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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=111.87.58.182&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-01T03:18:25Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 10世紀 2018-07-27T12:43:17Z <p>111.87.58.182: /* 930年代 */</p> <hr /> <div>{{翻訳中途|1=[https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=10th_century&amp;oldid=694563435 英語版 &quot;10th century&quot; 01:27, 10 December 2015 (UTC)]|date=2016年1月}}<br /> {{centurybox}}<br /> [[ファイル:Gu Hongzhong&#039;s Night Revels, Detail 1.jpg|thumb|300px|江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図([[北京]][[故宮博物館]]蔵)」。[[五代十国]][[南唐]]の後主[[李煜]]時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。]]<br /> [[ファイル:Spain Andalusia Cordoba BW 2015-10-27 13-54-14.jpg|thumb|300px|「世界の宝石」[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]。画像はコルドバにある[[メスキータ]]の円柱の森。10世紀末までに歴代の[[後ウマイヤ朝]]カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。]]<br /> &#039;&#039;&#039;10世紀&#039;&#039;&#039;(じっせいき)とは、[[西暦]][[901年]]から西暦[[1000年]]までの100年間を指す[[世紀]]。[[1千年紀]]における最後の世紀である。<br /> <br /> == できごと ==<br /> [[ファイル:Kitano Tenjin Engi Emaki - Jokyo - Thunder God2.jpg|thumb|420px|[[清涼殿落雷事件]]。この落雷は[[昌泰の変]]で[[大宰府]]に流された[[菅原道真]]の怨霊によるものと恐れられ、道真は[[北野天満宮]]の祭神となった。画像は「北野天神縁起絵巻」。]]<br /> [[File:将門塚 - panoramio (1).jpg|thumb|right|270px|[[承平天慶の乱]]。平安京での政争をよそに地方では在地領主となった皇親やその他の門流が勢力を拡大していた。[[平将門]]や[[藤原純友]]の反乱もその現れであったが、反乱は鎮圧された。画像は東京[[大手町 (千代田区)|大手町]]にある[[平将門の首塚]]。]]<br /> [[ファイル:Akihagi-jō 2.jpg|thumb|270px|[[かな文字]]の誕生。日本独特の美意識の発展とともにかな文字が成立し、和様の書が生まれた。画像は万葉仮名から平仮名へと移行する段階の「草仮名」で書かれた「[[秋萩帖]]([[東京国立博物館]]蔵)」で[[小野道風]]によるものと伝わる。]]<br /> [[ファイル:MongolHuntersSong.jpg|thumb|right|270px|[[契丹]]人の伸張。[[ウイグル]]帝国の崩壊や、唐王朝滅亡後の混乱で内陸アジアで勢力を拡大したのがモンゴル系の契丹人であった。その後、五代から宋にかけての華北政権を威圧し国勢を整えることになる。画像は契丹人を描いた「胡人出猟図」(台北[[国立故宮博物院]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Song Taizu.jpg|thumb|right|200px|[[北宋|宋]]の建国。唐の滅亡以後、半世紀にわたる[[五代十国]]の混乱にあった中国も[[趙匡胤]]が宋の初代皇帝太祖として即位するに及び安定した時代を迎えた。画像は台北[[国立故宮博物院]]所蔵の太祖趙匡胤の肖像。]]<br /> [[ファイル:Porphyrogenetus.jpg|thumb|200px|[[マケドニア朝ルネサンス]]。画像はキリストから加冠される皇帝[[コンスタンティノス7世]]の象牙彫刻(ロシア・[[プーシキン美術館]]蔵)。東ローマ帝国では古典研究が盛んになり、この皇帝自ら著作『儀式について』『帝国統治について』を残している。]]<br /> [[File:IMG 1552-20070425-great-lavra-a.JPG|thumb|right|270px|[[アトス山]]。この時期に東ローマ皇帝の庇護を受けてアトスの修道生活が展開した。画像は最も古い{{仮リンク|メギスティ・ラブラ修道院|en|Great Lavra}}の教会入り口から望む、[[アトスのアサナシオス|アトスのアタナシオス]]に植えられたとされる樹齢1000年以上の[[イトスギ]](サイプレス)。]]<br /> [[ファイル:Vasnetsov Bapt Vladimir.jpg|thumb|200px|聖公[[ウラディーミル1世]]の洗礼。東ローマ皇女アンナとの結婚を期に洗礼を受けキリスト教(東方正教会)に改宗しロシア・ウクライナ史に大きな影響を与えた。画像は[[キエフ]]の[[聖ヴォロディームィル大聖堂|聖ウラディーミル大聖堂]](聖ヴォロディームィル大聖堂)にある[[ヴィクトル・ヴァスネツォフ]]の壁画。]]<br /> [[ファイル:Holy Roman Empire Crown (Imperial Treasury)2.jpg|thumb|200px|[[神聖ローマ帝国]]の成立。[[オットー1世]]が皇帝となり以後代々のドイツ王が神聖ローマ皇帝位を占めることになった。画像はこの世紀に作られた神聖ローマ帝国の帝冠([[ウィーン]]・[[ホーフブルク宮殿]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:B Escorial 93v.jpg|thumb|200px|紀元1000年のヨーロッパ。新しい世紀の到来は期待と不安が混じったものだった。画像は950年代に描かれたスペインのサン・ミジャン修道院のベアトゥス『[[黙示録]]注解』[[写本]]([[エル・エスコリアル修道院]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Chronicon Pictum P040 Szent István elfogatja Gyulát.JPG|thumb|250px|マジャール人の定着。遊牧民族マジャール人もパンノニア平原に定着し、紀元1000年にはキリスト教を受容して[[ハンガリー王国]]を成立させている。画像はハンガリー初代国王[[イシュトヴァーン1世]]がジュラの街を制圧したことを描く14世紀の年代記の挿絵。]]<br /> [[ファイル:Jelling gr kl Stein.JPG|thumb|right|250px|[[イェリング墳墓群]]。デンマークの[[ハーラル1世|ハーラル青歯王]]がキリスト教への改宗したことを記念して[[ルーン文字]]で刻まれた石碑である。]]<br /> [[File:Chichen Itza 002.jpg|thumb|right|250px|[[チチェン・イツァ]]遺跡。マヤ文明を代表する遺跡で8世紀までに衰退した後に、10世紀に改めて盛んに建設が行われた。画像は[[ククルカン]]の頭部彫刻が付随した「金星の台座」でその先には「エルカスティージョ(ククルカン神殿)」を眺めることができる。]]<br /> [[File:Ceremonial Knife (Tumi) MET DP214165.jpg|right|thumb|200px|[[シカン文化]]。ペルー北岸に発展した文化で10世紀から11世紀にはバタン・グランデを中心に金属工芸や織物の産業が組織化されていた。画像はこの文化を代表する「ツミ」と呼ばれる儀式用の刀剣([[メトロポリタン美術館]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Al-Azhar (inside) 2006.jpg|thumb|right|200px|[[アズハル大学]]。ファーティマ朝時代にカイロのアズハル・モスク付属大学として設置された世界で最も古い大学である。]]<br /> [[File:Plate Buwayhid.JPG|thumb|right|200px|[[ブワイフ朝]]の統治。バグダードを制圧すると衰勢のアッバース朝を組み込みイラン・イラクを支配下に置いた。画像はブワイフ朝時代のイランで作られた陶器(ニューヨーク・[[メトロポリタン美術館]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:UZ Bukhara Samanid-mausoleum.jpg|thumb|right|200px|[[サーマーン朝]]の発展。この王朝の時代に東方イスラム世界でのペルシア文化の復興が進んだ。画像は[[ブハラ]]にある中央アジア最古の建造物[[イスマーイール・サーマーニー廟]]。]]<br /> [[ファイル:Shiva as the Lord of Dance LACMA edit.jpg|thumb|right|200px|[[チョーラ朝]]芸術の最盛期。画像はこの時代を代表する「舞踏の王」ナタラージャとしての[[シヴァ]]神像([[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Prambanan Complex 1.jpg|thumb|right|250px|[[プランバナン寺院群]]。[[ジャワ島]]で繁栄した[[古マタラム王国]]のバリトゥン王時代に着工され、続く王ダクサによって完成をみた[[ヒンドゥー教]]の大寺院。]]<br /> <br /> * 日本では[[平安時代]]中期に差し掛かるころである。[[律令国家]]体制を支えていた[[古墳時代]]以来の在地首長階層と彼らに率いられていた伝統的な地域共同体が急速に没落し、それに依存していた[[班田]]や[[戸籍]]による地方統治や税収が困難となる。この地方社会の変動への対策として地方に赴く筆頭国司([[受領]])に大きな権限を与え、あらたに経済力を握り台頭してきた富豪層を[[負名]]に編成し、[[田堵]]として[[公田]]経営を請け負わせる[[王朝国家]]体制への社会変動で律令制は形骸化した。受領の国衙統治において私的武力を蓄えた富豪層を統制する軍事警察力を担う階層として[[武士]]が登場することで中世社会への変化が本格的に生じる。<br /> ----<br /> === 900年代 ===<br /> {{main|900年代}}<br /> * [[901年]]<br /> ** [[藤原時平]]により[[菅原道真]]が[[大宰府]]へ左遷される([[昌泰の変]])。<br /> *** 元号が「[[昌泰]]」から「[[延喜]]」に替わる([[延喜の治]])。<br /> *** [[六国史]]の最後となる『[[日本三代実録]]』が完成する。<br /> ** 唐の[[昭宗]]皇帝が[[長安]]から[[李茂貞]]支配の[[鳳翔県|鳳翔]]に逃亡( - [[903年]])。<br /> * [[902年]]<br /> ** 鄭買嗣が[[南詔]]を滅ぼす。<br /> ** [[延喜の荘園整理令]]院宮王臣家が[[荒田]]閉地を請占するを禁ずる。<br /> * [[903年]] - 大宰府にて菅原道真死去。<br /> * [[904年]] <br /> ** [[朝鮮半島]]で[[弓裔]]が[[摩震]](のち[[泰封]])を建てる。<br /> ** 唐の昭宗が長安から[[朱全忠]]支配の[[洛陽]]に遷都。昭宗が殺害され、哀帝が擁立される。<br /> * [[905年]]<br /> ** 唐で白馬の禍が起きる。<br /> ** 『[[延喜式]]』編纂開始。[[紀貫之]]・[[紀友則]]・[[壬生忠岑]]らが『[[古今和歌集]]』を撰進。<br /> ** [[アッバース朝]]が[[トゥールーン朝]]を滅ぼす。<br /> * [[906年]]<br /> ** [[マジャール人]]により[[モラビア王国]]が滅亡。<br /> ** [[モースル]]の[[ハムダーン朝]]が独立。<br /> * [[907年]]<br /> ** 宣武[[節度使]]の朱全忠が[[唐]]を滅ぼし[[後梁]]を建国。[[五代十国]]時代の始まり。<br /> ** [[契丹]]([[遼]])の[[耶律阿保機]]が即位。<br /> ** 日本で『[[延喜格]]』が完成する。<br /> *** 909年には『延喜格』を頒下、910年には諸国に『延喜格』を写させる。<br /> ** [[ルーシ・ビザンツ条約 (907)|ルーシ・ビザンツ条約]]([[ルーシ・ビザンツ条約 (911)|911年に改定]])。<br /> *** この通商条約により「[[ヴァリャーグからギリシャへの道]]」が完成する。<br /> ** ポジョニ([[ブラチスラヴァ]])の戦いでハンガリーが東フランクに勝利。<br /> * [[909年]]<br /> ** [[チュニジア]]に[[シーア派]]の[[ファーティマ朝]]が成立。東西に二人のカリフが分立。<br /> ** [[メキシコ]]の[[チャパス州]][[トニナー]]の記念碑101号に暦日が記録される。<br /> *** この記録を最後に[[古典期]][[マヤ]]諸都市が放棄されたとみられ記録は途絶、以後は[[後古典期]]と呼ばれる。<br /> <br /> === 910年代 ===<br /> {{main|910年代}} <br /> * [[910年]]<br /> ** フランス中東部[[ブルゴーニュ地方]]に[[クリュニー修道院]]が設立される。<br /> ** [[イベリア半島]]の[[レオン王国]]で[[ガルシア1世 (レオン王)|ガルシア1世]]が即位し領土拡張を開始。<br /> * [[911年]]<br /> ** [[東フランク王国]]で[[カロリング朝]]が断絶。<br /> *** [[フランケン大公]][[コンラート1世 (ドイツ王)|コンラート1世]]が東フランク王に選出され、[[ドイツ]]王国[[フランケン朝]]([[コンラディン家]])が成立。<br /> ** サン・クレール・シュール・エプト条約で、[[ノルマン人]]の首長[[ロロ]]が[[ノルマンディー公国]]を樹立。<br /> * [[912年]] - 『延喜式』の編集を促進させる。<br /> * [[913年]]<br /> ** 東ローマ帝国で[[コンスタンティノス7世]]が即位(- 959年)。<br /> *** この文人皇帝は学者を集め、自らも『儀式の書』『帝国統治論』他を執筆し、「[[マケドニア朝ルネサンス]]」の中心として活躍。<br /> ** [[ブルガリア]]王[[シメオン1世]]がコンスタンティノポリスに入城し皇帝を称す。<br /> * [[914年]] - [[オルドーニョ2世]]が即位し[[オビエド]]から[[レオン (スペイン)|レオン]]に遷都([[アストゥリアス王国]]が[[レオン王国]]となる)。<br /> * [[915年]] - [[ガリリャーノ川]]の戦いで、ローマ教皇とイタリア諸侯([[アルベリーコ1世・ディ・スポレート|スポレート公]]など)連合軍がイスラム教徒を撃退。<br /> ** その功績によりイタリア王[[ベレンガリオ1世]]が皇帝として認められる。<br /> * [[916年]] - [[ラーシュトラクータ朝]]インドラ3世の北伐により[[プラティハーラ朝]]の都[[カナウジ]]が陥落する。<br /> * [[918年]]<br /> ** 朝鮮半島で[[太祖 (高麗王)|王建]]が泰封を滅ぼして[[高麗]]を建国。<br /> ** 遼の耶律阿保機が上京臨潢府(皇都)を新都に定める。<br /> * [[919年]] - [[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]が東フランク王に即位し、[[ドイツ]]王国[[ザクセン朝]]([[リウドルフィング家]])が成立。<br /> <br /> === 920年代 ===<br /> {{main|920年代}}<br /> * [[920年]] - 遼の耶律阿保機が[[契丹文字]]を制定させる。<br /> * [[921年]]<br /> ** ボン条約により東フランク王ハインリヒ1世と西フランク王シャルル3世が王位を相互承認。<br /> ** [[空海]]に「弘法」の[[大師 (僧)|大師]]号が贈られる。<br /> * [[922年]] - 西フランク王シャルル3世が廃位され、[[ロベール1世 (西フランク王)|ロベール1世]]が西フランク王となる。<br /> * [[923年]] - [[李存勗]](荘宗)が後梁を滅ぼし、洛陽を都に[[後唐]]を建国。<br /> * [[924年]] -[[アゼルスタン (イングランド王)|アゼルスタン]]が全[[イングランド]]の王として即位( - [[939年]])<br /> * [[925年]]頃 - [[トミスラヴ (クロアチア王)|トミスラヴ]]が[[クロアチア王国 (925年 - 1102年)|クロアチア王]]となる。<br /> * [[926年]]<br /> ** 契丹(遼)が[[渤海 (国)|渤海]]を滅ぼす。<br /> ** 興教門の変で後唐の荘宗が殺害され[[李嗣源]](明宗)が即位。都を洛陽から[[開封]]に遷し、[[馮道]]を宰相とする。<br /> * [[927年]] - [[アラヴィー朝]]を倒し[[カスピ海]]南岸に[[ズィヤール朝]]が成立。<br /> * [[928年]] - ジャワ東部に[[クディリ朝]]が成立。<br /> * [[929年]] - [[後ウマイヤ朝]]の[[アブド・アッラフマーン3世]]が[[カリフ]]を称し、東中西に三人のカリフが鼎立する。<br /> <br /> === 930年代 ===<br /> {{main|930年代}}<br /> * [[930年]]<br /> ** [[清涼殿落雷事件]]。[[醍醐天皇]]が没し第61代[[朱雀天皇]]が即位。[[藤原忠平]]が[[摂政]]就任。<br /> ** [[イスマーイール派]]の分派カルマト派の信者が[[メッカ]]の[[カーバ神殿]]から[[黒石]]を奪取( - 951年)。<br /> ** [[アイスランド]]で世界最古の近代[[議会]]「[[アルシング]]」が創設。<br /> * [[932年]]<br /> ** イラン系[[シーア派]]の[[ブワイフ朝]]が興る。<br /> ** [[スポレト]]公[[アルベリーコ2世]]がその母[[マロツィア]]のローマ支配を覆し、[[ポルノクラシー]]が終わる。<br /> * [[933年]] - [[ユーラブルグント王国|上ブルグンド王国]]が[[キスユラブルグント王国|下ブルグンド王国]]を併合する([[アルル王国]])。<br /> * [[935年]]<br /> ** [[平将門]]・[[藤原純友]]による[[承平天慶の乱]]が始まる(- 941年)。<br /> ** [[呉越]]国の使者蔣承勲が来日。<br /> *** 翌年には左大臣[[藤原忠平]]が蔣承勲に託して呉越国王[[銭鏐]]への書状を送る。<br /> ** 高麗が[[新羅]]を滅ぼす。<br /> ** [[エジプト]]に[[イフシード朝]]興る。<br /> * 935年頃 - 紀貫之が最初の仮名日記である『[[土佐日記]]』を著す。<br /> * [[936年]]<br /> ** 高麗が[[後百済]]を滅ぼして朝鮮半島を統一する。<br /> ** [[石敬瑭]]が後唐を滅ぼし[[後晋]]を建国。建国に協力した契丹(遼)が後晋から[[燕雲十六州]]を獲得する。<br /> ** [[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]がドイツ王に即位する。<br /> ** 伝承ではイラン東北部[[ホラサン]]地方からインドの[[グジャラート]]地方に[[ゾロアスター教]]徒が移住する([[パールシー]]の起源)。<br /> * [[937年]]<br /> ** 中国の雲南地方でタイ系の段氏が[[大理国]]を建国する。<br /> ** ブルナンブルフの戦いでイングランド王[[アゼルスタン (イングランド王)|アゼルスタン]]がスコットランド・ストラスクライド・ダブリンの連合軍に勝利。<br /> * [[939年]] <br /> ** [[ベトナム]]で&lt;!-- 最初の独立王朝である …… 一応、万春国があるのでコメントアウト--&gt;[[呉朝]]が成立。<br /> ** シマンカスの戦いでキリスト教国連合軍が後ウマイヤ軍を破る。<br /> <br /> === 940年代 ===<br /> {{main|940年代}}<br /> * [[940年]] - 平将門が「新皇」を名乗り自立するが、[[平貞盛]]・[[藤原秀郷]]らに討たれ乱は鎮圧される。[[寛朝]]により[[成田山新勝寺]]が建立される。<br /> * 940年頃 - サトゥク・ボグラ・ハンが[[ベラサグン]]を都として[[カラハン朝]]を建国。<br /> * [[941年]] - 藤原純友の乱が終わる。藤原忠平が[[関白]]就任。<br /> * [[943年]] - シーア派(イスマーイール派)に接近した[[サーマーン朝]]のナスル2世が廃位され息子のヌーフ1世が即位。<br /> * [[944年]] - 東ローマ皇帝[[ロマノス1世レカペノス]]が[[シャンルウルファ|エデッサ]]占領により獲得した「[[キリスト]]の[[自印聖像]](エデッサのマンディリオン)」をコンスタンティノポリスに移送する。<br /> * [[946年]]<br /> ** 朱雀天皇が譲位し、第62代[[村上天皇]]が即位([[天暦の治]])。<br /> ** ブワイフ朝の[[バグダード]]入城。<br /> *** ムイッズ・ウッダウラが[[アッバース朝]]カリフからアミール・アルウマラー(大[[アミール]])の称号を得る。[[イクター制]]を導入。<br /> ** [[契丹]]の[[耶律堯骨]](太宗)が大梁(開封)を陥落させ[[後晋]]を滅ぼす。<br /> * [[947年]]<br /> ** 契丹が華北を放棄し、[[開封]]を占領した劉知遠が[[後漢]]を建国。<br /> ** 菅原道真を祭神とする[[北野天満宮]]が創建される。<br /> <br /> === 950年代 ===<br /> {{main|950年代}}<br /> * [[950年]] - 村上天皇が内裏歌合を催行。<br /> * 950年頃<br /> ** [[トンガ]]が[[トゥイ・トンガ]]により統一される。<br /> ** [[チャンデーラ朝]]のダンガ王が即位し、[[プラティーハーラ朝]]から独立。<br /> ** クシ系アガウ族の女族長グディットにより[[アクスム王国]]が滅ぼされる。<br /> * [[951年]]<br /> ** 村上天皇が『[[後撰集]]』の編纂を下命。<br /> ** [[郭威]]が後漢を滅ぼし、[[後周]]を建国。<br /> ** [[ドイツ]]王オットー1世のイタリア遠征。[[ブルグントのアーデルハイト]]と結婚しイタリア王を兼任する。<br /> ** フランスの[[ル・ピュイ]]司教ゴデスカルクによる最古の[[サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路|サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼]]の記録がされる。<br /> * [[953年]] - ドイツ王オットー1世に対する息子[[リウドルフ (シュヴァーベン大公)|リウドルフ]]と娘婿[[コンラート (ロートリンゲン公)|コンラート赤毛公]]の反乱。<br /> * [[954年]]<br /> ** 高平の戦いで、後周が[[北漢]]に勝利する。<br /> ** イングランド王[[エドレッド]]がヨーク王エリックを倒し[[デーンロウ]]を征服。<br /> ** 『ハザール書簡』が交わされる( - [[961年]])。<br /> *** 後ウマイヤ朝ユダヤ人[[ワズィール]]の[[ハスダイ・イブン・シャプルト]]とハザールのヨセフ・カガンとの間で交わされたもの。<br /> * [[955年]]<br /> ** ドイツ王オットー1世が[[レヒフェルトの戦い]]で[[マジャル人]]に勝利する。<br /> ** [[後周]]の[[柴栄|世宗]]が[[廃仏]]を行う(顕徳の廃仏、[[三武一宗の法難]]の最後)。<br /> * [[957年]] - [[キエフ大公国]]王母[[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]]が[[東方正教会]]に帰依する。<br /> * [[958年]]<br /> ** 高麗で[[科挙]]制度が採用される。<br /> ** [[皇朝十二銭]]の最後「[[乾元大宝]]」が鋳造発行される。<br /> *** 「乾元大宝」の鋳造発行が停止された[[963年]]以後、江戸時代の「[[慶長通宝]]」まで日本の公鋳貨幣は途絶えることになる。<br /> <br /> === 960年代 ===<br /> {{main|960年代}}<br /> * [[960年]]<br /> ** [[ミェシュコ1世]]が[[ポーランド王国]]を建てる。<br /> ** カラハン朝のテュルク系民族がイスラム教に集団改宗する。<br /> ** [[陳橋の変]]で帝位についた[[趙匡胤]](太祖)が[[北宋|宋]]を建てる。<br /> ** 平安遷都以来初めて[[内裏]]が全焼する([[天徳 (日本)|天徳]]4年の内裏焼亡)。<br /> * 960年代 - 東ローマ帝国で最古の[[百科事典]]『[[スーダ辞典]]』が編纂される(- 970年代)。<br /> * [[961年]] <br /> ** イベリア半島で[[カスティーリャ王国|カスティーリャ伯領]]成立。<br /> ** 東ローマ帝国が[[クレタ島]]を奪回。<br /> * [[962年]]<br /> ** ドイツ王オットー1世が[[ローマ教皇]][[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]から帝冠を受け、[[神聖ローマ帝国]]が成立する。<br /> ** [[アフガニスタン]]でトルコ系の[[ガズナ朝]]が成立。<br /> * [[963年]]<br /> ** 東ローマ皇帝[[ロマノス2世]]が死去、その皇后[[テオファノ]]と結婚した将軍[[ニケフォロス2世フォカス|ニケフォロス2世]]が皇帝となる。<br /> ** [[アトスのアサナシオス|アトスのアタナシオス]]が東ローマ皇帝ニケフォロス2世から勅許を得て、[[アトス山]]にメギスティ・ラヴラ修道院を建設する。<br /> * [[965年]]<br /> ** 北欧[[デンマーク]]の[[ハラール青歯王]]が洗礼を受ける。<br /> ** [[キエフ大公]][[スヴャトスラフ1世]]の遠征によりサルケルとイティルが攻略され[[ハザール]]が滅ぼされる。<br /> * [[966年]] - ベトナムで[[丁朝]]が成立。<br /> * [[967年]]<br /> ** 村上天皇が没し、第63代[[冷泉天皇]]が即位。<br /> ** [[藤原実頼]]が関白就任。<br /> ** 神聖ローマ帝国の使節としてクレモナ司教[[リュートプランド (クレモナ司教)|リュートプランド]]がコンスタンティノポリスを訪問。<br /> * [[968年]]<br /> ** [[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]]ニケフォロス2世が[[アンティオケイア|アンティオキア]]を占領。<br /> *** 東ローマ帝国はヘラクレイオス帝以来約330年ぶりにイスラム勢力からアンティオキアを奪回した。<br /> ** 神聖ローマ皇帝オットー1世が[[マクデブルク]]大司教座を設置する。<br /> ** [[レオン王国]]北西[[ガリシア]]に上陸したヴァイキングをガリシア貴族ロセンドらが撃退する。<br /> ** 後ウマイヤ朝で「{{仮リンク|ムギーラの小箱|fr|pyxide d&#039;al-Mughira}}([[ルーヴル美術館]]蔵)」が作られる。<br /> ** [[丁部領]]が[[十二使君の乱]]を平定し、[[丁朝]][[ベトナム|大瞿越]]を建国する。<br /> * [[969年]]<br /> ** ファーティマ朝がエジプトに進出して[[イフシード朝]]を滅ぼす。<br /> ** [[源満仲]]の讒言により[[左大臣]][[源高明]]が左遷される[[安和の変]]が起こる。<br /> ** 冷泉天皇が譲位し、第64代[[円融天皇]]が即位。藤原実頼が摂政就任。<br /> ** 高麗の使節が[[対馬国]]にくる。<br /> ** 東ローマ皇帝ニケフォロス2世フォカスが暗殺され、甥の[[ヨハネス1世ツィミスケス]]が即位する。<br /> <br /> === 970年代 ===<br /> {{main|970年代}}<br /> * [[970年]] <br /> ** [[藤原伊尹]]が摂政就任。<br /> ** ファーティマ朝の[[ムイッズ]]により[[カイロ]]のアズハル・モスクと付属の[[マドラサ]]が建てられる。<br /> *** このマドラサは現存するイスラム最古の大学である[[アズハル大学]]の前身。 <br /> * [[971年]] - 宋が[[南漢]]を滅ぼす。<br /> * [[972年]]<br /> ** [[藤原兼通]]が関白就任。<br /> ** [[ペチェネグ]]族が[[ドニエプル川]]河畔で[[キエフ大公]]軍を壊滅させ、[[スヴャトスラフ1世]]を戦死させる。<br /> ** 神聖ローマ皇帝オットー2世と東ローマ帝国皇女[[テオファヌ]]の結婚。<br /> * [[973年]]<br /> ** [[デカン高原]]で[[タイラ2世]]が[[ラーシュトラクータ朝]]を倒し[[後期チャールキヤ朝|チャールキヤ朝]]を再興する。<br /> ** ファーティマ朝が[[イフリーキヤ]]の[[マフディーヤ]]からエジプトの[[カイロ]]に遷都。<br /> ** [[クリュニー修道院]]院長マヨルスがアラブ人海賊により南フランスのフラクシネートゥムで拉致される。<br /> *** プロヴァンス伯ギョーム1世が報復として南フランスからアラブ人を駆逐。<br /> * [[975年]]<br /> ** 宋で最初の[[殿試]]が行われる。<br /> ** 宋が[[南唐]]を滅ぼし[[金陵]]を占領。<br /> ** 東ローマ皇帝ヨハネス1世・ツィミスケスが[[アレッポ]]ほかシリア・パレスティナを占領。<br /> * [[976年]]<br /> ** 東ローマ帝国で[[バシレイオス2世]]が皇帝に即位( - [[1025年]])。東ローマ帝国は最盛期を迎える。<br /> ** 神聖ローマ帝国が[[オーストリア]]に[[バーベンベルク家]]の辺境伯領を設ける。<br /> ** 宋の太祖が急逝し、実弟趙光義が[[太宗 (宋)|太宗]]として即位([[千載不決の議]])。<br /> * [[977年]] - [[藤原頼忠]]が関白就任。<br /> * [[979年]] - 宋の太宗が[[北漢]]を滅ぼして中国統一する。続く高粱河の戦いで宋は遼に敗北し燕雲十六州の回復を断念。<br /> <br /> === 980年代 ===<br /> {{main|980年代}}<br /> * [[980年]] - マルギュ・シュール・シェール条約で、神聖ローマ皇帝オットー2世と西フランク王ロテールが講和。<br /> * 980年頃 - ドイツの[[エッセン]]大聖堂の「{{仮リンク|黄金の聖母子像|en|Golden Madonna of Essen}}」が作られる。<br /> * [[981年]] - 西ガンガ朝のチャムンダラヤにより[[シュラバナベルゴーラ]]に[[ジャイナ教]]祖師ゴーマテーシュヴァラ(バーフバリ)の像が建てられる。<br /> * [[983年]] - 中国で最初の[[大蔵経]]である開宝版大蔵経(蜀版大蔵経)が刊行される。<br /> * [[984年]]<br /> ** 円融天皇が譲位し、第65代[[花山天皇]]が即位。<br /> ** 遼で現存する薊県独楽寺の山門と観音閣が再建される。<br /> ** 日本僧[[ちょう然|&amp;#x595d;然]]が宋の太宗に拝謁し、法済大師号と大蔵経を賜与される。<br /> * [[985年]]<br /> ** [[源信 (僧侶)|源信]]が『[[往生要集]]』をまとめる。<br /> * [[986年]]<br /> ** [[岐溝関の戦い]]で宋が遼に大敗する。<br /> ** [[寛和の変]]により、花山天皇が退位させられる。<br /> ** 第66代[[一条天皇]]即位。[[藤原兼家]]が摂政就任。<br /> * [[987年]]<br /> ** [[西フランク王国]]でカロリング朝が断絶。<br /> *** [[ロベール家]]の[[ユーグ・カペー]]が国王に選出され[[カペー朝]][[フランス王国]]が始まる。<br /> ** [[バルセロナ伯]]ボレイ2世がカペー朝フランスから自立する。<br /> * [[988年]]<br /> ** キエフ大公[[ウラディミル1世]]が東ローマ帝国皇女[[アンナ (キエフ大公妃)|アンナ]]と結婚し、[[東方正教会]]に改宗する。<br /> ** カイロのアズハル・モスク(972年完成)付属の[[アズハル大学]]が設置される。<br /> ** ガズナ朝の[[サブク・ティギーン]]が北西インド・[[パンジャーブ]]地方の中心[[ペシャーワル]]を占領する。<br /> ** [[世界創造紀元]]が東ローマ帝国ではじめて公式に使用される(この年は6496年と算定される)。<br /> * [[989年]] - シャルー教会会議で最初の「神の平和(パックス・デイ)」が布告される。<br /> <br /> === 990年代 ===<br /> {{main|990年代}}<br /> * [[990年]]<br /> ** 藤原兼家が関白就任。[[藤原道隆]]が摂政・関白就任。<br /> ** 司教フベルトゥスによって[[シャルトル]]大聖堂付属学校が設立される([[シャルトル学派]]の始まり)。<br /> * [[991年]]<br /> ** イングランドにノルウェー王[[オーラヴ1世 (ノルウェー王)|オーラフ1世]]来襲する。デーンゲルドの徴収始まる。<br /> ** [[一条天皇]]の生母で皇太后[[藤原詮子]]に「[[東三条院]]」の院号が贈られる([[女院]]の始まり)。<br /> * [[993年]]<br /> ** [[延暦寺]]から[[慶祚]]ほか智証派([[円珍]]派)が山を下りて[[園城寺]]に入り、[[天台宗]]は延暦寺の山門派と、園城寺の寺門派に分裂する。<br /> ** この頃[[清少納言]]が『[[枕草子]]』を記す(成立年代については諸説あり)。<br /> * [[995年]]<br /> ** [[藤原道兼]]が関白に就任するが、就任後12日で死亡し「七日関白」と称される。<br /> ** [[藤原道長]]が[[内覧]]となり、事実上の摂政となる。<br /> * [[996年]]<br /> ** [[長徳の変]]により[[中関白家]]の[[藤原伊周]]・[[藤原隆家|隆家]]兄弟が失脚する。<br /> ** [[ロベール2世 (フランス王)|ロベール2世]]がフランス王として即位、しかし再婚問題が原因で教皇[[グレゴリウス5世 (ローマ教皇)|グレゴリウス5世]]に破門される。<br /> * [[997年]]<br /> ** ハンガリー大公ゲーザの死により息子[[イシュトヴァーン1世]]が後を継ぐ。<br /> ** 後ウマイヤ朝の大臣アル・マンスールが[[サンチアゴ・デ・コンポステーラ]]大聖堂を破壊する。<br /> ** ノルウェー王[[オーラヴ1世]]がニーダロス(現[[トロンハイム]])を都に定める。<br /> ** 奄美島人が対馬・壱岐に来襲。<br /> * 999年 - カラハン朝のイリグ・ハンが[[ブハラ]]を占領しサーマン朝を滅ぼす。<br /> <br /> === 1000年代 ===<br /> {{main|1000年代}}<br /> * [[1000年]] <br /> ** イシュトヴァーン1世が戴冠式を行い、正式に[[ハンガリー王国]]が成立する。<br /> ** 『チャム王家年代記』によるとヴィジャヤ朝[[チャンパ王国]]が成立する。<br /> * 1000年頃 - [[アイスランド]]人の[[レイフ・エリクソン]]がヨーロッパ系としてはじめて[[北アメリカ大陸]]に到達。<br /> ** この地は[[ヴィンランド]]と名づけられ、入植活動が行われる。[[ニューファンドランド]]の[[ランス・オ・メドー]]遺跡がそれに相当するか。<br /> <br /> == フィクションのできごと ==<br /> * 10世紀 - フランスの[[ポワトゥー]]地方の領主として[[リュジニャン家]]が登場するが、この家の始祖は下半身が蛇である妖精[[メリュジーヌ]]を妻としていた。メリュジーヌの力により居城のリュジニャン城も建てられている(「メリュジーヌ伝説」)。<br /> * 928年 - 旅の僧安珍が清姫に懸想され逃亡するも、紀州[[道成寺]]の大鐘の中で蛇体と化した清姫に焼き尽くされる(『[[大日本国法華験記]]』ほか「[[安珍・清姫伝説]]」)。<br /> * 930年 - [[信貴山]]の命蓮が祈祷により、転輪聖王の金輪を転がす剣の護法童子を遣わし、醍醐天皇の病気を平癒させる(『[[信貴山縁起]]絵巻』)。<br /> * 939年以前 - [[近江国]][[三上山]]の[[百足]]が[[琵琶湖]]の龍神に依頼された[[藤原秀郷]](俵藤太)によって討たれる(「百足退治伝説」)。<br /> * 940年 - 平安京で晒し首にされた[[平将門]]の首級が関東を目指して舞い上がり空中を飛行し[[武蔵国]][[豊島郡 (武蔵国)|豊嶋郡]]芝崎村(東京都千代田区大手町)に落下する(「[[平将門の首塚]]伝説」)。<br /> * 956年 - [[藤原師輔]]が内裏から退出して二条大宮「あははの辻」にて[[百鬼夜行]]に遭遇するも「[[尊勝仏頂|尊勝陀羅尼]]」を誦して難を逃れる(『[[大鏡]]』)。<br /> * 970年 - [[信濃国]][[戸隠]]の鬼女紅葉が勅命を受けた[[平維茂]]によって討たれる(能『[[紅葉狩 (能)|紅葉狩]]』や小説『[[北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全]]』ほか「[[紅葉伝説]]」)。<br /> * 976年 - [[比叡山]]の稚児であった梅若丸が人買いの信夫藤太により連れ出され、奥州に行く途上に[[隅田川]]の近辺で病に倒れ12歳で死去。その後その母が安否を尋ね隅田川に来た時に霊となった梅若丸が出現する([[木母寺]]の伝承・能『[[隅田川 (能)|隅田川]]』ほか松若丸伝説)。<br /> * 995年 - [[丹波国]][[大江山]]の[[酒呑童子]]が勅命を受けた[[源頼光]]と[[頼光四天王]]によって討たれる(「[[酒呑童子]]伝説」)。<br /> * 996年以降 - [[神聖ローマ皇帝]][[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]のもとへ無実の罪で斬首にされた夫の首を携え無念を晴らすべく伯爵夫人が現れる。夫人は皇帝の面前での[[神明裁判]]で熱せられた鉄塊を握りしめ身の潔白を訴え勝利を勝ち取る(「オットーの審判伝説」)。<br /> * 999年以前 - オーリヤックのジェルベールが、コルドバのアラブ人から魔術を学びその技により悪魔と契約する。やがて彼は[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]]として教皇となる(「教皇シルヴェステル2世の悪魔伝説」)。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> === 東アジア ===<br /> ==== 唐 ====<br /> * 崔胤(? - [[904年]]) - 唐末の宰相・李茂貞から皇帝[[昭宗]]奪還のため朱全忠と結び宦官勢力を殲滅・後年朱全忠に殺される<br /> * 裴枢([[841年]] - [[905年]]) - 唐末の宰相・朱全忠により他の高官とともに白馬で虐殺される(白馬の禍)<br /> * 李振(? - [[923年]]) - 唐末五代の政治家・朱全忠の腹心・唐の[[昭宗 (唐)|昭宗]]を弑逆し朱全忠に白馬での高官殺害を進言する<br /> * [[李茂貞]]([[856年]] - [[924年]]) - 唐末五代の節度使・皇帝昭宗を擁して[[鳳翔県|鳳翔]]遷都を企てるも挫折・唐滅亡後は独立<br /> <br /> ==== 五代十国 ====<br /> * [[朱全忠]]([[852年]] - [[912年]]) - 五代[[後梁]]の初代皇帝(太祖)(在位[[907年]] - [[912年]])・門閥貴族を根絶し唐を滅ぼす<br /> * [[李存勗]]([[885年]] - [[926年]]) - 五代[[後唐]]の初代皇帝(荘宗)(在位[[923年]] - [[926年]])・[[李克用]]の息子・[[洛陽]]に遷都<br /> * [[李嗣源]]([[926年]] - [[933年]]) - 五代後唐の第2代皇帝(明宗)(在位[[926年]] - [[933年]])・李克用の義子・荘宗を倒し開封に遷都・馮道を登用<br /> * [[石敬瑭]]([[892年]] - [[942年]]) - 五代[[後晋]]の初代皇帝(高祖)(在位[[936年]] - [[942年]])・[[燕雲十六州]]を遼に割譲<br /> * [[劉知遠]]([[895年]] - [[948年]]) - 五代[[後漢 (五代)|後漢]]の初代皇帝(高祖)(在位[[947年]] - [[948年]])・遼の華北撤退後に建国<br /> * [[郭威]]([[904年]] - [[954年]]) - 五代[[後周]]の初代皇帝(太祖)(在位[[950年]] - [[954年]])・後漢の[[劉承祐|隠帝]]を倒し建国<br /> * [[柴栄]]([[921年]] - [[959年]]) - 五代後周の第2代皇帝(世宗)(在位[[954年]] - [[959年]])・五代随一の名君・[[三武一宗の法難|後周の法難]](廃仏)を実施<br /> * [[王建 (前蜀)|王建]]([[847年]] - [[918年]]) - 十国[[前蜀]]の初代皇帝(高祖)(在位[[907年]] - [[918年]])・田令孜を倒して四川で独自勢力を築く<br /> * [[銭鏐]]([[852年]] - [[932年]]) - 十国[[呉越]]の初代皇帝(太祖)(在位[[907年]] - [[932年]])・銭塘や江海塘の修理や日本への遣使で有名<br /> * [[李煜]]([[937年]] - [[978年]]) - 十国[[南唐]]の末代皇帝(後主)(在位[[961年]] - [[975年]])・[[詞]]文学の大成者だが宋に国を滅ぼされる<br /> * [[布袋]](? - [[917年]]?) - 唐末五代の禅僧・本名は契此か・[[弥勒菩薩]]の化身とされ日本では[[七福神]]の一人とされる<br /> * 張承業([[845年]] - [[922年]]) - 唐末五代の宦官・唐滅亡後は李克用に近侍・李存勗の皇帝就任には反対し諫死する<br /> * [[楊凝式]]([[873年]] - [[954年]]) - [[五代十国]]時代の官僚・書家として「古意帖」「乞花帖」「韮花帖」がある <br /> * [[馮道]]([[882年]] - [[954年]]) - 五代十国時代の政治家・[[中国の宰相|宰相]]・五朝八姓十一君に仕えたことは毀誉褒貶が激しい<br /> * 欧陽炯([[896年]] - [[971年]]) - 十国[[前蜀]][[後蜀]]から北宋の詞人・『花間集』序を執筆し「花間派」を代表する <br /> * 董源(生没年不詳) - 十国南唐の宮廷画家・江南の風景を描いた山水画に優れ「瀟湘図巻」「夏山図巻」などの伝承作がある <br /> * 巨然(生没年不詳) - 十国南唐から北宋の画家・董源の弟子・南唐滅亡後は開封に移る・「層巌叢樹図」などの伝承作がある<br /> * 顧閎中([[910年]]頃 - [[980年]]) - 十国南唐の画家・李煜に命じられ描いた「韓煕載夜宴図」は南唐の爛熟を示す画として名高い<br /> <br /> ==== 北宋 ====<br /> * [[趙匡胤]]([[927年]] - [[976年]]) - 北宋の初代皇帝(太祖)(在位[[960年]] - [[976年]])・[[陳橋の変]]で皇帝に擁立される<br /> * [[太宗 (宋)|趙匡義]]([[939年]] - [[997年]]) - 北宋の第2代皇帝(太宗)(在位[[976年]] - [[997年]])・[[北漢]]を討ち中華を再統一<br /> * [[趙普]]([[922年]] - [[992年]]) - 北宋の政治家・宰相・趙匡胤に仕え陳橋の変での活躍で北宋の建国に貢献した<br /> * 李昉([[925年]] - [[996年]]) - 北宋の政治家・宰相・太宗に命じられ『[[太平広記]]』『[[太平御覧]]』『[[文苑英華]]』を編纂<br /> * [[陳摶|陳希夷]](? - [[984年]]/[[989年]]) - 五代宋初の隠士・儒仏道三教の調和を説く・紫微斗数や河洛理数などの占術を創始したか<br /> * [[楊業]](? - [[986年]]) - 北漢から北宋に帰順した武将・遼との戦いに従事・『[[楊家将演義]]』では楊一族の始祖として活躍<br /> <br /> ==== 契丹 ====<br /> * [[耶律阿保機]]([[872年]] - [[926年]]) - 契丹(遼)の初代皇帝(太祖)(可汗在位[[907年]] - 皇帝在位[[916年]] - [[926年]])・渤海を滅ぼす<br /> * [[述律皇后|月里朶]]([[879年]] - [[953年]]) - 契丹(遼)の初代皇后(淳欽述律皇后)(皇后在位[[907年]] - [[926年]]・皇太后在位[[926年]] - [[953年]])・夫太祖の建国と次男太宗の治世を助ける<br /> * [[耶律突欲]]([[899年]] - [[936年]]) - 契丹(遼)の皇太子・[[東丹国]]国王(在位[[926年]] - [[930年]])・父太祖、弟太宗と共に渤海を滅ぼす<br /> * [[耶律堯骨]]([[902年]] - [[947年]]) - 契丹(遼)の第2代皇帝(太宗)(在位[[927年]] - [[947年]])・後晋を滅ぼす<br /> * [[世宗 (遼)|耶律兀欲]]([[919年]] - [[951年]]) - 契丹(遼)の第3代皇帝(世宗)(在位[[947年]] - [[951年]])・中央集権化の改革を行う<br /> * [[穆宗 (遼)|耶律述律]]([[931年]] - [[969年]]) - 契丹(遼)の第4代皇帝(穆宗)(在位[[951年]] - [[969年]])・従兄世宗の一族を粛正<br /> * [[景宗 (遼)|耶律明扆]]([[948年]] - [[982年]]) - 契丹(遼)の第5代皇帝(景宗)(在位[[969年]] - [[982年]])・[[太原]]の[[沙陀族]]政権[[北漢]]と結び配下とする<br /> * [[聖宗 (遼)|耶律文殊奴]]([[972年]] - [[1031年]]) - 契丹(遼)の第6代皇帝(聖宗)(在位[[982年]] - [[1031年]])・[[北宋]]と[[澶淵の盟]]を結び契丹の全盛期を現出<br /> <br /> ==== 朝鮮 ====<br /> * [[太祖 (高麗王)|王建]]([[877年]] - [[943年]]) - 高麗の初代国王(太祖)(在位[[918年]] - [[943年]])・[[新羅]]や[[後百済]]を滅ぼす<br /> <br /> ==== 日本 ====<br /> * [[菅原道真]]([[845年]] - [[903年]]) - 公卿・[[右大臣]]・昌泰の変で失脚・怨霊伝説から[[天満宮]]の祭神とされる<br /> * [[藤原時平]]([[871年]] - [[909年]]) - 公卿・左大臣・昌泰の変の首謀者・最初の[[荘園整理令]]を行い[[延喜の治]]の端緒となる<br /> * [[藤原忠平]]([[880年]] - [[949年]]) - 公卿・摂政・関白・[[太政大臣]]・藤原時平や[[藤原仲平]]の弟・[[延喜の治]]を指導<br /> * [[藤原利仁]](生没年不詳) - 武将・鎮守府将軍・武蔵守ほか各地の地方官を歴任・『今昔物語集』の説話や伝説で有名<br /> * [[紀貫之]]([[872年]]? - [[945年]]) - 官人・木工権頭・『土佐日記』作者・『古今和歌集』選者<br /> * [[平将門]](? - [[940年]]) - 武将・承平天慶の乱では関東で「新皇」を名乗る・怨霊伝説から神田明神などの祭神とされる<br /> * [[藤原秀郷]](生没年不詳) - 武将・鎮守府将軍・平将門追討の功績で有名・近江三上山の百足退治伝説でも知られる。<br /> * [[小野好古]]([[884年]] - [[968年]]) - 公卿・参議・大宰大弐・追捕使長官として藤原純友を追討<br /> * [[藤原純友]]([[893年]]? - [[941年]]) - 官人・伊予掾・承平天慶の乱では瀬戸内海で海賊を率い国府を襲う<br /> * [[小野道風]]([[894年]] - [[967年]]) - 官人・内蔵頭・書家で「[[三蹟]]」の一人・「智証大師諡号勅書」などが残る<br /> * [[藤原実頼]]([[900年]] - [[970年]]) - 公卿・摂政・関白・太政大臣・北家小野宮流の祖・[[天暦の治]]を指導・安和の変の首謀者か<br /> * [[空也]]([[903年]] - [[972年]]) - 僧侶・[[浄土教]]の先駆者として「市聖」と呼ばれる<br /> * [[藤原師輔]]([[909年]] - [[960年]]) - 公卿・右大臣(九条右大臣)・北家九条流の祖・天暦の治を指導<br /> * [[性空]]([[910年]] - [[1007年]]) - 天台宗の僧・書写上人・[[播磨国]][[圓教寺|書写山円教寺]]開山で[[花山天皇|花山法皇]]の尊崇を受ける <br /> * [[源順]]([[911年]] - [[983年]]) - 学者・歌人・日本最古の分類体辞典『[[和名類聚抄]]』を編纂・[[梨壺の五人]]の一人<br /> * [[丹波康頼]]([[912年]] - [[995年]]) - 医師・日本最古の医学書『[[医心方]]』を編纂<br /> * [[良源]](慈恵大師)([[912年]] - [[985年]]) - [[天台座主]]・通称は元三大師・[[比叡山]][[延暦寺]]の中興の祖<br /> * [[源満仲]]([[912年]] - [[997年]]) - 武将・[[鎮守府将軍]]・[[摂津源氏]]/[[大和源氏]]/[[河内源氏]]の祖<br /> * [[源高明]]([[914年]] - [[983年]]) - 公卿・左大臣(西宮左大臣)・安和の変で失脚・有職故実の書『[[西宮記]]』を残す<br /> * [[安倍晴明]]([[921年]] - [[1005年]]) - [[陰陽師]]・天文博士・神秘的な人物として伝説化される<br /> * [[藤原兼家]]([[929年]] - [[990年]]) - 公卿・摂政・関白・太政大臣・藤原道長の父・[[寛和の変]]で一条天皇を擁立<br /> * [[慶滋保胤]]([[933年]]以後 - [[1002年]]) - 文人・儒学者で『池亭記』・『[[日本往生極楽記]]』の著者<br /> * [[藤原道綱母]]([[936年]]? - [[995年]]) - 藤原兼家の妻の一人・藤原倫寧の娘・『[[蜻蛉日記]]』を残す<br /> * [[奝然]]([[938年]] - [[1016年]]) - 入宋僧・宋の太宗に引見される・京都[[清涼寺]]の開祖<br /> * [[源信 (僧侶)|源信]]([[942年]] - [[1017年]]) - [[天台宗]]の僧侶・良源の弟子・『[[往生要集]]』著者<br /> * [[藤原佐理]]([[944年]] - [[998年]]) - 公卿・[[参議]]・書家で「三蹟」の一人・「詩懐紙」「離洛帖」などが残る<br /> * [[源頼光]]([[948年]] - [[1021年]]) - 武将・藤原摂関家の家司・[[大江山]][[酒呑童子]]征伐伝説で知られる<br /> * [[藤原道隆]]([[953年]] - [[995年]]) - 公卿・摂政・関白([[中関白家|中関白]])・藤原兼家の長男・伊周や定子の父<br /> * [[藤原道長]]([[966年]] - [[1027年]]) - 公卿・摂政・[[内覧]]・通称は御堂関白・藤原兼家の四男・摂関政治の最盛期<br /> * [[清少納言]]([[966年]]頃 - [[1025年]]?) - 一条天皇の中宮[[定子]]の[[女房]]・『枕草子』作者<br /> <br /> === イスラム世界 ===<br /> ==== サーマーン朝 ====<br /> * [[イスマーイール・サーマーニー]](? - [[907年]]) - サーマーン朝のアミール(在位[[892年]] - [[907年]])・サーマーン朝の全盛期<br /> ==== カラハン朝 ====<br /> * [[サトゥク・ボグラ・ハン]](? - [[993年]]) - カラハン朝の君主(在位[[920年]] - [[958年]])・テュルク系民族の集団改宗を行ったという<br /> ==== ガズナ朝 ====<br /> * [[アルプテギーン]]([[925年]]? - [[963年]]) - ガズナ朝の建国者(在位[[962年]] - [[963年]])・サーマーン朝のホラーサーン総督から自立する<br /> ==== ブワイフ朝 ====<br /> * ムイッズッダウラ(? - [[967年]]) - [[イラク]]の[[ブワイフ朝]]の初代[[大アミール]](在位[[945年]] - [[967年]])・[[イクター制]]を導入<br /> ==== ファーティマ朝 ====<br /> * [[アブー=アブドゥッラー|アブー・アブドゥッラー]](? - [[911年]]/[[912年]]) - [[マグリブ]]の[[イスマーイール派]]の教宣員・[[ファーティマ朝]]建国の功臣<br /> * ウバイドゥッラー([[873年]] - [[934年]]) - ファーティマ朝の初代カリフ(在位[[909年]] - [[934年]])・[[アグラブ朝]]を倒し[[チュニジア]]に建国<br /> * [[ムイッズ]]([[932年]] - [[975年]]) - ファーティマ朝の第4代カリフ(在位[[953年]] - [[975年]])・[[イフリーキヤ]]から[[カイロ]]に遷都<br /> * [[ジャウハル]](? - [[992年]]) - ファーティマ朝の将軍・カリフのムイッズに仕える・[[イフシード朝]]を倒しエジプトにカイロを建設<br /> * アズィーズ([[955年]] - [[996年]]) - ファーティマ朝の第5代カリフ(在位[[975年]] - [[996年]])・アズハルモスク付属の[[アズハル学院]]を創設<br /> ==== 後ウマイヤ朝 ====<br /> * [[アブド・アッラフマーン3世]]([[889年]] - [[961年]]) - 後ウマイヤ朝の初代カリフ(在位[[929年]] - [[961年]])・王朝の最盛期・[[ザフラー宮殿]]を造営<br /> * [[ハカム2世]]([[914年]] - [[976年]]) - 後ウマイヤ朝の第2代カリフ(在位[[961年]] - [[976年]])・首都[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]の図書館に約40万冊の書物を蒐集した<br /> * ムハンマド・イブン・アビー・アーミル([[938年]] - [[1002年]]) - 後ウマイヤ朝の大臣・カリフの[[ヒシャーム2世]]に代わり実権を握る・キリスト教諸国に大勝<br /> <br /> ==== 学者・詩人 ====<br /> * [[ルーダキー]]([[850年]]代初頭 - [[940年]]頃) - サーマーン朝の[[ペルシア語]]詩人・ペルシア詩の確立者であり『[[カリーラとディムナ]]』他がある<br /> * アル・ハッラージュ([[857年]]/[[858年]] - [[922年]]) - ペルシアのイスラム神秘主義者・神人合一の神秘体験を説き異端として処刑される<br /> * [[アル・ラーズィー]]([[865年]] - [[925年]]) - ペルシアの錬金術師・化学者・哲学者・医師・[[四体液説]]の誤りを証明<br /> * [[ファーラービー]]([[870年]]? - [[950年]]) - ファーラーブ出身のイスラム哲学者・数学者・[[アリストテレス]]に次ぐ「第二の師」とも呼ばれる<br /> * アシュアリー([[873年]] - [[935年]]) - イスラム神学者・[[ムウタズィラ学派]]ジュッバーイーの弟子だったが離反し[[アシュアリー学派]]の祖となる<br /> * [[サアディア・ベン・ヨセフ|サアディア・ガオン]]([[882年]]/[[892年]] - [[942年]]) - バビロニアのスーラにあるユダヤ学院長・[[カライ派]]を論駁し旧約聖書のアラブ語訳を完成 <br /> * [[アフマド・イブン・ファドラーン|イブン・ファドラーン]](活躍時期[[921年]] - [[922年]]) - アッバース朝の使節として各地を旅行し『[[ヴォルガ・ブルガール]]旅行記』を残す<br /> * [[マスウーディー]]([[896年]] - [[956年]]) - バグダード出身の歴史地理学者・「アラブのヘロドトス」・著作に『黄金の牧場と石の鉱山』がある<br /> * [[アブー・アル・ファラジュ・アル・イスファハーニー|アブル・ファラジュ]]([[897年]] - [[967年]])- [[エスファハーン]]生身の学者・アラブ人の詩歌の記録をまとめた『歌の書』を残す<br /> * [[アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィー]]([[903年]] - [[986年]]) - ブワイフ朝で活躍した天文学者・『星座の書』『[[アストロラーベ]]の使用法』がある<br /> * イブン・ハウカル(? - [[978年]]頃) - ニシビス出身の地理学者・インドからアフリカまで遍歴・著書に『大地の姿』(『諸道諸国志』)がある<br /> * アル・ムタナッビー([[915年]] - [[965年]]) - [[クーファ]]出身のアラビア語詩人・「預言者を僭称する者」の別名あり・華麗な作品が多いが殺害される<br /> * ブズルク・イブン・シャフリヤール(10世紀後半) - イスラム航海者・インド洋の航海者に伝わる説話を『インドの驚異譚』でまとめる<br /> * [[ダキーキー]]([[930年]]/[[940年]] - [[978年]]頃) - サーマーン朝で活躍したペルシア語詩人・フィルドウスィーに先行し影響を与える<br /> * [[フェルドウスィー]]([[934年]] - [[1025年]]) - サーマーン朝・[[ガズナ朝]]で活躍したペルシア語詩人・イラン民族叙事詩『[[シャー・ナーメ]]』を書く<br /> * イブン・アンナディーム([[936年]] - [[995年]]/[[998年]]) - バグダード出身の文献学者・この時代のアラビア語文献を網羅した『目録の書』を編纂する<br /> * [[タヌーヒー]]([[939年]] - [[994年]]) - [[バスラ]]出身の法官・著作家・イスラム世界の[[説話]]を集めた『座談の糧』で知られる<br /> * [[イブン・スィーナー]]([[980年]] - [[1037年]]) - [[ブハラ]]出身の[[哲学者]]・[[科学者]]・[[医師]]としては『医学典範』『治癒の書』がある<br /> <br /> === 南アジア ===<br /> * チャムンダラヤ([[940年]] - [[989年]]) - インドの西ガンガ朝の政治家・軍人・建築家・詩人・シュラバナベルゴラのゴーマティーシュヴァラ像を建立<br /> * [[タイラ2世]](? - [[997年]]) - [[インド]]の[[後期チャールキヤ朝]]の初代の君主(在位[[973年]] - [[997年]])・[[ラーシュトラクータ朝]]を滅ぼす<br /> * ラージャラージャ1世(? - [[1014年]]頃) - インドの[[チョーラ朝]]の君主(在位[[985年]] - [[1014年]]頃)・チョーラ朝最盛期の王<br /> * ゴーラクシャナータ(10世紀) - インド北部の宗教家・「[[ハタ・ヨーガ]]」の創始者で『シッダ・シッダーンタ・パダッティ』の作者とされる<br /> <br /> === キリスト教世界 ===<br /> ==== フランス王国 ====<br /> * {{仮リンク|クリュニーのベルノー|en|Berno of Cluny}}([[850年]] - [[927年]]) - [[クリュニー修道院]]初代院長・[[アキテーヌ公]][[ギヨーム1世 (アキテーヌ公)|ギヨーム1世]]の援助で修道院を建立<br /> * [[ロロ]](徒歩王)([[860年]]頃 - [[933年]]) - [[ノルマン人]]の族長・初代[[ノルマンディー公]](在位[[911年]] - [[933年]])<br /> * クリュニーのオド([[879年]] - [[942年]]) - [[クリュニー修道院]]2代院長・教会刷新運動を進め俗界権力の容喙を拒絶<br /> * ゴルツェのヨハネス([[900年]] - [[974年]]) - ゴルツェ修道院院長・修道院改革をロレーヌ地方からドイツに広げる<br /> * [[ユーグ・カペー]]([[941年]] - [[996年]]) - フランスの初代国王・[[カペー朝]]の祖(在位[[987年]] - [[996年]])・神聖ローマ皇帝オットー1世の甥<br /> * [[ロベール2世 (フランス王)|ロベール2世]](敬虔王)([[972年]] - [[1031年]]) - フランス国王(在位[[996年]] - [[1031年]])・[[ベルト・ド・ブルゴーニュ|ベルト]]との結婚で教皇から破門される<br /> <br /> ==== 神聖ローマ帝国 ====<br /> * [[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]](捕鳥王)([[876年]] - [[936年]]) - ザクセン朝の祖・ドイツ(東フランク)王(在位[[919年]] - [[936年]])<br /> * [[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]](大帝)([[912年]] - [[973年]]) - ザクセン朝のドイツ王・初代[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]](在位[[962年]] - [[973年]])・マジャール人を撃退<br /> * [[ブルグントのアーデルハイト]]([[931年]]/[[932年]] - [[999年]]) - 神聖ローマ皇帝オットー1世の皇后・息子夫妻の死後はオットー3世の摂政となる<br /> * [[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]([[955年]] - [[983年]]) - ザクセン朝の神聖ローマ皇帝(在位[[973年]] - [[983年]])・東ローマ皇女[[テオファヌ]]と結婚<br /> * [[テオファヌ]]([[960年]] - [[991年]]) - 神聖ローマ皇帝オットー2世の皇后・東ローマ皇帝の姪・夫君死後は息子のオットー3世の摂政となる<br /> * [[オットー3世]]([[980年]] - [[1002年]]) - ザクセン朝の神聖ローマ皇帝(在位[[996年]] - [[1002年]])・古代ローマへの憧憬からイタリア遠征を行う<br /> * [[ロスヴィータ]]([[935年]]頃 - [[973年]]頃) - ドイツのベネディクト会律修修女・オットー朝ルネサンスを代表するラテン語劇作家・詩人<br /> <br /> ==== イタリア ====<br /> * [[ベレンガーリオ1世]]([[850年]]? – [[924年]]) - フリウリ辺境伯・イタリア王・ガリリャーノ川の戦いで勝利し西ローマ皇帝(在位[[915年]] - [[924年]])となる <br /> * [[マロツィア]]([[890年]]頃 - [[932年]]/[[937年]]) - ローマの女性政治家・その教皇庁支配は[[ポルノクラシー]](娼婦政治)と呼ばれる<br /> * [[リュートプランド (クレモナ司教)|クレモナのリウュートプランド]]([[922年]]頃 - [[972年]]) - [[クレモナ]]司教・東ローマ帝国の宮廷に派遣され『コンスタンティノポリス使節記』を残す<br /> * [[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]([[937年]] - [[964年]]) - ローマ教皇(在位[[955年]] - [[964年]])・オットー1世を神聖ローマ皇帝として戴冠 <br /> * [[シルウェステル2世]]([[950年]]? - [[1003年]]) - ローマ教皇(在位[[999年]] - [[1003年]])・オットー3世の家庭教師・数学者・天文学者でもある<br /> <br /> ==== 東ローマ帝国 ====<br /> * [[レオーン6世]](ソフォス)([[866年]] - [[912年]]) - 東ローマ帝国[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア朝]]の皇帝(在位[[886年]] - [[912年]])・「バシリカ法典」編纂や四婚問題で知<br /> * コンスタンティノス・ケファラス(10世紀初頭) - 東ローマ帝国の文人・古代からの詩文を集めた『ギリシア詞華集(パラティン詞華集)』を編纂する<br /> * [[コンスタンティノス7世]](ポルフュロゲネトス)([[905年]]? - [[959年]]) - 東ローマ帝国マケドニア朝の皇帝(在位[[913年]] - [[920年]]、[[944年]] - [[959年]])<br /> * [[ニケフォロス2世フォカス]]([[913年]] - [[969年]]) - 東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位[[963年]] - [[969年]])・シリアのアンティオキアを奪回<br /> * [[ヨハネス1世ツィミスケス]]([[925年]] - [[976年]]) - 東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位[[969年]] - [[976年]])・先帝に続き東方領土を拡大<br /> * [[テオファノ]]([[941年]]頃 - ?) - 東ローマ皇帝ロマノス2世の皇后・続く皇帝ニケフォロス2世の皇后・東ローマ帝国史上最大の悪女とも言われる<br /> * [[バシレイオス2世]](ブルガロクトノス)([[958年]] - [[1025年]]) - 東ローマ帝国マケドニア朝最盛期の皇帝(在位[[976年]] - [[1025年]])<br /> * [[アトスのアサナシオス|アトスのアタナシオス]]([[920年]]頃 - [[1000年]]頃) - 東ローマ帝国の修道士・[[アトス山]]に[[メギスティス・ラヴラ修道院]]を建立し聖地の名を高める<br /> * [[シメオン・メタフラスト|シメオン・メタフラテス]](10世紀後半) - 東ローマ帝国の神学者・『聖人伝(メノロギオン)』ほか祈祷文など多くの著作で知られる<br /> <br /> ==== 東欧 ====<br /> * [[シメオン1世]]([[864年]] - [[927年]]) - ブルガリア国王(在位[[893年]] - [[913年]])・ブルガリア皇帝(在位[[913年]] - [[927年]])<br /> * [[ボゴミル派|ボゴミル]](10世紀前半) - ブルガリア支配下の西マケドニアの司祭・異端パウロ派の影響から善悪二元論のボゴミル派を創設<br /> * [[トミスラヴ (クロアチア王)|トミスラヴ]](? - [[928年]]) - [[クロアチア]]の初代国王([[925年]] - [[928年]])・マジャール人やフランク人を抑えて独立を達成する<br /> * [[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]](? - [[969年]]) - キエフ大公国第2代大公[[イーゴリ1世]]の妃・第3代大公[[スヴャトスラフ1世]]の摂政・キリスト教(東方正教会)を受容<br /> * [[ヴァーツラフ1世 (ボヘミア公)|ヴァーツラフ1世]]([[907年]] - [[935年]]) - [[プシェミスル朝]]の[[ボヘミア公]](在位[[921年]] - [[935年]])・都[[プラハ]]に[[聖ヴィート大聖堂]]を建立<br /> * [[ミェシュコ1世]]([[935年]]? - [[992年]]) - [[ピャスト朝]]の初代[[ポーランド]]国王(在位[[963年]] - [[992年]])・キリスト教(カトリック教会)を受容<br /> * {{仮リンク|ナレクのグレゴリオス|en|Gregory of Narek}}([[951年]] - [[1003年]]/[[1010年]]) - アルメニアの修道士・神学者・詩文に優れ『哀歌』の名で知られる祈祷書を執筆<br /> * [[ウラディミル1世]](聖公)([[956年]] - [[1015年]]) - [[キエフ大公]](在位980年 - 1015年)・キリスト教(東方正教会)を受容<br /> * [[イシュトヴァーン1世]]([[975年]] - [[1038年]]) - [[ハンガリー]]の建国者(在位[[997年]] - [[1038年]])・キリスト教(カトリック教会)を受容<br /> * [[プラハのアダルベルト]]([[956年]] - [[997年]]) - [[プラハ]]司教・東欧各地(ボヘミア・ハンガリー・ポーランド)に宣教・殉教して守護聖人とされる<br /> <br /> ==== 北欧 ====<br /> * [[ゴーム老王|ゴーム]](老王)(? - [[958年]]?) - [[デンマーク国王]](在位[[936年]]? - [[985年]]?)・王妃との名を刻んだ[[イェリング墳墓群]]の石碑で有名<br /> * [[ハーラル1世 (デンマーク王)|ハーラル1世]](青歯王)(? - [[986年]]?) - デンマーク国王(在位[[958年]]? - [[985年]]?)・キリスト教(カトリック教会)を受容<br /> * [[オーラヴ1世 (ノルウェー王)|オーラヴ1世]]([[960年代]] - [[1000年]]) - ノルウェー国王(在位[[995年]] - [[1000年]])・キリスト教(カトリック教会)を受容<br /> <br /> ==== アイスランド ====<br /> * [[赤毛のエイリーク]]([[950年]]頃 - [[1003年]]頃) - [[ノルウェー]]生まれで[[アイスランド]]で活躍した航海者・[[グリーンランド]]を発見か<br /> * [[レイフ・エリクソン]] ([[970年]]頃 - [[1020年]]頃) - アイスランド生まれの[[ノルマン人]]航海者・[[アメリカ大陸]]を発見か・エイリークの息子<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &#039;&#039;&#039;注釈&#039;&#039;&#039;<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> &#039;&#039;&#039;出典&#039;&#039;&#039;<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|3}}<br /> &lt;!-- == 参考文献 == --&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[年表]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{Commonscat-inline}}<br /> <br /> {{十年紀と各年| 世紀 = 10 | 年代 = 900 }}<br /> {{世紀}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:10せいき}}<br /> [[Category:10世紀|*]]</div> 111.87.58.182 18世紀 2018-07-27T11:45:54Z <p>111.87.58.182: 、/* フィクションのできごと */</p> <hr /> <div>{{翻訳中途|1=[https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=18th_century&amp;oldid=698847676 英語版 &quot;18th century&quot; 16:36, 8 January 2016 (UTC)]|date=2016年1月}}<br /> {{出典の明記|date=2012年3月}}<br /> {{centurybox}}<br /> [[ファイル:Prise de la Bastille.jpg|250px|thumb|right|フランス革命。1789年7月14日の「[[バスティーユ襲撃]]」から始まった革命はフランスのみならずヨーロッパ全域に大きな衝撃を与えた。画像は{{仮リンク|ジャン・ピエール・ウエル|fr|Jean-Pierre Houël}}が描いたバスティーユ襲撃([[フランス国立図書館]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Salon de Madame Geoffrin.jpg|250px|thumb|right|「[[啓蒙時代|啓蒙の世紀]](Siècle des Lumières)」。理性による進歩が広く信じられた時代で、多くの啓蒙思想家が[[サロン]]を舞台に活躍した。画像は{{仮リンク|ジョフラン夫人|fr|Marie-Thérèse Rodet Geoffrin}}のサロンに集まる啓蒙思想家たちを描いたシャルル・ガブリエル・ルモニエの絵画([[マルメゾン城|国立マルメゾン城美術館]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:An Experiment on a Bird in an Air Pump by Joseph Wright of Derby, 1768.jpg|250px|thumb|right|科学的精神の広がり。イギリスでは科学者間の交流を深める[[ルナー・ソサエティ]](月光協会)などの団体が生まれた。画像はこの協会に影響を受けた[[ジョセフ・ライト (画家)|ジョゼフ・ライト(ライト・オブ・ダービー)]]の「空気ポンプの実験」([[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]蔵)。]]<br /> [[File:Goya-Capricho-43.jpg|thumb|right|200px|啓蒙時代の裏面。18世紀末になると楽天的な啓蒙思想には重大な疑義が付きつけられるようになる。画像はスペインの画家[[フランシスコ・デ・ゴヤ]]の版画集『ロス・カプリチョス』の「{{仮リンク|理性の眠りは怪物を生む|en|The Sleep of Reason Produces Monsters}}」。]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;18世紀&#039;&#039;&#039;(じゅうはっせいき)は、[[西暦]][[1701年]]から西暦[[1800年]]までの100年間を指す[[世紀]]。<br /> <br /> == 18世紀の歴史 ==<br /> [[ファイル:Maquina vapor Watt ETSIIM.jpg|thumb|right|250px|産業革命。[[ジェームズ・ワット]]の蒸気機関。]]<br /> [[File:Montgolfier brothers flight.jpg|thumb|right|200px|[[18世紀の航空|有人飛行の成功]]。1783年にフランスでは[[モンゴルフィエ兄弟]]が開発した気球により有人飛行が行われた。]]<br /> [[File:Kant gemaelde 1.jpg|thumb|right|200px|[[ドイツ観念論]]の形成。[[ケーニヒスベルク]]大学教授[[インマヌエル・カント]]は三批判書を通じて人間の主観性を重んじる道徳的で内省的な哲学を作り上げ、ドイツ観念論の先駆けとなった。]]<br /> [[ファイル:Boucher Marquise de Pompadour 1756.jpg|thumb|right|200px|[[ロココ]]様式。画像は芸術の庇護者として知られるフランスのルイ15世の寵妃[[ポンパドゥール夫人]]の肖像画で[[フランソワ・ブーシェ]]によるもの([[アルテ・ピナコテーク]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Pannini, Giovanni Paolo - Musical Fête - 1747.png|thumb|right|250px|[[オペラ]]の隆盛。16世紀末に生まれたオペラはこの世紀までに広範な人気を得て専属の劇場も作られるようになった。画像は[[ローマ]]最古のアルジェンティーナ劇場(1732年に完成)を描いた[[ジョバンニ・パオロ・パンニーニ]]の画。]]<br /> [[File:SchafferBrothersDesignForMagicFlute1793ArrivalOfSarastro.png|thumb|right|250px|「[[魔笛]]」と[[フリーメイソン]]。神童ぶりを謳われた[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の作品の中でもオペラ「魔笛」はこの時代に影響を及ぼしたフリーメイソンの思想が強く反映している。画像はモーツァルト没後まもなく描かれたシェーファー兄弟による「魔笛」の舞台デザイン画でザラストロが到来する場面(1793年)。]]<br /> [[ファイル:Johan Zoffany - Tribuna of the Uffizi - Google Art Project.jpg|250px|thumb|right|「[[グランド・ツアー]]」。古典教養の涵養や芸術品の蒐集なども兼ねて上流階級の旅行が盛んになった。画像は[[ウフィツィ美術館]]のトリブーナを描いた{{仮リンク|ヨハン・ゾッファニー|en|Johan Zoffany}}の絵画。]]<br /> [[ファイル:Scene Carnival Tiepolo1750.jpg|thumb|right|250px|[[ヴェネツィア共和国]]の終焉。18世紀を通じてヴェネツィアは低落傾向を示し、フランス革命戦争の[[カンポ・フォルミオ条約]]でオーストリアに併合される。画像はジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロにより描かれた18世紀半ばのヴェネツィアの[[カーニバル]]。]]<br /> [[ファイル:Adolph Menzel - Flötenkonzert Friedrichs des Großen in Sanssouci - Google Art Project.jpg|thumb|right|250px|[[フリードリヒ大王]]。オーストリアとの戦いを通じプロイセンを強国に仕立て上げた[[啓蒙専制君主]]。画像はアドルフ・メンツェルによる[[フルート]]を吹く大王の歴史画。]]<br /> [[ファイル:Maria Theresia Familie.jpg|thumb|right|200px|[[マリア・テレジア]]。ハプスブルク家を支えオーストリア継承戦争や七年戦争ではプロイセンを向こうに回し戦い続けた。画像はマルティン・ファン・マイテンスによる家族の肖像画。]]<br /> [[ファイル:Samson and Lion Fountain.jpg|200px|thumb|[[サンクトペテルブルク]]の建設。スウェーデンに勝利した皇帝ピョートル1世の改革によりロシアの首都は「西欧への窓」と呼ばれたサンクトペテルブルクに遷された。画像はサンクトペテルブルク近郊に造られた「ピョートル大帝の夏の宮殿([[ペテルゴフ]])」。]]<br /> [[File:Dmitry Levitsky - Екатерина II в виде Законодательницы в храме богини Правосудия - Google Art Project.jpg|thumb|right|200px|女帝[[エカチェリーナ2世]]。夫であるピョートル3世を政変で廃位し、代わってロシアの女帝として登位し、トルコとの戦いやポーランド分割を通じてロシアの強大化を図った。画像はドミトリー・レヴィツキーによる「正義の女神」に扮するエカチェリーナ2世の肖像画([[モスクワ]]の[[トレチャコフ美術館]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Rejtan Upadek Polski Matejko.jpg|250px|thumb|ポーランド分割。東欧の[[啓蒙専制君主]]たちによりポーランド国家は消滅した。画像はポーランド分割を決議する国会への議員の入場を阻もうとするタデウシュ・レイタンを描いた[[ヤン・マテイコ]]の歴史画。]]<br /> [[File:RobertwalpolePM.jpg|thumb|right|180px|[[ロバート・ウォルポール]]。[[ハノーヴァー朝]]歴代国王に信任され[[第一大蔵卿]]から[[首相]]となり任期は20年に及んだ。[[責任内閣制]]が固まり、[[ダウニング10番地]]が首相官邸となったのは彼の時代である。]]<br /> [[ファイル:Benjamin West 005.jpg|thumb|right|250px|[[第二次百年戦争|英仏第二次百年戦争]]。ヨーロッパを越えて新大陸やインドにも植民地をめぐる戦争は拡大した。画像は[[ベンジャミン・ウエスト]]による歴史画で[[フレンチ・インディアン戦争]]([[エイブラハム平原の戦い]])で戦死したウルフ将軍を描いたもの([[カナダ国立美術館]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Washington Crossing the Delaware by Emanuel Leutze, MMA-NYC, 1851.jpg|250px|thumb|[[アメリカ独立戦争]]。この戦争の帰趨はヨーロッパの旧体制にも大きな影響を与えた。画像はエマヌエル・ロイツェによる歴史画「[[デラウェア川を渡るワシントン]]([[メトロポリタン美術館]]蔵)」。]]<br /> [[ファイル:Agostino Brunias - A Linen Market with a Linen-stall and Vegetable Seller in the West Indies - Google Art Project.jpg|right|thumb|250px|[[黒人奴隷]]貿易の最盛期。アフリカから多くの黒人が大西洋を越えて新大陸へ奴隷として運ばれた。画像はアゴスティーノ・ブルニアスの描いた「西インドにおける[[リネン]]市場のリネン露店と野菜販売商」。]]<br /> [[File:Aleijadinho - Prisão de Jesus - Jesus restaura a orelha de Malco - Santuário do Bom Jesus de Matosinhos - Congonhas.jpg|thumb|right|250px|「ブラジルのミケランジェロ」。身体に障害を抱えながら優れた造形感覚により卓越した教会建築や彫刻を残したのがアレイジャディーニョである。画像は[[コンゴーニャス]]の{{仮リンク|ボン・ジェズス・デ・マトジーニョス聖堂|pt|Santuário do Bom Jesus de Matosinhos}}にある「[[キリストの捕縛]]」の場面の群像。]]<br /> [[ファイル:Zoffany Death of Captain Cook.jpg|right|thumb|250px|「ジェームズ・クックの死」。イギリスの海軍士官クックは太平洋各地を探検し新しい知見を得た。しかし最後の航海ではハワイ島住民との争いから殺害された。]]<br /> [[File:Ile de paques 3775a.jpg|thumb|right|250px|[[イースター島]]。[[ポリネシア]]系先住民が「ラパ・ヌイ」と呼んでいたこの太平洋の絶海の孤島がヨーロッパ人[[ヤコブ・ロッゲフェーン]]に「発見」されたのは1722年の[[イースター]](復活祭)のことであった。画像は現在のイースター島にある[[モアイ]]像。]]<br /> [[ファイル:Louis-François Baron Lejeune 001.jpg|thumb|right|300px|[[エジプト・シリア戦役|ナポレオンのエジプト遠征]]。1798年に始まるフランス軍の襲来はイスラム世界全体を震撼させ、エジプトの近代化を促す端緒となった。画像は{{仮リンク|ルイ・フランソワ・ルジェーヌ|en|Louis-François Lejeune}}が描いた「ピラミッドの戦い」。]]<br /> [[ファイル:Levni 002 detail.jpg|200px|thumb|[[チューリップ時代]]。18世紀初頭にオスマン帝国は安定期を迎え、西欧文化がスルタン周辺でも盛んに取り入れられた。画像はこの時代を代表するスルタン・[[アフメト3世]]の肖像画で細密画家レヴニーの作。]]<br /> [[ファイル:نادر شاه.jpg|right|thumb|200px|アフシャール朝の君主[[ナーディル・シャー]]の肖像。イランのサファヴィー朝を滅ぼし、インドのムガル帝国を急襲し一時的にデリーを制圧するなど「第二のアレクサンドロス」の異名をとる活躍を見せた。]]<br /> [[File:Capture and Sack of Kerman by Agha Mohammad Khan Qajar.png|thumb|right|200px|[[カージャール朝]]の勃興。初代君主[[アーガー・モハンマド・シャー]]は[[テヘラン]]を根拠地として一族をまとめあげ[[ザンド朝]]を倒してペルシアに新王朝を設立した。画像はアーガーが勝敗を決めた[[ケルマーン]]の征服を描いた図。]]<br /> [[File:Peshwa Baji Rao I riding horse.jpg|thumb|right|200px|[[マラータ同盟]]。ムガル帝国が衰退したインドではデカンを根拠地とするマラータ同盟の勢力が拡大した。画像はこの同盟を率いてムガル帝国を翻弄した宰相([[ペーシュワー]])[[バージー・ラーオ]]。]]<br /> [[ファイル:Palempore, India, ca. 1750.jpeg|thumb|right|200px|インド[[木綿]]の流行と衰退。ヨーロッパ諸国の需要増大によりインドの木綿産業は18世紀半ばまでに絶頂を迎えた。白綿布は[[キャラコ]]と、染めた綿布はチンツ([[更紗|インド更紗]])と呼ばれ人気を博した。しかし18世紀の後半には産業革命によるイギリス綿織物業の追い上げがあり、次第に衰勢に向かうことになる。]]<br /> [[ファイル:Tipu&#039;s Tiger with keyboard on display 2006AH4168.jpg|right|thumb|250px|「マイソールの虎」[[ティプー・スルターン]]。マイソールの君主としてティプー・スルターンは[[第四次マイソール戦争]]ではイギリス軍を相手に壮絶な最期を遂げた。画像は彼が所有していた「ティプーの虎」と呼ばれた自動楽器で白人に飛びかかる虎のデザインが印象的である。]]<br /> [[ファイル:Wat Phra Sri Rattana Satsadaram 12.jpg|thumb|right|250px|[[ワット・プラケーオ]](エメラルド寺院)。[[チャクリー王朝|チャクリー朝]]初代の[[ラーマ1世]]によって建立された仏教寺院。正式名称はワット・シーラッタナーサーサダーラーム。]]<br /> [[File:2015-03-08 Swayambhunath,Katmandu,Nepal,சுயம்புநாதர் கோயில்,スワヤンブナート DSCF4192.jpg|thumb|right|250px|[[ネパール]]の統一。[[ゴルカ]]の[[プリトビ・ナラヤン・シャハ]]王により[[マッラ朝]]の三都体制は崩壊し、[[カトマンズ]]を中心とする[[ゴルカ朝]][[ネパール王国]]が成立した。画像はカトマンズを代表するスワヤンブナート寺院の仏塔と「仏陀の目」。]]<br /> [[ファイル:清 郎世宁绘《清高宗乾隆帝朝服像》.jpg|220px|thumb|清朝の繁栄。[[乾隆帝]]はおよそ60年間の治世で「十全武功」を誇り、東アジアの大帝国の君主として君臨した。画像は[[イエズス会]]士[[ジュゼッペ・カスティリオーネ]](郎世寧)によって描かれたもの。]]<br /> [[ファイル:Lion Forest Garden 3.jpg|250px|thumb|[[蘇州古典園林]]。五代から清にかけて[[蘇州市|蘇州]]では美しい庭園が数多く作られた。画像はその一つ「獅子林」で造営は元代に遡るが、六度の南巡を行った乾隆帝は蘇州に来ると必ず立ち寄り詩を詠むほどの愛好ぶりを示した。]]<br /> [[File:Siku Quanshu Replica of Wenlan Pavilion.jpg|thumb|right|250px|[[乾嘉の学]]。乾隆帝と次の[[嘉慶帝]]の時代にかけて[[考証学]]は大きく花開いた。とりわけ乾隆帝による「[[四庫全書]]」の編纂には総編集の[[紀昀]]を始め[[戴震]]ら考証学者の多くが参加した。画像は西湖博物館所蔵の「四庫全書」文瀾閣本複製。]]<br /> [[ファイル:Traum-der-roten-Kammer.jpg|thumb|right|200px|『紅楼夢』。没落した漢人[[八旗]]の家に生まれた[[曹雪芹]]により描かれた長編小説で、男女の情愛の細かな機微をとらえていることで定評がある。当時の皇帝乾隆帝も目を通したと言われ、身分の上下を問わず「紅迷」と呼ばれる熱狂的なファンも生み出した。画像は徐宝篆の挿絵。]]<br /> [[ファイル:Le Jardin chinois (detail) by François Boucher.jpg|thumb|right|200px|[[中国趣味]]([[シノワズリ]])。イエズス会士らの報告による清朝の繁栄ぶりは西欧諸国の人々に「幻想の東洋」のイメージを膨らまさせた。画像はフランス人フランソワ・ブーシェによる「中国の庭園(部分 [[ブザンソン]]美術館蔵)」。]]<br /> [[File:The reception of the diplomatique and his suite, at the Court of Pekin by James Gillray.jpg|right|thumb|250px|[[マカートニー]]の来訪。イギリス全権使節として派遣されたマカートニーは[[熱河]]離宮にて既に80歳を超えていた乾隆帝と貿易拡大の交渉を行った。交渉は不調で中国に対する視線は一方的な賛美から批判的なものへと変わっていった。画像はマカートニー使節団を描いたジェイムズ・ギルレイの風刺画(ロンドン・[[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Irises screen 2.jpg|thumb|right|300px|[[元禄文化]]。17世紀末から18世紀の初めの将軍[[徳川綱吉]]の時代に[[上方]]を中心に豪華で活気ある文化が花開いた。画像は[[尾形光琳]]の「燕子花図屏風」([[東京]]・[[根津美術館]]蔵)。]]<br /> [[File:Utagawa-Kuniyoshi-the-night-attack.jpg|thumb|right|220px|[[忠臣蔵]]。[[大石良雄]]率いる赤穂浪士が[[吉良義央]]を襲撃した「[[赤穂事件]]」は、1748年には『[[仮名手本忠臣蔵]]』として舞台化され大当たりをとったばかりでなく、日本人の倫理観や美意識にも大きな影響を与えた。画像は幕末の浮世絵師[[歌川国芳]]による浪士討ち入りの図。]]<br /> [[ファイル:Tokugawa Yoshimune.jpg|220px|thumb|[[享保の改革]]。この改革は八代将軍[[徳川吉宗]]により始められた。幕藩体制維持のため18世紀半ば以降には様々な改革が断続して行われることになる。画像は[[徳川記念財団]]所蔵の徳川吉宗の肖像。]]<br /> [[File:MASANOBU-Theater.jpg|thumb|right|250px|[[歌舞伎]]の発展。この時代には成人男性のみが演じ手となる演劇となり、民衆の娯楽として定着した。画像は[[奥村政信]]の「芝居狂言浮絵根元」で[[寛保]]3年([[1743年]])上演の『艤貢太平記』を描いた浮世絵。]]<br /> [[ファイル:Shiba Kokan A meeting of Japan China and the West late 18th century.jpg|200px|thumb|「[[鎖国]]」の中の国際交流。将軍吉宗が漢訳洋書の輸入を緩和したことで「[[蘭学]]」が一世を風靡した。画像は蘭学や海外事情にも詳しかった銅版画家[[司馬江漢]]による日本人、中国人、西洋人の対談の図。]]<br /> [[File:Tanuma Okitsugu2.jpg|thumb|right|220px|[[田沼時代]]。[[田沼意次]]は将軍家治のもとで老中となり[[株仲間]]の奨励など重商主義的な政策を行った。[[蝦夷地]]の開発やロシアとの交易を計画するなど時代に先んじた目を持っていたが、反対派からは賄賂政治と誹謗されていた。画像は田沼意次の肖像。]]<br /> [[ファイル:Kitagawa Utamaro - Toji san bijin (Three Beauties of the Present Day)From Bijin-ga (Pictures of Beautiful Women), published by Tsutaya Juzaburo - Google Art Project.jpg|200px|thumb|[[錦絵]]から[[大首絵]]へ。町人によって育まれた[[浮世絵]]は[[宝暦・天明文化|宝暦・天明]]年間には江戸を代表する文化として成長していた。画像は[[喜多川歌麿]]の「当時三美人(寛政三美人)」。]]<br /> [[File:Motoori Norinaga.jpg|thumb|right|180px|[[国学]]の展開。幕府の官学となった儒学に対し、国学とは江戸中期以降に日本の古典研究を通じて「[[古道]]」を究めようとした学問を指す。画像は「国学四大人」の一人である「[[本居宣長]]六十一歳自画自賛像(1790年)」。]]<br /> <br /> === 世界 ===<br /> ==== ヨーロッパの躍進とアジア大帝国の弱体化 ====<br /> 18世紀には、[[農業]]生産の飛躍的向上により[[人口]]の増加をもたらした[[農業革命]]に続き、世界初の[[工業化]]である&#039;&#039;&#039;[[産業革命]]&#039;&#039;&#039;が起こったことにより、[[イギリス]]の生産力が飛躍的に向上した。産業革命の原動力のひとつに[[大西洋]]の[[三角貿易]]([[奴隷貿易]])に支えられた[[砂糖]]や[[綿花]]の[[プランテーション]]、そしてそこでの労働力となった[[黒人]][[奴隷]]の存在がある。[[重商主義]]により[[ヨーロッパ]]各国で激しい貿易競争がおこなわれた。[[オランダ]]の[[自由貿易]]は衰え、イギリスと[[フランス]]が台頭し両国は、激しい[[植民地]]戦争を繰り広げた。一方、18世紀後半のヨーロッパでは、[[啓蒙主義]]思想が広がった。<br /> <br /> [[アジア]]の大帝国の腐敗、弱体化が始まり、それに乗じて西欧諸国のアジア進出が始まった。[[インド]]では、[[アウラングゼーブ]]のもと[[ムガル帝国]]が最大領土を実現したが、その死後における数次の継承戦争と[[マラーター王国]]を中心とする[[マラーター同盟]]の台頭より、19世紀には弱体化した。そして、[[デリー]]周辺をかろうじて支配する一勢力に転落し、各地に地方政権が割拠するようになり、イギリス、フランスの進出を許した。[[オスマン帝国]]は改革がおこなわれたが大きな成果はなく、腐敗と弱体化がいっそう進んだ。[[清]]は乾隆帝の治世で最盛期にあたり人口が増えたため[[華僑]]が登場した。内政面で充実し、経済力も増したが、18世紀後期には腐敗が進んだ。また、貿易を巡って西ヨーロッパ諸国と対立するようになっていった。<br /> <br /> ==== 市民革命と近代化の始まり ====<br /> 18世紀のヨーロッパなどでは、[[自然権]]や[[平等]]、[[社会契約説]]、[[人民主権]]論など[[理性]]による人間の[[解放]]を唱える[[啓蒙思想]]が広まっていた。この帰結として、18世紀の後半から末にかけて&#039;&#039;&#039;[[アメリカ独立革命]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フランス革命]]&#039;&#039;&#039;といった[[市民革命]]がおこり、[[市民]]社会への流れが始まった。一方で、[[プロイセン王国|プロイセン]]や[[ロシア帝国]]では[[啓蒙専制君主]]が登場し、上からの[[近代化]]が進められた。<br /> <br /> 産業革命以後の各国の工業化や[[資本主義]]の成立、一連の市民革命以後の市民社会の成立や[[国民国家]]の誕生など、19世紀にかけて国や社会のあり方が大きく変容していくことは、近代化の始まりともされる。これらの変革以降は[[西洋史]]において[[近代]]に区分されている。<br /> <br /> ==== 電気技術の夜明け ====<br /> [[科学]]の分野では、[[ミュッセンブルーク]]により[[静電気]]を貯める装置「[[ライデン瓶]]」が[[発明]]されると、これに興味を持った[[ベンジャミン・フランクリン]]が[[雷]]を伴う[[嵐]]のなか凧糸の末端にライデン瓶を接続した[[凧]]を揚げ、「[[雷雲]]の[[帯電]]を証明する」という[[実験]]を通じて、雷の正体がelectricity(=[[電気]])であることを明らかにした。それと同時に、このelectricityには&quot;[[プラス]]と[[マイナス]]の両方の[[極性]]があること&quot;も確認したといわれている。フランクリンの[[観察]]によって電気技術の基礎となる様々な[[研究]]にスポットが当てられ、18世紀末には[[アレッサンドロ・ボルタ]]による、世界最初の[[化学電池]]としても知られる「[[ボルタの電堆]]」の発明に至った。<br /> <br /> 18世紀に開花した電気技術は19世紀において、現代の生活に欠かすことのできない[[電話機]]、[[電動機|モーター]]、[[発電機]]、[[白熱電球]]などの発明に繋がっていく。<br /> <br /> ==== 18世紀の音楽と芸術 ====<br /> 18世紀は[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]](1685-1750)、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]](1732-1809)、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]](1756-1791)、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]](1770-1827)など、ヨーロッパの多くの大[[音楽家]]達が生きた時代でもある。<br /> <br /> 「典雅さの世紀」とも呼ばれたこの時代に[[芸術]]の分野では、豪壮華麗な[[バロック]]様式から繊細優美な[[ロココ]]様式への変質(ただしロココとバロックに明確な区別はない)が見られる。また、この世紀の後半には[[ポンペイ]]や[[ヘルクラネウム]]の遺跡発掘に始まる古典・古代への憧憬が高まり、[[新古典主義]]様式が隆盛に向かう。<br /> <br /> ==== 火山の噴火と異常気象 ====<br /> アイスランドの[[ラキ]]、[[グリムスボトン]]、[[エルトギャウ]]、日本では[[浅間山]]、[[岩木山]]などで激しい火山噴火が起こった。<br /> <br /> === 日本 ===<br /> ==== 元禄文化と江戸の改革 ====<br /> [[江戸時代]]の中期から後期にあたる。江戸初から続いた[[新田]]開発ラッシュとそれによる米穀増産のもたらす[[経済]]と[[文化]]の発展は[[17世紀]]末の[[元禄文化]]に結実したが、農地開墾可能な土地はすでに枯渇して経済成長は行き詰まり、[[幕府]][[財政]]は次第に逼迫していった。八代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川吉宗]]は[[享保の改革]]を推し進め、慢性悪化に陥っていた財政の復興を果たしたが、一方で一時凌ぎ的な法令を濫発した事などは却って幕府の[[権威]]を弱体化し、社会的な矛盾を残すこととなった。18世紀の後期には[[田沼意次]]による[[重商主義]]的政策が執られ、幕府の財政状況は一定の改善をみた。だが、[[田沼時代|田沼による改革]]は江戸の経済・文化の繁栄をもたらした一方、[[浅間山]]の噴火に代表される天災の続発と諸藩の財政維持のための大阪米市場への飢餓輸出が重なり農民層の困窮を招いて中絶。代わりに[[老中]]となった[[松平定信]]により[[儒教]]的[[農本主義]]に基づく守旧的な[[寛政の改革]]が進められ、経済・文化の停滞が進んだ。<br /> <br /> ==== 宝永大噴火 ====<br /> 1703年に[[元禄地震]]([[相模トラフ巨大地震]])、1707年に[[関東]]南西部、[[東海地方]]〜[[紀伊半島]]〜[[四国]]にかけて[[宝永地震]]([[南海トラフ巨大地震]])という二つの[[巨大地震]]が発生すると、宝永地震から49日後に[[宝永大噴火]]が起きた&lt;ref&gt;[[小山真人]] [http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/hoei1707.html 富士山噴火:過去の前兆や大地震との連動について]&lt;/ref&gt;。これは、現在までにおける歴史上最後の[[富士山]]の[[噴火]]である。<br /> <br /> == できごと ==<br /> === 1700年代 ===<br /> {{main|1700年代}}<br /> * [[1701年]]<br /> ** [[スペイン継承戦争]]( - [[1714年]])。<br /> ** ブランデンブルク選帝侯[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]がプロイセン王として戴冠([[プロイセン王国]]の成立)。<br /> ** [[モントリオール]]で[[イロコイ族]]とフランス・イギリス両植民地政府の間に「偉大なる平和」が結ばれる([[ビーバー戦争]]の終わり)。<br /> ** [[イェール大学]]が創設される。<br /> ** [[播州]][[赤穂藩]]主[[浅野長矩]]が[[江戸城]]中で[[高家 (江戸時代)|高家肝煎]][[吉良義央]]に斬りつける。<br /> *** 浅野長矩は[[切腹]]の刑となり、[[浅野家]]は[[改易]]される。<br /> * [[1702年]]<br /> ** 赤穂浪士[[大石良雄]]ら四十七士が吉良を討つ。<br /> ** フランスで[[カミザールの乱]]( - [[1705年]])。<br /> ** 清で皇太子[[愛新覚羅胤ジョウ|胤礽]]の外戚[[ソンゴトゥ]](索額図)が失脚させられる。<br /> * [[1703年]]<br /> ** [[ロシア]]のピョートル1世が新都[[サンクトペテルブルク]]の建設に着工。<br /> ** [[メシュエン条約]]がイングランドとポルトガルで結ばれる。<br /> ** [[江戸幕府|幕府]]により大石良雄ら赤穂浪士が切腹を命じられる。<br /> ** [[長州藩]]が製蠟所を設置。<br /> ** [[元禄地震]]([[房総半島|房総]]沖M8.1〜8.5)。<br /> ** オスマン帝国皇帝[[アフメト3世]]の即位。<br /> * [[1704年]] - 教皇クレメンス11世が教皇勅書「クム・デウス・オプティムス」にてカトリック信者の儒教祭儀への参加を禁止し、[[典礼論争]]を差し止めとする。<br /> * [[1705年]] - 大阪の豪商[[淀屋]]廣當(辰五郎)が幕府の命により闕所所払に処せられる。<br /> * [[1706年]] - トーマス・トワイニングがロンドンで「トムズ・コーヒーハウス」を開業([[トワイニング]]社の始まり)。<br /> * [[1707年]]<br /> ** [[宝永地震]]([[東海地震|東海]]・[[東南海地震|東南海]]・[[南海地震|南海]]M8.4〜9.3)、[[富士山]][[宝永大噴火]](降灰砂は東方90kmの川崎で5cm・大被害)。<br /> ** [[イングランド王国]]と[[スコットランド王国]]の合同で[[グレートブリテン王国]]成立。<br /> *** 以下の年表では「グレートブリテン王国」を「イギリス王国」あるいは「イギリス」と表記する。<br /> ** ムガル帝国皇帝[[アウラングゼーブ]]死去、ムガル帝国軍はデカンを撤退し[[デカン戦争]]終結、以後ムガル帝国は急速に衰退。<br /> * [[1708年]]<br /> ** 清の[[康熙帝]]が第2皇子胤礽を廃太子とする([[1709年]]に復権するも[[1712年]]に再度廃太子)。<br /> ** イタリア人宣教師[[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ|シドッティ]]が[[屋久島]]に上陸し捕縛される。翌年に江戸へ移送される。<br /> ** [[マントヴァ公国]]の[[ゴンザーガ家]]が断絶する。<br /> ** [[マラーター同盟]]結成( - [[1818年]])。<br /> * [[1709年]]<br /> ** [[徳川綱吉]]が64歳で死去し、[[徳川家宣]]が江戸幕府第6代[[征夷大将軍|将軍]]となる。<br /> *** [[生類憐れみの令]]を廃止する。[[新井白石]]が将軍侍講として登用される。<br /> ** [[東山天皇]]が譲位し、第114代[[中御門天皇]]が即位。<br /> ** [[東大寺]]大仏殿が再建され、落慶供養行われる。<br /> ** [[ポルタヴァの戦い]]でロシアが勝利し、スウェーデン国王カール12世はオスマン帝国に亡命。<br /> <br /> === 1710年代 ===<br /> {{main|1710年代}}<br /> * [[1710年]] <br /> ** [[宝永小判|宝永の改鋳]]。<br /> ** [[ドレスデン]]近郊の[[マイセン]]にヨーロッパ最初の王立ザクセン磁器工場が創立される。<br /> * [[1711年]] <br /> ** [[清]]の[[康熙帝]]在位50周年に伴い、丁税免除を実施(「盛世滋生人丁」)。<br /> ** 新井白石が[[朝鮮通信使]]の聘礼改革を行う。<br /> ** レネ・デュゲイ・トルーアン率いるフランスの[[私掠船]]団が[[リオデジャネイロ]]を襲撃。<br /> * [[1712年]] <br /> ** ピョートル1世がモスクワからサンクトペテルブルクに遷都。<br /> ** [[勘定奉行]][[荻原重秀]]が罷免される。<br /> * [[1713年]]<br /> ** 教皇[[クレメンス11世 (ローマ教皇)|クレメンス11世]]が[[教皇勅書]]「ウニゲニトゥス」で[[ジャンセニスム]]を禁止とする。<br /> ** 徳川家宣が死去し、[[徳川家継]]が江戸幕府第7代[[征夷大将軍|将軍]]となる。<br /> ** [[ユトレヒト条約]]。<br /> ** イギリス女王[[アン (イギリス女王)|アン]]が死去し、[[ステュアート朝]]断絶。<br /> *** [[ハノーヴァー選帝侯]]ゲオルクがイギリス王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]となり、[[ハノーヴァー朝]]成立。<br /> ** 神聖ローマ皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]が国事詔書で領土の分割禁止と長子相続を決定。<br /> ** ウダール・ド・ラ・モットの『[[イリアス]]』仏訳を古典学者[[アンヌ・ダシエ|ダシエ夫人]]が批判して[[ホメロス]]論争が起きる。<br /> * [[1714年]]<br /> ** [[ラシュタット条約]]。<br /> ** [[正徳小判|正徳の改鋳]]。[[江島生島事件]]。<br /> ** [[オネガ湖]]の[[キジ島]]に[[顕栄聖堂 (キジ島)|プレオプラジェンスカヤ教会]](顕栄聖堂)が建てられる。<br /> *** 隣接する[[生神女庇護聖堂|ポクローフスカヤ教会]](生神女庇護聖堂(1764年完成))とともに「キジ島の木造教会建築」を形成している。<br /> * [[1715年]]<br /> ** [[海舶互市新例]](長崎新令)が定められる。<br /> ** スコットランドでマー伯ジョン・アースキンによる[[ジャコバイト]]の反乱。<br /> ** フランス国王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が死去す、曾孫の[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]が即位。<br /> ** 教皇クレメンス11世が[[教皇勅書]]「エクス・イラ・ディエ」にて[[典礼論争]]における[[イエズス会]]の宣教方法を禁止とする。<br /> * [[1716年]]<br /> ** [[徳川家継]]が8歳で死去し、将軍家秀忠系は断絶。<br /> *** [[紀州家]]出身の[[徳川吉宗]]が江戸幕府第8代[[征夷大将軍|将軍]]となり、[[享保の改革]]に着手する。<br /> *** 家継に仕えていた[[間部詮房]]・[[新井白石]]らが[[罷免]]される。[[大奥法度十九箇条]]が出される。<br /> ** 清で地丁併徴が進められ[[地丁銀制]]が導入される。<br /> * [[1717年]]<br /> ** [[大岡忠相]]越前守が[[江戸町奉行]]就任。<br /> ** プロイセンでヨーロッパ最初の[[義務教育]]制度が導入される。<br /> ** スペインが[[ヌエバ・グラナダ副王領]]を設置(1723年に廃止の後1739年に再設置)。<br /> * [[1718年]]<br /> ** [[四カ国同盟戦争]]。<br /> ** フレデリクスハルド要塞攻囲中のスウェーデン国王カール12世が流れ弾により落命。<br /> ** [[パッサロヴィッツ条約]]。オスマン帝国の安定により[[チューリップ時代]]始まる( - [[1730年]])。<br /> ** ピョートル1世の皇子[[アレクセイ・ペトロヴィチ|アレクセイ]]に死刑判決が下り、処刑直前に獄死。<br /> ** フランス領[[ルイジアナ]]の[[ミシシッピ川]]河口付近にヌーヴェル・オルレアン([[ニューオーリンズ]])が建設される。<br /> * [[1719年]]<br /> ** 享保4年の[[相対済令]]。<br /> ** ファドゥーツ伯爵領とシェレンベルク男爵領とを併せて[[リヒテンシュタイン公国]]が成立。<br /> <br /> === 1720年代 ===<br /> {{main|1720年代}}<br /> * [[1720年]]<br /> ** 江戸の[[火消#町火消|町火消]](町人による消防組織)の「いろは組」が設置される。<br /> ** 日本でキリスト教以外の漢訳洋書輸入の禁が緩められる。<br /> ** ハーグ条約。<br /> *** サヴォイア領シチリア島とオーストリア領サルデーニャ島の領有が交換される。<br /> *** [[サヴォイア公]][[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]が[[サルデーニャ王国|サルデーニャ王]]の称号を獲得。<br /> ** イギリスで[[南海泡沫事件]]が起こる。<br /> *** フランスでも同年[[ミシシッピ計画]]の[[バブル経済|バブル]]が崩壊する。<br /> ** イギリスで[[キャラコ]]使用禁止法が出される。<br /> * [[1721年]]<br /> ** [[ロバート・ウォルポール]]がイギリス最初の[[首相]]となる([[議院内閣制|責任内閣制]]の始まり)。<br /> *** 20年以上にわたる安定政権を築き、戦争回避に努めたのでこの時期を「パクス・ウォルポリアナ」と呼ぶ。<br /> ** [[ニスタット条約]]により[[大北方戦争]]が終結( - [[1700年]])。[[ロシア]]の勝利による[[スウェーデン]]の没落。<br /> ** [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]が元老院から[[ツァーリ]]([[ロシア皇帝]])に戴冠される([[ロシア帝国]]の始まり)。<br /> *** 同年にピョートル1世は[[モスクワ総主教庁]]を廃止し、[[聖務会院]]を設置。<br /> ** 吉宗の命令で全国人口調査が初めて行われる(「子午改め」)。この頃、江戸の人口は100万人を超える。<br /> ** [[小石川養生所]]完成。<br /> * [[1722年]]<br /> ** オランダ海軍提督[[ヤコブ・ロッゲフェーン]]が南太平洋の[[イースター島]]([[ラパ・ヌイ国立公園|ラパ・ヌイ島]])を発見。<br /> ** オスマン皇帝アフメト3世によりサーダバード宮殿が建設される。<br /> ** アフガン系ギルザイ部ホタキ朝のミール・マフムードがサファヴィー朝の都[[イスファハーン]]を制圧。<br /> *** [[ナーディル・シャー]]がサファヴィー朝の[[タフマースブ2世]]を擁立し、実権を握る。<br /> ** [[清]]の[[雍正帝]]が第5代皇帝に即位。<br /> * [[1723年]] - [[清]]で改土帰流が行われる。<br /> * [[1724年]] <br /> ** 神聖ローマ皇帝カール6世が国事詔書で領土の分割禁止に加え女子相続の承認を決定。<br /> ** [[シャカル・ケーダーの戦い]]で、[[カマルッディーン・ハーン]]がムガル朝に勝利し[[ニザーム王国]]を独立させる。<br /> * [[1725年]] <br /> ** [[雍正のチベット分割]]。<br /> ** ロシア皇帝ピョートル1世死去、その皇后が女帝[[エカチェリーナ1世]]として即位。<br /> ** ローマ市内の「[[スペイン広場 (ローマ)|スペイン階段]](スパーニャ階段)」が完成する。<br /> * [[1726年]] - 『[[古今図書集成]]』の刊行。<br /> * [[1727年]]<br /> ** [[キャフタ条約 (1727年)|キャフタ条約]]。<br /> ** イギリス国王ジョージ1世が死去、[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]](ジョージ・オーガスタス)が即位。<br /> *** 王の名にちなみこの時代を[[オーガスタン時代]]またはジョージアン時代と呼ぶ。<br /> ** [[モラヴィア兄弟団]]が結成される。<br /> ** [[イブラヒム・ミュテフェッリカ]]によりイスラム教徒最初の活版印刷所が[[イスタンブル]]に創設される。<br /> ** [[ラージャスターン]]地方の[[アンベール王国]]の君主[[ジャイ・シング2世]]が、首都を[[アンベール]]から[[ジャイプル]]へと遷都。<br /> * [[1728年]]<br /> ** [[文字の獄]]で{{仮リンク|曾静|zh|曾静}}が逮捕され、影響を与えた[[呂留良]]の著作が処分される。<br /> ** 徳川吉宗の命で[[ベトナム]]から[[象]]が輸入され、江戸で象ブームが起こる。<br /> ** [[天一坊事件]]。<br /> * [[1729年]]<br /> ** 清で[[軍機処]]の前身である軍機房が設置される。<br /> ** 清の雍正帝により編纂された『[[大義覚迷録]]』が刊行される。<br /> <br /> === 1730年代 ===<br /> {{main|1730年代}}<br /> * [[1730年]]<br /> ** オスマン帝国でパトロナ・ハリルの反乱、チューリップ時代終わる。<br /> *** 大宰相ネヴシェヒルリ・イブラヒム・パシャが殺害され、皇帝アフメト3世が退位させられる。<br /> ** プロイセンの[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ王子]]が逃亡に失敗し捕えられる。<br /> ** [[大坂]]の[[堂島]]で世界初の[[先物取引]]がおこなわれる。<br /> * [[1731年]] - 徳川幕府からの招聘により清の画家[[沈南蘋]]が来日する( - [[1733年]])。<br /> * [[1732年]]<br /> ** [[享保の大飢饉]]。<br /> ** 教皇[[クレメンス12世 (ローマ教皇)|クレメンス12世]]の命で[[トレヴィの泉]]の建設が始まる( - [[1762年]])。<br /> ** マラータ同盟の宰相バージー・ラーオによる[[プネー]]の[[シャニワール・ワーダー]]宮殿が完成する。<br /> * [[1733年]]<br /> ** [[ポーランド継承戦争]]( - [[1735年]])。<br /> ** プロイセンで[[カントン制度]]([[徴兵制度|選抜徴兵制]])を導入。<br /> ** [[ヴォルテール]]の『哲学書簡』がイギリスで出版される。<br /> * [[1734年]] - スペイン王子のパルマ公[[カルロス3世 (スペイン王)|ドン・カルロス]]が南イタリアを征服し[[両シチリア王国|ナポリ・シチリア国王]]として即位。<br /> * [[1735年]]<br /> ** 中御門天皇が譲位し、第[[115]]代[[桜町天皇]]が即位。<br /> ** [[清]]の[[乾隆帝]]が第6代皇帝に即位。<br /> * [[1736年]]<br /> ** [[イラン]]の[[サファヴィー朝]]を滅ぼし、ナーディル・シャーが[[アフシャール朝]]を開く。<br /> ** [[元文小判|元文の改鋳]]。<br /> * [[1737年]]<br /> ** [[マラーター王国]]がムガル帝国の首都[[デリー]]を攻撃([[デリーの戦い (1737年)|デリーの戦い]])。<br /> ** [[トスカーナ大公]][[ジャン・ガストーネ・デ・メディチ|ジャン・ガストーネ]]の死去に伴い[[メディチ家]]が断絶。<br /> ** ハノーファー選帝侯国に[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]が創設される。<br /> * [[1738年]] - 教皇クレメンス12世が教皇勅書「イン・エミネンティ」で初めて[[フリーメイソン]]を排斥する。<br /> * [[1739年]]<br /> ** [[ジェンキンスの耳の戦争]]。<br /> ** [[アフシャール朝]]の[[ナーディル・シャー]]がムガル帝国の首都[[デリー]]を占領、「[[孔雀の玉座]]」他の宝物を略奪。<br /> ** イギリスで[[ジョン・ウェスレー]]が[[メソジスト]]運動を始める。<br /> <br /> === 1740年代 ===<br /> {{main|1740年代}}<br /> * [[1740年]]<br /> ** [[プロイセン王国|プロイセン国王]]フリードリヒ・ヴィルヘルム1世死去、その息子フリードリヒ2世が即位。<br /> *** この年にフリードリヒ2世はヴォルテールに依頼し、オランダで『[[マキャヴェリ駁論|反マキャヴェリ論]]』を出版。<br /> ** 神聖ローマ皇帝カール6世死去、その長女[[マリア・テレジア]]が[[ハプスブルク家]]家督を継承。<br /> ** [[オーストリア継承戦争]]( - [[1748年]])。<br /> ** 清朝が漢人の満洲への移住を禁止する封禁令を出す。<br /> * [[1741年]]<br /> ** ロシアで[[イヴァン6世]]が政変で廃位され摂政[[アンナ・レオポルドヴナ]]が追放される。女帝[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]が即位。<br /> ** [[ジョナサン・エドワーズ]]の説教「[[怒れる神の御手の中にある罪人]]」が[[コネチカット州]][[エンフィールド]]で行われる。<br /> *** 1730年代から1740年代にかけての植民地アメリカにおける「[[第一次大覚醒]]」([[リバイバル (キリスト教)|信仰復活運動]])に大きな影響を与える。<br /> * [[1742年]]<br /> ** [[松平乗邑]]らにより[[公事方御定書]]が制定される。<br /> ** 教皇[[ベネディクトゥス14世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス14世]]が[[教皇勅書]]「エクス・クオ・シングラリ」にて典礼論争におけるイエズス会の宣教方法を改めて禁止とする。<br /> ** ロシア人探検家セミョン・チェリュスキンが[[ユーラシア大陸]]最北端の[[チェリュスキン岬]]に到達。<br /> * [[1743年]] - [[メーワール王国|メーワール国王]]の[[ジャガト・シング2世]]が[[ウダイプル]]のピチョーラ湖の小島にジャグニワース宮殿を建設( - [[1746年]])。<br /> * [[1744年]] - [[第一次カーナティック戦争]]。<br /> * [[1745年]]<br /> ** [[チャールズ若僭王]]の反乱が失敗し、[[ジャコバイト]]運動は壊滅。<br /> ** [[徳川家重]]が江戸幕府第9代[[征夷大将軍|将軍]]となる。老中松平乗邑が解任される。<br /> ** アラビアの[[サウード家]]がイスラーム教[[ワッハーブ派]]に帰依し同派の守護者となる。<br /> * [[1746年]] <br /> ** [[ペルー]]の[[リマ]]・カヤオ沖地震(M8.6〜8.8)。<br /> ** 乾隆帝が紫禁城乾清宮養心殿に三希堂を設置する。<br /> * [[1747年]]<br /> ** 桜町天皇が譲位し、第[[116]]代[[桃園天皇]]が即位。<br /> ** フランスで[[百科全書]]の刊行開始( - [[1772年]])。<br /> ** ナーディル・シャーが暗殺され、アフシャール朝から各地に独立勢力が生まれる。<br /> *** [[カブール]]を中心に[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]が[[ドゥッラーニー朝]](サドーザイ朝)を興す。<br /> * [[1748年]]<br /> ** [[モンテスキュー]]の『[[法の精神]]』が刊行される。<br /> ** [[加賀騒動]]。<br /> * [[1749年]]<br /> ** [[第二次カーナティック戦争]]。<br /> ** [[シェーンブルン宮殿]]が完成する。<br /> <br /> === 1750年代 ===<br /> {{main|1750年代}}<br /> * [[1750年]]<br /> ** ヴォルテールがプロイセンのフリードリヒ2世を訪問し[[ポツダム]]の[[サンスーシ宮殿|サン・スーシー宮殿]]に滞在( - [[1753年]])。<br /> ** マドリード条約により、ポルトガルとスペインとの[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]地域の領土が確定される。<br /> * [[1751年]] - [[ドゥニ・ディドロ]]らにより『[[百科全書]]』が刊行される( - [[1772年]])<br /> * [[1752年]]<br /> ** [[ミャンマー]]で[[アラウンパヤー朝]](コンバウン朝)が成立する。<br /> ** アメリカの[[ベンジャミン・フランクリン]]が[[雷]]が[[電気]]であることを[[凧]]揚げ実験で証明する。<br /> * [[1753年]] - イギリスで博物館法が制定され[[大英博物館]]が設立される(一般公開は[[1759年]]から)。<br /> * [[1754年]] <br /> ** [[宝暦治水事件|宝暦治水]]( - [[1755年]])。<br /> ** [[コロンビア大学]]が創設される。<br /> * [[1755年]]<br /> ** [[リスボン地震 (1755年)|リスボン大地震]]。<br /> ** [[フレンチ・インディアン戦争]]( - [[1763年]])。<br /> ** [[ジャン=ジャック・ルソー]]の『[[人間不平等起源論]]』が刊行される。<br /> * [[1756年]]<br /> ** [[七年戦争]]( - [[1763年]])。<br /> ** [[プラッシーの戦い]]でフランスに対するインドでのイギリスの優位が確定。<br /> * [[1757年]]<br /> ** 清が[[ジュンガル王国]]を滅ぼし、東トルキスタンを「[[新疆]]」と名づけ藩部とする。<br /> ** 清が西洋人との交易を[[広州]]一港に限定し、特権商人[[広東十三行|公行]]にのみ貿易を許可する([[広東貿易体制]]の成立)。<br /> ** [[ロベール=フランソワ・ダミアン|ダミアン]]によるフランス国王ルイ15世暗殺未遂事件。<br /> * [[1758年]]<br /> ** [[12月25日]]、[[ハレー彗星]]接近。<br /> ** [[宝暦事件]]。<br /> * [[1759年]]<br /> ** [[クネルスドルフの戦い]]でプロイセン軍がロシア・オーストリア軍で惨敗するも窮地を脱する([[ブランデンブルクの奇跡]])。<br /> <br /> === 1760年代 ===<br /> {{main|1760年代}}<br /> * [[1760年]]<br /> ** [[徳川家治]]が江戸幕府第10代[[征夷大将軍|将軍]]となる。<br /> ** ヴォルテールがジュネーヴ近郊のフェルネーに定住する(「フェルネーの長老」)。<br /> ** フランス領[[モントリオール]]市が陥落し、[[ヌーベルフランス]]全域がイギリスに征服される。<br /> * [[1761年]] <br /> ** フランスで[[カラス事件]]がおきる。<br /> ** [[バッキンガム公爵]]の邸宅をイギリス王ジョージ3世が私邸として購入する([[バッキンガム宮殿]]の始まり)。<br /> * [[1762年]]<br /> ** 桃園天皇が没し、第117代[[後桜町天皇]]が即位。<br /> ** 壬午士禍により李氏朝鮮の英祖の王子[[荘献世子]]が廃され窮死する。<br /> ** ロシアで[[ピョートル3世]]が政変で廃位され、皇后が即位し女帝[[エカチェリーナ2世]]となる( - [[1796年]])。<br /> *** サンクトペテルブルクの[[エルミタージュ美術館|エルミタージュ宮殿]]([[冬宮殿]](ズィームニイ・ドヴァリェーツ)が完成する。<br /> ** イギリスがスペイン領[[キューバ]]の首府[[ハバナ]]を占領( - [[1763年]])。<br /> ** ジャン=ジャック・ルソーの『[[社会契約論]]』が刊行される。<br /> * [[1763年]]<br /> ** [[ポンティアック戦争]]( - [[1766年]])。<br /> ** [[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]と[[フベルトゥスブルク条約]]により七年戦争が終わる。<br /> ** ブラジルの首都がサルヴァドールからミナス・ジェライスの外港[[リオデジャネイロ]]に遷る。<br /> ** [[ヨハン・ニコラウス・フォン・ホントハイム|ユスティヌス・フェブロニウス]]の『教会の現状とローマ教皇の正統なる権限について』が出版される(フェブロニウス主義)。<br /> * [[1764年]] <br /> ** [[ブクサールの戦い]]で、イギリス東インド会社がムガル皇帝・アワド太守・ベンガル太守の連合軍に大勝する。<br /> ** エカチェリーナ2世が[[ヘーチマン]]制を廃止する。<br /> ** 幕府が清国への輸出向け[[俵物]]三品(煎海鼠・乾鮑・鱶鰭)の増産を奨励。<br /> * [[1765年]] - [[清緬戦争]]( - [[1769年]])。<br /> * [[1766年]] <br /> ** フランスが[[ロレーヌ公国]]を併合する。<br /> ** イギリスの科学者[[ヘンリー・キャベンディッシュ]]が[[水素]]を発見する。<br /> * [[1767年]]<br /> ** [[田沼意次]]が側用人になる。いわゆる「[[田沼時代]]」の始まり ( - [[1786年]])。<br /> ** [[明和事件]]。<br /> * [[1768年]]<br /> ** [[ジェノヴァ]]がフランスに[[コルシカ島]]を売却する。<br /> ** [[トリエステ]]で[[美術史家]][[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]が殺害される。<br /> * [[1769年]]<br /> ** [[ゴルカ王国|ゴルカ]]王[[プリトビ・ナラヤン・シャハ]]が[[カトマンズ]]を征服し[[ネパール]]を統一。<br /> ** [[フィレンツェ]]の[[ウフィツィ美術館]]が開館する。<br /> <br /> === 1770年代 ===<br /> {{main|1770年代}}<br /> * [[1770年]]<br /> ** 後桜町天皇が譲位し、第118代[[後桃園天皇]]が即位。<br /> ** [[ジェームズ・クック]]がイギリスによる[[オーストラリア]]東南部の領有を宣言。<br /> ** フランス王太子ルイ([[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]])とオーストリア王女[[マリー・アントワネット]]の結婚。<br /> ** デンマークで[[ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ|ストルーエンセ]]が請願審議官(メートル・デ・ルケット)に就任(「ストルーエンセ時代」 - [[1772年]])<br /> * [[1771年]]<br /> ** [[ベトナム]]で[[西山朝|西山党の乱]]起こる( - [[1802年]])。<br /> ** [[ヴォルガ川]]周辺の[[カルムイク人]]が[[東トルキスタン]]の[[イリ地方]]へ移動(トルグート部)。カルムイク人の一部はこの地に残留。<br /> ** フランスで大法官モプーの司法改革によるパリと地方の[[高等法院 (フランス)|高等法院]]の解体。<br /> ** 教皇[[クレメンス14世 (ローマ教皇)|クレメンス14世]]が[[ヴァティカン美術館]](ピオ・クレメンティーノ美術館)を公開する。<br /> <br /> * [[1772年]]<br /> ** [[ポーランド分割|第一次ポーランド分割]]。<br /> ** [[明和の大火]](行人坂の火事)。<br /> ** 田沼意次が老中となる。[[南鐐二朱銀]]を発行。<br /> * [[1773年]]<br /> ** 教皇クレメンス14世が[[イエズス会]]を解散(- [[1814年]])。<br /> ** [[ボストン茶会事件]]。<br /> ** ロシアで[[プガチョフの乱]]( - [[1775年]])。<br /> * [[1774年]]<br /> ** [[キュチュク・カイナルジ条約]]によりロシアは[[黒海]]北岸を獲得。<br /> ** フランスでモールパ伯の進言により高等法院が復活。<br /> ** [[杉田玄白]]らによる『[[解体新書]]』が出版される。<br /> ** 山東省で白蓮教系清水教徒による{{仮リンク|王倫 (清)|zh|王倫 (清)}}の乱が起こる。<br /> * [[1775年]]<br /> ** スウェーデン人植物学者[[カール・ツンベルク]]が長崎に来航。翌年には江戸で将軍家治に謁見。<br /> ** [[アメリカ独立戦争]]( - [[1783年]])。<br /> *** [[レキシントン・コンコードの戦い]]、[[ボストン包囲戦]]、[[ジョージ・ワシントン]]が最高司令官となる。<br /> ** [[アワド太守]][[アーサフ・ウッダウラ]]が[[ファイザーバード]]から[[ラクナウ]]に遷都。<br /> * [[1776年]]<br /> ** [[7月4日]]、[[アメリカ独立宣言]]が採択される。<br /> ** スペインが[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]を設置。<br /> ** フランスで財務総監[[ジャック・テュルゴー]]が失脚。後任に[[ジャック・ネッケル]]が就任。<br /> ** [[アダム・スミス]]による『[[国富論]]』が出版される。<br /> * [[1777年]]<br /> ** [[サラトガの戦い]]。<br /> ** バイエルン系ヴィッテルスバッハ家が断絶。<br /> *** [[プファルツ選帝侯]]が[[バイエルン選帝侯]]位を継承し[[ヴィッテルスバッハ家]]が統合される。<br /> * [[1778年]]<br /> ** [[バイエルン継承戦争]]( - [[1779年]])。<br /> ** [[ミラノ]]の[[スカラ座]]が完成する。<br /> ** 後桃園天皇が没し、第119代[[光格天皇]]が即位。<br /> * [[1779年]]<br /> ** イランで[[アーガー・モハンマド・シャー]]が[[カージャール朝]]を開く( - [[1925年]])。<br /> ** [[ハワイ島]]のケアラケクア湾でイギリス人探検家[[ジェームズ・クック]]が現地住民に殺害される。<br /> <br /> === 1780年代 ===<br /> {{main|1780年代}}<br /> * [[1780年]]<br /> ** ロシアのエカチェリーナ2世の提唱で[[武装中立同盟]]が結成される( - [[1783年]])。<br /> ** [[ロンドン]]で反カトリック派による{{仮リンク|ゴードン暴動|en|Gordon Riots}}が発生。<br /> ** インドの[[ヴァーラーナシー]](ベナレス)の[[カーシー・ヴィシュヴァナート寺院]]が、[[アヒリヤー・バーイー・ホールカル]]によって再建される。<br /> ** 第四次英蘭戦争( - [[1784年]])。<br /> * [[1781年]]<br /> ** 神聖ローマ皇帝[[ヨーゼフ2世]]の農奴解放令。<br /> ** [[イマヌエル・カント]]の『[[純粋理性批判]]』が刊行される。<br /> ** 世界初の鋳鉄製アーチ橋の[[アイアンブリッジ (橋)|アイアンブリッジ]]が完成する。<br /> ** [[ウィリアム・ハーシェル]]が[[天王星]]を発見。<br /> ** 清で乾隆帝の命による[[四庫全書]]完成する([[1741年]]- )。<br /> * [[1782年]]<br /> ** [[天明の大飢饉]]( - [[1787年]])。<br /> ** 幕府が[[印旛沼]]・[[手賀沼]]の干拓に着手。<br /> ** タイ王国で[[チャクリー王朝|チャクリー朝]]が成立し[[ラーマ1世]]が即位。<br /> * [[1783年]]<br /> ** [[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]でイギリスがアメリカの独立を承認。<br /> ** [[モンゴルフィエ兄弟]]により[[熱気球]]による史上初の有人飛行が行われる。<br /> ** [[アイスランド]]で[[ラキ火山]]が噴火。<br /> ** 天明の[[浅間山]]噴火。<br /> * [[1784年]]<br /> ** 江戸城中で[[若年寄]][[田沼意知]]が[[佐野政言]]により殺害される。<br /> ** [[カロン・ド・ボーマルシェ]]の「[[フィガロの結婚]]」が上演される。<br /> ** 黒海沿岸のロシア領[[オデッサ]]が開港する。<br /> ** [[グリゴリー・シェリホフ]]が[[コディアック島]]のスリー・セインツ湾に[[アラスカ]]最初のロシア人植民地を形成。<br /> * [[1785年]]<br /> ** [[マリー・アントワネット]]の[[首飾り事件]]。<br /> ** ジョン・ウォルターが世界最古の日刊[[新聞]]『[[タイムズ]](ロンドン・タイムズ)』を創刊。<br /> ** ロシア女帝エカチェリーナ2世による「貴族への特許状(恵与状)」が発布される。<br /> ** 山口鉄五郎ら幕府の蝦夷地調査団が派遣される。<br /> * [[1786年]]<br /> ** 英仏通商条約(イーデン条約)でイギリス製品がフランスに流れ込む。<br /> ** [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]のイタリア旅行( - [[1788年]])。<br /> ** [[トスカーナ大公]][[レオポルト2世|レオポルド1世]]がヨーロッパで最初の死刑完全廃止を行う。<br /> ** [[台湾]]で[[林爽文]]事件。<br /> ** [[最上徳内]]らが[[国後島]]・[[択捉島]]・[[得撫島]]を調査。<br /> * [[1787年]]<br /> ** [[フィラデルフィア]]の憲法制定議会において、[[アメリカ合衆国憲法]]が制定される。<br /> ** [[徳川家斉]]が江戸幕府第11代[[征夷大将軍|将軍]]となる。<br /> *** 同年、江戸や大阪で[[天明の打ちこわし]]が最高潮に達する。[[松平定信]]が老中首座になり[[寛政の改革]]に着手( - [[1793年]])。<br /> ** [[ピニョー・ド・ベーヌ]]が[[阮福暎]]の息子[[阮福景]]を伴いフランスに帰国。<br /> *** ルイ16世と会見しフランスとベトナムの攻守同盟([[ヴェルサイユ条約 (1787年)|ヴェルサイユ条約]])を締結。<br /> * [[1788年]]<br /> ** [[オーストラリア]]が流刑植民地とされ、イギリス人の移民が始まる。<br /> ** フランスの探検家[[ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー|ラ・ペルーズ伯]]が南太平洋で消息不明となる。<br /> ** [[第一次ロシア・スウェーデン戦争]](- [[1790年]])。<br /> ** [[清・ネパール戦争]]( - [[1792年]])。<br /> ** 京都で[[天明の大火]]。<br /> * [[1789年]]<br /> ** [[フランス革命]]( - [[1794年]])。<br /> *** 革命時代を1789年 - 1799年とする説もある。[[フランス革命の年表]]も参照のこと。<br /> *** [[三部会]]の召集、[[球戯場の誓い]]、[[バスティーユ襲撃|バスティーユ牢獄襲撃]]、[[人権宣言]]、[[ヴェルサイユ行進]]。<br /> ** [[リエージュ]]革命、[[ブラバント革命]]。<br /> ** [[ジョージ・ワシントン]]が初代[[アメリカ大統領]]に選出される( - [[1797年]])。<br /> ** [[ドンダーの戦い]]で、[[阮恵]]率いる[[西山朝]]がベトナム黎朝と清朝の連合軍を撃破。<br /> *** 昭統帝が清に亡命し、黎朝滅亡([[1428年]] - )。<br /> ** [[尊号一件]]。[[棄捐令]]。<br /> ** [[バウンティ号の反乱]]。<br /> <br /> === 1790年代 ===<br /> {{main|1790年代}}<br /> * [[1790年]]<br /> ** [[承徳避暑山荘と外八廟]]が完成する([[1703年]] - )。<br /> ** [[寛政異学の禁]]。[[人足寄場]]の設置。幕府全国に薬草栽培を奨励。<br /> ** [[エドマンド・バーク]]の『[[フランス革命の省察]]』が刊行される。<br /> ** [[アレクサンドル・ラジーシチェフ]]が『ペテルブルクからモスクワへの旅』を刊行したことで[[シベリア]]に流刑にされる。<br /> * [[1791年]]<br /> ** ポーランド[[5月3日憲法]]。<br /> ** フランス[[1791年憲法]]、[[ヴァレンヌ事件]]、[[ピルニッツ宣言]]。<br /> ** [[フランス科学アカデミー]]が[[メートル法]]を採用する。<br /> ** [[ヤッシー条約]]によりロシアは[[クリミア・ハン国]]を併合。<br /> ** [[七分積金]]([[囲米]])の導入。<br /> * [[1792年]]<br /> ** フランスがオーストリアに宣戦布告し[[フランス革命戦争]]始まる。<br /> ** [[8月10日事件]]でフランス王権の停止。[[九月虐殺]]。[[フランス第一共和政]]成立。<br /> ** [[スウェーデン]]国王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]が[[仮面舞踏会]]で暗殺される。<br /> ** [[林子平]]が処罰されその著作『[[海国兵談]]』は発禁・版木没収にされる。学問吟味の実施。<br /> ** ロシア使節[[アダム・ラクスマン|ラクスマン]]が漂流民[[大黒屋光太夫]]らを連れて[[根室]]に来航。<br /> ** [[島原大変肥後迷惑]]。<br /> * [[1793年]]<br /> ** [[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の処刑。[[第一次対仏大同盟]]結成。<br /> *** [[革命裁判所]]・[[公安委員会]]の設置により[[ジャコバン派]]独裁による[[恐怖政治]]が始まる。<br /> *** [[フランス革命暦]]の採用、国民総徴集法によるフランス[[国民皆兵]]の[[徴兵制度]]の成立。<br /> *** ノートルダム大聖堂で「理性の祭典」、[[ルーヴル美術館]]開館。<br /> ** [[ポーランド分割|第二次ポーランド分割]]。<br /> ** [[松平定信]]が老中首座及び将軍補佐役を辞任、老中首座に[[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]が就任([[寛政の遺老]])。<br /> * [[1794年]]<br /> ** 「[[最高存在の祭典]]」。[[テルミドールの反動]]。[[総裁政府]]成立。<br /> ** [[蔦屋重三郎]]が[[東洲斎写楽]]の[[役者]][[大首絵]]を出版( - [[1795年]])。<br /> * [[1795年]]<br /> ** 清の乾隆帝とイギリス全権大使[[ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)|ジョージ・マカートニー]]が貿易の交渉するが決裂。<br /> ** フランスがオランダを占領し、[[バタヴィア共和国]]を建てる。<br /> ** [[ポーランド分割|第三次ポーランド分割]]によりポーランド国家が消滅。<br /> * [[1796年]] <br /> ** [[清]]の乾隆帝が譲位し、[[嘉慶帝]]が第7代皇帝に即位。<br /> *** 清政府による最初の[[アヘン]]輸入禁止令。<br /> *** 湖北にて[[白蓮教徒の乱]]が起こり、三世の春は終わる( - [[1804年]])。<br /> ** ナポレオンの[[イタリア戦役 (1796-1797年)|第一次イタリア遠征]]。<br /> ** [[アーガー・モハンマド・シャー]]がイランを統一し、[[ガージャール朝]]を建てる。<br /> ** ロシア女帝エカチェリーナ2世死去、息子の[[パーヴェル1世]]が即位。<br /> * [[1797年]]<br /> ** [[湯島聖堂]]の林家私塾を幕府直轄の[[昌平坂学問所]](昌平黌)に変更する。<br /> ** [[カンポ・フォルミオ条約]]により[[ジェノヴァ共和国]]と[[ヴェネツィア共和国]]が消滅。<br /> *** フランスは[[リーグレ共和国]]と[[チザルピーナ共和国]]を建て、オーストリアは[[ヴェネツィア]]他を併合。<br /> * [[1798年]]<br /> ** [[本居宣長]]が『[[古事記伝]]』を完成させる。<br /> ** フランスが教皇領を占領し[[ローマ共和国 (18世紀)|ローマ共和国]]を、スイスを占領し[[ヘルヴェティア共和国]]を建てる。<br /> ** [[エジプト・シリア戦役|ナポレオンのエジプト遠征]]。[[第二次対仏大同盟]]結成。<br /> ** [[タラの丘]]でのユナイテッド・アイリッシュメンの反乱がイギリス政府に鎮圧される。<br /> * [[1799年]]<br /> ** 清の乾隆太上皇帝死去、嘉慶帝は親政を開始し、先帝の寵臣[[ヘシェン]](和珅)に自死を命じる。<br /> ** [[第四次マイソール戦争]]にイギリスが勝利し、南インドの[[マイソール王国]]が[[藩王国]]となる。<br /> ** [[ブリュメール18日のクーデタ]]で[[統領政府]]成立。<br /> <br /> === 1800年代 ===<br /> {{main|1800年代}}<br /> * [[1800年]]<br /> ** [[伊能忠敬]]が[[蝦夷]]地の測量に向かう。<br /> ** [[アレッサンドロ・ボルタ]]が後に[[電池]]として知られる大[[電流]]を発生させる装置([[ボルタの電堆]])を発明。<br /> ** ナポレオンの[[第二次対仏大同盟|第二次イタリア遠征]]。ナポレオンのアルプス越え。[[マレンゴの戦い]]。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> === ヨーロッパ ===<br /> ==== 政治と軍事 ====<br /> * [[イヴァン・マゼーパ]]([[1639年]] - [[1709年]]) - ウクライナの政治家<br /> * [[クレメンス11世]]([[1649年]] - [[1721年]]) - ローマ教皇(在位[[1700年]] - [[1721年]])<br /> * [[マールバラ公|マールバラ公爵]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]([[1650年]] - [[1722年]]) - イギリスの軍人<br /> * [[アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー|アンドレ・エルキュール・ド・フルーリー]]([[1653年]] - [[1743年]]) - フランス宰相<br /> * [[オイゲン・フォン・ザヴォイエン]]([[1663年]] - [[1736年]]) - オーストリアの軍人<br /> * [[アン (イギリス女王)|アン]]([[1665年]] - [[1714年]]) - イギリス女王(在位[[1702年]] - [[1714年]])<br /> * [[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]([[1660年]] - [[1727年]]) - イギリス国王(在位[[1714年]] - [[1727年]])<br /> * [[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]([[1670年]] - [[1733年]]) - ポーランド王・ザクセン選帝侯<br /> * [[ピョートル1世]]([[1671年]] - [[1725年]]) - ロシアの皇帝(在位[[1682年]] - [[1725年]])<br /> * [[ジョン・ロー]]([[1671年]] - [[1729年]]) - フランスの財務総監<br /> * [[ロバート・ウォルポール]]([[1676年]] - [[1745年]]) - イギリス首相<br /> * [[ラーコーツィ・フェレンツ2世]]([[1676年]] - [[1735年]]) - ハンガリーの独立指導者<br /> * [[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]([[1682年]] - [[1718年]]) - スウェーデン王(在位[[1697年]] - [[1718年]])<br /> * [[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]([[1683年]] - [[1746年]]) - ボルボン朝スペイン初代国王(在位[[1700年]] - [[1724年]]、[[1724年]] - [[1746年]])<br /> * [[ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ]]([[1699年]] - [[1782年]]) - ポルトガル首相<br /> * [[クレメンス14世]]([[1705年]] - [[1774年]]) - ローマ教皇(在位[[1769年]] - [[1774年]])<br /> * [[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|チャタム伯爵ウィリアム・ピット]](大ピット)([[1708年]] - [[1778年]]) - イギリス首相<br /> * [[ヴェンツェル・アントン・カウニッツ]]([[1711年]] - [[1794年]]) - オーストリア宰相<br /> * [[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]](大王)([[1712年]] - [[1786年]]) - プロイセン王(在位[[1740年]] - [[1786年]])<br /> * [[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]([[1716年]] - [[1788年]]) - スペイン王(在位[[1759年]] - [[1788年]])<br /> * [[マリア・テレジア]]([[1717年]] - [[1780年]]) - オーストリア女帝(在位[[1740年]] - [[1780年]])<br /> * [[エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール]]([[1719年]] - [[1785年]]) - フランスの外交官<br /> * [[ポンパドゥール夫人]]([[1721年]] - [[1764年]]) - フランス王ルイ15世の寵妃<br /> * [[ジェームズ・ウルフ]]([[1727年]] - [[1759年]]) - イギリスの軍人<br /> * [[エカチェリーナ2世]]([[1729年]] - [[1796年]]) - ロシア女帝(在位[[1762年]] - [[1796年]])<br /> * [[アレクサンドル・スヴォーロフ]]([[1729年]] - [[1800年]]) - ロシアの軍人・大元帥<br /> * [[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ|スタニスワフ2世アウグスト]]([[1732年]] - [[1798年]]) - ポーランド王(在位[[1764年]] - [[1795年]])<br /> * [[ギルフォード伯爵]][[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|フレデリック・ノース]](ノース卿)([[1732年]] - [[1792年]]) - イギリス首相<br /> * [[ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ]]([[1737年]] - [[1772年]]) - デンマークの摂政<br /> * [[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]([[1738年]] - [[1820年]]) - イギリス王(在位[[1760年]] - [[1820年]])<br /> * [[エメリヤン・プガチョフ]]([[1740年]] - [[1775年]]) - ロシアの反乱指導者<br /> * [[ヨーゼフ2世]]([[1741年]] - [[1790年]]) - 神聖ローマ皇帝(在位[[1765年]] - [[1790年]])<br /> * [[デュ・バリー夫人]]([[1743年]] - [[1793年]]) - フランス国王ルイ15世の寵妃<br /> * コシチューシコ([[コシューシコ]])([[1746年]] - [[1817年]]) - ポーランド愛国者<br /> * [[グスタフ3世|グスタフ3世アドルフ]]([[1746年]] - [[1792年]]) - スウェーデン王(在位[[1771年]] - [[1792年]])<br /> * [[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]([[1754年]] - [[1793年]]) - フランス王(在位[[1774年]] - [[1792年]])<br /> * [[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン]]([[1755年]] - [[1810年]]) - スウェーデン貴族<br /> * [[マリー・アントワネット]]([[1755年]] - [[1793年]]) - フランス王妃<br /> * [[ラファイエット|ラファイエット侯爵ジルベール・デュ・モティエ]]([[1757年]] - [[1834年]]) - フランスの軍人・政治家、<br /> * [[マクシミリアン・ロベスピエール]]([[1758年]] - [[1794年]]) - フランスの政治家<br /> * [[ネルソン子爵]][[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]([[1758年]] - [[1805年]]) - イギリスの軍人<br /> * [[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]](小ピット)([[1759年]] - [[1806年]]) - イギリス首相<br /> * [[マヌエル・デ・ゴドイ]]([[1767年]] - [[1851年]]) - スペインの宰相<br /> * [[ナポレオン・ボナパルト]]([[1769年]] - [[1821年]]) - フランスの軍人のちに皇帝<br /> * [[グスタフ4世アドルフ]]([[1778年]] - [[1837年]]) - スウェーデン王(在位[[1792年]] - [[1809年]])<br /> ※[[フランス革命関連人物一覧]]も参照のこと。<br /> <br /> ==== 思想と歴史・人文諸学 ====<br /> * [[ベルナール・フォントネル]]([[1657年]] - [[1757年]])<br /> * シャルル・サン・ピエール([[1658年]] - [[1743年]])<br /> * [[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]([[1668年]] - [[1744年]])<br /> * [[バーナード・デ・マンデヴィル]]([[1670年]] - [[1733年]])<br /> * [[アントニー・アシュリー=クーパー (第3代シャフツベリ伯爵)|シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー・クーパー]]([[1671年]] - [[1713年]])<br /> * サン・シモン公爵ルイ・ド・ルヴロワ([[1675年]] - [[1755年]])<br /> * [[クリスティアン・ヴォルフ]]([[1679年]] - [[1754年]])<br /> * [[イーフレイム・チェンバーズ]]([[1680年]]? - [[1740年]])<br /> * [[ジョージ・バークリー]]([[1685年]] - [[1753年]])<br /> * [[シャルル・ド・モンテスキュー]]([[1689年]] - [[1755年]])<br /> * [[フランソワ・ケネー]]([[1694年]] - [[1774年]])<br /> * [[ヴォルテール]]([[1694年]] - [[1778年]])<br /> * フランシス・ハチソン([[1694年]] - [[1747年]])<br /> * [[イスラエル・ベン・エリエゼル]]([[1700年]]頃 - [[1760年]])<br /> * [[ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー]]([[1709年]] - [[1751年]])<br /> * [[トマス・リード]] ([[1710年]] - [[1796年]])<br /> * [[デイヴィッド・ヒューム]]([[1711年]]- [[1776年]])<br /> * [[ジャン=ジャック・ルソー]]([[1712年]] - [[1778年]])<br /> * [[ドゥニ・ディドロ]]([[1713年]] - [[1784年]])<br /> * ギヨーム・トマ・レーナル([[1713年]] - [[1796年]])<br /> * [[アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン]]([[1714年]] - [[1762年]])<br /> * [[クロード=アドリアン・エルヴェシウス]]([[1715年]] - [[1771年]])<br /> * [[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック]]([[1715年]] - [[1780年]])<br /> * [[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]([[1717年]] - [[1783年]])<br /> * [[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]([[1717年]] - [[1768年]])<br /> * エリザベス・モンタギュー([[1720年]] - [[1800年]])<br /> * [[アダム・スミス]]([[1723年]] - [[1790年]])<br /> * [[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ポール・アンリ・ティリ・ドルバック男爵]]([[1723年]] - [[1789年]])<br /> * [[イマヌエル・カント]]([[1724年]] - [[1804年]])<br /> * [[ジャック・テュルゴー]]([[1727年]] - [[1781年]])<br /> * [[エドマンド・バーク]]([[1729年]] - [[1797年]])<br /> * [[モーゼス・メンデルスゾーン]]([[1729年]] - [[1786年]])<br /> * [[ゴットホルト・エフライム・レッシング]]([[1729年]] - [[1781年]])<br /> * [[ヨハン・ゲオルク・ハーマン]]([[1730年]] - [[1788年]])<br /> * [[トマス・ペイン]]([[1737年]] - [[1809年]])<br /> * [[エドワード・ギボン]]([[1737年]] - [[1794年]])<br /> * [[チェーザレ・ベッカリーア]]([[1738年]] - [[1794年]])<br /> * [[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]]([[1743年]] - [[1819年]])<br /> * [[ニコラ・ド・コンドルセ]]([[1743年]] - [[1794年]])<br /> * [[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]([[1744年]] - [[1803年]])<br /> * [[エカテリーナ・ダーシュコワ|エカチェリーナ・ダーシュコワ]]([[1744年]] - [[1810年]])<br /> * [[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ]]([[1746年]] - [[1827年]])<br /> * [[ウィリアム・ジョーンズ (言語学者)|ウィリアム・ジョーンズ]]([[1746年]] - [[1794年]])<br /> * [[アレクサンドル・ラジーシチェフ]]([[1749年]] - [[1802年]])<br /> * アウグスト・ルートヴィッヒ・フォン・シュレーツァー([[1753年]] - [[1809年]])<br /> * [[メアリ・ウルストンクラフト]]([[1759年]] - [[1797年]])<br /> <br /> ==== 宗教と神秘主義 ====<br /> * [[エマヌエル・スヴェーデンボリ]]([[1688年]] - [[1772年]])<br /> * [[アルフォンソ・デ・リゴリ]]([[1696年]] - [[1787年]])<br /> * [[ヨハン・ニコラウス・フォン・ホントハイム]]([[1701年]] - [[1790年]])<br /> * [[ジョン・ウェスレー]]([[1703年]] - [[1791年]])<br /> * ロレンツォ・リッチ([[1703年]] - [[1775年]])<br /> * ルイ・クロード・ド・サン・マルタン([[1743年]] - [[1803年]])<br /> * マグダレナ・ソフィア・バラ([[1779年]] - [[1865年]])<br /> <br /> ==== 文学 ====<br /> * [[ダニエル・デフォー]]([[1660年]] - [[1731年]])<br /> * [[ジョナサン・スウィフト]]([[1667年]] - [[1745年]])<br /> * エドワード・ヤング([[1683年]] - [[1765年]])<br /> * [[ルズヴィ・ホルベア]]([[1684年]] - [[1754年]])<br /> * [[ピエール・ド・マリヴォー]]([[1688年]] - [[1763年]])<br /> * [[アレキサンダー・ポープ]]([[1688年]] - [[1744年]])<br /> * [[サミュエル・リチャードソン]]([[1689年]] - [[1761年]])<br /> * [[アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ|アベ・プレヴォー]] ([[1697年]] - [[1763年]])<br /> * [[ヘンリー・フィールディング]]([[1707年]] - [[1754年]])<br /> * [[カルロ・ゴルドーニ]]([[1707年]] - [[1793年]])<br /> * [[サミュエル・ジョンソン]]([[1709年]] - [[1784年]])<br /> * [[ジョン・クレランド]]([[1709年]] - [[1789年]])<br /> * [[ローレンス・スターン]]([[1713年]] - [[1768年]])<br /> * [[トマス・グレイ]]([[1716年]] - [[1771年]])<br /> * [[ホレス・ウォルポール]]([[1717年]] - [[1797年]])<br /> * [[ジャック・カゾット]]([[1719年]] - [[1792年]])<br /> * [[カルロ・ゴッツィ]]([[1720年]] - [[1806年]])<br /> * [[カロン・ド・ボーマルシェ]]([[1732年]] - [[1799年]])<br /> * レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ([[1734年]] - [[1806年]])<br /> * [[ジェイムズ・マクファーソン (詩人)|ジェイムズ・マクファーソン]]([[1736年]] - [[1796年]])<br /> * ルイ・セバスチャン・メルシェ([[1740年]] - [[1814年]])<br /> * [[マルキ・ド・サド|サド侯爵ドナシアン・アルフォンス・フランソワ]]([[1740年]] - [[1814年]])<br /> * [[ジェイムズ・ボズウェル]]([[1740年]] - [[1795年]])<br /> * [[コデルロス・ド・ラクロ|ショデルロ・ド・ラクロ]]([[1741年]] - [[1803年]])<br /> * オラウダ・イクイアーノ([[1745年]]頃 - [[1797年]])<br /> * [[ロレンツォ・ダ・ポンテ]] ([[1749年]] - [[1838年]])<br /> * [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]([[1749年]] - [[1832年]])<br /> * [[トーマス・チャタートン]]([[1752年]] - [[1770年]])<br /> * [[フリードリヒ・フォン・シラー]]([[1759年]] - [[1805年]])<br /> * [[ウィリアム・トマス・ベックフォード]]([[1760年]] – [[1844年]])<br /> * [[アンドレ・シェニエ]]([[1762年]] - [[1794年]])<br /> * [[フリードリヒ・ヘルダーリン]] ([[1770年]] - [[1843年]])<br /> * [[ノヴァーリス]]([[1772年]] - [[1801年]])<br /> * [[マシュー・グレゴリー・ルイス]]([[1775年]] - [[1818年]])<br /> <br /> ==== 芸術 ====<br /> * ニコラ・ド・ラルジリエール([[1656年]] - [[1746年]])<br /> * [[イアサント・リゴー]]([[1659年]] - [[1743年]])<br /> * ホセ・ベニート・デ・チュリゲラ([[1665年]] - [[1725年]])<br /> * ジェルマン・ボフラン([[1667年]] - [[1754年]])<br /> * [[アレッサンドロ・マニャスコ]]([[1667年]] - [[1749年]])<br /> * [[アントワーヌ・ヴァトー]]([[1684年]] - [[1721年]])<br /> * [[ジャン=マルク・ナティエ]]([[1685年]] - [[1766年]])<br /> * フランソワ・ルモワーヌ([[1688年]] - [[1737年]])<br /> * [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]([[1696年]] - [[1770年]])<br /> * [[ウィリアム・ホガース]]([[1697年]] - [[1764年]])<br /> * ニコラ・サルヴィ([[1697年]] - [[1751年]])<br /> * [[カナレット]]([[1697年]] - [[1768年]])<br /> * [[ジャン・シメオン・シャルダン]]([[1699年]] - [[1779年]])<br /> * シャルル・ジョゼフ・ナトワール ([[1700年]] - [[1777年]])<br /> * ピエトロ・ブラッチ([[1700年]] - [[1773年]])<br /> * ジャン・エティエンヌ・リオタール([[1702年]] - [[1789年]])<br /> * [[フランソワ・ブーシェ]]([[1703年]] - [[1770年]])<br /> * [[モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール]]([[1704年]] - [[1788年]])<br /> * ポンペオ・バトーニ([[1708年]] - [[1787年]])<br /> * フランシスコ・グァルディ([[1712年]] - [[1793年]])<br /> * リチャード・ウィルソン([[1713年]] - [[1782年]])<br /> * エティエンヌ・モーリス・ファルコネ([[1716年]] - [[1791年]])<br /> * [[ルイス・メレンデス]]([[1716年]] - [[1780年]])<br /> * [[トーマス・チッペンデール]]([[1718年]] – [[1779年]])<br /> * [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ]]([[1720年]] - [[1778年]])<br /> * [[ジョシュア・レノルズ]]([[1723年]] - [[1792年]])<br /> * [[ウィリアム・チェンバーズ (建築家)|ウィリアム・チェンバーズ]]([[1723年]] - [[1796年]])<br /> * [[ジョージ・スタッブス]]([[1724年]] - [[1806年]])<br /> * [[ジャン=バティスト・グルーズ|ジャン・バティスト・グルーズ]]([[1725年]] - [[1805年]])<br /> * [[トマス・ゲインズバラ]]([[1727年]] - [[1788年]])<br /> * [[アントン・ラファエル・メングス]] ([[1728年]] - [[1779年]])<br /> * [[ジャン・オノレ・フラゴナール]]([[1732年]] - [[1806年]])<br /> * {{仮リンク|ユベール・ロベール|fr|Hubert Robert}}([[1733年]] - [[1808年]])<br /> * ヨハン・ゾッファニー([[1733年]] - [[1810年]])<br /> * [[ジョセフ・ライト (画家)|ジョセフ・ライト]](ライト・オブ・ダービー)([[1734年]] - [[1797年]])<br /> * [[ジャン=アントワーヌ・ウードン|ジャン・アントワーヌ・ウードン]]([[1741年]] - [[1828年]])<br /> * [[ヨハン・ハインリヒ・フュースリー]]([[1741年]] - [[1825年]])<br /> * [[フランシスコ・デ・ゴヤ]]([[1746年]] - [[1828年]])<br /> * [[ジャック・ルイ・ダヴィッド]]([[1748年]] - [[1825年]])<br /> * [[エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン|エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン]]([[1755年]] - [[1842年]])<br /> * [[アントニオ・カノーヴァ]]([[1757年]] - [[1822年]])<br /> <br /> ==== 音楽 ====<br /> * [[アントニオ・ストラディバリ]]([[1644年]] - [[1737年]])<br /> * [[アレッサンドロ・スカルラッティ]]([[1660年]] - [[1725年]])<br /> * [[フランソワ・クープラン]]([[1668年]] - [[1733年]])<br /> * [[アントニオ・ヴィヴァルディ]]([[1678年]] - [[1741年]])<br /> * [[ゲオルク・フィリップ・テレマン]]([[1681年]] - [[1767年]])<br /> * [[ジャン=フィリップ・ラモー|ジャン・フィリップ・ラモー]]([[1683年]] - [[1764年]])<br /> * [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]([[1685年]] - [[1750年]])<br /> * [[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]([[1685年]] - [[1759年]])<br /> * [[ジュゼッペ・タルティーニ]]([[1692年]] - [[1770年]])<br /> * [[ファリネッリ]]([[1705年]] - [[1782年]])<br /> * [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ]]([[1710年]] - [[1736年]])<br /> * [[クリストフ・ヴィリバルト・グルック]]([[1714年]] - [[1787年]])<br /> * [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]([[1732年]] - [[1809年]])<br /> * [[フランソワ=ジョセフ・ゴセック|フランソワ=ジョゼフ・ゴセック]]([[1734年]] - [[1829年]])<br /> * [[ジョヴァンニ・パイジエッロ]]([[1740年]] - [[1816年]])<br /> * [[ドメニコ・チマローザ]]([[1749年]] - [[1801年]])<br /> * [[アントニオ・サリエリ]]([[1750年]] - [[1825年]])<br /> * [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]([[1756年]] - [[1791年]])<br /> * [[ルイージ・ケルビーニ]]([[1760年]] - [[1842年]])<br /> <br /> ==== 科学と技術 ====<br /> * [[アイザック・ニュートン]]([[1642年]] - [[1727年]])<br /> * [[エドモンド・ハレー]]([[1656年]] - [[1742年]])<br /> * [[トーマス・ニューコメン]]([[1664年]] - [[1729年]])<br /> * ダービー父子<br /> ** エイブラハム・ダービー1世([[1678年]] - [[1717年]])<br /> ** エイブラハム・ダービー2世([[1711年]] - [[1763年]])<br /> * [[ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー]]([[1682年]] - [[1719年]])<br /> * [[ルネ・レオミュール]]([[1683年]] - [[1757年]])<br /> * [[ガブリエル・ファーレンハイト]]([[1686年]] - [[1736年]])<br /> * [[ピーテル・ファン・ミュッセンブルーク]]([[1692年]] - [[1761年]])<br /> * [[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]]([[1693年]] - [[1776年]])<br /> * [[ピエール・ルイ・モーペルテュイ]]([[1698年]] - [[1759年]])<br /> * [[ダニエル・ベルヌーイ]]([[1700年]] - [[1782年]])<br /> * [[アンデルス・セルシウス]]([[1701年]] - [[1744年]])<br /> * [[エミリー・デュ・シャトレ]]([[1706年]] - [[1749年]])<br /> * [[レオンハルト・オイラー]]([[1707年]] - [[1783年]])<br /> * [[カール・フォン・リンネ]]([[1707年]] - [[1778年]])<br /> * [[ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン|ジョルジュ・ルイ・クレール・ド・ビュフォン]]([[1707年]] - [[1788年]])<br /> * [[ジャック・ド・ヴォーカンソン]]([[1709年]] - [[1782年]])<br /> * [[ミハイル・ロモノーソフ]]([[1711年]] - [[1765年]])<br /> * [[ジェームズ・ハーグリーブス]]([[1720年]]頃 - [[1778年]])<br /> * [[ニコラ=ジョゼフ・キュニョー|ニコラ・ジョゼフ・キュニョー]]([[1725年]] - [[1804年]])<br /> * [[ラザロ・スパランツァーニ]] ([[1729年]] - [[1799年]])<br /> * [[シャルル・メシエ]]([[1730年]] - [[1817年]])<br /> * [[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]([[1731年]] - [[1810年]])<br /> * [[エラズマス・ダーウィン]]([[1731年]] - [[1802年]])<br /> * [[リチャード・アークライト]]([[1732年]] - [[1792年]])<br /> * [[ジョゼフ・プリーストリー]]([[1733年]] - [[1804年]])<br /> * [[ジェームズ・ワット]]([[1736年]] - [[1819年]])<br /> * [[ルイージ・ガルヴァーニ]]([[1737年]] - [[1798年]])<br /> * [[フレデリック・ウィリアム・ハーシェル]]([[1738年]] - [[1822年]])<br /> * [[モンゴルフィエ兄弟]]<br /> ** ジョセフ・ミシェル・モンゴルフィエ([[1740年]] - [[1810年]])<br /> ** ジャック・エティエンヌ・モンゴルフィエ([[1745年]] - [[1799年]])<br /> * [[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]([[1742年]] - [[1786年]])<br /> * [[ジョゼフ・バンクス]]([[1743年]] - [[1820年]])<br /> * [[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]([[1743年]] - [[1794年]])<br /> * [[カール・ツンベルク]]([[1743年]] - [[1828年]])<br /> * [[エドモンド・カートライト]]([[1743年]] - [[1823年]])<br /> * [[アレッサンドロ・ヴォルタ]]([[1745年]] - [[1827年]])<br /> * [[フィリップ・ピネル]]([[1745年]] - [[1826年]])<br /> * [[ピエール・シモン・ラプラス]]([[1749年]] - [[1827年]])<br /> * [[エドワード・ジェンナー]]([[1749年]] - [[1823年]])<br /> * [[サミュエル・クロンプトン]]([[1753年]] - [[1827年]])<br /> * [[アロイス・ゼネフェルダー]]([[1771年]] - [[1834年]])<br /> <br /> ==== 探検家・旅行家 ====<br /> * [[ヤーコプ・ロッヘフェーン]]([[1659年]] - [[1729年]])<br /> * [[ヴィトゥス・ベーリング]]([[1681年]] - [[1741年]])<br /> * [[ジェームズ・クック]]([[1728年]] - [[1779年]])<br /> * [[ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル]]([[1729年]] - [[1811年]])<br /> * [[ジョン・ケンドリック]]([[1740年]]頃 - [[1794年]])<br /> * [[ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー]]([[1741年]] - [[1788年]]?)<br /> * [[ジョージ・バンクーバー]]([[1757年]] - [[1798年]])<br /> * [[アレグザンダー・マッケンジー (探検家)|アレグザンダー・マッケンジー]]([[1764年]] - [[1820年]])<br /> <br /> ==== その他 ====<br /> * [[ジョルジュ・サルマナザール]]([[1679年]] - [[1763年]])<br /> * ジェームズ・アンダーソン([[1679年]]/[[1680年]] - [[1739年]])<br /> * ヨハン・エルンスト・エリアス・ベスラー(オルフィレウス)([[1680年]] - [[1745年]])<br /> * [[サンジェルマン伯爵]]([[1691年]]/[[1707年]]? - [[1784年]])<br /> * [[フランシス・ダッシュウッド]]([[1708年]] - [[1781年]])<br /> * [[ミュンヒハウゼン男爵]]カール・フリードリヒ・ヒエロニュムス([[1720年]] - [[1797年]])<br /> * [[ジャコモ・カサノヴァ]]([[1725年]] - [[1798年]])<br /> * [[シュヴァリエ・デオン|デオン・ド・ボーモン]]([[1728年]] - [[1810年]])<br /> * [[ヴォルフガング・フォン・ケンペレン]]([[1734年]] - [[1804年]])<br /> * [[フランツ・アントン・メスメル]]([[1734年]] - [[1815年]])<br /> * [[ヨハン・カスパー・ラヴァーター]]([[1741年]] - [[1801年]])<br /> * [[カリオストロ|アレッサンドロ・ディ・カリオストロ]]([[1743年]] - [[1795年]])<br /> * アダム・ヴァイスハウプト([[1748年]] - [[1830年]])<br /> * サミュエル・ハーネマン([[1755年]] - [[1843年]])<br /> * [[ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア]]([[1756年]] - [[1791年]])<br /> <br /> === 北アメリカ ===<br /> * [[ジョナサン・エドワーズ]]([[1703年]] - [[1758年]]) - アメリカの牧師・[[第一次大覚醒|大覚醒運動]]の指導者<br /> * [[ベンジャミン・フランクリン]]([[1706年]] - [[1790年]]) - アメリカの政治家・外交官・科学者<br /> * [[サミュエル・アダムズ]]([[1722年]] - [[1803年]]) - アメリカの政治家<br /> * [[ジェイムズ・オーティス]]([[1725年]] - [[1783年]]) - アメリカの法律家・政治家<br /> * [[ジョージ・ワシントン]]([[1732年]] - [[1799年]]) - アメリカ初代大統領・軍人<br /> * [[パトリック・ヘンリー]]([[1736年]] - [[1799年]]) - アメリカの法律家・政治家<br /> * [[アレクサンダー・ハミルトン]]([[1755年]] - [[1804年]]) - アメリカ財務長官・思想家<br /> * [[イーライ・ホイットニー]]([[1765年]] - [[1825年]]) - アメリカの発明家<br /> <br /> === ラテン・アメリカとカリブ海 ===<br /> * {{仮リンク|フランシスコ・ヒメネス|en|Francisco Ximénez}}([[1666年]] - [[1729年]]頃) - 植民地[[グアテマラ]]のドミニコ会士・マヤ時代の写本を整理翻訳し『[[ポポル・ヴフ]]』として編纂<br /> * [[黒髭|エドワード・ティーチ]](黒髭)([[1680年]]? - [[1718年]]) - [[カリブ海]]で活躍したイギリス人[[海賊]]・[[海賊の黄金時代]]を代表する<br /> * ホセ・デ・アンテケラ・イ・カストロ([[1689年]] - [[1731年]]) - 植民地[[パラグアイ]]の総督・イエズス会とパラグアイ支配権を争い反乱を起こし処刑される<br /> * [[フランソワ・マッカンダル]](? - [[1758年]]) - 植民地[[ハイチ]]の[[マルーン]]の指導者・もとは逃亡奴隷でブードゥー教司祭となりフランス人農園主と対決<br /> * [[フニペロ・セラ]]([[1713年]] - [[1784年]]) - 植民地[[アルタ・カリフォルニア]]のフランシスコ会士・先住民強制改宗で「最後のコンキスタドール」と呼ばれる<br /> * アレイジャディーニョ([[1738年]] - [[1814年]]) - 植民地ブラジルの建築家で彫刻家・コンゴーニャスのボン・ジェズス教会が有名<br /> * [[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ]]([[1742年]] - [[1781年]]) - 植民地ペルーの反乱指導者・インカの末裔[[トゥパク・アマル2世]]と名乗る<br /> * [[チラデンテス]]([[1746年]] - [[1792年]]) - 植民地ブラジルの軍人・「[[ミナスの陰謀]]」でポルトガルからの独立を企てるも失敗・ブラジルの英雄とされる<br /> <br /> === 西アジア・中央アジア ===<br /> * ネヴシェヒルリ・イブラヒム・パシャ([[1666年]] - [[1730年]]) - オスマン帝国の大宰相・チューリップ時代にアフメト3世を支える<br /> * イルミセキズ・チェレビー([[1670年]] - [[1732年]]) - オスマン帝国の外交官・大宰相の命によりフランスを訪問し西欧文化を紹介する<br /> * [[アフメト3世]]([[1673年]] - [[1736年]]) - オスマン帝国の第23代皇帝(在位[[1703年]] - [[1730年]])・チューリップ時代を現出する<br /> * [[イブラヒム・ミュテフェッリカ]]([[1674年]] - [[1745年]]) - オスマン帝国の外交官・ムスリムによる最初の活版印刷所を[[イスタンブール]]に創設<br /> * [[クロード・アレクサンドル・ド・ボンヌヴァル]]([[1675年]] - [[1747年]]) - フランス出身のオスマン帝国軍人・イスラム教徒となり帝国の軍事改革を行う<br /> * ネディーム ([[1681年]]? - [[1730年]]) - オスマン帝国のチューリップ時代の[[トルコ文学|トルコ語]]の詩人・現世的喜びを詠う<br /> * アブドルジェリル・レヴニー(? - [[1732年]]) - オスマン帝国のチューリップ時代の画家で[[細密画]](ミニアチュール)に優れる<br /> * パトロナ・ハリル((? - [[1732年]]) - オスマン帝国の反乱指導者・元は[[イェニチェリ]]で無頼・反乱を起こしチューリップ時代を終わらせる<br /> * [[ナーディル・シャー]]([[1688年]] - [[1747年]]) - イランの[[アフシャール朝]]の君主(在位[[1736年]] - [[1747年]])・「第二のアレクサンドロス」<br /> * ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ([[1703年]] - [[1792年]]) - アラビアの宗教家・[[ワッハーブ派]]の創始者で[[サウード家]]と結ぶ<br /> * [[カリーム・ハーン]]([[1705年]]頃 - [[1779年]]) - イランの[[ザンド朝]]の初代君主([[1750年]] - [[1779年]])・イランを復興し[[シーラーズ]]に遷都<br /> * [[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]([[1723年]] - [[1773年]]) - アフガニスタンの[[ドゥッラーニー朝]]の初代君主(在位[[1747年]] - [[1773年]])<br /> * [[アーガー・モハンマド・シャー]]([[1742年]]? - [[1797年]]) - イランの[[カージャール朝]]の初代君主(在位[[1796年]] - [[1797年]])・[[テヘラン]]に遷都<br /> <br /> === インド・東南アジア ===<br /> * [[ムルシド・クリー・ハーン]]([[1665年]]頃 - [[1727年]]) - 東インドの[[ベンガル太守]](在位:[[1717年]] - [[1727年]])・ムガル帝国から自立する<br /> * [[カマルッディーン・ハーン]]([[1671年]] - [[1748年]]) - ムガル帝国の宰相・後に[[ハイダラーバード]]の[[ニザーム王国]]の初代君主(在位:[[1724年]] - [[1748年]])<br /> * [[ターラー・バーイー]]([[1675年]] - [[1761年]]) - マラーター国王[[ラージャーラーム]]の妃で[[シヴァージー2世]]の母・アウラングゼーブを翻弄する<br /> * [[サアーダト・アリー・ハーン]]([[1680年]]頃 - [[1739年]]) - 北インドの[[アワド太守]](在位:[[1722年]] - [[1739年]])・ムガル帝国から自立する<br /> * [[サアーダトゥッラー・ハーン]](? - [[1732年]]) - 南インドの[[カルナータカ太守]](在位:[[1710年]] - [[1732年]])・ムガル帝国から自立する<br /> * [[ジョゼフ・フランソワ・デュプレクス]]([[1697年]] - [[1763年]]) - フランス領インド総督・第一次カーナティック戦争で優位に立つ<br /> * [[バージー・ラーオ]]([[1700年]] - [[1740年]]) - [[マラーター王国]]の宰相(在位:[[1720年]] - [[1740年]])・「[[シヴァージー]]の再来」と呼ばれ帝都[[デリー]]を攻撃<br /> * シャー・ワリー・ウッラー([[1702年]]/[[1703年]] - [[1762年]]) - イスラーム神学者・近代イスラーム思想の先駆者・著作に『神の究極の明証』がある<br /> * [[アラウンパヤー]]([[1714年]] - [[1760年]]) - ミャンマーの[[コンバウン朝]]の創設者(在位:[[1752年]] - [[1760年]])・国内を統一し[[ラングーン]]市を整備<br /> * [[ハイダル・アリー]]([[1717年]]/[[1722年]] - [[1782年]]) - マイソール王国の将軍・首席大臣・後に[[オデヤ朝]]に代わり国王(在位:[[1761年]] - [[1782年]])となる<br /> * [[ミール・タキー・ミール]]([[1723年]] - [[1810年]]) - インドの[[ガザル|ウルドゥー抒情詩(ガザル)]]詩人・『ニカートッシュアラー』『ジィクレ・ミール』がある<br /> * [[ロバート・クライヴ]]([[1725年]] - [[1774年]]) - イギリス出身の軍人・プラッシーの戦いでフランスに勝利しイギリス領インドの基礎を築く<br /> * [[ウォーレン・ヘースティングズ]]([[1732年]] - [[1818年]]) - イギリス出身の政治家・ベンガル知事からインドの初代総督となる<br /> * [[タークシン]]([[1734年]] - [[1782年]]) - [[トンブリー朝]]唯一のシャム国王(在位:[[1767年]] - [[1782年]])・アユタヤ朝滅亡後の国家を再建する<br /> * [[ラーマ1世]]([[1737年]] - [[1809年]]) - チャクリー朝初代のシャム国王(在位:[[1782年]] - [[1809年]])・新たにバンコクを建設し遷都する<br /> * [[ティプー・スルターン]]([[1750年]] - [[1799年]]) - インドのマイソール王国国王(在位:[[1782年]] - [[1799年]])・イギリスとの熾烈な戦いで有名<br /> <br /> === 東アジア ===<br /> ==== 清 ====<br /> * [[康熙帝]]([[1654年]] - [[1722年]]) - 清の第4代皇帝(在位[[1661年]] - [[1722年]])・中国屈指の名君・在位60年で「三世の春」時代を迎える<br /> * [[ジョアシャン・ブーヴェ]](白進)([[1656年]] - [[1730年]]) - フランス人のイエズス会士・「皇輿全覧図」を作成し『康熙帝伝』を執筆<br /> * ジャン・バティスト・レジス(雷孝思)([[1663年]] - [[1738年]]) - フランス人のイエズス会士・ブーヴェらと「皇輿全覧図」を作成<br /> * [[張廷玉]]([[1672年]] - [[1755年]]) - 清の政治家・軍機大臣・康熙帝から乾隆帝までの三朝五十年仕える・『[[明史]]』などの編纂にも従事<br /> * [[沈徳潜]]([[1673年]] - [[1769年]]) - 清の文人・学者・乾隆帝から「東南二老」の一人と讃えられる・『五朝詩別裁集』がある<br /> * [[雍正帝]]([[1678年]] - [[1735年]]) - 清の第5代皇帝(在位[[1722年]] - [[1735年]])・政務に精励し独裁権を確立・[[軍機処]]を設置<br /> * 曾静([[1679年]] - [[1735年]]) - 清の思想家・反清思想で捕縛されるが転向・その経緯は『[[大義覚迷録]]』に詳しい・乾隆帝により処刑される<br /> * [[沈南蘋]]([[1682年]] - [[1760年]]以降) - 清の画家・徳川幕府に招聘され長崎に滞在・写生的な花鳥画の技法を日本に伝える<br /> * 岳鍾琪([[1686年]] - [[1754年]]) - 清の軍人・ジュンガルを追ってチベットを制圧し青海にも進出・失脚するも復権し大金川遠征にも参加<br /> * 金農([[1687年]] - [[1763年]]) - 清の書家・画家・官途につかず揚州八怪の一人として在野で活躍・[[金石学]]から学んだ[[隷書]]が有名<br /> * [[ジュゼッペ・カスティリオーネ]](郎世寧)([[1688年]] - [[1766年]]) - イタリア人のイエズス会士・乾隆帝に画家として仕え[[円明園]]を設計<br /> * [[鄭燮]]([[1693年]] - [[1765年]]) - 清の書家・画家・官途につくも辞任・揚州八怪の一人・金農とともに金石学を学び碑学派の先駆となる<br /> * [[呉敬梓]]([[1701年]] - [[1754年]]) - 清の文人・官吏の弊風を諷刺した長編口語小説『[[儒林外史]]』を書く<br /> * [[乾隆帝]]([[1711年]] - [[1799年]]) - 清の第6代皇帝(在位[[1735年]] - [[1795年]])・「三世の春」の円熟期を代表し「十全武功」を誇った<br /> * [[袁枚]]([[1716年]] - [[1797年]]) - 清の詩人・散文作家・性霊説を唱えた詩論『随園詩話』や料理書『随園食単』怪異談『[[子不語]]』が有名<br /> * [[ジョセフ・マリー・アミオ]](銭徳明)([[1718年]] - [[1793年]]) - フランス人のイエズス会士・乾隆帝に仕え『孫子』『呉子』など中国古典を翻訳<br /> * 劉墉([[1719年]] - [[1804年]]) - 清の政治家・乾隆帝と嘉慶帝に仕え高官を歴任・書家としては帖学派を代表し「濃墨宰相」と呼ばれる<br /> * [[戴震]]([[1724年]] - [[1777年]]) - 清の学者(考証学)・『四庫全書』の編纂官となり天算(暦)の部の校訂を行う・著書に『孟子字義疏証』<br /> * [[紀昀]]([[1724年]] - [[1805年]]) - 清の官吏・学者・『四庫全書』の総編集を担当・詩文や論文は残さず怪異談『閲微草堂筆記』が残る<br /> * [[曹雪芹]]([[1724年]]頃 - [[1763年]]頃) - 清の作家・没落した旗人に生まれ貧窮の中で長編口語小説『[[紅楼夢]]』を完成させる<br /> * [[趙翼]]([[1727年]] - [[1812年]]) - 清の官吏・学者(考証学)・正史二十二史の編纂形式や内容を考証した『[[二十二史箚記]]』を執筆<br /> * [[銭大昕]]([[1728年]] - [[1804年]]) - 清の官吏・学者(考証学)・正史二十二史の編纂形式や内容を考証した『[[二十二史考異]]』を執筆<br /> * 王倫(? - [[1774年]]) - 清の反乱指導者・白蓮教系清水教の頭目として反乱を起こすが鎮圧される<br /> * [[林爽文]](? - [[1788年]]) - 清の反乱指導者・[[天地会]]に参加し台湾で反乱を起こすが鎮圧される・乾隆帝の「十全武功」の一つとされる<br /> * 容妃([[1734年]] - [[1788年]]) - 清の乾隆帝の后妃・西域から召されながら乾隆帝の寵愛を拒んで自殺したという伝説の「香妃」のモデル<br /> * [[段玉裁]]([[1735年]] - [[1815年]]) - 清の官吏・学者(考証学)・戴震に音韻論を学び『説文解字注』などの著作を残す<br /> * [[ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)|ジョージ・マカートニー]]([[1737年]] - [[1806年]]) - イギリスの政治家・外交官・熱河で乾隆帝と会見するが貿易制限改善の交渉は失敗<br /> * [[章学誠]]([[1738年]] - [[1801年]]) - 清の学者(考証学)・史学研究から『文史通義』や『[[校讐通義]]』などの著作を残す<br /> * [[トウ石如|鄧石如]]([[1743年]] - [[1805年]]) - 清の書家・篆刻家・秦篆や漢隷を再評価し[[碑学派]]の祖とされる・『完白山人印譜』がある<br /> * [[ヘシェン]]([[1750年]] - [[1799年]]) - 清の政治家(軍機大臣)・晩年の乾隆帝の寵を受け専横を尽くす・不正蓄財を行い [[嘉慶帝]]に処罰される<br /> <br /> ==== 大越 ====<br /> * [[ピニョー・ド・ベーヌ]](百多禄)([[1741年]] - [[1799年]]) - フランス人宣教師・越南の[[阮福暎]](後の嘉隆帝)を補佐し[[西山朝]]と戦う<br /> * [[阮恵]]([[1753年]] - [[1792年]]) - 大越の西山朝の皇帝(在位[[1788年]] - [[1792年]])・西山三兄弟の末弟・広南阮氏や東京鄭氏を倒し[[黎朝]]を滅ぼす<br /> <br /> ==== 李氏朝鮮 ====<br /> * [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]([[1694年]] - [[1776年]]) - 李氏朝鮮の21代国王(在位[[1724年]] - [[1776年]])・党争を抑え長期間王位にあった・[[荘献世子]]を廃太子とする<br /> * 金仁謙([[1707年]] - [[1772年]]) - 李氏朝鮮の儒者・第11次[[朝鮮通信使]]の外交書記官・[[ハングル]]で書かれた『[[日東壮遊歌]]』を残す<br /> <br /> === 日本 ===<br /> * [[英一蝶]]([[1652年]] - [[1724年]]) - 画家・[[吉原]][[遊郭]]で[[幇間]]としても活躍するが[[三宅島]]に流罪となる・赦免後は画業に復帰<br /> * [[近松門左衛門]]([[1653年]] - [[1725年]]) - 浄瑠璃作者・時代物『[[国姓爺合戦]]』や世話物『[[曽根崎心中]]』などがある<br /> * [[新井白石]]([[1657年]] - [[1725年]]) - 儒学者・政治家として将軍家宣・将軍家継に仕え[[正徳の治]]を推進・著作に『読史余論』ほか<br /> * [[柳沢吉保]]([[1658年]] - [[1714年]]) - 大名(甲斐甲府藩主)・[[老中格]]・[[大老|大老格]]・将軍綱吉に仕え元禄から宝永の幕政を指導<br /> * [[荻原重秀]]([[1658年]] - [[1713年]]) - 江戸幕府の[[勘定奉行]]・[[元禄]]から[[宝永]]での[[貨幣改鋳]]を行う・新井白石により罷免される<br /> * [[尾形光琳]]([[1658年]] - [[1716年]]) - 画家([[琳派]])・「紅白梅図屏風」「燕子花図屏風」がある・陶芸家[[尾形乾山]]は弟<br /> * [[大石良雄]]([[1659年]] - [[1703年]]) - 義士・赤穂藩家老・[[赤穂事件]]で主君[[浅野長矩]]の敵[[吉良義央]]を討つ<br /> * [[山本常朝]]([[1659年]] - [[1719年]]) - 武士(佐賀藩士)・思想家・[[武士道]]で知られる『[[葉隠]]』を著す<br /> * [[徳川家宣]]([[1662年]] - [[1712年]]) - 江戸幕府6代将軍(在任[[1709年]] - [[1712年]])・その治世が正徳の治<br /> * [[徳川家継]]([[1709年]] - [[1716年]]) - 江戸幕府7代将軍(在任[[1713年]] - [[1716年]])・その治世が正徳の治<br /> * 寺島良安(生没年不詳) - 医師・中国の『[[三才図会]]』を範とした日本最初の絵入り[[百科事典]]『[[和漢三才図会]]』を著述<br /> * [[荻生徂徠]]([[1666年]] - [[1728年]]) - 儒学者([[古文辞学]])・蘐園学派を形成し著作に『政談』『論語徴』がある<br /> * [[間部詮房]]([[1666年]] - [[1720年]]) - 大名(上野高崎藩主)・側用人・老中格・将軍家宣・将軍家継に仕え[[正徳の治]]を推進<br /> * [[雨森芳洲]]([[1668年]] - [[1755年]]) - 儒学者・中国語や朝鮮語に通じ[[対馬藩]]に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わる<br /> * [[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ]]([[1668年]] - [[1714年]]) - カトリック司祭・鎖国下の日本に潜入・新井白石との交流で有名<br /> * [[荷田春満]]([[1669年]] - [[1736年]]) - 国学者・国学の四大人の一人・著作に『万葉集僻案抄』などがある<br /> * [[売茶翁]]([[1675年]] - [[1763年]]) - [[黄檗宗]]の僧・[[煎茶]]の中興の祖・日本初の喫茶店である東山通仙亭を開き文人たちと交友<br /> * [[大岡忠相]]([[1677年]] - [[1752年]]) - 政治家(寺社奉行ほか)・大名(西大平藩初代藩主)・将軍吉宗を補佐し享保の改革を推進<br /> * [[絵島]]([[1681年]] - [[1741年]]) - [[大奥]]御年寄・将軍家継生母[[月光院]]の側近・大奥風紀粛清に伴う疑獄事件([[江島生島事件]])の中心人物<br /> * [[徳川吉宗]]([[1684年]] - [[1751年]]) - 江戸幕府8代将軍(在任[[1716年]] - [[1745年]])・享保の改革を進め江戸幕府中興の祖とされる<br /> * [[石田梅岩]]([[1685年]] - [[1744年]]) - 思想家・石門心学の祖・商人の職業倫理を肯定し『[[都鄙問答]]』などを著す<br /> * [[白隠慧鶴]]([[1686年]] - [[1768年]]) - 禅僧・臨済宗中興の祖・公案を用いた[[看話禅]]を体系化・『夜船閑話』『[[坐禅和讃]]』ほか禅画も有名<br /> * [[竹田出雲]]([[1691年]] - [[1756年]]) - 浄瑠璃作者・竹本座の座元・『[[仮名手本忠臣蔵]]』『[[義経千本桜]]』を著す<br /> * [[徳川宗春]]([[1696年]] - [[1764年]]) - 大名([[御三家]]尾張藩主)・規制緩和政策をとり倹約重視の徳川吉宗と対立し蟄居させられる<br /> * [[賀茂真淵]]([[1697年]] - [[1769年]]) - 国学者・国学の四大人の一人・『[[源氏物語新釈]]』『[[にひまなび]]』の著作がある<br /> * [[青木昆陽]]([[1698年]] - [[1769年]]) - 蘭学者・救荒作物である[[甘藷]](サツマイモ)の栽培に尽くし「甘藷先生」と呼ばれる<br /> * [[安藤昌益]]([[1703年]] - [[1762年]]) - 思想家・医師・封建社会批判の『自然真営道』を執筆するが生前は郷里以外ではほとんど無名だった<br /> * [[大岡忠光]]([[1709年]] - [[1760年]]) - 大名(武蔵岩槻藩藩主)・若年寄・[[側用人]]として病弱な将軍家重を補佐し重きをなす<br /> * [[徳川家重]]([[1712年]] - [[1761年]]) - 江戸幕府9代将軍(在任[[1745年]] - [[1760年]])・病弱のため側用人大岡忠光が補佐をする<br /> * [[竹内敬持|竹内式部]]([[1712年]] - [[1768年]]) - 国学者・神道家・公卿に尊王論を説き追放される(宝暦事件)・明和事件にも連座<br /> * [[伊藤若冲]]([[1716年]] - [[1800年]]) - 画家・「[[動植綵絵]]」「鹿苑寺大書院障壁画」などの細密描写から「奇想の画家」とも呼ばれる<br /> * [[与謝蕪村]]([[1716年]] - [[1784年]]) - 俳人としては江戸俳諧中興の祖と呼ばれる・画家としては文人画として「[[十便十宜図]]」などを残す<br /> * [[木喰]]([[1718年]] - [[1810年]]) - 真言宗の僧侶・仏師として日本各地に「木喰仏」と呼ばれる木造仏を残す<br /> * [[柄井川柳]]([[1718年]] - [[1790年]]) - 俳人・[[前句付け]][[点者]]として編んだ『[[誹風柳多留]]』により名が知られ「[[川柳]]」の語の由来となった<br /> * [[田沼意次]]([[1719年]] - [[1788年]]) - 大名(遠江相良藩主)・老中・重商主義による政治を行い「田沼時代」を現出した<br /> * [[前野良沢]]([[1723年]] - [[1803年]]) - 藩医(豊前中津藩)・蘭学者・杉田玄白らとともに『[[解体新書]]』の翻訳を行う<br /> * [[池大雅]]([[1723年]] - [[1776年]]) - 画家・与謝蕪村とともに日本の[[文人画]](南画)の大成者とされる・代表作に「楼閣山水図」ほか<br /> * [[三浦梅園]]([[1723年]] - [[1789年]]) - 医師・経世論家・条理学と言われる独自の学問体系を築き『[[玄語]]』ほかの著作を残す<br /> * [[山県大弐]]([[1725年]] - [[1767年]]) - 儒学者・神道家・江戸に私塾「柳荘」を営むが謀反の疑いをかけられ処刑される(明和事件)<br /> * [[鈴木春信]]([[1725年]]? - [[1770年]]) - 浮世絵師・多色摺りから[[錦絵]]を発展させる・代表作は「風流四季歌仙」ほか<br /> * [[平賀源内]]([[1728年]] - [[1780年]]) - 本草学者・蘭学者・戯作家・発明家・画家・多種多芸の才能を持ちエレキテル実用などで有名<br /> * [[本居宣長]]([[1730年]] - [[1801年]]) - 国学者・国学の四大人の一人・『[[古事記伝]]』『[[源氏物語玉の小櫛]]』を著した<br /> * [[中井竹山]]([[1730年]] - [[1804年]]) - 儒学者・大坂の学問所[[懐徳堂]]の4代目学主・懐徳堂の全盛期を支える・[[中井履軒]]は弟<br /> * [[曾我蕭白]]([[1730年]] - [[1781年]]) - 画家・「群仙図屏風」「商山四皓図屏風」など大胆で創意に満ちた作風から「奇想の画家」とも呼ばれる<br /> * [[円山応挙]]([[1733年]] - [[1795年]]) - 画家(四条円山派)・写生を重視した画風で代表作に「[[大乗寺 (香美町)|大乗寺障壁画]]」「雪松図屏風」がある<br /> * [[杉田玄白]]([[1733年]] - [[1817年]]) - 藩医(若狭小浜藩)・蘭学者・前野良沢らとともに『[[解体新書]]』の翻訳を行う<br /> * [[上田秋成]]([[1734年]] - [[1809年]]) - 読本作者・歌人・国学者・怪異小説『[[雨月物語]]』『[[春雨物語]]』ほかを執筆する<br /> * [[工藤平助]]([[1734年]] - [[1801年]]) - 仙台藩の藩医・経世論家・『[[赤蝦夷風説考]]』でロシアの南下を警告・田沼意次の[[蝦夷地]]開発計画に影響<br /> * [[木村蒹葭堂]]([[1736年]] - [[1802年]]) - 文人・画家・本草学者・本業の造り酒屋を営む一方で文化人と交流し「浪速の知の巨人」と呼ばれる<br /> * [[柴野栗山]]([[1736年]] - [[1807年]]) - 儒学者・[[湯島聖堂]]の責任者となり「[[寛政異学の禁]]」を指導・「[[寛政の三博士]]」の一人<br /> * [[徳川家治]]([[1737年]] - [[1786年]]) - 江戸幕府10代将軍(在任[[1760年]] - [[1786年]])・田沼意次に政務を任せ「田沼時代」を迎える<br /> * [[林子平]]([[1738年]] - [[1793年]]) - 経世論家・国防の充実を唱えた『[[海国兵談]]』や『[[三国通覧図説]]』を執筆・「[[寛政の三奇人]]」の一人<br /> * [[塙保己一]]([[1746年]] - [[1821年]]) - 国学者・総検校・失明を乗り越え古典籍の一大叢書である『[[群書類従]]』『[[続群書類従]]』を編纂<br /> * [[高山彦九郎]]([[1747年]] - [[1793年]]) - 思想家・勤皇論を唱えて日本各地を歴訪し膨大な旅日記を残す・「寛政の三奇人」の一人<br /> * [[司馬江漢]]([[1747年]] - [[1818年]]) - 浮世絵師であったが後に日本最初の[[銅版画]]家となる・蘭学者として『和蘭天説』などの啓蒙書を残す<br /> * [[大田南畝]]([[1749年]] - [[1823年]]) - 幕吏・文人・狂歌師としては『万載狂歌集』を編纂し「天明狂歌」の流行の中心人物となる<br /> * [[蔦屋重三郎]]([[1750年]] - [[1797年]]) - 版元(出版人)・戯作者の[[山東京伝]]や浮世絵師の喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に出す<br /> * [[谷風梶之助]]([[1750年]] - [[1795年]]) - [[大相撲力士]]・第4代[[横綱]](実質的な初代横綱)・江戸本場所63連勝の大記録を残す<br /> * [[上杉鷹山]]([[1751年]] - [[1822年]]) - 大名(出羽米沢藩主)(在任[[1767年]] - [[1785年]])・天明の大飢饉を克服し藩政改革を成し遂げる<br /> * [[松平治郷]]([[1751年]] - [[1818年]]) - 大名(出雲松江藩主)・藩政改革を指導し一定の成果をあげる・茶人としても有名で号は不昧<br /> * [[大黒屋光太夫]]([[1751年]] - [[1828年]]) - 漂流者・ロシアに渡り女帝エカチェリーナ2世に謁見・[[桂川甫周]]により『[[北槎聞略]]』が記録される<br /> * [[喜多川歌麿]]([[1750年代]] - [[1806年]]) - 浮世絵師・[[大首絵]]と呼ばれる[[美人画]]で一世を風靡・代表作に「寛政三美人」がある<br /> * [[最上徳内]]([[1754年]] - [[1836年]]) - 幕府普請役・探検家・近藤重蔵と[[千島列島]]から[[択捉島]]を探検し「大日本恵土呂府」の標識を立てる<br /> * [[大槻玄沢]]([[1757年]] - [[1827年]]) - 蘭学者・江戸に[[芝蘭堂]]を開く・『[[重訂解体新書|解体新書]]』を改訂し『西賓対晤』を執筆・「[[オランダ正月]]」でも有名<br /> * [[松平定信]]([[1759年]] - [[1829年]]) - 大名(陸奥白河藩主)・老中・徳川吉宗の孫であり祖父に習って[[寛政の改革]]を行う<br /> * [[山東京伝]]([[1761年]] - [[1816年]]) - 戯作者・浮世絵師・[[黄表紙]]『[[江戸生艶気樺焼]]』他に[[洒落本]]を執筆・寛政の改革で処罰される<br /> * [[高橋至時]]([[1764年]] - [[1804年]]) - 天文学者・[[麻田剛立]]に暦学を学び[[寛政暦]]を作成・[[高橋景保]]は子・[[伊能忠敬]]は弟子<br /> * [[アダム・ラクスマン]]([[1766年]] - [[1806年]]以降) - ロシアの軍人・最初の遣日使節・大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力したが通商は拒否される<br /> * [[蒲生君平]]([[1768年]] - [[1813年]]) - 思想家・北辺防備を唱えた『不恤緯』や天皇陵墓を調査した『[[山陵志]]』がある・「寛政の三奇人」の一人<br /> * [[近藤重蔵]]([[1771年]] - [[1829年]]) - 幕臣・探検家・最上徳内と千島列島から択捉島を探検し「大日本恵土呂府」の標識を立てる<br /> * [[徳川家斉]]([[1773年]] - [[1841年]]) - 江戸幕府11代将軍(在任[[1787年]] - [[1837年]])・治世は寛政の改革から[[大御所時代]]に及ぶ<br /> * [[東洲斎写楽]](活躍時期[[1794年]] - [[1795年]]) - 浮世絵師・阿波の能役者斎藤十郎兵衛説が有力・代表作に「大谷鬼次の江戸兵衛」<br /> <br /> == 科学技術 ==<br /> * [[ピアノ]]の発明。<br /> * [[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]が、[[地球楕円体]]の形状の論争に決着をつけるために[[赤道]]近傍と[[北極]]近傍の[[子午線弧]]長を比較し([[1735年]]〜[[1740年]])、[[地球]]の数学的形状は[[扁球]]として解釈できることが確認された。<br /> * [[ベンジャミン・フランクリン]]による[[雷]]がelectricity([[電気]])であることの解明と[[避雷針]]の発明。[[アレッサンドロ・ボルタ]]による[[ボルタ電堆]]の発明。<br /> <br /> == フィクションのできごと ==<br /> * [[1709年]] - 5月21日にガリヴァーが日本東端の港ザモスキに到着し、日本の皇帝に江戸で拝謁を許される。その後ナンガサク(長崎)まで護送され、6月9日オランダ船で出港しイギリスに帰国する([[ジョナサン・スウィフト]]『[[ガリヴァー旅行記]]』)。<br /> * [[1716年]] - トルコ対オーストリアの戦争でテッラルバのメダルド子爵は、砲弾を受け体が左右まっぷたつになってしまった。病院で右半分だけは無事に命をとりとめたが、領地テッラルバに 戻ってきた右半分だけの子爵は人間らしい心を失った人間になっていた([[イタロ・カルヴィーノ]]『まっぷたつの子爵』)。<br /> * [[1735年]] - [[享保]]20年のこの年、老中[[松平信祝]]の陰謀により[[陸奥国]][[磐城]]の[[湯長谷藩]]藩主[[内藤政醇]]は通常よりも過酷な参勤交代を申し付けられる。小藩ではあるが藩主を盛り立て湯長谷藩主従が知恵と策を用いてこの難局を乗り越えていく([[土橋章宏]]の脚本・小説『[[超高速!参勤交代]]』。映画化もされている)。<br /> * [[1750年]] - [[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]王配下のイギリス軍、[[フェルナンド6世]]王配下のスペイン軍、海賊[[黒髭]]の一団との「生命の泉」争奪戦に、海賊[[ジャック・スパロウ]]も加わり波乱万丈の航海が展開していく(映画「[[パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉]]」)。<br /> * [[1751年]] - [[ケープタウン]]に向かいテーブル湾に入る直前に一隻の[[アムステルダム]]船が向かい風に煽られた。腹を立てた船長ヘンドリック・ファン・デル・デッケンがその風を罵ったため、風の呪いを受け湾内に入ることもできず幽霊船となって永遠に彷徨い続けることになった(「[[フライング・ダッチマン]]」伝説。[[リヒャルト・ワーグナー]]作曲のオペラ「[[さまよえるオランダ人]]」の原型でもある)。<br /> * [[1756年]]以降 - 決闘事件で故郷アイルランドを逃亡した青年バリーが[[七年戦争]]での志願兵として大陸に渡る。この後、各地で遍歴を続け出世欲からリンドン家の乗っ取りを画策する([[ウィリアム・メイクピース・サッカレー]]の小説『[[バリー・リンドン]]』・この小説を基にした[[スタンリー・キューブリック]]監督の映画「[[バリー・リンドン]]」も有名)。<br /> * [[1761年]] - 旗本飯島平左衛門の娘お露は、一目惚れした相手の萩原新三郎に恋い焦がれて死ぬが、以来、新三郎はその思いを断つように念仏三昧に明け暮れる。その年の盆の十三夜、新三郎の家を死んだはずのお露が訪れた。その手には牡丹燈籠が下げられていた([[三遊亭圓朝]]の怪談『[[牡丹灯籠]]』)。<br /> * [[1767年]] - [[香水]]の名産地[[グラース]]にて有力者の令嬢ロール・リシを殺害し特殊な香水の力を借りて死刑判決から逃亡したグルヌイユがパリに出現する([[パトリック・ジュースキント]]の『[[香水 ある人殺しの物語]]』。映画「[[パフューム ある人殺しの物語]]」の原作)。<br /> * [[1773年]] - フランス王太子[[ルイ16世|ルイ]]と王太子妃[[マリー・アントワネット]]の初の正式なパリ訪問の際、[[オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ]]が近衛連隊長付近衛兵として警備を務め、この邂逅から運命の歯車が動き始める([[池田理代子]]の漫画『[[ベルサイユのばら]]』。映画や舞台にもされている)。<br /> * [[1775年]]以降 - ダーニーとカートンという2人の青年と、無罪の牢人の娘であるルーシーとの恋愛関係が、フランス革命に巻き込まれ悲劇的な運命を辿っていく([[チャールズ・ディケンズ]]『[[二都物語]]』)。<br /> * [[1791年]] - 天真爛漫だが節度を弁えぬ若き[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]には天賦の音楽の才能があり、これを見いだした宮廷音楽家の[[アントニオ・サリエリ|サリエリ]]が自分の凡庸さに苦悩する。やがてサリエリはモーツァルトに殺意を抱いていく(作家[[ピーター・シェーファー]]の戯曲『[[アマデウス]]』・この戯曲を基にした[[ミロス・フォアマン]]監督の映画「[[アマデウス (映画)|アマデウス]]」も有名)。<br /> * [[1792年]] - 秘密裏に貴族を救出する謎の組織「紅はこべ(スカーレット・ピンパーネル)」の暗躍に業を煮やしたフランス革命政府は、組織壊滅のため全権大使[[ベルナール・フランソワ・ド・ショーヴラン|ショーヴラン]]を派遣し、ブレイクニー准男爵夫妻に接近させる([[バロネス・オルツィ]]の小説『[[紅はこべ]]』)。<br /> * [[1793年]] - [[1794年]] - 駆け出しの画家エヴァリスト・ガムランがフランス革命の中で共和主義に傾倒し、やがて革命裁判所の陪審員に選ばれて恐怖政治に身を投じ破滅していく([[アナトール・フランス]]『[[神々は渇く]]』)。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &#039;&#039;&#039;注釈&#039;&#039;&#039;<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> &#039;&#039;&#039;出典&#039;&#039;&#039;<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> &lt;!-- == 参考文献 == --&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[年表]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{Commonscat-inline}}<br /> <br /> {{十年紀と各年| 世紀 = 18 | 年代 = 1700 }}<br /> {{世紀}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:18せいき}}<br /> [[Category:18世紀|*]]</div> 111.87.58.182 紀元前6世紀 2018-07-12T12:06:41Z <p>111.87.58.182: /* 脚注 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2013年5月}}<br /> {{Centurybox| 千年紀 = 1 | 世紀 = 6 | BC = 1 }}<br /> [[ファイル:Persepolis stairs of the Apadana relief02.JPG|thumb|right|250px|[[アケメネス朝ペルシア]]の栄光。オリエントの再統一を果たすとともに多民族を緩やかに包含した安定した国家システムを構築した。画像は[[ペルセポリス]]のアパダナ(謁見の間)の階段側面の浮き彫りに刻まれた朝貢使節団。]]<br /> [[ファイル:Persepolis - carved Faravahar.JPG|thumb|right|250px|[[ゾロアスター教]]の総合。宗祖[[ゾロアスター]]の生没年は現在でも意見の一致を見ていないが、アケメネス朝では王朝成立の頃からこの宗教を国家の支柱としていた。画像はペルセポリスに残るゾロアスター教の象徴でもある聖霊[[フラワシ]](プラヴァシ)の像。]]<br /> [[ファイル:Fotothek df ps 0002470 Innenräume ^ Ausstellungsgebäude.jpg|thumb|right|250px|[[新バビロニア]]の盛衰。画像はベルリンの[[ペルガモン博物館]]で復元された[[イシュタル門]]。]]<br /> [[ファイル:Columns of the Temple of Apollo at Delphi, Greece.jpeg|thumb|right|250px|[[デルポイ]]の[[アポロン]]神殿。紀元前548年に炎上した後、紀元前530年にアテナイの貴族[[クレイステネス]]により新たに奉献された。[[巫女]](ピュティア)による[[神託]]の場所としてギリシア人に重んじられた。]]<br /> [[ファイル:Exekias, anfora con achille e aiace che giocano a dai, castore e polluce, da vulci, 540-30 ac ca. 03.JPG|thumb|right|250px|ギリシアの黒絵式陶器。アテナイの[[エクセキアス]]など高度な技術を持つ絵付師が活躍した。画像は「[[アキレウス]]と[[アイアース]]の[[アンフォラ]]」([[バチカン美術館]]蔵)。]]<br /> [[File:Capitoline Brutus Musei Capitolini MC1183.jpg|thumb|right|200px|[[共和政ローマ]]の始まり。[[エトルリア]]系の王が追放されたことでローマの国政は大きく変革された。画像は共和政の樹立に功があり、初代の執政官[[コンスル]]ともなった[[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]]のものとされる肖像彫刻([[カピトリーノ美術館]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Spring and Autumn Bronze Ding.jpg|thumb|right|250px|[[楚 (春秋)|楚]]の伸長。[[春秋五覇]]である荘王の時代には、楚は中原にも勢力を拡大し「鼎の軽重を問う」の故事にみられる権勢を誇るようになった。画像は楚の荘王の公子午(子庚)に捧げられた銅鼎([[中国国家博物館]]蔵)。]]<br /> &#039;&#039;&#039;紀元前6世紀&#039;&#039;&#039;(きげんぜんろくせいき)は、[[西暦]]による[[紀元前600年]]から[[紀元前501年]]までの100年間を指す[[世紀]]。<br /> <br /> == できごと ==<br /> === 紀元前600年代 ===<br /> * 紀元前600年頃<br /> ** [[ギリシア]]系[[フォカイア]]人が南フランスに植民市[[マルセイユ|マッシリア]]を建設。<br /> ** ギリシアでアルカイック期中期。<br /> *** 彫刻「スニオンのクーロス([[アテネ国立考古学博物館]]蔵)」、「クレオビスとビトンの像([[デルポイ]]考古学博物館蔵)」が作成される。<br /> ** [[プラエネステのフィーブラ|プラエネステのフィーブラ(留め具)]](ローマのピゴリーニ国立先史民族博物館蔵)が作成される。<br /> *** 黄金の基体に現存最古の[[ラテン語]]([[古ラテン語]])の刻文がある。<br /> ** [[内モンゴル]]南部の[[黄河]]屈曲部で[[オルドス青銅器文化]](綏遠青銅器文化)が展開( - 紀元前100年頃)。<br /> ** インドで[[マガダ国]]や[[コーサラ国]]などの[[十六大国]]が成立する。<br /> <br /> === 紀元前590年代 ===<br /> * 紀元前599年 - [[陳 (春秋)|陳]]の[[霊公 (陳)|霊公]]が寵姫[[夏姫]]の息子[[夏徴舒]]に殺害され国内が混乱。楚の荘王が陳を一時併合する。<br /> * 紀元前598年 - [[新バビロニア]]が[[ユダ王国]]を屈服させ、[[エホヤキン]]王を[[バビロン]]に連行する。<br /> * 紀元前597年 - [[晋 (春秋)|晋]]と[[楚 (春秋)|楚]]が[[河南省]]鄭州市の邲において激突し、楚の大勝利に終わる([[ヒツの戦い|邲の戦い]])。<br /> ** 敗戦後、司寇屠岸賈により戦争の責を問われ[[趙朔]]ら趙氏一族が滅せられる(下宮の難)。<br /> * 紀元前595年 - [[第一次神聖戦争]]で[[デルポイ]][[隣保同盟]]と[[キラ]]が戦う( - 紀元前585年)。<br /> * 紀元前594年 - [[アテナイ]]で[[ソロン]]が[[アルコン]]に選ばれ政治改革を行う。<br /> <br /> === 紀元前580年代 ===<br /> * 紀元前589年 - 晋と斉が[[山東省]]の鞍において激突し、晋が勝利し斉の復権は阻止される(鞍の戦い)。<br /> * 紀元前588年 - [[アルバニア]]の植民市[[アポロニア]]が[[ケルキラ]]と[[コリント]]からのギリシャ人入植者により建設される。<br /> * 紀元前586年 - [[新バビロニア]]が[[ゼデキヤ (ユダ王)|ゼデキヤ]]王を捕虜として連行し[[ユダ王国]]を滅ぼす。<br /> ** [[エルサレム神殿]]が破壊され、[[ヘブライ人]]の[[バビロン捕囚]]が行われる。<br /> * 紀元前585年 - {{仮リンク|ハリュス川の戦い|en|Battle of Halys}}。<br /> ** [[リディア|リュディア王国]]の[[アリュアッテス]]と[[メディア王国]]の[[キュアクサレス2世]]が交戦。<br /> ** 5月28日頃現れた[[皆既日食]]([[ヘロドトス]]によればこれを[[タレス]]が予測していた)により停戦にいたったため、「日食の戦い」とも呼ばれる。<br /> * 紀元前582年 - [[コリントス]]の第1回[[イストミア大祭]]が行われる。<br /> * 紀元前582年以降 - [[デルポイ]]の第1回[[ピューティア大祭]]が行われる。<br /> * 紀元前581年 - 『[[日本書紀]]』によれば[[綏靖天皇]]が即位。<br /> * 紀元前580年頃<br /> ** [[クレタ島]]と[[ロードス島]]のギリシア系移民により[[シチリア島]]の[[アクラガス]](アグリジェント)が建設される。<br /> ** ギリシアの[[ケルキラ]](コルフ)島の[[アルテミス]]神殿破風彫刻の[[メドゥーサ]]像(ケルキラ考古学博物館蔵)が作成される。<br /> ** [[クシュ]]国王アスペルタあるいはその後継者により[[ナパタ]]から[[メロエ]]に都が遷され、以後メロエ王国と呼ぶ( - 紀元前568年)。<br /> <br /> === 紀元前570年代 ===<br /> {{main|紀元前570年代}}<br /> * 紀元前578年 - 晋と秦が麻隧の戦いで激突し、晋が秦に大勝する。<br /> * 紀元前575年<br /> ** 晋と楚が鄢陵(河南省鄢陵)にて激突し、晋が勝利する([[エン陵の戦い|鄢陵の戦い]])。<br /> ** ネブカドネザル2世が[[バビロン]]の[[イシュタル門]]を建設。<br /> * 紀元前573年以前 - [[ネメア]]で第1回[[ネメア大祭]]が行われる。<br /> * 紀元前573年 - [[欒書]]と[[中行偃|荀偃(中行偃)]]が晋の[[レイ公 (晋)|厲公]]を殺害し、[[悼公 (晋)|悼公]]を擁立する。<br /> * 紀元前570年 - エジプト王アプリエスを倒し、イアフメス2世(アマシス2世)が王となる。<br /> ** イアフメスはギリシア人傭兵を優遇しナイル川デルタ西端の[[ナウクラティス]]への定住を許可する。<br /> * 紀元前570年頃<br /> ** アルカイック期中期のギリシア彫刻「子牛を担ぐ人(アテネ国立考古学博物館蔵)」「[[ナクソス島|ナクソス]]の[[スフィンクス]](デルポイ博物館蔵)」が作られる。<br /> ** イタリアの[[キウージ]]近郊フォンテ・ロテッラの[[ネクロポリス]]にあるエトルリア人墳墓から出土した「[[フランソワの壺]]」が作られる。<br /> ** [[シチリア島]]の[[アクラガス]]で{{仮リンク|ファラリス (僭主)|en|Phalaris}}が実権を握る( - 紀元前544年頃)。<br /> <br /> === 紀元前560年代 ===<br /> * 紀元前566年 - アテナイで[[パナテナイア祭]]が始まる。<br /> * 紀元前565年頃 - ローマ王[[セルウィウス・トゥッリウス]]が[[ローマの七丘|ローマの七つの丘]]を囲む「[[セルウィウスの城壁]]」を築く。<br /> * 紀元前561年 - [[ペイシストラトス]]が[[僭主]]となりアテナイでの実権を握る。[[ラウレイオン]]銀山の採掘もこの頃始まる。<br /> * 紀元前560年 - [[クロイソス]]がリュディア王に即位。<br /> <br /> === 紀元前550年代 ===<br /> * 紀元前556年 - [[スパルタ]]でキロンが監督官(エポロス)に選ばれ改革を行う。<br /> * 紀元前555年頃 - [[シッパル]]出土の「[[ナボニドゥスの円筒形碑文]]([[大英博物館]]蔵)」( - 紀元前540年頃)。<br /> * 紀元前550年 - [[ペルシア]]に[[アケメネス朝]]が成立し、[[キュロス2世]]がメディア王国を滅ぼす。<br /> * 紀元前550年頃<br /> ** リュディア王クロイソスの資金提供により[[エフェソス]]の[[アルテミス神殿]]が建てられる。<br /> ** アルカイック期中期のギリシア彫刻「ランパンの騎士(アテネ国立考古学博物館・[[ルーヴル美術館]]蔵)」が作成される。<br /> <br /> === 紀元前540年代 ===<br /> * 紀元前548年 <br /> ** [[斉 (春秋)|斉]]の[[崔杼]]が[[荘公光]]を殺害し、弟の杵臼([[景公 (斉)|景公]])を擁立する。<br /> ** 『日本書紀』によれば[[懿徳天皇]]が即位。<br /> * 紀元前547年 - ペルシアのキュロス2世が[[テュンブラの戦い]]に勝利し[[サルディス]]を占領、[[リュディア|リュディア王国]]を滅ぼす。<br /> * 紀元前546年<br /> ** 晋と楚の間で[[弭兵の会]]が行われる。<br /> ** キュロス2世が[[パサルガダエ]]の造営に着手。<br /> * 紀元前544年 - 一説によると[[仏陀]]が[[入滅]]した年とされ、[[東南アジア]]諸国で使われている[[仏暦]]はこの年。<br /> ** 翌年の紀元前543年を元年として起算している。<br /> * 紀元前540年頃<br /> ** ギリシア系フォカイア人が南イタリアに植民市[[ヴェーリア (アシェーア)|エレア]]を建設。<br /> ** [[コルシカ島]][[アレリア沖の戦い]]で、[[カルタゴ]]人と[[エトルリア人]]の連合軍が[[ギリシア人]]・[[サルデーニャ]]人の連合軍を破る。<br /> <br /> === 紀元前530年代 ===<br /> * 紀元前539年 - [[オピスの戦い]]でペルシアのキュロス2世が新バビロニアの[[ナボニドゥス]]を破る。<br /> ** 続いてナボニドゥスの王子ベルシャザルが支配する首都[[バビロン]]占領し新[[バビロニア]]王国を滅ぼす。<br /> *** バビロンで発見された「[[キュロス・シリンダー|キュロスの円筒印章]]」([[大英博物館]]蔵)はこの経緯をペルシア側から記録したもの。<br /> ** 同年にキュロス2世はイランのスシアナ地方にあった[[エラム]]王国を滅ぼし、[[スサ]]を占領する。<br /> * 紀元前538年 <br /> ** ペルシアのキュロス2世がヘブライ人のエルサレム帰還と神殿の再建を許可する。<br /> ** [[ポリュクラテス]]が[[サモス]]の僭主となる。<br /> *** この僭主の時代にエウパリノスの地下導水路など[[サモス島のピタゴリオとヘーラー神殿|サモス島のピタゴリオ]]や[[サモス島のピタゴリオとヘーラー神殿|ヘーラー神殿]]が建造される。<br /> * 紀元前534年 - アテナイの[[ディオニューシア祭]]で[[テスピス]]による最古の[[ギリシア悲劇]]が演じられる。<br /> * 紀元前530年頃 - 南イタリアの[[クロトーネ|クロトン]]に[[ピタゴラス]]が移住し、この地に「[[ピタゴラス教団]]」を設立する。<br /> <br /> === 紀元前520年代 ===<br /> * 紀元前529年 - ペルシアのキュロス2世がトミュリス女王率いる[[マッサゲタイ]]人との戦いで戦死。[[カンビュセス2世]]が後継の王となる。<br /> * 紀元前527年 - アテナイの僭主ペイシストラトスが死去、息子の[[ヒッピアス (僭主)|ヒッピアス]]が僭主となる。<br /> * 紀元前525年 - ペルシアのカンビュセス2世が{{仮リンク|ペルシウムの戦い|en|Battle of Pelusium (525 BC)}}に勝利してエジプトを占領、[[エジプト第26王朝|第26王朝]]を滅ぼす。古代オリエント世界の統一。<br /> * 紀元前522年 - ペルシアのカンビュセス2世死去。簒奪者ガウマタ(または王弟[[スメルディス]])を倒し[[ダレイオス1世]]が即位。<br /> ** 「[[ベヒストゥーン碑文]]」にはこの簒奪阻止の記念にダレイオス1世が[[ゾロアスター教]]の[[フラワシ]]像に礼拝する様子が描かれている。<br /> * 紀元前520年 - ペルシアのダレイオス1世が[[ペルセポリス]]の造営に着手。<br /> <br /> === 紀元前510年代 ===<br /> * 紀元前518年 - ペルシアのダレイオス1世が[[タキシラ]]を含む[[ガンダーラ]]地方を征服する。<br /> * 紀元前516年 - [[エルサレム]]の[[第二神殿]]が完成する。<br /> * 紀元前510年 - アテナイで[[クレイステネス]]が僭主[[ヒッピアス (僭主)|ヒッピアス]]を追放。<br /> ** [[五百人評議会]]や将軍職の設置、[[陶片追放]](オストラキスモス)の制度を定める。<br /> * 紀元前510年 - ヘレスポントスの[[ケルソネソス]][[僭主]][[ミルティアデス]]が[[リムノス島]]を占領する。<br /> <br /> === 紀元前500年代 ===<br /> * 紀元前509年 - 伝承によれば国王[[タルクィニウス・スペルブス]]が追放され[[古代ローマ|ローマ]]で[[共和政]]が始まる([[共和政ローマ]])。<br /> ** 同年、[[カピトリヌス]]の丘の[[ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿]]の奉献式が行われる。<br /> * 紀元前506年 - 柏挙の戦いに勝利した[[呉 (春秋)|呉]]王[[闔閭]]が楚の都の[[郢]]を陥落させる。<br /> * 紀元前502年 - ペルシアの支配に対するナクソス島の反乱。<br /> * 紀元前501年 - 共和政ローマで[[ティトゥス・ラルキウス・フラウス]]が最初の[[独裁官]]に選出される。<br /> * 紀元前500年以前<br /> ** [[スパルタ]]王[[クレオメネス1世]]により[[ペロポネソス同盟]]が結成される。<br /> ** ギリシアの[[アテナイ]]で「[[赤絵式]]」陶器が発明される。<br /> ** フランスの北部[[ブルゴーニュ]]地方で発見された「{{仮リンク|ヴィクスの墳墓|en|Vix Grave}}」が作られる。副葬品の「ヴィクスのクラテール」が有名。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> === 中国(周・春秋時代) ===<br /> * [[荘王 (楚)|荘王]](? - 前591年) - [[春秋時代]]の楚の王(在位[[紀元前614年|前614年]] - [[紀元前591年|前591年]])・[[春秋五覇]]の1人・[[ヒツの戦い|邲の戦い]]で勝利<br /> * [[孫叔敖]](生没年不詳) - 春秋時代の楚の政治家([[令尹]])・荘王に仕えて楚の富国強兵を成し遂げ荘王に天下の覇権を握らせた<br /> * [[巫臣]](生没年不詳) - 春秋時代の楚の政治家・荘王に仕えるがその没後は夏姫を伴い晋に亡命・宰相となり呉と国交を結ぶ<br /> * [[景公 (晋)|景公]](? - 前581年) - 春秋時代の晋の君主(在位[[紀元前600年|前600年]] - 前581年)・邲の戦いでは楚に敗北<br /> * [[荀林父]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・[[将軍]]・正卿(宰相)・中行氏の祖・邲の戦いでは敗北するが鄭を屈服させる<br /> * [[士会]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・范氏の祖・邲の戦いでは敗北するが復権し「范武子の法」を定める<br /> * [[韓厥]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・邲の戦いでは敗北・屠岸賈を倒し趙家再興を働きかけたことでも有名<br /> * [[郤克]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・正卿・邲の戦いでは楚に敗北するが鞍の戦いでは斉を撃破する<br /> * [[欒書]](? - [[紀元前573年|前573年]]) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・鄢陵の戦いで勝利・後に晋の厲公を殺害し悼公を擁立<br /> * [[共王 (楚)|共王]](? - 前560年) - 春秋時代の楚の王(在位前591年 - 前560年)・眼を射られ鄢陵の戦いで敗北する<br /> * [[悼公 (晋)|悼公]](前587年 - 前559年) - 春秋時代の晋の君主(在位前573年 - 前559年)・鄢陵の戦い以後の晋の覇権を保持<br /> * [[中行偃]](? - [[紀元前554年|前554年]]) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・欒書とともに厲公を殺害・斉の討伐でも活躍<br /> * [[崔杼]](? - [[紀元前546年|前546年]]) - 春秋時代の斉の政治家・荘公を殺害し景公を擁立・「崔杼弑君」の記事でも有名<br /> * [[苗賁皇]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・楚からの亡命者・鄢陵の戦いでは晋の軍師として楚を撃破する<br /> * [[趙武]](前598年 - 前541年) - 春秋時代の晋の[[政治家]]・「[[趙氏孤児]]」のモデルで屠岸賈を倒し正卿となる・弭兵の会を開く<br /> * [[羊舌肸]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・平公を支え晋の勢力を維持・晏嬰や子産と交流があった<br /> * [[華元]](生没年不詳) - 春秋時代の[[宋 (春秋)|宋]]の政治家・[[商丘]]攻防戦で宋を死守・晋と楚の和平を取り持つ<br /> * 向戌(生没年不詳) - 春秋時代の宋の政治家・華元の後を継いで右師となり晋と楚を取り持ち弭兵の会を開く<br /> * [[子産]](? - [[紀元前522年|前522年]]) - 春秋時代の[[鄭]]の政治家・鄭の政治改革を進め中国最初の[[成文法]]を制定<br /> * [[晏嬰]](? - [[紀元前500年|前500年]]) - 春秋時代の斉の政治家・崔杼らの政変を避けて斉を支える<br /> * [[司馬穰苴]](生没年不詳) - 春秋時代の斉の将軍・晏嬰に推薦され任官される・兵法書『[[司馬法]]』の著者<br /> * [[季札]](生没年不詳) - 春秋時代の呉の政治家・呉王寿夢の少子「延陵の季子」として知られ晏嬰や子産と交わる<br /> * [[闔閭]](? - [[紀元前496年|前496年]]) - 春秋時代の[[呉 (春秋)|呉]]の王(在位[[紀元前514年|前514年]] - [[紀元前496年|前496年]])・春秋五覇の1人<br /> * [[孔子]](前551年 - [[紀元前479年|前479年]]) - 春秋時代の[[魯]]の[[思想家]]([[儒家]])<br /> <br /> === 西アジア ===<br /> ==== オリエント諸国 ====<br /> * [[キュアクサレス2世]](? - [[紀元前584年|前584年]]) - メディア王国の王(在位[[紀元前652年|前652年]]/[[紀元前624年|前624年]] - [[紀元前584年|前584年]])・最盛期をもたらす<br /> * [[アステュアゲス]](? - [[紀元前550年|前550年]]以降) - メディア最後の王(在位[[紀元前585年|前585年]] - [[紀元前550年|前550年]])・娘マンダネの子キュロス2世に征服される<br /> * [[ネブカドネザル2世]](? - [[紀元前562年|前562年]]) - 新バビロニア王国の王(在位[[紀元前605年|前605年]] - [[紀元前562年|前562年]])・ユダ王国を滅ぼし[[バビロン捕囚]]を行う<br /> * [[ナボニドゥス]](? - [[紀元前539年|前539年]]) - 新バビロニア最後の王(在位[[紀元前555年|前555年]] - [[紀元前539年|前539年]])・息子ベルシャザルに国内統治を委ねていた<br /> * [[ベルシャザル]](? - [[紀元前539年|前539年]]) - 新バビロニア王ナボニドゥスの息子・旧約聖書『ダニエル書』では新バビロニア最後の王とされる<br /> * [[キュロス2世]]([[紀元前600年|前600年]]頃 - [[紀元前529年|前529年]]) - アケメネス朝ペルシアの初代国王(在位[[紀元前550年|前550年]] - [[紀元前529年|前529年]])・新バビロニア他を滅ぼす<br /> * [[クロイソス]]([[紀元前595年|前595年]] - [[紀元前547年|前547年]]頃?) - リュディア王国最後の王(在位[[紀元前560年|前560年]]頃 - [[紀元前547年|前547年]]頃)・貨幣制度を発明?<br /> * [[トミュリス]](生没年不詳) - 遊牧民[[マッサゲタイ]]の女王・息子スパルガピセスを失いながらもペルシア王キュロス2世を討ち果たすと伝わる<br /> * [[カンビュセス2世]](? - [[紀元前522年|前522年]]) - アケメネス朝ペルシアの国王([[紀元前529年|前529年]] - [[紀元前522年|前522年]])・[[エジプト]]を征服しオリエントを統一<br /> * [[ダレイオス1世]]([[紀元前558年|前558年]] - [[紀元前486年|前486年]]) - アケメネス朝ペルシアの国王([[紀元前522年|前522年]] - [[紀元前486年|前486年]])・[[ペルセポリス]]を造営<br /> <br /> ==== ユダヤ ====<br /> * [[エレミヤ]]([[紀元前7世紀|前7世紀]]末 - 前6世紀前半) - [[旧約聖書]]『[[エレミヤ書]]』に登場する古代ユダヤの[[預言者]]・バビロン捕囚前に活躍<br /> * [[エゼキエル]](生没年不詳) - [[旧約聖書]]『[[エゼキエル書]]』に登場する古代ユダヤの預言者・バビロン捕囚で連行される<br /> * [[ダニエル]](生没年不詳) - 旧約聖書『[[ダニエル書]]』に登場する古代ユダヤの預言者・新バビロニアの滅亡を予言する<br /> * [[ゼルバベル]](生没年不詳) - 旧約聖書のユダヤ人指導者・バビロン捕囚から解放されたユダヤ人と[[第二神殿|エルサレム第二神殿]]を再建<br /> <br /> === 地中海世界 ===<br /> ==== ギリシア ====<br /> * [[ギリシア七賢人]]<br /> ** アテナイの[[ソロン]]([[紀元前639年|前639年]]頃 - [[紀元前559年|前559年]]頃) - [[政治家]]・債務奴隷の禁止など「財産政治」と呼ばれる改革を行う<br /> ** [[ミレトス学派|ミレトス]]の[[タレス]]([[紀元前624年|前624年]] - [[紀元前546年|前546年]]頃) - 哲学者・万物の根源を「水」とする・日食の予言や[[ピラミッド]]測量で有名<br /> ** スパルタのキロン(生没年不詳) - 監督官(エポロス)・外交方針を征服から同盟へと転換し[[ペロポネソス同盟]]の基礎を築く<br /> ** プリエネのビアス(生没年不詳) - 弁論家・頭脳明晰で弁論に優れ「ギリシア七賢人」の筆頭に位置づけられることもある<br /> ** ミュティレネのピッタコス([[紀元前640年|前640年]]頃 - [[紀元前564年|前564年]]頃) - 僭主・調停者(アイシュムネテス)とも呼ばれ善政を行い民から慕われたと伝わる<br /> ** リンドスのクレオブロス(生没年不詳) - 僭主・ペイシストラトスにアテナイから追放されたソロンをリンドスに招いたという伝承がある<br /> ** コリントスのペレアンドロス([[紀元前627年|前627年]]以前 - [[紀元前585年|585年]]頃) - 僭主・コリントス港の改築などで知られるが暴君で冷酷との評もある<br /> ** ケナイのミュソン(生没年不詳) - 農夫・[[プラトン]]の『プロタゴラス』ではペレアンドロスの代わりに七賢人となっている<br /> * [[エピメニデス]](生没年不詳) - 詩人・預言者・「嘘つきのクレタ人([[エピメニデスのパラドックス]])」で有名<br /> * アナカルシス(生没年不詳) - [[スキタイ]]の王族・ギリシアで哲学者として活躍・書簡集は偽作の疑いあり<br /> * [[アイソーポス|アイソポス]]([[紀元前620年|前620年]] - [[紀元前560年|前560年]]頃) - 小アジア出身の寓話作家・いわゆる「イソップ寓話集」をまとめた<br /> * [[アナクシマンドロス]]([[紀元前610年|前610年]] - [[紀元前546年|前546年]]) - ミレトス学派(イオニア学派)の哲学者・万物の根源を「[[アペイロン]]」とする<br /> * [[ミレトスのアナクシメネス|アナクシメネス]]([[紀元前585年|前585年]] - [[紀元前525年|前525年]]) - ミレトス学派(イオニア学派)の哲学者・万物の根源を「空気」とする<br /> * [[メガラ]]のテオグニス(生没年不詳) - 詩人・貴族と民衆の政争の犠牲になり亡命生活を送る・エレゲイア詩形による格言詩が有名<br /> * [[ペイシストラトス]](前6世紀頃 - [[紀元前527年|前527年]]) - アテナイの[[僭主]]・ラウレイオン銀山の採掘を始めアテナイの産業を育成<br /> * [[エクセキアス]](活動時期[[紀元前550年|前550年]]頃 - [[紀元前525年|前525年]]頃) - アテナイの陶芸家・絵付師・[[黒絵式]]陶器「[[アキレウス]]と[[アイアース]]」が有名<br /> * [[サモス島|サモス]]の[[ピタゴラス]]([[紀元前582年|前582年]] - [[紀元前496年|前496年]]) - [[ピタゴラス教団|ピタゴラス学派]]の[[哲学者]]・[[ピタゴラスの定理]]の発見など数学者としても知られる<br /> * ザルモクシス(生没年不詳) - [[トラキア]]の神官・神秘主義者・ピタゴラスの奴隷であったころ霊魂不滅説の影響を受けたという説もある<br /> * [[アナクレオン]]([[紀元前582年|前582年]] - [[紀元前485年|前485年]]) - イオニアのテオス出身の詩人・[[9歌唱詩人|九歌唱詩人]]の一人・酒飲みと賛美歌で有名<br /> * イビュコス(前6世紀) - レギオン出身の抒情詩人・九歌唱詩人の一人・サモス島僭主ポリュクラテスの宮廷活躍・物語詩に優れる<br /> * コロポンの[[クセノパネス]](生没年不詳) - 哲学者・詩人・ホメロスやヘシオドスの神々の描き方を批判しプラトンに影響を与えた<br /> * クロトンのミロン(生没年不詳) - [[レスリング]]競技者・[[オリュンピア祭]]では前540年 - 前516年に6回のレスリング優勝者となる・逸話も多い<br /> * [[テスピス|イカリアのテスピス]](生没年不詳) - 舞台に立った最初の劇俳優・前534年のアテナイの[[ディオニューシア祭]][[悲劇]]競技会で優勝<br /> * [[ヒッピアス (僭主)|ヒッピアス]](前6世紀後半 - [[紀元前5世紀|前5世紀]]前半) - アテナイの僭主・ペイシストラトスの子・アルクメオン家らによって追放される<br /> * [[クレイステネス]](前6世紀後半 - [[紀元前5世紀|前5世紀]]前半) - アテナイの政治家・五百人評議会を設置し将軍職を定めるなど民主政の基礎を確立<br /> <br /> [[ファイル:WLA metmuseum Bronze chariot inlaid with ivory 3.jpg|thumb|right|250px|モンテレオーネの[[チャリオット]]。1902年、[[モンテレオーネ・ディ・スポレート]]にて出土&lt;ref&gt;{{cite web |author=Moore ,Malcolm |date=2007-04-09 |url=http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/1548072/Italian-villagers-fight-New-Yorks-Met-for-2600-year-old-chariot.html |title=Italian villagers fight New York&#039;s Met for 2,600-year-old chariot |publisher=The Telegraph |accessdate=2013-12-08}}&lt;/ref&gt;。]]<br /> <br /> ==== ローマ ====<br /> * [[セルウィウス・トゥッリウス]](? - [[紀元前535年|前535年]]) - 王政ローマ第6代の王(在位[[紀元前578年|前578年]] - [[紀元前535年|前535年]])<br /> * [[ルキウス・タルクィニウス・スペルブス]](? - [[紀元前496年|前496年]]) - 王政ローマ第7代の最後の王(在位[[紀元前535年|前535年]] - [[紀元前509年|前509年]])<br /> * [[ルキウス・タルキニウス・コッラティヌス]](生没年不明) - 共和政ローマの設立者・王を追放し初代[[執政官]](コンスル)に就任<br /> * [[ルクレティア]](? - [[紀元前509年|前509年]]) - 初代執政官のコッラティヌスの妻・タルクィニウス王の息子に辱められたことで夫たちに復讐を依頼する<br /> * [[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]]([[紀元前545年|前545年]]頃 - [[紀元前509年|前509年]]) - 共和政ローマの設立者・王を追放し初代執政官(コンスル)に就任<br /> <br /> <br /> == フィクションのできごと ==<br /> * 紀元前525年以降 - エジプトを征服したペルシア王[[カンビュセス2世]]はさらに[[エチオピア]]に大軍を派遣するが、困難極まる旅程で程なく食糧は尽き、兵士たちは籤を引いて食糧となる人物を選ばざるを得なくなる。折悪しく籤で引いて犠牲者となることが確定した兵士サルタはそのまま逃亡し、不毛の砂漠を駆け抜けた。その先には謎の少女エステルが待ち受けていた([[藤子・F・不二雄]]『[[カンビュセスの籤]]』)。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &#039;&#039;&#039;注釈&#039;&#039;&#039;<br /> {{Reflist|group=†}}<br /> &#039;&#039;&#039;出典&#039;&#039;&#039;<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> &lt;!-- == 参考文献 == --&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[年表]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{Commonscat-inline}}<br /> <br /> {{十年紀と各年| 世紀 = 6 | 年代 = 500 | BC = 1 }}<br /> {{世紀}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:きけんせん6せいき}}<br /> [[Category:紀元前6世紀|*]]</div> 111.87.58.182 テンプレート:西洋の芸術運動 2018-04-11T10:52:56Z <p>111.87.58.182: </p> <hr /> <div>{{Navbox<br /> |name = 西洋の芸術運動<br /> |state = {{{state&lt;includeonly&gt;|autocollapse&lt;/includeonly&gt;}}}<br /> |title = &lt;!--世紀別の--&gt;西洋美術&lt;small&gt;([[Portal:美術]]/[[commons:Category:Art by movement|コモンズ]])&lt;/small&gt;<br /> |group1= [[時代]]別<br /> |list1={{Navbox|child<br /> |groupstyle<br /> |liststyle=<br /> |group1 = 3-15世紀<br /> |list1 = [[初期キリスト教美術]] - &lt;!--[[Merovingian art and architecture|Merovingian]] - [[Carolingian art|Carolingian]] - [[Ottonian art|Ottonian]] - --&gt; [[ロマネスク]] - [[ゴシック]] - [[国際ゴシック]]<br /> <br /> |group3 = 14-16世紀<br /> |list3 = [[初期フランドル派]] - [[ルネサンス]] - [[盛期ルネサンス]] - [[北方ルネサンス]] - [[マニエリスム]] - [[グロテスク|グロテスク装飾]] - [[フォンテーヌブロー派]] <br /> <br /> |group4 = 17世紀<br /> |list4 = [[バロック]] - [[古典主義]] - [[オランダ黄金時代の絵画]]<br /> <br /> |group5 = 18世紀前半-半ば<br /> |list5 = [[ロココ]] - [[シノワズリ]] - [[ピクチャレスク]]<br /> <br /> |group6 = 18世紀後半-19世紀<br /> |list6 = [[新古典主義]] - [[ロマン主義]] - [[ゴシック・リヴァイヴァル建築|ゴシック・リヴァイヴァル]]<br /> <br /> |group7 = 19世紀<br /> |list7 = &lt;!-- [[Historicism (art)|Historicism]] - --&gt; [[写実主義]]&lt;!-- 1830s- --&gt; - [[ビーダーマイヤー]]&lt;!-- 1815-48 --&gt; - [[ハドソン・リバー派]]&lt;!-- 1825-80 --&gt; - [[バルビゾン派]]&lt;!-- 1830-60s --&gt; - [[マッキア派]] - [[移動派]] - [[ラファエル前派]]&lt;!-- 1848 --&gt; - [[耽美主義|唯美主義]] - [[ヴィクトリア朝|ヴィクトリア朝絵画]] - &lt;!--[[Gründerzeit]] 1850-73 --&gt; [[ジャポニスム]]&lt;!-- 1860s- --&gt; - [[印象派]]&lt;!-- 1860s- --&gt; - [[ポスト印象派]] - [[新印象派]] - [[クロワゾニスム]]&lt;!-- ar. 1888 --&gt;- [[綜合主義]]([[ポン=タヴァン派]]) - [[ナビ派]]&lt;!-- 1888 --&gt; - [[世紀末芸術]] - [[象徴主義]]([[ロシア象徴主義]])&lt;!-- 1886 --&gt; - [[アーツ・アンド・クラフツ運動]]&lt;!-- 1880s --&gt; - [[アール・ヌーヴォー]]&lt;!-- 1890-1910s --&gt; - [[ゼツェシオン|分離派]]([[ウィーン分離派|ウィーン]]・[[ミュンヘン分離派|ミュンヘン]]・[[ベルリン分離派|ベルリン]]) - [[素朴派]]<br /> <br /> |group8 = 20世紀前半<br /> |list8 = [[フォーヴィスム]]&lt;!-- 1905 --&gt; - [[キュビスム]]&lt;!-- 1907 --&gt; - [[ダダイスム]]&lt;!-- 1910s --&gt; - [[未来派]]&lt;!-- 1909 --&gt; - ノヴェチェント - [[イマジズム]]&lt;!-- 1910s --&gt; - [[ヴォーティシズム]]&lt;!-- 1910s --&gt; - [[ブリュッケ]]&lt;!-- 1905-13, →表現主義 --&gt; - [[表現主義]]&lt;!-- 1910-20s --&gt; - [[新即物主義]]&lt;!-- 1910s --&gt; - [[ミュンヘン新芸術家協会]]&lt;!-- 1909 --&gt; - [[青騎士]]&lt;!-- 1911(2)-14 --&gt; - &lt;!--[[Neo-Fauvism]] - --&gt; [[シュプレマティスム]]&lt;!-- 1914? --&gt; - [[ロシア構成主義|構成主義]]&lt;!-- 1913-20s --&gt; - [[新造形主義]]&lt;!-- 1920以前 --&gt; - [[デ・ステイル]]&lt;!-- 1917-28 --&gt; - [[ピュリスム]] - [[バウハウス]]&lt;!-- 1919-33 --&gt; - [[アール・デコ]]&lt;!-- 1920-30s --&gt; - &lt;!--[[Photorealism]] - --&gt; [[シュルレアリスム]]&lt;!-- 1924 --&gt; - [[エコール・ド・パリ]]&lt;!-- 19世紀末から20世紀初頭 --&gt; - [[モデルニスモ]]<br /> <br /> |group9 = 20世紀後半<br /> |list9 = &lt;!--[[Lettrism]] 1940s --&gt; &lt;!--[[Lyrical Abstraction]] 1945- --&gt; [[アンフォルメル]]&lt;!-- 1940s --&gt; - [[抽象表現主義]]&lt;!-- 1940-50s --&gt; - [[コブラ (芸術運動)|コブラ]]&lt;!-- 1948-51 --&gt; - [[ネオダダ]]&lt;!-- 1950s後半-60s --&gt; - [[カラーフィールド・ペインティング]]&lt;!-- 1950-60 --&gt; - [[ミニマル・アート|ミニマリズム]]&lt;!-- 1950s後半-60s --&gt; - [[ヌーヴォー・レアリスム]]&lt;!-- 1960 --&gt; - [[ポップアート]]&lt;!-- 1950s後半- --&gt; - [[フルクサス]]&lt;!-- 1960s --&gt; - [[コンセプチュアル・アート]]&lt;!-- 1960s-70s --&gt; - [[ランド・アート]]&lt;!-- 1960s --&gt; - [[パフォーマンスアート]]&lt;!-- 1960s --&gt; - &lt;!--[[Systems art]] 1960s-70s --&gt; [[ビデオ・アート]]&lt;!-- 1960s --&gt; - [[インスタレーション]]&lt;!-- 1970s- --&gt; - [[新表現主義]]&lt;!-- 1970s後半-80s --&gt; - &lt;!--[[Lowbrow (art movement)|Lowbrow]] 1970s後半 --&gt; [[アウトサイダー・アート]]&lt;!-- アール・ブリュットとしては1900sから --&gt; - &lt;!-- 以降はおおまかに「最近」 --&gt; [[シミュレーショニズム]] - [[メディアアート]] - [[ヤング・ブリティッシュ・アーティスト|YBAs]]&lt;!-- 1990s --&gt; - [[芸術テロ]] &lt;!--[[Stuckism]] 1999- [[Neo-publicism]]--&gt; &lt;!-- 20世紀後半はややUSPOV? --&gt;-[[スーパーリアリズム]]&lt;!-- 1960s-70s --&gt;<br /> {{Nowrap end}}<br /> }}<br /> <br /> |group10 = [[地域]]別<br /> |list10 = [[ギリシア美術]] - [[ローマ美術]] - [[ビザンティン美術]] - [[フィレンツェ派]] - [[ヴェネツィア派]] - [[ウンブリア派]] - [[シエナ派]] - [[フェラーラ派]] - [[ローマ派]] - [[パルマ派]] - [[フランドル]]絵画 - [[オランダ絵画]]<br /> <br /> |group11 = [[領域]]<br /> |list11 = [[建築]] - [[彫刻]] - [[絵画]] - [[工芸]] - [[装飾写本]] - [[ミニアチュール]] - [[装幀]] - [[タペストリー]] - [[デザイン]] - [[映像]] <br /> <br /> |group12 = [[公共]]性<br /> |list12 = [[公益]] - [[私益]] - [[美術家]] - [[美術商]] - [[資料]] - [[コレクション]] - [[博物館]] - [[ギャラリー (美術)|ギャラリー]]<br /> <br /> |group13 = 関連項目<br /> |list13 = [[歴史学]] と [[美術史]]学 - [[美学]] と [[文学]] - [[常識]] と [[趣味]] - [[美]] と [[崇高]]&lt;br&gt;[[西洋美術史]] と [[東洋美術史]] - [[モダニズム]] と [[ポストモダン]] - [[近代美術と現代美術]] - [[アカデミック美術]] と [[前衛美術]] - [[退廃芸術]]&lt;br&gt;[[視野]] - [[視覚]] - [[視覚野]] - [[視神経]] - [[網膜]] - [[目]] - [[視覚障害]] - [[色覚異常]]&lt;br&gt;[[可視光線]]と[[光]] - [[色素]]と[[色彩]] - [[素描]]と[[絵画]] - [[具象絵画]]と[[抽象絵画]]&lt;br&gt;[[イコノクラスム]]<br /> <br /> |group14= 絵画材料<br /> |list14=<br /> {{Navbox subgroup<br /> |group1 = 代表的な技法・材料<br /> |list1 = [[フレスコ]] - [[テンペラ]] - [[油彩]]([[油絵具]]) - [[水彩]] - [[ガッシュ]] - [[ディステンパー]] - [[アクリル絵具]] - [[パステル]] - [[色鉛筆]]<br /> |group2 = 代表的な[[支持体]]<br /> |list2 = [[板]] - [[パピルス]] - [[羊皮紙]] - [[パネル]](羽目板) - [[麻織物|麻布]] - [[綿布]] - [[布]] - [[キャンバス]]([[帆布]]) - [[紙]]<br /> }}<br /> }}&lt;noinclude&gt;<br /> &lt;!--<br /> noimageで右の画像を消せます。例:{{西洋の芸術運動|noimage=1}}<br /> 引数stateで開閉を設定できます。例:{{西洋の芸術運動|state=collapsed}}で閉じる<br /> --&gt;<br /> {{DEFAULTSORT:せいようのけいしゆすうんとう}}<br /> [[Category:視覚芸術のテンプレート]]<br /> [[Category:芸術運動|*てんふれえと]]&lt;/noinclude&gt;</div> 111.87.58.182 ピュリスム 2018-04-11T10:50:17Z <p>111.87.58.182: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年12月}}<br /> {{独自研究|date=2012年12月}} <br /> &#039;&#039;&#039;ピュリスム&#039;&#039;&#039;(ピューリズム。Purisme、Purism。純粋主義)とは、シャルル=エドゥアール・ジャヌレ([[ル・コルビュジエ]])と[[アメデエ・オザンファン]]が、[[フランス]]で、その著作『キュビスム以降』(Après le Cubisme, [[1918年]])およびその雑誌「レスプリ・ヌーヴォー(エスプリ・ヌーヴォー。新しい精神)」(L&#039;Esprit Nouveau, [[1920年]]から[[1925年]]にかけて28冊を刊行)において主張した、[[絵画]]の形式。<br /> <br /> 一九一八年フランス、総合芸術誌『レスプリ・ヌーヴォー』創刊のため、建築家ル・コルビュジエと画家のオザンフォンは協働する。ある特定の理論的意図をもって、芸術家が小集団を形成するのはこの時代の特徴である。ピュリスト・・・オザンフォンとル・コルビュジエは自分達をそう呼んだ・・・たちが欲したものとは、近代絵画においてキュビストたちが喪失させたと彼らが思っていた、一般の関心だった。それゆえ瓶とか、水差しとか、グラスといった誰もがよく知っている日常物から選んだ対象から、彼らはその絵画を組み立てた。他方でこうした対象はその単純な姿ゆえ、ピュリストが工業芸術に欲した、規格化、純粋化、匿名化の域に達していると、彼らは信じもした。[[キュビスム]]の禁欲的色使いに対し、彼らは伝統的に最も受容されやすいパステルカラーを用いたし、表面の平滑さや手触りの滑らかさなど、マシンエイジに彼らが相応しいと見做したものを探求した。<br /> <br /> ル・コルビュジエは三年間、オザンフォン同様に活発に活動し、画家として名をなす。だがとりわけ重要なことは、彼の建築と絵画が一九二〇年代初頭からともに発展してきたそのあり方である。彼の新しい建築の諸形態は、彼の絵画の新しい形態から「派生」したわけではない。それらはどちらかと言えば彼がたえず用いていた鉄筋コンクリート構造に明らかに依拠している。とはいえ壁や開口のパターンにおける繊細な精確さはそうした鉄筋コンクリート構造より、彼の絵画における抑制されたエレガンスに明らかに関係した特質である。理論活動においてル・コルビュジエは、機械生産物の特質に新しい建築を類比することを強調していた。他方で彼の絵画に描かれた機械生産物の歯切れのいい輪郭の扱いがすでに、マシンエイジに相応しい彼の美学を洗練させ、様式化させもしていたのである。技術による要素をそのまま統合しようとする最初のぎごちない試みののち、彼の住宅はそのピュリスム絵画の完璧さによって、視覚的に組織されていく。そのプロポーションは事実、近代技術の経験的な公式より、[[ルネサンス]][[人文主義]]の建築家たちにより近い幾何学装置から導かれたものであり、また彼が絵画のコンポジションにおいてまず用いたものと同一でもある。<br /> <br /> もっと緊密な類比もさらにある。ル・コルビュジエの建物の平滑で平板に表現された表面には、ポストキュビスム絵画の彩色された形態と同じ非・物質性があろう。漆喰の本来の色であると彼が見做した艶消白色壁から特定の壁をもっと大胆に際立たせるため、一九二〇年代中期の彼の絵画にあった暗い色調が、パステルカラーにすぐさま加わってくる。絵画のモチーフにあった曲線さえ、非・耐力壁に用いられた自由曲線形態にその残響を見出している。平面においても、立面においても、彼の建築コンポジションは混乱することがなく、あたかも絵画の額縁に収められたかのように長方形のなかに簡潔に秩序化されているのである。<br /> <br /> スタイルにおいてピュリストに近いのは、画家の[[フェルナン・レジェ]]である。一九一〇年代末までフランスにおける画家の誰より、彼の絵画は同時代的な機械崇拝を反映していた。一九二〇年代初頭においてしかしながら、機械形態を人間化するという特殊な関心を彼は展開し始めた。単純化されたそれと分かる自然の形象ともども、人物像が彼の絵画に再び現れだしたのである。人物の四肢は円筒形として様式化され、これがまだ機械の部品を示唆しており、これらの形が平板な背景に対して配されたのだった。この背景はデ・スティル絵画の長方形配列にときとしてきわめて近いものとなる。とはいえ諸形態の組織はデ・スティルより複雑化し、色彩はきわめてフランス的にも微妙なニュアンスを持つものとなっていた。<br /> <br /> 建築家にとってレジェの絵画は、機械的要素を芸術的に用いるのに、とりわけ有効な触媒として作用した。というのもレジェの主題は広いものだったからである。さらに一九二〇年代中期におけるレジェのコンポジションのスケールは、ときとしてピュリストの作品における極端な単純化にきわめて似ていたからである。あるいは同時代の他の画家の誰よりおそらく、彼の絵画はまさに建築的だったからである。彼がつねに望み、そしてついには実現した壁画を、それが示唆するときはとりわけそうだろう 。<br /> <br /> 一九二〇年代中期以降のレジェのスタイルは、機械形態より単純自然形態の強調によって、よりルースで滑らかになっていく。これに影響され、ル・コルビュジエもまた、一九二〇年代後半の絵画におけるピュリスムの教義から離れていく。相変わらず精力的に描き続けていたとはいえ、彼の絵画と建物のあいだの緊密な関係は最早それほど明白ではなくなっている。一九二〇年代末までにル・コルビュジエの「新しい建築」の特質は、まさに結晶化していたのである。建築に多くの時間を割くようになるにつれ、それゆえ三次元において自ら求めるものをよりよく実現できるようになるにつれ、彼の絵画は建築形態の補足的探求となっていく。人間感情・・・モダンな建築が直接的に表現できない要素である・・・に伴う表現や、身体外延的な形態要素が、彼の絵画作品において徐々に顕著なものとなっていった。<br /> <br /> だが建築家の美的経験において、自由造形の実験が果たすべきであると彼が考えている役割の重要性を、今日にいたるまで続いている彼の画家としての活動は物語っている。先の戦争(第二次世界大戦)中に建設活動が不可能となり、そのために創作欲が絵画にのみ限られていたことの影響が、最近の作品のなかには再び見出されるからである。」<br /> <br /> <br /> ピュリスムの考え方は、[[デ・ステイル]]や[[抽象絵画]]へも影響を与えている。<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[美術]]<br /> *[[西洋美術史]]<br /> *[[20世紀美術]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ひゆりすむ}}<br /> [[Category:20世紀の美術]]<br /> [[Category:フランスの美術]]</div> 111.87.58.182
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