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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=119.173.166.73&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-28T08:58:12Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 カジミェシュ4世 (ポーランド王) 2017-11-05T02:14:37Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>{{Redirect|カジミェシュ4世|同名のポーランドの領主貴族|カジミェシュ}}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = カジミェシュ4世<br /> | 各国語表記 = {{lang|po|Kazimierz IV Jagiellończyk}}<br /> | 君主号 = ポーランド王&lt;br/&gt;リトアニア大公<br /> | 画像 = Casimir IV Jagiellon.jpg<br /> | 画像サイズ = 200px<br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[1440年]] - [[1492年]](リトアニア)&lt;br/&gt;[[1447年]] - 1492年(ポーランド)<br /> | 戴冠日 = [[1440年]][[6月29日]]([[ヴィルニュス大聖堂]]、リトアニア大公)&lt;br/&gt;[[1447年]][[6月25日]]([[ヴァヴェル大聖堂]]、ポーランド王)<br /> | 別号 = <br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = [[1427年]][[11月30日]]<br /> | 生地 = [[クラクフ]]、[[ポーランド]]<br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1427|11|30|1492|6|7}}<br /> | 没地 = [[フロドナ]]、現在の[[ベラルーシ]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = ヴァヴェル大聖堂、クラクフ<br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = [[エリーザベト・フォン・ハプスブルク|エリーザベト・フォン・エスターライヒ]]<br /> | 子女 = [[ウラースロー2世]]&lt;br/&gt;[[ヤドヴィガ・ヤギェロンカ (1457-1502)|ヤドヴィガ]]&lt;br/&gt;[[カジミェシュ (聖人)|カジミェシュ]]&lt;br/&gt;[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世オルブラフト]]&lt;br/&gt;[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]&lt;br/&gt;[[ゾフィア・ヤギェロンカ (1464-1512)|ゾフィア]]&lt;br/&gt;[[ジグムント1世]]&lt;br/&gt;[[フリデリク・ヤギェロンチク|フリデリク]]&lt;br/&gt;[[アンナ・ヤギェロンカ (1476-1503)|アンナ]]&lt;br/&gt;[[バルバラ・ヤギェロンカ|バルバラ]]&lt;br/&gt;[[エルジュビェタ・ヤギェロンカ|エルジュビェタ]]<br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = [[ヤギェウォ朝]]<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = [[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]<br /> | 母親 = [[ゾフィア・ホルシャンスカ]]<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;カジミェシュ4世&#039;&#039;&#039;(Kazimierz IV Jagiellończyk, [[1427年]][[11月30日]] - [[1492年]][[6月7日]])は、[[リトアニア大公]](カジミェラス1世 / Kazimieras, [[1440年]] - 1492年)、[[ポーランド国王|ポーランド王]](在位:[[1447年]] - 1492年)。[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]の次男、母はその4番目の妃[[ゾフィア・ホルシャンスカ]]。[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]の弟。[[ボヘミア王]]兼[[ハンガリー王]][[ウラースロー2世]]の父。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === リトアニア統治 ===<br /> 1440年、[[ジーギマンタス・ケーストゥタイティス]]が暗殺されてリトアニア大公が空位になると、[[トラカイ県]]知事[[ヨナス・ゴシュタウタス]]を始めとする[[リトアニア大公国|リトアニア]]の大貴族([[マグナート]])達はジーギマンタスの息子[[ミーコラス・ジーギマンタイティス|ミーコラス]]を退けてカジミェシュを後継にすえようとしたが、ポーランド貴族階級の多くは13歳の彼に、リトアニアに行かず、[[ハンガリー王]]を兼ねるため不在の兄ヴワディスワフ3世に代わりポーランド副王の役割を果たすよう望んだという。<br /> <br /> カジミェシュはリトアニアの大貴族たちの招きで1440年に[[ヴィリニュス]]へ入城し、6月29日に貴族会議においてリトアニア君主に選出された。一連の動きはポーランド貴族の不安を掻き立てながら、主にヨナス・ゴシュタウタスのお膳立てによって進んだ。これにより、個人的な紐帯によって成立していた[[ポーランド王国|ポーランド]]とリトアニアの脆弱な[[同君連合]]は解消された。カジミェシュ即位の報はポーランドでは猛反発をもって迎えられ、リトアニアには軍事的圧力までかけられた。カジミェシュが未成年のため政務はヨナスを議長とする貴族会議に委ねられ、幼い大公は宮廷の役人たちにリトアニアの言語と慣習を教わった。<br /> <br /> カジミェシュの治世下では、公、マグナート、[[バヨライ]](一般貴族)といったリトアニアの貴族階級は、法的権利や地位、信仰、民族性といった面でポーランドの貴族階級との同化が進んでいった。また彼は、リトアニアの国境を変更しないこと、リトアニアでポーランドの役人を使わないことを約束し、さらにはリトアニアに関する取り決めには貴族会議の同意を必要とするという決議も了承した。[[ジェマイティヤ]]に同地域の[[スタロスタ|王領地代官]]を選出する権利も認めている。カジミェシュはリトアニアで最初の、生まれながらの[[カトリック教会|カトリック教徒]]の君主である。<br /> <br /> === ポーランド統治 ===<br /> [[画像:Kazimierz Jagiellonczyk.jpg|thumb|left|180px|[[ヤン・マテイコ]]による肖像画]]<br /> 1447年、兄ヴワディスワフ3世の死後3年間にわたり空位だった[[ポーランド国王|ポーランド王位]]を継承し、[[1454年]]に[[ハプスブルク家]]の[[エリーザベト・フォン・ハプスブルク|エリーザベト]]と結婚した。彼女は[[神聖ローマ帝国]]君主([[ローマ王]])[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]とボヘミア王家およびハンガリー王家の女子相続人である[[エリーザベト・フォン・ルクセンブルク]]の遺児であったが、[[神聖ローマ皇帝]]位はハプスブルク家の別系統の[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の手中にあった。この結婚は[[ヤギェウォ家]]のボヘミアとハンガリーの王位請求権を強化させることを狙ったものであったが、同時にカジミェシュ4世は皇帝位をめぐる争いに否応なく引き込まれることになった。<br /> <br /> 同年、カジミェシュ4世は[[ドイツ騎士団]]に対抗する[[プロシア連合]]との同盟を結び、併合によって[[プロイセン|プロシア]]をポーランド領に組み込むことが決まった。しかしプロシア連合がドイツ騎士団への反乱を開始すると、騎士団は予想以上に頑強な抵抗を見せ、[[十三年戦争]]に発展した。カジミェシュ4世とプロシア連合はドイツ騎士団を撃破し、その拠点[[マルボルク城]]を陥落させた。[[第二次トルンの和約]]でドイツ騎士団は、[[ポーランド王領プロシア]]に対するポーランドの主権、[[プロシア公領]]に対するポーランドの宗主権を認めるに至った。[[1457年]]に義弟のハンガリー王兼ボヘミア王[[ラディスラウス・ポストゥムス]]が没すると、カジミェシュ4世夫妻の関心はラディスラウスの保っていた王冠を掌中にすることへと次第に移っていった。<br /> <br /> === 東欧諸国との関係 ===<br /> [[1469年]]、ラディスラウスの摂政でボヘミア王となっていた[[イジー・ス・ポジェブラト]]の要請により、長男[[ウラースロー2世|ヴワディスワフ]]がイジーの後継者に決定、2年後の[[1471年]]にイジーが亡くなった後にヴワディスワフがボヘミア王に就いた。しかし、ハンガリー王[[マーチャーシュ1世]](ラディスラウスの死後王位を継承)はイジーと対立していたためヴワディスワフと衝突、カジミェシュ4世はヴワディスワフの支援に回った。[[1490年]]にマーチャーシュ1世が子のないまま没し、ヴワディスワフはハンガリー王位も継承(ウラースロー2世)、ヤギェウォ家の領土は大幅に増加した。<br /> <br /> 一方、1471年に[[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド共和国]]と同盟を結んだが、[[モスクワ大公国|モスクワ大公]][[イヴァン3世]]によってノヴゴロド共和国は併合され、[[大オルダ]]の君主[[アフマド・ハーン]]との同盟のあってイヴァン3世との関係は悪化、しばしばリトアニアを侵略され、リトアニア貴族の離反も招いた。<br /> <br /> 1492年、64歳で死去した。ボヘミア・ハンガリーはウラースロー2世が、ポーランドは3男の[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世]]が、リトアニアは四男の[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]がそれぞれ継承した。<br /> <br /> == 子女 ==<br /> [[Image:Wiec_Kazimierz_Wielki.jpg|thumb|right|国王が主催する宮廷の会議]]<br /> [[File:Coat of Arms of Casimir Jagiellon as king of Poland.svg|166px|thumb|right|カジミェシュ4世の紋章]]<br /> *[[ウラースロー2世|ヴワディスワフ]](1456年 - 1516年) - 母方の血統的権利から[[ボヘミア王国|ボヘミア]]および[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の王位を継承した。<br /> *[[ヤドヴィガ・ヤギェロンカ (1457-1502)|ヤドヴィガ]](1457年 - 1502年) - [[バイエルン大公|バイエルン=ランツフート公]][[ゲオルク (バイエルン公)|ゲオルク]]と結婚した。クラクフで代理人による結婚の交渉が行われ、1475年に[[バイエルン公国|バイエルン]]で「[[ランツフートの結婚式]]」と呼ばれる壮麗な[[ページェント]]を伴う披露宴が行われて、これが祝祭として定着した。<br /> *[[カジミェシュ (聖人)|カジミェシュ]](1458年 - 1484年) - 神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の娘[[クニグンデ・フォン・エスターライヒ|クニグンデ]]との縁談があったが、これを断って宗教的な生活を選び、[[リトアニア]]の[[守護聖人]]となった。<br /> *[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世オルブラフト]](1459年 - 1501年) - ポーランド王位を継承。<br /> *[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]](1461年 - 1506年) - リトアニア大公、後にポーランド王位を継承。<br /> *[[ゾフィア・ヤギェロンカ (1464-1512)|ゾフィア]](1464年 - 1512年) - [[アンスバッハ侯領|ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯]][[フリードリヒ2世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|フリードリヒ5世]]と結婚した。<br /> *エルジュビェタ(1465年 - 1466年)<br /> *[[ジグムント1世|ジグムント]](1467年 - 1548年) - リトアニア大公、後にポーランド王位を継承。<br /> *[[フリデリク・ヤギェロンチク|フリデリク]](1468年 - 1503年) - 枢機卿、クラクフ司教、グニェズノ大司教。<br /> *エルジュビェタ(1472年 - 1480年頃)<br /> *[[アンナ・ヤギェロンカ (1476-1503)|アンナ]](1476年 - 1503年) - 1491年に[[ポメラニア公国|ポモジェ]]公[[ボグスワフ10世]]と結婚した。<br /> *[[バルバラ・ヤギェロンカ|バルバラ]](1478年 - 1534年) - [[ザクセン公国|ザクセン公]][[ゲオルク (ザクセン公)|ゲオルク]]と結婚した。<br /> *[[エルジュビェタ・ヤギェロンカ|エルジュビェタ]](1483年 - 1517年) - [[レグニツァ公国|レグニツァ]]=[[ブジェク公国|ブジェク]]公[[フリデリク2世 (レグニツァ公)|フリデリク2世]]と結婚した。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *[[伊東孝之]]・[[井内敏夫]]・[[中井和夫]]編『新版 世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』[[山川出版社]]、1998年。<br /> *[[河野肇]]訳『ポーランドの歴史』[[創土社]]、2007年。<br /> *[[デヴィッド・ウォーンズ]]、[[栗生澤猛夫]]監修『ロシア皇帝歴代誌』[[創元社]]、2001年。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[ニェシャヴァ法令]]<br /> *[[オシフィエンチム公国]]<br /> <br /> {{先代次代|[[ポーランド国王|ポーランド王]]|1447年 - 1492年|[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]|[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世]]}}<br /> {{先代次代|[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]]|1440年 - 1492年|[[ジーギマンタス・ケーストゥタイティス|ジーギマンタス1世]]|[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンドラス]]}}<br /> {{ポーランド君主一覧}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かしみえしゆ4}}<br /> [[Category:ポーランド国王]]<br /> [[Category:リトアニア大公]]<br /> [[Category:ルテニア大公]]<br /> [[Category:ヤギェウォ家]]<br /> [[Category:リトアニアの幼君]]<br /> [[Category:クラクフ出身の人物]]<br /> [[Category:1427年生]]<br /> [[Category:1492年没]]</div> 119.173.166.73 カルロ3世 (ナポリ王) 2017-11-05T01:21:08Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=人1386年没___世界史}}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = カルロ3世 / カーロイ2世<br /> | 各国語表記 = Carlo III / II. Károly<br /> | 君主号 = ナポリ王&lt;br&gt;ハンガリー王<br /> | 画像 = Kis Karoly TK.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = ナポリ王:[[1382年]] - [[1386年]]&lt;br&gt;ハンガリー王(カーロイ2世):[[1385年]] - 1386年<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = [[1345年]]<br /> | 生地 = [[ナポリ]]<br /> | 死亡日 = [[1386年]][[2月24日]]<br /> | 没地 = [[ハンガリー王国]]、[[ヴィシェグラード (ハンガリー)|ヴィシェグラード]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = [[マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ]]<br /> | 子女 = [[#家族|一覧参照]]<br /> | 王家 = [[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]<br /> | 王朝 = [[ナポリ・アンジュー朝]]<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = グラヴィーナ伯ルイージ<br /> | 母親 = マルゲリータ・ディ・サンセヴェリーノ<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;カルロ3世&#039;&#039;&#039;(Carlo III, [[1345年]] - [[1386年]][[2月24日]])は、[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]出身の[[ナポリ王国|ナポリ]]王(在位:[[1382年]] - 1386年)および[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王(&#039;&#039;&#039;カーロイ2世&#039;&#039;&#039;、II. Károly, 在位:[[1385年]] - [[1386年]])。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> ナポリ王[[ロベルト (ナポリ王)|ロベルト]]の末弟[[ジョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォ|ドゥラッツォ公ジョヴァンニ]]の孫で、ナポリ王[[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]の曾孫に当たる。父グラヴィーナ伯ルイージはジョヴァンニの次男であり、元来カルロはアンジュー家([[アンジュー=シチリア家]])のうちでも傍系の生まれである。<br /> <br /> [[1369年]]に[[マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ]]と結婚したが、マルゲリータは同族の従妹であるだけでなく、ナポリ女王[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]](カルロの又従姉に当たる)の姪でもあった。マルゲリータの母{{仮リンク|マリア・ディ・カラブリア|en|Maria of Calabria}}(1329年 - 1366年)がジョヴァンナの妹だったのである&lt;ref name=T581&gt;タックマン、p. 581、注91&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 同族の又従兄に当たるハンガリーおよび[[ポーランド王国|ポーランド]]の王[[ラヨシュ1世]]は、ナポリ王位を狙ってジョヴァンナ1世と敵対していた。カルロはラヨシュ1世の命を受け、[[1382年]]にジョヴァンナ1世を殺害し、自らがナポリ王カルロ3世となった&lt;ref name=T581 /&gt;。ジョヴァンナ1世の養子[[ルイ1世・ダンジュー]]との抗争も発生したが、[[1384年]]にルイ1世が死去、抗争は収まった&lt;ref name=T581 /&gt;。<br /> <br /> 同年にラヨシュ1世が男子の継承者を持たずに死去した。ラヨシュ1世の長女[[マーリア (ハンガリー女王)|マーリア]]とその夫[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]([[神聖ローマ皇帝]][[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]の次男、後の皇帝)が王位を継承することになっていたが、その即位に対してハンガリー国内では反対派も多く、[[1385年]]にカルロ3世は反対派から迎えられ、ハンガリー王カーロイ2世として即位した。しかし翌1386年、カルロ3世はマーリアの母親[[エリザベタ・コトロマニッチ]]によって暗殺され&lt;ref name=T581 /&gt;、マーリアとジギスムントが王位に復帰した。<br /> <br /> [[1378年]]に[[教会大分裂]]が発生しており、カルロ3世は[[教皇|ローマ教皇]][[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]]からナポリ王位を承認されたが、[[アヴィニョン教皇庁|アヴィニョン]]の[[対立教皇]][[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]]はルイ1世をナポリ王とした。この対立はカルロ3世の暗殺後も尾を引き、ルイ1世とカルロ3世それぞれの子・[[ルイ2世・ダンジュー]]と[[ラディズラーオ1世 (ナポリ王)|ラディズラーオ]]はアヴィニョン派、ローマ派に分かれて王位争奪戦を繰り広げていった。<br /> <br /> == 家族 ==<br /> 妃マルゲリータとの間には1男2女が生まれた。<br /> * マリア(1369年 - 1371年)<br /> * [[ジョヴァンナ2世 (ナポリ女王)|ジョヴァンナ2世]](1373年 - 1435年) - ナポリ女王<br /> * [[ラディズラーオ1世 (ナポリ王)|ラディズラーオ1世]](1377年 - 1414年) - ナポリ王<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * バーバラ・W・タックマン、徳永守儀 訳 『遠い鏡』 朝日出版社、2013年<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ラヨシュ1世のナポリ遠征]]<br /> <br /> {{先代次代|[[ナポリとシチリアの君主一覧|ナポリ王]]|1382年 - 1386年|[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]]|[[ラディズラーオ1世 (ナポリ王)|ラディズラーオ1世]]}}<br /> {{先代次代|[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]]|1385年 - 1386年|[[マーリア (ハンガリー女王)|マーリア]]|[[マーリア (ハンガリー女王)|マーリア]](復位)&lt;br/&gt;[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジグモンド]]}}<br /> {{ナポリ王||1382年 - 1386年}}<br /> {{ハンガリー王||1385年 - 1386年}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かるろ3}}<br /> [[Category:ハンガリーの国王]]<br /> [[Category:クロアチア王]]<br /> [[Category:ナポリの君主]]<br /> [[Category:アカイア公]]<br /> [[Category:グラヴィーナ伯]]<br /> [[Category:アンジュー=ドゥラッツォ家]]<br /> [[Category:カトリック教会に破門された人物]]<br /> [[Category:ナポリ出身の人物]]<br /> [[Category:暗殺された人物]]<br /> [[Category:1345年生]]<br /> [[Category:1386年没]]</div> 119.173.166.73 ロベルト1世 (ナポリ王) 2017-11-04T08:49:20Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ロベルト1世<br /> | 各国語表記 = Roberto I<br /> | 君主号 = ナポリ王<br /> | 画像 = Robert1.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[1309年]] - [[1343年]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = <br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = [[1277年]]<br /> | 生地 = <br /> | 死亡日 = [[1343年]][[1月20日]]<br /> | 没地 = [[ナポリ]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = [[ヨランダ・ダラゴナ]]<br /> | 配偶者2 = サンチャ<br /> | 子女 = [[#家族|一覧参照]]<br /> | 王家 = [[アンジュー=シチリア家]]<br /> | 王朝 = [[ナポリ・アンジュー朝]]<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = [[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]<br /> | 母親 = [[マリア・ドゥンゲリア]]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ロベルト1世&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Roberto I&#039;&#039;&#039;, [[1277年]] - [[1343年]][[1月20日]])は、[[ナポリ・アンジュー朝|アンジュー家]]の[[ナポリ王国|ナポリ]]王(在位:[[1309年]] - [[1343年]])。[[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]の三男。母は[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[イシュトヴァーン5世]]の娘[[マリア・ドゥンゲリア|マーリア]]。ロベルト賢明王(Roberto il Saggio)と呼ばれる。教皇党(グエルフィ)のリーダーと見なされていた&lt;ref name=pgms167&gt;[[#pgms|マックスウェル・スチュアート(1999)p.167]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 略歴 ==<br /> === ナポリ王に ===<br /> [[1309年]]、父王カルロ2世の死によって即位した。このとき早世した兄[[カルロ・マルテッロ・ダンジョ|カルロ・マルテッロ]]の息子カルロ・ロベルトも有力な王位継承権者であったが、カルロ・ロベルトは[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王([[カーロイ1世]]として即位)となるのに忙しく、ナポリ王位には興味を示さなかったため、ロベルトがロベルト1世としてナポリ王位を継承した。なお、ジャック・ドゥーズ(のちの教皇[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]])はロベルト1世の秘書を務めていた時期がある&lt;ref name=pgms167/&gt;。<br /> <br /> === アカイア公国をめぐる活動 ===<br /> [[アカイア公国]]の支配権はロベルトの次弟ターラント公[[フィリッポ1世 (ターラント公)|フィリッポ1世]]が保有していたが、[[1313年]]以降は、[[イザベル・ド・ヴィルアルドゥアン]]の娘[[マオー・ド・エノー]]が夫[[ルイ・ド・ブルゴーニュ]]([[ロベール2世 (ブルゴーニュ公)|ロベール2世]]の息子)とともに獲得していた。ロベルトは、ルイが[[1316年]]に死去したことを好機として、翌[[1317年]]、マオーを[[イタリア]]に連行し、自分の別の弟[[ジョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォ|グラヴィーナ伯ジョヴァンニ]]との再婚を要求した。しかしマオーはこれに応じず、しかも貴族ユーグ・ド・ラ・パリッスと密かに結婚していた。<br /> <br /> ロベルトはこれに激怒し、マオーからアカイア公位を剥奪して投獄すると、自らアカイア公を兼位した。当時、[[神聖ローマ皇帝]]の[[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]がイタリア政策によってイタリア半島に遠征していたが、ロベルトはこの対応に忙殺されたため、[[1322年]]、ユーグを大逆罪で処刑して後顧の憂いを断ち、そののちジョヴァンニにアカイア公位を譲った。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> === 人物像 ===<br /> [[政治家]]でもあった[[フィレンツェ]]出身の文人[[ダンテ・アリギエーリ]]は、グエルフィの指導者と目されていたロベルト1世について、「口先だけの王様」と断じている&lt;ref name=pgms167/&gt;。<br /> <br /> === 家族 ===<br /> 1297年に[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]]の娘[[ヨランダ・ダラゴナ|ヨランダ]](1273年 - 1302年)と結婚し、2男をもうけた。<br /> * [[カルロ (カラブリア公)|カルロ]](1298年 - 1328年) - カラブリア公。[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]]の父。<br /> * ルイージ(1301年 - 1310年)<br /> <br /> 1304年に[[マヨルカ王国|マヨルカ]]王[[ジャウメ2世 (マヨルカ王)|ジャウメ2世]]の娘でヨランダの従妹にあたるサンチャ(1285年頃 - 1345年)と再婚したが、子供は生まれなかった。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book|和書|author=P.G.マックスウェル・スチュアート|translator=月森左知・菅沼裕乃|chapter=|editor=[[高橋正男]](監修)|year=1999|month=12|title=ローマ教皇歴代誌|publisher=[[創元社]]|series=|isbn=4-422-21513-2|ref=PGMS}}<br /> <br /> {{先代次代|[[ナポリとシチリアの君主一覧|ナポリ王]]&lt;br /&gt;[[プロヴァンス伯]]|1309年 - 1343年|[[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]|[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]]}}<br /> {{先代次代|[[アカイア公国|アカイア公]]|1318年 - 1322年|[[マオー・ド・エノー]]&lt;br /&gt;&lt;small&gt;[[ルイ・ド・ブルゴーニュ]]と共治&lt;/small&gt;|[[ジョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォ|ジョヴァンニ・ディ・グラヴィナ]]}}<br /> {{ナポリ王||1309年 - 1343年}}<br /> <br /> {{Italia-storia-stub}}<br /> {{デフォルトソート:ろへると1}}<br /> [[Category:ナポリの君主]]<br /> [[Category:カラブリア公]]<br /> [[Category:アカイア公]]<br /> [[Category:プロヴァンス伯]]<br /> [[Category:アンジュー=シチリア家]]<br /> [[Category:1277年生]]<br /> [[Category:1343年没]]</div> 119.173.166.73 ウィリアム4世 (イギリス王) 2017-11-01T10:49:09Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ウィリアム4世<br /> | 各国語表記 = William IV<br /> | 君主号 = [[イギリス君主一覧|イギリス国王]]&lt;br/&gt;[[ハノーファー君主一覧|ハノーファー国王]]<br /> | 画像 = William IV.jpg<br /> | 画像サイズ = 200px<br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[1830年]][[6月26日]] - [[1837年]][[6月20日]]<br /> | 戴冠日 = [[1831年]][[9月8日]]、於[[ウェストミンスター寺院]]<br /> | 別号 = <br /> | 全名 = ウィリアム・ヘンリー&lt;br/&gt;{{Lang-en|William Henry}}<br /> | 出生日 = [[1765年]][[8月21日]]<br /> | 生地 = {{ENG}}、[[ロンドン]]、[[バッキンガム宮殿|バッキンガムハウス]]<br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1765|8|21|1837|6|20}}<br /> | 没地 = {{ENG}}、[[バークシャー]]、[[ウィンザー城]]<br /> | 埋葬日 = 1837年[[7月8日]]<br /> | 埋葬地 = {{ENG}}、[[バークシャー]]、[[ウィンザー城]][[:en:St George&#039;s Chapel|セント・ジョージ礼拝堂]]<br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = [[アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン]]<br /> | 配偶者2 = <br /> | 配偶者3 = <br /> | 配偶者4 = <br /> | 配偶者5 = <br /> | 配偶者6 = <br /> | 配偶者7 = <br /> | 配偶者8 = <br /> | 配偶者9 = <br /> | 配偶者10 = <br /> | 子女 = シャーロット&lt;br/&gt;エリザベス&lt;br&gt;[[ジョージ・フィッツクラレンス (初代マンスター伯爵)|ジョージ・オーガスタス]]&lt;br&gt;ヘンリー&lt;br&gt;ソフィア&lt;br&gt;メアリー&lt;br&gt;[[フレデリック・フィッツクラレンス|フレデリック]]&lt;br&gt;[[エリザベス・フィッツクラレンス|エリザベス]]&lt;br&gt;[[アドルファス・フィッツクラレンス|アドルファス]]&lt;br&gt;オーガスタ&lt;br&gt;[[オーガスタス・フィッツクラレンス|オーガスタス]]&lt;br&gt;アメリア<br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = [[ハノーヴァー朝]]<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = [[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]<br /> | 母親 = [[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ]]<br /> | 宗教 =[[キリスト教]][[イングランド国教会]]<br /> | サイン =<br /> }}<br /> <br /> [[画像:King William IV by William Salter.jpg|200px|right|thumb|ウィリアム4世]]<br /> &#039;&#039;&#039;ウィリアム4世&#039;&#039;&#039;(William IV, ウィリアム・ヘンリー(William Henry)、[[1765年]][[8月21日]] - [[1837年]][[6月20日]])は、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、[[ハノーヴァー朝]]の国王および[[ハノーファー王国]]の国王(ドイツ名:&#039;&#039;&#039;ヴィルヘルム&#039;&#039;&#039; &#039;&#039;&#039;Wilhelm&#039;&#039;&#039;, 在位:[[1830年]][[6月26日]] - 1837年6月20日)である。[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]と王妃[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ|シャーロット]]の第3子で、先王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の弟である。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> 青年時代[[イギリス海軍|海軍]]に勤務していたため、後に「船乗り王」(Sailor King) の愛称で親しまれた。13歳の時[[士官候補生]]として海軍に入隊し、1780年の[[サン・ビセンテ岬の月光の海戦]]に参加した。[[アメリカ独立戦争]]の時は[[ニューヨーク]]で勤務しており、イギリス歴代君主の中で[[アメリカ合衆国]]を訪問した経験のある最初の人物となった。ウィリアムは1785年に士官となり、翌年に軍艦「ペガサス」の艦長になった。1786年中頃には、[[ニューファンドランド (ドミニオン)|ニューファンドランド]]と[[ハリファックス]](ノヴァスコシア)に差し向けられ、[[カナダ]]の土を踏んだことのある最初の君主にもなった。その年の暮れには[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン提督]]の旗下[[西インド諸島]]で勤務した。1789年には海軍少将に進級した。同年、[[クラレンス公]]を叙爵、王に即位するまでこの爵位で通した。<br /> <br /> 多数の愛人を囲った兄たち([[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]と[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク公フレデリック]])とは異なり、[[ドロシー・ジョーダン]](ドロセア・ブラントの名で女優として活躍していた[[アイルランド人]])と20年余り夫婦同様に生活し、10人の庶子を儲けた。庶子達には、自分の公位から取ったフィッツクラレンス(FitzClarence:「クラレンスの子」の意味)の姓を与えている。<br /> <br /> 1818年、[[ザクセン=マイニンゲン公国|ザクセン=マイニンゲン]]公[[ゲオルク1世 (ザクセン=マイニンゲン公)|ゲオルク1世]]の娘アーデルハイト(イギリスでは[[アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン]]と呼ばれる)と結婚した。2人の娘をもうけたが、いずれも夭折した。<br /> <br /> 1830年、兄ジョージ4世の後を襲って王位に即く。戴冠式などどうでもいいと言い出して側近を慌てさせたが、華美にしないことと節約を条件に挙行を渋々受け入れた。派手好きな貴族たちがそんな地味な式など面白くないと騒ぎ出すと、「[[ウェストミンスター寺院]]が広々として涼しげではないか」と全く意に介さなかった。65歳という当時としては高齢の新国王は、海軍時代に[[ロンドン]]市内を自由に歩き回ったのと同じように、侍従も連れずに気軽に市中へ出かける習慣を止めなかった。幸運にも街角で国王を見つけたロンドン市民は歓喜のもとに彼を取り巻き、彼もまたそうした者たちと気さくに握手をしたり語りかけたりして人気を集めた。<br /> <br /> ウィリアム4世の治世において、[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯]]の元で[[救貧法]]の継続、地方政府の民主化、[[大英帝国]]内における児童労働の制限と奴隷労働の廃止などいくつかの改革がなされたが、そうした中でも腐敗選挙区の廃止・議席の再配分・選挙権の拡大を骨子とした1832年のイギリス初の選挙制度改革{{enlink|Reform Act 1832}}は特に重要なものだった。これを突破口としてイギリスでは選挙法に次々と改革がもたらされるようになり、そこに議会制民主主義の完成を見ることになる。<br /> <br /> ウィリアム4世は父や兄ほど政治に干渉することはなかったが、1834年、[[庶民院 (イギリス)|議会]]の意思に反して[[メルボルン子爵ウィリアム・ラム|メルボルン子爵]]を[[イギリスの首相|首相]]に任命した。これが英国政治史上、議会の意思に反して国王が首相を任命した最後の例となった。<br /> <br /> 1837年に[[肝硬変]]で死去した。イギリス王位は姪の[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]が、ハノーファー王位は弟の[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|エルンスト・アウグスト]]がそれぞれ継いだ。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> *1786年にフリーメイソンに加入。1828年には「プリンス・オブ・ウェールズ・ロッジ」のマスターとなる。1830年の即位後には[[イングランド・連合グランドロッジ|グランドロッジ]]の保護者に就任した{{sfn|湯浅慎一|1990|p=107}}。<br /> <br /> == 子女 ==<br /> [[1819年]][[3月21日]]、アデレードとの間にシャーロットが生まれたが同日に死去、[[1820年]][[12月10日]]にエリザベスが生まれたが[[1821年]][[3月4日]]に死去した。<br /> <br /> [[庶子]]として、ドロシー・ジョーダンとの間に10人の子を儲けた。<br /> * [[ジョージ・フィッツクラレンス (初代マンスター伯爵)|ジョージ・オーガスタス]](1794年 - 1842年) - マンスター伯爵<br /> * ヘンリー(1795年 - 1817年) <br /> * ソフィア(1796年 - 1837年) - [[1825年]]にド・リール・ダドリー男爵[[フィリップ・シドニー (初代ド・リール・ダドリー男爵)|フィリップ・シドニー]]と結婚。<br /> * メアリー(1798年 - 1864年) - [[1824年]]に国会議員チャールズ・リチャード・フォックスと結婚。<br /> * [[フレデリック・フィッツクラレンス|フレデリック]](1799年 - 1854年) - 陸軍士官<br /> * [[エリザベス・フィッツクラレンス|エリザベス]](1801年 - 1856年) - [[1820年]]に第18代エロル伯爵[[ウィリアム・ヘイ (第18代エロル伯爵)|ウィリアム・ヘイ]]と結婚。<br /> * [[アドルファス・フィッツクラレンス|アドルファス]](1802年 - 1856年) - 海軍士官<br /> * オーガスタ(1803年 - 1865年) - ジョン・ケネディ・アースキンと結婚、[[1827年]]にハリー・バートンと再婚。<br /> * [[オーガスタス・フィッツクラレンス|オーガスタス]](1805年 - 1854年) - [[オックスフォードシャー]]南部のメイプルダーラムの牧師。サラ・ゴードンと結婚。<br /> * アメリア(1807年 - 1858年) - [[1830年]]に第10代フォークランド子爵[[ルシアス・キャリー (第10代フォークランド子爵)|ルシアス・ベンティンク・キャリー]]と結婚。<br /> <br /> == 外国から授与された勲章 ==<br /> *[[フランス王国]]&lt;ref&gt;[[君塚直隆]]著『女王陛下のブルーリボン』NTT出版、2004年。以下、国名五十音順。&lt;/ref&gt;:[[聖霊勲章]]、[[聖ミッシェル勲章]]<br /> *[[プロイセン王国]]:[[黒鷲勲章]]、[[赤鷲勲章]]<br /> *[[ロシア帝国]]:[[聖アンドレーイ勲章]]、[[聖アレクサンドル・ネーヴスキ勲章]]、[[聖アンナ勲章]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist|1}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book|和書|author=[[湯浅慎一]]|date=1990|title=フリーメイソンリー その思想、人物、歴史|series = [[中公新書]]955|publisher=[[中央公論社]]|ISBN=978-4121009555|ref=harv}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[議院内閣制]]<br /> <br /> {{s-start}}<br /> {{s-hou|[[ハノーヴァー朝]]|1765年|8月21日|1837年|6月20日|[[ヴェルフ家|ヴェルフ]]}}<br /> {{s-reg}}<br /> {{s-bef|rows=2|before=[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]}}<br /> {{s-ttl|title={{flagicon|GBR}} [[イギリス君主一覧|連合王国国王]]|years=第3代:1830年 - 1837年}}<br /> {{s-aft|after=[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]}}<br /> |-<br /> {{s-ttl|title=[[ファイル:Flag of Hanover 1837-1866.svg|25px]] [[ハノーファー君主一覧|ハノーファー国王]]|years=第3代:1830年 - 1837年}}<br /> {{s-aft|after=[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|エルンスト・アウグスト]]}}<br /> {{end}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ういりあむ4}}<br /> [[Category:連合王国の君主]]<br /> [[Category:ハノーファー国王]]<br /> [[Category:クラレンス公]]<br /> [[Category:イギリス海軍の軍人]]<br /> [[Category:赤鷲勲章受章者]]<br /> [[Category:聖アンドレイ勲章受章者]]<br /> [[Category:聖アレクサンドル・ネフスキー勲章受章者]]<br /> [[Category:聖アンナ勲章受章者]]<br /> [[Category:フリーメイソン]]<br /> [[Category:シティ・オブ・ウェストミンスター出身の人物]]<br /> [[Category:1765年生]]<br /> [[Category:1837年没]]</div> 119.173.166.73 エセル・スマイス 2017-10-16T08:29:07Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>[[ファイル:Ethel Smyth.jpg|thumb|エセル・スマイス]]<br /> {{Portal クラシック音楽}}<br /> &#039;&#039;&#039;エセル・メアリー・スマイス&#039;&#039;&#039;(Ethel Mary Smyth [[大英帝国勲章|DBE]], [[1858年]][[4月23日]] - [[1944年]][[5月8日]]) は、[[イギリス]]の[[作曲家]]。[[19世紀]]後半の女性作曲家としては、[[フランス]]の[[オーギュスタ・オルメス]]や[[セシル・シャミナード]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[エイミー・ビーチ]]と並ぶ偉大なパイオニアである。また、[[女性解放運動]]の闘士([[サフラジェット]])としても名を残した、先駆的な[[フェミニスト]]でもあった。晩年に聴力を失ってからは、[[随筆家|エッセイスト]]に転じ、自伝や交遊録を残した。[[上野千鶴子]]の著書などでは[[アメリカ英語]]に基づく表記で「スミス」と紹介されることもある。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> 現在は[[ベクスリー・ロンドン特別区]]に属すシドカップ (Sidcup) で出生。軍人で厳格な父親への反感から[[ドイツ]]に渡り、短期間[[フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ|ライプツィヒ音楽院]]で[[ザーロモン・ヤーダスゾーン]]と院長[[カール・ライネッケ]]に学ぶが、校風になじめず退学。のち[[ウィーン]]に渡って、[[ヨハネス・ブラームス]]の友人[[ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク]]の個人指導のもとに作曲技法を磨いた。ブラームスのことを「音楽界の救世主」と呼んだほどに熱烈なブラームスの崇拝者であったが、初期と晩年に器楽曲を物したのを除けば、歌曲や合唱曲、とりわけ[[オペラ]]作曲家として活躍した。<br /> <br /> 初期の器楽曲には[[フェリックス・メンデルスゾーン]]、[[ロベルト・シューマン]]、ブラームスの影響が見られる。帰国後のオペラ作品は[[アーサー・サリヴァン]]と[[リヒャルト・ワーグナー]]の影響が著しく、色彩的なオーケストラの用法と自在な転調、凝った[[和声]]と旋律の創意が顕著である。[[第一次世界大戦]]以降は、[[グスターヴ・ホルスト]]などの影響のもとに新古典主義に傾いた。生涯を通して、重厚な響きと堅固な構成力、情熱的な表現が特徴的である。<br /> <br /> スマイスは[[カミングアウト]]こそしなかったものの、[[同性愛]]者であり、創作や社会活動の背景と動機は、しばしば恋愛感情に由来している([[ミサ曲]] ニ短調など)。また、オペラや[[オペレッタ]]には、[[フェミニズム]](もしくは[[レズビアン]]・フェミニズム)的思想を盛り込んだものが認められる(オペラ『難船掠奪民』など)。[[1930年]]初頭から、[[ヴァージニア・ウルフ]]に熱を上げ、両者の間で大量の書簡を取り交わすほどに至った。<br /> <br /> [[1922年]]、音楽的な功労に対して[[ナイト|デイム]]の称号を授与された。[[サリー (イングランド)|サリー州]]ウォキング (Woking) で没。<br /> <br /> == 作品 ==<br /> * ミサ曲 ニ短調<br /> * ヴァイオリン・ソナタ ニ短調<br /> * チェロ・ソナタ イ短調<br /> * 交響的セレナード ニ長調<br /> * オペラ『難船掠奪民』<br /> * 弦楽四重奏曲 ホ短調<br /> * 合唱曲「女たちの行進」<br /> * ヴァイオリンとホルンのための二重協奏曲<br /> <br /> == 音源 ==<br /> * [http://jp.youtube.com/watch?v=zNh-9zbWykY&amp;feature=related The Wreckers Act 1]<br /> * [http://jp.youtube.com/watch?v=nNnrUBGB8k4 The Wreckers Act 3]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commonscat|Ethel Smyth}}<br /> * {{IMSLP|id=Smyth, Ethel}}<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:すまいす えせる}}<br /> [[Category:ロマン派の作曲家]]<br /> [[Category:近現代の作曲家]]<br /> [[Category:イングランドの作曲家]]<br /> [[Category:オペラ作曲家]]<br /> [[Category:女性作曲家]]<br /> [[Category:イギリスの随筆家]]<br /> [[Category:イギリスのフェミニスト]]<br /> [[Category:レズビアンの人物]]<br /> [[Category:イギリス出身のLGBTの音楽家]]<br /> [[Category:大英帝国勲章]]<br /> [[Category:ベクスリー区出身の人物]]<br /> [[Category:1858年生]]<br /> [[Category:1944年没]]</div> 119.173.166.73 セシル・シャミナード 2017-10-16T08:25:20Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>[[画像:Cecile chaminade.jpg|200px|right|セシル・シャミナード]]<br /> {{Portal クラシック音楽}}<br /> &#039;&#039;&#039;セシル・ルイーズ・ステファニー・シャミナード&#039;&#039;&#039;(Cécile Louise Stéphanie Chaminade, [[1857年]][[8月8日]] - [[1944年]][[4月13日]])は、[[フランス]]の[[作曲家]]・[[ピアニスト]]。出版作品と演奏活動によって、経済的に自立した最初の女性作曲家といわれる。とりわけピアノ曲《スカーフの踊り》(&#039;&#039;Pas des écharpes&#039;&#039;)は世界的にヒットし、それを記念して1910年にはイギリスの香水会社によって彼女のプロフィールを付けた石鹸が発売された。<br /> <br /> 同族の縁者に[[福者]][[ギヨーム・ジョゼフ・シャミナード]]がいる。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[パリ]]の[[ブルジョワジー]]の家庭に生まれる。母の手ほどきで[[ピアノ]]を始める。幼年期から作曲を試み、8歳のときいくつかの宗教曲を[[ジョルジュ・ビゼー]]に演奏して聴かせ、「小さなモーツァルト」と呼ばれて可愛がられた。当時の[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]の作曲科は女性に対して公式な入学許可を与えていなかったため、個人教授でル・クーペやサヴァール、マルシックにピアノを、[[バンジャマン・ゴダール]]に作曲を師事した。しかし、父親は彼女の音楽学習を容認しようとしなかった。<br /> <br /> 18歳で最初の演奏会を行い、徐々に作曲家としての認知を受けるようになった。[[1879年]]に[[国民音楽協会]]の正会員に迎えられる。[[アンブロワーズ・トマ]]は彼女を評して、「作曲する女性というより、女性の作曲家というべきだ」と述べている。<br /> <br /> 初期には管弦楽曲や[[ピアノ協奏曲]]のほか、[[オペラ]]や[[バレエ]]なども作曲したが、経済的自立を選んでからは《スカーフの踊り》などのピアノ曲や《銀の輪環》や《春が来た》(&#039;&#039;Ritournelle&#039;&#039;)などのサロン歌曲を数多く手懸ける。そのほとんどが出版され、経済的にも大きな収入を得た。<br /> <br /> 初期にフランス国内で数度演奏旅行を行っていたが、[[1892年]]に[[イギリス]]でデビューすると、イギリスでその作品は人気を集めるようになる。[[1894年]]には[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]に御前演奏を行なう。その後は[[アメリカ合衆国]]から[[トルコ]](当時は[[オスマン帝国]])まで演奏旅行を行い、[[1910年]]に[[ピアノ・ロール]]にも自作の録音を残した。[[英語]]はまったく知らなかったが、特にイギリスやアメリカで成功するとこれらの国々に親近感をもつようになり、アメリカの女性作曲家の先駆者[[エイミー・ビーチ]]と文通を続けた。<br /> <br /> [[1901年]]に10歳年長の[[マルセイユ]]の楽譜出版商ルイ=マチュー・カルボネルと結婚するが同居せず、年末に互いの住まいを行き来したため、[[偽装結婚]]なのではないかと噂された。カルボネルが[[1907年]]に没してからは、再婚しようとしなかった。<br /> <br /> [[1908年]]に初めて訪米し、数え切れない数の崇拝者から熱烈な歓迎を受ける。[[ホワイトハウス]]で[[セオドア・ルーズベルト|セオドア・ルーズヴェルト]]に御前演奏を行なった。[[1913年]]に女性作曲家として初めて[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール勲章]]を授与された。夫と母親を喪ってから、1910年を前後する4年間に、[[降霊術]]や[[オカルト]]に熱中して音楽活動を顧みず、また[[1918年]]から[[菜食主義]]による無謀なダイエットが原因で[[骨粗鬆症]]を来たして歩行困難となり、後に左足を失う結果となった。<br /> <br /> 晩年は、社会情勢の悪化に伴い[[モンテカルロ]]に隠居し([[1930年]])、[[ヴィシー政権]]により契約先の[[ユダヤ系]]の出版社エノック(Enoch)が圧迫されると、[[印税]]を当てにすることができなくなったと言われている。<br /> <br /> == 没後の評価、作風など ==<br /> 生前の成功にもかかわらず、没後の20世紀後半は長らく忘却に甘んじてきた。しかし[[1990年代]]に[[フルート]]と管弦楽のための《コンチェルティーノ ニ長調》がたびたび演奏・録音されるようになり、その後はピアノ曲も復活を遂げている。<br /> <br /> フランスの女性作曲家としては、[[ポーリーヌ・ヴィアルド]]や[[オーギュスタ・オルメス]]と同じく、伝統的に[[サロン]][[歌曲]]の作品を多く作曲したが、器楽曲や、少ないながらも[[ソナタ形式]]を踏んだ作品をいくつか作曲した点で、当時としては異色の女性作曲家であった。オルメスと違って管弦楽曲や[[カンタータ]]の大作を遺していない。<br /> <br /> 約100曲のピアノ曲は、そのほとんどが[[性格的小品|キャラクターピース]]であり、当時「女性らしい」とみなされたいくつかの特質(構築性より叙情性の追究、繊細さ、柔和さ、優雅さ、しめやかさ、ウィット)が戦略的に強調されている。一方でそのような音楽的趣味は、[[フランソワ・クープラン|クープラン]]の[[チェンバロ|クラヴサン]]曲からの影響を指摘する向きもある。<br /> <br /> [[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]とほとんど同世代であったものの、その音楽にはあまり好感が持てないと言い、[[ジュール・マスネ|マスネ]]に傾倒していると述べた。しかし多くのピアノ曲は、彼女がむしろ[[エマニュエル・シャブリエ|シャブリエ]]と[[フランシス・プーランク|プーランク]]の間をとりもつ作曲家であったことを示している。<br /> <br /> === 主要作品 ===<br /> * 管弦楽曲<br /> ** ピアノと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック 作品40<br /> ** フルートと管弦楽のためのコンチェルティーノ 作品107 (一般的にはピアノ伴奏版が有名)<br /> ** バレエ音楽《カリロエー》(&#039;&#039;Callirhoé&#039;&#039;)<br /> <br /> * 室内楽曲<br /> ** ピアノ三重奏曲 第1番 ト短調 作品11<br /> ** ピアノ三重奏曲 第2番 イ短調 作品34<br /> ** ヴァイオリンとピアノのための《スペインのセレナード》(&#039;&#039;Sérénade espagnole&#039;&#039;)作品150(原曲はピアノ曲、[[フリッツ・クライスラー]]編曲)<br /> <br /> * ピアノ曲<br /> ** ピアノ・ソナタ ハ短調 作品21<br /> ** 6つの演奏会用練習曲 作品35<br /> *** 1. スケルツォ ハ長調<br /> *** 2. 秋 変ニ長調(作品35では最も有名)<br /> *** 3. 糸を紡ぐ女 ホ長調<br /> *** 4. アレグロ ハ短調(原曲はピアノ・ソナタのフィナーレ)<br /> *** 5. 即興曲 ヘ長調<br /> *** 6. タランテラ ニ長調<br /> ** スカーフの踊り(&#039;&#039;Pas de écharpes&#039;&#039;) 作品37-3(バレエ音楽《カリロエー》の抜粋・編曲)<br /> ** 女道化師 作品41<br /> ** 媚び諂う女 作品50<br /> ** アラベスク 作品61<br /> ** 無言歌集作品76<br /> *** 1. 想い出<br /> *** 2. 高揚<br /> *** 3. 牧歌<br /> *** 4. ブルターニュの踊り<br /> *** 5. <br /> *** 6. 瞑想曲<br /> ** 過去 作品87-4<br /> ** 夜の漁師 作品127-4<br /> <br /> * 歌曲 : 多数<br /> &lt;!--<br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}&lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;&lt;references/&gt;&lt;/div&gt;<br /> --&gt;<br /> == 外部リンク ==<br /> * {{IMSLP|id=Chaminade, Cécile}}<br /> * [http://hdl.handle.net/1802/2247 Arrangement by the composer of &#039;&#039;Concertstück: pour piano et orchestre, op. 40&#039;&#039; for 2 pianos, 4 hands] Paris: Enoch et Cie, 1890. From Sibley Music Library Digital Scores Collection<br /> * [http://hdl.handle.net/1802/2055 &#039;&#039;Duo symphonique pour deux pianos (4 mains) op. 117&#039;&#039;] Paris: Enoch &amp; Cie, 1905. From Sibley Music Library Digital Scores Collection<br /> * [https://web.archive.org/web/20050306063111/http://www.rprf.org/Rollography.html Piano Rolls] ([http://www.rprf.org/ The Reproducing Piano Roll Foundation])<br /> * {{findagrave|9589283}}<br /> * [http://www.bbc.co.uk/radio3/cotw/pip/t5y5z/ BBC Radio Composer of the Week archive]<br /> * [http://www.ambache.co.uk/wBoulanger.htm Women of Note: Nadia and Lili Boulanger (with audio clips)]<br /> * [http://www005.upp.so-net.ne.jp/KsTuningStudio/chaminade/Chaminade.html シャミナード]<br /> * [http://www.geocities.co.jp/NatureLand/5390/impressionist/chaminade/ セシル・シャミナード]<br /> * [http://homepage1.nifty.com/qinium/cham.htm シャミナード]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:しやみなあと せしる}}<br /> [[Category:フランスのクラシック音楽のピアニスト]]<br /> [[Category:フランスの作曲家]]<br /> [[Category:ロマン派の作曲家]]<br /> [[Category:近現代の作曲家]]<br /> [[Category:女性作曲家]]<br /> [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]<br /> [[Category:菜食主義者]]<br /> [[Category:パリ出身の人物]]<br /> [[Category:1857年生]]<br /> [[Category:1944年没]]</div> 119.173.166.73 ドチリナ・キリシタン 2017-10-14T13:36:18Z <p>119.173.166.73: /* 参考文献 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;ドチリナ・キリシタン&#039;&#039;&#039;は、近世初期に[[イエズス会]]によって作成された[[カトリック教会]]の[[教理]]本である。当時の[[ポルトガル語]]で&#039;&#039;&#039;Doctrina Christã&#039;&#039;&#039;&lt;ref name=&quot;『国史大事典』ドチリナ・キリシタン&quot;&gt;『国史大辞典』10巻 吉川弘文館 (381 - 382頁)。&lt;/ref&gt;(現在の表記ではDoutrina Cristã)、[[ラテン語]]で&#039;&#039;&#039;Doctrina Christiana&#039;&#039;&#039;&lt;ref name=&quot;『国史大事典』ドチリナ・キリシタン&quot;/&gt;と表記する。<br /> <br /> == 日本のドチリナ・キリシタン ==<br /> 日本で刊行されたドチリナ・キリシタンは、刊行年・刊行地共に不明の国字本「どちりいな・きりしたん」&lt;ref&gt;天正19年([[1591年]])に[[島原半島]]の[[加津佐町|加津佐]]で刊行されたとも言われる。&lt;/ref&gt;、[[文禄]]元年([[1592年]])発行の天草版ローマ字本&lt;ref name=&quot;『日本キリスト教史』どちりな・きりしたん&quot;&gt;『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 175頁。&lt;/ref&gt;、[[慶長]]5年([[1600年]])発行の長崎版[[ローマ字]]本&lt;ref name=&quot;『日本キリスト教史』どちりな・きりしたん&quot;/&gt;&lt;ref&gt;『国史大辞典』4巻 吉川弘文館 「キリシタン版」(437頁)。&lt;/ref&gt;、同年発行の長崎版国字本「どちりな・きりしたん」の4種類がある&lt;ref name=&quot;『国史大事典』ドチリナ・キリシタン&quot;/&gt;&lt;ref&gt;『長崎県大百科事典』 長崎新聞社 「ドチリナ・キリシタン」(586頁)。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;長崎版「どちりな・きりしたん」は、[[長崎市|長崎]]の[[町年寄#長崎町年寄|町年寄]]であった[[後藤宗印]]により刊行された(『国史大辞典』5巻 吉川弘文館 「後藤宗印」(915頁)、『長崎県大百科事典』 長崎新聞社 「後藤宗印」(330頁))。&lt;/ref&gt;。ローマ字本はヨーロッパ人の日本語学習のため、国字本は日本人信徒の教理学習用として編纂され、問答体の平易な文章で書かれている。[[天正]]18年([[1590年]])に2度目の来日をした[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]がヨーロッパから持ち込んだ[[活字]]印刷機により他の数々の書物と共に印刷された。<br /> <br /> ドチリナ・キリシタンでは、キリスト教が来世における救済の教えであることを、キリシタンに対して繰り返し強調していた&lt;ref&gt;『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 14頁。&lt;/ref&gt;。また、[[モーセの十戒|デウスの十戒]]の第4の掟で、「父母に対する孝行」を「主人・司たる人(主君や領主)に対する忠誠と服従」と敷衍して規定していた&lt;ref&gt;『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 24頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ドチリナ・キリシタンの変遷 ===<br /> 1540年代にインドでの布教に従事していた[[フランシスコ・ザビエル]]は、同地方の住民のために問答体の教理書カテキスモを作成した。そして日本に渡航する際に、日本人[[ヤジロウ|アンジロー]]に教理書を日本語に翻訳させた。日本の宗教事情を考慮して仏教用語を多く借用したが、来日後に仏教用語を払拭した改訂版を作成した&lt;ref name=&quot;『国史大事典』ドチリナ・キリシタン&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[ガスパル・ヴィレラ]]が上京した当時、宣教師が日本で用いていたドチリナ・キリシタンは、[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])に来日したインド菅区長[[メルシオール・ヌーネス]]が、それまで使われていたザビエル作成の教理書を全面的に改訂して、[[バルタザール・ガーゴ]]神父に新たに編纂させた25章からなる「二五ヶ条」と呼ばれる教理書であった&lt;ref&gt;『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 104 - 105頁。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;『国史大事典』ドチリナ・キリシタン&quot;/&gt;。[[ルイス・フロイス]]が[[永禄]]11年([[1568年]])当時[[畿内]]布教のために使用したドチリナ・キリシタンも、日本語に翻訳されていたヌーネス編纂の教理書であった&lt;ref&gt;ルイス・フロイスの1568年10月4日付書翰 (Cartas I,250v) より(『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 104 - 105頁)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ポルトガル]]のイエズス会士マルコス・ジョルジュが中心となって、子供を対象にした対話式の教理書「ドチリナ」が作成され、[[1566年]]に[[リスボン]]で上梓された&lt;ref name=&quot;『日本キリスト教史』ドチリナ・キリシタン&quot;&gt;『日本キリスト教史』 五野井隆史著 吉川弘文館 (107頁)。&lt;/ref&gt;。これが海外で布教に従事するイエズス会士に使用され、永禄11年(1568年)に日本にももたらされた。このドチリナが日本語に翻訳された後、日本の実情に即して成人向けに編纂し直され、写本となり日本各地で使用された&lt;ref name=&quot;『国史大事典』ドチリナ・キリシタン&quot;/&gt;。この写本は、国字本「どちりいな・きりしたん」が印刷されるまで約20年間使用された&lt;ref name=&quot;『日本キリスト教史』ドチリナ・キリシタン&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[カテキズム]]<br /> *[[キリシタン版]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *『日本キリスト教史』 [[五野井隆史]]著 [[吉川弘文館]] ISBN 4-642-07287-X<br /> *『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』4巻 [[吉川弘文館]] ISBN 978-4-642-00504-3<br /> *『国史大辞典』5巻 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-00505-0<br /> *『国史大辞典』10巻 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-00510-4<br /> *『長崎県大百科事典』 [[長崎新聞社]]<br /> <br /> {{日本キリスト教史}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:とちりなきりしたん}}<br /> [[Category:カテキズム]]<br /> [[Category:キリシタン|*とちりなきりしたん]]<br /> [[Category:南蛮文化]]<br /> [[Category:室町・安土桃山時代のキリスト教]]<br /> [[Category:江戸時代の書籍]]<br /> [[Category:日本のキリスト教書籍]]<br /> [[Category:イエズス会]]</div> 119.173.166.73 ディオクレティアヌス紀元 2017-10-14T13:35:47Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;ディオクレティアヌス紀元&#039;&#039;&#039;または&#039;&#039;&#039;殉教紀元&#039;&#039;&#039;(じゅんきょうきげん)は、[[4世紀]]から[[5世紀]]頃、[[キリスト教徒]]の間で広く用いられていた[[紀元]]。[[ローマ皇帝]][[ディオクレティアヌス]]のキリスト教徒迫害によって多くの[[殉教者]]([[致命者]])が出たことを祈念し、ディオクレティアヌスが即位した年の年初([[ユリウス暦]][[284年]][[8月29日]])を紀元とする。現在でも[[エジプト]]の[[コプト正教会]]が用いている。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === ディオクレティアヌス紀元の普及 ===<br /> アレクサンドリア教会での[[復活祭]]の計算方法に用いられており、そのアレクサンドリア方式が[[第1ニカイア公会議]]で採用されたため、[[キリスト教]]世界全体に広まった。<br /> <br /> [[325年]]におこなわれた[[第1ニカイア公会議]]は全教会で復活祭を同じ日曜日に祝うことを決定し、アレクサンドリア方式を採用した。アレクサンドリアの教会では、復活祭は「[[春分の日]]以降で最も早い[[太陰暦]]の14日([[満月]]の日)の次の日曜日」に祝っていた。このとき、春分の日も当時の[[ユリウス暦]]では[[3月25日]]であったが、アレクサンドリアでの春分の日に基づき、[[3月21日]]とされた。<br /> <br /> このような復活祭の日付を何十年も先まで計算するのは簡単ではなく、ディオクレティアヌス紀元をもとにユリウス暦と19年周期(新月が同じ日となる周期:[[メトン周期]])、28年周期(同じ月に週の曜日が同じになる周期)などを組み合わせた復活祭暦表が作られた。4、5世紀頃には、ディオクレティアヌス紀元はキリスト教徒の間で最も広く用いられる紀元であった。<br /> <br /> === 西暦の誕生 ===<br /> {{See also|西暦}}<br /> [[525年]]、復活祭暦表を改訂するに当たり、[[ディオニュシウス・エクシグウス]]が迫害者の名を未来に残すことを嫌い、[[イエス・キリスト]]生誕の年を紀元とすることを提唱した。エクシグウス自身は起算年を「主の体現より」と呼び、これをローマ建国754年1月1日とした。やがてヨーロッパの教会暦でエクシグウスの方式が採用されるようになるにつれ他の方式にとって代わるようになり、現在の[[西暦]]の形ができあがった。ただし一般人がこれを使い始めたのは西欧においても16世紀に入ってからのことであり、それまでは様々な[[紀年法]]が併用されていた&lt;ref&gt;[[佐藤正幸]]『世界史における時間』(40頁、2009年8月30日、1版1刷、[[山川出版社]]) ISBN 9784634349667&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *[[佐藤正幸]]『世界史における時間』(2009年8月30日、1版1刷、[[山川出版社]]) ISBN 9784634349667<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[世界創造紀元]]<br /> *[[インディクティオ]]<br /> *[[ユリウス暦]]<br /> *[[グレゴリオ暦]]<br /> *[[修正ユリウス暦]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ていおくれていおあぬす}}<br /> [[Category:紀年法]]<br /> [[Category:キリスト教用語]]<br /> [[Category:古代のキリスト教]]<br /> [[Category:コプト正教会]]</div> 119.173.166.73 エルサレム教会 2017-10-14T13:28:35Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>{{Otheruses|イエスの死後、エルサレムで活動した弟子たちの教団|エルサレム総主教庁のこと|エルサレム総主教庁}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;エルサレム教会&#039;&#039;&#039;(エルサレムきょうかい)は、[[イエス・キリスト]]の死後、[[エルサレム]]で活動した弟子たちの教団。<br /> <br /> [[アンティオキア教会]]を拠点として[[ギリシア語]]を話した[[パウロ]]ら[[ユダヤ人]]の一派([[ヘレニスト]])は[[異邦人]]への伝道も行う立場から必ずしも[[律法]]([[割礼]]や食物の禁忌)を強制しなかったため、割礼を行う習慣が無い地域における[[キリスト教]]への改宗者に対しても[[割礼]]や食餌規定の遵守など律法を厳格に遵守する立場のエルサレム教会と対立した(ナザレ派、原始エルサレム教会)。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[エルサレム教団]]<br /> * [[原始キリスト教]]<br /> * [[アンティオキア教会]]<br /> * [[割礼]]<br /> <br /> {{デフォルトソート:えるされむきようかい}}<br /> [[Category:古代のキリスト教]]<br /> [[Category:エルサレムの歴史]]<br /> <br /> {{christ-stub}}</div> 119.173.166.73 アラゴン語 2017-10-14T12:51:49Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>{{Otheruses||スペイン語の方言|アラゴン方言}}<br /> {{Infobox Language<br /> |name=アラゴン語<br /> |nativename={{lang|an|aragonés, luenga aragonesa}}<br /> |states={{ESP}}<br /> |region=[[File:Flag of Aragon.svg|border|25px]] [[アラゴン州]]<br /> |speakers=1万人&lt;ref name=&quot;sil&quot;&gt;{{cite web |url =http://www.ethnologue.com/language/arg |title=Aragonese|publisher=[[国際SIL|SIL]] |year=n.d. |accessdate=2014-1-19}}&lt;/ref&gt;<br /> |familycolor=インド・ヨーロッパ語族<br /> |fam1=[[インド・ヨーロッパ語族]]<br /> |fam2=[[イタリック語派]]<br /> |fam3=[[ロマンス諸語]]<br /> |fam4=[[西イタロ語]]<br /> |fam5=西部<br /> |script=[[ラテン文字]]<br /> |nation=<br /> |agency={{lang|an|Academia d&#039;a Luenga Aragonesa}}<br /> |iso1=an<br /> |iso2=arg<br /> |iso3=arg<br /> |map=[[ファイル:Bariedaz lingüisticas d&#039;Aragón.png|thumb|center|300px|アラゴン州の地図(灰色:アラゴン語が話されている地域)]]<br /> |vitality=危険<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;アラゴン語&#039;&#039;&#039;(アラゴン語:{{Lang|an|&#039;&#039;&#039;l&#039;aragonés&#039;&#039;&#039;}}、{{Lang|an|&#039;&#039;&#039;luenga aragonesa&#039;&#039;&#039;}})は、[[イベリア半島]]の[[スペイン]]、[[アラゴン州]]で話されている[[ロマンス語]]のひとつで、現在およそ1万1千人ほどの人々によって話されている。アルトアラゴン語({{Lang|an|&#039;&#039;&#039;altoaragonés&#039;&#039;&#039;}}、高アラゴン語)やファブラ({{Lang|an|&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;fabla&#039;&#039; aragonesa&#039;&#039;&#039;}})とも呼ばれる。主に州北部のラ・ハセタニア({{Lang-es-short|La Jacetania}} ア:{{Lang|an|A Chacetania}})、アルト・ガジェゴ({{Lang-es-short|Alto Gállego}} ア:{{Lang|an|Alto Galligo}})、ソブラルベ(両語とも:{{Lang|an|Sobrarbe}})などの地区や、リバゴルサ({{Lang|an|Ribagorza}})地区の西部などで話され、その他の地区でもスペイン語の影響を強く受けてはいるが話されている。もっとも東の変種(ベナスケ渓谷{{Lang|an|Valle de Benasque}})はカタルーニャ語の特徴も見られる[[方言連続体]]となっている。非アラゴン語地区へ移住したアラゴン語話者間の言語使用についてのデータについては不明である。また、この消滅危機言語を活性化するために新たに学習した「新話者」についてのデータも不明である。<br /> <br /> == 名称 ==<br /> この言語のもっとも一般的で公式な名称はアラゴン語({{Lang|an|&#039;&#039;&#039;l&#039;aragonés&#039;&#039;&#039;}})で、現地においても、また国際的にもこの名称で知られる。文献学の伝統では、[[ナバーラ・アラゴン語]]({{Lang|es|&#039;&#039;&#039;navarroaragonés&#039;&#039;&#039;}})とも呼ばれるが、この術語はもっぱら中世の言語についてのものである。現代の文献学ではそれぞれ中世ナバーラ語、中世アラゴン語と区別することも多い。<br /> <br /> ファブラ・アラゴネサ({{Lang|an|&#039;&#039;&#039;fabla aragonesa&#039;&#039;&#039;}})または単にファブラ({{Lang|an|&#039;&#039;&#039;fabla&#039;&#039;&#039;}})は20世紀の最後の四半世紀に広まった名称で、これは西部の地域変種に対して使用されていたものである。<br /> <br /> またアルト・アラゴン語({{Lang|an|&#039;&#039;&#039;altoaragonés&#039;&#039;&#039;}})とも呼ばれるが、この名称は現在主流とはなっていない&lt;ref&gt;[http://www.enciclopedia-aragonesa.com/voz.asp?voz_id=754&amp;tipo_busqueda=1&amp;nombre=altoaragonés&amp;categoria_id=&amp;subcategoria_id=&amp;conImagenes= Altoaragonés] en la [Gran Enciclopedia Aragonesa.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=arg Aragonés] en [ethnologue].&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2013年に採択された{{仮リンク|アラゴン言語法 (2013年)|es|Ley de Lenguas de Aragón (2013)|label=アラゴン言語法}}ではピレネーおよび沿ピレネー地域の固有アラゴン語([[:es:Lengua aragonesa propia de las áreas pirenaica y prepirenaica|&#039;&#039;&#039;Lengua aragonesa propia de las áreas pirenaica y prepirenaica&#039;&#039;&#039;]])という語を使用している。<br /> <br /> また、それぞれの地域においてはさまざまな変種を示す名称が使用されている。<br /> <br /> == アラゴン語の歴史 ==<br /> アラゴン語の起源は8世紀にさかのぼり、[[ピレネー山脈]]での[[ラテン語]]方言の一つとして、[[バスク語]]のような言語を下層として形成された。初期の[[アラゴン王国]](アラゴン、ソブラルベ、リバゴルサの三国からなる)は徐々に山地から南方へ拡張し、[[レコンキスタ]]によってイスラム教徒をさらに南に押しやり、アラゴン語を広めた。<br /> <br /> [[カタルーニャ君主国|カタルーニャ諸国]]とアラゴン王国との連合により、12世紀に[[アラゴン連合王国]]が成立したが、カタルーニャとアラゴンの2地域の言語は統一されることはなかった。東では[[カタルーニャ語]]、西ではアラゴン語が話され続けた。イスラム教徒から奪還した土地([[バレアレス諸島]]や[[バレンシア州|バレンシア]]の新王国)に広がっていったのは、カタルーニャ語のほうであった。アラゴン王国による南方へのレコンキスタは[[ムルシア]]王国で終わり、ムルシアは[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]によってアラゴン王女の持参金として[[カスティーリャ王国]]に割譲された。<br /> <br /> 現在[[スペイン語]]と呼ばれるカスティーリャ語のこの地域への拡大と、[[トラスタマラ家]]がカスティーリャに起源を持つこととは、アラゴン語とカスティーリャ語との関係と強く結び付いており、やがてそのことはアラゴン語の暫時的な衰退をもたらすことになる。アラゴン語の歴史において転換点の一つとなったのは、15世紀にアラゴン王国の王にカスティーリャ王家(トラスタマラ家)出身の[[フェルナンド1世 (アラゴン王)|フェルナンド1世]](アンテケーラのフェルナンドとして知られる)が選ばれたことであった。<br /> <br /> アラゴンとカスティーリャが連合し、16世紀以降には次第に自治が認められなくなったため、アラゴン語は広く使われているにもかかわらず、地方での話し言葉に限定されるようになった。貴族階級はスペイン語を権力の象徴としたのである。アラゴン語への抑圧は、20世紀において[[フランシスコ・フランコ|フランコ]]政権のもとで頂点を迎えた。学校でアラゴン語を話した生徒はぶたれ、[[:en:Language politics in Francoist Spain|フランコ政権の言語政策]]によってスペイン語以外の言語を教えることは禁じられた。<br /> <br /> 1978年に承認された民主的な憲法は、アラゴン語による文学作品やアラゴン語の研究の増進をもたらした。しかし、この言語にとってあまりに遅すぎたであろう。<br /> <br /> == 特徴 ==<br /> アラゴン語は、ピレネー山脈の南側で話されており、フランスに地理的に近いため、[[ガロ・ロマンス語]]との共通点を多く持つ。たとえば、複合完了時制を構成する助動詞はフランス語などと同様、averとestarを使い分ける。また、いわゆる繋辞動詞はestarのみで、この点もserとestarを使い分けるカスティーリャ語とは異なる。しかし、定冠詞はo、os、a、asで、イベリア半島西部のガリシア語、ポルトガル語と同じ形式となっている。<br /> <br /> == 文法 ==<br /> == 地域変種 ==<br /> {{main|es:Dialectos del aragonés|an:Dialectos de l&#039;aragonés}}<br /> [[画像:Grupos de parlas de l&#039;aragonés.svg|thumb|アラゴン語の4地域変種グループ]]<br /> 地域変種(方言)の分類分けについて、最も受け入れられているのは{{仮リンク|フランチョ・ナゴーレ・ライン|label=フランチョ・ナゴーレ|es|Francho Nagore Laín}}によるもので、それによるとアラゴン語は4つの地域変種グループに分けられる&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nagore |first=Francho |authorlink=:es:Francho Nagore |last2= Gimeno |first2= Chesús |enlaceautor2= Chesús Gimeno |title=El aragonés hoy. Informe sobre la situación actual de la lengua aragonesa |accessdate=27 de agosto de 2012 |otros= |edición= |year=1989 |publisher=IberCaja/Publicazions d&#039;o Consello d&#039;a Fabla Aragonesa |location=Huesca |isbn= |capítulo= |páginas= |cita= }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite book |last=Nagore |first=Francho |enlaceautor=Francho Nagore |title=Gramática de la Lengua Aragonesa |accessdate=27 de agosto de 2012 |otros= |edición= |year=1989 |publisher=Mira Editores |location=Zaragoza |isbn= |capítulo= |páginas= |cita= }}&lt;/ref&gt;:<br /> * 西部方言([[:es:Aragonés occidental|aragonés occidental]]) <br /> * 中部方言([[:es:Aragonés central|aragonés central]])<br /> * 東部方言([[:es:Aragonés oriental|aragonés oriental]])<br /> * 南部方言またはソモンターノ方言([[:es:Aragonés meridional|aragonés meridional]]または[[:es:somontanés|somontanés]])<br /> <br /> これらのグループは、それぞれが方言的特徴を有する変種の複合体で、コマルカや集落によってさらに下位の地域変種に分けられる。<br /> <br /> == 表記 ==<br /> === 正書法 ===<br /> アラゴン語の表記についてはいくつか提案されている:<br /> <br /> * 1987年のウエスカ表記法([[:es:grafía de Huesca de 1987|grafía de Huesca de 1987]]):この表記法は、アラゴン語復興運動においてもっとも支持されているが、全てのアラゴン語諸地域変種を考慮していないと指摘されている。1987年にウエスカで開催された第一回アラゴン語正常化会議で決定されたが、以前から幾人かの作家によって使用されていた表記法に類似したものであった。この表記法は、音素を反映したもので、ほぼ一貫した考え方が貫かれているが、語源については考慮されたものとはなっていなかった。例えば(スペイン語で以下のようにあらわされる文字は)、&#039;&#039;v&#039;&#039;と&#039;&#039;b&#039;&#039;は&#039;&#039;b&#039;&#039;で、&#039;&#039;ch&#039;&#039;、&#039;&#039;j&#039;&#039;、&#039;&#039;g(+e)&#039;&#039;、&#039;&#039;g(+i)&#039;&#039;は&#039;&#039;ch&#039;&#039;で代表させている。また他にはスペイン語での&#039;&#039;ñ&#039;&#039;やアクセントの使用法が採用された。2010年、第二回会議で設立された{{仮リンク|アラゴン語アカデミア|an|Academia de l&#039;Aragonés}}は『暫定正書法試案』を出版した。このことを受けていくつかのグループや1987年表記法を使用する個人(スペイン語正書法に準じた正書法を使用する方言作家たちを含む)はアカデミアの正書法の使用に踏み切った。<br /> <br /> * SLA表記法([[:an:Wikipedia:Biquiprochecto:Grafía/SLA|Wikipedia:Biquiprochecto:Grafía/SLA]]):{{仮リンク|アラゴン語協会|label=アラゴン語協会(SLA)|an|Sociedat de Lingüistica Aragonesa}}によって2004年に制定。少数の使用にとどまっている。ウエスカ表記法が、スペイン語正書法に準じているとの理由で、それに代わるべく、[[カタルーニャ語]]や[[オクシタン語]]ともいくつかの共通性が認められる、伝統的な中世アラゴン語の表記法への回帰を志向した表記法である。例えば、中世アラゴン語では2つの音素として区別した&#039;&#039;v&#039;&#039;と&#039;&#039;b&#039;&#039;の区別や、同様に中世語では別の音素として区別された&#039;&#039;ch&#039;&#039;、&#039;&#039;j&#039;&#039;、&#039;&#039;g(+e)&#039;&#039;、&#039;&#039;g(+i)&#039;&#039;などの区別。&#039;&#039;ñ&#039;&#039;で表される、硬口蓋鼻音音素の&#039;&#039;ny&#039;&#039;への置き換え(中世語の表記法では&#039;&#039;ny&#039;&#039;は現行の&#039;&#039;ñ&#039;&#039;よりその使用がより広範であった)。また、アクセント符号の使用もカタルーニャ語やオクシタン語に準じたものとなっている。<br /> <br /> * アラゴン語アカデミア正書法:ウエスカ表記法やその対案としてのSLA表記法における一般性の欠如は、言語法の制定の必要性が認識されるようになり、第一回アラゴン語会議で制定された表記法を使用する多くのグループや個人と、ウエスカ表記法の使用を拒絶し続けた地域のグループや個人が、2005年に&#039;&#039;Chuntos por l&#039;Aragonés&#039;&#039;(「アラゴン語のためにともに」の意)と名付けられた運動を開始した。この運動の目的は言語の統一とアラゴン語のための統制機関設立のために第二回アラゴン語会議の開催を目指すものであった。この運動は2006年のアラゴン語アカデミアの設立へと実を結んだ。言語の正常化に関して様々な意見を有する人々によって構成されたこの新機関は、多くの人々によって受け入れられる正書法の発展のためと標準アラゴン語(variedad estandar)の制定のための多くの団体の意見を認めた。3年以上の期間を経て、2010年2月、最初の成果として『アラゴン語アカデミア暫定正書法試案』を世に問い、それをもとに同年6月には改訂版である『正書法試案』を発表した。この試案は、歴史的事実、アラゴン語アイデンティティ、一貫性、体系性および機能性を考慮したものとなった。この試案においては、まず語源および中世語(&#039;&#039;v&#039;&#039;と&#039;&#039;b&#039;&#039;の語源的区別や、&#039;&#039;ny&#039;&#039;の使用など)の形式が考慮された、が、いくつかの場合においては機能性(二重字母として、&#039;&#039;ch&#039;&#039;、&#039;&#039;j&#039;&#039;、&#039;&#039;g(+e)&#039;&#039;、&#039;&#039;g(+i)&#039;&#039;に対応する&#039;&#039;ch&#039;&#039;の一般的使用)が優先された。そのほかの面では語形変化の一貫性や体系性(複数形などの動詞変化などで、共通アラゴン語では{{IPA|/θ/}}と発音され、リバゴルサ方言では{{IPA|/ts/}}で発音される字母&#039;&#039;tz&#039;&#039;)が重視された。<br /> <br /> == 現在のアラゴン語 ==<br /> 現在でも、アラゴン語はその中心地で母語として話されている。ピレネー山脈のアラゴン山地や、ソモンタノ、ソブラルベ、リバゴルサといった地区である。主要な都市や町にもアラゴン語の話者がいる。[[ウエスカ]]、モンソン、バルバストロ、サビニャニゴ、[[ハカ (スペイン)|ハカ]]、[[アイェルベ]]といった町である。<br /> <br /> アラゴン語は、ウエスカ、[[サラゴサ]]、エヘアデロスカバリェロス、[[テルエル]]といった場所では第2言語としても学習されている。最近の調査では、話者はすべて合わせても3万人程度である。<br /> <br /> カタルーニャ語との境界地域で話されているリバゴルサ方言は、カタルーニャ語との共通点もみられる。<br /> <br /> == 文献 ==<br /> * 寺尾 智史「弱小の少数言語・アラゴン語が問いかけるもの−生き残りの可能性とその意味をめぐって−」『[http://www.geocities.jp/syakaigengogaku/syakaigengogaku2008.html 社会言語学]』VIII、2008年<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[スペインの言語]]<br /> *[[アラゴン方言]] - アラゴン地方で話されるスペイン語の地域変種。アラゴン語の影響がみられる。<br /> *[[アラゴン州]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Wikipedia|an}}<br /> {{wiktionary}}<br /> {{wiktionarycat}}<br /> *{{ethnologue|code=arg}}<br /> *[http://llmap.org/languages/arg.html LL-Map]<br /> *[http://multitree.org/codes/arg MultiTree]<br /> <br /> {{デフォルトソート:あらこんこ}}<br /> [[Category:スペインの言語]]<br /> [[Category:ロマンス諸語]]<br /> [[Category:アラゴン州]]<br /> [[Category:地方言語]]</div> 119.173.166.73 クリュニー会 2017-10-12T14:28:04Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2017年1月26日 (木) 08:55 (UTC)}}<br /> &#039;&#039;&#039;クリュニー会&#039;&#039;&#039;(クリュニューかい)は、[[909年]]ないし[[910年]]に[[アキテーヌ公]][[ギヨーム1世 (アキテーヌ公)|ギョーム1世]]が創設した[[ベネディクト会]]系の[[クリュニー修道院]]を頂点とした[[修道会]]。クリュニー修道院は[[フランス]]・[[ブルゴーニュ]]地方の修道院だが、クリュニー会は[[ロマンス諸語|ロマンス語]]圏を中心に聖俗両界から支持され広まった。<br /> <br /> クリュニー修道院の創建憲章では、<br /> * [[修道院長]]の選出の自主自由<br /> * [[国王]]や[[伯]]などの世俗権力・世俗権力同等の[[司教]]・創立者とその家族や子孫の、修道院財産ならび戒律への不介入<br /> * 教皇の直接保護(Libertas Romana)の下での存在<br /> を謳っており、世俗権力や地方教会権力および在俗修道院長らによる支配に晒されることなく、自立とベネディクト規律の強化を志した。<br /> <br /> クリュニー会はベネディクト戒律を厳粛に守るとともに、農民への布教や貧民救済を行った。クリュニー会の志向は聖俗両界の有力者から強く支持され、有力者が所有する[[私有教会制|私有修道院]]の[[寄付|寄進]]が行われた。その結果、[[937年]]までに17の修道院を管轄下に置くこととなった。<br /> <br /> クリュニー会はその組織構造を厳密な[[ヒエラルキー]]の形状にした。クリュニー修道院を頂点として、親修道院と子修道院の上下関係を厳しく定めた。<br /> <br /> その後もブルゴーニュをはじめ[[プロヴァンス]]、[[オーヴェルニュ地域圏|オーヴェルニュ]]、[[スペイン]]、[[イタリア]]といったロマンス語地域に広がり、また[[イギリス]]にも至り、それとともに子修道院・孫修道院の数が増加。[[994年]]には37、[[1048年]]には65と増加し、[[12世紀]]から[[14世紀]]にかけては1000以上もの修道院を管轄化に置く一大会派として隆盛を極めた。また影響を及ぼした修道院は3000になったと言われている。それにより頂点たるクリュニー修道院に富と権力が集中し、荘厳なミサの挙行をおこなったり、当時として比類なき大きさの[[大聖堂]]を建築したりした。<br /> <br /> しかしその豪華で贅沢な生活は時として反発を生み、[[ペトルス・ダミアニ]]はクリュニー派修道院を脱し、また分離した一部が[[シトー会]]を新たに組織したりした。<br /> <br /> また[[ドイツ]]地域に関しては、ゴルツェ修道院を中心として同時代に進んだロレーヌ修道院改革(共通の会則遵守に従いながらも、ヒエラルキー制のない自治的運動)の影響もあって直接的なクリュニーの影響はさほど及ばなかった。<br /> <br /> [[教皇]][[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]](在位[[1088年]] - [[1099年]])はクリュニー修道院長をつとめた人物であった。また[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]](在位[[1073年]] - [[1085年]])はクリュニー会から直接的あるいは間接的に影響を受けたとされる。<br /> <br /> シトー会や[[フランシスコ会]]・[[ドミニコ会]]などの修道院生活刷新運動の影響でクリュニー会は凋落をはじめ、[[フランス革命]]に際してクリュニー修道院が破壊されることとなった。<br /> <br /> ちなみに、味以上に価格でも有名なブルゴーニュの赤[[ワイン]]である[[ロマネ・コンティ]]の畑は、クリュニー会派の修道院が開墾したのがはじまりであり、[[16世紀]]まで同修道院の所有であった。また「もう1つのモンラッシェ」と称される[[マコン]]村の白ワインの畑もクリュニー会派の修道院が開墾したものである。<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:くりゆにかい}}<br /> {{france-stub}}<br /> {{South-europe-stub}}<br /> {{Christ-stub}}<br /> {{History-stub}}<br /> [[Category:中世ヨーロッパのキリスト教]]<br /> [[Category:フランスのキリスト教]]<br /> [[Category:カトリック教会の修道会]]<br /> [[Category:ベネディクト会]]</div> 119.173.166.73 ヨアキム主義 2017-10-12T14:13:42Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;ヨアキム主義&#039;&#039;&#039;(ヨアキムしゅぎ)は、[[12世紀]]の[[カトリック教会]]に興った[[予言]]的・[[終末論]]的な[[歴史]][[思想]]である。[[フィオーレのヨアキム]](ジョアキーノとも)が唱えた。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> ヨアキムは[[三位一体]]的構造を[[世界史]]に当てはめ、全[[歴史]]は三つの時代からなるとした。第一の時代は「父の時代」で、地上においては祭司と[[預言者]]の時代であり、[[旧約聖書|旧約]]の時代にあたる。第二の時代は「子の時代」であり、教会の時代で、[[イエス・キリスト|キリスト]]以後現在まで続いているとした。これは過渡的な時代であって、第三の時代である「[[聖霊]]の時代」によってやがて克服される。第三の時代において、[[世界]]は完成し、地上においては修道士の時代が出来する。ヨアキムの考えでは、第三の時代において現在ある教会秩序や国家などの支配関係に基づく地上的秩序は廃され、兄弟的連帯において修道士が支配する時代が来るとされる。<br /> <br /> ヨアキムの思想は問題視され、[[教皇領|ローマ教皇国]]からたびたび警告されたが、ヨアキムは撤回せず、ついに[[異端]]と宣言されるに至った。ヨアキム主義は[[13世紀]]の西方異端思想に大きく影響を与えた。<br /> <br /> [[ミルチア・エリアーデ]]は『世界宗教史』において、[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]の『[[啓蒙主義|啓蒙]]の世紀』や[[フリードリヒ・シェリング|シェリング]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]などの絶対者の三段階からなる展開などの[[近世]]ドイツ思想における精神史観にヨアキム主義の影響を指摘している。<br /> <br /> &lt;!-- == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}} --&gt;<br /> <br /> == 参考文献 == &lt;!-- {{Cite book}} --&gt; &lt;!-- {{Cite journal}} --&gt;<br /> *H・グルントマン『中世異端史 Ketzergeschichte des Mittelalters』(1974年、[[創文社]]歴史学叢書)<br /> *P・サバティエ『アッシジの聖フランチェスコ Vie de S.François d&#039;Assise』1925年、[[新生堂]])<br /> *Antonio Crocco, &#039;&#039;Gioachino da Fiore e il gioachimismo&#039;&#039;, Napoli, Liguori, 1976.<br /> *Henri de Lubac, &#039;&#039;La postérité spirituelle de Joachim de Fiore&#039;&#039;, Milano, Jaka Book, 1984.<br /> *Marjorie Reeves, &#039;&#039;Gioacchino da Fiore e il mito dell&#039;Evangelo eterno nella cultura europea&#039;&#039;, Roma, Viella, 2000.<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> &lt;!-- {{Commonscat|}} --&gt;<br /> {{節stub}}<br /> <br /> == 外部リンク == &lt;!-- {{Cite web}} --&gt;<br /> *[https://web.archive.org/web/20040316055006/http://www1.appstate.edu/~davisct/psybibs/Boston/Davis_Apocalypse.htm Apocalypticism article]<br /> *[http://www2.kenyon.edu/Projects/Margin/joachim.htm Joachimites]<br /> *[http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/apocalypse/explanation/joachim.html PBS article]<br /> *[https://web.archive.org/web/20001021223457/http://www.uq.edu.au/access_history/one-one/joachim.pdf Scholarly essay by Toby Affleck]<br /> <br /> {{Christ-stub}}<br /> {{Philos-stub}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:よあきむしゆき}}<br /> [[Category:中世ヨーロッパのキリスト教]]<br /> [[Category:キリスト教終末論]]<br /> [[Category:予言]]<br /> [[Category:シトー会]]</div> 119.173.166.73 叙任権闘争 2017-10-12T14:04:50Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2015-2}}<br /> &#039;&#039;&#039;叙任権闘争&#039;&#039;&#039;(じょにんけんとうそう、{{Lang-de-short|&#039;&#039;&#039;Investiturstreit&#039;&#039;&#039;}})は、[[中世初期]]において特に[[神聖ローマ帝国|ローマ皇帝]](俗権)が[[ローマ教皇]](教権)との間で[[司教]]や[[修道院]]長の任命権(叙任権)をめぐって行った争いのこと。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> 西欧では古代末期以来、私領に建てられた聖堂([[私有教会制|私有教会]])や修道院が増えていったが、その種の聖堂の聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は土地の領主が持っていた。また、世俗権力が強大化していくと、その地域の司教の選出に対しても影響力を及ぼすようになっていった。これは少なからぬ教会財産の管理権を握ることと直結していたので世俗権力にとっても重要であった。中世に入ると、教皇権が伸張する中でこの叙任権をめぐる争いが頻発するようになっていった。<br /> <br /> 特にローマ帝国内では皇帝が司教たちの任命権を握って影響力を強くしていくことで、教皇選出においてまで影響力を持つに至った。しかし、俗権による叙任権のコントロールは[[シモニア]](聖職売買)や聖職者の堕落という事態を招く一因ともなった。<br /> <br /> [[10世紀]]に[[ブルグント王国]]に創立された[[クリュニー修道院]]に対する俗権からの影響力を否定した改革運動や、俗権による叙任を否定した教皇[[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]、聖職者の綱紀粛正をはかった教皇[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]による教会改革は、教会に叙任権を取り戻そうという流れを生んでいった。ここに至って皇帝と教皇の間で叙任権をめぐる争いが行われるようになった。<br /> <br /> == 展開 ==<br /> === カノッサの屈辱 ===<br /> [[ファイル:Hugo-v-cluny heinrich-iv mathilde-v-tuszien cod-vat-lat-4922 1115ad.jpg|220px|right|thumb|&#039;&#039;&#039;カノッサの屈辱&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;トスカナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)に、教皇へのとりなしを頼むハインリヒ4世(中央)]]<br /> <br /> グレゴリウス7世は教皇権が皇帝権に対し優位にあることを主張し、[[1076年]]にローマ帝国皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]を破門した。それを受け、ドイツ諸侯たちは[[ザリエル朝]]のもとで王権・帝権の強化が進んだことに懸念を抱いていたこともあり、ハインリヒの帝位を否定する動きをみせた。こうして翌[[1077年]]、自らの政治的地位が危うくなることを恐れたハインリヒ4世はグレゴリウス7世に贖罪した([[カノッサの屈辱]])。その後、勢力を立て直したハインリヒ4世は軍事力を行使しグレゴリウス7世をローマからの逃亡させるに至った。そして両者の死後においても、皇帝と教皇の争いは一進一退であり、何らかの妥協点を定めることは困難に見えた。<br /> <br /> === 「聖なる世界」「俗なる世界」 ===<br /> 叙任権闘争の最中、[[シャルトル]]司教であるイーヴォによって、叙任権闘争に対する一種の妥協点が提示された。それは、[[教会]]が有している権力・権威はスピリチュアリア(宗教的なもの、不可視なもの)とテンポラリア(世俗的なもの、可視的なもの(土地とか財産など))の2つに分けられるという考え方である。これにより、これまでの聖俗の未分化、混然としていた世界が観念的に二分され、皇帝と教皇の棲み分け可能な世界として把握されるようになった。上記の表現を用いれば、皇帝がテンポラリアなもの、教皇がスピリチュアリアな教会の権利をおさえる、ということになる。<br /> <br /> :関連して若干補足。「叙任権闘争によって、[[政教分離]]がなされた。」と説明されることがある。では、叙任権闘争に至るまでは[[政教一致]]であったかというと、それは厳密には誤りと思われる。叙任権闘争以前は、政教が未分化な世界であった。つまり、政教一致、政教分離という軸を設定する以前の状態であった。だからこそ、イーヴォの説明は、両者の叙任権をめぐる交渉、妥協を前進させることになったのである。<br /> <br /> === ヴォルムス協約 ===<br /> 幾度か皇帝側と教皇側の交渉が設けられたものの、両者の間での微妙な駆け引きが続いた。しかし、ハインリヒ4世の後を継いだ[[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]は、ドイツ内での勢力基盤が安定しなかったこともあり、この叙任権闘争の決着を急いだ。最終的には、[[1122年]]に結ばれた[[ヴォルムス協約]]において、聖職叙任権は教皇が有するが、教会の土地、財産などの世俗的な権利は王が授封するという妥協が成立し、一応の解決へと至った。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[カノッサの屈辱]]<br /> * [[ヴォルムス協約]]<br /> * [[聖職叙任権]]<br /> * [[教皇派と皇帝派]]<br /> * [[グレゴリウス改革]]<br /> * [[教会改革]]<br /> * [[教皇権]]<br /> <br /> {{中世}}<br /> {{政教分離の歴史}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:しよにんけんとうそう}}<br /> [[Category:カトリック]]<br /> [[Category:教皇権の歴史]]<br /> [[Category:神聖ローマ帝国の歴史]]<br /> [[Category:中世ヨーロッパのキリスト教]]</div> 119.173.166.73 私有教会制 2017-10-12T14:03:25Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;私有教会制&#039;&#039;&#039;(しゆうきょうかいせい、[[ラテン語|羅]]:ecclesia propria、[[ドイツ語|独]]:Eigenkirche)は、[[中世]][[ヨーロッパ]]において、教会の建物や敷地や付属物などが俗人領主の私的所有権の下にあることをさす。俗人所有権下にある[[修道院]]ことは&#039;&#039;&#039;私有修道院&#039;&#039;&#039;と言う。当初は世俗の有力者が私有教会を有していたが、のちになって修道院や[[司教]]の私有教会も現れるようになった。<br /> <br /> 私有教会制は、[[ゲルマン人]]の家父祭司制を起源とする説と、[[荘園|荘園制]]を起源とする説がある。私有教会制は[[7世紀]]頃からみられ、[[9世紀]]から[[10世紀]]にかけてがピークとなる。[[ザクセン朝]]ドイツにおいて、私有教会は世俗の[[封建制]]機構に取り込まれ、特に私有修道院は俗人修道院長によって統治された。<br /> <br /> 私有教会において、建物・敷地・付属物といった有体財産の処分権のみならず、聖務遂行権や聖職叙任権に関しても所有者からの支配・干渉を受けることとなる。<br /> <br /> 私有教会に関する事物は所属する司教区の意思が届くことはなかった。ときとして教会が聖務に付随して有していた諸権利が、所有者たる俗人領主によって簒奪され、その諸権利によって利殖し、またその諸権利を封として臣下に与えたり遺産として子息に相続したりすることもあった。以下はその諸権利の一部。<br /> *空位期間収入取得権(jus regaliae)<br /> *聖職者遺産接収権(jus spolii)<br /> *聖式謝礼徴収権(jura stolae)<br /> *[[十分の一税]]徴収権(jus decimationis)<br /> <br /> [[グレゴリウス改革]]において、私有教会制は司教区の統一を乱すものとして、私有教会が[[ヒエラルキー]]の中に組み込まれるよう促した。そして私有教会制は[[ヴォルムス協約]]によって解消へと導かれることとなった。<br /> <br /> [[イングランド国教会]]においては、[[ウェストミンスター寺院]]をはじめとして、現在でも[[イギリス王室]]所有の私有教会が存在する。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[キリスト教の歴史]]<br /> *[[政教分離の歴史]]<br /> *[[聖職禄]]<br /> *[[シモニア]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:しゆうきようかいせい}}<br /> [[Category:カトリック]]<br /> [[Category:聖公会]]<br /> [[Category:中世ヨーロッパのキリスト教]]<br /> [[Category:宗教法]]<br /> {{Christ-stub}}</div> 119.173.166.73 リュネヴィルの和約 2017-10-10T14:26:48Z <p>119.173.166.73: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=りゆねういるのわやく世界史}}<br /> [[Image:ChateauLuneville3.jpg|thumb|リュネヴィル]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;リュネヴィルの和約&#039;&#039;&#039;(リュネヴィルのわやく、{{lang-fr-short|Paix de Lunéville}}, {{lang-de-short|Friede von Lunéville}})は、[[フランス革命戦争]]([[ナポレオン戦争]])期間中の[[1801年]][[2月9日]]に、フランス東部の都市[[リュネヴィル]]において、[[フランス第一共和制|フランス]]と[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]が締結した講和条約である。&#039;&#039;&#039;リュネヴィル講和条約&#039;&#039;&#039;(リュネヴィルこうわじょうやく、仏:Traité de Lunéville, 独:Vertrag von Lunéville)とも呼ばれる。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> オーストリアは1798年に[[第二次対仏大同盟]]を結成し、[[北イタリア]]や[[ライン川|ライン]]方面に侵攻していたが、1800年に[[マレンゴの戦い]]と[[ホーエンリンデンの戦い]]でフランスに敗れたことで講和を余儀なくされた。講和によって第二次対仏大同盟は崩壊し、[[イギリス帝国|イギリス]]のみがフランスとの戦争を続けることになった。<br /> <br /> 条約により、オーストリアは、[[バタヴィア共和国]]、[[ヘルヴェティア共和国]]、[[チザルピーナ共和国]]、[[リグリア共和国]]の承認を再確認し、フランスによるライン川左岸地域([[ラインラント]])の併合を承認した。<br /> <br /> 基本的には[[カンポ・フォルミオ条約|カンポ・フォルミオの和約]]を再確認するもので、敗戦国であるオーストリアにとっては寛大な内容と言えた。また、[[トスカーナ大公国]]のフランスへの譲渡(直後に大公国は廃止、[[エトルリア王国]]になる)、チザルピーナ共和国の領土拡大、[[ナポリ王国|ナポリ]]における王制の復活など[[イタリア]]における諸問題に関しても同時に取り決められた。<br /> <br /> {{ナポレオン戦争}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:りゆねういるのわやく}}<br /> [[Category:オーストリアの講和条約]]<br /> [[Category:フランスの講和条約]]<br /> [[Category:フランス革命]]<br /> [[Category:ナポレオン戦争の条約]]<br /> [[Category:ハプスブルク帝国の条約]]<br /> [[Category:オーストリア・フランス関係]]<br /> [[Category:1801年の条約]]<br /> [[Category:1801年のフランス]]<br /> [[Category:トスカーナ大公国]]</div> 119.173.166.73
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