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<hr />
<div>{{Infobox Central bank<br />
|bank_name = イングランド銀行<br />
|bank_name_in_local = {{lang|en|Bank of England}} {{en icon}}<br />
|image_1 = London.bankofengland.arp.jpg<br />
|image_title_1 = イングランド銀行本店<br />
|headquarters = [[シティ・オブ・ロンドン]]<br />
|coordinates = {{Coord|51|30|50.76|N|0|5|18.96|W|region:GB}}<br />
|established = [[1694年]][[7月27日]]<br />
|president = [[マーク・カーニー]]<br />
|bank_of = {{GBR}}<br />
|currency = [[スターリング・ポンド|UKポンド]]<br />
|currency_iso = GBP<br />
|borrowing_rate = 0.5%<br />
|website = [https://www.bankofengland.co.uk/ bankofengland.co.uk]<br />
|succeeded = [[アイルランド中央銀行・金融サービス機構#歴史|通貨委員会(アイルランドのみ)]]<br />
}}<br />
<br />
'''イングランド銀行'''(イングランドぎんこう、{{lang-en-short|Bank of England}})は、[[イギリス]]の[[中央銀行]]<ref group=注釈>正式名称は「{{lang|en-GB|Governor and Company of the Bank of England}}」である。本店がシティの[[:en:Threadneedle Street|スレッドニードル通り]]に所在するため、「スレッドニードル通りの老婦人」とも呼ばれる。過去には「英蘭銀行」とも書かれた。この場合「英蘭」は「[[イングランド]]」の音訳であり、「イギリスと[[オランダ]]」([[英蘭戦争]]など)を意味しない。</ref>。金融政策は国際市場に影響されながらも政府が主導している。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
1690年、同行成立以前から、[[フォンテーヌブローの勅令]]で[[フランス]]から流れた[[ユグノー]]資本が[[英国債]]の売れ行きに貢献していた。4年後に創立したとき、世界は[[大同盟戦争]]と[[ウィリアム王戦争]]、そして[[ザームエル・オッペンハイマー]]の活躍する[[大トルコ戦争]]のさなかにあり、同行は政府への貸付を主要な業務とする商業銀行であった。多くのユグノーが毎年の選挙で理事となった<ref>仙田左千夫 『十八世紀イギリスの公債発行』 啓文社 1992年 33頁</ref>。1697年の同行第4次利払いリストによると、ウーブロン家をはじめとする移住の早かったユグノーは同行の15%を支配した。後発組には[[:en:Theodore Janssen|テオドール・ヤンセン]]や[[:en:Thomas Papillon|トーマス・パピヨン]]などがおり、彼らが先行組から同行の株式を譲りうけ、しかも英国債の約1割を所有した<ref>Alice C. Carter, "The Huguenot Contribution to the Early Years of the Funded Debt, 1964-1714", ''Proceeding of the Huguenot Society of London'', XIX, 1955, pp.31-32.</ref><ref>David Ormrod, ''The Rise of Commercial Empires: England and the Netherlands in the Age of Mercantilism, 1650-1770'', Cambridge University Press, 2003, [https://books.google.co.jp/books?id=yN9PnP4kv5cC&pg=PA92&lpg=PA92&dq=van+necks+huguenot&source=bl&ots=9URgDm7g48&sig=eG1gB0swm_duQNn9VyTuLUnXV18&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj7o9LKjaXTAhXLTLwKHcCLDrMQ6AEIMzAD#v=onepage&q=van%20necks%20huguenot&f=false p.92.]</ref>。<br />
<br />
同行は政府を通して[[イギリス東インド会社]]・[[ハドソン湾会社]]などへも貸付を行っていた<ref name=1500-1750>[[:en:John Clapham|ジョン・クラパム]] 山村延昭訳 『イギリス経済史概説』 未来社 1981年 p.396. 原書 ''A Concise Economic History of Britain, From the Earliest Times to 1750'' Cambridge University Press, 4th ed., 1963</ref>。ユグノー出身で6代目総裁のジェームズ・バトマン([[:en:James Bateman (banker)|James Bateman]])はロンドン市長と[[南海会社]]副社長を務めた<ref>新庄博 『イングランド銀行成立期における銀行計画と信用通貨』 清明会叢書VII 1969年 45頁</ref>。<br />
<br />
18世紀後半、将来[[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]の義父となる[[:en:Levy Barent Cohen|レヴィ・バレント・コーエン]]をふくむユダヤ人が、最初[[アムステルダム]]にいながら、やがてロンドンに定住するまで、東インド会社の破綻した事業を買収していた<ref name=MEB />。<br />
<br />
1800年8月から1816年8月までの各16ヵ年においては年平均60万ポンドの割引収入をあげて準備金を蓄え<ref name=huroku>クラパム 『イングランド銀行 2』 付録C</ref>{{Refnest|group=注釈|これ以降20世紀初頭までにおいて60万ほどに達したのは、1865-6年(以下8月締め)の73.4万ポンドと、1914-15年の94.9万ポンドだけである。<ref name=huroku />}}、イングランド銀行は1816年に[[金本位制]]を採用した。やがて[[ロスチャイルド]]が台頭し、各国の[[外債]]発行とイングランド銀行の準備金補填に関わった。[[銀本位制#ヨーロッパ諸国|銀価格低下]]の時期に[[アルフレッド・ド・ロスチャイルド]]が理事を務め、[[大不況 (1873年-1896年)|19世紀末の不況]]に対応した。<br />
<br />
[[第一次世界大戦]]では[[ジョン・モルガン|JPモルガン]]が戦時国債の独占代理人を務めた。1934-1935年、イングランド銀行は植民地の中央銀行設立に関わった。戦後は大きな権限縮小を免れ、金プールの運営に参画した。1995年以降、CSD のCREST は[[国際銀行間通信協会]]を経て[[ユーロクリア]]というモルガン資本に編入された。<br />
<br />
== 近代 ==<br />
=== ユグノー金融と三角貿易 ===<br />
[[ファイル:Bank of England Charter sealing 1694.jpg|right|thumb|250px|イングランド銀行憲章の調印(1694年)<br />出資者1268人中123人がユグノーであった。7月10日の選挙でユグノーから初代総裁[[:en:John Houblon|ジョン・ウーブロン]]がえらばれた。理事は6人であったが、そこに同ウーブロン家の[[:en:James Houblon|ジェームズ]]と[[:en:Abraham Houblon|アブラハム]]が席を占めた。]]<br />
<br />
1694年、軍事費を調達する目的で創設<ref group=注釈>これは、[[名誉革命]]によって国王となったウィリアム3世治下のイングランドが[[オランダ]]財政に学んだ結果でもあった。</ref>。[[スコットランド人]]の[[:en:William Paterson (banker)|ウィリアム・パターソン]]<ref group=注釈>ウィリアム・パターソンは翌年の[[スコットランド]]王国政府の[[スコットランド銀行]]設立にも関わっているが、スコットランド銀行は経済的に深刻な状況にあったスコットランド国内への投資およびスコットランド会社による[[スコットランドによるアメリカ大陸の植民地化#ダリエン計画(1695年)|ダリエン計画]]への投資を目的としておりその性格は異なっている。1707年、スコットランドの経済破綻に伴い[[グレートブリテン王国|連合王国]]が成立。</ref>と[[財務大臣 (イギリス)|財務府長官]]の[[チャールズ・モンタギュー (初代ハリファックス伯爵)|チャールズ・モンタギュー]]による。[[イングランド王国]]政府の銀行として同年[[7月27日]]の[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]・[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]の[[勅令]]により認可された。初代総裁は[[:en:John Houblon|ジョン・フーブロン]]。[[証券市場]]の成立などの改革も進められた<ref name=inose>井野瀬(2007)</ref>。1695年10月に[[ジョン・ロック]]が[[銀貨]]の改鋳について建議した。ロック案は閣議決定されて、12月17日に法案となった。ロックは27日に''Further Considerations Concerning Raising the Value of Money'' という論文を発表した。翌年1月に法案は裁可も得て成立した。<ref>楊枝嗣朗 [http://portal.dl.saga-u.ac.jp/bitstream/123456789/52667/1/yoji_200605.pdf ロック=ラウンズ論争再論] 佐賀大学経済論集 39(1) 2006年 p.144.</ref><br />
<br />
1699年、イギリスが清から[[広東システム|広東貿易]]を許される。1720年、[[南海泡沫事件]]。<br />
<br />
1734年、イングランド銀行はスレッドニードル街の現在地へ移転した。かつては[[:en:Poultry, London|ポールトリー]]街のグローサーズ・ホール内にあった。<br />
<br />
1750年、長期国債の発行権を独占する<ref name=1500-1750 /><ref group=注釈>1752年、[[コンソル公債]]が発行される。[[ロンドン証券取引所]]において国債取引の比率が5%に落ち込んだ1914年でさえ、金縁証券の筆頭たるコンソルだけは、低リスクゆえに流動性を誇り、最大の取引対象であった。</ref>。1764年、[[砂糖法]]。<br />
<br />
1772年、いわゆる[[:en:Douglas, Heron & Company|エアー銀行]]が倒産。[[アダム・スミス]]の『国富論』執筆に影響した<ref>新村聡 [http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/4/41480/20160528042711550903/oer_032_4_161_174.pdf スミスのステュアート信用論批判] 2001年</ref>。<br />
<br />
1780年、[[:en:Gordon Riots|ゴードン暴動]]が起こる。以来、軍がイングランド銀行の夜間警備にあたるようになった。この警備習慣はライバル銀行家たちの怒りを買ったが、しかし伝統となって1973年まで続いた。<br />
<br />
1786年、大臣がおかれない減債委員会([[:en:Commissioners for the Reduction of the National Debt|Commissioners for the Reduction of the National Debt]])が発足した。<br />
<br />
1797年、[[:en:Bank Restriction Act 1797|イングランド銀行制限法]]により兌換停止。[[対仏大同盟]]に基づいた活動により[[正貨]]が流出して、[[:en:Panic of 1796–97|前年から恐慌がおきていた]]。イギリスの銀行はこの年270行であったが、1810年には783行となる。1810年の地金委員会による調査で、このときの兌換停止は金高騰と為替相場下落の原因と指摘された。<ref>吉岡昭彦 『近代イギリス経済史』 岩波書店 1981年 p.14.</ref>{{Refnest|group=注釈|1819年に[[ロバート・ピール]]が議会で開いた委員会でも、金高騰・通貨下落の原因とされた。この委員会は、イングランド銀行が私利のために銀行券を過剰発行することを懸念し兌換再開を結論・勧告した。<ref>[[米川伸一]] 『概説イギリス経済史 現代イギリス経済の形成』 有斐閣 1986年 p.22.</ref>}}<br />
<br />
=== 国際金融家ロスチャイルド ===<br />
[[ファイル:ThomasHosmerShepherdBankofEngpublished1816 edited.jpg|250px|right|thumb|1816年のイングランド銀行と王立証券取引所]]<br />
[[1807年]]、大英帝国内での奴隷貿易が禁止される。[[バルト海]]貿易で富を築き、当銀行理事を務めた[[:en:John Thornton (philanthropist)|ジョン・ソーントン]]は、息子[[:en:Henry Thornton (reformer)|ヘンリ]]や総裁を務めた[[:en:Samuel Thornton (MP)|サミュエル]]らとともに[[奴隷制度廃止運動#1807年の奴隷貿易法|奴隷貿易廃止法案]]に尽力していた<ref name=inose/>。この禁止は帝国内の経済に長期的な打撃となり、1815年恐慌と[[1819年恐慌]]の背景となった。<br />
<br />
1816-1817年に兌換が部分的に再開され<ref group=注釈>1816-1818年、[[ナポレオン・ボナパルト#統領ナポレオン|ナポレオン銀貨]]を481万7000ポンド鋳造。</ref>、1823年で全面的に再開された。1822年に[[ハプスブルク家]]がロスチャイルド一族全員に男爵位を授与している。このころ[[外債]]が洪水のように契約されていた。ロスチャイルドは請負人として最も活躍した<ref name=kura57>クラパム 『イングランド銀行 2』 ダイヤモンド社 1970年 p.57, pp.101-102. 原書 ''A BANK OF ENGLAND A History Volume.2. 1797-1914''</ref>{{Refnest|group=注釈|1822年の発行国は主に手堅く、[[ロシア]]、[[プロシア]]、[[デンマーク]]など。[[チリ]]債と[[コロンビア]]債は4年たつと利子の支払いがとだえた。1823年の発行国は、[[オーストリア]]、[[ポルトガル]]、[[スペイン]]。1824-1825年は南米から1800万ポンド。1827年で利子が払われなくなる。<ref name=kura57 />}}。ロスチャイルドはロンドンの投資家の関心を呼ぶために[[スターリング・ポンド]]建て外債の利率を定めていた。また、1823年と1825年に代理商取引法が制定されたことは契約を促したが、取引所の利害関係を混乱させた。<br />
<br />
1823年6月、国庫委員会の議事録に[[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]が登場する<ref name=nathan>クラパム 『イングランド銀行 2』 ダイヤモンド社 1970年 pp.88-89.</ref>。同年3月すでに、フランスが総額1億2000万フランの公債を発行するにあたり、[[ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド]]がシ団を組織し引受けた。[[アッシニア]]の担保に財産を没収された教会・貴族の反発があるも、フランス政府は低利借り換えを画策。実現に向けて公債相場を維持するため<ref name=james>ジャン・ブーヴィエ 『ロスチャイルド ヨーロッパ金融界の謎の王国』 河出書房 1969年 pp.74-83.</ref>、ネイサンは翌年5月イングランド銀行から1年間金100万ポンドの保証を受ける。12月1日に保証額中30-50万ポンドを持ち出し<ref name=nathan />、担保としてイギリスの「整理公債」を預託、持ち出した金塊は[[フランス銀行]]に預け入れた。結局、利率が低すぎてシ団半壊。ロスチャイルドは残り、逆に力を誇示することになった<ref name=james />。<br />
<br />
[[:en:Panic of 1825|1825年、イングランド銀行から欧州まで恐慌の波が及んだ]]。[[ラテンアメリカ]]投機の一部について株価の暴落したことが引き金となった{{Refnest|group=注釈|外債の洪水が600以上の会社を設立させていた。<ref>クラパム 『イングランド銀行 2』 ダイヤモンド社 1970年 pp.101-102.</ref>}}。フランス銀行に正貨の供給を受けた{{Refnest|group=注釈|浜は、ネイサンが「欧州から金をかき集め」たと書いている<ref>[[浜矩子]] 「金融大冒険物語」 [[エコノミスト (日本の雑誌)]] 2009/1/13 pp.62-63.</ref>。兌換再開からの動きに照らすと、かき集めたというより、外国へ貸し出した金を回収しただけのようである。}}おかげで、破綻寸前で踏みとどまった<ref group=注釈>クラパムは数値を挙げて金の枯渇こそ否定するも取り付けのあったことは否定せず。一方、ジュグラーの資料によると凄まじい枯渇が読み取れる。1824年1月に1350万ポンドあったのが、1825年12月には120万ポンドにまで減少。</ref>。この惨事は社会運動に発展し、紡績工場法が修正されたり、労働組合が承認されたりした。また、銀行券、特に小額紙券の流通量を著しく減らす<ref group=注釈>恐慌のときにやむなく1ポンド紙幣を60万枚発行していた。流通の減少を受けて1832年には銀行券偽造に対する死刑が廃止された。</ref>。<br />
<br />
=== 国際流動性に向かう投機 ===<br />
1833年の新特許法でイングランド銀行券が法貨となる。同年、[[:en:Crown Agents for Oversea Governments and Administrations Ltd|クラウン・エージェンツ]]<ref group=注釈>伝統的には植民地政府などの代理人をこなした。[[ユーロクリア]]のできた頃には80の政府と160以上の公的当局、国際組織のために活動していた。また、この頃から銀行関連業務にも従事し始めた。</ref>が政府により創設される。<br />
<br />
1839年、マンチェスター商業会議所が、それまでの3年間における金利の恣意的な変更が為替相場を乱高下させたと主張<ref>吉岡 p.61.</ref>。勢いづいていた[[チャーティズム]]を政府は翌年4月にかけ弾圧。また、この年に国内[[電信]]が敷設される。<br />
<br />
1844年、[[ピール銀行条例]]により中央銀行となる<ref group=注釈>[[19世紀]]半ばの[[ヴィクトリア朝]]時代から[[第一次世界大戦]]の終わりまでのイギリスは「世界の銀行」と呼ばれ、世界各地の政府、鉱山、工場、プランテーションなどに投資して、利子を稼いだ。統計によれば、1914年における、世界の海外投資の43パーセントをイギリスが占めた。</ref>。[[鉄道狂時代]]が続く。<br />
<br />
1851年、ロスチャイルド商会が貴金属精錬所を設立。この年、[[海底ケーブル#ドーバー海峡横断ケーブル|ドーバー海峡横断ケーブル]]開通。翌年にロスチャイルドの精錬所はイングランド銀行で2番目の公認精錬所となる。<ref>クラパム 『イングランド銀行 2』 pp.308-309.</ref><br />
<br />
1854年、高利禁止法が撤廃される<ref group=注釈>続いて1857年オランダで、1865年[[ベルギー]]で、1867年[[北ドイツ連邦]]でも撤廃された。</ref>。1856年、[[パリ宣言]]で[[私掠船]]の放棄が謳われる。<br />
<br />
[[1857年恐慌]]。アメリカ株を中心に市場が弱気となる。イングランド銀行は単独で割引を継続。11月20日だけで100万ポンド近い法定限度超過。追ってピール銀行条例が停止。<ref>A. アンドレァデス 『イングランド銀行史』 日本評論社 1971年 pp.410-413. 原書 A. Andreades ''Histoire de la Banque d'Angleterre'' 2tom. Paris 1904</ref>以後、イギリスが世界の実質的な[[手形交換所]]と化す<ref>吉岡 p.103.</ref>。<br />
<br />
1861年、それまでイングランド銀行が25年ごとに国債所有者名簿を閉じていた慣習を廃止<ref>リチャード・ロバーツ/デイヴィッド・カイナストン編 浜田康行/宮島茂紀/小平良一訳 『イングランド銀行の300年』 東洋経済新報社 1996年 pp.191-192.</ref>。<br />
<br />
[[:en:Panic of 1866|1866年の恐慌]]で{{仮リンク|ベイルアウト (金融)|label=ベイルアウト|en|Bailout}}。発端は[[:en:Overend, Gurney and Company|割引商会オーバーレンド・ガーニー]](現・[[バークレイズ]])の失敗に関連した国際金融市場のしぼみと、イタリアでの[[銀本位制]]廃止。これにより[[横浜]]へ進出していた銀行支店が3つも撤退した。[[公定歩合]]10%。二度目の特許状停止。同年、[[ホンジュラスの経済|ホンジュラスにおき鉄道スキャンダルさらに移民法制定]]。<br />
<br />
[[1857年恐慌]]から[[1873年恐慌]]を経て、[[:en:City of Glasgow Bank|シティー・オブ・グラスゴー・バンク]]が詐欺的な業務の上に破産した1878年までの20年間は、金利の変更が実に年平均10回にまで及んだ。<ref>米川 p.167.</ref>途中の1868年には[[アルフレッド・ド・ロスチャイルド]]が理事に就任している。終わりの1878年には首相の[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯爵)|ローズベリー]]がネイサンの孫ハンナと結婚した。1875年ハックス・ギブズ([[:en:Hucks Gibbs, 1st Baron Aldenham|Henry Hucks Gibbs]])が総裁となった。彼は[[:en:Antony Gibbs & Sons|ギブズ商会]]の共同経営者であった。この会社は1981年に[[香港上海銀行]]が買収した。<br />
<br />
== 現代 ==<br />
=== 狭かった国際金融市場 ===<br />
1880年からの[[ボーア戦争]]では、植民地政府などのために次の金融機関と組んで、非難を浴びながらも国債発行の代理人となった。[[ジョン・モルガン|モルガン・グレンフェル]]、[[ベアリングス銀行]]、ロスチャイルド、[[ジョン・モルガン|JPモルガン]]<ref>Kathleen Burk, ''Morgan Grenfell 1838-1988 : The Biography of a Merchant Bank'' Oxford 1989 pp.111-123. ; Vincent P. Carosso, ''Investment Banking in America : A History'' Cambridge Mass. 1970 pp.510-513.</ref><br />
<br />
1890年、デフォルト寸前の{{Refnest|group=注釈|「実際には支払い能力はあった」<ref>アンドレァデス p.433.</ref>。経営失敗の原因は、[[ブエノスアイレス]]水道事業会社(The Buenos Ayres Water Works Company) 株の引受・保有<ref>アンドレァデス p.432.</ref>。}}ベアリングス銀行を救済。同行の損失を秘匿しつつ、政府・シ団と組んで保証基金を設置、450万ポンドの外債をとりつける。やがて公衆の知るところとなり、[[1893年恐慌]]に発展する。<ref group=注釈>[[ジョージ・ゴッシェン (初代ゴッシェン子爵)]]の資料によると、この頃、イングランド銀行の金準備が2400万ポンドであったのに対して、ドイツ・フランス・アメリカの3国は総計2億7700万ポンドであったという。<br />
<!--:ゴーシェンは次のような解決策を唱えた。1826年以来禁止されていた1ポンド銀行券の発行をイングランド銀行に断行させる。これにより事実上発券を同行に独占させ、金貨を節約したり、金準備を追加したり、改鋳費を捻出したりできると主張した。しかし、これは1981年末に銀行界から拒絶された。--></ref><ref>米川 pp.165-166.</ref><br />
<br />
1895年、[[横浜正金銀行]]の指図でか、イングランド銀行は[[下関条約]]の賠償金を市場に放出。資金は供給過剰となる。<ref>クラパム 『イングランド銀行 2』 pp.447-448.</ref><ref group=注釈>このときの公定歩合は特に低い2%であった。</ref><br />
<br />
1899年、[[インド]]を金為替本位制とする。インドは植民地であり、世界的な銀消費国でもあった。1ポンド=銀貨15[[インド・ルピー|ルピー]]とした<ref>井村薫雄 『支那の為替と金銀』 上海出版協会 1923年 p.291.</ref>。前もって[[ブリュッセル]]で国際通貨会議が開かれていた。飢饉に困ったインド人が銀製品の装飾品を売ることで銀価の低落が起こらないように、それから税収を安定させるために、植民地政府は世界で初めて本格的な灌漑事業をインドに展開した。<br />
<br />
1901年、ルピー銀貨の[[シニョリッジ|鋳造益]]を充てていたインドの金本位準備をロンドンへ移送。翌年、インド政庁管轄の紙幣準備の一部をイングランド銀行へ預託させるとともに、同政庁に金の自由鋳造を断念させる。こうしてルピーを弱めたイギリスは、その輸出においてインド全輸入の6割超を占めた。<ref>吉岡 p.274.</ref><br />
<br />
1901年4月に6千万ポンド、1902年4月に3200万ポンドの[[コンソル債]]を一括引受で発行{{Refnest|group=注釈|このような巨額の起債はイングランド銀行と政府関係のブローカーが手はずを整え、モルガンが主催するニューヨークシ団とロスチャイルドの主催するロンドンシ団が大量に行った。<ref>Letter Gov./Hamilton 6 Dec. 1900.</ref>}}。<br />
<br />
1903年、[[プランテーション]]植民地の[[マレーシア]]が、インドと同様に金為替本位制に編成された<ref name=yosioka276>吉岡 p.276.</ref>{{Refnest|group=注釈|金為替本位制とは、現地政府手形で通貨を保証する仕組みである。日本は、制度上の金為替本位制ではないが、[[日英同盟]]を契機として金準備の大部分をロンドンに置き、その半分以上をイギリス国債に投下するか、もしくはロンドン預金銀行に貸し付けていた。<ref name=yosioka276 />}}。<br />
<br />
[[1907年恐慌]]まで[[日銀]]から借入。この時期をはさみ、1895年と1908年に増収目的で保有証券を売却<ref>米川 p.168.</ref>{{Refnest|group=注釈|短期貸し出しによる収入も1904-1907年で一気に増加。以下8月を決算とした数値。単位は千ポンド。<br />
:1893-1894年で331 1894-1895年で160 1895-1896年で158 1896-1897年で243 1897-1898年で293 1898-1899年で356 1899-1900年で410 1900-1901年で441 1901-1902年で485 1902-1903年で524 1904-1905年で301 1905-1906年で457 1906-1907年で500 1907-1908年で322 1908-1909年で200<ref>クラパム 『イングランド銀行 2』 ダイヤモンド社 1970年 p.482. 付録D</ref>}}。また、この恐慌以後は[[ライヒスバンク]]が、兌換を部分停止したり、またイングランド銀行に対抗して金利を設定したりして、正貨流出の抑止に努める。<ref>吉岡 pp.281-282.</ref><br />
<br />
1909年以降、金本位準備の一部を預金銀行やマーチャント・バンカーに[[銀行間取引市場|短期通知貸]]。さらに金本位準備は、もともと新規国債の消化と市場に流通する国債の買い支えに利用されていた。<ref>吉岡 p.275.</ref><br />
<br />
=== 国際化するスターリング・ポンド ===<br />
1914年7月30日に4%だった金利を翌日に8%へ、8月1日には10%まで一気に引き上げ<ref>クラパム 『イングランド銀行 2』 ダイヤモンド社 1970年 pp.474-478. 付録B イングランド銀行利率 1794-1914年</ref>。特許状は停止せず。[[第一次世界大戦]]中は[[JPモルガン・チェース#JPモルガン|JPモルガン]]がイングランド銀行で発行する戦時債券の独占代理人であった{{Refnest|group=注釈|モルガンと[[連邦準備制度]]の協力により、イングランド銀行は国内で買い集めたUSドル大蔵証券をニューヨーク市場で売却することができた。<ref>For Cunliff's closeness, Norman Diary 19 Sept. 1916. For financing proposals generally at this juncture, Weems, ''America and Munitions'', p.312.</ref>}}。<br />
<br />
1919年4月、金本位制離脱。1925年9月に復帰する。この離脱期間に世界恐慌の第一波が起こる<ref>Michael D. Bordo and John S. Landon-Lane, "The Global Financial Crisis: Is It Unprecedented?", ''Conference on Global Economic Crisis: Impacts, Transmission, and Recovery ,Paper Number 1'', EWC / KDI Conference, Honolulu, Hawaii, 19–20 August 2010, p.7.</ref>。国際[[カルテル]]が流行。<br />
<br />
1924年10月、JPモルガンと引受地域を分担し[[ドーズ案|ドーズ公債]]を起債。翌年5月、政府が借款を受ける<ref>(On 4th May 1925,) two credits have been already conditionally negotiated. First, there is a credit which has been arraged with the Federal Reserve Bank of New York, who have undertaken to give the Bank of England a revolving credit of 200 million dollars for two years from the 10th May or the date of the British Government guarantee, whichever date is the latest. Then there is a second arrangement with a Syndicate headed by Messrs. J.P.Morgan. That is for a revolving credit of 100 million dollars, also for two years, to His Majesty's Government direct.<br />
:[Extract from the speach of the Financial Secretary to the Treasury, the Rt. Hon. Walter Guinness, D.S.O., T.D., M.P., in the debate on the Gold Standard Bill (''House of Commons Hansard'', Vol. 183, pp.622-623.)]<br />
<br />
簡単な交渉を経た翌日に[[チャーチル]]は、JPモルガンから年利1.25%という破格の条件が提出されたことを報告した。<br />
:''House of Commons Hansard'', Vol. 183, p.815.</ref>。<br />
<br />
1928年、[[ヴィッカース・アームストロング]]の合併を援助していたのが実現。大蔵省紙幣とイングランド銀行券の発行が統合される。<br />
<br />
1929年9月26日、[[世界恐慌]]の直前に金利引き上げ。[[FRB]] が6.0%であったが、イングランド銀行は5.5%から6.5%に。<br />
<br />
1931年8月1日、フランス銀行と[[ニューヨーク連邦準備銀行]]から5千万ポンド借り入れ<ref>Richard Sidney Sayers, ''The Bank of England 1891-1944'', Cambridge University Press, 1976, Appendix 22.</ref>。9月21日に金本位制離脱。[[金解禁]]していた日本からは10-11月に各月とも1.3億円超の正貨が流出した<ref>NHK取材班 『金融小国ニッポンの悲劇』 角川文庫 1995年 p.203. 表</ref>。<br />
<br />
1934年、[[ニュージーランド準備銀行]]ができる。翌年、[[カナダ銀行]]と[[インド準備銀行]]が開設される。<br />
<br />
[[1939年]]3月、[[ナチス・ドイツ]]に全土を占領されたチェコスロバキア中央銀行が<ref group=注釈>のちの[[チェコ国立銀行]]、[[スロバキア国立銀行]]</ref>、[[国際決済銀行]]名義でイングランド銀行に預託している23.1トンの金準備を[[ライヒスバンク]]に移すよう不本意な指図をさせられ、24日に国際決済銀行の担当部局が指図のままに口座を振り替えた<ref>[[パウル・ファン・ゼーラント#外部リンク|McKittrick Collection]], aide memoire, or-tchéque, vom 24.3.39.</ref>。5月に財務大臣の[[ジョン・サイモン (初代サイモン子爵)|ジョン・サイモン]]が総裁の[[モンタギュー・ノーマン]]へチェコの金準備ではないかと確認を要請したが総裁は知らないと応えて、6月に44万ポンドの準備金が売却され内42万ポンドがニューヨークへ船積みされた<ref>[[ガーディアン]] [https://www.theguardian.com/business/2013/jul/31/bank-of-england-and-nazis-stolen-gold How Bank of England 'helped Nazis sell gold stolen from Czechs'] Wednesday 31 July 2013</ref>。<br />
<br />
1946年、国有化されるが運営目的は何も制限されず、金融監督権限を得る。<br />
<br />
1947年7月、[[国際通貨基金]]に登録されたポンド平価<ref group=注釈>1ポンド=3.58134ドル</ref>での交換性を一時的に回復するも、交換要求が殺到して6週間後に制限。<br />
<br />
1949年、ポンド切り下げ<ref group=注釈>1ポンド=2.80ドル</ref>により輸出が増加。準備総額は1950年代半ばごろ20億ドル以上に達した<ref>[[:en:John Fforde|John Fforde]], ''The Bank of England and Public Policy, 1941-1958'', Cambridge 1992 pp.276-304.</ref>。<br />
<br />
=== 国際流動性の危機 ===<br />
1954年、ロンドン金市場再開。1939年の開戦以来。同市場で[[南アフリカ準備銀行]]の代理人を務める<ref>[[:en:Forrest Capie|フォレスト・キャピー]] イギリス金融史研究会訳 『イングランド銀行 1950年代から1979年まで』 日本経済評論社 2015年 pp.185-186. 原題 ''THE BANK OF ENGLAND'' Cambridge University Press 2010</ref>。ロイ・ブリッジという為替ディーラーの仲介で国際決済銀行と以下の諸点を確認。イングランド銀行への事前の照会や合意がなくても国際決済銀行は南ア銀行とイングランド銀行金庫室=ロンドン金現物市場で取引をする。国際決済銀行は南アフリカから週あたり最高10万オンス以上は購入しない。その最高額を引揚げるときは事前に通知する。1957年、ポンド危機。公定歩合7%に上昇。1958年、他のヨーロッパ主要国とともに、非ドル地域で保有するポンドに限り交換性を回復した。<br />
<br />
1962年初め、[[:en:London Gold Pool|金プール]]の代理人として参加国<ref group=注釈>アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、オランダ、スイス、ベルギー</ref>中央銀行に承認される<ref>フォレスト p.218.</ref>。認められる前は、金プールの前身となるシンジケートにおいて、そこから使用した正金の量をイングランド銀行は毎月末ニューヨーク連邦準備銀行に報告し、そのあとイングランド銀行がシンジケートの誰に保証金を支払わなければならないかNY連銀の指示を待った<ref>Parsons to Cromer, 'Brief for talk with Dr. Holtrop Gold', 30 October 1961 G1/280</ref>。<br />
<br />
1964年、1966‐1967年、ポンド危機<ref group=注釈>1967年に1ポンド=2.40ドルまでポンド切下げ。</ref>。1966年、[[:en:Kleinwort Benson|クラインワート・ベンソン]]・[[ロンズデール伯爵|ロンズデール]](現[[ソジェン]])による[[ドイツ銀行#概説|ゴールド・フィックス]]会員[[:en:Sharps Pixley|シャープス・ピクスレー]]の買収を主導した。1968年、ロンドン金市場崩壊<ref group=注釈>旧固定価格は国際金融のみに利用され、金自由市場には別価格が適用される。</ref>、[[ユーロクリア]]誕生。1971年、[[シリング]]を廃して1ポンド=100ペンスの10進法とする。また、[[スミソニアン協定]]で1ポンド=約2.60ドルに切り上げた。<br />
<br />
1973年から1975年まで、[[ビッグバン (金融市場)#モルガンの米国預託証券|セカンダリー・バンキング危機]]<ref>フォレスト 第11章</ref>。これに関するイングランド銀行アーカイブ資料<ref group=注釈>閲覧は予約制。月から木曜日、午前10時から午後4時半まで。</ref>が何ゆえか失われている。イングランド銀行は、ライフボートを通じて26金融機関を援助<ref group=注釈>このうち、Marcantile Credit は[[バークレイズ]]に合併。Twentieth Century Banking Corporation は[[P&O]]に合併。</ref>。また、イングランド銀行単独で14の金融機関にベイルアウト<ref group=注釈>14行のうちスレイター・ウォーカー([[:en:Slater Walker|Slater Walker]])は、会長職に[[ジェームズ・ゴールドスミス]]が就いた後、イングランド銀行がN・M・ロスチャイルド&サンズを促して役員を派遣させている。</ref><ref group=注釈>14行のうち'''ウォレス・ブラザーズ・バンク'''(Wallace Brothers Bank) は、1974年にこの社名となる前、1972年3月に[[:en:Victor Sassoon#E.D. Sassoon and Company|E.D.サッスーン・バンキング・カンパニー]]を買収している。WBB の大株主は1833年創業のクラウン・エージェンツで、27%を保有していた。解決策として、イングランド銀行が530万ポンドをカンパして[[スタンダードチャータード銀行]]が子会社を通じてWBB の全株式を取得した。クラウン・エージェンツも経営危機にあったのである。</ref>。1974年、[[BP (企業)|BP]]株の買収などにより[[バーマ・オイル]]を救済した<ref>イングランド銀行 [http://www.bankofengland.co.uk/publications/Documents/foi/disc050527e.pdf Memorandum of Agreement between Burmah Oil Company and the Bank of England], written in January, 1975</ref>。1976年の銀行法でイングランド銀行は、銀行制度全体を揺るがす大失敗をやりそうな銀行を直接所有監督する権限を得た。<br />
<br />
1977年、[[:en:Bank of England#20th century|Bank of England Nominees Limited (BOEN)]] なる子会社を設立。株主が指名制で会社法との整合性を問われた。エドムンド・デル([[:en:Edmund Dell|Edmund Dell]])が合法化。[[:en:Chris Joseph (autobiographer)#SAFE (Struggle Against Financial Exploitation)|SAFE]]が攻撃。ほどなくイングランド銀行は民営化([[機関投資家|機関化]])された。<ref>Leszek Niewdana, ''Money and Justice: A Critique of Modern Money and Banking Systems from the Perspective of Aristotelian and Scholastic Thoughts'', Routledge, 2015, p.124.</ref><br />
<br />
1979年、国家債務、868億8500万ポンド。全預金受託機関に対する認可・監督権限を得る。翌年7月まで最低貸出金利17%。<br />
<br />
=== 短期金融市場の歯車 ===<br />
1984年、[[ドイツ銀行#概説|ゴールド・フィックス]]であった[[:en:Johnson Matthey|ジョンソン・マッセイ]]の貿易金融子会社が倒産した<ref group=注釈>ジョンソン・マッセイは[[デグサ]]と似て貴金属寄りの化学工業を営んでいる。[[世界金融危機]]をすぎたころ、[[ソルトレイクシティ]]の金銀精錬所が水質保全法に抵触し罰金を課され、以来[[アメリカ合衆国環境保護庁]]による保護観察下におかれている。2014年12月、[[朝日化学工業]]がジョンソン・マッセイの貴金属部門を1億8600万ドルで買収した。翌年6月23日、[[国際協力銀行]]が買収に要した資金の一部を融資する貸付契約を締結した。公的機関として安易な亡命受け入れである。</ref>。救済措置としてイングランド銀行などが1億5000万ポンドの債務保証を与えた。1985年、1ポンド硬貨導入。史上最安の1ポンド=1.04USドル。1986年、[[ビッグバン (金融市場)|ビッグバン]]。1988年、ジョンソン・マッセイ・バンカーズへの債務保証に使われた資金が全て返還された。<br />
<br />
1990年、[[欧州通貨制度]]に参加。1991年、[[国際商業信用銀行]]に営業停止命令。ときの重役の複数が[[ロスチャイルド家]]と関係<ref>[[広瀬隆]] 『世界金融戦争 謀略うずまくウォール街』 NHK出版 2002年11月 p.198.</ref>。<br />
<br />
1992年、[[ポンド危機]]。この年の国家債務、2145億2800万ポンドに達する。欧州通貨制度を離脱。[[スチュワードシップ・コード|キャドバリー報告書]]。<br />
<br />
1995年、[[証券保管振替制度|証券集中保管機関]]である[[:en:CREST (securities depository)|CREST]]の[[クラウドコンピューティング|クラウドプロバイダー]]に[[国際銀行間通信協会]]を選択<ref>八尾晃 『国際取引と電子決済 改訂版』 東京経済情報出版 1999年 pp.167-168.</ref>。<br />
<br />
[[1996年]]7月、ロスチャイルド家当主となるはずであったロンドン家の[[:en:Amschel Rothschild|アムシェル(1955-1996)]] が[[パリ]]のホテルで変死。<br />
<br />
[[1997年]]、イングランド銀行の[[金融政策委員会]]が財務省から[[政策金利]]など金利設定の権限を移譲された。<br />
<br />
1998年4月、債務管理庁([[:en:Debt Management Office|Debt Management Office]])に英国債管理政策に関する権限を委譲した。同年、根拠法改正により副総裁枠が増えて、この新枠副総裁も減債委員会に参加するようになった。また、イングランド銀行は一昨年に設立された[[#20世紀末からの在り方|金融サービス機構]]へ金融機関を監督する権限を移管した。移管は1998年イングランド銀行法によった。<br />
<br />
2002年8月、CREST が[[ユーロクリア]]に買収される。2003年2月、公定歩合3.75%に。48年ぶりの低金利となる。同年7月に3.5%へ。2004年、[[ロンドン証券取引所#パターノスタースクエア|新ロンドン証券取引所]]がオープン。スレッドニードルからの移転。<br />
<br />
2007年、[[ノーザン・ロック]]に特別融資。2009年、発券数の週次決算報告を廃止。同年3月末の時点で、ポンド相場は1.42ドル。<br />
<br />
2011年11月以降、総裁の[[マービン・キング]]が国際決済銀行主要会合の議長を兼ねる。<br />
<br />
[[2013年]]4月、金融サービス機構廃止。同年7月1日から初めての外国人の[[マーク・カーニー]]が総裁になった。<br />
<br />
[[2015年]]5月、イングランド銀行は[[ビットコイン]]フォーラムメンバーになった<ref>経済産業省 [http://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/sansei/fintech/pdf/005_04_00.pdf Fintech研究会資料] 2015年11月30日 p.6.</ref>。イングランド銀行は、[[ブロックチェーン]]技術に基づいた法定[[電子通貨]]の発行を検討している。政府も1460万ドルの研究資金を提供すると謳っている。<ref>日本デジタルマネー協会 [http://www.digitalmoney.or.jp/wp-content/uploads/2015/05/20150508_BTC2.0.pdf BITCOIN2.0概況] 2015.05.08 pp.15-16.</ref>同年6月、イングランド銀行はロスチャイルドとアドバイザーをつとめ、政府が[[ロイヤルバンク・オブ・スコットランド]]株を売却する方針に同調した<ref>WSJ [http://jp.wsj.com/articles/SB11793851007525823752504581040500999661190 英政府、RBS株の売却開始へ=オズボーン財務相] 2015年6月11日</ref>。<br />
<br />
== 機能 ==<br />
=== オランダ資本の凋落 ===<br />
創立時から当分は事実上の財務省として機能した。政府に対する直接融資、国債の引受と消化もこなした<ref>浜 2008/11/18 pp.66-67.</ref>。<br />
<br />
1701年の株主は1903人であったが、このうち107人が総裁の資格たる4000ポンド以上の株式を保有していた。その107人は、創立時の出資者を多数ふくむ<ref group=注釈>ボスコーアン、ファーニース、ゴドフリー、ウーブロン家とレシュリエー家の家族全員、ヘスコット、スコーイン、[[エドワード・ラッセル (初代オーフォード伯爵)]]など</ref>。ユグノーは[[セファルディム]]を参加させるようになった。筆頭は[[:en:Solomon de Medina|ソロモン・デ・メディナ]]<ref group=注釈>他には、同名が2人いるダ・コスタス、フォンセカ、ヘンリークズ、メンデス、ヌーネス、ロドリゲス、サルバドール、テクセーラ・デ・マトス。 Da Costas, Fonseca, Henriques, Mendez, Nunes, Rodriguez, Salvadore, Teixcira de Mattos</ref>。総裁資格をもつ107人のうち、およそ9分の1が[[ユダヤ人]]であった<ref>クラパム 『イングランド銀行 1』 ダイヤモンド社 1970年 pp.318-319. 原書 ''A BANK OF ENGLAND A History Volume.1. 1694-1797''</ref>。メディナとスペイン系の[[:en:House of Silva|シルバ家]]<ref group=注釈>末裔に[[カイエターナ・フィツ=ハメス・ストゥアルト]]</ref>は同行で大口の地金売りであった。<br />
<br />
1750年オランダ人は、イングランド銀行・東インド会社・南海会社株の国外保有分について78%を支配した<ref name=MEB>Stanley Chapman, ''Merchant Enterprise in Britain: From the Industrial Revolution to World War I'', Cambridge University Press, 2003, [https://books.google.co.jp/books?id=adHhYTIZyf0C&pg=PA34&lpg=PA34&dq=barent+cohen+huguenot+rothschild&source=bl&ots=MlpUN2SmIU&sig=5rdSES5vO2sQlqjUh74Iid_YTUM&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjtmtnGiKXTAhUKyrwKHfm9AIEQ6AEIIjAA#v=onepage&q=barent%20cohen%20huguenot%20rothschild&f=false p.34.]</ref>。1751年では、3294人の議決権を有する同行出資者のうち約1000人がオランダ人またはフランダース人であった。総裁資格のある者495人のうち、少なくとも105人がオランダ人であった。10年ほどすると[[アムステルダム銀行]]で信用危機が起こった{{Refnest|group=注釈|1760年、イギリス東インド会社の株主総数においてユグノーが14%を占めていた。<ref>仙田左千夫 『十八世紀イギリスの公債発行』 38頁</ref>}}。スイスの株式保有者で4000ポンド以上にのぼったのは[[ベルン]]が最初。[[ケンブリッジ大学]]の31あるカレッジで最古の[[:en:Clare College, Cambridge|クレアカレッジ]]も株式を保有。<ref>クラパム 『イングランド銀行 1』 pp.324-325.</ref><ref group=注釈>なお、イングランド銀行設立の5年前に[[名誉革命]]でオランダ総督のウィリアム3世がイングランド王に即位している。</ref><br />
<br />
1697年に議会の条例により、[[イングランド]]・[[ウェールズ]]では、イングランド銀行を除いて[[株式会社]]銀行がつくれなくなった。株主の銀行家たちが独占するため制定に圧力をかけたのである。これで機能はともかく、地方金融の面倒まで見る立場となった。しかし、この条例は1825年の恐慌で批判された。会社形態の独占が地方金融機関の成長を阻害し、ひいては恐慌を招いたというのである。そこで翌年に解禁される。ただし、ロンドンから半径65マイルに限った<ref group=注釈>反撃としてイングランド銀行は同年に法的認可を受け17の地方支店を構えた。支店では、過度の正金需要のときは交換量に制限を設けた。銀行券には支店名が記され、金兌換は券を発行した支店でなければ行えなかった。</ref>。完全解禁は1833年である<ref>浜 2008/12/23 pp.44-45.</ref>。<br />
<br />
=== ロンドン手形交換所 ===<br />
1864年、イングランド銀行はロンドン[[手形交換所]]に加盟、同行宛に加盟銀行が直接振替指図書を振り出し交換尻を決済できるようになった<ref>宮田美智也 「イギリスにおける銀行間取引組織の成立過程 : イギリスにおける銀行制度の成立(2・完)」 金沢大学経済学部論集 18(2), 71-99, 1998-03</ref>。なお、イングランド銀行は本店宛の支払請求に対しては本店で払った。<br />
<br />
1944年までに国内ロンドン外支店は17店舗をつくっている。このうち14は中央銀行としてスタートするまでに設立され、そのうち5つは大不況の始まるまでに閉鎖されている<ref>Richard Sidney Sayers, ''The Bank of England 1891-1944'', Cambridge University Press, 1976, Appendix 33.</ref>。この数は同時期の大陸系中央銀行と比べると少ない。実は準備率も同様である<ref name=compare>酒井一夫・西村閑也 『比較金融史研究』 ミネルヴァ書房 1992年 序章表1と2</ref>。産業革命を先駆けたイギリスの金融市場は大陸より手形制度を早く発展させた。それでイギリスの銀行は一般に[[預金通貨]]の発行高が大陸系銀行よりも高く<ref name=compare />、イングランド銀行も例外ではなかった。そうした中でイングランド銀行がベアリング危機等でベイルアウトするときは、ロンドン手形交換所加盟銀行と連携した。欧州の国際決済銀行ネットワークを小さくしたようなものがイギリスにはずっと早くできていたことになる。イングランド銀行にとり加盟銀行はよほど可愛いと見える。1930年8月9日、[[ロイヤルバンク・オブ・スコットランド]]は加盟銀行ウィリアムズ・ディーコンズ・バンク''[[:en:Williams Deacon's Bank|Williams Deacon's Bank]]'' の経営破たんをネット価格23万5千ポンドで買収することにより、株主がピンチをかぎつけるまえに救済した。イングランド銀行は病み上がりのディーコンズが再出発できるように西部支店を譲渡した。以後もロイヤルバンクを通じて資金を融通していたが、1940年で321万2千ポンドも焦げついていた。<ref>R. S. Sayers, 1976, pp.253-259.</ref>渉外事業でも加盟銀行と連携している。1931年7月に[[ピアソン (企業)|ピアソン]]が50%を支配するロンドン[[ラザード]]が休業瀬戸際となって、翌年5月イングランド銀行はフランスの有価証券を担保に加盟銀行の1行と共同融資にふみきった<ref>R. S. Sayers, 1976, pp.530-532.</ref>。<br />
<br />
=== 20世紀末からの在り方 ===<br />
現在は[[金融政策委員会|1998年イングランド銀行法]]で制定された諸機能、つまり物価安定の維持と英国政府の経済政策支援を遂行する。まずたとえば、①[[イングランド]]と[[ウェールズ]]における[[通貨]]発行権([[スターリング・ポンド|UKポンド]]参照)をもつ<ref group=注釈>[[スコットランド]]と[[北アイルランド]]の通貨発行権は各地域の民間銀行がもっているが、それらの保証準備発行額はごく限定されたもので、それを超える発券にはイングランド銀行券による100%準備が必要とされている。</ref>。②政府の銀行であると共に「最後の貸手」として銀行の銀行である。さらに③外国為替と金準備を管理し、政府の証券(国債)を登録するが、④政府統合基金の運営も行う。<br />
<br />
中央銀行という範疇を超えて機能している可能性が疑われている。イングランド銀行は国際決済機関[[クリアストリーム|セデル]]に数十の匿名口座を持っていた。セデルは内緒で①金融機関の支店が②国際金融市場で決済する便宜のために、匿名口座を開いていた。イングランド銀行が匿名口座を持つ場合、述べた①②のいずれにもあてはまらない。<ref>エルネスト・バックス ドゥニ・ロベール 『マネーロンダリングの代理人 暴かれた巨大決済会社の暗部』 徳間書店 2002年 p.204.</ref><br />
<br />
金融サービス機構([[:en:Financial Services Authority|Financial Services Authority]])は、1997年10月に発足して翌年イングランド銀行から金融機関監督権限を移管されたが、([[LIBOR]]など)幾たびのスキャンダルを経て、2012年金融サービス法([[:en:Financial Services Act 2012|Financial Services Act 2012]])にもとづき2013年4月に廃止された。金融サービス機構の権限は新設の金融安定委員会([[:en:Financial Policy Committee|Financial Policy Committee]])に移された。<ref name=yoneyama>米山徹幸 「英金融サービス機構 (FSA) : 成立までの状況」 埼玉学園大学紀要 経済経営学部篇 101-110, 2013-12</ref><br />
<br />
金融サービス機構は自主規制団体の寄せ集めだった。[[投資顧問]]規制機関(IMRO)、生保・[[投信]]規制機関(LAUTRO)、[[シャドー・バンキング・システム|金融仲介・管理・ブローカー]]規制協会(FIMBRA)の三者が統合されたのである<ref group=注釈>この資産運用業界は、[[マーガレット・サッチャー]]がサープス([[:en:State Earnings-Related Pension Scheme|State Earnings-Related Pension Scheme]], SERPS)を廃止・縮小して年金市場を開放したときに参入して利益をあげていた。</ref>。金融サービス機構の監督権限はかつてないほどに強化されていたが([[:en:Financial Services and Markets Act 2000|Financial Services and Markets Act 2000]])、エクイタブル生命([[:en:The Equitable Life Assurance Society|The Equitable Life Assurance Society]])の抱える年金債務に手段を講じなかったことがスキャンダル化した。監査法人[[アーンスト・アンド・ヤング]]も追及された。エクイタブルの営業網は、2001年2月にハリファクス([[:en:Halifax (bank)|Halifax]])へ売却された。2002年12月12日、機構の委員長ハワード・デービス([[:en:Howard Davies (economist)|Howard Davies]])が辞任の意思を明らかにした。金融サービス機構は会長アデア・ターナー([[:en:Adair Turner, Baron Turner of Ecchinswell|Adair Turner]])が就任した[[世界金融危機]]時の対応についても酷評された。「誰も負債水準を管理できず、危機がやってきても誰も責任の所在を分からなかった」<ref name=yoneyama /><br />
<br />
==歴代総裁==<br />
{{main|en:Governor of the Bank of England#Governors of the Bank of England (Year 1694 to present)}}<br />
1899~2014年現在までのイングランド銀行の歴代総裁は以下の通り。ただし、以下の表は[http://www.bankofengland.co.uk/about/Documents/pdfs/governors.pdf イングランド銀行ホームページの資料]を基に作られたものである<ref>{{Cite website<br />
| title = A chronological list (1694 - present)<br />
| publisher = Bank of England<br />
| url = http://www.bankofengland.co.uk/about/Documents/pdfs/governors.pdf<br />
| accessdate = 2014-07-17 }}</ref>。<br />
<br />
{| class="wikitable"<br />
! 名前 !! 期間<br />
|-<br />
| サミュエル・グラッドストン(Samuel Gladstone)<br />
| 1899-1901 <br />
|-<br />
| アガストゥス・プレボスト(Augustus Prevost) <br />
| 1901-1903<br />
|- <br />
| サミュエル・モーリー(Samuel Morley) <br />
| 1903-1905 <br />
|-<br />
| アレクサンダー・ワラス(Alexander Wallace) <br />
| 1905-1907 <br />
|-<br />
| ウィリアム・キャンベル(William Campbell)<br />
| 1907-1909 <br />
|-<br />
| レジナルド・ジョンストン(Reginald Johnston)<br />
| 1909-1911 <br />
|-<br />
| アルフレッド・コール(Alfred Cole)<br />
| 1911-1913 <br />
|-<br />
| ウォルター・カンリフ(Walter Cunliffe)<br />
| 1913-1918 <br />
|-<br />
| ブライアン・コケイン(Brien Cokayne)<br />
| 1918-1920 <br />
|-<br />
| [[モンタギュー・ノーマン]](Montagu Norman) <br />
| 1920-1944 <br />
|-<br />
| トーマス・カット(Thomas Catto)<br />
| 1944-1949 <br />
|-<br />
| キャメロン・コボルト(Cameron Cobbold)<br />
| 1949-1961 <br />
|-<br />
| [[クローマー伯爵#歴史|ローランド・ベアリング]](Rowland Baring) <br />
| 1961-1966 <br />
|-<br />
| レスリー・オブライアン(Leslie O’Brien)<br />
| 1966-1973 <br />
|-<br />
| ゴードン・リチャードソン(Gordon Richardson)<br />
| 1973-1983 <br />
|-<br />
| ロバート・リー=ペンバートン(Robert Leigh-Pemberton)<br />
| 1983-1993 <br />
|-<br />
| エドワード・ジョージ(Edward George)<br />
| 1993-2003 <br />
|-<br />
| [[マーヴィン・キング]](Mervyn King)<br />
| 2003-2013 <br />
|-<br />
| マーク・カーニー(Mark Carney)<br />
| 2013- <br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
===注釈===<br />
{{Reflist|group=注釈|2}}<br />
===出典===<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[井野瀬久美惠]] 『大英帝国という経験』 [[講談社]]、2007年4月、ISBN 978-4-06-280716-6<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[バンク駅・モニュメント駅|バンク駅]] - 名称がイングランド銀行に近いことに由来。銀行に駅出入口が併設されている。<br />
*[[ゴードン・バンクス]] - 鉄壁の守備と名前からなぞらえ「Banks of England」の異名を持ったゴールキーパー。<br />
*[[ウォルター・バジョット]] - 1877年に短期資金調達手段として商業手形に似た[[国庫短期証券|大蔵省証券]](Treasury bills) を発案。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[https://www.bankofengland.co.uk/ イングランド銀行公式サイト] {{en icon}}<br />
*{{Commonscat-inline|Bank of England}}<br />
{{中央銀行}}<br />
{{イギリス関連の項目}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:いんくらんときんこう}}<br />
[[Category:イギリスの経済]]<br />
[[Category:イギリスの経済史]]<br />
[[Category:欧州中央銀行制度]]<br />
[[Category:イギリスの銀行]]<br />
[[Category:イギリス帝国]]<br />
[[Category:シティ・オブ・ロンドン]]<br />
[[Category:第一級指定建築物]]<br />
[[Category:金融監督当局]]</div>114.164.186.119 Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46