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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=121.84.178.202&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-02T04:29:20Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 力への意志 2018-07-25T21:54:39Z <p>121.84.178.202: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;力への意志&#039;&#039;&#039;(ちからへのいし、英:Will to Power、独:Wille zur Macht)は、ドイツの哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ]]の後期著作に登場する、突出した哲学的概念のひとつである。<br /> <br /> 力への意志は、ニーチェの考えによれば人間を動かす根源的な動機である: 達成、野心、「生きている間に、できるかぎり最も良い所へ昇りつめよう」とする努力、これらはすべて力への意志の表れである。本人の著作では、「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」&lt;ref&gt;ニーチェ著、原佑訳 『権力への意志』下巻、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年、p.216。&lt;/ref&gt;と表現される[[思想]]である。ニーチェの著作と言われる『権力への意志』は、ニーチェの死後に遺稿を元に妹の[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ|エリーザベト]]が編集出版したものである。<br /> <br /> 直接の影響を受けたのは[[アルフレッド・アドラー]]である。[[アドラー心理学]]には力への意思の概念が反映されている。<br /> これは[[ウィーン]]の他の[[心理療法]]学派と対照的である。それらには[[ジークムント・フロイト]]の[[快楽原則]](快楽への意思)、[[ヴィクトール・フランクル]]の[[ロゴセラピー]](意味への意思)などがある。それぞれは、人の根源的な動機を別々に定義している。<br /> <br /> ==解説==<br /> この言葉が公刊された著書に初めて出てくるのは『[[ツァラトゥストラはこう語った]]』第2部「[[自己超克]]」の章である<br /> &lt;ref&gt;今村仁司編 『現代思想を読む事典』 講談社〈講談社現代新書〉、1988年、pp.423-424。&lt;/ref&gt;。<br /> そこでニーチェは、「賢者」たちが全ての物事を思考可能なものにしようとする「真理への意志」の正体が、一切を精神に服従させようとする「力への意志」であると批判している&lt;ref&gt;ニーチェ著、氷上英廣訳 『ツァラトゥストラはこう言った』上巻、岩波書店〈岩波文庫〉、1967年、pp.193-194。&lt;/ref&gt;。すなわち、力への意志は[[ルサンチマン]]と当初密接な関係があり、否定的なものとして記されていた。しかしやがてニーチェは力への意志を肯定的な概念としてとらえ直す。あえて積極的にニヒリズムを肯定し、ニヒリズムを克服することが力への意志となり得るのである。<br /> <br /> 力への意志は&#039;&#039;&#039;権力への意志&#039;&#039;&#039;と訳されることもあるが、力への意志の「力」は、人間が他者を支配するためのいわゆる権力のみを指すのではない。また「意志」は、個人の中に主体的に起きる感情のみを指すのではない&lt;ref&gt;貫成人 『真理の哲学』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2008年、第1章§2。&lt;/ref&gt;。力への意志は自然現象を含めたあらゆる物事のなかでせめぎあっている&lt;ref&gt;貫成人 『[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] 哲学』 [[ナツメ社]]、2004年、p.134。&lt;/ref&gt;。力への意志の拮抗が、あらゆる物事の形、配置、運動を決めている。つまり、真理は不変の[[ロゴス]]として存在するものではなく、力への意志によりその都度産み出されていくものなのである。この思想は[[ジル・ドゥルーズ]]の差異の哲学に受け継がれた&lt;ref&gt;『わかりたいあなたのための現代思想・入門』 別冊宝島44、宝島社、1984年、pp.22-23。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また[[永井均]]はこの概念を指して、「力への意志」というよりは「力=意志説」と呼んだほうが良いと書いている。&lt;ref&gt;永井均『ルサンチマンの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)』河出書房新社、1997年、p.142&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ニーチェは、[[キリスト教]]主義、ルサンチマン的価値評価、[[形而上学]]的価値といったロゴス的なものは、「現にここにある生」から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、力への意志によって流転する価値を承認し続けなければならない悲劇的存在であるとする。だが、そういった認識に達することは、既存の価値から離れ、自由なる精神を獲得することを意味する。それは[[超人]]へ至る条件でもある&lt;ref name=&quot;nietzsche_sisou&quot;&gt;[[フリードリヒ・ニーチェ#思想]]を参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 力への意志という概念は[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]に利用されたが、ニーチェの哲学を曲解したものとする見方がある&lt;ref name=&quot;nietzsche_sisou&quot; /&gt;。<br /> <br /> ==著書 ==<br /> ニーチェは『力への意志』を著すために多くの草稿を残したが、本人の手による完成には至らなかった。ニーチェの死後、これらの草稿が妹の[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ|エリーザベト]]によって編纂され、同名の著書として出版された&lt;ref&gt;日本語訳: ニーチェ著、原佑訳 『権力への意志』上下巻、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年。&lt;/ref&gt;。<br /> ただし、力への意志という言葉は『ツァラトゥストラはこう語った』や『人間的な、あまりにも人間的な』の中でも登場し、その概念をうかがい知ることができる。このことは、「力への意志」という主題がニーチェにとって著作としてまとまったものになるほど成長することはついになかったということであり、言ってみれば、ニーチェはその偽悪的なポーズにも関わらず、彼のファナチックな読者たちよりもずっと慎重な性格だったということである。<br /> <br /> 著作としての『力への意志』は「ニーチェの意志」ではないという当然の評価は、第二次世界大戦でのナチスドイツ敗北後に、ハンザー社の『ニーチェ三巻著作集』で編集者シュレヒタが同著作を『八十年代の遺稿から』というアフォリズム集に編集解体して初めて認知された。それまでは、ナチス時代を通じ『権力への意志』こそがニーチェの理論的主著であるというのが通念だったのである。<br /> <br /> ==脚注==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[フリードリヒ・ニーチェ]]<br /> *[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ]]<br /> *[[ツァラトゥストラはこう語った]]<br /> *[[イデオロギー]]<br /> <br /> {{フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{philos-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:ちからへのいし}}<br /> [[Category:哲学の概念]]<br /> [[Category:実存主義の概念]]<br /> [[Category:ニーチェ]]<br /> [[Category:ニーチェの著作]]<br /> [[Category:ニヒリズム]]<br /> [[Category:自由意志]]</div> 121.84.178.202 超人 2018-07-25T21:54:26Z <p>121.84.178.202: </p> <hr /> <div>[[哲学]]的分野で言う&#039;&#039;&#039;超人&#039;&#039;&#039;(ちょうじん、[[ドイツ語]]:{{lang|de|[[wikt:en:Übermensch|Übermensch]]}}、[[英語]]:[[wikt:en:overman|overman]], [[wikt:en:superman|superman]], {{lang|en|super-human}})とは、[[ドイツ]]の哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ]]が提唱した[[概念]]の一つであり、そのような新しいあり方を体現する[[人類]]の呼称である(その、[[漢字文化圏]]における表記)。<br /> <br /> ニーチェはその著『[[ツァラトゥストラはこう語った|ツァラトゥストラはかく語りき]]』において、人間関係の軋轢におびえ、[[生活]]の[[保証]]、[[平安]]、快適、[[安楽]]という幸福を求める現代の一般[[大衆]]を「[[畜群]]」と罵った。その上で、[[永劫回帰]]の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する「&#039;&#039;&#039;超人&#039;&#039;&#039;」であるべきと説いた。<br /> <br /> {{フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{DEFAULTSORT:ちようしん}}<br /> [[Category:社会思想]]<br /> [[Category:ニーチェ]]<br /> [[Category:人間]]<br /> [[Category:実存主義の概念]]<br /> [[Category:哲学の概念]]<br /> {{philos-stub}}</div> 121.84.178.202 ルサンチマン 2018-07-25T21:54:12Z <p>121.84.178.202: </p> <hr /> <div>{{Otheruses}}<br /> {{複数の問題<br /> |出典の明記 = 2013年1月<br /> |独自研究 = 2013年1月}}<br /> &#039;&#039;&#039;ルサンチマン&#039;&#039;&#039;({{lang-fr-short|ressentiment}})は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。「ル」をフランス語の[[定冠詞]] le と誤解して「ル・サンチマン」と表記する者がいるが、誤りである(le sentimentでは単なる「感情」の意味になる)。<br /> <br /> [[デンマーク]]の思想家[[セーレン・キェルケゴール]]が想定した[[哲学]]上の概念である。[[フリードリヒ・ニーチェ]]の『[[道徳の系譜]]』(1887年)でこの言葉が使用(再定義)され、[[マックス・シェーラー]]の『道徳の構造におけるルサンチマン』(1912年)で再度とり上げられて、一般的に使われるようになった。<br /> <br /> == 道徳の系譜 ==<br /> ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」&lt;ref&gt;木場深定訳『道徳の系譜』岩波文庫、46ページ(一部改変)。なお、木場訳ではルサンチマンは「反感」と訳されている。&lt;/ref&gt;である。<br /> <br /> == ジル・ドゥルーズ ==<br /> [[ジル・ドゥルーズ|ドゥルーズ]]は『ニーチェと哲学』(1962年)においてルサンチマン概念を、[[哲学]]を肯定的かつ反弁証法的に再生させるという視角から論じている。ポストヘーゲル主義的な理論が退潮した時期にドゥルーズは、[[弁証法]]的[[止揚]]とか[[批判]]的活動といったものを中心に置かない哲学を考案した。この哲学は批判哲学も弁証法哲学も否定性とみなし、能動的行為 (actif) を反動的行為 (réactif) より高く評価する。<br /> <br /> == ルネ・ジラール ==<br /> [[ルネ・ジラール]]も1960年代中頃からルサンチマン概念を論じている。ジラールによればルサンチマンとは、乗り越えることのできない理想的モデルに対して誰もが抱く単なる嫉妬心にすぎない。自律的に感情を抱くことのできる「優れた」人間というものがいるという[[ロマン主義]]的な考え方をジラールは批判し、どんな人間も[[模倣]]をせざるをえないと考えた。反動という言い方をニーチェが用いたような悪い意味で使うことができるとしても、ジラールに言わせれば、われわれはみな反動的なのであり、その点では、ニーチェ的な意味では一見して優れた人間であるとみえる人々でさえ例外ではない。[[ロミオとジュリエット]]であれテレビのアイドルたちであれ、優れた人間でないばかりか、自分の感情を育むために他人の感情に頼りきっている。それが高じれば、自殺したり人工的な世界に逃げ込むことにもなりかねない。ジラールの考えでは、ニーチェ自身もルサンチマンの人である(例えばニーチェは当初[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]を崇敬し、その後攻撃に転じた)。ニーチェが狂気に陥った理由の一端は、奴隷精神への軽蔑と彼自身のこのような心理状態との緊張から説明できる、というわけである。またジラールは同様の仕方でもルサンチマンの[[イデオロギー]]についても論じている。[[共産主義]]、[[反ユダヤ主義]](を含む[[レイシズム]])、さらに一般に「反…」を名乗る主義がこうしたイデオロギーと言える。ただし、ニーチェのみならず近代思想全体によって「断罪」された[[聖書]]や[[キリスト教]]は、ジラールにとっては、感情の真実を伝える担い手であるとされる。<br /> <br /> == マルク・アンジュノ ==<br /> イデオロギー研究の文脈では、言説分析を専門とするカナダの歴史家の[[マルク・アンジュノ]]([[:en:Marc Angenot]])が、[[20世紀]]の政治イデオロギーやアイデンティティ・ポリティクス、[[ナショナリズム]]を論じる際に、ルサンチマン概念を取り上げている&lt;ref&gt;Marc Angenot, &#039;&#039;Les idéologies du ressentiment&#039;&#039;, 1996.&lt;/ref&gt;。アンジュノもまたルサンチマンとは、不満の蓄積を特徴とする態度であると考えている。ルサンチマンに基づく[[主意主義]]の増殖は今日ではとりわけ[[ポストモダニズム]]や独善的主張の横行、組織防衛的な考え方の拡大にみられ、様々な形態の[[差別]]や社会的対立を煽っている。アンジュノによれば、過去について反省したり将来について希望を抱き続けることは、たとえわれわれの目から見て安定性や魅力が([[ヴァルター・ベンヤミン]]が[[ヴァルター・ベンヤミン#主要概念|アウラ]]の消失と呼ぶような仕方で)消え失せている仕方であるように見えても、ルサンチマンがもつ反動的な影響から身を守るための最善の方法である。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[嫌悪]]<br /> * [[憎悪]]<br /> * [[嫉妬]]<br /> * [[怨み]]<br /> * [[劣等感]]<br /> * [[コンプレックス]]<br /> * [[復讐]]<br /> * [[シャーデンフロイデ]]<br /> * [[すっぱい葡萄]]<br /> <br /> {{フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{感情のフッター}}<br /> {{philos-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:るさんちまん}}<br /> [[Category:哲学の概念]]<br /> [[Category:感情]]<br /> [[Category:フランス語の語句]]<br /> [[Category:憎悪]]<br /> [[Category:ニーチェ]]</div> 121.84.178.202 君主-奴隷道徳 2018-07-25T21:53:52Z <p>121.84.178.202: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;君主‐奴隷道徳&#039;&#039;&#039;(くんしゅ-どれいどうとく、[[独]]:Herrenmoral Sklavenmoral)はドイツの[[哲学]]者[[ニーチェ]]が提示した哲学概念。『[[善悪の彼岸]]』に初めて提出され、後に『[[道徳の系譜]]』に最大限に発展された。&lt;br&gt;<br />  最も基本的な道徳形態は「君主道徳(貴族道徳)」と「奴隷道徳」の二種類がある。君主道徳では行為が「良」と「悪」に分けられるのに対し、「奴隷道徳」では行為が「善」と「悪」に分けられる。君主道徳の主な特徴は、自己肯定、傲慢、主動であるのに対し、奴隷道徳は自己否定、謙遜、慈悲である。ある人の道徳がどの道徳になのかは、その人の身分と地位で決まるのではなく、その人が行動する時の気持ちで決まる。したがって、ある独裁者の道徳が奴隷道徳である可能性もある。なぜなら、その独裁者は、恨みと報復によって行動しているかもしれないからである。ただし、ニーチェは、君主道徳を勧めると同時に、奴隷道徳の中の精神力を学ぶ価値もあると主張した。&lt;br&gt;<br />  ニーチェの「道徳」は、普段われわれの言う道徳と違い、全く新しい世界観であり、独特の文化である。そして、すべての規則と慣例は、この二種類の道徳の闘争で作られたのである。<br /> <br /> ==君主道徳==<br /> <br />  ニーチェは、君主道徳を意志強固な道徳と定義している。つまり、君主道徳では、良いものは有用なもの、悪いものは有害なものと捉える。このような道徳は感情である。先史時代に、”ある行動の価値があるかどうかは、その行動の結果から判断する”&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nietzsche|first=Friedrich |authorlink= |coauthors= |title=Beyond Good and Evil |year=1973|publisher=Penguin Books |location=London |pages=62 |isbn=978-0-140-44923-5}}&lt;/ref&gt;しかし、結局”道徳現象なんかはなく、現象の道徳解釈だけはある。”&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nietzsche|first=Friedrich |authorlink= |coauthors= |title=Beyond Good and Evil |year=1973|publisher=Penguin Books |location=London |pages=96 |isbn=978-0-140-44923-5}}&lt;/ref&gt;意志強固の人にとって、&quot;良&quot;は高潔、強い、有力、&quot;悪&quot;は弱い、 臆病、無自信、狭量を意味する。君主道徳の真髄は、”高潔さ”である。道徳は、意志強固の価値を守るために作られたものであり、奴隷と君主にとって、”恐怖心は道徳の生まれの母である。”&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nietzsche|first=Friedrich |authorlink= |coauthors= |title=Beyond Good and Evil |year=1973|publisher=Penguin Books |location=London |pages=123 |isbn=978-0-140-44923-5}}&lt;/ref&gt;君主道徳の他の性質は、無偏見、勇気、忠実、信頼、周到な自信である。”君主道徳は ’高潔な人’の中で自然に良という考えが生まれ、そして良くないが悪として発展される。”高潔な人は”良し自身”を決まった価値として経験する。証明する必要がなく、’自分に有害なもの自身は有害である’と判断する。また、君主道徳は他のものに名誉を授けることができるとわかっている。君主道徳は’価値創造的’である。”&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nietzsche|first=Friedrich |authorlink= |coauthors= |title=On The Genealogy of Morals |year=1967|publisher=Vintage Books |location=New York |pages=39 |isbn=0-679-72462-1}}&lt;/ref&gt; この意味では、君主道徳はすべてのものの物差しである。意志強固の人は自分に有用なものは、自分の中で価値あるかを判断する。そして、意志強固の人はこういうものを’良’と判断する。 君主は、道徳の創造者である。一方、奴隷は、奴隷道徳を用いて君主道徳に反応する。<br /> <br /> ==奴隷道徳==<br /> <br />  君主道徳の感情的と違って、奴隷道徳は非感情 (反感、[[ルサンチマン]])である――君主道徳が評価したものを再評価する。ある行動の結果からその行動の価値を判断するのからはぐれて、ある行動の”意図”からその行動の価値を判断する。&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nietzsche|first=Friedrich |authorlink= |coauthors= |title=Beyond Good and Evil |year=1973|publisher=Penguin Books |location=London |pages=63 |isbn=978-0-140-44923-5}}&lt;/ref&gt; 君主道徳は強さから生まれたのに対し、奴隷道徳は弱さから生まれる。奴隷道徳は圧制への反抗なので、圧制者が悪党だと考える。奴隷道徳は君主道徳と正反対である。厭世主義と懐疑論という性質がある。奴隷道徳は君主道徳の’良’と判断するのに反対して作られる。奴隷道徳は力で人の意志を増強するのを目的とせず、細心の転覆を目的とする。奴隷道徳は君主を超える道を探るのではなく、君主も奴隷する道を探る。奴隷道徳の真髄は”実用”である。&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nietzsche|first=Friedrich |authorlink= |coauthors= |title=Beyond Good and Evil |year=1973|publisher=Penguin Books |location=London |pages=122 |isbn=978-0-140-44923-5}}&lt;/ref&gt;:良いものは大衆に有用なものであり、強いものではない。ニーチェはこの点を自己矛盾と見ていた。”’普通の良’はどうやって存在できるか!この表現は自己矛盾である:普通とはかつて存在してよほど価値のないものだ。”最後にはいつものようにこうならないといけない:偉大に偉大なもの、複雑に計りきれないもの、 上品に繊細、まとめると、稀には稀なもの。”&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nietzsche|first=Friedrich |authorlink= |coauthors= |title=Beyond Good and Evil |year=1973|publisher=Penguin Books |location=London |pages=71 |isbn=978-0-140-44923-5}}&lt;/ref&gt;強力なものは数多い弱いものに比べて数少ないから、奴隷制度を起こすのは(すなわち、[[The Will to Power|will to power]]) ”悪”だということを強いものに信じさせることにより、弱いものは権力を獲得する。弱いものは弱さで自分の性質を選べないのである。 奴隷道徳は卑下が自発的だと主張することにより、自分の卑下が君主に圧制された時に生まれたと認めるのを避ける。聖書の侮辱を甘んじて受ける、謙遜、慈善、憐れみという理論は奴隷の苦境をすべての人類に広げる結果である。だから、君主をも奴隷にする。” ”民主的”運動はキリスト教から生まれた。”&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nietzsche|first=Friedrich |authorlink= |coauthors= |title=Beyond Good and Evil |year=1973|publisher=Penguin Books |location=London |pages=125 |isbn=978-0-140-44923-5}}&lt;/ref&gt;―自由と平等を取り入れた奴隷道徳の政治表明。<br /> <br /> :&quot;...the Jews achieved that miracle of inversion of values thanks to which life on earth has for a couple millennia acquired a new and dangerous fascination--their prophets fused &#039;rich&#039;, &#039;godless&#039;, &#039;evil&#039;, &#039;violent&#039;, &#039;sensual&#039; into one and were the first to coin the word &#039;world&#039; as a term of infamy. It is this inversion of values (with which is involved the employment of the word for &#039;poor&#039; as a synonym for &#039;holy&#039; and &#039;friend&#039;) that the significance of the Jewish people resides: with &#039;&#039;them&#039;&#039; there begins the &#039;&#039;slave revolt in morals&#039;&#039;.&quot;&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nietzsche|first=Friedrich |authorlink= |coauthors= |title=Beyond Good and Evil |year=1973|publisher=Penguin Books |location=London |pages=118 |isbn=978-0-140-44923-5}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==社会==<br /> <br />  君主道徳と奴隷道徳の闘争は、歴史上に繰り返されてきた。ニーチェによると、古代ギリシャとローマ社会は、君主道徳を土台にしていた。[[ホメロス]]的な英雄は意志強固の人であり、『[[イリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』はニーチェの君主道徳を実証した。ニーチェは、英雄たちを”高潔社会の人間”と呼んで&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nietzsche|first=Friedrich |authorlink= |coauthors= |title=Beyond Good and Evil |year=1973|publisher=Penguin Books |location=London |pages=153|isbn=978-0-140-44923-5}}&lt;/ref&gt;、君主道徳の実例を挙げた。しかし、その後、キリスト教がローマ帝国に広がったことで、君主道徳はキリスト教の奴隷道徳に打ち破られた。 <br /> <br />  ニーチェによると、文化間の闘争の真髄はずっとローマ(君主、強さ)とユダヤ(奴隷、弱さ)の闘争である。ニーチェは、ヨーロッパでの奴隷道徳の勝利を批判して、 民主運動は””堕落人間の集団””と言った。&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nietzsche|first=Friedrich |authorlink= |coauthors= |title=Beyond Good and Evil |year=1973|publisher=Penguin Books |location=London |pages=127 |isbn=978-0-140-44923-5}}&lt;/ref&gt;ニーチェは、彼の時代の初期民主運動はユダヤ的で、奴隷的で、弱かったとしている。すなわち、弱さが強さを打ち破り、奴隷が君主を打ち破り、非感情が感情を打ち破ったと表現している。ニーチェは、この非感情を”祭司の復讐”と呼んで、弱さが強さを奴隷化する道を探るということへの嫉妬であるとした。こういう運動は、ニーチェによれば、弱さへの”最も賢い復讐”から生まれたものである。ニーチェは、民主とキリスト教が、すべてのものを平等――すべてが奴隷にする、同じ柔弱力であると見なした。<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{reflist}}<br /> * Solomon, Robert C. and Clancy Martin. 2005. &#039;&#039;Since Socrates: A Concise Sourcebook of Classic Readings.&#039;&#039; London: Thomson Wadsworth. ISBN 0-534-63328-5.<br /> <br /> ==参照==<br /> *[[The Marriage of Heaven and Hell]]<br /> *[[正統とは何か]]<br /> <br /> {{フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{DEFAULTSORT:くんしゆとれいとうとく}}<br /> [[Category:哲学の概念]]<br /> [[Category:ニーチェ]]<br /> [[Category:道徳]]<br /> [[Category:概念上の区別]]</div> 121.84.178.202 末人 2018-07-25T21:53:41Z <p>121.84.178.202: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;末人&#039;&#039;&#039;(まつじん)とは[[フリードリヒ・ニーチェ]]による[[哲学]]によって用いられていた[[概念]]である。[[ツァラトゥストラはこう語った]]で述べられ、[[超人]]の対極にあり[[最低]]の[[軽蔑]]すべき者とのことである。末人というのは[[社会]]において生きる大多数の中流市民でもある。彼らは病気になることと疑うということを[[罪]]として考えて生きている。そして互いが摩擦を起こさないように、ゆっくりと歩むようになる。彼らは貧しくもなく富んでもおらず、これらはいずれも煩わしいものであるとされる。人々がこのようになれば、人々を[[統治]]しようと誰も思わなくなるし、他人に服従しようとも誰も思わなくなる。人々がこのようになれば社会には牧人はいなくなり誰もが[[平等]]であり、誰もが平等を望む社会ということでもある&lt;ref&gt;[http://kgur.kwansei.ac.jp/dspace/bitstream/10236/11434/1/1-5.pdf]&lt;/ref&gt;。末人の生き方というのは、ひたすら[[安楽]]を求めるということである。社会においての最高価値が信じられなくなり[[ニヒリズム]]が広がってきたならば、人々は頑張らなくなり創造性を欠いた安楽を求める人間ばかりになるということであり、このような状態になった人間というのが末人ということである&lt;ref&gt;[http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/01_nietzsche/special/02.html ハテナ?のメール箱の回答。:100分 de 名著]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> {{フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{Philos-stub}}<br /> {{デフォルトソート:まつしん}}<br /> [[Category:哲学]]<br /> [[Category:ニーチェ]]</div> 121.84.178.202 永劫回帰 2018-07-25T21:53:08Z <p>121.84.178.202: </p> <hr /> <div>{{参照方法|date=2011年5月}}<br /> &#039;&#039;&#039;永劫回帰&#039;&#039;&#039;(えいごうかいき、{{Lang-de|Ewig Wiederkehren}})とは、[[フリードリヒ・ニーチェ]]の思想で、経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、[[超人]]的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> ニーチェの後期思想の根幹をなす思想であり、『[[ツァラトゥストラはこう語った]]』においてはじめて提唱された。<br /> <br /> 「[[時間]]は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、[[自由意志]]の問題と結びつけられる。<br /> <br /> 永劫回帰するのは、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物である。すなわち、永劫回帰は終末における救済という[[オプティミズム]]との対比でしばしば[[ペシミズム]]と結びつけて語られるが、その一方で、救済されるようにと今の行いを正す、という制約から解放された明るさもある。世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生をおろそかにしない[[超人]]にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来される世界の根源的なありようなのである。<br /> <br /> 永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。<br /> 仮に2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服していたとしよう。命尽きて生まれ変わっていたとしても、2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服している。リセットしてカセットテープを巻き戻しただけの状態になる。これが「一回性の連続」である。それを永遠に繰り返す。故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。ツァラトストラは自ら育てた闇に食われて死して逝く幻影を見る。最高へは常に最深から。超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。<br /> <br /> ニーチェ自身は永劫回帰の思想をほのめかすだけにとどまっている。<br /> <br /> ニーチェは『権力への意志』で、物理学のエネルギー保存の法則をその根拠のひとつとしている。<br /> <br /> 永劫回帰について[[西部邁]](評論家)はこう述べている。「探し当てられるべきは[[実在]]([[真理]])なのだが、実在は言葉を住み処とし、そして自分という存在はその住み処の番人をしている、ということにすぎないのだ。言葉が歴史という名の草原を移動しつつ実在を運んでいると思われるのだが、自分という存在はその牧者にすぎない。その番人なり牧者なりの生を通じて徐々にわからされてくるのは、実在は、そこにあると指示されているにもかかわらず、人間に認識されるのを拒絶しているということである。それを「無」とよべば、人間は実在を求めて、自分が無に永遠に回帰するほかないと知る。つまりニーチェの「永劫回帰」である。それが死という無にかかわるものとしての人間にとっての実在の姿なのだ。」&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=西部邁|title=虚無の構造|year=2013|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|page=148}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 哲学史における意義 ==<br /> ニーチェは永劫回帰を直感的、文学的に語っているために、その体系的な意味合いは不明瞭である。<br /> <br /> ただ、宗教的な意味合いにおいては、永劫回帰は[[キリスト教]]的な来世や東洋的な前世の否定であり、哲学史的な意味合いにおいては、[[弁証法]]の否定と解釈できる。ニーチェは永劫回帰を説き、弁証法を否定することによって、近代化そのもの、社会はよりよくなってゆくものだという西洋的な進歩史観そのものを覆そうとしたのである。弁証法は、近代哲学の完成者といわれる[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]の基本概念であり、これを否定することは文字通り、近代哲学を覆そうとする試みであった。ニーチェの永劫回帰の思想は、ポスト・モダンの近代批判に大きな影響を与えることになる。<br /> <br /> すべての善悪、優劣は人間の主観的な思い込みに過ぎず、絶対的な善悪だけでなく、相対的な善悪も否定する、価値相対主義の極限という点では、[[ブッダ]]の[[諸行無常]]・[[諸法無我]]、荘子の[[万物斉同]]論に近い。絶対正義を語るキリスト教の強い西洋思想というよりも、東洋思想によく見られる発想である。が、仏教については諦観だとしてニーチェは否認しているので、永劫回帰はもっと能動的である。すべてのものは平等に無価値であり、終わりも始まりもない永劫回帰という究極の[[ニヒリズム]]から、[[運命愛]]にいたり、無から新価値を創造、確立する強い意志を持った者をニーチェは[[超人]]と呼んでいる。しがらみも伝統も秩序もまったくの無であるということは、そこからあらゆる新価値、新秩序が構成可能だということである。<br /> <br /> == 永劫回帰批判 ==<br /> しかし、『[[歴史の終わり]]』を書いた[[フランシス・フクヤマ]]らに批判されているように、蓄積している知識や歴史が、近代化という不可逆な方向性を持っているのは社会科学的な事実であり、永劫回帰の思想は人類史的なスタンスから見れば誤りである。歴史は繰り返しているようで、弁証法的に発展しているのである&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;空想の領域ではあるが古代核戦争説に基づく核戦争による古代文明の滅亡が仮に起きていたなら人類の歴史もまた発展と滅亡を繰り返していると解釈できないこともない。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、自然科学的観点に立てば、1.世界は[[エントロピー]]増大の法則により常に拡散・多様化していくので類似の状況が再現されてもまったく同じ状況が再現されることはないという[[熱力学]]的見解や、2.有限の系に無限の時間を与えても繰り返しが起こるとは限らないことを発見した[[カオス理論]]、あるいは、3.本質的に不確定性を内包する[[量子論]]など、特に物理学によって永劫回帰を否定することが可能である&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;しかし、1.多重宇宙間でのエントロピーの交互やり取り、2.散逸的事象と揺動的事象がマクロスケールと量子スケールにそれぞれ留まる場合、実質的な永劫回帰である、3.多重宇宙間で決定論的である可能性が残されている事、これらを考慮すると自然科学的観点から永劫回帰を否定するのは十分な論ではない可能性もある。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、ニーチェの能動的ニヒリズムは、[[ナチス]]に[[ヴェルサイユ体制]]打破という政治的目的に利用され、結果的にヨーロッパに破滅的な戦災を与えた。戦後、新左翼の若者たちの間でも流行し、彼らの刹那的で、盲動的な暴力行為を煽った。絶対的な善悪だけでなく、相対的な善悪すら存在しないと言うことは、あらゆる蛮行や凶行もすべて許されてしまうと言う危険思想に容易に直結する。その政治的に利用されやすい危険性と反省から、哲学者の[[永井均]]はその敗北の完璧さにおける思想的な意義を賛美しつつも、「ニーチェは思想家としては敗北した。マルクスには復活の可能性があるが、もはやニーチェにはない」と指摘している&lt;ref&gt;{{Harvnb|永井|1998|Ref=CITEREF永井1998|pp=11,99-100}}&lt;/ref&gt;。フランシス・フクヤマも、「ユダヤ的対等願望(奴隷道徳)は、ゲルマン的優越願望(貴族道徳)に勝利した」&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;この場合の「ユダヤ/ゲルマン」の対比は、「被支配者/支配者」を示すものであり、ユダヤ文化=奴隷文化/ゲルマン文化=貴族文化という意味では無い。ユダヤ教そのものは、ユダヤを神に選ばれた民とする旧約聖書中の選民思想である。&lt;/ref&gt;と指摘し、弁証法的に発展する歴史には目的や終わりがあるとして、歴史の終わりを説いた。ブッダは「犀の角のようにただ独り歩め」と説き、ニヒリズムの政治化を戒めている。<br /> <br /> 永劫回帰は科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、あくまでも実存主義の構えの柱の一つであり、個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。ニーチェは、個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び、個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。これについて、永井均は永劫回帰は思想と言うよりも、ある日突然ニーチェを襲った体験である点を強調している&lt;ref&gt;{{Harvnb|永井|1998|Ref=CITEREF永井1998|pp=150-151,169,174-175}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 永井均はニーチェ哲学とは徹底した「問い」であると指摘している。確かにニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。民主主義は価値相対主義を説くが、すべての価値を相対化し続けたら、絶対的な善悪だけでなく相対的善悪も否定されてしまい、究極的には善悪すべてが無意味化するのではないのか? 民主主義は国民の平等を説くが、すべての国民に平等に価値があるということは、すべての国民には平等に価値がないと言い換えられるのではないのか? キリスト教は普遍愛を説くが、すべてを平等に愛すると言うことは、何も愛していないというニヒリズムなのではないのか? フランシス・フクヤマはニーチェの近代批判は本質的で根源的であり、論理的に反駁するのが困難であることを認めている。永劫回帰の能動的ニヒリズムから貴族道徳の復活を説くニーチェ思想は、現代人の視点からしたら危険思想以外のなにものでもないので、多数派の支持を受けることはなく、もはや政治思想として復活することはありえない。その点においてニーチェは思想家としては間違いなく完敗した。しかし、感覚的に拒否できても、論理的に反駁することが困難である点がニーチェ哲学の特徴のひとつである。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注釈}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」三笠書房<br /> *{{Cite book|和書<br /> |author=[[永井均]]<br /> |date=1998-05-20<br /> |title=これがニーチェだ<br /> |series=講談社現代新書<br /> |publisher=[[講談社]]<br /> |isbn=4-06-149401-5<br /> |ref=CITEREF永井1998<br /> }}<br /> *ブッダ「ブッダのことば―スッタニパータ」中村 元 (翻訳)岩波文庫 <br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://kotobank.jp/word/%E6%B0%B8%E5%8A%AB%E5%9B%9E%E5%B8%B0 永劫回帰] - [[コトバンク]]<br /> <br /> {{フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{Time topics}}<br /> {{philos-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:えいこうかいき}}<br /> [[Category:ニーチェ]]<br /> [[Category:哲学の概念]]<br /> [[Category:実存主義の概念]]<br /> [[Category:周期現象]]</div> 121.84.178.202 運命愛 2018-07-25T21:52:44Z <p>121.84.178.202: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;運命愛&#039;&#039;&#039;(うんめいあい、{{lang-la-short|Amor fati}})とは、[[フリードリヒ・ニーチェ]]によって提唱された[[哲学]][[用語]]。[[永劫回帰]]の法則を受け入れるとともに、この世のあるがままの[[運命]]を受け入れ、そしてそれを愛するということ。<br /> <br /> この場合には、この世に存在するすべてのものは必然的に存在しているということになる。[[人生]]において存在する物事とは好ましいものだけでなく、暗黒面とされるような恐ろしいもの邪悪なもの不気味なものも数多く存在しており、さらにそれらから生じるような苦痛というものも数多く存在する。これらのようなものに対して耐えるのみにとどまらず、これらを望ましいものとして愛するべきということである。これらを単なる暗黒面として捉えるならばそれは[[ニヒリズム]]に留まっているに過ぎない状態というわけであり、暗黒面とされていたようなものでさえも愛することができるようになりニヒリズムとなっていた状態を超えられた境地こそが、運命愛に至れた状態という論理である。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://kotobank.jp/word/%E9%81%8B%E5%91%BD%E6%84%9B 運命愛 とは - コトバンク]<br /> *[https://soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10091/4522/1/Liberal_arts29-01.pdf ニーチェの「運命愛」について]<br /> *[[:en:Amor_fati|Amor fati]]<br /> <br /> {{フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{Philos-stub}}<br /> {{デフォルトソート:うんめいあい}}<br /> [[Category:哲学の概念]]<br /> [[Category:ラテン語の語句]]<br /> [[Category:人生哲学]]<br /> [[Category:哲学]]<br /> [[Category:ニーチェ]]</div> 121.84.178.202 この人を見よ 2018-07-25T21:52:28Z <p>121.84.178.202: </p> <hr /> <div>{{Otheruses|フリードリヒ・ニーチェの自伝|元となった[[新約聖書]]の文言&#039;&#039;Ecce homo&#039;&#039;|エッケ・ホモ|マイケル・ムアコックの小説|マイケル・ムアコック#著作リスト|スペインのフレスコ画|この人を見よ (フレスコ画)}}<br /> 『&#039;&#039;&#039;この人を見よ&#039;&#039;&#039;』(原題:&#039;&#039;Ecce homo&#039;&#039;)は、[[フリードリヒ・ニーチェ]]が発狂する1888年の前年の秋に書いた自伝。1908年に妹の[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ]]が出版した。なぜ自身が賢いのかなど、皮肉を交えた自画自賛が綴られると同時に、『[[悲劇の誕生]]』や『[[ツァラトゥストラはこう語った]]』など、それまでに出されたニーチェの著作を自ら総括している。題名の[[ラテン語]]“Ecce homo”は[[新約聖書]]『[[ヨハネによる福音書]]』の19章5節から引用されたものである。<br /> <br /> 日本語訳は文庫本では、[[手塚富雄]]訳が[[岩波文庫]]に、弟子の[[西尾幹二]]訳が[[新潮文庫]]にある。他に若き日の文章も入れた、川原栄峰訳『この人を見よ 自伝集』([[ちくま学芸文庫]]版ニーチェ全集15)がある。 2016年に、[[丘沢静也]]訳が[[光文社古典新訳文庫]]から出た。<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[エッケ・ホモ]]<br /> <br /> {{フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{Philos-stub}}<br /> {{Book-stub}}<br /> {{デフォルトソート:このひとをみよ}}<br /> [[Category:ニーチェの著作]]<br /> [[Category:1900年代の書籍]]<br /> [[Category:自伝]]</div> 121.84.178.202 道徳の系譜 2018-07-25T21:52:02Z <p>121.84.178.202: </p> <hr /> <div>[[Image:Genealogie der Moral cover.jpg|200px|thumb|『道徳の系譜』(1887年版)表紙]]<br /> <br /> 『&#039;&#039;&#039;道徳の系譜&#039;&#039;&#039;』(どうとくのけいふ、&#039;&#039;Zur Genealogie der Moral&#039;&#039;)——副題:「一つの論駁書」(&quot;Eine Streitschrift&quot;)——は、[[ドイツ]]の[[哲学|哲学者]][[フリードリヒ・ニーチェ]]の著作であり、先に公にされた『[[善悪の彼岸]]』の中で略述されたいくつかの新しい見解について詳論するという意図のもとに、[[1887年]]に執筆され、公刊された。ニーチェの著作の中では、最も直接的な叙述がなされており、形式や文体の面でアフォリズム的な要素が最も少ないことから、ニーチェ研究者からは、確固たる明敏さと力強さをそなえた作品であり、ニーチェの代表作であるとみなされている。&lt;ref&gt;{{cite journal|last=Loeb|first=Paul S.|date=2005|title=Finding the Ubermensch in Nietzsche’s Genealogy of Morality|journal=Journal of Nietzsche Studies|publisher=The Friedrich Nietzsche Society|issue=30|pages=70-71}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 序言と三つの論文(Abhandlung)から成り、これら一連の論述を通して、道徳的諸概念の発展に関わる挿話を追っていくことによって、「道徳上の先入見」——とりわけ[[キリスト教]]の道徳——を転覆することを目指す。<br /> <br /> ==要約==<br /> ===序言===<br /> ニーチェの三つの論文の主題をなすのは、「道徳上の先入見の由来」についての彼独自の思想である。この思想は、彼が長期間にわたって作り上げてきたものであり、すでに『[[人間的な、あまりに人間的な]]』において簡潔に不完全な形で表現されている。ニーチェが自らの「仮説」を公刊しようと思ったきっかけとなったのは、友人[[パウル・レー]]の小著『道徳的感情の起源』([[1877年]])を読み、その中で「系譜論的仮説」が不十分な仕方で展開されているのを見出したことである。<br /> <br /> かくして、ニーチェは、「道徳的諸価値の批判」こそが理に適っており、「これらの諸価値の価値こそそれ自身まずもって問題とされるべきである」と考えるに至る。この目的を果たすためには、レーのような(ニーチェが言うところの)「イギリス流心理学者」式の仮説的な説明よりも、実際の道徳史を提示することこそが必要不可欠である。<br /> <br /> ===第一論文 「善と悪」・「よいとわるい」===<br /> この論文では、ニーチェが『人間的な、あまりに人間的な』以来ほのめかしてきた[[君主-奴隷道徳|君主道徳と奴隷道徳]]の間の区別が説明される。これら二つの相異なる道徳様式は、それぞれ一対の対立概念に対応している。<br /> *ニーチェによると、特権階級は、自分たち自身の行為を「よい」(&quot;gut&quot;)と定義した。この場合の「よい」とは、「高貴な」、「貴族の」、「強力な」、「幸福な」等々という意味である。その一方で、彼ら君主たちは、他の卑しい人々の行為を「わるい」(&quot;schlecht&quot;)とみなした。ただし、この場合の「わるい」とは、「素朴な」(&quot;schlicht&quot;)、「平凡な」、「貴族でない」という意味であって、ことさらそれらの人々に対する非難のニュアンスが込められているわけではない。<br /> *特権階級に従属する卑しく、貧しくて不健康な人々、つまり「奴隷」によって価値の序列が逆転される。彼らの感情は、[[ルサンチマン]]に基づいており、彼らはまずもって他者を「悪人」、すなわち「悪しき敵」とみなす。そして、その後ではじめて、彼らはまさしく悪人に対立する者として、自分たち自身を「善人」と定義する。換言すると、彼らは「悪」(&quot;böse&quot;)でないがゆえに、「善」(&quot;gut&quot;)である。つまり、貴族にとっての「よい」という概念が能動的であるのに対して、奴隷の「善」概念は反動的なのである。<br /> ニーチェは、二番目の価値様式を[[ユダヤ教]]と[[キリスト教]]の内に見出し、第一の価値様式を[[ローマ帝国]]、ならびに[[ルネサンス]]や[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]に割り当てる。もっとも、これら二つの道徳様式の対立は、内的葛藤を抱えた一人一人の人間の中でも依然として闘争を繰り広げることになるとされる。今日でも、比較的高邁な精神の持ち主においては、両方の価値評価様式がともに存在し、相争っている。しかしながら、全体としては奴隷道徳のほうが勝利をおさめることとなった。ニーチェ自身は——無条件に、見境なしにというわけではないが——はっきりと「貴族的」な世界観のほうに強い共感を表明しており、自らの哲学によって「賤民的」な道徳に対する闘争が再開されうることを期しているように思われる。<br /> <br /> ===第二論文 「負い目」・「良心のやましさ」・その他===<br /> ここで探求の対象となるのは、人間は何かに対して「責任」を負うことができるという考え方の由来、ならびに、人間に特有で動物界ではほとんど見られない記憶力一般である。ニーチェは、「負い目」という道徳的概念は債権者に対する「負債」という物質的な概念に基づいていると考える。彼は、刑罰がさまざまな文化の歴史の中で担ってきた多岐にわたる表向きの目的と真の目的を示唆する。刑罰は、あらゆる事態がそうであるように、支配体制が新しくなる度に、新たな解釈を与えられてきた。ニーチェによると、良心のやましさは、人間の文明化に起源をもつ。人間は、組織的な社会で生きるという重圧の下で、自らの攻撃的な衝動を内向させ、自分自身に向けるようになるのである。<br /> <br /> なお、この論文の第12節は、「[[力への意志]]」に関する教説を比較的詳しく取り上げているという点で、鋭い示唆を含んでいる。<br /> <br /> ===第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか===<br /> この論文は、すでにニーチェが序文で自ら指摘した形式的な特徴をよく表している。というのも、結論となる見解を最初の段落で簡潔なアフォリズムの形式で呈示しておいて——仮構の読者からの抗議に従って——論文本体において、そのアフォリズムを正確に敷延して完全な形で表現しているからである。<br /> <br /> ニーチェは、禁欲主義的理想が、歴史の中や今日の社会の中で現れる際にまとってきたさまざまな形態、並びにその多様な目的を検討する(その中には、誤認された目的も実際の目的も含まれる)。ニーチェは、さまざまな人々——芸術家([[リヒャルト・ワーグナー]]の『[[パルジファル]]』を例に)、哲学者(とりわけ、[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]の意志否定)、聖職者、ニーチェ自身が評価するところの「善人や義人」、聖人、そして現代において反-理想主義者と見誤られている人々、無神論者、科学者、批判的かつ反形而上学的な哲学者——における禁欲主義的理想の追求を解釈し評価する。そして、彼らの絶対的な「真理への意志」こそが、禁欲主義的理想の最後の純粋な形態であるとされる。そして、現代および将来のヨーロッパにおける[[ニヒリズム]]に関する考察に依拠して、ニーチェは、禁欲主義的理想がほとんど唯一の理想として尊崇されてきた究極の理由を示す。それは、つまるところ、より優れた理想がなかったからである。人間は「何も欲しない」ことができない。その結果、今日までの人間はむしろニヒリズムと禁欲において「無を欲し」てきたのである。<br /> <br /> ==影響==<br /> 「道徳の系譜」に影響を受けた人は、[[オスヴァルト・シュペングラー]]、[[ジャン=ポール・サルトル]]、[[ジークムント・フロイト]]、[[フランツ・カフカ]]などである。<br /> <br /> また、[[ミシェル・フーコー]]は、この作品に影響を受け、狂気・性・懲罰について研究していた。<br /> <br /> 河出書房新社からは、この作品の標題を冠した叢書として「[http://www.kawade.co.jp/np/search?ser_id=87064 シリーズ・道徳の系譜]」(1997年-)が刊行されている。<br /> <br /> {{節stub}}<br /> <br /> ==翻訳==<br /> *[[生田長江]]訳&lt;ref&gt;訳題は「道徳系譜学」。&lt;/ref&gt;、『ニイチエ全集』第6編所収、[[新潮社]]、[[1923年]]<br /> **『ニイチェ全集』第9巻所収、[[日本評論社]] 、[[1935年]]<br /> *[[木場深定]]訳、『道徳の系譜』[[岩波文庫]]、[[1940年]]、改訳版1964年 、ISBN 4003363949<br /> *[[吉田次郎]]訳、『ニイチェ全集』第8巻所収、[[創元社]]、[[1950年]]<br /> *[[竹山道雄]]訳、『ニーチェ全集』第8巻所収、[[新潮社]]、[[1952年]]<br /> *[[信太正三]]訳、『ニーチェ全集』第10巻所収、[[理想社]]、[[1967年]]<br /> **『ニーチェ全集〈11〉 [[善悪の彼岸]] 道徳の系譜』 [[ちくま学芸文庫]]、[[1993年]]、ISBN 4480080813<br /> *[[秋山英夫]]訳、『ニーチェ全集』第3巻(第2期)所収、[[白水社]]、[[1983年]]、ISBN 4560019630<br /> *[[中山元]]訳、『道徳の系譜学』 [[光文社古典新訳文庫]]、2009年、ISBN 4334751857<br /> <br /> ==脚注==<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;&lt;references/&gt;&lt;/div&gt;&lt;!--注:新しい注をつける場合はここに書き加えるのではなく、本文中に&lt;ref&gt;と&lt;/ref&gt;で囲んで挿入すること --&gt;<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[ルサンチマン]]<br /> *[[君主-奴隷道徳]]<br /> *[[パウル・レー]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * ドイツ語原文<br /> ** [http://www.nietzschesource.org/texts/eKGWB/GM Zur Genealogie der Moral] Nietzsche Source - Digitale Kritische Gesamtausgabe (eKGWB)(コリ・モンティナリ版)<br /> * 英語訳<br /> ** [http://records.viu.ca/~johnstoi/Nietzsche/genealogytofc.htm On the Genealogy of Morals] Ian Johnstonによる英語訳<br /> <br /> {{フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{Philos-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:とうとくのけいふ}}<br /> [[Category:ニーチェの著作]]<br /> [[Category:悪の問題]]<br /> [[Category:1880年代の書籍]]<br /> [[Category:実存主義の著作]]<br /> [[Category:倫理学の書籍]]<br /> [[Category:道徳]]</div> 121.84.178.202 善悪の彼岸 2018-07-25T21:51:45Z <p>121.84.178.202: </p> <hr /> <div>『&#039;&#039;&#039;善悪の彼岸&#039;&#039;&#039;』(ぜんあくのひがん、[[ドイツ語]]原題:&#039;&#039;Jenseits von Gut und Böse&#039;&#039;、1886年)は、[[ドイツ人]][[哲学者]] [[フリードリヒ・ニーチェ]]の著書。副題は「将来の哲学への序曲」([[ドイツ語]]:&#039;&#039;Vorspiel einer Philosophie der Zukunft&#039;&#039;)となっている。<br /> <br /> 前著『[[ツァラトゥストラはこう語った]]』でのいくつもの考えを取り上げ、さらに詳しく述べている。前著では明るく、生を肯定していたが、本書では高度に批判的、論争的なアプローチへと変えている。<br /> <br /> 過去の[[哲学者]]たちが[[道徳]]性について考察するときに、批判的感覚が欠けていた疑いがあることと、とりわけ[[キリスト教]]の諸前提を盲目的に受け入れていたことを、ニーチェはこの『善悪の彼岸』で非難している。代表的な対象は[[カント]]、[[マルティン・ルター|ルター]]である。本書は[[伝統]]的な道徳性を、排し進むという意味で、「善悪を超えた(=善悪の[[彼岸]]にある)」領域へと進む。伝統的な道徳性を、ニーチェは破壊的な批判にさらすわけである。その批判をするときニーチェが支持するのは、感覚主義や[[モラリスム]]であり、近代的個人の危険な状態等と衝突することを恐れない積極的なアプローチと自らみなすものである。[[ジョルジュ・ビゼー|ビゼー]]、[[スタンダール]]を称賛している。<br /> <br /> == 文庫訳本 ==<br /> *『善悪の彼岸 [[道徳の系譜]]』 [[信太正三]]訳(ニーチェ全集(11) [[ちくま学芸文庫]](新版)、1993年) ISBN 4480080813<br /> *『善悪の彼岸』 [[中山元]]訳([[光文社古典新訳文庫]]、2009年) ISBN 4334751806<br /> *『善悪の彼岸』 [[竹山道雄]]訳([[新潮文庫]]、改版2008年) ISBN 4102035044 <br /> *『善悪の彼岸』 木場深定訳([[岩波文庫]]、初版1970年、改版2010年) ISBN 4003363957<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.allphilosophers.com/nietzsche/nindex.html 善悪の彼岸] – 全テキスト(英語訳)<br /> *{{gutenberg|no=4363|name=善悪の彼岸}} &amp;mdash; (英語訳)<br /> *{{gutenberg|no=7204|name=善悪の彼岸}} &amp;mdash; (ドイツ語)<br /> <br /> {{フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{Philos-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:せんあくのひかん}}<br /> [[Category:ニーチェの著作]]<br /> [[Category:悪の問題]]<br /> [[Category:道徳]]<br /> [[Category:1880年代の書籍]]<br /> [[Category:実存主義の著作]]<br /> [[Category:倫理学の書籍]]</div> 121.84.178.202 フリードリヒ・ニーチェ 2018-07-25T21:38:55Z <p>121.84.178.202: </p> <hr /> <div>{{redirect|ニーチェ}}<br /> {{複数の問題|ソートキー=人1900年没<br /> |観点= 2013年7月12日 (金) 13:53 (UTC)<br /> |出典の明記 = 2013年7月12日 (金) 13:53 (UTC)<br /> |大言壮語=2013年7月12日 (金) 13:53 (UTC)<br /> }}<br /> {{Infobox 哲学者<br /> | region = [[西洋哲学]]<br /> | era = [[19世紀の哲学]]<br /> | image_name = Nietzsche1882.jpg<br /> | image_size = 200px<br /> | image_alt = <br /> | image_caption = [[1882年]]の肖像<br /> | name = フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ&lt;br /&gt;Friedrich Wilhelm Nietzsche<br /> | other_names = <br /> | birth_date = {{生年月日と年齢|1844|10|15|no}}<br /> | birth_place = {{PRU1803}}、レッツェン・バイ・リュッケン<br /> | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1844|10|15|1900|8|25}}<br /> | death_place = {{DEU1871}}、[[ヴァイマル]]<br /> | school_tradition = [[大陸哲学]]、[[ドイツ観念論]]、[[形而上学]]的[[主意主義]]、[[:en:Weimar Classicism|Weimar Classicism]]、[[反基礎付け主義]]、[[実存主義]]<br /> | main_interests = [[美学]]、[[倫理学]]、[[形而上学]]、[[ニヒリズム]]、[[心理学]]、[[存在論]]、[[詩]]、価値の理論、[[悲劇]]、[[無神論]]、[[主意主義]]、事実と価値の区別、[[反基礎付け主義]]、[[歴史哲学]]<br /> | notable_ideas = アポロとディオニュソス、[[超人]]、[[ルサンチマン]]、[[力への意志]]、「神は死んだ」、[[永劫回帰]]、[[運命愛]]Amor fati、[[畜群]]、[[:en:Tschandala|チャンダラ]]、「最後の人間」、遠近法主義、[[君主-奴隷道徳]]、価値の再評価、肯定<br /> | influences = [[フョードル・ドストエフスキー]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、[[ラルフ・ワルド・エマーソン]]、[[ヘラクレイトス]]、[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]、[[バーナード・デ・マンデヴィル]]、[[ブレーズ・パスカル]]、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル]]、[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]、[[バールーフ・デ・スピノザ]]、[[リヒャルト・ワーグナー]]、[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]など<br /> | influenced = [[テオドール・アドルノ]]、[[ロラン・バルト]]、[[ジャン・ボードリヤール]]、[[ジョルジュ・バタイユ]]、[[ジュディス・バトラー]]、[[ジョーゼフ・キャンベル]]、[[エミール・シオラン]]、[[ジル・ドゥルーズ]]、[[ジャック・デリダ]]、[[ユリウス・エヴォラ]]、[[ミシェル・フーコー]]、[[ジークムント・フロイト]]、[[マルティン・ハイデッガー]]、[[カール・ヤスパース]]、[[カール・グスタフ・ユング]]、[[ニック・ランド]]、Anthony Ludovici、[[ヘンリー・ルイス・メンケン]]、[[アイン・ランド]]、[[ライナー・マリア・リルケ]]、[[ジャン=ポール・サルトル]]、[[レオ・シュトラウス]]、[[ナシム・ニコラス・タレブ]]、[[バーナード・ウィリアムズ (哲学者)|バーナード・ウィリアムズ]]、[[ムハンマド・イクバール]]、[[ネイサン・フロイデンソール・レオポルド二世]]、[[リチャード・アルバート・ローブ]]など<br /> | signature = Friedrich Nietzsche Signature.svg<br /> | signature_alt = <br /> | website = &lt;!-- {{URL|example.com}} --&gt;<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ&#039;&#039;&#039;({{lang-de-short|&#039;&#039;&#039;Friedrich Wilhelm Nietzsche&#039;&#039;&#039;}}, [[1844年]][[10月15日]] - [[1900年]][[8月25日]])は、[[ドイツ]]の[[哲学者]]、[[古典文献学|古典文献学者]]。現代では[[実存主義]]の代表的な思想家の一人として知られる。古典文献学者[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル]]に才能を見出され、哲学[[教授]]職を希望しつつも、[[バーゼル大学]]古典文献学[[教授]]となり、辞職した後は在野の哲学者として一生を過ごした。随所に[[格言|アフォリズム]]を用いた、巧みな散文的表現による試みには、文学的価値も認められる。<br /> <br /> なお、[[ドイツ語]]では、「ニーチェ」(&#039;&#039;&#039;フリー&#039;&#039;&#039;ドリヒ {{IPA|ˈfriːdrɪç}} &#039;&#039;&#039;ヴィ&#039;&#039;&#039;ルヘルム {{IPA|ˈvɪlhɛlm}} &#039;&#039;&#039;ニー&#039;&#039;&#039;チェ {{IPA|ˈniːtʃə}})のみならず「ニーツシェ」{{IPA|ˈniːtsʃə}}とも[[発音]]される&lt;ref&gt;『現代独和辞典』三修社、1992年、第1354版による。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 少年時代 ===<br /> ニーチェは、[[1844年]][[10月15日]]火曜日に[[プロイセン王国]]領プロヴィンツ・ザクセン(Provinz Sachsen - 現在は[[ザクセン=アンハルト州]]など)、[[ライプツィヒ]]近郊の小村レッツェン・バイ・リュッケンに、父カール・ルートヴィヒと母フランツィスカの間に生まれた。父カールは、[[ルーテル教会|ルター派]]の裕福な[[牧師]]で元[[教師]]であった。同じ日に49回目の誕生日を迎えた当時のプロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]にちなんで、「フリードリヒ・ヴィルヘルム」と名付けられた。なお、ニーチェは後にミドルネーム「ヴィルヘルム」を捨てている。<br /> <br /> [[1846年]]には妹[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ|エリーザベト]]が、[[1848年]]には弟ルートヴィヒ・ヨーゼフが生まれている。しかし、ニーチェが4歳の時([[1848年]])8月、父カール・ルートヴィヒは近眼が原因で足元にいた小犬に気付かず、つまづき玄関先の石段を転げ落ちて頭を強く打ち付けた。ニーチェ5歳の時[[1849年]][[4月30日]]にこの時の怪我が原因で死去した。また、それを追うように、[[1850年]]には2歳の弟ヨーゼフが歯が原因とされる、けいれんによって病死。&lt;ref&gt;『人と思想22ニーチェ』第26刷p47-48&lt;/ref&gt;また、父の死の日付に関しては、ニーチェ自身は、7月27日と語り、弟の死に関しては、1850年1月末の出来事と語る。&lt;ref&gt;『ニーチェ全集 第14巻 この人を見よ・自伝集』理想社 第一版第五刷p166~168&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;命日に関しては、他にも様々な主張がある&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 男手を失い、家計を保つ必要性があったことから、父方の祖母とその兄クラウゼ牧師を頼って故郷レッケンを去り[[ナウムブルク]]に移住する。また、二人の伯母も家事や食事などに協力した。計6人での[[ナウムブルク]]での生活が始まった。<br /> <br /> その後ニーチェは、6歳になる前に、[[ナウムブルク]]の市立小学校に入学する。翌年、ウェーベル(ウェーバー)氏の私塾(予備校)に入った。数年そこで学び、1854年にナウムブルクの[[ギムナジウム]]に入学する。&lt;ref&gt;『人と思想22ニーチェ』第26刷p50-51&lt;/ref&gt;<br /> <br /> なお、私塾では、ギリシア語ラテン語の初歩教育を受け、ただ勉強を受けるだけではなく、外へ遠足へ出かけることもあり楽しかったとニーチェは語る。&lt;ref&gt;『ニーチェ全集 第14巻 この人を見よ・自伝集』理想社 第一版第五刷p170 - 171&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ニーチェは、父が死ぬ前の幼い時代を幸せだったこと、しかしその後父や弟が死んだ時の悲しみをギムナジウム時代に書いた自伝集で綴っている。また伯母や祖母の死もあったこと、そして、その他のいろんな困難を自分が乗り越えて来た事を語る。そして、それには神の導きのお陰があったと信じていた。&lt;ref&gt;『ニーチェ全集 第14巻 この人を見よ・自伝集』理想社 第一版第五刷p166 - 168,184 - 185,198&lt;/ref&gt;神に関しては、この時代はまだ信仰していた事がわかる。<br /> <br /> ==== ある雨の日の話 ====<br /> 市立小学校時代のニーチェの性格をうかがわせるものとして、多くの解説書で語られる有名なエピソードがある。<br /> <br /> まだニーチェが市立小学校に通っていた頃、帰りににわか雨が降って来た。他の子供たちは傘がなく走って帰って来た。にも関わらずニーチェは一人雨の中を頭にハンカチを載せて歩いて帰って来たという。心配して途中まで来ていた母が「何故、走ってこないのか」と怒ったところ、ニーチェは校則に帰りは走らず静かに帰れと書いてあるから、と述べたという。このエピソードは、よくニーチェという人物の生真面目さと結び付けられて語られている。<br /> <br /> ==== エリザベートの兄への思い ====<br /> エリザベートが残した文からエリザベートが兄への尊敬の念を持っていたことも分かっている。その理由はニーチェの誠実さや嘘を憎むこと、さらには活発で抑えのきかない自分に自制の心を教えてくれたからだという。<br /> <br /> さらに、エリザベートは6歳の頃から、ニーチェの書いた文を集めていたことがわかっている。エリザベートは、ニーチェ文庫を創設しており、彼女が集めた文書はニーチェの研究に大きく貢献した。一方で彼女は、兄ニーチェの遺稿をめちゃくちゃに編集したり、ナチスに宣伝したりした。その理由は、自身の名誉のためという説が強いが、こうした、エリザベートの兄への思いも考慮して、兄への尊敬の念が行き過ぎてしまっただけなのだという見方をする者もいる。&lt;ref&gt;『人と思想22ニーチェ』第26刷p52&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 青年時代 ===<br /> [[ファイル:Nietzsche1861.jpg|200px|thumb|1861年のニーチェ]]<br /> [[ファイル:Nietzsche187b.jpg|180px|thumb|1868年のニーチェ。除隊する際に撮影]]<br /> ニーチェは、[[1854年]]からナウムブルクの[[ギムナジウム]]へ通った。<br /> <br /> ギムナジウムでは[[音楽]]と[[国語]]の優れた才能を認められていた。プフォルター学院に移る少し前、一人の伯母の死とそれに相次ぐ、祖母の死をきっかけにニーチェの母は移住することを決める。ニーチェの母は友達の牧師に家を借りる。ニーチェは勉強やスポーツに励み、友人であるピンデル(ピンダー)やクルークとの交流のおかげもあって芸術や作曲に長けていた。<br /> <br /> その噂を聞いたドイツ屈指の名門校{{仮リンク|プフォルタ学院|de|Landesschule Pforta|en|Pforta}}の校長から[[給費生]]としての転学の誘いが届く。ドイツ屈指の名門校プフォルタ学院に&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;卒業生には[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]、[[レオポルト・フォン・ランケ|ランケ]]、[[シュレーゲル兄弟]]などがいる&lt;/ref&gt;ニーチェは、母や妹とのしばしの別れを惜しみながらも入学する事を決心した。このとき、生まれて初めて、田舎の保守的な[[キリスト教]]精神から離れて暮らすこととなる。<br /> <br /> [[1858年]]から[[1864年]]までは、[[古代ギリシア]]や[[ローマ]]の古典・哲学・文学等を[[全寮制]]・[[個別指導]]で鍛えあげられ、模範的な成績を残す。また、[[詩]]の執筆や[[作曲]]を手がけてみたり、[[パウル・ドイッセン]]([[:en:Paul Deussen|Paul Deussen]])と友人になったりした。<br /> <br /> またニーチェは、プフォルター学院時代に、詩や音楽を自作し互いに評価しあうグループ「ゲルマニア」を結成し、その中心人物として活動した。<br /> <br /> === 大学生時代 ===<br /> [[1864年]]にプフォルター学院を卒業すると、ニーチェは[[ボン大学]]へ進んで、[[神学部]]と[[哲学部]]に籍を置く。神学部に籍を置いたのは、母がニーチェに父の後をついで牧師になる事を願っていたための配慮だったと指摘される。しかし、ニーチェは徐々に哲学部での古典文献学の研究に強い興味を持っていく。<br /> <br /> そして、最初の学期を終える頃には、信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩をしている(当時のドイツの田舎で、牧師の息子が信仰を放棄するというのは、大変珍しい事で、ましてや、夫を亡くした母にとっては、一家の一大事と考えた事も予測できる)。ニーチェのこの決断に大きな影響を及ぼしたのは、[[ダーヴィト・シュトラウス]]の著書『イエスの生涯』である。<br /> <br /> ニーチェは、大学在学中に、友人ドイッセンとともに「フランコニア」という[[ブルシェンシャフト]](学生運動団体)に加わったが、最初の頃は楽しんでいた物の、徐々にニーチェはその騒がしさや野蛮さに嫌悪を抱いていったようである。その事は、友人ゲルスドルフに宛てた手紙から確認されている。&lt;ref&gt;『人と思想22ニーチェ』第26刷p63 - 64&lt;/ref&gt; <br /> <br /> また、ボン大学では、古典文献学の研究で実証的・批判的なすぐれた研究を行った{{仮リンク|フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル|en|Friedrich Wilhelm Ritschl}}と出会い、師事する。リッチュルは、当時大学1年生であったニーチェの類い稀な知性をいち早く見抜き、ただニーチェに受賞させるためだけに、懸賞論文の公募を行なうよう大学当局へもちかけている。<br /> <br /> ニーチェは、このリッチュルのもとで[[文献学]]を修得している。そして、リッチュルが[[ボン大学]]から[[ライプツィヒ大学]]へ転属となったのに合わせて、自分もライプツィヒ大学へ転学する。このライプツィヒ大学では、ギリシア宗教史家{{仮リンク|エルヴィン・ローデ|en|Erwin Rohde}}と知り合い親友となる。彼は、後に[[イェーナ大学]]や[[ハイデルベルク大学]]などで教鞭を取ることになる。また、[[1867年]]には、[[一年志願兵 (ドイツ)|一年志願兵]]として[[砲兵]][[師団]]へ入隊するが、[[1868年]]3月に落馬事故で大怪我をしたため除隊する。それから、再び学問へ没頭することになる。<br /> <br /> ライプツィヒ大学在学中、ニーチェの思想を形成する上で大きな影響があった指摘される出会いが、2つあった。ひとつは、[[1865年]]に[[古書店|古本屋]]の離れに下宿していたニーチェが、その店で[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]の『[[意志と表象としての世界]]』を偶然購入し、この書の虜となったことである。もうひとつは、[[1868年]]11月、リッチュルの紹介で、当時ライプツィヒ滞在していた[[リヒャルト・ワーグナー|リヒャルト・ヴァーグナー]]と面識を得られたことである。ローデ宛ての手紙の中で、ショーペンハウエルについてヴァーグナーと論じ合ったことや、「音楽と哲学について語り合おう」と自宅へ招待されたことなどを興奮気味に伝えている。<br /> <br /> === バーゼル大学教授時代 ===<br /> [[ファイル:Franz und Ida Overbeck.JPG|200px|サムネイル|フランツ・オーヴァーベック(左の人物)]]<br /> [[ファイル:Rohde Gersdorff Nietzsche-2.JPG|200px|thumb|1871年、右からニーチェ、カール・フォン・ゲルスドルフ、エルヴィン・ローデ]]<br /> [[1869年]]のニーチェは24歳で、[[博士号]]も教員資格も取得していなかったが、リッチュルの「長い教授生活の中で彼ほど優秀な人材は見たことがない」という強い推挙もあり、[[バーゼル大学]]から[[古典文献学]]の[[教授]]として招聘された。バーゼルへ赴任するにあたり、ニーチェはスイス国籍の取得を考え、プロイセン国籍を放棄する(実際にスイス国籍を取得してはいない。これ以後、ニーチェは終生無国籍者として生きることとなる&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ただし[[普仏戦争]]([[1870年]] - [[1871年]])中の一時期だけはプロイセン軍に従軍し、トラウマにもなる経験をしたうえに[[ジフテリア]]や[[赤痢]]を患ったりもしている。&lt;/ref&gt;)。<br /> <br /> 本人は哲学の担当を希望したが受け入れられず、[[古代ギリシア]]に関する古典文献学を専門とすることとなる。講義は就任講演「[[ホメロス]]と古典文献学」に始まるが、自分にも学生にも厳しい講義のスタイルは当時話題となった。研究者としては、古代の詩における基本単位は音節の長さだけであり、近代のようなアクセントに基づく基本単位とは異なるということを発見した。終生の友人となる神学教授[[フランツ・オーヴァーベック]]([[:en:Franz Overbeck|Franz Overbeck]])と出会ったほか、古代ギリシアや[[ルネサンス]]時代の文化史を講じていた[[ヤーコプ・ブルクハルト]]との親交が始まり、その講義に出席するなどして深い影響を受けたのもバーゼル大学でのことである。<br /> <br /> [[1872年]]、ニーチェは第一作『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(再版以降は『[[悲劇の誕生]]』と改題)を出版した。<br /> <br /> しかしリッチュルや同僚をはじめとする文献学者の中には、厳密な古典文献学的手法を用いず哲学的な推論に頼ったこの本への賛意を表すものは一人とてなかった。特に[[ウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ]]は『未来の文献学』と題した(ヴァーグナーが自分の音楽を「未来の音楽」と称していたことにあてつけた題である)強烈な批判論文を発表し、まったくの主観性に彩られた『悲劇の誕生』は文献学という学問に対する裏切りであるとしてこの本を全否定した。好意をもってこの本を受け取ったのは、献辞を捧げられたヴァーグナーの他にはボン大学以来の友人ローデ(当時はキール大学教授)のみである。こうした悪評が響いたため同年冬学期のニーチェの講義からは古典文献学専攻の学生がすべて姿を消し、聴講者はわずかに2名(いずれも他学部)となってしまう。大学の学科内で完全に孤立したニーチェは哲学科への異動を希望するが認められなかった。<br /> <br /> ==== ヴァーグナーへの心酔と決別 ====<br /> [[ファイル:RichardWagner.jpg|200px|thumb|リヒャルト・ヴァーグナー]]<br /> 生涯を通じて音楽に強い関心をもっていたニーチェは学生時代から熱烈な[[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]のファンであり、[[1868年]]にはすでにライプツィヒでヴァーグナーとの対面を果たしている。やがてヴァーグナーの妻[[コジマ・ワーグナー|コジマ]]とも知遇を得て夫妻への賛美の念を深めたニーチェは、[[バーゼル]]へ移住してからというもの、同じくスイスの[[ルツェルン]]市トリプシェンに住んでいたヴァーグナーの邸宅へ何度も足を運んだ(23回も通ったことが記録されている)。ヴァーグナーは31歳も年の離れたニーチェを親しい友人たちの集まりへ誘い入れ、[[バイロイト祝祭劇場]]の建設計画を語り聞かせてニーチェを感激させ、一方ニーチェは[[1870年]]のコジマの誕生日に『悲劇の誕生』の原型となった論文&lt;!-- &quot;The Genesis of the Tragic Idea&quot; --&gt;の手稿をプレゼントするなど、二人は年齢差を越えて親交を深めた。<br /> <br /> 近代ドイツの美学思想には、[[古代ギリシア]]を「宗教的共同体に基づき、美的かつ政治的に高度な達成をなした理想的世界」として構想するという、美術史家[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]以来の伝統があった。当時はまだそれほど影響力をもっていなかった音楽家であると同時に、[[1848年革命|ドイツ3月革命]]に参加した革命家でもあるヴァーグナーもまたこの系譜に属している。『芸術と革命』をはじめとする彼の論文では、この滅び去った古代ギリシアの文化(とりわけ[[ギリシア悲劇]])を復興する芸術革命によってのみ人類は近代文明社会の頽落を超克して再び自由と美と高貴さを獲得しうる、との[[ロマン主義]]的思想が述べられている。そしてニーチェにとって(またヴァーグナー本人にとっても)、この革命を成し遂げる偉大な革命家こそヴァーグナーその人に他ならなかった。<br /> <br /> ヴァーグナーに対するニーチェの心酔ぶりは、第一作『[[悲劇の誕生]]』([[1872年]])において古典文献学的手法をあえて踏み外しながらもヴァーグナーを(同業者から全否定されるまでに)きわめて好意的に取りあげ、ヴァーグナー自身を狂喜させるほどであったが、その後はヴァーグナー訪問も次第に形式的なものになっていった。<br /> <br /> [[1876年]]、ついに落成した[[バイロイト祝祭劇場]]での第1回[[バイロイト音楽祭]]および主演目『[[ニーベルングの指環]]』初演を観に行くが、パトロンのバイエルン王[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]やドイツ皇帝[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]といった各国の国王や貴族に囲まれて得意の絶頂にあるヴァーグナーその人と自身とのあいだに著しい隔たりを感じたニーチェは、そこにいるのが市民社会の[[道徳]]や宗教といった既成概念を突き破り、芸術によって世界を救済せんとするかつての革命家ヴァーグナーでないこと、そこにあるのは古代ギリシア精神の高貴さではなく[[ブルジョア]]社会の卑俗さにすぎないことなどを確信する。また肝心の『ニーベルングの指環』自体も出来が悪く(事実、新聞等で報じられた舞台評も散々なものであったためヴァーグナー自身ノイローゼに陥っている)、ニーチェは失望のあまり上演の途中で抜け出し、ついにヴァーグナーから離れていった。祝祭劇場から離れる際、ニーチェは妹のエリーザベトに対し、「これがバイロイトだったのだよ」と言った。<br /> <br /> この一件と前後して書かれた『バイロイトにおけるヴァーグナー』ではまだ抑えられているが、ヴァーグナーへの懐疑や失望の念は深まってゆき、二人が顔を合わせるのはこの年が最後のこととなった。[[1878年]]、ニーチェはヴァーグナーから『[[パルジファル]]』の台本を贈られるが、ニーチェからみれば通俗的なおとぎ話にすぎない『[[聖杯伝説]]』を題材としたこの作品の構想を得意げに語るヴァーグナーへの反感はいよいよ募り、この年に書かれた『[[人間的な、あまりにも人間的な]]』でついに決別の意を明らかにし、公然とヴァーグナー批判を始めることとなる。ヴァーグナーからも反論を受けたこの書をもって両者は決別し、再会することはなかった。<br /> <br /> しかし晩年、ニーチェは、ヴァーグナーとの話を好んでし、最後に必ず「私はヴァーグナーを愛していた」と付け加えていたという。また同じく発狂後、ヴァーグナー夫人[[コジマ・ワーグナー|コジマ]]に宛てて「[[アリアドネー|アリアドネ]]、余は御身を愛す、[[ディオニュソス]]」と謎めいた愛の手紙を送っていることから、コジマへの横恋慕がヴァーグナーとの決裂に関係していたと見る向きもある。一方のコジマは、ニーチェを夫ヴァーグナーを侮辱した男と見ており、マイゼンブーグ充ての書簡では「あれほど惨めな男は見たことがありません。初めて会った時から、ニーチェは病に苦しむ病人でした」と書いている。<br /> <br /> [[ファイル:Nietzsche187a.jpg|200px|thumb|1875年、バーゼル大学教授時代のニーチェ]]<br /> [[1873年]]から[[1876年]]にかけて、ニーチェは4本の長い評論を発表した。『ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家』(1873年)、『生に対する歴史の利害』([[1874年]])、『教育者としてのショーペンハウアー』([[1874年]])、『バイロイトにおけるヴァーグナー』(1876年)である。これらの4本(のちに『[[反時代的考察]]』(1876年)の標題のもとに一冊にまとめられる)はいずれも発展途上にあるドイツ文化に挑みかかる文明批評であり、その志向性はショーペンハウエルとヴァーグナーの思想を下敷きにしている。死後に『ギリシア人の悲劇時代における哲学』として刊行される草稿をまとめはじめたのも1873年以降のことである。<br /> <br /> またこの間にヴァーグナー宅での集まりにおいて[[マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク]]という[[フェミニズム|女性解放運動]]に携わるリベラルな女性(ニーチェやレーに[[ルー・アンドレアス・ザロメ|ルー・ザロメ]](後述)を紹介したのも彼女である)やコジマ・ヴァーグナーの前夫である音楽家[[ハンス・フォン・ビューロー]]、また[[パウル・レー]]らとの交友を深めている。特に1876年の冬にはマイゼンブークやレーともに[[イタリア]]の[[ソレント]]にあるマイゼンブークの別荘まで旅行に行き、哲学的な議論を交わしたりなどしている(ここでの議論をもとに書かれたレーの著書『道徳的感覚の起源』をニーチェは高く評価していた。またソレント滞在中には偶然近くのホテルに宿泊していたヴァーグナーと邂逅しており、これが二人があいまみえた最後の機会となる)。レーとの交友やその思想への共感は、初期の著作に見られたショーペンハウエルに由来する[[ペシミズム]]からの脱却に大きな影響を与えている。<br /> <br /> [[1878年]]、『[[人間的な、あまりにも人間的な]]』出版。[[形而上学]]から[[道徳]]まで、あるいは[[宗教]]から[[性]]までの多彩な主題を含むこの[[アフォリズム]]集において、ついにヴァーグナーおよび[[ショーペンハウエル]]からの離反の意を明らかにしたため、この書はニーチェの思想における初期から中期への分岐点とみなされる。また、初期ニーチェのよき理解者であったドイッセンやローデとの交友もこのころから途絶えがちになっている。<br /> <br /> 翌[[1879年]]、激しい[[頭痛]]を伴う病によって体調を崩す。ニーチェは極度の[[近眼]]で発作的に何も見えなくなったり、[[偏頭痛]]や激しい胃痛に苦しめられるなど、子供のころからさまざまな健康上の問題を抱えており、その上1868年の落馬事故や1870年に患った[[ジフテリア]]などの悪影響もこれに加わっていたのである。バーゼル大学での勤務中もこれらの症状は治まることがなく、仕事に支障をきたすまでになったため、10年目にして大学を辞職せざるをえず、以後は執筆活動に専念することとなった。ニーチェの哲学的著作の多くは、教壇を降りたのちに書かれたものである。<br /> <br /> === 在野の哲学者として ===<br /> ニーチェは、病気の療養のために[[気候]]のよい土地を求めて、[[1889年]]までさまざまな都市を旅しながら、在野の哲学者として生活した。夏は[[スイス]]の[[グラウビュンデン州]][[サンモリッツ]]近郊の村[[シルス・マリア]]で、冬は[[イタリア]]の[[ジェノヴァ]]、[[ラパッロ]]、[[トリノ]]、あるいは[[フランス]]の[[ニース]]といった都市で過ごした。<br /> <br /> 時折、ナウムブルクの家族のもとへも顔を出したが、エリーザベトとの間で衝突を繰り返すことが多かった。ニーチェは、バーゼル大学からの年金で生活していたが、友人から財政支援を受けることがあった。かつての生徒である音楽家[[ペーター・ガスト]](本名は[[:en:Heinrich Köselitz|Heinrich Köselitz]]で、ペーター・ガストというペンネームは、ニーチェが与えたものである)が、ニーチェの秘書として勤めるようになっていた。ガストとオーヴァーベックは、ニーチェの生涯を通じて、誠実な友人であり続けた。<br /> <br /> また、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークも、ニーチェがヴァーグナーのサークルを抜け出た後もニーチェに対して、母性的なパトロンでありつづけた。その他にも、音楽評論家の[[カール・フックス]]とも連絡を取り合うようになり、それなりの交友関係がまだニーチェには残されていた。そして、このころからニーチェの最も生産的な時期がはじまる。<br /> <br /> 1878年に『[[人間的な、あまりに人間的な]]』を刊行した。そして、それを皮切りにして、ニーチェは[[1888年]]まで毎年1冊の著作(ないしその主要部分)を出版することになる。特に、執筆生活最後となる1888年には、5冊もの著作を書き上げるという多産ぶりであった。[[1879年]]には、『人間的な』と同様のアフォリズム形式による『[[さまざまな意見と箴言]]』を、翌[[1880年]]には『[[漂泊者とその影]]』を出版した。これらは、いずれも『人間的な』の第2部として組み込まれるようになった。<br /> <br /> ==== ルー・ザロメとの交友 ====<br /> [[ファイル:Nietzsche paul-ree lou-von-salome188.jpg|200px|thumb|左からルー・ザロメ、パウル・レー、ニーチェ。1882年ルツェルンにて]]<br /> ニーチェは[[1881年]]に『[[曙光]]:道徳的先入観についての感想』を、翌[[1882年]]には『[[悦ばしき知識]]』の第1部を発表した。『[[力への意志]]』として知られる著作の構想が芽生えたのもこの時期と言われる(草稿類の残っているのは84年頃から)。またこの年の春、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとパウル・レーを通じて[[ルー・アンドレアス・ザロメ|ルー・ザロメ]]と知り合った。<br /> <br /> ニーチェは(しばしば付き添いとしてエリーザベトを伴いながら)5月には[[スイス]]の[[ルツェルン]]で、夏には[[テューリンゲン州]]のタウテンブルクでザロメやレーとともに夏を過ごした。ルツェルンではレーとニーチェが馬車を牽き、ザロメが鞭を振り回すという悪趣味な写真をニーチェの発案で撮影している。ニーチェにとってザロメは対等なパートナーというよりは、自分の思想を語り聞かせ、理解しあえるかもしれない聡明な生徒であった。彼はザロメと恋に落ち、共通の友人であるレーをさしおいてザロメの後を追い回した。そしてついにはザロメに求婚するが、返ってきた返事はつれないものだった。<br /> <br /> レーも同じころザロメに結婚を申し入れて同様に振られている。その後も続いたニーチェとレーとザロメの三角関係は[[1882年]]から翌年にかけての冬をもって破綻するが、これにはザロメに嫉妬してニーチェ・レー・ザロメの三角関係を不道徳なものとみなしたエリーザベトが、ニーチェとザロメの仲を引き裂くために密かに企てた策略も一役買っている。後年、自分に都合のよい虚偽に満ちたニーチェの伝記を執筆するエリーザベトは、この件に関しても兄の書簡を破棄あるいは偽造したりザロメのことを中傷したりなどして、均衡していた[[三角関係]]をかき乱したのである。結果として、ザロメとレーの二人はニーチェを置いて[[ベルリン]]へ去り、[[同棲]]生活を始めることとなった。<br /> <br /> [[失恋]]による傷心、病気による発作の再発、ザロメをめぐって母や妹と不和になったための孤独、自殺願望にとりつかれた苦悩などの一切から解放されるため、ニーチェはイタリアの[[ラパッロ]]へ逃れ、そこでわずか10日間のうちに『[[ツァラトゥストラはこう語った|ツァラトゥストラはかく語りき]]』の第1部を書き上げる。<br /> <br /> [[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]との哲学的つながりも[[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]との社会的つながりも断ち切ったあとでは、ニーチェにはごくわずかな友人しか残っていなかった。ニーチェはこの事態を甘受し、みずからの孤高の立場を堅持した。一時は詩人になろうかとも考えたがすぐにあきらめ、自分の著作がまったくといってよいほど売れないという悩みに煩わされることとなった。[[1885年]]には『ツァラトゥストラ』の第4部を上梓するが、これはわずか40部を印刷して、その内7冊を親しい友人へ献本する &lt;ref&gt;『人と思想22 ニーチェ』第26刷p108&lt;/ref&gt;だけにとどめた。<br /> <br /> [[1886年]]にニーチェは『[[善悪の彼岸]]』を[[自費出版]]した。この本と、1886年から[[1887年]]にかけて再刊したそれまでの著作(『[[悲劇の誕生]]』『[[人間的な、あまりに人間的な]]』『[[曙光]]』『[[悦ばしき知識]]』)の第2版が出揃ったのを見て、ニーチェはまもなく読者層が伸びてくるだろうと期待した。事実、ニーチェの思想に対する関心はこのころから(本人には気づかれないほど遅々としたものではあったが)高まりはじめていた。<br /> <br /> {{仮リンク|メータ・フォン・ザーリス|de|Meta von Salis}}や[[カール・シュピッテラー]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;[[1919年]]に[[ノーベル文学賞]]を受賞した作家。処女作『プロメテウスとエピメテウス』はしばしば『ツァラトゥストラ』からの影響が指摘される。&lt;/ref&gt;、[[ゴットフリート・ケラー]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ニーチェはケラーの[[教養小説]]『[[緑のハインリヒ]]』を、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]作『ヴィルヘルム・マイスター』や[[アーダルベルト・シュティフター|シュティフター]]作『晩夏』とともにドイツ文学の中で最も高く評価している。&lt;/ref&gt;と知り合ったのはこのころである。<br /> <br /> 1886年、妹のエリーザベトが[[反ユダヤ主義|反ユダヤ主義者]]の[[ベルンハルト・フェルスター]]と結婚し、[[パラグアイ]]に「ドイツ的」コロニーを設立するのだという(ニーチェにとっては噴飯物の)計画を立てて旅立った。書簡の往来を通じて兄妹の関係は対立と和解のあいだを揺れ動いたが、ニーチェの精神が崩壊するまで2人が顔を合わせることはなかった。<br /> <br /> 病気の発作が激しさと頻度を増したため、ニーチェは長い時間をかけて仕事をすることが不可能になったが、1887年には『[[道徳の系譜]]』を一息に書き上げた。同じ年、ニーチェは[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]の著作(『[[悪霊 (ドストエフスキー)|悪霊]]』『[[死の家の記録]]』など)を読み、その思想に共鳴している。<br /> <br /> また、[[イポリット・テーヌ]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ニーチェは1886年に『善悪の彼岸』をテーヌに寄贈し、後日テーヌから好意的な礼状を受け取っている。&lt;/ref&gt;や[[ゲーオア・ブランデス]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;『道徳の系譜』を寄贈されたことがニーチェとの交流の契機となった。&lt;/ref&gt;とも文通を始めている。ブランデスはニーチェと[[セーレン・キェルケゴール|キェルケゴール]]を最も早くから評価していた人物の一人であり、1870年代から[[コペンハーゲン大学]]でキェルケゴール哲学を講義していたが、[[1888年]]には同大学でニーチェに関するものとしては最も早い講義を行い、ニーチェの名を世に知らしめるのに一役買った批評家である。<br /> <br /> ブランデスはニーチェにキェルケゴールを読んでみてはどうかとの手紙を書き送り、ニーチェは薦めにしたがってみようと返事をしている&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;キェルケゴールはニーチェが著述活動を始める前の[[1855年]]に亡くなっており、またニーチェはこの後すぐに発狂してしまったため、ともに「実存主義の始祖」として知られる2人は互いの思想に触れることがなかったと長らく信じられてきた。しかしその後の研究によって、キェルケゴールの思想を解説・批評した[[二次資料]]のいくつかをニーチェが読んでいたことが明らかになっている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ニーチェは[[1888年]]に5冊の著作を書き上げた([[フリードリヒ・ニーチェ#著作|著作一覧]]参照)。健康状態も改善の兆しを見せ、夏は快適に過ごすことができた。この年の秋ごろから、彼は著作や書簡においてみずからの地位と「運命」に重きを置くようになり、自分の著書(なかんずく『[[ヴァーグナーの場合]]』)に対する世評について増加の一途をたどっていると過大評価するようにまでなった。<br /> <br /> ニーチェは、44歳の誕生日に、自伝『この人を見よ』の執筆を開始した。『[[偶像の黄昏]]』と『[[アンチクリスト]]』を脱稿して間もない頃であった。序文には「私の言葉を聞きたまえ!私はここに書かれているがごとき人間なのだから。そして何より、私を他の誰かと間違えてはならない」と、各章題には「なぜ私はかくも素晴らしい本を書くのか」「なぜ私は一つの運命であるのか」とまで書き記す。12月、ニーチェは[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ|ストリンドベリ]]との文通を始める。また、このころのニーチェは国際的な評価を求め、過去の著作の版権を出版社から買い戻して外国語訳させようとも考えた。さらに『[[ニーチェ対ヴァーグナー]]』と『[[ディオニュソス賛歌]]』の合本を出版しようとの計画も立てた。また『力への意志』も精力的に加筆や推敲を重ねたが、結局これを完成させられないままニーチェの執筆歴は突如として終わりを告げる。<br /> <br /> === 狂気と死 ===<br /> &lt;!--&gt;精神が崩壊したかどうかの具体的論拠が乏しいため、事実関係だけにしています。&lt;!--&gt;<br /> [[ファイル:Nietzsche Olde 02.JPG|200px|thumb|晩年のニーチェ。ハンス・オルデ撮影、1899年]]<br /> [[1889年]][[1月3日]]、ニーチェは[[トリノ]]市の往来で騒動を引き起し、二人の警察官の厄介になった。<br /> <br /> 数日後、ニーチェは[[コジマ・ワーグナー|コジマ・ヴァーグナー]]や[[ヤーコプ・ブルクハルト|ブルクハルト]]ほか何人かの友人に以下のような手紙を送っている。ブルクハルト宛の手紙では<br /> {{Cquote|<br /> 「私は[[カイアファ]]を拘束させてしまいました。昨年には私自身もドイツの医師たちによって延々と[[磔]](はりつけ)にされました。[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]]と[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」<br /> }}<br /> と書き、またコジマ・ヴァーグナー宛の手紙では、<br /> {{Cquote|<br /> 「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは[[釈迦|仏陀]]でしたし、ギリシアでは[[ディオニュソス]]でした。…[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]と[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]は私の化身ですし、[[ヴォルテール]]と[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]だったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しの[[アリアドネー|アリアドネ]]へ、ディオニュソスより」<br /> }}<br /> というものであった。<br /> <br /> [[1月6日]]、ブルクハルトはニーチェから届いた手紙をオーヴァーベックに見せたが、翌日にはオーヴァーベックのもとにも同様の手紙が届いた。友人の手でニーチェをバーゼルへ連れ戻す必要があると確信したオーヴァーベックはトリノへ駆けつけ、ニーチェをバーゼルの精神病院へ入院させた。ニーチェの母フランツィスカは[[イェーナ]]の病院で精神科医[[オットー・ビンスワンガー]]([[:de:Otto Binswanger|Otto Binswanger]])に診てもらうことに決めた。<br /> <br /> 1889年11月から[[1890年]]2月まで、医者のやり方では治療効果がないと主張した[[ユリウス・ラングベーン]]([[:de:Julius Langbehn|Julius Langbehn]])が治療に当たった。彼はニーチェの扱いについて大きな影響力をもったが、やがてその秘密主義によって信頼を失った。フランツィスカは[[1890年]]3月にニーチェを退院させて5月にはナウムブルクの実家に彼を連れ戻した。&lt;!--{{要出典範囲|初期の解説者はしばしば[[梅毒]]への感染を精神崩壊の原因とみなしているが、ニーチェの示している徴候は梅毒の症例とは矛盾しているところも見られ、[[脳腫瘍]]と診断する向きもある。大方の解説者はニーチェの狂気と哲学を無関係なものと考えているが、[[ジョルジュ・バタイユ]]や[[ルネ・ジラール]]などのように、ニーチェの狂気は彼の哲学によってもたらされた精神的失調だと考える者もいる。|date=2013年7月}}--&gt;<br /> <br /> [[ファイル:Elisabeth förster 1894a.JPG|200px|thumb|エリーザベト・フェルスター=ニーチェ、1894年]]<br /> この間にオーヴァーベックとガストはニーチェの未発表作品の扱いについて相談しあった。1889年1月にはすでに印刷・製本されていた『[[偶像の黄昏]]』を刊行、2月には『[[ニーチェ対ヴァーグナー]]』の私家版50部を注文する(ただし版元の社長C・G・ナウマンはひそかに100部印刷していた)。またオーヴァーベックとガストはその過激な内容のために『アンチクリスト』と『この人を見よ』の出版を見合わせた。<br /> <br /> ===エリーザベトと『力への意志』===<br /> [[1893年]]、エリーザベトが帰国した。夫がパラグアイで「ドイツ的」コロニー経営に失敗し自殺したためであった。彼女はニーチェの著作を読み、かつ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して支配力を振るうようになった。その結果オーヴァーベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従うことを選んだ。<br /> <br /> [[1897年]]に母フランツィスカが亡くなったのち、兄妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトはニーチェの面倒をみながら、訪ねてくる人々(その中には[[ルドルフ・シュタイナー]]もいた)に、もはや意思の疎通ができない兄と面会する許可を与えていた。<br /> <br /> [[1900年]][[8月25日]]、ニーチェは肺炎を患って55歳で没した。エリーザベトの希望で、遺体は故郷レッケンの教会で父の隣に埋葬された。ニーチェは「私の葬儀には数少ない友人以外呼ばないで欲しい」との遺言を残していたが、エリーザベトはニーチェの友人に参列を許さず、葬儀は皮肉にも軍関係者および知識人層により壮大に行なわれた。ガストは弔辞でこう述べている。<br /> <br /> {{Cquote|<br /> ―「未来のすべての世代にとって、あなたの名前が神聖なものであらんことを!」&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ニーチェ自身がいかに神聖視されたくないかを『この人を見よ』の中で語っていることに注意する必要がある。「私は聖者にはなりたくない。道化のほうがまだましだ」&lt;/ref&gt;<br /> }}<br /> <br /> エリーザベトはニーチェの死後、遺稿を編纂して『[[力への意志]]』を刊行した。エリザベートの恣意的な編集はのちに「ニーチェの思想は[[ナチズム]]に通じるものだ」との誤解を生む原因となった(次節参照)。決定版全集ともいわれる『グロイター版ニーチェ全集』の編集者{{仮リンク|マッツィーノ・モンティナーリ|en|Mazzino Montinari}}は「贋作」と言っている。<br /> <br /> == 思想 ==<br /> {{出典の明記|date=2013年7月|section=1}}<br /> ニーチェは[[ソクラテス以前の哲学者]]も含む[[ギリシア哲学]]や[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]などから強く影響を受け、その幅広い読書に支えられた鋭い批評眼で[[西洋文明]]を革新的に解釈した。[[実存主義]]の先駆者、または[[生の哲学]]の哲学者とされる。先行の哲学者[[マックス・シュティルナー]]との間に思想的類似点(ニーチェによる「&#039;&#039;&#039;超人&#039;&#039;&#039;」とシュティルナーによる「&#039;&#039;&#039;唯一者&#039;&#039;&#039;」との思想的類似点等々)を見出され、シュティルナーからの影響がしばしば指摘されるが、ニーチェによる明確な言及はない。そのことは[[:en:Relationship between Friedrich Nietzsche and Max Stirner|フリードリヒ・ニーチェとマックス・シュティルナーとの関係性]]の記事に詳しい。<br /> <br /> ニーチェは、[[神]]、[[真理]]、[[理性]]、[[価値]]、[[権力]]、[[自我]]などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、[[デカダンス]]、[[ニヒリズム]]、[[ルサンチマン]]、[[超人]]、[[永劫回帰]]、[[力への意志]]などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。<br /> <br /> 有名な&#039;&#039;&#039;永劫回帰&#039;&#039;&#039;(永遠回帰)説は、古代ギリシアの[[回帰的]]時間概念を借用して、世界は何か目標に向かって動くことはなく、現在と同じ世界を何度も繰り返すという[[世界観]]をさす。これは、生存することの不快や苦悩を[[来世]]の解決に委ねてしまう[[クリスチャニズム]]の悪癖を否定し、無限に繰り返し、[[意味]]のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという[[超人]]思想につながる概念である。<br /> <br /> 彼は、ソクラテス以前のギリシャに終生憧れ、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、[[西洋文明]]が始まって以来、特に[[ソクラテス]]以降の[[哲学]]・[[道徳]]・[[科学]]を背後で支え続けた思想の死を告げた。<br /> <br /> それまで[[世界]]や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との[[社会]]・世界・[[超越者]]との関係について考察し、人間は[[理性的生物]]でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(&#039;&#039;&#039;ルサンチマン&#039;&#039;&#039;)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。<br /> <br /> すなわちニーチェは、[[クリスチャニズム]]、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた[[形而上学]]的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理は全て力への意志と言い換えられる。いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。<br /> <br /> ニーチェの思想は妹のエリザベートがニーチェのメモをナチスに売り渡した事で[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]のイデオロギーに利用されたが、そもそもニーチェは、[[反ユダヤ主義]]に対しては強い嫌悪感を示しており、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者として知られていた[[ベルンハルト・フェルスター]]と結婚したのち、[[1887年]]には次のような手紙を書いている。<br /> {{Cquote|お前はなんという途方もない愚行を犯したのか――おまえ自身に対しても、私に対してもだ! お前とあの反ユダヤ主義者グループのリーダーとの交際は、私を怒りと憂鬱に沈み込ませて止まない、私の生き方とは一切相容れない異質なものだ。……反ユダヤ主義に関して完全に潔白かつ明晰であるということ、つまりそれに反対であるということは私の名誉に関わる問題であるし、著書の中でもそうであるつもりだ。『letters and Anti-Semitic Correspondence Sheets』&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;引用者訳注:ニーチェの思想を歪曲して利用したらしい反ユダヤ主義文書&lt;/ref&gt;は最近の私の悩みの種だが、私の名前を利用したいだけのこの党に対する嫌悪感だけは可能な限り決然と示しておきたい。}}<br /> <br /> また、[[1889年]]1月6日[[ヤーコプ・ブルクハルト]]宛ての最後の書簡は、「[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]]と[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」と記している。主著『善悪の彼岸』の「民族と祖国」ではドイツ的なるものを揶揄して、「善悪を超越した無限性」を持つユダヤ人にヨーロッパは感謝せねばならず、「全ての疑いを超えてユダヤ人こそがヨーロッパで最強で、最も強靭、最も純粋な民族である」などと絶賛し、さらには「反ユダヤ主義にも効能はある。[[民族主義]]国家の熱に浮かされることの愚劣さをユダヤ人に知らしめ、彼らをさらなる高みへと駆り立てられることだ」とまで書いている。にもかかわらずナチスに悪用されたことには、ナチスへ取り入ろうとした妹エリーザベトが、自分に都合のよい兄の虚像を広めるために非事実に基づいた伝記の執筆や書簡の偽造をしたり、遺稿『力への意志』が(ニーチェが標題に用いた「力」とは違う意味で)政治権力志向を肯定する著書であるかのような改竄をおこなって刊行したことなどが大きく影響している。<br /> <br /> しかしながら、[[ルカーチ・ジェルジ]]や戦後に刊行の[[トーマス・マン]]の、ニーチェをモデルにした小説『[[ファウストゥス博士]]』において、ニーチェをナチズムと結びつけて捉えるべきかのように示唆する観点をもつ研究者や作家も存在する。<br /> <br /> とくにそれは[[優生学]]に基づいた政策を人間に当てはめることを肯定する態度に表れている。<br /> {{Cquote|「子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や精神薄弱症にかかっている者の場合である。…社会は、生の受託者として、生自身に対して生のあらゆる失敗の責任を負うべきであり、 またそれを贖うべきである、したがってそれを防止すべきである。しかもその上、血統、地位、教育程度を顧慮することなく、最も冷酷な強制処置、自由の剥奪、 事情によっては去勢をも用意しておくことが許されている。」(『力への意志』734)}}<br /> <br /> ナチスはユダヤ人虐殺以前に、障害者を強制「断種」して、 その後、精神病院にガス室をつくって障害者を多数「安楽死」させていた。&#039;&#039;[[T4作戦]]も参照&#039;&#039;。上記のニーチェの思想はナチスの行為を正当化するものとの誤解を与えかねないものであった。<br /> 今日では一部の障害を除き大半は遺伝しないことが明らかになっており障害者を差別する行為は否定されている。<br /> <br /> == それ以後の哲学・思想への影響 ==<br /> ニーチェの哲学がそれ以後の[[文学]]・[[哲学]]に与えた影響は多大なものがあり、影響を受けた人物をあげるだけでも相当な数になるが、彼から特に影響を受けた哲学者、思想家としては[[マルティン・ハイデッガー|ハイデガー]]、[[エルンスト・ユンガー|ユンガー]]、[[ジョルジュ・バタイユ|バタイユ]]、[[ミシェル・フーコー|フーコー]]、[[ジル・ドゥルーズ|ドゥルーズ]]、[[ジャック・デリダ|デリダ]]らがいる。[[1968年]]のフランス五月革命の民主化運動も、バックボーンはニーチェ精神だった。<br /> <br /> == 個々の著作の概要 ==<br /> {{出典の明記|date=2013年7月|section=1}}<br /> === 『悲劇の誕生』 ===<br /> 初期の著作には、『音楽の精神からの悲劇の誕生』(なお、[[1886年]]の新版以降は『悲劇の誕生、あるいは[[ギリシア]]精神と[[ペシミズム]]』と改題されている)がある。これは、哲学書ではなく、古典文献学の本である。<br /> <br /> ニーチェにしてみれば、厭世的と見られていた当時の古典[[ギリシア]]時代の常識を覆し、[[アポロン]]的―[[ディオニュソス]]的という斬新な概念を導入して、当時の世界観を説いた野心作であった。しかし、このような独断的な内容は、厳密に古典文献を精読するという当時の古典文献学の手法からすれば、暴挙に近いものだった。そのため、周囲からは学問的厳密さを欠く著作として受け取られ、ヴァーグナーや友人のローデを除いて、学界からは完全に黙殺された。<br /> <br /> また、師匠のリッチュルも、単にヴァーグナーの音楽を賛美するために[[古典文献学]]を利用したと思い、「才気を失った酔っ払い」の書と酷評したため、リッチュルとの関係が悪化した。この書の評判が響いて、発表した[[1872年]]の冬学期のニーチェの講義を聞くものは、わずかに2名であった([[古典文献学]]専攻の学生は皆無)。満を持してこの本を出版したニーチェは、大きなショックを受けた。<br /> <br /> 古典文献学者の中でほぼ唯一、ニーチェの考えを積極的に受容したのがイギリスの[[ケンブリッジ儀礼学派]]の祖[[ジェーン・エレン・ハリソン]]であった。ハリソンは1903年の著書『&#039;&#039;Prolegomena to the Study of Greek Religion&#039;&#039;』において、ディオニュソスとオルフェウス教の密儀によって古代ギリシア人のオリンポスの神々への信仰が「宗教」と呼べるものに転換していったと主張した&lt;ref&gt;[[ハンス・キッペンベルク]]『宗教史の発見 宗教学と近代』 [[月本昭男]]、[[久保田浩]]、[[渡辺学]]共訳 [[岩波書店]]、2005年 158頁/166頁-169頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> そして、ニーチェは、自身の著作が受け容れられないのは、現代のキリスト教的価値観に囚われたままで古典を読解するという当時の[[古典文献学]]の方法にあると考え、やがて激しい古典文献学批判を行なう。そして、『悲劇の誕生』で説いたような、悲劇の精神から遊離し、生というものを見ず、俗物的日常性に埋没し、単に教養することに自己満足して、その教養を自身の生にまったく活用しようとしない、当時の[[ドイツ]]に蔓延していた風潮を、「教養俗物」(Bildungsphilister)と名づけ、それに対する辛辣な批判を後の『反時代的考察』で展開していくことになる。<br /> <br /> === 『反時代的考察』 ===<br /> これは、ヨーロッパ、特に[[ドイツ]]の文化の現状に関して、[[1873年]]から[[1876年]]にかけて執筆された4編(当初は13編のものとして構想された)からなる評論集である。<br /> #「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」([[1873年]]):これは、当時のドイツ思想を代表していた[[ダーフィト・シュトラウス]]の『古き信仰と新しき信仰: 告白』([[1871年]])への論駁である。ニーチェは、科学的に、すなわち歴史の進歩に基づく決然とした普遍的技法によって、シュトラウスの言う「新しい信仰」なるものが文化の頽廃にしか寄与しない低俗な概念に過ぎないことを喝破したばかりか、シュトラウス本人をも俗物と呼んで攻撃した。<br /> #「生に対する歴史の利害」([[1874年]]):ここでは、単なる歴史に関する知識の蓄積をもってことが足りるとする従来の考え方を退け、「生」を主要な概念として、新たな歴史の読み方を提示し、さらにはそれが社会の健全さを高めもするであろうことを説明する。<br /> #「教育者としてのショーペンハウアー」([[1874年]]):[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]の天才的な哲学が[[ドイツ]]文化の復興をもたらすであろうことが述べられる。ニーチェは、ショーペンハウアーの[[個人主義]]や誠実さ、不動の意志だけでなく、[[ペシミズム]]によって、この有名な哲学者の陽気さに注目している。<br /> #「バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー」([[1876年]]):この論文では、[[リヒャルト・ワーグナー]]の心理学を探求している。当時のニーチェの心の中では、ワーグナーへの心酔と疑念が入り混じっていたため、対象となっている人物との親密さのわりには、追従めいたところがない。そのため、ニーチェはしばらく出版をためらっていたが、結局はワーグナーに対して批判的な文言の控えめな状態の原稿を出版した。にもかかわらず、この評論はやがて訪れる二人の決裂の兆しを見せている。<br /> <br /> === 『人間的な、あまりにも人間的な』 ===<br /> [[1878年]]に初版を刊行、[[1886年]]の第2版からは『さまざまな意見と[[箴言]]』([[1879年]])と『漂泊者とその影』([[1880年]])をそれぞれ第2巻第1部および第2部として増補、題名も『人間的な、あまりに人間的な &#039;&#039;――&#039;&#039; [[自由精神]]のための書』と改めた。本書はニーチェの中期を代表する著作であり、[[ロマン主義|ドイツ・ロマン主義]]およびワーグナーとの決別や明瞭な[[実証主義]]的傾向が見て取られる。<br /> <br /> また、本書の形式にも注目する必要がある。体系的な哲学の構築を避け、短いものは1行、長いものでも1、2ページからなる[[アフォリズム]]数百篇によって構成するという中期以降のスタイルは、本書をもって嚆矢とする。この本では、ニーチェの思想の根本要素が垣間見られるとはいえ、何かを解釈するというよりは、真偽の定かでない前提の暴露を盛り合わせたものである。ニーチェは、「[[パースペクティヴィズム]]」と「力への意志」という概念を用いている。<br /> <br /> === 『曙光』 ===<br /> 『曙光』([[1881年]])において、ニーチェは、動因としての[[快楽主義]]の役割を斥けて「力の感覚」を強調する。また、道徳と文化の双方における[[相対主義]]と[[キリスト教]]批判が完成の域に達した。この明晰で穏やかで個人的な文体の[[アフォリズム]]集の中で、ニーチェが求めているのは、自分の見解に対する読者の理解よりも、自らが特殊な体験を得ることであるようにも見られる。この本でもまた、後年の思想の萌芽が散見される。<br /> <br /> === 『悦ばしき知識』 ===<br /> 『悦ばしき知識』([[1882年]])は、ニーチェの中期の著作の中では最も大部かつ包括的なものであり、引き続き[[アフォリズム]]形式をとりながら、他の諸作よりも多くの思索を含んでいる。中心となるテーマは、「悦ばしい生の肯定」と「生から美的な歓喜を引き出す気楽な学識への没頭」である(タイトルは思索法を表す[[プロヴァンス語]]からつけられたもの)。<br /> <br /> たとえば、ニーチェは、有名な&#039;&#039;&#039;[[永劫回帰]]&#039;&#039;&#039;説を本書で提示する。これは、世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である。これは、来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にすることを強いる[[キリスト教]]的世界観と真っ向から対立するものである。<br /> <br /> [[永劫回帰]]説もさることながら、『悦ばしき知識』を最も有名にしたのは、伝統的宗教からの[[自然主義]]的・[[美学]]的離別を決定づける「&#039;&#039;&#039;[[神は死んだ]]&#039;&#039;&#039;」という主張であろう。<br /> <br /> === 『ツァラトゥストラはかく語りき』 ===<br /> {{main|ツァラトゥストラはこう語った}}<br /> <br /> 『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ニーチェの主著であるとされており、また[[リヒャルト・シュトラウス]]に、[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|同名の交響詩]]を作曲させるきっかけとなった。なお、ツァラトゥストラとは、[[ゾロアスター教]](拝火教)の開祖[[ザラスシュトラ]]の名前のドイツ語形の一つであるが、歴史上の人物とは直接関係のない文脈で思想表現の器として利用されるにとどまっている。<br /> <br /> === その他 ===<br /> {{節スタブ}}<br /> * 『[[善悪の彼岸]]』<br /> * 『[[道徳の系譜]]』<br /> * 『[[偶像の黄昏]]』<br /> * 『[[ヴァーグナーの場合]]』<br /> * 『[[アンチクリスト]]』(『[[反キリスト]]者』;独語[[:de:Der Antichrist|Der Antichrist]])<br /> * 『[[この人を見よ]]』<br /> * 『[[ニーチェ対ヴァーグナー]]』<br /> * 『[[力への意志]]』(ニーチェの死後、遺稿を元にエリーザベトが編集出版したもの。長らくニーチェの主著と見なされていた。)<br /> <br /> == 作曲 ==<br /> ニーチェは、専門的な音楽教育を受けたわけではなかったが、13歳頃から20歳頃にかけて[[歌曲]]や[[ピアノ]]曲などを作曲した。その後、作曲することはなくなったが、ヴァーグナーとの出会いを通して刺激を受け、バーゼル時代にもいくつかの曲を残している。作風は前期ロマン派的であり、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]や[[ロベルト・シューマン|シューマン]]を思わせる。彼が後にまったく作曲をしなくなったのは、本業で忙しくなったという理由のほかに、自信作であった『[[マンフレッド]]瞑想曲』を[[ハンス・フォン・ビューロー]]に酷評されたことが理由として考えられる。<br /> <br /> 現在に至るまで、ニーチェが作曲家として認識されたことはほとんどないが、著名な哲学者の作曲した作品ということで、一部の演奏家が録音で取り上げるようになり、徐々に彼の「作曲もする哲学者」としての側面が明らかになっている。彼の作品は、すべて歌曲かピアノ曲のどちらかであるが、四手連弾の作品の中には『マンフレッド瞑想曲』[[交響詩]]『エルマナリヒ』など、[[オーケストラ]]を念頭に置いて書かれたであろう作品も存在する。また、[[オペラ]]のスケッチを残しており、[[2007年]]に[[ジークフリート・マトゥス]]がそのスケッチを骨子としてオペラ『[[コジマ・ワーグナー|コジマ]]』を作曲した。<br /> <br /> == 著作 ==<br /> *『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(『[[悲劇の誕生]]』)(&#039;&#039;[[:de:Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik|Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik]],1872&#039;&#039;)<br /> *『反時代的考察』(以下の論文所収)(&#039;&#039;Unzeitgemässe Betrachtungen, 1876&#039;&#039;)<br /> **「[[ダーヴィト・シュトラウス]]、告白者と著述家」(&#039;&#039;David Strauss: der Bekenner und der Schriftsteller, 1873&#039;&#039;)<br /> **「生に対する歴史の利害」(&#039;&#039;[[:de:Vom Nutzen und Nachteil der Historie für das Leben|Vom Nutzen und Nachteil der Historie für das Leben]], 1874&#039;&#039;)<br /> **「教育者としてのショーペンハウアー」(&#039;&#039;Schopenhauer als Erzieher, 1874&#039;&#039;)<br /> **「バイロイトにおけるヴァーグナー」(&#039;&#039;Richard Wagner in Bayreuth, 1876&#039;&#039;)<br /> *『人間的な、あまりにも人間的な』(&#039;&#039;Menschliches, Allzumenschliches, 1878&#039;&#039;)<br /> *『曙光』(&#039;&#039;Morgenröte, 1881&#039;&#039;)<br /> *『悦ばしき知識』(&#039;&#039;[[:de:Die fröhliche Wissenschaft|Die fröhliche Wissenschaft]],1882&#039;&#039;)<br /> *『[[ツァラトゥストラはこう語った|ツァラトゥストラはかく語りき]]』(&#039;&#039;[[:de:Also sprach Zarathustra|Also sprach Zarathustra]], 1885&#039;&#039;)<br /> *『[[善悪の彼岸]]』(&#039;&#039;Jenseits von Gut und Böse, 1886&#039;&#039;)<br /> *『[[道徳の系譜]]』(&#039;&#039;[[:de:Zur Genealogie der Moral|Zur Genealogie der Moral]], 1887&#039;&#039;)<br /> *『ヴァーグナーの場合』(&#039;&#039;Der Fall Wagner, 1888&#039;&#039;)<br /> *『ニーチェ対ヴァーグナー』(&#039;&#039;[[:de:Nietzsche contra Wagner|Nietzsche contra Wagner]], 1888&#039;&#039;)<br /> *『偶像の黄昏』(&#039;&#039;Götzen-Dämmerung, 1888&#039;&#039;)<br /> *『アンチクリスト』(あるいは『反キリスト者』)(&#039;&#039;[[:de:Der Antichrist|Der Antichrist]], 1888&#039;&#039;)<br /> *『[[この人を見よ]]』(&#039;&#039;[[:de:Ecce homo (Nietzsche)|Ecce homo]], 1888&#039;&#039;)<br /> <br /> 遺稿集には<br /> *『[[力への意志]]』(遺稿。妹が編纂)(&#039;&#039;[[:de:Wille zur Macht|Wille zur Macht]], 1901&#039;&#039;)<br /> *『生成の無垢』(遺稿。アルフレート・ボイムラー編)(&#039;&#039;Die Unshuld des Werdens, Alfred Kröner Verlag in Stuttgart, 1956&#039;&#039;)<br /> <br /> ===日本語訳===<br /> ※「全集」は、[[白水社]]版(第1期全12巻・第2期全12巻)と、[[筑摩書房]]「[[ちくま学芸文庫]]」(全15巻、元版は理想社)。ただし、白水社版は第3期(多くの遺稿集がある)が未刊行で、大半は版元品切。なお文庫版全集は、上記全作品の他に別巻4冊(書簡や遺稿集を収録)が刊行されている。<br /> <br /> 『ツァラトゥストラはこう言った』、『悲劇の誕生』、『道徳の系譜』、『善悪の彼岸』、『この人を見よ』などの主要作品は、[[岩波文庫]]・[[光文社古典新訳文庫]]などに収録されている。<br /> <br /> * [http://www.geocities.jp/k_chizu_jp/nietzsche1.html ニーチェ音楽関連年譜]<br /> * [http://friedrich-nietzsche-manfred-meditation-mp3-download.kohit.net/_/191842 マンフレッド瞑想曲]<br /> * [http://jp.youtube.com/view_play_list?p=797E9F70FBB0A889 ニーチェ作品集]<br /> * [http://teru.sub.jp/ofc/2007/02/post_670.html 新作オペラ『コジマ』]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *&#039;&#039;&quot;Nietzsche et la philosophie&quot;&#039;&#039; (1962) [[ジル・ドゥルーズ]] (Gilles Deleuze) 著 ISBN 2130532624 , ISBN 978-2130532620<br /> **日本語訳『ニーチェと哲学』 [[足立和浩]]訳、国文社 (1974) <br /> **日本語訳『ニーチェと哲学』 江川隆男訳、[[河出文庫]] (2008) ISBN 430946310X , ISBN 978-4309463100<br /> *&#039;&#039;&quot;Nietzsche et le cercle vicieux&quot;&#039;&#039; (1969)[[ピエール・クロソウスキー]](Pierre Klossowski) 著<br /> **日本語訳『ニーチェと悪循環』 [[兼子正勝]]訳、哲学書房、1989/[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、2004<br /> *&#039;&#039;&quot;Nietzsche Aujourd’hui?&quot;&#039;&#039; <br /> **日本語訳『ニーチェは今日?』 J=F リオタール、G・ドゥルーズ、J・デリダ共著、[[林好雄]]・[[本間邦雄]]・[[森本和夫]]共訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2002<br /> *&#039;&#039;&quot;Nietzsche&quot;&#039;&#039; (1961) 。[[マルティン・ハイデッガー]](Martin Heidegger)著<br /> **『ニーチェ』 [[薗田宗人]]訳、白水社 (全3巻)、新装版刊<br /> **『ニーチェ〈1〉 美と永遠回帰』平凡社ライブラリー、1997年。<br /> **『ニーチェ〈2〉 ヨーロッパのニヒリズム』 平凡社ライブラリー、1997年。<br /> * ジョージ・スタック『ニーチェ哲学の基礎』[[未知谷]]、2006年。<br /> * マッツィーノ・モンティナーリ『全集編者の読むニーチェ グロイター版全集編纂の道程』 [[未知谷]]、2012年。<br /> * [[ルー・ザロメ]]『ルー・ザロメ著作集〈3〉 ニーチェ 人と作品』以文社 1974年<br /> * [[信太正三]]『ニイチェ研究 実存と革命』[[創文社]] 1956年<br /> * 橋本智津子『ニヒリズムと無』京都大学学術出版会、2004年。ISBN 4-87698-642-8<br /> * [[工藤綏夫]] 『ニーチェ 人と思想22』 [[清水書院]]・センチュリーブックス、新装版2014年<br /> * {{Cite book|和書|author=西部邁|title=思想の英雄たち 保守の源流をたずねて|year=2012|publisher=角川春樹事務所|series=ハルキ文庫|isbn=978-4-7584-3629-8|pages=73-87|chapter=近代に突き刺さった棘 フリードリッヒ・ニーチェ}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Wikisourcelang|de|Friedrich Nietzsche|フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{wikisource author|Friedrich Nietzsche|フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{commons|Friedrich Wilhelm Nietzsche}}<br /> {{Wikiquote|フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> * [[生の哲学]]<br /> * [[歴史主義]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * http://www.lenahades.co.uk/#!portraits-of-friedrich-nietzsche/c1u64 - [[レナ・ハデス]]のフリードリヒニーチェの肖像画<br /> * [http://www.nietzschesource.org/ Nietzsche Source - Digitale Kritische Gesamtausgabe (eKGWB)](コリ・モンティナリ版)<br /> <br /> {{フリードリヒ・ニーチェ}}<br /> {{大陸哲学}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:にいちえ ふりとりひ}}<br /> [[Category:ニーチェ|*]]<br /> [[Category:19世紀ドイツの哲学者]]<br /> [[Category:ドイツの倫理学者]]<br /> [[Category:ドイツの詩人]]<br /> [[Category:ドイツの作曲家]]<br /> [[Category:ドイツの音楽評論家]]<br /> [[Category:実存主義者]]<br /> [[Category:形而上学者]]<br /> [[Category:存在論の哲学者]]<br /> [[Category:美学者]]<br /> [[Category:歴史哲学者]]<br /> [[Category:宗教哲学者]]<br /> [[Category:文献学者]]<br /> [[Category:無神論の哲学者]]<br /> [[Category:ニヒリズムの哲学者]]<br /> [[Category:死刑廃止論者]]<br /> [[Category:バーゼル大学の教員]]<br /> [[Category:ライプツィヒ大学出身の人物]]<br /> [[Category:ボン大学出身の人物]]<br /> [[Category:無国籍の人物]]<br /> [[Category:ポーランド系ドイツ人]]<br /> [[Category:1844年生]]<br /> [[Category:1900年没]]</div> 121.84.178.202
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