;br&gt;[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]<br /> }}<br /> 初代{{仮リンク|ボールドウィン・オブ・ビュードレー伯爵|en|Earl Baldwin of Bewdley}}&#039;&#039;&#039;スタンリー・ボールドウィン&#039;&#039;&#039;({{lang-en-short|Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[治安判事|JP]], [[王立協会フェロー|FRS]]}}、[[1867年]][[8月3日]] - [[1947年]][[12月14日]])は、[[イギリス]]の[[保守党 (イギリス)|保守党]]の政治家、実業家。[[イギリスの首相|首相]]を務め(在任期間 第1次内閣:1923年 - 1924年、第2次内閣:1924年 - 1929年、挙国一致内閣:1935年 - 1937年)、そして自らの功績により初代「ビュードレーのボールドウィン伯」に叙される。<br /> <br /> == 経歴 ==<br /> ===生い立ち===<br /> [[イングランド]]、[[ウスターシャー]]の有名な鉄鋼業者の家に生まれ、[[ハーロー校]]と[[ケンブリッジ大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]で学ぶ。<br /> <br /> ===政界===<br /> 20年近く家業にたずさわった後、1908年に[[庶民院 (イギリス)|下院]]議員となり、保守党に属した。1917年から1921年まで大蔵財務次官、1921年から1922年まで商務院総裁として入閣する。<br /> <br /> 1922年、保守党の[[ロイド・ジョージ]]連立内閣からの脱退を主張してこれを崩壊せしめ、[[アンドルー・ボナー・ロー|ボナー・ロー]]保守党内閣において大抜擢され、一躍[[財務大臣 (イギリス)|蔵相]]となり、[[公債|戦債]]問題処理のため[[ワシントンD.C.|ワシントン]]に出張した。<br /> <br /> ===首相===<br /> [[1923年]]に内閣を組閣するが、選挙で[[労働党 (イギリス)|労働党]]にやぶれて翌年に退陣する。同年、[[ラムゼイ・マクドナルド]](1866年 - 1937年)が退陣すると再び組閣。このとき、遂に男女平等[[選挙権]]を認める([[第五次選挙法改正]]、1928年)。翌年、再び労働党にやぶれる。<br /> <br /> 1930年より、母校ケンブリッジ大学の総長を17年間務める。1931年にマクドナルドが挙国一致内閣を組織すると、[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]議長として入閣する。1935年にマクドナルドが病気のため引退すると、その後を受けて組閣する(1937年まで)。<br /> <br /> 1936年に、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の後を襲った新国王[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]が、アメリカ人で離婚歴があり、さらに[[ドイツ]]の[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]駐英大使との交際が噂されていた[[ウォリス・シンプソン]]夫人との結婚を希望した際には、「王制の存続問題になる恐れがある」としてエドワード8世に退位を迫り、それを認めさせた。<br /> <br /> 当時[[アドルフ・ヒトラー]]の元でヨーロッパを席巻しつつあった[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]に対しては、[[宥和政策]]の立場をとるが、自分の後を受けて首相となった[[ネヴィル・チェンバレン]](1869年 - 1940年)ほど積極的ではなく、「消極的宥和政策」といわれた。<br /> <br /> ===晩年===<br /> ネヴィル・チェンバレンが後を継ぎ、首相退陣後に[[伯爵]]を授けられた。[[第二次世界大戦]]終結後の1947年に死去した。<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[伯爵]]<br /> <br /> {{先代次代|[[イギリス保守党党首一覧|イギリス保守党党首]]|1923年 - 1937年|[[アンドリュー・ボナー・ロー]]|[[ネヴィル・チェンバレン]]}}<br /> {{先代次代|[[イギリスの首相の一覧|イギリスの首相]]|1923年 - 1924年&lt;br/&gt;1924年 - 1929年&lt;br/&gt;1935年 - 1937年|[[アンドリュー・ボナー・ロー]]&lt;br/&gt;ラムゼイ・マクドナルド&lt;br/&gt;ラムゼイ・マクドナルド|[[ラムゼイ・マクドナルド]]&lt;br/&gt;ラムゼイ・マクドナルド&lt;br/&gt;[[ネヴィル・チェンバレン]]}}<br /> {{イギリスの首相}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ほおるとういん すたんりい}}<br /> {{Politician-stub}}<br /> [[Category:イギリスの首相]]<br /> [[Category:イギリス保守党の政治家]]<br /> [[Category:イングランド選出のイギリス庶民院議員]]<br /> [[Category:イギリスの実業家]]<br /> [[Category:イギリスの伯爵]]<br /> [[Category:ガーター勲章]]<br /> [[Category:イギリスの枢密顧問官]]<br /> [[Category:ケンブリッジ大学出身の人物]]<br /> [[Category:ハーロー校出身の人物]]<br /> [[Category:ウスターシャー出身の人物]]<br /> [[Category:王立協会フェロー]]<br /> [[Category:1867年生]]<br /> [[Category:1947年没]]</div> 124.39.100.132 マレーネ・ディートリヒ 2018-01-24T09:43:36Z <p>124.39.100.132: /* アメリカへ */</p> <hr /> <div>{{ActorActress<br /> | 芸名 = マレーネ・ディートリヒ&lt;br&gt;Marlene Dietrich<br /> | 画像ファイル = Marlene Dietrich in No Highway (1951) (Cropped).png<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像コメント = <br /> | 本名 = Marie Magdalene Dietrich<br /> | 出生地 = {{DEU1871}}、[[ベルリン]]<br /> | 死没地 = {{FRA}}、[[パリ]]<br /> | 国籍 = {{GER}}&lt;br&gt;{{USA}}<br /> | 身長 =<br /> | 血液型 =<br /> | 生年 = 1901<br /> | 生月 = 12<br /> | 生日 = 27<br /> | 没年 = 1992<br /> | 没月 = 5<br /> | 没日 = 6<br /> | 職業 = [[俳優|女優]]、[[歌手]]<br /> | 活動期間 = 1919年 - 1984年<br /> | 配偶者 =ルドルフ・ジーバー(1924-1976、死別)<br /> | 著名な家族 = マリア{{enlink|Maria Riva}}(娘)<br /> | 事務所 =<br /> | 公式サイト = <br /> | 主な作品 = <br /> | トニー賞 = 1968年 特別賞<br /> | 備考 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;マレーネ・ディートリヒ&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Marlene Dietrich&#039;&#039;&#039;、[[1901年]][[12月27日]] - [[1992年]][[5月6日]])は、[[ドイツ]]出身の[[俳優|女優]]・[[歌手]]。<br /> <br /> [[1920年代]]の[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]の[[ドイツ映画]]全盛期に花開き、[[1930年代]]からは[[ハリウッド]]映画に出演、[[1950年代]]以降は歌手としての活動が多かった。<br /> <br /> == 経歴 ==<br /> === 生い立ち ===<br /> [[1901年]]に、[[プロイセン王国]]近衛警察士官の次女として[[ベルリン]]で生まれる。幼くして父が病死、継父も[[第一次世界大戦]]で戦死した。生活費を稼ぐため酒場などで歌っていた。また、[[フランス語]]を独学で習得。18歳で国立ヴァイマル音楽学校に入学し[[ヴァイオリニスト]]を目指すが、手首を痛めて音楽家の道を断念した。<br /> <br /> === 映画デビュー ===<br /> [[1921年]]に[[マックス・ラインハルト]]の演劇学校に入学、翌年には『ナポレオンの弟』で映画デビュー。[[1924年]]に、助監督のルドルフ・ジーバーと結婚。同年12月には娘マリアを出産後、ジーバーとは別居となる。夫は[[カトリック教会|カトリック]]であり、離婚が認められていなかった。<br /> <br /> [[1930年]]、[[ベルリン]]の舞台に立っていたところを映画監督[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]に認められ、ドイツ映画最初期の[[トーキー]]『嘆きの天使』に出演。大きく弧を描く細い眉&lt;ref&gt;ディートリヒ風メイクとして、現在でもメイクアップ技術の一つに数えられ、専門学校などでも学ばれている。&lt;/ref&gt;に象徴される、個性的かつ退廃的な美貌は、100万ドルの保険をかけたと宣伝された脚線美とともに称えられ、加えてセクシーな歌声で国際的な名声を獲得した。<br /> <br /> === アメリカへ ===<br /> 同年、パラマウントに招かれてアメリカ合衆国に渡り、[[ゲイリー・クーパー]]と共演した『[[モロッコ (映画)|モロッコ]]』で[[ハリウッド]]・デビュー、[[アカデミー主演女優賞]]にノミネートされた(『モロッコ』は日本語字幕映画の第1作である)。『[[上海特急]]』でスターの座を確立する。ユダヤ人監督スタンバーグとのコンビで黄金時代を築く。<br /> <br /> [[1935年]]の『[[西班牙狂想曲]]』がヒットしなかったのを最後に、スタンバーグ監督との公私にわたる関係を解消、しばらく低迷する。当時のドイツの指導者である[[アドルフ・ヒトラー]]はマレーネがお気に入りだったようで、ドイツに戻るように要請したが、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]を嫌ったマレーネはそれを断って、[[1939年]]にはアメリカの[[市民 #市民権|市民権]]を取得した&lt;ref&gt;Dietrich applied for US citizenship in 1937 [http://news.google.com/newspapers?id=VPtlAAAAIBAJ&amp;sjid=WUgNAAAAIBAJ&amp;pg=5104,3190136&amp;dq=marlene+dietrich+american+citizen&amp;hl=en (&quot;Marlene Dietrich to be US Citizen&quot;. &#039;&#039;Painesville Telegraph&#039;&#039;, 6 March 1937.)]; it was granted in 1939 (see [http://news.google.com/newspapers?id=UN5BAAAAIBAJ&amp;sjid=AaoMAAAAIBAJ&amp;pg=5899,2663618&amp;dq=marlene+dietrich+american+citizen&amp;hl=en &quot;Citizen Soon&quot;. &#039;&#039;The Telegraph Herald&#039;&#039;, 10 March 1939.] and [http://news.google.com/newspapers?id=YSRdAAAAIBAJ&amp;sjid=vloNAAAAIBAJ&amp;pg=3524,1115404&amp;dq=marlene+dietrich+american+citizen&amp;hl=en &quot;Seize Luggage of Marlene Dietrich&quot;. &#039;&#039;Lawrence Journal World&#039;&#039;, 14 June 1939]).&lt;/ref&gt;ため、ドイツではマレーネの映画は上映禁止となる。<br /> <br /> [[Image:MarleneDietrich.jpg|thumb|250px|right|アメリカ軍への慰問(1944年)]]<br /> [[第二次世界大戦]]開戦後の[[1940年代]]に入ると[[西部劇]]や[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]の舞台にも立って活躍した。また、[[ドイツ軍]]の占領下のフランスから[[ジャン・ギャバン]]も渡米しており交際、やがて、[[自由フランス軍]]にギャバンは志願したが、文通は続け、やがて仏領[[アルジェリア]]で再会した。<br /> <br /> 第二次世界大戦中の[[1943年]]からは、[[アメリカ軍]]の[[:en:USO|USO]](前線兵士慰問機関)の一員として活動、アメリカ軍兵士の慰問に[[ヨーロッパ]]各地を巡り、反ドイツの立場を明確にした。戦地で兵士が口ずさんでいた「[[リリー・マルレーン]]」をおぼえ、対独放送でも歌った。なお、1944年には[[バルジの戦い]]中の[[アルデンヌ]]においてアメリカ軍の慰問を行った際に急襲してきたドイツ軍に捕えられそうになったが直前に回避し事なきを得た。<br /> <br /> 戦後、[[ベルリンの戦い|独ソ両軍による市街戦]]で壊滅したベルリンで、奇跡的に母親と再会、その2か月後に母は急死した。第二次世界大戦中の功績によりアメリカからは[[1947年]]に[[大統領自由勲章]](アメリカ市民として最高の栄誉)、フランスからは[[レジオンドヌール勲章]]を授与された。戦後しばらくパリでギャバンと暮らしたが次第に疎遠となり別れた。<br /> <br /> === 歌手活動 ===<br /> 若い女優の登場で映画出演の機会は減ったが、[[ラスベガス]]でのリサイタル依頼があり、成功をおさめ1950年代からは歌手としての活動が多くなり、アメリカ合衆国やヨーロッパを巡業。[[1958年]]からは[[バート・バカラック]]と組んでいる{{Sfn|Bach|1992|p=395}}。[[1960年]]には念願の故郷ドイツでの公演を行った。マレーネは「裏切り者」と罵声を浴びせられながらも、暖かい歓待も受けるという彼女に対するドイツ人の複雑な感情を見せつけられた。[[1970年]]の[[日本万国博覧会|大阪万博]](EXPO&#039;70)と[[1974年]]に来日してコンサートを行った(実はもっと昔、1948年にも極東駐留の将兵への慰問のため日本にも立ち寄っており、その時に土産として買ったいわゆる[[超小型写真|豆カメラ]]のひとつ「マイクロ」が報道され、同機の輸出が急速に伸びたという話がある{{Sfn|小倉磐夫|2001|pp=141-142}})。<br /> <br /> [[1976年]]、浮名を流した[[ジャン・ギャバン]]と夫を立て続けに亡くした。<br /> <br /> === 引退 ===<br /> [[Image:MarleneDietrichGrabstein1.jpg|thumb|250px|right|マレーネ・ディートリヒの墓銘碑]]<br /> 1975年、コンサート中に足を骨折して活動を引退せざるをえなくなる&lt;ref&gt;&#039;Act follows suggestion of song&#039;s title&#039;, Toledo Blade, Ohio 7 Nov. 1973, p37.&lt;/ref&gt;。<br /> 引退後はパリに隠棲。引退から時期がたってもファンレターは絶えず、「パリ市。マレーネ・ディートリヒ様」と書くだけで手紙が届いたという。引退後の姿はまったく謎に包まれており、人々の興味の対象となった。<br /> <br /> ドイツの大衆紙『[[ビルト (新聞)|ビルト]]』が、ある老女の写真を「現在のマレーネ・ディートリヒだ」とスクープを出したことがあるが、彼女の親族によって否定された。<br /> <br /> それまで生まれた地ベルリンを語ることはなかったが、[[1989年]]のベルリンの壁崩壊の際には、いつになく興奮して「私は生粋のベルリンっ子よ、素晴らしいわ私の街は自由よ」と語ったという。<br /> <br /> === 死去 ===<br /> [[1992年]]、[[8区 (パリ)|パリ8区]]モンテーニュ大通りの自宅で死去。死因は肝臓と腎臓障害であったとされる。亡くなる前の12年間は寝たきりであったという。葬儀はパリの[[マドレーヌ寺院]]で行われ、その後遺骸がベルリンに移されベルリンでも葬儀が行われた。<br /> <br /> その遺骸は同年、彼女の望み通りベルリンの母の墓の横に葬られた。死後、ベルリン中心の[[ポツダム広場]]に隣接した広場が「マレーネ・ディートリヒ広場」と命名された。<br /> <br /> [[2002年]]、ベルリン名誉市民となった。<br /> <br /> 自伝では同時代映画人達を毒舌も交えて回顧している。一度だけ組んだ[[フリッツ・ラング]]には特に辛辣で、「いかにもドイツ人らしい野心家」と切り捨てている。ラングはユダヤ系のオーストリア人だが、同書ではユダヤ系もオーストリア生まれも区別なく、自らも含めて「ドイツ人らしい」という形容を良い意味でも悪い意味でも多用している。<br /> <br /> == 主な出演作品 ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; <br /> |-<br /> !公開年!!邦題 &lt;br&gt;原題!!役名!!備考<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1930|| [[嘆きの天使]]&lt;br&gt;&#039;&#039;The Blue Angel&#039;&#039; || ローラ・ローラ || <br /> |-<br /> | [[モロッコ (映画)|モロッコ]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Morocco&#039;&#039; || アミー・ジョリー || <br /> |-<br /> |1931|| [[間諜X27]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Dishonored&#039;&#039; || X27 || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1932|| [[上海特急]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Shanghai Express&#039;&#039; || 上海リリー(マデリーン) || <br /> |-<br /> | [[ブロンド・ヴィナス]] &lt;br&gt; &#039;&#039;Blonde Venus&#039;&#039; || ヘレン・ファラデイ || <br /> |-<br /> |1933|| [[恋の凱歌 (1933年の映画)|恋の凱歌]] &lt;br&gt; &#039;&#039;The Song of Songs&#039;&#039; || リリー || <br /> |-<br /> |1934|| [[恋のページェント]] &lt;br&gt; &#039;&#039;The Scarlet Empress&#039;&#039; || ゾフィア(後の[[エカチェリーナ2世]]) || <br /> |-<br /> |1935|| [[西班牙狂想曲]] &lt;br&gt;&#039;&#039;The Devil is a Woman&#039;&#039; || コンチャ・ペレス || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1936|| [[真珠の頚飾]]&lt;br&gt; &#039;&#039;Desire&#039;&#039; || マドレーヌ・ド・ボープレ || <br /> |-<br /> | [[沙漠の花園]]&lt;br&gt;&#039;&#039;The Garden of Allah&#039;&#039; || ドミニ・エンフィルデン || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1937|| [[鎧なき騎士]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Knight Without Armour&#039;&#039; || アレクサンドラ・ウラディノフ || <br /> |-<br /> | [[天使 (1937年の映画)|天使]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Angel&#039;&#039; || マリア・エンジェル・バーカー || <br /> |-<br /> |1939|| [[砂塵 (映画)|砂塵]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Destry Rides Again&#039;&#039; || フレンチー || <br /> |-<br /> |1940|| [[妖花 (映画)|妖花]] &lt;br&gt; &#039;&#039;Seven Sinners&#039;&#039; || ビジュー・ブランシュ || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1941|| [[焔の女]] &lt;br&gt; &#039;&#039;The Flame of New Orleans&#039;&#039; || クレール・ルドゥー || <br /> |-<br /> | [[大雷雨]]&lt;br&gt; &#039;&#039;Manpower&#039;&#039; || フェイ・デュヴァル || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;3&quot;|1942|| [[淑女の求愛]] &lt;br&gt;&#039;&#039;The Lady Is Willing&#039;&#039; || エリザベス・マッデン || <br /> |-<br /> | [[スポイラース (1942年の映画)|スポイラース]] &lt;br&gt; &#039;&#039;The Spoilers&#039;&#039; || チェリー || <br /> |-<br /> | [[男性都市]] &lt;br&gt; &#039;&#039;Pittsburgh&#039;&#039; || ジョジー・ウィンターズ || <br /> |-<br /> |1944|| [[キスメット]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Kismet&#039;&#039; || ジャミラ || <br /> |-<br /> |1946|| [[狂恋]] &lt;br&gt;&#039;&#039;Martin Roumagnac&#039;&#039; || ブランシュ・フェラン || <br /> |-<br /> |1947|| [[黄金の耳飾り]]&lt;br&gt;&#039;&#039;Golden Earrings&#039;&#039; || リディア || <br /> |-<br /> |1948|| [[異国の出来事 (映画)|異国の出来事]] &lt;br&gt;&#039;&#039;A Foreign Affair&#039;&#039; || エリカ・フォン・シュルートウ || <br /> |-<br /> |1950|| [[舞台恐怖症]] &lt;br&gt;&#039;&#039;Stage Fright&#039;&#039; || シャーロット・インウッド || <br /> |-<br /> |1952|| [[無頼の谷]] &lt;br&gt; &#039;&#039;Rancho Notorious&#039;&#039; || アルター・キーン || <br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1956|| [[八十日間世界一周 (映画)|八十日間世界一周]] &lt;br&gt;&#039;&#039;Around the World in Eighty Days&#039;&#039; || サロンのホステス || <br /> |-<br /> | [[モンテカルロ物語]] &lt;br&gt; &#039;&#039;The Monte Carlo Story&#039;&#039; || マリア・ド・クレヴクール侯爵夫人 || <br /> |-<br /> |1957|| [[情婦 (映画)|情婦]] &lt;br&gt; &#039;&#039;Witness for the Prosecution&#039;&#039; || クリスティーネ || <br /> |-<br /> |1958|| [[黒い罠]] &lt;br&gt;&#039;&#039;Touch of Evil&#039;&#039; || ターニャ || <br /> |-<br /> |1961|| [[ニュールンベルグ裁判]] &lt;br&gt;&#039;&#039;Judgment at Nuremberg&#039;&#039; || ベルトホルト夫人 || <br /> |-<br /> |1964|| [[パリで一緒に]] &lt;br&gt; &#039;&#039;Paris, When It Sizzles&#039;&#039; || 本人 || クレジットなし<br /> |-<br /> |1979|| [[ジャスト・ア・ジゴロ]] &lt;br&gt; &#039;&#039;Schöner Gigolo, armer Gigolo&#039;&#039; || ゼーメリング男爵夫人 || カメオ出演 <br /> |-<br /> |1984|| [[MARLENE/マレーネ]] &lt;br&gt;&#039;&#039;Marlene&#039;&#039; || || ナレーションのみ<br /> |}<br /> <br /> === その他 ===<br /> * 真実のマレーネ・ディートリヒ &#039;&#039;Marlene Dietrich: Her Own Song&#039;&#039;(2001) - マレーネの孫デヴィッド・ライヴァ監督のドキュメンタリー。<br /> * 永遠のヒロイン(NHK 2010年)<br /> <br /> == 受賞歴 ==<br /> === アカデミー賞 ===<br /> ; ノミネート<br /> : [[第4回アカデミー賞|1931年]] [[アカデミー主演女優賞]]:『[[モロッコ (映画)|モロッコ]]』<br /> <br /> === ゴールデングローブ賞 ===<br /> ; ノミネート<br /> : [[1958年]] [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]]:『[[情婦 (映画)|情婦]]』<br /> <br /> == 通称 ==<br /> 本名はマリー・マグダレーネ・ディートリヒ(&#039;&#039;&#039;Marie Magdalene Dietrich&#039;&#039;&#039;)であるが、彼女は[[人名|ファーストネーム]]と[[ミドルネーム]]を合わせて1つとして現在良く知られている通称を自身創造した。つまり&#039;&#039;&#039;Mar&#039;&#039;&#039;ie Magda&#039;&#039;&#039;lene&#039;&#039;&#039;の太文字部分を合わせ、マレーネ・ディートリヒ(&#039;&#039;&#039;Marlene&#039;&#039;&#039; Dietrich)とした。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]開戦後アフリカ戦線で敵味方両軍の間でブレークした『[[リリー・マルレーン]]』は[[ララ・アンデルセン]]が最初にリリースしたものである。原題は&quot;Lili &#039;&#039;&#039;Marleen&#039;&#039;&#039;&quot;とディートリヒの通称・マレーネ(&quot;Marlene&quot;)とスペルが若干異なるが、英語読みすると似た発音になる。彼女は&quot;Lili &#039;&#039;&#039;Marlene&#039;&#039;&#039;&quot;としてカバーして、連合軍兵士を慰問した。日本では『リリー・マルレーン』はマレーネのオリジナルと見なされているほどである。<br /> <br /> == 参照 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book |last=Bach |first=Steven |year=1992 |title=Marlene Dietrich: Life and Legend |publisher=Doubleday |isbn=0-385-42553-8 |ref=harv }}<br /> * {{Citation |和書 |author=鈴木明 |author-link=鈴木明 |title=わがマレーネ・ディートリヒ伝 |publisher=[[小学館]] |series=[[小学館ライブラリー]] |year=1991 |isbn=4-09-460007-8 }}<br /> * {{Citation |和書 |author=高橋暎一 |author-link=高橋暎一 |title=愛しのマレーネ・ディートリヒ |publisher=[[社会思想社]] |series=[[現代教養文庫]]1414 |year=1992 |isbn=4-390-11414-X }}<br /> * {{Citation |和書 |author=小倉磐夫 |author-link=小倉磐夫 |title=国産カメラ開発物語 : カメラ大国を築いた技術者たち |series=[[朝日選書]]684 |publisher=[[朝日新聞社]] |year=2001 |isbn=4-02-259784-4 }}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ディートリヒ]]<br /> * [[グレタ・ガルボ]]<br /> * [[アドルフ・ヒトラー]]<br /> * [[エディット・ピアフ]]:[[シャンソン]]歌手。パリでマレーネと親友になる。<br /> * [[ズビグニェフ・ツィブルスキ]]:俳優。『[[灰とダイヤモンド (映画)|灰とダイヤモンド]]』に主演。マレーネの友人。<br /> * [[リリー・マルレーン]]<br /> * [[嘆きの天使賞]]:[[ベルリン国際映画祭]]の賞の1つ。<br /> * [[マレーネ・ディートリヒ広場]]<br /> * [[花はどこへ行った]]:[[ピート・シーガー]]作詞・作曲の反戦歌。マレーネが1962年にドイツ語とフランス語でカヴァーした。<br /> * [[淀川長治]]<br /> * [[小松政夫]]:「わりーね、わりーね、ワリーネ・ディートリヒ」という持ちネタがある。<br /> * [[ジャン・コクトー]]:ピアフと並ぶ親友の1人。<br /> * [[ジャン・ギャバン]]:恋人同士であった。<br /> * [[ユル・ブリンナー]]:1950年代の恋人の1人だった。<br /> * [[アーネスト・ヘミングウェイ]]:互いに「クラウト」、「パパ」と呼び合う。ベッドを共にしなかった数少ない男性の親友。<br /> * [[エーリヒ・マリア・レマルク]]:1930年代後半にマレーネの恋人となる。『[[凱旋門 (小説)|凱旋門]]』のヒロイン、ジョアン・マドゥーは、マレーネがモデルと言われている。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|Marlene Dietrich}}<br /> * {{official website|http://www.marlene.com/}}{{En icon}}<br /> * {{allcinema name|44985|マレーネ・ディートリヒ}}<br /> * {{Kinejun name|12183|マレーネ・ディートリヒ}}<br /> * {{IMDb name|0000017|Marlene Dietrich}}<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ていいとりつひ まれえね}}<br /> [[Category:ドイツの女優]]<br /> [[Category:ドイツの歌手]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の女優]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の映画女優]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の歌手]]<br /> [[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]<br /> [[Category:トニー賞受賞者]]<br /> [[Category:大統領自由勲章受章者]]<br /> [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]<br /> [[Category:LGBTの俳優]]<br /> [[Category:LGBTの音楽家]]<br /> [[Category:両性愛の人物]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国帰化市民]]<br /> [[Category:ドイツ系アメリカ人]]<br /> [[Category:ベルリン出身の人物]]<br /> [[Category:1901年生]]<br /> [[Category:1992年没]]</div> 124.39.100.132 日本国と中華民国との間の平和条約 2018-01-15T10:28:29Z <p>124.39.100.132: /* 経緯 */</p> <hr /> <div>{{条約<br /> |題名 =日本国と中華民国との間の平和条約<br /> |画像 =<br /> |画像キャプション =<br /> |通称 =日華平和条約、日華条約<br /> |起草 =<br /> |署名 =1952年4月28日&lt;br&gt;{{ROC}}、[[台北市|台北]]<br /> |効力発生 =1952年8月5日<br /> |寄託者 =<br /> |番号 =昭和27年条約第10号<br /> |言語 =[[日本語]]、[[中国語]]、[[英語]]<br /> |内容 =[[日中戦争]]の[[国際法]]上の終結([[日本国]]と[[中華民国]]の[[講和条約]])<br /> |関連 =<br /> |ウィキソース =日本国と中華民国との間の平和条約<br /> |リンク =[http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js27-10.htm 中野文庫]<br /> }}<br /> 「&#039;&#039;&#039;日本国と中華民国との間の平和条約&#039;&#039;&#039;」(にほんこくとちゅうかみんこくとのあいだのへいわじょうやく、昭和27年条約第10号)とは[[日本]]と[[中華民国]]([[台湾国民政府]])との間で両国間における[[第二次世界大戦]]の戦争状態を終了させるために締結された[[条約]]である。<br /> <br /> 一般に&#039;&#039;&#039;日華条約&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;日華平和条約&#039;&#039;&#039;として知られている。1952年8月5日に発効。1972年の[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]の合意により、日本と[[中華人民共和国]]は[[国交]]を樹立し、日本は中華人民共和国を中国の唯一の合法政府と承認したため、効力を失った。<br /> <br /> == 調印 ==<br /> [[File:Ratification of the Peace treaty between R. O. China and Japan.jpg|thumb|260px|1952年8月2日付けの日華平和条約批准書]]<br /> 1952年[[4月28日]]に[[台北]]で調印された。サンフランシスコ平和条約(=[[日本国との平和条約]])発効の7時間30分前であった。条約の適用範囲は現に中華民国が支配する領域と限定されている。中華民国の支配領域は条約の発効から失効までの間大きく変化している。1952年8月5日の発効時の支配領域は、[[台湾]]・[[澎湖諸島]]と[[大陳列島]]・南鹿山列島・[[四礵列島]]・[[馬祖島]]・[[金門島]]など[[浙江省]]、[[福建省]]の沿岸の島嶼、それに[[東沙諸島]]、[[太平島]]であった。その後、浙江省、福建省の沿岸の島嶼は、馬祖島、金門島を除いて共産党政権により占領され失った。1972年の条約失効時は、現在の中華民国の実効支配域、すなわち台湾・澎湖諸島・金門島・馬祖島・東沙諸島・太平島に縮小している。<br /> <br /> [[第一次世界大戦]]では[[連合国]]側として同陣営で[[戦勝国]]となった[[大日本帝国]]と[[中華民国]]であったが、[[日中戦争]](日華事変、八年抗戦)の際に[[汪兆銘政権]]を中国の代表政権とするなど[[国民政府]]との間で国際法上の国交が停止されたままであったために[[サンフランシスコ講和条約]]に先立って予め締結された国交回復条約である。<br /> <br /> この条約により、「中国大陸は反乱軍[[八路軍]]・[[新四軍]]と[[中国共産党]]によって不法に占領されている状態」と[[国連]]および日華両国が規定し、この国際法上効力は[[国共内戦]]を経て[[毛沢東]]が北京での建国を宣言した[[中華人民共和国]]([[1949年]]建国)について、[[1972年]]の「日中国交樹立」([[中華人民共和国]]は[[1945年]]時点で存在していない国家であったため、日本国と[[北京政府]]は初の国交樹立であり、「国交回復」や「戦争状態終結」との条件や表現は当てはまらない)までの期間において、中華民国政府([[台湾国民政府]])を[[中国]]代表政府と日本側が正式認定する内容であり、この条文はその後も1971年の第26回[[国際連合総会]]2758号決議([[アルバニア決議]])に至るまで、有効な国際条約として国際社会に認知されていた条約である。<br /> * [[日本国]]側:[[河田烈]]<br /> * [[中華民国]]側:[[葉公超]]<br /> <br /> == 要旨 ==<br /> === 条文 ===<br /> * 戦争状態の終了(第1条)<br /> * 台湾及び澎湖諸島ならびに新南群島及び西沙群島における日本のすべての権利、権原及び請求権の放棄(第2条)<br /> * 通商協定や漁業協定の締結に努めること(第7条、第8条、第9条)<br /> * 台湾及び澎湖諸島の住民・旧住民とその子孫ならびに法人の帰属について(第10条)<br /> <br /> === 条約議定書 ===<br /> 中華民国は日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、日本国が提供すべき役務の利益(賠償)を自発的に放棄する。<br /> <br /> === 条約交換公文 ===<br /> == 経緯 ==<br /> 中華民国は[[日本国との平和条約]]締結のための「サンフランシスコ講和会議」に招請されなかったが、条約を原則として締結された。一説によれば、第10条は[[外交官]]出身であった当時の日本国[[首相]]・[[吉田茂]]が[[アメリカ合衆国|アメリカ政府]]の勧めで国民政府と[[国交]]を締結することになったものの、国民政府が[[中華人民共和国|共産党政府(中華人民共和国)]]を倒して中国本土を奪還する可能性は低いと考えて、将来の日本政府が共産党政府との国交樹立を行った場合に、国民政府から[[国際法]]違反との非難を受けることを避けるために付け加えたのだといわれている(国民政府が中国本土を奪還できなければ、中国本土は「国民政府の支配下に入る領域」には該当しないと解釈することも可能であった)。<br /> <br /> なお、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]][[判例]]では本条約第2条により日本が台湾島に対する権利を放棄したことにより、[[台湾人]]は本条約の発効日に[[日本国籍]]を喪失した(中華民国籍になった)とされている(最大判[[1962年|昭和37年]][[12月5日]]刑集16巻12号1661頁)。<br /> <br /> 1972年[[9月29日]]、日本は共産党政府との間に[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明]](通称「日中共同声明」)で共産党政府側の「[[一つの中国]]」論を尊重したうえで、中華人民共和国を[[国家の承認]]し、日本が中華人民共和国と国交を樹立し、その後[[大平正芳]]外相は「日華条約は事実上失効」と表明。これを受け中華民国政府は対日国交断絶を宣言した。<br /> <br /> その後は、日本国と中華民国の実務関係を処理するため公的民間団体と言う形で「[[日本台湾交流協会]](2017年に「交流協会」から名称を変更)」&lt;ref&gt;[http://news.ltn.com.tw/news/politics/breakingnews/1930324 外交重大突破!交流協會更名「日台交流協會」] 自由時報 2016年12月28日発信・閲覧&lt;/ref&gt;と「[[亜東関係協会]]」をそれぞれ設け、両政府に代わり外交・領事業務を行っている。<br /> <br /> 2009年4月28日、日華平和条約調印時の様子を再現した展示が調印場所の[[台北賓館]]で完成。調印当時の日本側代表[[河田烈]]元蔵相、中華民国側代表[[葉公超]]外交部長(外相)ら列席者5人の銅像や史料が陳列されている&lt;ref&gt;{{Cite news | url = http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=90739&amp;ctNode=3591&amp;mp=202 | title = 馬英九総統が台北賓館で「日華平和条約」締結の意義を語る | newspaper = [[台湾週報]] | publisher = [[台北駐日経済文化代表処]] | date = 2009-05-08 | accessdate = 2013-09-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304115034/http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=90739&amp;ctNode=3591&amp;mp=202 |archivedate=2016-03-04}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[アルバニア決議]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19520428.T1J.html 日華平和条約全文]<br /> <br /> {{日本の条約}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:にほんこくとちゆうかみんこくとのあいたのへいわしようやく}}<br /> [[Category:講和条約]]<br /> [[Category:日本の講和条約]]<br /> [[Category:台湾の条約]]<br /> [[Category:日本の戦後処理]]<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:戦後台湾]]<br /> [[Category:昭和時代戦後の外交]]<br /> [[Category:日台関係]]<br /> [[Category:1952年の条約]]</div> 124.39.100.132 アプヴェーア 2018-01-08T09:41:40Z <p>124.39.100.132: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2009年12月}}<br /> &#039;&#039;&#039;アプヴェーア&#039;&#039;&#039;({{lang-de|Abwehr}}、「防御」の意)は[[ドイツ軍]]において[[1921年]]から[[1944年]]まで存在した諜報活動機関である。&#039;&#039;&#039;アプヴェール&#039;&#039;&#039;ともカナ表記される。[[1938年]][[2月4日]]以降は、Amt Ausland/Abwehr im Oberkommando der Wehrmacht(国防軍情報部海外電信調査課/外国課)となった。歴代部長の中で、[[ヴィルヘルム・カナリス]]提督は[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチス)に面従腹背の姿勢を取っていたことで特に有名(詳細は後述)。<br /> <br /> アプヴェーアは[[第一次世界大戦|第1次世界大戦後]]、連合軍に譲歩するために諜報活動は防御のみにするという前提で設立された。実際には、アプヴェーアは[[防諜]]を意味しているその名称にもかかわらず、情報収集だけでなく、特に色々な場所から寄せられる生の情報を集め、[[ヒューミント]]を行った。情報部の部長は直接、[[国防軍最高司令部 (ドイツ)|国防軍最高司令部]]へ直接報告を行っていた。<br /> <br /> ==初期==<br /> アプヴェーアは[[第一次世界大戦]]後、[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]がドイツ国軍([[ヴァイマル共和国軍]])を設立した[[1921年]]に設立された。初代部長は第1次世界大戦でドイツ帝国軍情報部長[[ヴァルター・ニコライ]]([[:de:Walter Nicolai (Geheimdienstoffizier)]])大佐の代理を務めた[[フリードリッヒ・ゲンプ]]([[:de:Friedrich Gempp]])少佐。初期の組織では事務職を合わせて、3人の新任、7人の前任者であり、3つのセクションで運営されていた。<br /> <br /> *第I部-[[偵察]]<br /> *第II部-[[暗号]]および[[通信]]<br /> *第III部-[[防諜]]<br /> <br /> [[1928年]]、[[ドイツ海軍]]の情報部がアプヴェーアに統合された。<br /> <br /> 1930年代に、[[アドルフ・ヒトラー]]率いる国家社会主義ドイツ労働者党が台頭してくると、国防省は再編成され、[[1932年]][[6月7日]]、陸軍将校が多く配置されていたにもかかわらず、海軍大佐[[コンラート・パッツィヒ]]([[:de:Conrad Patzig]])が情報部長に任命された。これは、当時の情報部は規模・重要性が小さかった為に、野心的な将校に人気がなかったことに加え、海軍士官は海外経験が多く、海外事情に強いということが要因と言われている。何はともあれ、全3部の活動は、独自の諜報部員を成長させることになった。<br /> <br /> 後に[[ポーランド]]国境におけるアプヴェーアが主導した航空機による調査飛行のために、パッツィヒは[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]と対立した。国防軍首脳はこの飛行計画のために、ポーランドへの進行作戦が漏れることを恐れていたのである。その結果、パッツィヒは1935年1月、[[ポケット戦艦]][[アドミラル・グラーフ・シュペー]] の艦長へ異動した(後に、海軍人事担当となる)。後任の部長は[[ヴィルヘルム・カナリス]]海軍大佐。<br /> <br /> ==活躍==<br /> ===戦前===<br /> [[1935年]][[1月1日]]、カナリスが部長職を受け継ぐとき、ヒムラーと[[ラインハルト・ハイドリヒ]]がドイツ全体の情報機関を傘下におさめようとしていることをパッツィヒは警告した。カナリスはパッツィヒがこれまで情報部としての活動が多かったことから、その対処方法を知っていると考えた。しかしカナリスが彼らと最低限の信頼関係を維持しようと努めている間ですら、アプヴェーアと[[親衛隊]]との反目は収まらなかった。<br /> <br /> それは[[1937年]]、アドルフ・ヒトラーがSSを通じてソ連の[[ヨシフ・スターリン]]による[[赤軍|ソビエト赤軍]]に対する[[大粛清]]を支援しようと決断した時、頂点に達した。ヒトラーはドイツ軍将校が、[[赤軍|ソビエト赤軍]]内の大粛清関連者に警告することを恐れ、ドイツ軍将校にスターリンの意図について教えないよう命令した。そのため、親衛隊の特別チームが、関係するドイツ軍将校やアブヴェーアに侵入し、ドイツ・[[ソ連]]の協力関係について記載されている書類を奪取した。その際、侵入を秘密にするために、[[放火]]から始められたが、そこにはアプヴェーア本部も含まれていた。<br /> <br /> ===再編成===<br /> 1938年、3部で運営されていたアプヴェーアをカナリスは再編成した。<br /> <br /> *中央管理部-他の2つの課の管理業務、人事、財政、[[スパイ]]への支払い業務担当。カナリスが全面的に管理し、[[ハンス・オスター]]が担当した。<br /> *外国部-この細分化でいくつかの業務を担当した。OKWと参謀との連絡係、ドイツ外務省との軍事問題に関する調整、入手した文書の調査、海外報道、ラジオ放送の調査。この活動を通じて、アプヴェーア海外支局が特定任務においてアプヴェーアへの支援を要請するのに適切な窓口であることを意味した。<br /> *情報部-3課に分けられており、「防諜」活動と分類されていたが、実際には情報収集を行った。それは以下に分けられた。<br /> :*I課(Abwehr I.)-外国情報収集 <br /> :::Gruppe G-偽の書類、写真、インク、[[パスポート]]、化学薬品<br /> :::Gruppe H West-陸軍軍事情報([[イギリス]]、[[アメリカ]]担当)<br /> :::Gruppe H Ost-陸軍軍事情報(ソ連担当)<br /> :::Gruppe Ht-軍事技術担当<br /> :::Gruppe i-無線技術、無線担当<br /> :::Gruppe L-空軍軍事情報<br /> :::Gruppe M-海軍軍事情報<br /> :::Gruppe T/lw-航空技術情報<br /> :::Gruppe wi-経済情報<br /> <br /> :::技術知識担当のGruppe I-TもI係に付属した。<br /> <br /> :*II課(Abwehr II.)-[[エルヴィン・フォン・ラホウゼン]]([[:de:Erwin von Lahousen]])少将指揮下。破壊活動、海外の不満分子、マイノリティ(少数民族など)との接触、反政府活動への指示。<br /> :::アップウェーアII課にはGruppe II-T(技術諜報部)の分課として[[ブランデンブルク (特殊部隊)]]が所属しており、第II課Gruppe II-T以外の一切の部署から独立していた。<br /> <br /> :*III課(Abwehr III.)-防諜活動、国内の産業活動の防諜、誤情報の流布、海外情報部の侵入に対する防諜活動。<br /> :::IIIC - 民間諜報活動への防諜<br /> :::IIIC-2 - 防諜活動<br /> :::IIID - 偽情報の流布<br /> :::IIIF - 他国の諜報活動への逆スパイ活動<br /> :::IIIN – 郵便関連への防諜活動<br /> <br /> アプヴェーアは陸軍、海軍、空軍、国防軍最高司令部との連携を確立しており、特定の事柄に関する資料などをお互いに交換しあうことがあった。I課は[[ハンス・ピーケンブロック]]([[:de:Hans Piekenbrock]])大佐、II課はエルヴィン・フォン・ラホウゼン大佐、III課は[[エッカルト・フォン・ベンティフェグニ]]([[:de:Franz Eccard von Bentivegni]])大佐らがそれぞれ担当した。<br /> <br /> 上記の組織のさらに下部に「Abwehrstelle(防衛地点)」もしくは「Ast(支部)」と呼ばれる国防軍の各軍管区に地方局を置いた。アプヴェーア本部の構成により、Astは細分化されていた。<br /> <br /> :::諜報活動(I)<br /> :::破壊活動(II)<br /> :::対抗諜報活動(III)<br /> <br /> 通常、各Astは上位の軍、もしくは海軍将校が担当し、[[ベルリン]]のアプヴェーア本部に対して、責任があった。各Astの活動によって、アプヴェーアにおける全体的戦略活動計画をカナリスが決定しており、Astの活動は綿密に関係していた。カナリスは国防軍最高司令部、1941年以降はヒトラーより、直接、順番にどのような情報収集が必要か指示を受けた。訓練中、各Astは計画の立案、遂行で自由裁量を与えられたが、その情報収集能力が最終的に、組織に打撃を与えることになる。<br /> <br /> 各地方Astは潜伏スパイを任務で使用することができ、本部においても綿密な調査を行うために、一般市民を雇用、訓練した。アプヴェーアで訓練されたスパイのほとんどが軍人ではなく、一般市民であった。スパイについては質より量という傾向が強く、新規スパイで質が悪い者はしばしば失敗を犯した。<br /> <br /> 再編成中、カナリスは彼が厳選したスタッフでナチス党員ではない副部長ハンス・オスター、ラホウゼンらを自分のそばに置くようにした。ただし、[[ルードルフ・バムラー]]([[:de:Rudolf Bamler]])はナチス党員であったが、カナリスはヒムラーの信頼を勝ち取るために採用し、課のチーフに任命した。そのため、カナリスはバムラーを限定的な活動しかできないよう制限をしていた。再編成中、カナリスは組織の主要メンバーには、ナチス政府よりもカナリス個人に忠実なスタッフを置いていた。<br /> <br /> 表面的にはカナリスは活動を従順に行ったが、密かにナチス政府への反対活動を行っており、部下はカナリスの命令に従って活動した。アプヴェーア情報部の全3課は後に親衛隊情報部(SD)が[[黒いオーケストラ]](Die Schwarze Kapelle)と呼ぶ、ナチスを内部より攻撃する組織に重要な関係を持っていた。カナリスにより、ナチスに対抗するために指名した人員、計画の決定による活動は秘密の関係を保ち、政府内部より攻撃した。<br /> <br /> ===中立国におけるアプヴェーアの活動===<br /> 中立国において、アプヴェーアはドイツ大使館、または通商使節団に付随させてその組織を偽った。その部署は戦争組織(Kriegsorganisationen、もしくは KO&#039;s)と呼ばれた。たとえば、中立だが友好的である[[スペイン]]ではAst、Ko&#039;s両方が存在したが、そうでもない[[アイルランド]]には両方とも存在しなかった。関心対象国、占領した国、ドイツ国内において諜報活動はアプヴェーア予備局(AbwehrleitstellenもしくはAlsts)、郵便施設付随組織(Abwehrnebenstellen)が行った。Alstsは担当地区のAstが管轄し、ベルリンの中央管理部が総括した。<br /> <br /> ==第二次世界大戦==<br /> カナリスの元、アプヴェーアは拡大し、戦争初期、その活動も効率的であった。その大成功例は[[北極作戦]]([[:en:Operation Nordpol]]、[[オランダ]]地下組織に対する作戦)であり、それはイギリスのスパイを利用して行われた。1941年3月、情報部は拘束した無線技師から得た暗号コードでイギリスに偽の情報を流した。イギリスはこの情報が偽であることに気が付かなかった。このようにドイツはオランダでの活動を見抜いており、イギリスに発覚するまでの2年間維持し、誤情報を流して、その情報に従って動いたイギリス情報部員を拘束した。<br /> <br /> しかし、それはいくつかの問題により、全体的な活動とはならなかった。その情報がドイツでは受け入れ難いものであったこと、さらに、親衛隊のラインハルト・ハイドリヒ、[[ヴァルター・シェレンベルク]]らのと競争、争いにも存在した。親衛隊とアプヴェーアの争いはそこだけに留まることがなかった。カナリスを含むアプヴェーアの熟練した情報員の多くが反ナチスであり、[[1944年]][[7月20日]]に起きた[[ヒトラー暗殺計画]]を含める多くの暗殺未遂事件に関与していた。カナリスはアプヴェーアにおいて[[ユダヤ人]]を雇い、ユダヤ人が[[スイス]]へ逃亡するのに機関を利用した。しかし、それらを行った最も大きな理由はカナリスがナチスを蝕もうと考えていたことだとされる。<br /> <br /> カナリスは[[アメリカ]]が参戦する以前に、アメリカを主な目標の一つにしていた。1942年までにドイツの情報員がアメリカの大規模軍事メーカーすべての内部に配置されていた。特筆すべきことは、アメリカ中西部([[エバンズビル (インディアナ州)|エバンズビル]]・[[インディアナ州|インディアナ]])の米海軍[[造船所]]に情報員を配置、女性情報員を中心に活動した。アメリカのアルミニウム産業を破壊しようとするパストリアス作戦において、6人の情報部員を失うという失敗もあったが、アメリカ航空機の青写真を盗む産業スパイ行為において大成功を収めた。<br /> <br /> カナリスは[[スイス]]侵攻を断念させる情報を流し、中立国である[[スペイン]]の総統[[フランシスコ・フランコ]]に参戦しないよう説得したりしていた。また、カナリスはドイツの情報を連合国に流したりした。<br /> <br /> [[SD (ナチス)|SD]]はヒトラー暗殺計画にアブヴェール幹部が関与していると考え、幹部を調査していた。特にアブヴェールのソ連における活動で、SDはカナリスが情報評価を行う敗北主義者としていた。<br /> <br /> ==終焉==<br /> [[1943年]][[9月30日]]、アプヴェーアの終焉につながる出来事が発生した。その事件は「ゾルフ夫人のお茶会(Frau Solf Tea Party)」として知られている。<br /> <br /> ヨハンナ(もしくはハンナ)・ゾルフは駐日大使を務めた[[ヴィルヘルム・ゾルフ]]博士の未亡人であり、ベルリンにおいて長年、反ナチス活動に従事していた。夫人と共に活動する人々は「ゾルフ・サークル(Solf Circle)」として知られていた。[[9月10日]]のお茶会の際、新メンバーとして、若いスイス人医者が含まれていた。しかし、彼はゲシュタポのスパイであり、このお茶会の真の姿について、また、それを明らかにする書類をゲシュタポに提出した。<br /> <br /> このことにより、メンバーたちは逃げ出したが、[[1944年]][[1月12日]]、全員拘束された。結局、メンバーのうち、ゾルフ夫人とバレストレム伯爵の夫人となっていた娘以外は全員処刑された。<br /> <br /> その中に、外務省省員の[[オットー・キープ]]([[:de:Otto Kiep]])がいたが、彼はアプヴェーアの[[イスタンブール]]局員[[エーリッヒ・フェルメーレン]]([[:de:Erich Vermehren]])とその妻の友人であった。そして、2人はキープのことに関連して[[ゲシュタポ]]にベルリンへ呼び出されたが、命の危険を感じたため、イギリス情報部員と連絡を取り、逃亡した。ベルリンにはヴァーメレンがイギリスにアプヴェーアの暗号コードを流すという誤情報が流れたため、ヒトラーの怒りを買うこととなった。責任は親衛隊、もしくは外務省にあると主張するアプヴェーアの努力にもかかわらず、ヒトラーは2回、ヒムラーにカナリスの罷免を告げ、ヒトラーは最後の事情聴取にカナリスを呼び出し、アプヴェーアを激しく非難した。カナリスはすでに戦争は負けで終わると考えていたので、静かに合意した。<br /> <br /> ヒトラーはカナリスをその場で罷免し、[[1944年]][[2月18日]]、アプヴェーアを廃止する法令に署名した。その機能は親衛隊の[[国家保安本部]]へ吸収され、[[ヴァルター・シェレンベルク]]がカナリスの代わりを務めることとなった。この出来事により、国防軍や反ナチス運動家から独自の情報部を奪うこととなり、軍に対するヒムラーの影響力を強めることとなった。<br /> <br /> 罷免後、カナリス(当時、中将)は通商、戦時経済についての閑職へまわされた。カナリスはハンス・オスターと共に[[1944年]][[7月20日]]の[[7月20日事件|ヒトラー暗殺・クーデター未遂事件]]の余波で[[7月23日]]に逮捕された。その後、アプヴェーアの機能はSDが行うこととなった。<br /> <br /> ==歴代部長==<br /> *フリードリヒ・ゲンプ:1921年-1927年<br /> *[[ギュンター・シュヴァンテス]]([[:de:Günther Schwantes]]):1927年-1929年<br /> *[[フェルディナント・フォン・ブレドウ]]:1929年-1932年<br /> *コンラート・パッツィヒ:1932年-1935年<br /> *[[ヴィルヘルム・カナリス]]:1935年-1944年<br /> *[[ヴァルター・シェレンベルク]]:1944年-1945年(ただし、[[国家保安本部]]第六局に統合)<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book|和書|author=ジャック・ドラリュ著 片岡啓治訳|year=2000|title=ゲシュタポ・狂気の歴史|publisher=講談社学術文庫|isbn=4061594338}}<br /> * {{Cite book|和書|author=ハインツ ヘーネ著 森 亮一訳|year=2001|title=髑髏の結社・SSの歴史(上)|publisher=講談社学術文庫|isbn=4061594931}}<br /> * {{Cite book|和書|author=ハインツ ヘーネ著 森 亮一訳|year=2001|title=髑髏の結社・SSの歴史(下)|publisher=講談社学術文庫|isbn=406159494X}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:あふうえる}}<br /> [[Category:ナチス・ドイツの軍事]]<br /> [[Category:ドイツの諜報・情報機関]]<br /> [[Category:反ナチ運動]]</div> 124.39.100.132 香港政庁 2017-12-25T10:36:49Z <p>124.39.100.132: </p> <hr /> <div>{{政府<br /> |政府名 = 香港政庁<br /> |画像 = Coat of arms of Hong Kong (1959-1997).svg<br /> |創設年 = 1841<br /> |解散年 = 1997<br /> |代表 = [[香港総督]]<br /> |対象国 = <br /> |地域 = [[香港]]<br /> |前政府 = <br /> |後政府 = {{HKG}}[[香港特別行政区政府|特別行政区政府]]<br /> |サイト = <br /> |備考 = 1941年から1945年まで[[日本占領時期の香港|日本による占領統治・軍政]]により中断。<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;香港政庁&#039;&#039;&#039;(ホンコンせいちょう)は、[[香港]]が[[1997年]][[7月1日]]に[[中華人民共和国]]へ[[香港返還|返還]]されるまでイギリスが設置していた香港統治機関に対する[[日本語]]での呼称。香港[[植民地]]政府、&#039;&#039;&#039;英領香港&#039;&#039;&#039;政府などという場合もある。<br /> <br /> 返還以前、[[英語]]では {{lang|en|“Government of Hong Kong”}}、[[中国語]]では「香港政府」と呼ばれたが、これらの呼称は現行の[[香港特別行政区政府]]に対しても使われるため、特に必要な場合は「{{lang|zh-hk|香港殖民地政府}}」{{lang|en|“Colonial Government”}} などと呼んで区別する。このほかに {{lang|en|“British Hong Kong Government”}} や、主に香港[[左派]]の間や[[中国共産党]]で使われる「港英政府」という呼称がある。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 香港政庁のトップは[[香港総督]]であった。返還後は[[香港特別行政区行政長官|行政長官]]が取って代わった。以下、香港政庁の主な機関および役職と、返還後の香港特別行政区政府における名称を示す。<br /> <br /> 香港政庁の役職・組織の中国語名には、布政司や按察司など近代以前の用語を反映したものも見受けられた。元々の意味については「[[承宣布政使|布政使]]」「[[提刑按察使司按察使|按察使]]」を参照。<br /> <br /> === 司法府、立法府 ===<br /> * &#039;&#039;&#039;香港最高法院&#039;&#039;&#039;→組織自体は高等法院へ格下げ。別途、高等法院の上位に&#039;&#039;&#039;[[香港終審法院|終審法院]]&#039;&#039;&#039;が設置された。[[裁判官]]([[判事]])の名称は「&#039;&#039;&#039;按察司&#039;&#039;&#039;」から「法官」となった。<br /> ** 上訴法院→高等法院上訴法庭<br /> ** 原訟法院→高等法院原訟法庭<br /> *** 地方法院→区域法院<br /> * &#039;&#039;&#039;立法局&#039;&#039;&#039;→[[香港特別行政区立法会|立法会]]<br /> <br /> === 行政府 ===<br /> 返還前の「司」は役職であったが、返還後は組織の名称となった。役職の「司」は現在「司長」とされている。返還前は「布政司」と「財政司」「律政司」は上下関係であった。返還後も3「司長」の序列自体は変わらないが、上下関係ではなく、並立する地位となった。<br /> <br /> 返還後の「局」(決策局)は、以前は布政司署に所属する「科」(決策科)であった。「科」の首長も「司」であった。以下に挙げた返還後の決策局の名称は、返還直後のものであり、現行のものについては[[香港特別行政区政府#決策局の構成(2007年7月~)]]を参照。<br /> <br /> * &#039;&#039;&#039;行政局&#039;&#039;&#039;→[[香港行政会議|行政会議]]<br /> * &#039;&#039;&#039;布政司&#039;&#039;&#039;(1976年以前は「輔政司」)→[[香港特別行政区政務司司長|政務司司長]]。<br /> ** 布政司署→政府總部。別途、「政務司司長辦公室」が設けられたが、これは以前の布政司署とは違い香港政府全体を統括するものではない。<br /> *** 憲制事務科→政制事務局<br /> *** 政務科→民政事務局<br /> *** 公務員事務科→公務員事務局<br /> *** 教育統籌科→教育統籌局<br /> *** 運輸科→運輸局<br /> *** 工務科→工務局<br /> *** 衞生福利科→衞生福利局<br /> *** 規劃環境地政科→規劃環境地政局<br /> *** 保安科→保安局<br /> *** 工商司→工商局<br /> *** 文康廣播司→文康廣播局<br /> *** 經濟科→經濟局<br /> *** 金融司、財經事務司→財經事務局へ統合<br /> *** 庫務司→庫務局<br /> * &#039;&#039;&#039;財政司&#039;&#039;&#039;(1939年以前は「庫政司」)→[[香港特別行政区財政司司長|財政司司長]]。<br /> * &#039;&#039;&#039;律政司&#039;&#039;&#039;→[[律政司司長]]。<br /> ** 律政署→律政司。<br /> * [[駐香港イギリス軍]]→撤退。代わりに[[人民解放軍駐香港部隊]]が進駐。<br /> ** 陸軍の中国本土との境界監視業務→[[香港の警察|香港警察]]に移管。<br /> ** (皇家香港輔助空軍)→返還前(1993年)に政府飛行服務隊に改組。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[香港の歴史]]<br /> * [[マカオ政庁]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *{{Facebook|TheBritishHongKong|英領香港}}<br /> <br /> {{イギリス植民地帝国}}<br /> {{DEFAULTSORT:ほんこんせいちよう}}<br /> [[Category:イギリス植民地時代の香港の政治]]<br /> [[Category:1997年廃止]]</div> 124.39.100.132 ラズエズノイ号事件 2017-12-04T14:36:10Z <p>124.39.100.132: /* 概要 */</p> <hr /> <div>[[File:The Raz&#039;ezdnoi.JPG|300px|thumb|ラズエズノイ号]]<br /> [[File:Crews of the Raz&#039;ezdnoi.JPG|thumb|200px|稚内署へ連行される乗組員ら]]<br /> &#039;&#039;&#039;ラズエズノイ号事件&#039;&#039;&#039;(ラズエズノイごうじけん)は、[[1953年]]に起こった[[日本]]への[[領海侵犯]]事件。[[海上保安庁]]が威嚇射撃、射撃応戦されたため船体射撃を実施した。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[1953年]]頃に[[海上保安庁]]は、[[樺太]]から[[北海道]]に密入国を繰り返す[[ソビエト連邦|ソ連]][[スパイ|諜報工作員]]をスパイ船が迎えに来るとの情報を入手し、[[巡視船]]を[[猿払村]]知来別海岸に配備して警戒に当たった。<br /> <br /> 同年[[8月2日]]、樺太在住で前日に稚内に到着した日本人スパイの男を密入国の疑いで逮捕&lt;ref&gt;読売新聞「密航男と船員を対決 捕獲ラ号、スパイ船の疑い強まる」1953年8月11日夕刊3頁&lt;/ref&gt;。そして8月8日、巡視船が知来別海岸に接近したソ連漁業巡回船ラズエズノイ号を発見。巡視船が停船命令を行うが、ラズエズノイ号は巡視船に火器を発射しながら逃走したため巡視船もラズエズノイ号に対して射撃し、弾丸がラズエズノイ号の操舵鎖に命中し切断したことからラズエズノイ号は逃走を断念した。<br /> <br /> 海上保安庁は船長ほか乗組員4人全員を[[出入国管理令]]違反で逮捕した。船内からはソ連式の乱数表と現金20万円が発見された&lt;ref&gt;読売新聞「ラ号のソ連人首実検近く起訴 背後のスパイ団?追及 暗号の乱数表発見」1953年8月12日付朝刊7頁&lt;/ref&gt;。その後スパイと船長は起訴された一方、船員3名は起訴猶予となり&lt;ref&gt;読売新聞「ソ連船事件・最高検の方針決る きょう船長を起訴 他の3名は起訴猶予に」1953年8月30日付朝刊7頁&lt;/ref&gt;強制送還された&lt;ref&gt;読売新聞「3船員は石炭船で強制送還 ソ連船事件」1953年9月27日付朝刊7頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1954年2月19日に、[[旭川地裁]]は出入国管理令違反によりスパイと船長の両名に対し懲役1年・執行猶予2年の有罪判決をそれぞれに言い渡した&lt;ref&gt;読売新聞「懲役1年(執行猶予)船は返す クリコフ船長に判決▽控訴しなければ身柄送還」1954年2月19日付夕刊3頁&lt;/ref&gt;。両名とも控訴せず判決は確定し、船長は2月28日に尾道からソ連船「セグザプレス」に乗船してソ連へ強制送還された&lt;ref&gt;読売新聞「クリコフ船長尾道から帰国」1954年3月1日付朝刊7頁&lt;/ref&gt;。この事件に関し、ソ連は日本に陳謝した。<br /> <br /> なお、これ以降で海上保安庁が威嚇射撃を実施したのは、冷戦終結後かつ当事件の46年後に[[北朝鮮]]船によって起こされた「[[能登半島沖不審船事件]]」である。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[レポ船]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2004/honpen/hp05020200.html 海上保安レポート2004版ソ連スパイ船「ラズエズノイ」号検挙]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:らすえすのいこうしけん}}<br /> [[Category:ソビエト連邦の事件]]<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:日本の戦闘]]<br /> [[Category:ロシアの戦闘]]<br /> [[Category:日ソ関係]]<br /> [[Category:海上保安庁]]<br /> [[Category:ロシアの工作活動]]<br /> [[Category:1953年の日本の事件]]<br /> [[Category:日本へ密入国した人物|*らすえすのいこうしけん]]<br /> [[Category:1953年の戦闘]]<br /> [[Category:1953年8月]]<br /> [[Category:北海道の歴史]]<br /> [[Category:猿払村]]</div> 124.39.100.132 レポ船 2017-12-04T14:31:43Z <p>124.39.100.132: /* 概要 */</p> <hr /> <div>{{漁業}}<br /> &#039;&#039;&#039;レポ船&#039;&#039;&#039;(れぽせん)とは、日本の[[北方地域|北方領土]]近海で、[[ソビエト連邦]](ソ連)のための[[スパイ]]活動を行っていた[[日本]]の[[漁船]]のことである。これらの漁民たちはソ連側に日本側の[[情報]]を提供することの見返りとして、ソ連の[[ロシア国境軍|国境警備隊]]に北方海域での[[密漁]]を黙認されていた。由来は「レポート」から。別名&#039;&#039;&#039;ロスケ船頭&#039;&#039;&#039;。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[1945年]][[9月]]に[[千島列島]]全域がソ連の占領下に入り、[[北海道]]、とくに[[根室]]地方の[[漁師]]たちは、その広大な[[漁場]]を失うことになった。その後もこの失われた漁場へ出漁して、ソ連の国境警備隊に[[拿捕]]される例が相次ぎ、こうした拿捕の危険なしに北方海域で自由に操業できないかと考える者の中から、レポ船が現れたとされる&lt;ref&gt;[[西木正明]]は、1948年には最初のレポ船の活動があったと指摘している。西木、1992年、16-21頁。一方で西木はベ平連とは何の関係もなく、小説は所詮小説で憶測の域を出ないと関係者から指摘されている&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> レポ船は、ソ連に対して[[海上保安庁]]の情報や、日本の[[港湾]]施設などの[[写真]]、あるいは一般的な[[新聞]]や[[雑誌]]などを提供し、その見返りとして、当該水域での[[密漁]]を黙認してもらっていた。こうした漁民による売国的な違法活動は、日本の[[海上保安庁]]、[[外事課|外事警察]]、[[公安調査庁]]等の警戒するところとなった。しかし、その「現場」が日本政府の[[主権]]の及ばない場所であるために、公判を維持できるための証拠収集が不十分となり、実際に起訴にまでもちこまれた事案は少なかった&lt;ref&gt;西木、1992年、18-21頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ベトナム戦争]]期の[[1960年代]]後半には、左派反米組織「[[ベトナムに平和を!市民連合]]」(ベ平連)の支援を受けた[[アメリカ軍]]の[[脱走兵]]が、レポ船の助けを借りて違法にソ連に渡った例もある(いわゆる根室ルートの開拓)&lt;ref&gt;西木、1992年、20-21頁。&lt;/ref&gt;。なお、これらのベ平連関係者に対しては[[ソ連国家保安委員会]](KGB)からの資金援助がおこなわれていたことが、[[ソ連崩壊]]後に機密解除となったソ連政府の書類や当時のKGB工作員により暴露されている他、べ平連関係者もそれを認めている&lt;ref&gt;[http://www.jca.apc.org/beheiren/saikin76HarunaMikio-HimitsunoFile.htm 最近文献76 春名幹男『秘密のファイル』下] JCA-Net『旧「ベ平連」運動の情報ページ』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[冷戦]]が緊張感を増していた[[1970年代]]から[[1980年代]]前半は、ソ連の[[スパイ]]行動の一翼を担う立場であったレポ船も、ソ連の崩壊が近づくに従い、生活物資が行き届かない末端のソ連連邦公務員への物資([[家電製品]]や衣類)の提供という、[[密貿易]]の意味合いが強くなったという。冷戦は[[1991年]]のソ連崩壊で終結し、それと共にレポ船の活動も終息した。<br /> <br /> == レポ船を題材とした作品 ==<br /> * [[Gメン&#039;75]] - 283話・「オホーツク海の幽霊船」<br /> * [[ハロー張りネズミ]] - 「国境の町事件シリーズ」<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[冷戦]]<br /> * [[売国奴]]<br /> * [[スパイ]]<br /> * [[北方地域|北方領土]]<br /> * [[ハナサキガニ]]<br /> * [[特攻船 (漁船)]]<br /> * [[ソ連脅威論]]<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[西木正明]] 『オホーツク諜報船』、[[社会思想社]]〈現代教養文庫〉、1992年 ISBN 4-390-11454-9 (旧版は、[[角川書店]]、1985年)<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:れほせん}}<br /> [[Category:ソビエト社会主義共和国連邦]]<br /> [[Category:北方領土]]<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:スパイ]]<br /> [[Category:犯罪]]</div> 124.39.100.132 コーンズ 2017-12-03T08:52:29Z <p>124.39.100.132: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{Otheruses|商社|その他}}<br /> {{基礎情報 会社<br /> |社名 = コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッド<br /> |英文社名 = CORNES &amp; COMPANY LIMITED<br /> |ロゴ =<br /> |種類 = [[外国会社]]|<br /> |市場情報 = <br /> |略称 =<br /> |国籍 = <br /> |郵便番号 =<br /> |本社所在地 ={{HKG}}【香港本社】&lt;br /&gt;10/F, Fairmont House, 8 Cotton Tree Drive, Central&lt;br /&gt;{{JPN}}【東京本社】&lt;br /&gt;〒105-0014 [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝 (東京都港区)|芝]]3-5-1<br /> |設立 = [[1947年]][[5月27日]]<br /> |業種 = サービス業<br /> |統一金融機関コード =<br /> |SWIFTコード =<br /> |事業内容 =<br /> |資本金 =香港通貨 1億5600万ドル(HKD)<br /> |代表者 = 代表取締役社長 渡 謙作<br /> |売上高 =<br /> |総資産 =<br /> |従業員数 =約140名(グループ全体 約760名)<br /> |決算期 =<br /> |主要株主 =コーンズ・モータース株式会社&lt;br /&gt;コーンズ テクノロジー株式会社&lt;br /&gt;株式会社コーンズ・エージー<br /> |主要子会社 =<br /> |関係する人物 =<br /> |外部リンク = http://www.cornes.co.jp/<br /> |特記事項 = 登記上の本店は10/F, Fairmont House, 8 Cotton Tree Drive, Central, Hong Kong。<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッド&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Cornes &amp; Co., Ltd.&#039;&#039; )は、[[東京]]を拠点とする、外資系([[香港]][[資本]])の総合[[商社]]である。<br /> <br /> ==概要==<br /> 事業内容は、日本国内における[[農業機械]]、[[産業機械]]、[[香料]]、電子デバイスの輸入、[[高級車|高級乗用車]]([[ロールス・ロイス]]、[[ベントレー]]、[[フェラーリ]]、[[ランボルギーニ]])の販売、 [[保険]]代理業、環境関連事業などである。[[1950年代]]には[[デ・ハビランド DH.106 コメット]]などの航空機を扱っていたほか、[[2000年代]]まではロールス・ロイス、ベントレーとフェラーリの輸入元にもなっていた。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> *[[1861年]] - William Gregson AspinallとFrederick CornesがAspinall, Cornes &amp; Co.を[[神奈川県]]・[[横浜市|横浜]]で創業。<br /> *[[1873年]] - Aspinallが退社し、Cornes &amp; Co.となる。<br /> *[[1946年]] - [[香港]]の會德豐有限公司により買収される。<br /> *[[1985年]] - 香港の[[香港九龍貨倉有限公司]](当時、現{{仮リンク|九龍倉|en|The Wharf (Holdings)}})により買収されるが、その後に独立。<br /> <br /> == 事業内容 ==<br /> === 輸入自動車販売 ===<br /> [[画像:Cornes Aoyama Showroom.JPG|250px|thumb|青山ショールーム]]<br /> 子会社のコーンズ・モータース、が東京と港区[[芝 (東京都港区)|芝]]や[[青山 (東京都港区)|南青山]]、[[名古屋]]、[[大阪]]地区に直営のショールームとサービスセンターを構え販売と修理などを行っている。また、大阪サービスセンターが、2009年夏に[[東大阪市]]から[[大阪市]]南港地区へ移転した。建物の設計は[[丹下憲孝]]である。現在は、以下のブランドの車種を取り扱う。<br /> <br /> *[[ロールス・ロイス]] - 日本における販売代理店である。1964年から2001年までは、日本への輸入権を所有していた。2001年以降は、[[フォルクスワーゲン グループ ジャパン|フォルクスワーゲングループジャパン]]が日本への輸入者となっている。2004年以降は[[ロールスロイスモーターカーズリミテッド]]が輸入元である。<br /> <br /> *[[ベントレー]] - 日本における販売代理店である。1964年から2001年までは、日本への輸入権を所有していた。<br /> <br /> *[[フェラーリ]] - 日本における販売代理店で、東京、大阪、名古屋にショールームとサービスセンターを構える。フェラーリが日本法人のフェラーリジャパンを設立する2008年まで日本への輸入権を所有していた&lt;ref&gt;フェラーリ、日本法人「フェラーリ・ジャパン」設立へ『WebCG』([[二玄社]]) 2008年2月22日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> *[[ランボルギーニ]] - 2013年6月8日より青山ショールームにて取り扱いを開始。<br /> <br /> 過去には、[[アルファロメオ]]、[[フィアット]]、[[アストンマーティン]]、[[ローバー (自動車)|ローバー]]、[[マセラティ]]を取り扱っていたこともある。<br /> <br /> === 農業機械販売 ===<br /> 子会社の[[コーンズエージー]](主に酪農・農業機械を取り扱う子会社)では、[[ランボルギーニ]]製の[[トラクター]]を輸入している(機体そのものは、SAME製トラクターのOEM)。[[ディア・アンド・カンパニー|ジョンディア]]と並ぶ大型・高出力トラクターで、価格は1千万円以上。<br /> <br /> === 保険代理業 ===<br /> 1864年より引受代行業を行い、現在は企業分野の損害保険・生命保険の募集代理店業務を行っている。[[ロイズ]]の日本における代理店である。<br /> <br /> == 広報・宣伝活動 ==<br /> * [[あぶない刑事|あぶない刑事シリーズ]] - [[劇用車]]として「フォーエヴァー」では[[マセラティ・ギブリ]]を、「まだまだ」では[[マセラティ・クアトロポルテ]]を車両提供<br /> * [[東京ヴェルディ1969]] - かつてのチームスポンサー<br /> <br /> == 参考 ==<br /> *{{Wayback |url=http://www.accj.or.jp/document_library/Journal/04feature2Oct04.pdf |title=by Burrit Sabin / tea, silk and serendipity, ACCJ Template-October-2nd.Proof (Page 22 - 23) |date=20070927070334 }}- 欧米人の視点による社史([[在日米国商工会議所]])<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.cornes.co.jp コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッド]<br /> *[http://www.cornesmotor.com/ コーンズ・モータース]<br /> *[http://www.cornesag.com/ コーンズ・エージー]<br /> <br /> {{company-stub}}<br /> {{デフォルトソート:こおんす}}<br /> [[Category:イギリスの企業]]<br /> [[Category:多国籍企業]]<br /> [[Category:東京都港区の企業]]<br /> [[Category:神奈川県発祥の企業]]<br /> [[Category:ロールス・ロイス]]<br /> [[Category:ベントレー]]<br /> [[Category:フェラーリ]]<br /> [[Category:ランボルギーニ]]<br /> [[Category:輸入車ディーラー]]<br /> [[Category:1861年設立の企業]]</div> 124.39.100.132 フェラーリ・333SP 2017-11-15T14:42:17Z <p>124.39.100.132: /* 戦績 */</p> <hr /> <div>{{Infobox_自動車のスペック表<br /> | 車種= 競技車両<br /> | 車名= フェラーリ・333SP<br /> | 車名補= &lt;!--車名註釈用--&gt;<br /> | 1枚目画像の説明=<br /> | 1枚目画像名=Horag Hotz Ferrari 333 SP.jpg<br /> | 2枚目画像の説明=<br /> | 2枚目画像名=<br /> | 3枚目画像の説明=<br /> | 3枚目画像名=<br /> | 製造国={{ITA}}<br /> | 販売期間= 1994年 - 2000年<br /> | 設計統括=<br /> | デザイン=<br /> | 乗車定員=<br /> | ボディタイプ=2座席スパイダー<br /> | エンジン=F130E型 3.997 L 65度 [[V型12気筒|V12]] [[DOHC]]<br /> | モーター=<br /> | 最高出力=650ps<br /> | 最大トルク=<br /> | トランスミッション=5速 シーケンシャル[[マニュアルトランスミッション|MT]]<br /> | 駆動方式=[[ミッドシップ|MR]]<br /> | サスペンション=<br /> | 全長=4,569 mm<br /> | 全幅=2,000 mm<br /> | 全高=1,025 mm<br /> | ホイールベース=2,740 mm<br /> | 車両重量=860 kg<br /> | 最大積載量=<br /> | 自由項目1(項目名)=<br /> | 自由項目1(内容)=<br /> | 自由項目2(項目名)=<br /> | 自由項目2(内容)=<br /> | 別名= &lt;!--現地名、地域を記入--&gt;<br /> | 先代=<br /> | 後継=<br /> | プラットフォーム=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;フェラーリ・333SP&#039;&#039;&#039;は、[[1994年]]の[[IMSA]]・WSC(ワールドスポーツカー)参戦用に[[フェラーリ]]が製作した[[プロトタイプレーシングカー]]である。「333」の由来は、エンジン1気筒あたりの排気量 (333.09cc) から。フェラーリがプロトタイプレーシングカーを投入するのは、[[1973年]]の[[フェラーリ・312PB|312PB]]以来、21年ぶりのことであった。<br /> <br /> ==概要==<br /> 333SPの開発計画は、ステアリングメーカー「[[モモ (会社)|MOMO]]」の社長であり、現役レーサーでもある[[ジャンピエロ・モレッティ]]が、フェラーリ副社長の[[ピエロ・ラルディ・フェラーリ]]に提案したことから始まる&lt;ref name=&quot;isobe&quot;&gt;磯部道毅 『Ferrari V12 -Racing Sports,GT&amp;F1』 三樹書房、1999、143 - 144 頁。&lt;/ref&gt;。アメリカのIMSAで、1994年より生産エンジンをベースにしたWSCクラスが創設される機会にあわせて開発された。<br /> <br /> 計画担当はF1部門([[スクーデリア・フェラーリ]])ではなく、子会社のフェラーリ・エンジニアリング&lt;ref name=&quot;isobe&quot;/&gt;。[[ジャンパオロ・ダラーラ]]が[[トニー・サウスゲート]]の協力を得てデザインを行い&lt;ref name=&quot;isobe&quot;/&gt;、[[ダラーラ]]が製作を担当した。後期型は[[パドヴァ]]のチューナー[[ミケロット]]が担当した。<br /> <br /> エンジンはロードカー[[フェラーリ・F50|F50]]用に開発中だった[[自然吸気]] 4.7L 65度[[V型12気筒]] [[DOHC]] 5バルブエンジンをベースにしてストロークを短縮し&lt;ref name=&quot;isobe&quot;/&gt;、WSCの上限排気量である4.0Lまで縮小された(ティーポF130E)。最高出力は650ps / 11,000rpm、最大トルクは45kgm / 9000rpm&lt;ref name=&quot;F333SP&quot;&gt;&quot;[http://www.ferrari.com/japanese/gt_sport%20cars/classiche/all_models/Pages/F333SP.aspx フェラーリF333 SP]&quot;. Ferrari.com. 2013年2月27日閲覧。&lt;/ref&gt;。このエンジンを遡ると、1992年の[[フォーミュラ1|F1]]マシンである[[フェラーリ・F92A|F92A]]に搭載されていた3.5Lエンジン(ティーポ040)に繋がる&lt;ref&gt;&quot;[http://www.ferrari.com/japanese/gt_sport%20cars/special-limited-series/Pages/the-waiting.aspx 期待を込めて]&quot;. Ferrari.com. 2013年2月27日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> センターモノコックは[[炭素繊維強化プラスチック|カーボン]]コンポジットとアルミ[[ハニカム構造|ハニカム]]で成型し、シーケンシャルタイプの5速[[マニュアルトランスミッション|MT]]が組み合わされた&lt;ref name=&quot;F333SP&quot;/&gt;。<br /> <br /> サスペンションは前後ともF1的なプッシュロッドを用いていた&lt;ref name=cg&gt;二玄社刊『CG選集 フェラーリ2』 372-377頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> WSCのレギュレーションでは「エンジンは市販車の4L以下の物」というものだったが、333SP完成時にはまだF50の発売前でしかもF50のエンジンは4.7Lだったため、オーガナイザーのIMSAは協議の末、特例として参戦を認めた。オーガナイザーとしてもフェラーリの参戦がシリーズの盛り上げに必要と考えたためである&lt;ref name=333sp&gt;アシェット『公式フェラーリF1コレクション Vol.79』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 333SPは当初こそオーガナイザーに歓迎されたものの、しだいにその強さが懸念されるようになり、最初の仕様で11,500rpmだったエンジンのレブリミットが11,000rpmに制限され、一気筒あたり5バルブの仕様も禁止されてしまった。さらに吸気制限のためのエア・リストリクターまで義務づけられてしまった&lt;ref name=333sp/&gt;。<br /> <br /> 一台あたりの価格は約100万ドルだった&lt;ref name=cg/&gt;。<br /> <br /> == 戦績 ==<br /> [[ファイル:Shell 333 SP Close.jpg|thumb|right|240px|コクピットのクローズアップ写真]]<br /> 333SPのレース活動はフェラーリ自身の[[ワークス・チーム|ワークス]]参戦ではなく、プライベーターへの供給・サポートという方法で行われた。<br /> <br /> 333SPは1994年IMSA第3戦[[ロードアトランタ]]でデビューし、ワンツーフィニッシュを飾る。このシーズンは計5勝したが、途中参戦だったためシリーズ2位となった。<br /> <br /> 翌[[1995年]]は、クラシック耐久の[[デイトナ24時間レース|デイトナ24時間]]、[[セブリング12時間レース|セブリング12時間]]にも参戦。デイトナはトラブルでリタイヤに終わるも、セブリングではフェラーリにとって23年ぶりの優勝を飾る。このシーズンは5勝して、ドライバーズ(フェルミン・ヴァレス)、マニュファクチャラーズの両チャンピオンを獲得した。<br /> <br /> この年は[[ル・マン24時間レース|ル・マン]]にも参戦。フェラーリにとってプロトタイプでのル・マン参戦は1973年以来22年ぶりのことであったが、結果は3周でエンジントラブルによってリタイヤした。ル・マンには翌[[1996年]]も参戦し、[[ファステストラップ]]をマーク。[[1997年]]は6位でフィニッシュした。<br /> <br /> セブリング12時間では1997年・[[1998年]]にも優勝。デイトナ24時間は1996年・1997年と2年連続2位で苦杯を舐めるが、1998年には27年ぶりの優勝を成し遂げた。モレッティは15回目のデイトナ挑戦で頂点をつかみ&lt;ref&gt;&quot;[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=6&amp;no=38600 『モモ』創業者ジャンピエロ・モレッティ亡くなる]&quot;. オートスポーツ.(2012年1月17日)2013年2月27日閲覧。&lt;/ref&gt;、このレースを最後に引退した。<br /> <br /> 1997年には欧州の[[FIA スポーツカー選手権|インターナショナル・スポーツカー・レーシング・シリーズ]] (ISRS) に参戦し、スポーツカー・レーシング・ワールド・カップ (SRWC) 、FIA スポーツカー選手権(FIA SCC) とシリーズが変遷する中で、2001年までに数々の勝利とタイトルを積み重ねた。<br /> <br /> 333SPは1980年代の[[ポルシェ・962]]同様、長い現役生活の中で多くのプライベーターに重宝されるマシンとなった。<br /> <br /> ==現在==<br /> なお現在、中古として払い下げられた333SPの多くは、フェラーリの「コルセ・クリエンティ」部門が主催する「F1クリエンティ」プログラムに組み込まれ、メンテナンスなどのサポートを受けているほか、世界各国の[[サーキット]]でフェラーリが開催している「フェラーリ・レーシング・デイズ」や「[[フィナーリ・モンディアーリ]]」などのイベントでF1マシンとともに走行している。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commonscat|Ferrari 333 SP}}<br /> * [[IMSA]]<br /> * [[FIA スポーツカー選手権]]<br /> * [[モモ (会社)]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.ferrari.com/japanese/gt_sport%20cars/classiche/all_models/Pages/F333SP.aspx フェラーリF333 SP] - Ferrari.com<br /> * [http://www.ultimatecarpage.com/car/627/Ferrari-333-SP.html 1994 - 2000 Ferrari 333 SP] - Ultimatecarpage.com<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふえらり 333SP}}<br /> [[Category:プロトタイプレーシングカー]]<br /> [[Category:フェラーリの車種|333SP]]<br /> {{スクーデリア・フェラーリ}}</div> 124.39.100.132 アルトゥーロ・メルツァリオ 2017-11-10T16:37:47Z <p>124.39.100.132: /* F1自チームの設立 */</p> <hr /> <div>{{F1ドライバー|<br /> 氏名 = アルトゥーロ・メルツァリオ |<br /> フルネーム = アルトゥーロ・フランチェスコ・メルツァリオ |<br /> Image = Mezario holds court (cropped).jpg |<br /> image-size = 260px |<br /> 説明 = アルトゥーロ・メルツァリオ (2009年) |<br /> 国籍 = {{ITA}} |<br /> 出身地 =同・[[コモ県]][[チヴェンナ]]|<br /> 生年月日= {{生年月日と年齢|1943|3|11}} |<br /> 年 = 1972-1979 |<br /> 所属チーム = &#039;72,&#039;73 [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]&lt;br&gt;&#039;74 [[イソ (自動車)|イソ・マールボロ]] ([[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]])&lt;br&gt;&#039;75,&#039;76 [[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]&lt;br&gt;&#039;75 [[フィッティパルディ]]&lt;br&gt;&#039;76,&#039;77 [[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]&lt;br&gt;&#039;77 [[シャドウ・レーシング・カーズ|シャドウ]]&lt;br&gt;&#039;78-&#039;79 メルツァリオ |<br /> 出走回数 = 85 (57スタート) |<br /> タイトル = |<br /> 優勝回数 = 0 |<br /> 通算獲得ポイント = 11 |<br /> 表彰台回数 = 0 |<br /> ポールポジション = 0 |<br /> ファステストラップ = 0 |<br /> 初戦 = [[1972年イギリスグランプリ|1972年イギリスGP]] |<br /> 初勝利 = |<br /> 最終勝利 = |<br /> 最終戦 = [[1979年アメリカグランプリ|1979年アメリカGP]] |<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;アルトゥーロ・メルツァリオ&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Arturo Francesco Merzario&#039;&#039; 、[[1943年]][[3月11日]] - )は、[[イタリア]]の元F1ドライバー。また1978年から1979年にかけて参戦したコンストラクター「メルツァリオ」のチームオーナー。姓は「&#039;&#039;&#039;メルザリオ&#039;&#039;&#039;/&#039;&#039;&#039;メルヅァリオ&#039;&#039;&#039;」と表記されることもある。[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]の[[テンガロンハット]]がトレードマーク。<br /> <br /> == プロフィール ==<br /> === スポーツカーレース ===<br /> [[コモ県]][[チヴェンナ]]出身。コクピット内部に潜り込むようなドライビングスタイルが特徴&lt;ref&gt;『[[GRAND PRIX SPECIAL]]』 [[エムオン・エンタテインメント]]、 2013年9月号、92 - 93頁。&lt;/ref&gt;。[[1960年代]]からイタリア国内や[[ヨーロッパ]]でスポーツカーレースで活躍、[[1970年]]より[[スクーデリア・フェラーリ]]に加入した。<br /> <br /> === F1 ===<br /> [[ファイル:Merzario, Arturo , Ferrari 312 PB 1973-05-27.jpg|thumb|left|[[フェラーリ・312PB]]をドライブするメルツァリオ(1973年ニュルブルクリンク1000km)]]<br /> 1972年にスポンサーのマールボロの支援によりスポット参戦ながらフェラーリからF1デビューし6位入賞。この年はスポーツカーレースを優先し、同年の[[スパ1000km]]、[[タルガ・フローリオ]]などを制した。<br /> <br /> 1973年はフェラーリからF1にフル参戦。フェラーリからのイタリア人ドライバーのF1フル参戦としては、[[1967年のF1世界選手権|1967年シーズン]]中に事故死した[[ロレンツォ・バンディーニ]]以来のことであったが、この年のフェラーリは設計ミスと安定性のないマシンにより1勝も挙げられないほどの低迷ぶりを見せ、同僚の[[ジャッキー・イクス]]とともに悪戦苦闘を強いられる。<br /> <br /> 結局最高位は2度の4位に留まり、チームとしても合計12ポイントしか獲得できないという惨憺たる結果に終わる。このことについて当時のフェラーリ総帥だった[[エンツォ・フェラーリ]]は、生前「彼にはすまない事をした」と語っている。<br /> <br /> 1974年からはフェラーリを離脱し[[フランク・ウィリアムズ]]のチーム([[ウィリアムズF1|フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ]])から参戦。度重なるマシントラブルに泣かされたが、1974年の地元[[イタリアグランプリ]]では4位入賞を果たす。また1975年のイタリアグランプリのみ、指の骨折で欠場した[[ウィルソン・フィッティパルディ]]の代役としてフィッティパルディから出走した(11位完走)。<br /> <br /> [[1976年のF1世界選手権|1976年]]はマーチから参戦するも、シーズン途中でウィリアムズに復帰。その復帰初戦となった[[ドイツグランプリ]]では[[ニキ・ラウダ]]の大事故に遭遇したが、[[ブレット・ランガー]]や[[ガイ・エドワーズ]]、[[ハラルド・アートル]]らとともにラウダの救出にあたり、このこともありラウダは顔面に大やけどを負ったものの一命を取り留めた。<br /> <br /> === F1自チームの設立 ===<br /> {{旧F1コンストラクター |<br /> コンストラクター名 = メルツァリオ |<br /> &lt;!-- チームロゴ画像 = |--&gt;<br /> 参戦年度 = 1977-1979 |<br /> 出走回数 = 38 |<br /> コンストラクターズタイトル = 0 |<br /> ドライバーズタイトル = 0 |<br /> 優勝回数 = 0 |<br /> 通算獲得ポイント = 0 |<br /> 表彰台回数 = 0 |<br /> ポールポジション = 0 |<br /> ファステストラップ = 0 |<br /> F1デビュー戦 = [[1977年スペイングランプリ|1977年スペインGP]] |<br /> 初勝利 = |<br /> 最終勝利 = |<br /> 最終戦 = [[1979年アメリカグランプリ|1979年アメリカGP]]<br /> }}<br /> <br /> [[1977年のF1世界選手権|1977年]]には自らがオーナーとなり、自チーム「&#039;&#039;&#039;チーム・メルツァリオ&#039;&#039;&#039;」を設立。初年度はマーチのシャーシを購入しての参戦だったが、完走は出走した7戦中1戦のみに終わる。また第12戦[[オーストリアグランプリ]]のみ、自チームからではなくシャドウから出走している(決勝リタイア)。<br /> <br /> チーム2年目となった[[1978年のF1世界選手権|1978年]]は、マーチのシャーシを改造し独自のマシンである「メルツァリオA1」を制作。コンストラクターとして参戦したものの、16戦中完走ゼロ,予選落ち6回,予備予選落ち2回という散々な成績に終わる。またイタリアグランプリのみではあるが、[[アルベルト・コロンボ]]を2台目として出走させている(メルツァリオ:決勝リタイア/コロンボ:予備予選落ち)。<br /> <br /> [[1979年のF1世界選手権|1979年]]は、序盤4戦は前作の改良版「メルツァリオA1B」で参戦するも完走ゼロ(うち2回予選落ち)、その後新車「メルツァリオA2」を投入。またシーズン途中で撤退した[[カウーゼン]]からマシンパーツを買い取って「メルツァリオA4」も制作したが、A2を投入した第5戦以降全戦で予選落ちを喫してしまい、メルツァリオはチームとともにこの年をもってF1から退いた。なおこの年の[[モナコグランプリ]]のみメルツァリオの代役として、カウーゼンのドライバーだった[[ジャンフランコ・ブランカテリ]]が出走した(予備予選落ち)。<br /> <br /> === F1後 ===<br /> F1からは引退したものの、その後もイタリアやヨーロッパのスポーツカー選手権に参戦を続け、1990年代まで第一線で活躍した。現在もモータースポーツへの情熱は衰えておらず、様々なレースにスポット参戦しているほか、イタリア国内でレーシングドライビングスクールを経営している。<br /> <br /> == F1での年度別成績 ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center; font-size:80%&quot;<br /> ! 年<br /> ! 所属チーム<br /> ! シャシー<br /> ! 1<br /> ! 2<br /> ! 3<br /> ! 4<br /> ! 5<br /> ! 6<br /> ! 7<br /> ! 8<br /> ! 9<br /> ! 10<br /> ! 11<br /> ! 12<br /> ! 13<br /> ! 14<br /> ! 15<br /> ! 16<br /> ! 17<br /> ! WDC<br /> ! ポイント<br /> |-<br /> ! [[1972年のF1世界選手権|1972年]]<br /> !rowspan=&quot;3&quot; | [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]<br /> !rowspan=&quot;2&quot; | [[フェラーリ・312B|312B2]]<br /> <br /> | [[1972年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br /> | [[1972年南アフリカグランプリ|RSA]]<br /> | [[1972年スペイングランプリ|ESP]]<br /> | [[1972年モナコグランプリ|MON]]<br /> | [[1972年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /> | [[1972年フランスグランプリ|FRA]]<br /> |bgcolor=&quot;#DFFFDF&quot;| [[1972年イギリスグランプリ|GBR]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;6&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1972年ドイツグランプリ|GER]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;12&lt;/small&gt;<br /> | [[1972年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /> | [[1972年イタリアグランプリ|ITA]]<br /> | [[1972年カナダグランプリ|CAN]]<br /> | [[1972年アメリカグランプリ|USA]]<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> ! 20位<br /> ! 1<br /> |-<br /> !rowspan=&quot;2&quot; | [[1973年のF1世界選手権|1973年]]<br /> <br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1973年アルゼンチングランプリ|ARG]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;9&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#DFFFDF&quot;| [[1973年ブラジルグランプリ|BRA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;4&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#DFFFDF&quot;| [[1973年南アフリカグランプリ|RSA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;4&lt;/small&gt;<br /> | [[1973年スペイングランプリ|ESP]]<br /> | [[1973年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> !rowspan=&quot;2&quot; | 12位<br /> !rowspan=&quot;2&quot; | 6<br /> |-<br /> ! [[フェラーリ・312B|312B3]]<br /> <br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1973年モナコグランプリ|MON]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> | [[1973年スウェーデングランプリ|SWE]]<br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1973年フランスグランプリ|FRA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;7&lt;/small&gt;<br /> | [[1973年イギリスグランプリ|GBR]]<br /> | [[1973年オランダグランプリ|NED]]<br /> | [[1973年ドイツグランプリ|GER]]<br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1973年オーストリアグランプリ|AUT]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;7&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1973年イタリアグランプリ|ITA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1973年カナダグランプリ|CAN]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;15&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1973年アメリカグランプリ|USA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;16&lt;/small&gt;<br /> |<br /> |<br /> |-<br /> ! [[1974年のF1世界選手権|1974年]]<br /> ! [[イソ (自動車)|イソ・マールボロ]] ([[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]])<br /> ! [[ウィリアムズ・FW|FW]]<br /> <br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1974年アルゼンチングランプリ|ARG]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1974年ブラジルグランプリ|BRA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#DFFFDF&quot;| [[1974年南アフリカグランプリ|RSA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;6&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1974年スペイングランプリ|ESP]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1974年ベルギーグランプリ|BEL]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1974年モナコグランプリ|MON]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFFFFF&quot;| [[1974年スウェーデングランプリ|SWE]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNS&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1974年オランダグランプリ|NED]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1974年フランスグランプリ|FRA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;9&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1974年イギリスグランプリ|GBR]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1974年ドイツグランプリ|GER]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1974年オーストリアグランプリ|AUT]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#DFFFDF&quot;| [[1974年イタリアグランプリ|ITA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;4&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1974年カナダグランプリ|CAN]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1974年アメリカグランプリ|USA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |<br /> |<br /> ! 17位<br /> ! 4<br /> |-<br /> !rowspan=&quot;3&quot; | [[1975年のF1世界選手権|1975年]]<br /> !rowspan=&quot;2&quot; | [[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]<br /> ! [[ウィリアムズ・FW03|FW03]]<br /> <br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1975年アルゼンチングランプリ|ARG]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;NC&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1975年ブラジルグランプリ|BRA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1975年南アフリカグランプリ|RSA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1975年モナコグランプリ|MON]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1975年ベルギーグランプリ|BEL]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> | [[1975年スウェーデングランプリ|SWE]]<br /> | [[1975年オランダグランプリ|NED]]<br /> | [[1975年フランスグランプリ|FRA]]<br /> | [[1975年イギリスグランプリ|GBR]]<br /> | [[1975年ドイツグランプリ|GER]]<br /> | [[1975年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> !rowspan=&quot;3&quot; | NC&lt;br&gt;(31位)<br /> !rowspan=&quot;3&quot; | 0<br /> |-<br /> ! [[ウィリアムズ・FW04|FW04]]<br /> <br /> |<br /> |<br /> |<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1975年スペイングランプリ|ESP]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |-<br /> ! [[フィッティパルディ]]<br /> ! [[フィッティパルディ・FD03|FD03]]<br /> <br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1975年イタリアグランプリ|ITA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;11&lt;/small&gt;<br /> | [[1975年アメリカグランプリ|USA]]<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |-<br /> !rowspan=&quot;2&quot; | [[1976年のF1世界選手権|1976年]]<br /> ! [[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]<br /> ! [[マーチ・761|761]]<br /> <br /> | [[1976年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /> | [[1976年南アフリカグランプリ|RSA]]<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1976年アメリカ西グランプリ|USW]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1976年スペイングランプリ|ESP]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1976年ベルギーグランプリ|BEL]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1976年モナコグランプリ|MON]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1976年スウェーデングランプリ|SWE]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;14&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1976年フランスグランプリ|FRA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;9&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1976年イギリスグランプリ|GBR]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> !rowspan=&quot;2&quot; | NC&lt;br&gt;(26位)<br /> !rowspan=&quot;2&quot; | 0<br /> |-<br /> ! [[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]/[[ウォルター・ウルフ・レーシング|ウルフ]]<br /> ! [[ウィリアムズ・FW05|FW05]]<br /> <br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1976年ドイツグランプリ|GER]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1976年オーストリアグランプリ|AUT]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1976年オランダグランプリ|NED]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFFFFF&quot;| [[1976年イタリアグランプリ|ITA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNS&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1976年カナダグランプリ|CAN]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1976年アメリカグランプリ|USA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1976年F1世界選手権イン・ジャパン|JPN]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |<br /> |-<br /> !rowspan=&quot;2&quot; | [[1977年のF1世界選手権|1977年]]<br /> ! [[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]/メルツァリオ<br /> ! [[マーチ・761|761B]]<br /> <br /> | [[1977年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br /> | [[1977年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /> | [[1977年南アフリカグランプリ|RSA]]<br /> | [[1977年アメリカ西グランプリ|USW]]<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1977年スペイングランプリ|ESP]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1977年モナコグランプリ|MON]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1977年ベルギーグランプリ|BEL]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;14&lt;/small&gt;<br /> | [[1977年スウェーデングランプリ|SWE]]<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1977年フランスグランプリ|FRA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1977年イギリスグランプリ|GBR]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1977年ドイツグランプリ|GER]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1977年オランダグランプリ|NED]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> | [[1977年イタリアグランプリ|ITA]]<br /> | [[1977年アメリカグランプリ|USA]]<br /> | [[1977年カナダグランプリ|CAN]]<br /> | [[1977年日本グランプリ (4輪)|JPN]]<br /> !rowspan=&quot;2&quot; | NC&lt;br&gt;(41位)<br /> !rowspan=&quot;2&quot; | 0<br /> |-<br /> ! [[シャドウ・レーシング・カーズ|シャドウ]]<br /> ! [[シャドウ・DN8|DN8]]<br /> <br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1977年オーストリアグランプリ|AUT]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |-<br /> ! [[1978年のF1世界選手権|1978年]]<br /> !rowspan=&quot;4&quot; | メルツァリオ<br /> ! [[メルツァリオ・A1|A1]]<br /> <br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1978年アルゼンチングランプリ|ARG]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1978年ブラジルグランプリ|BRA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1978年南アフリカグランプリ|RSA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1978年アメリカ西グランプリ|USW]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1978年モナコグランプリ|MON]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNPQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1978年ベルギーグランプリ|BEL]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNPQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1978年スペイングランプリ|ESP]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#CFCFFF&quot;| [[1978年スウェーデングランプリ|SWE]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;NC&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1978年フランスグランプリ|FRA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1978年イギリスグランプリ|GBR]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1978年ドイツグランプリ|GER]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1978年オーストリアグランプリ|AUT]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1978年オランダグランプリ|NED]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1978年イタリアグランプリ|ITA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1978年アメリカグランプリ|USA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1978年カナダグランプリ|CAN]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |<br /> ! NC&lt;br&gt;(34位)<br /> ! 0<br /> |-<br /> !rowspan=&quot;3&quot; | [[1979年のF1世界選手権|1979年]]<br /> ! [[メルツァリオ・A1|A1B]]<br /> <br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1979年アルゼンチングランプリ|ARG]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年ブラジルグランプリ|BRA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年南アフリカグランプリ|RSA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#EFCFFF&quot;| [[1979年アメリカ西グランプリ|USW]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;Ret&lt;/small&gt;<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> !rowspan=&quot;3&quot; | NC&lt;br&gt;(34位)<br /> !rowspan=&quot;3&quot; | 0<br /> |-<br /> ! [[メルツァリオ・A2|A2]]<br /> <br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年スペイングランプリ|ESP]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年ベルギーグランプリ|BEL]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> | [[1979年モナコグランプリ|MON]]<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年フランスグランプリ|FRA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |-<br /> ! [[メルツァリオ・A4|A4]]<br /> <br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年イギリスグランプリ|GBR]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年ドイツグランプリ|GER]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年オーストリアグランプリ|AUT]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年オランダグランプリ|NED]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年イタリアグランプリ|ITA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年カナダグランプリ|CAN]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |bgcolor=&quot;#FFCFCF&quot;| [[1979年アメリカグランプリ|USA]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;DNQ&lt;/small&gt;<br /> |<br /> |<br /> |-<br /> |}<br /> ([[Template:F1 driver results legend 2|key]])<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==関連項目==<br /> {{commonscat|Arturo Merzario}}<br /> *[[モータースポーツ]]<br /> *[[ドライバー一覧]]<br /> *[[F1ドライバーの一覧]]<br /> *[[F1コンストラクターの一覧]]<br /> <br /> {{スクーデリア・フェラーリ}}<br /> {{ウィリアムズ}}<br /> {{フィッティパルディ}}<br /> {{シャドウ}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:めるつありお あるとうろ}}<br /> [[Category:イタリアのF1ドライバー]]<br /> [[Category:フェラーリのF1ドライバー]]<br /> [[Category:ウィリアムズのF1ドライバー]]<br /> [[Category:マーチのF1ドライバー]]<br /> [[Category:シャドウのF1ドライバー]]<br /> [[Category:アルファロメオの人物]]<br /> [[Category:タルガ・フローリオ勝者]]<br /> [[Category:ロンバルディア州出身の人物]]<br /> [[Category:1943年生]]<br /> [[Category:存命人物]]<br /> [[Category:かつて存在したF1コンストラクター|めるつありお]]<br /> <br /> {{Sportspeople-stub}}<br /> {{Motorsport-stub}}</div> 124.39.100.132 アデレード市街地コース 2017-10-19T08:22:35Z <p>124.39.100.132: /* 過去の特筆すべきレース */</p> <hr /> <div>{{更新|date=2017-02-28}}<br /> &lt;!--infoboxに1999年再開と書かれていますが、本文中には再開とそれ以降のことが一切書かれていません。--&gt;<br /> {{Infobox motorsport venue<br /> | Name = Adelaide Street Circuit<br /> | Location = 南オーストラリア州アデレード<br /> | Time = [[UTC]]+9.5 (UTC+10.5 [[夏時間|DST]])<br /> | Image = [[Image:Adelaide_(short_route).svg|260px|]]&lt;br&gt;&#039;&#039;&#039;Shorter route&#039;&#039;&#039;<br /> | Events = [[オーストラリアグランプリ]]&lt;br&gt;[[V8スーパーカー]]&lt;br&gt;[[ALMS]]<br /> | Layout1 = &#039;&#039;&#039;Grand Prix circuit&#039;&#039;&#039;<br /> | Length_km = 3.780<br /> | Length_mi = 2.349<br /> | Turns = 16<br /> | Owner = [[アデレード市議会]]<br /> | Opened = 1985年10月31日&lt;br&gt;再開:1999年<br /> | Operator = <br /> | Record_time = 1:15.381<br /> | Record_driver = [[デイモン・ヒル]]<br /> | Record_team = [[ウィリアムズF1|Williams]] [[ルノーF1|Renault]] [[ウィリアムズ・FW15C|FW15C]]<br /> | Record_year = [[1993年オーストラリアグランプリ|1993]]<br /> | Record_class = [[フォーミュラ1|F1]]<br /> | Layout2 = &#039;&#039;&#039;V8 Supercar circuit&#039;&#039;&#039;<br /> | Length_km2 = 3.219<br /> | Length_mi2 = 2.000<br /> | Turns2 = 15<br /> | Record_time2 = 1:18.6011<br /> | Record_driver2 = [[アール・バンバー]]<br /> | Record_team2 = [[ダラーラ・F307]] メルセデス・ベンツ<br /> | Record_year2 = 2008<br /> | Record_class2 = [[オーストラリアF3]]<br /> |}}<br /> &#039;&#039;&#039;アデレード・ストリート・サーキット&#039;&#039;&#039;([[英語|英]]: &#039;&#039;&#039;{{lang|en|Adelaide Street Circuit}}&#039;&#039;&#039;、アデレード市街地コース)は、[[オーストラリア]]南部の都市[[アデレード]]にある[[サーキット]]([[公道コース]])。[[1985年]]から[[1995年]]まで[[フォーミュラ1|F1]][[オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]に使用された。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[:en:Victoria Park, Adelaide|ヴィクトリア公園]](第16公園)を基点に、周辺のアデレード市街を使用するレイアウトである。もともと、ヴィクトリア公園には、ヴィクトリア公園[[競馬場]]が設置されており、コントロールライン、ピット、パドックは競馬場の内馬場部分に特別に作られた。<br /> なお、競馬場は、[[2008年]]のアデレード市議会にて、馬場とサーキットコースの改修案が否決されたことを受け、モーフェットビル競馬場に移転している。<br /> <br /> 公園内の常設コースをスタートし、旧競馬場芝コースを跨ぐと第1シケイン(セナ・シケイン)があり、一般道への取り付け道路からウェイクフィールド・ロードに入る。第15公園の縁を進むようにイースト・テラスに入り、第15公園とライミル公園(第14公園)の間を進むバーテルズ・ロードへ。そしてブラバムストレートとも呼ばれるハイウェイA21号線に入り、[[ラウンドアバウト]]からウェイクフィールド・ロードへ戻るとヴィクトリア公園取り付け道路へ、緩やかなS字を抜け、最終ヘアピンカーブを立ち上がると一周である。<br /> <br /> かつて[[F1]]や[[アメリカン・ル・マン・シリーズ|ALMS]]を開催をしていたコースはグランプリコースと呼ばれ、[[アラン・ジョーンズ|ジョーンズ]]、[[ジャック・ブラバム|ブラバム]]というロングストレート2本を擁していた。グランプリコースは、バーテルズ・ロードに入らずライミル公園の縁を進むコースで、ジョーンズはランドル・ロード、ブラバムはA21号線に該当する。<br /> <br /> 市街地コースでありながら、オーバーテイクができると人気であったが、オーストラリアGPは[[1996年]]からは[[メルボルン]]の[[アルバートパークサーキット]]に移っていった。<br /> 現在は、[[V8スーパーカー]]シリーズの1戦、[[:en:Adelaide 500|アデレード500]]が行われている。<br /> <br /> == 過去の特筆すべきレース ==<br /> [[ファイル:Adelaide f1.jpg|thumb|260px|F1で使用されたレイアウト]]<br /> * [[1986年]]には、[[ナイジェル・マンセル]]、[[ネルソン・ピケ]]、[[アラン・プロスト]]の3人にチャンピオンの可能性が残されていたが、マンセルがタイヤバーストによりリタイアを喫し、プロストが逆転で2年連続のチャンピオンを獲得することとなった。<br /> * [[1989年]]は豪雨の中で行われ、雨が得意な[[アイルトン・セナ]]をはじめ多数がクラッシュしリタイアする中、[[ロータス]]の[[中嶋悟]]がマシン性能が上回る[[リカルド・パトレーゼ]]を追い回し、自身唯一となる[[ファステストラップ]]を記録し、自身の最上位タイとなる4位に入賞した。<br /> * [[1990年]]は[[ネルソン・ピケ]]が[[ファイナルラップ]]で[[ナイジェル・マンセル]]に追いつかれる。マンセルはバックストレートエンドでピケのオーバーテイクを試みるものの失敗。ピケは前戦の[[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]に続く勝利となる。また過去のライバル同士のバトルであったため、このバトルを至近で見ていた周回遅れの[[ステファノ・モデナ]]は2人のバトルについて『殺気を感じた』と語っている。<br /> * [[1991年]]には豪雨によりレース序盤に赤旗が出され、結局14周走行時点でレース終了となった為、約24分という史上最短グランプリになった。<br /> * [[1992年]]には、[[マクラーレン]]の[[ゲルハルト・ベルガー]]が優勝したが、このレース限りで第2期活動を休止することとなった[[ホンダ・レーシング・F1チーム|ホンダ]]にとっては、第2期活動で最後の優勝となっている。<br /> * [[1993年]]には、プロストがこのレースをもってF1から引退することとなったが、長きに渡って確執が続いた[[アイルトン・セナ]]と「和解」の握手をするシーンが見られた。このことは、翌[[1994年]]にセナが[[サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]での事故で他界したことから、非常に印象に残る出来事となった。<br /> * [[1994年]]は、[[ミハエル・シューマッハ]]と[[デイモン・ヒル]]のチャンピオン争いとなったが、レース中盤に両者が接触し、リタイアとなった為、シューマッハが初のチャンピオンに輝いた。ちなみにこのレースで勝利したマンセルは、これが生涯最後のF1での勝利となった。<br /> * [[1995年]]には、多くの有力ドライバーが次々とリタイアする中、ヒルが勝利を飾った。2位を2周遅れにする「圧勝」となったが、優勝者が2位以下を2周以上周回遅れにしたのはF1史上でも唯一のことであった。チームメイトの[[デビッド・クルサード]]はトップ快走中にピットロードでクラッシュし、[[ミカ・ハッキネン]]は予選で瀕死の大事故を起こした。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[モータースポーツ]]<br /> * [[サーキットの一覧]]<br /> * [[F1サーキットの一覧]]<br /> <br /> {{coor title dms|34|55|49.61|S|138|37|13.20|E|type:landmark}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commonscat|Adelaide Street Circuit}}<br /> * [http://maps.google.co.jp/maps?oe=UTF-8&amp;hl=ja&amp;q=&amp;ie=UTF8&amp;t=k&amp;om=1&amp;ll=-34.927055,138.616734&amp;spn=0.011295,0.015943&amp;z=16 Google Maps](アデレード市街地コース跡)<br /> <br /> {{F1サーキット}}<br /> {{DEFAULTSORT:あてれいとしかいちこす}}<br /> [[Category:オーストラリアのサーキット]]<br /> [[Category:F1サーキット]]<br /> [[Category:オーストラリアグランプリ]]<br /> <br /> {{Motorsport-stub}}</div> 124.39.100.132 一億総中流 2017-10-16T00:23:25Z <p>124.39.100.132: /* リーマン・ショック後 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;一億総中流&#039;&#039;&#039;(いちおくそうちゅうりゅう)とは、[[1970年代]]の[[日本]]の人口約1億人にかけて、日本[[国民]]の大多数が自分を[[中流階級]]だと考える「[[意識]]」を指す。日本より中流意識が高い国には[[スペイン]]・[[アメリカ合衆国]]・[[カナダ]]などがある&lt;ref&gt;http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2290.html&lt;/ref&gt;が、いずれも国民の数が約1億人ではないため、「一億総中流」という語は日本の場合にのみ使用される。&#039;&#039;&#039;国民総中流&#039;&#039;&#039;(こくみんそうちゅうりゅう)ともいう。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> === 「一億」 ===<br /> {{右|<br /> [[ファイル:EmpireOfJapan0.png|thumb|none||[[大日本帝国]]の国土。&lt;br /&gt;領土 : (1) 内地、(2) 台湾、(2&#039;) 新南群島、(3) 樺太、(4) 朝鮮&lt;br /&gt;その他 : (5) 関東州、(6) 満鉄附属地、(7) 南洋群島]]<br /> [[ファイル:Population of Japan.svg|thumb|none|日本の人口の推移。&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080; text-decoration:line-through;&quot;&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&lt;/span&gt;:総数、&lt;span style=&quot;color: #41697d; text-decoration:line-through;&quot;&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&lt;/span&gt;:男、&lt;span style=&quot;color: #ff00ff; text-decoration:line-through;&quot;&gt;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&lt;/span&gt;:女]]<br /> }}<br /> 日本の総人口が[[100000000|1億]]人に到達した時期は、統計手法により異なる説がある。<br /> <br /> {|class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;font-size:90%&quot;<br /> |+統計手法の違いによる日本の人口1億人突破&lt;ref name=&quot;asahi20080705&quot;&gt;[http://www.asahi.com/information/db/anotoki/2008_0705.html あのとき!](朝日新聞 2008年7月5日)&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;e-stat&quot;&gt;[http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/NewList.do?tid=000001011777 時系列データ]([[総務省]][[統計局]])&lt;/ref&gt;<br /> !統計日<br /> !統計値<br /> !統計手法<br /> !発表機関<br /> |-<br /> |[[1966年]]([[昭和]]41年)[[3月31日]]<br /> |1億0055万4894人<br /> |[[住民登録]]集計<br /> |[[法務省]]<br /> |-<br /> |[[1967年]](昭和42年)7月末<br /> |1億人<br /> |[[推計人口]]<br /> |[[総理府]]<br /> |-<br /> |[[1970年]](昭和45年)[[10月1日]]<br /> |1億0466万5171人<br /> |[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]<br /> |総理府[[統計局]]<br /> |}<br /> [[法定人口]]に用いられる国勢調査によれば、1970年(昭和45年)10月1日付けで、日本の[[実効支配]]地域(46[[都道府県]])の総人口が1億0372万0060人&lt;ref name=&quot;e-stat&quot;/&gt;、[[本土復帰]]前の[[沖縄県]]を含めた日本の[[国土]]全体(47都道府県)のそれが1億0466万5171人&lt;ref name=&quot;e-stat&quot;/&gt;となり、史上初めて全数調査で1億人突破が確認された。<br /> <br /> しかし、約7000万人だった[[日中戦争]]期から[[連合国軍占領下の日本|戦後占領期]]までに「一億一心」「一億[[玉砕]]」「一億総[[懺悔]]」、同様に約9000万人だった[[1957年]](昭和32年)に「[[一億総白痴化]]」などという[[標語]]や[[流行語]]があり、日本国民全員を指す場合に「一億国民」「一億同胞」「一億総○○」という言い回しが1億人以下の時代より使われてきた。これは、[[大日本帝国]]([[内地]]・[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]・[[日本統治時代の台湾|台湾]]・[[樺太]])、あるいは、[[租借地]]([[関東州]]・[[南満州鉄道附属地|満鉄附属地]])および[[委任統治領]]([[南洋群島]])を含む帝国全土に住む[[臣民]]の国勢調査人口が[[1935年]](昭和10年)以降、約1億人であったことに由来する([[過去の都道府県の人口一覧#1920年~1947年|参照]])&lt;ref name=&quot;e-stat&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index02.html 外地における内地人、現地人、外国人別人口]([[帝国書院]])&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10000609&amp;TYPE=HTML_FILE&amp;POS=1 世界の課題 同胞遂に一億? 注目される国勢調査]([[報知新聞]] 1935年8月24日 … [[神戸大学]]附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫)&lt;/ref&gt;。内閣統計局も[[1937年]](昭和12年)[[12月1日]]現在の推計人口として帝国人口一億人突破(内地・朝鮮・台湾・樺太:1億0079万7200人、さらに関東州・南洋群島・在外邦人を足すと1億0308万7100人)を発表し、[[英国]](約4億9千万人)、[[中華民国]](約4億人)、[[ソ連]](約1億7千万人)、[[米国]](約1億3千万人)、[[仏国]](1億8百万人)に次ぐ世界第6位とした(いずれも[[植民地]]等を含む)&lt;ref&gt;[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/50/3/50_3_142/_article/-char/ja/ 帝國推計人口一億に達す](地学雑誌 Vol.50 No.3 P.142、1938年)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> なお、[[2015年]]([[平成]]27年)国勢調査による日本の総人口は1億2709万4745人&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2015/kekka/kihon1/pdf/gaiyou2.pdf 第2部 主要統計表]}}(総務省統計局「[http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2015/kekka.htm 平成27年国勢調査] 人口等基本集計結果」 2016年10月26日)&lt;/ref&gt;である。<br /> <br /> === 「総中流」 ===<br /> [[1948年]](昭和23年)から不定期に始まり、[[1958年]](昭和33年)を第1回として少なくとも毎年1回実施している[[内閣府]]の「国民生活に関する[[世論調査]]」&lt;ref&gt;[http://survey.gov-online.go.jp/index-ko.html 国民生活に関する世論調査](内閣府)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.wdc-jp.com/jsfs/conf/2015/pdf/2015_jsfs25_summary.pdf 第25回 日本家族社会学大会 報告要旨]}}(2015年9月5日・6日)&lt;/ref&gt;の第1回調査結果によると、生活の程度に対する回答比率は、「上」0.2[[パーセント|%]]、「中の上」3.4%、「中の中」37.0%、「中の下」32.0%、「下」17.0%であり、自らの生活程度を『中流』とした者、すなわち、「中の上」「中の中」「中の下」を合わせた回答比率は7割を超えた&lt;ref name=&quot;sjc&quot;&gt;{{PDFlink|[http://www.sjc.or.jp/kikanshi/vol092_2.pdf 流転の中流論]}}([[社団法人]][[新情報センター]])&lt;/ref&gt;。同調査では『中流』と答えた者が[[1960年代]]半ばまでに8割を越え、[[所得倍増計画]]のもとで日本の[[国民総生産]] (GNP) が世界第2位となった[[1968年]](昭和43年)を経て、[[1970年]](昭和45年)以降は約9割となった&lt;ref name=&quot;sjc&quot;/&gt;。[[1979年]](昭和54年)の「国民生活白書」では、国民の中流意識が定着したと評価している&lt;ref name=&quot;sjc&quot;/&gt;。一方、同調査で「下」と答えた者の割合は、1960年代から[[2008年]](平成20年)に至る全ての年の調査において1割以下となった&lt;ref name=&quot;sjc&quot;/&gt;&lt;ref&gt;http://www8.cao.go.jp/survey/h20/h20-life/images/z31.gif&lt;/ref&gt;。すなわち、中流意識は[[高度経済成長]]の中で1960年代に国民全体に広がり、[[1970年代]]までに国民意識としての「一億総中流」が完成されたと考えられる。&lt;!--なお、「一億総中流」という言葉が出現した詳細な時期は不明であるが、『中流』と答えた者が約9割となる1970年代に頻繁に[[マスメディア]]で用いらるようになった。--&gt;<br /> <br /> しかし、1人当たり[[県民所得]]の[[ジニ係数]]における上位5県と下位5県の比を指標にすると、地域間格差は[[高度経済成長]]期の1960年代まで大きかった&lt;ref name=&quot;kokudokeikaku&quot;&gt;{{PDFlink|[http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/monitoring/system/contents/03/3-1-2.pdf 一人当たり県民所得のジニ係数・上位5県平均と下位5県平均の比]([[国土交通省]]国土計画局総合計画課)&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ndl&quot;&gt;[http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200604_663/066304.pdf 地域間格差の推移とその背景]}}([[国立国会図書館]])&lt;/ref&gt;。地域間格差は1970年(昭和45年)頃を境に大きく縮小し始め、[[ニクソン・ショック]]および[[オイルショック]]を経て定着し、[[バブル景気]]期を除いて[[2003年]](平成15年)まで安定して格差が小さい状態が続いた&lt;ref name=&quot;kokudokeikaku&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;ndl&quot;/&gt;。すなわち、[[実体経済]]における「一億総中流」は、高度経済成長後の[[安定成長期]]に始まったとも見られ、国民意識とのずれが存在する。<br /> <br /> 『中流』がどの程度の生活レベルなのかの[[定義]]もないまま、自分を「中流階級」、「中産階級」だと考える根拠なき横並びな国民意識が広がった要因は、(1)[[大量生産]]と国内流通網の発展によって「[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]」と呼ばれた[[テレビジョン]]、[[洗濯機]]、[[冷蔵庫]]などの[[生活家電]]の価格が下がり、全国に普及したこと、(2)経済成長によって[[所得]]が増加したこと、(3)[[終身雇用]]や[[雇用保険]]([[1947年]]~[[1974年|74年]]は失業保険)による生活の安定、[[医療保険]]における[[ユニバーサルヘルスケア|国民皆保険]]体制の確立([[1961年]])による健康維持、[[生命保険]]の広まり、[[正社員]]雇用される給与生活者の増加など、貸し倒れリスクの低下により労働者の中長期的な[[信用]]が増大し、[[信用販売]]が可能になったこと、等等により、それまで[[上流階級]]の者しか持ち得なかった商品が多くの[[世帯]]に普及したためと、[[高等教育]]を修了する者が増加したこと、そしてテレビジョンなどの普及により情報格差が減少したことなどが考えられる。一億総中流社会では、[[マイホーム]]には[[住宅ローン]]、[[自家用車]]には[[オートローン]]、[[家庭電化製品]]には[[割賦販売|月賦]]などが普及し、さらに、使用目的を限らない[[消費者金融|サラリーマン金融]]も普及して、支払い切る前から物質的な豊かさを国民が享受できる[[消費社会]]になった。<br /> <br /> == 1990年代以降の変化 ==<br /> === バブル崩壊後 ===<br /> [[バブル崩壊]]後の「[[失われた10年]]」になると、[[グローバリゼーション]]の名の下に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]型の[[新自由主義]]経済システムが日本でも普及した。すなわち、[[人事]]面で[[能力主義]]や[[成果主義]]が導入され、終身雇用が崩壊し、[[非正規雇用]]が普及することになり、労働者の長期的な信用は縮小して信用販売の[[リスク]]が増大した。また、急激な[[高齢化]]が進み、[[年金]]に頼る[[高齢者]]の割合が大幅に増加した。このため、一億総中流社会は崩壊してしまったとする意見もあるが、前述のように「失われた10年」においても国民意識としては統計的にまだ「一億総中流」が続いていたと見られる。<br /> <br /> 「一億総中流」という国民意識はあれ、[[1999年]](平成11年)以降は年収299万円以下の層と1500万円以上の層が増加する一方で300〜1499万円の層は減少しており&lt;ref&gt;総務省『就業構造基本調査』&lt;/ref&gt;、現実には格差が拡大傾向を見せた。<br /> <br /> 当初所得の[[ジニ係数]]の上昇傾向は長期に続いた。[[1990年]]度(平成2年度)調査では0.4334であったが、[[2005年]]度(平成17年度)調査では0.5263に上昇した。当初所得とは、所得税や社会保険料を支払う前の雇用者所得・事業所得などの合計である。また、公的年金などの[[社会保障]]給付は含まれない。<br /> <br /> 再分配所得のジニ係数は、1990年度調査から2005年度調査では、0.3643から0.3873へと0.023程度上昇。再配分所得とは、実際に個人の手元に入る金額であると考えてよく、当初所得から税金等を差し引き、社会保障給付を加えたもの&lt;ref&gt;厚生労働省『所得再分配調査』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 年間等価可処分所得は、[[1994年]](平成6年)が0.265、[[2004年]](平成16年)が0.278と上昇した。比較のために、[[2000年]]時点の他国のジニ係数を掲載しておく。[[アメリカ]]0.368、[[イタリア]]0.333、[[カナダ]]0.302、[[フランス]]0.278、[[ベルギー]]0.277、[[ドイツ]]0.264、[[スウェーデン]]0.252&lt;ref&gt;総務省『全国消費実態調査』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === リーマン・ショック後 ===<br /> [[2008年]]には[[リーマン・ショック]]が起こり、世界的不況に見舞われ、日本でも多くの非正規労働者が[[派遣切り]]にあった。しかし、[[内閣府]]が実施する「国民生活に関する世論調査」では、その資産や収入、教育程度や居住地域は問わず、2008年以降も大多数の国民が自らの生活程度について「中の上」、「中の中」、「中の下」のいずれかであると回答しており、その割合もリーマン・ショック以前とほとんど変わらなかった。<br /> <br /> また、[[2013年]]6月に実施された同調査でも、9割以上の国民が自らの生活程度を「中」であると感じると答えており、リーマン・ショックから数年経った現在でも、国民意識としての「一億総中流」は続いているといえる&lt;ref&gt;{{cite news<br /> | url = http://toyokeizai.net/articles/-/44935<br /> | title = 所得格差の拡大は経済の長期停滞を招く<br /> | newspaper = 東洋経済オンライン<br /> | date = 2014-08-10<br /> | accessdate = 2014-11-25<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[中産階級]]<br /> * [[三種の神器 (電化製品)]]<br /> * [[格差社会]]<br /> * [[55年体制]]<br /> * [[国の所得格差順リスト]]<br /> * [[富の再分配]]<br /> * [[物品税]]<br /> * [[プラウト主義経済]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.stat.go.jp/data/zensho/topics/1999-1.htm 全国消費実態調査トピックス -日本の所得格差について-]([[総務省]]統計局)<br /> *[https://web.archive.org/web/20140217185649/http://www8.cao.go.jp/survey/index-ko.html 国民生活に関する世論調査]([[内閣府]])<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:いちおうそうちゆうりゆう}}<br /> [[Category:昭和時代戦後]]<br /> [[Category:戦後日本の経済]]<br /> [[Category:社会階級]]</div> 124.39.100.132 柳船 2017-09-18T10:37:02Z <p>124.39.100.132: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;柳船&#039;&#039;&#039;(やなぎせん)とは[[第二次世界大戦]]において、[[ドイツ国]]と[[日本]]及び日本占領下の[[アジア]]を結んだ、[[ドイツ海軍]]の&#039;&#039;&#039;Blockadebrecher&#039;&#039;&#039; (逐語訳は海上封鎖を破る船舶)に対して[[大日本帝国海軍]]が付与した秘匿名称である。<br /> <br /> ==概要==<br /> [[ファイル:Altmark schiff norwegen joessingfjord.jpg|thumb|right|220px|ウッカーマルク([[1940年代]]前半)]]<br /> [[ファイル:Santa Cruz OPDR.jpg|thumb|right|220px|仮装巡洋艦「トール」(「サンタ・クルツ」時代の船影)]]<br /> 柳船は、ドイツの[[キール]]やドイツ占領下の[[フランス]]の軍港から、厳重な[[大西洋]]上の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の海上封鎖線を突破して、[[1942年]]以降日本が制海権を握っていた[[インド洋]]から、[[昭南]]([[日本]][[占領]]下の[[シンガポール]])や[[ペナン]]などの日本海軍の基地を経て、[[横須賀港]]や[[横浜港]]などを結んだ。<br /> <br /> 柳船は日本の要望する精密機械、鋼材、兵器等の軍需品をドイツから運び、帰路に[[生ゴム]]、[[錫]]、[[モリブデン]]、[[タングステン]]、[[マニラ麻]]、[[コプラ]]等のアジア原産の原材料をドイツへ持ち帰った。ドイツから日本へは&#039;&#039;&#039;柳輸送&#039;&#039;&#039;、日本からドイツへは&#039;&#039;&#039;逆柳輸送&#039;&#039;&#039;と名づけられた。一部は日本や東南アジアの日本海軍の基地にとどまり、[[太平洋]]や[[インド洋]]で日本をはじめとする[[枢軸国]]の活動に協力した。<br /> <br /> その中でも 1942年11月に起きた「[[横浜港ドイツ軍艦爆発事件]]」で有名な油槽船「ウッカーマルク」は、[[インドネシア]]から[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[重油]]を横浜港に運び、1942年11月に油槽清掃中に溜まっていた[[ガス]]に引火して大爆発を起こし&lt;ref&gt;『戦時下のドイツ大使館』P.82 エルヴィン・リッケルト 中央公論社&lt;/ref&gt;、乗組員や清掃員、付近の住人に100人以上の死者を出した。<br /> <br /> さらに、横浜港で日本海軍による整備を受けるために偶々隣の埠頭に係留されていたドイツ海軍の[[仮装巡洋艦]]「[[トール (仮装巡洋艦)|トール]]」や、元[[オランダ]]船で拿捕されてドイツ船籍となった貨物船「ロイテン」が道連れとなった&lt;ref&gt;『戦時下のドイツ大使館』P.79 エルヴィン・リッケルト 中央公論社&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> なお、作戦行動中の事故や撃沈、日本海軍による傭船や日本での留置、もしくは自沈などにより、十数隻のうちドイツに帰りついた船は「イレーネ」と「オゾルノ」のみであった。日本での傭船は、外国船舶による船腹確保のために設立された国策会社、[[帝国船舶]]により行われた。<br /> <br /> ==船舶一覧==<br /> #ヴェーザーラント (Weserland)<br /> #イレーネ (Irene)<br /> #ハーフェルラント(Haferland, 1943年12月20日に和歌山県潮岬沖にてアメリカ軍潜水艦[[ガーナード (潜水艦)|ガーナード]]の雷撃を受けて損傷、[[神戸港]]へ曳航され、同地で宿泊所として留置されて敗戦を迎える。戦後、台風により座礁し、1946年1月に解体処分)<br /> #ドッガーバンク (Doggerbank)<br /> #オゾルノ<br /> #シャルロッテ・シュリーマン(Charlotte Schliemann, 1944年2月11日、インド洋にてイギリス軍駆逐艦リレントレス (HMS Relentless, H85) の攻撃により沈没)<br /> #ロスバッハ(Rossbach, 蘭タンカーマドロノ(Madrono、5,804トン)を鹵獲し、改装したもの。1944年5月7日に神戸よりシンガポールへの往路、米潜[[バーフィッシュ (潜水艦)|バーフィッシュ]]の雷撃により沈没)&lt;ref&gt;鹵獲前の1942年2月18日、[[伊号第百五十五潜水艦|伊155]](当時は伊55)の砲撃を受けているが、命中弾なし。&lt;/ref&gt;<br /> #モーゼル(Mosel, 後に帝国船舶に傭船され、帝瑞丸に改名。1945年4月18日に触雷沈没)<br /> #ウルスラ・リクマス(Ursula Rickmers, 1941年5月28日、帝国船舶に傭船され、帝仙丸に改名。1944年5月3日、南シナ海にてアメリカ軍潜水艦[[フラッシャー (潜水艦)|フラッシャー]]の雷撃により沈没)<br /> #ブラーケ(Brake, 1944年3月12日、インド洋にてイギリス軍駆逐艦の攻撃により沈没)<br /> #アルステルウーファー<br /> #[[アルトマルク (船)|ウッカーマルク]](Uckermark, 1942年11月に[[横浜港]]で事故で爆発・沈没)<br /> #リオ・グランデ<br /> #キト(Quito, 1944年にペナン近海で座礁。後に日本により浮揚され、帝国船舶に傭船、帝珠丸に改名。1945年4月29日、ボルネオ沖でアメリカ軍潜水艦[[ブリーム (潜水艦)|ブリーム]]の雷撃により沈没)<br /> #レーゲンスブルク (Regensburg)<br /> #ブルゲンラント (Burgenland,1944年に[[南アフリカ]]沖で自沈)<br /> <br /> ==遣独潜水艦作戦==<br /> ドイツによる怒涛の攻勢が落ち着きを見せた1942年も半ばを過ぎると、[[イギリス海軍]]や[[アメリカ海軍]]、[[ブラジル海軍]]などにより[[大西洋]]上に張り巡らされた連合軍の哨戒網により、これらの水上艦にとって安全な航路はもはやなかった。このためドイツより[[電波探信儀]]([[レーダー]]装置)導入を希望する日本海軍は、大型潜水艦をドイツに派遣することを決した。これが[[遣独潜水艦作戦]]の始まりである。<br /> <br /> ==脚注==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 文献 ==<br /> *Heinz Schäffer 『Uボート977』 横川文雄訳、朝日ソノラマ、1984年<br /> **横川文雄が[[駐日ドイツ大使館]]から通訳としてアジア水域に派遣されドイツ海軍活動を支援した時の経験が同書の付録「南海のドイツ海軍」に収められている。<br /> *新井恵美子 『箱根山のドイツ兵』 近代文藝社、1995年<br /> *石川美邦 『横浜ドイツ軍艦燃ゆ』 木馬書館、1995年<br /> *Erwin Wickert 『戦時下ドイツ大使館』 佐藤眞知子訳、中央公論社、1998年<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[封鎖突破船]]<br /> * [[ストーンウォール作戦]](イギリス海軍による柳船の捕捉迎撃作戦)<br /> * [[:de:Prisenkommando|Prisenkommando]](ドイツ語リンク:拿捕部隊)<br /> * [[キ77 (航空機)]]<br /> * [[キ74 (航空機)]]<br /> {{-}}<br /> {{太平洋戦争・詳細}}<br /> {{DEFAULTSORT:やなきせん}}<br /> [[Category:太平洋戦争の作戦と戦い]]<br /> [[Category:昭和時代戦前の外交]]<br /> [[Category:第二次世界大戦]]<br /> [[Category:交易の歴史]]<br /> [[Category:日独関係]]<br /> [[Category:封鎖]]</div> 124.39.100.132 ドニントン・パーク 2017-09-16T12:41:41Z <p>124.39.100.132: /* 経営混乱 */</p> <hr /> <div>{{Motorsport venue<br /> | Name = ドニントン・パーク <br /> | Time = UTC+0 <br /> | Location = [[イングランド]]・[[レスターシャー]]<br /> | Image = [[Image:Donington as of 2006.svg|250px]] <br /> | Owner = [[:en:Tom Wheatcroft]]<br /> | Operator = Donington Park Racing Ltd.<br /> | Opened = 1931年<br /> | Construction_cost= [[スターリング・ポンド|£]]12,000<br /> | Events = [[イギリスツーリングカー選手権|BTCC]]、[[イギリス・フォーミュラ3選手権|イギリスF3]]、[[ブリティッシュスーパーバイク選手権|BSB]]、[[スーパーバイク世界選手権|SBK]]、[[世界ツーリングカー選手権|WTCC]]、[[スーパーリーグ・フォーミュラ]]、[[ピックアップトラック]]レース<br /> | Layout1 = グランプリ・サーキット <br /> | Length_km = 4.023 <br /> | Length_mi = 2.5 <br /> | Turns = 12 <br /> | Record_time = 1:18.029 (185.608 km/h) <br /> | Record_driver = [[アイルトン・セナ]] <br /> | Record_class = [[フォーミュラ1|F1]] <br /> | Record_team = [[マクラーレン]] <br /> | Record_year = [[1993年のF1世界選手権|1993年]]<br /> | Layout2 = ナショナル・サーキット <br /> | Length_km2 = 3.149 <br /> | Length_mi2 = 1.957 <br /> | Turns2 = 10 <br /> | Record_time2 = <br /> | Record_driver2 = <br /> | Record_class2 = <br /> | Record_team2 = <br /> | Record_year2 = <br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ドニントン・パーク・サーキット&#039;&#039;&#039; (&#039;&#039;&#039;Donington Park Circuit&#039;&#039;&#039;) は、[[イギリス]]の[[イングランド]]、[[レスターシャー]]にある[[サーキット]]。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> ロンドンから北へ高速道路を2時間半ほど走ったノースウェストレスターシャーにある、1931年にオープンしたイギリスきっての名門サーキットで、[[1993年]]には[[フォーミュラ1]]も開催された。<br /> <br /> ==歴史==<br /> ===完成から第二次世界大戦===<br /> 1931年に完成し、[[第二次世界大戦]]以前からトップカテゴリーのレースが開催されていたが、1939年に勃発した第二次世界大戦中はコースが閉鎖され、軍用車の保管場所として使用されていた。<br /> <br /> ===第二次世界大戦後===<br /> 戦後サーキットとしての利用が再開されたが施設が老朽化し、1977年に所有者が変わったことをきっかけにコースと施設の改修が行われ、それ以降は[[フォーミュラ3000|F3000]]や[[フォーミュラ3|F3]]選手権などのトップカテゴリーのレースが再び盛んに行われるようになったほか、[[ジム・ラッセル・レーシングスクール]]も開校されていた。<br /> <br /> === F1ヨーロッパGP ===<br /> [[File:Senna 1993 European GP.jpg|right|thumb|220px|F1ヨーロッパGP ([[アイルトン・セナ]])]]<br /> [[File:The Pits - geograph.org.uk - 1316584.jpg|right|thumb|220px|ピットビル(2008年)]]<br /> [[File:Donington Paddock - geograph.org.uk - 236505.jpg|right|thumb|220px|パドックエリア]]<br /> 1993年にはF1[[ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]が開催され、[[マクラーレン|マクラーレン・フォード]]に乗る[[アイルトン・セナ]]が、当時マシンパフォーマンスに勝る[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ・ルノー]]に乗る[[アラン・プロスト]]や[[デイモン・ヒル]]らを1周目で抜いた後、雨が降ったり止んだり霧雨になったりと不安定な天候の中、セナは安定した走りで優勝した。<br /> <br /> ===経営混乱===<br /> [[2000年代]]に入り、投資家リー・ギルとサイモン・ジレットが立ち上げた『ドニントン・ベンチャーズ・レジャー・リミテッド(DVLL)』が、サーキットのオーナーだったトム・ウィートクロフトとリース契約を交わし、[[2008年]]中頃には、[[2010年]]以降[[シルバーストン・サーキット]]に代わり[[フォーミュラ1|F1]][[イギリスグランプリ|イギリスGP]]を開催を目指して[[バーニー・エクレストン]]との合意を得て改修工事が始められる。しかし地元議会がこれに反対。再開発に必要な建築許可を得ることができなくなってしまい、またリー・ギル自身もバーニー・エクレストンとの合意を得た数週間後に辞任するという事態となる。<br /> <br /> F1開催に当たっては、[[ヘルマン・ティルケ]]のデザインを元にしたコース改修が行われることが条件となっていたが、F1の興行面を一手に取り仕切るFOM(フォーミュラ・ワン・マネジメント)のバーニー・エクレストン会長が定めた期限(2009年10月26日)までに、サーキットの運営会社はコース改修に必要な費用を調達できなかった&lt;ref&gt;[http://www.donington-park.co.uk/news?news_id=1105&amp;archive=no STATEMENT FROM DONINGTON PARK](2009年10月23日)&lt;/ref&gt;ため、サーキットは改修工事を中止。これによりFOMはシルバーストン・サーキットと2026年までの開催契約を締結したため、ドニントン・パークでのF1開催の可能性は事実上消滅した&lt;ref&gt;[http://f1-gate.com/britain_gp/f1_5415.html バーニー・エクレストン 「ドニントンの望みは消えた」] - F1-gate.com・2009年10月29日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その後、管理下に置かれたサーキットは他の買い手を探すこととなったが見つからず、サーキットも改修工事を中止したまま、コースを使用できない状態で、[[借地権]]は元オーナーであったウィートクロフト家に返却。DVLLも倒産し、2009年12月24日、サーキットは閉鎖された。<br /> <br /> 再びコースを所有することとなったウィートクロフト家は、元々同サーキットの借地権を管理していた「Donington Park Racing Ltd.」を母体にサーキット運営を再開させる方針を固め、2010年8月にサーキットを再オープン&lt;ref&gt;[http://www.crash.net/f1/news/162481/1/donington_park_back_under_old_management_as_racing_resumes.html Donington Park back under old management as racing resumes] - Crash.net 2010年8月17日&lt;/ref&gt;。2011年に入り国際的なレースイベントが再び開かれるようになっている。<br /> <br /> ===現在===<br /> 2011年現在は[[イギリスツーリングカー選手権]](BTCC)・[[スーパーバイク世界選手権]]・[[世界ツーリングカー選手権]](WTCC)など多くの国際格式レースの他、[[トラックレース]]や[[ジュニア・フォーミュラ]]などの地方選手権レースが行われている。[[ロードレース世界選手権]](MotoGP)は、2010年から開催権がシルバーストンに移ったため、2009年を最後に開催されていない。<br /> <br /> [[2017年]]1月、元F1ドライバーの[[ジョナサン・パーマー]]率いるモータースポーツ・ビジョン(MSV)が、ウィートクロフト家との間でサーキットの運営を21年間受託する契約を結んだことを発表&lt;ref&gt;[http://www.donington-park.co.uk/news/msv-acquires-donington-park/ MSV ACQUIRES DONINGTON PARK] - ドニントンパーク・2017年1月12日&lt;/ref&gt;。MSVでは、元々同社が保有している[[オウルトン・パーク]]、[[ブランズ・ハッチ]]などのサーキットと相互に連携を図り運営していく方針を明らかにしている&lt;ref&gt;[http://www.as-web.jp/f1/85718?all MVS代表ジョナサン・パーマー、シルバーストンの買収を断念] - オートスポーツ・2017年1月25日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 施設 ==<br /> [[ファイル:Circuit Doningtonpark pre 2010.png|thumb|220px|2010年から変更される予定だったレイアウト]]<br /> 緑の広い丘陵地にあり、[[煉瓦]]で造られたピット・エリアと、緑豊かななだらかな起伏のコースが特徴である。1977年と1984年にコースレイアウトが改良された他、1993年のF1開催前に観客席が増設、改良された。また、随時ピット施設や観客席が改良されている。<br /> <br /> 路面はイギリスらしいローグリップ舗装であり、特にバイクでは常にハイサイドやトラクションコントロールの制御との戦いになる。2つの中速コーナーが合わさり、クリッピングを取るのが難しいターン8、そこから上手く加速を付けハードブレーキングするターン9が一つ目、シケインの2つ目を抜けストレート後のタイトターンになるターン10、ラインをクロスさせてインに入りやすいターン11と、抜き所は後半に集中する。<br /> <br /> なお2009年のWSBKのレース2、ターン8で[[芳賀紀行]]がバイクと共に転がるレベルの大転倒を喫し、左腕と右肩を骨折する重傷を負っている。<br /> <br /> 2010年のF1開催に向けて、[[ヘルマン・ティルケ]]によってレイアウトが改修される予定があった。計画ではピット施設が現在のスターキーズストレートのインフィールドに移され、そこがスタート地点になる他、エッセスシケインが撤去されストレートとなり、メルボルン・シケイン~レッドゲート間が大幅改修され、コース全長は約500m伸びる。レッドゲート~コピスまでのレイアウトは変更されないが、コピスコーナーがより角度の鋭いコーナーへと変更される。しかし前述の通り、サーキット運営会社はコース改修の資金調達に失敗し、このコース改修は中断された。<br /> <br /> 以後しばらくの間コースの一部は未舗装状態のまま放置され、レースを開催できる状況ではなかったが、現在の運営会社では主に旧コースレイアウトへの復元と安全設備の強化・パドック施設の近代化を目的とした改修を行い、2011年2月に[[国際モーターサイクリズム連盟]](FIM)の査察をクリアし再び各種レースが開催されている。<br /> <br /> == その他の設備 ==<br /> [[ファイル:Williams at Donington.jpg|thumb|220px|ドニントン・コレクション]] <br /> サーキット内に数百台のレーシングカーのコレクションを擁するミュージアム「[[ドニントン・グランプリ・コレクション]]」がある他、近年までは、[[ジム・ラッセル・レーシングスクール]]が開催されていた。<br /> <br /> 2014年には、同年よりシリーズがスタートした[[フォーミュラE]]の本部及びファクトリーが同地に構えられることになり(全チームのファクトリーを1ヶ所に集約している)、同年1月に建物がオープンした&lt;ref name=formulae&gt;[http://www.donington-park.co.uk/news/2014/01/23/formula-e-to-build-new-headquarters-at-donington-park/ Formula E to build new headquarters at Donington Park] - ドニントンパーク・2014年1月23日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == フェスティバル ==<br /> 毎年夏に、「[[モンスターズ・オブ・ロック]]」(MONSTERS OF ROCK)と呼ばれる[[ロック (音楽)|ロック]][[フェスティバル]]が開かれている。毎回10万人近い観客を集める。<br /> <br /> == サーキットの位置 ==<br /> [[トレント川]]の南、[[レスターシャー]]の境界線内に収まるが、ドニントンパークは[[ダービー (イギリス)|ダービー]]の郵便番号・市外局番を使用している。サーキットのすぐ近くにイーストミッドランド空港があり、離着陸するためサーキット上空を低空飛行する航空機が見られる。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Donington Park}}<br /> * [http://www.donington-park.co.uk/ Donington Park Online]([[英語]])<br /> <br /> {{F1サーキット}}<br /> {{Motorsport-stub}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:とにんとんはあく}}<br /> [[Category:F1サーキット]]<br /> [[Category:イギリスのサーキット]]<br /> [[Category:ヨーロッパグランプリ]]<br /> [[Category:レスターシャー]]</div> 124.39.100.132 自由選挙 2017-09-12T05:01:24Z <p>124.39.100.132: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;自由選挙&#039;&#039;&#039;(じゆうせんきょ)とは、複数の候補者で選挙戦を争い、立候補に当たって当局が事前の資格審査をしない[[選挙]]を指す。<br /> <br /> ==概説==<br /> [[日本国憲法第15条]]第4項では、「選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」と明記されている。<br /> <br /> ==自由選挙が実施されない例==<br /> [[ソ連型社会主義]]国家では、[[党]]が唯一の候補者を選定し、[[有権者]]は[[信任投票]]をするだけだった。[[信任]]の場合はそのまま投票、[[不信任]]の場合だけ記入所で×印を記入するなど、当局が不信任投票をした有権者を特定することが可能な投票方式が広く行われていた。また、社会主義国家が[[体制内改革]]を行うにしても、党が承認した候補者だけの争いとなる場合が普通であった。<br /> <br /> [[東欧革命]]後、潔く自ら自由選挙を実施した旧[[共産党]]は、[[社会主義]]の功績の部分を評価する有権者からの根強い支持がある([[ハンガリー社会党]]など)。いっぽうで、[[党の指導性]]に固執した共産党は、自由選挙で[[議会]]に勢力を残せない場合が多い([[ルーマニア共産党]]など)。<br /> <br /> [[中華人民共和国]]や[[ベトナム]]のような[[一党独裁]]国家や、[[朝鮮民主主義人民共和国]]のような最高指導者による[[独裁政治]]体制を取る国家でも、建国以来自由選挙は行われていない。<br /> <br /> [[中東]]諸国でも自由選挙が実施されない場合が多い。[[イラン]]大統領選挙では、事前に立候補資格審査があり、[[イスラム法学者]]による統治そのものに反対の[[イラン自由戦線]]は、候補者を立てられない。また、[[エジプト]]大統領選挙でも、人民議会が指名した唯一の候補に信任投票することになる。<br /> <br /> [[日本]]でも[[第2回衆議院議員総選挙]]([[1892年]])における[[品川弥二郎]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]・[[白根専一]]同次官による大規模な[[選挙干渉]]や戦時中の[[第21回衆議院議員総選挙]]([[1942年]]、いわゆる&#039;&#039;&#039;翼賛選挙&#039;&#039;&#039;)のような自由選挙の原則に反する選挙干渉が行われた時代があった。また[[ドイツ国]]でも同様の時期があった。<br /> <br /> 自由選挙は、相当に[[人権]]意識が確立していなければ困難であり、自由選挙が実施されて日が浅い国では、敗れた[[野党]]候補が[[不正選挙]]を叫び、また実際に不正選挙が行われる場合もあるので、選挙実施に当たり国際監視団が派遣されることもある。<br /> <br /> ==その他==<br /> ちなみに、自由選挙を行っている国々でも[[単記非移譲式投票]]を選挙制度に採用するところは、[[デュヴェルジェの法則]]により被選挙権を行使できるのは&#039;&#039;(改選数+1)&#039;&#039;人に事実上制限される。これから自由選挙を行う当局はこれを参考にして、完全連記制の大選挙区・全国区制か単記非移譲式投票の小選挙区制を採用してから、自らを保守二大政党に分裂させれば、自由選挙の下で体制を維持することができる。<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[不正選挙]]<br /> *[[国王自由選挙]]<br /> [[category:選挙|しゆうせんきよ]]</div> 124.39.100.132 テンプレート:モータースポーツ 2017-05-14T10:37:52Z <p>124.39.100.132: </p> <hr /> <div>{{Navbox<br /> |name = モータースポーツ<br /> |state = {{{state|autocollapse}}}<br /> |title = [[モータースポーツ|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;モータースポーツ&lt;/span&gt;]]<br /> |titlestyle = background-color:#101b49; color:#f12<br /> |listclass = hlist hlist-pipe<br /> <br /> |group1 = 四輪<br /> |list5 =<br /> {{Navbox|child<br /> |groupstyle = background:#202f65; width:4.5em;<br /> |liststyle = width:auto;<br /> |group1 =[[自動車競技|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;四輪競技&lt;/span&gt;]]<br /> |list1 =<br /> {{Navbox|child<br /> |groupstyle = background:#202f65; width:12.0em;<br /> |liststyle = width:auto;<br /> |group1 =[[フォーミュラカー|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;フォーミュラカー&lt;/span&gt;]]&lt;br&gt;&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;(オープンホイール)&lt;/span&gt;<br /> |list1 =<br /> * [[フォーミュラ1|F1]]<br /> * [[インディカー・シリーズ|IndyCar]]<br /> * [[フォーミュラE]]<br /> * [[スーパーフォーミュラ]]<br /> * [[フォーミュラ2|F2]]<br /> * [[GP3]]<br /> * [[フォーミュラ3|F3]]<br /> * [[フォーミュラ4|F4]]<br /> * [[スーパーFJ]]<br /> * [[フォーミュラ5000|F5000]]<br /> * [[チャンプカー・ワールド・シリーズ|Champ Car]]<br /> * [[Auto GP]]<br /> * [[ユーロ3000選手権]]<br /> * [[フォーミュラ・ルノー3.5]]<br /> * [[フォーミュラ・ルノー]]<br /> * [[アトランティック・チャンピオンシップ]]<br /> * [[タスマンシリーズ]]<br /> * [[フォーミュラ3000|F3000]]<br /> * [[全日本F3000選手権]]<br /> * [[フォーミュラ・ニッポン]]<br /> * [[GP2]]<br /> * [[A1グランプリ|A1GP]]<br /> * [[スーパーリーグ・フォーミュラ]]<br /> * [[FJ1600]]<br /> * [[グランプリマスターズ]] <br /> |group2 =[[プロトタイプレーシングカー|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;プロトタイプレーシングカー&lt;/span&gt;]]&lt;br&gt;&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;及び&lt;/span&gt;[[耐久レース|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;耐久レース&lt;/span&gt;]]<br /> |list2 =<br /> * [[FIA 世界耐久選手権|WEC]]<br /> * [[ル・マン・シリーズ]]<br /> * [[ユナイテッド・スポーツカー選手権]]<br /> * [[アジアン・ル・マン・シリーズ]]<br /> * [[アメリカン・ル・マン・シリーズ]]<br /> * [[グランダム]]<br /> * [[全日本スポーツカー耐久選手権]]<br /> * [[全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権]]<br /> * [[デイトナ24時間レース]]<br /> * [[セブリング12時間レース]]<br /> |group3 =&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;グランドツーリングカー&lt;/span&gt;<br /> |list3 =<br /> * [[FIA GT1世界選手権|FIA GT1]]<br /> * [[FIA GT選手権|FIA GT]]<br /> * [[SUPER GT]]<br /> * [[全日本GT選手権|JGTC]]<br /> * [[スーパーカーレースシリーズ]]<br /> * [[鈴鹿1000km]] <br /> |group4 =&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;ツーリングカー&lt;/span&gt;<br /> |list4 =<br /> * [[世界ツーリングカー選手権|WTCC]]<br /> * [[イギリスツーリングカー選手権|BTCC]]<br /> * [[ドイツスーパーツーリングヴァーゲン選手権|STW cup]]<br /> * [[ドイツツーリングカー選手権|DTM]]<br /> * [[国際ツーリングカー選手権|ITC]]<br /> * [[NASCAR]]<br /> * [[ヨーロッパツーリングカー選手権]]<br /> * [[全日本ツーリングカー選手権 (1994年-1998年)|JTCC]]<br /> * [[全日本ツーリングカー選手権 (1985年-1993年)|JTC]]<br /> * [[スパ・フランコルシャン24時間レース]]<br /> * [[ニュルブルクリンク24時間レース]]<br /> * [[スーパー耐久]]<br /> * [[V8スーパーカー]]<br /> |group5 =[[ラリー|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;ラリー&lt;/span&gt;]]<br /> |list5 =<br /> * [[世界ラリー選手権|WRC]] <br /> * [[世界ラリー選手権2|WRC2]]<br /> * [[プロダクションカー世界ラリー選手権|WRC3]]<br /> * [[ジュニア世界ラリー選手権|JWRC]]<br /> * [[アジアパシフィックラリー選手権|APRC]]<br /> * [[ヨーロッパラリー選手権|ERC]]<br /> * [[インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ|IRC]]<br /> * [[ラリー・モンテカルロ]]<br /> * [[サファリラリー]]<br /> * [[ツール・ド・コルス]]<br /> * [[ラリージャパン]]<br /> * [[ラリー北海道]]<br /> * [[全日本ラリー選手権]]<br /> * [[ラリーレイド]]<br /> * [[ダカール・ラリー]]<br /> * [[ラリー・モンゴリア]]<br /> * [[ファラオラリー]]<br /> * [[ラリーアメリカ]]<br /> * [[ラリークロス]] <br /> |group6 =[[ドリフト走行|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;ドリフト&lt;/span&gt;]]<br /> |list6 =<br /> * [[全日本プロドリフト選手権|D1グランプリ]]/[[D1ストリートリーガル]]<br /> * [[フォーミュラ・ドリフト]]<br /> * [[ドリフトマッスル]]<br /> |group7 =&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;その他の四輪競技&lt;/span&gt;<br /> |list7 =<br /> * [[ジムカーナ (モータースポーツ)|ジムカーナ]]<br /> * [[ダートトライアル]]<br /> * [[フォーミュラオフロード]]<br /> * [[レーシングカート|カート]]<br /> * [[ドラッグレース]]<br /> * [[NHRAチャンピオンシップ・ドラッグ・レーシング・シリーズ|NHRA]]<br /> * [[カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ]]<br /> * [[インターセリエ]]<br /> * [[富士グランチャンピオンレース]]<br /> * [[レース・オブ・チャンピオンズ]] <br /> * [[パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム]]<br /> * [[エックスゲームズ]]<br /> * [[ツール・ド・フランス・オートモーティブ]]<br /> * [[ジーロ・デ・イタリア]]<br /> * [[タルガ・フローリオ]]<br /> * [[ミッレミリア]]<br /> * [[カレラ・パナメリカーナ・メヒコ]]<br /> * [[マラソン・デ・ラ・ルート]]<br /> * [[シャモニー・アイスレース]]<br /> * [[フォーミュラ・トラック]]<br /> * [[トラックレーシング]]<br /> * [[クラシックカーレース]]<br /> * [[バギーレース]]<br /> * [[モンスタートラック]]<br /> * [[フェラーリ・チャレンジ]]<br /> * [[ポルシェ・カレラカップ]]<br /> * [[インタープロトシリーズ]]<br /> }}<br /> }}<br /> |group2 = 二輪<br /> |list9 =<br /> {{Navbox|child<br /> |groupstyle = background:#202f95; width:4.5em;<br /> |liststyle = width:auto;<br /> |group1 =[[オートバイ競技|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;二輪競技&lt;/span&gt;]]<br /> |list1 =<br /> {{Navbox|child<br /> |groupstyle = background:#202f95; width:12.0em;<br /> |liststyle = width:auto;<br /> |group1 =[[ロードレース (オートバイ)|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;ロードレース&lt;/span&gt;]]<br /> |list1 =<br /> * [[ロードレース世界選手権|MotoGP]]<br /> * [[スーパーバイク世界選手権]]<br /> * [[スーパースポーツ世界選手権]]<br /> * [[全日本ロードレース選手権]]<br /> * [[ブリティッシュスーパーバイク選手権]]<br /> * [[AMAスーパーバイク]]<br /> * [[FIM世界耐久選手権]]<br /> * [[FIMカップ エンデュランス・オブ・ネーションズ]]<br /> * [[鈴鹿8時間耐久ロードレース]]<br /> * [[マン島TTレース|マン島TT]]<br /> |group2 =[[モトクロス|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;モトクロス&lt;/span&gt;]]<br /> |list2 =<br /> * [[モトクロス世界選手権]]<br /> * [[全日本モトクロス選手権]]<br /> * [[モトクロス・オブ・ネイションズ]]<br /> * [[AMAモトクロス]]<br /> * [[AMAスーパークロス]]<br /> * [[スーパークロス世界選手権]]<br /> * [[フリースタイルモトクロス|FMX]]<br /> * [[ステップアップ (モトクロス)|ステップアップ]]<br /> * [[サイドカークロス]]<br /> * [[スノークロス]]<br /> * [[ウォータークロス]]<br /> |group3 =[[トライアル (オートバイ)|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;トライアル&lt;/span&gt;]]<br /> |list3 =<br /> * [[トライアル世界選手権]]<br /> * [[インドアトライアル世界選手権]]<br /> * [[全日本トライアル選手権]]<br /> * [[トライアル・デ・ナシオン]]<br /> |group4 =&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;その他の二輪競技&lt;/span&gt;<br /> |list4 =<br /> * [[エンデューロレース]]<br /> * [[スピードウェイ (オートバイ)|スピードウェイ]]<br /> * [[ダートトラックレース|フラットトラック]]<br /> * [[スーパーモタード]]<br /> * [[エンデューロ世界選手権]]<br /> * [[インターナショナル シックスデイズ エンデューロ]]<br /> * [[クロスカントリーラリー世界選手権]]<br /> * [[オートレース]]<br /> }}<br /> }}<br /> &lt;!-- この区間は水上と空のモータースポーツですので、とりあえず隠蔽しておきます<br /> //<br /> //|group3 = <br /> //|list10 = {{Navbox|child<br /> // |groupstyle = background:#212fd9; width:17.6em;<br /> // |liststyle = width:auto;<br /> // |group1 =&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;水上モータースポーツ&lt;/span&gt;<br /> // |list1 = [[パワーボート]] {{Unicode|&amp;#124;}} [[ブルーリボン賞 (船舶)|ブルーリボン賞]] {{Unicode|&amp;#124;}} [[競艇]]<br /> //}}<br /> //<br /> //<br /> //|group4 = <br /> //|list11 = {{Navbox|child<br /> // |groupstyle = background:#535ffa; width:17.6em;<br /> // |liststyle = width:auto;<br /> // |group1 =&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;空のモータースポーツ&lt;/span&gt;<br /> // |list1 = [[レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ]] {{Unicode|&amp;#124;}} [[リノ・エアレース]] {{Unicode|&amp;#124;}} [[マックロバートソン・エアレース]]<br /> //}}<br /> ・・・以上、ここまで、見えない区間です。--&gt;<br /> |group5 = <br /> |list12 =<br /> {{Navbox|child<br /> |groupstyle = background:#212fd9; width:18.6em;<br /> |liststyle = width:auto;<br /> |group1 =[[世界三大レース|&lt;span style=&quot;color: white;&quot;&gt;世界三大レース&lt;/span&gt;]]<br /> |list1 =<br /> * [[モナコグランプリ]]<br /> * [[ル・マン24時間レース]]<br /> * [[インディ500]]<br /> }}<br /> }}&lt;noinclude&gt;<br /> {{DEFAULTSORT:もおたあすほおつ}}<br /> [[Category:モータースポーツの基礎情報テンプレート|*]]<br /> [[Category:モータースポーツのナビゲーションテンプレート|*]]<br /> &lt;/noinclude&gt;</div> 124.39.100.132
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46