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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=118.238.237.196&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-01T22:12:51Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 上田秋成 2018-08-01T05:22:37Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>[[Image:Ueda Akinari.jpg|thumb|right|&lt;center&gt;[[甲賀文麗]]による上田秋成の肖像&lt;/center&gt;]]<br /> {{Portal|文学}}<br /> &#039;&#039;&#039;上田 秋成&#039;&#039;&#039;(うえだ あきなり、[[享保]]19年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]([[1734年]][[7月25日]]) - [[文化 (元号)|文化]]6年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[1809年]][[8月8日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[読本]]作者、[[歌人]]、[[茶人]]、[[国学者]]、[[俳人]]。怪異小説『[[雨月物語]]』の作者として特に知られる。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[享保]]19年([[1734年]])、[[大阪|大坂]][[曾根崎]]に、松尾ヲサキの[[非嫡出子|私生児]]として生まれた。父は確かでない{{Efn|「父ナシ、ソノ故ヲ知ラズ。四歳、母マタ捨ツ」&lt;ref&gt;自像筥記、1808年&lt;/ref&gt;}}。<br /> <br /> [[元文]]2年([[1737年]])、堂島永来町(現、[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[堂島]]1丁目)の紙油商嶋屋・上田茂助の養子となり、仙次郎と呼ばれた。翌年、[[天然痘|疱瘡]]を病む。茂助は、加島村(現、[[大阪市]][[淀川区]][[加島]])の加島稲荷(現、[[香具波志神社]])に仙次郎の本復を祈願し、68歳までの存命を告げられ、以後、秋成も同社への参詣を怠らなかった。病気は快癒したが、手の指が不自由になった。この年、茂助は妻を喪い、翌年に再婚し、仙次郎はその第2の養母のもとで育った。<br /> <br /> [[宝暦]]元年([[1751年]])、遊蕩を覚え、この頃から[[俳諧]]に遊ぶ。俳号は「漁焉」であったが、ほかに、無腸{{Efn|蟹のこと。「内は柔らかいが外は固い」「世を横に歩く」など、おのれの頑固・狷介をこの別号に諷した。}}、三余斎、余斎、鶉翁、鶉居(うづらゐ)などの別号、和訳太郎、剪枝畸人{{Efn|万全でない指への拘わりと解される。}}、洛外半狂人などの戯号(筆名)を用いた。他にも戯作を耽読し、和漢の古典を探るなど、基礎を養った。感化を受けた師友には高井几圭、小島重家、[[富士谷成章]]、[[勝部青魚]]らがあった。<br /> <br /> 宝暦10年([[1760年]])、京都生まれの植山たまと結婚した。間に子はできなかった。翌年茂助が没し、嶋屋を継いだ。[[明和]]元年([[1764年]])、大阪で[[朝鮮通信使]]一行との筆談に参加した。漢学にも通じていた。<br /> <br /> 明和3年([[1766年]])、[[浮世草子]]『諸道聴耳世間猿』(しょどうきゝみゝせけんざる)上梓。[[賀茂真淵]]一門の国学者・[[加藤美樹|加藤宇万伎]]に師事した。明和4年([[1767年]])、『世間妾形気』(せけんてかけかたぎ)上梓。この頃、[[天満]]の儒医[[都賀庭鐘]]に[[白話小説]]を教えられた。明和5年([[1768年]])、『雨月物語』初稿。<br /> <br /> 明和8年([[1771年]])、嶋屋が火災で破産し、[[香具波志神社|加島稲荷]]の神職方に寄寓して、友人・[[木村蒹葭堂]]らに助けられながら、医を学んだ。師は都賀庭鐘であったという。[[安永 (元号)|安永]]2年([[1773年]])、加島村で医者を始めた。通称に「東作」、名に「秋成」を用いた。この頃から[[与謝蕪村]]、[[高井几董]](高井几圭の子)らと付き合った。<br /> <br /> 安永5年([[1776年]])、大坂尼崎(現在の大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]]高麗橋付近)に移って医療を続けた。『雨月物語』上梓。安永8年([[1779年]])、『源氏物語』の注釈書『ぬば玉の巻』ほか稿。安永9年([[1780年]])、淡路町切丁(現在の大阪市中央区淡路町1丁目)に求めた家を改築し、翌年より住まった。この頃、[[細合半斎]]、江田世恭らと交わった。<br /> <br /> [[天明]]4年([[1784年]])に考証「[[漢委奴国王印|漢委奴国王金印]]考」を発表。天明5年([[1785年]])に『[[万葉集]]』研究「歌聖伝」を発表し、賀茂真淵述『古今和歌集打聴(うちぎぎ)』を校訂。天明6年([[1786年]])、思想・古代音韻・仮名遣いなどで、[[本居宣長]]と論争した([[日の神論争]])。<br /> <br /> 天明7年([[1787年]])、大坂北郊淡路庄村(現在の[[阪急電鉄]]淡路駅付近)に隠退した。戯作『書初機嫌海』(かきぞめきげんかい)、俳文法書『也哉鈔』(やかなしょう)を上梓。<br /> <br /> [[寛政]]元年([[1789年]])、姑と養母を淡路庄村でみとった。寛政2年([[1790年]])、左眼を失明。妻が剃髪して瑚璉尼を称した。寛政3年([[1791年]])に随筆集『癇癖談』(くせものがたり)執筆、真淵の『あがた居の歌集』と宇万伎の『しず屋の歌集』を校訂上梓。寛政4年([[1792年]])、評論集『安々言』(やすみごと)を執筆。<br /> <br /> 寛政5年([[1793年]])、京の袋町(現在の[[京都市]][[東山区]]袋町)に移った。真淵述『伊勢物語古意』を校訂上梓。その後、[[南禅寺]]山内([[左京区]])、東洞院四条([[下京区]])、衣棚丸太町([[上京区]])、袋町と転々しながら、寛政6年([[1794年]])に匙茶道書『清風瑣言』、同9年([[1797年]])に仮名遣い研究書『霊語通』を上梓。この年、妻に先立たれた。校訂は生活の資であった。<br /> <br /> 寛政10年([[1798年]])、右目も失明するが、大阪の鍼医、谷川良順の治療によりやや回復した。以降しばしば治療に通った。帰京後、門人の[[伏見稲荷大社|伏見稲荷]]の祠官・[[羽倉信美]]の丸太町([[上京区]]寺町通広小路)の邸内に移り住んだ。寛政11年([[1799年]])、『落久保物語』上梓。<br /> <br /> 京都時代には、[[閑院宮|妙法院宮]][[真仁法親王]]、[[正親町三条公則]]、[[小沢蘆庵]]、木村蒹葭堂、[[伴蒿蹊]]、[[村瀬栲亭]]、初代[[高橋道八]]、[[渡辺南岳]]、そして江戸の[[大田南畝]]らと交わった。<br /> <br /> [[享和]]元年([[1801年]])、加島稲荷に告げられた68歳に達し、68首の『献神和歌帖』を編んで同社に奉納した。万葉集論『冠辞続貂』(かんじぞくちょう)上梓。享和2年([[1802年]])、自らの墓を[[西福寺 (京都市左京区)|西福寺]]([[左京区]]南禅寺草川町)に作った。享和3年([[1803年]])、『大和物語』を校訂。大阪で70歳を祝うの賀宴が開かれた。この頃、古代史論『遠駝延五登』(おだえごと)を執筆。<br /> <br /> [[ファイル:上田秋成4719.JPG|thumb|180px|上田秋成翁終焉地、京都市上京区寺町通広小路上る([[梨木神社]]内)]]<br /> [[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])に万葉集注釈『金砂』(こがねいさご)『金砂剰言』、文化2年([[1805年]]に『七十二侯』を執筆。西福寺に移り住んだ。歌文集『藤簍冊子』(つづらぶみ)を上梓。文化3年([[1806年]])、『ますらを物語』を執筆。文化4年([[1807年]])、草稿を古井戸に捨てた。文化5年([[1808年]])、短編小説集『[[春雨物語]]』を執筆。書簡集『文反故』(ふみほうぐ)を上梓。随筆集『胆大小心録』『自像筥記』などを執筆。<br /> <br /> 文化6年([[1809年]])、羽倉邸に引きとられた。『異本胆大小心録』を脱稿。『俳調義論』を編む。6月27日、羽倉邸に没し、[[西福寺 (京都市左京区)|西福寺]]に葬られた。贈り名は「三余無腸居士」。[[文政]]4年([[1821年]])の十三回忌に建てられた[[西福寺 (京都市左京区)|墓石]]が、今に残っている。別に、[[香具波志神社]]に墓碑がある。<br /> <br /> ほぼ同時期に[[江戸]]で活躍した読本作者には[[曲亭馬琴]]や[[山東京伝]]がいる。<br /> <br /> == 後世の評価 ==<br /> [[江藤淳]]は、上田秋成を「[[ソフィスト]]のような人」と定義している。[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]は、「[[本居宣長]]とは育ちも気質もまるで違う人間であり、秋成は一種の文人で、学者ではない」、と評している&lt;ref&gt;小林「本居宣長」下巻・395頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 全集 ==<br /> *[[中村幸彦]]ほか編 『上田秋成全集』 (全12巻、[[中央公論社]]、1990 - 1995)<br /> :第1巻(国学篇)ISBN 4124029411<br /> :第2巻(万葉集研究篇1)ISBN 412402942X<br /> :第3巻(万葉集研究篇2)ISBN 4124029438<br /> :第4巻(万葉集研究篇3)ISBN 4124029446<br /> :第5巻(王朝文学研究篇)ISBN 4124029454<br /> :第6巻(国語篇)ISBN 4124029462<br /> :第7巻(小説篇1)ISBN 4124029470<br /> :第8巻(小説篇2)ISBN 4124029489<br /> :第9巻(随筆篇)ISBN 4124029497<br /> :第10巻(歌文篇1)ISBN 4124029500<br /> :第11巻(歌文篇2)ISBN 4124029519<br /> :第12巻(歌文篇3)ISBN 4124029527<br /> <br /> *『上田秋成全集』(全2巻 [[国書刊行会]] 1974) <br /> *:大正6-7(1917-18)年刊の複製 <br /> *『上田秋成全集』(旧[[冨山房]]百科文庫44、1939)<br /> *:三島由紀夫が愛読した版である。(1冊のみ)<br /> <br /> == 主な著作 ==<br /> === 小説 ===<br /> *明和3年([[1766年]])、『[[諸道聴耳世間猿]]』(しょどうきゝみゝせけんざる) - 「武士に憧れ、侍の恰好で江戸見物に来た上方の町人」などが繰り広げる15の悲喜劇。<br /> *明和4年([[1767年]])、『[[世間妾形気]]』(せけんてかけかたぎ) - 「おとこ妾」、「玉手箱で老婆になった妾」など「変わった妾」の物語集。滑稽なものとシリアスなものがある。<br /> *安永5年([[1776年]])、『[[雨月物語]]』(うげつものがたり) - 怪異小説9篇から成る。「菊花の約」(きつかのちぎり)は特に有名で、国語教科書への採用もある。<br /> *天明7年(1787年)、『書初機嫌海』(かきぞめきげんかい) - 上中下三巻に分け、「京・江戸・大阪」の新春風俗を描いたもの。年の瀬を主題にした井原西鶴『[[世間胸算用]]』の逆。登場人物の多くにはモデルがあるとされ、秋成の論敵だった[[本居宣長]]を思わせる国学者を出して、揶揄する描写もある&lt;ref&gt;「上田秋成の文学 (放送大学教材)」長島 弘明(2016年)&lt;/ref&gt;。<br /> *文化3年(1806年)、『ますらを物語』(ますらをものがたり)&lt;ref&gt;「ますらを」は[[賀茂真淵]]ら国学者の間で理想とされた「男らしい堂々とした様子」で、[[万葉集]]の歌風を述べる際にも用いる。&lt;/ref&gt; - 京都の郷士が恋愛のもつれから妹を斬殺した実話を題材にしている。先に書かれた同じ出典の[[建部綾足]]作「西山物語」が、史実と異なる点に反発し本書を描いたと述べる。また「[[元禄赤穂事件]]」の浪士の討ち入りも、国学者としての立場から批判する箇所がある&lt;ref&gt;秋成は事件の当事者である渡辺源太とも面談しており、「西山物語」が芝居じみて史実と乖離している点(自己中心的な人物たちが、道徳を無視し享楽にふける結末。事件と無関係な[[楠木正成]]の幽霊が登場するなど)を批判。また、建部綾足は[[山鹿素行]]の曾孫である。&lt;/ref&gt;。<br /> *文化5年([[1808年]])、『[[春雨物語]]』(はるさめものがたり) - 「血かたびら」「天津処女」「海賊」「二世の縁」「目ひとつの神」「死首の咲顔」「捨石丸」「宮木が塚」「歌のほまれ」「樊噲」の十篇。<br /> *文化6年([[1809年]])、『胆大小心録』(たんだいしょうしんろく) - 「子供が白い蛇を傷つけたら祟りがあった」「あの世から亡くなった妻からの手紙がきた」などの奇談や掌編、「黒ガラスで太陽を観測し、望遠鏡で月を観た」などの随筆、「巷に間違った国学が横行しているのは、[[天皇陛下]]に対し奉り国学者として申し分けない」と憤る国学上の考証、さらに未完の小説の断片や構想を含む全3巻。異本数種がある。 <br /> *文政5年([[1822年]])、『癇癖談』(くせものがたり)&lt;ref&gt;「癇癖(かんぺき)」と書いて「くせ」と読ませる。仮名草子『仁勢物語』(にせものかたり)のもじり。&lt;/ref&gt; - 没後刊行。『[[伊勢物語]]』のパロディの体をとって書かれ、24の小話からなる。当時の俳諧師・高僧・名医・儒学者・歌人らを連想させる人物を登場させ、痛烈な批判と皮肉が描かれる。秋成の家にいる[[コマドリ]]が、訪れた[[ウソ]]に「この家の主(秋成)には驕りがあり、国学者としてまだまだ修行が足りない」と語る、自らを風刺し戒めた物語で締める&lt;ref&gt;『癇癖談』第二十四段(最終話)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 評論 ===<br /> *寛政4年(1792年)、『安々言』(やすみごと)<br /> <br /> === 和歌 ===<br /> *文化2年([[1805年]])、『藤簍冊子』(つづらぶみ) - 自撰の歌文集。七百首余りが収められる。「宵のまにはかなの月は入にけり妬める雲を恋しながらに」(桐壺)など、[[源氏物語]]の各巻を講釈した歌を含む。<br /> <br /> === 狂歌 ===<br /> *文化3年(1806年)、『万匂集』(まにおうしゅう) - 「[[万葉集]]」のもじりだが、狂歌というより和歌に近い風雅な作品が多い。ほかに漢詩や故事成語、薬売りによる客寄せ「口上」などを、そのまま歌の形式に翻訳した趣向の作品がある。<br /> <br /> === 茶道 ===<br /> *寛政6年(1794年)、『清風瑣言』(せいふうさげん) - 匙茶の指導書。茶の歴史から、種類、作法、道具など。特に「煎茶」の茶道に特化した教本。<br /> <br /> === 書簡 ===<br /> *文化6年([[1809年]])、『文反故』(ふみほうぐ)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{Notelist}}<br /> === 出典 ===<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[高田衛]]:『上田秋成年譜考説』、明善堂(1964)<br /> * [[佐藤春夫]]:『上田秋成』、桃源社(1964)<br /> * 高田衛:『上田秋成研究序説』、寧楽書房(1968)<br /> * [[重友毅]]:『秋成の研究』、文理書院(1971)<br /> * [[岩橋小弥太]]:『上田秋成』、有精堂選書(1975)<br /> * 「大輪靖宏訳注:現代語訳対照 雨月物語、旺文社文庫(1978)」巻末の、『上田秋成年譜』<br /> * [[大谷晃一]]:『上田秋成』、トレヴィル(1987)<br /> * [[長島弘明]]編:『上田秋成』、[[新潮社]] 新潮古典文学アルバム(1991)ISBN 4106207206<br /> * 「[[日本古典文学全集|新編日本古典文学全集]]78、小学館(1995)ISBN 4096580783」巻末の、高田衛編:『作者対照略年譜』<br /> * [[木越治]]:『秋成論』、ぺりかん社(1995)<br /> * 長島弘明:『秋成研究』、東京大学出版会(2000)ISBN 9784130800624<br /> * [[小林秀雄]]『本居宣長』(新潮文庫) ISBN 978-4-10-100707-6<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commonscat|Ueda Akinari}}<br /> * [http://www.ndl.go.jp/jikihitsu/part1/s2_1.html#n016 1. 国学者 | あの人の直筆] - [[国立国会図書館]]<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:うえた あきなり}}<br /> [[Category:上田秋成|*]]<br /> [[Category:江戸時代の文人]]<br /> [[Category:戯作者]]<br /> [[Category:国学者]]<br /> [[Category:18世紀の学者]]<br /> [[Category:19世紀の学者]]<br /> [[Category:煎茶道|人うえたあきなり]]<br /> [[Category:摂津国の人物]]<br /> [[Category:江戸時代の歌人]]<br /> [[Category:江戸時代の俳人]]<br /> [[Category:江戸時代の随筆家]]<br /> [[Category:1734年生]]<br /> [[Category:1809年没]]</div> 118.238.237.196 越後国 2018-07-31T01:28:22Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 令制国<br /> |国名 = 越後国<br /> |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|越後国}}<br /> |別称 = 越州(えつしゅう)&lt;ref&gt;別称「越州」は、[[越前国]]・[[越中国]]とあわせて、または単独での呼称。&lt;/ref&gt;<br /> |所属 = [[北陸道]]<br /> |領域 = [[新潟県]]本州部分<br /> |国力 = [[上国]]<br /> |距離 = [[遠国]]<br /> |郡 = 7郡34郷<br /> |国府 = 新潟県[[上越市]]<br /> |国分寺 = (推定)新潟県上越市<br /> |国分尼寺 = (未詳)<br /> |一宮 = [[彌彦神社]](新潟県[[西蒲原郡]][[弥彦村]])&lt;br/&gt;[[居多神社]](新潟県上越市)<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;越後国&#039;&#039;&#039;(えちごのくに)は、かつて[[日本]]の行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[北陸道]]に属する。<br /> <br /> == 沿革 ==<br /> [[File:Detailed map of Echigo Province.jpg|thumb|left|320px|『越後国細見図』天保13年(1842年)、[[池田東籬亭]]編。]]<br /> 7世紀末、[[文武天皇]]元年([[697年]])以前のいずれかの年になされた[[越国]](&#039;&#039;&#039;こし&#039;&#039;&#039;のくに)の磐船(いわふね)・渟足(ぬたり)の二郡の分割によって成立した。当初の領域は、現在の新潟県本州部分の北部(阿賀野川以北か)から山形県庄内、秋田県方面で、日本海側で[[蝦夷]]の領域に接する辺境国であった。<br /> <br /> 蝦夷政策の拠点国として[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])3月に、[[越中国]]から[[親不知]]以東、すなわち[[頸城郡]]、[[古志郡]]、[[魚沼郡]]、[[蒲原郡]]の四郡を譲り受けた。[[和銅]]元年([[708年]])に、北に領域を伸ばして[[出羽郡]]を新しく設置し七郡体制となった。出羽郡を建てるのと前後して[[出羽柵]]の築造と[[柵戸]]の移住が行われた。さらに、和銅5年([[712年]])[[9月23日 (旧暦)|9月23日]] に、出羽郡が[[出羽国]]として分離したことで、後々まで続く越後の形ができあがった。[[天平]]16年([[743年]])[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]に[[佐渡国]]を合わせたが、[[天平勝宝]]4年([[752年]])[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]に元に復した。その後、沼垂郡が蒲原郡に統合されたり、古志郡から三嶋郡(みしまぐん、のちの[[刈羽郡]])、ついで[[三島郡 (新潟県)|三島郡]](さんとうぐん)が分立するなど郡に変動があった。<br /> <br /> 大和政権は蝦夷地における版図拡大に城柵を設けて、南の地域の人民を移民し、開発と村づくりに当たらせ公民とし、郡を設置した。越後に設置された城柵は、647年(大化3年)渟足柵(新潟市か)、648年(大化4年)磐舟柵(新潟県村上市か)である。<br /> <br /> === 近代以降の沿革 ===<br /> [[File:Echigo Takada Nagaoka Map in Tenpo era.jpg|thumb|right|320px|『天保国絵図越後国[[高田藩|高田]][[越後長岡藩|長岡]]』[[天保]]9年(1838年)。[https://www.digital.archives.go.jp/ 国立公文書館デジタルアーカイブ]より。]]<br /> [[File:Keep Tower of Takada Castle 20121202, 001.jpg|thumb|越後高田城三重櫓(新潟県上越市)]]<br /> {{main|越後府}}<br /> * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,150,881石余)。&#039;&#039;&#039;太字&#039;&#039;&#039;は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。<br /> ** [[頸城郡]](224,858石余) - 幕府領、&#039;&#039;&#039;[[高田藩]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[糸魚川藩]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** [[魚沼郡]](102,341石余) - 幕府領、糸魚川藩、[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]、[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]<br /> ** [[刈羽郡]](76,073石余) - 幕府領、旗本領、&#039;&#039;&#039;[[椎谷藩]]&#039;&#039;&#039;、[[越後長岡藩|長岡藩]]、[[与板藩]]、高田藩、陸奥[[上山藩]]、伊勢桑名藩<br /> ** [[三島郡 (新潟県)|三島郡]](78,594石余) - 幕府領、旗本領、長岡藩、&#039;&#039;&#039;与板藩&#039;&#039;&#039;、[[村上藩]]、陸奥上山藩、陸奥会津藩、伊勢桑名藩<br /> ** [[古志郡]](70,628石余) - 幕府領、&#039;&#039;&#039;長岡藩&#039;&#039;&#039;、伊勢桑名藩<br /> ** [[蒲原郡]](537,285石余) - 幕府領、旗本領、&#039;&#039;&#039;[[新発田藩]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[三日市藩]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[黒川藩]]&#039;&#039;&#039;、村上藩、&#039;&#039;&#039;[[村松藩]]&#039;&#039;&#039;、長岡藩、&#039;&#039;&#039;[[三根山藩]]&#039;&#039;&#039;、与板藩、陸奥会津藩、[[上野国|上野]][[高崎藩]]、[[駿河国|駿河]][[沼津藩]]、伊勢桑名藩<br /> ** [[岩船郡]](61,099石余) - 幕府領、[[一橋徳川家]]領、&#039;&#039;&#039;[[村上藩]]&#039;&#039;&#039;、陸奥会津藩<br /> * [[慶応]]4年<br /> ** [[4月19日 (旧暦)|4月19日]]([[1868年]][[5月11日]]) - 幕府領・旗本領が&#039;&#039;&#039;新潟裁判所&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> ** [[閏]][[4月29日 (旧暦)|4月29日]](1868年[[6月19日]]) - [[戊辰戦争]]で新政府軍が桑名藩の陣屋がある刈羽郡柏崎を制圧。<br /> ** [[5月23日 (旧暦)|5月23日]](1868年[[7月12日]]) - 幕府領・旗本領・桑名藩領が&#039;&#039;&#039;[[越後府]]&#039;&#039;&#039;(第1次)の管轄となる。<br /> ** [[7月27日 (旧暦)|7月27日]](1868年[[9月13日]]) - 頸城郡・魚沼郡・刈羽郡・三島郡・古志郡の幕府領・旗本領・桑名藩領が&#039;&#039;&#039;[[柏崎県]]&#039;&#039;&#039;(第1次)の管轄となる。<br /> ** [[8月14日 (旧暦)|8月14日]]([[1868年]][[9月29日]]) - 戊辰戦争後の処分により、岩船郡の全域が&#039;&#039;&#039;村上民政局&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> * 明治元年<br /> ** [[9月12日 (旧暦)|9月12日]](1868年[[10月27日]]) - 沼津藩が[[転封]]により[[上総国|上総]]&#039;&#039;&#039;[[菊間藩]]&#039;&#039;&#039;となる。国内の領地は引き続き管轄。<br /> ** [[9月21日 (旧暦)|9月21日]](1868年[[11月5日]]) - 越後府(第1次)が改称して&#039;&#039;&#039;[[越後府|新潟府]]&#039;&#039;&#039;となる。<br /> ** [[9月22日 (旧暦)|9月22日]](1868年[[11月6日]]) - [[会津戦争]]で会津藩が新政府軍に降伏して領地を没収され、蒲原郡の一部(後の東蒲原郡域)を除く領地のうち岩船郡が村上民政局、蒲原郡が新潟府、残部が柏崎県の管轄となる。<br /> ** [[9月27日 (旧暦)|9月27日]](1868年[[11月11日]]) - 村上藩が新政府軍に降伏。<br /> ** [[10月1日 (旧暦)|10月1日]](1868年[[11月14日]]) - 蒲原郡の一部(後の東蒲原郡域)が&#039;&#039;&#039;若松民政局&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> ** [[11月5日 (旧暦)|11月5日]](1868年[[12月18日]]) - 柏崎県を廃して新潟府に合併することが布達される(実行されず)。<br /> ** [[12月7日 (旧暦)|12月7日]]([[1869年]][[1月19日]]) - 蒲原郡の一部(後の東蒲原郡域)の郷村高帳の引き継ぎ以外の事務が上野[[館林藩]]の管轄となる。<br /> ** [[12月23日 (旧暦)|12月23日]](1869年[[2月4日]]) - 蒲原郡の一部(後の東蒲原郡域)の事務が館林藩と[[羽前国|羽前]][[新庄藩]]の共同管理となる。<br /> * 明治2年<br /> ** [[2月3日 (旧暦)|2月3日]](1869年[[3月15日]]) - 村上藩が旧領地に復帰。<br /> ** [[2月8日 (旧暦)|2月8日]](1869年[[3月20日]]) - 藩領および蒲原郡の一部(後の東蒲原郡域・新潟町)を除く岩船郡・蒲原郡が&#039;&#039;&#039;越後府&#039;&#039;&#039;(第2次)の管轄となる(新潟町は新潟府管轄のまま)。<br /> ** [[2月22日 (旧暦)|2月22日]](1869年[[4月3日]])<br /> *** 新潟府が&#039;&#039;&#039;[[越後府|新潟県]]&#039;&#039;&#039;(第1次)に改称。<br /> *** 再度柏崎県を廃止する布達が出され、&#039;&#039;&#039;[[越後府]]&#039;&#039;&#039;(第2次)に合併。<br /> ** [[5月4日 (旧暦)|5月4日]](1869年[[6月13日]]) - 蒲原郡の一部(後の東蒲原郡域)が&#039;&#039;&#039;[[若松県]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。館林藩・新庄藩の管轄も終了。<br /> ** [[6月24日 (旧暦)|6月24日]](1869年[[8月1日]]) - 任[[知藩事]]にともない、糸魚川藩が&#039;&#039;&#039;[[清崎藩]]&#039;&#039;&#039;に改称。<br /> ** [[7月27日 (旧暦)|7月27日]](1869年[[9月3日]]) - 新潟府・越後府が廃止され、藩領および蒲原郡の一部(後の東蒲原郡域)を除く全域が&#039;&#039;&#039;[[水原県]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> ** [[8月25日 (旧暦)|8月25日]](1869年[[9月30日]]) - 旧・柏崎県の管轄地が&#039;&#039;&#039;柏崎県&#039;&#039;&#039;(第2次)の管轄となる。<br /> * 明治3年<br /> ** [[3月7日 (旧暦)|3月7日]]([[1870年]][[4月7日]]) - 水原県が廃止され、同区域が&#039;&#039;&#039;[[新潟県]]&#039;&#039;&#039;(第2次)の管轄となる。<br /> ** 7月 - 長岡藩領・三根山藩領・与板藩領・高崎藩領を除く全域で大規模な領地替えが行われ、新潟県・新発田藩領・村上藩領・黒川藩領・三日市藩領が再編。菊間藩領が消滅。三島郡のうち村上藩領の一部(22村)が新潟県の管轄となる。<br /> ** [[10月22日 (旧暦)|10月22日]](1870年[[11月15日]]) - 長岡藩が廃藩となり、領地のうち蒲原郡が新潟県、残部が柏崎県の管轄となる。<br /> ** [[10月29日 (旧暦)|10月29日]](1870年[[11月22日]]) - 三根山藩が改称して&#039;&#039;&#039;[[峰岡藩]]&#039;&#039;&#039;となる。<br /> * 明治4年<br /> ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により藩領が&#039;&#039;&#039;[[高田県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[清崎県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[椎谷県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[与板県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[新発田県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[黒川県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[三日市県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[村松県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[峰岡県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[村上県]]&#039;&#039;&#039;および[[上山県]]、[[高崎県]]の飛地となる。<br /> ** [[11月20日 (旧暦)|11月20日]](1871年[[12月31日]]) - 第1次府県統合により蒲原郡の一部(後の東蒲原郡域)を除く区域が&#039;&#039;&#039;新潟県&#039;&#039;&#039;(第2次)の管轄となる。<br /> * 明治6年([[1873年]])[[6月10日]] - 柏崎県が廃止され、蒲原郡の一部(後の東蒲原郡域)を除く全域が&#039;&#039;&#039;新潟県&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> * 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により蒲原郡の一部(後の東蒲原郡域)が&#039;&#039;&#039;[[福島県]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> * 明治19年([[1886年]])[[5月27日]] - 福島県東蒲原郡が新潟県の管轄となる。<br /> <br /> == 国内の施設 ==<br /> {{座標一覧}}<br /> === 国府 ===<br /> 国府は[[頸城郡]]にあった。10世紀頃までの国衙は[[上越市]]今池と見る説が有力視される&lt;ref name=&quot;一宮制p370&quot;&gt;『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)p. 370。&lt;/ref&gt;。11世紀以降の中世国衙には諸説あるが、近年では上越市の直江津地区にあったと考えられている&lt;ref name=&quot;一宮制p370&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 国分寺・国分尼寺 ===<br /> * 越後国分寺跡<br /> *: 創建時の遺構は未詳。創建時の位置から移転・再興されたという[[五智国分寺]]([[上越市]]五智、{{ウィキ座標|37|10|6.77|N|138|13|29.74|E|region:JP-15_type:landmark|位置|name=五智国分寺(越後国分寺後継寺院)}})が法燈を伝承する。それ以前の諸説については「[[五智国分寺#歴史]]」を参照。<br /> <br /> 尼寺跡は不詳。<br /> <br /> === 神社 ===<br /> ; [[延喜式内社]]<br /> : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社1座1社、小社55座53社の計56座54社が記載されている(「[[越後国の式内社一覧]]」参照)。大社1社は以下に示すもので、[[名神大社]]である。<br /> * [[蒲原郡]] 伊夜比古神社<br /> ** 比定社:[[彌彦神社]] ([[西蒲原郡]][[弥彦村]]弥彦)<br /> <br /> ; [[総社]]・[[一宮]]以下<br /> : 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧&lt;ref&gt;『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 364-370。&lt;/ref&gt;。<br /> * 総社:[[府中八幡宮 (上越市)|府中八幡宮]]に合祀 (上越市西本町、{{ウィキ座標|37|10|20.39|N|138|14|14.02|E|region:JP-15_type:landmark|位置|name=越後国総社:府中八幡宮に合祀}})<br /> * 一宮:次の2社の説がある。<br /> ** [[彌彦神社]] (西蒲原郡弥彦村弥彦、{{ウィキ座標|37|42|24.15|N|138|49|33.68|E|region:JP-15_type:landmark|位置|name=越後国一宮、名神大社:彌彦神社}}) - 平安期までは実質的な一宮。<br /> ** [[居多神社]] ([[上越市]]五智、{{ウィキ座標|37|9|59.18|N|138|13|23.41|E|region:JP-15_type:landmark|位置|name=越後国一宮:居多神社}}) - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から一宮を主張。<br /> * 二宮:[[物部神社 (柏崎市)|物部神社]] ([[柏崎市]]西山町二田、{{ウィキ座標|37|27|14.57|N|138|40|30.47|E|region:JP-15_type:landmark|位置|name=越後国二宮:物部神社}})<br /> * 三宮:八海神社 - 文献に見える神社であるが現在社は未詳。<br /> <br /> なお、一宮を[[天津神社 (糸魚川市)|天津神社]](糸魚川市)とする説もある。<br /> <br /> == 地域 ==<br /> === 郡 ===<br /> * [[頸城郡]](当初は越中国)<br /> * [[魚沼郡]](当初は越中国)<br /> * [[古志郡]](当初は越中国)<br /> ** [[刈羽郡]](平安時代に古志郡から分立、旧三嶋郡([[三島郡 (新潟県)|三島郡]]):読みは「みしま」)<br /> ** [[三島郡 (新潟県)|三島郡]](中世に古志郡から分立、新[[三島郡 (新潟県)|三島郡]]:読みは「さんとう」&lt;ref&gt;山東(さんとう)郡から転じたため。&lt;/ref&gt;)<br /> * [[蒲原郡]](当初は越中国)<br /> * [[沼垂郡]](後に蒲原郡と統合)<br /> * [[岩船郡]]<br /> * [[出羽郡]](和銅元年(708年)設置、後に出羽国として分立)<br /> <br /> === 江戸時代の藩 ===<br /> * [[村上藩]]<br /> * [[黒川藩]]([[郡山藩]]支藩)<br /> * [[三日市藩]](郡山藩支藩)<br /> * [[新発田藩]]<br /> * [[村松藩]]<br /> * [[与板藩]]<br /> * [[越後長岡藩|長岡藩]]<br /> * [[三根山藩]](長岡藩支藩)<br /> * [[蔵王堂藩]]<br /> * [[椎谷藩]]<br /> * [[高田藩]]<br /> * [[三草藩#高柳藩|高柳藩]](首城藩)<br /> * [[糸魚川藩]]<br /> * [[坂戸藩]]<br /> * [[三条藩]]<br /> * [[沢海藩]](新発田藩支藩)<br /> * [[藤井藩]]<br /> * [[長峰藩]]<br /> <br /> == 人物 ==<br /> === 国司 ===<br /> ==== 越後守 ====<br /> *[[威奈大村]]<br /> *[[坂上田村麻呂]]〈[[790年]]([[延暦]]9年)3月10日 - 〉従五位下<br /> *[[源満仲]]<br /> *[[藤原為時]]〈[[1011年]]([[寛弘]]8年) - [[1014年]]([[長和]]3年)6月〉<br /> *[[橘為仲]]<br /> *[[藤原季綱]]<br /> *[[源国明]]<br /> *[[藤原隆季]] 従五位下<br /> *[[藤原成親]]〈[[1144年]]([[天養]]元年)12月18日 - [[1159年]]([[平治]]元年)〉従五位下<br /> *[[平時実]]〈[[1166年]]([[仁安 (日本)|仁安]]元年) - 1169年(嘉応元年)12月30日〉従五位下<br /> *藤原成親〈[[1172年]]([[承安 (日本)|承安]]2年) - [[1177年]]([[治承]]元年)6月18日〉従二位→正二位<br /> *[[城資永]]〈[[1180年]](治承4年) - [[1181年]]([[養和]]元年)〉<br /> *[[城助職]]〈1181年(治承5年)8月25日 - 1183年(寿永2年)7月 〉従五位下<br /> *[[源義仲|木曾義仲]]〈[[1183年]]([[寿永]]2年)8月11日 - 同年8月16日〉従五位下<br /> *[[安田義資]]〈[[1185年]]([[文治]]元年)8月29日 - [[1193年]](建久4年)10月28日〉<br /> *[[北条朝時]]〈[[1225年]]([[嘉禄]]元年)9月17日 - [[1236年]](嘉禎2年)7月20日〉従五位下→従五位上 加賀守護・大隅守護・越後守護。<br /> *[[北条時盛]]〈[[1236年]]([[嘉禎]]2年)7月20日 - [[1242年]](仁治3年)6月〉従五位下→正五位下<br /> *[[北条光時]]従五位下<br /> *[[北条実時]]〈[[1255年]]([[建長]]7年)[[12月13日]] - 1276年([[建治]]2年)[[10月23日]]〉従五位下<br /> *[[北条業時]]〈[[1277年]]([[建治]]3年)5月18日 - 1280年([[弘安]]3年)[[11月4日]]〉従五位下弾正少弼兼任。<br /> *[[北条顕時]]〈[[1280年]]([[弘安]]3年)11月 - [[1285年]]([[弘安]]8年)〉従五位下<br /> *[[北条兼時]]〈[[1288年]](弘安10年)3月12日 - [[1295年]](永仁3年)9月19日〉従五位下→従五位上<br /> *[[北条久時]]〈[[1295年]]([[永仁]]3年)12月29日 - [[1304年]](嘉元2年)6月6日〉従五位上<br /> *[[北条貞顕]]〈[[1304年]]([[嘉元]]2年)6月2日 - [[1309年]](延慶2年)10月2日〉従五位上→正五位下<br /> *[[北条基時]]〈[[1304年]](嘉元2年)6月6日 - [[1306年]](徳治元年)2月21日〉従五位下<br /> *[[北条時敦]]〈[[1310年]]([[延慶 (日本)|延慶]]3年)8月13日 - [[1320年]](元応2年)5月24日〉従五位上<br /> *[[北条顕実]]従五位下<br /> *[[北条貞将]]〈[[1324年]]([[正中 (日本)|正中]]元年) - 〉<br /> *[[北条範貞]]〈[[1325年]](正中2年)10月26日 - [[1329年]](元徳2年)12月23日〉従五位上→正五位下<br /> *[[北条仲時]]〈 - [[1333年]](元弘3年)5月9日〉<br /> *[[新田義貞]]〈[[1333年]](元弘3年)8月以降 - 〉従四位上<br /> *[[新田義顕]]〈[[1334年]]([[建武 (日本)|建武]]元年) - 〉従五位下<br /> *[[高師泰]]従五位下<br /> <br /> === 守護 ===<br /> ==== 鎌倉幕府 ====<br /> *? - 1191年 : [[比企朝宗]]?<br /> *1195年 - 1199年 : [[佐々木盛綱]]<br /> *1210年 - ? : [[北条義時]]<br /> *1223年 - 1245年 : [[北条朝時|名越朝時]]<br /> *1245年 - 1246年 : [[北条光時|名越光時]]<br /> *1263年 - 1288年 : [[北条公時|名越公時]]<br /> *? - 1333年 : 名越氏?<br /> <br /> ==== 室町幕府 ====<br /> *1337年 - 1338年 : [[高師泰]]<br /> *1341年 - 1350年 : [[上杉憲顕]]<br /> *1352年 - 1362年 : [[宇都宮氏綱]]<br /> *1362年 - 1368年 : 上杉憲顕<br /> *1368年 - 1378年 : [[上杉憲栄]]<br /> *1380年 - 1421年 : [[上杉房方]]<br /> *1421年 - 1422年 : [[上杉朝方]]<br /> *1422年 - 1449年 : [[上杉房朝]]<br /> *1449年 - 1494年 : [[上杉房定]]<br /> *1494年 - 1507年 : [[上杉房能]]<br /> *1507年 - 1550年 : [[上杉定実]]<br /> <br /> === 武家官位としての越後守 ===<br /> *[[高山重友 (室町時代)|高山重友]]<br /> *[[国分友俊]]<br /> *[[国分朝友]]<br /> *[[森可房]]<br /> *[[森可秀]]<br /> *[[森可行]]<br /> *[[新納実久]]<br /> *[[那須資世]]<br /> *[[那須資之]]<br /> *[[那須資持]]<br /> *[[上杉房定]]<br /> *[[原胤房]]<br /> *[[花房正幸]]<br /> *[[富田重政]]<br /> *[[福原広俊]]<br /> *[[上杉景勝]] 従三位 中納言、出羽国[[米沢藩]]初代藩主。<br /> *[[織田尚長]] 従五位下 大和国[[柳本藩]]初代藩主。<br /> *[[三宅康信]]〈[[1617年]]([[元和 (日本)|元和]]3年)12月 - 〉従五位下<br /> *[[久留島通春]] 従五位下<br /> *[[松平光長]]〈[[1629年]]([[寛永]]6年) - 〉従四位下 [[越後高田藩]]藩主。<br /> *[[松平宣富]] 従四位下 美作国[[津山藩]]初代藩主。<br /> *[[松平長煕]] 従四位下 美作国津山藩3代藩主。<br /> *[[松平長孝]] 従四位下 美作国津山藩4代藩主。<br /> *[[松平康哉]] 従四位下 美作国津山藩5代藩主。<br /> *[[松平康乂]] 従四位下 美作国津山藩6代藩主。<br /> *[[松平斉孝]] 従四位下 美作国津山藩7代藩主。<br /> *[[松平斉民]] 従四位下 美作国津山藩8代藩主。<br /> <br /> === 名誉称号としての越後目(朝廷から芸術家・職人への受領) ===<br /> *藤原貞勝(のちの都万大夫) 浄瑠璃の太夫・家元。寛文3年([[1663年]])に正六位下{{efn|本来は、律令下で上国の主典(さかん)は、従八位下。}}越後目(えちごのさかん)を受領{{efn|江戸時代の武家官位の下限は、大名が従五位下の諸大夫、旗本が正六位下の布衣、平士でも正七位下である。八位以下の受領は稀となった。}}。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{notelist}}<br /> === 出典 ===<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[角川日本地名大辞典]] 15 新潟県<br /> * [http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Echigo Province}}<br /> * [[令制国一覧]]<br /> * [[関東御分国]]<br /> * [[死亡帳#秋田城跡/死亡帳16号文書|高志公(こしのきみ)]]<br /> * [[越後文書宝翰集]]<br /> <br /> {{令制国一覧}}<br /> {{越後国の郡}}<br /> <br /> {{Japanese-history-stub}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:えちこのくに}}<br /> [[Category:日本の旧国名]]<br /> [[Category:北陸道|国えちこ]]<br /> [[Category:新潟県の歴史]]<br /> [[Category:越後国|*]]</div> 118.238.237.196 佐渡国 2018-07-31T01:17:34Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 令制国<br /> |国名 = 佐渡国<br /> |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|佐渡国}}<br /> |別称 = 佐州(さしゅう)&lt;br/&gt;渡州(としゅう)<br /> |所属 = [[北陸道]]<br /> |領域 = [[新潟県]][[佐渡市]]([[佐渡島]])<br /> |国力 = [[中国 (令制国)|中国]]<br /> |距離 = [[遠国]]<br /> |郡 = 3郡22郷<br /> |国府 = (推定)新潟県[[佐渡市]]<br /> |国分寺 = 新潟県佐渡市(佐渡国分寺跡)<br /> |国分尼寺 = (未詳)<br /> |一宮 = [[度津神社]](新潟県佐渡市)<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;佐渡国&#039;&#039;&#039;(さどのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[北陸道]]に属する。<br /> <br /> == 「佐渡」の名称 ==<br /> 平城宮木簡には「佐度国」と表記されている。<br /> <br /> == 沿革 ==<br /> 国が建てられた時期は不明。初見は[[文武天皇]]4年([[700年]])に遡る。[[天平]]15年([[743年]])[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]に[[越後国]]に合同した(『続日本紀』)。[[天平勝宝]]4年 ([[752年]]) [[11月3日 (旧暦)|11月3日]]に元に復した。<br /> <br /> もと[[雑太郡]]一郡のみの国であったが、[[養老]]5年([[721年]])に雑太郡、[[加茂郡 (新潟県)|加茂郡]]、[[羽茂郡]]の三郡に分けられた。後、[[明治]]29年([[1896年]])に[[佐渡郡]]一郡にまとめられた。<br /> <br /> === 近代以降の沿革 ===<br /> * 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では全域が[[佐渡奉行]]が管轄する[[天領|幕府領]]。なお、羽茂郡のごく一部に[[寺社領]]が所在。(262村・132,687石余)<br /> ** [[加茂郡 (新潟県)|加茂郡]](100村・47,503石余)、[[羽茂郡]](62村・21,943石余)、[[雑太郡]](100村・63,239石余)<br /> * [[慶応]]4年<br /> ** [[4月15日 (旧暦)|4月15日]]([[1868年]][[5月7日]]) - 新政府が佐渡奉行が置かれた佐渡国雑太郡相川広間町(現在の新潟県佐渡市相川広間町1-1)にあった佐渡奉行所に&#039;&#039;&#039;[[佐渡裁判所]]&#039;&#039;&#039;を設置。<br /> ** [[9月2日 (旧暦)|9月2日]](1868年[[10月17日]]) - 佐渡裁判所を廃止し、&#039;&#039;&#039;[[佐渡県]]&#039;&#039;&#039;(第1次)を設置。<br /> * 明治元年<br /> ** [[11月5日 (旧暦)|11月5日]](1868年[[12月18日]]) - 佐渡国が[[新潟府]]の管轄となり、佐渡県が業務を停止。<br /> * 明治2年<br /> ** [[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[1869年]][[4月3日]]) - 佐渡国の管轄が新潟府から[[越後府]]に変更。<br /> ** [[7月20日 (旧暦)|7月20日]](1869年[[8月27日]]) - 越後府による管轄が解除され、&#039;&#039;&#039;佐渡県&#039;&#039;&#039;(第2次)を再置。 <br /> * 明治4年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]([[1871年]][[12月31日]]) - 第1次府県統合により&#039;&#039;&#039;[[相川県]]&#039;&#039;&#039;に改称。<br /> * [[1876年]](明治9年)[[4月18日]] - 第2次府県統合により&#039;&#039;&#039;[[新潟県]]&#039;&#039;&#039;に合併。同日相川県廃止。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[佐渡市#歴史]]の項を参照<br /> <br /> == 国内の施設 ==<br /> === 国府 ===<br /> [[国府]]は雑太郡にあった。国仲平野の南辺にあったと推測される。下国府遺跡が官人の住居と推定されているが、政庁はまだ見つかっていない。<br /> <br /> === 国分寺・国分尼寺 ===<br /> 奈良時代に作られた[[国分寺]]はいったん放棄された。江戸時代の延宝7年(1679年)に[[賢教]]によって真言宗の寺として再建され、平安時代に造られた薬師如来像を今に伝える。元の国分寺の遺跡は今の寺の至近にある。どちらも所在地は佐渡市国分寺である。<br /> <br /> === 神社 ===<br /> ; [[延喜式内社]]<br /> : 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す小社9座9社が記載されている。大社はない。<br /> * [[羽茂郡]] [[度津神社]] (佐渡市飯岡)<br /> * 羽茂郡 [[大目神社]] (佐渡市吉岡)<br /> * [[雑太郡]] [[引田部神社]] (佐渡市金丸)<br /> * 雑太郡 [[物部神社 (佐渡市)|物部神社]] (佐渡市小倉)<br /> * 雑太郡 [[御食神社]] (佐渡市宮川)<br /> * 雑太郡 [[飯持神社]] (佐渡市飯持)<br /> * 雑太郡 [[越敷神社]] (佐渡市猿八)<br /> * [[加茂郡 (新潟県)|賀茂郡]] [[大幡神社]] (佐渡市大倉)<br /> * 賀茂郡 阿都久志比古神社 (現 [[熱串彦神社]]、佐渡市長江)<br /> <br /> ;[[総社]]・[[一宮]]以下<br /> * 総社 総社神社 (佐渡市吉岡) - 元は国府の近くにあったものを徳治2年(1307年)に現在地に遷座したと伝えられる。<br /> * 一宮 &#039;&#039;&#039;[[度津神社]]&#039;&#039;&#039;<br /> * 二宮 [[大目神社]]<br /> * 三宮 [[引田部神社]]<br /> <br /> === 城 ===<br /> *[[羽茂城]]<br /> *[[雑太城]]<br /> *[[河原田城]]<br /> <br /> == 地域 ==<br /> === 郡 ===<br /> *[[羽茂郡]]<br /> *[[雑太郡]]<br /> *[[加茂郡 (新潟県)|加茂郡]]<br /> <br /> == 人物 ==<br /> === 国司 ===<br /> {{節スタブ}}<br /> <br /> === 守護 ===<br /> ==== 鎌倉幕府 ====<br /> *?~1191年 - [[比企朝宗]]?<br /> *1195年~1199年 - [[佐々木盛綱]]<br /> *1223年~1245年? - [[北条朝時|名越朝時]]<br /> *1271年~1285年 - [[北条宣時]]<br /> *1323年~1333年 - [[北条貞直]]<br /> <br /> ==== 室町幕府 ====<br /> *1343年~? - [[小椋成長]]<br /> *1381年~? - [[畠山国熙]]<br /> *?~1387年~? - [[一色詮範]]&lt;ref&gt;田中聡「南北朝・室町期における佐渡守護と本間氏」(『新潟史学』66号、2011年)&lt;/ref&gt;<br /> *1395年~? - 上野氏<br /> *1418年~? - 高氏<br /> <br /> === 武家官位としての佐渡守 ===<br /> * [[佐々木道誉]]<br /> * [[茨木重親]]<br /> * [[林秀貞]]<br /> * [[松井康之]]<br /> * [[須田頼隆]]<br /> * [[奥山盛昭]]<br /> * [[久松俊勝]]<br /> * [[本間高統]]<br /> * [[本多正信]]〈天正14年(1586年)~ 〉従五位下<br /> * [[藤堂高虎]]正五位下<br /> * [[牧野親成]]従五位下<br /> * [[青山吉次]]従五位下<br /> * [[松平康尚]]従五位下<br /> * [[大岡忠種 (大目付)|大岡忠種]]従五位下<br /> * [[六郷政信]]従五位下<br /> * [[藤堂高通]]従五位下 伊勢[[久居藩]]の初代藩主。<br /> * [[藤堂高陳]]従五位下 伊勢久居藩の第3代藩主。 <br /> * [[藤堂高雅]]従五位下 伊勢久居藩の第6代藩主。<br /> * [[森俊春]]従五位下<br /> * [[六郷政速]]従五位下 <br /> * [[藤堂高衡]]従五位下 伊勢久居藩の第10代藩主。 <br /> * [[藤堂高矗]]従五位下 伊勢久居藩の第11代藩主。<br /> * [[前田斉敬]]正四位下<br /> * [[木下俊良]]従五位下<br /> * [[上杉勝義]]従五位下<br /> * [[藤堂高邁]]従五位下 伊勢久居藩の第13代藩主。 <br /> * [[藤堂高やつ|藤堂高秭]]従五位下 伊勢久居藩の第14代藩主。 <br /> * [[藤堂高聴]]従五位下 伊勢久居藩の第15代藩主。 <br /> * [[藤堂高邦]]従五位下 伊勢久居藩の第16代藩主。<br /> * [[小笠原長泰]]従五位下<br /> * [[小笠原長和]]従五位下<br /> * [[小笠原長国]]従五位下<br /> * [[森長国]]従五位下<br /> * [[六郷政殷]]<br /> <br /> === 名誉称号としての佐渡目(朝廷から芸術家・職人への受領) ===<br /> * 佐渡雅好(のちの佐渡嶋正吉)&lt;ref&gt;『浄瑠璃太夫口宣案』、『烏丸家記五諸人上卿之留』&lt;/ref&gt; [[浄瑠璃]]の太夫・家元。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> == 参考文献 ==<br /> * [[角川日本地名大辞典]] 15 新潟県<br /> * [http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Sado Province}}<br /> *[[佐渡島]]<br /> * [[令制国]]<br /> * [[令制国一覧]]<br /> <br /> {{令制国一覧}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:さとのくに}}<br /> [[Category:日本の旧国名]]<br /> [[Category:北陸道|国さと]]<br /> [[Category:新潟県の歴史]]<br /> [[Category:佐渡国|*]]</div> 118.238.237.196 越前国 2018-07-31T01:03:56Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 令制国<br /> |国名 = 越前国<br /> |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|越前国}}<br /> |別称 = 越州(えつしゅう)&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;別称「越州」は、越中国・越後国とあわせて、または単独での呼称。&lt;/ref&gt;<br /> |所属 = [[北陸道]]<br /> |領域 = [[福井県]][[嶺北]]地方([[岐阜県]]北西部含む)・[[敦賀市]]&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;創設時には[[石川県]]全域をも含んだ。&lt;/ref&gt;<br /> |国力 = [[大国 (令制国)|大国]]<br /> |距離 = [[中国 (令制国)|中国]]<br /> |郡 = 6郡55郷<br /> |国府 = 福井県[[越前市]]<br /> |国分寺 = (未詳)<br /> |国分尼寺 = (未詳)<br /> |一宮 = [[氣比神宮]](福井県[[敦賀市]])<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;越前国&#039;&#039;&#039;(えちぜんのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[北陸道]]に属する。<br /> <br /> == 沿革 ==<br /> 7世紀末の[[689年]]-[[692年]](持統3-6年)頃[[越国|高志国]](&#039;&#039;&#039;こし&#039;&#039;&#039;のくに)が高志道前・高志道中・高志道後の3国に分割されたと想像されている。その後、高志前・高志中・高志後の表記を経て、大宝律令制定後の国印製作時に[[越前]]・[[越中]]・[[越後]]の表記に定まったと推定されている。<br /> 3国に分割された時の「越前国」の領域は、現在の石川県と、福井県の北部を含み、後の[[敦賀郡]]、[[丹生郡]]、[[足羽郡]]、[[大野郡 (福井県)|大野郡]]、[[坂井郡]]、[[江沼郡]]、[[河北郡|加賀郡]]、[[羽咋郡]]、[[能登郡]]、[[鳳至郡]]、[[珠洲郡]]の十一郡にわたる広大な面積であった。<br /> <br /> [[養老]]2年([[718年]])[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]に、現在の石川県北部にあたる羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を[[能登国]]として分立させた。<br /> <br /> [[弘仁]]14年([[823年]])[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]に、現在の石川県南部にあたる加賀郡と江沼郡を割いて[[加賀国]]を建てた。これ以後領域に変更はなく、現在の福井県のうち南部 ([[若狭国]])を除く部分を範囲とした。残った郡の編成には以後も変遷がある。<br /> <br /> [[京都]]や[[奈良]]をうかがうのに近すぎず遠すぎずの大国でもあり、古来、この地に拠って天下を争い、滅んだ武将が少なくない。[[新田義貞]]、[[朝倉義景]]、[[柴田勝家]]が挙げられ、主将としてではないが[[大谷吉継]]、この地を再起の拠点として逃れる途上で殺された[[藤原仲麻呂]]などもこれに準じる。[[明智光秀]]も、一時期同国の住人であった。<br /> [[継体天皇]]は、越前国から大和へ迎えられたとされ、万葉歌人としてよく知られる[[志貴皇子]](天智天皇皇子)の母「越道君伊羅都売」もこの国の出自と考えられている。他に、直接天下取りに動いたわけではないが、[[徳川家康]]の次男であり英邁をうたわれながら弟の[[徳川秀忠]]に後継を譲らざるを得なかった[[結城秀康]]も、この地の領主として後半生を送った。米の産地として[[播磨国]]と「一播二越」(いちばんにえち)と称された&lt;ref&gt;[http://www.city.echizen.lg.jp/office/010/010/konomachigaiine.html いにしえの歴史と文化が息づく・・・ 自然に恵まれたまち、越前市 ]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 近世以降の沿革 ===<br /> * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(680,914石余)。&#039;&#039;&#039;太字&#039;&#039;&#039;は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。<br /> ** [[敦賀郡]](22,806石余) - [[地方知行|旗本領]]、&#039;&#039;&#039;[[鞠山藩]]&#039;&#039;&#039;、[[若狭国|若狭]][[小浜藩]]、[[安房国|安房]][[安房勝山藩|勝山藩]]、[[幸若舞|幸若氏]]知行<br /> ** [[丹生郡]](86,692石余) - [[天領|幕府領]](本保代官所・[[福井藩]][[預地]])、旗本領、福井藩、[[鯖江藩]]、[[大野藩]]、[[三河国|三河]][[西尾藩]]、[[美濃国|美濃]][[郡上藩]]<br /> ** [[今立郡]](85,575石余) - 幕府領(福井藩預地)、旗本領、福井藩、&#039;&#039;&#039;鯖江藩&#039;&#039;&#039;、若狭小浜藩<br /> ** [[足羽郡]](88,467石余) - &#039;&#039;&#039;福井藩&#039;&#039;&#039;<br /> ** [[大野郡 (福井県)|大野郡]](96,259石余) - 幕府領(本保代官所・福井藩預地)、福井藩、&#039;&#039;&#039;大野藩&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[越前勝山藩|勝山藩]]&#039;&#039;&#039;、鯖江藩、美濃郡上藩<br /> ** [[坂井郡]](185,419石余) - 幕府領(本保代官所・福井藩預地)、福井藩、&#039;&#039;&#039;[[丸岡藩]]&#039;&#039;&#039;、三河西尾藩<br /> ** [[吉田郡]](80,191石余) - 福井藩<br /> ** [[南条郡]](35,502石余) - 幕府領(福井藩預地)、旗本領、福井藩、丸岡藩、鯖江藩、若狭小浜藩、三河西尾藩、美濃郡上藩 <br /> * 明治2年<br /> ** [[6月23日 (旧暦)|6月23日]]([[1869年]][[7月31日]]) - 安房勝山藩が、越前勝山藩、[[美作勝山藩]]との区別のため、任[[知藩事]]後に&#039;&#039;&#039;[[加知山藩]]&#039;&#039;&#039;に改称。<br /> ** [[6月24日 (旧暦)|6月24日]](1869年[[8月1日]]) - [[版籍奉還]]により鞠山藩(通称)の正式名称が&#039;&#039;&#039;[[敦賀藩]]&#039;&#039;&#039;となる。<br /> * 明治3年<br /> ** [[3月23日 (旧暦)|3月23日]]([[1870年]][[4月23日]]) - 敦賀藩が改称して&#039;&#039;&#039;鞠山藩&#039;&#039;&#039;となる。<br /> ** [[9月17日 (旧暦)|9月17日]](1870年[[10月11日]]) - 鞠山藩が小浜藩に編入。<br /> ** [[12月22日 (旧暦)|12月22日]]([[1871年]][[2月11日]]) - 幕府領・旗本領が&#039;&#039;&#039;[[本保県]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> * 明治4年<br /> ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が&#039;&#039;&#039;[[福井藩|福井県]]&#039;&#039;&#039;(第1次)、&#039;&#039;&#039;[[勝山県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[鯖江県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[大野県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[丸岡県]]&#039;&#039;&#039;および[[加知山県]]、[[小浜県]]、[[西尾県]]、[[郡上県]]の飛地となる。<br /> ** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、加知山県の管轄区域が&#039;&#039;&#039;[[木更津県]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> ** [[11月20日 (旧暦)|11月20日]](1871年[[12月31日]]) - 第1次府県統合により、敦賀郡・今立郡・南条郡が&#039;&#039;&#039;[[敦賀県]]&#039;&#039;&#039;、残部が&#039;&#039;&#039;[[足羽県]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> * 明治6年([[1873年]])[[1月14日]] - 全域が&#039;&#039;&#039;敦賀県&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> * 明治8年([[1875年]])[[8月21日]] - 敦賀郡が&#039;&#039;&#039;[[滋賀県]]&#039;&#039;&#039;、残部が&#039;&#039;&#039;[[石川県]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> * 明治14年([[1881年]])[[2月7日]] - 全域が&#039;&#039;&#039;[[福井県]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。<br /> * [[昭和]]33年([[1958年]])[[10月15日]] - 大野郡[[石徹白村]]が[[岐阜県]][[郡上郡]][[白鳥町 (岐阜県)|白鳥町]](現・[[郡上市]])に編入。<br /> <br /> == 領域 ==<br /> [[明治維新]]の直前の領域は現在以下のようになっている。&#039;&#039;&#039;太字&#039;&#039;&#039;の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。<br /> * [[福井県]]<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[福井市]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[敦賀市]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[大野市]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[勝山市]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[鯖江市]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[あわら市]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[越前市]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[坂井市]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[吉田郡]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[今立郡]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[南条郡]]&#039;&#039;&#039;<br /> ** &#039;&#039;&#039;[[丹生郡]]&#039;&#039;&#039;<br /> * [[岐阜県]]<br /> ** [[郡上市]]<br /> *** 白鳥町石徹白<br /> <br /> == 国内の施設 ==<br /> {{座標一覧}}<br /> === 国府 ===<br /> [[国府]]は現在の[[越前市]]にあったとされる。遺構は見つかっておらず、未だ確定には至っていない。越前市役所(越前市府中)付近では平安時代初期の柱穴や「国寺」等の墨書銘土器が見つかっており、同地が国府跡となる可能性が指摘されている&lt;ref&gt;[http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20160301/CK2016030102000036.html &quot;越前国の中心「国府」解明か 越前市第2庁舎跡に平安の柱穴&quot;](中日新聞、2016年3月1日記事)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 国分寺・国分尼寺 ===<br /> * 越前国分寺跡<br /> *: 創建時の遺構は所在未詳。護国山国分寺(越前市京町、{{ウィキ座標|35|54|13.97|N|136|9|52.34|E|region:JP-18_type:landmark|位置|name=越前国分寺(後継寺院)}})が法燈を伝承する。<br /> <br /> 尼寺跡も未詳。<br /> <br /> === 神社 ===<br /> ; [[延喜式内社]]<br /> : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社8座2社・小社118座111社の計126座113社が記載されている(「[[越前国の式内社一覧]]」参照)。大社2社は以下に示すもので、いずれも名神大社である。<br /> * [[敦賀郡]] 気比神社七座<br /> ** 比定社:[[氣比神宮]] ([[敦賀市]]曙町)<br /> * [[丹生郡]] 大虫神社<br /> ** 比定社:[[大虫神社 (越前市)|大虫神社]] ([[越前市]]大虫町、{{ウィキ座標|35|54|3.21|N|136|7|35.73|E|region:JP-18_type:landmark|位置|name=名神大社:大虫神社}})<br /> <br /> ; [[総社]]・[[一宮]]以下<br /> : 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧&lt;ref&gt;『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 332-334。&lt;/ref&gt;。<br /> * 総社:総社大神宮 (越前市京町、{{ウィキ座標|35|54|11.94|N|136|9|54.39|E|region:JP-18_type:landmark|位置|name=越前国総社:総社大神宮}})<br /> * 一宮:[[氣比神宮]] (敦賀市曙町、{{ウィキ座標|35|39|17.85|N|136|4|28.92|E|region:JP-18_type:landmark|位置|name=越前国一宮、名神大社:気比神社(氣比神宮)}})<br /> <br /> なお、二宮を[[劔神社]]([[丹生郡]][[越前町]]織田、{{ウィキ座標|35|57|28.19|N|136|3|19.44|E|region:JP-18_type:landmark|位置|name=劔神社(一説に越前国二宮)}})とする説があるが、中世史料はなく不詳&lt;ref&gt;『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)p. 334。&lt;/ref&gt;。三宮以下は未詳。<br /> <br /> == 地域 ==<br /> === 郡 ===<br /> *[[敦賀郡]]<br /> *[[丹生郡]]<br /> *[[今立郡]]<br /> *[[足羽郡]]<br /> *[[大野郡 (福井県)|大野郡]]<br /> *[[坂井郡]]<br /> *[[吉田郡]]<br /> *[[南条郡]](明治期に丹生郡より分離、ただし地域慣習としては中世より別郡とされていた)<br /> <br /> == 人物 ==<br /> === 国司 ===<br /> ==== 越前守 ====<br /> *[[藤原内麻呂]] [[786年]](延暦5年)<br /> *[[源直]] [[892年]][[2月25日]]([[寛平]]4年正月23日) – [[895年]](寛平7年)<br /> *[[源悦]] [[901年]](延喜元年)<br /> *[[橘良殖]] [[906年]](延喜6年)<br /> *[[源信明#系譜|源国盛]] [[996年]](長徳2年)<br /> *[[藤原為時]] [[996年]](長徳2年) [[紫式部]]の父。紫式部も越前国府に帯同したという。<br /> *[[藤原定成]] [[1058年]](康平元年) <br /> *[[藤原宗能]] [[1100年]](康和2年)<br /> *[[平資盛]] [[1171年]](嘉応3年)<br /> *[[藤原隆信]] [[1200年]]頃<br /> <br /> ==== 越前介 ====<br /> *[[藤原内麻呂]] 785年(延暦4年)<br /> *[[三統理平]] 901年(延喜元年)<br /> <br /> === 守護 ===<br /> ==== 鎌倉幕府 ====<br /> *?~1191年 - [[比企朝宗]]<br /> *1213年~? - [[大内惟義]]<br /> *?~1221年 - [[大内惟信]]<br /> *1221年~1227年 - [[島津忠久]]<br /> *1227年~1228年 - [[島津忠時]]<br /> *1228年~? - [[後藤基綱]]<br /> *1275年頃~? - [[吉良満氏|足利満氏]]?<br /> *1301年~? - [[後藤基頼]]<br /> *1321年~? - [[後藤基雄]]<br /> <br /> ==== 室町幕府 ====<br /> *1336年~1341年 - [[斯波高経]]<br /> *1346年~1350年 - [[細川頼春]]<br /> *1352年~1366年 - 斯波高経・[[斯波氏経]]・[[斯波義種]]<br /> *1366年~1379年 - [[畠山義深]]<br /> *1379年 - [[畠山基国]]<br /> *1380年~1396年 - [[斯波義将]]<br /> *1398年~1418年 - [[斯波義重]]<br /> *1418年~1433年 - [[斯波義淳]]<br /> *1433年~1436年 - [[斯波義郷]]<br /> *1436年~1452年 - [[斯波義健]]<br /> *1452年~1460年 - [[斯波義敏]]<br /> *1460年~1461年 - [[斯波義寛|斯波松王丸]]<br /> *1461年~1466年 - [[斯波義廉]]<br /> *1466年 - 斯波義敏<br /> *1466年~1471年 - 斯波義廉<br /> *1471年~1481年 - [[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]<br /> *1481年~1486年 - [[朝倉氏景 (8代当主)|朝倉氏景]]<br /> *1486年~1512年 - [[朝倉貞景 (9代当主)|朝倉貞景]]<br /> *1512年~1548年 - [[朝倉孝景 (10代当主)|朝倉孝景]]<br /> *1548年~1573年 - [[朝倉義景]]<br /> <br /> === 大名 ===<br /> === 戦国大名 ===<br /> * [[朝倉氏]]<br /> <br /> === 織豊政権の大名 ===<br /> ; 織田政権<br /> * [[柴田勝家]]([[福井城|北ノ庄城]]49万石)<br /> * 府中三人衆<br /> ** [[前田利家]]<br /> ** [[佐々成政]]<br /> ** [[不破光治]]<br /> ; 豊臣政権<br /> *[[丹羽長秀]] - [[丹羽長重]](北ノ庄城123万石)<br /> *[[堀秀政]] - [[堀秀治]](北ノ庄城18万石)<br /> * [[青木一矩]]([[大野城 (越前国)|大野城]]8万石→[[府中城 (越前国)|府中城]]→北ノ庄城20万石)<br /> * [[青木俊矩]]([[金剛院城]]2万石)<br /> * [[青山宗勝]]([[丸岡城]]4万6千石)<br /> * [[赤座直保]]([[今庄町|今庄]]2万石)<br /> *[[大谷吉継]]([[敦賀城]]5万石)<br /> <br /> === 武家官位としての越前守 ===<br /> *[[長尾房長]](上田長尾家。米沢藩初代・[[上杉景勝]]の祖父)<br /> *[[長尾政景]](同、景勝の実父)<br /> *[[中条藤資]]<br /> *[[本庄繁長]]<br /> *[[伊達政宗]] 1597年(慶長2年) - 1608年(慶長13年)<br /> *[[松平忠直]](越前[[福井藩|北ノ庄(福井)藩]]第2代藩主 75万石)1615年(元和元年)閏6月19日 - 1623年(元和9年)<br /> *[[仙石政俊]] 1634年(寛永11年) - 1628年(寛永5年)<br /> *[[本多利長]] 1646年(正保3年)<br /> *[[松平光通]](越前福井藩第4代藩主 45万石)1648年(慶安元年)12月21日 - 1674年(延宝2年)3月24日<br /> *[[仙石政明]] 1672年(寛文12年)<br /> *[[松平綱昌]](越前福井藩第6代藩主 45万石)1675年(延宝3年)11月23日 - 1686年(貞享3年)閏3月6日<br /> *[[間部詮房]] 1704年(宝永元年)<br /> *[[大岡忠相]] 1717年(享保2年) - <br /> *[[大岡忠宜]] 1752年(宝暦3年)<br /> *[[松平重昌]](越前福井藩第11代藩主 30万石)1755年(宝暦5年)6月13日 - 1758年(宝暦8年)3月21日<br /> *[[松平重富]](越前福井藩第12代藩主 30万石)1760年(宝暦10年) - 1799年(寛政11年)9月18日<br /> *[[大岡忠恒]] 1766年<br /> *[[大岡忠與]] 1784年<br /> *[[上杉治憲]](米沢藩第9代藩主)1785年(天明5年) - <br /> *[[大岡忠移]]<br /> *[[松平治好]](越前福井藩第13代藩主 30→32万石)1802年(享和2年)2月29日 - 1825年(文政8年)12月1日<br /> *[[松平斉承]](越前福井藩第14代藩主 32万石)1826年(文政9年)12月19日 - 1835年(天保6年)閏7月2日<br /> *[[大岡忠愛]]<br /> *[[松平斉善]](越前福井藩第15代藩主 32万石)1835年(天保6年)10月28日 - 1838年(天保9年)<br /> *[[松平春嶽|松平慶永]](越前福井藩第16代藩主 32万石)1838年(天保9年)12月11日 - 1864年(元治元年)2月16日<br /> *[[大岡忠敬]]<br /> *[[松平茂昭]](越前福井藩第17代藩主 32万石)1858年(安政5年)10月21日 -1869年(明治2年)6月<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Notelist}}<br /> === 出典 ===<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[角川日本地名大辞典]] 18 福井県<br /> * [http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Echizen Province}}<br /> * [[越前一向一揆]]<br /> * [[越前町]]<br /> * [[越前市]]<br /> * [[えちぜん鉄道]]<br /> * [[令制国一覧]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.japrint.co.jp/koshimahoroba/ 越まほろば物語] 越まほろば物語編纂委員会<br /> * [http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn01.html 福井県史 年表][[福井県]]文書館<br /> <br /> {{令制国一覧}}<br /> {{越前国の郡}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:えちせんのくに}}<br /> [[Category:日本の旧国名]]<br /> [[Category:北陸道|国えちせん]]<br /> [[Category:福井県の歴史]]<br /> [[Category:越前国|*]]</div> 118.238.237.196 居玉 2018-07-28T04:26:40Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>{{Pathnav|将棋|将棋の戦法一覧|frame=1}}<br /> {{Shogi diagram|tright<br /> |△持ち駒 角<br /> |lg|ng| |gg|kg| | |ng|lg<br /> | |rg| | | | |gg| | <br /> | | | |pg|pg|pg|sg|pg|pg<br /> |pg| |pg|sgl| | |pg| | <br /> | |pg| | | | | |ps| <br /> | | |ps| | |ss|ps| |ps<br /> |ps|ps|ss|ps|ps|ps| | | <br /> | | |gs| | | | |rs| <br /> |ls|ns| | |ks|gs| |ns|ls<br /> |▲持ち駒 角&lt;br&gt;居玉の例(図は早繰り銀の場合)}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;居玉&#039;&#039;&#039;(いぎょく)とは、[[将棋]]で[[玉将]]が初期位置からまったく動いていない状態である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 将棋では初期状態で先手の玉は5九、後手の玉は5一にある。一般的にはその玉を左右どちらかに動かしたり、5八(後手の場合5二)に動かし、周囲を[[金将]]や[[銀将]]などで囲う。それに対して玉を5九あるいは5一に置いたまま指し続けることを言う。一般的には居玉は悪形とされ、そのまま指すことは避けられる。実際、「居玉は避けよ」という格言もあるほどである。<br /> <br /> == 状況 ==<br /> 基本的に居玉は悪形とされるが、そのまま指し手が進むこともしばしばある。たとえば、自分や相手の駒組みを見て、5九や5一の位置が玉を置くのに最もよいと考えられるとき、その場所に囲いを作る。この場合まれに「居玉囲い」と呼ぶこともある。また[[急戦]]で玉を囲う暇がない場合は、一方または双方がやむを得ず居玉のまま指し続ける場合がある。あえて居玉という悪形を維持し、相手が攻めてくるのを待つという戦術もある。<br /> <br /> 居玉は[[藤井システム]]、[[横歩取り8五飛]]に対する先手の対策「新山﨑流」、[[カニカニ銀]]、急戦のひとつである[[早繰り銀]]の[[将棋#中盤戦|中盤]]でもよく見られる。早繰り銀の場合、1六(後手の場合9四)の端歩を突いておかないと、指し手が進んで[[飛車]]が2四(後手の場合8六)に動いたときに相手から1五または9五に[[角行]]を打たれて王手飛車が成立することが知られている。この例からも分かるように、居玉は角による頓死や王手飛車の危険が高いため注意が必要である。<br /> <br /> == 実例 ==<br /> プロの対局では、[[佐藤天彦]]&lt;ref&gt;第75期[[名人戦 (将棋)|名人戦]]七番勝負(2017年4月20-21日)&lt;/ref&gt;、[[土佐浩司]]&lt;ref&gt;第40期[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]本戦トーナメント(1982年5月10日)ほか&lt;/ref&gt;、[[佐藤康光]]&lt;ref&gt;第75期A級[[順位戦]](2017年2月25日)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;第31期[[竜王戦]]1組・5位決定戦(2018年5月11日・千日手指し直し局)&lt;/ref&gt;、[[増田康宏]]&lt;ref&gt;第31期[[竜王戦]]4組ランキング戦・[[谷川浩司]]戦(2018年5月22日)ほか&lt;/ref&gt;、[[近藤誠也]]&lt;ref&gt;第3期[[叡王戦]]予選・五段戦(2017年9月27日)&lt;/ref&gt;、[[藤井猛]]&lt;ref&gt;第28期[[竜王戦]]1組・出場者決定戦(2015年5月26日)&lt;/ref&gt;、[[井上慶太]]&lt;ref&gt;第43期[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]予選(2017年1月27日)&lt;/ref&gt;、<br /> [[佐々木大地 (棋士)|佐々木大地]]&lt;ref&gt;第76期C級2組[[順位戦]](2017年11月9日)&lt;/ref&gt;、[[金井恒太]]&lt;ref&gt;第3期[[叡王戦]]本戦・準決勝(2018年1月24日)&lt;/ref&gt;、[[行方尚史]]&lt;ref&gt;第76期A級[[順位戦]](2018年2月1日)&lt;/ref&gt;、[[豊島将之]]&lt;ref&gt;第31期[[竜王戦]]1組・ランキング戦(2018年2月26日)&lt;/ref&gt;、[[大橋貴洸]]&lt;ref&gt;第76期C級2組[[順位戦]](2018年3月14日)&lt;/ref&gt;、[[三浦弘行]]&lt;ref&gt;第31期[[竜王戦]]2組・ランキング戦(2018年4月23日)&lt;/ref&gt;、[[永瀬拓矢]]&lt;ref&gt;第66期[[王座戦]]本戦 1回戦・[[佐藤天彦]]戦(2018年5月15日)ほか&lt;/ref&gt;、[[千葉幸生]]&lt;ref&gt;第77期[[順位戦]]C級1組 1回戦・[[小林裕士]]戦(2018年7月25日)&lt;/ref&gt;などの棋士に、居玉の採用例がある。<br /> <br /> 三浦は67手、永瀬は69手、 佐藤天は72手、近藤誠が83手、土佐も89手と比較的短手数だが、藤井猛は119手(且つ、居玉両側の[[金将|金]]2枚も動かさず)、佐々木大も140手(相手の玉は入玉もしている)で勝利している。行方は終局の[[投了]]図が、双方居玉の位置(行方に敗れた後手は、王を動かした後に5一に戻る)。前項のように[[横歩取り]]での居玉の採用が多いが、土佐や永瀬は角換わりでも居玉にする場合がある。<br /> <br /> また、[[谷川浩司]]&lt;ref&gt;第44期[[棋王戦]]本戦 1回戦・[[山崎隆之]]戦(2018年6月20日)&lt;/ref&gt;は居玉のまま61手で、[[脇謙二]]&lt;ref&gt;第77期C級2組[[順位戦]]・[[斎藤明日斗]]戦(2018年6月22日)&lt;/ref&gt;は69手、[[船江恒平]]&lt;ref&gt;第31期[[竜王戦]]5組 ランキング戦 準決勝・[[藤井聡太]]戦(2018年5月18日)&lt;/ref&gt;は72手、[[平藤真吾]]&lt;ref&gt;第66期[[王座戦 (将棋)|王座戦]]一次予選・[[藤井聡太]]戦(2017年11月21日)&lt;/ref&gt;も126手で[[投了]]している。 <br /> <br /> 2018年度では、[[藤井聡太]]&lt;ref&gt;第66期[[王座戦 (将棋)|王座戦]]本戦 1回戦・[[屋敷伸之]]戦(2018年5月7日)&lt;/ref&gt;は92手目に王手を避け4二に逃げるまで、居玉を続けて勝利。[[泉正樹]]&lt;ref&gt;第31期[[竜王戦]]6組 昇級者決定戦 2回戦・[[青野照市]]戦(2018年6月12日)&lt;/ref&gt;は84手から101手目まで、居玉の利きマス5箇所に味方の駒がない裸玉になったが、王を5一から動かさずに勝利した。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;&lt;references /&gt;&lt;/div&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[将棋]]<br /> * [[将棋の戦法一覧]]<br /> * [[将棋の格言]]<br /> * [[玉将]]<br /> <br /> {{将棋}}<br /> {{Shogi-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:いきよく}}<br /> <br /> [[Category:将棋用語]]</div> 118.238.237.196 福井藩 2018-07-16T01:24:34Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>{{No footnotes|date=2018年3月}}<br /> [[ファイル:Matsudaira residence Edo P2.jpg|thumb|right|250px|松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型]]<br /> [[ファイル:Fukui Castle01st3200.jpg|thumb|right|250px|福井城(現在は福井県庁)]]<br /> &#039;&#039;&#039;福井藩&#039;&#039;&#039;(ふくいはん)は、[[越前国]]にあって現在の[[福井県]][[嶺北]]中心部を治めた[[藩]]。藩庁は[[福井城]]([[福井市]])。藩主は[[越前松平家]](福井藩主家)。家格は[[親藩]]・[[御家門]]で、32万石。&#039;&#039;&#039;越前藩&#039;&#039;&#039;(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代[[松平忠昌|忠昌]]以前の[[結城秀康|結城(松平)秀康]]・[[松平忠直|忠直]]時代を故に&#039;&#039;&#039;北ノ荘藩&#039;&#039;&#039;(きたのしょうはん)と称することがある。<br /> <br /> == 藩歴 ==<br /> [[越前国]]は[[戦国大名]][[朝倉氏]]滅亡の後、[[柴田勝家]]・[[丹羽長秀]]・[[堀秀政]]の領有を経て[[豊臣秀吉]]配下の小大名によって分割支配させられていた。[[関ヶ原の戦い]]の際、[[青木一矩]]は西軍方に付いたために戦後越前北ノ庄8万石を没収されている。<br /> <br /> {{右|[[ファイル:Yūki Hideyasu.jpg|thumb|250px|藩祖・結城秀康]]}}<br /> [[慶長]]6年([[1601年]])に関ヶ原の戦いの功により、[[徳川家康]]の次男の秀康が越前一国67万石を与えられ、柴田勝家の築いた[[北ノ庄城]]を約6年かけて大改修し居城とする。秀康は[[結城氏|結城姓]]を[[松平氏|松平]]に復し&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;秀康は生涯結城姓であったとする説もある。&lt;/ref&gt;、[[越前松平家]]を興す。<br /> <br /> 秀康の嫡男[[松平忠直]]は、[[大坂の陣]]で戦功を立てながらも[[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠|秀忠]]に認められなかったことなどから、次第に[[江戸幕府|幕府]]に反抗的態度を取るようになった。そのため、[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])忠直は乱行を理由に廃されて[[豊後国]][[大分市|大分]]に配流された。<br /> <br /> {{右|<br /> [[ファイル:Fukui Castle03n4592.jpg|thumb|right|250px|福井の語源となったとされる福井城内の「福の井」]]<br /> }}<br /> [[画像:Youkoukan09bs4592.jpg|thumb|250px|藩主の別邸であった「お泉水」(現・[[養浩館庭園]])]]<br /> 翌年の[[寛永]]元年([[1624年]])4月、&lt;!---[[英勝院]]の縁によって---&gt;越後高田藩で別家25万9千石を与えられていた忠直の弟(秀康の次男)の[[松平忠昌]]が50万石で福井藩の主な家臣(幕府に選ばれた百余名を主とする{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|忠昌の北ノ荘入部に際し、松平光長旧臣に対して越前への同行、北ノ荘への出仕、他家への退転は自由に選択させ、約500名の家臣のうちの幕府により選抜された105名を中心とする家臣が忠昌に出仕し、その他の家臣は光長に随って[[越後高田藩松平(越前)家家臣団|越後高田藩臣]]となったり、同時に分家された大野藩などの諸家に仕えた&lt;ref name=&quot;kokuji&quot;&gt;『国事叢記』&lt;/ref&gt;。また、老臣5人のうち、本多飛騨守は大名になり、小栗美作守・岡島壱岐守・本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断り、幕府による選抜の中心となった[[附家老]]の本多伊豆守は忠昌に出仕した&lt;ref name=&quot;kokuji&quot;/&gt;。}})、藩領を継承する&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;忠直の嫡男[[松平光長]]には[[越後国|越後]]高田26万石が与えられ、[[高田藩]]を立藩した。&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;松平光長を福井藩3代と数える説もあり、光長が一旦継承したと読むことも可能な史料もあるが、継承の件自体が後世、幕府により否定されているので公式とはならず、逆に「忠直 - 忠昌 - 以降」が幕府の公式見解である。&lt;/ref&gt;。7月の忠昌入部ののち、居城周辺の街・北ノ荘は福居(後に福井)と名を改められる。またこのとき、越前国は複数の藩に分割されることになる。<br /> * &#039;&#039;&#039;福井藩&#039;&#039;&#039;:越前福井50万石が秀康次男[[松平忠昌|忠昌]]に与えられる。<br /> * [[丸岡藩]]:越前丸岡4万6千石が附家老の[[本多成重]]に与えられ独立する。<br /> * [[大野藩]]:越前大野5万石が秀康三男[[松平直政|直政]]に与えられる。<br /> * [[越前勝山藩|勝山藩]]:越前勝山3万石が秀康五男[[松平直基|直基]]に与えられる。<br /> * [[木本藩]]:越前大野郡内の木本2万5千石が秀康六男[[松平直良|直良]]に与えられる。<br /> * 越前敦賀郡はいったん[[幕府領]]となり、その後、[[小浜藩]]の[[京極氏]]に与えられる。<br /> その後、福井藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らし、[[貞享]]3年([[1686年]])に第6代藩主[[松平綱昌|綱昌]]は発狂を理由に強制隠居処分され、前藩主[[松平昌親|昌親]]が領地半減の上で再襲(吉品)した。吉品が就封の際、領地宛行状が国名の&#039;&#039;&#039;越前少将&#039;&#039;&#039;から、城地名の&#039;&#039;&#039;福井侍従&#039;&#039;&#039;となり&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;このとき、福井藩の領主の家格が越前国主より福井城主へ降格した。&lt;/ref&gt;、忠昌が大坂の陣で使った片鎌槍の大名行列の際の使用を禁じられた。また、この時に藩邸の格式も下がり、江戸城の[[伺候席|詰間]]が将軍家の親族が詰める大廊下から、[[外様大名|外様]]の[[国主|国持大名]]と同じ大広間へ異動した。ただし、この間もこれ以降も歴代藩主は当代将軍の[[偏諱]]を拝領する「特別な家」であり続けた。[[享保]]6年([[1721年]])には支藩[[越前松岡藩|松岡藩]](福井県[[吉田郡]][[永平寺町]])の再併合により30万石に復し、[[文政]]2年([[1819年]])にさらに2万石を加増されるなど、徐々に家格は回復した。官位も10代[[松平宗矩|宗矩]]から再び左近衛権少将に戻る。内政では領地の激減や複数回の天災に見舞われたことなどにより、藩財政を大いに逼迫させ、度重なる[[一揆]]に見舞われて困難を極めた。<br /> [[画像:京都福井藩邸跡.jpg|thumb|150px|京都市 福井藩邸跡]]となった。<br /> [[画像:Shungaku Matsudaira.jpg|thumb|150px|松平慶永(春嶽)]]<br /> [[田安徳川家]]から養子に入った[[幕末]]の藩主[[松平春嶽|慶永(春嶽)]]は、[[橋本左内]]らを登用し、また熊本藩から[[横井小楠]]を招聘して藩政改革をおこなった。[[安政の大獄]]により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は[[公武合体]]派の重鎮として幕政に参与している。<br /> <br /> [[戊辰戦争]]では、[[薩長]]主導の[[明治新政府]]に加わり、[[江戸無血開城]]後は、[[上野]]の寛永寺一帯に立てこもった[[彰義隊]]の討伐に参戦した。<br /> <br /> 福井藩領は[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により福井県、ついで[[足羽県]]となり、さらに[[敦賀県]]を経て[[石川県]]に併合されるが、のち旧越前および[[若狭国|若狭]]が福井県として分立した際にその中心部となった。<br /> <br /> == 歴代藩主 ==<br /> ;松平(越前)〔結城〕家<br /> 親藩 52万5000石→45万石→25万石→30万石→32万石 (1601年 - 1871年)&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;忠昌以降をそれ以前とは別藩とする分類(学説)もある。&lt;/ref&gt;<br /> # [[結城秀康|秀康]](ひでやす) 結城より改姓&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;秀康時代の主な家臣<br /> # 今村盛次→久世騒動で改易。子孫は忠昌に越後高田で召出される<br /> # 江口石見→忠直の時蟄居。子孫は忠昌に召出される。<br /> # 落合美作→久世騒動の際、忠直の勘気を蒙って和泉国堺に蟄居。後に[[徳川頼宣]]に仕える。<br /> # 久世但馬→久世騒動で成敗される。<br /> # 清水孝正([[敦賀藩|敦賀城代]])→久世騒動で改易。伊達家預け。<br /> # 林定正([[越前勝山藩|勝山城代]])→久世騒動で改易。最上家預け。<br /> # 多賀谷泰経→断絶。子孫は松平直基に召出される。<br /> # 土屋昌春→秀康に殉死。<br /> # 永見吉望(貞武)→秀康に殉死。<br /> # 山川朝貞→断絶。<br /> # 吉田修理→断絶。<br /> # [[本多富正]]([[越前府中藩|府中城代]])→[[御附家老|附家老]]。幕命により、以降数代にわたり藩政を指揮する。&lt;/ref&gt;<br /> # [[松平忠直|忠直]](ただなお)&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;忠直時代の主な家臣<br /> # [[荻田長繁]]→越後出身。光長の越後入国に従い、[[糸魚川藩|糸魚川城代]]となる。<br /> # [[小栗正高]]→[[大野藩|大野城代]]。光長の越後入国に従い、高田城代となる。<br /> # 本多富正 →附家老。忠直配流後も幕命により忠昌に仕え、以降も福井藩を指揮する。<br /> # [[本多成重]]([[丸岡藩|丸岡城代]])→附家老。寛永元年(1624年)諸侯に成る。<br /> &lt;/ref&gt;<br /> #*[[松平光長|光長]](みつなが) - 幕府の公式見解では光長を歴代に数えない{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|これを歴代に数えるかは学説・見解が分かれているが、現在のところは幕府の公式見解に則り「含めない」が一般的である。「貞享年中之書上ニハ継中納言之遺跡与申儀無之、賜越前国与計認有之候間此度も継遺跡と申儀ハ相除可被指出候事」&lt;ref&gt;『越系余筆』[[井上翼章]]・文化3年([[1806年]]) 松平文庫蔵&lt;/ref&gt;とあって、寛政12年([[1800年]])に福井松平家に対して幕府は同系図の修正を命じ、福井松平家では越前家の代数より光長を排除する作為を系図に加えている。つまり公式には「歴代に含めない」のではあるが、「&#039;&#039;&#039;光長は明らかに父の遺跡を継いだといわねばならない&#039;&#039;&#039;」、「[[細川忠利]]は『越前御国替に罷り成り』(寛永元年五月晦日付披露状『細川家史料』)といい、[[久保田藩]]の重臣[[梅津政景]]も『越前ノ若子様ハ越後へ廿五万石ニ而御国替の由』(『梅津政景日記』寛永元年六月五日条)といっており、当時の大名などもそのように認識していたのである」という見解も存在するが&lt;ref&gt;『福井県史 通史編3・近世一』&lt;/ref&gt;、幕府の公式見解とは違っている。}}{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|津山松平氏家譜 元和9年([[1623年]])2月10日条に、光長が「家督を承け祖父以来のノ遺跡一円領知スヘキノ旨を命セラル」&lt;ref&gt;「越前&#039;&#039;&#039;支流&#039;&#039;&#039;美作津山松平」『徳川諸家系譜』第四&lt;/ref&gt;とあり、同年7月幕府国目付が北荘へ来着し、台命を伝達した奉書中に忠直仕置等万事不相届故を以て越前国仙千代丸ニ被仰付」&lt;ref&gt;津山松平氏家譜 元和9年7月29日条[[徳川家光]]黒印状&lt;/ref&gt;とあるが、その後幕府から再度使者が派遣され、光長の相続は取り消しとなっている。}}<br /> # [[松平忠昌|忠昌]](ただまさ) 北ノ庄(北ノ荘)を福居と改名&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;忠昌時代の主な家臣<br /> # 笹治大膳→忠昌の時に加増される。<br /> # 永見吉次→高田より随従。<br /> # 本多富正→附家老。幕命により藩政を指導する。<br /> # [[片山良庵]]→松代時代に召し抱えられた軍学者。&lt;/ref&gt;。<br /> # [[松平光通|光通]](みつみち) 分知により45万石となる 自殺により一旦収公され、即日昌親の相続が認められる<br /> # [[松平昌親|昌親]](まさちか)<br /> # [[松平綱昌|綱昌]](つなまさ) 発狂により除封<br /> # [[松平昌親|吉品]](よしのり) 昌親の再襲 半減により25万石([[土芥寇讎記]]に拠れば実高30万石)<br /> # [[松平吉邦|吉邦]](よしくに) 越前国内の天領10万石余を預所として附属。<br /> # [[松平宗昌|宗昌]](むねまさ) 分家の松岡藩主より就任。合わせて30万石となる<br /> # [[松平宗矩|宗矩]](むねのり) 越前国内の天領全てを預所として附属。<br /> # [[松平重昌|重昌]](しげまさ) 若年相続により、預所が一旦幕府直轄となる。<br /> # [[松平重富|重富]](しげとみ)<br /> # [[松平治好|治好]](はるよし) 32万石となる<br /> # [[松平斉承|斉承]](なりつぐ)<br /> # [[松平斉善|斉善]](なりさわ)<br /> # [[松平春嶽|慶永]](よしなが)<br /> # [[松平茂昭|茂昭]](もちあき)<br /> <br /> == 分家 ==<br /> 光通の子・権蔵は光通正室の[[国姫]]所生ではなく嗣子とはならなかった。延宝元年([[1673年]])に江戸へ出奔し、延宝3年([[1675年]])将軍・[[徳川家綱]]に謁見し従五位下、備中守に叙任、賄料1万俵江戸[[定府]]の諸侯に列した。<br /> # [[松平直堅]]<br /> # [[松平直知]]<br /> # [[松平直之 (糸魚川藩主)|松平直之]]<br /> {{See|糸魚川藩}}<br /> <br /> == 家老 ==<br /> * [[本多氏]]([[御附家老|附家老]]。越前府中領2万石・筆頭家老本多内蔵助家)維新後[[男爵]]<br /> [[本多富正]]([[本多重次|重次]]の甥)-[[本多昌長|昌長]]-[[本多長員|長員]]=[[本多長教|長教]]-[[本多副紹|副紹]]-[[本多副充|副充]]=副久-[[本多副昌|副昌]]-[[本多富恭|富恭]]=[[本多副元|副元]]([[常陸国|常陸]][[常陸府中藩|府中藩]]主・[[松平頼説]]の子、頼功の次男)<br /> <br /> 家老を輩出する藩内最高の家格の高知席は17家。<br /> * 本多飛騨家([[本多成重]]の五男[[本多重方|重方]]が初代)<br /> * 本多修理家([[本多富正]]の次男[[本多正房|正房]]が初代。[[本多敬義]]等。)<br /> * 本多源四郎家(修理家分家)<br /> * 酒井外記家([[酒井重成]]が初代)<br /> * 酒井孫四郎家<br /> * 狛山城家([[狛孝澄]]が初代。北狛。墓所は福井市木田の通安寺)<br /> * 狛帯刀家(山城家[[狛貞澄]]の長男[[狛政貞]]が1600石で分家。南狛。墓所同上)<br /> * 芦田信濃家(初代は加藤康寛([[依田康勝]]))<br /> * 松平主馬家([[長沢松平家]]の一族[[松平正世]]が初代。越後高田藩主[[松平忠輝]]の改易後に[[松代藩]]主であった忠昌に仕えた。)<br /> * 山形三郎兵衛家(笹治大膳家。[[笹治正時]](笹治大膳)が初代。十代のちに山県に改姓、[[山県昌景]]の子孫を称す。最大時で1万石。)<br /> * 稲葉采女家([[稲葉正成]]の四男正房が初代)<br /> * 有賀内記家([[有賀正成]]が初代)<br /> * 明石将監家(元は支藩の松岡藩の家老。松岡藩の本家への再合併後、本家の家老家となった)<br /> * 萩野小四郎家([[荻野永道]]が初代)<br /> * 杉田壱岐家(松平忠昌譜代家臣の[[杉田三正]]が初代)<br /> * 大谷丹下家([[大谷吉継]]の孫[[大谷重政]]が初代)<br /> * 岡部豊後家(岡部豊後長起-淡路=安直(淡路の弟)-貞則=起平(渥美平内の子)-主貞-貞起(南嶽)=興起(狛孝章次男))-長(ながし)<br /> <br /> 府中領主の筆頭家老本多内蔵助家は、17家の高知席のさらに上の地位にあった。<br /> <br /> == 幕末の領地 ==<br /> {{Location map |Japan<br /> |label=福井藩&lt;br&gt;親藩&lt;br&gt;32万石<br /> |lat_deg=36|lat_min=3|lat_sec=55.64<br /> |lon_deg=136|lon_min=13|lon_sec=15.24<br /> |position=top<br /> |width=250<br /> |caption=福井藩の位置<br /> |mark=Mitsuba Aoi inverted.jpg<br /> |marksize=10<br /> |relief=1<br /> }}<br /> * [[越前国]]<br /> ** [[足羽郡]] - 158村<br /> ** [[吉田郡]] - 136村<br /> ** [[南条郡]]のうち - 57村<br /> ** [[今立郡]]のうち - 57村(うち2村を[[本保県]]に編入)<br /> ** [[丹生郡]]のうち - 93村<br /> ** [[大野郡 (福井県)|大野郡]]のうち - 8村<br /> ** [[坂井郡]]のうち - 168村(うち2村を本保県に編入)<br /> <br /> 上記のほか、[[南条郡]]12村、今立郡18村、丹生郡14村、大野郡13村、坂井郡69村の[[天領|幕府領]]を預かったが、「[[旧高旧領取調帳]]」では第1次府県統合後の状況になっているため、下記以外の変遷の詳細は不明である。<br /> <br /> [[明治維新]]後、南条郡3村(旧[[西尾藩]]領1村、[[地方知行|旗本領]]1村、福井藩[[預地|預所]]管轄の旧[[天領|幕府領]]1村)、大野郡11村(福井藩預所管轄の旧幕府領)が加わった。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Notelist}}<br /> === 出典 ===<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[舟澤茂樹]]『シリーズ藩物語 福井藩』([[現代書館]]、[[2010年]][[11月]])<br /> * 『藩史総覧』 [[児玉幸多]]・[[北島正元]]/監修 [[新人物往来社]]、[[1977年]]<br /> * 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年<br /> * 『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 [[文春新書]]、[[2003年]]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Fukui_Domain}}<br /> * [[新影幕屋流]]<br /> * [[越前騒動]]<br /> * [[糸魚川藩]]<br /> * [[高田藩]]<br /> * [[津山藩]]<br /> * [[松江藩]]<br /> * [[前橋藩]]・[[川越藩]]<br /> <br /> {{s-start}}<br /> {{s-bef|before=([[越前国]])|表記=前}}<br /> {{s-ttl|title=行政区の変遷<br /> |years=[[1624年]] - [[1871年]]|years2=福井藩→第1次福井県}}<br /> {{s-aft|after=[[足羽県|福井県]](第1次)|表記=次}}<br /> {{end}}<br /> {{江戸時代の藩}}<br /> {{Portal bar|日本|福井県|江戸|歴史}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふくいはん}}<br /> [[Category:福井藩|*]]<br /> [[Category:藩|ふくい]]<br /> [[Category:越前国|藩ふくい]]<br /> [[Category:結城氏|藩ふくい]]<br /> [[Category:越前松平氏|藩ふくい]]<br /> [[Category:福井市の歴史]]<br /> [[Category:福井県の歴史]]</div> 118.238.237.196 赤穂藩 2018-05-15T05:34:37Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>[[ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan01bs3.jpg|thumb|right|250px|赤穂城]]<br /> &#039;&#039;&#039;赤穂藩&#039;&#039;&#039;(あこうはん)は、[[播磨国]][[赤穂郡]]([[兵庫県]][[赤穂市]]、[[相生市]]、[[上郡町]])周辺を領有した[[藩]]。藩庁は同郡加里屋の[[赤穂城]]。<br /> <br /> 浅野氏の『[[赤穂事件|元禄赤穂事件]]』で有名だが、池田氏でも[[池田輝興|輝興]]が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する[[家老]]の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』&lt;ref&gt;明治政府はこの後に「仇討ち禁止令」を制定している。&lt;/ref&gt;が起きている。<br /> なお、[[武鑑]]では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。&lt;ref&gt;赤穂は郡名を起源としており、城地・政庁の存在した当地の歴史的固有地名はカリヤ(加里屋・仮屋・苅屋)であった。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 略史 ==<br /> 播磨一国の太守である[[池田輝政]]の5男・[[池田政綱|政綱]]は[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])、兄である[[池田忠継|忠継]]の死により[[岡山藩]]を相続した[[池田忠雄|忠雄]]より、母・[[督姫|良正院]]の遺領分のうち3万5000石を分知され、ここに赤穂藩が立藩した。[[寛永]]8年([[1631年]])、政綱は[[嗣子]]なく没し、同国[[佐用郡]][[平福藩]]で2万5000石を領していた弟の[[池田輝興|輝興]]に相続が認められた。しかし、輝興は[[正保]]2年([[1645年]])、突然発狂して正室や侍女数人を斬殺し、本家である[[岡山藩]]主[[池田光政]]の預かりとなり、[[改易]]となった。<br /> <br /> 同年、代わって[[常陸国]][[笠間藩]]より[[浅野長直]]が5万3000石で入部した。長直は石高にそぐわない宏壮な赤穂城を旧城の南に13年かけて築城し、更に[[城下町]]も造営した。転封と工事により財政は悪化。池田氏の代より始まっていた塩田開発を奨励し整備を行い[[塩]]を赤穂の特産品とした。以後、塩は赤穂の特産として藩財政を支えて行くこととなる(当時は通称「赤穂塩」と呼ばれていた。現在の現地遺跡の発掘により、その起源は、[[弥生時代]]にまで遡るとする研究結果もある)。<br /> <br /> 第2代藩主・[[浅野長友|長友]]は[[寛文]]11年(1671年)、義兄・義弟に分知し、石高は5万石となった。<br /> <br /> [[元禄]]14年(1701年)、第3代藩主・[[浅野長矩|長矩]](内匠頭)は[[江戸城]]中で[[高家]][[旗本]]・[[吉良義央]]に斬りつけ、長矩は切腹、浅野家は[[改易]]となった。そして元禄15年(1702年)に家臣による吉良邸討ち入りが起こった([[赤穂事件]])。連座した長矩の弟・[[浅野長広]]は赤穂新田3,000石の所領もいったん召し上げられたが、宝永7年(1710年)に安房国朝夷郡・平郡500石に移され、減封となったが旗本に復した。長広のあとは嫡男の長純が家督を受け継ぎ、[[浅野長直|長直]]系浅野氏は、安房国で続くことになる。<br /> <br /> 刃傷事件のあった元禄14年(1701年)に、代わって[[下野国]][[烏山藩]]より[[永井直敬]]が3万2000石で入部する。しかし、5年後の[[宝永]]3年(1706年)には[[信濃国]][[飯山藩]]へ転封となっている。<br /> <br /> 同年、[[備中国]][[#西江原藩|西江原藩]]より[[森長直]]が2万石で入部。[[廃藩置県]]までの12代165年間、赤穂藩主としては最も長く在封した。森家の在封期間を通じて藩政は困窮しており、時代を追うごとに悪化の一途を辿った。第5代藩主・[[森忠洪|忠洪]]は財政改革を断行。藩主自ら質素倹約を行い、貯蓄を奨励した。更に塩田開発や[[ろうそく|蝋燭]]の原料となる[[ハゼノキ|櫨]]の植林等殖産興業にも努めた。しかし、財政の再建はままならなかった。第10代藩主・[[森忠徳|忠徳]]は[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])、遂に塩を専売制とした。<br /> <br /> [[幕末]]の[[安政]]4年(1857年)になると、藩政の改革をめぐり保守派・革新派の対立が起こり藩内は分裂。革新派の一部は脱藩し[[長州藩]]へ奔った。[[文久]]2年(1862年)、攘夷派が保守派の[[家老]]を暗殺するという事件が起こり、藩論は分裂したまま[[明治維新]]を迎えることとなった。<br /> <br /> 1871年([[明治]]4年)、廃藩置県により赤穂県となる。その後、[[姫路県|姫路県・飾磨県]]を経て兵庫県に編入された。森家は1869年(明治2年)の[[版籍奉還]]とともに[[華族]]に列し、[[1884年]](明治17年)には[[華族令]]の施行とともに[[子爵]]を授爵した。<br /> <br /> == 歴代藩主 ==<br /> === 池田家 ===<br /> [[外様大名|外様]] 3万5千石 (1615年 - 1645年)<br /> # [[池田政綱|政綱]]<br /> # [[池田輝興|輝興]]<br /> <br /> === 浅野家 ===<br /> 外様 5万3千石→5万石→5万3千石 (1645年 - 1701年)<br /> # [[浅野長直|長直]]<br /> # [[浅野長友|長友]] 分知により5万石 <br /> # [[浅野長矩|長矩]]<br /> <br /> *浅野(長直系)家は長矩の実弟である[[浅野長広|長広]]が、[[安房国]][[朝夷郡]]・[[平郡]]に500石を与えられ継承。赤穂新田3,000石から減封のうえ、播磨からも移封ではあるが、旗本として浅野大学家(長広系)は続く事になった&lt;ref name=&quot;泉(1998)278&quot;&gt;[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.278&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;yamamotoa73&quot;&gt;[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第七章三節&lt;/ref&gt;。その後、長栄で男系は絶え、長楽の代で断絶した&lt;ref&gt;wikipedia「浅野長広」項目も参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 永井家 ===<br /> [[譜代大名|譜代]] 3万2千石 (1701年 - 1706年)<br /> # [[永井直敬|直敬]]<br /> <br /> === 森家 ===<br /> 外様 2万石 (1706年 - 1871年)<br /> # [[森長直|長直]]<br /> # [[森長孝|長孝]]<br /> # [[森長生|長生]]<br /> # [[森政房|政房]]<br /> # [[森忠洪|忠洪]]<br /> # [[森忠興|忠興]]<br /> # [[森忠賛|忠賛]]<br /> # [[森忠哲|忠哲]]<br /> # [[森忠敬|忠敬]]<br /> #([[森忠貫|忠貫]])<br /> # [[森忠徳|忠徳]]<br /> # [[森忠典|忠典]]<br /> # [[森忠儀|忠儀]]<br /> *忠貫については、「森家譜」においてその記述が見られる。それによると、忠貫は在職3年で死去し、藩の策謀により弟の忠徳が身代わりとして擁立されたというものである。<br /> <br /> 森子爵家(1873年 - 1945年 ) <br /> #[[森忠恕|忠恕]]<br /> #可久<br /> <br /> 赤穂森家(1945年 - ) <br /> #[[森可展|可展]]<br /> #可威<br /> <br /> *現当主の森可展は21世紀になっても、赤穂市花岳寺での法要や上仮屋南の鶴の丸公園での行事に参加している&lt;ref&gt;「法要で赤穂藩主・森家の遺徳偲ぶ」(赤穂民報、2013年5月19日))&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 西江原藩 ==<br /> &#039;&#039;&#039;西江原藩&#039;&#039;&#039;(にしえばらはん)は江戸中期の10年間存在した藩。元禄10年([[1697年]])[[森成利]](蘭丸)の弟・[[森忠政|忠政]]の家系で[[美作国]][[津山藩]]主・森家の断絶にともない、津山藩2代藩主であった隠居中の長継が2万石で立藩した。<br /> <br /> [[備中国]][[後月郡]]西江原([[岡山県]][[井原市]])周辺を領有し、西江原に[[陣屋]]が置かれた。<br /> 宝永3年(1706年)2代・長直のとき、赤穂藩に転封し廃藩となった。<br /> <br /> === 歴代藩主 ===<br /> ==== 森家 ====<br /> [[外様]] 2万石<br /> # [[森長継|長継]]<br /> # [[森長直|長直]]<br /> <br /> == 幕末の領地 ==<br /> * [[播磨国]]<br /> ** [[赤穂郡]]のうち - 42村<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *『藩史総覧』 [[児玉幸多]]・[[北島正元]]/監修 [[新人物往来社]]、[[1977年]]<br /> *『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、[[1997年]] ISBN 978-4404025241<br /> *『大名の日本地図』 中嶋繁雄著 [[文春新書]] [[2003年]] ISBN 978-4166603527<br /> *『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 [[八幡和郎]]著 [[光文社新書]]、[[2004年]] ISBN 978-4334032715<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Ako Domain}}<br /> * [[赤穂事件]]<br /> * [[赤穂城]]<br /> * [[花岳寺]] - 藩主菩提寺<br /> * [[大石神社]]<br /> * [[天流]]<br /> * [[高木流]]<br /> * [[今真流]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.remus.dti.ne.jp/~ymori/index2.html 森家の歴史]<br /> * [http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/column/rekishi.html 江戸時代の赤穂の歴史(兵庫県赤穂市の文化財)]<br /> <br /> {{s-start}}<br /> {{s-bef|before=([[播磨国]])|表記=前}}<br /> {{s-ttl|title=行政区の変遷 <br /> |years=[[1615年]] - [[1871年]]|years2=赤穂藩→赤穂県}}<br /> {{s-aft|after=[[飾磨県|姫路県]]|表記=次}}<br /> {{end}}<br /> {{江戸時代の藩}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:あこうはん}}<br /> [[Category:赤穂藩|*]]<br /> [[Category:藩]]<br /> [[Category:兵庫県の歴史]]<br /> [[Category:赤穂事件]]<br /> [[Category:播磨国|藩あこう]]<br /> [[Category:赤穂市の歴史]]<br /> [[Category:浅野氏|藩あこう]]<br /> [[Category:永井氏|藩あこう]]<br /> [[Category:森氏|藩あこう]]<br /> [[Category:美濃池田氏|藩あこう]]</div> 118.238.237.196 ブーツ 2018-04-21T06:43:53Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>{{Otheruses|履物|その他}}<br /> [[File:Wooden boots-Sanita-lightblue.jpg|thumb|200px|[[デンマーク]]製のブーツ。靴底は木製、甲などは革で作られている]]<br /> [[File:BootsBr.jpg|thumb|right|200px|女性用ブーツの一例]]<br /> [[File:Derbyboot GRENSON Huntingdon.JPG|thumb|200px|ブーツの一例]]<br /> [[File:Straw boots.JPG|thumb|200px|[[稲藁]]で作られた深靴(ふかぐつ)&lt;ref&gt;ゴム長靴が普及するはるか以前より日本の雪国の庶民が使った。雪の温度が十分低く、また、稲藁が[[断熱材]]となり雪は解けず水が浸み入ることもない。また断熱性の違いからゴム長靴のように、足が冷えることが少ない&lt;/ref&gt;]]<br /> &#039;&#039;&#039;ブーツ&#039;&#039;&#039;(英語: boots)は、[[靴]]([[履物]])の一種で、踝までの[[足]]やそれ以上の[[脚]]を覆うもの。漢語表現では&#039;&#039;&#039;[[長靴]]&#039;&#039;&#039;とも。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 一口にブーツといっても各々種類や用途や[[デザイン]]や作りによって形が異なり、丈の長さによっては踝や[[膝]]や腿、[[尻]]を覆うもの、[[ヒール]]の種類、素材に違いがあり千差万別である。[[#乗馬ブーツ|乗馬ブーツ]]など、概ねある程度の脛部分を覆う丈のブーツは近代より[[日本語]]では&#039;&#039;&#039;長靴&#039;&#039;&#039;(ちょうか、ながぐつ)とも呼ばれているが、現代では一般に「ながぐつ」と言うと[[雨具]]としての[[長靴]](ゴム長靴、レインブーツ)を指す事が多い。<br /> <br /> 多くのブーツでは、同じ素材から作られたヒールであっても、はっきりと[[靴底|ソール]]のほかのパーツと区別がつく形をしている。ブーツは周囲の環境から足を守るために作られているものが多く、革やゴムなどの強靭な素材を使用し、水や泥、砂がブーツの隙間から入り込まないように設計されている。特に[[登山]]や木材の[[間伐]]や[[工事]]などの時に、破片や鋭い物体から足を保護するために設計されている頑丈な労働用ブーツもあり、一部は、[[パンクファッション]]に取り入れられている。また、[[スキー]]や[[スケート]]、[[スノーボード]]、[[オートバイ]]、[[水上オートバイ]]などの[[スポーツ]]用に特別に設計されたブーツが数多く存在する。また、ブーツを愛玩の対象とする[[フェティシズム]]も存在する([[ブーツフェティシズム]])。<br /> <br /> [[女性]]用のブーツは[[ファッション]]性を意識して作られたものが多い。[[ハイヒール]]や[[ピンヒール]]のもの、[[高下駄]]のようにソールが高いもの([[厚底靴]])、レースアップの編み紐やリボン、ベルトによる装飾(一部のジョッキータイプには[[拍車]]の留革を模した物等)が施されていることもある。<br /> <br /> 主に乗馬ブーツには紐や取っ手がついていて、着用を容易にする仕掛けが施されている。[[ドイツ]]にはブーツを履こうとしていた子供が、この紐を引っ張っていて気がついたら空を飛べるようになっていたという物語がある。この取っ手や紐をことわざとして様々な場面で用いている。<br /> <br /> ブーツには様々な言い回しやことわざ、[[慣用句]]がある。熟練した労働者を作業用に履いている頑丈なブーツに喩えて、&quot;tough as old boots&quot;(古びたブーツと同じくらい頑丈だ)と言う。また、漫画などでは魚釣りに行ったのに1匹も魚が釣れずに困っている状態を、ソールが壊れたボロボロのブーツを釣り上げさせることで表現する。<br /> <br /> 捨てられたブーツを利用して作られた[[メンドーザ]](mendoza)と呼ばれる楽器がある。<br /> <br /> 日本の積雪地域では藁製の長靴が使用されていた。<br /> {{-}}<br /> <br /> == ブーツの種類 ==<br /> === 丈の長さに応じて ===<br /> [[File:Ladies boots.jpg|right|200px|thumb|女性用のロングブーツ]]<br /> * デミブーツ - 踝を覆うか覆わないか程度の丈のもの。ローカットのワラビーブーツなど。<br /> * アンクルブーツ(ブーティ) - 踝が隠れる丈のもの。チャッカブーツ、デザートブーツなど。<br /> * ショートブーツ - 踝より上の足首が若干隠れる丈のもの。ジョージブーツ、ジョッパーブーツなど。<br /> * ハーフブーツ - 下腿部の半分程度を隠せる丈のもの。カウボーイブーツなど。<br /> * ロングブーツ - 膝下あたりまで隠せる丈のもの。ライディングブーツなど。日本でよく見かける主流タイプ。<br /> * スーパーロングブーツ - 膝より上まで隠せるもので膝上〜股下までの長さによりオーバーニーブーツ、サイハイブーツ(タイハイブーツ)、クロッチブーツ、[[ニーハイブーツ]]&lt;ref&gt;“ニーハイ”(Knee High)は、訳せば「膝丈の」であり本来ロングブーツに分類されるべきだが、日本では「膝上丈の」と誤訳されサイハイブーツなどと混同されている&lt;/ref&gt;などがある。<br /> <br /> === 形状や素材に応じて ===<br /> ; ウェッジソールブーツ<br /> : [[土踏まず]]の部分が一段低くなっているのではなく、[[ハイヒール]]のように踵の部分が高くなっているタイプの靴底をもつブーツ。<br /> ; [[ウェリントン・ブーツ]]<br /> : 「長靴」と呼ばれるものの原型的なもので、元来は胴(シャフト)が長く膝下まであり、ラウンドトゥ、低めの踵を持つ革製のロングブーツを指した。現在「ウェリントンブーツ」と呼ぶ場合は、悪天候時に用いるゴム製のロングブーツ(いわゆる「ゴム長」もしくは「雨靴」)を指すことが多い。<br /> ; [[長靴|ゴム長靴]](作業用長靴、レインブーツ)<br /> : ゴム、もしくは[[合成樹脂]]製のロングブーツ。防水性に優れる。<br /> ; サイドゴアブーツ(チェルシーブーツ)<br /> : ブーツのシャフト両サイドに伸縮性のある素材をゴア ([[襠]]) として用いたブーツのこと。くるぶし丈で脱ぎ履きしやすいのが特徴。<br /> ; ジャックブーツ<br /> : 靴紐やベルトのないシンプルな長靴。ドイツ軍やロシア/ソビエト軍が制式軍装に使っていたものが有名である。<br /> ; ストレッチブーツ<br /> : 筒部分に高い伸縮性を持たせたブーツ。パレード等に用いるものは[[日本パレード]]社製A352が有名。<br /> ; [[サイハイブーツ]]<br /> : ロングブーツの中でも太ももを覆うほどの長さがあるもの。「タイハイブーツ」とも呼ぶ。<br /> ; [[胴付長靴]]<br /> : ゴム製の[[サロペット]]と一体になったもの。下半身から胸元までを覆う防水服の一種。<br /> ; ダックブーツ(ビーンブーツ)<br /> : 甲を始めとした下半分が防水性のあるゴム製、上半分(アンクル部)が革製のもの。水場の多い野外での防水性と通気性を両立させるために考えられたもので、“ダック(Duck)”の名は[[カモ]]類の保温性が高く水を弾く羽毛になぞらえたところから。<br /> :* デザインの元祖はアメリカのアウトドア用品メーカー、[[L・L・ビーン]]が[[狩猟]]用ブーツとして発売したもので、現在でもL・L・ビーンの製品が代表的なことから「ビーンブーツ」とも呼ばれる。<br /> ;; ソレル(ソレルブーツ)<br /> : スノーブーツの一つで、ダックブーツをスノーブーツとして発展させたデザインのもの。丈が長くなり、保温性の高い二重構造になっている。<br /> :* “ソレル(ブーツ)”の名は、[[カナダ]]のソレル(SOREL)社が初めて発売したところからの通称である。<br /> ; [[チャッカブーツ]]<br /> : ショートブーツの一種で、鳩目が2〜3組の、細かくパーツ分けされず一体型に近いデザインのもの。<br /> :* 区分上の重要な点は鳩目の数で、鳩目が2〜3組以下であっても以上であっても「チャッカブーツ」とは分類されない。<br /> ;; [[チャッカブーツ#ジョージブーツ|ジョージブーツ]]<br /> : チャッカブーツと類似したデザインのショートブーツで、チャッカブーツに似るが若干丈が長く、鳩目の位置が高い位置にあるのが特徴である。<br /> :* フォーマルシューズの一種でもあり、近代西洋式の軍隊においては将校は[[礼服|夜会服]]にはジョージブーツを用いる。<br /> ;; [[チャッカブーツ#デザートブーツ|デザートブーツ]]<br /> : チャッカブーツに似るが、よりカジュアルなデザインと素材で構成されたもの。<br /> ; [[半長靴]]<br /> : ショートブーツとロングブーツの中間の丈を持つものを指す。<br /> ; [[ブーティー]]<br /> : パンプスとショートブーツの中間くらいの丈の履物。ハイカット・スニーカーにブーツのような装飾が付いたものを指す場合もある。<br /> ; ブローグブーツ(ウィングチップブーツ)<br /> : ウィングチップが入ったブーツのこと。<br /> ; フリンジブーツ<br /> : ふさ飾り(Fringe)が付いたブーツのこと。<br /> ; 編上靴<br /> : 履き口を靴紐で編上げる、レースアップブーツのこと。<br /> ; {{Anchors|ペコスブーツ}}ペコスブーツ<br /> : 指賭けループが履き口の両サイドに付けられた長靴のようなワークブーツ。農作業用に用いられた。レッドウィングのモデルの一つで、元来は商品名であるが、一般名詞化しこの形状のブーツを「ペコスタイプ(ブーツ)」と呼ぶ。<br /> ; ボタンブーツ<br /> : [[ボタン (服飾)|ボタン]]で着脱するブーツで、[[大塚製靴]]が100年前に発売した。ボタンの着脱がしやすいようにボタンフックという[[ピンセット]]のような金具が発売されている。<br /> ; モックトゥブーツ<br /> : 「[[モカシン]]のようなトゥ(つま先)を持つブーツ」の意味で、甲に大きな縫い目のあるデザインのもの。<br /> ; ムートンブーツ<br /> : [[ヒツジ]]の[[毛皮]]であるムートンを用いたブーツのこと。<br /> ; モンキーブーツ<br /> : 外羽根式のレーストゥトゥのブーツのこと。正面から見ると[[サル]](Monkey)の顔のように見えることからモンキーブーツという。<br /> ; [[ワーレンキ]]<br /> : 羊毛のフェルト製長靴<br /> ; ワラビーブーツ<br /> : シューズメーカーの[[:en:C. &amp; J. Clark|クラークス]]によって生み出されたもの。モックトゥの丈が短い編上げブーツである。<br /> <br /> === 用途に応じて ===<br /> ; [[エンジニアブーツ]]<br /> : 測量技師や工場労働者などが着用する[[安全靴]]として開発されたブーツ。脚を保護するために頑丈に作られており、靴紐が引っ掛かる事による事故を防止するため、靴紐ではなく甲からくるぶしにかけた位置に一対のベルトがあり、これによって履いた足を固定する。<br /> ; [[カウボーイブーツ]](ウェスタンブーツ)<br /> : ロングブーツタイプの[[乗馬]]靴。アメリカの[[カウボーイ]]が好んで履いたことからこの名がついた。「ウエスタンブーツ」とも呼ばれる。<br /> ; コンバットブーツ<br /> : 軍隊で用いられるブーツの総称。足を守るために頑丈にできているものが多く、撥水性や耐水性を重視し[[オイルレザー]]を用いたものも多い。<br /> ;; [[戦闘靴2型]]<br /> : [[陸上自衛隊]]の装備するコンバットブーツの一つ。靴の形状から「半長靴」と通称される。<br /> ; ジャングルブーツ<br /> : [[アメリカ陸軍]]において[[ベトナム戦争]]時に開発された、熱帯地域用ブーツ。革と[[木綿|コットン]](後には[[ナイロン]])素材で作られ、靴内の換気を行うために換気孔がある。高温多湿の[[ジャングル]]での使用に適している。<br /> : 通気性が高い反面、防水性が低い(水溜りに踏み入れると換気穴から浸水する)という欠点があり、また足を保護するものとしては総革製のブーツには劣る。<br /> : 靴底のパターンは、前線からの声を元に、しばしば変更されている(現行は「パナマソール」と呼ばれるタイプ)。<br /> ;; デザートブーツ(軍用)<br /> : ジャングルブーツの発展型として開発されたもので、[[砂漠]]地域で用いるためのもの。中東地域派遣部隊の将兵により着用される。ジャングルブーツと構造はほぼ同じだが、砂との摩擦で痛み難いように革部分には[[スエード]]が用いられ、靴底は熱せられた砂の上を長時間歩くことを考えて耐熱性の高い素材が使われている。色は[[迷彩]]効果を考えて淡い茶色となっている。<br /> :* ファッションアイテムとしての「デザートブーツ」とは別物である。<br /> ; ジャンプブーツ<br /> : [[空挺部隊|落下傘部隊]]の隊員が使用するブーツ。一般の[[歩兵]]用ブーツに比べて軽量に作られ、着地の際に足を保護するために丈が長くなっている。<br /> :* 第二次世界大戦時にコーコラン(Corcoran)社がアメリカ陸軍向けに製造したものが有名で、戦後、キャップトゥ(爪先部分が二重になっている)とツーピースソール(踵が靴底と一体になっていない)の組み合わせはファッション面で高く評価され、人気のデザインとして広く取り入れられた。<br /> ; [[乗馬]]ブーツ(ジョッキーブーツ)<br /> : 乗馬時に用いるブーツ。ロングブーツが多く、[[拍車]]が装着できるようになっていることが特徴である。<br /> ;; [[ジョッパーブーツ]]<br /> : 乗馬用に用いるブーツのうち、ショートタイプのもの。乗馬用としては[[チャップス]](行縢)とセットで用いる。<br /> :* ファッション用語としては、ショートブーツのうち靴紐やベルトを持たず、着脱を容易にするために側面部に伸縮度の高い素材を使用しているものを指す。<br /> ; 乗車靴(バイクブーツ、ライディングブーツ)<br /> : [[自動二輪車]]乗りが使うブーツ。シフトペダルを操作する左足爪先部分を傷めないよう、プロテクターやガードがされているものもある。モータースポーツ用はレーシングブーツと呼ばれる。<br /> ; [[スキーブーツ]]<br /> : [[スキー]]の[[ビンディング]]に固定するための機構がある冬用のブーツ。当初は冬用登山靴に固定用金具のついたものが用いられていたが、後には合成樹脂を用いた、スキーに装着して用いるための専用のものとなっている。<br /> ; [[スケート靴|スケートブーツ]]<br /> : スケート用のブレードの装着された「スケート靴」のうち、くるぶしより上を覆うタイプのものを特にこう呼ぶ。<br /> ; スノーブーツ<br /> : 冬季に積雪地で用いるブーツ。保温性と防水性に重点が置かれており、断熱材で作られた内靴と防水・耐候性の高い外靴の二重構造になっているものもある。凍った路面で転ばないように滑り止め効果の高い靴底となっており、折畳式のスパイクを備えるものもある。<br /> ; タクティカルブーツ<br /> : 警察や軍隊の[[特殊部隊]]が用いるために開発されたコンバットブーツの一種。[[市街地]]や建物内での使用を主眼としているため、コンバットブーツに比べ防水性能はあまり重視されておらず、代わりに軽量さや平滑な場所での滑りにくさが重視されている。<br /> ; [[登山靴]]<br /> : [[登山]]に用いるブーツで、夏山用ものはショートブーツ、冬山用のものはロングブーツとショートブーツの中間の丈のもの(前述の「半長靴」)が多い。厚い革で足を保護するために堅固に作られているものが主流であったが、[[20世紀]]の末頃からは[[合成繊維]]を主体とした軽量なものが主流となっている。<br /> :* [[ハイキング]]程度の軽い登山から冬季の高所登山に用いるものまで、用途に応じて多くのバリエーションがある。<br /> ; [[バスブーツ]](お風呂ブーツ、洗濯ブーツ)<br /> : 浴室清掃用の防水シューズ。一般にブーツと呼ばれるが、足首丈付近の深さのものが主流。以前はロングタイプ(20cm程度)のものも存在した。<br /> * 防水性を考慮し、[[ビニール]]等の一体成型のものが主流。<br /> ; ハンティングブーツ<br /> : [[狩猟]]に用いられるもので、ロングブーツもしくは半長靴が一般的。水辺を歩くことを考えて、防水性を重視しているが、足への負担を軽くするため、また深い足跡を残さないように軽量さにも重点が置かれている。岩場などで滑ることを防ぐため、ソールに独特の滑り止めパターンを持つものが多い。<br /> ; マリンブーツ(ウォータースポーツブーツ、ヨットブーツ、セーリングブーツ、ダイビングブーツ、ジェットブーツ)<br /> :[[ヨット]]や[[シュノーケリング]]などの[[マリンスポーツ]]、[[特殊小型船舶]]に用いられる[[シューズ]]やブーツの総称。または、それらをイメージしたデザインのシューズのこと。<br /> ; ルームブーツ(ルームシューズ)<br /> : 室内で着用するブーツ型スリッパ。足首丈のものから膝下丈のものまである。<br /> ; [[ワークブーツ]]<br /> : 労働者が作業用に履くブーツを総称した呼び名。ファッション用語としては、主に半長靴のうち革製の頑丈なものを指すことが多い。<br /> <br /> === ギャラリー ===<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:RW8767 engineer boots.jpg|エンジニアブーツ<br /> File:Blackcowboyboots.jpg|カウボーイブーツ<br /> File:ExRUB.JPG|編み上げ(レースアップ)ブーツ<br /> File:VeggieChelseaBoots.jpg|サイドゴアブーツ(チェルシーブーツ)<br /> File:ExtraTalla.jpg|サイハイブーツ<br /> File:Jodhpur boots.png|ジョッパーブーツ<br /> File:Ski boots, Head brand.jpg|スキーブーツ(アルペン競技用)<br /> File:Blue skates.jpg|スケートブーツ<br /> File:Desert_boots.jpg|チャッカブーツ<br /> File:Bergschuh_Leder_um_1982.jpg|登山靴<br /> File:S3 safety footwear.jpg|ワークブーツ<br /> File:JKYBT.JPG|ジョッキーブーツ(ファッション)<br /> File:A-12 OXCART Flight Suit Boots - Flickr - The Central Intelligence Agency.jpg|フライトスーツブーツ<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 乗馬ブーツ ==<br /> [[画像:Dressage-saddle.jpg|thumb|right|ブーツを着用した騎手の脚部]]<br /> おもに[[馬術#ブリティッシュ馬術|ブリティッシュスタイル]]の[[馬術]]において、騎乗時に[[騎手]]が着用するブーツ。本革製で膝下くらいの高さまであるものが多い。[[馬場馬術]]競技などにおいてはほとんどの大会、競技会において着用が必須とされている。<br /> <br /> ブーツの種類としては古くから存在するもので、特にデザインや形状などで通常のロングブーツと大きく異なる点はない。物によっては[[鞍]]や馬体にフィットするように意図して作られており、特にブリティッシュスタイルでは騎手の脚に密着するきつい装着感のあるものが用いられる。踵のやや上に、[[拍車]]台と称される突起がある。[[鐙]](あぶみ)に足が入り込むことのないよう、ヒールは必須である。<br /> <br /> [[File:Fieldboots.jpg|thumb|200px|left|乗馬ブーツ]]<br /> 足首を締めるための編みこみの有無は[[障害飛越競技]]においては問われないが、馬場馬術競技では通常編みこみ無しの長靴が義務付けられる。多くは[[黒]]の一色だが[[茶色]]も用いられ、全体が黒色で最上部5〜10cmだけを茶色革を使ったものは[[障碍飛越]]などで好まれる。<br /> <br /> 日本における馬術用語としての呼び方は正式には「革長靴(かわちょうか)」といい、略して「カワチョウ」と呼ばれることも多い。対してゴム製の乗馬用長靴は「ゴムチョウ」と呼ばれる。<br /> <br /> [[馬術#ウェスタン馬術|ウエスタンスタイル]]の[[馬術]]においては、[[カウボーイブーツ]](ウエスタンブーツ)を用いる。<br /> {{-}}<br /> <br /> == 軍隊とブーツ ==<br /> [[軍隊]]においては、[[軍服]](軍装品)の一種たる&#039;&#039;&#039;軍靴&#039;&#039;&#039;としてブーツが採用されることが極めて多い。この軍用ブーツの場合、[[日本]]では上述の乗馬ブーツを長靴(ちょうか)、脛の中間のあたりまでの長さのものを[[半長靴]](はんちょうか)、踝まであるレースアップ(編上げ)タイプの物を編上靴(へんじょうか、[[自衛隊]]においては半長靴と呼称)と主に称する。編上靴には[[脚絆]](ゲートル、[[レギンス]]。巻脚絆、革脚絆)を合わせて着用されることがある。<br /> <br /> 脚、足部の保護、足を挫いて捻挫することの防止、保温、ズボン裾の汚れの防止、制服上の差別、儀礼等を目的に着用されている。<br /> <br /> [[軍馬]]に跨る乗馬本分の[[軍人]]([[騎兵]]など&lt;ref&gt;大日本帝国陸軍では全ての[[将官]][[佐官]]の他、騎兵・[[砲兵]]・[[輜重兵]]・[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]・[[兵科#獣医部|獣医部]]などの[[将校]][[准士官]][[下士官]][[兵]](各々の兵科兵種各部による)。普段最も着用機会の多い将校准士官の略装においては、[[1940年]]の兵科区分撤廃以降は乗馬本分者ではない、徒歩本分者でも長靴を履く者が特に多くなった&lt;/ref&gt;)は長靴を履きまた拍車を付けていたが、軍隊の機械化(自動車化)により馬が軍隊で使用されなくなるにつれて拍車共々乗馬ブーツは余り使用されなくなっていった([[アメリカ陸軍]]、[[イギリス陸軍]]など)。反面、概ね[[第二次世界大戦]]までの近代各国軍([[ドイツ国防軍]]・[[武装親衛隊]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]、[[赤軍|ソビエト労農赤軍]]、[[イタリア陸軍|イタリア王立陸軍]]、[[フィンランド国防軍|フィンランド陸軍]]など)では乗馬文化の名残や未だ続く軍馬の利用を含め、乗馬本分の関係無しに乗馬ブーツと対になる乗馬ズボン&lt;ref&gt;短袴(たんこ)とも。[[腿]]に膨らみがあり、長靴の胴部分で隠れる[[脛]]の部分は逆に引き締まる形&lt;/ref&gt;の組み合わせは[[将校]][[准士官]]を中心にポピュラーであった。<br /> <br /> 第二次大戦後は一部の軍隊([[国家人民軍|東ドイツ軍]]、[[ソビエト連邦軍]]など)で引き続き長靴が採用されているところもあったが、[[冷戦]]終結後の現代の今日では、昔ながらの長靴を採用している軍隊は、[[栄誉礼]]や[[パレード]]([[観兵式]]・[[観閲式]])などといった式典・行事における儀丈用としてのみ使用されていることが大半で([[ドイツ連邦軍]]、[[ロシア連邦軍]]、[[フランス軍|フランス共和国軍]]、[[中国人民解放軍]]、[[朝鮮人民軍]]など)、戦闘用([[戦闘服]])としては編み上げの半長靴が主流である。なお、戦地や[[訓練]]・[[演習]]以外の通常勤務(常勤)では、主に普通の紳士靴である[[革靴]](ビジネスシューズ)、古くはトラッドな[[サイドゴアブーツ]]が主に着用され、これらは半靴(はんか)や短靴(たんか)と呼ばれる。<br /> === 長靴 ===<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Bundesarchiv Bild 183-1988-0107-503, Major Friedrich Hoßbach (Mitte).jpg|[[1930年代]]中期の[[ドイツ陸軍]]将校と、[[国家労働奉仕団]]幹部(左)<br /> File:Bundesarchiv Bild 101I-133-0703-05, Polen, Trupp deutscher Infanterie im Winter.jpg|第二次大戦時のドイツ陸軍下士官<br /> File:Nva-ehrenwache.jpg|[[ドイツ陸軍 (国家人民軍)|東ドイツ陸軍]]・[[フリードリヒ・エンゲルス衛兵連隊]]の兵士<br /> File:Finnish soldiers during the Winter War.jpg|[[冬戦争]]時のフィンランド陸軍兵<br /> File:Honma Masaharu.jpg|[[太平洋戦争]]時の日本陸軍将校<br /> File:Ohyama incident.PNG|[[日中戦争]]時の日本陸軍下士官兵([[憲兵 (日本軍)|憲兵]])<br /> File:19440816 soviet soldiers attack jelgava.jpg|第二次大戦時のソ連赤軍兵<br /> File:2010 Moscow Victory Day Parade-25.jpeg|儀丈用途としての長靴。[[ロシア陸軍]]<br /> File:Юфтевые солдатские сапоги.jpg|ロシア連邦軍の長靴<br /> File:Bataillon de la garde autrichienne.jpg|儀丈用途としての長靴([[軍刀]]を佩用している先頭の指揮官と[[軍旗]]の誘導将校)と通常の編上靴。[[オーストリア軍]]<br /> File:Republican Guard Cavalry Regiment Bastille Day 2008.jpg|儀丈用途としての長靴。[[フランス共和国親衛隊]]<br /> &lt;!-- File:Stamp of Ukraine ua114st.jpg|2004 --&gt;<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === 半長靴・編上靴 ===<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:2june 2007 187.jpg|ドイツ連邦陸軍<br /> File:Baleta Pass, near Baugio, Luzon.jpg|第二次大戦時のアメリカ陸軍<br /> File:US 1stCavDiv Fallujah, Nov 12, 2004.jpg|アメリカ陸軍<br /> File:Internal troops Russia.jpg|[[ロシア内務省]][[ロシア国内軍|国内軍]]<br /> File:2006 Thailand Coup 006.jpg|[[タイ陸軍]]<br /> File:Combat boots type 2 (Japan Ground Self-Defense Force).jpg|戦闘靴2型を履く[[陸上自衛隊]]<br /> File:Rangers réglementaires de l&#039;Armée Française.png|フランス軍の[[脚絆]]付き半長靴<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === 警察 ===<br /> [[日本の警察]]においても外勤での活動性の良さからブーツ着用が奨励されている。[[日本の警察官|警察官]]の制服のなかには編上げブーツも含まれ、制服支給の際に同時に配布される。[[アメリカ合衆国の警察]]でもブーツ着用が奨励されており、[[アメリカ合衆国の警察#ステート・ポリス|ハイウェイパトロール]]のうちオートバイ要員や騎馬警官など、革長靴が正式な制服になっている組織も少なくない。<br /> <br /> == ブーツの脱ぎ履き ==<br /> ブーツは靴紐やベルト、ファスナー、マジックテープ以外にも[[ブーツジャック]]([[:en:Boot jack|en]])や[[ブーツプル]]などのブーツの脱ぎ接ぎをする台を用いることもある。<br /> &lt;gallery perrow=&quot;5&quot;&gt;<br /> 画像:Paholek.jpg|ブーツジャック<br /> 画像:HooksAndBootjack.jpg|ブーツジャックとブーツプル(丸い金具状の物)<br /> 画像:Stiefelknecht-use.jpg|ブーツを脱ぐ様子<br /> 画像:Boot_jack2.jpg|ウシの頭部をかたどって作られたブーツジャック<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == ファッション ==<br /> === ロングブーツ・長靴の流行など ===<br /> * 1960年代後半[[ミニスカート]]&lt;ref&gt;この当時、多くの女性のミニスカートはひざ丈よりやや短い程度であった(「年代流行」1960年代 流行ファッション)。&lt;/ref&gt;が流行となると、ミニスカートに合わせて若い女性の間でロングブーツが流行した。<br /> * ツイッギー・ローソン(Twiggy Lawson)が登場して、ブーツがますます流行ると、ノキアが1967年にロングブーツのようなゴム長靴の製造を開始した。日本では[[1969年]]に、アサヒゴムが「ハイレイン」のブランドでロングブーツの形をした細め長めの婦人用ゴム長靴を発売。色も赤、白、黄、黒とラインナップを揃え、他社もロングタイプの長靴を競って発売する。<br /> * 1970年代後半には、キャンディーズやピンクレディーなどアイドルがロングブーツをステージ衣装に取り入れた事もあり&lt;ref&gt;「UFO」(1977年12月)が1978年末の「第20回日本レコード大賞」を受賞(「明星」1979年2月号)&lt;/ref&gt;、再びロングブーツの流行が起きた。<br /> * [[1978年]]には、[[銀座かねまつ]]が長靴の形をしたブーツをロングブーツに使うエナメル革で作り、エナメルの長靴が流行した。<br /> * [[一条ゆかり]]、[[大和和紀]]、[[魔夜峰央]]、[[河惣益巳]]ら70年代の少女漫画家が、作中で長い髪でフェミニンな美青年がヒールのあるロングブーツを履くというスタイルを描いたことや、[[西城秀樹]]や[[郷ひろみ]]がロングブーツで歌謡番組や紅白歌合戦に出たこともあって、一部の若い男性が女物の長靴や婦人用ロングブーツを履くというファッションも見られた&lt;ref&gt;「日経ヒット商品番付1978」「アクロス 定点観測 ストリートファッション 」(パルコ出版)ほか&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ロングブーツを履いたアイドル歌手の衣装 ===<br /> * [[キャンディーズ]] 『つばさ』&lt;ref&gt;『つばさ/あこがれ プロモート盤シングル』ジャケット写真&lt;/ref&gt;『やさしい悪魔』&lt;ref&gt;1975年1月14日に東京有楽町・日本劇場(通称=日劇)のステージ。1978年4月4日のファイナルカーニバルの最後の衣装など&lt;/ref&gt;<br /> * [[ピンクレディー]] 『透明人間』&lt;ref&gt;シングル『透明人間 』(ビクター、SV-6474)ジャケット写真&lt;/ref&gt;。『ジパング』&lt;ref&gt;シングル『ジパング』(ビクター、SV-6554)ジャケット写真&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 長靴を履いたアイドル歌手の衣装 ===<br /> * [[太田裕美]] 『九月の雨』&lt;ref&gt;1977年『[[第28回NHK紅白歌合戦]]』でも歌った。この時は[[キャンディーズ]]、[[山口百恵]]、[[しばたはつみ]]、[[桜田淳子]]がそれぞれ傘にレインコート、ロングブーツタイプのゴム長靴を履いて[[バックダンサー]]を務めていた&lt;/ref&gt;<br /> * [[Mi-Ke]] 『想い出の九十九里浜』『Pink Christmas』&lt;ref&gt;[[Mi-Ke]] のプロモーションビデオ(1991)でメンバーの3人が[[電話ボックス]]から傘・レインコート・[[レインブーツ]]で出てくる。&lt;/ref&gt;<br /> * &#039;&#039;&#039;Orange Caramel&#039;&#039;&#039; (&#039;&#039;[[:en:Orange Caramel|Orange Caramel]]&#039;&#039; ({{lang|ko|마법소녀}}) ) 『魔法少女』([[:en:Orange Caramel|&#039;&#039;Magic Girl&#039;&#039;]] ({{lang|ko|마법소녀}}) )<br /> * [[KARA]](カラ、{{Lang-ko-short|카라}}) 『Umbrella』&lt;ref&gt;「Lupin(ルパン)、(2010年2月17日にリリース)」(KARAの3枚目のミニアルバム)の3曲目に収録&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 画像・映像作品 ==<br /> === ロングブーツを履いた女優の映画・ドラマ ===<br /> * [[スーザン・クラーク]] 『マンハッタン無宿』&lt;ref&gt;「マンハッタン無宿」((マンハッタンむしゅく 原題:Coogan&#039;s Bluff)は、1968年制作のアメリカ映画。監督はドン・シーゲル&lt;/ref&gt; - 「都会の女性」の象徴ともいうべきヒロイン(心理カウンセラー)は、光沢のある革のロングブーツ姿で主人公(クリント・イーストウッド)に接する場面が多い。<br /> * [[カトリーヌ・ドヌーブ]] 『赤いブーツの女』&lt;ref&gt;「赤いブーツの女(1975年2月15日公開)」。超能力をもつ若い女流小説家と彼女をとりまく三人の男たちの愛の葛藤を描く。製作はホゲル・ダニエル・カリ&lt;/ref&gt;。<br /> * [[エリザベス・ハーレイ]] (Elizabeth Hurley) 『オースティン・パワーズ』<br /> * [[九重佑三子]] 『コメットさん』第77話「バイバイ落葉クン」&lt;ref&gt;第77話では、当時の日本でも流行したロングブーツが、全編のキーアイテムになっている。&lt;/ref&gt;。<br /> * [[オナー・ブラックマン]] (Honor Blackman)、 [[ダイアナ・リグ]] (Diana Rigg)、 『おしゃれ(秘)探偵(the avengers)』。作中で女主人公のキャシー・ゲイル(Cathy Gale)や エマ・ピール(Cathy Gale)は、60年代に流行した様々なロングブーツを着用している。(1965-1968)特殊任務では、白いゴム長靴を着用する&lt;ref&gt;The Avengers : Series 5 : 「The Positive Negative Man」ほか&lt;/ref&gt;。 <br /> <br /> === 長靴を履いた女優の映画・ドラマ ===<br /> * [[オードリー・ヘップバーン]] 『おしゃれ泥棒』&lt;ref&gt;「おしゃれ泥棒(1966年7月13日公開)」。[[ウィリアム・ワイラー]]監督のコメディ&lt;/ref&gt;。<br /> * [[:en:Marlène Jobert|マルレーヌ・ジョベール]] 『雨の訪問者』&lt;ref&gt;「雨の訪問者(1970年1月21日公開)」。原作・脚本はミステリ作家の[[セバスチアン・ジャプリゾ]]。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ロングブーツを履いた美青年の映画・テレビ番組 ===<br /> * [[コー・ガブリエル・カメダ]]『[[アインシュタインロマン]]』(1991年の4月から12月) - 『NHKスペシャル』枠で放送された、物理学者アルベルト・アインシュタインをテーマにしたドキュメンタリー番組。テーマ曲のヴァイオリン演奏と作中ドラマでは、常に光沢革の黒または茶のロングブーツ姿で出演している。(同時発売のLVとビデオ 「モーツァルト幻想 コー・ガブリエル・カメダの世界」での、同一場面に複数のカメダ青年を登場させる場面&lt;ref&gt;[[モーツァルト]]のヴァイオリンソナタを演奏のカメダ青年の周りで、合成でブーツ色違いの数人が遊んでいる演出など。&lt;/ref&gt;では、黒と茶の他にダークブラウンと赤茶のロングブーツも追加)。ファッションを担当した[[森英恵]]による「女っぽいブーツと宝塚のような衣装」と「女性の声優による日本語吹き替え」で中性的な美青年を演出したという&lt;ref&gt;「モーツァルト幻想 コー・ガブリエル・カメダの世界」「アインシュタインロマン」(解説・[[三枝成彰]]、1992年)LV(レーザーディスク)、CD、VHSビデオ &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ロングブーツを履いたヒロインの漫画・アニメ番組 ===<br /> * 如月ハニー 『[[キューティーハニー]]』(原作:[[永井豪]]) - 学園では、白いロングブーツ。キューティーハニーに変身した時は、黄色いロングブーツ。[[リメイク]]版や[[実写]]版では、変身後も白いロングブーツや丈の短いハーフブーツの場合もある。<br /> * ルンルン・フラワー 『[[花の子ルンルン]]』(原作:[[神保史郎]]) - 主人公ルンルンは赤いロングブーツ。悪のヒロイン・トゲニシアは白いロングブーツ。美青年セルジュ・フローラ(王子の衣装の時)も、白いロングブーツを履いている。セルジュはルンルンの旅先で、カメラマンとしてサポートするときは、貴族的な装いに細身の茶色のロングブーツ。雨天時は、ドレスチェンジの魔法で、三人とも透明フード付きの白いレインコートにロングブーツ型の白い長靴になる。<br /> * ミルクちゃん(ペネロッピー) 『[[チキチキマシン猛レース]]』、『[[ペネロッピー絶体絶命]]』 (制作:[[ハンナ・バーベラ・プロダクション]]) - 赤とピンクの衣装(レース服または飛行服)に白いロングブーツを着用。<br /> * [[月野うさぎ]](セーラームーン) 『[[美少女戦士セーラームーン]]』(原作:[[武内直子]])<br /> <br /> === ロングブーツを履いた美青年の漫画・アニメ番組 ===<br /> * ビョルン 『[[パタリロ!]]』(原作:[[魔夜峰央]]) - 第2話(アニメでは第3話)「墓に咲くバラ」のゲスト。唇に艶やかなルージュを引き、女物のエナメルのロングブーツを履いている。魔夜作品では、[[マライヒ]]やラシャーヌ、日本が舞台の美少年・美青年たちもホットパンツ(たまにミニスカート&lt;ref&gt;任務や目的のため「完全な[[女装]]」の場合と、「女ものを着こなす」美少年ファッションの二通りがある。&lt;/ref&gt;)に合わせて、ロングブーツを履くことが多い&lt;ref&gt;舞台「パタリロ!」(2016年公演)でも[[佐奈宏紀]]演じるマライヒが、ヒールのある白エナメルのロングブーツを履いていた。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;&lt;references /&gt;&lt;/div&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 佐藤庄五郎 『図解わら工技術』 富民社、[[1959年]]<br /> * 紺谷憲夫 『北国のわら細工』 北海道出版企画センター、[[1977年]]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Boots}}<br /> * [[長靴]]<br /> * [[雨靴]]<br /> * [[レインブーツ]]<br /> * [[革靴]]<br /> * [[シューキーパー]]<br /> * [[中敷き]]<br /> * [[靴べら]]<br /> * [[靴下]]<br /> * [[ハイソックス]]<br /> * [[ブーツフェティシズム]]<br /> * [[靴墨]]<br /> * [[靴磨き]]<br /> * [[拍車]]<br /> * [[チャップス]]<br /> * [[ゲートル]]<br /> * [[鋲]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.ne.jp/asahi/38/38/frame07.html ブーツの種類と手入れ]<br /> <br /> {{被服}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ふうつ}}<br /> [[Category:靴]]<br /> [[Category:履物]]<br /> [[Category:軍服]]<br /> [[Category:馬術]]</div> 118.238.237.196 平安将棋 2017-05-12T07:07:08Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;平安将棋&#039;&#039;&#039;(へいあんしょうぎ)は、[[将棋]]の一種であり、二人で行う[[ボードゲーム]](盤上遊戯)の一種である。<br /> <br /> 1120年頃の書とされる習俗辞典[[二中歴]]に[[平安大将棋]]とともに掲載されている将棋である。この中では単なる「将棋」という名前であるが、後の[[小将棋]]や現代の[[将棋|本将棋]]と区別してこう呼ばれる。<br /> <br /> == 二中歴の記述 ==<br /> 『二中歴』の「第十三 博棊歴」には、以下のような将棋の記述がある。<br /> : 将棊 棊一作騎<br /> : 玉将八方得自在 金将不行下二目 銀将不行左右下<br /> : 桂馬前角超一目 香車先方任意行 歩兵一方不他行<br /> : 入敵三目皆成金 敵玉一将則為勝<br /> (二中歴3 第十一~第十三(尊経閣善本影印集成)ISBN 4-8406-2316-3 P.118 より引用)<br /> <br /> == ルール ==<br /> ※文献にしか載っていないものであるため、当時の正確なルールであるとは限らない。<br /> <br /> === 基本ルール ===<br /> * 将棋盤の上で行う。将棋盤の大きさは縦横8マスずつ&lt;ref&gt;観戦記者・天狗太郎([[山本亨介]])は「8×8説、玉(王)が左、金将は右(チェス女王のように向かい合わず)、歩兵の初期配置は二段目で成りも二段目、行き処の無い歩香桂でない限り不成も可」説を採り(『将棋庶民史』ほか)、棋士・[[飯田弘之]]はノーマルな「8×8説」(本文2.2の[初期配置図・1縦横8マスずつと仮定した場合]、成りは三段目で不成も可)説を採る(『遊戯史研究』11号ほか)&lt;/ref&gt;、縦8マス・横9マス、縦横9マスずつの諸説があるが正確なことはわかっていない。<br /> * 駒は、[[玉将]](玉)・[[金将]](金)・[[銀将]](銀)・[[桂馬]](桂)・[[香車]](香)・[[歩兵 (将棋)|歩兵]](歩)の6種類あり、それぞれ動きが決まっている。<br /> * 敵陣に関する記述はないが、おそらく相手から見て3段目までに入れば玉将と金将以外のどの駒も金将に成れる。<br /> * 本将棋とは違い、捕獲した駒を自らの[[持ち駒]]にはできないと考えられている。持ち駒が使用できるルールも存在したとする説もある。<br /> * 本将棋と同様に敵の玉将を詰めると勝ちとなるが、敵を玉将だけにしても勝ちである。<br /> <br /> === 初期配置図 ===<br /> 以下のいずれかであったか、時代が下るとともに盤の大きさも変化していったと考えられる。<br /> <br /> ==== 縦横8マスずつと仮定した場合 ====<br /> {| border=&quot;2&quot; cellpadding=&quot;3&quot; cellspacing=&quot;0&quot; style=&quot;text-align:center;&quot;<br /> |▽香車||▽桂馬||▽銀将||▽金将||▽玉将||▽銀将||▽桂馬||▽香車<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |▲香車||▲桂馬||▲銀将||▲玉将||▲金将||▲銀将||▲桂馬||▲香車<br /> |}<br /> <br /> ==== 縦8マス・横9マスと仮定した場合 ====<br /> {| border=&quot;2&quot; cellpadding=&quot;3&quot; cellspacing=&quot;0&quot; style=&quot;text-align:center;&quot;<br /> |▽香車||▽桂馬||▽銀将||▽金将||▽玉将||▽金将||▽銀将||▽桂馬||▽香車<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |▲香車||▲桂馬||▲銀将||▲金将||▲玉将||▲金将||▲銀将||▲桂馬||▲香車<br /> |}<br /> <br /> ==== 縦横9マスずつと仮定した場合 ====<br /> 現代の[[将棋|本将棋]]から[[飛車]]と[[角行]]を除いたものである。<br /> {| border=&quot;2&quot; cellpadding=&quot;3&quot; cellspacing=&quot;0&quot; style=&quot;text-align:center;&quot;<br /> |▽香車||▽桂馬||▽銀将||▽金将||▽玉将||▽金将||▽銀将||▽桂馬||▽香車<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵||▽歩兵<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵||▲歩兵<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |▲香車||▲桂馬||▲銀将||▲金将||▲玉将||▲金将||▲銀将||▲桂馬||▲香車<br /> |}<br /> <br /> === 駒の動き ===<br /> 現代の[[将棋|本将棋]]に同じ。ただし、取った駒は使えないので、成銀・成桂・成香・と金の区別はなく、すべて金将になったと考えられる。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot; border=&quot;1&quot;<br /> !style=&quot;background-color:#dddddd&quot;|元の駒<br /> !style=&quot;background-color:#dddddd&quot; colspan=&quot;2&quot;|動き<br /> !style=&quot;background-color:#dddddd&quot;|成駒<br /> !style=&quot;background-color:#dddddd&quot; colspan=&quot;2&quot;|動き<br /> |-<br /> |玉将(ぎょくしょう)<br /> |<br /> {|border=&quot;2&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;3&quot;<br /> |○||○||○<br /> |-<br /> |○||&#039;&#039;&#039;玉&#039;&#039;&#039;||○<br /> |-<br /> |○||○||○<br /> |}<br /> |全方向に1マス動ける。<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;|-<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;|-<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;|-<br /> <br /> |-<br /> |金将(きんしょう)<br /> |<br /> {|border=&quot;2&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;3&quot;<br /> |○||○||○<br /> |-<br /> |○||&#039;&#039;&#039;金&#039;&#039;&#039;||○<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||○||&amp;nbsp;<br /> |}<br /> ||縦横と斜め前に1マス動ける。<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;|-<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;|-<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;|-<br /> <br /> |-<br /> |銀将(ぎんしょう)<br /> |<br /> {|border=&quot;2&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;3&quot;<br /> |○||○||○<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&#039;&#039;&#039;銀&#039;&#039;&#039;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |○||&amp;nbsp;||○<br /> |}<br /> |前と斜めに1マス動ける。<br /> | rowspan=&quot;4&quot;|金将(きんしょう)<br /> | rowspan=&quot;4&quot;|<br /> {|border=&quot;2&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;3&quot;<br /> |○||○||○<br /> |-<br /> |○||&#039;&#039;&#039;金&#039;&#039;&#039;||○<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||○||&amp;nbsp;<br /> |}<br /> | rowspan=&quot;4&quot;|縦横と斜め前に1マス動ける。<br /> <br /> |-<br /> |桂馬(けいま)<br /> |<br /> {|border=&quot;2&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;3&quot;<br /> |☆||&amp;nbsp;||☆<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&#039;&#039;&#039;桂&#039;&#039;&#039;||&amp;nbsp;<br /> |}<br /> |前へ2、横へ1の位置に移動できる。その際、駒を飛び越えることができる。<br /> <br /> |-<br /> |香車(きょうしゃ)<br /> |<br /> {|border=&quot;2&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;3&quot;<br /> |&amp;nbsp;|||||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |{{Color|white|■}}||&#039;&#039;&#039;香&#039;&#039;&#039;||{{Color|white|■}}<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |}<br /> |前方に何マスでも動ける。飛び越えては行けない。<br /> <br /> |-<br /> |歩兵(ふひょう)<br /> |<br /> {|border=&quot;2&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;3&quot;<br /> |&amp;nbsp;||○||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |{{Color|white|■}}||&#039;&#039;&#039;歩&#039;&#039;&#039;||{{Color|white|■}}<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;<br /> |}<br /> |前に1マス動ける<br /> |}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;&lt;references /&gt;&lt;/div&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[将棋]]<br /> * [[平安大将棋]]<br /> * [[将棋類の一覧]]<br /> * [[将棋類の駒の一覧]]<br /> <br /> {{将棋類}}<br /> [[Category:将棋類|へいあんしようき]]</div> 118.238.237.196 椎谷藩 2017-02-14T11:19:59Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;椎谷藩&#039;&#039;&#039;(しいやはん)は、[[越後国]][[刈羽郡]]椎谷(現在の[[新潟県]][[柏崎市]]椎谷)に[[陣屋]]を構え、周辺を領有した[[藩]]。藩庁は[[椎谷陣屋]]に置かれた。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 藩祖は名臣として名高い[[堀直政]]の四男・[[堀直之]]である。[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])7月、直之は[[大坂の陣]]による軍功が認められて、越後国沼垂郡に5500石を与えられ、椎谷に陣屋を置いた。直之の後を継いだ[[堀直景]]の時代、[[関東]]の地に1万石を与えられ、[[大名]]となった。[[元禄]]11年([[1698年]])、第4代当主・[[堀直宥]]が越後の沼垂・三島・蒲原三郡内において1万石を領し、椎谷に居住したのが正式な椎谷藩の始まりである。歴代藩主は江戸[[定府]]だった([[江戸時代]]初期、[[江戸幕府|幕府]]は現在の刈羽郡(旧三島郡)を[[沼垂郡]]と呼んでいたことがあり、ここでいう「沼垂郡」とは刈羽郡のことである)。<br /> <br /> 椎谷藩では第8代藩主・[[堀著朝]]の頃になると財政が逼迫した。このため、領民に厳しい御用金や米祖前納金などを命じた。ところが著朝は病弱で、分家の[[堀直基]]が実際の政務を代行する。直基は[[天明の大飢饉]]が起こったことによる米価の高騰を背景にして、蔵米を競争入札にかける。これに激怒した百姓たちが騒動を起こし、[[天明義民事件]]に発展した。この事件は数年間にわたって農民の直訴と藩の弾圧が繰り返され、遂には幕府の裁定を仰ぐに至った。幕府は5回に及ぶ評定の結果、[[寛政]]4年(1792年)に藩主・著朝の隠居と嗣子として[[三河国|三河]][[西尾藩]]主・[[松平乗祐]]の七男・[[堀直起]]を擁立すること、領地5000石の半知替え処分が下された。このとき、[[信濃国]]高井郡六川村に六川陣屋が設けられている。<br /> <br /> その後、藩内では藩政改革なども行なわれた。しかし[[嘉永]]4年(1851年)、家老の[[斎藤八百四郎]]による藩主・[[堀之敏]]暗殺未遂事件が起こるなど、藩政は常に不安定であった。[[明治]]元年(1868年)の[[戊辰戦争]]において、椎谷は[[北越戦争]]における激戦の舞台となり、戦禍による甚大な被害を受けた。翌年、藩主・[[堀之美]]は[[版籍奉還]]により椎谷藩知事となり[[華族]]に列した。そして[[明治]]4年(1871年)の[[廃藩置県]]により椎谷藩は廃され、椎谷県が置かれる。藩主家は明治17年(1884年)の[[華族令]]で子爵に叙されている。<br /> <br /> == 歴代藩主 ==<br /> ;堀家<br /> [[譜代大名|譜代]]、1万石。<br /> # [[堀直宥]](なおさだ) - 従五位下。式部少輔<br /> # [[堀直央 (椎谷藩主)|堀直央]](なおなか) - 従五位下。飛騨守<br /> # [[堀直恒]](なおつね) - 従五位下。[[遠江国|遠江]]守<br /> # [[堀直旧]](なおひさ) - 従五位下。[[出雲国|出雲]]守<br /> # [[堀直喜]](なおよし) - 従五位下。[[飛騨国|飛騨]]守<br /> # [[堀直著]](なおあき) - 従五位下。大膳亮<br /> # [[堀直宣]](なおのぶ) - 従五位下。[[備前国|備前]]守<br /> # [[堀著朝]](あきとも) - 従五位下。式部少輔<br /> # [[堀直起]](なおのり) - 従五位下。[[近江国|近江]]守<br /> # [[堀直温]](なおはる) - 従五位下。[[筑後国|筑後]]守<br /> # [[堀直哉]](なおちか) - 従五位下。[[近江国|近江]]守<br /> # [[堀之敏]](ゆきとし) - 従五位下。[[出雲国|出雲]]守<br /> # [[堀之美]](ゆきよし) - 従五位下。[[京職|右京亮]]<br /> <br /> 奥田子爵家 (1882年 - 1950年)<br /> #奥田直紹<br /> #奥田直久<br /> <br /> 椎谷奥田家 (1950年 - )<br /> #奥田直栄<br /> <br /> *奥田直栄は考古学者・美術収集家。美術を専攻し、根津美術館長を務めた。陶器や城郭に関する研究で知られる。著書に「日本陶磁大系」(平凡社、1989年)等がある。<br /> *廃藩置県で奥田系堀氏三家(須坂・村松・椎谷)は、奥田姓に復姓する。椎谷藩内では、堀姓に留まる一族もあった。<br /> <br /> == 幕末の領地 ==<br /> * [[越後国]]<br /> ** [[刈羽郡]]のうち - 21村<br /> * [[信濃国]]<br /> ** [[水内郡]]のうち - 2村<br /> ** [[高井郡]]のうち - 7村<br /> <br /> {{s-start}}<br /> {{s-bef|before=([[越後国]])|表記=前}}<br /> {{s-ttl|title=行政区の変遷 <br /> |years=[[1616年]] - [[1871年]]|years2=椎谷藩→椎谷県}}<br /> {{s-aft|after=[[柏崎県]](第2次)|表記=次}}<br /> {{end}}<br /> {{江戸時代の藩}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:しいやはん}}<br /> [[Category:藩]]<br /> [[Category:越後国|藩しいや]]<br /> [[Category:堀氏|藩しいや]]<br /> [[Category:新潟県の歴史]]<br /> [[Category:椎谷藩主|!]]</div> 118.238.237.196 戯曲 2017-02-05T03:19:28Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>{{Otheruses|演劇の脚本形式の文学作品|中国の伝統演劇の一種|戯曲 (中国)}}<br /> {{出典の明記|date=2013年9月}}<br /> {{Portal|文学}}{{Portal|舞台芸術}}<br /> &#039;&#039;&#039;戯曲&#039;&#039;&#039;(ぎきょく)は、[[演劇]]の上演のために執筆された[[脚本]]や、上演台本のかたちで執筆された[[文学作品]]。戯曲を書く者のことを[[劇作家]]と呼ぶ。<br /> <br /> == 特徴 ==<br /> 戯曲は、登場人物([[キャラクター]]とも言う)と、彼らが舞台上で行う行為(アクションとも言う)によって構成される。登場人物の行為は通常、連鎖反応的に描かれる。つまり、ある行為が次の行為を誘発し、その繰り返しが劇の始まりから終わりまで続く。ただし、[[シュルレアリスム]]的世界観に基づいて書かれた戯曲など、手法によっては行為が連鎖的に発生しない場合もある。<br /> <br /> 舞台上で起きる行為は、舞台上実時間(劇世界上の時間ではない)の時系列順に記述される。その行為の記述方法には、ほとんどの場合、[[台詞]]及び[[ト書き]]が用いられる。しかし実際のところ、戯曲の記述方法自体には厳密な決まりはない。<br /> <br /> 台詞には登場人物から発せられる言葉が、ト書きには登場人物の登場・退場や所作などが書かれる。ト書きにはこれらの他に、舞台進行に関する指示や、舞台装置(美術)、音響効果、照明効果、演出的な指示なども書かれることがある。<br /> <br /> 戯曲は演劇を作る上で、設計図的な役割を持つ。[[演出家]]、[[俳優]]、[[スタッフ]]など、作品づくりに携わる者たちは、戯曲に基づいて共通の目的・方向性・劇の完成イメージを形成していく。もちろん、戯曲を使わない即興劇や、即興をベースにした集団創作による劇などはこの限りではない。が、そのような場合でも、進行台本的なものを用意することもあり、その進行台本が後に戯曲化されるケースもある。<br /> <br /> == 呼称 ==<br /> 「戯曲」より一般的な呼称に、「&#039;&#039;&#039;劇文学&#039;&#039;&#039;」という語がある。劇文学という呼称の存在意義とは、次に述べるようなことである。[[ソフォクレス]]の作品などは図書館での分類上は戯曲であるが、戯曲と呼ばれるより、「[[悲劇]]」「&#039;&#039;&#039;劇詩&#039;&#039;&#039;」と呼ばれることが多い。[[近代]]以前の[[物語]]文学([[源氏物語]]など)を「[[小説]]」と呼ぶのは近代的な分類をそれ以前の過去に投射する見方であるとの違和感を抱く人もおり、[[ギリシャ悲劇]]や[[能]][[狂言]]の台本などを戯曲と呼ぶことにも同様の問題がある{{要出典|date=2010年1月}}。また、後述するように、近代以降に生まれたシナリオ(映像劇の脚本)を戯曲と呼ぶことにも同様の違和感を抱かせる可能性がある。近代以前および以降の脚本(あるいはその形式で書かれた文学作品)までも射程に含めた場合、劇文学という、より一般的な呼称が適するであろう。<br /> <br /> [[韻文]]で書かれた劇文学を劇詩というが、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の戯曲や近代に書かれた戯曲も韻文を多用したものも多く、散文体だから戯曲、韻文体だから劇詩というような分類は成立しない。<br /> <br /> === 「シナリオ」は戯曲か?===<br /> 劇映画やテレビドラマの脚本([[シナリオ]])を戯曲と呼べるかという問題がある。日常会話や文章などでは両者は区別されるのが普通である。しかし、シナリオを英語で&quot;screenplay&quot;(映画脚本の場合)とか&quot;teleplay&quot;(テレビ脚本の場合)などと言い、戯曲は英語で&quot;play&quot;だから、これらは「映画用戯曲」、「テレビ用戯曲」などとも翻訳可能である。また、[[公立図書館]]などでシナリオ本は戯曲に分類されている(本棚の“戯曲”と表示された場所に置いてある)という事実もある。以上から、シナリオもまた戯曲の一種であると考えて構わない、という見方も可能である。<br /> <br /> [[筒井康隆]]は、「文藝時評」([[河出書房新社]]・刊)という著書の中で、シナリオライター兼小説家である[[筒井ともみ]]の作品を論評した際に、「戯曲=文学、シナリオ=非文学という区分けはもう意味が無い」という趣旨のことを書いている。これも、単なる映画作りのための設計図としかみなされていないシナリオと、すでに文学の一ジャンルとして認定されている戯曲との境界が曖昧であることを示すものであろう。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[脚本]]、[[台本]]<br /> *[[レーゼドラマ]]<br /> *[[詩学]]<br /> *[[対話体小説]]……[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の格言集に「こんにち戯曲と呼ばれているものには、“対話体の小説”でしかないようなものもある。これなら書簡体で戯曲を書くことも可能である」という言葉がある。これは、小説と戯曲の違いは表層的な違いではないところにあることを表した[[箴言]]である。<br /> *[[吉本隆明]]……『言語にとって美とはなにか』の「構成論」において、劇文学は、物語言語面からの上昇であると論じている。<br /> *[[ヘーゲル]]……[[叙情]]文学を[[主観]]、叙事文学を[[客観]]、[[劇文学]]を[[主客合一]]という弁証法的図式で捉えた&lt;ref&gt;[http://yaplog.jp/projectmannex/archive/106 ヘーゲルの「美学」にそう書いてあると北大教授の中村三春・Mプロジェクト・サイトにある。]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 出典 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> {{Narrative}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ききよく}}<br /> [[Category:戯曲|*ききよく]]<br /> [[Category:文学のジャンル]]<br /> <br /> [[ar:تمثيلية]]</div> 118.238.237.196 category:女性従軍看護師 2016-03-30T10:17:13Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>[[Category:戦争における女性|かんこし]]<br /> [[Category:看護師|しよせいしゆうくん]]<br /> [[Category:医療の歴史|しよせいしゆうくん]]<br /> [[Category:職業別の女性|しゆうくんかんこし]]</div> 118.238.237.196 スポット・レート 2015-06-05T10:10:22Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;スポット・レート&#039;&#039;&#039;(英:Spot Rate)は、[[金融]]において、以下の2つの全く異なる意味で用いられる&lt;ref&gt;混合しないよう注意が必要である。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> *&#039;&#039;&#039;直物為替レート&#039;&#039;&#039;<br /> :[[外国為替]]の[[スポット取引]]([[直物取引]])のレートのことである。いわゆる為替レートとは、スポットレートのことである。なお、スポット取引は取引日([[約定]]日)の2営業日後(T+2)に決済を行う取引であり、それを前提にした為替レートである。<br /> *&#039;&#039;&#039;[[ゼロ・クーポン・レート]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;ゼロ・レート&#039;&#039;&#039;)<br /> :[[割引債]](ゼロクーポン債)のレート(基準日当日から償還日までのレート)である。将来キャッシュフローを[[現在価値]]に割り引くのに利用するレートであり、[[イールドカーブ]]作成に利用する。[[ディスカウント・ファクター]]との相互変換や、[[インプライド・フォワード・レート]]の算出に利用できる。<br /> <br /> 上記のように、スポット・レート(ゼロ・レート)は当日(T+0)スタートを前提としたレートのことであり、スポット日(T+2)スタートを前提としたレート([[LIBOR]]や[[TIBOR]]等の市場金利)はスポット・レートと呼ばないので、混合しないように注意が必要である&lt;ref&gt;「スポット・レート」という言い方は紛らわしいので、「ゼロ・レート」と呼ぶほうが無難。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==備考==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[約定]]<br /> *[[スポット取引]]<br /> *[[スポット・ネクスト]]<br /> <br /> {{デフォルトソート:すほつとれえと}}<br /> [[Category:金融]]</div> 118.238.237.196 セイム 2015-05-31T07:13:26Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;セイム&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> *セイム(Sejm) - [[ポーランド語]]で集会あるいは議会。現在に至るまでのポーランド史上に存在した議会の多くがセイムの名を用いている。<br /> **{{仮リンク|大セイム|en|General sejm}}(Sejm walny)。対して地方議会は{{仮リンク|セイミク|en|Sejmik}}(Sejmik)という。<br /> **[[ポーランド共和国下院]](Sejm Rzeczypospolitej Polskiej)<br /> **[[リトアニア語]]では[[セイマス]](Seimas)、[[ラトビア語]]では[[サエイマ]](Saeima)といい、現代の[[リトアニア|リトアニア共和国]]、[[ラトビア|ラトビア共和国]]の議会がそれぞれこの名称を用いている。<br /> *[[セイム川]](Сейм) - [[ロシア]]と[[ウクライナ]]を流れる河川。<br /> *[[ロナルド・セイム]](Ronald Syme) - ニュージーランド出身の歴史学者。<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:せいむ}}<br /> {{aimai}}<br /> [[Category:ポーランド語]]<br /> [[Category:ポーランドの議会]]</div> 118.238.237.196 category:年中行事 2015-01-15T11:45:11Z <p>118.238.237.196: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;[[年中行事]]&#039;&#039;&#039;に関するカテゴリ。<br /> {{commonscat|Annual events}}<br /> # 宗教における年中行事については、サブカテゴリの[[:Category:宗教別の年中行事]]以下のカテゴリを参照。<br /> # 国別の年中行事については、サブカテゴリの[[:Category:各国の年中行事]]以下のカテゴリを参照。<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ねんちゆうきようし}}<br /> [[Category:伝承]]<br /> [[Category:イベント]]<br /> [[Category:宗教文化]]<br /> [[Category:習俗]]<br /> [[Category:伝統]]<br /> [[Category:文化人類学]]<br /> [[Category:暦法]]</div> 118.238.237.196
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